多分彼は、「スクラン批評」や分校でのWEB上で僕が書いた文章
(「大阪オフライン会議議事録・播磨花井論争の公開」)を読んで
いて、播磨(拳児)批判や烏丸批判はやめろ、と言いたかったんじゃ
ないですか。でも、僕は相手の発言や行動に異議を述べているだけで、
人格については元から当てにしていません。もちろん、他人を傷つけ
る大騒動を起こした以上、公開の場でそれを総括する義務を免除は
できないですが、僕が書く前に分校会員が自主的にやる勇気があれば、
それが一番よかったんです。
もう少し言うと、僕が本当の標的にしているのは、絵描きとその
消費者、一般的には同人供給者とオタクがもたれ合っている相互依存的
構造です。小林さんでも誰でも、オタク批判をやる人はたくさんい
ますが、それだけで自分が読者と癒着していない証拠にはならない。
赤松やクランプが嫌いで、自分もオタク批判者だと錯覚している連中
こそ、今日の典型的な「オタク」だからです。デマを広めたり、扇動を
やる時に彼らに頼るなら、結局自分が一番オタクに色目を使っている
ことになる。
周辺にいた絵茶連中も相変わらずで、(削除)さんが典型ですが、
状況を打開する義務がある人が都合よく傍観者を気取ってゆく。
相手が誰でも、暴走する連中がどんなに多くても、ここ一番で自分の
勉強を無意味にする黙認は僕にはできません。だから、烏丸を直接
扱って感傷的になるより、今の自分の文章の方が、彼や小林さんの
仕事を本当の意味で生かせていると思います。
まず「スクランの中では塚本八雲が一番好きだ」とかいう風な発言を
本当に言ってるのが花井なのだとすれば、単にこの人は無教養で
マガジンが押しまくったときも殆ど実質的な情報には触れず仕舞で
(触れることができないで)そのまますごしてきてしまった人なのでは
ないかと思う。だから今でも、播磨がなんだとか周防美琴の縦笛が
どうしたとか、時代遅れとでもしか言いようの無いパラダイムの中でしか
語れないでいる。これは「ベタに読まれたくないからどうした」とかいう事態では
全くなくて単に個人の不器用さと偏屈さとフットワークの悪さ。そして
偏見主義的な絶対的な他者性のなさ、欠如性に基づくものだ。しかし何故
彼のようなタイプが遅咲きとはいえ、かくも目立つようなところに出てきた
のかといえば、理由は偏屈さとは裏腹に彼が反応する、営業的な振舞い方の
行為傾向による。単に営業的に器用で愛嬌が振りまけるから(まさにスタチャ系であるが)
この馬鹿はそうでなくても暗く不器用な精神障害者の巣窟になっているところの
オタク業界で最初に一定のチヤホヤというされ方をしたのだろう。
「進行中のスクラン」で、播磨、天満、沢近、八雲、烏丸、美琴、一条
といったレギュラー陣を、その全行動に目を通したうえで、はげしく叩いたじゃん?
「幼馴染がなんだとか小林尽の伏線放置パターンが
どうしたとか、時代遅れとでもしか言いようの無いパラダイムの中でしか
語れないでいる。」って、なんなの?
「個人の不器用さと偏屈さとフットワークの悪さ」を悪くいう貴殿は、
晶信者か。そもそも花井は、かなり動き回るタイプ。
「かくも目立つようなところに出てきた 」って、目立ってないし……。
要するに謂わんとされてることは、大塚のスクラン論の性質というのが
ドメスティックなものに過ぎない、故の退屈さゆえに苛立つということだろ。
別に他の漫画やアニメのの批評的枠組をそのままもってきて語ればこの手のドメスティックな
閉域を超える文章を書けるというわけでもない。ドメスティックで閉域でそして
その実の自己防衛的というのは、この人がその都度出し続ける退屈で独り善がりな
結論の出し方そのものに見られるまさにその通りのものだろう。
動き回り方の質の問題が問われてるんだよ。それは足でよく動き回れるという
ことを必ずしも意味しているわけでもなくて、要するに情報への反応の的確性のことを
いうだろう。これは別に一定の形式ばった反応の仕方をすればよいというものではない。
冬木武一や高野晶にも見られるような情報への多様な反応の素早さ、柔軟性というのは
確実に花井の前では失速して失われている。単に60年代系の田舎者だからという生い立ちで
もって、この問題を片付けてしまってよいものかとは疑われるだろう。
そして萌え漫画のような閉塞的なオタク主導型の村ではこの名前の流通の仕方が
奇妙な現象だとは思われるな。それは少し前の某個人サイトで(削除)の謂って
いたように、まだ知名度なんて全く無いに等しいのに妙に持て囃されているといった
レベルの話では全くなくて、八雲を好こうが好くまいが、このような営業系、社長系の
キャラであるだけで、思想的な中味には確実に欠ける、道徳漢のナルシスティックで
詐欺的な演技派の立ち回りに、オタク界の情けない体質というのがどうしようもなく
依存してしまうという悲しい性、体質の問題なんだろう。
単に情報の処理能力、理解力、スピードってことだろう。
花井がスクラン系の中で八雲しか読めないというのならば(本当かよしかしこの情報?)
単に播磨読んでも天満読んでも彼には意味がわからないということに
過ぎないんだよ。
彼の行動レベルをみてれば、このひと全然わかってないだけだと
いうのは一部の人間ならば明瞭に見て取れるはずだが。
つまり自分が意味のわからなかったものに対して不当な怒りを突きつけてるだけ
なんだよ。あの時代遅れの批評まがい駄文の内容というのは。
2ちゃんねら〜だってよくそれは沢近の言う○○だ!とかいつも平然として
言ってのけるでしょ。沢近の言う○○だし〜が必ずしも沢近を理解した
ことの十分条件にならないのは余りにも・・・明らかでしょ?
誰がどのキャラについて本当にはどの程度まで理解しているのかを云々しだしたら
もうもはやそれはここ2ちゃんねるで云々する話のレベルではなくなっているだろう。
花井がどの程度に読めていて読めていないのかは、ここでどんなに論議しようが
真相にはいつも届かないのかもしれないが、しかし花井の今打ち出してきている
ある種の硬直した論調については、抵抗の芽生えというのを一定こういう場所で
ランダムに無鉄砲に先に提出しまっておくというのも、戦略の一つだとは思う。
批評してる対象がみなドメスティックであるばかりでなく、行動の際のロジック
こそが保守的で凡庸で過去のもので詰まらんといっているのだろう。
この論理構造の保守性と官僚制と支配欲的なところと、更に言えば田舎者性まで
あわせて花井の特徴だといって過言ではないだろう。実際、花井の支持者として
集まっている人間の特徴はものの見事に池沼系か姑息に池沼依存の池沼搾取
系、池沼利用者系の人間たちだった。
単に教養が低いからあの程度のこというのに時間かかるんじゃないのかな?
少なくとも特異であるということは、あれでは在り得ないと思う。
あれで特異とか思える香具師の方が不思議だ。