>>799 >最終回はやっぱし地球に迫る隕石を突貫ですか?
そういうのがマジな話、まったくできないのがサンデー作家たちの弱み。
スケールのでかい話がなさすぎ。
身近なことだけで話まとめすぎ。
犬とか高橋しんは非難もされまくりだが、俺はその点でがんばったと思う。
犬はまだやってるけどね。
やはりここに来て見たらB地区祭りだった。確かにこんなに出た時はなかったしなぁ・・
しかし相変わらず
MARはおおざっぱな戦闘だな...
MARのは戦闘と言えるのか?
強パンチ一発出しただけで終わったあれが。
3つ間違いを犯した〜のくだりはARMSのパクりだしな・・・
パクリ四天王ですよ?
>>822 マーの絵って上手いか・・・?
俺は話よりも絵が下手でダメなんだが
>>833 それは、サンデー作家の弱みというより、
スケールのでかい話を書ける漫画家の発掘or引き抜き、
またはそういう作品を書かせることの出来ない編集部の弱点だな。
>>839 小奇麗ではあるが躍動感と奥行きに欠ける>マーの絵
烈火の頃からそのきらいはあったが、マーになって酷くなった。
おまえは師匠の何を学んできたのかと。
烈火はまだマシだった・・・ていうか、あの頃はもっと熱い戦闘をしてたと思うんだが、俺の勘違いか?
とにかく、なんであんなに馬鹿なんだ、マー・・・
師匠もそこまで上手くはないだろ。
雰囲気を出すことには長けているけど。
師匠の悪いところ(絵だけでライトな読者嫌われる)は一応改善されてるけどな
後、藤田は絵より服やキャラのデザインがな…
まあ、おっさんなんだから仕方ないけどさ
「茂志田〜」が単行本化されるみたいだけど「ニュータウンヒーローズ」はまだなのかなぁ・・・
烈火どころか初連載(?)のロケットプリンセスより動いてないよな…>マーの戦闘
>833
犬やカケラってスケールでかいか…?(;;´д`)
どうも833の物差しは俺よりステキな感じだ
>雰囲気を出すことには長けているけど。
そこが一番重要な部分だと思われ。
マーの格ゲー作ったらアーバンチャンピオン以下
>>847 少なくとも学校からは離れてるんじゃね?
アームズやスプリガンはスケールでかいよ?
少なくともマーと違って歩いているじゃないか
156読んでて思ったけどクローンって指紋まで同じになるの?
あとジジイと156のディープキッスな挨拶はおぼっちゃま君だね。
虚無僧のサックスはデビルサマナーの二作目をなんとなく思い起こした。
ヴァンジョー先生は初っ端からティクビ出してくるし、サンデーは熱いね!
アニメに合わせてのやっつけ仕事なんだろうなぁ…
ミドリもアニメ終わったら終了コースかな
ドゥルーズを読むジジェク
スラヴォイ・ジジェクが『身体なき器官』(Routledge刊)でジル・ドゥルーズの哲
学に取り組んでいる。ラカン派精神分析--とくにその「リアルなもの」の論理を
あえてドグマティックに信奉し、デリダ流の脱構築をいたずらに否定性・他者性
にこだわるものとして批判する一方、ドゥルーズ&ガタリ流の分子革命論(ネグリ
&ハートの『帝国』におけるマルチチュード論につながる)にあまりにナイーヴ
な肯定性を見て批判するというのがジジェクの立場であってみれば(この本でも
ジジェクは異教/ユダヤ教/キリスト教に対応するスピノザ/カント/ヘーゲルの延
長上でドゥルーズ/デリダ/ラカンを位置づけたりもしている)、そのドゥルーズ
読解の戦略も自ずと明らかだろう。
実際、ジジェクは、ドゥルーズのガタリとの共同作業を否定する(とくに『アン
チ・オイディプス』[1972年]は「ドゥルーズの最悪の本」だと断じ、そこに目立
って現れた深層からの生産の論理を批判する)一方、ドゥルーズ固有の哲学(と
くに『意味の論理学』[1969年]で展開された不毛な表層的効果としての出来事の
哲学)を高く評価してみせるのである(したがって『意味の論理学』から『アン
チ・オイディプス』への転回は「退行」ということのなる)。この議論は、ドゥル
ーズを論じてガタリに触れないアラン・バディウの議論(『ドゥルーズ』河出書
房新社)をもっと露骨に展開したものと言ってもよい。私自身は哲学を外部の多
様な実践と接続してみせたドゥルーズ&ガタリの共同作業を高く評価するが、ド
ゥルーズ本人は良くも悪しくも偉大な哲学者であった(その哲学は「多」や「生
成」にとどまらず「多の-」や「生成の存在」[=「回帰」]にまで到達せずにはお
かないだろう)と思うし、ドゥルーズ本人を何とか開かれた多様性の方に引き出
そうとする凡百のドゥルージアンのドゥルーズ論よりバディウやジジェクのドゥ
ルーズ論の方がドゥルーズ哲学の一面に肉迫していることを認めるに吝かではな
い。マルクスが生半可な唯物論より観念論から学ぶことの方が多いと言ったよう
に、われわれも、ドゥルーズを安易にネグリなどと結びつけようとするドゥルー
ジアンたちの「善意」より、バディウやジジェクの「悪意」から、いっそう多く
を学ぶことができるのではないか。
いずれにせよ、ジジェクは、ドゥルーズの潜在的なものの哲学自体の中にあって
も、潜在的なものを生産的な生成の場ととらえる立場と不毛な出来事の場ととら
える立場を区別し、それをドゥルーズがアルトーから援用する「器官なき身体」
とその反転形としての「身体なき器官」の対立と(またスキゾとマゾの対立と)
重ね合わせてみせる。
「器官なき身体」が機能的な器官システムへの分化に先立つ多様な生成の場であ
るとすれば、ジジェクがフロイトの「部分対象」やラカンの「小文字の対象a」を
踏まえて言う「身体なき器官」は、キャロルの『不思議の国のアリス』で猫の身
体が消え失せた後に残るにやにや笑いのようなものであり、端的な例で言えば、
純粋なシニフィアンとしてのファルス、あるいは主体から切り離された眼(ジガ・
ヴェルトフの言う「キノ・アイ」)や独立した対象としての眼差しである。
こうなると議論は当然映画にも及ぶだろう。
実際、ジジェクはこの本で、映画について、また科学や政治についても、最新の
話題に触れながら多彩な議論を展開している。
そうした議論からも読者はさまざまなヒントを得ることができるだろう。
ジジェクの著作がつねにそうであるように、ドグマティックに信奉するのではな
く、さまざまな議論を展開するきっかけとなるべき、刺激的な本だ。
ドゥルーズを読むジジェク
スラヴォイ・ジジェクが『身体なき器官』(Routledge刊)でジル・ドゥルーズの哲
学に取り組んでいる。ラカン派精神分析--とくにその「リアルなもの」の論理を
あえてドグマティックに信奉し、デリダ流の脱構築をいたずらに否定性・他者性
にこだわるものとして批判する一方、ドゥルーズ&ガタリ流の分子革命論(ネグリ
&ハートの『帝国』におけるマルチチュード論につながる)にあまりにナイーヴ
な肯定性を見て批判するというのがジジェクの立場であってみれば(この本でも
ジジェクは異教/ユダヤ教/キリスト教に対応するスピノザ/カント/ヘーゲルの延
長上でドゥルーズ/デリダ/ラカンを位置づけたりもしている)、そのドゥルーズ
読解の戦略も自ずと明らかだろう。
実際、ジジェクは、ドゥルーズのガタリとの共同作業を否定する(とくに『アン
チ・オイディプス』[1972年]は「ドゥルーズの最悪の本」だと断じ、そこに目立
って現れた深層からの生産の論理を批判する)一方、ドゥルーズ固有の哲学(と
くに『意味の論理学』[1969年]で展開された不毛な表層的効果としての出来事の
哲学)を高く評価してみせるのである(したがって『意味の論理学』から『アン
チ・オイディプス』への転回は「退行」ということのなる)。この議論は、ドゥル
ーズを論じてガタリに触れないアラン・バディウの議論(『ドゥルーズ』河出書
房新社)をもっと露骨に展開したものと言ってもよい。私自身は哲学を外部の多
様な実践と接続してみせたドゥルーズ&ガタリの共同作業を高く評価するが、ド
ゥルーズ本人は良くも悪しくも偉大な哲学者であった(その哲学は「多」や「生
成」にとどまらず「多の-」や「生成の存在」[=「回帰」]にまで到達せずにはお
かないだろう)と思うし、ドゥルーズ本人を何とか開かれた多様性の方に引き出
そうとする凡百のドゥルージアンのドゥルーズ論よりバディウやジジェクのドゥ
ルーズ論の方がドゥルーズ哲学の一面に肉迫していることを認めるに吝かではな
い。マルクスが生半可な唯物論より観念論から学ぶことの方が多いと言ったよう
に、われわれも、ドゥルーズを安易にネグリなどと結びつけようとするドゥルー
ジアンたちの「善意」より、バディウやジジェクの「悪意」から、いっそう多く
を学ぶことができるのではないか。
いずれにせよ、ジジェクは、ドゥルーズの潜在的なものの哲学自体の中にあって
も、潜在的なものを生産的な生成の場ととらえる立場と不毛な出来事の場ととら
える立場を区別し、それをドゥルーズがアルトーから援用する「器官なき身体」
とその反転形としての「身体なき器官」の対立と(またスキゾとマゾの対立と)
重ね合わせてみせる。
「器官なき身体」が機能的な器官システムへの分化に先立つ多様な生成の場であ
るとすれば、ジジェクがフロイトの「部分対象」やラカンの「小文字の対象a」を
踏まえて言う「身体なき器官」は、キャロルの『不思議の国のアリス』で猫の身
体が消え失せた後に残るにやにや笑いのようなものであり、端的な例で言えば、
純粋なシニフィアンとしてのファルス、あるいは主体から切り離された眼(ジガ・
ヴェルトフの言う「キノ・アイ」)や独立した対象としての眼差しである。
こうなると議論は当然映画にも及ぶだろう。
実際、ジジェクはこの本で、映画について、また科学や政治についても、最新の
話題に触れながら多彩な議論を展開している。
そうした議論からも読者はさまざまなヒントを得ることができるだろう。
ジジェクの著作がつねにそうであるように、ドグマティックに信奉するのではな
く、さまざまな議論を展開するきっかけとなるべき、刺激的な本だ。
年恰好が同じクローンを作るには
156が生まれたての頃からこさえにゃならんのだよねえ
どうせ違うんだろうけど
指紋とかどうなんだろうねえ
双子は違うそうだが
きっと成長促進剤とか夢のような薬があるんだよ。
858 :
おおる:04/03/24 22:20 ID:J3J77gqP
>>857 アリエナイホドスグソダーツ とか
ジャぱんの原作は窪塚くんがやってるの?
>>853 156スレで調べた人がいたが、たとえクローンといえども指紋は違うそうだ。
まぁ所詮156だからあんなもんだろ、と達観している自分がいる('∀`)
馬鹿だなぁ。
クローンなのに指紋まで同じだから
怪奇千万なんだよ。
>>856 2人ともクローンで本物の156は別にいる
とか
藤木君はオタが自分の趣味を切り貼りしただけの印象が
あるからな。漫画自体は下手ではないんだけど。
ジジェクの高弟アレンカ・ジュパンチッチが見事に示したように
(『リアルの倫理 カントとラカン』)、ラカン的倫理は捩れた形で
カント倫理学へと接近する。「この私の善」と「世界の善」の
齟齬を認めることのない主体、それが究極的な倫理を貫く人、
というわけです。
これはこれで分からない論理ではないんだけど、やり方としては
永井均流の〈私〉論を武器に、「他者への倫理なんて語ってるヤツは
何も分かっとらん」と脳内論破しまくる「無敵」の人と大差ない
ように思う(永井さん自身はそういうことはやってないけれども)。
ラカン自身は「行為」と「行為への移行」、そして「アクティング・アウト」
の三者をきちんと区別しており、別に「行為」に倫理的優位性を与えている
わけではない。行為/アクティング・アウトの差異に拘るデリダの姿勢を
否定することはないのではないか。要するに僕は、ジジェクに対しては
「なぜ「行為」に最高位の倫理的優位性を与えなくてはならないのか」と
問いたいわけです。「ラカンがそれを倫理と呼んだから」以外の解答が欲しい。
でないと、デリダ-ポストコロニアル批判のための「ためにする」議論で
しかならないと思う。
アンティゴネーについては、ヘーゲル、ラカンの議論を踏まえたジュディス・
バトラーの議論(『アンティゴネーの主張』)もある。アンティゴネーの存在を
精神分析批判の契機として用いるバトラーのほうが―深みはないかもしれない
けれども―ある意味「戦略的」に成功している(そして知的に誠実である)
ように僕には見える。
おそらくは僕の読みが足りないだけなのだろう。もう少し粘ってジジェクの
「真意」を(非ラカン的用語系のなかに)再構成し、色々と考えてみたいと思う。
なんかわかる>863
がんばれ藤木君
どっかの普通のタレ目みたいな名前だが
>865
一郎の事かー
↑雑誌が違う
違うのかー('A`)
>我門
内閣調査室をイケてる組織にしている漫画って
物凄い厨房スメルがすると思うのは俺だけかな。
EVEシリーズが大好きなのかなぁ…我門嫌いじゃないんだけどね…
架空の組織にすることはできなかったのかねぇ…
モンは聞だったね
我問、兄弟げんかは面白かった。
ふつーにひとつ屋根の下みたいな、兄弟全員主人公な笑いあり涙ありの
ほのぼの漫画にすりゃー面白そうなのに。仙術イラネ。
後、秘書ようやくキャラ立ってきたな。
我聞は主人公の頭の悪さを好意的に見れないと拒絶反応出そうだな
俺は好きだが
>>872 あー俺はダメな方かも。
拒絶反応まではいかないけど気になる。
車壊そうとしたりするリアリティのない馬鹿さは必要ない気がする。
人の気持ちが読めないとか計画性がないとか饅頭とかはOK。
そういえば新人みんな地味だね
156はある意味地味じゃないけどさ
壊し屋って割には地味なんだよな。
どうせ装甲車を壊すんなら完膚無きまでに叩き壊して
力をどう制御するのかって方が好みではある。
ハンマー一つでビル解体なんてすげーインパクトあるのに。
まだ成長過程だからね我聞社長は
最終回辺りにはハンマー1本で宇宙行くよ
あ、家族とのほほんとしてるシーンは割と好き。
ちょっと前の話になるけど、
「空から隕石が降って来た!」のあと
外からパワーでブッ壊して、隕石の中から更に人型のもんの
すごい強い宇宙人みたいなのが出て来てラストバトルとかが他誌式なら、
内部に侵入して機械をブッ壊してエンド(009のヨミ編みたいな)なのがサンデー式だと思う。
やるなら我聞でもやって欲しいな「どこに落ちたい?」ムリか。