一つづつつつんであるやつ【バキスレッドRound164】

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次々々回バレ

 着ぐるみには、直径二センチの覗き穴が二つしかない。が、それは瑕瑾と云う程のもの
でもない。否、なまじそのようなものを開けてあるから、視力のみを頼りとして外界を知
ろうとしてしまうのだ。五感全てで五体に懸かる重力を捉えさえすれば、ひねりを加えた
後方宙返りなぞも、彼、末堂厚の運動能力には容易いことだった。
「ホッ!」
 観客の驚嘆に合わせ、続けざまに前方宙返りを二回、そして再び後方宙返り。着地点も
元の位置に揃える。
「オオッ!」
 さもあらん。着ぐるみの頭部から伸びる耳を加えれば二メートルを優に越える巨体が、
蝶やイナゴのように軽快に絶妙に舞うのだから。子供はおろか、大人すらも瞠目せずには
おられぬ。どこからともなく発した拍手が、やがて渦となって己を包むのが分厚い布地越
しにも判る。それに応えて両手を腰に当てて胸を張る。それから右足を崩して右手を振っ
てみせる。お決まりのポーズだ。
 末堂は、今日、遊園地マイウェィランドのマスコット・キャラクター、熊のマイちゃん
を美事に演じ切っていた。
勇次郎の顔キモ過ぎる
範もちょっと引いてるし
 嘗ての彼を知る者ならば嘲るところかも知れぬ。憂うところかも知れぬ。門人は百万を
数え、実戦空手界最強の名を恣にする神心会に於いて随一の猛者と畏れられた男が、その
膂力を見世物にするなぞとは、と。
 そう、嘗ての彼自身が観たとしても、やはり嘲るであろう。憂うであろう。強くなる為、
唯一それだけの為にひたすら鍛え抜いて磨き上げてきた武を芸にするなぞ、士として潔い
生き方とは思えぬに違いない。
 しかし、今の末堂がそのような誹謗を意に介することはない。彼を、否、熊のマイちゃ
んのパフォーマンスを喜び、笑い、慕ってくれて再びここに足を運ぶ人々を見ることがで
きればそれで良いとさえ思うのだ。
『俺は変わったんだろう』
 その自覚に陰りはない。差し出された小さな手を握ることにも。狭い視界に映る、乳歯
が抜けた男の子の笑顔。片手にゴム風船を握っている女の子の笑顔。父親の腕に抱きかか
えられた赤ん坊は、眼前に隆々と広がった熊の顔に驚愕したのだろうか、突然泣き出して
しまう。慌ててその頭を撫でてやろうとするものの、それが更に拍車を掛けてしまう。
「ははっ、無理もねぇや」
 間近で上がる揶揄の声。それは聞き覚えのある、そして懐かしいものだった。咄嗟に振
り向くと、包帯を巻き付けた逞しい腕が差し出されている。
「元気そうだな」
「…お前もな」
 就業規則を忘れて返事をしてしまう。傍らに女を付き従えた男、加藤清澄の姿がそこに
あった。末堂はその手を固く握った。
 陽が傾きかけ、人影もまばらになっていく時間帯が末堂の休憩に充てられている。それ
も併せて、ベンチに腰掛ける彼を見てもマイちゃんだと気付かれることは先ずあり得ぬ。
増してや、並んでいるのは遊園地なぞ到底似つかわしくない男だ。
「彼女は?」
「そこらに飲み物買いに行ってな」
 何度かその顔は見掛けていた。神心会女子部の井上と云う女だった。男達の再会に臨み、
己から席を外したのだろう。
「いい娘なんだな」
 ふと隣りの加藤を一瞥する。最新の医学を以てしても、筋肉層まで達した裂傷を完全に
消すことは不可能らしい。顔面には、刻印のような痕跡が禍々しく浮かんでいる。巷を行
き交う人々の好奇の目から逃れることは、生涯叶わぬに違いない。
それにも拘らず、側に寄り添う彼女には、そのことへの気負いなぞは微塵も感じられな
かった。見た目よりも芯はずっと強靭なのだ。
「あぁ。俺には勿体ない女だよ」
「…お前、そんなことこれっぽっちも思ってねぇだろ」
「判るか?」
 加藤が照れを含ませながら笑っている。同じ釜の飯を喰っていた頃には決して見られな
かった、穏やかで柔らかで、闇世界では梟雄として名を馳せた男とも思えぬ表情で。
 釣られて末堂も笑った。何故か笑わずにはおれぬのだった。
「末堂」
「なんだ」
「お前は、忘れられないからここにいるのか?」
 加藤の懸念が手に取るように解る。ここは末堂が最後に仕合った舞台でもある。目を瞑
れば、その命の遣り取りの模様が昨日のことのように鮮烈に浮かび上がる。完敗だった。
精進に精進を重ねてきた筈の己の拳が、いとも容易く撥ね返されていった。
「なぁに、偶々だ。芦田さんが、俺のガタイに目ぇ付けて拾ってくれたんだよ。あの着ぐ
るみのサイズに合うのはお前だけだ、ってな」
 そう口にして末堂は己に驚く。自分はこのような愚にも付かぬ冗談を喋る男ではなかっ
たと思う。
「確かに似合ってるよ」
「そうか」
「あぁ。今のお前にはよく似合ってる」
 その言葉には何の含みも覚えぬ。加藤は解っているのだ。子供たちに胸を張って手を振
るのは伊達や酔狂でもなく、日々の生活の為の労働と割り切って演じているのでもないこ
とを。
「今、お前は何してるんだ」
「俺か? …俺はなぁ、今、勉強してるとこだよ」
「勉強? お前がか?」
「あぁ。クレーンの操縦士やるんだよ。館長の口利きなんだけどな」
 加藤もまた変わったのだ。如何なる理由があろうとも、人に頭を下げる男では決してな
かった。
「お前にしちゃ、随分堅実だな」
「あぁ。…俺なぁ、…所帯持とうって思ってんだ」
 当人からすれば、清水の舞台から飛び降りるが如き心中の暴露なのだろう。顔面が酷く
紅潮し、傷が殊更に目立ってしまう。
「そうか」
「そうだ」
 感慨が胸に広がっていく。煉獄に自ら身を堕として血を啜り、肉を貪った男が己の手で
その爪牙を折るのだ。その刃を鞘に収めるのだ。強さを追い求める者達の宿痾だと思って
いたものは、そうではなかったのだ。
 我々が憧れて止まなかった強さとは何だったのか。その解答は、加藤が愛する女の姿と
嘗ての我々のそれを比すれば、自ずと導き出される。
 武とは何だったのか。孫子曰く、彼ヲ知リ己ヲ知ラバ百戦殆フカラズ。我々は敗北の果
てに、漸く己を知ることができた。術の研鑽は、その為にこそあった。
「おめでとう。頑張れよ」
「有難う。お前もな」
 では、飢狼が腹を満たした後には何をするのか。決まり切っている。新たな生を育むの
だ。加藤は親として子を授かり、自分は熊のマイちゃんとして子供や疲れた大人に束の間
の夢を与え、未知なる明日へと送り出していくのだ。
 末堂は一人笑った。哲学者の如き己の述懐に。
「ガキでもできたら、また来てやるよ」
午後六時を伝えるチャイムが遊園地に響き、二人は立ち上がった。再び握手を交わし、
加藤は夕闇の中を歩いていく。その先には、メリー・ゴー・ラウンドの柱に隠れながら
男達の絆を見守っていたのであろう井上の姿が窺える。
「これからも、戦い、…か。そうなんだろ? ドリアン?」
 不意に己の口から、末堂と加藤を敗北に至らしめ、また、愚地独歩と烈海王によって敗
北に到った男の名が吐いて出た。彼もまた、己を知り、新たなる戦いを始めているのだろ
うか。彼も今、我々と同じく、あの優しい西陽に包まれているのだろうか。
「さて、シフトに遅れた云い訳を考えなくちゃな」
 観客席が熱い。それは比喩ではない。異様な昂奮による発汗と夥しい人いきれが、この
地の気候までも塗り変えてしまったかの如く熱い。
「?」
「ドウシタ、ドリアン君」
「…今ね、ともだちの声が聴こえたの」
 オリバは、不可解そうに周囲を見やるドリアンの肩を抱いてやる。
「ドリアン君。君ニハ嘗テ、多クノ友達ガイタンダ。君ハ忘レテシマッタケドネ」
「…ともだち、いなくなっちゃったの?」
「大丈夫ダヨ。君ハココデ、今カラ沢山友達ヲ作レルンダ。今ノ君ノ拳ハ、ソンナ拳ダカ
ラネ」
 云いながら、ドリアンの両の拳を握る。その精神は崩壊の末に幼児退行したが、数多の
武闘家を葬ってきた肉体は銹びつくことなく健在であった。
「さぁ、そこを抜ければ、君を待ってる人がいる。一緒に行ってみよう」
 そこにある薄暗い通路を抜けて階段を上がり切れば、待っている。過酷で凄惨な舞台が
口を開けて。
「…こぶし、ともだち、こぶし、ともだち…」
 ドリアンの呟きを掻き消さんばかりの音声が二人を包む。
「只今より、第四試合を行います!!!」