空腹があまりにも長時間続くと胃が痛くなる。播磨拳児は今、それを己の身
で味わっていた。とは言えそれも自業自得である。この数日、従姉弟である刑
部絃子から提供される朝飯と夕飯はともかく、昼飯を全く食べていないという
のが長時間の空腹の理由であるからだ。
ではなぜ昼飯を食べないのかと言うと、これもまた至極当然の理由で「お金
がない」からである。
ではなぜお金がないのかと言うと、これもやはり至極当然の理由で「夏休み
遊び呆けていた」からである。
とは言え、本人は己の想い人である塚本天満と一緒に遊べたというだけで十
分幸福であり、あまつさえほとんど両想い状態――少なくとも当の本人はそう
確信している――にまで踏み出せたのだから、バイトをサボったりバイトを辞
めたりといった行為に何らの後悔も抱いていない。
愛は全てに勝るのだから。
だが、それはそれでやっぱり空腹は辛い。胃がきゅうっと収縮してキリキリ
と痛み出し、際限なく食料を求めだす。
「もっと食物を! もっと食物をお与え下さいご主人様!」
胃袋の悲痛な叫びが、播磨の耳に届く。
ああ、すまない。残念だがそれに応じることはできない。せめてあと六時間
ほど待ってくれれば何とか食料は確保できるのだけれど。
「六時間も待っていられません! もう水では誤魔化されませんぞ! っつー
かパンも買えんのかこのごくつぶし!」
胃袋の癖に何を偉そうに――腹立ち紛れに自分の腹を拳で殴った。がつんと、
一発強烈に鋭い奴を。
「――――ぐぉぉぉぉぉ……」
単に自分が痛いだけだった(当たり前である)。播磨は腹を抑えて蹲り、自
分の愚かさを嘆いた。
さて、そんな珍妙というか怪奇というか、奇妙奇天烈な行動を取る播磨拳児
をじぃっと見つめる少女が二人。一人は播磨の行動に首を傾げ、何をやってい
るのだろうかと考え、もう一人は播磨のアホそのものの行動に引いていた。
首を傾げているのが、塚本八雲。引き気味になっている方がサラ・アディエ
マスである。
塚本八雲は、播磨の想い人であるところの塚本天満の妹であり、この学校で
一、二を争う人気を誇る一年生である。運動神経抜群・スタイルよし・ルック
スよし・頭も良く、性格は控え目で大人しく、まさに大和撫子といったところ。
おまけにそんな天下無敵の美少女であるにも関わらず、今だ浮いた噂の一つ
とてない、ここまで揃っていれば彼女の人気が高いのもある意味必然と言えよ
うか。
実際、彼女にアプローチをかける男子生徒は引きもよらない。だがしかし、
振っても振ってもその悉くを「ごめんなさい」の一言で葬り去る塚本八雲は、
さながらスクール・スイーパー(学校の掃除屋)と言えた。
さて、何故塚本八雲は恋人を作ろうとしないのか。
一つには「恋愛オンチ」ということもある。そして取り立てて好きな男性が
いない、というのも上げられる。だが、もう一つ決定的な理由が彼女には存在
する。
「自分を好きな異性の心が視える」
八雲は、世間一般で言う超能力者だ。自分に好意を抱いている――その好意
が彼女の内面であれ、外見であれ――男性の心が、彼女には視えてしまうのだ。
これは、彼女にとって辛いものだった。
もちろん彼女は、思春期の男性が誰しも彼女の内面よりは、外見を求めてい
ることは理解できる。性的衝動というものも、それなりに理解できる。
だが、話し掛けてくる男子生徒が――時には教師まで――片っ端から自分の
顔なり、胸なり、足なりを観察して内心で快哉を叫んでいるのを視てしまうと、
とてもではないが、仲良く朗らかに会話をすることなど出来なかった。
それでも八雲がこれまで男嫌いにならずにいられるのは、月齢周期で力の増
減があり、よほど強い好意を抱いていない限り、見えなくなる時期があるのと、
生来の人の良さであろう。
さて、前置きが長くなったがそんな塚本八雲は今、水飲み場で蹲っている播
磨拳児に話し掛けようとしていた。しかも、何か具体的な目的があって――と
いう訳ではなく、世間話をしたい、ただそれだけの理由で、だ。
サラ・アディエマスは自分の親友である塚本八雲が、男子生徒に自分から話
し掛けようとする、という事に正直驚いていた。
彼女は自分でも認めている通り、「男の人に慣れていない」ので、男子生徒
が話し掛けて、それに応じることはあっても、自分から男子生徒に話し掛ける、
という事は余程の用事でもない限り、滅多にないことだからだ。
だが。
「ねー、八雲。ホントーにあの人とお話するの?」
「うん……」
一年と二年、茶道部と帰宅部、そして女子生徒と男子生徒では、行動範囲も
時間割も何もかもが違う、普通に話し掛けることができそうな時間帯は、昼休
みにしか存在しない。
それは理に適っていると言えるのだが――。
「でも、あの人不良……っぽいよ」
っぽいどころか、何しろサングラスに口ヒゲに顎ヒゲである。おまけに身長
も高いわ、体もゴツいわ、どこからどう見ても、立派な不良生徒であろう。
おまけに変だ。
自分で自分の腹を殴り、自分で痛がっているし。
そんな訳で、サラは八雲が彼に話し掛けようとすることに消極的反対を行っ
ていた。男に慣れた女生徒ならいざ知らず、八雲は男に慣れていない、言って
しまえば初心(うぶ)な女子高生だ。
男に慣れていないお嬢様が、女に慣れた不良に引っ掛けられて堕落の道を辿
る――ドラマに山ほどある光景である。
(いざとなったら私が八雲を護ってあげなきゃ)
サラはそう決心していた。今やサラの頭では、播磨拳児は不倶戴天の敵とい
うイメージが作り上げられていた。
八雲は蹲る播磨に一歩一歩恐る恐る、といったように近付き、
「あの――」
とやはり恐る恐る声をかけた。
「あん?」
……ここで播磨拳児の弁護をしておこう。彼は先ほども言った通り実に空腹
だった、そして自爆ボディーブローをかましたため、体も痛かった。従って、
そんな状況で話し掛けてきた八雲を「ブチ殺すぞ人間」的視線で睨んだとして
も、多少は仕方ないことだと思えなくもない。
睨まれた八雲はいい迷惑だが。
彼女はビクリと全身を震わせ、播磨の悪鬼そのものといった顔を見て、酷く
怯えた。咄嗟にサラが一歩前へ踏み出し、播磨の視線から八雲を遮った。
予想を越えた外道だった、とサラは思った。八雲をこんなに怖がらせるなん
て。
――上等よ、かかってきなさいっ!
サラは、そんなことを考えて胸を張って播磨と対峙した。
播磨は、ようやく二人を視認し――というか、一人を認識して、パニックに
陥った。殺気など一瞬で明後日の方向に吹き飛んでいた。
「てててて、天満……もとい、塚本さんの妹さん!」
それはサラが「へ?」と声を漏らして脱力するほどの劇的な変化だった。
心なしか背丈というか、等身まで低くなったような気さえ起きるほど、目の
前の不良が怖くなくなっていた。
サラの影から八雲はこっそりと播磨を覗いた。播磨は大変なうろたえようで、
「てっきり別の誰かと間違えた」とか「お腹が空いて気が立っていた」とか、
ともかく必死に言い訳していた。
何しろ他の女子生徒ならいざ知らず、自分の想い人の大切な妹さんである。
「話し掛けたら凄い形相で睨まれた」と妹が言った男子生徒を姉が好きになる
訳がない、とにかくしどろもどろに播磨は言い訳を並び立てた。
八雲は最初のパニックが収まり、ようやくサラの背後から抜け出て播磨と向
かい合った。
「本当に面目ねぇ!」
そう言ってぺこぺことお辞儀を繰り返す播磨に「もういいですから」と八雲
は手で制した。サラの方はすっかり毒気を抜かれた感じで、二人の様子を見守
っていた。
「それで、その――」
八雲がまず最初に話したのはキリン(ピョートル)のことだった。ピョート
ルは元気か、と播磨に問うと、「遊びたがってもらっていた」と播磨が言った。
「判りました、じゃあ今度サラと一緒にまた、遊んであげることにします」と
八雲は言い、「そうしてくれたらアイツも喜ぶ」と播磨は応じた。
「……」
「……?」
会話がたったこれだけで止まりそうになったので、サラが慌ててフォローに
走る。
「あのー。さっきお腹が空いたって言ってましたけど、お昼はどうしたんです
か?」
播磨は「ああ、食ってねえ」と答えた。
「お弁当、忘れてきたとか――ですか?」
サラは八雲が次の会話を思いつくまで、もうちょっとフォローに回ることに
した。
「いやー、弁当作らねぇし、金もねぇしな。バイト代が入るまで水飲むしかね
ーんだこれが」
力無く播磨は笑った。その口振りから察したサラは、それ以上踏み込むのを
止めにした。
次に口を開いたのは八雲だった。
「あの、バイト代が入るのって……」
「……今週末」
ずどーん、と播磨の両肩に空腹の重みがのしかかった気がした。ちなみに本
日は水曜日。即ち「木・金」と二日を空腹のまま凌がねばならない訳である。
「大変ですねー」
とサラが言った。
ここでタイミング良く、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。実質五分
間の会話は、それなりに和やかに終わることができたようだ。
「じゃー、俺もう行くわ」
次が体育だったことを思い出し、播磨は憂鬱になった。
「あ、はい。じゃあ私たちもこれで……」
「先輩、さよーならー」
サラはにこやかに手を振り、八雲はぺこりと可愛らしいお辞儀をした。
放課後。
部活動が終了して、いつものように八雲はサラと共に帰ることにした。当然
話題は、昼休みの播磨拳児に集中する。
「最初は不良かと思ったけど――」
サラは播磨の評価を一番最初の最低ランクから、かなりの上方修正を加えて
いた。
「話すといい人っぽかったよね。動物好きみたいだし、話も合うんじゃない?」
その前に八雲は話のネタを用意しておくべきだと、サラは考えたが。
「うん……」
八雲は、播磨の心の声が最後まで聞こえなかった事に、安堵と、そしてわず
かばかり――多分本人も気付いていないくらいの――失望を感じていた。
それから、サラにフォローしてもらわないと話す事も思いつかない自分自身
への苛立ちも感じていた。
「で、明日もあの人と話してみる?」
「うん、話したいこと……あるし」
伊織のしつけについて話したかったし、キリン以外の動物についても話した
かった。キャンプの話もしてみたかったし、姉である天満の話もしてみたかっ
た、エアコンを直してくれたお礼も言いたかったし、それ以外の話もしてみた
かった。
そして八雲は、そのために明日はほんのちょっと早起きして、播磨との会話
を弾ませるための「とっておき」を用意しようと決心した。
サラにそのことを言おうとは思ったが――何故だか、それは無性に恥ずかし
い行為である気がした。
どうせ明日にはバレるというのに。
サラと別れ、姉と自分のために夕飯を作り、予習を行い、時代劇を見て、風
呂に入り、明日の準備を行い――目覚ましをちょっと早めにセットした。
翌朝。
三つ並べられたお弁当箱を見ても、天満は何ら関心を抱かなかった。以前に
もそういう事があって、すわ八雲にも好きな男の子が!? ……と意気込んで
尾行してみたものの、単に猫にあげる分だった、というオチがついてしまった
ことがあるからだ。
もし天満が寝ぼけ眼でなく、ばっちり目覚めていた状態で三つ目の弁当箱を
覗き込んでいたら、八雲の微笑ましい企みは露呈していたかもしれないが。
三つ目の弁当箱は、二人の弁当箱より遥かに大きく、魚に野菜に肉にご飯と、
内容も盛り沢山だった。
……作り終わって、八雲はほんの少し後悔した。もしこれで食べて貰えなか
ったらどうしよう、などと昨日は思いつきもしなかった考えが頭をよぎる。
だが、賽は既に投げられてしまった。
八雲は何故だか他の誰にも見られたくないその弁当箱を、カバンの底に慎重
に入れて、学校へ向かった。
昼休みになった。
他の男子生徒の昼食の誘いは、サラに悉く撃墜してもらい、カバンの中の自
分の弁当箱と、播磨あての弁当箱を持って、いざ出陣。
サラは、八雲の心を覗いたかのように何も言わなかった、何もからかおうと
しなかった。ただ、優しい眼差しで彼女を見つめていた。
果たして水飲み場に、播磨拳児はいた。
傍から見ていると、胸焼けがするくらいの勢いで水を飲み干す。もちろん、
水に慣れてしまった胃袋は、別の物、栄養価が高い固形物を求めていた。
「ふー……」
辛い。こうなったら、明日は学校をサボってバイトするしかないか――など
と考えていると、昨日のように八雲とサラがこちらに向かって歩いてくるのが
見えた。
今度は粗相はすまい、と考えながら播磨はにこやかに手を振った。
サラは昨日と同じくニコニコしながら、播磨に手を振り返し、八雲も昨日と
同じように無表情で小さくお辞儀をした。
「こんにちは。今日もお昼なしですか?」
口火を切ったのはサラだった。播磨は悄然としながら、
「うむ――」
と時代劇風に呟いた。
「八雲」
サラが肘で、彼女を突っついた。その感触に押されたように八雲は一歩前へ
と進み出る。播磨は、彼女が弁当箱を二つ持っているのを見て、
「意外に食うんだな」
などと実に失礼なことを考えていた。
八雲は、自分の心臓が驚くほど高鳴っていることに不可思議なものを感じな
がら、ゆっくりと弁当箱を差し出した。
その間に様々な考えが頭を通り抜ける。水で腹が膨れていないか、味付けは
この人の好みに合っているか、嫌いなものは入ってないか、リサーチすれば良
かったのかもしれない。けれど、もうそれは全部遅くて、今やるべきことは、
今言うべきことはただ一つ。
サングラスで、目の動きまでは判らなかったものの、サラは確かに播磨の口
が呆気に取られたようにポカン、と音を立てて開くのを見た。
――よし、手応え有り。
サラは心の中でそっとガッツポーズを取った。究極兵器、手作りお弁当の威
力に勝るものなど、この世には存在しないのだ。
「――お弁当、どうですか?」
播磨は呆気に取られて八雲を見つめていた。
八雲は自分では制御できない感情を持て余しながら、顔を赤らめて播磨を見
つめていた。
九月に入ったというのに、セミが鳴いている。まるで夏に舞い戻ってきてし
まったような、まるで夏の残滓のような、ちっぽけなお昼の出来事だった。
<続いたり続かなかったり>