百年経ったらまたおいで【バキスレッドRound154】

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愚地独歩は控え室で悪びれていた。大擂台賽の話を聞きつけ、わざわざ仕事をサボって香港までやって来た。
表向きにはSARSにかかって自宅療養中になっているので付け髭、義眼、伊達眼鏡で独歩と知れぬよう変装もした。
しかし肝心の参加方法がわからない。仕方なく正門前を右往左往していると、なぜか係員の一人に「海王ですか?」
と呼び止められた。そして独歩はほんのはずみで寂海王なる偽名を名乗り、そのまま入場行進に加わって
まんまと参加しおおせたわけだ。寂海王という名に特に意味は無い。その時たまたま右手に持っていた
ビオレUのラベルの弱酸性の文字が目に入り、とっさに弱海王と名乗っただけだ。しかし係員は弱ではなく寂と取ったらしい。
まあそんな訳で参加の目的は適ったわけだが、良く良く考えなくても、これって要するに人を騙しているに等しいわけだし、
今になって多少の悪気と後悔の念が沸いてきたのだ。やはり止めておくべきだったか。

独歩がそんな事を思っている最中、突然控え室のドアが開け放たれた。
そこにはなんと独歩こと寂以外の12人の海王達が。そして皆が独歩を見るなり「寂さん!」「寂!」「寂師匠!」
などと揃って口走り、そのまま全員で独歩を囲う形でに寄り添ってきた。
そして独歩に対しまるで旧知の仲であるように親しげに語りかけるのだ。
これには独歩もただ驚き、「あんた等は俺の事を知っているのか?」と思わず問いかけた。
それを聞くなり孫海王は満面に微笑を浮かべて「嫌だなあ寂さん、冗談にしてもあんまりですよ。
三十年来の付き合いじゃないですか」と返答する。これは一体どういう事だ?
独歩は混乱した頭を整理する。これはつまり独歩がたまたま名乗った寂海王なる人物は実在し、
そして今自分はその寂なる人物に間違えられているという事だろうか。だがそんな偶然がありえるのか?

海王たちが口々に話しかけてくる話題は黄河文明がどうしただの小豆相場の変動がどうだの
独歩には返答の仕様の無い話題ばかりで、独歩はひたすら狼狽した。そのうちに陳海王とサムワン海王が
寂の13歳の一人娘との交際権を賭けて控え室の隅で死合を始めた。仲裁してくださいと李海王に泣きつかれる。
そんなの無理に決まっている。第一独歩はその13歳の一人娘が誰なのか知らないのだ。そして独歩は決断した。
自分の正体を明かし事情を全て話そうと。もうこんな事態には耐えられない。
とりあえずこの付けヒゲだ。これを剥がせば自分の変装も知れ、大方の事情は分かってもらえるだろうと独歩は考えた。
そんな訳でヒゲを両手で鷲掴みにし、思いっきり引っ張った。しかしヒゲはびくともしない。おかしい。
単に両面テープで止めただけの付けヒゲなのに。そこで今度は全力で引っ張った。ブチィ!と鈍い音が響き渡った。
独歩のアゴに激痛が走る。痛い、ものすごく痛い。だがこれで全ては丸く収まる、はずだった。
しかし独歩が手に握っていたのはシート状の付けヒゲなどではなく、間違えなく本物のヒゲだった。
あわててアゴをさすると毛根から血が滲み出ているようだ。そして気づいた。今生えているヒゲは紛れも無く本物だと。そんなバカな…
そして独歩は「なんて事するんですか。その立派に蓄えられたヒゲは寂さんのトレードマークじゃないですか」と憤慨する孫を無視して
一目散に控え室から逃げ出したのだ。

おかしい。何かが狂っている。独歩は得体の知れない恐怖に打ち震えていた。ひたすら廊下を走り続けながら。
寂海王とは誰なのだ?私は断じて寂では無い。自分は真実愚地独歩である。そんな事に疑問に思う余地など無い。それなのに…
そこで独歩はその不安を払拭しようと電話をかける事を思いついた。こんな時だからこそ夏江の声を聞きたいのだ。
そして独歩ちゃんと呼んで欲しいのだ。間もなく独歩は売店の隅に公衆電話を発見し、そして国際電話を自宅にかけたのだ。
だがしかし、「おかけになった番号は現在使われておりません。番号を良くお確かめになって…」
何度かけ直しても同じだった。番号だって正確なはずだ。市外局番の0だってちゃんと抜いた。なのに何故だ。
その後独歩は神心会本部、支部、加藤宅、末堂宅、梅澤医院、ありとあらゆる番号にかけてはみたが、いずれも結果は同じだった。
余りの異常事態を前に、独歩の薄々抱えていた不安がいよいよもって像を結び始める。もしかして愚地独歩とは…
そんな折、独歩は廊下を呑気そうに闊歩しているバキを発見したのだ。その姿に独歩は仏を見た。
そして独歩は泣き笑いの形相でバキに取りすがったのだ。だがそのバキの口から発せられた言葉とは、
「どうなさったんですか?寂海王さん」。違う!自分の名は愚地独歩だ!100万人の会員を有する空手道神心会の会長であり、
妻の名は夏江、養子の一人息子は克己だ。弟子の名前は加藤と末堂だ。必死になって捲し立てた。だがバキはこう言う。
「嫌だなあ神心会の会長が寂さんなわけないじゃないですか。神心会の会長は下金克己さんですよ」と。お?おろしがねかつみ?
何故だ!克己とは俺の息子だ!息子の克己が自分に無断で会長になるなどあり得ない!バキの襟首を掴みながらそう怒鳴ったが、
だがバキは「だからなんで寂さんの息子が下金克己さんになるんですか。克己さんの両親は今もかのサーカス団で興行を、
第一独歩っていうのは誰なんです?」と怯え半分呆れ半分で弁明した。馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な…
独歩は周章狼狽するバキを思い切り突き飛ばして更に廊下の奥へと走っていった。

本当に愚地独歩はこの世界から忘れ去られたのか?ならば何故こうも突然に忘れ去られたのだ?
つい昨日まではなんの疑いようも無いごく普通の日常だったのだ、寂などではなく愚地独歩としての。
ただ自分の理性の崩壊を食い止めるためにひた走る独歩。その視界の隅にあの男の姿が映った。
あの男、範馬勇次郎ならあるいは!猛禽のような俊敏さで勇次郎の目の前に踊りだし、単刀直入にこう言った。
「俺の右目を潰した事を覚えているよな」と。そして勇次郎は心底気だるそうな仕草で「何寝ぼけているんだ寂」と言い、
続けて「お前の右目は潰れてなんかいねえじゃねえか」と語ったのだ。その時独歩は初めて気づいたのだ。
自分の右目が義眼などではなく本物の右目だという事に。自分が右目を使って物を見ているという事に。
そんな馬鹿な、いつ右目が治癒したというのだ。いや治癒するなどそんな事は医学的常識的にあり得ない。
ならば間違っているのは独歩の記憶だ。右目など奪われていなかったのだ。自分は勇次郎と戦ってなどいなかったのだ。
そして独歩のここ数年の記憶、いやそればかりか55年の人生全てが妄想の産物だったのだ、
おそらく寂海王という名の赤の他人としか思えないような自分自身の作り出した。

そこに心配した海王一同とバキ、アライ、オリバらがやって来て心配そうにこう言う。
「大丈夫ですか寂さん」「一体何があったんですか、寂さん」と。
自分を愚地独歩だと頑なに信じ続けた寂海王はこの世のものとは思えないような奇声を上げながら闘技場から逃げ出して、
そして大通りを走る一台のダンプカーに跳ねられた。かろうじて一命は取り留めたが、その意識は二度と戻る事は無かった。
だが寂海王の精神がダンプカーに衝突する前に既に死に伏していた事を知るものは誰もいない。
寂海王、脱落。

波乱と番狂わせが連続する大擂台祭。一体誰が勝ち残るのか!次回へ続く。