関東三国志…何故北条が…

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801名無しさん@お腹せっぷく
それじゃ、反北条勢力だけど1人

簗田晴助(やなだはるすけ)
下総関宿城の土豪。古河公方足利家の家宰。
河越合戦で主君の足利晴氏が没落してからも、北関東勢力の外交的中心として反北条を貫く。
天文23年(1554)に、足利晴氏、藤氏が北条氏康に反抗し
相模波多野(なんと丹波波多野一族の発祥の地、現在の秦野)に幽閉されたときにも、
古河城の防戦につとめた。
北条の傀儡と化した、古河公方足利義氏とは敵対。
上杉謙信の関東侵攻以来、共同して反北条勢力と活発な外交活動を行いつつ、
関宿城で北条氏照などの軍勢を退けた。
形骸化したといっても古河公方足利家という古参関東大名の精神的支柱の家宰であり、
また利根川水運の交通の要衝であったのが、活発な反北条外交を展開できる素地であった。
越相同盟が完成し、武田信玄が関東に侵入するようになってからは、
武田家と協力し、里見義弘の元にいた足利藤氏を古河公方に擁立した(しかし直後に病死)。

のち、天正2年(1574)、4月から北条氏政の大軍に攻められ、
上杉・佐竹の援軍が調整に手間取る間、11月に開城。
のち、水海道(水海城)に移った。
マイナーだけど、外交史料を調べていると必ず出てくる北関東のキーマンです。