関東三国志…何故北条が…

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698無名武将@お腹せっぷく
蒲原城の戦い
永禄十二年(1569)十二月(静岡県蒲原郡蒲原町蒲原)
北条綱重VS武田勝頼

  蒲原城は東海道蒲原宿を見下ろす山城で、東海道の要衝の城であった。この時期武田信玄が駿河に侵入し、駿河は武田氏の領国になりつつあったが、今川氏真支援の名目で北条氏政も兵を駿河に送り、蒲原城のように北条方の城になっているところもあった。
 城主は北条新三郎綱重で、かれは早雲の三男幻庵の子であった。綱重は城兵一千で蒲原城を守っていた。 永禄十二年十一月末に薩垂山砦を落した武田軍は、その勢いで蒲原城をめざした。まず、十二月四日、岩淵の宿を焼き討ちし、五日夜には城の麓に展開する蒲原宿にも火を放ち、いよいよ城攻めにかかった。
 攻める武田側は、さきに今川遺臣岡部正綱によって奪還された駿府館をふたたび奪い取るため、その障害となるであろう蒲原城を攻め取るということで意気があがり、一方の北条側は最初から消極的で守勢であった。 武田軍の総大将には信玄の四男勝頼が任命されており、武田氏としても並々ならぬ覚悟だったことがうかがわれる。また、信玄の甥にあたる武田信豊も従軍していた。
 十二月五日夜から翌六日未明にかけて戦いが繰り広げられ、城兵わずか一千の北条軍はよく守った。しあkし、城はついに落ち、城主の北条新三郎はもとより、その弟長順をはじめ、清水氏や笠原氏といった北条氏の重臣も何人か戦死しており、かなりの激戦であったことがうかがわれる。