劉備は別に孔明を仲間にしなくても良かった。

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1無名武将@お腹せっぷく
劉備がまるで孔明がいなきゃなにも出来ない人みたいな
評価を覆すべく立ててみた。
2無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:18:22
>>1
じゃあわざわざ三度も奴を誘いに言ったのはなぜだ?
3無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:18:25
やっぱここは簡単に立てれるな。

まずさ思うに序盤に領土を簡単になくしてるから
劉備の評価が低いけど。むしろ領土もなく
あそこまで生き残れた事を評価したい。
4無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:19:16
>>2
そういう事ではなく。劉備だけでもやっていけるぜ。
って感じのスレ。
5無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:20:01
張飛関羽もなし?
6無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:25:27
そこあたりはまあいろいろ。さすがに始まりから居る
チョウヒカンウを切って話し進めるのは無理あるから。
劉備の将軍としての才能。軍師的側面などを
語る。

前半も曹操がライバル視するぐらいだからそれほど
無能なんてありえないと思うんだけどあれって演義の創作だっけ?
7無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:26:20
>>4
劉備が孔明を欲しがったのは、
能力もそうだけど声望によるところが大きい
名士を抱えるのと抱えないのじゃ世間の見方は大きく変わるからな。
8無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:27:57
演義でも別に無能じゃない。むしろ序盤は戦結構強い。
ちょっと人徳者すぎて優柔不断なだけで、判断力が無いわけじゃない。
夷陵で負けたのがインパクト有るだけ。
9無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:30:54
初期は参謀いなかったら敗走しまくってたんじゃないかw
10無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:31:22
いや演義だとかなり凄いことにされてるじゃん。
横山三国志とか見ると凄いのになぜか
領土とれないのが不思議なぐらいなんだが。
正史だとどうなってるか解からないが。

イマイチ評価があやふやだと思う。リョフや曹操にすぐ領土を
取られたのがマイナスなのかな?
11無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:33:10
>>7
当時の孔明ってそんな名声高くなかったろ??
知る人ぞ知るって感じじゃ?
12無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 21:52:51
演義劉備がまともに負けるのって
・徐州で曹操に反旗を翻したとき 曹操に張飛の策を逆手に取られて敗北
・汝南で曹操を迎え撃ったとき 兵站を絶たれ、汝南の城も襲われ完敗
・ホウ統死後のラク城攻め 窮地に絶たされるも荊州からの援軍に救われる
・言わずと知れた夷陵

これくらいじゃないか?あとはそもそも不利な戦力だから負けたって程度で、劉備の能力のせいじゃない。
別に格別無能って描かれてないよ。

>>11
司馬徽あたりに評価されてる以上、荊州グループでもそこそこ有名だったろうと思われる。
「知る人ぞ知る」と言われても、重要なのはそれらの「知る人」(士大夫)への知名度だから。
13無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 22:02:29
>>12
>>「知る人ぞ知る」と言われても、重要なのはそれらの「知る人」(士大夫)への知名度だから。
なるほど 一理あるな
けど劉備は名ばかりで実がない奴は嫌う傾向があるから
それが一番の理由で孔明を陣営に迎えたんじゃないと思うね
まあその辺りは柔軟に考える事もできる人だからあながちあり得なくもないね
実際に実務にも優れてたってみてただろうし
14無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 22:37:14
劉備は軍事的な才能は高いってどっかの本で読んだ気がする
理由としては戦ってる数半端ないからそれだけ経験があるということ
また諸侯がなぜ劉備を客将として誘ったかというとやっぱり軍事的才能があると見られたから
毎回客将で前線ついてるしね
まぁ夷陵は年だからでおk
15無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 23:44:03
劉備負けっぱなしのイメージは、
196年の徐州喪失から201年に荊州に流れるまでの五年間、流浪しながらの連戦連敗にあるだろう。
七回は負けたかな。確固とした根拠地の重要性がよくわかる話だが、その前後というと、

何の官にも就いてなかった人間が、(他人の)私費で義勇軍掻き集めて丸十年で暫定徐州牧。
曹操の大軍に追われて自前の武力も殆ど持たず、風前の灯かと思われた将軍が、十二年で漢中王。

年齢で比べると曹操より上昇速度は早い。
そしてその領土拡張の全てで、劉備は前線に立ち続けた。
勝とうが負けようが、劉備は部下に主力軍を任せて後方を固めるなんてことをしたことが一度もない。
(例外は太史慈に兵三千を貸して青州を救ったときだけか)

後漢末動乱期屈指の怪物だよ。
で、第二の上昇期の立役者が諸葛亮というわけ。
16無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 00:06:08
>>12
諸葛亮は自ら農耕していた(自称)とはいっても、世捨て人などではなく
ちゃんと荊州士人名士の社交に参加していた(荊州人達の評や劉gとの交際から見て)
その上で、「当時は認める者が少なかった」んだと思うよ。
当時は人物評が流行していて、座談して他の州郡の人物にランクを付けたり
相互に忌憚無く批評し合うことも行われた。
そういう席で司馬徽が「よいぞよいぞ」と言っても、他の士人は反論したり、
笑って聞き流す、諸葛亮は当初そんな評価だったんだろう。
17無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 13:58:56
三顧の礼は、大げさに書かれてるが
基本的に全員そうだろ。
18無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 19:26:13
キチガイが立てたスレはここですか。
19無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:18:11
三顧の礼は多分孔明が実権握った時に
作られたんじゃないかな?自分はこれだけ劉備に
慕われてたんですよ。って言って自分の価値を高めただけなきがする。;
20無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:22:37
三顧を宣伝した人間がいたのなら劉備だろうね。
若い諸葛亮に大任を与えるために、自分の権威を利用して箔付けしたわけだ。
21無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:25:13
最近上げながらアホ言ってる奴全部>>1に見えるから困る
22無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:48:38
三顧の礼自体が演義のねつ造だから
出師の表で三度も劉備は訪れたのは本当の事だろうがね
演義厨にはその違いは分からんだろうが
23無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:57:46
>>1
当時はネット社会じゃないんだぜ厨房
24無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 23:34:50
演義で語られる三顧の礼の詳細な様子は脚色だが、原型は三国志本文にあるよ。
徐庶に連れて来てくれと言ったが、それで来るような奴ではありませんと言われたので、
三度訪問してやっと逢えたとある。
本伝の記述に従えば、二度不在でも尚三度逢いに行ったという「三顧の礼」は史書に忠実ということになる。
別の説も魏略にあるが。
25無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 01:19:06
別に全面的に正しいとは思ってないが、渡邉氏の名士論的な考えあたりを理解してくれると話しが通じるんだが。
26無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 01:33:09
三顧礼が演義の「捏造」かどうかを判断するのに名士論なんて関係ないな。
演義は諸葛亮伝本文から取材し脚色した。あるいは先行する講談か小説がそれをした。
その事実があるだけだ。
>>25>>24へのレスであるなら。
27無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 02:48:01
>>12
でもライバルの曹操は不利な条件でも勝ってたのに劉備だけ擁護されるのはなんかへんなカンジ
28無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 02:56:58
そりゃ曹操は間違いなくこの時代随一の英雄だからな。
劉備は「機權幹略は魏武に逮(とど)かず、この基はまた狭かった」と評されている。
29無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 09:42:38
>>26
>>24じゃなくて、>>1へのレス。
諸葛亮の名声云々のやりとりをしてて思ったことだ。
30無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 10:42:58
いや劉備は実は劉邦や光武帝以上の人物だったのではないだろうか。
31無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 11:10:17
そのこころは?
32無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 11:10:46
自分をかくまってくれた劉表に暗疑かける位だからそれはない。
33無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 12:22:21
〈`∀´〉ニダ
34無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 22:45:42
とりあえず腐女子の妄想を永久に排除したい。
35無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 04:12:45
劉備はよくわからんなあ
黄巾討伐の頃は強かったらしいが、徐州や汝南で呂布や曹操相手に戦ってた頃は負けっ放しだろ
かと言って劉表死後は赤壁の戦い→南四郡平定→ショク侵攻→漢中平定と鬼のような強さだしな

以前読んだ本では生涯勝率は二割弱とか書いてあったが、もしかしたら軍事能力は高かったのかも知れん
領土拡張期がちょうど孔明仕官後と重なるから、世間的には劉備の功績も全て孔明の手柄って事になってるのかもな
36無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 08:41:46
曹操= 戦略、戦術、政治全て一流
又それぞれ国家を運営(構想・実現)する専門家を多数配置

劉備= 戦術は一流半位?他の二つは曹操と比較しちゃうと三流以下。
理想>現実の夢想家。
物事を部下に丸投げする、できる事のみ政治家としては一流か?

諸葛孔明= 政治、戦略(国力分)は一流。戦術は三流

新国家を創る上、敵対する国家・勢力がある為、劉備と諸葛亮は互いに補完しなければならなかった。
一勢力なら互いに不要かつ邪魔な人間。


戦略=情報は現代も不偏。かの時代は知識人のみが情報を占有、交換していた。
劉備はそもそも知識人ではない為、戦略も無ければ国家を創り政をする意識すら無かった(行う気もない)。
故に勝率が悪かった。

戦略=情報源の知識人である諸葛亮が劉備の求めに応じていなければ三国志にはならなかったし戦乱も早く治まっていたかも。

蛇足かもですが、諸葛亮が曹操とは異なる政をする為に、劉備の声望が必要だった(粗暴なヤクザが大学教授の指示通りに動くと思います?)。
37無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 11:59:06
諸葛亮ほど曹操の政策を研究して採用してる奴もそう居ないが
38無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 13:37:10
実際孔明が有名になったのは無視してた蜀が北伐で攻めてきた為
能力まで美化されたのは死後
39無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 15:31:01
>>36
よくこんなくだらんことを書けるものだ
40無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 15:42:15
>>37 36で言っているのは政(まつりごと)。

37は政=政策だと思ってる?
政策とは読んで字のごとく政の策だよ。
政を行う上でより良い統治策なら敵対国家であれ真似する事はいい事でしょ。
まして政策を行った結果を考察してから自国家で行えば効率的かつ経済的だし。蜀漢は失敗出来ないギリギリの国力しかないしね。

穿った見方をすると、諸葛亮は魏国が成功した政策だけを真似ていたから失敗しなかったかもしれない。
戦乱を避けたいのであれば劉備に戦略を与えず曹操政権下で政を行えば良い。無益かつ大規模な戦が減ったはず。
それまでの曹操の政を見て曹操政権下での新国家創立に賛成していないから劉備の元で曹操政権以外の国家創立を図ったんだろうけど。
諸葛亮自身、曹操に対抗できるのは自分しかいないと自負した結果が三国鼎立の戦略なんだろうね。
41無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 15:44:39
孔明の人脈が欲しかっただけなんじゃね?
そもそも劉備が死ぬまでは孔明ってそんなに重要な役職もらってないよな。
42無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 15:47:45
>>41
最初にもらった軍師中郎将、軍師将軍は年齢や経歴を考えれば大抜擢
更に左将軍府の事務を一手に引き受けている
これも要職
更に劉備が漢中王、皇帝になると丞相になり、後に司隷校尉まで兼任している

ちゃんと調べるように
43無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 15:58:12
>>42
調べるってwikiをか?w
44無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 16:01:05
>>41
随分前の駄説を今だに信じているのね。
45無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 16:02:13
>>43
Wikiでも何でもいいよ、明らかに間違ってることを偉そうに語るよりは
46無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 16:09:25
劉備が知識人ではないとする説は初耳だわ。

てか名士人脈は劉備の場合自前も強いでしょ?
鄭玄と同門で自身もかなりの学者である盧植に師事した劉備なわけだし。
孝廉通った田豫が公孫サン―劉備人脈に居るのもその流れなわけで。
47無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 17:32:23
劉備は早くから劉虞や孔融とも知り合いで、
知識階級の世界と無縁とも思えないがなぁ。
48無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 17:33:01
>>40
別に諸葛亮は世捨て人ではないが、といって特に反曹操の志を持っていたわけでもないだろう。

当時は軍閥が私臣を抱え、私臣は軍閥に頼って名を挙げようとしていた。
諸葛亮は野心と自負がある青年で、逃れた荊州で普通に「就職活動」をしていた。
そこにたまたま劉備がいた。
ところが劉備は諸葛亮に年齢経歴名声を遥かに越えた大任を与え続け、
遂には孤児を托して世を去った。これは諸葛亮の当初の自負さえ超えたものだっただろう。
諸葛亮が劉備に仕えた期間は15年少々でしかないんだ。
出師の表が著名になったのは、旧主の大恩に忠を以って報いるという
形式がちゃんと成立するからだよ。
49無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:44:10
実際ドレくらい頭のよさだったんだろう?劉備
蒼天航路の漫画だと魅力だけでわたって来たみたいに
描かれてたけど
正史だと結構馬とかで遊ぶのが好きで
コウソンサンだっけ?と同じ塾行っててもあんまマジメにやってなかったらしいし。
50無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:50:49
へぇ
51無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:55:56
>>49
そうそう
遊んでばかりでだったけど人がよく集まったとある
あと商人の護衛もやっていたとある
52無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:58:46
演義だとお茶買うのにも苦労してた親孝行息子なのにね。
正史だと塾行かせてもらってまともに授業受けないという
性格なんだよな。
53無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:07:20
>>52
勉強よりも人脈を優先したんじゃないか?
好意的に考えたら
54無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:22:12
勉強してても人脈は作れるからな。どうだろう?
ただ単に遊ぶのが好きだっただけだと思う。

まあそのおかげでコウソンサンだっけとかの客将とかに
なれたわけだし。役立ったわけなんだけど。
55無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:32:48
勉強して有名になるきなかったのかもな
腕っ節で成り上がろうとしたんだろうな
56無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:43:16
けどカンウとチョウヒがいるからあんま劉備って強いのか
解からんな。正史だと三人でリョフと戦ったんだっけ?

勉強してないなら政治とかもできなそうだけど
最初に職に就いたときはリッパにやってるんだよね?
賄賂あげなかっただけで

戦闘では
個人的な武力 はカンウがいたから必要なかったけど
将軍としての能力はどうなもんだったんだろう?
軍師もつけないで頑張ってたみたいだけど。
57無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:53:22
>>56
>正史だと三人でリョフと戦ったんだっけ?
正史では確か他の場所で黄巾軍の残党と戦っていたはず
その功績によって公職についたはずだよ

>将軍としての能力はどうなもんだったんだろう?
曹操に劣るけど敵には回したくないって思うほどの軍才があったようです。
58無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 23:22:56
>>56
それ全部演義の話ナ
演義では黄巾討伐で武勇を見せてるよ
koeiの武力70台は結構当たってると思うな
59無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 23:44:06
コウキン退治のときにトウタク助けたのは
演義だけだっけ?
60無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 23:46:51
>>59
正史に書いてなかったと思うけど
61無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 00:15:50
大して頭良くないのに上にも下にも好かれてのし上がったってことは、「こいつ頭いいぞ」って思わせるのは上手かったんじゃないかなと。
62無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 00:17:37
ここ面白いなぁ。
63無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 00:30:38
>>61
実際荊州でも苑付近制圧したんじゃなかったか?
64無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 18:53:35
リョフあたりの所は散々だよね。そこまでリョフは強かったんだろうか?
リョフ倒す策が思いつかなかったのか>?
65無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 19:28:48
>>35
俺も生涯勝率は二割弱という本を読んだ事があるが多分嘘だろう
少なめに見積もっても勝率5割を超えてると思う
対呂布は、呂布に徐州を騙し取られて、戦力が激減したのが痛かったと思う

簡易劉備生涯戦績
VS黄巾 勝ち         VS賊  勝ち
VS賊  負け         VS袁紹 勝ち(先主伝ではたびたび戦功を立てた)
VS曹操・袁紹 負け(武帝紀) VS曹操 負け
VS袁術・呂布 負け      VS呂布 負け
VS楊奉・韓暹 勝ち      VS呂布 負け
VS車冑 勝ち         VS劉岱・王忠 勝ち
VS曹操 負け         VS汝南曹操軍 勝ち
VS曹仁 負け         VS蔡陽 勝ち
VS夏侯惇・于禁 勝ち     VS曹操(長坂) 負け
VS荊州曹操軍 勝ち      VS劉璋 勝ち
VS夏侯淵 勝ち        VS曹操 勝ち
VS陸遜 負け
66無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 19:51:32
〈`∀´〉ニダ
67無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 20:00:17
>>65
そもそも勝率とか言い出してどうすんだ
ほとんど無意味だと思うんだが
68無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 20:10:50
てか、劉備陣営って劉備の指揮下以外で勢力拡張したことが殆ど無いからな。
入蜀時の諸県平定くらいか。
宿将の関羽にさえ荊州刺史の任を与えず、督荊州と典荊州事(潘濬)とで分権していた。

良くも悪くもワントップだね。
69無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 20:52:11
>>61
孔融は曹操も一目置く秀才だったけど青州の支配は上手くいかなかったな。
頭の良さと政治家としての能力は必ずしも一致しないんだろうな。
先主伝注の魏書に劉備は治安維持と経済政策の両方に優れていたと書かれてるから
政治家としての才能はあったんだろう。

>>67
それじゃあ曹操の勝率8割も意味無いな
70無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 20:56:07
〈`∀´〉ニダ
71無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 21:00:08
ここぞという時に勝たないと意味ないよね。
赤壁とかゴジョウゲンとかイリョウとかに勝てなかったのが痛い。
72無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 22:21:58
孔明と劉備は双方アゲ○○て事で。

孔明はプライド高い孫権やゴーイングマイウェイで清濁合わせ飲むタイプの曹操とは上手く
行かなかったと思うような。
推論ですみませんが。孔明劉備のツートップでもニュートラルな組み合わせで上手く躍進できたかな、と。
劉備いてこその孔明かな、と。孔明収めてこその漢朝再興の劉備かな、と。
劉備ピンで語る三国志は寂しい限りかな、と。
73無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 22:48:58
清濁併せ呑むのは孫権だな。
北に部下に言うことを聞いてもらえない都督がいると聞けば行って傷の数を数えてやり、
西に喧嘩している一族と子飼武官がいると聞けば懇切に手紙を書いて仲直りさせてやる。
最も上手く行ったのが呂蒙の抜擢だろう。

曹操は好悪が激しく、一度裏切った旧友をつい赦してしまう一方で
心情的に赦せない者を罪に落としたという激情家の面と、
外では一族や古参武官を上手く使いながら内では名士儒者を辟召して政府基盤を固める
という怜悧な政治家の面が同居している。扱いが難しい天才型だろう。
74無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 22:53:22
孔明の役割は劉備が前線に出ているときに
本拠地を守るって感じですね
75無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 14:18:20
劉備は蜀のみんなと仲いいイメージ
76無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 14:57:44
魏延とよくない
77無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 15:53:37
〈`∀´〉77ニダ
78無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 16:15:56
>>76
魏延を抜擢したのは劉備だぞ
79無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 17:40:29
>>76

魏延を嫌いだったのは孔明
80無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 17:47:35
〈`∀´〉80ニダ
81無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 20:54:08
孔明の人の見る目の無さは異常だよね。

劉備は人を見る目があった。
82無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 20:57:11
孔明の場合は人格重視だからな
劉備は人格にはあまり重きを置かなかったと思う
83無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:02:26
ヒイやヨウギが人格者だったとはとても思えないが
法正なんかは最低人間だし
84無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:23:43
劉備は許靖の醜態を毛嫌いしたよね。
法正が詭弁ギリギリのご機嫌とりで任用させた。
法正は許靖の価値を知っていた。
職務中に酔っ払ってた蒋エンを庇ったのは諸葛亮。

どっちも人の能力を見ることができる人間だよ。
好みのタイプに差はあるが好悪を飲み込む度量くらいある。
あまり短絡的なこと言ってると恥じ掻くよ。
85無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:24:59
いやいやいや。孔明にはバショクっていう致命的なミスがある。

劉備はそれ以外にもチョウウンとかバチョウとかコウチュウとか
いろいろ有能なの見つけてるし。
86無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:28:22
コウチュウって誰??
87無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:29:41
>>84
なにがいいたいの??
88無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:30:40
馬超は見つけたというか
89無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:35:20
見つけてるっていうかなんというか
劉備はその人の真価を見いだして用いるのはうまいと思う
90無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:36:16
>>85
馬謖の一件で「見る目の無さは異常」と言いたいわけ?
91無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 21:57:11
>>81結果的にはそうだが、バショクには期待していたんだ。
92無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 23:05:55
カンヌはともかく張飛は戦闘指揮者として優秀だよな
張コウをボコボコにしてるし、蜀入りも成功させた
93無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 23:20:10
関羽も戦闘指揮者は優秀です
94無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 23:36:13
もう少し思いやりがあればなぁ
95無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 23:40:12
張飛も徐州時代に致命的なミス犯してるけどね
96無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 23:41:31
張飛のミスはそれだけなんだよな。
記録が少ないこともあって、純粋に「戦闘」での失点はない。
97Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/17(水) 00:02:10
宕渠の戦いは結構面白い題材だと思う。
98無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 01:47:41
張飛は人間関係はアレだがやはり名将ではあるな
むしろ演義の方が阿呆に描かれてる
99無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 04:55:54
36と40書いた者です。
遅レスで申し訳ない。

>>40 確かに、盧植に師事していた事は知っています。がこの場合(教育している内容の詳細は知りえませんが)

1)教える側(盧植)が戦略を分かっていない。もしくは戦略を教えていない。

※盧植門下で勢力を保てた重要人物は?皆無ではないでしょうか。その事で盧植の戦略論の質がわかると思います(勿論劉備は諸葛亮が参画するまでです)。
蛇足ですが、
俗に言う「孫子の兵法書」の現在の形にしたのは曹操。
皆さんも見た・読んだ事はあるとは思いますが説明を読まないと抽象的で理解しにくくないですか?勿論当時の戦略論(戦術・政etc)は孫子の兵法書だけではないと思いますが。ただ知っている者と知らない者の差は皆さんも多少実感しているのでは?
曹操が訳したと言う事はそれ以前の学者は孫子の兵法書の表層部分だけ教育をしていたかも。


2)教わる側(劉備)にやる気がなかった。

劉備は、勉強は出来た方だと思います。ただ興味が無い事には無関心に近かったのかも。
曹操に認められていた事、諸葛亮の戦略を理解でき、実行した事(優柔不断は性格)で教養の素地があるのがわかります。


ただ思うのですが、貧しい暮らしだったのに教育を受けれたのが疑問。
盧植の教育を勝手に聞いていて他の人物と顔なじみになったような…。
例えば公孫サンはいい家柄の御曹子。後の劉備の扱いも丁重とは言えないような。

最後に大平洋戦争時代の日本軍令部には秀才が集まっていました。結果は?能力の有るものに実権がないと。山本しかり石原しかり戦略が解る人物がいたのですが。
劉備は自分のいたらなさを理解し、自分よりはるかに若く実績も無い諸葛亮に実権力を与えました。
長文失礼しました。読んで頂いてありがとう。

>>39 教養のなさが文面に出ていますよ。
あなたにとって、拙い意見もかもしれませんがまだ自分の学んだ物事から意見・見識を発言しています。
ディベートもしないで否定するならニダニダ言っている方が遥かにましですよ。
100無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 06:24:02
クポー
101無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 07:23:40
戦略論を教えて弟子が活躍した学問の一派なんて後漢末にいないよw
学問についても公孫サンや劉備の境遇も把握がいい加減すぎる。
大体一流二流とランク付けできるほど単純なものじゃない。
102無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 07:37:14
あ、劉備と公孫サンと言う二人の群雄を輩出した盧植一門こそが「大成した一門」か。
戦略論を教えていたとは信じがたいけど
103無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 09:59:45
法家とか兵家とか、あと縦横家とか?
まあ史書に出てくる有名な学者はだいたい儒家と陰陽関係だな。
104無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 18:01:11
孔明が仲間になってなきゃ、たぶん劉備は名声を得ることもなく滅んでいただろうな
105無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 18:05:16
左将軍豫州牧。後漢朝廷から正式に貰った官位としてはこの時点で劉表劉璋馬騰韓遂孫策陶謙当時の孫権を越え、
公孫サン呂布袁術と同等の地位ですが。
新野で朽ちたとしても伝は立っただろうな。後漢書や「魏書」なり「魏志」に。
106無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 19:22:57
仮に、曹操の南下時に逃げきれずに殺されてたとしたら。
列伝が立ったとしたら誰と一緒かな。公孫サンあたり?
107無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 19:26:07
>>106
劉表、劉エン、劉璋あたりじゃないかと思う。
108無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:11:51
>>73
曹操はあくまで『漢王朝』の運営担当だから、組織内部での反対勢力を常に身近に抱えていたから。
皇帝を推戴しても、いい事ばかりじゃなかったんだよなぁ。

・・・派閥の領袖を気取っていたほかの勢力とは、ちょっと事情が違う。
109無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:16:14
>>74
『ショウカ』タイプだよね。
法制、行政・・・国家戦略

でもたまに思う。
『天下三分』が定着した場合、統一は絶望的に難しくなるんじゃね?って。

漢王朝の再興って、劉性の者を王にすることが最終目標で、三国統一は考えて無いんじゃね?って。

110無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:25:43
>>106
曹操は劉備を殺さないんじゃね?
劉備が身を寄せた勢力は、必ず内部がゴタゴタする・・・そして曹操に滅ぼされる。

・・・っていうか、曹操陣営も劉備かくまった時に割れたし。
江東の孫家も結局割れたし。

劉備は泳がせるに限る・・・っていうか、こいつ、曹操とグルじゃね?
111無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:39:10
内に飼っておくには名声信望が高すぎたんだな。
捕まえたら殺すか、宮廷の奥に引き込んで実権を与えないかの二択。
劉表だって迂闊に兵力与えられないよ。
官位では劉備の方が上なんだから。何かあったら自勢力ひっくり返されてしまう。
112無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:43:22
>>111
官位が高いだけならどうにでもなるが、手勢と豊富な実戦経験があるから困る
全くの飼い殺しも勿体無いし、全幅の信頼も置きがたいという
113無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:45:40
さすがに荊州攻めのときに劉備が捕虜になったら殺されるんじゃないかね。
114無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 20:52:17
三分の計は蜀生き残りのラスト・アンサーだったのかな、と。
統一は曹操、二分は孫権、周瑜。
すでに狼の前の羊同然だった劉備が、たとえ二代でも漢中王になったのは、なんといっても
孔明の功績でしょう。
孔明もそれが喜びと言うか、生涯の糧だったみたいだし。
孔明がひたすら劉備の夢を中原に開花させようと奮闘して、私欲がなかったのはお墓のエピソード
見ても解るし。
115無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 21:11:00
>>111
・・・劉性だから、宮廷の置くに飾っておくとお神輿に担ぎだす奴らが湧くわけで。
帝室近くに置いとくのもやばいんだよなぁ・・・劉備って。
116無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 15:40:49
だから董承に無茶振りされて逃げたんだろ。
117無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 21:51:15
孔明の策のせいで劉備は田舎に引きこもることになり
天下取れなかった。まずケイシュウの地盤を固める事が重要だったな。
孔明のミスだよ。
118無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 22:16:34
益州か揚州がなければ大勢力を敵に回して荊州の地形は守れん。
良くて追われて交州に引き篭もることになるだけ。
119無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 23:41:29
あの状況でのんびり地盤を固めろとか、ジリ貧になれと言ってるようなもんじゃねえか
120無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 23:56:02
荊州である程度安全な地歩を固めるなら、
北は漢水以北の十分な緩衝地帯(新野辺りくらい?)
西は敵軍がなだれ込むのを平野の前で止める要衝(白帝?)
東は長江北岸の前線基地と南岸陸地の緩衝地帯(江夏郡)
くらいは欲しいかな。

曹操孫権劉璋へ三勢力同時喧嘩売り。
121無名武将@お腹せっぷく:2008/12/19(金) 23:38:25
ジョシュウって多分あんまいい土地じゃないから
劉備は捨てたんだろうけどあそこからどうにかできなかったのかな。
122無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 00:12:19
徐州はいい土地なんじゃないの?
123無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 00:45:57
孔明いなかったら名士層を取り込めなくていつまでたっても傭兵隊長だよ。

124無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 02:15:15
そうだな。
劉備は孔明がいなかったら司馬徽にもあえなかっただろう。
125無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 06:42:52
徐州は交通の要所。大勢力の中心なら用をなすが陶謙や劉備のような雑魚には豚に真珠、何進に大将軍、袁術に皇帝だろ
126無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 10:21:45
河南の軍閥一人一州未満の情勢で良い土地も悪い土地もないよ
言うならこの頃の中原はどこも荒廃してひどい有様だっただろう
その中でも194-195年頃の劉備は袁術に匹敵する河水以南の有力勢力だった
この時期に目立った侵攻が無いのは領域内や周辺の統制に腐心していたからだろう
その劉備を袁術と呂布が破ったというだけこのこと
196年に袁術と開戦する頃には曹操はエン州内の再統一を完了した上に献帝を迎えていた
劉備を駆逐した袁術-呂布ラインが上手く機能しなかったのは献帝の存在が大きい
結局呂布は袁術に付くが、その決断までさらに曹操に時間を与えてしまった
しかも袁術は呂布を救援できず、各個撃破されることになる
曹操の際立つ手腕と劉備袁術呂布にとってのタイミングの悪さだね
127無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 13:56:05
拠烽ナもあんなにあっさり決着がつくとは思ってなかっただろうね
袁術にしても袁紹にしても本チャンはお互いの直接対決だったろうし
曹操には防波堤くらいの認識はあったかもしれないけど
128無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 14:09:25
まあ本格的に戦闘する気があったかは微妙だけどな
のんびりやってたら曹操が猛スピードでやってきて木っ端微塵にされたっていう…
129無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 01:32:24
>>120
劉表が生きていて、劉備に全権を預けるならば出来ただろうけど・・・
『劉備が曹操に抗し得るならば我らは劉備に仕える身になるだろう』だっけ?うろ覚えだけど。

よく考えたら、劉表って凄かったんだな・・・あの何ともいえないタイミングで死んで、跡目争いさえ起きなければ、立派に三者の間で地歩を保っていられたんだろうなぁ。
130無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 01:58:47
おそらく孔明を仲間にしなければ
劉備は呉の客将になり赤壁で活躍
普通にケイシュウ手に入れて独立、

で呉と争う事もなくやれて他と思う。
131無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 02:19:17
一旦客将になった人間が勝手に荊州分捕って、
なんで以後呉と争うこともなくやれるのさ?

だいたい客将如きに一州を総領できる権限も部下も与えないよ
孫権が戦後荊州のうち五郡を劉備に貸したのは、
劉備が対等でないにしろ同盟関係を結んで曹操の駆逐を共に行った相手で、
また反曹操の荊州人士を引き付ける名声があったから。
で、同盟成立は諸葛亮の功績。
ま、これは諸葛亮でなくてもなんとかできたかもしれないが。

それに孫権の下に付くには劉備では地位名声が高すぎて一軍を預けるのさえ危険。
軍事が不得手だった劉表は北の盾として名高い軍将を置いたが、
部将の充実している孫権がそんな危険を冒す理由がない。
132無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 02:27:38
>>129
劉表が荊州刺史になって漢水と江水の間を平定したのって袁術が
対董卓戦線で頑張ってる一年程度の間だからね。
いわゆる「政治力」は相当な人間だろう。

でも軍を率いて平定したという記録はない(ないだけで実際にはやったのかも
しれないけど)人物だから、州内の不満分子鎮定ならともかく
曹操南下に対抗できたかは怪しいな

しかし劉表って、曹操が献帝を迎えたときに既に袁術と並んで朝的扱いされてるんだよな
(袁紹や、劉表と小競り合いをしていた劉璋は献帝派の形をとっていた)
それが後の曹操張繍戦に繋がるんだろうけど、わざわざ袁紹と意見を異にしてまで
劉表が曹操の献帝擁立を支持しなかった理由があるんだろうか。
それとも曹操の政治的利害に基づく一方的な通告だったのだろうか。
133無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 03:27:25
劉備が孔明と会わない三国志

赤壁までは史実通り
孫権は周ユの献策に従って荊州→益州と攻め込む。劉備はその過程で孫権に取り込まれる
曹操も名声回復に史実通り西へ

ちょっと早い南北朝時代到来
134無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 03:43:16
>>132
そこまでの政治力があれば、涼州を動かすことも出来たかも。
涼州閥抱き込んで宮廷内闘争を起させて、南下自体をさせないって言う方法を取れたかもしれない。

でもまぁ・・・劉表が献帝擁立を支持しなかったのって

劉表は『劉』姓だからじゃないかと思うんだけど。
・・・曹操が擁立して、宮廷内闘争まで抱え込む羽目になったのに対して、自らが『王』にならば立てる立場だし。
拠点の位置から言っても、第二の『光武帝・劉秀』に成ろうとしたのかも。
135無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 10:47:36
>>133
劉備が孫権に取り込まれる程度の奴だったら
その前に曹操の配下になってるでしょ

孫権の客将になれば基本的にホウトウは劉備につくだろうから
独立ぐらいできる。
136無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 13:50:21
ホウ統のような一介の士人に何ができるんだ
荊州を左右するような大豪族でもないぞ
それにホウ統が劉備に付いたのは劉孫の盟約で荊州の大部分が
劉備に属したからだろう。客将の立場ではその流れはない
137無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 15:01:36
>>135
言いたい事は135が言ってくれたけど

仮にそんな状況で独立しようとか考えてたら曹操南下で統一魏王朝だったかもね
下手に南北朝で南が呉一国になったから守るところ多いし内紛は許されない。
138無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 19:16:36
>>135
まぁ一応聞くけど、荊州で独立してその後どうするの?
そしたら南方を除く五方面から敵がなだれ込んでくると思うけど
139無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 00:36:24
>>135
曹操に取り込まれてないっつっても実態は反乱に失敗して散り散りになって逃げただけだぜ?
孫権の所にいたら辺境に移されるか軍隊取り上げられて飼殺されるに決まってる
劉備閥の人間だけじゃ孫権には対抗できない
親劉備派の魯粛だってそういう対立関係になれば孫権につくだろう
140無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 01:02:18
劉備をなめすぎ。劉備と孫権じゃどう考えても劉備が勝つ。
141無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 01:47:45
矛を振るって張遼隊を防ぎ、張遼に目視できる距離まで迫られながら
弓馬の腕で追撃を振り切った孫権をなめんなよ
歴戦の劉備と互角と見たね。若さで孫権有利か。
142無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 11:41:58
いや、劉備には手の長さがあるぜ
143無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 14:19:42
耳の長さもな
144無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 19:41:36
足の短さなら孫権も張遼に褒められたぜ
145無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 21:10:48
孫権は多分、側近のチョウショウとかが優秀だったんだろう。
晩年は暴君じゃん。
146無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 21:16:34
確かに孫権は晩年は耄碌したが、それまでは名君と言っていい。
晩年の醜態だけで人物を評価するのはどうかな。
147無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 21:18:10
人間ってのは頂点に立ったときに本性がでるんだよ。
お目付け役がいなくなって自由になった孫権の
本性は暴君

劉備なんかは遺言まで名君。
曹操も死ぬまで名君だった。
148無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 21:40:17
孫権の本性が暴君なら、お目付け役なんて適当な時点で処刑してるだろ。
何で死ぬまで我慢するんだよ。
149無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 23:25:36
孫権は周りのスタッフが全員年上だったから常に摩擦が起こらないように気を配ってた
また凌統と甘寧のような関係や魯粛と呂蒙の意見の対立もうまくさばいてたし、譜代の重臣から朱然や陸遜みたいな子飼いへの世代交代もスムーズに行った
土着豪族の集まりだった呉がうまく機能したのは孫権の手腕だよ

曹操もややこしくなった後継問題をちゃんとさばいたり西方の反乱を鎮圧したり死ぬ前の内固めはきちんとやれてるが
それでも結局南には進出できなかった。若い頃の戦えば必ず勝つような勢いには陰りがあった
それに漢中の方策なんかも曖昧だったしな。何がしたいのかよくわからないまま結局劉備に取られた
劉備は最後は暴走そのものだし、呉との対立のような深刻な問題も遺した
その後諸葛亮と魯粛が上手くやったんだけどね

人間少なからず老ければボケるもんだよ
150無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 02:06:28
魯粛もう死んでんだろ
151無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 04:11:47
ボケると少なからず怒りっぽくなるし、八つ当たりとか、感情の制御とか色々酷くなるよね。
痴呆症の祖母が居るけど、始め本当に酷かった。
脳の機能的な問題らしいから、どうしようもないものらしい。
152無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 05:06:57
>>149
魯粛と呂蒙の意見の対立ってなんだ?
153無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 17:41:32
>>152
親劉備か反劉備かじゃない?
154無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 01:08:55
劉備が本格的に呉に客将として滞在すれば
呉の親劉備派が本格的につくからな。
155無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 01:42:23
人間によるだろ
豪族出身の魯粛だったら孫権に付くだろうし
有力どころは大体土着豪族だから劉備につくのはあまり期待できない
156無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 03:44:18
>>145
あれは暴政ではない。戦略的な弾圧

もともと孫策が陸一族弾圧したから周辺の名士と仲悪かったんだよ
でも大名士の周ユがまとめたからなんとかなってたしその死後は張ショウとか陸ソンを重用してまとめてた。
しかし名士の重用は君主権の縮小になるから、孫権は名士を弾圧して君主権を強くしようとした
これが後継者争いを巡った家臣の粛清(ex陸ソン)
結果としては自ら弱体化しただけだけどね

ちなみに蜀は諸葛亮という名士に全てを任せてこういうゴタゴタはなかった(こういう意味では劉禅は良君)
魏は司馬一族という名士がジワジワ権力を握って晋を建てた

名士を勉強するとよく分かるよ
157無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 07:29:17
有力臣下と君主with側近の相克は名士論を出すまでもない
158無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 08:24:04
陸遜死後に陸抗に謝罪した様子とか
そもそも粛清されてない豪族(全ソウとか)いるところを見れば
そんな君主権の強化とは関係なかった事件だと思うけど。

結局よくある御家騒動でしょ。
159無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 15:14:45
>>158
そりゃ根絶やしにはできないだろ
陸コウはかつて陸一族弾圧したあとに陸ソン重用したように、
名士まるめこむために謝罪したのでは?
160無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 17:08:09
孫策が陸一族叩いちゃったから
それと関係修復するために孫権は色々努力したわけで。
で、結局その後の孫呉政権では外に陸抗、内に陸凱と陸氏は相変わらず重職に有るんだよ。
君主が臣下を攻撃したら全部君主と臣下の権力争いと見るのはいかがなものかと思う。
少なくとも呉の陸氏に関しては最後まで政権と協調していたのではないだろうか。

攻撃しておいて丸め込むために謝罪って意味が分からんし。
161無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 19:57:42
>>155
蜀の例があるから孫権の配下がクーデター進めてくる可能性もある。
162無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:03:43
確かによくあるお家騒動だ。それに、人は個々の利害によって身を処するのであって、
「側近対豪族」とか「郷閥対郷閥」のように一言で表せる画一的な分断が起きることは、現実的には無いだろう。
でも、内部分裂したとき派閥の陣容を見ることによって、その政権の特色と内情を察することはできる。

というわけで検証。
・.陸遜が死に追い込まれたのは、孫和と孫覇のお家騒動で太子孫和に付いたため。
1.太子孫和派の陣容
陸遜、陸胤
朱拠
顧譚、顧悌 (以上、「呉の四姓」のうち三姓)
吾粲(太子太傅、呉郡)
会稽太守滕胤(北海国)
施績(丹陽郡、朱然の子)
丁密(会稽郡)
張休(彭城郡、張昭の子 孫登の四友)
朱公主(孫魯育、朱拠の妻)

2.魯王孫覇派の陣容、
楊竺(広陵郡)
孫弘(出身不明、中書令)
全j・全寄父子(呉郡)
歩隲(臨淮郡)
呂岱(広陵郡)
呂拠(汝南郡、呂範の子)
呉安(丹陽郡、呉景の孫)
全公主(孫魯班、全jの妻)
163無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:06:06
呉の四姓が見事に偏っているのが目立つ以外は、それほど陣容に特徴は見出せない。
孫魯班、孫魯育が割れていることからも完全に宮廷真っ二つの対立と言えるように思う。
この事変は、元々孫権が孫覇を外に出さずに宮廷に置いて太子と同等の扱いをした「迷い」に
惹起され、並立する二宮に廷臣達がそれぞれ群がったもので、始まりからして
「孫権の」「戦略的な」弾圧とは言いがたい。
ただし、抗争中、粛清されたのは孫和派の人物ばかりということから孫権の心情は孫覇に
傾いていたと察せられ、中書令の孫弘あたりはそれに乗じて意識的に強力な外官豪族の勢力を
殺ぎに掛かっていたかもしれない。
(相対的に君主権、すなわち側近の自分の権力も増大するのだから。ただし孫弘個人が
明確にそう意識していたという根拠はない)
陸朱顧家が揃って孫和に付いているのは、彼らがそもそも同郷の豪族であり、
特に陸・顧氏は元々縁戚関係を結ぶ間柄だったという事も軽視してはならないだろう。

結局、この事変は喧嘩両成敗という形で、二皇子と彼らに特に近しかった者達が処分されて
終結するため、何者かの「戦略」が存在したとしても、その意図は失敗に終わっている。
その後、歩隲を陸遜の後継の丞相にしつつ陸抗を登用し、
対立していたはずの滕胤と呂拠等もともに昇進を続け重臣となった。
群臣達の亀裂は表面上修復されたことになる。

が、孫登に続き孫和、孫覇を失い年少の孫亮を立てねばならなくなったことは
孫権死後の皇帝権の著しい弱化を招き、後の孫一族の専横やクーデター、反乱の続発、
呉国自体の弱体化へと繋がるのであったー。

てなとこか。
164無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:13:13
あ、歩隲は決着が付く前に死んでるから、丞相歩隲は完全に「孫覇派人事」か。
で、書いて思ったんだが、
孫権が「太子孫覇」の可能性に含みを持たせるのを止めて「両成敗」の形で収めることにした
直接の理由ってなんなんだろう? 
165無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:13:56
>>161
どっちにしろそんな希望的観測で劉備がクーデターを起こすとは思えない
徐州で失敗してるんだからなおさら
166無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:20:40
>>161はとりあえず「クーデター」を辞書で引き直してから出直してこよう
167無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:28:01
>>164
薦めた楊竺は死んだし、全公主は今度は孫亮に擦り寄る事も忘れていない
孫権からして初めから「孫覇しかない」ってことで企画された廃立じゃなかったんだよ
理由はともあれ、「孫和じゃアカンわ」っていうのが先にあったんだと思う
孫和の替えとして孫覇がいただけのこと
168無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:30:28
そしてそんなクーデターなんて起こしたら魏が黙ってるわけも無く
間違いなく魏が統一への特急券だな
169無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 22:57:55
>>167
もうちょっと筋道立てて言って欲しいな
何度も調べるのめんどくさい
陸胤と楊竺への拷問の件か。見落としてた
陸遜を憤死させた件の主因はこちらの陸胤からの報告なのかもしれないな。
それにしても楊竺というのはどんな官についていた人物なのだろう?
170無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 23:06:50
>>169
多分そう
陸遜は皇帝の密談をスパイしていた当事者と疑われたんだよ
あまりに廃立を諌める動きがタイミングよすぎたから
(事実、陸遜は巻き込まれたのだとしても、皇太子孫和と陸胤が犯人だったんだからその疑いは妥当なものだった)
吾粲がどうして陸遜との文通を理由に罪を問われたのか、というのも説明がつく
陸遜に廃立情報を教えた人物=皇帝をスパイしていた人物と疑われたんだ
171無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 23:47:21
ああ、でも、楊竺の処刑が陸遜の存命中なら、孫和と孫覇が廃されるまでまだ五年の時間があるんだな。
楊竺の件は決定打にはならなかった…すると、廃嫡の翌々年(252)に孫権が死んでいるのだから、
自分の寿命を考えてついに決断したとも見えるかな。
そんなに孫和が嫌だったのかなんなのか。親子不和の原因は全公主の讒言にあったとされるけど。
172無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:11:04
>>163
詳しくありがとう

>呉の四姓が見事に偏っているのが目立つ以外は、それほど陣容に特徴は見出せない。
ここがポイントでは?
江東の名士が推す孫和と孫権自らが推す孫覇の争い、と見ることができると思う。
さすがに強引に孫覇を後継者にはできなかったけど、喧嘩両成敗という形で陸ソンなどを処罰したのではないかと

年長の子vs寵愛する年下の子というお家騒動の側面ももちろんあるとは思うけど少なくとも孫権が”利用”したのは間違いないと思う

陸コウは確かに統一的な説明が難しい
陸ソンを除いたことで一応の成果として、名士の反発を抑えるために子を登用したと考えるべきかな
173無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:25:11
全jも江東の名士なんだなこれが。
しかも、一方が明らかに地元豪族に推される勢力だとしたら、
他方には対抗軸となる勢力が集まるのが自然のはずだが、
僅かに中書令の孫弘の名が見えるだけで、
重臣の子弟も内外の士人も外戚も両派に適当に分散して
特色が見出せない。
これでは君主権と豪族の対立とはみなすには弱すぎるな
174無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:29:00
しかも、陸遜ら太子派が立て続けに責められて(最後に楊竺が処断されて一応の集結を見て)から、
喧嘩両成敗が為るまでは5年の時間がある。この間二宮は並立していた。
事変の主は明らかに後継者争いと孫権の迷い。陸家や顧家らが迫害されたのは副と見做すしかない。
175無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:31:23
名士であっても呉の四性とその他には名声の上で大きな差があると思う
それからその豪族って言葉の定義というか意味がよくわからないけど、名士の事?
176無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:32:52
豪族ってのは土地と人をたくさん持ってる農民のことだね
177無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:35:12
>>175>>173
このレスは>>174

5年かかったことが、後継者争いが主であることの証拠になるのか分からない
というか主副を無理につけなくてもいいと思う
178無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:35:14
便宜的に呉の四姓と言っているが、初出は南北朝時代だったかな、確か。
陸張顧朱の四姓が孫呉政権に特段の影響力を持っていたという証左はないんだ、実は。
実際張家はほぼ張温一人だけだろう。
179無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:38:48
>>177
どちらにウェイトを置くか、孫権が置いていたかというのは非常に大事だよ。
豪族排除に重点を置きすぎると、まるで孫権が後継者争いを餌にして
政略的に陸遜を排除したかのように描かれてしまう。
太子をそんな風に使う皇帝なんてよほど的外れな猜疑心が強くなければできないよ。
180無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:41:11
>>176
なら君主と豪族の対立とは言ってないよ。

後継者争いを利用した、名士の抑圧(=君主権拡大)の試みだと思う
で、この後継者争いは儒教的理念に基づいて皇太子を推す名士+利害関係人と
孫覇を寵愛する孫権+利害関係人の対立ではないかと
181無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:41:29
あ、ごめん。呉四姓の記述は朱治伝にあったわ
182無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:43:09
>>180
全jや呂拠や呉安は名士ではなかったの?
ていうか多分楊竺も名士だ。
183無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:45:51
>>179
名士の抑圧は常々考えていた事であった

そこで自ら招いた事ではあるが、後継者争いが起きた
(しかも孫権の意中と名士の意見が対立した)

これを契機に名士を弾圧

死期を悟って決着をつけた

俺はこう考えてるけど、この一連の動きだけに限定すれば後継者争いが主なのかもね
孫権は後継者と名士への対応はどっちが上ともなく悩んでいたと推測するけど
184無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:48:43
>>183
その論でいく場合、孫権は「名士」であるか否かの判別を
「長子相続に則って孫和を推したから」で決めたわけ?

サイコロ振って罪人決めるような話だなあ
185無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:51:12
>>182
名士が両陣営にまたがってるのが気になるみたいだけど俺は呉の四性が片側にいるだけで十分だと思う
まあ特別視する証拠までは持たないけど

>>184
そんなこと言ってないけど・・
186無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:53:10
>で、この後継者争いは儒教的理念に基づいて皇太子を推す名士+利害関係人と
>孫覇を寵愛する孫権+利害関係人の対立ではないかと
言ってるじゃない
この振り分け作業を意図的に仕向けたとしたら、孫権の人物像を大幅に変更せざるを得ないな
187無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:57:02
因みに「豪族」は家柄や資力の評価だが、
「名士」や「士人」は個人の教養や評判に対するもの。
「呉の四姓」というのは普通に考えれば「呉の大豪族」を示したものだろうね。
呉が(四姓のような)豪族達に大きく左右される政権だったというのはよく言われることだけど
(どの程度左右されたかはまた別個の検討が必要だとして)
それだと「名士論」とは話がずれるな。
188無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 01:57:10
>>186
お前が前提にしていて俺が前提にしていない(あるいはその逆)があるようだ。。

数ある名士たちのうち、反対派に回ったやつを弾圧したのが酷いって言ってるの?
189無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 02:00:17
孫権が悪いことをした、なんて一言も言ってないし、思ってもいないよ?
今までの全てのレスの中で、誰かの行動を「酷い」と評価するような文脈は一つも無いはずだけど。
190無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 02:04:45
>>187
いや呉の四性は呉における名士の家4選、だと思う。
名士が家として名士を受け継ぐのは珍しくないのでは(司馬氏とか諸葛氏とか)

>>189
正確に書けば
「数ある名士たちのうち、反対派に回ったやつを弾圧したのを『サイコロ振って罪人決めるような話だなあ』って言ってるの?」
191無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 02:11:26
四姓の字がずっと違ってたな・・
チャット的に使って他の人スミマセン。もう寝ます
192無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 02:13:57
前提というか、語の理解に差があるのだろう。

「名士」というのは家柄とは関係ない。教養と品行と評判が問題になる。
豪族や重臣の子弟が名士になることは多いが、それは教育を受ける機会に恵まれるからだ。
で、
>いや呉の四性は呉における名士の家4選、だと思う。
あー… そうなの? 初めて聞いた。根拠頼む。まあ明日辺りまでに。


>正確に書けば〜
そのように孫権が明確に意識して弾圧したのなら、ね。博打だ。
自分に都合の悪い人材が必ず孫和を擁護してくれるとは限らないわけだからね。
193無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 22:12:37
劉備の戦績ってどんなもんだろう?
負け続けたみたいなイメージあるけど。
その割にはなんかいろんな所から頼りにされてる
感じはあるけど。
194無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 22:24:43
195無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 22:31:00
劉備が前線に立ち続けたってのが
人から頼りにされる理由かな?

けど人数が少ないから後ろで守るって戦法取れなかっただけじゃ
ないかな?
196無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 23:19:10
どっちでもよくね?
結果として前線にいたから信頼された、で
197無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 08:53:07
けど負けも多いし。頼りにされるほどではないと思うがね。
198無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 13:49:11
>>197
劉備は英雄というのは当時の知識人の割と共通に近い認識
199無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 14:00:05
誰の共通認識だって?
200無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 14:01:11
英雄という言葉あったかな
201無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 14:13:28
>>199
劉備ってこんなヤツテンプレでも貼るか?
劉備ってこんなヤツ

劉元起 「一門の人間の中で並みの子供ではないからだ」(先主伝)
陶謙 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)
袁紹 「劉備は度量が広く立派な信義のある人物だ。劉備が徐州を治めることは私の希望に沿ったものでもある」(先主伝注)
呂布配下諸将 「劉備はしばしば態度を変えるしてなづけるのは不可能。始末するべき」(先主伝注)
程c・郭嘉 「ずば抜けた才能を持ち人心もつかんでる。最後まで人の下にいる人物ではない。始末するにしくはない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
呂布 「この男が一番信用できんぞ」(呂布伝)
曹操 「今、天下に英雄と言えるのは君と余だ。袁紹などは問題にならん」(先主伝)
程c・郭嘉 「劉備を自由にしてはいけない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
董昭 「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち関張がその羽翼となっているので信頼してはいけない」(董昭伝)
曹操・郭嘉 「劉備は人傑であり今攻撃しないと後の災いとなろう。袁紹は機を見るに敏でなく行動を起こさないだろう」(武帝紀、郭嘉伝注)
張遼他 「北方討伐の隙を突き劉表に説いて許を襲撃するに違いない」(武帝紀、張遼伝注)
傅巽 「劉備では曹操に対抗できない。仮に対抗できるとしたらいつまでも劉jの下位にはいないだろう」(劉表伝)
程c 「劉備は英名があり関張の武は万人に相当する。孫権は彼らと協力し我らに抵抗するだろう。それはやがて分裂するだろうが、その時にはもう劉備を殺すことは出来ないであろう」(程c伝)
曹操 「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」(武帝期注)
劉巴 「劉備は英雄で受け入れれば必ず害をなすので断るべき」(劉巴伝)
黄権 「劉備は勇名を馳せており、部下として遇することは出来ず、賓客として扱えば二君を認める形になる。国境を閉鎖して入国させてはならない」(黄権伝)
劉巴 「劉備に張魯を討たせることは虎を野に放つのと同じことだ」(劉巴伝)
趙? 「用兵は稚拙で逃走にあけくれてる。一方、蜀は小国と言えど堅固な地である。併合は不可能だろう」(先主伝注)
傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。また政治・戦略に優れた諸葛亮が大臣となり、勇敢で万人を相手に出来る関張が将軍となっている。成功しないことがあろうか?」(先主伝注)
張魯 「曹操の奴隷となっても劉備の上客にはならん」(文帝紀注)
劉曄 「劉備は人傑で度量もあるが行動は遅い。今蜀を手に入れたばかりでまだ治まってないので今これに付けこんで押しつぶすべき。さもないと政の諸葛亮、武の関張らを用い要害を利用して防備し再び犯すことは不可能となろう」(劉曄伝)
曹操 「玄徳がこのような策を考えつくわけがない。誰かの入れ知恵に違いない」(法正伝)
?徳 「劉備は小物に過ぎない。わしは国家の鬼となっても、賊の将にはならん」(?徳伝)
賈? 「劉備は優れた才略を有し群臣にこれに匹敵するものがいない」(賈ク伝)
劉曄 「劉備と関羽の関係は道義では君臣だが恩愛では父子。小国といえども必ず報復の軍を起こすだろう」(劉曄伝)
曹丕 「劉備は戦争を理解していない」(文帝紀)
陳登 「傑出した雄姿を持ち王覇の才略を備えている点で劉玄徳を尊敬している」(陳矯伝)
裴潜 「中原にいれば乱を齎すことは出来るが太平を招くことは出来ない。しかし要害の地を占めれば一方面のあるじとなるだけの器量はある」(裴潜伝)
彭? 「劉備は老いぼれて話にならん」(彭?伝)


>>200
まんま英雄記とかあるだろ
202無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 18:30:37
君と余だ

って正史にもあるんだ。演義の創作だとおもっていたが。
203無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 00:40:50
曹操の目から見てほとんど互角扱いってのは凄いな
ちょっと過大評価にも見えるぐらいだ
204無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 16:04:20
劉備が陳登の悪口を言った奴をやり込めた話が好きだ
陳登は当時劉備の下から離れて曹操についていたのに
それでも悪口を許さなかった劉備はまさに仁義の人
205無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 23:35:43
曹操に認められたからって点が大きいのかね。

あの曹操が認めたほどの人物

的な噂の広まり型かな。
206無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 16:42:09
我々は劉備が何故蜀のような国を建てたのかという
疑問を解決するため、劉備の故郷である桜桑村に向かった。
「まだ華北にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に失礼だと咎められた。
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
官渡の勝利だの、銅雀台完成だの、曹操様の魏王就任だので浮かれていた
我々は改めて農村の現状を噛み締めていた。

ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子が申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。

我々はこの時初めて劉備を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、農村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は劉備の母親から貰った干し柿を手に、
打ちひしがれながら許昌へと帰路についた。
207無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 21:19:27
>>206
ちなみに劉備の実家一族は大金持ちで代々中級以上の官吏を出している大豪族だったりする
農村の貧しさとかあんまないよ
208無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 21:34:16
>>207
劉備は父親が居ないから本当に貧乏だったんだよ
209無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 21:40:54
でも劉備が曹操と敵対したあと、琢県に残ってた親戚一同はどうなったんだろ・・・
210無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 22:24:14
>>209
そのまんまじゃないか?
もし殺したら度量の低い君主にみられるから
211無名武将@お腹せっぷく:2008/12/29(月) 22:31:40
割と平気じゃね
この時代の士人は南方にぼろぼろ流出していって、蜀や呉に付くのが普通に見られた。
後漢朝廷の臣として仕えていた者同士の友誼も大っぴらに続いた。
特に名士となれば敵方でも尊敬される。
同じ宗族といっても、近親の三族くらいでなければ影響は無かっただろう。
ただ両親、特に父を亡くして以後に子が養うべき母を捨てて行くのは
不忠に勝る不孝とされた。それによって仰ぐ旗を変えて郷里に戻った人間は多くいる。
姜維はこの不孝のために非難されたが、劉備の母がいつまで生きていたかはわからない。
曹操がタク県辺りを制圧したとき、劉備は40代半ばだしね。
212無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 10:02:10
>>204
自分の利益だけ考えて国や皆のために自分が何をするか考えてない奴は駄目だって話だったな
劉備はどうか知らないが陳登は本当に素行が悪かったそうだけど
二人ともそういう責任や義務についてはしっかりした考えを持っていたんだな
213無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 12:37:15
先主少孤,與母販履織席為業
小さい頃に父を失って、母といっしょに草履を売るのを家業にしてた


って思いっきり本文に書いてあるのに
なんでそんなにも「劉備は貧乏じゃないよ」なんて話しが出てくるのか分からん。
214無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 13:27:40
>>213
劉備は貧しかった事と農村の貧しさは相関関係にない
誰も劉備は貧しくなかったとは言ってない
215無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 13:43:54
孔明が出てこなかったら司馬懿も表舞台に出こなかった
あると思います!
216無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 13:55:56
>>215
それはない
司馬懿は諸葛亮との関係抜きに曹丕の取り巻きとして出世してるし
217無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 16:20:16
そもそも孔明のせいで余計に戦乱が長続きしたんだよな。
孔明が余計な事しなければ曹操と劉備和解してたかもしれないし。
218無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 22:54:56
>>214
なにをいってんだ?

親族でも基本的には援助ないから自分たちの稼ぎで生活だから

かなりの貧乏だよ
219無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 22:58:36
>>218はとりあえず落ち着いて、
「劉備は貧乏じゃないよ」と言っているレス番を指定してから
論を再構築してくれ

まあ、206のテンプレにマジ突っ込みで議論してる時点でおかしいんだがw
220無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 23:01:52
「士大夫や豪族としては貧乏」であって、実は履作りも小作人、使用人にやらせていた説
221無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 23:38:39
それは有り得るな。商業や工業をするのは士人にとって卑しいこととされていたから、
家業として土地を耕すばかりではなく「履物や織席売り」にまで手を出した、というのは
劉備の若き日の苦境として史書に残すに足るものだろう。

一方で、豪族に身分保障なんてものは一切ないわけだから、
落ちる場合はとことんまで落ちてやがて庶民と変わりなくなる。
劉備がその段階のどの辺にいたのかはおそらくもはや解らないのだろうな。
222無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 23:54:57
>>221
父祖が官職に就いている事から見ても結構な豪族だね
また、劉備とその母は貧乏でもその叔父は金持ちで遊学費用まで出してくれているし
一族全体で見ればかなりの金持ちという事になる
223無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 01:07:38
豪族としては貧乏なので商業とかに手と出していたってのは面白い。
関羽や張飛との関係もそこら辺の商売から繋がったとも考えられる。
関羽は塩の密売人って話もあるし。
劉備が旗揚げする時に援助した商人も実は商売仲間とか。
224無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 01:12:48
劉備と関羽は商人やっててもしっくり来るけど張飛は・・・
225無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 07:44:00
関羽が塩の密売というのは相当後に作られた伝説だろう
同じく、というわけではないが、張飛は演義ではかなりの豪族だね
226無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 09:25:22
でも張飛って人材登用なんかも、結構な人物をひっぱって来たあたり見ると実はかなり優秀だったのか?とも思うが
演義イメージの方が俺は好きだけど。
227無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 09:35:34
>>220
>與母販履織席為業
228無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 09:37:54
演義張飛は可愛い
229無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 10:52:00
地方豪族はそこまで極端に富んではいなかったって話も聞くが。
230無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 10:54:25
>>227
母と劉備が共同経営者ってことだろ
231無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 11:05:53
共同経営で履作りってなんすか。
履作りってそんなに儲かるんすか。使用人を雇えるだけの儲けが出るんすか。
232無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 11:08:47
「販」だから、履を作ってはいなくて流通だけやってた可能性もある
233無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 11:09:04
いや、小作人くらいは雇えるだろうが
自分自身も筵作りしてるだろう。全部小作人に任せるってんならもっとまともな商いが有るだろうし。
234無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 11:13:47
>>232
販履織席

履を販売し、席(筵?)を織るのを家業としていた、だ。
言葉の調子のためにこう整えてるけど、結局は筵や草履を作って売るってことを家業にしてたってことでしょう。
商人のような商いをしていたわけではない。
235無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 12:24:20
劉備が貧しくないって主張してる人はちょっと酷いな
正史の原文に逆らってまで俺三国志を作り上げて何が楽しいんだろう
ちなみに叔父の援助で留学出来たって話も本来ならそこまで面倒見る筋はないって話だからね
「何で余所の子にお金出すんですか」というもっともな指摘を受けた劉元起の答が>>201なわけだから
236無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 13:28:51
>>235
劉備は貧しくないなんて言ってるやついるか?
237無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 14:21:01
筵作りは小作人にやらせてたとか
母親と劉備が共同経営者とか
「豪族としては」貧乏とか
238無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 14:28:00
実家は富豪とか先祖は官吏とか強調されるとなあ

>>207とか>>220とか>>221前半部分とか>>222->>223とか
239無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 14:35:51
>>236
誰も「劉備は貧しくない」って言ってないならそれで良いじゃん。
劉備は貧乏だったってのが皆の共通認識。問題無し。揉める余地無し。
240無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 15:21:56
>>238
俺のレスに限って言うと
>>207は親族は金持ちだったという事なだけで「劉備が貧乏ではない」と言ってるわけではない
劉備の貧乏は親族でも住所の問題でもなく稼ぎ頭の父親がいないからなのだから
「農村の貧乏とか関係ないよ」となる
>>222>>221が「豪族でもピンキリ」というので「劉備の一族」はどんな経済状態かというのを述べたまでだし
そのレスの中では「劉備と母親は貧乏」ときっちり述べてる

お前の読解力おかしいだろ…
241無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 23:19:34
まっ貧乏だったて事だろうな劉備は

親戚が金持ちでも稼ぎ頭の親父が居ないし
ましてや親族が援助していたのは、学費だけのようだから
生活面では苦労してただろうな
242無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 23:45:45
豪族の家計は家ごとに独立しているからね。
叔父従兄弟の関係でも援助してくれるとは限らない

(代々郡県の官吏だった)働き手がいなくなって困窮するということは、
持っていた土地は大したことがなかったということだろう。
と言って、演義、というか横山版みたいに自分で筵背負って一人徒歩で売り歩いていたか、
というとちょっと断定しがたい、という話だね。
243無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 09:44:42
劉備もチョウヒも金持ちのボンボンだろうに。
244黄天当立歳在甲子天下 【豚】 :2009/01/01(木) 12:20:44
孔明がいなくても。政治家の変わりいただろうしな
245無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 12:27:04
>>244
代わりって誰?
陳グンは一時期配下にしてるが、結局曹操の下へ行ってるしな。
246無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 16:17:06
劉備の出自より孔明叩きを早くやりたいって意思表示だろ
深く考えて言ってるわけが無い
247黄天当立歳在甲子天下 【大吉】 :2009/01/01(木) 17:19:11
馬良とかそこそこの人材いたはずだけど
248無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 18:30:35
金出してもらって遊学してるくらいだから親族に限って言えばそれなりの金持ち
家系図から考えても不自然ではない

ただ後漢の制度だと代が進むほど所得が細分化されるから没落していく傾向にある
曹操の実家の夏侯氏も貧乏貴族だし、曹家も曹操じいちゃんが出世するまで豚の一頭で揉めるくらい貧乏だった
だから劉備の親族が金持ちでも劉備自身は貧乏だったかもしれない
もっとも食うモノにも困るほどの貧乏だったとも言い切れんがね

まあ曹操が本当に夏侯嬰や曹参の末裔だったかはわからんし、劉備も本当に後続の末裔だったかはわからんがね…
249無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 19:08:51
曹操については祖父は確かに曹参の末裔だが養子になった父に対してはその素性は分からないと口を濁している
また孫堅については「蓋」孫子の子孫だと断定を避けた言い方になっている
陳寿がそういう要素を廃して劉氏の末裔だと断言している以上は
反証がない以上普通に劉備は中山靖王の子孫と扱っていいだろうな
250無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 19:23:01
劉備も「けだし」じゃなかったっけ?
スマン10年前くらいの記憶に頼って言ってるが
251無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 19:25:17
>>248
夏侯氏は貧乏貴族じゃないでしょ
高祖の功臣の子孫というだけでは貴族とはいわないし、本当に夏侯嬰の子孫かどうかも疑問が残る
252無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 19:35:50
>>247
そこそこ程度の人材じゃ、政治家としての諸葛亮の代わりにはならないよ。
253 【大吉】 【1321円】 :2009/01/01(木) 19:43:06
劉備は孔明がいなきゃ、何となく曹操や孫権に追い詰められて交州あたりでおっ死んでただろう。
254黄天当立歳在甲子天下 【吉】 :2009/01/01(木) 20:35:19
孔明の政治能力ってのは俺は疑いがあると思うんだが

まあ孔明が政治能力高かろうが別に分担でやれば孔明の
代わりは出来ると思うよ。孔明はなんでも一人でやろうとしたから
失敗したわけで。
255無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 20:40:29
北伐をしつつも国力を大きく疲弊させることなく、国民に不満を抱かせず
外来の荊州人士と土着の益州人士を上手くコントロールして両者に不満を抱かせず
厳格ながらも公平な方策で内にあたって、多くの人に不満を抱かせず

と、政治力統治力に関してはたいしたものかと。
内政に関しては明確な失敗は無い。
256無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 20:47:55
>>254
>孔明の政治能力ってのは俺は疑いがあると思うんだが

具体的には?
どういう根拠があって疑ってるんだ?
257無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 20:48:28
>>250
検索してみ
蓋し、とはついてない
258黄天当立歳在甲子天下 【大吉】 :2009/01/01(木) 20:54:10
>>256
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1225719827/

まあチョイ前にこのスレを立てて議論したんだけど
まあこのスレも立てたのは俺なんだけど

孔明って
「あれだけ戦争して国力保持したのはすごい」
みたいな評価だけど結局プラスマイナス0でたいした事してねえだろ

って事。
259無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 20:58:57
政治能力って言ってますやん、君。
軍事的な指揮力についてはともかく、内政についてはケチつけた人居なかったろ、そのスレ。
260黄天当立歳在甲子天下 【中吉】 :2009/01/01(木) 21:00:29
>>259
いや俺はそのスレで最初から最後まで内政面にもケチつけてたよ。
261無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:03:53
そのスレの結論なら「こりゃ人口無能相手にした方がマシだな」じゃなかったか?
262無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:09:33
>>258
あんたがここの>>1で、カタカナの人だってのはみんな解ってるよ。

>孔明って
>「あれだけ戦争して国力保持したのはすごい」
>みたいな評価だけど結局プラスマイナス0でたいした事してねえだろ

諸葛亮の評価のポイントはそこだけではないが。


>いや俺はそのスレで最初から最後まで内政面にもケチつけてたよ。

諸葛亮の内政面にケチつけてたのなんてあんただけ。
263無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:12:09
結論を勝手に捻じ曲げるなよw
「マイナス状態をプラスにして外征できるまでにしたのがすごい」
だ。少なくとも例の1さん以外が出した結論はね
264無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:17:20
孔明なぞ所詮演技上の作り話の英雄、天才軍師というなら児玉源太郎ぐらいじゃないと

・台湾総督時代後藤新平を抜擢し成功、そのおかげで未だに台湾は親日と成功。

・日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。

・当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という当時世界一の超大国であり、日本側にとって圧倒的不利な状況であったが、それを覆して日本を勝利に導いた功績は高く評価されている。

・日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。兒玉の能力を語るエピソードである。

265無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:24:01
>>264
1とマンツーマンで話し合ってていいよ
話のレベルが合いそうだから
266黄天当立歳在甲子天下 【末吉】 :2009/01/01(木) 21:32:41
まあ孔明無能スレはまた立てるつもり。
ネット三国志知識人の妄想を打ち砕かなくてはいけないと思ってるし
いいスレタイも思いついたし。

俺がこのスレ立てたのは劉備も元々能力相当高いんだぞ
みたいな事が言いたかったからなんだよね。ネット三国志知識人は
孔明が現れて劉備が大きくなったみたいな妄言を吐くけど

劉備の内政能力もかなりあってその劉備の内政を学んだ奴らが
蜀を支えたってのも忘れてないかってこと。
267無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:36:49
児玉が偉大だとしても日露戦争は三国志における南安・天水・安定奪取みたいなもんだろ。
それで魏に革命が起これば天才軍師なのか?
268無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:37:34
>>265
世界陸戦史上最大の会戦

日露戦争・奉天決戦

戦力
日本側 約250,000人  
ロシア側 約370,000人

損害
日本側 死者15,892人、負傷者59,612人
ロシア側 死者40,000人、負傷者49,000人、捕虜40,000人

孔明さんはいったい何かしましたっけ?
269無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:38:13
元日だし無礼講って事で教えて欲しいんだが、
キャラでやってんの?
マジでやってんの?
270無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:41:26
>>266
君のいう「ネット三国志知識人」って連中は普通に劉備のことも有能だと思ってる人が多いと思うが。

比較的無能扱いされがちなのは姜維とか孫権だからそいつらの擁護してくれよ。
271無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:43:54
>>266
いらんから立てるな。

>俺がこのスレ立てたのは劉備も元々能力相当高いんだぞ
>みたいな事が言いたかったからなんだよね。ネット三国志知識人は
>孔明が現れて劉備が大きくなったみたいな妄言を吐くけど

>劉備の内政能力もかなりあってその劉備の内政を学んだ奴らが
>蜀を支えたってのも忘れてないかってこと。

俺は劉備の能力が低いなんて思ってないし、言ったこともないが、
内政能力に関しては明らかに諸葛亮の方が上。
劉備は、諸葛亮を得るまで満足に領土を保持したことがない。
徐州時代には曹操、呂布、袁術等の敵が周りにいたとも言えるが、
それは赤壁前後の劉備の状況も大差がない。
その劉備が荊州・益州を支配でき、益州を保てたのは諸葛亮の存在が大きい。
無論、その功が全て諸葛亮にあるという気はないが、功績が大きいのは事実だ。
272無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:44:08
児玉は戦略、戦術、戦闘指揮・謀略・補給と全て成功に導いてるのに
孔明さんは戦略・戦術・戦闘指揮・謀略とほとんど失敗してる

せいぜい4次征伐で戦術的成功あげたくらい
273無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:46:40
>>270
劉備が諸葛亮を得て云々っていうのは
いわゆる名士層の支持を受けられるようになったから諸葛亮の存在が大きいと言ってるんだ。
劉備が無能だったとか言ってない。

諸葛亮を得るまえの劉備が名士層の支持を受けれてないのは出自の問題。
確固たる地盤を持った豪族じゃない劉備じゃ、名士を優遇しようとしてもできなかったという話。
公孫サンなんかと違って劉備自身は名士に接近してる。地盤を捨ててまで劉備に従った名士が麋竺くらいしか居ないというだけ。
そこに劉備の能力的な問題は存在しない。
274無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:48:34
>>270
>>1はこんな事言う奴だから………。


39 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/09/12(金) 23:42:44
ケ艾って何回もキョウイ倒してるけどどれだけの名将なんだろう?
けど一回だかショカツセンにケ艾は負けてるよね?

ショカツセン>ケ艾>キョウイ

って事なんかな?
キョウイが内政して軍事をショカツセンに任せるとかにした方が良かったんかな。


756 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/28(金) 22:52:51
ケ艾がどれだけ強かったのかが良くわからないのがな
ケ艾ってたしかショカツセンに負けてるんだよね。

まあコレは無能な奴に勝たせてキョウイの失脚でも狙ったんだろうけど。
275無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:54:46
>>267
孔明さんは結局奪取できてませんが?
276黄天当立歳在甲子天下 【ぴょん吉】 :2009/01/01(木) 21:56:15
>>270
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1221052168/

このスレで俺は徹底的にキョウイを擁護してるけどね。
俺は孔明とキョウイとではキョウイの方が有能だったのだろうと思っている。
277無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 21:56:19
さすがにスレチだから日本史板でやれ
278無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 22:00:04
>>275
革命が起きれば取ってるよ
279無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 22:18:41
>>268
俺は孔明さんの能力ではなく、
歴史上の人物の能力や業績を評価する論評する(しているつもりなのだろう)ために、
「演義の影響」だの「作り話のイメージ」だのや全く異なる時代・状況の人物の事跡を
引き合いに出さねば何も語れないあんたの低能力を問題視しているだけ。
280無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 03:21:59
田中芳樹だったかな。
「劉備は任侠の人であって演技のような聖人君主じゃないと思う。
 劉備が戦争に勝ったのはホウトウと法正がいた間だけ。
 諸葛亮は一国の宰相であって軍師じゃない」
みたいなこと言ってて、妙に納得した覚えがある。

演技の扱いがヨイショしすぎてるだけで、内政面ではやっぱ劉備の組織に
必要な人の一人だったと思うんだけど。
281無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 04:26:22
>>280
演義過剰だから抑え目にしよう史観のせいでやっぱり史実孔明は不当な評価になるんだけどね
実際問題、諸葛亮は前線指揮官としては卓抜した手腕の持ち主ということさえ否定傾向にある
282無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 11:27:13
>>271
内政ってのは領土を保持する事だけなのか?

だったら守りやすい土地にいる奴は大政治家になっちゃうな。
283無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 14:36:15
領土を保持するってのは軍事的に防衛することだけだと(ry
284無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 16:10:12
でも人もいなく生産力にも乏しい蜀で何度も北伐を行った諸葛亮の判断は政治家としてどーなのよ?
勝てるわけがないのに国力を浪費しただけだろう
国を保持できていた方が不思議、恐らく相当な重税なり労働なりを民に強いていたんではないかな
285無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 21:19:21
益州は生産力豊かな地域です。
対する魏の有力生産地は遥か遠く冀州。
286無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 21:27:05
盆地や山地ばっかだろ
まともなのは成都近郊くらいだ
287無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 21:31:03
>>285
所詮益州だよ
南半分使えないし蜀はほとんどそこしかないじゃん
288無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 21:44:20
その辺の話はここの姉妹スレ(笑)で散々やった
孔明は無能なんじゃなかろうか?
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1225719827/
キャッシュ
ttp://209.85.175.132/search?q=cache:LsXBuuYM1FQJ:ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1225719827/211-311
200番台全般
289無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 22:32:21
魏:70万戸
呉:50万戸
蜀:30万戸

と、戸数だけ見ればそこそこ数有るよ。
中原が疲弊しまくったせいだろうけど。
290無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 22:41:07
魏の方が兵力、国力があったとしても、蜀が攻める涼州、関中は荒廃して自立的な豪族や異民族の勢力が幅を利かせていた地
魏は、当地の有力者にとっては自分たちを武力で制圧した圧制者であって、極めて反抗的
曹操が半ば強引に口実作って平定したという恨みもあるのではないだろうか
異民族にとっては曹操は望まぬ移住と労働を強いる暴君だし
少なくとも彼らにとって蜀は解放者に見えるので、涼州、関中戦線は蜀側にも勝ち目はあった
とはいえ楽勝っていうものでもないとは思うが
291無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 23:03:14
>>282
>内政ってのは領土を保持する事だけなのか?

基本は領土を保持する事。
「領土を保持する事「だけ」」ではないけどな。
292無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 00:41:46
>>290
曹操は確かに征服者だが、別に蜀が解放者なんてことないよ
あいつらはずっと「漢民族」とケンカしてきたんだから

もちろん協力は見込めるだろうが、絶大な効果とまでは期待できない
そもそもそんなおっかない圧政者の一族の国に反抗したらどうなるかわからんってのもあるんだし
293無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 00:59:42
>>292
俺だって絶大な効果だとは思っちゃいないさ
ただ、こういう要素があったから、魏の方が国力があるからといって単純に蜀の北伐がまるで勝ち目のない戦いだったわけじゃあない、ということだ

それに、異民族のことを言っているなら、「漢」には服従したり反乱したりしてきたが、曹操→魏には征服され圧制を受けた恨みしかない
となれば、どっちがマシか、という意味でどちらに付くかということだ

>そもそもそんなおっかない圧政者の一族の国に反抗したらどうなるかわからんってのもあるんだし
だからこそ、実際に蜀が北伐でやってきた時に協力するんだよ
普段は魏に仕方なく従ってる
294無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 03:07:37
>>284
一時の平安を貪るよりなんたらかんたら

それにそれは政治的決断というより国是だからな
現代の首相の責任問題的な発想で責めるのは歴史学的ではないのでは?
295無名武将@お腹せっぷく:2009/01/06(火) 15:21:40
>>280
ホウトウw
296無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 00:21:32
そもそも孔明に会う前から劉備は曹操に恐れられるぐらいの
人物だったわけで孔明は必要ないでしょ。

孔明以上の曹操に恐れられてるわけだよ・
297無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 06:22:25
>>284
「先帝の遺志を守った忠臣」という賛成意見もあれば「両国の平安を乱した悪逆者」という批判もあるよ。

上手くは説明出来んが、個人的には前者に賛成だな。
話し合いによって国境を無くせるならそれが望ましいだろうが、実際にはそんな事は無理だから武力を使うわけで。
298無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 09:02:58
>>175
君主=県知事
名士=大学教授
豪族=地元大会社社長

だいたいこんな感じ。
299無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 22:55:00
>>297
武力を使った割りに成功してないのが問題なんじゃないか。
しかも本当に勝つ気があったのかが謎なんだよね孔明は。
300無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 23:28:19
攻勢防御説か?
戦略的にそれを多く選択したのはむしろ姜維の方だね
諸葛亮は間違いなく勝ちにいってる
ただ魏将に対して勝ちきる能力を持つ者が蜀漢軍にいなかっただけ
301無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 01:45:07
>>300
勝ちに行ってるって言うよりは呉の魏攻めのための陽動のような気もするんだけど
302無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 02:06:51
大軍起こしてまで呉の補佐に回らなければならない理由も利益も無いよ。
蜀も呉も互いの行動を自分の利益に使うために機会を合わせてただけだ。
303無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 04:46:36
恐らく無理だろうがやらなきゃやられるから、座して死を待つよりは万が一の可能性に賭けたんだろうぜ。大日本帝国みたいに。
まあ国力比は3:7だから、大日本帝国よりは遥かに勝機のある戦いだったろうが。
304無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 04:49:14
国力は劣っていても自分の才覚を以てすれば五分に戦えるぐらいは思ってたかもな。
305無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 05:49:47
>>284
蜀って養蚕で潤ってる土地じゃないのか?
306無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 10:35:56
「万が一」ってほどの賭けでもない。
307無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 13:38:11
>>305
たとえなんぼ潤ってる土地だとしても所詮猫の額みたいな広さしかないんだって
308無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 19:00:30
荊州も揚州も南半分は山地だよ。
で、晋代の戸籍によると、人為的な人口集中が行われただろう司隷が戸数40万と飛びぬけ、
元の冀益揚荊州部の四箇所がが30万前後とそれに続く。
他は10万とか5万という有様。
で、巴蜀の地は秦代の大規模灌漑以降、米と野菜、木材の山地であり、鉄と塩も取れる。
後進の中原に比べていわば先進産業地帯だった。

>249 :無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 07:45:48
>巴蜀廣漢はもとは南夷で、秦が併せ郡と為した。土地は肥え,江水沃野があり、
>山林、竹木、菜、果実の富がある。(略)民は稲魚を食い、凶年の憂えなく、習俗は愁苦なく、
>しかして輕易で淫楽にふけり、柔弱で偏狭である。
>
>故の秦地(雍益)は天下三分の一、人は十分の三に過ぎないが、しかしその富の量を図るに十分の六である。

漢代に大分追いつかれただろうけどね。
四川盆地は現在に至るまで米の名産地だ。
つまり、「人もいなく」「生産力にも乏しい」というのは完全に事実無根と言うわけだ。
309無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 20:18:34
まぁ、要は結果だろ。
勝てば諸葛亮は正しかった、勝てなかった以上無駄な国力消費と言われても
仕方ないな。
310無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 21:04:53
>>308
じゃあお前は半分が山地や起伏の激しい盆地の益州と漢中近郊しか支配力の及ばない蜀が
中原と河北をほぼ掌握している魏と同じくらいの生産力と人口があると思ってるわけね、なるほど。
交易で栄えたであろう荊州や揚州ならまだわかるが中央と半ば隔絶された土地関係にある益州でもそこまでの経済力があるわけか、なるほどなるほど。

じゃあなんで中国の政権は長い間中原以北で争って益州を積極的に取ろうとしなかったんだろうね?
そしてなんでそんなおいしいところを掌握してた諸葛亮は失敗したんだろうね??
311無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 21:18:30
>>310
益州は後漢・三国時代屈指の大州で鉱物資源も豊富といっても
九の州を支配する魏の方が豊かだということでしょう
312無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 21:21:22
つーかそれぐらい生産力ある国土じゃなきゃ劉邦は項羽倒せねーだろ
単に蜀漢の連中が無能揃いだっただけだろw
313無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:01:37
>>310
何を勝手に拡大解釈しているんだ?
魏と蜀の国力比は既に>>289で出ている。それ以上でもそれ以下でもないのに、
それを無視して国土の狭さやら生産力の低さやらををやたら強調するレスがあるから反論したまでだよ。
因みに益州は一州としては豊かでも、東・北と隔絶しており、守りには極めて有利だが、
攻めに転じるには外界と兵站・連絡が繋がらず、極めて不利な地形だ。
中原に大国が陣取る情勢では、ここだけを取っても「中原の覇者」にはなれない。
史上益州が単独では係争地にならず、諸葛亮の三分の計が三方に通じる荊州を必須とした、これが所以だ。

また、この文脈で「経済力」というからには、商業的経済力を言うのだろうが、
だいたいイメージされる交易や流通経済は、あくまで漢代の統一期のものだ。
分裂期ではおのずから異なる経済が回転する。
漢代では一州に匹敵すると言われた商業地域の南陽は、この時代の動乱で見る影も無くなってしまった。
南方交易を
こと西方戦線に於いては、服従しない羌族らを向こうに回して西方交易が国力に寄与するほど機能していたとは考えがたい。
こうして動乱期では広域経済が減退し、地域内での経済や農業の比率が高くなる。
そんな動乱の100年を経て定着したのが三国時代や晋代の戸籍人口であり、
これは当時の総合的な「経済力」や安定度をかなり反映していると見てよいだろう。

さらに、魏の主要生産地域の一つは冀州であり、これは兵站として蜀や呉の戦線に殆ど機能しなかっただろう。
蜀は総国力に劣っているとはいえ、魏の涼・雍・荊北・司隷程度の戦力を相手にすれば良く、
最大の障害の曹叡親征で五万とされる司隷の即応軍を外交によって分散、または戦略によって長駆を強いて
減衰させることによって、勝機を見出そうとした。
かくして雍州戦線に於いて、司馬懿曰く「前軍のみで敵と当たりうるなら良いが、当たり能わざるなら前後に分断される」
と洛陽からの全軍を率いて隴西に駆け諸葛亮と対峙するという戦力の拮抗が出現する。
>>284の「勝てるわけがないのに」というのも、単純な戦力的には当てはまらなかったことがわかる。
314無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:18:20
実際いまの中国だと
呉の部分が一番繁栄してるんでしょ?上海とかあるし。
315無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:21:31
南朝文化が花開くのはその名の通り南北朝時代。
山越を吸収し80年の安定期を維持した孫呉はその繁栄の礎を築いたと言えるだろう。
316無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:21:35
でもそれは宋代になってからのこと
317無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:25:00
>>313
>服従しない羌族らを向こうに回して
ああ、なるほど
君は蜀が所謂蛮族と手を組みまくってた事を知らんのか
318無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:27:59
>>317
反論はそこだけ?

蜀は羌族と手を組むことが多かった。
そこからも魏は西方を安定させられず、西方交易を資力に変えることは困難だっただろうと解る。
と言ったのだけど。
319無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:55:33
>>318
言ってないだろ

「西方交易が機能してたとは思えない」とは言ってるがその前段で益州と蜀について語ってるし
この中段では国名出してない
中段の西方交易〜の主語不在で文脈から読み取ろうとすると前段で語られた蜀についての話としか読めないよ?

下段で魏の生産力の中心が中原河北にあって蜀呉の戦線には役立たないと言ってるけど
これって、中段の西方交易とは全く関係ないよね

「魏が」西方交易困難だった、なんて読み取れる文章はどこにもないとしか言いようがないな
320無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:57:23
そもそも「西方交易」が魏蜀どっちかの経済力に大きく貢献した、またはかなり期待されていたっていう根拠はあるの?
イメージだけで語ってない?
321無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:04:02
>>319-320
そいつは御免ね。
じゃあ西方に於いては「交易で栄えたであろう荊州や揚州」(荊州は怪しいけど)と違い、
雍州近辺の「交易」は魏にも蜀にも国益に利するところが無かっただろう、
と言い直すよ。

俺としては、雍州近辺の「経済力」が対蜀戦線に於いて魏に利するところが少なかった、
と言いたいだけだから。
322無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:09:25
>>321
あんた一人を攻撃したんじゃないぞ
どうも三戦なんかだと、「西方交易」を目当てに蜀が北伐したんじゃないかとか、「西方交易」が引き合いに出されてるけど、それって何か根拠があるのか常々不思議だったんだよ
どこかに「西方交易」でものすごく儲けたとか大勢力が築かれたとか、そういう根拠も無く「涼州→西域→交易→儲かる」みたいな連想だけで無批判に妄想語ってないか、っていう疑問の提示だ
323無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:13:58
>>322
そうか。
実は俺もその類の「西方交易目的説」を疑わしいと思うから>>313で触れたんだ。
魏蜀戦線に限ってはそういう「交易」は戦況を左右していないだろうとね。
隴西羌族自体は、戦力化できれば強力だと思うけど。

でも本題からずれてるから戻そう。
324無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:44:39
>>313
>>さらに、魏の主要生産地域の一つは冀州であり
交易で思ったんだけどさ
少なくとも荊北・司隷とかは領内の通行の中心でもあるし人や物資のめぐりもよかったんじゃないの?
今の中国で南のほうが栄えてるのはもともと中原のあたりとの通商が盛んになって景気が良くなったからだし
襄陽まで抑えてるなら経済封鎖されてるわけじゃないんだし、雍州あたりまでなら結構な力があるのでは?
確かに魏の中央から遠く離れた関中の西側あたりでなら五分以上という理屈はわかるが、逆にいうならいわゆる鶏肋の様な場所を切り取ったからってどれほどの有利だって言うんだい?
現に史実で涼州を取ったけど結局長安までたどり着けなかったろう

その理論だとなんとかなりそうなのは本当に大勢に影響しないような田舎だけで、旨い所は勝ち目がない、ということだと思うんだけど
325無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:46:48
>>320
西方交易自体は漢武帝が敦煌まで漢の版図に組み入れる程頑張った理由でもあるから儲かる事は確実だよ
インド行ったら蜀の物品が高値で取引されててインド人もビックリという話もある
錦が中国以西で作られるようになるのは数百年後で、それ以前の中国の重要な外貨(っていうか金)の獲得方法の一つだった
そんな貴重な絹を大量生産出来る蜀が貿易しないわけがないというのは容易に誰しも思いつくことだね

ちなみに周代以前から絹の貿易は行われてて三国志の頃にはもう貿易ルート確立後千数百年経過してる
そんな状況だから、むしろちょっと中国が戦乱に陥ったからって貿易ルートが止まるわきゃないんだ
それどころか戦乱だからこそ軍資金を求めて活発な貿易をしたいと思うのが人のサガだろ?
326無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:54:56
>>324
>物資のめぐりもよかった
「領内の通行」をちゃんと確保しコントロール出来ていて、かつ大規模に輸送できる手段があるなら、そうだろうね
でもあの時代だとそれが困難

>>325
だからそれを間接的でもいいから裏付ける同時代の史料は?

あと金は古代の「西方交易」で中国から盛大に流出したというのが宮崎市定なんかの説で、全く逆だよ
春秋戦国から前漢にかけてあれだけ盛大に使われた金が消えるのはそのせいだと言われてるんだ
327無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:01:00
>>324
言っている意味が全体的によく判らないな。もうちょっと具体的に頼む。

因みに魏領「荊北」の南陽郡が栄えた一因は、漢水と司隷を繋ぐ物流の中継地として機能したから。
その漢水漕運が乱世で働かなくなり、後々まで下流を呉に抑えられてしまったので
「見る影もない有様」になってしまった。後漢末動乱の原因となった全国的な農耕不振の影響も強かったのだろう。
司隷の方は京師だけあって、商業的にも活発で人が集まっただろう。
しかしその経済の余波が雍州まで届いたとは言い難い。
それらのことは人口分布や対蜀戦線の魏軍の駐屯位置を見ることで推察できるし、
そう言っているよ。
328無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:04:45
>>326
宮崎市定の説だと「金を流出した後で今度は絹による外国の金の獲得を試みて成功した」という趣旨のことがアジア史論には書いてあるよ
後漢末に金が失われて国が乱れたとすれば三国時代に金を取り戻すという動きになるのは当然ではないかな

交易ルートは三国時代以後の時代にもあるし以前にもあった
ある程度は維持されたままだと考えてよかろう
それとも三国時代「だけ」断絶してたと考えるのが自然かね?

そして蜀の絹の生産量の豊富さは正史の絹に関する記述を調べるとえらいことになってる
魏では配下の恩賞だったり、倭人へ朝貢の返礼する時には多くても数十匹、酷い時には三匹だけ
対して劉備が蜀を奪った時に配下に配った絹は正史本文に残ってるだけでも四千匹
他に記されてない連中にも絹の大盤振る舞いは行われてるだろうから最低でも四千ってことだね
また蜀滅亡時の記録では絹の在庫が二十万匹

蜀が絹で外貨獲得したいと願うのは普通の事だと思うんだがな
329無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:08:21
魏では現物(絹とか)で税を納めるようにと言い出すくらい現物経済時代だから、金に換える必要無くね?
330無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:11:25
>>328
馬などならともかく、金を取り返すというなら西域側に確固とした経済地域が
必要になりそうだけど、そういうのはあったのかな?
ともあれそこまでしっかりした仮説があるなら考えてみる価値はありそうな話だね
331無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:12:33
>>329
それは銅がなかったからと言ってたぞ
332無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:15:27
>>329
曹丕の時代は関税下げたりして貿易と外貨獲得に必死なんだよ
半分開き直って「じゃあいいよ、貨幣なんかいらねーよ!」と貨幣の発行やめちゃったりもした
結局また後で魏は貨幣作り始めたけどな

現物を認めたことは苦肉の策でしかないね
インフレに対する姑息的処置といったところ
333無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:17:23
司隷は董卓や李カクのせいで壊滅的に荒れているから三国時代初期は生産力は相当低かったと思う
曹操の徐州虐殺で徐州の生産力も相当低下してるだろう
また青州も黄巾賊が滅茶苦茶流行して戸籍人口が凄い少なかった
三国時代初期の中国北部は凄い生産力が低下してて、だから呉蜀同盟が魏と互角に戦えたんだろう
334無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:17:45
>>332
じゃあ、328の説に基づけば涼州方面を支配していた魏は当然西域との交易で外貨獲得を目指したと思うんだが、そういう実態とか成果とかってあったの?
335無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:19:54
>>330
ローマ ┬ペルシア─インド─中国
エジプト┘

ってのが古代の貿易の大きな拠点で中国以西にもちゃんと確固たる経済地域はある
特に最寄のインド近辺は中国に比して経済的・文化的先進地域だから貿易する意味はある
336無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:23:49
>>334
実績…魏の領内から呉蜀の銅銭ザックザク
337無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:24:15
なんか話が食い違ってるな

「魏や蜀が交易を目的(の一つ)として、西方へ進出した」
と、
「魏や蜀が現に西方交易を行っていた」
は、混同しては駄目だぞ。
後者はまず無い。そこまでの交易路を維持する力は魏にも蜀にも無い。
論点は、前者の戦略的意図によって魏蜀の隴西攻防などが行われていたのか、だろう。
338無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:26:02
>>336
なるほど
西域貿易じゃなくて南方との貿易をしたということか

これが「売るものが無くて西域に相手にされなかった」のか、「リスクに対して割りに合わないから西域貿易が盛んじゃなかった」からなのか
339無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:27:57
>>337
後者がまず無いなら、前者はますます無いんじゃないのか?
自分より強大な強国でも維持できない交易を目的に進出ってどんな馬鹿だ
340無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:31:20
>>339
しかし、隴西での「軍事的プレゼンス」では蜀は魏に決して負けていないからね。
姜維は兵站を持たずに涼州まで駆け回り、郭淮はそれを直接には阻止できなかった。
その実力と>>328の経済力を考えれば、魏より悪条件ということは無いだろう。
341無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:32:11
>>337
ある程度状況証拠になるが
>>328で説明したように少なくとも蜀には金になる輸出物があり
交易ルートは(主導が誰かは不明だが)残っていたと思われる
蜀からしてみれば交易路の玄関口になる西北方面は取りたいし
軍事戦略上の拠点としても必要になる

Jominianというこの板のコテは孔明死後の蜀はさり気なく戸籍外の人口に支配力を浸潤させて
姜維の時代には涼州の城郭以外をほぼ実効支配しているという考察をしていたが
その説を採用するならば、貿易も可能だったという事にはなりそうだ
これは推測の上に推測を重ねてるからあんま意味はない話だけどもな
342無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:37:21
>>341
どちらにしても、交易を実現するには魏蜀共に敵の機動軍を大破して隴西から完全に叩き出すのが
第一条件だろうけど
となると、まずは現実の勝利者の魏晋のその後の西域情勢を調べるのが先だな
343無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:54:33
>>342
交易自体は御用商人のような人らが行うであろうから敵対勢力の打破は必要とはいい難いのでは?
何時の時代も商人を迫害なんか出来ないよ
無論、敵対勢力を締め出せていれば大々的に交易出来るけどさ
344無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:00:51
>>343
その商人を略奪されたら終わりじゃない。
商人の迫害が不利益なんてのは、自国の利益が循環するところで行動してくれる場合だよ。
西方から自国を素通りして敵国に入る商人を黙って見送る国は無い。
周辺の治安安定が交易の必須要綱。
345無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:03:10
>>327
要はさ、諸葛亮が戦ってたのは魏から見て中央の影響力の薄い所だろう?
だから局地的な見地に限って言えば勝ち目があるといいたいんだろ?

で、問題は諸葛亮の目的だよ。
当然中原の進出、ひいては魏の打倒ということになるじゃんか。それが国の理念でもあるし
涼州あたりなら勝ち目はある。事実一回取った。でもそれで長安を含む首都圏を陥す事が出来る?
よしんば長安をとれたとしても、魏から関中地方を維持するのが大変なように、蜀から長安やその近郊を維持するのも難しいだろう。それで本当に勝ち目があったの?
「当面の相手には勝てるかもしれない」じゃ、戦争として勝算があるとは言えないじゃん。北伐を繰り返すたびに魏も蜀の防備を気にしだすんだしさ
どうしても無理な戦に思えてならない。そういう意味ではやはり「勝てるわけがない」戦じゃないか?
「攻めに転じるには外界と兵站・連絡が繋がらず、極めて不利な地形だ」とは誰が言ったか知らないが

「目の前の取れそうなところを切り取る」ためだけに5回も大規模な出兵をしたんならそれこそバカじゃん
きっと国家事業として必要なスコアが認められたからこそ敢行した戦争なんだろうけど、
その目の前の相手だけで伸るか反るかの勝負をするかのような話じゃとても勝てる企画だとは思えないんだよ
346無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:11:48
>>344
それは貿易商じゃなくて国内の商人の話では?
キャラバン組んで貿易するような連中は一個の軍隊みたいな装備と人数だったりすることもしばしばだよ
あと素通りしようとしまいとそれを襲ったが最後、以後貿易商がルート変更して自分が不利益被るよ
貿易商こそ一度噂が広がったら蜘蛛の子散らすように逃げていくし国内の商人も嫌がる

だから三国時代でも敵国の商人襲ったなんて話でないでしょ
春秋戦国から楚漢に至る三国時代以前だってそんな話は悪逆君主にしかないよ
347無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:15:53
通商ルートをむざむざ失うようなことはしないよね
348無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:17:56
>>346
ただ、治安の悪いところには商人も寄り付かんだろうからどっちにしろ治安維持は必須だ
349無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:22:26
>>346
いや…なんか別の国の別の時代の話が混ざって無いか?
キャラバンの傭兵が、数千から一万の姜維や郭淮の軍を防げるの?
国軍を以ってしても隴西にそれだけの兵力を動かすのが一代事業だった
難しい時代に、商人らがどうやって兵站を維持するわけ?

敵地で行われていた市を奇襲で蹴散らした将はいるね。
陸遜。
城の前で行われていた完全に非武装の市だったから裴松之に酷く言われているけど、
現地徴発が基本のこの時代で、敵の財貨を奪うこと自体は別に悪行ではないし、
特に記されることでもないと思うよ。
350無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:30:28
>>345
>長安を含む首都圏を陥す事が出来る?
できるよ。当面の戦場で『目の前の相手』に勝てばね。
長安以西に駐屯する魏の兵力は蜀に比べれば弱小で、
諸葛亮の北伐のたびに洛陽から主力の大軍を仰がねばならなかった。
一戦でその主力を大破すれば、洛陽以西は裸になる。
その一戦を有利に進めるための蜀の「外交」であり「戦略」だ。
つまり、呉との連携によって魏主力を東西に分散させたの二次、五次北伐であり、
隴西に戦場を置くことで渭水に沿って下る姿勢を見せつつ魏主力の誘引を図っただろうのが
一次と四次だ。
結果的に、その決定的な一勝をついに与えなかったのが司馬懿、郭淮、陳泰、ケ艾らの
魏将達だが、彼らが決して楽な戦いをしていなかったことはそれぞれの紀や伝を読めば解る。
351無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:46:36
>>349
キャラバンという単語が誤解を招いたようだから訂正しとく
貿易商の集団ということにしておこう

そもそも商人が武装してるなんてのは「常識」だぞ
そりゃ国が本気出した数万の軍勢を防ぐことはできなくても
ある程度の軍隊からは自衛できる規模と装備は持ってないと道中の盗賊に狙われるっての

>特に記されることでもないと思うよ。
商人は別に敵じゃないぞ?
一国の御用商人みたいな豪商が他国でも商売する時は賄賂とか贈るだろ、常識的に考えて
352無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 01:57:52
>>349
ああ、そうそうすっかり言い忘れてたけど魏は曹丕が重い関税を禁止して積極的な貿易推進政策を取ってるから
商人が素通りしようと何しようとぶっ殺して品物奪おうとは思ってないし
そもそも「関税」がある時点で素通りなんか出来るわけがねーな
街に立ち寄ったら税金取れるのに態々殺して以降の立ち寄りを減らす理由もない
353無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 02:04:57
>>352
お前の書き込みはさっきからまったく根拠が無いな。
いいか、関税があろうが無かろうが素通りはできるんだよ。
関税さえしっかり払えばそれ以上のことをお上は言えないからな。
こんなの古今東西問わず人類としての常識だぞ?
はっきり言って君は考察するだけの知識も常識も備えていない。
議論するのに値しない人間だ。
354無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 02:07:21
>>353
素通りじゃなくてお金取れてるじゃない
どうして関税を払って素通りが出来るんだい?

既にその商人から物は受け取れてるわけだよ
355無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 02:10:24
>>354
…ああ、君が常識を持ち合わせていないということがよくわかったよ。
これ以上君の相手をするのは時間の無駄だな。
学習塾ごっこがしたいなら他所でやってくれ。
ここは考察スレであって落書スレじゃない。
356無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 02:15:48
>>355
人が街に立ち寄るだけで意味はあるのに何でそこまで俺が罵倒されるかが本当に不可解だな
関税払って素通り、商業活動はしない

それでも途中の城郭に宿代、飯代、馬の餌代他諸々の消耗品の購入で金が落ちるし全然問題ないでしょ
357無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 09:05:56
実際曹操と組んでたら天下取れてたわけだしな。

曹操 劉備で進んでいけばいずれ曹操派と劉備派
に分かれて人気のアル劉備に従う事になるし。
358無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 09:29:39
いくら曹操の目が節穴でもどこかで劉備を粛正するだろ、流石に
どうも劉備の方が長生きしそうだし息子の代になったら危ない
359無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 10:15:28
>>351
商人が武装しているのは「常識」だが、時代や地域の経済の発展度合でその規模は全く変わる。
数千に及ぶ傭兵を従えて国から国を移動できるのは、それだけの長距離を渡って元が取れる
物量と高く売れる品物を運ぶからだ。
最低でも治安が良く購買力の高い拠点が旅の両端になければならない。
逆に国が乱れて購買力が低下し盗賊などが跋扈して旅人がそれに抵抗できず
流通が激減するのが「乱世」だ。(実例>>327)
商人が傭兵の大軍を組織し数百数千キロを移動して原価の数十倍に高騰した交易品を
購入する資金と理由が魏や蜀にあったのか? それは具体的に何という品目?

それを無視してキャラバンとか言う語を使うからおかしなことになる。
三国時代の時代情勢を元に経済力や購買力を想定しなおしてから、論を再構築してくれ。
360無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 12:17:42
>>359
>>327の南陽は例にならんでしょ
ここは三国時代に散々各勢力に収奪され、流民も流れ込んだ土地だから見る影もなくなったという面の方が強い
商業的側面で荒廃したとは言いにくいね

第一三国時代は各地の遺跡から他国の通貨が頻繁に発掘されるほど商業的には行き来があったわけで
呉に下流を押さえられたから物流が止まったという論は成立せんでしょ
361無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 15:42:28
>>350
ムリだと思うけどねえ、補給持たないよ
第一補給が持たないから楔の一勝が取れなかったんでしょ?
なら同じ理由で苦戦するさ。そもそも魏の中央からの連絡が難しいからこその有意性だろ?長安自体余所との連絡が取りにくいのに
漢中から連絡することを考えたら魏より難儀かもしれないよ。

それに一戦でその主力を大破すればなんて簡単にいうがたった一戦で敵の主力を大破するような芸当が本当にできるか?そこが既にムリな注文だよ
それじゃ諸葛亮が避けた魏延の強硬策と同じ考え方だろ。不可能じゃないが現実味があるとは言えない。そしてそんな一縷の望みにかけるようなプロジェクトを何度も敢行したのなら諸葛亮の気がしれないよ
本当にそういう考えだったとしたらね
362無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 15:48:24
>>355>>192と同じ奴だろ
相手を馬鹿にした感じとプライドの高さ

知識を振りかざす相手を探して定期的にチャット討論挑んでるようにしか見えない。
363無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 16:09:05
>>361
>>それに一戦でその主力を大破すればなんて簡単にいうがたった一戦で敵の主力を大破するような芸当が本当にできるか?
つーかもう、そこに尽きるよな

そりゃそんなことが言うほど簡単に出来るなら誰だって苦労はしないさ
そう簡単にいかないから困ってるわけで
逆にそれだけの厳しい条件ををクリアしないと勝てない勝負ならそれはもう勝算があるとは言わない
それじゃあ結局「諸葛亮は最初から勝ち目の薄い戦争をしかけて国を酷使した宰相」ということになってしまう
その上で諸葛亮がその条件をクリアできるなら、それはもう演義の天才軍師孔明の世界だな、そこまで期待すんのは無理だろう
364無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 20:01:43
>>363
一応姜維はそれやってんだよね
魏軍五万を一回の会戦で討ち取って軍を全滅させた

ただ国力差で一瞬で回復されちゃったが
365無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 21:19:57
>>364
王経の事か?
あれは陳泰の援軍に負けたからダメでしょ
逆にいえば目の前の敵に大勝しても援軍を送ってくるくらい余裕があったってことだから

大体それだと上の論は破綻するぞ
上の話だと相手が余力ないくらいの完璧な勝利って事じゃないの?
366無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 21:28:47
だから一応、なんだよねぇ

五万を全滅させても全く問題のない相手を1万ダメになっただけで数年行動不能に陥る蜀で倒すんだから
20万を5万で叩き潰すような大博打になっちゃう
367無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 21:36:34
>>365
負けたというより勝てずに逃げ出したという感じではないでしょうか
この頃の姜維は冴えていた
368無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 21:49:37
>>364
五万が「全滅」したら国力差とかそういう問題じゃなく致命打だろ
恐らく実態は「潰走」
王経の軍の死者が数万人もいたみたいな記述も見られるが普通に考えて誇張ではないかと

曹操の所でも袁紹軍8万を生き埋めにしたみたいなのもあるがあれもないだろう。
369無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 22:20:00
>>368
あれ?全戦力の3割くらいが死傷や壊走で失われたら全滅ってもんじゃないかね?
370無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 22:27:50
>>362
外れw
>>355の相手が>192で俺
371無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 22:37:11
>>363
簡単に出来るなんて俺は一言も言ってないはずだが。
「勝てるわけがない」と断じられるほど一方的な戦況ではなかった、
諸葛亮らは苦心の末に戦場では五分に近い状況を生み出すことができていた。
と反論してるだけ。

一戦して大勝も、できる。互いに主力同士の決戦を望めばね。
だが、おそらくはそんな彼我の戦略状況を魏将達は熟知していたのだろう、
司馬懿、郭淮、陳泰は20年以上に渡って諸葛亮・姜維との決戦を避け続けた。
北伐で初めての主将同士の会戦が起きるのは、段谷。
皮肉にも、それは蜀の大敗となり、滅亡へのターニングポイントとなってしまったが。
372無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 22:54:48
>>371
局地戦のある限られたケースだけ取っていくら五分だ五分だって騒いでもしょうがないじゃん
上の方の話なんだろうが経済の話するくらいなんだから国同士の戦いだろう、普通に考えて
373無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:00:11
経済力をざっくりと戸数だと考えるなら
蜀+呉>魏くらいになるからそこまで無茶でもない。
374無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:09:17
>>372
一戦して大勝すれば、洛陽以西の魏兵力を大きくすり減らすことが出来る。
東方には呉がいて魏は山東の軍を全て関中に回すことは出来ない。
兵糧は現地調達が基本であり、蜀漢が関中に拠点を確保すれば、そこを中心に補給が回転するため、
少なくとも五丈原で屯田したり隴西に兵糧を送りつつ現地に実る麦を当てにするよりはかなり楽になる。
関中の敵から守るには洛陽は近すぎるため、魏の遷都の可能性が高まり、人心を大きく揺るがすことが出来る。

当然簡単なことじゃない。基礎国力で大きく上回る国を相手にするのだから、
占領地行政を非常に上手くやり遂げ、洛陽の残存軍や山東、冀州から増援に来る軍を
何度か撃退せねばならないだろう。蜀は負ければ後が無い。
だが、北伐は夢物語というほど、魏蜀の国力と戦力に絶望的な差はなかったし、
魏は楽な戦いをしていたわけではない、というだけ。
だから雍州を守りきった魏将達が凄いんだ。
375無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:19:54
>>371
まあ、わざわざ危険を冒してまで大規模な会戦しなくても持久戦なら補給持たずに退くことになるって俺らでもわかるんだから
そりゃ当時の人間だってそれくらいわかるだろうな。そもそも魏にしたら防衛だけで蜀を滅ぼすことが目的じゃないから必要性自体あまりないし

そうなると問題なのは、諸葛亮も弱点がみきられてることはわかっていたはずなのに何故に北伐を繰り返したのか?同じパターンで退いてるのに
数うちゃ当たる的発想で何度もやってたならそれこそ「勝てるわけがない」
376無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:22:57
>>374
ずっと思ってたんだがそもそもその大敗の危険があるほどの大規模な一戦に魏がわざわざ危険を冒してまで付き合う必要性なくね?
史実でまさに相手にしてもらえなかったろ
377無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:27:10
>>374
関中だけじゃ長安を維持する生産力を得るのは難しいんじゃね?魏に対抗する兵力を置いてたならなおさらでしょ
だから運河建設みたいな事業がされてたわけだし
378無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:27:33
>>375
>蜀を滅ぼすことが目的じゃない
それは違うでしょ
いずれは滅ぼさないといけない敵だよ、魏にとっても
蜀が魏を滅ぼすことを国是というなら、魏も呉と蜀を滅ぼすことが国是なんだから
だから、優位だと思えば大規模な会戦で一気に蜀を叩き潰そうと思う将がいても不思議ではない
それと、蜀から見るとなるべく関中をつついて騒がせておくことにも意味がある
政情不安は異民族や民の反乱を誘発するから(関羽がいた時の南陽や最初の北伐の涼州のように)
そして現に諸葛亮は魏より一郡を奪い大将を殺している
寿命が無かったという決定的な問題を除けばそんなに無謀・無策な侵攻ではない
379無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:35:55
そりゃどうしようもない。
歴史上の諸葛亮は「応変の軍略が不得手」であり、それを補う将も現れなかったのだから。
戦場までは五分に持ち込めてもそこから勝てなかった。それは間違いなく事実だよ。

しかし、諸葛亮は出兵のたびに自軍の不利を補うための外交と戦略を打ち、
兵站を改良している。五度の北伐に同じパターンは一つも無いよ。
対する魏軍、特に四次五次での司馬懿は、先手を取っている諸葛亮に自由を与えないために
間違いなく諸葛亮以上の危険を冒して敵の行動を封じている。まさに名将だ。
郭淮も陳泰もそう。ただ普通に戦場にやって来て空いてるところで篭城して適当にあしらったわけではない。
その過程で幾つか下手を打っていたら、または蜀漢に魏よりもうまくやれる将が存在していたら、
長安くらいはどうなっていたかわからないよ。

と、俺は一連の魏蜀戦役を評価している。
380無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 23:37:04
あ、>>379は、>>375>>376あてね
381無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:00:11
長文多いお・・
382無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:40:22
>>378
北伐に対する対応はあくまで防衛だという話だ
だからなにも危険を冒してまで蜀軍を潰しにかかる必要はないし、そんな準備もないだろう

それに>>一郡を奪い大将を殺している
って、何度も国家を立ち上げての一大プロジェクトを敢行したのにたったそれだけの戦果で元が取れるのかよ?
およそ7年間、5回も国を挙げての戦役を起こしてるのに

ついでに取ったのは武都と陰平の2郡じゃないの?
383無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:54:18
魏はある程度守り切れば撃退できる、というのは凡人でもわかる。
が、それがわかる凡人がそこを守って守り切れるとは限らない。
陳泰が引用したように、守るのでも「兵には撃たざる所が有り、地には守らざる所がある」。
それを見極めるのは難しく、それに30年間概ね成功し続けてきたからこそ魏は雍州を維持できたわけだ。
384無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 01:30:08
>>377
関中のある渭水盆地は、蜀と同じく秦によって開拓された中華有数の農業地帯。
その穀物生産力と防備の高さのために長安は前漢の首都に選ばれた。
運河を建設して食料を運んだのは、前漢の最盛期に当初の想像を越えて都市人口が膨れ上がってしまったから。
三国時代にはもうそんな都市人口はない。

ただ、400年以上の開拓によって中原と同じく農地が疲弊していたのも間違いなさそう。
仮に諸葛亮が長安をとっても、当時の長安近郊だけでは北伐軍の大軍を長期維持するのはおそらく無理。
(現に魏が大規模な常備軍を置けなかったのだから)
相当速やかな隴西・隴東の兵站地化の必要があっただろう。
385無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 01:34:39
>>382
諸葛亮はその5回で終わらせるつもりじゃなかったからな
俺はたとえ一郡一将であれ戦果を挙げ進展を見せていることを示し、そのプロジェクトが今後も有望であることを示したんだ
諸葛亮が死ななければ、もっと進展したのかもしれない、ということさ

もちろん諸葛亮が死んで頓挫したので、結果論的には元は取れなかったけどな
ただ、だからといって当時も無理な計画だったわけじゃなかったということ
386370かつ192:2009/01/10(土) 01:47:00
>>362
あ、違う。どうやら俺は>>355の相手はしてないみたいだ
昨日の深夜の交易の件で俺がレスしたのは>>349まで。
詐称になってしまうのでウザイが訂正しておく。
四、五人は入り乱れてるな、この二日間の流れ。
387無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 01:47:22
>>384
魏が関中に大規模な常備軍を置けなかったのは、農地の疲弊ではなく単純なマンパワー不足では?
司馬孚の伝に「農丁入れて耕せば兵糧できる」って進言があるしね
388無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 01:55:07
>>387
かなあ?
長安から中原の青徐州に至るまで、曹操が支配してから百年の安定期があるはずなのに、
冀州に比べて人口がさっぱり回復していないのは、戦乱や人口離散のような短期現象ではなく、
長期的根源的な問題があったからではないかと俺は考えているんだけど。
実際、漢代には不作と再灌漑を繰り返している。ただ三国時代にはどうだったかの
論文などはまだ読んでないんだ。

司馬懿司馬孚の献策で西方の兵站事情は徐々に向上していっているわけだから、
まるきりだめになったわけではないとは思うけど。
389無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 01:59:35
>>388
1:人口の離散は戸籍を離脱して豪族の支配下になり、豪族が更に強大化するという長期的問題
ちょっと戦争が減った程度で治まる話ではない
2:曹操がまともな統治を放棄していた青州、曹操が荒らした徐州、軍閥の楽園で曹操が平定した後も反抗的だった関中
このあたりは曹操が支配して以降も「安定期」ではない

人口が回復しないのも仕方ないよ
390無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 02:06:38
>>389
関中はわかるが、魏王朝が成立して以後、晋に至るまでも青徐は不安定だったの?
冀州に豪族問題は存在しなかったのだろうか?
徐州で曹操が虐殺できたのは西部の数城だけ。
せいぜい一万程度の兵で撤退がてらに殺せる数は高が知れてる。
民衆も武装していないわけではない。
いくら殺したとしてもその土地に住む有利があって50年も時間があれば人は戻るはずだが、
青エン徐豫の四州の回復は大きく立ち遅れた。
「戦乱」では説明が付かないと思うよ。
391無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 02:23:37
>>388
長安近辺は董卓没後辺りに匈奴に人攫いされたりしてたからねぇ
人口離散したまま帰って来られないでしょ
李カク時代には長安内部でドンパチやって色々ぶっ壊れたしなぁ
392無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 02:26:01
>>390
青州刺史はなぜか後の方の時代でも石ホウのような武人がやっている
それだけ元から安定していないということだし、曹操が投げていたので復興そのものが遅れている
あと徐州は殺した人数が問題なんじゃなくて、そういう行為によって曹氏の支配が嫌われて土地を捨てて逃げたり戸籍離脱者が魏の戸籍に入りたがらなかったと考えられる
豫州は屯田の大経営地なので、回復しなかったということは無い
戸籍人口が増えない他の事情があったんだろう

393無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 07:29:11
>>392
しなかったということは無い、と言っても現に回復して無いしなあ
エン豫州にも青徐州にも共通の原因があると見た方が良いだろうね
394無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 08:05:54
曹操の苛政に求心力がなくその後の曹氏もまたそうだったということじゃないか
司馬氏の政治はその反動か割りと緩かったし
395無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 09:11:07
>>392
豫州が回復遅かったのは屯田もさることながら袁氏の故地というところもありそうだ

今の報復予算案のようなもんで豫州を回復させまいとしてたとかな
396無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 11:21:08
曹操陰険だな〜
397無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 12:15:03
ただ陰険ってわけでもないんだけどな
豪族って地元にちゃんと根を生やして一族、親戚他諸々を合わせると数千数万の労働力になってしまうような奴らだから
下手に回復させちゃうと復活する恐れがある
398無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 19:46:55
>>395
エン州が復興しない理由はなんだろう
さらに冀州で河南と同じことが起きていないのはなぜなのかな?
冀州を取った時の曹操が戸籍に驚嘆していたことを考えると、
黄河の北と南では207年頃に既に付いていた格差が100年継続したことになる。
冀州は後の世までその治世が偲ばれた袁紹の故地だった。
袁紹の政治の前後にかなりの分裂と戦乱があったにも関わらず、
曹操はわざわざ北方のこの地に魏を置き本拠地として力を蓄えることができた。
中原に対するその優位性はどこから来たのだろう?
399無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 20:04:45
>>398
黄巾賊乱の中心地はエン豫南陽、あと後々まで後を引いたのが青、豫

黄巾の爪あとは大きいと思うよ
400無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 20:08:58
ああ、あと袁紹は冀州に間借りしてた程度だね、上手く統治はしてたけど
袁氏は豫州に代々住んでいたわけだから冀州と豫州では同じ統治下だった経歴があったとしても
その継続性が全く違う

さらに冀州は元々後漢朝廷が鮮卑に対する前線である幽州のための生産拠点として整備しており高いマンパワーがあった
袁紹が初っ端からここに逃げ込んだのも、拠点として選んだのもこの高い生産力故だと考えられるね
兎角人口が多いんだよ
401無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 23:05:56
後漢代の州区分は辺境部を除いては人口割の色が強い
冀州と中原諸州の格差は二倍未満
晋代ではこれが二〜五倍に開いた
402無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 08:08:22
劉備っていろんなところに助っ人行ってるけど
そこでなにか戦果とか挙げてるんだろうか。

コウサンソン エンショウ  リュウヒョウ

と全部、負けちゃってるし。
403無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 09:26:11
>>402
曹操の下にいた時は袁術討伐に加わった。
袁紹の時は豫州で曹操のノド元を脅かした。
荊州で夏侯惇を破った。
劉表死後は劉表の遺志を継いで荊州から曹操を撃退した。
404無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 16:09:28
むしろ助っ人(客将)程度の軍事力しか持って無い時期だから負けたと言えるな
405無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 15:54:00
>>402
とりあえずいることに意味がある
撹乱や牽制になるし
406無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 23:51:10
>>403
袁紹の時は豫州で曹操のノド元を脅かした。
これってそれほど戦果あげてないでしょ。
エンショウまけちゃってぐずぐずになったし

荊州で夏侯惇を破った。
劉表死後は劉表の遺志を継いで荊州から曹操を撃退した。

これもリュウヒョウ死後は劉備は逃げて敗走してるからな。
407無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 00:09:13
その時期の劉備は事実戦績が悪いが、
その中で荊州では曹操軍相手に勝ち・負け・勝ちってのは恐ろしいな
408無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 00:42:07
>>406
本国の方が降伏したのに曹操に勝ってたら怪物だよ?
あんな孤立状態から曹操にガチで的かけられて逃げ延びただけでも優れた能力の証だ
409無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 01:42:03
ていうか実際曹操には反乱起こした直後に木っ端微塵にされたりしてるが、逆にいえば曹操本人が出てこなきゃ負けないんだよな
相手が悪かったとしか言いようがない
410無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 03:15:04
雑魚は瞬殺してるからなあ
曹操もオチオチ部活に任してられん
411無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 08:31:41
曹操はなんで対劉備はあそこまで本気なんだろうな。
412無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 13:22:17
劉備が好きだったから、そしてそんな劉備にちょっと勝ってる自分が誇らしかったから
413無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 14:12:40
劉備が好きだったってのはわりとあるかもな。客将にしてはかなりの厚遇ぶりだし
本当に劉備に危機感を感じていたんなら最初転がり込んだ時に殺してたはずだし
裏切られて危機感が増したのかムカついたのかは知らんけど元々気に入ってたってのは結構あると思う
414無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 14:34:22
意外と語られていないが、劉備は霊帝崩御時には洛陽にいて、曹操の帰郷とともに沛に移動して、曹操の募兵に応じてる
多分この時の関係もあるんだろう
415無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 14:47:14
曹操って自分とちょっとでも交友のあった人間には甘いからな。それで裏切られたりする
張バクとか…

実際曹操って劉備より全然お人よしなんじゃないか?
416無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 16:55:40
確かにお人好し度合いなら曹操の方が上かもね。
まあ、というより良く言えば感情豊か、悪く言えば戦略に感情を差し挟み過ぎるんだな。
417無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 18:12:04
長男殺した張シュクを厚遇してるし先祖を中傷した陳琳も許してるしお人好し過ぎだろ。
有り得ん。
418無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 18:50:30
>>414
英雄紀の記述は信憑性が微妙
著名人同士をやたらくっ付けたがってるように見える
面白い話が多いけどね

曹操は裏切った旧友を後でとっ捕まえてもついほだされて許しそうになるし、
実際許しちゃったのもいるし、袁紹の廟の前で哭しちゃうし。
英雄や天才の類型の一つだね。
口数少なく感情を表に出さないと言われた劉備と対照的だ。
419無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 19:13:11
>>415
劉備は『俺は曹操と逆のことをやる』と言ってるけど、
その劉備も曹操と同じで、根源は『才能が大好き』だからなぁ。

劉備は、とりあえず相手が悪すぎた。
で、朝廷近くに置くと曹操よりも手軽な御輿になりえた。

劉備が曹操に下れないのも、曹操が劉備を危険視するのも、お手軽な『劉性』と言うのがなぁ・・・
420無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 19:47:48
>>408>>411
関羽『互角の条件ならば兄者の方が強うございます』
劉備『その仮定は無意味だね。勝つために有利な条件を整えるのが
戦略で、戦略抜きに戦術を論じるなど・・・』
どこぞの歴史研究家を夢見る第13艦隊司令官みたいだなぁ。

孔明が要らない劉備って
文若が要らない曹操
公謹が要らない孫策みたいなもんだよねぇ
421無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 20:47:10
そういえば曹操の下に劉備がいた時に曹操は
劉備を遠術退治にやってるけど遠術はドレくらいだったんだろう
凡愚扱いされる事多いけどエンショウと凌ぎを削ったり
皇帝になったり結構すごい奴何じゃないかと思うんだけど。
422無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 20:54:35
>>421
名門袁家の本家嫡流だっけ?

・・・でも、孫策を飼い殺そうとしたり・・・
423無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:03:37
鎬を削った時期はすごく短い
後は孫策の上前ハネて暮らしてる内トチ狂って即位
424無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:37:30
曹操がかわいく思えてきたぞ
425無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:47:19
袁術は豊かな南陽を支配してたというのもあるが
公孫賛と結んで袁紹にそなえたり黒山を味方につけたりなかなかのやり手
孫堅を使った荊州攻略も一歩手前までいったし、豫州に上がってきたときも曹操の留守を狙ったり結構考えて行動してる
ただのんびり物資を現地調達してる間に曹操に急襲されたりと現場の判断がイマイチ弱い
もっとも曹操はこの時陳留からさらに200q離れた甄城にいたから、そのハイスピードは想定外だったんだろうが
426無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:49:38
劉備=毛利元徳
曹操=山内容堂
孫権=島津久光
427無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:50:23
>>424
曹操は一度死刑が決まったら絶対に覆すことはなかったがいざ執行するときは必ず泣き叫んだという…
428無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:53:52
>>424
料理と裁縫が得意で客人を直接もてなすのが好きだったとか
429無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 21:59:51
蒼天航路でも曹操は豚の丸焼きの造り方研究してた
とかあったな。
430無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:05:02
実際に食に関する著書とかも遺したらしい
431無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:26:25
コウメイが居なかったら演義が盛り上がらねーだろだから要るんだよ。

コウメイが曹操のとこに行っても項羽の配下にイタコろのカンシンになるだけだろ

文若がエンショウの所にいたままでも盛り上がらないだろ

有名な奴は空気読んでんだよ

ここで議論してる香具師もスゴいけどね三戦板はオカシイ香具師しかいないと思ってたら違ってた
432無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:31:48
なんかこのスレ見てると曹操よりかつて助けられた呂布を見殺しにした劉備のがよっぽど悪人な気がしてきた
433無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:37:49
>>427
いや、それは曹操は残酷野郎ってエピソードじゃなかったか。
常に他人のあら探しをしていて、ちょっとした違反でも見つけたら処刑した。
いざ処刑するときは表向きは嘆き悲しんだが、一度殺すと決めた人間を許すことは無かった。
って感じの。
434無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:40:34
>>432
油断のならない大耳野郎ですから。
435無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:42:35
>>432
劉備が信用ならないのは同意だけど呂布に関しては
最初に劉備を裏切ったのは呂布ですから
436無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:43:26
劉備はリョフのためを思ってあえてそういう事を曹操に言ってあげたんだよ。
リョフの晩節を汚さないためにね。
437無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:46:41
>>433
でもこういうエピソードって基本的に曹操を悪くいう解釈をされてるものも多いじゃん
例えば裁縫が得意で自分の服を修繕したりやすっぽい革の冠をかぶってたのも普通に考えたら倹約家だけど
「やんごとなき身分の人間と会うのにみずぼらしい恰好をしてた失礼なヤツ」とかさ
だからそういう解釈ってたいてい穿ったもんなんじゃないかなあ、と思うよ
438無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:48:40
>>435
それはそれでいいけど
結構根に持つ奴だな
439無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:51:02
>>433
『綸言、汗の如し』って言ってなぁ・・・そりゃ、一度決めた判決を覆すのは。

殺した後で『なぁにぃ〜・・・やっちまったなぁ』
『男は黙って』
『斬首』
『男は黙って』
『斬首』

『・・・泣いてもつながら無いよぅ』
440無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:52:20
>>438
そりゃゲームとは違うからな。1ゲーム終わったらリセットとはいかないよ

劉備の場合、徐州牧を名乗った頃から一貫して袁紹派に属しており、
呂布・袁術駆逐後の曹操と袁紹の完全な決裂を見越して動いていたと
深読みすることも出来そうだ
441無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:52:36
>>439
なんか最後の一行がホラーっぽい
442無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:55:46
>>438
他に行き場が無いところを縁もないのに助けてやったあげく裏切ったんじゃ根に持つのが普通
呂布が劉備を助けたときとは全然状況が違う
443無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:56:31
>>440
帝を擁した曹操のお膝元=宮廷内闘争の渦中だからなぁ。

・・・劉備ほど担ぐに丁度いい『劉氏印』御輿は無いんだから、そりゃ、劉備としても劉ヨウのように人との付き合いを絶つか、義兄弟と逃げるしか無いでしょ。
444無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:23:46
>>442
呂布と劉備が組んだと聞いて、一番青ざめたのは曹操だったんだろうけどね。
・・・そもそも、呂布の裏切りも曹操の策という・・・
445無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:34:12
>>432
それは曹操に呂布を懐に入れるなって進言した件だろ?
進言自体は妥当かつ大正解じゃんw
第一曹操は劉備の進言を退けることだって出来たのにしてないんだが…
その論調だと曹操も劉備と同等の悪人ってことになるな
446無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:35:19
>>445
まあ、曹操も劉備も同等の悪人というのが順当な評価だと思うよ
447無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:46:36
>>444
いや、当時曹操にとって一番の問題は袁術。
だからどうにかして徐州を袁術に転ばせないように手を打たなければならなかった
とは言えるけど、その中身が呂布か劉備か両方かというのはあまり大問題ではないと思うよ。
ただ、劉備はかなり曹操派(或いは献帝派か袁紹派か)に傾いていたのに対して、
徐州の中枢を握った呂布は、それ故に内部の曹操派と袁術派の抗争に悩まされた。
結局袁術に付く証として劉備を駆逐するが、曹操本隊の遠征に随分あっさり敗れた
要因の一つはこの内部分裂と呂布の逡巡だろう。
448無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:47:02
劉備にも黒い面があるのは周知のことだが
呂布に対する仕打ちは根拠として微妙だと思う。
449無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 00:22:18
一番黒いのは計画的な蜀侵攻だろう
あとはだいたいどこの群雄もやってる程度のことかな
450無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 00:29:18
>>449
本来は劉表の後釜を狙うべきだったのになぁ。そして益州へと・・・
・・・それをした場合、まぁ、劉備が天寿を真っ当できなかった可能性もあるが
451無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 02:23:31
>>445
呂布に助けられたのが劉備の受けた恩と考えたとしても、
曹操は呂布に何の恩も受けてないだろ。それどころか一回空き巣同然にエン州取られて追い込まれたくらいだ
だから一度は裏切ってももと部下としてなじみのある陳宮は助けようとしたわけで

もっとも劉備が呂布に恨みを抱くのはある意味当然で、それよりも曹操を裏切ったほうが道理的にありえないけどな
452無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 02:30:37
>>451
一度助けてもらったのに恨みを根に持って呂布を見殺しにした劉備と
裏切られたにもかかわらず過去の縁を思って陳宮に情をかけた曹操か
実際曹操は陳宮の家族を保護したらしいし
謀反人の家族を保護するなんて普通ないよ
>>450
降伏でグラグラしてた時に劉備一派だけ荊州で粘っても曹操には勝てないだろうからあの判断は正解
民を置いてけぼりにしてやっと逃げ切ったくらいだから
453無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 02:36:41
>>452
人の話聞かない人みたいだなあ
助ける義理もないのに見殺しにしたって表現はやめれ
454無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 02:49:45
>>453
別に劉備が呂布を助けなかったのが悪いと言ってるわけじゃないよ
ただ曹操が陳宮を助けようとして、遺族のアフターケアまでしたことを考えれば自然にそういう見方になるじゃん
455無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 02:53:32
>>453
確かに義理はないが
くらべて見れば単純に曹操と劉備の人物の差としてでるな
「同等」というのは正しくない
善悪論ではなくね

まあ義理も人情もないような乱世ですので
456無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:00:46
>>454>>455
曹操にとって陳宮と劉備にとっての呂布、全然別の存在だ
人物の差なんて簡単に比較できると思わない方がいい
曹操だって自分を裏切った人物を誰彼かまわず助けるような真似はしていない
457無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:16:26
そもそも劉備が助けたとしても曹操みたいに自分の配下にできるわけじゃない
だから曹操も初めは陳宮だけじゃなく呂布も助けようか迷ったわけで
この一件で人物の差が出てるとかねーわ
458無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:18:06
劉備には鞍替えを繰り返してもだまって自分についてきてくれた関張
曹操には不臣の礼で迎えるほど信頼できる夏侯惇がいた分だけまだ幸せだったよな

呂布って陳宮にすら処刑される前に面罵されたって言うし、そう考えると何かかわいそうだ
459無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:20:26
>>457
この一件で絶対評価的に人物の差が出るとは言ってないよ?
「この一件だけ単純に見比べると差が出る」と言ってるだけだよ
460無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:24:27
>>459
だからこの一件だけ見ても差が出てるとは言えないと言ってる
461無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:32:01
曹操は自分を裏切った陳宮を気にいっていた
劉備は呂布を信用しておらず曹操もそれに同意した

これだけの話だろ? なんで人物の差の話になるのか分からない
462無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 03:44:26
>>459
まあ「そんな見比べ方は意味ない」で終了ですね
463無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 07:23:37
なんで劉備は曹操を暗殺しようとしたりしたの?
それほど悪い仕打ち受けてないのに。
464無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 08:41:59
帝に曹操は逆賊だから殺してくれって言われたからだよ
465無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 08:46:27
>>437
いや、だからこれは曹操を悪く言うエピソードなんだよ。曹瞞伝の。
466無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 11:58:37
>>464
それに加えて太史慈も言ってた「大丈夫たるもの〜」みたいな欲求め込みだろうね。
467無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 12:52:28
>>463
帝だって所詮は曹操と権力争いしたってだけの話だよ
つまり劉備は献帝にも利権をちらつかせてやれば乗ってくるような奴だと思われていたってこと
劉姓といっても外様だし、曹操に恩を受けてる身でもクーデターに加担すると
曹操を倒せればその立役者になった劉備だって一気に立場が強くなるわけだし、事実乗った
468無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 13:15:43
陳寿評では保身もあったって書いてるな
実際程イクたちは殺せって言ってたしね
469無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 13:50:21
呂布の話が出てきたが、はっきり言って劉備のやったことって呂布と同じだからな
ほうほうの体で逃げて来たのをかくまって厚遇してくれた曹操を裏切ったんだから。暗殺しようとして失敗したから徐州で反乱したんだからなおタチが悪い
義理や道理で考えても一族であるかもよくわからない「ただ名前が同じだけの皇帝」の命令を聞くよりは恩を受けた曹操に付くのが筋

それを「漢帝国から勅命を受けた」という形をアピールし、曹操を逆賊という事にして自分は卑劣漢どころか声望を集める事に成功する
献帝だって所詮権力が欲しかっただけなのにな
劉備という人はこういうやり方が非常に上手い。だから裏切りの申し子みたいな奴なのに名声は失わなかった
470無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:10:55
別に劉備が腹黒いことは誰も否定してないでしょ
有名な劉璋に対する仕打ちを見れば一目瞭然
ただ呂布を見殺しにした云々はお門違いだと言われてるだけ
471無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:14:08
>>470
その話もう終わってるだろ
個人的には呂布問題もかなり腹黒いと思うが。形はどうあれ助けてもらったことは事実だし
確かにわざわざ助ける義理はないからな。別に劉備に何のうまみもないし
472無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:18:58
>>471
でも「うまみがない」って考え方すると劉備がいかにリアリストだったかがわかる
そもそも義理や道理ってそういう損得とは対極の考え方だし
曹操も単に陳宮が欲しかっただけなら家族の面倒なんて見ないだろうし(まあ名分的な側面があるが)そこへいくと劉備はかなりシリアスな人間だ
473無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:24:31
三国志でいちばん情に篤いと有名な劉備が実は一番シリアスだったかも知れん
そして大義の人に見えるのは後世の手もあるがそれ以上に劉備が自分をそういう風にプロデュースするのが上手かったからだ
そういう意味でやはり孔明がいなければ何もできないような凡人の類ではないね
474無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:28:47
>>471
だから呂布問題に限って言えば別に腹黒くないと言ってるわけで
呂布が劉備を助けたといっても呂布が劉備を裏切って劉備を配下にした後の話だから
助けるのが当たり前だし呂布自身、それが100%保身のためだったのは呂布伝に記載がある
475無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:40:55
>>474
だから別に悪いと言ってるわけじゃない
ただここで言われてる曹操の陳宮の遇し方を見てるとそう思うだけだ
476無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:45:48
>>475
いや、呂布問題もかなり腹黒いって言ってんじゃん
477無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:46:05
たとえ恨みがあっても縁があった人間に対してどういう姿勢だったか、という問題だろうか
ただ陳宮も信頼できるような人間じゃないが呂布のそれは図抜けてるからなあ
まあ一番信用ならんのは劉備だけどw
478無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:48:01
>>476
縁のあった人間の死に目に口添えどころかダメ押しするような人間は俺は腹黒いとは思う
ただ別に腹黒いのが悪いとは思わん
479無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 14:54:36
>>478
縁があるって言ってもかなりマイナス印象な関係性だから
劉備が呂布を恨むのは当然だというのは2人の関係から何度も言われてるし
曹操は陳宮を気に入っていたけど劉備にとっての呂布はそうじゃなかったというだけ話
まあこれ以上何言っても君と意見を共有することは無いんだろうけど
480無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 15:01:51
陳宮は呂布すら裏切ってるけど呂布は結局それを許している
この見ると曹操と呂布の人物に差がないとは言える
481無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 15:38:35
>>478
なら黄権や陳登に対する態度は何なんだ?
君は陳登関係のエピソードなんか知らんだろうけどな
482無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 16:38:08
窃盗常習犯を前に「コイツまたやりますよ」と言えば腹黒かよ
483無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:08:41
>>480
呂布が陳宮を罰しなかったのは、陳宮が軍中の有力者だったから。
そう書いてあるじゃない。
この件から陳宮の影響力の大きさと呂布の立場の苦しさ、
或いは優柔不断を見ることは出来ても、呂布の度量や温情を見ることは出来ない。
484無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:23:00
>>482
言っていい場面と悪い場面があるだろ
お前は銃を持った奴が「俺の10円盗んだ奴は誰だ?殺してやる」
って言ってる所で馬鹿正直に
「俺の母ちゃんが盗んでる所見たよ」
って言うのか?
485無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:30:06
>>484
マジで言ってるんなら凄いが、母ちゃんだったら言わないな
486無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:39:55
>>485
マジで言ってる〜のくだりの意味がわからん
例えの悪さの事を言ってる?

母なら言わないだろ?
つまりはリュウビの、呂布に対する感情はそういう事だと推測出来る訳だ
487無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:40:50
呂布はもはや献帝に逆らい僭帝袁術に付き、包囲の末に囚われた逆賊。
当時の法に則れば死罪が正当。
曹操はちょっと流されて「こいつ強いから法を曲げて許しちゃおうかな? 俺その権限あるんだよね」と思った。
劉備は「そんなことする価値ないよ。害だけだよ」と言った。
曹操は結局それに従った。そんだけ。
488無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:44:03
>>486
>つまりはリュウビの、呂布に対する感情はそういう事だと推測出来る訳だ

いや、だから何だって話になっちゃうけど
自分で言ってるけど例えがわりーよ
489無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:50:49
劉備は曹操に逐われて窮した呂布を一度助けた。

呂布は自分を助けた劉備を攻撃して徐州を取り、
そのために窮した劉備の降伏を受け入れて沛を与え、
袁術に攻められた劉備を助けて和睦させてやり、
袁術側に付く手土産として攻撃して沛から叩き出した。

恩仇のプラマイとかいう以前に、こんだけ好き勝手やってくれた
人間をもはや信用できるわけがないw
490無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:54:13
>>488
ごめんね
おいら頭良くないから うまい例え思い付かなかったんだよ

>>483
実際陳宮の権力はどの程度だったんだろう?
呂布が罰しなかったってのはかなりのもんだと思うんだけど
その割には陳トウらに籠城に丸め込まれてるし
491無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:57:45
劉備はハラ黒ではないと思うけどね。
曹操とは政治的に決別するしかなかったんだろうし。
お互い認めてたとは思うけどね。

一番のハラ黒は孔明だろうね。
492無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 19:59:07
よくわからない、というか、その逸話こそが陳宮の立場の強さを推察できる主なエピソードだから。

陳登に丸め込まれたって何の話?
下ヒに立てこもったとき陳登は広陵太守で、外から呂布攻撃に加わっていたはずだけど。
ただ袁術と渡りを付けていたらしき陳宮と、献帝を奉戴した曹操に付きたい陳親子らとの間で
相当な綱引きがあっただろうとは想像できる。
だから呂布の戦略は揺れ動いて定見を見ず、身を滅ぼす要因となったわけだ。
493無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:01:19
>>491
諸葛亮の政謀的判断は概ね的を射て蜀に利しているよ。
それを腹黒というのか?
政謀ができれば必ず腹黒、という評価基準であるなら、別にそれは構わないけど。
494無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:01:53
合体素材1
太公望

合体素材2
張良

合体結果
諸葛亮

>これでいいのか?
YES >NO

こういうことか。
495無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:09:09
>>492
いや、ごめん
にわかだから詳しい部分良く知らないんだ
たしか陳宮はカヒ立籠り直前の時に出陣策を提案してると思うんだけど
その策を退けたんは呂布嫁の我儘だっけ?
496無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:19:11
>>481
その二人に関しては
『あいつが寝返るならば、俺に非があるんだろう』といえる程の人物だから。

呂布に関してのエピソードと並べるのはおかしいよ。

・・・そして『新参者のホウ徳にも及ばないとは』も別のお話。
497無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:24:12
>>493
劉禅を傀儡として祭り上げ、劉備に劉禅の補佐を任された李厳の権限を抑え、
漢中に政治中枢を移して独裁政治してたんだし、
腹黒呼ばわりされても仕方ないだろう。
後世の評判は別として、現実的に曹操とやってる事は同じだからな。
498無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:31:54
>>493
劉備が蜀を取った時のエピソードでこんなのがある。

劉備が蜀を取ったあと、ホウセイ(蜀の人材で蜀を裏切り劉備に蜀攻めを勧めた人物)
が劉王章時代に自分を出世させなかった上司を処刑しまくったそうな。
でそれを問題視した劉備が孔明に相談したが孔明は
「ホウセイの好きにさせなさい」的な事を言ってほったらかしたんだって
こんな事言う孔明が後に公明正大な政治とかをやるっていうんだから
大笑いだよね。
499無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:31:58
李厳はむしろ進んで諸葛亮の部下として働いてるとおもうが。
諸葛亮に九錫を得るように薦めたのは李厳っすよ。
500無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:32:28
カタカナの人乙。
501無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:50:28
>>498
今日はまたものすげえ出鱈目の羅列だな
一行として間違っていない行が無い。
502無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 21:00:38
>>497
劉禅は傀儡ではなかった
祭り上げたのは諸葛亮ではない
曹操は自分の武力で皇帝の権限を封じ込め、丞相・冀州牧・魏公王と
三重の権力を自分に集中して専制の世襲を準備したが、
諸葛亮の権限は劉禅の信任に拠って立つもので、権力の世襲も行わなかった
「現実的に」判断して曹操と諸葛亮が類似しているのはその丞相府への権力の集中度のみ
蜀漢朝廷の機能と権威を骨抜きにするようもマネはしなかった
ま、諸葛亮が後20年生きていればどうなったか解らないが、それを想像するのは無意味というものだ。
503無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 21:09:35
>>496
分からないかなあ?劉備は誰彼構わず情がないわけじゃない
単に呂布がいかに独り善がりだったかというだけの話だ
陳舜臣だって劉備の仕打ちは当然って言ってるだろ
504無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 21:13:48
法正のエピソードは、彼が蜀取りで行った功績の大きさを示すものだろう。
当時の諸葛亮の権限では罰する事は無理だったろうし、行うとしたら劉備に上奏する、という事になる。
だが、劉備が肯んずる事はない。
これは諸葛亮の言葉にもあるが、
窮状にあった劉備が、余所の勢力と対等に渡り合えるようになった一番の功績は法正にある。
だから、これを軽んじる事は蜀政権としては致命傷になりかねない。
よっぽど法正が好き勝手してるなら別だが、小さな恩にも報いているし、
その上有能となれば、劉備が切る事はないだろう。
諸葛亮が劉備に丞相に任じられるのはずっと後の事。
505無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:24:24
法正のエピソードで重要なのは孔明の「俺じゃ止められないね」という言葉を聞いた法正が
自主的に私怨による復讐を止めたところにあるだろうね
孔明は法正の人格を計算した上で最も穏便に済ませる策を立てたわけだ
506無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:30:38
でもたいしたやつじゃなかったんだな法正
507無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:31:17
>>505
この件で諸葛亮を擁護するのはいいんだけど、生憎その話は演義だけ
508無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:35:24
実は、受けた恩に報い、仇には復讐するというのは遊侠の徒などでは普通のこと
つまり法正の行為は法家的には違法だが、当時の価値観では必ずしも非難されるだけのものでもないのだ
509無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:36:14
>>505
法正がそれを聞いて改心したってのは演義だけじゃなかったっけ。

>>498は史実孔明について語ってるんだよね?たぶん。
510無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:42:10
明らかに>>498は例の人だろ。
511無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:13:26
例の人ってかほぼ毎日お疲れ様な人だな
こないだは話題のレベルが上がり過ぎて追いて行けなくなって
無理矢理話題変えようとしてスルーされまくってたのが面白かったが
512無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:25:25
ていうか演義について語るか?あれは小説であって歴史ではないぞ。
513無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 01:05:49
カタカナの人は法正の報恩の話をよく持ち出すよな。
多分、彼にとって公明正大だと信じてた諸葛亮のイメージを
一変させた衝撃的な話だったんだろうな。
514無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 04:06:00
>>489
その理論だと劉備擁護のつもりなら墓穴を掘るぞ
なぜなら劉備は曹操にたいして呂布にやられたことと同じようなことをやってるから
つまり呂布と劉備は同じような人物
515無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 04:09:01
呂布は家族には情が篤いがやってることはムチャクチャ
劉備は家族には情が薄いがやってることもムチャクチャ
516無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 04:15:56
>>515
それでも劉備には関張始め心服の部下がいた
呂布にも高順とかいたけど最後が裏切られての死だからあまりにも浮かばれんなあ
やってることはそんなに変わらないのに
517無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 09:31:56
日本では忠>孝だけど中国じゃ孝>忠ってこったろ
養父殺した呂布は上司に蹴り食らわせた仲間とは言え劉備より扱いが悪くなるのはしょうがない
518無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 10:05:05
曹操が謀反起こした劉備を捕らえたら今度は斬ってたろうし
劉備が腹黒いかどうかとは関係なく呂布を斬れと言う判断は妥当ってことじゃん
劉備が腹黒いと主張したけりゃ単純に曹操への裏切りだけ指摘すりゃいいだけ
何で呂布を絡めたがるのかわけ分からん、ただのミーハーな呂布ファンか?
陳先生も述べてる通りあんなことしといて劉備が自分を助けてくれると思うなんてむしがいいにもほどがあるわw
519無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 10:26:26
>>517
呂布の場合は見境がないからどんどん立場を悪くするが、
劉備はそこらへん「悪く見せない」ようにするのが上手い。
当時はあんまり女性の人格って重視されてなかったし
劉備は当時の世相をよく理解してたってことなんだろう
>>518
別に呂布が死んだのが面白くないわけじゃないし判断が間違いだとも思わなければまして劉備が憎いわけじゃないよ
発端が曹操だったから曹操に比べるとわざわざ「こいつ絶対殺した方がいいですよ大将!」なんて決定打を放つ奴は普通に考えて腹黒いってこと。
曹操の場合陳宮もそうだが自分の息子を殺して殺されかけた張繍も許して高位につけてるし
また単純に戦力として魅力だったことを考えても陳宮の老母や遺族の面倒を見たのは利害目的ではないから、劉備よりも情深いといえよう。
人物の差だとしてもそれは曹操は凄そうな奴だったら短所を忘れて惹かれるような性格で、
劉備はドライだから自分の営利にならない以上逆らった人間は許さなかったってだけの話だろう。それだけの差でしかあるまい
自分と意見が合わないからってなんでも好き嫌いだけで物考えてると思わない方がいいよ。
520無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 10:36:48
死刑を薦めたら腹黒いって法をなんだと思ってんだ
死刑廃止論がある現代でも通じない理屈だぞ
521無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 10:49:15
>>519
何言っても聞きそうにないけど一応…
「また裏切るかもしれないので殺したほうがいい」という進言は妥当だったからこそ曹操も納得した
ごく自然で妥当な進言をしたのに腹黒だのドライだのいうのはおかしいだろ
この一件では劉備が腹黒というよりそうされて当然のことを呂布は行ったということ
張繍の厚遇は単なる曹操の情け深さだけを表してるんじゃない
カクも言ってるように曹操の最も苦しい時に自分の勢力ごと降伏したから許されし厚遇された
陳宮の厚遇は利害だけでは無いかもしれんが、それは曹操と陳宮の特別さを見ることができても
劉備と呂布の関係性とは全く関係無い、無理に結び付けようとしすぎ
曹操にだってドライなエピソードはあるしな
522無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 10:59:23
>>521
何度言っても理解してもらえないようだけど、別に劉備が間違ってといっているわけじゃないんだって
ただ「曹操と比較するならば」という話
なんで結び付けるの?と言われたらそれは話題で出てたからとしか言いようがない
この一件に関して俺はこう思う、お前はそう思う、価値観の違いでしかないよ
>>520
少なくとも現代の法に当てはめるのは無理があるよ
群雄が乱立してた時代は権力者=法だから
だからトップの一存で死刑になったり助かったりするんだろう
権力と裁判がほぼ結びついてるような状態ではそういうことは言えない
523無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 11:02:44
>>522
要するに劉備とか呂布とか関係なく当時の価値観も関係なく
誰かに死刑を進める=腹黒だと言いたいわけ?
だとしたら確かに価値観の違いとしか言いようがないね

でも君の価値観が普通だとは思わない方がいいよ
524無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 11:23:02
本当に劉備が腹黒いなら呂布処刑は勧めないと思うが。
呂布を曹操陣営に登用させて、曹操陣営を(将来的に)引っ掻きまわさせようとするんじゃない?
呂布討伐の時点では劉備は曹操の世話になってるが、将来対立する可能性考えてさ。
525無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 12:59:12
>>523
バカじゃないの?
なんでそういう曲解をするかな
ただ縁があった人間を自ら死刑台に送るのは性格悪くないと出来ないよ

526無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 13:07:11
もう釣りにしか見えなくなってきた
527無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 13:16:19
>>523
それはちょっと違うんじゃないか?
確かに呂布は死刑になっても文句は言えないが、劉備には呂布を助ける手段もあった。
実害的な面でも曹操の懐に入るわけだから、別に生かしておいても劉備には問題はなかった。
また状況はどうあれ助けてもらったことは事実だ。もっともそれを呂布が主張するなら白々しいがね。
死刑を進めたから腹黒なんではなくて、恩ではなく恨みが先立つような形で曹操にダメを押したからそう見えるんだろう。
そういう意味で曹操と比べるなら劉備は寛容ではないし、恨みを忘れない人間なんだろう。
もっとも比べる対象の曹操が特殊なんだがね

曹操は
一度自分の懐に入ってきた人間を無条件に信じすぎるために
張バクに裏切られたり陳宮に裏切られたりした
でもそのクセは一生治ってない  by易中天
528無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 13:17:15
むしろ縁がない、風評でしか知らない人間の死刑を勧める方がドライじゃない?
呂布に恩を掛けて実際に裏切られた劉備がいうならこの上なく説得力あると思うが
529無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 13:24:51
なんか同じような流れ繰り返してるね
530無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 13:47:23
>>527
助ける手段もあったとかいうけどあそこで劉備が呂布を助けるようにしていたら
陳宮を助けたときの曹操以上に寛容になってしまう
呂布を助けても劉備に何のメリットも義理もない
助けてもらったというが劉備を裏切って配下にした後の話だし
自分ために劉備を助けるのは当たり前、それが劉備が呂布を助ける根拠にはまったくならない
呂布自身、寝返った後も劉備をいつも殺そうと思っていたらしいし、助ける時も「仕方なく助ける」と言っている
「恨みが先立つような形で」っつーのも君の主観でしょ、どういう気持ちで言ったかなんてわからない

あと曹操がその後も無条件に人を信じたっていうのも違うだろ
親族以外は方面司令官を任せることもほとんどなかったし大きな兵力を与えることも無かった
531無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 17:40:39
曹操にとっての旗揚げ時からの家臣であった陳宮と
劉備にとっての軒先借りて母屋を乗っ取った呂布と
条件が違い過ぎて比べるのは無理がありすぎる
532無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 17:49:09
曹操の旗揚げ時つっても、袁紹に東郡太守に任命された頃から徐州侵攻までの2〜3年の間だしな。
それも東郡の有力豪族だったから曹操に協力しただけで、劉備や呂布に対する陳登と変わらんよ。
533無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 20:30:56
歴史の表舞台で動く人間を、一般人の倫理道徳で判断することって楽しいの?
534無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:03:58
楽しいよ
君もやってみな
535無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:05:24
なんとかして劉備は悪人、曹操は善人ってしたい奴がいるからほっとけ
536無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:18:58
劉備なんて善人だよ。曹操も善人
孫権なんてみなよ。跡継ぎを決めないでいて
結局両方処罰したんだぜ。血も涙もない。
537無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:33:43
孫権は日本人にとっては、日本まで人攫いに来た奴だから
確かに悪人だwwww
538無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 22:15:44
助ける手段がある人間をなんでもかんでも助けるってのは
善人では有り得るかもしれないが無原則の極みだな。
助ける義理も無い、責任も無い、道義にも法慣習にも戦略指針にも反する
相手の助命を請うたりしたら、裴松之にボロカスに言われてしまうw
539無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 23:14:19
>>535
善悪じゃなくて人がいいか悪いかだろ?
性格の問題だ。方や度量があるタイプなのか、方や抜け目がないタイプなのか
簡単に善悪論に結び付けるあたり発想が貧困
540無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 23:27:10
あの場面で曹操が呂布を許したとしたら、それは度量とは言わないよなあ。頭のネジが弛んでる。
曹操もそこまで酷くはないよ。実際に許したのは影響力の大きな名士とか、
完全に目下で警戒する必要が無い人間とかばかりだ。
541無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 01:42:56
>>540
頭のネジが緩んでると言うと聞こえが悪いが、実際結構あけすけというかやはりお人よし
それこそ張バクや陳宮で猜疑心が鍛えられた気がする
542無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 08:56:00
>>539
政治の場での行動から人格を推し量るのは無茶ってものだ。
度量が有る行動を取ったとしても、私生活で度量が有るタイプなのかは分からない。
寛大な処置を取ったとして、私生活で寛大な人なのかは分からない。
543無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:29:07
けど思うけどさ。劉表の時に孔明仲間にしなくて
曹操に下ってたとしても劉備は曹操に殺されなかったと思う。
544無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:33:07
彼がその気やなくとも、ジュンイクやカクカ等が黙ってないだろ 一度脱したから二度は通用しない
545無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:38:25
>>543
そこらへんを陳寿は
自身(劉備)の器量をいつまでも許容してくれるような相手ではないと考えた。
災難を避けるために行動したのであって、その場の利益だけで行動したのではない
と評のなかで劉備を擁護してるね。
要は曹操であっても結局は自分に危害を加えるだろう、と劉備は考えたのだろう、ということ。

陳寿の考えが正しいかどうかはともかく、実際荊州滞在時の劉備はもう降伏できなかったんじゃないかなあ。
仮に降伏するとしてもガチで「殺されても仕方ない」形になったんじゃないだろうか。
546無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:41:42
曹操にしたって今の混乱期は天下の人心が大事だから殺さないということにしてるだけ
裏を返せば統一事業終了すれば劉備は殺してもいいということだ
547無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:45:33
モロに一度裏切られてるしなあ、曹操。
しかも袁紹との決戦間近という最悪な(劉備的な絶好の)ときに。
感情面は別にしても、劉備のことを脅威と認識してそうだ。
548無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:53:34
豫州牧になったときに大人しくしていれば或いは、と思うが、
あれで裏切った後ではもう駄目だろうな。
部下への示しがつかないし、人心を得るというメリットももはや無いだろう
荊州全域まるごと率いて降伏とかならまだ歓迎する理由になるが、
劉備はそんな地位にいなかったわけだし。
549無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 09:33:56
いやギリギリ曹操は許すと思う。で次の孫呉戦の前線に劉備を投入とか
考えるんじゃないかな。
550無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 10:51:23
許すわけがない、というか許せない
何もしてなかったときでさえ始末しておくべき、って曹操の参謀らがアドバイスしてるのに
551無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 11:02:36
>>549
仮に許したとしても、もう軍隊は与えないだろう。
適当な官位を与えて飼い殺し。また軍事力を与えて造反のリスクを背負いはしないと思う。
荊州平定時点じゃもう曹操は劉備程度の力を借りる必要無いんだし。
552無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 12:05:28
>>549
そうやって徐州へ赴任させて裏切られてるからもう二度とやらんだろ
何言ってるんだ?
553無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 15:59:57
良い加減スレ違いだ。曹操のスレにでも行け
554無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 16:15:24
だが断る
555無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 20:11:28
降伏したらあぶないけど和睦だったらどうだろう?
ケイシュウ代表として和睦ならそこそこ曹操も手出しできないでしょ。
556無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 20:20:43
許す許さないの話がしたいなら、せめて何か根拠になる話をもってこいよ。
似たようなケースで許した例がある、とかその件とこの件では違いがある、とかさ。

「許すと思います」「許さないと思います」って小学生か。
557無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 22:16:55
降伏同然の荊州代表劉綜が殺されてるのに劉備が荊州握って和睦なんて無理臭くないですかね?
558無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 22:17:59
殺されてないけどな
559無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 22:41:27
そもそも皇帝が曹操暗殺を劉備に頼まなければ
こんなに関係悪化せずに劉備曹操同盟が成立してたと思うんだよな。
560無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:04:23
でも権力を持ち過ぎた家臣を排除するのは中国の伝統行事だしな。
排除しないと乗っ取られる事も多いから仕方無い事とも言える
561無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:07:58
帝が劉備を頼ったのは単に血族だからってことじゃないだろうな
単に劉性だけってなら劉嘩とかを頼ってもいいはずだ
562無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:15:28
>>561
リュウヨウはその時まだ曹操配下じゃなくないか?
563無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:24:30
劉備の方が劉嘩より実行能力が高いってのもあるだろ
家柄的にも手駒にしやすいし
564無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 00:22:34
遠縁の皇族なんて、名詞代わりくらいの価値しかなかったと思うよ
劉備が皇族だということが外交的方便に現れるのはやっと孫権に対する時だし、
他に利便があったという話はない。
実力が伴ってこそ価値が出てくるものだったのだろうね。

劉曄の方は地元にいたときに豪族に利用されかけたけど、曹操に帰順して以後は
用心深く振舞って兵を率いたりするのを避けた。
晩年の境遇を見ても相当苦労したんだろうな。
565無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 03:28:35
>>546
曹操は権力闘争のために孔融や崔琰すら斬った男だぞ?
劉備斬るくらいでいちいち躊躇わんよ。
566無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 09:52:56
自分と同等と思ってる劉備を切るのはさすがに戸惑うだろうが
家臣が許さないから切るだろう。
567無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:01:47
話を変えて悪いが・・・

劉備って、本当によく分からない人だけど
劉備にとっては、若くして法正に死なれたのって、
かなり痛かっただろうな。
諸葛亮と劉備の関係って、バショク人物評エピソードが
象徴してるような気がする。
568無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:05:24
>>566
同等と思ったら斬るんじゃないの?
裏切られるまでは良い人材だと思ってたけど
実際裏切られて、劉備の器量を脅威と認識した、とか。
569無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:30:30
じゃあなんで英雄論で「君と余だ」って言った時に切らなかったんだ?
570無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:41:49
>>567
馬謖は将来を嘱望された人物。
人間は変わるという思いがあれば重用するのも問題ではない。
何故ならそれまでは馬謖は結果を出していた。
それを持って劉備の意向を無視する諸葛亮像は無理がある。

むしろ諸葛亮は劉備の意向に逆らえない。
何故なら諸葛亮の権力背景は劉備の寵愛であるためである。
これは法正であれば劉備を諌止できていた事実でもわかる。
法正は劉備の恩人である。
諸葛亮は劉備が恩人であるからだ。
571無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:42:34
ずーっと、スレチな議論が続いているみたいに見えるが、
これって、劉備論と考えれば、おK?
572無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:53:31
少なくても>>567はいけると思うが
>>567法正はかなりの損失でしょう
馬謖は指揮官で使うには早過ぎたのが悔やまれる
573公孫康:2009/01/18(日) 13:37:44
>>571
おK 公明党を仲間にしなければ宝刀、序章を仲間にしてただけの話
574無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 13:41:24
>>569
別に象徴してはいないぞ
ただ諸葛亮が自分が出来る人間だから馬謖に経験が必要な事に気付けなかっただけだ
575無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 14:24:53
>>571
他の人間と比較して研究する劉備像である
576無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 15:57:14
蜀攻めの時ってどうだったんだろう?
劉備にしては手間取りすぎなきがするんだけど。
向こうはほとんど戦争した事ないやつらなのに。
577無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 16:06:09
劉備は「あいつ優等生ぶってるけど誠実でも何でもないぞ、人の見てないとこじゃ自分勝手にするぞ」ってことに気付いたのかな
孔明は大事を任せるなという台詞を企画職としては無能でも言う通りにだけやらせる任務なら問題ないと受け取ったのかも
仮定型かつ二重になってる論ですまん
578無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 16:37:22
蜀の東州兵は長年益州豪族の乱を鎮圧して自分の権益を守ってきた奴らだよ
加えて劉備は険阻な盆地西部を真っ直ぐに南下している
基は兵一万、他は帰順したばかりの蜀の将兵と物資を用いて一州全部敵だらけの状況で
前進できるのがおかしい。この時期の劉備の統率力と政治力は切れまくってる
579無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:24:30
劉備が言ったのは、言葉は実に過ぎ胆力才に劣るだっけ?

実力以上に口が達者で、才走ってるが腹は据わってない

>>572
早すぎたってもうおっさんだろ、軍事の才能ない奴はいくら学問できてもないらしい
580無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:31:15
孔明ってそれほど劉備に重用されてないんだよね。
蜀攻めはホウトウ連れて行くし。漢中はホウセイ。イリョウだって孔明のいう事は聞かなかった。

581無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:39:00
>>578
参謀や副官として傍に置くのは良くても、「不可大用」、
傍から離して大将や要所を任せて独自の決断をさせるには相応しくない、と
劉備は判断したということだろう。派遣してしまったら「言う通りにやらせる」ことはできないのだから。
ほとんど経験もないにも関わらず劉備から独立した大事を任されて成功した諸葛亮と
失敗した馬謖というのは妙に対照的だ。
馬良の弟ということもあって諸葛亮も情を移してしまったのかもしれない。
582無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:42:39
個人の情とかそういう話はいいのだけれど、
国家の大事の戦争で、そういう次元の思惑が出るのかなぁ?
583無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:50:23
>>580
重用されてるよ?
益州入りの時劉備がフやラクで劉ショウの軍勢を引き付けてる間に益州全土を荊州からの軍勢が抑えたけど
その時の益州平定軍で3隊に分かれていたそれぞれの指揮官は張飛、趙雲、そして諸葛亮

赤壁以前の古参二人と同じ扱いなんだが、これを重用と言わずして何と言うのか
584無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:56:09
>>582
10年も付き合っていれば功績も上げるし、長所を多く見る
馬謖は綿竹や成都令として成果があっただろうし、越スイ太守の名目で
南蛮征伐や他の諸葛亮の軍事計画に参与し続けただろう。
で、死んだ友人の弟ともなれば多少の色眼鏡も付いてしまう。
参謀としての能力は良くても「言はその実に過ぎる」ことを見誤ったというのは
普通にありえることだろう。

街亭で失敗した結果から見れば、だけどね。
それを上手く越えていれば名将の素質があったのかもしれないが、
もはや解らないし、結果で語るしかない。
585無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 18:46:06
>>580
蜀攻めは内応ありのミッション、実績の無い人材のテストに最適。
証拠に連れて行く人員によって重用の過多がわかるのであれば
新参の黄忠は関張趙に勝る事になる。

漢中において言えば、劉備以外に国内をまとめられる存在として諸葛亮が選ばれた。
これは劉禅の年齢を合わせて考えれば重用を超えて実質準後継者任命だ。

その後、魏が諸葛亮に驚嘆したのは劉備亡き後も対外戦争を継続できたこと。
これは恐るべき統帥能力と言える。
586無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 19:10:40
>>585
「連れて行った」じゃない
「部隊を率いて一軍を任された」

黄忠や魏延は劉備直属だから一軍を預かった諸葛亮とは全く扱いが違う
587無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 20:06:25
劉備が孔明を評価していたのは内政面で戦略や謀略は法正を信頼してた
588無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 20:18:55
>>587
テンプレ乙
589無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:04:41
まぁ孔明も劉備に会ったから成長したと思うな、最初はプライド高い野心家秀才だったのが歴史に残る忠臣になった
590無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:06:08
まあ孔明は無能だからな。軍師としては三流もいい所だし
将軍としても酷い。

政治家としては一流って言う人がよくいるけど。具体的になにした
って考えるとやっぱ政治家としても2流なんだよな。
「あれだけ北伐しても不満をださなかった」ってただの詐欺師じゃないか。
591無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:08:39
まぁ詐欺師としては一流だな。
あれだけ北伐やっていながら同時期の人に戦争にせよ政治にせよ評価されてるんだから。
すごい詐欺の技術だ。
592無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:20:45
それはいえると思う。

俺は前も別のスレで書いたんだけど
孔明ってのは自分を必要以上に大きく見せる事に人生の全てをかけたんだと思うよ。
孔明ってのは60点の奴なんだけどリュウヒョウに仕えたりしないで
周りに噂だけながして大人物のように振舞う。
でその後も自分の化けの皮がはがれないようにはがれないように
頑張ったんだと思う。北伐とかも勝ちも負けもしないように頑張ったんだと思う
けど今、冷静に評価すると孔明はやっぱり60点なんだよね。
593無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:22:23
三流とは言わないがやはり北伐を何度も行って取れたのがたったの二郡じゃね。

北の将軍みたいに何の不満も出さなかったのかもしれないけど国に負担がかかってないなんてことあり得ないよ
実際そのあとしばらく軍事行動は控えるんだしさ
594無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:23:09
世間知らずの田舎者に何度も会い、いきなり高い地位に抜擢し自尊心をクスグリ
死の直前はお前が国を取れと遺言し、孔明を忠臣の道に仕立てあげた劉備

全て劉備の計算通り
595無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:26:29
一度は北条幕府を覆し成功させた楠公>頑張ったで賞の孔明
596無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:30:03
>>593
諸葛亮政権下に比べて以降の政権では官人の数が信じられない程増えてる
その辺考えると諸葛亮はもちろん負担かけなかったわけじゃないけど
経費節約によってとんでもないローコストで政権運営をして浮いた費用で北伐してたんだろう
諸葛亮死後にいきなり動きが止まるのはその辺の体制の違いだと思われる
597無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:35:05
>>596
そんなローコストで回してた企画ならそもそも成功するわけがないっつー…
598無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:36:38
予算ケチって中途半端になったんならそっちのほうがいいわけ出来ないよ
599無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:38:43
>>597-598
国力に負担掛けず北伐するならそこまでやるしかないんだろ
しかも別に政務が怠ったわけでも、軍備がおろそかだったわけでもない

むしろ蜀軍の装備は諸葛亮の工夫で当時最先端だったと言ってもいいレベルだったんだし
中途半端でもない

それに成功見込みのない作戦ではなく、どれも成功見込みがあって尚運に見放されたものばかりだぞ
600無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 21:41:10
そもそも無理な体勢にもかかわらず、それでも時間が経てば経つほど広がる魏との国土の差を焦っていたに違いない・・・
すべては出来ない細い綱を渡ろうと「先帝のため、次こそ!」と意地になっていたに違いない・・・
601無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:00:20
ぶっちゃけ孔明は神格化されてる、演技における孔明並の働きをしたのは楠木正成ぐらい
数百人の兵で幕府倒した
602無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:01:02
それ講談
603無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:05:03
>>599
国じゃなく一会社の規模でしか語れないが五分五分以下の確立ならそんなのは「勝てる企画」とは言わない。
80〜90%の成功率でなお失敗したんなら時の運でしょうがないが5回も6回もやっててことごとく失敗したんだからそうは言えないだろ
ちいさな会社でも何十人の部下とその家族の生活を背負ってるんだ。国一つなら何十万の人間を質に入れて勝負した企画だろ。
そんなのを何回もやって「運が悪かったからしょうがない」じゃ言い訳にならないんだよ。

諸葛亮の怠慢政治だったなんて誰も言ってない。
だが社運ならぬ国運をかける企画を何度となく失敗した人間は当然そのことについて言及されることになる。失敗してムダに資本を捨てるなら見切りをつけて別の企画を立てたほうがいいんだ
その見切りを付けられなかったのだからそこについても言われたってしゃーないさ。そういうのも能力だもの
604無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:09:15
>>602
講談じゃなく事実だよ、倒幕できたのは一に楠木二に楠木といってもいいほどの働き
605無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:10:22
>>603
だって諸葛亮は第一次はともかく他の北伐失敗してないんだもの
二次三次はワンセットで二郡獲得
四次は大勝利しながら李厳の失敗で撤退
五次は成功も失敗もせず陣没
606無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:11:46
>>604
それどこの史料にそんな記述があったの?
数百人で幕府倒しただなんてさ。
607無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:19:26
楠正成の部下が全員江田島平八バリの武勇の士だったらどうだろうか?
幕府を倒すのも十分可能だったのではないだろうか?
608無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:20:20
EDAJIMAなら数百人どころか数十人で倒幕可能だろ
609無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:32:51
>>592
君それ他のスレで散々否定されたでしょ。
一向に考えを変える気配がないから鬱陶しがられるんだよ。
610無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:48:57
>>606
数百人で幕軍10万以上相手に戦い何ヶ月も城を落とさせず、幕府側から天皇派に次々寝返りがでてきた
このあたりが単なる奇想天外な戦術家というより戦略家戦いの意味を良く知ってる
611無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 22:57:01
10万以上という史料は何?
612無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:09:41
>>611
少なく見積もっても当事の鎌倉武士は10万以上居たろ
有名な太平記を筆頭に、難太平記、梅松論、神皇正統紀、園大暦、楠木合戦註文、徒然草、増鏡、博多日記、各種の軍忠状などかなりの一級資料が現存している
613無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:12:13
>>612
で、どの史料に「幕府軍10万が楠の居る城を攻めて落とせなかった」って書いてあるの?
614無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:24:23
>>613
太平記だと数十万、wikiだと20万、しかし誇大と割り引いて10万ほどだろう
615無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:36:31
>>614
太平記の史料批判は行われてなかったんだっけ?
つーかそもそも戦史の史料じゃねーだろ

wikiは史料として論じるに値しないな
誇大と割り引いて10万にするその割引率の根拠はなに?
616無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:52:51
>>615
太平記は誇大に協調されてる面はあるが、大衆向けに書かれた物じゃない貴重な資料だ
当事の正確な兵数は知らんが、二度目の正成討伐の時最低でも保暦間記で4、5万集まってるところからまぁ10万くらいだろ
617無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 23:54:10
>>616
じゃあ10万じゃなくて4、5万だろ
勝手に増減とか割引すんなよ、セールスマンじゃあるまいし
618無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:04:29
>>617
それはあくまでも二度目の楠公打ちのために動員された兵な
少なくても100年後の応仁の乱で20万以上京に集まったところを見ると当事10万以上は居たろ
619無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:05:38
>>605
成果が乏しいor特に効果がないならそれは成功したとは言えないんだ
失敗しなかったからと言って成功しなかったらただの時間と労力と資本のムダ
そして北伐の根源的テーマからするとそれは成功とは言い難い
すくなくとも「ムダ」を多く出して「成果」が乏しかったらそれは「失敗」として認識されるものなんだよ
620無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:08:31
>>587
法正を信用していたというエピソードは無い

>>589
同意

>>590
同時代の人間が見習うべき素晴らしい宰相と評価

>>591
というよりも劉備亡き後も戦争できたことが評価されている

>>592
劉表から誘われるような名声(大人物の噂)はない。
真贋のある劉備の目をごまかし、死後においても評価は揺がない
状態の人物であれば芝居上手でかたずけるのは劉備や陳寿を馬鹿にしている

>>594
同意、諸葛亮は劉備にだけは頭が上がらない。

>>597-598
ローコストになったのは夷陵があったため。

>>599
どのように神格化されているか書き出してみたまえ。

>>603
先代社長に「魏の討伐」の事業として投資した起業家に
先代社長が亡くなったので投資資金は別目的に使いますでは説明にならない。
行わなければならない事業。むしろ解体されずにその事業を引き継げた事が
高い評価になっている。
621無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:15:01
>>618
応仁の乱の兵数は不明だよ
講談や軍記物ででっち上げられただけじゃねーの?
622無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:20:38
>>620
「魏の討伐」という事業目標に「北伐」という企画一本で挑んで成果に乏しかったらそれも責任を問われる
最終的にとる手段が「北伐」だとしても、じゃあなんでその企画が芳しくなかったか、ということは当然言われるよ
623無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:22:53
>>621
そんな事言ったら昔の戦争なぞ全部不明になるだろ
頼朝が奥州攻めで公称20万以上だし正確な数字など誰も知らん
624無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:24:42
>>619
それは1700年前に陳寿が通った評価だ

諸葛亮の北伐の蜀財政への影響については、司馬懿が論じている。
「亮毎以糧少為恨,歸必積穀,以吾料之,非三稔不能動矣. 」
現に1、4、5次の北伐の期間は綺麗に三年。
北伐の計画性というのは敵方にも推定できるほど高いもので、
司馬懿は蜀の軍や財政の疲弊を期待できなかった。
諸葛亮の死後、その股肱の蒋エンが継いでも何の混乱も起きていない。
こういうのは国家にとって消耗とは言わないよな。
625無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:28:35
>>623
じゃあ数は「不明」でいいだろ
ただ寡勢で多勢から城を守った、以上の事以外何も判らないじゃないか
せめてもっとまともな「史書」か「一次資料」から数字持って来いよ
626無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:32:35
>>622
圧倒的な資本力の差。
これは投資家に善戦した事を納得させることはできる。
事業の継続は会社の継続となり、ある期間、会社が継続すれば
会社の目的が事業から、会社の安定継続となりえる。
この現象は現代でもちらほら見られると思うが
627無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:33:56
>>625
だから最低でも5万の兵を防いでるのは確認できんの

第一不明なら三国時代なんて皆嘘八百になるだろw
628無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:37:02
>>626
面白い喩え方するね
629無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:37:09
>>626
圧倒的な資本力の差があるならなんでそれを考慮に入れて企画を練らなかったのか、何度もやっているんだから十分予見できたろう、
と実際のビジネスなら言われるな
もちろん善戦した諸葛亮の能力は高かったんだろうけど、やはりそれを弁護に使うわけにはいかない
630無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:38:09
応仁記によれば応仁の乱での東軍が16万、西軍が11万以上といわれる
631無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:40:05
>>629
そもそもが圧倒的資本力を持った大会社に対して
ベンチャー企業が、市場独占を嫌う投資家の投資を得て行った事業
歴史的にはベンチャーがある一定のシェアを獲得できた魔法のような手腕を
高く評価されている。
632無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:40:06
>>626
加えて言うなら会社の事業目的は「現状維持」でなくあくまで「魏の討伐」だから、
それにいかに近付いたかで評価されるのはある意味当然だろう
そして関中以降進出できなかったのは問題ではないか、という意見が出るのは仕方ない所はある
633無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:41:12
>>629
思いっきり考慮に入れて企画を練ってるんだけど…
大小五次出兵全て、時機に合わせ目標を定め戦略を尽くしたものだ
諸葛亮(とその参謀団)が戦場での「応変の軍略」に欠けていたとしても、
広域の軍事戦略家として非凡であったと言わざるを得ない
634無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:41:37
数百の手勢で数万の軍勢に対して1年も防衛し、その後撃退。
相手の意図を見事挫いた霍峻は楠正成に勝る名将だな。
2千の手勢で数万の呉軍を食い止め、
その意図を頓挫させた羅憲も楠正成に勝るとも劣らぬ名将だな。
635無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:42:58
>>631
だから現代の企業ならそれでいいかもしれないけど、諸葛亮の場合はダメなんだよ
一定のシェアを確保して安定させることが目的じゃないから。その大会社を潰すことが目的
636無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:43:43
>>629
つまり、安定した国に対して、絶望的な状況から対抗できる勢力を保ち得るた
という事が諸葛亮の歴史的な評価。
そこから安定した国を滅ぼして統一できなかったのを個人の責任にするには
無理があるね。
637無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:45:05
>>633
考慮に入れてたならなんでこの程度の成果しか上げられないのだね?と言われる
諸葛亮のやり方で上手くいかなかった以上、そのやり方を問題視する見方は当然出てくる
魏延のような方針もあったんだし
638無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:47:13
>>636
それをいうなら勢力を維持したのだって別に諸葛亮一人の力じゃない、地形と呉の影響力のおかげだ
という見方もできる
事実諸葛亮死後も蜀を保つこと自体はできてたから
639無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:50:16
戦力の不利を覆し成功した例

アレクサンダー→歩兵部隊の斜兵戦術
ハンニバル→騎兵部隊による両翼包囲
源義経→騎兵部隊による長距離背後からの奇襲
チンギスハーン→全部隊が騎兵で構成される機動部隊の活用
楠木正成→山岳ゲリラ戦で、通常戦術を翻弄

要するにそれまでにない軍制や戦術で覆してる
640無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:50:43
>>637
戦場で不利を被ったはずの魏将が、(諸葛亮の)予測を上回る名将だったから。
初期段階で作ったはずの有利を埋められた情勢で決戦するのを諸葛亮が嫌ったから。

故に諸葛亮は応変の軍略は得手ではなかった、と言われる。
「軍師」としてはお粗末な評価しか上げられないよ。
でも諸葛亮は軍師じゃない。ただそれだけ。

魏延の策はダメ。魏に長駆を強いることで数的優勢を築くのが基本策なのに、
敵の中枢へ切り込む兵力を分ける余裕なんて蜀漢にはない。
そりゃ項羽や韓信が蜀にいれば別だろうけど。
641無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:54:09
魏延の策は維持を考えるとちょっと無理がある
642無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 00:56:35
>>632
その問題は多いにあるが、事業(魏の討伐)を継続している。
資本力差ながら善戦して、企画が失敗したら責任も取っている。
同時に会社自体も成長させている事に評価があがっている。

>>637
魏延のやり方をすべきであったという歴史家はどなた?

>>638
その通りだ。
ただし、劉備死後の混乱をまとめたのは諸葛亮の手腕によるところが大きい。
カリスマの死後は戦争なんて出来る状態にならないのが普通だから。
魏の評価もそこ。

>>640
そこまでの名将であれば、なんで魏は蜀を滅ぼさなかったの?
軍師とは君主に敬愛をもって受け入れられた人物。
何も軍参謀の事ではない。
張良参照。
643無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 01:06:21
魏延の策だって成功してればどういう情勢になったか分からんよ
政治情勢が変わった可能性もある
644無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 01:09:35
>>642
>軍師とは君主に敬愛をもって受け入れられた人物。
訂正どうも

三国時代は兵站の難から攻撃側の不利が非常に強くなった時代とされる。
それに加えて防備が整った漢中を突破するのはちょっとやそっとの「名将」では無理。
魏は雍州防御の不利を知略で補うことができたが、優勢に持ち込めたわけではない。
蜀漢は総じて勝ち切る知略には欠けていたが、
「苟能制吾,豈千里而請戰邪!」司馬懿を評する諸葛亮の弁。
「彼上下相習,五兵犀利,我將易兵新,器杖未復」姜維を評するケ艾の弁。
戦闘自体には強かった。だから魏将は決戦を回避し続けた。
645無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 01:28:41
>>642
軍師とは後漢から五胡十六国の時期に流行った官位
君主の敬愛云々とは無関係
軍事参謀のことでもない

張良は軍師ではない
646無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 02:55:37
>>643
長安を取っていたら、史実では北西部で戦った連中がそのままやってくるが。
長安を取った以上、位置的に司馬懿も恐らく飛んでくる。その上、皇帝まで出てくるという状況だ。
諸葛亮が来るまで魏延が持ちこたえられるとは思えないな。蜀としては何も得るところがなく終わるだろう。
長安が取れても、きちんとお膳立てしておかなければ維持できないのは、馬超の敗北が証明してくれている。

魏延の策の難点を以下にあげる。
魏延の行軍が遅れたらそれだけで終わる。諸葛亮の軍が来れなくても終わる。
つまり、少しでも天候が崩れたら即終了。魏延が奇襲に率いる精鋭は全滅するわけだ。
この際、実際に雨が降ったかどうかが問題なのではなく、雨が降っただけで全軍撤退せざるを得ない策、というのが問題。
曹真は後に魏延の提案したのと同じルートを用いて漢中に攻め入ろうとしたが、長雨で失敗してる。

また、増援の速度から見て、上手く事が運んでも魏延の計算より早く長安に増援がやってくる公算が高い。
つまり、増援が魏延より先にきたらアウト。また、守将が防衛を決断した時点でアウト。
いくら臆病者でも、背後から増援が近い状況、しかも皇帝もやってくるというのに、戦わずに逃げたら、
皇族であってもキャリアが、あるいは人生そのものが終わる。防衛決断の可能性は高い。
防衛した場合、長躯した魏延の軍が攻城戦に耐えられるかどうかは難しい。少なくとも、増援が来るまでに陥落させる事は無理だろう。
そして、陥落させたとしてもすぐに増援を相手に、諸葛亮の本軍が細道を行軍してやってくるまで防衛戦を行わなければならない。
長躯して城を陥落させたばかりの兵では、持たないだろう。

本軍とは別で率いさせる、というのもアウト。
蜀側としては、最も上手く事が進んだ場合でも、曹真らとの野戦、曹叡との野戦で長安の兵力を削る必要がある。
こうする事で、長安にようやく手が届く以上、野戦に使う貴重な兵力を魏延に使わせるのは無理。
また魏延が野戦指揮官として有能なのも外せない。

魏延奇襲が成功したら、政治情勢が変わった可能性もなくはない。
だが、まず勝算を提示してみせなければ、それを語る事すらままならないだろう。
647無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 03:36:11
>>644
三国志時代はというよりも、歴史的に見て蜀より天下を覆すのは至難だね。
劉邦だって項羽が皇帝であったらあそこまであっさりと天下を覆せなかったと思う。

>>645
通俗的意味合いでの軍師としての張良
官位名で決まるなら諸葛亮は軍師で問題ない。

>>646
少ない材料の中での考察は結構。自分も楽しくて好きだ。
ただ、当時において何故、誰も魏延の計略の支持者がいないのかが問題。
至近の時代の人の評価は?それ自体が答えに近いと自分は思う。
648無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 10:03:22
仮に長安を落とせたとしても、根本的な蜀の問題の
補給の困難さは変わらない。長安落としたらすぐにそこが補給地点になる、なんてものじゃないだろうし。
蜀が苦しんだのは益州からの物資移送なんだろうから。
649無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 10:11:54
>>647
何で三国志の話してるのにわざわざ紛らわしく「軍師」なんていうの?
650無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 10:29:47
軍師っていうとこんなふうにうるさいやつが居るから「参謀」とでも言ったほうが良いよ。
651無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 18:43:09
なんで演義は孔明をスーパー軍師にしちゃったんだろうな。
物語的にもそこまで孔明を持ち上げる必要ないと思うんだけど。
652640:2009/01/19(月) 18:44:53
一般的に諸葛亮が「軍師」と認識されているという通俗的意味合いをこめて、
わざわざ鉤括弧をつけて「軍師」と言ったんだから細かいことで喧嘩しないで欲しいな
653無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 18:46:33
>>651
スーパーヒーローが大活躍する話じゃないと盛り上がらないじゃない
講談から派生して700年前に成立した小説に他の物語類型なんて殆どありえないよ
654無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 19:23:24
演義の孔明はあれでも抑えられてるけどな。
平話時代の孔明は実は仙人だったとか、豆を巻いて兵を生み出すとか
とにかく物凄かったw

孔明はとにかく完璧な軍師として理想化されていったんだろうね。
655無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 21:07:18
>>652
エスパーでもなければそんなの読み取れないぞ
知らせたかったら書け
656無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 21:37:52
>>655
そのあとの、>>642など明らかに賓客と混同した、混乱している議論はともかく、
>>640のみだと通俗的な意味での軍師と十分受け取れると思う。

>>640の配慮不足というよりは、そういった細かい所を指摘したくてたまらない、
功夫の足りてない人が余計な議論ふっかけただけかと。
657無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 21:41:28
演義だと前半の劉備も結構完璧人間なんだよな。
658無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 00:07:50
>>649
諸葛亮が通俗的な意味での軍師的なポジションに居たかどうかの話題だからだよ

>>651
魏延の焼き討ち失敗、馬岱にぬれぎぬを食わす
長寿秘法の失敗とか
結構失敗してグタグタだぞ
659無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 14:26:43
>>658
前二者は演義には無いはずだが
660無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 18:12:31
>>659
李卓吾先生批評の演義とか読んだほうがいいよ
諸葛亮の汚いやり口が分かりやすく書かれているから
661無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 19:01:50
>>642
劉備を失った国の国是として民心をまとめるための方策の一つが『北伐』だったんじゃね?
少なくとも、大規模な軍事行動を起して現場指揮官に収まれば、蜀の軍権は完全に掌握できる訳だし。
662無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 19:13:49
劉備を失った国を纏めなきゃいけないのならそれこそ
また呉征伐の方がしっくり来ると思う。

劉備は呉と戦争して負けてそのままだったわけだし。
663無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 19:26:55
呉とは劉備が講和したよ
664無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 19:56:07
>>659
>>658はかなり悪意を持って書いてるけど、
演義にあるエピソードだよ。むしろ演義にしか無いエピソード。
最後の北伐のときに、司馬懿を谷におびき寄せて焼き殺そうとしたときの話。
一緒に魏延も焼き殺そうとしたけど、突然雨が降ってきて火が消えて司馬懿も魏延も脱出できた。
その後、魏延が「話が違う」と文句を言うと、「あれは火を放つ馬岱が勘違いしたんだ」と弁解。
665無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 20:27:36
いや、ないと思う。
五次北伐で、魏延が司馬懿を谷に誘引し馬岱が火をつけたが驟雨のために失敗した、という話はあるが
諸葛亮がそれに魏延を巻き込んで暗殺しようとして失敗すると馬岱のミスにした、というような話は演義には無い。
666無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 20:38:08
嘉靖本には有る。毛本には無い。
吉川先生は嘉靖本からもネタ取ってるのか、吉川三国志には件のエピソードが出てくる。
667無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 20:42:35
書かれた年代的には嘉靖本より毛本のほうが後。
他に毛本は、羅貫中本と比べて諸葛亮、関羽が美化される加筆修正が多い。
顔良関羽の一騎討ちのときにときたま話題になる、
「顔良は劉備から関羽のことを聞いてたから油断していた」ってネタは毛本以前の版にあったもの、らしい。

顔良のエピソードなんか削って良いものだと思うけど、
諸葛亮魏延焼き殺しとかは残ってたほうが面白い話だった気がする。
668無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 20:50:34
なるほど。版本の差は探してたけどネットじゃ調べられなかった
669無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 21:32:03
カント前の群雄割拠時代に劉備に味方する軍師がいればな。
もう少し有利に進められたんだろうけど。
670無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 21:35:09
陳羣は劉備に「徐州は災難が多いから陶謙の後釜には座らないほうがいい」とか言ってた気がする。
いちおう史書的には、従わなかった劉備は結局徐州を追われました、という筋書き。
671無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 21:44:37
顔良の件は平話の話
672無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 07:50:12
>>670
んなこと言ったってそもそも地盤得なきゃ何も始まらないじゃんw
それに陳登や麋竺ら別の軍師たちは徐州の主になれと勧めてたわけで
673無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 08:18:13
>>661
劉備亡き後を纏める為に国是を強調したのはその通り
だけど劉備は入蜀理由からして北伐意図を強調しているのだから
亡き後に出来た国是ではないよ
674無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 08:53:36
>>672
陳登、麋竺は軍師じゃなくて徐州側の人間で、劉備に頼み込んだ側でしょ。
675無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 10:36:24
陳登は徐州LOVEだからな
呂布を蹴り出し孫策を追い返しと徐州を攻めようとする奴はことごとく陳登にやられる羽目になるんだ
676無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 10:57:13
>>664
吉川(横山)の創作だろ
677無名武将@お腹せっぷく:2009/01/21(水) 11:52:02
ちょっと前のレスくらい嫁
678無名武将@お腹せっぷく:2009/01/22(木) 00:48:17
>>612
太平記を筆頭に上げちゃいかんだろ。
三国志の史料の筆頭に演義上げるようなもんだぞ。
679無名武将@お腹せっぷく:2009/01/22(木) 23:00:03
三国志で一番規模のでかいのってやっぱ赤壁なの?
それでも10万はいかないよね。
680無名武将@お腹せっぷく:2009/01/22(木) 23:05:23
一番大規模なのは征呉戦
681 [―{}@{}@{}-] Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/22(木) 23:22:25
規模というのが兵力を意味しているのなら、恐らくは諸葛誕の乱が最大だろう。

諸葛誕の反乱軍が約10万、それを支援する呉軍も約10万を投入し、
魏側は26万もの戦力を投入してこれを鎮圧している。
寿春の芍陂辺りから項まで地域に両軍合わせて50万もの戦力が集中した戦い。
682無名武将@お腹せっぷく:2009/01/22(木) 23:39:24
犬とは言え腐ってもさすがは諸葛氏だな
683無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 00:38:27
>>678
演技は大衆向けの物語だ、太平記は文学だ
684無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 00:51:35
演義も文学になっちゃってるよ
歴史は凄いね
685無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 01:27:52
馬謖が斬られた理由がようやくわかった。
686無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 08:51:27
>>681
まじで。それはしらんかった。諸葛誕なんて結構
スルーされてるからな。そんな大反乱なら蜀にとっても大チャンスだったのにな。

ていうかよく反乱で10万もあつめられたな。
687無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 13:30:53
一応、司馬氏を脅かしかねないほどの存在だったんだし。
都督揚州諸軍事・儀同三司、征東大将軍閣下でございますから。
688無名武将@お腹せっぷく:2009/01/23(金) 16:44:31
魏でそこまで上り詰められたんならもしかしたら諸葛亮より凄かったのではあるまいか
689Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/23(金) 22:17:48
ケ艾の済河論が容れられて以来、淮水流域には4,5万の兵が屯田していた上、
あの辺りは魏の一大穀倉地帯だった。
都督の擁する兵だけで4,5万あったし、諸葛誕が10万を集められたのは、
彼個人の資質と言うより、都督揚州諸軍事だったから、という事の方が大きいと思う。
690無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 00:45:37
26万VS10万&10万でしょ

かなりの接戦じゃん。もっと無謀な争いで諸葛誕は
すぐに鎮圧されて、蜀が出る隙がなかったと思ってたんだけど
これだけでかい戦だったらどう考えても蜀も出るべきでしょ。
6万ぐらいを出撃させればかなり有利になれたんじゃないかな。
691Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/24(土) 00:52:16
軍を寿春に出せ、と言う意味なら、どこでもドアか何かが無い限り無理な話だ。
雍州に対してだったら、実際に姜維は軍を出している。
692無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 02:32:19
いやー
まるで、その場を直に見てきたかのようなレスばっかりだ

妄想って楽しいんだろうなー
693無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 17:01:32
>>689
やっぱり、ケ艾って中国史上最高の土木ヲタクなの?
694無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 21:22:22
ケ艾って多分 曹操と同等ぐらいの戦上手だと思うよ。
695Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/24(土) 22:01:12
>>693
流石に他時代と比較してどうとかってのは分からないな。
ケ艾はもとが農政系の下っ端役人で、知らない土地に行くと参謀旅行みたいな事をする男だった上、
都督になっても自ら鋤を持って土地を耕したり、長城の修復もしてたから、
土木工事オタクでもあり軍事オタクでもあるな。
696無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 22:24:23
植村直己並のガッツとテクニックを持ったクライマーだお
697無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 22:54:02
キャラ的には非常に面白い。
結構後世の民衆に人気が有ったそうで。
「子供たちはお客のことをまるで張飛の虎鬚のようだとか、まるでトウ艾みたいにどもりだとか囃し立てた」
みたいなのが有った気が。

演義が定着すると人気無くなったみたいだが。
698無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 22:57:35
司馬一族の暗さに比べたら好感持てるけどねケ艾は。

シバイ コウメイ リクソン

あたりは暗くて性格悪そうでいまいち好きになれない。
699無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 23:40:41
じゃあ陽気な軍師って誰?
郭図?李儒?
700無名武将@お腹せっぷく:2009/01/24(土) 23:42:37
>>699
ほっとけばいいよ
701Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/25(日) 00:41:51
そういや、劉備スレなのに劉備の戦争とかについてあまり話しとらんね。
スレ違いの話題が多いんで、あやうく劉備スレだというのを忘れるところだった。
702無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 01:27:20
>>699
>陽気な軍師
トム・マンソン(17)米国籍。
ユタ州ソルトレークの人。
ミドルネームはグリーン。
隆中のケンタッキーフライドチキンでアルバイトをしている所を劉備にスカウトされる。
「天下、スリー、分ケル、勝ッタモ同然ネ。hahaha!」という発言でも有名。
703無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 04:14:50
後半の兵力インフレぶりはドラゴンボール並だな。
704無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 22:02:36
後半のほうはチンジュはいい加減に作ってると見た。
諸葛誕の乱も司馬一族を持ち上げるために大反乱に
描いたんじゃないかな。
705無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 23:38:28
牧や都督諸軍事級が首謀し一年以上に渡る大反乱なんて
三国時代で一件しか起きてないんだけど
706無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 23:42:29
諸葛誕の乱は魏側の将や大臣たちの曹氏への忠誠心がもう少し篤かったらどうなっていたことか
707無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 00:38:24
なんとなく石田三成思い出すね
708無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 01:25:50
諸葛丞相って文官なん?
丞相って軍隊の統帥権まではないだろうから文官のトップということなんだろうけど
でもこの人なんかヘマして右将軍になったよね?将軍職の時は武官扱いなんだろうか?
709無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 01:32:28
丞相は万機を司る。政軍全てを掌握し主君を補佐する宰相。

諸葛亮は丞相になるまで、軍師中郎将・軍師将軍・左将軍府事だから
官歴としてはむしろ武官の経験しかないと言えるね。功績も軍事が主体。
蜀科の制定など法務にも関わっていて、蜀漢の政府機能を構築した
中心人物の一人だろうけど。
710Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/26(月) 02:06:33
>>706
正直言ってタイミングが悪すぎるね。
どうせやるなら毋丘倹の時に何とかすればよかった。

あの頃なら、丁度姜維が西方で勢いづいていた頃だし、
揚州と豫州で大規模にやれば、実際どうなっていたかは分からないと思う。
711無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 02:12:44
言い方を変えると、それくらいほとんどの大臣・将軍たちの心は魏から離れていたということだな

まあ、「形だけの皇帝を傀儡にしても実力さえあればイイ」ということを世の習いにしたのはほかならぬ魏の太祖だから、因果応報ということなんだろうな
712Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/26(月) 02:22:44
まぁ、あの頃には司馬氏に阿る層が拡大していたからね。
毋丘倹らが反乱を起こす際の上表でも、司馬師の悪逆振りをこれでもかと言うほど連ねているにもかかわらず、
一方で司馬昭や司馬孚、司馬望を絶賛し、司馬昭に司馬師の代わりをさせるよう述べている。

反乱に踏み切るような人物であっても、司馬氏全てを政権中枢から駆逐できるとは思っていなかったのだろうな。
713無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 21:18:47
司馬昭に代わりをさせろってのはない頭なりに兄弟の離間を計ったのでは?
714無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 22:05:50
劉備が孔明欲しかったのは純粋に後継者が欲しかったんじゃないかな?
関羽 張飛 趙雲あたりは決定的にトップに立てない欠点あったし
俺の劉備イメージって相手を見抜いて伸ばす褒め方が出来る才能と思ってる
その分欠点は治せないって感じ
だから自分自身や息子に期待出来なかったため
政治方面に長けて公正に裁判出来そうな孔明を欲した…とか
ここの板に居る人はど知識は無いけど語りたくて
脳内妄想書いてみた
715無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 23:11:38
>>714
カンウはTOPに立てる器だが。
716無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 23:57:49
登用した最初から「後継者」を期待したかというと疑問だけど、
結果的に諸葛亮は劉備陣営士人グループの中で、
比較的古参かつ名声と実務能力を兼備する雄として一足飛びに出世していくことになるね。
他の部下達は古参で実力もあるが名士としての求心力には落ちる武人だったり、
補佐は良くても長吏としての実績経験が無かったり、
名士だけど実務能力では及ばなかったり、
後発だったり早世したりで、結局諸葛亮と競える人材はいなかった。

名士としての名声なら、荊州当時ホウ統の方が遥かに上のはずで、
なぜ劉備が諸葛亮を同格の軍師中郎将にまで大抜擢したのかというと、
よく判らないけれど。
孫権との同盟は勿論、荊州平定戦でよほどの活躍をしたと見るべきなんだろう。
717Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/28(水) 22:52:20
劉備は何度か根拠地を失ったけど、過去の根拠地喪失と諸葛亮加入以降で違うのは、
荊州では流浪する事となった劉備につき従う人々の中に、所謂名士も多数含んでいたという事。
その時期に劉備幕下に加わった人々の多くは諸葛亮との関わりが認められるので、
徐州や豫州を失った時と荊州との違いの理由を諸葛亮の存在に求める事ができると思う。

しかしながら、それだけではないだろう。
諸葛亮の存在以外にも、荊州とそれ以外との差異として、劉備が一ヶ所に長期間留まっていたという事が挙げられる。
荊州の豪傑が日毎に劉備のもとに集うようになっていった事は先主伝にある。
劉備のカリスマ性によって、それまでは郷里を離れてまで劉備に従う事の無かった層までもが劉備に従うようになり、
曹操や劉jに従わず、南郡以南を以って劉備を奉じようという気にさせる事ができたんだろう。
718奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/28(水) 22:57:58
素人が口を挟んでごめんよ。
諸葛亮が琅邪出身ゆえに徐・豫州系の配下がある程度抑えられたという面はないのかな。
719Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/28(水) 23:18:17
荊州以前からの劉備家臣で徐州、豫州を本貫とするのは、劉琰、麋竺、麋芳、陳到の四人。
劉琰も麋竺も実権は無かったものの厚遇され続けている。
劉琰はその性質ゆえに北伐への随行を許されなくなり、
妻の胡氏と劉禅との密通を疑って鞭打った上に離縁した事が原因で処刑されたが、
麋竺は終始厚遇され続け、息子や孫も中軍の重職に就いている。
陳到も永安都督という重責を担っているし、彼ら三人が抑圧されている様子は無い。
麋芳に関しては関羽との軋轢はあったものの、南郡太守という重職を担っていたし、
呉に降るまでの間で抑圧されていたという事は無いだろう。

その後に加わった者では許靖、袁綝が豫州出身。
許靖は初め劉備に軽んじられたが、法正の進言以降は重用されている。
諸葛亮も許靖を尊敬していた事は書かれているので、抑圧されていたという事は無いだろう。
袁綝も陳到同様軍事に関して栄達し、前将軍、或いは征西大将軍にまで昇っている。

いずれにせよ、徐州や豫州の人間が抑圧されていたと考えられる材料はないと言って良いと思う。
720奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/28(水) 23:24:25
あり。
逆に強くなりすぎるはずの地元出身、益州勢を抑えきれたのだろうか。
721Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/28(水) 23:38:43
渡邉義浩氏の論文では、諸葛亮は益州攻略当初、法正の重用に対抗する為、
益州在住の荊州人を積極的に引き立てると同時に、益州人を抑えるような態度を取っていたものの、
荊州が失われ劉備が崩御すると、それまでに形成した荊州人中心の名士社会に益州人を取り込み、
蜀漢独自の名士社会の形成に努めた、となっている。

この考えをそのまま受け入れる必要は無いと思うが、実際諸葛亮輔政期には、
費詩や楊洪、李福、馬斉、馬忠、龔禄、姚伷といった益州人が出世しだしている。
722奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/28(水) 23:40:13
>蜀漢独自の名士社会

実はトップが張飛だったりしないか。
723無名武将@お腹せっぷく:2009/01/28(水) 23:41:02
益州勢といえば、蜀末期で魏に抵抗した面子の中に益州出身者が少ないよね。
「わしらはジモティだから蜀漢に拘らんでもええわ」的な考えはあったのかねぇ。
724Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/28(水) 23:43:35
何故?

諸葛亮が法正の後任として推した劉巴は、彼の形成しようとする名士社会の中心になるべき人物だが、
その劉巴は張飛を兵子と侮り、軽んじている。
張飛を中心とした名士社会を形作っていたとは思えない。
725奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/28(水) 23:47:19
劉巴がどう詰ろうと、張飛は存命なら外戚の親玉になっているわけだ。
益州閥という団体で考えれば呉懿は余所者だろう。
益州勢は名士であっても貴族階級より下位扱いされてはいないか。
726可児工船@牢屋王 ◆uQWI4mjiOs :2009/01/28(水) 23:58:47
黄権も結局は戦場に殉じず、曹丕の前で死にたくなかったと
はっきりといってのけてますね。
この人は後に車騎将軍、儀同三司にまで上りますが、
魏では最初から最後まで、劉備ネタを利用し尽くして出世したようなものですね。
727Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/29(木) 00:00:18
>>723
益州には蜀学と呼ばれる讖緯の学があり、そこでは漢に代わるものは魏であるという考えがあった。
政権が求心力をなくせば、そういった考えが再び頭をもたげてくるのは自明だから、
自分たちが郷土に規制力を持っているという事以外にも、魏に与しようという理由はある。

>>725
外戚である事と名士社会の中心である事には何の関係もないと思うが。
あと、その「貴族階級」が具体的に何を指しているのか不明なので、何を言っているのか理解できない。
西晋の頃より勃興した所謂貴族という存在は、蜀漢では形成されなかったし、
外戚を指すとしても、外戚が厚遇された事を以って、蜀漢名士社会で益州人が抑圧されているとは主張できない。
728奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/01/29(木) 00:04:25
なるほど、外戚と貴族は違うんだな。
オレの認識が間違っていたなら忘れてくれ。
729無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 00:39:18
>717
>過去の根拠地喪失と諸葛亮加入以降で違うのは、

当陽敗北後の劉備の政治状況を「諸葛亮加入後」と表現するのは、
諸葛亮を過大評価しすぎだろう。
諸葛亮は、当初「時の人これを許すもの莫く也 」と、士人社会に認められた存在ではなかった。
諸葛亮が名士としての求心力を発揮し始めたとしたら、むしろ、当代屈指の著名人である劉備によって
高く評価され高位に遇されてからだろう。
軍師中郎将・督三郡として劉備に信任され、業績を挙げるうちに
劉備陣営に取り入る窓口として荊州士人が諸葛亮と交わりを持った、と。
荊州人が劉備に帰属していったのは、孫権の支援と曹操に対する勝利、督荊州劉備・荊州刺史劉gというコンビ、
何より荊州南部の実効支配力によるものであり、
ホウ統、伊籍、劉巴(この時は失敗)など、劉備自身も基盤の安定のために名士の招聘を行っている。
当然その時になって初めてのことではなく、徐豫州時代も同じようにしただろうけど。

諸葛亮は地位としてその劉備陣営士人グループの筆頭近くにいたにしても、
諸葛亮個人が(張昭や荀ケのように)人を集める「名士」として機能し、
諸葛亮もそれによって自分の派を形成し始めるのは、もっと漸次的な後のことのように思える。
730無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 00:54:17
>>729
およばずながらも同意。
731無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 01:07:51
>>729
>諸葛亮は、当初「時の人これを許すもの莫く也 」と、士人社会に認められた存在ではなかった。
これは諸葛亮を見出した劉備凄いメソッドだろ
士人社会で認められてないなら黄承彦の娘を貰うなんて出来るかね?
ただの晴耕雨読してるボーイを何で黄承彦が見初めるの?
もし認められてないならそもそも嫁はくれないし、嫁をくれたって事は時の人が認めた証拠でしょ
少なくとも諸葛亮は黄承彦のグループの中核に近い部分に所属してたということになる
732無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 01:13:06
黄承彦は荊州のビッグネーム蔡氏から嫁取りしてる
諸葛亮だって蔡氏と遠縁くらいにはなってるのよね
さらに劉キが困って相談した相手は諸葛亮だけど相談理由は凄い人だと見込んで
この時点で、諸葛亮は非主流派ではあったけど結構大きなグループを形成してたってことが容易に想像できるじゃん

>>729の言う「士人社会に認められた存在ではなかった」はどう見ても間違ってる
733無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:15:36
諸葛亮が黄承彦の婿になった時期は解らないよ
734無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:24:35
劉gとの交流を見ても解るように、別に諸葛亮は世捨て人などではなく、
襄陽付近の社交界に出入りする普通の士人だった。
いわゆる「就職活動」も行っていただろう。だが、その能力を認める者は少数だった。
徐庶に紹介されたという三国志本伝の説を採用しても、
諸葛亮が先に劉備を訪れたという魏略の説を採っても、
初め諸葛亮の名声が高くなかったことは看取できる。

先に諸葛亮に名士としての名声があり、それを当てにして劉備が招聘した、
荊州人士も諸葛亮を頼って集まった、というなら、陳寿らはただそのように書けば良い。
類例がごまんとあるように、それは諸葛亮の「すごさ」を強調することになっても、
低める書き方にはならないのだから。
735無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:27:09
河南の名士が南陽辺りに居る時以外どうやって娘をくれるんだ?
それとも黄承彦も劉備たちに付いてきて益州入りしたとでも主張するのかね
736無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:28:55
襄陽人が大挙して曹操を離れ劉備の元に逃れたという記事が有る
益州まで行ったという記事は無い
737無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:30:53
>>734
人相見で有名なホウ徳公が「伏龍」と評した人間の名声がどうして高くないと言うんだい?
738無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:31:42
>>736
河南の名士だから襄陽の人じゃないぞ
739無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:40:19
襄陽記に記される黄承彦という人物はベン南の名士
ベン水というのは襄陽の北、樊城の南に流れる川
740無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:48:34
>>737
自分にはそちらこそ「諸葛亮凄い」メソッドに見える。
劉備に仕えるまで何の関係も見られない諸葛亮とホウ統を同列に評したりね。

司馬徽などは人を実態より高く評価した人物だといわれ、諸葛亮を評価したというのが跡付けではないにしても、
それに同意する人間が少なくては「名声」にならない。
実際、劉備に見出された際にも、その仕えた初期にも、諸葛亮の名声が役に立ったという記述は無く、
政治的効果が司馬徽らの評価と符合しないわけだから。
741無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 02:53:43
>>740
ごめん、人を大きく評価したのは司馬徽ではなくホウ統その人だった
742無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 03:09:04
>>739
おお、今見直したら河南じゃなくてベン南だったわ
これは大失敗だ、申し訳ない
ただ、諸葛亮は仕官時にはもう20代後半で当時の士人としては結婚してないと不自然な年齢だ
曹操の南下以後に結婚したと主張するのは苦しくないか?

>>740
名士層における人物鑑定ってのは他人の同意が必要なものではないだろ
人物鑑定で有名な人物がAと言えばAという評価が定着するし
Bと言えばBになるのが当時の人物鑑定ではないか
743無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 03:11:50
劉王炎って車騎将軍だったけど、確か車騎将軍は皇帝の縁者しかなれないんだよね?
744無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 03:16:53
>>743
程cが曹丕の縁者だとは知らなかった
745無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 07:30:15
司馬徽や鳳徳公が諸葛亮や鳳統を評価したというのはいずれも地方史である襄陽記の記述だから
「諸葛亮すごい」じゃなくて「あの劉備や諸葛亮の不遇時代に知り合いだったなんておらが故郷の人物すごい」
というアピールだな。だからといって創作だとは言えないが

>>742
名士に評価されたことで名を挙げた場合、史書には「当時まだ●●を評価する者はいなかったが
名士の××だけは●●を丁重に扱った。それによって●●の名は世に知られるようになった」
というパターンが常。鳳統伝にもある。諸葛亮にはそれが無く、襄陽記の司馬徽・鳳徳公が評価したという
単発の記述だけで後に繋がらない。記載の漏れという可能性もあるにはあるけど
746無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 07:37:33
>>742
嫡男誕生が結構遅いから正妻もらったのはかなり後だったかも知れないよ
当時の常識として不自然だからってだけでは弱いだろ
孔明の嫁選び自体が見習うなかれと常識からかけ離れてると揶揄される対象になってたのに
747無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 07:44:09
>>743
後漢では、権力を握った外戚が車騎将軍になって中央の軍権を掌握するのが慣例になっていた。
資格が上がれば大将軍になる。
張飛はその慣例に倣ったものだろう。その上に丞相がいたから張飛は権臣とはいえないだろうけど。
748無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 08:53:31
張飛がやりたい放題なのは位が高いからじゃないぜ
張飛だからだ
749無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 11:36:58
>>746
嫡男誕生の前に養子貰ってる
もし正妻貰ったのが遅いだけなら兄の子供を養子にゃせんよ
750無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 11:39:06
>>745
あの既に政務に深く携わる前から劉キに丁重な扱い受けてるだろ…
751無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 16:12:47
荊州の有名どころに縁戚が多いから亮かどうかはともかく
諸葛氏にはそれなりのネームバリューがあったんだろうね
752Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/29(木) 20:24:59
話が進んでしまっているので、何から言って良いのか分からないが、
俺は初期の諸葛亮に関しては渡邉先生の論文を踏まえているので、
諸葛亮は、龐悳公や司馬徽を中心とし劉表政権とは距離を置いていた、
渡邉先生の定義する襄陽グループ内では一定以上の名声を持っていたと考えている。

そして襄陽グループ側から、荊州内での勢力拡大を目的として、
或いは劉備の方から、劉表と決定的な対立を生む事無く勢力基盤を確保する為、
襄陽グループと劉備勢力との間での接近があったと。
ただ、「先主江南に奔り、荊楚の羣士これに従うこと雲の如し」とあるほどの影響力を、
襄陽グループが有していたかという事には疑問があったので、
そこを劉備のカリスマ性に求めるという意味での>>717だったんだな。
まぁ、前段の説明が不十分だったけどね。
753無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 21:38:38
面白いな
754無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 22:12:48
>>752
そのグループの規模や当時の諸葛亮の地位は置いといて、
劉表政権に対抗する「襄陽グループ」というのは面白いと思う。
207年頃の劉備・劉g・諸葛亮の関係にも当てはまる。
その後、そのグループは曹操の南下と何より劉表その人の死によって分裂してしまったのだろうね。
肝心の襄陽を抑えられてしまっては全ての人間が南に逃れられるわけがないし、
徐庶、石トウらは北へ赴き、ホウ統は呉へ逃れ、崔州平、ホウ徳公、司馬徽らの去就も不明。
劉表時代に諸葛亮と交流があったと明記されていて劉備の元に残ったのはゼロという状況だ。
劉備陣営下で、諸葛亮は自分の人脈を作って荊州人士を掻き集めなくてはならなくなっただろう。
逆に言えば、襄陽グループが崩壊したからこそ、三十そこそこの諸葛亮が劉備陣営士人派の中で
ほぼ頂点に立つことができたのだろうな。ホウ統が生きていたら強力なライバルまたは同盟者になっただろうけど。
755Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/29(木) 23:20:01
>>754
龐徳公は行方知れずになったらしいが、子の山民は諸葛亮の姉を娶っているにもかかわらず魏に仕えている。
龐統は徳公の従子だし、向朗も司馬徽や龐統と親しかったようなので、
彼らも襄陽グループと言えるかもしれないが、二人とも劉表に仕えている。
襄陽グループ内でも、劉表や曹操に対する態度に温度差があったように思えるね。

あと、龐統が呉に走ったという話の出所がよく分からんのだけど、
周瑜の遺体を呉に送った事に依拠しているのだろうか?

曹操に仕えなかった事から見て、龐統も向朗ら同様、「雲の如く従った」中の一人だと思うけど、
その後に劉備ではなく周瑜を選んだかどうかは、
周瑜の遺体を運んだ事だけでは分からないと思う。
756無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 23:37:32
出所は江表伝の周瑜の功曹だったという話じゃない?
南郡の支配は劉表→曹操→孫権→劉備と変わっていたけど
単に今の職場を選んでそれに従ってただけだと思ってた。
曹操に仕えなかったという記述はあるんだっけ?
757無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 23:39:17
>>755
ホウ統にはそれほど思想的拘りはなかったのではないかな
郷里の襄陽から逃れはしたけど、その後は単純に、荊州を所有する勢力を頼っただけに見える。
周瑜の遺体を送ったのは仕えていたというより賓客のようなものだったのかもしれない。
ともあれ、諸葛亮とホウ統が志を同じくしていたとは言い難い。
いや諸葛亮の「志」というのもどんなものか微妙に不分明な話だけど。

姻戚や兄弟関係はこの時代、今の感覚と大分違ったようだね。それぞれが独立した一家を持っているわけだし、
親子でもない限り勝手に所属を選ぶけど、敵対勢力に所属したからといって断絶するわけでもない
ある種の強固さがある。同郷とか旧友とかもそうだけど。
三国が建国されると、敵方に走るのは「賊」となってしまうのでまた話は別になってしまうが。
758無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 23:41:25
>>756
あ、功曹と明記があったか。ありがとう
759Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/29(木) 23:46:14
>>756
おお本当だ。忘れていた上に見落としていたようだ。

そうすると、「後に郡が功曹と為した」ってのは南陽郡ではなく南郡なのかね?
渡邉先生の論文で龐徳公やら龐統やらの本貫が南郡になっていたのはそういうわけかもしれない。
とすれば、本郡に戻って功曹となった後は何処かに移ったわけではなく、
雲の如く従った郡士でもないという事になるな。
760Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/30(金) 00:02:36
>>757
徳公の態度はまさに隠者で、劉表だけでなく曹操にも仕えなさそうな感じだけど、
子の山民はその境地には至ってなかったみたいだね。
鹿門山から降りたら襄陽を曹操が治めていたのでそのまま仕えたってところかね。

劉備も司馬徽のもとは訪れた記述があるが、徳公のところには行った記述が無いし、
山民は劉備とも会ってないかもしれないしね。
761無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 00:05:52
龐統が有力な在地領主だったような流れだな
762無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 00:16:16
ホウ統も徐庶も諸葛亮も
地元の領主からお誘いが無い

周瑜も魯粛も張昭も荀イクも荀攸も郭嘉も主立った人物、
地元に影響力(名声)のある人物は
皆、地元の領主に士官の声をかけられている

そして知恵者は君主を選ぶというエピソードに使われる
763無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 00:28:55
その実、敗者に組した人が述べられていないだけだよな。
あの荀ェですら数行の登場だし、それ以外の人物は察するまでもないわけで。
764無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 00:46:58
>>760
後漢当時なら襄陽県は南郡の所属だから
献帝の制度下で襄陽郡が南郡から分かれたのは、晋書によると建安13年だから
丁度208年だね

>>762
諸葛亮は陳寿によれば能力を認める者がなかった
徐庶は単家の出身で尚更拠り所がない
ホウ統はよく判らないが、その名声は呉まで届いていた。
渡辺氏の説によれば三人とも非劉表勢力に属していたからだとなるけど。
まあ少なくとも劉表と冷淡な関係にあった司馬徽と懇意にしていたならお呼びがかからなくても不思議ではないかな
765無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 00:56:30
探したら、司馬徽と関係があって劉備に付いた荊州人というと、向朗がいた。
徐庶、ホウ統とも親交があったという。
これも襄陽記の記述だけど。
766無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 01:36:53
劉備と関係ないけど黄祖って
劉表政権でどういうポジションで荊州人士の中ではどういうポジションだったの?
黄忠と親戚って本当ですか?
767無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 03:31:41
>>766
イメージは
『対孫家の要』
768無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 07:14:49
>>766
荊州人だったかもわからない
769無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 13:21:53
まあ黄氏は春秋戦国の時代から荊楚の人でチラチラ見えるので
多分荊楚の人ってことでいいと思うよ
770法正:2009/01/30(金) 22:04:56
孔明がいても天下取れなかったんだから「劉備は別に孔明を
仲間にしなくても良かった。」っていう、スレかと思った

3分の1だけ天下取ったぞとか言う屁理屈は無しな
しかも三国の中でぶっちぎりで蜀の領土が少ないし
孔明にはがっかり
771無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 22:08:56
軍事参謀長の立場にあり、当時も劉備の傍にいながら
荊州失陥を予見できなかった人がいたからw
772無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 22:12:53
>>771
誰の事だろう
荊州が降伏した時はまだ無官だった諸葛亮じゃないよな
773無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:17:51
>>764
ホウ統は孫権に呼ばれてないよ
そう考えるよりも司馬徽のグループの規模が小さいと考える方が素直と思うが
荊州をどうこうできるような名士集団ではなく、名士達のグループのひとつ

劉キが諸葛亮に教えを請うたのも
劉備が認めた知恵者でいいんじゃね?
オバマが才能があると、周りを説得して無名の学生を抜擢したら
その日から若者は知恵者と評判になると思うのだけど
774無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:37:55
>>773
司馬徽グループの件は別として、
ホウ統が劉表などに招聘されたという記述がない理由はよくわからないが、
赤壁後の当時既にホウ統は荊州で名を馳せた「名士」だった。
なので、陸勣、 顧劭、全jといった当時呉の名族の若者達と親しく交際できた。
ホウ統が高く評価されるよ司馬徽の評をきっかけとするというし、
益州から李センらが教えを
司馬徽個人は相当名の知れた名士だったのは間違いないだろう。

グループの話に戻すと、私見では、
1.あくまで学問派閥であって、劉表との政治対立や
劉備の抱き込みを図ったわけではない(人材売り込みはしたけど)
2.諸葛亮が司馬徽に高く評価されたといっても、
劉備に厚遇されるまでは他の荊州士人一般の同意を得られたわけではなかった
くらいの所かと自分なりに整理し直した。
775無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:39:43
コピペ変なミスり方したごめん

ホウ統が高く評価されるようになったのは司馬徽の評をきっかけとするというし、
益州から李センらが教えを 請いにくるほどだから、
司馬徽個人が相当名の知れた名士・学者だったのは間違いないだろう。
776Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/01(日) 02:30:13
龐徳公や司馬徽のグループは、恐らく劉表を意図的に避けていたと思うよ。

劉廙は司馬徽と交流があり、恐らく彼も徳公のグループに属する人物だったと思うが、
その兄の劉望之、そしてその友人二人は、直言を嫌う劉表によって殺された。
襄陽グループが劉表を避けるのは当然の事のように思う。
兄の死の少し前、劉廙は兄に対して、知恵を隠すか外の地に逃げるかすべきと進言したが、
襄陽グループの理念はこの劉廙の言葉の中にあるのだと思う。

諸葛亮が知られていなかったというのも、劉廙の言葉にあるように、
劉表に知られぬよう、その名声を襄陽グループ内に留めるよう図っていたからかもしれない。
それが劉備の出現によって、劉表を介す事無く襄陽グループの勢力を拡大できる機会が生まれたという事だろう。
777無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 02:43:56
司馬徽にとっては優秀な弟子でも
他の人士にとってはデビュー前の無名の若者だったとか
778Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/01(日) 03:04:54
襄陽記に拠るなら、臥龍という評価は龐徳公の付けたものであり、
襄陽グループの旗頭とも言うべき徳公に評価されたのだから、
グループ内では当然知られていただろう。

そもそも、「時人莫之許也」は、あくまで諸葛亮が自らを管仲、楽毅に比していた事に対してであって、
彼が当時の人に知られていなかったという意味ではないだろう。
彼自身は名声を高めるような行動を取るわけでも仕官するわけでもなかったのだから、
彼の名や龐徳公が評価した事、その臥龍という異名などが伝わっていても、
古の名宰相に比肩する人物とまでは認められていなかったというだけだと思う。

劉廙と諸葛亮は同じ集団に属していた上に年も近く、彼の兄に対する進言も耳にしていたかもしれないし、
劉望之の友人二人の死を見て、劉廙と同じ事を思ったかもしれない。
なればこそ、まさに臥龍という名に相応しく、極近しい人間以外には、
自らの能力を隠していたという事だったのではないかと思う。
779無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 09:04:05
>>776
別に劉表だけじゃなくて孫権でもいい
それに司馬徽は劉表まで名声は届いている
諸葛亮、ホウ統、徐庶、その他弟子には
そのようなエピソードが無い理由が
避けているだけでは説得力が無い

その証拠に張昭等、当代の名士は避けているにも関わらず
勧誘が激しい
780無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 10:03:17
名士層を左右する中心グループではない証拠が
諸葛亮を登用した劉備の扱いにあると思う
名士層を取り込む為に諸葛亮を得たのであれば
諸葛亮を高位にせざる得ないはずだが
史実を見る限り、
逆に劉備は諸葛亮を高位にする為に奮闘している

また、劉備と諸葛亮の蜜月の姿に良く似たエピソードが劉備にはある
曹操と劉備の蜜月である
この時曹操は劉備を評し「考える速度の差はあれ自分の同等の知恵者である」としている
劉備もまた、諸葛亮に似た評価をしたのであろう
諸葛亮は門地背景によってではなく、才覚を持って登用されたと考えて良い

あと行政能力を買われて云々も見かけるけれど
青二才の実績無しの若造に、行政能力のある無しを見抜くのは困難じゃないかな
机上の空論(天下の構想)は語れても、行政実務を覚えるには経験が不足しすぎている
実務よりも政策秘書として地位を得ている事からもわかると思う
781Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/01(日) 12:20:38
>>779
何の説得力が無いのよ?

俺は別に、「諸葛亮らは劉表を避けていただけで、荊州内に大きな勢力や名声があった」
なんて言ってないでしょ。
782無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 12:25:37
>>779
横槍だが、ホウ統にはそのエピソードが揃っているんだよ
・徽(司馬徽)甚だ之れを異とす
・是れに由りて漸く顯れり
・郡命じ功曹と為す
・呉人多く其名を聞く
名士によって評価され、周囲に名が知られ、官に招かれ、遠方まで名声が届いて士人と親しく交わった。
「名士」として史書に伝が立つ人物達とはとは比べるべくもないが、
ホウ統はこの時三十そこそこの若手ながら名士の基本パターンが全て出ている。

それだけに、ホウ統と比べて諸葛亮の名声の無さが浮き彫りになってくるけど
783無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 14:13:46
襄陽記って、魏略とかに比べるとフィクション度は格段に上なんじゃないの?
784無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 17:22:03
理由も無く信憑性を疑うのはルール違反。
785無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 20:56:04
正史じたいが晋のプロパガンダ的側面があるからな。
歴史書だし。せめて孔明の日記とかそこあたりの書物が
見つかればいいんだが。
786無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 21:04:15
>>785
晋に配慮はしてるが晋のプロパガンダではないぞ
私撰の書だからな
787無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 21:34:40
特に諸葛亮については、陳寿の贔屓目の可能性はあっても
過小に語られる可能性はまずないだろうね
その陳寿が諸葛亮が若い頃「名のある士」だったと一言も書かず、
むしろ諸葛氏集を奉る序言に「聞達を求めず」としてあるのは大きいな
788無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 08:40:03
チンジュと司馬遷はどっちが優秀なんだろうな。
789無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 13:07:44
>>787
竹林の七賢が流行った時代だから隠者要素はマイナスじゃなくプラスだったんじゃないか?
790無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 18:50:07
危険を避ける隠者は一つの賢者の理想形だから、
名声が無かったことを潤筆して「聞達を求めず」とするのはありえるな
791無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 19:52:44
・名声が有る場合→「有名でした」
・名声が無い場合→「世間で名声を求めようとしませんでした」
って良いように書くだろ。履歴書と同じ。
792無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 20:04:48
なんかどうとでも取れるような書き方だよね。
チンジュの歴史家としての能力を疑うよ。
793無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 20:19:30
その書き方をしている箇所を自分で読めるようになってから言うようにしよう
794無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 21:29:47
実際このスレにいる人たちってドレくらいの本読んでるの?

演義 正史はあたりまえか?

あの良く知ってるコテの人とかなに読んでるんだろうな。
ていうか漢文とか理解できるんだろうか?もうレ点とか忘れちゃったよ。
795無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 23:59:18
挑発的な物言いを好むお方ですなあ
796無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 00:08:04
正史はちくまだけど読む。元ネタ探し的なものだけど。
演義は一回だけこれまたちくまだけど読んだ。
辛い。正直演義を読むのは辛い。あんま面白く無い。
創作物が嫌いなわけではなくて、
一回日本人のフィルターかかった
小説とか漫画とかじゃないとつらい
漫画、小説>正史>演義
的な感じだな。
最近のゲームはやる根気がない。
797無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 00:50:58
正史はちくまを買ったけど失くしたので最近は専ら電子媒体
演義は物語の構造を学ぶ教材としては素晴らしいけど今読むにはちと辛いので>>796と同じ感想

一番読み込んだのはやっぱり横光三国志だねぇ
798Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/03(火) 00:55:36
三国志関連では正史類と華陽国志、水経注くらいかね。
太平御覧はあまり読んでない。資治通鑑もたまに参照する程度かな。
演義は読んでないね。
799無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 00:56:18
>>794
的外れな批判色の濃いレスに対して、
史書の記述を引き出して論理的に返答できるくらいは読み込んでいるつもり。
ただ、ハナっから聞く耳をお持ちではない貴殿に対してなんの効果もありませんが。
800無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 01:21:49
華陽国志は一級史料とは言いがたいが、県誌国誌の価値は侮れない
水経注は重要な資料で正確性にも優れている。
逆に資治通鑑は正確性において正直かなり怪しいw
昔のネタを拾って帝王学を説く教訓集なんだから
801無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 22:52:20
通鑑は唐代以降の記述は史料価値が高いんだけどね
802Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/04(水) 00:05:22
まぁ、土台となる知識は、三国志だけで十分と言えば十分だと思うけどね。
前後の時代の正史である後漢書や晋書も読んでおいた方が良いけど、
華陽国志とかも含めて、そういったものは必要な時に必要な箇所を読めば良いと思う。

重要な事は、飽く事無く史料に当たる熱意と、それをもとに考えを組み立てる思考力とかじゃないかな。
803無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 00:28:56
官制を頭に叩き込むのが先
804無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 00:34:28
官制は後漢書と晋書以外だと何を読むべき?
805無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 00:35:58
>>804
漢書百官公卿表
806無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 08:15:33
漢書は関係薄いかと思って読んでなかったな。
今度図書館で探してみるよ。
807無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 17:00:22
適当に批判したり、相槌をうったり、はちゃめちゃ自論を展開するだけなら
付け焼刃で何とかなるけど(ここは匿名だから逃げることも容易だし)、
そこから先に進もうとすれば、結局拠り所は自分の探究心と根気次第。
頑張りましょ。
808無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 21:34:21
>>804
宋書も
809無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 00:38:50
演義って結構重要だと思うけどね。

あれって講談とか言い伝えから作られてるんでしょ?
歴史書より真実に近い場合もあるんじゃないかな。
810無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 00:51:36
ないだろうね。
ある民間伝承が形成され、「大昔から伝わっていることだよ」と
語り継がれている期間は、文字に記されない場合、普通に思うより遙かに短い。
「民族起源の神話」が作られたのが半世紀前、なんてこともあるくらいだ。
三国時代の説話、特に劉備善玉物が作られていったのは、
最大限好意的に見積もっても分裂期が終わった唐代以後のことだろう。
北宋の時代には劉備善玉・曹魏の講談が成立していたと言われる。

三国志演義というものの歴史的価値というのは非常に重要だとは思うけどね。
中国文学史においては。
811無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 00:55:01
これって、正史と演義を両方知ってくると思う疑問だよな。

けど演義ができたのは三国時代の数百年後。
もし正確な言い伝えがあったとしても、そもそも途絶える場合も多いし、
たとえ残っていても、数百年を経て勘違いや脚色、捏造から、
ノイズの混ざった別物になっていると思う。
812無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 00:57:38
>>810
劉備が善玉なのは陳寿の『三国志』からだよ
陳寿は本紀(=魏)で意図的としか思えないような節略をする一方、先主伝(劉備)では劉備を皇帝にふさわしい人物として描こうとしている

皇帝になった劉邦や劉秀、司馬炎にあったような特殊な身体的特徴は曹氏には一切記録されず、劉備にだけ記録されている
813無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 01:15:05
陳寿は蜀漢の遺臣として、
王朝交代の正統を魏に置く一方で、漢の命脈を蜀漢が保存したことを否定せず、
各種の記述法から間接的に主張している。

が、そういうのは善玉とは言わない
814無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 07:52:49
チンジュ自体がどれほどの奴かわからんからな。
私情で描く奴だったかもシレン氏。
815無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 08:23:21
演義のほうが私情丸出しではないだろうか
816無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 10:25:02
>>814
それを言い出したら史書に基づく全ての歴史研究が成り立ちません。
817無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 15:59:15
陳寿がどんな人間かわからないのではなく、>>1が知らないだけ
陳寿は当時から同時代の史家達と比べても「良史である」と評価されていた
そういう評判の高い史書からこそ、
三国時代を書いた正史の中で唯一現存する書となった
818無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 17:17:45
>>810
劉備善玉論は劉淵が晋を倒したときには既にあったろう
また演義のエピソードが正史の「注」から多く採用してることも考慮に入れる必要もある
既にこの頃には曹魏の影響力はなきに等しく曹瞞伝みたいなスキャンダラスな内容でも載せられている
819無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 17:21:28
歴史と講談は違うんだから善玉とか言うのはやめてくれ
820無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 17:58:45
曹瞞伝は呉人の作だから曹操の影響とか関係ねーぞ
821無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 18:07:57
曹操の呂一家殺しも講談でも民間伝承でもなく正史注、孫盛の雑記の引用
「わしが人を裏切ろうとも人がわしを裏切ることはさせない」という台詞までまんま盗作

>>820
正史の注が書かれたときには陳寿の頃じゃ無理なエピソードでも語れるようになったという話だろ
そのときに誰が書いたとかは関係ない
822無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 18:16:47
歴史小説(という分類は演義の頃なかったが)の逸話を史書から取材して
盗作呼ばわりとか

善玉とかいう語を使うのをやめて話すと、
歴史評価としては、東晋の時代に蜀漢正統論が既に起きているよ。
中原を失った東晋が中華王朝としての正統性を維持するために、
両漢・蜀漢・晋という連続性を習鑿歯が唱えたもの。
その流れが民間に与えた影響は恐らく大きいだろう。

が、それと民間伝承や講談での劉備陣営善玉話の発生とは全然別の話だよ。
習鑿歯だって劉備らを成宜の英雄だなどと書いてはいない。
むしろ蜀漢が短期に敗亡した要因を劉備や諸葛亮に厳しく指摘したりしている。
823無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 20:47:50
ていうか当時から曹操は悪役だろ
あんな事してんだし。劉備人気は当時からあったと思うが。
824無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 21:34:40
>>822
でも晋が建った時は魏が正統って言ってたんだから
正統論なんていい加減。時の王朝の都合で変わる
>>823
むしろ劉備があんな事したのに人気があったのが三国志最大の謎
825無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 21:56:17
>>824
>正統論なんていい加減。
そんなもんだよね
おそらく朱子学の形成もあって、劉備と諸葛亮の君臣関係が称揚されたりもしたが
そんな政治的な動きが、断続的な戦乱や分裂にも拘わらずどのようにして民間に伝わり
北宋以降の講談全盛に至ったのか、というのは
興味深いけど多分まだ研究が深められていない分野だろう
826無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:05:12
劉備は徐州虐殺を救うなどの英雄的な行為も行ってるんで。人気のある英雄なのはおかしくないと思うが。
827無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:33:45
>>826
は?
828無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:39:08
劉備が正義の英雄って日本の税金が正しく使われてるって主張するのと同じくらい無理があるよね
829無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:41:36
劉備は陶謙の救援に向かって、敗れたりもしたが、
ともかく陶謙が後退してタン[炎におおざと]を保つのに一役買っただろう。
経緯が詳しい後漢書陶謙伝によると、曹操が屠城したというのはその帰り、徐州西南部。
劉備は虐殺に関与していないわけだから、それで英雄と呼ぶのはどうかな。
著しく劣勢だったはずの陶謙にわざわざ救援に来たのだから
徐州人からの株が大いに上がりはしただろうけどね。
830無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:43:00
徐州に劉備が救いに行ったのは史実だけど?
831無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:46:45
>>826
父親を殺された悲しみと怒りで鬼と化し、罪の無い数十万人の民を無差別虐殺する悪鬼曹操軍
その曹操軍相手にたった数千人で立ち向かう劉備軍
普通に英雄的だな
832無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 22:58:03
成宜は英雄と申したか
833奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/02/06(金) 23:01:14
成宜は英雄
オレが三戦に来た頃にも見た書き込みやんね。
834無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 08:16:05
劉備がやった悪行というか。儒教的に批判されるべき行為って
蜀攻めぐらい?けどこれもあんま批判されなかったらしいけど。
蜀の幹部が蜀に来てくださいって言ってるんだし名。
835無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 17:46:19
>>834
確かに劉備や孔明の悪行は蜀攻めぐらいしかないな
儒教界でもこの一事をもって論争になったことがある
836無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 18:42:19
曹操の悪行だって徐州くらいじゃん
それでも曹操は親の仇を討ったが劉備は恩人を自分で攻め滅ぼしてんだよね
837無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 18:55:53
劉璋は劉備にとって恩人ではないよ。
劉璋は劉備に対張魯戦を依頼しただけ。
838無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 19:10:54
>>837
きっと劉備の頭の中もこうだったんだろう
だから道を踏み外したことを平気でやる
839無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 19:22:48
曹操の悪行が徐州くらいってのは流石に無理があるわ
840無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 19:31:24
劉璋は劉備の恩人ではないなあ。
その逆だろう。軍事的に不安がある益州政権に、熟練の劉備が応援に駆け付けた。
だから劉表は礼を尽くして劉備を出迎えた。
この時点で、恩があるのは劉璋の方。
が、劉備はその信頼を裏切って益州を奪取した。
そのために道を踏み外した行為とされ、だから天下を取れなかったのだ、
とまで非難しているのは孫盛だったっけか?
841無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 20:53:37
ようは騙し討ち
842無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 21:02:16
劉備は下っ端には優しいけど同僚には厳しい人だと思う
関羽に似てるな
843無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 21:25:39
劉備に同僚がいたことなんて公孫サン時代だけじゃないか?
844無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 21:57:15
曹操や劉璋は同僚だと言えないだろうか
845無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:18:58
呂布迎え入れてるお人好し
846無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:44:26
呂布をうまく手懐ける良い方法って無いかな
847無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:48:55
蜀に入るまで呂布と同様にあちこち流れていたが、
武力で主を裏切ってその勢力を頂戴したこと一度もなかった。
そういう意味で呂布より用心棒としての信用度が高い。
848無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:08:31
曹操と劉備組んでた頃ってどんな感じだったのかな?
別勢力としてあんま話したりしなかったんだろうか?

英雄論とか本当にしたのかね。
849無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:35:56
関羽は入蜀を非難してたから不参加という説があるけど、
同盟国の兵糧庫を分捕るのはいいのかと
850無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:40:47
まずその説の信憑性が無いかと
多分根拠ゼロでしょ
851無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:41:16
なにそのトンデモ説w
劉備不在、主力軍を益州に収容して政権基盤を固める時機に
荊州を軍事的に任せられる器は関羽しかいない
選択の余地なしだろう
852無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:50:26
劉備にとって関羽は張飛ほど扱いやすくない存在っぽいけどな。
853無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:54:04
ドッカで当時もうカンウは独立軍として位置づけられてた
って見たな。だから孫権が婚姻関係結ぼうとしたらしいし。
854:2009/02/08(日) 02:31:24
司馬懿
曹操
蒋済

諸葛亮
劉備
法正

張昭
孫権
吾粲
855:2009/02/08(日) 02:39:17
于禁
徐晃
張コウ
張遼
満寵

張飛
関羽
趙雲
黄忠
馬超

孫策
太史慈
凌統
甘寧
徐盛
856無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 09:47:09
なにこの羅列?
857無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 12:56:15
クラウン
コロナ
アルファード
858無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 14:35:13
劉備って劉姓じゃなかったらすんなり曹操の配下になってたんだろうか?
そんでサクサク出世して五大老筆頭とかになって、曹操が臨終の際手を取って「息子を頼みますぞ・・・」とか
859無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 14:54:47
劉姓だったからこそできたって部分を削ぎ落とせば、その辺の結論は出せるんじゃないだろうか。
問題は、その部分がどこかわからないこと。
860無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 15:06:31
その時期までの劉備に皇族の裔だからって有利に働いた部分なんてまずないように見える。
この時代の他の劉氏は、父祖が名家豪族だったか、
学問などで名を挙げた名士か、自分の武勇と信望でのし上がった劉備か、しかいないわけで、
皇室に連なるという理由で史書に名が残るのは諸王くらい近い血筋でないと見られない。
光武帝の血さえ引いていない劉備に利益があったとは考え難い。

ただ、例えば董承が劉備を引き込むときに、
「あなたは皇室の裔に連なる人であり、賊臣を討つ大功を挙げれば今上陛下の親族として輔弼の位に付くことができましょう」
のような説得はしたと思う。左将軍から車騎将軍くらいになって軍事の中枢を握るくらいまったく不自然ではないしね。
861無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 16:02:20
まぁ結局「劉」って姓のおかげで権力闘争に巻き込まれてえらい目にあってるんだよね
どうも最後まで劉姓って劉備の足かせになったとしか思えない
それこそ劉備に諸葛亮が側近につけば後漢−魏を綱渡りして乗っ取りとかも可能だったんじゃないかと思うし
在野からのし上がったもと愚連隊の親玉として漢ではない新王朝をさ
862無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 17:52:46
クーデターの説得に当たって董承は劉氏という点を強調したとは思うけど、
劉氏「だから」董承に目をつけられた、という話は無いよ。
左将軍というのは当時の許昌でも有数の高官。
しかも実力経験声望付きであって、実行力が欲しい董承派にとっては最善の選択だっただろう。

しかし、王朝を立てる名分の段階になれば、劉氏というのは強い力を発揮する。
劉氏ではない劉備では、曹魏を乗っ取るのに統治の揺らぎを待つ時間が足りないし、
地方政権を立てるのも現実の蜀漢のように上手くいったはずが無い。
863無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 17:59:19
矛盾した意見だとは思うがいつまでも人の配下でぬくぬくしてようって人間に対して
曹操は「天下の英雄は君と予だ、炎症らは問題にならん」という評価は下さないと思う
864無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 19:43:44
トウショウって劉備に曹操の暗殺を頼んだけど
なにがしたかったんだ?もっと専門的に層いう事を
してきた人らいないの?なんで将軍に頼むんだ?

忍者みたいの使えばいいのに。
865無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 20:27:29
殺せば成功ってのは敵大将の首を狙う場合でしょう
クーデターならむしろ殺してからは難しい
866無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 20:53:12
仮に曹操を暗殺できたとして、その後の反響を押さえ込める地位なり名声のある人でないと
また十常侍なり董卓なりみたいなのが出てきてしまうからなのかな。
867無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 20:55:49
天下三分は劉氏という看板を最大限に利用したから出来た詐欺。
常人なら曹操に降るか孫権に降るかして終わり。
劉ショウが同族でもないやつを益州に入れるとは思えないな。
868無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 20:59:07
>>866
董卓殺した時を見れば分かるように、暗殺後の残党の暴発を防いだり滅ぼしたりする軍と司令官が必要
869無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 21:33:57
曹操に降って曹操と孫権退治して
曹操派閥、劉備派閥が出来て人気のある劉備が勝つ
って所だった可能性高いよね。
870無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 21:43:45
>>869
無いだろ。韓信と同じ運命をたどるだけ。
871無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 22:07:07
>>862
あの時代、劉氏なんて掃いて捨てるほど大量にいたしな

>>867
劉備は劉って看板は関係なく、同情させて益州入りしただけ
そして自分の愚連隊で国を乗っ取った
劉氏だから天下三分出来た、なんてのは後世の後付けだよ
872無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 22:12:41
あの寵愛ぶりを見れば
夏侯惇のポジションだって無理じゃないかもな
劉備の心根次第だけど
873無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 22:18:42
首都でクーデターを起こす場合、宮廷その他の要所と軍を掌握指揮できる実力・官位・影響力を持つ高官が複数必要になる。
権臣(曹操)を暗殺する場合、股肱の兵と切り離される殿中で狙うのがセオリーになる。
第一には車騎将軍董承その人だけど、各所に蜂起を手配するために董承が選んだ人材が、
左将軍劉備、偏将軍王服、越騎(長水?)校尉・侍中チュウ輯、議郎呉碩という面子なのだろう。
874無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 22:34:40
孔融、陶謙に気に入られたというのが不思議。
875無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 22:43:37
>>872
しかし劉備に大望がなく飼い慣らされて一生を終える程度の男だったら
そこらにいくらでもいる奴に過ぎないということで曹操の関心も引かず寵愛されることもなかったんじゃないか
876無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 23:00:20
>>874
陳登と懇意にし、曹操に厚遇され、袁紹に遠路出迎えを受け、劉表に歓待され、孫権に賢者と言われる
むしろ劉備ってそんな人間だよ。同時に実権を持たせるのは警戒されつつもね
名士にも兵卒にも好かれるというのは稀なことだろうけど
877無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 23:55:39
>>875
曹操が評価するのは内心じゃなくて能力でしょ?
自分の縮小版としてある意味オールマイティな劉備は貴重な人材じゃね?
878無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 00:11:11
劉備を曹操の縮小版とするのは乱暴すぎないか?
劉備は曹操に比べて中央にいなかったから不利だっただけで
能力的にそれほど劣ってないと思う。

おそらく曹操って劉備に司令官の位置任せたかったんだろうな。
カコウトンが総司令っぽい位置だけどあそこに劉備配置しときたかったんだと思う。
そうすればおそらく敵なしだっただろうな。
879無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 00:39:48
いくらなんでも夏侯惇や夏侯淵クラスはムリ
外様の人間にそんな要所を任せられるほど曹操の政権が安定してたのなら
苦労してないし、生きてる間に禅譲済ませてる
880無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 00:46:48
>>878
曹操は自分以外に居なかった将の将として劉備が欲しかった。
その説はなんかの本でも書いてたな。
自分と同等とまで思ってるからあれほど欲しかったって。
でも個人的には魏は親族中心だから夏侯惇クラスは無理じゃ無いかな
881無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 01:06:21
曹操が劉備に下した評価は能力は自分に匹敵するけど決断が遅いってことだったっけ?
だったら俺が決断するからそれに従ってれば間違いないってことかね?
曹操って猜疑心強いわりに人を信用するわけわかんない人だから
劉備に兵を預けて前線に配備したり後軍を任せたりしたかもね
882無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 01:38:59
決断が遅い、じゃなくて策を思いつくのが遅い、だから
策は後方から自分が出してやって先鋒を任せるとかじゃね?
883無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 01:52:21
劉備はアレだ、たぶん能力も立場も臧覇のパワーアップバージョンだ
884無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 08:20:05
けどカコウトンってそんなに優秀じゃないでしょ?
曹操は気に入ってたみたいだけど戦績とか考えると
凡将な気もする
885無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 09:41:58
レス読めよ。能力の問題じゃなくて親族であるかどうかが問題。
極端な話、劉備が曹操一族だったら魏の将軍になってるよ。
886無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 11:29:54
劉備は袁術討伐に起用されてるから裏切らなければ方面軍を任されてただろうか
つまり赤壁に敗れても曹仁と劉備の最強タッグが荊州を守って呉軍を寄せ付けないという展開もあったわけだな
蜀は荊州南部を関羽に任せてそのまんま劉備が制圧に、馬超が寝返らないため史実より2〜3年はてこずるものの何とか勝利
関羽は呂蒙にちょっと負けたりはするが曹仁が敵どころかバックアップに回っているため致命的な事態には至らず
そして曹操が天下統一目前で死んだ後、史実より60年早く劉備の長江下りが始まる
陸遜は関羽・張飛が健在な劉備軍を食い止める大奮闘を見せるが他にも侵入して来た魏の圧倒的な戦力差の前に建業が降伏、姜維のごとく悔し泣きを
かくして220年に中国は魏によって再統一されたのであった…
887無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 12:22:32
>>826
劉備がいない場合、赤壁での敗戦はない
888無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 12:40:43
>>110陳舜臣現る
889無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 19:27:17
>>886
文若と奉孝に
『アンタァ、あいつに兵権与えるなんて何考えてるんでヤスかぁ!!』
って言われるぐらいに警戒されているんだから、曹操が使いたがっても軍団の長には出来ないんじゃね?
890無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 19:40:20
>>889
でも、実際に袁術を討たせて成功してるんだし、劉備が謀反せず凱旋してきたら
逆にそいつらが進言が外れたヘボ軍師扱い受けてただけだろう
彼らの名誉を守るために裏切った劉備は偉い!
891無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 19:43:41
曹操軍の泣き所は曹操が陣頭に立たないといけない事なので
、名声と能力のある劉備は是が非でも使いたいだろね。
892無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 22:23:08
劉備の能力って曹操軍のなかに入ったらどんなもん?
ていうか曹操軍って誰が優秀なのかわからんな。
曹操軍のどんな奴よりカンウ チョウヒ チョウウン とかの方が優秀なイメージ
893無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 23:06:22
だから劉備が曹操のとこいたら臧覇のポジションだろって
894無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 23:14:36
張繍、臧覇、張燕、エン柔あたりと同列か。
895無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 23:21:01
ぶっちゃけ曹操が劉備を認めていたって言うのは、書いた奴のお世辞じゃないか?
劉備は曹操から、「劉備にあんな策が思いつくわけがない」など微妙な評価も受けてるし
896無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 23:23:07
>>894
その中でも臧覇は頭一つ抜けた存在だが、劉備は官位でも能力でも更にその上に位置するだろう
890も言ってるが現に袁術討伐に動員されたりしているので、劉邦に対する韓信ほどではなくても、ずっと忠実に仕えていれば諸将を束ねて一方面を鎮撫する総大将的なポジションにはなったんじゃないだろうか

劉備は騎兵の指揮から士大夫の教養までオールマイティな、代わりがいないレベルの将だからな
897無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 00:31:52
曹操が韓信ポジションで劉備の治世の能臣になってくれたら
最強な気がするんだが

曹操ってうまく使えばものすごく優秀な司令官になるだろうから、
袁紹あたりがうまく使えてればよかったのに と思うことがある
898無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 00:37:14
つくづく何進大将軍の死が惜しまれる、つーことですな?
899無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 01:04:23
何進では…

曹操は袁紹でさえ御し切れなかったわけだから、
劉備の能力を最大限評価しても、
曹操の十歳年上で霊帝に近い宗室の出で後漢宮廷に既に信望と高位を築いていた、
くらいの立場でなければ群雄割拠の時代に押さえ切れそうに無い
でもそんな強力な成人皇族がいたらそもそも群雄割拠なんて状況に陥ってないよな
900無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 02:07:55
でも劉備って自分がトップになるより誰かの補佐に回る方が存分に能力を発揮できたような気がするな
なんか人事とか総務の部長がしっくりくる
901無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 02:07:57
>>895
若い頃は曹操は劉備に実際に接したりして、彼を高く評価していた

長く生き、離れた場所から劉備を観察しているうちに、劉備の実像がつかめるようになった

つまり劉備は、曹操さえも近くにいればだまくらかしてしまうほど稀代の詐欺師だった、
という妄想はどうだい?w
902無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 02:59:26
>>901 逃げ足も早いしな
903無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 03:15:17
>>895
俺にも思いつかない作戦をなぜあいつが?!

みたいなのだと思った。法正とか黄権とかが凄かったんだろう。
904無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 03:20:25
まあ思いつくなら痛い目にはあわないな
905無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 08:21:45
お前等の言う演義厨とはどのような存在の事かと聞いているのだ
なんだ、空気(存在しない厨)に向かってシャドーボクシングか?
906無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 08:25:25
>>886の通りだったら劉備は大将軍確実かなあ?後は曹丕がどう扱うかだが…
あの人もよく分からん人だしねえ…弟とか叔父とか嫁とか于禁とかに陰湿な仕打ちしてるくせに
孟達みたいなクズとウマがあったりしてやがるし
907無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 13:36:37
>>900
俺のイメージでは独立志向の高い有能な営業部長って感じ
部下をよく使い、自分自身も有能な営業マンだが独立して自分で
事業を起こしてダメになるタイプ
ビジョン(理想)と現場のことはよくわかっているが、会社経営の具体策は
しらず、優秀な番頭(孔明)に出会えたからこそ会社としてなんとかなりたった
908無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 19:57:12
ああ、確かに年に何億の売り上げを何年も続けた伝説の営業マンって感じだな
でも、肝心の商品に欠陥があってクレームついて何回も会社が倒産して
しかたなしに自分でつくって自分で売るようになったと
909無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 21:23:25
>>907
>>908
つ「水煮三国志」

内容が古いんだけど(カラーテレビを売るとか)結構面白いよ
910無名武将@お腹せっぷく:2009/02/10(火) 22:57:12
>>907
ホンダですな
911無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 13:42:14
>>910
宗一郎氏は技術屋ではなかったか?
でも劉備の感情を表にあらわさなかったとか丁寧で人当たりがよかったなんてのを
考えると近いものがあるかもしれんのぉ
912無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 15:59:57
>>911
ホンダは宗一郎が物を作って藤沢 武夫が経営を担当してたんだよ
まさに劉備と孔明じゃないかな?
913無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 16:02:13
同じ戦力で
劉備と曹操が戦ったら勝つのはどっち?
914無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 17:50:35
史実だと曹操の戦力が上なら曹操が勝って、同じくらいだと劉備が勝ってる。
赤壁は戦力が曹操の方が上だけど同盟で勝ってる。
915無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 18:14:18
>>914
同じくらいで劉備が勝ったのって漢中戦?
あれは地形的に劉備が有利だからな。
916無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 21:02:25
劉備って前半生には全く発揮されてないけど大軍の指揮が上手い
曹操はその逆で少数の指揮が上手い
だから序盤は一気に成り上がるけど戦争の規模が大きくなるにつれて曹操は勝てなくなっていくし
劉備は後半一気に膨れ上がった
917無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 21:52:18
>>916
陸遜に負けてるじゃん。最初は押してたけど戦史まれにみる無残な負け方。
指揮はともかく作戦立案は酷い。
918無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 21:59:50
曹操を倒した周瑜、劉備を倒した陸遜。呉すげぇ
919無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 22:03:25
孫呉は過小評価気味だけど、曹操も劉備も突出しすぎだろう。結果論だけど。
むしろ周瑜が凄いのはそっから江陵を切り取ってることだと思う。
920無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 22:27:53
>>917
陸遜がもっと上手だったってことだよ
呉では周瑜と並んで唯一曹仁を退けて荊州を奪ってるわけだし
921無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 22:42:06
劉備の勝ち戦って漢中くらいじゃね?
入蜀は勝ち戦というのかな?
まぁ呂蒙が関羽に勝ったとするなら
十分にありな結果だけど
922無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 23:00:30
>>920
220年ごろのジョウ陽は拠点として機能してないし
あれを勝利としてカウントするべきか
923無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 08:25:57
リクソンってなんで劉備に勝てたんだろうな。
よほど卑怯な手を使ったに違いない。
924無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 11:25:26
卑怯という字を見て思ったが、
もし劉備があのまま侵攻していったら、呉の住人を虐殺したりしたんだろうか。
925無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 13:48:08
>>924
そうかも知れんな
少なくとも演義のように裏切り者は全員有無をいわさず処刑、呂蒙は墓を暴いて骨を何かする、ぐらいはしたかも
926無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 21:00:06
>>916
官渡や北伐が小規模だと思ってんの?
927無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:09:49
劉備と曹操ってそんなに仲悪くないと思うんだよね。
特に劉備って曹操と孫権なら曹操との方が相性よさそうだし
孫権のほうを嫌って層
928無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:17:36
劉備が余計なことしたせいで戦乱が長引き、
その後の匈奴進入→五胡十六国・南北朝を招いた
こいつは英雄でも何でもなく、本来なら唾棄されるべき匪賊
929無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:19:21
>>928
その方針を作ったのは孔明です。
930無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:20:11
>>928
匈奴とかは曹操の時代に曹操が南下を許可してるんだ
烏丸に至っては曹操が強制連行したんだ
五胡十六国を招いたのは曹操だよ
931無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 00:34:34
>>926
実際官渡の勝負を決めたのはたまたまの奇襲に成功
その奇襲部隊は大勢ではない
奇襲成功前は大軍に一方的に嬲られているだけだったしな
北伐だって全軍率いてとかではなく曹操が出張るから劉備に隙を突かれると恐れたわけだ
932無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:01:28
直前の数次に渡る冀州遠征や青州の海岸到達、
後の馬超・張魯征討に比べて
荊州征伐だけが際立って大軍だったという証左はないはずだがなあ
933無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:12:51
>>932
冀州獲得以前と以後では全く経済基盤が違うんでまず考えるならその前後を分けるべきだな

それと馬超、張魯征伐時には先に他の部将を派遣しといて自分は後から後詰
大軍を曹操が前線まで出向いて指揮して戦う必要があったのって赤壁、漢中くらいなもんで
そのどちらでも結果出せてないんだから大軍の指揮は下手というしかない
934無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:18:49
馬超戦は完全に主力で対峙した上で撃破してるんだけど
兵力移動の時間差を突かれてあやうく馬超の騎兵に捉えられそうになるくらい前線にいた。
周瑜の急進による遭遇戦の色が強い赤壁よりはるかに「指揮」の実力が試される位置だよ。

漢中はムリ。同等の戦力に固められて北から攻めてまともに落とせるような場所じゃ無い。
935無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:42:23
冀州を手に入れて以後、曹操の動員兵力が飛躍的に上昇したというのは確かだろうが、
だからと言って曹操という一人の将が戦場で指揮できる数が上昇するとは必ずしも言えない。
10万人動員したから10万人が一つの戦場に集結するわけではなく、
曹操一人が指揮できる数には限度があるのだから。

陶謙討伐で琅邪辺りまで進出したころから曹操は既に万以上の兵力を運用し、
自身で指揮しているはずだが、官渡に至るまでの戦場の強さには異論のないところだろう。
運用の規模が10万などという大軍になって生まれてくる、これまでと異なる問題は、
諸軍の戦略的配置や組織・兵站などの運営実務だろう。
赤壁の敗戦は曹操にとって痛恨の失敗だと言えるわけだが、
それを除けば、曹操は前後おおむね滞りなく勝ち続け、自らも征伐を指揮し、
自身の領地を拡張し続けた。まず能力的問題は見当たらないように思える。

単に「劉備と周瑜が強かった」で解決する話だと思う。当時の政治戦略的状況等込みでね。
936無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:42:51
>>934
ああ、そういえば一回大軍の統制で一杯一杯のところ狙われて崩されてたな
何だ、やっぱり大軍を扱うの下手だね
その後の勝利は大軍による会戦の前に謀略で相手崩しておいてからだから
指揮でなくて戦争の上手さは十二分に発揮されてるけど、大軍の扱い自体が上手い事の証左とするには弱いと思う

漢中は劉備がその時動かせる兵力が大体五万程度だから、曹操に比べて明らかに少ない
同等の戦力とは言えないだろ
だから法正は諸葛亮に補充を急がせたのだしな
937無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:44:16
>>935
んじゃあ比較すれば劉備の方が曹操よりも大軍同士の戦いでは実績がある、というところで落しどころだな
938無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 01:59:25
>>937
そんなとこだね
939無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 04:23:41
つまり陸遜最強ということか
940無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 04:54:18
戦況が膠着すると、守勢側が有利になる
だけじゃだめなのか?
941無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 09:02:38
リクソンって活躍がイリョウだけだからな。
なんともいえないんだよな。
942無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 12:04:06

941 :無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 09:02:38
    リクソンって活躍がイリョウだけだからな。
    なんともいえないんだよな。
943無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 13:43:27
>>931
なんで戦争の全体を見ないで一部分だけで見ようとするのか
んな事言ったら赤壁を決めたのだって周瑜と遭遇や黄蓋と接触した一部分だけだろ

まあその理屈だと疫病が最大の理由だから決まり手と言うには弱いかもしれないが
944無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 19:24:39
>>936
曹操が十万二十万の兵を動員したとして、漢中盆地内にその何割が展開できるというのだか。
劉備と曹操が対面したのは陽平関という一局面に過ぎない。
平地の官渡対陣と比べて多いとさえ言い切れない。
そんな局地戦の戦果、しかも守備側が守りきったという戦果を取り上げて、
一緒くたに「大軍の指揮」という矛盾だらけの語を使うことが
可笑しいと思わないのかな?
945無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 20:04:48
>>943
大軍の運用が下手なんで孫子で言うところの軍争を失敗したってことだろ

>>944
そんな狭いところに大軍で押し寄せるんだから下手といわれてもしかたあんめ
946無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 20:15:25
>>945
あなたの戦争には兵站線や地域平定の概念が無いのだな
大軍の組織運営については既に>>935が触れているのに
無視して戦場の「指揮」と勝敗しか語ってないし
孫権が十万人動員したらそのまま10万人で合肥を包囲できると思ってるわけだ
947無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:02:55
>>945
じゃあ官渡は軍争が上手いから大軍相手に粘り切れたわけだな
奇襲のようなゲリラ戦が上手いのは疑いの余地がないし
948無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:10:21
>>946
孫権は動員しといて実際に使わないから例えには不適切だろ

>>947
粘り切れてない
だから兵糧尽きかけてた
許攸という幸運さえなければ本当に手詰まりだったじゃないか
949無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:36:31
そんな例えなら幾らでもでてくるよ
杜預が20万動員して20万で孫晧に迫ったのかとか
諸葛誕が10万で寿春に立て篭もったのかとか。

曹操の総動員兵力が累進的に大きくなっていったのは事実だろうが、
ただそれだけを振り回して、各々の戦役の戦場も戦略目標も距離も攻守の別もなく、
大軍の統率も戦場での指揮采配の区別も無く、
曹操の後期での戦勝も前期での敗戦も無視して、
自分の論に都合のいいところだけを切り取って強調しているようにしか見えない。
950無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:46:28
>>949
孫権の場合話だけ聞いて引き返すって例が多すぎなんだよ
951無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:54:45
長江を利用した大兵力に対して機動戦術で対抗してんだから
当然じゃね?
952無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 22:00:29
曹操は勝ったり負けたりだけど運がいい

これでいいだろ
953無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 22:08:06
>>951
当然だよ
だから曹操との比較にならないってだけ
954無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 22:14:10
比較じゃなくて
動員兵力と前線の兵力が同数だと考えているのか?
と言ったのだが…
955無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 22:33:47
>>954
曹操との比較に孫権を持ち出すのは正しくないと言ってるんだよ
孫権は情報だけ掴んだらとっとと帰るから動員云々とか言うのがバカらしい
956無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 22:42:03
もういいや
957無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 23:03:11
・・・なんというか、軍略において最も忌み嫌われるべき
『不毛な消耗戦』が展開されているのは、このスレですか?
958無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 23:08:14
孫権の例こそ機動防御ってやつじゃないかと
あいつは攻める気があるのか疑わしい
周ユ、呂蒙、陸遜らのような優秀な先鋒の後詰がいいとこ
959無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 00:00:03
陸遜は荊州で構えて基本的に攻めてないが、
入ってきた敵には強烈なカウンターをくらわせる待ちガイルタイプ。
960無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 00:01:54
呉の戦略ドクトリン的にも陸遜って最適な司令官だな
961無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 07:36:24
呉は優秀な奴が結構いたのに
守りにばっか力いれて潰れた感じだよな。
シュウユ、 リョモウ リクソンに軍持たせて
戦っていればよかったのに。
962無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 13:04:43
劉備は孔明が居なくても大して問題なかったと思うが、
孔明こそ劉備が居なきゃ何も出来やしなかった。
荊州四郡の火事場泥棒も、入蜀も劉備が長年築いたものがあってこそ。

世の中頭が回るだけの奴よりも、実行力や周りを引っ張る能力、
声名を持っている奴こそが遥かに強い。
963無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 13:19:04
意味分かんね。
964無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 13:55:33
言いたいことはわかった
965無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 14:04:20
劉備に明確な指針を与えた事は大きいと思うが。
実行力や周りを引っ張る能力、 声名を持っている奴こそが遥かに強い、というのは同意だが、
意味合いが広範に渡り過ぎて具体性を欠くな。その理屈に従うと、劉備もそうだが諸葛亮もそうなる。

諸葛亮は劉備がいなければあそこまで栄達する事はなかっただろうけど、
劉備は諸葛亮がいなくても問題がなかったか、というのは疑問だ。
能力があり、赤壁に至るまでの苦境にも従った諸葛亮は、劉備にとって古参と同じく信頼できる武将の一人となっている。
蜀取りで張飛、趙雲と同じように一軍を率いているのが、その証明になるかと思う。

また傅幹の評を見るに、すでに入蜀前には、諸葛亮は政戦両略に優れている、と高く評価されていたようだ。
政治面においては実証と言える記述がある。
劉備は諸葛亮を荊州四郡の内の三郡の統治に当たらせ、ここからの税収を軍事に当てていた。
劉備が諸葛亮の統治能力を評価している事が、この時点ですでに分かるが、戦略面においては分からない。
恐らく戦略においても蜀取りに至るまでに能力を発揮する機会があったと考えられる。そうでなければ傅幹に評価はされないだろう。
蜀取りでは一軍を任せているし、後には成都を守る重鎮となっている。これは軍事においても見せるものがあったからだと考える。
966無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 17:20:07
天下三分も結局は孔明主導じゃなくて魯粛主導な気がするんだよな
劉備生前はショク攻めや統治面での評価がそこそこあったって必要不可欠の人材には思えない

孔明の真価が発揮されるのはやっぱり劉備死後だから、孔明がいなくても夷稜までは変わらないんじゃないか
967無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 17:59:24
>>966
赤壁まで、および赤壁後の劉備勢力の動きは
魯粛の主導で行われたものじゃなくて劉備側主導のほうが大きいかと。

諸葛亮が居なければ、劉備は孫権との同盟〜荊州南部制圧までよどみなく動かなかった、とするなら
諸葛亮の存在はブレーンとして必要だったと言えるだろう。
968無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:33:24
同盟なんてもろ魯粛の独断じゃないか
荊州南部制圧も呉と殆ど共同で行ってるし
969無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:36:01
魯粛が呉側で主導したのが大きな要因であるのは確かだね。
それに蜀は周瑜や甘寧も狙っちまおうぜ! と言うぐらいカモな場所。
だが、ここで重要なのは曹操との対抗路線を明確にしつつも、戦略の指針を持たなかった、
というか劉表に許都攻めようぜ、と言う程に曹操とガチンコ方向にあった劉備に、まず蜀取ろうぜ! と示して見せた事にあると考える。
あと窮状にあっても見捨てずつき従ってくれた事は大きい。
成都と守る人物として信頼されたのは、統治能力だけでなくこの事も大いに関与しているだろう。
必要不可欠とするには弱いが、劉備存命時から大きな役割を果たしていたというのは断言できる。
970無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:37:19
あと、魯粛がいなくても荊州は統治できた可能性は高い。呉との対立は激化しただろうが。
荊州の士大夫たちは赤壁以後、劉備に擦り寄ってきており、呉は赤壁で頑張ったのに間借り状態。
また、劉備は荊州牧として各郡太守の任命を行っているが、南郡に対する干渉も行っている。
これは荊州牧としての正式な権限を用いている為、呉側が反発しようにも道理がない。
周瑜の案はそもそも劉備に荊州の領有を認めさせない事からスタートしている為、劉備が荊州を得る前の事だろう。
この頃には機能しないものとなっていると考えていい。

周瑜案はもう無理だが、このままでは劉備はやがて荊州をがっちりと固めてしまう。そこで魯粛が妙計として荊州貸与を行う。
重要なのは、荊州を貸し与えたという事実を外交カードに用いれるようになった事。
実際は南の一部を与えただけ、しかも劉備の影響が強まる中であり、長期的には劉備に属した可能性が高いにも関わらず、だ。
もし劉備側が狙いを理解したにしても早期に蜀に攻め込みたい以上、不安要素を減らす為に受けざるを得まい。
曹操に荊州、蜀に対する影響力を与えない、という点。さらに劉備に対する外交面での優位を得られた点。
これらを鑑みると、これは魯粛が上手いと言わざるを得ない。
971無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:37:40
同盟が魯粛の独断って呉書見聞の影響かな。違ったらごめん。

孫権側が同盟を申し込もうがなんだろうが、劉備側がそれに応えなきゃ成立しないでしょ?
荊州南部制圧まで動くのも孫権側の一方的な押しつけで起こったことじゃないでしょ?
劉備側の応答があったから成り立ったのが最終的な状況。
その劉備側の応答が決まるにあたって、諸葛亮が劉備側のブレーンとして動いてるなら諸葛亮の存在は不可欠。
972無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:46:34
孔明がいなきゃ劉備は孫権とは盟を結んでないんじゃないかな。
多分同属の劉章の所行ったでしょ。で劉備劉章連合が出来上がり。
基本劉備の方が有能で人心つかむのがうまいから
劉備が親玉になる。そうしたら蜀の有能な連中を無傷で獲得。
ケイシュウは魏の物になってるから呉といざこざする必要もなく
対魏に集中できる。劉備は曹操以外には強いから
そこそこ領土も広げられ最終的には西劉備東曹操ぐらいの位置になる。
で関が原みたいに大決戦して終りだな。
973無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 19:05:36
あの状況で同盟の話がきたら諸葛亮がいなくても受けると思うよ
974無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 19:23:20
>>968
荊州南郡制圧は劉備と周瑜の共同作業
南部四郡制圧は劉備のみの行動

共同どころか、メインで制圧してるのは劉備陣営なんだがな
周瑜は江陵で曹仁に時間を取られて動けない
975無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 19:33:09
盟約を結ぶにしても、
劉備・孫権の双方に荊州決戦という強固な意志が無ければ赤壁まで至らない。
劉備軍を呉に収容して防御、という有力な選択肢が存在する。
曹操などはそう予想しただろう。
劉孫同盟の上で主力を荊州まで進出させて会戦、という計画を荊州で立てて
孫権まで持ち込んだのが、諸葛亮と魯粛の功績とされている。
976無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 00:40:42
孔明「わしはほんとうはこんなとこきとうはなかったのじゃ」
977無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 11:06:14
ていうかあれ何で曹操は焦って呉と戦争したのかね。
ケイシュウで我慢しておけばよかったのに。
978無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 11:51:21
天下統一という大目標は自分でないと無理という焦りがあったとか?
帝位を僭称するのは誰でも出来るけど、実力でまとめ上げるのは自分しかないとか
曹操からしたら同時代や次世代の誰でも不足だったんじゃないのかぁ
979無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 12:03:53
>>977
一説では銅の産出地がほしかったってのもあるようだよ
980無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 12:04:14
けど曹操ってそんなに焦る奴だっけ?
ケイシュウを無傷で手に入れてもうそこでOKなのに
すぐ呉を攻める理由がわからん。
981無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 12:23:58
>>980
これは何回も言われていたことなんだけど
荊州は無傷で降伏しているよね

劉 jが心変わりしたら(劉 jはどちらかと言うと好戦派だったようです)って考えたんじゃないか?

東に孫権&劉備北は降伏した劉 j西は曹操派と言っても険しい土地(逃げるには無理がある?)
不安になったんじゃないか?もし劉 jが反旗したらってね
982無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 12:27:30
荊州をすんなり手に入れてしまったから
勢い余って、呉まで手を出したんじゃない?
それに最初は大軍を前に呉が降伏してくると読んでいたのに
戦うっていってきたから
それならヒネリ潰してやる、みたいな感じかと
983無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 12:35:08
だからこそ劉jを青州刺史に任じて遠ざけたのだろう。

赤壁の位置からしても、曹操は孫権を圧迫し、恐らく行動を封じようとはしたが、
孫権が帰順を拒否したとしても本当に江東まで進軍するつもりだったかは判らない。

…が、それでは呉が帰順派と開戦派に割れた理由が説明できないか。
呉の基本認識は「拒否すれば攻めてくる」だもんな。
孫権は帰順が形式的なものに留まらず、自分への強制力を働かせることが出来るという
危機感から開戦に踏み切った。
「脅しなので攻めてこない」「荊州を曹操に保持されては長続きしないので奪取すべき」
などという論調は無い。

確かに曹操の思惑はよくわからないかな?
984無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 15:33:27
>>980
あの時期中原のゴタゴタを生き残った曹操の同世代って劉備だけだから
年齢的な焦りもあったのかもしれない
曹操(というか当時殆どの漢民族)にとって長江以南は未知の領域だし
「おっかないことは早めに終わらせちゃおう」っていう心理が働いたのかもしれない

そもそも曹操的には負けるとは全く思ってなかったかもしれない
事実20万対5万の通説で仮定するなら、水上の遭遇戦や火攻め等曹操がやらかしたとされているポカ程度じゃ覆えるような差じゃない
撤退したのが事実だからそれだけのファクターがあったんだろうが、史書からはそれが読み取れないから
よく必然の負けと言われる赤壁だが、実際は負けた理由も勝った理由もよくわからない戦いだし

それだけに結果として不用心とも思えるような拙速な出兵になったのかも
となるととても戦える状態じゃないほど出兵後の疫病や風土病が酷かったんだろうか
逆にいうなら出兵前はそれほど不安要素と思えるものはなかったのかもしれない。そうでないならやはり曹操の考えはよくわからないから
985無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 15:53:10
実際は陸の上で戦ったんじゃないかみたいな説もあるんだよね?
赤壁って。

あれだけでかい戦なのに解からない事が多すぎるんだよな。
986無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 15:58:11
>>984
案外、戦わずして負けてたりしてな。
凄い正史補正を受けてそう。
劉備の夷陵は聞いたこともない連中が結構死んでるし、
曹操の赤壁も似たようなもんなのかもな。
一年も曹仁をほったらかしとかありえん。
987無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 17:55:13
孔明が無能なことが証明されたことだけでも
このアレを立てたかいがあったってものだ
988無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 18:08:57
お前が馬鹿だと言うことしか証明されてないでしょ
何言ってんの?
989無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 18:09:50
>>987
ふ〜〜
990無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 19:26:28
孔明が無能なのは前スレで議論されたからな。
このスレではあんま孔明無能議論は盛り上がらなかったと思うが
991無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 19:45:34
まあ、無能じゃないどころかかなり有能だということでごく一部の者を除いて見解が一致してたからな
992無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 20:06:31
諸葛亮が有能って落ちで、腹たったからこのスレ立てたんだろうが
993無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 20:13:18
もう明らかに釣りだろ、例のカタカナの人は。
9941:2009/02/15(日) 20:27:12
孔明スレに関してはこれと三国志末期スレが終ったらもう一度
立てようと思ってるよ。
まあ類似スレが出来てたら立てないけど。

孔明を有能というネット三国志知識人の常識を崩したいと思ってるし。
995無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 20:30:51
こりないね
996無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 20:40:27
孔明が有能と言われてるのは何もネットに限られた事では無いし
いい加減やめたら
997無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 21:05:14
孔明が無能なことが証明されたのに
なんでまた孔明無能スレを立てなけりゃいけないんだろう

結局このスレはスレタイ的な話は殆ど無かったな
9981:2009/02/15(日) 21:07:18
うーん個人的にはこのスレは良かったと思うけどね。
立てた時はもっと劉備中心の話をするスレになるかと
思ったけど結構幅広くなったな。

999無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 21:18:59
このスレ自体は悪くなかったのは同意だけど
諸葛亮無能スレはいらない
1000無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 21:23:28
語り合うのは悪いことではないよ
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  て  し    L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   申   と
  ね  い   //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'            /ヽ  す  1000
  ば  ス   /.,';/              ヽ;;;;,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i  か   を
  い  レ   l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く  !!    超
  か  ッ   i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,     え
  ん  ド   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽ   た
  の  を  ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  う     「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
        ヽヽ |    _,ニ ニ,,,,,_        ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄  `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、     '' .', i、-----.、       `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ!  . ',   :i゙''''''''''`l'  ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\       ,'  ト、,
      /     ヽ   L__」   「 で 書 Lヽ ヽ〈    i|         Vi゙、
ハ ワ  {.      ヽ.  -、、、、 '  ノ  き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,'     ,   // ヽ
ハ ハ   ヽ.    ハ        )  ん 込  |  ',.' ,  ̄ , '    ノ  //三国志・戦国板
ハ ハ    >  /|ヽヽ、___,,,,、 'く     み  > ヽ.  ̄´   / ,、 ' /  http://ex24.2ch.net/warhis/