>>66 司馬遼太郎でよければ・・・。
「関が原」で藤堂高虎の甥玄蕃を討ち取ったあと、近習に斬られた、とある。
あと、左近の息子は2人いるよ。
68 :
40:2001/08/21(火) 10:00
>>65 違うよ、バケモノSAKONの話じゃないよ。
本物の方のかみさんか娘の名前「おたま」
じゃなかったっけ?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 00:21
>>43 「三成に過ぎたるものが二つある(あり) 島の左近に百間の橋」
これは「・・・佐和山の城」の落首の後。
>>50 直筆書状は「左近丞 清興」ではなく「嶋左近 清興」です。
>>63・68
左近の妻は「ちゃちゃ」、娘の一人は「珠」。実子か養女かは
不明だが娘は他にもいる(小野木重勝の妻等)。
珠は柳生兵庫助利厳の側室で、連也厳包の母です。
>>66・67
新吉信勝(政勝)が討ち取ったのは藤堂玄蕃良政。直後に玄蕃の従士
高木平三郎に討たれたとされます。(異説あり)
左近の息子は少なくとも三人はいる模様。
70 :
40:2001/08/23(木) 09:49
43、63への答え、かたじけない。
すごい情報ソースですね〜。
誰も答えてくれないから気持ち悪かった。
ちなみに「ちゃちゃ」は筒井順慶からの出奔後すぐに
亡くなられたと聞いたんですけど、真偽の程は如何でしょうか?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 10:06
ここ勉強になりますね。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 17:23
>>69 >直筆書状は「左近丞 清興」ではなく「嶋左近 清興」です。
その書状は何ですか?
73 :
67:2001/08/23(木) 20:51
関が原で、2人死んだのは知ってたけど、
まだいるんだ。
74 :
69:2001/08/23(木) 23:51
>>70 左近が順慶のもとから出奔したとは考えにくいです。佐竹さんの
小説などではそうなってます(妻の名は違う)けど、順慶の葬儀
には幡持ちで参列してますし。 通説ではありませんが、「出奔」
したとするなら筒井定次のもとからとされているようです。
>>72 『根岸文書』です。これは東大史料編纂所蔵(写真帳)ですが、前
半分が欠落しており、日時も不明です。『平群町史』に載ってます。
>>73 『奈良県史』所収の「和州国民郷士記」に、「平群郡 馬乗七十三人
雑兵七百二十人 嶋左近亟 嶋掃部介慶長五年子九月十五日関ヶ原陣ニ
立テ打死ス 嶋修理介知行一万石秀頼卿ヨリ 同持宝院陵尊房一万石
石田三成ヨリ」とありますので、これに拠れば男子は3人いたことに。
ちなみに関ヶ原では大谷隊に四男清政(清正)が参加したとするものも
ありますが、清政は新吉信勝と同一人とするものもあり、よくわかり
ません。また上の掃部介・修理介兄弟が新吉信勝・新助友勝兄弟と同一
とも考えられるため、子供の数は不明としか言いようがないです。
>>74 ・・・どこかの教授でしょうか?アナタイイ!
久々に戦国板ってカンジになった!
76 :
40:2001/08/24(金) 10:44
age
77 :
40:2001/08/24(金) 11:27
>>74 重ね重ね貴重な史料をありがとうございます。
御貴殿のレベルが高すぎるので日本史板に行
かれて帰ってこなくならない事を祈りつつ age
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 11:29
>>74 ここでは「嶋左近亟」となってますね。
正しくは「左近」ではないということ?
79 :
74:2001/08/25(土) 00:28
>>78 >正しくは「左近」ではないということ?
「左近*」の「*」の字にはあまりこだわらなくても良いと思います。
他にも「丞」「烝」「尉」などの文字が記録に見られますし。
そもそも「左近」という名は中世大和の村文書の「百姓交名」に多く
見られ、簡単に言うと村の名主の中から実力を持った者、信頼できる
者が「オトナ」「刀禰」などと呼ばれて村を指導する立場に置かれるの
ですが、そういった層に「左近」「右近」「右馬」「衛門」などという
名がどの村にも目立っています。一種の「流行?」とでも言えましょうか。
私見ですが、左近を大和の出自とする限り、こういった一般地下(在地)
名主層からの出自である可能性が極めて高いかと思います。
なんか、久しぶりに知という言葉を感じた。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 08:30
>>75 ぐーぐるで検索しよう!
教授じゃなくても、左近について詳しい御仁はおられるよ。
そういえば最近はゲームでも名前、勝猛じゃなくて清興になってるね。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 08:51
いやー、ためになるなー。SAKON萌え〜。
83 :
_:2001/08/25(土) 12:16
島左近の生死についてはわかんないんだよね。
実はどっちかっつーと西軍寄りの資料の方が「銃弾に当たって
戦死」(「落穂集」とか)としてて、
東軍側の資料の方が「落ち延びた&生死不明」(古今武家盛衰
記)になってたりして面白いけど、
これってやっぱ実際戦った東軍側が、「あんな無茶苦茶強いや
つ、負傷くらいで死ぬかよ。首みつかってないんだからどっか
逃げたに違いない」って思ったって事かとも思ったり。
西軍側からすれば「主君の三成が処刑されたのに左近が生き
のびたっつーのはちょっとなあ・・・」って事かもね。
以下は「常山紀談」の、島左近隊と戦った黒田の家臣達の戦後の
談話の意訳(w
皆かなりの豪の者だったらしいんだが。
(´Д`)「石田三成んとこの侍大将の、鬼神も逃げると言わ
れていた島左近、関ヶ原での決戦の時の姿、今で
も思い出すYO」
(;´Д`)「島左近って、冑の立物で赤い天衝で漆を塗り重ね
た革の鎧つけて、木綿の薄い黄色の陣羽織着てた
な、そーいえば」
(゚д゚;)「あ、そいつなら見た。おもわずウンコもらして
逃げちまったよ。あれ左近だったのか。悔しいなあ」
(;´Д`)「俺なんか完全にびびっちゃってさあ、トテーモハズかスィ
YO」
(;´Д`)「左近の部下ってみなすげー強かったよな。70人く
らいの槍兵を柵の近くに置いてて、30人くらいを
その左右に配置してたんだ。
その30人がオトリでさあ、こっちの槍兵が突き掛
かると、すげー巧妙にじわじわ引いてくんだYO。
で、こっちが追撃すると、柵ぎわの70人が、一斉
に(゚д゚)ゴルァ!って凄まじい掛け声かけながら、突き
まくってきてさあ、こっちの槍兵はほとんど討ち取
られてしまうんだYO(゚д゚)マズーと思って逃げてき
ちまった。家中で1の豪の者とか言われてたヤツも
一目散ダターよ」
(;´Д`)「そうそう。今考えてもすげー身の毛がよだつ強さだ
ったーよな。こうやって皆と酒酌み交わしているの
が不思議なくれーだよ」
(゚д゚;)「んだんだ。あんとき島左近隊と対戦した連中は、お
おかたのヤツが目から精気失せてたよな。
たまたまこっちが撃ちかけた鉄砲に当たって負傷し
てくれたからよかったようなものの、もしあれで島
左近を撃退できなかったら今頃俺の首はなかったよ」
84 :
40:2001/08/25(土) 14:49
光成と仲の良かった佐竹氏ゆかりのお寺にも、関が原
の後、落ち延びた「光成と左近」の墓が並んで建ってる
んだよね。
左近、光成、共々生きていたって説が沢山あるけど、
関が原を生き延びてたら、果たして大坂冬の陣を黙って
見過ごしてただろうか?と思うよ。でも左近は慶長19年
じゃ戦をするには高齢かな?
>>74 の方は関が原の時点での左近の実際の年齢は何歳くらい
とお考えですか?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 16:02
かかれー!かかれー!!
86 :
黒田家家臣:2001/08/26(日) 13:15
はっ!!夢か・・・
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/26(日) 14:04
>>84 うっそー、垣屋光成は1592年に死んでるのに。
関ヶ原に参加してたという噂があるなんてオドロキ。
88 :
79=74:2001/08/27(月) 00:00
>>84 左近の生年に関する記録は、私の知る限りでは一つしか情報源が
なく、それによると天文九年(1540年)の生まれとされてます。
これを信じると関ヶ原の際には61歳ということになりますが、
たぶんこのくらいの年齢だったろうと思ってます。
89 :
_:2001/08/27(月) 00:44
>>88 大学時代に読んだ三成に関する資料(名前忘れた)で三成が左近の「白髭」
について言及しているものがあったので、
関ヶ原前後ですでに爺だった事は確かだね。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/27 07:49 ID:GGmq3FA2
>>88 当時って栄養がデンプン質がほとんどだった上、海の物を
ほとんど食べなかったから、比較的壮年でも白髪になる確
率は高かったらしい。
僕は関ヶ原時50を過ぎていたという昔図書館で読んだ資
料を信じており、僕の中では51〜3歳くらいだったとイ
メージが固まっております(笑)
でも50過ぎていたっていうことは「50歳以上」は全て
当てはまるから60過ぎててて間違いじゃないんだよなあ。
>>88の61歳とか70過ぎていたとかいう説だと当時とし
ては、今の感覚からすると80か90くらいのものでしょ?
左近に三国志の黄忠みたいなイメージは湧かないよ。
あくまで個人的な意見だけど。
91 :
90:01/08/27 07:54 ID:GGmq3FA2
でもやっぱり左近程有名な武将があんな大規模な戦闘といえども
生死不明ってのはおかしいよ。もし討ち死にしたなら首が残るは
ずでしょ。それもない。逃げ延びた宇喜多だって結局は捕まった
んだし。
比較的初期に負傷してしまったってことは後方に下る余裕は十分
にあった訳で、負傷して後方に下がった後、結局自力では動けな
くなっても三成の陣を崩壊から防ぐ為に色々と手をうったけども、
小早川の裏切りで総崩れになって、三成が逃げるのを見届けた後、
大谷吉継みたいに部下に首を打たせて首は埋めてそのまんま、って
んじゃないかと。カッコよすぎかな。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/27 09:01 ID:/3sFGi7Y
>>84 > 関が原を生き延びてたら、果たして大坂冬の陣を黙って
> 見過ごしてただろうか?
関ヶ原で三成は豊臣家に振られたようなものなのに、それでも
参陣していたなら本物の戦ヴァカだYO!
> 関が原の時点での左近の実際の年齢
葵〜徳川三代じゃ三成より1つ年下という設定だった……。
>>87 ワラタYO!
93 :
40:01/08/27 09:13 ID:EHqoI2uY
>>88 コッパズカシィ質問へのレスありがとうございます。
とりあえず、恥ずかしすぎる為、つめ腹切ってきます。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/31 11:18 ID:ZdxBImzE
>>79 >「左近*」の「*」の字にはあまりこだわらなくても良いと思います。
そうはいっても署名に「*」があるかどうかいうことは、
正式にはどう名乗っていたかということがわかると思います。
それに、いわゆる名主層が官途成りをしていたからといって、
それだけで名主層出身というのは、飛躍し過ぎだと思います。
95 :
79=88:01/08/31 23:46 ID:Erds/P9g
>>94 >そうはいっても署名に「*」があるかどうかいうことは、
>正式にはどう名乗っていたかということがわかると思います。
書状は「宛名」名ならまだしも、自署の場合は相手の地位身分や
親密度にもよりますが、省略することが多いです。例えば石田
三成の父に隠岐守正継という人物がいますが、署名では
「石田隠岐入道正継」「石隠岐入正継」「石田隠岐」「隠岐」
「隠岐正継」「隠岐入道」「隠岐入」と、実に様々なものが
見られます。(いずれも慶長年間に書かれたものです)
また左近の書状には宛先が「国蔵殿 御宿所」と見えますが、
「国蔵殿」がどこの誰であるかまでは知りません。
ということで、「清興」を名乗った傍証とはなり得ますが、
「左近」が正式名称とまでは断定できないかと思います。
>それに、いわゆる名主層が官途成りをしていたからといって、
>それだけで名主層出身というのは、飛躍し過ぎだと思います。
あくまでこれは「私見」とお断りしているんですが・・・。
大和は他国と違って守護が置かれず、興福寺がその代役を務めて
いました。事実、島氏は平群谷福貴寺庄等の下司職に任じられ
ており、春日社国民に列せられています。大和の武士発生の
過程が荘園領主層からの転化というパターンが大半である以上、
左近をこの大和島氏の出自とする限り、私としてはこう考える
のが自然ではないかと考えています。
随分、謎が多い武将だね。
ところで、確か、京都の近くに、左近の墓があった気がするが、誰か知ってる。
写真で見た限りでは、ごく普通の墓でしたね。
随分、謎が多い武将だね。
ところで、確か、京都の近くに、左近の墓があった気がするが、誰か知ってる。
写真で見た限りでは、ごく普通の墓でしたね。
生死不明なのに墓ってあるんだねえ。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/02 13:45 ID:rqdspSoQ
近藤勇みたいに、彼を偲ぶ方たちによって造られたものかと。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/05 19:10 ID:74sbfa/w
>>95 では、春日大社に寄進した灯篭(?)かなんかに
記入してあった「嶋左近丞清興」という文はどう考えますか?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/05 19:43 ID:J7DXES8Q
関が原戦場跡地に復元された嶋左近陣地ってのもあるね。
>>100 金石文は信憑性が高いですので、当時「清興」を名乗ったのは
間違いないでしょう。『多聞院日記』にも明記されてますし。
「丞」の字については碑文の字が当用漢字に見あたらないため
(丞・蒸・烝のいずれでもありません)、先例の有無などもう少し
詳しく調べる必要があるかと思います。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/07 11:32
>102
なるほど。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/07 18:41
>>102 当用漢字にないって?
当用漢字は漢字のごく一部でしょう?
ところで、ついでに、同輩の蒲生郷舎も、語らない?
マイナーだが、実力はある武将だと思う。
「島左近のすべて」で読んだんだけど、初名が横山喜内だった
蒲生は実名を頼郷といって郷舎とは別の人らしい……。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/28 22:51
dat回避age
108 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 00:09
蒲生郷成、蒲生真令、蒲生郷舎、蒲生郷安、蒲生頼郷
さて同一人物は誰と誰?
109 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 00:49
う〜ん、わからん
110 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 01:50
真令と頼郷?
111 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 08:22
※蒲生源左衛門郷成(坂源次郎)
初め関小十郎、後柴田勝家に仕える。勝家没後に氏郷に仕えるが、
秀行の代に岡半兵衛と対立して浪人、忠郷の代に帰参する途中
会津で病死。
※蒲生備中真令=蒲生喜内頼郷(横山喜内)
元六角氏家臣。主家没落後氏郷に仕え、秀吉の島津征伐以後
蒲生頼郷を名乗る。秀行の宇都宮転封の際に石田三成に仕え、
関ヶ原で戦死。ちなみに蒲生大膳(成見左馬助)は頼郷の婿養子
森権六頼元(成見甲斐守)の弟。
※蒲生源兵衛郷舎(坂源兵衛)
蒲生郷成の弟。秀行の宇都宮転封の際に浪人、石田三成に仕える。
関ヶ原では石田勢の先鋒右翼を務め、敗戦後秀行の会津復領の際に
帰参、秀行・忠郷・忠知に仕えた。
※蒲生四郎兵衛郷安(赤座隼人)
元六角氏家臣。主家没落後氏郷に仕え、秀吉の島津征伐以後郷安を
名乗る。秀行の代に蒲生家を追われて石田三成に仕え、関ヶ原で戦死。
※蒲生将監(安藤将監)
西美濃三人衆・安藤守就の弟で、斎藤家没落後氏郷に仕える。
秀吉の島津征伐以後蒲生将監を名乗る。氏郷没後石田三成に仕え、
関ヶ原で戦死。
以下略
┏━━┓
┃ ┃
┃ ┃
┃ 大 ┃
┃ 一 ┃
┃大大┃
┃吉万┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┣━━┛
┃
┃
┃
┃
┃ふがいの無い主人でスマンかった
┃ありがとう。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 16:01
良いおと漢だ!
命ささげん!
との、さらば、、、、、。。
夏八木は僕の腕の中で逝ったんだ。。。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:
>>1 「関が原」ってドラマ知ってる?20年くらい前にTBSで開局記念だかで製作
されたんだが、これは凄い!是非見れ。役者も凄いし左近もカッコ良いぞ。
島左近 ・・・三船敏郎
石田三成・・・加藤剛
徳川家康・・・森繁久弥
三成:「左近 勝ったぞ!」
左近:「いかにも!」