1 :
無名武将@お腹せっぷく:
著名ですが、謎多き人物ですよね。
彼に興味あるかた語りましょう。。
大河「葵〜徳川三代」で島役やってた俳優さんハマってたな。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 04:53
関ケ原でやはり死んだんでしょうか?
死んだようですな。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 05:14
では、生きてたようですな。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 05:33
心配めさるな。我は既にこの世にあらず。
ほっほっほっほ
9 :
>>1:2001/08/01(水) 08:39
>>大河「葵〜徳川三代」
全巻3倍で撮ってもビデオ6本になった(未だに有る)。
やっぱり戦国好きにとってはは7月の大阪の陣までだったな。
>>島役やってた俳優さん
夏八木勲
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 09:19
せっかくだから、旗でも立てておこう。
___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――
│
│
│
│
│
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 11:45
でも、この人、あまりにも義理堅すぎです。
旧主の筒井順慶が明智光秀につかなかったのに
憤慨して離脱とか・・・
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 15:39
それは小説な話だよ。左近は戦争バカなのでクビになった筒井家を
日和見だってボロクソ言っただけ(潰れたので義理もないから)。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 22:03
嘘だ!
関が原後はもちろん生きていて
家康を秀忠の魔手から守ってたんだ!
14 :
1:2001/08/02(木) 02:16
>>9 まあそうだけど、大坂の陣に関してはあのドラマはイマイチだったな。。
結構あの家光とか好きだったけど。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 07:50
>>13 違う! 陸上自衛隊島二尉は、関ヶ原離脱後は、大阪城で
アメリカ軍と戦ったんだ!
16 :
大僧正:2001/08/02(木) 13:36
天海って名を変えて幕府を牛耳ったんじゃなかったっけ。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 14:48
実は俺が天海です
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 14:57
サクラ大戦か…懐かしいなぁ。
19 :
エノキ:2001/08/02(木) 15:07
この期に及んで「隆慶一郎」の名をクレジットするかなあ、原哲夫も。
20 :
1:2001/08/03(金) 04:52
この戦国板に来たらもっとイイレスくれると思ったのに、あんまりないね。
日本史板もうんざりしたけど、こっちもたいがいなのか?
話しは脱線するわ、変なコピぺは貼るわで・・・もっと良いお話しできないもんかね。
ちょっとマニヤックな島左近でネタ振って様子みたのに、所詮この程度かいな。。
がっかりだね。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 06:05
>>20 | オ
| オラ オ ラオ
_ | オ ラ オ ラ オ ラオ ラオ
__| |__ | オ ラ オ ラオラ オ ラオラ オラオラ
|__ __| | オ ラオラ オラオラオラオラオラ
/ | | オラオラオラオラオラオラ オラオ ラオラ
//| | | オラオラオラオラオラオ ラオラオラオラオ
 ̄ |_| | オラオラオラオラオラオラオラオ
| オ( )_|___|/オラオラオ ラ オラオラオラ
___ //_____オラオラオラオ ラ オラ
|___| | // (() )__) /⌒/オラオラオ ラオラオラオラオ
_____ | // |\  ̄ / /♭/オラオラオラオラ オラオラ
|___ | | =/ \/ 乂丿オラオラ オラオラオラオラ
/ / | (___ | /|オラオラ オラ オラオラ オラ
/ / | └─-/ | / |オラ オラ オ ラオラ オ
 ̄ ̄ | / _/ | / |オラオ ラ オ ラオ
| ( ̄ ) / / |オラ オ ラ オ ラ オラ
| 〈 / / ||オラ オ ラ オ ラオ
|  ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄ ̄ ̄\
| // ̄ ̄ ̄ ̄\\
 ̄ ̄―――――――――――― \\
__―――――___ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
___―――_______ |
――――――__
22 :
ゆんゆん♪:2001/08/03(金) 06:54
影武者徳川家康ではかなりウェイトしめていたね。
俺はあの小説好き♪
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 07:14
>>22 >>20 どうなんだろうね。
島左近は意外とここでは人気ないね。
隆慶一郎の小説では露出度、高いんだけどね。
それと彼が関ヶ原の闘いで早期に負傷して活躍が
伝わってないのがマイナスなのかも・・・
彼と共に三成に使えた豪傑、蒲生郷家の方が評価、高かったりして。
24 :
ゆんゆん♪:2001/08/03(金) 07:32
>>23 蒲生郷家って知らなかった。
蒲生郷舎と違うの?
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 14:32
実は三成の方が武力高かったりして。砲術とか鉄砲の達人って
話もあるぞ。
武力だって
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 15:30
宝島の戦国ムックな。イラストがヘボイが面白いことは面白い。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 19:51
□ □
_| ̄|_ / ̄└―‐┐
| | / ┌┐ ┌ __
 ̄| | ̄ └‐┘ / / |_ _| ___
| ̄|. | | | ̄| / / _| |_ | |
 ̄ .  ̄  ̄  ̄ ̄ |___|  ̄ ̄
mm __‐⊂⊃‐__
| 川 | ⊂ l ⊃
| | | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
L__」 | | ∩_∩ | |
| | | | ⊂___⊃ | |
| | |L__―――――_」|
| L____/\_ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/\
|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
| | ∩ | \
L____| ∈三 \_| |
| ∈三 | |
| \|____/
30 :
1:2001/08/04(土) 02:31
>>21 >>20のレスはオマエみたなヤツのこと言ってんだよ。予想通り出てきた。ワラ
>>23 そうだね、ここじゃ人気ないね。ミンナメジャーなヤツしか目がいかないのか・・
左近は本当に謎が多い。肖像画もいちまいもないし。
でも、武田に仕えて(山県昌景に属していた)いた時期もあったりしたようで、
三成が左近を迎えた時には、武将の間では左近は名士として名が知れ渡っていたようだ。
一代で成り上がった三成は人材を広く募集していて、左近、蒲生家&秀次家浪人を
多く登用した。
左近はそんな中でも当時水口4万石城主だった三成から半知の2万石の待遇で召抱え
られた。そのことからも如何に左近が只者ではなかったと言えるのではないか。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 02:36
関ヶ原で活躍少なかったってあるけど・・
黒田の家臣なんて10年以上経っても
左近の「かかれー」の声が耳にのこって
夜うなされることがあると司馬氏の本にあるよ。
32 :
さち子:2001/08/04(土) 07:23
>>30 実を言いますと、
左近に与えられた、二万石というのは誇張で
本当は一万五千石です。
しかし、それにしろ家臣に与えるにしてはケタ違いの割合
ですけどね。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 12:41
黒田はまだ精強な状態の石田本体と激突したからなぁ。最前線の島の号令で
死の可能性を決められる極限のところです。下手に突出してるときに石田隊の突撃
くらったら死確定の緊張感ですから。ヤツは最前線の戦術士官なのでその
権限も判断もあの塩枯れ声次第。そりゃ耳にも残るわ。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 14:42
あげ
>>1 人気がないだぁ?メジャーじゃないだぁ?
ちがうね。毎回同じネタの繰り返しでここの住民が飽きたからだよ。
>>29に外出のスレ貼ってあんべ?よくみろよゴルァ
36 :
1:2001/08/05(日) 02:18
>>35 わかってんだよ、そんなこと。うるせえよ!
ただ戦国板来たの初めてだからな、ここなら何か面白い話しできるかなって思っただけ。
絡んでこなくていいよ、キミ。しょうもないヤツだ。。
>>32 一万五千石説もあるのは知ってるよ、でもまあそれじゃちょっと面白くないね。
一体どんな顔付きしてたんだろうな・・・
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/13(月) 23:59
>>32 「本当は」って随分大きく出てくれるね。
けど、渡辺勘兵衛を全部与えて召抱えたことを思うと、何れにせよ左近の
エピソードは小さい。
>>36 夏八木勲さんみたいな人だったら理想的だね。
>一体どんな顔付きしてたんだろうな・・・
どうも、禿だったらしい。でも、筒井家は僧兵なんだから、髪を剃ったのかもしれない。
ちなみに、僕の想像の顔では、信長の野望 天翔記に出ていた、甲斐宗運の顔に似ているかと、、
>>38 夏八木勲さんもその辺きてるよね。けど、僧兵とまでは考えが及ばなかった。
しかも甲斐宗運……渋い。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/14(火) 12:06
左近は官職名だけど、松倉右近(?)と一緒に
仕えていた時の官職で、賜った名前でしょ?
山県?筒井?
どっちだっけ?
41 :
赤池長任:2001/08/14(火) 15:26
筒井に仕えてたようです。
しかし、家康を追ったエピソードといい、
江戸時代に三成崇拝ができないため人気者になっためぐりあわせといい、
私もあやかりたい。
42 :
40:2001/08/14(火) 19:04
>>41 ご注進かたじけない。
とすると、松倉と共に「右近」「左近」の官職名で
呼ばれたって事だから、筒井氏の前に仕えていた
山県氏での仕官時代には呼び名は違ったって事
かな? 幼少時代の呼称はやっぱり「勝猛」とか
「清輿」とか呼ばれてたと考えるのが妥当でしょうか?
43 :
40:2001/08/14(火) 19:14
ちなみに「三成に過ぎたるもの−」のくだりは、当時
「島の左近と佐和山のなんとか」って本当は言ったん
だよね?「城」じゃ無くって。
「佐和山の百間(百貫?)橋」とかそんなんじゃな
かったっけ?
1の方知らない?
山県部隊にいた、ってのは当人談でしょ?
45 :
40:2001/08/15(水) 08:41
ちょっとageといて
46 :
40:2001/08/15(水) 08:56
あれ、そうなの?当人談なの?
でも実際、関が原の時点で70歳超えて
たって説とか生まれは天文20年とか色
色あるよね。後者だと若くして山県部隊
に仕官できたって事かな?
なんかそこら辺考えると、謎が多い分
ワクワクさせてくれる人なんだよねー。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/15(水) 17:11
>>46 謎が多い分、作家が勝手に創作したことを付け加えられた寒い小説を
掴まされることが多々あって萎え萎えさせてくれることもあるyo!
>>42 漫画「SAKON=戦国風雲録=」では幼名のはずがまんま官職名で
「左近」と呼んでいたね、母上。
「勝猛」や「清輿」というのは「実名」なのでは。幼名からこういう名前を
付けることはなかったと思う。
48 :
44:2001/08/15(水) 19:53
関が原で、士卒の士気を高めるためか、「ワシは昔、武田山県隊に
属していた・・・」と言った、と・・・すまん、出典忘れた。
とにかく、そんな説(講談?)があるということ。
49 :
40:2001/08/16(木) 09:06
>>47 それはハゲシク同意。
だから勉強しようとしたり、資料にしようとしたり
する物をそれらに求めちゃうととんでもない事に
なっちゃうからね。
幼名に関して言えば、そういやそのとうりだよね。
「大和丸」(ベタでゴメン)とかの方がよっぽど真実み
があるかも。
>>44 そのセリフ、鉄砲弾が飛び交う中突入する時に士卒の
士気高める為だったら感慨深いものあるよね。
山県部隊も確か、鉄砲の猛攻撃で最後を向かえたよね。
虚構や誤伝だとしてもロマンあるな。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/16(木) 10:14
>>47 幼名に左近とかつける場合もあるので否定はできない。
ただ、嶋左近直筆といわれる書には「左近丞 清興」と署名してある。
51 :
40:2001/08/16(木) 14:34
>>50 へぇー、なるほど・・・
このスレ立てたお方か?
ちなみに 「しまさこん なおふで」って読んでしまったよ。
新説の幼名が見つかったのかと思った・・・。
>>50 左近は官職名。通称で付けたとしても、幼名にはしないと思うyo。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/17(金) 17:02
>52
左近は官職名じゃないよ。
たんに官職風の名前。
それに官職風の幼名をつけることもあるよ。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/17(金) 17:08
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
抑々、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に
宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固より朕が
志にあらず。然るに交戦已に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽く
せるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢、亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜
を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみな
らず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。是れ、
朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職
域に殉し、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。且、戦傷を負ひ、災禍を蒙り家業を失ひたる者
の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。惟ふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、
朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。
朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若し夫れ、情の激する所、濫に
事端を滋くし、或は同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国
一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏く
し誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。
御名御璽
昭和二十年八月十四日
55 :
田舎侍:2001/08/17(金) 17:23
柳生連也斎が左近の孫というのは本当ですか。
56 :
伝心月叟:2001/08/18(土) 00:08
>>55 柳生利厳が、左近の娘を娶った話があるよ。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 10:54
嫡子は関が原で戦死した、新吉政勝または信勝。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 20:30
左近・右近などは「官職名」だよね。
朝廷から正式な許可なく付けることもあったというけど、
その場合を「官職風」と呼ぶのかな。
> 官職風の名前
吉法師(幼名)・三郎信長(通称+実名)・上総介信長(通称+実名)、
武将の名前の構成はこんな感じだから、「名前」という言い方では
ちと説明不足かと。読解力が足りていなかったらスマソ。
更に、粘着&教えて君でスマソが「通称」じゃなくて「幼名」が
官職名(風)だった武将って誰?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 21:51
>58
たとえば、左近は官職名じゃないよ。
官職というなら、左近(衛)将監とかでしょう。
四等官を示す語があります。
左近は略したという可能性もあるけど、ふつうは略さないから。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 22:07
左近允(さこんのじょう)という官職が懇請された筈。
ふつう略す場合のほうが多い。
>>59 普通略す。
正式な官職というのは近畿を牛耳った人の部下の大名くらいで、当然左近は違う。
(三成は本物だな)。
このばあい武士が自分に箔をつけるためのものであっても官職らしい名を名乗りたい、
という意思表示なんだから本物の官職でなくとも官職イメージの名ということですね。
ハンドルみたいなもん。
たとえば武田の有名武将に美濃守が二人もいたり、大野道犬入道が壱岐と呼ばれたりするのも
全てはったり。
たとえば黒田長政(こいつのは正式ね)甲斐守だが、ほとんど甲州で済まされている。
同じく秀吉は筑州。本物ですら略されていたんだからはったりはいわずもがな。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 23:25
>>60 左近允なんて官職ありません。
近衛府は大将・中将・少将・将監・将曹が四等官職名。
島左近の場合は官職名の略じゃあないぞ。
左近允と言う官職風の名前なだけ。
源太左衛門尉だとか三郎兵衛尉やら結構多いぞ官職風ネーム。
>>61 武田家に美濃守なんて同時に二人もいませんが。
美濃夜叉が死んだ後、馬場があやかって美濃守を継いだがね。
63 :
40:2001/08/20(月) 13:10
>>55 娘さん確か「おたま」だっけ?
あれ?「おたま」って正室の名前だっけ?
ガラシアもお玉だな。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/20(月) 21:54
SAKONの娘はお珠だよ
>嫡子は関が原で戦死した、新吉政勝または信勝。
この信勝が藤堂高虎の親族の誰かを討ち取ったのは本当ですか?
確か、どっかで聞いた覚えがあるんだが。
>>66 司馬遼太郎でよければ・・・。
「関が原」で藤堂高虎の甥玄蕃を討ち取ったあと、近習に斬られた、とある。
あと、左近の息子は2人いるよ。
68 :
40:2001/08/21(火) 10:00
>>65 違うよ、バケモノSAKONの話じゃないよ。
本物の方のかみさんか娘の名前「おたま」
じゃなかったっけ?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 00:21
>>43 「三成に過ぎたるものが二つある(あり) 島の左近に百間の橋」
これは「・・・佐和山の城」の落首の後。
>>50 直筆書状は「左近丞 清興」ではなく「嶋左近 清興」です。
>>63・68
左近の妻は「ちゃちゃ」、娘の一人は「珠」。実子か養女かは
不明だが娘は他にもいる(小野木重勝の妻等)。
珠は柳生兵庫助利厳の側室で、連也厳包の母です。
>>66・67
新吉信勝(政勝)が討ち取ったのは藤堂玄蕃良政。直後に玄蕃の従士
高木平三郎に討たれたとされます。(異説あり)
左近の息子は少なくとも三人はいる模様。
70 :
40:2001/08/23(木) 09:49
43、63への答え、かたじけない。
すごい情報ソースですね〜。
誰も答えてくれないから気持ち悪かった。
ちなみに「ちゃちゃ」は筒井順慶からの出奔後すぐに
亡くなられたと聞いたんですけど、真偽の程は如何でしょうか?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 10:06
ここ勉強になりますね。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 17:23
>>69 >直筆書状は「左近丞 清興」ではなく「嶋左近 清興」です。
その書状は何ですか?
73 :
67:2001/08/23(木) 20:51
関が原で、2人死んだのは知ってたけど、
まだいるんだ。
74 :
69:2001/08/23(木) 23:51
>>70 左近が順慶のもとから出奔したとは考えにくいです。佐竹さんの
小説などではそうなってます(妻の名は違う)けど、順慶の葬儀
には幡持ちで参列してますし。 通説ではありませんが、「出奔」
したとするなら筒井定次のもとからとされているようです。
>>72 『根岸文書』です。これは東大史料編纂所蔵(写真帳)ですが、前
半分が欠落しており、日時も不明です。『平群町史』に載ってます。
>>73 『奈良県史』所収の「和州国民郷士記」に、「平群郡 馬乗七十三人
雑兵七百二十人 嶋左近亟 嶋掃部介慶長五年子九月十五日関ヶ原陣ニ
立テ打死ス 嶋修理介知行一万石秀頼卿ヨリ 同持宝院陵尊房一万石
石田三成ヨリ」とありますので、これに拠れば男子は3人いたことに。
ちなみに関ヶ原では大谷隊に四男清政(清正)が参加したとするものも
ありますが、清政は新吉信勝と同一人とするものもあり、よくわかり
ません。また上の掃部介・修理介兄弟が新吉信勝・新助友勝兄弟と同一
とも考えられるため、子供の数は不明としか言いようがないです。
>>74 ・・・どこかの教授でしょうか?アナタイイ!
久々に戦国板ってカンジになった!
76 :
40:2001/08/24(金) 10:44
age
77 :
40:2001/08/24(金) 11:27
>>74 重ね重ね貴重な史料をありがとうございます。
御貴殿のレベルが高すぎるので日本史板に行
かれて帰ってこなくならない事を祈りつつ age
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 11:29
>>74 ここでは「嶋左近亟」となってますね。
正しくは「左近」ではないということ?
79 :
74:2001/08/25(土) 00:28
>>78 >正しくは「左近」ではないということ?
「左近*」の「*」の字にはあまりこだわらなくても良いと思います。
他にも「丞」「烝」「尉」などの文字が記録に見られますし。
そもそも「左近」という名は中世大和の村文書の「百姓交名」に多く
見られ、簡単に言うと村の名主の中から実力を持った者、信頼できる
者が「オトナ」「刀禰」などと呼ばれて村を指導する立場に置かれるの
ですが、そういった層に「左近」「右近」「右馬」「衛門」などという
名がどの村にも目立っています。一種の「流行?」とでも言えましょうか。
私見ですが、左近を大和の出自とする限り、こういった一般地下(在地)
名主層からの出自である可能性が極めて高いかと思います。
なんか、久しぶりに知という言葉を感じた。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 08:30
>>75 ぐーぐるで検索しよう!
教授じゃなくても、左近について詳しい御仁はおられるよ。
そういえば最近はゲームでも名前、勝猛じゃなくて清興になってるね。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 08:51
いやー、ためになるなー。SAKON萌え〜。
83 :
_:2001/08/25(土) 12:16
島左近の生死についてはわかんないんだよね。
実はどっちかっつーと西軍寄りの資料の方が「銃弾に当たって
戦死」(「落穂集」とか)としてて、
東軍側の資料の方が「落ち延びた&生死不明」(古今武家盛衰
記)になってたりして面白いけど、
これってやっぱ実際戦った東軍側が、「あんな無茶苦茶強いや
つ、負傷くらいで死ぬかよ。首みつかってないんだからどっか
逃げたに違いない」って思ったって事かとも思ったり。
西軍側からすれば「主君の三成が処刑されたのに左近が生き
のびたっつーのはちょっとなあ・・・」って事かもね。
以下は「常山紀談」の、島左近隊と戦った黒田の家臣達の戦後の
談話の意訳(w
皆かなりの豪の者だったらしいんだが。
(´Д`)「石田三成んとこの侍大将の、鬼神も逃げると言わ
れていた島左近、関ヶ原での決戦の時の姿、今で
も思い出すYO」
(;´Д`)「島左近って、冑の立物で赤い天衝で漆を塗り重ね
た革の鎧つけて、木綿の薄い黄色の陣羽織着てた
な、そーいえば」
(゚д゚;)「あ、そいつなら見た。おもわずウンコもらして
逃げちまったよ。あれ左近だったのか。悔しいなあ」
(;´Д`)「俺なんか完全にびびっちゃってさあ、トテーモハズかスィ
YO」
(;´Д`)「左近の部下ってみなすげー強かったよな。70人く
らいの槍兵を柵の近くに置いてて、30人くらいを
その左右に配置してたんだ。
その30人がオトリでさあ、こっちの槍兵が突き掛
かると、すげー巧妙にじわじわ引いてくんだYO。
で、こっちが追撃すると、柵ぎわの70人が、一斉
に(゚д゚)ゴルァ!って凄まじい掛け声かけながら、突き
まくってきてさあ、こっちの槍兵はほとんど討ち取
られてしまうんだYO(゚д゚)マズーと思って逃げてき
ちまった。家中で1の豪の者とか言われてたヤツも
一目散ダターよ」
(;´Д`)「そうそう。今考えてもすげー身の毛がよだつ強さだ
ったーよな。こうやって皆と酒酌み交わしているの
が不思議なくれーだよ」
(゚д゚;)「んだんだ。あんとき島左近隊と対戦した連中は、お
おかたのヤツが目から精気失せてたよな。
たまたまこっちが撃ちかけた鉄砲に当たって負傷し
てくれたからよかったようなものの、もしあれで島
左近を撃退できなかったら今頃俺の首はなかったよ」
84 :
40:2001/08/25(土) 14:49
光成と仲の良かった佐竹氏ゆかりのお寺にも、関が原
の後、落ち延びた「光成と左近」の墓が並んで建ってる
んだよね。
左近、光成、共々生きていたって説が沢山あるけど、
関が原を生き延びてたら、果たして大坂冬の陣を黙って
見過ごしてただろうか?と思うよ。でも左近は慶長19年
じゃ戦をするには高齢かな?
>>74 の方は関が原の時点での左近の実際の年齢は何歳くらい
とお考えですか?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 16:02
かかれー!かかれー!!
86 :
黒田家家臣:2001/08/26(日) 13:15
はっ!!夢か・・・
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/26(日) 14:04
>>84 うっそー、垣屋光成は1592年に死んでるのに。
関ヶ原に参加してたという噂があるなんてオドロキ。
88 :
79=74:2001/08/27(月) 00:00
>>84 左近の生年に関する記録は、私の知る限りでは一つしか情報源が
なく、それによると天文九年(1540年)の生まれとされてます。
これを信じると関ヶ原の際には61歳ということになりますが、
たぶんこのくらいの年齢だったろうと思ってます。
89 :
_:2001/08/27(月) 00:44
>>88 大学時代に読んだ三成に関する資料(名前忘れた)で三成が左近の「白髭」
について言及しているものがあったので、
関ヶ原前後ですでに爺だった事は確かだね。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/27 07:49 ID:GGmq3FA2
>>88 当時って栄養がデンプン質がほとんどだった上、海の物を
ほとんど食べなかったから、比較的壮年でも白髪になる確
率は高かったらしい。
僕は関ヶ原時50を過ぎていたという昔図書館で読んだ資
料を信じており、僕の中では51〜3歳くらいだったとイ
メージが固まっております(笑)
でも50過ぎていたっていうことは「50歳以上」は全て
当てはまるから60過ぎててて間違いじゃないんだよなあ。
>>88の61歳とか70過ぎていたとかいう説だと当時とし
ては、今の感覚からすると80か90くらいのものでしょ?
左近に三国志の黄忠みたいなイメージは湧かないよ。
あくまで個人的な意見だけど。
91 :
90:01/08/27 07:54 ID:GGmq3FA2
でもやっぱり左近程有名な武将があんな大規模な戦闘といえども
生死不明ってのはおかしいよ。もし討ち死にしたなら首が残るは
ずでしょ。それもない。逃げ延びた宇喜多だって結局は捕まった
んだし。
比較的初期に負傷してしまったってことは後方に下る余裕は十分
にあった訳で、負傷して後方に下がった後、結局自力では動けな
くなっても三成の陣を崩壊から防ぐ為に色々と手をうったけども、
小早川の裏切りで総崩れになって、三成が逃げるのを見届けた後、
大谷吉継みたいに部下に首を打たせて首は埋めてそのまんま、って
んじゃないかと。カッコよすぎかな。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/27 09:01 ID:/3sFGi7Y
>>84 > 関が原を生き延びてたら、果たして大坂冬の陣を黙って
> 見過ごしてただろうか?
関ヶ原で三成は豊臣家に振られたようなものなのに、それでも
参陣していたなら本物の戦ヴァカだYO!
> 関が原の時点での左近の実際の年齢
葵〜徳川三代じゃ三成より1つ年下という設定だった……。
>>87 ワラタYO!
93 :
40:01/08/27 09:13 ID:EHqoI2uY
>>88 コッパズカシィ質問へのレスありがとうございます。
とりあえず、恥ずかしすぎる為、つめ腹切ってきます。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:01/08/31 11:18 ID:ZdxBImzE
>>79 >「左近*」の「*」の字にはあまりこだわらなくても良いと思います。
そうはいっても署名に「*」があるかどうかいうことは、
正式にはどう名乗っていたかということがわかると思います。
それに、いわゆる名主層が官途成りをしていたからといって、
それだけで名主層出身というのは、飛躍し過ぎだと思います。
95 :
79=88:01/08/31 23:46 ID:Erds/P9g
>>94 >そうはいっても署名に「*」があるかどうかいうことは、
>正式にはどう名乗っていたかということがわかると思います。
書状は「宛名」名ならまだしも、自署の場合は相手の地位身分や
親密度にもよりますが、省略することが多いです。例えば石田
三成の父に隠岐守正継という人物がいますが、署名では
「石田隠岐入道正継」「石隠岐入正継」「石田隠岐」「隠岐」
「隠岐正継」「隠岐入道」「隠岐入」と、実に様々なものが
見られます。(いずれも慶長年間に書かれたものです)
また左近の書状には宛先が「国蔵殿 御宿所」と見えますが、
「国蔵殿」がどこの誰であるかまでは知りません。
ということで、「清興」を名乗った傍証とはなり得ますが、
「左近」が正式名称とまでは断定できないかと思います。
>それに、いわゆる名主層が官途成りをしていたからといって、
>それだけで名主層出身というのは、飛躍し過ぎだと思います。
あくまでこれは「私見」とお断りしているんですが・・・。
大和は他国と違って守護が置かれず、興福寺がその代役を務めて
いました。事実、島氏は平群谷福貴寺庄等の下司職に任じられ
ており、春日社国民に列せられています。大和の武士発生の
過程が荘園領主層からの転化というパターンが大半である以上、
左近をこの大和島氏の出自とする限り、私としてはこう考える
のが自然ではないかと考えています。
随分、謎が多い武将だね。
ところで、確か、京都の近くに、左近の墓があった気がするが、誰か知ってる。
写真で見た限りでは、ごく普通の墓でしたね。
随分、謎が多い武将だね。
ところで、確か、京都の近くに、左近の墓があった気がするが、誰か知ってる。
写真で見た限りでは、ごく普通の墓でしたね。
生死不明なのに墓ってあるんだねえ。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/02 13:45 ID:rqdspSoQ
近藤勇みたいに、彼を偲ぶ方たちによって造られたものかと。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/05 19:10 ID:74sbfa/w
>>95 では、春日大社に寄進した灯篭(?)かなんかに
記入してあった「嶋左近丞清興」という文はどう考えますか?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/05 19:43 ID:J7DXES8Q
関が原戦場跡地に復元された嶋左近陣地ってのもあるね。
>>100 金石文は信憑性が高いですので、当時「清興」を名乗ったのは
間違いないでしょう。『多聞院日記』にも明記されてますし。
「丞」の字については碑文の字が当用漢字に見あたらないため
(丞・蒸・烝のいずれでもありません)、先例の有無などもう少し
詳しく調べる必要があるかと思います。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/07 11:32
>102
なるほど。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/07 18:41
>>102 当用漢字にないって?
当用漢字は漢字のごく一部でしょう?
ところで、ついでに、同輩の蒲生郷舎も、語らない?
マイナーだが、実力はある武将だと思う。
「島左近のすべて」で読んだんだけど、初名が横山喜内だった
蒲生は実名を頼郷といって郷舎とは別の人らしい……。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/28 22:51
dat回避age
108 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 00:09
蒲生郷成、蒲生真令、蒲生郷舎、蒲生郷安、蒲生頼郷
さて同一人物は誰と誰?
109 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 00:49
う〜ん、わからん
110 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 01:50
真令と頼郷?
111 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 08:22
※蒲生源左衛門郷成(坂源次郎)
初め関小十郎、後柴田勝家に仕える。勝家没後に氏郷に仕えるが、
秀行の代に岡半兵衛と対立して浪人、忠郷の代に帰参する途中
会津で病死。
※蒲生備中真令=蒲生喜内頼郷(横山喜内)
元六角氏家臣。主家没落後氏郷に仕え、秀吉の島津征伐以後
蒲生頼郷を名乗る。秀行の宇都宮転封の際に石田三成に仕え、
関ヶ原で戦死。ちなみに蒲生大膳(成見左馬助)は頼郷の婿養子
森権六頼元(成見甲斐守)の弟。
※蒲生源兵衛郷舎(坂源兵衛)
蒲生郷成の弟。秀行の宇都宮転封の際に浪人、石田三成に仕える。
関ヶ原では石田勢の先鋒右翼を務め、敗戦後秀行の会津復領の際に
帰参、秀行・忠郷・忠知に仕えた。
※蒲生四郎兵衛郷安(赤座隼人)
元六角氏家臣。主家没落後氏郷に仕え、秀吉の島津征伐以後郷安を
名乗る。秀行の代に蒲生家を追われて石田三成に仕え、関ヶ原で戦死。
※蒲生将監(安藤将監)
西美濃三人衆・安藤守就の弟で、斎藤家没落後氏郷に仕える。
秀吉の島津征伐以後蒲生将監を名乗る。氏郷没後石田三成に仕え、
関ヶ原で戦死。
以下略
┏━━┓
┃ ┃
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┃ 大 ┃
┃ 一 ┃
┃大大┃
┃吉万┃
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┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
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┃
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┃
┃ふがいの無い主人でスマンかった
┃ありがとう。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 16:01
良いおと漢だ!
命ささげん!
との、さらば、、、、、。。
夏八木は僕の腕の中で逝ったんだ。。。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:
>>1 「関が原」ってドラマ知ってる?20年くらい前にTBSで開局記念だかで製作
されたんだが、これは凄い!是非見れ。役者も凄いし左近もカッコ良いぞ。
島左近 ・・・三船敏郎
石田三成・・・加藤剛
徳川家康・・・森繁久弥
三成:「左近 勝ったぞ!」
左近:「いかにも!」