結局、織田信長は何をしたかったの?

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1無名武将@お腹せっぷく
最終目的は何?
何かの役職に就くこと?
天皇を殺すこと?
それとも他に目標があった?
2(^▽^;):2001/07/03(火) 13:50
日本を変革する。
日本国王に就く。(天皇制廃止)
3無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 13:51
結論の出ない妄想オナニースレたてんなよ。(w
4無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 13:59
5名無@いっぱい:2001/07/03(火) 14:20
 全国統一だろ・・・。
6無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 15:29
いや、信長だったらすぐ明に攻め入ってたはずだ
7無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 16:38
単にひとごろししたかったんじゃない?
8無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 16:58
>>3のような奴を成敗する為に戦っていたんでしょ?
9無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 17:43
どこまで達成したら天下統一?
将軍になったら?
関白になったら?
それとももっと違うもの?
10無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 18:33
自己満足したら天下統一
11無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 18:57
最終目標は天皇抹殺
12無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 19:10
「信玄と謙信、どっちが虎でどっちが龍」スレに
画期的な新説があるぞ。
要約すると信長の目指したのは
「今川義元や大内義興や三好長慶や松永久秀と同じ室町幕府の中での天下にすぎない」
という説だ。
私も最初はバカな説かとも思ったが、
信長が上洛して頼んだ事が尾張の支配だったり、
足利義昭を追い出したのも延暦寺を焼いたのも、
一向一揆をなで斬りにしたのも状況から追い詰めてやったにすぎない。
というの説得力がありました。

ピンとこない人は足利義昭がもしも、変な手紙を諸大名に出しまくって、
信長包囲網なんてつくらずに
おとなしく信長に協力してたらというIFを考えてください。
信長は義昭を幕府を潰さなかったろうし(潰す口実もない)
信長は将軍家の管領くらいで満足した思います。
13無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 19:18
信長が画期的なんてウソ。
彼は実は古くさい男だというのはあちこちに痕跡ある。
状況で新しい生き方をしたよう見えるだけ。
尾張という経済は豊かだが攻めるに易く、守るに難い土地の
君主の信長は中央に出ていくしかなかった。
朝廷や将軍をおさえて自分たちを守った。

彼のやりたかった事は三好長慶・松永久秀のように
朝廷や将軍を抑えてその下での権威を欲しただけ。
しかしねなりゆきで将軍を追い出さざるおえなかった、
信長は全国統一せざるやおえなかった。
1412:2001/07/03(火) 19:20
勘違い、
この説が載っていたのは
「武田家滅亡」のスレでした。
15北畠顕家:2001/07/03(火) 19:51
‘天下布武‘
って、スローガン挙げてなかった。
関所の廃止、楽市楽座、兵農分離、在地武将制から直轄支配、etc
全て、旧体制の改革でしょ。
最後の仕上げは、政教分離だったと思うね。
天皇問題よね。
16無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 20:35
こういう学術的な問題に伸びるとレスが減るのね
17無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 22:32
三職推任問題についてはどうお考えで?
18正夢:2001/07/03(火) 22:50
いくさの無い世の中を作りたかった。BY渡
19無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 23:14
でも、いくさばかりだね
20無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 23:14
>>17
何それ?
21無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 23:52
敦盛を舞いたかっただけだろ?
22無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 23:56
マターリという言葉の対極が信長だな
23無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 23:56
>>20
関白・大政大臣・征夷大将軍のいずれになっても良いという朝廷の推任を完全無視した事。
24無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:05
25無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:12
>関所の廃止、楽市楽座、兵農分離、在地武将制から直轄支配、etc
>全て、旧体制の改革でしょ。

典型的なマンセー意見だね。
でも今ではどれも「改革」としては学術的に否定されている
ものばかりだね。
26無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:14
>>25
どういうこと?
本願寺の真似ってこと?
27無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:18
>>25
どういうこと?
斉藤道三の真似ってこと?
28無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:35
>>25
だね。俺は信長の目指すところは中世的権威の破壊だと思うが、
でも、これらはその裏付けにはならない。全部中途半端。
29上総介:2001/07/04(水) 00:43
学者などと言う陳腐な存在は、この信長政権には一切通用しない!
30無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:43
斉藤道三を真似たのは三木道山。
31無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 00:43
>>25
小泉首相は何をしたら学術的に「改革」として認定されますか?
32無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 13:36
信長は宗教弾圧者
33藤吉郎:2001/07/04(水) 14:16
上様のことは、ワシしか判らんだがや。
34日向守:2001/07/04(水) 14:19
上様は、手前を苛めたかったのでござる。
35ガリアーノ:2001/07/04(水) 14:19
ハポンノ支配者ニナリタカッタノデハ?
36甕割り:2001/07/04(水) 14:25
間違いなく、お市さまは頂けなかった。
死んで ラッキー
37光栄:2001/07/04(水) 14:35
ゲームのメインキャラクター
38無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 14:50
現在の価値観・知識ではかっても仕方がないって・・・マジで
まあ歴史の評価ってそんなものだけどね。


しかし
1.とにかく偏って調べる
2.頭の中だけで自分一人の理論を作る。
3.新説、珍説を作り出すチャンスを常に狙う。

この三点を守ってるやつが多すぎ・・・ね28君(w
39無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 15:03
偏って調べてない。
どうせ史料読んだことないのに、信長は革命者だ、いやそうじゃないって言うヤツばかりだろ。
ゲームや小説ばかり読んでたって妄想が広がるだけだろ。
40無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 15:09
>>32
そうか?
ただ単にその頃のボウズの生臭さがいやだったんだろ。
キリスト教徒と論戦させたりしてるしな。
納得できないもの、矛盾があったものに厳しかっただけじゃないのか。
全てを全て弾圧してないぞ
41無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 15:20
偉くなりたかっただけ。
42太田牛一:2001/07/04(水) 15:49
>現在の価値観・知識ではかっても仕方がないって・・・マジで
同じ時代に生きた拙者にすら、上様のことは理解出来申さず御座候。
43明智光秀:2001/07/04(水) 16:18
いや、だから分からねーって分からなねーから
おれやっちゃったんだもん、あいつ〜
ざまーみろってんだー

とほほ
44無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 16:25
戦国ミルクちゃ〜と懇ろになること
45藤吉郎:2001/07/04(水) 16:49
いや、だから分からねーって分からなねーから
>おれやっちゃったんだもん、あいつ〜
ざまーみろってんだー

とほほ

だから、ワシに相談しろって言っただがや。
自尊心高過ぎだがや。
まー、ワシには たなぼた ウギャギャギャ
46無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 18:14
全ての宗教が嫌いってわけでもないんだろうな
安土宗論もそうだし
フロイスは信長が若干禅宗の教えに依ってるって記録してるし
47無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 18:22
三職推任で答えだしてないんだろ?
じゃあ、将軍にも関白にもなる気はなかったって事じゃん
48無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 18:33
31 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい 投稿日:2001/07/04(水) 17:09
秀吉って、戦国武将集めて、2チャンみたいな事やってたんだな。
でも、秀吉が言えば、信憑性があって、2チャンが言えば、ヨタ話。(藁
49無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 18:41
>信長が上洛して頼んだ事が尾張の支配だったり

尾張統一が完璧じゃなかったからね
信広にも謀反されそうになるし

>おとなしく信長に協力してたらというIFを考えてください。
>信長は義昭を幕府を潰さなかったろうし(潰す口実もない)

副将軍ってゆうか幕府の役職就任は断ってる
→室町幕府の体制に組み込まれるのを最初から拒んでいる
50無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 19:19
信長は信秀が死んで跡を継いだとき、口宣案を出さずに上総介を勝手に名乗った。
この時は朝廷無視。
家康が三河守を貰ったときに、あとに続くように尾張守を朝廷に頼んで貰った。
で、朝廷から貰った返書が信長の天下布武の大義名分になったんだよ。
51無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 21:42
信長はまたーりしたかったんだよ、ホントは
52無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 22:22
あんまり歴史学的にまじめに語りすぎると誰も寄りつかなくなるぞ
53無名武将@お腹せっぷく :2001/07/04(水) 22:50
歴史学的にまじめに語りすぎてるとは、思えないぞ。
学術的考察には、まず言葉の定義が必要なんだ。
誰も、そんな事してないぞ。
織田信長自体、学術的には、正確ではないぞ。
確か、平氏を名乗ってたから、平の何某って言うんじゃないの?
54無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 23:37
>>53
平朝臣信長?
歴史学の世界では面倒くさいからそんな呼び方では呼ばないよ
ややこしいし
どの論文読んでも通称の織田信長だって
もちろん、なぜ平氏なのかって議論する場合には出てくるけどね
55無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 00:54
>>54
何で平氏なんだ?
その時の幕府が源氏だったのと、
それまで朝廷が平姓に将軍をさせたことがないから
朝廷を揶揄する意味で平姓をなのったって聞いたことがあるが・・・。
まぁ、本当に平姓だったのもあるかもしれないがわざわざそう宣言したのは。
56名無し:2001/07/05(木) 01:06
57無名武将@お腹せっぷく :2001/07/05(木) 01:10
>何で平氏なんだ?
これは、単純な源平交代の考えからが、定説じゃないの?
平清盛・源頼朝・北条(平氏)・足利(源氏)
ときて、織田信長が平氏を名乗った。
秀吉は、さすがに身分が下層なので、足利の養子を望むがだめ、
結局、豊臣姓を新設。
徳川家康は、源氏を名乗った。
坂上田村麻呂以外の、征夷大将軍は歴代源氏と決まってた。
幕府は、征夷大将軍しか開けない前例があった。
以上
58無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 01:21
>坂上田村麻呂以外の、征夷大将軍は歴代源氏と決まってた。
>幕府は、征夷大将軍しか開けない前例があった。

征夷大将軍は源氏以外にも就任できました。
幕府を開くのは征夷大将軍より、右大臣の方が重要だったようです。
59無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 01:32
信忠って右大臣の位だったような気がする。
別にそれが何ってわけじゃないがな。
それと信長っていつだったか官位全て朝廷に返還して
なかったかな。
60無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 01:47
            正四位 弾正忠
天正2年  3月18日 従三位 参議(直任と考えられる)
天正3年 11月    権大納言(兼右大将)
天正4年 11月    正三位 内大臣(兼右大将)
天正5年 11月20日 従二位 右大臣(兼右大将)
天正6年  正月    正二位
天正6年  4月 9日 両官を辞官
61無名武将@お腹せっぷく :2001/07/05(木) 01:49
>征夷大将軍は源氏以外にも就任できました
他の姓でも就任出来たの?
宮将軍ってのはなしよ。

>幕府を開くのは征夷大将軍より、右大臣の方が重要だったようです。
意味不明
鎌倉・室町・江戸以外に幕府って存在したの?
62無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 01:58
>征夷大将軍は源氏以外にも就任できました
出来たかもしれないが先例大事の朝廷が先例を破ることは
なかったと思われ。
63無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:14
ごめん。話ずれるけど、>>60を見てふと思った疑問。
何位ってのと参議、大臣っていうのはどう違うの?
何位じゃないとなんとか大臣にはなれないの?
例えば、何位だけだったり反対に大臣だけだったりした例はないのかな。
64無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:29
>>63

官位相当っていってその位準じて大臣になったりする。
例外もないわけではないが大臣クラスになると皆無である。
少将くらすだと四位少将とわざわざつけて呼ばれる。
65無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:31
>何位ってのと参議、大臣っていうのはどう違うの?
お稲荷さんは、正一位。
女性で春日の局だけが、正一位貰ったっけ?
正、従の順に、十位ぐらいまで、数字が小さいほど朝廷での位置が高い。
正三位あたりから、殿上人(天皇に直接会える)じゃなかった?
今でも、勲章の順位付けになってますね。

参議・大臣は役職
朝廷の役職には、それに見合った位が必要だけど、位は有っても、無役は有る。
66無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:40
ふむふむありがとう。>>64-65
お稲荷さんってあの神社にあるやつ?
位がなければ出世できないということか。
信長の弾正忠って自称だよね。じゃあ、正四位も自称?
67無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:45
>>61
宮将軍もそうだし、当時平氏を名乗ってた信長にも征夷大将軍への就任依頼があった
これは朝廷側からの働きかけによるものです

源頼朝は正確に言えば、征夷大将軍就任ではなく、右大臣就任後に幕府を開いてます
室町幕府は南北朝に分かれてたので特殊だが、足利義満が右大臣に任命されてる
徳川家康も、同様
68無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:48
>今でも、勲章の順位付けになってますね。
これは、俺のかんちがい。
勲章の順位は、勲何等(1から8)だった。
69無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:49
正四位、弾正忠が自称、従三位、参議が朝廷による過去に遡ったウソ任官だとすると、
天正三年の権大納言(兼右大将)になった時、信長は無位だったって事か?

いや、尾張守になった時は何位かになってるのかな?
調べないとわかんねーや。
70無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:54
重要ポストを歴任すれば自然と左右大臣くらいにはなるんじゃない?
その人がたまたま将軍になったってだけで。
それに義満は開幕者じゃないし。
71無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 02:55
>>59
単純にホントに楽隠居するつもりだったって駄目?
ノイローゼで。考えてみれば裏切られ通しの人生、
嫌になっても不思議はない。
72無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 03:01
>宮将軍もそうだし、当時平氏を名乗ってた信長にも征夷大将軍への就任依頼があった
これは朝廷側からの働きかけによるものです
宮は、源平籐橘にあらず。
信長に対するは、恐怖心からくる、瑕疵の意志表示
秀吉に関しては、無視している。
源氏以外、実際に就任の事実無し

幕府を開く為の必要条件は、征夷大将軍であって、右大臣は付けたし。
本末転倒してはいけない。
73無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 03:02
楽隠居もいいが官位を返還したあとも
普通に政治にかかわってるな(藁
後継ぎを示したかっただけかも
74無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 03:41
>>72
だから、実際は源氏を名乗る家しかなってないだけで
源氏以外が就任しても問題はなかった
源氏以外なれないと言うのは、江戸時代からの後付け
だから信長に対して、三職推任の際に征夷大将軍を強く勧めてるんだよ
秀吉は征夷大将軍を望んでた時に、家康との戦いで征夷に失敗してるから
朝廷側が拒否してる
75無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 05:09
足利幕府の件で言えば、南朝側には征西大将軍に懐良親王がおり
別の征夷大将軍の宗良親王がいた

右大臣が何故重要かは、征夷大将軍と幕府というものを理解すればわかる
征夷大将軍は東国(三河・信濃・越後以東)の軍事権の最高責任者であり
幕府というのは、朝廷に代わりに全国の警察権を統べる組織
左右大臣は太政大臣不在の時に政事を行なう役職である

追加で、足利尊氏も征夷大将軍と同時に右大臣に任命されてる
76無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 06:18
スレ違いだけど、謙信が右大将と権大納言を兼任した信長を非難した逸話が
ありましたよね。でも右大将と権大納言の兼任者って先例として結構というか
かなりあるハズなんですが、謙信は何に気に障ったんでしょうか?
77苑蜷b:2001/07/05(木) 10:37
そもそも官位持っているとどんなメリットあるの?
78無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 11:14
>>77
まあ、身だしなみって意味もあるし、大義名分にもなる。

もっとも勢力拡大中の大名の任官に積極的になるのは朝廷の方。
武家に依存するために位を与えるという方式。
信長の場合、初任官の前には朝廷からの任官要請を断った形跡がある。
しかも、要請を受けて任官したと思ったら2年ちょっとで辞官してるし。
79無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 11:17
どんな蛮人でも高貴人扱いしてもらえる
80無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 12:07
信長の野望ばっかりやってると朝廷に貢いで官位貰うって図式で
考えちゃうだろうけど、勢いのある大名には朝廷の方から積極的に官位を与えるもんだよ。
ま、見返りに朝廷に貢献(金銭含めて色んな事で)してくれって言うんだけどね。
81無名武将@お腹せっぷく :2001/07/05(木) 12:24
http://plaza2.mbn.or.jp/~nari/faq56.html

ここに、源氏と征夷大将軍の説明があります。

源頼朝以前の、征夷大将軍は 坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲 の3人。
全国支配の武家政権である、幕府のシステムを構築した大江広元が偉大だったと思われる。
特に、義経を利用して新設した総追捕使が、有効に機能したんではないか。
82回覧種人(野望100):2001/07/05(木) 12:33
【最後の挨拶】   (板が丁度半年を迎えるこの日に)

三国志戦国時代板も早いもので、本日で丁度、半年になりました。
思えば掲示板設置当日より「無名武将」を名乗り、
はたまたこの掲示板の名無しを作るスレで勝手ながら主導権を握り、
以後、折を見ては各地のスレにひょこひょこと顔を出させて頂きました。
(そう言えば、名無しを決めるスレで1日目から偽者が出ましたな)

この板では「回覧種人」は引退させて頂きますが、
ここで出会った皆さんとの交流が絶える事はないでしょうし、
特に個人的な縁を持てなかった方々のご活躍も以後は野望100で
こっそりと応援させて頂こうと思います。

まあ、匿名掲示板で一つ固定を捨てるだけなのに、
大層な挨拶をする必要もないのでしょうが、
丁度、本日がこの板の半年目にあたると言う事で御挨拶させて頂きました。

最後になりましたが、この板の益々のご清祥をお祈り申し上げます。


              平成壱拾参年 七月参日 回覧種人(野望100)
                                    [email protected]
83光栄:2001/07/05(木) 12:54
>>81
そう言えば、信長の野望やってると、誰にでも征夷大将軍の任官イベントあるな。
幕府も開いてる。
まんざら、出鱈目でもないのか・・・・
84光栄:2001/07/05(木) 14:13
漏れは、蛎崎幕府を開設したぞ。
おだは、おだでも 関東の小田で征夷大将軍にもなったぞ。(藁
85野望100:2001/07/05(木) 14:40
86無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 17:04
野望100の母です
すみません。真面目にお願いします
上のようにしくじる事もあるんです
ネットの書き込み自由にさせてやってください
くだらない事も聞き流してやってください
目を瞑ってやってください
よろしければ友だちにもなってやってください
お願いします。御迷惑おかけして申し訳ありません
下にまた張るとおもいます
御迷惑おかけします虫してやってください
87無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 17:18
三職推任って信長側からしかけた事じゃないの?
88無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 17:51
信長って鉄砲に女性の名前とか付けてそう。
89名無椎野ら椎野:2001/07/05(木) 19:34
>>32
信長は無差別にではなく、政治に口をだす宗門を攻撃した

一向宗(真宗)は弾圧したが安土宗論では浄土宗寄りの判定で
政治に口を挟むパイオニアの法華に灸をすえる
んでもその後は法華の僧と碁を打ち、寺にも宿泊している

真宗と浄土宗を一つとして見るのは乱暴だけど
信長が本当に宗教に対してヒステリックな人間であったならば
真宗=浄土宗はNO!、ってな行動もありえたはず

なぜ平氏なのか?、これは将軍職に就く為ってのはないと思う
源氏しか将軍職に就けないと言った所で信長以前に将軍に
任命され開幕していた源氏は頼朝と尊氏の二人だけ
(将軍任命だけなら源(木曽)義仲も含む
んでもって征夷大将軍は頼朝以前に源氏以外もいるし
幕府自体は鎮守府将軍でも開けた(?)はずで
鎮守府将軍になると平氏にも国香・貞盛・良将など開幕はして
いないが多数いるから押し切ろうと思えば如何とでもなる、かな
自信ない(開幕した源氏将軍が二人しかいないと言った所で
開幕した将軍自体源氏の二人以外いないと言われれば反論できん)
んで反論でもなんでも後詰頼みます

手を貸しつつも幕府体制下へ組み込まれるのを拒否し、それまでの
藤姓から平姓に変え(元亀二(1571)年、義昭と揉めだす辺りか。
前述の副将軍云々は永禄十二(1569)年)て『公家平氏』の蝶紋を
わざわざ使う(紋は公家平氏、系図は六波羅平氏清盛孫資盛

平姓は義昭への示威行為ではないかな

ちなみに
藤姓では朝廷の近衛(藤原氏嫡家)等の風下に為らざるを得ず
源姓では武家の棟梁将軍で氏長者足利氏の風下に置かれてしまう
90名無椎野ら椎野:2001/07/05(木) 19:35
と、初めて別板のハンドルで書いてみたけど白けるでしょ

昨晩書いたんでスレの流れから外れてるうえ、ガモウだし(w
91藤吉郎・筑前守:2001/07/05(木) 19:52
>特に、義経を利用して新設した総追捕使が、有効に機能したんではないか。
また、目新しい言葉が出てきたがや。
解説キボンヌ
92野望100:2001/07/05(木) 20:01
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/ami-0.JPG

ハアハア...亜美タン...ウッ...!

ドビュウウウゥーーーーーッッ!!ビビュルルルルッ!!ブビュウッ、ドビュドビュドビュウウウッッ!!ドックン、ドックン、ドックン、ブピュウゥッ!!ブビュウウゥゥーーーッッ!!ボピュウーーーッ!!
93ほれ:2001/07/06(金) 00:58
歴代の征夷大将軍一覧
ttp://www.katch.ne.jp/~s-mizoe/m043.html
94北畠顕家:2001/07/06(金) 13:00
>足利幕府の件で言えば、南朝側には征西大将軍に懐良親王がおり
>別の征夷大将軍の宗良親王がいた

お上は、なぜ 護良親王(大塔の宮) 征夷大将軍をが望んだ時に、無視したのであろうか。
むざむざ、足利に与えて殺害される羽目になるとは・・・
麻呂が義良親王(後村上天皇)を補佐し、奥羽にあって睨みをきかせ、
楠が、畿内にて護良親王を補佐して、踏ん張り、
懐良親王が、菊池の補佐のもと大宰府に拠って九州を制圧すれば、
足利幕府などは、無かったであろうに・・・
所詮、お上は・・・
今更言っても詮無い事、止めておこう。
それにしても、父上は粘り強いな。
95無名武将@お腹せっぷく :2001/07/06(金) 19:20
>>91
「総追捕使」
1185年の「文治の勅許」によって、義経・行家追捕を目的に置かれた「総追捕使」が「守護」の始まり。
各国に一人置かれ主に東国出身の有力御家人が任命された。
そして1190年の頼朝の上洛により、この「総追捕使」は義経らの捜索・逮捕のみならず
国内の一般的な治安警察・警備を正式の職権とするように切り替えられ、
やがて彼らは「守護(守護人)」とよばれるようになる。

主だったところの征夷大将軍の役職と位

源頼朝 正二位 権大納言 右近衛大将・諸国総追捕使
源実朝 正二位 右大臣 近衛大将

足利尊氏 正二位 権大納言
足利義満 従一位 太政大臣 淳和奨学両院別当・源氏長者

徳川家康 従一位 太政大臣 左近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当
徳川秀忠 従一位 太政大臣 右近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当
徳川家光 従一位 左大臣 右近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当

右大臣は、必ずしも必要じゃないみたい。
徳川の一部以外の右大臣経験者 源実朝・足利義満
96野望100:2001/07/06(金) 19:27
352 名前:名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2001/07/05(木) 13:58
すんげーうんこ板あったよ。
板全体がうんこ臭くて5分で耐えられなくなった。
http://salad.2ch.net/warhis/index2.html
97無名武将@お腹せっぷく:2001/07/07(土) 00:39
>>95
全員経験してるけど…
その官位は最終官位だよ
98無名武将@お腹せっぷく:2001/07/07(土) 01:19
>>97
質問 官位は下がるのですか
太政大臣>右大臣>権大納言  じゃないの?
99光栄:2001/07/07(土) 01:41
朝廷工作で、相手大名の変な噂流したら、相手の官位落としたり、
朝敵にしたり出来たんじゃないか?
最近のやつは(藁
100無名武将@お腹せっぷく:2001/07/07(土) 04:55
最近はコーエーですよ、オッサン(藁
101野望100:2001/07/08(日) 03:20
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG

野望100は程c食人@お腹いっぱいの口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。醜悪な程c食人@お腹いっぱいの顔が更に醜くゆがむ。
「うげええっ!!」

ひき潰されたケモノのような声を出し、程c食人@お腹いっぱいがうめいた。
頬をとめどなく涙が流れた。しかし、その涙も次々にぶちまけられる大便に覆い尽くされていく。

べちょおおぉっ!!

「うぶうううっ!?もがっ!ほげえええっ!!」

だが、野望100はそのまま程c食人@お腹いっぱいの顔を大きく肛門を開いた霜台の肉尻の間に押さえつけた。たちまち程c食人@お腹いっぱいの口の中に排泄器官から直送された生ぬるい泥便が大量に流し込まれる。

「おげええっ!げえぅうぇぇえっ!おもおっ!んごっ!んぐうっ!うぐっ!うぷぷっ!んぐううっ!んぐっ、んぐっ、んごおおぉっ、んぐぐううっ!!」
舌の上を走り抜け、喉の奥に直接ぶつかり、食道へ流れ落ちてくる腐食した下痢便。それは不味いなどというものを超越した不可解な味。少なくとも程c食人@お腹いっぱいの味覚はそれを判別することが出来なかった。

「おおおううっ!程c食人@お腹いっぱいがっ!おれの、おれのウンチ汁を飲んでらああぁっ!おおうっ!し、幸せだあっ!ウンコ飲めえっ!もっと、ゴクゴク飲めっ!!お腹いっぱいおれのウンコで、柔らかいウンコでたっぷり埋め尽くしてやるからよっ!噛めえっ!啜えぇっ!唾液で、胃液で、腸液でおれのウンコを溶かせぇっ!おおおうっ!いまっ!今程c食人@お腹いっぱいのお腹の中でいれのウンコが消化されてらあっ!程c食人@お腹いっぱいのウンコはおれのウンコで出来てるんだぁっ!!程c食人@お腹いっぱいのお口便器最高うぅっ!最高の生便器だぜえぇぇえっ!!」

プツン

程c食人@お腹いっぱいの中でキリキリと引き絞られていた一本の線が小さな音を立てて切れた。

(のんでる・・・あああぁぁ・・・なんだっけ、これ・・・ウンコ・・ウンコ・・ウンコって・・何だっけ・・・便器・・・おれ・・・そんな・・名前だっけ・・・ウンコか・・・これ・・・飲めばいいんだっけ・・・食べればいいのか?ウンコ?ウンコ?なあんだ・・おれ、ウンコ食べてるんだ・・・)

ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!

大量に流れ出す大便は余すことなく程c食人@お腹いっぱいの口腔を犯しぬく。排泄物に犯されているのは口だけではない。鼻の奥まで流れ込んだ泥便は、鼻水と交じり合いながら程c食人@お腹いっぱいの鼻腔から絶え間なく流れ出し、頬を伝って首筋に伝い落ちていく。

「程c食人@お腹いっぱい。解かるか?そろそろ霜台が糞をひりだしながらイクぜ。程c食人@お腹いっぱいを自分の便器にしたことでかなり頭がヤラレちまってるみたいだからなぁ。ククク・・・ほおら、腹の中が汁便でいっぱいになるまで飲めよ。残したらその糞まみれの恰好のまま長安の街中に放り込んでやるからな。」

「うううううっ!ウンコでイクうっ!程c食人@お腹いっぱいの唇がウンチまみれの肛門をヌリュヌリュ舐めてらあっ、吸ってらああぁっ!おれのウンチジュースを程c食人@お腹いっぱいが、程c食人@お腹いっぱいが赤ちゃんみたいにチュウチュウ吸ってらああぁぁっ!程c食人@お腹いっぱいの変態っ!ヘンタイいいいィッ!うんこ出るぜぇっ!おれのウンコ、程c食人@お腹いっぱいの口便器に、ウンコ袋にぃぃっ!!程c食人@お腹いっぱいの変態便器いぃっ!!おはああああっ!ダメだあっ!生グソ便器にウンコこーもん、ビラビラのこーもんのお肉舐められていっちまうぅっ!いっちまうううっっ!!あひゃああははああああああっ!!」

びちゅぶうううっ!!ぶびっ!!ぷふうううーーーっ、ぶひっ!ぼぶっ、にゅるにゅるにゅるにゅる・・・・

「ぐ・・・・えぇぇ・・・・おごっ・・んぶっ・・ん・・んごっ・・・んごっ・・・おふっ・・・・」

グチョ・・ブチュ・・・ヂュル・ズビッ・ゴクン・・ゴクン・・・グチュゥ・・ニチャ・・ニチュウゥ・・・

程c食人@お腹いっぱいの耳には野望100の低い声も絶頂を迎えた霜台の嬌声も届いてはいなかった。聞こえるのはただ自分の口と鼻の中を暴れまわり、果てしなく喉の奥に流し込まれる大便の音だけだった。
102のぶなが:2001/07/08(日) 06:54
僕は人の血を見るのはもう嫌だっ!
絶対なる支配者がいないから争いが絶えないんだっ!
誰かが支配してくれるのを待ってなんかいられないっ!
そうだっ! やらなきゃ! 僕がやらなきゃ!
僕が皆を支配しさえすれば、もう血は流れないんだっ!

何故? 何故僕の邪魔をする???
そうかっ! お前らがっ!
お前らが人の血を見て喜んでいるんだなっ!
殺すっ! 皆のためにお前を殺すっ! 正義のためにっ!
我以外の支配、すなわち悪っ! 我こそ真の平和希求者っ!
我こそ正義っ! 我こそ菩薩っ! 我こそ皆の願いっ!

で? 天皇・官位・旧将軍・教徒・重臣・関所・座・野望100・・。
どれを無くせばいい? どれが無くなると幸せ? 頭が痛いよぅ・・。
103さち子:2001/07/08(日) 07:01
>>1
信長の目的は要約すると「生き残りたかった」ですね。
歴史上、よくあることです。
日本が明治以降、対外侵略(進出)を繰り返したのもそうですし、
ドイツのヨーロッパ侵攻も英仏とロシアに挟まれた閉所恐怖症状態からだといわれてます。
ロシアの拡張政策も当初はそうでした。

それで、尾張は経済的には豊かですが、大半が平野で
攻めるに易く守るに難く、しかも東国大名の京都への通り道になっています。
信長も幼少の頃から今川と斎藤の脅威をひしひしと感じていたと思います。
それゆえに生存のためには京都に上洛し権威を握り、安全を確保する必要性があると考えたようです。
ただ、京都を抑えた結果、逆に狙われたのも事実ですが、それも、よくあることです。

大河ドラマ「武田信玄」にこういうセリフがありましたね。
わしは始めはいくさを無くすために国を広げた、
しかし国、広がればいくさもまた広がる」

わたしは信長が若い頃から雄大な目的や最終目標を持って行動してたとは思いません。
わりと、行き当たりばったり「安全を確保するために力を行使し権威を手に入れる」
繰り返していたと思います。
104無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 10:00
>>さち子たん
動機が生き残ることってことには同意ですが、
どの辺りまでいくと安心できるんでしょうかね〜。
将軍? 王? 世界制服? 人類絶滅?
やっぱり日本一国の主導権だけ取れば当時は安心だろうけど、
信長公の安心の形がどのようなものか、知りたいですね。
信長・武士・中世・・・いろいろ判断材料はあるけれど。。
105無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 10:32
>>103
たしか武田信玄の「国広がればいくさもまた広がる」
にセリフは武田信玄が終わりの方の回で言った
セリフですね。
106無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 10:40
>>103
その点については
ほぼ、合意
尾張のような国でじっとしてたら、
確実に滅亡を待つだけ
107無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 19:14
最近の網野史観とやらで日本は均質的な民族ではなく、室町の頃はもっと
いっぱい「国」が乱立していたって考えが広がってるじゃない?
それを踏まえたら信長の「統一」事業も評価が変わるよね。
もっとも網野先生、学界じゃ嫌われているみたいだけど(笑)。
108無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 20:13
>>107
その学者は知りませんが、国主程度で他国を意識するのは
普通だと思う。農民は村からほぼ一生一歩もでない、お参
りとかで他国に出るのは現在の海外ツアーみたいな感覚。

普通の小説とかでもその感覚で作っているんじゃない?司馬とか。
だからこそ、秀吉は他国侵略のつもりで外国侵略おこしたり
して失敗。
やべっ、NHKたいがの時間。
クニとコクの違いね。コクはめちゃ新しい感覚だよ☆ んじゃね☆
109無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:03
網野善彦の本は一回読んだ方がいいよ
反論するにしろ賛同するにしろ思考の裾野が広がる

>>農民
網野さんって、この「農民」とか「農業」を日本史の礎と考えるやり方に
疑問を持っている人なんだよね
ま、たまたま108は農民を引き合いに出したんだろうけど
110無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:11
関係ないけど、昔NHKで
「農民と百姓は違うよ。百姓はキコリとかも含めた色々ね」
というのをやってて視野が広がったよ。
111109:2001/07/08(日) 21:26
>>110
そう、それ
網野善彦がしつこく訴えているのは
漁民だって山民だって博打打ちだって百姓
今まで士農工商で農が全体の八割だって言われていたけど、実際は四割くらい
百姓を全部農民にしちゃったから八割なんて数字が出てくるらしい

関係ないからさげ
112無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 22:07
おいおい・・。
108と110は俺だけど、俺がNHK見たのは子供のころで、
もう十数年以上前だぞ。中学ぐらいだったかな。
その先生は、、、少なくとも最近じゃ通用せんだろ。。
いや、他の内容知らんからあんまし言えんけど。。
「百姓は、見ての通り百の姓を現し・・」みたいなこと
言ってたら、まんまNHKのぱくりかと。
でも当時の教科書も、士農工商でほとんどだったような・・。

あと、国についても、例えば司馬は(桃山時代の京人にとって)
「土佐とは九州よりも未知数で、本当に人が住んでいるのかと」
みたいに、普通に小説に使ってたよ。司馬は昭和中期で。
まぁ、俺は詳しい人じゃないんで、、、お互い頑張ろうな。
インチキっぽい学者だろうと、俺より知識が深いことは間違い無いしな。
113112:2001/07/08(日) 22:17
あっNHKで講義してた先生が、その先生かも知れませんね。
>>107の「最近の」の最近ってのも、20年とかも
最近になるのかも知れないし。 んじゃね☆(じじいでも星!)
114無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 10:13
網野善彦をインチキっぽい学者って言うなよ(笑)
百姓の話だって去年一昨年に言い始めた事じゃないって
もちろん網野以前にも色んな先達がいるし

ま、歴史学界でそれなりの異端児ってのはそうだけど、世間一般でも
網野の名が知られるようになったのはやっぱり「もののけ姫」だよな
幸か不幸か
115無名武将@お腹せっぷく :2001/07/09(月) 21:48
もののけ網野
116信長の目標スレッド:2001/07/10(火) 08:48
天下布武(武士による全国統治)

政治を行わない天皇家の扱いはどうするのだろうか。
天皇は主ではなくても御先祖様だよね。
源氏だろうと平家だろうと、遡れば天皇家だよね。
やっぱり「天皇家は武士の父」とか祭り上げるのかな。
それとも完全な専制を目指して、天皇家も排除かな。
117無名武将@お腹せっぷく :2001/07/10(火) 09:31
ま、天皇の問題は信長の最大の敵は正親町天皇だったって事を
今谷明が言ってるよね。譲位問題とか。
118無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 10:40
安土城には天皇を迎える用意がされてたそうな。最近の研究でほぼ決定ってかんじ。道幅住居すべて天皇ようにつくられてるらしい。しかもそれはほぼ京都の御所をコピーしたものだったとな。
また安土城には仏陀も祭られていた。となるとなにがしたかったのかは・・・・
119無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 11:47
安土を天皇が住まうようにあつらえた。
これは天皇を迎えたくてやったんですかね。
120無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 12:58
天皇を迎えるったって解釈は分かれるだろうな
121無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 14:02
そもそも戦国時代の国主が全て天下統一を望んでいたという講釈やゲームが間違い
国主はあくまでも自国の安全確保を目的として争ってる。
戦国時代って呼び方も嫌いだね、朝廷や幕府の官位だって実力があればそれを
行使できるわけでめちゃめちゃ治安が乱れていたわけでもない世の中なんだから
もっと常識的に物事を考えてはいかがか?
会社で部長にさからう課長なんてあまりいないだろ?
でも部長が口ばっかのやつだったらみんなに無視される、そんなもんだろ?
122無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 14:08
信長は任官に積極的でないよん
123無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 14:11
>>121殿、ネタフリご苦労
124無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 20:24
寝たふりの割にわかりづらい
125無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 23:49
天皇を迎える云々は聞いたことあるような・・。確か・・
(武田討伐後の家康招待のとき、光秀の用意に対して)
信長「家康殿を迎えるのには豪華すぎじゃ! 最高級じゃないか!
   最高は天皇が来られた時こそ用いるのじゃ! 禿げ!」

・・・、でもこれ↑じゃ一時用っぽいよね。
住ませるってことは・・
・御所から移して、仏像のように住まわせる。(公家は解散)
・織田に譲位させて、皇族は安土城にて監禁。
・当時の天皇がむかつくので、皇太子を即位させる。
 あまった元天皇は悪さしないように安土城にて監禁。

こんなかんじかな。 ほんまかいな。 やっぱ一時用じゃないの?
って、詳しいことは誰も解らんだろうけど。(発見されたら凄い)
126無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 23:52
(完全なる証拠が発見されたら凄い)です。。
計画書とかね。
127無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 23:56
正親町天皇に譲位を申し込んでいたのは事実だよ
正親町天皇も喜んで譲位するって返事したんだけど、信長存命中は果たされなかった
学者によって意見が分かれているんだよね
・譲位するって返事したのは正親町天皇のポーズで本心ではない
・譲位する気はあったがお金の工面が間に合わなかった
・信長は譲位を申し込んだが、年上の天皇は自分より先に死ぬので譲位に積極的でなかった
他にも色々あるけど、まあ各意見はこんな感じ
128無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 00:25
おおおう! まじっすか!
完全なる支配者・織田信長、ですかね〜。
はぁ・・。かっこいい・・。(なんとなく)

喜んで譲位する天皇は、かっこいいのかな〜、微妙だ・・。
129128:2001/07/11(水) 00:35
織田に譲位じゃないのかな。ちょっと調べてみます。
130128:2001/07/11(水) 00:49

>年上の天皇は自分より先に死ぬので

これよくわかりません。
天皇にとって、自分より先に死ぬであろう年上って・・
お兄さんのマンジュイン覚怨さんのこと?
誰に譲位しようとしたのでしょうか?
ゴヨウゼイ天皇? 信長? その他?
131歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/11(水) 00:52
普通に考えて・・

幾つかの革新的な業績、つまり結果を出してるってことは、
少なからず、そういうものへの理解があったと考えるのが自然。
そう考えると、天皇制に合理性を感じなかったら、現実問題は別として、
彼なら破壊を意図した可能性はあると思われ
132128:2001/07/11(水) 00:59
>>127
(誰かより)年上の天皇は、自分は高齢なので、
年齢的引退理由をつけるために、もうちょっと持てといった・・

頭痛くなってきたよ・・。
133128:2001/07/11(水) 01:08
>>132は、三行目の空白に
「ってことでしょうか?」
を追加してください。 もう僕、壊れたかな?

>>131
信長が合理性を理解していようといまいと、
信長が天皇制に合理を感じたかどうかは別かと思われ。
可能性はあると思われ。
134無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 10:33
おーい、勘違いしちゃだめだよ
信長が申し入れた譲位ってのは、正親町の息子の誠仁親王に位を譲って
譲位されては?って事だよ
天皇家は、先々代、先代ともに譲位せずに崩御していった(お金がない)
ので、正親町天皇は喜んで、と返事したんだよ
でも、結局信長が生きている間は譲位は果たされなかった
で、>>127につながるわけ
ちなみに正親町天皇は信長よりも17才年上。
・信長は譲位を申し込んだが、年上の天皇は自分より先に死ぬので譲位に積極的でなかった
これは、信長にとって正親町より誠仁の方が都合が良かったが、
信長より17才も年上の天皇、譲位させずとも自然に正親町の方が
先に死ぬので、信長が譲位に積極的でなかったっていう説だね。
135無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 12:01
安土城の遺跡に御所と同じ建物が立っていたであろう遺構が
あり、天皇を安土に迎えようとする意思じたいはあったと思われる
(現在調査中のようです)
136無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 12:17
隠居した天皇をお迎えする建物なのかな〜。
御側衆みたいですね。
でもいくら貧乏でも、位を他家に渡すのを喜ぶってことはないか。
劉禅じゃあるまいし。
日本には先例の無いことですしね。

でも帝王信長ってのが誕生してたら、日本一新ですねいろんな意味で。
137無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 12:34
信長は位階には興味なかったと思う
朝廷とは別の枠組みの政権樹立しようとしていたんじゃない
こんな事書くと今谷明に猛反発食らうだろうが
138無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 14:12
意外と信長は天皇を現在のような象徴と考えていたんではないかな。
139無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 16:20
安部龍太郎「信長燃ゆ」って最近でた小説。
まさにこのスレのテーマにぴったしだよ。

分かり難くそうにネタバレすると…
 信長は義満@今谷みたいのを狙ってた<本能寺(前久@朝廷)
なんだけど。
御座所@安土城なんかも取り入れてるし。

信長萌えには必読の小説だと思う。
天皇制とか日本@大航海時代とか…歴史小説としても良く出来てる。
興味のある人は、是非、読んでみて。
140畠山顕家:2001/07/11(水) 17:07
天皇制、天皇制って、バカの一つ覚えみたいに仰ってる皆さん
天皇制の定義すらも出来て無いでおじゃる。
そもそも、正親町天皇の存在自体矛盾だらけなのに、
信長が本気で、学術的考察を各界にさせたら、足利擁立天皇なんて、
すり潰されてもしかたがないのでおじゃる。
信長、麻呂の家系を乗っ取るな。
141北畠顕家:2001/07/11(水) 17:11
↑ ナマエヲマチガエタデオジャル。
  ハズカシイデオジャル。
142>140:2001/07/11(水) 17:35
なんか突っ込みにくいんだけど…
信長に乗っ取られたのは弟の家系だね。
143無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 17:39
このスレだけ妙にアカデミックだよね
14489&90:2001/07/11(水) 20:02
またまた今の話の流れと関係ないけど前回のレスの補足

安土宗論を浄土寄りと書いた理由
安土宗論の法華側の僧は日洸・日諦・日淵。
彼らが争論に負けて法華が弾圧されたわけだけど、
負けを決定づけたのは『妙』についての問答。
(『妙』=衆生の思議が及ばない境涯。
恐らく浄土の僧自身も答えようがないであろう質問をし、
それを以って信長は宗論の決着として法華を弾圧したわけね。

信長が本当に宗教廃絶者だったか
信長の宿所本能寺は日蓮法華衆、信忠宿所の妙覚寺も法華の寺。
碁や将棋の相手、本因坊算砂(日海)は先に挙げた日淵の高弟。


宗論のきっかけは法華お得意の他宗・為政者攻撃への対処。
その後の寺僧への待遇からみて信長の宗教弾圧が宗教嫌いから
来るものではなく、政教分離に基づいてのものだと分かると思う。
14589&90:2001/07/11(水) 20:02
幕府については完璧間違ってた
32 名前:おとみ投稿日:2000/06/07(水) 23:39
所詮征夷大将軍は令外官。(臨時につくられたもの)

頼朝が征夷大将軍を希望したのは、奥州藤原氏討伐にあたって
本来なら鎮守府将軍でも用なすことだが、鎮守府将軍は既に
奥州藤原氏が任じられていたため。

35 名前:名無しさん@1周年投稿日:2000/06/08(木) 22:46
ちなみに、幕府は近衛大将クラスなら開けるそうです。
よって源頼朝の普段の位称は確か「前右大将」であり、
征夷大将軍とは名乗っていなかった。


以前読んだ↑の鎮守府将軍と近衛大将の記述を混同してた。
>>116
織田氏が忌部氏の後裔だとすると皇孫ではなくなる
146無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 20:49
はっきり言って、ここに書いてあることには賛成できない。
信長が革新的でなにをやるかわからないというイメージから
天皇家を潰すとかいうのはさっぱり賛成できない。

信長は無神論者でも無宗教者でもない。
神仏に参拝するなど普通の宗教心はあったし、
自らも禅に帰依していた。
「人は死ねば塵あくたになる」という発言はあるものの
そういう考えは禅宗にもともとある考えだ。

人生五十年の時代だし、本能寺の前にむしろ、
信長は壮大なことをしようというよりも落ち着こうと
考えてたと思われる。
147無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 21:01
無宗教者なんて誰もいってないが
148>146:2001/07/11(水) 21:26
>信長は壮大なことをしようというよりも落ち着こうと
>考えてたと思われる。
ここをもそっと詳しく…三職推任問題あたりを踏まえ、
ご意見をお聞きしたい。
149無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 21:32
このスレッドは、信長が目指したであろう天下国家を
推測するスレッドです。
そのために、推測のもととなる事柄を洗いだし、検討
しているのです。

>>146
で? 信長は結局なにをしたかったの?
なにもしたくなかったの?
なにも考えてなかったの?
150無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 00:55
最初から隠居して茶すすって暮らす事なんて考えていなかっただろ?
151歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 01:10
Re<<信長は結局なにをしたかったか?

それは簡単明瞭に、天下統一です。

中央(足利幕府)が衰退、結果、勢力が地方分権化し、社会が混沌、
故に相争わねばならぬ時代、それを収拾しようとした一人が信長です。
これは紛れもない事実。そういう気概がなければ、美濃侵攻、そしてわざわざ
足利義昭を奉じて中央に影響力を及ぼそうとしません。
152無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 01:16
いや、その「天下統一」の定義をこのスレでは語っているのね
何をしたら天下統一だったのか?
どこまでやったら天下統一だったのか?
153歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 01:27
加えて、そのやり方が後世からみると(つまり私達の視点からみると)、
非常に時代の先を見越した感覚を持ち合わせていたのではないか?と
思わせるような所業を結果としてやっているだけだと思う。

経済・商業的業績(この感覚が彼の一番すばらしい点だと思うが)は及論、
既存勢力に対する対処の仕方、組織内での運用方法、他いろいろあると
思うけど、それが他の大名に比べて、私達、現代人の感覚からすると
目をみはるものがあるからね!なにはともあれ。。
154歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 01:32
>>152

あー、なるほど。そーいうことかー!ちょと考えてみます。はい
155歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 02:11
Re<<なにをしたら天下統一だったのか?

まず、意見を言う前に、
>>103氏の ”わたしは信長が若い頃から雄大な目的や最終目標を持って行動してたとは思いません。
わりと、行き当たりばったり「安全を確保するために力を行使し権威を手に入れる」
繰り返していたと思います。”
  という部分に同意します。
これを踏まえて・・私の意見は、・・・
156歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 02:22
中央に影響力を持つようになった頃くらいから、会社でいうと、
事業が拡大してきたぐらいから(あまり会社のことよく知りませんが)
、所謂 野望・・なんらかの広いビジョンを持つようになったと思います。
たしか、美濃平定した時点で、書状に天下布武なる烙印を押すようになった
という話を聞いたことがあります(真嘘はわからんが)。
それで、そのビジョンですが・・
157歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 02:26
・・・以上。w)
158歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 02:46
ここからは、彼の業績に基づき、勝手に彼の性格を考えて、推測していく
より方法はないのですが・・

結論から言うと、
1.(国内的)強力な中央集権国家の樹立
2.(対外的)開けた外交 つまり明なり朝鮮を侵略とまでは
       いかないが、なんらかの干渉、もしくは
       アプローチはする。
159歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 03:16
要は、大まかに明治維新をイメージ!

1.強力な中央集権国家の樹立
 その強力というのがポイントで、つまり徹底したものをやろうと
 したんじゃないかな〜と思う。
 具体的にその方法として考えられるのが、
 a)これまでの幕府・朝廷の二分化的支配でなく、一元的支配を意図
 b)統一の過程で、便宜上、諸大名の領地はこれまでの封建的なもの
   に最初はするであろうが、そのうち、なんらかのアクションを
   起こす。

 a)の根拠:官位をあまり欲しなかったという話が出てますが、それは
       官位に意味を見出せてなかったとも考えられる。
       つまり、朝廷にその存在意義を見出せなかったら、彼は
       破壊しようと意図しても不思議でない。また、下手に力を
       持った某宗教勢力に対しては、確かに抗争関係という間柄
       ではあるが、タブーとされる比叡山焼き討ち等、そのやり方
       は他と比べて徹底している。
  
    b)の根拠:彼の組織内での運用方法をみると、旧既存勢力に対する
          見方が、すごくシビア。例えば、佐久間氏みたく旧来の重臣に対する
          処置の仕方。それを考えると、服従した諸大名に対しても
          平気でシビアな処置をする可能性大。
 
160歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 03:25
2.対外関係

 彼の商業・流通に対する実績から推測するに、それらに対して
 開けた物の見方をしていると捉えてもいいと思う。つまり、国を
 富ます方法に大して非常に積極的。そう考えると、新しもの好きと
 いわれてる彼のことだから、外国から様々なものを摂取しようと
 すると思う。その当面の標的は、地理的に明・ないし朝鮮。
 侵略までは考えないと思うが、自国が安定すれば、必ず国交なり、
 積極的なアプローチは間違いなくすると思う。
161歴史ヲタじゃあ〜りません:2001/07/12(木) 03:41
えらく、長々と書いてもうたが、これ・・命題に沿ってるかな??

私はやはり、信長の野望というゲームがあるけど、このキャッチコピーは
至当を得ていると思う。戦国の中心はやはり彼だよ!
謙信なり信玄、ましてや、特に北条なんつーのは、地理的なものは
あるにしろ、所詮、一歩遅れた発想しかもってないと思われ。

ちょともしかしたら、彼を買かぶりすぎてるかもしれんけどね。
あんま、詳しくはないし。。
ただ、開拓者的要素、飛躍して言えば、革命的な物の考え方を、
彼はやっぱり持っていたと思われ。

おわり ながながとすまそでした〜
162さち子:2001/07/12(木) 06:58
>>104
遅レスですが、どこまで行けば安全かというと、
普通にしていれば信長自身は武田を滅ぼしたくらいの段階で、
ほぼ安全圏ではあったでしょう(ただし部下に寝首をかかれたが)
ただし、信長死後の織田政権を考えると全国を平定まで行かないといけないでしょう。

>>159
なるほど、参考になりました。
一部にレスをつけさせていただきますが
わたしは信長が天皇家を潰そうとしたという説は支持してないんですね。
この点は井沢元彦さんの意見と同じです(わたしはあまりこの人の意見を支持しない方ですが)
彼の言葉を引用しますと・・・・
「ここで、天皇に対して何らかの暴挙に出たら「逆賊」信長に対して、全国から反乱の火の手が上がるだろう。
せっかく、傘下に入れた諸国もどうなんるかわからない。
せっかく、手に入れかけた天下を落とす事にもなりかねない。
そんな馬鹿な事を信長がするだろうか。
いくら戦国の世の中とはいえ、天皇に手をつけるのは他の場合とは全く意味合いを異にするのである。
もし、どうしてもやるとしたら、それは天下を平定し誰もが信長の以降に逆らえなくなった時だ。
それなら可能かもしれない。」

わたしもこの意見には同意しますが、たとえ最終段階でも信長が天皇家を潰しに行ったとは思えないです。
それは危ない橋ですし、破局にすら繋がりかねません。
たとえ、信長は無事でも彼ももう長くないですし、
彼の死後、天皇家の生き残りを旗印にした、反乱が起こるでしょうね。
今までの支配者と同じく天皇を象徴とした政権の方が無難でしょう。
163無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 09:57
> 行き当たりばったり「安全を確保するために力を行使し権威を手に入れる」
もし行き当たりばったりだったら、信長が権威を認めていないにしろ、
朝廷や幕府の官職に就くことは、対外的に安全を確保し権威を手に入れる
ことへの最短距離になると思います。
それでも、信長は義昭や朝廷からの任官要請を断り続けた。
任官拒否は行き当たりばったりだったのでしょうか?
164無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 10:07
一国史観で捉えようとするから、まとまりがつかないんじゃないのかな?
このスレの途中で網野善彦の話題に逸れたけど、あながち間違いではなかった気がする。
はじめに「日本」という国ありきで、「統一」を語るのは正しいの?
165>162:2001/07/12(木) 10:27
「天皇家を潰す」=朝廷を攻め滅ぼす…ということですか?
だったら、確かにそれはないでしょうね。

>今までの支配者と同じく天皇を象徴とした政権の方が無難でしょう。
ということは幕府を開くつもりだったとお考えですか?
もしくは秀吉のように関白になる?
166さち子でないけど:2001/07/12(木) 10:32
>>163
まあ「行き当たりばったり」というのは大体のとこで例外もあるでしょう。
任官拒否については将軍家に組み込まれたくないと考えたのでしょう。
もっとも将軍家も随分、利用できる所は利用してますけどね。
朝廷の方は「一時保留」でしょうね。
「いい気になるなよ」という示威の意図はあったかもしれませんが
深読みしすぎるのはどうかと思います。

彼は安全確保のために東に家康を置き、
東国大名が来ないうちに美濃を平定し、上洛し、近畿を平定し、
経済力と権威を手中にし、
そうして東国大名以上の軍事力を持つのが目的だったでしょう。

あと、武田家滅亡スレ(読んでおいてください)にも書いてありますが
信長が
将軍義昭を追放したのも、
延略寺を焼いたのも、
一向一揆を虐殺したのも、
別に信長の破壊的思考とか先手を打ったというよりも、
むしろ、再三の警告を無視した、
彼らの行動に追い詰められてのものですよ。
「窮鼠、猫を噛む」ですわ。
167>164:2001/07/12(木) 10:35
天下布武の「天下」の及ぶ範囲って、天皇の権威が通用する範囲
…すなわち「日本」じゃやないの?

うーん…安土城ではじめて「天主(守)」という言葉が使われたなだっけ?
信長における「天」という概念が問われるのかな
地球儀やキリスト(天主)教にもある程度理解があったようだし、
天=世界という事も有り得る…

でも、それも「日本」統一後のはなしではないでしょうか?
168166:2001/07/12(木) 10:40
>>165
おれの考えでは今までにない地位として、
国王にでもなりたかったのかも。
とにかく天皇は温存や。
とはいえ、信長は朝廷や公家に対して、
温存はするだろうけど、
「デカイ態度は取るな、形式はともかく自分がこの国で一番偉いんだ」
と言いたかったのかも
169無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 10:42
>>166
>「窮鼠、猫を噛む」ですわ。
危機的な時には妥協して、その後、隙を見て…
…という信長の手法に、この表現はあっていないと思われ…

当てはまるの桶狭間ぐらいじゃない?
170166:2001/07/12(木) 10:46
>>169
わはは、そうかもしれませんね(藁)
まあ、義昭も一向一揆も延略寺も
早い話し、逆らったから
やられたただけ、
しかも、何度も信長は警告してる。
突然、潰されたわけじやない。
171無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 10:47
>>168
>国王にでもなりたかったのかも。
「日本国王」はあくまでも天皇です。
徳川将軍でも「大君」であり、「国王」ではありません。

「日本国王」を名乗った義満のような王権簒奪をイメージしているのでしょうか?
172無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 10:50
>>170
>早い話し、逆らったから
>やられたただけ、
>しかも、何度も信長は警告してる。
>突然、潰されたわけじやない。

これら件は「行き当たりばったり」な行動ではないということですね?
173166:2001/07/12(木) 10:59
>>172
「行き当たりばったり」とも言えるんじゃないか?
一向一揆の執拗な抵抗も延略寺の執拗な拒否も
計算外だったろうし、
ましてや、義昭が信長の恩を受けながら、
いつのまにやら変な手紙を書いて、信長包囲網とか
変なものをこさえて、信長に刃向かったのは
誤算でしょうが。

もうひとつ言うと浅井・朝倉の件についても
随分、信長は単慮してるように思える。
信長は他の名将のような完璧な計算高さが感じられず、
ずんずん、やってるような気がする。
まあ、だから、素早く天下に近づいたんだと思うが
174>173:2001/07/12(木) 11:10
室町将軍や宗教勢力の権威を(利用する事はあっても)認めない
…という点で「首尾一貫」していると考えられるだけど?
危機的な時には妥協し、これぞというチャンスには叩き潰す
…これは計算高いというのでは?

戦略と政略の次元で話がかみ合ってないような気がするな。

>信長は他の名将のような完璧な計算高さ
たとえば誰?
175割り込みだけどさ:2001/07/12(木) 11:46
あのさ、まず引用の仕方と論点が間違ってるよ。
さち子および155の引用はこうだ。

>>わたしは信長が若い頃から雄大な構想や最終目標を持って
>>行動していたとは思えません。
>>わりと、行き当たりばったり「安全の確保のために力を行使し
>>権威を手に入れる」を繰り返していたと思います。

おいおい、前後の文脈を無視して
都合のいいとこだけ、繰り抜くのは反則だぞ。
それとも174は「信長」「行き当たりばったり」しか
頭に入らなかったのか?

そりゃ、信長が若い頃から
いろんな事までは考えてなかったろう。
そんなに特別な考えでもないぞ。
176174>175:2001/07/12(木) 12:13
>>174は「さち子および155」じゃなくって166に向けた書込みだよ。
義昭、一向一揆、延略寺と敵対し、それらに対し追放や虐殺に
関する話。
「若い頃」とか「最終目標」の話なんかしちゃいない。

>「信長」「行き当たりばったり」しか 頭に入らなかったのか?
この言葉はそのまま>>175に返す。
177無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 12:56
信長はヴァリニャーニに「余が国王であり内裏(天皇)である」と語ってるよ。
178無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 12:58
>>175
>>わたしは信長が若い頃から雄大な構想や最終目標を持って
>>行動していたとは思えません。
>>わりと、行き当たりばったり「安全の確保のために力を行使し
>>権威を手に入れる」を繰り返していたと思います。
多分第三者の割り込みだと思うが、これに対する反論は>>163が書いてるよ。
179無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 14:27
>>178
それに対する反論は
>>166が書いてるよ。

でも、それはさち子及び155が言いたいのは信長は
若いうちから、雄大な構想や最終目標ががあったわけではなく、
安全を守るために行動したって事だろう。
それは賛成だ。
それとも、あなたは信長が初期の頃から雄大な構想や
最終目標が既に固まってと言いたいわけか?

信長が大それた事を考えるようになったというのも俺は賛成
だが、それはもっと後だろう。
俺はフロイスが「信長は徐々に傲慢になり、総見寺を建設した」
と書いてる通り、晩年になって
そういう考えを持ち出したんだと思う。
180179:2001/07/12(木) 14:32
少なくとも、若いうちから、
天皇打倒だの即位だのを考えてたなんて考えは
寡聞にして聞いた事がない。

朝廷からの任管を拒んだというか保留したのは最後の一回だけだろう。
それに息子たちの任管にはむしろ力をそそいで、いたようだが
181無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 14:33
信長の晩年辺りから「天下」についての考え方が各大名の中で統一
されてくるように思われますね。
長年にわたる中央政府不在の状態からやっと中央政府が機能してくる頃
だし、その後政権を引き継ぐ秀吉にしたって信長がしっかり中央政権
を作ってくれなかったら太閤になってないはずだし家康にしても同じ
秀吉の頃には中央に従うか否かで争うわけだし、家康の時代には朝廷
(秀頼)か幕府かで争うわけだしね。
182野望100:2001/07/12(木) 14:35
ロデムが欲しい!
ロプロスとポセイドンはいらない。

ロデム、女に変身させて…ハァハァ…

「ロデム、今日は上村 澄子に変身しろ」
「はい、ご主人様」
「うん、いいぞ。こっちへ来い」
「はい。あ、何をなさいます」
「何って? ナニに決まっておろうが。ほうれほれ」
「あっ、いけません、あ・・・」

好き好きロデム!
もう離さない、もう離さない!
俺のものっていったら俺のもの!
好き、好き、愛してる!
君は僕の太陽だ!
横山 光輝、頼むから俺にロデムくれ。
いや、横山 光輝が何と言おうが関係無いな。
なんつーか、そう!
ロデム、俺の嫁さん決定!
みんな、俺のロデムに対する愛を見てくれ!
183179:2001/07/12(木) 14:40
任管でなく任官だった。
184野望100:2001/07/12(木) 14:41
ロデムーーーーーーーーーー!
俺にはおまえだけなんだー
185無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 14:46
コーエーオタだからかなあ?
なんか信長についてドリームしすぎ(同義語に竜馬が生きてたら・・・)
信長ならなんでもやるとでも、思ってるのかなあ。
信長を中世の人物の一人だと思って
醒めた視点で見ようよ。
私は醒めた常識的な意見に賛成だよ。
186野望100:2001/07/12(木) 14:48
ロデムーーーーーーー
おれのねくたいむすんでくれー
187無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 14:58
これまでの流れを大雑把にまとめると…

 *朝廷のもとで政権=将軍、関白
 *朝廷権威を超えた政権

のどちらか…でいいのかな?
188無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 15:10
>>187
仮に朝廷権威を超えた権力の場合であっても、
朝廷は温存したやろうな
ましてや滅ぼす事はなかったやろ

で、俺なりのマトメだが
信長は経済は豊かだが、攻めるに易く、守るに難く、
しかも東国大名の京への通り道になってる、
尾張の国にジッとしていては滅亡を待つだけと、
少なくとも当初は自己防衛のために東国勢力が出てくる前に
美濃、機内へと進出し権威と力を得たという部分までは
>>103氏が正しいやろう。

論議はそこからやな。
信長が何をやろうとしたのか?
189無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 15:22
義秋を将軍にする辺りではかなり明確に意図を持っての行動だと思われ
るのだが、これも後の応対を見ているとどうやら将軍に貸しを作った
程度なのだろうか?
190野望100:2001/07/12(木) 15:34
ロデムに後ろから優しくネクタイを結んでもらいたい・・・
191>189:2001/07/12(木) 15:37
朝廷の権威を利用出来るようなったから、
将軍の利用価値なくなったんじゃない?
義昭、勝手なことするし
192無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 18:19
>>180
信長は1575年11月に権大納言・右大将になっているが、その前に同じ年の7月の時には
朝廷からの任官要請を断ってるぞ。
193無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 18:21
若い頃には天下なんぞ望んでいなかったかも知れないけど、
天下布武のハンコ使い始めた頃からは、それなりの意図を
もって行動していたんじゃない?
ここから先が行き当たりばったりってのは合点いかない。
194無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 18:22
>>192
まあ、たしかに任官には積極的でなかった部分があるにしろ、
それに拘りすぎんのはどうか?
考えたかったんじゃないか?
195無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 18:25
>>187
> *朝廷のもとで政権=将軍、関白
> *朝廷権威を超えた政権
これは三職推任の解釈で大きく分かれるよ。
187は立花京子説支持?
196187>195:2001/07/12(木) 18:46
>立花京子説支持?
詳しくは知らんけど、三職推任を朝廷が自発的に出したか、
信長から働きかけて出させたか(こっちが立花京子説だっけ?)
の解釈のことだよね?
まあ朝廷がわざわざしたと思えないから、信長主導かな…と思う。
(だからといって即「朝廷のもとで政権」支持って訳じゃないけど )

三職推任に加え、安土城跡の御座所(に似たもの)、暦…
…ここらを踏まえた安部龍太郎の王権簒奪のイメージを、
俺は気に入ってるんだけど。

ところで>195は立花京子説支持?
197無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 18:51
おいらの妄想
上洛直後は義秋を傀儡にして権勢を振るえばいいと思っていたが義秋が
裏切ったので他の道を模索しているなかで安土城の御座所と考えれば
朝廷主導の政権が妥当では?
後継者の秀吉もそうしたように、まぁ秀吉とは事情が違うだろうけど
198195:2001/07/12(木) 19:23
三職推任に関しては、日記の訳は立花支持。
ただ解釈は堀新支持。

村井貞勝→勧修寺晴豊→天皇or親王の順番で推任の話が伝わった。
1.信長の意図を汲んだ推任強制なら三職は「特定」の職になるはずなのに、
村井は「太政大臣か関白か将軍か」と曖昧に申し出ている。
2.天皇or親王は「いか様の官にも」任じてよいと答えているのだが、晴豊は
信長に「将軍」を伝えた。

信長主導なら、なぜ「特定」の官職にならなかったのか?
晴豊はなぜ勝手に「将軍」と伝えたのか?
ここらへんに疑問が残る。
199無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 20:36
>>193
まあ、いろいろハプニングが起きたしね。
200無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 20:47
王権奪取までは考えてなかったやろ、
ただ、信長は朝廷に示威的に働きかけたんやろ。
201無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 20:58
浅井長政への対応は行き当たりばったりだな。
まあ、信長も、まさか長政が自分を裏切ったり、
なおかつ、あんな強情とは予想できなかったんだろうけど。
202無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 21:15
そもそも信長は官位は政治等に利用できる便利な道具としての価値としか思ってなく
その道具に必要以上な価値観を持たなかった
203無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 21:39
どうやら天皇家は安泰の方向で固まってきてるようだが、
>>177に凄いこと書いてあるけど、無視ですか?w
それとも>>177のはしんぴょう性薄いの?

私は当時の天皇がどの程度敬られていたか疑問です。
信長が武力制圧をしたあと、天皇追放宣言なんかしても
以外とみんなついてきたんじゃない?
もちろん信長が帝位について、みんなに官位やるだろうし。
たしか信長って、「この石を信長と思って敬え」とかなんとか
やったんでしょ? その勢いでみんながついてきた天下なら、
とりあえず配下大名どもは皇帝信長を受け入れるんじゃない?

あとは百姓とか学者なんかの反応がどうなるかだけど、
この辺はどうなんだろう。けっこう刃向かうかな?
信長が帝位につくかどうかは、もちろん本人の好みもあるし、
天皇の支持率もあるよね。
私は新皇帝信長に一票。姻戚とか使ってじわじわと計画・・。
204こんなんどう?:2001/07/12(木) 22:00
*正親町天皇に攘夷を促していた
*誠仁親王を二条御所に住まわせていた
*誠仁親王の子、五の宮を猶子にしていた
…既出かもしれんが、信長と朝廷との関わり

五の宮を帝位に就ける>安土城の「御座所」へ連れてくる
>その義父として信長=治天の君
205204:2001/07/12(木) 22:02
>>204 訂正
スマソ、「攘夷>譲位」…ね…でも我ながらチョト、ワラタ…
206無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 22:02
まあ「行き当たりばったり」というのは
信長自身の姿勢というよりも信長の周りが
あまりにも、やかましく信長の障壁になり続けたからだろう。
それで信長が対応にテンテコマイの忙しさだったというのは判る。
まあ、それは信長の日本人離れした和の精神を持たない点や
革新性などの突出性にある。
出る杭は打たれるが日本の文化だからね。

>>203
ちょっと難しいと思うよ。
まあ、信長一代なら、なんとかなるだろうけどな。
207無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 22:49
ああ、>>177のやつね。
俺は、信ずるに足ると思うけど、宣教師の記録って、宗教的フィルターや
異国人としてのフィルターがかかっているので、鵜呑みには出来ないって
学者がいるんだよね。
フロイスにも「自ら生きたる神及び仏」と語ったらしいが。
宣教師側にしかこういう記録がないことがネックらしい。
208206:2001/07/12(木) 23:01
それは同意見、
「信長は傲慢になり総見寺を建設した」
の権もそんなもんだろ。
209206:2001/07/12(木) 23:33
権は件の誤りだ
210無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 00:49
日本人が
「キリストは偉いな。。だがこの国では俺が一番偉い。」
とかいっただけで、祖国に
「なんと愚かで傲慢な男だろうか!自らを神とならべるとは!」
と、報告するのが宣教師ですか?

あわてんぼさんですねw
211無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 01:10
信長は自分が内裏であると語っている。
内裏の意味するところは、キリスト教の神でも何でもないよ。
212無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 01:18
宣教師の記録はフィルターがかかっていることを考慮しなければならないが、
その点は日本人の記録も同じ。
それに、宣教師側にしか記録されず、日本人は誰一人記録していない事柄があるのも事実。
213210:2001/07/13(金) 01:43
>>211
いえいえ、210は
統治実行者としての実力と、名目上の実力を、
分けようとすれば分けられそうですが、
宣教師は神を冒涜されたと思って怒ったりして、
誤解を生みやすい表現にて明記したりしたことも
あったかも知れませんねってのを、なにげに書いただけです。。

宗教的フィルターって、こんな感じかなと思って。。
214無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 02:06
宣教師の記録は、訳者の川崎さんや松田さんが「冗長」だって
書いてるから学者もそれを踏まえた上で研究しているはずだよ。
>>212のような例もあるし、貴重な史料なのは間違いない。
215高天原住人:2001/07/13(金) 11:38
>>210
宗教は、本来そう言う唯我独尊なんでしょな。
八百万神の日本人には、理解しにくいけど、
唯一神教の世界では、その神を超えた存在を拒絶する意識は強いし、ナーバスになるのね。
日本では、人が死ねば神にも仏にもなれるのにね。(動物や石・木などの自然も神さまになれるね。)
まー、神さんの有り難味がもの凄く違うのね。
216無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 13:43
回覧種人の「信長は幕府再興を」とか言うスレッドを思い出す。
217無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 14:27
誰かも言ってたけど
私は信長弱者反抗説論を押す。
信長は自分たちを弱者だと理解してたから、
あれだけ外に積極的に出て行けたんでしょう。
特に信長の若い頃はピリピリしたからねえ。
218無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 15:05
信長を天下人にしてしまったのは義秋の責任
今まで通りいいなり将軍で収まっていればまだ天下は定まらなかったが
めぼしい勢力を全て結集したにも関わらず信長が生き残ってしまった
為に信長のやりたい放題の世の中を作ってしまった。
三国志でいうとカシン大将軍と同じことをしてしまったのさ
219無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 15:26
>>217
少なくとも根本原因はさち子達の
いう通りだと思うがそのろんり信長のどの段階まであてはめるべきか?
ただ、信長が衰亡した武田すら恐れてたのは事実だが

>>218
そりゃ、違うと思うぞ^^;
220無名武将@お腹せっぷく :2001/07/13(金) 16:51
>>198
堀新って何?
221無名武将@お腹せっぷく:2001/07/13(金) 20:56
>>220
三職推任の解釈について立花京子に対立する説を唱えている学者だよ。
堀が名字で、新が名前。
222無名武将@お腹せっぷく:2001/07/14(土) 13:20
>>171
九州にいた宣教師の誰かが信長を国王と書き記していたような
223無名武将@お腹せっぷく:2001/07/14(土) 21:30
>>173
義昭のことは誤算ではないでしょう
義昭の行動こそが「窮鼠猫を噛む」
224無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 01:15
村井貞勝から申し出たのになんで信長主導じゃないんだ?
225あは:2001/07/15(日) 01:28
最強は、全日本を直轄して、服従だろ!!
大日本帝国のようなもんだ!!こいつの発想は野望が高すぎて、当時の
日本では無理があった気がする、世界に出るには人口が足りなすぎる
秀吉のようなやり方も問題ありだから、家康のように服従の形をとらせて
、政治を統一させてやるやり方が一番あってるだろ!!
君主政治にするために、大名をねこそぎ排除するのは時間もかかりすぎる
226無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 01:29
この板における数少ないアカデミックなスレッド
こういう所には登場しないあは
227無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 01:46
あのさ、みんな史料を裏付けにして発言しているんだよ
妄想だけで突っ走らないで
全日本とは言うけど、「日本」の定義だってこのスレでは
議論されているので、一回ログを通読してください
228無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 02:33
ルイスフロイス、一部で毛嫌いされている宣教師の記録だけどさ、
『イエズス会日本年報』上
「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後一大艦隊を編成して、
シナを征服し、諸国をその子達に分ち与えんと計画した」
229無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 07:08
>>225
全日本を直轄?
律令制との絡みは?
230無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 07:16
>>229
キチ外にマジレスしないように。
231無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 11:52
人口だって戦国後期には3000万人近くになっているので当時の国家
としては十分すぎるくらいです。
232無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 12:03
>>225
おまえ、どこぞのスレで信長は天才だって豪語してなかったか?
1度、おまえの頭ん中を覗いてみたいよ。
233無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 19:44
信教的な理由でフィルターがかかってたのは日本側もいっしょだよ。
>>212にある通り。
フロイスは二条城建設にあたり信長は近隣の石仏を破壊して石垣にした
って記録しているけど、日本人は誰一人その事を記録していない。
最初はフロイスの宗教的な妄想か虚偽だろうって話だったんだけど、
実際に二条城跡から破壊された石仏がいっぱい見つかってフロイスの
記録が正しいことがわかった。
あ、二条城は今の二条城じゃなくて信長が義昭のために建てたほうの
二条城ね。
234無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:12
>>233
日本人が、信長(明智)の仏像破壊を書かなかったってのは、
これはどういう意味を示しているのでしょうか。

*日本人も価値を認めないような仏像を破壊した。
*日本人・・・

だめだ、納得出来そうな理由が思い浮かばん。。
だれか解説してくらはい。
235無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:15
お忙しい所、恐れ入ります!警告に来ました!
三国志・戦国時代板自治スレッド の169と490に狙われたら
大変でござる!
この2人とその面々はこの板を守ると言う事を建前として
気に入らないスレを攻撃し・荒らして(名無しだからヤリタイ放題!)
そして削除依頼だしてこの板を破壊してる奴らだよ!
このスレも危ないですぞ!失礼しました!
236無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:35
>>234
1.日本人は誰もこの事実を知らなかった
2.日本人にばれないように信長はこっそりやった
3.神仏の罰が当たるとして記録することさえ恐れた
4.>>234の通り、どうでもいい石仏を破壊した
他にあるかな?
1.2.は状況からして考えにくいよな。将軍のための屋敷でしょ。
大掛かりな工事だから、どこからか噂くらいは伝わるはず。
4.もどう?どうでもいい神仏なんて当時の人々にあったのか疑問。
研究者は3を推す人が多いらしい。
史料の多くは公家や僧の日記。だから神仏に関して敏感なのはわかる。
でも、一人も記録してないって・・・。
延暦寺の焼き討ちの記録ってどうなんだろうね?
やっぱりほとんど記録されていないのかな?
まあ、最近の研究で焼き討ちが大規模でなかったらしいって説が有力に
なっているし、それとの絡みがあるから一概には比較にはならないかな?
237無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:37
>>228みたいに、やっぱり海外から来た人は
視野が広いのかな〜

もし信長が日本人に同じようなことを、さらっといっても
「信長公は大儀者じゃ」
「信長公は面白いおかたじゃ」
とかいうふうに、冗談としてのみ受け止めそう。

この辺も、日本人と宣教師の記録の違いなのかな?
238無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:37
>>235
このスレは関係ないだろ
削除対象になるようなことは何もしていない
このスレにとっては君の方があらしだよ
239無名武将@お腹せっぷく :2001/07/15(日) 21:46
>>237
このスレの中盤辺りでも議論があったように「日本」という枠で考えて
いると理解できない部分があるかもね。
網野善彦が言うように南北朝時代には地方で自立・独立の気風があった
事だし、海を通じてアジア各地と繋がっていた。
一国史観で考えることが落とし穴かも。
信長に限らず、統一の境界線はもっと幅広いものだったかも知れない。
240無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:49
>>235
どうもすいませんでした!
ごめんなさい!
楽しんでくださいませ!
241無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 21:51
>>236
なるほど、神罰ですか。
うーん、それっぽいですねぇ。
ほかに神罰といえば、松永の大仏焼きとかかな。。
ちょっと注目してみます。。
でも、こういう極端な例は、難しいんでしょうねぇ。。
242無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 22:14
そうだよなあ、松永の大仏焼き、信長の延暦寺焼き討ち、
古くは平重衡の大仏焼きも記録に残って伝わっているんだから、
信長の石仏破壊だけ記録がないって矛盾しているよな。
なんでだ?
243無名武将@お腹せっぷく:2001/07/15(日) 22:31
松永の大仏焼きとはなんとタイムリーな・・・(W
244無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 00:33
全日本の直轄ってなんだろう?
国司や守護・地頭でも置くの?
245無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 03:20
>>244
直轄なら郡県制じゃない?
血縁者だけが国主になれるとか。
246無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 11:18
直轄=官僚制でしょ
国王以外の世襲は認めないってことでは?
247無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 13:40
つーか、直轄云々を言いだしたヤツが解説するのが一番
248無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 15:02
直轄って言い出したのあはだろ?
あんな電波のいうこと聞いてどうすんだ?
249北畠顕家:2001/07/16(月) 15:33
気軽に、直轄地などと言わないでおくれ。
麻呂の子孫の支配する伊勢などでは、御館様などと祭上げられても、実質支配など夢の又夢。
国司や守護と言ってもなにせ、土地をほとんど所有しとらんでな。
大口地主の地頭の有力な輩の微妙なバランスの上で、小型天皇みたいに神輿になっておるのが、実態なのじゃよ。
そのてん、信長は凄いの。
土地所有と、地域支配権力の分離を実行しよったからな。
武士のサラリーマン化なんて、したくても普通は出来ぬ相談じゃ。
麻呂が生きておれば、信長とてそう容易く、伊勢には足を向けなかったろうにの。
250無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 22:05
なるべく任官しないようにしていたとは思うんだけど・・・
三職推任はどうなのかなあ?
で、最終的に三職推任されたことを信長の敗北と見るか(今谷明)、
信長からの強要と見るか(立花京子)、三職推任の三者択一的考察
からは抜け出す必要があると見るか(堀新)
さあ?どれを支持?ファイナルアンサー?
251無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 23:35
先に自分のハンドルを明かしてるからイデオロギーが絡む事には
参加したくはないけど、
安土城に火をつけたのが誰かっていうのも重要だよな
信雄と明智軍説があって、光秀の謀反が朝廷を慮ってのことなら
天皇用の建物を明智軍が燃やすかどうか、だし
信雄が燃やしたにしても咎めを受けなかったのか、とかね


関東攻略中の滝川には関東管領(官位じゃないけど)
西国攻略の諸将には筑前守や惟任姓などを与えている
なのに、北陸軍には任官がない
勝家の修理が正式任官かどうかも確認できてないらしい
関東組や西国組に倣えば、秋田城介なんて信忠よりも勝家に相応しい
本気で上杉を攻める予定はなかったのだろうか
252飛蝗詩人:2001/07/16(月) 23:35
そもそも、仏像破壊・寺社仏閣破壊などは、そもそも日本国内で横行する私利私欲を
欲しいままにする坊主(スマン)に天誅を加えるという、当時日本の治世上での最大
のテーマ。
ルイス・フロイスなどの見聞・土産は、信長に飛躍的想像力や新発想を与えた単なる
アイテムであって、信長の欲求不満を満たしただけの事。
それが故にそこそこ重宝されたのをいい事に、寺社仏閣破壊とかに一枚かんで勘違い
していただけの話だと昔から思っている。
信長にしてみれば、南蛮渡来の兵器を我が物に、西欧諸国の如く近代で云う「列強」
の仲間入りを果たすくらいの妄想は描いていたのではないかと思います。

そういう観点から考えれば、日本の治世なんぞ、ある程度平定した段階で片っ端から
海外へ出兵させた後に国主=県知事制度なんぞを導入すれば事足りるわ、って思って
たのではないかしらん?
妄想スンマソン。
253飛蝗詩人:2001/07/16(月) 23:41
ちなみに、妄想ついでに信長の天皇家に対する思い入れなんていうのは、
特別に無い、と云っても良いのでは?と思ってます。

今現在の天皇家が日本の象徴であるのと同じ様に、仏像を拝むよりも尊い
存在として天皇家が存在していれば、それで良い。
国務と天皇家の完全な分断が信長の考えであったと思われ。
254無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 23:57
当時の天皇家の立場を勉強しなさい。
現代は明治以降の尊皇教育とその反動にて天皇というのはあたかも
日本を象徴しているかのように感じているのかと思われるが当時で
は室町初期から中期の王朝分裂で天皇の権威が疑われていた時代
その状態で信長が天皇になりたいとは思わないでしょ。
255無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 01:36
>>254
当時、天皇が実際の支配権をもっていなかったとしても、
学問的に突き詰めていけば、武士の支配者は天皇だった
わけで、もし信長が天下布武(天下に武を敷く)が成った
場合、天皇をどう扱ったのだろうか。というのがこのスレの
今までの流れです。
とくに、源氏だろうが平家だろうが、天皇の血筋だからこそ
貴ばれていた面もあるので、それらの名目と、実際の支配との
兼ね合いとかも話し合われています。
もちろんその他の話題もあります。
256無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 18:43
うーん、アカデミック
257北畠顕家:2001/07/17(火) 19:06
みなさんは、お上が日常何をしていたのかご存知か?
簡単に言えば、神主さんと大差ない神霊行事を行い、
一年の最大行事が、新嘗祭なのじゃよ。
退屈で退屈で、できればすぐ引退して、上皇になりたがる物なのじゃ。
お上に、政治的な行為はまずしないし、出来ないのじゃよ。
参議や大臣が決めたことを、追認する、
そう今の内角の助言と承認による国事行為と同じなのよ。
だから、お上(天皇)は、どの時代にも生き残れたのね。
お上の実質的支配権力は、大化の改新時と建武の中興以外有名無実なのね。
信長がそれに、気づいていれば、自ずとお上の取り扱いも決まるのじゃな。
258無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 19:14
今谷明はそう言ってないよね
259無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 19:25
信長が規律にうるさかった。
侍女が休日でもないのに遊んだら、
それらと弁護人を纏めて殺したりした。

これが学問的にうるさいといえるかどうかは知らない。
しかし、細かいことでも満足できないことは変えたり、
幼児のような我侭ぶりを見せたりする信長が、
名目的とはいえ、自分より格上の存在を許すことが、
天下統一後も出来たかどうかは疑問だ。

だからこそ信長に関わるものを集めている
このスレは興味深い。
260銀二:2001/07/17(火) 19:31
>>252-257
信長が目指していたものは何かというのを語るとき、
天子の存在を外して語る事は難しいですね。

>国務と天皇家の完全な分断が信長の考えであったと思われ。
手前も最初はそのように考えていましたが、
今ではそれも後の世の人間が勝手に抱く幻想かも知れないと思います。
足利幕府でそれをやろうとして既に大失敗を遂げているわけですから、
あの後はまた新たなビジョンなどを養っていたはずで、そうなると、
朝廷相手にまた同じ失敗を繰り返すのも彼らしくないような気がします。

そこで気がついたのは、信長が天皇御親政を狙っていた可能性です。

一見、突飛に思われるかも知れませんが、
どなたかこの可能性に関しても追求して見ませんか?
261銀二:2001/07/17(火) 19:38
>>259
>名目的とはいえ、自分より格上の存在を許すことが、
>天下統一後も出来たかどうかは疑問だ。

もしそのような恐るべき野心を胸に控えていたとしても
彼はそれに対する準備を余り整えていませんでしたね。

朝廷を廃絶するなら、大義名分が必要なわけですが、
当時の朝廷に諸侯を納得させられる過失らしい過失がありません。

天子の御位を織田家に譲渡願うのなら、中国の皇帝禅譲のように
自らの官位を高めて段階を経なければ困難です。
262北畠顕家:2001/07/17(火) 19:39
>信長が天皇御親政を狙っていた可能性です。
明治維新のスタイルですか?
本来、お上は 臨して決せず がポリシーですから、
後醍醐帝のような親政は、まず想像しにくいですな。
明治帝も、やはり 臨して決せず のスタイルでしたし、
唯一、昭和帝が 226事件の時に 判断を示されたぐらいでは
263無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 19:40
>>260
過去ログであったよ。
もちろん結論は出ていませんので、発展は嬉しいですが。
264銀二:2001/07/17(火) 19:41
信長が自らの神聖化を考えていたのに異論はありませんが、その場合、
何も朝廷を廃止する愚策を取らずとも、むしろ朝廷の権威回復を行いつつ、
自らの絶対的権威を確立する方法があったのではないでしょうか?
265263:2001/07/17(火) 19:43
ごめんその話題はなかったね。<しんせい
266263:2001/07/17(火) 19:45
>>264
御免ようわからん。
もちっと具体的に示して。
267銀二:2001/07/17(火) 19:52
>>263
ざっと眺めまわしましたが、どうもやや違う話題が多いですね。
さち子と言う人の意見にやや賛同できますが、
「信長は消極的に天子の権威を認めていた」のではなく、
「信長は積極的に天子の権威を高めていた」と言う見方はどうでしょう?

「天皇親政化と信長の神聖化」をテーマに語ると
今までとは全く違った視点で刺激的な信長像が出て来るような予感がしますね。
268銀二:2001/07/17(火) 20:00
>>266
言葉足らずになりますが、少しだけ。

信長が最終的に求めていたのは自らの官位や官職を高める事ではなかった
と思うんですよ。更に言えばそんなものに興味はなかった。
しかし、傾奇者らしい自己顕示欲と言うか、美意識は持ち合わせていた。
ここが国内の歴代権力者と違うところだと思うんです。
彼は自分の権威付けに「官位」や「官職」は無用だと思っていたんじゃないですかね。

要するに何かそれ以外に自分個人の権威付けをする方法はなかったかと言う事です。
(織田家は多分、ごく普通の大名家として残すつもりだったんでしょうが、
 信長個人は独立して、日本で例のない権威を求めていたように思います)
269無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 20:00
>>261

>そのような恐るべき野望を

任官問題とか、安土城の作りだとか、過去ろぐにあったよ。

>過失らしい過失

だから学問的とか幼児性とかいってるだけです。

>中国の皇帝ぜんじょうのように

中国の皇帝と家臣は、リーダーと配下。
日本の場合は血の関係もあると思うけど。
武士の父は天皇という血。
270無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 20:14
>>268
つまり信長は、
日本は天皇を中心に纏めよう、自分は他の権威や実力で
天皇を中心とした日本を纏めよう、
ってこと?

なんだか武士をすら捨ててしまいそうですね。
大久保利通を目指したとかでしょうか。
でもそれじゃ明治維新になってしまいますが。。

あとは神とか教祖を目指したとか?
(皮肉とかじゃないですからあしからず)

亀レスすまそ。もう落ちます。
271銀二:2001/07/17(火) 20:23
>>262
>明治帝も、やはり 臨して決せず のスタイルでしたし、
あれも立派な御親政だと思いますよ。
272北畠顕家:2001/07/17(火) 20:30
昭和帝の戦争責任が、回避出来たのも、
連合国側が歴史的な天皇の存在形態
 臨して決せず を認めたからです。
これは、正当な歴史的認識です。
明治帝に拒否権があれば、日清・日露戦争はなかったでしょうな。
273無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 20:37
引用

もう一つは、ルイス・フロイスの報告によれば、信長が生前に中国大陸征服の
計画をしていたことである。この報告は、秀吉の「唐入り」宣言の二年前に
記されたもので、その信憑性は高い。
秀吉の「唐入り」は、中華皇帝、すなわち東アジア世界の支配者となることを
意図したものであった。秀吉の野望は、信長の遺産だったのである。
日本国王から中華皇帝へ。
信長の政権構想は、律令制にとらわれた一国史的観点から脱却し、東アジア
世界のなかに位置づけることで、はじめて理解できるのである。
274銀二:2001/07/17(火) 20:37
>>270
>あとは神とか教祖を目指したとか?(皮肉とかじゃないですからあしからず)
「思へばこの世は常の住み家にあらず
 草葉に置く白露 水に宿る月よりなほあやし
 きんこくに花を詠じ 栄花は先つて無常の風に誘はるる
 南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり
 人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか」
敦盛も楠公も官位官職を得たために名を残している訳ではないですよね。
信長が今日も語り継がれるのも同じ事です。
もしもあのまま天下を平定して、天皇親政の世を作り、
しかし無位無官の独裁を崩さなかったとすれば、
彼は大忠臣にして大不忠な英雄として名を残していた事でしょう。
このくらいの手段をとれば、彼のひねくれた美意識を完結させる事も可能です。
275銀二:2001/07/17(火) 20:41
>>272
それについては全く同感ですが、それもまた
天子の大御心によるものであり、大義の上での御親政と言えるかも知れません。
276銀二:2001/07/17(火) 20:44
>>274
逆に言えば、彼があのまま将軍か何かに落ち着いてしまった場合、
今ほど話題にならなかったかも知れません。
277無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 20:47
話がずれて右傾化してないか?
戦前の皇国史観みたいだ
278無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 21:01
今までが左傾しすぎ。
279無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 21:38
273が一番まともなこと言ってる
280無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 21:39
信長は勤王家じゃないだろ
281無名武将@お腹せっぷく:2001/07/17(火) 22:16
信長の美意識からすれば、彼は、この世の栄華、お家安泰など
みみっちいことに捕らわれずに、
わが国の守り神、民族の父としての自分を望んでいたであろう。

みたいなことをいわれても、ちょっと雲を掴むような感じですなぁ。

まあそれはそれで華がありますが。。。
でも、美意識ってものは考察したいですなぁ。
282あは:2001/07/18(水) 01:46
直轄するということは、
直接、領地を武力で占領して、自分の任意の武将を好きに配置すること
人事も配置も政治も経済も軍事も全て、君主の思いとおりにできる
自分の領地みたいなものな、そういう強引なやり方だ

降服させるのに、無条件降伏もあったが、だいたいの大名は条件をだしてのませたり
して、無駄な血を流さない様にして、条件を良くして和解することも多かった
秀吉の天下のとり方は、必要な戦いだけこなし、最小限にとどめている
しかし、重要な戦いは全て自分でこなして、ちゃんと戦っている
ほとんどの領地に服従、主従関係を結び、その領地にもともといた大名が領地を
保証されて、自治する形がとられていた
そして、秀吉にみんな頭を下げていた、家康もそんな感じの関係だった
家康はもっと徹底して、直轄をする領地を多くもったが、大半は委任させて忠誠の
厚い大名で自分の領地を囲んだり、遠い大名はほとんど秀吉と同じ形をとっていた
親戚や自分の家臣の領地が多い分、政治も広く深く浸透した、家康は脅威だからな

直轄することは、律令制と違って、思想の統一も必要だし、プライドの高い武将は
絶対に屈しない(領地没収なわけだし)、だから、武力での強引な占領になる
信長のような、広い領地を、あるいは全国を全て支配しようなどとは、思い通りに
しようなんてのは例がない、だから、信長は支配欲が極端に強く、野望もずばぬけて
いる、普通は周りと友好関係結んだりして、理想がそこまで達しないからね!!
283無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 02:07
>>282
おまえさ〜そこまで普通の文章書いといて、
最後の最後で

>理想がそこまで達しないからね!!

って、厨房締めしないでいいじゃん。

普通に「だから直轄制をとるだろう」みたいに
書けば良いんじゃないのか?
284無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 06:50
>>280
それもイメージに過ぎないんじゃないの?
真相は違うかも知れないじゃん・・・。
285無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 09:56
>>284
確かに信長は朝廷に金銭献上、提供をしているし、内裏修復にも貢献している。
戦前はそれを勤王精神の表れとだとしていた。

でも、
・朝廷に献上した銭が悪銭だった
・二条城造営に関し、各寺院から徴発しようとした信長に対し、反対する寺院側は朝廷に
訴えて阻止しようとした。が、信長はただ速やかに自分の命にだけ従うように言った。
・キリシタン排斥運動をしていた日蓮宗が朝廷に働きかけ「綸旨」を得たことに対し、
信長はキリシタン保護の書状を発給、これをあっさり覆す。

これ、勤王家のすることですか?
286無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 10:00
律令制って中央から官吏を派遣して支配していたんだろ
直轄じゃないの?
287無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 13:08
朝廷に過失がでるわけないじゃん、年間行事しかしてないのに(わら
288北畠顕家:2001/07/18(水) 13:56
>朝廷に過失がでるわけないじゃん
それが、あったんじゃよ。
信長は、暦のことでいちゃもんつけてきたのね。
信長が死んでくれたから、うやむやで終わったけど、
暦の編纂は、朝廷の陰陽寮の専任事項なだけに、それを犯されると、
安倍清明さんが、化けて出てくるのよ。
おそろしや、おそろしや、 祟るぞ
289無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 14:06
暦のどういうことでいちゃもん?
いつの話?
290無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 15:40
「良薬は口に苦し」でいくと、信長も忠臣だとの解釈も可能。
291ときはいまあめがしたしる:2001/07/18(水) 15:53
某所よりコピペ すんまそん。

信長はこのころ、征夷大将軍への就任に対する応えを渋っており、
その代わりに暦の改正を言い出していた。

当時、日本の暦は陰陽師(おんみょうじ)の棟梁である土御門(つちみかど)家が世襲していて、
彼らの作った「京暦」が全国の標準となっていたが、
この天正年間には地方によって京暦と異なる暦を使うことも多かった。
信が京暦に変えて普及させようとしたのが三島暦(みしまれき)であった。
三島暦は上杉氏、北条氏、真田氏なども使用している。
しかし、信長が朝廷に代わって暦を制定するというのは、
信長が朝廷の権力を凌ぐということに他ならない。
朝廷は、信長が将軍就任を辞退すれば、関白か太政大臣のどっちかにする準備を整えていた。
そして信長は、6月2日に参台(さんだい、朝廷に赴くこと)し、
官位の問題と暦の問題についてのメッセージを発表するつもりだった。
(この2日の早朝、狙いすましたかのような光秀の襲撃を受け、
信長は殺されてしまったのである。)
292無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 16:57
改元も暦も似たようなものじゃない?
293無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 21:28
積極的には手を出さんでしょう、あたりまえだがリスクのが大きい
でも、不可侵って感じでもないな
294無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 04:53
信長が統一してたら鎖国はしなかっただろうね。。
295無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 05:36
うん。天皇家対策は休憩してもらって、
海外問題に移ってもらいましょうか。w

でも、信長が日本統一できたら、豊臣政権よりは強固だろうから、
国内統治の代案としての出兵はなさそう。
単純に考えたら鎖国なしの出兵なしでしょうか。

でも朝鮮や中国の使節の対応に不満を抱いた信長は、
女真の族長ヌルハチと共謀して・・出兵・・。

すんまそんw 徹夜明けの妄想ですw
296>>295:2001/07/20(金) 07:49
意外と世界史へのリンクって線はあったかも…

たとえば
朝鮮出兵で加藤清正を買収しようとした
明の将軍/袁崇奐は
清の初代皇帝・ヌルハチに致命傷を負わせた人物だしぃ。。。
297無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 10:31
東南アジアにもっと積極的に進出したろうね。
大陸侵攻は甚だ疑問だけど
298北畠顕家:2001/07/20(金) 10:32
>>295
ちょっと、待ってくれ。
信長の晩年と満州族の台頭は微妙にずれてるよ。
そもそも、秀吉の朝鮮出兵によるとばっちりで、
明国の力が疲弊し、瓦解につながったんじゃないの。
その結果として、満州族100万人による中国支配 清国の誕生でしょ。
確かに、秀吉の出兵と東アジア情勢はリンクしてるけど、
信長の視野に、はたして東アジアがどの程度入っていたかは疑問。
信長の旧勢力の掃討的日本統一を考えれば、やはり生きてる間に出来る事は、
日本統一、実質日本国皇帝が限度じゃないかな?
299無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 10:44
>>273を読んでください
300北畠顕家 :2001/07/20(金) 11:30
宣教師に世界地図(地球儀)を見せられて、
中国朝鮮の近さに、つい言ってしまったヨタ話だと思うよ。
本気で取り組む気なら、信長の性格からいって下調べをやろうとしたはず。
その資料があれば、秀吉のあのアホな朝鮮侵攻計画の粗漏さは考えられない。
あまり、信長を買被らないほうが良いよ。
301無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 11:44
「毛利を征服して日本六十六カ国の領主となった後一大艦隊を編成して、シナを征服し、
諸国をその子達に分ち与えんと計画した」
302無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 11:59
当時の東アジアは貿易の拠点です。
303無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 15:50
>>298 >>300
はあ?
宣教師や山田長政みたいなのがウヨウヨしていた
当時の日本を考えれば統一後は海外に目が行くのは
火を見るより明らかじゃないの?
逆に言えば信長が日本国内の支配者で終わる図の方が珍妙。
徳川幕府ですら、太閤殿下時代の宣教師の横暴と関ケ原がなければ、
鎖国をとったかどうかも怪しいんだから。
それなのに日本国皇帝とかわけの解らんものになってどうする。
史実の信長のやり方を見れば
統一後に東南アジアの各拠点に手を出す事くらい、すぐに想像できるだろ。
304無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 16:00
信長は別段すごくないの
305無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 18:34
>>300
その段階では深く考えてはいなかったでしょうね。

敵対勢力を一つづつ摺り潰す信長は、
確実に統一に向かっても、短期間でとはいかないから、
海外侵攻はまだまだ予定には入らないでしょう。

そういう意味で、計画段階ではなかったでしょうが、
でも他にこれといった資料がない以上、
その発言に注目しても良いのではないでしょうか。

実力で物事を成し遂げた人は、自信も凄いし。
306無名武将@お腹せっぷく:2001/07/20(金) 18:44
しかし、信長の天下統一への過程の無理が
家臣団に裏切りなどの、破綻として出まくってたんだから、
天下統一後の事を語るのは無理があるな。
光秀がやらなくても、挫折してる可能性大。
307無名武将@歴史厨房:2001/07/20(金) 19:01
たしか秀吉が朝鮮出兵で勝ってたとき中国を取ったら天皇を中国に
送ろうとか言ってたようだけど。
もしかしたら、この秀吉の構想は実は信長の構想だったではないかな。
これなら天皇の問題も一様解決すると思う。

やっぱり違うかな・・・。
308無名武将@お腹せっぷく:2001/07/21(土) 10:35
>>307
いや、ある意味信長の政策を引き継いでいるという面はあるよね。
同じ家中から出ている政治家だから政策が似ていてもおかしくない。
ただ秀吉政権は短期間に他家を服従させているため信長がやろうとしていた他家への
締め付け部分が少なかった。
その不安定さを解消するために国内ではなく海外に目を向けざるをえなかった側面
もあるので信長が海外侵攻まで考えていたかは疑問だね。
309無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 13:54
いつまで経っても平行線なんだよな。
宣教師向けのリップサービスという見方と、本気で目指していたという見方。
で、結局宣教師の記録は信憑性があるか?に行き着く堂々巡り。
310無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 13:55
なんで三職推任の事実があったからってそれにしがみつく必要があるの?
311無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 01:36
出来事をひとつづつ洗い出しましょ
312無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 11:26
どこまで遡るの?
313北畠顕家:2001/07/23(月) 13:03
>>312
信長の死の直前・もし本能寺の変がなければ
6月2日にどう言う予定があったのか?
あたりが、妥当じゃない。

一説には、ここの書き込みにある
‘朝廷は、信長が将軍就任を辞退すれば、関白か太政大臣のどっちかにする準備を整えていた。
そして信長は、6月2日に参台(さんだい、朝廷に赴くこと)し、
官位の問題と暦の問題についてのメッセージを発表するつもりだった。‘筆者注 参台は参内と思われ。
が、本当なのか、推論なのか
検証出きるかな?
314無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 13:58
誰かこれ訳して・・・古文苦手

のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし候。
関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよしに申候へハ、また御らん
もって 御書あかる也。
長庵御使にて、上らう御局へ御目かかり可申ふんなから御返事申入候ハて、
御目かゝり申候儀、いかゝにて御座候間、余に、心え可申候由、いかやう
にも御けんさくあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候

信長から御らん(森らん丸)という小姓を介して、何の用事かと聞かれた。
・・・ここで挫折した。
315無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 14:04
>>314
ここに依頼だな
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=986825943&ls=50
といってもスレ立てた人、もういないかも
316北畠顕家 :2001/07/26(木) 14:46
>出来事をひとつづつ洗い出しましょ
勝手な想像は出来ても、具体的な事は知らないのかな?

>どこまで遡るの?
>6月2日にどう言う予定があったのか? あたりが、妥当じゃない。
奇論・珍論でも良いんだよ。
学術学会の発表じゃないんだからね。
317無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 14:51
奇論・珍論は構わないけどちゃんと史料やらなんやらで裏付けしないと。
妄想だけじゃ話があっちこっちにいってまとまらない。
318無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 19:17
>>316
出来事を一つづつ洗いだしましょ、って書いたのは俺だけど、
それはすぐ上に「なんでしがみつく必要があるの?」ってあった
から、それに対して「まぁまぁひとつずつ検証してみましょうよ。
しがみつく必要云々、即ち信頼性も同じく大事だけど。」
という意味でsageで軽く書いただけだろ。

それは貴方が書いた
>奇論・珍論でも良いんだよ。
と、意図するところは同じだと思うが。

一行文をみて勝手な想像を働かせているのは貴方では?
いや実際に俺は無知だけどね。。
俺もなにか話題探してくるよ。。
319TAKU:2001/07/26(木) 22:09
すみません、もしかしたらすでにあがっているかもしれませんが・…
 >298さんがおっしゃられている掃討的日本統一となると、目下の敵毛利・長宗我部・上杉氏などは武田家同様滅亡に向ったのでしょうか?
 また、四国平定後に讃岐をあてがわれる予定であった三男・信孝は、同じく阿波を宛がわれる三好康長の養子となる予定であったと聞いた事がありましたが、
秀吉の養子・秀次も三次姓を名乗り、中国平定後には功績により秀吉の加増は間違いないし、四国の主力三好家と親密関係にあれば秀吉の織田政権下での影響力は
相当なものになると思うのですが、カリスマ信長には尻尾を振っていても、信長死後を考えると秀吉の存在は侮れないと思うのですが、綱紀粛正の対象になるのでしょうか?
世渡り名人秀吉だけに上手くかわしそうですけど…
 無知な文章と言われるかもしれませんが、ぜひとも秀吉の存在はどうなっていたのか教えて下さい。
320無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 13:26
他スレの協力もあって>>314の訳が出来た模様

信長から森乱丸という小姓をもって、どのようなご用ですかと聞いてきた。
関東を征伐され大変めでたいことなので、将軍になられるべきだ、と(晴豊が)
申したら、森乱丸は「御書(信長の書状=晴豊が使いに来た事への礼状)」をもって
再び信長の所へ戻った。
長庵を使いとして上らう御局にお目にかかり申すべきが、お返事申し上げずに
お目にかかるのは如何であろうと考えるので(以上、信長の考え)、晴豊に、
わかって欲しいと申した。どのようにしても見参したい(信長に会いたい)と(晴豊が)
申したら、(結局会えず) 重ねて天皇・親王へ返事が出された。
321北畠顕家 :2001/07/27(金) 16:02
>>319
信長の部下・配下に対する考え方の習性を考えると、
無能な人材に対しては酷い扱いをしている。
反対に、有能な人材に対しては異常な程の好意を示している。
よく言われる、道具好きに通じるところがある。
多分、人間を道具と同じように考えていた思われるふしがある。

>綱紀粛正の対象になるのでしょうか?
上の考えから判断すると、秀吉であろうと家康であろうと、
信長にとって有用な道具である間は、こき使われながら力を伸ばしていったてあろう。
日本を鎮圧したあかつきには、多分秀吉は外征を持ち出し、自身の保全を図ったと思われる。
問題は、家康の立場じゃないかな?
家康はともかく、三河武士は世間知らずの田舎者が多いから微妙な立場になったんじゃないかな。
322無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 18:27
>>314の前後の補足、訳は>>320
天正10(1582)年
4月21日
武田征伐より信長が安土に帰城。
4月22日
庭田重保、甘露寺経元、白川雅朝、勧修寺晴豊が同行して安土へと下り、守山に到着し宿泊。
4月23日
早朝に安土に到着、友盛宅にて天皇・親王の下賜品、親王の返書を差し出して、安土登城。京都へと出発。
4月24日
帰京後、晴豊はすぐに親王のもとへ赴く。
4月25日
晴豊、村井の所へ行き、三職推任(注1)の話を持ち掛けられる。
4月26日
晴豊、安土への派遣者の人選を話し合う。大御乳の人がとりあえず決まる。
4月27日
安土への勅使は上臈御局と大御乳の人に決まる。
5月2日
出発、晴豊も勅使の付き添いとして安土へ。
5月4日
安土登城。>>320のやりとりがある。信長、勅使に会わず。
5月5日
晴豊会って欲しいと訴えるが、信長、勅使に会わず。
5月6日
信長勅使と面会。
5月7日
帰京。晴豊、村井に信長の返事を報告。

注1・・・晴豊の日記にのみ記されている、信長を関白か太政大臣か将軍、いずれかの官職を推任する動き。
「廿五日天晴。村井所へ参候。安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、
御すいにん候て可然候よし被申候。その由申入候。」
かつては「被申候」の主語を晴豊(もしくは朝廷)ととっていたが、1991年に立花京子が
主語を村井貞勝とする説を発表、以後学界で支持されている。
323無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:10
私はこの疑問について40年研究してきた者です。
そしてその結果「他にやる事が無かったから」という
結論に達しました。
324無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:10
前に暦がどうたらこうたらで参内した折りに信長が三職推任と暦の返事を
する予定だったって書き込みがあったよね。>>288-291

三職推任のこと調べてたら、ある論文にこう書いてあった。
「(前略)しかし、三島暦に従って天正十年十二月に閏月を設定するか否か
の問題に関して、村井のところで曲直瀬道三・玄朔父子、賀茂在政、土御門
久脩が議論し、いずれも信長の主張に反して同年十二月の閏月設定を否定し、
村井はそれを安土へ伝えている。(後略)」
勧修寺晴豊の日記、天正10年2月4日、2月5日に書いてあるそうだ。

>>291がどこからのコピペかわからないけど、2月の件を後に暦に関する話は
どこかに記録されているのかな?
6月2日に参内して、三職推任と暦について伝えるつもりだったってソースは
どこにあるんだろう?
325無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:22
この質問は、現代ッ子に、
なんで、いい大学や一流企業に入りたいのって聞いてるのと同じだな。

一流プロ野球選手に、なんでメジャー目指すのかってのも同系。
326無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:41
>>323
ワタラ
327無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:50
他にやることないって言われてもなあ。
他の戦国大名とやってる事が違うのに。
何で他にやることなかったのか、なんで他の大名と違うのかって
考えるのが学問じゃないんですか?
328無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:16
マジレスヤダ
329無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 10:26
中国史などでは禅譲の儀式で3度申し出を断る風習がありますが、当時の日本に
はそのような風習はなかったのでしょうか?
人身最上位と呼ばれる位をすぐにほいほい受けることは常識的にみても悪いことでは
なかったのですかね?

もしですが、中国のその価値観を当時の日本も持っているならばあと数回後に
信長が受けるということもありましたよね。
330無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 11:45
>321
・…そうですね、統一後の家康の存在が信長にとって危険人物にうつるでしょうね。
東国平定戦には家康軍は動員されるでしょうから、信長が家康への恩賞をどうさせるか?が注目です。
秀吉のような国替えをさせるのか?
>三河武士は世間知らずの田舎者が多いから微妙な立場になったんじゃないかな。
 織田家では著しく領土拡大をし、平定した土地からも兵を雇っている事もあり部隊の結束力は脆弱であり、それを最先端の
武器装備でカバーしていたのに対して徳川家は先祖代代の三河家臣団は尾張と比べ経済・文化的に貧祖であったが絆の深い主従関係
があったと司馬遼太郎が書いていました。
>多分秀吉は外征を持ち出し、自身の保全を図ったと思われる。
 個々の掲示板での意見を聞いていると、海外派兵はあった事を考えるとおそらく西国統治(九州探題?)する秀吉軍が先鋒になっていたのかも…
けれど、その時点で秀吉に織田組織内で拮抗する勢力は誰だったんだろう?蒲生氏郷、堀秀政、森蘭丸?
331無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 11:48
>>323
おまえ40年かけてそれかよ(w
332330:2001/07/28(土) 12:01
 >司馬遼太郎が書いていました…
 すみません、内容がうる覚えであったかも知りませんが、「覇王の条件」と言う小説だったと思います。
 各軍団の統帥権(軍団長と言う地位)は老齢な柴田・滝川の両雄の死後、合理的な信長としてはそのまま世襲(家督ではなく、軍団の統帥権)させていたとは思えない。
これらを相続する者は誰だったんだろう根拠はないが丹羽・蒲生・堀あたりがくるかな?、と言うか勝家・一益がなくなるまでに統一されそう…
333無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 14:12
足利義昭は三度断った?
豊臣秀吉は?

信長が断ったことが形式的なものなら公家の日記にも
「形式的な理由で断った」という記事が出てくるはずだし、
2度目3度目の推任話の動きがあってもいいと思うけど。
334無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 14:15
明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀に九州を分割統治させるつもりだった、
という説は説得力があるようにおもう。
335無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 15:58
>>333
足利義昭は今回のケースには合わないと思われ(わら
血縁関係のまったくない秀吉のケースはよし!
336無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 16:12
>>320 >>322あたりを読んでみよう
勧修寺晴豊が幾度も勅使に会ってくれと頼んだのに信長は会うことさえ拒んだ
形式的に断る風習があるなら、会うだけは会うはず
そして2日後にようやく勅使と面会している
337330:2001/07/29(日) 03:30
このスレでは、信長の政治方針についての論議が中心となっておりますが、私は政権樹立(どのような形態の政権か分かりませんが…)後の人事問題についてどうなっていたのか知りたいです。
信長自身が目指していた政治構想と言うのは、マスコミ・文献を通じてそこそこ情報が入ってきますが(諸説が多く断定できませんが?)、その政治構想下での人事問題と言うか、どのような家臣団への処遇をするかが分かりません。(それこそ信長の性格から想像できるやろ!とお叱りを受けそうですが…)
特に信長政権が確立過程での崩壊だった事もあり、武断派が重要視されたかもしれませんが、統一後の官僚派中心への移行はあったのでしょうか?(海外派兵があったか、なかったかによりますが…)
信長政権末期の蘭丸・長谷川小竹の小姓衆、マイナーな所で菅屋・福富達あたりが、豊臣期の石田三成や徳川期の土井利勝・松平信綱ような政権中心人物として活躍する事になったのか?謎です…
スレ違いで新スレを作って、ソッチに行け!!と怒られそうですが、誰か意見を下さい。
以前、TVで堺屋太一氏が信長は対外貿易を通じての国際化(重商主義)を図っただろうとおっしゃていましたが、それらの蓄財で海外派兵(西欧の植民地化政策に刺激され)の行っていたのでしょうか?とにかく、織田政権=カリスマ性を持った信長主導の政権でどうしても長期政権は望めそうにない感があります…
338無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 13:37
信長政権ってそもそもカリスマ性があったんでしょうか?

その前の三好政権だとか細川政権と比べて違いはあるんでしょうか?
339無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 13:47
論点が広がっていくのはいいんですが、結局全てがリンクしているから
堂々巡りに陥っちゃうんです。
この事に関しては織田政権最終段階の人事を史料によって煮詰めていく
しかないでしょうね。
340無名武将@お腹せっぷく :2001/07/29(日) 16:13
>339
統一期の信長政権の武将配置図を見てみたい…
>マイナーな所で菅屋・福富達あたりが…
信長政権での文治派(?)はあまり注目されなかったが、政権確立後の彼らの台頭はあったと思えます。
所司代村井貞勝、マイナーながら文治派では蘭丸(?)、能登国代も務めた菅屋長頼、福富秀勝、長谷川秀一、堀秀政(奉行を歴任)あたりが豊臣期の増田・長束・石田三成のような立場になっていたのか?
・…それにしても、活躍が目立っていなかった事だろうか、歴史ゲームでは全くと言っていいほど文治派クラスの家臣が出てこない…
堀は毛利征伐の目付として派遣された事が後の活躍でメジャー(山崎合戦、長久手合戦)となったが、長谷川も秀吉政権確立期までは重用されていた、しかしその他の家臣は本能寺の変で討死がメジャーにならなかった原因かと…
当時の軍団長クラスの子ども達って、これらの重要ポストを継げる器はなかったように思えますが…(羽柴秀勝、丹羽長重、柴田勝政?勝豊、滝川・明智の後継者は分からない…)信長の考えからすると、彼等亡き後は降格間違いなしですね(実子秀勝は別か…)
>信長政権ってそもそもカリスマ性があったんでしょうか?
知りうる文献からだと、室町幕府のような有力守護とほぼ対等関係(管領斯波、細川あたりも元は足利同様源氏出身で名目上主従関係のようであっても、尊氏・義満のような(長慶、晴元・政元?)カリスマ性の高い殿様でないと、抑えられない…、と考えると織田政権も血縁・地縁関係の薄い家臣団だけに、信長死後も維持できただろうか?家康のような次期への環境整備が出来ていれば…
341340:2001/07/29(日) 16:15
 >マイナーながら文治派では蘭丸(?)…
 すみません、蘭丸はメジャーでした・…
342無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 19:24
>>103
よくよく考えてみれば複数の国に隣接していない国なんてのは無いと思うんだけど。
また東国大名の京都への通り道って言うけど、
戦国時代に武力をもって上洛した東国大名はいないよ。
それだったら大内などが上洛の通り道とした播磨などの方が
おっしゃる説に合致すると思うんだけど。
ただ当初信長が、自領を防衛する上での拡大政策をとっていたという説は支持します。

>>159
天皇家を潰した結果としての反乱を信長が恐れるとは思えないんだけどなあ。
だったら足利将軍の追放なんて行わないだろうし。
(天皇家と将軍家ではその影響は比較にならんと思うけど)
もちろん、天皇追放後の反乱を十分沈静できるだけの準備が出来ない限り
露骨な活動はしなかったとは思うけど。
343無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 19:25
全国統一後の可能性として……

1.秀吉と同様に朝鮮〜明ルートへの侵攻
2.海洋貿易国家への移行(ヨーロッパ化)
3.東南アジア方面への進出(ヨーロッパキリスト教勢力との対決)

オレの意見としては3だな。
信長が九州地方で人身売買や武器商人の手先となって
増長していた宣教師たちを見れば、東南アジア方面のヨーロッパの拠点に
何らかのアクションを起こしていたのでは?と思うのだが。
344無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 00:51
>>343
 この時期のヨーロッパに日本と戦争してる余裕があるか疑問だな。
ポルトガルは1580年にスペインに併合されてるし(王朝統合だけど)、
スペインはオランダの独立運動やトルコへの対策で破産状態で、
1588年には無敵艦隊がイギリスに敗れて大損害。
 イギリス・オランダにしても対スペイン(ハプスブルグ家)で手一杯、
1618年からは30年戦争が始まるし、ヨーロッパの国々が東アジアまで軍隊派遣するのは
無理だと思われるが。その余裕ができたのがちょうど日本でいう幕末のころ。
 かえって朝鮮・明と戦うよりもヨーロッパと戦った方が楽だったかも。
345無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 01:01
>>344
無茶なこと言うなよ
遠洋航海技術も無いのに・・・
346無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 01:10
 いや、ヨーロッパまで攻め込むのではなく東南アジアあたりで
ヨーロッパとぶつかった場合の話。
347無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 01:45
 信長が改革者で徹底的に抵抗するものへの執拗さを考えると、毛利(1〜2国ほどで生き残ったか?)・長宗我部・上杉は最低でもアボーンっすね。
 能力・功績次第で報酬を考えたら、かなりの土地を確保しないと…
 統一は2〜3年で出来た・・と堺屋太一は言ってましたが、そうなると次はどんな政権形態を作っていたのか?征夷大将軍拝任、織田幕府開府、正親町天皇の子(誠?親王)への娘入内上皇院政を行う、家康処遇(改易)…
 >344
以外と宣教師からイスパニア艦隊増援を頼みに対朝鮮・明征伐をしたりして…そこまで馬鹿じゃないな・・やっぱり対外貿易、琉球直轄化(島津領としてでなく…)←そうなると島津が抵抗、これを契機に討伐か?蝦夷開拓(蝦夷開拓府が出来たりして)もしてたかな?この未開地に着目するんじゃないですか?厳寒地ではあるが資源が豊富。
348無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 06:23
>>342
というより信長が潰すメリットがないものを
潰すはずもないと思うが・・・。
349北畠顕家:2001/07/31(火) 12:02
>>344
当時の日本と通商していたヨーロッパ諸国の艦船に装備されてた大砲の数、威力をご存知でしょうか。
1隻あたりでもかなりの戦闘力があったと聞いているんですが。
島原の乱のとき、確か幕府軍はオランダの艦船に島原城を海から砲撃するよう依頼したはず。
絶対数は、地元の日本のほうが多いが、火力の面ではまだヨーロッパ諸国に一日の長があったのでは?
350無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 12:05
壬部一族にあやつられていただけさ
351無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 20:06
>>349
大筒の威力的には日本にあったものもかなり強力でした。
ただし一艘の艦船に積まれていた量は日本の数倍。
さらに帆走戦艦であるヨーロッパの艦船はスピード面でも
日本のガレー船を大きく上回っていたので、
やはり日本の戦艦に勝ち目は無かったでしょうね。

国家として事実上滅んでいたポルトガルと日本がタッグを組んだら
面白かったかもしれません。
352名無椎野ら椎野:2001/07/31(火) 20:12
誰か信長と帰蝶の間に生まれた子について知ってる人いる?
今のところ判明してるのは、名前が雷人で斎藤家で養育されていた
美濃攻略後は織田家に戻り信忠との間に軋轢もあった
そして野田城で信玄を暗殺(w
353344:2001/07/31(火) 23:24
>>349
 一隻あたりの火力については残念ながらわかりません。調べてみます。
船については、この頃はガレー船と帆船の過渡期です。地中海ではガレー船が
主力でした。1580年代半ばのスペインでガレー船の数は400隻強で
これがヨーロッパでは最高のはずです。
 帆船の数についての資料が見当たりませんので、すみません。
ただ1650年のイギリス艦隊が80隻で、これはたぶん帆船だと思います。
この数字が当時のヨーロッパでは群を抜いていたようです。
 それから、1590年代のヨーロッパ主要国の兵力数は、以下のとおり。
スペイン……20万人   ユトレヒト同盟(オランダ)……2万人
フランス……8万人            イギリス……3万人
354無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 23:49
1590年頃の日本の総人口が約3000万人でしたっけ?
実働兵力は少なく見積もっても100〜150万人くらい。
(しかも火器充足率がかなり高い)
ってことは陸上戦闘なら敵無しってことですか。
355344:2001/08/01(水) 23:08
>>354 実働兵力は少なく見積もっても100〜150万人くらい。

 それは多すぎでしょう。30万前後だと思います。戦争をするにはそれを支える
経済力も必要になるので。食料の確保や海外派兵の場合は兵士を運ぶ船も必要です。
それでも兵数では確実に凌駕します。海外派兵はともかく万一スペインなどから
日本が攻められることがあっても勝ったと思います。問題は火力の差ですね。
 コルテスがアステカを征服したとき、わずか900人のスペイン人で数十万のアステカ軍に
勝利しています。これは火力の差だけが原因ではないのですが、参考までに。
356354:2001/08/02(木) 06:01
>>355
実働兵力ってのは書き間違いです。失礼しました。
当時日本にいた専業兵士の数と捉えてください。
海外へ進出するならせいぜい10万程度しか出せないと思います。
357344:2001/08/02(木) 22:42
 アルマダの海戦(1588年)のときの英西両国の軍備がわかりました。

     スペイン               イギリス

兵力     8050人(水兵)           15292人
      約19000人(陸兵)

船    ガレオン艦20隻            ガレオン艦98隻
     (内・大型6隻)           (内・大型2隻)
     武装ガレオン艦補助艦102隻       武装商船99隻
     ガレアス艦4隻
     ガレー船4隻

大砲     ペリエ砲326門             ペリエ砲 43門
      キャノン砲163門            キャノン砲 55門
     カルバリン砲635門           カルバリン砲1874門


 大砲の射程距離は、ペリエ(短距離)・キャノン(中距離)・カルバリン(長距離)。
結果は長距離砲を多用したイギリスが勝ちました。威力は長距離砲が一番弱いそうですが
あたらないと意味がないということでしょう。
 1隻あたりの大砲搭載数は船の型により違うので、詳しいことはわからないのですが、
だいたい少ないので5門、多いので40門前後のようです。ただし、搭載数が多いのは
船足が遅いそうなので、この時期に日本に来てた船は大砲の搭載数が少ないタイプの
ものだと思われます。
 大坂の陣のときにヨーロッパ製のカルバリン砲が使用されたようです。
358北畠顕家:2001/08/03(金) 17:47
>>357
ご苦労さまです。
やはり、とんでもない大砲の数ですね。
参考までに簡単な年表を書いておきます。

1534  信長誕生
1571  レパントの海戦(地中海ヨーロッパ連合 vs オスマントルコ)
1581  オランダ独立
1582  本能寺の変
1588  スペイン無敵艦隊敗北(vs イギリス)
1590  秀吉 天下統一
1592  文禄の役
1597  慶長の役
1600  関ヶ原の戦い
      イギリス東インド会社設立
1602  オランダ東インド会社設立
1603  江戸幕府
1616  清 建国

この他に、目立ったところでは、ロシアでロマノフ王朝が出来ています。
1600年前後は、世界規模で歴史が転換していたんですね。
359352:2001/08/05(日) 16:56
ネタには乗らんか
360無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:15
ちょっと記憶に自信がないんですけど、
信長が建造した鉄甲船に搭載された大筒って5門でしたっけ?
これじゃあ艦砲戦で勝ち目はないですねえ。

となると陸上に早急に補給路を確保して
野戦でスペイン軍を撃破
    ↓
イギリスなどの協力をえてスペイン艦隊を本国に撤退させる
くらいしか手は無いかな?
361真面目にしますです、はい:2001/08/10(金) 19:39
晩年の信長には天下統一する気がなかった、てのはナシ?

東は積極的に攻める気配(用意)がないように思える。
本気で関東以北を攻めるなら、総大将の信忠を鎮守府将軍に任じ、
関東経由で太平洋側の多賀城。
勝家を秋田城介にして日本海側を北上させて秋田城までってのが
妥当では?(実際は信忠が秋田城介


原田備中守直政(原田姓は筑前発祥・帰化人系、備中)
村井長門守長頼(長門)
羽柴筑前守秀吉(筑前)
惟住(丹羽)長秀(惟住姓は?)
滝川伊予守一益(伊予)
別喜(簗田)広正(道雪とかの別次と同じ、元は大神氏)
惟任・惟住はどうゆう氏族?、惟宗(秦氏系?)と同族でいいのかな。

反対に西国(九州北部)に対しては、塙直政の原田姓が秀吉の筑前守と
カバーする地域が重なり、別喜などの姓を見ても九州全土に対して
というより、九州北部をより強く意識している。

西国平定を睨んだ光秀以外の任官などが瀬戸内〜九州北部に偏っていて、
東国も太平洋側を無視して信忠(秋田城介)だけの任官ってことは、
領土を広げることよりも、日本海(北陸)と九州〜瀬戸内の海運を握る
ことが目的で、将軍も国王も天下布武もどうでも良かったんでない。
362無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 20:16
東国にももちろん大きな関心を寄せてたはずでしょう。
ただ北条以下東国・北陸のほとんどの大名は
信長に対して恭順の意を示していたことと、
すでに無用の長物と化していた織田・徳川同盟の扱いについて
色々と考慮していたと思われますが。
特に北条と婚姻関係にあった徳川に関しては相当ナーバスな問題であり、
逆にそれさえ片付けはあとは小物との意識があったと思いますが。

また九州に対する多大な興味に関しては、
具体的な裏付けがないので何とも言えませんが、
単なる外洋への憧れみたいなものがあったのでは、
と想像してみたりしております。
363無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 20:17
>東国・北陸のほとんどの大名
東国・東北の誤りです。失礼しました。
364無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 21:08
そういえばそうだった
佐竹義重も芦名盛隆も信長と交流あったって武将ファイルにすらあったな
365無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 21:23
島津も信長とは交流してたぞなもし
366宗氏は惟宗らしい:2001/08/10(金) 21:59
芦名は武将ファイルにあったけど佐竹は他で読んだんだった

東北も会津まで影響下にあったとして、鎮守府(多賀城)はもっと
北だから、やっぱ天下統一を目指すならアリじゃないかな
何れにせよ西に比べて東は秋田城介だけってのは寂しい

九州は完璧に海外貿易の独占を狙ってのもんだと思う
前述の九州〜瀬戸内の任官と、惟任・惟住姓(=惟宗でいいのかな?
だとすると帰化人系になる)の下賜を併せて見ると、大陸との交易を
強化&独占したかったようにも見える
367無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 22:11
九州に執着していたのは海外貿易の独占を
狙ってたからって説は、おそらく真実なんだろうけど、
漫画やゲームの信長を見てきた身としては
やはり海外進出の拠点と見ていた説を(無理矢理だが)採りたいなあ。
368無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 23:08
そうかい?
369無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 23:43
交流って言っても、信長の末期は日本の中央の大大名
なんだし、また官位もどんどん高くなっていったので、
地方大名がよしみを結ぶためにいろいろ送ってきたり、
信長一族の官位昇進の際には祝電を打ったりしただろ
うが、しかしだからといって服属を表明した訳ではな
いでしょう。
実際、交流のあった北条とか長宗我部とも喧嘩したし。
370無名武将@お腹せっぷく:2001/08/12(日) 20:36
神になることです。実際なりました。拝ませました。
371無名武将@お腹せっぷく:2001/08/12(日) 20:39
いいねえ、こっちは議論っぽいことやってて
将軍就任スレはもううんざりだよ
372無名武将@お腹せっぷく:2001/08/12(日) 21:50
ガ━━(゚Д゚;)━━ン!
373無名武将@お腹せっぷく:2001/08/13(月) 11:25
自分でも分からなくなっていました。
374無名武将@お腹せっぷく:2001/08/17(金) 20:01
さらしあげ
375織田上総介:2001/08/17(金) 20:34
自分の思うままに国を操ってみてえにゃあ
オヤジも含めて世の中馬鹿が多すぎだぎゃあ!!

いや、それだけだったんだけどね(藁
376無名武将@お腹せっぷく :2001/08/25(土) 02:05
さらしあげ
377無名武将@お腹せっぷく:2001/08/25(土) 02:21
よく信長も大阪に目を付けていたとか聞きますが、
なにか具体的な話とかありますか?

やっぱり大阪が首都になったのかな?
378無名武将@お腹せっぷく :2001/08/25(土) 02:25
石山が目の上のたんこぶだったからね
379無名武将@お腹せっぷく:01/08/27 23:57 ID:gYhlSVJs
晒されage
380無名武将@お腹せっぷく:01/09/09 10:14
信長はもちろん天下をとったら大阪を首都にするつもりで
いたよ。秀吉もそのことは知っていた。
堺と京都の近くだからね。
>>380
信長が大阪を本拠に使用としていた説は解せぬ。
そういう形跡はどこにもない。
それならなんで安土みたいな城を作った?
>>381
同意
383無名武将@お腹せっぷく:01/09/22 23:42
>>381-381
俺の勝手な想像だけど、おそらく、信長は安土は近畿地方を治める
には最適な場所でも、全国を治めるには不適切な場所だと思ったん
じゃないの?。安土は、小高い丘の上にあるし、統一した後、政務を執
るには、不便すぎる。
また、秀吉自身が大阪を首都にすることを考えてたなら、大坂城の
1983年9月着工は、早すぎるだろう。
384無名武将@お腹せっぷく:01/09/22 23:51
信長の気持ちは、多分俺が一番分かるだろう。小説も、かなりの人を納得させるように書けると思うよ。
数学的にね。
385HG名無しさん:01/09/23 00:20
>>381
少なくとも信長の行動パターンを考えれば可能性が高い
んじゃないのかな?
清洲ー小牧ー岐阜ー安土とその時の戦略状況に応じて
根拠地を移動させるのは信長の特徴だからね。
安土に本拠地を置いた時も、上杉、武田の上洛を阻止し
東海道、東山道の合流地であり、京、商業地帯の堺にも
すぐ移動できると言う利点があったけれども
武田、上杉が上洛する可能性がなくなり、信長の戦略が
海外に向けられた場合、兵站、港、交通網、人口の多さ
防御に適する、又都市を建設に適する平坦な場所、となると
一向衆のいた大阪が、一番適してるのではないのかな。
博多はまだ遠いしね。
386法政太郎:01/09/23 01:06
小説では「京に居城を置けば戦渦に巻き込み天皇に不憫をかける」から
大阪に城を築くという着想にいたっているよね。石山本願寺が寺でなく
堅固な難攻不落の要塞で且つ毛利の水軍でもって兵糧を運び入れて持久戦に持ち込んだりもしたから
地の利も充分に勘案していたのではないかな。佐久間が勘気を被ったのは
その信長の着想に気づかず切り取り勝手で手に入れた大阪に築城したいなどと行ったからだと描かれてるよ。
387法政太郎:01/09/23 01:08
行った→言った

スマン
388無名武将@お腹せっぷく:01/10/01 17:13
>>1
天下統一に決まってるだろ!
389現際:01/10/01 21:12
信長は「天下統一した暁には明に艦隊を派遣したい」と言った事がある、信長は天守閣とか明からの影響をかなり受けてるからね子供の頃憧れてたみたい、秀吉みたいに侵略する事は無かったろうな。
390ドン・ピシャーリ伯:01/10/01 21:55
これが欲しかったんだと思う
                                    ┌─────┐
                                    │        │
                                    │ 北海道  │
                                    │        │
                                    ├────┬┘
                                    │青 森  └┐
                                    ├──┬──┤
                                    │秋田│岩手│
                        ┌──┐       ├──┼──┼┐
                        │石川│       │山形│宮城│└┐
      ┌──┬──┬──┬┐  ├──┼──┬──┼──┼──┤ └┐
       │山口│島根│鳥取│└┐│福井│富山│新潟│群馬│栃木│福島│
  ┌──┬──┼┐  ├──┼──┤  └┬──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
  │佐賀│福岡│└┐│広島│岡山│兵庫│京都│滋賀│岐阜│長野│山梨│埼玉│茨城│
  ├──┼──┤  └┼──┼──┤  ┌┴─┬┴─┬┴─┬┴─┬┴──┼──┼──┤
  │長崎│熊本│大分│愛媛│香川├─┤大阪│奈良│愛知│静岡│神奈川│東京│千葉│
  └─┬┴──┼──┼┐  ├──┤  └┬─┴─┬┴─┬┴──┴───┴──┴──┘
     │鹿児島│宮崎│└─┤高知│徳島│和歌山│三重│
┌──┼───┴──┘   └──┴──┴───┴──┘
│沖縄│
└──┘
391無名武将@お腹せっぷく:01/10/01 22:00
↑頭悪い奴がいるぞ。次ぎに↑みたいな醜い絵をレスした奴は死刑な!
392無名武将@お腹せっぷく:01/10/02 06:11
世・界・征・服 !
393長岡政嘉:01/10/02 14:33
金髪ネーチャンと一発やりたかっただけでしょう?
394落ち武者:01/10/02 15:28
>393
ネタ的にはいいですね
こーゆーの好き♪
395Cipher:01/10/03 10:40
>>12
信長自身が天下を目指した理由は
「今川義元や大内義興や三好長慶や松永久秀と同じ室町幕府の中での天下にすぎない」
とオレも思う。
ただ、おれは将軍義秋の仲介役となった明智光秀が かなり政権構想に関わってるような気がする。

>>103
「生き残りたかった」ことで天下をとったのは むしろ家康じゃないか?
今川は脅威だったが、斉藤って脅威だったとは思われない。
自領を防衛する上での拡大政策が発展しての天下統一ではないと思う。

>>116
天皇家排除?
信長は伝統的権力と対決したが、完全に叩き潰したことはないよ。
叡山も焼き討ちされたが残ってるし、本願寺も残してる。
信長の目的は権力の集中。そのために宗教勢力と戦った。
(これを現代風にいえば政教分離になるのかな)
ましてや最も伝統的組織である天皇家排除などはありえまい。
確かに天皇家と細かい争いはある。
>>285の指摘している
・二条城造営に関し、各寺院から徴発しようとした信長に対し、反対する寺院側は朝廷に
訴えて阻止しようとした。が、信長はただ速やかに自分の命にだけ従うように言った。
・キリシタン排斥運動をしていた日蓮宗が朝廷に働きかけ「綸旨」を得たことに対し、
信長はキリシタン保護の書状を発給、これをあっさり覆す。
などは信長が権力を自分に集中させようとする上での揉め事にすぎず、
これを持って天皇家排除と直結するのは、牽強付会だ。

ちなみに信長はヴァリニャーニに「余が国王であり内裏(天皇)である」と語った云々も、この流れだろう。
原典みてみないと断言できないが、事情を知らない西洋人の宣教師からすれば
天皇が日本国王として全権を握っていると勘違いしたに違いない。
それに対して全権を握っているのはワシ(信長)だということをいったのが、歪んで伝わったのではないか?
「内裏にいちいちいわんでもえーぎゃ。なにかやりたければわしにいえ。」
通訳者「信長は内裏にいわずに自分にいえば、事は済むといってます。」
ヴァリニャーニ「オーッ。トイウコトハ、ノブナガガ キング(ダイリ)ナノデスカー?」
通訳者「そういうことです。(面倒臭げに)」
なんて感じだったんじゃないの?

それに信長のやったことはほとんど先にやった人がいる。
先人がやったことをアレンジしてやっている(この方が新しいことをやるより
成功率も高いし)だけ。
天皇家廃絶という先例にない冒険はしない。

それと「フロイスは二条城建設にあたり信長は近隣の石仏を破壊して石垣にした
って記録しているけど、日本人は誰一人その事を記録していない。」
だけど、*日本人も価値を認めないような仏像を破壊した…のではないかな?戦乱でそこらへんに捨てられてた石仏を使ったんだと思う。

異教徒のフロイスが記録した「近隣の石仏を破壊」とは工事現場で石仏が使われるのを見て、
勝手に想像で書いたのではないか?
話は変わるが、確か大友宗麟も耳川の合戦に先立って仏像を破壊してたはずだが、これは日本側の記録に残ってたと思うのだけどどうなのだろう?

耳川の敗戦→その後の大友氏の勢力後退は、仏像破壊も原因しているのではないか?
それを考えると信仰の対象になってる仏像の破壊はいくらなんでもできないように思うが…。

長くなった。スマソ。
396無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 11:20
>>395
おおむね同意。

ところで信長が仏像を壊して石垣に用いた例だが、
これは何も信長だけに限った事ではなく、他の大名も結構やってるらしいね。

曰く「仏様のご加護がありそうだから」とか。
397無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 11:35
「生き残りたかった」説は主因かどうかはともかく、正解だと思う。
信長が座して尾張にいても滅亡か服従があるのみだ。

義昭も武田も浅井・朝倉も天下を取るか、
少なくとも信長を倒さねば、生き残れないと感じたんだろうね。
本願寺の天下取り構想もそんな感じかな。
中央に屈服する事で生き残る方法もあるが、
島津、長宗我部など減封された勢力や北条のように滅びたものもいる。
398無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 11:45
>>395
斎藤に関しては信秀と道三が抗争してたころの話しだろうね。
それと、信長がは異常に信玄を恐れてたみたいだだし、
謙信も異様に恐れてた。
生き残るためには大勢力になる必要があったんだろう。
そして、敵対した将軍義昭をも排除せざるおえなくなった。

>>396
縁起をかつぐために石仏などを
使ったらしいですね。
399無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 15:31
タリバンの石仏破壊は縁起かつぎですか?
400無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 17:01
タバリンは、石仏片をお守りとしてアメリカと闘うのか!(納得
401Cipher:01/10/04 08:53
サバイバルするのに全力を尽くしてたのは確かだろうが
京都に将軍を擁立するという行為は明確な目的意識がなくてはできないことと思われ。
毛利元就なんかは大内氏の失敗を見てきているから、将軍擁立は消極的だった。
朝倉氏も京の近くにいて、それまで将軍を擁立してきた勢力がどうなったのか
見てきてるから、信長のような行動は起こさなかった。

それに“戦争”行為は1度の敗戦で致命的な打撃を受ける可能性が常に存在する
ハイリスクなもの。
そこから“サバイバル”政策は外交政策中心に進めるのが普通だが、どうも
対美濃政策は最初に美濃攻略が念頭にあったとしか思えない面が多々ある。
>>401
まあ、そうだけどね。
ただ、ハイリスクであろうが失敗しようが
生き残りのために積極行動をする輩はいつの時代もいるの。
「ドイツ民族の生存」とか言ってたヒトラーや
「大東亜共栄園」とか被害妄想的な日本とかね。
まあ、信長の天下取りは主因とまではいかなくても、
それなりの動機だったんじやないかな?
403Cipher:01/10/04 13:36
>>402
信秀は美濃の道三と同盟結んだし、信長は家康・浅井と同盟を結んでいる。
外交政策を軽視しているわけではない。
…にもかかわらず、なぜ執拗に美濃にしたのか?
1つ謎がある。
今川と織田が桶狭間で合戦したとき、なぜ美濃の義龍は動かなかったのだろう。
信長を屠る絶好のチャンスだったのに。
404無名武将@お腹せっぷく:01/10/04 13:42
生き残り=拡大志向ではないでしょう。
生き残るために、周りにうらみ買ってまで統一する必要なんかないべ。
信長の現実思考がそう発展するとは思われないんですけど。
405無名武将@お腹せっぷく:01/10/04 18:52
>>403
美濃と同時に伊勢方面にも地道に介入してないかな。

桶狭間の翌年には義龍は病死してますから、
病床で苦しんでいたのではないかな。
今川は今川で、織田には単独で勝てると思っていただろうし、
織田の次には美濃ですから。
406U-名無しさん:01/10/05 12:39
信長は別に朝廷と緊張関係になかったって事で落ち着いたんじゃなかった?
なんで今さら話を蒸し返しているの?
407406:01/10/05 12:40
名前変えるの忘れちまった
408Cipher:01/10/05 13:30
>>405
今川が滅びた時は武田と徳川が連合して攻めてるし、
武田を織田&徳川連合が攻めた時も北条と連携してる。
他にも例は挙げれると思うが、単独で勝てるという場合でも連合して攻めれば被害が少なくて済むし、
義龍が病床でも代理の司令官をたてれないわけではなかろう。
それに義龍が道三を倒したのが1556年だから桶狭間の戦いまで4年もある。
今川と諮って尾張を分割するチャンスはいくらでもあったはす。
>>406
ヴァリニャーニ云々の話の反論が充分と思えなかったから…ってのもあるが、

実はある本を読んで、ちょっと気になっていることがある。
両朝平壌禄という本に小西行長と石星との問答が乗っていて
石星が「秀吉が信長の政権を奪った。」といったのに対して
小西が「信長は国王(天皇)の地位を“奪うことを好まなかったので”明智に殺された。」
と答えているそうだ。
(原本に接してないので実際に、そういうニュアンスで書かれているかは定かではない)

↑の話を “そのまま受け取る”とすると むしろ 天皇の地位を信長に奪わせようとしてたのは明智??
で、それに反対して信長が殺られた???って解釈ができるんだけど…。

誰が、原本読んだ人、いねーかな。
409無名武将@お腹せっぷく:01/10/05 17:21
司馬イと曹操 という訳か
410姉小路自綱:01/10/05 18:23
知らないにゃー
411無名武将@お腹せっぷく:01/10/25 20:08
もったいない
412無名武将@お腹せっぷく:01/11/08 08:38
いえいえ
413無名武将@お腹せっぷく:01/11/08 08:51
なんか<このスレの命題の「結局、信長はなにをしたかったの?」自体が空論だと思うよ。
一人の人間にとって「結局、何をしたかったの?」も何もないだろう。

信長が何をしたかったかとか言う前に
自分が何をしたいか考えて欲しいもんだ?
私? 私は「結局、君はなにがしたいんだ?」と問われても
口ごもるだけだなあ。みんな、そんなもんでしょ?
414無名武将@お腹せっぷく:01/11/08 08:54
結局、>>1の理論は信長ほどの人物であれば
始めから(子供の時から?)キチッと定められた最終目標があって、
彼の全ての行動はその最終目標のためだという
妄想から来てるんだと思う。
415無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 12:01
信長でござる
416無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 12:02
信長は稀代の英雄
凡庸な2ちゃんねらーに彼の考えが理解できるはずは無い。
よってsage
417無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 13:22
生きたかった。ああいう生まれの人間が生き残るにはああするしかない。
死にたかった。武将や軍人には少なからず自殺願望がある。
418無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 22:40
>>403
>なぜ執拗に美濃にしたのか?
今川義元亡き後、尾張へ積極的に進出してくるのは
美濃の斎藤だけだった。伊勢方面は婚姻政策と侵攻政策の
硬軟分けた戦略が効を奏していたし、
三河の徳川が尾張に進出することはない。
しかし美濃は義父斎藤道三の仇であり、
義龍側も織田を不倶戴天の敵として認識していた。
積極的に美濃勢の切り崩しを行って、
侵攻していったのはこういうことだと思う。
そして美濃を平定した信長の下に彼の運命を変える
足利義秋がやってくることによって天下を意識しだす
ってところでどうでしょう?
419無名武将@お腹せっぷく :01/11/18 18:26
家臣「殿、今川が攻めて参りました!!!!!」

信長「ええぃ、尻軽隊5000用意せい!!!」

家臣「・・・」
ノブナーガと曹操って何が違うん?
421無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 20:13
名前
422無名武将@お腹せっぷく:01/11/22 01:34
>>419
尻軽隊用意してくれYO
423無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 00:56
age
424無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 01:13
世界を
425無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 01:16
>420
信長は敵を殺しすぎ。
曹操は味方を殺す。
426無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 02:36
当時の日本に鉄砲が40万丁あってヨーロッパすべてをあわせたより多かったってほんと?
サラ金書いた人の漫画で風呂椅子がビビてた
たった二丁流れ着いた鉄砲が・・・
427無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 02:53
本当らしいよ。
全世界に存在する鉄砲の総数の半分が日本にあったってやつでしょ?
428無名武将@お腹せっぷく:01/12/05 22:58
>>426
あの当時のネタかどうか知らんけど
種子島から帰ってきた人の話を聞いたバテレン商人が火縄銃を日本に売りに着たら
どこへ行っても「そんなものようあるけ」と断られたという話があるそうな。
429age:01/12/07 23:43
涙が止まらないのはなぜ?
@フラれた
Aいつもみているテレビを見逃した
Bウンコが手に乗った
430無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 00:26
信長ってちゃらんぽらんな人間だと思うよ。
ある程度は使命を自覚していただろうし、頭が悪いわけじゃないけど、
そんなものごとを深く考えてやってきたわけではない。
信長の置かれた環境が与えられたなら、日本人の10人に1人は信長くらいの
ことはできるんじゃないのかな?
まあ普通の人ってこと。
431430:01/12/08 00:48
あ、桶狭間をクリアできた後からね。<環境が与えられる
桶狭間自体は天命に近い。
432無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 01:01
>430

全然ふつうじゃないだろ
433age:01/12/08 01:25
浅井・朝倉・本願寺・上杉なんかに包囲されたら
普通の人では対応できないんじゃない?
434無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 01:50
そうだろうか?そこらへんにいる市井の人だって
政治能力はかなりのものがあると思うんだけどね。
環境・装備を手にしているかいないかだけで。
>>430-431,>>434はゲームのやり過ぎ。
436無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 06:13
ゲームはやったことないよー。
よく考えてみなよ。当時の大名は基本が世襲だよ。
人口も現在よりはるかに少ないんだよ。
学歴の選別を受け、さらにその後出世競争に勝ち抜いて
大会社の社長についたような人材と比べて、
基本ラインではるかに落ちるはず。
日本人の遺伝的資質が変わってないものと仮定して、
信長という個人を現在に持って来たらほとんど何もできない
はずだよ。せいぜい10人に1人の人物ってのはそういうこと。
>>436
おいおい。戦国時代の大名は日本に10人しかいないのかい?
だいたい世襲といっても、絶対に長男が世継ぎとなって訳ではなく、
むしろ、そんな約束事が守られたケースは決して多くない。

それに人の知能・体力・才能ってものは、生まれついてのものだけでなく、
環境で培われるものも含まれる事くらいはわかるだろう?
そしたらあの厳しい時代の「戦国大名」さんが今の平均人より
基本ラインが高い事くらい想像がつくはずだ。
(そりゃ幾ら環境が整っていても元々が駄目って例外もあるがな)

戦国大名は現代の会社社長よりも遥かに危険にさらされ、
その嫡男として生まれた者は大学入試に及びもつかぬ命がけの
闘争に勝ちぬかなければ生きていけない。

この板でここまで開いた口がふさがらない場面に出くわしたのは
これが初めてだよ。
438:01/12/08 06:56
>>437
俺もアナルがふさがらないよ
436はずっと2CHにいて世の中を知らないんだよ
哀れんでやろうよ
439無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 07:04
「英雄」は際立って秀でた生得的能力の持ち主なのか、
それともそこそこの能力を持つ人物が、時の流れを得たにすぎないのか?
ってことだよね。

君は例えば松下幸之助が一万人に一人の素質を持った人物だと思うのか?
どんな時代環境に置かれても、一万人に一人しかなし得ないような
際立った業績をあげられると考えるのか?

ネットの世界で言えばひろゆきはまだ未知数としてあめぞうさんだね。
成し遂げたことは一万人に一人しかやりえないようなことであったが、
はたして資質が一万人に一人のものだろうか?

時流のメインストリームをつかんだに過ぎないと自分は思うのだよね。

織田信長だって同様だろう。その時代環境の中で思いつくままのことを
やって勢力を拡大してきたということだけど、端的に見れば、桶狭間で
自信をつけると同時に「織田閥が主流派である」と天下に認知させた。
商業を保護することで経済力を得ることが重要だと理解していた。

これだけのことで、あとはわりかしとんとん拍子なのではないか?
超人的な機転や判断力を要するわけじゃないと思う。そういうこと。
440無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 07:04
>おいおい。戦国時代の大名は日本に10人しかいないのかい?

信長は抜群の好条件ですよ。同様の条件を持つのは、三好・松永・
浅井・朝倉・斎藤・織田くらいしかいない。加えて武田・上杉・今川・
北条・毛利・長宗我部・徳川・足利将軍家・一向宗・本願寺くらいだろ。
桶狭間ではずみをつければもうなんとなく、見えてると言っていいん
じゃないか?少なくとも何をすべきかは人並みに目の利く人間ならば
その時代背景の中でも思い浮かぶと想像できる。

>だいたい世襲といっても、絶対に長男が世継ぎとなって訳ではなく、
>むしろ、そんな約束事が守られたケースは決して多くない。

ここは確かに言えるかも。世継ぎの段階で5分の1近い選抜があった
かな?そうすると、信長は100人に1人くらいの資質になる?
そこまで特別とも思えないんだけど。

>そしたらあの厳しい時代の「戦国大名」さんが今の平均人より
>基本ラインが高い事くらい想像がつくはずだ。

今の平均人よりは高くても、平均的な社長と比べたらどっこいどっこいか
やや下ではないだろうか?。命がけ自体は、軍人の職業属性なので
特別視して能力に換算すべきものではない。
441無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 07:12
確かに政治家タイプの英雄はそうは言えるかも知れない。
しかし、天の運や地の家柄も含めて英雄とはそんなものだと思う。
442無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 07:22
となると戦国の真の超英雄は秀吉や早雲か?
中卒で総理大臣に登りつめた田中角栄はどうなるの?
あるいは偏差値競争に打ち勝ち東大を出て大物政治家になった、
鳩山とかは?
443無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 08:43
アホらしいこと言ってるな。信長は間違いなく不世出の人物。
信長のように古い秩序を一掃し、新しい秩序を築こうとした英傑は史上ごくわずか。
他には、聖徳太子と維新の中心人物達ぐらいだろ。
信長は、中世から近世への脱皮をほぼ一人で成し遂げようとした稀有の革命者だよ。
むしろ、秀吉や家康こそ信長の部下や同盟者だったから統一者になれただけという、
思考法の方が自然。

ただ、10人に1人の考えは、俺は劉邦とショウ何の一派によく感じる。
が、その中でも張良や韓信は別格の人物。
444無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 09:05
信長以前に将軍を擁して京都を抑えるまでして、
自分が主君になるチャンスのあった武将はいくらでもいた。
信長よりも六十年も早い1508年に、亡命してきた義種を擁し入京した大内義興・・・・・
そして、義晴を擁した細川政元、義輝を擁した三慶長慶、義栄を擁した松永久秀とゴロゴロいる。
しかし、彼らは将軍を擁し、自分の領国を増やし、機内に覇を唱えただけで満足してしまっている。
実際、今川義元や武田信玄の天下というのも、その程度だったと思われる。
天才とはコロンブスの卵を生み出すもの。
つまり、信長以外の誰もが室町幕府の旧体制の枠組みにあるという形の「天下」の概念しか持ちえなかった。
445無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 09:21
信長の天才・英雄たる最大の部分は
政治的才能でも、軍事的才能でもない、
単にそういう能力で彼を凌駕していた武将は
多少いる事は認める。

では彼の最大の部分は何か「発想」だ。
井沢氏の著作の受け売りですが、
軍事の天才、義経が名将たりえたのはコロンブスの卵である。
例えば義経は平家との海戦に苦戦していた時、部下に平家の水夫を射るように命じた。
現代戦においては船や飛行機の操舵する者は戦闘要員として攻撃の対象になるが、
当時は水夫を攻撃するという、概念そのものを誰もが持ちえなかったそうだ。

これと同じことで信長のした事は現代人から見たら馬鹿馬鹿しいほど当たり前の事でも
当時としては信じがたいほど画期的な事をしていったのだ。
その最も重要なものが「天下布武」だ。
信長の野望とかのゲーム戦国マニアやとか武田オタとかはそのへんを理解せずに
誰もが当たり前に信長のような天下を狙ってたのだと誤解している。
>>444
それはどうかな。
信長さえも室町幕府下の天下しかはじめは考えていなかったのでは?
実際、将軍が信長と決裂したとき、戦略としてではなく、
本気で将軍を都に返そうと躍起になっていた節がある。

「天下布武」ってーと、信長が独裁するスローガンみたいにとられがちだが、
「将軍=劉邦(体制の本拠)、信長=韓信(遊軍)」みたいな概念で
使っていたんじゃないの?
447(・-・)・・・ん?:01/12/08 13:39
信長はきっと鼻毛を抜きたかったんでしょう
きっと・・
448名無しさん:01/12/08 15:02
当時の人は鼻毛の処理はどうやってたんだろう。
449無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 17:10
>>444
機内は畿内の誤りですよね?
450無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 18:03
秋山駿ののぶながマンセーを読め
451無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 18:12
信長が偉大なのはその精神力。
四方八方から敵視されながらそれを
ものともせず撃破、天下統一寸前まで進んだ。
信長が栄達できたのは運だと言う人間は
運を呼び込む努力すらしない屑である(無論これには私も含める)
緒戦は負け犬の遠吠えに過ぎない。
452無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 18:14
あと信長は体力も凄いじゃん
453無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 18:18
毛沢東についてはどう考える?
454無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 18:45
新撰組の生き残りがジジイになってから、やくざに絡まれたんだそうな。
相手は多数こちらは(確か二人)
でも一喝で追い払ったそうな。
それを考えると、戦国時代の人間の重層さは押して知るべし。
現代人と比べるのは間違え。
455無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 19:23
>>446
たとえ、仮に信長が積極的に室町幕府滅亡を画策しなくても、
将軍の行動、情報や通信の自由などを大きく制限した革新性が室町幕府が消滅するきっかけとなった。
大内義興は大軍で京都に上洛したあと、官領代に任命されて京都で義種を補佐し実験を握った。
その一方で安芸などを攻めるなどして自領の拡大を計った。
義元や信玄や謙信では彼と同じ事をやっただけで、
室町の曖昧な形態は持続しつつげただろう。

信長がいたから秀吉・家康に受け継がれ、新時代へと変化できた。
456無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 19:47
信長は師匠がいっぱいいるからね。
確証がないが、今川、六角の式目。(一応六角と朝倉には上洛指示を行っている)
斎藤の下克上を参考にしている。
天下布武はハッタリもあるが、あのようなスローガンは他の大名に無いのは事実。
457無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 19:55
>>456
負け犬の遠吠えは見苦しい、環境が良くても
それを物にする努力がなきゃだめなんだよ。
458無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 20:03
>>457
ごめん、何が言いたいのかわからん。
俺の環境はいまどき、うぃん95だけど。
>458
他人の才能認めない厨房逝ってよしってことでしょ?
460無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:14
>>456
信長は今川や六角のような分国法を作ってないよね。
それでも師匠となるの?
>>455
信長が義昭を追放しても(将軍の後継者を立てず)成功できたのは、
京都ほど良い距離にある確固たる領国があったからだよね。
大内の場合は遠すぎて、六角などは基盤が少し弱かった。
細川・三好は確固たる基盤を作れないうちに
中央にかかわって内部分裂して衰亡した。
こんな解釈でいいのかな・・?
461無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:29
>>460
違うんじゃない?
彼らに将軍を追放するビジョンというか概念が
があったとは思えない。
462無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:31
>>460
結果論だけどあれだけの領地を持ちながら分国法が無いということは。
その必要性を持たなかったということじゃないかな。
逆にいえば分国法について知っていたと私は思うのです。

信長は自分以外は許せなかったという立場ですけど。
463無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:38
信長の放火癖(焼討等)は蓄膿症だったから?
464無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:47
信長以外に将軍を追放した戦国武将はいなかったの?
信長には将軍をいただくなくても
十分な基盤があったから追放したのであって、
ほかにそれをする人がいなかったのは
ただその基盤が整っていなかったからなんじゃ。
465無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:51
追放というか室町幕府の枠組みを
破壊する前提が無かったんでしょうね。
将軍を抱えておけば良い事も多いでしょうしね。
松永久秀は気骨のある義輝を殺し、義栄をたてたしね。
室町幕府が前提なんでしょ。
466無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:52
>>464
室町将軍を追放した大名はままあります。
滅ぼしたのは信長から秀吉ラインでしょう。
467無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 21:59
>>466
追放とは違うんじゃない?
最初に島公方と言われた義種以降の将軍は
自分で京都を出て、地方守護を頼っただけ。
それと将軍を殺されたのは義輝が最初ではなく、六代義教だ。
それでも、室町幕府という存在は前提としてあった。
468無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 22:01
どうして、義昭が追放された時点で
室町幕府滅亡になったの?
469無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 22:09
>>468
幕府は征夷大将軍が開くという暗黙の了解があり、また御所で政治を行うため
そこから追放された時点で将軍じゃなくなると見られる。
470無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 22:40
>>469
将軍ではあるんじゃないの?
ただ、室町殿とみなされなくなるだけで。
義昭を追放したあと、
室町殿の権威は信長が引き継いだ。
何を言っているんだか。
信長は意図的に室町幕府を滅ぼしたのではないよ。
将軍が京都を離れようとするのを必死で信長が引き止めようとしたのは
彼の変わりに立てるべき将軍様がいなかったからだよ。
義昭はそれを知って、信長の元を離れた。
本当は信長も室町幕府再興以上のビジョンをまだ見つけていなかったんだよ。
472無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 23:06
>>471
申し訳ないが信長が室町将軍(義輝)を止めたという出典を教えてください。
473無名武将@お腹せっぷく:01/12/08 23:10
>>469
あれ、義種以降の将軍が何度も京都から逃げた件は
どうなるわけ?
>>472
義昭の間違いでは?
>>372
公方様追放寸前の書簡にあるよ。
図書館にある何かの本で読んだ。
475無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 07:58
信長が普通の人なら英雄はほとんどいなくなる
476無名武将@お腹せっぷく:01/12/09 10:42
人間の重さを何で計るかというと、
結局、運や家柄や状況も含めての話しだと思いますよ。
たしかに信長が現代に生まれてても東大に合格できるとは
思えないし、ライフルの日本代表になれるかはわからない。
しかし、そういった数字だけで人間の重さを推し量るのは
どうかと思う。
477別に信長がえらいと思わないよ。:01/12/09 13:50
幕府を開きたかったのかな。
478無名武将@お腹せっぷく:01/12/10 13:46
>>471
止めたのが事実として、そりゃ止めるよ、あの段階なら誰でも。
あの時期に、敢えて将軍を敵にするなんて先の見えないバカのすること、袁述並に。
ヴィジョンとか云々以前に、利用できるものは何でも利用するという段階。

>>473
本人の復権または対立者が就任したら、うやむやに。
義昭は復権できなかったら、
歴史学者が後日的に、それをもって室町幕府の終焉にしたということ。
美濃を自領とするまではその場しのぎ
その後、上洛し権威を持つようになってから
天下統一を目指した
美濃とったあたりから本気で天下統一考え出したんだろうな。
481無名武将@お腹せっぷく:02/01/09 17:43
age
482age:02/01/17 06:27
目の前の問題を片付けていくうちに中世的な障害が邪魔になりそれを破壊した。
初めから中世的なものを全て破壊してやろうなんて思ってなかったんじゃない。
483塩田財務大臣:02/01/20 15:40
>>482
おそらくその通りじゃろうな。
484無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 15:47
>>482
真実!最初から人生のグランドデザインドウリに行動する奴なんてほとんどいない。
485きよまさ:02/01/20 18:23
信長より1局での合戦において強い奴らは沢山いる。
ただ、長期的な視野で俯瞰していたのは信長ぐらいじゃなかろうか。
曹操もそうだけど、信長だって随分合戦では負けてる。
でも、彼の中ではそれは負けじゃなかった。
確かにそうだよ、結果として勝てばいいんだからね。
でも、それは今の時代だから言えるわけで、当時、それだけの考えで
各陣営を分析していた彼は凄すぎる。

それと軍事専属の軍団を作り上げるなんてのはあの時代に生きていた人間としては
誰にも考えられないことじゃないかと思う。
それまでは武士といっても完全にそれだけで暮らしていたやつなんて
ほんの一部だったわけで、ほとんどが土着の土地持ち農だった。
そういう時代背景の中で軍団を作り上げていった考えはやっぱり秀逸。
結局信長の中には何かに囚われていてはダメだという発想があったんじゃないかと思う

だから、農や宗教も切り離した。
経済観も尋常じゃないよね。
なんたって茶のみにも価値を持たせたんだから。
土地を与えなくても、壺をやったり茶のみを渡すことで関係を保てるなんて
普通に考えればおそろしいことだよ。しかもあの短期間でさ。
ある意味、信長教に染まっていたのかもしれないけど、
逆に言えば、そういう発想が当時の人間にとっては魅力的だったんだろうし、
一発勝負をかけてやろうというやつらにとってはたまらない魅力だったんだろうね。
どうりで信長の周りには変わり者が集まってきてるもの
486無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 18:43
>>485
そんな事はいつの時代どこにもある。
近代には勲章とかOO賞とか茶道具以上に意味のないものが持て生やされてるし。
上杉は感状というさらに意味ないものを家臣は競って集めてたしね。
現代でも金魚出品会の金魚一匹一千万とか、有名人の愛用した車が一億とか、
道楽の世界には異常な価値があったりする。

だいたい、茶道具に価値を持たせた元祖は信長ではなかったはず。
昔からあったし、三好一族や松永が信長に伝授したはず。
また、大友宗鱗は弟の義長が攻め滅ぼされた時、毛利に出来の悪い弟などさっさと斬ってくれ、
そのかわり、弟の持ってる家宝はくれと言っている。

まあ、信長以前からあった慣習だろう。
信長も土地の替わりに茶道具というシステムに意図的にしていったというよりは
自分が本気でハマッテ、家来に価値観を押し付けていったんだろうね。
あっ、でも、それが短期間で浸透したという事が信長の影響力というか信長教とも言えるかもしれないが。
義政のように信長が価値基準を決めた、そこが違う
488無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 18:55
確か、本願寺が石山城引き渡しさのさいに、
信長が本願寺に高価な茶道具かなにか渡したんだよね。
それを見て本願寺側は仰天した。
城や領土と茶道具が対等な交換材料とでも思ってるのかと
信長は唯我独尊状態になってたんだろうね。
489無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 19:34
交換材料ださなくても良かったんじゃないの?
秀吉が気に入った壷は価値が高くなり
信長の気に入った茶器は価値が高くなる
491無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 20:06
>>489
石山開城はあくまで講話によるものだし、
信長も一向一揆を刺激しないため
本願寺顕如に手荒な事はできない。
492きよまさ:02/01/20 21:24
>>486
なるほど。言われてみれば納得。
ただ、財物を重宝がると言うことじゃなく
政治の世界にそれを持ち込んだのは信長ならではないかと思ったので
そういう意味で書いたんだけど。

でも、松永久秀と信長の関係はなんとも不可思議
信長が利用したという考え方もできるし、
久秀の考え方に通じるものを感じたという部分もあるし、よくわからない。
その辺はどう考えますか?
493無名武将@お腹せっぷく:02/01/28 04:36
 
494無名武将@お腹せっぷく:02/02/02 05:24
本能寺の変の原因ともいわれる光秀の領地没収についてだけど
司馬の小説なんかだと、もうお役ごめんで不要になったからだ
との説だよね。それに光秀のみ留守番のようなかっこうにも
なってた。やはり不要だからだとの説はもう定説なのでしょうか?
495無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 06:31
留守番って何?家康接待時?

家康接待(少々失敗)→秀吉が信長に出馬要請→信長が毛利との決戦決意
→光秀に出陣命令(領土召し上げの上、現在毛利領を与える命令)
→光秀出陣(こっそり本能寺)・・・・だよね。

留守番ついでの家康接待も、丹波攻め終了後の休憩だし、普通だよね。
信長としても、まだまだ光秀を使うつもりだったと思う。
ただし、京近くの領土を取り上げたりと、
待遇は薄くなったといえるのかも。
496無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 06:44
>>495
あのさ、明智の現領土召し上げて毛利領を与えるなんて、
俗説を信じてるようじゃ話しにならないよ。
その話しは信用性の低い資料に出てくる妄説。
それと、家康の接待失敗も史実ではなく、接待役は良いから、さっさと援軍に行けと命じられただけだ。
497無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 06:53
割り込んでスマンが、
>その話しは信用性の低い資料に出てくる妄説。
資料の名前は?

それと
>接待役は良いから、さっさと援軍に行けと命じられただけだ。
これはどの資料でわかったの?
498495:02/02/06 07:13
>>496
妄説というか、司馬の小説の話で、
光秀のみ留守番みたいな格好とかあったかな、
という話ね。
司馬も
>接待役は良いから、さっさと
みたいに書いてたんじゃないかなってこと。
失敗の話も併記してあったと思うが。
まぁ、司馬だけでも数種類書いてるので、
どれかを特定はしてませんがね。
まぁ、定説についての話ですし。
499496:02/02/06 07:22
>>497
接待役の件は「信長公記」に記されてる。
光秀が最初に家康・梅雪の接待を命じられて、京・堺で珍物を整えて五月十五〜十七日の間、接待した。
そこへ秀吉が援軍を要求してきたので、信長は自ら出陣しようとして、
光秀以下、細川、池田、高山、中川、塩川等にその先鋒を命じた。
光秀は十七日に坂本城に帰り、他の武将も準備のために国許に帰っていった。
二十日には丹羽、堀、長谷川、管屋に家康の接待を命じたとある。
ただし、信用できるはずの信長公記にもおかしな点はある。
丹羽や堀はほかの任務についていたのだ。
料理の魚が腐っているというのは資料価値の低い「川角太閣記」にある記述だ。

国替えの件は元禄時代に成立した「明智軍記」にのみある記述。
配下の家臣の領地を取り上げ、代わりに敵の領地を与えるなんて事は
当時の軍の構造状、ありえない。
小説はやはり小説でしかありませんね。
501無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 07:28
>>499
信長公記に記載されてる接待役の件は知ってるけど
>接待役は良いから、さっさと援軍に行けと命じられただけだ。
の「さっさと援軍に行け」と命じられたなんて書いてないけど
502495:02/02/06 07:31
>>496
召し上げっていっても、予定命令じゃないの?
予定命令ならありえるし、それに拒絶反応示してもおかしくないのでは?

どっちにしろ、光秀不要論ってのは定説ではないよね。
重要度が下がった、粗略に扱ったとかは見るけど。
503496:02/02/06 07:40
>>502
国替えの件は明智軍記にしか書いてないから、
あてにならないんだよね。
接待役を外されて、秀吉の援軍を命じられたのが、
彼の重要性が下がったとは言い切れないよ。
明智の兵員動員力や細川や筒井等に対する、統率性を買われたとも言える。
信長は細川、筒井らも含めば二万ほどにもなる、明智勢をあてにしてたわけだ。

>>501
確かにはそうは書いてないけど、
信長の意向はそんな感じだったという事だ。
504無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 07:45
>>503
二万どころじゃないだろう。
それどころか池田恒興や
高山右近、中川清秀も光秀の元につけた、
新たな大軍団の編成かもしれない。
だとすると栄転とも言えるね。
505無名武将@お腹せっぷく:02/02/06 07:48
>>503
>接待役は良いから、さっさと援軍に行けと命じられただけだ。
>信長の意向はそんな感じだったという事だ。
信長公記のどの部分を読んで、信長の意向をこのように解釈したんだ?
結構、重要なんで詳しく説明求む
506無名武将@お腹せっぷく:02/02/20 23:36
うんこー
507無名武将@お腹せっぷく:02/02/20 23:50
>>504
でも秀吉の応援に過ぎないというこの矛盾!
508無名武将@お腹せっぷく:02/02/21 03:56
信長自身、毛利の相手は猿だけでは不十分だと考えていた。
それに猿を抑えることができるのは光秀以外にいない事も
よく知っていた。家康に対する利家って感じでね。
509無名武将@お腹せっぷく:02/02/21 06:22
光秀の謀叛には快川和尚の死は影響しとるのかね。
>>507
毛利討伐に向かう信長本隊の応援なら矛盾しないと思う。
hosyu
512無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 15:57
>>510
応援が本隊より先でどーするよ
>>512
作戦上、支援部隊が先に現場ってのは珍しくないのでは?
でも変といったら変かも。。。
hosyu
515無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 19:11
>1
自らが神もしくは天皇になること
516そこのお前:02/03/21 21:03
秀吉と同じく、全国統一した後、朝鮮や明も統一していくこと。
517無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 21:20
信長が天下をとれたかは疑問。
尾張で京都に近かったので簡単に上洛できたが、駿河や甲斐の大名だったらあんなになれたかは疑問だ。
それに、毛利、上杉、島津は健在だったので、天下人と呼ぶのは早すぎたんじゃないのか。
当代における最も有力な者を天下人というなら、
信長が天下人であるといっても過言ではない。
この場合は、いろいろな戦国大名がいろいろな時期において
天下人だったことになる。

何らかの官位や地位で天下人と呼ぶのなら、違うかもしれない。
この場合は歴代将軍にも天下人と呼べないものが出てきそうだ。

しかし実際は国の中心を押さえた者を天下人というので、
やはり天下人と呼んでもよいのではなかろうか。
519無名武将@お腹せっぷく:02/03/21 22:48
京都を取った人間を天下人と呼ぶ風潮はあった。
三好長慶も「天下の執権」と呼ばれた。
とするならば信長も紛れも無く天下人である。
三好松長と同レベルの、ではあるが。
520無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 09:46
>517
天下とは当時は京のことを指した
521無名武将@お腹せっぷく:02/03/22 10:01
同じようなレスを3つもつけるなよ(w
誰も突っ込んでないけど、訂正。

当代における最も有力な者を天下人というなら、
信長が天下人であるといっても過言ではない。
この場合は、いろいろな戦国大名がいろいろな時期において
天下人だったことになる。
更には歴代将軍にも天下人と呼べないものが出てきそうだ。

何らかの官位や地位で天下人と呼ぶのなら、違うかもしれない。
しかしその場合は天下人とは地位に過ぎない空虚な存在である。

しかし実際は国の中心を押さえた者を天下人というので、
やはり天下人と呼んでもよいのではなかろうか。
523武蔵守:02/04/10 22:30
もう大分遅レスですが、官位というのは「正一位」とか「従二位」
とか言うのを言います。
そして「右大臣」とか「大納言」とか言うのは「官職」です。
で、ある官位をもらうとその官位に相応しい官職を朝廷がくれたのです。


524武蔵守:02/04/10 22:33
あ、スレand板違いでした。
すいません。
>>523
それはそうだが、、、誤爆?
526無名武将@お腹せっぷく:02/04/10 22:41
<523

スレ違いならスマン。 今も政治家等が宮内庁から「従二位」とかの官職を賜うそうです。
ちなみに「正一位)(太政大臣)」は「従一位(太政大臣)」の位の人が死後に追贈される位なので、現代の民間人が生きて位を賜られるのは、実質「従一位」が最高位。
内容違っててマジでスマン。
527武蔵守:02/04/10 22:47
>>526
え、今も官位ってあるってマジなんですか?
初耳でした。
(将来、死んだ後からでもいいから式部卿を賜りたいです。w
528無名武将@お腹せっぷく:02/04/10 23:00
<527

うろ覚えで大変スマンが・・・、春秋の褒章で赤・黄・紫・・・とかの褒章、勲一等とかの勲章、スポーツ・文化に貢献した文化功労賞とか贈られる。
国民栄誉賞は国会が独断で贈るが、先の褒章は宮内庁とかの独立した所で贈られる(11/3文化の日とかがそれ、他に1月の休日・4/29とかがそれっぽいか) 多分民間で最も栄誉ある勲章といえば「文化勲章」かな?
 
現代の政治家、中曽根は「大勲位」らしい(まだ議員だがな・w)

個人的には「「正二位」(左大臣)くらいが良いが・・・。
529526:02/04/10 23:01
参加者の皆さん、大変申し分けない、スレ違いだった。
また「信長・・・」スレに戻ってくれ。
530無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 00:54
晩年の信長は、頼朝みたいに将軍になりたかっただけなんじゃないかな。
右府になって、辞めて前右府になるって真似して、頼朝ぐらいに日本を
治めたら、武家の棟梁としての地位を得ようと思ってたんじゃないかなっと思う。
素人考えでスマソ。
531無名武将@お腹せっぷく:02/04/17 16:40
右大臣までなったら将軍よりも太政大臣になろうとしただろう。
っていう今谷明先生と故・宮上茂隆先生の対談が思い出される・・・・
532信長:02/04/17 17:07
うむ、いいたいことも言えない世の中じゃ毒なので
いいたいことが言える世の中を作りたかったんじゃよ。ガハハ。
>>532
ポイズソ逝ってヨシ!
534無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 00:30
絶対王制を布いて皇帝に就くことだろうが!!!
535無名武将@お腹せっぷく:02/05/02 00:36
           織田信長は架空の人物です。

…………………………………………終了…………………………………………
536無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 13:54
終了は勿体無い・・・あげます
糞すれ下げ
538無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 16:01
AGE
539無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 16:10
信長は天皇以下皇族公家を皆殺しする可能性のあった唯一の歴史上の人物。
540無名武将@お腹せっぷく:02/05/07 16:13
ふふ。。オレもそうしたい。
541無名武将@お腹せっぷく:02/05/17 21:28
あげるとおもしろそう
542無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 05:34
信長こそ神。
543無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 06:14
神のわりにはヘボい死に方だな。
やはり信長が石を拝ませたことは異様なのかな?
545無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 23:28
>>539
目の付け所がいいね。
日本史上2回しかなかった、
天皇制を廃止するチャンスだった。
546無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 23:30
( ´,_ゝ`)プッ
547無名武将@お腹せっぷく:02/06/03 23:48
信長の目指したモノとは

上皇だった。
しょーこー
549無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:17
信長は曹操と比較すると劣るな
550無名武将@お腹せっぷく:02/06/11 02:19
部下に殺されるようなヘタレだからね。
551ななし:02/06/11 02:21
蘭丸とハァハァしたかっただけだろ?
信長と曹操の優劣を決めようとしてもあまり意味は無いよ。
信長と信玄の優劣を決めようとしても意味が無いのと同じで。
楽しいことに意味がある
信長は後継者として当然嫡男の信忠を考えていたのだろうが、
信長が目指した天下が信長の天才性に依存したものならば、
その後継者たる信忠(彼が、信長の帝王学に応え続けたので
凡人だとは思わないが)がそれを継続できたのだろうか。
つまり、信忠以降にも維持できるような継続性の高い政治体制を
とるはずで、そういった意味からも天皇を排除するような危険のことは
しないと思う。そんなことをすれば、信長死後も火種を残してしまうか
ら。やっぱり、幕府とは異なる天皇の権威を利用した中央集権にな
ったのではないかと思います。明治維新が300年近く早まった
かも・・・それは言い過ぎでした。もしくは323に同意です。
だろうかと考えます。
555無名武将@お腹せっぷく:02/06/14 10:21
現代ではもう「関白」になる事はできないのですか?
関白は職名だから、職がないからなれないんじゃないかな?
正一位とかならなれるかも。
557無名武将@お腹せっぷく:02/06/26 05:56
なるほど。
558無名武将@お腹せっぷく:02/06/26 18:37
      ____ , 、 ,...、, 、___
.    / ..::::::ゝ ` -" く::... \
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 i不、:::| ̄ ̄━     ━ .|!|   |
 |似 `''  <Gヽ  ∠G゙' .|ノ   .| 信長は美少年だけのハーレムを作りたかった…
 ヾ`!      ̄   :.  ̄  |    | 
  ゝ、i      /、_  _)、:.  |   \
    |、    ! ___ニ__ )  ノ    ノノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  //|:\   !゙ー---''  /
 /  !-|、::::\    ̄  /|ヽ
 |  'i| \:::::''------'' |  ゙i
559無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 19:36
信長が信忠にしこんだ帝王学ってなんのこと?
どの資料にでてくるの?
560無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 19:44
曹操と信長は、比べるべきではないのだ
曹操がかわいそう
信長は、所詮日本だけ
曹操は、世界三大詩人
561無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 19:45
>>559
信長オタがそう呼ぶだけだろ
562織田裕二:02/06/27 19:47
鉄砲じゃ鉄砲じゃーアーヒャッヒャッヒャッヒャー!!
563無名武将@お腹せっぷく:02/06/28 18:34
インドネシアくらいまで
領土にしたかったんじゃない?
>555(現代で「関白」に)
明治元年(1867年)12月、王政復古の大号令によって、
幕府・征夷大将軍職と一緒に、摂関職は廃止されました。
のちに、皇室典範によって天皇行為代理として摂政は
復活しましたが、旧・現典範とも皇室(皇太子)でないと
就く事は出来ません。556氏の補足。
565無名武将@お腹せっぷく:02/06/29 13:32
とりあえずオリコン1位はとりたかったらしい。
566無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 16:01
ギネスブックに載りたかったらしい
567無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 16:07
>>564
皇室典範ならかえられないことはなかろうて
568織田房:02/07/09 16:44
織田房
569gf:02/07/16 06:40






しばらく見てないうちにレベル下がったな・・・
このスレ好きだったのだが・・・
571無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 19:39
しばらくこのテーマはどうか
「もし信長が日本統一していたら」

朝鮮攻め
九鬼水軍鉄甲船vs李舜臣軍亀甲船!
572無名武将@お腹せっぷく:02/07/22 19:55
>>571
亀甲船の勝ち
573無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 00:17
まず鉄甲船そのものが存在あやしいという罠
574無名武将@お腹せっぷく
>>573
鋭いご指摘!!