403 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 12:54
どっかのサイトに、
・信長は朝廷抹殺を計画中だった
そしてその計画は、秀吉軍が突如中国から現れて奇襲するという形で予定
されていた
・光秀中国行きは、京に関係が深い光秀を京から一時的に遠ざけるためだった
・しかし信長の動きを察知した朝廷は光秀に信長を討つように命令した
・秀吉の大返しは、もともと京を奇襲する手はずを整えていたのだから
たやすいものだった
とかいう話があったが、、
404 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 13:22
明智はバカ
405 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 14:53
》403
朝廷を抹殺するのは天下平定後の方が楽だよなぁ。
406 :
塩田財務大臣:02/01/20 15:59
光秀はテロリズムによって主君を暗殺したのじゃ。
テロリズムに頼る者を周囲は主君とはしないじゃろうな。
ラディンは宗教に頼っているためテロリズムを多用しても
カリスマ性により凋落することはないかも知れんな〜。
407 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/20 20:09
自殺
で、結局一番有力なのはどーなのよ
409 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/09 06:20
何で信長が、放っておいても害のない朝廷をつぶさにゃならんの?
>>409 王朝を潰す発想は日本では誰も持たなかったからね。
当時の皇居だって焼き払おうと思ったら夜盗でも出来たはずなのに
誰もそれをしなかったのは焼く必要がなかったからですね。
411 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/15 16:28
あげ
412 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/15 18:46
( ´_ ⊃`) ナルホドー
413 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/16 00:16
源平交代思想ってのが当時はあって、これは、「武家の政権は源氏・平氏が交代で執り行う」っていう
現代ではいまいちよくわからない思想が、当時の武家社会には暗黙の了解としてあったらしい。当時は足利幕府。足利は当然源氏。そして信長は出仕は平氏。家康が松平姓から新田義貞(源氏)の子孫である徳川姓
に変更したのは、桶狭間の合戦から数年後。この頃から家康は「天下」を目指していたと思われる。当時は目前の武田信玄に滅ぼされかねない程の弱小大名だったクセに、かなり
大それた考えを抱いていた。逆に言えば、信長が天下を統一すると睨んでいたとも伺える。そう考えたら、家康の先見の明は相当なモノ。でも「意図的」にその様に名字を変更していたとしたら
かなりのくわせもの。いずれにせよ、家康が本能寺の変にまったくもって無関係とは言い難い。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/16 00:35
家康は松平家の嫡子でなかった!
浪遊僧の子供だった!
まず容疑者を挙げてみましょう。
全国の大名のうち、東北の諸強は抜いていいでしょう。
地理的にも遠すぎますし、織田家との決戦の前に上杉、北条などの強敵がいます。
あのタイミングで謀略を起こす動機がありません。
また、九州の大友氏、竜蔵寺氏、四国の三好氏、など九州四国ブロックでは、
長曽香部氏、島津氏以外はむしろ信長に死なれると困る立場なので容疑者から外していいでしょう。
そうすると容疑者は、島津氏、長曽香部氏、北条氏、上杉氏、毛利氏、徳川氏、羽柴氏、柴田氏、丹羽氏、滝川氏、朝廷(一応)になります。
このうち織田家の四人は外していいでしょう。光秀は彼らとほぼ同格の身分ですので、彼らの走狗となる理由がありません。
細かく言えば、羽柴氏は光秀を倒してしまっています。もし光秀との間に何かの密約があり、秀吉がそれを一方的に破ったとしたなら光秀も歴史に対して黙っては居ないでしょうし、
京を占拠した時点で軍事力の裏付けとしてその密約を公表するはずです。
これは他の三人にも言えることですし、滝川一益に到っては北条氏に敗戦してしまっているのですから論ずるに足らないでしょう。
その北条氏ですが、侵略されていたわけですから動機だけは多分に存在します。
しかしこれ程の謀略を施したにしては後の動きが鈍重すぎ、甲州にも駿河にも討ち入っていません。
光秀にしても北条氏の軍事力をあてにするには距離が遠すぎますから、これも容疑者から外していいでしょう。
距離の問題で言えば島津氏も同じ事です。
島津氏が本能寺に呼応しようとすれば中国を通らねばならず、それには毛利氏にも話を通しておく必要がありますが、その形跡は全く見受けられません。
さて毛利氏、動機からすれば一番強いのは毛利氏でしょう。
もし、毛利氏が本能寺を画策したとしたらこれ程の謀略外交を運営するのは安国寺恵慶瓊でしょう。
しかし、それなら安国寺は羽柴陣営の動きを感じてこれを覆滅することが出来たはずです。
なのにこれをしなかった。安国寺が羽柴と組んで、光秀をたぶらかしたという推論も成り立ちますが(物語的に過ぎますが)
それならば毛利家の領土が割譲されたことの説明が付きません。
以上から、毛利家にとって本能寺はあくまでも偶然の事件であったと推測することが出来ます。
次に朝廷を見てみましょう。基本的には
>>410さんの仰ることで説明が付きます。
朝廷が武権をとるつもりだったのならともかく、朝廷を比較的優遇した信長を倒す意味はありません。動機の点で一番薄い(というか無い)のは朝廷でしょう。
では北に転じて上杉氏、動機はありますね。
しかしもし上杉氏が光秀の共同者なら、光秀がそう宣言するでしょうし、また京都戦に備えるため北条氏との同盟も必要です。
上杉氏はそれをしていません。以上のことから、上杉氏にとっても本能寺は偶然な事件であったとすることが出来ます。
さて徳川氏、
>>413さんが仰られているように、改姓はしていますが、源平籐橘のうち一つですから確立としては四分の一です。
これを以て天下に野心があるというのはちょっと強引に過ぎるかと。
また光秀は徳川氏の命令を受ける立場にはありませんし、もし徳川氏に調略されていたにしても、
徳川氏が京にあって兵を動かせない状態で光秀が謀反を起こすのは不自然ですし、
また光秀が徳川氏は味方なりと宣言した様子もありません。
時に、歴史を謀略史と見る方は徳川氏が光秀をどうにか騙して勝ち目のない謀反に踏み切らせたというかも知れませんが、
一体どんな魔術を使えばそんなことが出来るのでしょうか?流石に、空想的で有りすぎると思われます。
最後に長曽香部氏です。動機はあります。光秀への伝もあります。
ですから決定的に真犯人でないと言うことは出来ません、
しかしながら、長曽香部氏のその後の動きは極めて鈍重であり。
その理由は未だ四国を統一していなかったからですが、だとすれば光秀との連携は時期的に難しいと言うことです。
積極的に否定は出来なくとも、ちょっと真犯人とは考え辛いでしょう。
416 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 01:14
a
417 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/18 01:32
計画的でなかったことはたしかである
418 :
無名武将@お腹せっぷく :02/02/18 07:25
家康陰謀説でちらほら見られるので言っておきますが、
天海と光秀は別人です。警視庁に依頼した筆跡鑑定で明らかになったそうです(本当)。
しかし、天海が明智ゆかりの者であることは確かであるということです。
419 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 01:16
●信長が朝廷を無きものとしようとした理由
要するに「お山の大将」になりたかっただけ!
自分以外の権威は何物も認めない。
天皇は、おとなしく伊勢神宮にでも引っ込んでおけということだったんじゃないの。
公家は解体ですな。
織田王制の始まりです。
オレならそうするけどね。
>418
それ指摘されて「祐筆が書いた」とか何とか苦しい言い訳していた
研究者がいったけな(藁
422 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 01:27
神主の親玉がでしゃばるんじゃねぇぞ。
右筆が書いたか、本人が書いたのか、確認するのは困難と思うけど
天海と光秀が同一人物ってのはちょっとなぁ
>>422 スレの主旨から外れているから日本史板へどうぞ
425 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/19 01:49
朝廷の謀略、というのは陳腐ですね。
思うに、諸将をあやつったのは、お市の方でしょう。
浅井長政の仇をうったのですよ。その見返りに自分の身を与えることを約束(彼女は長政以外はどうでもいい)したのでしょうが、まさか秀吉が急速に株を伸ばしてくるとは予想がつかなかったのでは。
都合よく実行犯の光秀が滅んだのでサルのようにさかる秀吉から逃れえたのでしょう。
>>425 朝廷陰謀説よりは面白いかもしれんが、
その程度の話では陳腐だな。
もう少しパンチの効いた説求む。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/20 01:51
>425
AHO臭いお説をどうも♪
428 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/25 22:14
>367
安土城を築城したのは、当時、本格的に上洛軍を起こそうとしていた上杉謙信に対する備えとして、早急に必要だった
と言われている。実際、信長は本願寺跡地に大きな城を立てたいと、対立していた頃から考えていたらしい。でも予想以上に
本願寺が強すぎたから、取り合えず安土城ってのが立てられたと聞いた事があります。
秀吉が山崎の合戦の直後に、大阪城を立てたことから、信長が生前に大阪城の構想を、秀吉
に漏らしていたのではないでしょうか?そう仮定すると、秀吉の大阪築城も納得いきます。
あと、本能寺の変後、実は信長が生きていた、って説もあるらしいです。しかも薩摩で。
薩摩の島津氏家臣に「上井覚兼」という人物がいるんだけど、彼はずーっと日記をしたためていました。
しかし、本能寺の変から1、2週間の間、中身が欠落しているらしいのです。その間、薩摩の島津氏
の間には、特に別段変わった事は起こらなかった(つまり、日記を途中で辞める様な事柄が発生したわけではないって事)
のにも関わらずです。島津家の首脳部分で、トップシークレットにしないとならない出来事が、逆に発生した、という事も
考えられます。信長の薩摩までのルートはと言うと、かろうじて逃れた信長は、堺の商人の助けを
かりて、船で一路薩摩を目指したらしいです。この説は説で面白いのですが、ただ、不明な点としては
何で薩摩を目指して逃れたのかって点です。
429 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/25 22:36
本能寺ってどういう宗派のどういう由来の寺?
昔読んだ小説では
千利休が堺の町衆と結託して
明智を誑かしたというが
431 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/25 23:57
>>428 信長逃亡説はあまり信じられないが興味深い話ではありますね
432 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 00:08
本当はケマリを通じて朝廷と親しくなった「今川氏真」が
朝廷と手を組んで、
光秀を操って引き起こしたそうだ。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 00:09
つづき
この今川氏真による「復讐説」は学会でも有力になりつつある。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/26 00:10
草加じゃないよ
脳内学会
436 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/01 23:36
本能寺が起きなければ乱丸が
最終的に三成的存在になってたと思う。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 20:25
age
439 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 09:57
age
440 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:04
安土の流行モード「傾奇」が衰退傾向に入り、みんな飽きちゃったんだよ。
これからは「侘び、さび」でっせーとね。
それと無茶苦茶やりすぎて、本願寺、比叡山、朝廷、堺衆
かたっぱしから敵に回しちゃったもんで、疲れたのだ。信長は・・・・。
それで本能寺で死んだことにして隠れて、自分の死後誰が天下を
取るかを賭けのネタにしたのだよ。
前田利家が織田家の内紛で動かなかったのも、信長との賭けに
参加していたから・・・・。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:05
たぶん京都からこっそり名古屋に移動。
熱田神宮あたりに隠れていたと思う。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:09
ある意味、「傾奇」:ビジュアル系から「侘び、さび」:癒し系
今と似てるよね。
443 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:19
>>397 好きなんだよね。この怒り方。吉野家が150円引きになった件でもオモロかったし。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:21
それともうひとつの理由は安土城。
織田家の財政、火の車。バブル破綻。
あとは信長が側室を増やしすぎて、家中で内紛。
お市も交えて壮絶なバトル。
445 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:32
やっぱり安土は場所が悪かった。
琵琶湖湖畔にバカでかい城を造ったもんで湿気がすごくてね。
さらにバテレンの進言で、西洋工法をとりいれたのが中途半端で欠陥構造。
「あー、やっぱり、よそにすれば良かったー!」
446 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 10:36
「だからやめとけと、いったのにー!!!」 by 藤吉郎
「蘭丸の責任問題、大きいよねー!」と家中からも非難続出。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/26 20:16
今は移転したが、京都市の四条西洞院の辺りらしい。 お団子屋の丸屋がおいしいよ。
この辺りには、なぜか黒い郵便ポストもある。必見。
家康と光秀はそんな親しくない。
ちなみに朝廷は信長に恐れを抱いてたらしい
449 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/28 00:42
age
意外と読まれてないフロイスの「日本史」に書いてある本能寺の変の記述。
「日本史」じゃないな、「イエスズ会日本年報追加」だ。
452 :
無名武将@お腹せっぷく: