1 :
無名武将:
「彼はごく初期から革命的なビジョンを持って天下統一に邁進した」
と、見ている御仁が多いような気がしますが、
信長ははじめっから新しい政治体制を考えていたわけではなく、
当初、毛利家や北条家等の様な領土の拡大ぐらいしか考えておらず、
偶然、足利義秋が要望して来たから、「幕府再興」なんて言う
当時としては夢物語に近かった戦略を実践する事が出来、
そして失敗するべくして失敗し、生き残りの為に東西奔走しながら
新政権による新体制を画策して行ったんだと思う。
だから、信長の基本方針は「勢力拡大」=>「幕府再興」=>
「新政権樹立」と、失敗を重ねる毎に成長していったんじゃないか。
そしてやはり最後の夢も失敗に終わった・・・。
2 :
age屋:2001/04/29(日) 10:02
晒しあげ
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/29(日) 10:09
失敗してだんだん夢を肥大させるのがすげえな
最後には魔王になろうとしてたしな
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/29(日) 18:41
失敗して夢を肥大?
成功して増長だろうが・・
5 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/04/29(日) 18:47
こいつ馬鹿?
いや、信長の足跡を客観的に見れば、こういう解釈もあり得ると思う。
事件や資料で傍証できるなら、煽りには構わず、続きを是非読ませて
欲しい。
この板のレベルが低いとか、ネタスレばかりだと貶す連中は、こうい
うスレッドを育てる努力をすべきではないか。1の見方を否定するな
らするで、自分の意見を書くなり、通説の紹介ぐらいヤレ。
稲葉山城から岐阜城改名における沢庵とのやり取りや、
天下布武の印からみる天下統一思想は?
(いずれも義昭招聘以前)
無理にこじつけるなら信長の中国かぶれとする事も出来る。
子の名前で、長子に「忠」を、次子に「孝」をつけたり。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/29(日) 22:12
いつ勢力拡大に失敗したんだ?
幕府の再興って、義昭を追放したのは信長自身じゃないの?
>>7たん。あまり関係のない話だけど「天下布武」について。
当時「天下」という言葉には「日本全国」という意味以外に、
「畿内一帯」という意味も、あったよ。
#たしか、フロイスかビレラも、そういう記述を残してるはず。
#なにに書いてたかは、いま、ちょっと思い出せないけど。
ここから彼の「天下布武」の印も意味するところは、
「日本統一」ではなく「美濃も平定したし、いよいよ畿内を平定するぞ」
というふうに解釈することも可能ではあります。
あとあと信長たんは義輝たんの生前のころから、どちらかというと、
(当時そんな言葉は、もちろんないけど)佐幕派の大名だったよ。
ついでにリンク。
なぜ戦国大名は天下をねらうの?
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=985603339&st=63&to=64
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/29(日) 23:19
いや尊王派だろう。親父の朝廷贔屓は有名だし。
てっきりsageで作ったもんだから、自分で作っておきながら
どこにあるのかさっぱり見つからず、
そのまま放置してしまっていた。(笑)
>>2殿
ageて頂き、ありがとうございます。
ぼちぼちレスさせて頂きます。
今、酒が入ってゆらゆらしてるぞ。
しかし、何で俺、こんなスレたてたんだろう。
酒入ってて思い出せんな・・・。
ちぃと待っててくれや。
あ、茶筅殿はいますか?
1だけれど、このスレを作った時分は、
多分、こんな調子で進めるつもりだった。
今から二十日前の気持ちに戻ってやってみるぞ!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
我々が「織田信長」と言う男を語る場合、彼の目指していたものが
何であるか、それを知る材料が非常に乏しく、結局は「イメージ」
で語る以上の事をやってのける事が出来ないでいる。
彼が歴史で「何を成したか」は誰もが知っている。
しかし彼が「何を目指していたか」を知るものはいない。
そこで様々な憶測・推論が繰り出される。
曰く「父子共々、国体明徴に邁進した救国の英雄」
曰く「傲慢にも、帝位簒奪、若しくは上皇を目指していた」
曰く「当然、武家の棟梁として平氏を名乗り、将軍職を望んでいた」
曰く「全国統合後には大名制度を廃止し、近代国家を建設するはずだった」
曰く「専制君主のように、万民に対し、絶対的な君臨をしようとしていた」
等々・・・、その説は無数にある。
しかしこれらの説を見るに、「信長の展望」に
自らの理想や価値観を託しているケースが非常に多いのが特徴的だ。
(続くと思う)
(
>>14の続き)
歴史上の英雄が何を考えていたのか、現代的な価値観で予測して見る、
自らの理想を交えて美化をする、過大評価に至る、・・・、
こんな事が可能なのも信長公の魅力の一つで、俺もよくやってしまう(笑)。
しかしこれは別に悪い事ではない。
なぜなら、それが「歴史の楽しみ方」の一つでもあるからだ。
それにしても「織田信長」の場合、どうしてここまで
好き勝手な解釈が許されるのか?
恐らく、昨今の歴史家達(作家や学者、そのファン等)が
「信長は現代的な合理的思考の持ち主であった」と、
当然のように考えている為かと思われる。
「もしあの血沸き肉踊る戦国時代に、現代人の価値観で、
それなりの野心を備え、あれだけの武運を発揮できたら・・・?」
と考えるのに、彼ほど最適な男はいないのだ。
それにしても・・・、
彼は確かに中世人の思考では計り知れないものがある。
だが、だからと言って現代人に計り知れるかと問えば、これも甚だ怪しく思う。
(まだ続く)
そこで俺は、従来の信長像が「何の根拠もない」と思い至った。
要するに「三国志演義」で作られた「劉備」が、
演義時代の思想によって作られた虚像に過ぎないのと同じで、
平成の御世に語られる信長像も多分「戦後民主主義」に作られたものである。
また時代が変われば、今の信長像も変わるだろう。
しかしそんな面白い作業を後の世の連中に渡してなるものか。
俺はそう思いこみ、一度、時代に反逆して、
新たな信長像の構築に挑んで見ようと考えたわけだ。(笑)
(
>>16の続き)
つうわけで、妄想混じりにこのスレを立てたんだな。
今、書きながら思い出した。とりあえず休憩しますわ。
あと、このスレを立てるきっかけとなったインスピレーションを与えてくれた
茶筅殿にお礼申し上げます。
ぼちぼちレスしよう。
>>3-4
幕府に対する態度を見ていると、一応、
本気で幕府を盛り立てようとはしていたと思う。
よく「お飾りとして擁立して、利用し尽くしていた」と言われるけれど、
将軍がもし義輝公であったなら、義昭公との不和のような不幸もなく、
幕府を上手く盛り立てていたかも知れない。
それがああなったのも、彼が義昭公の将器や態度に失望したか、
不満があったからと言う解釈も、あながち否定出来ないだろう。
>>5 さあ?
とりあえず、
>>2-4殿に関しては知らないが、俺(
>>1)は高卒だからな。
マミー石田に言わせれば「死んだほうがマシ」なくらい馬鹿だろうね。
>>6 何となく、すぐに頭のいい人に知識の乏しさや論拠の希薄さを
つっこまれ、すぐに「駄スレ−−−終了」とか書かれて
終わっちゃうような気もしますが、貴殿のレスに勇気付けられたおかげで
しばらくは反論にも耐えられそうです。
>>7-8
俺はあれは単に彼の性格や美意識の問題だと思うな。
「息子に奇妙丸・茶筅・三七等と名づけたのは、どういう意味か」
と問われれば、俺は「傾奇者の本領を発揮した」と考えている。
「俺が天下を変えて見せる」と言う気概の表現じゃないかな。
>>9 そのつっこみは予想しなかったな(笑)。
舌足らずで申し訳ないと言う他にない。
>>10-11
「佐幕」って一発変換できないぞ。「尊皇」は出来るのになあ。
少し路線が外れるけれど、一つ疑問に思うのが、義輝公ご存命で
信長公が入洛を果たし、三好家を討ち払い、畿内を平らげた場合、
それでも彼は将軍様を「お飾り」に据えたかどうか。
一度、会談した時、彼らは互いに何を感じたんだろうね。
我慢して幕府を再興してくれてたらなあ・・・・。
って信長は我慢するのが嫌いな人間だったったけ(w
24 :
7:2001/04/30(月) 03:55
>>10たん
「天下」についての考察ありがとうございました。
畿内一円という意味にもとれる(その時点ではそちらの意味合いだった)、
とのご教授ありがとうございました。
大変参考になりました。
適当な受け答えでは恥ずかしいと思い、
信長公記(訳 榊山潤 教育社刊)の義昭関連を流し読みしました。
結果1たんの考え方も当てはまりそうだと思いました。
>>23 義昭公と信長公の足並みが揃っていれば上手く進んだんだろうね。
>>24 自分の持っている「信長公記」もそれです。
そう言えば、教育社から「北越軍記」って出てないのかな?
26 :
:2001/05/01(火) 00:13
信長公は晩年、嫡男・信忠に家督を譲り、美濃・尾張を彼に明け渡していた。
そして謙信公への書状では「織田家の領土は美濃・尾張」と記していた。
(何か詭弁に用いていたのかも知れないが)
これらを某スレで茶筅氏が「どうしてかな」って呟いていたのを見た時、
はじめは「当時、北条家とか浅井家とか伊達家とか、大名が実権を持ったまま
隠居して後継者の育成に力を入れる例は多く、むしろいきなり死んでしまった
信玄公や謙信公の方がおかしいのであって、疑問に思う事でもないのでは」
と思ったのですが、よく考えたら隠居は隠居なりに、御家の祖として、
安定を与えてやるべきなのに、信長公はそれに反する事ばかりやっている。
例えば右大臣の位を辞退したり、当主である信忠公の居城となる
岐阜城よりも立派なお城を安土に建てて、ずっとそこに住んでいるし、
総見寺みたいな奇奇怪怪なお寺も作って、俗説かも知れないけれど、
「俺の分身であるこの石ころが神体と思え」等とふざけているし、
隠居としてのふるまいに欠けている。
信長は自分の政権(安土政権とでも呼ぼうかな)を「一代限り」と
考えていた節があるとも考えられるんじゃないか。
あ、ちなみにこのスレの1です。
「無名武将」から改名しました。
>>27の終わりに「信長公の安土政権は一代限り」と書いてみたが、
どう見たって、織田政権安定に頑張っていた等とは思えない。
何か別の思惑があって、その為に「安土政権」と「織田政権」を
分けていた様に見える。
「安土政権は天下布武の為のものであり、総帥は織田信長」
「織田政権はその天下の一大名家であり、織田家のもの」
と言う図式があったのかも知れない。
では、「安土政権」が目指していた所は何であったのか?
「国家体制を刷新し、その新たな政権の初代棟梁を目指していた」
との推論を出した小説家もあったのだが、俺はそれも違うと思う。
茶筅殿、いたら来てくださいよ。
寂しいから。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/06(日) 07:45
>>27 朝廷の官位を辞退したのは、実は自分自身でなく、息子・
信忠に官位を受けさせるための作戦という説がある。
「たびたびの朝廷の御好意、これ以上お断りするのも失礼
かと思いますので、お受け致します。しかしながら、今
まで遠慮しておきながら、今になってお受けするのも体裁
が悪いので、代わりに私の息子に官位をお授け下さい。」
信長が天皇の位を狙っていたという説もある。足利義満
の例にならって、信忠を天皇の養子に押し付け、いずれは
天皇に即位させ、自分は上皇になるという作戦を考えて
いたと考えてはどうだろうか?
32 :
某スレの4:2001/05/07(月) 02:34
いろいろ読ませてもらってます。
自分の知識では、この論議に参加することはできませんが、ひとまず応援age。
自分的には、信長が擁立したのが義輝だったら・・・というところが、
非常に新鮮だったし、考えてもみなかった。
31殿に、回覧種人殿がどう回答(反論)するか非常に楽しみ。
これからの対話の為にも誤解のなきよう、ここで申し上げておきます。
「従来の信長像」に疑問を持った自分の推論・新説をここで紹介し、
皆さんに何それを楽しんで頂き、このような見方も可能なところに
改めて「信長」公の魅力を感じとって頂きたいのが第一の目的です。
つまり、ここで俺が取っているのは、
「事実を追求する学者」と「可能性を推察する小説家」で比べれば、
間違いなく小説家のスタンスになります。
以上、ご理解頂けましたら幸甚に存じます。
以後、歴史上の人物に関しては敬称略。何卒、ご容赦下さい。
>>31 「信忠に官位を譲る為の作戦であった説」ですが、
恥ずかしながらその説は存じ上げませんでした。
「安土政権」と「織田政権」とを結びつける説にはなり得ないようですが、
そういった作戦自体は有り得ますね。
続いてよく見る「天皇や上皇の位を望んでいた説」だけれど、
これには俺ははっきりと異を唱えたい。
あれだけの権勢を得た信長が、
かえって足かせになりそうな位を得て何をしようと言うのか?
俺が思うに彼は当時はたかだか「無官の軍閥」に過ぎなかった。
更に言えば、南北朝時代のように「新たな帝をかつぐ」のでもなく、
平将門のように「皇室の血筋」として帝位を僭称するわけでもない。
天皇と全く血のつながりがない彼が身の程をわきまえず、
そのような暴挙を行えばどうなるか?
「平姓を名乗り、征夷大将軍として幕府を開く」、
「天子様のご落胤を称し、太政大臣の位に就任する」のとは訳が違うのだ。
それこそ「火中の栗」を拾うようなもので、何のメリットもない。
以下にゆるゆると「巷に流れる信長が帝位を望んでいた説」に対して、
反論を試みたいと思う。
俺はひとまず日本の国体と言うものを簡単に語らせてもらおうと思う。
ここで「国体」と言う言葉が出たので、
俺を右翼呼ばわりする御仁が出て来るかも知れないが、そういう御仁は
「天子様を崇敬する・国体を論ずる」のが右翼の専売特許だと
誤解しているのだとはっきり申し上げておく。
(もしそれを右翼のリトマス試験紙にするのであれば、
現代の一部日本人以外はどいつもこいつも右翼だと言う事になる)
(1)日本の国体と外国の国体との違いについて
まず、日本の国体について、解りやすく説明させて頂くと、
「日本と言う国のシステム(国体)」は、
「万世一系の天子様が、日本を統治する」と言う事になる。
と言っても、実際に天子様が「天皇親政」を行う状態である必要はなく、
あくまで形式上のものであってもよい。
(例えば徳川政権は、
「天子様の命で幕府を開き、諸大名と協力しあい、日ノ本を守る」
と言う名目で、実質上、日本を治めていた)
「天皇」なるものは、確かにこの上なく尊い位であるので、
「専制君主」や「独裁国家」を目指すならば最終的に
「天皇」は絶対的な障壁として立ちはだかる。日本と言う国は
「天皇の臣下」でなければ政権が握れないシステムにあり、
絶対者や独裁者を生ませないように出来ている。
その是非はここでは論じないが、これが日本の国体だと考えていい。
(中国には中国の国体があり、英国には英国の国体がある。
「国体」は「国家」が何度滅びようとも、連綿としてその国に残り続ける。
然し、それがその国体に叛く国家を形成した時、その国は「歴史」を失う。
そしてそれが「国の滅亡」と言う現象だ)
昨今の学者の中に、軽率にも「信長は帝位を狙っていた」等と
軽軽しくおのれの論調を振りまいている方もいる。
こんな事は中国等ではありうるかも知れんが、日本ではまずありえない。
なぜなら、中国と言うのは「天意により徳のある者が帝位について国を治める」システムなのであるが、
日本の場合は「万世一系の天皇に任じられた者が国を治める」システムだからである。
つまり、中国の国体は「天意にかなう者のみが帝位につく」訳だが、
日本の国体は「大御心に添う者のみが政権を委任される」訳である。
ここに諸外国と日本の国体に大きな違いがある。
例えば日本でこれを破ろうとした義満や道教の例を見ると面白い。
彼らには中国思想にかぶれていた節が随所に見られる。
一方、信長にはそういう外国かぶれは見られなかった。
>>36 「(1)日本の国体と外国の国体との違いについて」は、
「(1)日本の国体と外国の国体との違いから」に改題させて下さい。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 13:03
>回覧種人殿
安土政権と織田政権とを分けて考えるという説、面白いと思いました。
織田政権は信忠から三法師に継がせるとして、
安土政権は誰に継がせるつもりだったのでしょう?
当時の実力から見れば柴田勝家、明智光秀。<年が問題ですが
後世から見れば羽柴秀吉、徳川家康。
年を考えれば藤堂高虎や婿の蒲生氏郷。
それとも信忠を両方兼任させるとか、
織田政権を三法師なりに譲った後に継がせるか。
回覧種人さんはどう考えているのか教えてください。
(2)信長が無位無官に至った戦略・思想から
足利義昭を奉戴して入洛すると、信長は将軍様より
「副将軍もしくは管領職に任ずる」との仰せを頂いたが、これを固く辞退し、
「東海道の大津・草津、和泉・堺」の代官職のみを望んだ。
以上はよく知られるところであるが、非常に興味深い事である。
おそらく信長以外の者が同様の働きを成したなら、喜んで
「副将軍もしくは管領職」に就任し、その威を傘に権勢をふるった事だろう。
普通に考えれば、その方が自然で合理的な発想のはずである。
しかし彼は敢えて、何の官職も望まず、実利を得た。
ここに信長の慧眼を見る事が出来るが、それと同時に彼の思想も読み取れる。
それは何か?
「何も面倒な職について自らの行動にカセをつける必要はない」と言う考えだ。
単に都市の要所に代官を置きたいだけなら、
副将軍とかと一緒にもらってしまえば出来たのである。
しかし彼はそれをしなかった。
>>40 続きを書こうと思いましたが、レスがついて凄く嬉しいので、
ご返答申し上げます。
まず「織田政権」と「安土政権」の着想は、茶筅殿の発想でした。
そこから俺が勝手に凄まじい電波なみのインスピレーションに突き動かされ、
今回の新説展開に至っているわけで、凄いのは彼の視点ですぞ。
「安土政権」の後継者は・・・、これを言っちゃうと答えになっちゃうな。
もう少し後で語りたい気持ちもありますな。
とりあえず、池宮さんの考えとは違うとだけ言わせてください。(笑)
>つまり、中国の国体は「天意にかなう者のみが帝位につく」訳だが、
>日本の国体は「大御心に添う者のみが政権を委任される」訳である。
どうしてそういう違いが生まれたんでしょうね。
ものすごく飛躍した言い方で言うと、
宮廷勢力に外戚、宦官の二極があった中国と、外戚になるだけで
安定した一極になれた日本との違いである、ということを
ぼんやりと思っていたりするのですが。
>>41の続き
要するに彼は、既成の権力や権威に自らが就く事を避けていた節がある。
それよりも戦国の世を自由に動ける身分を望み、それを実践していた。
ただし、ここでこれもよくあるように
「彼は足利幕府をただの飾り程度にしか考えておらず、
ひたすら自分の野望を推し進める為にのみ利用して捨てる方針だった」
と見る向きには、簡単には同意しかねる。
つうのも、彼がこの時、自分の天下を本当に考えていたのかが疑問なんだな。
当時の彼は、傾奇者ぽい衣装も控え、まだ残虐なふるまいも見せておらず、
浅井家の同盟を呆れるほど無警戒に信じており、やや青臭い様に見られる。
「将軍家をお飾りとしていた」のは、別に否定しないが、
信長が推戴申し上げて、将軍職にまで就けた功績を考えると、
ある程度、お飾りなのはしょうがない事で、信長にして見れば
「日ノ本の統一は自分に全てお任せ下さい」と言う考えだったのではないか?
>>43 替歌入道殿
毎度。固定ハンドルの方に来て頂けると嬉しいですね。
そう言えば、某スレの4殿へのレスをほっぽりだしたままだ。(汗)
日本と中国の国体に違いが現れたのは、「なるべくしてそうなった」と
言うのが正しいのだが、あえて「俗な考え方(合理的思考)」をすれば…、
俺の考えは以下の通り。(やや替歌入道氏に近い)
単純に要約すれば、日本の場合は
・神話と一体化していた事
・多くの理由と天佑により王朝がたかだか数百年で滅びなかった事
・和の民族性に絶妙にマッチした事
・そして時間と共にそれが非常に(本当に非常に)強固なものに育った
が他の国の王朝と違っていたのだと思う。
>>44の続き
実はこの問題はこのスレのはじめの方に挙げた
「もしあれが義昭ではなく、義輝だったら?」と言う問題に関係してくる。
美意識と名誉心の高い信長が、義輝のような器量ある武人
(少なくとも剣豪の名を得るに至るには、それなりの器量がいる)
に接した時、何を思うか?
果たして、「俺はいずれこの一族を利用して、将軍家を滅ぼし、
日ノ本の全てを手中に治めてやる」等と考えるだろうか?
おっと時間だ。この続きはまた次回。(笑)
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 15:56
面白い。もっと聞かせて〜
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 22:36
非力を省みず、参加致します。
まず「簒奪」に関してですが、勿論当時の段階で行う事は有り得なかったでしょうが、
いずれ天下を統一し、絶対的な権力を確立した時点でなら十分に有り得たのではない
かと思います。
氏は日本の国体に触れ、義満等との差異を挙げて断じておられますが、既存の権威に
絶対的な価値を払わない信長に、どれほどその理論が通じるものかという気がします。
比叡山焼き討ち、石仏らの石垣への再利用、自己の神格化(これは専らフロイスの言
に拠る様ですが)・・・ これらの行為と最終的に天皇否定へと進む道は、直通では
無くともそう遠い道でも無い気がするのですが。
それに天皇は一種「不発弾」として、使い方によっては政権を崩壊させかねない威力
を常に内包しているものですし、永続する絶対権力を目指す場合、これを排除するメ
リットは充分にある様に思います。
後に暴挙と呼ばれる行為も、大抵は(少なくとも当人は)そうは思わぬが為に行われ
るものでしょうし。
またもし相手が義輝だった場合ですが、結局その後の展開に大差は無かった様に思い
ます。 義輝が傀儡(将軍権力を掣肘される状態)に甘んじる事も、信長が一権臣の
立場に甘んじる事も難しそうですし。
なんとなく尊氏・後醍醐の関係を連想します。
続きを書こうと思ったが、とりあえず反論に対し、
一つづつ自分の考えを述べていく方が早いかも知れないな。
あのままだと(6)くらいまで続くかも知れなかったから。
>>47 拙論を楽しんで頂けましてありがとうございます。
読み返して見ると誤字が多いのに我ながら笑いました(あかんがな)。
>>48 ようこそ、おいでくださいました。俺個人は
「信長帝位簒奪論」に関しては幾らでも反論出来るだけの確信を持っています。
この論に対する一部の根強い支持者に向け、更には1から続けている説を
しっかりと説明するためにもその理由をダラダラと書き綴る方針でいましたが
この調子で独り言を続けても、書く方は勿論、見ている方にも退屈で面倒では
と危惧しておりましたので、異論・反論の持ちこみは多いに歓迎致します。
(つうか、その方が救われます)
まず上で「国体」に関しては大雑把な説明を申し上げましたんで、
(国学者が見たら笑われるような代物ですが)
天皇になるには皇帝と違い、万世一系の神話に連なっていなければならない事は
ご理解頂けたと思われます。つまり、誰かが勝手に日本で「天皇」を名乗っても
それは「天皇」ではなく、「天皇の名を標榜した皇帝」程度にしかなりえない。
今の我々は国のかたちを論ずる事もなければ、帝と臣下の意味を
肌で実感する空気も希薄で、当時の人達が
「日本の天子」をどのように感じていたのか、窺い知る事は
非常に難しいんですよね。
例えば(極端な例えですが)、今の日本は「民主主義」社会です。
そして「北朝鮮」も「朝鮮民主主義共和国」です。
あちらの民主主義がどういうものかは知りませんが、現代日本人が実践している
民主主義からは考えられない政治形態を取っています。
また、アメリカの民主主義と日本の民主主義も似ているようでやはり違う。
(続く)
今の日本では民主主義と言うものに対して、多分、ほとんどの人が
「日本的な解釈での民主主義」こそが民主主義だと思っている事でしょう。
それが間違いかどうかは解りません。
一方で「アメリカの民主主義こそ本当の民主主義だ」と考えている人もいます。
これも間違いかどうかは解りません。
また、「北朝鮮こそ民主主義の王国だ」と考えている人だって
探して見ればいるでしょう。これだって間違いかどうかは解りません。
しかし、日本の民主主義は、「日本的解釈による民主主義」以外は
「日本の民主主義」ではありません。
なぜなら、日本の人「民」(ひとたみ)が「主」人公になれてこそ、
「民主」主義だからです。
天子様に関してもこれと同じではないでしょうか?
当時の日本人は、王朝が何度も入れ替わる中国と、日本の朝廷とで
何が違う事くらいは知っていた・感じ取っていたと思います。
これと同じで、中世前後の日本人が帝位を狙う例は、
「外国の民主主義にかぶれている」のと同様に、
「中国の天道思想にかぶれている」にかぶれているケースしかないようで、
果たして信長が彼らのような小さい器であったのかと問えば、
どう見ても違うように思います。
つまり、中国の帝位簒奪のような考えは信長の性癖を見るにありえなかった
と言うのが俺の持論です。
とりあえず、こういう視点からの論が、書籍では余り見うけられないので
ややスレの主旨から脱線しているかも知れませんが、敢えてそこから説明させて頂きました。
あと他にも、信長が帝位を狙うのに、どうして朝廷の権威回復に
あれほどまで尽力したのかと言う疑問もあります。
彼はポーズでは忠孝の思想も知らず、既存の権威を省みない革命児のようにふるまっていますが、
根のところは、案外、人間的な部分が多くあったのではないでしょうか?
それと「足利家」の擁立に対する彼の態度ですが、彼のやり方を見ていると、
畿内の仏教徒に対しても、将軍に対しても、はじめのうちは、
何の理由もない限りは、出来るだけ仲良くやって行き、
案外、穏便に天下の平定を目指していたのではないでしょうか?
「公方様の号令に従わぬものを討ち果たす」と言うやり方で、
日本各地に点在する強欲な大名や、織田家の敵を攻め滅ぼし、
一代で戦国の世を終焉に向かわせるつもりであり、それを狂わせたのが、
浅井親子の裏切りだったと見るのが、妥当なような気もします。
これさえなければ、彼は後に「信長=狂気の人」と評せられるような
激烈な気性が発露する事はなかったかも知れません。
>>48 以上では説明不足なのでまだまだ書きたいところですが、
何かもっと論じたい点がありましたら、容赦なく突っ込んで下さい。
また、拙論に関して疑問に思う事や説明の欲しい所がありましたら
何卒、よろしくお願いします。
もっと簡潔に纏められない文才のなさ・学のなさを恥じ入るばかり。
信長が足利義輝を補佐した場合の展開を想定して見ると・・・、
まず義輝が信長が目先の権益よりも天下の平定を望んで
戦っている事を見ぬけるかどうかが鍵になって来るだろう。
これを義輝が見抜いた時は、互いによき主従になりえたかも知れない。
少なくともこの場合、義輝が信長を咎めたり、その躍進を妨害する理由はない。
義昭に対しては、信長はひどく不遜な態度を取っているが、
これは単に義昭の将器・人物に失望した為ではなかろうか?
「たかだか上洛出来ただけで、このはしゃぎよう・・・。
お飾りの将軍があなたの限界なのだから、もう少し大人しくして頂けないか」
と我慢仕切れなかったのかも知れん。
56 :
替歌入道:2001/05/08(火) 02:07
(司馬厨房的な投稿で恐縮ですが)
「国盗り物語」や「「新史・太閤記」なんか見てると、
信長が将軍家なり皇室なりに求めたのは一貫して、
「権力を欲せざる権威」であった、というような記述がありますね。
たとえば…(以下記憶)
「天子はいくら尊んでも『されば幕府を開く』とは言わない」、とか。
>>56 多分、その通りに思いますが、問題はその理由ですね。
自分が権勢を得て、これを楽しむ為に望んでいたとは思えない。
中身のあるレスは、できないがROMってるぞsage
>>58 おお。ありがたい。これからもよろしくお願いsage。
とりあえず、当面は思いつくままに信長公に関して、
持論を展開させて頂こうと思う。
結果的には「信長公があの時代にどういう思想・戦略を持ち、
そこで何を望んでいたのか」と言う謎に挑んで見たいと考えているが、
途中で頭のいい学生さんに論破されたりして、頓挫するかも知れない。
まあ、それはよしとして、とりあえず個々の謎から迫って見たい。
>>31 今頃、資料を読み返して見て気づいたが、信忠に譲ろうとしたのは
説ではなくて、形式上は事実だったね。信長が右大将を辞官する時、
「天下が平定したら、彼を官位に就けて頂きたい」と信長が朝廷に
返答していた。俺も厨房だなと改めて思い知る次第。
【平 信長】
天正二年頃より信長は「平 信長」として平氏を名乗り始めたらしい。
実はそれ以前にも、平氏である事を主張した例があるらしいが、よく知らん。
「織田系譜」に寄ると織田氏は、越前の織田剣神社に平清盛の孫が
嗣子となったところから始るとされているようだが、
信長が十五歳の頃に藤原姓を名乗ったとする資料もあったりする。
とりあえず、ここで知る事が出来るのは、信長が何らかの意図を持って
平氏を名乗ったであろう事だ。
よく聞くところでは「源平交代思想」に従ったと言う説がある。
つまり信長が「源の足利にかわるのは俺だ」と政権の正統性を主張した説だ。
「平清盛」=>「源氏の鎌倉幕府」=>「北条氏の執権政治」=>
「足利幕府」、そして「織田政権」と言う考えがあったと。
だがここで面白いのは、幕府を開けたのは源氏だけであり、
平氏の政権はどうもパッとしない。それどころか北条氏は別として短命であり、
「不吉」と見る向きも出来る。それなのに「平信長」を名乗る意図は何か?
「平」と言えば、いつもその政権の最後がお粗末なように思う。
「平将門」様もしかり。源平の合戦でも、鎌倉幕府の滅亡でも、
逆賊同然に討ち滅ぼされている。
また、これは余談であるが、俺の父上の友人(占いの本を出している)が
13年ほど前に、「平成と言う年号は、激動の時代を表す年号だ。
なぜなら既に世の中が“平”穏であるならば、わざわざ“成”る必要は
ないわけである。つまり“平”穏でないから、これからそう“成”る訳で、
おそらく我々は次の時代に“平に成った”世を残す為、苦労する事だろう」
と言っていたが、今思うと迷信深いのかも知れないが、「なるほどな」と
思わせるところがある。
見てみれば平氏は世直しのヒールとして歴史の表舞台に現れては、
その後で源氏に取って代わられているような気もしてしまう。
元亀・天正の人達が「源平交代思想」を持っていたのならば、
当然、源氏や平氏に対して、それぞれ何らかのイメージを持っていたと思うが
それはどのようなものだったんだろうか?
(与太話なので続かない)
64 :
:2001/05/08(火) 07:34
65 :
48:2001/05/08(火) 23:40
まずは丁寧なる返答、恐れ入ります。
ただ天皇を廃する、という発想自体は、彼の合理的(氏はここにも異論を持たれるや
もしれませんが)・かぶき者的な面からありえない話では無い様に思います。室町期
のばさら者の様な事例もありますし。
そして朝廷の権威回復に尽力したという事も、幕府の権威低下や、当面の利用価値を
高める効果が望めますし、それ自体は必ずしも「簒奪」を否定する材料にはならぬ様
に思います。純粋な皇室への崇敬を持っていたと見るには、あまりにも朝廷との摩擦
に無頓着過ぎる気もしますし。
また畿内諸勢力への「仲良く」とは、結局の所は相手からすれば「我に従え」という
事に等しいかと思いますので、信長が自分主導の世を目指す限りはそれらとも義輝と
もうまくいく事は無いと思います(信長とうまくやれる様なら、彼が三好に消される
事も無かったかと)。
義昭と対立したのも、彼の器量に失望した為では無く(元々期待していたとも思えま
せんし)、彼がお飾りに甘んじなかった事が最大にして唯一に近い原因であるやに思
います。
おそらく私と氏の見方は、かなりの部分で異なっている様に思いますが、 自分に出
来ない見方を聞けるのは楽しいので、これからも見させて頂くつもりでおります。
私の論も何かの叩き台にでもなれば幸いかと・・・
>>65 言葉に不備などありましたら、すいまへん。
とりあえず、今までの定説を崩して新たな説を打ち出すには
説明せにゃならん事が多いので、どうも難しくてかないません。
皆さんの意見を参考に、俺の論も補完させてもらっていますので
レスを頂けると、それはやっぱりありがたいもんです。
さぁて、続けましょ。
信長の合理的な面と、傾奇者である面とを繋げて見なおすと、
彼の面白い一面が見えて来るね。
>>65殿
俺も勿論、朝廷や幕府に対して、信長が純粋な気持ちだけで
権威回復につとめていたとは考えていないんだな。
謙信の政治行動ですら、打算によるものが少なくなかったのだから、
信長のそれを否定するわけではないし、
むしろ彼は常に政治戦略と言うものを中心に考えて動いていたと思う。
また、信長の「帝位簒奪」を否定する材料が少ないのは事実だけれど、
それ以前にそのような仮説を肯定する材料はもっと少ないんだな。
どれも資料を恣意的な解釈で「帝位を狙っていた」としているだけであり、
根拠と呼べるようなものはなく、幾らでも別の解釈がなりたつ。
俺はこれに反証を試みるより、別の解釈を語らせてもらおうと思う。
(ちょっと食事してから続く)
68 :
40:2001/05/09(水) 01:43
後継者の件、何時か語ってくださいませ。
で、次の質問です。後継者や簒奪問題とも繋がりがあると思いますが、
信長は自分の能力に対してどの程度評価していたと思われますか?
桶狭間は偶然だったのか、戦術研究の末の結果なのか。
本願寺の焼き討ちなども、ただの無神論者の行動なのか、
それとも仏の力などは自分には通用しないという考えだったのか。また、
信玄上洛戦の時の病死なども、自分は運がいいと思ったのか、
それとも後の勝頼の様に、鉄砲で倒す自信があったのか。
圧倒的兵力差の敵、目に見えぬ敵、互角の戦力であり自分より名声の高い敵。
三つ例を出してみましたが、回覧種人さんのお考え、お聞かせください。
ちと他事していたら、もうこんな時間か。
レスせにゃ…。
>>68殿
レス、ありがとうございます。
ここらはイメージの独白にしかならんけれど、(今までもそうかも知らんが)
桶狭間は諸説あって解らないね。偶然と智略が半々だと見ています。
坊さんへの弾圧は苦渋の選択の末ではあったでしょうが、
あれで神仏の罰が当たるとは考えていなかったでしょうね。
人知を超えるもので彼が信じたかも知れないのは「運命」ぐらいなものかと。
恐らく晩年の彼は「自分の行く道は、天道にかなっている」と理解していた。
天が自分に与えた役割をどう考えていたかはともかく、
自分が大きな命題を天から授けられて、それを実践しているが為に天祐があり、
逆につまらん連中は天祐に見捨てられ、滅びて行ったのだと。
まあ、自分を特別な人間だとは考えていたでしょうね。
補足すると、比叡山焼き討ちの場合には、彼は
「奴らは天道にかなわぬ行いをしたが為にこのような報いを受けたのだ」と
考えていたかも知れません。
しかし、「自分のやっている事が絶対に正しい」とは考えていなかった。
なぜなら、彼は「第六天魔王(これは信長との関わりの深い伊勢神宮とも
また何かと因縁があるんですが)」を称している。自らを悪役に見たてている。
「俺を見ろ。魔王だ。仏教の時代は終わりだ」と考えていたからではない。
ここにもまた彼独特の思想が隠されている。
信玄に関しては、あれは単純に「助かった」と思ったのではないかな。
きっと決戦があっても勝算が見こめないので、
もしもの時は決戦を避け、守りに徹したかと思います。
しかし、単に守りに入るだけでなく、攻勢に出られるだけの策は拵えるでせう。
ちょうど、第六天魔王の話になったので、彼の性格を一つ探って見ましょう。
信長の性格といえば、
>>65殿が仰いましたが、
「合理的」である事、「傾奇者」である事などがありますね。
ひとつ、補足させてもらえば、彼の場合は「合理的思考」の持ち主ではなく、
「合理的思想」の持ち主だと考えたほうがいいかも知れません。
「合理的思考」ならば、信玄やその他、名のある将ならば、名将の条件として、
誰でもそれなりに「合理的」に頭脳を働かせており、
何も信長だけに限った事ではありません。
では何が違うか?
信長が彼らと違うのは、合理的なやり方を押し通すところです。
単に「こうすればよいのにな」と考えるだけならば、誰にでも出来ます。
そして「しかしこれはこれが障壁になるだろう」とその障壁の固さ等を
図って見て、何が一番よい選択かを考えて答えを出します。
信長の場合、面白い事にその「障壁」が人とは違っていた。
何が違うのかと言えば、彼は「常識」を信じていなかった。
よく「常識にとらわれない」と言う言葉で表現される人がいますが、
対象とされる「常識」にもレベルがあり、信長が信じなかった常識は
「思考」のレベルで相手に出来る範囲ではなく、
「思想」のレベルでなければ超える事の出来なかったものが多分にある。
ではその「思想」はどこから来ているのか?
…いかん、話を彼の個性的な捻くれた性格に持って行くつもりだったが、
ちと収拾つけるのが難しくなってきた。
ええい、とりあえずここまで。(我ながらええ加減だ)
語るのが下手なんで、アホみたいに次々と湧き上がる発見を
どう紹介していいのか解らん。
何から語ったらええのか、見当がつかず、もどかしい限りじゃ。
「天下布武」・「天正」・「安土城」の意味するところ、
歴史上存在する彼以外の独裁者との違い、信長が信長たる所以、
他の戦国大名との比較、そして彼が何を成そうとしていたのか、
何を目指していたのか、色んなものが頭の中でグルグルと渦巻いている。
ああ、まいった。何から語ればいいんだろう。
【信長に「野望」なるものが存在したか否か?】
信長が生きた時代は言うまでもなく戦国の時代。
あれほどまで世が乱れていた例は、日本史上にはないだろう。
あの時代は「中世」が抱えている矛盾が一挙に吹き出し、
日本は救いようがない、収拾つけがたい事態に陥っていた。
「無秩序」が全てを覆い尽くし、
欲につかれた連中が各地で覇権を競い合い、何もかもが無茶苦茶だ。
人々は天下の平穏を願っていたが、その為には天下が一統されねばならない。
しかしそれが如何なる形で成されるのかは誰にも見えない。
だから皆、ひとまず目先の利益を追求する。
力ある者が己の本分を忘れ、権益の拡大につとめる。また悲劇が生まれる。
そしてこれを食い止める者がいない。
その中で「戦国大名」と呼ばれる男達がいた。
信長の生きた時代で特筆されるべきなのは、
毛利元就、上杉謙信、武田信玄、北条氏康達であろう。
彼らは誰がどう見てもその名に恥じない、立派な「戦国大名」であった。
しかしここで考える。
「戦国大名」とは何か?そしてその役割は何か?
思うに戦国大名が戦国大名たる所以は
「領土拡大・領国経営・御家存続」
に尽力するところにある。
こんな事は言わずとも分かる事だと言われれば、それまでで、
半ば当然の事である。
しかし、では逆に先に挙げた4人の戦国大名と、そして織田信長とを並べた時、
「戦国大名」としては確かに同一であろうが、
それぞれ持っているビジョンが違っていたように思う。
(今からちょっと出かけるので数時間後に続く)
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/10(木) 14:02
↑
ごちゃごちゃと五月蝿い
>>80 そう思うなら、sage進行で書いてるのをわざわざageるな。
無粋である。
>>80 確かにゴチャゴチャしているな。
貴殿のように一言でビシッと言えたら痛快なのだが。
友人とニラ炒めとビールを食した。ついでに書店で
がばろん殿に約束してた「剣豪将軍義輝」と松本清張の「点と線」とを購入。
では気を取りなおして
>>79の続きをしつこく語らせてくれ。
それぞれの戦国大名が持っていたビジョンであるが、
上記の4人と信長とを比較して見ようと思う。
とりあえず彼らは「上洛して天下号令の主導権を得るのを求めていた者」と
「そうでない者」との二つに大別する事が出来るわけだが、
まず上洛を望んでいた方を列挙すると、
武田信玄、上杉謙信、織田信長と言う事になるだろう。
逆に「天下は望むな」と子孫に遺言したのは毛利元就だ。
彼らは同じ戦国大名でありながら、それぞれ異なる展望があった。
例えば元就は耐えず御家の事だけを考えていた。
どんなに世が乱れようとも、それに耐えうるだけの体制を構築せんと励み、
多少の事があっても御家が存続するよう尽力した。
これは決して天下を望んだ武将達に器量が劣るからではなく、
単純に性格の問題である。
では今度は上洛を夢見た武将達に目を転じてみよう。
彼らもこれと同様に「上洛を目指した武将」でありながら、
その行動原理は全く違っていた。
上杉謙信、武田信玄、織田信長。
それぞれ何らかの欲心と言うものは多かれ少なかれあったに違いない。
上洛への夢も同様で、そこで得られる利益に興味がなかったとは言えまい。
しかし、果たしてそれを天下取り(?)の行動原理としていたのかと問えば
首をかしげざるを得ない。
上杉謙信は上洛に何を求めていたか?
武田信玄はなぜ上洛を目指さねばならなかったのか?
織田信長の「天下布武」の印は何を意味していたのか?
(後で続けるつもり)
例えば上杉謙信。
彼が天下に求めていたものは何であったか?
彼が北陸道を席巻し、たちまち畿内を平らげてしまったら
彼は何をなしただろうか?主上か公方の擁立はまず間違いあるまい。
そのまま天下を思うように出来るのであれば、
天地開闢以来類のない武功とともに、
中世の乱れを中世のあるべき姿に戻す事によって乱世を終結させたであろう。
・・・が、実のところ、彼に天下への意思は薄かった。
背後の東国が鎮まっていないせいもあるが、わざわざ畿内に兵を出さずとも
彼の望みは天下を望む事ではなく、筋目を通す・義理を貫く事が限度で、
言ってしまえば、「おのれの生きる道が純粋で清ければそれでよかった」のだ。
仮に晩年の彼に上洛の意思が見られたとしても、
「織田家が上杉家の権勢を脅かすなら、攻め滅ぼしてくれん」
と考えていたからであって、足利家を再興する為ではなかっただろう。
改めて言えば、上杉謙信が天下にて第一に望んだものは、
幕府の復興や天下の平定などではなく、
「おのれが正義を貫く姿を天にご照覧頂く事」であった。
では甲斐の武田はどうであったか?
晩年は「打倒信長!」と言わんばかりの勢いで上洛軍を派兵したが、
なぜ重い病をおしてまで出兵を敢行せねばならなかったのか?
なぜそこまでして上洛の賭けに出なければならなかったのか?
ここで彼の生涯を振り返ってみる。
まず彼の歴史への登場は実父の追放からはじまった。
どうして信玄がこのような不幸な手段で家督を継がねばならなかったか、
何かに追い込まれてのものではないかと推察するが、確証はない。
その後、彼は宿敵・諏訪氏を滅ぼし、そのまま信濃を併呑する。
やがて越後の長尾氏との抗争となり、これ以上の北上が困難と知ると、
関東や東海やら、隙を見ては兵を出し、勢力の拡大につとめる。
時には戦略に反対した嫡男達を粛清した事もあった。
ここまでの信玄の生涯は実に解りやすい。
いわゆる「戦国大名」のイメージを1歩も踏み出していない。
ひたすら自勢力の為に、純粋に国益の為だけに戦略を展開している。
おのれに課した帝王学のみに黙々と従っている。
しかしそこに天下に対する自勢力の位置付けと言うビジョンはあるのか?
俺にはこれがどうも行き当たりばったりのように感じてならない。
「力さえつけてしまえば、後はどうとでもなる」とでも考えていたと見える。
行動の後に思想が生まれるのを待っていたのかも知れない。
つまり彼は、おのれの身の置き所を、歴史の流れに任せていたのではないか?
そしてそれは戦国大名として、男として間違っていない。
信玄と言う人は非常に将器がある。
おそらく戦国時代で彼ほどの将器を持っていた武将は他にはいない。
(ここで言う将器とは、「戦国大名としての才能」である)
何より「帝王学」と「家臣」と「領民」とに忠実であり、
おそらく彼の行動原理の全てはそこにある。
彼は上の三つに愚直なまでに従った。そして万事に至ってことごとく巧妙であった。
信玄は誰よりも「戦国大名」であった。そして「戦国大名」でしかなかった。
そう考えて見れば、彼の思想と戦略が透き通るように彼らしく見えて来る。
おそらく晩年の上洛戦も「戦国大名」としての本分に従い、やらざるを得ない結果だったのだろう。
織田家があり、武田家があり、信玄の上洛を熱望する者達が内外にあり、
かつ彼にして見れば、天運に身を委ねられるだけの勝算があったわけだ。
よってあの上洛は、なぜ敢行されたのかと問えば、
彼が天下を求めていたからではなく、天下が彼を求めていたから、
と言うのが妥当な答えに思う。
・・・信長公に関してはまた今度。
注意
>>87の下から3行目の「家臣」に関してだけれど、
別に家臣の言いなりっつー意味じゃないよ。
家臣達の作り出す家風とでも言うべきものね。
信玄は武田幕府を開くつもりじゃなかったの?
>>90 そこまでは解らんですが、状況次第では拒まなかったと思う。
上洛戦の時には「天下の動き次第で、自分が幕府を開けたら面白いかもな」
ぐらいは考えていたかも知れないが、積極的に武田幕府を開こうと
考えていたかどうかは疑問。
命もいらず、名もいらず
官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。
此の仕末に困る人でなければ
共に天下の大事は語れない
前日は、上杉謙信の行動原理が
「おのれが正義を貫く姿を天にご照覧頂く事」とし、
そして、武田信玄の行動原理が
「帝王学」と位置付けさせていただいた。
そして次に信長の行動原理とは何かを述べる事を約束したので
これよりその話題に入らせて頂こうと思う。
俺は基本的にON書きなので、非常にゆっくりと綴られるが、
ズラリと一度に長文が綴られるのよりマシだと思うので、
どうかご容赦願いたい。
まずは信長と言う男の性癖を見なおして見たい。
彼は果たしてどういう男であったか?
普段の言動から推察されるのは、彼が非常に厳正な男であったと言う事だ。
まず不正は許さない。信長が若かりし頃の逸話で「火起請」の話がある。
(内容はここでは略して記さない)この逸話は恐らく事実であろう。
仮に事実でないにせよ、火のない所に煙は立たぬ。彼の気質を如実に表す逸話には違いない。
ここで見て取れる事は、信長が何の得にもならないのに、
身の痛みを覚悟してまで、「悪」を成敗しようとしている事である。
おそらく「正義」が動機ではあるまい。
もしも正義が動機ならば、
まず「火起請」なる不合理な裁判のあり方の是非をこそ咎めるべきなのである。
彼はそれよりも許せないものがあった。
それは「私利私欲や保身の為に、世の道理を捻じ曲げたり、逃れたりする不埒な奴」だ。
しかしこれがどうして許せなかったのか?
人間ならばある程度の嘘もつけば、不正を黙って許してやらねばならぬ時だってある。
まして被疑者は信長の体制に属する男だ。組織の一員を守ってやるのも棟梁の器量のはず。
しかし信長はこれを許さなかった。なぜにこれを許せなかったか?
彼の「美意識」に著しく反していたからである。
信長は強烈な美意識の持ち主だ。
信長は、自分の本分を忘れている者を嫌った。
あるべき姿になく、それを恥じないでいる者をひどく憎んだ。
信長が尋常でない怒りを見せるのは大抵、そんな時である。
つまり、彼が何に厳正であったかと言えば、
「正義」でも、「法律」でも、「信長の天下」でもなく、
「美意識」において厳正であったのである。
果たしてこの時代、何故に乱世であるかを今一度振りかえれば、
それは天下の諸勢力が公的な政府ら無視し始めて、
おのれの権益の為に各地で私闘を繰り広げているが故に乱世なのである。
>>77でも書いたのであるが、
「力ある者が己の本分を忘れ、権益の拡大につとめる。また悲劇が生まれる。
そしてこれを食い止める者がいない」のである。
そしてその結果に何が生まれたか?
諸大名・豪族は目先の利欲にとらわれて、位や領土を浅ましい程に求める。
仏教徒も天下の秩序破壊と民衆の迷惑を顧みず、血眼になって勢力の拡大に腐心する。
天下の大事に朝廷や将軍家を誰も支えず、国家が国家足り得ていない。
何もかもが混沌とし、無秩序が秩序と化してすらいる有様。
さてこんな時代を信長が
「何とも理にかなったものだ」
と手を打ってうなずくはずがあるか?
んな事ぁねぇだろうや。
おそらく彼は考えた。
「こんな天下でよいのだろうか?いいはずがない。
あるべきものがあるべき位置になく、
あるべきものがあるべき機能を果たせない。
こんな無秩序な状態を放置していいのだろうか?
もっと何もかもスッキリとした正しい天下にしてしまえないか」
ここで彼は天下の現状とおのれの美意識とを照らし合わせて、
「かくあるべし」と言う天下を模索したに違いない。
彼は「信長の理想」でもなく、「信長の野望」でもなく、
「信長の美意識」から天下を考え始めた。
彼の行動原理は「美意識」にあったのだ。
(続く。何かあればどうぞ。呆れて物も言えなければ無言に願う(笑))
98 :
共産党員:2001/05/12(土) 22:23
改革には、痛みを伴う。
改革に失敗したら、内閣を攻め滅ぼすということだ。
>回覧種人殿
ご参考までに。
隆慶一郎の唯一のエッセイ集『時代小説のたのしみ』はご存知ですか?
「信長の美意識」について言及した一文があります。
そこでは、根切り(いわゆる一向門徒などに対する虐殺)をやらざるを
えなかった考察として、信長の置かれた当時の状況(包囲網)に加え、彼
独特の「美意識」があったのでは、としています。
同書内には信玄についてのものもあり、父の追放、息子の死が彼の行動原理
に影響を与えていた(まあ、普通に考えても与えてないはずがないんですが)
というくだりがあります。
隆さんの文ですので、読みようによっては若干浪漫的かもしれませんが、面
白いエッセイでした。
まだごらんになられてなければ、まだ文庫で入手可能だと思われますので、
立ち読みでも…。
(と、紹介してみたはいいけれど。今までかなり興味深いお話を展開されて
いますから、下手に他人の論を見ないほうがいいかもしれないっすね)
(
>>97の続き)
上で俺は「信長の行動原理は美意識」と位置付けさせてもらった。
司馬遼太郎氏の言によれば、「歴史は光の当て方次第」である。
ここではこの解釈を頼りに、信長と言う迷宮を進んで見たいと思う。
【敦盛の舞と傾奇者の思想】
−−− 思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露 水に宿る月よりなほあやし
きんこくに花を詠じ 栄花は先つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり
人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
一度生を享け 滅せぬもののあるべきか −−−
信長が好んで舞ったと伝えられる能と言えば「敦盛」である。
今ではまるで彼の「人生訓」であったかのように伝えられている。
この「人間五十年」が彼の「人生観」を表しているらしいとの言説
(つうかイメージ)はよく見るが、果たして本当にそうなんだろうか?
ここにも誤解があるように思う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
人間五十年 下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
一度生を享け 滅せぬもののあるべきか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
信長は特に上の2行を好んでいたようだが、何がそれほど彼を引きつけ、
そして、そこからどんな思想を学び取ったのか。
「人生は短いのだ。力の限り生きようではないか」
と言う前向きな人生観か?
「俺の生はせいぜい五十年しかない。急いで天下に昇ぼれるだけ昇ってやるぞ」
と言う、命数の限界か?
まあ、どちらも馬鹿げていて、まずありえないし、
信長が「敦盛」を舞っていた時に感じていたのはもっと別のものだと思う。
信長が「敦盛」を舞っていたのは、
先に挙げたみたいにありきたりな人生観からではない。
我々は歴史を見るとき、結論から得たイメージに頼り、
それぞれの謎に答えを当てはめて行きがちだが、
信長と敦盛の解釈に関しては、どうも
「本来なら信長は五十歳以上生きられたのに、その寸前で殺害された」
と言う事実に惑わされている感じがしないでもない。
まず「敦盛」の「人間五十年〜」の文言に再度注目して欲しいが、
昔の人の尺度で見れば、五十年も生きられれば、そこそこ長寿なのだから、
これにより信長が「人生は短く、俺の人生もわずかだ」等と考えていたと
解釈するのはやや無理がある。
ここで試しに「人間五十年」を「人間七十年」と現代風にアレンジして、
「敦盛」の引用文を読み返して頂きたい。
「人間七十年 下天のうちを比ぶれば
ゆめ まぼろしの如くなり」
・・・、
「敦盛」がここで伝えたいは「人間五十年」と言う事ではなく、
「人の一生など下天と比べれば夢や幻のようなもの」と言う事なのだ。
「敦盛」の主人公・敦盛少年は五十年も生きていない。
この能から響き伝わるのは「人間五十年」と言う命数の短さではなくて、
「天と言う視点から見れば、人間の生など空しく儚い」と言う事であり、
「人生観」と言うよりも「世界観」なのである。
「天から見れば、人の生は短く儚く、そして空しい」
これが信長の思想の一つであったのだろう。
だが似たような意味であれば、仏教書でも漁って見れば
より適切な言葉が見つかりそうなものであるが、
なぜこれを舞にしたのだろうか?
この謎についてはまたいずれ。
>>98 共産党員殿
失敗自体を次のステップへの戦略として狙ってやっている奴もいますな。
>>99殿
隆慶一郎氏の作品は読んだ事がありませんね。
一度、機会があれば拝読して見たいものです。
そう言えば、以前、信長の安土城を論じているときに
「お前の説は学研の歴史群像で誰それがやっていたもののパクリだ」
と指摘され、俺と似た説があるのを知らなかったので、
言われた書を本屋で立ち読みして見た所、表面は似ていましたが、
内容は全く違っていて、「こんな奴と同じにするなよ」と
思ったことがありました(笑)。
ですが実際、人様の説に影響されやすいところがあるので、
しばらくは見ない方がいいかも知れないですね。
何はともあれ、「かなり興味深い」という言葉に非常に感謝しております。
いつも独り善がりな手法でしか物事を語れないので、
人様にどこまで見てもらえているか、自分では解らないため、
本当に有り難く感じました。
それにしても、信長の迷宮はなかなか難しいな。
「美意識」という松明一つでどこまで行きつけるのかやや不安です。
答えはほとんど出ていますので、袋小路にぶつかる心配はないのですが、
いつどこに落とし穴が待ちうけている事やら。(笑)
>>105までに「人生観ではなくむしろ世界観である」とは説いたものの、
考えて見れば人生観だと言いきれない訳でもないな。
いずれにしろ、そこには「人生は空しい」と言う哲学がある。
この哲学が意味するところは「人生に執着してもつまらぬ」と言う事だ。
そして信長は、何もこんな自戒の為だけに敦盛を舞っていた訳ではない。
では信長が敦盛を舞っている時に感じていたのは何であったか?
上のような哲学を秘めた名文なら、当時の宗教書や思想書、歴史書を紐解けば
すぐに見つかりそうなものなのに、彼は「たかが芸術」に過ぎない
「能」からこれをとったのか?
ここで芸術とは何かを考えて見れば、物事に「美」の光を与えてやる事だ。
絵画、音楽、文章、演劇、・・・、それらに美と言う視点を加えて
作品を織り成す事にある。
芸術とはあらゆるものを美の世界に押しこめるのが本分であり、
そこに政治的主張や複雑な哲学の説明は必ずしも必要ではない。
(注:美とは見た目の美しさを言うのではない。
サドや野坂の醜悪な小説にすら、ある種の強烈な「美」が秘められている)
ふりかえって見れば「敦盛」には、
人の世の栄華の空しさと共に一個の完結した美が記されている。
信長が敦盛に心奪われたのでは、ここなのではなかろうか?
そしてあの一文に彼は何を見出していたのか。
おそらく彼が敦盛を舞う時に心にあった感情は次の様なものだった。
「生に執着しても空しい。そして美は儚き生を送った者にだけ許される」
無論、これをはっきりと自覚していたかどうかは怪しいが、
およそこのような哲学を胸に秘めて舞っていたのではないか。
要するに敦盛に秘めていた彼の思想とは
「人生は短いから、力の限り生きてやろう」と言う人生訓ではなく、
「人生は空しいから、せめて美しく生きてやろう」と言う美意識だった。
近日中に「天下布武」に関して簡単に思ったところを書く予定。
時期が時期だけにageは控えておこうかと思っていますが、
気が向いたらageるかも知らん。
【天下布武】
「天下布武」と言う印文がある。
信長が天下を武力で統一する気概を表現したものだと言われている。
それは事実だろうとは思う。
しかしそこに必ずしも「自らが君臨して」とつける必要はない。
もし、「天下を俺が武力で統一して支配する」つもりなら、
もっと他に印文にふさわしい言葉があったと思う。
何も「武」などと言う物騒な(そして不吉な)言葉を入れる必要はない。
これだと「天下に俺を中心に戦乱を起こしてやろう」と宣言するも同様だ。
それなのになぜ「天下に武を布く」としたのだろうか?
ちなみに「天下布武」を使い始めた同時期の岐阜城改名の元になった
岐山の文王も敵は討ったが、別に彼が大陸に君臨したわけではなかった。
それに信長が岐阜の名前をつけたからと言って、
そのまま岐山の都が辿った運命をなぞるつもりもなかったはずで、
「ここから天下を動かして見せる」と言う気概に合致する
壮大な命名を行ったに過ぎない。
当時の信長を見る限り、天下を統一するならば、
浅井長政・徳川家康・武田信玄などの有力な諸大名とは
親密な関係を維持し続けていかなければならないのに、
どうしてあのように周囲を挑発するような言葉を選んだのか?
天下布武と言う言葉を表に出す事がどれだけ人を挑発するのか
少し考えれば誰にだってわかる事だ。
仮に「天下統一」の雄大な戦略を胸に抱くならば、まだ美濃を制しただけで、
天下布武などと大それた事を言うのは時期尚早としか考えられない。
それなのにどうして彼は「天下布武」をスローガンにしてしまったのか?
彼の望みは、ここに秘められているような気がする。
天下布武。
天下に武を布く。
あらゆる敵を武で一掃する。
そしておのれの望む世を作る。
ここで通常なら「おのれの望む世」=「おのれの政権の樹立」となる。
しかし、信長が望んだ世は違う。
彼は「自分が支配する政権の樹立」を目的とはしなかった。
意外に思われるかも知れないが、それよりも彼が望んだ事があった。
「天下を正す事」である。
俺はここで信長の考えた戦略とは、次の様なものであったものと推測。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
近畿を制し、公方様なり、天子様なりが君臨する天下を取り戻し、
おのれはそこで兵権を掌握し、各地の政治腐敗・武力闘争・宗教問題
などを乱暴ながらも力づくで刷新していく。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
もし上のように、信長が
「天下の政権を握る事」を目的としたのではなく、
「天下の政権を使う事」を目的にしていたのだとすれば、
「天下布武」の印文が出た理由も自然と答えが出て来るだろう。
「この信長が、乱れきった天下を全部作り変えてやるから、
各地で領土紛争に明け暮れる連中は俺に対して敵味方をはっきりしろ」
まさしく「天下布武」の印文は「人を挑発」する事が目的であったのだ。
これまでの要約。
【信長に「野望」なるものが存在したか否か?】(
>>77-97)
上杉謙信の行動原理が 「おのれが正義を貫く姿を天にご照覧頂く事」とし、
そして、武田信玄の行動原理が「帝王学」であり、
彼らが天下をうかがったのは、その思想に基づいてのものに過ぎず、
信長もまた、彼の生き方からその思想から読み取れ限りでは、
「理想」や「野望」や「欲望」等からではなく、
「おのれの美意識」から天下を考え始めた。
【敦盛の舞と傾奇者の思想】(
>>101-107)
信長は「人生でいかなる栄華栄達を得ても空しきもの」と悟っており、
「生に執着しても空しい。そして美は儚き生を送った者にだけ許される」
と考えていた。何とも傾奇者らしい。
【天下布武】(
>>109-112)
「天下布武」の印は、「天下を武力で統一する」の意にあらず。
「天下の政治を武力で徹底的に刷新する」の意であった。
ありとあらゆる事柄が、武力抜きに断行して当時の日本を復興させるなど、
到底無理なことだと示していた。
そして「天下布武」の印はその為の挑発行為の一つ。
(意識的にやっていたか、無意識にやっていたかは知らない)
久しぶりに書いたのでageました。んだけ。
115 :
99:2001/05/20(日) 04:53
>回覧種人殿
とりあえず一区切りですかな? まずはお疲れ様で御座る。
またお考えをまとめられ、じっくり書き込んでくだされ。
「天下布武」のくだりでは、信長がやや格好良すぎる感じがしなくはないですが、
背骨に「美意識」と「傾奇者のこころ」が通っているわけだから、その解釈もあり
では、と思います。
私が一番「良いなあ」と感じたのは「敦盛」のくだり。
「敦盛を好んだのは、それが『敦盛のかたち』であったから」
と、言い換えてもよろしいですか?
116 :
99:2001/05/20(日) 04:56
>>106 にて「独り善がりな手法」と書かれていて、「?」と思ったのですが、ああ、
そうか、ここではレスを掛け合う形にしてなかったのだと気づきました。
私はリプレイスレ辺りから、五徳ちゃんスレでの貴殿と茶筅殿とのやり取りを
辿ってこのスレを見に来ましたから、あまり気になりませんでした(笑)。
(まあ、スレの初めのうちにあった煽りは仕方ないかもしれませんね)
私も影響を受け易い上に、史料はネット上のものを時々あたる程度ですので
偉そうなことはいえませんが、また続きを読みに参らせて頂きます。
落とし穴はまあ、埋められますから、まずは見えるところまで行ってしまう
のも手かと。
>>115-116
レスを頂き、まことにありがたく存じます。
ここで何をどうしようかなどを自分でも自覚していないので、
思うがままに好きなときに好きなことを書かせてもらっています。
狙いは単に「新たな信長像の提示」と言う事であったので、
ひとつひとつレスを繰り返す手法だと、自然と反論や討論の形になりやすく、
かえって意を通わせにくく、お互いに不満が増えるばかりに思いましたので、
とりあえず淡々と語らせて頂いています。
「天下布武」の部分に関してですが、拙文が表したい所を
しっかりと汲み取っていただき、恐れ入っております。
自分は信長公の行動に「無秩序への不快感」みたいなものを感じますね。
しかし無秩序を破壊すればするほど、自身の姿が秩序から逸脱する
哀しさと美しさみたいなものも感じます。
それが進むにつれて、有能で急進的な為政者は往々にして
「欲望」や「狂気」に蝕まれていくのですが、信長公の場合には、
「傾奇者」の自覚がありましたから、自分自身の暴走を美として昇華するだけの
精神を保っていたのが、ヒトラーや始皇帝とは違った魅力でしょうね。
(下に続く)
ageてしまった・・・。ま、いいや。(笑)
「敦盛」の部分は書いてすぐに、生煮えで舌足らずに思ったのですが、
「敦盛を好んだのは、それが『敦盛のかたち』であったから」との
解釈に救われました。
あと、五徳ちゃんスレでの拙論は今見ると間違いだけなんで、
今となっては遅いかも知れませんが、全て撤回させて下さい。(笑)
とりあえず、ここでは先ほど申しました通りに
「新たな信長像の構築」なる実験を淡々と演じさせてもらいます。
時折、どなたか見てくれて「それもアリかな」とでも思ってくれれば幸いで、
かつ「珍しい説だ」「面白い」の書き込みでもあれば、一層幸いです。(笑)
とりあえず次は信長の上洛について書かせてもらおうと思います。では!
(
>>119の誤字訂正)
>>今見ると間違いだけなんで
いくらなんでもそれはない(笑)。
>>今見ると間違いだらけなんで
に訂正。
121 :
48:2001/05/20(日) 22:25
久々に読み返してみましたが、色々考えさせられました。まずはお疲れ様です。
特に信長の「美意識論」などは興味深かったのですが、幕府や朝廷の行動(時には存
在そのもの)が彼の美意識に抵触する事も少なからずあったかと思うのですが、その
辺りについてはいかがお考えでしょうか?(例えば
>>96の様な状況に対し、咎無しと
は言えないでしょうし)
また私は、どうも彼の行動が中途から変質した(奢りや狂気が色濃くなった)様に感
じるのですが、回覧種人さんはどう思われますでしょうか?
出来ればお考えをば伺いたく思います。
では今後も読ませて頂きますので、頑張って下さいますよう・・・
>>121(
>>48)
お久しぶりです。少しでも何らかの刺激になれば幸甚の至りであります。
自分も
>>1で挙げているように、信長の行動は中途から変質したと考えています。
まず最初は今までに挙げたような気持ちを無自覚に持ちながら、
勢力の拡大を当面の第一目標に考えて、尾張の統一、宿願の美濃攻略に着手し、
そして機を得て、足利義昭公を推戴して上洛するわけですが、
ここで「思い通りにならない公方様」と言う問題に直面し、
文字通りに滅亡の危機と闘いながら、このスレの題名にもしました通り、
彼は大きく変質していったようです。
(「幕府や朝廷が彼の意思、そのものに抵触する場合」の例がこれですね)
比叡山焼き討ち、浅井親子・朝倉氏の髑髏盃、蘭第六天魔王、蘭奢待、・・・、
この一連の思い切った行動に、幕府再興に失敗した彼が、
もがき苦しみながら、新たなビジョンを模索をする様が見て取れます。
余談。
某はあの時代に居たとしても、まず信長公に仕えたいとは思いませんね。
絶対に信玄公の方がええ。ちなみに自分は謙信公信者です。(笑)
123 :
アホ・デス:2001/05/22(火) 00:28
まあ、どのみち〜信長の〜政権が〜樹立してたら〜、
日本は〜ポルトガルに〜攻め取られて〜
2000年の〜ミレニアム記念に〜長崎が〜日本に〜返還〜されてたと〜
おもうじょ〜。
って言うか鬱病で妄想虚言者の信長相手に何語ってんだ?
自分の力が想像以上に強くなってしまったから調子に乗っただけ、
俺だってが権力あれば、織田無道を焼き殺すと思うぞ、
鬼無如難マンセー
>>123 アホ・デス殿
まずは、いらはい。
>>信長の〜政権が〜樹立してたら〜
安土政権の樹立が成功した場合の話は、今は興味がないんですが、
ここで自由な想像が許されるのも、信長公の魅力の一つですね。
>>って言うか鬱病で妄想虚言者の信長相手に何語ってんだ?
信長に躁鬱症の気は見られないですね。あるとすれば分裂症かと(笑)。
それと「妄想虚言者」と言う話の根拠もよく解らんですが、
彼の思いこみの強さが「妄想」と呼べる程に偉大なものか、
そして彼の大言壮語が「虚言」と呼べる程に俗世を超えた言葉にまで
至っていたのかは、疑問だと〜
おもうじょ〜。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 15:58
>>123 しょせん,戦国オタだね。
世界史の知識少しでもある人は,日本がポルトガルやスペインの植民地になってたかも,
なんて書かないよ。
よくわかんなきゃ説明してもいいけど。
アホデスさんじゃないけどよくわかんないから
教えて下さい。
>>125 そろそろ何か書かせてもらおうと思っていましたが、
リクエストが出たのでご説明願えましたらありがたいです。
129 :
125:2001/05/23(水) 19:15
リクエストどうも。
簡単に説明すると、16世紀のスペイン・ポルトガルのアジア進出と、
19世紀の欧米列強のアジア進出はまったく別物ということ。
スペイン・ポルトガルのそれは、手っ取り早く貿易で利益をあげることを
目的としている。
だから、両国がやったことといえば、貿易の拠点づくりだけ。
フィリピンのような、国家が存在しないところは植民地化しているが、
多くは地元の国家に頭を下げて拠点を設置させてもらっている。
(マカオなんかその典型)
強力な土着国家と全面戦争して、その国を占領しても、戦争のコスト、統治のコスト
を考えるとまったくペイしないからだ。
覇権国家スペインが、地元欧州で動かしていた兵すら、せいぜい数万である。
その上、当時の海運力で、地球を半周して日本にどれだけの兵を送り込めるのか。
日本では地方政権にすぎない戦国大名が同規模の兵を動員していた。
しかも、鉄砲はしっかりと装備している。
「日本は不毛で得るものがない。しかも国民は非常に勇敢で征服不可能」
と、宣教師も報告している。
130 :
125:2001/05/23(水) 19:28
追加。
ポルトガルやスペインにとっての日本の価値とは、日本産の銀にあった。
あまり知られていないが、戦国期の日本の銀産出は世界屈指だった。
なお、世界で銀をもっとも必要としていたのが中国(明)。
北方民族の圧力により、膨大な軍事費が必要だったという点と、
地代の銀納が進んだのが理由。
当然、日本と中国のあいだに銀の流れができるのが自然だが、
倭寇を警戒する明は日本との往来を禁じている。
そこに入り込んだのがポルトガル。
日本から銀を中国へ、中国から生糸を日本へ、というドル箱路線を確保して、
大いに潤ったというわけ。
131 :
125:2001/05/23(水) 20:37
さらに続けて。
なお、当時の世界の主流は重商主義。
すなわち、国の強弱の基準は、生産力でも、土地の広さでも、人口でも、
軍事力でもなく、「どれだけの金を調達できるか」にかかっていた。
秀吉の朝鮮出兵がき○がいざたとされるのは、
そのへんの常識をまったく理解していない点にある。
日本がスペイン・ポルトガル流に海外進出しようとするなら、
発展しつつある日本町を公権力のもとに接収、強化拡充しつつ、
船を大量に送ってアジア間貿易に参入するのが常道だろう。
なにせ、当時の世界経済は東アジア・東南アジアを軸に回転していたのだから。
その際、日本の銀が最大の武器になることはいうまでもない。
信長が天下をとっていたら、そのくらいのことはやったかもしれない。
まちがっても、ウラル山脈を越えてイワン雷帝と決戦、なんてことはない。
132 :
127:2001/05/23(水) 21:35
成る程、得心いきました。ありがとうございます。
イワン雷帝と決戦って夢幻ですか?
>>132 いえいえ、本宮兄貴による肉体派の信長公でしょう。
>>132-133
あ。あれのタイトルが「夢幻の如く」でしたっけ。(笑)
ところで、
本日は「信長公の上洛と方針の転換期」などを語ろうと考えておりましたが、
少しだけ趣向を変えて、「もしあの時代に“信長”と言う誤算がなければ」
と言うテーマでお茶を濁させて頂こうと思います。
【もしあの時代に“信長”と言う誤算がなければ】
戦国時代は終わりの見えない時代でありました。
恐らく信長以前の英雄達は、
「いずれどこかの大勢力が天下を統べる」、
「一大名家による武力統一が成される」がありうる等とは考えておらず、
時代は全く闇の中にあったように見えていたものと思われます。
しかし「天下の行く先」を考えた武将もいないはずがなく、
彼らは果たして「戦国時代」がどのように終焉すると考えていたのでしょうか?
武力統一が夢物語であったとすれば、果たして如何なるシナリオがあったのか?
その鍵は「畿内」の「幕府」にありました。(或いはそこにしかなかった)
つまり、ありきたりな答えですが、
「足利幕府のご威光が復活し、諸大名がそれに服する」のが、
一番、現実的なシナリオで、これ以外で諸大名が鎮まる事は考えられません。
もしそうなれば問題は「幕府の威光をどうやって取り戻すか?」です。
しかし、これを考えたのは「織田信長」くらいなもので、
他の大名達はこれを人任せにして、自勢力の拡大に努めるばかりでした。
さて、このまま、「織田信長」という御仁が歴史に出なければ、
あの時代はどのように終焉していったのでしょうか?
当時、各地で新興勢力が次第に力をつけていきます。
長尾、武田、毛利、北条、今川、・・・。
一方、畿内では、三好や細川やその他、諸勢力が入り混じって、
将軍のご威光を取り戻すどころか、それを利用するのに必死で、
「強い幕府」など、起こり得ない状態です。
これでは天下の安寧など、絶望的です。
しかしそれでも生きていかねばなりません。
未来を見据えて、御家を守りつづける事を考えねばなりません。
それで彼らはどんな未来を思い描いて、歴史に身を投じていたのでしょうか。
地方政権の主たちは、お互いの政権の強固な様を見て、
相手を滅ぼしてしまうのは、不可能とまで行かずとも、
相当、困難に思っていた事は間違いないでしょう。
そして幕府は頼りにならずそれによる、天下の一統などありえない。
だが、あるとすれば・・・。
「弱小な幕府の元に地方政権が連合する」シナリオぐらいしか
残っていなかったのではないでしょうか?
「弱小な足利幕府」の元に、毛利家、北条家、上杉家、武田家などの
「強豪な地方勢力」が割拠したまま連合して、天下を落ち着かせる。
かなり不完全な戦国の終焉ですが、まずこんな形しか思いつきません。
少なくとも、このように考えていたかも知れない男が1人います。
松永久秀その人です。
松永久秀と言う人は、稀代の謀略家として名高いのですが、
彼の幾つかの逸話を見る限りでは、並々ならぬ才能の持ち主で、
阿波か畿内の出自だと聞きますが、詳細は不明です。
三好家以外に仕えていれば、道三の如く一国を盗み取っていたかも知れません。
久秀は三好家中より頭角を表し、次第にその実権をほぼ全て奪い取りますが、
彼の野望がそれだけで留まるはずがありません。
実際はここまでが彼の全盛期だったかも知れませんが、
おそらくこれ以上の権力を望んでいたに違いありません。
しかし畿内のほぼ全ての権力を奪ってしまった後はどうするのでしょう?
ゲームなら、中国地方や東海道に派兵して、勢力の拡大に努めるのですが、
そんな馬鹿な事をするわけがありません。(笑)
では、松永弾正が考えていたシナリオとは如何なるものだったのか?
傀儡の将軍を戴いて、各地の和平に画策していたのではないでしょうか?
久秀は「NO,2」の立場で物事を進めるのが得意で、頭のよい男ですから、
自分に見合う役割がどこにあるかくらいは心得ていたと思います。
(道三はここで失敗しました。
腹心のいない梟雄はあくまで2番手に留まるべきだったのでしょう)
なれば、やはりここは二番手として、将軍家を立て、
決して前面には出ず、幕府の要職について、先に挙げたようなシナリオ
(「弱小な幕府の元に地方政権が連合する」シナリオ)
で、天下を収めたかも知れません。
お粗末さんでした。
お粗末さんでやんした。
不本意ながらこのスレ設置人の発言はこれにて終了致します。
長らくありがとうございました。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/05/29(火) 20:29
もう終ってしまったスレかも知れませんが
>>125 同じく世界史を学ぶ者としてお聞きします。
秀吉の朝鮮出兵は明帝国の鎖国政策に対する
武力示威であるという説がありますが
それについてはいかがでしょうか。
これより前に同じく自由貿易を求めるモンゴルの
オイラート・タタールが中国を蹂躙しています。
私はこの説なかなかもっともと思い
晩年の秀吉を無能とする声には疑問を持っています。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/29(火) 21:50
明に圧力かけるなら、子分叩いておかないとね。
後で横から殴られるしね。
146 :
144:2001/05/30(水) 14:09
つまり秀吉は「アジア間貿易に参入」しようとしたのであって
常識はずれの「キ○ガイ沙汰」はむしろ漢民族帝国・明のほうだったわけです。
倭寇にしてみてもその実態は鎖国政策に反発する沿岸部の自国民でありました。
147 :
125:2001/05/30(水) 21:41
お久しぶりです。
>>144 秀吉の朝鮮出兵に関する視点,なかなか興味深いです。
論点を整理すると,
1.明はなぜ自由貿易(?)を認めず海禁政策をとったか。また,その政策は是か非か。
2.海禁政策の結果,自由貿易を求める倭寇が増加したのか
3.秀吉の朝鮮出兵は,自由貿易を求める示威行動か
というところでしょうか。
148 :
125:2001/05/30(水) 22:13
専門がこの時代でない(ほんとはビザンツが専門)なので,満足のいく
お答えができるかどうかわかりませんが。
まず,先にあげた論点の1,明の海禁について。
海禁の目的は,明らかに倭寇(いわゆる前期倭寇)への対策。
時代がずいぶんさかのぼるのですが,宋・元の2王朝は海上貿易に積極的だった。
中国商船は南海に出ていって,通商を行っている。
日本もこうした中国商人を介して,東アジア通商圏に組み込まれていた。
ところが,鎌倉末期から南北朝にかけ,中央の統制力が衰えると,西国の諸勢力は
無秩序な海賊貿易に乗り出した。これが前期倭寇。
元は,私商の下海を禁ずるなどの貿易統制を強化した。
元を倒した明朝も,国内の反明勢力と倭寇が結ぶのを警戒して,海禁令を出した。
私貿易は厳禁,朝貢貿易のみが認められた。
149 :
125:2001/05/30(水) 22:38
永楽帝のもとでの,有名な鄭和の南海遠征も,自由貿易を目的としたものでなく,
南海諸国に朝貢をうながすものだった。
勘合貿易は,足利義満がそのような明の貿易原則をのんで行われた。
さて,明が行ったこのような海禁=朝貢貿易体制は是か非か,という問題だが,
15世紀までは妥当性があったといえる。
それは,明の政策目標が,貿易を活性化することではなく,
秩序と安定にあったことを考えれば当然だろう。
実際,勘合貿易が軌道に乗ると倭寇は沈静化している。
125さんが触れているオイラートについていえば,
エセンが朝貢貿易にあきたらず,武器の密輸などを行ったため,
明がたまりかねて貿易を制限した。
結果として,土木で英宗がとらわれるという大災難となったが,
明当局の貿易統制そのものが愚策だったかどうかは,また別問題だろう。
150 :
144:2001/05/30(水) 22:47
>>125 海禁政策について詳しく述べられている書物を見かけませんが
個人的な見解としては、明朝政府が「中国」を漢民族国家として
外敵に対し体制を立て直したかったからではないか、と考えます。
しかし長い中国史を見るならば、なぜ海禁する必要があるのか、という
問いよりも、なぜ海禁しないのか、という発想のほうが大切ではないでしょうか。
そもそも東アジアの中心・中国が貿易をする必要は特別ないからです。
中国は豊かで常時日用必需品が揃います。ひきかえ周辺諸国は物資を求めて
「朝貢」貿易という形をとり中国の機嫌をうかがわなければ生活して行けません。
ここに中国の優位性が確保され中華思想が生まれたわけです。
近代イギリスが中国に対等貿易を求め使節を派遣した際、ときの清朝皇帝は
朝貢貿易を求めてきたのと勘違いしたというのはよく知られています。
歴史的に見て東アジアにおける中国の優位はそれほど絶対的だったのであり
彼らにとって鎖国は「キ○ガイ沙汰」でもなんでもなく、自分たちが
うまくやっていければ世界の常識なんてどうでもよかったのです。
151 :
125:2001/05/30(水) 23:01
ところが,16世紀になると状況が変わる。
東アジア貿易が急速に活況を呈したからだ。
中国国内の産業も発達したので,とうぜんの流れとして密貿易が横行。
当局は取り締まりを強化したが,かえって倭寇の大侵入をひきおこす。
これが後期倭寇で,中国人が大部分だったというのはご指摘のとおり。
もはや海禁令は維持できず,1567年に解除されている。
1570年にはモンゴルと和議を結び,北方交易を軌道に乗せている。
秀吉の時代にはすでに,明は鎖国政策を放棄しているのだ。
だから,明は時代の流れにさからって頑固に鎖国をつづけた「常識はずれのキ○ガイ沙汰」との指摘はあたらない。
ただし,あいかわらず日本への渡航は禁止された(今までの経緯から当然だろう)。
しかし,日中交易は莫大な富をもたらすものだったから,
ポルトガルがそこへ入り込んでもうけた,というのは以前書いたとおり。
それで,次の秀吉の話になるが,疲れたのでまた近いうちに。
152 :
144:2001/05/30(水) 23:11
ご専門ではないとのことですが、私はまったくの素人です。
馬脚を現すことも多いと思いますがどうぞよろしく。
なるほど、自由貿易してればいいじゃないかと考えるのは
西洋的な現代の感覚なのですね。
1番・2番に関しては125さんの仰ること、もっともです。
153 :
125:2001/05/30(水) 23:15
151を書いているあいだに,149に対するレスをいただいたようです。
寝ようと思ったのですが,150について。
大筋,正しいと思うのですが,ちょっとステレオタイプな見方かな,
と思います。
理念と政策,というのは往々にして違っているものです。
確かに,中国は物資が豊富な国ですが,だからといって交易が不要なわけではありません。
その最大の理由は,交易の目的とは,「必要な物資を得る」ことではまったくなく,
「物資を移動することによって利益を生ずる」ことだからです。
中国商人はそのことに長けていたからこそ,世界史上に名高いのではありませんか?
実際,宋・元は海上交易に熱心だったことは148に書いたとおり。
他国との交易は,いつの時代も,大きな利益を生む宝の山だったのです。
154 :
144:2001/05/30(水) 23:20
>>125 そういう経緯がありましたか。勉強不足でした。
本件を詳しく扱った書物があれば紹介していただきたいのですが
よろしければお願いします。
今回の明朝の鎖国主義に関する知識は、たしか
宮崎市定「アジア史概説」で学んだものと記憶しています。
155 :
125:2001/05/30(水) 23:31
>>154 山川出版社,世界史リブレット13『東アジアの「近世」』,岸本美緒
わずか78ページの小冊子ですが,
まさに明・清時代の国際交易をテーマとした本で,よくまとまっていて
読みやすい本です。
今日はこれにて。
156 :
144:2001/05/30(水) 23:39
書籍のご紹介、ありがとうございます。
>交易の目的とは,「必要な物資を得る」ことではまったくなく,
>「物資を移動することによって利益を生ずる」ことだからです。
>中国商人はそのことに長けていたからこそ,
>世界史上に名高いのではありませんか?
このあたり国家統制との関係がよくわかりません。
政府の海禁政策に生計を立てられなくなった中国沿岸部の
商人(海賊)が困って倭寇に参加したと理解しております。
秀吉の話と合せてまた詳しくご教示ください。
157 :
125:2001/05/31(木) 21:47
ちょっと話がまわりくどくなるのですが。
まず,交易の目的云々について,もう少しきちんと説明します。
ある地域ではありふれたものが,他の場所にもっていくとありがたがられ高く売れる,
ということに人々が気づいたときから交易ははじまった。
交易が「必要な物資を得るために行う」ものでないことは,
前近代における東アジア交易で取り引きされていた品々が,絹,陶磁器,香辛料,書物,毛皮,朝鮮人参などの贅沢品で,
庶民の生活には関係のない品であったことからもわかる。
商人というのは,まさに「モノを移動することによって価値を生じる」ことを行うプロのこと。
中国は春秋戦国の昔から貨幣経済が発達していたから,とくにそのへんの感覚が鋭かった。
158 :
125:2001/05/31(木) 22:12
では,なぜ現代流の自由貿易が行われず,交易の国家統制が行われたのか,
という問題。
それは,国家の富の本質はなにか,というテーゼに対する答えが,現在とは違っていたから。
個人の富の集積が国家の富である,という考えは,18世紀末のアダム・スミス以降にでてきたもの。
このような考えに立つなら,自由競争・自由貿易が個人の富を極大にし,
ひいては国家全体の富を増大するから,国家による経済活動への介入は望ましくない,という結論に達する。
もちろん,16世紀にはそんな考え方をしていなかった。
この時代は,「国家がどれだけの財貨を保有しているか」というのが国家の富の基準とされた
(以前書いたとおり)。
このような考えに立つ場合,経済政策は次のようなものになるだろう。
1.国内の関所,通行税の撤廃(理由:中間権力によるピンはね防止)
2.産業の奨励・保護(理由:税収が増加するから)
3.輸出の奨励(理由:国外から金銀が入ってくるから)
4.国家による貿易の統制(理由:貿易による利益を国庫に入れられるから)
だいたいお分かりになったと思いますが,
前近代では,国家の貿易統制・管理は,実に理にかなった政策だったのです。
159 :
125:2001/05/31(木) 22:28
このような,貿易の国家統制が行われた時代には,国家の息がかかっていない私貿易は,
当然国庫への収入をもたらすものでないから,政府にとってうれしいものではない。
ましてや,海禁・勘合貿易体制のもとでは,私貿易はあからさまな政府への挑戦だったから,
当然取り締まりの対象になる。
しかし,東アジア経済が沸騰していた16世紀には,政府の目をかいくぐったり,
交戦したりしてもやりたいほど,密貿易はうまみのある商売だった。
160 :
125:2001/05/31(木) 22:46
>政府の海禁政策に生計を立てられなくなった中国沿岸部の
>商人(海賊)が困って倭寇に参加したと理解しております。
これは,ちょっと事実誤認。
海禁は,14世紀からの国是だったので,16世紀になって急に商人が困窮した,
ということはない。
順序からいうなら,国内経済が大発展したので,
密貿易はリスクはあるにせよおいしい仕事になったので活発になった,
当然,官憲の取り締まりがあるから,武装し,場合によっては戦う,
というのが実情だろう。
なお,密貿易を行ったのは中小の商人ではなく,浙江・福建の郷紳や大商人など,
相当な財力をもった連中だった。いわば,確信犯である。
秀吉の話がまた後回しになってしまいました。
余裕があったら後日書き込みます。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/03(日) 18:08
あげ
162 :
144:2001/06/05(火) 00:15
時間があいてしまいました、すいません。
丁寧に解説いただいてありがとうございます。
こう考えてみると秀吉の出兵はやはり「キチガイ沙汰」
ということになりますか・・・
163 :
霜台:2001/06/19(火) 21:59
ああっ、もうダメッ!!はうあああーーーーっっっ!!!
ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!!!
いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ!
ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!!
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!!
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!!
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!!
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ!
ブババババババアアアアアアッッッッ!!!!
んはああーーーーっっっ!!!ウッ、ウンッ、ウンコォォォッッ!!!
ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!!
おおっ!ウンコッ!!ウッ、ウンッ、ウンコッッ!!!
呂布は貂蝉の口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。端整な貂蝉の顔が醜くゆがむ。
「うげええっ!!」
ひき潰されたケモノのような声を出し、貂蝉がうめいた。
頬をとめどなく涙が流れた。しかし、その涙も次々にぶちまけられる大便に覆い尽くされていく。
べちょおおぉっ!!
「うぶうううっ!?もがっ!ほげえええっ!!」
だが、呂布はそのまま貂蝉の顔を大きく肛門を開いた董卓の肉尻の間に押さえつけた。たちまち貂蝉の口の中に排泄器官から直送された生ぬるい泥便が大量に流し込まれる。
「おげええっ!げえぅうぇぇえっ!おもおっ!んごっ!んぐうっ!うぐっ!うぷぷっ!んぐううっ!んぐっ、んぐっ、んごおおぉっ、んぐぐううっ!!」
舌の上を走り抜け、喉の奥に直接ぶつかり、食道へ流れ落ちてくる腐食した下痢便。それは不味いなどというものを超越した不可解な味。少なくとも貂蝉の味覚はそれを判別することが出来なかった。
「おおおううっ!貂蝉がっ!おれの、おれのウンチ汁を飲んでらああぁっ!おおうっ!し、幸せだあっ!ウンコ飲めえっ!もっと、ゴクゴク飲めっ!!お腹いっぱいおれのウンコで、柔らかいウンコでたっぷり埋め尽くしてやるからよっ!噛めえっ!啜えぇっ!唾液で、胃液で、腸液でおれのウンコを溶かせぇっ!おおおうっ!いまっ!今貂蝉のお腹の中でいれのウンコが消化されてらあっ!貂蝉のウンコはおれのウンコで出来てるんだぁっ!!貂蝉のお口便器最高うぅっ!最高の生便器だぜえぇぇえっ!!」
プツン
貂蝉の中でキリキリと引き絞られていた一本の線が小さな音を立てて切れた。
(のんでる・・・あああぁぁ・・・なんだっけ、これ・・・ウンコ・・ウンコ・・ウンコって・・何だっけ・・・便器・・・あたし・・・そんな・・名前だっけ・・・ウンコか・・・これ・・・飲めばいいんだっけ・・・食べればいいの?ウンコ?ウンコ?なあんだ・・あたし、ウンコ食べてるんだ・・・)
ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!
大量に流れ出す大便は余すことなく貂蝉の口腔を犯しぬく。排泄物に犯されているのは口だけではない。鼻の奥まで流れ込んだ泥便は、鼻水と交じり合いながら貂蝉の鼻腔から絶え間なく流れ出し、頬を伝って首筋に伝い落ちていく。
「貂蝉。解かるか?そろそろ董卓が糞をひりだしながらイクぜ。貂蝉を自分の便器にしたことでかなり頭がヤラレちまってるみたいだからなぁ。ククク・・・ほおら、腹の中が汁便でいっぱいになるまで飲めよ。残したらその糞まみれの恰好のまま長安の街中に放り込んでやるからな。」
「うううううっ!ウンコでイクうっ!貂蝉の唇がウンチまみれの肛門をヌリュヌリュ舐めてらあっ、吸ってらああぁっ!おれのウンチジュースを貂蝉が、貂蝉が赤ちゃんみたいにチュウチュウ吸ってらああぁぁっ!貂蝉の変態っ!ヘンタイいいいィッ!うんこ出るぜぇっ!おれのウンコ、貂蝉の口便器に、ウンコ袋にぃぃっ!!貂蝉の変態便器いぃっ!!おはああああっ!ダメだあっ!生グソ便器にウンコこーもん、ビラビラのこーもんのお肉舐められていっちまうぅっ!いっちまうううっっ!!あひゃああははああああああっ!!」
びちゅぶうううっ!!ぶびっ!!ぷふうううーーーっ、ぶひっ!ぼぶっ、にゅるにゅるにゅるにゅる・・・・
「ぐ・・・・えぇぇ・・・・おごっ・・んぶっ・・ん・・んごっ・・・んごっ・・・おふっ・・・・」
グチョ・・ブチュ・・・ヂュル・ズビッ・ゴクン・・ゴクン・・・グチュゥ・・ニチャ・・ニチュウゥ・・・
貂蝉の耳には呂布の低い声も絶頂を迎えた董卓の嬌声も届いてはいなかった。聞こえるのはただ自分の口と鼻の中を暴れまわり、果てしなく喉の奥に流し込まれる大便の音だけだった。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 12:52
あげ
アホのせいで無名武将殿の新説が見られなかった。
彼はちょっと思いこみが強かったけれど、波多野秀治リプレイであれだけ魅せるキャラだったから今回も期待していたのに。
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 14:39
板の浄化期待あげ
ちょっと保全