1 :
ななしさん@簗田照助:
「戦国時代の史料を読みたいけど漢文がわからない」
という人いたら解読します。
その時には、めんどくさいですけど実際の史料を掲示板に打ち込んで下さい。
史料が出された前後状況など、分かる情報も教えてくれるとうれしいです。
意訳が多めで、下手くそなのは許してくだされ。
では・・・参るッッ。
ほんとに頼んでいいの?
いいです。読み下しなんかもしますぜ。ただ責任まではとれませんが。
4 :
ななしさん:2001/04/11(水) 23:52
自作自演あげ(泣
5 :
こう:2001/04/11(水) 23:58
>>1、3、4 漢文、表示できるかなあ?注文すくないのはしょうがないでしょ。
気長にやろう。(一応下げとくね)
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/04/12(木) 00:51
漢文じゃなきゃ駄目?
かなぁりメジャーなヤツだけど「敦盛」の意味を教えて欲しいんですが。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
一度生をうけ
滅せぬもののあるべきか」ってやつ。
厨房な質問で御免なさい。
7 :
ななしさん@簗田照助:2001/04/12(木) 02:01
>5
そういっていただけると嬉しいです。
>6
了解です。全然平気です。にしても簡単そうで難しい・・・。
調べたところ仏教の『倶舎論』という教典が元になっているようです。
一般に言われているのは「人間の生涯は五十年〜」というものですが実際は違うようです。
人間の五十年も 天の世界にくらべれば 夢や幻のようなものだ
ひとたびこの世に生をうけて 滅びないものはいるだろうか(いやいない)
こんな感じです。それにしても原文は、格調高い文章です。
8 :
ななしさん@簗田照助:2001/04/12(木) 02:03
思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
平家物語「敦盛」より
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/12(木) 02:04
>>6 「最近碌な事もないね
明日も食うや食わずのバイト暮らし
こんなのもうイヤ
だけれど
自殺は痛そうだなあ」
10 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/04/12(木) 08:28
>>6 「俺もう50才
パンツの中みたら若かかりし頃の面影もない
どんなにいきり立っていたものでも
いつかは失われてしまうもんなんだなぁ」
12 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/04/13(金) 07:47
こういうのはどうだろう?
ただ単にテキストを訳してくれるより、モノホンの古文書を訳してくれるというのは。
例えば、古文書をスキャナーで読みとってどこぞの無料HPを使って画像をUPする。
そのURLをここに紹介して、その漢字ばかりの古文書を誰かに訳してもらう、というのは。
ま、古文書読める人は少ないだろうけど、家の奥にしまい込まれて日の目を見ない
古文書というのはちょっと古くからある家にはまだまだ残ってそうだぞ、と。
お、と、そうするとここ2chが歴史的記述の発見の場になったりして・・なんてね。
13 :
(‘‘*):2001/04/13(金) 07:57
本題から外れるが。。。
文学部の友人から聞いたのだけど、半年も訓練すれば
ミミズがのた打ったような古文書を読解できるようになるらしいですね。
あれはマヂで尊敬に値する。
>12.13
うーん。モノホンの古文書解読は、正規の中世史学教育を受けていないので(笑)、
ほとんどできません。ぐあ。活字化されていれば、だいたい分かるのですが。
直接解読できると便利な上にかっこいいんですけどね。
このスレ立ち上げていれば、それができる人も来るかもしれませんので密かに期待です。
15 :
木村ディ ゾゾマソ:2001/04/14(土) 06:50
敬白 起請文之事、
一 内々申合儀、何方も不可漏事、
一 万一佐竹方和談之調も候者、以内々可申届事、
一 密通之筋目、無し御表裏相談二付而者、於後も懇意不可変事、
右之条々於偽者、(中略)仍如件、
元亀四年酉癸
十二月二日 氏治<花押>
真壁安芸守殿
16 :
ななしさん@簗田照助:2001/04/14(土) 23:11
「つつしんで申し上げます 起請文の事
一、内々で相談したことは、いずれも漏らさないこと。
一、万が一佐竹側から和議の用意があれば、内々に申し届けること
一、密通の筋書きについては、表裏なく相談することになっているので、
今後も懇意であることは変わらない事
右(今まで)の条文にもし偽りがあったならば
(中略、様々な神様からの罰があたっても文句はいえません)起請文は以上の通りです。
元亀四年酉癸(1573)
十二月二日 (小田)氏治<花押>
真壁安芸守(久幹or氏幹)殿」
ちなみに起請文とは神に誓う形の約束のことで、実際に神社に奉納されたりします。
この誓いをやぶると、神様の罰があたるとされています。
小田氏治は1562年から北条氏と同盟して、佐竹・上杉謙信連合と戦いますが、
1583年に佐竹氏に下りました。
この文書はちょうど佐竹との抗争をしていた時期のものです。
17 :
木村ディ ゾゾマソ:2001/04/16(月) 06:48
なるほど。しかし客が俺しかいないぞ。どうなってるんだよ。
簗田照助の漢文講座、にしたらどうだ。
で質問。
而←これはどうよ読めばいいのかな?何の意味があるの?
者←これは「は」(主語みたいなものにつく感じ)でいいのかな?
面倒くさくなかったら、15の文を全部かなで書いてほしいっす。
よろしくっす。
「而」は「しかして」じゃなかったか?
英語で言うとAND。
「者」はそれで○。
19 :
ななしさん@簗田照助:2001/04/18(水) 01:03
>17.18
文書にまつわるいろいろな事がしたいだけですので、何でもいいですよ。
ただ忙しい時は、ちょっとレス遅れますけど、それは勘弁してやってください。
「而」←「じ」「て」、「しかして」は中世文書ではそれほど出てこないと思います。
「者」←「は」が多いけど、「もの」と読む場合もあるので注意。
俺は書き込まんが見ているぞ。
あんまりレス付かんでも気長に続けておくれ。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 00:13
22 :
1:2001/05/04(金) 00:28
ひさびさage。
ついでに21さんの文書を訳しますか。
元文書
http://www.iwami.or.jp/masudasi/rekisi/masu_uji/5sufubun.jpg 「 陶尾張守
周防の千寿丸殿への御返報 隆房
さる(八月)二十九日に書状はたしかに到着しました。
よって(大内)義隆は考えが違いますので、
我等も覚悟を決めたところです。
渕庭がこちらからかねて申し上げさせますので(詳しい)説明があるでしょう。
(5〜6行目 渕庭當前兼令申上候而?)
ですから長州の深河の大寧寺において
義隆が自害したことについて、忠節を証明する旨は内藤(興盛?)と
(9行目 生害候忠節證旨於内藤)
相談してください。後継者(人躰)の擁立については
おって相談しましょう。恐惶謹言。
天文二十九年 九月六日
隆房(花押)
周防の千寿丸殿への御返報 」
最後は結構いいかげんです。それにしても生文書は難しい。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/04(金) 02:37
家中に頼置与力者如何様罪科有之共不遂上聞改易此外科申付事例停止自然相背輩於有之聞
屈隻方改易可申付事併知行高者組頭外聞之為にて候儘高元結ひ可申事也公用之儀に馬廻同
前に可申付附可摶J美是以同前可為事也但与力知行其主絶さる時指上可申事
足軽同心之事組頭可任心併科之輜重により遂上聞可申事
賭博かるた諸勝負令停止附其外不作法令禁制事
(・・・後略)
24 :
1:2001/05/04(金) 23:28
22での訳文、「我等も覚悟を決めた旨を、渕庭がこちらから申し上げさせますので〜」
に直して下さい。
>23
どこかの分国法か禁制ですか。
分国法は研究してたので・・・みたことあるような(笑。あとで訳します。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/29(火) 21:58
age!
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/11(月) 06:26
あげとく
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/19(火) 22:07
age
28 :
1:2001/06/20(水) 19:09
家中に仕える与力の者は、どのような罪科があっても上役に伝えずに改易する。
このほかの罰則を言ってくる事例は停止する。
万が一、背く者がいれば聞いた上で改易を申しつけること。
あわせて、知行高は組頭の外聞のためである。
すべてを(髪を留める「もとゆい(元結)」のように)言ってくるべきである。
公用のことであり、馬廻り衆と同然に言ってくるべきである。
付記、褒美を増しこれをもって前項のことをなすべきである。
ただし、与力の知行はその主が耐えられない時には没収すること。
(この箇所の「絶」は「耐」であると推測される。そうしないと文章がおかしい)
足軽同心のことは組頭の心にまかせるべきである。
あわせて罪の軽重によって上役に伝えて申すべきこと。
賭博やかるたなどの諸勝負は停止させる。
付記、その他の不作法なことも禁止させること。
(……後略)
29 :
リョフの娘:2001/06/20(水) 23:07
1さん、まだいたんだ。。。
尊敬。。
30 :
1:2001/06/20(水) 23:41
>all
すいません。いろいろ仕事が忙しかったり、
ほかの板に出りびたってたりで(よりにもよって葉鍵…)、
放置状態になってしまいました(汗。
というわけで、今後もよろしくおねがいします。
31 :
塗説:2001/06/21(木) 04:55
豊公之伐朝鮮 或為能揚威於海外 或為無用之師 要非身生於其時 目撃其勢者
不得確評也 予独嘆豊公之善用国鋒 非後世之所及矣 古人曰 用兵者 不師如用鋒
漢高之破項籍 無他 彼善用兵 而我善用鋒也 ニ三十年前 紅夷之船一隻 入長崎之港
海内騒然 諸侯櫂焉 鎮台罪焉 夫同六十餘州也 豊公用之 則能済万里溟渤 屠??三韓
恐怖支那矣 今世用之 則不能禦小夷之一旅 於乎可嘆哉 夫鋒無二 在養之与不養而已
32 :
賀茂郡吉川村御免割帖 竹内家文書:2001/06/21(木) 05:58
右御免割,庄屋組頭長百姓年行司村組庄屋立合
御物成之義者不及申上,諸入役米銀共念入致詮義相談之
上,如是割賦仕百姓銘々へ下札相渡受取申候,然上者
御免割米銀共毛頭申分無御坐候二付,村内御明知百姓印形
仕差上申候間,此通御割賦被為 仰附可被下候,於以来何角与
申者御座候ハ者,私共罷出埒明可申候,為後日如件
午十月
村組小比曽村庄屋
大河内
源三郎(黒印)
・
・
(略)
・
・
年行司
藤次郎(黒印)
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/26(火) 08:01
1の御降臨を願ってあげ
34 :
1:2001/06/26(火) 23:33
>>31 塗説(人の話の受け売り)
豊臣秀吉公の朝鮮征伐について、ある人は海外でよく国威を揚げたとし、
ある人は無用の出兵であったと評しているが、要はその時に生きているわけでない。
その戦を目撃した者は、確かな評価を与えていない。
私はひとり豊臣公がよく国の兵をもちいたのに、後世にそれが伝わらなかったのを嘆くのみである。
古人は言った、用兵とは漢の高祖(劉邦)が項籍(項羽)を破ったように兵を用いたものはいず、
彼のようにうまく兵を用いたものも他にいない。
(「而我善用鋒也」は不明、自慢か?。もしくは「私も彼のようによく兵を用いた者は知らない」?)
二・三十年前、紅夷(イギリス)の船が一隻、長崎の港に入り、海内は騒然とした。※
(つづく)
※1808(文化三年)のフェートン号事件。イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を
とらえるために長崎に侵入。オランダ商館員や薪水・食料を略奪。
フランスを中心としたナポレオン戦争の余波。この一件で長崎奉行松平康英は自害。
最終的には、1825(文政八年)の異国船打払令へと発展。
35 :
1:2001/06/26(火) 23:44
>>31 (つづき)
諸大名も櫂をこぐ(ような)だけ、(長崎の)軍隊も罪があるだけであった。
それは日本の六十余州どこも同じだった。
豊臣公が兵を用いていたら、すぐに万里も遠く暗い黄海(渤海湾)を越え、
朝鮮を虐殺し、支那(中国)を恐怖に陥れていただろう。
今の世の中でこれを行ったならば、すなわち小さい外国の一軍であっても
防ぐことはできず、ただ嘆くだけである。
つまり、兵を無二のものとして養っていても、これでは養っていないようなものだ。
36 :
1:2001/06/27(水) 00:02
>>32 (山城国)賀茂郡吉川村の免除の書類帳
右の免除の書類は、庄屋・組頭・長百姓(おさびゃくしょう)・年行司・
村組庄屋の立ち会いのもと、御物成(本年貢?)のことはいうまでもなく、
諸々の役米銀(税金?)などを念入りに調査し相談したものです。
このように割賦(分割)払いにした百姓それぞれに下札を渡し、
(百姓は)これを受け取りました。
このようになりましたからには、免除となった米や銀などは少しも言うことはありませんので、
村内のお詳しい百姓の方々の印判を押していただきましたたならば、
この通り分割払いとして差し上げます。
今後なにかと言ってくるものもいるでしょうが、私共が出かけて説明いたしますので、
それは後日のことと致しましょう。以上
午(うま)十月
村組小比曽村庄屋
大河内源三郎(黒印)
(中略)
年行司
藤次郎(黒印)
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 00:03
飛び入りスマソ。
よく書状の最期に書かれる「恐々謹言」ってのは、
目上の人や馴染み薄い人に対して使われると思ってたんですが、
家臣に対する書状でこの文言を見ました。感謝状のようなものだった
と思うんですが・・・
これは何を意味するんでしょうか?
38 :
1:2001/06/27(水) 00:05
>>32 江戸時代の村方騒動の史料でしょうか?
もしくは、室町の徳政令関係のですか?
妙に百姓側にへりくだった文章なのが、印象的でした。
39 :
1:2001/06/27(水) 00:13
>>37 「恐々謹言」とは文書の最後に使われるお約束の言葉です。
もともとは「おそれながらもうしあげます」ぐらいの意味でしょうか。
多少目上から、同レベル、格下まで幅広く使われる形式です。
ですから、家臣への感状(感謝状)で使われたとしてもおかしくはありません。
ちなみに、かなり目上の人につかう場合には「恐惶謹言」(きょうこうきんげん)。
命令書などでは「仍如件」(よってくだんのごとし)が使われます。
「謹言」は最低限の丁寧語みたいな感じです。
こういう言葉使いの礼式を「書札礼」(しょさつれい)といいます。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 00:17
なるほど。勉強になった。1は実にいい人だ。ありがとう。
ちなみに私はド素人。
41 :
1:2001/06/28(木) 01:22
いえいえ。どういたしまして。
私も素人みたいなものです。
またわからないことありましたら、カキコください。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 02:06
age
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 04:18
age
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 06:24
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/21(土) 03:36
定期あげ
>17
遅レスですまないが、「者」は会話や引用個所が終わった後は「てへり」と読む。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 16:30
age
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 18:15
>>1さんもういないですか?
これ訳して欲しいんですけど。
のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし候。
関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよしに申候へハ、また御らん
もって 御書あかる也。
長庵御使にて、上らう御局へ御目かかり可申ふんなから御返事申入候ハて、
御目かゝり申候儀、いかゝにて御座候間、余に、心え可申候由、いかやう
にも御けんさくあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 18:21
>>1さんへ
この二つの歌の訳をお願いします。
我愛す淀殿が醍醐三宝院の花見にて詠まれた歌です。
全く意味が・・・わかりません・・・(笑)
あひをひの 松も桜も八千代へん
君かみゆきのけふをはしめに
はなもまた 君のためにと咲きいでて
世にならひなき春のあふらし
50 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/07/24(火) 19:21
>49
歌は訳すのが難しいからなるべく遠慮したほうがいいと思う。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 20:31
直訳すれば
一つの根からともに伸びた松も桜も末永く育ってくれ
天皇がいらっしゃった今日をはじまりとして
花もまた天皇のためにと咲き乱れ
世に二つとない春となるに違いない
>>1さんじゃないから信用するな
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 23:22
>>49、51
この場合の「君」は秀吉を指してるのではないでしょうか?
天皇は来てなかったと思います。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 22:50
良スレ。定期age
54 :
1:2001/07/25(水) 23:38
1です。書き込みありがとうございます。
ただ、ちょっとこの暑さで朦朧としてますので、
明日あたりに書き込みさせてもらいます。
>>46 かしこまりましたー。
>>48 いますよー。ご安心を。
史料は『信長公記』でしょうか?持ってたんですけど、
人にあげてしまったので、きめ細かい訳はできません。あしからず。
>>49,50,51,52
和歌は難しいんですよ。自分も今川家の和歌を調べたことあるのですが、
平安や鎌倉時代の和歌の方がずっと簡単でした。
ちゃんと解読はしてませんが、
>>51さんの通りではないかと思います。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 00:50
やっぱ、気になったので書き込み。
>>49 おそらく1598(慶長3年)3月15日の、醍醐寺三宝寺での花見のときに、
詠まれた和歌のようです。
大名からのおびただしい献上品はあったものの、
天皇や皇族クラスの人間が来た形跡は手持ちの資料には見あたりませんでした。
しかし、御幸(みゆき)は天皇クラスの人間にしか使わない言葉なので、
1、天皇に秘密で詠んだ
2、やはり現場に天皇クラスの人間が来ていた
と判断されます。個人的には2であると思います。
そう解釈すると、やはり
>>51さんの訳になりますね。
>>48は勧修寺晴豊の日記「晴豊公記」の欠落部分「天正十年夏記」です。
57 :
52:2001/07/26(木) 22:27
>>55 花見の舞台になった醍醐寺の山号は「深雪山」。
これは咲き乱れる桜を雪に例えて秀吉が命名したそうです。
秀吉自身の詠歌も、
あらためてなをかえて見む深雪山(みゆきやま)
うずもる花もあらわれにけり
で、三の丸殿の詠歌にも「深雪」という言葉が出てくるので、
とくに天皇級の人物がいなくても、掛詞として淀殿も使ったのではないでしょうか。
ちなみに、三の丸殿の詠歌は
さかへゆく君にひかれてこの春は 深雪の桜はしめてそみる
ときはなる松にならひてさく花は なをしろたえへに色やみゆらむ
山桜袖に匂ひをうつしつつ 帰るさおしきけふの暮れかな
で、この一首目の「君」は明らかに秀吉ですね。花見の主催者は秀吉ですから。
二首目の「松」は秀吉の一字名だそうです。淀殿の歌にも「松」が登場してるので
これを秀吉ととると彼の長寿を願う歌とも解釈できます。
花見の主催者が秀吉で彼の死期が迫ってたことなどを考えると、
参加者達の歌は秀吉を称えその長寿を願う歌だったのではないでしょうか。
58 :
1:2001/07/26(木) 23:07
>>48 信長の方から参上しようと言って来たのですが、いかなる使者の用事でしょうか?
関東を征伐され大変めでたいことなので、将軍になさるべきだと言ってくるのならば、
また(天皇に)お会いして、御書状をさしあげます。
長庵が使者として、御所で働く女房にお会いして説明してからお返事をいただき、
(天皇の)お目にかかって言うつもりだ。
だが、どのようになっているのか、(信長は)私に、考えを言うということで、
どのような献策でもできると言ったので、重ねてまた両方の御所(※)へ返事を出しました。
※正親町天皇(内裏?)と、誠仁親王(二条御所)
59 :
1:2001/07/26(木) 23:20
>>48、56
今回の訳は、微妙なところで違っているかもしれません。
「天正十年夏記」は、
勧修寺晴豊、近衛前久、明智光秀、斉藤利三の4人が、
きな臭い動きをしているといういわくつきの史料ですね。
現在、某大学で刊行準備中らしいので、出版されたらじっくりと読んでみたいです。
>>57 「みゆき」は掛詞でしたか。詳細な解説も興味深くよませてもらいました。
私は文化系に若干弱いので、
今後もお手伝いしていただけるとうれしいです。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:27
>>58 >>48の最初の部分は、
信長よりおらん(森蘭丸?)という小姓を用いて「どのようなお使いですか」
といわれた。「関東を征伐されめでたいことなので、あなたを将軍になさるご意向です」
と申すと、またおらんをもちいて書状を・・・・・・
「あかる也」の意味と後半はさっぱりわかりませんが。
>>58 訳ありがとうございます。でも日記の前後や語句の説明不足でした。ごめんなさい。
晴豊は勅使の付き添いで天正10年5月4日に安土まで信長に会いに行っています。
上らう御局は勅使です。
【】は
>>1さんの訳を踏まえて考えた私の訳。
以下の部分の「御らん」は信長の小姓・森乱丸の事です。
「のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし候。」
【信長から森乱丸という小姓をもって、どのようなご用ですかと聞いてきた。】
「関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよしに申候へハ、また御らん
もって 御書あかる也。」
「関東を征伐され大変めでたいことなので、将軍に」までは同じですが、
これの主語は晴豊だと思います。
【関東を征伐され大変めでたいことなので、将軍になられるべきだ、と(晴豊が)
申したら、森乱丸は「御書(信長の書状=晴豊が使いに来た事への礼状)」をもって
再び信長の所へ戻った】
その2へ続く
その2
以下がものすごく迷いました。
あ、あとタイプミスが・・・すみません「御けんさく」→「御けさん(御見参)」
あと、読点の位置が・・・違います・・・
多分これで訳が相当狂ったと思います、すみません。
「長庵御使にて、上らう御局へ御目かかり可申ふんなから、御返事申入候ハて
御目かゝり申候儀、いかゝにて御座候間、余に、心え可申候由、いかやう
にも御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候」
「長庵が使者として、御所で働く女房にお会いして」までは私も同意見ですが、
その後誰が主語なのかさっぱり・・・
【長庵を使いとして上らう御局にお目にかかり申すべきが、お返事申し上げずに
お目にかかるのは如何であろうと考えるので(以上、信長の考え)、晴豊に、わかって欲しいと
申した。どのようにしても見参したい(信長に会いたい)と(晴豊が)申したら、(結局会えず)
重ねて天皇・親王へ返事が出された】
と、訳してみたんですが、ツッコミどころありませんか?
強引に信長主語にしちゃったんですけど。
63 :
60:2001/07/27(金) 19:23
>>61、62をふまえて訂正
信長よりお乱と申す小姓によって、「どのようなお使いなのか」(と尋ねられた)。
「関東を打ち果たされめでたいので、きっと将軍に任じられるだろう次第」と
申しますと、またお乱は書状を持って退出したのである。
長庵を使者として、上臈御局にお目にかかるべき分際ではあるけれど、
ご返事をすっかり申し上げないで、お目にかかりますのもどうかと思えますので
私(晴豊)に理解するよう、申されるので、
何としてもお顔をみせていただかねばならない事を申しあげると、もう一度同じように
御両御所(天皇と皇太子)にご返事を出していただいた。
やっぱり、後半が難しいですね。話の流れとしては、
勅使(上臈御局)のお供をして晴豊が安土城(?)に来た。
(勅の内容をあらかじめ知ろうと)信長が晴豊のところにお乱をよこして尋ねる。
「たぶん将軍になれということでしょう」と答えると、お乱退出。(信長に報告)
次に長庵が出てきて「勅使にあって返事しないのもどうかろ思うので」と信長の意向(晴豊)を伝える。
どうしても信長に会わねばといったが、(信長は)同じ返事を御両御所に出された。
やっぱり日記はその日だけのものじゃ辛いですね。
前後の流れから判断できるものもあるし。
訳は
>>63さんのでおおむねいいと思いますが、どう解釈するかで
学者の間でも意見が分かれています。
森乱丸が持っていった「御書」、私は「信長が勅使へ渡す礼状(つまり
天皇や親王への礼状)」と考えました。
ところが、これを天皇か親王からの「将軍に」という書状(つまり晴豊が
森乱丸に渡した書状)と考える説があります。
でも、やっぱり最後に「かさねて又」って書かれているのだから、信長が
礼状を書かせて森乱丸に持たせていたのに、森乱丸が信長のもとへ戻って
「かさねて又」御両御所に返事の礼状を出した、と解釈する方がスムーズ
だと思うんです。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 19:36
伝説の名スレ。
定期age
村井貞勝と三職推任の話し合いをしたのは勧修寺晴豊自身だから
晴豊が「たぶん将軍になれということでしょう」という言い方は
ちょっと変な気もしますが。
67 :
63:2001/07/28(土) 23:29
私は「将軍ニなさるへきよし」の「へき」を推定としてとりました。
ここはかなり迷ったのですが、おっしゃるとおり晴豊自身が三職推任の中心人物ですが、
このとき晴豊はあくまで勅使の付き添いであって、勅使は上臈御局です。
晴豊は実際は勅の内容をよく知っていたとしても、勅使が正式に伝える前に
全内容を教えるわけにも行かなくて、ぼかしていったのではないかと思いました。
三職推任は「太政大臣・関白・将軍の好きなものを信長を選ばせる」ということなので
勅もそのような内容だったはずで、晴豊もそのことをよく知っていたのに、
お乱に対するセリフでは「将軍」しかでてきてないので、内容について少し嘘を言ってます。
といって完全な嘘を言って後で信長に責められても困るので、
言い方としては曖昧にしたのではないかと推測して「たぶん将軍になれということでしょう」
と解釈しました。
うーん、推定か・・・。
例えば立花京子なんかは三職推任を信長からの強要と考えているので
晴豊の言った「将軍」が信長の本命であったとしています。
一方、晴豊の「将軍」発言を、信長への任官は将軍が相応しいと考え
る晴豊自身の個人的見解という意見もあります。
ここの解釈の違いも各説の拠り所となる重要なポイントですね。
漢家中葉道微 董卓作乱乗衰 借上虐下専威
萬官惶怖莫違 百姓惨惨心悲
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 02:04
ageときましょ。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/08(水) 01:34
サルベーーーーーーージ!!!!!!!
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/13(月) 09:25
さらしあげ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/14(火) 08:20
一日一あげ
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/16(木) 23:38
ほー
いい感じだな
昔の事は推測で語るしかないが
いろんな意見で、、、、
めんてさげ
>>19 「而」は「しかるに」とも読みます。
>>46 「者」を「てへり」と読むのは、近世の借金文書でよく出てきます。
例)「金二百文者」
遅レスですんまそ。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:01/09/08 23:20
age
78 :
無名武将@お腹せっぷく:
ばかが、かきくってんじゃねーぞ!
はーーげ!