202ですが、ゴメソ。
宇喜多>宇喜田でした。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/28 05:33
あげ
206 :
無名武将@お腹せっぷく:02/01/29 21:51
直家は、明禅寺合戦の頃は備前1国以外も支配してました?
>>206 まだその頃は浦上家臣で、現地豪族が両者間をふらふらしていた頃
じゃないかな、備前平定は明禅寺の後だったとおもう
208 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/17 04:32
下克上age!
209 :
八丈島の漁民:02/02/17 11:10
農民さんは、秀家とその血統を陰に陽に保護してたようですが、
流刑罪人が海に足つけただけでも逃亡とされ、
連座制で漁家も処罰の対象となっていました。
そのせいか、明治に浮田姓つけた農民さん家もあったみたいだけど、
漁民の家で「(公儀)罪人」の苗字を名乗る家はなかったようです。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:02/02/25 10:28
ヒポクラテス
明石全登のスレ、キボンヌ。
あげ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/02 12:43
秀家は関が原のとき何歳だったの?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/16 19:26
>213
27才ぐらいじゃなかったっけ?
もうすぐ一周年おめでとうsage
おめでとう
217 :
無名武将@お腹せっぷく:02/03/28 00:38
うい
218 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/04 14:05
一周年おめでとう!!
1 :無名武将@お腹せっぷく :2001/04/04(水) 05:51
もはやここまでか。。。。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/18 01:40
粘り上げ
221 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/26 01:43
宇喜多直家ってそんなにやり手だったのか。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:02/04/28 19:46
222
223
224 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/08 02:23
八丈島に流された宇喜多秀家が生んだ
「八丈太鼓囃子」強烈過ぎます・・・
高校の卒業研究で宇喜多直家をやることにした。
>225
山陽新聞社の「戦国の宇喜多一族」を丸写しに擦れ
>>226 それはだめだよー。
参考資料には使うけどさ。
内容が重なっちゃうかもしれないけど
できるだけ自分で調べてまとめたい。
備前軍記やら読むかのう。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/12 18:42
で、宇喜多秀家の直系末裔は八丈島にまだいるの?
229 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/12 19:56
岡山出身のくせに直家の読みが「ただいえ」だと最近知ったage
sageのままだったYO!
鬱死
>>230 直家の読みは「なおいえ」でいいと思うんですけど
違うんですか?
ミ ・д・ミ<はぁ・・・
直家は「なおいえ」が正しいみたいだな
コーエーのハンドブックのどれだかでは「ただいえ」と読みが入っていた気がするが、
忠家と混同したか、誤植だろ。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 23:04
宇喜多家は文禄・慶長で朝鮮に渡ってますが、
どのぐらいの兵数でどこを進軍したのか、
またどんな戦闘に参加したのか詳しい方がいたら教えて頂けませんか。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/21 23:08
>235
こんなんしか見つからんかった
もう少し探してみる
文禄元年、遂に秀吉は朝鮮、明の支配を目指し、全国の諸大名に
出陣を命じました。大きく分けて9つの軍団に別れた渡海部隊の
第8軍を指揮したのが秀家でした。
石田三成ら秀吉側近を従えた秀家は実質、渡海部隊の総指揮官という
大役を与えられたのです。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/27 01:04
アートディンク社の「関ヶ原」 合戦編で西軍でプレイすると宇喜多家は弱い
しかし東軍でプレイすると無茶苦茶に強かった。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:02/05/27 02:34
宇喜多・・・そういえば昔、高校野球で山口県宇部商の投手にそんなやついた。
珍しい苗字だから、直系じゃないにしろ子孫だな。
239 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/02 17:53
腹黒い直家から、主君思いの秀家が生まれたのが感動。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/02 19:50
幼少のころから可愛がられたのが大きいんだろな
直家そんなに腹黒いかなー。
直家の年表作っているんだけどあまり悪い印象はないけどなー。
のし上がって行った過程が暗殺・謀略ばっかりだったから
そんな印象なんだろうね
忠家が「いつも兄にはおびえていた」と言っていたというのはたまに見るが,
出典はどこ?
>243
漏れが見たのは光栄の爆笑信長の野望って本だった
その元ネタになった文献は知らないが
245 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/06 03:42
>243
たしか、御伽衆になった忠家が秀吉に語ったらしいね。
「兄の前に出るときには、必ず鎖帷子を着てました」だっけ?
246 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/14 08:42
おそろしい兄だったのか・・・ (((;゚Д゚))ガクガクブルブル
保守
248 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/20 09:54
>>246 >「いつも兄にはおびえていた」
>「兄の前に出るときには、必ず鎖帷子を着てました」
の口上の前に、「兄には、かわいがられたが、」
とかいうのがあったような…。
おのれ・・・金吾・・・
250 :
無名武将@お腹せっぷく:02/06/27 05:37
勉強になる
251 :
花房 助兵衛:02/06/28 21:23
宇喜多の子孫は明治時代に赦免されて、東京に屋敷を貰い、
子爵の位に叙せられたんだよ。その後島に帰ったんじゃなかったかな・・・
西に毛利、大内、北に山名、尼子、東に赤松等南に三好、腹黒くなけりゃ
生き残れんがな、だべ?
なにより、明治まで加賀の前田家が二百年にわたって、八丈の宇喜多家に仕送りを続けていたことを忘れてはいけない。
ある研究によると、江戸時代は外圧がなければあと数百年は続いたらしい(つまり宇喜田一族も・・・)。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:
浮田温泉