1 :
無名武将@お腹せっぷく:
もし「引き分け」を許さず、決着がつくまで徹底的に
戦わせたら?
(外部勢力の介入は排除)
決着がつくまでは戦わない。両者ともそれほど馬鹿ではない。
共倒れになって傷つく前に、お互い講話する。
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 11:22
でも実際、同盟という道は無かったんだろうか・・・。
歴史は変わってたぞ、たぶん。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 11:27
ない。ないから戦った。謙信が関東管領の空名にこだわる限り
北条が武田に助けを求めてくるのは決まってる。どうしても
武田上杉は戦う定めだ。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 11:33
>>4 歴史ではそういう流れだったが、信長が伸びて武田を脅かすようになったら、
武田は北条を切り捨てるだろう。上杉とも講和。武田は関東問題には不干渉になる。
だから信玄は馬鹿じゃないと言っている。
信玄が寿命が短かったからそうはならなかっただけ。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 11:46
結局、謙信の頭の中には「天下」が無かったのだと思う。
7 :
名無し:2001/03/02(金) 11:50
でも謙信が長生きしていたらどうだろう
肝心なところで謙信死んじゃったじゃん
俺の考え:謙信負ける
所詮は兵力の差、それに信長は兵農分離を進めてたし、
ドキュソ謙信に勝ちめなし!
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 11:54
>>5 寿命短いって、あの時代53まで生きれば病気じゃなくても寿命で
死んであたりまえだ。
信玄は家督を継いでから西上して死ぬまで30年かかっている。
本領が甲斐一国しかなかったからな、そこから信濃を獲って
上野にも手を伸ばすにはそれぐらいかかって当然だろう。戸石崩れの
ダメージも大きかっただろうし。
武田と上杉が衝突するのは北信濃と上野だろ? どちらも、双方に
とって捨てられん地域だろう。織田云々以前に本領の防衛のために
どちらにとっても必要なんだよ。上野について言えば、謙信が
関東管領だなんだと言って南下し続ける限り上杉は北条と戦わざるを
得ない。武田がどちらにつくかと言えば北条だ。なぜなら上杉は
上野を確保しないと安心して関東で作戦できないからな。そこで武田は
上杉とどうしてもぶつかる。すると北信濃は北と東、両方から上杉に
半包囲されることになる。まかり間違って上杉が武蔵まで制圧して
しまったら甲斐本国も含めてぐるりと包囲されることになるぞ。
武田にとってこれはやばすぎる。したがって北条を捨てることはできん。
武田と上杉が同盟するには、まず謙信が関東制覇の野望を捨てねば
ならない。ついでに北信濃の領有権について双方で納得する妥協を
結ばねばならない。どっちも望み薄だろ?
訂正
>すると北信濃は北と東、両方から上杉に半包囲されることになる。
上杉が上野を確保すると、北信濃は北と東・・・ だ。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 12:06
外部勢力の介入は排除ってのが難しい。
どこからどこまでが外部勢力なのか?
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 12:08
少なくとも北条は無視できないと思うが・・
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 12:50
>>8 望み薄かどうかは当人同士が決めることであるが……
北信濃:武田
上野:上杉
武蔵:北条
このラインで不可侵条約を結ぶしかないだろう。
信長が本能寺直前までの版図を築いた場合を想像して欲しい。
(その頃には氏康・謙信・信玄はいないが、彼らがやり合っていたら、
その間に絶対そういう勢力が西に出来る)
そんな状態になってまでその三傑が目先の領土争いのみに固執するとは思えない。
上杉は東北日本海側・北陸、武田は東海、北条は関東大平洋側にのみ出兵する。
そう言う風に三国で取り決めると思う。
俺はそう考える。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 12:59
拮抗する3勢力のパワーバランスを崩すのは難しい。
かと言って同盟を組むことも3人の性格からして難しい。
やはりもし仮に3人とも生きていたとしても信長に負けていた気がする。
14 :
8:2001/03/02(金) 13:04
>>12 少なくとも謙信が死ぬまで無理。愛と正義と毘沙門天の人謙信は
最後まで関東制覇を目指しつづけた。武田上杉北条間の関係に変化が
訪れるのは謙信が厠で倒れた後。そのときだってまたまた関東出兵の
動員をかけた直後だった。
謙信は上洛の意図は全く持っておらず、北陸から中部に出る
気さえなかったらしい。織田なんぞ加賀で叩いておけばいいと
思っていた。謙信死後も上杉はその遺風を守って北陸道では
守勢だった。
北条もとりあえず関東が手に入れば満足。従って織田(もしくは
強大化した西方の勢力)とまともにやりあうつもりがあるのは
武田だけ、ということになる。上杉北条としては武田に付き合って
消耗する義理はねーよって気になるだろう。むしろ織田と
手を組んで武田をぶちのめしておこうと考えるかもな。
連中に川中島とかの前に将来に備えて手を組んで西へ押し出そうなんて
先読みしろって言うのは酷だよ。やっておけばなーって思えるのは我々が
後世から歴史を見ているからだ。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:30
信じられない!
まともなVSスレッドがあるなんて…。
ああ、世界が崩壊する。
ああ、一応言うと粘着気質の上杉に
武田がどれだけつきあえるかでしょう。
16 :
2:2001/03/02(金) 13:34
それじゃあ
>>1の言うとおり、戦術レベルでの考証に移るしかないのかな?
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:42
>>14 >愛と正義と毘沙門天の人謙信は最後まで関東制覇を目指しつづけた。
越相同盟は無視??謙信は上野をとってれば満足ってこと?
14さんの語りきぼんぬ。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:47
戦術レベルの考証?
地形&天候&兵の質&物資を考慮しないで、
憶測だけで優劣を決めるのは、ほとんど不可能。
大体
>>1はもっと具体的な制約をしめすべき。
東京ドームで1000人vs1000人とか・・・。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:53
時の運だな。戦術レベルだと。
どっちの兵に腹が痛い奴が多かったとか、重要な所でたまたまこけた奴がいたとか。
そっから崩れ始めたほうの負け。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:59
とりあえず、「ドキ!!女だらけの水泳大会」の騎馬戦の指揮で競うというのはどうだろう?
21 :
14:2001/03/02(金) 14:03
相越同盟はわずか2年のことだったと思うが・・・。あっさり切れた後は
上杉はまたまた何度も上野に出兵してるぞ。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 14:08
そもそも、いかに事前に外的要因において有利な状況を作れるかが
大事なワケで、それをすべて排除したら比較の意味が無い気がするが・・
23 :
17:2001/03/02(金) 14:57
>>21 レスありがとう!
そりゃ出兵するが、景虎を養子にしてそれでも
関東制覇するってこと??
24 :
14:2001/03/02(金) 15:10
>>23 そゆことじゃねーの? 景虎がなぜ北条に戻されなかったのかの事情は
俺知らん。もっと詳しいやつがいるだろう。
ただ、出典忘れたけど謙信が死ぬ直前に出した動員令は触れを出された
連中の構成から勘案して関東出兵と考えられる、というのがあるのだ。
よくいわれる上洛ではなくね。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 17:22
>景虎がなぜ北条に戻されなかったのかの事情
ANAの具合が良かったから。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 17:27
>>24 確かに関東出兵ではあっただろうが越中衆を従えての関東
長期出兵はないんじゃないか?多分にセレモニー的なものかと。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 14:52
age
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:28
>>24 つーか、景勝の妹くれてやって自分の名前やった
位可愛かったんじゃない?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 17:43
あげ
30 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/03/03(土) 20:25
現在、発売中の『歴史読本』4月号に以下の記事があります。
堀内亨「武田義信擁立による「信玄打倒計画」は実在した!」
竹田和夫「長尾景虎の越後は多様な仏神の信仰世界だった!」
31 :
茶会最高:2001/03/04(日) 19:34
すみません。厨房なんですけどちょっと質問があるんですが。
もし、周りに障害物のない平原、足軽か騎馬の1万と1万同士の戦いだったら、
どこの兵士が強いのですか。
(1570年当時、上杉軍=越後兵=謙信指揮のように考えたら)
自分の独断と偏見では、
上杉=武田>島津>徳川>毛利=浅井>織田=三好=今川=朝倉
ぐらいに思えるのですが。如何
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 20:16
34 :
無名:2001/03/05(月) 01:39
謙信が戦争に強いのは信玄も認めてるよね。謙信は1戦だけなら天才でしょ。
戦国大名が一番戦いたくなかったのは謙信じゃないかな?織田軍も手取り川で
ぼこぼこに追撃されたし。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 10:30
本願寺勢の強さを無視してはいけないぞ。
36 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/05(月) 11:59
まともにやったら信長に勝てるヤツはいないよ。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 13:19
ところでなんであんなに上杉謙信と武田信玄って強いんでしょうか?
いろいろ調べてみたけど、どこも編成や装備とかって似たり寄ったりで大差が無い
のに、なぜ上杉と武田だけが日本最強の軍団と呼ばれるようになったんでしょうか?
戦術もあまり極端な差はないし、しいてあげるとすれ謙信の車懸りの陣ですが、
この戦術を実際に行うのは不可能だと思う。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 14:24
>>37 俺は謙信のことはよく知らなくて悪いが、信玄は戦そのものに滅法強いんじゃなくて
戦の前のかけひきが上手くて、戦う前に必ず勝てる状況を作っておいたから強い、
とそういうように思うですよ。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 14:53
やっぱり戦略抜きにして考証するのは間違いだよ。
同じ兵力、同じ装備で、とか言い出したら、
究極のところ一騎打ちとか、将棋でも差させてるのと同じだよ。
あとは越後の兵と甲斐信濃の兵どちらが強いって話かな。
一部の人の間で語られている、尾張兵は最弱、三河兵は最強
というのは信憑性あるのか。俺はそんなこたあないと思ってる。
戦国で一番強かった兵は一向宗かもね。
それと激戦を繰り広げた織田軍団も弱くないでしょ。話それた。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 15:00
織田は弱いよ。
あの弱い兵達を使って
信長は善くやったと思うよ。マジで。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 15:16
>>40 じゃあ信長は戦の天才?
しかし弱い兵って根拠は。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 15:42
>>41 例えば、長篠の合戦かな。
鉄砲の導入も、尾張兵が弱かったからじゃないかな。
脆弱な尾張兵の戦闘能力を、現行の兵器の改良や新兵器によって補間したとか。
白兵に強いなら、わざわざ高価な新兵器を大量投入する必要も無いと思けど。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 15:47
>>42 すっげえうがった見方ですな・・・。
じゃあ反対に鉄砲を軽視すると強いってことになるよ・・・。
44 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/05(月) 15:52
政戦両略、戦術の現時点での最良の策を選択できる人だよ
信長は。鉄砲の大量使用も最良だったんでしょ、合理的。
尾張兵が弱いっていったって、尾張兵だけじゃ、ないべ、
信長の兵力は。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 15:54
>>43 射程200mの弓が引けるくらい強けりゃいらないじゃない?
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 16:02
>>44 実際、あの時代の鉄砲そんなに万能かな?
いくら、大量投入で連射してもさー
射程短いじゃん。第一、雨振れば使え無いわけだし。
白兵が弱かった尾張兵の戦力補間のためじゃない?やっぱり。
鉄砲って本当に有効な戦闘手段だったのか?
滅法強いという信仰はゲームからの類推のような。
うーむこんな時は軍事板から人を呼ぶか。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 16:55
>>43 うがった、っていうか通説に近いんじゃない?
強兵(とされている)越後や三河:もともと兵が強いから槍合わせで勝てる。
そもそも田舎だから鉄砲が買えない。
弱兵の尾張:兵が弱いから戦力倍化要素が必要。たとえば長篠の鉄砲や馬防柵。
鉄砲は物理的な威力に加えてぽんぽん音がして景気付けになる
鬨の声や雄叫びは何のために上げると思ってる?
49 :
48:2001/03/05(月) 16:59
あー、鉄砲が買えんっちゅーのはあくまで織田の運上金にものを
言わせた大量装備に比べてな。産業が米ばかりの越後や三河に
比べりゃ織田は金もっとるわ。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 17:22
従来の戦い方だと先頭のほうに侍大将がいる。
→討たれる可能性が高い。
→討たれると指揮系統が崩れる。
→潰走。
となってしまう。
信玄の場合は侍大将の代役になれる人を付加してそれを防いだ。
信長の場合は侍大将を後に下げることによってそれを防いだ。
それで雑兵が前に出ることになったがそれだけでは雑兵が怖がる&雑兵から文句が出る。
そこで新兵器鉄砲の配備で雑兵に安心感を持たせた。
ってな感じで私は考えていますが・・・
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 17:31
>>50 なぜ鉄砲を持たせると雑兵が安心するのかな?
馬に乗せては駄目なんですか?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 17:38
今川義元スレッドにもあったけど、
織田は信秀の代から常備軍制をしいたそうだ。
つまり、農閑期しか戦えない足軽ではなく、
兵を雇っていつでも動かせるようにしていた、と。
ただ、当然戦なれした足軽とタメでやると勝てないから、
長槍の戦法やら鉄砲の本格的使用やらを採用していったとね。
濃尾平野を完全に手中に収めた経済力が物を言ったらしい。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 17:39
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 18:02
55 :
与六:2001/03/05(月) 21:55
鉄砲関係なら、上杉神社蔵に謙信公が考案したといわれる車笠が保管されています。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 23:03
>>52 それおかしくないか?
常備軍なら百姓より強いのでは。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 23:37
>>56 百姓じゃない。足軽。
当時の軍というのは、農業の傍ら
農閑期に兵士となる「足軽」が戦闘の主力。
つまり、農業をしなくていい時期に職業軍人的に生活するわけだ。
当然、訓練や軍事行動もその時期に行われる。
ただし、農繁期は必然的に動員兵力が少なくなるわな。
それに対し、「常備軍」は、
簡単に言えばゴロツキや食い扶持のない奴を雇っただけ。
先述のように、足軽動員数が必然的に減少する
農繁期に動員できればいいだけだから
訓練などもあまり必要はなく、個々の戦闘力は弱い。
常備軍の概念が今とのそれとは180度違うということを
頭にいれておく必要がある。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 00:38
だいたい戦闘が全て白兵戦だったように感じるのは軍記物のせい。
当時の軍忠状などを調べれば、負傷原因の7割が
鉄砲、弓矢、石などの遠距離兵器によるものだって分かるはず。
白兵戦ってのは敵が壊走を始めたときに初めて起こるんですね。
だから謙信みたいな人に率いられた部隊は滅茶苦茶な死傷率になってたらしい。
部下は苦労したんだろうなあ。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 00:50
おれは素人なんだけど、さっき思いついたのは
常備軍=傭兵は戦が負けになりそうだったらとっとと大名を見捨てて逃げ
出せる。
足軽=農民は、逃げ出したりしたら(周囲の目とかもあるから)故郷に
帰れなくなる>仕方なく戦う
ってのもないのかな?
>>59 それなら、アメリカ軍の軍人は
みんな湾岸戦争前に逃げているものと思われ
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 01:10
常備兵は傭兵とは違うよ。
ただ当時は負け戦の時は常備兵だろうが徴用兵だろうがみんな逃げた。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 01:46
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 04:05
常備軍って、確立されたのは江戸初期でしょ。兵膿分離の象徴ともいえる刀狩りでさえ秀吉が天下取ってからの話。信長の場合、ただ経済的に傭兵を雇える余裕があっただけのこと。それでも農民兵を動員している。農繁期とそれ以外では織田軍も動員兵力には差があったのだ。
また、鉄砲が戦いの成否を分けたという史実は無い。当時の戦いの手順は
1、飛び道具
2、槍での叩きあい
3、白兵戦
である。上杉や武田が強いと言われたのは最後の白兵戦に異様な強さを発揮したため。そういう意味では島津も同様に強いといえる。
またココの主旨に答えるならば、武田、上杉の実力は互角である。
両者は川中島四回戦で互いに損耗率八割を超える死闘を展開したが決着はつかなかった。これ以降はお互い全面衝突は避けており、どちらが上とは言えないのである。
64 :
63:2001/03/06(火) 04:15
結論→史実でも両軍全滅寸前までやっている。もし最後まで戦ったとしたら、両軍全滅。
>両者は川中島四回戦で互いに損耗率八割を超える死闘を展開したが決着はつかなかった。
残念まがら、これは後世の創作です。
第4回の戦いは、小競り合いの末に一ヶ月余りに及んでいて、上杉勢が越後国境付近にまで下がって抵抗を続けています。
また妻女山に上杉勢の本陣があったと言われてるが、それらしき陣跡が無く
現在では北国街道の西にある押田城が、西條城と呼ばれており
それが、後に上杉景勝が北条氏との戦いで、北信濃に出兵したおりに
妻女山で1日ほど野営したとあり、それと混同した結果と言われてる。
講釈師どもが見てきたように嘘をついてたきために、
現代の私たちは混乱してしまうのだ・・・。
まこと勘弁して欲しいが、信頼出来る資料とやらでも
諸説あるというのはどういうこっちゃあ!
これもまた「愛が真実を覆い隠す」の一例か。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 20:45
足軽ってごろつきより圧倒的に強いの?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 22:32
やっぱり傭兵の常備軍が訓練が必要ないっていう説明がわからん。
足軽が農業してたっていうのは知ってるが、百姓も動員したんでしょ。
百姓よりごろつきの方が強そうだし、軍事専門だから組織的に訓練
できそうだが。
んでここの趣旨である謙信と信玄の兵に差が無いとしたら、
どうやって優劣を決めれば良いのだ。装備か。
70 :
赤の他人だが:2001/03/06(火) 23:08
百姓は自分の土地や一族を守らなきゃならない。自分が戦場に出
なきゃならない。一族の誰かが代わりに連れて行かれるんだろう
けど、簡単に逃げ出す訳にはいかないよ。逃げても食う当てがあ
ればいいけど、土地を耕すことしか知らないからな。
死ぬのが嫌で逃げ出した奴や、あくせく働くのが嫌で家を出た奴
が「ごろつき」になったんじゃないかな。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/06(火) 23:14
強い弱いというよりゴロツキは良く逃げるんですな。
前線が逃げ出したら戦になりません。
>>69 ばかだねぇ。常備軍は傭兵にあらずって先に書いてあるのに。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 23:57
当時、組織として傭兵を生業としていたのは雑賀や根来、伊賀など
ごく一部の地域の住民が細々と行っていただけ。
だからいわゆる牢人と呼ばれた人たちの多くは、
個人の武勇はあっても兵隊としては全く使い物にならない者が多かった。
63が戦の流れで3番目に挙げた白兵戦だが、これは正確に言うと追撃戦。
槍での叩きあいで崩れた部隊に襲い掛かるのが一般的だね。
こういうときにこそ牢人衆は大活躍した。
ただし牢人衆は「奪首」や「拾首」などルール違反の巧妙稼ぎを
よくやったので武将たちからは好かれなかったようだな。
74 :
名無し:2001/03/07(水) 00:38
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 01:02
信長に「常備軍」なんてあったのか?
1576年、天王寺砦の苦戦を聞いた信長は急遽、出陣することにした。
しかし三日待って集まったのはわずか3000。北方担当の柴田を除くほぼ
全ての有力武将が集まったが、それに従って集まった兵力は
わずか3000だったのである。
おかしくないか?
こんな時に武将と共にすぐ集まれてこその『常備軍』だろ?
本当にいざという時に集まれない信長の兵が『常備軍』なわけないわな。
これこそドキュソの妄想のひとつだな。
武田家だって大身の武将は「手前被官」といって自費である程度の兵を
雇っている。もっとも、四重臣クラスで50騎程度だから大した数ではないが。
織田家だって同じようなモンだっただろうな。
それが証拠の「三日待って3000」だよ。
ちなみに出典は『信長公記』な。
76 :
名無し:2001/03/07(水) 01:16
>>75 はい、「インパク」から。
「織田政権の軍事的特質は、
農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し、
鉄砲・長槍で武装、専業武士団として機動性を与えたところにあった。
しかもこの軍団は長期遠征に耐え、
城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し、
中央支配を早期に実現できたのである」
http://www.sengoku-expo.net/text/person/J/055.html だから調べもせずに書くドキュソは困る。
大体それが確立されてなかったから美濃攻略までに
時間がかかったとは考えられなかったのかねぇ。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 01:22
>>75 1576年当時の信長の状況はどうなっていたのか?
信長公記以外の文献等での確認は?
ちなみの信長自身が「三日待って3000」で出兵した記録は他の資料には無い。
1576年から石山本願寺攻めが開始されてる訳だが、天王寺砦の戦いで
大和・摂津と山城の一部を統括し、石山攻めの総責任者の壇(←漢字が違う)直政が戦死して
後を佐久間信盛率いる軍勢が引継ぎ(統括地も)、石山を包囲しているはず。
しかも当時の信盛の軍勢は、東尾張・大和・河内・和泉・南近江の一部を統括しており
織田家筆頭の地位にある。
その軍勢は常時2〜3万はあったらしくて、信長自身が3000で急遽出兵するなんて考えられない。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 01:22
>>75 各城や砦に置いておかなければならない兵ってのもいるだろ?
そんなに戦国の兵士はヒマじゃなかったと思うぞ。
3日で3000の兵が集まるってのは充分すごいよ。
普通、戦争の準備ってもっともっと時間がかかるもんだよ。
武田の手前被官の50騎はさらに「自分之侍」を雇っており
その侍たちも小者や中間を雇ってるんだから。
まあ単純に50人しかいないとは思ってないよね?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 20:50
常備軍否定派が旗色悪いみたいだね。
まあ戦国の兵の武勇にそれほど差が無いということで、
そろそろ謙信と信玄に話題を戻そうや。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 00:40
>>46 遅いレスですまんが、ちょっと気になったんで。
確かに鉄砲も弓矢もそれほど命中率の高い兵器じゃない。
でも100m先から100人が弓矢を放っているのと
100人が鉄砲を撃っているのを想像して欲しい。
どっちの方がプレッシャーがきついかは考えるまでもないよね。
当時の人間と今の人間では死生観は確かに違うけど
強力な兵器に対する純粋な恐怖は今も昔も変わらないはず。
それから雨が降っても射撃ができる工夫は当然色々されていた。
雨中使用できないって思うのはゲームのやりすぎだな。(w
81 :
46:2001/03/08(木) 12:00
>>80 長篠の合戦で、信長が鉄砲を防水の為藁と油紙で包んで、
火縄の火が雨に濡れて消えないように雨よけの傘を特製したのを
前に何かの本で読んだよ。
しかし、その程度の防水じゃ土砂降りの雨にいかほどの効果があったのか、
甚だ疑問だな。
>雨中使用できないって思うのはゲームのやりすぎだな(w
なんだ、これは?
「信長の野望」知らないの?
>>80は、そういうゲームが「火縄銃=雨が降ったら使えない」という
固定観念を生んでいて、
あんたがその固定観念に捕われてるという観点からレスつけてるんだから。
脊髄で反論するまえに、もう少し大脳新皮質を有効に生かしてみたらどうだい。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 17:14
戦の勝利で重要なのは士気です。
戦闘中に味方が一人でも逃げ出したら
そこから陣形や隊列は崩壊するわけで、
桶狭間や、川越夜戦はいい例ですよね。
三河兵が強いっていうのは結束力によって。
士気が維持され、なかなか壊走しなかった
からではないでしょうか?
また、鉄砲や弓の場合は殺傷能力は
似たようなもんではないでしょうか?
ただ鉄砲の場合は目に見えない&派手な音に
よる士気下げ効果が付加したものだと思います。
人は音に耐えられても馬はきっと驚きますよね。
騎馬隊に強いというのもそのせいでは?
まあ、素人考えなのでまちがってたらスンマソン
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 17:38
85 :
>82:2001/03/08(木) 17:54
◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф
ф ◆
◆ 厨房を制す者、 ф
ф 2chを制す! ◆
◆ ф
ф 覇権への登龍門 ◆
◆ ф
ф (#゚皿゚)ノ ★☆★ 厨房板 ☆★☆ (´ー`) ◆
◆ ф
ф..
http://www.bbspink.com/kitchen/index2.html ◆
◆ ф
ф ◆
◆ ドキュソ 基地外 真性 粘着 馴れ合い 痴呆 ф
фγ__ ◆
◆ \ めくるめく夢世界へおいでませ! ф
ф ヽ ◆
◆____|__||_| )) ф
ф□━□ ) ◆
◆ J |) ひろゆきたん… ф
ф ∀ ノ 待っててね…… ◆
◆ - ′ ф
ф ) …ヒヒヒヒヒ…… ◆
◆/ ф
ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆ф◆
86 :
80:2001/03/08(木) 23:52
>>81 土砂降りの中では戦はやらないよ。
だって隊列の維持が大変だし、敵味方の区別もつきづらい。
夜襲の場合は別だけどね。
>なんだ、これは?
怒らせたんならごめんなさい。悪気は無いんだよ。
ついでに何故戦国武士は鉄砲を重視したかを補足する。
敵が弓矢を放ってきたら伏せるバカはいない。
なぜなら矢は山なりの軌道で飛んでくるから。
でも敵が鉄砲を放ってきたら、どんな豪胆な人間でも
絶対伏せたくなる。避けることも叩き落すこともできないから。
兵が伏せちまったら戦力としては限りなくゼロになってしまうよな。
ちなみに当時の馬は鉄砲の音ではビビらないよう訓練していたんだってさ。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 00:05
>>86 当時の鉄砲は、乾かした竹を束ねたもので十分に防げた。
鉄砲を放たれて、本当に投じの武士は伏せたの?
それに、天候の変化で合戦中に土砂降りになることはあるよ。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 00:12
鎧を着て伏せた状態から立ち上がることは可能ですか?
仰向けの状態からは構造上立ち上がるのは無理ですよね。
89 :
86:2001/03/09(金) 00:22
>>87 しっかりと天気予報士みたいなのを付けて予測はしていたらしい。
合戦中の土砂降りになるってのは可能性としてはありえると思うけど
この合戦で土砂降りになって鉄砲が使えなくなって困ったとかって
例はあるのかな?何か知ってる?
それから竹束は防ぐんじゃなくて、弾をはじくもの。
当然当たり所が悪ければバラバラになることもあるし、貫通することもあった。
またそういった防弾具は常に不足気味だったらしい。
>>88 言葉足らずだったけど、伏せたんじゃなくて逃げたの。
伏せたくなるけど伏せたら殺されるからね。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 00:31
>>89 長篠の合戦が、途中から土砂降りになって鉄砲が使えなくなった説を聞いたことがある。
>言葉足らずだったけど、伏せたんじゃなくて逃げたの
ほー、伏せたんじゃなくて、逃げたのー。ふーん。
91 :
89:2001/03/09(金) 00:33
>>90 いや耐えられなくなった奴らってことね。
そこから陣形や隊列が崩壊するわけね。
それから長篠が土砂降りになったって話ははじめて聞いた。
ちょっと調べてみます。
92 :
75:2001/03/09(金) 00:34
>76
これだからドキュソは困る。アンタのは他人の文章を鵜呑みにしてるだけ。
「他の資料にない」じゃなくて、一つでもいいから兵濃分離の
証拠となる史料を出せと言っているんだよ、オレは。
だいたい、インパクの解説は穴だらけ。他家と比較して考えれば
すぐに気が付くはずだ。
>地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し、(インパクより)
どこだって軍団の中核は地侍・地主・名主。
そしてそれぞれが自領内の人間を集めて馳せ参じて来る。
つまり、小隊の指揮官に相当するのが地侍やら名主やらで、
その他大勢を占める足軽や雑兵は農民。
もし織田家がこの農民を使わなかったなら、動員兵力は
石高あたり他大名家の10分の1程度になるだろうな。
美濃攻略に時間がかかったのは、国力的に美濃と尾張が
拮抗していたから、信長が得意とする大兵力で一気に
潰す戦法が不可能で、だからじわじわと切り崩していっただけ。
93 :
75:2001/03/09(金) 00:35
>>77 佐久間が本願寺包囲についたのは信長が出陣して天王寺砦の
包囲を破った後。『信長公記』すら読んでないな?
出直せ。
94 :
75:2001/03/09(金) 00:36
>>78 1576年と言えば石山本願寺以外の反信長勢力があらかた
潰れた後。それでも動けない兵が『常備軍』と呼べるのか?
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 00:43
>>91 俺も一度だけ図書館で読んだ本に書いてあったんだけど、
その本の題名を忘れてしまって、その後すごく気になってるんだ。
でも、徳川びいきの論調の本だった様な記憶があるから、
手放しで信用はできないかも。
その本によると、その後に白兵戦になって、
武田勝頼が手勢を本隊12000と8000にわけ
主力の12000を徳川勢8000に当て、
残りの8000を織田勢22000に当てたとあった。
武田勢8000は織田勢22000を存分に蹂躙したが
徳川勢8000が武田勢の主力12000を押し返し
余勢を駆って、武田勢8000を横撃し織田の危機を救ったとあった。
でもこの話ってその本でしか見たこと無いんだよね。
そーいえば、信長が長篠で鉄砲の防水を施した話も、
その本に確か書いてあったよ。
97 :
78:2001/03/09(金) 01:05
>>94 呼べるよ。当然だろ?
「常備軍か否か」と「動けるか動けないか」をすりかえようとしても駄目だよ。
ちなみに1576年といえば上杉軍との抗争前夜。充分以上に忙しいと思うけどね。
98 :
78:2001/03/09(金) 01:09
もしかして94は常備軍と予備隊を勘違いしてない?
99 :
75=94:2001/03/09(金) 01:23
>>97 75で既に書いたが、北方担当の柴田は動いてないんよ。
まだ七尾城も落ちて無いのに近江や美濃や尾張や山城や伊勢や大和の兵が
動けないのはおかしいだろ?
近江だけでも78万石あって兵力2万は固いのに、結局合計3000なんやで?
羽柴秀吉だけでも近江今浜城から5000は動かせるだろ。
それが全部合計で3000しかいない。
城下に住んで、何時でも動かせて…というのが『常備軍』の利点なら、
これはおかしいと思わんか?
必要な時に動けない兵を『常備軍』と称して無駄飯食わしとくヤツは
おらんやろな。
動ける=常備軍であり、動けない=常備軍でないという考え方は
決してすり替えじゃないぞ。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 01:25
>>93 だから信長公記だけにしか、その記述が無いんだよ
その他の資料でそういう事があったって証拠を挙げろ
101 :
97:2001/03/09(金) 01:31
うーんとねえ、必要なときに必要な場所へ展開できる部隊のことを
予備兵力と言うんですよ。
予備兵力=常備兵力でないのは軍事学では常識。
それから後世の石高計算での兵力算出は誤りの元だから止めた方がいいよ。
近江だけでもいくつの城や砦があると思ってんだ?
それらの城を完全に空にすることは絶対に出来ない。
また2万人の動員力があったとしても、全てが戦闘要員ではない。
小荷駄や大荷駄などの後方要員も大量に含まれることをお忘れなく。
各武将や大名によって変わるが当時は20〜40%が後方要員だった。
102 :
101:2001/03/09(金) 01:33
あ、上のカキコを一部訂正。
必要なときに必要な場所へ展開できる部隊ではなくて
戦線の穴を早急に埋めることができる兵力でした。
ちょっと意味違うね、失礼。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 01:35
>>75 ずいぶんといろいろ噛みつかれてるねぇ・・・
まあどっちも頑張ってくれ。
ためになる話なら悪くはない・・・。
104 :
75:2001/03/09(金) 02:16
>>100 俺の知る限りでは、無い。
この時に信長が出陣し、合戦があったことは確かだが、兵力に関する
「確たる証拠」は『信長公記』しかないだろう。
小瀬甫庵の『信長記』はこの時の兵力を3万とするが、この本の性格上、
『信長公記』以上に裏付けが難しいことはお分かり頂けるハズ。
ただし、史料は「一つも無い」よりは「一つでも有る」方が有力。
何度も言うが、是非とも信長による兵農分離の確たる史料を示してくれ。
延々と推測論を続けるのはこっちもツライからな(藁
>>101 >予備兵力=常備兵力でないのは軍事学では常識。
常識も何も、農兵と常備兵の違いを議論しているのであって、
近代軍事学の「常識」とやらを持ち出されても根本的解決には
なっていないんだが……
それはさて置き、俺は「その時の状況であれば『常備軍』ならもっと動かせた
はずだ」と言い、貴殿は「その時の状況では動かせなかった」と言う。
それならば、信長の普段の軍事行動で数万単位の軍勢を動かす時は
各地の城砦はどうしているのだ?
信長による兵農分離の確たる史料を示せない限り、
織田軍も他と変わらない構成だと考えるのが妥当だが……
105 :
101:2001/03/09(金) 02:27
>>75 近代軍事学ウンヌンの話じゃないよ。
常備軍ってのは字面どおりに解釈すれば、
「常に軍隊として存在している兵力」でしょ?
だから状況によって展開可能かどうかなんてーのは問題外なの。
農民になったり兵士になったりしてなければ常備軍。
だからオレが指摘しているのは
あなたがおっしゃっているのは「常備兵」のことでは無く
展開可能な「予備兵」のことだってこと。
>各地の城砦はどうしているのだ?
あなたは緊急展開の話をしているんでしょ?
しかるべき準備をすれば城砦の兵は極限まで減らせるし、
(緊急事態ならば当然まず自分の城の安全を確保するよ)
各武将へ具体的な動員兵士を指定できる。
ちなみにオレは兵農分離に関しては
織田家で<完全>に行われていたなんて思ってないからね。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 02:39
>>104 天王寺へ急遽3000で出兵したという事自体が、疑わしいと言ってる。
付け加えれば、ありもしなかった事が文献などに書かれてる訳が無い。
なのに
>ただし、史料は「一つも無い」よりは「一つでも有る」方が有力。
とか言う馬鹿がいるのか?
まずあったと推定して物事を考える前に、事の真偽を確かめてから語れ。
107 :
106追加:2001/03/09(金) 02:51
信長の(完全にではないにしろ)兵農分離を行なっていたと思われる根拠。
・居城の度重なる移転
・居城の城下に家臣団を住まわせていた事←これはかなり重要
・城主を置くより、城代(譜代家臣の所領を認めなかった。柴田勝家の越前移封に対しても
「一時預ける」と言っている)を多用
・7〜11月に出兵or遠征を多用(特に対浅井・朝倉戦の時に顕著に出ている)
大雑把に言ってこれぐらい
予備兵でない常備兵って、普段何やってんの?
*
殿様「うらうら戦争だ〜集まれ〜」
農民兵「今、刈入れ中だべ。次男だけ行かせるってことで勘弁してケロ」
殿様「足軽長屋連中はどうした?誰も来んではないか」
足軽a「みんな遊女屋に常駐しています」
109 :
75:2001/03/09(金) 04:10
>>105 何度も言うが、合計で3000しか兵を割けなかったほど北方や
東方の状況が逼迫していたのか?と聞いているんだよ。
そして何度も言うけど、越前の柴田は動いていないわけで、
いきなり近江やら山城やら美濃やら尾張やら伊勢やら大和やらが
危険にさらされる状況じゃなかったんじゃないか?と俺は言っているワケ。
その上で、仮に織田家が常備軍を抱えていたとして、
兵士のほとんどを居城に張り付けて安全を確保しなけりゃならん理由が
あるのか?ってことなんだよ。
その点、織田軍が農兵主体であるならば、兵士は普段農村に散っているわけで、
三日じゃ集まれなくても不思議はないでしょ?
「完全」な兵農分離ではなかったとするならば、常備軍の創設が信長の
業績として挙げられるほどのものなのかどうかは議論されなきゃ
ならないわけで。(他家における少数の常備軍の有無なんかも踏まえて)
>>106 まず、原田らの苦戦があって信長が援軍を率いて出陣したのは確実。
これは『言継卿記』を始めとする複数の日記にもあるからね。
その時に「三日待って3000」の兵力だったかどうかを問題にしているんだよね?
それに対しては『信長公記』以外には知らない、と言っているんだけど、
根拠無く(他の史料無く)「三日待って3000」を否定するよりは
一つでも根拠を挙げて肯定する方が有力だろう、と書いたわけ。
俺の書き方がマズかったかな?
110 :
75:2001/03/09(金) 04:29
>>107 常備軍の設立が信長の専売特許だったと主張したいなら、根拠が貧弱。
全国的に良くある例としては普通レベルの主張。
>・居城の度重なる移転
大名の直轄領内にある城であれば移動は可能。代官の交代だけで済む。
「常備軍=城下町に住んでいる」と考えるなら、それこそ
居城の移転が難しくなる事に気付くべき。城下に住んでいた信長の
旗本が家族を岐阜に残して来たために不用心から火事を起こして
信長の怒りを買い、信長が岐阜に残っている者の家に火をかけてまで
引っ越させた記事がある。城下の人口が増えれば増えるほど
居城の移転は難しいのである。
城下に住んだのは「旗本」程度の少数だったと考えた方が自然ではないか?
>・居城の城下に家臣団を住まわせていた事←これはかなり重要
どのクラスまでの「家臣団」なのか?
重臣クラスの屋敷が大名の居城の城下にある例はどこにでもある。
(甲斐府中の古地図にも重臣たちの屋敷が記されている)
問題は戦力の中核を成す「国人レベル」の家臣、さらにはその配下として
足軽・雑兵として戦闘に参加する人間まで城下に住んでいたのかどうかである。
>・城主を置くより、城代(譜代家臣の所領を認めなかった。
譜代家臣が「城代」に留められるのはよくあることである。
例えば武田家あたりでも信玄子飼いの譜代では「城代」が多い。
(山県昌景=江尻城代、など)
何度も言うが、国人レベル(小領主レベル)がどうだったかということ。
こういった連中には所領が村一つなんてのもいて城と呼べるものすら
持たないものもいる。そのような国人たちはどうだったのか?
111 :
106:2001/03/09(金) 06:14
長いなぁ〜、長文嫌いだから簡潔に言う
・三日で3000集めて出兵した記録自体、他では無い。無い事自体が否定。
・城持ち以外の譜代や、外様などの家族を城下に住まわせた事。
これは同時期の他の大名では少ない。
・各譜代に国人衆などをまとめさせているので、国人衆が城下に住んでいる訳ではない。
あくまでまとめていた譜代・直属の国人が城下に住んでいた。
・他の大名の在地領主と、織田に所属する在地領主は根本的に違う。
これは長くなるので簡単に言えば、日本とアメリカの地方自治の違いみたいなもん。
・それと秀吉・家康の時代と混同してるようだが、過渡期にあったので
全部が全部に徹底していた訳じゃない。
それと
>常備軍の設立が信長の専売特許だったと主張したいなら、根拠が貧弱。
んな事は一言も言ってないが?何でも拡大解釈する癖は止めた方がいいなw
>全国的に良くある例としては普通レベルの主張。
全国的に良くある例なのか?特に拠点の移動は、戦国前中期の
どの大名もやらなかった(出来なかった・発想もしなかった)
と思うが?よくある例なら多数あるはずだから挙げてくれ
112 :
75:2001/03/09(金) 11:13
>>111 『信長公記』だけでも記録があることはかなり有力な
「根拠」だと思うがな。貴殿が
>>106で
>ありもしなかった事が文献などに書かれてる訳が無い。
と書いたように、『信長公記』に書かれた事自体、「あった」可能性の
高さを示すと思うが。
>城持ち以外の譜代や、外様などの家族を城下に住まわせた事。
譜代なら城下に屋敷があっても珍しいことではないんだよ。
俺は国人衆のことを聞いている。
外様の家族が城下に住んだなんてのは
それこそ人質としてどこの大名もやったこと。
>各譜代に国人衆などをまとめさせているので、国人衆が城下に住んでいる訳ではない。
とすると貴殿の言う「常備軍」は普段はどこにいるのか?
地方の小領主である国人衆が自領にいるのでは農兵と変わらないのでは?
俺が「巷間にて信じられている『城下に住み、いつでも動ける常備兵』という
発想」を疑っているのだということはスレの流れからして分かるはずだが?
>他の大名の在地領主と、織田に所属する在地領主は根本的に違う。
長くても説明もしくは入手可能な史料を示してくれないかな?
信長の前は他家に仕えていたような国人衆が簡単に「根本的に」変われるのか?
>それと秀吉・家康の時代と混同してるようだが、過渡期にあったので
>全部が全部に徹底していた訳じゃない。
どこが混同している?
また「過渡期だから徹底していない」と言うにしても多少なりとも
信長による兵農分離、常備軍の設立に関する「史料」を挙げてくれと
ずっと書いているはずだが?
まさか他人の説の「盲信」レベルで話をしていないか?
>んな事は一言も言ってないが?何でも拡大解釈する癖は止めた方がいいなw
貴殿が言わずともスレの流れ自体がそうなっているだろうが?
「信玄・謙信は農兵で信長は常備軍」という話ではなかったか?
そういった巷間のイメージとは別な織田軍のイメージを持っているなら、
まずそれを明らかにしてくれないか?話が噛み合わん(w
>全国的に良くある例なのか?特に拠点の移動は、戦国前中期の
>どの大名もやらなかった(出来なかった・発想もしなかった)
>と思うが?よくある例なら多数あるはずだから挙げてくれ
北条氏綱 韮山城から小田原城
武田信虎 石和館から躑躅ヶ崎館
の有名所ぐらいは知ってるだろ?
「戦国前中期のどの大名もやらなかった」なんてよくいったものだ。
勢力拡大に伴って必要があれば拠点を移す大名はいた。
その必要に迫られなかった(それほど勢力を伸ばせなかった)大名が
大多数を占めるというだけに過ぎない。
113 :
105:2001/03/09(金) 11:38
>>108 当然前線にいたり、訓練をしたり、城砦の警備をしたり。
もちろん非番の足軽もいただろうねえ。
>>109 前の方で指摘しているけど、俺は3日で3000の兵が集まったとしたら
それはそれで当時としては充分すごいことだって言ってるんだ。
この場合重要なのは3日という日数のことね。
信長以降の大きな戦の際に、大兵力が集まっての作戦発動から
開戦までにどれだけの日数がかかるか確認すれば分かると思う。
ヘタすりゃ一ヶ月以上かかってるんだから。
ついでに言うと、個人的には農兵の方が集結は早いんじゃないかと思う。
だって手近にいる農民に「今すぐ集まれ!」って言えば済むじゃん。
彼らは田んぼ仕事以外の仕事が無いんだから。
あと各国の危険性うんぬんについてだけど
城が空っぽになれば山賊や夜盗の類の格好の標的になっちゃうよ。
それと各戦国大名の放っている草や素破は
大喜びで破壊工作や調略を開始するだろうね。
114 :
75:2001/03/09(金) 23:53
>>113 まず私の書き込みが巷間に流布する「信長の軍隊は常備兵で城下に住んでいる」
という説を貴殿がとっているものと考えてのものだと理解されたい。
過去のスレの流れもそうであるので、これは自然な考えと納得していただける
だろう。もし貴殿が前掲の説以外の「織田軍団」のイメージをお持ちなら
教えて頂きたい。議論の方向を修正することも可能となるからである。
>前の方で指摘しているけど、俺は3日で3000の兵が集まったとしたら
>それはそれで当時としては充分すごいことだって言ってるんだ。
例えば『甲陽軍艦』によると第四次川中島合戦において、謙信が
西条山に布陣し、狼煙によって海津城から急報がもたらされてから
信玄が出陣するまでわずか二日である。
謙信が春日山城に兵を集めている段階で用心して兵を集めていた可能性は
あるにせよ、かなり早い対応と言える。
それならば信長は石山本願寺相手に自分からしかけた1576年
5月3日の戦いにおいて、万が一に備えた援軍の準備をしていなかった
のだろうか。羽柴秀吉を始めとする有力武将の部隊をただ遊ばせて
いたのだろうか。信長の軍が農兵主体であるならば田植えの時期も近いので
動員する兵力を抑えたという解釈が成り立つが、常備兵を遊ばせていたのなら
それは信長の軍事感覚の欠如と言わねばならない。
作戦の発動から実際の出陣までかなりかかるのも農作業との調整と考えれば
辻褄は合うが、常備兵を抱えながら準備期間を徒に長引かせるのは相手に
防御の余裕を与えてしまう。
なお、農兵の動員は君主→武将→国人領主→農民のプロセスを取り、伝令は
主要街道をはずれて農村まで届けなければならないため、動員に時間が
かかるのは当然のこと。城下に住む常備兵が存在するならば、これは
すぐに動員出来るはずである。例え非番でも城下にいるわけだし、
訓練なら指揮官が付いているのだから。
>あと各国の危険性うんぬんについてだけど
>城が空っぽになれば山賊や夜盗の類の格好の標的になっちゃうよ。
>それと各戦国大名の放っている草や素破は
>大喜びで破壊工作や調略を開始するだろうね。
笑止である。山賊や夜盗や透波を恐れるならどのような対策も無駄であり、
永遠に出陣などできないだろう。特に領内において信長が山賊や夜盗の
跋扈を許していたなら、それは信長の政治感覚の欠如である。
そのような状況ではいくら関所を廃止しても商人は往来の通行などできないから、
経済は活発化しないではないか。
出陣を阻む脅威があるとすればそれは他大名の出陣であろう。
115 :
113:2001/03/10(土) 00:08
>>114 えーとオレの意見を先に言っとくと
「信長は自身の軍隊の常備兵化を進めていたんだろう」
程度の考え。何の根拠も文献による裏付けも無いけどね。
とりあえずオレの立場は常備兵<>緊急展開部隊というのを言いたいだけだよ。
>第四次川中島
それは農民兵だからでしょ?
いつでも展開できる準備がされていたからじゃないかな?
>ただ遊ばせていた
他の仕事してたから来れなかったんでしょ?
>なお、農兵の動員は〜
そんなことしなくたって、その辺で農作業してる奴らに
「大殿様の命令だ!今すぐ槍を担いでついて来い!」
って言えば集まってくるんじゃないの?
>笑止である
山賊や夜盗は豊臣秀吉の全国統一後も江戸時代にだっていたよ。
そういった輩を跋扈させないために城砦を警護する必要があったと言ってんの。
相手罵倒して逃げてった方の負けだな
117 :
75:2001/03/10(土) 00:27
>>115 >とりあえずオレの立場は常備兵<>緊急展開部隊というのを言いたいだけだよ。
じゃあ貴殿との議論はその点に絞りましょうか。
>他の仕事してたから来れなかったんでしょ?
だから、何の仕事?
原田直政が討死して明智光秀ら織田家の重臣が天王寺砦で本願寺勢に
囲まれて苦戦してる時で、しかも信長自身が出馬しようって時に
それを差し置いてもしなきゃならない仕事があったの?
>そんなことしなくたって、その辺で農作業してる奴らに
>「大殿様の命令だ!今すぐ槍を担いでついて来い!」
>って言えば集まってくるんじゃないの?
集まりません。武士組織は縦社会であり、農民はそれぞれの領主に
従います。(そうでなければ統制がとれないでしょ?)
また自部隊の損失は自腹で埋めるのが基本である世の中ですから、
指揮系統を無視して動員すれば部下が反乱を起こします。
農作業を中断させられることを農民が嫌うからこそ、農兵は農閑期にしか
動員できないんですよ。無理な動員を繰り返せば一揆が起きるだけです。
>山賊や夜盗は豊臣秀吉の全国統一後も江戸時代にだっていたよ。
>そういった輩を跋扈させないために城砦を警護する必要があったと言ってんの。
だからそれでは永遠に出陣できないでしょ?留守部隊にどれだけ割けばいいの?
それこそ普段から城の警備に当たる人間はいたはずで、それ以上に出陣の
ための兵力ってのがいたんじゃないの?
だいたい、山賊だの夜盗だのと言ったって、結局当時の日本の商人の
往来を止める力すらなかったのでは?それが城を乗っ取るほどの
力を持つの?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:43
>>117 >だから、何の仕事?
すまん、知らん。じゃあ秀吉たちは何してたのかな?
身一つでも駆けつけて来るべきだったんじゃないの?
それが出来なかったってのは何か他の作業(兵の集結とか)をしてたからじゃないの?
>集まりません
ありゃ、そうですか。
じゃあ聞くけど常備兵だったら指揮系統を無視して統率できるってわけ?
当時は近代国家の軍隊のように中央政府が管理する兵士を
武将達に配分するなんてことは無かった。
そういう意味ではあなたが言ってることも矛盾してるよ。
>山賊、夜盗
別にそんなに強力な連中だなんて言ってないよ。
仮に空っぽになってたら城下や村は襲われるだろうけどね。
実際、海賊衆はそれを行っていたわけだし。
商人たちは当然武士たちを雇って警護を依頼していた。
また街道は関所(信長は廃止したが、それは税金を納めるシステムのみ)
を中心とした警備がいたしね。
オレは『信長公記』ってちゃんと読んだことないんだけど、
信長はその戦いで3000の兵のみで戦ったの?
当然その後に兵はどんどん集まったんじゃないのかね?
119 :
115=118:2001/03/10(土) 00:49
>じゃあ貴殿との議論はその点に絞りましょうか。
え?常備兵<>緊急展開部隊に同意できないの!?
120 :
75:2001/03/10(土) 01:42
>>118 >>119 >え?常備兵<>緊急展開部隊に同意できないの!?
あくまでも「当時の」事を考えているわけで。語彙的な意味からは外れて
議論せざるを得ないと思いますが。最初は「常備兵ならもっと動員できた
はずではないか?」から始まったわけですし。
>身一つでも駆けつけて来るべきだったんじゃないの?
>それが出来なかったってのは何か他の作業(兵の集結とか)
>をしてたからじゃないの?
出来なかったというよりは実際ほとんど身一つに近い状態で
駆け付けてます。だからこそ、武将ばかり多くて兵士がなぜいないのか?
という問題になるんです。
>じゃあ聞くけど常備兵だったら指揮系統を無視して統率できるってわけ?
>当時は近代国家の軍隊のように中央政府が管理する兵士を
>武将達に配分するなんてことは無かった。
個別の指揮官に相当する武将たち自身は集結したので指揮系統は
無視されていません。だからこそ、なぜ指揮官ばかりいて兵が
いないのか?となるわけです。
>オレは『信長公記』ってちゃんと読んだことないんだけど、
>信長はその戦いで3000の兵のみで戦ったの?
>当然その後に兵はどんどん集まったんじゃないのかね?
次の書き込みで『信長公記』の内容を解説することにしましょう。
121 :
118:2001/03/10(土) 01:50
ついでで申し訳ないんだけど、
誰と誰が来たか教えてくれる?
122 :
75:2001/03/10(土) 02:23
1576年になって毛利家が敵対の姿勢を固め始める。
対抗上、信長は毛利軍の前進拠点となり得る石山本願寺の攻略に着手。
四月には荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政が付城を構築、
本願寺包囲を開始。この包囲の中心となったのが天王寺砦。
本願寺側は木津川を利用して水路から補給を行っていた。そこで
木津川河口の岸にある本願寺側の砦を落とし、河口を封鎖することが
作戦目標となった。
5月3日
早朝、織田軍の三好康長・原田直政・根来衆が本願寺勢と野戦の末、敗北。
原田直政は討死、本願寺勢は明智光秀・佐久間信栄らの篭る
天王寺砦へ押し寄せ、1万5000ほどの兵で包囲。
京都にいた信長にも報告が行き、信長は諸国に陣触を出す。
5月5日
信長は100騎ほどで京都を出陣、若江まで進む。
5月6日
後続部隊の到着を待つ。
5月7日
集まった3000ほどの兵力で天王寺砦を包囲する1万5000の
本願寺勢の中に乗り入れ、強行突破。天王寺砦に入る。
さらには天王寺砦の城兵と合流して突出攻撃、本願寺勢を本願寺まで
追い返すことに成功する。
相手が1万5000とはいえ包囲網を突破するだけなら3000でも
十分かもしれないが、驚くべきはその時に集まった顔触れである。
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・滝川一益・蜂屋頼隆・
羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一徹・氏家直道・安藤守就
名のある武将だけでこれだけの面子である。これだけ揃って兵力が
3000に過ぎなかった理由として『信長公記』は
「突然の出陣だったから雑兵までなかなか集まらなかった」としている。
123 :
118:2001/03/10(土) 03:09
今、手元にある本を色々読んでいるんだけど
5月6日には荒木村重が木津を攻撃するなど
多方面で同時攻勢をかけているようにも見えるんだが。
それによって浮き足立った門徒衆は
それほど多くない信長軍に追い返されたとは言えないだろうか?
まあ、これによって将は集まれど兵は集まらずの説明にはならんけどね。
当時の動員体制も含めてもうちょっと調べます。
124 :
118:2001/03/10(土) 03:11
上の書き込みは、とりあえず
「緊急展開された兵は3000だけではなかったのでは?」
ということです。
125 :
106:2001/03/10(土) 03:22
>>112 信長が3000で出兵したというのが事実なら、その他の文献に必ずそれらしき事柄が書いてある。
しかし、当時の文献に全く記載されていない。裏付けが全く無い。
記載されてるのは信長公記だけという事実を、どう捉えてるのか?
一つの文献に記載されてただけで「事実」と捉えるのか?
>俺は国人衆のことを聞いている。
直属の国人衆が住んで、後はそれぞれの直属のトコに入ってるって書いた。
>俺が「巷間にて信じられている『城下に住み、いつでも動ける常備兵』という発想」
お?拡大解釈だなw 城下に住んでいるのが常備兵ってのは、江戸時代の事だよ。
人にウダウダ言う前に自分で多少は調べたの?
>長くても説明もしくは入手可能な史料を示してくれないかな?
柴田勝家と前田・佐々・不破に当てて「越前国掟条々」を天正三年九月に出してる。
その内容は自分で確かめるように。
>北条氏綱 韮山城から小田原城、武田信虎 石和館から躑躅ヶ崎館
よくあるって言ったのに、たったこれだけ?それに付け加えれば
氏綱の小田原移動→伊勢宗瑞の時→北条氏は元々関東土着では無い
武田の移転なんて国内での移転、というか信長の居城移転との例に引き合いに出す自体見当違い。
>勢力拡大に伴って必要があれば拠点を移す大名はいた。
だから勢力拡大につれて移転している大名は何処だ?
>「信玄・謙信は農兵で信長は常備軍」
君の「常備軍」とは具体的にどういうものなのか教えてくれ。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 03:28
で 信玄と謙信はどっちがつよいの?
「日本歴史大系7 戦国動乱と大名領国制」
「織田政権の基礎構造 織豊政権の分析1」
「織豊政権の成立」
「信長と石山合戦」
「尾張の奉公衆と在地領主」
128 :
75:2001/03/10(土) 06:00
>>125 >しかし、当時の文献に全く記載されていない。裏付けが全く無い。
ところで、当時の文献て何を調べたんだ?
戦があったこと自体はどの文献も認めている。兵数に関して正確な数値を
残す史料なんてのはほとんど無いのが普通だろ?
その点で『信長公記』は最も信頼し得る史料だと思うが?
>直属の国人衆が住んで、後はそれぞれの直属のトコに入ってるって書いた。
「直属のトコに入ってる」ってのは具体的にどんな支配体制で
どんな軍制を敷いているんだ?
>お?拡大解釈だなw 城下に住んでいるのが常備兵ってのは、江戸時代の事だよ。
>人にウダウダ言う前に自分で多少は調べたの?
秋山駿、堺屋太一、津本陽、童門冬二…といった文学畑の人間が相当に
喧伝しているが?
だから俺は75以来、「常備軍」を否定しているんだぞ?
俺の解釈が「拡大解釈」だと言うなら、貴殿の解釈をお聞かせ願いたいな。
「信長軍団」とはどのような編成、どのような構成の軍だったと考える?
>柴田勝家と前田・佐々・不破に当てて「越前国掟条々」を天正三年九月に出してる。
>その内容は自分で確かめるように。
これがどう「史料」なんだ?俺は貴殿の
>>111の
>他の大名の在地領主と、織田に所属する在地領主は根本的に違う。
>これは長くなるので簡単に言えば、日本とアメリカの地方自治の違いみたいなもん。
という発言に対して史料を求めたはずだが?国人領主の扱いに気を付けろ
というのが「根本的な違い」か?
越前が一度は織田領になりながら一向宗に乗っ取られるという特殊な
経緯を持つからこそ国人衆の扱いに注意を促しているんだろうが。
>だから勢力拡大につれて移転している大名は何処だ?
里見義尭の安房稲村城から久留里城という例もある。
安房から上総という国をまたいだ移転でしかも房総半島に
勢力を拡大する都合からの移転だ。これで満足か?
しかも「土着」だぞ(w
>君の「常備軍」とは具体的にどういうものなのか教えてくれ。
俺がずっと否定しようとしているのは前述のどこぞの文学畑の人間が
巷間に流布させてしまった「城下町に住む常備軍(傭兵集団)」
などという「イメージ」だよ。
こっちこそ貴殿が擁護しようしている「信長軍団」がいかなるものか
聞きたいものだ。
129 :
106@参考資料:2001/03/10(土) 07:31
>>
>ところで、当時の文献〜史料だと思うが?
1から10まで言わないと理解できんのか?
石山合戦に1576年に信長が出陣したのは記載されてる。
だが「3日待って3000で出兵」なんて記載は無いって言ってるんだよ。
しかも天王寺砦周辺の状況変化によっての、突然の出兵って事自体も
当時の同時期に書かれた文献に、それらしき事すらない。
信長公記の創作の可能性が強い。
「織田信長文書の研究」という、信長の発給した文書集がある。それでも読め。
>「直属のトコに入ってる」〜敷いているんだ?
>>127で挙げた本を図書館でもいいから読め。
>秋山駿、堺屋太一〜成の軍だったと考える?
同上。ついでに作家本と史料とを混同するな。
>という発言に対して史料を〜注意を促しているんだろうが。
内容をよく読め。何処を読んだら「扱いに注意しろ」なんて読めるんだよ。
支配体制・裁判権などに止まらず、常備兵などの事も書いてある。
>里見義尭の安房稲村城〜都合からの移転だ。
馬鹿丸出し過ぎて言葉も出ないよ。義尭は本家の義豊を殺してる。
里見には安房系と上総系があることも知らないのか?
>俺がずっと〜聞きたいものだ。
なら文学畑と思ってる諸氏の本の相違点や疑問点を挙げればいい。
史実かどうか疑われてる事柄を例に挙げて、全否定か一部否定かも判らないレスをする必要は無い。
そんなライトな君は
>>127を読むようにw
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 07:38
131 :
118:2001/03/10(土) 18:35
>>122 ざっとですが『信長公記』の該当個所を読みました。
読んだ上で疑問に思った点がある。
織田軍団の有力武将は集結しているが、
いわゆる与力武将が全くいないのは何故かという点。
彼らは陪臣ではなく、信長によって付けられた軍監なのに
何故彼らは集まっていないのか?
彼らは部隊を率いて何らか作戦行動をしていたからと考えられるのだが。
部隊は動かせないけど信長の機嫌を損ねると後々面倒だから
大将だけでも集まったんじゃないの?
事実、ここに来なかった連中は信長の不興を買っているようだし。
それからあなたが110で挙げている事例なんだが、
これって織田軍が兵農分離を進めていた証拠にならんかね?
いつまでも尾張の自分の所領に家族(当然中間や小者も含まれるだろう)を
置いておいた連中が信長にメチャクチャ怒られたんだから。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 23:07
>>129 で、結論は?
読め読め言わんとズバリ結論言えや。本屋の宣伝じゃあるまいし。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 23:18
>>132 >>112の
>長くても説明もしくは入手可能な史料を示してくれないかな?
に答えただけ
無駄な長文書くより、史料提示した方が早い。
まともに読むとは思えんけどw
134 :
里見研究家:2001/03/10(土) 23:32
>>129 義尭が真里谷武田氏から久留里城を受け取って新たな居城としたのは事実。
アンタが125で訊いた勢力拡大に伴う居城の移転以外の何物でもない。
揚げ足取ってないで認めろよw
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 23:35
>>133 だからアンタの結論言えよ。
信長はどんな軍団を持っていたと考えるのか。
農兵?傭兵?常備軍?
二人だけの世界に浸るなよ(ワラ
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 23:57
>>134 研究家って来たかw
里見については、それほど詳しい訳じゃないが
戦国期の里見宗家の争いを見れば、義尭の勢力の本拠が安房ではなく上総にあると考える。
それは父・実尭が義豊との争いで自刃し、義尭は一時期安房から逃れて
北条氏綱の援助を受けて、正木時茂・時忠・弘季らの上総に勢力を張っていた
正木氏の力を借りて安房稲村城で義豊を自刃させている。
義尭の勢力は一時的にせよ、安房から無くなっている。
これをどう考える?
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 23:58
>>135 結論は本読めばわかる。
読めばだけどなw
138 :
75:2001/03/11(日) 00:04
>だが「3日待って3000で出兵」なんて記載は無いって言ってるんだよ。
じゃあ他の「同時代に書かれた文献」とやらにはどう書いてある?
「読め」と言われても取り寄せに一週間ほどかかるんでね。
簡単にでも説明してくれればありがたい。
>同上。ついでに作家本と史料とを混同するな。
混同してたら75以降のレスはつけなかったよ。
>>52 >>57 >>59 >>63あたりで常備軍だの傭兵だのの話が出たから
あえてそれらを疑うレスを書いているだけで。
そして一般の人間に対しては作家の方が影響力があるからな。
「巷間にて流布せしイメージ」を念頭に置いているだけだよ。
もっとも歴史家でも『長篠・設楽原合戦の真実』の名和弓雄なんかは
織田軍=傭兵を説いていたがな。
何度も書くが貴殿の持つ織田軍団のイメージは?
それを聞かなきゃ貴殿との議論は噛み合わないと何度も書いているのに。
>内容をよく読め。何処を読んだら「扱いに注意しろ」なんて読めるんだよ。
>支配体制・裁判権などに止まらず、常備兵などの事も書いてある。
「国に立置き候諸侍を雅意に扱ふべからず。いかにも悃にして
然るべく候。さ候とて帯紐を解き候様にはあるまじく候。……」
国人衆の扱いに注意を促しているようにしか読めんが?
>史実かどうか疑われてる事柄を例に挙げて、全否定か一部否定かも判らないレスをする必要は無い。
俺は少数の傭兵的な常備軍がどこにでも存在することを75の時点で
(つまり始めから)認めている。敢えて分類するなら一部否定だよ。
このスレで出てきた「織田軍は傭兵」だの「織田軍は常備軍」だの
いうレスに疑問を投げかけているだけ。
ついでにいえば、結論言ったら勿論突っ込んでくる。
そしたら一々説明する。
説明したらソース示せと来る。
だから史料提示が一番早い。
それに、それほど知識欲求が高ければ、提示した史料ぐらいには目を通すだろうしね。
それすらやらないんだったら、たいして興味ないな。
興味無い奴に詳しく述べても無駄なだけだし。
140 :
里見研究家:2001/03/11(日) 00:22
>>136 里見家全体の本拠は紛れも無く安房国であり、安房稲村城。
義尭は内紛の結果、居城に逃げ込んだだけの話で、義豊を討ち取って
稲村城に入っている。
ついでに言えば里見義尭は国府台合戦に負けて上総を失ったことがあるが、
安房があったから生き延びることができた。
一族の人間が要地に居城を持つ例はいくらでもあるぞ。
まさか『北条氏邦は武蔵に居城があったから小田原北条氏ではない』とは
主張するまい?
里見氏系図(カッコ内は当主となった順番)
義實(1)――成義(2)――義通(3)――義豊(5)
|
|―實堯(4)――義堯(6)
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 00:33
>>138 >じゃあ他の〜してくれればありがたい。
書かれてないとレスしてるのに、書いてくれって言われても無理です。
それと図書館に行った?大きいトコならあるかもしれんよ。
>混同してたら〜書いているのに。
信長は兵農分離や常備兵を意識してやっていたんじゃなくて
彼が行なっていた政策の結果でそうなっていただけ。
だから過渡期と書いたし、信長の軍が常備兵や傭兵という表現も正しい。
詳しく言えば一部がそうなっていた。
他の勢力と比較すれば、まさに傭兵部隊で、常備兵であった。
>国人衆の扱いに注意を促しているようにしか読めんが?
さて「越前国掟条々」の「領中之員数ニ云々・・・」を読みましたか?
本気でどうあったか知りたいなら、マジで参考史料を読んだ方がいいよ。
それと作家の流布したイメージにケチつけてたら、きりが無いし読み物として読めないよ。
>>141 マジでドキュンには付き合わない方がいい気が。
もう
>>138なんかで
「俺はなんでも知ってるぜ〜」みたいに言ってるし。
143 :
75:2001/03/11(日) 00:50
>>141 >書かれてないとレスしてるのに、書いてくれって言われても無理です。
>>129で
>石山合戦に1576年に信長が出陣したのは記載されてる。
と書いていたから、その他の文献にどのようにその時の出陣の内容が
記されているか聞いたんだけど。
>さて「越前国掟条々」の「領中之員数ニ云々・・・」を読みましたか?
領中=蔵入地に関する条項
員数=石高
であり、直轄地と恩賞について注意している条項と読みましたが?
(角川ソフィア版、奥野高広・岩沢愿彦両氏による注釈より)
>それと作家の流布したイメージにケチつけてたら、きりが無いし読み物として読めないよ。
それが「小説」であるならば俺も文句はつけないよ。
彼らはさも歴史的事実であるかのように「歴史に学ぶ」などと
称して評論やら何やらを世に出しているからね。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 00:50
忙しい〜
>>140 家系図の4代目の実堯が初代義實の実弟って説もあるが、こりゃまた別の話だな。
里見家の本拠は安房なのは認めるよ。でも義尭自身の本拠は上総だって。
理由は
>>136でも挙げた通り、上総正木氏は全て義尭に味方している。
(義豊が時茂の父・時綱の仇だったのもあるが、それ以前に実尭が上総に勢力あったからとも取れる)
実際に義尭は義弘を佐貫城に置いてるし、義弘は佐貫城を根拠としてる。
義尭が稲村城に入ったのは、里見宗家を継いだのは自分だと言う政治的アピールに見れる。
事実、彼の稲村城滞在は短期間だったのでは?
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 00:55
だんだん殺伐としてきたね...
146 :
制服向上委員会:2001/03/11(日) 00:57
>140
私も里見家の歴史に興味があります。
そこでお尋ねしたいんですが、通説では2代目と言われている
里見成義(義成)は、架空の人物ではないんでしょうか?
また4代目と言われてきた里見実尭は、実は里見家の当主では
ないということが明らかになっているのでは?
147 :
131:2001/03/11(日) 01:01
…もうボクのことなんてどうでも良くなっちゃったのね。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 01:09
>>131 「旗本」の話ですから。信長直属の小身の侍たちである旗本が、
城下に住んで常備軍と化していたとしても、「織田軍」という
視点からすれば数が少ないでしょう。
むしろ従来の、国人領主たちが手勢(農兵)を率いて参集してくるスタイルを
どこまで変革していたのか?というのが「傭兵軍団」あるいは「常備軍」
と喧伝し得るほどのものであるかどうかの分かれ目となると思われます。
149 :
131:2001/03/11(日) 01:18
>>147 誰だお前は?
>>148 「旗本」と言うより「御馬廻り衆」または「母衣衆」
と言った方がベターですかね。
彼らは総勢数百騎程度だと思われますが、それぞれが
数人〜10人程度の中間や小者を抱えていたはずなので
総勢では万単位の兵力に成りえたと思いますが、どうなんでしょう?
ちなみにオレの立場は前述の通り
「段階的な兵農分離が行われていた」という立場です。
もちろん法令としてそれを行っていたわけではなく、
戦争形態に合わせて自然にそうなっていっただけだと理解していますが。
それから「傭兵軍団」ってのはちょっと違うように思いますが。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 01:21
106=133=136=137=139=141=144、かなり疲れ気味・・・
>>143 >直轄地と恩賞について注意している条項と読みましたが?
だから在地領主には、通常自領の処遇については干渉を受けないようになっていたんだよ。
それを全て信長自身の裁量によって決めると書かれている。
他の勢力の支配体制から見れば、画期的な内容だと思うが?
>と書いていたから〜聞いたんだけど。
こんなもん、図書館に行けばすぐ調べられると思うけど。
マジでその程度ぐらいは調べられませんか?
>それが「小説」〜世に出しているからね。
だから混同しているって言ってんだけどね。
作家が書いた本は、あくまで「作家が書いた本」であり
それを事実と捉えて、主張する人はその程度の知識欲求だけだと言う事です。
史実を詳しく調べたい人なら、まずそれらに書かれてる事が事実かどうかを
疑問を持ち、自身で様々な史料等をある程度調べて、それから異論を唱えるよ。
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 01:31
江戸幕府が直轄領五百万石で旗本八千騎
信長の直属兵が三千でも少ないのかな
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 01:35
>>151 直参が八千騎ってことでしょ?
その八千人がそれぞれ所領を持ってて、
足軽などを養ってるわけだから、
実際には数倍に膨れ上がるってわけ。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 01:50
里見研究家はどうしたんだろ
154 :
茶会最高:2001/03/11(日) 02:11
ここしばらく見ないうちにすごいことになっとる。
俺みたいな厨房が書き込めぬではないか。
まあ勉強になるからいいけどな。
でもこのペースでいくと最初のテーマの結論出るまで1年以上かかるぞ。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 02:13
しかし言い争ってる連中は、
「織田家は完全な兵農分離はされていなかった」
で一致しているのが面白いね。
156 :
茶会最高:2001/03/11(日) 03:17
↑そうですね。
あの・・・これから先はさあ、なるべく名前つけて書き込んでくれんかな。
誰が何言ったかわかりやすいから。
俺みたいな主に見てるだけの人にとっても読みやすくなる。
いや、何も里見研究家みたいな、ごついネームでなくてもよいのだ。
いやなら別にいいっす。
ごめん。
157 :
里見研究家:2001/03/11(日) 03:32
>>144 確かに、「里見義尭個人」としての地盤は上総金谷城(白首城?)でしょうね。
しかし、里見義尭の「里見家当主」としての地盤はやはり安房と見るべきでは?
ちなみに稲村城に入ったのが1534年、久留里城に移ったのが1537年。
なるほど短いです。
しかし1545年に義尭は安房石堂寺に多宝塔を建立するなど、文化事業は
安房中心です。
義尭はやはり「里見家当主」として地盤は安房だと考えていたのではないかと
思います。
>>146 二代・成義は確かに確実な裏付けのある存在ではありません。
しかし三代・義通以降の当主は文献によってその存在が裏付けられていますから、
その「先代」が存在するのは当然と言えば当然でもあります。
また初代・義實の産まれが1416年という説が正しければ
三代・義通が産まれた1480年に義實は62歳でちょっと高齢過ぎるように
思えます。やはり間に一人ぐらい存在したということで良いのでは?
あと、四代・實堯が当主ではなく、義豊が成人するまでの陣代であったという
説は確かにありますし、實堯が約束を守らなかったために義豊によって
討ち取られたとも言われていますが……
158 :
75:2001/03/11(日) 03:42
>>150 >だから在地領主には、通常自領の処遇については干渉を受けないようになっていたんだよ。
>それを全て信長自身の裁量によって決めると書かれている。
>他の勢力の支配体制から見れば、画期的な内容だと思うが?
素直に読めば蔵入地を勝手に分配してはならない、と読めると思いますが。
>こんなもん、図書館に行けばすぐ調べられると思うけど。
>マジでその程度ぐらいは調べられませんか?
俺のような田舎の住人は取り寄せで一週間。それやると議論の間隔が
空いちまうんで概要だけでも、と思ったんだけどね。
ま、調べてくるよ。
同時代というと日記がいいかな?
『多聞院日記』『言継卿記』『兼見卿記』『宣教卿記』あたりが
思いつくけど。
『当代記』『松平記』『三河物語』あたりの徳川系史料には載ってる?
>だから混同しているって言ってんだけどね。
>作家が書いた本は、あくまで「作家が書いた本」であり
>それを事実と捉えて、主張する人はその程度の知識欲求だけだと言う事です。
このスレの上の方とか今川義元スレとかで傭兵や常備軍を主張した人間が
混同してるんじゃないかと思って75を書いたんだけどね。
俺はそこまで落ちてないよ。もっとも、専門は武田家だから貴殿ほどは
調べていないとも思うがね。
159 :
里見研究家:2001/03/11(日) 03:49
そう言えば「居城の移転は信長独特か?」ってのが当初の問題だったような
気がする。
里見義尭との比較ではどうだろうか?
まず手始めに、
信長の那古野城から清洲城への移動
と
義尭の金谷城(白首城?)から稲村城への移動
信長は尾張東部を地盤とする織田家の傍流で、それが織田宗家である
清洲織田家を滅ぼしてその城に移動した。
義尭は上総を地盤とする現当主の従兄弟で、それが現当主を
滅ぼしてその城に移動した。
似てない?
160 :
無名武将@お腹切腹:2001/03/11(日) 04:05
横から口はさましてもらうけど、16Cに三日で3000の動員てものすごいことじゃない?
現代の米軍ですら、緊急展開用の部隊は動員命令から48時間で展開可能とか言ったりするじゃん。
無線も電話も交通機関も発達した現代でこの有様だよ。
そういったものが全く揃ってない、一番速い交通機関で馬しかないような時代、
たとえ城下に集まってたとしても三日で3000人てのは驚異的じゃないかな。
ついでに言ったら補給もそれだけ用意する必要があるわけで、そのためにも人員集めなきゃならんわけだし・・・。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 04:14
>>131 >織田軍団の有力武将は集結しているが、
>いわゆる与力武将が全くいないのは何故かという点。
『信長公記』は与力武将まで名を挙げない事が多いから、
集結してたかもしれないし、集結してないかもしれない。
例えば長篠合戦だって名前が出たのは羽柴・丹羽・滝川あたりの有名武将と
鉄砲隊の奉行5人だけだしね。
>>160 小瀬甫庵の『信長記』だと「三日で三万」だけどね(爆)
川中島合戦の時の武田信玄も海津城から連絡が来てから
2日で川中島に向けて出陣してる。
米軍の緊急展開とじゃ移動距離も必要な作業量も違うしね。
一概に比較はできないよ。
自領内を進むなら補給は後からでもできるしね。
162 :
無名武将@お腹切腹:2001/03/11(日) 04:27
>自領内を進むなら補給は後からでもできるしね。
それじゃ、WW2の日本軍じゃない。
補給線絶って下さいって宣言してるようなものじゃん。
それとも、略奪もとい現地徴発でもするの?自国領で。
>米軍の緊急展開とじゃ移動距離も必要な作業量も違うしね
移動距離に関しては、空輸するからかわんないよ。12時間もあったら世界の裏側に運べるし。
装備の積み込みに関しても、緊急展開用の部隊なんかは事前に集積完了してるよ。
問題なのは、人員の動員(召集って言ってもよい)じゃないの。
散らばってる人を集めて、組織立てた運用ができるようにして。ってことが必要なのは今も昔も一緒。
>川中島合戦の時の武田信玄も海津城から連絡が来てから
>2日で川中島に向けて出陣してる。
それって、全軍(二万くらいだっけ)?
じゃないよね。当然先遣隊みたいなもののはずだよね?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 05:02
>>162 >それじゃ、WW2の日本軍じゃない。
>補給線絶って下さいって宣言してるようなものじゃん。
>それとも、略奪もとい現地徴発でもするの?自国領で。
どうやって補給線を断つ?
敵地深く侵入したわけでも敵が自領に侵入してきているわけでもない。
>散らばってる人を集めて、組織立てた運用ができるようにして。ってことが必要なのは今も昔も一緒。
だから『信長公記』は人数をわずか3000とし、
急な出陣で雑兵が集まれなかったと書いたんだろ?
実際は用意周到な出陣で人数ももっと多かった可能性もあるし。
>それって、全軍(二万くらいだっけ)?
>じゃないよね。当然先遣隊みたいなもののはずだよね?
信玄自身。
全軍を甲府に集めなくとも、信濃にいる家臣は道中で合流すれば良い。
>>156 無名のほうがいざというときに簡単にトンズラこけて便利なのです。
165 :
160=162:2001/03/11(日) 10:37
>どうやって補給線を断つ?
>敵地深く侵入したわけでも敵が自領に侵入してきているわけでもない。
その戦での織田側の策源地って京都でしょ。となると、二条城あたりからだ。
そこから、大坂の天王寺砦までどれくらいあるの?今の地図と同じ地名なら、結構あるよ。
70キロかそこらあるんじゃないかな。健脚でも2日はかかる距離。
しかも、ただただ行軍したらいいというだけでなく、到着したら陣替えして解囲をはからなきゃいけない。
そうなると1日40キロとかの強行軍などせず、3−4日かけるでしょ。その分の糧食・弾薬をすべて持ち運ぶのなんか無理。
その足りない分は当然後方から運ぶ。もし飯が作れないようなら、戦う前から負けてるし。
信長って戦略面では極めて常識的判断を繰り返した将なんだから、
補給線を危機にさらすような真似は絶対しなかったはずだよ。
信長以外にも、名将と呼ばれるような諸将がいたのならなおさら。
用兵は拙速を重視するというけれど、原則を無視した機動なんかしないし。
また、べつに敵地深く侵入してなくても、補給を絶つ事なんてできるじゃない。
上で書いたように、策源地から戦場まで70キロ近くあるんだし、襲撃はどこでもできるよ。
八幡とか山崎近辺の、山と淀川で挟まれた隘路とか。
護衛無しの補給隊なんて500人かそこらの別働隊でも壊滅させれるし、
当然そういった危険を見過ごした護衛くらいは付けるでしょうに。
相手が、当然狙うべき事を考慮せずに、相手の無能を願うような用兵なんてあり得ない。
166 :
160=162:2001/03/11(日) 10:42
>信玄自身。
>全軍を甲府に集めなくとも、信濃にいる家臣は道中で合流すれば良い。
それじゃ、全軍が甲府から移動したことにならないじゃん。
信長の場合は、緊急展開。
信玄はわざわざ新たに城まで建てて謙信に備えてて、いつでも全力投球できるような体制を整えてたんじゃ。
甲府から、川中島までも結構距離あるよ。甲府は二日で出発したとしても、
南信濃勢なんかは一週間近くの動員余裕とかあったりしたんじゃない?
167 :
制服向上委員会:2001/03/11(日) 11:11
>157
里見義豊は従来言われていたよりも、かなり早い段階で当主になったのでは?
だから里見実尭は当主でもないし、後見でも陣代でもない。
天文の内乱は、里見家当主で稲村城主の義豊が叔父の実尭を稲村城に
呼び寄せて暗殺したというのが真相では?
168 :
制服向上委員会:2001/03/11(日) 11:27
>157
里見義豊は、鎌倉禅林で活躍した玉隠から「房州賢使君源義豊公」と
評価され、義豊は玉隠に対し、法名と号を求めている。この玉隠は
大永4年に死去しているので、つまり義豊の生年は相当さかのぼり、
里見成義(義成)の存在はあり得ないのでは?
また里見義実は2人の息子に自分の名前を一文字ずつ(義と実)
与えて、義通と実尭になったのでは?
169 :
131:2001/03/11(日) 11:27
>>159 横レスで申し訳ないけど、そこの部分だけに関しては確かに似ている。
でもそんなのだったら多くの傍系からの成り上がり大名がやってることじゃない。
自分の本願の地で無い他国への居城の移動が問題なんじゃないの?
>>161 そうなんだよねえ。竹中半兵衛の死去みたいなことが書いてあるかと思えば
長篠じゃあ数人しか書かれていない。困ったもんだ。
あと信長の緊急展開と米軍の緊急展開は確かに比較にならんと思うけど
当時の日本の戦国武将たちは兵站に関しては
同時期の世界的に見ても異常と思えるほど重要視している。
また166が書いているように、信玄は謙信が必ずこの時期に
北信濃へ進出してくるという準備がされていたから、
信長のこの場合とは同列に語れはしないだろうね。
170 :
里見研究家:2001/03/11(日) 18:05
>>167 >>168 勉強になります。
>>169 まだ一つやっただけだから。次いってみよう。
信長の小牧城から岐阜城って移動は「斎藤家を追いやってその本拠に
移動した」事例と言える。
義尭の稲村城から久留里城への移動も「真里谷武田家を追いやってその本拠に
移動した」事例だね。
貴方のいう「他国」が「他勢力の支配地」なのか「単純な国境」なのかが
問題になるかもしれないけど。
あとこれより前にある信長の清洲城から小牧城への移動なんだけど、
これは「領内で作戦目標に合わせて移動した」事例になる。
あるいは、家臣の屋敷を移動させているから、家臣団の
集住化を進めるための移転とも言える。
とすると織田家以外では
>>106で否定されてる事例ではあるけど、
武田信虎の石和から躑躅ヶ崎の移動が近いと思う。
東に寄り過ぎている石和から信濃を見据えての西への移動。
しかも家臣の屋敷を城下に作らせている。
ちなみにこの移転で信虎は反乱を起こされている。
信長は元は尾張半国からの出発で、家中の対立勢力を滅ぼした上で
国内の敵対勢力も滅ぼしているから、残っている家臣の臣従度合いが
高かったかもしれないけど、信虎は守護職出身で権力基盤が
最初から暫定的に(半端な状態のまま)固まってしまっていたから、
苦労も大きかっただろうね。
残るは岐阜城から安土城への移転。
これってどんなタイプの事例だと分析できるんだろうか。
じゃ、また。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/11(日) 18:18
>>165 甘いな。若江衆・和泉衆・大和衆・山城衆が武将と並んで参戦している。
つまり現地の武士集団は全て信長の味方。バケツリレー式の輸送が
可能だよ。あと信長は若江に二日間、滞在している。その間に
周辺地域の直轄領から物資を集めていた可能性が高い。
過去に三好三人衆が治めていた辺りには信長の直轄領も相当あったと
見て間違いはないだろうしね。
あと、そもそも信長は本願寺を包囲するために4月の段階から付城を
構築しているから、既に大坂に展開している部隊に持たせた物資が
相当あるのは疑いない。これもすぐに使える物資。
囲まれているのは天王寺砦だけで、他の武将は動いていたしね。
(天王寺砦包囲軍を倒すだけの兵力がなかっただけで)
また堺で調達する方法もある。根来衆及び雑賀五荘のうち三荘までは
信長に味方しているから、道中の警固も可能だよ。
本願寺勢は石山本願寺を中心としたごく一部の地域と海上でしか
動けない状況でもある。物資の補給に困ることは無いと見ていいよ。
天正四年の石山合戦について軽く調べた結果を報告。(以下長文)
但し、「信長公記」については多種多様なので
「信長記(太田牛一)」「信長記(小瀬甫庵)」「原本信長記」「信長公記」「安土記」
「安土日記」「織田記」「総見記(織田軍記)」「織田信長文書の研究(全三巻)」
同時期に書かれた古記録として公家女官の
「言経卿記」「晴豊公記」「兼見卿記」「御湯殿の上の日記」「言継卿記」
寺社の僧侶関係の
「宇野主水記(鷲森日記)」「多聞院日記」を参考史料として挙げる。
まず天正四年の信長の行動や石山関連の状況変化を大雑把に述べると
一月中旬に安土築城開始し、同年二月二十三日に信長は移住。
二月に紀伊由良の興国寺に寓居していた足利義昭は、備後・鞆の津に着船し
同地の小松寺に移住。(これにより毛利と織田の交渉が決裂)
四月三日、明智光秀・長岡藤孝の両名に石山近辺の青田刈り、石山本願寺に
篭城している人間の生命保証を条件に退場勧告の制札、抵抗しそうな坊官の
処罰を命じている。
四月十三日夜、今宮口で小規模な合戦。
翌十四日、荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・塙直政の四将に石山城の包囲出兵を命ずる。
これにより、村重は尼崎から海路を使い石山北方の野田に進撃し、三ヶ所に砦を構えて
木津川からの補給通路を遮断。光秀・藤孝は石山東南の森口・森河内の二ヶ所に、
直政は天王寺にそれぞれ砦を構築し、石山を包囲する。
「兼見卿記」によれば、織田方が構築した砦は「大坂表に相城七つ出来すと・・・」とある。
対する石山方は楼岸・木津口を抑えて、難波口からの海上通路を確保。
織田は木津口を占領し石山を完全包囲しようと、天王寺に佐久間信栄・明智光秀を配し
検視役に近習の猪子兵介・大津伝十郎を派遣。
ついでに包囲軍に対して信長がかなり厳しく注意を与えている。
それは四月二十八日に包囲軍の(軍監と思われる)塩川国満・安東平右衛門の両名に
懈怠者・油断者は注進し、昼夜の区別無く守備に励み、敵の出撃に際しては必ず迎撃し、
当方の命令無き進撃は慎み、不要な行動は一切無用などと書いた朱印状を送っている。
五月三日、三好笑岩(根来・和泉衆)・塙直政(山城・大和衆)の部隊が木津口の石山方に
攻撃を開始、石山方は石山城から一万余の軍勢で迎え撃ち、織田勢は敗走。
塙直政率いる軍勢は敗走を食い止めようとし逆に包囲され、塙直政・喜三郎・小七郎、
蓑浦無右衛門、丹羽小四郎が討ち死。石山方は余勢を駆って、天王寺砦を包囲攻撃した。
ここで本題の「信長が三日で3000の兵で出兵」になるのだが、「兼見卿記」によれば
五月五日、天王寺砦包囲を聞き、馬廻衆二千を率いて京を出立とある。
(出立後の事は当然ながら記載されてない。)
「信長公記」では百騎ばかりの伴衆を従え若江入城。翌七日に召集した三千余で
天王寺に出撃とある。
さらに信長公記での天王寺合戦での陣立をみれば
先陣:佐久間信盛・松永久秀・長岡藤孝(荒木村重は木津口防衛を理由に出兵拒否)
二段:滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・伊賀定治
三段目:馬廻衆とある。
これを見て疑問点をいくつか挙げると
1.馬廻衆が三段目に来ているが、「信長公記」には彼等の出陣の記載が無い
(信長は百騎程度で入城したとある)にも関わらず三段目を構えるぐらいの規模の
人数になっている。
「兼見卿記」通りだとすると、馬廻衆だけで全軍の3分の2を占めるようになる。
2.当時、北伊勢五郡長島城主・滝川一益、北近江三郡長浜城主・羽柴秀吉、
若狭一国・近江佐和山城主・丹羽長秀、東尾張・西三河の一部・南近江の一部
・和田原城主・佐久間信盛、これら三人は実質的には石山攻めに本格的に参加しておらず
臨時で召集された将である可能性が高い。
石山攻めは予め信長は出陣する予定であった可能性が高く、彼等もそれに合わせて
出兵したと考える。何故なら五月三日夜半〜五月七日早朝という流れの中で
天王寺包囲→信長に伝達→出兵→その間に諸将に出兵要請→若江入城→諸将到着
→合戦となるには理論的に諸将の参加自体が疑問視される。
予定されている(又は参加していたと仮定する)ならば、他の砦などの常駐兵、
信長自らの出陣、石山に篭る敵勢数、天王寺を囲む敵勢(一万五千余)、諸将が率いる兵数
から考えても三千という数字は考えられない。
実際に丹羽・羽柴・滝川の三名が天正五年に加賀に派遣された時、彼等だけで二万余も
動員している。
この天王寺合戦の詳細は除いて、その後の信長の行動を述べる。
合戦後、信長は十ヶ所に付城を構築し、本拠である天王寺砦には
佐久間信盛・信栄、進藤賢盛、松永久秀、水野直盛、池田秀雄を定番として置き、
真鍋・七五三兵衛・沼野伝内らに海上警護を命じている。
五月二十三日、淡路の安宅信康に対し毛利から石山に海路からの兵糧輸送の噂が
あるので、事実なら追い出し、出来れば粉砕せよと三好康長の添状を付けて送っている。
六月四日、尼崎城の荒木村重に対して石山に繋がる水・陸路の遮断を厳重にするように
命じている(謎なのが、前の合戦での命令拒否は不問になっている事)。
翌五日、若江帰城し、六日には真木島に立ち寄った後、入京し妙覚寺に入った。
そして八日に安土に帰城している。
以上から出兵した事実はあるものの、「信長公記」に記載されてるような事は考え難く、
「三日で3000の兵の召集」は「信長公記」の創作(又は誇張)が強い。
「信長公記」とは首巻のある「信長記」で、実際の「信長記」は太田牛一が日記として
記録したのをまとめ、信長の上洛から本能寺までの十五年間を一年一巻で綴った著書
であり、超一級史料として認められるものの、著者の情報不足による錯誤などが
見られる事も、証明されている。
ちなみに首巻とは上洛以前の信長の行動を記したものであり、後世付け加えられた
もので、疑問点が多く、史料的価値は劣る。
太田牛一の「信長記」を読みたければ、池田家文庫本「原本信長記」を元にした本を探すと
いいのではないかと思う。
ついでに里見について
>>157.
>>159.
>>170 義尭が上総に拠点を持っていたのは否定しないのかな?
義尭が安房に寺を建立した件で君は「里見当主」としては安房と主張しているが
義尭自身の安房稲村滞在の短さなどで否定している。
寺社関係について
君は研究家と自称するなら当然「房総里見氏の研究」という著書を御覧になったと思われるが
それに里見氏の寺院建立や寺社領寄進、真言宗や曹洞宗の
安房の在地領主に対する影響などの大きさについて述べられてるが
そこら辺をどうお考えでしょうか?
また横田光雄氏が里見氏と寺社の関係を領国形成過程で論じておられるが
そのあたりの考えも聞きたい。
177 :
75:2001/03/12(月) 03:02
>>174 >>175 感謝。
鈴木眞哉氏が『鉄砲と日本人』や『戦国合戦の虚実』で
この時の合戦の模様を伝える貴族の日記の情報源は
信長自身だったという指摘をしていました。
とすると、「2000」は信長の自己申告かもしれませんな。
荒木村重がなぜ先陣をはずれることを許したのか?
後日先陣をさせなくてよかったと信長が言ったらしいが、
天王寺砦が囲まれている上に信長が連れて来た援軍は劣勢だったのでは?
などと考えるとなるほど辻褄が合いませんな。
むしろ甫庵『信長記』のように兵が既に3万ぐらいいれば
武将の一人ぐらいはずす余裕もあったかもしれませんな。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:15
ここは素人参加不可?
179 :
桜島:2001/03/12(月) 06:07
>>178 そうかもしれぬ。
素朴な疑問をだしたら斬られそうじゃ。
ぶっそうなところじゃのう。
わしのようなド素人は見ることしか許されぬのか・・・
>>177 天王寺合戦についての当方の推論。
・丹波攻略を命じられていた明智光秀等の諸将の参加
・(「兼見卿記」での記載に基づき)五月五日時点で、馬廻衆を率いて京に滞在。
・四月からの石山周辺に対する政策・軍事行動
・昨年からの毛利との尼子勝久らの処遇に対する交渉の難航
これらから、早くとも五月中旬までには信長自身の出馬を入れた大規模な軍事行動が
予定されていたと考え、塙直政らの敗死は予定外で、それにより出兵時期が早まったものの
石山周辺には1〜2万程度の召集された諸将の兵が展開されていたと推論する。
よって京を馬廻衆のみの少数で出立し、若江城で諸将と合流し天王寺合戦に及んだと思われる。
現地である程度の軍勢を展開させて置き、後から信長自身が少数で合流し
指揮を取る手段は、この合戦以降に多用されており、それが後の本能寺で
災いとなったのは面白いところだと思う。
>>178-179
すいません、敷居を高くしたつもりは無いのですけど・・・
答えられるものであれば、史料に基づいて答えようと思います。
但し人物評や人物比較は勘弁してください。人により判断基準や価値観は違うので・・・
判断材料となる事柄を挙げることは出来ますから
それをどう捉え判断するのかは、それぞれに任せます。
武田信玄VS上杉謙信はどこへ逝ったのか…
最初からそういうスレならそれなりに有意義なのに
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 17:40
戦術では謙信
戦略では信玄 これでよかろう
184 :
桜島:2001/03/12(月) 19:12
>>181 おお!
そうであるか。
親切な人であるな。
>>183 よくないぞよ。
戦略は皆が信玄が上と認めておるようであるが、
戦術について信玄より謙信が上だと言ってしまってよいのだろうか。
第4次川中島ですら、戦略で信玄が上、
戦術では互角という意見も多いときく。
185 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/03/13(火) 23:10
里見研究家さんはどうしたの・・・・
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 00:05
ついこの間までの喧騒が嘘のようだ(藁
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 00:24
論争に負けたやつが負けを認めないまま
いなくなったからだよ(藁
188 :
百姓:2001/03/14(水) 20:39
はれ?
急に静かになっちょる。
いくさは終わったんかいのー
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 00:37
どっちが勝ったの?
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 14:04
落ち武者狩りだー
191 :
武田研究家:2001/03/16(金) 03:42
おや?もう終わったの?
192 :
1D100:2001/03/16(金) 11:00
>>184 戦術能力は互角でしょうね。
戦略 :信玄>謙信
戦術 :信玄=謙信
兵士士気:信玄<謙信(わずかに)
という感じでいかがでしょうか。
甲州兵も剽悍で精強な兵ですが、謙信を神の化身と信じて不退転で戦っている兵は
一向一揆級の士気を誇っていたでしょう。
戦術評価じゃなくて、能力というトコに
ゲーヲタの業の深さを感じる
194 :
184:2001/03/17(土) 17:58
>>192 ふーん
神の化身と信じて戦ってたのか。
でも謙信の兵って勝っても土地もらえないし、
戦わなくても攻め込まれない状況だったことも多いんでしょ。
どうして戦ったんだろ?
どうして士気が高くなるんだろ?
信玄の配下って金山からの金たくさんもらえるってきいたことがある。
なんかそっちの方が士気が上がりそう。
あと、上杉配下の将は関が原のとき裏切りも出ず、
減封後もそのまま。
なんかものすごい資産とかあったのだろうか。
歴史に詳しい方、教えてください。
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 18:12
理不尽に配下から与えられる忠誠。
それゆえにカリスマ。
196 :
与六:2001/03/17(土) 22:51
謙信公から授けられる「血染の感状」は通常の三倍の効力があります。なんちゃって。 米沢十五万石に半知削封されても家臣の召し放ちは行わなかったので、緊密な主従関係を維持すると共に、他方では財政のひっ迫と家臣の生活困難をもたらしました。明和元年藩主重定は、十五万石の封土を幕府に返納しようとまでしましたが、幕府の藩政再建の指示もあって翻意したそうです。 こんな最悪の藩財政の救世主となったのが治憲公だったわけですね。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 00:34
>>194 >どうして士気が高くなるんだろ?
宗教とはそう言うもんだ。理由なんて無い。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 00:45
謙信自身や武将の士気がどうであろうとも、兵自体の士気が
高くなければ話になりません。なぜ、上杉軍は強いのか?
それは恐らく、謙信が本能的に『孫子』の兵法を実施したからでしょう。
謙信は敵地深く攻め込むことが好きでした。
上州を沼田しか抑えていなくても平気で武蔵・下野・常陸などへと
遠征していました。このように敵地深く攻め入った兵は「死地」に投じられた
ことになり、逃げ出しても家に帰りつくことなどできない状況になります。
こうなれば必死に戦って生き延びる以外に方法はなかったのです。
特に謙信は関東出兵を冬に行いました。越後山脈が雪に閉ざされている間、
兵たちは完全に逃げ道を絶たれていたので、それこそ鬼神の如く
戦わざるを得ないのでした。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 00:50
弓兵の威力を見たけりゃ「ブレイブハート」
火縄銃の威力を見たけりゃ「パトリオット」
雰囲気は分かります。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 01:46
>>198 謙信はガキの頃、寺で勉強してんじゃないの?
>>199 『パトリオット』じゃ火縄銃の威力は伝わらないと思うんですが...。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 02:10
>192
はたしてそーいうもんだろーか。
実際は、やっぱ紙切れよりも、金なり恩賞もらえんと動かないものだよ。
兵士も在地領主(武将)も。
実際の歴史をみると、動機は謙信のきわめて個人的なものが多いが、
一応領地のことも考えている。越中・上野とか。
ただ、その維持がどへたくそで、自分のいない内にとられたり、
一向一揆が起きたりしてただけ。
202 :
198:2001/03/18(日) 23:03
>>200 その他の行動があまりにも理に適わないものばかりだから……
203 :
信長@時空の覇王:2001/03/20(火) 10:20
官兵衛よ。
これからの戦はこうなる。
なにが啄木鳥だ、車懸りだ、なにが鶴翼の陣ぞ。
戦の神だ、鬼だとぬかした信玄や謙信に見せてやりたいものよのう。
204 :
与六:
上杉に逢ふて織田も名取川 はねる謙信 逃るとぶ長