1 :
無名武将@お腹せっぷく:
タイトルの通り。 どうなん?
何が根拠なの?
江戸時代になって都合のいい解釈されただけ?
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 15:27
小牧で負けてるし……野戦よりも政略(調略)の腕前を評価すべきと思われ
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 15:28
鷹狩りで野戦の研究してた。
4 :
名無し獣:2001/02/26(月) 15:30
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 15:30
>>2 小牧は野戦有利で秀吉得意の外交戦術に負けたんじゃない?
>2
小牧は秀吉の負けという見方もあると思うが。
「家康は野戦の達人」つーのはどこから引っ張ってきたのかな?
関が原の話かな?
だとしたら野戦がうまいというより城攻めが苦手ということでしょ。
それに関が原の当時は家康以上の戦歴を持つ人がいなかったからじゃないかな。
7 :
つるこ:2001/02/26(月) 15:41
小牧はまけてない・・・・・小競り合いでは家康の断然優勢にもかかわらず一応、形だけの降伏
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 15:46
>>7 でも家康の領土は減ってる。
家康にしてみれば、無様な戦だったでしょう。
史板でやってんだろうが
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 22:55
秀吉よりは達人だろ。
寝技も達人でした。
釈由美子のほうがうまかったんだよ。
三方ヶ原の戦はどうよ?
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 23:28
>11
はじめは、出産経験のある熟女を相手にテクニックを学び
晩年は、ロリに走った。
我が人生の師
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 23:39
16 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/27(火) 00:06
>>15 追撃しすぎて、堀秀政にこっぴどくやられた事書いてないね。
17 :
名無しさん:2001/02/27(火) 00:13
家康は三方ヶ原の戦いで、武田信玄にボロ負け。
武田軍の失った兵の数は、数十人、
徳川軍は、千人以上を失う。
よって、武田信玄が戦国最強。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 00:27
三方ヶ原でああまでこっぴどくやられなければ,
家康は天下取れなかっただろうね
信玄は勝ち過ぎた.将来の敵を自分で作ってしまった事になった
19 :
名無しさん:2001/02/27(火) 00:32
信玄が早死にしてしまったから、
武田も、浅井、朝倉ら武田と同盟していた大名達もほぼ全て滅亡してしまった。
信玄がいないことにはどうにもならない。
信玄がいなければ、武田軍も、烏合の衆だな。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 01:02
信玄とガチンコして討ち取られなかっただけで立派
秀吉とガチンコして滅ぼされなかっただけで立派
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 01:04
小牧長久手は相当な兵力差があったよ。
web上にいい資料無いかな。
>>15 うむ。榊原隊が深追いしすぎてボコられた事が書いてないな。
22 :
名無しさん:2001/02/27(火) 01:14
立派というより、信玄は早く上洛したかったから、
家康なんか無視しただけだろうね。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 02:09
>>22 信玄が家康を無視して上洛を目指したら、
信長との全面戦争中に家康にケツをつかれる可能性が大だ。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 02:20
>>23 そうなったら不利になった信長を捨てて、武田に付く可能性の方が高いと思われ。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 02:29
武田の上洛なんて
農兵主体だけに長期遠征が無理だから
持久戦になれば負け
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 02:51
>>24 一回の敗戦で信長を捨てて武田に付くぐらいなら
はじめから戦わないし上杉とも同盟を結びません。
ちゅうか、本気で言ってるのですか?
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 03:14
まぁいろいろ負け戦やって経験つんだから戦上手に
なったんじゃない?
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 03:51
>>25 信長でさえも、傭兵軍団のような職業軍人を使ったという史料は存在しない。
天正18年、秀吉が「百姓が武士になることは許すが武士が百姓になる事は
許さない」という命令を出したが、これが日本における兵濃分離の始めである。
家康は落ち目の勝頼相手ですら野戦による決戦はついに出来なかった。
出てくれば引き、引けば出ていって相手の疲弊をひたすら待った。
これが野戦の「達人」か?
駆け引きの達人ではあるだろうけど。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 04:10
>>28 無謀な戦いを避けるのも「達人」
落ち目の武田勝頼でも、徳川が単身でぶつかれるほど弱くはない。
信玄の遺産をなめてはいけない。
>>28 武田は自身の重みに耐え切れず、自壊していってる過程なのに
合戦する理由が無いぞ
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 04:25
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 08:08
家康というより三河武士団のことでしょう。本多平八サマサマだな。
武田の話出てるが、戦国最強は越軍に決ってるのだよ。川中島四回戦で懲りてそれ以降野戦を避けたのがよい証拠。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 09:48
戦略では家康>信玄>謙信
戦術では謙信>信玄>家康
「家康は野戦の達人」ってのは、聞いたことないなぁ・・・
「海道一の弓取り」ってのはよく聞くけどね。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 09:57
>>33 信玄と家康が会戦した時の双方の経験による
熟練度や兵力数の差が大きいから三方が原の合戦をもって
比較するは厨房まるだし。
つーか司馬ヲタだろ。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 10:00
負け戦の逃げっぷりが大したモンだって誉められたって話は聞いたことあるが。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 10:01
信玄ごときと家康を同列でかたるは笑止
家康はうんこたれぢゃん。
38 :
33:2001/02/27(火) 11:12
>>34 いや、三方ヶ原は度外視してるんだけど(藁
あれは、まだ家康も若かったし、信長にいいとこ見せたい
ってのもあっただろうし。
信玄とは同クラスだとは思うけど、関ヶ原の布陣はまずいだろう
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 11:55
>>38 関が原に先に布陣したのは西軍なんだから、あたりまえじゃん。
不利な地形にもかかわらず半日で西軍を壊走させたところが絶妙。
……そうか……
そんな、相手の有利なとこに突っ込むのが「野戦の達人」と
いうことだったのか……
とっても勉強になったよ(藁
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:17
関が原で東軍が逃げてどーすんだよっ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:19
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:28
小牧長久手でもっとがんばって
秀吉をどうにか討ち取れんものかな?
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:36
>>43 それをしようとして、こっぴどくやられたんだろうが。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:39
>>44 はぁ?
負けたのは秀吉だろ
もっと勉強してね(はぁと
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 13:46
>>44 200日も膠着状態の挙句、
池田も森も徳川勢に討ち取られたんだろが。
ついでに秀吉も殺っときゃ良かったのにな。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 14:05
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 14:09
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 14:16
>>47-48
煽りにマジレス、さんくす。
>>44 秀吉が家康に人質を差し出し上洛させた経過なども含め
小牧で家康がこっぴどくやられたとゆーことはない。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 14:25
秀吉は実母を人質に差し出し、やっとの事で上洛させたんだよな。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 06:30
達人なら島津喜弘を打ち漏らすわけないじゃん。つーか真田に大坂であんなに苦戦するか。まったく、経験も戦歴も積みゃーいいってもんじゃないという好例だな。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:24
つーか、姉川や小牧長久手が目立った戦歴だけど。
後は、今川や武田がしょぼしょぼ。
………どこが達人なんだろ?
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:28
おまえの言う達人ってどの域にまで達した奴のこと言うの?
とりあえず徳川に支配された大名は違うんだよな?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:29
長久手の戦いは4つに分かれた分遣隊を徳川の大軍で
各個撃破した戦いだからな〜。
池田・森両隊で徳川本体より少数だし。(うろ覚え)
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:30
徳川の方が少数
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:33
秀吉軍は10万といっても、「のべ人数」だそうだ。
10万が集結したことはないそうな。
あと、信雄の軍はかなりの数で徳川・織田で25000ぐらいという
のが実情らしい。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:40
はったりばかりで実のない豊臣らしいな
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:41
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 15:47
>>56 しかも、その豊臣勢の過半数は
長篠の合戦のような友軍が勝ってるにもかかわらず
逃げ出すようなヘたれぞろいなんだろな。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 16:55
>>53 >おまえの言う達人ってどの域にまで達した奴のこと言うの?
逆に、どれ位なら達人に相応しいか知りたいね。
これくらい程度の戦歴なら、島津も毛利も上杉も
あるね。
家康の戦歴は三河統一やら、武田や北条の小競
り合い-----中央に比べれば程度がほとんど、戦はたっしゃ
だろうけど、それでホンとに達人と言えるのか疑問だ。
>とりあえず徳川に支配された大名は違うんだよな?
野戦で打倒してきた大名は普通、滅ぼされると思うんだが。
因果関係はあるが、=ではないよ。OK?
所で家康が支配した大名は日本全国1600年代いた
だろうけど、自力で打倒した大名って威張れるほどあるか?
今川も、武田も、北条も自分が協力者で他勢力(織田、武田)
主だったような…。
あ、豊臣政権の時は別ね(藁。
>>57 とりあえず、キミの島津軍の評価は良くわかったよ。
尾張以下の弱兵揃いとは斬新な解釈だなあ。
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 16:59
戦が達者なのが達人なんじゃないのか
小牧長久手についてはよう知らんが、
三方ヶ原、関ヶ原みたいな戦やるときには
斥候ぐらい送って、敵がどんな布陣しているのか確認しろや。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 17:41
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 17:55
>>63 戦国関係の本を読むと何回か目にする。
俺は徳川連合3万というのも見た。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:08
俺が見たのは16000だったがな。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:09
>>60 ならお前にとっては、島津も毛利も上杉も 達人の域では無いんだな。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:19
>とりあえず、キミの島津軍の評価は良くわかったよ。
>尾張以下の弱兵揃いとは斬新な解釈だなあ。
なんだ、これ?
まあ、しかし、島津の強さは捏造もいいとこだがな。
実際、噂の1/10も強かないだろ(w
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:23
>>60 徳川にとっては弱兵な豊臣兵も島津には強すぎました(爆
69 :
名無しさん:2001/03/12(月) 08:53
age
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 09:43
>>67 なんかまた奇妙奇天烈な表現が出てきたな。
1/10ってどういう表現だ?
戦国ゲームの合戦能力値を1/10にすれば、実際の強さにでもなるってのか?
兵力・石高などの物資で表せるもの以外を数的に表現する事自体、欺瞞に陥っている証拠だな。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 17:38
家康は信玄を尊敬してたんだから
信玄>家康でしょ 家康は信玄の真似をしてると思われる。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 12:07
家康が日本最高の野戦司令官という評価を受ける
ようになったのは、その戦歴から。
そのはじまりは、やはり当時最強と言われた武田信玄に
真っ向からぶつかっていったことにはじまる。
やがて、信長に呼び出され、各地で戦歴を重ねるうちに
ともに戦う尾張衆の中に家康とその三河武士団の戦での
強さが印象づけられていく。
やがて、小牧長久手で実際に尾張衆が三河衆に局地戦
ではあるが、完全に撃破されるにいたってその印象は
濃厚になっていき、その後も秀吉の大軍に対して一歩も
ひかないその姿勢が、「家康強し」のイメージをその場に
居合せた諸大名に決定づけた。
つまり、日本最強の武田軍、天下人秀吉と戦ったという
事実こそが、家康、野戦達人説の根拠。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 12:12
ちなみに、武田崩れの時に一緒に武田領に攻め入った
北条勢は徳川勢の強さをみており、
その後、北条五万と徳川八千の対峙が甲州あたりで
あったものの、北条側から和睦の申し入れがあり、
決戦に至らずに終わっている。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 12:28
>>72-73にほぼ同意。
野戦の名人と言われたのはその晩年だと思うし、
その時代に信玄・秀吉の双方と実際にぶつかった武将はいただろうか。
その経験は否が応でも家康を達人にしていると思う。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 19:46
>>74 明智光秀は信玄と秀吉の両方と戦ったことがあるような・・・
76 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/13(火) 20:00
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/13(火) 22:05
>75
戦っても死んでるじゃねえか。
だいたい信玄とはいつ戦ったんだよ。
浪人時代か?
おら、答えてみろ。インチキ野郎。もといチキン野郎。
あんまりしょうも無いことに鬼の首とったみたいに噛みつくなよ。
ティンティンちいちゃいyo!
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 00:20
私は74ではありませんが、
明智光秀は武田軍が東美濃に進出してきた際、
岩村城でこれを撃退しています。
光秀は一説によれば美濃明智郷の出身と言われ、
岩村・明智近辺の地形を熟知していたのかもしれません。
無論、信玄の本隊を撃破したわけではありませんが。
80 :
名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 00:29
姉川の戦いでは、家康の部隊がいなかったら、
信長は総崩れだったかも(?)
やっぱり「三河武士団は強かった=家康強い」でいいのではないでしょうか。
(がいしゅつ?)
81 :
名無しさん@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 07:20
関が原の戦いで、西軍の総大将が石田三成ではなく、
武田信玄のように強い武将だったら、
勝つことができず、家康は天下を統一できなかったはず。
西軍にも勝てる戦力とチャンスはあったし。
石田三成は武将と言うより政治家だし。
家康が強いというより、戦った相手が弱かっただけ。
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 07:24
>>81 総大将は毛利輝元です。
実際の戦いで石田軍六千は東軍二万に対し優位でした。
まあ、家臣団が優秀という結論でしょうがね。
でも、最後の家康本陣に対する強襲は三成自身の指揮
だったんだけどなあ。
>>81 三成公は政治家と言うより官僚かな・・・。
84 :
名無しさん:2001/03/14(水) 07:47
>45 のあたりの返答
小牧長久手の戦いで進入してきた羽柴勢を大敗せしめたものの
榊原隊が追撃しすぎて蹴散らされたという 経過はあります。
その為、再び戦線は硬直状態に。
ちなみに石田三成は政治家とはいえないような気がするが・・・
秀吉存命中ならそう言えなくもないが。
85 :
74:2001/03/14(水) 10:04
少なくても家康は信長のような天才型じゃない。
その若いときから合戦に長けていたわけでは無いと思うし、
質実剛健な家臣団に支えられてきたのも事実だろう。
ただ家康は、自分の軍隊を出来るだけ精強にしようと努めていた一面もあって、
武田滅亡後の遺臣を出来るだけ抱えて、信玄の遺法を懸命に学んだ努力家だと思う。
彼は自ら達人になるべく努力した。その姿勢は評価して良いと思う。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 10:38
晩年は自他ともに認める
野戦の達人になっていたということでいいでしょうか?
>86
「野戦の達人になっていた」じゃなくて「家康より上手い人がいなくなっていた」
ていうことでまる。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 18:24
なるほど。そうとも言う。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 18:28
よーするに西軍はヘたれということですな。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 19:01
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 19:50
晩年の家康と伊達政宗の差はどんなもんでしょう?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 20:24
>>90 西軍の家康以上の野戦の達人って誰ですか?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:02
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:04
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:39
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:41
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:43
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 22:45
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 23:01
>>98 なんだ、ハムスター型繰り返し馬鹿か・・・
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 23:05
実際、西軍が東軍に勝っていたのは、彼我の兵力差だけか?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 23:12
西軍の家康以上の野戦の達人=島津義弘だろ
石田三成でなく、島津義弘が指揮してたら、
西軍が勝っていた。ありえないけど。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 23:20
島津が宇喜多並みの兵力を動員できて、
かつ積極的に戦闘に参加していたら、かなり目も違っていたのかな?
>島津が宇喜多並みの兵力を動員できて、
>かつ積極的に戦闘に参加していたら、かなり目も違っていたのかな?
島津軍の補給システムは現地から略奪でまかう方式なので、無理では?
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 23:28
島津隊1500は大半が戦闘員だが、他は戦闘員は4割ぐらいでは?
井伊直正の先陣でさえ戦闘員は35%程度らしい。
実質5000人に相当する兵力だろう。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 07:09
関ヶ原の戦いや大坂の陣を見ると、家康の野戦指揮能力は古くなってる可能性がある。
絶頂時の小牧長久手と比べると、小兵力の敵に手に翻弄され、本陣移動や本陣乱入と
いった無様な醜態をさらしているからね。
理由として、朝鮮の役が考えられる。真の戦争(侵略)によって激化した戦いに対応するた
めに、ほとんどの大名家が全部の足軽が鉄砲を装備するほど火力を強化したらしい。
つまり、本格的な火力戦への移行時期に家康は日本でヌクヌクしていた。戦訓を知ってい
たか妖しい。
宇喜多や幸村の野戦陣地を構築して、火力で撃退、追撃というパターンに対して有効な
対策を練る事ができなかったからねえ。
>>99 がんばれ!
>>104 あれ?
基本的に戦闘員は、60%じゃなかったっけ。
以外に少ないなあ。
106 :
105:2001/03/15(木) 07:11
小兵力の敵に手に翻弄され→小兵力の敵に翻弄され
無様
107 :
名無しさん:2001/03/15(木) 07:34
家康以上の達人。
後藤又兵衛はどう?
真田昌幸は?
黒田如水ってのは・・・
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 07:40
おいおい、忠勝なんて下士官と
大将の戦いを一緒にしちゃ逝かんよ・・・。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 07:44
だって後藤がいるんだもん
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 10:55
>>105 朝鮮の役を忘れてた。
たしかにばりばりの戦国世代じゃなくても戦国以上に鍛えられた
奴等を作り出したかもしれないな。
じゃあ家康が達人でいれた時期は、戦国世代が居なくなって朝鮮
までの間か・・・。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 12:48
>>105 幸村は朝鮮に行ってないよ。
関が原も大阪の陣も家康がひとりで作戦計画を立てたとは言い難いが
大阪の陣で徳川勢は、新兵器カルバリン砲や、その他の攻城兵器を投入し
大阪方に揺さぶりをかけ講和させたところなどは、戦国時代において他に例
が見られない。大阪方の最新式の鉄砲に対しても鉄製の盾や築山を急造し対
処している。真田丸の件のみで徳川側の戦略が古いとは言い切れないんじゃ
ない?
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 13:19
>>101 小牧・長久手で秀吉に負けなかった家康と、九州征伐で秀吉に降った島津、
関が原で、自ら手を砕く事無く勝った家康と壊走した義弘の比較でしょ。
何ゆえ義弘>家康?根拠はなんですか?
もっとも野戦うんぬんよりも戦争における謀略・諜報・防諜活動において、
義弘は家康に勝てないと思う。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 14:38
>>113 義弘>家康はともかく、家康は島津と上杉をめちゃおそれていた。
野戦やられたら、必ず勝つ自信はなかったそうだ。
漏れは家康の野戦指揮能力はともかく、将帥としては非常に評価
している。諜報は凄いし、関ヶ原の時の諸侯の統帥ぶりや士気高揚
とかは、非常に良い。三成と好対照(但し、三成の戦略も悪くない
ただ現実の見方が悪かった)。
もっとも、野戦指揮官として戦術の変化についていけていたのか疑
問だけど。
つまり、戦略レベル○だけど、戦術レベル?というのが家康の漏れ
の考え。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 14:54
戦争は、始まった時点でもう終わっている、というからなあ。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 15:06
>>114 家康は島津と戦った体験がないので、朝鮮での誇大な戦果で
そう判断したのだろうか?
それとも島津の他国とは異なる戦い方を諜報で掴んでたのだろうか?
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 15:08
>>112 どっちかって言うと、戦訓を取り入れるかの問題。
実際にそれをやったのは宇喜田や幸村で、痛い目に
あったのは、徳川という図式からの帰結。
まあこれで戦訓が無いというのは暴論かもしれんが。
作戦は主将である家康が最終的に決めるのだから、
家康の責任。責任の転嫁は許されないよ。これいったら
軍隊は成り立たなくなる。それに関ヶ原は正則の提案を
家康が手直ししたのだから、作戦レベルから非難の
対象となる。
大筒はすでに、昔から使われている。ちょうど関ヶ原
でも、大津城攻防戦と関ヶ原でね。無論それで心理的
揺さぶりを掛けた事は戦略的には卓越しているけど、
戦術レベルではすでに当然の戦術。
鉄砲に対する防御策は、既に竹を利用した盾や防御施設
の設営なども、当たり前になっている。漏れは、どっち
かっていうと野戦築城のやりかたの方を評価したい。
まあ、家康の野戦の強みは運動戦にあって、局地戦は三河兵
や有能な部下に任せきりという事かな?
大将としては、当然だけど、最後まで兵士を信頼して、戦術
の変化に対して鈍かったのではとちょっと疑問をもってます。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 15:16
>>116 大抵、島津の戦歴を聞けば自分との勝ち負けはともかく
大抵恐れるでしょう。
それに、家康の源氏コンプレックスも後押ししたと思わ
れる。実際、太閤が死ぬ前後から大名を味方につけようと
家康は調略を開始しているが、島津が一番最初の調略先だ
ったし、2回も接触をもったのも島津だけ。
…笑える話だが、伏見の島津邸は徳川邸の隣だった。
で、話の渡りをつけるのに、1ヶ月使ったそうな。
無論その間、別の大名の調略をせずに自分の邸でお
となしくしていたそうです。
…家康、萌えるな。
かなりの捏造レスがあるが、誰も気づいて無いからいいか
>>119 同感だ。いかに皆の知識がバラバラかがわかってオモロイ。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 15:48
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 15:58
誰?誰?
>>119 いま全部読んだけど、知識レベルがバラバラでなんだか良く
ワカンネートコが面白いな、ココ。
歴史入門漫画レベルから専門書レベルまで色々だあね。
入門レベルのほうが胸張ってるトコが微笑ましい……
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 17:27
ん〜、俺は家康は「守りの人」で、野戦の達人、というイメージは
あまり無いなぁ。
そもそも信長や秀吉みたいに、敵対する大名を合戦で倒して領土拡張した、
というイメージが無いんだよな > 家康。
義元亡き後の駿河、遠江とか、勝頼亡き後の信州、甲斐、と言った風に
敵が死んだ後のドサクサまぎれに領土拡張してるけど(汗。
姉川の合戦で浅井軍を横から突いて信長の危機を救った、というのは江戸
時代の講談での誇張で、実際には倍の朝倉勢相手に持ち堪えていた、という
のが真相らしいし、小牧・長久手の戦いも防御戦だし。
家康が城攻めが苦手と言われるのは、真田攻めに二回失敗したのが由来なの?
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 17:56
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:05
家康擁護派と貶す派の泥仕合だね。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:09
>>124 でも、このレスはひどいだろ。元ネタはマンガか?
もっともドサクサにまぎれて、それだけ盗れりゃ大したもんだが。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:10
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:12
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:21
>>124 同盟者である織田信長が、織田徳川共同作戦の主導権を握ってるんだから
家康が信長ほど領土拡張に出れないのは当たり前。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:36
>>124 小牧・長久手の戦いは、侵入した豊臣勢を家康が後方から追撃するという
変則的な野戦が勝敗の決める重要な要因になったのだから、防御戦だから
野戦の達人のイメージが無いというのはおかしいわな。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:46
>>132 三河に中入りしようとした軍勢を追い払うのは成功したけど、
追撃戦は堀秀正によって失敗しました。
これ、他のスレも含めれば何回も出てるよ。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:54
>>133 なに言ってるの。
池田・森・堀・秀次隊敗北の話。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 19:34
家康が信玄より上なわけねーだろうが。
信玄を手本として三河武士団を三方が原後の戦で兵も将もいれてるんだからな。
家康強しと解釈が勝手にされるのは家康が幕府を開いて戦後の歴史を
書き換えたからに決まってるだろうが。
所詮歴史などは勝者の道具にすぎねーんだよ。
真面目に論議するに値せず。終了してよし。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 19:44
懐古趣味な信玄ごときと家康を同列に語るなよ。厨房。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 19:45
>>136 直接対決は結局家康の大敗で終わってるやん。別に懐古趣味でもネ
ーだろ。家康も田舎大名で終わった可能性だってある。
やっぱ戦術よりは戦場以外での諜略の方に長けていたと思う。晩年
の、可能な限り負けない状況を作ってから戦闘に突入するあたりの
手腕はそりゃ誰も勝てんかったろうよ。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:13
>>138 おいおい、あの状況で何をどうすれば家康に勝ち目があったのさ?
三方ヶ原は、100パーセント近い確率で負ける戦に出ていった家康のミス。若気の至りみたいなもんだ。
これをもってして家康と信玄の個人的実力を比較するのはどうかねえ。
でも後半部分は完全に同意。
250万石の実力と家康・本多正信の調略があれば
上杉景勝だろうと毛利輝元だろうと真田昌幸だろうと黒田如水だろうと勝てないだろうよ。
(真田と黒田は石高が低いのが痛いね。数十万石あれば......)
>>139 すまん、
>>136のなめたセリフにむかついただけヨ。
四十年近くも戦塵にまみれた驍将と、駆け出しの青年大名が
勝負になるわけねっす。信玄好きなんでねー。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:34
>家康も田舎大名で終わった可能性だってある。
どんな可能性ですかぁ?
IFですか(ワラ
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:38
>>141 アンタ、「家康はなるべくして天下人になった」なんて
思ってるの?
本能寺の変の黒幕が家康でもない限り、家康は自分でも
田舎大名で終わるつもりだったと思うよ。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:40
だから可能性ってなんだよ(ワラ
>>141 可能性と聞いただけでIFて言葉が出てくるアンタの
知識レベルはなかなかだなオイ。
ひょっとして136か?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:49
なんだ?説明できんくせに言葉を使ってるのか(ワラ
147 :
79:2001/03/16(金) 01:51
信玄は懐古主義者ではないと思います。
早くから200丁の鉄砲足軽をそろえ、
実は甲州軍の主力は騎馬隊ではなく
鉄砲衆だったのではないかと密かに言われるほど
運用に長けていました。
高価な鉄砲をどのようにして揃えたのか、
金山経営が有名であるが、それだけではない。
網野善彦(山梨出身)は甲斐は農業国であるという
通念に反対し、流通や林野産業で潤った先進地帯
と見ています。
それから甲州兵が百姓であったというのは誤りで、
兵士が農業に従事していた、という方が正確です。
それから家康無能論に関してですが
与えられたチャンスを生かしきったのだから
すごい人間だと思いますよ。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:52
つ〜か、信長が死ななきゃ、家康って勢力拡大できなかった
んでは ? 織田家が跡目争いしていたから信州、甲斐に進出でき
たのであって、そうじゃなかったら、滝川隊が、あの当たりを
治めたんじゃないの ?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:54
タラレバでしか言い返せないねw
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:57
なんかクズが紛れ込んできたなあ……
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:59
クズだって(ワラ
罵倒しか出来ん低脳さがでてるな
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:06
家康の印象は、野戦の達人っちゅーのとはやっぱ違うな。
若い頃は家臣団に支えられていた部分も大きいだろうし、
中年以降は戦術家ではなく戦略家だべ。
大将としてはすげーと思うけど、前線指揮官としての才
能はよくわからん。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:07
>>148 「信長が死ななきゃ」って仮定自体おかしい。信長は死んだんだから。
当時の家康がどうやって織田の領土の甲・信を攻めとるんだよ。
信長が死んだという機会を上手く用いたという点で、家康にとってマイナスとなるものではない。
で、あんたに聞くが、今川義元が桶狭間で死なずに駿府まで逃げ帰っていたとしたら、
信長はあんなに早く領土を広げられたと思うかい?
このくだらない質問と同等のことをあんたは言ってるんだよ。
もっとマターリやろうぜー
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:17
>>141 たとえば本能寺のとき命からがら上方から三河に逃げ戻
ったことがあったけど、ひょっとしたらどっかで命落と
していた可能性もある、とかそういうことだろ。if云々
っちゅーのはそっから妄想広げることだし、ちっと違う
と思うが。まー、歴史なんてのは結果が全てだからな
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:21
鉄砲は高価では無いよ。
量産が効き始めた頃(つまり信長の時代)では刀の方が高いくらいだ。
(まあ粗末な奴よりは高いだろうけど)。
問題は、弾や火薬を揃えたり実際
に運用する際の面倒(兵站的な)はあるけどね。
でも主力兵器となったのは、兵士に教えるのが
楽だからというわけと(弓と鉄砲どっちが楽?)
数をそろえりゃ打撃力もたいしたものなるしね。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:23
どう危なかったか、状況検証してならいざ知らず
「ひょっとしたら」なんて言い出した時点でIF
158 :
147:2001/03/16(金) 02:52
>156
いえ、高価でしたよ。
刀と言うのはいわゆる『銘刀』のことですよね。
この時代の鉄砲はまだまだオーダーメイドが基本でした。
現代のM-16のようにそれぞれの戦場で支給される消耗品
という感覚はありませんでした。
軍艦のように一丁一丁に癖があり、
割り当てられた鉄砲を操るには何年もの調練が不可欠でした。
他人の鉄砲を借りて撃つのは非常に危険だったのです。
この点弓や槍とは一線を画します。
それから、少なくとも織田家では足軽は鉄砲衆の方が
弓衆・槍衆よりエリ−トだとみなされていたようです。
新兵にはまず鉄砲を撃たせてみて
熟練した古参兵がセンスを持った者を拾い上げていたのです。
不器用な人は弓・槍足軽に回されました。
優れた狙撃者がいかに稀有だったかを伝えるエピソードです。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 03:37
北条家でも鉄砲足軽は一段上の存在だったな。
兵種別土地換算
騎馬武者=十五貫
徒歩武者=五貫
足軽=二・五貫
鉄砲足軽=五貫
ところで何だか「IF否定派」がいるみたいだけど、歴史にIFは
つきものだよ。我々が結果からさかのぼって考えるからわからないだけで、
当時の本人にはあらゆる選択肢が残されていたわけだから。
まさか家康が本能寺の変の前日に甲信を領有する自分を
思い描いていたとは言うまいね。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 05:10
>>158 もう少し調べた所、秀吉の時代でした。
刀狩りで集めた鉄で鉄砲作ったみたいです。
2級の刀が1.5両に対し、鉄砲は1.2両です。
でも粗悪品みたいですね。
長篠の時期は、20%程度の装備率でしたが、
朝鮮で30%、関ヶ原で40%でした。
これは平均で、島津は朝鮮では50%の装備
率だったみたいです。
普通の鉄砲足軽に練習できる環境ではありませんでした。
鉄砲は一回につき火薬を11g使います。日本全国の鉄砲
総生産量が30万丁だった1550年代でも、100回撃つだけ
で、30tもの硝石が必要です。合戦の必要な量を満たすのも
難しいくらいです。
結局裕福な大名でも一部の精鋭部隊だけしか練習できませ
んでした。
例外は、硝石製造手段を持っていた一向衆くらいです。
>>157 結果至上主義者デスカ?
大学でお勉強中?
歴史を学ぶことと歴史を愉しむことは違うと思うんだがなあ。
ここは愉しむ場所だべ。カタいこと言うなよ。
それともやっぱり「歴史の可能性」ってのはダメですか?
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 16:06
歴史にたらればは禁物とはいえ、想像して悪いわけではないでしょう。
ただ相手を説得する際に持ち出して押し付けちゃダメよん。
歴史は結果の積み重ね
人物評にたられば言ったらあかんわな
可能行動の検証と妄想は天と地の差がある。
なかなか重みのあるスレになってきてるような。
おかげでズブズブ沈んでいる……
age
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 02:17
歴史の魅力ってのは、熱い漢の生き様だろ?浪漫だろ?ドラマだろぅが!!
で、人々によってそれが違うから、揉めるし、語り合うんだろうが?
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 19:45
話は変わるが、地形的経験ってのもあるんじゃねーか?
例えば、真田のまっちゃんや、ゆきちゃんなんか、少人数のゲリラ戦には強いけど、
何万の大合戦ではどうかな?
開かれた所で大人数で戦っている奴は、それなりの戦術も覚えると思うがな。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 22:33
確かに、場数を踏めばある程度(幼少期に戦について学んだもの)
の大名家の嫡男なら、いくさ上手になるのは当たり前。
だから、際立って野戦の達人という事では、ないと思う。
171 :
代打名無し:2001/03/18(日) 22:38
それそれ得意の分野はある。でもやはり優れた軍師がいないとダメ。
172 :
255:2001/03/18(日) 22:45
軍師ってだれですかねぇ
戦略面では、正信が浮かびますが、
戦術面(このスレの主旨だと思う)では、浮かばないのですが
173 :
169:2001/03/18(日) 23:11
確かに達人ってイメージも無いし、際立った軍師ってのも思い浮かばねーな(w。
ただ、軍議をするときは、ワンマンって感じじゃねーな。基本的には、はワンマン
なんだろうけどな。そんな感じ。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 23:20
>>172 徳川家の戦術面での参謀って確かに浮かばないですよね。
本多忠勝や井伊直政といった武将達がそれぞれ優秀だったから必要なかった?
それとも家康自信が戦術面での参謀役を担っていた?
強いてイメージで挙げるとすれば、井伊家台頭以前の筆頭家老・酒井忠次かなあ、と。
筆頭家老の立場としてそういう役目も担っていたのではないかなあ。いや、根拠なんて全然ないです。スマソ
徳川家の武将って指揮官タイプばかりですね。あとは少数の文官。参謀がほとんどいない。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 23:20
*****************************************************
共同暴走危険行為者の呼称は「珍走団」に決まりました。
珍走はしない、させない、美化しない。
*****************************************************
「暴走族」→「珍走団」
「ヤンキー→「珍キー」「珍奇」
「不良少年」→「不良品」「珍走馬鹿」
「暴走」→「珍走」
「ジグザグ走行」→「ふらふら珍走」
「金属バット」→「珍棒」
「ドリフト族」→「尻ふり隊」「尻ふり将軍」
「特攻服」→「珍服」
「暴走ポエム」→「珍走ポエム」略して「珍ポ」
「レディース」→「珍用便器」「製病」
「ブラックエンペラー」→「黒珍」
「改造車」→「珍車」
「爆音」→「大珍音」
「旗」→「珍布]
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 23:26
172です。
強いて上げるなら、本多忠勝かなぁ。
でも、献策するようなタイプではないきがする。
井伊直政のほうかなぁ
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 09:20
つーか、戦国時代は明確な軍師は少ないと思う。
山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛位しか思い浮かばん。
他にも、片倉小十郎とか、大田道灌とかいるけど、これは
家老というイメージが大きいからねえ。
家康は、それぞれの専門別に(内政:本田正信、外交:石川
数正、軍事:酒井忠次他)きっちりした組織を作ってたんで、
相談役である軍師がいない(というか必要無い)んじゃない?
何かで読んだ話だけど、家康は目の前で家臣たちにあーでもないこーでもないと
言わせて、自分の意見とあう意見がでるまで待ってたっていうよね。
家臣は自分の意見が取り入れられたって喜ぶ、という。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 13:09
陣立てとかをしてた人が戦術面での軍師的立場だったんじゃないの?
それさえも家康自らやってるかも知れんが、まず無いはず。
その辺の資料を調べられる人、きぼ〜ん。
180 :
代打名無し:2001/03/19(月) 16:45
家康自体が戦術・戦略に長けていたからねえ。
秀吉の場合は素人だから、かなり黒田や竹中・秀長に頼っていた。
石川数正も秀吉に引き抜かれたし。
>>180 本気でいってるの?
特に石川数正の所。
182 :
代打名無し:2001/03/19(月) 18:26
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 18:58
>>181 秀吉が家康並に野戦に長けてたと言いたいの?
素人は言い過ぎかもしれないけど。
秀吉は、信長の下で、常に自分より弱い敵を相手に主に城攻めの経験を積んだのに対し
家康は19才にして従軍した桶狭間で、丸根砦から打って出てきた佐久間重盛を野戦で
討ち取り、その後の織徳同盟下でも家康は与力を頼まれ主に野戦で活躍する事が多かった
わけだから、両者の野戦の手腕に差が出るのは当然だろ。
184 :
代打名無し:2001/03/19(月) 20:27
秀吉が得意な分野は城攻め(兵糧攻め)ぐらい。
野戦に関して言えば武田信玄・徳川家康の足元にも似及ばない。
というか、戦術レベルの才能を秀吉が見せた例はそんなにはないし。
なるべくそんな必要がないように、いろいろ頭を使ってたというのもあるが。
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/19(月) 21:08
というか、戦国の大半の多くは城攻めで野戦は少ないぞ。
187 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/03/19(月) 21:31
秀吉に城攻めされたら鬱だ。ひもじい思いして餓死するなんて・・・
秀吉は石川数正・黒田如水の引き抜きなど人心掌握術の天才でしょうね。
いや、数正を引きぬいて重用したと勘違いした。
徳川を恐れて、戦力低下のために引きぬいた
というなら納得できる。
そういや、目立った野戦って山崎とか賤ヶ岳
位しか思い浮かばないなあ。
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 00:38
同じ戦力同士で戦って勝てるのが「戦術に長けた人」なんだろうけど…
将棋やらゲームやらの話ならともかく、戦ってのは負ければお終いなわけで、
誰しもができるだけ「戦う前に勝ちを収める」方法を採ろうとしたわけで。
そうなると何を以って「達人」と言うかが不明瞭になってしまう。
だから、議論するだけ無駄なんじゃ?
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 02:09
>>189 まーねー。それに達人っていわれたら、総帥たる御大将じゃ
なくて前線で実際に刀槍を交える侍大将たちを思い浮かべる
よ、オレは。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 03:43
少なくとも山崎では兵力的にはともかく、地形的には明智側のほうが
有利だったはずだが。
少なくとも野戦下手では無さそうな気がする
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/20(火) 08:02
193 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/20(火) 09:13
野戦というか小戦なら
藤吉朗どのもそれなりの実績をもっておられたようですが・・・
稲葉山攻略戦・金ヶ崎撤退戦・横山城攻防戦とか。
長浜以後はもう一段上の上級指揮官になっちゃったし、
後付けで美化された戦も多いでしょうから、
ほんとのとこは不明ですけど。
>>193 野戦と攻城戦はちょい違うような。
野戦でも山岳戦と平野戦は違うし。
戦下手ではない事は明かですけど。
195 :
へへへへへ:2001/04/16(月) 02:15
当時の人たちがそんなに死にたがってたと思うほうが変。
死にたくない・死にたくないと思っていたから、案外西洋の戦争と違って、
死亡者数が少なかったのと違う?
大勢の死傷者が出たのは関ヶ原からだったはずだし・・・
野戦のときは、形勢不利とみたら皆逃げ出したんだよ。
徳川さんちは、逃げないから、結局強かったんでないの。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 03:43
若い頃は前線でたたかってたらしいじゃないですか。
既出だったらすまないけど、姉川で織田の危機を救ったわけだし。
そのとき討ち死にしたある武将(名前、著書わすれた,sorry)の家族に「氏の最期を
目の前にしております、勇敢でした」という謝状が残っているそうです、ということは
大将が敵前で戦っているわけで、家臣としては心強かったんじゃないんでしょうか。
謙信が敵と刃を交えたという記述さえお目にかかったことないのに
まあそれは私の勉強不足なんだろうけど。
人質時代に玉を取られてるから、寝床の中では勃たん人
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/20(金) 23:55
家康は野戦はどうだったか知らないが、戦術は酷かった。
どこが酷いかと言うと、まず、鉄砲隊や弓隊を後ろに下げてしまって、前線に出て
いる鉄砲隊は7割ぐらいしかない。実際は分散配備方式だったから、前線の鉄砲隊は
もっと少ない。
なぜ、後方に下げているかというと、撤退の時の援護のためだけど、それでは相手
に火力で劣ってしまう可能性もあるし、なにより敗走してるなか効果的な射撃が出来
るか怪しいものだと思う。
それなのに武田信玄がこの陣形を使ったからと言ってなんの疑問も感じずに採用し
てしまった。
まー、もともと徳川は鉄砲配備率が高いから分散でもある程度火力を発揮出来たし
弓隊はあまり役にたたんから後方でもいいですが、、、。
でも、信長は鉄砲だけのの統一部隊を作ったし、秀吉は作戦システムの工夫、単一
兵科の部隊(出身地が違うもの同士組みあわせたので喧嘩ばかりして結局失敗)など
作りだして創意工夫を進めていたから信長や秀吉の方が戦術は優れていたと思う。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/21(土) 00:21
>>196 太っていたとは言うが、言ってみれば相撲取りみたいな体格で
結構力もあったらしい。一向一揆のときに一向一揆側についた家臣を
素手で投げ飛ばしたそうだ。あと武芸もかなりの達人だったそうだ。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/22(日) 14:27
部下が有能だった。以上
201 :
ななし:2001/04/22(日) 16:04
糞もらしの達人。以上。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/22(日) 16:13
エタ・ヒニン政策の張本人
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 02:19
井の中の蛙
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 13:17
たぬきあげ。
206 :
野戦挟撃と平行して:2001/06/16(土) 13:36
基本的に今川家の侍大将出身だからなぁ。実戦で戦術指揮官として
で尾張方の砦を結構抜いてるはず。
208 :
大友豊後守義統:2001/07/03(火) 11:03
野戦といっても三方ケ原や姉川のような遭遇戦と小牧や長篠のような陣城戦がある。
少なくとも島津勢のように寡兵で多勢を破らないと野戦に強いとは言えない。
これまた懐かしいスレ上げてきやがったなオイ
家康は寡兵で多勢を破ってるな<姉川
つーか、大軍を指揮する能力も大事な要素だが。
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211 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 21:51
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212 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 20:42
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213 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/07(土) 02:21
家康の人心収攬術だけ見ても、かなりすごいと思う。バント戦術のような面白みがまったく無い戦い方がおれは好きだ。
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG 野望100は程c食人@お腹いっぱいの口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。醜悪な程c食人@お腹いっぱいの顔が更に醜くゆがむ。
「うげええっ!!」
ひき潰されたケモノのような声を出し、程c食人@お腹いっぱいがうめいた。
頬をとめどなく涙が流れた。しかし、その涙も次々にぶちまけられる大便に覆い尽くされていく。
べちょおおぉっ!!
「うぶうううっ!?もがっ!ほげえええっ!!」
だが、野望100はそのまま程c食人@お腹いっぱいの顔を大きく肛門を開いた霜台の肉尻の間に押さえつけた。たちまち程c食人@お腹いっぱいの口の中に排泄器官から直送された生ぬるい泥便が大量に流し込まれる。
「おげええっ!げえぅうぇぇえっ!おもおっ!んごっ!んぐうっ!うぐっ!うぷぷっ!んぐううっ!んぐっ、んぐっ、んごおおぉっ、んぐぐううっ!!」
舌の上を走り抜け、喉の奥に直接ぶつかり、食道へ流れ落ちてくる腐食した下痢便。それは不味いなどというものを超越した不可解な味。少なくとも程c食人@お腹いっぱいの味覚はそれを判別することが出来なかった。
「おおおううっ!程c食人@お腹いっぱいがっ!おれの、おれのウンチ汁を飲んでらああぁっ!おおうっ!し、幸せだあっ!ウンコ飲めえっ!もっと、ゴクゴク飲めっ!!お腹いっぱいおれのウンコで、柔らかいウンコでたっぷり埋め尽くしてやるからよっ!噛めえっ!啜えぇっ!唾液で、胃液で、腸液でおれのウンコを溶かせぇっ!おおおうっ!いまっ!今程c食人@お腹いっぱいのお腹の中でいれのウンコが消化されてらあっ!程c食人@お腹いっぱいのウンコはおれのウンコで出来てるんだぁっ!!程c食人@お腹いっぱいのお口便器最高うぅっ!最高の生便器だぜえぇぇえっ!!」
プツン
程c食人@お腹いっぱいの中でキリキリと引き絞られていた一本の線が小さな音を立てて切れた。
(のんでる・・・あああぁぁ・・・なんだっけ、これ・・・ウンコ・・ウンコ・・ウンコって・・何だっけ・・・便器・・・おれ・・・そんな・・名前だっけ・・・ウンコか・・・これ・・・飲めばいいんだっけ・・・食べればいいのか?ウンコ?ウンコ?なあんだ・・おれ、ウンコ食べてるんだ・・・)
ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!
大量に流れ出す大便は余すことなく程c食人@お腹いっぱいの口腔を犯しぬく。排泄物に犯されているのは口だけではない。鼻の奥まで流れ込んだ泥便は、鼻水と交じり合いながら程c食人@お腹いっぱいの鼻腔から絶え間なく流れ出し、頬を伝って首筋に伝い落ちていく。
「程c食人@お腹いっぱい。解かるか?そろそろ霜台が糞をひりだしながらイクぜ。程c食人@お腹いっぱいを自分の便器にしたことでかなり頭がヤラレちまってるみたいだからなぁ。ククク・・・ほおら、腹の中が汁便でいっぱいになるまで飲めよ。残したらその糞まみれの恰好のまま長安の街中に放り込んでやるからな。」
「うううううっ!ウンコでイクうっ!程c食人@お腹いっぱいの唇がウンチまみれの肛門をヌリュヌリュ舐めてらあっ、吸ってらああぁっ!おれのウンチジュースを程c食人@お腹いっぱいが、程c食人@お腹いっぱいが赤ちゃんみたいにチュウチュウ吸ってらああぁぁっ!程c食人@お腹いっぱいの変態っ!ヘンタイいいいィッ!うんこ出るぜぇっ!おれのウンコ、程c食人@お腹いっぱいの口便器に、ウンコ袋にぃぃっ!!程c食人@お腹いっぱいの変態便器いぃっ!!おはああああっ!ダメだあっ!生グソ便器にウンコこーもん、ビラビラのこーもんのお肉舐められていっちまうぅっ!いっちまうううっっ!!あひゃああははああああああっ!!」
びちゅぶうううっ!!ぶびっ!!ぷふうううーーーっ、ぶひっ!ぼぶっ、にゅるにゅるにゅるにゅる・・・・
「ぐ・・・・えぇぇ・・・・おごっ・・んぶっ・・ん・・んごっ・・・んごっ・・・おふっ・・・・」
グチョ・・ブチュ・・・ヂュル・ズビッ・ゴクン・・ゴクン・・・グチュゥ・・ニチャ・・ニチュウゥ・・・
程c食人@お腹いっぱいの耳には野望100の低い声も絶頂を迎えた霜台の嬌声も届いてはいなかった。聞こえるのはただ自分の口と鼻の中を暴れまわり、果てしなく喉の奥に流し込まれる大便の音だけだった。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 04:31
関が原や大坂の陣の頃生きてて一番場数を踏んでたのが家康だったってことだろ?
216 :
大友豊後守義統:2001/07/08(日) 11:35
浅井の援兵でやる気のない朝倉勢を破ったとしても、強いと言えるのか家康は?
217 :
水戸光圀:2001/07/08(日) 11:53
関ヶ原の合戦は謀略戦の結果にすぎません。
小牧長久手は秀吉側の一部隊が敗れたに過ぎません。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 23:19
あまり兵が多すぎると大将の能力は関係無いんじゃないの?
家康は、はっきり言って運の人!ただ、徳川幕府300年の歴史を築いただけあって、長期政権保持の能力は認める。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/12(木) 08:27
てゆうか今川の家臣だった時からすでに戦上手と言われてたんでしょ
221 :
無名武将@お腹せっぷく:
戦上手っていうか一番の激戦地に投入されて生きて帰って
今川方に「あらまた生きて帰った?(笑)」→
「いやぁそこもとはお強い(煽てとけばいいだろー)」→
「おーこれからもがんばれー(縁戚の娘でもあてがっとくか?)」→
「おーあんた戦上手まんせー」って感じ?