1 :
無名武将@お腹せっぷく:
かたりませう
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:36
山中鹿之助くらいしか思い浮かばない
3 :
名無しさん(新規):2001/02/18(日) 16:43
烈風伝をやってみて、中国地方の諸大名から、ことごとく嫌われてる
人なんだなってわかった。
開始時点の関係が40以下ばっかりなんだもん。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:49
新宮党
評価聞く杉
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:51
尼子十勇士について教えてくれ
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:52
なんで嫌われてたんだろうね
中国地方は浦上が好きですが周りとまともに闘えません
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:53
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:54
領土は広いのに能力値がヘボいですよね
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 16:57
鹿之介に対抗して狼之介っていなかったっけ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 17:08
>>6 経久の時代は従ってたのに晴久の代に背いたからでないかい。
11 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/18(日) 17:16
>>9 品川狼ノ助
益田藤兼の家臣だったかな?
尼子って、そんな嫌われてるの?
地元では愛されてるみたいだけど・・・
12 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/18(日) 17:22
「臆病野州」がいい!
あの役回り、大河では宇山久兼にやらせちゃってたけど・・・
尼子殿は雲客、ひきおろして、ずん切り、ひこひこ・・・
嵐世記で、経久つえーよおい
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 17:50
>>11 そういや、4年前の大河ドラマ元就でも数秒だけ出てたね
「我は狼之助だ、オラー、ウワー」→死亡
かなりマニアックだけど
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 18:03
>>14 あははは・・・
もう少しまともな描写だったような気もするけど。
確か輝元が抜け駆けして蔵に隠れてたら、鹿之助に見つかり殺されそうになって、狼ノ助に助けてもらうんだよね。
で、元就に「抜け駆けは武将として最も恥ずべきことじゃ」つってぶん殴られるんだけど
「パパがいなくて寂しかったんだよー」って輝元が泣き出すホームドラマな展開に激しく萎えた。
的場と陣内の一騎討ちなんてバカなことしないで、どうせやるなら、鹿之助と狼之助の一騎討ちをちゃんと見せて欲しかった。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 18:03
「天下を、吾が手に」って
尾形拳の尼子経久があまりにも似合ってたんで
未だに忘れられない。
大河ドラマって前半に大物持って来ること多いね。
板垣信方=菅原文太 片桐且元=小林念侍
みたいに。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 18:05
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 18:13
品川狼ノ助
新武将でつくったよ。
政治10 統率52 知略22 野望30
途中で捕らえても間違って首切りそうな能力値だけど。
尼子十勇士もコンプしたいが名前とイメージがわからん( ̄ー ̄)
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 18:34
大河に尼子久幸が出てこなかったことが残念でならない・・・・
20 :
尼子十勇士:2001/02/18(日) 19:59
山中鹿之助 秋宅庵之助 横道兵庫之助
寺元生死之助 皐月早苗之助 早川鮎之助
大谷古猪之助 高橋渡之助 藪中茨之助 荒波碇之助
スケばっかりで正式名称は解らない・・・
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 20:35
色々異説もあった様な。
上田早苗助・尤道理介・深田泥介・小倉鼠介・阿波鳴戸介・井筒女介・
破骨障子介・川岸柳介とかも居た筈。
しかし、冗談にしか見えん名前ばっかり・・・
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:03
>>20-21
すごい名前だ。ほんとに実在したのかな?
鹿之介1人のジサクジエンで1人10役だったりして。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:07
立川文庫や常山紀談の創作
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:29
立川文庫
山中鹿之助、秋丈庵之助、横道兵庫之助、寺元生死之助、皐月早苗之助
早川鮎之助、大谷古猪之助、高橋渡之助、藪中茨之助、荒波碇之助
大百科
山中鹿之介、秋丈庵之介、横道兵庫之介、寺元生死之介、植田早苗之介
早川鮎之介、深田泥之介、尤道理之介、藪中茨之介、小倉鼠之介
常山紀談
山中鹿之介、井筒女之介、川岸柳之介、破骨障子之介、五月早苗之介
上田稲葉介、尤道理之介、薮原茨之介、早川鮎之介、阿波鳴戸之介
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:39
なんにしろ鹿之助だけは鹿之助なんだね
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:45
実在していた、もしくは「陰徳太平記」「雲陽軍実記」にそれらしき名前が出てくるのは
山中鹿介幸盛、秋上伊織介、上田稲葉介、横道兵庫介、寺元生死之介
上田早苗之介(尼子家分限帳には五月早苗介)
尤道理之介は「雲陽軍実記」に登場し、飯石郡の多久和城に秋上伊織介と共に篭っていたが
毛利軍が押し寄せてきた為に戦わずに撤退し、それを毛利側が嘲笑って
城を明け落ち葉尤道理なり
いかに庵(伊織)を春焼にする
という狂歌を貼りだしたとある
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:52
すごい情報量ですね
尼子ファンとしてはありがたい
鹿之助萌え
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:54
真田十勇士もそうだけど、モデルになった人物がいるだけで
創作がほとんどなんだろうね
ついでに
「雲陽軍実記」は尼子の武将である河本隆政が、天正八年までに書き上げてます。
尼子、毛利、大内の盛衰を尼子側から書いている唯一の資料です。
隆政は尼子と毛利の戦いについて
「尼子と毛利の戦いは仁戦ではない。尼子が滅びたのは
勇智と仁に欠けていた為。」
と書いて、晴久・義久父子が毛利側の謀略に掛かって、
異常なまでの家中粛清をし、尼子家を内部から崩壊させた事を批判しています。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 01:27
晴久は外交下手だったように思うんですが、
尼子史に詳しい人の意見等を聞かせてもらえないでしょうか?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 01:34
横道正光(よこじまさみつ) ????-1570
覇王伝では戦闘74采配70とかなりの高能力で登場したのだが、
以降は完全に無視されていたような。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 02:00
晴久が当主の時の外交政策は、殆ど叔父である尼子利幸(義勝)が
取り仕切っていたみたいです。
利幸が吉田郡山城攻めで戦死してからは、これと言った対外勢力に対する活動が
全く見受けられないです。
晴久は対外勢力に対する活動より、新宮党や譜代の家臣等への活動に追われてます。
これは経久の代で急激に勢力を拡大したツケが廻ってきたものと思います。
経久の嫡子政久の戦死、三男興久の反抗による自決、晴久を後見していた利幸の戦死で
尼子家中の乱れが重なっていたのも一因だと思います。
よって外交策が下手と言うより、手が廻らなかったと言うのが実情と思います。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 02:35
>>31 やっぱりそう?
気になってたけど違ったらと思って黙ってた
非常に興味深いスレだ
34 :
30 です:2001/02/19(月) 02:41
経久(当時61歳)は嫡子・政久の戦死後(1518年の砥石城攻め)、尼子家では嫡子不在のままであった。
経久は政久の死を嘆き、弟であり副将格であった利幸に家督を譲ろうとしたが、利幸は固辞した。
何故なら二男国久・三男興久を差し置いて家督を継げば、家中が分裂するのは明らかだったからだ。
そこで利幸は、政久の二男晴久(長男は夭折?)に嫡子にし、自身が後見役になるという形で
混乱を収めようとした。
しかし、高齢で気落ちした経久の嫡子が幼い晴久になった事に納得のいかない興久は
度々経久に反抗し、独断専行が目立つようになる。
そこで経久と利幸は、興久に自害させ(1534年)禍根を断つも、尼子家中にシコリを残す。
1537年に病気がちな経久は晴久(初め詮久)に家督を譲り、後見人に利幸を指名して隠居。
しかし、国久を始めとする新宮党や旧興久派の重臣は晴久を軽視しており、
それは周辺豪族にも影響を与え、毛利を始めとする諸豪族の大内側への造反を招く。
晴久は自己の能力と、造反した豪族がどうなるかを見せつける為、
西安芸最大の豪族であった毛利攻略を決める。
しかし経久と利幸から、現在の情勢では力攻めに利が無いと反対されるも、
ここで取り止めれば、尼子当主としての力量を内外から疑われると考え、毛利攻めを強行する。
結果は周知のように、大内軍の援軍により尼子勢は大敗する(新宮党は反対して参加せず)。
ここで致命的だったのが、晴久の後見役で、尼子家を実質上取り仕切っていて、
家中の不満分子などを抑えていた利幸が戦死し、経久の代からの付き従っていた
歴戦の将も多く討ち死してしまう。
更に大内勢が余勢を駆って、月山冨田城に押し寄せるも新宮党の活躍により
大内義隆の嫡子・晴持を討ち取るなどの大勝する。
多くの将の戦死、大内勢の撃退、出兵反対の正しさなどにより、
武闘派である新宮党の重要性・発言力は増し、新宮党の宗家軽視の傾向はさらに大きくなる。
それらを抑えてた利幸の亡き後、新宮党と晴久の対立は深まる一方であった。
その後の元就の謀略による新宮党抹殺は、ある意味必然と言えるかもしれない。
しかし新宮党抹殺により、家中に不信感が漂い、有象無象の噂が流れ、離反・内通が相次ぐ。
晴久が1560年に急死して、尼子はさらに斜陽の時代になり、
支配地域は出雲周辺にまでに落ち込むも、月山富田城は堅固で落ちなかった。
しかし毛利側から提案された「石見銀山の城と五千貫の所領を認める」という条件を呑み、
永禄九年(1566年)十二月二十八日に開城。
毛利側は約を違え、義久・倫久・秀久を安芸高田郡向原の円明寺に幽閉し、
戦国大名としての尼子家は滅亡する。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 15:43
山中鹿之助もいいけど本城常光もね
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 15:46
皆殺し
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 15:52
誠久が戦闘馬鹿でなければ再興できたかもしれないのに
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:52
毛利を倒す術は全く無かったのか?
いや、あったはずだ(たぶん)
尼子が中国地方の覇者となって欲しかったよ・・・。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 00:27
某茨城大名スレで評価どーのこーの言っていたが
一番評価されてなく、まともに扱われてないのは尼子だと思う
能力値は人それぞれだから、いいとしても
尼子の勢力圏がおかしすぎる
1530年代の尼子は播磨まで進出してるし(1538年に播磨で赤松勢を戦ってる)
滅びる直前の1566年だって、出雲・伯キ・因幡・美作・備中の一部は
まだ支配下にだったのに・・・
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 00:59
>>42 滅亡しちゃうトコはしょうが無いんじゃないか?
あっちは一応残ったしさ。
勢力圏は城が少ないからだろう。もっと城ふやせ!
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 01:06
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 01:34
津和野藩の亀井家って尼子系じゃなかったっけ?
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 01:36
>>41 尼子晴久が急死した直後が勝負だった。
足利義輝が大友=毛利=尼子の調停に乗り出してきたとき、毛利元就はそれを上手に利用した。
つまり、大友とは講和を結んで、後顧の憂を除き、尼子に対しては講和するようなポーズでうまく騙して、尼子本隊に手を出させないまま、石見を攻めとって、一気に出雲進撃、月山富田城を包囲。
尼子義久はやる気がなかったのか、講和に結構乗り気で、元就のポーズを真に受けたのが命取り。
義輝に対して元就の非を咎めつつ、石見に兵力を投入し、大友=毛利の和睦を全力で阻止すれば、少なくともそう簡単に滅びなかったろう。
まあ、それだけ元就の手際が見事だったのだが・・・
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 02:05
>足利義輝が大友=毛利=尼子の調停に乗り出してきたとき
これは元就が、大友と講和したくて幕府に願い出たが
義輝が大友・毛利・尼子の三面講和としてきたが、元就が拒否してる
実際に義輝の三面講和は永禄2年に出されてるが、大友と講和したのは
永禄6年で、二正面策を嫌った元就は、それまで尼子との戦いを積極的に行なっていない。
大友との講和がなった永禄6年に隆元が死去し、元就は隆元の弔い合戦という名目で出雲に侵攻し、
白鹿城を落として、小競り合いを続けていた石見での争いにも終止符を打っている。
尼子側は西より東での浦上や山名・赤松との国境争いや、晴久亡き後の尼子家中の動乱を抑えるのに
忙しく、東まで手が廻らなかったらしい。
それでも、それを上手く利用した元就を流石と言うべきなんだろうけど
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 02:10
誠久は本当に戦闘馬鹿だったのか?
49 :
31:2001/02/21(水) 07:28
秋上久家(あきあげひさいえ) 生没年不詳
覇王伝にはこんなのもいました。
政治44戦闘63采配67智謀43野望66
最後は毛利に降っているので、こんなものでしょうか。
尼子十勇士の一人で備後一万石とあるから、尼子家中でも
無視できない人材だと思うのだが・・・。
コーエーよ、我々尼子支持者の納得できる作品を!
50 :
秋上久家は:2001/02/21(水) 12:06
なんか、尼子再興軍において山中や立原が中心的役割を果たしたのに対し、
軽んじられたことにも不満があって、毛利に寝返ったらしい。
憶測だろうけどね。
51 :
備中守:2001/02/21(水) 13:24
元就の謀略にいいようにあしらわれたのが響いたのか、
覇王伝での尼子家の連中は全員知謀が20以下。1ケタのもいたと思う。
いくらなんでもあんまりだと思うが。
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 16:07
>>50 なんということをおっしゃるのですか!?
確かに諸説ではそう言われているようですが
実際は「陰徳太平記」の伝えるところでは、
父、三左衛門綱平に降伏を強いられた秋上久
家(伊織介)は苦渋の選択の後、降伏を決意
し単身、山中鹿之助を訪ねた。
久家「今日の対面、本当に合わせる顔もない。
お前と私は子供の頃から親しくし、死
ぬ時は一緒だと誓った仲なのに、父綱
平はいろいろ事情があって毛利に降伏
し、今後は会って語り合うこともでき
なくなりました。また勝久君へ尽くそ
うとしたこれまでの志も今はむなしく
なりました。しかしながら、今までの
御恩を忘れがたく、厚かましくも、お
別れを申し上げに参った次第にござい
ます。」
そういうと久家は涙にむせぶ。
鹿之助「気にされるな。侍は渡り者と言いま
す。父上に従って尼子に背かれる事
は少しも恨みには思いません。それ
よりもわざわざ別れに来て下さった
事、かたじけない。」
鹿之助も涙にくれ、酒をくみかわした。
「この次は戦場で。たとえ明日戦場
の露となろうとも、これまでのよ
しみは互いに忘れまい。」
1570年5月のことでした。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 18:01
本城はどうした?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 18:46
大内(陶)があっさり滅びちゃったのが尼子にとっては痛かったんじゃないかな
しばらく小競り合いが続くと思ってその間に体制固めを目論んで新宮党を滅ぼしたり
したが結局は毛利の大躍進を手をこまねいて見てるしか出来なかった
忍たま乱太郎飽きてきた。
56 :
50:2001/02/22(木) 02:05
>>52 あらら、そうなんだ。
ちなみに、ソースは確か尼子一族とかいう本で、自分で調べたわけではないので、私の話は全然信用できません。しかも、書いてる人自身、多分そうだべみたいな書き方だった・・・
でも、その逸話もかなり作り話っぽい気がしないでもないんだけど、どう?
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 02:37
陰徳太平記に記載されてますね。
だからかなり信憑性高いと思われます。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 03:04
>>57 『陰徳太平記』は毛利・吉川を誉めちぎった「トンでも本」ですぜ。
読み物としては面白いが資料としてはあてにならない、というのが一般的な評価では?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 03:16
>>58 毛利側からの視点で書かれた陰徳太平記に記載されて、
しかも雲陽軍実記にも、伊織介の父・綱平が毛利に降ったのと
鹿介と伊織介との交友の深さ、直前まで行動を共にしてた等が書いてあります。
これらから会話の内容はともかく、似たような事があったと思われます。
それと陰徳太平記は毛利視観で書いてありますが
それでも資料としては一級的扱いですよ。
60 :
尼子十勇士:2001/02/22(木) 03:23
もっともどうりのすけ、深田泥ノ介・・・
舐めてんのか?
61 :
58 です。:2001/02/22(木) 03:36
58 で少しふざけて書いてすみませんでした。
もちろん、秋上の顛末については否定する気は全くありません。
しかし、「陰徳太平記」は一級の資料ではないとおもいますよ。
「通俗資料」・「過剰な修辞」・「史書としては論外」という見方が一般的だとおもいます。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 03:58
>>61 >「通俗資料」・「過剰な修辞」・「史書としては論外」
当時のどんな資料にも過剰な修辞や通俗的な内容が見られます。
それはある一方の視点で書かれてるからです。
それを否定するならば、当時の文献を全て否定するものと思うんですが。
それらを含めて陰徳太平記は、当時の状況や事柄を確認・検証する上で
十分に一級資料として認められてると思います。
ただ、何でもそうですが、一つの資料だけを信用するのではなく
同時期に書かれた数々の資料を見て、それによりその資料の信憑性を確認するしか
ないと思います。
貴方はどういう文献が一級資料に値するとお思いですか?
例を挙げてもらえれば助かります。
63 :
58 です。:2001/02/22(木) 04:23
>>62 私は主に大内義隆関連の資料を収集しています。
ですので、義隆関連で言えば。
「大内家実録」・・・信憑性は高い
「大内義隆記」・・・通俗半分・資料としての価値半分(全編所有している訳ではないので挿話から判断して)
「防州山口築山屋形盛衰(乾・坤)」・・・全く問題外、人名の記述さえ間違っている。
のような感じですね。
同じ人物を扱った資料でも上・中・下があるのはどうしようもない事実でしょう。
毛利家関連の「雲州軍話」・「吉田物語」・「陰徳記」・「陰徳太平記」が通俗資料というのは、別に私が決めたことではありません。
気分を害されるかもしれませんが、事実は事実としか書きようがありませんよ。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 04:51
>>63 上記の資料を自分は読んだ事が無いので、どういうのか確認できませんが
その資料の信憑性の有無は、どうやって高めてると思いますか?
同時期に書かれた文書などを見てから、書かれてる事柄の確認等を行い、
それによって信憑性の有無を決めていると思います。
それから考えて、当時の尼子家の実情などを検証する上で十分な資料だと思います。
毛利側の資料としては違うと思いますけどね。
65 :
58 & 63:2001/02/22(木) 05:24
私の書き方が悪かったのかな?
お互いに言いたい事がよく伝わらないようですね。
多分永遠に平行線のようなのでこれで最後にしたいと思います。
三国志を例に出しましょう。
「三国志演義」もあれば「正史」もあります、「吉川三国志」が好きな人もいるでしょう。
無味乾燥に事実のみを列挙した資料もあれば、多少面白くする為に、
脚色して物語風にしたモノもありますよね。
勿論、「演義」がウソばっかりとは言いませんが、「過剰な修辞」や「通俗的」というのは否めないでしょう?
文才がないので上手く表現できませんが、私が言いたいのは、概ねこんなところです。
これについて、一回反論してください。それで終わりにしましょう。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 06:38
己斐豊後守燃えage。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 09:46
まぁまぁ
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 13:05
>>63 そーゆー資料はどうやって集めてるの?
参考迄に御教授くだされ。
69 :
63 です。:2001/02/22(木) 13:26
>>68 さんへ。
私の場合は、地元の書店又は資料館で購入します。
私は山口県民なんですが、近所に幕末関連や毛利・大内関連の資料を復刻版を限定発売している書店があるんです。
半分(多分)自費出版に近い限定発売なので、品切れが多かったり、やたら高価だったりする難点があるんですが、非常に重宝しています。
それと、歴史資料館等に行くと極希に、そこだけで売っている資料なんかもあるので、必ず買うようにしています。
それ以外では、地元の大き目の図書館に行けば郷土資料として「誰々伝」や「何とか記」のような書籍を置いてあるとおもいますよ。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 15:05
>65
あんたは正しい。
しかし深夜に3〜4時に2ちゃんに来てるのに
昼間にも現れるとは一体・・・
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 18:07
しかし、史書の上での尼子十勇士を語ろうといたしますと
山中鹿之助については
小瀬甫庵「太閤記」
岡部繁実「名将言行録」
「陰徳太平記」「雲陽軍実記」
等にかなりの記述がありますが鹿之助を除けば秋上伊織介、横道兵庫介のことが多
少出てくるに過ぎません。
私個人の思いとしては数々の謀略を駆使して中国地方の主となった毛利元就よりも
悲劇の兵団「尼子十勇士」のほうを判官びいきしてしまいます。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 19:26
どなたか大内義興について語ってもらえませんか?
彼が京で将軍の補佐役をしていたので尼子が勢力を伸ばせたのだから
まったく関係ないってことはないし・・・・
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 22:39
八つ墓村の渥美清と落ち武者姿の田中邦衛がすぐ頭にうかぶのは俺だけか?
75 :
因幡人:2001/02/23(金) 02:13
山中らのせいで国はすっかり荒廃してしまった。許せん。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 11:12
実在の十勇士は山中、秋上、横道だけです。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 13:56
ま、そのへんが無難な解釈だろうね。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 15:32
3人も実在したことの方が驚きだ
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 17:14
>>76 そうでもないですよ。過去ログをみてもらえば分かると思うが。
「太閤記」には「寺本障子之助」が登場しますし、
「雲陽軍実記」には1570年1月28日、毛利輝元を総大将とし、吉
川元春、小早川隆景の両川を補佐役とする毛利軍は飯石郡の多久
和城を攻め落とした。秋上伊織介と「尤道理介」も援軍としてこの城
にいたが、戦いもせず脱出した。
とあります。詳しくは↓
>>26 6月の勝間城の城攻めで「上田早苗介」が三刀屋蔵人、上野源助らと
ともに討ち死にした。
とあります。
80 :
もっとも・どうりのすけ:2001/02/23(金) 18:27
尤道理介、たしかに何に出てきたか忘れたが、
秋上と一緒にそのヘタレっぷりを歌った毛利方の落首があったりして、
十勇士の中では実在の可能性が高い方だとされてるけど、
如何せん名前が・・・・
81 :
80:2001/02/23(金) 18:31
「雲陽軍実記」 のようだ・・・
尼子十勇士なんて、講談っぽい連中の実在性云々より、
立原、三刀屋、米原、松田、牛尾といったあたりを問題にした方が生産的な気がする・・・
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 18:39
出雲十旗
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 18:42
大河ドラマでは、尼子久幸の役回りを宇山が演じ、宇山の役回りを河副が演じてた。変なの。
そもそも河副ってあんなに偉かったのか?
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 01:54
いまいち尼子においての山中鹿介の序列の位置がわからないんですが・・・
勝久擁立してからは尼子家のトップだったのかな
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 01:58
月山冨田城篭城戦でも活躍してたから、それなりの地位にあったんじゃない?
86 :
無名武将@戦国ヲタ:2001/02/26(月) 02:24
山中鹿介幸盛の尼子家での地位について、知ってることを述べますと
経久の祖父・持久の子・幸久が山中の姓を名乗ってます。
幸久−幸満−満盛−満幸−幸高と続き、満幸の次男が鹿介幸盛です。
弘治二年に12歳で尼子義久の近習として召し出され、病弱だった兄・幸高に替わり、
永禄三年に16歳で元服し、家督を相続しています。
永禄六年には、尼子家の一門衆である亀井秀綱の娘を妻に迎えています。
後に亀井秀綱親子が弓ヶ浜合戦で戦死した際に、自身の与力武将であった湯永綱の長子に
亀井家を継がせています。(後の亀井コレ矩)
これらから、尼子家中でも一門に列せられてはいないものの、
それに準ずる地位にあったと思っていいと思います。
87 :
ヽ(゜皿゜)ヽ:2001/02/27(火) 14:47
亀井静香って尼子家臣の亀井氏の子孫だったりしないんかな。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 19:27
屁子
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 23:55
今度、松江に出張するんだが、どこか良い尼子関連の
史跡とか資料館なり無い?土日挟むからいろいろ行こう
と思ってるのよ。
90 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/28(水) 00:06
実際にお家復活を取り持ったのって立原という話聞いたけど
どうなの?
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 01:22
>>89 月山冨田城行け!
最近、発掘調査が進んでいるようだが、渋くていいぞ。
正月なのに、ひとけがなくて、資料館も無人だった(正月だからか?)。
本丸跡からの眺めが結構良くて、あそこから毛利が攻めてきたのか・・・なんてのもよくわかる。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 01:38
それから、新宮館跡も忘れずに!
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 18:12
現在、発売中の『歴史読本』4月号に尼子氏の記事があります。
今岡典和「尼子清定の本当の名前は「清貞」だった!」
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 01:01
>90
立原久綱のことですね彼は鹿介の叔父にあたり政治外交面で勝久を支えたらしいです
織田信長に拝謁したときもたしかその才気ある面持ちをほめられていて刀をもらったはずです
だから勝久擁立したのは立原・鹿介という叔父、甥の活躍によるものだと思います
ただこの二人よりも位がうえの武将が尼子にはいたはずです
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 01:41
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 19:10
尼子が再興(勝久)しなかったら毛利は九州とれていたのかなぁ?
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 04:55
まあ、元就抜きで、宗麟・熊を相手に両川がどこまで頑張れるか、だろうね。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/04/05(木) 13:49
まあ大友ぶち殺して竜造寺は傘下にして、貿易ルートだけ確保してしまえば
南方の島津なぞ別に毛利にとっては戦略的価値はないんじゃないの
99 :
牛屎踏右衛門:2001/05/09(水) 05:37
尼子九牛士の一人として、がんばってageるモー
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/13(日) 13:01
「近代に入って山陰地域が「裏日本」と化し、繁栄から取り残された時、尼子氏
は「英雄」となって再びその姿を現した。旧出雲国地域において、「尼子さんの時
代」は、「古代出雲王国」に準じる「繁栄」の歴史の証明ととらえられ、アイデン
ティティーの象徴となった。尼子氏は、まさに「伝説」として語られるところに、
重要な存在意義を有したのであろう。」(戦国大名尼子氏の研究 長谷川博 著
吉川弘文館 筆者あとがきより)
ううむ鋭い(汗)
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/13(日) 17:22
漏れはこのスレ読んでホレタよ。尼子。
打倒毛利プレイ萌え萌え。
102 :
与六:2001/05/13(日) 19:28
別冊歴史読本『忍びの者132人データファイル』によると、経久が月山富田城を奪回する際、「鉢屋の一党」が妖者(ばけもの)の術を試みて協力したそうです。
>>101 打倒って言っても、元々は毛利より格上だったしな〜
だがそれがいい
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/14(月) 16:11
何気に名門
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/15(火) 20:23
>>86 尼子分限帳によると、鹿之助は中老衆に列し美作に二万石を知行されていた
らしい。同じ中老衆には、立原源太兵衛、本田豊前守等の名が見える。
もっともこの分限帳面は空手形って感じなんだけどね。
なんせ家老衆の宇山飛騨守は石見にて18万7千7百国
(ほとんど石見全体の石高だろう)はまだしも、
一門衆の尼子下野守は播磨にて10万石というのはちょっと
信じられない。
107 :
86:2001/05/17(木) 19:02
>>106 ありがと〜
たしか尼子最盛期って一応版図は11カ国だったよね?
108 :
106:2001/05/18(金) 00:05
>>107 大永年間(1521〜1527)に安芸、備後、備中、備前、美作、播磨、
因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐に勢力が及んだとされてるけど、経久が
11カ国の守護に任ぜられたわけじゃないし、これらの諸国に尼子によしみを
通じる国人領主がいたっていう程度じゃないのかな…
晴久が8カ国の守護に任ぜられたのは天文21年(1553)で、先の
11カ国から播磨、石見、安芸を引いた国の守護に任ぜられたよ。
というわけで俺が尼子でプレイする時は必ず東中国地方を制覇してから
大内・毛利と対戦するようにしています。(笑)
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/18(金) 00:13
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_serch.html 山中鹿介幸盛の名は広く知られているが、その出自はあいまいで、
鹿介の父すら確かな史料には現われないほどである。
「山中系図」によれば、出雲山中氏の祖は尼子清定(貞)の弟幸久であるという。
しかし、「佐々木系図」には、幸久なる人物は見当たらない。
「山中系図」の注記では、幸久は兄清定を討たんとして発覚し、幽閉され五十五歳
で死んだという。が、この事件について記された史料は見当たらない。
三代満盛の注記には、尼子経久に従い塩冶掃部助を討つとあるから、
文明八年元旦に経久が富田城奪回を果たした時、これに従って戦功を挙げた
ということになる。つまり、経久の富田城奪回について、詳しく記した
『雲陽軍実記』で、活躍する山中勘兵衛勝重なる人物は、さしずめ満盛に
比定されるだろう。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/18(金) 00:29
鹿介の好きな人はちゃんと三和銀行に口座を作りましょう
111 :
寺本生死介:2001/05/18(金) 00:30
山中殿の好きな人は、ちゃんと三和銀行に口座を作りましょう
112 :
尤道理之介:2001/05/18(金) 00:33
なんで二度も言うよ
113 :
森田剛:2001/05/18(金) 00:55
>>87 似合う。いいそれ。
それはそうと大河の尼子家は
社員三人雇って一人辞めてゴタゴタっていう
中小企業として描かれていましたなあ…
あの人員で広大な版図を管理するとは、
はるひしゃなかなかやりおるわいふがふが…
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/18(金) 07:38
自民党の衆議院議員亀井久興が、津和野亀井家の16代当主の弟に
なるよ。選挙区はやはり島根3区。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/19(土) 15:56
萬屋錦之介演ずる経久も見たかったのー
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 09:10
しかし尼子の能力ってかたよりすぎなきが・・・
戦馬鹿ばっかり
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 10:03
オレ、鹿之介のこと昔からバンビの介と呼んでる。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 13:58
>>116 だから浦上家の宇喜田一族の内応は必須なり
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/23(水) 18:10
>>114 亀井家といえば、尼子系の勢力の中で殆ど唯一残ったんですよねー。家老は多胡家
だし。 たしか前身は、勝久旗下の生き残りでしたっけ?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/23(水) 23:16
>>62 一般的な資料の評価
一級資料 古文書(幕府、守護等が発行した知行安堵状などの公文書等)
二級資料 その当時に書かれた日記・手紙
三級資料 家系図
四級資料 後世に書かれた軍記物
121 :
出雲万歳!:2001/05/24(木) 08:32
横レス失礼
>>62 史料とか資料の話にはあんまり詳しくないけど、せっかく同時代の文書が残って
いるのに、後世の憶測混じりの文献に重点を置くのはかなり問題があるのでは?そ
ういう意味で陰徳太平記は、結構注意して使用する必要があると思われ たしか
「一休さんがどこぞの和尚と知恵比べをして・・」とかよく分からない記述がやた
らあったし。
もちろん重要な歴史的事実がかかれている可能性もあるわけだけど、その辺の
信憑性は、結局、当時の文書(晴久が発行した書状とか)を元に補強していく
しかないわけで。軍記物は、同時代を知るための参考程度にかるーく読むのが適
切では?
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/25(金) 20:20
>>119 亀井茲矩は鹿之助の養女(鹿之助の妻の妹)を妻にしてるから、義理の親子にもなるし、
義兄弟ともいえるんだよな。
123 :
?義:2001/05/25(金) 21:11
多古ウエモンについて教えて。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/25(金) 23:35
「八つ墓村」に出てくる、村人に惨殺される七人の落武者のボスって尼子さんとこの
公達?とその部下なんだよな、余談だが
125 :
124:2001/05/25(金) 23:37
変な文ですまん。
ボスが公達で、おつきのもの7人を連れてるってこと。
皆殺しにされて八つ墓村ね。ちなみに。
これで俺は尼子さんを知ったのだった
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/26(土) 01:28
>>119 亀井茲矩はたしか山中鹿介が亀井から山中に戻ったときに
湯氏から亀井の姓になったんだよね
羽柴軍預かりになってたことを考えるとまだ若いということと
それなりの尼子家においての家格なのでていのいい人質だったとおもう
人物的には琉球守になったりそこらへんの10万石以上の大名よりも魅力です
127 :
119:2001/05/26(土) 03:15
>>122 >>126 詳細情報感謝です♪
>人物的には琉球守になったりそこらへんの10万石以上の大名よりも魅力
このとき秀吉にもらった「琉球守の金扇子」を、朝鮮侵攻の参加途中に奪われ
ちゃうのもいかしてる(笑)。朝鮮側の資料にもこの扇子奪取の話が出ているみたい
だし、奪われたのはほぼ確実。格好良さと間抜けさが程良く入り交じった絶妙さに
惚れます。
しかし、この亀井家の造った藩、津和野藩出身の文豪「森鴎外」が、出雲を嫌い
抜いていたのは何故?「石見人として死ぬ」ってあんた・・・
それって、出雲との関係でとらえるべき言葉?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/26(土) 16:44
石見は、大内、尼子、毛利の草刈場だったからのー
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/26(土) 17:02
文豪森鴎外としてではなく、一石見人の森林太郎として死にたい、って意味でしょ。
「森林太郎以外の文字は墓石に彫るな」って言葉を伴っていることから考えても。
131 :
119:2001/05/27(日) 00:09
うす、確かに「石見人森鴎外として・・」という遺言の本意はその通りだったと
思う。俺もその辺理解してはいたけど、文章的な面白さを追うあまりに著名なこ
の言葉を引用してしまい、情報の正確さが犠牲となり、とにかくスマソ。
ただ、司馬猟エッセイからの孫引きによると、林太郎ちゃんは生前の講演で、
「私は島根の生まれだが、出雲ではない」と力説していたようで、俺のカキコ内容
も全く故なき事ではないと思われ。この情報の精度そのものを問われると、確かに
もうお手上げだけど
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/27(日) 00:12
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/27(日) 00:26
>>123 多胡といわれると雲石国境付近で某ド○ル・ザビ並の、防衛戦を繰り広げたあの
人しか思い浮かびませぬ。「尼子の栄光、この俺のプライド。やらせはせん、やら
せはせんぞ〜」
134 :
130:2001/05/27(日) 00:55
>>130(119)
>私は島根の生まれだが、出雲ではない」と力説していたようで、
そか。確かにあっちの新聞のコラムでも、似たようなことを書いているのを見た気がする。
遺言との関わりはともかく、彼の心には実際そういう面もあったんだろうね。
有名武将で対抗させると…出雲が忠義の男・山中鹿介なら、石見は恋の男・坂崎出羽守?
135 :
134(130):2001/05/27(日) 00:57
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/29(火) 15:41
>>134 山陰地方はなんか他の地方に比べどんよりしたイメージがあるなぁ
あと個人的に鹿介は忠義というより不屈の男というイメージのほうがぴったりだとおもう
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/29(火) 18:32
坂崎出羽守は備前の宇喜田一族でしょ。
石見の男はやはり吉川経家かと。
「とっとりの事、よるひるニひゃく日こらへ候まま、
我ら一人御ようにたち、おのおのを助け申、
一もんの名をあげ候。そのしあわせ、ものがたり
おききあるべく候。かしく」
138 :
タラ木狼介:2001/05/29(火) 19:06
いやいや俺だ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/29(火) 21:15
出雲と石見ははっきり言って全く別の文化圏です
140 :
スレ間違えた転載:2001/05/30(水) 21:39
先週、月山富田城行って、新宮谷の館跡地も見てきたよ。
何にもねーな。新宮党哀れなりぃー
オイ!広瀬町。馬鹿之介の像なんかブチ壊して、経久の像たてろヴァカ!!
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/31(木) 07:05
>>140 >馬鹿之介の像なんかブチ壊して
全くもってそうだよね〜。
山中鹿之助は、仮にも主君と仰いだ勝久を切腹させときながら、おめおめと毛利
に下って惨殺された大馬鹿者だからなぁ。初めは神西に責任を押しつけようとする
し。叔父の立原がそうしたように、機会があったら逃げてたんじゃないかな〜。
まあ出雲人らしいっちゃそうだけど。
>>136 >鹿介は忠義というより不屈の男というイメージのほうがぴったりだとおもう
多分この辺り、故・竹下登先生とかの性格とも通底するものでしょうな。
>>139 確かに。全体的に、石見人の方が素直で明るいよね。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/31(木) 22:50
新宮党って尼子の精鋭って言われてるけど、本当にそうなのか?
なんか、いつも詰めが甘いというか…
特にせっかく緒戦に勝っておきながら、
その夜に酒盛りして敵の夜襲を喰らって敗走ってエピソードは最悪!
143 :
刑:2001/06/03(日) 15:16
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/08(金) 07:51
? 改竄されてる?
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/08(金) 11:41
146 :
っていうか:2001/06/15(金) 23:07
尼子分家の私兵集団でしょ?<新宮党
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 00:27
大河ドラマ毛利元就の岩崎ひろみ(尼子晴久正室で新宮党惣領国久の娘役)
月山富田城が歓楽寸前まで追い詰められたときの演技は爆笑したな
「尼子は終いじゃ〜尼子は終いじゃ〜〜〜〜」
大河見てた人なら分かると思うけど
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 09:35
中村獅童の尼子義久は、演技もそんなに下手じゃなかったし、お坊ちゃんぶりが
イイ味出していた。あの時も川副惨殺してかなり盛り上がってたのに、いつものママ
ンの奇行のおかげで落城の雰囲気がぶち壊し(藁 頼むから黙っててくれ
とにかく、岩崎ひろみと中村橋之助の演技はワーストでした。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 17:45
恵隆景は最初出て来た時どうしようかと思った
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/16(土) 19:37
>149
しかも仕える本家の主君は森田GO(藁
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/17(日) 12:56
>>147-148
若いほう?それとも年喰ってるほう?
152 :
148:2001/06/17(日) 18:24
若いほう。
ちなみに147と148は別人です。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/06/26(火) 01:57
真面目スレage
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 18:50
age
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 20:19
勝田勝年先生が書かれた尼子氏関係の論文は、近年再評価されているそうで
すが、このことについて誰かご存知ありませんか?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/16(月) 23:05
書いたまんま忘れてた
>>152さんどうもです
>147-148は『=』てゆう意味じゃないすよ
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 01:48
大河は「臆病野州」が出てこなかったのが、萎え〜
宇山にその役やらせてたけど・・・
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 01:59
大河の毛利元就はひどかった。
あんな愚作・駄作もめずらしい。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 02:40
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/18(水) 02:49
>>159 ・・脚本が女性だったんか。それであの内容なんだ。
始まる前は、元就が如何にして弱小国から、中国の覇者
になったか・・その謀略の部分を見たかったのに、
毎回、毎回、嫁はんとの痴話ばっかり。
161 :
159:2001/07/18(水) 03:56
160さんも、そう思ってましたか。さっき学研の赤本読み返してたけど、
きちんと描けば、追放の身から再起した尼子と3000貫から中国の覇
者になった毛利は、題材としては宝の宝庫だったと思っていたんですよ。
それがあのキャストと内容・・。
それはそうとこの時間にカキコしている自分って・・。もう寝ます。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 00:13
風は尼子じゃ〜age
>>7 信長の野望世代は経久すらしらんのか…
もっと、本読んで、興味と知識を広げろ
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 00:28
>>163 7は5の言った「尼子十勇士について教えて」について、
鹿之介以外〜って言ってるの。尼子経久は十勇士じゃないだろ。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/22(日) 00:38
あきあげ いおりのすけ
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 19:56
尼子氏が建てた建築物って今いくつ残ってるんでしょーか?自分は岡山の中山神
社しか知らない。
○中山神社豆知識
美作国一の宮。建築様式は中山造といわれる、大社造を基本として、随所に
手を加えたもの。特徴は入母屋妻入。晴久派の聖地(嘘)
169 :
難何紙委:2001/07/25(水) 22:39
尼子氏建立の遺物じゃないけど、戦国三大肩衝(初花、楢柴、新田)に匹敵する
茶器として、尼子天目(これは肩衝ではなく茶碗だけど)というものがあったら
しい。今は行方不明とか。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 00:02
山中と秋上は竹馬の友という話と、主導権争いをした末、秋上が毛利に寝返ったという話があるけど、どっちが本当なんだろう。
個人的には後者の方が真実味があると思うんだけど・・・。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 21:23
↓これを見て泣かざる者は、雲州男児にあらざる也。晴久の急死は尼子政権
にとり致命傷だったという思いを新たにしました。
『永禄三年十二月二十四日 尼子修理大夫晴久死去、
同五年六月 本城越中守逆意により、三沢・米原謀叛す、
よって隣国動乱し、富田一城となり、
数ヵ年防戦に及ぶといえども、之を助ける国無く、
兵糧尽果て、少々餓死におよび、
小早川又四郎隆景・吉川冶部少輔元春の執登により、
同九年十一月二十八日下城す、』(「佐々木文書」より抜粋)
漢文書き下してみました。間違ってたらスマソ。
(原文) 永禄三年十二月廿四日 尼子修理大夫晴久死去、
同五年六月 本城越中守依逆意、三沢・米原謀叛、
仍隣国動乱、富田一城也、
数ヵ年雖及防戦、無助之国、
兵糧尽果、少々及餓死、
小早川又四郎隆景・吉川冶部少輔元春依執登、
同九年十一月廿八日下城、
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 08:26
今でも道徳で七難八苦って教えてるのだらうか?
173 :
27歳、神奈川出身:2001/08/02(木) 00:12
俺は教わらなかったぞ。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 04:42
折れは尼子ファンじゃないが
山中鹿之助の「出雲切り返し」はカッコいいと思う。
折れなら能島村上水軍と組んで
大暴れするぜ!
ところで月山富田城ってどう読むの?
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 05:15
おっさんとみたやすこ
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 05:16
がっさんとみたじょう
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 07:03
「とだ」では
まるこ
ぽーろ
尼子の内政ってどんなもんだったんでしょう?
鉄と港と貿易の他は特色なかったんでしょうか?
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 08:36
あまり無いみたいですね〜<特色
まあ、鉄の生産地を握っているだけでも十分特徴があると言えますけど。
しかし、特殊な例外を除けば、戦国大名の経済基盤なんてみんな同じようなもので
すよね・・・。農業+α。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 08:36
勝久入国!出雲切り返しage
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 10:59
せっかくだから、旗でも立てておこう。
___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――
│
│
│
│
│
184 :
古代出雲以来だが:2001/08/02(木) 13:41
日本海ルートを握ってるの大きいよ。尼子〜朝倉〜最上まで。
早々と江戸初期で北前船航路の基礎が確立してたのはもう室町末期
以前からこのルートで大名が保護してたから。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 03:36
藤岡大拙氏はなんとなく許せん!age
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 04:02
結論先にありきだからなあの爺は。
所詮「おらが国さ」のレベルなんだから無視しとけ
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 10:04
「おらが国さ」というスタンスなのはまあ許すとしても、なぜその郷土愛から
「尼子残照」などという、思いこみたっぷりの晴久愚弄小説が生み出されてしま
うのかが摩訶不思議。くの一にたぶらかされ元就の手のひらで踊る晴久を見たと
き、折れの心は憤怒に満ちた。しかもこれ晴久再評価を目指した小説のはずなの
よ(笑)。経久マンセー主義だからか?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 07:26
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 07:52
>>187 県民性と関係ありそう・・・って、多分誰かが研究してんだろうな。
190 :
187:
>>188さん
それは微妙に、というか完全に論点がずれてるよー。折れなら晴久を正しく再評
価できるなどとおこがましいことを言いたいんじゃなくて、藤岡氏が晴久を再評価
するのに「元就の放ったくの一にたぶらかされて・・・」などという、小説とはい
え耳から脳味噌垂れ流しているような話を書いてしまい、それも、従来の「晴久暗
君説」を覆したかったといいながら、むしろ助長している辺りは傑作だよねという
ことを書いたんだから。
晴久を有能に描きたかったのなら、長谷川博史氏の論文とかネタになりそうなも
のは幾らでもあるのに・・・。ほんとに、何でなんだろ?
>>189 藤岡先生が研究してるかも(笑)。この人の出雲マンセーな姿勢には感じいって
しまうのです。ていうか、実はむっちゃ好きです(笑)。