武田家滅亡

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1無名武将@お腹せっぷく
の原因を探りたく思う。信玄から勝頼への総帥権譲渡時期の遅滞が一因であると思うけど、どう?
勝頼が凡将だからってのはナシな。今まで言われ続けてるから。違った視点から逝ってみよう。
2無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 06:17
カリスマ信玄がいなくなり
自分の領地を守ってくれるとは限られなくなったので、身をもって武田家に仕える家臣が減り
力ある12将(うろ覚え)からの数人から愛想をつかされた。
 他国の武将が取り込みにかかった手法もあるので拍車がかかり
信玄の遺言で「3年は国を固めよ」というのに逆らい滅亡により近づいた。
 ってどうよ? 長文スマソ。
3無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 06:43
版図はむしろ信玄時代より拡大していたから、地力はあったと思う。元凶は穴山梅雪。って言うか、奴をさっさと始末しなかったのが痛い。
4無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 08:26
御館の乱で北条を敵に回したのが悪かったのでは?
甲相越同盟結ばにゃ織田には勝てんよ。
5無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 09:17
 そもそも金山に経済基盤を置かざるを得なかった状況が、
滅亡の遠因。金は掘り尽くせばなくなってしまう。
 逆に上杉が生き残ったのは、麻の一種の栽培と、当時の唯一
の工業地帯である京都への販売を経済基盤にしていたから。
麻はいつまでも収穫可能で、無くなる事はない。とはいえ、
換金できる生産物が、麻以外にもいっぱいあった織田には、
とても及ばなかった。今でいう「モノカルチャー経済」という
訳だね。
6無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 09:41
単に海がなかったってのはだめ?
7無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 13:23
織田と戦ったからであろう。そしてそれは織田の天下統一から必然であり、
滅亡も必然であった。何故織田が武田より強いかというと、財力の違いである。
当時の財力の指標は米であった。貨幣もあり、流通していたが、あくまで米の
仲介を容易にする付属的なものであった。
米の生産力を比較するために両者の石高を比較して見る。1570年姉川の戦いの頃
織田が支配していた領域は尾張、美濃、伊勢、伊賀、大和、河内、和泉、近江、
若狭、越前、総石高467万石(元禄)。対する武田は甲斐、信濃、駿河
、総石高109万石。武田の金山収入がどれだけの割合を占めていたか知れないが、
石高による財力だけを見れば四倍以上。武田には必然的に織田には勝てなかった。
8無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 13:30
織田家に反抗する諸侯が歩調を合わせ各方面から攻め入れば、
よかったのではないだろうか。
織田家は各方面に守備隊を起き、戦力分散してはいるが機動的に軍を
集中させる術を知っているので各個撃破の憂いを請うた形かな
9名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/17(土) 13:30
武田には愛が足りなかったので負けたのです。
戦争のすべての勝敗はラヴラヴパウワーで決定します
これ世界の定説でス
10無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 13:55
フハハハハハ
馬鹿め。世界は皆ニクシミパウワーで動いているのだ。
武田は織田よりもニクシミパウワーが少なかったから負けたのだ。
11無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 14:14
>>7
 財力が石高に比例というのはナンセンス。そもそも米は
人間の食い扶持を養うために必要なのである。武田の軍用
糧食はほとんどが雑穀であり、雑穀を考えれば、石高以上の
能力が武田にはある。
 米、雑穀以外の換金物については、鎧、刀、槍、鉄砲、
火薬などを調達するのに必要。これについては、逆に商業地
を押さえている織田のほうが、金山に頼る武田より圧倒的に
有利になる。

>>6
「海が無い」=「兵站、商業取引を陸上輸送に頼る必要あり」
 という事で、かなりのハンデにはなる。
 最低でもこれくらいの解説はしろよ。
12無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 14:31
勝頼に代替わりした時点で織田と和睦するのは無理だったのか?
亡くなったとはいえ妻は信長の養女じゃないですか。
13山梨県甲府市:2001/02/17(土) 14:37
>>11
でもさ石高って動員できる兵力の目安にはなるじゃん
100万石で25000〜30000ぐらいだっけ?
14家臣の末裔:2001/02/17(土) 15:13
あんな女好きの信玄を、なんとか家臣たちが支えてたのに、
そいつら長篠で死んじゃったらダメになるに決まってるじゃん。
15逝かざることピンの如し:2001/02/17(土) 15:28
女にうつつを抜かしてるようだからダメなんだよ!信玄は
謙信公なんてきっと童貞?
そして〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
勝頼って何で武力80以上なわけ?
納得できひん。
山県が80以上は超雲なっとく!
16無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 15:50
信玄が生きていたって武田は滅んだよ。きっと。
17無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 15:50
鉄砲だよ鉄砲!
それに水軍。
騎馬隊なんてもはや時代遅れ。
18上杉達也:2001/02/17(土) 15:53
浅倉南を愛しています!
19無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 16:02
そういやタッチって武将の苗字がおおいね。
上杉、松平、新田、浅倉(朝倉)、長尾・・・
まだいたかも
20無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 16:55
武田勝頼は言われてきたほど、凡将ではない
という評価も最近出てきているが、どうか?
21名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/02/17(土) 17:08
実際凡将ではないでしょ。
高天神城落としてるぐらいだし
2211:2001/02/17(土) 17:11
>>13
 阿呆かい。「目安にならない」と言っているんだ。
武田支配下の武士、農民は米以外の雑穀もたくさん食って
いたから、石高以上に人口を増やし、兵を動員する事が可能
だったんだよ。
23無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 17:19
>>21
 高天神城を落とした際、家臣が「これで武田家も滅亡だ」
と嘆いたのは、有名な話だろ。
 そもそも、どんな堅い城も、外部からの援護が一切ない
場合は、落ちて当たり前。高天神城攻略の際は、徳川、織田
の援軍は間に合わずに、落城したのである。そして、わざわざ
甲斐から大軍をくり出す以上、城をひとつしか落とせない
のでは、無駄もいいところ。援護に来た徳川、織田の軍勢を
撃退して、その勢いを借りて他の城も同時に2〜3個は落と
さないと、帳尻は合わないのである。
 そういう状況だったにもかかわらす、「俺は父親にも攻略
できなかった高天神城を落とした!」などと浮かれていては、
家臣は嘆いて当然だわな。
24無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 17:23
>>15
 上杉謙信は童貞じゃないよ。結婚してなかっただけ。
 上洛した際は、都の貴族の若者に誘われて、山科にある
悪所に通って、そこで悪い病気までもらって帰ったんだよ。
25無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 17:30
信玄は砥石と川中島で、勝頼は長篠で、重臣を戦死させている。
どちらも戦上手って感じはしないんだが、どうよ?
26無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 17:45
同情的に見て

・諏訪のよそ者だったから信玄子飼いの家臣団に白眼視されてた。
・陣代という立場も中途半端。
・若い。

ってところですかな。
27無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 18:24
>>25
信玄は戦上手というよりは長年戦闘をあっちこっちでやってきて、
経験をつんでいたため、信長に恐れられたということだろうな。
三方ヶ原、三増峠など用兵はなかなかのもんのようだし。
美濃からは眼と鼻のさきで毛利、上杉などよりは
比較的楽に中央に出てこられるしな。
ただ、なんか神様や天才のようにいわれるのはちょっとな。
軽率なところも多いし。
28UMA:2001/02/17(土) 18:53
軽率だけど北条、上杉、徳川、織田に囲まれてボコられモードになりかねなかったんにボコられなかった信玄万歳。
29無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 19:02
>>28
よく考えたら信玄の周囲って名将中の名将ばかり並んでるな。
誰がいつ天下をとってもおかしくないと云うほどの…。
今改めて信玄公が如何に凄いかを感じ取ったよ。
30無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 19:33
信玄時代の武田家って実際の戦闘よりもそれ以前の根回しがうまいでしょう。
勝頼時代にはそれがない。

信玄上洛の際の状況:
 上杉家を一向一揆で足止め
 北条家と再同盟
 毛利朝倉浅井将軍家連合と連携
 美濃へ陽動部隊派遣
 孤立無援にした徳川を主力(約2万5千)で露払い
勝頼時代の長篠合戦の状況:
 上杉の押さえに高坂率いる一万余の兵力を北信へ
 長篠城を主力(約1万8千)で包囲
 来援に現れた織田徳川連合(約3万5千)と長篠城包囲軍を抜いた兵力(約1万5千)で決戦

美濃岩村城の秋山信友にちょっと増援部隊を派遣して暴れてもらえば織田方の兵力を
ある程度削げたと思うが、この辺の配慮が無いんですよ勝頼時代は。
31無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 20:02
・信玄がもう少し早い時期に隠居して勝頼基盤の政権を固めていれば、あるいは・・・と言う考察も出来るな。伊達家のように。
・伊勢長島の一向衆を見殺しにしたのは痛い。信長の牽制勢力を失った。
・長篠を避けなかったのも戴けない。あの合戦を避けて、国力を温存し、史実通りに本能寺の変が発生すれば・・・と言うのはシミュレートしすぎか。
・黒山金山の金産出量が減ったのは苦しいが、安倍金山を奪取したから数年は大丈夫だったはず。
・なにはともあれ、武田家が戦国最強の部隊だったと言うのは認める。井伊の赤備えなんざ、武田家をそのまま踏襲してるから。
32無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 20:05
勝頼も凡将ではなかったけど、武田軍団を率いて切り盛りできるほどの器ではなかったと。
33無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 20:19
まあ二代目てのは難しいよ。
徳川秀忠だってかなり有能な男だったと思うけど、やっぱ印象薄いしね。
周りから尊敬されてる親を超えてやろう!なんて考えてしまう「若さ」
てのが一番の原因だったのでは?なんて個人的意見。

やっぱ信玄に配慮がなさ過ぎ。
だいたい死ぬ直前に京都目指すなよ!て思うよ。
34無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 21:40
>だいたい死ぬ直前に京都目指すなよ!て思うよ。
それは結果論だと思うけど。
信玄の上洛の際にも周到な根回しをしていたのは、独力で信長を倒すのは難しいと知っていたから。
勝頼主導の武田家に変わるためにも「国を固めよ」て言われたのにそれを破っちゃダメダメ。


35無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 21:52
「国を固めよ」って死ぬ間際に言うんじゃねぇよ。って感じ。
36無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 22:25
勝頼公は信玄公よりも革新の意気は高かったね。
城を築くなって遺言があったのに
甲斐に新府城を建設しようとしていた。

で、ここには織田の城のように武家屋敷を幾つも置いて、
兵農分離政策に結び付けようとしていたと言うから
単なる猪武者ではないだろう。
37無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 22:29
>>36
それが武田滅亡を早めた!というようなことをサカイや先生はおっしゃってました。
38無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 22:37
堺屋>小和多>童門
39無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 22:49
戦争はうまいけど、内政はへただったらしいね。
結局、いろいろな手当てしなかったから、結局あんなにぼろぼろ
になって終わってしまった。
40無名武将@お腹せっぷく :2001/02/17(土) 22:55
>>35
> 「国を固めよ」って死ぬ間際に言うんじゃねぇよ。って感じ。
言えてる。自分で固めとけよ!って感じ。

41無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 23:23
 駿河攻略の戦果を安部金山にしか見出せなかったのは致命的。
海を確保した時点で、商業取引と海運による兵站確保に全力を投入
すべきであった。
 徳川にはその時点で水軍が無かったのだから、制海権を持つ有利さ
を最大限に活かす事ができれば、遠江、三河まで占領する事も可能
だった。それを信濃からの攻撃で徳川と決戦したのは、大失敗。
42無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 23:26
あれ?武田って海がほしかったから謙信を争っていたのかと思ってた。
海には興味なかったのか・・・。鬱だ
43無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 23:50
高坂弾正の回想録に曰く「謙信は義にあつい武将だから、争わずに友好関係を築いていれば、今頃は中国地方辺りまで進出していたであろうものを・・・」みたいなこと言ってたね。弾正だったっけ?忘れたけど。
44無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 23:52
>>41
では駿河を何の目的で獲ったんですか?
たんに今川が邪魔だった、そんなんではないですよね?
45無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:02
今川に水軍はあったのか?
46無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:09
武田が駿河侵攻した理由に氏真が武田に妹の返還を求めて
上杉方と交渉を始めて、それが甲駿同盟の破棄の一因という
検証があり、学会でも認められてますね
47無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:18
>>43
中国地方は無理だと思う。
精々近畿制圧できるくらいかな?
48無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:19
悪い武将ではないが、良くもないかも
49無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:23
基本的に諏訪四郎勝頼だからな
武田じゃないし
50名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/18(日) 00:30
>>41
の言うことが正論。
信玄もそのつもりであったか、
海を利用しようという意識が欠落していたのかどちらか。

前者ならば、壮大な計画を持って上京しようとしていたのだろうが、
健康上の理由から、民情を把握している信濃からの兵站を強行したんじゃないかな?
ありきたりの解釈だけど。

後者ならば、、、言われているほど優秀な頭を持っていたわけではないことになるな、、、
51無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:30
>>47
近畿を取れるなら天下も取れると思うよ。
52無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:33
>>50
あれ?今川の海賊衆を組織してなかったっけ?
53無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:12
信玄は水軍を指揮下に組み込んでいるよ。
ただ、軍隊輸送に使うには小さすぎるし、無理に使えば
タダ単に戦力分散になるだけって考えたんじゃないかな。

あと、信玄は軍事的才能以上に、外交における活躍が光る武将だった
と思うよ。確かに謙信と争ったのはもったいなかった気がするけど、
信長を包囲したのは立派だと思うな。
54無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:19
>>52
岡部貞綱とか間宮造酒丞、あの辺の武将のことでスか?
武田水軍ってあったような気もするね。
55無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:21
てことは元々の今川水軍がシャバかったから、どうしようも
なかった!ってこと?
56無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:23
静岡は海賊が活躍できるような地形じゃないからね。
57無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:28
>>54
その辺の今川の海賊衆をそのまま取り込んでるけど
整備するまでには到らなかったって言うのが事実っぽいね

なにせ、駿河侵攻の所為で北条、上杉、徳川、織田と
まわりを全て敵にして、とても水軍を組織できる余裕がなかったんだと思う
580812:2001/02/18(日) 01:30
 勝頼は正式な世継ぎじゃないだろ。単なる繋ぎなんだからさ。
59無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:34
>>58
その辺のあいまいさが信玄ダメダメ
60義信:2001/02/18(日) 01:42
だから俺にやらせときゃ良かったんだよ!
61無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:43
>>60
きっとそういうことだったんだろうね
62無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 02:39
義信と勝頼てどっちのほうが大名としての資質があったんだろう?
個人的には義信なら家臣は納得してしたがったような気がするけど・・
63与六:2001/02/18(日) 02:55
今川の旧臣岡部貞綱に土田家を継がせて武田水軍の主将とした。 貞綱が長篠合戦で討死を遂げたのち、天正八年(1580)北条水軍と伊豆西海岸で海戦を行い勝利を収めた。武田水軍たった一度の海戦結果です。
64名無しさん(新規):2001/02/18(日) 04:10
武田家って信玄時代から重税だったんだろ?
金山がどうこうっていうより注目してほしい。

滅亡する時なんか平民がかなり織田に味方したらしいからね・・・

65無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 05:11
>>64
ああ、木曾口から侵入する時のこと?最後の方は民衆が離れてたかもねい。
>>62
つまらん質問だと思うけど、義信と勝頼どっちが有能なんだろう?義信には川中島で余計なことしたって印象が強いんだよね・・・。

天目山で滅亡する前に小山田信茂の郡内と真田昌幸の居城どちらに移動すべきかってのあったやん?真田の方に行ってたとしても結果は同じだったか・・・。
6641:2001/02/18(日) 10:14
>>52 >>53 兵農未分離の時代においては、水軍と海運商人との区別もまだ
無かった。水軍はすなわち船持ち商人でもあった。
 残念ながら、武田信玄は、水軍を軍事力としか見る事ができな
かった。水軍を利用して活発に商取り引きを行えば、鉄砲や煙硝
だって、織田には及ばなくてもかなり入手はできたし、金山以上に
利益も上がったはず。
67無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 11:38
>>65
真田のところへ行ったら助かりそうな気がするね。
まぁ、そんなに上手くはいかなかったのだろうけど。
68無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 13:32
武田信玄は政治力はあっても、経済力?財政能力は無かったのね
69無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 13:49
どっかの本に、信玄も駿河に移り海運に力を入れたかったが、
家臣団が甲斐に土着しているため不便な山国を本拠にせざるをえなかったって書いてあったな。
どうなんだろな
70名無し:2001/02/18(日) 14:23
でも結局信玄が生きていて、織田と抗戦したところで
信玄は負けていたのではないでしょうか。
織田は兵農分離をいちばんはやくすすめ
システム面でも旧体制の信玄よりもはるかにすすんでいた
どうでしょう?
71趙狗庵:2001/02/18(日) 14:29
信玄って城南電気の宮路社長に似てるな。
72無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 17:27
>>69
 でも上杉は生き残っている。何故、上杉は生き残ったのに、武田は
滅んだのか? そこが問題のような。
73無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 17:28
>>70
 でも上杉は生き残っている。何故、上杉は生き残ったのに、武田は
滅んだのか? そこが問題のような。
74無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 17:29
↑72は書き込み間違い。スマソ
75名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/18(日) 17:29
信長との関係の問題で、上杉・武田自身の問題でもないような気がする。
76北条氏康:2001/02/18(日) 17:43
国が豊かでもないのに、戦のやりすぎだよ
77毛利元就:2001/02/18(日) 17:44
自分が死んだあとのことを考えなよ。
あと、後継者の教育もね。
7876,77:2001/02/18(日) 17:45
こんな感じ?
79ファミコンロッキー:2001/02/18(日) 18:03
ファミコンゲームの武田信玄はクソゲーだった。
なにがクソゲーというとパスワードを入力してゲームを
再開すると国の数と兵力以外はすべて初期値に戻ってしまう。
このふざけた仕様に対して猛烈に抗議したところ
ゲーム関係者は「武田の滅亡までも考慮したために、この仕様は
是が非でも守りとおさなければならなかった・・・」と涙ながらに語った。

THE END
80無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 20:06
勝頼は過小評価されてると思うし、信玄は過大評価されてると思う。
木曾、穴山、小山田の3大裏切りも、信玄が部下を地方領主みたいな
形で残してしまったことに問題がある。
第一、あんだけ領土を広げておきながら、本拠地を古府中から移してないし、
居城というものをつくっていない(躑躅が館って、……館かよ)。
城の役割が戦いから、経済の中心に変わっていったこの時期(その点、岐阜や
安土を造った信長はすごい)に、館なんかを本拠地にしてるなんて。
やっぱ戦争はうまいけど、政治や経済をよく分かってなかったんじゃないの?

って、これは現代から見た話だからね。なんとでも言えるか。
81無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 20:16
>>80
そりゃちょっと言い過ぎだろう。
土地支配を基本とした中世ではそういうのが当たり前で、
むしろそれを否定して本拠地を移動したり、
兵農分離をやったりする信長が異能すぎたんだよ。
ちなみに武田が滅び、上杉が生き残ったのは、
越後が信長の支配地域から遠かったからという単純な理由だ。
82長野業正:2001/02/18(日) 20:20
俺は周りの人が考える「武田家」ってのは「武田信玄」そのものの事の気がする。
ついつい「武田家」って言うんだけど武田信虎の後始末、領地の継承、
あれだけ優秀な家臣をまとめるカリスマ性、それをもつ武田晴信がいたから
あれだけの大きな存在になったと思う。
だから「武田信玄の死=武田家の滅亡」ってなだけで
織田家との戦いとかは深くは関係ない気がするな、俺は。放っておいても潰れた。
これは織田信長、豊臣秀吉も同じ。大きすぎるトップってのも大変だな。
時間とその教訓を得た徳川家康だけが勝ち残ったって俺は思う。
途中から話がそれたな、スマン。
83無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 20:45
覇王伝は呼吸するのにも勲功を要求されそうで嫌だった。 移動や敗戦・
さらには約束もしていない寝返り( しかも全然役に立たず、一瞬で捕まっ
ても )等、何をさせても勲功が溜まる。
それくらい俸禄の内だろう、と何度思った事やら・・・
せめて論功が合戦毎や季節毎に自動的に開けるシステムだったらまだし
も我慢出来ない事もなかったが。
合戦もかったるい( 特に城攻め )だけだったし、私は文句無く歴代最
低の評価を下したい。
84無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 23:47
>>71
所謂、今伝えられてる信玄の肖像(あの坊主頭のやつね)、あれ信玄じゃないらしいって話しも出てるぜ。刀を良く見たら武田菱じゃなかったらしい。
>>77
それは言えてる。ある意味、後継者ほったらかし。やりたい放題して「ほな、お迎え来たからワシ逝くわな」状態。

信玄が死んだと言う情報がもたらされた時、食事中だった謙信は「惜しい男をなくした・・・」とライバルの死を悼んだとか。俗話だろうけどちょっとホロッと来るね。
85無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:56
通称言われている信玄は、能登畠山一族の画像の可能性が大きかったはず。
別バージョンの信玄画像もあって、こちらは若い頃の画像。
でっぷりした信玄ではなくて、顔のちょっと細長い普通の青年武将っぽい。

母親の大井婦人、息子の勝頼や信勝の画像と比べると(信虎はひどすぎ・・作者信廉)、
たぶん晩年の信玄も同じような顔をしてたんだと思います。
86無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 01:20
信虎の肖像画はちょっと酷いですよね、まるで爬虫類みたい。
有名な信玄の肖像画は、「畠山義続像だった」が有力なんですよね。
87信勝:2001/02/19(月) 02:25
上州か越後に一ヶ月逃れていれば…甲信回復はすぐ出来た筈なのに…どうして
郡内…
88無名武将@間宮康俊:2001/02/19(月) 03:25
>87
小山田は一族だったし、岩殿山城も甲府から近い上に、
恐ろしく固い城だったからじゃないですか?
ものすごい岩山の上に城があって、ルートは細い道だけ。
はっきりいって、兵糧攻め以外で軍事的に落城させるのはまず不可能。
89南無諏訪南宮法性上下大明神:2001/02/19(月) 03:48
僕も若い信玄像だけが本物だと思う。
信虎にさんざん疎んじられた過去があるでしょ?
わざと信繁より劣るふりをしてみせたりしている
そういう過去があったからこそ人間的にすばらしかったんだろうし
異質な信長にいち早く関心を示したのもそのへんと関係あるんじゃないかな
9089:2001/02/19(月) 03:50
あー神経質だということは
痩せ型じゃなかったろうかという意味ね
91無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 20:29
 ところで、武田家の問題については、井沢元彦が今「逆説の日本史」
で取り上げている最中だ。週間ポストはしばらく必見だ。
92信勝:2001/02/19(月) 23:40
>88 確かにあの城、高速道路から見てもdでもなくすごい岩の上に立っている城だ
よね
93無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 01:52
 >>82 と意見同じですけど勝ち残った家康にしても三方ケ原の敗戦で経験をつんだという事が後々多大なる
いい影響をもたらしたともいえるし。
 郡内の小山田氏や姻戚関係の穴山氏がうらぎったのも、武田信玄が元々あった物を
うまく利用して強固な相互関係を築き上げたからこそうまくいっただけであり、プラ
イドの高い彼らをうまくコントロールすることができなかったからこそ勝頼は滅んだ
んだと思うんだけど。滅んでも仕方なかったかなと。
 
94代打名無し:2001/02/20(火) 04:30
age
95無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 13:30
age

96無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 13:39
徳川幕府の経営基盤を整え徳川総代官とまでよばれた大久保長安は
旧武田家の財務官だけどあんま誰も語らないね。
やっぱ印象が薄いんかな。

ところで岩殿城。援軍の来援を見込めない岩殿城へ逃げようとするのは
ダメだと思う。心情的にはわからんでもないけど。
しかし高坂の策に従って駿河を北条家へ割譲しておけばこうも惨めに滅び
なんだものを。こんな案を進言する高坂も凄いが。
97無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 13:43
>>96
本当に進言したのかな?
98無名武将@山県の一足軽:2001/02/20(火) 14:33
やっぱり信玄が偉大すぎたんだろう。
それで家臣達は信玄が死んだときに力が抜けてしまったんだ。
そして長篠での自殺行為みたいな突撃劇・・・・
そう
夏目雅子が死んでから俺がもうずっと力がはいらないのと同じだ。
99無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 14:41
>>98
お前は氏ぬタイミングを誤ったな。
夏目雅子が氏んだ時点で自札してこそ夏目雅子ファン。
100無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 14:53
100.
10198:2001/02/20(火) 14:54
もう逝っちゃうぞ〜。
逝っちゃうぞ!
逝っちゃうぞ〜〜!
102無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 15:16
つーか勝頼よりも景勝の方が泣きそうな状況だったろうに。
103またまた98:2001/02/20(火) 15:42
今から富士山樹海を目指して逝きます・・・・・
それでは
104無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 15:47
景勝は凄いよな。
周囲は敵しかなかったのによく領国を守り抜いたよ。
105無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 15:49
氏政 領土拡大に逆上せ上がって太閤を退けられると勘違い
景勝 領国の保身にのみつとめた
勝頼 相変わらず戦国大名気分で天下取りを狙い続けて破滅
106いままでのレスをまとめると:2001/02/20(火) 16:15
信玄=力道山

勝頼、義信=百田兄弟

でいいかな? 歴史ヲタどもめらが!!
107無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 16:21
>>103
来るな!!ヴォケ!!
死体片付ける身になってみろ!!
108無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 16:24
がんばって俺の死体かたづけろよ。
ハハハ。
109無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 16:25
景勝なんか運が良かっただけだろ。

柴田と新発田と森と滝川に包囲されて滅亡寸前だったし。
信長があと半年生きていたら勝頼と同じポジションで語られていただろうね。
むしろ兼続におんぶにだっこな景勝のほうが凡将扱いに違いない。
110無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 21:30
>>89
  小山田は一族じゃないよー。
  
111無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 21:33
>>109
優秀な部下の進言を受け入れずに自分勝手に馬鹿やって自滅の勝頼のほうが凡将
112無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:23
戦国大名としての生き方は、自分が天下を獲るか、御家存続を計るの2つしかなく、
なまじ信玄の遺産を手にしたものだから、勝頼は調子に乗ったのでしょう。
でも、勝頼の性格では他人に膝を屈するのを潔しよしとしなかったのだろ。
113無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:34
>>111
 勝頼の時代では優秀な部下の進言は全く受け入れられなかったと思うよ。
 一族衆,特に最後裏切った人たちね,や勝頼の側衆が実権を握るために
 暗躍していたんだからね。
114代打名無し:2001/02/20(火) 23:48
>>109
信長があと半年か1年生きていたら
上杉も毛利も滅んでいただろうなあ…。
115HH:2001/02/21(水) 01:03
はじめてここに来てみました。
大変失礼とはおもいますが・・・すみません。
歴史を考える上で、過去の人物がどうであったか、どう思っていたかを考えることは非常に重要
であり、大変勉強になることですので、自己の主張は貴重だと思いますが
その人物の評価がどうであるか等という発言にはあまり関心できません。
凡将だろうが、あるまいがその時の判断はその時代の人間関係や環境に大きく
左右されるわけですのでそれを酷評するのはなんとも心が痛みます・・・
ですから私は冷静に自分の思うことを好き嫌いに関わらず発言しようと思いますので
皆さんよろしくお願いします。
ちなみに私のご先祖さまは、加藤清正様にお仕えした武将の一人です。
皆様よろしくお願いします。
116信勝:2001/02/21(水) 01:08
111>勝頼の事を凡将と言うのは間違いだと思う 徳川家康にしたって
単独で勝頼と対決するのは避けていたし…
117無名武将@お腹せっぷく :2001/02/21(水) 01:19
>>115
なんかよく判らんカキコだな…
人物評価は感心できない…といいながら、自分も発言するとか…
118HH:2001/02/21(水) 01:40
>>117
気にさわったのであれば申し訳ありません。言葉が足りなかったようです。
私はただ皆さんがご意見出されていた内容には楽しく読ませていただいたのですが
過去に故人を侮辱するような発言があったので・・・ここに記したわけです。
ちょっとどころかかなり場を汚しました。もうしわけありません。
よけいなカキコはやめます。
119a:2001/02/21(水) 01:45
前々から疑問だったんだけど信長の野望で長篠合戦以降の
シナリオで武田が健在なのにもかかわらず真田が独立してるのはなんで?
滅亡直前まで勝頼につかえてたはずなんだけど
120HH:2001/02/21(水) 01:46
あっごめんなさい。>>115のはじめてきました・・・は初めてカキコしましたの
まちがいです。すみません。
121無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 01:47
まあ、裏切りに関しては信玄も勝頼も致し方ない気はする。
毛利だって、秀吉に追い込まれたときは結構裏切り者が出てたし・・・。
122信勝:2001/02/21(水) 02:28
>>119
真田家を活躍させる為の苦肉の策だと思う。
123無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 02:52
臣従プレイで武田に天下を取らせるのだ
124無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 02:55
若狭武田氏によくもこれだけレスが付いた物だ・・・と驚いてみる
125名無しさん:2001/02/21(水) 07:54
>>124
若狭武田氏は蝦夷地で生き残ってたりして
126無名武将:2001/02/21(水) 12:58
>HH殿

貴殿の気持ちは解らんでもないですよ。と言うより幾らかは同感だ。
今もあの時代の多くの面を背負っている子孫が多数いるのは事実だが、
然し既にあれから数百年経ち、あれはもはや歴史と化しているのも事実。

つまり、あの時代を「既に終わった事」として語れる立場と
「未だ我が血に生きている事」として語らねばならない立場との間に
温度差が生まれるのは致し方ないですね。

ネットでは世界観の異なるもの同士が暴力や地位肩書きに関わりなく
ぶつかりあえるから、こういう問題はこれからも出て来ると思うが
まずお勧めする事は、人の行為を咎める前に自分が率先して
「故人を称える・最低限の敬称をつける・英雄を侮蔑する者に反論する」
と言う事からはじめてみては如何でしょう。

まあ、俺なんか拙くて自分でも目も当てられないんだが、
出来るだけ、そうするように務めている。
色々と思うところはあるけれど、そんだけね。んじゃ。
127無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 14:13
つーかHHウザい
128無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 23:47
このスレ読んでたら勝頼かわいそうになってきた。

外はともかく身内も敵みたいなもんだったろうし、親父は優秀だったし・・・。
やっぱ景勝における兼続みたいな心許せる参謀がいなかったのが痛かったんじゃないのかなぁ。
129無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 00:02
真田も結局は自分だけだろうな
130信勝:2001/02/22(木) 00:14
勝頼が生き残るチャンスは3回あったと思います。
1:長篠を回避する ◎
2:御館の乱で景虎側に付く ○
3:上州に(岩櫃城)に篭る ▲


131無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 02:14
信長に降伏、家康と同じく牛馬のように織田家のために働く。
それでも許してくれないかな、信長は・・・
132無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 16:07
>>131
どうかな?
タイミングとしては、信玄脂肪直後
長長篠直前

の2つしかないように思う。
家康を仲介にって感じでね。

まあ部下を説得できるかどうか(まず無理だな)
って問題はあるけどね。

133無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 17:04
>>132
 でも、家康にとっては嫌な選択じゃないの、それ。

東西を自分よりデカく、格上な大名に挟まれて発展性がないから。
当時ですら信長の配下武将に近い立場だったのに、武田が信長に
下ったら、信長に用済みとして始末されちゃいそうだ。
134無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 17:10
う〜〜ん、信頼度では家康のほうが高いから
そう簡単には始末しないんじゃないかな?
信長としては。

ちなみに勝頼が信長側にくだったら、
途中で難癖つけて取り潰すか。
秀吉の毛利のごとく生き延びていけるか?
135無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 17:26
鼻毛をのばして生き延びる
136無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 17:33
1さんの問題提起に戻ると・・・
信玄が自分の死期を悟っていたかどうか?

むしろ甲斐源氏嫡流という家柄が仇になり
出来星大名ほど徹底的な戦国大名化(領国
一元支配)に至らなかった、のが遠因だと
重いまする
137無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 18:25
長篠で負けた後でも、美濃・遠江・駿河(除安倍金山)から手を引いて、無駄な出兵を避けて、時期を伺えば
生き残るチャンスはあったと思う。
信長の甲州侵攻の際は、一門・譜代が率先して逃げたのが、滅亡を早めた。
それはジリ貧の状況の武田を悲観したから。
岩村城や高天神城のように、武田の士卒を見殺しにするようなことがなければ、武田の威信はもう少しは保て
たと思う。

例え信長が甲州侵攻に来ても、武田がしばらく持ちこたえれば、上杉はもとより敵対の北条だって、
武田が滅亡するのを黙って見てはいなかったろう。
138無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 20:50
武田勝頼が重臣たちと反目していたというのは、本当だろうか。
南信濃担当で勝頼と重なる馬場信春や、駿河国江尻城代の山県昌景
あたりは、むしろ勝頼の徳川領侵攻に肩入れしてたのではないか?
根拠を示せと言われると、困ってしまうが。
一門衆との反目のほうが、勝頼に功を焦らせた要因としては大きかった
のではないだろうか。長篠で死んだ一門衆は長篠城包囲のため鳶巣山砦
に残っていた武田信実ぐらいで、あとは早期に戦線離脱したらしいので。
139無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 21:43
>>138
この時期江尻は梅雪じゃなかった?
140138:2001/02/22(木) 22:36
>>139
穴山梅雪が江尻城を任されたのは長篠の合戦と同年の天正3年(1575年)から
なので、山県昌景が戦死したため後任に就いたとみるのが自然。昌景が突然解任
されたとしたら大いに騒がれているはず。
141信勝:2001/02/23(金) 00:43
>>138
確かに一門衆は勝頼を馬鹿にしていたと思う 特に梅雪、信豊、信廉、信竜
142無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 01:44
長篠大敗後の高坂の言に従って
穴山信君・武田信豊を粛清、側近の跡部と長坂を排除、
上杉謙信への従属を実行していれば生き延びれたかな?

武田家でそんな事できるわけねーってのは無しね。
143光秀:2001/02/23(金) 04:18
てゆーか、信玄よりむしろ信長の方が過大評価されすぎ。
あれはただ運がいいだけのヒステリー野郎。裏切ったのはオメーが先なんだよ!
144たぬき:2001/02/23(金) 04:23
武田信玄の密かな遺言で、武田家滅亡の後、
武田家の戦術書と幾らかの家臣が家康へ流出。
そのおかげで信長をやった光秀をやった秀吉をやったのだ。
よって一番つおいのは武田信玄。
145無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 05:58
勝頼は信長に降伏したら許されただろうか?
許されず滅ぼされるかなやっぱり・・・

勝頼自刃の報を聞いた秀吉は
「自分が甲州攻めにいたら信長様に勝頼公をお許しになる様 説得し
勝頼公を東国攻めの大将にしたい。
そうすれば東国制覇は思いのままだっただろう。」
146139:2001/02/23(金) 08:46
>>138
そういわれればもっともな気がする。
新田次郎小説では梅雪が既に江尻城代なので、そうかなと思ってた。
147無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 08:59
秀吉と家康がいれば許される可能性があがったかもしれないが
晩年の信長は輪をかけてヒステリーだったので
許されずに滅ぼされただろう。

あと勝頼は尼子晴久と同じで一門から馬鹿にされ
主導権を握りたいために戦功を焦ったようにみえる。
信玄も信虎追放後しばらくは苦労したそうだが。
それを思うと本人全盛のうちに家督相続した伊達家は凄い。
148武田家子孫(マジ):2001/02/23(金) 13:05
母方が武田家子孫です。でも私は日本史さっぱりなので
武田が敗退したことぐらいしか知りません (藁
母に言わせれば武田はよくないらしい。災難の家系だそうです
母の父もそのまた父も早死に。うちの祖母方の家も母の父(私の祖父)
と結婚してから災難が続いたそうです。
149無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 13:19
甲斐武田家の子孫はいません(マジ
家康が信吉に甲斐武田家を継いでますが、結局途絶えてます。

上総武田か若狭武田でしょうね
150無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 14:00
武田は幕府に滅ぼされました
151無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 14:01
>>149

あほ
152無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 14:15
武田が災難の家系か…おれ父方祖母が秋山家(無論甲州)系列なんだけど
大丈夫かね。
153無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 14:47
信玄の次男である竜芳(失明したため検校だった)の子孫が現在も
いるはずだが。
154無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 14:52
現当主ってどっかの団地に住んでなかったっけ?
昔TVで見た気がする。
155無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 15:36
日本史板であった話なので眉唾だけど、子孫が山梨県庁に勤めているらしい。
もし本当ならば、県知事→国会議員→総理大臣にでもなって欲しいものだ。
細川と違って知名度は全国区だしな。
156無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 16:48
>153
信玄の子孫は、龍宝の子孫が幕府の高家。
その弟信清の子孫が米沢の上杉家臣。
信玄の弟の信実の子孫も幕府旗本。
157無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 18:02
蝦夷松前は甲斐武田の傍流です。
家紋も武田菱です。
158無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 19:15
若狭武田だったと思うが。
159無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 20:17
>>147
 そもそも織田に下った小山田信茂は斬首、穴山信君も本能寺のどさくさで
殺されてるからなぁ(本当に土民に討たれたのか ?)。

 下っても勝頼殺されてた可能性は高いよな。
160無名:2001/02/24(土) 01:19
 武田が生き延びるには 御親類衆を弱めて、側近に真田昌幸なんかを取りたてていくべきだった
のでは・・・あと長篠で生き延びた高坂昌信とか 
161無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 01:26
>>160
それを実践して信豊や信君から反発喰らったから
設楽ヶ原で勝手に撤退されてるよ
162無名:2001/02/24(土) 02:10
>161
そうなんだ 無知ですいません 俺が気づくこと気づかんわけないよな
163無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 13:10
>>130
>2:御館の乱で景虎側に付く
これって北条の伸張を恐れたんじゃないの。
背後の越後と関東が広大な北条王国になるからな。
164信勝:2001/02/27(火) 01:13
163>>
確かに勝頼公はそう考えたと思う…もし景虎が御館の乱に勝利してもそれほど
越後には北条家の影響は余り無いと思うんだけど(景虎も氏政と余り仲が良く
ないような気が…)
越後一国をまだ押さえていない景勝よりは関東に大勢力もつ北条家をバックに持つ
景虎を、選んだ方があの時点では、懸命だったと思う。

165徳川光圀:2001/02/27(火) 03:09
このスレ面白いなぁ。

ここまとめるだけで、ショートストーリーが出来上がりそうだ。

166無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 17:49
>>164
 勝頼が景虎支援したら、織田の下の家康のような立場になってしまい
そうだなぁ。
 孤立して即、滅びたりはしないだろうけど、最前線でコキ使われそう。

 でも、やっぱり織田+徳川の方が、北条+上杉+武田よりも優勢なん
だろうか…。
167無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 18:22
信繁が生きていたら、と思う。
彼がいて勝頼を後見していたら、少なくともあんな最期を迎える事にはならなかった
ろうに・・・
168無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 19:05
信繁が後見に立っていたらある程度家臣団もまとまっただろうしな。
169無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 21:15
信廉がいけないんだろうな。
後見しなきゃならん立場だろ。
170無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 22:27
それより長篠の鉄砲三段撃ちの信憑性のほうがきになる。
171無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 23:19
>169
まさにその通りですね。
172無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 23:25
なんで信豊と勝頼は仲悪いんだ?
若い頃は一緒に戦ってなかったっけ
173無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 08:55
信廉にとっては
兄信玄(仕方なく)>絵を描く>>>>お家事情
174無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 10:03
>>147
苦い経験あるからなあ。祖父と父、自分と父が争ったりしてたから、
温厚な輝宗としては、余計ないざこざはさけたかったんだろう。
175無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 12:16
さっさと降参していたら許して貰えたかね。
しかし家康は勝頼を憎んでそうだなあ。
武田討伐が始まってから降参してたら間違いなく処刑されてたろうね。
真田の城に逃げ込んでいれば助かっていたかも。
そのかわりに後に真田もろとも滅ぼされてしまう危険性もあるが。
176無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:32
>>175
 勝頼自刃の後、三ヶ月とたたない内に、本能寺の変が起きてるから、
それまで生き延びれば再起の目もあったかも。滝川一益も追われて
尾張に戻ってるし。
177無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 17:08
問題は、北条氏だね。
武田と敵対的な行動とったから、
かばうかもしれんけど、信長に
対する生贄にするかもしれない。

徳川も一年と経たずに甲斐や南信濃
を制圧した事考えるとムズイねえ。
178無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 17:23
北条はアテになりそうもないな・・・。いろんな面で・・・。
179無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 18:42
>>170
あの日の長篠は視界20mの大雨だったと、NHKの「その時、歴史は動いた」で
見た覚えがある。
なんか、ちんまりした低い山と山の谷間にある田圃地帯だったよ。
どうやら、山に籠もって塹壕掘ったらしいけど。
あの、長篠合戦絵巻は大嘘です。
180無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 22:53
関係なくて申し訳ないがナップスターで大河ドラマ武田信玄の
テーマ曲が欲しいんだけど、どうやって検索したらいいのですかね?
181無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 23:02
>>175
降参したらっていうが、いままでの信長の行動をみていれば
降参という方法はなく敵対しか道がなかったとも言えるのでは?
182無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 23:54
>>179
前日じゃなかったっけな?NHKは見てないからわかんないけど
それと5000(1000?)の鉄砲を設楽原に並べられないというのを
聞いたことがあるが
183無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 00:08
武田伊那丸と咲耶子はなんでセクースしないんだ??
184無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 10:34
>>181
長篠の後くらいに恭順の姿勢を示せば可能だったのではないか、
とは思う。
やっぱり勝頼の敗因は、長篠で突然便意をもよおして
退却の時期を誤ったことにあるな。
186無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 16:10
金山の枯渇てーのはどう?
「灰吹き法」導入前の甲斐の金山は
軒並み掘られ尽くしたてーいわれているし。
重要な収入源の技術革新が間に合わなかったてのは、
あるんじゃないの?いいかげんなレスだけど・・・。
187TAKEOFF@お腹すっきり:2001/03/02(金) 12:40
人名揚げ
188無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 23:27
>186
確かにそうかもしれない。しかし産金量が増えたとしても、これといった産業を有さない甲信両国に拠って居る以上、結果は同じだったのではないかと思う。駿河を得た時点で本拠を移し、東海道へ進出するべきだったのでは?
189無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 23:52
>>167
信繁の存在は大きいですよね。
信玄も信繁がいなかったら果たして今の評価があるのか?と思う。
190無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 00:00
武田信繁は、どう考えても過大評価だよ。
191名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/04(日) 00:14
長篠合戦と言えば不可解なのが馬場隊の動き。大勢決してからのね。
勝頼を安全圏に脱出させた後、部隊を立て直して再度合戦を仕掛けているでしょ。
これは、
○死兵となってもある程度織田方にダメージを与える必要があった?
○塹壕から出てきた織田方なら勝てる見込みがあった?
○意地?
実際この最後の馬場隊の抵抗で織田側は死傷者6000名を出しているワケ
だけど、釈然としないものがある。
大将が遁走したこの局面で3000名近い部隊が統率を保ったまま働いてる
というのは凄いと思うが。
192無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 00:32
>>191
単なるしんがりの延長と考える方が正しい気がするけど。

勝ちに乗じて深追いしてくる敵に一撃を加えて
相手の追撃戦への移行の阻止や味方の逃走の時間稼ぎをする必要があったと思う。

そのまま全軍敗走すれば甲斐本国まで雪崩れ込んできても
おかしくない兵力と余力が織田勢にはあったと思われるしね。
193無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 02:25
>>191
>実際この最後の馬場隊の抵抗で織田側は死傷者6000名を出しているワケ
>だけど、釈然としないものがある。
>大将が遁走したこの局面で3000名近い部隊が統率を保ったまま働いてる
>というのは凄いと思うが。

馬場は80騎ほどで踏み留まったとあり、せいぜい数百人です。
織田軍の損害はそれ以前に出たものです。
ただし、武田の損害が10000とか織田の死傷者6000というのは
後世に話を大きくしすぎたものです。
194無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 09:35
というか、武田24将とかいうけど、精々50騎程度から300騎程度
率いる武将であるということ知らない奴以外に多いんじゃない?
漏れも、数年前まで知らなかった。
それから、死傷者がホンとに増え始めたのは朝鮮の完全に銃が
主力になり始めた頃からであって、それいぜんは万単位であっても
負傷者はともかく、死者は多くて数千人ですね。
195信勝:2001/03/04(日) 16:12
194>>
あのー確かに武田24将ってのは50〜300騎ぐらいだけど
一騎に付き雑兵が3〜5人付くので、300騎=約1500人ぐらいだよ
196無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 16:26
>>195
よく大河ドラマなんかの戦闘シーンでは槍部隊がズラーと並んでいたり
するけれど、本当は1騎と4〜5人の足軽という単位の小部隊がたくさん
集まって戦っているという光景が正しいのかな?
197代打名無し:2001/03/04(日) 18:42
>>196
そそ。だから純粋な意味での騎馬隊ではないんだよね、武田の
騎馬隊(足軽もいっしょについてったんだから)
198信勝:2001/03/04(日) 18:48
>>196
大体 そんな感じと思っていれば良いと思います。
199無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 19:06
大河ドラマも歴史的考察に基づいて戦闘シーンを正しく表現してほしいなあ?
槍隊がななめ上に槍を構えてお互いに撃ち合ってるのは、いくらなんでも嘘だろう
とは思っていたが、槍隊が横一列にズラーって並んでいるのは本当だと思ってたよ。
200無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 19:21
>>195
考えてみなくてもそうだね。スマソ。
>>199
日本映画では天と地とが多分正しいと思う。
201無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 23:55
武田家でもちゃんと戦いの時には馬から下りて戦ってる(特に鉄砲登場以後)。
馬に弾があたると困るから後方に繋いでた奴もいたらしい。

ちなみに槍がズラーっと並ぶのは信長以降は本当にあった光景だよ。
ただメインとなる戦いは遠くの方から弓とか鉄砲による射撃と石を投げてただけ。
死傷者が大量に出るのは退却戦の時のみ。
現存する軍忠状などをみる限り、そこまで至らない戦闘がほとんどだったらしい。
負傷者の詳細は鉄砲・弓・石による負傷が7割以上を占めている。
202無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 23:59
日本人って肉弾戦が相当嫌いだったみたいだね。
だから鉄砲が伝来してくると飛びついた。
ヨーロッパの二倍も生産した。
203無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 00:00
馬鹿は思考が単純でいいね
204無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 00:11
>>199
>槍隊がななめ上に槍を構えてお互いに撃ち合ってる
のは、いくらなんでも嘘だろう

 製作上の都合です。撮影の際、うっかり相手を突いて
怪我させないように、ななめに突くように言われました。
205無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 00:21
どうでもいいが、塹壕って発想は当時は無かったはず。
おそらく塹壕ではなく堀でしょう。
戦場近辺は完全に野戦築城されていたようですし。
塹壕という発想が現れたのは十七世紀以後。
206無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 00:21
>>196>>204
上から叩くのが正解なんだよ。
上から相手の槍を叩き落として、それから突くんだよ。
突きだけ狙って真っ直ぐ突いたら、上から叩き落されて刺されて負傷確実。
207無名武将@お腹せっぷく :2001/03/05(月) 00:32
>>197
長篠の合戦の時も武田軍は馬から降りて徒歩で織田・徳川連合軍に
攻めかかっていったらしいね。
208無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 00:42
敵がバンバン鉄砲撃ってんのに馬に乗ってたら
狙ってくれって言ってるようなもんだからね。
209無名武将@お腹せっぷく :2001/03/05(月) 01:02
>>208
やっぱり勝つ要素は何も無い無謀な戦いだったんだ。
勝頼は何を考えて攻めたんだろうか?
210無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 01:05
>>204
NHKにエキストラで出演してたの?
211無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 01:23
これは自分で確認したわけじゃないんだけど
最近の調査では武田側も野戦築城をしていた形跡がある模様。
つまり勝頼は無謀な突撃を行おうとしていたのではなくて
長篠城の攻略が終了するまで持ちこたえようとしていただけの可能性もある。

ここから先は想像だが、鉄砲登場以降、合戦は平場の押し合いではなく
戦場で早急に野戦陣地を構築し、有利な状態で戦う方向に進みつつあった。
しかし信玄以来の重臣たちにはそのことが理解できず、
勝頼の意図を無視した形で戦闘が行われていたとは考えられないかな?
212無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 01:32
>>211
もしそうだとしたら、まさに悲運の武将だ。
統率が取れずに勝手に暴走する家臣たち
信長の野戦築城に攻めかけて大打撃を受ける。
しまいには一門衆の穴山梅雪に裏切られて滅亡
213無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 01:39
>>211
なるほど、勝頼がそれまで、戦に勝ってきた
のは、そういった新戦術を積極的に取り入れてきた
からで、ココ一番の時にフラストレーションが溜まっていた。
宿将が暴走したと。
若手を登用したのはそういう部分があったからかも、特に
真田はそういう戦術使いそだね。上田城の作りは野戦築城
に近いものがあるからねえ。
214信勝:2001/03/05(月) 01:42
>>209
勝頼公は織田、徳川陣営の誰かの裏切りを信じて突撃したような気がする…
(誰かの小説でそのような話があったような…)
215無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 01:49
>>214
それは佐久間信盛ですよね?
でも信頼できる資料にそのことが書いてあるのは一つも無いんです。
これは武田軍突撃の理由が分からない後世の創作でしょうね。
216信勝:2001/03/05(月) 02:07
>>215
ありがとうございます。信盛のその後の扱いを見ると
まんざら創作とも思えなくて…信長ならやりそうな感じだ
217無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 00:46
信盛追放の理由の中に武田との内通ってあったっけ?
218無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 01:28
安藤守就じゃなかった?
武田との内通を理由に追放されたのは

佐久間は職務怠慢
219無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 02:05
横山の勝頼はおもしろい
220217:2001/03/06(火) 02:28
>>218
そうだった。安藤だったね。
しかし職務怠慢でクビって...リアルな話だねえ。(w
221信勝:2001/03/06(火) 02:51
>>217,218
ごめんなさい、長篠の戦いにおいて武田軍の突撃の理由の事なんですが、
佐久間が裏切ると言う内容の書状を信長に無理強いされて書いた…
(その結果佐久間は難癖をつけられて追放されたのでは?)信長なら
それくらいの事をやりそうな感じがしたもので…
222無名武将@お腹せっぷく:2001/03/06(火) 12:33
>>221
そういう話はあったね。
223無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 00:13
あげとこ
224無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 20:08
暴走した?老臣を統率できない勝頼に器量が無かった。
というか、親類衆、老臣の意見は戦闘回避で勝頼が主戦論
だろう?そのため、親類衆は戦場離脱。老臣どもは忠誠尽
くして玉砕と。
225無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:00
>>224
どれも良質の史料がない。
226無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:11
>>224
信玄がちゃんと後継指名をしなかったから
勝頼が軽んじられてただけだろ?
勝頼と老臣たちってほぼ同格だったんじゃない?
227無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:14
結局、長篠の敗因は兵力差ってゆう簡単な理由
なのでは?
228無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:17
>>226
山県、馬場、内藤、高坂ら名将までもが勝頼を軽んじたんだろうか?
229無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:45
>>228
実は武田家の正当後継者は勝頼の子供で、勝頼はワンポイント
みたいなもの。そんな人を尊敬しろと言われても。
むしろ信玄に近かった重臣の方が、かえって軽んじやすいのでは。
230無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:46
名将=完全無欠の人間ではないでしょう。
231無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:50
あの状況で一致団結できんやつらは、名将では無いな。
武田家臣団、評価高すぎ。
232無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:55
>>231
人に使われているうちは有能だったってことだな。
つまり犬みたいなもんだ。
233無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 00:59
武田家の席次ってどんなんだったんだ?
親類衆の信廉、穴山、信豊、信龍が断然上なんか?
234無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 01:02
>>233
たしか穴山が最上位だったか。
235無名武将@お腹せっぷく:2001/03/10(土) 02:29
勝頼の発した書状を見る限り、勝頼は当主として命令を出している。
「陣代」というのは『甲陽軍艦』の捏造ではないかと思われる。
236名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/03/11(日) 10:55
ようするに『甲陽軍艦』は偽書であると
237無名武将:2001/03/12(月) 04:10
やっぱり、運命の分かれ目は「長篠の合戦」にあったんだろうね。
あそこで上手く勇退するか、奇襲でもかけて織田徳川連合を潰すか出来たら
家臣達も見る目がかわって、高天神城を落とした事も
「父を上回る智略」とか呼ばれて、勝頼公も気をよくし、
忠臣の言をよく取り入れ、上手く家を纏められる可能性もあったように
思うのだが・・・。
238無名武将@お腹せっぷく:2001/03/12(月) 04:19
>>237
色んな意味で、そうだな。
織田家が西と北に勢力を伸ばし、北条家が関東地方を順調に征圧し、
上杉家が西に進んでいる間、これらの勢力に囲まれた勝頼はまったく
領土を増やせなかった。つまり、兵力が増えなかった。
織田軍との兵力差は開く一方で、ついに山国の防衛力も役に立たない
レベルの兵力差で攻め込まれて滅亡してしまった。
239無名武将:2001/03/12(月) 04:31
>>238
なるほど、勢力拡大の面でも勝頼公は窮地に立たされており、
徳川領への侵攻は数少ない打開策であったと言う事ですか。
言われて見ればあの時代、武田家が頑張らねば織田家が益々
伸張する事は見えていますから、これに対抗するには彼らの
戦力を直接削ぐか、己の力を蓄える他にない。

すると徳川と矛を交わしたのは単なる行きがかりや因縁からではないわけだ。

やっぱり長篠で勝てなかったのは、本当に痛恨事ですね。
240無名武将:2001/03/12(月) 04:47
関係ないが、池宮さんの「本能寺」だと、長篠で信長家康軍は
一兵も損じなかった事になっている。

嘘八百もここまで堂々とやられるとかえって憎めない(笑)。
241諏訪神四郎勝頼:2001/03/14(水) 00:04
武田家累代の「信」の字を勝頼は何故許されなかったのだろう。
やはり「諏訪」勝頼としてみなしていなかったからだろうか。
以前、ある本で穴山信君ら親族衆は、「信」の字を与えられていない
勝頼を侮蔑していたというのを読んだ事があるが。
242無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 13:28
>>241
信玄の諏訪慰留作戦の一環。諏訪頼重の一字を冠せしめ、諏訪の民情を
安定させようとしたらしい。それにしても「信頼」とか「頼信」とか
付け方あったよなぁ。

尚、信玄、将軍義昭に勝頼の任官と偏諱を請願するも、信長が邪魔して失敗。
このため勝頼、一生「四郎勝頼」のまま。ちょいと痛め。
243無名武将@お腹せっぷく:2001/03/14(水) 14:05
「3年間は喪を秘せ」。上洛軍がイキナリ退いて3年間も沈黙して
たら糞。逆に変。この点、東濃への進出を主張した勝頼は自然だと
考える。信玄が中途放棄した軍事を自然に維持するにはこれが妥当
だと思う。「いやぁ・・・喪だからさぁ・・・」とゾロゾロ古府中
へ帰った奴らは痛いと思うが如何か。そのままズルズル長篠へ。仮
に長篠が不可避の戦いだったとしたならば、勝頼は「テメーらやる
気あんのか?」と問いたかっただろう。勝頼が総帥に決まったのに
グズグズ言うてた穴山は武将として使えんね。そら本能寺後に家康
にも暗殺されるわな(但し、これには異説多々あり)。子孫の方、
いらっしゃったら御容赦をm(_ _)m。
尚、信玄は死の寸前、山県昌景に瀬田への進出を遺言している。

いかす奴→原美濃守虎胤。傷ついた敵将を敵陣に送り届けて「また
戦場で会おう」とか言ったらしい。泣かせるオッチャンやで。
244無名武将@お腹せっぷく :2001/03/14(水) 15:04
今日「いいとも」に武田の子孫が登場
245諏訪神四郎勝頼:2001/03/16(金) 00:09
小説なんかだと、やたらと真田昌幸は滅亡寸前の勝頼に忠節を尽くしてたり、
あるいはPHPの小説だと親・勝頼派になってる(この小説、井上靖の『風林火山』
の影響受け過ぎだとおもうんだが。)
でも、武田家滅亡後も領土安堵されてるし、いちはやく北条へ荷担することへの
書状もあるということから、実際のとこはどうなんだか。
246無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:30
>>243
あの遺言も偽造という説があるし、難しいね。
医者の手紙ってのもあるが、一緒に従軍していたはずの
小山田信茂に宛てて信玄の遺言を伝える意味もわからんし、
これまた偽造と主張する人もいるから(^^;

>>245
北条から誘いがあったのはかなりギリギリだったはず。
昌幸が最後に勝頼と別れて本拠の岩櫃に帰ってからだったと思う。
それに結局は織田に従って所領安堵されたけど、
これは織田家として「使えるヤツはとりあえず生かしておく」という
のがあったからだと思う。北条との前線になる場所で国人衆を
刺激したらこぞって北条に寝返る可能性があったわけだし。
247無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 01:47
知ったか君が、さも史実のように語ってるのが面白い
248無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:23

最近こういう煽りが多いね。
249無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 02:28
最近多いのか?まぁいいや

でもマジ知らないようだ、コーエーの影響だな
250ごめんなさい!助けて下さい!:2001/03/16(金) 02:52
突然でごめんなさい!
http://teri.2ch.net/test/read.cgi?bbs=mac&key=983264992
↑ここに

>>202さん
>>203さん
亀レスごめんなさい。ありがとうございます。早速試してみます。

と言う一文を名前200でカキコして貰えませんか?

何か、新Mac板、proxy制限になったみたいで、僕は串通してないのに
串制限に掛かるみたいなんです。親切な方お願いします。
お礼言わないままってのはキツイです(T_T)

何でこのスレで言うんだ?!と聞かれたら、何度かカキコしたけど
みんなマトモなレスつけてくれたからです。私事で本当にごめんなさい(T_T)
251無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 04:09
>これは織田家として「使えるヤツはとりあえず生かしておく」という
>のがあった

 ┌─────────┐
 │.               |
 │   キチガイ警報! │
 │              . |
 └―――──――――┘
      ヽ(´ー`)ノ
         (  へ)
          く


252無名武将@お腹せっぷく:2001/03/21(水) 13:13
織田信長「ほう、これが返り忠した者の顔ぞ。みなの者、後学のためじゃ、よく見ておけ」
小山田信茂「なんと、たばかったか」
スパッ・・・。

織田信長「こたび、謀反人ばかりおる武田家の中にあって、勝頼を見捨てなかったゆえ、助けてつかわす。本領を安堵してほしくば牛馬がごとく働け。つまらぬ策など余には通じぬぞ」
真田昌幸「ははーっ」
253無名武将@お腹せっぷく:2001/03/21(水) 16:34
あはは!
254無名武将@お腹せっぷく:2001/04/07(土) 00:20
もう終わっちゃったの?
255無名武将@お腹せっぷく:2001/04/07(土) 09:14
age
256無名武将@お腹せっぷく:2001/04/07(土) 14:06
武田家滅亡の遠因は領国支配形態を在地領主による間接支配から武田家直轄支配への転換に失敗したところに終始する。
257無名武将@お腹せっぷく:2001/04/10(火) 01:09
>>256
基本的にそうするのが難しい時代だったと思うけど
そのとおりだと思います
いま週刊ポストにそんな連載がのっているので見ると面白いかも
258無名武将:2001/04/10(火) 03:00
>>256
武田家滅亡に関わる戦略の失敗を並べ立てようと思ったが…、

 義信の反抗と転落 不正式な家督相続 織田徳川との対立
 長篠の合戦の敗北 家臣団の統率不足 新体制転換の失敗
 ・・・

取り止めがないね。
259無名武将:2001/04/10(火) 03:09
>>258」を今一度整理しなおして三つにまとめた。

信玄公が上洛の野望を明らかにしながら、それを果たせなかった事
(結果、織田徳川を敵に回し、勝頼も上洛を国是としてしまった)

信玄公の後継者育成の失敗
(義信の死と勝頼政権育成の不足・・・、諏訪家の血を引く勝頼公は
 譜代の家臣団に好まれていなかったようだ・・・)

織田家・徳川家と武田家の武運・力量の差
(長篠の合戦、家臣団からの信頼、当主の経験・性格、・・・
 どれにしても勝頼公には荷が重すぎたのではないか)

これに尽きるように思うが、もっと上手くまとめてくれる方、お願いします。
260無名武将:2001/04/10(火) 03:11
まあ、こういう「要因」がはっきりと見出せない時、
これを「天道」と呼ぶのかも知れない。
261無名武将@お腹せっぷく:2001/04/10(火) 21:56
やはり止めになったのは、御館の乱での対応で北条家を敵に廻した事ではと・・・
「 天道 」で片づけるには、いささか「 人災 」面が強い様に思います。
262無名武将@お腹せっぷく:2001/04/12(木) 09:32
信玄の後継者はやはり太郎義信じゃなきゃダメだっんだろう。(力量はともかく・・・)
武田家の嫡流であり、正室三条夫人の間に生まれた公家ブランドの義信なら、山国であるがための田舎的思考な武田家臣団も納得の後継者だったはず。
武将としての力量は勝頼に分があるから、信玄は現実路線で義信より勝頼を上に見立ててたと思われる。
しかし結局、この現実路線は信玄の死後、武田家臣団に伝わってなかったようだ・・・。
263無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 06:52
井沢はドキュソ
264無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 08:39
因果応報だよな...
父ちゃん追い出して成功した信玄、
後継ぎでナヤカヤもめるのは、因果応報だよな...
265中井信玄:2001/04/14(土) 10:35
勝頼時代領内各地に命令書を乱発していたところからみると、締め付けが強すぎて家臣・領民からみ話されたところに原因があるかも。
266無名武将@お腹せっぷく:2001/04/14(土) 11:07
 国人領主の押さえつけが出来なかった信玄の責任。
 もちろん国人領主の推戴で総帥の座に着いた信玄で
あるから武田家独裁など思いもつかなかったのだろう。
 群雄割拠はできても武田家が天下人になることはな
い。仮に家督相続がスムーズに行っても、上杉家の如く
豊臣政権下に組み入れられ、恩顧と意地で徳川に背き
関ヶ原戦役後、転封かお情けで公家化するのが落ち。
267無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 02:22
武田家滅亡原因をあげると前にかきこがあったが、結果論として本当にきりがない。。

結局、主要因は信玄自身だと思う。

勝頼に多方面的な才能があるならいざ知らず、彼に酷な債務を残して、
己自身は好き放題戦国の世を駆け回って、あとはバイバイ、やり逃げみたいなものです。

268無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 02:34
続きー

というのは、剛毅な親父を追放し、領地拡大、領地経営、家臣統率等、
彼の優れた才能、功績を挙げるのはたやすいことだが、いかんせん、
才能に付属する野心が強すぎ!
話は飛ぶが、駿河侵攻は正解だと思う。たとえ、義信を失った結果に
陥ろうと・・。義信がそれを受け入れなかったことは、すでに彼の戦国に
おける適性に欠如しているといわざるを得ない。
今川氏の堕落、海を得ること、東海道に足場を築くこと、関東、信濃方面
は一応の領地形成がすでに完了していること、中央の情勢が信長を中心に
急激に変化の兆しを見せてること、等、考慮すると妥当。
269無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 02:41
更に、続きー

北条を叩き、再び、和睦が成立し、駿河平定の時点で、
信玄は、義信亡き後、実質的に後継ぎとなる勝頼に家督を譲り、
己の経験、博識、名声を、先々の武田家への配慮に向けたものだった
なら、少なくとも、あんな瞬殺ともいえるみじめな滅亡はなかったと思う。
270無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 02:55
更に、更に、続きー

確かに、情勢が急成長する信長叩きのチャンスだったとはいえ、
あんな自分の健康状態を省みず、膨大な費用とリスクを伴う上洛を推し進めた
のは、明らかに彼の野心からくる判断ミス。
結果、徳川氏を痛めつけただけで、陣中急死という、最悪の事態を引き起こして
この世を去ってるし。。
271無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 03:07
更に×3 続きー

せめて、後に名将と呼ばれる徳川氏を滅亡に追い込むくらいの
功績を、一国の命運を左右しかねない大作戦の代償として、最後に
残していれば、その後の伊勢長島一向一揆において、連絡がとりやすく
さぞ、包括的な能力に欠如する勝頼とはいえ、大いに織田家を苦しめた
ことだろうに・・

272四郎勝頼:2001/04/15(日) 03:16
266の意見に賛成。信玄は、家臣に祭り上げられたんでしょ。
1540年代の後半に、信玄の家法を小山田氏は廃止してるし。
でも、独裁は考えたと思うよ。子飼いの武将の抜擢を見てみると。
信玄が死んだ後、勝頼と比べて、国人領主が力を持ちすぎていたんじゃないかな。
265の意見は、特に長篠以後じゃないかな。
それが、滅亡を早めたのは賛成。
273無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 03:22
最後です

結局は、後の勝頼に、一国の戦略を天下に向けただけで(たとえ
真偽のほどは明らかではないが、「3年間はなんとか・・」みたいな
遺言を残したとしても)、実質は、己が作り上げた武田の組織・権力関係を
適切に委譲することなく、やりたい放題、やり逃げ状態で、去っただけ。
武田家の戦国における歴史は、決して信玄に始まり勝頼で終わったのでは
なく、信玄に始まり、信玄によって滅んだ と言った方が妥当と思う。

最後にこの言葉を武田信玄に送ろう
 「名将 最後は 凡将」
274無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 03:56
付け加え。

勝頼について思うこと。

勝頼はやはり”武に優れたる武将、国を滅ぼす”
これに尽きる。

彼の功績って、確かに、自分の知る限りでは武のみ。
後に勝ち上がって名将と謂われる類の
内部関係を血なまぐさく克服するといったものがない。

長篠の合戦・・これは、信玄が先に述べた戦略を推し進めていた
結果として、当然の報い。
でも、この圧倒的な敗戦は痛てーなぁー。。
ただですら、領地こそ広いが不安定な武田家に決定的な鉄髄を下した
ようなものだなー。。これにより、武田家の権威は明らかに周りには
落ちたという印象をいやがおうにも与えただろうしね。。
これに勝ってれば、もちっと織田の対武田戦略は
もつれただろうに・・。

せめて、この後、これを機に、徹底的に武田家内部の組織関係の改革(たとえば、
わかりやすい所で、穴山氏を廃絶するなり)に従事、断行するほどの
政治力が彼にあったなら、またおもしろかったが。。。
また、なんとか後背地の上杉、北条と三国同盟なり、そういった
外交的手腕があれば、さらにおもしろかったが。。
歴史書に一応、戦いとして名が記してある天目山の戦い・・
(その実、決して、戦いと呼べるほどではない)
にて、無残に死ぬこともなかったろうに・・。

最後にこの言葉を武田勝頼に送ろう
 「おまえ・・可哀想。。」
275無名武将:2001/04/15(日) 04:55
>>267-274
楽しく拝読しました。
ただし、>>270だけはやや違うように思う。
あの時はたまたま病没したが、当時の目算としては
徳川家を、あわよくば織田家をも滅ぼす目算があったわけで、
滅ぼしてしまえば、周囲は一応、上洛に好意的であった勢力ばかりだし、
あれ以上に織田徳川を滅ぼすチャンスは考えられなかったはず。
すると惜しむべきは信玄公の判断よりも、天がその命を奪った事かと。
276無名武将:2001/04/15(日) 05:00
>>261
そう言えば、謙信公の死んだ時は武田家よりももっとひどい有様で、
上杉家の方がもっと早く滅んでもおかしくなかったのだが、
たまたま、景勝・兼次と言う名将がいた為に救われましたね。
あれを見て以来、歴史の悲劇を見るたびに「天道、まことに恐るべし」と
思ってしまう癖がついてしまった。
勝頼公の場合も、人災が余りに多い上、武田家が彼個人だけの責任で
滅んだとするのは過酷に過ぎるように思ったので・・・。
277無名武将:2001/04/15(日) 05:13
>>275-276
でも俺みたいに何でも天の所為にするのも進歩がないな…。
278無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 13:12
秋山信友「おつやタン、ハァハァ・・・」
信長「たわけが!」
秋山信友「ぐへっ・・・」
279267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 15:46
>>275さん

 確かに、その辺は微妙なものがありますね。。

 でも、上洛作戦を実行する以前から、すこぶる健康状態が悪かったみたい
 だし、現代で言うならば、おそらく入院中でいつまた再病してもおかしく
 ない状態であったんだろうと推測するのが自然に思う。

 それでも、中央への影響力という野心を捨てきれず、兵を無理に中央に
 押し進めようとしたのは、やはり、信玄という人間の業からくる判断ミスと
 いわざるを得ないと思える。

280267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 16:00
続きー

結果論としては、
勝頼に正式に家督を譲り、彼により遠江・三河へのアプローチを
進めさせたほうが、より利点が大きかったと思う。
まだ当時、未熟な家康を相手に、勝頼により(ここ重要)勢力を浸透
させようとした方が、信長への有効な牽制にもなるし、勝頼しいては
後の武田家の組織運営にとっても極めて有効であったと思う。

やはり信玄自ら信長叩きへ兵を強引に推し進めたのは、
彼のもろもろの状況からするとリスクが大きいものだったと言えると
思う。その・・あわよくば・・という甘い蜜に、信玄は負けて、
地獄に落ちたのだ。。
281267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 16:18
276さんへ(ところで、どうやってこの書き込み番号を青色にするの?)

 謙信も信玄と似たようなことやって死んでいきましたよね。。
 この二人はキャラクターこそ全然違うが、才能+α野心という意味では
 共通しているっぽそうですね。その野心というか・・男のロマン(?)
 というか・・結局、ロマンチスト、オナニー大好きの類なんじゃ
 ねーのか。。(信玄並びに謙信ファンさん、申し訳ありませーん)

 
282267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 16:28

 勝頼の唯一の功績は・・
 高天神城の攻略・・いやいや・・東美濃への浸透・・いやいや

 ”景勝をたすけ、後の上杉米沢藩の礎を築いたことであーる”

 信玄の唯一の大誤算・・
 村上戸石崩れの敗北・・いやいや・・川中島における謙信との消耗戦
 ・・いやいや・・最後の上洛戦における急死・・いやいや・・

 ”家康を成長させ、後の江戸幕府の礎を築かせたことであーる”
283無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 17:09
>>274
>せめて、この後、これを機に、徹底的に武田家内部の組織関係の改革(たとえば、
わかりやすい所で、穴山氏を廃絶するなり)

武田家は織田家と違い、戦国時代あたりまえであった同属主義でありまず無理だと思われます
僕の会社が全くそうで(ww オーナー会社なのですが、基本は同属しか信頼しないし(できない)
決定権をもてない形式になっています。(土建業界の中小はほとんどそうでは?)
武田家が発展するには大勢の部下が当然必要なのですが、それには同属が全てを支配できていなくては意味が無いのです

それから考えると、長篠の合戦の後多少なりとも影響力を行使できうる古参武将が逝ってしまった際に
同属の結束を固める必要性がどうしても考えられると思います
特に穴山家と武田家とは、何代か忘れましたが、姻戚関係を結んでいる最大有力者であり
彼を排除する事は全く考えられません

只、喰うか喰われるかの時代に同属にそっぽ向かれる大将@勝頼は如何ともし難いですがね…
284無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 19:06
そもそも穴山家(信君)にとって、勝頼は同属以下という感じ。
穴山サイドからの見方だと、勝頼は所詮、武田家に攻め滅ぼされた諏訪家の人間。
信君は親族衆筆頭としてのプライドがあるかして、勝頼を武田家棟梁の名代じゃなしに、先方衆レベルでの扱いであったのだろう。
信玄が敵将・諏訪頼重の女を、己のわがままで側室にした弊害は、彼の死後、こういうところに現れたと思う。
信玄の生前にはっきりと勝頼に家督を相続させておけば・・・などの意見もあるでしょうが、信玄自身、それはまったく考えがなかったでしょうね。(あくまでも勝頼は諏訪家の跡取り)

結果論だがやはり、永禄4年の川中島合戦で信玄の弟・典厩信繁が死んだのが痛いねぇ・・・。
他の家督相続候補の有力一族は逍遥軒信廉、太郎義信、典厩信豊・・・う〜ん頼りない。
(仁科五郎信盛が正室の子ならねぇ・・・笑)
285無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 19:10
↑仁科五郎盛信(訂正)
286無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 21:00
胃癌で死んだ信玄には妙に感情移入してしまう。
287261:2001/04/15(日) 21:26
>267−274氏
しかし仮に信玄があの時兵を動かさずとも、少なくともその死後には間違い無く織田
とやりあう事になったでしょうから、あの時期の進撃がそれほど誤ったり野望に溺れ
た策では無い様に思いますが。 あれだけ有利に戦いを挑める展開はそうそうあるも
のでは無いでしょうし。
徳川云々も結果論から言えば一理ありますが、当時としては根たる織田さえ潰せばそ
の一党たる徳川などどうにでもなる、とその程度の認識だったのではないでしょうか。
そしてそれを甘いと言うのも、あの時点ではいささか酷かと。
それに徳川を先に潰そうとしても、織田が介入してくるのも間違い無いでしょうし。

>284氏
概ね同意します。 準備と後見人、両方欠けていてはそれはうまくいかないでしょう
ね。 本当に、労ばかり多い戦で惜しすぎる方を亡くしたものです。

>無名武将氏
私の場合、「悲劇」でもどうも先に人災面が目についてしまいまして(ちなみに御館
の乱についても、謙信等の責任による部分が大きいと考えております)。
あくまで私の好みなのですが、安易に天道を持ってくるのは当事者達をある意味馬鹿
にしている様な気がしまして・・・

勝頼氏の件につきましても、滅亡に関する全ての責任があるとは露程も思いませんが、
やはり当主として、様々な決断を下した責任者として、最も責任を負うべき一人であ
る事は間違い無いかと思います。
288名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/04/15(日) 21:46
武田信玄が死んでなくても信長はがんばって
信玄に勝ったに決まってるだろ
ばーか
289無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 22:17
>>284
太郎義信も、結局死んだんじゃ…。
290無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 22:33
盛信が継いでたら…もっとハデな最期になったかも
291267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 22:55
261さんへ

 兵を動かすのがいけないでなく、例え、動かすとしても
 私が思うのが、信玄自らが、上洛の軍を推し進めるには、
 やはりもろもろの状況からすると強行軍に近かったのではないかという
 ことです。ですから、信長叩きのチャンスとはいえ、また、反信長勢力の
 圧力等あったとしても、やはり、己は駿河平定の時点で隠居し、
 その上洛の時期には、勝頼主導にて遠江・三河への腰を据えた浸透で十分だったのでは
 ないかと考えます。それにより、信長への大ダメージのチャンスは逸するかも
 しれませんが、少なくとも、浅井・朝倉勢、その他が健在で、その後も十分、信長の
 動きは牽制されます。
292267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 23:03
続きー

 ま、所詮、結果論でしかありませんが、
 織田とやりあう時期はあの当時、すでに機が熟していたので、
 やりあうにしても、あの上洛による信玄の急死はなんとも
 武田家にとって痛手であったと思います。しかもその急死が
 まったのく偶然ならいざ知らず、その可能性が十分考えられる
 ようなものだと思います。だったら、上記に述べた戦略の方が
 よほど、武田家にとっては対織田戦略としては有効であったと
 考えます。ま、ほんっと結果論ですが。。

 
293無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 23:08
昔、野上けいっていう漫画家が風と雲と何とかって漫画かいてた。
主人公は仁科五郎盛信。
294267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 23:16
284さんへ

 なるほど、確かに当時の武田家の組織というものが、
 当時一般であると思われる同属主義的であったとしても、
 やはり、勝頼がなんにしろ実質棟梁の立場にあるのだから、
 例え、長篠の合戦後、穴山ばいせつを糾弾するほどの求心力が
 ないにしても、彼にとっては目の上のたんこぶ、又はそれ以上の
 ものであったのなら、やはり彼が武田家の棟梁として確立した立場を
 築くには、穴山のおっさんへの糾弾を断行するほどの政治力があってよかった
 のではないかと思います。結果、まとまりを欠くまま、雪崩れ的に
 滅んだんだと考えます。
295267−274(272除く)の者:2001/04/15(日) 23:27
あと、仁科盛信について思うこと・・

彼が唯一といえるほどの徹底的な抵抗を見せたが故に、
とかく英雄視されがちですが、その能力は未知数・・。
むしろ棟梁としては私は悲観的な印象です。
勝頼と大して変わらないものじゃないかなーっと思います。

あーいう抵抗を信濃・駿河両面において連鎖的にまた、組織的に
できるようであったなら、攻め手はなにかしら躊躇するでしょうし、
守備側の武田家内部の士気も高まり、たぶんにもつれたおもしろいものに
なったんでしょうけど。。その間に、外交、その他、機動等、
打つ手を見出すチャンスが見出すことも可能と思えるから。
296無名武将@お腹せっぷく:2001/04/15(日) 23:45
仁科盛信・勝頼殿へ
今年も高遠の桜はきれいでした。
ありがとう
297283ですが:2001/04/15(日) 23:59
>>294
まず勝頼は実質棟梁じゃないし
でも棟梁の代役をしなくてはいけないという
状況から始まっているわけで、前提がまず厳しい事が挙げられる

>穴山のおっさんへの糾弾を断行するほどの政治力があってよかった

逆に一門衆は長篠から我先に帰ろうとしている
この辺は>>284氏のレスの様、あくまでも仮の棟梁でしか過ぎないことを明確に示している
別に勝頼がいなくても次は一応決まっているわけだし
そのほうが自らの影響力を誇示でき得る可能性が高まるという
穿った見方も安易に想像さえできる
(穴山氏が穿った考えをもつのはずっと先だったと思いますが)

結局この代替りシステムだと船頭が多すぎる事になり
結果論ではなく同属が一本化しない結果を生む危険性が
生じてしまうのではないかと思います

298無名武将:2001/04/16(月) 00:14
>>279-280
確かに微妙ですね。仰る通り、信玄公の野望後世から見れば失敗に終わった。

然し、あの時の信玄公の判断が正しいか否かは、天のみが知る所で、
我々人間風情が知る所ではないように思いますな(電波みたいだが本音)。
結果、天は「武田家にとってそれは過ちである」としたわけですが、
信玄公が織田家討滅まで生き長らえられるか否か、当時では判断出来なかった。
となれば、結果から評価するよりは、その勇断を称える他にないようにも思う。
(ここは歴史観の違いでしかないかも知れませんが)
299無名武将:2001/04/16(月) 00:17
番号を青くするには、
番号を全角(1,2,3,4,5,6,7,8,9,0)ではなく、
半角(1,2,3,4,5,6,7,8,9,0)で記し、
更に引用の際に「>>」をつける。

例:>>299

ちなみに言うまでもないが、この青色のところをクリックすると
別ウィンドウでその番号のメッセージがあらわれる。
覚えておくと便利なのでご利用下さい。
300無名武将:2001/04/16(月) 00:25
>>281
>> 謙信も信玄と似たようなことやって死んでいきましたよね。。
>> この二人はキャラクターこそ全然違うが、才能+α野心という意味では
>> 共通しているっぽそうですね。その野心というか・・男のロマン(?)
>> というか・・結局、ロマンチスト、オナニー大好きの類なんじゃ
>> ねーのか。。(信玄並びに謙信ファンさん、申し訳ありませーん)

>>287
>>安易に天道を持ってくるのは当事者達をある意味馬鹿
>>にしている様な気がしまして・・・

「天道」はロマンチストやオナニストでないと理解できぬ代物だからな。
真実を徹底的に追求すると、いずれは真実を超えたものに直面せざるを得ない。
そこで出て来るのが「天道」であり、「天意」というものですな。
(“科学も「宇宙以前」の事になると哲学に任せている”のに似ているかな)

「好き嫌い」は誰にでもありますから、決して押し付けはしないが、
こういう物の見方もあり、かつてはそういうものの見方が大半だった
と言う事だけご理解願えれば、ありがたく思いますぞ。
301267−274(272除く)の者:2001/04/16(月) 01:01
>>283

 うーむ、確かに穴山のおっさん糾弾というのはちと無理があるな。。
 なまいきでもその武田家の地位もさることながら、その内政的な
 能力もあるっぽそうやしね。。うまく付き合っていかなければならない
 存在なのでしょうかねー。。

 それに長篠の合戦って・・思うが、
 あれほどまでに人的損害(ここでは、主だった者の)を一気に
 被った戦いというものが他にあるんやろうか??
 あまりよく知らんが、会社でいうと、部長、課長クラスが
 一気にいなくなったんでしょう?たとえ、年配といえども。。
 あれじゃー、組織を正常化するにも相当時間がかかるものやなー
 穴山のおっさん糾弾どころではないな。。
 そう考えると、この合戦って、やはり大きいものだな〜。。
 真田昌幸にしても、これにより兄貴が死んで、急遽、中小領主クラスに
 ならざるを得なくなったしなー・・今までの参謀的な役目から。。
 彼なんて、参謀の方が力をより発揮しそうなタイプやしな〜
302267−274(272除く)の者:2001/04/16(月) 01:07
>>299

天道さん!青色表示どうもです!

天に定めれた道・・否定はもちろんしないが、
あくまで、歴史を語る上でのテクニックにすぎないと思うけど。。
そう理解しています。

303無名武将:2001/04/16(月) 01:18
おおっ、お役に立てて嬉しく思います。
ついでに補足すると、
無論、事件の原因の追及・責任の追及は、言うまでもなく重要であり、
その点で、「267−274(272除く)の者」氏の態度には
敬服しております。
然し、それがついに定かならぬ所まで至るかと思われた場合、
これを天道と呼ぶのも差し支えないと考えている次第です。
304へへへへへ:2001/04/16(月) 02:51
安土桃山(織豊)時代以降に残った名のある家は、既にその時代に細々と命脈
を残しえた家ばかりかと思われます。
たしかに成り上がりの北条はあったとしても高野山へ追われたわけですし、
上杉といっても本家は、名のみの存在でした。
また、中国筋に勢力を張っていた家も多少早めに成り上がったわけですから、
そういう見方で言えば、中部日本に武田源氏が戦力を有して生き残れるわけは無いのだ
と考えられるのではないでしょうか。
日本の西の果てに本拠地を持つ島津のような地理的優位が有れば、生き残れる可能性
はあったのかもしれませんが、これはあまりにも突飛な空想過ぎて、お話にもなりま
せん。
305無名武将@お腹せっぷく:2001/04/16(月) 05:16
穴山の評判が悪いな。
長篠でいち早く逃げ出したってのは一緒に逃げ出したことになってる
武田信友だったか何かが実は留守番だったことが明らかになっており、
よって信君が逃げたことも信憑性に欠ける。
306無名武将@お腹せっぷく:2001/04/16(月) 15:05
>>305
信玄の死から武田滅亡までの期間において、穴山の評判が悪いのは新田次郎の小説のせいかも?
逆に武田滅亡は勝頼の責任と主張する人は、甲陽軍鑑の影響でしょうか?(甲陽軍鑑では跡部大炊助や長坂長閑らのイメージもすこぶる悪い・・・)
甲斐武田家の場合、信憑性の高い史書が不足してるので、信玄はもとよりある意味「伝説化」してるエピソードも少なくない。
だからこそ、歴史上の事実やその背景から派生したような諸説・俗説が色々あっても、別段不思議じゃないし、それがある種の武田人気の根本的なものじゃないかな?
307306:2001/04/16(月) 16:03
ちなみに甲陽軍鑑では「長篠合戦で真っ先に穴山信君が逃げ出した」というような記述ではなく、意訳すれば「穴山隊は戦闘を交えることなく退く」とだけあります。
この長篠合戦では穴山隊は設楽ヶ原の右翼隊に配備されており、同じ右翼隊では馬場美濃守信房、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、土屋右衛門尉昌次らの有力武将が激戦の末に戦死していることから、個人的意見だけど穴山玄蕃頭信君が悪役に仕立て上げられても仕方がない要素は充分にあるね。
308無名武将@お腹せっぷく:2001/04/16(月) 18:38
309無名武将@お腹せっぷく:2001/04/16(月) 19:25
>>306
NHK大河ドラマの武田信玄を見た世代なので
確かに新田次郎の影響かなり受けてる気がする…
武田三代では、曾根と真田に従わない穴山信君が書かれていた気もするし
悪い印象が刷り込まれているのかな

穴山隊は三方ヶ原の合戦でも後陣(言い方あってるかな?殿の事です)なんで
生き残ってるという事は前衛を助けなかった,または助ける意思が希薄だったと
理解されてもしょうがないかな

只後世は徳川の時代であり、堺で一緒だった信君が都合よく(?)逝ってしまった
後なので、捻じ曲げて創作した事は否定できないと思う
あんなに速く甲斐・信濃を奪取できたのには深い意味があるのではと最近思います
310261:2001/04/16(月) 20:22
確かに新田次郎の書く穴山は碌でもない奴でしたからね。
ただ穴山氏に関しては、滅亡時もいち早く裏切ったりとマイナスイメージが強い為、
過去にも溯って邪推されている面もあるかな、とは思っています。
ちなみに私としては、同じ様な意味で309氏の考えられている事も邪推の様に思い
ますが・・・

>267−274氏
ただやはりあの時点では、他に選択肢は無かった様にも思います。
あれだけ大きくなった織田家を武田家単独で相手にするのが厳しい以上、戦略的に重
要な諸勢力の信を失うわけにはいかないでしょうし(隠居も、色々問題が多いかと)。
仮にあそこで徳川を潰せた(個人的には難しいと思います)としても、その後に控え
る対織田環境が悪化する可能性はかなり高いと思うのですが。

>無名武将氏
私の場合も「天」を感じる事(例えば武田関連だと信繁の討死など)はありますが、
どうも「歴史の流れに対し人の営みは無力」といった発想にいったり、当事者の責任
がぼかされ易くなる気がしてならない為、あまり使わない様にしております。
311267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:10
>>261氏へ

 私は他に十分、選択肢があったと思います。
 その選択肢は、上記に述べた通り、三河・遠江への(できれば勝頼主導にて)
 腰を据えた浸透で十分かつ確実だったとやはり考えます。決して、
 徳川を潰すとは言っていません。もう一度読んで頂けるとありがたいですが。。
 また、それにより、反織田勢力の信など失いません。なぜなら、三河・遠江への
 攻勢が意味することは、単に徳川を潰すということではなくて、
 織田家にとってその後背地を脅かすという効果が十分あります。
 つまり、尾張・美濃・伊勢という勢力圏(しかもこれらは織田の勢力圏の中枢)へ、
 直接ではありませんが、かなり有効に影響力を及ぼします。
 さらに、東美濃からのちょこちょことした動き(秋山氏による)も同時に
 加えるだけでも、織田信長は美濃へ釘ずけになります。つまり織田は動けなく
 なります。また、当時の徳川の実力からすると、武田は、確実に三河・遠江方面
 に勢力を広げることが可能と考えます。それにより信長が三河方面へ出てくるも
 よし。。その時は、逆に反織田勢力によりその後背地を脅かす攻勢も
 かけられます。
 
312267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:16
続き・・

 織田が、急成長してるとは言っても(強大化しつつある事実は変わりありませんが)
 まだやはり不安定です。だったら、まだ、浅井・朝倉・他の反信長勢力
 の勢いがまだあるうちは、事を急がず、じっくりとした攻勢で、つまり、
 織田の勢力圏へのアプローチを確実にちじめていった方が、
 より効果があると思います。
 信玄はやはり、病のせいかなんなのかわかりませんが、
 事を性急に急ぎすぎた感があると考えます。
 
313267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:22
続き・・

 以上の理由により、私は、決して、上洛をしなかったからといって、
 対織田環境が悪化するとは考えません。

 仮に急死することなく、そのまま上洛を進めていったとしても、
 まず、そう簡単に事は進みません。尾張辺りで足止めを食い、
 戦線は膠着、帰還ということになると思います。
 後ろには、徳川がまだ健在ですし。
314267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:26

 皆さんはどう考えますか?

 私は、やはり・・”あわよくば・・”というそういう心理又は、
 自分の健康状態からくる強迫観念に似た心理が左右したものと
 思います。つまり、上洛は、事を性急に急ぎすぎた強行軍
 に近いものと考えます。判断ミスと思います。
315267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:48
>>307

穴山 梅雪 について

 事実として、武田家の中枢、言い換えると武田家内での影響力が
 強い彼が裏切り、実質上駿河一国を献上、また他にそれ以上のことを
 やったとすると、なんにしろ悪役になっても仕方ないっすよねー
 長篠の合戦での彼の行動の信憑性はともかく・・。

 察するに、あれほどの人物が裏切るわけですから、
 相当、勝頼となにかしら、うまが合わなかったんだろうか・・
 特に長篠の合戦後、両者の関係にうまくブレーキをかけて調和して
 くれる周りの存在もいなくなったんでしょう・・か・・

 そう考えると、せまりくる滅亡への危機がおそらく武田家内部に
 誰しもそう感じててもおかしくない状況において・・
 勝頼にいったい、何ができたのであろうか??

 皆さんはどう考えまするか?


 
316267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 01:57
私だったら・・

 徹底交戦するなら、組織内の不安分子をこれを機に
 おもいきって徹底的に取り除きます。

 従属するなら、隠居します。

 そう考えると、穴山のおっさんは、勝頼が健在なら、
 武田に見切りをつけたんっすかね〜やはり・・。
 つまり、事実上、武田家を己の手によって売り飛ばした。。
 そして、我は生き残る。。
 くぅー・・こいつと友達になりたくねーーーーー
317267−274(272除く)の者:2001/04/17(火) 02:49
寝る前に・・
自分の発言をもう一度読み返してみて、
なんか、自分でもだらだら思ったことを書き綴ってて
なに言ってるのか自分でもよくわからなくなったので、ちょと
簡潔にまとめて寝ます。

信玄が、現状の武田家の内情を鑑み(つまり自分が死んだら、武田は
厳しい?等)、また己の体の状態に相談し、我が生きてる間に決着をつけねば
ならないというのが真理であったのなら、追い込まれた唯一の選択肢と言えるでしょうね。
信玄=武田家、信玄なし=武田家の存在なしという等式(真理)であった
なら。

しかし、そうだとしても、その選択肢を導いたのは信玄自身であり、また情勢が信長を
中心に進んでる(言い換えると信長がすごい)ということであり、
武田は所詮、滅ぶして滅んだといえるかもしれませんね。

おっと、少し天道を導いてしまった。。

うーん、何いろいろ考えてるんだろ・・
このままでは歴史ばかになるわ。。

さて、寝よ。。
318無名武将@お腹せっぷく:2001/04/17(火) 10:07
武田家は合戦で有力武将が沢山死んでるね。
これも滅亡の遠因か。
319306:2001/04/17(火) 13:21
>>318
私は318氏の意見が武田家滅亡の一番の原因だと思ってます。
信玄の存命中、上田原をはじめとする村上攻めで板垣信方・甘利虎泰の両宿老他、横田備中、小山田信有などを失い、永禄4年川中島合戦で弟の典厩信繁、山本勘助(彼の存在自体、諸説あり)、諸角豊後等討死。
その後は太郎義信の謀反内乱で、武田家嫡男と飯冨兵部を失い、「人は石垣〜」と謳われた信玄の”牙城”が次々と削られていった。
そのことが武田の家督継承問題に大きく影響せざるを得なかったし、信玄自身が己の生きてる間に、天下の情勢や武田の行く末について「なんとかせねば・・・」という思いだけがドンドン強くなって行き、病をおしての西上の途であったと思われる。

それはまさに>>317で267−274(272除く)氏の言われた通り、戦国期の甲斐武田家は、イコール信玄という図式であったと私も考える所以だ。
だから信玄の死後、武田家は「滅ぶべくして滅んだ」のでしょう。
しかしこれと同じようなことは織田家にもあったことだ。信玄の死以降の武田と本能寺の変で信長を失った後の織田とを比較して、その違いを述べておくと・・・と思ったらちょい時間が無くなった!てことでまた後ほど書くことにする・・・。
320306:2001/04/17(火) 15:24
319の続き・・・
みなさんご存知の通り、本能寺の変で明智光秀に信長が討たれ、名目上の織田家棟梁・信忠も自刃した後、山崎の戦いを経て織田家家督問題で清洲会議が行われた。
羽柴秀吉が幼少ながらも信忠の長男三法師を、柴田勝頼は信長の三男信孝をそれぞれ奉じて真っ向対立。清洲会議では明智光秀を討った秀吉の発言力に軍配があがるも、結局賎ヶ岳の戦いで両者は雌雄を決することになり、秀吉が天下に対し確固たる地位を築いた。
武田の場合、信玄の意向で家督は勝頼の子信勝に譲り、その後見人として勝頼が武田の指揮をとるようにとあった。
しかしこれが信玄亡き後の武田の呪縛となり、結果それから解き放たれなかった。神格化してしまっていた信玄の発言は、一門衆はじめ家臣団に絶大なる影響があったね・・・。
私は信玄の意向がどうであれ、残った親類衆や譜代の家臣団で家督問題を白紙に戻すべきだったと考える。
場合によっては諏訪勝頼と穴山信君で決戦もやむを得まい。
「利用できるものは利用する」・・・こういう考えがあり実行できるのであったなら、穴山は逍遥軒信廉、もしくは盲目で出家していた信玄の次男・竜宝(武田信親)を奉じてでも武田家乗っ取りはできたはず。
いずれにせよ、織田と同じく武田宗家の基盤は信玄の死をもって、家中の他の実力者が持って行くのが自然。(勝頼とて”諏訪”の人間ということなのだ)
信玄の呪縛にとらわれる余り、欲求不満を溜め込むだけの甲斐家臣団では、分裂した統帥権を一本化するどころか道は開けなくて当然だった。
321306:2001/04/17(火) 15:35
320で訂正:×柴田勝頼→◎柴田勝家
322無名武将@お腹せっぷく:2001/04/17(火) 19:40
>穴山は逍遥軒信廉、もしくは盲目で出家していた信玄の次男・竜宝(武田信親)を奉じてでも武田家乗っ取りはできたはず。

違う意見です
北条家から嫁を迎えている以上、内でも外でも武田家次代は勝頼です
繋ぎであったとしてもそれは認めなくてはいかん事でしょう

ただし武田家晩年に、本家が滅んでも
一門衆の信君なら自分が次代を継ぐ事が出来うるはずではという
考えが浮かぶ事があったことは、安易に予測できます

なんで堺に徳川家康と一緒にいたのか?
その後どのような行動を,信長が生きていたら取っただろうか

穴山信君は武田信君になっていたのかもしれない
323信勝:2001/04/17(火) 22:52
>>322
穴山信君は武田信君になっていたのかもしれない!

って言うか、穴山信君(梅雪)は武田姓と穴山姓を使い分けていますよ!!
324261:2001/04/17(火) 23:21
>267−274氏
しかし氏の案は徳川に主軸を向ける、という事ですよね? 私としてはやはり信を失
うと思いますよ。 反織田勢力が求めていたのは牽制ではなく大規模な進撃だったで
しょうから、少なくともそのポーズだけでも見せる必要はあったかと。
( 反織田勢力の勢いがあるうち、と言われますが、浅井・朝倉等も当時はかなり足
元に火がつき始めている頃では?)
それに秋山軍等が美濃を撹乱した所で、織田勢全てを牽制出来るでなし、武田が三・
遠に一時浸透を図れても、その間に畿内等の諸勢力が各個撃破される可能性はかなり
高いと思いますよ。
私としてはこの様な判断から、当時の状勢では織田領へと進撃する以外の選択肢は無
かった様に思っているのですが・・・

なお私はあの西上に、氏が言われる程の断固たる上洛の意志があったとは必ずしも考
えていないので、その辺りでも感じ方が違うのかも知れません。

>>322
確か何かで、息子の勝千代に武田の名跡を継がせようとしていた、と言う話を見た事
がありますが。

しかし、色々考えさせられる問題が多い・・・
325無名武将@お腹せっぷく:2001/04/18(水) 01:26
穴山信君が家康に降伏した際の条件の一つに、「武田家の存続」が
ありますね。
これが「家康が信長に頼み込んで勝頼、もしくは信勝を助ける」という
条件なのかあるいは「穴山家が武田家の正統を継ぐ」という意味なのかは
今となっては分かりません。
ただ、信君は降伏の際に家康に実に2万両を支払っています。
これほどの重臣を寝返らせるのだから、家康が金を払って誘う事は
あっても、信君からしかも2万両(上杉謙信の遺産でさえ2万7千両だったのに!)
という大金が支払われたことからすると、前者であった可能性が高いかと
思われます。
結局は勝頼・信勝は死に、信君も本能寺の変の煽りで死んでしまいますが……
ちなみに家康はその後、信君の遺児、勝千代に武田姓を名乗らせていますね。
惜しくも夭折してしまいますが……
326無名武将@お腹せっぷく:2001/04/18(水) 03:41
325さんに聞きたいのですが(別に批判ではないです)
穴山は、何故に、2万両も持っていたのですか?
一家臣が、謙信の遺産に匹敵する金をどこから集めたのですか?
327無名武将@お腹せっぷく:2001/04/18(水) 19:05
age
328無名武将@お腹せっぷく:2001/04/18(水) 23:48
謙信は金の使いすぎだろ(しかも運用がいまいち下手)
信君は武田家唯一の港ともいえる江尻を押さえていたのが大きいだろう
信長が熱田を押さえて大きくなったように
329無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 00:48
>>328
謙信ちゃんは家臣に金貸して利子取ってたから、結構、ズル賢いよ
戦して家臣金なくなる→謙信から借りる→謙信だけ儲かる(笑)

信君が江尻を抑えていたのはたかだか七年間。
それよりも、金山でしょ。
穴山家はいくつかの金山を経営していたからね〜
これは史料的にも確実だから〜

ちなみに信玄自身が「私有」していたと証明された金山は無い。
穴山家が地域密着の豪族だったからこそ出来る芸当であろう…
330無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 12:43
ところでさ”家中を固めるって”具体的にどんなことだと思います?
信長は信行を殺し、景勝は影虎を殺してるよね。
ってことは勝頼は反抗的な重臣特に穴山を殺すべきだったってこと?
331無名武将@お腹せっぷく:2001/04/19(木) 17:03
>>330
遠征は控えて勝頼政権の地盤作りに従事しろってことかも。
不穏分子減殺も含めて。
オマエがやっとけ>信玄
332無名武将@お腹せっぷく:2001/04/22(日) 01:09
age
333無名武将@お腹せっぷく:2001/04/22(日) 01:33
急速に勢力を伸ばした大名はほとんど世代交代に失敗してるよ。

三好:将軍権力を傀儡化するも、長慶死後一族分裂し没落
織田:旧勢力を駆逐したが、信長死後肥大化した家臣団を統制できず
豊臣:大名連合体の盟主として天下一統を為すも、秀吉死後
    家中の分裂を外様最大勢力の徳川につけこまれて壊滅
334if:2001/04/24(火) 21:44
あの西上戦の際に浜松でなく岐阜に主力を向けていれば
朝倉も兵をひかなかっただろうしひょっとすれば短期間で
信長討ち取り、岐阜清洲占領、家康降伏等の大戦果につながる
可能性もあったと思うがどう?
 まあ野戦で信長に大敗喰らって即滅亡ってのもあり得るけどね
335無名武将@お腹せっぷく:2001/04/24(火) 21:58
江戸時代の米はおよそ一石一両だったようで、一両は4000文見当。
戦国時代はどんなものだったのですかね?
あと知行が石高でなく、貫で受け取ってた場合の「貫」とは何?
銭ですか?それとも銀?
336無名武将@お腹せっぷく:2001/04/24(火) 23:46
>>335
一両=三貫文=3000文ぐらい。

領地を表す場合の「貫」は地域や大名によって様々。

北条家では、田一反=500文、畑一反=150文で計算。
すると一貫=四石ぐらいか。
しかし、毛利家が太閤検地に伴って貫高制から石高制に
切り替えた際、換算率は一貫=一石。
考えるだけ頭痛のタネが増えるだけです。気にしないほうが良い。
337335:2001/04/24(火) 23:52
>>336
ありがとう。
戦国時代はややこしいね。
338無名武将@お腹せっぷく:2001/05/04(金) 21:35
レベルたけ〜!!ここのスレ理解するには新田次郎の小説は
必須だね。

カメレスだけど

>242

>それにしても「信頼」とか「頼信」とか 付け方あったよなぁ。

新田次郎によると、対立関係のまま終わった信玄と頼重の
二人の名を残すのは嫌だったからでは?とあります。

武田家滅亡の原因は243さんが述べたモノが正解だと
思います。(「喪に服せ」との余計な遺言、それを
拡大解釈して朝倉浅井・長島を見殺しにした家臣団
が原因)

いくら長篠で勝ってもそれは戦術的勝利。もうこの
時点で既に戦略的決着は付いていたと見るべき。

339腹減った:2001/05/05(土) 06:23
騎馬一騎につき足軽四、五人と言っても、その足軽達は早い騎馬にどうやってついて行ったんだ?戦場じゃ足軽達が追い付いて来る迄待てんぞ
340名無し:2001/05/05(土) 07:17
>>339
だから、武将は足軽がついてこれるスピードでしか
馬を走らせられない。だから足軽は胴丸なんかの
軽装で闘っていたんだがね。
当時の日本には本当の意味での騎馬隊は存在しない。

341名無し:2001/05/05(土) 07:18
>>337
しかも凶作豊作でコメの値段は今以上に乱高下するし、
簡単に換算はできない。
342大崎少将:2001/05/05(土) 21:47
武田家滅亡については、いろんな意見がござろうが、拙者が思うに
1、信玄公の遺言!「ボケてたとしか思えない」
2、勝頼に「信」の字がないこと(結果!親類衆に軽んじられる)
3、長篠には無理して出陣する必要がなかった
4、新府城の造営「人は城・・・の遺言無視」
5、高天神城を落とした事!これが一番の原因では?
信玄さえも落とせなかった「高天神城」を狙わなければ、信長のパシリの
家康も怒らなかったし!「長篠の合戦」に突入する必要もなかった
もう少し内政や自分の基盤作りに精をだしていたら、勝頼も名将と言われたでしょう
武田が本当に躍進するのは、「本能寺の変」の後だったと思う!
それまで力を温存しとけば結構面しろかったろうな〜
343無名武将@お腹せっぷく:2001/05/05(土) 23:25
う〜〜ん、武田が滅びなければ、本能寺はなかったと
おもうけどね〜
344無名武将@お腹せっぷく:2001/05/06(日) 00:52
>>343
信長は本願寺を倒したらイキナリ重臣の追放をしたし、
武田の後もさらに傲慢さが増している。
こんな調子だから、武田が滅びなくても毛利や上杉あたりを
滅ぼした段階で家臣の誰かが我慢できなくなってたと
思う。
345無名武将@お腹せっぷく:2001/05/21(月) 19:45
このスレずっと楽しみにしてたんだけど、もう終わっちゃったんでしょうか?
346無名武将@お腹せっぷく:2001/05/21(月) 19:55
武田が生き残る道は、信玄死亡直後に織田と和睦する
しか無いわな。
だが、できるわけないから滅亡しかない。
347無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 02:55
上杉、武田、北条の三国同盟で対抗できないかしら?
348無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 03:25
>>342
勝頼の「頼」は諏訪氏歴代の「頼」
本来、武田氏の後継にするつもりはなく、諏訪氏を継がせるつもりだった
そうな。
長男ではないのだし、毛利両川みたいに武田を補佐する立場に立って
欲しかったのでしょうね。信玄は。
349無名武将@お腹せっぷく:2001/05/22(火) 03:34
>>342
>1、信玄公の遺言!「ボケてたとしか思えない」
>4、新府城の造営「人は城・・・の遺言無視」

矛盾しとる。
350足軽口上:2001/05/22(火) 20:53
信玄って子供すくなかったのね、姫君が多かったの?
ほかに御曹司はおらんかったのかな。

陣中信玄が亡くなったとしても、そのまま遠近江に駐屯して覇権を固めればよかった
三年間死を隠せっていわれたのにいきなり引きかえしたらバレバレじゃん!
影武者もいた(のかな?)し、遠近江の豪族だませたって
それが遺言をまもるということなのに、やっぱ勝頼が統率力なくそれ以前にマクロ戦略ゼロだった。
351無名武将@お腹せっぷく:2001/06/03(日) 03:01
>>350
ワンマン社長が独断で始めたプロジェクトの途中で急死したんだから、部下は混乱して取り敢えずプロジェクト中止、本拠地に帰るのは致し方なかったんじゃないでしょうか。それに、信玄が死んだ時点では甲斐・信濃は武田領ではなくて、いわゆる信玄領だったわけで、勝頼がすんなり路線の継承をできたわけでもない。つまり、ワンマン社長が後継者育成を怠っていたのが敗因なのだから、そういう意味ではマクロ戦略ゼロは当たっているんでしょうね。
352無名武将@お腹せっぷく:2001/06/03(日) 14:28
 ところで、このスレ↓で、
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=983724642

67 名前:諏訪四郎勝頼 投稿日:2001/06/03(日) 04:24
(中略)
経済政策の先覚者であるならば、ぜひわが領内に迎えたい
ものである。

 とあるが、勝頼が田沼意次を家臣に迎えるという ifに
おいて、武田が勝利する可能性はあったのだろうか?(藁
353:2001/06/03(日) 15:25
すみません、三国志・戦国板用の看板を作ってみました。
これを採用してもらいたくて現在、布教中です。
永遠にこのバナーを掲載し続けるのが目標です。
ああ僕も有名人になりたい!
みんなも応援してください。
僕より上手い絵を書ける人なんていないんですから。
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354無名武将@お腹せっぷく:2001/06/13(水) 21:43
あの状況では、浜松城再度落すような状況ではないでしょうね。
やはり唯一織田との和睦でしょうか?
当時の織田は南下政策を進めてたし、
小田原があるので戦略的に甲信わざわざ攻めなかったのでは?
355無名武将@お腹せっぷく:2001/06/13(水) 23:12
信長って性格が粘着質っぽいから、武田滅亡にこだわったんじゃない
356無名武将@お腹せっぷく:2001/06/14(木) 21:38
遡るけどすんません
駒井高白斎って他スレで新田次郎の創作とか書いてあったけど
「高白斎記」ってあるよねえ・・・?
357 :2001/06/27(水) 00:02
久々age
3581:2001/06/27(水) 00:20
>>356
「高白斎記」実在しますよ。
1498〜1553年までの武田家のことが詳しくかかれた日記です。
359無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 01:20
信玄の死を隠して西上すればよかった。とゆうよりあれが武田が天下を取る最後の
チャンスだった。信玄が「3年間国を固めよ」なんて言うはずがない、信長の兵力が
分散していた時に叩くべきだった。

信玄が駿河を落としたのは伊勢水軍に対する水軍の確保と金山を手に入れるため。

真田の進言に従っていればおそらく生き残れた、少なくとも裏切られはしなかった
だろう。昌幸が次々と主君を変え他のは武田が滅亡したためで主家が存続している
以上裏切りはしないはず、昌幸にも武家の意地があるだろう。
360続き:2001/06/27(水) 11:02
勝頼は武田家の正式な後継者として認められている。信州の人間と言ったって半分は信玄の血が入っているんだから。
第一あの状態では勝頼が家督を告ぐしか考えられなかった、信玄も自分が追い先長くないとゆうことを感じていただろうし
家臣等も義信がいなくなった以上勝頼に期待をかけていたはず。それに、信勝って信長の養女と勝頼の子でしょ、
勝頼がだめで信勝ならいいっておかしくないか?
361無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 15:52
356>358
ありがとう
新田の小説をやたら創作あつかいするやつがいるね
362無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 21:13
あのね、皆、もっと現実的に考えようよ。
武田家滅亡の原因は
「中央最大勢力の織田家に逆らったから」でしょ?
どんな細かい理由があろうとそれに尽きるんだよ。
圧倒的な物量の差・・・
勝頼や義信がどうとか関係ない。
信玄がもし死んでなくてもって・・・
信玄の最後の西上も兵力不足で成功しなかったろう。

っていうか歴史にレバ・タラは禁物、
信玄の寿命は決まっていたし、武田家は滅びるべきして滅んだの。
363無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 21:19
>信玄の最後の西上も兵力不足で成功しなかったろう
これはifとちゃうんかー。おい厨房よう。
364S(秘密):2001/06/27(水) 21:40
議題はそれますが
わたしは「武田家(特に信玄)が天下を獲ろうとしていた」
という部分そのものがありえなかったと思います。
信玄は基本的に権威に弱く、自分の野心も少しはあったでしょうけど、
基本的に足利義昭の指示に従い、
反旧体制派の信長を駆逐する運動に加わっただけという感じがします。

もしも、ある程度、天下を獲ろうと考えてたとしても。
彼が望んだのはせいぜい、管領の地位くらいで
友好勢力と旧体制(足利将軍家)の崩壊をもくろむ織田家を駆逐して
ある程度、権威をもらったら満足したと思います。
まあ、大内義興・今川義元タイプの天下獲り
くらいなら狙ったかもしれませんが、

彼のような古い男が信長・秀吉・家康のような天下統制したとは
想像する事すらできません・・・・
365S(秘密):2001/06/27(水) 21:50
>>359
違うでしょう。
真田が小山田と同じ事をしなかった保証はどこにもない。
それどころか真田家は武田家の譜代でもなんでもない、
真田幸隆も元は信濃の独立領主だったのが
生き残りを掛けて信玄に下っただけでしょ。
それに比べて小山田は譜代に近いですね。
勝頼が小山田か真田の選択で小山田を選択したのは無難でしょう。

あと、勝頼が真田を頼ってれば3か月後に本能寺の変が
起こって難を逃れたなんてのもデタラメ
信長は勝頼を徹底的に殺そうとするだろうし、
本能寺の変も状況のズレで起こらなかったよ。
366無名武将@お腹せっぷく:2001/06/27(水) 22:42
>>362
滅びるべく滅びたのなら学校で習う授業で十分です。
ほんのチョットした油断や幸運で歴史が変わっているのも
事実でしょ? たら、ればがあるから面白い。
浅井、朝倉に信長が滅ぼされてた事もありえたはず。
367無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 04:27
>>364
たしかに・・・
武田ドリームの人たちの間では
信玄が天下統一の野望のために外交を駆使して信長包囲網を
作り上げたと言わんばかりだね。
足利義昭と浅井・朝倉・本願寺等が結集したからでしょ?
368無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 08:57
>>364
激しく同意。
信玄が最後に暴れたのは、打倒織田家のため。
369無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 10:24
>>368
織田家打倒までも考えてなかったかも。遠江の完全制圧と
三河・東濃に手を出すぐらいが本来の目的だったんじゃ?
武田領西側の防衛ライン確立というかさ。
370無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 17:12
>>364 >>368
それは違うんじゃないか?
当時の武将はこの国とこの国を取ったらあとは要りませんと
宣言してる国主は一人もいない。
つまり、天下を望むというより敵対国を潰していった結果
国土が増え天下に手が届いたと、考える方が自然では?
>>359 >>360
それはどうでしょう?信玄は三年・・・・があながち間違いでは
ないのでは、
要は勝頼の中途半端は行動が滅亡の引き金を引いたのは
間違い無いでしょう?
出兵せず国内を固め全方位外交。信玄没後にすぐ織田攻めまたは徳川攻め。
織田の軍門に下る(あり得ないと言わないで)
滅亡阻止はいろいろあったのでは?
371無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 17:26
>>370
武田信玄という男は旧枠組みの中でのみ
思考し生きた男だと思うよ。
最後の西上も足利家のひいては旧体制の救出のために
動いたみたいなもんだ。

それと領土拡張の件だけど、
そりゃ勉強不足だよ、そりゃわざわざ宣言はしなかったかもしらんが
ある程度、領土を広げたら、満足し沈静化した大名は
ゴロゴロいるよ。
毛利なんかはその典型だ。
372無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 17:31
>>370
>>敵対勢力を潰していった結果、国土が増え天下に手が届いた

でも、信長は早くから天下布武の旗をかかげて、
直接、天下取りにつながる行動をしたよ。
たまたま敵対勢力を潰していった結果の天下じゃなかったっしょ。
家康も秀吉もそうだよ。

少なくとも信玄が
信長や家康タイプの天下を狙ったとは
思えない・・・・
373@:2001/06/28(木) 17:40
つうか信長と家康を同一視すんなよ。
バカ?
全然違うだろ。
チュウボウ?キチガイ?オタ?
374無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 17:48
>>373
失礼な・・・
違っててても、信玄とは全然、別
375足軽口上:2001/06/28(木) 20:33
天下人願望、、それは信玄にしかわからない。
家康の猿芝居(史実だとしたら)をみぬけずその首級をとれなかったこと。
武田武士団が仮に鎌倉武士型統治システムの進化極限値に至っていたとしても
兵農未分離じゃやっぱだめだよ(既出か、、)
人身売買に手をそめてたら余計だめだ。
 
376無名武将@お腹せっぷく:2001/06/28(木) 21:29
武田信玄は非常に古い枠組みに対して忠実なんだよなあ。
彼が信濃攻略を将軍家に責められた時、
彼の抗弁は自分は信濃守護に任じられたのだから、
信濃を平定するのが秩序であり役割だと抗弁している。
なんか、信長等と比較して考えが古いんだよな。
このような男に旧体制を破壊して、
自分が名実ともにトップになるような、
新秩序的な天下統一は無理だろう。

基本的に室町幕府の旧秩序に忠実な男で、
野望はあくまで、その枠組みの中って感じだな。
謙信と大差ないよ。
最後の大西上も足利将軍家(旧秩序)救出のためだよなあ。
それが、後世、武田ファンに天下取りの行動と誤解(願望だな)されたんだと思うよ。

あと、勝頼は勢力拡大と生存くらいしか考えてなかったでしょ。
377無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 09:02
>>371
>武田信玄という男は旧枠組みの中でのみ
>思考し生きた男だと思うよ。
>最後の西上も足利家のひいては旧体制の救出のために
>動いたみたいなもんだ。
もちろん信長などの急進改革派にくらべれば守旧派だったと言うのは否めない。
しかし、それは逆に足利幕府の命によりの天下統一もあった事の証明にも
なりませんか?
また、当時は家の存続が命題の時代に幕府の為は少し無理がある。
それを言ったら謙信も参加してるはずでしょ。

>それと領土拡張の件だけど、
>そりゃ勉強不足だよ、そりゃわざわざ宣言はしなかったかもしらんが
>ある程度、領土を広げたら、満足し沈静化した大名は
>ゴロゴロいるよ。
>毛利なんかはその典型だ。
始めに富士山は長い間沈黙してるが活火山です(w
つまりある程度で一服はだれでもあることでしょう。
今日の我々でも車買ったからしばらく何もしないとか
しばらく安泰なので貯金しようとか。
領国経営では必ず有ります。
私も個人経営者だが攻めるときと守るときはバランス考えます。
勉強不足でかたずけられるのもちょっとなあ(w
378無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 09:24
>>372
うーん信長だけはなー宇宙人だからなー(w
ちょっときついが聞いてくれ。
早くからといっても田楽狭間あとじゃないでしょ。
ある程度安定した時でしょ?
また、平野が広がる領国はBシートがよかったのでしょう。
後の秀吉、家康も明確な意思と言うより
時代の流れの中での天下では。
彼らクラスの頭脳では勝算が有ったからでしょう。
特に家康は何かの本で関が原で負けるような事が
有っても東国の国主として残れるだけの策があるとか
言ってた覚えがあるが?
379無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 10:03
>>377
幕府のために信玄が動いたというか
旧秩序を守るためだな。
そうする事が武田家を守る事にもなる。

信玄は信長の延暦寺焼き打ちに激怒したという、
さらに将軍をないがしろにする、こんな男を
のさばらせておくわけにもいかず、
さらにどうしようもない大勢力になっては
旧秩序や自分たちが危ないと感じたのだろう(それらは当たってた)
その防衛行動が浅井・朝倉・一向宗・義昭ら、
利害の一致した者達と共同の信長叩きだ。
謙信は信玄・本願寺の対立もあって誘いがなかったな。
毛利は元就の遺言もあって動かないよ。

それと、あなたも個人経営者だそうですが、
日本一の大企業とか天下を狙ってるんですか(笑)
守りの経営者くらい、いくらでもいるし、
攻めすぎるとヤバイですよ。
380無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 10:09
信長はたしかに変わってますよね。
横並びの好きな日本人としては異色の天才だ。
まあ、だからこそ信長包囲網やら
黒幕説ありの本能寺の変にやられたんだが、
信長が朝廷を潰すというのはありえたかも・・・
少なくともそういう噂はあったろう。

家康や秀吉はなんか日本人的な談合というか和の精神での
天下取りだなあ。
381無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 10:16
でも、前にも言ってた人がいたけど、
大内義興や今川義元、細川勝元や山名宗全や
三好長慶や松永久秀タイプの天下なら狙ってたんじゃない?
でも、それだと将軍を抱えて一時権勢をふるうだけで、
室町時代は続くよなあ。
まあ、古臭い信玄に室町幕府の旧体制を終わらすと意志というより
概念そのものがなかったろうけど。
382無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 12:44
>>376
信玄の信濃守護の話しで信長と比べて考えが旧いとするのはどうかな。
信長もわざわざ上洛して義輝さんに「尾張の支配権を認めて下さい」
ってお願いしている。
383常連:2001/06/29(金) 13:01
信長がずば抜けて進歩的だったとか、
旧い考えにしばられなかったと言う意見にも一理ありますが、
それだけではないような気がしますね。

ごく初期から信長が天下を狙っていたとか
全ての旧体制を打破しようとしていたと言うのは誤解。
はじめは彼もそこらの戦国大名と変わりなかった。
違っていたのは、領土経営の特異性と強烈な秩序意識ぐらい。
彼も当時は足利幕府以外に天下を立てなおす方策を考える事が出来なかった。

実際、彼は天下布武の印文を使い始めて以来、
天下の平定に一生懸命なだけだったわけで、
後世に信長がタブーを知らないみたいに言われる原因となった
本願寺などの寺社勢力や将軍家との抗争は彼の誤算によるものですよ。
比叡山の焼き討ち、一向一揆の虐殺、将軍様の追放、・・・、
これはどれも信長の計算によるものじゃなくって
窮鼠猫を噛むと言うか、仕方なしにやった事ばかりなんですよね。

ですから、「幕府再興による天下平定の思想=旧時代の遺物」
との図式で物事を見るならば、信長ですらその範疇から抜け出せません。
信長と信玄を比較する場合、信長の過大評価にはまらぬよう。
384常連:2001/06/29(金) 13:07
>>379
信長が旧体制をぶち壊そうとしたのではなく、
旧体制が信長をぶち壊そうとしたのかも知れないですね。

将軍様や信玄側にして見れば
信長なんぞは三国志の董卓みたいなもんだったんでしょうね。
385常連:2001/06/29(金) 13:13
ひとつだけ興味があるIFがあるんですが、
信長包囲網の図式が成立したとき、信玄がそれに組せず、
信長側についたとしたら、どうなっちゃっていたんでしょうかね。
元々織田家と武田家は、傍目には浅井・朝倉みたいに親密な関係でしたし、
ありえない話ではなかったと思う。

多分、あの時の信玄は
「勝算も充分過ぎる程あるし、ここで信長を滅ぼせば武田家の発展疑いなし」
と1つの賭けに出たのでしょうが、この逆に
「この俺が皆の期待を裏切って、信長の側に立てば立場は逆転するやも」
と考えていれば、どうなっていたんでしょう。
386無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 14:11
>>379
横レスでスマソ
かつては業界No1の時も有りました(w
ただ、続きませんでしたけど(w
現在は飲食店をチェーン展開してます。
勿論天下狙ってます(w 今業界何位だろ?
387無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 14:38
>>385
きっと信長は半端な勢力を味方にしようとはしないでしょう
徳川家康との同盟も同盟とは建前で実際は主従関係なわけで
388無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 14:52
>>386
興味深い話では有りますね、相当悩んで決断したんでしょうか?
ただ今日の信玄人気は散り際のカッコ良さがありますので
魅力が半減しますよね(w

ただ信玄が兵力が優位に無いと戦わない守備的すぎる
と言うような評価はこの戦が払拭してますね。
389:2001/06/29(金) 14:54
>386×
>385○
390伊集院:2001/06/29(金) 16:58
>>385
一向衆と姻戚関係にあったのも要因。さらに長島が信長の癌になっていた。
391無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 17:05
>>385
もし信玄が信長と手を結んだとして、武田が得ることの
できるメリットは何だと思いますか?逆にデメリットは?

これを考えると、いまいち信玄にとってうまみのある
オプションじゃない、だから史実でも同盟しなかったんだ
って結論になっちゃうんです。
392常連:2001/06/29(金) 17:38
>>391
手前もそう思います。
信玄の上洛戦(あえてよう呼びたいです)は無謀ではなかったでしょうね。
病没さえしなければ、織田家を皆でたこ殴りにぶっ潰す事は出来たでしょう。
そのあと、どうやって天下を落ち着かせるかは解りませんが。
393常連:2001/06/29(金) 17:46
>>387
武田家は半端どころか当時、屈指の大大名ですから、
信長もギリギリまで戦うつもりはなかったんじゃないかな。
出来ればもつとよしみを通じておきたかったみたいだし。

徳川は主従と言っても、家康が自らとった態度でしょう。
まあ、浅井も例の裏切りがなければ第二の徳川になっていたでしょうが。
394常連:2001/06/29(金) 17:55
>>388
信玄はあの戦に全てを賭けたんでしょうねぇ。
多分、天下分け目の決戦のつもりだったんでしょう。
織田を滅ぼせば、足利幕府再興の功臣として、栄華栄達間違いなし
とでも考えていたのかも知れませんな。

ちなみに信玄が信長を倒した後、注目すべきは
共に戦った諸勢力の他、仇敵・上杉、盟友・北条、あとは毛利の動向ですね。

特に興味深いのは謙信で、将軍家が武田と和睦しろと言えばどうするか。
逆賊の汚名を来ても武門の意地で武田家と戦いを続けるのか?
それともあっさり、全てを水に流して和議を受け入れ、
男同士、酒を酌み交わすのか?
395387:2001/06/29(金) 18:19
>>393
本当に味方なのかわからない、という意味での半端です。
家康とはそれほど十分な信頼関係があったので
同盟が成り立っていたと思います。
あえて血を流し尾張を統一した過去もあります。
396無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 18:48
謙信は将軍義昭からの越・甲・相の和睦勧告を再三再四無視しています。>>394
397無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 19:09
>>394
信玄が仮に信長に勝っても武田家の天下が想像できないのは
私だけでしょうか(w
時代は新たな覇者を求めて戦国が続くんだろうな?
信玄と謙信は案外上手く行きそうな気がしますね(w

いずれにしろ、武田家最大の失敗は信玄がブランド嫁さん
もらった事でしょう(w
少なくても甲斐国内の豪族もしくは今川、北条からもらっていたら
多分残った気がするな。
今も昔も環境の違う嫁さんはたいへんですな(w
さしずめ今なら家柄のいい貧乏旧華族の美人嫁さん貰ったら
金ずかいは荒いわ、料理は下手だわ、子育ても下手で
息子はぐれて問題起こすわ状態でしょう(w

それでも信玄は夫婦中良かったと言うがホントかいな(w
398無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 19:18
>>396
たぶん394さんは、もし信長を討って上洛した後に
和睦だと思いますよ。
晩年の二人なら上手くいくような気がしますが・・・・・
長島vs野村なんですかね(w
399無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 19:24
>>396
信長打倒後に後ろ盾を得た義昭公の書状だと
その時のものとは有効性が圧倒的に違うでしょうね。
400無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:00
信玄と謙信がうまく
いくとは思えないよ。
401無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:07
↑ほわーい?
402無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:15
ちょっとエピソード
武田家は甲斐守護の名家、武田信玄は始めは
守護代にすぎない、長尾家と景虎を見下してたが
のちに長尾家が武田以上の名家で
関東管領たる、上杉家になってしまった。
つまり、家格も地位も武田家より偉くなってしまったんだ。

それで信玄は嫉妬して生涯、上杉と呼ばず
長尾と言い続けたそうな。

あらら何を言いたかったんだろう^^;;
403無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:32
信玄と謙信だが
彼らの書状などを読むと
信玄は謙信を憎みつつ劣った人物と評し、
謙信は信玄を憎みつつ無法者と評した

そりゃ普通、憎み合うだろう。
メディアで言われてるようなお互いをライバルと認め合い、
奇妙な友情や尊敬があっただのはまったくの虚構
もう少し、現実を見よう。

謙信が信玄が死んだときいた泣いたなんて話しもウソ
速攻で北信濃に兵を出しただけだ。
404無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:50
>>403
オイラには好きだ好きだの裏返しにもきこえるけどね(w
405無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:54
泣きつつも兵は出すってことでいいんじゃない?
406無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 20:55
1、親族の権力が強大
2、ナガシノ以来世代が交代してしまった
3、長坂の影響
4、北条+徳川
5、戦費が尽きたから
407無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 21:11
↑だから嫁さんだって(w
408403:2001/06/29(金) 21:25
泣いたのが事実だとしたら嬉し涙だろうね。

そんで、書状の記述では真剣に憎みあってるように思うよ。
普通はそうだろう。
甘ったるいロマンチシズムは捨てるべきだよ。

何が悲しくて、敵を称えねばならんのだ。
スポーツでもあるまいし・・・・
409一関人:2001/06/29(金) 21:28
>>408
 俺もそう思うわ。そもそも生きるか死ぬかの戦国時代にそんな
センチメンタルな感情を持っていたら速攻で滅ぼされる。
410無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 21:46
>>409
つまり君んちでは今だ鬼畜米英なんだ(w
冗談だから怒るなよ(w
戦国だって恋も人情も夢もあるさ。
411無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 22:03
>>410
だからどうして敵な人情が成立するんだ。
武田に領地を奪われた信濃の領主や
合戦で死んだ味方兵の事も考えてくれ。
412無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 22:46
>>411
じゃ、聞くぜ。大東亜戦争(太平洋戦争)当時に
銃を向け合った同士が戦後すぐ握手したとかはどー理解したらいいの?
あとさーハイジャックの犯人と人質が仲間意識になるとかの事例も
あるでしょ。
俺も学生時代にケンカしたヤツとは仲良くなったよ。
もちろん今回はあんたに分があるのはわかってるさ(w

人は変わります。伊藤博文なんて若いときに日本人をキリスト教徒
に変えるような法案出すような、ダメ政治家だったが
晩年はいい味出してたでしょ。

>>402
あたりまえだわさー、いい家柄はブ・ラ・ン・ドの時代
嫉妬はするさ(w
さっ。話題変えようか(w
413無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 22:54
人情をロマンチズムやセンチメンタルでしか片付けられないところに
人間としての薄っぺらさが出てるぞ
414無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 23:05
>>413
それはどうかな、少なくても資料や記述だけなら2ch
は半年で終わり。ふるいヤツは飽きてるでしょ。
だからなっち信玄がでる(w

日本人からロマンとかメルヘン取ったらただの韓国朝鮮人じゃん(w
逆に君の方が余裕無く見えるぞ(w
415無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 23:08
>>412
ハイジャックの件は違うだろ。

それとケンカや戦争が終わったのならともかく、
謙信は村上義清をはじめとする
元信濃領主を多量にかかえてたんだがな。
抗争も終わってない相手には友情は生まれない。
416413:2001/06/29(金) 23:15
>>414
何を言いたいのかわからんが私はあなたを非難した覚えはないよ
人の発言はきちんと読もうな
それからいちいち笑ってないで落ち着いてくれ
417無名武将@お腹せっぷく:2001/06/29(金) 23:36
>>416
わるいわるいこっちもよくわからなかったんだ(w
よく皆に笑いすぎって怒られるが
ギスギスするのが嫌いなので使ってるが効果なし(w

>>415
新たな刺客現るだな(w
あんた寂しい人生だねー(w
偉大な武将どうしだぜ。時代劇でも敵ながらあっぱれってあるでしょ。
前にもいったが分は悪いがおいらは信じるね(w
418413:2001/06/29(金) 23:48
>>415
人の心はなかなか業の深いもんなんだよ
一元的に片付けられるもんじゃない
歴史知識では得られない深い感覚だ

>>417
そういう生きかたも疲れるぞ
別の意味でギスギスさせてるしな(笑
419無名武将@お腹せっぷく:2001/06/30(土) 00:10
>>411
日露の時の事例はどう説明するん?
明日にはお互いの事殺すかも知れないのに 酒や煙草の交換したりしてたんでしょ?

日本人気質って事じゃないのかな…
まぁ 教養ないとでも何とでも罵って下さいな
戦争中とは言え殺しあうのは国の命令個人の感情は別問題でしょ
420無名武将@お腹せっぷく:2001/06/30(土) 00:28
当時の死に対する感覚はどうだったんだろう?
アウシュビッツのナチス収容所で最初は転がる死体に驚いていた者が
次第になれて子供達が死体の側で遊んでたとか、
インドなんかでは普通に子供の死体を犬がくわえてるとか、
観察医(字あってるか)もなれでしょ。
よく生きて50年つまり今より死は身近でしょ。
武士道とは死ぬこととみつけたり。
そんな時代の刃をむけた同士に友情と言うより尊敬の念がでてもいいと思うけど。
421無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 18:56
やっぱり塩が取れない、米が取れない、貧乏国が一番の問題。
あとは、甲州人の資質かな?
中田(サッカー)田原俊彦、三浦友和など人の言う事きかなそう
よっぽどトップがしっかりして無いと食われる。
そう言えば韮崎は穴山か〜(w
422無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 19:28
たとえ、敵将同士でも友情が生じるケースがある?
たしかに・・・
しかし、そういうのはそうなる場合とならない場合がある。
信長は勝頼の首が送られてきた時、高笑いして
その首を蹴っとばし、京都に送って
信勝・信豊・盛信の首を獄門にかけさらせたしね。
さらにこんな歌を読んでいる。
「勝頼となのる武田のかいもなくいくさにまけてしなのなければ」
嘲笑的な歌だよね。
いかに信長が武田を憎んでたかわかる。
信玄ではないにしろ、信長と信玄に
「偉大な武将同士の友情」なんてあっとは思えない。
信長は信玄を憎み、死んだ時は心のそこから喜んだろう。
423無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 19:38
信玄と謙信だけど、
お互い罵りあってるし、お互いを認めてないよ。
戦う動機といい、真剣に憎みあってた。

信玄が認め、友情を持ってたのは北条氏康だ。
三増峠の戦いの前の信玄のセリフ、
「あの北条氏康ですら、この信玄の前には小田原の城に引っ込んだ
それを氏邦・氏照ら若輩になど一蹴してくれる」
という発言は氏康を認めているように思える。

それと武将とか兵士同士の友情なんて言ってるけど、
ヒトラーとスターリン、ヒトラーとチャーチル、
アイゼンハワーと東条秀樹とかに憎しみとかあれ友情があったと思う?
「彼らは政治家だ、少し違うのでは?」という反論はあるかもしれないが、
謙信も信玄も信長も武将だけではなく、政治家でもあるんだかなあ。
特に信長は「政治家」の面が強いだけに
謙信や信玄を憎み馬鹿にしていたなあ。

謙信と信玄に関しても、戦った武将でもあるが、
それ以上に政治家として憎み合ったと思うよ。
424無名武将@お腹せっぷく :2001/07/02(月) 19:43
>>420
たしか絵で残ってるんだけど
篭城中の風景、城主の妻と娘らしき女たちが敵将の首におしろいとか
つけてきれいにしてた。首の身分を高くするためにやっているらしい。
425無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 19:49
>>423
相手をどういう存在としてみるか。
言い換えれば、自分の目的を明確に持っているものにとって、
相手がどのような存在であるかが重要だと思う。

その意味では、関東管領に拘った謙信にとっては、信玄は
天晴れな敵で、氏康は狡猾な敵であってもおかしくはないと思う。
信玄は関東にそれほど拘っていなかったので、氏康を認められたの
ではないか、と思う。
まあ、信長にとっては自分の天下布武を理解しない、もしくは
邪魔する奴は全て憎むべき敵であったと思う。

強烈な理想をもっている者ほど、その理想に反する相手には
残酷になれるのではないか?
それを考えると、現実主義者の方が安心できる面もあるのかも
知れない。
家康なんかは殺されそうになった信玄を結構尊敬していたらしいし。
426無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 19:56
>>412
あんまり関係ないけど
私はその「加害者と被害者の間に友情が芽生える」
という現象を安易に使われるのが大嫌いなんだよね。

というのは新潟少女監禁事件の初期報道で
”ニューステーション”のコメンテーターが
少女が9年間も逃げようとしなかったのは
犯人との間に友情が生じる現象とかで説明した事なんだ。
全く今、思うとド外道なコメントだよね。

ハイジャック犯にも感情はあるんだろうけど、
所詮は加害者は殺人でもなんでもやらかしかねん、存在なんだから、
この現象は事後確認されたもの以外に使わないでほしい。
不快です。

しかも、あなたはこの件で「ハイジャック犯と人質に仲間意識
が芽生える」というので何を言いたいのか
さっぱり、わからない。
427422:2001/07/02(月) 20:03
誤植訂正
信勝・信豊・盛信の首とともに京都に送って
獄門にしてさらした

レスはのちほど
428無名武将@お腹せっぷく :2001/07/02(月) 20:12
史料が残っているから憎みあってるんだとさ
厨房スレに堕ちたな
429無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 20:13
>>427
信勝は信長の孫でもあるはずなんだけど・・・
信長って非道い男ですね。
でも、弟や叔父を殺し叔母ですら惨殺した男だしね。
430無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 20:39
>>426
新潟の事件でコメンテーターが何を言ったか知らないけど
この件とは別でしょ。そんなものを持ち出されても訳わからん?

言いたい事は人質にとって犯人は敵でしょう。
ところが犯人側が人質の人権等を保障したような場合
憎しみだけじゃない感情が生まれるのは学術的に
立証されてるじゃない。
だから敵味方に分れてもある種の友情的なものがあっても
不思議じゃないと思うと言ってるの。

新潟の事件を思い出すのはお前の勝手だけど
俺はコメント一つしてないわな。
これから包丁といったら児童殺傷事件を、寝違えて首が痛いって
言ったら神戸の事件を思い出しながら生きてください。
431426:2001/07/02(月) 21:09
>>430
「お前」ですか?
まあ2chだからしかたないが、
普段は気が弱くてウジウジしていて、
こんなとこでしかデカイ事、言えない男なんだろうな。

私はハイジャック犯や加害者は犯罪者で
被害者や人質に友情を持とうが思いやりを持とうが
まったく認められないと思うんだけどな。
そういうものを戦国の友情のたとえに
たとえに出すのはどうかと思うぞ。
私は戦国の友情に賛成なだけに
犯罪者と一緒にされるのも不快だ。
432無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 21:32
>>431
いよいよ困ったら見てもいない人間の人格攻撃ですか(w
やれやれ。

お前が認めようが認めまいが現実に医学書等のはっきりした
学術書に書いてあるだろ。
現にアメリカでは結婚した事例もある。
戦国時代の当てにならない書物ならともかく
現代の考え方そのものは否定できるのか?

例えが上手かろうが下手だろうが突っ込む所ではないわ。
せいぜいNHKに連想ゲームの再開を望むメールを出してください。
433426:2001/07/02(月) 21:43
ペルーの大使館人質事件で犯人たちがフジモリの特殊部隊に踏み込まれた時に
一旦、人質(被害者)に銃を向けたが撃つのやめたとかいうのを材料に
左翼の人がフジモリの行為を非難したり、
勝田清孝が自分が刺した絶命寸前の被害者が「ジュースを飲みたい」と言ったので
同情心を起こして、ジュースを買いに車を走らせたのを弁護士が善行のように言ったり・・・
どうも、加害者の被害者に対する同情みたいなものが善行のように言われるな、
そういうの大嫌いだし、間違ってる。
加害者が被害者に親切にしたからといって、
そういう立場にもともと被害者を追いやったのは加害者でしょ。
それで人権を保証するだの、同情するだのは
順序が間違っててお話しにならないですよ。
犯人賛美みたいな理論で嫌いです。
434426:2001/07/02(月) 21:46
2chでも「お前」は本当は良くないです。
435無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 21:58
>>432
結婚した事例・・・・・
433の理論だと、
相手の女性、なんかカン違いしたんだね(笑)
436無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 22:12
>>433
だ・か・ら・いつ賛美した?いつ新潟を出した?いつペルーの
犯人射殺を非難した?
ましてや、ハイジャックと新潟では違いすぎて比べる事のほうが
無理がある。

あのね〜何をいらついてるのか知らないけど
突然俺はそうゆう言い方嫌いだから止めろとかまるで明後日の
事言われたらお前になるわ。
言葉尻つかまえていちゃもんつけたかったらヤクザになってください。
437傍観者:2001/07/02(月) 22:51
とりあえず、ここまでの>>436の発言により、>>436はすげえバカだということが
判明しております。
438無名武将@お腹せっぷく:2001/07/02(月) 22:52
>>433
女性?
439無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 06:42
>>437
そうだよね
440無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 07:13
つーか道徳観の話は相応しい場所でお願いいたす
441無名武将@お腹せっぷく:2001/07/03(火) 19:26
ははははは
442無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 02:51
なんつーか、彼の頭の中では、

三成と家康は、共に日本の行く末を案じて戦った好敵手として、
厚い友情で結ばれているんだろうな。

信長と光佐は、戦が終われば肩を抱き合うまぶダチ@死語。
秀吉と勝家は、南を巡るたっちゃんとかっちゃん@タッチ。
真紀子と宗男なんてもうじき結婚しちゃうよ。どーする?w
443ともチャン:2001/07/04(水) 07:10
お馬鹿なトピ・・・。
でも「憎しみ派」の言っていることのほうが正しいんじゃないの。
普通、お互いに殴り合っていれば、嫌悪感が出るのが当たり前でしょ。
そこに友情みたいなものが芽生えるのは、相手を人としてみた場合だけで、
そういう意味では、実際に会ったことのない謙信と信玄に
そんな感情が表れるとは思えない。
また純粋に知恵力比べしているんならともかく、
実際に被害が出るし、仲間を殺されるし。
喧嘩の後に仲良くなるのは、相手に人格を見たから。
しかも謙信は非道なことばっかしてるし、義理も何もないし。
お互いに「あいつ死ねばいいのに」と思っていたんじゃない。

2chで論争して、その相手に友情を感じたなんて人どれだけいるかな。
でもきっとこのトピの「友情アリ派」の人は「憎しみ派」の人に
友情の気持ちを抱いていると思います。自分でそう言ってるんだし。
「憎しみ派」の人はもうちょっと温かい気持ちで迎えてあげて(プ。
444無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 08:41
>>442
低脳
もう少し文読めよ。憎しみ派の方が分が有るが、そうゆう事例も有るので
否定は出来ないって言ってるんだろう、ボケ
事例があるだけで真紀子と宗男にするあたり
お前の知的レベルに拍手(w
445無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 08:51
>>443
たしかに可能性としては、はるかに憎しみ派の方が分は有るでしょう。
だからあえて>>426に怒られながらも、もっとも起こり難い事例を
出しました。100%無いとは言えないでしょう?
>>442は呪い殺す勢いで書きましたが、貴方には友情も交えて(プ
446無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 12:54
「特殊な状況下で、人間の精神に予想外の変化が現れることがある」
という事例だけを根拠に、謙信×信玄の友情を説こうとしたところに
無理があるのだろうね。
そのあたり、事実を元にもっと掘り下げていくことができれば、
友情説に説得力が増すと思う。
447無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 13:08
ttp://www.ezgame.com/Takeda/home.html
武田好きはこれ期待しようぜー
448無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 13:19
>>446
だからあ、武田信玄にしろ、上杉謙信にしろ、
彼らがただの国家や政治家の命令で戦う
一軍人とかなら友情が生じる
ケースもあるやろけど、

彼らは政治家だぞ。
武田信玄は豊かな川中島を得るため、
上杉謙信は越後防衛と彼らを頼ってきた、北信濃の武将のためと

それぞれ、目的があって争っているわけで、
自分らの邪魔をする存在には憎しみしかわかんやろ
449無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 13:23
謙信は信玄を秩序を乱す悪逆非道な男と罵り
信玄は謙信を不可解な男、劣った男と罵った

彼らの間に友情があったとは思えない。
450はあ?:2001/07/04(水) 13:23
>>443
2chの論争が例えになると思っているのが頭悪い。
こんなところで友情も何も生まれるわけないだろう。
知的ゲームの要素よりも感情のぶつけ合いみたいなところなんだから。

そう言えば、
某ネットゲームで罵倒発言ばかり繰り返していた野郎がいて、
とあるグループが「馬鹿野郎は抹殺だ」と襲いかかったが、
こいつ1人にそのグループ(6名)は返り討ちにあった。
(その6名はその場でも名うての連中だった)

彼らは戦った後、件の馬鹿野郎に「お前、すげえよ」と賛辞を送った。
しかしその時、既にその馬鹿野郎はどこにもいなかった。
451無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 13:26
信玄と氏康なら、
認めあったり、友情があってもおかしくはないかも・・・
彼らは昔からの知り合いで同盟期間も長く、縁も深いしね。
信玄と謙信って、直に会ったことないよね?
452無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 14:01
>>448 >>449
420のような状況下で親戚、兄弟でも争い一方で人の為に自らの命を投げ出す。
前から言ってる様に当たり前に考えたら憎しみ合うのかも知れない。
だが、448、449のような一般サラリーマンじゃないんだよ。
当代きっての名武将同士である。
俺は少なくとも武士道精神や恋や友情が存在してもおかしくないと思う。

無かったでかたずけるの簡単だが、100%の否定は上記の事例で無理だと思う。
第一それでは夢も希望も無い。さっ、次の話題いこー(w
453無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 14:08
>>443
揚げ足取りで悪いが、合った事の無い者同士うんぬん・・
のくだりは訂正してね。
文通でもNetでも恋や友情や殺人?は生まれます。
454無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 14:51
>>453
彼はネットのおかげで初めてオンナノコとお付き合いできました。
めでたしめでたし。
455無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 17:20
もともと判りきってたこととは言え、
所詮は根拠なしの戦国ドリーマーだったのか。

信玄に武士道精神を求めるところもすごいと思うぞ。
456無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 18:34
>>455
根拠は散々前に話してるだろ。お前読んでるの?
学術的に否定してみろよ。
457無名武将@お腹せっぷく:2001/07/04(水) 18:36
>>454
お前はまだか?むごいのう(w
458無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 10:31
>>457
彼はネットのおかげで童貞を捨てました。ヨカッタネ
459455でないけど:2001/07/05(木) 12:39
そりゃ、信玄は策謀家、
陰湿な策略を好む。
何度も上杉の武将に調略をかけて反乱をおこさせたりもした。
また、いわゆる弘治元年の和睦で
信玄は北信濃の領土をかなり返還し
謙信との間に誓紙までかわしたが
それも舌の根も乾かぬうちに破った。

そんなので友情、わきますか?
460無名武将@お腹せっぷく:2001/07/05(木) 13:31
>>459
ひつこい奴だね(w
日本語わかる?無かったとは100%言えないから
言えるやつは、前レスのロシヤ兵と日本兵とかハイジャックの事例を
科学的にひッくりかえせよ。
そうすりゃあんた、ノーベル賞だよ。
461足利義昭:2001/07/06(金) 02:50
あはに通告する、7月6日正午までに松永版546に返答せよ
462無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 09:48
話しはズレるのだが、
武田信玄のあの、有名な肖像画は実は別人(畠山義続)と
いう説が有力になってきている。
本当の信玄はもう一つ、彼の肖像して伝わっている、
弱々しい、細面の入道を描いた絵らしいね。

うーむ、イメージがスレるってつらいですなあ。
463無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 10:17
足利尊氏のも別人なんだってね
464無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 12:22
>>462
まあ、よくある事だ
西郷さんも奥さんが死後にできた銅像を見て夫はこんな顔じゃなかった
って言った話があるもん。
でも、所詮イメージの問題だから変えなくてもいいかも
465無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 12:58
そーいや広島県に武田家の人たちが移り住んだって
言われてる場所があるけど、この武田?
466無名武将@お腹せっぷく:2001/07/06(金) 15:46
若狭武田もあるよ
山口県岩国のにしむら博物館には
なぜかあの川中島合戦屏風があるね
467野望100
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