1 :
風の谷の名無しさん:
一般的には石田三成といわれるけど、俺は毛利輝元だと思う。
やつが、大阪城でぐずぐずしてるから関ケ原で毛利軍は
全く動かないばかりか、三成が秀頼を戦場に連れてくる作戦も
彼と淀君が全て壊してしまった。これでは三成が可哀想だ。
彼にもそれなりに敗戦責任はあるのだが。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 13:22
吉川広家
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 13:44
三成の親友の、覆面かぶった人。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 14:17
>>1 そのおかげで、中国112万石の太守から、
周防・長門36万石だからねえ。
総大将の主力が動かなかった戦いなんて、きいたことないよね。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 14:31
豊臣秀吉に決まってる
というか、関が原で三成に真面目に味方する兵力は全然いなかったねえ。
結局、朋友達だけだろ?小早川じゃ成り行き上味方になっただけだし(本来
上杉討伐に行くつもりだったし、潰されそうになった経緯から反三成と言える)、
吉川は、元より反三成(朝鮮の役の性)。
伊勢や近江で関が原に移動中の武将達は、吉川や小早川の様に三成に
含むところないので、真面目に戦すると思うけどねえ。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 16:10
石高の低い将が同格、もしくはそれ以上の将の盟主となって戦う、
っつ〜のがそもそも困難だよな。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 17:57
三成自身は総大将になれる身分じゃなかったので、毛利輝元を総大将に
持ってきたようです。輝元に指導力はあるのかな?
9 :
やあやあ我こそは名無しさん:2001/01/06(土) 19:35
>>6 ??
伊勢方面の軍(吉川とか)はもう関ヶ原時点で合流してたろ?
広家は伏見や伊勢方面では諸将を感嘆させるほどの奮戦を見せた為に、ある程度疑念を持ってた
三成以下が完全に信用してしまったと言う経緯が有る。
毛利家中で対立してた恵慶まで手放しで賞賛したって話だし、広家の仕込み勝ち。
まあ近江や丹後田辺城(伊勢じゃなくてこっちの事?)攻めに行ってた勢力なら真面目に
やってたかもってのは同意だけどね、三成=左近の編成ミスと言えるのかな。
関ヶ原で奮戦する立花宗茂を見たかったなあ。
10 :
名無しさん@そうだ天下をとろう:2001/01/06(土) 19:39
北の政所。
彼女が、福島正則に変なマインドコントロールをかけなければ、
もしかしたら奴は西軍についたかもしれない。
ついでに言うと小早川のアホも同様。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 19:41
島津・毛利は260年後に徳川に復讐する機会が出来たのに
島左近とか大谷吉継とかは上の奴よりも活躍したのに
すぐ殺されて復讐できなかったので悲惨だ
真田親子は名前売ったから良しとすべきか・・・
三成の行動が早すぎたね
>9
う、そうなの鬱だ。
>12
正確には織田秀信が早く負けすぎた。つーか、岐阜城一万で守って1日で落とすなちゅーの。
2、3日もて、1万強ほど西軍は増援が来たのに(By立花宗茂含む)。
輝元が来る頃には、秀忠も来てただろうから、多分この時期が一番勝ち目あった。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 07:41
志茂田景樹の「大逆転!関ヶ原の闘い」を読めばOK
なわけがない・・
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 10:29
織田秀信が最初から篭城すればよかったのに勝手に迎撃に出るのが悪い。
ちなみに小早川秀秋が東軍に寝返る1つのきっかけになったのが、朝鮮の役。
あそこで秀吉に無茶苦茶怒られたからなあ。総大将にあるまじき采配をして。
16 :
ななs−:2001/01/07(日) 10:48
西軍のなかで戦略面での統一が徹底されていなかったのかな。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 11:09
>8
総大将は毛利輝元だけど実戦指揮権を持ってたのは、
宇喜多秀家だよ。
そういった意味で、指導力が無かった。というか発揮し
終えていた。
>16
されていたけど、東海道の尾張以来の秀吉子飼いとい
って良い豊臣系の大名が全員徳川に寝返ったから。
おかげで、畿内制圧する時間が無くなり中途半端な兵力
で迎撃するはめになった。
三成の見とおしの甘さですな。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 17:23
秀頼を出陣させられなかったのが敗因。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 17:27
石田三成はヤンウェンリーということで
20 :
やあやあ我こそは名無しさん:2001/01/07(日) 18:00
>>17 とは言っても人質取った時点で半数程度は寝返りor離脱すると普通は
思うだろうからねえ…。
アレを見通しが甘いと責めるのは酷だと思うな。
>>19 どっちかっていうとフォーク准将のにほひが…。(w
ヤンは大坂の陣の幸村の方がハマるなあ。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 18:33
>>20 結局人質いて、西軍になったの一人だからねえ。
鳥居元忠討ち死にしたから、結局それが徳川の
覚悟の程を示したかもしれない。
追記:役割的には、キャンゼルヌじゃないの?
22 :
名無しさん@そうだ天下をとろう改め雑賀孫一商店:2001/01/07(日) 19:28
23 :
名無しさん@らいとふっと:2001/01/08(月) 10:39
淀君でしょう。
わけのわからない人間が上にいて口出してたら下のものは闘えない。
>>19 キャゼルヌに近い。融通はきかないが清廉な人ではあった(だから左近もついてきた)。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 10:42
>>23 輝元が出なかったのは、増田か長束辺りが反乱起こす可能性
があるからじゃなかっけ?
淀君は関が原の時は基本的にジャマはしてないような。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 11:54
さすがに秀頼を戦場につれて行けば、加藤や福島を始めとする
恩顧派は寝返る可能性があると思う。
秀頼を出すのを淀君が反対してたと思うよ。大阪の陣でも
そうだったじゃないか。輝元は代理で秀元を行かせたんだけど
広家と対立して軍が動けず敗退したんだって。
若い時から戦を繰り返してきた家康と
文官の三成じゃ
勝負にならないっしょ
元々勝ち目の無い戦だね
強きになびくはお家の習い
我々は内府殿に加勢いたす
野戦に引きずりだされた時点で戦略的には負け。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 19:26
野戦に引き出されても陣地は東軍を囲んで、圧倒的有利になっていたぞ。
ただ、毛利の近くにいた長宗我部や安国寺とかは何やってたんだろ?
結局戦後、改易と斬罪になっているのに。
関が原につくまでに西軍はたくさん移動して疲れてた
東軍はたいして疲れてない
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 19:39
>>29 下り口に吉川広家が陣取っていて下りるに下りられなかった為、南宮山中で立ち往生。
秀秋が旗幟を鮮明にする前に南宮山の一軍が穂先を揃えて東軍の横っ腹を突けば
正面の石田勢や宇喜多勢は主力を引き付けて健闘していただけに秀秋も家康本陣の
側面に向けて雪崩れ込んでいたかも知れず、充分に西軍の勝ちの目はあった筈なんだけどね。
しかし広家、間違い無く東軍勝利の立役者の一人のハズなのに受けた仕打ちがあれでは…。
やっぱ徳川は好きになれないね。
戦後、減封されたとは言え秀元が毛利家中で重きを為したのとは対照的だ…。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 19:39
>>29 位置的に先陣を取っていた吉川が動かなかったから
長宗我部や安国寺、毛利は動けなかっただけじゃないのか?
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 19:52
>>31 関ヶ原戦後、徳川の処置は
毛利は領国没収、輝元切腹
吉川は長門・周防の二ヶ国に加増
広家はこの沙汰を断って輝元の助命嘆願の起請文を出して、
長門・周防の加増を毛利宗家に譲って、岩国三万石に甘んじている
しかし関ヶ原以前は吉川家は讃岐・出雲・安芸などの計十四万石なのに・・・
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/09(火) 20:06
秀元は最初から家康を攻撃するつもりでいたらしいが、
広家が動かない。秀元が攻めるように幾度か使者を送ったが
わざとらしい理由をつけたりして広家は完全無視。
秀元率いる1万二千の兵は全く動けず。結果毛利は大減封。
その後、広家は家中から裏切り者扱いされることになったとか。
安国寺はもうちょい西に陣取っていたはずだから攻めれたようだが。
多分毛利軍が動かないから、動かなかっただけかもしれない。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 20:24
広家は長政に騙されていたのかな?
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 20:45
>>33 当初の家康との約束では毛利本家の所領安堵を約束していたハズ。
戦後これを無視して本家の改易と輝元の切腹が決定されかかった為、慌てて
加増と引き換えに本家の安堵と輝元の助命を嘆願したと言われているね。
しかし毛利本家では秀元の、
「広家が邪魔しなければ東軍を撃滅できた」
との論が優勢を占めた為、家中では裏切り者扱いされ一族の列からも
外されて岩国は一支藩扱いとされてしまった…。
まあ建前上とは言え輝元が西軍の総大将に立ってしまった以上、その西軍の
敗北に意図的に手を貸してしまった広家は断罪されるべきだと思うがそもそも
徳川が一度毛利の改易及び輝元の切腹の決定を下してしまった為に、広家の
行動の動機である
「毛利本家の為」
と言うのが非常に嘘臭く見えるようになってしまったのは広家にとって
気の毒だったと思うね。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 21:01
広家がそれを見ぬいてたら真っ先に山下ってただろうに・・・
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 21:12
豊臣麾下の二千の兵も
西軍として参戦してるんだね。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 21:45
>>36 家康と約束していたというか、長政の仲介で本多や井伊と毛利の不戦を密約して
たんだよね。約束果たしたら所領安堵のお墨付きを家康からもらってあげますよ〜って。
んで、いざ不戦の約束果たしてみたら家康本人には「そんな話は知らん!部下が勝手にやった。」
ってすっとぼけられて・・・・まんまとハメられてしまった。
まぁ、毛利方が甘いといえば甘いんだけどね。
40 :
飛蝗:2001/01/09(火) 22:19
39さんのところまで鑑みると、何となく見えてきたのが、西軍諸将は
既に後手に廻っている時点で、実はケリがついていたんでしょうね。
口では豊臣恩顧を唱えつつも、心の中では徳川が勝った場合の皮算用を
する訳だから、当然動きが鈍くなる。
こういう動きは誰がやっても後手。
代表印も社判も無い契約書を持ってても、単なる紙ッ切れにしかならない
って処ですなぁ。
逆に、無理やりにでも関ヶ原の接戦に持ち込んだ石田三成の力を褒めて
やるべきか(笑
41 :
飛蝗:2001/01/09(火) 22:29
話をずらせてしまったが、基本的に西軍の敗戦責任者は、当然の如く
西軍の中では毛利輝元ですな。
何があろうと前線に出て然るべき。
三成・広家・秀秋の一人や二人を押さえられない時点で逝ってよし。
でも、ここのスレッドは「真」の敗戦責任者は誰か?っていう事で
言うと、敢えて福島正則あたりっていう事ぢゃダメですかね〜。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 22:51
>>41 真の敗戦責任者は、意外と淀殿かも。
彼女がまったく口出ししなければ、
秀頼を担ぎ出せたし、そうすれば豊臣恩顧の武将は刀を向けられない。
それに強力な旗印があれば、毛利を初めとした武将も、
動かないわけないでしょう。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 23:40
>>41 最大の敗戦責任者はやっぱり三成じゃないかな。
総大将輝元は御神輿的に担ぎ上げられただけで、打倒徳川の念は希薄だと思う。
そんな彼にリーダーシップはちょっと期待できないなぁ。
不戦の密約も広家が独断でやってたことだし。
西軍敗戦の要因である諸将の寝返り、不戦を生み出したのはやはり家康の裏工作、
根回しの結果。たたき上げの家康にはどっちに付こうか迷ってる連中の心情と
その口説き方をよ〜く心得てたんだと思う。
三成にはこのへんの視点が欠如してたんじゃないかな。三成には持ちたくても持ち
得ない視点かもしれないけど。
44 :
飛蝗:2001/01/09(火) 23:56
>43さん
う〜ん。。。
でも石田三成を総大将格という視点でみた場合ですよね。
背景からすると、三成自身としては西軍を代表する頭脳として指揮する
つもりであって、言わば筆頭としての仕事をした迄で、例え飾り物としても
大将格には毛利輝元に男気を出して欲しかったのでは無いだろうか?
自分に人気が無い事くらい解からない馬鹿では無いと思う。
そこいら辺を考えると、五大老の中でも筆頭にしてやるでぇ!!みたいな
三成や淀殿のエサに未練タラタラでありながら、正面切って家康と勝負が
出来なかった処に最大の敗因があると思う。
東に上杉景勝、西に毛利一族が本気になって同時決起していたら、家康も
本当にまずいと思ったのでは無いだろうか?
また、輝元が本気で勝負に出ていたら、恐らく豊臣恩顧の武将も徳川に
幼い秀頼の未来を託す様な、博打に出なかったのではないだろうか?
45 :
飛蝗:2001/01/09(火) 23:58
勿論、家康は家康でそういう風にならない様に、最大限の暗躍をして
いたんだろうけど。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:01
>>43 東軍と違い、内部で戦後の主導権争いの政治闘争までやってた西軍は
最初から負けるべくして負けただけだよな
名前だけの討伐命令だした豊臣、実力無き首謀者石田三成
戦闘総指揮を取った宇喜多、形だけの総大将毛利
東軍と違い寄り合い所帯だったのがねぇ
47 :
風の谷の名無しさん:2001/01/10(水) 00:07
>>23 キャゼルヌは融通きくだろ。
光成はアルフレット伯あたりが妥当だよ。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:16
光成・・・光成・・・えーと・・・
垣屋光成!!!!
49 :
23:2001/01/10(水) 00:24
>>47 (みつなりは)融通がきかないが。逆説。
主語が抜けていた。スマソ。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:35
家康と景勝が交戦状態に入ってから
三成が動き出してたら、家康は挟み撃ちにされたのにな。
51 :
23:2001/01/10(水) 00:37
輝元責任説が出ているが、秀頼を担ぎ出せなかった点で同意。
淀君がわめこうが、無理にでも引っ張り出すべきだった。
西軍の錦の御旗は秀頼しかなかったんだから。
あと、叛乱起こしそうな武将もいっしょに戦場まで引っ張り出すとか。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:44
>>50 当時の情報通信では無理な話だ
悪ければ上杉崩壊して伊達や最上などが西上してきかねん
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:53
じゃ、家康が反転したとき景勝が追撃してたら?
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:56
↑史実で反転してるだろ
景勝は追撃してきたか?
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:08
ん?追撃してたらどうなってたか
と書いたつもりだったんだけど・・・
56 :
飛蝗:2001/01/10(水) 01:15
>53〜55
そこ面白いですね〜。
上杉は家康反転と同時に北上を開始したと思ったんだけど?
どうなんですかね?ここいら辺は。
恐らく、関東以西からの脅威は家康上京と共に無くなったも同然だから、
後は天を神に任せて、切り取れるだけ北方領土の拡張を狙ったんですかね?
そこいら辺は、結構、景勝殿は狡猾ですな〜
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:20
そういや領土を取ってその上で
家康を迎え撃つつもりだったって何かに書いてあったな〜
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:21
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:32
>>46 東軍も充分に寄り合い所帯だべ。なんで家康は旗本三万も率いてんのよ。
なんかあったときの備えだべ? 徳川本隊は家康直率軍じゃなくて秀忠
軍なわけだし。手なずけたとはいえ、いつ裏切るかわからん豊臣子飼い
の大名がうじゃうじゃおるし。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:33
追撃戦が不可能というのはやはり伊達、最上を恐れていたから?
景勝をして兵法上当然じゃないの?
抑えの結城秀康の挑戦状がきっかけではないよね
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:37
まあ家康を追撃するにしても最上やら伊達やらの一筋縄では行かん連中が背後に忍び寄って来てるわけだしねー。
現に白石城は伊達勢に寄って陥落させられている訳で自衛の為にもまず背後の脅威を一掃しておく必要があった。
理想としては奥羽を電撃的に制圧した後、最低限の守備兵のみ残して西上し徳川勢の背後を突くor佐竹と連携して江戸を陥落す腹だったんじゃないかな?
兼続=景勝にしても関ヶ原がああもあっけなく決着するとは思ってなかったと思うしね。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:42
如水モナー
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:46
>>46 東軍は寄り合い所帯とはいえ、徳川家康が実力、格ともに抜きん出てて
東軍諸将もそれを認めていた。
でも西軍は主導権が不明確。
三成などの豊臣譜代の諸将、毛利などの外様など、
誰が取り仕切るか、誰が主体になってやるか、戦後処理はetc...
内部での主導権争いが激しかった。
これじゃあ、家康に切り崩されてもしょうがない。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:48
上杉は西軍に荷担した訳じゃない。
あくまで五大老としての上杉家と徳川家の確執の結果による私闘。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:49
家康の威嚇射撃に金吾逆ギレしてほしかったね。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:53
>58
本当に不可能だったかなぁ?
最上・伊達の動向が気になるといって、謙信の頃のような局地的な
領土のやり取りから抜け出せなかった景勝の戦略眼の甘さでは?
関ヶ原での向背如何によって上杉家自体が無くなってしまうという、
日本の諸勢力が徳川の世に収斂していく事実を、彼の意識が許容でき
なかったのか?
領地の半ばまで最上・伊達に食い込まれても、全軍をもって徳川の兵力を
殲滅すべきだったんじゃないかなぁ。佐竹だっていたんだし。
67 :
↑:2001/01/10(水) 01:56
しばらく更新しないままに書き込んだら、話が進んでた。
わはは
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:56
結城秀康の抑えはどれぐらいの兵数だったの?
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:58
70 :
初回プレイ@信長:2001/01/10(水) 02:01
伊達・最上は、一癖も二癖もあるだけに、西軍が粘ってたら
どう転ぶか分からなかったんじゃない?
上杉と一緒になって西進するなんて事はあり得なかったのかなあ。
※三成はフレデリカでしょ
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:03
>>66 >領地の半ばまで最上・伊達に食い込まれても、全軍をもって徳川の兵力を
>殲滅すべきだったんじゃないかなぁ。佐竹だっていたんだし。
それは無理な話だ。
所領を無視して他国に攻め込むなんて、戦争の基本の補給を無視してるし
足軽などの下級兵士の動揺などを引き起こし、自滅するのは目に見えてる。
それに佐竹は西軍側にはなってるが、義重や重臣が西軍に加担する事に反対して
実際は中立的立場をとってた。
ていうか
>>64の言う通り、上杉と西軍は切り離して考えるべきだと思う。
だから家康も上杉を取り潰さず、改易ですませたんだと思う。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:06
>70
政宗は、最上、上杉と手を組む振りをしつつ、
その裏で奥州制覇を企むと思う。
>>74 改易は取り潰すっことじゃ?
減封でしょ?
細かいことでスマン
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:14
>73
え?俺?俺なのか?
75 :
73:2001/01/10(水) 02:19
おおおおお!?
すまん、
>>71だった。どうしてこんな……鬱々……
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:33
改易とは所領没収の上、他の新しい所領に減封される事
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 02:37
Microsoft - Shogakukan Bookshelf Basicだと、
改易:
族籍を改めかえる意)江戸時代、士人に対する刑の一つ。
士人の称を除き、領地、家禄、屋敷などを没収し平民とすること。
蟄居(ちっきょ)より重く、切腹より軽い。
なんだけど。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 10:45
逆に最大の巻き添えを食らったのは大谷吉継ぐ?
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 13:00
↑
何言ってるんすか。
地元住民です。
>71
フレデリカは猫なので不可。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 14:46
>79
何いってんの、一番儲けたのが地元住民。落ち武者がりで一財産。
近代の総力戦のイメージしかないの?、火事場泥棒が一番。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 14:54
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 15:36
秀頼が出陣してたらその時点で豊家は滅亡!
きびしいね。下克上の世界は。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 15:37
脇坂を始めとした側面にいた連中は何をしたかったんだ?
所領安堵もされたやつもいるけど、改易された奴もいるぞ。
これでは寝返った意味あったのか?君達こそ最大の敗戦責任者だ。
さっさと動けばよかったのに。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 16:34
>>82 転封→現所領没収、加増の上移封
移封→単に所領の移動
改易→現所領地没収後、減封の上移封
86 :
賈文和:2001/01/10(水) 18:40
>>84 脇坂は家康に密書送ってたし、藤堂にナシつけていたので、
おとがめなし。ちなみに、他は処罰された。
日和見にも才能が必要とされる好例。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 00:46
意外に秀秋は悪く言われませんね…
読む限り毛利軍団の責任による所が大きいか。秀元を除く。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 00:58
まぁなんだかんだ言っても
毛利勢の位置は家康本陣のほぼ後方だったしな
対峙してる池田、浅野勢を叩けば敵本陣の背後をつけたし
戦略的な事を除いて、戦術面だけで言えば
毛利勢が戦犯扱いされてもしょうがない
毛利が動けば小早川だって裏切らないかもしれなかったしね
89 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/11(木) 01:00
>87
秀秋は、もう罪状が明らか過ぎて叩く気がしないのでしょう。
でも、西軍ついた方がおいしいのになんで、東軍に寝返った
のか、不思議です。
90 :
西軍:2001/01/11(木) 01:14
石田三成 六千
島津義弘 千六百
小西行長 六千
宇喜多秀家 一万七千
小早川秀秋 一万五千
毛利秀元 一万六千
長宗我部盛親 七千七百
長束正家 千五百
安国寺恵ケイ 千八百
大谷吉継(平塚為広、戸田重政含む) 三千弱
脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保 四千三百
91 :
真田昌幸:2001/01/11(木) 01:22
足止めした私の苦労は生かされなかったのか…
おのれ毛利!
92 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/11(木) 01:29
東軍の黒田や細川、福島といった恨みたっぷりの二万の
突撃を受けた、最後まで持たせた石田軍って以外に凄いよね。
…まあ、側面を宇喜多軍が受け持ったけど。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 01:36
曹操
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 01:47
「落穂集」によれば、大谷吉継は家康の上杉討伐軍に従軍する為に出陣。
それと同時に三成父子を帯同させて家康との仲を調停するつもりだったらしい。
実際に書文を三成に送ってる。
が、逆に吉継に三成から使者が来て佐和山城に招かれ、三成が挙兵すると打ち明けられた。
しかし吉継は無謀と判断して反対、逆に翻意させようと、七日間も話し合ったが三成は拒否。
その後、自陣に戻った吉継は同行していた平塚為広に三成の説得を依頼。
しかし三成は受け入れず、吉継も再三にわたって為広を使者として送ったが
やはり三成の考えは変わらず、反対に為広から
「事の成否に関わらず三成を助けてくれ」との伝言を聞く。
吉継は一晩考えたが、もう一度三成を翻意させようと為広を送るが
結果は同じであった。
そして吉継は三成に協力しようと決断した。
佐和山城で三成から打ち明けられて、十四日目のことであった・・・
95 :
無名の民草@年貢いっぱい:2001/01/11(木) 01:58
大谷吉継!
何と言うか・・・不憫としか言えないだ。
やっぱり、淀が悪いだ。
本当に家康が豊臣家を大事に扱うと思っただか?
三成様は、百姓に良くしただから悪く言えないだ。
http://www.fetishhouse.com/ 定例会の内容:
パンプスプランニングが主催する定例会とは、マニア同士の交流をメインに当日参加された
フェチを理解する(できる)女性とのフェチプレイを堪能する会です。
FFFCとは、Femal Feet Fetish Clubの略で、女性の足を崇拝するクラブです。崇拝といっても、ひざまずいて・・・、
なんてSMのノリではなく女性の足があるからこそ我々足フェチマニアが存在するという考え方です。崇拝方法は皆さん
にお任せします。匂い崇拝、踏みつぶし崇拝、舐め崇拝・・・ま〜、いろいろ。その中で、ご自身と同じお仲間を見つけて更なる
フェチライフをエンジョイしていただけたら幸いです。また、フェチとSMは別世界のモノですから、SMクラブの様なノリで
フェチがご褒美になるバカげた行為はしておりません。
SPとは、S=Saliva=ツバ(英語)、P=Piss=オシッコ(英語)です。読んで字の如くツバとオシッコが大好きなマニアの会です。
でも実は、ツバやオシッコ大好き人間も足の匂いが好きだったり、足舐めが好きだったり共通する部分って沢山あるんです。
自分のフェチに固執するだけではなく、いろんなフェチが存在していることを理解し後世に伝授しましょう。(誰に?)
定例会の参加にあたって:
究極なフェチマニアを対象にしておりますので、女性の脱衣、奉仕等風俗系のサービス
は一切ありません。過去に大人のパーティ的なノリで参加された方もおりましたが、女の子から全く相手に
されませんでした。参加女性の方全員には、会の趣旨、参加している方の趣味嗜好は全て説明してありますので
それ以外の目的の方は相手にするな、伝えてあります。足へのタッチは問題ありませんが、それ以外の場所への
タッチは本人了解の元、女性が会に必要な行為と判断した場合にのみ可能です。ま〜、足フェチ、ツバ、オシッコ
で、胸とか、裸とかあそことか関係ないですからね。とにもかくにも、参加ご希望の方、女性を敬うお気持ちを
もって参加してください。
日程:SP定例会:1月27日(土)
時間:17:00〜
場所:パンプスプランニング事務局
当日迄に事務局にお問い合わせ下さい。
参加費:事務局開催の場合:会員5000円、ビジター8000円です
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 02:13
東西両軍とも、豊臣家の威光を守るために
奸臣を討つという大義名分で戦っていたんでしょ?
もし豊臣秀頼がどちらかについたらそっちが
勝っていたんじゃないのかな?
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 02:34
>>97 豊家としては、どちらが勝ってもいいようにヒヨったんだな
結局、内府のハラを読めなかった豊家の負け
99 :
ああああ:2001/01/11(木) 02:53
合戦そのものより、その前の布陣で負けてる西軍。
雨中行軍、休憩なし。三成・・・お前って奴ぁ・・・
100 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/11(木) 03:00
>99
動かなければ、敵に分断されていた。
戦意の無い小早川軍が孤立化したね。
その結果は火を見るように明らか。
流動的な状態を、決戦に形に持ちこんだ
家康がえらい。
でも、自分の一番の力過信しすぎて、
西軍に有利な陣形させた、家康って…。
101 :
惟新斎:2001/01/11(木) 03:14
だから夜討ちしようって言ったのに〜。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 03:36
昔失敗してるくせに
103 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/11(木) 04:14
>101
軍勢を移動させる前に、奇襲かけるのは問題ありすぎでは。
そもそも東軍も移動していたわけだから、全然条件が揃って無いジャン。
104 :
高師直:2001/01/11(木) 04:14
あの戦力で西軍はよくやったよ。
布陣したときには完全に西軍有利だったんだから。
最終的に決まったのは結局秀秋の裏切りなわけで、
裏切らせた家康の一人勝ちだと思います。あえて戦犯をあげるなら
秀秋を最後の最後で裏切らせた三成ということになるかと私は思います。。
104に同意
東軍は総力を挙げて戦ってたのに、3分の1しかマトモに戦ってない
西軍に押され気味で、金吾が裏切るまではずっと劣勢だったって
ことを考えると、夜襲とか布陣とかはあまり関係ないと思われ〜。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 04:32
sage取り忘れage〜…スマソ
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 04:37
布陣は関係あるんでない?
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 04:38
島津も戦犯
他の西軍全て壊走するまで一歩も動かず、戦わず
石田・小西の両部隊の間に位置しながら、なーんもしなかった
最激戦の場所に居ながらね
奮闘したのは西軍が壊走し始めて、自分達が撤退するときだけ
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 04:47
111 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/11(木) 05:59
>104
とはいえ、関ヶ原の前日に秀頼が成人するまでの関
白位と播磨を上げると誓紙付きで念を押したんだよ。
家康は、上方2カ国だから条件的には三成の方が
上だね。
まあ、以前に三成は嫌われるような事したから、そっち
の恨みで行動したかもね。
112 :
>108:2001/01/11(木) 09:10
島津は、夜襲案を三成に却下されてふてくされてたそうです。
だいたい、1500の兵しか連れて来れなかった時点で、
西軍からも東軍からも、戦力として期待されてなかったみたい
ですし……。
113 :
ありなっち:2001/01/11(木) 14:17
104・105に同感。秀秋に不信を抱きながらも
松雄山に布陣させるなんて三成に問題あり。
114 :
ありなっち:2001/01/11(木) 14:29
石田隊の奮戦はあまり話題にならないよな。
火力に勝る東軍の大軍相手に何度も突撃で
押し返したのは凄いと思うし、崩れるのも
最後の最後(参加者中)なんだからもっと
評価すべし。
(弱いけど死に物狂いで戦った・・みたいな
歴史小説が多いが、実際には時代錯誤じみて
豪勇の士をスカウトした家臣団だったそうだが)
115 :
ありなっち:2001/01/11(木) 14:34
島津隊なんだけど、諸藩が戦闘員と非戦闘員の
割合が 50/50 みたいな編成のなかで、
藩中でも屈指の強豪が多数参加していて
(後から個人参加した1300人)実際の
戦闘力は相当なものだったと思うんだが?
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 14:34
>>114 石田隊の中核は、島、舞、蒲生の三家老や蒲生系の家臣団など、
これでもかこれでもかってくらいの精鋭揃いだったハズ。軍備
にも金をかけていたはずだし。
117 :
>113:2001/01/11(木) 14:35
でも、『小早川が陣取っているだけで側面を攻められる心配が無い』
という安心が、西軍序盤の奮戦に繋がったとも言えるわけで……。
東軍は逆に、側面を気にしながら戦わねばいけなかったわけで……。
でもまあ、「あのポジションを長宗我部あたりに任せとけば…」
とも思わずにはいられないわけで……。
118 :
いたずら秀頼:2001/01/11(木) 15:39
僕、豊臣秀頼なんだけど、少し前に金吾がいたずらに誘ってきたんだ。
二人で一緒に江戸のじいと清洲の正則の靴を隠して、三成が犯人のように見せかけていたんだ。
軽い気持ちだったのに戦になるなんて・・・。
恐くてママにも内緒にしてた。
ごめんね、みんな。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 18:10
まあ小早川の松尾山布陣は遅参の為とあの大軍勢の為、既に満員だった大垣城に入れなかった為に城跡のあった松尾山を仮駐屯地にしたという背景があったからね。
結果的に勝敗の趨勢を握る場所になってしまったのは偶然でしょ。
とは言えあの大軍だからどこにいても勝敗に関わる事になったとは思うけど。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 20:22
>>108 >>112 島津って、最初は東軍に付くために軍を出したんでしょ?
鳥居元忠の勘違いで、どういうわけか西軍に付くハメになったけど、
元々西軍の武将じゃないんだから、動かなかったのも仕方がないかもね。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 21:06
前田って何やってたの?
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 21:26
前田は丹羽とたたかってたよ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 22:11
>>13 なんか気になったんだけど、織田秀信は豊臣恩顧の大名なん?
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 22:45
>>123 まあ建前としてはその通り。
実質は信長の後継政権として担がれた秀吉の神輿に過ぎなかった訳だけど、
少なくとも叔父の信雄(加増を伴った転封を拒否して大幅減封)、信孝(柴田勝家に
呼応して挙兵した為に滅ぼされた)に較べれば冷遇されなかったと言う事実は
ある訳で、そもそも秀吉の庇護が無ければ織田の家督自体叔父の方に奪われてたで
あろうから恩を感じるだけの事は秀吉からしてもらってる。
岐阜城だって安堵されてたわけだしね。
要衝だけに秀信を転封して誰か腹心を入れる事も可能だった状況で。
まあ恩知らずなら無視して家康につくって事も出来たろうけど、それを
やらなかったのはやはり名門のお坊ちゃんだったって事かな?
ただ秀吉自身が直に可愛がってたであろうと推測されるので三成も粗略には
扱わなかったと思うから、武断派諸将みたいな三成憎しの感情とも無縁だったろう。
その辺は田丸直昌とも共通するのかも。
あと、小牧長久手の経緯から家康が秀信の家督相続の正当性に異を唱えて
信雄側についた事も東軍につかなかった事と無関係では無いような気がする。
>>120 そりゃあくまで後世の推測にすぎねえべ?
島津だって西軍についた言い訳を徳川にせにゃならんし。
そうやって言い逃れたかもしれん。
その逸話の典拠ってあるのかなあ?
まさか司馬の『関ヶ原』じゃないよね? 知ってる方教えて下さい。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 23:04
間違ってsageちまったage
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/11(木) 23:28
布陣から見て、吉川が動かなくても
長束・安国寺・長宗我部の部隊は動けたと思うのだが・・・
総勢で1万は越えてたし、対峙してた池田や浅野とも十分戦えたのでは?
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 23:32
義弘が西軍についた後始末は義久がやったようだ。手を回してね。
実は立花宗茂なんかは西軍が関ケ原で敗れた後も大阪城にこもって
戦う様に言ったらしいが、総大将の輝元などはおどおどして何も決めれないので
宗茂とかは怒って本国に帰ったって話もある。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/11(木) 23:32
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 00:22
>>38 豊臣麾下の兵が西軍に加わっていたのは
秀頼の許可あってのことなの?
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 00:35
>>128 家康にワビ入れる一方で家康の中国との貿易船を襲わせて家康を恫喝したり
したってなんかで読んだな。
義弘の影に隠れがちだけど義久、侮り難し。
132 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/12(金) 00:36
ちょっと話がずれるんですが、島左近の武勇の一つに、家康を追撃した経歴がある
というのは本当ですか?
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 01:00
義弘は、敵中突破の最中に家康に使者を送って、
「成り行き上西軍に荷担しただけで、敵対する気はなかったんじゃあ〜
詳しいことは後で!」
と言わせたという話も聞いたことがある。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 01:37
義弘にしても、本国に義久がいたからこそ
後顧の憂いなく最前線で無茶できたともいえる
って、ここ島津スレじゃないか
135 :
名無しでござる。:2001/01/12(金) 09:23
もっとも西軍には上杉討伐の
ために上京したために、入っただけだけどね。確か、伏見城防衛だったね。
誤解あるようだけど、島津は三成党。
義久の命助けて、領国安堵させて、領国経営を教えたのは三成だからね。
ちなみに、家康は三成よりの島津を自分の味方にすべく、色々な工作をしている。
太閤死んでからの家康の諸侯訪問の一番最初は一度もあった事無い島津だよ。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 11:25
鳥居元忠は捨て城に島津軍を入れたくないって配慮だったんだけど、
義弘はそれに怒って西軍に行ってしまった。
元々、義弘は東軍につく予定だったようだ。最初は戦っていたが、三成
と意見が合わず関ケ原ではほぼノータッチ状態。
逃げ方は凄かったが。
>>120 これがホントの死人に山梔子。
>>131 義弘なんて猪武者。
秀吉の島津征伐と関ヶ原の戦後始末を乗り越えた義久こそ名将。
138 :
>136:2001/01/12(金) 12:17
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 20:28
島津義弘が、兵をたくさん持っていて、積極的に戦っていたら、西軍が勝っていた。それほど島津義弘は、器量があったと、俺は思う。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 21:46
島津隊(真剣に戦っている)が、宇喜田隊並みの大軍で攻めて来たら凄いだろうな。
話は飛ぶが、大谷吉継を脳だけ活かして全身サイボーグ化した上で
小早川隊の兵を全部プレゼントしてやればもっと凄いことになる。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 23:59
西軍は敗戦責任者が多いなあ。これを全て統一するためには
秀頼を連れてくるしかなかったのかな?
142 :
ありなっち:2001/01/13(土) 00:09
>>38 編成がわからんが、彼らは全員鉄砲隊なんですかね?西軍側の愚痴に
「豊臣家直属の鉄砲隊が活躍すれば十分勝算はあった」ってのがあるそうで。
日和見してたんじゃないかな?
>>116 蒲生浪人だから白兵戦なら立花軍団と並んで最強だったと思う。
蒲生軍団は火器を使用せずすぐに接戦を挑んだようで、
左近が簡単に狙撃されたのは、その辺不慣れだったのかも。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 00:09
まぁどのみち島津さんは真剣に戦える状態じゃなかったんだから
(伊集院一族の反逆で、上方に満足な兵力を裂ける状態じゃなかった)
戦意がなかったからと言ってせめてやるな。
むしろその状態で敵中突破をやってのけたのだから称賛に値する。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 02:26
西軍敗北の戦犯には大谷吉継が入ると思うのだが。
西軍敗北を予想していながら、三成を説得できなかった。
関ケ原開戦直前の小早川説得に失敗した。
小早川裏切りを予想していたが、備えでいた脇坂隊等の裏切りまでは予想できなかった。
もっと悪い奴がいっぱいいるのはわかるけど、吉継の評価が高すぎるのは・・・いかがなものか?
145 :
名無しさん@一騎討ち:2001/01/13(土) 02:38
光成が、吉継の顔から落ちた膿の入ってしまったお茶を
何のためらいもなく飲み干した、
という逸話が好きだ。
146 :
かりんと:2001/01/13(土) 03:08
真田昌幸
真田が上田で粘ることなく、2千ほどの兵を引き連れて
西軍本体と合流する。
秀忠軍と家康率いる連合軍が美濃で合流すれば、
弱腰の三成公は、大阪の輝元と合流するはず。
大阪の輝元軍、豊臣家の主力軍・親衛隊を擁して、
軍師に昌幸。昌幸は三成に強くものを言える立場なので、
昌幸主導の戦を大阪城を本陣として戦うことができるはず。
これなら勝利は間違いない。
戦下手な三成公が決戦の決断をしてしまったのは
昌幸が東軍主力を上田に引き付け、勝てると
三成公に思わせてしまったからである。
>>146 君はif本の読みすぎです
気をつけましょう
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 04:45
そもそも当時の日本でもっとも強大な軍事力であったのは秀忠軍だ。
実際はそれが合戦に遅参したというのに、勝つことが出来なかった西軍には
どうやっても勝機などないと思うが。
149 :
風鈴火山:2001/01/13(土) 04:51
なんだか歴史板にあったスレッドを思い出すなあ。
関が原直前の2ちゃんねるに立ったスレッド。
「息子がまだ来ないんですが・・・」
150 :
名無しさん@お腹いっぱい:2001/01/13(土) 05:25
岐阜城がもっと持ちこたえていれば
立花宗茂らが合流できてただろうに
時間が遅れたら秀忠軍も間に合ってただろうけど
秀忠軍は美濃に着いた時点で
どのくらいの兵力が残ってたんだろう
急いできたせいで脱落者が出たみたいだし
疲労しきった兵じゃ戦えなさそう
>148
でも秀忠軍来ても、戦闘正面確保できたかな?
それに、徳川直参が多かったから、史実の関ヶ原の様子
みると、実際は輝元の毛利本軍と同じように総予備軍的
な扱いだったと思うけど。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 11:44
吉継ってななんかやったんか?病気持ちぐらいしかしらん
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 12:42
>>151 たとえ予備軍でも、いざとなれば総大将の意志で投入できる予備軍の存在は
大きいだろう
あと、いくら昌幸でも掌握できない兵ではどーしようもないだろうな。
ばかぼんを手放さないバカっ母。
身内も掌握できないおぼっちゃん。
わけのわかん意地をはる田舎者。
気合いノ足りない坊主。
戦下手な薬売り。
意地はあるが博打の打てない坊主の養子。
などなど。よくぞあそこまで、うんこたれを苦しめたものよ。
ら
が抜けた。許せ。
>152
関ヶ原で藤堂やら寺沢やらの三倍以上の軍と対抗してた。
ついでに、小早川の軍も短時間だけど押し返した。
基本的に、奉行職だったので武断派のように華々しい功績はすくないけど、
秀吉の10万の大軍を預けたいと言われたほどの男。
ちなみに、旧大友家臣。
>>152 100万じゃなかったっけ。
前田の軍を北陸から動けなくしたのも大谷。
病身になる前は、三成ト並ぶか、それ以上の奉行職
として、秀吉に寵愛された。
寝込んでいた屋敷に、秀吉が見舞いに出向いてたほど。
戦国1の武将である。
158 :
名無しでござる:2001/01/13(土) 20:53
確か、真田とも姻戚関係だったよね。
オマケに人望も厚いし。
うーんカンペソ。
159 :
名無しさん:2001/01/13(土) 22:03
>>151@`152
秀吉の誉め言葉はジャロに引っかかるくらい大げさですから
あてになりません。
文官仕事で腐りかけていた吉継をはげます気持ちでわざと
誇張してみんなに言ったという話もあります。
160 :
正則が悪い !:2001/01/13(土) 22:03
西軍の戦犯スレだから、ちょっとズレてしまうけど、福島正則
ってのはどう ?
策士・黒田はともかく、こいつが東軍になびかなければ、そも
そも関ヶ原の合戦などは起こらず、豊臣遺臣 VS 徳川 になって
たと思う。
西軍に負ける要素が多かったのは確かだけど、家康も東軍諸将
をそんなに信用して無かったから、結構関ヶ原って際どい戦さ
だったと思うのだがなぁ。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 22:32
>>160 それを言ったら北の政所が悪いんじゃないのか?
加藤清正など豊臣恩顧のクセに東軍についたやつはいるんだし。
162 :
名無しでござる:2001/01/13(土) 22:36
>159
関ヶ原みると、誇張はあれど間違いでは無いと思うけどね。
>161
北の政所の一族はほとんど全員西軍だよ。
そういった観点から北の政所を東軍よりと断定するのは
おかしいと思うけど。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 22:51
西軍・東軍という呼び名は後世に付けられたもので、関ケ原当事は、
双方が「豊臣軍」を名乗っていたのだから、福島正則、加藤清正ら東軍の豊臣恩顧を
まとめて裏切り者扱いするのは間違っていると思う。
彼らは豊臣家のために必死で戦った「つもり」だったんだから。
その後、福島も加藤もあえなく取り潰されたから、彼らも関ケ原の敗者だったのかもしれない。
ま、中には藤堂高虎みたいな、悪質な風見鶏もいたけどね。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 23:09
仮に西軍が勝ったとしても、
成り上がりで譜代家臣の少ない豊臣家は、戦後処理で武功派豊臣恩顧大名を
処断できなかったんじゃないか?
もちろん徳川家も、せいぜい家康隠居&秀康家督相続程度の処分で終わり。
家康が関が原で戦死でもしてれば別だけど。
165 :
やあやあ我こそは名無しさん:2001/01/13(土) 23:22
>>162 いや俺も吉継の野戦指揮官としての能力はさほどでもないと思う。
そもそも病で目も不自由なのに戦場の機微を掴んでの縦横無尽の采配なんて
出来るとはとても思えないしね。
北伐スレでも孔明の野戦能力が話題になってるが彼に近いと思う、野戦指揮官より
後方指揮タイプね。
関ヶ原での奮戦は同隊で実際に戦闘指揮にあたっていた平塚為広や戸田勝成らが
歴戦の侍大将で、且つ地元の地形を熟知していた事で若干有利に戦えた事が
大きいと思うな。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 23:25
子飼いの武将を二つに割る種を蒔いた秀吉が一番悪いと思う
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 23:45
>>166 朝鮮に攻め込まなきゃ…ってことか ?
でも、清正とかが (領土欲しさに) 煽ったって話もあるからなぁ。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 23:51
>>163 そうかなぁ ? 秀吉死後の家康って、秀吉の遺訓破り放題だし
(勝手に縁組するとか)、他の大老と対立して五大老・五奉行制
を崩壊させているし、とても豊臣家のことを考えて行動している
ようには見えないぞ。
東軍武将のほとんどは、既に豊臣から徳川に乗り換えようと
していた、と見るべきだと思うな。徳川の天下になった後でも
豊臣家を残そうとは思っていただろうけど(西軍の織田秀信の
助命をしたように)。
169 :
166:2001/01/14(日) 00:31
>>167 それもあるけど,武功派,文知派の溝を作った事.
結局,北政所と淀殿派に別れてしまった事が問題だと思うけどなあ.
秀頼を北政所の元で育てれば良かったかも
170 :
167:2001/01/14(日) 00:37
>>169 でも、全国統一期と、その後の統治期では、求められる人材が変わって
しまうから、戦争屋が貧乏くじ引くのは仕方ない気もする。
それと、大阪の陣の頃ならともかく、関ヶ原の時点で北政所と淀殿が
対立してたってのは、俗説で史実じゃないと思ったけど。
>>162 にあるように、北政所の親族は西軍派だったのだから。
171 :
名無し獣:2001/01/14(日) 15:07
やっぱ淀君
淀の方様よりは、その周りのインチキ野郎でしょ。
大阪落城は、その延長。
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 16:40
安国寺って、西軍首謀者一味のくせになんで吉川の陣突っ切って
戦場になだれ込まなかったの?
しょせんは僧兵、本職の前ではビビるという事ですか?
174 :
名無しでござる:2001/01/14(日) 16:44
>ま、中には藤堂高虎みたいな、悪質な風見鶏もいたけどね。
藤堂高虎は、秀吉存命中の時からもろに徳川よりです。
なんせ、徳川の大阪の屋敷建てた時立派過ぎて、秀吉に怒られた形跡の持ち主。
風見鶏は、その時の時流に合わせる人のことだから、当てはまらない。
時流を先読みできる、芸術的な裏切り者と言うべき。
藤堂の子孫は戊辰戦争でも裏切りました
松永久秀よかうらぎってんのちゃうか
176 :
名無しでござる:2001/01/14(日) 17:49
>175
藤堂高虎は裏切るたび、評価が高まってるのが凄い所。
ちなみに、彦根藩の皆様…つまり井伊家の皆様も仲良く裏切りましたね。
知らない人の為にいうけど、井伊と藤堂は先鋒を代々言い使わされている(藁。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 18:15
やはり側面でボケーっとしてた脇坂安治とかも責任重大ですな。
側面から攻撃すれば西軍はかなり有利になったのに。
178 :
>176:2001/01/14(日) 18:20
本多にしたって、一向一揆の一味になった過去があるし、
柴田勝家にしたって謀反未遂者だったわけだし。
そういう『裏切る可能性の有る実力者』の人身掌握ができて
こそ、大将の器というわけですな。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 23:43
180 :
名無し獣。:2001/01/15(月) 01:11
>>177 つーか、最初から密書を徳川に送ってる。
島津が可愛くなるくらい確信犯です。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/15(月) 19:53
他の朽木とか側面の他の3人が最初から動けば、脇坂も躊躇しただろうな。
他3人はその後どうなったっけ?改易か?領土安堵か?
182 :
脇坂一人勝ち?:2001/01/15(月) 21:33
朽木元綱……朽木藩九千五百石
小川祐忠……改易
赤座直歩……改易
脇坂安治……伊予五万七千石(七本槍で唯一、大名として家を残した)
183 :
>182:2001/01/16(火) 00:54
サンクスです。確かに脇坂の1人勝ちですね。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/16(火) 03:34
まあ小川や赤座は事前工作も無く、ホントに日和っただけだったからな。
朽木は細川との絡みで早くから東軍と通じてたらしいし。
赤座・・・領地没収後前田利家に仕えたが、増水した大門川・越中・で
水馬中に溺死と伝えられる。
小川・・・所領没収後゜、慶長6年に死亡。その子祐滋が、豊後日田2万石
として帰り咲く。
利家では利長。
ちょっとした間違い。許して。
あー、酔っています。だからといって間違いが許されるわけでもないが、
では
は、
ではなく
です。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/16(火) 05:09
>>185 小川祐滋が豊後日田2万石を与えられたって本当?
ソースを教えてくれ。
日田は毛利高政、石川忠総、松平直矩がそれぞれ短期間支配した後
幕府直轄領になったはずだけど。
武家事記か、武徳大成記だったかと思う。
何分、原典を所有しているわけではないので。
スマソ。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/16(火) 06:56
>>38 遅レスだが、それは知らなかった。
指揮官はだれ?
大坂駐屯の、秀頼直属部隊と考えていいのかな?
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/16(火) 14:00
徳川は蒲生氏郷に「ケチ川」と呼ばれていたらしい。
片倉景綱は、そういって東軍参加を自重するように言ったとか。
実際そうでしたね。伊達は10万石程度しか加増されなかったから・・・
>>192 上杉あいてにまともに戦ったのは
伊達だけという点から、第2の蒲生
もしくは上杉となるのを警戒したと思う。
でも、その後上方に支藩を作ること
できたんだから良いんじゃない?
>>193 まともに戦ったのは最上
伊達は白石城落とした後、上杉とさっさと和睦して最上を見捨ててるよ
ついでに東軍側だった南部領で起きた和賀一揆に荷担してる
>>194 攻撃開始日にキチンと攻撃して、ちゃんと成果だしたのと、
逆に攻められたて、最後に人質を出そうかという降伏同然
の状態になったのと、どっちがマトモ?
というか、上杉討伐という状態で逆に攻められたというは
処罰の対象とも認知できるよ(藁。
上杉を東北で押しとどめるという、家康の戦略構想的には
伊達とは比べ物にならない成果をあげたことは認めるけど。
>>195 東軍 伊達57万石、最上24万石、南部10万石
西軍 上杉130万石、秋田19万石、佐竹54万石
佐竹は相馬・多賀谷・芦名などの与力大名を含めたら実質83万石
どうやって最上に攻勢に出ろって言えるんだ?(ワラ
つか旧領の白石城奪った後は単独講和して南部領にちょっかいだした伊達
周りからの援護が皆無で、国力が5倍以上の敵を相手に善戦した最上
関ヶ原後の加増具合でよくわかるだろ
>196
>どうやって最上に攻勢に出ろって言えるんだ?(ワラ
ヲイヲイ、最上は米沢口の総大将だよ。攻勢にでる兵力
は与えられていたよ。
>つか旧領の白石城奪った後は単独講和して南部領にちょっかいだした伊達
だから、敵領を奪ってるよ。そういった意味で東軍として
責務果たしたのは、伊達だけ。
>周りからの援護が皆無で、国力が5倍以上の敵を相手に善戦した最上
8月18日にはもうすでに上杉に内応の書状を送ってるのに?
伊達の援軍で、ようやく盛り返して、さらに、関ヶ原の敗報で、
退却した上杉軍の追撃戦も結局失敗したのに?
その加増分見事に江戸時代に消えてるね。
福島や加藤と同じようにね。
ついでに、秋田は最初は東軍だし、結城秀康
が率いた兵力も無視してるし、堀の存在も
無視している。
戦略構想上意味があっても、また形式上勝った様に見えても、
まともに戦ったとは言えないね。
というか、戦わざるを得ない状況だから最上は戦っただけ。
ちなみに、俺がマトモに戦ったという問いに対して、セコイ伊達と情け
ない最上と比べたら、戦った(攻勢に出た)のは伊達と答えただけだ。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/16(火) 18:00
ずいぶん伊達びいきだな、オイ。情けない最上って・・・。
確かに最上は負けているが、上杉を南下させなかっただけでその働きは充分だろう。
また、最上が積極的に攻勢にでなくても、上杉にとっては背後に伊達・最上という
油断ならない奴等が目を光らせているということで、南下しにくくなる
上杉が南下してきたら家康は関ケ原どころじゃないんだからな。
三方が原で、家康は信玄に勝ち目があったか? 同じように最上が上杉に勝てないのは仕方がない。
そのくらい力の差が歴然としているのに充分な働きをした、最上を誉めるべきだ。
>198
確かに自分でも意外にも伊達を弁護(つーか、最上を貶している)してるね。
ちょっと言いすぎでしたね。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/16(火) 19:26
東北で地味に孤立していた小野寺義道は改易後どうなったんだろう?
201 :
代打名無し:2001/01/16(火) 20:39
秀頼は出陣でできないだろう。
1.豊臣家は中立の立場だった
2.確実に勝てるとは限らない。(現に秀忠がきたら・・・)
福島の行動・小早川・の寝返りは当たり前でしょ。
っていうか彼らの立場に立ってみようよ。自分には家族も家臣もいる。
三成に加担したところで、自分たちはいずれ何かされる。それなら家康
の天下に組みこまれた方がいいに決まってるじゃん。俺は秀頼が来ても
「悪しきモノに秀頼さまが操られる」なんていって、寝返らなかったと思うよ。
大体そこまで腹くくらなかったら、家康につかないって。
202 :
38:2001/01/16(火) 20:50
>>190 三成と島津勢の間に布陣しています。
指揮官は誰なんでしょう?
秀頼直属部隊だったとしたら後で問題になった筈だが・・・
誰か詳しい方、教えて下さい。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/16(火) 23:50
>>197 >ヲイヲイ、最上は米沢口の総大将だよ。攻勢にでる兵力は与えられていたよ。
初耳だ、どれぐらいの兵力を与えられてたんだ?ソースを聞きたい
>だから、敵領を奪ってるよ。そういった意味で東軍として責務果たしたのは、伊達だけ。
敵領を奪う事が目的ではない。つか白石城攻略は上杉討伐軍が小山に着く前に
伊達の独断専行でやった事。家康が待機姿勢を守れと書状を送ってる
>8月18日にはもうすでに上杉に内応の書状を送ってるのに?
>伊達の援軍で、ようやく盛り返して、さらに、関ヶ原の敗報で、退却した上杉軍の追撃戦も結局失敗したのに?
最上や伊達に与えられた役目は時間稼ぎ。それに伊達の援軍は来てないし、どの文献にも記述がない。
上杉を追撃して両者に被害が出たのは確かだが、負けたというからには何を根拠にして言ってんの?
>結城秀康が率いた兵力も無視してるし、堀の存在も無視している。
結城秀康には2万余が与えられて、宇都宮城の守備に入ってるが
打って出るなと家康から言われてるし、堀は上杉の旧領で一揆が起きて
諸城の幾つかが陥落して上杉どころじゃなかった
>203
>初耳だ、どれぐらいの兵力を与えられてたんだ?ソースを聞きたい
おもだった所で、南部、秋田、六郷、仁賀保。
当然、あわせたら数万になるよね。
ソースは厨房にも“群雲、関ヶ原へ”。
>敵領を奪う事が目的ではない。つか白石城攻略は上杉討伐軍が小山に着く前に
7月21日に東北の武将が上杉領に討ち入るように命令されている。
>伊達の独断専行でやった事。家康が待機姿勢を守れと書状を送ってる
それは、白石城落として上杉をコレ以上刺激させたくなかったから送ったんじゃ
まかったっけ?
>最上や伊達に与えられた役目は時間稼ぎ。
同意だけど、それは反転したからの結果論でしょ?
最上が戦ったのは、分割された領地を繋ぐために絶対に必要だったから上杉が侵攻した。
で、偶然最上は時間稼ぎの成果を一応上げた。
こういうのは戦ったというけど、“まとも”とは言いたくない。
あなたは、そうでは無いけど。
>それに伊達の援軍は来てないし、どの文献にも記述がない。
留守政景が援護に来てるよ。かなり有名な話だと思うのだけど。
戦記物だと義姫の話が必ず入るね。
>上杉を追撃して両者に被害が出たのは確かだが、負けたというからには何を根拠にして言ってんの?
二万の軍勢から4千程度の脱落者じゃ、撤退戦として成功の部類と思うけど、
最上も伊達も悔恨に満ちた記述だし、このときの武略は家康に賞賛されている。
ちなみに“負けた”なんていってないよ、“追撃戦に失敗した”と言っている。
>結城秀康には2万余が与えられて、宇都宮城の守備に入ってるが
兵力の誘引という台詞を知っている?
なんで、五万の兵力から二万程度の2級戦の戦力を最上にあてがった
のか考えてなかったの?
そういった、意味では結城秀康の功績は大だね。
>堀は上杉の旧領で一揆が起きて諸城の幾つかが陥落して上杉どころじゃなかった
いや、会津七口のうち五口から攻入る構想の存在を知ってるかどうかが心配だったから
書いただけ。
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 01:17
>>202 えー、オレもくわしーワケじゃないけど、石田隊の右翼に布陣していたのは
豊臣秀頼直属の親衛隊とも言うべき黄母衣衆、それに織田信高、伊藤盛正、
岸田忠氏の部隊だから、まー、秀頼直下の旗本ですな。いちおう、毛利輝元
が秀頼を後見するって立場にいた以上、秀頼も西軍に兵を出すでしょう。
形の上では、秀頼が中立であったってのは間違っているのでは?
どーなんでしょ。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 01:30
どう見ても西軍よりだが。
上層部の対応がどうも悪かったようだ。
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 01:35
横槍入れてすまんが
>二万の軍勢から4千程度の脱落者じゃ、撤退戦として成功の部類と思うけど、
全軍の約四分の一が脱落したら成功とはとても言えないと思うが?
208 :
205@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 01:41
209 :
代打名無し:2001/01/17(水) 01:45
>>205 そんなもの戦が終わった後に「悪臣石田に脅され仕方なく」といっちゃ
えば、形式上問題ないはず。
210 :
代打名無し@201:2001/01/17(水) 01:48
西軍よりあとしても形式上は中立なわけでしょ?
どっちが勝つか当時見分けられなかったというかそういう状況なんだから
、100%西軍ぅてわけにはいかない。
彼らなりに関ヶ原で徳川軍が勝った後も、政治生命を残すギリギリの出兵
だったんだじゃない?
もちろん彼らの読みは、浅はかというか、甘いとしかいいようがないんだが
211 :
205@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 01:49
>>209 まーそうだよね。というか、オレ、
>>202の質問に答えようとして
余計なことかいちまったなー、という反省中。
ところで、黄母衣衆の兵力ってどのくらいだったのだろうか?
やっぱり百名単位?
>>212 二千! と思ったら
>>38のヒトが書いてらっしゃいましたね。
すみません、自裁します。
しかし、結構な戦力ですな。石田隊とともに最後まで奮戦した
のでしょうかね。
214 :
203じゃないよ:2001/01/17(水) 02:04
>おもだった所で、南部、秋田、六郷、仁賀保。
>当然、あわせたら数万になるよね。
>ソースは厨房にも“群雲、関ヶ原へ”。
おいおい、南部と秋田はともかく、(現在の)秋田・岩手両県以北のジャリ大名なんざ集まっても大した勢力じゃないんではないか?
それでなんで兵力が数万人になるの? 数万人っていっても範囲は広いけどよ。1万や2万でも数万だからな。
>最上が戦ったのは、分割された領地を繋ぐために絶対に必要だったから上杉が侵攻した。
>で、偶然最上は時間稼ぎの成果を一応上げた。
>こういうのは戦ったというけど、“まとも”とは言いたくない。
>あなたは、そうでは無いけど。
204は上杉征伐を話題の中心に据えて考えているっぽいが、
スレタイトル通り関ケ原時の日本全国の大局的状況を考えると、最上の行動は戦略的に大成功。
204の見方は戦術面に偏りすぎているんじゃないか?
相手を殺して城を落とすばかりが戦争じゃない。孫子を読みな、孫子を。
215 :
203じゃないよ:2001/01/17(水) 02:19
>>214 南部、秋田を含めて、奥羽連合軍は一万有余の軍勢だったらしーっすよ。
ソースは『奥羽永慶軍記』……だったような気がする。
217 :
190:2001/01/17(水) 02:33
黄母衣衆か!モロ「豊臣秀頼軍」だね。
2000つっても、島津勢よか多いわけだけど・・・
それにしても西軍に兵を出すのは大坂城の誰が決めたのだろう。
秀頼自身のわきゃないし、淀君とも考えにくいが・・・
当時若造の大野ハルちゃんでもないよねえ・・・単純に合議の結果かな。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 03:08
三成の影響力、兵2000くらいはあった、ってことだろう。(笑)
戦犯は、ヘタレ毛利のバカとやはり現場総大将・三成でしょう。
して城を落とすばかりが戦争じゃない。孫子を読みな、孫子を。
まずオレが言いたかったの192で言いたかったは、恩賞の少なさは伊達が第二の上杉になって、
江戸を圧迫する可能性があると思ったから。
それが、193が最上の方がまともに戦ったといったからまあ長文のやり取りが始まったけど、
ちょっと、考えてくれ関ヶ原合戦時に、ホントに東軍や西軍という意識で戦ったという連中が
どれ位いたかという事を、特に家康や三成が居ない所は単なる所領の奪い合いになってるね。
オレが上杉相手にマトモに戦ったというのは、そういう事も含めて言ったつもりだ。
つまり、関ヶ原合戦時に、積極的な行動を取ったかどうかという観点も含めて答えたつもりだ。
それが“杉あいてにまともに戦った”ので、結局それが家康の疑心暗鬼を呼び覚まして、他の余計な
行動も含めて、恩賞が少なくなったんじゃないかと答えたの。
済まん、アホなレスで。
>おいおい、南部と秋田はともかく、(現在の)秋田・岩手両県以北のジャリ大名なんざ集まっても大した勢力じゃないんではないか?
>それでなんで兵力が数万人になるの? 数万人っていっても範囲は広いけどよ。1万や2万でも数万だからな。
確かにそうだね。かなりの20万石程度で一万って読んじゃったからね実際は、4千程度だから、
一万ちょいが正しいですね。
>204は上杉征伐を話題の中心に据えて考えているっぽいが、
最初白河城落としたのは上杉征伐状態だったからね。
>スレタイトル通り関ケ原時の日本全国の大局的状況を考えると、最上の行動は戦略的に大成功。
結果論には、成功も失敗も無い。
それも、上杉の戦略構想(飛び地との連携)に置ける重大目標だったからだね。
西軍の関ヶ原敗退という理由で上杉はそれに失敗した。
最上は、無定見に待ちうけてただけ。
最上の成功じゃなくて上杉の失敗。
>204の見方は戦術面に偏りすぎているんじゃないか?
>相手を殺して城を落とすばかりが戦争じゃない。孫子を読みな、孫子を。
というか、答えから逆算して戦略を気取ってるように見えるけど?
オレは、積極的な手を打てた伊達を評価して、上杉に対する無定見に
待ちうけた最上を貶しているだけだ。無論、最上の打てる手は限られていた
ので、その辺を差っぴく必要はあるけど。
220 :
飛蝗:2001/01/17(水) 12:48
>オレは、積極的な手を打てた伊達を評価して、上杉に対する無定見に
>待ちうけた最上を貶しているだけだ。無論、最上の打てる手は限られていた
ここいら辺に大名の方針が現れてくるんでしょうね。
政宗としては、切り取れるものなら切り取ってしまえ的方針で相手が上杉ならば尚良し。
自領拡大でありながら「東軍」という錦の御旗があるわけだし。
最上も同じ事を考えたのだろうけど、上杉が伊達攻略よりも最上攻略を優先に
した時点で、受身にならざるを得ないでしょう。
上杉にしても、「西軍」という錦の御旗で北上して自領拡大を狙った意味では
南に向かうよりも遥かに安全でしょう。
本格的に南下軍なんぞ作って、関東近辺で苦戦すると共に伊達・最上に挟撃される
くらいであれば、東北以南が関ヶ原でボルテージ上げてる間に、切り取れるだけ
切り取ってしまえという考え。
そもそも、関東以北の諸将にとって「関ヶ原の勝者」は個々の「錦」であるに過ぎない、
と思う。
三成は上杉が居る事で東軍の戦力削減を目論んだわけだし、家康は伊達・最上の存在で
上杉の脅威を拭う事になるし、二人とも関東以北の諸将を自分の思う方向性で利用した
訳だが、東北諸将もそれを逆手にとって自領拡大を狙って三成・家康を利用したんだと
も思う。
関ヶ原に参加した諸将は、お家安泰のために自国から離れたところで血を流さなければ
ならなかったのに比べて、上杉・伊達・最上は各々が拡大政策を実行できたあたりは
何だかんだ言って、結構うかばれますね。(笑
221 :
飛蝗:2001/01/17(水) 13:05
何となく、歴史を年表やモニターとして見がちなんだけど、個々に背景と思惑そして
ドラマあるのね〜、なんてたそがれて見る。。。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/17(水) 16:08
>>220 でもさぁ、最上は長谷堂城が奮戦したおかげで、関ヶ原決着の報せが
届くまで持ち応えられたけど、一歩間違えれば上杉に滅ぼされてたぞ。
その上杉にしたって、家康に売られた喧嘩を買って、四方八方から攻め
こまれる羽目になったんだから、浮かばれると言って、いいものか(汗。
上杉って、佐竹との連合で家康に一泡食わせるつもりだったのかなぁ。
どの程度勝算あったのかは分からんが。
223 :
飛蝗:2001/01/17(水) 22:16
>222さん
いや、特に上杉景勝・伊達政宗・最上義光あたりは、戦国末期〜江戸初期に名を連ねる
所謂2世さんだったり織田・豊臣・徳川政権で実力を伸ばしてきた所謂「サラリーマン」
とは違った所謂「経営者」の最後の人達だと思う。
関ヶ原で集まった連中の殆どが「誰かの下で猛将の名を連ねた」という注釈が付く訳で、
関東以北でつばぜりあいをした3将は、時代さえ恵まれれば信長・秀吉・家康の好きに
はさせない、と息巻いている連中ですよね。
当然、時勢の激しい移り変わりに順応せざるを得ず、ほぞを噛む思いで家の安泰を時の
覇者に託さなければならない顔と、とは言え「あんまり無茶するんだったら、出るとこ
出たろか!?」くらいの気持ちは衰えずあったと思う。
そういう連中からしてみれば、関ヶ原のどさくさに紛れて領地を増やすチャンスが広がった
だけでも「めっけもの」だったんぢゃないかな?
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 01:56
佐竹はお家の論議が二分されてて、どっちにも動けなかったのです。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 19:03
age
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 12:33
でも、佐竹は減封されたんだよね。
中立でも容赦しないケチ川…
佐竹は中立じやない。
実は表面的には東軍だたつた。
義宣は東義久勢300名をを秀忠につけて中山道へ送り出した。
西軍には兵力を出していない。
にもかかわらず、徳川は佐竹を減転封した。
そりや関東最大最後の外様勢力だからつてひどすぎるぜセニョール。
しかし佐竹はそんなひどいセニョールのやり口にも堪え、
出羽などという貧国へ移されても、
一所懸命に田畑を耕し、
林業を興し、
鉱山を開発して、
出羽を東北一の豊かな国へと変貌させたのであつた。
おとこだね、さむらいだね。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 14:34
質問、佐竹や上杉はどれぐらい領土を減封されたんですか?
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/19(金) 14:41
佐竹は美人を秋田に連れてった。
残った茨城は・・・。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 16:16
>>228 佐竹:常陸水戸54万石から出羽久保田18万石。
上杉:会津120万石から出羽米沢30万石。
あまり関係ないけど、戦後の佐竹領(だいたい今の秋田県全域)って広いわりには20万石足らずなんだね。
宮城県+アルファの伊達が60万石なのと比較するとわかるが、よっぽど開拓が進んでなかったんだろうな。
まあ、佐竹領以外でも、南部領も津軽領もそうだけど。
逆に、狭っこい尾張なんか60万石もあるのよな。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 18:56
>>230 尾張だけじゃ60万はないだろ?ソース何よ。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 19:04
質問、実際尾張は全部で何万石?
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:25
234 :
ひてたた:2001/01/19(金) 20:39
>>226 >>ケチ川
さにあらず、さにらず・・・
幕府安泰のための当然の仕儀じゃ。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 20:41
確か江戸時代の尾州家が伊勢、美濃の一部まで含めて公称60万石だった筈だから
尾張だけでの純石高はもっと小さかったんじゃないの?
総大将より部将の方が格上では、勝てるもんも勝てんわ。
237 :
柳生 石舟斉:2001/01/20(土) 00:09
筒井順慶殿についていく
よいな宗矩
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/20(土) 02:05
239 :
大谷刑部:2001/01/20(土) 03:24
ちょっと関ヶ原の合戦に話を戻しますけども、大谷吉継(正式には
大谷吉隆だっけか?)が関ヶ原でがんばれたのは、自分の器量に
みあった2000人とゆう兵力を100パーセント動かすことが
できたからでは? 武将には自分の管理しやすい兵力があると思うし、
仮に大谷吉継が小早川秀秋とか宇喜田秀家と同等の戦力をもっていた
としても、史実のような活躍はできなかったような気も。
関ヶ原の合戦のときに、自分の器量にみあった戦力を持ってたと
思われる武将は誰でしょうな? 小西行長の6000人とか
福島正則の5000人とかはわりと適正にぴったしだったとか?
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 03:35
関ヶ原の時の大谷吉継の指揮下には
大谷吉勝、平塚為広、木下頼継、戸田重政の3000余と
外様の赤座道保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4300
だったと日本合戦全集に書いてあったけど・・・
指揮下に入った軍団のほか、大谷刑部の旗本と言うべき直率の兵も
六百程度いたような気がする。ソース忘れた
242 :
大谷刑部:2001/01/20(土) 04:07
>240
あれ? 動かなかった外様衆はさておいて、大谷隊って
平塚、戸田とかコミコミで2000じゃなかったでしたっけ?
つーか、私自身ウロ覚えだったのでまちがえてたらすまんす。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 04:29
>>242 信頼できる文献などを自身で確かめた訳じゃないから分からないけど
本にはそう書いてあったよ
それにしても2〜3000の兵で藤堂・京極隊を敗走寸前まで追い込み
小早川隊の裏切りにも対処して、小早川隊を一時撃退してるんだよね
これで外様の四将さえ裏切らなくて大谷吉継の指揮通りに動いたら
どうなってたかな
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 09:18
でも、息子は戦場から逃げてるんだよね。>大谷吉継
>>244 落ち延びたんじゃなくて? 敵前逃亡と再起を図るためにってのは
微妙に違うと思うけど。
まあ、大坂の陣で立派に戦死してもーたしなあ。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 22:55
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 01:46
でもやっぱり光成の戦下手と人望のなさが一番だよなぁ〜
出来ない上司の下では働けないのと同じ^^
248 :
名無し獣:2001/01/21(日) 02:47
>>247 人望はあるよ。
部下の信任も厚かったし。
西軍の人数が多かったのそれを表している。
もっとも、嫌われていたし、人使いがへただけど。
249 :
大谷刑部:2001/01/21(日) 02:53
>243
外様衆の中でも、脇坂なんかかなり戦巧者だったんだし、
個人的にちょっとがんばると面白かったんじゃないと
思いますな。まぁ、そつのないとこは天晴れでしたけども。
>244、245、246
みなもとたらう先生の『風雲児たち』では、大谷が後顧を
託す形でムリヤリ逃がしたみたいな扱いになってましたな。
大谷の性格を考えると、案外ありうることだったのでは?
ま、推測ですけども(笑)。
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 07:01
結局大坂で死んでるんだから
逃げたんじゃなくて
後のために生き延びたと考えたい。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 14:01
>>244 死を覚悟で突撃しようとしたら乳兄弟に諌止されて領国に戻った、
と『関原軍記大成』などは記す。
戦後、吉勝は黒田長政に厄介になっていたという説も同書にある。
>>247 たとえば蒲生十六将の死に様見れば、そんなことおくびにもだせねーと思うが。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 10:41
三成は部下からの人望はあったが、他の大名とかからは嫌われていたのか。
関羽みたいなヤツだ。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 15:21
三成が嫌われていたというけどよ。
全部ドキューソ小大名の逆恨みじゃねーか。
清正、正則、長政X2、忠興、嘉明、金吾、他誰だ?
逆に好感度ありの人。
秀吉、左近、兼続、義宣、吉隆、昌幸、高台院、他誰だ。
256 :
>>255:2001/01/22(月) 15:28
文治派の同志、小西行長を忘れるなかれ。
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/22(月) 15:58
島津に決まってるだろうが!!!
くそ薩摩のクズどもめ!
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 16:56
>>255 名将の誉れ高い立花宗茂も三成派なのかな? 大津城攻め
をしているし。
こうやって並べると、三成に組した連中の方は、知性派が
揃ってるって感じだな。
>>256 行長は微妙。家康はひ孫を行長の息子に嫁がせようと考えてたらしい。
清正対策とはいえ家老級の武将を全員領国に置いてきている。
そんな軍勢を率いて本気で戦う気があったのやら。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 17:23
>清正対策とはいえ家老級の武将を全員領国に置いてきている。
だから苦戦したんだね。
261 :
>>259:2001/01/22(月) 17:46
でも、大阪夏の陣の真田幸村(秀頼方)・信之(家康方)の例を挙げるまで
も無く、
『家を残す』為に人事を尽くす事は、ある意味合戦に勝利する事よりも
重要だからねー。
>>255 島津も含まれるよ。
まあ、政治的結びつきといえるかもしれんが。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 19:39
確かに三成を恨んでる奴は武闘派のひそかな小心者ばかりだね。
みんな三成の出世が気に入らなかったんだろうな。
清正は秀頼に尽くしているけど、なら東軍につくなよ…
君の私怨のせいで、結果的に豊臣家が滅ぶんだから。
264 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/22(月) 20:10
>>213 >清正は秀頼に尽くしているけど、なら東軍につくなよ…
>君の私怨のせいで、結果的に豊臣家が滅ぶんだから
そういうことをいってもしようがない。
家康が天下人になっても、豊臣家は残ると考えて行動してたわけだからね。
265 :
264:2001/01/22(月) 20:12
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 20:51
だから正則や清正の身になって考えろっての。
三成が勝ったりしたら、次にやられるのは自分たちだろうが。
連中にも家族家臣がいるんだよ。
豊臣が天下の主かどうかなんてどうでもいいこと。
連中が大事なのはまず第一に自分だろうが。
秀吉がいない時点で天下は誰のものでもなくなったんだから、
一番いいところにつくの自明の理。
当たり前じゃない?
三成についたやつは、人間的にバカなのが揃っている。
マトモなのは大谷吉継ぐらい。
じゃあ、家康は?
黒田、伊達、まともなのばっかりじゃん。
天下の流れをわかってる連中は三成につくようなバカなマネはしないって
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 21:00
>>263 そうだなあ、清正はマトモだと思っていたが、考えてみると
馬鹿武将だったんだなあ。
268 :
>>266:2001/01/22(月) 21:38
上杉、島津なんかも、まともな部類でしょう。
やっぱ一番問題有りなのは、安国寺も含めた『毛利系の人々』の
ヘタレ具合だよな〜。
269 :
a:2001/01/22(月) 21:45
やっぱり、秀頼でしょう。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 21:52
上杉景勝が直江兼続の進言通りに追撃かけてたら
東軍は木っ端微塵になってた、に200ガバス。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 22:07
>>270 そんなことしたら空っぽの会津を伊達や最上に攻められてたに200ガバス。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 22:09
>>270 秀忠の軍勢に返り討ちにされた、に200ガバス。
>>266 結果論でしか者を語れない奴は疾く逝け。
だいたい、東軍西軍どっちが有利かなんて関ヶ原の激戦終わるまで
判別付かなかったろ?
天下の流れがわかる奴なんてそうそういるかよ。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 22:39
>>273 いや、家康に着いた方が良いか三成に着いた方が良いかくらいは、
それぞれわかっていただろう。
加藤や福島など東軍の豊臣恩顧の大名達にしてみれば、
三成が政権を握ったら自分の立場が危うくなることくらい、わかっていただろうからな。
彼らにしてみれば、少なくとも家康>三成であったことは間違いない。
ちなみに黒田長政、藤堂高虎、大谷吉継あたりは天下を趨勢を分かっていたと推測できるね。
275 :
>>274:2001/01/22(月) 22:43
まあ、現代に例えれば、三成って、『もうちょい甲斐性のある自民党の加藤』
クラスの人間なんだろうな。
(家康は全盛期の金丸信)
>>274 なるほど。いやあの連中にとってはそうなんだろうけど、
>>266のあまりの決めつけっぷりにどうにもこうにも頭が……。
この人は西軍に参加した大名を全部知った上でこんな発言した
んか気になるなあ。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 22:51
関が原と戦いは、関が原戦役といった方が相応しく、関が原
の戦いの結果如何にかかわらず、徳川が勝利していたと思う。
すでに敗戦が決まりかけていた状況で西軍が会戦に踏み切ったのは、
家康の首をとるという乾坤一擲にかけたからではないか。
島津。毛利といった大大名は、そんな冒険に付き合えなかった・・・・・。
278 :
>>277:2001/01/22(月) 22:58
逆では?
吉川を篭絡して、毛利を押さえ込む目算が立たなかったら、家康は
決戦を避け通してたのでは?
279 :
277にアラズ:2001/01/22(月) 23:04
>>278 うーむ、俺は秀忠が到着していない状況で家康が開戦に踏みきったのは
西軍の武将の寝返りや中立化が確信できたからだと思うけど。
280 :
>>279:2001/01/22(月) 23:20
金吾のあのムラのある性格を知ってて、決戦に臨んだのだったら
家康も相当の博打を打ってるよね。
(つーか、家康らしくない)
俺はあんなのに自分の命運を委ねるのはヤダなぁ……。
281 :
>>280:2001/01/22(月) 23:27
つーか、『不確定要素・金吾』すらも相殺しうる予備兵力が
秀忠隊だったのだろうが…、彼は……。
遅参であれだけボロカスに言われるわけですな……。
282 :
274:2001/01/22(月) 23:32
>>273 確かに266の書き込みはヒドイものがあるけど、あまり目くじらを立ててもね...
勝った方の武将が良く思われるのは仕方のないことだし。
>>275 加藤政局を見て思ったのは、結局今も昔も「数が多い方が勝つ」っていう大原則は変わらんのだなって思ったよ。
両方のリーダーは地力をつけ、敵の武将(議員)を引き抜いたり
味方の支持を固めたり、といった権謀術数を駆使する。
違うのは死者が出ないってことだね。
ちなみに、俺は関ケ原を現代に置き換えると、昭和47年の佐藤栄作首相の退陣の際の、
田中角栄と福田赳夫の後継者争いかなって思う。
佐藤栄作が秀吉。角栄が家康。官僚出身の福田は三成。
283 :
>282:2001/01/22(月) 23:40
自分なんかは、
『今太閤』の角栄はやっぱ秀吉、『昭和の黄門』の福田さんは
やっぱ家康(詰めが甘いけど)のイメージがあります。
『角福戦争』はむしろ『小牧・長久出の戦い』ではないですかね…?
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 23:41
つーか
>>266は関が原で石田三成の敗北を予測できなかった武将は馬鹿呼ばわりしているが
その前に
>>264では、家康が関が原に勝った場合に豊臣が滅亡することを予測できなかったのは
仕方が無いと言ってるが、俺が考えると関が原で西軍が勝つ可能性と関が原で東軍が勝った後の
豊臣家が残る可能性だったら、断然関が原で西軍が勝つ可能性の方が高かったと思うけどね。
少なくとも、家康なんかが関が原で勝った後よりも石田三成が勝った後の方が豊臣家が安泰なのは
誰にだってわかることだろ?
お前の言ってることは矛盾だらけなんだよ!厨房が!
なんか血圧高いのが一人紛れ込んでるなぁ…。
飲んでますか?アミール?
286 :
飛蝗:2001/01/22(月) 23:48
>家康も相当の博打を打ってるよね。
>(つーか、家康らしくない)
家康は博打を打つ。。。というよりか、自分に向かっている風を絶対に逃さない
独特の感覚を養っていたんでしょうね、きっと。
それは若くして、巨大化した当時日本最強といわれる武田軍に正面きってケンカ
した辺りに出ているのかも知れない。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
秀吉と正面きってケンカしたのも、恐らく勝算よりも大名としての面子を重んじて
やったに過ぎない。
ただ、そのケンカを5分5分にもってく努力と皮算用を誰よりも緻密に考え、誰よりも
正確に読みきったのでは。。。
っていう意味で、結局関ヶ原も「千載一遇」のチャンスをモノにする為、最大の勇気と
最大の努力をしたのではないだろうか?
287 :
飛蝗:2001/01/22(月) 23:54
家康だって、絶対に勝つ!!100%負けは有り得ない、なんて
お首にも思わなかっただろう。
死ぬか生きるか、一生を掛けたに違いない。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/22(月) 23:56
なんだ、スレッドの雰囲気を殺伐とさせたいだけの単なる荒らしか…。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:03
前に京極なんちゃらの城を攻めていた毛利(秀包)立花の軍がじきに合流するんで
そうなると情勢がどうなるかわからんから秀忠軍の到着を待たずに開戦に踏み切った
っていう話を聞いたことあるけど
291 :
282:2001/01/23(火) 00:04
>>283 >角福戦争は小牧・長久手の戦い
確かにそうっすね。盲点でした。
>>286 >秀吉と正面きってケンカしたのも、恐らく勝算よりも大名としての面子を重んじて
>やったに過ぎない。
>ただ、そのケンカを5分5分にもってく努力と皮算用を誰よりも緻密に考え、誰よりも
>正確に読みきったのでは。。。
このへん、日露戦争の時の日本と似てるところがあると思うです。
なんか俺、戦国時代と近現代とを比べて見るのが好きみたいだな...
>家康だって、絶対に勝つ!!100%負けは有り得ない、なんて
>お首にも思わなかっただろう。
>死ぬか生きるか、一生を掛けたに違いない。
100パーセントではないけれど、5割以上は勝てると思ってたと思います。
ただ、下手をすれば今川義元の二の舞となる可能性も覚悟はしてたでしょうね。
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:04
>>289 違うね。自分勝手な屁理屈で西軍諸将を矮小化した馬鹿が許せんのだ!
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:09
>>292 同意!!
東軍も馬鹿なのにね
特に福島正則や加藤清正などなど....利用されただけ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:10
295 :
273@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:10
>>290 秀忠率いる徳川本隊の遅参が決定的になった時点で、西軍の態勢が整う
前に野戦して勝敗を決しよう、と思ったはず。
立花宗茂ら三万の兵が大垣城に到着すれば、秀忠軍がいても結構な
激戦になったと思う。まあ、推測に過ぎないけれど。
296 :
>292、293他:2001/01/23(火) 00:11
バカはほっとけって。
「ああ、バカがいやがる」って笑っとけばそれで済む話じゃねえか。
297 :
考えてもみりゃ…:2001/01/23(火) 00:13
298 :
266:2001/01/23(火) 00:16
だからさぁ、、、
豊臣家の安泰のどこが天下の安泰につながるわけ?
あれだけ内部組織がしっかりしないうちに、ガキが後継いだんじゃ
天下は大混乱だろう。現に関が原の戦いが起きたわけだし。
それに島津は徳川方だったんでしょ?
当時の人間に取っちゃあ、家康が天下取った方が自分の身、
そして天下も安泰だったことぐらい当たり前でしょうが。
今の日本だって、なんの内部組織ができてなくて、
総理大臣ぐらいしか要職がなくてさ、それで5歳のガキが首相に
なりなよ。戦争で負けた状態で。不安でしょうがないだろうが。
そういう時に、自然の流れを妨害して、天下を取ろうとする
たわけモノの神経はどうなってるのかとしか言い様がないよ。
もっと当時の空気とか想像してものをいいたまえ。
豊臣家の安泰なんか、自分にとってマイナスだったらだれも
どうでもいいことだろう。
それこそ、65マン石でもいいから、のこしたほうがまだまし。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:21
>豊臣家の安泰のどこが天下の安泰につながるわけ?
ここが根本的な間違いと思うけど
諸大名全員が安泰を望んでた訳じゃないでしょ
あわよくば自分が取って代わろうと考えたりもするだろうし
自勢力を如何に拡大させるかを考えてた大名もいると思うぞ
>>298 島津が徳川方だったってのはいつのまに確定したんだ?
小説や漫画をソースにすると恥かくよ。
当時の空気を想像したらとてもそんなこといえんと思うが。
あなたの書き込みは大変にオモシロイデス。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:24
>>298 じゃあ伊達のやったこと考えて見ろよ(ゲラゲラ
302 :
266:2001/01/23(火) 00:24
あれ!?違うの?
303 :
266:2001/01/23(火) 00:27
>>299と
>>301は俺の書きこみの意味をわかってないんじゃない?
なんでそういうレスがつくのか疑問なんだが、、、
304 :
266:2001/01/23(火) 00:32
俺の書き方も下手だったな(反省)
>>303 きっとあなたの日本語がおかしいからだと思うよ。
たとえば
>天下を取ろうとするたわけ者
ってのは、家康のことになっちまうと思うんだけど。
それに、少なくともあの当時、平地にわざわざ乱を起こしたのは
家康の方だったし。
>>304 あ、反省してらしのですね。スミマセン。
307 :
266:2001/01/23(火) 00:43
>>305 今読み返してみると、ヘタクソすぎて情けなくなっちゃう。
私が思うに、秀吉が氏んだ時、すでに天下人は家康だったんじゃにないかと、、、
しかし形式的天下人に秀頼がいたわけで、正式な天下人になるためには、
秀頼を屈服させるか、それの取り巻きの勢力をつぶして、そとぼりをうめるしかない。
前者はおそらく世論が当時の状況では支持しなかったでしょう。(北条氏のような形ではべつですが。)
後者のほうは運良く豊臣家が分裂していたので、それに乗じて、取り巻きをつぶし
豊臣家の家臣を見方にして、そして家臣同志の争いという形で、勝てば、勢力は拡大しますし
、豊臣家の家臣の中の家康指示の政権が作れ、これなら世論も納得する。
それにまんまと引っ掛かった連中はバカではないかと、、、、
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/23(火) 00:49
みんなもっとマターリと書きこもうぜ・・・
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 00:54
そうそう。こういうスレで自分と違うこというとすぐヒステリックに
なるゴミがいるがそれじゃあ意味ないじゃん。
266だって、考えようによっちゃあ面白い意見なんだから、
ヒステリックに煽ったら面白くなくなっちゃうだろうが。
結論
どっちもどっち
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:11
>>307 少なくとも、加藤、福島たちが家康についたのは「豊臣家に忠実なる家臣」
であると信じていたからであって、「政権奪取を目指す」家康についたつもり
ではなかったと思うよ。
まあ、黒田や細川は鼻が効くから天下人家康ににじり寄っていたんだろうけど。
だから、徳川の政権が確定したあと、福島はあからさまに反抗的態度を示して
改易されているし(徳川の謀略である、ってのもあるけど)。
一概に西軍諸将を貶めることは、その論法では苦しいと思う。
それに、
>まんまとひっかかった連中はバカではないかと……
というのには加藤、福島も含まれるのでは?
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:17
>少なくとも、加藤、福島たちが家康についたのは「豊臣家に忠実なる家臣」
>であると信じていたからであって、「政権奪取を目指す」家康についたつもり
>ではなかったと思うよ
当時の武断派には、「三成政権のなかで潰れる」「徳川政権に組みこまれる」
この2通りしかなかったことはよほどのバカでない限りはわかったと思うよ。
正則も清正もそんなにバカじゃないよ
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:19
石田三成が勝ったとしても豊臣が「安泰」とは言えないんじゃないの?
実力のない豊臣が天下を治められるとは思わないけど.
そうしたら,世は戦国に逆戻り.弱小豊臣家が潰される可能性は充分に
あると思うね.
秀吉の能力がなければ統治出来ないシステムがすべて悪いんじゃない?
314 :
266:2001/01/23(火) 01:22
>>313
それをいいたかったんだ。
315 :
313:2001/01/23(火) 01:27
もっと言えば,秀吉に依存していた豊臣政権である以上,秀吉が
死んでしまえば,天下をおさめる資格はなくなるよね.当然,最
大の実力者たる家康に権力が握られるのは当然だったと思う.
ではなぜ石田は戦を起こしたのかな.天下を治められない以上,
戦を起こす原因としては「徳川に対する個人的感情」としか思え
ないんだけど.
316 :
311@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:27
>>312 福島正則の「秀頼公ヘノ御疎意ナクバ何時ナリトモ家康ノ味方ヲ
仕ルベシ」ってぇ有名なセリフがあるんだけど……
彼らは秀頼を立てるのであれば、家康を盟主と仰ぐって明言している。
だからこそ、家康だって豊臣家を滅ぼすのに十五年もかかっている。
これは、豊臣恩顧の大名たちが戦後巨大な封地を持つに至ったのも
無関係ではないと思うんだけど。どうでしょ?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:28
今となっては解りようも無いが、
三成が想定していたであろう、
『家康打倒後の国政運営プラン』が知りたい。
318 :
266:2001/01/23(火) 01:29
>>316 まさか表立って「これから家康様の天下を取るために合戦に参加します!!」
とはいえないでしょう。それに何で秀吉が禁止した婚約外交を行ったのでしょうか
319 :
266:2001/01/23(火) 01:30
>>317 ないから、あれだけボコボコ寝返ったり、動かない連中が出てきたんじゃないか?
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:38
石田三成は上杉景勝とともに、家康を挟み撃ちにする
腹つもりだったのだから、上杉が動かなかった時点で、すでに
三成の構想は終わっていた。
関ヶ原はただの成り行き。
三成も負けを覚悟していただろう。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:39
あったにしても、到底諸大名には、飲めないようなものシステムだったのではなかろうか。
だから、局地戦で勝っても、結局家康の天下になるか、戦乱が長引いて政宗や如水らが喜ぶかになったんじゃない?
322 :
>>321:2001/01/23(火) 01:42
伊達幕府の目も有りか…。
それはそれで……。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:42
加藤、福島たちが家康についたのは、三成のやり方に異を唱えたから
ではないのですか??
その上で、豊家存続の道を考えた末の「徳川政権への組み」では
ないでしょうか?
>秀吉の能力がなければ統治出来ないシステム
この時代って、信長や秀吉といったカリスマ性の高い人物が
必ずといって良いほど排出されています。僕が思うに「時代が
求めている」のではないでしょうか?
だからこそ、社会が安定するまでは圧倒的な力を有する人が
統治するほうが良いように思います。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:44
どっかで見たんだけど、上杉家の書物によると、上杉家は
関ヶ原で「三成敗戦」を計算していたらしい。
で、その後、勝った徳川軍と対戦し、ある程度の戦果を得て
、影響を残したかったという。
真面目に三成に味方したのなんて少数だったんだね。
それとみんなに質問だけど、小早川隆景だったらどうしてたと思う?
俺はとても三成につくとは思えないんだが
325 :
311@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:46
>>318 だから、家康は秀頼の後見人なんだよ、あくまで。
正則らにとって三成ら吏僚派はあくまで豊臣を私物化する連中としか
思えなかった。一方の家康は、関白豊臣家をもり立てる武家の盟主と
して文句ない器量人格の持ち主だと映る。
三成より家康を取る、って判断を彼らが下したのは、あなたが仰る
とおり彼らにとって当然極まる選択だった。それは正しいと思う。
しかし、家康は戦後も豊臣家を尊重している。ポーズであろうと、
それは豊臣系諸将の疑惑を逸らすための行為だったと思う。
それに、徳川から婚約を迫られて断れば、旗印は反徳川になって
しまう。それは福島にとっては避けるべき、というか、秀頼後見
筆頭の徳川からそういわれれば、喜んでうけちまうか、福島も。
だからといって、強気になびくがお家のならい、なんてのが正しい
と仰るあなたの意見には承伏しかねる、というのがオレの意見。
意見じゃネエか、これ。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:49
>豊家存続の道を考えた末の「徳川政権への組み」
・・・だと、豊臣恩顧のヤツラは思ってたろうね。
彼らに政治力が足りなかった(政治力のある奴は関が原で終わった)
から、いいようにやられちゃったのだろう。
こないだ、長野の福島正則の墓を通りかかった。
雪に埋もれて、寂しかった。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:51
>>324 その上杉家の書物とやらがいつ書かれたものかにもよると思うぞ。
保身、自己弁護のためにあとから取り繕った、というのも
考えられるし。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:51
過去を語る際に結果が前提になっちゃいかんよ。
当時の戦は不確定要素が多くて当たり前。
家康だって勝ちを確信して戦に臨んだわけじゃない。
考えてみろよ、どんな誓紙があろうと姻戚があろうと
現場でなんの保証があるでなし。調略は双方がやってんだ。
たとえば三成が腹こわしてなきゃ西軍が勝ったかもしれないんだ。
ただ、家康が明らかに優れていたと思われるのは
「その後」の状況想定。たとえ負けても東海道を確保していれば
関東には戻れる。対上杉には「戦線をのばすまじ」という厳命が
あったし、不肖の秀忠も戻ってくる。その上で長期戦になれば
寄せ集めの西軍は必ずほころびが出てくる。
その程度の読みは当時の情報収集でも可能だったろう。
だが三成には帰る家がない。佐和山では当然ムリだし、
負けた三成が大阪城に入れるはずもない。
この戦いは地盤を持たない三成がもともとキツイんだし、
それを乾坤一擲の場にまで持ってったのは
まあ三成よくやったかな、って感じだと思う。
329 :
266:2001/01/23(火) 01:52
>>325 あなたは善人だ。
ただ、彼らが豊臣家のことを純粋に思っていたのか、それとも
ある程度の妥協があったのかは、彼らに聞いてみないとわからない。
でも最初から私がいっているように貴方のいってることはリアリティー
まったくない。
婚姻外交は秀吉が出した、絶対禁止のものだよ。それを平気で破るのは
おかしいよ。
何度もいうが彼らには家臣も家族もいる。一人じゃない。
それを考えてくれ。強いものになびくのは当然。
豊臣家云々は、大義名分をつけるための儀式にすぎない。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:54
東軍の勝利=豊臣家の滅亡ってのは絶対なんだろうか?
俺はやりようによっては、織田と同じく一大名あるいは公家として生きる道はあったと思うんだけど。
331 :
266:2001/01/23(火) 01:55
つーか、俺は三成たちの先見性や、政治的能力が「バカ」だと
いってるのでのであって、逆に人間性は優れていれうと思う。
もちろん連中にも「9割がダメ」ってのはわかってたでしょ?
でも当日の西軍の頑張りが示すように、彼らの度胸とか人間性は
現在に至るまで評価されるものだと思うよ。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/23(火) 01:56
片倉の目論見どおり上杉に最上を蹂躙させてから
伊達が攻め取る。そして関ヶ原が長引いたとして
伊達が天下を取る可能性ってどれくらいあったの?
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:57
>婚姻外交は秀吉が出した、絶対禁止のもの
「あの人は大老筆頭だから、ルール変えてもまぁ・・・許されるよ・・・ね。」
ってとこだろう。
つーか、誰にも止められない。
「秀吉の作ったルールだから、厳守しなかったのは不忠」
ってのは今日的(希望的)英雄感でしかない言い方。
前田利家がもうちょっと粘ってればねぇ・・・
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:59
結構むずいかもね。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 01:59
伊達が上杉に勝てる可能性は万に一つもない。
伊達と上杉では桁が一つ違う。
336 :
313:2001/01/23(火) 02:00
>だからこそ、社会が安定するまでは圧倒的な力を有する人が
>統治するほうが良いように思います。
同感.だから,秀吉によって社会が安定しちゃった以上,秀吉の
システムが崩壊しちゃったんだと思うね.で,システムを構築で
きる家康が天下を握ったのは必然だったのかなとも思う.
信長→秀吉→家康ってのはその意味では理想的な順序で政権が交
代したんじゃないかな
337 :
334:2001/01/23(火) 02:01
伊達の天下がね。
三成の政治的能力は高く評価しても良い。
軍事能力(軍略・軍政・事前抗争力)が皆無、というか的外れ。
ただ、大垣夜戦中止は賢明な判断だろうと思う。
あれは、家康の”逆三方が原”じゃないかな?
339 :
>>330:2001/01/23(火) 02:02
方広寺事件の時、
淀君が家康の言う通り江戸城に居を移してれば、
そういう運びになったのでは?
まあ、彼女の性格からして絶対にありえないだろうけど……。
340 :
311@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:02
>>331 いやあ、少なくとも「九割は駄目」ッてことはなかったと思うよ。
何というか、あなたは結果を前提に考えておられるが、戦前の状況を
も少し、詳細に見ればちょいと見方は変わると思うぜ。
それだけ。色々面白かったです。
あと一つ、家康に忠誠を誓うことと豊臣家に忠誠を誓うことは別個の
ことだと考えた方がいい。これは当時の資料を見れば自ずと判る。
リアリティーがないと批判する前に、興味があるのなら自分でいろいろ
な一次資料をながめてみると面白いと思うよ。
家康の社会統治システムはどこまでも農村式。
日本の発展が確実に遅れた原因は、家康が天下を取ったこと。
だからって、信長様なら・・・なんて厨房なコトは言わないけど。
342 :
313:2001/01/23(火) 02:03
俺もあると思う.ただ,そのためには大坂城の明け渡しとかが必要だと
思うけど.豊臣家の地位と大坂城の財産を考えれば,徳川家にとって,
不安要素の種と成るのは必至だし,不安要素は叩き潰すのが当然でしょ.
公家の頭領として生きる道はあったんじゃないかと思うがね.
家康が凄かったんでしょ?単に。
それまで人生の全てが評価されたんだと思う。
そういうときは運も向くってもんよ。
問題はそれに無茶に対抗した連中が正常か異常かってこと
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:06
秀吉は織田の家臣だったけど、家康はもともと単独の大名だもんな〜。
秀吉に負けたわけでもないし、むしろ秀吉の天下に手を貸してやったわけだし。
「内府殿の専横」なんて言われても知るかっ!って感じだろうな。
>266
我ながら偉そうだ。気分悪くしたらスマンけど、まあ小説漫画とか
歴史雑誌、ムックだけじゃなくて、たとえば『看羊録』なんかも
読んだら? 面白いよこの本。
それと、善人はヤメい
346 :
>>339:2001/01/23(火) 02:08
妹は二代目将軍の正室なわけだし、淀君にとって(恩讐を捨てれば)
さほど居心地は悪くない場所だと思うのだけどなぁ…江戸城も……。
347 :
313:2001/01/23(火) 02:08
>>341 日本の発展がおくれた原因は,外からの脅威を受けていなかったからで,
誰が天下をとったとか,社会統治システムは関係がないと思う.
明治であれだけ発展したのは,外圧を受けたからでしょ.徳川政権の崩壊
のタイミングも理想と言えるかも.
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:09
根本的な原因は秀吉が家康を倒せなかったことに起因
している。秀吉がヘタレだっただけのこと。
西日本をすべて支配しておきながらたった五カ国の家康を倒せなかった。
349 :
266:2001/01/23(火) 02:10
>>340 9割はいいすぎた。。。七割くらい?でもあって見なくちゃわからないけどね。
俺がいいたかったのは、人間はまず自分(つまり彼らの場合は家族や
家臣)ありきで、その後に、いろいろなものが出るんだ。
彼らの大事なことはお家を守ること。そのためには天下の流れを
見極めて家康につくしかない。
まずこれが最初。
その次に、自分たちの名誉を考える。つまり大義名分。
それが「豊臣家を盛りたてるなら家康公につきます」とかそういう発言。
そうしておいて戦後も裏切り者の汚名を受けないようにする。
まさか当時の書物で「家康についたほうが得。別豊臣家などどうでもいい」
なんていえるわけないじゃん
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/23(火) 02:10
歴史群像のシミュレーション
「小早川が裏切らなければ西軍は家康を打ち破ったか?」
に西軍勝利後の新豊臣政権の陣容が書いてある
関白 小早川秀秋
大老筆頭 宇喜多秀家
大老 毛利輝元・上杉景勝
筆頭奉行 石田三成
奉行 小西行長・増田長盛・長束正家・前田玄以
豊臣秀頼は政治権力から分離され、オーナーとして
奥に退いている。だって。
金吾は約束どうり関白になれたんだね。
>>349 いやあ、すくなくとも『看羊録』ってのは抑留朝鮮儒者が書いた
日記だから、中立的よ。
352 :
>>348:2001/01/23(火) 02:13
ぬ?
家康があの時点で存在しなくても、秀吉の世継ぎが秀頼しかいない
状況が同じなら。
単に『乱世再び』になるだけだぞ?
353 :
>>350:2001/01/23(火) 02:15
金吾が(実質上の)トップじゃ三年持たねーぞ…、その政権……。
354 :
311@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:16
>>349 武家の人間を今の自分の価値基準で推し量るのは傲慢だと思うよ。
それこそ、リアリティー云々じゃなくて小説家連中の発想だろう?
そんなに家族家臣が大事な連中が、なんで改易されるようなこと
をするかね、ってな問いかけもでてきちゃうぜ。
ってしつこいなオレも。すんません。
355 :
名無しさん@一騎討ち:2001/01/23(火) 02:18
>353
傀儡でしょ
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:20
>>350 大昔にそれ読んだけど、認識甘いよね〜
そんな政権、風前の灯火でんがな
改めて言うけど、島津は三成派か家康派かと言えば三成派。
関ヶ原直前の家康の贔屓ぶりや戦中戦後の処理をみると
家康派に見えるけど、九州征伐の時島津を残すよう進言した
のは、三成だし。義久の追放令と人質の義久の娘を解放した
のも三成、検地して、一気に地頭や寺領の切り捨てで30万石
を打ち出したのも三成だし、経済政策を教えたのも三成。
三成は九州征伐以来、元からいた九州地方の大名と懇意だっ
た。家康はその牙城を崩そうとして結局失敗したといえるね。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:31
>>324 それ、順序が無茶苦茶だから、偽物だと思うなぁ。
元々、関ヶ原の戦さは上杉征伐から始まっているし、当時の三成は謹慎状態
だったから、上杉が三成に味方して軍を上げた、というのでは順序が逆。
西軍も多くは、上杉攻めに向かう連中を転向させたものだし。
仮に、三成が決起しなかったら、上杉は四方から攻撃されただけ。短期
決戦で家康の首を取りでもしない限り、まず上杉側に勝ち目はなかったと
思うので、影響力も何もないだろう。
小早川隆景が生存して…ってのは、家督を秀明に譲ってない、という前提 ?
もしそうなら、前田利家的ポジションになったと私は思うので、そもそも
家康が他の大老を挑発して潰すような行動は取れなかったと思う。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:40
秀吉が死んだ時点で乱世…って話があるけど、それって東国だけじゃない?
前田、毛利は代替わりして半分牙が抜けてるし、家康より豊臣と縁が深い。
宇喜多は養子だったからベッタベタの豊臣党。
東海地方は秀吉が子飼いの武将を並べていたんだから、あの時点で野心を
持ってたのは、家康と伊達くらいだと思う。その伊達も上杉がいる限り、
身動きできんしさ。
家康が大人しくしてれば、案外豊臣政権続いたんじゃないか ?
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 02:57
>>359 五奉行五大老の豊臣政権は続くと思うけど,それだと実質的に政権を
動かすのは家康じゃない?
361 :
323:2001/01/23(火) 03:04
>359
でも、天下人の秀吉が死んだら5大老の誰もが
「次はっ!!」って思ってしまうんでは・・・
だって家康も同じ人間なんだし、やっぱ欲っていうか野心っていうか
そういう気持ちが生まれても不思議ではないと思いますね。
362 :
名無し城無し:2001/01/23(火) 03:06
豊臣政権が続けば、実際に家康がしきっていたとしても、
秀頼が成人し、関白に任官すると、家康の権力・影響力は、
少しずつ減少する。それを家康が黙って耐えるとは思えない。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 03:11
秀頼って実はすごいカリスマ的で優秀な奴だったらしい。
謁見した家康がこれはヤバいと思って慌てて豊臣家つぶしに
かかったほど。
まぁ、血統を見れば
父 豊臣秀吉
母 淀君
母父 浅井長政
母母 お市ー信長の実妹
という圧倒的良血なのだから当然といえば当然なんだが。
父父は?
365 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/01/23(火) 03:37
卑しいよ。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 03:44
父は大野治長じゃないの?
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 03:57
↑のほうの関が原後の勝手な閣僚予想ですが・・・
実際の石田三成の行政能力はかなり高かったはず。
三成が(平和時に)政権の実質を握ってればまぁ安泰でしょう。
彼自身、大局を見る目にからきし弱いですが・・・。
あと、みんな後世の妄言に騙されているけれど
金吾は「そこそこ」の人物です。
言い換えても、「そこそこ」なんですが(笑)
つーかそれ以前に、
関が原で例えば西軍優勢でも、その後の
「江戸攻略戦(降伏するとは思えない)」がやれるかどうか・・・
東海道ことごとく制圧しながら、でしょう?ムリムリ。
佐竹か、上杉・・・はムリか。
あと、結城秀康でも懐柔しないと。
つーわけで、・・・乱世again!ですな。
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 04:37
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 04:43
>秀頼って実はすごいカリスマ的で優秀な奴だったらしい
彼の評価は二つに割れるみたいだけど、実際どうなのかね。
適当な資料がなくて、想像に頼らざるを得ないんだろうか。
なんか決定的な資料ってあるの?
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 05:39
うかうかしてると官兵衛が来ますよ〜
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 11:45
>>363 >カリスマ的で優秀
かどうかを判断するには、情報が少なすぎるね。
徳川が実際以上に貶めたという事実はあるだろうけど。
そういや、千姫の母父も浅井長政なので、
両者の子供が生まれたら、浅井長政3×3のインブリードだね。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 12:26
浅井長政3×3のインブリード
・・・武闘派になるのか秀頼は?
やや血が濃くて身体が弱くなるかも。
浅井系はBMSとして優秀なんだろうか。
(何のこっちゃ)
カリスマ性はあったかもね。父の威光かもしれんけど。
京都での家康の対面での話を聞く限りではね。
もっとも、大阪の陣を見る限りでは、実際の能力は
あったとはおもえんけど。
>>375 淀の気が強すぎたのがあるんだろ。
自分の叔父の部下同然で野原かけずり回ってた奴に
偉そうにされるのが気に入らなかったんだろな、きっと。
377 :
徳川家光:2001/01/23(火) 17:23
秀頼なぞより、わしの方がサラブレッドじゃ。
秀頼が太閤殿下の子がどうか疑わしいのに比べれば、わしは確実に徳川、浅井、織田の交配じゃからな。
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 17:28
>京都での家康の対面
そのときの様子を書いた誰かの日記とかないのかな?
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 17:43
>>378 あるはずだけど、いま手元にないのでみっかったら書き込みます。
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 18:26
なぜ島津義弘は、逃げたのに、本領安堵になったんだろう?
誰か、知ってる人いたら教えて。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 18:30
>380
義久の政治力の為せる業
382 :
>>380:2001/01/23(火) 18:38
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 18:43
やっぱ、秀吉が一代の成り上がりもので、
秀吉個人の恩顧の大名はいても、
豊臣”家”恩顧な大名などいなかったせいかなぁ。
それを言ったらみもふたもないが。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 19:08
後継ぎがしっかりしてないし、後見人が病死しては土台はあっさり崩れます。
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/23(火) 19:16
信長の家来時代に息子が生まれていたら
頼もしい後継者になってただろうにね
(流産したんだっけ?)
386 :
島津維新@傍観中:2001/01/23(火) 19:18
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 19:26
>>380 ごく単純に考えたら、家康との密約があったのかもね。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 19:27
そもそも西軍に最終的な勝利がありえなかったとすれば、敗戦の責任者を問うこと自体、無意味では?
敢えて言うなら、首謀者の三成ということで。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 20:08
>>387 密約があれば、死に物狂いで戦線離脱なんてありえないだろ?
そもそも他の裏切り武将と同じように裏切るだろ?
>>382のリンク先の見解が尤もだと思う
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 23:51
>>385 信長の子どもの一人を養子にもらってなかったっけ。秀吉はその子を
どうしたのかな ?
秀次を潰してなかったら、どうだったのだろう ?
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/23(火) 23:58
あの〜・・・
島津は当初、西軍に加わる気なんか無かったですよ。
その辺が「行き違いだった」と言えば、咎めようがない。
島津=豊臣嫌い
島津=三成嫌い
なんで西軍に進んで加わる必要があるの?(ワラ
俺が島津なら、関が原で戦いたくないよな。
三成の
「ホラ!うっとこは島津もいるでよ!鬼島津だよ〜!どうだぁ!」
で、連れてこられただけじゃん。
>>392 だから、漫画や小説で偉そうに語るなよ。
見ててイテーぞ
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/24(水) 00:28
>>秀勝ですな。
本能寺の変の時はどうしてたんだろ?
>>391 一応、黒田長政や安国寺あたりはともかく、他は全て、
行き違いで東軍や西軍になったんだけど?
まあ、島津は、さほど西軍として活躍してなかったし、
抵抗されたら怖いからでしょう。
>>392 自分の妄想に凝り固まった奴は用は無い。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:31
もし、鳥居が島津を伏見城に入れてたら、どうなったんだろう。
落城しなかった?
それとも、やっぱり敵中突破で東軍に合流?
島津ほど、誤解され過大評価されイメージと実態が
異なる存在はないな。
旧軍関係者と彼らの俗説を鵜呑みにした
小説屋の両方に問題がある。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:34
本能寺の変あたりには生きていた<秀勝
てえか明智を討つ名分が秀勝・信孝の敵討ちに協力するっていうのだからね
その後とっとと死んじまったらしい
399 :
379@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:39
>>378 とりあえず、松平忠明撰『当代記』より。
廿八辰刻秀頼公入洛、則家康公の御所二条へ御越、家康公庭上まで出給ふ、
秀頼公慇懃に謝礼し給ふ、家康公座中へ入り給ふ後、秀頼公庭上より座中へ
上り給ふ、まづ秀頼公を御成の間へ入れ申し、その後、家康公出御あり、
互の御礼あるべきの旨、家康公曰うといへども、秀頼公堅く斟酌あり、家康
公を御成の間へ出し奉り、秀頼公は礼を遂げ給ふ、膳部かれこれ美麗に出来
けれども、かへつて隔心あるべきかとて、ただ御吸物まで也、大政所、これ
は秀吉公の北の御方也、出で給ひ相伴し給ふ、やがて立ち給ふ、右兵衛督
(徳川義直)・常陸介(徳川頼宣)途中まで相送らる。
てなわけで、秀頼はあくまで最上の客としてもてなされてます。
400 :
島津維新@傍観中:2001/01/24(水) 00:41
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 00:45
402 :
島津維新@傍観中:2001/01/24(水) 00:48
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ZZZZZ
……寝るなよオイ。なんか三っちゃんがケツまくったみたいだぜ
>>396 小早川秀秋も入ろうとして断わられた。
入れれば持ったかもしれないのに、何故入れなかったかと言うと。
鳥居は陪臣なので、大名級の武将を入れたら、部下になってしまう。
つまり、徳川が被害者にならない。
そういった問題から、いれなかったと思う。
405 :
島津維新@お目覚め:2001/01/24(水) 01:21
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
Σ( ̄□ ̄;)< ちょっしもた!
\_________
……逃げ道ねーぞ維新さんよ
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 02:49
>>396 >>404 秀秋や島津が伏見城に入ろうとしたけど断られた、つーのは講談創作
ではなく史実なの ?
そーいう態度取った相手に目付けも付けずに味方に引き入れるってことは
常識的にはあり得ないと思うのだが…。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 02:56
なんかさ、厨房みたいで悪いんだけど。
あんましイタイから言っとくよ。
>>393さん
>>395さん、
>>392さんは崩して書いてるけど、正しいのよ。
>>395さんの
>他は全て行き違いで東軍や西軍になったんだけど
ってのはどっから来た妄想資料だろう?
かなり笑えるんだけど。
君らこそはもう少しねぇ・・・
歴史群像ムックとか光栄本とかくだらないのばっかり読んでないで、
図書館へ行くなりして知識をつけてきなさいね。
友達の間の物知り小僧ぶるくらいなら今のままでもいいけど。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 03:11
徳川に通じてて、味方できなかったってのは後付けの話
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 03:37
お!荒れてきた荒れてきた
412 :
名無しさん:2001/01/24(水) 03:52
絵本太閤記とか、甫庵太閤記をベースにした話を史実として語ろうとは。
笑止。
秀吉の子供、秀勝3人です。
羽柴秀勝
長浜時代の側室との間の子供。早世。長浜市妙法寺に伝・墓あり。
羽柴秀勝(於次)1568生まれ
信長からの養子(四男)
お家の保身&家格向上を狙ったと思われる。
(秀吉がどれだけ出世しても、次世代には一門衆だもんね)
山崎・賤ヶ岳・小牧長久手に参戦。
大徳寺の信長公の葬儀で位牌を持ったのがこの秀勝
1585年 京都府亀岡市亀岡城主で死去。
秀吉による暗殺説もあるが、まぁ作り話でしょう。
遺領は下の小吉へそっくり渡される。
豊臣秀勝(小吉)
永禄12(1569)年生まれ・実父は三好吉房
つまり、金吾ちゃんの弟。
弟らしく、いわゆるドキュソ全開。
天正13年近江瀬田城主。そして上の於次の遺領継承
15年九州の陣に兵五千で出撃。そんなボクちゃん自信を持って
「亀山十万石はボクには少ない」と秀吉に訴え秀吉激怒→没収。
秀吉実の姉である生母のとりなしで越前に5万石
(無子断絶となった蜂屋頼隆の旧領越前敦賀5万石、のち大谷吉継へ)
18年、小田原に2500で出撃
その功(ハァ?)で甲斐府中に10万石
しかし母の「我が子が遠いのは不憫」という訴えで岐阜15万石。
文禄元年・参議に。岐阜宰相と呼ばれる。
その直後、朝鮮へ8000兵で出撃。
しかしあえなく巨済島で病死(笑)
享年二十四歳。
片眼であったとの伝承も残ってます。
・・・あ、あと溝口秀勝も「豊臣朝臣秀勝」だけど(笑)
ん〜〜と、それと質問なんだが、浅井三姉妹の真ん中(後の秀忠夫人)
との間に子供が一人いたのは、於次か小吉かどっち?
それと、織田秀信の正室が「秀勝の娘」なんだが、どっち?
多分小吉だろうけど。
414 :
斥候:2001/01/24(水) 03:59
415 :
蜂須賀オオニタ小六:2001/01/24(水) 05:59
イタイイタイ!
いててて!!テメェどこ縫ってやがる!俺に針かしやがれ!
ほぅらほぅら、こうゆう傷じゃないところもドンドン縫わないと
駄目ナンだよ、痛くないし傷がイッパイついてカッコイイだろ?
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 06:40
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 07:11
>>409 何かエラそうにいってるアンタはソース示してから、でかい口たたけよ
何を証拠に小説や講談の話を否定してるんだ?
418 :
なにぃ?:2001/01/24(水) 07:56
>>417 コラコラ、そんな返し方してたら自分は小説や講談を
元に話してますって言ってるようなもんだぞ
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 08:08
>>418 だから、図書館で調べてきた信用出来る資料でこのスレで
否定できる逸話を否定すればいいだけの話だろ?
小説や講談を元に話さないご立派な方には簡単なことだろ?
その反証もなく、小説ネタだから嘘だというのは論理的ではないだろ?
それくらいはお利口さんのアナタにはお分かりでしょうが(w
>>409 すまん、行き違いじゃなくて成り行きだ。ボケ過ぎだすまん。
島津だけど357で好意をだくべき理由は書いてあるけど。
小説だからって言うけど419が言ってるように反論かいてくれない?
議論も納得もできんから。
豊臣に征伐されたのが嫌う理由だけならほかの大名もあるから理由
としては弱いと思うんだが。
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 09:02
小説や講談が資料としての価値に全く欠けるとは言わないが、
すくなくとも個人の思い入れや創作の入るそれらが
資料として信頼できるとは言い難い。
とくに軍記物などでは、一つの事象に対して互いに異なる
事実を記載しているものなどが多数ある。
ある種の物は、明らかに、そして恣意的に虚飾を施している。
真実を追究したいのなら、誤りや誤解が多いと思われる
これらの資料を使用して議論するのは危険であると思われるが、どうよ?
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 09:51
>>421 それを言ったら、何も議論できねえよ。
誰も自分の家の書物に自分の悪いことなんか書かないだろ。
ごちゃごちゃした中から真の情報を見つけるってのは大変なのだよ。
真実なのにウソ扱いされているのだってありそうですし。
↓357から抜き出したけどこういのは。
>関ヶ原直前の家康の贔屓ぶりや戦中戦後の処理をみると
>家康派に見えるけど、九州征伐の時島津を残すよう進言した
>のは、三成だし。義久の追放令と人質の義久の娘を解放した
>のも三成、検地して、一気に地頭や寺領の切り捨てで30万石
>を打ち出したのも三成だし、経済政策を教えたのも三成。
こいうのも、誇張や嘘が含まれていると切り捨てるの?
例えば島津奔るの三成嫌いは、どーみても義弘の心情を勝手に斟酌
しているだけですので、そうだと思いますが。
>>389 島津義弘ほどの人物が、敵中に取り残されるまで
状況に気付かなかったっちゅうほうが、余程不自然と思う。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 10:41
学術的な資料も、確証が取れてるわけではない点で、小説
とあまりかわりません。
それはともかく、この板って小説やゲームも混ぜて、歴史談義
に花を咲かせようというもので、厳密な考証をする場としては
相応しくないと思います。
で、そういう窮屈な話をしたい方は日本史板にでも行った方が
良いんではないでしょうか。
>>425 そりゃそーだ。
>>417あたりのアホが暴れるからいけない。
つーか、こいつなんか日本史板行ったら袋叩きだろうけど。
あ、あと、
>>419さんよ、
(wなんて厨房表記すんじゃねーぞ。痛々しいから。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 11:17
はい、結論が出ましたね
よろしいですか?
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 11:36
最大の敗戦責任者は、釈由美子
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 11:44
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 11:49
マターリいこうぜ
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 15:16
資料資料っていってるやつはバカなんだよ。
資料はあくまで事実だけでしょ?
で本人がどういう考えで動いたかは想像するより仕方ないじゃん。
例えば資料で「〇〇はこういってた」っつったって本当はどう考えて他かなんか
わからないじゃん。
小説はそれの一例に過ぎないことも確か。
っつーか、これくらいのことわかってないならここくるなよ。
寒くなるだけじゃん
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 15:43
そもそもワザとニセ情報流すぐらいだしな。
(本能寺の後、秀吉は織田軍団に「上様は脱出した」
って手紙書きまくってる)
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 15:57
>>426 それは片手落ちの判断だと思うぞ。
>>417>>419の意見は
>>409のような小説の出典で語らずに図書館などの学術的な
資料で語ってくれという意見に対する反論だよね?
先に小説などを出典とした意見に対し、批判だけはするが自らの学術的な資料から
の出典とした意見を出さない
>>409を批判するべきだと思うよ。
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 16:02
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 16:15
>>424 私は、小早川秀秋の裏切りが予想外だったんじゃないかと思ってる。
当時、関ヶ原の合戦が半日足らずで終わると思ってた武将はいなかった
だろうし(いたとすれば、小早川の裏切りを予測できた家康と黒田だけ
だと思う)。
最初から裏切るつもりがあれば、隣の石田が総崩れになった時に裏切れ
ば済む話だし、自分が戦わない=即西軍の敗北、の様な状況でサボタージュ
するとも思えない。西軍負ければ自分達も危険なのだから。
我々は関ヶ原の合戦が一日で終わったことを知っているから、島津の
傍観は不可解だけど、関ヶ原の合戦が長期戦になると考えていれば、三成
への当てつけで、ちょっと傍観するつもりなだけだった、と考えるのが
妥当なのでは。仮定の話だけど、戦さが長引いていれば、次の日からは
きちんと戦った可能性もあったと思う。
それが、小早川の裏切りで西軍は予想外の早期壊滅。その場で寝返りした
としても、家康に認められる保証は無い。やむなく敵中突破、というのが
真相だと思うな。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 16:20
>>435 なるほど。
坂本竜馬が苦労したように薩摩と長州は仲が悪かった
島津からすれば毛利勢から関が原で煮え湯を飲まされたという
意識がずっとあったのかも知れませんね。
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 17:31
毛利は後継人選びで大変だったでしょう、秀元、秀就、秀包の三人がいて。
家康、三成にとってもいい時期だったでしょう。
>>413 小吉秀勝は関白秀次の弟。秀忠の妻は三姉妹の末っ子。←が産んだのは小吉の子。
>>392 >なんで西軍に進んで加わる必要があるの?(ワラ
加藤清正の支城を攻撃しているから西軍と認定(藁
>>436 まあ、禁門の変のこと考えたら、長州はとても薩摩の言うことなんか信用できないよ。
藁とか言うのをやめたら。荒れるもとだよ・・・・
>>438のような自覚の無い厨房がスレを荒らしてるんだよなぁ。
今後一切、(藁、(わら、(w、(笑 などの使用禁止にしよう
それから
ちゃんとした論証のある意見は当然尊重すべきだが、
出典が小説だからといって、一言のもとに否定するような意見も
無視しよう。
>>435 そうだね。というか大部分の人間が天下分け目の戦いが
たった1日で終わると考えて無かったんじゃないかな?
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 21:31
真田昌幸は多分主力同士の一発勝負になり、短期で終わると踏んだから
上田城で上手いこと時間稼ぎしようと考えていたらしい。
そうでなきゃ、西軍と合流してるな。
だが、結果は敗北。
「自分か幸村が2000の兵で関ケ原に行けばこんなことにはならなかった。』
とかぼやいていたらしい。確かに彼らの苦労を考えるとねえ…
>>442 一言のもとに斬り捨ててるというか、小説に出ていることをなにも咀嚼
しないでしたり顔で書き込む連中に嫌気がさしてるヒトがいるんじゃな
いの? まあ、資料至上主義者も結局、受け売りというトコでは同じだ
ろうけど。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 22:00
他者の受け売りをさぞ自分の考えであるかのように言っている奴らがウザい。
447 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/01/24(水) 23:25
>>445 要は根拠の有無かな?
書状や史料に書いてあることが真実とは言わないけれど、
何に拠ったのか良く分からない小説の記述よりはマシ。
最近は明らかに歪めて書いている作家が多いから(池宮某とか)。
>>448 そう。小説の中にももちろん面白い説や、ひょっとしたら真相に一番
近いかも、というものもあるけれどね。そのばあい、だいたいネタ元
になった資料がちゃんと書いてある。
>>433-434で厨房大暴れさ。
>>409くんが”小説が出典”って証拠出してみな、リアルクサチューくん。
>>450 なー、
>>409の根拠はどっから出てるの?
オレ、知りたいんだけど。純粋に興味ある。
あんた知ってそうじゃん。
>>450 すまん、書き方わりーな。煽っているわけじゃないので、知ってるんだったら
教えてくれす。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 08:10
>>450 お前日本語も理解できんのか?
このマヌケが?!
まあまあ、マターリいこうよ。
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 08:36
荒れろ荒れろ!ククッ
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 10:21
バカ厨房と荒らしは放置しとけよ。
457 :
花と火のミカド:2001/01/25(木) 12:34
それじゃ岩介なども実在の人物と思って良いですね?
458 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/01/25(木) 12:39
そんなこと言ったら俺様が勝手に想像している
織田信長は実は天皇の隠し子だったというのも
真実にしてくれ、いや・・・あが(以下略)
459 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/01/25(木) 14:39
私は吉川広家が悪いと思う。
全てが裏目の結果にさせた張本人だから。
460 :
真田太平記:2001/01/25(木) 17:10
お江です。
島津様は三成様方です。
葵三代は信じてはいけません。
ねぇ 岩介どの。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 17:10
志茂田景樹とかが書いてる逆説的な関が原も考慮に入れよう
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 17:13
む、それじゃ島左近はすげぇ強いので一人で1万人殺したって
ことにしても良いですか?・・・・だめっすかね??
じゃ、謙信公は女だったってのも、
竜造寺隆信の巨体は実は肉襦袢で、脱ぐとスリムな美少女が...
という俺妄想もアリアリで。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 19:36
>>461 あれは、志茂田が書いたにしては奇跡的に
まともな部類の小説だったね。
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/25(木) 19:44
>>463 美少女・隆信は鍋島直茂の前で肉襦袢を脱ぎ捨て、クレオパトラの如く自分をプレゼント。
かくして、希代の名臣を得た竜造寺家は大躍進を遂げた。
しかし、美少女・隆信の最期は、沖田ばるで島津兵にさんざんレイプされた挙句に殺されるという悲惨なものであったという・・・
結論:この板の住人はバカばっかりということでよろしいですか?
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 00:43
最初に戻るけど、輝元って何考えてたんだろう?
総帥になった時点で、死にもの狂いに戦う以外の選択肢は無いと思うんだが。
この時の行動だけで、輝元=無能という印象だよ。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 00:48
>>464 家康の陣中に本多正信がいるもはオカシイ
469 :
毛利輝元:2001/01/26(金) 01:53
とりあえず、細かいことはえけいや秀元、広家が何とかしてくれるんではないかと・・・・
これだけ大きな大名の当主ともなると、軽々しい振舞いはできんのよ。
叔父さん達にも「お前はちょろちょろせんで、でんと構えとけ」って言われてたし。
改易は痛恨事だったし、広家に恨みの一つも言いたいけど、
お祖父さんの言いつけどおり、家名は残ったわけだし、
もとは一国人にすぎなかったのが、明治まで周防・長門の大名として残れたんだから、これで良しとしなきゃ。
えけいはちょっと気の毒だけど、三成の首が飛ぼうが、豊臣家が滅びようが関係ないもんね。はっきり言って。
>>469 その覇気のなさがやっぱり敗因のひとつだわな。
471 :
吉川広家:2001/01/26(金) 02:23
ご批判は甘んじて受けます。
内府殿の下で大毛利の存続可能と見た私の読みは確かに甘かったです。毛利家は大きくなりすぎていたのです。
しかし、「敗戦の責任者」という評価は到底容認できません。なぜなら、私はむしろ積極的に西軍を負かしたわけですから。西軍の敗戦は私の計算通りだったのです。
思うに、此度の戦は内府殿と治部少輔の私闘。毛利家は始めから与すべきではなかったのです。
否。むしろ、治部少輔を挙兵さすべきではなかった。戦を起こしたことこそ、内府殿の天下、ひいては毛利家の改易を招いた元凶。
叔父上が生きていれば、治部少輔如きの好きにさせなかったものを、如何せん私には力がなかった。
しかし、毛利家が残って、んっとに良かった・・・・
472 :
469・471:2001/01/26(金) 02:28
最大の戦犯とされる毛利一族の気持ちを代弁してみました。
輝元の後半は冗談半分ですけど。
毛利一族が好きだから、あんまり、いじめないでね。
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 02:53
>>472 毛利一族でも、秀元は、関ヶ原から戻った後、大阪城で徹底
抗戦をブチ挙げたらしいね。やっぱり、吉川さえいなければ…。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 02:58
大坂城で徹底抗戦って、そのとき豊臣家の立場はどうなるのだろう。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 03:09
吉川がいなけりゃ、家康はあんな地勢の悪いところで決戦に持ち込まず、別の作戦を考えたでしょう。
秀元みたいな猪武者が暴れてくれるのは、それはそれであり難いかも。
宇喜多みたいに遠慮無く、毛利を潰せるし。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 03:26
>>475 家康は吉川の工作は信用してたのかね ?
史実かどうかはともかく小早川に対しては、裏切りを即す銃撃を
したという逸話が残ってるし、裏切り自体が半日たったあとだから
秀秋がどちらに付くか、最後まで迷っていた様子が伺える。
吉川、毛利には、その手の逸話ないもんね…。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 04:03
関が原での吉川広家の行動は、単に元就の言い付けを守ったがゆえだけでなく、三成に対する恨みもあったらしいね。
478 :
名無し城無し:2001/01/26(金) 04:34
吉川の行動は、家を守った忠義の行動。
悪い結果にはなったが、最悪にはなっていないだけに、
評価するべき行動だと判断したい。
外交で強気に出れば、島津みたいに、御家安泰という結果も
あったのでは。
なにしろ、大阪の城に入っていたのだから。城を出た時点で、
負けが確定したとオレは読む。
毛利攻めになれば、どうなるかは、家康にも読めなかっただろう。
三成の行動は、傍若無人なところも多く、人の心が読めないようなところが
多い。吉川の反目などは、三成憎しもあっただろう。
479 :
前田利長:2001/01/26(金) 05:02
じつは僕です。とーぐんだけど。
480 :
大谷吉継:2001/01/26(金) 05:14
いいえ、僕です。親友を遂に説得できなかった・・・・
・・・あの・・・発言してもいいですか?
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 15:05
大谷吉継は負けを承知で西軍についたらしい。
老い先も短いし、親友を裏切りたくない(三成に命を預けてやる)だと…ホントか
どうかはわからんが、関ケ原で真剣に戦った数少ない西軍の武将の1人ですからね。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 16:18
>>478 でも、主家は削られ自分は残ったんじゃないの?
忠義の行動とはいえ、問題はあったのは確かだけどね。
484 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/26(金) 17:10
>>483 つ〜か、黒田&井伊直正に騙されたんだよね。家康本人の
本領安堵の約束は取れなかったから、毛利は取り潰し、吉川
には周防と長門の30万石を与える、なんてことになって
しまった。
さすがに、この話は飲めなくて、必死に嘆願して周防・
長門に毛利本家を残すように話をまとめたんだけど…
毛利一族には、誰も評価してもらえず、冷や飯食い扱いに。
自分の取り分を削って、お家を守ったんだから、「いい人」
だとは思うが、読みが甘かったってことだよね、やっぱり、
毛利一族って言うか(汗。
ところで、幕末まで吉川家は存続してたんでしょうか?
徳川に対する恨みつらみは半端じゃないと思うが。
485 :
岩国吉川:2001/01/26(金) 17:34
>484 存続してますよ。
幕末時も、本藩の人間は岩国支藩を冷たい目で見てたでしょ。
486 :
>>484:2001/01/26(金) 22:02
>毛利は取り潰し、吉川には周防と長門の30万石を与える、なんてことになって
>しまった。
うぉ、さすがにエグイぜ家康(笑)。
申し出を吉川が飲んでも固辞しても、本家に対してのシコリが残る、
毛利家分断の妙案ですな。
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聞いてアロエリーナ ちょっと言いにくいんだけど
聞いてアロエリーナ
いいかげんなりきりスレウザイ!とか思ってAA貼る俺が
一番厨房だと思うの
聞いてくれてあーりがと アロエリーナ♪
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(○) (∀・ )
ヽ|〃 (∩∩ ) ゴ ー !
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| 劣化ウラン弾食らえやゴルァ!?
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聞いてアロエリーナ ちょっと言いにくいんだけど
聞いてアロエリーナ
いいかげんなりきりスレウザイ!とか思ってAA貼る俺が
一番厨房だと思うの
聞いてくれてあーりがと アロエリーナ♪
\______ __________/ だめだこりゃ
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(○) (∀・ )
ヽ|〃 (∩∩ ) ゴ ー !
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| 劣化ウラン弾食らえやゴルァ!?
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489 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 05:26
厨房がまた「それは小説だ!」と言って暴れてます。
図書館行けば?ないの?あ、病院出してもらえないんだ。
すまん!傷つけたか?悪りぃ悪りぃ。
こうやって、400年後の一般庶民にまでアレコレ言われるんだから、
家名の残し方とか死に方って大事だよな。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 11:51
毛利秀元「だって弁当食べてるんだもん、でっかい弁当ナンだもん」
石田伝令「・・・・はぁそうでしゅか・・」
「てめぇふざけるな!」とは口が裂けても言えない
石田三成の伝令さん、悲しい仕事だよなぁ。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/27(土) 18:47
利家が総大将だったらとてもそんなこと
言えなかっただろうな
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 18:49
>>491 それ、吉川広家でしょ ? 毛利秀元は対徳川・強硬派だよ。
494 :
風の谷の名無しさん:2001/01/27(土) 19:07
しかし、吉川広家になべおさみとは・・・・あんまりだ。
なべ「やんぬるかな!」
495 :
吉川広家:2001/01/27(土) 19:23
われわれはこれよりコウチュウを使う
毛利一族の先陣はこの吉川広家がつかまつる
一兵たりとも山をおりること
まかり通らぬ
でもまあ、こういう風に責任者が決まらない事が、
西軍の敗因だろうな。
責任者不在の組織はもろい。
497 :
田原総一郎:2001/01/27(土) 22:34
最近の西軍はなんかおかしいですよ。
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 22:41
空弁当は輝元じゃなかたのかな
499 :
名無しさん:2001/01/27(土) 23:04
>>498 輝元は関が原にいねーだろ。大阪城詰めだ。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:07
>>499 逆にだからこそ、最大の責任者と言えるかも。
毛利本隊が関が原にいたら・・・
501 :
毛利氏擁護:2001/01/28(日) 00:16
まあ、やる気がない連中を引っ張り込んで、お神輿にしちゃったんだし、首謀者が責任取るべきだろ。やっぱ。
実際、首刎ねられたけど
502 :
名無し城無し:2001/01/28(日) 00:16
>>500 それを成しえなかった男と、それを拒んだ男、拒ませた忠義者。
この3人で決まりでは。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:41
石田が百万国大名だったらなんの問題も無かっただろうにね
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/28(日) 00:58
前田氏が百万石を越えたのは関ヶ原以降って本当?
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:18
なんか秀吉に領地増やしてやろうって言われて断ったんじゃないっけ?
三成。
既出だった?
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 20:29
>>505 小早川秀秋の領地である筑前を取り上げて与えようとした。
でも三成は筑前の代官になったんだけど、家康の取り成しで秀秋が筑前領主に
復活した。
ああ、因果は巡る。
大谷形部に男気1票! ゲームでもカッコいいしな。
↑...こいつの責任ではないから・・・間違いか?
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 21:51
西軍で一番かっこよかったのは、島津義弘だな。
あの撤退劇で武名を立派に上げているし、戦後もお咎めなし。
さらに島津は宇喜多の助命嘆願までしているんだから根性が座っている。
それに比べて西軍から東軍に寝返った大名たちは徳川に媚びているのがミエミエで
見苦しい。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 21:56
吉川、小早川が生きていれば・・・
510 :
吉川元春:2001/01/28(日) 21:59
案国寺は殺しときゃよかった。
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 22:00
石田三成がチンコ痒くてイライラしっぱなしだったので負けました。
512 :
小早川隆景:2001/01/28(日) 22:02
やっぱりあのバカを養子にしなきゃしよかった。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 22:11
別に養子にしたくて養子にしたのでないのでは?
毛利輝元に子供がなくて、秀秋を毛利宗家の養子にという話が持ち上がり、
「それはまずいと」思った小早川隆景が、自分にも子供がいなかったので、
「ならば、小早川家の養子に」と申し出たのでは?
それで小早川家も名家だったので、秀吉は喜んで養子に出したとか、何とか。
514 :
小早川隆景 :2001/01/28(日) 22:16
>>513 だから安国寺の養子にしとけば・・・と後悔している。
奴は、安芸武田の出で源氏の子孫だから家柄では問題無い。
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 22:21
ちなみに隠居した隆景は、筑前などの領地を秀秋に譲り、毛利本家から知行を受け、三原に戻った。
そのとき、隆景が養子に入って以来の小早川家の旧臣の大半も三原についていったとか。
で、隆景が死んだときに、その知行地が吉川広家に与えられたため、それら小早川家旧臣は宙に浮いた格好になり大変だったそうだ。
ちなみに広家の方は、この山陽への知行替えについて、山陰は吉川という元就以来の伝統が破られたことにひどく怒り、毛利家内のこの知行替えが三成の干渉によるものであったため、ひどく三成を恨んだそうだ。
516 :
輝元は・・・:2001/01/29(月) 12:51
内政に関しては非常に有能だった。
配下や民の信頼も非常に厚かった。
広島の街を建設したことが、最大の功績とされる。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 13:05
元就殿が110くらいまで生きていてくだされば・・・。
毛利ももっとましな行動が取れたかもしれんのう。
巨大な毛利一族をまとめる有能なカリスマがいなかったのが、いけんのう。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 13:09
つーか,三成ってあちこちで恨みかいまくってるな
こいつが人情を分からなかったせいだろ,結局は
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 13:20
秀吉の代わりに泥を被っただけ。人情云々は間違い
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 13:25
元就にあれ以上長生きさすのは酷だろ
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/29(月) 14:12
しかしなんだな、家名存続が危ぶまれた西軍の大名は、なんとか生き残った後は
しぶとく家名を残してるね。島津、毛利、佐竹、上杉、立花と。
徳川体制確立後に取り潰された大名で目立つのはどっちかというと東軍側で
大加増を勝ち取った外様武将(加藤、福島、田中)。秀吉臣下からのし上がった
大名は家中の構成も急仕立てで、取り潰しに対して抵抗が少ないのかもね。
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 14:29
ちがうよ。家康が名家好みだっただけだ。
>>522 いや、好みの問題では無いと思うが。
政治的にも軍事的にも、残しておかなければ安定が得られないから。
524 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 19:09
>>518 つうか、陳情を人情云々で左右するような真似やったら
政権が崩壊するよ。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/29(月) 20:26
白河で上杉景勝と闘ってたらどうなったか分からんな。
三成が兵を挙げなければ・・・
三成のヘタレぶりにはあきれさせられる。
526 :
代打名無し:2001/01/29(月) 22:46
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/30(火) 02:03
>504
そうだったと思う。
前田藩は関ヶ原以後に100万石を超えたはず。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 02:54
>>526 史実はゲームとはまったく違う。
東軍が上杉本隊を破らないうちの最上、伊達の参戦はあり得ない。
ただし、東軍が白河の陣に突っ込めば、一日でボコられるだろう。
三成憎しで家康についている東軍に上杉に対する戦意なし。
三成が挙兵しなければ逆に家康が窮地に陥っていた。
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/30(火) 03:52
>>527 ありがとうございます
それじゃ利家が百万石云々というのはおかしいんですね
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:27
>>528 三成が挙兵しなけりゃ、上杉はただの反乱軍で、ジリ貧じゃないの?
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:33
>>528 三成挙兵しなければ
上杉は会津七口の内、五口から攻められジリ貧
タイミングが悪ければ上杉降伏、又は滅亡し、
結城・最上・伊達・佐竹・堀も東軍に参戦
一番良いのは挙兵せず、口実を作らせずにしながら家康が死ぬのを待つ事かな
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:38
そもそも、三成挙兵の約束がなけりゃ。上杉の挙兵もないと思う。
それじゃただの反乱だし。
しかし、逆に三成が上杉を欺いて挙兵させ、家康らに上杉を倒させたあと、空いた領地を豊臣系に摂取して権力強化を図るというのは良い手かも。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 04:41
あ、でも論功行賞でまた揉めそうだし、上杉と謀議を持った時点で三成も同罪ってことで連座させられるかな。
で、五大老の一人が欠けて、家康は益々権勢をふるう、と。
そもそもあの時点で三成は既に権力の中枢にいなかったんだよな
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 06:36
>>529 前田利家は100万石を領していたよ
利家死去後に利家の所領の内
加賀と越前の一部を嫡子・利長、能登21万石を次男・利政が相続して
関ヶ原で利長が東軍に、利政が西軍について戦後利政の所領を没収し
そのまま利長に加増しただけです
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 07:02
上杉は反乱軍というより徳川がいちゃもんつけただけであって
ほかの大名には関係ない。
端的に上杉と徳川だけの問題。
最上、伊達etcに上杉を攻めるインセンティブなし。
そもそも、最上も伊達も、家康の部下でもなんでもない。
堀は一揆で戦闘不能だし、四方から攻められる訳がない。
だからこそ上杉は全軍を白河に集結させた。
また、三成と密約があったのなら30万石も残るわけがない。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 08:32
ほお〜
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 12:01
上杉征伐の正否は、if の世界になってしまうから分からない
よね。伊達は会津領の回復狙って張り切るかもしれないけど、
他の部将には、どれくらいの戦意があるかは不明だし。
上杉との密約が噂された佐竹も、実際に徳川の後方遮断するか
も不確定だし。案外関ヶ原の毛利みたいに傍観しちゃったかもし
れないしねぇ。
ただ、徳川に因縁付けられて以降、関ヶ原戦後に和睦が成立
するまで、内応する部下はいなかったみたいだから、上杉方の
戦意と団結力は強かったってことになるね。徳川直属以外の
武将が適当にしか戦わず、佐竹が協力すれば、勝算はあったの
かもしれない。不利なことは間違いないけど。
三成との密約は、関東の勢力を牽制する動きすら無かったこと
から考えると無かったと見るのが妥当では。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 12:23
愛娘が豊臣家へ輿入れするや否や処刑されてしまったことに対する
最上義光の豊臣家への恨みは半端じゃ無かったはず。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 07:09
上杉家と徳川家の私的な問題を
豊臣家と上杉家にしちゃったのが家康の謀略だろう?
だから上杉討伐に向かう軍は戦意も高くなかったし
事実、大谷吉継などはかなり遅れて出陣しようとしていたでしょ?
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 23:56
三成が謀反するのは家康にはわかっていただろうな。
だから、上杉討伐の兵を起こして三成を謀反させたのかな?
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 00:08
>>539に同意ね。
秀吉の死後、秀頼に代わって政務を取り仕切る家康には大義名分がある。
徳川家単独対上杉家でもまず徳川が勝つと思うけどね。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 08:50
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 13:01
偽書じゃないの?
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 18:31
>>540 個人的には、それは後世の結果論な気がする。
まず、当時の三成は奉行職を解かれて謹慎中の身だから、そもそも家康
に対抗できるだけの兵力が集められたかどうか予測できないと思う。俗説
で語られる様に、三成に人望がなければ、なおさら。
(結果として10万近い西軍を組織できたけど)
第二に、上杉と開戦してから、石田が兵を挙げたら、とても史実の様に
西に戻れない。賭けとしてはリスキーすぎると思う。
第三に、上杉征伐中止してから、関ヶ原に至るまでの間、家康はなかなか
関東から動かず、福島以下の豊臣恩顧の武将たちの不信を買っており、一歩
対応を誤れば、それこそ孤立しかねなかった。
…などの点から見ると、三成の挙兵が家康の読み通りとは思えない。
しかし、予想外の状況にあっても、流れを自分に有利な方向に持って
こさせる強運&実力は家康にあった、とは言えると思う。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 18:36
age
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 18:39
家康のよみどおりでなかったら鳥居元忠殿のお立場が・・・。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 19:01
三成との共謀でないとしたら、上杉は一体、何をしたかったのか?
単独で家康を倒せると踏んだのか、戦国時代を復活させたかったのか。
????
548 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 19:03
もし西軍が勝っていたら五大老、五奉行、三中老制は維持されたのかな?
549 :
あんこくじえけい:2001/02/02(金) 19:13
輝元殿を首座に据えるという約束では?
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 19:20
おそらく上杉が動いてもこちらから侵攻しない限り
伊達がみすみす仲の悪い最上を救援にいかないとふ
んだんじゃないかな。実際片倉景綱も最上侵攻を進
言したみたいだし。(政宗に退けられたけど)最上
だけじゃ上杉にけんかうれないでしょ。後は地の利
をいかそうとしたのかな?
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 19:25
それは何に対する答えなのだ?
552 :
550:2001/02/02(金) 19:34
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 20:35
>>544 じゃあ、毛利の異常な腰の上がりの早さや如水の傭兵募集上方に対する情報収集、
直茂の東海道に置いた米はどうなるの?
目端の利く大名は上方で大乱になるの予想していたとしか思えないのだけど。
当事者の家康が三成挙兵を予想もしていないのはちょいと可笑しいと思う。
本命であったかどうかまで断言できんけど。
554 :
無名武将@戦国ヲタ:2001/02/03(土) 00:09
上杉景勝が秀吉が死ぬ直前に会津転封になった時に
秀吉から国政をしっかりさせる為に2年間の上洛免除を貰ったって話聞いた事があるけど
それってホントなんですか?
景勝が家康の再三にわたる上洛命令無視もそれを理由にしているって話なんですけど
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/03(土) 10:51
景勝があれだけのA級戦犯戦犯でありながら殺されなかったのは
長谷堂撤退戦が家康に評価されたからなんだろうね。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/03(土) 19:17
景勝が切腹させられるなら、上杉家臣は抵抗しないかな?
戦後処理をスムーズにやるために生かしたんだろう。
島津もそうだし。
ちなみに大阪で西軍が防戦し続けたらどうなったんだろう?
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/03(土) 23:52
>556
東軍の武将が寝返ります。
秀頼には逆らえない。
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 00:07
>>557 東軍の武将でも寝返る武将と寝返らない武将がいるだろうよ。
西軍に寝返る派:福島、加藤......
寝返らない派:藤堂、細川、黒田......
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/04(日) 00:18
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/04(日) 01:23
これいいね
さて、毛利家が幕末まで伝えた秘密の儀式がある。
毎年正月、家老が藩主に向かって言う。
「徳川討伐の支度整いましてございます。いざ、出陣のお下知をくださりますよう」
しばらく沈黙の後藩主は答える、
「今年はその時期にあらず。隠忍自重し時を待ち、武道に励むよう」
鳥羽伏見の戦いの年はどうだったんだろう?
561 :
>560:2001/02/04(日) 04:27
>鳥羽伏見の戦いの年はどうだったんだろう?
「徳川討伐の支度整いましてございます。いざ、出陣のお下知をくださりますよう」
しばらく沈黙の後藩主は答える、
「そうせい」
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/04(日) 06:02
吉川広家は1640年頃、毛利本家からの独立を図ってる。
その許可を幕府に求めている。
毛利本家が動いて許可はおりなかったけど。
吉川広家は天下泰平の後、内政に多大な功績もあげ毛利本家を
バックアップしていたと紹介する本もあるけど
更にその後、独立しようとしていたんですね。
563 :
代打名無し:2001/02/04(日) 09:47
>>559 豊前豊後を固めるだけ。天下を争うのはおろか
九州制覇すらできない>如水
息子や山名豊国に大言を言ったのは
自分は野心家だったということで息子長政が
徳川政権へ従順であるということを強調させる
ことで家の安泰を図った、というのが正しい。
如水らしい、あざとさがある策だけど。
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 20:16
>>562 結局、能力はあってもせせこましい人間だったのね。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 00:33
>しばらく沈黙の後藩主は答える、
>「そうせい」
ずれるけど、昔、紅白の裏でやってた「奇兵隊」というドラマでは、
毛利の殿様のセリフが「そうせい」と、三本の矢の故事だけだった。
「そうせい」って有名な話なのか。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 00:36
かなり有名
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 13:25
秀元も独立を希望したそうだ。秀元はわからんでもないが、広家は
やっぱり裏切り者かな? でも、みんなが差別しまくるからいじけたのかもしれんが。
まあ、敗戦責任者の一人ですからねえ。
569 :
毛利元徳:2001/02/05(月) 15:31
なんたって、渾名が「そうせい公」。
ちなみに、顔面神経痛でした>>敬親
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/05(月) 15:57
そうせい公といえば、徳川4代家綱も有名だな
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 02:25
敬親はある日、「今日は寅(吉田松蔭)の命日じゃ」と言って、肉魚に手を付けなかったという。
作り話かもしれんが。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 07:48
気まぐれだろ。
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 11:49
いつのまにか、毛利スレになってる。
まあ最初のネタふりからその傾向はあったし、俺的には全然OKだけど。
574 :
名無し獣:2001/02/07(水) 12:37
同じような例で晩年の織田信雄。
「もっとも殿」。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 21:29
age.
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 01:03
頭の悪い殿様は、それでいいだろう。
頭悪いくせに、でしゃばるのが一番良くない。
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:10
関ケ原で戦わずに、大垣城で戦えばよかったのに。
578 :
名無し獣:2001/02/08(木) 23:12
>>577 それは虫がよすぎ、大垣城無視して、大阪目指したら
どうなる。
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:19
というか大垣城無視して佐和山城or大坂城方面へ行こうとしたから
関ヶ原での戦いになったんじゃなかったけ?
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:39
大坂城を目指すのは何の意味も無いと思うが。
佐和山城なんか行ったら大津城を囲んでた軍団と挟まれて死。
現実問題としてあの辺で長期戦しか手段が無かったんじゃないの?
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:41
>>579 双方とも合戦準備してたから、佐和山城or大坂城方面移動
はフェイクだね。どっちにしろ東軍は主力を城に引っかからせ
るわけにゃいかんからね。
どっちかつーと散らばってた、西軍を分断する形になりそうだ
から、決戦という形になったと思う。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:47
>>580、
>>581 東軍は長期戦を回避したかったから佐和山経由の大坂入城に見せかけて
西軍に決戦を促したってのが通説じゃないの?
583 :
与六:2001/02/09(金) 09:44
立花宗茂が現場にいればねぇー。 あと秀頼を担ぎ出すことが出来ていれば…、輝元じゃ無理だな。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 07:08
ここ見て思うこと。
西軍を勝たせたかったって思っている人、結構多いのかな。
なんで?
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 12:45
586 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/10(土) 15:42
判官贔屓
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 16:49
毛利輝元といい
吉川広家といい
家康のつくのが家名存続のためか
毛利元就の遺言が原因かもな
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 18:02
淀の方に決まっておろうが!
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 02:02
美人は何をしてもいいのだ。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 02:40
責任とはちと違うかもだが、西軍敗因は、毛利秀元だと思う。
広家が動かまいと山を下る方法はなかったのかな?
主家が山降りて戦えば、広家も秀秋も動いたろう・・・。
動かなくとも、秀家の大谷軍への攻撃はないから、西軍は、
勝算あると思う。
秀元が地理的に降りれない理由があったのかな?
591 :
穂田元清:2001/02/11(日) 03:47
毛利秀元自身は、戦をする気満々で陣取っていた。
しかし、合戦直前に広家より内通の既成事実を知らされ、動くに動けなかったらしい。
出陣しておきながら眼下の合戦に参加できない屈辱、自分に内緒で内通していた広家に対する怒りで、
吉川対毛利の両陣で一触即発の状態だったという話です。
その後、両家の軋轢は深刻で、両家が大坂の陣へ出陣する際に、輝元は秀元が問題を起こさないか本当に心配していたそうです。
>>590 『秀元が地理的に降りれない理由があったのかな?』
南宮山山頂付近に秀元が、山麓に広家が陣取っていたので少し無理だったかもしれません。
それと小早川秀秋が無断で松尾山に布陣した時には、既に東軍に寝返る気でいた、
という見方もあるようです。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 04:42
590っす。591thanks!
と、なると戦場が西軍にわるかったかな。大津あたりだと、立花
宗茂は参加できてたんですよね? 無理か。
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 07:20
野戦による一挙殲滅を狙うのじゃ。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 07:55
片桐はアホ
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 10:21
そうかあ?
片桐且元こそ、忠義の士だと思うぞ。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 13:05
片桐に影響力があるとは思えないから奴のせいってのも可哀想だな
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/11(日) 13:10
>>595 片桐且元って家康に買収されていたって話を聞いたが?
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 19:04
NHK大河では、そんな話ないんですが(ごめん素人で勉強中)。
秀頼公の教育係だったんでしょ?
なんで、なんで。どんな約束あったの?
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 19:11
これから秀頼のこと資料集めたいとおもってます。
太閤殿下の子の人生を勉強したいので、
あげ
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 19:42
且元買収の件。
結果からすると、そう見えるわな。大坂の陣の直前で逃げ出して、家康から知行を受け、大坂の陣に参加しているんだし。
でも、どうなんだろ。且元はそれほど利己的だったのだろうか。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 19:43
家康との対立を避けるというやり方は、豊臣の家名を残すという観点からすれば、至極当然のように思われる。
しかし、時代の変化を認めない大坂のバカチンどもから見れば、それは弱腰にしか見えないし、挙句家康に内通してるとして追放し、一気に開戦に突っ走ってしまった。
大坂は、家康の反間の計にはまり、見事に自滅した感なきにしもあらず。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 19:47
豊臣マニアの司馬が「城塞」で且元をかなり嫌な奴として描いていたのと対照的に、大河はかなり好意的な描き方をしていたね。
ところで、大河で且元の命日は秀頼の49日と言っていたが、本当なんだろうか。
だとしたら、ドラマでやっていたように、やはり殉死?
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 20:01
まあ、傅役なんだから、開戦が避けられない情勢になった時点で、西南戦争の西郷さんのように腹をくくって、戦に飛び込むという発想もあるかもしれない。曲がりなりにも七本槍の一人(だよね?)なんだし。
尤も、その頃には開戦派の視線が既に厳しすぎて、大坂にいられな状態だったとも言える。
大河では、家康側についたのは秀頼の助命をするという面もあったみたいにしていたけど、どうなんだろうか。
いずれにしても、時代の流れが読めない取り巻きと食いぱくれの戦バカしかいない大坂にあって、
且元は唯一の良心だったような気がする。
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 21:54
>>603 傅役では無く、その補佐役的なポジションらしい。
ホンとの傅役は前田利家で、亡くなったから息子
の利長が傅役になってはず。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 23:02
わかぎみ
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 23:11
利長って、鼻毛伸ばしたり、ちんこ出したりしてた人だっけ?
607 :
片桐=ねんじ:2001/02/12(月) 00:11
わしは今、腹を切っておる・・・・
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 01:56
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 02:27
淀殿の愚かさ、目に余る。
片桐且元って大坂の陣直前、豊臣の使者として江戸に行ったが
家康はなかなか会おうとしない。ズルズルと会見を引き延ばし
ようやく会見したものの例の
秀頼が大坂から出る
淀君を人質によこす
とかの条件をだしたが
豊臣方が(淀君が)これに激怒し
片桐且元を裏切り者として左遷したが
これを家康が豊臣徳川両家の友好を保とうとする片桐且元を
退けたのを宣戦布告とみなし開戦に及んだとかなんかの本で
読んだけど。
どうでもいいけどこれはどう見ても言い掛かり、もしくは
徳川びいきの資料だと思う。
611 :
淀気味@小川真由美:2001/02/12(月) 07:49
昨日、太閤殿下が夢枕にお立ちあらっしゃられた。
家康なんぞに屈服してはならぬ。この大坂を死守せよ。
と、かように仰せられた・・・
612 :
淀気味:2001/02/12(月) 07:55
なんか、且元経由で入ってくる情報と、大蔵卿の局その他から入ってくる情報とが食い違っていて、且元経由の情報は家康との内通を思わせるに十分な内容であった、というのをどこかで見た。
わらわは、家康にまんまと騙されたのか。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 13:19
>>610 >>612 大蔵卿に対しては、エラク気を使った発言をして、別室の且元には
脅しをかけてくる。見事なダブルスタンダード攻撃(藁。
614 :
@きたおーじ:2001/02/12(月) 14:08
やっぱり武蔵だろう。
やつが狸をたたき切っておれば・・・
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 15:14
甲斐の六郎が家康を討ち取ったのに
影武者のせいで負けたね
616 :
すまけい政宗:2001/02/12(月) 16:08
>やつが狸をたたき切っておれば・・・
え〜、ごほん。
さすれば、わしの天下じゃな。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 16:19
秀吉!
金吾ごときの一声で小早川軍が動くとは思えん。
むりやり小早川を乗っ取った秀吉が悪い。
恨まれておったのじゃ。
618 :
小早川隆景:2001/02/12(月) 17:54
詳しくは覚えておらぬが、昔からの小早川家臣の大半はわしが三原に隠居するときに一緒に連れていったはずじゃ。
従って、想像するに秀秋の下での小早川家は新規士官者の寄合い所帯だったのではなかろうか。わしの死後の小早川家に詳しい方、是非教えてくだされ。
それはともかく、わしがいなけりゃ、秀秋が大毛利家の総帥になったわけか。
想像するだに、恐ろしい・・・・
619 :
常高院:2001/02/12(月) 17:59
>>611 姉上、姉上、短慮はなりませぬ。
(葵面白かったなあ・・・。北条時宗を見ててつくづくそう思う)
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 18:29
>>617 秀吉は筑後から越前の17万石に落とそうとしましたが、
実際の移籍は、秀吉死後だったので家康の妨害で出来ませんでした。
後、ネネ(血縁なので)の後押しもあったし。
>>608 どうせ大河をトレンディードラマ風にやるなら、その孫の代までやって、トレンディー俳優とやらにそれらの奇行をやって欲しいものだ。
優秀な人だったんでしょ。その人? 前田利常だっけ?
622 :
野口賢:2001/02/12(月) 21:36
柳生連也斎の母親が島左近の娘ってマジ?
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 22:50
やっぱり死ぬ時に何も準備してなかった秀吉が一番悪い!!
>>617 どっちかっつーと、如水の陰謀だと思うけどね。
秀吉は、一族の癌だと思って殺そうと思ったけど、
周りが止めて、結局生き残らせてしまった。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/13(火) 21:45
>>618 「神殿の壁に糞を塗るようなものだ」とは、いくら何でも酷ぇなあ。
(司馬ちゃん「豊臣家の人々」より)
626 :
ひでよぴ:2001/02/14(水) 01:48
>617
そもそも毛利が小早川家をのっとっておる。
わしがのっとったからといって何の違いがあろうか。
627 :
元就、怒る:2001/02/14(水) 01:53
毛利は大江氏以来の名族で、隆景の奥さんは小早川の出。
その養子の小早川秀包(元就の末子)は母が乃美氏、つまり小早川ゆかりの者。
しかるにお前は縁もゆかりもない上に、農民の出ではないか!
この猿小僧がっ!
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/14(水) 01:55
よくぞ言ってくださった!
629 :
ひでよぴ:2001/02/15(木) 01:38
>627
そーゆーのを五十歩百歩というのでごサルよ。うっきー!
630 :
9:2001/02/15(木) 01:46
部落民
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 01:49
毛利は大江氏以来の名族・・・・・・
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 01:55
名族と言えるかどうか判らんが、鎌倉時代から名前が出るからそれなりの家だとは思うが・・・
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 02:23
関が原の話はどうなってしまったんだろう・・・・
別に構わないけど
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 05:29
関ヶ原の合戦自体の戦況は間違いなく五分五分で、紙一重で勝ったと家康自身は解ってたと思いますね。
いや、むしろ家康自身にも予想外の大勝利だったのかも。
いくらなんでもたった一度の会戦で、主力の殆どを殲滅できるとは思ってなかったんじゃないかな。
戦力的にも周囲の状況から云っても、あの結末を予想できたとは思えないな。
まあ、それはそれとして敗戦の責任者を敗因を作った人間と定義すればやっぱり、吉川広家じゃないかな。
主君も同僚も友軍も無視して内応を謀った上に失敗して、しかも合戦当日は参戦しようとする友軍を邪魔した
間違いない利敵行為を行なっているし、彼はもう弁解の余地がないんじゃないかな。
あと、関係無いけど関ヶ原で一番活躍した武将(前線指揮官限定)は私的に島左近だと思うね。
1000か2000かっていう程度の戦力で黒田長政・田中吉政・細川忠興・藤堂高虎・京極高知なんかの
軍を向うにまわして獅子奮迅して敵陣深く攻め込んだそうだからね。
戦力だけでも単純に1万以上を撃退してるんだし。
635 :
634:2001/02/15(木) 05:30
長々と書いてすみませんでした。
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 08:16
>>634 こうしてみると、あの日の西軍ってほんとすごかったねえ。
地形以外不利な状況であれだけ持ったんだから。
637 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 09:54
島左近なんて、戦が始まってすぐ死んじゃうじゃん。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 10:00
>>636 半日で壊滅して、なんで持ったと言えるの?
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 14:41
西軍は実際に戦ったのは25000人程度だからな。
それだけならまだしも小早川の大軍に寝返られたのがイタイ。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 14:43
西軍じゃなく豊臣家臣だけど、正則はアホだ。
狸爺に利用されたあげく、徳川の時代になったら改易。
もうちょっと頭が良ければなあ・・・
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 15:36
>>638 実際に立ちを交えながら半日間も続いた大合戦は
川中島をも凌駕している。
>>637 左近がいつ戦死したのかは諸説紛々で決まってるわけじゃねーよ。
生き延びたって説もあるし(ネタ元は隆慶一郎じゃねーぞ)、
あなたの言うとおりいきなり鉄砲喰らって重傷って説もある。
もっとも、緒戦戦死ってのは黒田隊が自分の手柄にするために
わめき散らしてただけって俺は思ってるけど。
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 20:51
>>641 第四次川中島も実はわりと短期集中決戦だもんね
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 10:04
誰のせいでもありましぇん。
645 :
暴れん坊将軍:2001/02/16(金) 11:27
吉川経家は毛利軍の前に陣取って動かなかった。おかげで毛利軍は動けなかった。
吉川経家ねぇ(ワラ
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 01:26
吉川経家・・・鳥取城で干し殺し
吉川広家・・・関ケ原でメシを食う
>>645、もう少し調べてから書き込んでくれ(w
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 02:48
よかったな。負けといて。
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 11:53
だから、広家だって。
大河でなべだって、そう言ってたろうが。
「推参なり!」とか言って。
秀元はバリバリの主戦論者だぞ。
>>650 「宰相殿の空弁当」とは別の話?<広家メシを食う
652 :
広家メシを食う:2001/02/18(日) 03:13
なんか、必殺シリーズの題名みたいだな。
「主水遅刻する」みたいな。
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 00:27
経家干ぼしになる
広家飯を食う
と並べてみると、余計におもしろいなあ。
654 :
スマン!:2001/02/19(月) 03:38
やっぱり、「宰相殿の空弁当」は毛利秀元だった。
宰相殿とは、秀元のこと。
安国寺や長宗我部が「出陣しない?」ってお伺いを立てた所(これも情けない話だが)、吉川が動かないので山を降りられない秀元が返答に窮して「後免、今弁当食ってるんだ」と言ったらしい。
とはいえ、家康に内通してたのは吉川広家で、そんなことを知らない秀元が主戦論者だったというのも本当の話。
ちなみに司馬の「関ヶ原」では秀元はお人好しで、全て吉川任せだったので、動けなかったが、使者を無下に追い返すのも気の毒だったため、そい言い訳したと描いていた。
それは、秀元の人格がちょっと違う気がする・・・
655 :
名無し:2001/02/19(月) 03:52
広島を馬鹿にしてんのか?
656 :
亀レスですまん:2001/02/19(月) 14:55
やっぱ上杉家は三成の負けを予想してたみたい。
(書物の名前ド忘れ)
そうだとすれば、三成挙兵を家康が予期してなかったと言うか
あんまり計算して名かったってのもわかるな。
ちなみに質問
・関ヶ原で家康が敗退したとしても、その後家康を滅ぼすことは
できたのか?俺個人としてはもうひと山あって家康が結局勝った
ような気がする。若しくは引きわけ。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 15:03
658 :
>656さん:2001/02/19(月) 23:45
>関ヶ原で家康が敗退したとしても
もし、関が原に敗れたら家康不利でしょうな。清洲城(福島正則)には、
8万石相当の兵糧があり、西軍はまず、コレを取り囲み、立花宗茂の加わ
った本隊は、中山道を走り、秀忠軍3万5000の兵を迎え撃つ。
そのとき、上杉軍が挙兵したとの報に、秀忠軍退去するが、追撃と、
真田勢に挟まれ敗戦。
上杉軍が合流し、約7万でもって、江戸を鎮圧。 てどう?
まあ、東軍は負けないけど関が原に。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 23:51
>>658 西軍勝ったら、関東に攻め入る前に宇喜多秀家、毛利輝元、石田三成が
政権闘争始めて、勝手に瓦解してしまう可能性の方が高いと思う
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 23:57
>>659 同じような立場の人間は政権闘争を起こしますが。
外様、猶子、子飼いと全然立場が違うので、
主導権あらそいならともかく、武断派と官僚派のような
問題は起こらないと思うけど。
661 :
↑ そうかなあ。:2001/02/20(火) 00:03
毛利輝元が、関が原勝利と知るや、清洲に向かい(加勢)して、
清洲落城後、東海道を走り、30日篭城中の江戸に参上。
12万対3万くらいの長期戦になり、大坂からの和睦命令でもって
江戸開城。で、徳川家御家断絶。 ってのは、考えられんか?
関が原は、家康にとって、絶対負けられなかった戦と思うよ。
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 00:04
>>660 その主導権争いから、関ヶ原まで発展したのでは?
力なき権威(秀頼)を誰が手に入れるかで、とてもまとまらないと思うけど。
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 00:11
関ヶ原で勝利した西軍側が、そのまま関東に進軍できる可能性の方が低いよ。
清州城の兵糧も敵に渡す前に焼き払われる可能性の方が高いし、
西軍側は西上する東軍を迎撃する策までは考案してたけど
それ以降は全く考えてないし、主導的な立場の人間がいないから
事後処理をどうするかで、大坂か京あたりで揉めると思うけどなぁ
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 00:15
西軍が勝ってたら、西から足の悪い親父が攻め上ってくる。
665 :
立花道雪:2001/02/20(火) 01:08
ふふふ、ワシのことか?
違ーう。如水じゃ。
666 :
陸議:2001/02/20(火) 02:26
家康は三成挙兵を予想していただろうよ。
上杉討伐に行ったはいいがちんたらちんたら行軍して
富士見物などしながら江戸に着いてからもなかなか動かなかった。
そうこうしてるうちにようやく出陣の日を決めたが
2週間後が吉日だからその日にしようと言って
家臣から それでは遅すぎませんか?2週間待たずとも問題ないはずです。
と言われてるが聞かなかった。
家康が予期していなかった事は宇喜多、毛利の両大老までもが
挙兵する事だったと思う。
三成の御輿ではせいぜい5万ぐらいしか集まらないと思ったんじゃない?
実際はその2倍あったんだけど。
あと関ヶ原で負ければ徳川終わりというわけでは無いと思う。
小山の陣で井伊直政が言った様に箱根の険で西軍を迎え撃つという策もあったはず。
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 02:55
西軍が勝ったら、家康の場合のように大大名は三成の言うことなんか聞かねえべさ。
各地で火の手があがれば、諸大名は国許が心配で、大軍率いて関東征伐というわけにもいかないだろう。
江戸だってそう簡単には落ちないだろうし、会津や中国が空いたら、伊達や黒田は大喜び。
668 :
不確定要素がデカ過ぎる:2001/02/20(火) 04:00
西軍勝利、と言っても、まず、家康が生き延びるのが大前提だよね ?
家康が関ヶ原で死んでたら、その時点で徳川家終わると思うし。
後は、秀忠軍がどうなるか… 家康が東海道沿いで退却したら秀忠とは
合流できんし。下手すると、秀忠軍も関ヶ原で西軍の餌食になっちゃうかも
しれんしなぁ。秀忠軍 3 万が壊滅しちゃうと、兵力的に家康の再起も難しい
と思うし…。
福島正則の生死もポイントかな。正則は最前線にいたから東軍が負ける
ようでは死んでると思うが、生き延びれば清洲城で粘りそうだし。
後は、勢力争いと言っても輝元にどこまでの野心があるか、分からん
からなぁ。前線指揮官は宇喜多になるんだろうけど。
如水はともかく、伊達は単独では上杉にとても勝てんから、家康負けたら
困ると思うぞ。
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:05
>>668 伊達は、コロッと上杉方に寝返ると思うよ。
兼続も受け入れると思う。
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:26
三成に、天下の宰領は無理。
毛利に、天下の宰領は無理。
秀家に、天下の宰領は無理。
島津も、上杉も、無理。
こいつらが組織として上手く機能すればいいんだけど・・・
無理じゃん?
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:30
・結城秀康がどっちにつくか
・佐竹の家内論議がどっちに統一されるか
・三成に「許す」という発想ができるかどうか
って、かなり重要でないか?
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:33
とはいえ、上杉も伊達をそのままにして、国を空けて関東に攻め上るのは嫌だろう。
じゃ、伊達に関東に出兵しろっつったって、政宗はなんだかんだ言って、領地から動かないし、せわしなく陰謀をはりめぐらすだろう。
上杉と伊達が結ぶっつっても、破られるための同盟しかできないんだろう。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:37
要するに天下騒乱。
三成はどっかで横死。
秀頼もただでは済まない。
毛利や宇喜多も版図を守れるか危うそうだな。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 04:57
家康は、敗色強いと、一目散に逃げる人格。
当然、関ヶ原で負けると、駿府か江戸まで引き返します。
東軍の諸将は、家康にいい思いしません。豊臣恩顧の
大名たちは、中立派になり、追って沙汰を待ちます。
さて、徳川軍の主力は秀忠です、これを中山道で攻略
すれば、関東(江戸・駿府)は孤立します。
家康は、関ヶ原に勝気でいたし、負ければそれまで
くらい考えていたと思う。主力の秀忠を待たなかった
のも、戦機だったし、それなりに内応してたから。
でも、関ヶ原に負けたなら、多分、駿府に引きこもる。
そう、思うし、参謀石田光成でも、毛利・宇喜田大老
を前に争いはしない。彼は、人格的に、野望よりも
豊臣安泰の官僚だし、彼の戦略の奥には、まず、関ヶ原
に勝てば、秀頼公の大儀が貰えると考えていた。と思う。
そろそろ、眠って、会社にいこうか・・・。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 05:17
何が言いたいのかよくわからん・・・
で、どうなるというのだ?
結局、家康もみんな残って、再び豊臣=三成の下で天下安泰ってこと?
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 05:20
関ヶ原は、東軍が勝てば家康天下。
西軍勝てば、毛利天下ってこと。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 05:31
1と微妙にずれてきています
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 05:34
今に始まったことではない・・・・
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 07:28
>>676 そのとおり。そんで秋田あたりに転封された徳川が明治維新をやることになる。
680 :
まんまじゃん:2001/02/20(火) 07:36
>東軍が勝てば家康天下
>西軍勝てば、毛利天下
なんともまあ短絡的な発想だこと・・・・
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 07:48
680の方は西軍勝利後の成り行きについて
随分と詳細な考察を持たれているようです。
願わくば、いったいどのような筋道が提示
されればあなたが納得できるのか
教えていただきたいですな。
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 09:21
そりゃやっぱ、秀吉の先見性の無さが露呈した結果でしょう。
我が子可愛さに秀次を謀殺したのが敗因。
秀頼の将来を案じながら死んだらしいし、無難に秀次を据えておけば
豊臣政権は続いたかも知れない。
秀次の能力如何に限ってくるけどね。
無能なら責任は持てんが。。。
>>681 ドキュソだなぁ。思いっきり短絡的だろ。
そもそも家康は完全に天下を狙った、関ヶ原の能動的な参加者であるの
に対して、毛利は受動的な参加者に過ぎなかった。西軍でもって能動的
と言えるのは、石田三成と上杉ぐらいのものじゃないのか。
そこをちょっとでも考えれば、随分と詳細な考察がなくとも676が短絡
的発想であることは明らか。
そんな事もわからんのか。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:56
毛利に天下は無理。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:58
670 名前:無名武将@お腹せっぷく投稿日:2001/02/20(火) 04:26
三成に、天下の宰領は無理。
毛利に、天下の宰領は無理。
秀家に、天下の宰領は無理。
島津も、上杉も、無理。
こいつらが組織として上手く機能すればいいんだけど・・・
無理じゃん?
671 名前:無名武将@お腹せっぷく投稿日:2001/02/20(火) 04:30
・結城秀康がどっちにつくか
・佐竹の家内論議がどっちに統一されるか
・三成に「許す」という発想ができるかどうか
って、かなり重要でないか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これ、誰?
これも結論は出てないけど、
>>676に読んで聴かせてやりたい。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 06:47
毛利ヲタは逃走しました。
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 07:11
そうかな。西軍の勝利がほぼ確定した時点で
毛利が動くとは考えられないか?
受動的だろうと上に乗っかっていたのは毛利。
勝ちを確信すれば出てくるのは当然。
そして徳川領の関東攻めを毛利主導でやる。
関ヶ原での戦闘総指揮官は宇喜多秀家です。
決起主謀者は石田三成です。
名目上の総大将は毛利輝元です。
さて誰が主導権を握れるだろうか?
まぁ家康討ち取った奴が握るのは間違いないけどね。
それと東軍に味方した前田利長を御忘れなく・・・
689 :
名無しさん:2001/02/21(水) 10:35
いくら秀吉の猶子でも若干20過ぎの若者が総指揮官ではね。ちょっとつらいね。
でも毛利の高み見物や小早川秀秋の裏切りがなくても東軍には余裕あった。
毛利だって本当に勝てるのなら山下りて家康の軍に突撃してたはず。
東に大軍を残していたし、徳川秀忠の3万が遅刻しても勝てたんだから。
要するに家康は楽に勝ちたかっただけ。
690 :
名無しさん:2001/02/21(水) 10:43
信玄や信長・秀吉あたりに相手していた
家康にとって毛利や三成なんて子供扱いでしょ。
691 :
毛利ヲタだが・・・:2001/02/21(水) 12:04
少なくとも俺は、西軍の勝利=毛利の天下になるとはとても思えん。
っていうか、当時の毛利の状況を少しでも知ってれば、そう思わないのが普通だと思うぞ。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 13:48
そうそう。
毛利は所詮地方大名
?
天下を動かすことは無理だろう
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 14:50
毛利+吉川+小早川でかなりの影響力になると思うが。
694 :
小学2年生:2001/02/21(水) 14:59
>三成に、天下の宰領は無理。
>毛利に、天下の宰領は無理。
>秀家に、天下の宰領は無理。
>島津も、上杉も、無理。
>要するに家康は楽に勝ちたかっただけ。
ホント?
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 15:47
>毛利+吉川+小早川
家中は小物集団。田舎大名が不自然に巨大化しただけ。
小早川隆景亡き折、例えるならもはや巨体を持ったあざらしでしかない。
現に吉川広家、面白いように策に溺れる。
696 :
668:2001/02/21(水) 17:57
荒れて来てるな…。
西軍勝利の後の、戦後処理と言っても、どういう勝ち方をしたかで全く
変わってしまう訳だし。そこを曖昧にして議論しても仕方ないと思う。
南宮山の毛利秀元+吉川が山を下って東軍の退路を遮断して大勝利、と
いう展開なら、内実はどうあれ毛利が主導権を握るだろう。家格的にも。
問題は、そのあと関東まで進撃できるかどうかだが… 秀忠軍が無事
退却できるかどうか次第だろう。秀忠軍まで壊滅してしまったら、いかに
家康と言えども兵がいないので、どうしようもあるまい。
秀忠軍が関東まで退却できたとすると、和睦条件次第か。徳川と徹底
抗戦する気があり、かつ他軍にも睨みが効きそうなのは上杉くらいだが、
毛利は結構妥協しちゃう気がするからなぁ(←偏見)。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 18:09
仮に家康が敗走したとしても西軍に進軍できるだけの力はなかったと思う。
まあ九州制圧した如水が西軍に裏切り、上杉景勝あたりと連絡取れれば
家康の命もなかったろうがそう上手く行くかな。
仮にうまくいっても集団指導体制になるから内乱になるだろうが。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 23:00
でも、やっぱり三成が原因で負けでしょ??って言うか火種残して
イッタ秀吉が始まりっす。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 23:17
俺に言わせれば、歴史なんて学問じゃない。
歴史を語るの事は、これすなわち感情のほとばしりに他ならないのだ。
自分の思い込みこそがすべてなのである。
どうしても歴史を学問にしておきたいのなら、大学か研究所のオタク同士の
内輪話に止めとけ。
あれれ、馬鹿が何かほざいてますな
>>700自身の意見も思い込みで、感情のほとばしり
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 04:44
あのさあ毛利輝元って岐阜城とかの攻防戦を前に京極高次の小城
一つ落とす為に15000の大軍を差し向け
東軍が随分西進させてしまった張本人だろ?
その後 大坂城に入り何もしなかったというけど
出てもその程度しか出来なかったんだよ?
左近も随分計算狂わされたらしいしな。
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 06:41
裏切った小早川が悪い。
******** 終了 ********
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 23:58
>>689 朝鮮で総司令官やってたんだよ?
政権内の立場には、輝元より上だよ。
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/23(金) 00:15
今日、歴史群像シリーズ「決戦・関ヶ原」買ったんだけど面白いね、これ。
「主導者は宇喜多秀家?」って頁があるんだけど、妙に説得力あるんだよね。
707 :
笵志毅:2001/02/23(金) 16:10
てゆーか、徳川家康でしょ。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 18:28
そりゃ、そうだ。
709 :
無名:2001/02/24(土) 01:12
西軍勝ったら 天下人は淀君・・・なわけないかなあ
710 :
西岡:2001/02/24(土) 02:07
関が原で西軍が勝てば徳川滅亡これだけははっきりしてる
敗軍の大将は絶対死刑される
711 :
:2001/02/24(土) 06:17
>>703 相手はやる気vsこっちはイマイチの攻城戦なんてそんなもんでしょ。
毛利が確実に「盟主」であったわけじゃないんだし。
毛利が天下取れるわけでもなし、その気もないし、その能力もないし。
そもそも毛利にどれほどの「やる気」があったかどうか。
>>710 三成なら、死刑だろうね。
宇喜田でも、いろいろあるから死刑。
でも毛利なら、無理。
前田か佐竹が西軍ならなぁ〜。
712 :
お江戸でござる:2001/02/24(土) 06:25
関ヶ原と佐和山は目と鼻の先。
関ヶ原と江戸はとても遠い。
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 11:10
豊臣などつぶれりゃいいじゃん
紙ね紙ね
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 11:30
>709
関が原が西軍の勝利なら、鎌倉幕府のような中央集権型の江戸幕府ができず、大坂に室
町幕府のような分権型の大坂幕府ができるだけではないだろうか.
毛利は室町の大内氏の地位に納まる。
>710
反織田の盟主足利義昭は信長より長生きしてなかったか?
朝鮮侵攻の総大将は、後の小早川秀秋だよね。
千姫が助命嘆願して徳川が歴史の表舞台から消えるだけじゃないの?
しかし、軍容を見ると西軍-石田シンパ+豊臣外様 東軍-豊臣恩顧に見えるのは気のせいでしょうか。
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 11:42
>しかし、軍容を見ると西軍-石田シンパ+豊臣外様 東軍-豊臣恩顧に見えるのは気のせいでしょうか。
気のせいじゃなくてその通り。あと、西軍には個人的に豊臣に恩を受けた人間が少数はいるけど。
東軍は反豊臣ではなく、反石田で纏まっていた。
だから、敗戦で斬られたのは石田であって、秀頼ではなかった。
家康って博打だとは思ってなかったんじゃないの?
相手方の指揮系統がバラバラなのは予測できてたし、
それこそ万が一にも関が原で負けたって
内紛がらみで関東まで西軍がまともに攻めあがれたとは思えないけどね。
少なくっても関が原で負けたってもう1ラウンドはできる計算が
あったと思う。
合戦そのものの責任者は指揮系統を統一できなかった光成だろうけど
(大きな合戦の経験者か一番石高の大きい奴に任せときゃよかっただろうに)
改易のしかたが甘かった秀吉の責任も大きいと思う。
家康の改易は完璧に近かったからなおさらだと思う。
717 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/02/24(土) 17:30
西軍=売れ残り
家康号に乗り遅れた連中を三成がかき集めた。
718 :
:2001/02/24(土) 20:31
>>717 立花宗茂がぁ?
大谷吉継か?
上杉景勝が?
>>716 その、もう一ラウンドの折、外交交渉が大事になってくると思う。
そこで、青臭いい方だが「天下の仕置き」ができる人材が
西軍にはいない。
買い被りかもしれないが、上杉景勝くらい?
でも所詮は辺境大名&関が原の主戦に参加していないし。
つーか、このスレにやたらと毛利を持ち上げるヤツがいるな・・・
あれは、図体がでかいだけの田舎大名だ。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 23:26
大江氏って源氏なのかな?毛利って将軍になれたのかな?
720 :
西岡:2001/02/24(土) 23:57
>711
前田は東軍にも西軍にも見方してる
家を守るために
でも本家は東軍
関が原で西軍が勝ったとして、秀頼が成長したら分散型から中央集権タイプに転換できたと思う
家康曰く「人物」だから
721 :
:2001/02/25(日) 00:26
>>720 成長ね・・・「それまで」どうするんだよ!
722 :
西岡:2001/02/25(日) 02:00
腰抜け大老達が集団で頑張ってるんじゃないの?
秀頼大事の時は加藤・福島が頑張る
723 :
石ちゃん:2001/02/25(日) 02:50
やっぱ石田三成なのでは。豊臣恩顧武将(清正、正則)が分裂した
原因て、三成憎しからでしょ。やっぱ、三成が原因。
もともと官僚向きの方ですよね。関ヶ原に引っ張り出される前に敗
れているのでは・・・と思います。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 15:04
>>723 問題は、清正、正則の方。
一番の問題は、朝鮮軍功で不満が有ったんだけど、
親父(秀吉)に文句つけられないから、三成に文句つけた。
でも、双方の報告書をみて不備はなかったので
「家康」が「三成が軍目付けと仲良かったから悪いんだ」
という理由にして罪を問いました。
で、奉行止めさせられました。
清正、正則は、まぎれもないドキュソです。
つーか、武断派は確信犯かドキュソです。
戦国武将らしいけど。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 20:17
>720
「無理」です。
例え秀頼が人物であろうとも。
地方軍閥の力で勝ってしまうと、どうあがいても中央集権国家にはなりません.
やろうとすれば再び戦国時代に戻るだけ。
もしできたとしたら、世界史上もっとも偉大な人物だね。
世界史上そんな偉業を成し遂げた人物は一人もいないから
西軍は勝ったとしてもイバラの道クサイな。
727 :
狸おやじ嫌い:2001/02/25(日) 23:07
@淀君→秀頼を出陣させれば西軍の勝ち
A毛利輝元→秀頼と一緒に出陣すればそれでまでの戦い
728 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 23:48
もしかして、ARTDINK・・・?
729 :
片桐且元:2001/02/26(月) 00:15
此度の戦は私闘にて、豊臣家には一切関わりのないもの。
若君の出馬など、断じて許されぬ。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 00:20
>>724 通史しか語れないきさまがドキュソだな!!
清正公正則公について勉強し直す必要があるだろう。
つーか まじでヴァカ?
あ、なんか熊本か広島あたりのキチガイが来てるよぉ〜。
コワイヨコワイヨ・・・
おかあちゃ〜ん!!!
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 09:46
オレ
>>724じゃないが・・・
たしかに724は言い過ぎだが、
>>730も勉強しなおせ。
漫画やGAMEばっかりやってないでさ。
733 :
無名武将@お腹せっくす:2001/02/26(月) 10:02
負けるべくして負けたんだろ、西軍は。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 10:28
>>730 どこらへん、勉強しなおせば良いの?
漏れ的には、例の七将も何故か池田輝政(注1)なんてのがいる時点で、
完全にアウト。おまけに、七将なんていってるけどいつのまにか
、顔ぶれが変わってる。九将(注2)じゃん。
おまけに強訴したのに喧嘩両成敗されなかったし。
そもそも、当時清正も正則も家康から嫁もらって豊臣
を見限ってるジャン!清正にいたっては、妻と離縁し
てるし。(ちなみに清正記には何も乗ってない)
(注1:池田輝政一度も朝鮮行かなかった人ついでに家康の婿)
(注2:輝政と嘉明が抜けて高虎と蜂須賀が加わった)
清正の考えがかなり甘かったのは中川秀成宛の起請文を読めば分かる。
三成は政権を壟断する悪い奴。家康は政権を守る善い奴。
ただし家康については「秀頼をないがしろにしないならば」という前提付きだけど。
だから後々、家康が牙をむき出すとそれに対抗し出す訳だな。
ヲレ熊本県民だけど擁護できない事実だってあるんだよ。残念だけど。
736 :
KOCHIN:2001/02/26(月) 12:11
どう考えても、「淀」が一番悪い。
彼女を暗殺できなかった西軍の負け。
西軍は「組織」という面で、東軍はおろか一大名にも及ばない脆さがある。
「秀頼」を「バカボン」にしちゃった廻りの「ツケ」が来ているだけでしょ。
例え、関ケ原に勝ってもいずれ近いうちには崩壊するでしょうな。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 12:21
普段軍事演習してなきゃ何万人いても無駄。結局大半が烏合の衆だった
臭い西軍が勝つ要素ってあんまりないような気がする。
裏切りとかは完全勝利を助けただけで何があっても東軍の勝ちは決まって
いたような気がする。
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 12:25
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 12:43
夢を壊すようだが、当時平時に軍事行動をとれるのは公然とした徳川方のみ。
豊臣の疑いのある大名は演習も集合も許されていない。
日本中公儀がウロウロしてるし、とてもじゃないが豊臣方が準備を出来る
世の中ではない。それでも日取りを決めて合戦をしたというのは一方には
統一の儀式であり、一方には綺麗な死を与えてもらう免罪符だった。
退役して久しい軍人の軍団と、組織された軍隊では倍以上の戦力を持ってしても
合戦の体をなさないだろうと思われる。
小説的な考察をいっさい抜きにしたらしょうがない。しかし現実だ。
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 16:02
>>736、737、739。
関が原と大阪の陣がごっちゃになってるような…。
>>701-702
>>700は、このスレ否定してないような
「毛利ヲタ、三成ヲタ、徳川ヲタの感情=思い込みのぶつけ合い大いに結構」
てゆってんじゃん?
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 07:34
基本的に毛利は天下取らない家風。家訓自体が「天下の覇を競うな。中国の盟主以上を望むな」なんだもん。さすが元なりジーさん、孫の器量を分ってたのね。隆景存命だったら・・・関ヶ原自体起きなかっただろうね。前田利家程度でも家康くん封じになったくらいだものな。と、いうことでこの二人がA級戦犯です。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 10:09
前田利家程度?
新しい電波か?
744 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/02/27(火) 11:02
>>743 守役、親衛隊長、奏者の地位を与えられたんだよん。
確かに、封じの役めと言えた。
やくにたたなかったけど。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 14:48
そりゃ前田利家も小物ではないけど、小早川隆景に比べれば器が違うっしょ。
鍋島直茂が最も尊敬する人物だぞ。
社交辞令かもしれないけどさ。
746 :
無名武将@お腹せっぷく :2001/02/27(火) 15:38
利家が生きてたら、それはそれで時代が変わっていたでしょうな。
747 :
武将@名無し:2001/02/27(火) 15:42
??
利家をいくつまで生かすんじゃ。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 06:56
>>745 エライじゃん利家。
ドキュソの扱い方が判ってるじゃん。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 10:01
>743
前田利家程度でなんで電波なんだ?
前田利家なんてたいしたことないぞ。
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 10:04
>>750 衆望はかなりあったぞ、別段そこまでくさす事はないと思うが。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 11:15
>745
少なくとも豊臣政権下では前田利家の方が力を持っていて人望もあったと思うので、
たしかに小早川隆景に比べれば大物だったとは思うけど、
そうなると745の意味が通らないですね。不思議。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:30
いっ、小早川隆景より前田利家の方が大物だったってか?
そりゃねえだろ。
そんなこと思うのは、石川県の人間だけだぞ。
>>753 豊臣政権の中核にいたことを考えれば地位的には前田利家の方が
どう考えても大物だと思う。政治力その他能力的なものは別としてな。
755 :
745:2001/02/28(水) 14:38
誤解なきように言っておきたいのですが、私が言いたいのは、
小早川隆景>前田利家
ってこと。鍋島直茂が崇拝してたのも、小早川隆景の方。
無論、前田利家だって小物ではないし、毛利輝元あたり比べれば、レベル高いと思うけど。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:44
>755
実力では 隆景>利家 でいいと思うが豊臣家中の影響力は
利家が圧倒的上では?
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:44
>755
まったく理解できんのですが、
どっから小早川隆景>前田利家なんて発想が出てきたのでしょうか?
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:45
>756
実力っていうか頭の良さとかなら一理あるかも知れないけどねえ。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:45
>>747 北条早雲ぐらい?
前田利家って、秀頼の子守り以外に、豊臣政権でなんか目立つことやったの?
来年の大河でわかるのだろうか・・・・
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:49
と言うか… 前田利家って、豊臣政権No2or3にまで出世した背景
に武将的なエピソード聞かないから、大物っぽく思えないんじゃない?
若い頃の武勇伝はともかく(藁、賎ケ岳の戦いでも撤退しただけだし、
あとは… 佐々成政と張り合ったくらいしかない気がするんだけど。
大合戦とかで活躍したことあったっけ?
賎ケ岳で裏切られた勝家も、利家のことを恨まなかったというから、
人徳はあったんだろうけど。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:54
>前田
なんっつうか、この人の場合人徳があったことが出世の背景になっていたりしますから。
ただそれにしてもNo2か3くらいの存在感はあったわけでして。
いくら頭が良かろうと武勇に優れていようと、
諸将を抑えきれるだけの存在感のない人とは比較できないんだと思うのだけど。
762 :
745:2001/02/28(水) 14:54
>>757-758
だから、「器が違う」って言ってるんだから、わたしゃ「実力」を問題にしてるんだってばさ。
前田候が小物だなんて言ってないしょっ!
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:55
真面目さがウリなんだろうな。たぶん。
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 14:56
>762
器の大小とか大物か小物かというのは能力で評価されるものとは少し違うと思う。
765 :
764:2001/02/28(水) 15:00
加えて言いますと、
この話の原点になった
>>742の、家康封じができるか否かの話については、
武将個人の能力だけで図られるべきものではありませんから。
少なくとも家康を抑えられるかどうかについて言えば、前田利家の方がうわ手なのは
間違いない。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/28(水) 15:09
佐々成政>前田利家
767 :
与六:2001/02/28(水) 20:18
本日放送NHKその時歴史が動いた。秀吉の妻おね、関ヶ原を動かす。
おねたん…(´Д`)
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 00:17
>>767 を、放送したわりには盛り上がらんな。
北政所って積極的に東軍に加担したと思ってたけど、今日の番組ではあくまで中立という扱いだったな。
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 02:08
>>769 大嘘、北政所派の武将(正則)は東軍にいたけど、親族は西軍で奮戦した。
北政所はどっちのたずなをしっかり握っていたと思う?
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 05:14
前田家は東軍で
丹羽家が西軍だったってのが良いなあ。
普通逆だろう
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 05:34
>>771 前田利長は、家康のいちゃもんに屈して母親を人質に出した
男だから、当然東軍でしょう。こいつに根性があれば、関ヶ原
の合戦は起きなかったかもしれんし…。
丹波が西軍についたのは確かに分からんね。真偽はともかく
父親の長秀は憤死したって言われてるから、豊臣家に反発しても
不思議じゃない気がするから。
大坂に出てきた訳じゃないから、他の軍みたいに成りゆきで
西軍になった訳でもないし…。単に前田と仲が悪かったとか ?
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 05:38
大坂城の方々も前田利長みたいに生き残る努力をすりゃあ、滅亡の憂き目は見なかったろうな・・・・
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 05:46
大津城攻略してた立花宗茂の一万五千が関ヶ原にいればなぁ・・・
おのれ、蟲はそこにいるか、
わしが引きずり出してくれるわ、
ウボボボボボボボ
彼は自分で癌細胞を引きずり出しました。
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 08:03
小早川>前田、ってか・・・はぁ。
・・・また毛利ヲタが妄想してるな。
毛利ヲタくん、君のその過剰で異常な毛利びいきは、どうしてなんだい?
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 09:11
小早川>前田は常識
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 11:58
>>772 家康が要求する前に、既に母親を差し出す用意してた……。
これをどうとるのは、少し難しい(藁。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 13:06
立花宗茂はなんで西軍についたんだろう。
政治音痴?
家康嫌い?
三成大好き?
成り行き?
豊臣の恩忘れるまじ?
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 13:19
>>776 お互いさまだよ。
毛利ヲタ(つうか信者ね)もそうだけど、豊臣マンセー・アンチ徳川の妄想もかなりのもんだし・・・・
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 13:20
小早川>前田は定説です
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 13:21
小早川>前田は日本人の常識です
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 13:44
小早川(逮捕)>前田(慶次)
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 14:01
>>783 そりゃそうだ。
でも、俺は二階堂の方が好きだぞ。
小早川
試合…1230試合
安打…1000本
本塁打…155本
打率…2割7歩9厘
前田
試合…1034試合
安打…1135本
本塁打…144本
打率…3割0歩8厘
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 14:47
>>779 豊臣恩顧&毛利派だったからでは。
筑前の大友の将を助けたのは秀吉本隊&毛利だったし、
朝鮮征伐の際には小早川隆景と同じ隊で活躍し、隆景に
かわいがられたらしい。西日本一という勇名も名将隆景が
褒め称えたからこそ発生したんじゃないのかな。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 16:37
へきていかんの戦いだっけ?
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 18:59
>>786 何故か、三成派です。
つーか三成以外に地方領主達に受けが良かったのです。
まあ、検地して、所領を1.5倍〜2倍にしてやったり、
経済施策の手ほどきをしてやれば好意を抱くのも
当然ですが。
789 :
009:2001/03/01(木) 19:52
関ヶ原の西軍の敗戦責任者は三成だろう。
西軍の総帥なのだから。
彼は政略の面で家康の敵ではなかった。
戦(いくさ)はありとあらゆる方法を使ってでも勝者にならな
ければならない。三成は秀頼とその旗印を戦場にもってくるべきだった。
そうすると仮定すれば東軍にいる豊臣系の武将は無効化し
ちがった局面に展開したはずだ。勝てないまでも。
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 21:06
>>789 決起者は三成、総帥は輝元、実戦指揮者は秀家です。
そのありとあらゆる手段を行える手立ては三成の立場ではできません。
法制を犯した家康を追討する決起を、公式には一武将の三成が法制
を起したら、西軍内に不和が起きる。
それに目を瞑っても、“ありとあらゆる手段”を行うなら、史実と同じように
輝元や秀家を動かすしかないだろう。
791 :
009:2001/03/01(木) 21:40
いちいち矛盾点をついたらきりがなくなるが
当時、名目上は輝元や秀家が大将になっていたが
だれがみても総帥は三成なのは、わかっていたはず。
関ヶ原上においても西軍内は不和状態にあった。
歴史にifはないが西軍に秀頼の馬印があれば
間違いなく局面がちがっていたと断言できる。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 22:03
ま、首謀者は三成なんだから、誰に責任があるかつったら、間違いなく三成だろう。
793 :
直家:2001/03/01(木) 22:55
秀家よ、お前は本当にわしの子なのか・・・。
わしの子なのになぜそんなに誠実なのだ。
おふくの貞操が信じられなくなってきた。。。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 23:40
秀家が実戦指揮?ハァ?
オノレの部隊の指揮だけだろ。
秀家に責任があるとすれば養子格なので
二代目(預かり)としての責任かな。
秀吉が「しばらくは秀家に預ける」とでも言い残せば良かったのだけど。
秀次ほど明確に養子じゃなかったから、生き残れたのか?
秀家はそれほど秀吉にとって「かわいかった」のか?
でも、なら結城秀康もアリだよなぁ・・・やっぱりよそもの(非親戚)か。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 23:43
>>793 たしかに・・・・
産みの親より育ての親ということなのか。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 23:46
淀とせくーすしたのが、間違いのもと。
北の庄で死んどきゃよかったんだ。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/01(木) 23:47
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 00:00
それなら、なぜ秀家の首が飛ばんのか疑問なり。
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 00:37
>>794 実戦指揮権は輝元から与えられている。
関ヶ原から、一武将の印象を受けるけど。
まぎれもなく秀家は西軍の実戦総指揮官だよ。
秀家は養子より低い猶子だから、預かりは無理。
もっとも、他の養子群はさらに全員他家に養子に出されたけど、
秀家は最後まで秀吉は息子として扱われた。
800 :
徳川家康:2001/03/02(金) 00:44
毛利輝元、上杉景勝。これは案に相違して腰の重い、腑抜けじゃ。
秀家?
はっ! 面白い。あんな小僧に何が出きる!
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 01:09
って思ってたのかな、やっぱり。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 01:39
>>800 どうだろうか、宇喜多の御家騒動時に(宗教ってほんと国を滅ぼすよな。)
その仲裁を榊原が頼まれたんだが
家康は(正信がかも知れんが)それを許さず
結局、関ヶ原前に宇喜多家は有力武将が出奔し、傾きだした。
ってことを考えると、小僧と思ってたかも知れんが(実際の所業は単なる坊ちゃんだが。)
その家は何も出来ないとは思ってなかったんじゃないか。
と言うよりも、宇喜多が敵対すると考え、その家勢を削ぐとは
正信の謀略たるや、当時の戦国髄一だろうな。
如水や昌幸も流れを作れず、その流れの中でうまく立ち回ったに過ぎないし…
803 :
坂崎直盛:2001/03/02(金) 01:46
あんな奴の下風に立てるかってんだ、ばぁろ〜
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 03:02
秀家がもう5歳、年長ならなぁ・・・
秀家が関が原総責任者?名目だけな。
仕切りは名実ともに三成だろ。
みんなそれがわかってるからああなったんじゃん。
805 :
島左近:2001/03/02(金) 03:53
かかれーっ、かかれーっ、
かかれーっ、かかれーっ、
かかれーっ、かかれーっ、
かかれーっ、かかれーっ、
ズガーン!
一命、捧げたてまつらん・・・・・
西軍の基本戦略を狂わせた織田秀信が悪いと思われ
素直に篭城しとけば長期戦になって上杉の南下も考えられた事ですし
立花宗茂の軍も合流できたかも知れませんし
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 05:51
>806
福島ら東軍は清洲城でしばらく待機してたよ。
西軍の動向が気になったから。
輝元以下が岐阜の援軍にすら行かなかったから。
大垣にいたくせに牽制だけで終わった三成、左近も同罪。
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 09:24
家がボロボロだったのに、しかも若年で初陣(だったっけ?)だったのに
あれだけ奮戦できた秀家はすごいぞ。宇喜田兵ってそんな強兵だったか?
おれはこいつの個人的武勇ゆえと思うが。
age
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 12:18
とにかく西軍は最低の戦をしたということ。
眼を見張る仕事をしたのは真田が秀忠の3万8千を足止めした事ぐらい。
三成に人望と度量があれば、なんとか如水を味方につけ、
九州・中国地方の西軍が大阪城に集結し団結できたはず。
そして、一気呵成に東に攻め込めたんだが・・・
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:33
>>808 朝鮮で日本軍総帥してたよ。
小早川秀秋と違って、ちゃんと仕事(戦)してたよん。
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 13:49
>>802 というより有力大名の力をそいでいたと思われ
宇喜多だけではないと思われ
813 :
黒田如水:2001/03/02(金) 15:14
なんで、わしが若造やたぬき親爺の片棒担がにゃならんのだ!?
天下の趨勢が明らかになるまで、わしはわしのやりたいようにやるぞ。
814 :
直家:2001/03/02(金) 18:04
わしが少しでも直接秀家を指導していたのなら秀家は、こんな事にならなんだ。
まず秀次事件の時に秀次を立て秀吉を殺っちゃったはず。
そんでもって次は当然のようにその秀次を殺っちまうと。
ん?家康?彼は原因不明の病気で亡くなるんじゃないかな。
備前には良い薬師がいるからね。
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 18:13
つっても、あんた毛利元就や小早川隆景の暗殺はできなかったしね。
しようとしなかったかもしれんけど。
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 19:01
817 :
サド:2001/03/02(金) 20:35
ふっ。
太閤亡き後、関ヶ原までは全て私が画策したもの。
>>813 如水殿
故善戰者 致人而不致于人也。
天下の趨勢が明らかになるのを待ってる時点で、既にやりたいようには出来ぬ。
その前に趨勢を形成させねばならぬ。
先んずれば人を制すと申す。
>>812 不戰而屈人之兵 善之善者也。
しかし、わしにいくさについては聞いてはならぬ。
子房とて、ゲリラ戦しかしておらぬ。(しかも負けてる。)
このあたりわしと似ておるのう。生き様もの。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 23:07
>>810 とりあえず、三成以下の作戦であることに気が付いていないことに
100ペリカ。
819 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/03/02(金) 23:36
まあ、如水は何も出来ないように窓際にやられちゃったからね。
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/02(金) 23:57
演習不足が最大の敗因。誰が指揮しても勝てないモノは勝てない。
烏合の衆です
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 00:07
戸田重政萌え〜
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 04:44
秀吉が真田に甲信、いやせめて信州一国だけでも与えていたら・・・家康もそう簡単に開戦できなかっただろうに。上杉を会津に転封するよりそのほうが対徳川政策としては適切だったのにな。そもそもの原因は秀吉の対徳川政策の不徹底が原因。自分の死後家康が台頭するのは予想がついたはず。天敵の真田を加増するだけで全然違ったのにね。三成に責任を取らせるのは酷だよ。責任は秀吉そのものにある。
823 :
太閤:2001/03/03(土) 04:47
大した武功もない、しかも外様の真田に、どうやったら信州一国も与えられるのか、わしわかんない・・・・
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 05:29
そうだね。つーか北条滅亡後関東に真田を置けばよかったんだよ。
関東に真田、尾張に福島を置いて三河駿河遠江甲斐の徳川を監視する。
完璧だね。
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 05:35
どうせやるなら、真田に蒲生の旧領会津90万石与えたほうが面白いかも。家康にとっては目障りこの上ない。
おそらくは史実と同じように上杉ならぬ真田征伐を起こすだろう。そうなった場合、例え三成が西で挙兵しても上杉の時と同じUターンができただろうか?これは出来ない。すでに一度煮え湯をのまされているだけに、ここで引くと家康本人の威信に傷がつき、さらに東軍全体の士気にも関わる。攻撃せざるを得ない。そうなるとかなりの長期戦になる。
そうなれば、時間は西軍に味方をするだろう。西国の東軍拠点は落され、立花の別動隊も合流できる。こうなると毛利輝元も出陣は必至。この時点で西軍勝利は確定し、終結。
妄想が炸裂しております。
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 05:47
幸村は上杉の人質、秀吉の人質になって可愛がられたというから
その関係から信州一国ぐらいだったら・・・
と思うよ。
なんで秀吉は真田を評価しなかったんだ???
思うに真田は旧武田として徳川にゆかりがあるし
一時期とはいえ徳川と同盟してたから警戒されたんじゃないかな?
その場合わしらは所領没収っすか?
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 06:03
結論としては、真田父子、立花宗茂にわずかな石高しか与えなかった
秀吉に責任があるということだ。
90万石は無理としても真田に信濃一国、立花に筑前一国でも与えておけば
豊臣家はあんな滅び方をしなかっただろう。
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 06:29
無茶言ってるな
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 07:23
どんな結論なんだよ、一体
もはや無茶苦茶ですな。
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 11:39
>>825 多分、同じ理由で江戸時代に置かれた加藤のこと
考えてみろよ、40万石だよ?
目障りなだけなら、これで十分。
上杉の120万石(実収140万石)と連携取れる佐竹
の70万石。家康に匹敵するよ。
これは、最良の選択だよ。
問題は、ケツから食いつくはずの、上杉の行動の
自由を奪った状況が悪い。
というか、福島正則他尾張子飼いの部下達が、
東海道いる理由考えないか(泣)
関東に封じ込められたのに。
>>829 外様にこれ以上の石高あたえるの無理だって、
子飼いの部下達の石高みてみろよ。
武功が無いと領地は与えられないって。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 16:09
ま、生きてる人間の方が強いよ。
力を温存したまま、長生きした家康が勝つのは仕方のないことだ。
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 17:00
>>834 当時家康個人の力が大きかったからね。
三河、遠江やらを支配してきた頃は、
領土を制圧しても、恩賞として部下(土豪)
としてやらにゃいかんかったが、
関東八州に移ったとき、当然功がなかった
ので、恩賞があまりなかった。
おかげで、120万石から250万石になってその
増収分を完全に自分の物にしたそうだ。
ほそろしい・・・ほそろしすぎる・・・
とくに
>>822-829あたりが最もほそろしい・・・・
大大名になった新規中途採用の真田が
豊臣の言うことをどこまで聞くかね?
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:39
マジレスするけどさあ、
立花や真田にそんな大国やった場合、彼らは大きな領国の経営のために、かなり数の家臣を新たに雇う必要があるぞ。
その場合、彼らがそれまでの質の高さを保てるかどうかは、かなり疑問だし、領国経営が安定しなけりゃ、一揆が頻発したりして、かえって面倒なことになるだろ。
逆に家康は250万石を安定して支配できるだけ家臣団を既に持っていたからこそ、天下を取ることもできたし、幕府を安定的に存続させることはできたんじゃないの?
839 :
838:2001/03/03(土) 18:47
変な日本語。
>幕府を安定的に存続させることはできた
じゃなくて、
>ことができた
ね。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 18:53
ひろゆき
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 19:22
>>738 日本史板みたいなレスするなよ(w
>>772 たんば、じゃなくて、にわ、ですよ(俺も昔、たんば長秀、滝川いっさ、と呼んでた
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 23:33
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 23:45
真田は、徳川との同盟を破棄して、上杉についた経緯がある。
こんな奴らを、心底から信用して、大きな領地を与えることなんてできない。
(関ケ原でも、東西両軍に兵を分けてたし。どっちの味方やねん)
ヘボ武将ならいざ知らず、真田ほどの実力者ならなおさらだ。
秀吉の判断は責められない。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/03(土) 23:58
それどころか真田は、天正十年に主家を織田→北条→徳川→上杉→羽柴って変えてる
これじゃあ信用できんよな
自分のことを賢いなどとは塵ほどにも思ってないが
822〜829のような電波君とレスを交わしてると思うと
やりきれない・・・
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 00:19
いや、電波のおかげでスレが活性化した。
面白いから、もっと電波をぶちまけてくれ。
立花宗茂:大友家陪臣、立花城主(推定4〜6万石)→柳河城主13万2200石(九州征伐後)
真田昌幸:信州小県郡、上州吾妻・沼田郡領主(推定でも10万石以下)
彼等を40万石クラスの大名に取り上げれば、木村吉清・吉久父子の二の舞になる可能性が高い
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 00:58
片桐
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 01:18
>>843 ああ、あれって、北条の要求呑んだのはいいけど、
真田の領地を受け渡すというのに旗下の真田になんも
相談しなかったんでしょ。
おまけに、領地の補完もしなかったし……。
普通、離れるぞ、それ。
織田→北条 武田滅んだから。
北条→徳川 勢力争いの結果。
徳川→上杉 上記。
上杉→羽柴 つーか、秀吉に見事に騙された(藁。
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 02:02
>>849 昌幸の徳川嫌いがそれから始まって、信繁に受け継がれて徹底抗戦してゆくって
話だったよね。真田家は。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 02:42
>>822-829
もう一度よく読もう。
俺はこれネタで書いたんだと思う・・・というか思いたい。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 03:17
>>849 織田→北条 は、信長が死んで、関東・信州方面軍の滝川一益が追い出さ
れてしまったからだよね。
中小大名なら、仕方ないと思う。あの情勢では織田から援軍来る訳ないし。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 05:42
電波をもう一度
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 05:56
発信ゆんゆん
855 :
陸議:2001/03/04(日) 06:55
木村吉清・吉久父子を抜擢したのは
反乱予備軍を焙り出す為でしょ?
伊達の失脚を目論んだ秀吉の策という説もあるけど。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 07:10
>>855 その説って物証が何も無いんだよね
一時期、佐々成政の肥後移封も同じ事言われてたし
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 07:55
じゃあ逆に彼らが抜擢された理由は???
木村吉清・吉久父子
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 08:07
>>857 奥州征伐時に蒲生軍の一翼を担い、葛西晴信を攻め滅ぼした功により
葛西・大崎の旧領に封ぜられてる。
というか蒲生氏郷(会津91万9000石)の与力大名と見るべき
氏郷だって旧領は10万石程度だったが、奥州征伐の功で大領を得てるんだし
結局、器量不足で維持出来なかったと見るべき
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 09:30
>>858 息子の代でね。
つーか、家康が後見役なんだが。
アホみたいな話だな。
あげ
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 23:54
関ケ原敗戦後、大坂で輝元や立花あたりが徹底抗戦していたら・・・。
どうなったんだろ?
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 00:12
>>861 そりゃ豊家の滅亡が15年早くなったんだろうな。
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 01:19
家康の天下取りが遅れたかもしれないけど、その代わり毛利も立花も滅亡してたと思われ
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 01:56
毛利輝元本隊30000vs小早川秀秋15000+毛利秀元15000+吉川広家3000
・
・
・
なーんて戦いが大坂で見れたかも。
んなわきゃねーか。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 03:07
なんで、輝元と秀元・広家・秀秋が戦うの?
んだ。徳川の尖兵として秀秋が死ぬのはわかるが、
それ以外は、城に入って、徳川との講和まで粘るだろ。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 06:19
>徳川の尖兵として秀秋が「死ぬ」
ちょっと笑ってしまった・・・・
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 16:41
age
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/27(火) 04:56
おもろいage
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/29(木) 00:23
真田についてだけど、平場で数万の軍勢を率いたことがない真田が
数十万石を領したとしても活躍できた保証ってないね。
当時の武将たちも「シカトするにはうるさすぎる蝿」程度の認識だったのでは?
>>870 豪族は馬鹿に出来ません。
都市に住む人間にとって地縁を
馬鹿にしますが、秀吉の播磨での
事考えると、そんな生易しいものじ
ゃないですねえ。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/29(木) 00:46
>>871 870だけど、オレが言ってるのは
「真田に大領を任せても活躍できた可能性は非常に少ない」ってこと。
小部隊の指揮が得意でも大部隊の指揮が得意とは限らないですから。
個人的には真田昌幸は小部隊を率いてのゲリラ的戦術や、
大国を計りにかける戦略に関しては戦国時代を通じて
最高レベルの人だったと思ってますよ。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/29(木) 00:55
>>872 「真田に大領を任せても活躍できたかもしれない可能性を否定はできない」
874 :
872:2001/03/29(木) 00:56
そりゃ確かにおっしゃる通りです。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/29(木) 01:16
>>875 それじゃあ「if」話なんて出来ないじゃん。
>876
痛々しいね、キミ
べつにIF話だって楽しみ方のひとつだべ。
かてーこというなって。お堅くやりたいんなら別にそれでイーし。
って、史学科の人間のいうことじゃねーか。