1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
何でもいいから史実で語って下さい。
2 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/01/03(水) 14:01
史実では孔明は三顧の礼で迎えられてません。
史実では徐晃は病没です。
周瑜は蜀攻略途中で病死、別に孔明の手紙で死んでません。
後、周倉なんて存在しません。
それと、史実では貂蝉なんてこの世に存在すらしてないのであしからず。
最もモデルは存在するそうですが、貂蝉に限って言えば(w
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 14:47
出師の表で三顧の礼で迎えられみたいな言い回しがあるけど、あれも
創作?
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 15:27
そのぐらい丁寧に迎え入れてくれたという例えでは?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 16:05
格闘なら呂布よりも悪来や許緒のほうが強いね。
セキトバあんなに長生きしません
7 :
曹昂:2001/01/03(水) 18:19
後、史実では関索なんて存在しないよね。
でもオイラは史実では存在してるのかな?
8 :
劉禅:2001/01/03(水) 18:22
忠実では名君です。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 18:25
徐庶は別れぎわに諸葛亮を紹介してません。
徐庶が曹操に降ったのは、劉備が江夏(公安?)にたどり着く前後です。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 18:27
>>6 つーか赤兎馬じたいほとんどフィクションじゃなかったっけ?
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 19:27
徐庶は魏史にすら出てこない
徐庶が有能と思われてるのは、諸葛亮が手紙に
「徐庶のような有能な士が、魏で出世しないのは何故だろう。
魏はそれほど人材が多いのか。」
と書いていたから
12 :
三顧の礼:2001/01/03(水) 19:44
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 20:41
督郵を鞭打ちしたのは劉備です。
孔明は南征してません。すべて張ギョクがモデルです。
陸遜を殺したのは孫権です。
董卓配下の李儒は架空人物です。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 20:42
>13
李儒は架空なの?
後漢記に出ていなかったっけ?
15 :
赤兎馬:2001/01/03(水) 21:21
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 21:27
ひどいなここ
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 21:31
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 22:18
孔明が地方のいち役人だったって話
聞いたことある?
>>10たん。既出だけど、
赤兎馬は、いちお実在しているみたい。
呂布・臧洪傳 第七
「布有良馬曰赤兎(布に良馬あり、曰く赤兎)」
呂布には、赤兎という良馬があった。
裴松之が引用した「曹瞞傳」に
「時人語曰、人中有呂布、馬中有赤兎
(時の人かたりて曰く、人中に呂布あり馬中に赤兎あり)」
当時の人は「人中に呂布あり馬中に赤兎あり」と語りあった。
21 :
10たん:2001/01/04(木) 01:53
>>20 演義や横山三国志の超馬的な働きとか、
関羽の後を追うように死んだりのくだりは創作という意味で書きました。
正史だと呂布の馬は赤くてすごいぞ、くらいの記述だったと思うんで。
22 :
10たん:2001/01/04(木) 02:03
劉備は反董卓の戦いに参加してません。
ので華雄を討ち取ったのが関羽なわきゃないです。
ついでにいうと檄文を偽造して諸侯に送ったのは曹操ではなく強暴で、
連合軍も横山三国志のように集まって連合していたわけじゃありません。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 02:15
<架空の人物リスト>
李儒、周倉、関索、チョウセン
他にもいたら書き足してちょ。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 06:28
学生時代、世界史の先生から
「張飛は実在の人物ではない!」と
叩き込まれたが。
25 :
>24:2001/01/04(木) 08:33
ネタにしてはつまらんな
26 :
ヽ^∀^ノ :2001/01/04(木) 10:08
ヽ^∀^ノ <董卓は禅譲される予定じゃなかった。
27 :
ヽ^∀^ノ :2001/01/04(木) 10:22
ヽ^∀^ノ <そういえば
>>23 孟獲の部下やなんたら大王なんてのも架空だね
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 10:41
ここの半分は確実に嘘。
みんなだまされてる。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 11:44
>>24 張飛は実在の人物だよ。
正史だと字は益徳。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 16:07
佐慈(字、あってる?)は
なんなの?どーなの?
31 :
代打名無し:2001/01/04(木) 16:43
超雲はかなり下っ端
ハッキリ言ってボディーガードでしょ
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 16:46
33 :
31:2001/01/04(木) 17:05
かなりだと思うけどね。
劉備が溺愛してただけ
なんの軍功もないじゃん
超雲の軍功は”劉禅を救った”という記述だけだったような記憶がある。
35 :
ナナシサソ:2001/01/05(金) 00:06
五虎将は、一回も全員一同に顔を合わせたことがない。
36 :
あ:2001/01/05(金) 00:19
会った事がないのは馬超と関羽だったっけ?
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 00:33
後の皇帝を救ったなんて、比類の無い軍功だよな。
>左慈
正史によれば、房中術に長けていて、300年も生きてると広言していたとか。
39 :
于吉:2001/01/05(金) 01:42
ふぁんた爺だから
>>31,34 超雲
正史ではこう書いてあるの?
不勉強ですまん。
41 :
jojo:2001/01/05(金) 15:49
曹操はチビで本人もかなり気にしていたらしく、
外国から使者が来た時、背の大きな偽者をたてたこともあるらしい。
あまりにも有名すぎる話だな、それ。
>>40 少なくとも、劉備にとっては魏延より下に見られてたはず。
つーか、劉備が魏延に溺愛してただけという話もあるが。
"五虎将"なんて、当時から言われてたわけじゃないだろうし。
あ、でも"関張馬黄趙伝"なんてものも有るか・・・
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 16:05
演義の挿絵は、三国時代の風俗考証に基づいていない。
現在ゲーム・漫画などで広く知られている絵も同様。
てっぺんにふさふさのついた華麗な兜とか、あぶみのついた鞍とか。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 16:40
蛇矛、明光鎧も明代のもの。たしか。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 16:43
え!?曹操ってチビだったの?
ショック〜
今まで曹操好きだったけど、それ聞いて一気に幻滅したわ
蒼天航路のイメージが崩れてゆく・・・
47 :
jojo:2001/01/05(金) 16:55
>46
マジネタです。
ついでにもう一つ、その外国の使者は殺されたらしい。
何でもニセ物の大きな曹操より、その横にいたチビの方が
威厳があると言ったためだとか
曹操の残虐な一面です。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:04
でもこの話、「世説新語」だからなあ・・・
史実と言ってしまうのはどうかと思うぞ。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:16
↑
あ、疑ってるのは使者引見→殺害の話ね。
チビだったのは確からしい。
諸葛亮・劉備・孫権・孫策・劉表・袁紹など、
正史には立派な容姿に関する記述は多いのに、
曹操には全く見当たらない。
きっと書くに値しない風采だったんじゃないかな。
50 :
47だけど:2001/01/05(金) 19:04
いわれてみればそのとおり
そういう話があったという程度にしておいてください
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 23:21
>>46 蒼天でも張飛が「あんな小男に振り回されやがって」と言ってるシーンがあるぞ
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 23:32
>>51 蒼天ってキャラの容姿については妙に原典(演義&正史)にこだわるよな(敢えて曲解すると言うか)。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 05:23
>>23 李儒は14さんのいうとおり『後漢書』に登場する実在の人物です
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 05:50
諸葛亮の嫁はブス。でも夫婦円満だったらしい。
あと 諸葛亮が劉備に仕え始めた頃は全然相手にされなかったという説もある。
いくら正史と言っても、西暦200年あたりに書かれた文献を
歴史考察上、あまり鵜呑みにするのもどうかと思うが・・・
陳寿って人物自体怪しいし、当時が当時だから、陳寿が資料を
集めるのにも限界があったろう。陳寿が仕入れた情報ですら、
すでに過大評価されたものや誤認・都市伝説のようなものも
多分に含まれていただろうし・・・
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:20
正史といえど、所詮は官制の歴史。
史実ではないこと明白。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:25
んじゃ、一番ベタなの。
「桃園の誓い」はなかった・・・
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:26
事実とは言えなくても事実に一番近いのでは?
史書から真実をどう読み取るかが重要だと思うのだが・・・
59 :
軍師さん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:41
正史は人物毎に大まかな経歴と様々な民間説話、
文章等を集め、それに陳寿が注訳をつける形で
書かれております。
編纂当時は、三国時代が終焉を迎えて6,70年
経った頃の筈ですので、情報自体は何とか手に入ったと思います。
また、民間説話から話を持って来た時、
あまりに信じ難い話の時には
陳寿自ら注訳の中で”おことわり”を書いていたりします。
総てが真実という書き方が成されているのでは無く、
様々な説話を2chの様に集合させた”本”だと
思います。
劉備配下時代の陳羣ってどんな状況だったのでしょう?
どなたか詳しい人いませんか?
61 :
あ:2001/01/06(土) 07:14
別のスレで既出ですけど、
呂布を信用してはいけないと劉備に進言したのに
聞き入れてもらえず城を捕られた
張飛はうまく落ち延びたが
陳羣は逃げてしまい、彼は曹操に拾われた。
という意味の事がカキコされていた記憶がある。
陳宮は曹操の所で呂布を招き入れ反乱しましたが
その後 呂布の元でも反乱してます。
(郭ホ が反乱、高順が反乱軍は河内訛りだから
反乱してるのは郭ホ だ!と見破った時の)
失敗に終わりますが郭ホ は処刑、陳宮は有能な大将という事で死なずに済みました。
だから呂布が滅んで潔く処刑されたのも なにも呂布に忠義を尽くしたわけでも無く
自分の為であった。
徐庶なんかは一回他国に行っただけでもう戻れない、戻ったら笑われるだろうと
言っているのに陳宮なんとも情けないです。
黄権なんかも蜀に戻らなかったよな。
李典は諸将と功を争わず〜
とありますが
合肥で張遼、楽進、李典は3人それぞれが仲悪かったとありまする。
そういえば なんかの本で
鍾会は賈言羽の弟子だとあったんですが本当なの・・・?
馬謖の抜擢について
蜀の南征で馬謖の一言(心をせめるが上策)が諸葛亮に評価されたり
して北伐では抜擢されたとありますがこれはとんでもない事ではないだろうか?
南の反乱で中心となったところはそのちょっと前に馬謖が太守を努めていたところである。
そこでたいした事もできずに丞相府に呼ばれ その後の展開が待っているのである。
そんな感じで抜擢とは本当に諸葛亮のただのえこひいきだったのだなと思うと情けない。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 16:10
正史ねぇ… まず、当時の6〜70年ってのは、そりゃ長い時間ですよ。
三国時代の人々の一生から考えると、曽祖父以上昔の事となるだろうし。
なにより現在のように情報網が発達していない。編者の居る場所から
長距離になればなるほど、生の声を聞きづらくなる。
結局、人から人へと伝わっていった説話を、ある程度吟味しながら
書き記していく事になる。とても信用できるシロモノではない。
注釈にしても、せいぜい「いくらなんでもこりゃ無いだろ」程度の事を
選んで書くしかないだろうね。
そもそも、戦場にて数十万単位の軍団を率いた武将同士が闘っていた
というのはまず無かったでしょう。この単位はかなりデタラメだと思う。
>>66 君は中国を知らない……。
そのスケールを。
基地外じみた記録僻を。
おおげさな数字を(w。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 18:26
正史がデタラメだって言ってもなあ・・・
そんなこといったら中国の歴史書は全部デタラメってことになっちゃう。
三国志って、二十四史の中でも極めて同時代史に近いものなんだよ。
漢書は200年後、後漢書も200年後、晋書は300年後に書かれたものなんだし。
それに比べれば、6〜70年なんてまだそれこそ膨大な文献が残っている時期に
書かれたわけだからさ。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 18:36
中国は事細かに史実を残しているが、その多くが客観性に欠けている。
書き手の判断によってどうにでもなるって程度の書物。
当時の権力(圧力)によって改ざんされるなんて事も・・・
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 18:40
>59
陳寿が三国志を書き始めたのは三国統一前後だろ?
六・七十年って三国成立からの間違いじゃないの
そもそも劉禅を暗君に仕立てたのは陳寿っぽい
前の主君を褒め讃えるのは己の身の危険に直結するから
蜀人の伝が少ないのも同様
じゃあ劉備を褒め称えてるのはなぜ?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 18:53
三国志(正史)だけ読んでも
あの時代のことは何もわからないだろ。
歴史は連続してるんだから…
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 18:55
>>68 戦国時代に、1つの国家に属する人物が、他の国(過去の敵国など)
を含めて後世に歴史書を残す場合、同時代史に近いなら近いで、
余計その内容に信用ならない面も出てくる。難しいところだ。
>>71 昭烈皇帝時代は良い時代じゃったのぉ…
という陳寿の想い。
しいては「あの孔明という輩が出てきてからは…」といった
個人的想いも出ているかも知れん。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 15:41
わわわ
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 15:46
卑弥呼のマンコはミミズ千匹
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 17:33
ゲームの三国志で「空白都市」という、どの勢力にも統治されていない都市
が登場しますが、あれらの都市は実際には誰に支配されていたの?
それとも、本当に誰にも支配されていない都市があったの?
77 :
>76:2001/01/18(木) 06:39
λ_λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( `ー´)<んな事あるわけネーダロ?
/ つ\______
(人_つ_つ
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 07:45
>>76 三国鼎立前は、一応、皇帝が太守なりの統治者を任命。
だが、実際は側近や、その時点で皇帝を擁していた群雄の
思惑により認定されていたと言って良いでしょう。
ただし戦乱時代なので、放浪の将が現統治者を蹴落として、そのまま居着く
なんて事もあったようです。
そのまま土地の民に支持されて、もしくは皇帝を擁した群雄の政治的思惑などで
奪った土地でそのまま正式に統治者に任命されるなどという事も…
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 08:14
>>71 晋の時代に蜀のことを良く書くのは基本的にはオッケーだった。だから劉備を誉め
そやすのは別に不思議なことじゃない。でも、禅譲の件があるから、魏だけを正当
な国家とする必要はあった。
>>73 陳寿は諸葛孔明に恨みがあったとか色々言われているけど全部嘘。
孔明を批判しているのは歴史家としての立場からであって、全体的には不世出の
天才として尊敬していたし、諸葛亮集を晋の武帝に献上していることからも、陳寿
の諸葛亮への尊敬の念がうかがえる。
てゆうか、陳寿の父が敗戦の罪で孔明に処刑させられたって話じたい、かなり無理があるぞ。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/18(木) 21:40
>>80 死刑じゃなくて、「コン髪」(曖昧。突っ込んでください)の刑じゃなかったっけ。
街亭で馬謖を見捨てたか何かしたかで諸葛亮の怒りを買ったとか。
ハイ松之からして、この話は嘘だと言っているよね。
82 :
孫家:2001/01/19(金) 11:22
日本では「孫子の末裔」として有名らしいが実際は末裔じゃなかったらしいね。
史実等を見ても孔融などと違いはっきりとした記述が無い。
また彼らの絶妙な計略等が見事に決まった際の記述のなかに
「さすがはかの大軍師・孫子の末裔」ぐらいの記述があってもなんらおかしくない。
あくまで「かもしれない」という事らしいが確立は極めて低いらしい。
劉備と同じく、曹操や袁紹のように血筋でも引けをとってないという事をPRする為
だったのかもしれない。
しかし実際の見方は呉は目まぐるしい総督交代にも関わらず円滑に進んだ事を後世の人がそれに重ねた
というのが一般論らしい。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 16:30
で、その「孫子」なんだけど、孫堅ら一族が末裔だと言っていたのは
呉の「孫武」斉の「孫ピン」のどちらを指していたのでしょうか?
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 16:55
>>81 「晋書・陳寿伝」には馬謖と一緒に裁かれて
コン刑(髪を切られる)に処されたとあるね。
>>80 かなり無理があるって、どういうところで?
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 17:55
>>84 まず父親と言われる陳式はその後武都・陰平の攻略戦で出てくる。
同姓で別人としても、街亭の戦いが228年で陳寿が生まれたのは
233年なのでおかしい。
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 18:03
後、晋書を書かせた唐の皇帝が熱烈な司馬懿ファンだから
嫌みの一つでもいれたんじゃないかって気もする。
87 :
84:2001/01/19(金) 18:14
陳式が陳寿の父とされているのは演義であって、
演義の場合、陳式は孔明によって斬首の刑に処されている。
で、史実の「晋書・陳寿伝」には、馬謖と共に裁かれ…といった
エピソードと共に、陳寿の父とだけしか書かれておらず
その名は記されていないんじゃなかったっけ?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 19:08
陳寿の父は史実的にも陳式なの?
私もこれは初耳だ。素直に興味ある。
89 :
80=85:2001/01/19(金) 23:20
よく言われるのはって意味で陳式を出してしまったが、演義かもしれない。
少なくとも正史には降格以外では馬謖・張休・李盛が死刑で黄襲らが配下の兵を
没収ってのが王平伝にあるだけで、陳寿の父に関しては書いてなかったと思う。
晋書以外で陳寿の父に触れてるのって何かないのかな。
(裴ちゅーであったっけ? 忘れた)
90 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/20(土) 02:47
三国志演義ではやたらと多い一騎撃ちだが、
そのほとんどは創作。カユウを討ち取ったのも
関羽じゃなくて孫堅軍だし。
しかし史実で堂々と存在する一騎打ちもある。
関羽が顔良を一撃で倒したあのシーンだ。
しかしこれには笑い話があって、顔良が
「おーい、関羽・・・」と呼びかけたところを
関羽が耳を貸さずに倒してしまったそうな。
これってきわめて真実っぽいと俺は思っている。
だって顔良にしたら、劉備は自分のところにいるんだから、
説明さえすれば関羽と戦うことは無いと思っただろう。
そこを演義では頭のいいことになっている馬鹿関羽が
耳も貸さずにやってしまったのではないか。
ふつうの戦では大将同士が接近することもまず無いだろうし、
この説あっているとしか思えない。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 02:55
>90
同感。 実際の関羽の行動を見てると、知識とかそういう面ではともかく
人間として本質的な所で馬鹿、という印象がある。
性格面も含めて、一番扱いにくいタイプかも・・・
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 04:31
>90
顔良可哀想だね(笑)
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 04:39
>>90 この時は劉備の妻子が曹操の下にいたって演義にあるのは事実?
もし事実だったら味方(と言うより曹操の将兵)がいる前で
敵将と会話するなんて背信行為に取られるのでは?と思う
詳しくないからわかんないけどね
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 07:06
>>90 関羽の騙し討ちの件はあくまで史実とは関係ない所からの出典だよ。
仮に史実だとしても、そんな事でおっ死んだ顔良はマヌケ過ぎ。
その関羽をムザムザ逃がした軍兵もマヌケ過ぎ。
…だと思うな。
史実での一騎打ちと言えば、孫策と太史慈の一騎打ちも外せないね。
偵察中に偶発的に出くわしたとはいえ、なかなか豪気溢れるエピソード。
関羽の件よりカッコイイ。
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 23:59
夢が崩れる・・・
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 00:23
顔良(袁紹)サイドに、関羽の義兄であり主君である劉備がいる。
顔良が関羽に「お主の主君劉備がこちらに居るというのは聞いておろうが、
それはデマではないぞ」と教えようとしたのは容易に察せられる。
(ここで袁紹は何故劉備自身に行かせなかったのかという疑問が起こるだろう。
だが袁紹としても、もし劉備が関羽と会、行動を共にする為に曹操側に付く事を
懸念すれば、易々と関羽の前に劉備を出すような危険は冒さなかっただろう)
だから
>>94の言う顔良がマヌケっていうのは、ちょっと違うのでは?と思う。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/21(日) 10:31
>>96 そうそう。
んでもって後世になって関羽が神格化されるにしたがってこの史実が
都合の悪いものとなり、演義では表現が婉曲化され奥歯にモノが
挟まったような後味の悪い一騎討ちシーンになってしまったという
学説もあるよね。
98 :
:無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 22:01
あげ
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/24(水) 23:25
早くタイムマシーン出来ねーかなぁ。
真実を知りてぇ。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 11:33
曹操の死が、関羽の亡霊の呪いだって言う説は本当?
関羽=神
関羽以外は犬豚
関羽は希代の名将
うちの庭には関帝廟がある
関羽を中傷した奴は亡霊にとりつかれてしぬ
これは本当だぞ
魏や呉に関羽がいないからってひがむなよな
実社会で何もできない奴ほど、歴史上の有名人を非難する事で
優越感を得ようとする
みにくいよな
悔しかったら、関羽と一騎打ちして勝ってみろよ(藁
おまえにはできないだろう
あたりまえだ。関羽はもう死んでいるのだからな。
だから、厨房がいくら関羽に罵声をあびせても、関羽はあの世から
帰ってきてその豪腕でオタク厨房をひねり潰す事もできない
それに漬け込んで厨房共は日ごろの鬱憤を関羽に向ける
なんと嘆かわしや
言いたい事は以上だ
引き篭もりの厨房諸君は以上の文を毎日朝と晩に欠かさず朗読するように。
なんだなんだ?
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 12:47
結論:関羽はクソ
>>116 あ〜あ、知らないよ。中国人ハカーに狙われちゃったね。キミ。
向こうでは神様だから。関羽は。
中華マフィアに青龍刀でバッサリやられるよ。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 15:36
さっきからsageてる人、
もう少し面白いこと書いてよ。
半分本気で書きこんでそうなんだけど
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 15:52
あ〜あ、最初の方はマトモなスレだったのに…
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 16:11
嘆かわしい。何故こんな展開になってしまった?
「史実を語る」スレがこんな事になってしまった。
だからと言って改めてスレ立てれば良いという問題でもないだろう。
と言って、悪意あるレスする人を排除すれば良いという問題でもない。
三国志を語る板で、しかも王道の史実を語るスレッドがこの有様。
なってしまったものは仕方ないが、悲しい限りである。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/27(土) 16:15
最初、劉備は五虎将軍に趙雲を入れる予定じゃなかった。
ところが孔明が軍歴の長さを理由に五虎将軍入りを進言。
それで"関張馬黄趙伝"になってる。
たぶんこれは功績の順だと思われ。
うろ覚えだけど・・・
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 19:38
>>122 五人が同時に謚号されただけのことじゃないの?
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/27(土) 20:44
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:43
ベタねただけど一応。。。
赤壁で戦艦を焼き払ったのは曹操。
黄蓋・周ユの苦肉の策もホウ統の連環の計も
当然諸葛亮の風をよぶアレも全て演義の創作。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 00:59
赤壁なら関羽と曹操の華容道の一件も作り話と思われ。
曹操の行軍は長江を江陵→華容→烏林→赤壁
赤壁での戦闘後、北岸に陣取ったあと北へ向かって
行ったのだから華容を通る必要はなし。
華容道の話はかなり信憑性に欠けるね。
正史にも記述が無いし。
換羽オタにやられそうなので逃げます(ワラ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:11
この板にいる正史派はちゃんと魏書、呉書、蜀書、全部読んだか?
裴注読んだか?どうせ光栄の解説本読んでる程度の知識だろ。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:17
>>127 ここはネタ系の板だから、そんなもんで充分だろ?
その方がこの板のレベルにも相応しいんだから。
>127
こぴべ
>>128 全てのスレがネタじゃないだろ?
知識のない奴に限ってネタで済ましたがるな。
少しぐらいマトモなスレがないと破綻を起こすぞ。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/28(日) 01:22
>>128 あれ?分割スレで煽って、世界史板に帰ったんじゃなかったの?
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:12
劉備玄徳とか曹操孟徳などのように
性+名+字で呼ぶのはないわなー
性+字で呼ぶのが普通
134 :
>132:2001/01/30(火) 00:14
はい終了!
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 00:35
█▄ ███▄
███▀ █████████
███▀ ██ ███▀ ▄███▀
██▀ ▄███▀███▄▄▄███
▄███▄▄██▀ █▀ ▀████
▀▀▀▀███▄ ▄██▀█▄▄
██▀ ███ ██▀ ▀███▄▄
▄████▀▀██ ▄█▀▄▄ ▀█████▄▄
▀█▀▀ █▄▄█▀ ████▄ ▀███▀▀▀
▄ ███ ▀███ ▀▀▀
███ ███ ▀▀
███ ▀ ▀████▄
▀ ▀████
この「終」ってコピペ、使うタイミングによっては絶妙な笑いを誘うね。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 23:13
age
>>132 たのむから「性」はやめてくれ。
男孔明か?
男雲長(事実)
男雲長
とか書くと、なんか熱血な感じがするよね
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/30(火) 23:25
ひょっとこ雲長
史実を語ってくれよ…
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 00:09
名スレなのでage。
演義で有名なシーンの史実を知りたい。
関羽の千里行なんて、どこまでがほんとなの?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 00:46
>>145 関羽が顔良を殺害した後
劉備の元へ逃げ帰った
↑ポイント
と、あります(蜀書先主伝、蜀書関羽伝より)
でもさー
よく考えると「正史」で語ることはできても
「史実」で語ることって不可能だよなー
え? がいしゅつ?
いいじゃんべつに、1に突っ込み入れたかっただけ(ワラ
失われた過去について完全な史実を求めることは不可能だが、
虚構化されたエピソードについてそれが史実でないことを立証するのは比較的容易だよ。
日本語訳しか読んでないのか?
中国に行って研究者の資料とか読んでるやつはいないのか?
漫画やアニメ、ゲーム関係にはレス付くのにこれはまるっきりつかん
所詮、あの時代の文化、時代背景、倫理観、価値観、言語、科学、医学等に
全く興味無いんだろうな
どいつもこいつも日本で翻訳本読んで喜んでるだけか
少しはマトモな奴居るかなと思ったが、期待して損した
世界史板も殆ど自己満足厨房だったし、三国志オタクって呼ばれる訳だ
自分のサイトに帰ろう
151 :
名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/31(水) 13:23
自分で何一つ書いてないんだから、
お前も同類。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 13:35
>>59 名前:軍師さん@お腹いっぱい。投稿日:2001/01/06(土) 06:41
> 正史は
> 様々な説話を2chの様に集合させた”本”だと
> 思います。
ってことは、生史は全部ネタ、妄想か、、、、、
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 13:38
154 :
1:2001/01/31(水) 17:36
>>147 歴史としての三国志を語ってもらいたくてスレたてました。
「正史」で語るというタイトルにすると他の文献を持ち出し
てくることができないし、「正史」の記述を否定することも
できないと思うのでこーいうタイトルにしました。
やっぱ「史実で語る」では日本語としておかしいですか?
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 17:42
>>154 どーせなら「後漢末から三国時代の史実をさぐる」にした方が、
余計な誤解を招かずに済んだかもね。
そもそも『三国志』は史料であって、それを史実で語ろうってのは、
少々おかしい。・・・堅いことを言えば、だけどな。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 17:42
>>154 いいんじゃない?
史記で語るとかにしてもいいが、気にしだしたらきりがない。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 17:50
もっと直接的に「『三国志通俗演義』の虚構性をあばくスレッド」
でもいいけど、もとから小説として書かれたもんだからな。
脚色は当然であって、あまり有意義なスレッドになるとも思えん。
158 :
147:2001/01/31(水) 18:10
>1
1800年ほど昔のことなんだから
真実を知ることはできないんだよ
1の言いたい事はわかるけどね
「三国時代を史料をもとに語るスレ」
みたいなタイトルだったら良かったのかな?
まぁ、ちょっと突っ込んでみたかっただけだ
気にするな&スマソ
確認するけど 1=150 じゃないよな?
159 :
名無しさんのレスが読めるのは2chだけ!:2001/01/31(水) 18:15
>1
歴史として語る、そのままにすればよかったのじゃないかな。
でも、言わんとすることはいい内容だと思うよ
漫画板に出入りするようなヲタがこの板を駄目にしてる
ある意味コーエーヲタより問題だ
コーエーヲタの大活躍により、
結果的には漫画ヲタも気楽に
スレ立てたりカキコしまくれる板となりました。
漫画ネタは三国志関係ばっかだな
スレ汚しめ。>160-162
ふーん、(少年)漫画板に出入りしてる奴は
書き込んだら駄目なのね。
なんて使いにくい板だ。苺に行こうっと。
三国志オタ 孤独
漫画オタ 同好の士がいるし、一般に友達もいる
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/01/31(水) 19:42
つか、ちょっと食べ残したぐらいでヲタ決定?(ワラ
167 :
1:2001/01/31(水) 20:52
皆さんのご指摘通りですね。
意味不明なタイトルですみません。
150さんは私ではありません。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 00:12
小説や漫画で曹操はよく「丞相」と呼ばれているが
丞相になったのは建安13年(208)
そして建安18年(213)に魏公になった
ということで建安13年より前に
「丞相」と呼ぶのは間違い
響きはいいんだけどね<曹丞相
同様に在位中に「献帝」って呼ぶのもねぇ
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 00:15
>>168 >同様に在位中に「献帝」って呼ぶのもねぇ
これ誤解してるひとが多いよね。三国志Zでも献帝って出てるし。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 00:30
諡号だからねえ
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 00:41
由来を考えれば、面と向かって本人に「献帝」とは言えんわな
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 01:23
劉協って呼ぶのも変だろ
太宗だって永楽帝だって太宗・永楽帝と書かざるを得ないよ
帝位について本名で呼ぶのは無理がある
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 01:26
>>172 いやだからね、漫画とかゲームの
現在進行形な状況での呼び方について言ってるんだけど…
>>172 いや、物語の途中で「献帝」と呼ぶシーンがあったら
おかしいって話だろ?
ちっ、カブったか…
日本でいえば今の天皇を平成天皇って言う事は無いって事ですな
ちと違うかな?
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 06:42
許チョは虎痴って呼ばれてたんだよね。
中にはそれが本名だと思ってた人もいるらしいから、
同時代の人が「許チョ」という名を使うのもあり得ないかな?
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 07:00
ところで中国人って氏+名で呼ぶの?
氏+字かな?
かな?
言霊の関係で本名呼ばず。(三国志時代)
当時は信心深かった。
>>179
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/01(木) 23:37
>>178 >同時代の人が「許チョ」という名を使うのもあり得ないかな?
んなこたぁない。
っていうか、あだ名みたいなもので周りがそう呼ぶから
みんな勘違いしていただけ
まわりに居ないか? あだ名は知ってるけど名前知らねぇって奴
ちなみに許チョの子の許儀は鍾会に殺されてます
>>179 父親と主君は名で呼んでも良かったらしい(未確認)
つうか、建前として同時期に皇帝が2人もいるはずないんだから、
単に「皇帝」でいいじゃろ。
184 :
偽孔明:2001/02/02(金) 00:14
>>182 >父親と主君は名で呼んでも良かったらしい(未確認)
補足すれば、その人に敬意を払う必要のない人間は実名で呼ぶことを憚る必要はなかったわけで。
たとえば、子だとか、部下だとか、年下だとか、憎っき敵だとかね。
じゃあ、姓+字が無難な呼び方かと言えばそーでもない。
親しくない奴や部下なんかが気軽に呼びかけることはやっぱりできなくて、
官職のある士人についてはやはり姓+官職名で呼ぶのが礼儀だったみたい。
曹丞相とか、周都督とかね。
>>181 言霊って日本独自のものじゃないのか?
日本は確かにそれで名を呼んではいけない(万葉時代)が
中国にも言霊信仰があったなんて初耳だぞ
言霊信仰なんて掃いて捨てるほどある
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/02(金) 00:32
正式には言霊信仰とは言わないんじゃない?
よく知らないけど
「言霊信仰」自体が学術用語だからどっちにしろ注意が必要だよな。
ってか、こういう信仰自体は世界中にあるだろう
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/03(土) 00:40
揚
>>184の「憎っき敵」を見てふと思ったこと。
このまま読むと「にくっきてき」だが、実際は「にっくきてき」。
こういった場合、やはり漢字を交えて表現するのは無理なのだろうか?
全く関係なくてスマソ
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 08:19
岑昏はなぜ演義で宦官にされてんの?
192 :
大賢良師:2001/02/04(日) 12:00
>>191 その方が憎らしさが増すからだろう
正史には呂壱という呉随一の佞臣がいる
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 13:56
>>193 マイナーだけど此処の人達は詳しい人が多いからみんな知ってると思う。
猫好きな武将だよね、確か。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/04(日) 14:30
ホウ徳って、結構小説やゲームでは優遇されているけど
実際はどうなのよ?
俺としちゃこいつの息子の会が関家の血筋を滅ぼしたというのが許せん。
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 23:20
>>193 そんなクソ武将、見た事も聞いた事もねぇなぁ。
198 :
大賢良師:2001/02/04(日) 23:26
>>196 ホウ徳は史実では馬超以上の猛将
戦場での武勲は張飛以上じゃないの?
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 23:32
>193
こういうことを言うから知ったかの厨房は困る
だからどこいっても叩かれんだよ
微細な知識をひけらかして他人を罵倒するのが
まさに厨房 逝ってよし
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/04(日) 23:36
にゃはは〜
知らないのぉ〜?(w
最近はこんな人物も知らない人もいるんですねえ〜
結構有名だよ。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 00:11
>>193=201
濠寥義って誰よ
そこまで煽るなら説明してみ
正史には見あたらなかったぞ<濠寥義
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 00:18
濠寥義、俺も知らない
正史なり演義に出てくるのなら
マジで教えてほしい。素直に知りたし
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 00:26
史実には濠寥義などという武将は存在しません。
よって、
>>201は大バカです。晒しアゲ(w
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 00:59
>>196 ホウ徳戦歴
左から「勝敗」−「西暦」−「相手」−「場所」
○−190〜193−羌族・テイ族−場所不明(馬騰に付き従って討伐)
○−205?−郭援・高幹(袁譚の将)−平陽
○−???−張白騎(黄巾賊)−弘農
●−211−曹操−渭南
*−215−曹操−漢中(張魯と共に投降)
○−218−侯音・衛開(反乱)−宛
●−219−関羽−樊城
曹丕が帝位についてから諡を送られた<壮侯
ちなみに従兄ほ蜀のホウ柔
・・・知らないのは私だけかと思ってた。
>>204 あなたは知らずに一生を終えるんだね・・
それもまたヨシ(藁
知ってても知らなくても人生にはなんら影響しないことだから
あなたはこの話はもうわすれましょうね。
見つからない人はよ〜く調べれば結構重要な役を果たしてる事が分かるよ。
お暇ならどうぞ〜
知らなくて問題なし
まじで調べた奴おるんか?
苺では「苦寒行」考察とかしてるよ…
こっちのネタ系との比重がすごい。
いい具合に混ざればねえ。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 23:15
ゥアゲ!
苺の苦寒行ねた、結構楽しみにROMってたんだけど、
ここの雑談・質問スレのカキコ見て
ん?と思って行ってみたらとんでもないことに・・・
偽孔明の謀略が炸裂!がばろんは終りか?
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 23:40
蔡文姫(崔[王炎])について誰か語ってくれぃ
南匈奴に囚われていて建安十二年(207)に中原に戻ってきた
ということしかわからないのだ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/06(火) 23:50
于禁って女なの?
215 :
大賢良師:2001/02/07(水) 00:20
後漢の大学者蔡ヨウの娘じゃ
匈奴の女官になっておったらしいぞ
207年に帰ってきたんだったか・・・
悲憤詩の作者である
>>214 正史に「髭も髪も真っ白で〜」という文があるのだが・・・
女だったのか???
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 21:36
>0266/02/08,(神功皇后)66/01/17
>[西晋の秦始1年12月17日]司馬炎が魏帝曹奐から皇統を奪い皇帝となる(武帝)。西晋が成立する。
明日は魏朝滅亡記念日age.
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 22:46
演義で勇猛と言われている人たちも、ほとんど自身では闘ったことがない。
夏侯淵は自ら軍の先頭に立ち闘うことを好んでいたが、曹操に
「将たる者のすることではない」と注意されている。
現代でも軍功は将にあっても実際手を下しているのは手勢の無名兵士だし。
得意としていた武器のエピソードのある将(弓なら董卓やビ竺のような)以外は、
自身の武芸が優れていたのではなく、兵を率いることにすぐれていたにすぎないのではないだろうか。
・・・・て常識か。スマソ。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/07(水) 22:48
三国時代主に騎乗されていた馬は蒙古馬で、
それは短足であまり見栄えのするものではなかったそうだ。
ただ赤兎だけはちがったようだけど。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:00
一騎討ちage
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/08(木) 23:47
現在の中国では、黄巾の乱は中国史上初めて民衆が自ら立ち上がったということで
とても高い評価され、肯定的にとらえられています。
誤:高い
正:高く
まちがえた・・・
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 00:03
>>223 殿
陳勝・呉広の方が先輩という気もするんですが…。
どんなもんなんでしょうねえ。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 00:12
民衆の反乱だからって、何でも高く評価するのも・・・
色眼鏡での評価はそんなに気にする必要無いのでは。
227 :
223:2001/02/09(金) 00:24
>>225殿
いま出典のほうを確認したところ、はじめてとは書いてなかった。
当方の記憶違いであった。スマソ。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 02:47
赤眉の乱ってのもあるしね。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/09(金) 09:23
共産中国になってからの歴史評価は当てにならないな。
思いっきりフィルターかかってるから。
「黄巾起義を弾圧した劉備は功罪半ばする」なんて言われてるもんね。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/10(土) 11:04
>229
劉備ってキャラとしては良いと思うが、実際の所
功っていうとあんまり思い当たらない気もするが・・・
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 03:22
>>230 確かに大した「巧」はないね
対黄巾賊 鄒靖に従い討伐
対黄巾賊 毋丘毅(カンキュウキ)に同行し討伐(丹楊)
対袁術 進撃を阻む(クイ・淮陰)
対楊鋒・韓暹 迎撃し斬り殺す(徐州・揚州)
こんなもんでしょ
漢帝国から見たら帝位を僭称した逆臣だからね<劉備
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/11(日) 05:19
>漢帝国から見たら帝位を僭称した逆臣だからね<劉備
劉備が帝位についたとき漢は滅びていました
あしからず
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 00:20
というより、滅んだから帝位についたんだよね。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/12(月) 00:25
漢中王は僭称かもね。
つーか、すでに董卓によって後漢は滅んだも同然な時代だったからね。
今さら僭称もクソもないよ。名乗ったモン勝ち。
曹操は曹参の末裔を詐称、孫権は孫子をなど、何でもアリな状態だったから。
法倫功(?)=黄巾党
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/13(火) 01:53
下がりすぎage
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/13(火) 07:07
俺も誰かの子孫を僭称しようかな〜
日本の戦国時代も爆笑僭称いっぱいだよね。
朝倉が有馬皇子の末裔って…やりすぎだろ
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/14(水) 15:29
俺の学校の教授がさ、
「曹操は卑弥呼を尊敬していて、太平道を作ったのは曹操。つまり張角と曹操は同一人物。
ようするに太平道ってのは卑弥呼の影響を受けている。
司馬懿は曹操をさっさと見限って、卑弥呼と友達。明帝は卑弥呼が大好き。
卑弥呼ってのは男で(この説は実際あるよな)、明帝は女方士になった。
『魏』という字は『委(=倭)』という字と『鬼(鬼道=卑弥呼)』という字で出来ている事が
何よりもの証拠だ。」とかいう説を史実として言うんだけどさぁ……。
どう思う?(ワラ
太平教=道教
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/14(水) 17:09
>>240 実名きぼーん
ぜひその先生の論文が読みたい。
東洋史?中文?
今日は「いいとも」に平家の直系が出てたぞ。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/14(水) 18:35
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/14(水) 18:47
マジでおもろい教授だな
専攻はなんだろう?
「何よりの証拠」が何よりもおかしいぞ
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 00:09
そんな先生は単位をちゃんとくれるのか?
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 03:16
五斗米道の立場は一体…?
248 :
240:2001/02/15(木) 10:09
>242
実名はちょっと……。
遠藤という苗字だけ言っておく。
>244
実際講義を受けるとマジむかつくんだって(ワラ
テストにその問題を出すから本当に困る。
自分の今まで信じてきたものを捨てて単位を取るか、
単位を捨てて今まで信じてきたものを取るか、かなり悩んだ(ワラ
>246
単位は貰えた(ワラ
テストには自分の今まで信じてきたものを書いておいた。
……何で単位くれたのか今でも謎。
あ。あと、普通中国から日本に文化が渡ってきたって言われてるけど、
その教授の説では日本から中国に文化は渡ったらしい(ワラ。
その根拠は太陽道が関係あるとか……。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 19:41
正史― 政権が変わるたびに都合のいいように
歴史を書き換えるので信用性なし。
特に、ずっと漢民族が統治していたわけではないので
その他― 人間の心情として負けた側を美化し、
支配者側を悪く言うことで不満のはけ口にする。
>>249 三国志のどこが書きかえられたんだよ、具体的にゆってみ。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 20:04
>あ。あと、普通中国から日本に文化が渡ってきたって言われてるけど、
その教授の説では日本から中国に文化は渡ったらしい
なんだ?古史古伝の信奉者か?(ワラ
(と)はどこにでもいるもんですな。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 23:19
>>249 陳寿の公平性は高く評価されてるけどね。
それに三国志は当時に書かれたモノが現存してるんじゃなかった?
一方、晋書の方はかなり司馬一族を贔屓して誇張された話が多いので
正史の中では低い評価だね。陳寿に不当な評価を書き綴ってるのも晋書。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/15(木) 23:43
そういえば、以前世界不思議発見で邪馬台国のことをやっていたとき、
卑弥呼の父ちゃんはもともと呉の中のあたりの刺青した部族で
戦ってたとか言うのをやってたがどうなんだろ?
まあ、呉書には記述なんぞ無いとは思うが・・・
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 01:34
でも、陳寿も
「賄賂をくれたら、お前の父ちゃんをかっこよく書いてやるぞ」
なんて持ちかけてたって話もあるからねぇ。
それでも、ずいぶんましなほうなのかな。
孫策が許都を襲撃したら云々の駄スレ見ていて、
周听のこと思い出して、
泣けてきた。
三国志屈指のいい人だった。
呉景ごときの虐殺脅迫に太守には従っちゃうし、弟ふたりは袁家に利用されまくり。
いきなり来た曹操にすたぽんと丹楊兵あげちゃう。激萌え〜
でも最後には故郷に侵略してきた、孫策と戦い討ち死に。
江東のいい人たちを知ってたら、死んでも孫策は褒められん。
>>256 呉景ごときの虐殺脅迫には従っちゃうし、弟ふたりは袁家に利用されまくり。
だな。訂正。
>>254 うろ覚えだが、昔その番組で
「諸葛亮が東南の風を起こした祭壇にあったものは何でしょ〜」
とかいう問題をだしてたぞ?(ワラ
嘘のみを垂れ流すとんでもねえドキュソ番組だから見るのやめとけ。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 06:52
>>255 だから、それは晋書の陳寿伝にある話でデタラメなの。
裴松之もあり得ない話だと分析してるし、
清時代の学者も朱イ尊も完全否定してる。
現在では単なるデタラメだろうというのが定説だよ。
しかし、いまだに255みたいな珍説を持ち出す奴がいるとはね。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 07:23
261 :
趙雲好き:2001/02/16(金) 08:32
えっと質問なのですが、正史三国志に書かれていることも
正しくはないのでしょうか?
262 :
趙雲好き:2001/02/16(金) 09:14
完璧に正確なものは存在しないと思うのですが、
ある程度信用できるのではないでしょうか?
例えば正史なら、蜀の人物の一部のことくらいはある程度客観的に
かけていると思うのですが・・・
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 10:05
正史って、その国の次の王朝が自分の国が正統である事を世に知らしめるために
作ったもんでしょ(「三国志正史」なら晋王朝が自分が正統である事を知らしめるために
禅譲させた「魏」が「後漢」の正統である事を示した)。
んで、陳寿は自分の故郷の「蜀」の事をどうしても書きたかったけど、晋の僕という手前、
大っぴらに書けないから「魏」を本伝にして、「呉書」「蜀書」を列伝にしたって
聞いた事あるけど。
「正史 三国志」が他の正史と違った形式なのはこのせいらしい。
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 14:41
おおむね間違った認識ではないけど、時の王朝が編纂をさせた物と、
個人(というかグループ)が編纂して時のまたは後の王朝が認めた物の
2種類がある。
陳寿の場合は後者で、結構趣味的な気分も含まれてるかもしれない。
晋の前身の魏が本伝ってのは実際そうだったし、呉や蜀は資料が少ないってのも
あるでしょね。
265 :
出典『南総里見八犬伝』:2001/02/16(金) 16:31
諸葛亮が敵を謀って数万の矢を取ることは、『三国志』にも『資治通鑑』にもない。
それで『新唐書』を見ると、これは唐の張巡の故事を羅貫中が『演義』に採用した
ものであることがわかる。玄宗皇帝の御代、安禄山の乱の時、唐の高官たちの
多くは賊に降ったにもかかわらず、張巡は孤城を守って屈せず、ついに矢種が
尽きたので、藁人形を約千体つくり、黒衣を着せて、夜、城壁からつり降ろすと、
賊兵が争ってこれを射た。これによって矢十万本を得たと、『新唐書』第百九十二、
忠義列伝の中の張巡の伝に見える。日本でこれに見習ったのは、千早城の楠木正成である。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 18:11
>>265 殿
初耳です。
てっきり合肥攻防戦での孫権のエピソードが元ネタだと思ってたんですが。
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 19:12
>>265 それホンマですかいな?つーか、違うだろ。
赤壁から五年後の、曹操が孫権を濡須に攻めた時のエピソードからだよ。
孫権が大船で偵察に出た所、片方に集中的に矢を受け船が傾きそうになった為、
急遽船を反転、もう一方にも矢を受けバランスを回復した、というのが元の話。
これは「呉主伝」に注記された「魏略」にあるエピソード。
この話が後に羅貫中「三国志演義」の「孔明、箭を借りる」に発展するのだが、
これも実は「新全相三国志平話」が最初なのだ。ただし、孔明ではなく、
周瑜が発案した作戦となっている。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/16(金) 20:09
裴注がなければ三国志の評価もここまで高くなかろう
陳寿の書いた「三国志」の原書(元本)が
現存してるとか書いてる人いたけど、
それって信用できるシロモノなのだろうか?
270 :
265:2001/02/16(金) 22:48
>>267 それは知らんかった。無知でスマソ。
滝沢馬琴が何を根拠にしてるか不明なんで。
流し読みだから読み逃がしてるかもしれないけど、
張巡の話は旧唐書には無くて、新唐書にはあった。
馬琴「新唐書、1060。新全相三国志平話、1321〜1323」
↑「張巡、箭を借りる」の話の有無ね。
272 :
267:2001/02/16(金) 23:34
>>270(265)
誤解があるかもしれないので、一応補足。
君の説もあながち間違ってはいないと思う。
「新全相三国志平話」は元の時代に廬氏が刊行したもので、
元々、民間伝承で伝えられて物をまとめた講談本(一応、挿し絵付き)。
だから、張巡の話も参考にしたであろう事は推察できる。
ただし、一般的には「魏略」からアイデアを得たというのが定説。
訂正
民間伝承で伝えられて→民間伝承で伝えられてた
劉備が孔明に向かって「劉禅に才なくば君が治めてくれ」ってのも
孫策が張昭に言ったやつが元ネタなんかな?
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 02:57
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 04:08
>>274 っていうか、当時の社交辞令(?)みたいなモンです。
ホントに君主になっちゃったらシャレにならんでしょう?
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 04:42
みなさんに質問があります。
ずばり曹叡は袁キの子なんでしょうか?
後、馬騰は、馬超が曹操の漢中侵攻にビビって先に仕掛けた為に
殺されたんですか?
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 04:50
↑
あれ?袁タンだったっけな?
>曹叡
そんな話もありましたが、私はよくありがちなデマだと思っております。 ひょっと
したら、曹丕当人が疑惑を抱いていたかも知れませんが。
ちなみに袁煕で間違いないです。
>馬騰
こちらは( 少なくとも正史では )間違いなく馬超の挙兵→馬一族誅殺の順です。
演義とは全く逆ですね。 挙兵以前の韓遂等との関係を考えても、この順で正しそう
に感じます。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 14:38
>>234 曹操の魏王も孫権の呉王も一応すじは通してるけど、劉備の漢中王は明らかに僭称。
まぁ、認めてもらえれる状況ではなかったけど。
ちなみに劉備って漢室の為にとかいいながら自分の為にしか行動してないように
見えるんだけど・・・。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 14:43
>>281 劉備一党は傭兵集団みたいなものだったからね。
荊州に地盤は得たけども、治世の臣が居なかったし。
そういった人材が集まったのが、赤壁(ってゆーか魏呉決戦)以後だからね。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 16:28
孔明の一番すごい所は、行き当たりばったりでふらふら傭兵生活してた
劉備にしっかりとした戦略ビジョンを提示した事だろう。
内容はごく一般的な事でしかも賛否両論あるが、真の意味での戦略家と
思える。
政治家とかは・・・おまけ。
>>283 いや、それは・・・ 甘寧さんの様な武人でも思い付く事をそう大仰に評価しても。
そっちがおまけで本分が政治家、といった方がいいのでは。
285 :
283:2001/02/17(土) 17:22
>>284 曹魏でいうじゅんいくや孫呉の魯粛(厳密には朱治かも。。。)のような、もう少し
全体を見て何を成すべきかってのを示したって言いたかった。
確かに甘寧も大局的なものの見方してたけど・・・状況判断力が優れてたってイメー
ジの方がある。(「劉表はぼんくら、ガキはそれ以下。 曹操に奪われる前にはよ
とっとけ」)
当時の劉備にはそんな奴でさえおらんかった。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/17(土) 18:30
つまるところ、劉備の政治的資産はその性格と国姓を持っていたことに尽きるわけ。
他に何もないから「漢室復興」を掲げ、漢の遺臣達の支持を期待するしかなかった。
漢中王に上ったのは、部下の論功賞に困ったからとも言われてるね。親分の地位が高くないと子分も……
漢帝国の身分制度上では、あの美周郎ですら最下位の碑将軍だったようだし。
孫呉のように、土着の臣達のリーダーではなく、ただの客人政権ではそういった旨味が必要だったわけだ。
法正没後の劉備軍団の壊滅を見ると、やっぱり軍略に明るい臣にも恵まれなかったんだなぁ。
「塊より始めよ」と、孔明に高位を与えたのが失敗と思われ。本気で偉いと思っちゃったから。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 00:35
>>281 曹操の魏王も孫権の呉王も筋が通ってるって?(笑
曹操は明らかに献帝を傀儡扱いにしてたし、後に息子に強引に禅譲させてる。
孫権も皇帝を名乗った。あの時代に本気で漢を復興させようとした権力者なんていない。
清流派の文官達(荀ケなど)が密かに期待していたぐらいのモン。
それぞれが国家の存在理由に適当な「大義」を掲げていただけだよ。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 01:09
>>281 曹操の場合は形だけでも筋を通していると言えないこともないが
孫権が筋を通しているという根拠は? つーか、厳密に言うと誰も
大義に則った即位なんかしてないってことになってしまう。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 02:37
「筋を通す」には、「正式な(あるいは必須の)手続きを経る」
という意味もある。
>>281が対比として「僭称」を使っていることから、
おそらくこっちだと思う。
であれば、献帝から魏王に封ぜられた曹操も、魏文帝から呉王に
封ぜられた孫権も、「筋は通っている」。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 07:30
「正式な手続き」って言っても、
あの戦乱の時代で傀儡化した漢王室では
ほぼ「言われるがまま」に任命しただけ。
表向きだけ「筋を通す」って事も、
僭称する事も大差はない。
大差はないけど形式上は禅譲されてるからなぁ
その形式というか建前が大事ではないのかな
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/18(日) 08:24
ってゆーか、全員猿芝居なんだけどね。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 11:59
>281
劉備の漢中王は確実に嘘とも言えないんじゃないか?
劉備の自称祖先・中山靖王は120人の子供を成人させているらしいから、
鼠算式に増えて、あの当時、中国各地に中山靖王の子孫はごまんといたはず(笑)。
……となればまったくの嘘と言うわけでもない(笑)。
294 :
281:2001/02/19(月) 12:18
概ね
>>289 の意味です。
まぁ、
「わしが今日から漢中王じゃ!」ってのと
「魏王にせいや! おらぁ!」ってのと
「呉王になりたいんすけど〜」ってのと
あんま差がないのは確かだけどね。
どさくさ紛れて自称なんてざらだからな・・・なんせ任命するのが曹操
その前は董卓だったんだし。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 13:55
日本人の感覚は中国では通用しませんよ。
中国では、今でも、劉性の人は劉邦、劉備の子孫だって
「本気で」おもってるし、
趙性の人は趙雲の子孫だって「本気で」思ってますよ.
わたし中国人ですから。マジで。
ネタじゃないですよ。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 14:25
まぁ、国姓が「劉」の国で「漢」が付かなかったのは一つしかない国だからなぁ
『「劉」という姓の人物が作った国の中で「漢」と名乗らなかったのは一つしかない。
というような歴史をもっている国だからなぁ』
だと思う。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 23:08
そうだよなぁ。俺、織田って姓なんだけど、
もしかしたら織田信長の遠い子孫かもしれないな。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/19(月) 23:19
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 00:37
答えは「宋」
南北朝の劉宋だな。もう一つ微妙なのがあるが除こう。
創始者は南北朝最高の名君(と思う)劉裕だ。
ただ、普通は最初に王に封じられた地でつける事が多いからな。
ここまで極端なのは、劉-漢ラインだけだと思うが。
なにせ、漢代に国姓を貰った南匈奴の子孫でさえ、漢を名乗ってるし(w
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 01:36
>>295 中国的な感覚で言う姓を姓名として持っている奴は日本ではわずか
なんだよね、というか、持っているが普通は表に出ない。例えば
織田信長の場合、平家を名乗っていたから平朝臣織田上総介信長
というふうになる。で、織田が苗字で姓は平、と。
苗字は地名だったりするから同じ苗字=同族というわけでもない。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 02:45
関羽と顔良、孫策と太史慈、関羽とホウ徳。
これ以外に一騎打ちした記述あったかな?
正史。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 03:13
羽賀ケンジと梅宮アンナは? >>一騎打ち
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 05:02
>>303 あれ?関羽とホウ徳も一騎討ちあったっけ?
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 10:55
>302
でも中国にも「姓」と「本姓」ってあるんじゃないの?
太公望の場合、姓は呂で名は望。字が子牙で本姓が姜。「太公望」は通り名みたいなもん?
ていうか、姓と本姓の区別っていうか、そういうのが全然わからないんだよね。
勉強不足といえばそれまでだけど(笑)。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 14:59
ホウ統の死に方って本当のところどうなんだろう?
劉備が狙われているから馬を自分のと取り替えたっていうのは、
絶対作り話だし(影武者で済む話)
何かで本当はただの病死って読んだ気が・・・
誰か知りませんか
308 :
偽孔明:2001/02/20(火) 15:24
>>306 >でも中国にも「姓」と「本姓」ってあるんじゃないの?
んーと、姓と氏みたいなやつですな。
実質的には周代ぐらいまでしか区別されなかったみたいですが。
>姓は呂で名は望。字が子牙で本姓が姜。
えーと、字が子牙で氏が姜。となるのかな。
呂はむかし封ぜられた土地の名によってつけられた姓。
>「太公望」は通り名みたいなもん?
ちがいます。正確に言うと「斉太公の(呂)望」、
「周公の(姫)旦」と同じようなものと考えてもらえれば。
よーするに商周革命後、呂望は斉国に封ぜられて、
その初代君主になったわけですな、だから太公の望。
よって商を滅ぼすまえに太公望って呼ばれてるのは
おかしいんです、実は。
周の太公に望まれて・・・って話がありますが、
あれは完全に作り話で事実に合致しません。
詳しくは幸田露伴に論考がありますので、
全集で探してみてください。
何巻にあるのかは忘れました。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 15:59
>>301 五代まで行けば、劉知遠の後漢、劉崇の北漢がある。
劉隠の南漢もあった。
で、異民族の劉姓の国は東晋十六国時代の劉淵の漢だね。
>>306,
>>308 (偽孔明)ご両所
太公望って、名前「望」じゃなくって「尚」じゃありませんでしたっけ?
「太公望」ってのはただのニックネームみたいなものかと。
>>306,
>>308 (偽孔明殿)ご両所
太公望って、名前「望」じゃなくって「尚」じゃありませんでしたっけ?
「太公望」ってのはただのニックネームみたいなものかと。
太公望の称号の由来は確か太公( 文王の父 )が待ち望んでいた人物だから、という
ものだと思ったが・・・ 「 史記 」とかもそうだった様な。
そもそも太公なんて称号もあまり聞かない気がするし。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 22:19
>>303 呂布vs郭[シ巳]の一騎打ちがある。
これが正史に残る最古の一騎打ちだそうだ。
314 :
303:2001/02/20(火) 23:23
ホウ徳伝に
「関羽と戦闘をした時、関羽を射て額に命中させた。
ホウ徳は白馬に乗っていたので関羽の陣営では
白馬将軍と呼んでおそれた。」
とありました。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/20(火) 23:33
スレ違いかもしれないけど質問。
ちくまから出ている正史以外でお勧めの正史の資料とか
研究書があれば教えて下さい。
316 :
314:2001/02/21(水) 00:46
>関羽を射て額に命中させた
「弓に関羽をつがえて飛ばした」の意ではないぞよ。
>>311-312
>太公望って、名前「望」じゃなくって「尚」じゃありませんでしたっけ?
『史記』にそのまま従えばそうなります。
しかし、彼には一方で「師尚父」という尊号もありまして。
これが混同されて呂尚という呼び名ができたのではないかという説もあります。
>「太公望」ってのはただのニックネームみたいなものかと。
>太公望の称号の由来は確か太公( 文王の父 )が待ち望んでいた人物だから
『史記』の一説によればそうなります。しかし『史記』は二説あげているため、
もう一説にしたがえば、文王が夢を見て・・・という話は異説ということになりますし、
そもそも周文王の父を太公と呼んだ事例は見当たらないため「太公が待ち望んだ」という話は
あとづけのエピソードに過ぎないようです。
『史記』の姜子牙の伝は「斉太公世家第二」にありますよね。
斉太公の「太公」が姜子牙本人を指すことは疑いありません。
となるとやはり同時代の周公旦や召公セキのように〜公+名と考えた方が自然ではないでしょうか?
『史記』は人物の名や字、通称などをはっきりと区別しない傾向があり、
そのことについて後世の史家の批判をあびているほどですし。
とはいえ、そのまま『史記』の記述にしたがい、
「太公望呂尚」としている例もたくさんありますし、
なかには「呂望」としている書物もあります。
しかし伝統的には呂尚と呼びならわされているので、
細かいことを言わねば呂尚(姓名)で良いと思います。
318 :
院生:2001/02/21(水) 04:31
>315
>ちくまから出ている正史以外でお勧めの正史の資料とか
>研究書があれば教えて下さい。
三国時代を考察するための正史的資料でいいやつは、
明徳の『諸葛孔明語録』。
『曹操集』(中国の出版物。邦訳なし)
『三国志集解』(同上)
くらいかな。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 08:06
>そもそも太公なんて称号もあまり聞かない気がするし。
太公ってのは父親の意味だから、称号ではないです。
劉邦の父親も劉太公って名前ということだけど、意味は「劉とうさん」みたいな感じで、まあ実際には名前なんて分からない、ってところでしょう。
母親の劉媼も、「劉かあさん」って意味だし。
>太公望の称号の由来は確か太公( 文王の父 )が待ち望んでいた人物だから
だから「太公が待ち望んでいた」ってのは、「父親が待ち望んでいた」というのと同義です。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/21(水) 09:11
>>308 >>姓は呂で名は望。字が子牙で本姓が姜。
>えーと、字が子牙で氏が姜。となるのかな。
逆。
姓が姜。氏が呂。
321 :
306:2001/02/21(水) 10:53
いろいろ勉強になりました。
なるほどねー。
「太公望」ってのが太公が望んでいたっていうのから付けられたってのは聞いた事
あるけど、史実じゃないのか……。
紂王ってもともとの名前って「受」って言ったらしいけど、「辛」ってのも
聞いた事ある。
「紂王」ってのは諡だからいいとして……、これは何でだろう。
まぁ、日本人にもいろいろ名を持つ人はいたけど。
>>318 当時打たれていた碁は
現代の囲碁と同じなのでしょうか?
どうも、解説ありがとうございます。 ただ317氏と319氏では見解に違いがあ
る様ですね。
>319氏
劉邦の両親のケースは知っております。 しかし( 名字 )太公のケースはよく見ま
すが、この場合の様に太公( 名前 )で太公が「 父親 」を指すケースは他にあるの
でしょうか? 普通だったら呂太公とでもなりそうな感じがしますが。
もし何か知っておられましたらお教え願います。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/22(木) 00:04
やはりホウ徳伝に「郭援・高幹を討伐した時に、自ら郭援の首を斬った」とあります。
>>323 太公を父の称とするのは劉邦以前に用例を見ないようです。
もっぱら太公といえば斉の太公(呂尚)を指していたように思われます。
司馬遷がどこかで聞いた俗説をそのまま書き写してしまったのでしょう。
『史記』以前の史料、たとえば『戦国策』や古本『竹書紀年』などには呂尚ではなく、
呂望あるいは(斉)太公呂望と出てきます。
また『史記』以後の史料にも姜子牙を指して呂望というケースは少なくありません。
そうなると望は太公が待ち望んだという「望」ではなく名と考えるのが自然だと思います。
>しかし( 名字 )太公のケースはよく見ますが
私は寡聞にして太公という名字の実在人物を知りませんが・・・。
>太公( 名前 )で太公が「 父親 」を指すケースは他にあるのでしょうか?
それも『史記』の乱暴な説のひとつで、名が太公などということはあり得ません。
漢書高皇帝紀では名が太公であるとはしていませんから、
帝位についてから父親を尊称して太公と呼んだだけのことでしょう。
ちなみに太公は父親よりもむしろ祖父の尊称として使われることが多いので、
それも覚えておいて損はないと思います。
>>324 一騎打ちで斬ったのか、捕らえて斬ったのか
正史だとわからないんですよね・・・
うーん、気になる・・・
>>325 書き方が悪かったですね。 ( 名字 )+太公、太公+( 名前 )を示すつもりで書
いておりました。
こういったものだと、水滸伝とかには毛太公だの段太公だの色々出てくるもので。
( もっともこの場合は父よりは旦那、といった意味合いでしょうが )
しかし呂望の方が一般的なんですか・・・
色々解説、ありがとうございました。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 11:22
みんなageで書き込んでくれ・・・
329 :
age:2001/02/23(金) 11:38
age
>>328 まぁ、太公望みたいな三国志と関係ないのはsageでお願いしたいが。
331 :
笵志毅:2001/02/23(金) 15:53
三国志魏書東夷伝烏桓鮮卑倭人之条には、238年卑弥呼が明帝(曹叡)に朝貢した
とあるが、これは間違いで、239年だという。景初二年>景初三年だとか。
しかし、曹叡が死んだのは239年の春。難升米が訪れた頃は曹叡は病床のはず。
ま、所詮倭人ごときに皇帝が直接会うことも無いのかも知れないけど、実際どうなの?
邪馬台国との連携も魏にとっては大事だったと思うんだけど。もしかして司馬懿が会ったの?
それとも皇太子の曹芳?それとも本当は238年?それともただの外務大臣?
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 16:30
>>324 一騎打ちで斬る場合・乱戦の中で斬る場合・捕らえて斬る場合とあるけど、
大体は前二つだと思う。
確定できないのが痛いけどね。
呂布vs郭[シ巳](?????)や孫策と太史慈みたいにはっきり書いてくれればいいんだけど……
ただ、ホウ徳vs郭援は、乱戦の中で斬った事が註で明らか。
333 :
332:2001/02/23(金) 16:37
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/23(金) 23:17
>ホウ徳vs郭援
郭援と知らずに斬られたのがいと哀れ。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 10:15
とりあえずageとくか。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/24(土) 23:42
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 00:20
董卓を直接斬った呂布も一騎打ち?
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 01:00
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 17:15
陸遜はどんな風に死んだことになってるの??
史実の中の話と演技の中の話を教えてください
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 17:20
ちなみに青竜刀は宋の時代につくられたもの
当然かんうは使ってません蛇矛もね
341 :
東海定王:2001/02/25(日) 21:59
>>339殿
正史では「憤りのあまり死去」なので、少なくとも自殺じゃない。
演義の方は本が見当たらないんだが、同じだった気がする。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/25(日) 23:20
なぎなた状でないただのカタナも青龍刀っていうよね。
どういうこと?
関羽の武器は「棒の先に青龍刀つけました」ってのを略して青龍刀?
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/26(月) 13:24
>>342 三国時代に青龍刀はまだ存在していない。
後代の創作。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 01:08
青竜偃月刀はただの長刀だろう
あったんじゃないの?
345 :
名無し武将:2001/02/27(火) 01:43
既出だったらごめんなさい。
先日買った「図解雑学・三国志」(著/渡邉義浩)ナツメ社
という本がとても面白かった。
三国志関連書籍は学生時代(10年前^^)結構読んだので、
それ以降でてくる本は知っていることばかりで買うまでには至らなかった。
しかしこの本は当時を新解釈(名士というくくり)で、
振り返っており、いろんな意味で三国時代の理解が深まった。
もちろん一つの考え方なんだろうが、目から鱗が取れた感じでした。
>>344 当時は反りのある鉄刀作るような技術無いよ。
あったとしても直刀。形状は槍だよ。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 03:49
槍というより矛なんじゃねーか?
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 06:33
戟だろ。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 07:53
憤死って脳溢血のたぐいかな
カーっとなってプツンと
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 09:13
憤死したやつって多いよな
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/02/27(火) 09:22
>350
反三国志では呉のほとんどが憤死。魏は自爆とか……(汗)。
正史でも憤死した人って多いけど、そんなにプッツン逝っちゃうやつが
多かったのか?三国時代。
三国時代に限らないよ。
>>351 ホントに爆発して息絶えたモンなぁ・・・仲達
まあ、史実って言われると萎えるんですけど、なんとなく曹操と織田信長
ってイメージ的にかぶる所があって、項羽なんかも後世のイメージだと
頭も良くって、器量も十分・・・・でも、何故か最後にはとんびに油揚げ
みたいなことになって・・・。
355 :
351:2001/02/28(水) 20:36
>353
ホントあれは可哀相すぎた……(笑)。
アゲ
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/02(金) 23:34
>反三国志
張遼は川をザバザバ渡ろうとして流されましたネ。
討ち死にした方がマシやン!
>反三国志
とりあえず、馬超の妹ハァハァ
史実を語れ
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 04:00
関平は関羽の実子だと思われ
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 05:37
関羽、実は付け髭
呂布の赤兎馬は絶滅種
孔明も実はウマヅラ
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 12:12
>361
孔明がウマヅラってのは遺伝的にありえなくはないよね(笑)。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 12:17
どんな系統でも、平均より大きく上回る身長の奴って
得てして馬ヅラだからねぇ。
バレーボールの選手見ると、馬ヅラのバリエーションの多彩さに驚く。
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/04(日) 23:54
Ageって書くと年齢のことみたいだ。や、そんなことはどうでもいいage
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/05(月) 10:18
>363
ワラタ。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/07(水) 14:00
あげとこか。
367 :
花と名無しさん:2001/03/07(水) 15:34
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/08(木) 09:44
>367
というか、鼻の穴がデカイ人が多い様な気がする(笑)。
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 03:43
中国の慣習で、立派な人は大きく書くってのがあるよね
孔明はもっと小さかったかも。
一騎打ちは普通にあったのかもね。
日本でいうなら、元寇以前の平安武士の名乗りをあげての戦いとか、特攻。
敵が誰だとか勝ち負け以前に、自分の名を挙げて戦うことが大事。
>>349-351
憤死ってのはその場で「ウーム…バタッ」って死ぬわけじゃないのです。
もちろんそういう場合もあっただろうけど。
敢えて言うなら、今で言うところの高血圧が一番近いんじゃないですか?
具合が悪くなって、いろんな病気を引き起こすわけです。
背中にガンができるとか。
ただそれはもののたとえというか、死んだ時に不遇だった人
なんかはほとんど憤死にされちゃうわけですね。
大体、ちょいと例に出た陸遜だって享年60過ぎですよね。
十分じーさんだと思いますが。(藁
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/09(金) 21:44
既出ならスマソ。
長坂の戦いに、ソウ軍本隊は参加してない。
リュウビが多数の難民、物資を抱えて
チンタラ逃げてるのを察知したソウソウは、
ソウ純に虎豹騎5000騎
(人員補充に百人隊長をあてる程のエリート部隊だと)
を率いらせ追撃させた。
ソウ純らは当陽の長坂橋でリュウビ軍を捕捉。
リュウビ軍は数で上回ってたが、
多数の難民や物資を抱えてた為
組織だった抵抗が出来ず敗北。
ソウ純らは多数の難民、物資、そして
リュウビの二人の娘を捕獲した。
その後、張飛がしんがりをかって出て、
精鋭20騎を引き連れ、橋を落として威嚇したので、
虎豹騎もそれ以上深追いはしなかったそうな。
ま、赤壁も主力部隊(歩兵隊・騎馬隊)は参加してない。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 13:33
曹純>曹操の長男??
曹純って実際は強かったの?
曹ヒは、英才教育で弓矢の腕はスゴかったらしいけど
(皇帝だからあたりまえだけど、一騎打ちなど記録はナシ)
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 14:02
>375
曹操の長男って曹昴じゃなかったっけ?
あれ?記憶違いか?
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 16:15
>375
ソウ純死後は、彼より有能な指揮官がいないって事で
ソウソウ自ら虎豹騎を指揮する事にしたそーです。
兵科適正があったら、ソウ純は間違いなく
騎馬S。(w
378 :
第零天魔王:2001/03/15(木) 17:03
曹純は曹仁の弟では?
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 17:37
典葦の武勇伝、「10歩です。」は、史実、記載されてます。
が?たぶんウソっぽいです。
あと徐晃の脳天打ち抜かれは、演技記載であり
史実では病死
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 17:40
曹純は、光栄の能力値ではワリを食ってるよね。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/15(木) 18:37
ソウヒって宴会の時に、
あらゆる武器の使い手と剣の試合をして
勝ってなかったっけ?
実戦では無いからダメ?
>378
その通りです。曹操の挙兵に応じて家を飛び出していった熱血兄に対し、
戦乱の中で家を守った幼少の弟。
虎豹騎の将になったのも若ければ、
(曹真、曹休と続いたことを考えれば、
この任は曹氏一門の将来を嘱望された若者の訓練の場ともいえる)
亡くなったのも若い(涙。確か没した年齢は30前のはず。
※光栄の三国志(初期)ではなぜ老境の曹純が辺境の太守でいたんだろう?
とにかくこの兄弟は演義系で全体的に評価が低い!
史実と事跡で正当な評価をしていきたいものですね。
383 :
名無しさん:2001/03/16(金) 03:44
>377
だからさ、たった一行で全てを判断したら
とんでもない事になるんだよ。
魏の六将が攻めても勝てなかった呂布と単独一騎打ちして死ななかった郭しは猛将なのか?
>>383 もちろん猛将。あのエピソード込みなら武力90はかたいね。
だが、演義か正史かは分けてちょ。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 07:49
>>383 たった一行と言われても
ソウ純と虎豹騎は
南皮包囲戦でエンタンを斬り、
北方征伐でトウトツ単ウを生け捕りにし、
長坂の戦いでは強行軍でリュウビを撃破し、江陵を降伏させてる。
騎馬隊を率いてここまで戦果がハッキリ書かれてる奴は少ないから
騎馬Sって言ったんだが。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 07:59
この板にいる正史派はちゃんと魏書、呉書、蜀書、全部読んだか?
裴注読んだか?どうせ光栄の解説本読んでる程度の知識だろ。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 08:50
388 :
コピペに諌言:2001/03/16(金) 10:20
>>386 それなら具体的な事例を挙げて意見言わないと。
そもそも『光栄ネタ』と決めつけてる時点で
裏を返せば、正史はもとより
光栄ネタ並みの知識すら無い事を露呈してる。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 10:27
>386
読んだよ。ちくま文庫から出てるヤツ。
……高かった……。
一冊1500円ってどういう事だよ!!
てなわけで、持っているのは呉書だけ。あとは図書館で借りて読んだ。
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 10:41
だれか曹家と夏候家の家系図をキボンヌ
淵&惇の他に兄弟っていなかったの?
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/16(金) 23:55
>典韋
「10歩です」はすきだなぁ。
何故演技じゃ手裏剣になったんだろう。
手戟で力任せにブッタたくという方が、典韋らしいエピソードだと思うが。
>371,377
嬉しいです!自分以外にも曹純を正当に評価している人がいて!
…とは言ってもあそこまで記述されている人物が
ここまで言葉を尽くしてフォローしないと評価されないっていう
一般の「三国志」ヲタ(演義派)の世界はやっぱりおかしいよ。
>385
情報操作してないか?
「正当」な評価とはなんだろね
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 03:54
曹純って別に無能とは思わないけど牙Sとかは言い過ぎだろ。
たとえば385見ると戦った相手も強くないし、
例えば長坂で劉備打ち破ったのが評価される事なのか?
取り逃がしてるし。
江陵とか華北戦線でも同僚にどれだけの有能武将がいた事か。
例えば江陵攻めでも同じく牙戦評価の高い夏候淵がいたりと。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 03:58
蜀で諸葛亮以上の知謀の持ち主っていたよね〜
史書にもそう書かれているし〜
法正、ホウ統じゃないよ
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 04:01
>396
夏候淵って魏の西域を任されてほとんど独力で切り取った名将なのに
最後に劉備と戦って討ち取られちゃったから評価低い。
敵につかまっちゃって韓浩に助けられた夏候惇よりは
実績もあるのになぜか一回り格下に見られてる…。
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 04:07
400 :
396:2001/03/17(土) 04:28
夏候淵って別に評価低くないだろ?
演義、正史ファンともに評価してると思うが?
正史ファンだと魏で最高の評価されるが。
ちなみに韓浩に助けられた夏候惇って、だからって評価低くするのもなんだろう。
対呉で活躍したカキだってコウカンに捕まってる。
光栄ネタで悪いが
夏候惇って統率90武力95知力75政治80魅力80
ぐらいじゃない?
私なりには
統率88武力87知力75政治80魅力95
ぐらい。イメージがまだ入ってるから武に長けてますが・・・
夏候淵は
統率93武力92知力65政治53魅力85 騎馬S
(光栄は統率力を戦闘時の強さであらわしてます。)
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 04:43
だから
光栄ネタで悪いが
って言ってるだろうが
ったく、匿名だからってすぐこれだ。
対面してハッキリ言えんのか
>398
陳寿は結果論で列伝の人物評入れるからな。
確かに末路だけで決めつけちゃ逝けないな。
悪いと思ってるなら書くなよ。
断ればいいってもんじゃないぞ。
それと、匿名云々なんて関係ないことを持ち出すな。
ていうか自分としては、誘導としては比較的穏やかな
>>401に対して
なぜ
>>402がここまで怒ることが出来るのか、それを知りたい。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/17(土) 05:30
関係ないけど、
誘導してどうする!?
401のレスは別に煽り発言も無いし、ある意味親切。
なんで402はそんな切れてんだ?
>>404
伝えたい事を表現しようとしてコーエー語ったんでしょ
それを他に擦れあるよ って感じで書かれれば
ウザイとは思う
書き忘れた
すぐに他の擦れを案内するのは2チャンの伝統とはいえ
それが通るのは2チャンだけ
まあここは2チャンだが
>406
夏候淵の能力値について語り合えるやん
>>409 その2ちゃんの伝統に対して、いちいち過剰反応するのもウザくねーか?
あれる原因にもなるしさ。
ほっときゃいーんだよ。2ちゃんの伝統なんだから。
411さん一緒に
ネット上の三国志関連のリンク貼りまくろう!!!
全部のスレッドにやれるように頑張ろうぜ!!!
>412
なんかちょっと外れてるぞい
ちょいと自分なりの感想を述べると
関連スレがリンクされてたりすると
知らなかった昔のスレとか発見できて便利だったりする
でも話の腰を折らない程度にね
414 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/18(日) 23:39
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/23(金) 07:41
でも張遼ほどの武将が呂布についていたのはどうしてなんだろう。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/23(金) 07:57
若気の至り
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/23(金) 08:03
自分の実力を認めてくれるところならどこでもよかったんじゃないの?
419 :
418:2001/03/23(金) 08:04
職人気質って感じがするし。
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/23(金) 20:54
張遼はただ状況に流されてただけに思えるが・・・
421 :
李通:2001/03/23(金) 22:12
呂布が処刑されたときの潔い態度とかみると、流されてただけとは
思えないけどなあ。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/24(土) 00:30
>>421 処刑前にゴネてる呂布に向かって
「はよ氏ね!」ってほざいた件?
あれは史実ではなかったハズ。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/24(土) 00:33
要領が悪いだけ。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/26(月) 02:38
呂布が処刑される時に「劉備が一番食えないやつだ」と言ったのは
史実?
織田無道は織田信長の子孫とか主張してたぞ。
あと、霊視に使う水晶玉は信長が拝んでたモノだとか何だとか。
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/26(月) 07:00
>>424 史実です。しかも、「あの大耳野郎が一番信用できねーよヴォケェ!!」
とほざいたそうです。呂布も最後にはマトモな事を言ったようですな。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/26(月) 13:55
>426
というか、それが三国時代の武将のほとんどの見解でしょ(笑)。
なんでヤツが「人望厚い」になったのか、未だにわからん。
人のまさに死なんとす、その言や善し というやつか。
でもまぁ、呂布に言われても痛くも痒くもないだろう。
人望のない奴が流転を繰り返して国を建てられるだろうか?
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/27(火) 10:44
劉備は人望厚いというよりも、どっちかというと
面の皮が厚かっただけのような……(藁
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/30(金) 19:44
最低限度の礼儀は守っていたって事でしょ。
呂布みたいな主家暗殺はやってないし。
曹操暗殺計画参加も、一応漢帝の密詔に乗ったことになってるし。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/03/31(土) 14:24
まあ呂布は戦闘の天才であったことは間違いない。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2001/05/07(月) 02:29
あげっ。
433 :
回覧種人:
さげっ