魏延って

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1魏延好き
横山光輝魏延嫌いすぎだ!ゴラァ!
2魏延好き:2000/12/31(日) 03:55
↑の孔明だ!ゴラァ!
3馬岱:2000/12/31(日) 03:59
(゚д゚)ハァ?モイッペンシヌカ?
4名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 13:29
魏延もえもえアゲ
5名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 13:35
カプコン@本宮ひろしの魏延は、
つんつるてんだ!ゴラァ!
6名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 13:38
昔の光栄三国志の魏延は
裏切り過ぎだ!ゴラァ!
7名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 13:41
ガキにはわからん大人の魅力?
8我が生涯に一片の悔いなし:2000/12/31(日) 14:03
魏延は頭に角の生える夢をみました。
「角」を分解すると「刀」を「用」いるとなります。
頭に刀を用いるとは大変な凶夢です。
そして、ばたいに斬り殺されました。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 16:56
魏延実は謀反していないつー説もあるね。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 17:32
謀反というよりはトップの死去による主導権争い。

孔明を豊臣秀吉にたとえると、劉禅=秀頼、魏延=家康、楊儀=三成
単なる武人で人望が無かった魏延が敗れて謀反人扱いになっただけ。

でも魏延が蜀のトップの地位にあったらどうなっていたかな。
姜維の北伐が10年早まっていただけか?
野心が膨れ上がって皇帝の椅子を狙ったか(荊州系の彼には無理だろうが…)

11名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 18:54
将才は蜀でも1、2を争うんじゃないか?
12名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 20:18
うん。何気に後半、抜群の安定感があるもんな。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 20:27
劉備が一番評価してた将かも知れんな。
14名無しさん@お腹いっぱい:2000/12/31(日) 20:32
ばたいは?
15裴注:魏延擁護論:2000/12/31(日) 20:52
諸葛亮は自分の死後、魏延に代行をつとめさせ、ひそかに遺体を持ち帰るよう命じた。
魏延はそこで諸葛亮の死を隠し、褒谷の入口まで退却してから、はじめてその死を発表した。
諸葛亮の長史の楊儀はかねてから魏延と仲が悪かった。魏延が諸葛亮に代わって軍を指揮しているのを見て、自分が殺されるのではないかと恐れた。そこで、魏延が謀反をおこすといいふらし、そのあげく配下の兵を率いて魏延を攻撃した。
魏延はもとよりそのような考えは持っていなかった。そのため戦うことなく敗れ、殺されましたとさ
16名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 20:57
>>13
だろうね。
漢中太守は張飛ってみんな思ってたのに劉備は魏延を任命したしね。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 21:07
>>14
馬岱、その名が登場するのは一度だけ
魏延の項で魏延を斬る、いわばちょい役である
ある意味エキストラ・・・・
馬岱、彼の名前はいまだ不明
18孔明:2000/12/31(日) 21:08
ってか、俺ギエンだいっきらい
19周瑜:2000/12/31(日) 21:11
おら、孔明嫌いだ
20名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 21:13
>>18
使いこなせなかったね。
21馬謖 :2000/12/31(日) 23:28
孔明は本当に有能な人材は使いこなせないだよな。
楊儀とか馬岱とか小物ばっかり。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 23:33
>馬謖
おいおい、お前が言うなよ〜
23名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 23:36
>>21
言ってることが矛盾してるな・・・
24玉平:2000/12/31(日) 23:39
馬謖さん おひさしぶいです。
ぼく、すこし じ かけるよに なりほした。
25魏延好き:2001/01/01(月) 00:24
馬超より魏延の方が五虎将軍に選ばれるべきだろ!ゴラァ!
26名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 00:29
>>25
趙雲より魏延だろ
27名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 00:55
趙雲はいらないね確かに。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:24
謀反起こしたことになってるからもれたんだろう。
謀反起こしてなかったら、関張馬黄趙伝が関張魏馬黄趙伝になっていたんじゃないだろうか?
29趙雲狂:2001/01/01(月) 01:26
趙雲は真の武将だ
何故大将から外す理由がある
趙雲はずせとかいってるやつらはドキュソ

30名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:29
じゃあ六虎大将軍だな。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:33
>>29
五虎将軍にこだわるのはどうかと
32名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:36
ていうか五虎将軍って呼称は無かったんだろ。
吉川英治の創作だっけ。

まあ、正史にもこの五人を蜀の名将として特筆してるけど。
33名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:39
吉川つーか演義でしょ
34名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:43
>>6
最近のコーエー三国志ってやってないんだけど,最近は裏切らないんですか?
35名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:48
魏の五大将軍
張遼・張コウ・徐晃・楽進・于禁
36名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:57
>>35
いつも于禁いらないんじゃ、と思う。

37名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 02:03
>>36
知れば知るほど于禁はいいよ
38名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 02:04
裏切りはゆるさん
39魏延好き:2001/01/01(月) 02:08
裏切ってねーじゃん!ゴラァ!
40名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 02:10
いや・・・・
裏切ってないんだったらいいんだけどね・・・・・
41名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 02:36
于禁って関羽に負けるまでは>>35こん中で一番評価高かったんじゃないだろうか?

42魏延好き:2001/01/01(月) 02:45
李典熱いけど評価低いね。
天地を喰らうUだと1面のボスなのにさ
43名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 02:50
おれもそう思うよ
44名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 05:04
つうか魏延のスレでしょココ。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 21:17
魏延って
劉表亡き後の曹操軍の南下で
劉備が逃げてきたときに城内に入れようとしたんだよね
けっきょく細胞に阻まれたし孔明も劉備を止めた
このせいで魏延と孔明は余り仲が良くないとか?
46名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 21:25
「こいつはそのうち裏切るから今のうちに斬れ」
って目の前で言われたら誰でもいい気しないだろ。
その後十何年もよく一緒にやってたなあと思うよ。
47名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 22:12
それは孔明の人を見る目の無さを補う創作
48:2001/01/01(月) 22:49
>>34
最近のは、三国志6までしかやった事ないんだけど、
4くらいから、魏延を配下にした記憶も無けりゃ
敵将として対峙した記憶もないんです。
最近の光栄魏延の動向知ってる人教えて!
49魏延擁護派:2001/01/02(火) 02:35
つーか俺も魏延けっこう好きなんだよね。
んでもって孔明がだいっきらいなのさー。
だいたい孔明は魏延のことをいきなり「不忠」とか罵ってたけど、
劉備が死ぬまで忠義だったよ。孔明とウマが合わなかっただけさ。
50郭嘉:2001/01/02(火) 02:38
やはり反骨の相があるのはまずかったのう。
しかし武将としてはあの武勇、侮れんものだぞ。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 02:41
>>49
孔明は好み優先の人選なので。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 02:50
孔明は荊州系の人材を重用していたのに
何で魏延のことは嫌っていたのか?
53名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 02:57
演義の孔明は魏延とウマが合わなかったかも知れんが、
>>15の話がホントだとしたら孔明もやっぱり魏延のことは認めているわけで、
意見が異なり衝突することはあったかも知れんが、演義のような最悪な関係
じゃなかったかもしれない。
それに、トップが替われば人事に独自の色が出てくることは仕方がないことだ。
孔明の戦略、人事が間違っていたこともあるかも知れんが、彼なりにベストを
尽くした結果がこうなんだろう。まあそれもわかってやろうじゃないか。
5415:2001/01/02(火) 03:43
>>53
裴注として正史に載ってるよ
ただし陳寿が書いているのとはちょっと違う
どっちにしろ孔明は魏延を嫌ってたが
今の蜀には必要だと思ってたんじゃないかな

55魏延擁護派:2001/01/02(火) 04:18
吉川英治三国志では魏延が馬岱に首を刎ねられるとこで終わり。
しかも後ろから不意打ちだよ。きったねえなー。卑怯ものめが。
でもこのスレ見てると魏延ってケッコー人気あんのねー(はぁと
56魏延好き:2001/01/02(火) 04:29
ってか光輝のマンガの荊州争奪のところで
キョウ志も魏延も君主を裏切ったのに魏延だけ殺せっていうのもどうなんだかねぇ
57名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 04:34
やはりあの漫画の影響が最も大きいのか。
確かにケツで蝋燭倒すとこなんかムカつく。
わざとではではないだけに(藁
58名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 07:37
でも孔明と劉備の人物鑑定眼を比べてみても
魏延は不当評価されすぎだよ。
張飛を差し置いて漢中太守になったって事は
早い話張飛や趙雲、黄忠よりも実戦指揮官として
の能力があると劉備に評価されているんだろうよ。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 11:16
魏延と楊儀の中が最悪だったらしいね。
魏延は朴訥な一匹狼的存在で部下に慕われるようなタイプじゃなかった。
楊儀は小物なりに世渡りが上手で上司に取り入り部下をうまくまとめた。
って感じ?
なんかの会議で二人が喧嘩したときに魏延が刀を付きつけて楊儀が悔し泣きしたって
エピソードを見た気がする。
魏延はいわゆる人がいいって感じの奴じゃないけど裏切りとか卑怯なことを
するような奴じゃないと思う。
楊儀はたいした力も無いのにプライドだけ高いねちねち小物って感じかな。
正史の記述に切り落とされた魏延の首を足蹴にしたってのもあるし。
60南斗・北斗:2001/01/02(火) 11:52
今@`ローソクが倒れましたね・・・
61名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 11:59
>>59
魏延=加藤、福島   楊儀=石田三成  って感じか。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 16:36
楊儀は石田三成ほどでも無い  
63名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 17:18
諸葛亮が後事を託すに足る人物は軍事面では魏延、政治面では蒋エン・費イ
だっただろう。
楊儀は官房長レベル。

64名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 17:38
楊儀ってさ、呉への東征の時に
劉巴と折り合いがつかなくなって左遷されてるよね。
その後も魏延と不仲になって彼を殺してる。
さらには暴言を吐いて庶民に落とされついには自殺。
自滅するタイプだね。魏延は巻き込まれた感があるよ。
両人ともプライドは高かったんだろうが。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 17:49
>>61
魏延=後藤基次、真田幸村   楊儀=大野治長
って感じ。
66名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/02(火) 20:20
魏延の評価が黄忠より低いのが納得いかない。
黄忠を卑下してるんじゃなく、この二人って同輩でしょう。
関張趙は早いうちの配下だし、馬超は高貴な生まれだからしょうがないと思うけど。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 20:57
つーか関羽・張飛・趙雲が同格で
その下に黄忠・馬超・魏延が同格なら
良かったのにねー。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 22:29
五虎将の中の格付けでは趙雲が一番低いって言うのはホントなの?
黄忠より低評価ってことか。うーむ
69名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 22:33
>>68
将軍位が低い。上の四人は同格。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 22:34
後世の小説で老人の黄忠を高く評価するのは儒教の影響なのか?
71名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 23:01
五虎将とは
バース・掛布・岡田・真弓・平田です
7259:2001/01/02(火) 23:22
>>61
それは石田光成が可哀相です。
>>64
>>さらには暴言を吐いて庶民に落とされついには自殺。
これにも裏話があって獄中から蒋宛、費偉にはめられたって
上奏文を何回も劉禅に送ってた(もちろんでたらめ)んだけど
見かねた蒋宛、費偉が劉禅に楊儀に自殺させるよう持ちかけた
ことでやっとくたばったらしい。結構往生際が悪いね。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/02(火) 23:58
>>70
どうかなあ
若造の孔明が年長者の武将をアゴで使ってるとこみると
あんまり儒教は関係ないかも。・・・いや憶測だけどね。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 00:48
馬超亡き後の西涼軍団は
闇の暗殺部隊になりました。
馬岱はつまりエグゼキューシュナー。
官位があろうとも一族を守るため
どんな汚い仕事も引き受けました。
そんな彼は歴史の表舞台に立つことはありません。
正史でも一行で語られるだけの闇の男です。
75魏延好き:2001/01/03(水) 01:34
>74
魏延も暗殺されたと
76名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 04:15
黄忠=老いてますますさかんな人
というのは演義ですよね。
では正史はどうなんでしょう?
年齢不詳なのかな?
77 :2001/01/03(水) 04:32
魏延は別に裏切り者じゃないんじゃないかな。
蜀って任侠道の国でしょう?
裏切り者が生きてゆけるわけがない!!
はめられちゃいましたね。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 05:07
>はめられちゃいましたね。

誰にはめられたかが問題ですな。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 05:51
魏延がいなくなって一番得した奴でしょう。
姜維かな。
80姜維:2001/01/03(水) 06:22
私はサイコ孔明ファンです。
孔明先生の教えは絶対です。
魏延は反骨の相があります。
天誅。
81名無し:2001/01/03(水) 06:34
姜維って短絡思考だね。
82魏延:2001/01/03(水) 12:09
五虎大将が全員この世を去ってからは
オレ様が武将では一番のはずだぜ?
それを馬謖っつー頭でっかちや
姜維とかいう降将をかわいがりやがって・・
83名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 15:24
横山漫画から三国志ワールドに入る人多いと思うんだが、終盤の魏延最悪だからな
特に小中学生あたりが少年漫画のノリで読んでると、魏延=悪ってなっちゃうよね
84名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 21:42
>>68
>>76
黄忠は後将軍に任命されているので関羽に次ぐ評価です。
そのあとが張飛(右将軍・・・だったかな?)だったので
関羽が「老兵と席を同じうせず」とへそを曲げました。
当時関羽もかなりの歳だったはずなので、やはり黄忠は
じーさんだったかと。
馬超が左将軍だったので趙雲や魏延はその下という評価ですね。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/03(水) 22:16
このスレ見てると案外好かれてるじゃん>魏延
8676:2001/01/03(水) 23:41
>>84
なるほど、年は年だったんだね。
サンキュ。
87関羽:2001/01/04(木) 00:10
身分と信頼度は必ずしも一致しません。
むしろ期待度と身分が一致するんじゃないか。
期待はされてたであろうな。
88名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 00:15
ルックスだけは関羽と似てるのにね<魏延
89名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 00:18
それこそ黄忠の高位は、年齢に対するご祝儀ではないですか。
他はともかく、張飛より上ってのは変だと思う。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 13:51
夏侯淵倒したからいいじゃん。
それと、左将軍>右将軍ね。
つまり、馬超>張飛。
まあほぼ同格と見ていいんだろうけど。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 22:44
>>89
孔明は「関羽が機嫌を損ねる」として黄忠の後将軍には反対したけど
胆力に惚れ込んだ劉備が決めてしまったんだと。
確かに年齢に対する祝儀もあるだろうし、古参と新参の人事関係の
バランスもあったのかもね。古参ばかりひいきはしないぞ、という。
でも、劉表の元で何故に名が上がっていないのかね。
92名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 22:47
チンピラの関羽、張飛の下になれっかよ〜!!
93名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 23:34
真正面から正々堂々と一騎打ちをしろよ、馬岱。
背後から不意打ちするな。
94馬岱:2001/01/04(木) 23:57
やったもん勝ちさぁ〜♪
95:2001/01/05(金) 00:23
でも、劉表の元で何故に名が上がっていないのかね。

魏延も黄忠も元をたどれば劉表系
つかいこなせなんだんだろうね。黄忠は老いてなお盛んだったのに
なぜ若い内にみいだせなかったのか?
劉表は才能を見抜く力がまるでない。
蔡瑁一族よりよほどつかえるのにねえ。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 00:28
蔡瑁一族の陰謀です。そういやコウソもカンネイを遠ざけた。
97ヽ^∀^ノ :2001/01/05(金) 00:38
ヽ^∀^ノ <黄忠とか法正に高いポジションを与えたのは
      途中で降っても出世できるっていう前例を作りたかったんじゃない
      
98名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 00:49
黄忠はともかく法正の場合は意味が違うと思う。
劉備は人材の使い方は上手かった。
99ヽ^∀^ノ :2001/01/05(金) 00:52
ヽ^∀^ノ < そうだね>>98法正は蜀奪取の働きが大きかったね
100:2001/01/05(金) 00:55
それもあるだろうけど実際に2人ともつかえた。
黄忠は良く知られているけど
法正は田中芳樹が著書で諸葛亮の事に触れた時に

劉備軍で作戦を立案、実行していたのは法正、馬良です。
諸葛亮は法正や馬良の2人が死んだ後全然勝て無くなります。
諸葛亮は内政面で才を発揮する人で彼自身が軍を率いていらい
対魏戦で華々しい戦跡をあげることが出来なかった。という意味の
事を述べてます。
ちなみに田中信者ではありません。
ただ、法正は相当能力があったのではないかと言いたいのです。

101:2001/01/05(金) 01:00
劉備は人材の使い方は上手かった。

馬謖を重用しないよう遺言しているね。
諸葛亮はまもらなかったからああなった。

しかし、荒くれ者の関羽、張飛はじめ
黄忠法正魏延馬超馬岱などみなくすぶっていた連中だね。
漢末から魏、呉にいたるまでの各地の群雄が使いこなせなかったり
本領を発揮できなかった連中が劉備軍に続々きてるな・・・・。
102ヽ^∀^ノ :2001/01/05(金) 01:02
ヽ^∀^ノ < 正史の著者からも高い評価を受けたようだけど
       法正の欠点は権力をもったら自分の気にいらない人間を
       よく殺したみたいだね。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 16:54
俺、魏延と会ったことあるけどいいやつだったYO!
104名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 00:15
>>98
法正が重用されたのは諸葛亮に対する牽制の意味があった。
諸葛亮を中心とする荊州人士(益州在住も含む)に対抗させるため
益州人士の法正、孟達などを登用した。
蜀平定の際はホウ統の死後、法正が中心となって策を立てた。
その功でかなりの権力をもち>>102のようなこともした。
諸葛亮は劉備が法正を寵愛していたを知っていため、法正の専権を
抑えることができなかったという。
しかも入蜀後の最初の軍事行動である漢中の平定に随行したのも諸葛亮ではなく
法正であり、劉備が漢中王になるよう進言したのも法正であった。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 00:45
ちなみに、蔡ボウは、荊州の地方豪族でこいつのおかげで
劉表は君主をやれてたんだ。別に、重用したくて
重用してたわけではない。ここら辺が蔡ボウと劉備との
確執になってるんだよね。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 01:01
自分の言いなりの劉表が自分の軍隊(劉備軍)を持って
我がままを言い始めると思った蔡ボウは劉備暗殺を考えたんだ。
107:2001/01/06(土) 01:01
諸葛亮って軍事では華々しい実績といえば南蛮征伐ぐらいで
北伐はみるべきものなにもないじゃない。

劉備軍が勢力を拡大した時期は
関羽、法正、[广龍]統、馬良がいた時期で
この4人が死んでいくにつれて蜀は実際に衰退しているよ。
劉備は部下の適性をよく掌握していたと思うよ。
諸葛亮は無能じゃないけど演義でいわれているほど
万能の人ではなく内政や補給のプロ、いわば官僚なんだと思う。
関羽(対魏最前線司令官)、[广龍]統(入蜀参謀)
法正(謀議、作戦立案担当)、馬良(謀議補佐、副作戦立案担当)
諸葛亮(外交・内政・補給責任者)、趙雲(劉備軍親衛隊長)
張飛・馬超・黄忠(万単位の軍を動かす将軍)
魏延(漢中司令官)
孫乾(副外交責任者)厳顔・雷銅・廖化(将軍の副官など)
と言う風に劉備は部下を割り振ったので
ないかと思うのですが、どうでしょう。
ただ、荊州失陥、夷陵の戦い、将軍の病死、戦死
そして劉備の死などが
あいつぐにつれて本来内政などの担当であったはずの
諸葛亮が台頭し、蜀の政治、軍事、外交などの全責任者へと
至ったのではないでしょうか。
無論、役割分担は思い違いもあるでしょうけども、
蜀の内情は概ねこういう具合でないかと思います。

108名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 01:03
蔡ボウにとって劉表は天皇と同じだった。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 01:30
「演義」では諸葛亮は最初から劉備軍の最高位に迎えられたようになってるが
蜀を奪った後も実権はともかく朝廷での位は糜竺の下で
名実ともに最高位に就くのは法正が死んで孟達が魏に降った後になる。
それまで自分の派閥拡大のため、法正の後任に劉巴を推すなどしている。
決して劉備に最初から全権を与えられていたのではない。
ただ諸葛亮が全権を握ってからの政策には見るべきものがあるし、益州
の支配にも成功してあれだけ国を保たせた点は評価できる。

魏延のスレなのにこんな話になってしまうのは
魏延と諸葛亮の関係が蜀にとっても重要で、その後の評価まで左右
するものだったからかもしれない。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 02:56
趙雲親衛隊長説が強いみたいだけど、それならイリョウの戦い
についてかないと不味いんでないの?
それだけのわがままが許されてる立場でしょう?
劉備のすることに反抗できる立場だったんだよ。
反対派が孔明だから、孔明の腰巾着だったので
しょうがなくということはありません。歳の差を考えましょう。
彼は自らの意思で反対したんです。
また、残った武将というのは劉備が最も信頼していた武将の証明。
蜀に攻め込んだとき関羽や張飛が残ったように。
111:2001/01/06(土) 03:10
あのー
あなたのさす武将がどのレベルの軍隊を率いる権限を
指すのかわからんですけど、趙雲は万単位の軍をそもそも
率いた事がないんですよ。
夷陵の戦いは重臣のほとんどが劉備をいさめましたが、
趙雲は確かに反対していますね。
でもあれは軍議ですよね。趙雲だけがことさら反対した訳ではないと
思いますよ。
将軍よりは格は落ちるかもしれないけど、めったな人物ではなれないと
思いますし、発言力は強いのではないでしょうか。
ただ、趙雲は奥向き(ハレムね。)等の事などにも携わっていますし、
信頼はされていたでしょう。
ただ、降将である黄忠の副官にされた人事でも分かるように
劉備個人の趙雲への信頼と武将としての君主および周囲の評価は
低かったのではないかと思います。


112:2001/01/06(土) 03:11
劉備個人の趙雲への信頼と武将としての君主および周囲の評価は
低かったのではないかと思います

劉備個人の趙雲への信頼’とは別に)武将としての君主および周囲の評価は
低かったのではないかと思います

と訂正
113:2001/01/06(土) 03:17
それと2、3日の書き込みでも書いたのですが、
夷陵の戦いで蜀は多くの人材を失いましたが、
南蛮征伐や北伐などでも将軍として行動していません。
王平などの降将ですら、将軍の位を授けられているのに
趙雲は人材が枯渇した状況ですら授かっていません。
なぜでしょう。
年齢によるものとも考えられますけども、
降将である黄忠が融和策として将軍になった面も
あるにせよ、生え抜きである彼がこの事態になって
すら将軍になれないのはなぜでしょうか?
114名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 03:18
>>107
諸葛亮は何時南蛮征伐したんだ?
115名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 03:49
将軍将軍といいますがゲームに引っ張られすぎじゃない?
116名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 03:54
>>114

劉備が氏んだ二年後くらい
117名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 04:05
カンウ>バチョウ>チョウヒ=ギエン>コウチュウ>オウヘイ>リョウカ>チョウウン
なっち再び連環の計( ● ´ ー ` ● )
119名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 04:19
趙雲は大将というよりも「何でも屋」のような位置付けだったのでは?
忠義に厚く、度胸もあり、何でもソツ無くこなす武将。
だから時には参謀役、外交官役、大将のお目付け役、救出役など
その時々により、様々な役を命じられた、と。
しかも、いずれも滞りなくこなしている。
よって、劉備や孔明からすると「とりあえず趙雲に任せておけば
(とりあえず趙雲を行かせておけば)」といった発想になるほど
信用できる武将だったのでは?
120名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 04:31
戦において、参軍を任せるなら趙雲。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 04:58
趙雲の主な活躍その壱《演義》

●袁紹と公孫サンの戦いの際、文醜に刺されそうになった公孫サンを単騎で助ける。
 しかし袁紹のスパイと疑った公孫サンに後詰をさせられる。その後、
 袁紹との戦いに敗れた公孫サンを再び救出。さらに袁紹軍の武将「キク義」を退け、
 そのまま単騎にて敵陣突撃、袁紹軍を追い込む。その後圧倒的兵力差をほこる宛将軍は
 体制を立て直し、公孫サン軍敗走。趙雲は公孫サンを守りながら逃げ切る。

●曹操との戦いで義兄弟バラバラになった劉備軍、再び3人再会と思ったら、
 周倉から「この先に居る奴が黄巾残党の裴元紹を一突きで倒し、自分も傷を負った」
 と報告。報告を聞いた劉備が「もしや」と思った通り、そいつは趙雲。

●曹操と袁紹が戦っているのを知り、劉備は隙を突いて許都を攻め取ろう
 と画策。だが劉備の動きを嗅ぎ付け急ぎ戻った曹操軍と激突、
 趙雲は許チョと互角に闘う。その間、曹操は劉備の裏を付き夏侯惇に
 汝南を攻略させる。一転、劉備は前後に敵を背負い大ピンチ。だが、
 趙雲が劉備を守りつつ、敵軍の中、槍を駆使して血路を開き、何とか
 関羽・張飛と合流する。その後、後詰をして何とか逃げ延びる。

*とりあえず序盤のエピソードでした。
122名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 05:02
演義はウソばっかだから・・・
123:2001/01/06(土) 05:24
http://azumaya.kobe-du.ac.jp/~mozuku/china/san/satyu_1.htm


私論三国志

三国志演義から始まった日本人の過った中国史認識


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初めに言っておきますが、「諸葛亮」は中国史上最高の軍師だという方や、「赤壁の戦い」は劉備が曹操に圧勝した戦いだと信じて疑わず、その認識を決して曲げるつもりはないというような方は多分あまり気が合わないと思います。

いきなり物騒ですね、すいません。気を悪くした方は謝ります。

しかし、現在日本で広まってる三国志世界があまりに捏造されたものが多くて、しかもそれが史実であるように伝えられているのは少々不公正な気がします。
そもそも、劉備が自分の軍隊と呼べる組織をつくったのは「赤壁の戦い」以後の二〇八年から(それまではただのごろつきと言って差し支えないでしょう)で、その作戦指揮にあたったのはホウ統です。『三国志演義』で鳳雛と称される人ですね。彼が二一四年に戦死すると、以後は二二〇年まで法正が後任にあたります。この時期が劉備の黄金期と言えるでしょうね。さて、この二人が死んでから、劉備は呉の名将陸遜に「赤壁の戦い」以上の致命的大敗をするわけです。それこそ国家的な危機に瀕するような大敗です。その時諸葛亮は「法正が生きていたらこんな戦いは止めさせただろうし、止めさすことができなくても負けなかっただろう」と悔やんでいます。つまり、彼は軍略家としてはホウ統や法正より劣っていると自分でそう言っているんです。だから彼が作戦指揮にあたってからは魏の司馬懿に軽く一蹴されてしまいます。
だいたい諸葛亮は策謀を弄するような人物ではなく、むしろ法治主義的な政治によって国家を支えた名政治家です。彼がいなければ蜀漢は劉備の死後即座に滅亡なり野心家によって簒奪されたでしょう。彼はその政治力で三国中最弱の蜀漢を支えました。「泣いて馬謖を斬る」という言葉は彼の法治主義・厳罰主義の政治方針を如実にあらわしています。つまり、彼は名軍師ではなく名宰相と言えるのではないでしょうか。

また「赤壁の戦い」ですが、この戦いは周瑜が曹操を破った戦いです。劉備は周瑜の軍に混じっていただけです。繰り返しますが諸葛亮はこの時点で作戦指揮には関わっておらず、ホウ統がそれにあたっていました。また「赤壁の戦い」の敗北で曹操が天下を統一する機会を失ったのは事実ですが、別に主だった将軍が戦死したという記述はありません。しかも、その直後に銅雀台という大宮殿を建造し、華やかな建安文化の基礎を築きます。ところがそのような大々的な土木工事にも関わらず税金は上がらず、国庫は安定していました。国が傾くどころかすぐに軍事行動を再開している事から見ても、曹操や魏にとって人的にも財政的にも大きな敗北では無かったのは間違い有りません。ただ単に、天下統一が遅れたに過ぎません。にも関わらず「赤壁の戦い」が史上稀にみる大勝のように伝えられるのは曹操という偉大な名将を後退させたという事実を政治的に宣伝し、士気を高めようという意図があったのだと思われます。そして、それが『三国志演義』においてさらに誇張・歪曲されたのでしょう。

『三国志演義』の蜀漢で最も人気のある武将五人の地位として「五虎将軍」というのがでてきますが、これは全くの架空でそんな将軍位は実在しません。これは『三国志正史』の『蜀志』にある「関張馬黄趙伝」という関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人の伝記からとったもので、彼ら五人にそういった架空の地位を用意して権威を強めているわけです。史実では驃騎将軍や車騎将軍等の漢代の将軍位を用いていたのですが、それよりも五虎将軍のほうが確かに格好いいですよね。ちなみに趙雲は親衛隊長のような身分で他の四人よりずっと下の地位だったのですが、死後その実績と実力が認められて、他の四人と同列に扱われています。

さて、いろいろな人物がでてきたので名前についても言及しておきましょう。これは田中芳樹さんが何度も強く言っているのですが、「劉備玄徳」「諸葛亮孔明」と苗字・名・字と記述しているのは間違いです。苗字・名もしくは苗字・字が正しい呼び方です。例えば唐の時代に郭子儀という、唐の滅亡を寸前のところで防いだという名将がいたのですが、彼の名は子儀で字も子儀です。郭子儀子儀って明らかにおかしいでしょう。早口言葉じゃないんだから。
これも田中芳樹さんが何度も言っているのですが、字は名と対応しているとか、兄弟順に伯仲叔季とつけるとか、二十歳になってから自分で決める、というのは全て原則であって、いくらでも例外があるということは念頭に置いておいたほうがいいようです。

田中芳樹が書いてる 俺は信者じゃないけど、趙雲の記述に注目
124名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 05:34
趙雲の主な活躍その弐《演義》

●劉表を頼って荊州に落ち着いた劉備、そこへ劉表に降伏した張武・陳孫が
 江夏郡で略奪を働いているとの一報。関羽・張飛・趙雲を従え劉備が征伐に出る事に。
 趙雲は張武を簡単に討ち取り、戦利品として張武の馬を手に入れる。それが的盧。

●蔡夫人と蔡瑁の謀略により宴席に呼ばれた劉備に、300の兵を率いて同行。
 劉備のそばから離れない趙雲を、文聘らが別席に誘うが断る趙雲。だが、
 劉備に「行ってこい」と言われ、やむなく劉備から離れる。その間、謀略を知った
 劉備は的盧にて逃亡。異常を感じた趙雲が駆け付けた時には劉備の姿無し。
 伏兵も気になると同時に、下手に動いて事を荒立ててはならぬと思った趙雲、
 とりあえず新野に帰る。だが新野に劉備の姿はない。即、劉備を探しに出る。
 夜中中探し回り、ようやく司馬徽の屋敷にいる劉備を関羽・張飛より先に発見。

●曹操は劉備を叩く為、樊城に曹仁・李典・呂曠・呂翔らを派遣。
 趙雲は徐庶の指示通りに動き、呂曠を撃破。張飛は呂翔を撃破。
 激怒した曹仁が李典を差し向けるが、李典は趙雲相手にかなわず。
 八門金鎖の陣をしいた曹仁に対し、趙雲は徐庶の指示通り東南から
 西に斬り抜ける。その後夜襲をかけて曹仁を撃破。そのまま1千の兵で
 樊城の守りに就く。

>>121の最初のエピソードに「圧倒的兵力差をほこる宛将軍」とありますが、
 これは「袁紹軍」の誤りです。すみませんでした。
 その他、文法的におかしな所など多々ありますね…
 これにもあるかも知れないので、先に謝っておきます。
125:2001/01/06(土) 05:40
さて、それは何かと言いますと、私は『三国志演義』という小説が大好きであるということです。前回の文を改めて見るとまるで『三国志演義』や「諸葛亮」を毛嫌いしているように思えましたので、これはいかんなと思って三国志についての考えを簡単に書いてみようという次第であります。
まず、これだけは強調したいことなのですが、『三国志演義』は小説です。私が思うに、小説とはウソを現実のように思わせたものほど面白いのです。そういう意味で『三国志演義』は虚像の英雄を幾人も創り出した面白い小説と言えます。ただ、私の不満が二点ほどありまして、それを現実と混同してらっしゃる方が多いこと、三国時代が最も面白い時代だと言う方があまりに多いことです。

田中芳樹の続き(抜粋)
126121&124:2001/01/06(土) 05:43
ん?正史について話してたんですか…
私はてっきり、1さんのカキコに横山とあるので、
どちらかというと演義寄りに語るスレかと勝手に思い込んでおりました。
(演義内での活躍やエピソードを前提に再評価してみようというスレかな?と。)
って事で、121と124は無視してやって下さい。スレ汚しすみませんでした。
127名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:06
ここは魏延とその周囲との関係について語るところだと思っていたのだが…
128名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:19
>あ
それは田中芳樹が書いてるんじゃなくて
そのサイトの管理人が田中芳樹や中国の文献を見て
自分なりに解釈しただけじゃねーか
129魏延萌え:2001/01/06(土) 11:00
趙雲は、演義はともかく正史では碌な評価ではありません。
王朗や華きん(忘れた)の様に、真っ当な奴が悪玉になったのと正反対ですね。
例えば、長坂橋の話も正史では“劉禅を助けただけだよ〜ん”としか書かれていません。
逆にいえば、親衛隊長のくせに、奥方達を助けられなかったと言う事です。

個人的には、廖化の方をもっと評価すべきだとこ黄巾の乱から三国時代終焉まで戦い抜
いた歴戦の勇士ですから。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 08:32
はっきり言って筑摩の正史版みたら
趙雲の記述の余りの少なさに笑うぞ。
法正より少ないぞ。
131名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 09:12
田中厨房はかえってください
ライトノベル板に
132名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 15:51
まじで田中厨房うざい。来るな。
133黄祖:2001/01/07(日) 22:02
>90

左将軍>右将軍は日本。
中国では右>左

よって89が正しい。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 22:25
魏延ってチンコ固そう、でも早漏。
135千巻一成:2001/01/07(日) 22:38
魏延って全面的に黄忠を立ててたから
五虎将軍では黄忠(刑州代表として)になったのだと思ってた。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 23:17
廖化マンセー!
137名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 00:42
人望のない韓玄?を民衆と共に切り殺して
誤解で処刑されそうになった黄忠を助けた
そして荊州脱出以来ずっと慕っていた劉備のもとへ

こうして見ると魏延っていい奴
138水鏡先生:2001/01/08(月) 00:51
魏延よいぞよいぞ
139名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:07
孟達ってもっと叩かれても良いのに話題にも上らないね。
140天地:2001/01/08(月) 01:25
魏延のサマーソルトキックマジ強い!
141名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:28
>139
孟達って何げに小物だから。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:47
しかし孟達って曹叡にはめちゃくちゃ気に入られてたんだってな。
皇帝用の御車に同乗を許されるほどだったらしい。
どこがそんなに気に入ったんだろうね?
143名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:56
>142
ルックスが良かったかららしいが。それと曹丕だったような...
144名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 02:28
>140
隙大きすぎ

やっぱ張飛か関羽でしょ
145名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 02:35
>>142-143
蜀からの投降者を増やすためのパフォーマンスって可能性は?
146名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 03:26
親父の曹操はこういう輩は切っているから可能性は低いような。。。
孟カクと孔明のほうはそういう説があるそうですが...
147名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 03:48
ソウヒ両刀でモウタツが好みと見た
148名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 03:48
曹操の好みは夏候恩
149無名武将@お腹せっぷく