曹操が好き!

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1ひろぬ子
一番かっこいい。
2名将名無し:2000/12/30(土) 02:41
劉備の方が好きだな〜
3名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 02:42
陳舜臣の「秘本三国志」の曹操は、マジで格好いいです。
…チビだけど(笑)
4名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 02:47
俺も!演技逝ってよし
5名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 03:05
やっぱ孫策だろ〜。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 03:24
曹操は柳眉や尊喧と違って一発変換できます。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 03:35
曹操しか一発で出ない。
8ゴンズ:2000/12/30(土) 03:51
蒼天航路の曹操かっこいいね。
9代打名無し:2000/12/30(土) 07:36
「秘本三国志」は曹操も劉備もかっこいい!
10名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 08:01
>8
蒼天航路はでてくるやつみなかっこいい
董卓かっこよすぎ
11名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 13:25
諸葛誕だろ。
12武安国:2000/12/30(土) 16:20
>>10
やくみつる?
13田中芳樹:2000/12/30(土) 16:29
曹操にとって、208年にこうむった打撃の最大のものは、「赤壁の戦い」
ではない。

この年、彼は息子を失った。
父をしのぐ天才として知られた曹沖である。年齢はわずか十三歳であった。

曹操の悲哀と衝撃が、どれほど巨大であったか。
彼は十分に才能のある曹丕や曹植をさしおいてまで、この少年を後継者
にしようとしていたのである。

曹沖の死は、「赤壁の戦い」の直前である。
その衝撃が癒えぬまま南征した曹操、彼の覇気と闘志に翳りが生じていた
とは言えないだろうか。
14無名武将:2000/12/30(土) 16:44
曹昴も有能っぽく書こうと思えば書けそうだが、
実際はどうなの? 緒方直人。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 22:29
曹操一郎
16名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/30(土) 23:19
>>13
あ、俺そう言うのしらねぇ。曹操にそんな子供がいたのか・・・。
曹操をしのぐってすごいな・・。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 23:23
結構、このテの人物は伝説的に書かれることが多い。
戯志才だって郭嘉以上の大天才として伝えられている。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 23:24
陳宮を高く評価するきらいもあるよね。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 23:26
赤壁って実はそんなに大したことなかったってホント?
20名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/30(土) 23:29
>>16-18
夭折の人物は伝説化されるって事でしょうか。
それだけ愛され、惜しまれたということかも。
21代打名無し:2000/12/31(日) 00:02
俺も曹操好き!厨房の頃、曹操好きなの俺の周りにいなくて寂しかった。
蜀ファンばっか。
22蘇双:2000/12/31(日) 03:40
赤壁で曹操の船に丸太の大砲が備え付けられてたって本当?
23名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 05:01
曹沖が死んで悲嘆に暮れる曹操を気づかい
曹丕が慰めたんだけど
「父の私にとってはとても不幸なことだがおまえらにとっては幸いだ」
っていったんだっけ
24名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 05:05
25名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 16:24
贈られてきた象の重さをどうやって量るか皆が悩んでいたところに、
船に乗せて量る方法を提案したのが曹冲だよね?
26名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/31(日) 18:00
>25
そうそう。陳舜臣の「曹操」で読んだ。

27名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:39
馬騰たちが曹操を暗殺しようとした時、暗殺組の1人の家の使用人が、曹操に主人が暗殺を計画している事を伝えた。
これで暗殺計画は失敗し馬騰たちは、首を切られた。
でもその後、普通はこの暗殺計画を密告した使用人に褒美を与えるのだが、曹操は「主人を裏切るような奴は嫌いだ」と言って、この使用人も切り捨てた。
こうゆう事をすれば、今度から曹操に密告する人はいなくなるだろうとか考えて、いくら嫌いでも褒美をやったりするものだが、そうしない曹操はかっこいい。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:42
馬騰ってやっぱ曹操暗殺計画やってたの?
馬騰が殺されたのは馬超が謀反したからだって聞いたことあるけど。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/01(月) 01:54
口封じとは考えられまいか。んー、これもまた曹操らしい。

30名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/01/01(月) 03:00
消防の頃三国志(光栄)で劉備を取ったらなんで曹操じゃないの?と馬鹿にされた。
それ以来曹操の偉大さを知り曹操ファンです。
でも蒼天航路では劉備のほうが好き。(曹操は人間味が無いような。)
31名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 20:25
曹操こそ三国第一の英雄なり!
32ヽ^∀^ノ :2001/01/04(木) 21:03
ヽ^∀^ノ <陳舜臣は曹操ヲタの匂いがするから好き
33名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 21:13
結局曹操の息子って年長から、

昂、丕、冲、彰、植、熊の6人でいいのか?

もっといそうな気もするが。
34虹橋操:2001/01/04(木) 21:48
操の名の出典です。
女の操からではありませぬ。
35代打名無し:2001/01/04(木) 22:56
>>33

エピソードは殆どないが、子供だけなら20人以上。
林、峻、矩、上、彪、乗、宇、均、棘、茂、京、整etc
36名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 23:03
蒼天の曹操は俺もちょっとなぁ・・・(藁
曹操は横山三国志の曹操が好きだな〜。
やっぱり最初の頃の
「天が俺に背く事は許さん」だっけ。あれかっこ良かった〜
その後の
「呂さんとこから酒持ってくるの忘れてた。俺も少しはあわてていたか。」
とか。
後半の「あわわわ」曹操も情けなくて好き!(藁
37最強伝説曹豹:2001/01/04(木) 23:06
横山三国志の曹操は人間ぽいところが良かった。
某小説の完全無欠な曹操は魅力を感じないな。
38nmida:2001/01/04(木) 23:11
曹操=信長におもえてならん。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/04(木) 23:29
スレ違いに思えてならん。
4039:2001/01/04(木) 23:30
自分が間違えた(汗)
41名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 00:44
>>38
誰だったか、武田家の家臣が信長の元に寝返ってきた時、
「裏切り者」として切られた、という話が有ったはず。
似てるところは多いかも。
42教えたいくん:2001/01/05(金) 00:47
>>41
小山田信茂だな。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 01:07
曹操軍の魅力はあの軍師たちであるはずだ。
曹操はもうちょっと人間臭くてもいいんじゃない?
44名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 16:25
自分の墓には宝物とか入れなくていいからねつって死んだのがすてき。
45名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:34
曹操の遺令には、
「自分が残した薫香は、夫人たちに分け与えよ」とか、
「妾たちで手に職の無い者は、飾り紐や履の作り方を覚えて、
それを売ればよい」などの記述もあって、
晋の陸機は「魏の武帝を弔う文」で次のように嘆いている。
「残念なことにくよくよと家事を気にかけ、遺言はこまごまと
しすぎていた。広大な精神を飾り紐のついた靴のことで悩ませ、
さわやかな理性を余った香の処理にわずらわせた。」
「生前の衣服の始末などつまらないことのために、君は子孫の
帝王にまで不名誉を及ぼした。人の心に宿るこの大いなる惑いは、
哲王でさえ振りきることができなかった。」
46名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:48
でも、曹操はチビ

47名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 20:21
161cmくらいしかないんだっけか?
でも、当時の栄養状態とか考えたらしょーがないような...。
190以上ある関羽とかの方がめずらしかったんじゃないかなー。
まー色々な民族の血が入ってればおっきくなったんだろうけど。
劉備は172、3くらいだっけ。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 21:39
>>47
あの時代の人達の平均身長は
高かったって書いてあったのをどこかのスレで見たよ。
49田中芳樹はこう見る:2001/01/06(土) 05:28
http://azumaya.kobe-du.ac.jp/~mozuku/china/san/satyu_1.htm


私論三国志

三国志演義から始まった日本人の過った中国史認識


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初めに言っておきますが、「諸葛亮」は中国史上最高の軍師だという方や、「赤壁の戦い」は劉備が曹操に圧勝した戦いだと信じて疑わず、その認識を決して曲げるつもりはないというような方は多分あまり気が合わないと思います。

いきなり物騒ですね、すいません。気を悪くした方は謝ります。

しかし、現在日本で広まってる三国志世界があまりに捏造されたものが多くて、しかもそれが史実であるように伝えられているのは少々不公正な気がします。
そもそも、劉備が自分の軍隊と呼べる組織をつくったのは「赤壁の戦い」以後の二〇八年から(それまではただのごろつきと言って差し支えないでしょう)で、その作戦指揮にあたったのはホウ統です。『三国志演義』で鳳雛と称される人ですね。彼が二一四年に戦死すると、以後は二二〇年まで法正が後任にあたります。この時期が劉備の黄金期と言えるでしょうね。さて、この二人が死んでから、劉備は呉の名将陸遜に「赤壁の戦い」以上の致命的大敗をするわけです。それこそ国家的な危機に瀕するような大敗です。その時諸葛亮は「法正が生きていたらこんな戦いは止めさせただろうし、止めさすことができなくても負けなかっただろう」と悔やんでいます。つまり、彼は軍略家としてはホウ統や法正より劣っていると自分でそう言っているんです。だから彼が作戦指揮にあたってからは魏の司馬懿に軽く一蹴されてしまいます。
だいたい諸葛亮は策謀を弄するような人物ではなく、むしろ法治主義的な政治によって国家を支えた名政治家です。彼がいなければ蜀漢は劉備の死後即座に滅亡なり野心家によって簒奪されたでしょう。彼はその政治力で三国中最弱の蜀漢を支えました。「泣いて馬謖を斬る」という言葉は彼の法治主義・厳罰主義の政治方針を如実にあらわしています。つまり、彼は名軍師ではなく名宰相と言えるのではないでしょうか。

また「赤壁の戦い」ですが、この戦いは周瑜が曹操を破った戦いです。劉備は周瑜の軍に混じっていただけです。繰り返しますが諸葛亮はこの時点で作戦指揮には関わっておらず、ホウ統がそれにあたっていました。また「赤壁の戦い」の敗北で曹操が天下を統一する機会を失ったのは事実ですが、別に主だった将軍が戦死したという記述はありません。しかも、その直後に銅雀台という大宮殿を建造し、華やかな建安文化の基礎を築きます。ところがそのような大々的な土木工事にも関わらず税金は上がらず、国庫は安定していました。国が傾くどころかすぐに軍事行動を再開している事から見ても、曹操や魏にとって人的にも財政的にも大きな敗北では無かったのは間違い有りません。ただ単に、天下統一が遅れたに過ぎません。にも関わらず「赤壁の戦い」が史上稀にみる大勝のように伝えられるのは曹操という偉大な名将を後退させたという事実を政治的に宣伝し、士気を高めようという意図があったのだと思われます。そして、それが『三国志演義』においてさらに誇張・歪曲されたのでしょう。

『三国志演義』の蜀漢で最も人気のある武将五人の地位として「五虎将軍」というのがでてきますが、これは全くの架空でそんな将軍位は実在しません。これは『三国志正史』の『蜀志』にある「関張馬黄趙伝」という関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人の伝記からとったもので、彼ら五人にそういった架空の地位を用意して権威を強めているわけです。史実では驃騎将軍や車騎将軍等の漢代の将軍位を用いていたのですが、それよりも五虎将軍のほうが確かに格好いいですよね。ちなみに趙雲は親衛隊長のような身分で他の四人よりずっと下の地位だったのですが、死後その実績と実力が認められて、他の四人と同列に扱われています。
50田中芳樹はこう見る2:2001/01/06(土) 05:33
私論三国志

三国志演義から始まった日本人の過った中国史認識


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前回肝心なことをいうのを忘れていたので第二回が続きます。

さて、それは何かと言いますと、私は『三国志演義』という小説が大好きであるということです。前回の文を改めて見るとまるで『三国志演義』や「諸葛亮」を毛嫌いしているように思えましたので、これはいかんなと思って三国志についての考えを簡単に書いてみようという次第であります。
まず、これだけは強調したいことなのですが、『三国志演義』は小説です。私が思うに、小説とはウソを現実のように思わせたものほど面白いのです。そういう意味で『三国志演義』は虚像の英雄を幾人も創り出した面白い小説と言えます。ただ、私の不満が二点ほどありまして、それを現実と混同してらっしゃる方が多いこと、三国時代が最も面白い時代だと言う方があまりに多いことです。
前者については第一回でかなり例を挙げたので後者についてです。三国時代は戦乱時代というのは確かにそうなのですが、中国の方にとって戦乱時代と言われて思いつくのは五代十国の時代だそうです。春秋戦国でも、漢楚の時代でもないそうです。また京劇の演目で最も多いのは宋の時代のものです。宋の時代は民衆の英雄が多く出た時代なのですが日本人には『水滸伝』でしか馴染みがありませんね。この時代をモチーフにした大衆小説は沢山あるはずなのですが、日本語に翻訳された本が少ないというのが致命的です。知りたくても読めないんですから。
話がそれてきたので『三国志演義』の話に戻しましょう。以下に三国志のそれぞれの皇帝(曹操は帝位についてませんが、魏公→魏王と譲位の手順を踏んでいます)とその国について簡単に述べていきたいと思います。

私個人の見解を言いますと、この三国時代をリードしたのは間違いなく「曹操」であり、従って「劉備」や「孫権」はアンチ曹操としてしか存在意義が無かったということです。また、私が曹操を最も評価するべきだと思う事柄が、孫子の兵法を研究しそれを保存したことです。曹操がいなければ我々は孫子の兵法の内容を知ることは出来なかったとさえ言われています(一説によると、孫子の兵法は曹操が書いたという説があります。というのも、孫子の作者とされる孫武は実在がはっきり証明されていないこと、曹操ならこれぐらいの兵法書を書くことぐらいできたということからきています)。
つまり曹操には自分は歴史の通過点に立っているという認識があったようです。曹操は歴史に学ぶ姿勢を心懸けていたようで、とりわけ「後漢の光武帝」を尊敬していたようです。戦後に残った文書を読まずに焼いてしまったりしたわけです。歴史に学ばない人間の例をあげると諸葛亮がでてきます。古来より補給の途絶えた軍が勝利できた試しがないのに北伐をくりかえしたわけです。まあ諸葛亮は軍事の専門家ではなかったのでこれは仕方ないとして、彼は漢再興をうたったわりには史書を編纂しようとすらしなかったわけで、それで正統な中華帝国を名乗るなんておかしな話です。
話がそれました、曹操ですね。よく蜀は人材が豊富だったと言う人がいますが人材なら質も量も魏が圧倒していたわけで、だからこそ三国のうち最も強大な帝国になったんです。いくら曹操が優秀でも広大な領土を一人で統治するわけにもいかない。軍隊だって一人ですべて指揮するわけにはいかない。当然分担してこれにあたるわけですが、曹操の能力が同時代、いや中国史全体を見ても最高の水準を誇っていたため、配下が能力を発揮してもあまり目立たないということがあります。言いかえると、この時代はまるで曹操一人に対して、劉備・孫権・周瑜・関羽等が寄ってたかってやっと対抗できたというイメージになりそうですね。
51田中芳樹はこう見る3:2001/01/06(土) 05:34
曹操の偉業については書き始めるときりがないのでこれぐらいにしましょう。次に日本では曹操のライバルとされる「劉備」についてです(少なくとも曹操にとって、劉備は脅威というほどのものではなかったはずですけどね)。劉備は確かに凄い人物です。徒手の身から僻地とはいえ帝国を築いたわけですから。
劉備は少なくとも人を見る目はあったと思います。兄弟に選んだ関羽と張飛は勇猛で、特に関羽は名将ですから。また臨終の際、「馬謖を信用するな」と諸葛亮に言い残すわけで、少なくとも諸葛亮よりは人を見る目があったと言えるでしょう。ただし、戦略眼はまるでなかった。だからホウ統を旗下に加えるまで自分の領土すらなかったし、法正が死んでからは全然勝てなくなってしまいます。それで劉備が死んでから、諸葛亮が軍権を握るわけですが、今まで政治家で後方司令官やってた人間が前線にしゃしゃり出てきたので「魏延」なんかは不満だったんでしょうね。彼は漢中太守(魏と国境を境する最前線の司令官)に任命されるほど有能な武将で、劉備に信頼されていたという自負もあり、当然面白くないわけです。そして無謀な北伐をするなんて言うものだから結局魏に寝返ってしまうわけです。『三国志演義』に諸葛亮は魏延の寝返りを予言していたなんて書いていますが、それなら漢中太守なんて任命されるわけがないでしょう。この地位は当初張飛がつくと噂されていたぐらい重要なポストなんですから。
まあ、蜀にはもう人材らしい人材が乏しくなっていたので、諸葛亮が全権を掌握して対処しようとしたのも仕方ないんですけどね。魏では建安文化が花開いていたのに蜀では年中敗戦処理に追われていたわけで、これで魏に勝てるわけがないんです。中国史全体を見ても、蜀地方から興った国が天下を統一したことはありませんし、むしろ短命王朝がほとんどですから。中原とは人口の絶対数が違いますし、土壌の質も黄土とは比べ物になりませんから、いくら頑張っても国力の差が縮まることはないんです。すでに中原を曹操、江南を孫権に掌握された時点で劉備の負けは決まっていたと言えるでしょう。

曹操、劉備とくれば、孫権ですね。三人の中では最も若いです。前述の二人に比べると影が薄いですね。周瑜がもっと長生きすれば違った展開を見せたんでしょうけどね。なぜなら、周瑜は赤壁以後に蜀に進出して南方を制して魏に対抗するという天下二分の計を実行する直前(最中?)に死んでしまいましたから。もし実現していれば、諸葛亮の天下三分の計よりも遙かに勝算が高いですから。江南から興った国では明が天下統一を果たしていますから、呉だって条件が揃えば可能だったんです。ただ、明の時は北方の元は崩壊寸前だったのに対し、魏は隆盛を極めていたわけですから、やっぱり実現するのは困難だったでしょうけど。
周瑜の死後は魏についたり蜀についたりと優柔不断だとか不義理だという評もありますが、戦乱の時期にそんなきれい事で生き残れるはずがないですね。劉備だって曹操と手を組んだことがありますし。で、魏と組んで関羽を挟撃して敗死させたというのが特に評判が悪いようです。それなら赤壁で周瑜と劉備が組んで曹操を挟撃したのは卑怯じゃないのか、と言いたくなりますけど、なんといっても関羽は神様ですから仕方ないと言えば仕方ないかもしれません。
以後は呉は結構安定した地盤を築きます。劉備が大軍を擁して攻めてきたときも陸遜がこれでもかというぐらいの勝ちをおさめます。そして江南の王朝には以後もしばしば見られるのですが、ゆるゆるとぬるま湯に浸っていくように腐敗していき、魏を簒奪した司馬氏の晋に滅ぼされて三国志は幕を閉じます。それなのに諸葛亮が死んで以後のことは日本ではまるで知られていないというあたり、いいかげんな話ですよね。先の陸遜の息子の陸抗や孫の陸機なんかは全くの無名です。

と、こんなところでしょうか。なんせ、私もまだまだ中国史に足どころか爪の先ぐらいしか突っ込んでいないので知られざる事実がまだまだあります。
そういうことを発見して自分なりに考えがまとまったら第三回でまたつらつらと書いてみようと思っています。
最期まで読んでくれた方は本当にお疲れさまです。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:03
つかURL貼ってんだから
内容はそっちを見ろって言えばいいじゃねーか
ダラダラ長文コピペして貼るのはウザ過ぎる
53名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:07
馬鹿のせいで重い
54名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 06:15
ヲイ、田中芳樹じゃないじゃないか
55:2001/01/06(土) 07:17
HPの作者が田中信者で全文章をそのまま打ち込んでいるんだよ。

後、コピペしたのは見ない奴が多いからだ。
重いのは重い奴のPCの性能か、プロパイダーのいずれかか、あるいは両方悪いせい。
俺のせいにしちゃいかんな。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 07:23
スレ沈めてsageで反論すな、カス
57名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 10:11
田中厨房は田中芳樹の言うことを自分で資料をあったて検証することもなく、
田中芳樹の言うことを全面的に信用する厨房。
だからスニーカー文庫どまりって言われるんだよ>田中厨房。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 17:15
高祖の三傑ってあるけど、曹操の三傑つったら誰になるかな?
ジュンイク、曹仁あたりか?
59名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 22:45
>>51
魏延は魏に寝返ったというのは無いだろう。
60風鈴火山:2001/01/06(土) 22:52
>>58
荀ケ・徐晃(張遼?)・鐘ヨウ(陳羣?韓浩?)
多士済済だからなあ・・・
61名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 23:01
このコピペ、魏延のスレにもあったぞ。
ウザ過ぎ。
まとめて消化して自分の意見としてレスを書けよ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 03:06
官渡の戦いの後、袁紹の本拠から曹操の部下が内通していた書類がざくざく出て
きたが、「わしも同じ状況ならしていたかもしれん。」と言って、不問にした
ところが良い。
63名無しさん@強制遷都:2001/01/07(日) 04:23
魏で3人だけ選ぶのは至難だな
あえて挙げるなら・荀いく・張遼・鍾よう、か・・・ううむ
64名無しさん@強制遷都 :2001/01/07(日) 04:26
あ、60とかぶってるな・・・
65名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 04:51
曹冲って正史に出てくる人物?
演義における曹操の息子は曹昂・曹丕・曹彰・曹植・曹熊だけだよねぇ?
劉備の息子が劉禅・劉永・劉理で、孫堅の息子が孫策・孫権・孫仁(演義の孫夫人)
まあ、実際には妾相手に多くの子供を残していたんだろうけど…
66名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 00:28
結構、曹冲って現代の三国志ネタ小説の中で
創作された曹操の息子だったりしてな。

とりあえず演義には出てこないよな?<曹冲
67名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:11
>>35
曹操の子供は多かったろうが、そこまで名前判明してるのか?
ソース教えてくれ。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 01:24
>>67
曹冲も含めてみんな正史に出てるはず。
ほとんどが若死にだけどね。
69名無しさん@お腹いっぱい。
曹冲はコーエーのゲームに登場したことあるの?