か2?
前スレどうして落ちたん?
板の中では書き込みが多いほうだったと思うけど、ageる人があまりにも少なかったとかか?
980超えて1日くらい書き込みなければ大体落ちる
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/13(日) 23:53:56.42
麹義
取り合えず世界史板からコピペ
【統率チェックポイント】
統率について言及。「統率」とは組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
【武力チェックポイント】
武力について言及。「武力」とは戦術・戦域級での戦闘指揮能力。
【知力チェックポイント】
知力について言及。「知力」とは問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。
【政治チェックポイント】
政治について言及。「政治」とは己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。
【魅力チェックポイント】
魅力について言及。「魅力」とは利害抜きで人を引きつける力。人望。
これ、武力を用兵と武勇に分ければ、あとはOKだと思う
>>8 演義じゃないんだから武勇なんていらんだろ
シンプルな方が良い
基本能力以外は特殊能力で表すって手もある
やっぱりループか
1、統率 武力 知力 政治 魅力
2、統率 用兵 武勇 知力 政治 魅力
どっちがいいかな
政治も外交、軍政、農政、政務の処理とか細かく分けられる
細かい個性はタイプで表せばいいかもな
典韋は護衛、逢紀は謀略家、楊儀は能吏、といった具合に
>>14 軍政は統率と統合できるが、外交と政務、農政はまったく別物だな
政治家としての能力は、
知力、行政能力、人徳などの総合力で決まる気がする
統率、用兵、武勇、知略、行政、人徳
>>18 それだと、外交で失敗した劉備の人徳がマイナス評価で低くなっちゃうよ?
トウ艾
統率80、武力90、知力85 政治70 魅力65
タイプ:軍司令官、農政官
こんな感じか
外交の失敗は知略にマイナスかな
>>20 タイプや特技をふやして、基本評価は低めのほうが個性がでるのかな
>>21 外交なんて信用問題だから知力のみっていうのも不自然だよ
トウ艾は人心に疎そうなのがマイナス
幕僚や政治家としては荀ケとかより大分落ちる
そうか、マイナス特技も入れればいいのか
>>23 知略不足で失敗する場合もあるだろうし、
人徳の欠如で失敗する場合もある
>>25 貪欲とか独断専行とか色々考えられるな
袁術の失敗の原因も性格によるところが大きい
>>26 信用できないって様々な人物にいわれたから人徳の欠如ってことか
そもそも劉備は外交で大失敗してない
荊州失墜は関羽が呉への警戒怠ったからだしな
外交もケースバイケースだから難しいな
歩み寄るのも外交だし威圧するのも外交だし
強国か弱国かとか
立場によって違って来るし
そもそも劉備は何もしてない
まかせたぞ孔明
劉備が何もしていないはない
演義の影響受けすぎ
ケ艾の評価より、鐘会の評価が気になる
実は凄いやつなのに韓信的な死に方のため
評価が低い
屯田始めたやつとか、陳グンとかこいつとか
劇的にこの時代の戦術、戦略、政治、変えたやつの
評価をもっとしてほしいと思う
トウ芝の功か諸葛亮の功か
基本
>>7で特技付けて個性出すか、
>>18みたくパラメータ増やすか
他に新しくパラメータ考えるのもありだな
>>7に則ると鍾会は統率90、武力70、知力90、政治85、魅力65くらい?
鍾会もトウ艾同様、人心の機微に疎そうだ
ていうか劉備外交でなんかミスったっけ?
初期の頃から上手い具合に群雄渡り歩いているし、自分を売り込んで重要な場所任せてもらっているんだから、
普通に外交能力は最高クラスだと思うんだが。
ただ戦闘能力がそこまでじゃないだけでさ。
>>37 戦闘能力も結構高い
若い頃に重ねた敗戦は圧倒的劣勢の中がほとんどだし
超一流にはちょっと及ばないけど三国時代では一流と言っていいレベル
劉備は曹操が評価するように曹操に良く似てるんだよ、オールラウンダー的な意味で
劉備は物事を緻密に整理して考えるタイプではないだろう。
どちらかと言えば呂布みたいに嗅覚で生きるタイプ。
勉強嫌いだったらしいし、学問好きの曹操とはかなりタイプ違うよ。
人を従える器量の持ち主という点で似てるだけ。
武勇に関しては劉備>曹操じゃないかな。傭兵隊長だし
劉備は勉強好きだよ?
盧植のところに居た頃は文書じゃなくて音楽中心に勉強してる
この頃の音楽は儒教の六芸の一つで重要な学問
後になって盧植の同門の鄭玄にも教えを受けてる
嗅覚で生きるタイプって蒼天航路じゃあるまいし…
論理的に考えるタイプと直観で動くタイプがいて
孔明みたいなインテリは前者、劉備や呂布は後者だな
孔明は戦略向き、劉備は戦術向き。曹操は万能タイプ
教養は基本的に曹操>>>劉備で間違いない。
読書を好まなかったという時点で、勉強好きではないだろう。
明らかに曹操とは人格のタイプが違う。
時代を見据える目とか視点の雄大さとか、
そういう英雄的なところが共通してたんじゃないかな。
まあ確かなことは分からないけど
劉備は孫堅と似てる気がする
叩き上げで求心力があって歴戦
劉備と孫堅ってどっちが能力上?
そりゃ孫堅でしょ
時代が合っていなかった、運もなかった
まぁそれを加味したら劉備じゃないかな
劉備だろ
孫権は戦死する程度の能力
戦闘力は孫堅。人望は劉備。
孫堅は董卓が恐れて逃げ出すほどの快進撃をした。劉備には真似出来ない。
劉備はその人望で多くの優秀な人材を配下にした。孫堅には真似出来ない。
真似するもしないもそもそも劉備はそんな兵士を動かすだけの地盤がない時期
年齢的にも30歳なりたてと30代後半では後漢だと丁度出世する期間の前後になってる
(大体35歳くらいがそれまでの実績や人脈で出世する頃)
比較したらいかんよ
いやそうじゃなく・・・孫堅と同じ地盤があっても同じ快進撃はできないだろうという話。
孫堅は華雄・呂布に勝利(191年)
劉備は呂布の部下高順に敗北(198年)
当時の孫堅は数万単位の兵を率いている。(袁術のバックアップがあるとはいえ)
劉備は愚か曹操の数倍の大軍。劉備なんてその曹操の一割程度だろ・・・
そして孫堅は徐栄に普通に蹴散らされて撤退。
コシン呂布が次の相手だったが、コシンと呂布はとことん仲が悪くて、
呂布はコシンに誤情報を流して負けさせて、その時そのコシンの部下のカユウが戦死しただけ。
呂布に勝ったわけじゃないよ。
ていうかろくな勝ち方じゃない。ただの相手の仲間割れに過ぎない。
>>52 同じ地盤があったら同じくらいの事はやれるでしょ
孫堅ってのは所詮、横死する程度の人物だよ
後漢書によると孫堅は洛陽で董卓と呂布に勝ってるな
徐栄って曹操にも孫堅にも勝ってるのに能力値低いの?
劉備に戦闘力があったらもっと早くに頭角現してただろうな
>>58 劉備は戦闘力があったから中原で生きられた
曹操にその存在を恐れられた
劉備の前半生は凄腕傭兵隊長として各勢力を渡り歩いてる
傭兵隊長レベルということか
沢山居そうだな
>>60 ところがそこから国持ちになった奴は劉備の他にいないわけで
凡百の傭兵隊長とは違うね
>>61 国持ちになったのは孔明のおかげ
百瀬明治「いくさをすれば負けてばかりという評。自分が指揮を取って戦場に出た場合、ほとんど戦果をあげてない。
(中略)それでも天下三分の勢いにもちこめたのは、孔明らの補佐によるところが大きい」
誰だその馬鹿は。
>>63 そら評者ただの阿呆だな
孔明得る前でも勝てる時はしっかり勝ってる
ってか演義くらいしか読んでないんじゃないの?
演義だけで評価するならまあ当らずとも遠からずだし
劉備は戦い方も年々進化している
また、孫堅と同時期には孫堅のほうが上かもしれないが
とにかく負け戦になっても生き延びている
この辺の撤退の勘というか、しぶとさが彼の持ち味と思う
暗殺、敗戦、中央からの使者をボコる、等々あっても
生き延びる生き延びるww
夷陵でも結局打ち取られはしなかった
イフはないが打ち取られていたら蜀はあの時点で滅んでいた気がする
曹操本人には赤壁と関中以外は全く勝ってないけど、曹操の部下になら実は連勝だったりするんだよな。
曹操本人の場合は兵力差がなあ。青洲兵がくるわけだし、下手すると十万を軽く超える大軍
武装して戦闘経験豊富な流民の群れ。徐州や荊州時代の劉備じゃ容易できる兵力に何倍もの差がある。
それを考えると呂布はほんと凄かったと思うね。
徐州でヒャッハーしててそれなりに削られたとはいえ、凄まじい大群だろうに。
悲惨なのは徐州とエン州の民だが。呂布軍と青洲兵とイナゴの三重苦。劉備軍とてそこまでおとなしい連中じゃないだろうし。
>>67 そこで、普通の感覚の君主なら「民がカワイソす(/_;)。とどまって
何かしてあげないと」とやってる間に首ちょんぱ
荊州でも民のためを思って移動したように演義で書いているが
これも大嘘wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
勝てなかったときの劉備から学ぶべきものが実はたくさんあるように
思う。
曹操は末期は馬超戦見てても進化が止まっている
数を集めた上に機動力を活かして相手を翻弄して勝利するという
戦術から進化が止まっている。
逆に劉備は漢中でも進化を見せてるし夷陵でも戦は上達している
陸遜さえいなければ・・・・・・・・・・・・・
>>68 正史でも一応本人の発言として自分を慕う民衆を切り捨てられないって言ってる
曹操
統率96 武力71(七星剣装備時は武力+9) 知力92 政治94 魅力97
>数を集めた上に機動力を活かして相手を翻弄して勝利するという
戦略的な優位を最大限生かす方法だからまあ間違っていない。
というかこの常勝戦法を普通に出来るのがスゴイ。
信長や秀吉の戦術も基本これ。圧倒的な経済力を背景として、
圧倒的な大軍を常時敵にぶつけ続けて、街道を整備して素早く召集して素早く送る。
敵は経済的に厳しくなっていくので、いずれ大軍を維持できなくなり勝率が下がり、
いずれは必然的に相手は負ける。
当時の徐州はかなり豊かだったからなあ。だからまず曹操は国力にダメージを与えてきた。
エン州だけでは青洲兵は食わせられないから、徐州に攻め込んだわけだし。
ていうか徐州も悲惨っちゃ悲惨だよな。劉備呂布曹操袁術(孫策もだっけ)の奪い合い。
さらに虐殺やら水攻めやらやられて凄まじい事になっている。
劉備の荊州での戦略はまあ普通に考えれば焦土作戦と住民の拉致だよな。
それを上手く誤魔化すと、民が慕って付いてきたになる。
まあ、そのままほおっておいたら、相手の拠点になるし、
住民は略奪されて拉致されるのが当時の常識。実際曹操に拉致されて屯田に従事させられたわけだし。
実際彼等が劉備についていったのはわからなくもない。
そういえば、トウガイだけは最後まで連れて行くべきだったよなw劉備もびっくりだろうにw
>>69 政治家がテレビで言ってることくらいに思うといいよww
あきらかにこの時は劉備の誤算だろ
劉備
統率69 武力61 知力68 政治72 魅力99
知力以外はもう10から15はあげてもいいな。
孫堅
統率93 武力97 知力55 政治53 魅力80
魅力エピソードなんてあったっけ?
呉夫人の親族から蛇蝎の如き嫌われっぷりだったじゃん
袁紹
統率70、武力75、知力65、政治75、魅力65
戦歴見る限り、かなり戦に手慣れてたと見ていい
>>78 そりゃ劉備なんか比べ物にならないぐらい身分が低い出身だからな
あのエピソードは呉夫人の先見の明があるってことだし
>>80 身分が低いんじゃなくて孫堅の性格が悪いから嫌われてたってちゃんと書いてある
呉夫人は生活や弟の立身を考えると四の五の言ってらんない状況
両親が早死にしてるからな
また、夫人が親族を説得するときの言葉が「1人の娘を惜しんで災いを招くな」だよ?
断ったら孫堅が災いを巻き起こす、つまり脅迫してるわけだな
利害抜きどころか利害でしか人を説得できないわけだ
性格の悪さと魅力の関連は薄い
「性格」という項目を新たに加えればいいかもな
>>82 性格が悪いことで嫌われてることが因果関係付きで書かれてるんだから孫堅の魅力は低いってことだな
魅力が無ければ四天王はじめ優秀な人材は集まらないよ
中村整史朗「孫堅の呼びかけで郷党の若者たちが集まり、民兵を組織し、これが後年の呉軍の中核戦力となった。
若者たちが彼の呼びかけに応じたのは、孫堅に人間的魅力があったからだ。
彼は腕力が強いだけでなく、性格のバランスが取れ、思いやりがあった。・・・」
武功で今をときめく出世頭が呼びかけたら人は集まるだろ
損得抜きじゃなくて損得でな
あと孫堅の軍事的中核って正史だと官軍だぞ
演義で語るならコーエーの数値で問題ないだろう
劉備も嫁から見れば戦場で見捨てたりされちゃうとんでもない奴
でも仲間や部下から見れば魅力ある人物な訳で
魅力的かどうかは相手の立場や本人との人間関係によって変わるんじゃないか
万人に好かれたり万人に嫌われない奴はいないんだし
嫁といえども一人に好かれた嫌われたで魅力は論じれないんじゃないか
夫婦仲が悪かっただけかもしれんし
ただ
文章残ってるんだからマイナス要因だ、と言われればそれまでではある
>>63-85 あの本の解説は酷すぎて読む気がしない。
孫堅はまあ公孫サンが近いんじゃないかな?
戦闘では強いが、気に食わないとかいう理由で上司とかぶっ殺しているし。
低い身分から出世した人物でもある。(公孫サンは母親の身分が低いだけだが)
当時は一声かければけっこう人が集る時代。
食うものがない家を次げない、もしくは次いだらこれ以上細分化になると厳しいとかでね。
なので金と食い物を十分用意できればけっこう集る。金と食い物は袁術が用意したわけだしね。
ただ魅力がないかというとそうではないだろう。人格的に問題があった事と魅力があった事は矛盾しない。
テイフやらコウガイやらが付いてきているわけだし。
ただコーエー的にはあれだけの軍閥を率いて各地を転戦した呂布の魅力がさんざんだからなw
呂布や公孫サンより戦が下手だけど、人格的には多少マシくらいじゃないのかな?>孫堅
>>89 部下は裏切られた奴以外、大抵のリーダーは付いて行ってるからそこを加点要素にしたらダメだろ
董卓は孫堅を恐れ、媚を売るほどだったが、孫堅には通じず長安に追われた。
その後孫堅は洛陽近郊で呂布軍を撃破し洛陽へ一番乗りを果たした・・・
真似できるやつがいるんだろうか。
孫権は徐栄に大敗し、(配下で太守やっていた李旻が煮殺される)
呂布の裏切りによってはめられた胡軫が負けただけなんだが。
孫堅は徐栄に負けて一旦引くが、直ぐに北上し胡軫撃破し、大谷関で董卓をも敗走させ、
最後に呂布を撃破、洛陽へ入城。
すばらしい働きだよね
>大谷関で董卓をも敗走させ、最後に呂布を撃破
そんな事実はありません。
別に孫堅恐れてません。リカクカクシ以下だろ(プ
っていうのが董卓軍の認識です。
もっともリカクカクシはけっこう強いけどナー。
>>大谷関で董卓をも敗走させ、最後に呂布を撃破
>そんな事実はありません。
資治通鑑に書いてるよ
正史後漢書の方にその記述の元がちゃんと書いてあるね
本来なら反董卓連合軍がやるべきことを孫堅がやったわけで、
孫堅が凄いのか、反董卓連合軍がだらしないのか
両方かな
そもそも反董卓連合ってのが「反董卓」以外の点で何一つ協調するもんがないわけで
連合だからといってなんかしなけりゃならんわけでもない
光栄の1だと袁術の武力が95、孫堅が96
超強力タッグだなw
>>95-96 どちらも三国志を参考に作られた後世のものじゃん。
大本の三国志にないものを著者が補ったものを出されてもなあ。
孫堅の場合、子供が国を残したから過大評価されてる気がするね
武勇伝もあとからたされたものも多少ありそうだし
孫堅=公孫さん=馬騰
くらいの評価でいいと思うんだけど、呉ファンが怖いので
黙っときます。
もちろん、孫策あたりは今の値でいいと思う
>>100 後漢書にあって三国志にない情報も多いけどな
特に三国志に全くない後漢の情報は後漢書頼り
正史の本文以外は全部考慮外!?
だったら評価不能の人物続出だな
言えば後漢書も正史だよなw
まあ陳寿の「三国志」しか認めないってのは極端だな
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/20(日) 14:10:55.04
パパと兄貴はとても戦上手なのに厨房はどうしてあんなに下手くそなんだろい、劉備と劉禅くらいの差がある
孫権の戦術指揮は袁術レベル?
>>103 超雲別伝を信じて超雲の数値決めるのか?
たしかあれも資治通鑑にのっているよな?
>>105 陳寿は胡散臭いもの、今で言う史料批判に耐えられないものを省いただけでしょ。
孫堅が呂布を破ったなんて呉書にも書かれていない。
山陽公載記だったか江表伝とかにあったような気がするが、どちらも裴松之からダメだしくらってなかったか?
この時の事でも、一番乗りしたら玉璽ゲットーとかねーよとか。
前スレまでの評価では趙雲の武力は90↑という評価だから別伝込みのはず
カイ越:評価不能
高順:評価不能
その他、評価不能な人物だらけ
まあ高順は劉備破った記録があるか
カイ越とか評価するのは無理なんじゃないのか?
戦闘ならまだ強さ議論みたいな感じで出来なくもないけどさ。
孫権の戦術指揮は7万で曹操40万と互角に戦えるレベル
外征失敗は誰にでもある
>>108 ここは正史スレなので、正史後漢書が気にいらないのであれば来なければ良い。
カイ越の荊州制圧の謀略とか、確か陳寿の三国志にはなかったな
するとカイ越は評価不可・・・
評価可能な人物って、本当に限られてくるな
ここって別に陳寿の本文限定なんてルールなかったよな
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/21(月) 08:08:08.05
だな趙雲最強という事で曹操を寡兵であそこまで翻弄したのは趙雲くらいのものだろう。
じゃあ陳寿以外の史書も考慮に入れるということで。
陳寿のみなんて言ってるのは一人だけだろ。
曹操を翻弄したって意味わかんね
趙雲が戦ったのは曹操直属の部隊とは限らないだろ
孫堅の戦績
・許昌という賊を破る
・黄巾に連戦連勝
・凶星という賊を破る
・徐栄に敗北
・胡軫と呂布を破る
・洛陽で董卓と呂布を破る
・周グに連戦連勝
・黄祖に連勝
・黄祖の伏兵の前に敗死
黄祖が最強
劉備の戦績
??? 黄巾討伐
??? 賊軍に勝利
??? 賊軍に敗北
??? 張純に勝利
194 曹操に敗北
198 高順に敗北
200 曹操に敗北
200 蔡陽に勝利
200 曹仁に敗北
201 夏候惇に勝利
208 曹操に敗北
211 劉璋に勝利
219 夏候淵に勝利
221 陸遜に敗北
>>112 孫権は自分が戦ったら必ず負けるダメ将軍ですよw
>>121 徐州で袁術に敗北したのは?
あと208年以降の勝利が全然カウントされとらんね
その戦績、劉備を悪くいいたいために大分削られてないかい?
>>123 それは呂布の裏切りだからなあ。そのままなら負けてないかも。
曹操の部下だと車冑、リュウタイ王忠などもか。
あと赤壁では普通に勝っているのに何故か抜けているよな。
劉備は荊州四郡平定もあるな
>>125 濡須口の話ならあれは孫権の負けだろ。
負けでないなら自ら和睦を申し込んで従属などしない。
夏候淵斬った後の漢中防衛は勝ったとは言えない?
孫権伝。
若い頃張紹がむしろ軍を率いて反乱討伐などをしていた。
曹操に李術が悪いんだと訴えて、見捨てられた李術に勝つ。
虎狩りとかにうつつを抜かしていたため、従兄弟とかにこいつダメだとこの頃から思われる。
外征に乗り出したら陳登に兄貴同様大敗する。陳登から江南地域征服してやろうとか思われだす。
曹操からも陳登さえ生きていれば、孫権なんぞがでかい面しなかったと惜しまれる。
赤壁での隙をついて北上したら合肥を落せず、さらに偽報に騙されて退却する。
濡須口で冬に戦うが曹操に押されていくつ物陣を破られ武将も捕らえられる。
孫権本人は呂蒙や甘寧ががんばったおかげで守りきった。
皖城を奪取し屯田民を拉致。またもや呂蒙と甘寧が頑張った。
合肥で戦う。いきなり800人の張遼にボコボコにされる。
城を包囲したがまた張遼や楽進にボコボコにされる。下手すればここで二回は死んでる。
濡須口でまたもや冬に戦う。曹操軍は天候に恵まれず水位の上昇や疫病に悩まされるが、
結局孫権は曹操に勝てず降伏する。
曹ヒの侵攻は全部部下が防ぐ。本人は何もしない。それが一番正しかった。
230年くらいから何度も親征で合肥新城などに攻め込むが、満寵無双にあい、
孫権は何度も大敗する。
ほんと酷いな・・・勝ち星が殆どない上に勝ったケースは呂蒙甘寧すげええとしか思えない。
>>121は劉備自身が指揮したものだけ載せてる。それでも漏れてたらすまん
おいおい、劉備指揮で最大の曹操との直接対決である漢中戦放置とか酷すぎる
>>133 曹操との直接対決とは219年3月のにらみ合いのこと?
213年の濡須口では水上戦で孫権水軍によって曹操軍は大打撃(溺死数千、捕虜3千)。
甘寧の切り込み時、孫権は兵士達に酒肴を振る舞い士気を高め、結果大成功。
孫権は自ら曹操軍を偵察するなど、豪胆なところを見せた。
曹操は孫権のような息子が欲しいと嘆き、退却した。
>>134 漢中戦だけど?
睨み合いではなく普通に篭城してる劉備に対して曹操は何度も仕掛けてるが
全部跳ね返されて被害が大きくなったので撤退した
劉備の戦績new
黄巾賊討伐(蜀書先主伝)
張純討伐(蜀書先主伝)
賊軍討伐(蜀書先主伝)
賊軍に敗北(蜀書先主伝)
袁紹・曹操に敗北(魏書武帝記)
曹操に敗北(魏書武帝記)
袁術に勝利(蜀書先主伝)
袁術に敗北(蜀書先主伝)
呂布に敗北(蜀書先主伝)
楊奉・韓暹に勝利(蜀書先主伝)
高順に敗北(蜀書先主伝)
劉岱・王忠に勝利(蜀書先主伝)
曹操に敗北(蜀書先主伝)
曹操に敗北(蜀書先主伝・魏書武帝記)
夏侯惇に勝利(蜀書先主伝)
曹操に敗北(蜀書先主伝)
荊州四郡を落とす(蜀書先主伝)
劉璋に勝利(蜀書先主伝)
夏侯淵に勝利(蜀書先主伝)
曹操に勝利?(蜀書先主伝・魏書武帝記)
陸遜に敗北(蜀書先主伝・呉書陸遜伝)
>>136 いや、だから3〜5月頃の話でいいんだよね?直接対決って、そこしか無いはずだから。
その場合、あなたの言う「曹操は何度も仕掛けてるが」は何に書いてるの?
先主伝には「終不交鋒」(一切戦ってない)と書いてるよ
それは会戦してないという意味であって戦闘そのものはしてるわ
曹公至、先主斂衆拒險、終不交鋒、積月不拔、亡者日多。
曹操が漢中に来たけど劉備は要害に立て篭もり会戦に応じず
時間ばかりが過ぎても城塞を攻略することは出来ず多数の損害を出した。
という文章で「睨み合いしかしてない」ってどうして勘違いできるんだよ
「亡者日多」って睨み合いで出ちゃうもんなの?
だとしたら相当恐ろしい風土病かなんかが流行ってんだな
「亡者日多」は死者じゃなく逃亡者でしょ?
風土病なのか兵糧不足なのか、あるいは曹操出陣時には生きてた夏候淵が死んだことが原因なのか、
何らかの原因で士気低下を招いて戦うどころじゃなくなったんだろ
立間祥介氏も逃亡兵続出し、長安に引き揚げたとしている。
そもそも「鋒を交えてない」って書いてるのに「鋒を交えた」とするほうが無理ないか?
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/22(火) 17:10:01.35
病気なら病気と書くだろ赤壁や濡須、合肥でもそうかかれて退却している。
戦闘でまけたんじゃないの?
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/22(火) 17:18:40.70
確か趙雲に曹操が負けたのが関中だろ。
>>142 劉備と袁術は石亭で完全に互角だったな。
用兵能力は劉備=袁術だな。
呉は曹丕に大敗したことがあるな。
呉の諸将は曹丕以下。
劉備は戦績から判断すると、弱いヤツには強いが、強いヤツには弱い。
いわば平均的な能力なんだと思う。
魅力(人望?)だけはズバ抜けてる。各地転々してるが、概ね可愛がられてる。
孫堅は陽人において董卓に大勝。孫堅>>>董卓。
>>140 三国志では「亡者」だけの場合、逃亡者と死亡者両方を表してる
前後の文脈から死亡者だったり逃亡者だったりが判明することもあるが
今回のケースではどっちかわからんので素直に両方いた、と考えるのが無難
手元の漢和辞典だと「亡者」は死人、「亡人」は逃亡者となってるので死人説のが有力ではないかと思うけどな
ただ、もし曹操が対陣中に逃亡者続出しているとしたら
こんな大事な戦いで何の対策も出来ずに逃亡させまくって
結局退却に追い込まれてるという点で曹操の統率を相当辛くするか
曹操軍の督戦役に厳しいマイナス評価が必要になるね
被害出てるだけなら城塞の力攻めには被害出るからしょうがないけどな
もっとも注釈の魏略で劉備が劉封に挑戦するものはいるかと挑発したのに対して
劉備の偽の息子なんぞ実の息子曹彰でぶっ倒してやる
という発言を曹操がしてたりそれなりに戦ってると思しき記述はあるから
本文の不交鋒ってのはやはり会戦に応じなかっただけと考えるのが妥当かと思うよ
総司令官はどこまで戦術レベルに関わってるか分からんな。
呉の諸将と交戦して勝ったのは曹仁、曹休、曹真。
陽人で実際に戦って負けたのは胡シンと呂布。
劉備と袁術も戦術レベルなら劉備が上だろう
>>148 むしろ戦術レベルが袁術と同レベルかそれ以下だろ
>>149 戦術は劉備>>>袁術
戦略は袁術>>>劉備
傭兵隊長の劉備が戦略得意なわけないからなw現場の戦争屋
諸葛亮がいなきゃ蜀建国なんて到底無理だったろう
>>151 戦術は袁術>劉備
戦略は袁術>>>劉備
具体的に袁術が戦術指揮したことってどんだけあったっけ?
孫堅が陽人で董卓破ったのは正史三国志。董卓自身はこのとき洛陽にいたが。
その後孫堅は洛陽で董卓の本軍破ってる。これは正史後漢書だね。
>>156 そうだったか?
「互いに勝ったり負けたりしていた」
「劉備は広陵に向かったが、またしても袁術に敗れた」
劉備が勝ったって記述はなかったような
劉備が大軍を率いたケースが少ないからな。
徐州を乗っ取って袁術と戦った時、
(曹操にかなり殺されただろうけど、徐州じたいは中原からの避難民が多く人口は軽く100万を超えるはず)
最も流石に袁術軍に比べれば数分の一だろうけどね。
小沛に移ってからは一万程度だろうね。万越えてて呂布に危険視されて攻められたんだし。
その後車チュウを殺して徐州のっとった時が数万くらいかな?
その後の女難はいて数千程度。
その後荊州の北部に駐屯、ここではいて数万くらいかな?
赤壁後で南郡併呑したときは、5万くらいはいるかな?
関羽が3万くらいで荊州を守ってて、劉備が益州入るわけだが。
関羽軍くらいはいないとお話にならないし、
益州とったあとは関羽軍とは別で五万以上はいるんじゃないかな?
で負けた時とかみてみると小勢の時が多いね。相手を上回る兵力で戦った事ってあるのかな?
夷陵くらいか?あれも微妙だけど。
>>156 それって呂布の攻撃で袁術と激突する前から劉備軍が壊乱状態にあった時の話だよね
袁紹の元へ逃げる時は劉備に普通にやられてるし
曹操との対決では重要な局面で勝利した劉備と比べると
袁術は散々に負けるだけ負けて逃げるしか出来なかったので
やっぱり戦術級では袁術は劉備に劣るだろ
160 :
157:2012/05/22(火) 19:56:03.28
読み間違えた。
「劉備が勝利」じゃなくて「劉備に勝利」か。
だったら
>>156で合ってる
劉備の軍は広陵に来た直後から既に混乱状態だったのか。
それとも広陵で袁術に敗れたあと混乱状態になったのか。
その辺ははっきり書かれてない。
曹操>公孫サン>孫堅>劉備>孫策>>>>>>>>>>>>>>>>袁術>>孫権
このくらいだろ。
なんで孫権のアンチはこんなにレベルが低いんだろ
前スレの妄想が根拠の劉備擁護者よりも酷い
>>161 先主伝の注釈英雄記では前者と書いてあるね
曹操>孫策>孫堅=公孫サン>>>劉備≧孫権≧袁術
「劉備の軍が広陵にいたとき、食糧がなくて困窮し、互いに喰らいあった」
これ広陵奪った直後の話かどうかは分からんと思うが
孫権にほめるところなど何もないから仕方ないな。
>>135 結局その後曹操に攻められて陣営の半分くらい破られて敗退じゃないか。
>>159 広陵で袁術に「又敗」また負けたって書いてあるだろ
その前の石亭でも負けているんだよ
後方で作戦立てる能力なら袁紹>袁術>劉備だろう
前方で臨機応変に指揮する能力は劉備>袁紹>袁術
>>163 正しく評価すると必然的にそうなる。
孫権にはまともな勝ち星といえるようなものはない。
勝率は2割あるかどうかといったところだろう。
将の将としてはそこそこであろうが、将軍としては三流もいいとこ。
>>164 あれは呂布にカヒを落されて食料がなくなり孤立した結果だな。
袁術に負けたわけじゃない。
劉備は広陵奪うだけの戦力はあったわけだからな。
その後袁術軍破って食糧奪うつもりだったんだろうけど、敗れてできなかった。
そして呂布に降伏するしか道がなくなった。
まあこんなとこじゃないかな
>>164 劉備の場合は他で勝っているのも大きいな、曹操本人にも赤壁や関中で勝っているし。
孫権はそういうものがないから、劉備に勝ち星がある袁術以下となる。
袁術は大軍だろうから、劉備が負けたのも仕方ない
孫堅や孫策は野戦が多く、孫権は城攻めと水戦が多い
>>170 「又」は直前の張飛の「敗」に掛かってる
石亭では「有勝負」、勝ったり負けたり、つまり拮抗してる
>>174 赤壁は孫権に泣きついて周瑜のおまけ
漢中は殻に閉じこもり
はて?
いつ曹操本人に勝ったんだろう
>>175 当時の劉備軍はそこそこの大軍のはず。まあ流石に袁術軍ほどではないだろうが。
呂布にカヒを奪われたのが痛かったな。袁術を内応させた袁術が一枚上手だったという事。
劉備としてもだから張飛をおいていたんだろうし、曹操がまた攻めてくることを考えると、
呂布を追い払うのも得策ではない。公孫さんの衰退が戦略的な行き詰まりになったという事だろうな。
公孫さんと袁術が衰退して、袁紹と曹操が対立が表面化してくるとまたかわってくるんだが。
>>176 お前は一行レスだけだな
>>179 武帝紀に普通に劉備に不利だったと書いてあるだろ。周瑜?だれそれ?
相手にもされてないよ。
劉備の戦略と言えばそれまで袁術と利害関係上、多少の対立があって
完全な同盟とは言わないまでもそれなりに共同歩調取ってた徐州勢力を
丸ごとひっくるめて袁紹側に寝返らせてるのは凄まじいね
>>183 何かが再度繰り返される時に「又」という言葉を使うのだけど
「與袁術戦又敗」の「又」はその前文の「張飛敗走」と劉備の敗退の関係性を表してる
石亭の段階では「與袁術戰於淮陰石亭、更有勝負。」
劉備が曹操を裏切って徐州で独立したのは戦略的には間違ってないんだけどな。
当時の曹操と袁紹では袁紹には負ける要素が殆どない。
曹操の中原は疲弊しているのに対して、華北はかなり豊かだった。
劉表孫策とも曹操の関係は良好とはいえず。袁紹は北方異民族との関係も良好だった。
ここでさらに劉備が徐州を奪って独立しているわけで、曹操としてはかなり厳しい状況。
劉備の誤算は曹操本人が自ら大軍で攻めてきて、袁紹が全く動かなかった事。
孫策が不幸にも暗殺されてしまった事か。生きていたら面白かっただろうに。
愚弟が後を継ぐからなあ。
>>185 袁紹は全く動いてないどころか迅速な進軍してるよ
アレに関しては完全な正史三国志の嘘
戦術家の孫策、戦略家の孫権ってとこじゃね?
孫権が跡を継いだ直後の江東はゴタゴタしてて、
大軍を動かせる状況じゃなかったのが不幸
>>186 どこに書かれているんだ?後漢書にも田豊が悔しがったとか書かれているのに。
>>187 孫策ならそんな状況には成らなかっただろうにな。
ていうか孫策が早くに死んだからそうなったというべきか。
孫策が巨匠襲撃を計画していたのに、逆に臣従して裏切り者などを打つ必要があったくらいだし。
>>189 君主が急死したら混乱が生じるのが当たり前だろ
孫権はそれを上手く取りまとめた
>>188 曹操が徐州に劉備討伐に出撃したのが1月
袁紹が白馬に到達して包囲してるのが2月
曹操が劉備討伐から帰ってきて白馬まで来るのが4月
当時の軍隊は精々一日数kmくらいが行動範囲
袁紹軍は大所帯だから移動速度は遅くなる
それでも1月に曹操が出撃したのを確認してから袁紹が2月には既に白馬包囲してるのは迅速な行動
北岸の黎陽は直前まで曹操が支配してるはずなのだが南岸の対岸にある白馬が包囲されてるから
一行も記述ないけどサクッと落とされてる
時系列と軍隊の動ける速度を考えると袁紹が動かなかったって記述は間違ってることになる
この辺は曹操凄い伝説を作るための魏王朝の宣伝がそのまま記載されたのだろうね
張紹→張昭 張紹だと別人になるなw
孫権は劉禅と違って主体的な君主だから、
自身もかなり有能だったんだろう。戦術指揮以外は。
>>191 いやそれが間違っているんじゃないの?
袁紹自体は白馬にきておらず、先方に過ぎなかっただけだろ。
ソジュが顔良を将軍にして単独派遣するなといっているからし、
二月はまだ檄文作っているところでしょ。
つかギョウから黄河まで100キロちょっとだよ。巨匠まではその倍くらい。
大した距離じゃない。
孫権は曹操が息子にしたいと言うほどの男。
また、張遼も孫権の武勇を認めている。
>>184 石亭は最終的にどうなったか書かれていない
だから、石亭の結果を含めての又だろ
だいたい、袁術戦って同文が繰り返されているのに又の字が張飛に掛かるほうが不自然
>>195 100kmちょっとって軍隊なら移動するのに2週間掛かる距離だぞ
騎兵だけの部隊ならならもっと速く移動できるだろうし個人の移動なら数日だろうけどね
1月に出発してて2月には黎陽に本隊がいて、さらに河を渡った反対側の白馬を囲んでるのだから
袁紹の行軍は迅速であったし、結局動かなかった、という正史の袁紹優柔不断史観は間違ってるってこと
数千人が渡河して白馬囲んでるってことだから大量の船もちゃんと用意されてたってことで
袁紹は手薬煉引いて曹操の隙を待ってたし、その隙を見事に突いてる
>>194 下手の横好きって困るんだよなw部下に任せていれば合肥くらいとっくに落ちてる。
>>197 石亭の結論は書かれてるよ
勝ったり負けたりして決着しなかった
その間に張飛が色々あって呂布に敗走し
また、劉備も軍が潰滅したりそれを立て直したりして戦ったけど、負けた
という話なのだから
>>200 どこから決着なんて言葉を出してくるんだ?
あくまで勝ったり負けたり
それで石亭と広陵で又負けた
>>201 石亭では勝ったり負けたりだった
これは決着しなかったという意味だってこと
石亭で負けたって言うならこの「更有勝敗」が間違ってるってことを論理的に証明せんといかんね
孫権が優秀な人物だったのは間違いないな。
行政はもちろん武略にも定評があったし。
戦術指揮では目を見張る活躍はしてないが、
大軍を失ったこともない。堅実なタイプだったんだろ。
濡須では曹操とまともに張り合ってるし、
反逆者李術や仇敵黄祖はしっかり倒してる。
>>199 >部下に任せていれば合肥くらいとっくに落ちてる。
何を根拠にw
>>203 もう少し強引でもよかったんじゃないかと思う場面は多い反面
豪族連合体の色彩が三国でも最も強かった呉で君主が子飼いの軍人を失う危険性を考えると
孫権の軍事行動を史実以上に冒険的に行うことは現実的には無理だったのだろうなとも言える
そういう利益と危険の両天秤を上手く取ったことは間違いがないな
ただ、微妙な兵力で攻めてるのは堅実というかケチというか……
>>198 なんで記述は信じないのに月だけ信じるんだ?
劉備討伐で四ヶ月は帰ってきていない。なのに檄文つくって進撃開始したのは二月という有様。
一月あれば許昌くらいまで楽にいけるのはわかるよね。また華北にいる袁紹の騎兵数は曹操を上回るだろう。
それにそれかなりゆっくり行軍した場合だな。強行軍どころか普通でもその倍以上はいく。
(強行軍の一例だと秀吉の大返しは狭い街道を台風の中一日70キロというキティな距離移動している)
(ちなみに曹操は劉備が荊州で難民つれて逃げているときは、騎兵のみで輜重すてて進撃して追撃している)
一月も遊んでいる時点でどうみても遅いとしかいいようがないよ。
>>205 戦が下手糞だったから豪族の連合体になったんだろ。
指導力をみせようとして自ら軍を率いたけど、結局負けて帰る毎日。
>>206 その記述が他の記述明らかに矛盾する嘘だからだよ
史料批判をして間違ってることがわかればそれは採用しない
普通の態度だね
檄文を作った時期は不明だぞ
2月には「白馬を包囲していた」のであって2月に行動開始していたんじゃない
数万人の移動時間を考えると行動開始は2月以前
曹操が劉備征伐に出るのとそんな変わらん時期に移動し始めたと推測できる
数万人で強行軍とかどんだけ後先考えないの?
曹操本人いなくても守備隊があって渡河点の確保も完了してないのに数万人が河を渡れるわけないだろ
黄河は幅数kmあるんだぞ
それでも自分は北岸の拠点まで移動して、さらに数千人の先鋒部隊は南岸に移動させ白馬を囲んでる
ここまででやっと2月な
孫権の敗戦の記録って合肥と江夏くらいじゃないの?
江夏のときは城を落とせず帰還しただけで、交戦して打ち破られたとかじゃない。
>>209 >江夏のときは城を落とせず帰還しただけで、交戦して打ち破られたとかじゃない。
いつの話?黄祖攻めのこと?
>>210 曹丕の死後。文聘攻め。確か江夏郡の石陽城。
>>208 月が間違っていればお前の説でも記述に矛盾はでなくなるが、何故それを考慮しないのかな?
ちなみに俺はそうは判断していないが。普通に可能と判断している。
二月に白馬包囲をした。二月の一日か末かわからんがまあ可能だ。
100キロちょっと程度なら一週間で可能なのは分かっている。
またお前の説でも、顔良が元々ギョウにおらず先発か対岸に布陣していたのなら移動時間など船に乗り込み船旅数時間の移動で終わる。
顔良を単独で動かすなとかいわれているから、別働隊であり袁紹本軍とは別なのは確かであり別に矛盾は生じない。
>数万人で強行軍とかどんだけ後先考えないの?
秀吉はその後姫路で一日休んだ後、そのまま京都まで強行軍で、さらに明智軍と決戦してる。
曹操は昼夜問わず進軍して劉備軍に追いついたとある。秀吉は別としても当時の曹操もやっている事だな。
ちなみに曹操が一月に出発して四月には帰っている。
カントに布陣していていたからカヒまではその倍はあるね。
曹操がカヒに付く頃には余裕で許昌まではいける。距離的には同程度。
>>212 白馬ってただの防衛拠点じゃなくて津だよ
津ってのは大規模な船着場でここを落としてないと大軍が渡河できない
河の存在を無視してないかい?
しかも先遣隊は布陣してたんじゃない
この大規模な船着場を安全に使うための攻略をしてる
これが2月の段階
秀吉の大返しで秀吉軍は大きく引き返したが秀吉軍は単独で光秀と決戦したわけではなく
元々近畿や近場にいた連中を糾合して兵力の供給を受けてる
黄河南岸にはほぼ曹操勢力しか居ない状況で強行した先で協力の受けられる目算もないのに
特攻をしないから袁紹は攻めてないってどういうこと?
袁紹を遅いと断じる割に、4月まで戻ってこられない曹操の行軍の遅さは無視かい?
追記
対岸は事前に曹操が占領していて曹操が劉備討伐に出るまで袁紹に取られた記述は無し
だから
>またお前の説でも、顔良が元々ギョウにおらず先発か対岸に布陣していたのなら
はありえない
>>213 制海権はほぼ袁紹がもっているよ。でないと川を渡れない。
ていうか白馬の包囲を解かれているけど、普通に袁紹軍は渡河している。
カントも黄河を渡った先だよ。
ていうか白馬を包囲できている時点でね。
>秀吉
強行軍がそのまま決戦したのはかわらんよ。
>袁紹は攻めてないってどういうこと?
そのまま許昌襲撃。田豊案はそんな感じ。
>曹操の行軍の遅さは無視かい?
曹操がカヒまでいく時間があれば、袁紹は許昌までいけるって事だよ。
だから遅いっていうの。そのぐらいギョウと許昌は近い。
>>215 前年8月の時点では黎陽は曹操の支配下にあって制河権を袁紹が支配してたとは到底言い難い
またその前年は曹操の関係者がしょっちゅう黄河を渡って軍事行動してる
袁紹軍の動きが曹操の知るところになって白馬を包囲攻撃する2月には袁紹が掌握していたが
元から袁紹が黄河の制河権を掌握してたわけではない
袁紹が白馬無しに渡河しているというのも間違いで
劉延を救助し、顔良を斬って包囲を解いた後、住民を非難させて曹操も白馬を放棄してる
放棄そのものは記述にないが袁紹は「曹操軍を追って」河を渡っている
つまり曹操軍は白馬にいないから袁紹がそれを「追う」ことになるわけね
この官渡の辺は曹操が袁紹に勝つということを強調するために
袁紹批判と曹操礼賛の誤魔化しが多い箇所だからちゃんと批判してから語らないとダメだ
>>214 曹操が占領しているというのが間違いなんだけど。
たぶん射犬の事言っているんだろうけど、これ司隷州だからだいぶ上流。
>>217 曹操が8月に黎陽に進軍してんだよ
「秋八月、公進軍黎陽」って一文がちゃんとある
この頃、袁術が袁紹に合流しようと徐州を北上して冀州に向かう動きを見せたので劉備を派遣している
袁術の合流を防ぐと劉備が反乱したので翌年、官渡の同年の1月に劉備征伐に出発したら
2月にはそれまで抑えてたはずの黎陽を袁紹の「本隊」が占領しており白馬まで囲まれてる
袁紹は実に迅速に行動してるよ
2月にはもう黎陽落として先遣隊渡河させて白馬まで囲んでるのに
出撃しないように言う田豊マジキチガイ
>>216 場所が違う。曹操が確保していた渡し場はずっと上流であり、下流は袁紹の支配下。
そして顔良が白馬を包囲しているところをみると。すでに制海権は袁紹にあったとみるべき。
>袁紹が白馬無しに渡河しているというのも間違いで
その後撤退するなら最初から守る必要もないと思うが。
ていうかそれ史料批判じゃなくて、それは自説に都合のいいように曲解しているだけなんだが。
お前の説だと制海権は曹操がもっているんだよな。そして対岸の港は全部確保している。
なら白馬守ったほうがいいじゃないか。なんでカントまで引くんだよ。
兵力で負けているのに上陸させてどうするわけよ。
>>218 そっちか、曹操が劉備遠征に出るときすでにカントにいる時点で、
もうそこは放棄していたんだろ。戦闘をした記述も存在しないからな。
>2月にはそれまで抑えてたはずの黎陽を袁紹の「本隊」が占領しており白馬まで囲まれてる
だからそれが遅いといっているんだけど。
曹操がカヒに付く時間があれば許昌まですでに陥落させられるくらい余裕があるわけ。
二月もなにをしていたんだと。
>>220 撤退するからと言って中の住人や兵士を救わないなら士気は下がるだろうし裏切りも続出しただろうね
ゲームじゃないんだからさ
また、袁紹は曹操を白馬に引き付けつつ同時に延津も攻撃してるので
白馬に注力して固守しても延津が落ちたらどうしようもない
無理に白馬守るよりは戦線の縮小をしたのだろう
ただ当初予定だった渡河防止して勝つという作戦は全く機能してないどころか
あっさり踏み込まれちゃってるので曹操の戦略はここで破綻してると言っていい
これは曹操の戦略に減点が必要な反面、戦術級では地道に点を重ねてるので加点だね
それと制河権が袁紹にないと言ってるのではなく2月時点で袁紹にあると言ってる
ただし前年8月には曹操が渡河して黎陽まで行ってるのに
袁紹はその黎陽に本隊を進軍させており白馬まで行ってるので
8月に曹操の支配下だったものを2月の時点で引っ繰り返したという趣旨を
>>216に書いてある
>>221 いや「曹操が劉備の征伐に出発する」のが1月
劉備征伐から官渡に来るまでの一連の事件が2月の記事の前に書かれているから誤解されるが
4月に劉延救出の動きを開始しているところから見ても
曹操は1月に出発して3〜4月に帰還していることになる
さもなくば2、3ヶ月も劉延放置してる袁紹を超えるのろまだよ
>>219 だから袁紹は二月まで動かなかった事で批判されているんだよ。
この時にはすでに劉備が敗れて亡命している頃。
>>224 2月まで動かなかったんじゃなくて2月の時点ではもう行動開始どころか渡河点攻略に取り掛かってる
距離や規模から考えれば曹操の動いた1月には袁紹も行動開始していると考えるのが妥当
一方曹操は距離的にはまだ劉備のいる場所に着いてるかどうか微妙なところだぞ
劉備との戦闘時間を0としても1月に出て4月に帰ったなら
曹操は2月の中頃〜終わり頃にやっと劉備のいるところに辿り着ける
そのまま取って返して3月一杯を移動に使い4月にやっと官渡に帰って反撃開始
これなら曹操が目一杯の速度で袁紹と戦ってることになる
1月に行って帰ってるのに2月に包囲された部下を4月まで放置
これだと曹操は何してんだってことになる
ましてやただの拠点じゃなくて渡河点
ここの争奪が勝敗を分けるのに放置
これだと曹操の能力を相当低く採点しないとダメかもわからんね
>>222 だから白馬から撤退していないと考えればいいだろ。
つか撤退するなら最初から守らなければいいだけ。焼き払って引けばいい。
>無理に白馬守るよりは戦線の縮小をしたのだろう
どちらも対岸なんだが、すでに多くの軍が渡河している状況だぞ。
そこの防衛が必要な時点で色々終わっているだろ。
もしくは下流の青洲あたりから進撃してて渡河必要ない軍のケースもあるか。
>袁紹はその黎陽に本隊を進軍させており白馬まで行ってるので
だから放棄してんじゃないの?軍をおいてても完全に孤立するだけだし。
戦闘記録もないし。
>8月に曹操の支配下だったものを2月の時点で引っ繰り返したという趣旨を
>>216に書いてある
放棄していれば関係ないよね。
>>225 いやだから二月に行動開始でしょ。それで半月後くらいに到着して行動開始と。
>>227 白馬から撤退していないということは袁紹が渡河点を確保できてないってことになるのだが
文醜は南岸で五千騎を率いてるからそれはありえない
どうやって騎兵に必要な装備や物資を輸送するのに渡河点が確保できてないと思うのかな
>>229 白馬がなくても問題ないからだよ。顔良が包囲している時点で渡河は可能となっているか。
そもそもギョウから進撃していないんだろ。
つかお前さんの話だと曹操は袁紹が進撃してきて、
対岸が瞬く間に陥落し、顔良などが白馬を包囲しつつあるのに。
何故か長躯して劉備征伐に出た事になるんだが。
結果対岸の水際防衛に失敗してしまったと。
劉備が篭城して落せなかったらどうするつもりだったんだろう。
ねーよ、曹操がただの馬鹿じゃないかこれじゃ。
>>230 渡河が可能になることと大軍が渡河できる場所は違う
だから白馬を曹操が落とすまでは何万もの兵を抱える袁紹も
南岸には1万ほどしか兵を置けていない
だから劉延の救出が比較的簡単に出来たし包囲もすぐ解けた
ギョウから出撃したことは記述はないが前年3月まで易京に軍の多くを貼り付けてる
そこから黎陽までは数百kmあるから移動だけでも半年はかかるし
もし最初から袁紹が南下してるならいくら劉備が動いたって曹操が長躯するとは考え難いな
実際、袁紹と自分で当ってる時は曹仁に劉備を任せてる
それに元々、袁紹が進撃して来ているのに曹操が長躯したなんて言ってないぞ
曹操が劉備征伐に向かったのを確認してから動いたとは言ってるがな
そして曹操の劉備征伐開始とほぼ同時期にそれこそ田豊の言うような攻めを展開している
いやだからさ。袁紹が南下した時点で曹操は引き返すだろ。
劉備軍を蹴散らして戻るまでに数ヶ月はかかる。
戦線が持つわけないし、下手するとなだれをうって降伏する可能性すらある。
そして劉備が曹操が直接きて袁紹が南下しなかったから、劉備が即座に逃亡したわけだが、
袁紹が南下しているなら劉備は篭城を選ぶだろ。そうなると城攻めする余裕なんてないんだから。
小ハイは兎も角カヒに篭られたら落すのは容易ではない。
>ギョウから出撃したことは記述はないが前年3月まで易京に軍の多くを貼り付けてる
曹操とはその前から既に対立関係にあるからギョウを空っぽにするとは思えないが。
そして黄河下流にあたる山東半島方面も袁紹の勢力範囲であり、このあたりは黄河の支流くらいしかないから、
渡河はそこまで難しい事ではない。この方面は劉備が反乱をして同盟を結んだ時点で、
かなり差し向ける事が容易。
>>232 だが事実戦線は4月までは何とかもっただろ
持つわけないというのは君の思い込みだ
データファイル 合計能力値
曹操(70)
曹丕(65)
曹叡(58)
孫権(70)
孫策(65)
孫堅(61)
劉備(50)
劉禅(17)
袁紹(30)
袁紹が仮に2月になってから出発したとしても
同2月には白馬を包囲している
曹操も同じような行軍速度だから2月中はまだ劉備討伐の移動中で
これで何故袁紹が2月出撃で批判される理由になるんだろう
立派に曹操の出てる隙を突いた進軍じゃないか
横入り・・・
劉備決起と同時期に出発するのがベストじゃないですか?
そうすれば曹操は軍を裂かねばならない。
散発的行動は各個撃破されるだけなので意味無いと思います。
>>236 ベストではないと思うけどな
曹操が袁紹に引き付けられてる時に劉備が曹操のいないところを攻撃するというのが理想的
何故なら曹操は強いから大軍を擁する袁紹なら正面対決できるが劉備では出来ない
曹操の武力は世界史スレ基準で言うと90〜100候補で数も多い
三国志だと曹操軍は一万にも満たない設定になってるけど
注釈でもそんなバカなことはないって突っ込み入ってるし
曹操軍は曹操直属の青州兵だけでも万単位でいるから劉備では曹操本隊の攻撃を支えられない
また劉備の反乱が袁術を倒して手元に袁術討伐の兵がいるタイミングでなければ
まとまった兵士を持てないために効果がないのでどうしても時機が袁術の動向に依存する
こればかりは劉備と袁紹が同時に行動起すわけにもいかない
袁術の死は官渡前年6月劉備の反乱はそれ以降から1月までのどこかになる
曹操は劉備の反乱後に一度鎮圧部隊を送っているがこの鎮圧部隊も
曹操と同程度の時間で行軍していたとすれば遅くとも
曹操の出陣する1月より2ヶ月遡った前年10〜11月に送り出したということになるので
劉備の反乱は6月〜10月のどこか、という事が出来るかな
袁術の死は劉備が下ヒに到達する前だったそうなので7月以降が劉備の反乱時期としては有力だろう
この官渡前年の3月にやっと易京を落としたばかりで
やっと南面する余裕の出来た袁紹に7月から10月に即黄河を渡れってのは厳しいんでない?
収穫期も絡むしさ
>>233 つまりもったのは袁紹の進軍が遅かったからという事になるんだが。
>>235 その頃には劉備が敗れているから。劉備が敗れてからいってもダメだと田豊は言っている。
>>238 ならないだろ
2月には既に白馬包囲して対岸で大軍が渡河点の確保待ちしてる
進軍が遅いんじゃなくて劉延ががんばったんだよ
ただでさえ移動に時間が掛かるのに上流行けってのは無しね
そしたら2月どころかもっと後になるまで曹操のところに攻め込めないよ
対岸に曹操軍などおらず。顔良はすぐに渡河できる状態にあっただけだろ。
もしくはそもそも渡河不要なところに布陣していただけ。
>>239 曹操が官渡に帰ってきて解囲作戦始めるのが4月だからそれまで官渡は空城
さもなくば上でも述べたように曹操はただののろま
田豊の発言は曹操の行動と矛盾してる
発言と軍隊の行動とで矛盾があったら発言が間違ってると思うべきでは?
ここまで矛盾した事言ってる官渡関連の田豊の発言は
袁紹を貶めるためだけに先見の明が史家によって付与されたに過ぎないよ
>>241 あの辺の黄河は現代でも川幅がkm単位だから
大勢の人と装備と馬を移動させるならやはり津を使った大規模輸送が求められると思うのだがね
一日に数kmしか動けない大規模な軍隊でどこまでアクロバティックな行軍させるんだ?
>>242 だから曹操が戻るまでにカントを占領できないから袁紹がのろまと言っているんだが?
田豊の記述は矛盾しない。
一月の頭劉備をうちに曹操が離れたのに、袁紹は動かなかった。
劉備は曹操が動けるとは思っていなかったので、曹操の大軍とはぶつかれないのでさっさと引いた。
袁紹が南下していたらこの行動はありえない行動。小ハイはまだしもカヒまで引いて守っていればよいだけ。
また袁紹が南下を始めたら即座に曹操は引き返す。曹操は袁紹は動かないだろうといって実際動かなかった。
田豊の発言ともこれは合致する。
そして二月になってやっと動き出す。劉備は既に敗れて逃げ出している。
曹操は徐州でそむいた郡を再度落として戻っている。この時が四月。
お前さんの根拠のない軍隊の移動速度が遅いという事意外これを否定するものは何もない。
>発言と軍隊の行動とで矛盾があったら発言が間違ってると思うべきでは?
なら年月をなぜ疑わないのだね?実際月日が間違っているとハイショウショウに言われている史料は普通にある。
>一日に数kmしか動けない大規模な軍隊でどこまでアクロバティックな行軍させるんだ?
一日に数キロというのが間違いだから、十数キロは余裕。。
軽装歩兵や騎兵ならその倍以上はいく。
実際そういう記録はある。また曹操は東京から京都くらいの距離を四ヶ月以内で戦闘しながら往復している。
これはまあ軽装歩兵ですらないだろうけど。
ちなみに日本陸軍はフル装備で一日50キロは移動する。
荊州で劉備が落ち延びたとき、先主伝によると十数万という多くの軍民がついていき、
そのため行軍が非常に遅くなったとある。この時は一日数里といったところ。
中国里なら一里が500メートル弱なのでいって2キロ程度かな?
これと同程度の進軍速度だったといいたいのかい?
白馬の戦いまでの経緯って、下記であってるかな
199年3月 袁紹、易京で公孫サン討伐
199年8月 曹操、黎陽近郊、黄河南岸に軍勢配置
199年9月 曹操、官渡に徐晃張遼の歩騎2万を駐屯させ、許都帰還
199年12月 曹操、許都は荀ケに任せ、自身は官渡へ
200年1月 曹操暗殺計画発覚。劉備許都脱出し徐州へ。曹操、劉備討伐。袁紹動かず
200年2月 袁紹、顔良に白馬攻略を命じ、自身は黎陽へ
200年4月 曹操、白馬近郊で顔良撃破。白馬包囲軍総崩れ
曹操の劉備討伐は1月出陣、2月に討伐とか、そんな感じかもね
>>243 >一日に数キロというのが間違いだから、十数キロは余裕。。
移動だけならね
輜重を抱える軍はそれより遥かに遅くなる
しかもこの時期は冬で行軍速度は遅くなる
曹操が高速移動して戦ってる時は輸送を考えてない時
現地に備蓄があってそれを消費しながら戦う時は誰だって素早く動ける
>>247 輜重なんて後方の軍が運べばいいんだが。
>>249 軍の移動は最も遅いものの速度が基本になる
輜重を置き去りにして行軍をしたっていいが輜重抜きだと大体1週間分くらいの食料しか持てないね
それで1週間最大速度で進んで、後続は何時来るのかね
>>250 どうせ渡河するのに時間がかかるんだから問題ないな。
対岸まで制圧してあるんだから、問題になるとも思えないね。
>>243 曹操が長距離移動した時は具体的にどこからどこまでどこを通ったかちょっと教えてくれよ
それが無人の荒野を輜重も付けずに移動したのかそうでないのかくらいは見てみたいしな
それと裴松之は明記された日付と日付を突き合わせて矛盾探しはするが
行軍速度とかそういうことはおそらくあまり全く考えてないだろう
馬超に殺意を抱く関羽がおかしいとか明らかにそこに居ない人について
距離的におかしいとか言うことはあるが個々の行軍速度などは全く吟味してない
>>251 問題あるだろ
先行したら輜重が届くまでの間は手持ちの食料だけですごさないといけなくなるんだぞ
結局輜重の移動速度以上の行軍速度は大規模な軍隊じゃ中々見込めない
>>252 カントからカヒまで曹操は移動しているだろ。
>>253 それでいいだろ、全く問題ない。河を渡るのに時間がどうしてもかかるからな。
岸で待ちぼうけしている間にくればいいわけだし。
そもそも食料なんて侵攻軍は現地で略奪が基本なんだし。
>>254 東京京都は500km程だから4ヶ月ってことは
1ヶ月125km、一日4〜5kmだぞ
3ヶ月なら135kmでこれも一日5kmを越えることはないな
>>256 じゃあ袁紹の侵攻軍がその距離を同程度の速度で移動するのも一緒だよな?
>>254 現地で略奪が基本だからって人数分賄えなかったら即座に飢えるリスクを背負えと?
常に軍隊全体に食料が行き渡る量が確保できるとも限らないのにどんだけ博打好きなんだよ
曹操は官渡に2万常駐させてたけど、いくらかの兵を残して自身劉備征伐へ。
一方、劉備は軍勢数万。
なのに、劉備は曹操が来たと聞いただけで人々を見捨てて逃亡・・・(先主伝)
あっさり決着がついたようだね。それに、おそらく曹操の劉備討伐兵力は5千程度かな
劉備軍が数万いるかな?
袁術に討伐のための兵を預けられた程度だし数万ほどもいるとは思えないのだけど
>>260 数万は先主伝記載の数
昌霸が劉備に寝返ると、多くの郡県が劉備に味方して軍勢数万に。
徐州は曹操が数年前に大虐殺してるから、反曹操で皆が劉備に付いたら数万になると思う
これ劉備の軍が数万になったわけじゃなくて
徐州の反乱者のたちの総数では?
そうだろうね。
先主伝によれば曹操はその軍勢を全て取り込んだとあるから、劉備の元に集まってたんだろうね。
郡県が反乱しても劉備のところに兵集めたとしたら各地はもぬけの空で
曹操は劉備のところまで一直線で進撃できてしまうのであまり意味がないような
昌キが東海で反乱して戦後まで放置されてたように
反乱した郡県は相当数あって反乱の参加者が数万人いても
それが一箇所に集中してたとは考えにくいのだが
>>257 同程度だから余裕で許昌までいけるって話なんだが。
>>258 後から送ればいいだけだろ。全ての食料武具などを全部一気に持っていく必要はないんだから。
後方が落とされない限り餓死する事はないよ。
劉備が袁術戦で飢餓に陥ったのは呂布が反乱して、カヒを落として補給がたたれ孤立してしまい。
さらに防衛戦で袁術軍を防いでいた手前、自国領での略奪が難しかったからだし。
>>265 行けるって話にならんだろ
大軍は一日数kmしか動けないからギョウから出陣したら白馬までで一ヶ月ほど掛かるよ
ってか
>>243の
>一日に数キロというのが間違いだから、十数キロは余裕。。
ってのは曹操の行軍見ても間違ってるのわかるよな?
曹操だって半分くらい自軍の領域移動してるのに一日数km程度の行軍速度だった
さらに川幅の広い黄河の渡河点が守られててそれより南へは城塞を落とさないと移動できない
これは移動速度の問題じゃない
また于禁によって北岸の拠点をいくつか焼かれたりもしており
>後方が落とされない限り餓死する事はないよ。
という発想も間違ってることがわかるね
後方落とされる可能性が常に見える状況になってたわけだ
君の言うような無茶な進軍したら袁紹は負けるってこと
そして官渡へ曹操を追い詰めた後も袁紹は烏巣の兵糧庫焼かれて軍崩壊で侵攻不能になって終了
>>266 >ってのは曹操の行軍見ても間違ってるのわかるよな?
曹操の行軍をみれば戦闘をどれだけ速く終わらせても十数キロはいくんだが?
>さらに川幅の広い黄河の渡河点が守られててそれより南へは城塞を落とさないと移動できない
普通に顔良や文醜が渡河しているがな。どちらもそれぞれ数千単位はもっている。
>後方落とされる可能性が常に見える状況になってたわけだ
どこに?渡河してギョウを陥落させられるとでも思っているの?
>>264 でも一箇所にいないと曹操軍に全て取り込めないよ
各個撃破する日数は無かったはずだし、そういう記述も無いし。
>>267 まともに戦闘してないし反乱の中核劉備は曹操が来たと聞いたら逃げ
関羽は曹操が来たと聞いたら投降
他攻略の記録は特になく反乱者が数万いたらしいが
その反乱者も各地に分散して連携もしてない
戦闘の時間を見積もろうにも戦闘そのものを示唆するものが何もない
袁紹の軍はその数千人を大きく上回る数万人
しかもその数万人が南岸に渡った後の食料を支える輸送路を確保しないといけない状況では
結局大規模な渡し場が必要になる
兵士を限定的に移動させるのとはワケが違うのだけど理解していただけないかな
後方ったってギョウなんか落とさなくてもその途中の陣を焼かれて輸送が止まれば前線は飢える
烏巣はそういう拠点だったな、飢える前に軍が潰滅したけど
ゲームじゃないんだから大きな城と城の間が無敵とかそういうことはないんだよ
いい加減袁紹をちゃんと評価しようよ
ギョウがあったのはショウ河のあたりで、河北省と河南省の間くらいにあった。
ここから黄河までは直線距離でせいぜい100キロちょっと。
でそのあたりから江蘇省徐州市の東の端のカヒまでいくには。直線距離で250キロ以上は硬い。
どうみても二倍以上ある。劉備の駐屯していた小ハイですら200キロくらいはある。
>>269 劉備が逃げたのは袁紹が動かなかったからなんだが。
多くの郡県がそむいたとあるし、かなり広範囲にわたって反乱が起きている。
それらの反乱を一月以内で全部鎮圧したとしても、移動時間はどれだけあるよ。
>袁紹の軍はその数千人を大きく上回る数万人
数千単位の軍が普通に移動できる時点で袁紹軍はほぼ制海権をもっている。
補給の阻害になるものなどない。
そもそも侵攻軍は現地調達するのが普通なので輸送に阻害がでても早々に影響はない。
だから防衛側の曹操のほうが現地調達が難しい分苦しかったくらいでね。
現地に住んでいる住民の数から考えれば、当時の軍隊の食い扶持なんて実は微々たるものだったりする。
青洲兵みたいに数十万規模だったら徐州やエン州のように現地は阿鼻協賛だがね。
>後方ったってギョウなんか落とさなくてもその途中の陣を焼かれて輸送が止まれば前線は飢える
ありえんよ。途中の陣をいくつか焼いたところで補給は止まらない。
それこそゲームのやりすぎだな。途中を破壊したらもう使えなくなるとでも思っているのか。
そもそも後方からそんなに送るほうがありえんのだが。
多くの場合は部隊の何割かを現地調達部隊にして略奪して補うんだから。
>>270 100kmちょっとを2月出立して踏破し、2月に包囲してるとなると曹操より速いぞ?
曹操は2倍程度の距離を3倍から4倍の時間を掛けて歩いていることになる
1月の頭に出立して2月に包囲してやっと曹操と同程度の速度まで落ちる
>いい加減袁紹をちゃんと評価しようよ
ちゃんと評価しているよ。名参謀沮授と田豊を遠ざけてカントでは失敗しただけ。
即座に動かずダメダメだった。
あの戦闘のみに限れば最強に近い公孫サンを沮授や麹義の力で負かしたのに、それらの粛清や権限縮小したんだから当然。
ただその後後継者定めないで死ぬなんて落ちじゃなければ、国力で負けている曹操はいずれ必ず負けていただろうね。
蜀や呉が魏に勝てなかったのと同じ。
田豊の記述にも曹操カクカなどの記述にも一切嘘はない。
あるとするなら、曹操が自称した兵力くらいだ。袁紹ほどじゃないにしろ、
その兵力は袁紹に匹敵する。それを養う国力にかけていただけ。
>>271 >それらの反乱を一月以内で全部鎮圧したとしても、
してない、曹操は劉備と関羽以外全然鎮圧してない
だから袁紹戦後に徐州の鎮定に夏侯淵や張遼が動いてる
>数千単位の軍が普通に移動できる時点で
それと同時期に于禁が数千人連れて北岸へ移動して袁紹軍の陣を攻撃してる
于禁の行動範囲は袁紹に近いので迂回とも考え難い
制河権持っていなけりゃ出来ないってことは何時袁紹は制河権を失い、そして再度得たんだ?
矛盾しすぎだろ
輸送できる規模はこの数千人が限度
数万の人間と馬、装備そして兵糧を運ぶにはちゃんとした輸送路が必要
>輸送に阻害がでても早々に影響はない
官渡終盤には張コウは淳于瓊の守る烏巣が落ちると我々が全員捕虜になる
と言って袁紹に援軍に進言してるように輸送路が止まったらその時点で即座に補給が止まる
数万の大軍だから一日に1人1リットルの食事だとしても毎日数万リットルが必要だが
そんなものを略奪して集積して再分配できるとでも思ってるのかな?
また曹操は白馬の解放時に住民を避難させて略奪対象を無くしてる
一箇所で清野作戦のようなことしてるなら他のところでもやらないと効果がないから徹底してるだろ
数万人の飯を賄うような略奪は不可能だったってことだ
袁紹は結局出撃しなかった→1ヶ月くらい行軍に掛かるところへ曹操出撃の翌月に出てるから嘘
田豊は今出撃すべきだと言ったが聞かなかった→出撃してるので嘘
もう遅いと言った→遅いと言ってる月に既に敵を囲んでるので嘘
袁紹が出なかったので劉備が負けた→2月には曹操が劉備のところに辿り着けてるかすら不明なので嘘
嘘ばっかりなんだよ
>>272 曹操軍の速度は袁紹軍の二倍くらいはあるよ。
>>275 否定するものがなく。群雄の動きと矛盾点が一切ないから。
>>274 >してない、曹操は劉備と関羽以外全然鎮圧してない
でなければ袁紹の所まで劉備は逃げんよ。
>それと同時期に于禁が数千人連れて北岸へ移動して袁紹軍の陣を攻撃してる
黄河上流からまわったんだろうな。獲嘉の位置などをみるとだいぶずれているし。
>数万の人間と馬、装備そして兵糧を運ぶにはちゃんとした輸送路が必要
必要ないよ。軽装の歩兵などでの強襲案なども提案されているように、
手持ち分だけでなんとかなるものなんだよ。
>と言って袁紹に援軍に進言してるように輸送路
これも袁紹を貶める発言なのに、なんでこういう発言だけ信じるのかさっぱりだが。
備蓄場所と輸送路では全く意味が異なる。
>そんなものを略奪して集積して再分配できるとでも思ってるのかな?
楽勝だな。数万人分の町や村落を襲撃すればいいだけの話。冬なので夏まで分の穀物はあるわけだし奪えばいい。
一つの郡だけで十分お釣りがくる。
ちなみに集積まではしているだろ。、それが焼かれたのが今回の敗因なんだから。
>一箇所で清野作戦のようなことしてるなら
家財道具などを積んだクソ遅い輜重隊みたいなもんだぞこれ。逃げ切れるとしたら、
やっぱり袁紹軍の動きが相当遅かったとしか思えないな。
>袁紹は結局出撃しなかった→1ヶ月くらい行軍に掛かるところへ曹操出撃の翌月に出てるから嘘
曹操が動いたのが一月で、出発したのが二月で劉備が既に敗れている。移動には一月どころか一週間もかからないので事実、
>田豊は今出撃すべきだと言ったが聞かなかった→出撃してるので嘘
出撃していないので正しい。
>もう遅いと言った→遅いと言ってる月に既に敵を囲んでるので嘘
やっと出発を始めて今頃対岸の白馬を襲っている時点なので遅すぎるといえる。
>袁紹が出なかったので劉備が負けた→2月には曹操が劉備のところに辿り着けてるかすら不明なので嘘
もうすでに曹操がついているから劉備が負けたのであり、行軍速度に大きな差がない限り、
袁紹が中々動かなかったのが如実にわかるケース。
そもそも二月で白馬を包囲しているかどうかも怪しいんだけどな。
先方の顔良に白馬を襲わせたとあるので、ただ単に二月になってやっと先方が出発しただけなんじゃないのかと。
>>277 昌キの記述一切無視してる時点で誤認してると言わざるを得ないな
于禁は延津にいて袁紹軍の攻撃を何度も防いでるのに
黄河上流へ回ったとしたら渡河点自ら放棄してることになる
強襲案というのは具体的に誰のどんな案だ?
魏延の強襲案とかは馬鹿げてるしプラン次第だろ
烏巣は水運の要地で集積地兼輸送路だぞ
ここを中心に水運使って各地に輸送してる
それと君は嘘はない、という前提じゃなかったの?
曹操が主張する兵力以外に嘘がないことを主張してるのに
俺が採用した部分を信じられないとするのはおかしいよね
また俺は袁紹を批判してるところは取り上げてない
単純に張コウの戦況分析の部分だけを取り出してる
数万人分の町や村落を襲撃すればいいだけというが
「数万人」もいるような都市は巨大都市だし、
延べ人数で数万人分襲うとしたら袁紹軍はどれだけ分散しなきゃいけないと思う?
非現実的過ぎる
逃げ切れてない
文醜に襲われてる
そしてそれを返り討ちにしたからあまり問題になってないがな
つまり袁紹軍は遅くなかったことが証明されたね
>>279 2月には既に袁紹自身が黎陽にいて袁紹軍の派遣した将軍も渡河してるって同じ文章内に書いてあるぞ
>>277-278 強行軍と通常の行軍は違う
いい加減にまともな古代の軍事に関する知識を調べてくれ
道路を整備した状態のローマ軍でもなければ古代だと1日10kmは動けない
曹操もまともな行軍ではそんなもんだ
しかも中国の場合、川があちこちにあるお国柄
河川による輸送が使えるなら速いがそうでない場合は
何度も渡河しないといけないためにとても遅くなるんだよ
>黄河上流へ回ったとしたら渡河点自ら放棄してることになる
だからすでに放棄しているだろ。でないとウ禁が攻撃に回る事はない。
>強襲案というのは具体的に誰のどんな案だ?
許攸の提案。
そして魏延案も別に間違ってないだろ、孔明案よりはよっぽどまとも。
精鋭5千に輜重5千での奇襲は相当大変だがね。
ばくち的要素は大きいが、そうでもしないと成果は達成できないものさ。
山の中踏破して三秦落とした韓信にしろ、山の中踏破して蜀落としたトウガイにしろ、
無茶な作戦はやまとある。劉備の入蜀もそれかな?元々持っていた分と劉章からえた分だけで作戦開始だ。
>俺が採用した部分を信じられないとするのはおかしいよね
俺は信じられないなんて言ってないよ。お前が都合のいい所のみを信じて、
都合の悪いものは後世脚色とするスタンスを批判したまで、
俺は両方とも正しいと判断している。補給路ではなくて集積地だからね。
補給路だけなら別に困らない。
>延べ人数で数万人分襲うとしたら袁紹軍はどれだけ分散しなきゃいけないと思う?
軍の一割くらいかな?袁紹軍の総軍からすれば微々たるもので、実際別働隊がけっこう撃たれているからな。
>文醜に襲われてる
あれは作戦も入っているだろ。
どっちにしろ周辺の住民全てを無事避難させるなんて非現実的なんだよ。
もしそんなことしても袁紹が全部奪って終り。
>>281 袁紹がいたるはあるけど、白馬攻撃はその袁紹軍からの出撃のようにみえるがね。
>>282 そのまま返そう、十数キロが普通の行軍。数キロとかないから。
ちなみに道を整備していたローマ軍の進軍速度は一日20キロを余裕で越える。
つーか司馬イとかお前の頭の中ではどうなっているんだ?
記憶があやふやなので手繰ったら塩婆やガリア戦記のがひっかかった。
ローマ軍の普通の進軍速度が20キロから30キロ(一日五時間移動する)
強行軍が30から40キロ(一日七時間)
昼夜問わず移動(いわば中国おお返しレベルの移動)。60キロを軽く超える。
司馬イのもこれかな?
>>283 袁紹は制河権を持ってるから兵士が移動できた、白馬はどうでもいいというなら
于禁が北岸に兵士引き連れて移動してることが矛盾してる
袁紹は先鋒を移動させることは出来たが制河権は確立していなかった
白馬が曹操によって放棄されるまでは袁紹が制河権を持ってるとは言い難い
黎陽-白馬間の制河権を確立した後も各地の渡河点を制圧するまではその場、その場の制河権がなく
結局于禁に北岸の陣をいくつか焼かれることになった
魏延案がまともなわけないだろ
夏侯楙は敵が来れば逃げるという前提で作られた魏延案をまともと言うのはどうなんだ?
韓信もケ艾もそうだが「無茶な作戦」は成功を前提に褒めるもの
プランニングを褒めるものではないぞ
言うだけなら誰だって言える
俺が信じるのを批判するということは君はそれを信じてないということになる
言ってないというのは通じない
軍の1割くらいじゃ済まない
輸送って元々最低でも軍全体の3割、多ければ5割が参加しているような大仕事
数万という袁紹軍の食料を調達するならどれだけの人員を割くのか想像もつかないことになるな
非現実的過ぎる
無事非難なんて言ってないだろ
清野作戦するなら徹底しないと意味はないのだから大半のものを移動させる
一部が残ってたって数万人の軍を養う量が残ると思うか?
袁紹が奪って終りって強弁してるだけで根拠皆無
ダメ杉
>于禁が北岸に兵士引き連れて移動してることが矛盾してる
別に矛盾などはしていない。袁紹は上流の制海権をとり、食料輸送の邪魔をしようとしたが、
これには失敗している。だが数千単位の軍をいくつも渡河させており、
それらの輸送、補給にはなんら問題がない事から、下流域の制海権はほぼ握っているのがわかる。
つまり上流から攻撃したという事。
>夏侯楙は敵が来れば逃げるという前提で作られた魏延案をまともと言うのはどうなんだ?
たとえばトウガイがきたら実際逃げたわけなんだが。孔明の子供も黄権の息子の言葉無視して要害押さえなくて大敗と。
そして魏延もそいつが逃げるか、逃げなくても落せる自信があったんだろ。
二回目以降は兎も角初回なら普通に勝率が見込める作戦。
>俺が信じるのを批判するということは君はそれを信じてないということになる
何を言っているんだお前は。俺はお前の都合のいい部分だけ信じて、都合の悪いものは信じないとする。
お前のスタンスを批判しているんだよ。記述の信用性の話じゃない。
>輸送って元々最低でも軍全体の3割、多ければ5割が参加しているような大仕事
だから輸送なんて基本しないんだよ。孫氏も言っているだろ。本国から輸送させる将軍は無能。
現地で調達する将軍が有能と。それに号して○万なんてのは元々非戦闘員である。
輜重部隊た事務方まで含んだ数字だ。戦闘員とは別。
そして一万程度の民間人襲うのに何万もの数はいらないよ。
>清野作戦するなら徹底しないと意味はないのだから大半のものを移動させる
そもそも焦土作戦なんて行われてないし。行うなら最初から対岸を焼き払って住民を移している。
孫権と戦うときとかは曹操は実際にそれを行おうとして逃げられたりしている。
んで大半も逃げられるものか。劉備が荊州でやって曹操に蹴散らされたように、
民衆の足はとても遅い。もしやっていれば大半は補足されて終り。全部奪われるだけ。
>>284 十数kmが普通になるのは輸送の概念がまともになった近代以降、それも欧州
欧州は平地が多くと船の必要な河川が少ない環境で中国とは劇的に違う
騎兵中心の構成された軍、水運を使う場合などは速度出るけど
後漢末期の軍は騎兵の割合が大体1割程度で残りは歩兵
騎兵のみだったという長坂のような記載はなし
徐州への道で曹操が船旅した形跡はなし
曹操は徐州各地で補給できるか不明なため輜重を伴い進軍速度は遅くならざるを得ない
街道整備したローマじゃないと10kmを超える速度は難しいと言っただけで
ローマ軍の速度がそうであるなんて話はしてないからね
そこは誤解なきよう
司馬懿は自国領内を強行軍しているので各地の拠点で補給は受けられる
しかも司馬懿の行軍は昼夜兼行というから物資も用意して本格的に移動のみに専念した速度だろ
行った先で補給のアテがない曹操とは全く環境が違うんだよ
孟達の話の中では反乱の報告が洛陽行って司馬懿に命令が下るまで1ヶ月の距離だそうで
軍ではなく個人レベルの移動ですらそんなもんということも
この司馬懿の移動の話からはちゃんと読み取らなければいけない
>>287 >つまり上流から攻撃したという事。
上流は対岸を袁紹に抑えられてどうして于禁が制河権を持ってると?
数千単位の軍をいくつも渡河はさせてない
最初に渡った白馬攻めの軍は顔良がやられただけで軍そのものは無傷
後に曹操に追撃かける文醜の軍は白馬を曹操が放棄した後
つまり渡河点確保して黎陽-白馬の制河権が確立されてからのこと
先鋒だけしか制河権確保前では南岸に辿り着いてない
>たとえばトウガイがきたら実際逃げたわけなんだが。
逃げてない
江油はケ艾に伏兵を仕掛けてそれを打ち破られてから降伏してる
さらにケ艾は一度諸葛瞻に綿竹で撃退されてる
諸葛瞻は要害を押さえなかったのではなく既に抑えた要害に立て篭もった
江油まで攻め落とされた状況で黄崇の発言は無茶としかいいようがない
>お前のスタンスを批判しているんだよ。記述の信用性の話じゃない。
記述の信用性が低いとお前が思ってるものを俺が採用してるからスタンス云々言ってるだけだろ
第一、張コウの会話は他の記述と矛盾してない
田豊の献策は状況や軍の動きと比較すると矛盾してる
曹操は4月まで遊んでるのに2月に見切ったようなことを言ってるのがおかしい
>そもそも焦土作戦なんて行われてないし
曹操は白馬の住民を移動させてる
白馬は大きな都市なのにこれでは略奪できないな
>行うなら最初から対岸を焼き払って
曹操の清野作戦は白馬放棄と同時に始まる行き当たりばったりだから
官渡の戦い初期から行われるものではない
そもそも白馬落とされる予定じゃないのは調子に乗って北岸のあちこちに手を出してることからも明らか
>民衆の足はとても遅い。もしやっていれば大半は補足されて終り。全部奪われるだけ。
だが曹操は文醜を討ったので奪われなかった
曹仁 統率70 武力95 知力55 政治40 魅力70
曹洪 統率70 武力80 知力55 政治50 魅力55
夏侯惇 統率75 武力65 知力65 政治70 魅力75
夏侯淵 統率70 武力90 知力55 政治50 魅力70
こんなもん?
>>290 夏侯淵は行軍速度速くて有名で
白地将軍扱いされるくらい戦闘能力はお粗末だから
武力より統率のが高くていいんじゃない?
兵を迅速に動かして奇襲する能力は武力換算になる気がする。
でもやはり90は行かないか。曹操に心配されててその通りに失敗してるから。
ただ大軍の統括者という立場での活躍も多いから、統率はもうちょっとあっていいかな。
というわけで夏侯淵は以下に修正。
統率75 武力85 知力55 政治50 魅力70
曹仁と夏侯淵は戦歴にそんなに差ない
夏侯淵が85なら曹仁は90
夏侯淵って勝利数は多いけど、結構細々した戦いが多いよね(賊とか)
劉備や馬超などの一流どころと戦うと敗北している
統率80武力75くらいでいいんじゃないか?
ない
やっぱ武力90でいいんじゃない?夏侯淵
あれだけの戦歴残してる武将そういない
夏侯淵と曹仁は総じて同じくらいだろう
曹操、張遼ら五将軍は95
>>7の定義だと呂布や関羽の武力はいくつになるのか
95以上だろう。武威はどちらもトップレベル。
夏侯淵は、良くて劉備と互角
曹仁は夏侯淵よりかなり戦績は良いと思う。
夏侯淵 統率80武力75
曹仁 統率90武力85
くらいの差があるんじゃないかな
曹操≧曹仁=夏侯淵
夏侯淵は戦術指揮は一級品で後方支援にも長けてた。
でも思い立ったら猛進するタイプだったんだろうな。それが唯一の弱点。
>>302 曹仁が粘りを発揮するのは追い詰められてからで
逆に自爆で追い詰められる状況も経験してるし
あまり評価を高くし過ぎるのもよくない
曹操=徐晃≧張コウ≧曹仁=夏侯淵
>>288 >十数kmが普通になるのは輸送の概念がまともになった近代以降、
ローマ軍以外でも。アレクの進軍速度は整備された道使ったわけじゃないのに数十キロだねえ。
またハンニバルの進軍速度はローマ軍より速かったといわれている。
騎馬民族無視しても十数キロどころか、数十キロレベルの進軍をしていた人は別に珍しくないな。
それに平原が多い中国の中原とちがって、イタリアやらトルコあたりは普通に山がちな地形で起伏も激しく街道も狭い。
それも重装歩兵でだな。
あっビア街道みたいにすでに基礎が作られていたのもあるが、まだまだ街道整備も不充分な時代だな。
司馬イが無許可で襲撃したときは400里を八日。
一日25キロくらいか?また司馬イの移動は自国領内なのは途中までで途中からは反乱軍の領域。
ついでに宛から洛陽までは800里やく400キロ弱を往復だ。手続きとかもある。
それをすませて司馬イが自分の所に来るのが一月だぞ。想定していた普通の進軍速度は10キロじゃすまんぞ。
どっちにしても数キロとかねーから。
>>306 中国の中原は川だらけで船ないとまともな通行できんぞ?
>>306 曹操が4ヶ月で400〜500kmを移動した
移動速度は月100km程
同時期の袁紹の行軍速度もそんなもの
ここに両者の差はない
アレクサンドロスの軍が移動速い理由って輜重連れて歩かないからなんだから
輜重を引き連れて歩く後漢の軍が遅いのは当然のことじゃないの?
>>306 つーか、自分で数十`の荷物を背負って一ヶ月毎日数十キロ歩けるのか?
>>306 アレクの行軍速度って具体的に何時、どこからどこまで移動したものから算出したの?
強行軍した時の速度だったりごく短期間の間だけの最大瞬間速度だったりしないかね
>>289 >上流は対岸を袁紹に抑えられてどうして于禁が制河権を持ってると?
上流は制海権は曹操にあるぞ。洛陽などの制海権をえて曹操の食料輸送の邪魔をしようとして失敗している。
また対岸も前年に曹操が占領している。その後袁紹が奪ったかもしれんが、その当たりは記述がないからわからん。
>最初に渡った白馬攻めの軍は顔良がやられただけで軍そのものは無傷
司令官が戦死している状態で軍が無傷とかありえん。
また実質背水の陣に近い状況でまともに退却できる状況じゃないぞ。
>後に曹操に追撃かける文醜の軍は白馬を曹操が放棄した後
まだ難民がウロウロ移動しているような状況であっさり占領して即座に上陸できるなら、
別に白馬じゃなくてもかまわんな。
>諸葛瞻は要害を押さえなかったのではなく既に抑えた要害に立て篭もった
だからそれが逃げてて、要害で防がなかったという意味なんだが。
そのまま山の中で迎撃していればよかったのに、何もせずに招き入れた。
伏兵くらいは置いていたのかな?どっちにしろ防衛をしなかった事に変わりはない。
ちなみにトウガイも山の中を一月くらいで踏破しているわな。隠平からだからざっと300キロくらいはあるね。
>江油まで攻め落とされた状況で黄崇の発言は無茶としかいいようがない
逆、何もしなかったから落とされたわけ。だから黄権の息子のほうが憤慨したわけだよ。
>記述の信用性が低いとお前が思ってるものを俺が採用してるからスタンス云々言ってるだけだろ
俺はその記述の信用性が低いなど一度も言ってない。正しいと言っている。
俺が指摘しているのは、ここだけ信じて他の発言を信じないお前のダブスタについてだ。
>田豊の献策は状況や軍の動きと比較すると矛盾してる
一切矛盾点が存在しない事は何度もいっている、矛盾したとかいうのは、
お前の根拠のなく、史料にも一切存在しないクソとろい進軍速度を基準にした場合に限られる。
それもその場合は、月日は一切間違いなく記載されるという矛盾ぷりである。しかも曹操の発言なども全部捏造となる。
袁尚>曹操=徐晃≧張コウ≧曹仁=夏侯淵
>>289 >曹操は白馬の住民を移動させてる
それが何か?そこの住民だけ拉致っても何の意味もないが。
そもそも戦争が始まってそんなことしても移動中に補足されるだけ。
>曹操の清野作戦は白馬放棄と同時に始まる行き当たりばったりだから
だからなんでそんなこと曹操がするんだよ。お前の説だと。
袁紹が南下しているのに引き返さず劉備討伐にいって、対岸は占領されるわ、渡河されて白馬は包囲される。
なんとか後詰が間に合って白馬を守ったが、やっぱり保持するのは無理なので、
焦土作戦を開始する。けど住民の移動は間に合わなくて文醜にヒャッハーされる。
なんで劉備討伐とかに行ったんだよ、意味不明じゃねーか。
>だが曹操は文醜を討ったので奪われなかった
ただの偶然にすぎんわな。
>>308 カントからカヒまでの往復が400から500キロとかないよ。
グーグルアースとかで直線距離はかっても片道300キロぐらいだぞ。
道がまっすぐとかありえんから実際はもっとあるぞ。
>>309 アレクの軍は輜重はあとから。というか中国の軍でも基本輜重はあとからだよ。
>>310 日本軍は一日50キロくらいを、フル装備かついで行軍していたな。
>>315 >日本軍は一日50キロくらいを、フル装備かついで行軍していたな。
当時どれだけ職業軍人が居ると思っているんだ?
>>312 于禁がいるのはそこまで上流じゃないよ
白馬攻撃に参加した指揮官は郭圖、淳于瓊、顔良の3人
顔良がやられただけで全軍崩壊するのかな?
指揮官が死ぬと全軍崩壊してそのまま軍が消え去るならなら漢中で夏侯淵が死んだ時
魏は全軍崩壊して雲散霧消しなけりゃおかしいがそんなことはありえない
難民がいると行軍速度は遅くなるのは劉備の長坂の例でも明らか
多少移動してたとしてもそれほど速くは動けない
白馬を確保した後、軍を渡河させる
それからでも文醜は行軍速度の特別速い騎兵のみで行軍された軍を率いているから追いつける
ちゃんとした渡河点じゃなければ騎兵のみで5000を揃えるようになる輸送はできない
迎撃したけど剣閣から出てケ艾に合流した田章に蹴散らされてる
ケ艾が踏破した距離は700里だから今の単位にすると30km程度だぞ
700里ってのはケ艾伝に書いてある
>>315 往復600kmで3〜4ヶ月移動してるから
1日6kmだね
結局10kmも動けない
アレクサンドロスの軍は輜重は後からじゃなくて
兵士個人個人に自分の分の食料と武器を運ばせた
旧日本軍は戦史上でも優れた行軍能力持ってると評価されてるのに
それと同等を古代人に求めてる時点でどうかと思うぞ
>>314 二正面作戦をする余裕はない
徐州が落ちたままだと東から攻撃される
袁紹は一撃で倒せる程強くない
ならまだ攻略が容易な劉備を可能な限り速く撃破して
袁紹・劉備との二正面作戦を避ける
これが史実で曹操が取った行動と見ていいだろう
博打だがそれでも袁紹と正面から睨み合って劉備に東側から削られるより
はるかにマシな状況だぞ?
許攸情報抜きでは袁紹を一撃で打倒するような会戦は望めない
>>317 >顔良がやられただけで全軍崩壊するのかな?
敵中で総司令官が戦死して、こっちには篭るべき拠点はなく、大河を渡らないと本陣に帰れない。
普通に軍が離散するレベル。
カコウエンの時は別に敵中に拠点なく孤立しているような状況じゃない。
>難民がいると行軍速度は遅くなるのは劉備の長坂の例でも明らか
遅くなるよ。だから難民放置してというか餌にしていたわけでしょ。
で、敵がきているなかでそんなことしてどうするのと。
劉備は曹操が来る前の話しだよ。曹操は追いつく為に精鋭の騎兵のみで、
輜重おいて昼夜問わず進軍してやっとというケースなので、普通にやったら逃げられている。
>700里
一里は400メートルちょい。なので300キロくらいだよ。
つか実際に地図でみれば凄まじく遠い事が分かると思うけど。
>318
アレクは兵士個人でも勿論持たせているけど、あまり持たせると遅くなるから、
後から送っている。また現地調達の為にたびたび軍を分散させて略奪している。
大都市とかでは盛大に略奪、ただあんまり略奪で持ち物が増えすぎると例によって遅くなるので自重する事もある。
あと勿論現地の市場や商人からも購入もある。これが一番邯鄲。
一月の元旦から四月の末日までの四ヶ月と無理やり解釈して、戦闘は一切行わなず。
休息とかもなしで、一切移動以外しなかった、カヒまでは直線で進んだ。としても
一月150キロいくわけだが。
普通に解釈して三ヶ月としてみて、戦闘やら占領行政やら兵士への休息などで、それなりに時間潰したとすると。
一月200キロから250はいっているとおもうがね。
この議論どうなると決着なの?
>>320 顔良は総司令官じゃない
顔良は原文中だと大将であって指揮官の一人だが
3人の中の総指揮官ではない
餌にしたのは難民ではなく曹操軍の輜重の方ね
700里の件は計算一桁間違えた
単純な不明だった
申し訳ない
ただし1ヶ月で700里移動したわけではないな
ケ艾は陰平から移動して一度鍾会と剣閣で合流して再出発してる
この事は鍾会伝の方に記述がある
剣閣から江油までは40kmくらいだ
>>321 250km移動しても月10kmも移動できてない
それに行軍速度ってのは普通そういう休息込みで計算すんだよ
郭図 統率70 武力50 知力75 政治75 魅力55
平均的な能力の場合は数値いくつなの?
一応の水準に達していれば50台
文官の武力、武官の政治は30台以下
こんな感じでいいんじゃないかと
太史慈の武力っていくつくらい?
武芸の達人だったが、戦功の記録あまりない
太史慈 統率55 武力90 知力65 政治60 魅力60
【統率チェックポイント】
統率について言及。「統率」とは組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
【武力チェックポイント】
武力について言及。「武力」とは戦術・戦域級での戦闘指揮能力。
太史慈は武力より統率の方が高そうだな。
山越の連中まとめて孫策に対抗したが、戦績自体は大してない。
後に国境地帯任されたのも、統率力がしっかりしてたからだろう
夏侯惇と太史慈は戦勝の記録がこれといってない
>>323 顔良は少なくともその軍の総大将だろ。でないとソジュの発言と矛盾する。
>ケ艾は陰平から移動して一度鍾会と剣閣で合流して再出発してる
だからそこから剣閣が落ちないから迂回して蜀を攻略するってのがトウガイの案でしょ。
なのでその後陰平まで戻って700里ほど山道を踏破して江由を落としたわけじゃないか。
剣閣からそのまま江由までいけるなら剣閣意味ねーじゃん。
10月に作戦開始して、300キロ踏破して諸葛亮の息子を撃破、11月にはすでに敗北したと連絡が劉禅まで伝わっている。
解釈によって最大二月くらいにはなるが、普通に読めば一日10キロ程度、初めての山道ならこんなもんじゃね?
>250km移動しても月10kmも移動できてない
戦闘しているんだからそんなもんだよ。
そして曹操がお前等今日は好きにしていいぞ。サッスガ曹操様話が分かるー!
ってのは休養だけど別に移動には含まないだろ、城落とした後の恩賞みたいなもんだし。
>>331 沮授の発言も嘘
3人の将軍で白馬攻めしてるのに
「顔良を単独で使ってはいけない」と言ったのを袁紹は採用しなかったということで
袁紹を悪くするための演出
田豊と同じ
>なのでその後陰平まで戻って700里ほど山道を踏破して江由を落としたわけじゃないか
それだと7剣閣から陰平まで行ってそこからまた蜀までで往復になって700里じゃ効かない距離になるぞ
紛らわしいがケ艾は「陰平」から姜維を追いかけて蜀に行った
剣閣で鍾会と合流した後は「陰平道」を通って江油まで行った
陰平道は後漢書にも「陰平道即廣漢北部都尉治也」とあって広漢属国に属する土地
広漢属国は蜀からそんな遠いところにはないというか蜀北部そのもので涼州の陰平とは別
>ってのは休養だけど別に移動には含まないだろ
短期の移動という意味では含まないが
士気維持のための休養も数ヶ月スパンの移動では含めて計算するもんだろ
曹操の移動は一日数km程度
他の国の事由と比較するのはいいが現実的に曹操の移動した距離はそんなもん
袁紹の移動距離も似たようなもん
>>332 >3人の将軍で白馬攻めしてるのに
顔良が主将だったということ。
ていうか都合のいいようにほんと解釈するなあ。そもそもそれなら三人いたというものが嘘だった可能性もあるってのに。
>それだと7剣閣から陰平まで行ってそこからまた蜀までで往復になって700里じゃ効かない距離になるぞ
山道が700里で山道以外は含まれないよ。当たり前だろ。それが入っても一日十数キロで軍隊の普通の移動時間に過ぎない。
司馬イが上庸までいった時間の倍くらいかかっており、普通で行軍速度しかないよ。
>陰平道は後漢書にも「陰平道即廣漢北部都尉治也」とあって広漢属国に属する土地
そもそも陰平が広関属国に属する土地。そして陰平そのものが遠いんだから回り道すれば300キロくらいあるよ。
涼州である武都の隣なんだから。
>士気維持のための休養も数ヶ月スパンの移動では含めて計算するもんだろ
しないよ。司馬イの遼東征伐では行きに100日、帰りに100日、戦闘に100日、休息に60日で一年と言っている。
ちなみに洛陽から遼東まで直線距離でも1000キロは余裕であるだろ。
>曹操の移動した距離はそんなもん 袁紹の移動距離も似たようなもん
おまえさんの説に従っても曹操軍の移動速度は、袁紹軍の倍だが。
政略と戦略と戦術に分けるべきなんだと思うんだよな。
政略は外交などがメイン。どこと同盟を結ぶとか。どこと敵対するとか、小勢力なら何処に恭順するとか上手く自分を売り込むとか。
君主や軍師や文官や方面軍の総司令官クラスしか数値は反映されない。
放浪時代の劉備はこの数値は何気に高い。国主になってからは微妙だが、曹操はいつも周囲敵だらけなので実は低いと思う、
孫権はかなり高い、上手い具合に恭順したり、隙を見つけて攻め入ったりとかね。
戦略は実際の侵攻作戦や何処方面に誰にどれだけの兵力をつけて送るかとか。
どこに陣地を作りどこから落すか、何処を守るかとかだね。どこに敵が来るかとか
君主や軍師や方面軍司令官クラスしか反映されない。
曹操はこれが抜群に高い。劉備もかなり、孫権はそこそこ。
戦術はその部隊の指揮官としての能力。個人の武勇なども含まれる。勇猛な指揮官が最前線に立てばそれだけで部隊の士気も上がる。
曹操はこれも非常に高い。劉備もかなり高い。寡兵で戦う事が多かったし、曹操の大軍には負けまくりで勝率はそこまでではないが、
孫権はこれはとても残念な数値。孫権本人は武芸に優れているんだけどねー。指揮官としては無能。
こうやってみると曹操は意外と脳筋で劉備がバランス中途半端タイプで孫権は軍師タイプに見えるなw
政略は知略 戦略は統率 戦術は武力 におきかえると妥当な気がするがどうだろうか?
あとは政治だけど、これはまああまり問題はないよな。
ただ君主や宰相クラスになると政治は事務仕事じゃなくて、人事になるわけで、
これをどうみるかだなあ。劉備の事務仕事なんて残念なレベルだろうけど、人事を含めた政治と考えるとその数値は最高クラスだろうし。
魅力は人望や知名度、畏怖なども含まれるのかな?なので呂布は実は高いと思うんだがどうだろう。
酷いのは知力と政治じゃないかなと。
>>333 顔良が主将なわけないだろ
西園八校尉の頃には袁紹と同格だったこともある淳于瓊という立派な司令官がいるんだよ
他の2人は官位の前歴、当時の官位もわからない
戦前には都督にまでなってるのに、それを差し置いて顔良が総司令官なんて真面目に考えてありえる?
どう考えても「良性促狹、雖驍勇不可獨任」が実態と合ってない史書の潤色
司馬懿が行軍したのは自国領で各地に補給ポイントも点在してる場所
ケ艾が行軍したのは他国領で補給ポイント無し、それどころか敵対民族で溢れてる
半分の速度で行軍したら超能力だわ
陰平が広漢属国に属する土地になったのは諸葛亮の北伐の結果で
この時に広漢属国を陰平郡に改めている
陰平道は後漢の頃からある益州北部の地名で武都の隣側と言われる陰平とは別
司馬懿の行軍も国境までは自国内で補給を受けられる進軍だから
輜重を抱えずに素早く動ける
国内の拠点はそういう円滑な行軍を可能にするんだよ
輜重を抱えて動かなければいけない袁紹や曹操とは土台が違う
輜重が必要でない場合の行軍速度と必要な場合の行軍速度比較してどうすんだよ
大前提として作戦って極秘だからあんまりそこを
うんたらかんたらはマスタべと思う
細かく分けるなら、
政略、政務、戦略、戦術、武勇
などが必要になる(この場合戦略は軍事限定)
他に特技で指導力とか人徳とか
荀攸や郭嘉の政略能力はいくつくらいになるかな
政略には当然情勢判断能力が含まれるから、この2人は結構高いと思うが
公孫サンが難しいな。
戦術は恐らく10段階なら10をあげてもいいと思う。
戦略は8くらいか?政略は3もあるかどうか。
政治も微妙だなあ。ただ当時としては身分の低い商人を優遇し(身分の高い奴等が基本嫌いだからなw)
重商主義でそこそこ豊かだったといわれてはいる。5か6あたりか。
人望もけっこうあると思う。兵士や庶民限定だがw。名士層にはほぼない。
ついでに人格は最低レベルだよなw呂布より酷いと思う。
孫堅もこんな感じかなと。
根拠根拠鳴く虫が一番うざい
公孫サン=孫堅って書くヤツが一番うざい
何回同じこと書いてるんだ
公孫サンが孫堅みたくスゲーんなら、反董卓連合でちゃんと孫堅みたく活躍せぇよって思いました。
公孫さんと孫堅を一緒にするなよ。孫堅なんて徐栄に大敗する程度でしかなく、
その後は仲たがいで軍を進められただけで、最後は劉表にやられて死ぬという情け内最後。
袁紹と天下の覇を争った公孫さんとは天地の差がある。
孫堅なんて袁術の丁稚だろ?袁術のケツの穴をぺろぺろ舐める程度の能力しかない雑魚。
また同じ議論の繰り返し・・・w
>>343 元々後漢の東北の軍事を支えてて早々に軍閥化してた公孫サンと
反董卓連合の頃にやっと軍閥化し始めたと孫堅では大分立ち位置が違う
孫堅はその勢力を拡大するために実利的なところから奪うので政権側である董卓に反逆するし
公孫サンは既にその勢力は実を得ているので次に正当性を求めて政権側である董卓から地位を受ける
初期配置の差って奴だ
公そんさん軍4万を、わずか八百で破った麹義は武勇絶倫だな
戦術の相性がしっかり噛み合った結果だから麹義の武力とともに知力当りも評価したいもんだね
>>347 公孫さんが軍閥化したのは涼州の乱の後で孫堅と同時期だよ。
これだから呉厨は。
それは呉厨の思う壺
>>350 いや公孫サンは軍閥化した後に涼州の乱が起きてる
この時、官位がタク県令と低いから何か全然大したことないように見えるが
涼州の乱では騎兵3000揃えて援軍に行ってる
県令程度の身分で3000の騎兵ってのは普通私兵
援軍として出発させてから朝廷は慌てて都督行事なんて大層な肩書き付けて
事後承諾に近い形で出世させてる
3000は公孫さんの兵士じゃないだろ。県令がんな兵士もっているわけがない。
援軍として預かった兵力だよ。
>>336 >戦前には都督にまでなってるのに、それを差し置いて顔良が総司令官なんて真面目に考えてありえる?
だからソジュにダメだしされたんだが、お前はどういう理解をしているんだ。
>司馬懿が行軍したのは自国領で各地に補給ポイントも点在してる場所
謀反を知ってそのまま進軍している。各地の補給拠点?万単位の兵を食わせられる備蓄を常に容易しているとでも?
毎日兵士は食べるが、数十キロに必ず一度補給ポイントを設置していると?
途中から上庸に入るから補給もできんし。大都市以外でそんな備蓄があるわけないだろ。
>陰平道は後漢の頃からある益州北部の地名で武都の隣側と言われる陰平とは別
一緒です。陰平は以前から広漢属郡、涼州であった事はありません。
陰平道はその陰平から蜀へと通じる山道。陰平から蜀西北部をとおり300キロほど山道を通る道をいう。
>輜重を抱えて動かなければいけない袁紹や曹操とは土台が違う
お前の理屈なら袁紹も曹操も敵地までは普通に補給受けられるから関係ないな。
つかさ、数キロ程度しか移動できないってソースは一切出さないんだなお前は。
数十キロの速度で移動したケースは何度も提示されているというのに。
>>352 それは抜擢されて3000の騎兵をつけただけだろ。
元々3000の「騎兵」を維持していたとかないだろ。
豪族とかのレベルを軽く超えている。一郡を丸々私物化でもしていないとそれだけの私兵はもてない。
>>353>>355 騎兵3000なんて後漢の県令程度の奴が預けられることはない
功績上げたわけでもないのに騎兵で出陣した後にそれだけで地位を得てる
これは私兵を引き連れて戦場に行く事それ自体が功績で評価されてるから
公孫サンはそれ以前から遼東属国の長吏やったり内地のタクの令やったり
私腹を肥やす機会はずっとあった
商人と手を組み大きな利潤を得ていたことも特筆されてるし
公孫サンが役人やってたところは交易路のど真ん中
私兵を養うだけの根拠はある
その時3000を率いてたのは張温でしょ
>>356 その程度で騎兵3000も養えるか、県令程度でどんだけ汚職してもそんなことは無理だ。
ただ抜擢されて兵を与えられただけなら十分ありうる話。
韓信なんぞただの警護役人から大元帥。
>>354 あのダメ出しは「独任」、つまり単独での行動
袁紹がやった運用は3人の将軍を一緒に行動させてる
明らかに格の高い淳于瓊がいて尚且つ顔良がその上にいるということが証明されない限り総司令官てのはない
進言は聞き入れられたので聞き入れないというのは虚偽
もしくは進言そのものが存在してない
沮授が田豊と同じく袁紹を貶めるために何かしたことにされてるだけ
拠点てのはそういう補給が出来るようにしてある場所の事
特にこの時代、大勢の兵が集まれる場所、通れる道というのはそれだけで貴重
しかも国境地帯だから迅速な移動が必要なのに備蓄しない理由もない
というより大勢の通れる場所だから拠点になるし備蓄もする
驃騎将軍として軍需物資を最優先で受ける権限もあるね
国境地帯の変事に備えるのにそこに至る道に対応のための備蓄してないとか魏の人々はどんだけアホなの?
上庸の全部が背いたわけじゃなくて孟達の城だけが背いてるから
申儀は孟達を孤立させているし司馬懿は本当に移動だけでいい状況
700里離れた陰平郡の治所なんて剣閣に辿り着いたら再度北上しないと行けない
剣閣から100里も西に行かない内に陰平道に出るってのにわざわざ北まで行くわけなかろ
どんだけケ艾は迂回好きなんだ?
曹操も袁紹も途中までは補給のある地域、途中からは補給のない地域
侵攻時はかなりの長距離無補給を覚悟しなければならないから輜重を引いて歩く
つかさ、他の国のケースじゃなくて三国志のケースで語れよ
しかも無補給で輜重の必要なところを戦闘覚悟で長期間進むケースでだ
曹操の徐州遠征から割り出せば精々1日数km、袁紹も同様
これが後漢末の数字
強行軍とか輜重無しとかを出して例示したというのはただの勘違いだからな
>>358 だから軍閥化してるんだろ
県令の給料だけじゃ食わせられないような連中を実力で養ってる
それを使って反乱鎮圧に出発したので都督行事というよくわからない官位を貰った
預けられただけなら将軍号や後漢の普通の官位にせんとだめだろ
実際、孫堅は後漢の通常の司馬とか将軍号とかで兵士預けられて戦ってる
後漢末の都督って私兵をもって朝廷の命令をこなす連中に与えられる事後承諾を形にしたような官位
というのが石井仁先生の都督考
都督行事は公孫サンオンリーの専用官位
結果論からいうと
馬騰≧公孫さん>>>>>>>>>>>>>孫堅
になるのかな・・・・・
呉厨が何言おうがこれは事実。
子供が優秀な部分をどう評価するかだよな
>あのダメ出しは「独任」、つまり単独での行動
袁紹から離れた単独行動だが?部下がついていたとしてもそれはかわらんよ。
>明らかに格の高い淳于瓊がいて尚且つ顔良がその上にいるということが証明されない限り総司令官てのはない
ソジュが言っているように、司令官は顔良。任用において格など関係ないな。
抜擢人事そのものは別にどこでもある話。つか抜擢だったかどうかも怪しいくらい。
そもそも三人いるという武帝記の間違いの可能性もあるわな、何故かお前は考えないが。
>特にこの時代、大勢の兵が集まれる場所、通れる道というのはそれだけで貴重
街道ぞいに定期的に何万もの兵を養う物資が常に備蓄されていとかないから。
城の中にいれてないと普通に襲われる時代で、戦争中で街道の整備ですら難しいのにそんなことできるわけないだろ。
国境沿いの変事に備えるからこそ、物資なんて街道には備蓄しないんだよ。
「国内」に数千人規模の盗賊やら流民、異民族がごろごろいる時代に無理な事言うな。
>上庸の全部が背いたわけじゃなくて孟達の城だけが背いてるから
上庸に入っても何も警戒せずにいったと?
>700里離れた陰平郡の治所なんて剣閣に辿り着いたら再度北上しないと行けない
だから元々剣閣が落ちないから、陰平からの山道使って迂回して攻略するってのがこの作戦なわけだが。
でないと剣閣は迂回できない。すぐ先に間道があってそこを数万単位の軍が移動できるのに。
兵力の大半を剣閣に集中するとかないから。
>曹操の徐州遠征から割り出せば精々1日数km、袁紹も同様
曹操は10キロくらいだよ。三国志のケースで判断しても明らかだろ。
トウガイも10キロ以上。司馬イは25キロくらいなので圧倒的に速いが。
>>360 県令ごときの収入で3000人もの騎兵は養えない。それだけの収入を得る事も不可能。
それ以前に軍閥を作る事も不可能。そんな事はどこにも書かれていないし、そんな事が可能な地位にいた事もない。
公孫サンの異民族討伐の実績を認めて、3000ほど騎兵を預けて援軍に送っただけの話。
意外とやり手な公孫さん
孫堅に対するコンプレックス丸出しなレスがあるね
県令で騎兵三千養える政治力って100でもいいかなと思う。
>>362 当時白馬を攻めてた将軍は3人
淳于瓊、郭図、顔良
沮授は顔良が総司令官だとは一言も言ってない
ただ「独任するべからず」と言っただけ
総司令官であろうとなかろうと3人の共同作戦だった白馬攻めで戦死
独任されてないからどっかに虚偽がある
道に物資放置とかアホなこと言ってるのではなく
街道沿いに拠点が整備されてるし、そういう拠点はちゃんと備蓄してる
また司馬懿の任地は最前線にも関わらずその軍を宛に置いてるってことは
前線までの移動体制が整備されてるってこと
そうでない頃は襄陽とかもっと全然で守備してんだよ
申儀によって孟達が孤立してるし他の城は全然孟達の言うこと聞いてない
こういう状況で重要視されるのは司馬懿の言う通り時間だから強行軍したんだろ
警戒とか度外視
剣閣から「西へ行って」江油に出たとしっかり鍾会伝に書いてある
わざわざ北上してないし700里も歩いてない
曹操は3ヶ月で900km移動しないと10km移動できない
今回は500km、多くても600km程度だから満たしてない
>>363 でも養ってた
だから都督行事という珍しい官位を貰って涼州の乱に赴いた
都督行事は私兵でもって公職をこなす人に対する許可証みたいなもんで
この3000の騎兵は純然たる公孫サンの私兵
官兵なら百官書に載ってる官位で動かすもの
都督行事は違う
公孫さんグレート(^^)/
当時身分の低いとされた交易商人(と言えば聞こえはいいが
インチキブローカー?)を引き立てたり身分の高いものに
逆に反発したり中二設定なのにそこらへんあんまりクローズアップ
去れないよね・・・・・・・
白馬率いて、反逆精神旺盛で、身分の低いものもとりたてて
劉備のご学友・・・・
そして袁紹との戦いで華々しく散る(キク義とのことはない方向で)
きたねー
公孫さんの時代が
「早く生まれすぎた辺境の白馬将軍」ってとこか
「(公孫さんは)狭量で、有能な者を遠ざけたため、側近は茶坊主ばかりだった。」
※三国志戦略クロニクルより
公孫サンと董卓どっちが武力高いんだろうな
公孫さん最強でいいだろ下っ端役人で派遣しただけで騎兵3000。
呉なんか後期でもこれだけの騎兵がいたかどうか怪しいくらいなのに。
麹義最強
>>370 そんなちょっとわがままな公孫さんが素敵
馬も白くなけりゃダメって中二病こじらせちゃってもう的な
ホントに麹義がすごいやつならあっさり処刑されないでしょ
ラッキー勝利のくせに浮かれちんぽになったからブシャーと
やられたんでしょ
むしろびっくりしたのは麹義だった的な
麹義は正面から公孫さんを撃破してるんで、ラッキーじゃなく実力
董卓 統率80 武力80
公孫サン 統率75 武力85
戦績は公孫サン>董卓
>>372 ただの騎兵じゃなくて突騎だから烏丸騎兵だから特別強いしな
董卓>袁紹>公孫サン
劉虞
統率75 武力30 知力80 政治90 魅力85
弱点は戦術指揮
公孫サン
統率70 武力85 知力70 政治55 魅力65
政治のセンスに難
劉虞の魅力99でいいんじゃなかろうか
人徳はあったが、指導者としての魅力は曹操とかに劣る。
しかも諫めた部下殺害したりしてるから、完全な聖人君子ってわけでもない
呂布は人徳はあまりなかったが、
人を惹き付けるものはかなり持ってただろうな
呂布 統率60 武力95 知力30 政治30 魅力60
信用できない人物と見られ、部下すら統御できなかった。
統率や魅力は群雄としては低い方。
熟考しないタイプだったから、知力や政治は当然低い。
呂布で統率60武力95か
カライな
正史だと武力100は決められない
そりゃそうだな
というか実質100なんて使えない数値
端数ありならこんな感じ
呂布 統率63 武力97 知力30 政治30 魅力63
呂布って頭悪いか?
最期はいい死に方してないけどそれまでは結構上手くやってるし
当座の凌ぎ方は上手い方だと思うのだが
陳宮がある程度の頭脳があった
呂布が陳宮を使い切れてないのが残念
戦略立てるには多大な情報を処理して分析しなきゃいけない。
呂布はそういうことができるタイプではないだろう。
優秀な参謀がいたから途中まで何とかやって行けた。
呂布個人の知力は低くても問題ない。
まあ勘は働く方だったかもしれないが
知力30の呂布に一杯喰わされたコシンは蛮族並みということか
陳宮がけっこう凄いからな。曹操を滅亡寸前まで追い詰めたのは陳宮の手腕だし。
最も元々曹操がえん州に基盤作れたのも陳宮の手腕であるがね。
正直あそこで曹操が死んでいたら、三国志の数値は酷いものになっただろうな。
徐州で虐殺したので人心を失い。配下にそむかれて呂布に敗死したとか酷い事書かれるよ。
呂布は物考えるの苦手なんだから知力高いわけないだろ。
呂布の知力なんてドヤ街の住人の生きる知恵レベルのもの。
国策考えられるレベルの知力持ってたとは到底思えん。
まあ頭脳優秀な奴でも人心に疎ければ呂布みたいな奴に騙される。
そういうのは特殊能力で表せばいい。「狡猾」とか「油断」とか。
陳宮 統率72 武力60 知力90 政治75 魅力75
こんくらいはあるかな
呂布が得意なのは千以下の軍の指揮だが、
群雄になってからは戦略に接する機会も増えたろうな
知力は40近くはあってもいいかもしれない
袁紹 統率70 武力76 知力70 政治76 魅力73
袁術 統率52 武力54 知力62 政治43 魅力52
曹操に比べると袁紹の統率はかなり落ちる。
袁術は帝名乗るまでは何とかまともにやってた。
袁術は個人的には、
袁術 統率55 武力50 知力60 政治80 魅力25
くらいで。軍を率いては、強い相手(曹操とか)にはまったくいいところなし。
弱い相手(陳ウとか)には勝てる程度。
遠交近攻策をとったり、孫堅を味方に引き入れたりするあたりに政治力は感じる。
(あるいは知力80にしたほうが良いかな?)
南陽に居た時から贅沢三昧、民心は離れてたので、魅力は低い。
>>393 苦手ってどこに書いてあるの?
呂布は派閥闘争とかしっかりやってるし
普通レベル以上に頭使ってるよ
丁源殺して并州人と涼州人で朝廷を席巻した後
同じ并州人の王允とクーデター起して并州人による政権奪取
呂布も一枚噛んでる
その後、軍事的な闘争に敗れて長安から都落ちするけど
徐州に落ち着いてからは合従連衡繰り返して勢力均衡を作ろうと動いてる
単純な脳筋どころかかなり頭使ってる方
>>398 >普通レベル以上に頭使ってるよ
んなわけないだろw
>>399 派閥闘争に敗れて政権から除外される連中よりは相当頭使ってる
機を見るに敏だよ
>>400 >派閥闘争に敗れて政権から除外される連中よりは相当頭使ってる
んなわけないだろw
まあ 士大夫層には馬鹿にされるか嫌われるかのどちらかだった
呂布を担いだ陳宮が異端なわけで
呂布の動きは機敏だがいつも眼前の利に振り回されている、長期的展望はない
disってるんじゃない、三国志で一番好きなのは呂布と陳宮だしな
呂布てきな人って今の世でもいるだろ
ひらめきだけで行動してでもそれが
ある局面ではすごく当たってて
しかも身体的な能力はすごく高くてって
長嶋さんとか
松岡修造てきな
タイプかなと思う・・・・・・・・
いわゆる天然キャラ
>>401 思い込みだけで語られても困るんだがな
ちゃんと三国志に基いた話しようぜ
>>402 士大夫層に馬鹿にされたという記述とかは特にないけどね
また主簿とかやってるから文盲どころか書類仕事がそれなり出来る
書類仕事と言っても軍事に関するものだから事務専門が出来るという程ではないが
一般的にイメージされてる脳筋と違って史書に描かれる呂布はインテリの世界に片足突っ込んでる
長期的展望は確かにないがあの時代、長期的展望で動いた奴なんてほとんどいない
曹操ですら華北統一以前には長期的展望ない
それよりも目の前のことをこなさないと生きていけない
呂布は長期的展望を語るほど勢力が大きかった時期がない
呂布がインテリとか書類仕事とかやってたとすると、ちょっと魅力半減・・・
>>404 呂布が士大夫に馬鹿にされていると思った根拠
陳登は(呂布を)虎を飼うのと同じで餌を与えろと曹操に言った
それに対し曹操は(呂布を)鷹と同じで餌を与えればいなくなると言った
荀攸と郭嘉の言葉「呂布は勇猛だが知謀がない〜」
程イクの言葉「呂布は粗雑な神経で親しむ者が少なく、剛情で無礼、匹夫の勇〜」
言ってる人の立場や性格のせいもあり割り引く必要はあるが呂布への敬意が感じられない
長期的展望というのは言葉が悪かった
陳宮の場合、曹操の元では曹操をエン州牧につけエン州を元手に天下を取り覇王とする
呂布の元では袁術と結び曹操を倒すというプランがある
呂布は丁原・董卓と変遷した後袁術・袁紹、仕えたいのか独立したいのかはっきりしない
陳宮が付いた後も曹操に寄ったり袁術に寄ったり漢室に弱かったりぐらつきがある
字も書けない、頭を全く使わないような呂布像はおかしいという点は同意する
手紙も書くし、(頭の使い所は微妙だが)偽情報も流す
呂布を脳筋にえがくのは二次創作の世界だから、同姓同名の別の人だと割り切ってる
>>406 陳宮は曹操を覇王とする展望なんて持ってないよ
目の前のことをこなすこと以上のことなんて出来る大きさの勢力じゃないしな
曹操に寄ったり袁術に寄るのはその二者の間で自分の生存域を確保するため
漢室に弱かったり、というのは何のことかいまいちわからんので教えて欲しい
腹心にしたい奴を主簿にしただけだろう。
養子の呂布に権限持たせたかっただけ。
主簿だから書類仕事ができるとは限らない。
丁原自身ろくに字も読めないのに刺史やってるしな。
実務は部下がやれば問題なし。
呂布はその場その場で判断して動くタイプ。
情報をじっくり分析するタイプではないな。
配下の高順に諫められてる。
「貴方はいつも熟慮せずに行動し、行動した後で後悔する。その連続だ。」
陳寿の評でも「虎のように勇猛だが、狡猾で才略なく、軽々しい。」
この類の人物は戦術レベルでは活躍できるが、
戦略レベルではまるで駄目。
>>409 お前頭悪すぎんぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
本当にテンプレ通りに今度は煽り始めたか
>>397 政治って結局は情勢を安定に導けるかどうかだと思うんだよな。
袁術のやり方じゃいずれ混乱と衰退は必至だったわけだし、
政治に関してはそう高い評価はできないのではないかと。まあ政治の定義にもよるが。
外交戦略に関しては知力、政治両方に加点。袁術は知力67、政治53くらいかな。
主簿って権限のある官職だからね
養子の呂布を主簿の地位に付けたのはまあ当然
>>407 武帝紀読んだ?呂布伝しか読んでないじゃ?
結論:呂布の知力は35〜40
袁術は指導者的魅力は結構あったと思う。
野心と行動力があるから、人はある程度付いてく。
人徳はあまりなかっただろうけど
>>408 その「実務やる部下」の地位が主簿
丁原が書類仕事できないってことはその分だけ呂布が頑張ることになる
>>415 具体的になんかあったっけ?
ド忘れしてるらしく全然思い当たらないんだが
>>418 >その「実務やる部下」の地位が主簿
丁原が書類仕事できないってことはその分だけ呂布が頑張ることになる
違うってw
>>419 主簿ってのは書類や印璽なんかの管理、上司の代書など
「本来上司がやるべき実務の補佐」がお仕事だよ
ちゃんと後漢書の百官志にある
張飛は正史と演義でかなり違うな
正史張飛は粗暴なだけで、脳筋を思わせる記述は特になし
そして上司に従順で部下に乱暴
人形劇三国志の張飛のファンからすれば、色々イメージ壊れる
呂布は正史演義でそうイメージ変わらん
正史でも考える前に行動する傾向あるし
狡猾で目端が効くのは演義と同じ
主簿の本来の役割がどうだろうと、
丁原が呂布を起用した理由は権力固めのため。
呂布には当然有能な補佐役が付けられただろうな。
呂布自身が有能な文吏である必要はない。
正史呂布・・・騎兵の指揮能力が最強
演義呂布・・・個人の武力が最強
違いはこのくらいか
>>422 普通は主簿って文吏の役をこなせる人のお仕事
補佐に補佐つけてどーすんの?
また呂布が丁原に大事にされるようになるのは主簿になってから
真っ当に見るなら仕事振りが評価されたかよっぽどウマがあったかのどちらか
>>424 >呂布が丁原に大事にされるようになるのは主簿になってから
そんな記述ないよ。
大好きな呂布を主簿に任じて寵愛したんだろ。
呂布には当然有能な補佐役が付けられただろうし、
呂布自身が有能な文吏である必要はない。
正史呂布も武芸最強の可能性ある
>>425 後漢書の記述通りに読むなら呂布が丁原に大事にされるようになるのは主簿になってから
刺史丁原為騎都尉、屯河内、以布為主簿、甚見親待。
丁原は「甚見親待」と表現される深い親交を理由に呂布を主簿にしたのではなく
騎都尉となって河内に駐屯し呂布を主簿にすると「甚見親待」となったわけ
正史じゃ誰が最強かなんて決められん
魏:典韋、許チョ、曹仁、張遼、ホウ徳、文オウ
呉:甘寧、董襲、丁奉
蜀:関羽、張飛
他:呂布
取り合えずこの辺がずば抜けてる
>>427 「主簿に任じて親愛した」
気に入ってる奴を主簿に任じて愛でたんだろ。普通に読めば。
字くらいは読めたんじゃね?
>>429 「以」が付いてるから「呂布を主簿にする」と「親愛した」はそのようにはつながらない
普通に読んでと言いつつ「以」を無視したらいかんよ
「以布為主簿、甚見親待。」
この文から「呂布を気に入るようになったのは主簿に任じた後」
なんて解釈にはならないっての。「以」なんて関係ねえよw
呂布は当時武将としての評判しかなかった。
その呂布をあえて主簿に任じたのは、
呂布を腹心の立場に置きたかったからだろうな。
それだけ呂布を見込んでたということ。もちろん文吏としてではなくてね。
主簿に任じたあと親愛したからといって、
主簿に任じる前は関係薄かったってことにはならないからな
元々気に入ってた奴を主簿にして重用した
それだけのことだろう
>>432 「以」ってのは「それを理由に」「それを契機に」という意味
丁原は主簿に任じたのをきっかけに呂布を近くに置いて可愛がったということであって
腹心だったから主簿に任じたとはどこにも書いてない
特記事項もないので呂布は普通に事務職やってたってことだ
>>433 だが後漢書では親愛を理由に任命したとは書いてない
任命を理由に親愛するようになったと書いてある
だからさ。
主簿に任じることによって腹心にして重用したのは確かなの。
問題は主簿に任じた理由なわけ。
元々呂布を気に入ってたから、腹心にして重用しようって思ったんだろ。多分
少なくとも文吏としての才をもって任じたわけじゃない。
太史慈は武芸の腕は最強クラスかも知れないが、
武勇をもって敵軍を派手に破った記録はない。
>>428の他の連中とはちょっとタイプ違う気がする
>>436 それならそういう官がある
主簿ってのはそういう文吏としての才を求める人を任命する官なの
騎都尉の主簿だから単純な文官として書類仕事をするのが求められるわけではないけれど
最低でも上司の代筆、書類の管理などはやらなきゃいかん
あのさ。
誰をどの官に任命するかは、適材適所に則るとは限らないの。
権限の大きい官には、自分の息のかかった人物を任命するわけ。
特に主簿には、自分の腹心になり得る人物を任命する必要がある。
呂布が文吏の才によって主簿の地位を得たとは当然言えない。
>>439 割り振るのは自由だが任に耐えない人に仕事させても苦労するのは任命者
主簿にするなら文吏としての仕事がある程度出来る人
呂布が任に耐えなかったという話も副官が付いてサポートしてたという話もないぞ
例えば丁原は役人としての才能がないことまでちゃんと特記されてるように
呂布も向いてないなら向いてないと書かれるのでは?
>>440 >呂布が任に耐えなかったという話も副官が付いてサポートしてたという話もないぞ
そんなのわざわざ史書に記す必要ない。どうでもいいこと。
丁原は諸侯なのに無教養だから特記されたんだろう。
なんにせよ呂布に文官としての才があったかは怪しい。
最低限の教養はあったのかも知れないが
>>441 丁原は諸侯ではなくてただの軍人
諸侯は温侯になった呂布
これは後漢の爵位だと劉氏以外がなれる最上位の列侯っぽい
諸侯の厳密な定義はどうでもいい。
丁原は州のトップの地位に任じられた。
呂布は董卓の護衛に過ぎない。
>>443 呂布も州牧やって州のトップになったことはある
君の基準ならこれで教養がない場合、記載される要件を満たしてるな
でも書かれてない
呂布
統率47 武力99 知力31 政治21 魅力69
呂布
戦略20 教養20 政務20 機転65
丁原 統率60 武力80 知力40 政治40 魅力70
思い込みだけで数値付けていくのやめようよ
全然「みんなで決め」てないよね
呂布 統率60 武力80 知力65 政治45 魅力40
<根拠>
・曹操、孫堅、リカク、カクシなどに敗退するも、劉備や賊軍などには勝利
・知力低い相手を惑わす程度の策略家
・主簿だったらしい
・優秀な家臣が付くも、裏切られたり、自身も誰かを裏切ったり
しっかりした戦略を立てるには、多大な情報を処理し、
それをじっくり分析する必要がある。
呂布は明らかにそういうことに向いていない。
高順「将軍(呂布)はいつも熟慮せずに行動し、失敗してから後悔する。」
呂布の策略なんて行き当たりばったりの嘘レベル。
人心に疎い奴を騙すのは上手かったかも知れないが。
国家戦略を練る知力はなかっただろう。
胡軫も王允騙してるよなw
一度騙した騙されたで知力の上下決めるのはナンセンスだな
諸葛恪も城攻めのとき張特とかいう敵将に騙されたけど、
総合的に見れば諸葛恪>張特になるだろうし
そもそも知力なんて一概に決められないからな
知力=戦略=参謀のセンス、とするのが一番分かりやすいが
この場合呂布の知力は低くなる。基本的に目先のことしか考えられない
諸葛恪みたいなタイプは
頭良くても人心の機微知らないから、
意外に騙されやすかったりする。最後も謀殺
その点荀ケとかは隙がない
>>452 しっかりした戦略を立てるには知能以前の問題で
戦略を立ててそれを実行する程度に拡大した勢力っていう
本人の能力とは別立ての条件が必須になるから
向き不向きをは後期の連中か前期でも拡大した国の人じゃないとわからない
拡大勢力を条件にするなら、曹操仕官当時の荀ケにも戦略眼がないことになるな
荀ケは曹操の勢力拡大を望んでたわけではなく、あくまで後漢の臣として仕えることを望んでいたよね。
>>458 荀イクが当初やってたことも戦略的なことでなくて
その場その場で何とか切り盛りすることがメインだっただろ
やっぱ戦略なら荀ケがトップかな
初期なら荀イク、魯粛、諸葛亮の3人がトップクラスだね
田豊・沮授は張良・陳平に匹敵する by 孫盛
知力(戦略)
95以上
魏:荀ケ、荀攸、賈ク、郭嘉
呉:魯粛
90以上
魏:曹操、程c、劉曄、司馬懿、鍾会、賈充
呉:周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜、陸抗
蜀:諸葛亮、法正
他:田豊、沮授、陳宮
こんなもんか
魯粛が重複してた
95以上
魏:荀ケ、荀攸、賈ク、郭嘉
呉:魯粛
90以上
魏:曹操、程c、劉曄、司馬懿、鍾会、賈充
呉:周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗
蜀:諸葛亮、法正
他:田豊、沮授、陳宮
呂布を任官したのは
丁原→董卓→王允
それなのに利害とか考えず能力があったからとか
どこの池沼?
今ならさしずめ強力なゴミ利権とか、○○利権を
持ってるから公認候補にして取り込もうという
腹だろ各陣営とも・・・・・
行間も読めないで書いてないからとかもうねww
知略を広義でみればその顔触れは大体納得できるが
戦略に重点を置くならば結構変わってくる
>>466 能力の有無は第一の利害だろ
呂布が利権持ってるなら持ってるという根拠を提示しろと
根拠示せとかもうねwwww
群雄が何を欲しがったとか、他の群雄が同じ状況で
何したとか考えれば、屈強な騎馬兵を吸収できるうえに
それを指揮できるとか、その地域の地の利があるとか
いろいろあるだろうに・・・・・・・・・
さらに同郷のリーダー格つくっとかないと離反するかもとか
思うだろふつう
劉備をいろんな群雄が受け入れたのは対曹操を経験しているから
とかは考えるだろ。まさか仁徳者だからと素直に思うタイプ?
呂布に事務処理能力求めるくらいだからいいよそれで
伸び伸びやりなよww
そして、メガネかけて丁原のおっさんのかわりに
ハンコおす呂布を空想してなよwwwwwwwww
それはそれで萌えポイントはたかいからよ
>>469 正史準拠でやるというルールは守ろうよ
演義やその他の物語で豪傑だった呂布を求めるのなら演義準拠のスレでも立てればいい
正史の呂布は事務職経験者でその時に問題があったわけでもない
その後の派閥の乗り換え等で見せる政治的な判断力もある
従来のような戦争バカではなく平均値より高い知力や政治力を有した男だよ
各地で嫌われたりはするが配下の裏切りは人生終盤まで少なく
これもまたそれなりの魅力の根拠になるだろう
>>469 結局、根拠が示せずまた煽りだけで逃げたか
劉備への火計、袁紹と妄想だけの議論が多くなったな
まあ、多分同一人物だと思うが
「主簿だった」というだけで事務職経験者と決めるのはどうかと。
主簿という肩書きだけだった可能性もある。仕事ぶりが書かれてないと。
呂布は戦争バカであり、平均値より低い知力や政治力しか持たなかった男。
それが当時の一般的な評価。高順の言葉や陳寿の評もそんな感じだしね。
まあ寡勢を率いての戦術指揮が得意だし、目先のことには勘働いたけど。
ただそれだけ。基本的な人物像は演義と似たようなもんだよ。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/02(土) 23:57:55.82
演義読んだ後で陳寿の呂布評見ても
全く何の違和感もないなwああ演義と同じだなって
演義だと個人武勇が強調されてるが、
正史じゃ騎兵の指揮官として重宝されてた。違いはそのくらい
>>472 主簿ってのはそういう肩書きだけの仕事じゃなくて
肩書きある人が必ず事務処理出来るとは限らないというのを補佐する実務屋
書類仕事が苦手な丁原が騎都尉になった時、実務的に優れた人材を置きたくなるポジでは?
地元有力者を取り込みたいという動機なら主簿じゃなくて功曹という地元関係者用の席がある
軍事関係の懐刀が欲しいのであれば司馬等の軍事部門の席がある
わざわざ事務仕事用でかつ事務処理能力が問われる実務がちゃんと出来る人を置きたいところに
「肩書きだけだった」という主張するのは普通に考えたらありえないと言っていいんじゃないかな
いずれにせよ呂布が実務をしてたのかしてないのかは憶測でしか語れない。
主簿だから呂布が主簿の出来る人とも限らないし、
丁原が適材適所とか関係なく主簿にしたかもしれないし、
呂布が主簿にしてくれと頼んだのかもしれないし・・・
色々と可能性考えると切りないよ。
なので、実績に関する記述が無い以上、そこを憶測で呂布の能力として判断すべきではないと思う。
丁原がマトモだったら、その人事もマトモだったろうけど、そうじゃ無さそうだな
>>476 >主簿だから呂布が主簿の出来る人とも限らないし、
問題があれば問題ありという記述が付く、丁原という実例がいるだろ
>呂布が主簿にしてくれと頼んだのかもしれないし・・・
そんな記述はない、無根拠
>憶測で呂布の能力として判断すべきではないと思う。
その通り
憶測で呂布の能力がコーエー三国志のような数値であるとして判断してるのは許されないよね
ちゃんと主簿をこなして、問題があったという事実がない
これは見事な実績なので呂布は平均的かそれ以上の政治の数字が付けられるべきだよね
>>477 丁原はマトモじゃないと言いたげだが丁原はマトモだろ
「裁知書、少有吏用」だから文字をよく知らないので
官吏としては取り立てられることは少なかっただけで判断が悪かったとかそういうことは書いてない
王平みたいな感じだな
文字を知らないってことは役人としての能力に欠けるし
そりゃ有能な代書屋欲しくなるわな
主簿って秘書的な立場だろ
腹心にしたい人物を任命する
文官としての能力が高い奴を任命するとは限らないよ
りょふ
教養20 政務能力20
武官としての役立ち度95
丁原からの信頼度95
>>480 では具体的に仕事をしない主簿を腹心に任命した実例は同時代にどれほどあるの?
そもそも字もまともに読めん奴が刺史になった例ってどのくらいあるんだろう
丁原自体がかなり特殊な例だったのかもな。そして自分に似たタイプの呂布を腹心にしたと
まあ丁原も呂布も一兵士じゃないんだから、最低限の事務能力はあったんじゃないの?
似たタイプだという論拠皆無じゃないか
何で正史三国志の話してんのに演義前提になってんの?
>>484 >何で正史三国志の話してんのに演義前提になってんの?
誰も演義前提の話なんかしてないだろ
訳分からんこと言ってんなよクズ
>>485 じゃあ呂布が文字をよく知らない丁原と似たタイプというのはどういう根拠で?
演義の呂布なら文字知らないって言われてもありそうって思えるけど
事務職経験者の正史呂布が文字を知らないことで支障のあった丁原とは
同じタイプとは到底考えられないのだけど
呂布と丁原が似たタイプって書いたら、
なんで演義前提ってことになるんだよw
普通に正史読んでりゃ似たタイプって思うだろ
辺境出身の猛将だし熟考せず行動するし
>>484みたいなのが一番うざいわ
>>487 >到底考えられないのだけど
普通に考えられるよ
>>488 辺境出身なのがわかってるのは呂布だけで丁原は出身地も不明だぞ
それから丁原は熟考せずに行動するかどうかもわからん程度にしか記述が残っておらず
そのキャラ付けってやはり無根拠だよ
>>482に答えられない時点で主簿だけど事務仕事できませんって理屈は通らないよ
丁原が呂布を主簿にしたのは
自分の腹心になり得る人物だから。
呂布が優秀な文官だったことにはならない。
まあ丁原よりはマシだったかもしれんけどな
誰も優秀な文官とは言ってないんだがな
主簿を大過なくこなせるだけの事務処理能力があり
それは平均的かそれ以上の政治の能力として数値に還元できるであろう、ということだぞ
そういや丁原の出身地は不明だったか。
でもいい家の出ではなかったらしいな。
普通に読めば呂布と丁原は似たタイプ
無理に否定することないよw
>>493 じゃあ丁原よりはマシだったって程度でいいね
呂布は武力が高くて統率そこそこで知力政治が低い。丁原も同様
ただし呂布の方が事務能力は若干マシだったと。これで問題ないな
教養皆無の奴を主簿にするのは流石にためらいそうだしな
ヘイ州は辺境の地だから強い武官じゃないと務まらない。
だから丁原みたいな人物を刺史に任じたりしたんだろうな。
まあ乱世になったあとは色んな人物が刺史名乗ってるけど
呂布 統率60 武力95 戦略35 政務35
丁原 統率55 武力80 戦略35 政務25
二人ともじっくり戦略練るタイプじゃない。参謀から最も遠いタイプ。
呂布の武力は小勢で張燕破るなど最強レベル。ただし大軍の司令官には向かない。
戦争じゃなく戦闘に強い程度の呂布の武力が95なんてありえないだろ
戦争か戦闘一方でも強けりゃOKじゃないの?
でなきゃ典韋みたいなタイプは評価できなくなる
曹操 武力95 タイプ:将軍
典韋 武力95 タイプ:護衛
こんな感じにするしかないか。(
>>7の定義使う場合)
典韋は大軍率いたら武力大幅ダウン。
呂布や典韋は統率低くすればいいんじゃないの?
大軍率いても、戦闘直後は強いが時間が経つと兵の離脱が激しくなるとか(ゲーム脳的)
>>497 若干マシじゃなくて呂布の実務能力は普通レベルだってば
問題のある丁原と違って問題を起してない
丁原と比較してマシというのではなく主簿として普通、つまり下限が平均ラインということ
>>498 刺史は文官だぞ
軍権もないし直属の軍もない
数百の軍率いたときの強さは呂布>曹操
武力値が同じだとすると、特殊能力で勇猛を付けるとか。
刺史は形式上文官でも
実際は武官タイプの奴が付いたりしてるだろ
丁原がその例なんだよ。軍権のある官職兼官すりゃいいだけ
呂布の実務能力が普通である必要は全くない
他に実務能力ある奴見つけて呂布のお手伝いさせればいいだけ
呂布を主簿に任じた主な理由は腹心にすることなんだから
呂布 教養20 事務20
丁原 教養15 事務15
こんなもんかもなw
丁原って騎都尉じゃなかったっか?
なんにしても丁原は武官タイプだろ
いやもう呂布の知力政治の話は終了でFA
官職=能力とか真剣に信じちゃってるのが住み着いてるから話しても無駄でしょ
結局、妄想だけの根拠でFAだなんてチョンそのものだな
>>383が普通の見解ぽい
知力はもうちょっとあってもいいが
>>509 刺史に就いた後で騎都尉になった
やたらと「州の支配者」として刺史が持ち上げられるけど
独自の軍権も兵もなく俸給もたった600石しか貰えない
職務内容は「郡太守のお目付け役」と一言書かれるだけの悲しいお仕事
騎都尉は比2000石だからそれだけでも出世だな
騎都尉も刺史と同じくお目付け役で武官ではあっても
独自の軍や兵のない官位で武辺者じゃやってらんないよ
>>510 官職=能力ではないが特に理由なく官職を得てるなら
その官職を得るに足る能力があったと周囲にみなされたってことだろ
丁原は普通に武官タイプだろ
そのスレ、無駄にカエサル持ち上げてて気持ち悪かったなぁ
最期が暗殺で終わる奴が魅力高い理由ないのにな
>>515 執金吾まで含めても軍で戦うというよりは軍による治安維持や警備活動が主だから
単純な武官というよりは政治将校の役割を担ってる
>>516 織田信長も坂本龍馬も魅力低いということ?
スレ地だ粕
ザックリとしかスレを読んでいないが…
>>406 当代随一の名士たる陳紀・陳羣親子は故郷を捨てて呂布の世話になってる。
陳宮がいなきゃ呂布は群雄になれなかった。ただの放浪者
>>521 どんなに能力あっても地方の豪族に受け入れられなかったら根拠地は持てない
逆に能力に関わらず受け入れられればそれだけで独立できる
だからエン州豪族である陳宮がいなきゃというのは当たり前の話で批判するに値しない瑣末なこと
つまりただの放浪者でも受け入れられればそれだけで独立できる
・・・と言いたいわけですね
受け入れられるだけじゃ駄目。
地盤として確立するには入念に情勢を調査し、色々根回ししなきゃいけない。
そういうお膳立てをやったのが陳宮だろ。
呂布が群雄としてやって行けたのは、陳宮が戦略面でサポートしたから
お膳立てっていうか陳宮がその受け入れる側の地元豪族だろ
地元豪族なら呂布を受け入れるだけで万事OKなのか?w
その地方と周辺の情勢把握して呂布を担ぐ態勢整えなきゃ駄目だろ
呂布の知力なんて本来群雄としてやってけるレベルじゃないよ
正史見る限り
呂布は目先のこと以外考えるの面倒ってタイプだな
知力30台でいいだろ
高順以下だろうな
>>527 陳宮と張バクがエン州豪族の顔役ということは呂布伝にあって
こいつらが担ぐと決めればそれが通る状況ってこと
曹操もこいつらによって担がれてたのでエン州のリーダーとなれたし
こいつらの離反でエン州をほぼ丸ごと喪失してる
担ぐと決めただけで大規模な反乱が成功するのかw
そうだよ
勿論決起のタイミングなどは多少計画するだろうがね
時代特性としてこの時代は君主の統治権がとにかく弱まり
大地主である豪族を間に挟んだ間接統治でないと立ち行かなくなった時代で
豪族を敵に回したらその途端に統治の難易度が跳ね上がる
逆なら簡単に領土が手に入る
じゃあお前が陳宮の立場にいたら
反乱大成功させることができたわけだなwすげー
いや俺中国語わからんから無理だろ
じゃあ当時の中国語が分かったら可能なんだな
お前ら子供の喧嘩かよww
一声「曹操に叛け!」
これで人と軍隊が勝手に絶妙な具合に動くわけか
楽なもんだな
いや俺儒教の経典とか暗記してないから無理だな
計画なんか練らなくても、
一声挙げるだけで勝手に絶妙な状況ができ上がる
すごいな
>>537>>539 決起のタイミングとか最低限度は計画すると思うよ
そう書いたはずだが?
ただエン州のオピニオンリーダー2人だから綿密な計画を長期間掛けて練るとかではなく
曹操がエン州を空けたら即座にエン州ほぼ丸ごと引っ繰り返すくらいのことをやってのけてる
しかも、根回しなんてかなり適当でいくつかの拠点には声すら掛けてないままに決起したものだから
荀イクや夏侯惇の頑張りで何城かだけは何とか曹操の手元に残った
呂布知力90(動乱の時代を駆け抜くには高い知力が必要)
陳宮知力40(たまたま有力な豪族だっただけ)
そこまで不思議な数値付けもどうかと思うぞ?
呂布はあくまでも平均を上回る知力や政治力を持ってるということは主張してるが
時代を代表する智謀の士と言うだけの根拠はないし思わない
呂布は頭が悪いから長安追い出されたんじゃないだろうか
頭良かったら長安で群雄の一人としてやってけたと思う
>>542 いや、マジレスされても。完全なネタだし。
陳宮知力90、呂布知力40。
本当はこうだと思ってる。(俺
>>541)
無理だろ
頭良くても当時の最高権力者は王允
呂布は位は高いし発言権もそれなりにあるが決定権はない
反乱成功させるには普段から情勢把握しとかなきゃいけないし、
行軍の計画も立てなきゃいけない。そういうのが陳宮の仕事じゃないの?
エン州反乱は時間がなかったから、あまり綿密にできなかっただけ。
呂布は寡勢の指揮が専門みたいなもん。戦略は本来専門外。
呂布自身の知力はあまり高いとは思えんね。軽佻って評価が当時定着してたろ
>>547 エン州の中ではその情勢を陳宮と張バクが作るという話だよ
陳宮 統率70 武力50 知力90
呂布 統率60 武力99 知力40
こんなもんか?
呂布は統率がいまいちだから大軍指揮は苦手と
武力に関する記述のない陳宮が50で
派閥闘争の勝者になったりする呂布の知力が40ってのは納得いかんな
陳宮って自分で軍率いてなかったっけ
まあ統率するだけなら武力低くていいか
呂布は「董卓殺したのは俺様だ!!」と誇らしげに喧伝し、「董卓配下は皆殺しだ!!」と言ったら、
結果董卓配下によって長安を追い出された・・・知力30程度が妥当
武力が戦術込みなら陳宮は結構高い
いわゆる「掎角の計」提案してる
>>552 実際、その宣伝で董卓軍残党は震え上がってて敵討ちも諦めようとしてた
賈クが長安の不備を見抜いて呂布に勝てるという認識を示せなかったらどうしようもなかった
賈クは正史における知力90代候補の代表格みたいな奴で
そいつに見抜かれたからって30程度になるわけなかろ
曹操も賈クに散々してやられてるから知力下げるか?
>>554 2ヶ月もあったのに無策のまま何もしないで長安追い出されてるんだから知力低いだろ
武力が低いのかな・・・リカク以下とか
それならエン州失った曹操の知力も低くしなきゃな
あと魅力も
>>555 策は提示したが王允が採用しなかった
呂布は発言権はあっても決定権がない
>>556 元々呂布の使える兵は少ないんだよ
涼州人からなる董卓の手勢は呂布に従わない
官軍の指揮は皇甫崇のもの
騎都尉の時の兵は董卓暗殺成功後に王允が奮武将軍にして引っぺがしてる
憶測だけど数百騎で逃げたとあるけどこれが呂布の動かせる兵のほとんじゃない?
少なくとも奮武将軍は名ばかり
関羽もそうだなw
呂布は結局先の見えない、その場その場で思いつきで動く人だってことで。
先の見える見えないってのは時間掛けてはじめてわかるもんで
その時間を稼ぐために目の前のことこなしてるだけの環境から抜け出せなかった人間を評価はできんよ
>>554 スレチだけどのぶやぼで智謀90代の毛利や最上にやられた
尼子や武藤の智謀評価著しく低いのはどうかと思う
>>561 時間かけた結果、流浪の末に敗死してるのでわかるよね
>>563 放浪し始めてから4年程度で時間掛けたとかいうのは無理だろ
同時期の曹操だってとりあえず袁紹と協調して戦うことと
呂布を倒すこと以上のことできてないよ
群雄割拠の中で生き延びることだけが最優先だった時期の敗者を
長期的に劣ってるとして低くしようとするのはよくない
わからんからプラスもマイナスも評価できないだろ
環境は関係ない。呂布は目先のことしか考えないタイプ。熟考できないタイプ。
高順や陳寿の言葉から明らか。知力=戦略とするなら呂布は間違いなく低い。
呂布は深く考えるの苦手なんだから、
普通に知力低いだろ
当座の勘で行動するだけ
だから寡勢率いたときだけ強さ発揮する
その点張飛は意外に知力高そうだな
呂布は次々に飼い主に噛み付く、獣みたいな男。調教師が必要だった。
陳宮も調教しきれなかった。
>>565 環境は関係ある
司馬炎最強か?
>>566 派閥闘争には勝利してる
失敗もある功罪合わせて平均だろ
はあ?w
環境に関係なく呂布は脳筋だよ
まあ世の中100%脳筋な奴はいない
脳筋タイプの奴でも特定の分野に関しては頭使う
それをもって実は知力高いなんて評価するのは誤り
呂布は土壇場での危機回避能力は高そうだが、
基本的な戦略を立てられないから結局敗れた
張飛は独立して大軍任されて益州に進軍し、
そつなく任務こなしてるから、知力もそこそこあるだろうな
正史張飛=強い将軍、部下いじめ
他に際立った特徴はないな
演義だと随分個性付けされてるが
役職で評価しようとする粕は
九品官人法がなぜ制定されたかまたなぜ司馬懿が
それを有名無実化しようとしたか
もう一度考えるべきだろうな・・・・・・・・
能力に応じた任官でなく門閥だったり家柄だったり
動乱期には腕っぷしだったりで任官されたから
この法律を作ろうとしたんだし逆にきちんとしてたなら
あえてこんな法律つくらんだろ
いまの日本ですら首相=日本で一番優秀な人でないのに
なにを言ってんだかwww
劉備にとって使いやすいとかそんな部分がメインだろ
曹操陣営なら少なくても他陣営より役職=能力かもしれんが
>>574 役職で当時の呂布に何が求められてたかということと
その求められたことに対する悪評がないことはちゃんと評価すべきだろ
ちゃんとこなしてるんだよ
何回同じネタ繰り返すんだ?
しょうがないね
脳筋豪傑を正史にも登場したことにしたい人がいるし
俺はそれは認められないからどっちかが折れるまで繰り返すだけさ
>>577 呂布の主簿としての仕事ぶりを書いたらいいんじゃないか?
残念ながら俺は見つけられなかった。
悪評がないというより、丁原の主簿は漢王朝から任命された
主簿と全くの別物という事実を知らないといけないかもな
主簿としての呂布は大きく特筆されるような功績もなければ
逆に同様に特筆される失敗もない
ただし丁原から重用されるような仕事振りを示した
これで充分に平均以上の政治の根拠になるだろ
その内容が不明だから仕事してないというのは事務職に対する認識が足りない
事務職は日々の業務を過失なく成功させることこと本分なのだから
不適格だったというのであれば不適格だったということを主張する方が提示しないといけない
事務職として優秀だと散々言われる楊儀だって具体的な業務内容はわからんのだよ
事務一筋で上り詰めた人が人は何の仕事もしてないのに
出世したことになるようなトチ狂った評価基準を強引に押し通そうとしないようにしてくれ
主簿ってのは特定の官位にある人間が自分の権限で任命する今で言う公設秘書のような存在
丁原が任命した呂布は漢王朝が認めた主簿だよ
君の言う漢王朝から任命された主簿って誰の事なのか実例を挙げてみては?
あははははははははははははww
馬脚をあらわしたか
つまり具体的に「仕事をこなした」例はないということだな
当たり前だよ
蜀の楊ぎも主簿だが役職があって仕事があるわけでない。
彼は、兵站のプロだったわけだが君の主張の秘書の仕事はしていない。
主簿だからこういった仕事をしなさいじゃなく、人がいて役職がある
呂布の場合、中央に連れて行くのに
官職の一つもつけないと箔がつかないというわけでつけたということも
知らないとはねwwwwwwww
自分の無知をさらしてるだけだよ
あーがっかり。何か全く知らないすごいソース持ってるのかと
一瞬期待してしもうた
>>580 何故呂布を連れて行くことが前提に?
呂布は主簿としての働きが理由で丁原に重用されるようになったというに
「主簿としての働きが理由」って、どこに書いてるの?
>>582 刺史丁原為騎都尉、屯河内、以布為主簿、大見親待。
親しかったから呂布を主簿にしたのではなく
主簿にしたから呂布と親しくなった
考えられる理由は性格の一致とか仕事振りが優秀とかだけど
性格の一致であるなら元々親しくてそれが理由で主簿にした、と書かれるし
仕事振りが気に入られたということになるね
それじゃあ今度はこちらの実例よろしく
>悪評がないというより、丁原の主簿は漢王朝から任命された
>主簿と全くの別物という事実を知らないといけないかもな
「主簿にしたから親しくなった」じゃなく「主簿にして親しくした」だろ
曲解はやめよう
布を主簿に為すを以って大いに親しく侍らせ見ゆ
呂布が主簿になったことが理由で、大いに親しくして何時も側に置いていた
だよ
>>585 俺に聞かないでくれ。俺の書き込みは576,582,584
そもそも「考えられる理由は・・・」と書いてるってことは、
>>582の質問に対し「どこにも書いてません」という回答をいただけたと判断します。
書いてないことは能力に反映できませんね。
>>586 「為すを以って」は「なったことが理由で」じゃなく、そのまま「為すことでもって」だろ。遇したって意味だろうが。
なんで曲解するんだ
>>577 正史の呂布は普通に脳筋だろーが。
高順の諫めの言葉に象徴されるように、深く考えるのが苦手なんだよ。
派閥抗争で生き残ったとか、無理やり理由付けて頭いいことにすんなよw
「正史だと知力政治は平均以上」なんて執拗に主張してるのお前だけ。
お前が現れるまではスレ平和だったしな。
史家でも呂布の知力評価してる奴珍しいぞ。意外に勘が働くって程度。
自分が異端だって気付いた方がいい。
丁原は呂布を主簿にして腹心にした
主簿にした理由は呂布が好きだったから、利用価値があると思ったから
その両方だろうな
少なくとも文官としての腕を見込んでってわけじゃなさそう
呂布より優秀な文官はいっぱいいただろうしな
あえて呂布を起用した理由が大事だな
当時呂布は腕利きの騎兵隊長として名望があった
ヘイ州に仕える前から勇猛さを認められてたらしいな
>>587 いや仕事したことは書いてあるだろ
仕事してる、失敗の記録がない
可もなく不可もなくというのが呂布の政治を設定する上で最低限のスタートライン
仕事して失敗したら下げるのは当然だが
失敗もしてないのにイメージだけで下げてどうする
>>588 以てのは「それによって」とか「それより後に」という意味だよ
そこに呂布を主簿にした、ということが続くので
主簿にした事により呂布を重用するようになったということ
つまり以○○ということを起点にして続く事柄に掛かるので
呂布が重用されるようになるのは主簿になってからだし
主簿になった後で何故重用されるのかは上に書いた通り
>>590 その利用価値を生かすのに主簿やらせるのだから事務職が勤まったってことだよ
失敗したという根拠もなく不適格の烙印を押すのは間違い
>>591 騎兵隊長として認められてたかは不明だが確かに
「以驍武給并州」とあって武勇があるという理由で并州で仕えてたことは確かだな
でもそれで事務職も勤まったのだからどっちも出来たってことだ
武勇を見込んでそれだけを求めるなら司馬とか色々ある
わざわざ主簿にしたということは事務能力も見込まれたってこと
>>596 たしか、丁原を殺す時は司馬に変わっているんだろ
>>597 司馬にはなってない
丁原が執金吾になった後も特に変わりなし
そして呂布が司馬だと丁原殺しても丁原の軍全体は掌握できないんだよ
何故主簿なら出来るかというと主簿は印璽を管理する仕事だから
丁原の名前で書類を発行することで一定時間は軍を掌握することが出来るから
そうやって時間稼いでる間に董卓によって騎都尉の位を貰って
丁原が指揮してた軍の権限を正式に指揮可能にしている
(丁原の兵は元々騎都尉の権限で洛陽に連れてきたので可能)
ただし執金吾の職掌である武器の管理は与えられない
董卓の官位の操作は結構巧妙
>>598 資治通鑑だと司馬だぞ
「丁原部曲司馬五原呂布」
>>599 後漢紀確認したら部曲司馬だな
そして部曲司馬なら確かに権限あるわ
正史しかチェックしとらんで済まんね
事務職から直接的な副官にランクアップしてるから
やはり呂布は主簿で普通に結果出してるとしか考えられないね
主簿って秘書的な立場だろ
お気に入りを任命するのが普通
呂布は単に丁原のお気に入りだった
それだけのこと
お気に入りになったのは主簿になってからと正史にあるって言ってんだろ
>>603 アホ
「主簿に任じたあと可愛がった」からといって、
「主簿に任じる前はお気に入りじゃなかった」ことにはならんだろ
元々気に入ってた奴を主簿にして寵愛したんだよ
司馬に任じてもあまり可愛がれない
主簿に任じたら存分に可愛がれる
司馬でなく主簿に任じる理由は十分存在する
呂布に事務能力があった証左にはならんな
まあ多少はあったかもしれんが
>>604 アホ
元々気に入ってたなんて記述はないぞ
因果関係がちゃんと記述あるんだから具体的な証拠もなく何言ってんだ
>>607 >元々気に入ってたなんて記述はないぞ
そんなこと一々記す必要ないだろw
呂布は優秀な文官というタイプじゃない
その呂布をあえて主簿にしたんだから、目的は腹心にすること。元々気に入ってたんだろ
「任じたあと親愛した」から「任じる前はお気に入りじゃない」とか、アホか
>>608 とりあえず「任じたあと親愛した」は納得したんだねw
腹心にしたい奴を主簿に任じる。
そして丁原は呂布を腹心にしたかった。
ただそれだけだろう
何故腹心にしたかったのかと言えば、
呂布に利用価値があってウマも合ったから。
「事務能力」が主な理由だったとは思えんな。
呂布より有能な文官普通にいただろ
>>609 「任じる前」か「任じたあと」か、
そんなの全然重要じゃないっての
こだわってるのお前だけだよw
もはや詭弁を弄するの域
呂布が文官として優秀なら当時は
文官>>>>>武官なんだから
特別な記述があるに決まっている
郭かや荀ケの記述見ればわかること
それもわからず主簿に任じられたから優秀な文官て
あほだとしか言えん。
そもそも優秀なら次は文官の上の役職に就けるはず
それがないということは文官として優秀ではなかったということ
>>609 時系列順では元々そう主張してるけど?
「以」と書かれているから「主簿に任じられたことによって」という意味になるしな
>>612 序列としては司馬の方が上なんだよ
後漢の秩石でも後の九品官人法でもそうなってる
それと騎都尉の主簿は武官じゃなくて書類仕事をする武官の属官だぞ
文官のような仕事を要求されてるだけで文官ではない
さらにとどめで役職で評価なら
董卓先生は「相国」だぞ〜
政治力99でいいんじゃないかww
その役職になった経緯をきちんと考えないとダメな例をあげてくれた
自分で自分をフォローするバカに感謝ww
>>611 重要じゃないにしても誤謬があるんだからしょうがないな
>>615 役職で評価しているのではなく
役職に就く理由を以って評価している
呂布の場合は役職に就く理由はわからない
役職に就いた後に評価されるようになりその仕事でも失敗の痕跡がない
従って仕事を地道にこなす能力があるということ
董卓の相国就任は政争の結果のことだし
就任後には貨幣改鋳で経済を混乱させ後漢経済を徹底的に破壊しているので
政務能力はあまり高いものではない
むしろ苦手の部類だろう
逆に政争を勝ち抜く能力や武力を背景にした立ち回りや
実数が少ないのに多く見せかける手段、各派閥の切り崩しと与党工作などを考えると知力はかなり高い
洛陽にいて兵を実際に掌握していた西園八校尉に歯向かう暇も与えずに実権掌握してるのも加点要素だ
>>616 誤謬なんてねーよw
お前が勝手にとんちんかんなこと考えてるだけ
>>617 >政争を勝ち抜く能力や武力を背景にした立ち回り
>実数が少ないのに多く見せかける手段、各派閥の切り崩しと与党工作
>洛陽にいて兵を実際に掌握していた西園八校尉に歯向かう暇も与えずに実権掌握
無理やりすぎwww
なんか必死すぎて哀れだな
>>619 実際にやってるから
政争を勝ち抜く能力があるから相国になった
少帝確保した後に洛陽で最も兵力を確保して誰にも文句を言わせないようにした
他の人は権限もないのに都に軍を入れるなということに対して
皇帝が政争で追われて都から出たのを連れて帰るのだから保護のための軍がいると
洛陽に軍を引き連れて入場
最初は数千程度の兵しか連れて来なかったけど
夜中に兵を外に出しては朝軍楽器を鳴らして大仰に入場することで
実数の数倍に見せかけたりもしてる
さらに何苗を殺して何進が持っていた官軍の大半を自分の軍にしてしまった
ここの西園八校尉も入ってる
また洛陽の警察権を持ってた執金吾の丁原を呂布に殺させることでその兵を奪いつつ
警察権を自分のいいようにしている
この辺の董卓の政争の手腕は大したもんだよ
622 :
619:2012/06/06(水) 00:13:16.71
>>621 悪い。てっきり呂布の話かと思った。
董卓なら普通に知力高い
>>621 それなのに国は乱れたwwwwwwwなぜ?
お前あほだなwwwwwwwwwww
それに明け暮れた人物になぜ酷評を与えたか
やっとそこにたどりつく前に「董卓すげええええええ」って
だめだこりゃあ
>>623 ただでさえ不景気な中で経済政策をクリティカルにしくじったからだよ
だから政治が低くなると言ってるじゃないか
その前には主導権争いに敗れた連中が董卓に反旗を翻して反乱を起したりしてる
こればかりは董卓を恨んでる袁紹とその一派が自重してくれないことにはどうしようもないが
もっと上手く取り込めれば、とか思うのでやはり折衝能力に当る政治がさらに低くなる
呂布・・・知力低い
董卓・・・知力高い
ほぼ皆この意見で一致してるようだね。俺も賛成
呂布は低いんじゃなくて「それなり」
ゲームの10とか20なのはやり過ぎ
別に智謀の士として素晴らしいとされる80、90やれってんじゃなくて
勝ち組派閥に乗り換えたり袁術、曹操の間で上手く力の均衡を作ろうとしてたり
涼人皆殺し案だって賈クに看破されなければそのまま長安に居残ることが可能だった
賈クを除いた人々は皆呂布の言葉に慄いてしまっていた
平均程度の知力は認めるべきだろ
だから「ほぼ皆」って書いたんだが。
ほぼ皆がそう思ってるならそうではない根拠を示そうと思ったんだ
演義とか物語の印象に引っ張られすぎなんだよ
呂布は正史と演義で人物像変わらんってのw
どっちでも軽佻で無定見って言われてるだろ
>>629 呂布有?虎之勇,而無英奇之略,輕狡反覆,唯利是視。
自古及今,未有若此不夷滅也。
呂布は獅子や虎のような武勇を有していたが英雄としての計画はなく
狡賢く簡単に裏切り、ただ利益だけを追求していた。
昔も今もこんな奴は滅ばなかったことはない。
陳寿の呂布評価は「軽狡」、熟慮はしないがずる賢い、というものだぞ
英雄としての計画なんてものが発揮できる程の猶予はなかったので前半はしょうがない面もあるな
バカなんじゃなくて狡賢い
つまり陳寿の評価通りならちゃんと知力を上げなきゃいかんな
軽狡は知力を褒める言葉じゃないよ
己の目先の利益だけ考えて立ち回る奴ってこと
簡単に言えば山犬、狼の類
輕狡=軽薄
「軽狡」で知力上げるなら
そこらの山賊の知力も上げなきゃいかんな
>>632 品性を貶しつつ知力は褒めてるよ
>>633 軽薄は能力じゃなくて品性の問題だから関係ないな
>>634 三国志中で軽狡という評価されてるのは孫堅、呂布とかだよ
山賊でそんな評価された人物はいるのかい?
褒めるつもりで書いてねえってw
目先の利益だけ考えて立ち回る
そういうタイプの人間ってことだよ
>>635 >山賊でそんな評価された人物はいるのかい?
そうだね。「軽狡」で呂布の知力上げるなら、山賊の知力も上げないとね。
でもそんな評価された人物居ないから、呂布の知力も評価出来ないね。
狼のように狡猾とかそういうニュアンスだからな
「軽狡=知力高い」とは認識されてなかったろう
目先のことには勘が働くとかその程度
>>637 何で山賊と「軽狡」が関係あるの?
そもそも三国志中に軽狡って単語3回しか出ないぞ
>>639 狼のように狡猾って意味じゃないぞ
品性のない知性を表す言葉だ
>>640 軽狡=賢いと言い出したヤツがいるからだろ
ってかログさかのぼってわからんの?
>>642 いや賢いんだよ?
そこに品性の下劣さが付きまとう賢さだけど
で、何故山賊と関係あるのか聞いてるんだが
動乱の時代生きるには、
危機回避能力がなきゃいけないし、
その手の勘は鋭かっただろう
そういうのは知力よりも特技で表せばいい
いや能力でいいだろ
特技ってのは一回やりだすときりがない
「ずる賢い」を過大評価しすぎ。
軽狡は「賢い」よりも「ずるい」に重点あんのに。
「ずるさ」に徹すりゃ誰でも目先のことには対処できる。
それで「知力が高い」なんておこがましい。
戦略立てられない呂布は知力30くらいでいい
>>645 いや特技でいいだろ
危機回避能力だけ高い奴もいるしな
呂布みたいにw
戦略立てられないだけで知力30とかふざけすぎだろ
平均的な50が可も無く不可も無いんだから
失敗もしたが成功もした呂布は平均的な50は必要
何で呂布だけイメージで無理に知力下げようとすんだよ
おかしいだろ
>>647 危機回避能力だけじゃないから特技じゃ表現できんな
戦略は知力の基本だろうが
戦略立てられない呂布は知力20でいい
>>648 >何で呂布だけイメージで無理に知力下げようとすんだよ
お前が無理やり知力上げようとしてるだけだろwww
>>650 なら涼州兵に対する正しい方策を打ち出したけど
王允に採用されなかった呂布はしっかりと戦略立ててるし
20にはならんという確約だね
>>651 無理やりではない
やったことから判断して平均的な知力は有してると考えてるだけだ
むしろ意図的に呂布の知力を評価しない行動取ってるのはそっちだろ
軽佻だなんだとおかしなこと言うから軽狡だって正してる
陳寿の評価を重要視するにしても狡猾だから別に頭悪くないってこと
派閥の領袖として政争に勝ち残った呂布を甘く見すぎなんだよ
高順の諫めの言葉に象徴されるように、
呂布の知力は基本的に低い。
意外に勘が働くって程度。
知力40前後が妥当だろう
高順が語る呂布像は軽佻そのものだろw
>>653-654 確かに高順のエピソードはマイナス要因だ
でも加点要素を勘案すると平均にはなるだろ
熟考できないからまともな戦略が立てられない
知力は平均より下が妥当
謀略行き交う政争には勝利してる
戦略立てても政争に負ける奴もいる
知力高い董卓へのクーデターも成功させてる
減点要素だけでなく加点要素もある
平均以下にはならん
群雄同士のなかでの戦いなんだから
そりゃそこら辺のやくざやさんや
暴走族や関東連合さんが発揮する
要領のよさくらいは呂布が発揮してもむしろ当たり前で
それを前提にしても辛い評価を与えてるということに
きづかないあほ。
まあ、マイナスなのは群雄としての知力が無いって事だけだな
どちらか言うと、能力よりも性格の問題のような気がするなあ
マスクデータの冷静値なんていつもワーストだものな
義理・冷静最低、野望最高で他にも性格が強欲とかマスクデータ面は毎回かなり弱いな
プラス面のマスクデータだと毎回呂布補正があって仮に表面上は同じ武力だったとしても
呂布の方が強くなるようになってる
データファイル 呂布の知力関連
洞察力=1 洞察力は無きに等しい
戦術戦略=3 常に蛮勇を振るい起こして先陣で戦い、使い捨てられていく猛将
>>657 >謀略行き交う政争には勝利してる
>知力高い董卓へのクーデターも成功させてる
無理やり加点要素挙げてるようにしか見えん
乱世で活躍した人物はみんな
政争の中での要領みたいなのは持ってる
殊更に取り上げて加点する必要はないってことだな
あと「政争で残る奴>政争で敗れる奴」
とかそんな単純な図式は成り立たない
呂布は董卓に気に入られる術知ってただけ
>>659 むしろ呂布の知力って
保身のための要領だけじゃ?
自ら積極的に政争の渦に飛び込む奴
政争の渦から逃れる要領だけは持ってる奴
色々いるわな
董卓
統率80 武力80 知力70 政治35 魅力55
かつては親分肌で信望のある人物だった。
政治は政権を確立する手腕のみ
>>665 一般人でも持ってる、その場凌ぎの知恵的な・・・ね
>>663 謀略に負けて都落ちした曹操や袁紹
謀略戦に勝利して実権を握った董卓
いち早く董卓の勝ち目に気付いて積極的に与党となることで大きな利益を得る呂布
知力が正しい現状把握能力というのであれば
この時に限って言えば呂布の知力は曹操や袁紹に勝ってると言える
ここを加点要素にしないっていうなら宮廷闘争に関する能力は評価しないって言ってるも同然だぞ
丁原殺すのが正しい現状把握能力なわけがなく、
董卓殺すのも正しい現状把握能力なわけがない。
挙句放浪生活・・・
低減も淘汰区殺しも正しいだろ、それで事実上呂布は天下人であったわけだし。
呂布の失敗はその後のリカクカクシに敗北した事だ。
ていうかリカクカクシが低すぎるんだよな。バトウカンスイ、徐栄、朱シュン(袁術)劉エンも敗れているわけで、
その後その部下の張シュウには曹操が痛い目にあっている。
呂布を破ったのもカクの献策らしいからあげるべきはカクかもしれんがね。
ぶっちゃけリカクカクシの戦闘系の数値は曹操以上でもなんらおかしくない。
殆ど敗北もなく、早々たる面子を破っている。
それは思い込みだろ
利益はちゃんと確保してる
単なる副官で人生終わってもおかしくないところで
自分が主役になれる機会を掴むのは倫理的にはともかく
能力的には問題のある判断じゃない
>>671 その董卓軍残党はその後の政権運営も含めてもう少し再評価必要だよな
>>669 >謀略に負けて都落ちした曹操や袁紹
謀略戦に勝利して実権を握った董卓
いち早く董卓の勝ち目に気付いて積極的に与党となることで大きな利益を得る呂布
知力が正しい現状把握能力というのであれば
この時に限って言えば呂布の知力は曹操や袁紹に勝ってると言える
さすがにそれは無理がある
>>674 いや瞬間だけで見ればそうだよ
袁紹は董卓の与党として政権に加わることも出来たところにいた
反乱側に回って場を乱すだけ乱して後漢ぶっ壊しちゃったけどな
正直呂布に暗殺されずそのままだったら、袁紹も曹操も一地方の反乱軍でしかなかっただろうな。
とても討伐できるとはおもえん。
>>673 政権運営はとことんダメだが、戦争はめっぽう強いからからなー。
涼州の精鋭10万とか当時勝てる奴はおらん。曹操孫堅と打ち破っている徐栄は名将といっていいし。
そういう連中を打ち破って反乱を成功しているからな。
丁原に付いてたら自分の将来はない→丁原殺す
董卓に付いてたら自分の将来はない→董卓殺す
どちらも深い情勢分析なしにできそうなことだな
董卓のときは戟投げられたり侍女と内通してたりで、
我が身の危険を感じてたから
身の危険を察知して反乱成功だろ?失点などないと思うが。
むしろ加点要素。
袁紹や曹操は董卓に付くって判断してりゃよかったのかw
失点にはならないが特に加点にもならないな
呂布は董卓の太鼓持ちで終わっていればよかった。
曹操は袁紹の太鼓持ちで終わっていればよかった。
劉備は公孫サンの太鼓持ちで終わっていればよかった。
孫策は袁術の太鼓持ちで終わっていればよかった。
こういう事ですねわかります。
董卓殺すというのは呂布にとって妥当な選択。
当時の董卓長安乱しまくってたし、自身も戟投げられてるからな。
こいつに付いてたらやばい!って感じるのは当然
それで知力上げろというのも変な話
>>682 こうやってみると当時の大勢力(190年ごろ)の部下が後に名を馳せるんだよな。
呂布は軽佻で無定見なんだから
知力は基本30くらいでいいだろ
危機回避能力考慮しても40
このバカは全然時代背景がわかってないなww
呂布や董卓やテイゲンがなぜ中央に食い込めたかというと
乗馬技術という超特殊技能を持っていたからだろう
当時、鐙もなかった時代、乗馬というのができるというのは
それだけで今の日本で鉄砲持っているくらいの価値があったわけだ
それをバカはなにをいってんだか「呂布の知能は」ってww
袁紹や曹操はすぐにその「騎馬部隊」にたいして対策を立てた上に
曹操はその使い手となっている
背景無視のばかはひっこめ
董卓に付くのは呂布に人を見る目が無い為だろう。
>>687 乗馬技術で中央に行ったって何伝に書いてあるの?
董卓や呂布を評価するなら
「騎馬突撃」とか「騎射」とかの特技を持たせればいい
190年くらいまで対策出来なかったからそれまでは無双な特技に
すればいいだろ。
そのあとは麹義が最初にやったように「後手の先」をとる戦法
一度騎馬部隊の突進を大きな盾で受け止めその後槍や弩で反撃する
戦法が普及し以前ほど騎馬の突進力は重宝されなくなった
そこでも曹操はその騎馬の突進力でなく機動力に注目して
側面や背面に素早く回り込み勝利をものにした
その戦法が確立したころに呂布や董卓が出ていても
軽くひねられていたww
よくいえば「時代の寵児」だったわけ
悪く言えば「正史三国志の二人の評価」となる
軽狡という言葉のニュアンス考えろっての
軽狡だから知力高いとかアホかと
>>693 いいから早く軽狡が山賊と関係するのか教えて
あほは適度にかまってやればいいと思う
スレの栄養にはなるからねww
はっきり言ってあほすぎて楽しい
俺が釣られているのではと思うくらい
見当違い奈書き込みで面白い
だから言葉のニュアンス考えろって言ってんだよ。知障か?
基本30。「軽狡」考慮して35。
これでいいだろ
>>696 知障はお前だ
説明できないからって逃げているだけだろうが
>>691 この妄想君は夷陵で劉備が負けた理由が火計で陣のほとんどが業火になったって言った奴だろ
わざわざ説明するのも馬鹿馬鹿しいことなんだよw
>その戦法が確立したころに呂布や董卓が出ていても
はあ?何時何処で軽く捻られたんだ?
董卓なんて殆ど袁紹曹操とは戦ってないし、対策ができるw頃にはぶつかっていない。
呂布にしても曹操下手すると死んでるぞ。青州兵30万という物量で何とか勝っただけの癖に。
張シュウにも曹操は二度もボコボコされているぞ。
公孫サンにしても界橋で負けた後も、何度も袁紹軍を返り討ちにしている。
対策なんてできてねーよ。
>>699 そいつとは別人だが、劉備が負けた理由はそれ以外ないな。
まさかお前劉備の陣を力で落としたと主張していた馬鹿かw
妄想って何のことだよw
言葉のニュアンス理解しろっての
「軽狡」は知力に重点がある言葉じゃない
そんくらい分かれよ
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/06(水) 21:20:10.42
史書に火計で陣を破ったと書かれていたのに、
一斉攻撃したら勝てたとか笑える珍説を主張していた馬鹿が前スレいたなあ。
その馬鹿いわく、火計を使ったのは最初の陣だけ。後は使ってない。
だもんなw
>>689 乗馬技術で中央に行ったってことは書いてないね
そこは
>>687の虚言
ただしその戦闘能力を買われたのが就職のきっかけだったのは正史に書いてある
後漢書呂布伝
「以弓馬驍武給并州」(弓馬に優れ武勇に秀でていたことで并州に仕えた)
正史三国志呂布伝
「以驍武給并州」(武勇に秀でていたことで并州に仕えた)
>>701 「軽狡」だから知力高いとか言ってるバカには何言っても無駄w
>>692 対騎兵対策は黄巾賊乱前からとっくに実用されとるわ
というか前漢の頃には既に確立した技術だぞ
>>702 頑張って調べたのかww
お疲れちゃん
自分でだんだん「騎馬のみであることの優位性が失われていく過程」
を発表してくれてありがとうww
ちなみに西のヨーロッパでも「ガリア戦記」というもので
同じような現象が見れるんだ。
面白いだろ。ちなみに同じように馬を駆る辺境の民を
一つ下のように表現してるところもにてるんだけどな
>>704 正面から力攻めしたら防がれたとあり、その後火計でせめて勝ったとあるのに。
最初の力攻めは威力偵察!最初の陣だけ火をつけただけ。その後は火なんて使ってない。
破とあるから火は使ってない!
馬鹿じゃないかと思ったね。
>>711 当時を少しでも知っていれば、最初から最後まで騎兵優位を証明する事でしかないんだがね。
>>713 全て論破されて逃げた奴がなにを言っているんだwwww
呉ヲタには何を言っても無駄だよ。
このスレの孫堅孫権を妄信する奴がいただろ?たぶんそいつ等だろうから。
都合のいいように曲解するだけ。
>>716 何時何処で論破されたんだよ。w
最後反論まっていたらスレ落ちたんだけど。
>>705 辞書くらい引け
軽狡の意味は「奸智に長け不誠実な様」だぞ
要するに頭は回るがクソ野郎ってことだ
>>718 975 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2012/05/09(水) 22:03:10.87
>>974 赤壁でも普通に劉備軍がやった事だな。
別におかしくも何とも内。
これが嘘と論破して反論を待っていたら逃げてスレを落としたんだろ
戦国時代末期の趙に李牧という名将がいて
彼が対匈奴用に編み出した戦法がありましたが
それは柵を陣地に立てて匈奴の突撃に対抗したいわゆる防衛撃退の戦法で
匈奴を敵地に乗り込んで撃滅する策ではありません。
しかもまさか襲われる民家や耕地に柵を巡らすわけにも行きませんから
防衛撃退といってもしかるべき陣地と兵隊さんを守る柵ということになります。
匈奴もお馬鹿さんではありません。
食糧さえ手に入ればいいわけですから収穫期の農地に忽然と現れ
出来たばかりの農作物をかっさらっていくという戦法に出てきます。
それを撃退しようと兵を出しても匈奴は機動力にまかせて神出鬼没
あっちに出たりこっちに出たりなかなかつかまりません。
で、敵の根拠を叩きにいけば精強な騎馬軍団に逆に叩きのめされる不毛な
繰り返しが漢民族にとっての匈奴との戦いの歴史でした。
前漢の前に対策だけならあることくらい知ってるよww
もっと三国時代のうねりになる対策をあげたんだよ
ちなみに漢中の劉備、諸葛亮の北伐もよく似た戦法だった
あっ710ね
>>711 ガリア戦記は騎兵の強さが圧倒的で立て篭もって耐えるしかないってことを教えてくれるいい報告書
前漢の頃から騎兵対策は予め準備しておかないと何も出来ずに負ける戦いで
後漢になってもそれは変わらない
前漢の霍去病、衛青や後漢では公孫サンなど「騎兵に勝てないなら自分で騎兵使えばいいじゃない」という
実にわかり易い発想で騎馬民族を打ち倒す連中も出てくるが
これは騎兵の優位性の証明にしかならんな
>>719 現代の辞書でどうなってるかはどうでもいいんだよw
三国志でも晋書でも
軽狡は性格に重点に置いたニュアンスで使われてる
陳寿の呂布評も明らかにそう。文脈から分かれよ
重点に→重点を
>>714 おまえ何歳だよwwwwwwwww
糞ワロタwwwwwwwwwwww
騎兵が優位なのは当たり前だよ
その優位性を潰すやり方がでたり
さらに運用を工夫したりが出て面白いってこと
ただ騎馬でドカーンじゃ勝てなくなってきたってこと
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/06(水) 21:44:55.61
>>720 俺は赤壁で劉備が逃げる曹操に火をつけた事例を書いたはずだが?
山陽公載記に書かれている事例。
>>721 はい、0点
漢人と匈奴の戦いは光武帝の頃からの分断政策が功を奏して
明帝の頃には南匈奴と北匈奴を争わせる形で
漢軍ではなく匈奴の騎兵がもう一方の匈奴を叩く用心棒として雇われていたので
そのような間抜けなことはなくなった
もっとも前漢の頃も武帝がボッコボコにした後は大人しくなってそんな間抜けなことはやっぱりなかった
対策される前の話だけ切り取っても意味がない
後漢末に入るまでは夷を以って夷を制す政策がそれなりに機能してて
北方の非漢民族は漢王朝によって相当大人しい
軽狡は言葉通りに受け取ればいいんじゃないかな
つまり軽くて狡猾
軽狡の後に続くのは性格に関する悪口が多い
狡よりも軽に重きがあると思われる
>>723 裏切りまくる男、先の利には敏いって書いてあるんだから
やはり不誠実で奸智に長ける奴のことだろ
文脈から判れよ
>>726 で劉備が火の中に入って攻め込む箇所は?
「先の利には敏い」ってどこに書いてある?
奸智に長けるw
そこまで褒めてねえよ
単に軽くてずるい奴
>>730 火の中に入るってのがわからん。
逃げる相手に火をつける事例としてあげた。
火をつけて陣を落すケースも良くある話。赤壁だってそう。夷陵もそう。
陣地や周辺に火をつけて、混乱している相手を追撃する事を、
火の中に入るというのなら確かにそうだな。赤壁がまさにそうなんだが?
軽くてずるい奴なんてどこにでもいるな
そういうタイプの人間ってことで、
取り立てて知力を褒める意図はなかろう
>>731 唯利是視
それしか見てないから利には敏感だろ?
ずるいというのは馬鹿という意味じゃないぞ。
上手くやっているという事でもある。魅力は減点されるだろうが知力には加点だろう。
知力30だったら、部下のまともな進言を取り入れられるのかって気もするけどな
能力値の定義というか、数値いくつでだいたいどんなもんか想定しないと
不毛な議論を抜け出せないんじゃないか
>>732 ずるいっていう言葉が「奸智に長ける」という意味だよ
奸智の別の言い方は狡猾、狡知などなど
頭は回るがその使い道に品性が無い様子だ
>>737 >>7の定義使ってるから数字の基準もそれに合わせてる
0代 =逆にすごい
10代=ゴミ
20代=ろくでなし
30代=苦手
40代=凡人
50代=可もなく不可もなく
60代=まあまあ
70代=優秀
80代=一級
90代=超人
100 =神
こんな塩梅
軽くてずるくて利益にだけ目を奪われる
要するに小人物って言いたいんだろう
当時の儒教社会じゃ呂布みたいなのは嫌われる
だから陳寿の評も辛くなってるんだな
>>722 ガリア戦記は土木技術で「後手の先」をついて
敵騎兵の機動力を逆に奪っているなんてあんま書くとスレ違いなので
「劉備が、諸葛亮がガリア戦記をよんでいたら」で締めくくります
>>740 知力30台=苦手なら、部下のまともな進言もどんどん斥けそうな気がするが・・・
たとえば、徐州乗っ取りなんて、そこそこ知力が必要な気がするけど
「ろくでなし」一歩手前の「苦手」レベルの人間にそれが出来るんだろうか
>>742 劉備はそもそも騎兵の指揮が出来る側だし
諸葛亮は野戦築城技術を相当に研究してるから
読んで無くても関係ない罠
ずるいじたいは別に馬鹿という意味じゃないんだがなあ。むしろ評価すべき点。
ただ高順も言っているように、熟慮せずにその場その場の判断で動いているから、
目の前の小利に飛びつきすぎなんだろ。
めまぐるしく状況の変わる戦場では機敏な判断は必須である。間違っていたらまた変えればいいだけだしな。
熟慮して正解にたどり着くよりいい場合が多い。
ただ国家運営となるとある程度判断に時間をかけたほうがいいケースが多いわな。
>>743 無理だよね
また何度も裏切りを成功させるってことは
それだけ相手の知力による防御を抜いての謀略に成功するってことだから
最低でも可もなく不可もない50代でないと史実の呂布を再現できない
>>742 引きこもって耐えるしかありません、騎兵最強!というだけの話の書物だろw
ボロ負けだったのが、少し耐えれるだけになった程度で何誇張していっているんだよwww
>>733 東南の風が吹いているのに、西北へ業火の中攻め込む説明をよろしく
それの問いに劉備を出してるから元々反論になっていないんだよ
劉備は逃げられた後に火を付けただけ
あなたの主張は火が燃えている方向に攻め込んで無事な理由がないんだよ
>>739 「ずるい」と「奸智に長ける」じゃニュアンスが違うよ。
「ずるい」をあえて別の言葉で説明する場合、
「奸智」とか大げさな言葉使う必要があるんだろうが。
実際は「ずるい」は「卑怯」に重点置いた使われ方が多く、
「奸智」は「智」に重点を置いて使われることが多い。
もし呂布の知力を褒めたいなら「狡」ではなく「智」を使うだろう。
あとゲームとの関連で言えば、知力が低いと戦場で計略にかかりまくる。
長期にわたる展望がないなどの批判はあたってるかも知れないが
それだけで知力を下げすぎると色々と不具合も出てくるんじゃなかろうか。
>>744 おめえわかってて書いてるだろww
ワザとに二人に不必要なもの書いて
いるもの書かないってww
劉備は補給経路を上手に作れなかった
諸葛亮は補給経路は作れたが、騎兵をうまく生かすための
指揮系統が作れなかった
いいかたで人って貶めれるよねww
>>749 ずるい云々は君の勝手なイメージだわ
呂布の知力を褒めたいんじゃなくてその知力そのものを貶めて
「徳がなければ人は滅ぶ」っていう儒家の主張そのものを表現しとる
だから「こんなんで破滅しない奴はいない」という評価まで下してるのが陳寿
>>751 劉備は三国志において最も補給の上手い一人だぞ?
長期キャンペーンを何度も敢行してその全てにおいて一度たりとも補給難で負けたことがない
それを補給経路構築下手とか…
また逆に会戦において圧倒的な強さを発揮する諸葛亮は指揮系統構築の鬼
2人の得意なことを出来ないことにしてどうすんだ?
>>748 とりあえず逃げたのは議論から逃げたのはお前でいいな。
で、火がついているから、曹操は追撃しませんと手をふって見送ったと抜かすか?
千載一隅のチャンス逃す馬鹿はおらんよ。
>それの問いに劉備を出してるから元々反論になっていないんだよ
>劉備は逃げられた後に火を付けただけ
曹操は劉備が火をつけるのを読んでいる。
風向きは東南の風(史書によっては南風)その状態で火をつけながら劉備は追撃しているわけ。
だから曹操は泥地を埋め立てて騎兵を素早く通して逃げたわけ。
逃げられたから火をつけたんじゃないよ。火をつけたけど火が回るより曹操が速かっただけ。
そして劉備をだしているが反論になってないが意味不明だな。
結論としては、
陳寿は呂布の知力を褒めてない。
陳寿は呂布の人格を貶めてる。
ただし陳寿の呂布評には悪意が含まれる。
こんな感じだな
>>756 使い方は褒めてないが悪知恵が回るとは評価しているだろ
劉備は沼地に曹操を追い込んだ、曹操の騎兵は通れない、火が回り退路が絶たれ劉備に追いつかれるとやばいので、
歩兵に埋め立てさせて騎兵だけでも渡って辛くも脱出。
歩兵は当然逃げ遅れただろうから、火に巻かれるか、劉備軍に追いつかれて、
かわいそうな事になったが曹操が死ぬよりはいいから仕方ない。
火をつける判断が劉備のほうが遅かった。曹操はそれを読み退路を作った。二人の差がよくわかる構図だ。
ていうか曹操がいなくなったからって、曹操軍がいなくなったわけじゃないんだがな。
曹操軍の騎兵はいなくなっただろうが。
軽狡は人格に重点置いた言葉だよ
ずるく立ち回ろうとする奴ってこと
頭を褒める意図は特にないだろう
>>755 >風向きは東南の風(史書によっては南風)その状態で火をつけながら劉備は追撃しているわけ。
だから、どこにそんな事が書いてあるんだ?
>>761 だから曹操を追撃しているときに、劉備が火をつけているだろ。
曹操は劉備が火をつけたら全滅するから、急遽埋め立てて退却。
曹操の言葉どおり劉備は火をつけた。
>>758 劉備は年単位の長期戦役が結構多いんだよ
正史には直接的に書いてないけど年表見りゃわかるから年表で劉備の動き追ってくれ
にも関わらず劉備本軍が補給難に陥ることはない
曹操なんてのは補給し易い中原で戦っててもしょっちゅう補給難に陥るし
ホームで戦ってるのに兵糧切れに陥った官渡とかかなりやらかしてる
劉備のスタッフの優秀さもさることながら劉備の指揮そのものがしっかりしてることと
攻勢限界を見極めた遠征、それに合わせた補給戦の確保
諦めない精神力も相まって三国志でもトップクラスの軍指揮官なんだわ
諸葛亮も本人の伝と注釈読めばわかる
会戦に限って言えば諸葛亮本人の率いる軍が負けたことは一度もない
会戦の強さは指揮、命令系統構築が結果に直結する
会戦に強い諸葛亮が指揮系統構築下手というのはおかしいよ
そして蜀の軍が歩兵オンリーというわけでもないし騎兵の指揮系統構築できなかったってのも間違いだろ
呂布の知力は
>>740でいう苦手レベルで矛盾はない
苦手なら参謀がしっかり補佐すればいい
ろくでなしレベルじゃなけりゃ、そこそこ行けるだろう
まあ40あるかないかってとこじゃないか
>>765 凡人と言うには洛陽での政争、長安でのクーデターで頭が切れ過ぎる
袁術と劉備の仲裁で徐州のパワーバランスを均衡させて独立を保とうとするような思考
これも苦手とか凡人かね?
ろくでなしレベルじゃね?
陳宮の補佐があっても敗北
>>759 流石に自軍の兵士ごと埋め立てるのは・・・
劉備もそこまでは予想できないって。
いくら歩兵は退却戦ではお荷物だからってねー。
>>768 埋め立てたのは疫病にやられて行軍もままならない兵士
その兵士に埋め立て作業もやらせてイザとなったら兵士も埋めて逃走経路にした
>>767 陳宮の補佐を受け入れてないからな。
陳宮は呂布の昔からの配下と仲悪かったし。
自分が打って出た場合後方が不安になるのは仕方ない。
それに水攻めまではね。
徐州の人間はほんと踏んだり蹴ったりだな。おそらくこれで後の影響を考えれば何万と死んだだろうに。
>>763 放火したとしか書いてないな
火をつけながら追撃したとは書いていないぞ
>>769 合理的といえば合理的だし。
そこで曹操が死ぬ危険性もあったわけだから、その判断は正しいんだろうが、
外道すぎるw
才能ない人間にはまじで容赦ないなあ。
>>771 赤壁で放火して本営までやいた。
その後追撃して曹操軍に火を放った。
ここまで火をつけまくってて、火をつけながらじゃないというのか?
>>772 徐州作戦でぐぐるといいよ。
徐州会戦で大敗して主力が包囲殲滅されそうになったので、
黄河の堤防壊して周辺を水没させて日本軍の追撃を防ぎ、
日本軍占領地の焦土化も同時に達成させた。
住民?なにそれ?100万人くらいそのうち増えるよな世界。
曹操、せっかくエン州を得たのに要所を固めてない呂布を「無能」呼ばわり
>>775 根回しもろくにしてない決起だからやりたくても出来ないってのが実情だろ
全ての郡県が呼応し、荀ケの籠もる鄄城を攻める兵力も行動力もある。
無いのは知能だけ。
>>777 荀イクが呼応してなかったところ抑えたりしてるから
全て、というわけでもない
>>772 曹操が父親の仇に何の関係もない徐州の人民を焼き討ち
劉備が成都に侵攻した時蜀の臣が焦土にしてしまえば勝てると進言
シナの恐ろしさの一環だわ
>>773 強風で火が燃え移るスピードよりも早い行軍ってそれこそ日本軍レベルだなw
荀ケの籠もる鄄城を攻める兵力も行動力もある。
無いのは知能だけ。
>>779 ちなみに救助したり、堤防の修理をしている日本軍に攻撃を仕掛けるという徹底っぷり。
数千人は日本兵が溺死しているといわれているから、作戦的には成功といえるだろう。
>>773 火をつけながらだと山陽公載記と食い違うな
曹操は劉備が火をつけるのが遅いって馬鹿にしてるんだから
>>764 劉備はほとんどの戦で寡兵しか率いてないからその評価は
何ともね。しかも本番は夷陵でアボンww
蜀侵攻だって実際は「呉」の傭兵隊長としていってホウ統の
お目付で「戦わされた」というところ。という説もある。
だから最初から最後までホウ統は呉の臣。
つまりほとんどの戦がやとわれマダム。自分の通帳はあまり使ってない
諸葛亮は負けない戦ばかりして勝負していない
軍の規則が厳しかったのは認めるがその評価は?
>>762 いいえ吊
ほうトウがお目付けだったら逆に劉備凄いな
呉のお目付けを戦闘で事故死させて独立を図った事になるな。
劉備の政治力と戦略眼は三国志屈指だろう。
>>783 具体的に抜き出してレスアンカーで良いから張ってみては?
陳宮がいたのに呂布が失敗したのは呂布の責任って主張するだけなら誰でも出来るけど
そも陳宮の知略が呂布に無謬の判断力を提供できるほど圧倒的に優れたものであるなら
陳宮という人にはその呂布さえいらんのだよ?自分で無謬の判断力使って生きればいいだけだ
実際賈クという人はそういう生き方をしてる
呂布の失敗は全て呂布、成功しそうだった反乱の功績面は全て陳宮とかおかしいでしょう
>>786 劉備が長期キャンペーンを行うようになるのは大兵力を持ってからだよ
ちゃんと調べような
あと孫権の財布で行動したのは江陵落とすまで
以降は荊南を自領として全部自弁してるよ
というか自弁させるために荊南の支配権を劉備に譲ったのだぞ
諸葛亮は会戦すれば負けない圧倒的な強さを誇る三国時代屈指の名将だぞ?
本来被害を覚悟しなければならない撤退戦でも2人も名前のある魏の指揮官打ち破ってる
諸葛亮伝では司馬懿との直接対決もちゃんとあって結果は諸葛亮の圧倒的勝利
司馬懿は大量の軍需物資と精鋭の首3000を奪われる大損害を出して逃げ帰ってる
そして以降、諸葛亮が死ぬまで会戦せずとにかく帰るのを待つ持久策で何とか粘った
司馬懿の割り切り方も凄いがその司馬懿をして
何やっても会戦じゃ勝てないと思わせるほどに諸葛亮の軍は強いわけだ
>>782 >知力に帰結するという根拠ないよ
>>788 >呂布の失敗は全て呂布、成功しそうだった反乱の功績面は全て陳宮とかおかしいでしょう
>>775までさかのぼれっての。エン州の話で呂布が無能って話は
>>775開始なんだから。
根拠がどーとか「〜おかしい」とか、どうでもいい。
人を見る目のある曹操の意見は非常に重要。敵を褒めることもある曹操がけなすんだから。
>>788 >陳宮の知略が呂布に無謬の判断力を提供できるほど圧倒的に優れたものであるなら
陳宮という人にはその呂布さえいらんのだよ?自分で無謬の判断力使って生きればいいだけだ
実際賈クという人はそういう生き方をしてる
意味不明w
>>786 定番の釣り宣言の逃げでまたまた論破完了
妄想君は何度論破されれば気が済むのかなww
>>792 さみしかった?ごめんね。
劉備の戦績を判断できそうな記述を集めてみました。
校尉雛靖に従って黄巾賊を討伐し、功を挙げる(蜀書先主伝)
青州従事に従い張純の討伐に向かうが、手傷を負う?(蜀書先主伝 注の典略)
都尉毌丘毅に同行し下邳で賊軍と交戦、功を挙げる(蜀書先主伝)
高唐県令の時、賊軍に破れ、公孫瓚の元へ逃亡(蜀書先主伝)
田楷と共に袁紹と交戦し、功を挙げる(蜀書先主伝)
袁紹・曹操の軍に撃破される(魏書武帝記)
徐州で曹豹と共に曹操を迎撃するが、敗れる(魏書武帝記)
袁術が来襲し攻撃を受けるが、これを阻む(蜀書先主伝)
呂布に下邳を奪われ軍が崩壊、家族が捕虜になる。兵を集め広陵を奪って袁術と戦うが敗北(蜀書先主伝 注の英雄記)
小沛で呂布に攻撃され、敗走して曹操に身を寄せる(蜀書先主伝)
楊奉・韓暹を討伐し、殺害?(蜀書先主伝)
夏侯惇と共に高順と戦うが敗れ、家族が捕虜になる(蜀書先主伝)
或いは張遼・高順の攻撃を受け、半年後に沛城が陥落する(蜀書先主伝 注の英雄記)
呂布討伐に参加し、勝利(蜀書先主伝)
徐州で反乱し、曹操の派遣した劉岱・王忠を撃退する(蜀書先主伝)
曹操の攻撃を受け、敗北、家族が捕虜になる(蜀書先主伝)
袁紹の騎将文醜と共に前線に向かうが、奇襲を受け、文醜が斬られる(魏書武帝記)
汝南の劉辟と合流し、許の周辺を荒らすが、曹仁の攻撃を受け敗北、袁紹の元に逃亡(蜀書先主伝・魏書武帝記)
汝南の龔都と合流、曹操の派遣した将の蔡陽を戦死させる(蜀書先主伝)
曹操が討伐に来ると、荊州に逃亡(蜀書先主伝・魏書武帝記)
博望で夏侯惇・于禁を防ぎ、伏兵を使い撃破する(蜀書先主伝)
十万余りの人々と共に江陵を目指すが、長坂で曹操の精鋭五千騎に追いつかれ、数十騎で逃走する(蜀書先主伝)
赤壁で孫権と連合し、曹操に勝利(蜀書先主伝)
荊州の四郡を征討し、武陵太守金旋・長沙太守韓玄・桂陽太守趙範・零陵太守劉度ら全てを攻め降した(蜀書先主伝)
劉璋を攻め、涪城を占拠し、迎撃に出た冷苞・劉璝・張任・ケ賢を撃破して退却させる(蜀書先主伝)
龐統が戦死するが、劉循・張任の守る雒城を一年程掛けて陥落させる(蜀書先主伝)
漢中に進軍し、夏侯淵と一年程睨み合う(蜀書先主伝)
定軍山で勝利し、夏侯淵・益州刺史の趙顒らを斬る(蜀書先主伝)
2ヶ月程曹操の攻撃を防ぎ、退却させる(蜀書先主伝・魏書武帝記)
呉の討伐に向かい、秭帰を制圧し、武陵等を離反させ味方につける(蜀書先主伝)
7,8ヶ月対陣するが、夷陵で陸遜の火計を受け、大敗(蜀書先主伝・呉書陸遜伝)
>>790 だからそれが陳宮の根回しが不完全な中でのことで
水も漏らさぬ配備なんて呂布には出来ない状況
それに陳宮の人脈で行われた決起なのだから
これは呂布のミスではなく陳宮の失策だろ
あと曹操は負けた時によく嘘を言う
宛での敗戦の時も二度と負けないと言いながらしょっちゅう負ける
この時も呂布に負けたけどまだ勝ち目があるという鼓舞のための罵倒であり
事実に即した評価とは到底言えない
>>791 賈クは状況分析においては正史三国志の中では筆頭に挙げていい人物で
無謬の判断力を張繍に提供した
結果、そんな完璧な状況把握によって賈クは上手く降伏を選び
張繍を差し置いて曹操政権の中で成り上がった
>>793 江陵落として以降の劉備は農繁期とか無視して平気で長期間の闘争する
これって凄いことだよ
続き
劉備の戦のどれ?
蜀侵攻?漢中攻防?
孔明君は
書き方だけで、結局退却してるから。負け戦ばかり。
撤退なんだから。
同じような状況で北伐成功させている中国の他の名将と
比較するといいよ。
ただ怖いのは人のせいにして自分の保身を図ったのかなと
いぶかしく見てしまうシーンが多いこと。
リゲンやリョ立だっけ?は彼らが一方的に悪いように
書かれてるが・・・・・・・・・・
>>796 江陵以降全て
周瑜の江陵攻めは周瑜の独力じゃなくて劉備との連合で行われてる
そして江陵を落とす前に荊南四郡を落としてる
この時に孫権は劉備の四郡領有を認めているので
これ以降の戦費を劉備が孫権に頼ったということはないだろうね
>>796 負け戦ばかりというけど武都陰平とか切り取ったりして成功もあるんだが
この時の諸葛亮は別に撤退したんじゃなくて普通に魏に勝利してるよ
正史三国志読もうぜ
>>797 君が劉備びいきなのはよくわかった
しかし先にも書いたように「呉」はそう思っていない
この辺は研究に値すると思うが、本題からずれるので。
>>799 呉はそう思ってないってどういうことだ?
具体的にどう思ってないか書かれないと賛成も反対もできんわ
全員一時撤退
部と隠蔽wwwww鼻くそぷっ^^
で、北伐は何勝何敗?
そして広げた版図は
その後、兵站に困ったがそれで成功?
戦果は広げた版図これ基本ね。
あと呉ね
周瑜の遺体を引き取ったのはホウ統←遺体は親しいか後継者が引き取る
劉備の嫁孫夫人は呉の記述にない←なにかあってふれない
蜀をおとしたときこの嫁は劉禅誘拐している←呉に対して重大な裏切り?
ホウ統は周瑜に遺志をつぎ蜀遠征←劉備に暗殺された?
孫夫人をめとるということは孫呉の感覚ではおそらく「手下になる」
ということ。怒って帰った上に誘拐したのは・・・・・・・・・
また、「劉備が呉との約束を次々と反故にして独立を勝ち取った」
としたほうがのちの呉の行動が合点がいく。
他にもあるが今宵はこれまでにしとうございます
>>802 武都、陰平は涼州の大半とは言わないまでも
何割かの人口を抱える重要拠点なんだが
三国鼎立以降蜀の滅亡まではあまり領土が大きく動いてないとよく言うけど
この北伐で蜀は上記の領土と人口を奪い取る大戦果を挙げてる
同世代でここまでの大戦果挙げてる人はいないので凄まじい戦果だな
諸葛亮の北伐で魏が得た領土は0なので蜀1勝、魏0勝、つまり1勝無敗だな
呉に関しては妄想が酷すぎる
ホウ統は「江陵太守」周瑜の功曹
つまり地元の統治協力者という位置付けな
上司の遺体を引き取る部下は三国志でも珍しくない
劉備が呉の風下にいたってのは孫権に詣でたりしてるから
ある程度当たり前のことだけどそれって何に対する反論なの?
ただし呉書にもあるように上下関係はあるけど部下じゃなくて同盟者だぞ
途中まで資本を出してるのが孫権だけなんだから上下関係は出来るわな
孫堅が袁術の手勢になったようなもんで飯や金握ってる方が強いってこと
>>804 一勝無敗で自分を降格した諸葛亮先生ww
同世代でって陸遜のことはなしですか(゜o゜)
(石亭のなんたら)
知識自慢はする気ないけどむごいね反論が
もう少し話せるかと思ったが・・・・・
蜀遠征で言うなら長距離の遠征で「呉」がバックにいたから
兵站等崩壊しなかった。さらにうまいこと途中まで劉璋に
さも味方のようにして近づいた。
漢中は撃退した戦で遠征とはちょっと言い難いし、
その他は長期大軍?とはいえない。その後夷陵だが、ポカしてる。
劉備をほめるなら撤退上手というところか
勝率も五割くらいかな。
これで割拠できたのは逆にすごい。
>>806 アンカーミスだねww
>>804にしないと
武都、陰平が重要拠点ww
北伐は一勝〇敗ww
諸葛亮の同世代に陸遜はいなかったことにして
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>805 武都陰平が重要なところだった事も知らないのね
正史読もうか
「戦果とは領土の拡張である」という定義をされたのでそれに従ったんだよ
蜀は領土奪われてないから諸葛亮の北伐は1勝0敗
石亭の戦いで呉が得た領土は実は0なんだ
つまり0勝なのよ
何故諸葛亮が自分を降格したのかというと最初の北伐では
勝利を公約して出陣して失敗したのに勝利しなかったから
さすが諸葛亮、公平だね
蜀遠征には呉はバックにいない
呉との共同作戦を断って劉備単独でやってるのに
バックにいたなんて馬鹿げたこと誰が言うんだよ
漢中は遠征して敵の拠点を奪い取り、
その奪った拠点を奪還に来た曹操を撃退する戦い
お前さんの基準が狂ってるから判断も狂ってるな
夷陵の戦いも補給は失敗してないぞ
勝手にポカしたことにするな
勝率とかあまり意味ないけど書いてある分だけでも7割くらい勝ってるぞ
半分も勝てないような奴は昭烈帝になれない
>>808 楽しいねww
君の屁理屈は
勝利を公約して勝利をしなかったからとかもうねwwwwwwwwww
出陣して失敗wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
でも負けてないそれはお前の基準wwwwwwwwwwwwwww
あとすいませーん書いてる以外で君の大好きな劉備の戦あったら教えて
下さい。あと勝敗表(君基準でいいよ)も教えて
つか赤壁で援軍もらって曹操撃破したことと、
コウリョウの半分をもらったことくらしか呉には借りはないからな。
赤壁は呉にとっても防衛戦争であるし、孫権は劉備やシュウユが曹操と対峙している隙に、
北伐して(失敗したが)上手く利用しただけだし。
でコウリョウ攻めは関羽張飛を派遣して協力しているので半分貰う権利は十分ある。
入蜀にいたっては呉は全く関係ないぞ。
劉備がどこから劉章を攻めたのか、その経路を少しは考えろ。
呉から支援など送れるような場所じゃない。張飛や巴蜀を落すまで完全に劉備軍は孤立しているんだから。
_, ._
( ・ω・) バカはROM専に徹してりゃいいのにね
○={=}〇,
|:::::::::\, ', ´
.wwwし w`(.@)wwwwww
>>809 俺の基準でなくて
>>802の基準だけどな
文体似てるし君と同一人物として話を進めるけど
戦果というのは広げた版図である、という定義なら魏は蜀に対して戦果0なので0勝
逆に蜀は武都陰平を切り取ってるので戦果が合ったので1勝
版図なんて変な言い方しなければもっとちゃんと勝ち負けの数字も出すけど
君が君自身の定義だと諸葛亮は成功してないって言うからそれに対して反論してるだけだよ
劉備の戦績について
>>793で上がってる分は
「一会戦での勝敗」と「一戦争での勝敗」をごちゃごちゃにしてるから勝率として計算するに値しない
また複数の戦いを一つにまとめて最後だけで判断したり最初だけで判断したりしてて無意味な上に
劉備の参加した戦いを省いてる
江陵包囲戦、成都包囲戦、他にも曹操の北伐中の侵攻作戦など一切無視してる
しっかりと個別の戦場での勝敗でカウントするならもっと勝ち負けそれぞれが増えるけど
割合は勝ちが多いので5割どころの話ではなくなる
戦争単位での勝敗だと劉備が戦争指導を行うプレイヤーとしての立場になった赤壁以降になる
これも7割程度勝ってる
劉備は七割の勝率なのに
辺境に割拠しかできなかった無能なんだね
人徳や、性格に難があったんだろうかなww
曹操が八割くらいだから、大きな差だね
あと、君基準の北伐勝敗も頼むよww
第一次から第五次というとらえ方でもいいし
会戦事でもいいよ
>蜀遠征で言うなら長距離の遠征で「呉」がバックにいたから 兵站等崩壊しなかった。
呉の支援があったなんて史書の何処にも書かれていない。
>さらにうまいこと途中まで劉璋にさも味方のようにして近づいた。
劉備はその後一年以上も戦っているわけだが。
>漢中は撃退した戦で遠征とはちょっと言い難いし、
漢中は遠征して征服した土地だぞ。その後曹操の攻撃を防いだだけの話。
これが遠征でないのなら遠征って何?
>その他は長期大軍?とはいえない。その後夷陵だが、ポカしてる。
夷陵にしても劉備が補給に問題をきたした事はないな。
やり直しだな。
逃げたwwwwww
人の批判はできても、自分で仮説は立てられない
そして人の上げ足ばかり。
一番会社でいらない人間
仮説w
お前の妄想仮説とか誰も相手にしないから、これだから呉ヲタは・・・
会社でいらない人間乙ww
早く答えろよwww
当時の呉人の評価が
諸葛亮と、大兵力を与えられながら防戦一方になってた司馬懿の差ははっきりしてる
だったのは禁句なんだろうか
>>818 禁句じゃないよ。よく調べれば「呉人の妄想乙」
となるだけ。
二回、三回は蜀のほうが多いいしその他も倍と半分というほど
動員した兵士に差はない。
早く答えろよww
蜀が雑魚なのは関羽みたいな弱い将軍を茨州の総大将にしてるぐらい人材不足なんだろwww
>>819 なるほど。その2回、3回で司馬懿はどんな活躍したので?
陳寿曰く「諸葛亮は戦略戦術に暗く、戦場での臨機応変の才が無かった」
戦略戦術に暗いなんて言ってないだろw
そうだよな
早く答えろよww
きっと会ってきたんだろ
妄想の中で
ていうか陳寿も兵力いっぱい持ってる方が引きこもり戦術取ってたらそら膠着するよ言ってるし
お前ら結局、誰の能力を決めたいんだ?
本当に決める気あるか?
前スレの夷陵からずっとこんな感じ
前々スレでは雑言あれど能力査定という軸はまだあった
>>831 そのスレにいたものだが、みんなで決めないから論争にならないだけで、
三国志の人達だけみても。数値はてんでばらばら。
曹操なんて何度かでてくるけど、かなり違う。
大国を作った事で統率を高めに見る人と、何度も反乱起こされているので低く見る人。
状況判断に優れているので知力を高めに見る人。逆にいつも周囲敵だらけなので低めに見る人。
魅力も人によっては差が激しい。どっちのエピソードも多いからな。
戦闘だけは多くの人から及第点をもらっているので80から90の間で安定しているが。
これをみんなで決めようと議論したらそりゃあれる。強さ議論みたいなもので結論もでないしな。
俺の場合曹操は戦はとことん強いし、それをいかす戦略眼や養うための、屯田などで政治も高めにみるが、
周囲の状況に救われたケースがけっこう多いし、外交などは基本ダメなので知力は低め。
とっさの判断は正しいが、その前の判断が根本的に間違っているといったら分かるかな?
戦闘90、知力50、政治85、魅力80くらいと、こんな感じになる。
こりゃあかんわ
結局、妄想君はホウ統が呉のスパイっていう根拠も出せずにまた逃げたのか
仮説って妄想が根拠で語られても議論にならねーよ
早く答えろよww
>>835 どうした?
元の発端はホウ統のスパイによる呉の援助だから
それに答えて貰わないとなにも言えないんだが
論じてそれに反論なんて粕でもできるww
早く答えろよww
妄想だから答えられないと
また、逃亡かw
>>837 今まで反論しかしてこなかった妄想君は自分が粕だって認めたんだねwww
ホウ統が呉に仕えていたとする
じゃあどういう動機と得がホウ統にあったか?ということになる
その辺スパイ説ではちゃんと説明できるのかな
お前らまだやるのか・・・出来れば別スレでも立てて欲しいものだ
ところで、
>>840は前提と質問が矛盾してるんじゃねーの?
そういや説って誰が言っているの?
>>841 矛盾してないでしょ
ホウ統が呉に仕えてるとしてその場合、彼にどんな動機と利益があるの?ってことなんだし
>>842 ネット上で有名なのはいつか書きたい三国志とかかな
>>843 今、読んできた
呉の連中と仲良しだからが理由らしいな
まああのサイトは正史研究してもう一つの演義を自分で作るってのがコンセプトだから
珍説ほど好む傾向にあるし物語としてなら面白いよね
ソノサイトの本人なんじゃないのかw
呉の監督なら劉備がほう統が死んだのを悲しむわけがない。
そして同じく参謀をしていた(名前忘れた)人がほう統なんて大したことない。
自分がいるから大丈夫とか励ます意味もあったんだろうが、空気読めない事言って、
庶民に落とされる事もないよ。軍の参謀二人も失って厳しい状況に劉備が自らする必要もない。
ああいう笑える説は多くの他の史料を無視して、自分の仮説だけを信奉して出来上がるものなんだよなあ。
知力=参謀の資質
政治=政治家の資質
これでいいよ
厳白虎は智謀70くらいあっていい
なんでだよw
何でって当たり前だろ
参謀としての仕事はあんましてないからだよ
>>847の定義だと、
程イクの知力は93くらいだな
統率・・・組織の統括能力
武力・・・戦術指揮能力
知力・・・参謀の資質
政治・・・政治家の資質
魅力・・・カリスマや人徳
魅力は
>>7でいいよ
名門はそれだけでカリスマあるが、個人の魅力とは別
>>855 魅力に限らず
>>7でいいだろ
わざわざ横車で新基準持ち込む奴の気が知れない
>>857 >>7の定義からいくつか要素を差し引いたものを新定義にしようとすんなよ
>>859 定義の解釈のみならず各自の評点の基準、功績を還元する方法論が全員違うだけだな
ということはそっちを揃えればいいのであって今から能力定義の作り直しを肯んずもんじゃないだろ
>>858 新定義書くのは自由だろ?
いちいち突っかかってくんな。うぜえ
>>853 呂布が曹操の留守中エン州を攻めてきた時に守り抜いた
曹操が呂布に破れて袁紹と連合しようとした時これを諫めた
袁紹との戦いでは袁譚・袁尚を討伐した
劉備が孫権を頼った時多くの者は孫権が劉備を殺すだろうと予想したが、程cは両者が連合して対抗するだろうと予測した
曹操が馬超と戦っている時、曹丕の軍師として城を守った。賊軍の処罰に際し的確な進言して曹操をたいそう喜ばせた
>>860 理解、判断、先見、戦略
どの要素に重点置くかは人それぞれだろ
だから統一性がなくなるんだよ
大体
>>7の定義でまともに進んでないだろw
このスレも
>>514も
なんで
>>7にこだわるのかが分からん
定義自体にも問題あるとしか思えんが
>>862 参謀としての仕事は
・曹操が呂布に破れて袁紹と連合しようとした時これを諫めた
・劉備が孫権を頼った時多くの者は孫権が劉備を殺すだろうと予想したが、程cは両者が連合して対抗するだろうと予測した
これだけだな
後のは参謀の仕事じゃない
陳寿評では法正=程イク=郭嘉だな。タイプとして
>>868 実際の仕事としては結構別行動が多くて劉備べったりでないと活躍してない法正とは大分違うな
>>7 統率政治魅力の定義はよくできてるな
武力と知力は結構解釈が割れそうだ
程cは人柄に問題があってしょっちゅう論争起こしてたらしいな
参謀の仕事って情報の整理分析、戦略計画の作成とかかな
知力=参謀にした場合どれだけ使えるか
これだと程cは高そうだな
>>873 いや参謀としたらあまり大したことはやってないぞ
知恵者なエピソードは参謀としてではなく曹操と別行動取った時に多いし
いや参謀タイプだったから郭嘉と並べられてるんだろ
戦略面で何度も有効な進言してるし情勢の分析力は高い
「参謀」という言葉使うとごちゃごちゃ言い出す奴が出てくるな
「こいつは参謀じゃないから知力評価できない」とか
知力=情勢の分析力、戦略練る能力
こうすりゃいいんじゃないのか
曹操の腹心として信頼は勝ち得てるが
その行動の大半は参謀ではないね
参謀の意味をなんか勘違いしとりゃせんか?
>>876 となると戦略を練ってない人、情勢を分析してない人は知力ないってことな
定義論ってのはそういうもんだ
その定義で何を表現するか定義するんだから
それこそ定義の例外がどこにあるのか確認しておかないといかんよ
「参謀にした場合どれだけ使えるか」十分意味は明確だな
その定義で知力を設定すると参謀にした時以外では知力の存在が必要ないってことになるな
戦略練ったり、情勢分析はどの能力値に帰結させるの?
>戦略練ったり、情勢分析はどの能力値
知力に決まってるだろw
そりゃおかしい
参謀が行うのは原則軍事に関することだけだぞ
うぜえw
能力値定義以前に参謀の定義がおかしいのか
まあそれじゃあ話噛み合わないわけだ
うぜえw
うぜえだけ言ってれば話が進むと思ってるならそれでいいけど
ちゃんと知力について語ろうよ
ゲーム的には政争の謀略、戦場での策略、正しい情勢把握、正しい状況判断、先見性
経典知識、技術開発力、議論の上手さ、舌戦の上手さ、この辺りを知力として評価しているけど
ではこのスレではどうやって評価するのかな、というところ
参謀としての能力の評価が知力であるならば
この内の戦場での策略、正しい情勢把握、正しい状況判断、先見性くらいだけが評価されるということになるな
それも軍事面に限った範囲で
知力=参謀の資質
でもいいが、
知力=情勢の分析力、戦略練る能力
この方がいい
ゲームでは知力の分類に入る謀略など省いて純粋に大局観だけに絞ってくのか
中々に尖った能力だな
知力=情勢の分析力、戦略練る能力
何の違和感もないな
情報の処理と分析、その上での大局観、そして戦略だな。
知力を構成する要素は大体入ってる。
謀略も戦略の一種じゃないの?
テス
謀略と言ったって讒言みたいなものから
大規模な反乱計画までピンキリだろ
政治と軍事は本来不可分だし、
参謀が謀臣と同義に使われることは多いな
謀臣となると逆に陰謀特化っぽいのだが
本当は「知力」というパラメータなくして、
複数のパラメータに分割した方がいいんだがな
「知力」ってパラメータがあった方がスレ伸びる
もし分けるなら政略、軍略、謀略、・・・
謀は陰謀に限らない
大規模な軍略(鍾会の蜀攻略など)は
武力より知力だと思うが
>>7だと武力換算になりそうだな
>>897 まとめとかないと数値付け不可能な人出てくるから分けるのもな
>>898 現代日本語では謀臣は陰謀という側面が強いよ
荀ケ、荀攸、程c、郭嘉、賈詡、劉曄
三国志も組織が小さいころは個人的武勇がそのまま
組織の強さにつながっただろうし
組織が大きくなれば、個人的武勇とその組織自体の
強さとはかけ離れていっただろうし
知力についても陳グンの例を出さなくても幕僚や政治家としての
知力や政治力を評価してる時に、「そんなに賢いなら徐州で何で
捕まったんだ智謀でどうにかできなかったんか」的な議論になって
しまい、結局揚げ足の取り合いとなってしまう。
呂布の知力談義でも出たが謀略面を数値化しようとすると
もうわけわからんようになる。
人間の能力の数値化だからな
しっかり定義しないと難しい
引き続き任せたぞおまえら
基本的に知力=作戦能力だと思う。
作戦を立てるのに必要なプロセスは、
情報の処理、情勢判断、計画の作成、時に詭計
大体こんなもんじゃないかと。
劉備は判断力が高く、逢紀は詭計に長ける。鍾会は判断力以外一流。
この中では鍾会の知力が総じて一番高い。
やっぱ基本パラメータ以外にタイプ分けが必要だな
軍略家とか謀略家とか
丁奉 統率65 武力90 知力70 政治40 魅力65
タイプ:猛将、謀略家
こんな感じか
鍾会は判断力も一流だろ
5000が立て篭もる城にたった1万しか貼り付けないで進軍とか
頭キレッキレじゃないと出来ない凄まじい判断
鍾会の失敗の理由って何だろうね
司馬昭に予言されてたらしいが
満寵って功績考えたらもっと評価されていいキャラじゃね?
>>909 生まれの不幸によるコンプレックスにより
「功」を焦りがち
俺様スゲーしたがりな子だったというがそんなつ今の時代
ごまんといるね。
>>909 司馬文王の予言が的確
仮に鍾会の謀反が成立しても配下の兵は蜀に住まずに家族がいる魏に戻りたがるだろうし、蜀兵が直ぐに鍾会に従う筈もない。
兵符のみによって人を統制できると考えたバカの末路。
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/14(木) 18:04:18.48
鍾会はその時代トップクラスの頭脳の持ち主だな
若干人心に疎くて詰めで失敗
知力=情報の処理能力、情勢判断力、戦略計画を練る能力、謀略を仕掛ける能力
こんな感じかな
武力は戦術レベルでの部隊指揮能力。用兵や武勇
軍略は知力込み
呂布は総合的に知力低そうだな。
関羽は基本的な知力は高いが、
鍾会同様人心の機微が読めなかった。
判断力に隙があるってとこか
呂布って李?と郭に長安から追い出されてるからそんなに武力無くね?
逆に李?と郭の武力が関羽張飛並みかも知れんが
李カク側の兵力10万じゃなかったか?
呂布の方はどうだったんだろう
鍾会、馬謖、諸葛恪
優秀な頭を持ちながら・・・ってタイプだなこいつら
>>912 司馬昭の予言もウソくさいけどな
実際、蜂起は成功寸前まで行ってたんだし
馬謖をその2人と同列に挙げるのは違和感
>>918 中途半端に頭が良いからそこで止まってしまうタイプだな
臨機応変の才がない
馬謖は諸葛亮といっしょに戦略練ってた人だな
頭脳自体は諸葛亮と同レベル
でも責任ある立場に置かれるとパニくる
多分てきぱき決断できないタイプだった
孔明も臨機応変の才はそんなないな
緻密に計画するタイプ
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/15(金) 15:32:24.26
正史でいくならば、能力的に
孔明=荀イク
くらいでいいんじゃね
荀ケは知力最高でもいいな
参謀・政治・兵器開発と多岐に渡って活躍してるしな
最後、曹操に冷遇されてるし最高ではないだろ
最高は司馬懿
次いで孔明と荀イク
そっから司馬師、昭兄弟
後は適当といったかんじ
荀攸、賈ク、法正、陸遜といったとこが95かな
戦術指揮は諸葛亮>>荀ケ
荀ケも城の防衛では活躍してるけど
郭嘉は軍事参謀としては随一だったらしいな
対烏丸での功績は抜群
簒奪した司馬懿を評価するか
それをしなかった荀ケを評価するかは
能力でなく政治哲学観の問題になるからなー
人脈考えたら荀ケのクーデターは司馬懿のそれより
成功確率高かったんじゃないかな。
荀ケ自身に統率者となる野心が無かったら成功しなかったと思われ
赤壁で大敗しても誰も離反しなかったように曹操存命中のクーデターは成功率低いだろう
>>927 司馬懿って曹爽に政争で負けて閑職に追い遣られてるし
知力最高というのもどうなの?
その後、軍事クーデターに訴えて強引に勝ってるからあまり問題視されないけど
司馬懿の宮廷からの追い遣られ方って相当ダメな部類だぞ
司馬懿は軍略ならナンバー1かな
策謀に関しては賈?が最高かな
>>931 九卿の一人と丞相司直が反乱起こしたって相当だけどな
しかもそれで百官ごっそり粛清したにも関わらず
今度は魏諷で数千人粛清する羽目になってるし、むしろ荀ケがいてかろうじて持ってたってレベル
>>926 反乱→粛清繰り返してた晩年の曹操考えると
荀イクを中心にした大規模なクーデターが起きる前に先手を打ったって感じがしなくもない
>>936 曹操晩年の反乱ラッシュは荀イクがいると火に油な気がするけどな
>>926 意見の違いで疎まれただけだから別に能力は関係ないだろう。
司馬懿、孔明、荀イク辺りは最高クラスだとは思うけど
郭嘉や荀攸なんかもそれぞれ得意分野で活躍してるし
タイプの違う者同士の序列を決めるのは難しいな。
>>939 その意見の相違が出る理由が先の見える能力の違いということでは?
自分の代での統一を諦める未来しか描けなかった曹操と
曹操の代での統一の青写真を持っていた荀イクの先見性の差と
それを摺り合わせて権力者に理解させられなかった荀イクの限界
漢中落ちるまでは曹操に統一の目は合ったように思えるので荀イクの判断は無理筋ではないと思う
年老いて安定に走る曹操に未来絵図で言うこと聞かせられたら
荀イクは正史三国志でもぶっちぎりの知力100候補だな
曹操の霊廟に祭られた魏の功臣リストで荀イクだけハブられてるくらいだから相当だわな
>>940 漢中防衛のために全力で徴兵しすぎた結果、関中から洛陽挟んで荊州までの一帯が暴徒だらけの無法地帯になったからなあ
現実的には劉備が入蜀した時点で無理だったんだろう
940の理屈だと陸遜も先見性のない子になるのか・・・・
司馬懿も摺合せれなかったからクーデターだから
先見性のない子だし
先見性ってなんだろね?
あ、あと連投ってうざいね
>>943 いわゆる二宮の変は呉の皇帝権力の確立の歴史でもあって
陸遜は抵抗勢力として歯向かって左遷も政争の結果だからその分は差し引かないとね
司馬懿は曹爽に政争で宮廷から追い落とされてるから
謀略含めた知力という意味ではその分は減算しないといかんね
先見性がないんじゃなくて「宮廷闘争が弱い」のがこの2人
もう知力100なんていないんじゃないか?
細かく数値つけるのが困難なら
96〜
91〜95
86〜90
っていう感じで大まかに分けて96〜に司馬懿孔明荀イクまとめて突っ込めばいい
逆に宮廷闘争はすごいって奴っているけど
こんなやつはどう評価するの?
えいかん、黄皓、とかかな
名だたる知力の高い武将をひきずりおろしたんだから
ある意味有能ではあるんだろうな
曹爽なんかも完全な宮廷闘争特化だな
>>945 相手が皇族というハンデを考えるとマイナスにはならんなあ
他国の歴史上の人物という事で一緒くたに考えがちだけど、今の政治家と皇族が権力争いしてるようなもの
司馬懿の運が良かっただけで普通は勝てん
政争に負けた事がマイナスなんじゃなくて、
「摺り合わせて権力者に理解させられなかった」事がマイナス
940の理屈はそういう事だと思うが
摺合せが神的にうまいのが「宦官」
それを能力としたらゴマすりが結局
一番の能力となってしまう。
しかし確かに物事を進めていくのに
多少の「ゴマすりによる摺合せは必要」だと思う
難しいね。
まぁゴマすりも知力というパラメータを構成する上で大事な要素の一つではあるね
荀イクにしろ陸遜にしろ司馬懿にしろゴマすりが上手ければ余裕で知力100だっただろうし
曹操が知力100でいいだろ
偉業的に
偉業とかになると知力より政治のような気がするなあ
偉業は魅力じゃない?
高祖とか魅力100で後は30ってイメージ
派手な勝ち戦も多いけど派手な負けも多いから統率100はつけ難い
晩年の反乱ラッシュ考えると政治100もどうなのか
魅力も同上
って考えると、曹操に何かトップのステ与えるなら知力なんだろうなあ
>派手な勝ち戦も多いけど派手な負けも多いから統率100はつけ難い
これは統率じゃなくて武力じゃないか?
>>7の定義でいくなら統率100もアリだと思うな
958 :
957:2012/06/16(土) 17:11:18.43
…と思ったけど
>>7の定義だと反乱ラッシュは統率に含まれるか?
だとすると政治100かな
>>949 皇族と言っても曹真一家は異姓の出で曹操によって曹氏を与えられて
魏の建国以降皇族としての扱いは受けてるものの皇族そのものではないからなあ
ちゃんとした皇族として権勢を誇れるのは曹真が戦争で頑張って曹爽が政争で頑張ったからだよ
>>947 とにかく根回しには秀でているから評価するなら政治力だろうな
ただし私利に偏って大局的な視野にたった国策を担える器じゃないから
知力はダメダメってとこ
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/16(土) 21:21:52.65
陳登の能力地は高そうだ
>>959 曹真一家は宗族だが皇族ではない。そこまではいい。
でも曹真一家は異姓の出というのは注の魏略を根拠にしているのだろうが
あの記事を認めると色々と矛盾が出るのし、
異姓養子ではないと考えた方が自然だよ。
作者が魏の人だからそこを間違える理由はないだろ
>>962 矛盾は出ないだろ
曹邵の家の養子になれば父は曹邵であり秦伯南の息子であるということは成立する
>>963 興平年間(194-195)の末に、曹操が袁術に攻められて秦伯南の家に逃げ込んで、って記事だよ?
少なくとも複数個所の間違いがあるのは確実。相当怪しい記事だ。
しかも魏略の記事でも「或云其父伯南夙與太祖善〜(ある人がいうには〜)」と、どうにも確証のない書き方。
同じく注にある魏書の記事では曹邵は豫州刺史の黃琬に殺されたことになっており、そこにも矛盾がある。
>>964 秦伯南が殺されたので曹邵の養子になったと言いたいのか? つまり二人は別人だと?
それだと「秦伯南の手柄を思い、姓を変えさせた」という魏略の記述がおかしいし
本伝の「孤児となったのを憐れみ、引き取って養った」という記述ともズレると思うが。
そして、手柄を評価するなら、親父の姓を継がせるだろう。
あと、曹真が邵陵侯になってるから、親父の名前が邵というのはあり得ないという論点もあるが。
>>965 手柄を評価して「栄誉ある曹氏」に加えてやったんだろ
そのまま曹魏が成立して皇帝に連なる扱いされたから
朱績みたいに本姓に帰りたいとも思わなかったんだな
皇帝じゃなくて諸侯の父程度なら避諱って
そこまで徹底されてるわけでもないからそっち方面からの論点は
あまり気にしなくて大丈夫だとは思うんだがな
次スレどうする?
>>980踏んだ人が建てることにするか?
>皇帝じゃなくて諸侯の父程度なら避諱って
>そこまで徹底されてるわけでもないから
それはない
別の人間が邵陵侯になってもおかしくないけど、曹真がなるのはおかしい
となると曹邵が実父ではない説が強調されてしまうのだがそれでいいのか?
名前が間違ってるか、邵陵侯って爵位が間違ってるか、出自が不明すぎるのか
豫州に邵陵県ってのがあるから多分そこ
爵位の間違いはないと見ていいかと
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/17(日) 10:32:15.42
孫作をフルぼっこにした陳登
統率91、戦闘83、知力71、政治54、魅力58
正史では最強武将の張遼
統率93、戦闘100、知力74、政治58、魅力77
演技しか活躍してない超雲
統率76、戦闘75、知力64、政治58、魅力67
同時代最強のアウレリアヌス
統率100、戦闘93、知力96、政治88、魅力87
チラ裏からデビューか、若いな。
誤字が気になってしょうがない
楊儀 統率65 武力40 知力80 政治65 魅力30
大軍の統括に長け、孔明の死後撤退の指揮を受け持つ。
政治家としてはいまいち。器小さすぎ。人徳なさすぎ。
>>7の
>【統率チェックポイント】
統率について言及。「統率」とは組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
って言うのはどの辺を見て判断すれば良いかよくわからない。
例えば誰が高いんだろ?
曹操とかは高そうだけど晩年ね反乱ラッシュを考慮するとやや低くなるのかな?
晩年の反乱ラッシュで組織の構造が揺らぐとかそういう状況ならそうだろうし
もっと外的な、例えば外交で組み伏せて勢力に組み込んだ連中が反乱起したとかなら影響ないだろう
大軍率いて活躍した奴は統率と知力両方に加点か
次スレ立てたっす
テンプレ等あれば2以降によろしくです
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/18(月) 10:35:33.64
梅
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/18(月) 15:27:17.15
埋め
ume
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/18(月) 22:55:38.93
ありがとよ梅
趙雲は知力55、政治35くらい