1 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀は人口こそ少なかったが、金を唸るほど持ってた。
魏は皮製装備で物々交換が主流だったが
蜀は鉄装備で貨幣経済の国だった
呉はその中間
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/24(月) 19:32:58
目録を見る限り、蜀人口少なすぎ、兵士と官吏多すぎ。
備蓄食料少なすぎ。金銀少なすぎ。絹製品だけ異様に多い。
結論。降伏時の蜀は貧しかった。終了。
>>1 蜀が第四次北伐で魏から獲得した玄鎧五千領は鉄製の鎧。
魏も鉄製の装備をしていた。
>>1と
>>4ワラタw
あんだけやりあって、初期持論から何一つ学んでない
何も学ばないのが彼らの特性
>>938 >おまえは何を言ってるんだw
笑ってるが、リンク先の論文に関しての反論に物言うからには論文読んだんだよな?
黄河が黄色いのは灌漑の所為というから灌漑地帯より上流の黄色い水の画像を提示し
黄河灌漑黄濁論に疑問を投げたんだよ
>関中にオアシスがあるとか、「鹵」を無視するとか
お前らイメージで語りすぎ
と以前言ったが、君もらしい
関中にオアシスがあったら変かな?
君のイメージのオアシスと本当のオアシスの定義が同じだったらいいな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%B9 「鹵」を無視するとか?
無視してないが?
論者は水分量を少なく語り、乾燥化をより印象づけようとしている
"瓠口まで"掘った事は、別段その時代そこが澤鹵だったことを意味しない
そこが例え熱帯雨林のようなジャングルでも東に水を送る為掘ったはずだからだ
澤鹵と舃鹵の定義
澤鹵は窪地に溜まったしょっぱい水溜まり
舃鹵は干潟
こんな簡単なことがどうして分からないのか不思議でならない
あ、これは「澤鹵」の説明ね
漢書主父偃列伝注
瓚曰:其地多水澤、又有鹵
瓚 … 正体不明 西秦の傳瓚説が有力
言ってるうちに本命まで戻って来ちゃったよ。
遠くにいる将軍の時と全く同じパターンだな
漢字の語義さえ自説に合わせて自由自在に改変できる超能力者が
他人と会話するのは不可能。諦めれ。
>942
>河西回廊が漢族の手に落ちたのって武帝の遠征じゃないのか
>一体どこの史書にそんなこと書いてあるのか
しくったな… ハイ イメージで語ってます すみませんでした
確かに明記されてない
余計なことを言ってしまった
「西戎八國服於秦」に含まれるのではないかと思っただけ
酒泉の月氏も羌族のようだし、中間の河西回廊も羌族が支配していたとしても不思議はない
河西回廊を羌族が支配していたとしたら
"西戎の覇者"である穆公がここを制していても不思議はない
武帝が匈奴から奪ったのが始めと言われているが
中国が一度河西回廊を失っていた可能性はある
匈奴は中国の秦末期の混乱・楚漢戦争の間に力を付け勢力を拡大していた
漢が中国平定を成したとき匈奴が晋陽に大挙来襲し劉邦と戦った
劉邦は苦戦し土下座外交で戦を終わらせた
漢は匈奴に毎年朝貢する属国のようになった
この匈奴の勢力拡大時に異民族の地河西を中国が失ったとしたら
それは記されるだろうか
秦が西方貿易していたことは漢の史料に載っているか?
紀元前4世紀インドには中国の絹が流れていた
中国をチャイナと呼ぶがその語源は秦
中国の東西貿易の開発は孝武帝の功績とされている
漢の史料そこまで信用していいのかな
でもただの妄想だから気にしないでくれ
>943
>少なくとも全レスくんの漢文読解は
>常時疑問視しなければならないレベルということがよくわかった
>これはひどすぎる
言うだけなら何とでも言えるよな
解説してみ
>953
>再生アルカリ化現象でぐぐろう。
>おまえの言ってることは全部間違いだから。
>知ったかぶってたが、やっぱりわかってなかったじゃないか。
一応どのようなものか知ってることは知ってるな
その上で書いてるんだけど?
だが君の方が俺より理解しているようだからひとつ教えてもらえないかな
その地獄のアルカリ化スパイラルの中、どうやって現代に至る2千年もの間
耕作を続けることが出来たんだい?
あと、間違いではないんだよ
君の頭の中を再生アルカリ化現象が占拠していて
それとの照らし合いのみが君の頭の中で起きただけだ
知ったかぶってるのは君だよ
前スレの話題を繰越で持ち込んじゃうのは恥ずかしい
以上か
20幾つもレスがあって内容があるのはこれだけ
ったく、調子に乗るなと言ったろう?
何やってんの お前ら
君らの自信過剰ぶりは凄いな
自分が間違っているかも知れないなんて微塵も思ってない
自信過剰というより盲信・過信の部類だな
それで他人様を蔑み罵るなんて愚かの極み
モンキーみたいだぞ
一体、何を根拠にそれほどまでに自信があるのか
自分に問うてみるといい
色々な板に顔を出しては荒らしてるよな
そろそろ懲りたらどうだ
一つの話題で和気藹々と話たいんじゃなくて
自説を認めてもらいたい詳しい人から有益な情報を得たい
それが本音なんだろうけど、素直さと謙虚さが無いから、無理だよ
常時攻撃的な奴に親切になれる奴は居ない
隗より始めよって言うよね
大した事の無い人物が始めの一人でも、楽しい会話が続いてれば自然人は増えるし、
やがては、有益な情報を拾い上げることも可能になるかもしれない
なのに、始めからやたら敷居を上げて全方位攻撃してたら、集まるものも集まらない
野菜を作るときでも、まず土作りからはじめるでしょ
窒息した土の中で、嫌気性のろくでもない菌が増殖するのを防ぐためだ
針の筵の上で有益な情報交換が行われるはずが無い
まずは寛容さを示して、スレの風通しを良くして欲しいところ
俺は以後もう口出さない
>>20 残念ながら、例の人は初めに体系的な自説があって主張しているわけじゃないんだ。
特に根拠もなく、「蜀漢が繰り返し攻撃したからには涼州は豊かだったに違いない」という前提があって、
逐一反論されるたびにはじめてあちこちの情報をひっくり返しては自分の有利に使えそうな記述だけを掻き集めて
利用して取り繕ってるだけ。だから継ぎ接ぎだらけの全体図ができあがる。
あの人が来たときのための遺言みたいなもんです。ではおさらば
残念だけど見当違いしてるよ
和気藹々と話たいんじゃないってのは当たってるけど
あからさまにおかしな話を吹聴してる人を見過ごせないってところかな
言ったけど質問は相手の誤りを正すためのステップが主
これが本音
素直さと謙虚さが無いと見えるのも実は自分がそうだからだよ
これまできちんと論理的に説明してきた
既に証明は為し得ている
これが理解できないのは余程頭が悪いか素直でないかだ
そしてどこかの学説を鵜呑みにしこれが正しいのだと信じ切って
人の話を頭ごなしに否定する
謙虚だと言えるだろうか?
俺は攻撃的でない人にはこういう喋り方はしない
君子は小人を相手にしない
自らが君子たらんとするならスルーできるはず
このスレの子はそれが出来る子
ほら、こういうひねた物の見方しかできない奴ばかりだろう
他意はなくともそう受け取っちゃうのか
ま、どっちにしても出る幕はなさそうだ
このスレでは前と同じ繰り返しにならないよう祈っておるぞい
>>24 理不尽スレに来いよ。
おまえの知ったかぶりの主張は全然賛同する気にならないが
その根性を活かせる場所だ。
ていうか理不尽スレ50で50レス以上使って全武将の能力値をupして議論テンプレと称し、
住人に袋叩きにされると
「これが活用できない奴は理解力がない」「議論に賛同する人だけを相手にするのでこれからも続ける」
とか言いながら途中で消えたアレと論法がそっくり。
>>30 おまえの発言にむかついたので次スレで作業を続行することにするわ。
そういう不遜な態度が俺にモチベーションを与える。
すると、理不尽スレ50のレス900番台を潰したアレも別人に数えると
同レベルの奴が二、三人はいるのか…三戦板もまだまだ捨てたもんじゃないな。
>>12に関して
匈奴列伝では「西戎八國服於秦」8国
ところが秦本記では「益國十二」12国
12−8=4 偶然かな?
>>32 じゃあとりあえず51立ててくれw
立てないまま落ちてそのままのはずだから
>>33 俺にしつこくまとわりついてたストーカーが
>>30あたりだろーよ
たのしみだねぇ〜
>>12 ただの妄想なら「気にしないでくれ(キリッ」とか言わずに済むようにブログなりでやってくれよ
どっかのスレで煽りあってた煽り性格の奴らがこのスレで煽ってたわけか
>>37 俺さんって誰さん?w
なんか今いるみたいだからすごく興味があるんだけど、
テンプレさんと度遼将軍さんはお互い相手の行状とか住人からの扱いをどう思ってんの?
仲間意識とか?
特定されないまでも、ここや他の板とかリアルで一対多の孤軍奮闘してたりする?
結局度遼将軍はどういう意味ってことで落ち着いたんだっけ、度遼将軍さん的には
度遼将軍さんとテンプレさんとストーカーさんと基地外の巣窟だったのか…
もうROMのもやめるわ。
>>1も少しタイミング考えてスレ立てろよ…
>>30 おまえのような発言を勝手に捏造して陰口を叩いている馬鹿は死ね。
元データを俺テンプレ認定するようなアホを煽りはしたが
「活用出来ないやつは理解力がない」なんてことは言ってはいない。
当時は2ヶ月ほど過疎ってたから何人もいたとは思えんね。
旧テンプレをマンセーしてたし、
大方40スレあたりで改正を潰すためだけに1週間近く荒らしまくってたテンプレ保守厨が
自演で多数派工作してただけだろ?本当のことを言ってみろストーカー
お互いにスルー、雑談は邪魔しないということで決着したし、
最近は人が戻って来たから自粛していただけだ。
それを逃げたとか認定して勝利宣言とか屑にもほどがある。
証明を迫られて逃げたヘタレにそんなことを言われたくはない。
>>36 しばらく放置するのがベターだな。
このスレを見れば分かる
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│ :::::::::::::::::::::::::(:::::: つ旦:::::/:::::::/::::::::::::::::::::: |
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│ Now Moon watching |
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│ そのままお月見でお待ち下さい |
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│ しばらく空腹のまま お待ち下さい。 .... │
│ ノ⌒ヽ │
│ (( ( ○ ), )) │
│ (⌒⌒) ヽ__メ´ │
│ |__| _____ 彡" │
│ (^ω^)ノ━ヽ___ノ'''゙ ッパ.. │
│ ノ/ :/ │
│ ノ ̄ゝ │
│ Now Cooking ... │
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カシャカシャ |__|. ┃
.__,,,,__ (^ω^ )ノ あー忙し、あー忙し
ヽ、ノノ/ :/
(⌒⌒) ノ ̄ゝ. .(⌒⌒) セッセ.. (⌒⌒)
|__|. コネ |__| っ |__| ッシュタ
. ( ;^ω) コネ,, (^ω^ ) っ ヽ(^ω^)/ ≡=-
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ノ ̄ゝ | | < ̄.\ < ̄.\ =-
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│ そのままモアイでお待ちください。. |
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| (つ⌒Y^(). |
| O ヘ,_,ノ,_,ノ |
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| しばらく体育座りでお待ちしております。 |
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│ (´∀`∩) |
│ (つ 丿 |
│ ( ヽノ |
│ し(_) |
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│ Now Onigiring. .. |
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│ しばらくおにぎりでお待ちください。 |
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藻前ら、モティツケ
/\⌒ヽペタン
/ /⌒)ノ ペタン
∧_∧ \ (( ∧_∧
(; ´Д`))' ))(・∀・ ;)
/ ⌒ノ ( ⌒ヽ⊂⌒ヽ
.(O ノ ) ̄ ̄ ̄()__ )
)_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_(
/\⌒ヽペタン
/ /⌒)ノ ペタン
∧_∧ \ ((
(; ´Д`)∧_∧
/ ⌒ノ(・∀・ ;)⊂⌒ヽ
.(O ノ ) ̄ ̄ ̄()__ )
)_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;)(_(
おまいら!
もちつけぇェェェっぇェェェェェッェぇぇっぇぇ!!!!
___ ガスッ
|___ミ ギビシッ
.|| ヾ ミ 、 グシャッ
∩_∧/ヾヽ
| ,| ゚∀゚). .| |;, ゲシッ
/ ⌒二⊃=| |∵.
.O ノ %`ー‐'⊂⌒ヽ ゴショッ
) ) ) )~ ̄ ̄()__ )
ヽ,lヽ) (;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_(
という訳で以上の流れはリセットでよろしく。
不毛な流れのリモデリングをやっても面白くないだろ
じゃあ、本題に戻そう。
蜀は魏より豊かだったか?
劉備時代、諸葛亮時代、蒋エン時代、費イ時代、姜維時代、黄皓時代に分けて、
蜀の豊かさの移り変わりを追っていこう。
姜維時代、黄皓時代はかなり苦しかったようだが、それ以前はどうだったのか?
いや、本題に戻る前に疑問が。
このスレの意義は?蜀が魏より豊かかどうかって、それほど重要?
歴史が変わる?
「蜀は魏より豊かだったのに、貧しいはずの魏に滅ぼされた」
という結論に持ち込みたいの?
何を求めているのか教えてください。
魏に劣らぬ素晴らしい国、蜀と四川を称揚するスレです
…と思ってたけど、違うん?
>>53 蜀の政治経済状況を追求することは、
北伐を繰り返した蜀漢の動機と動力源、戦略的な目算を突き止めることに寄与する。
また、もし四川が国力的には豊かだったのならば、
逆に魏晋がどのようなシステムを用いて戦線を有利に転換し、
最終的勝利に持ち込めたのか、ということを語ことができる。
まあ、前スレで殆どやった話だけど。
>>52 >劉備時代、諸葛亮時代、蒋エン時代、費イ時代、陳シ時代、黄皓時代
の方がよくね。姜維自体は最後まで現役だし。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 17:16:32
>>5 いわゆる「分捕り数」「戦果」の記述は誇張が多いから控えめに見るべきだろう
あと、さすがに全員皮装備とはいってない。標準が皮装備であったといっているだけ
もちろん、魏は人口が多く鉄装備がまわらないというのもあるだろうが
実数の十倍とか国淵が言ってたっけ
正直な話、重い鉄製の鎧着て漢中から険しい山越えルートで
100〜200km進軍して戦闘って考えにくいよね。
戦力の中心である雑兵は、革製どころか鎧無しなんじゃないの?
>>59 ・・・鉄鎧装備だとしても、行軍中まで着ている必要はないと思うぜ
>>57 魏の歩兵の標準装備が時代背景を考えると
軽歩兵が皮鎧だったというのは納得できるが、
重歩兵は鉄鎧だったんじゃないかな?
あと、蜀でも全軍を鉄鎧装備にするのは有り得ないと思うが。
戦闘中は軽歩兵と重歩兵の両方が必要だから、
軽歩兵は皮装備で重歩兵は鉄装備だったんじゃないかな?
弓射るだけの部隊や、軽快な機動力を売りにした部隊まで、
重い鉄装備にする必要はない。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 18:45:01
騎兵中心の魏兵は皮装備でしょ。当時の馬は重いもののせれない
蜀は弓兵中心
山でたたえばどっちが有利か
基本的に山岳で蜀兵と戦うと対象の射殺率が高いな
チョウコウやカコウエンも殺されたし、曹操も逝きかけた
魏は歩兵中心だよ。蜀も歩兵中心。魏の方が騎兵を多く持ってるけど、
騎兵中心というほどたくさんいるわけではない。
あと、弓兵は古今東西軽装備。皮鎧か鎧装備なしの場合が多い。
後方で弓射る分には防護力のある装備はいらないから。
あと、徒歩の弓兵中心の軍隊なんてない。
弓騎兵と違って機動力が無いから、白兵戦に持ち込まれると全滅する。
いつの時代でも中国は歩兵が主力。
予備のオプションで剣なり刀なりナイフ持ってるけど
そんなんじゃ槍には太刀打ちできないしな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 19:48:14
中国の弓は弓というより弩だから工業力がモノをいうよ
>>62 せめて趙政と劉邦の兵馬俑の騎兵の装備くらいは調べろ
桟道で騎兵を移動させるのは大変だろうな
せっかくの流れぶった切って悪い
>>40 >>29以降の住人同士の会話は意味が分からない
テンプレさんてのも知らないが
住人からの扱いてのには答えられる
これは既に答えた
リアルではTPOで違うし、案件より和の方が大事なことが多い
2ちゃんでは和なんかどうでもいい事
むしろ遠慮しあって和気藹々なんて気持ち悪いじゃないか
最たる不毛だと思うよ
もちろん議論系のスレでね
物わかりの悪い子に煽られながら引き延ばされる議論に付き合うのも大変不毛だけれども
ROMもいることだしやる意味はある
>>41 度遼将軍? 随分古いね 今にして思えば以前は未熟だった
“はるか(遼)な地に居(度)る”将軍ではない
もちろん“遼水を渡る”将軍でもない
注釈にある應劭の解釈は間違ってるし
應劭の解釈を信じている人間も残念ながら間違っている
将軍号は職務を表す
しかし後漢の度遼将軍は職務と号がそぐわない
それに征鎮撫輔安平建広揚盪昭討破など将軍号に冠する動詞は統治・軍事に直結しているが、
「渡る」だけは他と異なり間接的で、統治・軍事に関して何をするのか明示されておらず、
推測に委ねられている
従って、“遼水を渡る”という解釈は不自然と言わざるを得ない
関係ないけど、前スレ末「捕虜将軍はいつ捕虜になったの?」というレスがあった
ギャグかも知れんが、
「虜」は「えびす」 捕虜将軍は異民族を捕らえる将軍のこと
度遼将軍の正しい意味は、“はるか(遼)を度する”将軍
はるかは良いとして、問題は「度」の解釈
これが結構やっかいで、漢和辞典を書き直す必要がある
漢和辞典の語は生きていない
漢和辞典の語はその言葉の使用例から語意を帰納で分類・分離し
他の言葉を代替に用いて語義を定義している
仕方のないことだが、これでは本来の質感を失ってしまう
人間は生きた言葉を聞いてなんとなく憶え
なんとなくなまま使い、何となく感じる
それゆえに誤った意味を認識してしまっている事もあるが、それはさておき
生きた言葉はイマジネーションの世界に存在する
漢字の優れている点は
一文字で意味をもつことと、字が図であること
図はイメージをそのまま伝達することが出来る
漢字は図なので、複雑で難しい概念であっても
図を合成して新字を作ることにより、簡単に
生きたイメージを、生きたイメージのまま、伝達することが出来る
逆に言えば、図を分解すれば難しい概念でも
生きたイメージのまま知ることが出来る
「度」を分解すると
「尺」(音)と「又」に分かれる
「尺」は、ものさしの「尺」
一歩足を踏み出した人間の象形で、「一幅」を示す
尺というの言葉の表すイメージは
“ここからここまで と 区切った範囲・範囲を区切る”
「又」は、伸ばした右手の象形で
その言葉の表すイメージは“領分・領域”
つまり「度」という言葉の表すイメージは
“ここからここまで と区切った・区切る、領分・領域”ということになる
今、"小さく前へ倣え"をして、見ながらここからここまでと言ってみて
それが「度」
また、「又」は右手だから“領分”は可動
「手を伸ばす」の言葉通り、“領分”は侵攻する
だから「度」には
“ものさしを持って“領分”を侵攻させる”のイメージもある
これが「はかる」などにあたる
( ものさしをあてて物の長さを測ろうとすると
どこかしてはいけないことをしているような、妙な気持ちになるんじゃないかな
これは、対象または神の領域を、長さを測る為に自分の“領分”が侵攻しているからで
その罪悪感 )
よって「度」は
“ここからここまで と区切った領分・領域”
“ものさしを持って“領分”を侵攻させる”
の2つのイメージを合わせて表す
このままだと、何しろイメージだけなので、
抽象的すぎて分けが分からないだろうから
いくつか例に出すと
・法のここからここまでという対象・制約を区切った範囲 → 法度
・地点のここからここまでという区切り → 長さ
・計器の線から線までという区切り → 目盛り
・このくらい という区切った範囲 → 程度
・機会という一区切り → たび
・こういう時はこうしなさいという選択の幅を区切って指定 → 教え・道 (法度も該当)
・動揺するべきでないときに動揺しないという「道」に適った心臓 → 度胸
・ここからここまでという範囲の外・内 → 度外・度内
・ここからここまでという範囲を越える → 度越
・ここからここまでという範囲の上を移動させる・覆う → わたす・わたる
・持ちうる知識・論理力の範囲で判断する → 推量する、計算する、考える、分別する
・それ↑(持ちうる〜判断する)を求める → 訊ねる、相談する
など
上記の例は、「度」の理解の助け・証明で、
「度」はあくまで抽象概念だから忘れてもらって
度遼将軍の解釈に入る
「度」は「ものさしを持って“領分”を侵攻させる」のイメージをもつ言葉
つまり、「自分たちのものさしを持ち込む」
→「自分たちの価値観・道徳を浸透させる」のイメージをもつ言葉である
従って、度遼将軍の名目上の職務は
「はるかな地を、教え諭す(上から目線)」とイメージできる
度遼将軍="遠地教化"将軍
というのがおそらく正解だろう
ちなみに
「どう?」「どれ」「どこ」「どんな」「どうして」「どのように」
などの語源はおそらく「度」
それと、以上のことは漢和辞典と解釈が多少異なる
なので説明を要すかも知れない 質問があれば答えるよ
「又」に関係する漢字の解釈、「度」を用いる言葉の解釈など
なければ元の流れへ戻ろう
もうどこからどこまでマジなのかネタなのかもわからなくなった
勘違いとか中二病とかじゃなくて電波文書読んでる気持ちになってきた・・・
全部マジだよ
それは可哀想に・・・
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 22:54:11
KYすぎる
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 23:10:47
魏が革製装備が主流というのは信じられないな
>>85 むしろ、革製装備を舐めすぎてるんじゃないかね
革は戦国時代にも使われてた
名号将軍は、前漢中期以降、創設時本来の名づけの意味を失って各地に派遣されることが増えた。
初代の度遼将軍范明友自身、度遼将軍となり遼水を渡って駐屯したが、その名号のままで既に涼州へ出撃し、
長安を守備している。
馬援も南方討伐用の伏波将軍のままで烏丸を討伐している。
後漢では異民族討伐将軍の代表格として度遼將軍という名号が残り、常置職となった。
それだけのこと。
「度遼将軍は遠くにいる将軍なので雑号将軍と同種の意味で多数いた。だから後漢でも将軍はたくさんいた」
という発言が発端だったのに、最初に言っちゃった「遠くにいる将軍」を手放せなせず、
どうしてもそれに解釈を引き寄せようとするから、
本来の目的を忘れて無意味な字義解釈にのめりこむデンパなことになる。
武器の方が発達したから防具の強化も必要だった
>>85 革製品っつったって鉄板入れたり鎖を編み込んだり
煮込んで膠で固めたりすればいくらでも強くなる
近代でも欧州じゃ革装備が戦場には結構多かったり
革マンセー
革は非常食として食えるのか?
知ったかで延々書き込んだ馬鹿をスルー推奨すれって意味だろう
100げt
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
再度リセットでよろ
ゲームやないんやから、リセットなんてできしません
最悪の状態から、その延長戦をやる他はあらしませんのや
誰得?
とりあえずアンカーコピペは通報したほうが良いかもな
__ _,, ---、 _____、 _
i ̄\ /,,`ヽ ヾ ̄'、 _______ │ │ l ゙'゛ l ヽ`ヽ----、
l ヽ/ ___│ │ l-"__ ヽ │ ⌒ ││ i'゙| │ __/ , _____j
\ `ヘ、 ,-‐゛ / / / │ ⌒ │ | || │ ヽ, .,iニ--、
i一'" __,-''' ̄'''ー″ ゙'┐ i′/ / │ l┬'゙ | |│ │ / ,/" ,ー、 \
` ̄'l l゙ / | │ l \ │ | l ヽ | ‐' │ | ,/ / │
l, ` ̄ ゙̄ヽ { │ ヽ, │ │ ″ |│ │ゝ/ ヽ__,∠ / /
`'ー----'"  ̄ゝ"" ` ̄ ̄ ゙''''"ゝ- l__丿 ヽ-----‐'
へ へ|\ へ √ ̄| へ
( レ⌒) |\ ( |\)| |/~| ノ ,__√ /7 ∠、 \ . 丶\ _ __
|\_/ /へ_ \) | | | |∠ | |__ | / ! | | |_〜、 レ' レ'
\_./| |/ \ .| |( ̄ _) | ) | | i | へ_,/ ノ ,へ
/ / ̄~ヽ ヽ. | | フ ヽ、 ノ √| | ! レノ | !. \_ ー ̄_,ー~' )
/ /| | | | | |( ノ| |`、) i ノ | | \_ノ ノ / フ ! (~~_,,,,/ノ/
| | | | / / | | . し' ノ ノ | | / / | |  ̄
\\ノ | / / | |___∠-". | | ノ / ノ | /(
\_ノ_/ / (____) し' ノ/ / / | 〜-,,,__
∠-''~ ノ/ (_ノ 〜ー、、__)
三戦住人はゲハ住人より心が豊かだった
スレ
>>96 あそ、じゃあいいわけだ
>>88 言ったじゃないか、調子に乗るなって
>初代の度遼将軍范明友自身、度遼将軍となり遼水を渡って駐屯したが、
>その名号のままで既に涼州へ出撃し、長安を守備している。
問題ない 辺境教化将軍だから
>馬援も南方討伐用の伏波将軍のままで烏丸を討伐している。
問題ない
代郡は渤海に臨し水軍は重要 烏丸が川を下ってきた場合それに対応できる必要がある
>「度遼将軍は遠くにいる将軍なので雑号将軍と同種の意味で多数いた。
>だから後漢でも将軍はたくさんいた」
よく憶えていないなぁ ま、でも多分歪曲してるだろう?
漢は鉄鎧が主流
スルー耐性試験実施中
>>110 鉄鎧と言ったって所謂西欧的な板金鎧のような全部金属で出来た鎧じゃなくて
金属の部品を革紐などで繋ぎ合わせたものや、革や布に金属部品を取り付けたものだよ
今で言う鎖帷子、革鎧の仲間
>>113 魚鱗甲か鎖帷子、あるいはその併用だね。
魏の場合は更に背中を鉄のプレートで補強してるんだっけか。
歩兵までみんな鉄でできた鎧を装備してたら、重すぎて戦いにならないから、
まあ、実際は魏も蜀も鉄で補強した革鎧を使ってたんだろうな。
向こうのドラマの三国志だと、歩兵の装備は鎧無しで盾と矛、剣だけだな。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 16:49:55
横山光輝の漫画のようなでてくる兵士全員が鉄兜、鉄鎧って完全にフィクションだからなあ
でも正史読んでるとどうやら、歩兵も鎧着ているっぽいんだよな。
着てるのも居る
弩を持った軽装の歩兵が漢代はけっこういたからな。
今で言う火力重視か?
漢代に一番重視されていた武器は弩
弩の上達が国家レベルで推奨されていた
漢で歩兵の精鋭といえば材官、弩の弦を引く膂力の持主だったからね。
材官・騎士・楼船などの練度の高い精鋭兵を常備兵として確保して、
一般の歩兵は徴兵で賄うという形だろう。
弩と言えば、後漢末に陳国で独立勢力を築いていた陳王劉寵という人物がいて、
弩数千張を保有していたから、黄巾もその他の群雄もまったく手が出せなかった。
袁術ですらその武力を恐れて、正面からの戦いを避けて劉寵を暗殺して陳国を
手中に収めたほど。弩というのは数を揃えると、一郡国レベルの勢力でも、
大勢力が手を出せないぐらい強力な武器のようだな。
前漢で丞相まで昇りつめた申屠嘉も材官の出だね
お前らとりあえず三国時代の話に戻ろうぜ。
劉備が益州を攻略した時に諸葛亮・張飛・関羽・法正に分配した金銀財宝が、
合計金二千斤・銀四千斤・銭五千万両・綿四千匹。
今後の益州経営の資金や他の諸将への恩賞を考えると、
これは益州の財産の一部と考えられる。
一方、蜀が降伏した時の目録では、
金銀各々二千斤、錦織物二十万匹。錦が異様に多いが、
金銀があまりにも少なすぎる。
やはり、長年の北伐による疲弊が蜀の国庫を空にしてしまったのだろうか?
あと、錦が多いのは枯渇していた金銀や銭の代わりに
貨幣として通用していたからとも考えられる。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/29(土) 17:28:28
横山の漫画にはボウガンを引く兵は一人もいない
彼自身もボウガンの存在を知らなかったと言っているが
しかし、ボウガンを引く呂布や黄忠は絵にならんからわざと知らんふりしてたのかもね
>>126 士大夫や騎兵などの選ばれた人間の用いるべき武器は弓矢のほうだよ
だから呂布とかが弓矢を使うのは別に問題は無いというかそれが当然
弩は重すぎて騎上では扱えないんよ。
だから、騎兵や騎乗して戦う身分の人間は弓矢使うんよ。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/29(土) 18:42:31
三国時代では魏の騎兵戦に対抗するために蜀では歩兵の武器、特に弩の配備に力を入れた。
政府直轄の工房では高度に規格化、分業化され、威力(石)、製造年、製造工房、製造責任者など
が刻まれていた当時の最先端の兵器だった。
蜀が魏に対抗できた理由のひとつに独自で鉄鉱山を抑えていたことが大きく、これは鉄製の武器や
防具の製造以外にも、鍬や鋤など農具にも使われ、灌漑などの土木工事でも威力を発揮した。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/29(土) 18:45:48
弓のほうが連射し、軽いけど、熟練度ないと扱いは厳しい
弩は反面素人でも扱えるから量産すれば強い
蜀で連弩が開発されたのはそれが必要性と体制から理由があるといえる
>>129 魏領内にもたくさん鉄鉱山はあったし、鉄の生産量では魏の方が上なのだが。
あと、魏は蜀よりは騎兵が多いが、騎兵主力で戦うほど大勢の騎兵は動員できない。
魏も歩兵主体。
蜀に限らずだけど、弓と弩の比率はどれほどだったんだろう
軍人将官や士官クラス、必須科目として習得していただろう士大夫はそうとして、
弩に較べてある程度の練度が必要な弓を扱う兵卒は、禁軍や常備軍、
それに各国で編成されていた専門部隊あたりが主で、比率でいえば
やはり弩が勝っていたんだろうか
問題はコストなど、いろいろとありそうだが
>>131 沢山?
具体的にどことどことどこ?
それと算出量までわかってるならソースの提示をしてくれ
>>133 河内の林慮、河東の安邑・平陽・皮氏、扶風の雍・美陽・漆、
頴川の陽城、北地の弋居、太原の大陵、漁陽の漁陽・泉州に鉄鉱山がある。
さすがにこれだけあって、蜀より鉄の生産量が少ないということは無いだろう。
北方騎馬民族を傭兵的に使うのは漢代じゃ珍しくなかったが、
そういうのは勢力圏的にほぼ魏の独占状態だしな。
>>129 魏がそれこそ皇帝直轄で武器を製造していたり(楚・越といった地方から職人を招聘して組織化)、
呉が鉱山開発して一万本の鋼刀を作ったりしているわけで、
別段蜀だけ優越していたとは……。
>>134 いや採掘量って鉱山の埋蔵量と鉱山の規模によって決定されるわけで
鉱山の数はあまりアテにならない
採掘量のソースもなしに「多いだろう」じゃあ困るよ
>>137 それをいったら蜀が多いという意見自体、そもそも曖昧なソースさえ出てないわけだが。
そりゃそうだ
「魏の方が鉄の生産量が多い」だなんて断言してるからそのソースを求めてるだけだぞ
両者の採掘量から生産量まで把握してないとそんな断言はできんだろ
つまりどっちも確たることは何一つ言えないということだ
遺跡発掘関連のニュースだと、三国時代とおぼしき製鉄所後が見つかったのは中原(魏勢力圏)に集中していて。
蜀ではじめてみつかりました、というのが報道されるレベルだったしなぁ。
>>139 鉱山の数・規模・製鉄所後の数からして確定だろう。
蜀の鉱山からは、広大な中原以上の鉄を産しましたなんて記録はどこにもない。
ただのイチャモンレベルだろ……。
騎馬民族とはいかないが、南蛮の歩兵なんかは最精鋭部隊として活躍したお
鉄で言えば、蜀は斜谷口で作った刀が特別優れてたので神刀と呼ばれたとかそういう記述がある
弩だと蜀には赤甲軍なんてのがあるが、部隊IDのついた弩兵というのは珍しい気がする
他だと、イングランドの長弓に負けちゃったけど、ジェノバ傭兵くらいかな
>>137 じゃあ、蜀にある漢中の沔陽と巴郡の宕渠と蜀郡の広都・臨邛と
犍為の武陽の鉄鉱山が、魏の鉄鉱山より
規模が大きくて採掘量が多いとお前が思った理由をよろしく。
>>141 そりゃ前後通して漢の製鉄所は黄河沿いにあるんだから当たり前だってば
「蜀が鉱産資源豊かで魏を上回ってた」なんて説は大澤某ってライターの魏の銅不足説を曲解して
鉱物全部足りなかったなんていう奴が広めたもんだろ
ただまあ寒冷期だから燃料不足で鉱山あっても生産量が落ちてた可能性はあるし
黄河周辺が後漢辺りにはもうハゲ山になってて保水力が落ちたので河に黄砂が流れ出して
黄色くなったという考察をしてる人もいるが鵜呑みには出来ない
>>144 んなこたぁ言ってない、ただ「断言できない」って言ってるだけだ
俺はただ「魏が多い」って断言した奴に突っ込みいれてるだけでそれ以前の書き込みとは無関係だ
人口が段違いなわけだから、鉄量が不足していたら魏の生活環境は激変していただろうな。
でもそんな記述ないし。
装備させうる兵士(帯甲将兵)の数から考えても魏が少ないはありえない。
>>146 断言できないだけであって、諸条件は全て否定的なわけだが。
この世にドラえもんがいないとは断言できない、みたいな駄々は……w
>>147 あるよ
中原の方で盗賊が裕福な家の葬式襲撃して盗んだものが棺桶の鉄釘だなんて話も残ってる
魏の生活環境はどう見ても激変してる
で、結局魏より蜀の方が製鉄量が多いという証拠は存在しないわけだ。
製鉄所の遺跡もほとんど黄河流域に集中してるし。
蜀の方が製鉄量が多いと言ってた奴のソースを知りたい。
そういった奴はおそらくいない。
益州は鉱物、穀物、水源、木材等の多様な資源が豊富に取れるために
一州だけで経済が回ったというのがこれまでの主な内容。
>>111-112 考えが至らなかった事に気付かされて返す言葉がないことをスルーとは言わんだろ
>>113 その論理だと蜀は「板金鎧」となるじゃないか
>>115 その論理だと漢も革鎧になるじゃないか
にわかに戦乱へと突入した初期なら鎧甲の数が足りない・追いつかないというのはわかる
だからこそ装備の整った「帯甲兵」というのが、戦力の1基準のようになり得て
「帯甲○万」のような表現があるんじゃないか?
鎧着てないのに帯甲はないだろう
>>153 その論拠から蜀が板金鎧を使用していたという結論をいかにして導き出したか教えてくれ。
>>155 『国語』の注釈に、「帶甲,衿鎧.」とある。
先秦から見られる単位ではあるが、これは騎、車、粟などの数量と併記されるものであって、
兵種の一つではなく、武装の材質とも関わりない。
つまり武装して訓練を受けた兵士、という程度の意味合いになる。
戦時には兵站や土木のために人夫・力役が動員されるため、総動員数には「衆」という表記単位が用いられることも多い。
それと区別して、国家が保有したり戦役に投入された実戦闘力を示すための単位が「帯甲」や「歩騎」ということになるだろう。
そういや度遼将軍の話題は東觀漢記百官表からだったな
『度遼諸將軍』
読み直してみても、この「度遼」は将軍号ではないようだ
「度遼する諸将軍」というのが正しい
>>158 度遼将軍とこのスレと何の関係があるのか理解できない。
将軍号スレでも立てて、勝手に考察してください。
このスレは魏と蜀の国力や軍事力について議論するスレです。
そりゃそうだ
>>153 上段についてだが、蜀は所謂西欧的な板金じゃない
諸葛亮の改良したとされる筒袖鎧も鎖帷子や魚鱗甲のようなものだし
当時の冶金技術で実用レベルになる板金鎧なんてのは多分作れない
作ったとしても重過ぎてロクに使えないだろう
下段についてはその通り
漢も革鎧や布鎧を金属部品で強化したものを使ってる
>>157 「歩騎」は防具の如何は関係なく
「帯甲」は鎧甲装備が条件だろう
>>161 いやいや、そこは真面目に答える所じゃない
ロジックの問題だから
鉄鎧の定義を板金鎧としたところが間違いなんだ
蜀は国力に比べて官吏や兵士の割合が多い。
これじゃ民力は低くなる一方だろうが、豪族対策や対外戦争を考えると削減もできんし。
まさに滅びるべくして滅びたって感じだな。
>>162 >「帯甲」は鎧甲装備が条件だろう
だとして、鎧甲装備していない兵が戦列化されるのも一般的だったのならば
それをなんとカテゴリして表記していたの?
>>164 人口94万で兵士10万官吏4万だぜ。
こんなの国が持たねえよ。
諸葛亮の時代はどれぐらいだったんだろうな?
あの頃は何度大軍を動員して魏に攻め込んでも、
国力が落ちる気配はなかったから、
もっと人口が多くて官吏が少なかったのかね?
官吏をこんなに増やしたの、いったい誰の政策だったんだろうね。
>>167 「帯甲」と「衆」や「兵」が併記される記述はないみたいだけど
「帯甲」というのは春秋から見られる表現だよ
蜀が魏よりも豊かであったというよりも
益州が魏の諸州に比べて異常に豊かだったってことじゃない
>>170 まあ、魏の諸州で益州に匹敵するぐらい豊かなのは、
冀州ぐらいだろうね。
荊州・揚州も益州に匹敵するぐらい豊かだけど、
どちらも大半を呉に取られてる。
涼州、并州、幽州は論外としても
冀州以外にも青州、徐州、雍州、豫州、司隸とまるまるもってるのに益州に勝てないなんて
国力は総合力だからな。
この土地だけで勝ってますよ、なんて何の意味もない。
益州疲弊してますって出師の表でもいわれているし。
これまでで涼州は結構馬鹿に出来ないということが分かった
異民族が漢人の2倍くらいだとすると
晋の資料に基づいて考えると、人口は丁度 青州+徐州
>>174 漢代にカタログスペックだけで見れば赤字なのにずっと必死で維持しようとしてるからな
精神病の全レス基地外が必死に勝利宣言中
>>174 曲解だらけの妄想を考えとは言わないし
馬鹿は死ななきゃ治らない
だから死ね
【全レス馬鹿の妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・俺の言葉の使い方は普遍的
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた
・俺はチャンピオン、紫がチャレンジャー
・俺の喚いていることを理解出来ないやつは間違っている
・涼州は役賦無已=兵や物資に際限がなかったと言われるほど豊か。誤読でも大したミスではない。涼州は豊か! ←new
・涼州の地質は『上の上』だから涼州は豊か。ヨウ州とは別物?涼州は豊か! ←new
・研究者なんぞよりも誤読だらけの俺の主張の方が考えが深い!(キリッ ←new
・研究者の言うことを鵜呑みにするな。俺の主張に納得しろ ←new
・河西回廊は武帝以前から漢民族のものだった可能性がある。妄想です ←new
・俺のいうことは論理的。おまえらのやってることはスルーではない ←new
>>178 足りないな。
晋書の読解でもおかしな知ったかをやって
ボコボコに袋叩きにされてたはず
素人でもやらないようなミスを平気で犯して居直るクルクルパーが
何を吼えても無駄
見事なルサンチマンだなw
お前ら醜悪すぎてワロタww
>>174 だから、異民族が漢人の二倍いても、
涼州の人口は中原の一州にも及ばないんだってば。
青州や徐州のような先進地域には及ばないよ。
>>181 何に対するルサンチマン?
妄言を吐いてはことごとく論破される人に対して、
ルサンチマンなんか抱く余地ないよ。
>>175 後漢時代、国家財政を傾けてまでも涼州を維持しようとしたのは、
涼州を失うと三輔が国防の最前線になって、
首都圏である司隷全体が羌の軍事的脅威に脅かされるから。
涼州が豊かだったから手放したくなかったのではない。
そこはことごとく論破した人の間違い。
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/31(月) 20:10:15
ルサンチマンの見本市が開かれているスレというのはここですか?
そもそも涼州の価値が低いという説は妄言だろ
妄言否定されて逆上するバカはとんだ勘違い野郎
ごくろうさん >スレ荒らし
>>178 あったな、応ショウ15歳説
あれは爆笑した
矮小
191 :
184:2010/05/31(月) 20:40:16
>>183 他に牧畜に適していて、良馬の産地でその意味でも重要だったからだろうな。
後年、騎馬民族が勃興して漢民族王朝が南に追いやられると馬の調達に四苦八苦するようになる。
四川の馬なんかは「四川矮馬」と呼ばれていて北方の馬に比べてぐっと貧弱だったそうだし。
>>192 幷州、幽州あたりも良馬の産地だよ。
あと、牧畜で得られる経済力は、農耕で得られる経済力よりもはるかに少ない。
だから、遊牧民はたびたび侵入して略奪を働く。
涼州は対羌戦争の前線として、軍事的には要衝だったけど、
経済的にはかけがえの無い重要な土地というほどではない。
はて。三国時代の四川に馬がおったんじゃろうか
あと、難民板やら歴ゲー板に出張ってきて自演するのやめてくれませんかね
いつもどおりコテハンつけたらどうですか
用語ならべておいてどっかずれてる人なんて、そうそう居らんのですよ
コテハンかどうか自体はどうでもいいんだが、いくら特徴的とはいえ名無しで蠢いてると分かりにくくて困るのでコテハンで行動してほしいものだ
>>193 >あたりも
だからって放置してかまわんという話にはならんだろうに。
朝廷直轄の牧が多数あり、前漢時代に西方から入ってきた大型馬の産地だぞ。
>たびたび進入して略奪を働く
もしかして牧畜しているのは全て異民族、とか思い込んでないかい?
前漢の衛青の育成された家のように漢族の有力者が牧畜を営んでいる例も多いわけだが。
>軍事的に要衝
そういってるわけだが。
5年ほど前までは学問板にもいたが、流石にあっちではシカトくらって寂しかったらしい
板でハンドル変えまくってるけど、トリップは一緒だからバレバレなのに…
それがコテハンを止めた理由なんだろうけどさ
>>202 奴は何者なの?ぶっちゃけて教えて欲しい
既に話題がズレているのに自演短レスで粘着している奴、毒されているなw
粘着ってまだ数レスついただけだろ
他板での覚えがあったりすんの?
涼州の場合、戸数は総計でもたいしたことないのに人物伝とかみると数万の兵が出てきたとか、万余を降伏させたとかわらわら人口が出て来るんだよな。
漢族以外、あるいは戸数として政権が把握してない浮動人口がどれぐらいいたのやら……。
反乱起こりまくりだから治安が良かったとは到底考え辛いが。
で、結局なんてコテハン付けてる奴なの?
板ごとにコテハン違うんなら教えてほしいなあ。
あと、トリップも。
後漢書だと「涼州の牧畜は全国でもっとも富む」と記述があるけど。
これは比較的平和な時期の話だしなぁ。
長安古意
おっと、途中で押しちゃった
長安古意で唐代における関中関西の繁栄ぶりが語られてるが
三国時代とはまたえらく隔たりがあるよね
歌の内容については長安古意でぐぐるとわかる
>>194 飼育だけなら全国で行われていただろう。
といってもいたのは馬車や一般乗用の駑馬で、
軍馬に使用出来る大型馬、「良馬」は北辺に限られていただろうけど。
>>211 長安なら前漢も一つの最盛期だよ。
京師となれば人為的な人口・経済の集中が行われるから、爆発的に繁栄する。
その後、関中は赤眉の乱と東遷で衰退し、さらに羌族の乱に直撃されたから、
三国時代が史上最底辺期の一つでないかな。
>>183 そうなると長安を大城に整備して、長安で戦う気満々なのと整合性がとれない
それに涼州は結構西の方まで横に細長いけど、前線構築というならそんな西まで城を整備する必要がない
裕福な冀州の防壁としての幽州の関係を見ればそこまで長大な防衛網の構築なんか必要はないわけで
これは漢が防衛目的や農地として以上に涼州に価値を見出していたことの証左であると見ていい
まあ、だからって涼州がすっごい豊かでどうのこうのなんて話をしたいわけではなく
地理志から読み取れる以上にもう少し考えるべき価値があったのだろうと言うのが俺の主張
とりあえず…魏はとんでもない時代に無駄に広大な版図を持っちゃったわけだ
>>214 いや、この話の発端は、蜀漢が隴西へ北伐を繰り返した動機として、
一、豊かである
二、険阻である
三、経路である
の「一、豊かである」を主張する意見が出たことに始まるから。
そりゃあ前漢が河西回廊を制圧して涼州を置いたのは、
西域を開通して交易するためという理由があるし、その意味で涼州の価値は大きい。まさに「回廊」だ。
けど、三国時代の蜀漢がそれに近い支配力を涼州四郡と旧西域都護部に広げる構想だったのでないかぎり、
「防衛目的や農地として以上に涼州に価値」が蜀漢にあったということはできないだろう。
姜維が出て行ったのは、他に攻めるルートが無い消去法の産物のような気も。
水路利用は後戻りができんし、孔明同様の正攻法は難しいのは立証済みだし。
>>216 必然の理を解さないからそれが理解できないんだよ
戦略を云々できる頭でないのに戦略を云々するからそういう穴に落ちる
訳:自分では説明できないけど絶対正しいのに違いない
お前がそれを理解できないのは、お前が馬鹿だからだ
そうだ(キッパリ
アラ? 言い過ぎたかな…
>>218-221 すまん、そのなかに例の人が混ざってるのか? 全部例の人に対する罵詈雑言と解釈しても問題ないように見えるんだが
正解
どっちだよw
>>224=
>>214なのか?
>>225=
>>214なのか?
214は明らかに前漢時代の戦略を論じていて、本題の蜀漢の戦略どころか
>>183の後漢の戦略とも議題が噛み合ってないだろう?
だから前スレを知らない人だと判断したんだけど。
>>223 >>216の件だが、前スレは「涼州」になってたよ
658 :無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 01:30:35
>> 654
係争地には大きく分けて3種類ある
一、豊かである
二、険阻である
三、経路である
涼州は二と三に該当
涼州は蜀魏戦争の経路じゃないし、険阻でも関係ないよな
218だが
>>216 >けど、三国時代の蜀漢がそれに近い支配力を涼州四郡と旧西域都護部に広げる構想だったのでないかぎり、
>「防衛目的や農地として以上に涼州に価値」が蜀漢にあったということはできないだろう。
へのレスだよ
勘違いだけど
勘違いじゃなかった
>>229 つまり前漢と蜀漢の立場の差から生まれる必然の理を理解できる頭を持たない奴は戦略を云々してもムダ、と
それ前スレでやってたよな
「可」という結論だったぞ
自論に固執して物事が見えていないようだな
>>228 経路だよ。ケ艾は狄道から蜀に侵入してるだろ。
狄道周辺は姜維北伐の最激戦地。
漢中迂回には、
・狄道-陰平ルート
・天水-武都ルート
・漢中突破ルート
大きく三本があった。
その全てを十分に防御することができなかったことが蜀漢の直接の敗因。
>>232 例の人を煽るならアンカ付けたほうがいいよ
>>235 あ、確かに勘違いだね。狄道は隴西郡だった。
というか、はじめから魏の雍州と涼州の区別が曖昧だったのが問題なんだけど。
関中と混同される始末だし。
では、改めて、魏の雍州圏内をこの議論から完全削除することにしよう。
すると、蜀漢が(魏代の)涼州を戦略目標にした事自体、
羌の叛乱勢力を回収しにいったときの一回くらいしかない。
蜀漢は涼州を確保しようとなどしていない。
これでFA。
>>237 うん。
>>228の「涼州」を「漢代に涼州だった隴西部」と言い換えれば、
>二と三に該当
は当てはまる。前スレ684や658は、祁山など隴西部と武都・陰平の益州北部などの
北伐主要係争地のことのつもりで言ったんだろうけど、
河西回廊四郡の歴史を持ち出された辺りからおかしくなった。
>>236 紙面に留まるならそうだろう
236がそれでFAというならそれもいい
236自身がそう思っていればいいだけのこと
内に留まる限り誰も信仰の邪魔はしないさ
しかし賢者は涼州を捨て置かないと思ったがいい
>>238 話は三国時代のことだろ
歴史が魏を中心にしているのだから魏に拠らなきゃな
236の言う通り場が混乱してたように思える
そうなん?何で分かる?
>>245 全然違うだろw
まさか「終了」とか「FA」が、俺か
>>4のオリジナリティ溢れる言い回しだと主張するのでもあるまい?
雲行きが怪しくなると議論打ち切りたがるのが如何にもだったので
いや、自分でいうのもなんだが、
>>236は煽り込みの「勝利宣言」だろ…w
これで雲行きが怪しくなって逃げ出したってんなら、
例の人はこの板で二十回は逃走してるぞ。
あの人のような真似をして何の得があるのやら
ほら、あやまって!
別に謝るようなことでも。
反論によって「FA」に待ったをかけられれば、
応じて話題が続くだけだって。
打ち切ってみたり、混ぜくり返したり、忙しいですな
うん、俺もいまさら時代遅れの「FA」にこんなツッコミが来るとは思わなかった
例の人ってレス番200前後で語られている人物?
結局、場を無茶苦茶にしたいだけなんだな
このスレには人の話を聞かない奴と、後釣り宣言する奴と、それらに粘着する奴がいる
今はそのうちの2者が来ている
>>248 あれ煽り込みの勝利宣言だったのか
てっきり証拠内に逃げ込んで拗ねてるのかと思ってた
>後釣り宣言
新語か?意味kwsk
いや「後釣り宣言」知らないとか言われても…俺如何したらいいの?どうしたら良いと思う?
とりあえず ググレカス と言っておけば良い?
やっぱ、あの人は浮世離れしたところがあるな
そこがまた憎たらしいんだが
ごめん ネットジャンキーの常識なのね
ググって来るよ
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/01(火) 01:09:48
病巣の根深い奴に限って他人を異端視したがるが
実は自分こそドップリ嵌っているというのは良くあること
おっとageてしまった
また混乱してるなあ。
前提)これまで、2スレに跨って、蜀漢が北伐で争った「係争地の涼州」の特性について議論してきた。
発端は前スレ658(
>>228が引用)
この「係争地の涼州」が、「漢代の涼州」だとした場合、祁山、天水、狄道等、
諸葛亮・姜維が侵攻した実際の激戦地が多く含まれるので、
蜀漢北伐の考察としては適している。
この地域の特性は、>>前スレ658の見解(及び
>>238)が正しいと(俺は)考える。
しかし、
>>235が「魏の涼州」と指定したため、
>>236ということになった。
>>235と同一人物と思われる
>>239は同意していないが、今のところ反論もない。
ということだろ?
「漢の涼州(魏の雍州西部)」を対象に仕切り直すのも問題ないと思うよ。
憎しみは知恵を曇らせる。
ひとたび粘着が生まれると、どうしようもない。
それでその人とやらは誰なんだ?
何で自分以外にあと1人しか居ないようなレスをつけるんだろうなw
自覚があるのか無いのかw
有ったら、そんなレスつけるわけねーだろ。JK
やっぱりスレ立ては速すぎたんだ…でFA
もう少しスレ立てるタイミング考えろよ…
煽り専同士が派手に同士討ちしてるように見えるんだが
やっぱそういう空気になっちゃうのかね
板ごとにトリップやコテをかえる奴なんているのか
前スレ終盤の雰囲気が最悪だったのにすぐ立てたからな
まぁ魏より豊かだったら勝ってるはずだからなw 蜀が。
よほどのイレギュラーが発生しない限り所詮、戦争は国力と兵站だからねぇ、この時代も。
蜀の北伐が文字通りの北ではなく西方へ伸びたのは、
異民族を懐柔して国力の底上げを図りたかったからだろうね。
戸籍に載らない異民族の数は相当なものだったろうし。
近場の陳倉に進出した際は兵糧不足で早々に撤退したのに、
遠い西方で長期間行動できているのは、そういった異民族から食料や物資を得ていたからじゃないかな。
そこらのことは楊戯伝に記されてるな
諸葛亮の陳倉攻めがあっさり兵糧切れで終わったのは不思議だよな。
短期決戦を挑むつもりで国家の総力挙げて動員できるだけの大軍を動員して、
食料あまり用意しなかったから、陳倉城で粘られて予定が狂って、
撤退せざるを得なかったんじゃないかな?
諸葛亮の北伐は総力戦、姜維の北伐は総力戦では無い気がする。
姜維が動員した兵力も諸葛亮ほど多くなかったと思う。
それでも国が破たんしたのは、食料を大量に用意して長期戦の構えで戦い、
国庫に多大な負担を強いたのと、
諸葛亮体制の時代ほど後方支援体制がしっかりしてなかったのに、
連年出兵を続けたからじゃないかと。
>>277 近年の説や時系列的にも、陳倉城攻めは武都・陰平攻略と連動しているというのが
有力じゃなかったか?
>>278 確かに陳倉攻めの直後に、武都・陰平侵攻してるしな。
陳倉攻めは大規模な陽動だったのかも知れんな。
撤退が不自然なまでに早すぎるし。
FA宣言が流行ってるようだな
>>265 野球で言うところの「振り逃げ」っぽいがまあヨシとしよう
しょうがないから
しかし「漢の涼州(魏の雍州西部)」を対象にしても無意味なことに変わりはないよ?
そもそも雍州西部を係争地とカテゴライズしてもよいのものか疑わしいだろ
魏と蜀は戦争する理由がある それだけの事じゃないか
雍州西部の覇権を巡って2国が戦争しているわけではなく
戦争している2国の前線に雍州西部が位置している
前者なら係争地と言えるが後者は言えんだろう
「係争地」としたことは、それ自体誤りだが
更にそれが戦争の方向性を勝手に定めている
これは間違ったことだよ
しかも涼州は国力的には魅力がないと思い込みで勝手に決めつけて排除しているし
考察はまったく誤った方向に行ってしまうだろうね
>>280 ごねてるだけで何も言ってないよ、あんた
戦争している2国の前線に位置しているのは雍州東部、隴東だ。
>>280 涼州が国力的に魅力のある土地じゃない事は、
さんざん言われてきた事だと思うが。
涼州豊か論はことごとく論破されてきたし。
>>282 こりゃまた変わった意見だね
>>281 係争地じゃないのだからそこから仕切り直さなきゃいけないよって言ってんの
>>283 涼州豊かじゃない論がことごとく論破されてきたようだけど?
>>284 >>285 いや、俺前スレからいるけど、涼州豊か論は無理な史書解釈や推論が多くて、
突っ込まれまくってた気がする。
あれは突っ込む奴がバカだった
>>284 なあ、根本的なことを聞いてしまうが…
隴山がどこにあるかしらなかったのか?
笑 いいのか? そんなこと言って
どこにあるか言ってみなよw
今度は全レスさんがきたか
結局涼州豊じゃないとか言ってるのはDQNってことでFA
これはスレをわざと混乱させたい人間の手口だ
>>278,
>>279 ただ陳倉で陣頭指揮を執っていた諸葛亮本人が建威まで牽制に出ている
陽動だったら両方が戦場になる可能性もあるからどちらかは別の将を使うだろう
また魏の援軍は武都、陰平のある西方からではなく東方から来ているから
下手すれば敵軍を増やすことになりかねない
陳倉攻略は失敗したけど軍の損耗が少なかったから
魏の援軍が戻る頃合を見て急遽2郡攻略を行ったのではないかと思う
なんにせよ、このふたつの戦役を別個のものとして捉えては見えてこない部分が
あるのはたしかだろうな
臨機応変の才に優れていたんですね
>陳倉
たった二十日余の攻防なのに、攻略諦めた理由に兵糧不足があったりと。
孔明は大群で簡単に落とせる算段が普通に狂っただけのような。
これ以後、手を出さないようにしているし。
つまり諸葛亮にはテレポーテーション能力があったんだよ!
テレポーテーションで陳式軍をまるごと瞬間移動させたのさ
そう考えれば別個の戦役と見なすことも不可能ではないというかなんというか無理
陳式って、一軍を率いて二郡を平定すると言う、
魏延以上に重要な役割を任されて大功を立てている有力な将軍なのに、
官位も事跡も分からず、季漢輔臣賛にも華陽国志にも記録のない不思議な人物。
漢中攻めで徐晃に敗北
夷陵の戦いでは呉班と共に水軍を率いる
北伐では二郡攻略
分かる事績はこれぐらいか
共通点は、本隊ではなく、別働隊を率いている事だ
劉備・諸葛亮時代を通じて常に別動隊を委ねられている点をみる限りでは、
陳式はそれなりの信頼を得ていた将官だったと判断してもあながち誤りではない
のかもしれないな
任務に忠実でそつなくこなせ、ある程度の独自の判断もでき、それでいて
余計な自己主張をしないというのは時代や指導者を問わず重宝されるし
王平あたりもそんな感じか
実は陳式は四方将軍クラスで趙雲より格上だったのかもね。
李厳弾劾の上奏の時には名前が無いから、
この時はもう死んでいたんだろうね。
李厳弾劾の前に四方将軍っていうのは、李厳と同格かそれ以上ってことだぞ
陳式は名を到と改名しました とかいうオチは無いよな
>>296 兵糧不足も何も第一次で数万動かしといて半年でさらに同規模の数万動かして
さらにそこから1ヶ月くらいでまた別に数万動かしてるんだが糧秣不足って何?マジで何?
陳寿の曲筆じゃねーの?
陳寿は官渡でも同じようなことやらかしてるよね
「袁紹は結局動かなかった」とか
袁紹のは官渡のかなり前の話だろ。
「小子」の病という理由が本当かどうかは別として、袁紹は曹操不在に対して動いてない。支軍を派遣しただけ。
劉備が駆逐された後にやっと郡県に檄文を飛ばして大動員を掛け、自ら出陣して渡河を行った。
一次・二次と三次を同規模に設定するのもおかしい。
一次は三百キロ以上の長距離を行軍して隴西を全土を掌握、
二次は二百キロの秦嶺山脈を縦断する計画の作戦。
しかも、上手くいけば洛陽から到来する魏の主力との交戦が視野に入るもの。
当然、後方を含めた動員人数は莫大なものになる。
三次はそれに比べて距離も短く、攻略予定地域にまとまった軍団は確認されず、
魏の救援は一次よりさらに長駆を強いられる。
実際、雍州刺史の郭淮さえ間に合わなかった。
始めに丞相軍主力ではない陳式が動いて二軍の制圧に成功し、
やってきた郭淮に応じて諸葛亮が動いた、という規模のもの。
備蓄の安全ラインは大幅に下がる。
DQNちゃんはもうちょっとよく考えた方がいいな
それにスレ違いだろ
北伐スレでやれ
蜀漢の兵站事情の話はスレ違いなのか? じゃあ切り上げるわ
>>305 ところがどっこい、わずか1、2ヶ月の出来事
劉備の徐州造反は199年末、敗走という逃走は200年1月、袁紹の南下はほぼ同時期
劉備は曹操が自ら来たと聞くや即座に逃走しているので
曹操が劉備を攻撃したのとほぼ同時に袁紹は南下しているということがわかる
2月には犠牲を出しながらも白馬を落としてる
数万規模の軍団の動きとしては袁紹の軍事行動は遅いどころか実に的確
時系列を整理すると陳寿は何らかの目的があって「袁紹は動かなかった」と
愚鈍な印象を付与してると言わんばかりの曲筆と言ってもいいレベル
>>306 それらは全て僅か1年程度の間に行われた軍事活動だからなぁ
魏延の陽トウ合戦を挟んで4次がそれから3年後にならないと行えないと言うことは
1〜3次である程度備蓄を使い果たしたと考えてもいいだろうが、
少なくとも2次の時は3次を行うだけの余力があったわけで2次で兵糧不足による撤退というのは
明らかに3次を見越してるから、足りない、というだけで、とことん足りないというわけではなかったと見ていいのでは?
スレの主題に立ち返ると、蜀の経済規模というか丞相府の権限で賄える兵糧を
これらの諸葛亮の軍事行動間隔からある程度はじき出せるかもしれない
追記
諸葛亮は北伐以前に南征も行ってるけどこちらも北伐の3年前であることを考えると
諸葛亮は3年分の備蓄があると軍事行動をするのかもしれん
>>309 袁紹が鄴から100kmもない黎陽に2月に着いているのだから
曹操が東に行っていた1月には何もしてないって事でしょ
それに後漢書でも劉備が袁紹の所に逃げた後に進軍したとあるし
>>310 諸葛亮が自ら動いたのが225年、228〜9年、231年、234年だから可能性はあるね
ただそれだと蜀の食料生産能力は3年かけて備蓄しないと
大軍を動かせなかったということになるけど
現代戦じゃあるまいし…そんな即応が可能なものかよ
>>312 袁紹側が準備をしていなかったとでも?
じゃあ曹操は何のために官渡まで来ていたのかと
>>309 袁紹と曹操は既に前年の前半から交戦を始めているんだよ。主に黄河の北で。
曹操は并州に手を出すなど積極的に北方への取り込みを行ったが、失敗する。
曹操自身も黄河北岸の黎陽まで進出している。
主力同士の交戦がいつ行われるか、というところだっただろう。
で、袁紹が物量に任せた本格的な動員を行い、白馬に先鋒を派遣したのが二月。一ヶ月はロスがある。
田豐「今の隙に動かせる全力で攻めろ」袁紹「まだ俺が動く時期じゃない」という応酬を否定することはできない。
勿論、病云々は田豊を引き立てるためによく付与される類の伝説で、
実際には単に大動員が間に合わなかっただけかもしれないけどね。
>>312 100kmもあったら移動だけでも1週間は見ないといけない
大軍になればなるほど行軍に時間がかかる
不勉強なもんで黎陽とギョウの直線距離は知らんが黎陽は白馬の対岸
つまり1月に曹操が動いて2月に白馬の拠点落とされているということは
拠点が即座に落ちたのでもなければ1月中にはもう行動始まってると見るのが自然で
袁紹は曹操の動きに呼応してきっちり攻め込んでると考えるのが妥当では?
>>315 前年、まだ袁紹が公孫サン囲んでる頃から曹操が突っ掛けてったこと考えると
そこから大軍を維持したまま反転させて攻勢に出るまで僅か半年程しかかかってないわけで
袁紹の機動は大軍を率いたままの状態としては速いって程でもないが遅くもないだろ
しかも田豊の言動って上記の袁紹の行動含めて考えると滅茶苦茶だよ
もう行動開始してるのに行動開始してなかったかのような進言はいくらなんでもありえない
>>304 だから簡単に落とせるつもりで食糧を大して持ち込んでなかったってことじゃないの?
制圧できない以上、現地調達も苦しいだろうし。
軍隊は右から左に動かすにも大変。
戦場を変えるにはそれこそ兵糧の蓄積等の準備期間が必要だろう。
遠征した兵士への休養や、対北戦の戦後処理を考えるとそちらを優先した可能性は別段不思議なことじゃない。
>>317 諸葛亮が陳倉落としてたら魏から曹真辺りが軍勢を率いて奪還に来るのはほぼ確定だと思うんだが
にも関わらずちょっとだけしか食料持ち込んでないとしたら諸葛亮は陳倉何のために攻めてんの?
落とすだけ落として維持せずトンズラ?
>>319 孫子の時代からあるように、敵に食む=敵産を奪って兵站負担軽減と速攻を両立させよう、というのは珍しくない。
効果が大きいだけに、失敗するとアレだけど。
現地調達するにしても、数万の大軍を食わせるだけの生産力が、
当時の生産力が底辺まで落ち込んでる関中にあったんだろうか?
それに陳倉の先には関中諸軍がいるわけだから、
そいつらに勝って関中を占領できなければ、現地調達も無理。
こんなギャンブルを諸葛亮がするとも思えんが、
第二次北伐は他の北伐と比べても計画性が無さ過ぎて困る。
その戦略自体を否定する気はないが、直前まで改修されてる要塞に備蓄を期待してるものか?
諸葛亮は陳倉を維持する気がないとかでない限りは自分で数ヶ月食える分くらいは持参するだろ
食料がなくなったからとあるのは蜀側の史料(蜀志と華陽國志)だから
単に「落とせそうにない上に援軍も来るから撤退した」のを
食糧問題に転嫁しただけかもしれないけど
陳倉を落として拠点にできれば
散関経由で補給するのも比較的楽だったと思うけどね
たまにはスレタイを思い出して下さい
いずれにせよ、蜀はいつも兵站で苦労してるね。
補給も大変だし、食料や物資の用意も大変だ。
これで経済が破綻しなかったんだから、
やはり益州は豊かなんだな、ってことで本題に戻そう。
益州はひきこもる分には豊かだけど、外に出ようと思うと苦労が多いね。
でも、魏より豊かだったということは無いね。
魏より豊かなら、もっと大軍を動員できて兵站にも苦労せずに勝てたと思う。
>>316 鄴と黎陽は「中国歴史地図集第三冊」によれば直線距離で約70km
(だから道が曲がっていたとしても100kmもないと表現した)
公孫瓚の敗死が199年の春とされているから
200年の春に南に向かう準備ができていなかったとは考えにくい
あと私も不勉強で申し訳ないんだけど
白馬が「落とされた」記録ってあるの?
曹操は4月になって劉延を救援しに行っているから
劉延はそれまで白馬を死守していたのではないの?
(関羽が顔良を斬ったのはこのときだよね)
>>325 まあ面積当たりの豊かさでは勝っていたかもしれないけど
さすがに国全体としては劣っていたとしか言いようがないでしょ
で局地的には優勢に立てるだけの経済力を持っていたとしても
中原から自立できる条件であった地の利が逆に災いしたと
>>327 話が何度も脇道にそれまくったけど、結論としてはそうだよね。
ようやくまっとうな結論が聞けた。
>>326 直線距離で70kmだと少し曲がるだけで100km簡単に越えるぞ
1.4倍程度の倍率なら本当に簡単
直線距離の2倍が移動距離なんてのが昔はザラ
今と違って地形にも左右されるしな
地形を無視して直線で移動できるのって今のテクノロジーで道路整備とかしたり航空機とか使ったりするからだよ
あと白馬に関しては2月に攻撃→そのまま落ちたと勘違い
2月には袁紹が白馬を攻撃させただけだな
どっちにしても2月に攻撃が出来るってことは1月中に行動開始してないとありえないけどな
>>327 官渡での曹操って1万は嘘にしても袁紹より数少ない上に
防衛戦で兵糧残り1ヶ月とか、どんだけ生産力ないんだよって感じだな
それと冀州のチート生産力もどうかと思うが後漢書のスペックだけ見ると
益州が冀州を100万ほど上回って最多人口州だった
>>329 仮に道程が直線距離の倍だったとしてもせいぜい150km
今のGoogle Mapで見る限り山地の東側を通るから
いくらなんでも1ヶ月以上かかるとは思えない
(スレタイに沿えば北伐だってそこまでゆっくり進まないだろう)
だから2月に攻撃したことをもって1月に行動開始したとは断言できない
それに記録上では三国志も後漢書も後漢紀も資治通鑑も
袁紹は劉備が曹操に敗れて逃亡した「後に」出発している
何を根拠に袁紹が「先に」動いたと主張するの?
>>331 先にとは言ってない
袁紹は劉備の行動に対応して行動した、と言ってる
陳寿の言う「袁紹は動かなかった」が間違ってるということ
>>330 当時の中原は戦乱で疲弊の極みにあった。
おそらく、生産力と治安と人口が最低まで落ち込んだ時代。
魏の時代になると、だいぶ復興が進んでるから、
官渡の頃の中原を例に出して、
魏の時代も中原は生産力なかったというのは間違い。
益州は人口が多くて広大なものの、人口密度が薄く、未開地域が多い。
冀州の方が人口密度が高く開発が進んでいる先進地域な分、
人口が益州より少なくても、生産力ではいい勝負できると思う。
丁度アバドン閣下が大暴れしてたしな
陳倉は始めから補給なしの計画でやっている
第4次も兵糧自体がなかったわけではない
蜀漢国が兵糧に欠乏した事実はないんだよね
>3年間の備蓄
第1次の前年に軍を興して漢中に入っているし
第4次の前年に攻め入ってきた曹真と防衛戦をやっている
おまけに第3次から曹真侵攻の間に漢・楽2城を築いている
兵士に一年の休養を与える事を考えれば、ほぼ間断なく軍事行動をしている
第5次は魏のシフト変化への対応と呉との調整の為に
遠征の間隔が2〜3年というのは必然的なもの
ここから生産力を測るのは不可能
>>323 陳倉は知られた名城で簡単には落とせない
仮に頑張って落とせたとしても、城は自軍の攻撃でボロボロ
修繕する暇もなく防衛戦に突入し、城を頼ることが出来ない
輜重が無いということは、兵糧は勿論、矢、鎧、矛などの武器防具の補充もない
城攻めで矢を大量に消費したあとでどうやって新たにやって来る大軍と戦えるのか
輜重部隊の歩みは遅く陳倉を落としたあと伝令を遣って送って寄越しても間に合いやしない
>食糧問題に転嫁しただけかもしれないけど
敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
撤退は食糧問題じゃないんだ
>>335 無理、とは言わないまでもある程度上限が見えなくはないかね
投了時の兵士10万と合わせて考えると
少なくとも「10万を維持しつつ毎年戦役を起こす」ということは出来ないしさ
>>337 いや無理だろう
穀類生産力の問題ではなく人間の問題だから
このスレのテーマ
この場合の豊かさとは「ゆとり」
ひとに置き換えれば「エンゲル係数が低い」ということ
「自由に使えるお金がある」ってことだ
自由に使えるお金が多いと、人はよりアクティブに行動出来る
単位あたりで蜀の方が魏より豊かということは
蜀の方がアクティブに行動できるということ
これを決闘に置き換えると
魏さんは巨体だが動きが鈍い、
蜀さんは体は大きくないが動きが機敏
動きの鈍い魏さんは自分の大きな体を活かすことが出来ない
ナイフで肉を切り取られ、徐々に小さくなっていく
始めの体格差は縮まり勝負の行方は分からなくなっていく
魏さんが蜀さんと対等以上に戦うには
蜀さんの機敏さに合わさなくてはならない
同じスピードで動けるまでシェイプアップする必要がある
従って魏と蜀の戦争は、総人口ではなく、総ゆとりの勝負となる
“考えられているほど”には魏と蜀に開きはない
で、魏にどのくらいゆとりがあったかというと
蜀の2倍程度
補足
対蜀では
>>338 生産力が高ければ人口増加も早いわけだし、理屈の上では生産力の高さが人口増加率の高さにもつながるでしょ
>>336 >敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
書かれてないよ。「無穀」では、漢中に十分な備蓄があったけど置いてきたのか、長期戦をする
まあ補給問題ではないとすると、短期で落とせるつもりだった陳倉を落とせない状況で
三万の張コウ軍を迎撃するのは無理だ、という純粋な戦力的計算になるだろう。
陳倉は後漢末の戦乱以来放置されていて、一次北伐の迎撃の帰りに曹真が整備を命じている。
或いははじめから、侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか。
これなら「輜重を連れていない」という解釈でも筋はとおる。
なんか切れた
>敵国側の張コウ伝に「輜重連れてないからすぐ帰るっしょ」って書かれてあるくらいだよ
書かれてないよ。「無穀」では、漢中に十分な備蓄があったけど置いてきたのか、長期戦をする
備蓄がすでに無かったのか、は判断できない。
>>341 その分税金で持ってかれるだろうから、民にゆとりがあったかどうかなんて言えない
>>339 >>340 そりゃ、魏は幽州と幷州で鮮卑と、
荊州と揚州で呉と対峙してるから、
対蜀だけにはリソースつぎ込めんわな。
魏の方がはるかに蜀よりも戦線が長いことを忘れるな。
魏にとって、対蜀戦は総力戦では無くて、一戦線に過ぎない。
縣軍って、懸け離れた軍ってことだろうが、それが「敢えて輜重を置いてきた」を示す言葉になるの?
兵站確保が困難な場合にも使われる。
「諸葛亮の軍は輜重を(十分には)持っていない」ということしか判らないよ。
>>346 ああそうだよ
蜀は2倍程度の敵に勝てば次のステージに進めるってことだ
なんか意味の無い細部の応酬になってしまったな。
「諸葛亮は、二次北伐で、陳倉を短期で落とせたとしてもそれ以上の長期戦は出来ない程度の兵站しか
用意せずに出戦した。なぜか?」
これが合意できる議題ってことでいい?
>>347 無論そうさ
兵士が携帯出来る量なんて高が知れてる
荷車はあるだろうよ
そういう話じゃなくてね
>>348 二倍は言い過ぎ。少なくとも戦場で対面する実兵力で比べればね
>>347 縣軍とは後方との連絡線を持たない軍のことだよ
>>342 漢中から引き揚げる曹操が陳倉に張郃を残し守備させている
名将を残していったということはそれだけ警戒していたということだ
城を荒れたまま放置していたとは思えないな
曹真伝には「治」とはあるが、どの程度壊れていたかは書かれていない
「後漢末の戦乱で荒れていたのを」とどうして言える?
「短期で落とせるつもりだった」
これはおそらく諸葛亮が陳倉の備えに驚いたエピソードが頭にあるからなんだと思うが
このエピソードは裴注にさえ載ってない
>>353 張コウらのことは失念していたが、その後、戦力は撤収しているわけだ。
護軍の郭淮が刺史に転属して以来、対蜀方面には軍備が確認できない。勿論陳倉県自身の防備は別として。
篭城するのに必要なのは城壁だけじゃないし、城壁だって当時は土壁だからメンテナンスが必要だった。
それを再生させたのがカク昭の数ヶ月の仕事。
>これはおそらく諸葛亮が陳倉の備えに驚いたエピソードが頭にあるからなんだと思うが
なんのことを言っているのかよくわからないが、
魏略のカク昭の伝記には、誘降から雲梯まで使って城を落とそうとする蜀軍の攻撃が描写されている。
大前提として、攻めたからには、落とす参段だった、とまずは推測するのは当然のことだろう。
「もしそうでないとしたら」
>侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか
と俺は推測したけど。
>>349 それだと魏の領内に拠点を作るつもりはなかったことになるから
諸葛亮は「魏に勝ったという実績」だけが欲しかったのでは
それに何の意味があるのかと言われれば…本人の丞相復帰だな
(実際三次で2郡を奪回した後にやったことはそれだし)
実績がほしかったからといって、出征に戦略目標が無いことは正当化できないよ。
どうやって皇帝や諸将に計画を説明したのか。
「とりあえず攻撃します。勝ったら勝ちってことで」って?
>>355 諸葛亮は戦下手だって固定観念があるから
諸葛亮みたいな戦下手がまともな戦略立てるわけがないという前提で思考してないか?
だからそんな不自然に不自然を重ねて理由をつけるような推測になるのでは
戦略が政略と斬っても斬れない関係だから、国内向け宣伝が理由であってもおかしくはないと思うけど。
つーか、ただでさえ複雑な派閥雑居状態の蜀を纏めて戦うにはむしろ不可欠な要素のような。
軍を出すってのは多大なるリスクを背負うもの
行軍だけでも大変な出費なのに交戦して不利な追撃までされて
もし自軍に被害が出ていたら宣伝どころか権威も地に落ちるだろうに
そんなリスクをおかしてまで
「なんの意味もありませんけど実績が欲しいからとりあえず出兵します」
成功失敗以前にそんな事言われた時点で自分が皇帝なら宰相職解雇するな
実績欲しい、という意味があるじゃないかw
外征を国内引き締めに使うのは、むしろ古典的手段だし。
ふーん。つまり諸葛亮は自分の権力欲のためだけに
兵や国庫の金を犠牲にする最低の権力者だったってわけだ。
実像は董卓とかわらんな。
>>362 そんなレスはついてないじゃん。
国内取りまとめなきゃ、弱小の蜀は滅ぼされるだけ。
だから四苦八苦してたんだろう。
出師の表でも、宮廷と行政の争いに苦言を呈しているし。
自分の意に沿う意見がないからって、悪意で決め付けるのは空気悪くなるだけじゃ。
しかし、5回も大軍で魏に攻め込んだのに、
あまり兵を損なわず、国も疲弊させず、
戦果が少ないのに蜀の支配体制も
自らの権力も揺らぐこともなかった諸葛亮の手腕は、
かなり恐るべきものがあるな。
普通ならどこかで破綻をきたしてる。
>>363 悪意とか善意じゃなくて普通に最低だと思う
犠牲になった兵や税を納めた国民がかわいそうだと同情した
個人の権威のためだけに意味のない犠牲を払わされたとは
というか悪意とか言われても困るんだが
>>365 だからその捉え方でも意味はあるだろう。
孔明一人に政軍の大権があった以上、そういう要素も国運に直結するんだから。
完全悪意じゃねーかw
>>365 どこをどうすれば、国内の引き締めと個人の権威が結びつくんだ?
国内をまとめるために外征するのは、歴史上よくあること。
外敵がいないと国は容易に内紛起こす。
為政者個人の権威を守るための外征と、
国をまとめるための外征は訳が違う。
諸葛亮の人物評価なんてどうでもいい、ピンポンダッシュ外征はよくある説だ
で、その外征からどんな魏と蜀の国力の豊かさの関係が推測されるんだ?
二次三次北伐の戦略意図と蜀軍の兵站問題を探ることは
蜀漢の軍事動員力や財政的余裕を探ることになる。
>>356,
>>359 いくら諸葛亮でも出征するのに「実績が欲しいだけ」なんてこと公言するわけがない
表向きの理由はもちろん「魏の打倒」に決まっているだろう
>>357 私は
>>349氏のいう「議題」に対して思ったことを答えただけだが
あなたがもっと相応しい考えをお持ちなら披露してみればどうだ
大体陳寿の評にあるとおり諸葛亮に足りなかったのは「応変の将略」であって
別に戦略を立てる時点で「戦下手」だったわけではないと思うが
(予定どおりにいかなかった場合に融通が利かなかったということだろう)
また全権を握る諸葛亮が右将軍に止まっていたら他者はそれ以上の官位に就けないのだから
あなたが考える以上に諸葛亮の丞相復帰は蜀にとって重大な問題だと思うが
>>369 個人的には
>>323で書いたとおり本当は食料的な余裕はまだあったと思う
(両北伐に対する意見は
>>293で書いたとおり)
なにこの頭の悪い流れ
>>37 >表向きの理由はもちろん「魏の打倒」に決まっているだろう
そんなテキトーな理由で動く軍隊は無いよ。
ましてやいくら諸葛亮が強大な権力を持つ(行)丞相とはいえ、臣下の身分だから。
そのテキトーな理由で北伐できるほど諸葛亮が絶大な権限を握っていたのなら、
わざわざ半年ほどで失地回復の征伐を起こす理由は消滅する。
曹爽でさえ、本心はともかくとして、少なくとも漢中攻略くらいは目標に入れて大軍を準備し戦略を
立案しただろう。
敵国の首都から主力が来援するまでに所定の目標(例えば呉の合肥攻略とか)に届かなければ、
前後に敵を抱える危険を避けるために早期に撤退するという選択は当然あり得るが、
諸葛亮の二次北伐は、作戦可能時間が一ヶ月に満たないだろう、と明確に指摘される珍しいケース。
兵糧が枯渇していたのか、兵站に人員を割かなかっただけなのかは別問題として、
この強行軍には当然理由があることになる。
諸葛亮の本心が仮に一身上の都合だったとしても、明確な戦略目標がないのにも関わらず
一次の失敗の同じ年にわざわざ秦嶺越えを強行したとすれば、国内での名分が立たない。
名分が立たずに軍を起こせば、普通は立場が悪くなるもの。
手軽に功績を挙げたいだけならそれこそ武都攻略で良い。当時の魏は、対呉の攻撃を仕掛けていて、
西方へ避ける兵力は少なく、まとめる将もいない状態だった。だから張コウがわざわざ荊州から
召還されたわけだ。
この外交情勢で兵站が貧弱な状態でわざわざ魏の迎撃が有利な隴東へ出征したのなら、
かえってそれに純軍事的意図を読まざるを得ない。
372もズレてるな
諸葛亮軍が兵站を持っていなかったことは、張コウ伝にもあるよ。
魏蜀両方の史料から伺える以上、
諸葛亮は洛陽からの主力の応援(張コウ)と本格的に対峙する余裕を
初めから持たなかったことは史料上確定として良いだろう。
ならば、「陳倉を落とせなかった理由を食糧不足に転嫁した」は有り得ない。
というか、当時の軍事思想的に「攻め込んだけど食料がないので撤退した」は
不名誉なことで、敗戦の言い訳の潤色には使いようがないと思うけど。
(表向きに)魏打倒の名目を掲げて意味不明の戦をしようとする軍権保持者を
周囲は誰も止めなかったのだろうか
それとも止めたけど諸葛亮が強行したのかな
兵站を持ってないというのは、大規模な馬車で輸送とかみたいのじゃないの?
それは地形的に無理だろうし
兵站無いとかいったら木牛とかどうなっちゃうのよ
秦嶺山脈の入り口に大規模な糧秣倉庫とかも作ってるよね
兵站問題を生産力に求めるのは間違いではないが、それは輸送に使う馬匹の重用が難しいのであって、
食料の生産そのものには関係無いお
だいたい三国時代から生産高数十倍になってる20世紀ですら前線の物資不足は解消されてないんだもの
>>376 木牛の使用は四次からだね。
そのような準備が足りない状況で秦嶺越えをしたのはなぜか、と言うのが今の問題だろう。
>>377 もし、「二次北伐の撤退は、全体的な政府備蓄の枯渇が理由ではない」と結論するならば、
益州の生産力と朝廷財政は、再三の北伐の連続に十分に耐えうる強靭さを持っていたことになる。
実は諸葛亮時代の統治を讃える記述はあっても、
連年の北伐で民が苦しんだとか、国が疲弊したとかいう記述はないんだよね。
蜀は財政的には相当な余力を残して北伐に臨んだと思われる。
完全にスレタイとずれるのはお詫びしますが…
>>372 >そのテキトーな理由で北伐できるほど諸葛亮が絶大な権限を握っていたのなら、
>わざわざ半年ほどで失地回復の征伐を起こす理由は消滅する。
だから諸葛亮が丞相に復帰する功績が欲しかったと考えて
諸葛亮が形式上とはいえ降格したままだと都合が悪い理由も書いたのだが
(もちろん私見に過ぎないからこれが正しいとは言わないが)
>>374 張郃のその発言は河南城での曹叡の問いに対する答えだから
もし本当なら蜀軍の食糧問題は相当広く伝わっていたことになる
でも第一次北伐では食糧問題を起こした記録はないのだから
第二次北伐の最初の時点でそれを知っていたとは考えにくいのだが
(「勝てそうにないから撤退した」と「食料がなくなったから撤退した」とでは
どちらがより不名誉なのかは分からないけど)
正史の記述を否定するのがありならどんな説でもとなえられるよね・・
>>376,
>>378 木牛は従前の輸送道具と比べて人手を省けるような構造らしいから
実際に北伐で輸送に苦労した経験を基に開発したのかもね
>>379 呂乂伝には諸郡からの徴発がうまくいっていなかった旨の記載があるから
(その呂乂は無事に送ったということで記事になっている)
記録よりも蜀の負担は大きかった可能性はあるけどね
頭の中から「懸軍は食糧が足りなかったから」というのを消せ
話にならん
北伐スレと化しつつあるが、元がスレ立て主のアホな偏見で立てられたクソスレだから、
まあ有意義に使われてて良いことだ。
>>380 >諸葛亮が形式上とはいえ降格したままだと都合が悪い理由も書いたのだが
僅か半年で再戦をする主たる動機とするには弱すぎる。
臣下達も自分が功績を挙げなければ昇進できないわけなので、
実権力が盤若な諸葛亮が、名目の官位に短期日で戻ろうとする理由が無い。
むしろ自らを罰して降格した政治的配慮を自ら溝に捨てたことになる。
>第二次北伐の最初の時点でそれを知っていたとは考えにくいのだが
既に陳倉で交戦しているのだから、援軍総司令官予定の張コウには
蜀漢軍の陣容が伝えられていたということだろう。輜重車が少ない、など。
別に不思議ではない。
>>354 曹操漢中撤退時にもし陳倉城の防御力が落ちていたのであれば
必ず修繕したはずだ
その時点で堅城陳倉城は健在
それ以降に風化によりぼろくなったというのは考えられる
それを郝昭が修繕したと考えるのが自然
風化程度の崩れはありふれたもので
城の防御力を著しく損なうようなことはないはずだ
諸葛亮の頭に「堅城陳倉城」のイメージがなかったとは思えない
「短期で落とせるつもりだった」というのは考えにくい
>大前提として、攻めたからには、落とす参段だった、とまずは推測するのは当然のことだろう。
それ以前の大前提として、要地陳倉を落とせたら維持しようとするのが当然だろう
維持する準備がないというのは落とす気がないからに他ならない
>「もしそうでないとしたら」
>>侵攻されている呉を助けて魏の戦力を分散させるために陽動するだけという計画だったか
呉を助けるための陽動なら、武都・陰平を取る必要はなくないか?
陽動成功、呉を助けて任務達成 諸葛亮よくやった! ってとこだろう
武都・陰平をついでに取ったのなら始めから同時進行すればいい
しかししていない
>実績が欲しかった
実績が欲しいというのは曹爽陣営の本音であったかも知れないが
戦の名目にはなり得ないだろ
>>356と
>>359は名目の話をしてるのに、反論は本音の邪推話になっている
反論になっていない
しかも曹爽には取った漢中を維持する気がなかったのか?
ありえないだろ
第一、リリースしたら手柄にならない
それどころか返って非難される
パチンコや競馬で途中勝っていても意味はない
最終的にいくら持ち帰るかだ
第一次北伐で諸葛亮は三郡を得た
しかし一瞬のことで最終的には失った
陳倉を得てそのまま失うのはこれと同じ
諸葛亮が讃えられるのは陳倉をそのまま維持できた場合のみだよ
維持できないようなずさんな計画を立てたことを非難され、無能扱いされるだろうさ
>>358 大きなコストを掛けてキャッチ&リリースとか
そんな遊びをやる余裕が劣勢の蜀にあるものか
返って不満が出るよ
>>387 そうだよな
>>380は功績が欲しかったからと書いているがそもそも功績になりえない最初から
スレタイに繋げると莫大なコストをかけて戦略的に全く意味の無いキャッチアンドリリース遊びをできるくらい
蜀には余裕があり、豊かだったってことだろうけど
不思議なのは周囲がそんなバカバカしい計画を止めなかったのだろうかってこと
どうやって出兵の賛同を得たんだろうか、それを聞きたい
陳倉って、後漢末期にも八十日余の攻囲を耐え抜いているんだよな
>>386 2次と3次を連続のものだと考えるのが問題。
2次は関中を攻撃することで張コウを誘引し、呉を助けるのが戦略目的。
それが一段落ついた後、3次で蜀漢の必争の地である二郡と取りにいくのが目的。
で良い。
蜀漢にはそれを同時に行う與猶はなかったが、魏が対蜀警戒の水位を急上昇させた以上、
二郡の確保は早急に行わなければならなかった。
>>386-389 だったら「諸葛亮は陳倉を攻略して拠点にしたかった」でいいじゃないか
むしろ何で落とすつもりもないのにわざわざ城がある方に攻め込んだのか
>>385 >既に陳倉で交戦しているのだから、援軍総司令官予定の張コウには
>蜀漢軍の陣容が伝えられていたということだろう。輜重車が少ない、など。
>別に不思議ではない。
陳倉の魏軍は蜀軍に包囲されていたのだし
その蜀軍は散関経由で山道を通って陳倉に来たのだから
魏軍には蜀軍の輜重が少ないなんて事は分からないのでは
蜀は皇帝名乗った以上は、漢から禅譲受けたという建前の魏との妥協はないからね。
せいぜい蒋エンのように現状維持第一に転換するのがせいぜいで、しかも孔明存命中は建言さえできなかった。
どの道最後は戦って破滅しかない。
出て滅びるか、座して滅びるか。
>>392 渭水盆地は、最盛期よりかなり寂れたとはいえ一端の穀倉地帯で、渭南にも農地と集落が広がっていた。
陳倉城がぽつんと取り残されてるような僻地じゃないよ。
情報収集と連絡が可能なのは陳倉軍だけじゃない。
陳倉は大軍の通り道として有用だし、むしろ栄えてる土地だわな
大軍に拘らなけりゃ他の道はあるけども
>>389 中原侵攻を計る蜀が、喉から手が出るほど欲しいであろう陳倉を
関中が手薄になるという百年にあるか無いかの僥倖に巡り会ってあっさり手に入れ、
キャッチ&リリース。
アンタ、どんだけバカですか?って話をやるわけがないから
「そういう戦略です」っていう説明だけは1000%ない
それだけは確か
名目なんて特別要らんのじゃ?
魏を倒して漢の再興を果たすのが建国以来の国家目標
国を預かった諸葛亮の意思は既に第一次前の出師表で明らかにしてもいる
北伐に関しては要らないはず
国家目標にない、たとえば呉を攻めるなんて時には
説明して理解を得る必要があると思うけど
今問題なっているのは、大戦略上の名目ではなく
軍事戦略上の名目だろ。
二次北伐で、いかなる戦略目的・期間の見通しを立て
敵軍の数量を見積もり、
どのような目標を達成すれば成功と看做して帰還するのか。
を、のように諸葛亮は群臣に説明したのか。
「陳倉が落とせて魏軍が来なかったらいけるところまで前進」
とか?
出師の表を出してあるから名目なんて特別要らん、なんて兵法を舐めすぎ。
>>391 時間的にみて、2つの戦役は連動している
一段落つけたような時間はない
それに武都・陰平なんていつでも簡単に取れるし
必争というなら第一次で放棄していない
陳倉との同時進行も全然可能だった(史実より多少攻略に手間取るだろうが)
呉を救うのが目的なら陳倉城を激しく攻める必要はない
囲むだけでいい
それで不充分なら長安へ向かう素振りをすれば済む
作戦内容はもちろんトップシークレットだ
>>399 諸葛亮が二次北伐を起こした主目的は自分の丞相復帰だった、なんていう人がいるから、
それに合わせて便宜上「戦略的な名目」と言ってるだけで、当然本来は「戦略目標」と言うべきだよ。
諸葛亮の「本心」と同時に戦略の「名目」が並立して存在しなければ、軍は動かせないわけでね。
>>398 諸葛亮が帰還してから陳式が動いているわけだから、連動だとしたら随分下手だね。
張コウが急遽呼び戻され、三万もの洛陽中軍が派遣される事態を呼び起こすには、
陳倉攻めには漢中軍の残った兵力をかなりつぎ込まなければならなかったってことだろう。
下手に分散して攻めて、魏の危機感が少なかったら、本末転倒になる。
二郡は確かにいつでも取れる。魏の中枢からの距離を考えれば、まともな大軍は送れない。
そもそも二郡を失っても魏には大した痛手ではない。洛陽から主力が増援に来るかも怪しい。
だからこそ、蜀は一次の撤収で一旦放棄することもできたし、二次の陳倉攻めを優先するくらいの余裕はあった。
しかし、魏にとっては辺境でも、蜀にとってのは二郡は漢中を迂回して四川に進入可能な「脇腹」に位置する。
遅かれ早かれ、隴西-祁山の西回りルートは、魏蜀の第二戦線として大きな価値を占めることになる。
険しい秦嶺を挟む隴東よりはるかに流動性が高い難地だ。
228年一連の三国の軍事活動が一段落して、蜀漢の北伐の意思を改めて認識した魏が雍州軍備を最構築にかかる前に、
二郡を抑えて防備兼隴西への橋頭堡を築く必要があった。というところだね。
曹真に完全に読まれ、こんなに防備固めているとは・食糧足りないぞ、みたいになっている以上。
孔明の目的が如何であれ、もくろみ外れの失敗なんだけどね。陳倉方面でいえば。
>>401 第一次失敗で落ちた権威を回復するという政略上の目的も含まれていた、とするほうが自然だけどね。
当時の軍隊は別に行動の合理性なんて説明されなかったし。
政軍の大権を握っていた諸葛亮が主観的に必要さ、と判断すれば動かせた。
健在な間は、守備思考のショウエンらさえ文句言えなかったわけで(演義だと後ろで非戦派が策動したことになっているが)
>>401 名目は名目だよ 「表向きどういう理由で軍を興すか」ね
目標は達成水準 「その行動後にどういう状態に行き着いているかの事前設定」ね
読み返すと確かに
>>356は戦略目標
が、
>>359で台詞にしたことで半ば名目に変化し
レスの
>>370で完全に名目になっているようだ
俺のレス
>>396は名目
陳倉攻めの「戦略目標」は陽動だろう
しかし説明は不要
陳倉攻めは、食糧はすぐ尽きているけど攻城兵器はふんだんに持ち込んでるぜ。
輸送力を兵器にあて、しかしそれが防がれた結果が食糧にしわ寄せになった程度じゃないの?
陽動ならわざわざ孔明が出る必要も薄いし、攻城兵器大量投入する必要もまた同じ。
>>404 「も含まれていた」なら、構わないだろうよ。政治的都合と軍事的理由は、むしろ並立しなければならない。
両者は必ずしも一致する必要はない。
でも「丞相復帰が主な動機」「軍を動かすには名目なんていらない。主観的に必要だといえばそれでいい」
と、片方だけ強調する人がいるから反論しているんだ。
「主観的に必要さ」といえば北伐可能な絶大な権威を維持していた諸葛亮が、一次の失敗で落ちた権威の
回復を目指して軍を起こしたというのも妙な話だしね。
戦を発動する機を図る戦略思考というのは、中華の兵法の三つの根幹の一つ。「天の時」という。
蜀漢内に北伐消極派は当然いただろうが、だからこそ、丞相に過ぎない諸葛亮には、
政治から軍事に至るまでの一貫した施政の論理性が求められた。
それによって、賞罰に厳政だとか、私欲に走らなかった、という評判が付いてきた──彼個人の本心は別としてね。
諸葛亮の大きな権威は、無条件で維持されたものではない。自分の一極体制に隙を作らないためにも、
「主観的に必要さ」なんて理由で何事かを始めるような真似は決して出来なかっただろう。
>>392 >だったら「諸葛亮は陳倉を攻略して拠点にしたかった」でいいじゃないか
答えは簡単、陳倉は落ちないからだよ
陳倉の守りは堅く、始めから落とせる状況ではなかった
遠征の為に魏が陳倉のような要地をそれほど簡単に落とされるほどに無防備にするわけがないだろう
ちゃんと援軍が間に合うように出来ている
良くて援軍到着までに落とせるか落とせないかギリギリのラインを争う博打だったろう
諸葛亮が落とせる事に賭けて出征したのなら補給部隊も後に続かせる
これがないということは、落とせないと踏んで
その上で何らかの意図をもって出征したという事だ
>むしろ何で落とすつもりもないのにわざわざ城がある方に攻め込んだのか
深い考えがあってのことだろ
>魏軍には蜀軍の輜重が少ないなんて事は分からないのでは
横レスだが
第一次、郿を取ると宣伝したらその通りに魏が対応した
この件でも明らかなように、蜀国内にも当然魏の密偵が入り込んでいる
大将は誰か、兵員・物資はどのくらいか、進路はどれか、補給部隊の用意があるか、など
簡単な情報はお互いすぐ伝わる
でなきゃ国防は成り立たない
>>407 別に皇帝でもない孔明が権力を保つにはそういう要素は不可欠だぜ。
所詮、水掛け論だが、それが主眼でも別に不自然ではないが。
第二次の失敗から第三次までの発動は短いが、それで地位復帰後は次まで一年以上の期間を置いている。
この辺りの時間差からそう考えても。
後段にいたっては論理性なんていってるが、当時は説明責任なんてないし。
自己の権限を強くすることが戦略上有利だ、ということなら私欲なんぞでもないだろ。
>>402 諸葛亮が帰還してから陳式が動いているわけではない
諸葛亮の帰還途中に陳式は動いている
それに武都攻略軍はそれ程大きくないだろう
>魏にとっては辺境でも、蜀にとってのは二郡は漢中を迂回して四川に進入可能な「脇腹」に位置する。
その「脇腹」の肋骨が非常に堅くてね、巴蜀の防備に武都は必要ない
陰平道の出口を成都周辺の兵で固めたら守れるんだよ
それに魏が動いてから武都に迎撃に向かっても充分間に合う(必要ないと思うが)
それに魏が雍州軍備を最構築したとしても、二郡はいつでも取れる
それにが多かったな
二次三次と四次は性質が全く違う。
どう転んでも短期間の、前線固め程度の戦略目標の二次三次と違い、
四次は一次・五次と同じ長距離大規模侵攻。時間を置くのは当然。
戦略目標というのは、現代的な説明責任なんてもんじゃない。
組織が動くために不可欠な指針。兵卒はなにも知らずに付いていけばいいが、
高位の武将や後方の皇帝以下高官に戦略を伝えなければ、
将は自分の判断を下しようがない。後方支援も戦時徴発もしようがない。
そんな目隠し状態の戦争など、人の心として当然納得しない。
諸葛亮がゼロ時間で全ての命令を全ての部署に発令することが出来なければ、
組織として機能しない。
>>407 >一次の失敗で落ちた権威の回復を目指して軍を起こしたというのも妙な話だしね
俺はそうは思ってないから
>「主観的に必要さ」なんて理由で何事かを始めるような真似は決して出来なかっただろう。
諸葛亮って独裁が認められているんじゃなかったっけ?
>>412 なってるが。現地調達で手間のかかる攻城兵器を作るつもりなら、それこそ20日足らずで逃げないといけない程度の準備で出張った事自体戦下手ってことじゃ……。
>>410 武都から四川盆地に入られたら、陽平関の西を封鎖されて漢中との連絡が途絶。
巴三郡へなだれ込めるぞ。
そりゃ成都はそう簡単には落ちないよ。フや剣閣・綿竹の要衝が連なるから。
蜀郡が守れればそれで言いってんなら放置だけど。
>>413 「これから陳倉攻めます」で充分じゃないかな?
狙いまで説明させられるようじゃ信頼されてない
それでは丞相も総帥も務まらない
>>414 >俺はそうは思ってないから
最初の人じゃなかったのか。横レスなら横レスって言ってくれw
武都から四川盆地へも簡単には入れないだろ
どうとでも解釈できる話なのに、なんとか自分の意見を押し付けようって言うカリカリした手合いが多すぎるな。
>>420 史書のどこにも書かれてないことを「解釈」して主張しようとすれば、そりゃ厳しいツッコミが入る。
古代史では特に、「どこにも書かれてないから間違っている」とは必ずしも言えないけどね。
ただ、それをやるには相当強力に論理立てて実証する必要がある。
>>420 論理的矛盾や無理のある解釈は正しくないからね
>>415 知恵袋あたりで孔明は戦下手だと言えばみーんな同意してくれるから安心しろ
ここは戦下手だの上手だの評価するスレじゃない
>>425 入れないね。陽平関があるから。
でも逆に陽平関の出入り口を封鎖すれば、漢中戦力は無力化できるわけだ。
なにしろ他にまともな出入り口がない。
で、魏軍は悠々と四川、特に東部を荒らし回ることができる。
もちろん、これをやるには相当な兵力差が必要だが、
武都を放置するということは、こういう危険に備えずに放置するってことなんだ。
さすがにこれ以上は他のスレでやってくれ
重要なのは経済規模の話なので
>>427 四川盆地の入り口には葭萌関があるじゃないの
>>428 すまん
ここではもうやめておこう
じゃあ、蜀の経済規模の話。
蜀が降伏した時、国庫にはほとんど穀物も金銀もなかったのに、
なぜ錦だけが異様に大量に貯蔵されてたのか?
俺としては、蜀の末期は貨幣経済が機能しなくなりつつあり、
錦などの現物を貨幣代わりに使う物々交換経済に退化していたと思ってるんだが。
この前BSで成都の観光地をめぐる番組やってたんだけど
その番組内で「蜀の収入源は錦によるのみ」と諸葛亮が発言したと紹介されてた
諸葛亮のこの発言の出典ってなんでしょーか。知りたいのだけれど。
>>428 ごめん、1レスだけ返させてもらう
>>408 (前段)
わざわざ敵領に攻め込んで自軍に損害まで出しながら勝たないように攻めたとでも?
それこそあり得ない(大体敵が降伏する可能性だってあるのに)
(後段)
魏にそんな情報網があったのなら一次で疑軍にひっかかるはずがない
(諸葛亮の本隊が別方面に出て行ったことに気づかない訳がないから)
スレの本題に戻って
>>430 魏軍の圧力が西方に広がっていくにつれて
魏や西域の商人を相手にした交易が難しくなり
呉や西南方面との交易があっても在庫が増えていったのでは
>>432 魏の建国当初から既に雍州と涼州の郡県で蓋がされているのに、
「圧力が西方に広がっていくにつれて」ってのは無いだろう。
まともな統治がされてなかった可能性があるのは武都・陰平だけ。
いくら防備は手薄だったとはいえ、その手薄な防備を軍事力で
こじ開けなければ西方との道は開かない。
蜀錦には高い関税でもかけたんじゃね?
魏もダメージはあるだろうけど、それ以上に蜀は痛いだろうし
>>433 諸葛亮時代は漢中から天水(祁山)、扶風(陳倉、五丈原)に出ていたのが
姜維時代には陰平から隴西に出るのがほとんどだから
それだけ魏軍の圧力が(東から西へ)強まっていたと考えたんだけど
商人が行き来するのには関係なかったかな
>>435 了解しました
文献証拠による経済の混乱はちょっと確認できないけど
出土証拠である粗悪な銅銭を見る限りでは、末期蜀の疲弊は見て取れるよね
>>437 劉巴の貨幣政策はインフレ政策だから、経済政策としては無理があった。
だから、蜀の経済基盤は専売制を導入せざるを得なかったことからも分かるように、
生産力に比してそんなに強くなかった。
だから、後期になって経済政策が完全に破綻して、
通貨の改鋳で乗り切ろうとしたけど、
かえって混乱を引き起こしてしまったのでは。
>>431 出典は知らんけど、錦が蜀の主要輸出品だったのは事実で、
降伏直後には大量(二十万匹=四十万着分)の錦織物の在庫があった事が金銀と並んで記録されている。
金銀はそれぞれ二千斤で、孔明を始めとする諸将への恩賞が金五百斤〜銀千斤だったのを考えれば、
末期の蜀の財政が破綻寸前だった事が分かる。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 11:00:20
蜀は孔明が死ぬ時でさえ意外に人材はいた気がする。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 11:04:36
>>430 貨幣が小さくなっていたから、インフレの時みたいにお店でお金で払おうとしたら拒否されたかもしれませんね。
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 11:08:38
しょうえん
ひい
ごい
きょうい
ようぎ
ばたい
ぎえん
とういん
おうへい
ちょうぎょく
ちょうよく
りょうか
ちょうちょく
一国を宰相できるほどの人材は少ない。
いても病死とか暗殺とか……。
何より皇帝が暗愚。
>>445 馬忠は大将軍になっててもおかしくなかった器だったと陳寿が言ってるよ。
費イが死んだ後も馬忠が生きてたら、馬忠が宰相になったんちゃう?
臨時の平尚書事として宰相代行を務めた実績もあるし。
>>446 いやだからポストが空いた時には死んじゃってるし。
>>447 陳祇もなかなかの器だったと思う。陳祇は黄皓を利用するだけ利用して、
権力を与えずに道具として使いこなし、劉禅の信任を得て、国政をうまく運営した。
もう少し長生きしてたら、蜀が滅びるのはだいぶ遅くなったと思う。
いたら簒奪しちゃうだろ。司馬氏みたいに。
まぁ蜀の皇帝位を奪う旨味があんのか、という問題もあるだろうがな。
しかし、蜀建国以来空前の権力を有していた宰相である諸葛亮は簒奪しなかった。
簒奪したところで意味ないしな。
戦犯としてまけたら魏に処刑される恐れもあったし。
実権握っている連中からすれば、無能なほうがいい。
簒奪する利点が分からない
辺境で茨の帝冠かぶったところで……。
と、思ったけど後代だと蜀程度の領域で王とか皇帝とか名乗るのが結構出てくるんだよなぁw
>>453 光武帝が天下平定した時代には一郡程度の領域で王や皇帝を名乗る奴すら大勢いた。
その後の時代も三国時代に換算して小州一州や数郡や一郡程度の勢力で王や皇帝名乗った奴はうじゃいじゃいる。
蜀を支配して皇帝を名乗った公孫述なんてまだかわいい方。
三国時代のように蜀の支配が皇帝を名乗る最低ラインな時代はむしろ珍しい。
三国時代でもエン術さんとかいたね。
そこまでいかなくても官職自称は当たり前で。
つうか蜀って(たとえ建前であったとしても)後漢の後継を標榜する事で
立脚してるんだから、非劉氏が簒奪なんかやらかしたら自壊作用に
拍車をかけそうなもんだが
その前に蜀の歴史上、簒奪のチャンスのあった人物は諸葛亮しかいないが、
諸葛亮自身が蜀に後漢の後継国家を自称させる事に力を入れた人物だから、
実質蜀を簒奪できそうな人間がいない。
諸葛亮以外の蜀の宰相はそんなに権力強くないし。
で、実際に蜀は豊だったのか?
孔明存命中は何とか赤字にならない範囲でやってたでいいわけ?
>>458 劉備が蜀を征服した頃はとても豊かだった。
諸葛亮時代もやりくりに苦労してたが、なんとかやっていけてた。
徐々にジリ貧になっていき、最後は国庫にほとんど食料も金銀も無い有様。
要するに蜀が益州を食い潰した。
>>441 しかし次代を担うべき二世・三世武将たちが殆ど育たなかった
それが人材面で大きく遅れを取った原因かと
>>460 蜀も意外と二世・三世はいるんだけどね。
しかし、諸葛亮時代に登用された人物がいつまでも上にいて、
国の中枢を担うまでに至れず、中堅程度の地位で終わった。
二世・三世が国の屋台骨となった魏や呉とは大きな違いだね。
>>461 親の地盤を上手く受け継げなかったのも大きいね
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/08(火) 05:20:03
蜀の一人当たりのGDPは魏の三倍。
呉の二世三世には流罪だの犯罪を犯して位を失っただのがやたら多いが。
漢王朝復興、というスローガン自体が色あせていたからな。
長年悪政続きで愛想つかされていた。
王莽のような宮廷陰謀家が強引に王朝の命運を縮めたのとは違って。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 00:49:08
魏や呉の民衆は蜀の民衆の豊かな暮らしぶりを羨んでいたらしいね。
典拠は?
輸出品があっても、購買力ある相手に買ってもらわないと経済には影響が……。
当時のことだから交戦中でも平然と魏や呉に輸出していたかもしれんけど、末期の国庫の具合を見るとやっぱりあんまり振興できなかったのかもね。
在庫がとんでもない量残ってること考えると
産業自体は結構軌道に乗ってるけど、タイミングか何かのせいで絹の売れ行きが落ちたってことだわな
この240〜280年くらいは丁度絹の一大消費地だったローマが六皇帝時代を経て
本格的な軍人皇帝へと突入し技術的にも経済的にも衰えてた時期だし
世界的に経済が冷えてたと見ていいと思う
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 14:52:56
孔明の北伐が行われた理由の一つが蜀の国庫の金余り。
それを民衆に還元するための手段として北伐が行われた。
兵士やその家族にはもちろん、武器・服・荷車・食糧等の職人商人が北伐景気に湧いた。
農閑期の公共事業なら陵墓でもつくっときゃよかったのに
民衆に還元してないだろ、北伐w
90万程度の人口で15万も兵を徴用してかなり無茶やってる
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 15:25:01
15万が職にありついて家族共々生活が潤うんだよ。
日本だと戦後教育の影響か、兵士は無理矢理徴兵されて嫌々戦場に行き家族も悲しみ無茶な特攻で死ぬ可哀相な人達、みたいなイメージになっちゃってるけど。
兵士も職業の一つにすぎない。
じゃあ、堤防や道路を整備すればいいじゃない。
人も死なないし、国力はさらに増大するし、景気も良くなる。
兵士になれて喜ぶのなんて、明日をも知れぬ行き倒れくらいだろ
捕虜になっても降伏せずに斬られたあっぱれな兵士は褒美に兵戸から解放されましたとさとかあるし
兵戸というだけで、一等低く見られる
蜀は兵戸制ではなく徴兵制のはず
蜀漢には北伐以外の目立った土木事業の形跡はないね
金が余ってて民衆を潤わせるなら、四川盆地の再開拓という手が有力だったはずだが。
それから、いくら重要だと言っても、金銀銅や鉄塩はやはり当時の経済の副産業なんだよ。
主産業は、圧倒的多数の人口が従事する農産業。
兵士や塩鉄業に人手が取られると言うことは、純粋に農業の担い手が減るということ。
穀物生産高の減少は経済不安に直結する。
「北伐景気に湧いた」なんて無邪気なことが言える産業レベルの時代じゃない。
>>473 貴重な労働力となる世代を根こそぎ徴用されたら大問題だよ。
今みたいに色々機械化されてるのならともかく、
木牛流馬(猫車?)が特筆されるような時代なら尚更。
>>477 蜀は不思議な事に四川の開拓にはまったく手を付けてないんだよね。
民衆を法律で統制する事ばかり考えて、経済的なパイを増やす事を考えてないと言うか。
魏も呉も国土の開拓にはかなり力注いでいたのに。
蜀には北伐やりながら国土を開拓する余裕なかったんだろうな。
>>479 勿論、大事業を起こさずとも巴蜀は十分豊かだった、というのが有力な理由だろうけどね。
それを統制経済化することによって、北伐の原動力にすることができた。
といって、その統制下で蜀漢の民衆が潤った暮らしをしていたとは考えられず、
ましてや北伐のお陰で潤ったとは到底言えない、ってとこかな。
都江堰に堰官を置いて灌漑し農作物の増産に努めた
と渡辺氏の本に書いてある
>>474 諸葛亮はそれもやってる
>>477 開拓し易そうな美味しいところは豪族との利害の絡みで無理だったんじゃない?
青羌を平定して蜀に組み込んだ時も一部を豪族に分割したりしてるし
表に出ないだけで四川盆地で農耕に適した所には先客が居て上手くいかなかったとか
かと言って四川盆地から外れたところで農業やる程の余裕はないだろうし
推論でしかないがね
>>469 短絡的すぎないか?
金はいつの時代もあるとこにはあるもんだよ
富裕層が絹も着れなくなったら世も末だろ
ペルシアではササン朝が興り大繁栄していく
インドにもクシャーナ朝・サータヴァーハナ朝という大国がある
お客さんは居る
実際3世紀に西域が衰えたという話はない
一番疑わしいのは魏による経済封鎖だろう
蜀は西方へのルート持ってないし
>>483 魏略西戎伝に盤越国(益州の西南あたり?)に蜀人が商いに来ていたとあるけど
三国時代には廃れていたのだろうか
もっとも中原や呉相手よりは小規模だっただろうけど
蜀から羅馬物の発掘品とかそういう目録があったりとかないの?
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 21:08:33
>>483 魏はむしろ関税下げたりして貿易奨励してるよ
というかこの時代に、そういう特定の国だけ狙い打つ経済封鎖できねって
経済封鎖が出来るのは金融や流通の発達した時代になってから
じゃ、蜀錦が余ってんのは過剰生産で価値下落?
>>482 むしろ、小農民に食い扶持を与えるために、天水農業では耕作できない高台などに水を引いてやるのが大規模灌漑のセオリー。
中小農民に農地を与えることで、豪族の影響を受けない人口を国家が直接管理することができる。
漢はそのようにして5000万の人口を達成したが、後漢後期の混乱でそれらの灌漑設備が維持出来なくなったことから流民問題が拡大した。
つまり灌漑の狙い目は豪族が粘った天水農業地域の外にある。
いくら巴蜀が比較的豊かと言っても、人口は激減している。耕作条件悪化で再生産が不可能になりうち捨てられた農地が多くあったということで、
その灌漑は国家レベル(少なくとも郡レベル以上)でなければ出来ない仕事。
司馬懿らも修復を提案した鄭国渠などがその典型例。
蜀に同様のことが出来ないということはない。
>>486 >魏はむしろ関税下げたりして貿易奨励してるよ
それは基本方針で経済封鎖は一時政策
矛盾しないだろ?
蜀を滅ぼそうと思ったら経済封鎖して弱らせるのが一番
経路は限られているから封鎖は難しくない
蜀の経済が貿易に強く依存していたのなら経済封鎖も論じる価値が高まるだろうが、
肝心の蜀の貿易が殆ど明らかではないので
絹は商業上重要な品目ではあるが、輸出するほど大量の桑を育てる余力があるなら
米を作るべき、というのが蜀の軍事態勢から言って適切だろう。
それから、絹を売って何を得たのかという問題がある。
穀・鉄・銅・塩の産出は自給自足に十分。西方の珍品なんて軍事の役には立たないし。
まさか良馬を買っていたいうわけでもあるまい。
>>490 その動画の通り。
ただし、本格的に益州が「天府」と言えるほどの他の州と比べても特筆する生産力を得たのは
前漢後期という研究がある。
他が戦乱で荒れてたからその中で比較的荒れてないから
押しだされる形で天府と呼ばれるようになったんじゃないの?
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/10(木) 01:02:49
>>489 だから商人の締め出しが出来ない
この時代の商人は戸籍持って所属を明確にしてる現代と違って
移動は自由だわ、所属は今居る場所だわで経済封鎖なんて出来ない
>>488 だからそういう余裕がなかった、って話じゃん
王連伝なんかを読む限り、経済事情は軍事費が有り余るほどには裕福だったとは思えないんだよな…
諸葛亮は経済に関してド素人だったって線はないかね
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/10(木) 10:00:47
蜀は豊かで北伐の時も兵糧を陣にうず高く積み上げていたらしい
魏の捕虜兵士が帰還した時に丸々と太っていてみんな驚嘆したらしい
魏のほうが人口と経済が豊かなため、貧乏の蜀は攻め滅ぼされた。
戦乱続きで焼け出され、家も畑も無い連中の少なくない魏
東州兵が暴れたりはしたものの、基本は安穏とした生活を送れた蜀
求める生活レベルは確実に違っただろうな
妄想はいいから、出典を示せ大雑把にでも。
現実に蜀の崩壊時の国庫、人口に対しての過剰な兵員や役人数が明白な以上、妄想だけの無駄レス乙だぞいまのままじゃw
>>461 荊州からやってきた連中に
益州土着の人々が協力する義理なんてそもそもないし
だから孔明は自身含む荊州閥に権力を集中させる道を選んだ
誤算は夷陵でそれらの人材が壊滅したことかな
>>500の中では戦乱で荒廃した土地が元に戻るまで、
100年ぐらいかかるという事になってるのかな。
それに蜀における戦乱と言えば、東州兵より劉備の侵略だろう。
総力戦となった漢中攻略や、夷陵での大敗も考慮しないとな。
>>501 逆。逆。ギャグか?
蜀が豊かなのは歴史が認める事実。三都賦嫁。
言っとくけど三都主の嫁じゃないからな。
それに対しいくらでも裏が入り込めそうな目録を根拠に歴史観を覆すのは無理というものだ。
>>504 お前の妄想よりは、陳寿が記録として残した目録の方があてになるがな。
あと、三都賦は褒めるために作ったんだから、
貧しかったなんて書かねえよ。
「巴蜀が豊かだった」と
「蜀漢政権化で民衆が豊かだった」は
無条件で繋げられないと何人もが何度も何度も繰り返して来たのに
それでも本当に何一つ言うことが変わらない人間っているんだな。
姜維になるまで目立った民衆不満とか無いみたいだし、いんじゃね?
まぁ、貧乏でもその政治が公平であるなら案外問題は出ない
なんだ、まだ何かやってたの?
>>505 陳寿じゃないけどな。
知ったかぶりだね。
経済や制度の変遷を記した公式資料の「食貨志」と、
最初は散々な評価だったけど権威の後押しで流行した「三都賦」。
どっちが信憑性が高いかは言うまでもないよな。
論文と帳簿のどっちが信じられるかって話だわな
>>483 ササン朝も240〜280年くらいは大国でもないし戦争を繰り返してるし
クシャーナ朝はササン朝と戦争をして大敗したり、サータヴァーハナ朝も3世紀後半は大崩壊の時代
この240年〜280年という時期は世界中で大崩壊と戦乱の荒廃の時代なんだよ
四十万斛程度の食糧しか国庫に残ってない程度だからな。
これって劉ショウが劉備を支援したときに三万の兵につけた食糧の二倍程度。
北伐は現地で屯田・略奪してさえ一年も食糧が続いたためしがないところを見ると、
かなりの疲弊度だな。
これに姜維北伐のツケが回り、漢中防衛線さえ下げて(要するに土地を奪うどころか放棄して)節約するハメになった末だから。
戦乱と蜀の治世で完全に食い潰されてたんだろうな。
蜀領といえば、南方等の異民族地域もあったが。
ショウ周伝によると、孔明が軍の力で制圧してから税とかとってうらみに思っているから国に害する連中です、といってるからな。
そっちからもかなり重税を取っていた(or取らざるを得なかった)
異民族側からすれば身勝手な話だろうが。
>>514 目録作成がどの時点での蜀の資産を表示しているのか、という点を考慮しないと
A、漢中陥落以前
B、漢中陥落後、綿竹決戦前
C、綿竹決戦後
Aなら君の指摘は正しいので考えなくていいが、Bなら漢中に集積された物資を引いたもの、
Cならそこからさらに江油の分を引いたものが目録の内容になっている可能性が高い
BCだと目録から蜀の経済状態を推測するのって凄く難しくなるんだよね
目録をそんな短期間で作れるわけね(ry
経済的にその土地が豊かであっても、国家がそれを統制しているかどうかはまた別問題ですぜ。
免税特権的なものをもった地主や有力者が土地を押さえていて、国家収入にはほとんど寄与しないなんて現象は日本でも中国のほかの時代でもよく見られたこと。
二十八万戸、というのは蜀朝の権力で直接管理できた戸数、程度にみたほうがいいんじゃ。
それでも財物や兵士・吏員数を見ると国庫逼迫は確実だろうが。
王連伝なんかみると、塩や鉄の専売でかなり儲けたそうだけど、流石に連年戦続きだと厳しいだろうね。
儲けてるのになお「おやめください」だからな。お察しだわ
王嗣の話なんかになると今度は異民族の朝貢品で軍資を補ったみたいな話になるし
末期はホントやばかったんじゃねぇかと
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/11(金) 14:40:50
兵隊官吏が多いとか
それは豊かさの裏返しじゃないか
不適切な例かもしれないが今の日本も公務員多いだろ
>>520 現代とは社会構造が違う。
そんだけ生産に従事しない人口が、全体に比して多いということ。
当然、領民の負担は大。
だから金銀財物も少ないんだろう。
ちなみに現代日本は、人口比率で言えば公務員は先進諸国の中でもかなり少ないほう。
人口千人あたりで42.2人。
蜀の政治の乱れは、使者として往来した呉の薛?にも見抜かれるぐらいだったしな。
蜀帝は暗愚、臣下は保身のみ、朝廷で正論が聞かれたためしなし、と。
人口が二倍強あったとされる呉でも滅亡時の官吏数は蜀より少なかったりするし。
(兵員は蜀の二倍程度)
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/11(金) 15:36:14
魏は大国と言っても、蜀や呉はもちろん北方や西方の異民族の侵攻にも常に対策が必要とされ、軍事防衛費の割合が尋常じゃなく高かった。
そのため民衆には重税がかけられ、生活は困窮を極めた。
その点、蜀は平時には漢中に最低限の兵員を配置しておくだけであり、国庫における軍事費の割合は魏の割合と比べて10分の1ほど。
そのため税は安く、民衆は豊かな生活を楽しんでいた。
>>525 どこに載ってた記述?
蜀は漢中には平時でも3万規模の兵力を配置してるし、
永安・江州や南中にも兵力を配置してたわけだが。
蜀は口数94万の1/10以上に武装させていたが、
魏には口数440万(兵戸を別に数える説を取ると7、800万か)の1/10も武装兵などいないだろ。
そんな広範な徴兵を敷けないからこその兵戸制度なんだから。
蜀は豊かな生産力に任せて経済を統制し、厳しい賦役を掛けて10万の兵士の武装と練度を維持した。
魏は中原・関中の衰弱によって民に強い負荷をかけることができず、人口比での兵士数も少なかった。
その不均衡が、対蜀(同時に対呉)戦線での拮抗状態を数十年維持させることになった。
それでも司馬昭は蜀攻めには蜀の全兵力を上回る兵力を投入してるんだよね。
失敗に終わった曹爽の蜀攻めですら動員兵力10万。
本気になれば魏は蜀の全兵力を上回る大軍を投入できる。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/11(金) 17:51:31
>>517 作れるだろ
予め調査してるところで後は各地で落ちたところの数字を総和から差っぴけばいいのだし
>>528 遠征の戦時動員には甲兵以外の輜重・力役等が大量に含まれる。
蜀攻略の二十万余とか五次の諸葛亮の衆十万余というのはその数。
だから諸葛亮は国家的な甲兵数を越える「衆」を一戦線にである北伐に動員できたわけだ。
甲兵数と同列に比較してはいけない。
>>530 兵力に輜重や雑役が含まれるのはいつの時代でも当然の事なので、
わざわざ説明するほどの事でもない。
問題は甲兵のみ比較では無く、衆の比較と考えるべき。
曹芳の頃には、既に蜀の動員できる衆より、魏の動員できる衆の方が多かった。
>>531 曹芳時代ではちょっと微妙だね
曹爽の卒6、7万に後方部隊を足すとしても、10万に届くかどうかというところか。
>>527 労働人口や非生産人口、男女別など考慮すると、1/10を兵力化するのって
大変そうな気がする。
日本の戦国時代以前のように兵農不離であれば(有事のみの出兵であれば)可能か
蜀や呉の税率は記録されてないが、
魏の税制はある程度残っているぞ。
曹操の布告では、「一畝あたり四升。一戸ごとに絹二匹、綿二斤」
当時の平均収穫が一畝で約四斛とされていたから税率は僅か一パーセント。
元々、漢代自体が農地にかかる直接税自体高くなくて、だいたい十パーセントと見られていたのだが、それに比べてもかなり安い。
(代わりに有力地主は平気で収穫の半分の小作料をかけたりしていたが。屯田兵も魏は同じような税率)
重税どころか、一般の農民は安楽だったわけだが。
相変わらずソースなしだし、コピペ臭いしだめだなぁ、蜀安楽説はw
紙の上では兵士十万だけども、そのうちの主力は姜維が抱え込んで私兵化していたりと統制も大混乱だったからな。
蜀の領民が苦しみ、異民族に圧政をかけて憎まれている事は魏の朝廷にまで筒抜けだった。
蜀の険しい山岳地帯を攻める手間を避けるのが魏の国是になっていたけど、それを変えさせ実際にあっさり成功させる程度。
この疲弊具合は、単なる姜維の無謀というよりは長年積み重ねてきた無理の噴出だろうなぁ。
>>528 ショウ会の軍だけで十数万。これのほかにトウガイ・諸葛諸らが各三万ほどだからな。
国力の差は明白。
むしろここまで格差がつくまで安易な侵攻を抑えた戦略勝ちか?
曹爽の失敗が教訓になったんだろうか。
>>535 最重要防衛拠点の漢中はあっさり突破されたしなあ。
まあ、剣閣で鐘会の十万を防いだ姜維は大したものだが、
主力が剣閣方面に集中したせいで、ケ艾に山越えされたら、
一戦しただけで残存兵力を殲滅され、一気にラクまで攻め込まれちゃったもんなあ。
>>536 いつ頃、魏はこれだけの兵力を一度に動員できるようになったんだろうね?
諸葛誕の乱の時は二十万以上動員してたから、
司馬氏が政権握ってた時代には既に格差は有ったと思う。
そして、司馬氏が政権握ってた時代と曹爽が政権握ってた時代は、
そんなに離れてないから、曹爽は戦略と蜀攻略に必要な戦力の見積もりが甘かったんだろう。
蜀は劉備即位以前の漢中戦の時点で、
「男は全て戦い、婦女は輸送に充てるべき」(楊洪伝)という根こそぎ動員をやっているくらい。
流石に文字通りやらかしたとは思えないが、連年の戦が民衆を疲弊させていたのは疑いない。
一方で、魏のほうも曹爽の遠征時、労役を課された民衆や異民族の怨嗟の声が上がったそうだから、
大軍を動かすことそれ自体が国家としては頭痛モノの浪費だろうな。
ショウ周が「小国が大国に対抗するには民の労苦を軽くして、少ない戦で勝つことが条件なのに」と愚痴っているのも当然か。
それを5回もやって、民衆の怨嗟の声が無く、名宰相と称えられた諸葛亮は本当に大したものだな。
>>539 糊塗するのが上手だっただけ、負債を押し付けられた後継者達が割りを食ったという皮肉な見方も成立するけどな。
>>540 しかし、諸葛亮と後継者の費イと蒋エンとその補佐役の董允の四人、
つまり劉備死後の蜀の30年を支えた4人は四相と讃えられたんだよな。
この4人が蜀の政権を握っていた間は、蜀の政治は民衆に評判の良いものだった。
ぶっちゃけ、5度の北伐の負債なんて無かったんじゃないかと思えるほど、
蒋エンと費イの時代は安定してる。
民衆の負担は重くても、公平で法の運用がしっかりしてたから、
それなりに納得してたのかね?
>>527 その生産力を担う層が兵士として狩りだされてるんだけど?
錦が主力輸出物だったのは、若い男性の労働力を必要としないからかもね。
というか夷陵で壊滅に近い損害を出してるんだから、
男女比や年齢別の人口って相当アンバランスになってるよな。
>>541 蜀って史官がいないから当時の記録は残されてないよ。
評判が良いとかは後世に作られた話じゃね。
劉備一行が蜀に入ってから外征に次ぐ外征だからなぁ・・・・
そりゃ疲弊もするだろう、外征の負担は益州のみがかぶらないといけないからな、蜀の場合
>>542 徴兵制でも兵戸制でも、当時の兵士の大半は常備兵じゃないんだよ。
甲兵10万いたとして、それが総動員されるのは大征伐が行われるようなときだけ。
他の時期は、一定の兵役期間以外は農業に従事している。
近代の徴兵制をそのまま思い浮かべてくれ。
見た目の比率ほど常時生産力が奪われているのではない。
言えるのは、魏より蜀の方が全戸的な負荷が高かった、というくらい。
注を見ると、疲弊しなかったんじゃなくて厳正だったから負担かけられても恨みに思わなかった、程度に読めるんだが。
まぁそれも才能だろうなぁ。
政治が公平で治安と最低限の生活が保障されてれば、
民衆は多少負担かけられたところで不満に思わないもんな。
諸葛亮とその後継者はうまくやったんだろね。
が、思わなくても物質的疲弊はしていく。
でもそれを直視した慎重派は孔明はじめとする北伐派を抑えられなかったわけで。
まして漢朝復興なにそれ、な異民族は史書で見られるように速めに離反し、また恨んでいたようで。
第一次北伐の敗北で負担が重い民は恨みに思ったが、自ら降格することでそれを回避。
ついでに宮廷の非戦派も黙らせる。
孔明ある意味で演義より腹黒いw
漢朝復興?何それ?は異民族じゃなくても、庶民の大半がそう思っていたんじゃね?
漢朝に思いを寄せる人間なんて、この頃になったら名士ですらほとんどいないだろ。
蜀でもマジで漢朝復興考えてた高官がいたかすら怪しいと俺は思う。
諸葛亮ですら、思ってなかったんじゃないか?
あと、異民族の離反は張翼の間違った統治によるところが大きいのではないかと。
南中平定後、突発的な反乱が一度起きたけど、これは北伐前ですぐに李恢によって鎮圧されたし、
李恢が南中在任中は北伐中も一度も反乱起きなかったし。
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/12(土) 19:51:33
そもそも自ら降格するって相当甘いだろ。
普通なら 解任 だ。
ショウ周が蜀滅亡時に南方へ逃げよう案への反論材料としているから、
反乱を押さえ込んでいた、のであって潜在的な敵対感情や負担への恨みはやっぱりあったんだろう。
蜀は魏と対峙している以上(まして主戦派が一時を除いて主導権握って北伐を繰り返した以上)負担軽減しようもないしな……。
孫資の、魏から攻撃せず要害かためておけばあいつら自滅してくから、という献策は正確だったわけだ。
>>551 政治家と同じだな、自ら首相を辞任しても政治家として生きる
>>551 当時は降格だろうと解任だろうと、とにかく実権持った奴を罰するという文化はない
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/12(土) 21:55:44
出師の表のどこがなんなのよ?
そもそも名ばかりの降格でやってることは降格前と変わらんかったわけだろ
名ばかりだね。
そもそも実権力を持つ宰相や、その羽翼となる幹部が失政の責任を取って自ら降格するということ自体
まず有り得ないこと。後漢末の群雄達だってそうだろう。降格や左遷があるとすれば政争で負けた時。
皇帝に全権委任された丞相が自ら降格したというのはそれだけでも稀だし、諸葛亮にとっては危険なこと。
この隙に皇帝に取り入って成都を掌握しようとする人間が現れてもおかしくないわけだから。
売国奴呼ばわりされてるショ周さんだが、仇国論は正論だよな
蜀はどう考えても北朝鮮並みの洗脳が行われてたとしか
現代の価値観で見るからじゃないの?
>>560 ていうか、諸葛亮が登用した人材が、
滅亡まで軍部や政府の要職を占めていたから、
諸葛亮の意志を受け継いだまま、国が動き続けて止まらなくなってしまったんだろうな。
>>561 そうでもない。仇国論はそれなりに評価を得ていた
でなきゃ、あんな熱気に水を差すような論をぶちまけて無事で居られるはずが無いし
末期においてもそれなりに発言力があったのも、その見識の高さが認められていたからだろう
が、認めちゃうと建国の国是を失うので、認めるわけにはいかなかったんだろうがw
>>562 費イは出兵に制限をかけるなど、方向修正をかけたが
足元がお留守だったな
諸葛亮の後継である費禕は現実的だったよな
北伐には常に反対してたし
そのくせ戦には強い
散発的に北伐重ねたって逐次投入にしかならないことを理解してたんだろうな
>>563 仇国論当時の姜維の北伐は熱気とか国是の問題じゃないだろ?
蜀は結局、姜維が主戦場とした方面から突破されて滅びたわけだから。
大国の侵攻ルートをあらかじめ潰すというのは戦略的選択の一つ。
逆に守りに固めるのも選択の一つ。
選択問題に過ぎないよ。
もう北伐どころじゃないよ、蜀後期は
そんな状態なんだから仇国論が評価されるのは当たり前
侵攻ルートを潰すといっても潰したら潰したでそれを維持する力もない
それなのに姜維は北伐を強行、国は疲弊する一方
成都では姜維を弾劾する動きすらあったしね
黄皓と董厥と諸葛贍の成都政界トップ3がそろって姜維排除に動きだしてたからね。
姜維にしてみれば、何故お前らこの崇高な目的を理解できない?
全てが塵芥に帰そうが、成し遂げなければならぬことがあるはずだ
お前らは丞相のご遺志を穢す、惰弱なる非国民だ!
とでも、思ってたんだろうな。
姜維の連年の軍事活動により民衆が疲弊するのを憂いた譙周が書いたものだがなにか問題でもあるの?
陳祇存命時代の話でも
黄皓が台頭したのは陳祇死後だけど?
だから連年の軍事行動が問題なのであって、宦官跋扈はまた別だろう。
見方を変えれば皇帝の内官が権限を持ったのも、これまで漢中軍閥に主導されていた国政を、宮廷側が奪い返すアクションともいえるし。
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:40:34
魏と呉が拮抗している状態だったら、蜀にもチャンスはあったと思う?
孔明って劉備存命中は実戦にタッチせず、留守番や軍政を担当していて、実戦やるようになったのは後半生から。
ある意味異常だろうな。それまで一線を張っていた将軍がばたばた死んだってこともあるだろうけど。
>>574 仇国論ってのは、
>>568の「成都では姜維を弾劾する動き」とか
>>569「黄皓と董厥と諸葛贍の成都政界トップ3がそろって姜維排除に動きだしてた」
とかいう前の時期の話なんだよ?
陳祇の死亡による黄皓台頭や、旧諸葛・荊州派閥の政局的連携が取られる以前から、
それとは関係なく益州人であるシュウ周による北伐反対の思想があったってこと。
陳祇の死と疲弊云々で姜維が成都で孤立していく前の話。
だから「選択問題に過ぎない」と言ったんだが。
>>577 無謀な外征を抑えよう、というのは優勢な魏でもあった、むしろ一般論といったほうがいいのでは?
それこそ政治的運動とは無関係の、当たり前の事を言ってるに過ぎないともとれる。
ぶっちゃけ権力者なんて古来から民の疲弊なんて本気で考えないよ。
考えていたら暖衣飽食して俸禄を貪る事自体できないじゃないかw
段谷の敗戦ショックじゃないかね。
孔明時代はろくな成果が上がらない北伐だったが、それでもあそこまでの大敗は経験しなかった。
孔明没後も、張翼以外は北伐反対しなかった時期さえあったぐらいで、益州閥だから反対したとかはありえないだろう。
>益州閥だから反対したとかはありえないだろう。
ありえる。
政治に参画する者はそれぞれ異なる名声や権力の基盤を持っているのだから。
出身地や職業、教養によって政治主張が異なるのはむしろ一般的なこと。
無論それが一般的だからといって、シュウ周という個人の動機が「益州閥だから」だったのかは
わからないし、もはや計り知れないけどね。
>>580 ありえるなら、張翼に賛同しているだろう。
ところが伝にあるようにその時点でさえ反対したのは一人だけ。
後、姜維閥以外ほぼ全てが北伐反対に回っている以上、そんな程度の動機ではないよ。
張翼は益州人だけど。
>>576 なんでそれが異常?
とくに不自然さは感じないけど
>>582 同じ益州人だからって賛同しなかった。
地縁が理由なら、この時点で動きがあるだろう。
まぁ張翼は反対してたけど、命令があれば従っていたんだから地元豪族だから反対した、という線はそれこそ薄いわけだが。
>>583 実戦経験ほぼゼロだったのが、畑違いなのにいきなり総軍を前線指揮しはじめたじゃん。
>>576の一行目で自分で留守番や軍政を担当していたと書いているのに
何故畑違い?意味がよくわからん
>>586 畑違いだろ。
劉備存命中は、たとえば漢中戦とかでも前線指揮せずに成都にいて後方を担当していた。
この時期、一線指揮を取っていたのは張飛・馬超や魏延ら。
スコアラーだった奴が、いきなり大舞台でピッチャーとして登板したようなもの。
>>584 んな単純なゼロサムで政局は測れないってばよ。
仮に仇国論が段谷の敗戦以後だとしても
+費イの死と姜維による北伐の大規模化
張翼による大規模北伐反対
+段谷+
ショウ周の仇国論
+陳祗の死と姜維の成都帰還+
黄皓の台頭
諸葛瞻・董厥の平尚書事
+姜維の北伐再開+
閻宇を後任とする姜維更迭の動き
+魏の侵攻
サンプルが少なすぎるという問題があるが、
このように、姜維の北伐の大規模化にまず益州人が反応し、
その後で黄皓と連携する形で諸葛瞻と荊州本貫人が動きを見せている。
政治に参画する者はそれぞれ異なる名声や権力の基盤を持っているのだから、
出身地や職業、教養によって政治主張が異なるのはむしろ一般的なこと。
それが北伐への政治的リアクションとして現れていると言える。
>>588 だから益州人だから、という単純なゼロサムは成立してない、といってるわけだが?
それこそ諸葛センは「諸葛氏の故地の王にするよう取り計らう」といわれても拒否しているわけで、
もう代を重ねれば益州豪族と利害を共にしているし、
そうでなければもっとリアクションは速いはず。
>>589 うん、だから軍事経験と全般をひとくくりにしているのはわかったよ。
そのうちのどんな任に当たっていたか、劉備生存時とその後との役割の変動をいわれているわけでね。
>>590 >単純なゼロサムは成立してない、といってるわけだが?
それならいいよ。
「ありえない」とか言われたからつい反応しちゃった。
蛇足だが、
荊州人を初めとする外来者達というのは、宮廷の高官と周辺でなければ権勢を保てない者達。
益州人というのは、大土地所有者であったり、益州人の郷論に支えられて頭角を現した者であったり、
益州の地盤に依存する者達。
であれば、政治的な行動に温度差が出るのは当たり前。
当然、人間は利害だけで行動するのではないよ。忠誠、学術上の思想も大きく絡む。
>>591 劉備時代:宰相
劉禅時代:宰相
特に変わってない。統率力のある皇帝や宰相が遠征を総指揮するのは普通のこと。
劉備時代は劉備が最大の統率者なので、ナンバー2の諸葛亮は成都を守った。
代替わりするとナンバー1の統率者になった諸葛亮が遠征を指揮した。
蜀には名士である、というだけで実権も経験もないのに将軍になっていた連中がいた(この辺りの名誉職化は魏も同じ様な事例があるが)。
まず、こいつらは論外。
病没や戦死除けば魏延ぐらいしか位階実績ある指揮官がいない。
あるいは複雑な派閥形勢である蜀軍が、丞相という重みが無ければそもそも統制不能だった、と判断されたかもしれないが。
>>592 その理屈でいえば、蜀中期以降は全部益州人になっちゃうじゃないかw
諸葛氏でさえ土地もらい、魏から故地の王にするよう取り計らってやる、といわれても蹴ったんだから。
>>593 だからそれが変わっている、といわれてるんじゃないの?
後段の評価は個人個人だが、事象としては留守番役がいきなり全軍指揮官に横滑りしたわけだからな。
>>595 ならないんだって。
益州人の名士層は、蜀漢宮廷の外でも名声を勝ち得ることができた。
名声高い者が宮廷に招聘されて高官になることもあったが、
後漢でよく見られたように、別に辞退しても困りはしなかっただろう。
名声の場や経済基盤が、朝廷に保証されないところにあるのだから。
劉備と共に蜀に入って来た者の子弟は、親の実績に基づく任官や封爵、
外来人同士のコネで宮廷に入って出世するというのが、世に出る主な方法だった。
当然、両者には温度差がある。
文化的交流が無かったなどと言ってるんじゃないよ。
羅憲のように益州人に弟子入りして学問から頭角を表わした荊州人も中にはいた。
>>596 「入りて相、出づれば将」「邊境に事有らば、左右の臣皆将卒なり」と言うように、
朝廷の制度が安定すれば大臣や側近の者が遠征の総指揮を取ることの方が当たり前の認識だった。
要するに度重なる北伐により蜀の疲弊が深刻化
蜀国内でも厭戦気分の蔓延そして北伐推進派への冷たい風当たりが増していったってことだろ
>>596 留守番を任されるほどなんだから全軍指揮官が亡くなったあとは交代して全軍指揮官になるのは
とくに変わったことでもない自然なことに思えるんだけど
なんでそれが異常なんだろう??
蜀は魏をストーカーしすぎ
>>599 段谷以前は深刻化してるかどうか妖しいもんだ
>>599 劉備の時代でジリ貧になり、
孔明の時代は専売と貿易でどうにか食いつないだけど、
姜維の時代となると軍事行動自体が大きく限定され、安定した。
粘着しすぎた結果、リアルに支障をきたすのはネトゲ廃人にもよく有ること
孔明クラスの廃人ともなると、オムツ常備で戦う位、何の苦痛も生じない
だが、蜀の一般ピーポーが北伐を引き継ぐなんてのは、土台無理な話だった
>>603 劉備の時代と孔明の時代は盛大に浪費したが、まだ余裕があった。
蒋エンと費イの時代は軍事行動をほとんど起こさずに、
劉備と孔明が食いつぶした蜀の国力回復に。
姜維の時代は過去の遺産を食いつぶし続けたが、
段谷まではまだ余裕が。段谷以降は本気でヤバくなる。
こんな感じでは?
なんか妄想で好き勝手に書くスレに成り下がってるけど
孔明の治世では益州は豊かで食糧は有り余るほどあり、金が唸るほど財政も上手く行っていたという事実から目を逸らしすぎ
>>606 南中からの物資頼りだったというのは嘘?
>>600 必要とされる資質が違うからじゃないの普通に。
蜀の人材枯渇はよくいわれるけど、法正のような補佐役の謀臣も見当たらないんだよな。
馬ショクはアレだし……。
魏延「孔明の下だと俺の才能が生かされない」
まぁこれが正確かはともかく、連年一線を張ってきた将軍は面白くなかっただろうな。
丞相というよりは軍権者の仕事に完全にシフトしているし。
留守司令官と遠征司令官では資質は対して変わらないね
補佐する参謀や武将はたくさん必要だが、総司令官にとっての要件は同じ。
しかし、劉備存命中の諸葛亮は留守司令官では無く、
あくまで兵站・政治の責任者で軍権は無い。
留守司令官とは孫権にとっての呂範、曹操にとっての夏侯惇で、
諸葛亮の役割は孫権にとっての張昭、曹操にとっての荀ケに近い。
政務面での最高責任者ではあっても、軍事面での最高責任者では無い。
中郎将→将軍と昇進してるんだから丞相になっても軍事中心だと考えるのが普通だろ
>>610 全然違うだろ。
軍令と軍政が同じ、といってるようなもんじゃん。
漢中戦での前線と後方の分担を見ればいい。
あれは蜀にとっては職責的に一番綺麗な形になった戦だから。
>>612 ところが蜀には軍を率いない文官中郎将や文官将軍がたくさんいるんだな。
劉備時代も諸葛亮時代もそう。
>>614 そもそもちゃんと益州攻めの時点で軍率いてる諸葛亮と比べても仕方ないじゃん
>>615 しかし、諸葛亮が軍師中郎将として軍を率いたのはあの時一度きり。
軍師将軍の時は一度も軍を率いてない。
一度しか軍を率いてないのに軍事中心だったと考えるよりは、
はるかに多い政治関連から、諸葛亮の軍師中郎将や軍師将軍は文官と同じと考えた方がいいと思うがね。
なぜ兵站が軍事ではないってことになるの?
軍事において兵站はおまけ程度だと考えてる?
兵站は基本的に文官の役割じゃね?軍事の範疇だけどさ。
>>511 亀レス申し訳ない
アホなことを偉そうに言うと笑われるよ?
三都賦が初め批判されるのも分かるだろう?
蜀呉に豊かさ美しさを自慢させたあと天子がいるという理由で魏が勝つ話だ
魏っ子だらけの洛陽で不興を買うのも当然だ
君のように分別のないタイプは世に少なくないだろう
初めそういう層に批判されたんだろうな
しかし、いつの世も良識ある人はいるもので、張華は三都賦を傑作だと評価した
張華の勧めで名士の皇甫謐に序文を書いて貰うと、
「陳寿が言ってるから」「公式資料だから」と言うような
権威頼みで物事をよく考えない連中が、初め批判していた三都賦に掌を返して飛びついた
しかし、いつの世も唯我独尊な人間はいるもので、
自分も三都賦を書こうと思っていた文学者の陸機は
田舎者の左思の書く三都賦を軽く見ていたが、完成品を見て脱帽し
自ら三都賦を書くのを取りやめた
これが三都賦という書物だ
信憑性が高いのは言うまでもない
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 21:33:00
>>607 頼り、という程ではないでしょ
主たる本土(これが適正な言い方かはちょっとアレだけど)からの収入が大で
副たる南中からの収益は小だけども、蜀の経済状態ではその小でも旨味があったという感じで
譙周の異民族の話はごく当たり前の話
宗主国の国王が国を捨てて属国に逃げ込んできたら
十中八九無事に済まないだろう
民族独立の気運が高まるのは自然なことだ
恨まれるどころか諸葛亮は異民族に慕われていた
支持率100%はないだろう
諸葛亮の南中平定後反乱が起きなかったのは、李恢の手柄な気が。
李恢からライ降都督が交代したら、すぐに大反乱が起きたし。
諸葛亮の死後、戎夷が諸葛亮を祀ってるという話がありましてな
>>620 クシャーナ朝がササン朝の配下に入った頃とっくに蜀は滅んでるし
ササン朝は240年代から10年くらいは巻き返しの時期
サータヴァーハナ朝も地方毎に栄えたってことは交易にはマイナス要因
>仇国論
譙周の修めた蜀学は早い話が預言を中心に扱う学問で
周舒により「漢に代わるのは曹魏である」と預言されていた
後に劉備が蜀漢を建てると蜀学はその件に触れなくなった
蜀漢国の将来に関して、蜀学の大学者である占い師譙周の心配は
普通の人より大きかったはずで、そのため慎重になっていたのだろう
北伐に反対したのは占いからくる心配心が原因だ
>>628 仇国論は陳祇との議論が元で書かれたものなんだが。
陳祇もショウ周も蜀の状況を単純に憂いていたのだろう。
× 益州閥は乗り気じゃない
× 金欠
◎ 占い基準の心配心
>>629 陳祇は譙周の論敵だろ 議論したという状況的に
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 23:39:59
蜀の農業振興についてひとつ
九里堤
三国時代末期、諸葛孔明は劉備玄徳が亡くなった後、蜀国の国力を強めるため、
一系列の農業復興措置を実施しました。
優遇政策を出して、農民に桑を大幅に植えさせ、シルク産業を発展させるほか、
新しい畑を開墾して、稲などの農作物を多量に生産させます。
農業灌漑用水不足を解決するため、都江堰ダムに駐在する堰官を任命して、
1000人の兵士を指揮して、常に都江堰ダムの修復と安全を維持していました。
また、成都城郊外の農地が洪水氾濫影響をされないため、成都古城の西北部に
九里( 4.5キロ)の堤防も築き、西北部の幅広い農地の安全を守りました。
http://www.himalaya-kanko.co.jp/shisen/vol-17.htm
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 01:43:04
俺なら、北伐しないで国力蓄えて、魏が内紛で崩壊するのを見計らったあとで、蓄えた豊かな財政と武装でうってでれば簡単に天下取れたな
蜀の不幸は諸葛良がいたことだろうな
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 01:43:50
実は蜀は魏より(おっぱいが)豊かだった
>>633 魏が内紛を起こす兆候があればそうかもしれないけど、曹叡は陳寿曰く
「君主たるに相応しい気概の持ち主」
なのに対し、劉禅はご存知の通りの残念な人なので、諸葛亮があせるのも
無理ないと思います。結果的に曹叡は諸葛亮の死後、国を傾かせることに
なるけど、それを事前に知る術が無ければ、どうしようもないと思います。
>>617 んなことだれもいってないじゃん。
後方にあって兵站を行う仕事と、前線の総指揮官は役割が違う、なのに横滑りして人材不足なんだなぁ、という話っぽいぞ。
漢中戦では、劉備が前線指揮をとり、魏の抵抗で苦戦した際に成都の孔明に急報し、孔明が前線の要求に答えて根こそぎ動員を行って法正が考えた作戦を実施した。
こういう役割分担ができなくなり、兵站不全で退却をしばしば引き起こしたじゃん北伐は。
しばしばとは言うが、厳密には食糧不足が原因で撤退したのって
陳倉城攻めの第二次だけなんだよな
基本的には兵站は李厳が統轄し、第四次では李厳が原因で不慮の
撤退に至ってもいるけど
>>637 だから「兵站」じゃないの?
食い物が最重要なのはいつの時代もそうだが、前線じゃ対処が難しい諸問題をフォローするのも重要な後方の役目。
曹操を驚かせた漢中戦での蜀軍の馬鳴道→米倉道への山岳機動も、後方からの増員や情報があったから成し遂げられたんだろう。
>>639 俺は
>>617ではないし、絡まれても困る
俺は「しばしば」の一文に疑問を感じて書き込んだだけの、
通りすがりに過ぎない
五回中二回なら確率的には多いから、いちいち噛み付くほどの表現とは……。
屯田や略奪、異民族からの供出。蜀の山を越えての攻撃、というのは奇襲効果が無くなれば攻め手に不利だな。
魏は蜀を滅ぼした時、略奪をしなかった。
(当然官庫からは奪っただろうし、一時は撤退を考えるほど難儀したが)
実力差ってのはむしろ地味なところで出る。
大軍の兵站を支えるのは地理的条件もあって蜀の国力じゃ無理。
でも無理して兵数増やさないと魏に対抗するのは難しい。
打破するような奇策は孔明は好まないで、魏延の度重なる進言も却下。
袋小路だから。
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 14:46:11
>仇国論
必ずしも蜀内部では受け入れられていたとは思えない
チンジュが持ち上げているだけだろう
大体、窮国論より先駆けて、同じ主張した李バクなんかは即効処刑されている
この事実を見る限り、蜀で仇国論が正しい認識で見られたとは思えん
事情が変わったんじゃないの。
孔明の失敗、姜維の無茶が続けば、理想論者も現実に気付く。
北伐時の住民連行って奴隷狩りってこと?
人狩りは呉蜀の国家事業
農奴だろうね
人狩りが国家事業なのは魏も
おかけで後世の時代では漢民族が大迷惑を被った
張コウが漢中で人狩りやった後に張飛に敗れて遁走したな
張コウがやったのは巴だよ
>>644 その「蜀内部」が王朝を支配する外来者と周辺にとどまる蜀の豪族とでは異なるのでは
(陳寿個人が師匠の意見に賛同したというのはその通りだろうけど)
あと李邈は北伐に反対したのではなくて
権力者の諸葛亮が死んだことを公然と喜んだから処刑されたのでは
まぁいろいろ言われる孔明だけども、李厳の王になろうよ、とかのそそのかしにもまったく動じない態度とかは一貫しているからね。
蜀のあらゆる権限を掌握してるのに
今更王とか小さい事言うなよ
対呉戦で大量の人材、とくに軍職にあった者達を失ったんだから、
人材不足というより、それなりにあったのを劉備の代で使い潰したんじゃあ?
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/15(火) 14:09:14
李邈は、単に空気読めないから処刑されたぽいないなあ
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/15(火) 17:06:45
長安の西方、街亭で行われた北伐第一戦
先鋒馬謖軍が壊滅し、趙雲・ケ芝の囮軍も打ち破られ惨敗だった。
本営に響く失望のため息、どこからか聞こえる「だから長安を直撃しろと言ったのに」の声
無言で撤退の準備を始める兵士たち。丞相の諸葛亮は独り幕舎で泣いていた
益州戦で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる君主と将軍たち……
それを現在の蜀で得ることは殆ど不可能と言ってよかった
「どうすりゃいいんだ・・・」諸葛亮は悔し涙を流し続けた
どれくらい経ったろうか、諸葛亮ははっと目覚めた
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい床机の感覚が現実に引き戻した
「やれやれ、帰って内政の建て直しをしなくちゃな」諸葛亮は苦笑しながら呟いた
立ち上がって伸びをした時、諸葛亮はふと気付いた
「あれ……?本陣に人の気配がある……?」
幕舎から飛び出した諸葛亮が目にしたのは、祁山の本陣を埋めつくさんばかりの蜀軍兵士だった
千切れそうなほどに蜀漢旗が振られ、地鳴りのように軍楽隊の銅鑼が響いていた
どういうことか分からずに呆然とする諸葛亮の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた
「孔明、兵の調練だ、早く行くぞ」声の方に振り返った諸葛亮は目を疑った
「か……関羽将軍?」 「なんだ孔明、居眠りでもしてたのか?」
「ち……張飛将軍?」 「なんだ孔明、かってに劉備様を隠居させやがって」
「劉備さま……」 諸葛亮は半分パニックになりながら部隊配置を見上げた
子午道:関羽 黄忠 法正 駱谷道:張飛 馬超 龐統 斜谷道:趙雲 魏延 諸葛亮
本陣:劉備 馬良
暫時、唖然としていた諸葛亮だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった
「勝てる……勝てるんだ!」
姜維から羽毛扇を受け取り、本陣へ全力疾走する諸葛亮、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった……
翌日、幕舎で冷たくなっている諸葛亮が発見され、吉村と村田は病院内で静かに息を引き取った
>>655 夷陵で大量に死んだ人材が生きてたら、その後の蜀はどうなってたんだろうね?
費禕が生きてたら、ちょっとはマシだったかな
>>659 夷陵で死んだのは馬良、フウ習、傅トウ、張南、程畿
死んでないけど降ったのが黄権か
上級将官を失った事もあるが、場数を踏んできていたであろう
中堅クラス以下の練度の高い士卒を多く失った事も相当に痛い
よほど優れているわけでなければ将官だけなら換えもきくが、
軍を構成するうえで大多数を占める士官クラス以下の損失は
数字の上での話とは別に、質的な面では簡単に補えないからな
蜀軍そのものの戦闘力や機動性、難度の高い作戦にも対応できる柔軟性
あたりは随分と低下しただろうし、そのあたりも含めた軍の
再建にも諸葛亮は苦労しただろうな
>>663 ただしそれで諸葛亮の構想通りの軍を一から構築できたと言う側面もある
もし夷陵での大敗による損失がなければ諸葛亮の軍制改革は上手く行ってない可能性は高い
演義はともかく、正史ではそんな抵抗受けそうな改革はしてないんじゃ?
武具工夫・開発だって魏呉も当たり前にやっているしな。
>>664 >それで諸葛亮の構想通りの軍を一から構築できた
そうだとして、それが
>>663にある損失を覆せるほどの利点ならわからんでもないが
なんか夷陵の負債が有益だったかの様な物言いに見えなくもないんだが。
まぁ、孔明一党のライバルになりそうな連中は消えたかもしれんが、
同時に親孔明とおぼしき馬良とかも戦死しているからな。
全体で考えたらやっぱりマイナスじゃあ……。
劉備が動員した兵は四万程度と推定されているが、呉軍を緒戦で圧倒したところを見ると質も高かったんだろうし。これがほぼ壊滅だからねぇ。
そこから「局地戦では無敵」な数万の軍勢を育て上げた諸葛亮の手腕は高く評価されていい。
>>668 全然無敵じゃなくて、しばしば敗れているわけだが……。
馬ショクや高翔らの敗戦はそれぞれの責任・勝ったら別人が指揮していても孔明の功績ですねわかりますw
>>670 益州攻めのときの将の一人になっていても張飛と趙雲の功績になってるのと同じだよ
じゃあカク昭あたりは無敵の上だから、なんて表現するんだ?w
まあ、蜀は強かったけど無敵では無かったと言う事でいいんじゃね?
まあ巨人大鵬玉子焼きというが、巨人も大鵬も玉子焼きも最強ではあったが無敗ではなかった
同じだな
何歳だ?
>>664 ダメだな
上手く行ってない可能性を高いとする根拠を述べよ
そもそも夷陵の敗北って言われてるほど壊滅的なんか?
ほぼ全滅
そのわりには呉班とか陳式とか向寵とか生き残ってんじゃん。
逆にここで死んだ連中は、馬良以外夷陵の戦い以外ほとんど名前の出ない連中。
火攻めを受けて混乱状態になったから、逃げるのが早かったのかもね
兵船、武器、食糧は全て呉に奪われ、戦死、捕虜合わせて数万という大敗
だったらしい
黄権は劉備に嫌われていたこともあって、退路を失うと魏へ降伏。その他
杜露、劉寧らは呉へ降伏。
>>680 劉備が白帝城に引き篭もるぐらいには深刻。
>>682 要するに正史を纏める際に夷陵での敗戦の責任を押し付けられ、
功績は全て削除されたんだろ。
何の功績も実績もない人物が蜀の親征軍司令官とか無いからな。
>>665 陣形変更とかやってるし抵抗ある奴はあると思うが
また、その抵抗に託けて内訌の原因になる可能性もあるし
>>666 有益か不利益かで語れば確実な不利益だが
軍の再編という観点だけで見れば有益な面もあった、という程度だよ
>>678 根拠は既に述べた
軍人で有力な奴が諸葛亮の抵抗勢力に回る可能性がある、というだけ
諸葛亮が実権握る過程で真っ先にやったことの一つに
夷陵前に劉備に遠ざけられた趙雲とつるんで軍部を掌握したという事があったのをお忘れなく
関羽の敗戦でも、相当の死傷と寝返りが出ているからな。
漢中とった絶頂期から一年程度でもう……。
蜀は亢龍悔いありを地で行った感が
しかし、夷陵の敗戦が無かったら、諸葛亮の独裁体制や、
若手大量抜擢も無かっただろうな。
無いほうがよかっただろ。
宰相独裁、軍政が一人によりかかりって国家として健全なあり方じゃない。
>>689 しかし、夷陵が無くても政治面で諸葛亮を支えれる有力な人材は、馬良以外全員死んでた。
軍事面ではだいぶベテランが生き残ってたようだけど。
夷陵よりも、劉備皇帝即位から数年の間の人材病死ラッシュの方が、
蜀に与えた打撃は大きい気がする。
劉備が益州入りした当時に小馬鹿にした人が、
劉備即位直後にその罪で処刑されてたね。
病死ラッシュと見せかけて、暴君と化した劉備に処刑されただけなんじゃね。
戦病死も病死扱いだしな
蜀で劉備時代末期に死んだ重臣の中で、戦病死はいなかったような。
>>685 それでは答えになってない
軍制改革が上手くいってない可能性を「高い」とする根拠を聞いている
>諸葛亮が実権握る過程で真っ先にやったことの一つに
>夷陵前に劉備に遠ざけられた趙雲とつるんで軍部を掌握したという事があったのをお忘れなく
妄想乙
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 20:41:18
趙雲は翊軍将軍。要するに古参の一雑号将軍に過ぎず、
組んでも軍部を掌握できるほどの大物では無いね。
諸葛亮体制になってからの急速な趙雲の昇進は、
戦死と病死で多く失われた高級将官のポストを埋めるための人事に過ぎないのでは。
趙雲の中護軍は、諸葛亮のというよりも劉禅の政権固めの一環だね。
新帝が帝位に付く場合、古参の旧臣を召集して朝廷中枢の軍権を固めるのが慣わしだった。
劉禅の場合は、趙雲・劉エンが中央の軍官に就き、李厳が外に留まったというのが象徴的な配置になる。
>>696 新帝が就任すれば、主流派の人間は昇進できる。
あと、古参の旧臣を招集して朝廷中枢の軍権を固めると言う慣わしもない。
たいてい、もともとの軍の高官がさらに昇進する。
劉備時代、雑号将軍に過ぎなかった趙雲や郡太守に過ぎなかった劉エンが急速に昇進したのは、
新たに形成された主流派に加わったと言う政治的な理由からでは?
>>697 慣わし、あるよ。
遅くとも前漢文帝時代から。
文帝は代王時代の旧臣を引き連れて朝廷にやって来て、要所に配置した。
昌邑王劉賀もまた、王臣を多く引き連れて帝位に付いたが、
それがあまりにも度の過ぎたものであったことが、
漢朝廷で絶大な力を持つ「主流派」であった霍光との対立要因の一つとされている。
他にも皇帝が臨終の際の遺言として、または新帝が即位する際に、
皇帝と関係の深い者や縁戚を「爪牙の官を以って不虞に備える」
というのは前漢に多く見られた。
軍備が大幅に縮小される後漢では少なくなるが、外戚に城門校尉や車騎将軍を任せる
ということが健著に見られる。その外戚がそれまで「主流派」だったからというよりも、
幼少の皇帝即位時のこのような起用によって外戚の伸張が始まることが多い。
劉備政権は両漢と大きくことなる。陣営に加入した時期や出身によって
劉氏や蜀漢政権への感情に差があったことは想像に難くない。
そこで、荊州以前の旧臣である人間を中枢に迎えるのは、劉禅にとって
「不虞に備える」ものだった。
特に劉禅と関係の深い趙雲を中護軍に起用したのは典型例と言える。
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 21:57:17
趙雲と劉琰は劉備のお気に入りで元々主流派
無論、諸葛亮もね
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 22:07:44
>>698 >「不虞に備える」ものだった。
そうだろうね
というか元々主流派だから彼らの出世に不思議はないんだよね
>>636-641 第二次は兵站不全ではないな
はじめから単発で出てる
兵站不全で退却したと言えるのは第四次の一回のみ
>>642 諸葛亮も略奪はしなかった
>>700 でも、入蜀時に趙雲は翊軍将軍。劉エンは固陵太守。
それから劉備が死ぬまで全く昇進してない。
主流派なら、漢中王即位か皇帝即位のタイミングで昇進してても良かったのでは?
>>699 それはちょっと大雑把なくくりだろう。
劉備時代には荊州以前、荊州加入派、益州加入派、のバランスが取られた幹部構成であり、
趙雲などの昇進が抑えられる傾向が見られる(ただし、趙雲の翊軍将軍が無為の官だったとも断定し難いが)
のに対して、
劉禅即位直後、中護軍趙雲・衛尉劉エンという朝廷軍部や警護の中枢官に「旧臣」が昇ったのは、
そこに理由を求めて良いはずだ。この時、趙雲は諸葛亮の羽翼というよりも、劉禅の爪牙として機能している。
その後、諸葛亮の丞相府が巨大化する北伐期になると、諸葛亮と繋がりが深い人間が頭角を顕していくが。
しかし、劉禅が自分の意志で人事動かせたかと思うと、それは違うと思う。
中護軍・征南将軍趙雲も、衛尉・後将軍劉エンも諸葛亮の人事ではないか?
あと、趙雲も劉エンも劉備にとっての旧臣で、劉禅にとっての旧臣では無い。
劉備の遺志、という可能性が有力だろう。
そして人事の発令が劉禅即位後なので、最終的に決裁したのは劉禅になる。
勿論、諸葛亮がその決定に参与した可能性は高いが、
しかしながら、趙雲・劉エンというのは諸葛亮が劉備時代に推挙し、
劉禅時代に好んだ抜擢傾向とは外れる人事であり、
諸葛亮の独裁的な意向がこの時点の人事に既に働いていたとは言い難い。
>>695 少なくとも第一次北伐後、軍の責任を取る立場に趙雲があったのは確かで
この諸葛亮-趙雲体制の成立は劉備没後の急な昇進と見るのが妥当だし
君の言うように軍の上層部がスッカスカになったから穴埋め、というのなら
やはり穴を埋めた趙雲を掌握してしまえば軍を掌握できるということなのだし
諸葛亮が趙雲と手を組まない理由にゃならんよ
>>699 だが劉備の死ぬ前に趙雲は異を唱えて主流派ではなくなってるし、投獄されないだけマシな状態に追い込まれてたぞ
自らが政権の中枢に居て劉備亡き後の権力の流れを操作できる立場な諸葛亮とはワケが違う
経済の話をしろよ、オマイラ
結局はネタスレ
>>708 じゃあ、王連の専売政策について語ろうか。
具体的に何やったかサッパリわかんねーだろ
まず趙雲の翊軍将軍だが、一介の雑号将軍では無いように思える
「翊」=「翼」 意味は「たすける」
翼(翊)を「たすける」の意で用いる熟語をみれば、その「存在感の大きさ」が分かるだろう
よく‐さん【翼賛】
[名](スル)力を添えて助けること。特に、天子の政治を補佐すること。
よく‐せい【翼成】
[名](スル)助けて事をなしとげさせること。力を添えて成就させること。
「翊」は文字通り「翼としてたすける」という意味合いの言葉
趙雲は劉備に軽んじられてはいない
サッカーのポジションに喩えると
劉備がGKで
征鎮将軍をFWとするなら
趙雲は頼りになるが故に側に置いたSW(スウィーパー)だったんじゃないかな
こんな逸話がある
章武元年(二二一)、蜀主劉備は金牛山から鉄を採取し、八振りの剣を鋳造した。
長さはそれぞれ三尺六寸。
一つは劉備自身が帯び、一つは太子劉禅に与え、一つは梁王劉理に与え、一つは魯王劉永に与え、
一つは諸葛亮に与え、一つは関羽に与え、一つは張飛に与え、一つは趙雲に与えた。
のち唐の時代、尚書郎の李方古という者が諸葛亮所持のこの剣を手に入れ、名を李章武と改めた。
《先主伝集解・古今刀剣録》。
劉琰は仕事嫌い
実務能力が低かっただけなのか或いは本人が好まなかっただけのか
とにかく仕事に野心がない
太守だって名ばかりの化粧領的なものだった可能性はないか?
>>712 それを言うなら、すべての雑号将軍号に特別な意味があるがな。
趙雲も劉琰も劉備近くの人間
表面的な官位以上に信頼されていた
>>714 ああ、趙雲別伝丸々信じるなら、確かに趙雲は信頼されてるな。
劉エンは信頼されてたら、実務できないのに太守として外に出されずに、
簡雍や縻竺や孫乾のような立場の似た古参側近連中と同じく将軍号貰って側近やってただろ。
>>712 いやー…翊軍の意味などについては賛成したい部分がないでもないが、
先主伝集解云々は鬼のような勢いで眉唾だぞ。
221年って関羽死んでるから。
>>716 剣は人斬り包丁という単なるマテリアルではなく
ある種の精神性を湛えたシンボリックアイテムだから
関羽の霊前に捧げたというのはあり得る
或いは関羽に贈るという名目で遺子に与えたとかもあり得る話
関羽の死亡年は懐疑材料として不足だろう
この逸話が作り話なら
"小物"趙雲ではなく馬超になっているんじゃないか?
趙雲が"大物"化するのは唐よりずっと後の演義からだろう?
だから"小物"の趙雲が貰っているところが逆にリアルなんだ
そして趙雲が小物でなかった証ともなる
>>717 キリスト教圏では確かにそうだが(剣=十字架)、
中国においてそんな話聞いた事ないよ?
>>701 第二回ももろ史書にそう書かれているし、諸葛亮も略奪をしているぞ。
しばしば麦狩った、とか田畑荒らしているじゃん。
孔明が前線にシフトした後、兵站事務を請負ったのは李厳だろう。
李厳は最後がアレなんで評判悪いが、軍政の経験が豊富で、実戦でも五千で数万の賊を打ち破ったりと蜀に残された数少ない良将だった。
劉備に後事を託された一人でもあるしな。
関羽は負けて死ぬ前、魏軍を捕虜にしたがこれを食わせることができず呉の倉から強奪する真似をして、同盟切られる一因を作っている。
二州を保持していた絶頂期でさえこの体たらくだ。
趙雲の地位向上については、
旧唐書に既に、
則ち趙雲の勇と雖も諸葛の指ヒに資す、周勃の雄と雖も陳平の計略に乏し.若し使して樊カイを蕭何の任に居らせば…
という比喩がある。諸葛亮らの宣揚に伴って趙雲のイメージも唐代には引き上げられていたのだろうね。
唐代には既に、劉氏を守る臣として、諸葛亮と関羽・張飛・趙雲という
お馴染みの四人のイメージが出来上がっていたというのは興味深い話ではある。
>>723 それは李厳伝に明記されてるよ。諸葛亮が漢中に進駐した後、李厳は江州に駐屯して、
前線への輸送を監督したと。その後も兵站をずっと担当してたっぽいね。
失脚も兵站の失敗をごまかそうとしたのが原因だし。
李厳は実戦では数千程度の兵を指揮した事がないから、
良将ではあっても、地位にふさわしいだけの兵力を指揮する能力は無いだろうな。
むしろ、政治家肌の人物だと思う。
劉備の一族に有力な将帥がいなかったからな。
結局、側近や部曲(私兵)上がりをその代替にせざるを得なかった。
>>720 いや欧州はキリスト教以前からケルト人やサクソン人は拝剣の傾向があって剣は剣として
十字架と別にシンボリックアイテム
それと中国でも棺桶に剣を入れるように剣はシンボリックだし
三国志で言ったら孫権が机を叩き切ったのは斧でなく剣
洋の東西を問わず剣は非常にシンボリックアイテムとして共通だよ
>>728 劉備の一族はそこそこ家柄いいっぽいのに、
劉備に従う人間がいなかったのは不思議だね。
もしかして、一族の中で嫌われてたんだろうか?
郡吏を輩出したのだろう豪族の一族ではあったにしても、
劉備自身の家は父が早世して一族内での立場は弱かったってことだろう。
一族の中核になるような富豪の生まれだったなら、
募兵に応じた時点で自分の財力を投入したり、一族の若者を引き連れたりしたのだろうけど。
>>731 でも、一族の中での立場があまり強くないっぽい孫堅には、
一族がこぞって付いてきたが。
孫堅は世々郡吏という豪族の家柄で、成人した父もいた。
かなり若くして仮の県尉になれたのは、
実力だけでなく名声を広げるネットワークに乗る身の上だったことを示すだろう。
劉備と孫堅では年齢と実績がまるで違う。
黄巾の乱では朱霊の佐軍司馬で、その後軍官を歴任して
群雄割拠に入った時既に長沙太守。
一族姻戚の期待の星だったのは間違いない。
>>733 孫堅の父は名前すら伝わってないし、ある程度の家柄なら父祖の代に官位を持った人物がいてもいいはず。
劉備の父は若くして死んだ郡県の役人で、祖父は孝廉から郎中を経て県令にのぼった人物で、
いずれも名前が伝わっている。
おそらく、孫堅の家は孫一族の中では、史書に名の残るような官位まで昇進できない郡県の役人を出すのがせいぜいで、
父も名を伝えるほどの身分では無かったのだろう。
若くして仮の県尉になれたのは、武功でしょう。
>>734 それは孫堅が実力で世に出てからの話。元々の身分の低さを並外れた武勲でカバーして出世し、
これまでの孫一族では考えられないような高い地位になったから、
他の一族も付いてきたんだよ。
孫堅の父の名は建康実録に伝わっている。
後漢中後期になると、豪族の地方官僚の独占が増えて行く。
小豪族では県官に一族を送り出すのが精一杯だったが、
代々郡吏、というのは、その一族が郡中で一定の官僚ポストを
占有できる有力な豪族だったことを示す。
孫家や劉家はこのクラス。孝廉を出している劉氏がちょっと上か?というくらい。
勿論、その上には定期的に朝廷に官僚を送り出す大豪族や名族がいるわけだけど。
で、蜀の話にそろそろ戻してほしいのだが、
劉備の一族は出世頭の劉備に付いていこうと思わなかったのか?
公孫サンのもとで平原相になったあたりで、
一族の希望の星として、こぞって付いて行ってもいいような気がするのだが。
劉備の一族との縁の薄さはこの時代では驚異的。
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/18(金) 20:58:37
>>737 豪族を抑圧する公孫サンの配下なんかについていこうと思わなかった。
行き当たりばったりで先の見通しの立たない劉備についていくのはバカげてた。
ようやく安定した領地を得たのはいいけど、益州は遠すぎて物理的に合流不可能だった。
劉備は県令になった時は三十手前くらい。乱世らしい鬼のような出世速度だが、
独立的な軍閥を構成するには足りない程度の地位。
孫堅-孫策や曹操のように、十分な地盤を確保して一族を要所に派遣するような規模の勢力ではない。
若いのも難。どうやら基本的に同族が年下の旗挙げに所属する行くことはないらしい。
つまり劉備軍閥はかなり若い幹部集団だったことになる。
仮に若い劉氏が幾らか劉備の元に集っていたとしても、その後の流転に付いていけずに脱落すれば
名前も残らない。
>>722 >第二回ももろ史書にそう書かれているし
そんなことは書かれてない
>諸葛亮も略奪をしているぞ。
諸葛亮伝注の袁子嫁
>しばしば麦狩った、とか田畑荒らしているじゃん。
略奪とは言わない
>>721 君はまだ蜀が豊かでなかったとか思ってんのか?
成長なさすぎて笑えんよ
>>738 いや、公孫サンが悪政を敷いてるからこそ、頼りがいのある一族の高官に付いていこうと言うのは有り得る選択。
あと、劉備が平原相になった時点では、
劉備が行き当たりばったりで先の見通しが立たないということはまだ分からなかった。
>>739 いや、俺が言ってる平原相というのは太守相当の国相のことなんだが。
これぐらいの地位なら、小軍閥と言って良いと思うんだが。
あと、曹操も孫堅も同世代の同族が従ってるから、
それが劉備にないのはおかしいと思ったんだが、歴史に名が残らなかっただけなのかね?
>>725 ということはやはり趙雲はもとから高評価だったんだな
>>742 黄巾討伐で負けて死んだふりしてた頃に全滅したんじゃね>劉備の同族。
最初から劉備に付き従った関羽・張飛・簡雍の記述も徐州入り以前のは殆ど無いから、
旗揚げから公孫サンの配下だった頃辺りまでには死んだんだろうね。
>>725 趙雲別伝を採用したのは裴松之(372〜451)だから、
唐(618〜907)の時代で評価が高いのは当然だよ。
>>743 唐代の頃にはね
>>742 そこまでは難しいが、平原相の劉備がそんなに大規模な部曲を独力で養えたかどうか。
曹操は自分の財産を投じて私兵を集め、その指揮官として曹夏侯氏を配したのだろうけど、
平原相当時の劉備では財力・名声でまだ見劣りする。あくまで印象だが。
国相は公孫サンによって与えられた地位であり、むしろ兄弟子公孫サンの股肱としての働きをしている。
劉備が確固とした軍閥の地位を築くのはもう少し後、孔融・陶謙に一目置かれるようになってからに思う。
>>729 それって、まだ「刀」が発明されて時代ってだけじゃ…
それにサクソン人の剣は反りのない片刃のサクスだしな。
中国も中東も、もちろん日本も刀の登場以降は剣は廃れたよ。
>>746 劉備は平原国相の時、数千の兵力は持ってたっぽい。
孔融救援に3000の兵を送ってるけど、守りを考えたらある程度兵力は残してるだろうし、
陶謙救援の時も兵1000人と雑胡の騎兵数千を連れてってるけど、
さすがに平原の兵根こそぎってわけじゃないから、
それなりに大きな兵力を動かせたかと。
>>749 そのうちの何割が公孫サンの権威によって保障される平原国兵力か、劉備の私兵かはわからないわけで。
季漢輔臣贊
征南厚重,征西忠克,
統時選士,猛將之烈。 ──贊趙子龍、陳叔至
叔至名到,汝南人也。自豫州隨先主,名位常亞趙雲,俱以忠勇稱。
建興初,官至永安都督、征西將軍,封亭侯。
>>745-746 そういう事じゃなくてね
演義で五虎将軍となりはじめて関羽張飛らと位階で肩を並べた
五虎将の趙雲ならば剣を貰ったのも納得が行く
しかし演義の時代まで趙雲は関羽張飛らと位階で肩を並べてはいない
雲別伝でいくら活躍しようと位階は変わらない
章武元年の趙雲は唐の時代も"小物"だったわけだよ
だから作り話の線は薄い
演義で五虎将軍となり、はじめて関羽張飛らと位階で肩を並べた
>>750 この時代の軍閥の配下の太守の率いる兵力なんて、
特に主君から付けられた主君直轄の兵力じゃない限りは、
私兵も郡兵も大して変わりないんじゃない?
>>735 じゃあ劉虞、劉表、劉焉も親の名前判らないし父の名を伝える程の身分ではなかったと
親の名前なんてアテになんねーよっと
>>752 つまり趙雲は、八振りの剣の逸話のあるなしに関わらず、
劉備存命時代、関張と肩を並べられない「小者」だった。
しかし劉禅の即位に伴って重鎮へ上り詰めた、というわけか。
>>756 荊州領有時代 関羽 襄陽太守・盪寇将軍 張飛 宜都太守・征虜将軍 趙雲 偏将軍・桂陽太守
益州平定時 関羽 襄陽太守・盪寇将軍・荊州董督 張飛 巴西太守・征虜将軍 趙雲 翊軍将軍
漢中王即位時 関羽 前将軍・荊州董督 張飛 右将軍 趙雲 翊軍将軍
皇帝即位時 張飛 車騎将軍・司隷校尉 趙雲 翊軍将軍
まあ、官位的には関張より完全に格下だね。
>>752 先主伝集解がいつ書かれたのか知らんが、唐代の所有者の事を書いてるからって唐代成立とは限らんだろ。
現代の歴史物のハンドブックみたいに三国志が流行ってから口碑を集めただけかも知れんぞ。
中国の話で「むかしむかし唐の頃〜」みたいな話は腐るほどある。
蜀の兵士10万は、根こそぎ動員してようやく10万に達するというだけで実体はない。
半分こけおどし。
大体、蜀に10万の兵があったら漢中を抜かれてないわ。
10万といわずとも、5、6万もあれば余裕で魏の攻勢を防げるだろ。
3万は漢中に回し、2万を生姜が率い、5千を成都防衛に回せば勝てた。
呉軍の23万にしたってただの公称。
国が崩壊しない範囲で動員できるのは10万そこらだろ。
>>758 『古今刀剣録』は梁の陶宏景の作だけど,集解の元である蒋超伯は清の人。
だから李方古の話は『古今刀剣録』ではなく別の所から付け足したのだろう。
時々でてくる、根拠無く自分の妄想を断言するor都合悪いと史書に書かれたことさえ、やはり根拠示さずそんなことない、という奴なんなの?
>>759 10万を全部対魏戦の前線に貼りつけられればな。
しかし、実際には永安や南中や成都にも兵を置かないといけないし、
郡県にも守備兵が必要だし、漢中と姜維の軍は離れてた。
>>760 漢中を攻撃した鐘会の軍は10万。沓中の姜維を攻撃したのはケ艾の3万。
そして、諸葛緒の軍3万がケ艾の軍と姜維を挟撃。
これだけの大兵力を投入されておいて、5、6万もあれば防げるわけが無いだろ。
兵数以前に、漢中の防衛線下げてわざわざ相手に足がかり作らせる真似した後だろ。
姜維は敵を招き入れて殲滅すれば大功だ、とかいってたけどまさに空論だったな。
備蓄が四十万コクしかなかったんぞ。
まさか自国領内で略奪させるわけにもいかんし、出せる兵力なんてたかが知れている。
正史では宦官の壟断のために援軍が遅れた、となっているが実務的には蜀を支える国力の低さに帰結するだろう。
蜀贔屓に言わせると、他国の麦を奪うのは略奪じゃないそうだから自国領内でも遠慮なく奪えばよかったのでは?w
南方の富を奪ったので蜀は豊かになったby正史諸葛亮伝
国の総兵力と言うのは、主力軍と重要拠点の駐屯軍と郡県の守備兵を合わせた兵力で、
一度に動員できるのは主力軍と侵攻先と近い拠点の駐屯軍だけなのに、
鬼の首を取ったような顔で総兵力を公称だとか、実態は無いとか言われてもな。
ゲームじゃないんだから、根こそぎ動員して国を空にできるわけなんかないっつーの。
>>764 >しかし、実際には永安や南中や成都にも兵を置かないといけないし、
>郡県にも守備兵が必要だし、漢中と姜維の軍は離れてた。
孫呉が攻めてくる危険がある場所にすら、羅憲の1000しか配備できてないのが蜀だぞw
他の場所なんて優先度はもっと低いじゃん。
>>764 >これだけの大兵力を投入されておいて、5、6万もあれば防げるわけが無いだろ。
劉備の時には数万の兵力で曹操の20万を釘付けにしたじゃん。
>>766 蜀は豊か説の人がこの疑問にどうこたえるかが気になる。
三千万斛が十万人の五年分の食糧だから、
四十万斛は五万人の一月分の食糧にもならんな。
長期戦どころか、短期戦すら無理な備蓄。
この程度の食料しか国庫に無かったと言うのは、
既に蜀が経済的に破たんしていた証拠では?
>>769 現実問題、10万の戦力があったら魏の攻撃なんて余裕で止められるわ。
それまでと同じようにな。
>>770 羅憲が永安を守っていた時、二千しか手元に兵が無かったのは、
漢中が落ちた後、永安都督の閻宇が成都に永安の大半の兵を連れて援軍に向かったためなんだが。
普段は一万か二万は駐留していただろうよ。呉の要請で永安の駐屯軍を増強していたし。
>>771 曹操が漢中に二十万の兵を動員したってソースは?
少なくとも漢中攻防戦における正確な兵力を明記しているソースが無いわけだが。
いくら兵力があっても決戦地点に集中できる指揮と兵站がなければ無意味。
十万のうち、機動的に使えたのは姜維や諸葛父子が使えた数万程度では。
蜀の10万の兵力があったらねぇ?
ま、攻める側なのか守る側では全然違うからねぇ
>>773 10万の兵力を全部漢中と陰平方面に貼りつけておければね。
王平は3万で漢中を守ったが、それも曹爽が攻めあぐんでる間に費イの援軍が近づいてきたから。
3万単独では苦戦はさせられても、最終的に守りきるのは無理だろうよ。
>>774 >普段は一万か二万は駐留していただろうよ。呉の要請で永安の駐屯軍を増強していたし。
おいおい。
蜀が成都防衛に1万の兵力を投入してたら、ケ艾の奇襲なんて余裕で防げるじゃんw
そのときのケ艾軍なんて、悪路を無理矢理越えてきたせいで落伍兵続出してたわけで。
漢中の要害をわざわざ敵に明け渡したり、
トウガイの常識外れの機動で防備を回避されたり、
戦略戦術で後手にまわったしね。
遊兵ばかりだったんだろう。
>>777 >3万単独では苦戦はさせられても、最終的に守りきるのは無理だろうよ。
だからそれでいいんだよ。
生姜は費イ&王平以下。
でなきゃ、蜀征伐の頃の蜀は、漢中に3万の兵力を維持することすらできなくなったのだろう。
蜀滅亡時の魏軍は、略奪をしなかったこともあって食料が不足して撤退を考えていた、とあるからな。
勝てずとも時間稼ぎできればなんとかなかったかもしれんが……。
最後の守備軍も二戦で壊滅しているし。
>>778 閻宇とその配下の兵のその後の動向は不明だから、
たぶん間に合わなかったんだろう。
成都にいた兵力をかき集めて急遽編成したと思われる諸葛贍の軍がケ艾に敗れた時点で、
もはや成都防衛に割ける兵力は無かったんだろう。
>>779 姜維が沓中じゃなくて、漢中に駐屯してたら、もう少しいい戦いができたかもね。
その場合もやはり姜維は漢中に釘づけにされて、別の方面からケ艾と諸葛緒の軍が
雪崩れ込むだけだが。漢中が健在でも、姜維率いる主力軍が釘付けにされるのが、
剣閣じゃなくて漢中になるだけだ。
と、いうよりも「相手が乱れるまでは手を出さない」が魏の方針だったわけで、
(恐らく政治的理由からこれを破った曹爽は酷い目にあっている)
守備が弱体化したのが先にあって、攻撃されたのはその結果だからな。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/19(土) 16:29:29
まあ、魏も乱れて滅亡したけどな
魏の曹爽時代は言われているほど悪い時代でも無かった気がする。
蜀討伐の失敗を除けば、まあまあうまくやってたんじゃね?
官吏が呉以上って、そいつらは何をしていたんだ?
後でいう冗官?
>>786 豪族の機嫌を取るために郡県の役人や郎中あたりの職をやたらバラまいてたんじゃね?
>>767 >蜀贔屓に言わせると、他国の麦を奪うのは略奪じゃないそうだから
その程度のことは略奪とは言わないよ
>>772 蜀が豊かであったのは定説だよ
変わり者みたいに言わんでくれw
むしろ貧しかったと考えてる奴は頭がお菓子いと思われる
>>766なんて前スレか上の方でやったろ?
何度も前線を下げているのだから降伏時にそれくらいしか残ってなくても不思議はない
>>789 証拠も示さずに定説と言われても困るな。
お前以外の人間が納得する資料持ってきてよ。
あと、蜀は拠点に備蓄とかしないの?
前線が下がるたびにいちいち成都の国庫からはるばる前線まで補給しては、
拠点を失陥して食糧を失うと言う間抜けな事してたの?
普通は前線になりそうな拠点にはある程度食糧を備蓄しておくもんだよ。
蜀は表面上は豊?であっても結局ロジスティクのインフラ整備は行ってないんだよな
>>781 >蜀滅亡時の魏軍は、略奪をしなかったこともあって食料が不足して撤退を考えていた、とあるからな。
ねーよ
ケ艾がしなかったのは戦勝後の略奪&人狩りだろ
>>790 おいおい、誰が成都から前線へはるばる送ったなんて言ったよ
前線が下がる度に前線の食糧を失っていった これが主だろう
蜀が豊かなのは歴史の共通認識だよ
今更ここで提示する必要もないだろう
それよりも貧しかったと提起するお菓子ちゃんが証拠を出すべきじゃないのかい?
>>788 じゃあなんていうんだよw
蜀は豊かだったのも南方の富を奪ったからだ、とはっきりと正史に書いてあるわけだが。
願望と妄想だけなのか、ただのレス乞食か?
どちらにしろあぼんしやすいようにコテつけてくれよ。
麦刈りだろ
>>795 つまり麦を田畑から略奪したってことじゃん。
略奪って言ったら北斗の拳ごっこの事に決まってる
敵地の麦を刈って自軍の食糧にするなんてのは常識
つうか劉備時代に、兵士達を鼓舞するために蜀の倉庫にあったもの全部分配しているんだぜ。
その後に劉巴の献策で持ち直したけど、連年の戦争で民力は落ちる一方。
最後の国庫の貧しさといい、ひたすら食い潰してたんだろ。
>>797 お前の脳内はもういい。コテつけてくれ。あぼんするから。
一世紀前の漢の調査に対して、蜀末期の人口は僅か十パーセント強まで低減。
乱世の恐ろしさだな。
お菓子ちゃんが何か要求してるw
頼むから自分が正しいみたいな物の言い方やめてくれ
それよりお菓子ちゃん ソース
蜀最後の倉じゃあ、絹を代替品にするとかしないと官吏の俸給はらったら倉すっからかんじゃないか?
それとももうそうするしかなくて絹だけを死蔵してたんだろうか。
銭の記載はなかったはずだが?
蜀書・呂乂伝でも諸葛亮は出征のために諸郡の人員物資を徴発したが不足していた、とあるしね。
この後に呂乂が揃えた五千人は逃亡しなかった、と続くが。
その程度の兵力さえ維持するのに難儀していたのが実相。
これじゃあねぇ。
>>804 あるだろ。
だからそれがネタになって、劉備の入蜀時にばらまいた恩賞と比べても、とか話が繋がっているわけだが。
>>804 銭は末期に悪銭を作って価値が暴落したらしいから、
無価値なものとして扱われたんだろ。
漢制に準じていたのなら、官吏の俸給は米穀が基本だったはずだが。
四十万じゃ到底賄えないよなぁ。
ああ、銭か。金銀じゃなくて。
余財はそれにかなう、とか曖昧な表現だからそのうちだろうな>銭(銅銭?)
やっぱり貧しかったんだな。貧しくなったのは明らかに蜀朝の戦争続きのせいだけど。
>>805 不足した理由が呂乂の行動に表れている
貧しさとは無関係
>>807 だろうね 魏ではゴミ
しかし蜀では銭が回っていたんじゃないかな
>>809 >余財はそれにかなう
「餘物稱此。」のことか?
「(降伏後の)余物(金銀・兵糧・絹)はこのようだった」だろう
サッカー落ち
>>810 戦争続きと言っても、蜀が北伐してた期間は間の準備期間を入れても15年しか無いんだがね。
結局貧困派は誤読が元で騒いでたってことか?
あほらし。
これにて幕。
>>816 いや、「餘物稱此。」が「(降伏後の)余物(金銀・兵糧・絹)はこのようだった」なら、
逆にあまりにも少ない金銀と兵糧なのにどうして豊かなんだ?って問題になる。
銭も勘定に入ってたなら、「いや、銭は豊富にあった。蜀の財政は豊かだった」と主張する余地は有ったかも知れんがな。
イミフ
蜀が豊かなのは常識なんだよ
それを敗戦を経た国庫の残高で覆せるわけなかろーに
蜀は豊だったんだお(キリッ
どうして分かんないんだお(キリッ
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/19(土) 23:30:13
>>819 蜀が豊かなら、敗戦後も国庫に財物がうなってないとおかしくない?
ていうか、歴史上豊かなのに敗北した国の国庫に金銀財宝がうなるほどあったって話は良くあるんだけど。
絹がうなってるじゃん
>>823 じゃあ、あの異様な金銀と穀物の少なさは?
穀物は戦争で失ったんだろ
>>825 穀物はこの時代万能貨幣の一種だから、戦争以外にも使い道はいくらでもあるし、税も穀物で納める。
豊かな国なら、戦争で消費する以上の収穫が国庫に入ってきて、
穀物が山積みになってないとおかしいはず。
そんなん知るか
戦争で兵糧の多くを失ったんだよ
他にも降伏決定後に退職手当として役人に配ったのかも知れんね
>>826 戦争で消費したんじゃなくて、前線で撤退時に遺棄したり奪取されたりしたんだよ 大量に
蜀滅亡時の目録をいくら頑張って無視しても、
その無視から蜀の通常の経営状態が「金が唸っていた」ほど圧倒的な黒字収支と示すことはできないのだから、
論証する箇所が間違っている。
蜀が豊かなのは論証するまでもない
赤字組が立証しなくてはいけない
そこを間違っちゃいかんよ
>>829 それも戦争で消費された分に入るのだが。
それだけであんな悲惨な備蓄状態にならんぞ。
>>831 論証するまでもないと言うのは、論証できないから勝利宣言をしたと言う事でよろしいでしょうか?
>>830 蜀滅亡時のも目録の通りに兵士10万が本当にいたなら、魏の侵攻なんて簡単に防げるよw
>>832 入るんかい
普通、前線から少し下がったところに食糧貯蔵庫ってあるもんじゃないのかい?
それらを失ったら相当減るぞ
>>833 黄皓が情報握りつぶしたおかげで防衛線がぐだんぐだんになった
だから負けた
>>834 しかし、食糧貯蔵庫に備蓄されてる分と、国庫に備蓄されてる分は別だよな。
食糧貯蔵庫を失うたびに国庫から穀物が減っていくのなら話は別だが。
>>838 食糧貯蔵庫の備蓄と国庫の備蓄は関係ねえ。
食糧貯蔵庫を失うたびに国庫から備蓄が失われていくと言う不思議な物理原則でも働いてない限り、
食糧貯蔵庫の損失と国庫から穀物が失われていく事は関係ねえと言ってんだ。
>>837 10万で防げないなら、蜀は鐘会を待つまでもなく滅亡していたはず。
>>839 国庫って何だよ?
成都の米倉の事じゃないのか?
収穫は分散させて貯蔵するんだろ
成都はその何分の一かに過ぎない
成都には大して兵力がなかった だから降伏したのだろう
そんなところに膨大な兵糧を置いていても仕方ないだろう
>>841 分からん奴だなあ。穀物は戦争にだけ使うんじゃないんだよ。
官吏の俸給も労役にかりだされた民に食わすにも、物資を購入するにも使うんだよ。
そして、成都は中央政府があるから、最大級の食糧貯蔵庫が必要になる。
戦争以外の用途の穀物を大量に国庫にプールしておかんと、
国の経営が成り立たん。
>>800 戸籍人口の変化でしか、とは言わないが戸籍人口だけの変化も結構あるはず
青羌の例でも豪族の私民にえらい人数が編入されてるじゃない
>>803 死蔵ってよりは冬の降伏劇だから春先に交易する筈の在庫が残ってただけの可能性大
特にチベット方向へは山を越えて行くから冬場よりは春先〜夏場の輸出が主だろうし
刈り入れ終わってそんな経ってないのに40万って少なすぎね?
>>842 それは典型的な農業国の話だろ
蜀漢は商工業国家じゃないか
他国ならその分も穀物を作るところを
蜀は労働力と農地を割いてより実入りのいい桑を作ってる
当然、穀物生産力は落ちる がしかしそれ以上に金が入る
塩鉄で儲けてもいる
なぜ俸給や物資購入を穀物でやらにゃならん?
銭や絹だろうよ
842の考え方に沿った世界だと貧しいってレベルじゃねーぞ
次の収穫まで食糧がまったくもたない
戦争するまでもなく餓死で国が滅ぶ
銭や絹帛が唸っていたところで穀物が無いで国が成り立つんだろうか
過不足を輸出入で補える現代じゃあるまいし
だあかーらー、敗戦で失ったんだよ
>>845 蜀は漢制の則っているので、後漢と同じく官吏の給料は穀物で払う。
あと、貨幣が流通してるとは言え、この時代では穀物を貨幣代わりに使うことも多かった。
穀物は貨幣よりも価値が高いからな。
>>848 敗戦で失ったと考えるより、穀物の収穫自体が長年の疲弊で少なかったと考える方が自然な気がするが。
敗戦するたびに国庫から大量に穀物が消えるなんてそんな馬鹿なことがあるか。
戦争に使う穀物は国庫納入分とは別に拠点に蓄積されるのが普通。
>>845 この時代の国は必ず農業国だぞ。財政の中の商業の比率が多少高いか低いかってだけの差しかない。
「穀物がある」というのは、国家にとっても個人にとっても最重要の生命線だ。
安定期の漢だって官吏の俸給は半穀半銭だったし、租税収入の五割は田租だったと算出されている。
845がいうような意味での商業国というのは、絹などを売って外国から穀物を買ってないと成立しない。
>>831 お前は正史や注を根拠にした論を、単なるイチャモンつけで否定した気になってるだけだろw
だから連日粘着しても誰も同意しれくれないんだよ。
原因はその説得力のなさなんだから。
諦めろ。単なるレス乞食ならそろそろ満足して消えろ。
華陽国志の劉後主志にも、百姓は疲弊していたとあるしね。
金銀が乏しく、食料にいたってはまともに兵士を食わせる量もない、なのに絹だけは異常に備蓄されている、という状況から到底財政がまっとうだったとは思えない。
まぁ、豊かだったらもっと善戦していただろうな。
>>851 ま郭沖の弁護をボコボコにした裴松之を許せない奴だからね
裴松之はカクの件であれだが、気にしないけどね
魏では銅鉱脈不足から銅銭鋳造は下火だった。
穀物や織物が貨幣の代わりに使われることが常態化していた。
蜀が経済圏では実質魏の下に入っており、もう絹で必要なものは買えばいいじゃん、という状態だったのならまだ……。
でもそれだと首根っこ掴まれているに等しいし、買えるなら買えるで必需品の食い物にとっとと変えているはずだし。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 13:42:20
「豊か」の一言で説明できると思うな。
鉱物資源が多ければ豊かか。飽食なら豊かか。「貧しくても幸せ」は豊かか。
>>855 まあ、土地の生産力が高くて、経済が潤っていて、民衆の生活が苦しくなくて、
国家財政が健全なら豊かじゃね?
そういう曖昧な豊かじゃなくて、
>>1にあるような話をしてるんじゃないの?
でなければ史書に明記されている疲弊からくる困窮までイチャモンつけてまで必死に否定しようって意味がわからんw
>>857 >>856だが、蜀が豊かと言うのは、土地の生産力が高いと言う事以外においては、
すべて史書が否定してると思う。経済は潤ってないし、民衆は疲弊していたし、
国家財政は破綻同然の状況。
南方や西方の異民族からの物資徴発に頼るぐらいだしな
総人口が90万弱。人力が生産力に直結した時代で、このハンデはでかすぎるだろう。
あるいは戸籍に漏れた人口(異民族・奴婢などの奴隷)はもっといたかもしれないが。
その上兵士10万。官吏4万だからな。
軍事費と官吏の給料が半端ない。
うーん、政治が宦官のせいで乱れた、というのはあるんだけど。
たとえば無意味な土木工事とか、国を傾けるのにつきものの奢侈を思わせる記録はほとんどないんだよねぇ。
やっぱり連年の北伐のせいか……。
>>862 諸葛亮の北伐もかなり苦しかったようだし、
せっかく蒋エンと費イが回復させた国力も姜維の北伐で食い潰してしまったし。
人口90万、総兵力10万の国でしょっちゅう万単位の出兵してたら、
あっという間に国が傾くだろ。
一方で魏では、公孫淵を討伐するにあたり4万の兵力で一年分の費用を軽くはないものの平気で費やしたからな。
>>861 はっきりいって北朝鮮並みの軍事優先こっか。
北朝鮮は人口2000万なのに100万以上の兵士がいるっていうからな。
>>865 北朝鮮より人口に占める兵士の比率が高いよ。それにやたらと多い官吏。
実際に他国に出兵した回数も北朝鮮よりはるかに多いし、
蜀は北朝鮮なんか比べ物にならない軍事国家だよ。
>>849 >蜀は漢制の則っているので、後漢と同じく官吏の給料は穀物で払う。
ソースが知りたい
晋書職官志「孫呉・劉蜀、多依漢制」なら根拠にならない
「多くを漢制に依る」だからね 俸禄が同じとは断定されてない
基本平和な統一王朝と戦乱期の一国じゃ穀物の重要度が違う
それに総収入の内の穀物が占める割合も蜀と漢では違う
古い平和な時代の収入内訳も違うシステムは通用しないと思うが?
趙雲別伝に箕谷から持ち帰った軍資の残りの絹を冬に分賜したとあるが
これ俸禄じゃないのか?
>敗戦するたびに国庫から大量に穀物が消えるなんてそんな馬鹿なことがあるか。
>戦争に使う穀物は国庫納入分とは別に拠点に蓄積されるのが普通。
>>841
>>850 同上
>絹などを売って外国から穀物を買ってないと成立しない。
目録にあったのは成都の官庫の数字だろう
豪族の荘園で採れた穀物が市場を流れているはずだ
役人は国から銭や絹を貰いその金で市場の穀物を買って暮らしたんじゃないかな
回っていくはずだよ
>>852 疲弊が経済的窮乏を指すとは限らない
>>859 >西方の異民族からの物資徴発に頼るぐらいだしな
手弁当は大変だからだよ
出先近くで調達した方が楽でいい
その分戦略が有利に進む
頼みにするさ 町の弁当屋だもん
これも困窮の根拠にはならない
>>870 まあそっち方面の異民族はモロに交易路に住んでるから
むしろ絹のが金になるってありがたがられたかもな
姜維の北伐初期はそっちの民族と連携できてたし、絹もはけたのだろうけど
段谷の敗戦以後は完全に分断されてるし、征蜀時に沓中に戦力居たのも
案外そっち方面の交易路確保だったりして
売れない絹が貯まって滅亡時の異常在庫っと
>>868 豪族が低賃金で民をこき使って穀物を量産し、絹のような贅沢品を買うという経済が回っていたのか。
>>870 民の疲弊が経済的窮乏じゃないとしたら、何を指してると?
経済的に豊かだったのに疲弊していたとでも?
だから正史や史書にきちんとあることを、つまらないイチャモンだけつけて否定した気になっても無駄だろw
ってかそんなに蜀贔屓したいのなら、せめて正史ぐらい読んでこいよ。
趙雲が受け取らなかった絹が無事撤退戦やった恩賞だったってことは演義にさえでているぞ。
>>874 疲弊
1 心身が疲れて弱ること。「神経が―する」
2 経済状態などが悪化して活力をなくしてしまうこと。「財政が―する」
出師表の益州疲弊は前後からして1確定
>>875 ナメた口利くなや 30年はえーわ
恩賞は断ったんだよ
君がちゃんと読め
まぁ「疲弊」は「活力がなくなっていること」だろうな
>豪族の荘園で採れた穀物が市場を流れているはずだ
>役人は国から銭や絹を貰いその金で市場の穀物を買って暮らしたんじゃないかな
>回っていくはずだよ
経済はそれで回るかもしれないね。
豪族が勝手に処理する穀物がそんなにあるということは、
その分国家収入が少ないってことだけど。
>>877 だから受け取らなかった、と書いたじゃん。
連日粘着しても無駄なのは、君の説得力のなさのため。それ以外何者でもないぞw
「冬に」と書いたような記憶があるんだが
>>867 諸葛亮がやろうとしてるのは俸禄じゃあなくて褒美だね
んで諸葛亮がくれようとしたら「負けてるのに褒美はないよね、くれるなら時節の贈り物という名目で」といっている
時節の贈り物っていうか現代風に言えば冬季ボーナスかな
冬季ボーナスに絹をくれるのが一般的かは置いといて、元々は「褒美」としての性質だから
俸禄とは言えないな
>>882 元々の性質なんて関係ないって
筋が通らないから止めた 恩賞の件はそれで終わり
「時節の贈り物という名目で」とも言ってない
つーか、1800年前に冬のボーナスなんて進歩的な物があったのか?
降伏の目録に嘘かいたら後が酷いことになるからね。
蜀の財政難、疲弊振りは絹類だけが突出、あとは困窮(特に食料が酷い)という乱脈状態がまさにリアルだな。
>>883 事あるごとに官吏や民へ賜物が出されたのがこの時代。
ついて行けてないのが約1名いるようだ
戸を分け与える(国家公認の私有地・私有民を与えられる)という最大の栄誉にして恩賞も、蜀ではほとんど見受けられないしな。
何しろ二十八万戸しかないから。
>>885 趙雲の口ぶりからして10月に定期的に行われるもののようだよ
>>888 それじゃ戦闘で頑張った褒賞にならない。
「部隊を維持した趙雲軍の士兵は偉いので褒賞に値するけど、
戦役自体は負け戦なので、この名目で恩賞を出しては道理が立たない。
だから冬支度という名目にしよう」
というのが意図だから。
>>889 「戦闘で頑張った褒賞」はお断りした
「無駄づかいせず冬の俸禄となさってください」というのが趙雲の主張
だから趙雲えらいなぁって話だろ
つまり恩賞を流用しないと冬の俸禄(?)が払えないほど困っていた、といいたいのか?
まぁ負け戦なんてそんなもんだろうが。
その「冬の俸禄」が絹だったので、毎月の俸禄も絹だった、とでも言いたいのだろうか。
「蜀は戦乱で疲弊した後も豊か」という結論が先にあり、
史書や注の記述は二の次、都合悪いとイチャモンだけで否定する。
そんな奴にまともな歴史がわかるはずもなしw
>>894 とりあえずその「史書や注の記述」を出してもらおうか
892〜894は同一人物だろ?
頭悪いのが丸わかりだぞ
どんなに拙いレスであろうとも、自分に対立している者を同一人物に認定したがるようになったら精神的に末期。
お開きにした方がいい。
なんと言おうともなw
>>884 劉禅「我が国の統計が信用できるなら、あなた方との戦争に負けてませんよ」
>>895 それは過去ログ読めばいくらでも書いてあるので、
まず過去ログ読む事をお勧めする。
>>899 無政府状態でも内乱状態でもなく、国家の体裁を保って降伏したのに、
倉庫の中身すらまともに把握できない国ってどんなだよ?
あんまり記憶にないな
明記した方がいいんじゃないか?
蜀は豊なんだお(キリッ
歴史的に常識だお(キリッ
過去ログみればわかるお(キリッ
過去ログ探せお(キリッ
感情的になってる奴は頭冷やせよ
煽りあいとかバカバカしいと思わんの?
>>895 お前がトンチンカンなイチャモンで貶したやつだよ。
正史注に引く蜀の末期名簿とか
呂乂伝
>>805とかすぐ上にあるじゃん。
そんな逃げしかできないのなら、何も書き込まないほうがいいw
領戸二十八萬、男女口九十四萬、帶甲將士十萬二千、吏四萬人、米四十餘萬斛、金銀各二千斤、錦綺綵絹各二十萬匹、餘物稱此
何度目かの繰り返しだが、正史注に引く蜀記による蜀最後時の目録。
つか、都合の悪いレスは無かったことにするって空しくないか?w
>>904 まあ歴史的に見れば豊かだけど?
欠点はその「豊かさ」を発揮するための素地が蜀漢末期には失われていたということくらいだね
入蜀成功時に大盤振る舞いした恩賞の二倍程度しか銀なんて残ってないしね。
南方、西方の富を奪いながらこれでは、そりゃ戦い抜けないだろうな。
荊州失陥以来、南制除けばまともに生産力があるまとまった土地を奪えないマイナスの軍事行動ばかりだったし、当然の結果か。
蜀は豊かだと主張する奴が、穀物については苦しい言い訳を散々繰り返してるのに、
金銀についてはスルーしてるのにワロタ。
>>912 その数字を見てなお豊かと言いきれる決定的な根拠を示せないから、
何遍でも説明を求められるんだよ。
>>912 できるわけないだろ。
お前のはただのイチャモン。
理解できるほうが異常だわw
>>912 いや、呂乂は人員物資を徴発しても不足していた中で、
頑張って五千人の兵力を揃えたのが評価されてるんですけどね。
人員や物資が不足してなくて豊かなら、呂乂が五千人の兵力揃えたのも評価の対象にならん。
華陽国志にはっきり疲弊ぶりが書いてあるのに、わけわからん駄々も捏ねているしなw
蜀は劉備政権二代のうちに困窮して最後を迎えた。
その間、鉄塩専売や異民族からの徴発を手当てしたが到底おいつかなかった。
これ以上いいようがないだろ。
この時期は中国全体が政治の混乱や戦乱で疲労していたから、国力の立て直しは重大な要素だったんだよね。
曹操なんかあちこちの運河を修復したり屯田敷いたりしている。
(魏全体がこれを受け継ぎ、司馬懿も北伐への対抗のために成国渠を整備している)
蜀の場合、専売や貨幣政策はやってるけど、こういった類の政策の記述は恐ろしく少ないんだよね。
ケ艾が孔子が食料と軍事を重視し、さらにその中で食料を軍事の前においているとして農業振興を上奏して、これが図に当たったわけだし。
しかし米四十餘萬斛とは本当に困窮してたんだなぁ。
>>914 前線から350〜400kmも離れ寡兵しか残っていない首都に膨大な備蓄は要らない
短期で攻め寄せられるなんて想定外だ
前線の食糧貯蔵庫群を失ったのなら、幾らも残らなくても不思議はない
>>916 誤読もいいとこだろう
諸葛亮が諸郡に「これだけ出せ」と要求しても、諸郡はその通りに出せなかった
その理由は兵の逃亡だよ
戦争続きで兵は「オイラ戦争なんてもう行きたくねぇ」とモチベーションが低下していたんだよ
そういう意味で"疲弊"していたんだ 心神の疲弊だ
呂乂は徴兵された者達を慰め諭し取り締まったので逃亡する者が出ず
他郡と異なって諸葛亮の要求通りに兵を出せた
結局誤読なんだよなぁ こいつらの根拠は
>>920 それは予断の類だろう。
もし首都に残っていたものだけの目録だとするのなら、
首都だけで兵士十万以上・役人四万でなす術もなく降伏しますた、ということになるぞ。
諸葛父子涙目w
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 20:27:33
公孫康は朝鮮半島や満州まで支配していた大勢力だが魏に瞬さつされた
一方蜀は40年も持っている。やっぱ蜀は豊かだったんじゃないか
>>921 原文
丞相諸葛亮連年出軍,調發諸郡,多不相救
毎度のことながら都合の悪い史料にはケチつけるだけ、
それさえ苦しくなると誤読だとこれも根拠示さず泣き喚くだけ。
それじゃ誰も納得させられないと何度いわれるんだろうなぁw
戸数・人口・官吏・兵数と
兵糧・金銀・絹は別物
蜀記には「士民簿」となっている
士民簿は戸数・人口・官吏・兵数
兵糧・金銀・絹は別に提出した調査書だろ
蜀豊かクン、せめてまともに正史読むとかしないと今のままだぜ。
具体的にどう豊かで、正史のあちこちから読み取れる疲弊や困窮を何を根拠に否定しているのか、ぐらい明示してくれ。
実はお前の脳内の蜀という架空の土地の話でした、じゃないだろうな。
>>920 いや、食糧は兵糧以外にもたくさん使い道あるんすけど。
てか、十分な食糧を国庫に貯蔵しておけなければ、
国の運営が成り立たないんすけど。
>>928 原文示してもなお逃げるw
駄目だこりゃ。レス乞食でももうちょっと頭使うぞ。
>>926 だからそう考える根拠は? 別々にやったという記載なし。
妄想だけなら誰でもできる。
>>930 駄目だこりゃって俺の台詞w
丞相諸葛亮連年出軍,調發諸郡,多不相救,乂募取兵五千人詣亮,慰諭檢制,無逃竄者。
これ読んでみろって
蜀には農地整備したり水利良くしたりする金や技術がなかったんだろ。
人口少ない割りに兵士多い、食料少ないのに絹だけは多いってどんだけアンバランスなんだよ。
>>932 だから思いっきり上にあるとおりじゃん。
「多不相救」中でそいつだけやったから伝に功績として残った、ということ。
負け犬無残wwwwwwwww
>>934 考えろ=俺の妄想に従え
ですねわかります。
無理(笑)
こいつ頭悪すぎ
>>929 うむ、正論だ!
万が一を考慮し備蓄しておくのはグローバルスタンダードだな
俺としてはこれ以上の説明は要らない
一般レベルの人間なら充分理解できる説明を為した
つまり三戦板に一般人は一人しかいないってことだ。諦めろ
力の無い子は不満があっても言い返せないから
煽ることによって無条件に相手を否定し自己を保障しようとする
しかし彼らを馬鹿にしてはいけない
彼らのような人間達で三戦はもっているようなものだからだ
蜀は中原の王朝に比べて弱くて貧乏
常に滅ぼされてきた歴史が証明している
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:24:59
占領当時の益州は、前支配者劉璋の暗愚で惰弱な支配によって官僚組織はまともに機能を果たされず、
民衆の貧しさは目を覆うばかりの状況に在った。更に、官僚と結び付いた地主が肥え太る。
弱い者は益々悲惨になるという状況下に在った。
圧倒的な武力を以て益州を占領し、圧倒的な権力を持った政治支配で国を建て直そうとした孔明でさえ、
構造改革には苦労する。富裕豪族である抵抗勢力を根絶やしにする事は難しかったのである。
三年もの時間が必要であった。
孔明は先ず、一時的に国境を閉ざして鎖国状態にする。外圧を除いてから国内の生産力を回復させ、
経済を復興させて物価の安定を計る。国民に活気を取り戻させ、生活を安定させた。其の上で行政改革を
行う。思い切った人材の登用、権力者や悪徳官吏の黜除、行政組織の簡素化等の施策を次々と打って、
行政改革を徹底的に断行したのである。
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:25:49
当時は農本社会であった。農業が国の基本産業である。農業生産を上げて先ず、食い物を確保せねば
ならない。劉備と孔明が進出した前後の益州は、虐げられた農民は貧しく、生産意欲も上がらず、
国家は疲弊し切った状態であった。
農業生産を上げて民衆の富を増やし、彼等に活力を付ける事が急務である。
多少強引でも悪徳官吏を追放して地方豪族から既得権益を採り上げねばならない。
"構造改革断行。”と孔明は考えた。 "務農殖谷,閉関息民”{農耕に務め穀物を増産し、国境を閉じ
民を休ませる。}を第一政策に採用して国力回復に乗り出した。鎖国をして外からの圧力を排除し、
国内に平和を取り戻すということで、戦争が起こる懼れを無くして民に安心感を与えて
農業生産を上げる事に専念させたのである。
農業生産を上げる事は簡単である。つまり耕地面積を増やす。労働力を増やす。灌漑を整備する。
此の三点を確立すれば、生産力は上がる筈である。春秋時代の秦国が巴蜀を征服統治した時代、
太守として赴任した水利の専門家李泳親子が都江堰という堰を築いて蜀を「沃野千里」と呼ばれる
豊穣な地に変えた。しかし孔明の当時、堰はかなり荒れ果てていた。孔明は此の都江堰の整備を行う。
担当官吏を任命し、その下に千二百人の堰管理員を置いて補修管理を徹底して更に延長工事を行った。
此の治水事業を進める一方、低地の洪水地帯を農地に変える干拓事業、灌漑整備を行って農業生産を
上げる政策を推し進めた。成都の西北の柏河に孔明が築いたと謂われる "諸葛堤”、或いは"金堤”と
呼ばれる長堤が今も残っている。
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:26:41
封建時代は兵士は農民から徴兵された。此は中国でも日本でも変わらない。兵士として徴用されると
人手不足の農地の生産力は落ちる。此を解決するのが屯田兵制度である。兵士は平時には田畑を耕す。
一朝事が起こると武器を持って戦闘に参加する。更に、屯田兵に荒れ地を開拓させて農地を増やした。
戦争の起こる可能性が遠のいた時期だけに兵士を農耕作業に活用出来る "休士勧農 分兵屯田”を
スローガンに、"兵農合一”政策を押し進めて労働力の確保を計る。農繁期には兵士が農業に従事する、
或いは農作業に人的な補助を行って生産量を増やす。農閑期には農民が兵士として訓練を受けて
兵力増強を計る。一石二鳥の効果が実現したのである。屯田兵制度の推進は、他方で富裕な地主や
地方の豪族達の力を弱める効果をもたらした。農民も生産物の何割かを国家へ税納するだけで好く、
自分の取り分が増える。豪族の下で小作をするよりも収入が増え、働く意欲が増加する。当然、生産量が
上がる。という図式になったのである。
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:27:38
孔明はこの様に、兵農合一政策と水利灌漑事業を展開して一挙に農業生産を向上させ、地方豪族の既得権益
を取り上げ、賦税の軽減を計る等、農民の負担を軽くして彼等の生活を安定させた。当然、国庫の収入にも
安定を来たす結果をもたらした。
塩と鉄は益州の重要産品であった。経済発展には欠かす事が出来ない資源である。中国の奥地には塩分を
含む地層が多い。蜀地方の精塩業は西漢王朝(前漢)の時には既に、発達していて各地に塩井が掘られて
いたという。製塩技術もかなり熟練していてある地方では已に、火井{天然ガス}を燃料に使用していた
という。蜀地方の塩は"井塩”とも"煮塩”とも呼ばれ、井戸を堀って上部に滑車を備えた塔架を置き、
塩水を汲みだして塩鍋に移して塩水を煮て水分を蒸発させて塩を採取した。
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:28:23
中国には各地に鉄鉱石の鉱山があって、露天掘りが今も行われている。此は孔明の時代も変わらない。
蜀の周辺にも鉄鉱石が埋蔵されている山が彼方此方に在って兵器や農機具を鋳造していた事が多くの史書に
記載されている。孔明は鋳鉄官に鋳鉄技術に精通した者を選んで兵器や農機具の品質改良を目指した。
鋳鉄官の郭達は一夜に三千本の箭を打ち、"神手”と称されて将軍に封じられたという。鋭利な兵器の改良
は軍の強化に貢献し、製鉄技術の発達は農機具に改良が加えられて農業生産の増強に大いに役立つ事に
なる。今も昔も軍事技術の発達が一般の生活機器の改善に繋がる事に変わりがなかった。
鉄に限らず金、銀、錫等の鉱山も開発されて蜀漢王朝の重要輸出産品と為り、国庫を潤した。
錫は今でも四川省に多く産出している。朱堤に産出する銀は純度が高く、
他地方で産出する銀に比べて1.8倍の高値で買い取られたという。孔明は精塩工業や製鉄工業に対して
国家管理機構を設立して「司塩校尉」、「司金中郎将」の職を設けて
これらの資源を国家の独占事業とした。
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:29:09
蜀錦の名で有名な蜀のシルク工業は早くから、此の地方に発達していた。東漢時代(後漢)の墳墓から
桑苑の図や織機の石刻が発見され、漢の時代には一般的にシルク工業が普及していた事が判る。
彼は蜀錦の重要性に着目をし、特別に「錦官」という官庁を設置して専門にシルク工業を管理させた。
成都の別名「錦官城」は此処から来る。「臨終の表」には、彼の家には八百株の桑の木が植えられている
と彼自身が述べている。
「後漢書」には曹操が “人を派遣して蜀錦を買い求め、宮中の礼服に用いた。”という記載がある。
当時、蜀錦は全国に知られた特産品で、蜀の経済立て直しの切り札となった。
又、貨幣の鋳造も手がけ、"官市”という市場を設立して専任官吏を派遣し、徹底した市場価格への介入を
行って諸物価の安定を計った。湖北省や雲南省で孔明の発行した"直百銭”の銭弊が見付かっている。
この様に農業生産の向上、塩、鉄,錦等の資源、特産品の発達は蜀の経済発展に大きな寄与をした。
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:30:21
“政は民を安んずるを以て本と為す。”という孔明の基本思想が諸政策に反映された結果、
構造改革は三年で成功裏に終わって、蜀漢国は "食足りて兵足る。”という安定さと富裕さを得るのである。
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 22:33:35
どこかから整えて転載
成都の名は『一年で邑が成り、二年で都が成る』の古語に由来する
飢饉がなく肥沃で物産豊かな土地だった
ここまでやっても、北伐やったら人員や物資を徴発しても不足しまくって苦労して、
まともに徴発できた事が手柄になるぐらい国力消耗したんだな。
本当に戦争は金食い虫だ。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/20(日) 23:28:02
>>953 元々蜀漢の徴税能力が高かったわけでもないしね
というか権力基盤がかなりワヤ
ショウエン伝に「道路の険阻と運送の困難のために・・・」
とある
やはり蜀はロジスティクスが弱くインフラ整備が整ってなかったんだな
それ北伐の話だろ
四川盆地の外のことだから
>>953 あくまで一州としては豊か、程度では数万の軍勢を維持するのは大変。
94万しか人口いないのに兵士15万だからなw
女子供老人は兵士に取れないから蜀の働き盛りの男はほとんど兵士に取られてた計算になる
そりゃ生産力も落ちるうえに成果が少ない北伐やってたんじゃ疲弊するわな
イチャモンや出典を一切示さないコピペ爆撃で他人様が納得すると思っているほうが異常w
仮に妄想君のいうとおり蜀が豊かだったとしても、
その豊かな蜀をここまで疲弊させ、かつ貧乏な(笑)魏にも勝てなかった蜀は無能揃いということですね。
実は醜態さらしてでもそう誘導したい、深刻な蜀漢アンチか?w
>>957 いや、場所は特定されてはいない
仮に四川盆地以外だとしても、やはり戦はロジスティクスの必要性が発生する
>絹
末期これだけが備蓄あるのは、
今民貧國虚 決敵之資 唯仰錦耳
(諸葛亮集)
の発言と一致するな。他の物資は充てにならない、国家も民も貧しい、決戦の元手は絹に頼るしかないと。
ケ艾がやった軍屯では「衆費」を除いて年五百万斛を産した。
これだけで蜀最後の備蓄の十倍以上。
軍屯が一般民に対するより税率がかなり高かったためもあるが、到底蜀の生産力では太刀打ちできないな。
また、ケ艾の上書では「三千万斛」は「兵十万の五年分」の食料に当たる、としている。
これを当てはめると、蜀軍十万を養うのにだいたい六十万斛の食料が必要なわけだが。
たった四十万斛じゃどう見ても足がでる。
抗戦できなかったのも当たり前だろう。
何度も同じ話題出さなくてもいいだろ
過去ログ嫁
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 13:56:11
兵士が一割といっても、農民兼兵士みたいのもいるからそんなの参考になるかな
>>967 >半年抗戦
だから何?
備蓄分じゃ一年ももたないから降伏したんだろ。
国家の基盤がそれだけ弱ってたんだよ。
絹しか元手がない、と孔明時代でさえいっていたぐらい。
>>967 じゃあ半年分の兵糧をすでに使った後なんだろ。
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 14:11:34
Q 蜀の備蓄が少ない。蜀の食料はどこに消えた?
A すでに兵士の腹の中。
>>967 半年抗戦したと言っても、剣閣に籠った兵はおそらく約5〜6万。
それだけの兵が剣閣で半年抗戦したとしても、
消費する食糧は300万斛から360万斛。
それで残りが40万斛しかないなら、やはり蜀は貧乏だ。
魏は地方にすら何千万斛も蓄えてるのに、
蜀は中央ですら400万斛程度しか蓄えが無かった。
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 14:21:38
>剣閣に籠った兵はおそらく約5〜6万
アホちゃうか。
そんだけ頭数がいたら、漢中に3万おいて、生姜が3万率いることができた。
蜀は負けてない。
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 14:28:27
だから剣閣は抜けなかっただろ、魏。
でもトウガイの奇襲で守ってても仕方ないから後退したが間に合わなかった。
で、成都は諸葛父子の軍がたった二戦で壊滅すると篭城もせず降伏。
資源がないんだから戦争の続けようが無い罠。
姜維は更迭回避するために屯田していたから、その分はほとんど自給自足だったかもね。
どっちにしろ、滅亡時の目録見れば破綻は確実だ罠。
>>974 剣閣に籠った兵は元々姜維が率いている軍だけでは無い。
漢中から逃げてきた軍と成都からの援軍を合わせた兵力。
そして、鐘会は剣閣を抜けなかった。
姜維は負けて無かったが、蜀は別方向から侵入したケ艾に負けて降伏した。
>>978 漢中の軍の大半は鐘会が包囲状態にして放置しているので、逃げられない。
漢中から逃げた兵がいるとしても数は少ない。
すると剣閣にいるのは成都の兵と姜維の兵になるが、
もし本当に成都の兵に数万いたなら、そんなもん最初から漢中に配置しておけって話。
そしたら鐘会の漢中突破は防げるし、蜀に入ったケ艾も孤立して立ち枯れる。
>>979 配置できなかったんだろ。
姜維と宮廷の不信で、援軍出したの手遅れになったのは史書にはっきり書いてあるところ。
まともに食わせたら一年兵士を維持する分量さえないほど困窮している上に、前線と首都の連携が悪いんじゃどうにもならん。
>>979 魏も呉も前線から離れた首都に数万の中軍を置いてるんだがね。
侵攻する時は前線の兵とともに中軍が侵攻軍の主力となるし、
攻められた時は中軍を前線に援軍に送る。
地方で対処できない反乱が起きた時は中軍を鎮圧に送る。
こういうふうに運用に融通の利く機動戦力である中軍を、
宮廷や首都や首都圏の防衛軍と治安維持の役割も兼ねて、配置しておくのは軍事上の常識なんだが。
多くの兵力が首都にいるという軍事的裏付けがあるからこそ、
安定的な支配が成り立つ。全部前線に兵を送って首都をガラ空きにしたら、
前線を突破された後の内地の防衛はどうするのさ?
ゲームなら前線に兵を集中させればいいけど、実際は首都や内地の重要拠点にも兵を配置する必要があるんだよ。
>>981 その機動力の高い中軍とやらで、平野で魏軍と野戦して勝つつもりなのかねw
どんだけ自信過剰なのか。
平野決戦なんて大国の独壇場だわな
>>982 北伐で諸葛亮率いる蜀の中軍は魏軍を野戦で撃破しているのだがね。
局地戦で勝てることはあっても、国力と兵站が続かないから戦略的には敗退するしかない。
それが蜀の宿命だったな。
国力と兵站が続かない程度の豊かさしか、蜀には無かったってことだな。
戦争しなければ豊かに暮らせるが、戦争すればとたんに国力は疲弊し、物資は不足し、兵站が続かなくなる。
山がちで耕作面積が少なく、日照時間も長くない益州だと人口の問題もあって生産力はかなり落ちてただろうな。
経済官僚の王連は南征にさえ反対し、その存命中は孔明も兵を出せなかったのも経済ベースで見ればリスクが高かったからか?
ブロック経済を構成できるだけの 資源(人)と領土がない
結局、蜀は豊ではあっても魏や呉より豊じゃなでFA?
FAしてしまったら立ってる次スレどうすんの
>>987 南征に反対した頃の王連は屯騎校尉・丞相長史。
諸葛亮の副官で経済の仕事からは離れてる。
それでもまあ、蜀の苦しい経済事情に精通した者の立場から南征に反対し、
諸葛亮もそれを理解していたから、王連の反対を押し切ってまで南征できなかったんだろうな。
>>992 あぁそうか
蜀は豊なのは歴史的に常識だお(キリリッ
と
蜀豊(姓は蜀・名は豊)君が発狂することでしょうな
劉禅が霍弋の成都救援を備えはできている、と断ったのも実は食わせる飯が成都になかったからか?
梅
魏Umeeeeeee
997 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 22:09:18
998 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:36:08
a
999 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:38:59
shuuryouしたよあああああああああああ
ああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああ
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:39:53
あかかべのたたかい 曹操軍80万vs孫権・劉備連合軍5万
1001 :
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ハ ハ ヽ. ハ ) ん 込 | ',.' ,  ̄ , ' ノ //三国志・戦国板
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