1 :
無名武将@お腹せっぷく:
鉱山資源と塩の専売で、装備ははるかに魏より上
魏は物々交換が主流だったが、蜀は貨幣経済が主流だった
サンタクロース
余裕のヨン様
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 06:48:31
馬氏の5常 末子最も登山家
魏のように戦乱の主戦場になっていないし、呉のように異民族と難民だらけということも
ないだろうから、一人あたりのGDPは蜀が一番高い可能性は十分あるな。
問題は人が居ないことだ
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 14:49:27
一人当たりのGDP的に考えればそうかもな
まともに兵糧も用意出来ないのに豊かとか…
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 15:36:46
あれは糧道の問題であって
蜀の国内の問題では無いのでは?
GDP総額が違うだろ。
魏は ビルゲイツから ホームレスまで
ショクは ・・・
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 17:50:20
現代では一人当たりのGDPが高いと技術力が高かったりするけどな
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 18:39:49
武器の質も魏より蜀の方が良かったって話は聞くな
鉱山資源が豊富だからね
生産力は下回るが、魏の方が養わなければいけない人間の総数が多いから一人当たりのGDP的には豊かと言えるかも
15 :
清一色:2010/04/16(金) 20:53:19
魏の場合、貨幣経済をぶっ壊した董卓の影響が後々まで響いたんだなぁ。
住むなら成都、働くなら洛陽、遊ぶなら建業
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:44:36
日照時間少ないのに農産物まともに作れたのか?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:47:27
三国時代では魏の騎兵戦に対抗するために蜀では歩兵の武器、特に弩の配備に力を入れた。
政府直轄の工房では高度に規格化、分業化され、威力(石)、製造年、製造工房、製造責任者など
が刻まれていた当時の最先端の兵器だった。
蜀が魏に対抗できた理由のひとつに独自で鉄鉱山を抑えていたことが大きく、これは鉄製の武器や
防具の製造以外にも、鍬や鋤など農具にも使われ、灌漑などの土木工事でも威力を発揮した。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:53:41
魏についていえば物々交換が主流だったのは事実
歴史上も悪名高い董卓銭は鉄製貨幣で、価値が低い粗悪品。丸くて穴のあいた円形だから見た目がひどい。
そんなのが魏の市場貨幣を駆逐していた。
董卓銭は大量にあるのも問題。中原は森林荒廃で200年以上再改鋳するための燃料がなかったから
魏、晋とも何の手も打ててない。 全てトウ卓の悪政のせいだが、ハイパーインフレになすすべもなく
その点、蜀は鋼材資源豊富だったから、劉巴の貨幣制度改革で物価は安定してた
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:57:22
ちなみに呉は国家成立前は豪族割拠で漢にも服してない地域が多かったので金銀はそこそこあったが
会稽や特定の街でしか貨幣流通は基本的ではなく豪族に収められるのも物税だったので長江流域で貨幣経済があったくらい
孫権が董卓銭500枚にあたる貨幣をつくってみたりしたが本格流通にいたらず、魏に準じた税体系になったと思われる
当時の魏地域で近年大規模な出土貨幣(貯蓄されていたものがそのまま埋まったもの)があり数万枚に及ぶ銭の種類を類別した記事があったが
内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%
蜀だけ貨幣がまともに税としても使えていたようだが蜀でも絹が貨幣のかわりに税で納められる地域もあったようだ
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 21:59:18
鉱山が蜀地域に集中、呉にも多少はあったが魏の中原は当時の技術で掘れる鉱山は枯れていた
改鋳しようにも燃料である木材が不足(当時は寒冷化の為暖房用に大規模な森林伐採で禿山状態。蜀は人口が少ない為木炭が無事入手可能)
結果金銀も蜀に集中していった(金や銀は国家間の貿易で主に使用。王侯以下の所有は原則禁止)
兵装にも違いはあった
蜀軍は鉄製防具が標準だったが、魏は司令官クラスですらほとんど皮製装備だった
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 22:02:17
魏、晋は漢の時代税は銭と穀物だったのを絹布と穀物、繭綿(木綿は当時の中国にはなく綿といえば繭綿)に変えている
董卓が大量に乱造した董卓銭が銭の流通のほとんどになってしまった為銭の価値が大きく低下した為。
蜀では董卓銭100枚の価値を持つ貨幣が鋳造され魏、呉でも流通した。
(董卓銭は円形で穴があいてるだけで文字なしの粗悪銭。それでも鉄銭より価値が高いがそれ以前流通していた通貨の数十分の一の価値)
ちなみに三国を統一し誕生した晋は、なぜか三国の悪い部分だけ承継したといわれる
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 22:09:41
当時の一人当たりGDPなど知る良しもないが
多分
蜀>>>呉>>魏
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:28:49
>>24 晋って、なんであんなにクソな王朝だったんだろうなw
司馬昭、司馬炎、カ充、杜預とか日本のネット限定で過大評価されすぎ
まともなの、張華ぐらいだろ
伝統的な歴史学者の方がはるかに正しい
誤爆ったスマソ
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:44:14
ちょうか?
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/17(土) 23:47:38
蜀の治安はどうだったんでしょう。蜀は昔、流刑地だったので犯罪者が多かったと
思うのですが、三国時代には治安は安定したのかなぁ
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 09:57:21
単純に答えだけで言うならNoだがな
蜀は塩の専売制で塩税を三国中最も高く設定していた
諸葛亮はそのことで配下の役人から「塩税高すぎだから下げるべき」という進言を受けている(結局税率下げなかったが)
魏呉ではそのような高率の塩税を設定するまでもなく
租税等と屯田による収入で財政が回っていた
むしろ安定した貨幣経済が蜀で運用されていた裏には
商業収入に頼らざるを得ない蜀の苦しい財政事情が見え隠れすると思われる
特に滅亡時の資産目録を見ればわかることだが蜀にはとにかく金銀がなく
輸出用と思われる絹製品ばかりが大量にある
>>30 一州としてはかなり豊かだったが、数倍の国力を持つ魏に対抗するために
高率の統制体制を敷いていたため、国家としてはぎりぎりの綱渡りだった、ってとこだね。
経済も人的資源も根こそぎ国家運営に投入されたため、大敗から建て直す冗長性がない国だった。
逆にそういう統制体制だったから、
蜀という地のポテンシャルを活かせなかったというのはあるかもな。
諸葛亮の手腕で益州のポテンシャルが最大限に生かされた結果が史実だろうよ
漢魏伝統の緩やかな統治体制では一州が40年も魏に対抗するのは不可能だった
大日本帝国に通じるものがあるな
現代的に言えば、そういう統制をするから返って経済が活性化しなかったりするんだよ。
税率下げた方が良いと当時でも言っていた人がいるし、まず一つの案としては間違ってないと思う。
実際何十年も蜀は存在した訳だし、長期的に経済を活性化させる事を考えるのは非現実的という事は無い。
経済が活性化すれば、結果的に軍事力も高まる。
あとは人口も増えるだろう。
要は蜀は魏より豊かだったけど、
もっとずっと豊かになる方法があったんじゃないの?
て事。
強い外敵がいない国ならばそれが正しくて現実的だっただろうね
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/18(日) 16:52:52
>>29 確かに、滅亡時はすっからかんの状態だった。それは事実。
しかし、それは孔明やキョウイの幾度となく行われた北伐が原因
しかし、貨幣改革や専売制が成功した後の、北伐前の蜀の財政は魏呉とほとんど遜色ないほど潤っていた。
魏の1/10の人口で、それだけの金があったというわけだから推して知るべし。
>>38 まあ、北伐しなきゃ結構やれていたと思うが。
結果論だけど蜀軍は、アウェイで二倍の魏軍相手に戦えるほど、兵装が良かったわけだから。
蓄財と内政に勤めて、引きこもっていれば結構長く続いたと思うよね。魏晋呉ののちのぐだぐたぷりを見ると。
魏を襲ったハイパーインフレは、年率62400%〜124900%
とも
これでは貨幣の信用なんて無きに等しい。
おまけに君でも僕でも作れちゃうくらい簡単に作れる代物だから、私鋳銭がでまわり
董卓滅亡後もどんどん増えまくった。
魏から続く隋以前の統一王朝はこの大量に出回った董卓銭を改鋳できる力がなく
その後200年猛威を振るった。
董卓は確かにいろんな悪事を犯したが、影響力が最も大きかったのは董卓銭の開発だろう
二倍は言い過ぎだが、隴西で魏と優勢に渡り合えるほどの数量と質を投入できたのが
そもそも蜀の統制体制の賜物だから、
>>36の政策ではそんなことは不可能になる。
加えて、魏も国力を伸張する
魏が、漢中を西回りして天水-武都を経由し四川盆地へ直接侵攻することができれば、
漢中駐留軍と戦わずに巴蜀と漢中を分断できる。
それには、超長距離の兵站と兵員供給体制が必要になり、雍州、特に隴西の基盤固めが必須になる。
その作業を遅滞させるというのが、諸葛亮や姜維が隴西を主戦場にした理由のひとつだろう。
北伐を回避することは難しい。
>>29 蜀に入ったときに諸葛亮や法正たちが法律を新たにして
厳しく罪人を取り締まったって話を聞いたことある
魏の経済含め 国力成長率と
蜀の成長率が『仮に』同じとしても差が開く一方だったでしょ。
あそこで打って出なかったら 一生負けないまでも 100%の負けが待ってただけだし。
そういう意味では北伐は正解だったと思う。
魏もいい時期の曹操と曹叡に対応力があるだけであとは不穏に見える
魏は魏で、最も荒廃した中原部を抱えているわけだから、その安定に力を取られながら
二国に対応する軍備を増強せねばならなかった。
地方には荒廃した土地に汲々としながら既得権を死守しようとする豪族が頑張っていて、
全戸的な徴兵制度など夢物語だった。
それを克服するために設立されたのが屯田と兵戸制度で、
これは部曲兵や流民から耕作者を募集することで、兵糧・兵士・力役の供給源とする制度。
与えられる田地は公田なので、小作料として高率の負担を掛けることが出来る。
この制度のため、魏は全戸口の割には兵員数が少なく、呉蜀の同時攻撃に劣勢を強いられるなど
苦戦が長年続いた。
しかし、屯田地は典農官という軍官が直接管理したため、朝廷の強力な中央集権下に主力軍団を置くことができた。
司馬晋が魏をのっとりながらもこの制度は揺るがず、重なる叛乱を鎮圧し、最終的には蜀・呉を滅ぼす原動力になった。
姜維の北伐と段谷一戦の大敗で前線と成都に亀裂が入った末期蜀や、
もはや利なしとみた豪族が次々離反してしまった末期呉に比べて、
魏晋が最終的に勝利を得た大きな要因と言えるのだろう。
>>36 ところが魏は今で言えばある程度自由主義的に関税を引き下げ商業を振興しようとした結果
呉蜀の銭が流れ込み自国の通貨の信用が失墜して終いには銭の発行停止と再開を繰り返すハメに陥ってる
三国時代的な経済は一種の統制経済の下にないと上手くいかないってことだ
三国時代前後の2世紀〜3世紀は中華世界よりも、インドやメソポタミア、
さらにその西の地中海世界の経済成長が著しくて
国家がしっかりと商人に首輪付けておかねば東側では国富が流出してしまうと思われるしな
西方貿易はどれくらい国家財政に寄与してたんだろう?
蜀が飽くまでも関中に拘った理由は、南北シルクロードの利を押さえるためだという
小説もあったよね
>>48 そこまでいくと大風呂敷を広げ過ぎな感じがする
>>48 正直なところ交易拠点としての涼州は割りとどうでもいいでしょ
元々蜀からは始皇帝の整備した道路が西蔵と越南方向に伸びてて無理に西北の拠点に拘る必要はないし
シルクロードの担い手だった遊牧民達は中国人の考える城郭なんて簡単に無視して動けるだろうし
実際、姜維時代の北伐は本来魏の勢力圏で城などの拠点はガッチリ魏に抑えられてるのに
蜀軍は全く意に介さず遊牧民から補給を受けているところから見ても
制限はあったとしても蜀が北方と交易できなかったわけではないと考えていいだろう
蜀としたら商人に多少上前撥ねられても長距離交易のリスクを取る必要性を感じないほどの絹生産力と品質を誇ってただろうし
交易路確保のためと言い張るのは難しくないかな
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/19(月) 22:21:40
この時代は唐辛子は中国に存在していないだろうから
四川料理は辛くなかったの?
岩塩で塩辛かった
>>53 四川の塩は岩塩のみならず塩水を汲み上げて作る塩井塩も忘れちゃいけないっていうか
むしろ岩塩よりも塩井塩の方がメジャーだったくらい
金持ちは全員自前の塩井持ってたと言われるくらい四川では普及してた
>52
でも生姜は名産だったみたいだね
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 10:00:00
>>30 蜀が豊かだったのは、鉱山の他、塩がどこでも採れたところだと思う。
高率の塩税というけど、原価が安ければ高率になるんじゃないの。
結論から言うと、北伐をしなければ勝手に魏と呉は潰れて蜀が勝者になれたということ。
とか言うアホって未だに居るんだな
>>57 北伐をしなければ姜維は魏のまま。孔明死後、魏延がのさばり
あっという間に魏に滅ぼされたと思います。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/21(水) 18:30:43
ぶっちゃけ
劉障統治時代と劉備統治時代のどっちのほうが国民は豊かにやってたの。
放漫とはいえ税金安くて、戦争なかった劉障統治時代を懐かしむ声はなかったの。
「国民」と言っても、益州で豊かだったのは豪族達。
他の地域と同じく、益州でも、飢饉と漢の統治の緩みに乗じて豪族達が小農民の土地を兼併していた。
また、劉璋が放漫と言っても、益州豪族を野放しにしていたのではなくて、
劉璋の権力基盤である東州兵を野放しにして益州人を抑圧していた(と、英雄記は言う)。
一方で東州兵も、ホウ義の乱に見られるように必ずしも劉璋に忠誠を誓う一枚岩ではなかった。
劉璋にそれらの混乱を収拾する力がなく叛乱も断続的に起こっていた。
そのため劉備が乗り込んで来た時に帰順する者が続出した(と、蜀書はいう)。
勿論、打って変わった統制政治に、「失敗した!」と思った者がいないわけではないだろう。
劉備時代以後も叛乱は各地で続出している。
>>60 劉障時代は武将や豪族同士の内戦ばかりで、
東州兵が民衆を苦しめていたりして、統治は安定していなかった。
それに比べれば、戦争はあっても全部益州の外で、
治安の安定していた劉備や劉禅の時代の方が、
民衆にとっては暮らしやすいだろ。
>>56 原価の問題じゃなくて官製塩の値段を上げる事で税金を取ってるんだよ
だから塩の値段を上げれば民衆は苦しむって話だろ
塩の密売人が高額で売りさばいても、それでも官製塩に比べたら
安くて高品質って話を聞いた記憶が蘇って来た
日本でも塩の売買が自由になったのってついこの前なんだな
そいえば博多の塩の宣伝やりはじめたのけっこう最近だ
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 02:33:46
>>63 王連はそれやって税金搾り取って出世した人だよね。
王連が塩の専売の責任者になったら、
税収が大幅にアップしたそうだから、さぞアコギな商売したんだろう。
>66
中間搾取とか無くしたんじゃないの
>>66 当時は官→商人→消費者という形で流通経路が成立してる
だからこそ違法製造者と密売人の暗躍する隙間が生まれる
密売人を取り締まりつつ、消費者に直接塩を売る施設(塩販売所を増やすとか)や
塩を使った金融システムなど(古代ローマ的な)法整備をしっかりと構築する事で利益を一気に増やすということは可能だろうね
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 19:24:58
>>67 諸葛亮の厳格な統治下で中間搾取なんかできたかどうか疑問。
諸葛亮なら、そういうことする奴がいること見越して、
ビシバシ取り締まるはず。
王連は厳しく塩の売買を取り締まり、
密売ができないようにして、塩の値段も上げて、
庶民生活の犠牲の上に塩の売り上げを飛躍的に伸ばしたのではないか?
>>68 しかし、密売は取り締まらない方が民衆としてはありがたいんだよね。
密売塩の方が安くて質がいいから。王連が塩の専売を担当したら、
税収が激増したという記録があるだけなんだよな。
直接塩を売ったり、法整備をするなど画期的な政策を行っていたら、
同じく経済政策で手腕を振るった劉巴のように記録が残ったと思う。
塩の密売人が民衆のヒーローになるのは唐代以降だと思ったが
漢三国代の専売で
>>64>>69のような問題が発生していた史料ってあったっけ?
>>69 民衆の犠牲って言うが、景気がいい時、塩や鉄の値段が上がったからと言って文句言う奴はいまい?
劉備や諸葛亮は同時に上手くやっただけだろ
蜀は一州としたら非常よい収入を持った州なわけだし
>>70 おいおい、塩鉄論がどうして出来たのかも知らないのか
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/22(木) 20:43:50
廖立伝に
「王連のような俗物がのさばっているから、民衆が疲弊してこのような事態を招いた。」
とか言ってたような気がする。
>>71 塩鉄論に、官制の塩が高くて質が悪いので密売人が横行しているって話しあったっけか?
つーか本当の意味での「市民」の声なんて史書にはのこらねーからな。
そんなもの国のプロパガンダがいくらでも操作するし。
ただ一州で十州を統べる大国と正面から何年も戦争体制をとってたんだから、普通に考えて民衆の生活に何の支障も出なかったなんて事はありえねーよ
戦争やらなくたって餓死者が出るような時代なのに
「戦争によって民衆の生活にマイナスの影響が出た」と「民衆が疲弊した」
は必ずしもイコールで結ばれるとは限らないだろう
マイナスの影響が出たとしても生活していけるのなら問題ないわけだし
>>73 単純に市場原理だろ
官製で相手と競争しなくていいと思ってれば必然質は下がる
逆に密売人は市場原理の元で品質改善にある程度努める
>>74 そんな意味のない一般論じゃなくてさ。
蜀漢の統制政策下で、益州の民が決して安逸とした暮らしをしていたわけではないのは
>>32以下の流れでわかるだろう。
だが、だからといって、
「密売は取り締まらない方が民衆としてはありがたい」とか「密売塩の方が安くて質がいい」とか
妙に具体的な情勢を前提に語ってるのはなにか史料があったっけって話だよ。
それともずっと後の時代のイメージで語ってるだけなの? と。
一般論は大概の事例で通じるから意味があるんだろ。
後漢書の桓帝紀、霊帝紀
晋書の武帝紀、恵帝紀
によるとこの時代は統一されてても国としてgdgdなのが窺えますね。
軍閥が割拠して分裂抗争してるような状況の民衆生活は悲惨かと。
彼らのような昏君と違い英雄とされる曹操や諸葛亮、孫権が統一したとしても
有効な対策を取れたんでしょうかね?
>>73 官製の塩鉄は質が悪い、という記述は漢書食貨志に見えるな
>>76 武帝の塩鉄専売で言えば、この制度が始まった一方の切っ掛けとして、
山東の大飢饉に富豪が乗じて塩鉄の取引で暴利を貪り、貧農を使役して苦しめた、
という背景がある(もう一方は勿論軍事費問題)
そこで好き勝手やっていた「徒食浮浪の民=商人」を官吏に登用してしまうことで、
その流通を監督する、という目論見だった。
この統制は上手く運用されたわけではなく、官の塩鉄の質が悪いという問題は確かに見られたようだ。
世論の反発の結果起きた議論が纏められたのが「塩鉄論」になるが、
そこでは儒学的な農業重視思想と共に、国家が「天下と利を争う」のをやめて
元の自由経済の状態へ戻せというのが政治的な力を持っていたことが伺える。
その後ろ盾が霍光だったりする。
貨幣や土地売買などでもそうだが、当時は朝廷もそう簡単に流通に手を出せない
放任経済なので、不安定な時ほど細民兼併豪族伸張の危険が高かった。
塩と鉄はそれに利用される代表格。
これを抑制するというのが、塩鉄専売の二つの目的のうちの一つだね。
>>79 国としてgdgdだったのは後漢通じて北方系の遊牧民が侵攻しまくってたからだろうね
対応のための戦費で国家財政が傾いてた事があちこちに散見される
その結果極端なインフレが起こってて桓帝に大銭の発行で対策すべきと言う建策がなされているけど
どういった理由かは不明だが桓帝は結局実行しなかった
霊帝が即位すると桓帝のやり方ではダメだと痛烈に批判して売官含めた強引な経済政策で国庫に金を集めて
皇帝直属の常備軍を整備してる
その直後に霊帝が死んで台無しになったがね
>>79 分裂後の乱世で、あらかた統一前の膿は絞り出されてるし、
曹操も諸葛亮も孫権も分裂時代の困難な状況で、
戦いながら内政に力を入れて、安定した治世を作り上げたから、
戦いが無くなったら、彼らなら有効な施策ができるんじゃないかな?
晋が統一されてるのにgdgdだったのは、ひとえに武帝と恵帝と権臣の無能によるもので、
統一当初は誰がやっても有効な対策が取れなかったと言うほど悲惨な状況では無かった。
>>82 あと、後漢は幼帝続きで外戚や宦官が自分の利益しか考えない政治を行い、
官僚と豪族の間に構造的な癒着があり、
収賄や税金の横領で腐敗した官僚が地方を治め、
そのツケがすべて民衆に回ってきたというのもある。
霊帝はなりふり構わず大金を集めたけど、民衆にはまったく還元しなかったな。
>>84 民衆に還元しなかったことなんて指摘するまでもないでしょ
基本的に支配層の利益があってその維持のために民衆が居るのがこの時代なわけだし
>>85 いや、後漢でも光武帝や明帝は民衆にも還元したんだが。
他の時代でも民衆に還元した皇帝はいくらでもいるぞ。
>>86 民衆に還元してるんじゃなくて民衆に還元することで不利益をこうむる奴に対する攻撃
有名な光武帝の奴隷解放令なんてのは奴隷を使って荒稼ぎしてる豪族への牽制に他ならないわけで
>>87 豪族抑制も民衆還元も両方の目的があると思うな。
光武帝も明帝も民衆がどうなってもいいという人物ではないし。
>>88 民衆に還元してるんじゃなくて自分が税金を取る自由民増やしてるわけで
見た目はいいけど狙いは民衆還元とかそういうぬるい話じゃない
だいぶスレ違いな話が続いたが、実際蜀は魏より豊かだったのかね?
降伏時に国庫にあった穀物は、魏の揚州方面での屯田の一年分の収穫にも遠く及ばないし、
人口が100万いないのに、兵士と官吏がそれぞれ10万ぐらいいたから、
相当苦しかったような気がするのだが。
>>83 三国ともに分裂したまま膿み出してるような
体力のない国から自滅気味に力尽きていったし
孫権の山越討伐は歴史的意義がすごそう
>>89 単純に考えて、皇帝集権を目指すならば、豪族の伸張を防いで
「中農」以下の庶民を豊かにし、直接徴税する、というのはこの時代のセオリー。
その目的のもとで民衆が豊かになったという時代があるとするなら、
その事実はまず認めなくては歴史研究にならない。
真の目的は…なんてゴネるのは筋違いだよ。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 20:58:09
>>90 あくまでも「面積あたり,人口あたり」の話でしょ
国全体で考えたらそもそも話にならないのだし
(局地的には対抗できたということだけど)
>>93 >その目的のもとで民衆が豊かになったという時代があるとするなら、
後漢はともかく蜀漢で民が豊かになったという形跡はあるのか?
諸葛亮とその派閥の自画自賛を除いて
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 21:17:50
>>93 劉備の中央軍が瓦解した蜀漢において、そんなことやったら、あっというまに滅亡だよ。
諸葛が豪族と結びつくことで権力基盤を確保したことくらい常識だろ。
>>93 そらそうだ、セオリーだよ
民衆に還元するのもしないのもこの時代それは取り立てて着目するポイントではないのに
延々と民衆に還元したのどうのと言う奴がいるからおかしくなるわけで
>>94 豊かになった可能性を吟味する以前に、
「豊かになった事実があったとしてもそれは問題じゃない」
という態度を繰り返してるから悪い態度なんだよ
>>95 諸葛亮が結びついたのは独自の名声政治基盤を持つ「名士」。
田地や田客を抱えて独自の巨大な財政基盤を持つ「豪族」ではない。
蜀漢は「豪族」が持っていた権益を解体し、法治の元に
人・民を公正に扱って朝廷から直轄統治する方針を取った。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/23(金) 22:38:23
名士って大体豪族の出身じゃん
違うのもいるけど、稀だよね
>>94 いや、国庫にある穀物かき集めても、
兵10万を数カ月養える分の備蓄すらない国が豊かとは到底思えんのだが。
豊かな国なら、国庫に穀物や銭がうなってるはずだろ?
それとも、豊かなのに税金安かったから、国庫の備蓄が少なく、
蜀の民は魏の民より豊かだったとでも言うつもりか?
両者は権力基盤が全く違い、異なる階層を構成する。
両者は兼ねることは多いが、蜀漢で権力を得た荊州名士の多くは
学問や行政能力、同質の者同士のネットワークによって劉備政権に参加した。
彼らは劉備に伴って入蜀はしたが、不意の荊州失陥によって在地社会の基盤を失い、
蜀漢朝廷に依拠するしかなくなってしまった。ために益州古来の豪族層と鋭く対立する利害を持つ。
揚州の豪族層を基盤にし続けることが出来た呉とはちょうど逆の構造となっている。
>>100 そりゃ成都の国庫だから。
兵糧は駐屯地で現地収穫・現地備蓄がこの時代の基本。
大動員が掛けられた場合でも、徴兵も兵糧も成都に集めてから進発するわけじゃない。
漢中のような前線に集積された。
しかも、蜀漢はこのとき既に半年以上の防衛戦を行い、
成都から中軍が出陣したうえに壊滅・分断されたあと。
>>98 えーと諸葛亮が姻戚にあるのは荊州豪族の中でも有名な黄氏
黄氏も蔡氏と姻戚にあり、諸葛亮が「豪族ではない」というのはあまり正しくない
「黄承彦は高爽開列でベン南の名士と為り」。豪族だという根拠はない。
諸葛亮が豪族ではないなんていってないよ。
というか、歴史に名前が残る人間の大半は、劉備を始めとして中小豪族の出身に違いない。
政策上問題になるのはもっと限られた階層。
社会不安に乗じて多数の貧農を抱え込み、田地を小作させて高利の小作料を巻き上げ、
資産によって地域社会に大きな影響力を振るい、公権力に対してはその労働力を提供することを
拒み、富を庶民と自分の間だけで回転させて財政に寄与することを喜ばない、「大姓」「豪右」などと呼ばれる者達。
彼らを放置しては民力が国家財政に還元されないから、この勢力を殺ぐか、官職を与えるなど
利で誘って人や財を出させる政策が必要になる。前者の典型が漢武帝や蜀漢で、
後者の典型が漢霊帝や呉(後漢は中期以降、徐々に豪族の勢力を容認する政策にシフトしていく)。
>>102 だからって内地の都市からは税金取らないよ、なんて話にゃならんだろ
生産力に大きな余剰の見込める国なら、税収制度がちゃんとしてりゃそれだけ国庫には順調に物資がたまっていたはずだろう
蜀は貨幣経済が上手くいってる国なんだし
>>105 その件については、
>>32。
というか「国が豊か」って曖昧すぎる。
「国土が豊か」「国民が豊か」「国家財政が豊か」
どれを話したいのか決めないと。
>>106 それ以前に蜀が魏より豊かだったとして、それが何なのかと疑問に思った。
次の議論が何なのか。豊かだからどうなのか→スレ主さん
1は単に、最近どっかで蜀が豊かだったと「発見」して舞い上がってただけだから
無理に進行を押し付けなくていいだろ
今までと同じく「三国の国力と財政収支の実相」みたいなことを今後ともネタにすりゃいい
蜀の末期(256〜263辺り?)は度重なる姜維の北伐、敗戦に加えて、
黄皓の悪政のせいで国力がだだ下がりしたみたいだね
黄皓は劉禅の意を受ける形で人事を掌握したりしたようだが、
国力を疲弊させるような「悪事」は記録に残ってないんだよな。
人心の点でも、半年以上も国土内で防戦を続けながら、前線は無論、南中や巴でも
目立った叛乱は起きておらず当地の責任者がよく抑えたことから
地方はまだよく治まっていたのだろう。
軍部は姜維の敗戦によって打撃を受けていたものの、
初期対応が良ければ陽平と武都・陰平に兵力を集中させて史実よりかなり善戦できた。
とすると兵站に不安がある魏を撤退させるのは不可能ではない。
姜維・黄皓らの第一の「罪」は、権力争いによって中央と前線の隙を招き、
大将軍姜維の上奏(魏が大挙進行して来る)を劉禅が容易に信じられない政局を
作り出してしまったことだと思う。
>>110 本来国政の最高権力者であるはずの平尚書事董厥と平尚書事諸葛瞻と尚書令樊建が自分の保身しか考えず、
姜維が大敗した国難の時に事なかれ主義な政治に走ったのも、
中央と前線の隙を生んだという点では、黄皓よりよほど重大な罪だと思う。
>>111 平尚書事が任命されたのは261年とかなり後期。
録尚書事姜維はこの時成都にいたが、翌年に出兵し、以後蜀が滅びるまで成都へ戻らなかった。
この期間に平尚書事が任命されたというのは、
皇帝から見れば、黄皓の「專政」によって皇帝専制体制を固めていく宮中権力が、宮廷の行政執行の実務からも姜維(派)を本格的に排除していく動きの表れと言える。
諸葛瞻らから見れば、旧来実権を握っていた荊州名士集団として、皇帝・宦官権力と修好し、「暴走」する軍官姜維排除へ向けた動きと言える。
最末期の蜀漢で起きていたのは、軍部出身者が遠隔地で掌握する軍事権力を皇帝に回収しようとする過渡期の政争であって、
むしろ諸葛瞻らは積極的に動いている。この政争が結果的に大失敗になるわけだが、少なくともことなかれの保身とは言えないだろう。
>>104 黄承彦の嫁は蔡氏なので黄氏も豪族の一種かと思われるが?
また諸葛亮も叔父が劉表を頼って荊州に行く時一緒に荊州入りしたそうだが
諸葛氏自体、徐州ではきちんと地盤を持った豪族の一種だぞ
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 14:26:12
劉備は苦労してたから善政をしいたが後主とその取り巻き(ひい等)が
悪政を敷いて贅沢散漫していた。姜維の戦争好きのせいではない。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 15:20:55
>>108 経緯はどうあれ、意外と良スレ化していると思うし、その路線で。
ついでに、呉、晋、劉璋との比較なんかもあわせて検討してみると宜しいかもね。
当時の戦争は、農閑期における略奪や収奪が目的だったこともあると
一概に対外戦争が自国民にとって悪とは言い切れない。
蜀史は魏を正統王朝としているから、蜀を見る目は客観的だと思うが、姜維や北伐については自国が被害国だからマイナス面で見るのだろうが
いずれにせよ、中原はハイパーインフレ、禿山、戦乱、相次ぐ豪族の叛乱、司馬一族の専横など、不穏に見える
蜀は、そういったマイナス面が、少ない。貨幣経済が成立していた事実は、銅資源の豊富さは勿論、改鋳するための燃料となる薪、貨幣経済の前提となる物資などがある程度揃っていることは前提なのではないだろうか
改鋳するくらいの薪が余ってた国だから
蜀は禿山は少なかった? 国民は薪資源には困っていなかったのかな。
四川料理は火力使うの多いからね。
魏の北方みたく寒いところで、薪が手に入らないとつらそうだよね。
国民はどう暮らしていたんだろう。
劉禅も、曹叡、孫酷、晋の皇帝ほど酷い酷くなかったからな。
あんまり贅沢をしたって話もない。
まあ悪い皇帝が出る前に二代で国が潰れたって方が正しいけど。
>一概に対外戦争が自国民にとって悪とは言い切れない。
>蜀史は魏を正統王朝としているから、蜀を見る目は客観的だと思うが、姜維や北伐については自国が被害国だからマイナス面で見るのだろうが
費イとか、蜀の内部からも反対派でてたじゃん
>>113 だから「豪族の一種」ではあろうね、と言ったじゃない
問題はそこじゃないよ
>>155 それは単に十州を統治する困難さと一州を統治する困難さの違いじゃないかな?
豊かな一州だけを支配する蜀と、
豊かな州も貧しい州も安定した州も不穏な州もまとめて支配しなければいけない魏では、
そりゃマイナス要因も魏の方が多いだろ。
>>115 掠奪メインったって、収穫期に急襲して麦を刈り取っても
「兵糧の足し」くらいのものにしかならなかったんだから、一般農民への還元なんてないよ
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 18:54:10
>>119 黄氏が豪族じゃないなんていうから、諸葛亮やその周辺も見事に豪族社会の一員だって話だが?
黄承彦は名士って言うけど「名士」と「豪族」を分けたのは近年の研究者であって
三国時代の「名士」ってのは「「名声ある人」程度の意味だし分ける意味がない
黄承彦が「豪族だという根拠はない」。
豪族の可能性はあるが、豪族と言っても多少の財があるだけとう中小から、
地域社会に強力な根を張った大豪族まで幅いランクがある。
皇帝集権によっての「敵」は後者であり、武帝の故事と共通点の多い蜀漢(諸葛亮)は
この大豪族から権益を奪う政策を基本とした。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/24(土) 19:07:43
孟獲なんかは劉璋時代はむしろ全然大人しかったという話もあるしな
>>123 根拠はあるっての
明確な証拠はないが「根拠」ならある
まあ劉璋も東州兵の武力を使って豪族を抑圧してるけどね。
「大姓」雍ガイは、劉璋の時代から繰り返し叛乱している
ただ劉璋の統治は緩んでいたので、
賞罰が適正ではなく東州兵の暴走を抑えられず、
益州豪族の不満が募っていた(と陳寿は主張する)
>>125 豪族の可能性はあるが、豪族と言っても多少の財があるだけとう中小から、
地域社会に強力な根を張った大豪族まで幅いランクがある。
黄承彦が、襄陽周辺に何千人もの小作人を持って財を築き
劉表の統治を阻害するくらいの大姓・豪右でなければ、
>「豪族」が持っていた権益を解体し、法治の元に
>人・民を公正に扱って朝廷から直轄統治する方針を取った。
という種類の政策の対象には当たらない。
>>127 黄承彦の縁戚関係知ってて言ってるの?
劉表の妻にもなってる蔡氏と黄承彦は縁続きでむしろ劉表の体制側に参与する豪族だぞ
蔡氏は間違いなく大豪族だが、それと姻戚関係があるだけでは根拠にはならない
というか、諸葛亮が襄陽時代に豪族-名士ソサエティの一角にいる人間だったことは
言い争うまでもないけど、
それと蜀漢の統治姿勢とはどういう関係があるの?
>>129 根拠になると思うけどなぁ
この当時、基本的に姻戚関係は同格か同じコミュニティなどでするもんだし
>>130 >>98辺りで聞きかじりの名士論なんてぶち上げるバカがいるから問題になるんだな。
漢では、銭四万の資産を持つ者しか官僚になれなかった
特に優秀な者は例外とするという規定もあったが、学問するにも資金と暇が必要で、庶民には手の届かないものだった。
つまり「官僚」の出身母体も、のちの「名士」の母体も「豪族」といえる。>103以下が言っている「豪族」の定義はおそらくそれだろう。
この様相は科挙まで変わらない。
だが当時の社会の様相は豪族-庶民の二元化では収まらない。
前漢中期には、すでに広い田地を持ち、小作人から収奪する豪右の伸張が政治問題となっていた。
武帝は法治の名目で「官僚」の中でも酷吏といわれる者達を使って豪族を押さえつけようとした。
王莽はまったく逆の路線で、過剰な儒学・周制復古で私田を解体しようとし、失敗した。
後漢中期以降は、儒士官僚が権力から遠ざかったこともあり、地域間の名声に権力基盤を置く「名士」が出現した。
「官僚」のうち朝廷集権に忠実な者や、儒学を基本思想とする「名士」集団は、基本的に「豪右」の伸張を阻止する
思想を主張し続けて来た。しかし私財を蓄えるために「豪右」「大姓」と結びつく官僚の多さもあり、
時代が下るにつれて豪族の伸張に押し負けていき、滅亡に至る。
135 :
133:2010/04/24(土) 20:18:41
読み返して思ったんだが、蜀漢の政治体制を語るときに「諸葛亮と結びついた荊州人」というから、
>>98では赤壁後に登用されてのちの政権で要職についた
馬兄弟、陳震、董允、蒋エン、費イらを言ったつもりだったんだけど
いつのまにか黄氏や蔡氏の話になってた。
後先考えずに応酬するのはやっぱり馬鹿だね。
「諸葛亮と結び付いた荊州人」なら尚更血縁がある黄氏と
その縁続きである蔡氏、蔡氏を娶ってる劉表の方向からの考察が重要になると思うけどね
中林教授の「襄陽サロンと荊州人士」でも指摘されてるように
襄陽で劉表の庇護するサロンにおいて諸葛亮は頭角を現したわけだし
そこで培った人脈から後の劉備陣営の中枢に何人も入り込んだことを考えると
諸葛亮と黄氏、蔡氏達といった荊州人は非常に縁が深いし避けても通れない
劉備陣営の陣容は、襄陽降服-赤壁の前後に一つの分断がある。
劉表統治下の「襄陽グループ」に所属していた人員が根こそぎ消滅する。
だからこそ、関張ら古参と共に、赤壁前から劉備を見捨てなかった諸葛亮が一気に頭角を現す。
のちに荊州南部を手中にした劉備だが、その麾下の顔ぶれは一新される。
劉備は諸葛亮の「督三郡」等を活用して独自の官僚体制を作っていく。
劉備が諸葛亮を最初に厚遇した理由として「襄陽サロン」があるのは間違いないが、
当時の影響力が「赤壁」を越えて継続したのではない。
襄陽グループの連中はホウ統以外みんな曹操に仕えちゃって、
劉備に仕えた荊州人は、劉備と一緒に曹操から逃げた劉表配下と、
劉備が荊南四郡や南郡を得てから従った連中ばかりだからね。
>>137 馬良などは襄陽出身だし襄陽時代に作った人脈が断絶してるってのは間違いでは?
もっとも史書に出てくる何処其処の人というのはあくまでも戸籍上の出身地でしかないのではあるが
故郷の諺になるくらいだから、馬良は「故郷にいた」ということだよね
年齢的に見ると諸葛亮と同世代だし襄陽からどこかに移住するってのは状況的に考えにくいから
ずっと襄陽に居たと推測できる
蜀中枢の何人が「襄陽サロン」の人かは不明だが、諸葛亮の周囲には結構いたもんだと考えて問題なさそうだぞ
出身は殆ど関係ないよ。襄陽サロンの主体は北からの避難民だから。
当時の襄陽は南郡の一角で、「襄陽サロン」というのは劉表の根拠地である襄陽県に、
安全を求めて避難して来た知識人や元高官の集まり。
これに、劉表に仕えて襄陽に駐在した幹部が加わると考えられる。
馬良は宜城県の出身。そんなに遠い距離ではないので諸葛亮と馬良が劉表時代に面識があった
可能性はあるが、馬良が「襄陽サロン」にコミットする立場であったとする根拠はない。
諸葛亮の元々の名声基盤は「襄陽サロン」であったとしても、
軍師中郎将以後の諸葛亮の活動方針に「襄陽サロン」の影響力が影を落としていたと言うわけにはいかない。
基盤が消滅しているわけだからね。
ちょっと訂正が必要かな。
『劉備が諸葛亮を最初に厚遇した理由として「襄陽サロン」があるのは間違いないが、
「襄陽サロン」の影響力が「赤壁」を越えて継続したのではない。』
>>140 襄陽サロンは元々イデオロギーを持った集団ではなくそれどころか共通の学派ですらないわけでそりゃ当たり前
ただ諸葛亮の人脈を語る上で荊州の豪族達を無視してはいけないという話を
>諸葛亮の活動方針に「襄陽サロン」の影響力が影を落としていた
なんて曲解するのやめてくれよ
尤も中枢に何人か入り込んだから「襄陽サロン出身者が劉備の政策を左右した」ということなら間違いではないがね
劉備在世中に政権中枢にいた事が明らかな襄陽サロンメンバーは、
諸葛亮とホウ統以外に誰がいる?
襄陽サロンってのはが後世の研究者が考えた仮説であって、
前出の名士ってのと同じく一学説に過ぎないから、
明らかに所属してたメンバーなんてものは存在しない。
>>142 伊籍。
他には入蜀後に加わった益州の李センと尹黙
ホウ統も含め、立伝されて詳細な前歴が記されているのに、
襄陽時代に諸葛亮と関係があったと言う話はないんだけどね。
>尤も中枢に何人か入り込んだから「襄陽サロン出身者が劉備の政策を左右した」ということなら間違いではないがね
「襄陽サロン出身者が」政策を左右したとただ言うだけなら、諸葛亮一人でそう言うに事足りる。だがそれでは統計的に意味ないっしょ。
少なくとも「襄陽サロンの思想が」と言えなければ、
>>95は成立しないんだよ。
襄陽サロンに所属した者も、劉備政権に参入した荊州人も、史書にはそれぞれ十人以上確認できる。
しかし、その面子には明白な食い違いがある。両者を兼ねたのは上記の通り五人ほどしかいない。
そのうち荊州出身者はホウ統一人であり、伊籍は以前も以後も特段諸葛亮と懇意だったという記録はなく、
赤壁前に諸葛亮と親密だったという人物はゼロ。
諸葛亮伝とその注にはかなり詳しい諸葛亮の前歴があるにも関わらずね。
それを無視して、劉備政権の性質評価として「襄陽サロン出身者が劉備の政策を左右した」と言うことはできないよ。
んなこと言われても今の議論は
>>93>>95が主題なんだから断り無しに違う前提持ってこられても困る
>>147 >>98だって蜀漢の統治体制の話をしている。その後の脱線に
>>130>>135でセルフツッコミいれて
劉備の統治体制のことに軌道修正してるのに異議を出してないじゃない。今更そりゃないよはこっちの台詞だよ。
130と135は俺の「セルフツッコミ」なんだけど…
最初に
>>98で個人名を明確にしなかったから180度転換と疑われても仕方がないこちらの不備だが、
今更そんなこと言われてもどうしようもない。
俺と君だけのスレではないので、議論の主題というのは明確に一つに絞らなければならないと思うのだが。
まあ、そういうわけで以上だ。
ちょっと読み違えた
「セルフ突っ込みいれて」の部分をちょっと勘違いしてた
良く読まずに
>>152を書き込んでしまったので謹んでお詫びと訂正
>>150 >>135で言う「諸葛亮と結び付いた荊州人」としたって陳震とかは劉備に召しだされた連中であって
別に諸葛亮のツテというわけじゃない
「劉備の統治体制について軌道修正してるのに」と主張するのは君の自由だが
それでコンセンサスが何時取れたと思ってるんだ?
異議を唱えなかったんじゃなくて、異議を出したらお前が「異議が出てなかった!」っていってるだけじゃないか
>>155 >>136は「諸葛亮と結び付いた荊州人」を考えるなら結局
>>135で言ってるような連中じゃなくて
荊州の豪族と言っていい連中との血縁のつながりを考えるべきだしその背景には襄陽サロンと呼ばれる連中がいたって話しだぞ
>>139は馬良とかは諸葛亮と個人的に強い紐帯があってずっと荊州にいたと思われるから
襄陽サロンに関係があるだろうって例として提示
>>141は「襄陽サロン」なんてのは影響力がなかったと言うから「襄陽サロン」が団体としての影響力を持った存在ではないという話
襄陽サロンに影響力があったかなかったかなんて考えるまでもない
そんなものはないのが各人が好き勝手に各地で仕官してることで判ってるでしょ
最後の一行は単なる冗談
態々文の趣旨と逆の事書いてるから判りやすかったでしょ?
劉備政権の統治体制じゃなくて諸葛亮の人脈とは何かって話に終始してるんだ
なんか馬鹿らしくなってきたな
98が横槍だと推察出来なかった俺が悪いってことでFA?
98は俺だw
えーと、
>>156氏は結局何者なの? 103?113?122? どこから混ざってきたの?
みんな落ち着け
みんなというか
>>158までの一時間は間違いなく二人だけだけどなw
改めて訂正、
>>157-158は
>>98と同じで同一人物。
レスが多すぎてこんがらがって来たので休むことにするわー
整理してみた
>>95は
>諸葛が豪族と結びつくことで権力基盤を確保したことくらい常識だろ。
諸葛亮が「結びついた相手」を豪族とする
>>98は
>諸葛亮が結びついたのは独自の名声政治基盤を持つ「名士」。
>田地や田客を抱えて独自の巨大な財政基盤を持つ「豪族」ではない。
諸葛亮が「結びついた相手」は豪族ではなく名士とする
それに対して
>>103はなぜか
>諸葛亮が「豪族ではない」というのはあまり正しくない
と「諸葛亮本人の出自」について横槍を入れた
それで
>>104以降黄承彦や襄陽サロンの方へ話がそれていった
162 :
るり:2010/04/25(日) 09:09:07
人口が少ないのに豊かなわけないじゃん。
いつものアレか
自分勝手に定義された見慣れない単語をめぐる口論
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/25(日) 09:33:42
>>95はあれ以来発言していないけど、長くなるので書きたく無い。
単語の定義はほぼ合意があるよ今回は
普通に後漢末研究で使われてる言葉だからね
襄陽サロン もか?
うん。まあ中林史朗氏は文学者だけどね
史学者の渡邉義浩氏は同質ものを襄陽グループと呼称している
じゃああんまり合意されてなくね?
というか実際合意はなかったみたいだけど
人によって指してるもの違ってただろ
>>165 「襄陽サロン」もみんな同じ意味で理解していたようだけど
(仮説に過ぎないというのはまた別の問題だから)
最終的には
「襄陽サロン」が団体としての影響力を持った存在ではない
で合意したみたいだよ
襄陽サロンが影響力ないなら、頴川名士グループだって影響力ないといえそうでは
蔡氏→黄承彦→諸葛亮と婚戚関係が続いているからといって
遙か後世の人間が、
諸葛亮は豪族と結びついてその方面に力を持っていたと考えるのはどうだろうね
現代の人間が穿つほどそういうのなかったかもしれないだろ
「孔明の嫁選び」と諺されるほど、諸葛亮の婚姻は「真似ない方がいい」ものだった。
蔡氏とも結びつきのある黄承彦が大豪族で地域の実力者なら
諸葛亮の結婚は誰もが羨み真似たがる逆玉だろう
「孔明の嫁選び」の諺は君らの妄想を否定している
>>172 諸葛亮ももともと劉表と結びつきがある人物だから、黄氏とはある意味同格ということだな
だから逆玉扱いにはならない
>>30 蜀には金銀の鉱山があった
金が少なかったというのは眉唾だね
根拠にしてる蜀滅亡時の目録はあまり宛てにならない
穀物は前線で失っているとして
銭は直前に"退職金"として分配された、あるいは魏の遠征軍が横領したか
そういう可能性はある
報告書を真っ正直に信じる事の方が問題がある
ちなみに絹が残ったのは足が付くからだ
あああったな、叔父か
しかし、田舎に家があるところを見ると大した縁ではないようだ
その叔父と旧知というだけじゃないか
>>174 絹は足が付きやすいの?魏で貨幣として流通していたのだから、
持ち運びも簡単だろうし、分配するなり横領するなりしてしまえば、
簡単に隠蔽できると思うのだが。絹に識別標識が付いていたわけでもあるまいし。
あと、お前の主張通り蜀の国庫に目録に載っていない莫大な銭があったとしたら、
諸葛瞻敗北後、滅亡が確実になって降伏するまでの混乱した短い期間で退職金として分配したりできるかね。
目録提出時、大した混乱も起きなかっただろうから、魏の遠征軍が略奪したとも考えにくいし。
あとまあ、穀物は兵糧として以外にも、税金として納められ、役人への俸禄や貨幣としての価値もあるから、
国が豊かなら、後方の国庫にも膨大な備蓄があってしかるべきだぞ。
国が豊かなのに、国庫に蓄えられている税収として集められた穀物より、
前線に兵糧として蓄えられている穀物の方が多いなんて話聞いたことない。
>>178 >短い期間で退職金として分配したりできるかね
数時間で出来だろ
>魏の遠征軍が略奪
目録改ざんして皇帝へ報告するくらい朝飯前だ
>前線に兵糧として蓄えられている穀物の方が多いなんて話聞いたことない
何度も撤退して前線を下げている
その度に兵糧捨てていたとしたらどうだ
蜀には20万匹の絹があったという
仮に10万匹もの絹をこっそり持ち帰って、国内で捌いたらどうなる?
それくらい想像できるだろ
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/25(日) 16:52:18
そもそも鍾会は反乱するつもりなんだから、デタラメに少なく報告して当然。
>>179 >数時間で出来だろ
数時間で国庫に蓄えられた莫大な銭を数万の兵や官吏に分配できるとでも?
段取り良く物を大人数に分配するのがどれだけ大変かお前は知らないのか?
>目録改ざんして皇帝へ報告するくらい朝飯前だ
記録にない大略奪と目録改ざんの証拠は?
お前の脳内以外のソース頼む。
>何度も撤退して前線を下げている
>その度に兵糧捨てていたとしたらどうだ
征蜀戦の間に、国庫が空同然になるまで、
前線が下がるたびに成都から新しい拠点に兵糧を補給する時間的余裕があるとは思えんが。
>>180 蜀国内で捌けばいいじゃん。呉に流してもいい。
>>182 >段取り良く物を大人数に分配するのがどれだけ大変かお前は知らないのか?
誰が公平に分けるって言った?この時代にそんな観念あるのか?
数人の重臣で大雑把に分けるだろ
>記録にない大略奪と目録改ざんの証拠は?
ないよ あったら二つの可能性を出したりしない
目録が真っ当な物だったという証拠はあるのか?
ないわな どっちも同じだよ
>新しい拠点に兵糧を補給する時間的余裕があるとは思えんが
ないとは思えんが
>蜀国内で捌けばいいじゃん。呉に流してもいい
捌けんだろうな 呉に流す時間もないだろう
>>183 >誰が公平に分けるって言った?この時代にそんな観念あるのか?
>数人の重臣で大雑把に分けるだろ
国庫に蓄えられた莫大な銭を国家滅亡間際の数時間で、
数人の重臣が数時間で手際良く懐に入れられるとでも?
国庫の銭をドサクサにまぎれて私物化するには、
準備も時間も足りない。
>ないよ あったら二つの可能性を出したりしない
>目録が真っ当な物だったという証拠はあるのか?
>ないわな どっちも同じだよ
お前の妄想に過ぎない大略奪と目録改ざん説よりは、
陳寿が公式な記録として残した目録を信じるわ。
お前と陳寿では、信用度が違い過ぎる。
>ないとは思えんが
漢中はあっさり落ちた。陰平はあっさり放棄された。
漢中やその他の拠点が落ちるたびに新しい拠点に補給する時間があるとは思えないんだが。
成都からの援軍が漢寿までたどり着いた時には、蜀の前線拠点は剣閣しかなかった。
凄まじい速さで拠点が落とされ、漢中の防衛ラインが突破されるまで援軍が間に合わなかったのに、
拠点が落ちるたびに次の拠点に補給する時間なんかあってたまるか。
補給する前に拠点が落ちてるわ。
だから落ち着けよ
NOというにも言い方があるだろ
せっかく良スレなんだから煽るな
>>184 >数人の重臣が数時間で手際良く懐に入れられるとでも?
だから"退職金"と言ってるだろ
劉禅が下賜したとしたら運び出す時間しか掛からない
>陳寿が公式な記録として残した目録を信じるわ。
王隠だな 残したのは
しかも、目録の内容を伝えたのであって
目録の信憑性を保証しているわけではない
そのくらい分かれよ
>漢中はあっさり落ちた。陰平はあっさり放棄された。
書の上ではあっさり進むよな
でも侵攻から降伏まで約半年掛かっているんだよね
まー何というか
>>184が一人で熱くなってる印象だな。
あんま他人にお前とか気安く言うもんじゃないぞ。2ちゃんでもな。
「蜀は実は魏より豊かな国だった」
そこまで白熱した議論をするほどの議題ではないと思う。
>>188 「豊かさ」の基準がどこにあるかで変わる答えだが少なくとも豊かさを余裕と定義するなら、
蜀には全く余裕はないし魏に対処するために効率を上げるしかなかった、というのが正しいところだろうしね
総"豊かさ"なら魏の方が上だろうが、単位あたりの"豊かさ"なら蜀のが上
豊かさが何を意味するかというと、「行動力」だろう
現代を見ても金ないと動けんからなあ
>>51 蜀の周辺蛮国なんて市場(しじょう)が小さいだろ?
その地に高価な絹を買えるハイソサエティーがどれ程居ただろうか
その地に交易するに価する富があったのか?
絹は中華の市場でも高値で売れるが
インドやヨーロッパの市場ではその何倍も高く売れる
その差額が大きい為、西域は中継貿易で栄えた
漢が東西貿易で儲けるシステムを考えれば
外国人商人との商売を官が規制して独占し
国内市場とは異なる高値で商品を売るのか、
商人同士に商売させ関税を掛けるのか、
よく知らないが
どの道、玄関口である涼州を押さえればその国は利益を独占できる(海上貿易はこの際除外)
蜀の絹は中国国内(魏呉蜀)へ向けて売られ、その絹の一部が西域へ流れる
ということだったはず (東西貿易の利益は蜀へは還元されない)
西域商人は魏の長安で絹を仕入れるだろう
わざわざ蜀まで行かない
蜀が西域商人に直接絹を卸すには
魏より安値で売らなければならないが、
それでは貿易に大した利益を見出せない
国が利益を上げる方法が「関税」だった場合
蜀が異界の中継国と直接取引することは全く望めない
実際、交易路ないだろ
蜀が涼州を得られれば交易の莫大な利益が望める
周辺蛮国は代替なんかにはならないよ
>>191 インド経由の貿易ルートの存在しらんの?
インドとの交易も敦煌経由の陸路か香港経由の海路だよ
蜀から伸びてる交易ルートは西蔵に向かうものと越南に向かうものの二つがある
どちらもインドを経由して遠く地中海方向まで交易路が成立してる
何で西蔵方面だけ周辺国に売らないといけないのかわけわかんねぇな
交易ルートというよりも軍道だろう? 秦が布いたのは
どこまで道があった?
インドから地中海へは到ってるが、
肝心の蜀から魏呉を経ないインドへのルートがあったのか?
>>195 後漢の頃には四川から西蔵を抜けて華氏城を抜けて内陸からインドを経由して陸路から中央アジアのルートに合流するものと
四川から越南へ抜けるルートが確立されてる
魏呉を通らないルートってのはかなりあるというかむしろ逆に魏呉の抑えてるルートだってそんな多いもんじゃない
前提が狂っている人に言っても仕方ないのだろうけど
>>186 >劉禅が下賜したとしたら運び出す時間しか掛からない
史実としてそんな記録がないことは言うまでもないとして
たとえそれが本当だとしても
その量は蜀漢には「すぐに処分できるほど」の量でしかないということになる
要するに蜀漢の保有していた銭はたいしてなかったということになる
その時点であなたの主張はとっくに崩壊している
(そもそも劉禅にそんな主体性があったと思う奴がいるのか?)
実際に蜀が南方や西方交易を行っていた記録ってあったっけ?
かつてルートがあっても、戦乱で整備されず治安維持できなくなれば
使えないのだけど、
>>198 魏には呉蜀と交易してたなんて記録はないが
遺跡からは呉蜀の銭がバンバン出てくる
商業的な交流なんてものは記録に残らなくてもあるものだよ
それに蜀は滅亡時に痛み易い絹製品を山のように抱えてる
あれはある程度は商材も含んでるだろうし、商材があるなら商売もあると見ていい
蜀は各地の非漢民族と連絡しあってたし、記録はなくとも商業的なことはしてたと見るべきでは?
特に諸葛亮なんてのは蜀で産業振興を図ったことが記録に残ってる
売り先もなく売り物だけ作るなんてバカな真似はそうそうしないと思うがねぇ
>>199 それは、魏から呉蜀の貨幣が出土して初めて言えることだよ。
蜀も近辺のテイ族や羌族との交流は当然あっただろうが、
インドとなると史料無しには検討できないだろう。
呉や晋には交州へ出兵して道路を開いた記録が幾つもあり、
南越方面から一定の物流を得ることが可能だったが、
蜀は益州内くらいしか出兵の記録はないはずだし、
近傍に交易路を維持してくれるような国家的勢力があったとも聞かない。
俺が知らないだけかもしれないが。
これで、財政に資するほどの現実的な交易があったとは言えないのでは。
>>199 >売り先もなく売り物だけ作るなんてバカな真似はそうそうしないと思うがねぇ
蜀漢側の「意図又は目論見」としては理解できるけど
それが周辺の勢力に「通用」したかどうかは別の問題じゃないか?
それは今の日本でハコモノを建てて客が来ないとか
自称名物を作って売れなかったとかいうのと同じではないのか
>>201 売れないなら降伏時の目録にアホみたいな量の絹製品があるのはどう説明するんだ?
諸葛亮の時代に増産開始して数十年放置とかどんだけ蜀漢はアホなのよ
>>197 余裕で持ち出せるだろう
君は一体何人で運ぶことを想定しているんだ?
そもそも「莫大」というのもどれくらいのものを想像して言っているのか
ちなみに残っていた金銀2千斤が何sか分かってるか?
>>203 商工業者の流れは今よりも流動的で発展した人の集まるところに行く傾向が強い
商人達も同様に「整備されなきゃ来ない」なんてことはない
また絹製品を中国から地中海まで運べば値段は100倍以上で取引される状態で
絹の大産地である蜀に商人がやって来ないなんて馬鹿げた状況は起こらないし
そういう旨味があれば交易路は国が大きく整備しなくてもなくならないもんだ
漢帝国が涼州と西域都護を整備してやって大規模な流通が可能になったことを忘れてない?
困難と旨みの兼ね合いは、結局兼ね合いの問題。
大王朝が安定期にあって信用が立つからこそ、遠国の商人が貿易成立を期待してやってくる。
分裂期には交易路が寸断され、危険を冒す商人が途絶える。
困難を冒して蜀までやってきて、海のものとも山のものともつかない現地政権に
掠奪されました、じゃ話にならない。
商人を呼ぶには、安全を保障する蜀漢からの相当強力なアプローチが必要になると思える。
たとえば州外へ進出して治安を維持する軍事力のような。
>>206 1世紀頃の地図見たらどうなんだ?
>>207 では2世紀から3世紀にローマでは絹が無くなったという話でもないとおかしいが
ローマで絹がなくなったなんて話は聞いた事ないぞ
西域に絹製品の技術が伝わるのは5世紀頃だしな
誰が絹製品を地中海に供給してたんだい?
魏から西域経由で、でいいだろうね。
或いは蜀の絹が三角貿易で輸出された可能性は勿論ある。
>>204 それは本来「運び出した」と主張するあなたが言うべきことだろう
(数人で数時間で運び出したのが前提だから
台車を使ったとしてもダンボール箱換算で数十箱がせいぜいだろうし
仮にも国家の蔵でその量を「莫大」とは言わない)
あと三国時代の1斤は220グラムらしいから
金銀はそれぞれ440キログラムになるね
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 07:44:47
しかし、物資がないのに、貨幣経済が成立するのか。
普通、ある程度豊富な物資に裏打ちされているからこそ貨幣経済が成立するんじゃないか
銀行じゃあるまいし国民だって霞を食っているだけでは生きていけないじゃないか
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 08:13:29
しかし、がんがえてみると国力10倍人口10倍の国に対して攻勢にでれたって事実もあるわけだから
蜀は唸るほど金をもってたと考えるのが自然なんだよな。財源はどこからでていたのって感じはあるが。
降伏時の目録はもちろん、一級資料だと思うが鵜呑みにするわけにもいかん
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 08:40:22
攻勢に出れたのは魏のほうが蜀討伐に本腰を入れてなかったからだろう
魏のほうはもっぱら呉のほうを問題視してる
>>209 で、いいだろうねってそんな記録ないよ?
三角貿易なら魏の史料に西域と交流しましたって記録が根拠として欲しいけどそういうのはない
三角貿易しているなら魏にもっと絹製品が溢れている筈だが
魏が動かす絹製品の規模なんて蜀に比べたら微々たるものだぞ
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 11:06:17
益州は険塞にして、沃野千里、天府の土なれば、高祖 之に因りて以て帝業を成す
因ってねーよな
すぐ出たし
>>216 蜀の沃野が生み出す物資と兵力に因って天下を取ったってことじゃね?
要するに後方拠点。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 17:24:24
>>217 蜀を補給の拠点にするのは大変だぞ
曹操や諸葛亮すら兵站をつなげられないほどの悪路じゃないか。
孔明が劉備を元気付ける為に言った出任せじゃないかな。それは
項羽が関中と敖倉をプレゼントしてくれたから勝てたようなもんだと思う
>>218 しかし、秦は蜀を補給の拠点にして国力を付けたから、
蜀と関中の間を同一勢力が支配していて、
統治が安定していれば難しくないと思う。
漢中戦時の曹操は関中は支配していたが、漢中は支配してなかった。
北伐時の諸葛亮は漢中は支配していたが、関中は支配してなかった。
敵地に物資や兵士を送り込むのと、味方の支配地域の集積地点に物資や兵士を送り込むのでは、
難易度は格段に違うと思う。
>>211 蜀というのは、水量豊かで米と野菜の山地で銀なども取れ、一州だけでそれなりの経済が回る地域
>>214 >魏が動かす絹製品の規模なんて蜀に比べたら微々たるものだぞ
そんな断言が出来る統計資料があるのなら参考にしたいので教授を願う。
一応レスしておくと、魏志倉慈伝。
敦煌太守の倉慈が、交通路を遮る幾多の困難を排除して道を通し「雑胡」の朝献を送って市を交わしたことが
通行の困難と、その解決が明記されている記述がある。
長距離交易の回復に魏が尽力した根拠にはなると思う。
>>221 蜀は生産力が高くて資源に恵まれてて、一州だけで自給自足できるから、
いつの時代でも乱世になるとすぐ独立政権ができるよな。
一州としては、南朝期以降の江南に次いで豊かかももしれん。
南朝期以前は最も豊かな州。
A 冀州、益州
B 荊州
C 揚州
D 司隷、予州、兗州、徐州、青州
E 交州
F 涼州、并州、幽州
これくらいの印象
>>221 蜀が滅亡時に持っていた絹製品は4種類各20万匹、計80万匹
魏が褒美で出す絹製品は数百匹、凄い多い時でも1000はそうそう超えない
司馬昭が晋公になったときやっと1万匹が出された
曹操が魏の宗廟を作った時、5万匹
絹が変質し易く虫に食われ易い消耗品なことを考えると蜀の倉庫に入ってる量はあまりにも多い
>>224 それは官戸の量であって、民間流通量ではないでしょう。
三角貿易を否定するものではない。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 19:24:51
>>222 州単位でみるならどこも自給自足は可能だろ
>>219 項羽はどっちもプレゼントどころか劉邦に渡すまいとしてた
劉邦が関中を速やかに攻略できた理由、項羽戦で補給を途絶えさせずに済んだ理由の一つに蜀の拠点としての価値は挙げられると思うけど
>>226 暮らすだけなら自給自足は当然どこでも出来るが、
武器や褒賞となる鉄・木・銀・帛や収穫量の多い水稲をバランスよく豊富に産出する地域としては
益州は飛び抜けている。
>>225 いや、三角貿易を肯定したいならまず三角貿易の論拠となる記述を提示しなよ
少なくとも国としてみた場合魏には絹製品があまりに少ないことがわかる
>>210 >(数人で数時間で運び出したのが前提だから
それは君の勝手な脳内前提だろ
殿内では下っ端役人数十人
屋敷までは家人それぞれ数十人、或いは荷車数台
可能だろう
漢の1斤は約224g
2千斤だと約448kgとなる
金2千斤は大雑把に計算して約20リットル 銀だと約43.5リットル
仮に2万斤運び出したとして、
約4500kg
一人あたり10kg持って、のべ450人
45人で10往復 リレー方式だと効率はもっと良い
カートあったかも知れんし もっと楽だね
殿外
2万斤を仮に5人で分けると一人約900s
車3台で足りる
どこが難しい? 余裕で可能だよ
>>229 俺は「三角貿易の可能性はある」と言っただけだよ。あなたの帛の西域交易説のために。
魏が西域交易を快復するためには敦煌まで派遣された太守が尽力せねばならなかったという記述がある。
しかし蜀漢には西域交易の記述はなく、それらしいことが可能になりそうな政治的軍事的進出の影さえない。
この貧弱な史料の状態で、蜀漢が直接西域貿易を行っていたと断じることはできない。
そう主張している。
>>208 すまん 俺が間違ってた
「西南シルクロード」というものがあったようだ
がしかし、当時までルートが生きていて蜀がそのルートで交易していたかどうかまでは不明だろう
ルートがないともあるとも言えないが
「西南シルクロードがあるから涼州は別に欲しくない」とはならんと思う
涼州獲れば交易を独占できる
独占できれば値段を操作できる 当然儲けが上がる
しかも輸出品は絹だけではない
それに全土の富裕層に売りさばく輸入品に関しても
蜀が中国に卸すことになる その利益も無視できない
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 20:21:46
蜀漢は西南と天空、二つのシルクロードを抑えている。
益州一つが止まれば中華全体の輸出が止まるほど偏った絹の生産量を益州が誇っていたのかという問題もあるかな
漢書食貨志を軽くなぞると并州が産地だったとあるが
>>221 三角貿易とは言わないと思うが言ってる意味は理解できる
魏による絹の転売って事だね 普通にあり得る話だと思う
>>214の統計資料ってのは俺も知りたい
インドのクシャーナ朝が魏明帝に朝貢している所を見ても
魏は西方貿易をしていただろうし、蜀はインドに相手にされてなかったと見ていい
蜀の、南蛮を抜ける西南交易路はあったのか疑問が残る
当時の南蛮は太守もその地に置けないほど蜀の支配が充分に及んでいなかった
一言で言えば危険だった
そんな所を果たして商隊が無事通れるのか疑問
>>229 根拠が蜀滅亡時の在庫と魏の下賜とはね
その間に挟まなきゃいけないものがいくらでもあるんじゃないか?
>>233 それはない
>>230 ん?
この件で「数時間」が最初に出てきたのは
>>179 「数人」が最初に出てきたのは
>>183 どっちもあなたのレスでしょ
これを脳内妄想と言うのなら私のではなく「あなたの」でしょ
(あなたにちゃんとした典拠を求めるなんて無理は言わないけど
せめて自分の発言ぐらいは責任持ってくださいよ)
いやそりゃ人数かければ持ち出すことは可能だろう
でも国の蔵を数十人がひっきりなしに出入りして財物を持ち出していたのなら
それが他者に見つからないということが不自然だと思わないのか?
(その場で咎められなかったということではないぞ
そんな話が全く伝わらないことがおかしいというわけで)
人口90万の国に絹80万匹きとはね
絹を買える富裕層は数%だろうし
明らかに余剰だ
蜀が絹を輸出して外貨を稼いでいたのは間違いないだろうが
これだけの余剰在庫を抱えていたということは異常だろう
ということは、何らかの原因で流通が遮断されたと考えることが出来る
魏による経済封鎖があったとすればこれを理解できる
つまり蜀の絹は魏へ流れていた
そして蜀の絹は魏の絹として高値で西方へ流れる
それでも蜀は財貨を稼ぐことが出来る
これが現実的な考え方だと思うよ
>>236 「数人」は重臣が数人ってこと
なんで下賜された重臣が自らせっせと運ばにゃならん?
>それが他者に見つからないということが不自然だと思わないのか?
秘匿にしなきゃいけない事もないだろう?
記録する必要もない話だ 誰の伝に載せる必要がある?
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:30:18
新たなワード「魏による経済封鎖」
今後これが議題となるか
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:33:41
どうせなら呉も交えて「三国志の戦争経済」とでも…
何にせよ蜀の交易面での涼州不要論というのはないだろう
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:37:23
物資入ってこなくて困るのは魏じゃないの?
>>238 国が滅亡する間際に財物を持ち出したなんて「恥ずかしい」話
誰も問題にしないなんてことあるのか
これが黄皓だったら誰も問題にしないなんてことは考えにくいし
(陳寿は言うまでもなく蜀漢滅亡後の評価見たら明らかだろ)
他にこんなこと出来る奴なんているのか?
(郤正がやったのならある意味驚きだが)
>>243 別に恥ずかしい話とは思わんが?
「数人」には無論黄皓も含まれるだろうが、劉禅のしたことだろう
可能性で言えば、再起の為の埋蔵金の可能性もある
金銀が異様に少なかった理由はいくらでも考え得るってことだよ
目録を信じてそれを根拠に貧しかったと言うのは馬鹿のする事ってことだ
>>240 封鎖以前に、魏蜀の交易の実態というのがわからないからなあ
高官同士の手紙のやり取りさえあったわけだから
公然とした通交があったのは間違いないけど、
それをどこでどうやって管理・監視していたものやら。
>>246 魏に敵対国の貨幣が存在していたと言うことは
市場が繋がっていたということではないかい?
>>246 つまり魏は管理・監視できてなかったということじゃないのか
豪族・名士の書簡まで検閲したら反発買うよ
>>248 公認していた、ってことだろう?
しかし国境を越えるわけだから、どこかの関を通過せなばならないし、
一定のチェック、或いは関税もあったかもしれない。
でもその実態がさっぱりわからないので、その封鎖の可能性も検討しようがない。
呉蜀は商売上のつながりはありそうだが、魏呉、魏蜀はどうだったのか。
>>250 国境なんて言ってもたぶん壁も柵もないぞ
関税がかかったり検閲されるならなおのこと商人も手紙を運ぶ者も関所は通らないだろう
>>231 蜀が西域と直接交易してた、とは言ってないのだが
俺が主張してるのは
「蜀は羌・テイなど西蔵方面と交流があったと記述が残っており、そちらを経由して西域に輸出していたのでは?」
ということ
魏との三角貿易がなければ全くもって輸出不能なんて事態にはならないと思われるよ
蜀が直接輸出するんじゃなくて魏を経由しなければ輸出が不能ってことに反論している
>>235 確かに魏と西域の交流はあったようだな
そこは大いに間違えていたようだし、よく考えたら曹丕も関税を軽減したり
曹芳の時代になると火浣布が西域からやって来たりしていて交易があったということは間違いない
>>237 ケ艾がやって来たのが冬だから在庫たっぷり持ってたんだろう
冬の間に作って夏場に売るって形じゃないと運搬中に山で死ぬぞ
>>241 不要じゃなくて必要ではないってことさ
>>251 魏の遺跡から呉蜀の銭が出土してるから交流自体はあったでしょ
逆に魏の銭は魏以外からほとんど出土してないようだけど
これは単純に両者の貨幣の質の差だろうね
>>253 >「蜀は羌・テイなど西蔵方面と交流があったと記述が残っており、そちらを経由して西域に輸出していたのでは?」
羌・テイの名前を出したのは俺だけなんだけどね。
まあ、そこまで軌道修正するなら、「ないこともないかも」、かな。
魏雍州の眼を掻い潜った密輸状態になるけど。
>>252 その代わり、魏蜀国境は軍道でも通らなきゃ道もないんだ
商隊が往復数百kmもの距離を密かに進む危険を冒すとは思えないが
商隊なんて規模じゃなくて、移動するテイ族の私物って扱いになるんでない?
つーか、簡単に関所抜けれるなら皆抜けるだろう?
そんなことが可能とは思いがたい
>>256 何度も北伐で途中で遮られずに進出してるんだから、蜀側にとっては道自体は険阻でもその軍道は別に軍事的には危険じゃないんだろ
>>260 軍隊って何人だよ
突破力が比にならんよ
>>260 数千人の武装集団が一斉に動くなら、そりゃ小さな県レベル相手でも問題なく進出できるが…
うん? 蜀の官制商隊が、魏の官軍の眼を掻い潜って魏の民間人を相手に商売をしたってこと?
>>262 北伐軍にそういう連中が付いてってたかもな
それ以前に、かいくぐるまでもなく魏の官軍はそんなに隅々まで監視の目がいきとどく存在じゃないって
魏に限ったことじゃないけど
>>265 一応。というか、テイ族は武都と陰平が主な居住地で、蜀はここを支配下に置いたわけだから。
魏の雍州まで気楽に移動できたかはしらないけど、その辺は
>>253に聞いて。
>>237 >ケ艾がやって来たのが冬だから在庫たっぷり持ってたんだろう
それでも80万という数は大きすぎないか?
それにそちらは南方貿易があったと考えているんだろ
冬関係ないじゃないか
論、破綻してないか?
>>263 その場合、魏のどこかの県城で開催される市に蜀人が直接乗り込んで絹を売りさばくことになるわけだけど。
やっぱり魏の官府の公認が必要でない?
数年に一度の北伐、市を使わない密取引で、蜀の貨幣が魏で流通し兼ねないほど大量の物流が発生する?
>>266 テイの勢力圏がどれくらいのものか知らないが
蜀が降したテイ族は武都陰平の周辺の部族
テイの勢力圏が大きければそれは一部に過ぎないし
武都陰平規模の民族なら西域まで繋がらない
どちらにしても武都陰平攻略を以て西域との繋がりを蜀が確保していたと言うには不充分じゃないかな
>>269 だからそれは俺の論じゃないってw
答えようがない
>>255 羌・テイは上で俺自分で言ってることだが…
あと羌はともかくテイの方の活動範囲は魏の勢力圏内じゃないよ?
魏ってどんだけ大国なのよ
>>267 南方貿易に冬が関係ないとかどんだけ楽天家なのよ…
西南シルクロードと一般に言われるものでも西蔵経由のものは山道を越えてくわけで
冬場に動くと死ぬよ?
>>271 西南シルクロードは雲南省大理経由だよ
物資が成都に留まる理由はないだろう?
北緯25度
僅かながら那覇より南だ
死ぬかな?
>>272 この時期大理は蜀の勢力圏じゃないよ
成都が南方からのルートの起点だし、何もおかしくないと思うがけどな
>>274 北緯30度のところにあるチベットが高地だと超寒いし雪も降るんだが
内陸の山地と海にある島一緒にしても比較にならないよ?
>>276 別のとこでやった書き込みと勘違いしてたわ
上で自分のレス見てたら異民族異民族と言ってて意識の中では言ってたと思い込んでたよ
陳謝
西南シルクロードは長安→成都→大理→・・・→インド
このルートのどこの地が冬渡れないほど寒いのかな
大理が蜀の勢力圏ではないとか関係ないだろう
成都からそのまま西へ向かうシルクロードがあったというのならソース頼む
>>278 じゃあ、交易路は国が整備しなくとも長距離商人が旨みを求めて蜀内まで来る
って言ってた人と別人なんだ。いつのまにかこんがらがってたな
了解
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 06:34:36
魏は涼州、蜀は益州を統治していたから
どちらも西域との交流はあったはず
どちらも支配地域に入っていない呉は他の二国より西域との交流は少なかったと思う
>>281 涼州から河西回廊を通って西域に行ける魏が、西域との交流があるのは分かるんだが、
河西回廊を使えない蜀が西域との交渉を持てるもんかな?
チベット高原経由で西域に出るルートはこの時代では開拓されてないし。
呉は西域との交流が無い代わりに、交州を起点とする東南アジアやインドとの南海交易で儲けてたね。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 15:04:25
降伏直前に退職金を、劉禅が下賜なんてするの。
普通?
常識的にも、後の劉禅の処遇、戦後処理の過程において魏の心象が悪くなる以外、特に意味ある効果もないと思うけど。
下賜された蜀臣も、後に殆どは魏に使えるわけだから、余計なトラブル抱え込むだけで、受け取りたがらないだろう。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 15:16:59
>>190 総GDPで魏に軍配が上がる点については、特に共通の認識でしょ
また、益州が豊かな土地であることも否定されてない。
単位あたりの豊かさで議論がある
A 蜀は唸るほど金を持っていたよ派
B ただ単に、単位あたりなら蜀のほうが上だよ派
C 単位あたりなら蜀のほうが上だよ、だけど蜀の戦時体制により国民は魏より豊かでなかった派
であらそいがある。
A派は、じゃあ、蜀の出所不明の財源は何処から出てきたのかという問題がある。
交易か、資源か
>>283 降伏前だから蜀の自由
劉禅はどうしたって列侯になるだろうし
黄皓のような者は再仕官など叶うはずもなく、
黄皓に取り入って出世した蜀を傾けた国を食い物にするしか能のない人間も
どうしたってその先栄達などない
今の内に可能な限り富を得ておくのが得策と考えるのが自然
悪ではないし裁かれることもない
悪くて没収
三国志で降伏といえば張魯が思い浮かぶが
張魯陣営は降伏を既に考えていたにもかかわらず
南鄭から逃げだす前、倉庫を焼こうと考えた人間がいたほどだ
当時の常識は分からんよ
一方それを却下した張魯を曹操は非常に高く評価した
張魯のようなことをするのは当時の常識に照らして非常に立派な行為ということ
降伏前はその国の自由というのが常識なのではないかな
いや、よく読むと唸ってはいないかもね
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 20:26:56
>>285 そうかな。
劉禅は結果的に列侯になっただけで、どう考えても「列侯」は堅いとはいえないでしょう。
時代背景を考えれば、劉宗のようになってもおかしくない。実際、担ぎ上げられる危険もあるし
殺されなくても、どの程度の処遇で扱われるかは、魏の腹一つで決まるんだから、心証悪くするだけの行為は避けるでしょ。
黄皓は例外だろう。
蜀臣はほとんど、魏→晋に仕えた
チンジュの親父も、師匠も
赤壁前の降伏論争で
魯粛が
「降伏論を主張する群臣は、魏に仕えるだけだから、自分の地位は保証されていると思っているが、殿はどうなるかわからない」
と言ってたし、当時の降伏論者の多くは勤め先が変わるだけって常識があったと思う
>>286 国土が唸っていても国庫が唸っていたかは別の問題だから
B,C論があるんだよ
>>286 あくまでもいい所だけを描写してる風なので実情とかはよくわからんような
どれか一州だけ選択して群雄割拠スタートなら
人気が集まるのは冀州か益州のどっちか
>>288 >劉宗
劉j?
劉jなら刺史になりその後も出世した
殺されたのは演義
列侯は割りと堅かったと思うよ
力を残した大国の主だし、劉禅を不当に軽く扱うと
それまで劉禅を仰いでいた蜀人の反発を買う
劉禅を厚遇することは蜀の反乱を無くすことに繋がるんだ
呉皇帝に対しても帰順を促すことになるしね
>チンジュの親父も、師匠も
譙周はそういう人間ではないから無関係
>魯粛が〜
簡略化しすぎて魯粛の言葉の要点が抜け落ちてる
魯粛は名望ある豪族だからある程度後のことは保証されているってこと
>勤め先が変わるだけって
魯粛も言ってるじゃん 地方の長官くらいには成れるって
現職のように中央で甘い汁を吸える立場ではなくなるんだよ
>>289 普通に考えれば国土が豊かなら国庫も豊か
>>293 国庫が豊かかどうかは
為政者の性格と実力によるんじゃないの
>>295 国土が豊かなら国庫も豊かだよ
>>284は財源に触れているんだから、レスはこれでいいんだ
もし、あるべきものがないとしたら(国庫が空)
そこには何かしらの原因がある
それが「為政者の性格と実力」といったものであったり
「経済活動の停止」であったり
「不明な支出」であったり
「莫大な軍事予算」であったり。
巴蜀の国土が豊か≒財源が豊かなのはほぼ異論が無いんだから、
そこで止まるのでは
>>284は意味がないだろう。
まあ、と言っても、豪族的自由農民と兵戸民の格差が相当なものだった
魏の検討を行わないと「国民は魏より」と単純には言えないけど。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/27(火) 22:30:14
>>291 俺は荊州を選ぶぜ
州を丸ごと選べるなら荊州以上の州は無いと思われる
北に豊かなで堅固な南陽郡、南は未開地ながらも爆発的な人口増加を誇る南部四郡
西は険阻な山地に守られ、東に行けば鉱山沃野
中央には中華の臍たる襄陽、樊城
漢水、長江とその支流を使った高速大容量の運輸網があり
またそれらを頼みに戦うことも出来る
同じ天下の枢でありながら四戦の地であるエン州とは大違い
一州単位なら荊州は拙いぞw
南陽は盆地で要害は無く、大軍に押し込まれたら襄陽で守らざるを得ない。
漢水と江水で三分割され、東西からの攻撃を阻むものはなく、
それを南北から救援するには河川が逆に邪魔になり、敵前渡渉の危険もある。
襄陽-江陵間でコンパクトに守る中小群雄の時代ならいいけど、
それ以上の拡大が難しいだろう。
まあ、四方天険の益州よりは難しくないだろうけどなw
>>299 南陽は要害だぞ?
楚時代からの長城は今でも残ってる
何のために曹操がわざわざ隠密行動して南陽に軍を進めたと思ってんだ?
こうして聞いてみると
荊州、益州を取って東と和して北に対抗して変事あれば統一する、
という孔明の戦略は非常に具体性あるものなんだな。
208〜219で取ったのは時間掛け過ぎなのかどうか知らんが
曹操と孫権を相手に回して219年の段階までいけただけでもとんでもない
劉備頑張りすぎ
しかし、荊州を取らないと、孫権は先細りだから、
孫権にも劉備にも絶対必要な荊州と言う火種を抱えている以上、
荊州、益州を確保して、孫権と和して曹操に対抗すると言うのは無理がある。
孫権は必要とあらばいつでも曹操と手組めるし、荊州もらえれば平気で曹操に付くだろう。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 18:03:55
>>304 孫権が持ってるのは揚州一個だけだからね。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 18:03:57
>>304 それなら赤壁の戦いのときに
曹操と孫権の連合で劉備を倒す
という展開もありえたのか?
荊州を孫権に譲る条件なら喜んで応じたと思う
曹操にとっても孫権より劉備のほうが厄介な存在だったはず
>>306 「涼州取ったら返す」といったら、関羽をぶっ殺して力ずくで取ってしまったよ。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 18:43:58
揚州も荊州も全部持ってる訳ではないんだよな
それで半世紀以上北の侵略を弾き返しまくるのが凄い
益州は一族だから攻めないでね?
と言ってたのに独り占めされたでござる
何時の間にか荊州牧になってるのも
孫権からすれば理不尽
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 19:01:00
荊州の人士にとっては、劉備と孫権どっちがマシ君主だったのか。
>>299-300 北からの攻撃を守る分には南陽盆地は固いらしい
曹仁がびびって撤退してたら
手がつけられなくなってたかもね
>>306 というより、もともと孫権は一族が曹操と婚姻関係を結ぶほどの親曹操勢力で、
張昭を始めとする家臣団の大勢も降伏に傾いてたから、
魯粛が荊州行って、勝手に劉備連れて来なければ、
孫権は劉璋と同じく曹操に服従していた可能性が高い。
曹操も孫権との戦いは想定してなかったみたいだし。
>>311 荊州人士は多くが劉備の入蜀に従って、
荊州は呉が支配してるのに、政権内の荊州人士は蜀の方が多いという状態だからな。
呉が荊州取っても、蜀から逃げて呉に寝返った荊州人士は皆無だし。
荊州人士の懐柔に関しては、劉備の方がうまくやったと思うよ。
それだけ劉備の治世は良かったんじゃないかな?
孫権も有力な重臣を多数配置して、荊州の統治には心を砕いているけど、
主に軍事拠点としての軍政だから、荊州人士にとってはあまりいい時代では無かったかも。
>>306 当時の残りを見ると劉表を潰せば終わりと考えていたのではないか。
後見人の張昭でさえ降伏を主張していたくらいだし。
揚州△:孫権
荊州×:劉表、劉備
交州○:士ショウ
益州○:劉ショウ、張魯
涼州△:馬超、韓遂
劉備、孫権に勝てないので統一を諦め
魏を建国する方向にシフト
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 19:47:09
>>313 もし孫権が降伏していたら、劉備はどうなったの?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 19:51:12
>>315 ギギギギギ
という、悔しさのあまりの曹操の歯軋りが魏という国名の起源。
>>313 >魯粛が荊州行って、勝手に劉備連れて来なければ、
>孫権は劉璋と同じく曹操に服従していた可能性が高い。
(劉璋は劉jの間違いだと思うけど)
魯粛だけでなく兵権を握る周瑜も抗戦派だったから
曹操が孫権集団の既得権益を保証しない限り
劉備とは関係なく結局戦う可能性は高かったと思う
(降伏派:変に抵抗して負けたら元も子もないですよ
抵抗派:降伏したら今以下の処遇しか受けられませんよ,だから)
また魯粛は荊州に向かう前から劉備との連携を想定している
だから「勝手に連れて来た」ということはない
>荊州人士の懐柔に関しては、劉備の方がうまくやったと思うよ。
孫呉で最も栄達した荊州人士は潘濬(太常)だろうから
確かに荊州に関しては劉備の方がうまくやったと思う
これは劉備側が目ぼしい人材を益州に連れて行ったこともあるだろうし
孫呉側が揚州人士や北来人士を優先したこともあるだろう
ただ
>それだけ劉備の治世は良かったんじゃないかな?
これは劉備に登用された荊州人士にとってはその通りだろうけど
荊州という地にはには当てはまらないと思う
なぜなら逃れようとする関羽を助けようとした者も
奪回のためにやって来た劉備を助けようとした者もほとんどいないから
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 20:00:59
>>318 荊州の南半分だけで数万もの兵力をひねり出してる以上、相当軍役がきつかったのだろう。
>>319 魏の荊州北部統治は過酷を極めて叛乱まで起こされてるが
蜀の荊州南部統治は叛乱起きてないことからきついことはきついけど叛乱起こされる魏程ではない
それと荊州南部は豊かではないんだが力のある土地なので多少の賦役は無理できる
馬良が説得に派遣された武陵の蠻夷を始め諸縣の民は皆反して蜀についた、とされるね。
まあ陳寿の筆なんだけど。
>>321 それでも劉備が夷陵で敗北した後は孫呉に逆らった形跡もないし
当の馬良も帰還できないまま殺されているから
彼等にとってはどっちでもよかったのではないか
(まあ益州人である雍闓が全く関係のない孫呉についた例もあるし
自分にとって利益があるなら誰でもよかったのだろう)
>>318 劉璋は曹操に使者を送って振威将軍の称号をもらって、
南征に物資と兵を供出してるよ。これは実質曹操の宗主権を認めたようなもの。
あと、周瑜の発言が抗戦の決め手になったけど、
それは周瑜が兵権握ってたからじゃない。
当時の呉の兵権握ってたのは、程普、呂範、周瑜の三人。
周瑜一人が抗戦を主張しても、程普と呂範が反対すれば降伏に傾いた可能性が高い。
周瑜の発言が抗戦の決め手になったのは、魯粛が劉備を連れてきてしまって、
このままだと曹操との衝突も有り得ると言う状態で、
周瑜が説得力のある意見を言ったから。周瑜が皆を説得できなければ、
劉備を追い出して孫権は降伏していた可能性が高い。
あと、魯粛が荊州に行った当初の目的は、荊州の情勢を見てくる事だけで、
劉備と交渉して、劉備を呉に連れてきてしまったのは、完全に魯粛の独断による暴走。
劉備との連携を視野に入れて派遣された外交施設では無い。
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 21:57:55
>>320 よく考えたら、荊州の南半分のさらに半分なんだよな。
二郡を孫権に返しちゃったから。
魯粛が校尉になったのは自分で勝手にケリつけろゴルァってことかな
帰ってきたら調子のいいことをいってるけど
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/28(水) 23:27:53
魏の最盛期は208年(赤壁の戦い直前)
蜀の最盛期は217年(漢中制圧直後)
呉の最盛期は222年(夷陵の戦い直後)
>>322 武陵の五渓はその後も叛乱してるでしょ。それを鎮圧したのが潘濬。
ま、三国のどこでもあったような叛乱だけどね。
>>323 横レス。
魯粛伝を信じていいのならば、劉備と連合するのは孫権の規定路線であり、
その魯粛はその判断を現地にて行う外交使節だった。
魯粛が到着したとき、劉備の置かれた立場は想定を越えて最悪に近かったが、
当時の外交使節の観念には、「現地での全権委任」という考えが既にあったので、
魯粛は別に独断専行していない。
劉備との同盟による反撃、という戦略を立案し、推進し、成立させた立役者は魯粛。
周瑜は、中護軍で孫呉の全軍を監督し孫権の後見人を委託された一人
という立場から、軍事的にその成功可能性を提出した、という立場。
いいから経済の話しろよお前ら
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 02:07:51
関羽が率いた戦力が3万〜5万とすると、3郡のみの領土としては、荊南は破格の豊かさといえよう。
>>327 末期東漢のピーク 赤壁直前
魏のピーク 曹叡が土木工事しまくり
蜀のピーク 漢中王即位
呉のピーク 呉帝即位
>>323 確かに劉璋も兵を送っているね
失礼しました
>>325 習珍は樊胄(樊伷?)と結んで挙兵したみたいだけど
結局どちらも潘濬に平定されたようだから
同調者は多くなかったと思う
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 12:30:12
経済の話は出尽くしたし 終了だよ
>>333 どこが?
各地の産物とか、港や貿易網について語ることはまだまだあるでしょうに
>>333 じゃあ、魏のドル箱で兵力10万を一州で用意できる膨大な人口と、
それを支えるチートな生産力と多彩な産物を誇る、
豊かさでは益州・荊州に匹敵する冀州について語ろうぜ。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 15:11:46
蜀が唸るほど金を持っていて、鉄装備で充実して、皮装備の魏に北伐していたというイメージは
実際の北伐のイメージを覆すものだろう。
鉄の専売で蜀が儲けていたのは
魏と違い、民間人も鉄の農具を使っていたということか
>>336 鉄の農具は別に珍しくないだろ
漢代はそれが普通だ
棺桶の釘を盗むくらいユーアーショックな時代だったらしい
兵糧切れで撤退=兵站が役立たずとか思ってたけどさ
よくあんなに戦争ばっか出来たな
まともに政権を維持出来るだけでおかしい
蜀は益州一州で逼塞してたとか言われてるが
並みの焦土化してる州より国力は上のようだし
伸びる要素は十分にあったというのは意外
機会と地の利に欠けていたんだろうか
>>338 諸葛亮時代は、諸葛亮が戦争も統治もこなす化物だったし、
国力を超えた無理な動員や連続出兵などはしなかったので、なんとかなった。
姜維は戦争しかできなくて、しかも国力を省みない無理な動員や連続出兵を続けたので、
国を破たんさせた。
>>339 というより、古代から現代に至るまで蜀に割拠した政権は無数にあったが、
どれ一つとして蜀の外の領域を恒久的に支配できていない。
蜀は外に出るには交通が不便すぎて、引きこもるには天然の要害で豊かで
蜀だけで一つの経済圏を形成していて、
蜀一つの支配者でも満足できるだけの国力がある。
ポテンシャル的には高い潜在能力があっても、実際問題として伸びる事が出来ない。
蜀の豊かさは蜀を守ることにしか役に立たない。
蜀+漢中→劉邦
蜀+関中→始皇帝
蜀のみ→公孫術
というそこまでの時代の形を見れば荊州南部でもいいから拠点さえあればって気になるな
また長安さえ取れれば秦と同じ形に持っていけるわけで夢が広がる
特に内陸国なのに塩を自給自足できるってのは非常にでかい
>>341 中国には蜀以外にも内陸の塩の大産地はいくらでもあるが。
>>342 いくらでもあるがそれがどうかしたのか?
自給自足できるところが素晴らしいってことだよ
内陸部で塩が自給自足できないってなると経済的にかなり弱くなる
自前で塩を作れることは素晴らしいことだよ
黄河流域 関中盆地−潼関−函谷関−中原
長江流域 四川盆地−白帝城−瞿塘峡−巫峡−西陵峡−江南
秦嶺淮河線 漢中盆地、南陽盆地、巣湖平原、黄淮平原、江淮平原、浜海平原
周辺 河西回廊、遼東半島、南中、嶺南
中原は黄河で南北に真っ二つに分かれる。
北岸は太行山脈で河北、山西に分かれる。
南岸は嵩山周辺の河南、泰山周辺の山東に分かれる
江南は大別山脈、鄱陽湖、羅霄山脈のラインで東西に分かれる。
西部は洞庭湖で湖北、湖南に分かれる。
東部は大まかに贛江流域の江西、揚子江流域、銭塘江流域の江東に分かれる。
中原と江南のエリアはその中でそれぞれ二大勢力に糾合されると
小競り合いが半世紀以上続いて対峙するということはなく、大戦が発生して統一される。
曹操と袁紹、孫策と劉表、孫権と関羽は地政学的に相克必至の関係ということか。
黄河流域の関中と中原、長江流域の四川と江南は間に要害があるので
どちらかが政治的な混乱で防衛線が弱体化してない限り中々落ちない。
秦嶺淮河線のエリアを押さえると、北ならば南、南ならば北に対して主導権を握れる。
周辺のエリアはシルクロード貿易などの旨味はあるが
落とせないなら中立化して放置しても構わない傾向。
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 18:41:44
蜀にとっての漢中戦、荊南にとっての襄樊戦、呉にとっての合肥戦が
南北対立のキー
西部 成都−剣閣−漢中−長安
中部 江陵−当陽−襄樊−新野
東部 建業−濡須−合肥−寿春
の押し合い
>>347 蜀は漢中から長安の間、呉は濡須から合肥の間を抜けなくて滅びたわけだ。
劉備、孫権が台頭する頃には曹操は老いぼれてるな。
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/29(木) 23:29:12
劉備と曹操も5歳も違わないだろ
シンジローがオザワやコキントウと張り合ってるようなもんか
ところで劉備や孔明は
漢より古い時代にあった
古蜀国については知っていたのだろうか
目が飛び出た仮面とか中華文明とは異質な
文化を持つ国家があったみたいだし
史記に載ってること程度なら知ってるでしょ
横レス
>>323 >あと、周瑜の発言が〜孫権は降伏していた可能性が高い。
間違ってる 周瑜伝読み直そう
>>328 >魯粛は別に独断専行していない。
そうかな
魯粛が孫権にした提案には
「もし劉備が荊州勢と団結していれば」という条件があった
しかし劉備は条件を満たしていなかった
前提条件が壊れていればその話はなくなる
同盟を結ぶ為の交渉を部下に任せることはあっても
同盟相手を選ぶことまでは部下に一任しないだろう
現に魯粛が帰還してからの遣り取りや、諸葛亮との会見をみれば
話が立ち消えになっているのが分かる
魯粛の提案が生きていれば諸葛亮は自分で説得する事はなかった
>>297 >>284はCがおかしいんだよ
「単位あたりの豊かさは蜀のが上」
ABは程度問題
Cはその先の段階
展開すればこうなる
a-1.蜀は唸るほど金を持っていたよ、それに国民の暮らしも豊かだった。
a-2.蜀は唸るほど金を持っていたよ、でも国民の暮らしは普通だった。
a-3.蜀は唸るほど金を持っていたよ、でも国民の暮らしは貧しかった。
b-1.ただ単に、単位あたりなら蜀のほうが上だよ、国民の暮らしも豊かだった。
b-2.ただ単に、単位あたりなら蜀のほうが上だよ、でも国民の暮らしは普通だった。
b-3.ただ単に、単位あたりなら蜀のほうが上だよ、でも国民の暮らしは貧しかった。
Cはb-3 ABとは同列じゃない
そしてこの段階1〜3の議論は意味がない
民が搾取されるのは常識 豊かであるはずはない
魏の民と比較する意味もない
民に焦点当ててどうする?
国家間の戦争(生き残り)に焦点をあて、蜀の国力を云々しているんじゃなかったっけ?
そこから、滅亡時の目録を根拠に蜀は貧しかったとする意見が出ているんだが
それは結局「戦争能力」を言っている
つまり「蜀はへろへろだった」と言っているわけだ
しかし兵は10万いるし、国費を軍費に多く割いているのであれば装備も整っている
「へろへろ」ではない
そんな軍備を整えることが出来る蜀は豊かなのだ
これがこのスレの答え
>「莫大な軍事予算」であったり
まぁね 来ると思ってたよ
しかし不同意かな
>>355 >しかし兵は10万いるし、国費を軍費に多く割いているのであれば装備も整っている
>「へろへろ」ではない
装備が優れていたからこそかつての蜀軍は野戦で強かったのだろうけど
滅亡時の蜀軍は野戦では全く勝てず城等で抵抗するのがせいぜいだった
やっぱり滅亡時の蜀は「へろへろ」だったのではないか
全く勝てず、というのはどうかな
ケ艾の対蜀戦線投入以前は野戦は基本的に姜維に勝てないからって篭ってばかりだし
そのケ艾だって強行軍というハンデはあったものの裏道通って蜀入りした直後は一敗地に塗れている
なんだかんだで野戦では蜀強いよ
>>358 姜維が野戦で破ったのは徐質と王経ぐらいで、
徐質は史書では姜維に負けた時しか出て来ない将軍。
王経は本職文官で軍を率いたのは姜維に敗れた一回のみ。
都督諸軍事クラスや名のある将軍を野戦で破った事は一度も無い。
魏の名将が姜維と戦わなかったのは、
戦う前に姜維が逃げたか、兵站に不安がある姜維を野戦で破るより、
戦わずして撤退させた方が損害も少なく、手っ取り早いから。
野戦で勝てないからでは無く、野戦をしなくても姜維はいずれ兵を引くから、戦う必要が無かった。
ケ艾は一度敗れているが、この時戦いに参加したのは司馬の師簒と息子のケ忠のみ。
本来ケ艾の主力であるはずの天水太守王キ、隴西太守牽弘、金城太守楊欣ら隴右の軍が参加していない。
この時のケ艾は強行軍に次ぐ強行軍で主力を置き去りにして直属の兵以外は手元にいなくて、
兵力的に劣っていたから、一度は敗れたと考えられる。
>>359 そうやって半放置している間に姜維は非漢民族と連携を取れるレベルまで涼州を押さえてるわけで
>野戦で勝てないからでは無く、野戦をしなくても姜維はいずれ兵を引くから、戦う必要が無かった。
なんてことはない
>>360 じゃあ、なんで姜維は出兵しても、ほとんど利なくして撤退してるのさ?
あと、異民族を味方に付けるのはそんなに難しくない。
>>361 城を落とせないのは城に篭ってる敵軍を相手に姜維が持久戦を嫌がってるから
ただちょっとよく考えて欲しいのは出兵して敵の勢力圏内入っても相手されずただ帰るだけとかないよ
子供の使いじゃあるまいし
しかも提携して涼州で補給まで出来るような状況をおかしいと思わないの?
城郭以外の部分で好きにさせちゃってるような状態を魏は「戦う必要がなかった」なんて言えるのかな?
最終的には決戦の切り札的なケ艾が投入されて魏が野戦でも圧勝するけど
それ以前の蜀は全く勝てない程野戦に弱いわけじゃない、っていうかむしろ強い
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 19:32:45
>>362 諸葛亮時代と比べると、姜維はあまりにも辺境で戦いすぎでは。
あれじゃ長安や涼州を狙うなんて無理。
>>362 例えば蜀を攻めてきた鍾会等は
落とせなかった蜀の城や塞を包囲して無力化し
本隊はとっとと先に進んでいるのだが
蜀軍が魏の城(の場所)よりも前に進んだ形跡ってあったっけ
これが魏軍と蜀軍の力の差でしょ
魏にとっても辺境で好き勝手されるのはよくはないだろうけど
国としては防御ラインを破られなければよい訳で
ある意味割り切っていたのではないかと思う
(あと鍾題は涼州じゃなくて雍州では)
姜維本隊との抗戦を回避しているのは郭淮や陳泰だね。
後方遮断によって後退を強いるのがそのセオリー。
陳泰もケ艾も明言しているように、姜維の軍は強かった。
しかも、費イ生前の「一万」という軍でさえ、隴西のさらに西部で郭淮が対抗するには
容易ではない数だった。それが数万になれば尚のこと。
二年に渡って勝利を治めたのは、長距離移動できる蜀兵の強さであり、
狄道付近での魏の軍事的圧力の弱さであるだろう。
一方、別に姜維も向かうところ敵無しの敵中突破をしていたわけではない。
姜維は 天水(上ケイがある)など、魏が地盤を固めていた隴西東部を避け、西部での機動を行うか、
西南部の端に拠点建設を試みている。
戦略的には魏の西方地盤破壊/防御を目標とするだろうが、
戦術的には、魏の軍事的圧力が段階的に弱くなっていく隴西東部から西部の間で、
いかに自分に有利な位置と時期で会戦を行うか、不利な会戦を回避するかの
読み合い・凌ぎ合いが両軍の間で行われていたと思う。
その凌ぎ合いに、上ケイ近郊の段谷という格好のポイントで戦端を開く事に成功したケ艾が、
戦役全体の帰趨を決めた。
>>364 >落とせなかった蜀の城や塞を包囲して無力化し
>本隊はとっとと先に進んでいるのだが
無力化はいいが、逆襲食らえば帰り道なくなるぞ。博打作戦だよ。
ちょっと追加
>一方、別に姜維も向かうところ敵無しの敵中突破をしていたわけではない。
つまり姜維の方も、強兵とはいえ、それを恃んで、魏が総力を挙げて兵力を集中して
決戦に及ばざるを得ない天水突入などを初めから行ったりしなかったということ。
>>363 蜀の北伐の目的って人口収集(現地民を強制移住)という目的のほうが大きいかと。
人口が少ない人手不足というのはあの時代の最大の問題だった。だから周辺の異民族
の「帰化」がどんどん行われた。
それが西晋滅亡の要因(異民族の政治的発言権の増大)でもあるけど
>>19 しかも魏は農本主義を基本として商業を統制した。
片や蜀は南蛮経由で海の道を確保し、ローマ帝国とも
交易してました。呉も船を使って交易(ついでに人も連れてくる)
なんてことを。
>>19-20 考えてみなよ
董卓が洛陽に入ってから死ぬまで2〜3年しかない
その僅かな期間に中原中の貨幣を集め、鋳造し直せると思うか?
そんなわけない
董卓一人ではなく数多の豪族がやっていたからこそそういう数字になる
燃料不足で正せなかったのではなく、イタチごっこだからだろう
>>21 >蜀軍は鉄製防具が標準だったが、魏は司令官クラスですらほとんど皮製装備だった
それもおかしい
もしかしたら魏と蜀では時代にズレがあるのではないかい
諸葛亮の第4次北伐で蜀軍は戦利品として玄鎧5千領を獲得した
玄鎧ってのは鉄(くろがね)鎧だと思うが
>>370 ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスの使者が後漢末期に来たようにあの当時
ローマ人はあの辺まで来てた。それに蜀地方からインド洋に行く西南シルクロードは
前武帝の使者の張騫が蜀の物品を月氏の国で発見することで確認されてる。
あと夷州というのを目的に何度も呉は船出して、その都度人を連れて
帰ってる。
>>372 俺も
>>20を読み直してみたが、
>内訳は董卓銭96%、後漢末期以前の良貨3%、蜀直百銭(前述の蜀で鋳造された貨幣)1%
これの元ネタは「貨幣の中国古代史」なんだろうな。
だとするなら、正確には、「悪銭は96%を占め、とりわけ小銭類が多かった。」だ。
董卓小銭が96%なのではない。
96%の内訳は中文の論文に当たらなければわからないが、魏代に小銭と言ったときに
董卓小銭と考えて良いのならば、董卓銭は当時も相当の影を落としていたことになる。
注意せねばならないのは、当時魏に存在した貨幣の96%が悪銭だったというわけではない。
グレシャムの法則によって、良貨は(特に富貴の家に)退蔵され、市場には悪貨ばかりが流通し、
それによって売買せざるを得なくなるので、「96%」という数字が出る。
董卓が小銭を鋳造したのは初平元年190年の秋か冬ごろと考えられるから、
当然山東蜂起によって洛陽より東と切断されており、漢帝国全土から貨幣を集めることはできない。
しかしながら、董卓は、手許の既存の五銖銭だけを改鋳したわけではなく、
洛陽及び長安の銅人、鍾キョ、飛廉、銅馬之屬を悉く取り、以って鑄に充てた。という。
この銅人らがどこから来たのかというと、霊帝が黄巾の乱の後に民田一畝ごとに十銭を徴収し
それを鋳潰して作ったものが想起される。
将来董卓銭になるための、「中原中の貨幣」がを集められたのはこの時ということになる。
それでも後漢代の全国流通量と比べれば大したことのない量かも知れないが、
ただでさえ危機的だった経済に致命傷を与え、小銭の流通と共に全国へ拡大させるには
十分な政策だっただろう。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 10:36:38
>>359 >戦う前に姜維が逃げたか、兵站に不安がある姜維を野戦で破るより、
>戦わずして撤退させた方が損害も少なく、手っ取り早いから。
>野戦で勝てないからでは無く、野戦をしなくても姜維はいずれ兵を引くから、戦う必要が無かった。
孔明VS司馬懿によく使われる論調だが、まだ、こんなことを主張していた人がいたのか
勝てないから、(あるいはあまりにリスクが多すぎるから)やむを得ずに、城郭だけを確保することはあるが、
国力が大きい方がそんなことする必要は基本的にない
城郭だって、内部からの通謀であっさり落ちることだってあるし、州県の城を籠もらせるのは危険がともなう
積極的な追撃を行うつもりなら、別だろうが、初期はそのような形跡もないしな
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 11:27:07
単純に、董卓以後も曹操が董卓銭を使ってたってだけだろ。
改鋳する暇がなかったんじゃないか?当時の魏は戦時体制下で改鋳に必要なモノなんて
まず戦争に回されただろうし
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 11:44:38
銅は軍需物資としてはあんまり需要ないと思うが。
>>377 使ってたというより、曹操時代も改鋳続けてたってことだろうな
>>379 武器とかに使えるだろう銅は。まだ銅類をつかった武器は多かった。
インフレの主原因は「人口減による金余り」だろうと考える
単純に考えれば
人口が10分の1になるのと、金が10倍に増えるのは、等しい
インフレの主原因はこれで
まず、戦乱で人口が減り物資も不足した地方でインフレが起きる
平和だった洛陽は"死人の金"が出ず、変動が起きなかったので
地方の貨幣価値下落・物価上昇について行けず、
まともにインフレの被害に晒されることになる
洛陽の主董卓は他勢力のインフレに対応すべく貨幣を急造した
ということではないだろうか
董卓の造るのが容易で銅使量も小さい貨幣が市場で通用すると
必ず模倣して財産を増やそうとする人間が出てくる
こうしてインフレは倍加する
だが
>>19がハイパーインフレと言っている穀物の価格は
現代で言うところのオイルショックで(それも非常ーに深刻な)
これをそのままインフレと考えるわけにはいかない
>>378-379 大量の悪銭を回収して品質の高い良貨に改鋳するという、
技術と手間が必要だがそれ自体は何の生産性もない活動に、
十分な予算を割く余裕が魏晋南北朝の朝廷にはなかった、ということだろう。
>>381 三国時代はもう青銅なんて使ってないだろ。
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 14:44:48
乱世で貨幣経済が衰退するのは割とよくあること。
商業保護とかないからね。
貨幣経済が発達していない場所での銅貨は、文字通り銅の価値で取引される。
つまり銅で物々交換やってるようなもの。
貨幣経済が発達していないってどこの話だ?
発達してない≒崩壊してる
でおk
>>387 銭より現物が貨幣として信用されてた魏の事じゃね?
>>390 文帝紀。政策として決定されている
貨幣での取引が正式に復活するのは明帝の時代
文帝紀長っ
どの辺?
文帝紀の長さは殺人的だよな
>>393 禅譲関連が異常に長いんだよ。
あとは在位期間短かったから、そんなに長くない。
>>382 改鋳やったのは長安遷都後な
洛陽に居た頃にインフレ対応したって前提がまず間違ってる
>>382>>395 「人口減による金余り」への対策は、或いは、霊帝が全戸から臨時徴税して
鋳潰して銅人に変えた時に行われたのかもしれないな。証拠に欠けるけど。
董卓小銭や陵墓発掘の断行は、黄巾の乱以後に徴兵制が崩壊して募兵制になり、
莫大な軍事予算が必要になったという背景が指摘されている。
董卓の場合、軍事予算として募兵費用のみならず築城費用もその辺で強引に捻出してるっぽいよね
金銀を大量に貯めこんだビ城を新しく整備するわけだけど、その時期は小銭発行時期と重なってるし
淮南や南陽を焦土化したのは曹操のような気がする
この時代、銭は信用低かったみたいだけど、
金銀は普通に流通してたのかなあ?
淮南はともかく南陽は違うだろう。勿論袁術でもない
元々黄巾の乱の激戦地になるくらい衰退が激しかった
>>398 淮南や南陽が焦土化されてたら、夏侯尚が率いた荊州諸軍や、
曹休が率いた揚州諸軍はどこから集めた兵?
>>395 洛陽に居た頃とは言ってない
語弊があったかもな
董卓は「洛陽」持って行ったわけだろ
そういう意味だ
>>396 >「人口減による金余り」への対策は、或いは、霊帝が全戸から臨時徴税して
>鋳潰して銅人に変えた時に行われたのかもしれないな。証拠に欠けるけど。
俺もそう思う
しかしそれでも不十分な気がする
一方、十銭というのは荒れた地の庶民にとってどのくらいの額だろう?
案外この政策で金を払えずに土地を追われて流民となった者たちが更に出たかもしれん
>>384 製造効率やコストで言えば銅のほうが相変わらず上。
>>401 屯田制で流浪してた連中を移民として送り込んだからじゃないの?あの当時は
戦乱で南部には多数の避難民や流民が流れ込んでたのを考えたら
>>399 あの当時だと布(絹とか)じゃないの?なんせ物納が三国時代のあとでも通用する時代だったから
そういう物の貨幣換算ができる機能もあったんじゃないかと思う。
>>400 南陽は曹操と張繍の抗争で荒れてるし
曹操が取ってからは延々搾取されるしで南陽は衰退が激しかったわけでもないよ
南陽については曹操は支配してからみっちり搾り取っていたというのが真相だろう
搾り取り過ぎて反乱起こされてるしな。
関羽との戦役が落着して以降、漸く落ち着いていったって感じかね
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 11:09:23
>>404 曹操と袁家の争いが長引いていたら、もっと呉は豊かになっていたと思う?
>>410 それはないな。曹操と袁紹死後の袁氏との戦いの主戦場は河北だから、
避難民は戦場になってない中原に逃れるだろ。
曹操と袁紹が中原で争ってた頃は、避難民が出るほど長引かない。
曹操は最後の力を振り絞ってこれ以上戦えないぐらいギリギリまで粘ったが、
それでも避難民が出るほど長引いたわけではない。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 17:33:14
>>403 銅に比べ遥かに希少だよ。この時代になれば鉄と銅の価値は逆転してるだろう
基本的に鉄は何処でも取れる。大昔の原始の海は、鉄を豊富に含んでいたらしいし。
しかし、銅はそうではない。
赤壁の戦いは、銅山の無かった魏が銅山を欲して呉に攻め込んだといいわれるくらいだし。
そんな魏で、わざわざ銅製の武器を使うなんてことは勿体無くて、しないはずだろう
鉄銭が問題なのは、錆びる、加工が面倒の事情もあるが、安価というのに問題がある。だから
>>40の言うように私鋳銭の問題が出てくる。
銅の場合、希少ゆえに貨幣としての価値が有用になる。ゆえに数少ない銅山を押さえることは国家として非常に関心のある問題となる。
>>
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 17:41:10
>>386 それも違うな。
鉄銭の価値が鉄屑とイコールなら、誰も私鋳銭など作らん
少なくとも、魏においてさえ、董卓銭は鉄屑よりは価値が高かったという事実は否めない。
経済学的にはねグレシャムの法則を地で行く、最古かつ、最長の先例とも言える董卓銭の研究は面白そうな課題ではあるがな
414 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 17:55:00
>>413に補足
んなこたーない
じゃあ、戦時体制に入ってた、蜀が銅銭作っていたのはなぜなんだという話だ
さっきも言ったが、董卓銭は、一応現実に「通用力」があった鉄屑+αの価値がある。
さらに希少価値の高い銅銭に至れば、その+αの部分はもっとあったとも思われる
蜀は董卓銭の価値100倍の銅銭を市場に回し、輸出することで、現実の銅屑の価格より遥かに高いロイヤリティーを受けていたはずであり
それで蜀の国庫は相当に潤ったはず、劉巴が貨幣改革を行った後に、北伐が行われているからも、その証拠となる。
つまり、改鋳は立派な収益になる行為であり、魏がやれなかったのは、資源(蒔)に不足していたためだと思われる。もちろん董卓銭の量が多かった、増えていたという現実もあるだろうが
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 17:56:14
>>411 非難するかどうかは長引くかどうかの問題じゃないと思うぞ
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 18:14:11
ついでに、銅銭を作るだけでは意味が無い。
それを市場に回ことができて、初めて貨幣改革は成功したと言える。
蜀は官営市場や官営工場などを作ることで、商人や兵士、失業者などに貨幣を供給したと思われる
銅百銭は、大規模決済に向いているから、大商人にまわしておけば、中国全体に広がる。
しかし、これだけではまだ不十分。
一番手っ取り早いのは、もっと大規模な公共事業を行うことである。
当時の公共事業とは、言うまでも無く戦争である。失業者も減らせるし。
とすれば、出師の表には書かれていないが、北伐の動機の一つに「金が余った」「自国通貨を通用させる」という目的があったこということにはならないだろうか
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 18:18:32
確か孫権が五百銭を作ったが失敗だったそうだぞ。
なんで百銭だったらうまくいくんだ。
>>412 >赤壁の戦いは、銅山の無かった魏が銅山を欲して呉に攻め込んだといいわれるくらいだし
それ現代人の仮説だろ? おかしくないかな 銅は余ってる
>>414 劉巴の銅銭は、僅かな銅から金(かね)を作り出す魔法
成都を落とした劉備が蔵開きしたもんで兵が略奪し成都の金蔵が空になった
銅が残っていたので百銭銅貨を造って銅貨百枚と交換した
荊州兵は銅貨100枚を郷許へ持って帰るより、百銭銅貨1枚持って帰った方が楽なので交換した
こうして成都の金蔵は満杯になった
しかしこの策はその場しのぎな筈で続ければインフレを招く
また管理していなければ偽金が出回り市場が混乱する
インフレから本格的に回復するには人口の回復を待たねばならない
日本でいえば10万円金貨みたいなものか
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/04(火) 09:17:52
>>421 長期的には、だろ
短期的に見れば劇薬として上手く作用する場合もある
要はタイミングと期間だろ
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/05(水) 11:20:10
現在の中国が魏、呉、蜀の範囲に3分裂したら
魏の版図を支配している国が再統一を果たすと思う?
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/05(水) 11:41:26
>>424 魏…華北共和国(北京)
呉…広東民国(南京)
蜀…四川民国(成都)
*( )は首都
共産党体制が打破されたら、こんな3分裂もありえそう
いや、北京と上海はどっちも中国を名乗ると思うw
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/05(水) 11:53:14
>>426 それなら3国は、それぞれどんな国名を名乗ると思うの?
版図はそんな感じだろうが
首都は
北京
上海
重慶
だと思う
上海は魏の版図の中なんだが。
上海より香港
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 02:16:45
蜀が豊かだったろうってのは確かだろうけど、
結局、土地のもつポテンシャルに比べて人口が少なかったから、
一人当たりの「富」が多かっただけなんだよな。
かといって、人口を増やそうとしても、
中原といわれる大平野を持っている魏ほどの食料生産は無理だろうし。
春秋戦国時代に、蜀+関中の秦が最強だったことかんがえりゃ、
長安を落としていたら、かなり強国になれたのかなあ、と。
そんで、呉が荊州の全土を持っていたらと仮定すると・・・・・かなり三国の国力接近するんじゃね?。
蜀=秦、呉=楚+呉+越、魏=斉、趙、韓、魏、燕
って領土だったら、かなり良い勝負になっていたのに。
三国時代だと斉と秦が没落
そのかわり巴蜀、楚、呉越が発展してる
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 11:53:42
豊かで武器が充分だったから戦えたんだろうね(´・ω・`)
今の国際社会も小国の方が幸せそうだよね(´・ω・`)
モナコが大国だったらあんな国にならないしね(´・ω・`)
フランスよりモナコ
スイスよりリヒテンシュタイン
ベルギーよりルクセンブルク
ドイツよりオランダ
スペインよりアンドラ
中国より香港
香港よりマカオ
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 18:46:28
>>434 そうとはかぎらんだろう
たとえば魏が青州一州の国だったら栄えただろうか
だから蜀は一州の国だから栄えたという結論を導くのはおかしい
小国だろうがやりようで栄えるし
大国だろうがあっけなくボロボロになる
>>434 考え方がおかしい
"一人当たりの「富」"とか、そんなもんじゃないだろ
「豊かさ」は
それに益州一州で724万人が食っていける
いや、気候の問題も加味しないといけないか
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/06(木) 23:09:24
益州って涼州より田舎だったのでは?
文化的には田舎だった。中原から遠く離れた交通の外れだからね。
他の国の人間に「きみんとこって誰か過去の偉い人いたっけ?(プ」
みたいなこと言われたりする。
産業としては、秦の灌漑によって天下統一の重要な物資供給源となり、
前漢時代まで入植が多く続けられた、豊かな田舎だった。
>>440 まあそんなこと言ったら「司馬相如や揚雄知らないんだこの人・・・」って物凄く憐れみの目で見られるだろうけどなあ
>>441 蜀人はたいてい、その二人を持ち出して切り返して面目を保ったぜ、というのが逸話のパターン。
逆にいうとそれくらいしか歴史的に威張れる人間がいない。
>>442 その二人がいれば十分だろ
そりゃあ本当の都会よりはずっと落ちるけどな
あと前漢後漢通じて三公クラスの大臣もそれなりに輩出してるし、まあ政治文化の中心地ではないが蜀自体が特に遅れた田舎というわけでもないというところだろう
異民族が多数近所に住んでいたのはまた別の話だし
「遅れた」というのとは違うだろう。
そういう文化風土なんだよ。中華では諸国固有の風土によってそれぞれ異なる人間性が育まれると信じられていて、
巴蜀の風土がそういうもんだと思われていたって事。他には他の一長一短がある。
日本で例えるなら
山西−出雲 文明発祥の地?
河南−奈良 古代王朝の首都圏
関中−京都 伝統的な古都
山東−愛知 プライドが高い
河北−大阪 近世の首都圏その1
江南−関東 近世の首都圏その2
四川−九州 独立王国
台湾−四国 島国
満州−北海道 フロンティア
みたいなもんだろうか
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 12:58:01
魏…近畿
呉…東海
蜀…関東
人少ないのは呉も同じこと
だから異民族攻めて人連れてきたはず蜀も呉もね
人口94万で兵力10万、官吏4万を抱えていたら、
どんな豊かな土地でも国庫や民衆の生活はかなり苦しくなると思うが。
全人口の15%以上が兵士か官吏だぞ。
そんなに非労働人口が多い国が、豊かなわけがない。
かなり苦しい経済状況だったのではないか?
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 15:24:41
一般論なんて無意味
この時代の蜀は非常に豊かだった
とか言い出すのが出てきそう
魏だと屯田制で兵卒は後漢より身分が下がって農奴と変わらない扱いだし
蜀でも士官でもなけりゃ田畑耕しながら土木工事に軍役と奴隷扱いじゃないの?
>>449 そう、一般論なんて無意味
>>448は間違っているんだよね
領戶二十八萬,男女口九十四萬,帶甲將士十萬二千,吏四萬人,
「領戸」ってことは、支配している戸数ってことだよ
つまり被支配階層の戸数 官吏の家などは含まない
「男女口九十四萬」ってのは全人口ではなく、子供を除く成年男女の人数じゃないか
>「官吏四萬人」
蜀の官吏は約4%
屯田してるし兵士も民に養なわれているわけではないだろう
日本の武士は7%だった それに公家・僧などもいた
江戸時代の日本と三国時代の蜀では生産高が違うだろうが
蜀の非生産人口の比率は日本の半分
おまけに輸出で儲けてる
蜀は“産油国”なんだ
「豊かなわけがない」ことはない
ワロスw
専門用語の解釈捏造しまくり
kwsk
解釈捏造というより
>>452が「俺が思ってたのと違うぞ!」と驚いたってことだな
思い込みって怖いね
このスレの面白解釈を楽しめないならこのスレ見ない方がいい
言ってみたものの自信がないってことだね
専門用語て言ってる時点で…もうね
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/07(金) 23:33:33
452の具体的な反論が楽しみw
まあ、何もないだろうが
どうせ、煽って、相手に自信がなくて黙るのを期待していただけのしったか君だろ
なんか自演くさい流れ
452っぽい(ぼそ
レッテル貼りの競演をお楽しみください
キメェwwwwww
自演乙
>>432 資源や資産もさることながら法制度の差もお忘れなく
秦が強かったのは資源もさることながら、峻厳な法律による強固な統治があったことを忘れては片手落ち
>>451 子供の数が入ってないのにも関わらず子供も統計に入った日本よりも非生産者が少ない!とか主張するのはどうかと
それと蜀は屯田してることはしてるが10万の内で屯田してる数は不明だし少なくとも全員ではないことは確か
半分が屯田してたとしても5万、官吏と合わせて9万、人口の10%はほぼ確実に非生産者だと思われる
大体人口の15%くらいが15歳以下の子供だとすると生産に寄与できるのはその半分以下
計算すれば計算する程、蜀の非生産者は増えるよ
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 06:12:24
>>465 秦は2代目であっさり国をのっとられたのに何を言ってるのか。
蜀漢のような弱小国でさえ、出来の悪い2代目を皇帝に据えても40年は命脈を保ったのに。
秦は孝公以降からと考えたほうがよかろう
始皇帝は偉大ではあるが中継ぎの一人に過ぎない
>>466 秦朝って600年近く続いてるんだけどな
中国制覇してから短いけど
>>468 いくら珍用語続出のこのスレとはいえ、それは分かると思うが
>>470 言葉の意味はわかるけど四川油田と
3世紀の四川の豊かさに何の関連性があるんだろ
アラブ諸国、王族みたいに潤ってますって比喩で
蜀は資源国って事を言いたいんじゃないの
>>471 さすがに釣りと思いたい
本気でそう思ってる人間が同じスレにいるとは思いたくないから
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 19:03:46
蜀呉はわかるけど魏の人口ってどこに書いてあるの?
蜀を併合した時の総人口から引き算で出した記録が通典などにある
>>472 資源大国ならそう書けばいいだけのことではないか
>>473 マジでわからないから説明よろ
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 19:37:55
ウィキソースにそのうち載ったらいいな
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 20:16:18
>>465 子供は別にいいよ
民も子供が含まれるから相殺される
がしかし考えてみれば武士は妻を含むだろうが官吏は含まないね
江戸時代の武士と三国時代の蜀の官吏はほぼ同率か
江戸時代の方が耕作地の生産高が高いが、
参勤交代という大きな支出があったことを考えればトントンかな
プラス蜀には大きな特産品収入がある
10万の兵の内、非生産者が半数?
いやぁ?? 平時8割は耕作してると思うよ
8割の労働力からのアガリで10割賄うくらい余裕だろう
確か羊祜が前線で兵の半数で屯田し、半数で守ったよね
これは呉の急襲に備えてのこと
急襲の虞のないところでは多くの兵を割くことが出来る
>>468 比喩
>>476 資源という言葉は幅広くてね
食糧や森林なんかも資源だ
その反面、絹は資源ではない
>>541で「資源大国」は正しい表現とならないんだ
・日本との対比
・輸出で儲けてる
・税収を元にした「豊かなわけがない」という考えの否定サンプル
“産油国”がピッタリじゃないか
>>479 比喩として産油国と言いたいなら「産油国なんだ」と断定するんじゃなくて「産油国みたいなもんだ」と書くべき
自分なりの独自解釈なんだから、そこは他人に判り易いような書き方をしないお前の手落ち
しかも追加した独自解釈の理由まで的外れだし…
本当に勘弁してくれ、ここを廃れさせたいのか、それも判らない程アーパーなのか、釣りなのか
どれだ?
>>480 やめとけよ
独自解釈叩くのは構わないが、
比喩の件叩くのは「あの程度の比喩も読み取れないゆとりが「「産油国みたいなもんだ」と書くべき(キリッ」とか言ってる」とか思われるのがオチだぞ
>>480 君以外にはちゃんと伝わってるじゃないか
「産油国なんだ」ではなく、「“産油国”なんだ」だよ
普通「“」「”」で比喩だと伝わると思うよ
もしかしてこれ釣りか? まったく勘弁してくれよ
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 23:20:51
>>481 いや比喩を議論に使うのは基本的にアホのすることだし問題ないよ
>>482 俺だけ、ではないな
少なくとも俺ともう一人くらいは意図を掴みかねてる
>>468は俺ではないよ
>“産油国”がピッタリじゃないか
おまえがそう思うんならそうなんだろう(AA略
みんな
>>483のご高説を待っている
はやく「専門用語の解釈」を教えてくれよ
>>484 レッテル張りも何もアホをアホと言って何が悪い?
産油国とは違って蜀の輸出物は贅沢品の部類だし、現代の産業を回す上でほぼ必須な石油と比喩するなんて無意味だよ
こいつアホだ
490 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 23:27:31
>>486 専門用語の解釈とは何を指してるんだい?
独自解釈とかするのは混乱を招く元だからきっちりかっちり確認しときたいんだが
心の貧しい人間が国の豊かさについて語り合う
寒い時代になったと思わんか?
>>481 B 蜀は産油国なんだキリッ(これは比喩です)
A 比喩なら「蜀は産油国みたいなもんだ」と書くべき(キリッ
どっちがまともだと思う?
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/08(土) 23:34:56
>>492 ABの上下が逆なことは気になるが
比喩に適してるのはA
ただどっちの選択肢でもその理由は併記しないと意志疎通の阻害を招く
しょうもない。何を興奮してるん?
普通レベルの比喩を読めない自分が悪いのに。
ちょっと恥ずかしいよ?
>>494 お前のほうが恥ずかしいよ
ところで8割屯田してるとか言う根拠は何だろう
10万の「8割」って国境沿いとかでもない内地を守る守備兵ですら屯田してないと間尺に合わないけど
そんなところに耕作可能地あったら農民が真っ先に耕してると思うのだが
>>493 Bはオリジナルと違うからな 意図的に印象が下げられている
>>495 蜀の耕作可能地は男女90万じゃ全然耕しきれない程ある
一日経ったらえらくハッテンしてるなと452は思った。
他人のフリ 乙
>>497 耕作可能地の面積の問題じゃなくて
農民が耕してる土地があるようなところを守ってる連中はどこを守るのか、という話だが?
ちょっと書き損じ
どこを耕すのか、だね
>>503 屯所の近くにそういう好都合な場所があるわけではないのだが
特に屯所を構える場所というのは軍事的な要衝の他に
治安維持に必要だからという理由で設置されるものだから
屯所の近くに耕作に適した場所が必ずあるとは限らないし
峻厳な山の中に軍事上の要衝という理由で屯所を設置した場合も耕作に適した場所があるわけではない
四川は盆地こそ豊かなものの秦嶺山脈など豊かでない耕作に適さない場所も多いよ
だから8割という数字の根拠を問うてるのだよ
どうして8割なのか、と
>普通レベルの比喩
括弧付でやたら自信満々に言うから
俺の知らない何かの専門用語かと思ったんだよ。
他人に誤解を受ける論調ということ。頭いいなら注意した方がいい
魏と蜀の兵糧備蓄はどれだけ差があったのだろう?
ケ艾の提案した屯田が大成功したようだが
成功したと言ってもケ艾の屯田は、兵糧輸送によるロスを減らすのが目的であって
それ以前の魏が兵糧に困ってたというわけではないので国対国の比較で考えなくてもいいと思われるよ
流れぶったぎって悪いんだが、馬鹿な俺にも教えてくれ。
董卓の悪貨が猛威を振るったって話なんだが、
魏文帝の新造良貨ってのがあったと思うんだが
焼け石に水ぐらいの効果だったのかな?
ごしゅせんっていったっけか?
380あたりの流れってあれのことなのかな?
>>508 一度銭に対する信頼が失われているから、新貨幣が作られても銭に対する信頼が旧来通りにならないし
新貨幣が旧来の良質の銭と同じかそれ以上の良貨だったわけでもないので焼け石に水
>>504 要害っていうのは不便な所だから平時最低限の人数しか置かない
普段暮らしやすい平野などに居て、戦時になって籠もるものだ
「治安維持に必要」って、厳戒態勢でもなければ、軍を民の近くには置かないよ
障り有って一利無しだ
数里離れた場所に軍隊が居るってだけで充分効果がある
511 :
508:2010/05/09(日) 14:29:46
>>509 貨幣経済に対する信用事体が無ければ意味がない。
→それで魏は、物税、物々交換主流っていう感じかな?
回答thx
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/09(日) 17:16:21
自演だw
>506
ソース引っ張ったわけではないんだが、とうがいの屯田って
最前線で余剰兵力を使った「軍屯」だったんじゃないか?
征西将軍以前の職歴わすれたが、中央外軍だったはずだし。
堤防作ってた時とかだったら「民屯」なのかも知れんけど、
許など中原周辺で長期間行われていた「民屯」とちがって
>507の言うとおり駐留軍の食料の足しレベルだと思うよねぇ。
備蓄量には雲泥の差があったろうけど、漢軍の遠征のたびに
地方軍+中央外軍に、遠征でやってきた中央内軍の食料を
賄わなきゃいけないんだから(当然西方地域の備蓄意外も当てられたんだろうが)
実働兵数考えると、そこまで余裕があったわけではない…と思うんだ。
512って日常生活苦労してるだろうな
>>514 カン丘倹の乱で20万を使えるって事は6割〜同数くらいの輸送兵がいるってことだし
準備不足でカン丘倹が6万程度の兵を動員してるところから見て
魏は輸送兵込みで50万くらいならすぐに動かせると考えても問題なさそう
あとケ艾の屯田はちゃんと軍屯
兵士が余ってるし休養も充分、耕作に適してて西で耕作するよりも3倍は収穫が見込めるので働かせようぜって言ってる
>>517の一段目に書き忘れたけど、50万を即座に動員できるってことは
備蓄を魏全体で考えると最低限3000万斛(50万の兵士が1年で食う量)くらいはあったんじゃないかな
この3000万斛てのはケ艾が試算した淮水周辺での屯田で見込める年間収益の1/6だから
魏全体で考えると備蓄は本当に膨大な量になってた可能性が高いとは思う
あくまでも推論に推論を重ねた丼勘定だけど
諸葛誕の乱の鎮圧は「二十六萬衆」
征蜀の際は「二十萬衆」
兵士・人夫を含めた「衆」の総動員数の限界がこのくらいだったということだろう。
一方、武装兵の実数では、
一次北伐に応じて「部勒兵馬歩騎五萬」
曹爽の駱谷の役では「率歩騎十餘萬」
司馬懿の公孫淵攻めでは「歩騎四萬」
カン丘倹・文欽の乱の討伐では「歩騎十餘萬」
諸葛恪が撃破した東興では諸葛誕ら「歩騎七萬圍東興」(ただし呼応した南郡攻めは別計算)
このことから、武装兵「歩騎」の実数では、遠征時には「十数万」、
諸葛誕の乱のような近場の大乱では「二十万弱」くらいが最大動員力と推定できる。
あ、追加。
輜重や工兵を加えた総兵力の「衆」で、「歩騎」の五割増くらいになるのだろう。
522 :
514:2010/05/09(日) 19:53:17
>>517〜
>>519 丁寧な解説ありがとう。
兵○人が何日戦うのに、兵糧○、それを支える補給部隊○人って言うのは
何かの兵法書にあった気がするけど、試算すると莫大な数字になるんだな。
>>517 中原と淮水周辺は疲弊していたとはいえ、50万の兵が一年くえるだけの
兵糧の6倍が淮水付近の屯田のみで賄われたのか…。
ということは、全部が懐に入るわけじゃないにしろ、民屯や税であがる
兵糧より回収率は良かったはずだから、全体の回収率の8割と見ても
360〜400万人が一年食える量が、丼勘定でも賄えたわけだな。
>>519から、対蜀漢前線への最大動員兵力を15万+50%の20〜22万人
と当たりをつけて、兵站を担う輜重、工兵は地方軍の州から
いくらか賄われるとしても、それが2年以上は兵站が維持できるだけの
利益か…。
それが実際に西方に貯蔵されていたわけではないんだろうが
蜀漢が遠征時に、最大兵力10万〜+涼雍2州の豪族、異民族への兵站
まで請け負ったとしたらとてもじゃないけど2年なんて戦えないわな…。
正規軍以外の糧食請け負ったとは思えんけど。
>>522 蜀討伐で言えば、それだけの兵站線を整備するのに魏は30年掛けたわけだよな。
漢中正面突破でいいならもっと楽だっただろうが、
実際には天水・狄道から6万もの侵攻を行って姜維軍主力を引き付け、かつ、いなしつつ
漢中を迂回突破しなければ、成都は落とせなかった。
目が眩むような労力だ。
そこまでやってようやく呉を圧迫出来た、と
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/09(日) 20:50:55
>>522 あ、すまん
>この3000万斛てのはケ艾が試算した淮水周辺での屯田で見込める年間収益の1/6だから
というのは主客逆転してた間違い
3000万の1/6が屯田で見込める、に訂正をば
でもこのケ艾の計算おかしくね?
前漢時代の農夫一人当たりの収穫は粟で1斛半だった。後漢では数斛に上昇したとされる。
水稲の収穫量を加味して農夫一人当たり年間10斛と計算しても、
ただ500万斛を得るだけでも50万人の農夫(+一家の支援)が必要になる。
これは淮水流域全体の予想収穫量じゃないかな。それでもかなり多いけど。
それから、黄巾の乱後の許昌屯田を移したものだから、これは民屯だろう。
徴兵でも兵家制でも、当時、兵士の主力は農戦一致の農民兵なのでもあるし。
で、民屯で思い出したのだが、
蜀や呉の滅亡時の記録を見ると、戸数の約半分に甲兵がいたことになるが、
それは
>>448や
>>451の言うような常備軍体制だったことを意味しない。
この大半は家族を持つ農民兵であり、徴用時以外は家で農事に携わっていた。
一定期間の徴兵に応じて前線に配備される(漢中など)ときにも、平時は軍屯に従事して
兵糧の足しにしたと考えられる。
ついでながら
>>451は武士の計算も喩えも間違ってる。「江戸時代の人口の7%が武士階層だった」を
蜀に当てはめるなら、一戸一兵だとすると、28万戸のうち10万2000、「36%が帯甲階層だった」ということになる。
しかし、この時代の兵卒を武士と同じような「非労働人口」のように扱って、
そこから無理に生産力を捻出するために屯田率云々を議論すること自体が間違いなのは上の通り。
さらについでながら、蜀が吏の数が非常に多いが、漢武帝と同じく塩鉄の専売を行うための官吏を大量に雇用して
いた
>>81のならば、その数も説明できる。官吏が「商賣」に従事し経済に貢献していたわけだ。
と、このように、
「領戸二十八萬,男女口九十四萬,帶甲將士十萬二千,吏四萬人, 」
という記述の上っ面から感じられるような奇矯な体制を、蜀漢が敷いていたわけではないのは、
「一般論」で十分説明できる。
(もちろん、民衆のかなりの割合に武装と訓練を施すのは相当な「戦時体制」(not常備軍体制)
だったことに違いはないが。)
「一般論なんて無意味」なんて言い出して、無理に蜀が豊かだったという結論に結び付けるために
その場で思い付きの解釈を適用すると妙なことになる。
絹=特産物
絹≠資源
でおk?
>>526 >黄巾の乱後の許昌屯田を移したものだから
どこにそんなソースが?
「昔破黄巾,因為屯田,積穀于許都以制四方.」
これがケ艾の言葉。で、許都屯田とはどういうものかと遡ると、
魏書曰(中略)是歳乃募民屯田許下,得穀百萬斛.於是州郡例置田官,所在積穀.
征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下.
曹操政権の重要な特徴と言える兵戸民屯の始まりが、この「募民屯田許下」とされる。
あ、この場合の「黄巾の乱」というのは184年のことじゃないよ。ごめん。
群雄割拠後、曹操が黄巾(残党)の討伐をしたあとのことという意味。
「因為屯田」だから、おそらく青州兵のような土地を持たない流民の兵を
許都屯田地に定着させたのだろう。
>>527 まず、蜀に兵戸がなかったと考えるのは乱暴だろう
劉璋下の益州には東州兵がいた
劉備が益州を収めたとき彼らはどうなった?
皆殺しか? 追い出したか? 農民になったのか?
そんな事はすまいよ
魏書に青州兵の事が記されているからといって
兵戸が魏の専売特許だと思い込んではいけない
徴兵された民は登録され、毎度同じ男が招集される非常勤兵士扱いにでもなるのか?
それとも徴兵の機会毎に村から出される男が選ばれたのか
徴兵制は後者だろう
じゃあ「帶甲」ってのは何者だ? 不特定じゃないか
「不特定者十萬二千」これは何だ? そんなもんはまぁないよな
「帶甲」は職業兵と見るのが自然
「帶甲將士十萬二千」が「領戸二十八萬」に含まれるかもまた不明だ
「領戸二十八萬」=「二十八萬戸を統治している」
国家の末端である職業兵は統治者側に属する
従って、あくまで「領戸二十八萬」は民戸だと考えることも出来る
>ついでながら
>>451は武士〜「36%が帯甲階層だった」ということになる。
江戸時代、既に兵農分離され三国時代の兵に当たる存在はない
武士はお役所仕事をする官吏だった 戦になればその官吏が槍を取った
武士・官吏(蜀)は民に扶養されるが、兵戸は民に扶養されない
蜀漢と江戸の比較に措いて兵戸は除外しなければならない
いやむしろ扶養する側に置いてもいいぐらいだろう
ついでながら、
>蜀が吏の数が非常に多いが〜「一般論」で十分説明できる。
塩・鉄・酒などの専売や
平準(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)・
均輸(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送
してその地域の市場に払い下げる)などを行って〜
wiki「塩鉄論」より
これだけのことをすれば官吏の大量雇用も必要だわな
蜀はそこまでやってない
こうして「一般論」の落とし穴はできるのだ
塩・鉄・酒などの専売や
平準(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)・
均輸(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送
してその地域の市場に払い下げる)などを行って〜
wiki「塩鉄論」より
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/10(月) 00:03:00
>>530 聞きたいのはそこじゃなくてケ艾が動かしたのが、
>黄巾の乱後の許昌屯田を移したものだから
につながるソースだよ
>>532 不明でも何でもないよ
冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精鋭者,號為青州兵.
これ有名な青州兵のくだりだけど、「男女」と「卒」を分けたらわけわからん数になるでしょうが
帯甲将士10万強は領戸28万、男女口94万に含まれると読むのが自然というかまともな読み方
>>536 そのくだりは参考にはならないよ
共通点は漢文というだけ
日本語に直せば違いがわかるよ
>>533 >まず、蜀に兵戸がなかったと考えるのは乱暴だろう
史料上確認できないので大規模なものを想定するのは難しいが、
別に「兵戸があった」でもいいよ。
10万の兵が100%兵戸であり、根拠はないがそれが「領戸」の外で管理されていたと仮定すると、
蜀漢全戸38万となるから「全戸のうち26%が帯甲兵戸」ということになる。あんまり変わらない。
そして魏でも、兵戸の民は「職業兵」なんて上等なものではなかった。
私田が基本のこの時代に自分の田地を失っていたため、
徴募に応じて軍部に監督される田地を小作して、5割または6割を税に持っていかれる。
賦役・兵役を優先して適用される過酷な境遇で、一般の農民より地位が低い存在だった(奴婢ではないけど)。
徴兵制では、毎年若者に一定年限の軍務経験を積ませ、それが毎世代連なっていくため
軍事訓練を受けた「予備兵」が全世代に均等に存在する。
それを有事に召集することで、短期に極めて大量の練度を有する兵士を動員することが出来る優れた制度。
これには安定した民力が必要になる。魏にはその民力と支配力が失われていたため、
土地を失った民を支配して大きな負荷をかける兵戸制度に頼らざるを得なかった。
蜀は比較的「豊か」だったので、東州兵や劉備軍の末裔が兵戸になったとしても、
そこまで大規模なものに頼ることはなかったのだろう。
>いやむしろ扶養する側に置いてもいいぐらいだろう
まあ、魏と同等の過酷な徴税が課されていたとするなら、間違いなく扶養する側としていいと思う。
>こうして「一般論」の落とし穴はできるのだ
では吏四万はなにをしていたと解釈するわけ? 官位ばらまきの無駄飯ぐらいってレスはどこかであったが。
>>535 「昔破黄巾,因為屯田,積穀于許都以制四方.(中略)可省許昌左右諸稻田、并水東下。」
>>537 少なくとも漢文では含まれてるか含まれてないかくらい明記するものだと思うけど?
そこまで言うなら含まれてないものをこのような書き方してる実例を出してよ
>>538 >徴募に応じて軍部に監督される田地を小作して、5割または6割を税に持っていかれる
それ屯田民で兵戸じゃないでしょ
兵戸は軍役専門で、奴隷のような過酷な境遇(子孫も軍役を強制される)だけど基本的に農民じゃないはず
同一のものと看做されているよ。
というか兵戸と屯田民を別物とする話なんて聞いたこともないし、組織上わけのわからないことになる。
兵戸は典農軍官に管轄されるため「屯」田地を耕す扱いになり、その地位に留まることを拘束されさえしていた。
だから手柄を立てて兵戸を抜けることが褒賞になる。
>>538 可省許昌左右諸稻田、并水東下
これ灌漑を確保しようぜ、って書いてあるんだが
済川論の一説だから屯田兵の移動じゃなくて屯田と灌漑の計画だし
その後で「且田且守」と耕作しながら守備させろと言ってるわけで
民屯ではありえない
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/10(月) 00:37:56
済河論だった
変換ミス格好わりぃ
>>542 許昌の屯田を省いて水を東に流したら、当然許昌屯田は廃止になる。
その人員を「陳・蔡之間」に移したとみるのが自然でない?
「民屯=兵戸=現地守備兵」なのは上の通り。
司馬孚の上言でも、
「遣冀州農丁五千屯於上ケイ,秋冬習戰陣,春夏修田桑.」
「農丁」に「屯」させて「習戰陣」「修田桑」とあるね。
545 :
538:2010/05/10(月) 00:53:29
ん、読み違えていたな。自己レス
>では吏四万はなにをしていたと解釈するわけ? 官位ばらまきの無駄飯ぐらいってレスはどこかであったが。
ここは撤回。
で、
>>451の論に従うなら、
人口100万のうち、扶養されているのは吏4万だから「非労働人口4%」は間違い。
「戸数28万のうち、扶養されているのは吏4万だから「非労働人口14%」にすべき。
もちろん、一世帯の中で複数の吏がいる家もあっただろうけど。江戸の武士人口より遥かに高い割合だよね。
その疑問を解決する「一般論」が
>>81だ。
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/10(月) 01:00:08
>>544 民屯は田畑持たない一般人に耕作させるもの
守備させたら軍屯だよ
「徴募」によって集められ、一家と共に常時、屯田地を耕すのが民屯。
身分的にその屯田を耕すことが定められたのが兵戸とか士戸と呼ばれるもの。
曹操は各郡に「徴募」による屯田を開いたが、魏になると効率的な前線や洛陽に兵糧を蓄積するために、
士戸の移動も図られた。前線の士戸は「秋冬習戰陣,春夏修田桑.」と即応守備兵の役割を兼ねた。
軍事召集された前線で、屯田に従事するのが軍屯。つまり単身赴任のようなもの。
漢武帝が始めた西域屯田が有名だが、魏でも冀州などから召集された兵が揚州を守っていた
という話があるので、彼らは緊急時以外は軍屯に従事していただろう。
民屯と軍屯には制度と身分上の差があるってことね。
魏の場合は、前戦配備されて軍屯に従事した者も、
出身としては内地の兵戸の人間だったのだろうけど。
(漢ではもちろん、徴兵されて軍屯に従事したのは一般良民だった。
ただし後漢になると、金銭を貰って兵役を代行することが蔓延したというが)
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/10(月) 20:07:00
亜熱帯気候の蜀は米作 冷態の魏は麦作
米は、温暖多雨の気候条件は必要だが、少ない面積で大量の収穫を得れる
ただし、一家総動員の労働力が必要であり、集約労働型であり、一般的に兼業は難しい。
麦は、冷涼少雨で育つ。また種をぱっぱと撒けば育つが、面積あたりのカロリーは米に比べ少ない。しかし、酪農や兵士など兼業が楽
>>549 稲作はまだまだ技術的(品種的、気候的?)に無理だろうけど
麦だと、気候によっては二期作可能っぽいよね。
一年あたりの収穫効率はどうだったんだろうな?
まぁ、人間の話だからカロリーがいくら高くても、
(たとえば稲が麦の二倍のカロリーがあろうとも)
半分でお腹一杯!とは言えないだろうからなぁw
ぎりぎりまで切り詰めたときに、麦だったか
米だったかで生きるか死ぬか、戦えるか戦えないか
って言うのには関係してきそうだが。
>>549は淮水流域が米と麦どっちでも行ける地域な事忘れてると思うのだが
河北は結構寒いが河南〜江北は普通に温帯なところ多いし、江南は亜熱帯に近いぞ
>>539 そこまで言うならって別に何も言ってないけど?
ただ読めば分かるだろとしか言ってない
読めばいい
>>538 >「全戸のうち26%が帯甲兵戸」ということになる。あんまり変わらない。
なぜに帯甲の比率にそんなに拘る?
除外と言っている
>>いやむしろ扶養する側に置いてもいいぐらいだろう
>まあ、魏と同等の過酷な徴税が課されていたとするなら、間違いなく扶養する側としていいと思う。
いや、俺が言ってるのはそういう事じゃなく、
兵戸は自足・無税だが、軍屯の収穫が国家に入っているという意味
>>541 兵戸は永代の兵役が課せられる代わりに租税は免除される
屯田民と兵戸が同一だったら困ったことになっちゃうね
典農が兵戸を管理したってのは知らない
ソースどこ?
>>544 「民屯=兵戸」でないのは上の通り
「農丁」は農夫
農夫を兵にしたらいけない決まりはないだろう
兵戸を設けたことと徴兵の完全撤廃はイコールではない
>>545 まだ読み違えてるよ
>人口100万のうち、扶養されているのは吏4万だから「非労働人口4%」は間違い。
官吏の妻がいるので合わせて8万前後
そこは
>>479で訂正している
>「戸数28万のうち、扶養されているのは吏4万だから「非労働人口14%」にすべき。
どこを縦読みすればそんな数字になる?
>>549 「蜀は米 魏は麦」ってよく言われるね
ちょうど「許昌左右諸稻田」って記述が挙がってるが
「稻田」=「米」だよ
「積穀于許都以制四方」ともある
ってことは魏の兵糧の中心は案外米だったんじゃないのかな
>>555 兵糧には兵士の俸給も含まれてるから
当然価値の高い米の方が基準になってく
>>554 自分が持ち出した比較や比率に振り回されてわけがわからなくなってるようにしかみえん
>>555 対呉方面は淮水流域の米だったのかもね
対蜀は漢中の粟で、隴西では麦も栽培されていたようだけど
本当に兵士や吏にそんなに俸給払ったのかな
ほとんど払わなかったんじゃないの?
吏及び吏待遇の士官にはそれなりに払わないといけない。
兵卒には…普通に考えれば支給品以外払ってないだろうね。兵役だから。
>>560 兵卒こそちゃんとした報酬で釣らないといけない存在なわけだが
ケ艾の試算による1人に年60斛という分量を米で換算すると現代の6000合強に相当する分量
兵士が1人で食う分だけなら多くても1日10合、年3600合程度でどう考えても配り過ぎなんだよ
明らかにケ艾の計算には必要最低限以外に兵士への俸給としての兵糧も含まれてる
>>561 まあ途中でピンハネされるからなぁ。
必要最低限カツカツの量だと全然足りないってことになりそう。
横領は長距離移動の時には顕著だけど現地で調達、現地で支給なら必要量の2倍を見積もる必要はないぞ
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 18:34:49
>>563 司令官がピンハネし、参謀たちがピンハネし、部隊長たちがピンハネするんだから、倍ぐらいないと足りない。
>>564 そういうのが全く起こらないとは言わないがそういう横領を防ぐ措置くらい魏でもやるだろ
それをやった上で必要量の2倍を必要とするなんて異常事態は起こりようがないと思うが?
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 21:38:12
>>565 食料が10あったとしても、実際に戦場の兵士の手元に届くのは2か3ぐらいしかないというぞ。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 21:45:38
中国のピンハネの伝統を舐めてはいけない。
近代に入ってすら、兵士の給料を将校や下士官が横領しまくってたところだぞ。
おかげで士気がだださがりになって日本軍に負けまくった。
装備そのものはドイツ製で強力だったのにな。
中国軍で日本軍とまともに戦えたのは、インドで米式装備と米式訓練を受けてた部隊だけ。
なぜかといと、この部隊は給料がまともに支払われていた。
そういうのが無いとは言わないがそれで兵糧の必要量が2倍近くなるという数字的な根拠は?
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 21:53:28
>兵糧の必要量が2倍近くなるという数字的な根拠は?
酒を造ったのさw
>>561 米で換算しちゃまずいんじゃないか
まずケ艾の言ってるのはその作物なのか
そして脱穀してるのかしてないのか
それらによって全く変わってくるぞ
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 22:10:23
兵士に3日分以上の米を渡せば、売り払って金にするか酒をつくる。
>>570 稲作してんだから米換算でいいだろ
淮水流域は米作地域だし、ケ艾の話を読む限り水田の話に見えるから
脱穀するかしないかなんて、当然してないだろうと考えられる
脱穀した米なんて脱穀前に比較したら全くと言っていい程日持ちしないのだから
「物資」として考える場合、脱穀前と見るべきだろう
米の場合大体籾殻が1割程度なので、脱穀前でも2倍必要理論の裏付けには全くならんのだが
一年、1200?
一日あたり3,29?
脱穀して1.6?
1.6?の玄米は約20?のご飯になる
大きめの茶碗が200ccくらいなので1日10杯
体使ってる人間なら食うよ
訂正
>1.6?の玄米は約20?のご飯になる
1.6?の玄米は約2?のご飯になる
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/12(水) 23:21:03
>>574 言われてみれば斛って体積の単位だったな
重量で計算してたわ
それなら2倍でも不思議ではないな
一般兵の俸給が月額5斛だとすると、
後漢の話だが、
百石月十六斛,
斗食月十一斛,
佐史月八斛.
凡諸受奉,錢穀各半.」
とある。最末端官吏の左史より安い、くらいか。
ただ、官吏は農地を持っているのが普通なので
八斛の俸給だけで一家を養って暮らしていたとは考え難い。
魏の兵卒にもこれが当てはまるのかどうか。
それからケ艾が想定したのが「俸給額」なのか、
純粋な対呉侵攻用の「兵糧支給量」という問題もある。
>>578 米の現物支給で貰ってたとすると米売って安い雑穀買って食ってたという事も考えられるかもしれない。
貨幣が信用されずに物々交換が流行ってる魏だと米の価値が後漢に比べて高まってるように見えるし。
当時の兵士は雇用してるんじゃなくて強制的な徴発か家族を人質にした事実上の奴隷戦士なんだから、どっちにしろ俸給なんてあってなきがごとしだろう
家族を養う分があったとしても、戦地の備蓄とは別個に計算するんじゃないのか
雇用ではないけど俸給をちゃんと出さないと逃げるでしょ
昔から中国の兵士はよく脱走するってことは様々な本でも見かけるし
史記でもかまどが減って斉兵が逃げまくってるということを魏側は極自然に受け止めてるし
しっかりと報酬でつなぎとめなければ逃げるってのが古代中国の兵士ではない?
曹操も勢力立上げ時期に丹陽兵に反乱されてるけど、あれも恐らくは兵糧不足ではないかと想像される
言葉の通じない異文化勢力相手ならまだしも、魏呉蜀ともに漢人を相手にしてるから
脱走したって脱走先で新しい生活に困ることもない
だからこそしっかりとした俸給での繋ぎ止めが望まれる
>>581 当時の米が高かったのか? という問題もあるんだよね。
当時の中原の租税の基本は粟で、麦や米は辺境で食べるものだった。
>>583 逃亡防止のために、魏は士戸にかなり強引に妻帯させて定住させた。
兵役の逃亡抑制策はこれ。
後漢末の兵が逃亡しやすいのは、家を持たない流民を編入したのが主力だったり、
勝手に移動する豪族が部曲兵を取りまとめていたから。
すでに黄巾の乱直後から漢は募兵に頼っており、それを養うために
西園の莫大な財貨が消費されたり、董卓が無茶な財政政策を取ったりしたのだ、という。
定住した士戸の兵で、暮らし向きが十分なら、兵糧不足だったり戦況が苦しかったり
しない限りは、逃亡抑制策としての俸給というのはあまり考えづらいだろう。
というか、前漢の徴兵山盛り時代でも十三万人だったのに、
口数1/10の魏がおそらく20万以上の士戸に吏に準じる俸給を払うなんて無理じゃね?
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/13(木) 06:05:43
>>584 米は酒の原料になるよ。
ただ、酒をつくるには普通に食う分の10倍ぐらいの分量がいる。
曹操や劉備や呂布などの群雄がたびたび禁酒令を出してたのは、
別に本心から酒がけしからんといいたいわけではなく、兵糧の節約が目的。
要するに戦争やるための兵糧がほしいだけ。
>>1に答えるようなテンプレを作るとどんな具合になるのだろうか
>>584 中原の租税の基本が粟なのは単純に作れない面積が広いからでは?
漢代には既に米って素晴らしいネ!って言う価値観があるよ
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/14(金) 12:08:43
三国の人口に関して
魏 2250万
呉 90万
蜀 60万
こんなデータがあるよ
ねえよw
晋280:1600万
魏263:443万
蜀263:94万
呉280:230万
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/14(金) 23:26:29
酒って質関係なく最低でも値段が元の穀物10倍くらいになったみたい
ある程度の資本力さえあれば酒造ってた方が儲かる
涼州=胡
幽州=燕
并州=晋、代
冀州=趙、斉
青州=斉
兗州=梁、魯
司隷=周、秦、晋、魏
予州=宋
徐州=楚
揚州=呉、越
荊州=楚、鄭、韓
益州=蜀、巴、漢、南中
交州=越南
司隷=河南尹雒陽
予州=沛国譙
冀州=常山郡高邑、魏郡鄴
兗州=山陽郡昌邑
徐州=東海郡郯、彭城国彭城
青州=斉国臨淄
揚州=九江郡歴陽
荊州=武陵郡漢寿、南郡襄陽
益州=広漢郡雒、広漢郡綿竹、蜀郡成都
涼州=漢陽郡隴、武威郡姑臧
并州=太原郡晋陽
幽州=広陽郡薊
交州=蒼梧郡広信、南海郡番禺
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/15(土) 19:04:51
>>588 さすがにそこまでいくと蜀呉は瞬殺だろう
しかし、群雄割拠だった呉はともかく
蜀は劉備が来るまで、劉璋が単独統治していたんだから、自慢の国力で
曹操が中原を平定するより前に乗り出してくれば天下を取れた気もするな
それらりの武将もいたし、彼が暗愚であったのば残念。
劉巴なんて史実なら政治90くらいでもよさそうだけどな
国力、人材だけあってもそれの真価を抽出するだけの
政治機構を整備、維持出来なかったんだろうな
>>594 劉焉時代に、劉焉が関中に介入しようとして失敗してる。
劉璋時代になったら、漢中の張魯は離反するわ、
内乱が続くわ、武将や各地の太守が半自立状態になるわで、
中原に打って出る余裕がない。
>>594 劉巴は事績が注の零陵先賢伝に依る部分が多すぎてな。有能だったのは事実だろうが。
あれ、誰がいつ書いたかもわからんし、蒋エンみたいな大物が出てこなかったり、江表伝や襄陽記よりもさらに当てにならんと思う。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 01:22:11
劉焉はなぜ天下取れなかったの?
早死にしたから。
というか、関中に攻め込んで敗北しとる。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 12:45:26
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 18:00:30
劉巴は何がしたかったのかよく分からない人
ふ
>>602 本当は献帝を擁した曹操に仕えたかったけど、
めぐりあわせが悪くてあちこち放浪して、
やっと曹操に仕えることができたと思ったら、
置き去りにされて、益州まで流れてきて、
仕方なく劉備に仕えた人だと思う。
蜀でも働いたけど、心底忠誠を誓ってたわけじゃないみたいだし。
嫌だけど仕事与えられれば要求以上のことやっちゃうタイプ
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 19:24:32
>>604 劉把に曹操に仕える気があるなら、交州や益州じゃなく北に帰るべきだろ。
趙範だって帰ったんだし。
>>604 曹操に派遣されていた荊州南部から、
北に帰るには、当時周瑜と曹仁がドンパチやってた荊州北部通らなきゃいけないから、
しばらく危険を避けて遠回りしてるうちに帰れなくなったんじゃないかな?
別に曹操個人に仕えたかったわけでもなかろうし
劉備が漢室擁護を旗印に挙げれば名分にはなる
遠回りしてる間に曹操が魏公になったりしちゃってるしね
劉巴の父と文台パパの関係を見るに
劉備というより孫権を避けて交州へ逃れたのだろう
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 19:50:22
>>610 それでも交州→益州→魏なんて馬鹿でもない限り取らない道すじ。
過去にまったく前例がない。
>>612 北に帰りたいのに交州に逃げる馬鹿なんていない。
王朗行く途中で北に帰った。
許靖がおるがな
彼も終に中原へは戻れなかった口だが
ついでに裴松之から「そこまでして逃れなければならない理由など何処にあったのか」とも言われてるが
>>613 自分自身以外のこのスレの全員が、「劉巴は曹操ラブ派」とでも言ってるように見えるのか?
遼東と交州は僻地すぎて平和なんだろうか
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/17(月) 20:15:02
>>616 病気がいっぱいで、中央志向がある人間なら絶対に行きたくない場所。
>>616 土地としては平和とは言い難いと思うが、
当時、交州には士燮一族、遼東には公孫度が強い統治を敷いていたから、
戦乱から避難してその庇護下に入るというのは中原人にとっても有力な選択だったようだね。
特に戦の結果支配を拡大した特に新勢力に与したくない・追われている、というような人間にとっては。
もちろん、中原から一気に到達するわけではなく、
青州や冀州から逃れて遼東、荊州や揚州から逃れて交州、というステップだったろうけど。
>>617 遼東に避難してた連中は情勢が落ち着いたら、
みんな中央に帰って行ったがな。
交州に避難してた連中は居心地が良すぎて居付くか、
途中で益州か揚州あたりに行ってしまったが。
その点、涼州の人間は悲惨だったな
長安には関があって流民は入れないし
漢中は閉ざされてるし
并州は馬賊が跳梁跋扈してるしで逃げ場が無かった
涼州人は辺章や王国、韓遂らの自治的連合に降ったんじゃね? 馬騰が代表格だけど。
関中からの流民はスルーして益州に入っているから、
まあ安定圏を築く有力勢力というには足りなかったんだろうな。
でも、あいつら食えてなかったみたいなんだよな
馬すら居ないw
あの辺の叛乱の主力は普通に騎兵だぞ?
戟兵だべ?
涼州出身の麹羲が対騎兵戦術のスペシャリストだから、
涼州での戦闘では普通に騎兵使われてたんじゃね?
騎兵使わないところで対騎兵戦術覚えても意味ねえし。
そりゃ羌族などの非漢族の話だな…
当時の関西は大飢餓時代で馬肥ゆるどころか食うのに事欠く有様ですよ
漢人も羌族の風習に近く、騎馬や強兵を尊ぶ民俗になってたよ。
そもそも、食うに事欠いて武装もろくにない状態で大叛乱を起こしたのはその羌族。
だが、遊牧を主要産業とする隴西の民(関中にもかなりいたけど)は、
趣味や軍備で馬を飼ってるんじゃないんだから、生活する以上馬が無いってことは無い。
馬を食う前に人を食うのか
そりゃまた奇特な文化だな
飢餓状態なら、死んだ馬でも人でも食うんじゃね?
馬は平時でも食われていたかもしれないが、
史書の記事になるようなことじゃない。
倉慈伝の記述だと、漢族は西域にあっても田畑で営みを得ていたようなんだよな
逆に漢族が牧畜を営んでいたって記述はどこら辺のものなんだ?
>>630 若い頃の董卓が農耕と牧畜の両方を営んでいた。
あと、だいぶ古い話になるが、新末に馬援が家畜数千頭もの大牧場を保有していた。
涼州が復興を遂げるのは、遥か時代下って
ケ艾が鮮卑系民族を隴西に移住させ、そこで牧畜を営ませてから…
涼州の地味は天下一らしい
董卓が居た頃はまだ良かったんだろうな
長安で李カクと郭シが、辺境で韓遂と馬騰がやりあいはじめてから飢餓の色が強くなる
曹操の統治がなければ、長安の復興はならなかった…
他方、その枠の外にあった関西は…
>>633 地味が肥えていたのは関中や巴蜀じゃね?
涼州は「五穀少なし」という土地だよ。
そもそも董卓が飼ってたのは牛なんだよな
農耕を営み牛に田畑を耕させるのと、馬を放牧して移動するのでは、生活様式が全く異なる
その生活様式に於いて、羌胡と漢人は雑居して習俗は既に異なり、言語は通らず、と評価された。(後漢書西羌傳)
過酷な賦役に耐えかねて徒手空拳で叛乱を起こした永初年間以来、羌は無数に騎兵を従えて蜂起してきた。
漢人がそれよりもさらに著しく低い生活水準をおくっていたとは考えられない。逆ならともかく。
また、漢人が耕作しかしていなかったのなら、「馬すら居ない」なんてのは貧乏の証には殆どならないよ。
畑を耕すのは牛で、中原の漢人は馬を馬車と軍馬くらいにしか使わなかった。
もちろん、涼州の漢人が乗馬に習熟していたことは董卓他、涼州人が騎兵として尊重されたことからわかるが。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 00:51:29
>>638 耕牛とともに農耕馬もいるわけで
馬すらいなかったら貧乏なことにゃ代わりない
今で言うトラクターのない農家みたいなもんだぞ
>>639 主力じゃないよ。
涼州の漢人限定で、牛はいるのに馬がいないという
妙にピンポイントな情報がどこからでてきたのかよく判らないけど。
牛はいるっつったって戦乱に入る前の話じゃん
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 01:02:55
羌族はしばしば漢族の領域を襲い、収奪を行った
討伐の命を受けた董卓は、羌族とよしみを結び、一方で彼らを不問に処す事で収奪を防いだ
が、董卓は長安で討たれた
結果、羌族はまた収奪を始めた
馬騰と韓遂もまた争った
長安では李カクと郭シが争い、城から人は消え、飢えた人々は殺し合い死肉を貪る有様となった
涼州は安帝期から叛乱続発地帯で漢の郡縣支配は後退しっぱなし。
討伐軍が進出して征伐して引き上げては叛乱が起きるの繰り返し。
「戦乱に入る前」っていつ?
董卓以外に騎兵を用立てられた軍が有るのか
そもそも董卓が上洛時に率いていた軍勢なんて大した数じゃないぞ
にもかかわらず涼州の軍は騎兵が主体とかいわれてもな
いたとしてもそれは羌じゃないのか、と
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 01:10:28
>>641 魏の屯田でも牛貸すぞーって言ってんだろ
それくらい牛馬ってのは農耕において一般的な存在
屯田が根付くのは晋代に近くなってからだろう
>>649 涼州の屯田が、な
さっきから主語が抜けてんなw
つまるところ何が言いたいかと言うと
そんな土地を奪って蜀は何をしたかったのか、という事なんだが
屯田しようにも、諸葛菜みたいな物を持ち出してすら、策源地機能を果たさなかった訳で
>>650 漢の涼州の話だろ?
長安辺りとかも漢の頃は涼州だぞ
>>652 そうなんだが
主語がないと漢土全部だと取られそうでw
係争地というのは豊かな場所を巡るのが通常だと思うんだよな
キ山が何ぼのものだったのかは知らんが
涼州みたいな実入りの無い土地に固執する必要はあったんだろうか
蜀が豊かだったから、純粋に領土欲とか国威向上みたいな戦争目的でも満足できたって事なんだろうか?
>>647 後漢朝廷。
羽林郎は、常選漢陽、隴西、安定、北地、上郡、西河凡六郡良家補.とあり、
羽林騎ともよばれ騎射に秀でた者が選抜された。
郡県の徴兵でも、関西や北辺からは特に「騎士」が訓練された。
いずれも漢の戸籍に入っている者たちであり、蛮族ではない。
羌族も含めて、関西の民は匈奴のようないわゆる「騎馬民族」ではないよ。
数ではだいたい歩兵が多いだろう。
だが、中原の民から見れば相当に騎馬に習熟した地域であり、
全体から見た騎兵の比率も格段に多い。「主力」は騎兵、で良い。
主体とは言っていない。
>>652 長安は司隷だぞ…
李カク支配下の長安が飢えたことを以って「涼州に馬がない」と言うつもりなら、そりゃ噛み合わんはずだ。
同一人物かどうかしらないが。
遊撃隊以上の戦力は有ったってことか。勉強になり申した
重ね重ねの無礼をお詫びいたします
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 01:30:35
>>654 係争地には大きく分けて3種類ある
一、豊かである
二、険阻である
三、経路である
涼州は二と三に該当
>>658 二、三だけで攻め取ろうとする当たり、蜀はそこを維持できる程度には豊かだったって事だよね
考えてみれば、漢復興なんてロマン一つで大遠征かましてる当たり、相当に豊かだった事が伺えるね
>>659 敵にとっての二、三という可能性もあるよ
それを阻止するためには獲る利益がなくとも攻めざるを得ない
そして消耗戦に持ち込まれて敗れるのか
嫌過ぎる
いつかは敗れると分かっててなお、打って出るしかない
豊かでも弱かったら駄目ですね
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 02:20:27
>>659 2と3は採算をある程度度外視してでも取らねばならぬ軍事上の拠点ってことだから
豊かであるかどうかじゃなくて国家存立に対する重要度で決まる
漢中とられなきゃ大丈夫なんじゃないの?
ってのは甘い考えなんだろうか
>>659 維持なんか出来ないし、しようともしてないよ。
やった事は民衆を拉致って漢中に連れ込んだ程度。
つまりはそれだけ人口不足に喘いでいたって事。
長安から遥か遠い西方の山間に点在する涼州の諸郡は連携が困難で、
また守備隊も少ないので容易に攻略・略奪する事ができた。
ちなみに北伐で登場する地名の位置関係は下
←涼州
街亭
天水
キ山 陳倉 長安
武都 漢中
街亭ってもっと長安よりじゃね?
東の函谷関、潼関
南の武関
西の隴関、大散関
北の蕭関
と囲まれた関中さえ手に入れば蜀は天下取れた?
>>668 たぶん無理。関中は要害だけど中原諸州に比べて生産力低いし人口も少ない。
>>669 孔明や姜維の考えとしては天下云々ではなく
緩衝地帯を作りたかったんだろうね
国境線は険阻だけど、突破されればあとは盆地だから
阻むものがなくなってしまうし、国土が狭いので遅滞戦も難しいから
荊北を維持した状況で行うならまた別だけど
>>670 確かに関中を取れば漢中との緩衝地帯になるけど、
それは三輔を取った場合。
しかし、実際には諸葛亮や姜維は三輔よりずっと西の雍州西部や
涼州東部ばかり狙って出兵してるわけで。
そんな地域取っても漢中は魏と国境を接したままで、
緩衝地帯にはならない。
姜維はともかくとして、第一次北伐では長安まで切り取るつもりだったと思う
まぁ、ポカミスで失敗してしまったけど
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 19:44:29
>>674 関中が豊かなのは前漢までだよ。
後漢からは貧しいとはいえないまでも、
人口も激減し、平均的な地域になってしまった。
>>668 関中を奪って魏に動揺を与えられるならまだ勝機はあると思うけど
それで動揺しなかったらどうしようもない
(蜀は魏が支配する荊州全体どころか西端の西城にすら出て来れなかったから
外に出るよりも前に関中を奪回される可能性の方が高いだろう)
>>672 あれだけ西に出てしまったら「長安まで」ということはあり得ない
(曹叡が長安に入ってしまうから)
本当にあの方法で魏と正面決戦を行うつもりだったか
雍州西部や涼州を奪うつもりのどちらかだったと思う
>>675 同時期の中原は平均未満の荒廃地域だから(まあ関中もこれに含むが)、
魏は冀州に拠らざるを得なくなる。
これで天下取れるなどとは言わないが、三国がかなり拮抗した態勢になるね。
>>677 諸葛亮が北伐する頃には、かなり中原の生産力は回復してたが。
中原より狭くて人口の少ない関中取ったぐらいじゃ拮抗しない。
>>672 何度失敗しても寿春目指して合肥を攻め続けた呉と違って、
諸葛亮は何であんなになんども戦略目標変えたんだろうね?
>>678 晋代に入っても、青豫エン徐州合わせて益州をやっと上回るくらいの戸籍しかないよ。
しかもこの四州は呉に対する備えでもあり、西に全力を注ぐことはできない。
司隷は断トツで益荊冀揚州を上回っているが、これは魏代を通じて継続的な人口集中が図られたためだろう。
で、前提に戻るが、諸葛亮が一次北伐で関中を制圧する気ならば、
曹真軍と曹叡の皇帝本隊を立て続けに撃破するくらいはしなければならない。
これは最高に上手く運んだとしても難しい目標だろうが、そこまでやって
潼関と武関辺りを押さえれば、魏の二代拠点の一つの洛陽が指呼の距離となる。
蜀の大軍に対するには縦深が足りなすぎて首都として機能しなくなるおそれがあるので、
遷都計画が俎上に載ることになる。
となると遷都先の有力候補は兵站が整備されている冀州。
山東諸州では体力もなく、呉蜀の挟撃に耐えられない。
かくして河水・関中・淮水をそれぞれ最低ラインとした魏蜀呉が中原に鹿を追う、という事態になると思う。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 21:13:54
>>597 劉巴は蜀降参のナンバー2でしょ
位置で言うと、法正より下、黄権より上
早死にしちゃったけど
雑魚が同じところを攻め続けたって上手く行きっこない事の検証は
遠く揚州で孫権が存分に披露してくれてたからな
>>681 司隷でも人口集中してんの、河南と河内と河東ぐらいだろ?
関中の京兆と馮翊と扶風は後漢の時代から人口が少ない。
しかも魏にとっては国境地帯。
そんな地域に人口集中させる意味があるとは思えない。
関中取っても、蜀は魏に国力的に対抗できないよ。
あと、洛陽は西からの攻撃には強い。弘農は結構な要害。
また、蜀の兵力では関中を確保するのが精いっぱいで、
洛陽攻略に動き出すことなど無理だろう。
だから、蜀が関中を占領しても河北遷都という事態にはならないし、
すぐに関中奪還に動き出すだろう。
蜀の兵力では、魏が本気で関中奪還に動き出したら、
要害に拠ったとしても兵力差で押し切られる。
>>681 益州攻略時は劉巴の地位は大勢いる有力者の一人で、
法正に次ぐほどでもない。黄権と大して変わらない。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 21:59:06
長安周辺を三輔というように洛陽周辺はなんというんだろう?
>>683 >司隷でも人口集中してんの、河南と河内と河東ぐらいだろ?
そうだよ。そのつもりで
>>681書いた。
で、即応の洛陽軍を撃破して弘農までいければ、
いくら河南が巨大人口を抱えていても洛陽は守れない。
山東蜂起を恐れた董卓や、関羽の北上に慄いた魏高官らと同じ構図。
>>684 三河
三輔:京兆、左馮翊、右扶風
三河:河南、河内、河東
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/18(火) 22:23:07
み、三河・・・
>>685 だから蜀の兵力では関中を確保するのが精いっぱいでその先まで進軍はできないし、
仮に無理やり進軍したとしても要害の弘農で食い止められて、
攻勢限界に達して洛陽まではたどり着けないってんだろ?
洛陽は西からの攻撃には強いんだ。
董卓の長安遷都は洛陽が東からの攻撃に弱いから、
関羽北上の際に曹操が許からの遷都を考えたのは、
荊州と許が近い上に、許が荊州からの攻撃に弱いから。
蜀を西から迎え撃つ魏とは事情が違う。
三河のあたりは秦の頃は三川郡とも言われてた
>>688 洛陽は西からの防備は弱いよ。東からも強くないけど。虎牢関などもまだないから。
函谷関や潼関は東の攻撃から長安を守る要害。
潼関・函谷関・武関まで蜀が取れれば、
守りを固めつつ遊撃で河南や南陽を脅かす態勢が整うってわけだ。
反董卓軍や関羽の優位と同じ構図が出来る。
始皇帝の頃からあの位置に要塞は建造されてたらしいけどね>虎牢関
>>690 弘農には要害の地がたくさんあるんだけどな。
長安遷都後の董卓も、山東諸将への備えとして、
弘農にたくさんの武将を配置して、防衛ラインを築き上げた。
弘農の要害ぶりを舐めてはいかん。弘農を確保してさえいれば、
洛陽の安全も確保できる。
あと、歴史上では西から洛陽を攻め落とした勢力はほとんどない。
東から洛陽を取って、それから関中に攻め入るのが黄金パターン。
>>692 だからそれは東からの守りなんだって。
そんな簡単に防備を逆用できるなら、
>荊州と許が近い上に、許が荊州からの攻撃に弱いから。
これも成立しないよ。
>あと、歴史上では西から洛陽を攻め落とした勢力はほとんどない。
西から中国を統一した国が周や秦くらいしかないからってだけ。
>>693 その周って南北朝の北周も含んでるんだろうね?
含んでると何か問題が?
そういえば漢って西から中国を統一してるな
すまん、数えて見ると結構多いなw
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/19(水) 12:41:35
長安から洛陽を攻め落とすには
弘農を通らずに南側を迂回して許昌を攻め落とし
東側から洛陽に攻め入るのが最善だと思う
唐も西から中国を統一してるね
逆に言えば天下統一するほどの勢力じゃないと、
西から中原に出るのは無理だったということか。
群雄や地方政権程度の勢力が西から洛陽を攻め落とした例は無いのか?
董卓…は違うか
蜀と魏ぐらいの国力差がある勢力が戦って、
蜀のような弱い勢力が西から洛陽を攻め落とした例を知りたい。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/20(木) 20:26:47
あ
>>679 呉と違って確固たる戦略目標など無く、攻めやすい場所を攻めただけだと思う。
第二次北伐の陳倉城にしても孔明は粗悪な小城で簡単に落とせると考えていたようで、
実際に改装中で城兵も千人余りしかおらず、非常に手薄だった。
まぁ、結果的には全く歯が立たずに撤退したけど。
例外的に第五次北伐では、死期を悟っていたのか長安と陳倉の間にある五丈原で短期決戦を望んだけど、
それなら最初から魏延の策を採用した方が良かったような気がしないでもない。
諸葛カクの北伐は結構いい線いってたんじゃないかな
>>704 魏延の策は長安とその周辺を占拠しても、一万では関中は確保できないし、
数万はいる関中諸軍は健在だから、
後から諸葛亮と合流しても関中諸軍との対決になるだけで意味がない。
魏延が長安占拠してる間に関中諸軍の指揮系統も元に戻るだろうし、
隴西諸軍や中央の軍も援軍に駆けつけてくる。
諸葛亮がダメだったから魏延の策が正しいなんて言うやついるけど
あれば全滅の危険があるんだって、魏延を死なせるわけにはいかないだろって
>>704 確固たる戦略目標もないのに、
諸葛亮はなんで五回も国の総力挙げて北伐繰り返したんだろうね。
攻めやすいところから攻めるってだけの理由なら、
とにかく領土を切り取りさえすれば良かったんだろうか?
国が破綻しなかっただけで、本質的には姜維の北伐と大して変わりない気がする。
君らスレタイを見直そう
一次 本気。馬ショクのミス
二次 三次の陽動?
三次 四次以降の布石。一次の言い訳
四次 本気。李厳のミス
五次 本気。孔明のミス?
という感じ
お前らイメージで語りすぎ
ソース祭りの開催です
>>584 逃亡・俸給に関して同意だが
>黄巾の乱直後から漢は募兵に頼っており
不同意
たまに聞くけど、これってソースどこ?
>>585 粟や黍でも酒は造れるよ
>酒をつくるには普通に食う分の10倍ぐらいの分量がいる。
それどこ情報?
米3合(茶碗に軽く6杯)で1.5リットルのどぶろくが作れるらしいよ
http://www.osk.3web.ne.jp/~jetplan/takejun/doburoku.htm >曹操や劉備や呂布などの群雄がたびたび禁酒令を出してたのは、
>別に本心から酒がけしからんといいたいわけではなく、兵糧の節約が目的。
>要するに戦争やるための兵糧がほしいだけ。
もう言うまでもないが、多分違うだろう
戦が膠着して酒飲んでると気分がだれる
やはり普通にこれが理由だよ
>>587 多分、我々は米を過大評価し、粟を過小評価している
身贔屓というか、米食の我々は米を素晴らしいと思い過ぎている
パンやパスタやトルティーヤなどの異食文化の人間も各々自分たちの食物を高く評価しているはずだ
どれが公正に見て正しいとか、この価値観にはない 皆、身贔屓だ
日本では粟や黍は貧しい時代の象徴的食物で、粗末で不味いイメージを持たれている
無論イメージなどというものは真実ではなく、その社会が作っている価値観に過ぎない
公正に見ることが出来たとしても、粟は米より美味くはないだろうが、
イメージほどではないということ
それに我々は米と言えば白米をイメージするが昔は玄米だったろう
白米との比較は正しくない
現代不味いと言われる玄米と粟との比較でなければならない
粟食の伝統を持つ漢人に粟が粗末というイメージはないし、身贔屓だってあるだろう
米も白米ほど美味くはない
一昔前はパンに憧れを抱き、近年はパスタが流行った日本だが
主食を米から換えた日本人はそうはいない
伝統的な食文化というものはそう簡単に変わらない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F#.E4.B8.AD.E5.9B.BD
>>650 涼州は豊かと思われるのでこれ関係ないけどソースくれ
>>651 涼州(涼・雍)の土は肥えている
田の等級は最高の「上の上」 (漢書地理志)
>>658 一、豊かである
これ、上で西域との交易の話をやったろ
それに資源が豊富
加え、関西人の気風は軍人向きで、勇猛な将の輩出と強兵の獲得を期待できる
日本で言うなら坂東武者の関東のようなもの
地質も良いし、涼・雍は力のある土地
>>670 いい加減すぎる
何を根拠に孔明や姜維の思惑を決めつけているんだい
関中は必争の地 取ったら必ず取り返しに来る
>国境線は険阻だけど、突破されればあとは盆地だから
>阻むものがなくなってしまうし
勉強不足
秦嶺を突破すれば漢中盆地
成都があるのは四川盆地
漢中と成都の間には峻険な大巴山脈が走っている
>>675 漢書地理志を見る限り、前漢時代の関中の人口が他の地域に比べて特別多いということはないよ
秦が天下取れたのは他国に比べ人口が多かったから ではないと推測できる
提案だが、このスレの人間は皆、晋書食貨志を読むことにしないか?
http://www.xysa.net/a200/h350/05jinshu/t-026.htm 三分の1あたりまでは読もう
・建安初,關中百姓流入荊州者十余萬家,〜關中豐實。
・戶皆有車牛,于田役省贍,京兆遂以豐沃
・魏明帝世徐邈為涼州,土地少雨,常苦乏穀。邈上修武威、酒泉鹽池,以收虜穀。
又廣開水田,募貧民佃之,家家豐足,倉庫盈溢。
・及度支州界軍用之餘,以市金錦犬馬,通供中國之費,西域人入貢,財貨流通,皆邈之功也。
おもしろそうな事が書かれてるだろう?
前後を読んで内容を把握してほしい
また全レスさんの登場か
歴ゲー板やダウソ板でも暴れてましたね
>>714 >地質も良いし、涼・雍は力のある土地
時代違くねーか?それ
>漢中と成都の間には峻険な大巴山脈が走っている
それは漢中盆地まとめて国境線ということだろうよ
>>719 >時代違くねーか?
土が簡単に変わると思うのか
>漢中盆地まとめて国境線
国境線は秦嶺だろ
後漢末の涼州に関して後漢書傅燮伝に記述がある
會西羌反,邊章、韓遂作亂隴右,徵發天下,役賦無已。司徒崔烈以為宜棄涼州。
詔會公卿百官,烈堅執先議。燮詞セ曰:「斬司徒,天下乃安。」
尚書郎楊贊奏燮廷辱大臣。帝以問燮。
燮對曰:「昔冒頓至逆也,樊噲為上將,願得十萬眾行匈奴中,憤激思奮,未失人臣之節,
顧計當從與不耳,季布猶曰『噲可斬也。』。
今涼州天下要衝,國家籓衛。
高祖初興,使酈商別定隴右; 宗世拓境,列置四郡,議者以為斷匈奴右臂。
今牧禦失和,使一州叛逆,海內為之騷動,陛下臥不安寢。
烈為宰相,不念為國思所以弭之之策,乃欲割棄一方萬里之土,
臣竊惑之。若使左衽之虜得居此地,士勁甲堅,因以為亂,此天下之至慮,社稷之深憂也。
若烈不知之,是極蔽也;知而故言,是不忠也。」
帝以燮議。由是朝廷重其方格,每公卿有缺,為眾議所歸。
・「役賦無已…兵や物資に際限がなかった」と言われるほど豊か
・「涼州天下要衝,國家籓衛」=涼州失うと国がヤバイ→中原もヤバイ
・「若使左衽之虜得居此地,士勁甲堅,因以為亂,此天下之至慮,社稷之深憂也。
…西羌が涼州の地を得るとする。彼らは兵士強く装備も堅い。反逆されれば
天下の心配は極まり、社稷は深く憂うに違いないのだ。」
涼州を軽視している奴は認識が甘い
土地は肥え、資源は豊富、兵は強く、大交易路であり、
異民族の軍事支援を大いに得られる可能性があり、更に西域支配の可能性もある
軍略面では蜀軍の中原侵攻の橋頭堡の役割を果たす
隴・涼が落ちれば三輔は危うい
険阻で攻めるのは困難
そのうえ涼・漢どちらかを攻めるときは残る一方への対処に兵力を割かねばならず
守るときは西南2面を防がねばならない ともすれば北を加えた3面を防がねばならなくなる
三輔が落ちれば中原はいよいよ危うい
まぁ、土地は豊かでも耕す人が居なければ作物は育たんというのは
魏書・倉慈伝に記述されてる
戦乱とそれによる流民が涼州の生産力低下の最大要因だったんだろう
>・「役賦無已…兵や物資に際限がなかった」と言われるほど豊か
それ出費に際限がないということだろ。
>>725 だな
韓遂が反乱して軍役や課税がキリが無い、ってことだ
そうかもねじゃないが
まぁいいじゃないか 誤読だよ
その件は無かったことに
読めないなら漢文に手を出さない方がいい
大やけどするよ
敵もそれだけ大きかったって事だよ →涼州それなりに豊か
>>730 ちょっとしたミス
それより食貨志読んどいてくれよ
ところで、インフレに話戻るが
晋書食貨志に
獻帝作五銖錢,而有四道連於邊緣。有識者尤之曰:「豈京師破壞,此錢四出也。」
というのがあった
どうやら董卓の改鋳前に既にインフレが起きていたようだ
>>382は俺だが正しかったみたいだね
>>732 生兵法は上から目線と併用すると致命傷のトラウマになりかねん
親切からやめろと言っておく。
後はどうなっても知らんが。
たとえ読んだとしても、単純な誤読する人とは話が合わなかったりして
>>731 結論を出してからそれに合わせて史料を解釈していると、自分で暴露してどうする。
涼州の乱が後漢にとって非常に重要な問題だったことだけには同意するけど。
涼州が失われれば関中が脅かされる。
というか、現に関中内へ羌兵が侵入を繰り返してやばいことになっていたのが後漢末期。
関中の不安定化は、殆ど至近に位置する洛陽を守る盾が失われることを意味する。
>>736 いいや
721の「豊かさ」はおまけ
731は思い付きだよ
>土が簡単に変わると思うのか
塩害って言葉知ってますか?
>国境線は秦嶺だろ
じゃあ防衛線のニュアンスだな
どっちもしても上から目線うざいよ
并州が賊の手に落ちてる時点で涼州がどうでも洛陽の命運は定まっていたような気がしないでもない
凡ミスでそこまで食い付かんでもいいんじゃないか?
誤読ってのは大概単純な間違いだよ
>>740 豊かだと主張する肝心の部分を誤読して
>涼州を軽視している奴は認識が甘い キリッ
とか言われても眩暈しかしねーよ
このスレの「涼州は豊かだよ」論者が見落としがちなこと。
涼州は致命的に人口が少ない。
隴西郡 29637人
漢陽郡 130138人
武都郡 81728人
金城郡 18947人
安定郡 29090人
北地郡 8637人
武威郡 34226人
張掖郡 26040人
酒泉郡 不明(2706戸)
敦煌郡 29170人
合計約40万人。中原の一郡程度の人口しかない。
>>742 >知ってるよ それが?
君の主張通りならメソポタミアは今も肥沃な大地でなければおかしいだろ
そして治安状況も考えるんだ。まともに灌漑施設が機能していると思うのか?
>傅燮伝のは全然肝心じゃないだろ
肝心じゃないなら出すな
論者なんて一人しか居ないだろ…斜め上へのいき方っぷりも同じだし
>>743 把握してる人口がそんだけで実際はもっといたかもね
でもそんなんで豊かとは言えんだろ、ということよ
中原で戸籍にずれがあるのとはまた全く別の事情だしな
後漢書郡国志(153年)ですと、漢陽郡のみ10万人以上ですね。
同時期の豫章(揚州)、南陽(荊州)、陳(豫州)、汝南(同)が
郡単独で150万以上の人口を擁している事を考えますと当時の
その地域が支配が及ばす把握がつかめない地域ないしは生活に
おいて厳しい土地柄であったと考えられますね。
なお、同時期の并州も70万程度ですし、南端の交州も111万程
度(なお鬱林郡及び交趾郡の人口不明)ですね。
>>743 それ言う奴の見落としがちなんだが
異民族はカウントしてんのか?
涼州は度々数万規模の反乱が起きてるが
>>744 飛躍はよくない
塩害の名前は知っててもシステムまでは知らないようだ
食貨志読もうって言ったろ
議論にならんから
>肝心じゃないなら出すな
おまけだよ
>>745 横目線のつもりだが
750 :
修正:2010/05/20(木) 23:14:34
それ言う奴、見落としがちなんだが
この全レス馬鹿は今後ハブった方がいいのかな?
理由は話にならんから。
自分の認識否定されるのが嫌なだけだろ
とりあえず役賦の人はブログかなんかで自説を好きなだけ語るほうがいいと思う
勝手に思えw
白熱した議論の所水を差してしまいまして申し訳御座いませんでした。
まぁ、知識も無い人間は混ざらないほうが良いですね。
失礼致しました。
とりあえず、通説を否定して通ぶりたいのだろうが
そういうのはなんだってー!?Ω ΩΩ みたいなノリじゃないと楽しめないのよね
ひけらかしも騙せるレベルに到達してないと、なんともつまらない
>>756 別に?
三國志の知識とかどうでもいいことだろ
なんだ通って
騙すってなんだ?
通説におかしい事がままあるのはその説を考えてみれば誰にも分かることだよ
>おまけだよ
メイン部分はどこ?
>飛躍はよくない
ふざけてるのか?
おまえが言うな
>塩害の名前は知っててもシステムまでは知らないようだ
じゃあ説明してみろ
>>759 >メイン部分はどこ?
>>721は
>>670-676あたりへの反論が主意 後半部はまとめ
豊かさは
>>716までで充分語れている
>飛躍
俺は飛躍は嫌いだよ
メソポタミアを涼州塩害の例に出すのが適切だと思っているのか
>塩害のメカニズム
ぐぐれ めんどくさい
「涼州塩害の例」ではなく「涼州塩害可能性の例」だね 訂正
>>714 ちいと遅レスだが
漢書地理志の冀州既載から始まるのは書経・禹貢の引用。
雍州の田上上も含め、夏禹王の伝説の時代または、
孔子の時代までを参考にした思われる物。
これを元に涼州が豊かというのは無理がある。
全レスで反論したつもりになってるのだろうが反論になってない件
>>716じゃまったく足りないね。
冀州益州の記事と比較してみろ
>ぐぐれ めんどくさい
それは無能の常套句だな。出来ないの間違いだろ
漢文もまともに読めてない妄想基地外がえらそーに指図すんな
>メソポタミアを涼州塩害の例に出すのが適切だと思っているのか
俺も飛躍が嫌いなんだ
漢書が成立した時期と一緒にするのは飛躍以外の何でもない
おまえの言うとおりなら放棄論なんて出るわけないだろ。
そんなことも思いつかないのか?
全レス馬鹿は度遼将軍の人と同一人物なのかな
わかったならおさわり厳禁です
珍説を唱えることで自己確認してんだろうな
>>762 どうかな 地質というのはそんなに簡単に変わらない
古すぎて漢代の参考にならない代物なら漢書作成で使わないさ
食貨志などにあるように涼・雍はちょっと手を加えただけで豊かになった
これは地力がないと出来ないことだよ
三国時代を更に下った時代の史書にも涼州が豊かである記述が出てくる
>>764 興奮するなガキ
>>765-767 ここ数日のレス 低レベルだなと思ってたら
やはり精神年齢低かったんだな
だから成長しないんだぜ
都合が悪い要求には答えられない無能相手に興奮なんてするわけないよ
>>768 それだけじゃ把握人口が少ない説明になってないぞ
>>765 度遼将軍祭りももう懐かしい出来事だなあ
>>769 致命的誤読で開き直る赤ちゃん人間はいつ成長するの?
くだらなすぎる
そういえば捕虜将軍って官があるけど、いつ捕虜になったんだ?
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 00:48:21
>>743 強引に領土化と城郭による防衛網整備してるだけで人口少ないし
農業だけで考えたらロクな実入りのない土地だよな
異民族、漢人の2倍くらいは居たりして
762の指摘通り、地理志上の
>>714は、書経の引用。
で、『漢書』成立当時の諸州の状況は、地理志下にしるされている。
函谷関以西の「秦地」は、漢の司隷西部、涼州、益州、并州の一部に及ぶ広大な地域だが、
今問題となる涼州・雍州部は三つの地域に大別できる。
京兆、扶風、馮翊の三輔(魏の雍州東部、いわゆる関中、隴東)
安定、天水、隴西の涼州南部と、北地、上郡、西河の并州西部(涼州南部は魏の雍州西部、いわゆる隴西。安定は地形的には関中だけど)
金城、武威、張掖、酒泉、敦煌の涼州北部(魏の涼州)
それぞれに風俗が解説されている
・三輔
文武王の指導によって耕作を好み、本業を務め、『詩』は農桑が衣食の根本であることを説いてつぶさである。
鄭国が渠を掘り、水を田に引き、沃野は千里、民はもって富饒であった。漢が興こると長安に都を立て、
豪族功臣の家を長陵に徒した。
・天水、隴西
山林が多く,民は板で室屋を作る。
また安定、北地、上郡、西河とともに蛮夷と接し、修習して戦に備え、気力が高い。
六郡の子弟は羽林・期門となり、名将が多く出た。
・武威郡以西
習俗は頗ることなり,地は広く民は稀で,水は畜牧に宜しい。
ゆえに涼州の畜は天下の饒であった。
おまけ
・巴蜀広漢
土地は肥美で,江水の沃野が有り、山林竹木 疏菜、果実の饒がある.
民は稲、魚を食い、凶年の憂いなく、風俗に愁苦はない。しかして軽薄で柔弱である。
・武都の地はテイ、羌をまじえ,及ケン為、ソウ柯、越スイは皆西南の外夷である。
民俗は大略巴蜀と同じい。しかし武都は天水に近く、習俗は頗る似ている。
隴西、涼州には、強兵と牧畜の富があるのが大きいが、屈指の穀倉地帯であった関中・巴蜀と比べると生産力に特筆はなく、
漢・晋代の人口から見ても、生産性において多大な利点があるとは言えない。
それから、地理志冒頭の「雍州」の記述はかなりの程度関中三輔を含むので「涼州」の評価には適さない。
前近代の灌漑技術では土地のアルカリ化はとめられない
>>777 数は不明だが数万の蜀軍に補給できるレベルのでかい集落があったのは間違いないから
かなりの人数がいたと思っていいんじゃないかな
大体、山がちな時点で生産力は限定されるのにな
夷をもって夷を制すよろしく、河西鮮卑を大量移住させなきゃならない程度に居たのは確かだろうな
大昔の温暖湿潤だった時期は土地は肥沃だったそうだが
気候変動で乾燥化、寒冷化が始まっている三国時代に
その時代の資料を適用するか?というと普通はやらない
>>783 漢の四百年だけで各州のパワーバランスが激変してるわけだからね
遡って殷代には江水の北に象がいた。
珍説を主張するためだけに晋書を読んで都合のいい記述を拾ったって感じだね。
で誤読した部分は尻尾きりと。実に惨めで鬱陶しい人間だ。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 09:54:50
788 :
鳥羽佐理 ◆uz2SFCJing :2010/05/21(金) 11:55:08
涼州と并州の人口が少ないのは遊牧民が多かったからじゃないかな
交州の人口が少ないのはベトナム地域には支配があまり及んでいなかった
揚州にも荊州にも益州にも異民族はそれなりにいたはずだけど人口は数百万いるわけだし
>>786 逆
益州の四川は古くから発展してた
益州が未開地の如き印象を受けるのは漢代に追加された未開地が多いからなだけ
逆に涼州はこれと言った都市も少なく、それらの都市も人口は低い
また灌漑も未整備なところが多く、いわゆるシルクロードの確保のために強引に城郭を設置してるだけに過ぎなかったのが実情
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 12:22:03
甘粛省とか青海省の写真を見ると人が住む土地には見えない
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 12:25:46
豊かな土地と要地はまた別
豊かさにも商業性と農業性がある
もちろん鉱物資源なんての一つ
漢代って鉱山あったのかな
金とか銅とか鉄ってどうしたの
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 13:09:34
>>792 質問の意図がわからないけど漢の時代は製鉄が一大ブームだったし
中国には砂鉄が多かったという話もないので、鉄鉱石掘ってたとしか考えられない
つまり鉱山はあった
やはり砂鉄だと思うんだが
で、砂鉄だからこそ時代が下るとちょっと廃れちゃった…みたいな
前漢の塩鉄専売の祭に産地に鉄官がおかれている
前漢の呉国は鉄と塩で財政が豊かだった
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 14:28:18
税を取る必要がないほど豊かだったらしいな
>>795 砂鉄を使ってたという根拠は?
鉄鉱山は現代でも結構あちこちにあるが砂鉄ってのは話も採掘場の遺跡も残ってないぞ
そりゃ現代の四川は鉱山が沢山あるし、製塩なんかも本場だけど
漢代の物だと決定されてる鉱山ってあったっけ?
砂鉄や隕鉄の利用を経ずにいきなり鉱山というのは考えにくい
800
801 :
鳥羽佐理 ◆uz2SFCJing :2010/05/21(金) 15:06:08
逆に後漢の頃には武具の大半が鉄器にかわり農耕器具も多くが鉄製品
になっていた(前漢はこれらに注目して塩鉄専売を始めた)けど、
くず鉄と砂鉄ですでに5000万の民がいた国の市場(需要)をまかなえたの?
常識にとらわれすぎなのかもしれないけど何も一種類の方法のみに固執していたとは思えない
砂鉄も鉱山も再利用も全て使わなければ技術が今より劣る分難しかったと思う
もちろん地表面から10メートルくらい全部砂鉄で覆われてたなら別だろうけど
武具の大半が鉄…?
まだ青銅器じゃなかったか
四川の製鉄に関してはこの前遺跡が出たばかりで、まだ可能性レベルの話じゃなかったっけや
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 15:23:54
鉄器って戦国時代から出現しはじめて後漢期には主流だろ
銅製といえば孔明が作った甲冑くらいで
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 15:26:27
鉄器が普及したから銅銭が発達したのか
あいかわらず銅が中心だったから貨幣も自然に銅となったのか
魏軍が武具に事欠く有様だったというのはよく言われる事だが
>>799 漢書、後漢書ともに「鉄山」が結構出てくる
砂鉄を表す黒砂が正史に名前出すのは旧唐書辺り地名として
宋代に地震で地面から黒砂が泉の中に出てきたって話もあるがね
鉄鉱石豊かな中国において、わざわざ砂鉄を集めて燃料を大量に消費して製鉄する意味がなかったと考えるのが自然では?
でもそれって山東とか遼東の方の話で、四川だったか…?
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 15:41:28
>>804 鉄器が生活の中心になっても鉄銭はレアだったわけで
銅銭が多かったのは単純に中国には銅が多かった事と加工細工が楽だったからだと思われるよ
鉄で細緻な模様入れるのはまだまだ骨が折れた時期だし
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 15:42:26
銅はやわらかく加工しやすいから
鉄は加工しにくいが丈夫だから鉄器として用いられた
筋は通ってるね
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 15:43:51
青銅を作るのは合成なだけに大変だったと見たことがある
>>806 廣都縣に山有鐵礦
武陽縣に山出鐵及白玉
賁古縣に山出銀、銅、鉛、鐵(錫)
鉄山の具体的な記述だけでもこれだけ。巴蜀はその他にも鐵官や鐵を献上した記述が多い地域。
む、ぶしつけな物言いだったのに、資料提示サンクス
華陽国志の記述なんだな
四川には鉱山があり、豊かな鉱物資源があった
他方、中原は枯渇していた…ってか
魏蜀でまがりなりにも戦争が成立したのもそこらが一因としてあるんかね
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 16:07:19
秦が巴をつぶしたのは塩と銅
つか鉱山は鉄以外にも銅や金や銀もあてはまるよな?
無論
しかし、金銀となると更なる精製技術が必要なんでは
水銀中毒の記述でもあれば完璧なんだが
金銀は鉄器(隕鉄)より数世紀も前に装飾品やコインに使われてるし、
むしろ金銀を得る為に鉱石を精製した不純物が鉄だったなんて話もある。
今のように純金に拘るのならともかく、当時の基準ではそこまでハイレベルな技術はいらないのでは。
そう言われてみると確かに
少なくとも秤を使った交易が発達するまで、そこまでの純度は要らないな
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 20:47:09
董卓銭と漢魏のハイパーインフレの関連性は?
>>813 水銀は当時長生きの薬扱いだし「水銀中毒」と明記される状況はまずありえない
状況証拠的に水銀中毒であったろう始皇帝にもそれらの記述はない
四川で秦代には丹砂(丹沙)と呼ばれる水銀の一種が採掘されてる記録があるし
後漢〜三国時代に水銀アマルガムを用いた金鍍金を施された仏像が発見されていることから
中国ではかなり早期から水銀を用いた金銀の加工技術、精錬技術が発達してたと見える
>>816 多いにあるよ
ただ後漢中期から末期にかけて漢の国庫から異民族討伐の戦費という形で市場に通貨が溢れ
董卓の登場を待つまでもなくかなり強烈なインフレーションになっていたことは忘れちゃいけない
董卓のしたことは「金がないなら貨幣を作ればいい」という後漢の経済政策の延長線上にあるもので
タイミング、鋳造した貨幣の質ともに最悪だったことを除けばそれ程前例に外れるものではなかった
>>818 後漢中期以降の貨幣経済について指摘されている現象は「慢性的な銭不足」だよ
市場に通貨があふれたなんて夢物語は存在しないよ
>>819 銭不足で起こるのは普通デフレだが後漢はインフレが起こってる
桓帝の頃には軍資金として三百二十億(単位不明、銭だと思う)を出費したという記録と
貨幣の価値が下がっているので大銭への改鋳が必要であるという上奏の内容が残っている
後漢の国庫は慢性的な銭不足、市場には銭が溢れたというのが真っ当な考えでは?
>>817 やっぱそうなのか
方技ということで一部記録に留まるのは悲しいことだねぇ
>>819-820 多分両方。
和・安帝以後の災害・叛乱の続発によって、朝廷は以後、多大な出費を強いられた。
出費をまかなうために戦時徴税が行われたが、税は銭で収めるために、銅銭は洛陽に集中した。
朝廷の莫大な出費は洛陽を中心とする富豪の家が受け取ったが、
おりからの穀不足と社会不安によって彼らは良貨を退蔵し、自らの経営の安定を図った。
これにより市場には銭が不足し、庶民間では盗鋳銭を中心とする悪貨が横行した。
朝廷はこの悪貨の横行をある程度容認し、盗鋳の禁令を緩和するなどした。
悪貨は当然、額面どおりに通用しなくなるので、貨幣価値が暴落し、物価が高騰するインフレとなる。
「市場の銭不足」によって「インフレが起こった」というわけだろう。
当時は銭で税を徴収したので、銭不足は庶民の生活を直撃する
黄河の中・下流で文明が興ったのは土壌が肥沃で農業が発展したからだが、
その土壌は繰り返される黄河の氾濫により培われてきた
黄河はその名の通り、水が黄色掛かっている
黄河上流には広大な黄土地帯が広がっていて、河がそこを通るときに土が溶け込み黄色に染まる
黄河が氾濫を起こし、上流から運ばれてきた肥沃な黄土が、
中原とよばれる中下流の土壌を豊かにする
冀州冀州と事ある毎に豊かさの代名詞のように挙げるが、
その土は涼・雍から来ているのだ
豊かな中原の母なる地の田畑が「上上」なのは全く以て肯ける話だな
黄土地帯の黄土は西域のタクラマカン砂漠やゴビ砂漠から風に乗って飛来した
涼州北西部も当然黄土 敦煌へ向かって河西回廊を流れる川も黄河と同じく黄色をしている
そもそも三国志関連の史書に涼州の土壌の豊かさを示す記録があるのに
イメージのみで否定するのは浅慮というものだ >ガキども
ガキどもも少しは
>>778を見習いな
>>778 >「涼州」の評価には適さない。
以上のように「田上上」は妥当な評価
三輔のように「沃野"千里"」ではないというだけだろう
漢書の雍州が「田上上」でありながら「賦中下」であるのは
総合的に耕作面積や農耕従事の戸数が多くないからであると考えられる
>『漢書』成立当時の諸州の状況は、地理志下にしるされている。
成立した後漢ではなく前漢時代の話
「武威郡以西」の話は孝武帝が関東から人を連れてきて入植させたうえ
漢人文化で教化しているからあり得ない
従って、それらの記禄は孝武帝の武威入り以前・或いは直後の
調査資料か何かの情報に大きく影響された記述ではないかと思う
黄土が肥沃だというのは地質学的に否定されちゃってるんだけどね。
>>778を見習いなといいつつ、778の内容はガン無視だし。
あ、俺778ね。
それから、「武威郡以西」は武帝の郡設置以後の話として記されているよ。
つまり前漢中期から後漢初期の描写と判断できる。
人に言う前に漢書も読もう。
秦?漢時代,関隴地区は,国家の政治、経済、軍事、文化の中心で,
漢の武帝は強な経済、軍事の実力をもって匈奴を破り,河西に四郡を置き,漢の領土とした。
西漢王朝初期から,河西地区に対して規模な経済開発を行い,移民政策を行い,長城を築き,
辺境の防衛を強化した。量の軍隊を駐屯させ,西域への道路を開いた。数十年の開発の後,
経済と文化の促進を促し,辺境の地に豊富な食糧と豊かな放牧地を出現させた。
漢代の辺境政策の成功と,張騫の西域行によって,シルクロードが開通し,これによって
各国との通商が始まり,悠々としたラクダの鈴の音と共に,シルクが西へ運ばれ,天馬が東へ来,
中国と外国の政治、経済、文化、商業交流が華やかに展開した。シルクロードの開通により,
内外の商人の往来が激しくなると,河西四郡は交易の中心地となり,商品の集積地となった。
漢末から隋の初めにかけて,中原は戦乱に明け暮れたが,河西地区は相次いで地方政権が
建設されたとは言うものの,社会は総体的に安定し,経済や文化は依然として発展していた。
http://www.100ksw.com/zg/dy/dyc/2/344792.shtml 張掖
水と土がよく、産物も豊富なため「金の張掖」と称される。
酒泉
西涼の李ロが農耕・養蚕や西域との貿易を奨励して安定した国家を築いた。
>>824 おまえのようなバカガキは
妄想を肯定するために史料を読むのをやめるべきだし
ミスを開き直るのもやめるべきだし
ミスを糊塗するために更にミスを重ねるのもやめるべき。
ほら灌漑システムの説明が終わってないぞ。
逃げるな
なぜ三戦板はこうも煽りあいばかりやってるのか
>>826 ん? 黄土高原か何かの話かな?
アルカリ高いらしいね
だから灌漑するんだよ
>ガン無視だし
無視ではなくしっかり答えているよ
>武帝の郡設置以後の話として記されているよ
「大きく影響された記述ではないか」と言っているんだが
歴オタなんて人種はみなこうなのさ
学会でも罵りあいだ
>>829 残念だけど、肯定の為に史料を読んでいるわけではないな
史料にあたって考えが湧くのだ
君は「ハードコア」という言葉を一回うぃきってくれ
きっと恥ずかしくなる
なぜか分からないが833を見たら妙に恥ずかしくなった
自意識過剰というかなんというか
画像でぐぐったら大変なことになりました
>>833 史料にあたるのはいいとしても論理の飛躍を把握出来ていないよね。
通説を否定する俺カコイイという感じの大二病でしかない。
おまえの方こそsciolistという言葉を調べるんだ。恥知らず君
論理に飛躍などないが?
飛躍に感じるのは通説との距離じゃないのか
君の相手してると頑迷さを痛切に受ける
>>828 漢の西方交易と農業・軍備の振興は、
中原の安定、資金、徴兵など人的資源によって支えられたもの。
それでも河西回廊沿いの細いオアシスに集中する小さな範囲の振興に過ぎないが。
これが弱体化したので羌など異民族の叛乱が起きた。
涼州に入った勢力が無条件で全異民族を服従させられるなら極めて大きな兵力にはなるだろうが、
それを安定させるには母国の国力が必要になる。漢くらいの。
元々の話題に戻って、蜀漢が涼州にそれほど強力な支配を築けると信じて北伐を行ったのなら、
ちょっと夢見すぎというところだろう。
張掖と酒泉の周辺について美水草、冬温夏涼、宜畜牧という記述があって
つまり君の言う「豊か」とは牧畜に向いてるという意味かもしれんぞ
ま、水経注で頻繁に川の名前とともに張掖が出てくるのでかなり河川の集中してる地域だし案外農業もいけるのかもな
後漢になると物凄い頻度で襲われてるから価値ある地域だろうし
>>831 >「大きく影響された記述ではないか」と言っているんだが
現在や直近の過去の情勢よりも、150年以上前の情報が大きな影響を及ぼすって、
漢の地方政治はどうなってんの。
涼州は移民により、漢人文化によって教化はされている。だがそれは耕地ができる範囲でのこと。
漢の文化祭祀は農耕を中心に回っているからね。
その数は、最大に見積もっても
>>743くらいの少数でしかない。
逆に、漢の戸籍に入っていても代を経るにつれて異民族の風習に染まる漢人も多く現れて、
「秦人」と呼ばれたりした。彼らが漢の徴兵での騎兵の主力となった。
董卓や馬騰が、そういう暮らしをしていた代表格というわけ。
秦による耕地開発は、無論、根拠地である関中自体の環境を変化させた。
殊に、咸陽を根拠地に商鞅の変法が実施された頃から、鉄器の普及によって、新たに穀物生産地にできる場所が、従来の草原ばかりでなく、大木の茂る森林にも及んだのである。
秦が領域とした関中は、西周時代には無論周の根拠地だったわけだが、当時、周が擁していた美林として、焦獲藪と呼ばれる場所があった。
水の流れが黄土高原から関中盆地に入る地点から東の方に広がっていた。
この地名は、『爾雅』という古代の事典の、中国各地の立派な森林を列挙した部分に、斉の大野澤などと並んで挙がっているので、木本類の繁茂する場所だったことは確実である。
また、『詩経』小雅にある、宣王の頃の伝説を歌った形式の詩「六月」に、玁狁(ケンイン)という非定着農耕民と思われる集団がここを占拠したので、
周王の命を受けた討伐軍がこれを追い払った、という物語風の詩句がある。
『詩経』の成立年代については、様々な議論があり、この詩の内容を直ちに西周時代の史実とみることは危険だが、
もし、後世にできた物語であったとすれば、なおのこと、焦獲藪という場所は狩猟・採集や牧畜で暮らす人々が占領しそうな美林であった、
という認識が後世にまで残存していたことを裏付ける。
ところが、秦の統一直前、この場所は、「舃鹵(セキロ)之地」と呼ばれる穀物生産に不向きな塩類集積地となっていたのである。
なぜ、このような現象が発生するかについては、以前にも紹介した土壌学・地質学と水利工学との複合的領域ともいえる地下水文学などの知識に拠らねばならない。
地面の下にある水――地下水の中で、指標に暮す我々に認識され易いのは、地表の川や池に類似した流れや淀みを形成している地下水脈の動きだろう。
砂や小石――砂礫が多い層や、時には岩盤と岩盤に間に挟まれた空間などに集中的に地下水が集まり、
池のように溜まっていたり、或いはその地層の形状によってより低い位置に流れていったり(地下水脈)、
滝のように急激に下降したり(地下水瀑)している。
これらの纏まった水の位置が地表からどのくらい離れているかを、地下水位と呼ぶ。このような地下水の状態は、地表の地形とは一応無関係に存在しているが、
地下水の水脈が構成された後に、地表面で断層ができたり人為的に溝や道路を開削したりすれば、断層面や開削面にできた崖から、地下水が滴り落ちるようになる。
河岸段丘でも同様である。
また、褶曲によって成立した山地の地下水位は、山地の端では旧来の地下水位に近づき、浅くなっていることが多い。
逆に、河川の堆積作用が作った扇状地などでも、先端部の地下水位は旧来の地表河川の位置に近づき、浅くなっている。
以上を焦獲藪のケースについて参照すると、褶曲によって構成された黄土高原の端にあたる焦獲藪附近では、
黄土高原から流れてくる水などの地表水(つまり河川)の水ばかりではなく、地下水もこの附近で地表に近い深さになり、
一帯の土地が湿潤になっていたと考えられる。
だから、森林が繁茂し、沸き水や池・沼などの水場が豊富で、野性動物にも快適な居住環境だったのだろう。
これとは別に、土の粒と粒の間にも水分は存在し、湿潤な土では、土の粒の内部にも水が水素イオンと水酸化イオンの形をとって含まれていたりもする。
水は無論液体だから、土粒と土粒の間の水には毛細管現象が発生する。
そこで、地面が接する空気が乾燥していると、この毛細管の中の水は地表に出てきて、蒸発してゆく。
その際、水に含まれている金属イオン類は、蒸発しないで地表に残る。
一般に水溶液に含まれるイオンが、水の中を移動する速度は、物質毎に順序があり、中野政詩氏によれば、
@塩素AカルシウムやマグネシウムBナトリウム・・・、といった順番であるという。
そこで、土粒と土粒の間に形成された毛細管を水が地表に向って移動(上昇)してゆくときも、
最初にいっしょに地表に出てゆくのは、塩素、マグネシウムやカルシウム、ナトリウム等々であることが推定できる。
塩素と、マグネシウムやナトリウムが一緒に地表に残ると、何になっているか? 塩である。
つまり、地面の中に水があって、毛細管現象によってそれが蒸発うると、地表には、塩の堆積が残ることになる。
これが、乾燥地における「塩類集積(アルカリ化)」、中国語では、「鹽鹹化」と呼ばれる現象である。
地表に塩が溜まっている状態で生育できる植物は、殆ど無い。
穀物のムギ・アワ・キビなどは無論栽培不能となる。
つまり、「不毛」な土地が出現するのである。
この原理は、近年になって、漸く解明されてきたもので、
古代は勿論、20世紀になっても、あまり原理的な理解がなされていなかった。
そこで、50年代の中国・華北や、60年代の南アジア・西アジアなどで、乾燥地を耕地(畑)化しようと灌漑し、
当初は成功したのに、数年経つと塩類集積が起って、農業生産ができなくなる、という現象が頻発した。
メソポタミアのウル第一王朝が衰退したのも、この灌漑→耕地のアルカリ化→農業生鮮の衰退、というメカニズムによるものだ、という説もある。
焦獲藪は、関中でも有数の湿潤な場所であった、ところが、周辺の草原は耕地となり、
戦国時代に鉄製の斧が普及して大規模に焦獲藪を含む平地の森林も伐採され、これまた耕地になった。
すると、当然、関中一帯は、次第に乾燥化してゆく。
森林た草原だった頃蓄えられた有機質(落ち葉や枯れ枝、昆虫や獣の死体などが分解してできる)が残っている間はまだよかった。
土の粒が丸い塊を作っていて水や栄養分を貯蔵できるからである(団粒構造という)。
ところが、農耕地化する、ということは、こういう有機質を利用して、穀物が栄養分として吸収する、ということである。
従って、肥料を施さないで作物を作り続ければ、いつか土地は痩せてゆく。
(だから原始的な農法では、毎年同じ場所を耕作したりせず、何年か経つと、耕地を移動させ、
雑草や潅木が茂るに任せて、次回そこを耕地にする場合の肥料分とするのである。)
すると、土の粒はバラバラになり乾燥する冬には風で飛散し始める。
だから作付けする作物も、次第にアワやキビなど、イネやムギに比べて水分要求量の少ない種が中心となっていったようだ。
豳風「七月」に歌われた村の情景に比べると、全体が乾燥し、地下水も深い位置で流れ、穀物生育に必要な水分は雨水に頼る、
という場所が増えて、このような変化が発生したのだろう。
焦獲藪でも、地表の樹木は刈り尽くされた。咸陽に近い、絶好の燃料供給地だったのだから当然である。
樹木が無くなれば、動物も成育せきないから、土壌に有機質は供給されない。
焦獲藪の土壌からも団粒構造は失われていったであろう。
元来沼地が点在し狩猟場であったから、放牧地などとして利用され、穀物生産地にはならなかったかもしれない。
ところが、焦獲藪の地下には水があった。
土壌には、地形的条件によって地表水のみならず地下水も供給され続けたと考えられる。
地表の空気が乾燥すると、その水分が上昇する。
前述した塩類集積化の条件が発生したのである。
こうなっては、この土地を穀物生産地にすることは不可能になる。
かくて、司馬遷が「「舃鹵之地」と読んだアルカリ地が出現したのである。
原宗子氏の論文かな
>>817 三国時代ってすでに仏教は世間に普及してたのか?
>>845 麹菌は空気中に普通にいるから。
効率よく安定して旨い酒を作るのならともかく、
ただ酒作るだけなら放置しといても勝手にできる。
>>846 後漢初期に仏教が伝わり、洛陽に寺院が建てられてる。
徐州には一大教団があって盛大な法事が執り行われていたし、
孫皓に金の仏像を献上した記録もある。
>>845 おい、せめて曹操の書いた九ウン酒法くらい読め
>>846 三国時代には徐州〜揚州にかけて一大勢力を築いた[艸+乍]融の教団があったり
曹植が仏教の盆歌にハマって色々詩を作ったりと三国時代はマイノリティではあるものの
社会のかなりの広範に仏教は入り込んでたことがわかる
>>848 おい、せめて九ウン酒法は曹操が書いたんじゃないことくらい理解してから言ってくれ
>>849 書いたのは曹操だが?
九ウン春酒法を考案したのは別の奴だが、それを書いて文章で残したのは曹操
そんなことも知らないの?
くだらねー
>>849 おまえの方がまともだと俺が保証してやるから
こいつにはこれ以上関わらない方がいい
>>851 了解
なんか物凄い後付の言い訳が来てるけどこれ以上触れないでおくわ
>>849のツッコミが無駄。
曹操の時代の酒の醸造法が伝わっている。
今問題になるのはこれだけ。
三国時代に麹がなかったなんてアホな事言って悪びれない奴は死んだほうがいいな
アホな誤読して悪びれない奴はどのように死ぬの?
陵遅三千刀?
無能な働き者は銃殺刑
誤読は誰だってするからいいんじゃね?
重要なのは厚顔無恥な奴がこのスレにいちゃいけないってことだけさ。
上から目線と誤魔化しと全レスは誰でもはしないな
二段目は同意
>>858 ついでにダブスタもやらないわな
自分に甘く他人に厳しい、これをろくでなしと言う。
>>859 ろくでなしは「役立たず」「怠け者」であって自分に甘く他人に厳しいって意味はないぞ
転じて性格のゆがんでいる人間、
という意味で現在は使われてるね。
「自分に甘く他人に厳しい性格」を歪んだ性格だというのもまた間違いだが
自分は歪んでいるわけではない、というアピールか
日本語としてそれは不適正な用法であるよ、と述べてるだけ
それ以上でもそれ以下でもない
言葉遊びはそのへんで
>>866 2chでよっぽどの場合を除いて同一人物のレスが連打されてるように見えるなら病院行った方がいい
心が病んでる可能性がある
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/22(土) 23:32:57
曹操でも誰でもいいが、酒の醸造に米をたっぷり使うのはかわらんだろ。
>>860 ろくでなしは「役に立たない」「普通以下」「のらくら」
2番目の意味で正しい。話になるのは
・自分に甘く他人に甘い
・自分に厳しく他人に甘い
・自分に厳しく他人に厳しい
くらいだ
>>864>>862 >>869で納得出来ないなら
「自分に甘く他人に厳しい性格」をしている基地外君に相応しい表現を考えればいいよ。
まあ日本語に拘る神経症の人なら出来るだろ?
もうどうでもいい
泥仕合になるとこんなもんだろうな。
どちらかが悪い、あるいは両方悪い結論しても、
こうならないような心掛けが別スレでは必要だね。
>>868 九ウン酒法には麹を使うってきっちりきっぱり書いてあるしな
もう既に三国時代には麹を量産する手法が確立されてたのは間違いない
正史読んでないんだけど、
禁酒しようとするほど穀物が足りなかったの?
じゃあ正史読んでそれでも判らなかったら質問すりゃいいんじゃね?
読んでないし読む気もないから質問してるんじゃないか。
じゃあこれから読めばいいし読む気になれ。
断る。
そもそもあんたみたいなのには聞いてないから黙れ。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 03:58:47
教えてくんのくせにえらく態度のでかい奴が居座ってるのな
不出来な人間は自治に走ってクソスレ化するものなんだろうな
不出来な人間が自治に走ってクソスレ化するものなんだろうな
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 06:40:03
>>869 ・自分に甘い
・弱い相手に対しては傲慢に振舞う
・強い相手に対しては謙虚に接する
こんな性格の人は?
司隷=2尹5郡106県
予州=2郡4国97県
冀州=3郡6国100県
兗州=5郡3国80県
徐州=2郡3国62県
青州=2郡4国65県
揚州=6郡92県
荊州=7郡117県
益州=9郡3属国118県
涼州=10郡2属国98県
并州=9郡98県
幽州=10郡1属国90県
交州=7郡56県
司隷= 塩○ 馬○ 蛮族× 黄巾×
予州= 塩× 馬× 蛮族× 黄巾○
冀州= 塩○ 馬○ 蛮族× 黄巾○
兗州= 塩× 馬× 蛮族× 黄巾○
徐州= 塩○ 馬× 蛮族× 黄巾○
青州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾○
揚州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾○
荊州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾○
益州= 塩○ 馬○ 蛮族○ 黄巾×
涼州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾×
并州= 塩× 馬○ 蛮族○ 黄巾×
幽州= 塩○ 馬○ 蛮族○ 黄巾○
交州= 塩○ 馬× 蛮族○ 黄巾×
上の上 雍州(黄壌)
上の中 徐州(赤埴墳)
上の下 青州(白墳)
中の上
中の中 冀州(白壌)
中の下 予州(壌)、兗州(黒墳)
下の上 梁州(青黎)
下の中 荊州(塗泥)
下の下 揚州(塗泥)
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:46:48
クマッタ蛆虫
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:48:07
動け動けウゴウゴ2チャンネル
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:49:00
うごけうごけうごうご2ちゃんねる
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:50:04
ウゴケウゴケウゴウゴ2channneru
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:51:08
ugokeugokeugougo2channneru
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:53:45
銀色の汽車に乗った
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:54:38
羽後家羽後家羽後羽後二茶ン寝る
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:55:41
それは孔明の政治力が優れていたから
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:56:50
天然の要害があったからでは?
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 09:59:45
何で髪の毛黒色じゃないの?
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:00:37
何で髪の毛黒色じゃないの?
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:01:40
何で髪の毛黒色じゃないの?
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:03:02
黙ってろ、蛆虫
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:05:23
何で髪の毛黒色じゃないの?
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:06:31
900GET!
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:07:12
何で髪の毛黒色じゃないの?
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:08:06
何で髪の毛黒色じゃないの?
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:09:03
何で髪の毛黒色じゃないの?
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:10:07
何で髪の毛黒色じゃないの?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:10:57
何で髪の毛黒色じゃないの?
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:11:44
何で髪の毛黒色じゃないの?
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:13:15
何で髪の毛黒色じゃないの?
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:14:41
何で髪の毛黒色じゃないの?
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:16:50
何で髪の毛黒色じゃないの?
埋め
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/23(日) 10:40:36
何で現代人は髪の毛黒色じゃないの?
埋め
魏:呉:蜀=6:3:1
が通説だけど本当はどうなの?
>>913 単純な数字的にはそんなところかもしれないが、魏を今の中国、蜀を今の日本と置き換えればいい
経済力は人口だけでは比較できないということだ
今の日本は段谷以降か?
魏:呉:蜀=4:2:1くらいじゃないのか
魏の戦線維持はかなり一杯一杯
魏は内紛で26万と15万出せる。蜀は10万、呉は23万
5〜4:2:1程度か
国力は人口の2乗に比例するって言われてるから
当時の人口の割合が魏:呉:蜀=800万:400万:200万=4:2:1なら
国力は魏:呉:蜀=16:4:2=8:2:1じゃね
戦力比2乗の法則とかあったな
ランチェスター
>15万
淮南はいつのまに復興したのかという感じの数字だな
元は劉フクのおかげなんだろうが
前線だからある程度各地から兵集めてんじゃね?
>15万 >淮南
豊臣の小田原征伐の際の北条方みたいに国内戦だから
補給とか考えず大量徴発できるんじゃね
>>838 「振興は」ね
ある程度育ったら自力で発展する
異民族の叛乱の原因が弱体化にあったとするには根拠とするものが要るが
叛乱は結構起きているんじゃないかな 弱体化にあったのかな?
国力の件は一理あって肯けるが、
後漢末の群雄割拠の混乱期、涼州一国翻って独立したりしていない
馬騰や韓遂ら漢人がちゃんと支配している
叛乱は弱体化なども一因となりえるが、西方との交易路として繁栄してきた涼州ゆえに
漢人と異民族は共存共栄をモットーに同居することが可能だ
往々にして叛乱の動機は被支配側の支配側への反発であるから
抑圧・不平等などへの不満が叛乱の主な原因
共栄を旗印にして寛政を布けば、叛乱は押さえることが出来る
異民族統治の名人諸葛亮、西方の民族に通じている姜維にとって
涼州統治は難しくないだろう
>>839 >つまり君の言う「豊か」とは牧畜に向いてるという意味かもしれんぞ
「穀」と食貨志にある
無論、牧畜はいけるが
(>838)
>河西回廊沿いの細いオアシスに集中する小さな範囲
河西回廊は確かに細くて狭い
しかし狭いと言っても関東平野(日本)の約6.5倍もある
中国が広すぎというのが答えだろうな やっぱ
>>840 >現在や直近の過去の情勢よりも、150年以上前の情報が大きな影響を及ぼすって、
>漢の地方政治はどうなってんの。
インパクトのある話は人の興味を引き長く耳に残る
普通の話は興味を引かず人の耳にも残らない
遠い外国の人によれば、今でも日本人はちょんまげらしい
同じような現象だろう
「普通の話」は特筆すべきことでもない >漢書地理志
>代を経るにつれて異民族の風習に染まる漢人も多く現れて、
>「秦人」と呼ばれたりした。彼らが漢の徴兵での騎兵の主力となった。
>董卓や馬騰が、そういう暮らしをしていた代表格というわけ。
「秦人」は普通に出身地方を言てるものと思うよ
真の秦人は、板で室屋を作る地方の天水・隴西の人たち
昔、秦は周の属国と見做されていて、"下賤"な民族だった
秦は西戎と戦い西へ領土を広げ、力をつけた
その「西の領土」が武威以西だろう
秦人は中国人(周人)より卑しく、西戎などは更に卑しい
周辺の異民族を蛮族と位置づけ、卑しい名称をつける気高い中国人が
西戎文化に染まるとは思えない
馬騰の子、馬超が「錦馬超」の異名を誇ったが、
蛮族の習俗に染まったその身なら、そう呼ばれることなどないと思うよ
>いつも泥で濁った河になったのは、戦国以前の記録からは確認できないので、
>この問題に古くから着目した史念海氏らによって、おそらく戦国以降のことだと考えられている。
青海省を流れる黄河上流
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yellow_river_- _A._Holdrinet.jpg
これが灌漑によるものだと言うのか
史料主義が陥りやすい罠っぽいな
>焦獲藪という場所は狩猟・採集や牧畜で暮らす人々が占領しそうな美林であった、
>という認識が後世にまで残存していたことを裏付ける。
玁狁は北方の遊牧民で、
「藪」の字には「澤」の意味がある
@さわ。 (ア)ぬま。みずうみ。(イ)草木がしげり鳥獣などの多く集まるところ
Aやぶ。草木のしげるところ。
遊牧民がオアシスに拠っても何の不思議もない
オアシス的な解釈でいいのに何故「美林」?
詩経の「六月」は
“♪北方の異民族が都のすぐ北のオアシスに侵攻してきた♪
おかげで討伐に狩り出された俺たち兵隊はワラビばっかり食ってるよ♪”
って歌
ワラビは草原、谷地、原野などに群生し、森林には生えない
で、
>>841-843のくだり
>司馬遷が「「舃鹵之地」と読んだアルカリ地が出現したのである
論者は誇張している
『史記』河渠書には「澤鹵之地」と書かれてある
舃=干潟 澤=湿地
河渠書には鄭国渠についてこう書かれてある
令鑿水自中山西邸瓠口為渠,並北山東注洛三百餘裏,欲以溉田。(瓠口=焦獲藪)
〜中略〜
渠就,用注填閼之水,溉澤鹵之地四萬餘頃,收皆畝一鐘。於是關中為沃野,無凶年,秦以富彊
中山から焦獲藪まで水路を掘って北山に沿って東へ水の水を送り、三百余里に行き渡す
ということ
川は平野に出ると扇状地の傾斜を高いところから低いところへ流れていく
簡略に言えば、谷を出た水は傾斜を上から下へ縦に流れる
これでは広い範囲を潤すことが出来ない
横向きに水路を掘り、扇状地の横一杯に走った水路から
縦に沢山の溝を掘って水を垂らせば、余すことなく扇状地を農地として活用できる
渭水盆地東部のその地にも川は流れているが
それらを山脈に沿った水路で連結し、更に水の水を流し込めば
広範囲に行き渡らせられるだけの水量と勢いを得る事ができる
こういうこと
瓠口(焦獲藪)の名が出てきたのは
バイパス工事の終点だったからに過ぎない
伐採→乾燥→不毛化 とかじゃなく
単純に地理的なものだったってこと
論文に関しては以上
「鹵」とは「しおつち」
塩気を含んだ土で植物が育ちにくい
ゆえに痩せ地や荒れ地のことをそう呼ぶ
漢和辞典によれば「しおを含んだ西方の荒れ地を表す」らしい
黄土のことだろう
黄土は乾燥などと関係なくアルカリが高い
その理由は簡単
黄土は、土に砂が混じったような普通の土ではなく
砂に土が混ざったような土だからだ
早い話が黄土は砂なのだ
正確には砂ではなく、もっと粒子の細かいシルト(泥)
砂と土は大きく異なる
土は生物の死骸が分解され堆積した有機物
砂は岩石の風化や浸食で生じた無機質な砕屑物
黄土地帯が砂漠から飛来し堆積した砂によって出来たことは先に述べたが
大元の砂漠がどうやって出来たかを考えれば
黄土が高アルカリなのはすぐ分かる
砂漠の風上には山脈がある
その山脈に湿った空気がぶつかって雨を降らせる
そのため、山脈を越えてきた風は乾燥している
山脈の風下は雨が降らず乾燥する
(雨が降らない地域を砂漠というのだが、ここでは大砂原の、所謂「砂漠」について)
「砂漠」は大気の乾燥だけでは出来ない (以下「 」外す)
砂漠を風上の山脈に向かって進めば
進むほど砂の粒が徐々に大きくなる
「砂」ではなくなり、もっと粒子の大きな「礫」になる
礫原を更に進めば粒子は更に大きくなっていき「岩石」になる
その岩石は山脈の岸壁が崩れ落ちたものだ
つまり砂漠の砂、ひいては黄土は、山脈の岸壁なのだ
大陸の山脈はプレートの衝突で迫り上がった「地殻」
ミネラルの塊だ (砂を今更ミネラルの塊と結論するのも何だが)
黄土は炭酸カルシウム、リン、カリウム、ホウ素、マンガンを豊富に含むそうだが
カルシウム、リン、カリウムは植物の必須栄養素
ホウ素、マンガンは微量栄養素(いずれも必須元素)
ホウ素とマンガンであるが
高濃度のホウ素は植物の成長を阻害するため、
土壌中のホウ素含有量が高いオーストラリア南部などでは農業が困難となっている
マンガンは酸素を吸着する性質があるため
多すぎると土や水が酸素欠乏を起こす
黄土は植物が育ちにくく耕作に向かない
がしかし、灌漑により余剰なミネラルを洗い流すことで
黄土は良質の土壌へと変化する
俺、昨日は来ていない
>>855-882 自分有利と見るとテンションあがってすぐ調子に乗るんだな
こういう奴は何ていうの?
自分に甘く他人に厳しい?
どう見てもスポイルされたガキにしか見えん君らに言われたくないな
誤読は誤読 それでいいじゃないか
大したことではない
無論、誤りだ
それで?
他人に厳しいとは何のことだ
他人の誤読は許さない何て言ったかな?
俺は「それはおかしい」と言っているだけだ
これが厳しいか
これを厳しいと錯覚する君らは自分に非常に甘い性質をしている
そういうことだ
>>879 俺のことだろうな多分
相手が何を根拠にそう考えているのか知る必要がある
根拠を特定できれば誤りを正せもする
例えば
>>868に「それ蒸留酒か何かじゃないよな? 一兵卒がそんなもの飲めると思うか」と
思ったとしても、相手の根拠が特定出来ない限り反論にならない
もちろん知らないで聞くこともある
だから他のところでやればいいのに
で、いつから益州が魏より豊かだと言う話から、
涼州が豊かかどうかという話になったんだ?
そもそも魏の領土である涼州が豊かだろうが貧しかろうが、
スレの主旨とは関係ないんじゃないか?
その通りなんだが
自説に拘る人と、それにかまう人がいるので・・・
>あんたが長文書き下ろすたびに古代中国の地形が馬鹿日本地図みたいになっていくよ。
上手いw
プロにこんな身の程知らずな喧嘩を売る馬鹿は初めて見たよ。
>秦は西戎と戦い西へ領土を広げ、力をつけた
>その「西の領土」が武威以西だろう
?
河西回廊が漢族の手に落ちたのって武帝の遠征じゃないのか
一体どこの史書にそんなこと書いてあるのか
>>929-931 少なくとも全レスくんの漢文読解は
常時疑問視しなければならないレベルということがよくわかった
これはひどすぎる
みんな構うから全レスが増えちゃうのに
全レスがしゃしゃりでて来た時点でこのスレは汚染されてるんや
>>942 秦も一応オルドス地方に出兵して制圧してたりするし
関中からは北北西くらいだけど一応西の方だからそれと勘違いしてたりして…
じゃ、強引に本題に戻そう。
目録を見る限り、蜀人口少なすぎ、兵士と官吏多すぎ。
備蓄食料少なすぎ。金銀少なすぎ。絹製品だけ異様に多い。
結論。降伏時の蜀は貧しかった。終了。
>>925-936と長文で全レスする根性だけはすげーな
内容は
「馬鹿の休むに似たり」
「思いて学ばざれば、すなわち殆し」
だけど
>>935 ちょっと調べれば分かることを調べずに恥晒して居直るのを厚顔無恥と言うんだ。
度遼将軍の時といい話せば話すほど妄言を吐いてボロを出す癖をどうにかしろよ。
自分のミスも相手の意見も矮小化せずにはいられない
全レスくんのご両親がかわいそうw
初心者しかやらないような誤読しても
えらそうに仕切って反論にこじつけで全レスしなければここまで叩かれないよ。
二度も同じような流れを経験するとは全レスくんはマゾなのだろうか。
>黄土は植物が育ちにくく耕作に向かない
>がしかし、灌漑により余剰なミネラルを洗い流すことで
>黄土は良質の土壌へと変化する
再生アルカリ化現象でぐぐろう。
おまえの言ってることは全部間違いだから。
知ったかぶってたが、やっぱりわかってなかったじゃないか。
半可通の全レスくんこそハードコアだったな
>>940 これだけボロがあると説にもなってないよ
全レス馬鹿は反論のための反論で新たなミスを出すから救えないw
彼自身はそれで幸せかもしれないが
本筋に戻りたい者たちにとり、スレが駄レスで消費される事は、不幸にしか繋がらない
まあついてないな。
このスレはこれで終わるさ
でも全体的にはまずまずのスレだったんじゃないの
いい意見や情報もでてたし
別スレでは意見の対立を避ける方向で
俺はこう思うだけ垂れ流して、あとは不干渉
その方がよほど建設的かもな
じゃ、強引に本題に戻そう。
目録を見る限り、蜀人口少なすぎ、兵士と官吏多すぎ。
備蓄食料少なすぎ。金銀少なすぎ。絹製品だけ異様に多い。
結論。降伏時の蜀は貧しかった。終了。
なんだこいつ
河西回廊……
どんだけ適当な読み方してんだろう
適当ではなく出鱈目か
長文で電波
967 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:14:21
魏の方が豊かだろw人口も多いし兵糧も蓄えてたし。
森林資源がなかった
969 :
孫安民:2010/05/23(日) 22:17:10
国土の広さと人口の違いを考えれば魏の方が豊かな国である事は間違いない!
970 :
孫安民:2010/05/23(日) 22:19:05
221年の蜀国兵力 75万 魏国55万 だったのか、、、w
ケ艾の提案だと
淮南で屯田をすれば年間500万斛の収穫
10万の兵の1年分の食糧は600万斛
らしいけど蜀の収穫はどの程度だったのか
972 :
孫安民:2010/05/23(日) 22:21:11
ちなみに呉の兵力は45万
40万斛は少なすぎる
974 :
孫安民:2010/05/23(日) 22:23:27
その頃の蜀は荒れていたからな。だか180万ぐらいは取れていたのではないか?
975 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:25:35
兵力は魏の方が上だから、魏の方が豊かな国である。
蜀の兵糧事情は輸送が大変といっても元も大した数じゃなかったのではないか
977 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:27:01
蜀は屯田制は施行してないはずだから、元々兵糧不足だったはずである。
魏の税率
一般1l
屯田50l
>>970 蜀って確か100万くらいしか人口居なかったんでは?
兵力75万ということは、子供以外を全部兵力に換算してるのかな
980 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:29:20
蜀は軍事国家だから、兵士に与える食料が、国の力として限界だったのではないか。
981 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:30:40
多分あれは演義の話で、本当は10万ぐらいだったらしい。
982 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:33:58
蜀は北伐をしすぎたから食料が減ってしまったのだろう。
984 :
孫安民:2010/05/23(日) 22:35:21
内政に力を注がなかったのも原因かとw
人肉を食うほど困ってた魏が豊かなんだろうか
屯田でどうにかなっただけで魏はブラック
987 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:37:53
そもそも蜀は屯田制を施行していたのか?
埋め立てに相応しいいい流れだ
生姜はしてるよ
990 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:39:49
魏は内政に結構力注いでいたはずである。
蜀は戦えば勝てるけど攻めるには食い物が足りてない
992 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:42:11
魏の国内で荒れる事は余り無かったからな。食料もそれなりにあったはずだ。
993 :
庶銅ガールズ:2010/05/23(日) 22:43:10
そもそも呉の食料はどれくらいあったのか?
994 :
書道ガールズ:2010/05/23(日) 22:44:24
これがオチかw
富の絶対量では当然魏が一番だろう
しかし相対的なものでは多分逆
呉は水産資源がかなりあった
997 :
書道ガールズ:2010/05/23(日) 22:45:45
魏は洛陽、許昌、宛などの豊かな都市が多いからな。国力は充実していたんじゃないの?
998 :
書道ガールズ:2010/05/23(日) 22:46:35
星野加奈ちゃん大好き
関中、中原
四川、江南
で蜀が二つ取ってれば統一はありえたろうな
1000 :
書道ガールズ:2010/05/23(日) 22:47:19
木村カエラ大好きーーーーーーーーーーーーーーーーー
あ1000スレ目げっとだぜ!
1001 :
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ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
ハ ハ ヽ. ハ ) ん 込 | ',.' ,  ̄ , ' ノ //三国志・戦国板
ハ ハ > /|ヽヽ、___,,,,、 'く み > ヽ.  ̄´ / ,、 ' /
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