蜀滅亡戦について語ろう

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1無名武将@お腹せっぷく
蜀は263年に滅亡したわけだが、
劉禅のせい、姜維のせいという意見はあってもどういう戦闘だったかはあまり聞かないよね
そこで立ててみた
蜀魏最後の戦闘を語ろう
2無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:32:52
国の滅亡を一人の責任にするとか普通に考えておかしい
3無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:33:35
あの一連の戦いで一番凄いのはトウガイでも姜維でもない
衛カンの危機回避能力
4無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:34:36
>>3
通だね〜
5無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:37:26
天命が終わったから負けたんだとしか言えない
蜀にしろ呉にしろあっさり滅亡しすぎ
6無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:38:56
あの戦いで一番凄いのは柳隠だろ?
7無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:42:05
諸葛瞻らがいとも簡単に敗死したのは何故だろう
軍勢はそれほど差が無かったはずだが
8無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:44:19
>>7
ケ艾の「勝てなければ首をはねるぞ!」で背水の陣だったから必死だったんじゃね
それに蜀側は兵を率いたことの無い武将がほとんど
初陣だった
9無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:46:49
羅憲が頑張ったお陰で防げたけど、下手すりゃ呉も来襲して成都が血の海だったな
10無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:46:57
まぁ、戦闘のレベルまでは記述に無いからな。語られないのも仕方ない。

>>6
柳隠の存在が魏軍に大きな影響を与えたとも思えないがなぁ。
漢城や楽城もスルーしている辺り、鍾会は何よりも軍隊を前進させる事を考えていたので、
後方に寡兵で籠もっている黄金囲を全力で陥落させようとはしていないだろう。
それでも、他の陣地が陥落する中で黄金囲を保った柳隠は凄いだろうけどね。
11無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:49:22
ケ艾ばかりが評価されるけど曹操や司馬懿時代でも抜けなかった漢中を抜いた鍾会も英雄といって良いと思うんだ
諸葛亮の墓参りや略奪の禁止で蜀の戦意を奪ったのも上手い
12無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:50:53
演義だと漢中はいとも簡単に陥落したような感じだね
13Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/26(土) 23:51:39
>>7
戦闘の初期段階にあっては、ケ忠や師纂が攻撃を諦めかけたように、
諸葛瞻優位に推移していたと見ていいと思う。
敗死したのは諸葛瞻らが玉砕覚悟だったという事もあるが、
>>8の言うようにケ艾の勝とうとする意志が強かった事も大きいと思う。
14無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:53:48
蜀攻略の計画を立てたのも鍾会だしなあ
許楮好きとしては好きになれんが能力は凄いと思う
15無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:54:48
あのころ既に漢中の防衛線は生姜によって後退されてたんじゃなかったっけ
漢城や楽城を抜いたのが凄いということ?
16無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:55:08
意志ってw
気持ちだけで戦争勝てるかよバーカwwwww
17無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 23:58:23
>>15
確かに昔ほど防衛能力は無かったが、大きな被害も無く漢中を通ったのは十分功績に値するだろう
18無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:02:48
>>12
正史でも関城は簡単に陥落してる印象だが
19無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:04:22
演義はこの辺りになると凄く早送りな印象があるんだよ
20Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/27(日) 00:07:28
>>16
必ず勝てると思って戦闘に臨む指揮官は、勝てる戦闘には必ず勝てるだろう。
だが、勝てないと思って戦闘に臨む指揮官は、勝てる戦闘でも敗北してしまう。
指揮官の自信や不屈の精神は、勝敗を分ける一つの要素だ。特に拮抗している状況なら。
もちろんそれが全てではないがね。

もっとも、ケ艾が意志のみで勝った、などとは一言も言った覚えが無いが。
21無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:09:18
>>20
どう見ても絡みたいだけのバカだから相手すんな。
22無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:11:16
六年夏,魏大興徒?,命征西將軍ケ艾?鎮西將軍鍾會?雍州刺史諸葛緒數道並攻.
於是遣左右車騎將軍張翼?廖化?輔國大將軍董厥等拒之.大赦.改元為炎興.
冬,ケ艾破?將軍諸葛瞻於綿竹.用光祿大夫?周策,降於艾,

景耀6(263)年夏、魏は大いに軍勢をおこし、征西将軍ケ艾、鎮西将軍鍾会、雍州刺史諸葛緒に命じて、数街道から同時に進攻させた。
このため、蜀は左右の車騎将軍張翼と廖化、輔国大将軍の董厥らを派遣してこれを防がせた。年号を炎興と改めた。
冬、ケ艾は緜竹県において衛将軍の諸葛瞻を撃破した。後主劉禅は光禄大夫の周の策を用いてケ艾に降伏した。


後主伝では戦いの様子はわからず淡々と書かれている
23無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:12:56
>>22
なんで姜維の名前が無いんだろう?
24無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:13:19
ジョミニアン久々に見たな
25無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:14:18
>>23
姜維は成都をずっと離れてたから
26Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/27(日) 00:18:07
漢中が落ちたのは、漢中全体を指揮する司令官が不在であった事も大きい。
蒋舒と傅僉の上下も曖昧な上、結局ばらばらに行動している。
通常なら督漢中がその任に当たるのだろうが、胡済以降不在。

宰相が漢中に駐屯している間は督漢中が空位になるのが常だが、
姜維が沓中にいた当時の状況がそれにあたるのかは分からない。
また、胡済が死んだであろう261年時点では姜維も成都にあり、
後任の督漢中が決められてもおかしくないのに、その様子も無い。

>>21
久々にああいうレスを見たのでつい。
自重するよ。

>>24
そうかい?
確かに今月は殆ど来てなかったけど。
27無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:24:02
演義では腐れ儒者と呼ばれた 周だが、彼の進言は理路整然としている

目前へ迫った魏に対し、蜀高官たちの意見は
@同盟国の関係にある呉に出奔しよう
A南中の七郡が険阻で隔絶した土地で守りやすいので、南に逃走しよう
というものだった

これに対し 周の反論は
@他国に身を寄せて天子でいられたものはおらず、臣下として服従しなければならない。
今後魏が呉を征服することはあっても、呉が魏を征服することは不可能であり、
呉が滅亡すれば降伏という屈辱を2度も受けることになる。よって小国の呉よりは大国の魏に降伏したほうがましである。
A南方が服従したのは諸葛亮の軍事的討伐であり、さらに毎年税を取り立てているので苦しみ怨んでいる。
こちらが切羽詰って身を寄せようとすると、南方はおそらく反逆する。
魏が来襲したのは蜀政権の滅亡もも目的であるので、南方に必ず追撃してくる。
もし南方に行けたとしても、敵を防ぐ軍事費用等を蛮族から徴収せざるを得ず、結局蛮族が反旗を翻すことになる。
魏が蜀の土地を奪ったとき、劉禅が蜀を去ってしまえば土地の住民は完全に魏についてしまう。
劉禅がとどまっていれば逃亡離反が防げるし反撃のときの呼応も可能。
素直に降伏するのと、南方に逃げ追い詰められてから降伏するのとでは魏の対応も異なってくる。
素直に降伏すれば爵位・封土も得られるであろう。

これに他に蜀高官は異論を唱えられなかった
28無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:28:24
実際呉を滅ぼしたのは晋だったが、それ以外はおっしゃる通りですって感じだな
29無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:29:38
孫呉では張昭らが>>27のように主張したが周瑜に押し切られたね
蜀漢では周瑜のように徹底抗戦を主張する者はいなかったのか
30無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:33:10
劉ェぐらいかな
演義で腐れ儒者って言ってた人
しかし劉禅は降伏を選んだ
おそらく諸葛瞻軍が奥の手だったんだろう
31無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:36:39
劉ェの死に様はかっこよすぎる
が、劉備は喜ばない死に様だろう
32無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:39:25
まあ曹操の南征当時と魏の蜀侵攻当時じゃ彼我の戦力差や中華情勢が大きく異なるからな
33無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:44:36
>>30
まだ辺境を守ってる将兵や成都の守備兵はいたはずなんだがな
成都間近まで侵攻されてる状況を押し返すのは難しいが
34無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:48:25
ケ艾に提出された蜀の情報

戸数 28万戸
人口 94万人
兵士 10万2千人
官吏 4万人
兵糧 40余万斛

明らかに官吏の人数が多すぎるんだよな・・・
35無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:50:50
兵士も1割を超えてるな
36無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 00:57:27
>>34
これじゃ官吏の給料払うだけで財政が破綻しかねんぞ
37無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:03:58
官吏が増えまくったのは何か理由あったはず
38無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:07:42
蜀の財政については判らんけど兵力という意味ではもう限界だったでしょうなあ
39無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:08:59
総人口94万人といえば静岡市くらい?
静岡市って公務員何人おんねん?
40無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:12:15
さあ?
ただ人口100人に1人が理想とかなんかで見た気がする
94万人なら9400人かな
41無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:13:00
理想値の4倍強か
狂った社会だな
42無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:15:43
>兵糧 40余万斛

これが一番やばいだろ
これじゃ長期戦無理
43無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:23:30
>>27
>>34
降伏を選ぶのもやむなしか…
数字で見ると説得力が違うな
44無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:44:22
現実感あるもん
45無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:52:26
まだ10000ぐらいは成都にいたと思うんだけどな
トウガイの勢いが強過ぎて弱気になったかも
46無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 01:59:40
ガイ相手に成都に残った将兵に戦えと言っても厳し過ぎる
頼みの綱が戦死した後だし
47無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 02:12:44
しかもトウガイに仮に勝てたところですぐにショウカイも来るだろうしねぇ・・・
48無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 08:20:45
劉ェの死に様は漢杉る

馬鹿親父(劉禅)と違って、劉備の志をモロに感じる
49無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 09:25:43
>>45
迎撃に向かったのが実戦経験があったかどうか疑わしい諸葛瞻で
一緒に戦死した者も尚書系の官が目立ち将軍クラスがいないので
兵がいても指揮できる将軍が既にいなかったのではないかと

いたとしても病死直前の宗預と間に合ったかどうかの閻宇くらいか
50無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:21:31
>>48
劉ェは武侯祠入りしてないんだっけ?
アホ親父はどーでもいいが、せめて祖父の側に並んでて欲しいなあ。
51無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:29:07
>>27>>34見る限り降伏した劉禅もアホとは言えないだろ
他の高官たちも異論を出せなかった訳だし
52無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:34:16
呉が送った部隊が救援部隊ではなく略奪部隊だったってのが…
53無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:40:43
まあこの時代になると互いに不可侵ではあったが交流はほとんどなかったみたいだし
呉にしてみれば次はこっちが滅ぼされるという危機感があったろう
住民や金銀の略奪を考えてもおかしくはない
54無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:48:48
孫休が死んで呉軍は撤退したんだっけ
55無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 11:56:22
その呉軍の指揮官が丁奉というのがなんとも
呉って魏や蜀と功臣の世代が一世代ずつ違うからなぁ
56無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 12:17:18
蜀滅亡戦において何よりも重要なのが漢中素通りだな
ここを抜かれたら蜀は終わりというぐらい重要拠点だったのに
57無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 12:31:17
滅亡戦なんてそんなもんですぜ
58無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 12:46:38
魏の軍勢は20万ぐらいだっけか
59無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 13:03:18
蜀の場合一番致命的なのが充分な量の兵糧が用意出来ない事じゃね
この時点で既に積んでる
60無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 13:12:55
兵糧よりも兵士を率いる武将がもういなくなってた
辺境には優秀な武将も居たが、成都まで遠すぎたのもあるか
61無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 13:57:58
滅亡時の酷さ

魏≧蜀>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>呉
62無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 14:11:41
ケ艾が断崖絶壁を経てたどり着いた群はどこだっけ?
あそこの太守が戦わずして降伏しなければ情勢はかなり変わったと思うんだが
63無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 15:18:08
>>27
何か張魯が曹操に降伏したのを思い出すなあ
特に最後のほう
64無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 16:56:08
大将軍だと大将軍府が開けて、丞相だと丞相府が開けるんだよね?
だったら皇帝が開く幕府はなんていうんだろ?
65無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 17:14:12
>>50
劉備像の横に劉ェ像が並べて置いてある
でも劉禅像はない
66無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 17:36:49
>>64
それは朝廷じゃね
67無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 18:01:19
ケ艾も鍾会も強すぎ
かなり一方的にやられて降伏した感じ
68無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 18:32:37
まあどこかで押し返せていればそもそも滅亡しないからなあ
69無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 19:16:28
魏の内乱が長引いたのは蜀にとって幸運だった
70無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 20:02:56
というか司馬師以降は魏が完全に有利だね
71無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 20:23:14
そらそうよ
国力って言葉だけじゃなかなか実感湧かないが、
要は人口だ
人口が多い→子供が増える→兵士が増えるってな
時代を経れば経るほど蜀は不利になる
72無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 21:17:47
呉蜀の場合は、代を重ねる毎に君主がアレになって行ったからな。
蜀滅亡の要因の一つは、政治と軍事の劣化だと思う。
73無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 22:21:42
>>72
魏なめるな
魏の方が代を重ねるごとに君主がアレになってた先駆者だ
曹叡は始皇帝並だなんて言われてるんだぜ
74無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 23:41:53
魏は文帝が短命だったのが悔やまれる気がする・・・・
曹叡の劣化も呉蜀との軍事的緊張がある内は、ある程度抑制されていたかと。
周囲に脅威がなくなって暴走する辺りは、始皇帝に似てるとは思う。
間違ってたらスマソ
75無名武将@お腹せっぷく:2009/12/30(水) 17:59:32
外安らかなれば内に必ず憂いあり、とはいつの時代でも変わらんからな
76Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/30(水) 22:58:16
あっさり突破したように見えて、
鍾会の漢中突破は、意外にギリギリの勝利だったんだよね。

漢中から300kmも離れた沓中にいた姜維をケ艾と諸葛緒によって包囲させ、
その間に鍾会が漢中を突破する、という戦略だったけど、
全戦力の1/3を使った姜維の包囲は失敗し、姜維は漢中まで1週間かからず到達できる位置まで来ていた。
蒋舒と傅僉が協力し、魏軍に対して抵抗する意思を見せていたなら、
姜維は関城に到達できていただろうし、張翼や董厥も間に合っていただろう。


結果だけ見たり、精査しなかったりすると、非常に簡単に勝利したり感じる戦いでも、
実際は累卵の如き危うさだったという事もよくある。
蜀の滅亡はそういった類のものだと思う。
77無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 00:07:44
文帝ってどうよ?
偽善と粛清と理不尽決定ばっかでうんざりするアホの印象なんだけど
78Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/31(木) 01:12:31
文帝って司馬昭の事かいな?

偽善と粛清はまだ分かるとして、理不尽決定って何か具体例でもあるの?
79無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:37:51
>>78
>>74の曹ヒの件
俺は曹ヒに曹叡ほどの指導力、求心力があるのか疑問だ
80無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:45:08
曹叡に求心力なんてあるか?
81無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:52:49
曹叡くらい臣下から総スカンくらった皇帝は三国時代にはいない
82無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:53:52
曹丕は人間の屑だし為政者としても疑問。
曹叡に丁儀、王忠、于禁、曹洪、鮑勲、楊俊、夏侯尚、鍾繇らのような被害者はいない

曹丕が長生きしていれば魏はもっと続いた、とifで語られるが。
こいつのエグい人格だと政治でも戦争でもボロを出す方が濃厚だろ。
曹操の遺産と呉蜀の荊州問題の漁夫の利を貪っただけの軽薄才子。
それが文帝紀その他を読んでの俺の評価。
83無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:55:23
>>80
ない。
ないが曹丕にはもっとない
どの道魏は滅びる運命だったのかもね。
84無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:56:31
よく考えてみると軽薄才子の評価は間違いかな
陰湿な鬼畜だわ
85無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 02:00:16
陳寿も人徳があれば聖天子にも匹敵するって言ってるけど、
つまり人徳が全く伴っていなかったという意味だよな
86無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 02:05:21
幼帝が継いだ時点でどの王朝も一気にテンパイだな
87無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 02:28:55
つ清の康熙帝
88無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 09:40:07
>>76
剣閣に籠ったから片側からの攻撃で済んだけど
関城に籠ったら両側から攻撃されるのでは
89無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 11:12:18
>>88
剣閣に拠るって事は、その時点で完全に受動的な作戦しか採りえなくなり、主導権を完全に
放棄する事になる気がするのだが

姜維がどの時点で漢城に到達できたかにもよるが、そうなれば廖化や張翼、董蕨ら、国内に
展開している別軍らと呼応して魏軍の退路や兵站を脅かすといった有機的な作戦を採る事が
できたかもしれず、奏効すれば魏軍内に疲弊や厭戦気分が漲り早期の徹底を志向させえた
可能性も皆無ではないはず

史実では剣閣に篭るしかなくなった事で魏軍の攻勢を凌ぐ以外の方途を失い、進むも退くも
魏軍の胸先ひとつに委ねるほかなくなった様にも感じるわけで
90無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 11:47:04
>>89
橋頭を通過した時点で姜維は敗走中だった上に
かわされた諸葛緒との距離は1日分しかないから
たとえ関城に到着してもすぐに包囲される可能性が高い

それに前方に鍾会の10万以上(−各拠点包囲分)
後方に諸葛緒の3万で包囲され
さらにケ艾の兵3万が丸々残っているから
どちらにしろ有機的な作戦どころではなかったと思う
91無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 17:18:02
希望的な意見になるが、剣閣で魏軍主力を拘束した状況で魏軍後方に展開して別行動を
とれる一軍が存在しないんじゃ姜維も手詰まりだよなあ

尤もそんな自由に動ける敵戦力が存在しながら、それを野放しにして鍾会が剣閣に自軍の戦力を
集中させる愚はおかさんだろうが
92Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/31(木) 17:56:05
諸葛緒は姜維の捕捉に失敗した後、陰平でケ艾と合流し、
ケ艾軍の内、奇襲に参加しない兵を預かってから鍾会の元に向っている。

ケ艾の奇襲が行われるまで陰平に留まっていたのは漢中が落ちたからだろうが、
姜維を取り逃がしてすぐに漢中陥落の報に接したとは考えられず、
漢中陥落の如何にかかわらず、諸葛緒はケ艾と合流する為に陰平に向っただろう。

となれば、姜維としては、自身が関城に急行するかたわら、
軍を分けて隴西方面の敵に備える為の陣地を構築させる時間もあっただろう。
白水方面には張翼らを向かわせて増強させれば、関城と橋頭の二ヶ所で蓋ができる。

問題は、防御が硬直的に過ぎてしまうという事。
関城はまだ良いとして、防御陣地程度で5,6万の敵、それもケ艾が率いる敵を防ぎ切れるかは疑問。
敵の補給がどれだけのものかにもよるが、隴西方面の敵軍は早期に撃破する必要がある。
93無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 09:27:22
>>92
諸葛緒は姜維よりも先に橋頭に駐屯していたから
その時点で関城との連絡ができていた可能性がある
地図だと橋頭から関城まで行くには南に迂回する必要があり
廖化、張翼、董蕨の動きに左右されるけど
突破済みの武都経由なら十分可能だったと思う

しかし陰平に留まった廖化に諸葛緒と戦った記録がないのは
状況不利として戦闘を避けて引き上げたのだろうと思うけど
(廖化単独で3万の軍とは戦えないだろうし)
漢中救援に向かっていたはずの張翼らは何をしてたのだろうか
関城陥落に間に合わなかったから引き上げたのか?
一応戦ったけど撃退されて引き上げたのか?
出発が遅くて剣閣近辺までしか来れなかったのか?
94Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/01(金) 13:36:21
>>93
諸葛緒と鍾会の間で連絡が取れる状態にあったかは、この場合あまり関係ないと思う。

姜維が漢中陥落の報に接したのは、陰平から関城までの間を移動中だった頃。
諸葛緒が道路を遮っている状況では情報も届かないだろうから、
順当に考えれば諸葛緒をかわして関城に迫っている頃だろう。

姜維が諸葛緒をかわす以前に関城は陥落し、且つ諸葛緒もその事を知っていた、
とも考えられるものの、そうすると魏軍本隊の関城剣閣間の行軍が緩慢に過ぎてしまう。

したがって、漢中陥落は姜維が諸葛緒をかわした前後となるので、
この時点では諸葛緒は漢中陥落を知らなかっただろう。
にもかかわらず、諸葛緒が姜維を追撃した様子も見られないという事は、
漢中陥落如何によらず、ケ艾と合流する予定だったのだろう。
なので、漢中が陥落しなければ、姜維にある程度の時間的余裕が生じた公算は高い。

ただ、漢中陥落を姜維が知ったのがいつか、というのは記述によって違ったりもする。
鍾会伝だと陰平を捨て関城に向う途中、ケ艾伝だと何も書いていないが、
沓中にいた時点で鍾会が漢中に侵入した事を知っている。
晋書文帝紀だと、姜維は彊川口で敗れる前に漢中陥落を知っている。
文帝紀は鍾会伝とケ艾伝記述を混同したのだろうとは思う。
仮に文帝紀通りだとすると、関城陥落の報に接してから鍾会が剣閣に前進する短い間に、
姜維は沓中から剣閣までの(恐らく)道のりで300km以上の距離を、
彊川口会戦、陰平での軍勢集結、諸葛緒突破時の機動などをこなしつつ進んだ事になる。
機械化された現代の軍隊でも無理だな。


張翼らが関城に到達していたなら、傅僉と蒋舒に起こったような問題は生じなかっただろうから、
彼らは、ようやく漢寿に到達した時に関城が陥落したのを知った、という事だろう。
95無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 14:59:58
>>94
鍾会伝では関城が落ちた時点で鍾会自身は楽城を攻めていたとされる
姜維伝では関城が落ちたことを知った鍾会はそのまま前に進んだとあるけど
鍾会伝では胡烈が関城を破って倉の食料を確保したとある
だから鍾会は楽城を包囲の上放置して関城に駐屯したと思う
(資治通鑑では鍾会は前に進んで倉の食料を確保したとする)

この時点で楽城はもちろん漢城も落ちていないし
鍾会伝では守備側が各5千、包囲側が各1万程度だから
鍾会は両城を放置したまま先に進んで蜀軍と戦うのを避け
ケ艾と諸葛緒の状況を確認しながら様子を見ていたと思う

その後姜維らが関城陥落を知って剣閣に退いたのを確認してから
鍾会は楽城と漢城を放置して先に進んだのではないかと思う
96Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/01(金) 16:18:08
>>95
関城に入らなければ前に進めないのだから、
鍾会が一旦関城に入るのは至極当然の事だろう。

ただ、鍾会が関城に留まり続け、姜維らが剣閣に入るのを確認するなんて事は信じ難い。
晋書文帝紀の詔勅では、「剣閣不暇守険、関頭不能自存」とあるくらいだし、
蜀軍に時間を与えて剣閣の険に籠もらせる隙を与えるなんて愚は犯さないだろう。

ケ艾と諸葛緒に拠る包囲が成功しようがしまいが、迅速に関城と剣閣を突破し、
四川盆地へと雪崩れ込むのは規定路線だったはず。
97無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 09:21:15
>>96
書き方が悪かった気がする

鍾会が関城に入った時点ではまだ漢中すら平定しきっていない
あなたの説だとこの時点での鍾会には武都や陰平の戦況は分からないし
自説>>93でも姜維の橋頭通過前の連絡だから結果は分からない

もし鍾会が剣閣に進んだ後で姜維がケ艾と諸葛緒の撃退に成功し
さらに蜀漢側が武都又は巴西経由で漢中を奪回した場合
鍾会は関城〜剣閣で孤立してしまう

だから鍾会は漢中平定を続けながら諸葛緒と連絡を取り
包囲から逃れた姜維が関城に向かうため南に進んだことで
後方遮断のおそれがないと判断してから出発したと思う

ほぼ総勢で剣閣に籠られるのは確かにいやなことだけど
それでも退路を断たれる方が怖いでしょ
98Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/02(土) 10:04:17
>>97
姜維の包囲が成功するか失敗するかも分からない状況で、
失敗したら危険だからと前進をためらったということ?
何よりも速度が重視されるこの作戦で、そんな判断はしないだろう。
作戦の成功が、関城と剣閣の迅速な突破に掛かっていると言っても良いくらいなのだから。

リスクの軽減を求めようとするなら、まず漢城と楽城を完全に陥落させてるよ。
特に漢城は漢中の軍事・行政の中心だから、後方の敵兵を撃破するという事以上に、
その陥落は大きな効果がある。
姜維が剣閣に入るのを黙って見ながら、なお二城を放置して進む事からは、
鍾会のそんな慎重な姿勢は見受けられない。

第一、姜維が漢中に戻ってくるのが危ないと言うのなら、
まず胡烈の前軍を剣閣に急行させるだけでも良い。
鍾会が関城が陥落してもなお、姜維らの行動を案じてしばらく停止していたのなら、
関城が陥落した時点で姜維はもちろん張翼らも剣閣には到達していなかっただろうしね。
また、陽平関を押さえつつ白水辺りに軍を派遣すれば、
ケ艾や諸葛緒と連携しつつ姜維を完全に包囲・撃破できる体勢が整う。

ただ徒に漢中に全軍を留めると言うのは、一番やらない事だと思うが。
99無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 11:24:02
Jominianが昼間に書き込んでると違和感あるな。
100無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 12:56:34
>>98
確かに二城攻略の部隊はともかく
全軍で漢中に残っている必要はないな
関城の陥落時期については同意する

でもそれならなぜ諸葛緒は姜維を追わなかったのだろう
>何よりも速度が重視されるこの作戦で、そんな判断はしないだろう。
>作戦の成功が、関城と剣閣の迅速な突破に掛かっていると言っても良いくらいなのだから。
なら諸葛緒の当初目的は姜維を鍾会の戦線に出さないことになるから
廖化らと合流して勝ち目がなくなるまでは追わないといけないはずなのに
1日間に合わなかったぐらいであきらめるのだろうか
101無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 17:05:17
衛瓘について語るんじゃないのか?
102無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 18:24:58
>>101
蜀滅亡戦最大の勝ち組は真打ちだからこれからさ
103Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/03(日) 02:29:38
>>99
確かにいつもは深夜に書き込んでるな
まぁ、正月だから

>>100
彊川口で姜維を撃破しながら、追撃が緩慢になり、尚且つ陰平で前進を停止したケ艾。
既に挙がっているが、諸葛緒が建威に向かった事を察知してから陰平で停止した廖化など、
諸葛緒にかかわらず武都・陰平方面の動きは不可解なものが多い。


諸葛緒に関して言えば、相当な強行軍でない限り姜維に追いつけないであろう事、
作戦の失敗をケ艾に相談する必要があった事などの理由があるのではないかと思う。
姜維と廖化が合流したタイミングは不明だが、廖化が陰平郡治にいたのなら諸葛緒をかわす前。
廖化が白水辺りにいたのならその後、という事になる。
いずれにしても、諸葛緒が姜維にかわされた時点で、姜維と廖化の合流は成功していると見て良いと思う。
その場合、諸葛緒の戦力は姜維らと同等程度にまでなり、
ケ艾の到着するタイミングも分からない以上、姜維と戦闘に及べば敗北を喫する公算が高いだろう。

諸葛緒は、ケ艾に奇襲への同行を誘われても詔勅に無いからと断るほどなので、
当初の作戦から逸脱した行動を取れるような性格ではないと思う。
だから、リスクの大きくなった状況においては諸葛緒が史実通りの行動を取ったのも分からない事では無いと思う。
104無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 02:39:08
一時期とは言え、漢中以北を席巻した姜維軍の具体的な戦法や編成が知りたい
105無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 06:52:48
体力が弱いために生じる劣等感を、他の部分で補っていると思っている
心理機制を補償という。
106無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 08:20:09
ふーん
107無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 13:04:46
>>105
クロイツフェルト・ヤコブ病の病原体をプリオンという。
スピロヘータとは、真性細菌のことである。このスピロヘータを病原体とする、進行麻痺。
統合失調症はドーパミンが過剰な状態である。統合失調症の発病率については、性差は認められないが、男性の方が発病年齢が早い傾向がある。
ところで、イケメンはイケメンであるために他の部分でサボタージュしてると思うけど、
その場合、補償と逆のことが起きているって考えてもいいのかな?
108無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 18:24:08
>イケメンはイケメンであるために他の部分でサボタージュしてると思うけど

ただの思い込みであって何ら根拠が見出されない。
109Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/03(日) 23:28:16
>>104
戦略レベルの行動ならまだ記録にあるけど、戦術や技術レベルとなると記録が殆ど無いからねぇ。
結局は推測に多くを拠ってしまう事になる。

今後、考古学の面から研究が進めば何か分かるようになるかもしれない。
110無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 23:33:27
この戦いで決戦シリーズを作るならどういうキャラ、イベントを配置する?
111Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/03(日) 23:49:09
決戦シリーズってコーエーの?
だったらやった事ないんで分からん
112無名武将@お腹せっぷく:2010/01/06(水) 19:03:15
羅憲が余計な事をしなければ
113無名武将@お腹せっぷく:2010/01/06(水) 19:03:55
ロフストランド杖とは、高齢者や少し脚の悪い方がよく使用するT字杖に腕支え(カフ)を取り付けた杖で、肘のやや下が固定されることで杖がぐらつきにくく、結果としてT字杖より安定した歩行及びより大きな体重を支えられるようにした杖です。

松葉杖ほど大きな体重を支えることは難しいですが、多くのロフストランド杖は腕支えがC字状になっており、かつ、腕支え取り付け部分にヒンジがあり、上に90度くらいは動きますので、腕が握

りから離してもすぐに落ちず、松葉杖よりかなり自由に腕を使えることがメリットといえます。 松葉杖同様2本または1本で使います。

ロフストランド杖をお使いの方は主に以下の3つに分けられると考えられます。

 ・先天性障害(脳性マヒ、ポリオ(急性灰白髄炎)等)

 ・後天性障害(脊髄損傷、脳挫傷等)

 ・高齢者

 この中で比較的多いのは脳性マヒであり、足を骨折した等で使われるケースは

少ないようです。
114無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 07:12:21
「坐骨結節収納型の特徴」
前後径が広く、内外径が狭い。坐骨結節をソケット内に収納し、
坐骨枝で固定する。体重支持は断端全体で行う。断端は内転位に保持される。
また、側方安定性に優れる。
ソケットは坐骨と大転子により、骨性ロックされる。
115無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 19:10:45
最近骨の事ばっか書いてる変な人はここ辺りでやってくんねぇかな。

兀突骨が泣いている
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1241967036/
116無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 20:35:34
某蜀叩きの釣りスレを読んでて思ったんだけど
蜀滅亡時の蜀国内の全兵力が10万だったんだよな?
諸葛亮の北伐の時より数が減ってるのは
(姜維の敗戦で討たれた兵数だけじゃなくて)
国の乱れにより国外に逃げた民が多かったからなのかな
大赦の回数が増えている事から考えても
117無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 21:58:08
>>116
諸葛亮の北伐は「人数不明」
ただし蜀滅亡時の人口とかから適当に推測してもうちょっといたのでは?と考える人がいるだけ
118無名武将@お腹せっぷく:2010/01/08(金) 07:25:25
>>116
記録上の人口は建国時90万(20万戸)
滅亡時94万(28万戸)なのでほぼ変わっていない
ただ間に南征や異民族の移住でそれなりに増えていただろうから
民の逃亡自体はあったかもしれない
また1戸当たりの人数が減っているので
徴兵されて戦死した者もかなりいたとは思う

諸葛亮がの「悉大衆」を引き連れた234年の北伐で
司馬懿は司馬孚への手紙で「10万」と表現しているから
諸葛亮の兵力は10万に近い数字ではあったと思う
当時南中では劉冑の反乱でそれなりの兵力がいただろうし
成都や永安等の防御がいただろうから
合計すれば滅亡時よりは多かったと思う


119無名武将@お腹せっぷく:2010/01/08(金) 10:04:53
諸葛亮の歿後に逃亡兵の流入出で戸籍に変動というか混乱はあったりはした様だが
120無名武将@お腹せっぷく:2010/01/10(日) 14:34:03
滅亡戦で直接魏と戦ったのは8割ぐらいかね
121無名武将@お腹せっぷく:2010/01/10(日) 23:57:02
「決戦U」

劉備と貂蝉と曹操が三角関係。
荀ケが女で、曹操に片想い。
幼女の卑弥呼が、妖術師として曹操に仕えている。
劉備は、曹操に軟禁された貂蝉を取り戻す為に戦っていて、別に天下はどうでもいい。
趙雲が漢帝国の将軍。

軍師・智将の類は、巨大火球や地割れや落雷で戦場を蹂躙できる。
カタパルトで射出され、空を飛んで城壁を越える兵士。
ドリフト走行しながら、火炎を放射する木牛。
于禁はオカマ。
許褚は女。
122無名武将@お腹せっぷく:2010/01/11(月) 01:18:47
「帶甲」と「衆」では数え方が違う。
帶甲はつまり、兵士として武装して訓練を受けた者の数。
当時は兵戸制を取ったと考えられるから、兵戸に属して
武具を与えられ、召集に応じる義務を持った者の数になるだろう。

「衆」は軍役に動員された者の総数。
特に大規模遠征になれば、輜重隊や工兵的な役を追う人夫に相当数が必要になるので、
兵戸内の正卒以外の弱卒や民戸からの徴集がそれに当てられただろう。

だから諸葛亮が北伐で10万人動員したとするなら、
実戦に投入される「帶甲」は5万とか7万とかいう数字に落ちる。
それでも蜀漢の国力からすればかなりの数字だが。
123Jominian ◆Henri9gNlM :2010/01/31(日) 23:26:25
蜀滅亡戦と言えば、剣閣放棄後の鍾会の行った部署も興味深い。

鍾会の率いたのは18万の内12万。
その内、それぞれ1万を漢城と楽城の包囲に割いている。
また、黄金囲で抵抗を続けていた柳隠にも軍を割いているし、
連絡線の防護にある程度の軍を割いていただろう。

諸葛緒の率いた軍を接収したとしても、剣閣を抜けた時点で使える兵力は、
15万を超える事はないだろう。
そして鍾会は、剣閣を抜けると姜維を包囲する為に自軍を分けて進ませている。
一部は剣閣より巴方面へと真っ直ぐ姜維を追い、
また別の一部は涪から南下し、三つ目は大渡へと向っている。
そこに鍾会率いる涪の予備を合わせ、全部で大きく四つに軍を分割している。
したがって、個々の軍は3万から4万と言ったところだ。

この時の姜維の軍勢は、鍾会の言によれば4,5万となる。
つまり、分遣された各軍は姜維と接触したとしても、場合によっては拮抗するが、
恐らく姜維に対して6割から8割程度の戦力で当たらざるを得なくなる。

各軍の進み方や、姜維と接触した後の遅滞行動の巧拙によっては、
各個撃破される可能性もあっただろう。
ましてや益州は敵地であり、句安以外に街道の状態等を知っているものがどれだけいたかも分からない。
そして、鍾会は夏侯咸や皇甫闓に更なる軍の分割を命じている。
地勢を恃みに抵抗する事を期待したらしいが、どれだけ成功する見込みがあったのか。
124無名武将@お腹せっぷく:2010/02/01(月) 22:11:10
>>123
剣閣を放棄した姜維が「広漢,妻阝道」即ち南東に逃げているのに対し
鍾会は追撃とともに南西の新都,大渡(成都近辺?)に兵を向けているので
姜維が劉禅と合流するのを防ごうとしたとするのが一番の理由だろうけど
鍾会のことだから姜維を包囲して倒せると思っていても不思議はない
(司馬昭相手に独立を企む輩が自信家でないはずがない)

実際姜維は成都のケ艾にではなく涪の鍾会に降伏しているから
鍾会の目論見は当たっていたということでしょ
(成都の方が行き易かったらケ艾に降伏するだろうし)

後は剣閣攻防戦で補給に苦しんでいたから兵を分けて徴発していたとか?
(でも魏側が補給で苦労していた記録はあるけど蜀側の状況は分からない
緜竹の敗北で剣閣を放棄したんだから余裕があった訳じゃないと思うけど)
125無名武将@お腹せっぷく:2010/02/03(水) 23:38:46
蜀の滅亡を現在のビジネスシーンに例えて言うと、市場シェア15%の蜀漢帝国株式会社が、
市場シェア50%の曹魏帝国株式会社を倒すべく、無茶苦茶な営業や見通しの甘い
受注をし、結局大赤字になって企業体力が持たず、倒産。曹魏帝国株式会社に吸収
合併されてしまった、というところか。
126無名武将@お腹せっぷく:2010/02/04(木) 00:53:17
ちょっと違うかな
実際、姜維はケ艾が出てくるまで上手くやってたわけだし

一度は蜀漢鰍ェシェアを伸ばすも、曹魏鰍フ有能な営業部長の登場でシェアを取り返された
さらに、その影響で蜀漢鰍フ専務主導プロジェクトが失敗、キャッシュフローが悪化したところを敵対的TOBであぼーん
127無名武将@お腹せっぷく:2010/02/04(木) 12:26:48
やっぱケ艾って凄えんだな
128無名武将@お腹せっぷく:2010/02/04(木) 17:51:55
征蜀のケ艾、鍾会
征呉の王濬、王渾
129無名武将@お腹せっぷく:2010/02/05(金) 15:54:14
王渾は性格が悪くね?
軍隊の特権を返上したのも保身に見える
130無名武将@お腹せっぷく:2010/02/05(金) 20:36:15
ケ艾も鍾会も良い性格してる
131Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/07(日) 13:38:03
>>124
ただ姜維を成都に行かせないという事なら、戦力の大半を成都方面に向かわせれば良い。
鍾会の言葉と行った部署を見るに、やはり姜維の包囲、そしてその撃破或いは武装解除が頭にあったと思う。

鍾会の行った分の分散は、確かに各個撃破の危険をはらんでいるが、実際には仕方ない面もある。
敵軍の位置などというものは数十kmも離れたら分からなくなるし、
一日行程の距離があるだけでも、斥侯が敵を捕捉し、その情報を本隊に持ってくるだけで、
もう敵軍の位置が変わって接触できなくなる、というのもよくある。

だから、ただ一個の強力な軍で姜維を捕捉しようとしても、
別な道を通られてあっさり成都入城を許してしまうかもしれない。
したがって、考えうる全ての道を塞ぎ、且つ、迅速に分散した軍を集結させる必要がある。
姜維の前を遮ろうとした軍を特に分散させたのは、やはりそういった意図からだろう。

姜維が鍾会に降伏した理由は、鍾会伝を読めば、使者の言にそうあったと取る事ができる。
むしろ興味深いのは、劉禅からの使者が姜維の元へあっさりと到達している事だろう。
成都が降伏していた以上、姜維が成都と連絡を取り合いながら撤退していたわけでなはいので、
使者は姜維の正確な位置を知る事はできなかったはず。
それができたという事は、恐らく鍾会の派遣した胡烈らの軍が、
姜維の位置をかなりの精度で掴んでいたという事だろう。
実際に姜維と胡烈が接触した後、胡烈が姜維に撃破されていたかはともかくとして、
姜維の位置を掴むという、姜維を包囲するために最も重要な事はできていた事になる。
132無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 15:05:15
>>131
鍾会が追っ手を出した時点で劉禅はまだ降伏していなかっただろうから
姜維が成都に入る前に包囲して撃破するつもりだったのかな

劉禅が姜維に対して鍾会に降伏するよう指示したのは
鍾会を司令官とみなしていたからなのか
姜維の居場所を鍾会の方が近いと判断したのか
それとも他に理由があったのか?

ただ姜維は劉禅を守ることを考えていたみたいだし
使者すら送れないほど余裕がなかったとは思えないから
成都とは連絡は取っていたと思う
133Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/07(日) 18:22:29
>>132
劉禅が降伏を決める前の成都の連中に議論では、姜維の事は言及されていない。
姜維が降伏の勅書を持った使者と会ったのがシ県であるのだから、
降伏を決めかねていた時点での姜維の位置は、恐らく成都から100km程の位置であり、
姜維なら1週間と掛からずに到達できる。

諸葛瞻の敗死を聞いてから降伏の勅書を受け取るまでの間に300kmもの距離を踏破している姜維だから、
或いはもっと早かったかもしれない。

それを成都の連中が知っていたのなら、姜維に頼る事も選択肢として言及していたはずだと思う。


ただまぁ、涪や雒を通り北側から成都へ至る道が使えない以上、
東広漢を通って東から成都に至る道か、大きく迂回して南から成都に入るかしかないのだから、
姜維が敵をかわすための極端な機動を行わない限りは、
姜維の正確な位置を掴んでいなくとも、姜維のもとへ使者を送る事は可能だったのかもしれない。
134無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 21:25:45
>>133
緜竹失陥後の成都での議論は,譙周の降伏論を除けば
孫呉に逃げるか南中に逃げるかしか出てこない
要するに成都で抵抗して何とかできるとは誰も思っていない
(劉ェですら社稷のために死ぬことしか主張していない)
そこだけ見ると姜維の居場所を知らなかった可能性はある

でも東広漢郡で撤退中の姜維からすれば
自身の戦力がまだ残っていて劉禅を守るつもりがあったのだから
成都に使者を送ってその旨を伝える程度の知恵はあったと思う
>>132で言った様にそこまで余裕を失っていたとまでは思わない)
(ただ,263年初めに曹魏の侵攻を察知したときに
援軍要請をもみ消されたにもかかわらず何の対応も取っていないことから
成都と連絡を取ること自体あきらめていた可能性もあるけど)

譙周の降伏論も戦力の多寡は全く問題にされていないから
姜維がいても大勢は変わらないと思っていたのではないかと
135無名武将@お腹せっぷく:2010/02/08(月) 12:16:33
上司に信用されてない時点で姜維の手柄を挙げる機会は制限されている
136Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/08(月) 23:13:23
>>134
姜維が撤退の途上で伝令を成都に送ったというのは当然あり得る話。
ただ、その伝令が成都へ着いたのは降伏が決定された後だろう。

譙周の言ならば、姜維の救援を分かっていても問題にしないのも頷けるが、
成都で抵抗する事を主張した劉ェが敗北を前提として語っているのは不可解に過ぎる。
これは、降伏決定時に姜維の位置や動向を成都は掴んでいなかったという事になると思う。

仮に姜維の位置を成都が知ったのが姜維の伝令によるものだとしても、
それは降伏後に来た伝令からもたらされたものだろう。

剣閣放棄〜シ県での武装解除までの期間が分からないものの、
その期間の取り方にもよるが、ケ艾に降伏した後、
姜維よりの伝令で姜維の動向とそのおおよその位置を知った朝廷が、
太僕の蒋顕を姜維の元に派遣した、という事も考え得る。
137Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/11(木) 23:39:31
興味を引くこととして、降伏命令を受け取った後の姜維の行動がある。

姜維はシ県で武装を解除して涪の鍾会の元へ赴いたが、
自分たちの持っていた節などは胡烈の元へ送っている。

降伏命令は成都から発せられたのだから、鍾会軍の状況までしっているわけがなく、
命令にそこまで規定してあったとは考え難い。
これは姜維の判断と見た方が自然だろう。

では何故胡烈に送ったのか?
これは恐らく、両軍がかなり接近し、会戦に至ろうという状況だったからではないだろうか?
胡烈に対して状況を説明し、戦闘の意思がない事を示さないと、
鍾会の元へ降伏する前に攻撃を受けてしまう公算が高かったからだと考えられる。

あと少し降伏が遅かったら、胡烈と姜維との間で戦闘が起こっていたかもしれない。
138無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 12:56:53
姜維のことは正直あまり好きではないけど、
こういう判断のソツのなさ一つとっても、優れた軍隊指揮官だったのは疑いない。
うまく表現できないけどいかにも「プロ」って感じがする。
139無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 17:47:01
9=アレクサンダー、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王
6=姜維
5=
4=
3=
2=
1=趙括、馬謖

こんくらい
140無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 17:50:32
トウ西は殺しまくりだけど相手が王経じゃな…
141無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 18:02:28
姜維の実力は張コウと同じくらいじゃね
余力を残して舞台から去った感
142無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 18:33:26
張コウほどといえるかは疑問だが優れた指揮官ではあっただろう
143無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:26:24
9=アレクサンダー、白起、韓信、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ダヴー
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王、ナポレオン
6=張コウ、姜維、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=

こんくらいだろ
144無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:30:17
9=アレクサンダー、白起、韓信、ダヴー
8=項羽、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ナポレオン
7=曹操、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
6=張コウ、姜維、フィリップ尊厳王、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=

9は常勝不敗が前提条件じゃないか。
145無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:56:47
9=アレクサンダー、白起、韓信、ダヴー
8=項羽、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ナポレオン
7=曹操、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
6=張コウ、姜維、フィリップ尊厳王、ウェリントン
5=
4=オージュロー元帥
3=趙括、馬謖
2=
1=
146無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:37:20
4〜6の普通の指揮官は7〜9には先ず勝てないな
147無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 22:10:39
つまり、姜維は思うことあって鍾会に降ったのでは無く、眼前に胡烈軍がいたからそのまま鍾会の元に出頭したというわけか。
148Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/12(金) 23:55:58
>>147
言い切る事はできないが、「誰々のもとに降れ」という明確な指示があったわけではなく、

胡烈軍の前で武装解除→胡烈が鍾会のもとへ行くよう指示

という流れと考えた方が自然に思える。
鍾会に降るようわざわざ指示するのも不自然だしね。
普通に考えれば手近な魏軍に降るよう指示すると思う。

ただ、仮に胡烈と姜維が非常に接近していたとしたら、
胡烈は予定されていた経路を外れ、涪からほぼ真っ直ぐに南下している。
成都の東方を南北に走る山地の手前で姜維を遮ろうとしたのだろう。

推測し得る姜維の撤退経路だと、剣閣からシ県まで約300km、
剣閣から真っ直ぐ涪に出て、そこからシ県まで南下すると約200kmとなる。
この100kmの差で、何とか姜維の前に出る事ができそうだったというところだと思う。

そうなると皇甫闓らと作戦線が接近しすぎているので、
皇甫闓の方は実際は真っ直ぐ南下したのではなく、涪水に沿う形で南下したのかもしれない。

いずれにせよ、胡烈は1日か2日耐えれば、皇甫闓らの援軍を得て姜維を撃破できた公算は高い。
降伏が無かったとしても、姜維がよほど優れた指揮をしない限り、敗北は免れなかっただろう。
149無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 07:11:32
>>148
それだと胡烈は姜維の動向を把握していたことになるけど
内側に入って足止めなり撃破なりできればいいものの
もし諸葛緒みたいに姜維にかわされた場合
姜維の成都到着を許してしまう恐れがあるから
独断で行動を変えた可能性は低いと思う

また胡烈の役割からして鍾会と涪まで同行するとは思えないし
鍾会の指示で変えたなら上言で「新都、大渡」に出たとは書かないだろう
だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
(到着後に東に向かった可能性はあるけど)

姜維は「妻阝」で降伏命令を受領しているから
武装解除して成都に出頭しようと西に向かい
遭遇した胡烈の指示で涪に向かったのではないかと思う
150無名武将@お腹せっぷく:2010/02/14(日) 09:57:52
姜維は東道を通って涪に向かったとあるから
>>148
>だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
>(到着後に東に向かった可能性はあるけど)
は「胡烈は新都か大渡に到着してから東に向かった」に訂正する


あとスレの流れとは外れるけど
この時期の姜維の連絡体制の不備が気になる

例えば263年初め(資治通鑑だと262年)の時点で
魏の侵攻を察知した姜維は成都に増援を求め
巫女の言葉を信じた黄皓と劉禅に握りつぶされているけど
そのことを群臣は「知らなかった」とされるから
姜維は正式な上表以外に連絡手段を持っておらず
成都には個人的に連絡を取れる相手もいなかったことになる

また増援要求を握りつぶされた姜維は何の対応も取らず
漢中の防衛体制が増強・変更された形跡はないから
自身が行った上表の結果も知らず
漢中との連絡も出来ていなかった可能性が高い

姜維を更迭しようとしていた黄皓に
平尚書事の諸葛瞻や董厥が関与していたとする記録もあるから
この時点で姜維は孤立していたのではないか
151無名武将@お腹せっぷく:2010/02/14(日) 10:01:13
ごめん
>>150>>148>>149の間違い
152Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/15(月) 22:19:07
>>149-151
あの鍾会伝の文章だと、シ県で武装解除した後に西進したようには見えない。
シ県での武装解除の段階で胡烈の位置を姜維が把握しており、
シ県から節伝を送り届けたように読める。
「送節伝」だし。

剣閣から涪の辺りで真っ直ぐに南下するのと、新都の大渡津を経由するのとでは、
シ県の西方で姜維の前に出るのに距離が30〜50km違う。
大渡津に出たのなら、戦術の上でもそこで姜維を待つべきで、
わざわざ敵の眼前で、比高300m程とは言え山を越える利点はない。

大渡で姜維と胡烈が会ったのなら、普通に考えればそのまま北上して涪に入る。
ご自分でも指摘されているように「東道」は通らない。

新都大渡をそのまま受け取ってしまうと、胡烈の行動が合理的じゃなくなるように思える。
まぁ、
・シ県で勅令を受け武装を解除した事
・節伝を胡烈へ送った事
・東道を通って涪の鍾会に降伏した事
くらいから正確に状況を推し量るのは難しいと思う。


で、姜維が孤立していたか、という事だけど、
姜維はそもそも、魏軍襲来に至ると漢中とすら連絡を取れていない。
それ以前はともかく、少なくともケ艾と対峙して以降はその形跡は無い。
姜維からの明確な指令のないまま、傅僉と蒋舒がばらばらに行動した事からそれが分かる。
これは督漢中が置かれていなかったという事が大きいと思う。

宰相が漢中に出ると督漢中は解任されるのが通常だったので、
沓中に姜維がいた事でその慣例が適用されていた、とも取れるが、
軍事的な合理性を考慮すると不自然。
単純に、陳祗の死によって姜維の発言力が低下し、
胡済以降の督漢中の後任人事を思うように進められなかったという事だと思う。
153無名武将@お腹せっぷく:2010/02/16(火) 07:42:46
>>152
姜維伝では門を開けて降伏したとしかないけど
漢晋春秋では城を出る前に傅僉を欺いたとあり
蜀記では恨みを持っていたとまであるから
蒋舒は自分の意志で降伏を決定したことになり
姜維(又は中央から)の指令の有無は関係ないと思う

また蜀記では蒋舒は武興督から漢中守の配下に左遷されたとあり
華陽國志では分将蒋舒と督傅僉とあることから
この時点での漢中防衛の責任者は傅僉であった可能性が高い
(季漢輔臣賛注では傅僉が「関中都督」だったとあるけど
「関中」が「漢中」の間違いか「関城」を指すのかは分からない)
154Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/18(木) 23:10:42
>>153
この場合、蒋舒の思惑がどうであったかなどは意味を為さないだろう。

傅僉は漢晋春秋で、
「城を保つ命令を受けたのだから、それに背いて出撃し、
 若し軍を失って国が負けるような事になれば、死んでも益無しである。」
と蒋舒に語っているにもかかわらず、結局は蒋舒を押さえ込む事ができていない。
また、姜維伝の注に引く蜀記にも、「漢中の守備を助けさせた」とあるだけで、
彼が傅僉の麾下に組み込まれたとは書かれていない。
華陽国志の分将と都督という記述のみを以って彼らの指揮系統を考えても、
実際の行動と乖離していて受け入れ難いだろう。

したがって、蒋舒は傅僉の指揮系統に入っているわけではなく、
蒋舒の行動を規制し得る正式な通達も関城に届いていなかったと考えるのが自然。


関中都督は劉備の即位にともなって呉懿も就いている職であるから、
誤記とも考え難いし、ましてや傅僉の方だけ誤記という事は無いだろう。
また、この関中が三輔を指しているとも考え難い。
関中という名前から考えれば、関城から葭萌関(或いは剣閣)まで、
もしくは陽平関から関城までの地域の都督を指していたと考えるのが良いかもしれない。
155無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 23:27:09
蜀漢には涼州・雍州刺史や司隸校尉もいたのだから、
関中都督も旧来の関中の遙任だろう。
対魏雍州部(つまり関中)担当の前線司令官的な
156無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 18:13:14
傅僉は蒋舒を斬るべきだったな
姜維も宮中なら帯剣できないと思うが、宦官ごとき素手で捻り殺せよ
157奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/19(金) 21:43:15
斜め読みのオレの感想。

荊州閥だの益州閥だのそれ以前だのという連中が40年でよくもまあここまでまとまったもんだなと。
158Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/19(金) 22:11:28
>>155
うーん。
確かに刺史の遙任は多数見られるんだけど、都督と言うと遙任の例は見られない。
それこそ、この関中都督くらいなもの。

それで、関中都督を対魏前線司令官とするのは違う気がする。
対魏攻勢を取る場合は常に宰相クラスが司令官として漢中にあるので、
対魏攻勢の際の司令官が別にいるとは思い難い。

魏延が督漢中であった際に、呉懿が関中都督だったんだけど、
その後を見ても、魏延>呉懿という位階は、魏延が死ぬまで変わっていない。
督漢中を補佐する立場として、関城の司令官であったと見るのが、
個人的には自然だと思う。
159無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 22:20:39
>>154
蒋舒は魏軍が迫る前から降伏することを考えていて
(だから蜀記では降伏する理由が述べられ
漢晋春秋では関城から出るために使った術が述べられている)
蒋舒の降伏と関城陥落(傅僉の戦死)が一体で語られているのだから
関城防御に関して蒋舒の思惑が意味を為さないなんてことはない

また漢晋春秋の傅僉の言を真とするなら
出撃を主張する蒋舒に「受命保城…今違命出戦…」と返している傅僉は
傅僉自身が従うべき命令を明確に理解していたことになる
だから姜維(や成都)からの正式な命令の有無は全く関係ない
単に傅僉が蒋舒を制御できなかったに過ぎない
(それが権限の問題か実力の問題かは分からないけど)

この時点で傅僉に蒋舒を制御又は処罰する権限がなかったのなら
仮に姜維(や成都)からの正式な命令があったとしても
それが傅僉の権限を引き上げる様な内容でない限り
蒋舒を制御することは無理ということになる
(単に行動方針を伝えるだけの命令だったら
どっちみち蒋舒を制御することは出来なかっただろう)
160Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/19(金) 22:29:24
>>159
例え傅僉に蒋舒を制御する権限が無かったとしても、
蜀軍全体の総司令官とも言うべき姜維から正式な関城固守の命令が来ていたなら、
それを盾に傅僉が蒋舒を押さえ込む事ができたはず。

仮に正式な命令が来ていたにもかかわらず、傅僉が蒋舒を押さえ込めなかったのなら、
傅僉は限りなく愚かな人間という事になる。
それを受け入れる事ができるなら、それはそれで構わないし、これ以上言う事は無い。
161無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 23:00:40
>>160
正式な命令が来てても現場の独自判断で行動することはあるだろう。
もちろん失敗したら蒋舒が命令違反で処断されるだけだし。
傅僉にまで連帯責任が行くかは分からないけど
蒋舒なりに勝機を見出したがゆえの出撃の主張だと傅僉が騙されるのも無理はない
162Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/19(金) 23:06:37
>>161
優秀な司令官は、相当な裁量を部下指揮官に許すものだし、
現場の判断で独断させる事は当然ある。

だがいずれにしても、出撃して魏軍を攻撃するなら全軍で行うべきだし、
関城を守備するならやはり全軍で行うべき。
強大な敵を前にして軍を分割し中途半端な対応を取ったのなら、
やはりその司令官は愚かと言わざるを得ない。

関城の守備と敵への攻撃に軍を二分したと言う事実を考えると、
傅僉に蒋舒を押さえ込む権限が無かったか、或いは傅僉がどうしようもないほど愚かだった、
という結論以外に導かれない。

これで納得できないなら、この話は終わりだ。
俺とあなたはこれに関して相容れない、それだけの事。
163無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 23:30:28
断りを入れてなかったけどその人とは別人。両方ともゴメンよ
>傅僉に蒋舒を押さえ込む権限が無かったか、
これを逆にして読んでしまったので161はなしで頼む
164無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 23:53:11
>>161
まあコテ付けずに書く私も私なので…

>>162
個人的には傅僉は司令官として力不足だったと思っているけど
別にあなたの主張を否定するつもりはないですよ
165無名武将@お腹せっぷく:2010/02/20(土) 22:03:50
この時期の姜維って相当政治的に危ないけど
軍部での人望はあったのだろうか
166奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/20(土) 22:21:44
軍部の希望の星的存在だったんじゃないかと思っている。
167無名武将@お腹せっぷく:2010/02/20(土) 23:29:15
記録が無いという事は蒋舒は降伏後にこっそりと斬られてたり
裏切り者だしな
168奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/02/20(土) 23:49:07
また不思議な人がご来訪だぞお前ら。
169無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 00:08:38
いらっしゃいませ。
170無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 20:33:05
史書には書かれてないだけでそんな事があったかもな
171無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 20:40:36
春秋の筆法とかいうやつか
でも裏切り者を許さずに処分するのは
カッコイイー系のエピソードじゃないか?
172無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 21:33:44
>>167>>170>>171
降伏者を一々処刑する暇はなかっただろうし
史書にその後の経緯がないから処刑されたというなら
李簡あたりも処刑されたことになってしまう
単に史書に載せるには小物だから記録されなかっただけだと思う

>>165>>166
姜維は曹魏からの降伏者で蜀漢内部に基盤を持たなかったし
軍部での人望がなければそもそも大将軍までなれないだろうから
戦功を含めた上での人望があったのは間違いないと思う
また黄皓らが姜維更迭を図って成功しなかったとされるから
末期でも軍部内では人望は保っていたと思う

ただ姜維と成都や漢中の諸軍との連絡がとれなくなった形跡があることから
人望を失っていく最中だった可能性はある
173無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 21:41:55
張翼とかとは折り合いが悪かったっぽいな
ケジメは付けるタイプだから協力しあってたようだが
174無名武将@お腹せっぷく:2010/02/25(木) 13:33:38
>>162
或いは、傅僉は蒋舒に比べれば愚かだったか。

政治と軍事がほぼ分断された状況でも蜀という国が成立していたのは、
姜維の蜀を支えようという意思が大きかったんだろうな。
175無名武将@お腹せっぷく:2010/02/25(木) 14:45:47

ほんとのこと言われて涙目W
有名な事実ですからWWW
鬼畜、池沼、外道なんて汚い言葉使ってるおまえが
他人にどうこう言える資格なんかないんだよバ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜カW
176無名武将@お腹せっぷく:2010/02/25(木) 15:37:08
大軍相手に小勢側が軍を分けて対応するというのは兵法の論理ではそれほどおかしく無いんだけどな
大軍率いてるのに小勢相手に軍を分けちゃう愚か者がいる可能性も、万が一には有るかもしれないから
177無名武将@お腹せっぷく:2010/02/25(木) 15:50:28
蛆虫
178無名武将@お腹せっぷく:2010/02/26(金) 07:46:33
>>174
黄皓も姜維も劉禅にも蜀を亡ぼすつもりはなかった
黄皓は皇帝の寵愛を受けて政治を壟断し
姜維は国内への影響を考えずに北伐を行い
劉禅は何もしなかっただけで

魏が攻めてこなかったことが一番の理由だと思うけど


>>176
関城は成都への道を塞ぐ防衛上の最重要拠点だし
魏軍は他の拠点が落ちていないにもかかわらず
関城を攻略したらそのまま進軍しているから
全力で守るべきだったとは思う

ただこの件で
兵を分けたとするのは漢晋春秋しかなく
三国志と蜀記が「開城出降」華陽國志が「開門降」とあるから
個人的には蒋舒は胡烈が関城に迫ってきた時点で降伏したと思う
179無名武将@お腹せっぷく:2010/02/26(金) 11:21:38
もしも姜維の才能が諸葛センに授けられたものだったら、少しはマシな結果になってたかもね…
よそ者の活躍する恐ろしさよ

>>178
まぁまず降伏するよね。
成都からの援軍が無い(というか軍役に就いてたものが…)事は分かってるし、姜維の軍が来た所でなぁ…
集中させても守りきれるかどうかって感じだし
180無名武将@お腹せっぷく:2010/02/26(金) 23:18:52
>>179
征蜀の役の初期に蜀軍が守りきれなかったのは
諸軍が連携できなかったのも一因だと思うので
その前の姜維の援軍要請が握りつぶされたとき
遅くても廖化が諸葛緒の武都侵攻を知った時点で
戦線を縮小して関城等の防御を固めるだけの決断が出来ていれば
少しは延命させることは可能だったと思う
(漢中、武都、陰平の大部分を明け渡すことになるから
そのうち滅ぼされるのは避けられないと思うけど)

また姜維の才能が「そのまま」諸葛瞻に移るのなら
諸葛瞻が大軍を率いるだけの身分を得る前の250年代に
魏に対して攻勢を保つこと自体難しいだろうから
もっと早い段階で陳泰あたりに滅ぼされていた可能性もある

もし姜維の才能がそのままあって
諸葛瞻に諸葛亮並みの統率力とカリスマがあって
更に姜維並みの軍才が備わっていたら
もっと国を保たせることは可能だったと思う
181無名武将@お腹せっぷく:2010/02/26(金) 23:34:18
>>181
結局あと2枚ほど人材が足りなかったってことか…
陸抗クラスの人材があと1人でもいればな
182無名武将@お腹せっぷく:2010/02/27(土) 00:13:41
>>180
た…確かに。陳泰を防げなきゃ意味無い
上に一人優秀なのが居て踏ん張ったところでどうにもならんのか…
183Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/27(土) 22:41:55
>>163
間が空いてしまってなんだが、勘違いすまなかった。
ここしばらく同じ人を相手に話していたので、他の人が話に入ってくると思ってなかった。

>>180
関城と橋頭に戦力を集中して敵を撤退にまで持っていけば、
漢中、武都、陰平の大部分はそのまま取り返せると思うよ。
敵地への遠征だし、それらを領有化できるほど長くは留まれない。
それに、遠征軍の主力が引き上げてしまえば、その地に留まる魏軍は蜀軍に抗し切れないだろう。


個人的には、なぜ廖化らを白水関ではなく橋頭に置こうとしたのか、というのが気になる。
公孫述の築いた白水関も、この頃にはボロボロになっていたという事だろうか?
184Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/27(土) 23:25:09
そういや、白水関は白水県に築かれただけで、白水県そのものとは別な場所だったな。
関城の西南の関だった。度忘れしてたわ。
185無名武将@お腹せっぷく:2010/02/28(日) 09:48:57
>>183
確かに関城と橋頭で止められれば撤退させられるね
剣閣まで下がっていたときと混同してた

ただこの時撃退に成功したとしても
諸葛亮が武都、陰平を奪取したときとは違って
魏は陰平に直接侵攻できる程西方まで支配を固めつつあったから
しばらくは3郡争奪戦が続いていたと思う
186無名武将@お腹せっぷく:2010/02/28(日) 13:16:43
消耗戦になったら蜀終了ですよね
187Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/28(日) 22:42:21
いずれにせよ、段谷〜陳祗の死と黄皓の専横、の流れでジリ貧だからね。

姜維が沓中に留まっていた時点で、隴西魏軍>姜維軍、という戦力だったろうし。

橋頭と関城で何とか防いでその後に挽回するとしても、汶山や隴西の羌胡の動向が重要になると思う。
そういう点でも王嗣の死は惜しい気がするね。
188無名武将@お腹せっぷく:2010/02/28(日) 22:53:57
蛆虫の寄り集まり
189無名武将@お腹せっぷく:2010/03/01(月) 08:08:07
どうしたい?なんで泣いてんだ?
蛆虫?そうだよ 本当のこった
三戦はず〜っと荒らし稼業だ
歴ゲーの、中英の、戦国の、世界史からだ
おまえのスレ仲間だってN速+で、規制されちまったんじゃねぇか
何だオメエまだ知らなかったのか?

あーあ、荒らしたよ すげえたくさん
荒らしが何のために?
暇だからだよ

俺たちが戦った連中の目的は主義や主張、体制の打倒や体制の維持のため、
学問のため、ゲームのため、萌えのため、
自治のため、歴女のため、VIPのため、雑談のため、いろいろだ

俺たちはそういうの・・・・・わからなんねぇ
大事な事だっていうのはわかる、でもそういうの
別に2chでなくてもなんとかなるんじゃねえの、と思う

つうか2chに書き込むことにそういう意味なんか必要なのか?
下らねえ暇つぶしで充分じゃねぇのかと思う
逆にいえば、だ
下らねえ暇つぶしが俺たちにとっては命を掛けるのに足りてしまうんだ

下らねえ暇つぶしで2ch中あっちゃこっちゃ出向いてって
下らねえ暇つぶしでブッ荒らしたり、ブッ規制されたり
しかも、誰にいわれたワケでもなく好きこのんで、だ
下らねえ暇つぶしの方が
自分の板や 他人の板より 重い

ウチの三戦は割りとそーいう
ホントの人間のクズの板なんだ
悪いが他板でいじめられても
仕方ないかもなー

いや、なに、おまえもそのうちわかる時が来るんじゃないかな
なにせ ホラ
お前は俺たちと同じ三戦住人だ
190無名武将@お腹せっぷく:2010/03/01(月) 08:15:15
帝京はまじで馬鹿だよ
191無名武将@お腹せっぷく:2010/03/24(水) 17:40:26
鍾会とケ艾が良将だった
192無名武将@お腹せっぷく:2010/03/24(水) 19:55:43
正常位とかバックとか、自分が自由に動ける体位での素股だったら気をつけた方がいいかも
嬢が動いて自分が完全に受身なら、こちらに落ち度はないからね

要は嬢が苦情を言うかどうか
嬢が糞でボーイも糞で背景も糞なら可能性あるかも知れないが・・・
まあ、さすがに事故は事故として扱ってくれるだろw
193無名武将@お腹せっぷく:2010/03/24(水) 20:51:29
もうあんたブラしないと垂れてくるよ
194無名武将@お腹せっぷく:2010/03/24(水) 20:54:20
697 名前:伊達政宗 ◆K0CH6dRBR6 :2010/03/24(水) 20:44:48
>>695
なるほど、お前の意中は察したが、人には人のそれぞれ趣があるだろ

お前が望む國を作ればいい、論議したいことを語れば良いんじゃねーのか?嫌だったら作ればOKだろ?
つか、人あんまいねえけどな


698 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/03/24(水) 20:44:53
いや待て、糞名無し・・・


もしや貴方は神か?!


699 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/03/24(水) 20:46:40
>>698
自分を神とか呼んで楽しいですか


700 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/03/24(水) 20:48:14
嬢が動いて自分が完全に受身なら、こちらに落ち度はないからね


701 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/03/24(水) 20:49:56
クマッタ蛆虫


702 名前:伊達政宗 ◆K0CH6dRBR6 :2010/03/24(水) 20:50:06
>>696
そこは余り追求しないでおいてやれ
誰もが分かることだろ(笑)


703 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/03/24(水) 20:53:28
クマッタ普通に好印象は持てない
195無名武将@お腹せっぷく:2010/09/07(火) 20:24:31
蛆虫という言葉がすきなんだな
196無名武将@お腹せっぷく:2010/11/23(火) 10:44:52
197燕人常元 ◆01/.GQR7dI :2010/11/23(火) 18:15:03
無能の諸葛緒
198無名武将@お腹せっぷく:2010/12/22(水) 13:38:08
三国時代末期になると豪傑ってほとんど見なくなるけどこれは何でだ?
初期の頃ってまともに訓練してなさそうな農民とか山賊でもかなり強いのがいて取り立てられてるのに、
末期の頃はそういうのがまったくいない

これは新世代の蜀兵が実戦経験不足だからとか、そういうのは関係無いと思うんだが
強いのは元々強いだろうし
199無名武将@お腹せっぷく:2010/12/22(水) 18:27:13
それまで平和だったから強豪は在野にいて暴れまわって噂になったけど、軍事制度が発達してしまうと、
腕っ節の強いのは最初っから兵士に取り立てられて、普通に仕事として
戦争をするようになるんじゃないか?

ぽっと出の怪物ってケ艾ぐらいだよなあ。
200無名武将@お腹せっぷく:2010/12/22(水) 19:24:39
おいおい、ケ艾は豪傑じゃないだろ
201Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/29(水) 22:59:52
実は、この戦争を考えてて一番わくわくするのは剣閣を放棄した後だと思うんだよね。

鍾会は典型的な外線作戦を展開し、姜維は内線の態勢に置かれている。
鍾会は軍を四分割しているので、分割の仕方にもよるが、
姜維の率いている軍より規模の小さい軍の方が多い。

内線作戦は主導権を握り続けなければならないので成功させるのは困難だけど、
外線作戦も各軍の連携を取る事が非常に困難なので、実際は付け入る隙は大いにある。

鍾会は万全の部署を行ったように語っているが、これは姜維が降伏した後の上言であって、
姜維の包囲を部署した段階では、姜維の位置を把握できていなかった公算は大きい。
敵軍の位置を正確に把握するのが困難である事は戦史から分かる事だしね。
と言うか、把握できていなかったからこそ、あれだけ広範囲に軍を機動させたんだろう。

仮にあのまま展開したとして、姜維がどう戦ったかは非常に興味深い。

この辺りの展開の仮想戦記を考えるには、劉禅の降伏を無視しないといけないのが残念だね。
202無名武将@お腹せっぷく:2010/12/29(水) 23:27:07
>>201
ケ艾を捕捉・殲滅して、鐘会の軍を各個撃破すると言う無理ゲーだけどな。
たしかにケ艾の軍と、分割された鐘会の軍一つずつに勝つのは、姜維なら簡単だろうけど、
一つと戦ってる間に、他の四つの軍がそれだけ成都に近付いてくわけだから、
一つでも倒し損ねると成都が攻撃されて終わってしまう。
203Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/29(水) 23:50:30
>>202
そう。これはケ艾と成都の存在がネックになってるんだよね。

姜維には鍾会の軍を各個撃破するという以前に、成都を救うという優先的な目標がある。
だから姜維の作戦行動は大きな制約を受けてしまうので、鍾会の軍の撃破すら覚束なくなってしまう。

そして、内線作戦である以上、敵軍の撃破は全て決定的に行わなくてはならないってのも大変。
敵を撃破して、後退する敵軍を追撃させる任に就かせるには、廖化辺りでは力不足だろうし。
恐らくはリニーの戦いにおけるグルーシーの追撃のような展開になってしまうだろう。

相手が相手なので、「それでも姜維なら…姜維ならきっと何とかしてくれる」とはならないんだよねぇ。
204無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 00:10:41
>>203
さらに問題なのが、鐘会の軍の四軍のどれかよりも、
実際に成都を降伏させたケ艾の軍の方が明らかに弱体だった可能性が高い事なんだよな。
つまり、ケ艾の軍と鐘会の四軍のうち三つを殲滅できても、
鐘会の四軍のうちの一つが成都に迫ったら、間違いなく成都は降伏してた可能性が高い。
分進されても、合流されて十万以上の兵力を叩きつけられても、剣閣を失った以上、
姜維が守りきるのはほぼ不可能だったろうな。
205Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/30(木) 00:21:37
>>204
鍾会がどこまで情報を掴んでいたかも重要だね。
諸葛瞻の撃破まで掴んでいて、ケ艾が成都に迫っている事を知っていたとしたら、
鍾会にはもとより自身の軍を成都に差し向ける気が無かった事になる。

なので、ケ艾が成都で挫折した場合の鍾会の行動を推測すると、
軍を成都に向けるという選択は取らないと思うんだよね。
ケ艾が成功しようが失敗しようが、姜維さえ潰せば蜀の抵抗力の一切は失われるので、
わざわざ軍を分割して成都に向けようとは思わないだろう。
ケ艾の成否の如何にかかわらず、当時の鍾会は姜維の捕捉と撃破に全力を傾注していたと考えられる。

むしろ、ケ艾が失敗してくれた方が全ての手柄が自分に来ると思ってたんじゃないかな?

勝機を見出すとすればそこだね。
その状況になれば、姜維としては如何に鍾会軍を撃ち破るかだけを考えれば良い。
206Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/30(木) 01:47:45
更に少し考えよう。

まず、この時の鍾会の戦力を推定する。
鍾会は当初12万を率い、漢城と楽城の監視にそれぞれ1万を割いているので、
剣閣に達した時点で10万となる。
それに諸葛緒の率いた3万と、ケ艾の残余の軍1万程度を加えると14万。

連絡線の防護にいくらか戦力を割いたとして、剣閣を抜いた時点で姜維の包囲に使える戦力は12,3万といったところ。


これをどのように分割したかだが、当然の事ながら均等に分割はしていないだろう。
剣閣を放棄した姜維が成都に向かおうとしている事は自明なので、
それに合わせて戦力を配分したと考えられる。

最も大きな戦力を割り当てられたのは恐らく姜維の前を遮る胡烈らだろう。
姜維と接触する公算が最も高いので、容易には撃破されないだけの戦力である必要がある。

次いで句安らだが、彼らは姜維と同じ道を通らなくてはならない為、あまりに大きな戦力だと機動力が落ちて捕捉出来ない。
また、句安らは撃破されたとしても作戦の進行上大きな支障は生じないため、
彼らには姜維、或いは姜維軍の一部を拘束するに足る程度の戦力しか割り当てられなかっただろう。

最後に王買軍。
王買軍は胡烈らの勝利を決定的なものとする為の戦力であり、副次的な目的しか持っていない。
また、鍾会自ら救援するのが最も容易い位置関係である。
したがって、王買軍にもそこまで大きな戦力は必要ない。
恐らく最も少ない戦力だっただろう。

その辺りを勘案して、自分が鍾会の立場であると仮定して戦力を配分すると、
胡烈:5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2〜3万
こんな感じになる。
207無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 10:55:33
>>206
その計算だと、ケ艾が勝利した場合に姜維が戦うべき相手は、
ケ艾軍1万、胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2〜3万。

しかし、位置関係を考えると、姜維がケ艾を撃破しようとしたら、
その間に鐘会軍が取り返しの付かないぐらい蜀本土の奥深くまで進軍する可能性が高いし、
鐘会軍の4軍の各個撃破に力を入れてたら、その間にケ艾が成都まで進出して、
鐘会軍すべてを撃滅する前に成都が降伏する。

ケ艾が敗北した場合には、
胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2〜3万。になるな。
こうなると、多少余裕が生まれる。姜維は鐘会軍の撃滅に全力を入れるだろう。
また、後背に諸葛瞻軍が控えているから、だいぶ楽になる。
姜維が敗北しても、諸葛瞻と合流して再戦を挑めるし、
勝ち続けたらその間に諸葛瞻が姜維と合流するかもしれない。
姜維が大打撃を受けて戦えなくなっても、まだ諸葛瞻が一戦できる。
しかし、鐘会がケ艾の敗北を知ってて、なおかつ4軍のうち一つが敗れたら、
その時点で他の3軍は合流、もしくは連携して一つの戦場で姜維以上の兵力を投入できるよう努力するだろう。
こうなると姜維の勝ち目は薄くなる。

鐘会軍がケ艾軍の敗北を知らず、なおかつ鐘会が4軍全部各個撃破されるまで、
何も手を打たなかった場合、ようやく勝負が成り立つか。
208Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/30(木) 13:31:06
姜維が鍾会の包囲を突破して成都に到達する、というシナリオは、
たとえ達成し得たとしても大きな意義は無いと思う。

成都という場所に姜維軍が拘束されてしまえば、
鍾会はそれに合わせて包囲環を適宜圧縮し、魏蜀の戦力差が顕著に現れてしまうだろう。

姜維が勝つには敵の分割に乗ずるしか可能性は無い。
したがって、成都が単独でケ艾に抗し得、その間に姜維が鍾会軍を撃破する、という方法が理想。

ただ、別の可能性があるとするならば、成都を棄てる、という方法だろう。
姜維が鍾会を振り切って成都の包囲を解き、劉禅らを自分の軍に同行させる。
そしてそのまま南方より迂回しつつ、成都に迫る鍾会軍の一部を撃破して、四川盆地南方で機を窺う。

十数万が一個の集団として機動する事はまずないので、鍾会は軍を再編制したらまた外線作戦の態勢を取るだろう。
そこに乗じて各個に撃破することができれば、まだ勝機はある。

ただいずれにしても、決定的に敵を撃破する勝利を少なくとも2,3回の会戦で得なければならないので、多分姜維でも無理。
全盛期のナポレオンとかなら或いは、って思うけどね。
209無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 21:03:02
ボナピーの時代は武器の威力が強かったから上手くはまれば敵を簡単にぶっ殺せるけど
この時代の武器でそれやろうとしたらそれこそカンネーばりの時代に卓越した超絶戦術が求められる罠
全盛期のナポレオンでも無理だろ、テクノロジー的な側面考えると
210無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 21:14:08
皮肉な事にナポレオンの内線作戦が一番冴えてたのは、負け戦の諸国民戦争なんだよな
結局、勝っても勝っても息の根を止められなかったから、ライプツィヒで負けた
211Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/30(木) 22:24:53
この時代で敵軍に決定的な損害を与えるには、どう考えても潤沢な騎兵が必要なんだよね。
騎兵の無い追撃なんて殆ど効果が無いし。
その点で蜀軍は不利だね。

姜維は王経相手に一度そんな殲滅戦をやってるけど、あんなものは指揮官の能力だけで達成し得るものではないので、
やはり難しい。
「敵は戦場を放棄して後退したが、損害はそこまで大きくない」という戦闘を繰り返しても、ジリ貧になるだけだし。

ただ、ナポレオンに関しては、実際にできるかはともかく期待を抱かせるものがあると思う。
なんというか、ナポレオンとかハンニバルとかアレクサンドロス大王とかには、
可能性とかを超越した期待を持ってしまう。

1814年のフランス防衛は確かに凄かったものの、やはりどれも巨大な敵軍に決定的損害を与えるには至らず、
最後は追い込まれパリが陥落してしまった。
ナポレオンを以ってしても、圧倒的な敵軍を前に内線作戦で勝利するのは並大抵の事では無いという事だね。


考えるべきは、姜維にとっての勝利は何なのか、という事かもしれない。
そしてそれは、鍾会やケ艾にとっての勝利を考える事でもある。

姜維が皇帝を抱え、迫り来る魏軍と戦闘を繰り返しながら後退し、
南中の奥深くまで後退したとして、魏軍はそれを追撃するだろうか?

鍾会らが、成都および益州主要都市の陥落を以って己の勝利とするならば、
危険な南方地帯への追撃などせず、奪取した都市の人心の収攬と、
いずれ反攻に出るであろう蜀軍への防備を整えるに留めるだろう。
そうなると姜維に勝目は無い。

しかし鍾会らがひたすらに劉禅と姜維を追うならば、魏軍はロシア戦役でのフランス軍のようになったかもしれない。
まぁ、姜維らが南方の異民族の反乱に遭って自滅する線も当然あるけど。
212Jominian ◆Henri9gNlM :2010/12/31(金) 02:04:45
Google Earthとかで南方の地形を見ると、結構険しいよね。

鍾会も、地理も分からない、蜀軍の動向もつかめないとなれば、無理に南に軍を進めようとは思わないだろうな。
そうするとそのまま南中で自立ってのも考えられるけど、
ジリ貧だったのが更に追い込まれるだけで状況は好転しないね。
異民族ばかりの所に逃げ込んで自立自存ってのも難しいだろうし。

やはり姜維は南に後退するとしても長江の線辺りまでで決着をつけるべきだね。
213Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/01(土) 21:11:27
さすがに一戦役だけではそこまで多くを語れないのだろうか?


魏軍の目的は成都を含めた蜀の領土を奪うことではなく、
漢の皇帝を名乗る賊の捕縛と、その国家の解体であるはずなので、劉禅が逃げれば当然それを追う。

つまり、姜維が皇帝なら何の問題も無くなる。
最後の一兵まで戦い続けてくれるだろう。



と、ここで両軍の陣容を整理しておこう。多分まだスレでまとめた事は無いだろう。

魏軍
○鍾会…12万
 ・司馬:夏侯咸
 ・長史:杜預
 ・主簿:ケ攸
 ・功曹:向雄
 ・護軍:荀ト、田続
 ・参軍:爰せい、皇甫闓、羊e
 ・監軍:衛瓘
 ・帳下督:丘建
 ・征蜀護軍:胡烈(右将軍)
 ・将軍:李輔(前将軍)、句安、王買、龐会、田章
 ・牙門将:許儀
 ・太守:劉欽(魏興)
 ・不明:胡淵

○ケ艾…3万(内5千は涼州の羌胡)
 ・司馬:師纂、段灼?
 ・太守:楊欣(金城)、王頎(天水)、牽弘(隴西)
 ・不明:ケ忠、柯迴

○諸葛緒…3万

あと誰かいたっけ?
蜀の方はまた今度。
214Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/03(月) 01:13:29
さて、当該戦役における蜀軍の陣容もまとめましょう。

○沓中方面…2〜3万?
 ・大将軍:姜維
 ・参軍:来忠(存命なら)
 ・牙門将;趙広

○漢中諸城…2万数千?
 関城…1万程度?
 ・傅僉(関中都督)、蒋舒(官職不明)

 漢城、楽城…各5千
 ・蒋斌(漢城護軍)、王含(監軍)

 秦嶺諸囲…合わせて数千?
 ・柳隠(黄金囲督)

○武都諸囲…数百×7で3,4千?

○漢中救援軍…数千〜1万
 ・張翼、董厥

○姜維救援軍…数千〜1万
 ・廖化

○巴東都督麾下…1万数千
 ・閻宇、羅憲、楊宗

○ライ降都督麾下…1万程度?
 ・霍弋

○成都…1万程度?
 ・諸葛瞻 他
215Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/03(月) 01:14:37
何処に誰がいたかという記述が殆ど無いので、名前は挙げ難いね。
兵数に関しても分かっているのは、
・漢城と楽城の兵数
・姜維、廖化、張翼、董厥ら合わせて4,5万
・ケ艾に提出した目録での総兵力10万2千
という3点だけ。
剣閣における姜維らの兵数を4万とし、上に挙げた数字を全部足すと10万強。
各郡太守麾下の兵を足してしまうと目録の数をオーバーしてしまうが、
その辺は廖化や張翼の軍が郡兵でも構成されていたと考えれば何とかなる。
216無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 19:37:21
諸葛瞻軍はもっと多くないか?
総大将の諸葛瞻以下、官僚や近衛兵の指揮官のような実戦経験が怪しい指揮官が揃った軍で、
歴戦のケ艾の一万を一度は撃破してるんだから、ケ艾と同数ってことは無いと思う。
217無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 20:57:49
魏蜀の総戦力の差以上に、人物の差が大きかった気がするな
前線で戦った将にしても、将の将にしても・・・・・・
国と国との戦いというより、姜維軍と魏軍の戦いだったから蜀は滅んだ
劉禅が国家と存亡を共にする覚悟だったなら、勝っていた可能性もあると思う
218無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 21:09:33
>>217
抗戦派の意見をことごとく封じたショウ周の議論がすべてだと思う。
要するにどんなに劉禅に抗戦意欲があっても勝ち目ない。
219Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/03(月) 21:18:26
>>216
涪を奪ったとは言え、強行軍で疲弊し切ったケ艾軍なので、
地の利を上手く使えば同数の戦力であっても会戦の一局面で優勢を得る事はできるように思える。

ましてケ艾には諸葛瞻の撃破が必要なので、諸葛瞻が固く防御している所を攻めなければならない。
諸葛瞻を大きく迂回して成都を目指すと言うのも考えられるが、
諸葛瞻の位置から成都までに、大規模な迂回を可能にするだけの地積も無く、
更に緜竹と成都は指呼の間なので、迂回しても結局会戦を強いられる。

防御に徹すれば良い諸葛瞻と、それを攻撃して撃破しなければならないケ艾の差が、
ケ忠と師纂の後退に現れたんだと俺は考えている。


まぁ、>>214だと動かせる軍として巴東の軍が残っているので、
ケ艾と戦った際は近衛+巴東諸軍で約2万とする事もできる。
巴東から成都の500km以上の道のりを考えると、ケ艾の四川進出前に動いている必要があるけど。
220無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 21:49:58
>>219
諸葛瞻が綿竹で守り固めてたかどうか怪しいと思う。
黄崇の防衛策を却下して、一戦もせずにフを放棄せざるを得なかった戦音痴ぶりから考えて、
同数でケ艾が苦戦するような堅固な守りができるとは思えない。
221Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/03(月) 22:00:14
>>220
諸葛瞻は涪まで強行軍で進み、到着した時には結構な落伍者が出てて、
涪で逡巡したのは、その集結を待とうとしからじゃないかと思ってるんだよね。
成都の慌てぶりからすると、ケ艾への対処がかなり急を要したのは間違いないし。

んで涪に着いたら、予想以上にケ艾の進出が早く、寡兵で進むわけにもいかず、
かと言って涪に居ても戦力の集結前にケ艾が到着してしまうって状況だったんじゃないかと。

それでも涪の放棄は愚策だけどね。
疲弊し切ったケ艾軍に城塞を攻略する事は出来ないだろうし、
城の規模にもよるが、5,6千もあれば涪の防御は十分可能だったろう。

誰かを派遣して落伍した兵をまとめさせて遊軍とし、
城内の軍と遊軍とでケ艾を圧迫できれば、恐らく勝てただろうと思う。

と言う事で、戦下手である事は否定し得ないんだけど、
後方に退いて軍を集結し、緜竹で防御を固めるくらいの判断はできたんじゃないかなぁ、と。
222無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 22:03:41
>>220
ここで>>219が言ってるのは実際に籠城したかできたかではなく、
一気呵成に城を抜かないと後がない条件で戦闘せねばならない不利を言ってると思うよ。
実際の戦闘でも会戦だったんだし。

ケ忠はともかく師纂を先陣に起用するくらいだからケ艾軍の質はあまり良くない。
行軍の無理もひびいてるに違いないし、鍾会がいつまで剣閣で待ってくれるかも分らない。
後方にいたケ艾に「勝てません」だから撤退しましょうと言いたかったんだろう。
たぶんケ艾軍2万はないと思う。
223無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 00:48:43
諸葛瞻はケ艾の強行軍をどう分析してたんだろう
漢中から分かれて、陰平を抜けて来た事は分かってたんだっけ
224Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 04:44:18
>>223
江油が突破された報告は届いていただろうし、
黄崇の発言からもケ艾が江油から南下してきた事は把握している事が窺える。

一つ注目すべきは、諸葛瞻が涪を放棄する前に、「前鋒破」という事象が存在する事。
諸葛瞻は黄崇の献策に素直に従えなかったものの、様子見の為か軍の一部をケ艾へ向けて派遣している。
この対応が中途半端だったために、結局は軍の士気を挫くだけに終わってしまい、
涪の放棄という愚策に走ってしまった。

父と同等とまではいかなくとも、その半分でも軍事的センスがあれば良かったんだろうけどね。
225無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 07:02:15
>>224
姜維ぐらいセンスないと役に立たなくないか?
蜀の姜維以外の将軍程度のセンスなら、焼け石に水だと思う
226Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 17:14:59
>>225
あの時点でケ艾を撃退するだけなら、姜維ほどの将じゃなくても大丈夫かと。

ケ艾にしてみれば、あのタイミングで諸葛瞻のまとまった軍勢が現れるだけで誤算だった。
「自分が奇襲すれば、敵のがら空きの脇腹を突くことができる。
 剣閣の軍勢が引き返せば鍾会は前進できるし、そうでなければ涪で対応できる敵は寡兵である。」
なんて言ってるんだしね。
諸葛瞻が涪で粘っていたら、ケ艾軍は早晩瓦解したと思うよ。

幸運にも諸葛瞻が涪を放棄してくれたのでケ艾は前進する事ができたが、
それでも自軍に敵するような軍勢が立ちふさがっている事に変わりはない。

ケ艾は段谷の姜維に匹敵するくらい追い詰められていたと思うよ。
その状況をひっくり返したからこそ、あの傲慢な発言が出てきたんじゃないかと。
227無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 17:29:42
>>226
そういう状況なら、黄崇の意見を聞かなかったことが悔やまれるね。
ケ艾の勝利は必然じゃなくて、諸葛瞻の無能という偶然に助けられた面が多いわけだ。
苦しい状況から、そういう敵失に付け込んで勝利できるから、ケ艾は凡庸ならざる将だったんだろうね。
228Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 17:43:48
>>227
ケ艾の置かれた状況のやばさは、ケ忠と師纂への対応にも現れてるね。
勝たなきゃ自分たちが滅ぶという事を正しく認識していたケ艾と、
危機感の足りないケ忠と師纂という対比がよく表されていると思う。

その能力に加え、どんな状況に陥っても勝利を掴もうとする意志の強さは、名将に必要な条件かと。
そしてケ艾はそれを持っていたという事だね。

鍾会は能力は高いけど、その辺は持ち合わせていない感じがする。
追い詰められた局面での彼の態度とかを考えるとね。

あの時代ではケ艾と姜維は頭一つ抜けてる感がある。
229無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 18:11:08
>>228
一つ聞きたいんだけど、ショウ周が成都開城を決定付けた議論はどう思う?
群臣からは南中へ退いて抗戦を続けると言う案が出て、それをショウ周ははっきり否定したわけだけど、
南中での抗戦と、呉への亡命と、成都開城以外に選択肢は無かったのかと。
たとえば、成都の守りを固めてケ艾を防いで、その間に鐘会を振り切った姜維が来援してケ艾を排除後成都に入って、
姜維指揮する蜀軍数万が鐘会の大軍を補給切れになるまで籠城で抵抗するというシナリオは現実的にどうかと。
鐘会は剣閣で姜維と対峙してた時点で、補給の困難から撤退を考えていたから、
成都に姜維が入城したら、撤退せざるを得なかったような気もする。
230Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 19:55:27
>>229
降伏以外の選択肢はあったと思うよ。
ただ、>>201-212でも語っているように、鍾会軍を何とかする必要はあったと思う。

なので、成都での篭城は残っている物資を考えると現実的ではないかな。
成都に残っている将兵や官吏を動員して1,2ヶ月篭城するだけの物資はあるけど、
そこに4,5万が入って3,4ヶ月とか篭城するには厳しい。

あえて成都を棄て、皇帝を抱えた姜維が魏軍を各個撃破するシナリオが現実的かな、と。
それでも厳しいけどね。

むしろ、生き延びるというだけなら南中の方が容易い。
いくら鍾会でも南中への追撃はためらうだろうからね。
231Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 21:30:42
やっぱり分からないのは閻宇だよね。

巴東の軍を率いて成都に向かった割には、その後に名前が出てこないし。
閻宇の軍が姜維と合流した形跡も無いし、恐らくはケ艾が四川に雪崩れ込んだ頃には成都に着いてたんだろうけど。

途中で発病して死んだけど、軍勢だけは成都に着いて、諸葛瞻が率いてケ艾に当たったとかかねぇ。
232無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 21:58:29
もたもたしてる間に成都が降伏したってとこじゃないか?
だから、記録するに値せずってことで、何も書かれなかったんじゃ?
閻宇が生きて成都に着いてたら、降伏前に成都にいる最高位の将軍として何かしら言ってただろうし、
生きてるか死んでるかはおいといて、その兵を諸葛瞻が率いてたら、
諸葛瞻軍の指揮官が尚書や羽林の人間しか名前が残ってないってこともないだろう。
そんなのに兵を率いさせるより、巴東軍の高級武官に指揮させた方が確実だし。

さらに言うなら、閻宇が諸葛瞻出撃前に成都に着いてたら、
実戦経験の無い諸葛瞻じゃなくて、ベテランの閻宇が出撃してたと思う。
233無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 22:07:40
だから病死いうてますやん
234Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/04(火) 22:18:22
閻宇については、その軍の行方が何も書かれておらず、
閻宇自身のその後も全く書かれていないので、どう解釈しても不自然さが残るんだよね。

陳寿も降伏を目の当たりにしてたんだから、閻宇がどうなったかくらい知っていただろうに、何か書いてくれれば良いものを。
235無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 22:33:53
>>234
閻宇の軍が諸葛瞻と合流してないって事だけは鉄板って言える。
理由は>>232に書いたとおり。
236無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 23:30:16
実は、閻宇が陳寿だったのかもな・・・・
237無名武将@お腹せっぷく:2011/01/05(水) 00:00:41
蜀最後の輝きと言えば異論なく羅憲さんだよな。
238無名武将@お腹せっぷく:2011/01/05(水) 14:39:06
永安城って、そんなに堅固な城だったのかな。
そういえば、羅憲って閻宇配下だっけ。
239無名武将@お腹せっぷく:2011/01/05(水) 15:13:21
永安攻防戦は三国時代を通じて、羅憲と呉軍の戦いしか無いけど、
対呉最大拠点である事と、戦歴が乏しい羅憲があの兵力差で守り抜いたことを考えると、
堅城であることは疑いないと思われる。

羅憲は閻宇配下の領軍だな。たぶん閻宇軍の最高幹部。
240無名武将@お腹せっぷく:2011/01/05(水) 18:59:18
劉備が死ぬ直前に整備してるしな
241無名武将@お腹せっぷく:2011/01/05(水) 23:33:55
国家で見た場合、呉はクソ以外の何者でもないな
長江のほとりに溜まった、でかいクソ
242Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/06(木) 00:13:02
ちょこっと調べたが、劉裕、と言うか朱齢石の蜀攻めの際、
譙縦の弟の譙明子が5千人で白帝に駐屯していたような記述があるな。
白帝で抵抗したような記述は無いけど。


近い時代だと白帝での戦闘の記述は見当たらないね。
よく探せばあるかもしれないけど。
243無名武将@お腹せっぷく:2011/01/06(木) 09:08:24
>>241
馬鹿だなぁ、メンツにこだわって損する国なんてクソ以下だろ。
借金して他の国にお小遣いあげて喜んでる国とか。
244無名武将@お腹せっぷく:2011/01/06(木) 13:31:05
>>243
メンツというより、国家戦略を考えずに火事場泥棒してるだけだろ・・・・
呉蜀で魏と均衡を保たない限り、呉の滅亡は目に見えてる

メンツにこだわってるのは、お小遣いもらっても秘密にしてる国の方ね
245無名武将@お腹せっぷく:2011/01/06(木) 14:31:29
お小遣いもらってることを言い触らしたら馬鹿なだけじゃね?
246無名武将@お腹せっぷく:2011/01/06(木) 19:43:53
続きはニュー速でやれカス。
247無名武将@お腹せっぷく:2011/01/09(日) 20:23:14
白帝城=永安宮だっけ??
羅憲が篭城したのも同じ場所??
248Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/10(月) 01:48:43
羅憲が篭城したのは白帝だろう。
三国志に、「羅憲以重兵拠白帝」とある。

ちなみに、水経注の白帝辺りの記述は、

「江水又東巡南鄉峽、東巡永安宮南、劉備終於此、諸葛亮受遺処也。
 其間平地可二十許里、江山回闊、入峽所無。
 城周十余里、背山麺江、頽墉四毀、荊棘成林、左右民居、多墾其中。
 
 江水又東巡諸葛亮図壘南、石磧平曠、望兼川陸、有亮所造八陣図、東跨故壘、皆累細石為之。
 自壘西去、聚石八行、行間相去二丈、
 
 因曰:八陣既成、自今行師、庶不覆敗。皆図兵勢行蔵之権、自後深識者所不能了。
 今夏水漂蕩、歳月消損、高処可二三尺、下処磨滅殆尽。
 
 江水又東巡赤岬城西、是公孫述所造、因山拠勢、周回七里一百四十歩、
 東高二百丈、西北高一千丈、南連基白帝山、甚高大。不生樹木。
 其石悉赤。土人雲、如人袒胛、故謂之赤岬山」

この後段にある赤岬(甲)城に籠もったわけではなく、白帝城の方だろうね。
城は周十余里(約6km)なので、1辺1km以上あるね。
1mに一人配置すると6千人くらい必要。
っても、山を背にして長江に面しているので、多くても東西南の三箇所を重点的に守ればよい。
249無名武将@お腹せっぷく:2011/01/12(水) 01:31:08
永安宮は劉備が作った療養所みたいなもんだっけか
白帝に劉備が辿り着いたのは、やはり堅固な拠点になり得ると思ったからかね
250Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/13(木) 00:12:54
浮上

と書くと真っ先に変換されるのが「巫城」だから困る。

>>249
永安については、劉備が魚腹から名を改めた事が書かれるのみで、
特に何かを造ったり建てたりとかって記述は見当たらないね。
皇帝が自分の最期の地に選んだんだから、宮殿の改修くらいはしてるだろうけど。

水経注の記述だと、唐代には打ち棄てられていたように読めるね。
周書には北周の陸騰が劉備故宮城(白帝城)の南、諸葛亮の八陣の北に城を築いた事が書かれてたりするけど。
もしかするとこれが原因かも。

水経注の記述だけで見るなら、赤甲城の方が堅固そうだね。
東の高さが二百丈(約600m)、西北が一千丈(約3000m)って記述がちょっとよく分からないけどね。
城壁の高さにしてはおかしすぎる。
山にしても、あの辺の山は3000mも無い。
測量技術の未発達で非常に大雑把な標高を書いただけかもしれないけど。
251無名武将@お腹せっぷく:2011/01/13(木) 00:17:47
天に向かって階段が伸びてるようにしか思えんな
252無名武将@お腹せっぷく:2011/01/13(木) 20:28:03
微妙にスレ違いかもしれんけど閻宇・羅憲の永安赴任、霍弋のライ降都督昇進は全部258年のことかな?
253無名武将@お腹せっぷく:2011/01/14(金) 09:59:35
滅亡する時よりちょっと時間は遡るけど、
なんで郭循は費イさんを刺したんだろ?
254無名武将@お腹せっぷく:2011/01/14(金) 16:30:23
劉禅の暗殺が難しかったからじゃなかったっけ?
255無名武将@お腹せっぷく:2011/01/14(金) 18:04:07
本当は劉禅を殺したかったけど無理っぽかったから
なんとなく手近にいた人を殺したんだっけw
256無名武将@お腹せっぷく:2011/01/14(金) 19:35:26
最強武将伝 三国演義で
2月6日の45話より姜維が登場するそう
257Jominian ◆Henri9gNlM :2011/01/15(土) 01:15:23
>>252
呉書の施績伝を読めば分かるけど、閻宇は太平二年(257年)に白帝に派遣されている。
もっとも、次の記述の「永安初」というのを太平三年の十月以降と読むのか、
それとも正月以降と読むのかによっては、閻宇の白帝赴任自体は258年にずれ込んだと考えられるけど。

羅憲の永安派遣は、黄皓の専横が始まった258年以降だとは思うけどね。
258無名武将@お腹せっぷく:2011/01/15(土) 20:59:52
>>257
成程、ありがとう。
259無名武将@お腹せっぷく:2011/01/16(日) 00:04:29
中国史全体の中で、名を残すくらい優秀な宦官っていたのかな
傾国させる屑しか見当たらないんだが・・・・・
自発的に宦官になる時点で、その薄気味悪い欲望と向上心は理解できんが
260無名武将@お腹せっぷく:2011/01/16(日) 00:32:21
>>259
紙を発明した後漢の蔡倫。

外戚専制体制を打倒して、善政を行った後漢の鄭衆。

後漢末の政治腐敗と戦ったり、清流派の復権に努力したり、
黄巾を倒す戦略を立てたりしたけど、十常侍に陥れられた呂強。

唐末期から五大十六国の初めまで河北で割拠した晋の宰相で、
忠誠無比と言われて誰からも尊敬されてた名宰相張承業。

明の洪武帝の腹心として、天下取りから戦後の軍事や政治を助けた、
大航海で名高い鄭和を初めとする宦官武将や宦官大臣。

反乱軍が突入した時に、明の崇禎帝に殉じたただ一人の家臣王承恩。

思い付いたのをざっと並べたけど、それだけでこれぐらい。
261無名武将@お腹せっぷく:2011/01/16(日) 06:20:33
司馬遷
262無名武将@お腹せっぷく:2011/06/21(火) 22:13:54.41
あげ。あげついでに、曹丕は漢から正式な禅譲を得たが
蜀や呉の立ち場はどうなん?正式な禅譲を得た曹丕の傘下か、漢の後継の劉備の傘下か
263無名武将@お腹せっぷく:2011/06/22(水) 15:05:11.83
思いっきり誤爆ってた上にsageだった
264無名武将@お腹せっぷく:2011/11/30(水) 22:39:39.01
>>262
今のバンナムがドラゴンボールを正式に後継してると思うか?
265無名武将@お腹せっぷく:2011/12/08(木) 17:34:20.31
蔡倫と鄭和は世界史の教科書に載ってたわ
266無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 20:26:50.06
蜀は意外に最後まで結構人材はいましたよね。
267無名武将@お腹せっぷく:2012/05/23(水) 20:31:10.06
ベンチがアホやから野球がでけへん
268無名武将@お腹せっぷく:2012/08/14(火) 14:41:16.90
トウガイって、剣閣を攻撃中のショウカイと合流したの?
資料によっては、トウチュウの姜維を攻撃して、そのまま南下してるんだが・・・
いきなりあの山越えですかね?
269無名武将@お腹せっぷく:2012/08/14(火) 16:18:50.45
トウガイ、武力90、知力89、指揮87、魅力85
ショウカイ、武力53、知力91、指揮78、魅力82


姜維、武力95、知力97、指揮92、魅力86
張翼、武力73、知力67、指揮84、魅力77
傅僉、武力82、知力70、指揮83、魅力80
270無名武将@お腹せっぷく:2012/08/15(水) 20:57:44.91
姜維より、トウガイの方が上の様な印象があるけど、そうでもないのかな?
271無名武将@お腹せっぷく:2012/08/19(日) 01:12:28.90
>>268
鍾会と完全に合流したかはわからんが途中から鍾会の部下付けて貰ってるからどっかで近くまで行ってる
272無名武将@お腹せっぷく:2012/08/26(日) 13:38:59.25
キョウイ嫌いだけど、こうやって見るとやっぱり凄いんだな軍略は。
273無名武将@お腹せっぷく:2012/08/28(火) 01:15:43.87
>>272
え? 
ケ艾はともかく、陳泰や郭淮にすら勝てなかった姜維の軍略が凄い?
274無名武将@お腹せっぷく:2012/09/09(日) 18:52:18.25
まあ軍事にかけては蜀第一の将軍であることは間違いないでしょ
鍾会も彼は最高よって言ったことだし
275無名武将@お腹せっぷく:2012/09/12(水) 18:34:57.41
呉の援軍が間に合って鍾会を撃退してた場合、呉側は蜀領に踏み込んだ兵を素直に退いてたかな
何らかの形で駐留させただろうか
276無名武将@お腹せっぷく:2012/09/12(水) 23:53:56.59
援軍関連で。閻宇関連が謎多し。

呉より近くの巴東に居て、成都から召還された閻宇は何をしていたのだろう。
閻宇軍は兵数が不明だけど、羅憲に残したのが2千で、それなりの数を引き連れただろうから対抗し得たのに、
成都に向かったあと消息不明って。

成都側も、召還しておいて待たなかったのは、やはり何か理由があったのかな。
(諸葛瞻は姜維に変わって閻宇を擁立しようとした、お仲間でもあるはずなのに。)
閻宇がこないから、諸葛瞻は打って出て呉に救援の使者を送りつつ、
それも遠くて動員〜到着まで時間がかかって、そうこうしてると待ちきれない状況になったから、また打って出たとか?






277無名武将@お腹せっぷく:2012/09/13(木) 00:16:43.00
ついでに。閻宇が消息不明とわざわざ書かれた点。
「長吏たちはみな城を棄てて逃走したが、羅憲が城中を混乱させる者を一人斬ると、民衆は落ち着いた。」
とある点から、成都の状況を知っていて&たった一人切れば民が安まるような影響のでかい人物って、閻宇?
だから色々あって行方不明?

[背景?]
羅憲、黄晧に同調せず恨みを買って巴東に左遷
→黄晧取り入って右大将軍な閻宇が巴東に来て、羅憲は副将に(イライラ?)

〜時は流れ、263年:蜀滅亡の危機〜
閻宇、召還により成都に向かう
→(魏軍にびびって?)成都まで向かわず
→蜀滅亡
→(閻宇:ああ墜ちてしまった。援軍に行かなかったし戻り辛い)
→永安に戻る
→閻宇:成都が混乱している!(俺も混乱している!やべ、援軍に向かわなかったから処罰されるんじゃ。呉に降伏しようかな・・・)
→羅憲:(こいつ直接脳内に…!)
  「お前救援に向かわず、滅亡させて、ノコノコ戻ってきて、呉に降伏など裏切り者め!」バサッ(ついでにウザイのあぼーんできた(?))

→上官あぼーん。「後の晋将 羅憲の名誉」を気遣って閻宇消息不明扱い

→劉禅が降伏したのを知る。配下を率いて都亭で三日間喪に服す。(心、蜀にあり)
→呉、蜀滅亡を知る。歩隲から降伏勧告
→羅憲:「漢(蜀漢)の滅亡は呉の命運に云々〜どうして呉の捕虜になれようか!」

とかってオチはないか。
278無名武将@お腹せっぷく:2012/09/13(木) 00:27:11.53
「(長江周辺の)長吏たちはみな城を棄てて(呉に)逃走したが、羅憲が
「成都が混乱している!」といって城中を混乱させる者を一人斬ると、民衆は落ち着いた。」
だった。
279無名武将@お腹せっぷく:2012/09/14(金) 21:21:47.33
>>277
史書の編者にとって,閻宇を斬ったことなんて憚る理由なんて何もない。
黄皓が悪者扱いされている状況を考えれば,むしろ称賛されることだろう。

単に成都に着いたら終わってたってだけだと思うけど。
280277:2012/09/15(土) 11:45:04.04
>>279
>黄皓が悪者扱いされている状況を考えれば,むしろ称賛される
確かに。賞賛するような記述は実際無いしね。

詳しく書いてないから、記述同士を自由に解釈して繋げて仮定してみたけど、苦しいか。


閻宇を召還した時期が不明だけど、
蜀側の対応・情報が全体的に後手後手に回っていた点から、
召還自体が遅くて間に合わなかった線が濃厚かなぁ。


蜀側の対応が後手後手だったのは、それだけ魏の侵攻が早かったのと、
当時の情報通信の困難さ、中国は広大ってのが理由かなぁ。


漢中方面とやりとりするだけでも時間がかかり、
また当初、中央が姜維の援軍要請にすぐに応じなかった点を合わせて考えると、
対呉戦力を割いてでも巴東の閻宇を召還する必要がある状況と
分かるまで・中央が判断に至るのに時間を要しただろう。

それから閻宇に連絡を取り、閻宇が軍を召集して成都まで向かうとなると、
ここでもそれなりの時間を要すから、やっぱり上述の理由で判断・情報伝達遅れで間に合わなかっただけかなぁ。
281277:2012/09/15(土) 11:52:45.16
成都との距離は、「剣閣→成都≒永安→成都」で似たような距離だけど、
魏軍との距離は、魏軍⇔永安>魏軍⇔剣閣だから、

剣閣立てこもり後の状況として、
当たり前だけど、剣閣の姜維が魏軍に追従・対応できているのは
距離の利がめちゃくちゃ効いていると分かる。

逆で考えて、永安は情報伝達に不利。
当たり前っちゃ当たり前なのだけど、情報伝達は大変だったろうなぁ。
282無名武将@お腹せっぷく:2013/09/22(日) 13:07:48.84
羅憲さんの善戦は永安から届いた一世の快事
283まあc:2014/01/04(土) 16:56:05.39
あう
284無名武将@お腹せっぷく:2014/01/17(金) 20:46:48.82
あう
285無名武将@お腹せっぷく:2014/07/06(日) 13:40:22.15
(^ρ^)ノ< あーーーーーっ♪
286無名武将@お腹せっぷく:2014/10/18(土) 14:24:51.45
諸葛亮にあと40年の寿命があれば蜀の滅亡はなかった
287無名武将@お腹せっぷく
ああ、あのとき魏延がろうそくの燭台を蹴飛ばしていなければ・・・ (ノ∀`)