呉が関羽攻めずに空気読んでれば曹魏なんてぶっ倒せたのに
1 :
無名武将@お腹せっぷく:
軍神と呼ばれるだけある
てかホウトウか孔明つけてれば問題なかった
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/21(月) 03:47:39
まったくまったく^^;
いちばか
関羽信者暴れすぎだろ…
向こうで締め出されたからって重複スレ立てるとか
見たまえ、これが「なりすまし」というものだ
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/22(火) 01:14:09
sou neetgayのすくつ
つまらんレベルの低いなりすましだな
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/22(火) 17:22:02
イフを言い出したらキリねーだろう
んなもん、劉備が曹操のとこに来た時に郭嘉の言う通り謀殺してれば終わってたよ
ifなら何とでも言えるからな
妄想の中くらいは希望を持たせてやってもいいだろ
歴史上では圧倒的弱者なんだから
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/23(水) 03:53:36
まるでおまえらみたいだな
>>12 うんうん分かるよ
わざわざ上げちゃう程悔しかったんだね
よしよし
>>10 巻き狩りのときに関羽が曹操を切ってれば・・・っていうのと同じレベル
あの時点で敵対はなかったからお互い部下の殺意を止めてる
前スレである程度結論出ちゃったからなあ
徐晃に負けて樊城の包囲がとけた時点で援軍の見込めない関羽には死か降伏か撤退しかないんだから呉は関係ない
呉のせいで関羽が死んだ!というのはまだ理解出来るが、
呉のせいで魏を滅ぼせなかった!というのは理解どころか意味すら分からない
16
呉の攻撃の情報漏洩で兵隊が動揺してたらしいがそれは関係ないのか?
攻めてはないからスレタイに沿うなら関係ないだろうね
根城を攻めてるじゃん
関羽の居ない所を攻めてるんだから違くね
1 江陵、公安を奪う
2 関羽を捕まえるか殺す
が目的だしな
呉は元々自分らの物だった荊州を取り戻そうとしただけだろ
ただそこにブンブン五月蝿い邪魔な害虫が居座ってたからプチッと潰しただけ
強盗らしい理屈だw
強盗じゃないよ
劉備が益州を取ったら荊州を返すのは事前の約束で決まっている
借りパクしようとした劉備は痛い目に遭って当然
荊州を領有したことがないのに返すとかw
渡すって言ってるのは確かだけど返すとか言ってるのは呉側だけ
>>26 面白いことを言うね
確かに陳寿の筆は、先主伝では劉備と孫権の間にどのような約束が交わされたのかまったく示さず、
呉主伝と魯粛伝にてそれぞれの口から「返」「借」という語が出るのみ。
陳寿の巧みなところだ。
ともあれ「昔返す約束をしたので返せ」とは韋曜呉書さえも言わない。徳、義を盾にするのみ。
つまりはそんな土地の一定期間貸与の条約を結ぶ慣習などなかったのだろう。
実際の経緯を追えば、南郡一帯を領有していたのは呉。
周瑜の死後に、共に益州攻撃を行うという目論見の元で劉備に譲ったのだが、
しかし劉備は単独で蜀に入った。
孫権は激怒したが、曹操を防ぐという目論見のためにこの時荊州を背後から襲うことはせず、
劉備が益州を得るまで黙認してやり、その後実力で奪い取った。
戦略状況と力関係によって維持された土地が、戦略状況と力関係の変化によって
持主が変わったというだけのことだね。
実力というよりセコイ手段だけどな。
主力のひきつけは完全に魏に委託、自分達はおいしいとこだけを持っていった。
実力というより策略だろ
呉の信義のなさは異民族と変らないレベルなのに劉備や関羽には自分が被害者らしく体裁を整えてるのは確信犯だからだろ
その辺が孫権のうまいところ
セコかろうがなんだろうが勝ったもん勝ちなんだよ
劉備はそこが分かってなかったから負けた
>>26 劉備が「涼州取ったら返すわwサーセンw」
と言ってる訳だが
呉書だから
陳寿の都合の悪いことは他伝に書くスタンスが嫌いだな
ありのままが分からん
>>23 釣りでもなんでもねーw
お前らだって部屋に汚いウンコ蝿がいたら叩き潰すだろ?
それと同じ事だ
史書には捏造でも書かないといけないこともあるからな
経済史は参考になる。民間伝聞は参考になったりならなかったり
コーエーのゲーム的に考えれば劉備はずっと独立勢力だが、
当時からすれば諸勢力の下について戦ってただけだよな。
蜀を奪って自立するまでは。
放浪勢力か。
確か、三国志8くらいではそんなやり方もできたような。
また録な根拠もなしに呉書は捏造と主張してる痛い子が涌いてるのか
鼓吹曲の影響受けまくりというべきだな>呉書
鼓吹曲って何?
自国の良い所のみを都合よく歌った軍歌のようなものだよ
魏、呉にはあるが蜀にはあったかどうか不明
蜀漢側の先主伝や華陽国志ですら
「涼州を取ったら…」で共通してるんだから
何らかの約束はあったんでしょ
でなきゃ「知らね」で済ませるでしょに
>>44 約束が
>>32はないだろ
「昔返す約束をしたので返せ」とは韋曜呉書さえも言わない
本来1度解決した荊州問題をむしかえしたのは呉。奪ったのも呉
結局言ってることは強盗の開き直り
>>45 魯粛伝に「劉備に貸すように孫権勧めた」とあるぞ
(魯粛伝は韋曜呉書から引いたんじゃないとでも言うか?)
都合の悪い事はミエナイキコエナイ
>>45 そりゃ荊州の南郡だよ
呉は同盟を盾に協力する代わりに荊州全部よこせつってたけど返せっていってたのは南郡
んで南郡及び数郡を割譲して一旦決着してる
協力約束しておいて魏に寝返った呉になんの信義がある?
南郡は返してないだろ
それより江夏をいつのまにか分捕ってるのが不思議なんだが
呉が魏から取ったのは南郡だけ。貸せるのも南郡だけ
いや、南郡を取ったのは劉備だよ。攻めたのはシュウユだけど
>>50 曹仁撤退後に程普が江夏太守になっているから
劉gが劉備に担がれた時に占拠したのでは
(文聘がいる北部は別だけど)
その程普は周瑜の死後南郡太守に転任し
南郡が劉備側になってから再び江夏太守になっているから
それまでの南郡は一応孫権側でしょう
(公安は劉備側だけど)
むしろ,夷陵攻防戦なんて孫権側しか見当たらないのに
なぜ張飛が宜都太守になっているのかと
太守名乗ってるからって支配してるとは限らない
逆に孫権は会稽太守だが呉を支配してたし
劉備の場合は皇帝から授けられたのが豫州牧だったが任地に赴くことなく曹操と決別し実際の牧の権利を失っているが
世間的には「劉豫州」で通っていた
>>55 そりゃ劉備が公安(と関羽が江北のどこか)に居たんだから
南郡全土を支配してるはずはないけど
全く支配していないんだったら周瑜の後任なんて任命できないでしょ
戦いで勝ち取ってないのに返せってのは理屈でいったらおかしくね?
力関係で吹っかけてるわけだろ
関羽の娘の話も糧食泥棒の話も関羽排除に呉が動いてる最中でタイミングぴたりじゃ
「戦争するけど相手が仕掛けてきたからですよ」ってアピールする常套手段にしか見えん
力で領土を奪うのは卑怯でも何でもないけどな
戦乱の世なんだし
やり方がセコいのでどうにも強者が力で奪ったという
力強さを感じないんだけどね、三国呉は。
寧ろ、虎のオリから虎が不在の隙に餌を掠め取って
虎を飢え死にさせた猫みたいなショボさを感じる
そんな主観で語られてもしょうがないんだけどね
夷陵なんかはどう考えても力負けだし
関羽不在の隙を狙って正面激突を避けたのも事実じゃないの
>>62 劉邦も同じく項羽を騙まし討ちにしたけども、あの勝ち戦にも
強者が力づくで勝ったというイメージはなかったな
裏切りもタイミングや相手、得たもので評価は変る。裏切りで信用は確実に失うな。
で、結局何を得たのかってことだろ。
劉邦は漢帝国を得た。
孫権は荊州を得てそれだけ。だから評価が低い。
ちなみに劉備が劉章を裏切って得たのは漢帝国再興の為の根拠地や人材ってことになってる
劉章の息子も部下になってるし人材もほとんどそのまま引き継いだから裏切りの代償が孫権に比べるとはるかに小さい
「裏切り」によって孫呉が得たのは東呉帝国60年の存命。
荊州の大半を握られたままでは不可能な話だった。
逆に蜀漢は寿命を縮め中原へ出る機会を失った。
だから蔑視されるんだね
キミタチにね
後世の評判みたら?
今に至る魏呉蜀へのシンパシーの格差というのは
東晋東遷によって端を発するものであって、
当時の業績に発するものじゃないんだよ。
中原を失った東晋の史家・習鑿歯らは、
中原を支配した魏を経由せずに漢-晋の天命の移り変わりを説明したかった。
そこで、魏の中に頭角を現した得た司馬氏が蜀漢の攻撃を防ぎ、蜀漢を放伐し、
そのあとに魏と呉を滅ぼすことで正当な天命の所有者となった、と理屈をつけた。
以後、「忠」の美徳が古代よりも
蜀漢の人間達を、「漢の再興を目指して奮闘した者達」と捉えられるようになり、
説話などでキャラクタ付けされて。人格や業績が増幅されていった。
その流れは千年後に演義に至る。
蜀漢人の当時の実務的業績が他の二国より特段優れていたから
蜀漢正統論が起きたわけではないんだよ。
それ以外なら好評なのか?
勿論、彼らを物語の登場人物として見るのなら、
そののような一方に感情移入する視点は全く構わない。
もしも、いささかでも現代人として歴史を学問(ごっこだが)するのなら、
歴史をhi-storyとして読みたい誘惑を抑え、価値評価を捨てて
史料に当たることをお勧めするね
俺は経済史専門だから貨幣経済を維持した蜀を評価するね
貨幣は面白い
>>70 その時点で歴史から祝福された当時の正統とも思えてしまうけどね。
蜀=なにをやっても正義
は天命みたいなもんじゃないの。
結局は史書に書いてある事が事実。
蜀は呉に二度負け国を傾け、その後は逆らえなくなった。
孫権の死の直後などは呉に擦り寄り、一緒に魏を攻めて下さいお願いします、と言っているし。
正史に限れば呉>蜀というのは誰もが認めざるを得ない事実だろう。
人気等の話はお好きにどうぞ。
>>74 よくわからない。どんな理屈で?
因みに習鑿歯は、蜀漢が短命に終わり司馬氏に征服された
理由を付けるために劉備や諸葛亮の失敗を厳しく攻撃している。
>>75 うんそうだね。キミタチにとってはね
2ちゃんの声高な蜀アンチ=みんなw
>>76 習鑿歯の意志とは無関係なところで蜀漢正統論が一人歩きしちゃった
部分とかかなあ。
完全に後世においては蜀人気の起爆剤の要因にもってかれたと思う。
>>75 関羽の鋭鋒を避けて、関羽不在の隙に退路を立つような
情けない戦い方をしたことも史実に書かれてしまったけどなw
>>78 正統論は一人歩きしてないんだなこれが。
結局主な歴代王朝では、蜀漢が正統な漢とは認められていない。
蜀漢の人物それぞれには、勿論、美点や優秀な部分が多くあった。
しかし同時代の魏呉を大きく引き離すほどの支持を得たのは、
歴史上の「偶像」として抽象化類型化されてきたから。
岳飛や源義経やジャンヌ・ダルクといえばわかるだろうか。
ましてや、「蜀=なにをやっても正義」は物語上の話。
物語を楽しむなら構わないとは言ったよ。
忠臣蔵や新撰組などと同じくね。
>>80 しかし、その物語が歴史の根幹をも喰ってしまったのが
現在の中国の三国志事情とも思える
国語の教科書に諸葛亮の赤壁故事(演義)が堂々と乗るほどだしなあ。
>>81 現在の中国人の三国志意識って良い意味で物凄いアバウトだからなw
ここは赤兎馬が水を飲んだ場所と地元を自慢したりするし。
史実オタは失神して泡吹くんじゃないかなと思うほどに柔らかすぎる。
>>その時点で歴史から祝福された当時の正統とも思えてしまうけどね
意味が良くわからん
第三者にも分かるように言ってくれ
>>81 国語の教科書だからな
「古典」の単元で中国文学の一つとして有名な三国志演義が載り、そこから一番有名な赤壁が抜粋されてるのは何の不思議もない
歴史の授業で魏晋南北朝をやる時に「諸葛亮が祈祷で風を起こし……」なんて出たらその授業は寝に入るが
>>81 三国志の故事成語は白眉とか仲達を走らすじゃないの
赤壁に故事なんてあったかしら?
>>62 そりゃあ正面衝突なんかしたら国力のムダ使いもいい所だもの
大振りでガラ空きにしてくれてるのになんでそこを狙わないでがっちりガードしてる所叩かなあかんの?
呉の政治にみるべき内容がない。皇帝がでかい顔して威張ってるだけ
>>86 蜀漢の政治のどこに見るべき内容があるのかと
臣下が全権を握る→宦官にかき回される→滅亡
実際歴史研究上では蜀漢よりも孫呉の方が扱い上だし
(研究可能な史料数の差だけど)
蜀の治世は陸機にも田舎臭い、と指摘されているしな。
所謂州単位の治世の域を出ていない、というのが妥当なとこなんだろう。
>>83 確か、中国の歴史教科書を和訳したものでは諸葛亮が基点になって
赤壁の戦いを勝利したと書かれてたような気がしたなあ。
三国時代の話はいきなり、そこら辺からの話になってたけどね。
磨り減ってない使用形跡のない直五百銭や直千銭をみると空しくなるよ
もともと中国や日本の穴銭は鋳造だから意匠に見るべきものがないし未使用の意味がない
ハンマー打ちコインの未使用ならいいんだが
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 12:19:48
【卑怯、姑息!】
それが戦のセオリーってもんですけど何か?
呉はこういうのを躊躇いなくやるしな。
人気がないのも当たり前か。
ためらいなくやらなければ生き残れなかったという事情も考えてやれ
今でこそ国力は魏>呉>蜀なんて言われてそれが当たり前だと思ってるのが大半だが、
この関羽北上以前においては魏>蜀=呉ぐらいだったんだぞ
孫権も追い詰められてたんだよ
勢いもあるから蜀の方が上、と言ってもいいかもな
二度の大敗の後は呉に対して完全にビビってしまい、顔色を伺うだけになってしまったのが悲しい
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 12:55:53
>>93 だよな。「呉は蜀の味方じゃなければならない」というのは演義由来の思い込み。
そもそも正史を読んだだけで正史を知ったつもりになるのが笑える。
こういう演義由来の思い込みのような知らず知らずのうちに頭に染み付いている演義部分を忘却することが
三国志理解のためには必要。
正史しか読んでなきゃアンチ劉備になるさ
文献ならあんたらより読んでると思うがね
400p/hで読むし40年読んでるから読書量は2万は超えた
>>正史しか読んでなきゃアンチ劉備になるさ
何だ、ただのアホか
>>93 同意
少なくても劉備が漢中王を名乗った時点では劉備>孫権だった
そしてそれが孫権を怒らせたのも間違いないと思う
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 14:02:51
>>96 文章量が三国志理解に比例するとは限らんよ。
むしろ情報量が増えただけ脳内での有機的結びつけの手間も増えるんだから
無能だとただ単に知識が増えただけに終わる。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 14:31:57
曹魏の葬儀
確かに
>無能だとただ単に知識が増えただけ
三国の農業について語れる方はいますか?
蜀漢正統論を妄信してしまっている人って、かなり頭悪いと思う。
あれは清に中国を乗っ取られた時に
「異民族に占領されたこの国はもはや中華ではない、日本こそが真の中華だ(キリッ」
って言っちゃった人と同レベルの代物だろう。
>蜀漢正統論を妄信してしまっている人
具体的にお願いします。ついでに漢代の税制と魏呉蜀の税制についてなにか意見ないですか?
前スレで凄いのがいたな
「蜀漢正統論は中国の歴史が認めている」
とか大嘘ついてた奴
今スレには出てこないな
>>90 「気がした」とか言われても。
実際どういう書き方がされてたかこっちにはわからない以上その「気」って君しかわからんよ
拳法は確かに少林拳の日本版アレンジだが、その書き方は誤解を招くぞ
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 21:45:41
>>107 流石に恥ずかしくてもう来れないだろw
んなアホな事言っても失笑されるだけだ
まあ、でも魏も正統ではないんだけどね
今では三国時代と呼ばれてるのが定説
金に当たるものが金属でないことはままある(タカラガイとか日本の米とか)
魏は絹本位貨幣みたいなもんだよ。農家に養蚕強制、機織も強制して収めさせてるし細切れにしすぎて布としての価値無くなってたりしても物品と交換できてるから
魏以前は細切れにはしなかったんだけどね
正統論というのは、その時代の王朝がどのような系譜によって
天子の命を受け継いで来たのかを論じるもの。
その論理や変遷を研究するのは価値がある。
現代では王朝がないし、歴史研究自身がどれかを重んじて正統といったり
賊といったりなど価値認定するのは外道とされる。
>>113 区別しような
>区別しような
なにを???
>>113の一行目と二行目はまったく異なる立場から生まれたものということを
確実な正統王朝が生まれてない時代で正統、異端を決め付けるのは
タブーってこと?
確実な正統王朝とその「叛賊」に対してもやってはいけないこと。原理的にはね。
実際には、完全な中立というのは用語などの面から現実的ではないし、
究極的には人間は歴史から中立にはなれないものではあるが。
すまんが、分かりやすい言葉でタノム
正統論の問題と三国時代という呼び方を区別せず、「定説」とか言っちゃう
>>113は
どうしようもないという事だ
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/28(月) 02:04:38
↓蜀梅毒が自尊心回復運動を必死にやると予言w
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/28(月) 03:22:28
簒奪だろうが平和な禅譲だろうが前任者から直接引き継いだのが正統だろ。
統一してなくて明らかな反対者が国家を形成してる場合は割拠
蜀漢正統論自体、胡に中原を占領された漢民族の現実逃避みたいなもんだからなあ
魏が正統じゃないにしても、蜀が正統というのはもっと有り得ない話
正統とか言う議論が不毛なんだぜ
後漢末内乱→群雄割拠→三国割拠→晋統一→内乱→異民族割拠
大体は割拠状態なんだから
イングランド国王なんか11世紀初頭以降外国人だし
だからサクソン人しか入れない場所には国王でも入れない
蜀漢正統論が六朝時代では関羽、張飛の評価も引き上げたんだよ!
なんていうアホも居たなあ。
>>126 それがわからんから蜀が正統だなんてずっと言ってる
それ以前に魏もそうだが、さかのぼれば劉秀や劉邦だって横から国を分捕った連中だし
ちょっと考えればさして意味のないことくらい、わかりそうなもんだが
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 13:52:45
だよな
蜀なんか所詮四川の山猿
ずっと言ってる連中はいなくなったけど
>>130みたいなアンチはずっと居るな
蜀漢正統論って言葉はこのスレでは蜀アンチが言ってるだけだし
どこぞで言い負かされたのか知らんが
>>106が悔しさイッパイの余熱を
持ち込んできたのが原因じゃねえの?
>>104だな
脈絡も無い流れから急に蜀叩きに必死こき始める態度を取り始めてる
>>133 旗色悪くなって反論出来ないからって、話題逸らしは良くないねえ
反論出来ないのは認めるんだねえ
もしかして前スレで恥かいた子かな?
こうやって場の空気を最悪にしていく奴が居るんだよな
今までの話で都合が悪くなったら強引にでもスレチの話題に持っていく
そして、それを指摘されると何故か「反論が出来なくなった」扱い
なんなの、
>>137みたいなヤツは?
被害者面して逃げるのは良くないね
>>138 自分にとってお気に入りの流れしか認めたくない
困った子なのよ、彼は。
三戦板で現在問題になってる曹操患者って奴なのかも
蜀が正統じゃないなんて誰でも分かってるんだからもういいだろ
認めたくないやつもいるみたいだけど
だから正統論自体漢人が中原から追われてる割拠期か異民族政権期の感情論だろ
ヨーロッパはキリスト教が王権神授説を後押ししてて政権失えば無能の烙印押されるが王権は握った者勝ち
中国はそういう宗教の後押しがないからごたごたするのは人間として自然ではある
相手見ることもない掲示版が感情むき出しの罵りあいになるのも自然なことだな
>>100 関羽アンチもまさにその典型だけどな。
グレーゾーン塗れな記述を勝手に気ままな解釈して
関羽の矮小化に必死になってる。
>>144 中国にも封禅の儀というものがあるぞ。
自分が皇帝になりましたよ、と天の神々に通達する儀礼。
三国時代においては蜀書にだけ記載されていた事項。
>>145 関羽アンチで平然とダブスタを炸裂させるので
そういうことには多分気がついてないと思う
他人の持ってる未知の情報、見解
→役に立たない糞知識
自分だけが納得のいく情報、見解
→すべてにおける道理
か、関羽アンチは恐ろしいな。
>>147 中国の神って昔人間だったのが確定事項なんだから唯一神信仰とは天地の差があるよ
ダブスタといえば北上スレの関羽オタはひどかったな
散々関羽批判に乗っかっておきながら、反論出来なくなったとたんスレ違いと喚きだす
そう思うなら最初から言えばいいのにw
>>150 五斗米道や太平道から出発した神の系譜は
中国古代の神と呼ばれてた存在とは異なるものだけどね。
のちの中国においては五斗米道、太平道の系譜が重視された。
>>151 好き勝手な解釈で暴れまわって関羽を矮小化する流れしか
認めようとしないアンチがすべての原因だったと思うが?
>>153 世間で語られる関羽の事績とは全く異なる珍説塗れだったしな
納得のいく見解なら同意も出来たが100%関羽を貶めることしか
考えてないレスばかり投下されればスレチともいわれちまうわなあ
>>153 最初からスレチといえばいいのに、論破されてから逃げ道を作るから
呆れられてんじゃね?
>>155 論破なんてどこでされてたんだよw
そういう嘘を平然とつくあたりも嫌われるんだろ。
>>152 封禅の儀は中国古代神への報告的な儀式だし
五斗米道、太平道はキリスト教やユダヤ、イスラムのように解釈違えば異教徒として教会命令で狩るのか?俺はそこらへん知識ないから教えてほしい
まあキリスト教も東方教会はそこまで排他的じゃなかったけど
せっかく反論できるようにしてやったのに
再び話題逸らしとは恐れ入ったわ
>>157 確かにあの時代はまだ宗教としての体形も未成熟な時代だったけども
天に報告して自分が皇帝になったよ!と通達することには意味があったと思うよ。
これは陳寿の三国志正史にのみ記載されており、注釈を入れた裴松之はこれを見て
魏書にもその項目を付け足したと言われてるくらいだから
天から拝命を受けて皇帝になる資格を得たという大義名分は当時からも立ってたんじゃないかな。
>>158 誰に対しての意見か知らんが
宗教関係云々の事を言ってるのなら
多分
>>144が原因だぞ?
>>147 封禅の儀は魏も呉もやってますがな
陳寿が出身の蜀のしか『三国志』に書かなかっただけで
話が脱線しすぎじゃね?
>>162 裴松之は『献帝伝』と『呉録』から「引用」しただけで
自分の言葉で「注釈」した訳ではないぞ
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 22:52:14
関羽なんて置物にすぎない
みのほどを弁えずに北上したアホ
荊州に価値があったから魏呉が一流所を動員したのであって関羽が凄かったからではない
洪水のおかげに決まってるだろ
蜀の治安が整って以降ならば人口、兵員数は魏、呉に比べ少ないのは明白なんだが
南西シルクロード経由で財政的には蜀の絹が最も輸出可能で、金銀も魏、呉は非常に不足しているのに比べ蜀は貿易に困るほどではない状況では
魏が敦煌付近を押さえていても利益はあがっていないのも含め蜀の生存能力は低くはなかった可能性はかなりある
武装の近代化は蜀が圧倒的なのが証拠のひとつといえるんじゃないかな
南蛮平定に苦労しているのも南西シルクロードの道中の安全保持の為とも言われているし
洪水以外とりえのない関羽
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/30(水) 19:53:45
鉄砲水自体、関羽の策略だった可能性は無いのか?
軍船もあったし、関羽が樊城付近の天候や地形を知っていた可能性はある。
何より、于禁七軍+ホウ徳軍の集結した直後なのは、タイミングが良すぎる。
樊城自体、水攻めするつもりだったのかも知れない。
策略で大水を起こすならどこかで堰き止める必要があるけど
それを裏付ける記録はないでしょ
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/30(水) 20:19:23
確かに記録はないけど、可能性はあるという話。
水攻めの計画が進行中だったが、豪雨で予定より早く水かさが増えてしまい、
堤防が決壊したという可能性もある。
この場合、策略という要因があっての洪水とも言える。
まあそれも呂蒙の計画のうちだろうけどな
呂蒙の立てた計略で手柄をあげたが呂蒙の立てた計略で首と領土を失ったのが関羽
実にしっくりくる推理
あの一帯は劉備一向が劉表の元に身を寄せてから長年住み着いてる土地だから、
気候や地形は熟知している。
軍船が前もって用意されているのを見ても洪水は策略の内だろう。
襄陽でも落とさない限り急には手に入らない軍備だしな。
ドラえもんが陣中にいたんなら話は別だが。
流れぶった切る上、スレとは関係なくて申し訳ないが
関羽が処刑前に「兄上との今生の享楽はここに終わる」みたいな台詞を言うのってなんの作品かわかります?
江陵から襄陽以北を攻めるなら漢水(沔水)を渡る必要があるから
水攻め関係なく船は必要でしょ
劉封らが漢水上流の平定を済ませてないから大規模な土木工事を事前にやるのは無理な気がするけどね。
或いは関羽軍は、大水が起こることを予知して退避していたために損害を免れた、
というようなことはあるかもしれない。
しかしそれは策略とは言わないだろうな。
天威作戦と言うらしい
長年荊州に居た関羽ならあの時期に洪水が起こる事も期待して
あえて水軍で攻め立てたという見方も間違いではないと思う
予め水軍で攻めていた記録も計略を使った記録もない。
大水という災害を上手く予知して有利に立ったのかもしれない、くらいにしておけばいいのに、
なんで行間から読み取れないような準備を必要とする策略を不自然に挿入しなければならないのか。
あくまで「偶然の洪水」に固執しすぎるのも意味が分からないのだが
災害が起きるのは偶然だよ。当たり前ながら。
数ヶ月前に出兵して、鉄砲水に近いような大水が予報できたとでも?
その偶然を有効に生かすことができたか、損害を蒙ったかで差が出た。。
関羽が水計を使ったという記述でもない限りはね。
長年留まっていた経験から、気候の変化を予想し
洪水の起こりそうな時期に水軍で攻め立てた。
これが関羽の作戦だったとも思えなくもない。
雨季の大まかな時期くらいは土地感で何とかなっても災害の余地なんて不可能だろうけどな
どっちにしろ戦機と洪水が被ったのに偶然以上のものはないだろ
水軍使わなかったら、関羽軍も同じ目にあってたけどな
つーか北上するのに水路使うから船持ってただけだろ
洪水があったからじゃねーよ
>>187 河渡るのに水軍使わないくらい関羽はアホなのか?
陸軍メインだったら、そこまでの船は用意できなかったんじゃね?
>>185 陸に陣を張っていた于禁軍が水没するくらいの激流が起きる河川で、
洪水が起きそうな時期に水軍で攻めてたら関羽軍が全滅してるが…
「水軍があったから攻められた」というよりは「水軍があったから逃げられた」が正しい
洪水なしでも曹仁は追い詰められて篭城してなかったか?
>>193 つまり関羽は「水計」を必要としなかったという意見?
樊城に篭城したのは大水の後ということで記述は一致していると思うが。
洪水を効果的に利用したの間違いだろう
さすがに洪水なしは無いw
陸軍水軍の両軍を使ってたから洪水になったと見るや
水軍で駆けつけあっというまに于禁、ホウ徳を破り
曹仁を包囲して追い詰めたと見るべきでは。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 01:08:54
曹仁篭城
→ホウ徳を別働隊として城外に配置
→関羽が樊城包囲開始
→樊城包囲
→于禁七軍到着、ホウ徳と合流
→関羽の包囲を襲撃、関羽は矢傷を負って退避
→豪雨、洪水で七軍壊滅
→関羽(゚д゚)ウマー
だったかと思う。
間違ってたら、訂正してくれ。
于禁率いる七軍って、北方系の騎馬軍団だったかな?
だったら、泳げずに溺死したのも多かっただろうなぁ・・・・・
つまり、曹仁・満寵・ホウ徳・于禁の4人を野戦で敵に回して、
関羽は互角に戦い、(ここらへん計略だったかしらないが)
予期し、期待していた関羽に、洪水で全滅ってことか?
関羽、どこまで、神なのかwwww
関羽はその後、敗死しているため、計略だったのに、それが伝わらなかったというのは、
あると思う
>>196 大体合ってるかと
曹仁が野戦で敗走して籠城したのかハナから籠城してたのかは知らんが
ただ野戦で曹仁が敗れたならその記述があると思うが、詳しい人おらんかねー
于禁ら中央軍の援軍に期待して籠城って戦法は別に不自然じゃないし
武帝紀や于禁伝にも曹仁への命とセットで于禁が派遣された事が書かれてある
関羽伝には「樊に居る曹仁を攻撃」した事は書かれてるが、野戦で曹仁が敗れて退き籠った云々みたいな記述はなかった気が
曹仁は初めから籠城していたんでは?
>>197 武帝紀だと7月に派兵し、8月には漢水が氾濫している
于禁がどっから出撃したかイマイチわからんが、七軍ったら結構な大軍
恐らく比較的中央に近い場所からの出撃だろう、行軍の日数を考えると多分まともに戦えたのは多くて数日
あと曹仁伝に「数千の人馬で籠り」とあるから途中で減った事を考えても曹仁の軍は一万以内(全体兵数が二万も三万もいたとしたら減った数は一万以上、それほどの大戦果がどこにもないとは考えられん)
この兵力で野戦で応じたとは考えにくい
曹仁も万単位の軍くらいは持ってたんじゃないか?
さすがに数千単位で重要な国境沿いを守らせはしないでしょ。
しかし、曹仁はなぜ、于禁援護に野戦にでなかったのか、
城を奪われるのを怖れたためか、それとも雨があることを予期していたからか
(まあ、危険性はあるという程度で)
曹仁は、関羽と互角に戦える戦力は持っていなければおかしいし、討伐にいかせたのだから、
二万いたが、関羽に勝てないという評価をしており、
演義のような小競り合いで、−数千
ホウ徳に与えたのが、1万
曹仁、直属が7,8千というところでないかな
勝利者は味方の数は過小に伝えるもの
>>201 野戦でそんだけ減ったら載るだろ
北伐で諸葛亮が討ち取った首3000が戦果として載ってる事を考えりゃ
曹仁伝や満寵伝や関羽伝を見ても「関羽は樊を攻めた」とあるから
野戦は行わずに直接樊で迎え撃ったのかと
>>200 宛の反乱の影響かもしれないが、少なくとも関羽に向けられる軍はその前後程度の数だったんだろう
だからこその于禁の大軍でもある
いずれにしろ形跡が全くない以上野戦に関してそれ以上の事は言えんな
>>201 孫子に照らせば、仮に数千〜一万程度の勢力だったとしても籠城すれば十分対抗できる範疇
援軍あるしな
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 10:56:25
曹仁は、関羽の北上を迎え撃ったはず。
関羽軍との初衝突の時点で、関羽本体は別ルートで襄陽城に進軍中だった。
曹仁は、敵の偽退却を深追いして、包囲→大打撃を受ける。
先鋒の将も討ち取られ、退却した時には襄陽も関羽軍に包囲されていた。
結局、曹仁軍は漢水を渡って樊城に篭城せざるを得なくなる。
襄陽城は降伏し、樊城は本格的に包囲される。
>>206 申し訳ないが典拠を教えていただけませんか
>>206 関羽ファンの自分も気になる
資治通鑑とかなら、大発見
魏ファンを圧倒できる材料
襄陽城が降伏してたのなら呂常の立場は
>>208 資治通鑑だと大水の後に襄陽を包囲してる
というか襄陽に向かったのが別隊だけど
いや、襄陽落ちて無くね?
記録にない野戦の可能性をあれこれでっちあげるより
寡兵だったから籠城したと言う方が劣勢も含めてはるかに自然な形で説明が付くと思うが
曹仁とホウ徳は一緒に反乱鎮圧したんだろ?
だったら微妙に信用出来ないホウ徳に部下を預けて外に出して戦わせ
曹仁は数千で拠点防御した可能性もあるだろう
ウ禁の三万を捕虜にしただけで溺死したのも相当いるはず
江陵、公安に守備を割いた三万以下の戦力で
それだけの戦果を挙げたならば化物としか言いようがない
>>212 その時襄陽は落ちていないのが近年の定説
襄陽が落ちたのは関羽敗死後に
曹仁が宛に撤退した後で
呉の陳邵が裏陽を占領している事ぐらい
華陽国志では関羽が江陵から樊城の曹仁を包囲
その後、于禁、ホウ徳の増援があった、とあるな。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/31(木) 19:30:18
呉が中立を維持してれば
徐晃戦関係なく関羽が漢水一帯を制した可能性は大いにあるな
蜀が来たから呉にしても戦線を縮小せざるを得なかったようだし
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 00:47:47
実際のホウ徳は、すでに曹仁配下として候音の反乱鎮圧にも加わっていたみたいだな。
関羽撤退は、徐晃の攻撃より呉の侵攻が大きかったから、
>>218の可能性も低くは無い。
とりあえず、現時点で事実と思われる樊城戦の詳細
・水陸両軍で関羽が北上(水軍と陸軍で別ルート?)
・ホウ徳は曹仁軍から切り離された遊軍
・樊城・襄陽城を関羽が包囲
・徐晃の攻撃は包囲の一部を破ったが、直接の撤退理由は呉の侵攻
>>218 樊城の包囲は外からの徐晃と内からの曹仁の攻撃で解かれているから
どこかで徐晃を撃退しない限り樊城(漢水の北側)の確保は厳しいと思う
ただ襄陽(漢水の南側)は漢水をうまく利用できれば確保は可能だと思う
でも樊城と襄陽にそれぞれ拠られたら長期戦は避けられないけど
樊城と襄陽二点同時攻略ってのが無茶な話だよな
樊城を攻めるならまず襄陽を落としてからだと思うんだが
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 15:01:41
漢水の水軍を利用すれば、どちらの城に対しても対応は可能かと思う。
やはり、危惧すべきは中原からの援軍。
後は、どれだけ短期間で城を落とせるかどうかだな。
どこかのスレで書かれていたと思うが、樊城と襄陽城は比較的包囲し易い。
だから、関羽が包囲戦に持ち込んだ事自体は、特筆するほどの働きとも言えない。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 15:06:54
>樊城と襄陽城は比較的包囲し易い。
それ根拠何だよw
蒙古でも五年掛かった要塞を半年で落としかける関羽パネェ
3世紀≠13世紀
洪水を利用できた関羽の水軍調練も見事だったんじゃないか?
南船北馬という言葉が伝統的に伝わってる国で北国出身の関羽が
南国出身の将軍並に水軍を扱えたのも凄い事だと思う。
洪水は不意の出来事でも、水軍に不慣れで
ただあったので使う、水軍を使って河から攻めた方が有利程度の
水軍でしかなかったのなら洪水に呑まれ右往左往の目にあって事も確実。
洪水の勢いを利用できたのはかなりのファインプレーだったんじゃないのか?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 19:15:01
北国生まれの水軍というと程普とか韓当か
無双
決戦
>>226 それは否定しない
だけどここの連中はそれだけで過大評価しすぎ
セキハネは神のように崇められてるからな。
現代日本でいうジャニーズみたいなもんだよ。
変に触れるとこっちが痛い目に遭う。
洪水を利用できた関羽の水軍調練も見事だったんじゃないか?←その通り
南船北馬という言葉が伝統的に伝わってる国で北国出身の関羽が
南国出身の将軍並に水軍を扱えたのも凄い事だと思う。←なるほど
洪水は不意の出来事でも、水軍に不慣れで
ただあったので使う、水軍を使って河から攻めた方が有利程度の
水軍でしかなかったのなら洪水に呑まれ右往左往の目にあって事も確実。←ふむふむ
洪水の勢いを利用できたのはかなりのファインプレーだったんじゃないのか?←おっと、ファインプレーなんて英語は当時の中国人はつかわねーぜ
>>230 ジャニーズの誰が好き?俺は松潤の肌がキレイなときが好き。
いやでも94年当時のキムコタも捨てれないな。
>>229 そうかな?
洪水の中での操舵技術ってのもかなりのもんじゃないのかな。
寧ろ、洪水ならば水軍にもかなりの被害が出そうなもんだけども。
濁流に翻弄されて船同士でゴチーん←転覆
高波に攫われてウワーン←戦線離脱
無造作に陸地に打ち上げられて船が使い物にならなくなる←破棄
なんて普通にありそうだしな
洪水に見舞われたのなら
>>233 おおっとぉ!
操舵技術云々を現代人の俺らの力量で推し量るのはやめにしねーかい?
仮説を立てる→実際どうなのか試してみる→試した結果から考える(妄想抜きで)
→考察する→結論
こういう風に考えていこうぜぃ!
>>232 kyo to kyoの千年メドレーの東山かな
確か1,997年だったとおもう
>>234 ムーンライトエクセルライトドリーム♪♪
(ぶひぶひ♪)
イッツオーライ!
そういえば昔の船は操舵そのものの機能さえなかったんだよな。
だとしたら、より凄くないか?関さん。
あの洪水の中、その勢いを逆に利用しちまうんだからw
>>235 →実際どうなのか試してみる
え?ここの人って全員自論の確立のために実験なんかしたの?
>>239 わかった。おまえはイケメンだ。だからその矛をおさめてくれないか。
このとおり頭下げるから(ペコリー)←頭下げた効果音(笑)
ハムストの筋力低下は反張膝に繋がる。
脳卒中患者の歩行の特徴として、骨盤後退と腰椎後彎がある。
モーターインパーシスタンスは前頭葉の障害で見られることがある。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 20:30:43
・関羽軍は、洪水を予期していたので対応出来た
・洪水は、関羽の策略だったので対応出来た
・関羽の水軍は、洪水にも対処出来る操船技術を持っていた
或いは、
・于禁七軍は北方からの兵士の為、泳ぎに不慣れで壊滅しただけで、洪水自体が
実は大したものでは無かったので水軍は無事だった
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 20:36:52
ぬふぅ
・決壊による流域変化は漢水の北側に
というのもある。
どちらにしても、大雨が十余日続いた末のことなので、水害の発生自体は
予測できないというのはおかしい(いつどこが決壊するかはわからないにしても)。
関羽がどの程度の水軍を持っていたにせよ、漢水は数日間急流となっていたと
考えるのが自然なので、当然水軍を退避させていただろう。
その退避が適切だったが故に、洪水後の包囲が迅速に行われたというようなことは
あるかもしれない。
逆に、襄樊の周囲が水に漬かっ状態では城攻め自体は難航するだろう。
水位が下る時間次第だが。
襄樊は襄樊の方で、外界と隔絶して食料は不足するし倒壊の危険はあるしの状態で
兵を統御するのは相当の手腕を必要としたに違いない。
>>244 上記3つならば関羽のファインプレーだけど
一番下のならば于禁アホって感じ
>>246 長文過ぎて読む気が失せるから2行くらいにまとめてもらえないだろうか。
「⇒」使ってフローチャートみたいにしたらわかりやすい。
結論として何を言いたいかを最後に付け加えておくと尚良い
「以上の事から、関羽は超人である」等。
歴史は優劣賢愚を語る道具ではない。
サービスで一行にしてみた
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 21:52:55
あの程度の記述で能力など分かるわけねーだろ!
で一行
おおっとぉ!名言キタ━━━━━━━━ヽ(゚Д゚)ノ.━━━━━━━━ン!!
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 22:08:09
洪水が、相応の規模と威力のあるものだったとした場合、
・関羽は洪水を予期して、水軍を退避させていた
と考えるのが自然だろうか。
樊城付近の地理に関しては、関羽の方に利があった可能性は高い。
于禁に、長雨→洪水という知識があったかどうか微妙だな。
・洪水の知識が無く、長雨の中で平地に陣取り続けて壊滅
・関羽軍が意図的に七軍を平地に釘付けした為、壊滅
後者の場合、関羽株が上がるわけだ。
于禁クラスの人物が長雨による洪水くらい想定できないわけないと思うんだけど。
于禁どころか当時だったら子供でもわかるんじゃないか。
現代と違って不便で、皆実体験で生きる術を学ぶから。
同僚に雨に負けただけで戦で負けた訳じゃない
とかいう弁護をされてる
長雨でもその雨量が急変したってことが大きいと思う
于禁はその地の風土に慣れてなかったから想定の範囲外であったんじゃないか
関羽が意図的に七軍を平地に釘付けっていうのも関羽の過大評価につながりそうだよな
そこらへんは想像の範疇を出ないよね
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/01(金) 22:47:07
あげ
于禁七軍は、「水没」とあるだけで、ものすごい洪水で水死全滅したという書き方ではない。
小高い場所に陣を置くのがセオリーであるし。
しかし、平地で五、六丈という大きな氾濫によって、諸陣営にまで水が流れ込んできて陣が役に立たなくなり、
移動も出来なくなったところへ大船に乗った関羽の急襲を受けて為すすべなく降服するしかなかったというところか。
胸鎖乳突筋と肩甲挙筋は上肢帯を引き上げることで、胸郭拡大を助けている。
>>256 さすがにそこまでは出来たか未知数だろう
けれども、荒れ狂う洪水の中何事も無かったかのように
水軍を進めて于禁降伏まで持っていった関羽の操船技術の高さは
素直に評価できる
水軍を相当に鍛えてないと戦果に繋がるような結果になったとも思えない
どの程度の洪水でどの程度の船かは知らんが
津波の時に沖合に出た船が沈没とかはあまり効いた事が無い
むしろ沖合で津波に備えた方が安全と言われる
船が危険なのは大嵐みたいな強烈な風を伴った場合じゃないかな
洪水が急激な増水だけなら船の操船技術が高レベルじゃなくても対処できるのでは
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 01:00:57
以下、みんなの意見を総合してみた
関羽が樊城に到着すると、曹仁は篭城していた(ホウ徳は城外別働軍)。
そこに、于禁の率いる七軍到着。
しかし、長雨の末に洪水が起こってしまう。
兵「ダメだお!船が流されるお!」
関羽「終わりだ・・・・・何もかも・・・・・」
兵「船が七軍の方に流れて行くお!」
関羽「玉砕じゃあー!」
七軍「関羽の水軍が来たぞ!」
于禁「何という漢じゃ・・・天の時を見越して、水軍を潜ませていたとは・・・・」
そして、于禁は降伏した。
>>261 しかし、洪水による急激な流れには変わりないだろう。
水軍を熟知していないような将では恐らく対処不能だったと思うぞ。
海ではなく、川で起こった洪水だし。
>>246 予期出来ていたとしてもそこから対処できたかは別
避難しようにも敵が目の前に居るのに戦線離脱して曹仁見殺しにしたら何しに行ったかわからん
結果論だから七軍が全壊するほどの洪水だったのに云々言えるが、
当時にしてみたら戦線維持の戦略と天秤にかけて、その被害を推し量ることが出来たかはわからない
洪水はかなりひどいものだったと思うけどな・・・・
曹操の信頼厚い于禁が降伏するほどだし、降伏しなければ隊が全滅してたんじゃね?
兵糧とかも流されてるっぽいし
ただ呉主伝や呂蒙伝とはいえ
于禁軍をことごとく捕虜にしたという記録があり
当事者の伝にも水没したとはあっても流されたとは書いてないから
大水そのもので流された人や物はあまりなかったけど
身動きが取れなくなったところに関羽に攻められて捕まったのだと思う
しかし山間で起こった洪水だからな
元々、水のない場所で起こったのだから
そこに水が注ぎ込まれれば鉄砲水となって
激流に襲われた事は間違いないだろう
更にゆるゆるとした水の流れならば「身動き」が取れなくなる
事もなく泳いで水の無い場所まで避難もできたのでは。
ホウ徳も小舟にて脱出を図ったが、なんの妨害もされなくても
舟が転覆している。
輪状咽頭筋が咽頭相で弛緩することで、食塊が食道へと送られるわけだけど、
この咽頭相の時に輪状咽頭筋が収縮しちゃうと嚥下が円滑に行えないわけだ。
本来は食塊が逆流しないために輪状咽頭筋が収縮するのが望ましいわけだし。
降伏を許さずに皆殺しにしてればよかったのかな
于禁降伏→関羽兵糧欠乏→呉の兵糧庫襲うだったっけ?
>>267 襄陽の周囲は山間とは言えないよ。もう少し上流。
それに、武器甲冑兵糧逆茂木工具を全部担いで避難しないと戦力にならない。
激流だったらどんな大船でも一箇所に留まることさえ出来ない。手漕ぎなんだから。
交戦なんて不可能。
魏にとっては大きなアクシデント
呉蜀にとっては大きなラッキー
にも関わらず蜀を攻めて魏を助けてしまう呉は大局観皆無
淮南を取らないことには魏に対して主導権を握ることは不可能
すでに呉は漢(実質、魏)に呉王に封じられてるわけだから
それに刃を向ける関羽を討つのは至極当たり前なんだがな・・・・
十分、大義名分としては成り立つ
275 :
274:2010/01/02(土) 21:02:56
呉王に封じられたのはもう少し後だったな・・・・勘違い
>>273 荊州取られたままでは蜀に対して主導権どころの話じゃない
存亡の危険を抱えたまま過ごすことになる
陸口−夏口−柴桑−建業−呉−会稽
蜀が力をつければ呉は荊州を手に入る機会を逸する
関羽は魏が相手してくれてるから荊州はほぼがら空き
荊州を取るのにこれほどのチャンスを生かさないほうが愚かであろう
漢中−剣閣−江油−涪−綿竹−雒−成都
寿春−合肥−東興−濡須−建業−曲阿−呉−会稽
この板、時々何の能もなく地名や漢文の羅列を置いていくだけのレスがあるけど
全部同一人物なのかなあ
江陽−巴−白帝−夷陵−江陵−陸口−夏口−柴桑−建業−呉−会稽
>>278 バトルロイヤルの法則に逆らう方が阿呆だろう
>>282 戦略的諸条件を無視して基本原則だけ取り出しても現実には通用しない
そういうのを理屈倒れという。
この当時、関羽は肝臓が悪かったと伝えられている。
そのためにブドウ糖をグリコーゲンに換えることが出来なかった。
また、タンパク質の合成も障害されていたので筋肉に栄養が伝わらず、
過用性筋力低下を起こしてしまっていた。
胆汁の分泌も障害されていたから消化能力が落ち、便秘気味にもなっていたね。
関羽のう○こはかなりの臭さだったってことからも肝臓がやられていたって説は有力だと思う。
>>282 バトルロイヤルの法則というなら一番弱い奴を間引くのが当たり前なんだが・・・・
・トップから潰す
・漁夫の利を取る
・二正面作戦をしない
というのが戦略的諸条件かつ基本原則だろ
ロイヤルミルクティーという曲を知ってるかい?
名曲なんだぜ?
>>286 自己に対する敵二者の外交姿勢と脅威度は?
国境の係争地域の彼我の地政的重要度は?
時々に変わる軍事的プレゼンスと攻略・防衛難度は?
それが戦略的諸条件というものだよ。
三竦みの法則などとというのは実際の政治上に展開する
戦略条件を排除した公理に過ぎない。
魏:国内を糾合して呉蜀を各個撃破
呉:長江流域を制覇してデスマッチ
蜀:呉と同盟して荊州、益州の二方面から北伐
漁夫の利をとるなら呉は正にやってるわけだが
二正面作戦をしないというけど蜀が呉に対して不遜な態度を取り続けたのはどうなの?
劉備、孫権の交を伐った曹操
糜芳、士仁の心を攻めた呂蒙
樊、襄陽の城を攻めた関羽
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/02(土) 23:16:53
>>290 蜀というか、関羽がか?
関羽自身が傲慢な一面を持っていたらしいが、赤壁以前の中原で言われていた
孫権の名前なんて誰も重く考えておらず、むしろ周瑜の方が重視されてた。
孫権と直接会った様な事も無く、関羽の中での孫権の認識は赤壁以前の名実が
定かで無い小僧で止まっていたかも知れない。
荊州貸与論も道理に沿わない部分はあったし、呉の侵攻も自分が荊州で睨みを
利かせていれば大丈夫だと思っていた気がする・・・・・・・・
>>288 関羽、劉備の年齢は孫権より二十歳近く上で勢いも長くは続かない。
江陵を得ようとも二正面作戦になっては危うきこと累卵の如しだ。
関羽を殺そうが逃がそうが、どの道蜀とは全面衝突せざるを得ないが
逐うべき鹿は中原にあり長江の水辺ではない。
最大勢力の魏に漁夫の利と時間を与える危険度をまったく考慮していない。
大局観がすっぽ抜けた戦略的諸条件とやらに価値はないのでは?
理に逆らい場当たりに利益を追った為に最後はジリ貧に陥った
宜べなるかな
>関羽、劉備の年齢は孫権より二十歳近く上で勢いも長くは続かない。
劉備はちょうど漢中王を名乗り、勢力を世襲する基盤を形成した。
>江陵を得ようとも二正面作戦になっては危うきこと累卵の如しだ。
劉備は漢中を得たことにより益州の防御は少數で済む上に、
襄陽を得れば対魏防御は漢水という一貫した防御線が形成される。
しかも荊州領土に安定した厚みが生まれるため、荊州軍備がさらに増強されることになる。
呉の南部三郡や交州の維持も、純粋に軍事力によっては難度がます。
孫呉は「劉備は襄陽を得ればそのまま北伐するかもしれない」という期待に頼ることになる。
>関羽を殺そうが逃がそうが、どの道蜀とは全面衝突せざるを得ないが
その通り
>逐うべき鹿は中原にあり長江の水辺ではない。
江水という戦略上の要点、直近の危険を度外視してでも中原を追うべきものと
呉蜀両者が認識していたのなら、赤壁直後から夷陵に至るまで
十余年の虚虚実実の駆け引きと実戦をどう解釈するのか。
>最大勢力の魏に漁夫の利と時間を与える危険度をまったく考慮していない。
劉備の襄陽保有によって三者の力関係が二強一弱となる危険度を度外視してでも
魏を「倒すべき共通の敵」と認識し続けるのではあまりに無邪気すぎる。
>大局観がすっぽ抜けた戦略的諸条件とやらに価値はないのでは?
よってこの論評は不当である。
>理に逆らい場当たりに利益を追った為に最後はジリ貧に陥った
蜀漢の荊州保有の意欲を実力で頓挫させ、
数次に渡る魏の攻撃を江水ラインに拠って撃退し続け60年、
蜀漢の滅亡より20年維持した「地の利」を創出した荊州攻撃を
「理に逆らい」と評するのもまた不当。
>劉備はちょうど漢中王を名乗り、勢力を世襲する基盤を形成した。
実力は世襲されないだろ。劉備のカリスマは劉備だけにしかない
劉禅に中原の士大夫が心を寄せるとでも?
>襄陽を得れば対魏防御は漢水という一貫した防御線が形成される。
>しかも荊州領土に安定した厚みが生まれるため、荊州軍備がさらに増強されることになる。
希望的観測が過ぎる。
当時の関羽の戦力は留守に残した戦力を包囲に当てなければならない程度しかない
南陽は一州に値するから兎も角、襄陽一城得た程度でそこまでの飛躍は先ずありえない。
>孫呉は「劉備は襄陽を得ればそのまま北伐するかもしれない」という期待に頼ることになる。
それで何の問題がある?
仮に長江を下ってこようが曹操でさえ負けたのに
それ以下の劉備如きが勝てるわけがない。
>魏を「倒すべき共通の敵」と認識し続けるのではあまりに無邪気すぎる。
襄陽攻略が成功した場合の成果の見積もりが全く違うので賛同出来ない。
>十余年の虚虚実実の駆け引きと実戦をどう解釈するのか。
両者の不信感と憤怒の蓄積による戦略の破綻。
両方ともお互いをどうとでも出来る都合のいい存在として軽んじあったということ。
>よってこの論評は不当である。
>「理に逆らい」と評するのもまた不当。
蜀が荊州を諦めたのは呉の実力だけではなく魏の圧力が回復したからだろ。
呉が60年持ったのは司馬氏の乗っ取りと勢力確立までの猶予期間に過ぎない
単純に地盤と寿命を増やせばいいというものではないのだよ。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 01:59:22
>>296 そうじゃなくて王位の継承を以って勢力の世襲ってのは合法的な継承だし
官位の世襲は漢では認められてない
正当性のある勢力継承が可能になったってことさね
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 02:33:08
襄陽が陥落すれば、漢水を通じた蜀からの補給も格段に上がる気がする。
>>296では否定されてるが、漢水ラインによって荊州軍の大幅な補強も可能では?
秦嶺山脈を越えるよりはずっと楽だろうな。
出城としての価値がある
益州が安定したら漢中と荊州に戦力の大半を張り付かせるだろうし
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 02:45:53
南陽も袁術が相当強引な徴発をかました上に
一度、穀物等の輸送が劉表に止められて餓死者が出たり
曹操の手で宛が城ごとぶっ壊されたり、反乱者が出るまで曹操が強引な動員と徴発繰り返したり
もうボロボロで後漢で一州に値すると言われた状態じゃない
何の能もなく乗っ取られた魏
トップを潰すのに失敗した蜀
雑魚から片付けるのに失敗した呉
身内で仲間割れを起こした晋
【十三部郡国一覧】
司隷:河南尹、河内郡、河東郡、弘農郡、京兆尹、左馮翊、右扶風
予州:潁川郡、汝南郡、梁国、沛国、陳国、魯国
冀州:魏郡、鉅鹿郡、常山国、中山国、安平国、河間国、清河国、趙国、渤海郡
兗州:陳留郡、東郡、東平国、任城国、泰山郡、済北国、山陽郡、済陰郡
徐州:東海郡、琅邪国、彭城国、広陵郡、下邳国
青州:済南国、平原郡、楽安国、北海国、東莱郡、斉国
幽州:涿郡、広陽郡、代郡、上谷郡、漁陽郡、右北平郡、遼西郡、遼東郡、玄菟郡、楽浪郡、遼東属国
并州:上党郡、太原郡、上郡郡、西河郡、五原郡、雲中郡、定襄郡、雁門郡、朔方郡
涼州:隴西郡、漢陽郡、武都郡、金城郡、安定郡、北地郡、武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡、張掖属国、張掖居延属国
益州:漢中郡、巴郡、広漢郡、蜀郡、犍為郡、牂柯郡、越スイ郡、益州郡、永昌郡、広漢属国、蜀郡属国、犍為属国
荊州:南陽郡、南郡、江夏郡、零陵郡、桂陽郡、武陵郡、長沙郡
揚州:九江郡、丹陽郡、廬江郡、会稽郡、呉郡、予章郡
交州:南海郡、蒼梧郡、鬱林郡、合浦郡、交阯郡、九真郡、日南郡
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 20:30:08
>>301 魏が乗っ取られた頃、呉蜀はどうなっていたか。
トップを潰せなかったのは、どの国も同じ。
呉は蜀を滅しようとしたのか?
身内で仲間割れを起こしたのは、どの国も同じ。
>>303 統一する前から土木工事で国内を疲弊させたから乗っ取られた
攻めて領土を失ったのは蜀だけ
つ 歩隲、士燮、雍闓、張裔
同族で戦争をやって共倒れになったのは晋だけ
>>304 なあ、「さしすせその中でう段はすだけ」みたいな言葉遊びを公開して楽しいか?
>>305 ディベートにはルールがある
俺がそれを破ったことは一度もない
隋も内乱で滅んだし一つの事由だけで亡国がおきるわけじゃない
だけって決めてる時点でディペートにもなってないだろうに
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 00:24:05
張裔の評価が気になる。
確かに反駁で新しい議題を出してくる時点でディベートになってないな。
隋が亡国したのは煬帝の民衆への苛斂誅求が原因。
兄弟や大臣の一部が造反しようが民衆の支持があれば屋台骨まで揺るぎはしない
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 00:42:24
>>304 まるで、それだけで国が滅んだ様な言い方だな・・・・・
魏は、歴代皇帝が相次いで早死にした事も要因の一つかと。
司馬懿の反乱は、国力の疲弊を憂いたからか?
むしろ、曹爽による権勢独占を懸念した事が発端な気もする。
曹爽が調子に乗ったのも、相次ぐ皇帝早世で幼帝が擁立されたから。
攻めて領土を失った事とトップを潰すのに失敗した事には、それほど
大きな関連性はあるのか・・・・・・・?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 00:47:48
>>310 夏侯玄の発言を見ている限りでは、「宗室」対「士大夫」という対立軸を加速させたのは司馬懿だと思う。
曹叡の遺言通りになっていればこうはなっていなかっただろう。曹家と血のつながりの無い曹真の子で
ある曹爽に権力を集中させたのも、宗室同士の繋がりを弱めるためだと思う。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 01:31:10
やはり、曹操以降の後継者が早死にしたのは大きかったかなぁ。
性格に問題あったけど、割りと悪政は行ってないんだよね。
劉禅は長生きしたが、むしろそれが・・・・・孫権も・・・・・
暴君の孫権には張昭、顧雍、諸葛瑾、陸遜
昏君の劉禅には諸葛亮、蒋琬、費禕、董允、呂乂、陳祗
がいたので延命したのだろうか
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 06:21:18
がぎぐげごつとつこつ!
暴君は国を滅ぼし、昏君は国を傾ける
>>306 笑ったw
あんたがやってることは、ひらがな「す」の草書体からの成り立ちを「ディベート」している場所に横から入ってきて、
「さしすせその中でう段はすだけ!」
と言ってるのに等しいんだよ。
「『す』にまつわる学問的議題はそれだけじゃなくてだね…」と諭しても
「俺のいうことは間違ってない! だから俺はディベートのルールに違反してない!」
と言い張ってる。
勝手に自分で問題を設定して勝手に答えたら、ペーパーテストでさえ0点なんだよ。ディベートは成立さえしない。
学校で恥かく前にいらんことする癖は直しておこうな。
曹叡の土木事業を陳寿の真似して叩く奴がいるな
多少疲弊はしてもインフラ整備を行った曹叡はいいと思うぞ
魏の滅亡はこの疲弊には結び付かないしな
なぜなら、曹叡の崩じた後も呉蜀からの攻撃を防いでいるしね
ただ曹叡の失敗としては土木事業なんかより劉放と孫資に騙されて崩じたことかな
>>317 陳寿以前に楊阜ほか大臣たちがこぞって諫言してるのは無視?
大体、もともと武・文帝時代に呉を攻めたりしてたんだから、「攻撃を防いだ」ことが失敗じゃない証拠とは言えない
煬帝クラスの大失敗はしなかったのは確かだが、「攻撃を防いだ」ことをもって失敗じゃなかったというのは早計
もしかしたらその疲弊のせいで統一が遅れたかもしれない
それに諫言無視が群臣を呆れさせて魏のために命を懸ける忠臣を減らしたという視点もある
>もしかしたらその疲弊のせいで統一が遅れたかもしれない
もしかしたらでは論としては価値がない。
曹操の武断体質や曹叡の宮殿造営や曹丕の同族冷遇が批判され、諫言した者の記録が
三国魏志・魏書・魏略に大きく残されるのは、
司馬氏がその逆の政策を取って衆望を得たからという当時の政策の潮流があるからなわけだ。
んで、その政策らが西晋を滅亡に導く要因にもなった。
一面的な見方では滅亡の要因を語れないよ。
曹叡は蜀を散々貶した上に「天下はことごとく朕の物であるはず」と宣言してるから、
自分の代で統一するつもりだったような気がするけど、インフラ整備だけでは曹叡本人は不満だったんじゃないかな。
死ぬ前に自分も含めて三祖の廟を壊さない事にしてるし。
>>320 後世ものすごくケチョンケチョンに罵倒されてる三祖廟か
あれはなんで自重できなかったのか不思議でたまらない
>曹叡は蜀を散々貶した上に「天下はことごとく朕の物であるはず」と宣言してるから、
天子を称する以上、当たり前過ぎる声明。実際の戦略意図の検証とは別。
実際のところ曹叡にはそこまで考える時間は与えられなかったというのが実情だろうね
>>322 それもそうですね。
実際文面は「赦してやるから投降して来い」ってのが本題みたいだし。
でも自分を含めて三祖って事は、それなりの仕事をする積もりがあったんじゃないかと思って。
>>319 >政策らが西晋を滅亡に導く要因にもなった。
が事実だとしても、曹氏の政策が妥当だったかどうかももしかしたらでしか語れないじゃん
続いていない以上は
>>324 その通り。
だからこそ、宮殿造営などの政策がどのような意図でどのような時期にどのような規模で行われ、
どのような影響を与えたのかを、これを問題にする側が論証せねばならない。
魏が続かなかったのは幼帝が即位しちゃったからだろ
どの王朝も幼帝が即位したときは大抵乱れる
土木建築のために魏が続かなかったわけではない
>>316 センスのない人間が比喩を使うと煩雑になるだけだな。
こっちが「各国の戦略失敗の概観」を簡潔に述べたのが
「サ行でウ段はスだけ」ということに該当するのだろうが、
「スの草書体の成り立ち」とは何を指す。
横から割り込んだとか言うのも意味不明な非難。
レスをするのに貴方の許可がいるのか?
そっちがどの国も同じ、とかいうくだらない相対化で絡んできただけである。
「土木工事と諫言無視で人心が離れた」より「幼帝の即位」の方が主要因というのならまだ話にはなるが
「魏が国内を疲弊させて乗っ取られて滅びた」と主張しているのに
「呉蜀がどうなっていたのか?」なんて的外れな混ぜっ返しをしてるのは話し合いが出来ているとは思えない。
こちらも貴方の主張とその手段に零点を付けさせてもらおう。
もちろん貴方の俺への評価は一切合財認めない。ただ上から目線がしたいだけじゃん
>俺がそれを破ったことは一度もない
>もちろん貴方の俺への評価は一切合財認めない。ただ上から目線がしたいだけじゃん
ただ上から目線がしたいだけじゃん
挙って反論受けてるのに相手が一人だと思ってるし
>>301は、三竦み戦略の話をしていたところに横から入り込んで、
「俺的四国の戦略失敗の外観」とやらいう俺議題を勝手に主張して要約してみせたんだろ。
それを横入りでないというのなら、聞かれてもいないスレチ話題を勝手にぶち上げて、
既にそれで自己完結しているから反論受けても修正するつもりはない、という態度を取っていることになる。
応対すべきではない手合いだったか。
>>329 はあ?前の話題から一晩経ってるだろ。
続けたいならスルーすればいいだけ。難癖つける輩は荒らしと変わらん。
>反論受けても修正するつもりはない、という態度を取っていることになる。
>>303が反論になってたのか?
おれにはそうは思えないがな。
了解した。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/05(火) 00:38:17
了解。
では話を戻すか。
関羽の北上を傍観して漢水での防衛線が形成された場合の
蜀呉のメリットと魏呉のデメリットが議題で
>>332 一応、呉が関羽を攻めたのは大局観にそぐわない、とする派の主張は、傍観するのではなく、
北上に呼応して淮南を確保して「三竦みのトップ」の魏に対して主導権を握るべきだった。
というものだね。
>>332 樊
漢水ライン----------------┬----------------
襄陽 │夏口 呉へ→
│
│
江陵 │
長江ライン----------------┘
公安
ものすっごく簡略化するとこういう図になるけど漢水ラインが蜀に構築されるともう荊州ルートじゃ北上できない
その上、長江上流が完全に蜀に抑えられてるので万が一蜀と事を構えるとなると防衛ラインの構築すら難しいし
呉のデメリット:
同盟決裂後、仮想的である蜀を相手にする時防衛線として長江を利用できない
侵攻ルートが東部のみに限られてしまい実質的に北部への領土的展望が見えない
とりあえず呉のデメリットだけ並べてみた
メリットはあるのか?これ
魏の防衛体制は下でいいかな?
洛陽の大司馬、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、鎮軍大将軍、撫軍大将軍。司州
寿春−合肥の征東将軍。揚州、徐州、青州、兗州
許−宛−新野−襄樊の征南将軍。荊州、予州
長安−祁山の征西将軍。涼州、雍州
鄴−薊の征北将軍。幽州、冀州、并州
>>334 呉は、関羽に呼応して北上すれば夏侯惇の不在を突いて淮水まで戦線を引き上げることが出来た、
というのがメリットの主張だと思う。
ただそれでも、まだ随一の国力を維持し最大生産地の冀州を後背に抱える魏を相手に
青徐の平原部でまともにド突き合うのは実際に言われている通り無茶な話なので、蜀漢との連携は必須になる。
そんな長距離間の連携が難しいのは史実の示す通り。各個撃破の危険もある。
史実と違い、大規模長距離侵攻になるのだから敗戦の痛手も大きなものになる。
加えて、益荊州から効率的に切り取れる蜀に対して、どうしても不利になるし、一連の戦略を取る間、
呉はどうしても蜀の下手に出るしかない。しかも上手くいくほど将来不利になっていく。
蜀漢の「気が変わって」荊州の後背地確保に動かれる危険にも備えなくてはならない。
夷陵と違い、関羽が漢水江水間の三角形地帯を押さえているのだから、
益州本隊は江水の南岸だけを進み、側面から効果的なサポートを得られる。
迎撃する呉はかなり不利。
そんな従属関係を見越して蜀と「同盟」を維持する義理は孫権にはないだろう。
>>335 それが形成されるのは曹叡時代
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/05(火) 06:48:17
宛
新野 安城
西城 樊
漢水――――――――――――┐
上庸 襄陽│ 信陽
│
房陵 当陽│
└―――――┐
巫 秭帰 夷陵 江陵 烏林 │上昶
長江――――――――――――┬―――――┴――――――――――――┬――→
夷道 公安│ 陸口 夏口 樊口 柴桑 │
│ │
武陵 ┌―洞庭湖 鄱陽湖
沅水―――――――――┘ │長沙 │
湘水――――――――――――┘ │
零陵 桂陽 贛水
>>334,
>>336 夏侯惇は孫権に対抗するために居巣に居たのだから
孫権が荊州攻略を決断して曹操に臣従する前には動かないのでは
だから呉のメリットは関羽の成功に伴う魏の弱体化と
それに乗じた領土拡張がせいぜいということになり
蜀との力関係が不利になることを考えれば
メリットはないといっていいぐらいでは
荊州侵攻
有利な要素
ヤバくてウザい関羽を殺せる
孟達、関羽、援軍が北上してがら空き
捕虜三万で兵站逼迫。湘関の件で大義名分
糜芳、士仁が関羽と不和
劉備は曹操を警戒して動けない
リスク
二正面作戦の可能性の深刻化
徐州侵攻
有利な要素
曹操の不人気
魏の被害の深刻化
リスク
魏に有利な地形
曹操本人が来たら苦戦
勝っても水軍が使えないから維持が不安定
周瑜は確実に賛成するだろうが
孫策、魯粛ならどうしただろう
魯粛も似たようなもんだろ
拠点を奪ったあと関羽を殺すかどうかの匙加減は変わるだろうが
二度も光武帝のような奇跡を起こされてはたまらない
漢中王即位の勢いに水を掛ける意味でもあの時点で潰すべきは劉備、関羽
関羽がボコボコにしたおかげで魏もすぐには攻撃出来ないしな
このスレタイの空気読んでいればとあるがそれは蜀にとっての空気なんだよな
呉にしてみれば荊州を取ることこそが長年の悲願なわけだし呉陣営もそんな空気
蜀とは同盟といってももう形骸化してるし冷え切ってる状態
劉備が荊州牧にならずに空気読んでれば天下二分なんてすぐだったのに
後で放棄されてる襄陽を落としても漢水の防衛線が機能するか分からないような。
隆中対とは違うけど漢中を魏延に預けて
劉備が江陵に布陣して関羽、張飛に長江下らせた方が効率的だったんじゃね
曹操も呂蒙も死ぬ寸前だし
成都には劉備がいないとだめだろう
蜀の地はまだまだ安定してないだろうし
反乱ラッシュの魏
不穏な蜀
山越がいる呉
蜀が一番マシじゃね。
戦争に勝つのが一番求心力が手っ取り早く高まるし。
反乱が起きた時に引き返すまでの間、
押さえてくれる留守番役がいるかいないかがポイントだと思う。
あとは出たとこ勝負だろ。寿命も残り少ないし
金は昔から蜀が一番ある。理由は南西シルクロードと蜀錦
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/05(火) 12:13:06
エドはるみでシコシコ
呉からすれば、さっさと荊州返せ。勝手に涼州取れが本音だろうな
関羽と劉備が鬱陶しくて手が出せなかっただけ。オマケで張飛
蜀は戦争に負けまくってますがな
山越がいる呉とはいうけどそれを討伐してる
リップサービスと一緒に孫登に女をくれてやれば
自分への不信感もやわらいだろうにな
関羽は色々と知恵を使ってる形跡は窺えるのだが
性格が悪すぎて馬鹿より性質が悪い印象
>>351 いや負けまくる以前の話。
山越にしても、いなければ黄祖、劉表は赤壁以前に独力で抜けたんじゃないかな
涼州とる前に荊州とってしまえが本音だろ
蜀が大きくなったら困るも本音
魏が大きくなったら困るし、蜀が大きくなるのも困る。
だから呉だけ大きくなればいい、と
蜀は夷陵で負け劉備が死んでも空中分解しなかったのが凄いね
順当にいけば天下二分だろうに
涼州取ったらおまえらと全面戦争。だからそれまで待っててね♪が劉備の本音
あの詐欺師が素直に渡すわけないじゃん
あの時代では冀州、益州、荊州が一番美味しい土地だからな
呉は実行犯だから
だいたい劉備が詐欺師っていうのは最近だし
言ってるのは呉オタだし
○○取ったら荊州返すって言ってずっと返さないのが劉備w
空気を読ませる努力は誰がするべきなんだろうか
劉備?関羽?孔明?
与えてから取った劉邦
物惜しみして取られた劉備
やっぱりな、人のもの黙って取ったらだめだ。
許可得てからでないと。
黙ってとってるから、攻めとられても仕方ない。
つーか孫権に蜀取りを持ちかけられた時は渋って、後になってまんまと抜け駆けした経緯もあるから
心許せない相手であった事に間違いはない
魏……アメリカ(軍事大国)
蜀……日本(資源は無いけど金はあるよ)
呉……?
今の日米は同盟結んでいるぞ
魏・・・アメリカ
蜀・・・中国
呉・・・朝鮮
そういや3日の西日本新聞で曹操が北朝鮮、劉備が中国、諸葛亮がインドに例えられてたな
そしてやはりハブにされる孫権
その例え方がよくわからんなw
「中国とインドの蜜月振りは水魚の交わり、その中国(劉備)が手を焼く北朝鮮は奸雄曹操みたい」
って感じの例えだった
まあ世相を三国志に例えるとか言いながら白髪三千丈とか孔子曰くも出てくる無理やり企画だ
いかにも三国志のみが異常流行している日本ならではの珍奇な例えだな
中国とインドの場合は水面下ではつばぜり合いしてるけどな
蜜月なんてとんでもないw
つーかファンの多い曹操を北朝鮮だなんて言ったら
小沢の時みたいにまた曹操オタがキレるぞ
正確にはCOP15での一心同体の共同歩調が水魚の交わりだな>中国とインド
まあ無理やりな例えなのは変わらんが
魏・・・中国
蜀・・・朝鮮
呉・・・日本
競争相手みたいなもんだからな、中国とインド
企業も中国からインドに生産拠点移してるしな
競争相手なんて言ったらチベット人が切れるぞ。
>>345 襄陽が放棄されるほどにダメになった理由は
策源地に当たる後背の南陽が宛で侯音が反乱起こしたり
南陽よりも北側の陸渾なんかの司隷南部が反乱地帯になり
さらに対岸の樊がボロボロで、南からの北上に備える防衛機構としての襄陽の機能が失われたからであって
襄陽そのものとして見れば、漢水ライン、長江ラインの内側の抑えとして十分機能するだろう
後で放棄される襄陽って何時の事?
>>382 曹操が死んでからのこと
晋書宣帝紀や魏書曹仁伝などの内容を総合すると襄陽は一度放棄されて呉が占拠してたらしい
>>384 それなら食料がないから撤退したと理由がはっきり書かれてるから、違う話かと思った。
會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀
>>388 洪水で流されたとするなら関羽戦で曹仁たちがもう少し兵糧の無さに対して焦る場面が出てくるはずだが
そういうことはないんだよね
その後、包囲から脱してから補給受けられないってのも不自然な話
>>390 そういや出てたな
あれ、んじゃあ何で曹操は援軍送っといて補給しねぇんだ?
よく考えたらそっちのが不自然な気が
>>391 そのあとすぐに曹操が死んでゴタゴタしすぎたからが正しいと思う。
対陣中に曹操が死んだら永嘉の乱みたいなことになったかな?
>>392 すぐに、でもないけどな
関羽を徐晃が樊で破って撤退に追い込んでから関羽敗死までは3ヶ月から4ヶ月くらいある
それまで何してんだ?
>>381 対岸の樊がボロボロなのに
すぐ隣の襄陽が補給さえあれば使用可能というのは変じゃね?
さらに曹操死亡までは1ヶ月近い間があるってのを書き忘れた
>>395 直接の戦場になった樊に対して襄陽は包囲を受けてただけで
あまり目立った戦闘がなかったと記憶してるんだが
逆言うと使うから直接叩かなかったとも考えられる
曹操、孫権が同盟
呂蒙が侵攻。関羽と呉の漁夫の利を狙う魏が機密漏洩
江陵、公安は守備堅いから大丈夫だろうと関羽が包囲続行
四チョウで徐晃に負ける
樊が解放され、呉が攻めて来たようなので撤退
当陽に来て江陵、公安が落ちてることを知る。動揺
人質を取られて部隊崩壊
麦城で包囲される
偽装降伏で逃走
臨ショであぼーん
>>396 219年の直後は魏呉の間であっけなく捨てたり取ったり取られたりで
要塞として機能してる印象がなかった。
蜀の首脳陣は魏呉以上に漢中王の宣伝戦の影響で
脳みそがトリップしてしまっていたので
周縁部は攻めれば落ちるくらいに思い込んでたとか
>>394 別に死ぬときは電池が切れるようにはポックリ逝けるわけでも無かろうよ。
>>401 まあそんでも長安〜洛陽〜摩陂〜洛陽ってのを数万から十万くらいの大軍団引き連れて半年程度で走破してるし
死ぬ直前に病で苦しんだとも書いてないので、そんなに衰えてるわけではなさげ
あと俺ソースで申し訳ないんだがうちの亡くなった爺様は90歳で大往生する前日まで元気に趣味の釣りだなんだと走り回ってて
ある日、縁側で座ったまま転寝してんのかと思ったら、そのままポックリ、死因は老衰という事もあったので
電池が切れるようにいきなり死ぬというのがありえないとは思ってない
>>403 頭痛持ちなのは知ってるが、死ぬ直前に特別に何かあったとは記憶してない
何かあったっけ?
>>402 基礎体力が化け物だけど若い頃と比べると
赤壁以降は衰えが見えるように感じる
無理な勝ち方が出来たのは当陽までじゃないか
>>404 65歳で死んでるのに老衰はないだろう。
当時の平均寿命考えると長生き
世?曰:太祖自?中至洛?,起建始殿,伐濯?祠而?血出。
曹??曰:王使工?越徙美梨,掘之,根?尽出血。越白状,
王躬自?而?之,以?不祥,?遂寝疾。
>>407 平均寿命って乳児死亡率と戦死率を入れてのものだろ?
>>406 66歳と言ったって食糧事情考えると栄養学が未熟な時代、かつ常在戦場の人だから
現代人に比較すると体内年齢は10歳から20歳違うんじゃないかな?
あと脳溢血、脳梗塞などだと簡単にポックリ逝くし、記述には死亡直前病に苦しんだというものは見られない
徐々に衰えて死んだ、病が原因だった、と言うのは根拠あるの?
華陀が殿には脳腫瘍があるとかいうのは小説の話だっけ
>>408 その記述を採用したとしても、洛陽に帰ったのは正月
魏の対関羽戦における戦闘は10月には終わっててそこから3ヶ月
城の整備もせずに何してんのって感じだな
この原因を曹操に求めるのか、周辺状況に求めるのか、で意見が割れてるわけだ
>>412 病のため洛陽に帰るのが3ヶ月かかったとも取れるな。
>>413 病のため、ってのはどこにあるんだ?
単純に対関羽の戦後処理のように見えるんだが
>>414 対関羽の戦後処理、ってのはどこにあるんだ?
>>415 摩陂から洛陽以外の移動の痕跡が残ってない
徐晃が関羽を破ってから荊州北部で関羽軍団の残党を討たせて襄陽を解放してる
残党狩りって戦後処理だよね?
>>416 じゃあ対関羽戦における戦闘は10月には終わったというのは間違いなんだね?
>>417 関羽戦は徐晃との戦闘で終わりでしょ
ただ関羽の残した襄陽包囲軍はまだ残ってる
それは関羽じゃなくて残党
>>419 お前さんは水掛け論したいようだけど俺はいやなんで本題に戻すけど
どっちにしても関羽が南に逃走して戦後処理の真っ最中に曹操がなんで重要な補給しないのかという話だ
南陽も反乱などで荒れ、その北側でも反乱が起こり、輸送が上手くいかなかったのでは、というのが俺の主張
曹操が死んでゴタゴタしたってのが上で他の人がした主張
でも曹操死ぬまで間があるし、おかしいよね、それ
>>420 10月に戦争が終わったと言ったり、残党狩りで戦争は続いてるとか
主張がブレまくってるな。
>>421 いや対関羽戦は10月で終わっただろ
その後は関羽戦じゃなくて戦後処理じゃないか
お前が勝手にブレたことにしてるだけで俺はブレてないよ?
418 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/06(水) 02:02:10
>>417 関羽戦は徐晃との戦闘で終わりでしょ
ただ関羽の残した襄陽包囲軍はまだ残ってる
それは関羽じゃなくて残党
普通は賊がいるようなとこに輸送するなら大掛かりな軍がいるな。
>>423 だから最初からそういってるだろ
戦争が終わったとは一言も言ってないだろ
戦闘は対関羽戦の戦闘は10月で終わり、とは何度も書いたが
お前戦争と戦闘の区別も付かないのか?
418の主張なら残党狩りが3ヶ月かかっただけだな。
>>425 で、その残党狩りの間に何で補給しないのか、ってことだ
曹仁が糧秣に困って、曹操の援軍がやって来て襄陽解放するなら樊にそれなりに補給すべきじゃないか?
>>424 普通は「対関羽戦」と書いて将のみを指さない。
言葉遊びをしたいの?
>>427 いや、指すこともあるだろ
言葉遊びはお前がしてるんじゃないか
だから俺は自分の認識を述べてる
魏の対関羽戦は徐晃が撤退に追い込んだところで終わりとな
>>426 民に分けたら篭城分なんか残らなかっただけかも知れん。
>>428 ない。
対関羽戦と対関羽軍戦を分けてるだけで言葉遊び。
>>429 それだったら食い物ばら撒いただの何だのと徳を表すエピソードとして残りそうなもんだが
出費がかさんで兵站が滞ったとか?
魏は兵数多いけど資金は潤沢じゃないし給与払えないから強制屯田兵だったりするし
>>430 対〜戦って言葉をお前がそう思ってるだけで
普通は意味が複数ある言葉だよ?
何で自分の定義が全て正しいとか思ってんのかわからんなぁ
>>433 とりあえず対関羽軍戦は10月に終わってないんだろ?
言葉遊び連呼してるやつは感じ悪いのう。
関羽本人が帰っても周辺の鎮撫が終わったわけじゃないだろうに
>>434 司令官が撤退した軍を関羽軍と呼称するに難があるんだが
じゃあ蜀の連中が名乗ってた漢軍でいいか
定義論争はもういいから、「曹操が何故重要な襄樊に兵糧をちゃんと置かなかったか」を考えようか
曹操の死でゴタゴタしたから、は半年近いラグがある
曹操が曹操は病で苦しんでたので出来なかった、は正直根拠が全く見えない
曹操本人にその原因があるとする理由はなんだろう?
>>436 司令官が撤退した軍、残党を司令官が関羽だったら関羽軍と呼びますが。
個人の感想は関係なく。
>>438 自分で戦争が続いてたからって答えてるじゃん。
>>440 いや上でそう言ったら曹操が死んだからとか病だったとか出てたんで反論してるんだ
381 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2010/01/05(火) 23:27:09
>>345 襄陽が放棄されるほどにダメになった理由は
策源地に当たる後背の南陽が宛で侯音が反乱起こしたり
南陽よりも北側の陸渾なんかの司隷南部が反乱地帯になり
さらに対岸の樊がボロボロで、南からの北上に備える防衛機構としての襄陽の機能が失われたからであって
襄陽そのものとして見れば、漢水ライン、長江ラインの内側の抑えとして十分機能するだろう
これか?
戦争が続いたなんて書いてないけど?
>>442 もう面倒くせぇなぁ
そうそう
戦争じゃないけど、まあゴタゴタ続きで兵站線が上手くつながってなかったんじゃねーのってようなことだ
>>443 自論を出すのはいいけど当人の伝、曹操、曹仁ぐらいまともに読んでからに
したほうがいいよ。
>>444 いや読んでるよ?
一旦兵糧がなくなった後に半年近い補給のタイミングはあったのに何でしてないのか
ここを重要だと言う割りには処置がお粗末になってるのは何でかって話なわけで
>>443 >>432にも書いてあるがどこに余分な糧秣があって、輸送にどのくらい時間が
掛かるか位だして貰わないと、兵站線なんて意味無い。
>>445 合肥も重要な地点だけど七千人程しかいなかったし。
>>446 曹仁が兵糧に困ったと言う話はあったが曹操が兵糧に困ったとは書いてないな
それと徐晃やその増援に来た連中も兵糧に困ったという事は書かれてないので
十分な量があったと思ってる
>>445 だからそれが出来るのは洛陽に帰ってからだろ。
>>447 だが兵糧に困ったわけではないだろ?
この時期よりちょっと前には夏侯惇が二十六軍を率いて駐屯してたし
ちゃんと整備されてると見えるがな
つーか落ち着けよ
どういう意味で残党を呼ぶのか理解を共有することが重要なのであって
その呼び方に普遍性があるかどうかは争うようなことじゃないだろ
>>449 何故?
戦場から輸送の命令を飛ばせばいいことじゃないか
何故洛陽に帰ってからでないと輸送ができないんだ?
>>448 籠城分はないけど軍が維持できるほど補給はされていますが。
>>453 その後に襄樊を放棄せざるを得ないほどに追い込まれたのは何でだろうね
重要拠点なのに
>>452 まさか、籠城用の兵糧が軍隊が食べれる分だけあればいいとか思ってる?
屯田兵をなんだと思ってるんだ。
>>455 輸送路が確保できてるならば、放棄せざるを得ないような程困窮することもないよなって事だよ
>>457 新説を出すのはいいけど、もう少し魏の台所事情を勉強したほうがいい。
>>458 じゃあ襄樊に兵糧不足を起こす程困窮してたか具体的に示してもらおうじゃないか
魏は当時それ程裕福じゃありませんでした、くらいの話は知ってるが
具体的に補給が行えないほど困窮してたという論拠をさ
>>460 どこに補給が行えないほど困窮してたなんて書いてある?
>>459 輸送路がちゃんと確保されてるなら、曹操生前にしっかりと整備されてるならば
曹操が死んだ喪中に攻めて来て奪ったと言うような状況にはならんでしょうに
>>461 そんなことはどこにも書いてないのに
>>458が「魏は台所事情が苦しかった」と書いてるので
その根拠はなんだ、と聞いてるんだが
苦しくて襄樊を手放す程困窮してたってことだよね?
>>458の言い分は
>>462 籠城用の兵糧がどんだけあれば問題無いんだい?
>>464 量数的に判断するには三国志は情報量が少なすぎるでしょ
少なくとも当時は兵糧不足で手放したのだから、篭城するには不足な程度しかなかったと言うことになる
>>463 あんだけ連続で遠征してすぐさま籠城分の補給が出来るほど魏は食料が豊富だと言いたいのか。
>>465 ならば輸送路がちゃんと確保されていれば問題ないっていうのも間違い。
>>466 どこまで豊かか貧乏かは数字で見えないから判らんっての
具体的に困窮して遅れなかったと言うのはどこで判るんだ?
少なくとも輸送路に近いところが反乱とかで荒れてたのは事実だから
俺はそれを以って輸送できなったのでは?と述べている
>>467 魏の中で軍事行動して具体的な兵糧不足が見えるのは曹仁のところ以外にあったか?
>>468 輸送できなかったら食料が乏しい曹仁軍は孫権の北上前に瓦解する。
少なからず、籠城分は無いが補給はされている。
>>470 曹操の率いる軍勢、徐晃の軍勢は直接荊州行ってるから曹仁が軍を維持する分の融通は可能だろう?
兵糧ってのはゲームと違って味方軍内部で融通できるものだ
(豪族連合みたいな軍だと難しそうだが曹操が豪族の兵を借りてるというわけではないだろうからこれには当てはまらんだろう)
ってか、ちゃんと輸送できるならその時に篭城が可能な分くらい曹仁に渡せって話になるんだが
そうすれば曹操は北上しつつ補給を受け、洛陽に向かい、曹仁は安心して駐屯できるし放棄する必要もない
反乱等で兵站線つながって無い状況でもない限りはしっかりとそういう手当が出来ると思うんだが
>>471 だから、ほぼ零から篭城が可能な分って城単位で云えばかなりの量になるって言ってるんだが。
この時代の前線基地は現地調達。基本的に輸送しない。
「樊、襄陽無穀」が、篭城するのに足りない、ということなら、
永続基地として自己完結するに足りないほど襄樊付近の生産力が破壊されていた、ということだろう。
>>473 輸送しないとする根拠は?
この時期の荊州の話ではないけど、結構あちこちに運河作ったりして輸送用の整備はしてるぞ
>>474 473ではないけどコストの問題だろうな。
運河とかならまだ大量に運べるが、陸路を輸送となるとコストとリスクがでかくなる。
軍数ヶ月分ならともかく年単位の食料をひと月や2月で輸送する技術はないだろ
船や運河はもちろん道路や荷馬車が整備されないと
この時代の荷馬車って重量物運べない
>>475>>476 南陽〜襄陽までの間は南陽からイク水他〜漢水と繋がってる
この辺は細かく川が繋がってるので中原、洛陽から南陽まで持ち込めば一気に動かせる
輸送のための環境は揃ってると思うんだ
丁度曹操が死ぬ直前直後の反乱地帯がそれらの水系と中原の間に立ちはだかってる事考えると
(丁度上で例示したイク水は侯音の反乱が起こった宛に瓜里津があった)
曹操は輸送したくても出来ず、それが故に曹操死後の孫権の侵攻に対して
曹仁が篭城するための準備も何もできてなかった
と考える方が妥当だと思うのであるが
>>477 しかし永続駐留のための永続輸送というのはやらない。
前線に兵糧を確保するには、徙民によって兵站能力を確保するという手法が
当時専ら取られている。
たかが城兵2万だか3万の兵糧一年分輸送できないなんて、輸送経路が使えなかったと見るべき。
>>478 根拠は?
永続駐留でないにしても即時必要な防衛線の構築のための輸送ならやるだろう?
襄樊はそうやって打ち捨てていい城なの?
まあ結果だけ見れば曹仁が超頑張って取り返し、大将軍に昇進する手柄になったから問題なかった、となるが
満寵が関羽の時は落ちたら二度と戻らないとまで言ってた程に重要視してたじゃない
そもそも当時は前線兵に兵糧を輸送することが行われていなかったのだから、
供給のための兵糧余剰とシステム自体が許昌に存在しなかったという方が正しいだろう。
当時の前線は兵糧を民屯によって補っていたわけだから、219年の篭城で備蓄を使いきり、
その年の収穫が壊滅したところで「孫權帥兵西過」にあった。
そのために曹丕は、(中軍が応援に到着するまで)襄樊が守り切れないと危惧し、
二城を放棄する決断を下した。
>落ちたら二度と戻らないとまで言ってた程に重要視してたじゃない
んなもん説得の為のご都合主義に決まってら
論客ってのは自分の意見を通す為には理非すら捻じ曲げるような連中だしな
呂蒙の徐州進撃論の不利も似たようなもんだ
攻める時に攻めれば崩すのは容易い
それを無視して機会を逸した呉に大局観など欠片もないと言えよう
水軍への依存が呉から天下統一の機会を永遠に奪った
>>481 >そもそも当時は前線兵に兵糧を輸送することが行われていなかったのだから、
これの根拠何?
孫子でも「輸送はコストかかるから敵のを分捕って食った方がいいよね」って言ってるが
運ぶな、運ばない、とは言ってない
諸葛亮も李厳に輸送を任せて北伐してた、ってあるよね
それで輸送が滞ったので食料が足りなくなり、撤退というのもほぼ同時代
前線に食料輸送はしてるだろ
輸送コストが大きいから敵のを食う事が効率的で、且つ手柄になるのも事実だが
前線に輸送はしない、なんてどんなところからそれが判るのか俺には判らない
>>482 そこまで言って(撤退を押し留め)た程に重要視してるだろ?
>>480 根拠。
ケ艾の建議は、
淮水南北において数万の大軍の中流を確保するために水路を東へ流し、
運河を開拓して人を移して開墾し、現地にて穀物を蓄えることを主眼としている。
水運の便は副次の利だった。
のちに毋丘倹の乱の際、大軍がその時開かれた水路を利用したというように、
中央から地方へ大軍が派遣される場合に水路が大いに役に立つことは示されるが、
地方への永続補給のために輸送路が開かれるわけではない。
司馬懿・孚の上ケイ徙民の建議も同様で、蜀の来寇に応じて毎回洛陽から
大軍を派遣せざるを得ないという難を緩和するために、上ケイへ冀州から農丁が徙民された。
彼らは「秋冬習戰陣,春夏修田桑」という、兵力と兵站を同時に担う存在だった。
これらのことから、当時の地方軍備の規模は、当地自身の兵站能力に依存しており、
敵手に対して兵力が不足していたとしても、中央からの逐一の兵糧輸送で補うことは忌避されたとわかる。
兵站の難を補うためには、むしろ大規模な開墾や徙民計画が行われた。
>>484 別に軽視したから曹丕は撤退したわけじゃない。
>>483 中軍の大軍が前線に赴いたり敵地遠征する場合には当然輸送部隊が随行して兵糧輸送する。
今話しているのは地方軍の永続駐留の話。
孫武のすごい所は、味方の大軍が敵国深部へ侵攻した場合の兵糧輸送の難を指摘して
「努めて敵に食め」と言ってること。やはり今回の話とはまったく違う次元のこと。
この時代では姜維がよく実践した。諸葛亮も上ケイで麦を刈り取ったりしている。
そのような事例が「努めて敵に食め」。
維持が負担になったから放棄しただけかな?
蜀が夷陵でトんでからは対蜀に割くべき戦力も対呉に当てたようだし
>>485 運河によって物流を良くしつつ、輸送コスト考えると現地生産の方がいいので現地生産して呉に備えよう、蜀に備えよう
と言う発案であって、今話してる一時的な曹仁への補給をしない理由にゃならんでしょ
それ、襄樊のケースの参考にならないよ
君の提示した前線への輸送はしない、という話は諸葛亮と李厳という実例によって崩れてるのにまだこだわるの?
とりあえず枝葉末節で「永続的に」だの余計なこと言ってないで
曹仁のケースを考えろよ、それがテーマなんだから
は兵糧の無い前線があって輸送路があるのに何故輸送しないか、できないかだろ
他の軍が飢えてない状況で曹仁だけ飢えてるのだから送る兵糧がないというわけではないよね
兵糧持った軍が荊州入りもしてるのだし
>>488 それならなおさら荊州の対呉窓口である城捨てるのは対呉重視してるのにおかしくないか?
>>488 それが正解に近いだろうね。
曹操が死んで主力である青州兵が去って魏もボロボロだったみたいだし。
しかし、そこから持ち直した曹丕は凄いが、この時期に呉に敵対してた劉備は空気が読めてない。
>>489 蜀がそうだから魏もあって当然とする根拠は?
>>489 四次北伐のような農民への計画的大動員が掛けられた作戦の兵站と、
襄樊・合肥・上ケイのような常駐基地の兵站が異なることを示したのに
なぜ同一視に拘るのか。
兵糧というのはゲームと違って輸送に大変な手間がかかるものだ。
許昌から輸送する利益があり、輸送兵を動員して襄樊へ運ぶ時間があったのなら、勿論運んだだろう。
しかし、曹操本軍から離れた許昌自身に「兵糧余剰とシステム自体が存在しなかった」だろうし、
ましてや、その曹操本軍が数万の大軍で漢中まで行って帰って来たところだ。
先行派遣された徐晃軍さえ現地で編成される窮状で、そこからさらに兵糧と輸送兵を抽出するような
荒技が容易に可能だったとは思い難い。
孫権が西へ向かったというのが220年の八月とか九月とかなら時間的に改善はされただろうけどね。
でもそれなら「輸送路問題論」も改善されるから同じく成立しない論になってしまうけど。
兵糧余剰があったとするならば許昌でなく漢中戦の策源地である長安だろうね。
>>494 長安は李カクの乱で荒廃したうえに鍾ヨウによって民衆が洛陽に戻されているから、大軍の策源地としては不足だろう。
備蓄が行われていたとしても曹操が往復したあとだし。
夏侯淵が駐屯していた規模の軍を維持する(多くて二、三万くらいか)力しか残ってないんでないかな。
張コウと楊秋が対蜀警戒に残っているし、長安から襄陽までは遠すぎる…
と思ったが直線距離では襄陽-許昌間も同じくらい遠いんだな
なんでだろうな。
諸葛亮と李厳を例に出すならば兵糧輸送は大掛かりで決して戦後処理の
片手間でできるもんじゃないって分かりそうなものなのに。
>>490 >しかし、そこから持ち直した曹丕は凄いが、
文帝紀を読めば具体的に何したか分かるのかな?
あの異常に長い上奏の山が読む前からうんざりするが
劉備の釣り出しのせいで簡単に動けない所に
ウ禁の予備戦力が吹っ飛ぶというのは相当なショックだろうね
関節リウマチでは、母指のダックネック変形を生じる。
また、内側アーチが消失し、外反母趾となる。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 01:34:47
500
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 02:39:47
曹丕が襄樊放棄を決断した背景には、関羽>呉という点もあったのかな・・・・・
北上時の勢いから言っても、確実に関羽の方が厄介だっただろうけど。
こういう対応を見ると、呉蜀の対立が如何に魏を救ったかが窺える気がする。
しかし、関羽の早計さは異常だったな。
対劉備:曹操、曹仁
対関羽:楽進、徐晃、文聘
対魏延:
対諸葛亮:張郃、郝昭
対王平:
対姜維:郭淮、陳泰、ケ艾
>>501 むしろ逆。
曹丕はやばいと思って本土決戦をやろうとしてた。
>>502 アドバンテージで考えると
蜀将は質ならば魏呉の将に勝ってるとも思えるよな。
結果として負けてしまうのは、やはり蜀は人材不足過ぎたからかな。
>>502 対姜維が最も強力な布陣に思えるのは木の精?
507 :
ノリカワ 福助 ご飯リレー:2010/01/07(木) 19:49:22
孔明は荊州から一人の大将を残して洛陽を攻めるようにして、そして益州の兵で同時に攻め込めば、洛陽を奪えるといってたから、
関羽を荊州の守備に置かせた事は正しかったのです。またはん城攻防戦ではホウ徳を斬り、ウ禁を降伏させてるのだから、孔明の期待通りの活躍をしているのです。
それよりも誤算だったのは、魏と呉に攻められたときに、上庸から劉封と孟達が援軍を出さなかった事です。そして関羽達は逃げ場を失い、呉に捕まってしまったのです。
もし上庸から援軍が出ていれば、関羽も助かっていたと思います。だから関羽を荊州の守備に置いたのは間違いではなく、
合っていたのです。
その三人は入れ替わり立ち代りで、三人が同時に強力な軍を率いていたわけではないし、
姜維の本隊とまともに決戦したのはケ艾だけ。
>>506 気のせいだけでもないと思うぞ
姜維は戦術面だけに限って言うと詳細は不明ながら残した実績はかなり大きい
一国同士の大戦に有名どころが集まるのは当たり前だろうが
同格クラスの将、数人と渡り合える蜀将の格
姜維って当時嫌われ者でどうしようもなかったのに
蜀贔屓の風潮で悲劇の名将みたいに持ちあげられてるよな
全然違うのに
姜維人気は判官贔屓みたいなもんだろ?
スレ違いだが、姜維は兵士からの信望は厚かった。
蜀の内政から離れていた為、軍と共に孤立して行くわけだが。
嫌われ者というよりは、不器用な頑固者って感じだな・・・・・
姜維が勝ち目のない戦をしてた理由は
自分の保身のためだぜ
それだけのためにたくさんの人を犠牲にした
蜀自体賊みたいなもんなのに、その蜀よりもタチの悪い姜維って見方が大勢だった
おまえさんの友達の見方のことか?
蜀アンチの子ってどこでも語られてない妄想を堂々と言い張る癖があるよな。
賊みたいなもんってアレだろ?
嘘ついて騙して皇帝を自分の本拠に連行するような勢力のことだろ?
ペルテス病の保存療法では外転装具を使って松葉杖歩行等を行う。
頚椎症患者の枕は頚椎への負担を考えて低いものを使う。
筋性斜頸は従来は徒手矯正を行ってきたが、成長に伴い改善する例が多いために、徒手矯正は行わない方がいいとの意見がある。
バーセルインデックスで自立している場合に点数が高いのは、移乗と平地歩行動作である。
大腿神経麻痺では、膝の伸展が阻害される。そのためにPTBのように膝蓋腱等で支持する装具は向いていないという。
オッペンハイマー型装具は橈骨神経麻痺に用いる。
長対立装具、短対立装具も似ているが、短対立装具の方が短い。短対立装具は手のみに装着するものである。
大殿筋の下にある巨大な筋は大内転筋である。
フィラデルファイアカラーと頚椎カラーは似てるので注意する。
オフセット杖はT字杖のように見えるが、把持するところがカーブするようになっている。
ロフストランド杖にも見えるのが、オルソクラッチである。
人工股関節術前には、その部位の変形などを考慮したら寒冷療法は禁忌であると想像つく。
人工股関節術後には、深部に至るまで温めたいので、超音波療法を用いる。
フロマン徴候とは、尺骨神経麻痺による母指内転筋と背側骨間筋の筋力低下を検査する。
自転車エルゴメータを行うと収縮期血圧上昇と静脈環流量が増す。下肢に貯留していた血液が押し出される。
車椅子のキャスター5〜6インチでは屋外での使用に不便が生じる。屋外で使用するならば、キャスターを7インチ以上にする。
kennyは総点数24点である。
FIMでは、中等度介助の場合3点である
バーセルでは、項目によって満点点数がことなる。
Katzでは、6項目2段階評価で行う。
PTBは下腿、足部骨折患者に用いる装具である。
痙直型片麻痺患者には、尖足防止のためのAFOを用いる。
強剛型両麻痺にもAFOを用いるが、長時間の歩行は困難のため装具は用いないケースも多い。
義足歩行の際の踵接地後に膝関節屈曲が遅れる原因に、ソケットの初期屈曲角度が不足していることがあるという。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/09(土) 08:17:17
どっちつかずの中立はNG
呉は蜀の背信に背信でやり返したので蜀が滅びても
残党を吸収することが出来なかった
ちゃんとやり返したから
蜀よりも長持ちしたわけで
まあそれは正しいのだが
向背定かではないのが寿命を縮めた
どちらかを徹底的に叩くべき
実際、孫権は劉備死後、南蛮辺りの叛乱を煽って、蜀を切り崩そうとしているよね
少なくとも、初期の孫権は蜀を潰す気だっただろう
ケ芝の説得で手を引いたようだけど、蜀が魏との同調を匂わせた、というのが大きいように思える
以後、孫権は、蒋エンの動きの狙いを見抜いたように、蜀の実情を精確に把握していた
魏と蜀が殴り合っている間はそれでいい、と判断したんだろう
関羽は素直に魏も呉も潰すつもりだったからあぼーんした
吾不能滅汝邪!
冗談じゃないから困る
こんな同盟者こえーだけだよ
関羽はその強さに加え、思想までもが強者そのものの考え方なんだな。
ラオウみたいのが近くにいるようなもんか、そりゃ同僚や敵方からすればおっかないなw
劉備への忠誠もストーカーちっくだしな
情愛が深い言われてたけど本当なんだろうか
>>526 現在でも軍隊や警察、マフィアのような世の中で一番強い男達が
崇敬する意味も分かる気がする。
リアルでのDQNマッチョキャラへの嫉妬が
ヘタレを関羽アンチに走らせるのだろうか
関羽をアンダーアチーブする人間のほとんどが
正史の記述にそのまま踊らされるバカ
失策だけ論って相対的なものの見方ができない
そもそも、そこまでショボけりゃ、あそこまで必死になって
対策練らないっつーの
え!?
国一国取れるのに必死に対策練らないってなんなの?
まあ、たぶんリアル関羽はそんなんだから負けたんだろうけど。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/10(日) 08:41:26
関羽は悪性腫瘍みたいなもんでその悪質な浸潤性に歯止めをかけたってことで呉GJって見方が大勢ですよ
頚椎の中では、第5、6頸椎が可動性があるので、変形性頚椎症はここに生じやすい。
関羽のヒステリックな性格の原因は
絶対の忠誠を誓う劉備と不仲だったのが原因とかいう説を聞いた
つまり劉備の関羽への配慮のなさが
関羽の人格障害による敵味方の孤立と北上という暴走を招いた
洪水も何も計算してないんじゃないか
ストレス解消に戦争にいっただけで
>>532 三国呉なんてヘタレ、卑怯の代名詞のような国ですがなにか?
関羽アンチの呉オタは少数部族な自分達の意見を「大勢の見方」という
奇妙な癖を持ってるな。
寒村に引き篭もりすぎで情報を集めてないんで自分達のちっちゃいコミュニティで
形成されたルールが世の中でも通用すると勘違いしてんのかな。
確かに呉のせこさ、日和見、内股膏薬はカッコ悪い。
しかし、そういう精神的に三流の勢力にとって
関羽討伐以上に躍進した機会はなかった。
空気を読んでたら復活した漢に滅ぼされてる。
自衛の為には仕方のないことだ
蜀がケンシロウなら魏はラオウ
呉は・・・牙大王ってとこかな
蜀=羽川
魏=ガハラさん
呉=撫子
魏=斉
呉=陳
蜀=周
春秋晋=戦国斉=秦末斉=新末漢=三国魏=趙漢=北朝斉=隋末魏
春秋楚=戦国楚=秦末楚=新末楚=三国呉=東晋=南朝陳=隋末梁
春秋秦=戦国秦=秦末漢=新末成=三国蜀=成漢=北朝周=隋末唐
ジストニーは、おもに四肢近位筋群や体幹筋群に出現する持続の長い収縮でねじれを伴う
ゆっくりとした運動であり、独特の姿勢を呈する。
バリスムは、四肢近位筋から投げ出すような激しい不随意運動で、回旋運動を伴い
数秒に一回の頻度で不規則に繰り返す。
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/11(月) 00:28:41 BE:1400889683-2BP(112)
おそらく勝長っていうのは、武田に人質に出てた時代に与えられた名前だと思う。
信長が与えたのは信房だろう。
あと源三郎の名前も与えたのかな。
三郎は織田家の嫡男の名前なんだったよね。
確か父親の信秀も別名が三郎だし、信長もそうだね。
そういや、信忠に三郎の名前は与えたなかったんだっけ?
「源」って字がくっついている事を考えると、嫡男信忠だけど、ある意味嫡男と
同等ってことを言いたかったのかな?
織田で津田っていうのは別におかしくはないし。
津田は織田一族の出自に関わる特別な姓だから。
織田信澄も津田信澄って別姓で表記される事もある。
そういや、信澄の幼名も「坊」だな。
確かに劉備のせこさ、日和見、内股膏薬はカッコ悪い。
しかし、そういう精神的に三流の勢力にとって
劉璋討伐以上に躍進した機会はなかった。
空気を読んでたら呉に滅ぼされてる。
自衛の為には仕方のないことだ
呉は臨戦体制の蜀にびびって
尻尾巻いて帰ったり奪い取った土地を返して講和を結ぶヘタレだぜ?
人の背中を襲うだけが能
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/11(月) 07:35:36
やはり自衛にだまし討ちなどしない魏が一番ということだな
曹操>>>>>劉備>孫権
基本呉蜀はヒキだしなw
魏の大将の前に返り討ちにあう孫権厨房と
司馬宣王に寸土も取れずに戦略的完全敗北をくらう諸葛過労死w
漁夫の利で魏を引き締める時間を稼いだ曹操は神だよね
片や私情で判断を誤り返り討ちに遭う劉備
片や目先の利益に惑わされるヘタレの孫権
こんな連中に曹操の偉業を阻まれたのは疫病が原因
目先の利益に惑わされてるのは劉備
せっかく襄陽を支配していた孫権に嫉妬して魏の手助けしかしていない。
片や目先の利益に惑わされる私情で判断を誤り返り討ちに遭う劉備
片や目先の利益に惑わされるヘタレの孫権
こんな連中に曹操の偉業を阻まれたのは疫病が原因
こうだな
疫病とか抜きでも孫権にも劉備にも負けてる曹操が当たり前に頓挫しただけ
>>550 しかし、関羽の猛攻にビビり本気で遷都を考えてしまった曹操
>>547 ×だまし討ちなどしない魏
呉が劉備の侵攻を退けた後に漁夫の利を狙って攻め込んで返り討ちにあってる
この時はまだ魏と呉は同盟者だったはずなのに
>>559 司馬イも曹真に従ってたじゃん
もともと援軍も出してくれなくて隙あらばと狙ってるだけの自称同盟者の癖に
要求だけはいっちょまえだな、魏は
魏が呉に攻め込んだあのタイミングを見ればどう見ても漁夫の利を狙っていたのは明らか
>>561 前年から継続的に魏は呉を攻めてるよ
むしろ漁夫だったのは蜀な罠
>>562 呉と魏で手を組んで関羽を殺した後にいつ魏が呉を攻めたと
劉備が呉を攻めた時、呉は魏に臣従の形まで取って
魏は孫権を呉王に封じて同盟を強化したのに
呉が蜀を破ったらすぐさま侵攻
この流れでどうやったら魏が裏切ってないといえるのだか
>>563 曹丕が皇帝即位する直前
曹操の喪中に曹仁が兵糧不足から襄陽、樊城を放棄して宛まで引いた
そこに付込んでそれらの城を呉が占領し、さらに陸遜が上庸近辺の城を落としてて
この時、荊州北部は南陽より南側が呉領になってた
曹丕が曹仁に命じて襄陽、樊城取り返し、その功績でもって曹仁は大将軍に昇格した
この昇進が221年夏4月
夷陵開始が同年6月くらい
時期的に見て劉備の動きは魏に便乗して呉を叩こうとしてる
さらに魏は呉が蜀を叩き過ぎないようにかどうかは知らないが、夷陵では蜀が負けすぎないように補佐してる形になってる
>>564 だから呉は劉備に攻められたときに魏に形式上臣従する形をとり
魏は孫権を呉王に封じてる
いわば夷陵の段階で魏と呉は完全に同盟国
曹丕は劉備の布陣をみて嘲笑い、そのまま漁夫の利を狙って動いてるだろう
そこまで裏切りを認めたくないのか
同盟国ではなく魏の属国
属国の分際で義務を履行しないのだから
制裁は裏切りでもなんでもない
>>566 蜀との戦争途中に呉が申し入れをして魏が受け入れたものなのに
よくもまあ言えたもんだと
本当に友好したかったと主張するなら
蜀との戦争が終わった後で話進めりゃよかったのに
呉が蜀に勝ったら攻め込んで制裁もクソもない
単に漁夫の利を狙って攻め込んで返り討ちにあっただけ
>>565 だから、じゃないよ?
話の流れちゃんと理解できてる?
>>564は継続的に魏と呉は交戦状態だったという事の説明だから
魏が夷陵で呉を裏切ったというのは間違い
交戦状態が継続してるだけ
>>568 間違いじゃないだろうに
夷陵戦の最中に呉は魏に臣従してるだろうに
魏もそれを受け入れておいて呉が蜀を破ったら攻め込んでおいて
裏切りじゃないとかそりゃないわ
一度年表で纏めないと収拾つかんぞ
>>569 いや全然裏切りじゃないな
劉備は夷陵戦後には呉と組んで魏と戦う交渉をしてる上に
夷陵勝利後の呉は宗主国から要求された人質も出さない
挙句、黄武へと改元を行い魏との敵対意志を表明している
改元ってのは天子の特権なので、それを行うということは自身が天子であることの迂遠な表明でもある
呉は裏切られたどころか、自ら宣戦布告みたいな事までやって反旗を翻してる罠
もうこの時期は名目的には従った従わなかったって政治宣伝を延々を繰り広げつつ、
実質は完全に戦争状態だから、裏切りとか言う方がおかしい
義理とかそういう面だけで見ると魏はこの時期、一方的に裏切られる側だぞ
呉蜀も同盟中なのに色々やり合っていたような
基本的に同盟破棄宣言とか宣戦布告とかないからね
一応、218年末だか219年初頭に孫権が濡須で曹操に降服してるので、
その後の関羽と呉のやりあいは互いに裏切りでもなんでもない。
>>573 それは明確な同盟違反の裏切りだよ
別に蜀と同盟関係を解消したわけではないので、どこに臣従しようとも盟約は破ってることに変わりない
無理に呉を無辜にしなくてもいいでしょ
呉は反復常ならぬ狐狼の国
そだ |------、`⌒ー--、
れが |ハ{{ }} )))ヽ、l l ハ
が |、{ ハリノノノノノノ)、 l l
い |ヽヽー、彡彡ノノノ} に
い |ヾヾヾヾヾヽ彡彡} や
!! /:.:.:.ヾヾヾヾヽ彡彡} l っ
\__/{ l ii | l|} ハ、ヾ} ミ彡ト
彡シ ,ェ、、、ヾ{{ヽ} l|l ィェ=リ、シ} |l
lミ{ ゙イシモ'テ、ミヽ}シィ=ラ'ァ、 }ミ}} l
ヾミ  ̄~'ィ''': |゙:ー. ̄ lノ/l | |
ヾヾ " : : !、 ` lイノ l| |
>l゙、 ー、,'ソ /.|}、 l| |
:.lヽ ヽ ー_ ‐-‐ァ' /::ノl ト、
:.:.:.:\ヽ 二" /::// /:.:.l:.:.
:.:.:.:.:.::ヽ:\ /::://:.:,':.:..:l:.:.
;.;.;.;.;;.:.:.:.\`ー-- '" //:.:.:;l:.:.:.:l:.:
呉はダーティーさとスイマーさが売りなんだよな
正々堂々なのは周瑜くらい。あいつだけ浮いてる
>>574 劉備と孫権は別に同盟してないよ
魯粛の侵攻に和睦して国境線を決めただけ
>>576 国境線確定時に同盟してる
權令諸葛瑾報、更尋盟好、遂分荊州長沙、江夏、桂陽以東屬權、南郡、零陵、武陵以西屬備。
先に破ったのは関羽だけどな
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/12(火) 01:13:24
先に破ったのは関羽だけどな
>>578 国境線確定時に結びなおしたというだけで
「先に」と言うとその国境線確定前に一回呉がやらかしてる
さらに関羽に縁談持ち掛けて軍事行動ではない敵対行動取ってたりする
どっちが先か言い出すとキリがないかもしれないが呉は相手から攻撃受ける前に結構色々やってるぜ
やってみたら非常に面白かった。各史ほんとに好き放題だなw
221 秋,魏將梅敷使張儉求見撫納(呉主伝)
秋八月,孫權遣使奉章,并遣于禁等還.丁巳,使太常ケイ貞持節拜權為大將軍,封呉王,加九錫.(文帝紀)
十一月,(魏文帝)策命權曰:「(中略)」封呉王、大將軍使持節督交州,領荊州牧事加君九錫(呉主伝。建康実録もほぼ同じ)
(文)帝欲封權子登,權以登年幼,上書辭封,重遣西曹掾沈エン陳謝(呉主伝)
222 閏正月,權大破蜀軍於五屯(中略)備走.(建康実録)
二月,權以破蜀事使報魏,魏遣侍中辛ピ、尚書桓階 来盟誓,并徴任子,權辭不受.(建康実録)
五月,以荊、揚、江表八郡為荊州,孫權領牧故也;荊州江北諸郡為郢州.(文帝紀)
閏月,孫權破劉備于夷陵.(文帝紀)
秋八月,(先主劉備)收兵還巫.(先主伝)
八月,蜀大將黄權率衆降.(文帝紀)
秋九月,魏乃命曹休、張遼、臧霸出洞口,曹仁出濡須,曹真、夏侯尚、張コウ、徐晃圍南郡.(呉主伝。建康実録もほぼ同じ)
十月,孫權復叛.復郢州為荊州.帝自許昌南征,諸軍兵並進,權臨江拒守.(文帝紀)
十月,權遂改元,臨江拒守(三国大事年表)
冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都.孫權聞先主住白帝,甚懼,遣使請和.(先主伝)
十一月,權就呉王位於武昌,大赦,改年號為黄武元年.初置丞相(建康実録)
十一月,蜀使致書於權,引躬自責,永修舊好.(建康実録)
十二月,權使太中大夫鄭泉聘劉備于白帝,始復通也.(呉主伝)
223 春二月,丞相亮自成都到永安.
夏四月癸巳,先主ソ(歹旦)于永安宮,時年六十三.
ごめん、一行目から間違ってたw
>秋,魏將梅敷使張儉求見撫納(呉主伝)
これは220年のこと。
>>574 呉は孤狼の国?
褒めすぎだなあ、節操なしの引き篭もり王国でしょ。
虎狼
孤狼
どっちよ
>>585 虎の方は残虐ファイター
孤独の孤は狼とくっついて熟語にならない
つまりお前さんの提示してるものはどっちも違う
「キツネ」「オオカミ」で狐狼
で
>>574は反復常ならぬ狡猾な呉という意味だよ
狡猾ハスラーvs残虐ファイター
Fight it out!
どっちかと言うと狐は蜀だな
呉は狸って感じ
魏はトラ
呉はワニ
蜀はパンダ
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/15(金) 23:12:26
当時の中国にワニっていんの?
いねーよ
ワニザメだろ
長江(揚子江)には、いた
ヨウスコウワニ:性格は大人しく人間には無害とされることが多く、人間を襲った確実な記録はない
呉は無害ってことですか
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/16(土) 16:24:42
>>592>>593 ほぅ!ありがと!
勉強になった
アフリカ大陸とアメリカ大陸とオーストラリアにしかいないイメージがあったからさ
あ、そういやインドにもいるな
陸続きだから献上品とかでそっちのが持ち込まれてた可能性なんかもあるのかな?
魏:ソウルソサエティ(数がやたらと多い。タレントは多いはずだが、使えない)
蜀:アランカル(少し頭は足らないが、正々堂々。信じられないほどのスペックを持ったタレントがいる)
呉:ヴァイザード(魏についてしか、蜀に打撃を与えられない。技もしょぼい。名前が分からないのが大勢)
魏:曹操、曹洪、夏侯惇、曹仁、夏侯淵、于禁、楽進、徐晃、張遼、張郃、臧霸
呉:孫策、周瑜、太史慈、董襲、魯粛、甘寧、呂蒙、凌統、陸遜、朱然、呂岱
蜀:劉備、馬超、関羽、張飛、孟達、劉封、黄忠、魏延、諸葛亮、趙雲
魏と争っていた最中に夷陵戦を仕掛けた蜀が正々堂々なわけがないw
>>597 友好をよそおって、背後を襲うのと同列じゃないだろ
わざわざ戦争が終わるのを待って、魏から背後を討たれる可能性を作り出すのは宋ジョウの仁
>>598 友好をよそおって、背後を襲うのは劉備の劉璋攻めを言うんじゃないの?
>>600 ああ、たしかに関羽が勝手に呉の食料を強奪してるね。
>>601 それがアンチ蜀の言い分だろうが、呉はその前から裏切る準備をしている
それでなくては、あんなに速やかに行動はできない
関羽は、了解を得て、兵糧をもらったのに、後付で関羽が強奪したことにして言いがかりをつけた可能性は高いだろ
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/16(土) 23:49:54
>可能性は高い
とうとう史書改竄ですか蜀オタw
呉書の記述は自国賞賛が激しいので信用できないけどな。
自国賞賛しない史家は殺したんだっけ
>>603 可能性は高い
でモノを言う三戦住人なんて腐るほど居るぞ。
>>603 また、SOUかwww
肝心なところは答えていないくせに、本当、人に言われた言葉、そのままだなw
その芸風はもうあきた
もう、ツマンネ (´−ω−` )=3 ブッ
>>606 自分達も堂々と
やってるのに人にやられるとすかさず「史書改竄」と抜かすダブスタっぷりは
彼らの十八番です
609 :
小銀玉@ ◆Gay/Ho..tI :2010/01/17(日) 01:04:25
仮に呉が予め侵攻の準備していたとしても、
つけいる隙を見せたカンヌは
何を言われても仕方ないんだよ
これはどうしようもない
俺はSOUとかいう人じゃないけど
ダブスタってことは捏造を認めるってことでいいのかな?
揚げ足取りに、曲解誘導うぜー
(*´∀`)Σ⊂(゚Д゚ )★ なんでやねん!
>>609 それはそれで失敗だからな。
しかし、関羽1人相手に魏呉名将数人掛りだったという
両国においても異例の事態だったということも事実。
関羽亡き後の荊州攻防がかなり穏やかだったと事を考えても
関羽に居座れる事が魏呉においては脅威そのものだったわけで。
だからこそ、隙を見せた時を狙ったんだろうな。
613 :
小銀玉@ ◆Gay/Ho..tI :2010/01/17(日) 09:57:41
だからこそカンヌが好きなんだわ
完全無欠じゃないところがエエ
それはよくわかるw
裏表の無い剛直な性格だったからこそ
将としては欠陥な部分があったとしても
その性格であってこそ関羽だな〜と感じてしまう。
人の思考の裏読みをして、本音と建前を使い分けてしまうような関羽なんて
警察もヤクザも軍隊も「強い男の代表」となんて思わんだろうしな。
関羽=DQN+非コミュ+律儀+豪胆+理数系
の変人のイメージ
孫権より変人じゃないだろ
そりゃ比較対象が悪すぎるw
>>612 荊州と言う重要地点の戦役に大物が集まるのは異例でも何でもない
関羽も含めてな
むしろここで本気出さないでいつ出すんだ?
赤壁以後も周喩、曹仁、劉備らと大物集結
黄祖を攻める時も呂蒙ら豪華メンツだよ
ノーリアクションな劉備、孔明の謎
合肥の時も孫権直々の出陣に加え
甘寧、呂蒙、凌統、蒋欽、徐盛、潘璋とオールスターだしな
別に相手が関羽だから名将が集まったわけじゃねーよ
この問答何回もやってるけどな
集中と選択だね。攻める時は常にオールスター
魏の結束の固さに比べて蜀はガタガタだったというだけ
敗因は関羽
蜀は漢中で劉備、馬超、張飛、黄権、黄忠、魏延のオールスターを使用済みだからな
ノコノコ北上してった関羽KYでFA
忘れ去られる趙雲
>>622 そのオールスター全掛かりで、最終的には寡兵で孤立した所を不意打ちでようやく撃破
夏侯淵ってマジパネエな
>>624 パネェパネェ
曹操の責任転嫁は出鱈目
ウ禁の件といい完全に耄碌してた
>>625 関羽如きが北上しただけで遷都考えるくらいだしな
戦に負けたわけでもないのに
627 :
小銀玉@ ◆Gay/Ho..tI :2010/01/17(日) 12:06:01
蜀は戦力を分散させないで一点集中させるべきだったな。
ケイシュウはカンヌより外交達者を据えておけばどうだったのだろう。
外交達者がいるかどうかは知らんがw
>>620 合肥では当時の呉軍総司令ともいうべき魯シュクとかは国元に置いてきてるけどな
>>621 魏が結束固い?
関羽北上前後で反乱勃発しまくってるのにか?
蜀よりもずっとガタガタだろ
>>624 >>622の面子では張飛・馬超は下弁方面にいて曹コウ達と対峙
魏エンも漢中戦では具体的な活躍が不明
夏候淵側の方にも張コウ・徐コウ・カクワイ・チョウリ・その他といった面子がいる
魏軍5大将のうち二人を夏候淵の下に配属させてるほどの豪華ラインナップ
不意打ちというか夏候淵が蜀側の罠にはまってノコノコ出てきた所を攻撃し
黄忠が奮戦して真正面から大破して討ち取ったって感じだな
夏候淵もずいぶん奮戦したみたいだが、劉備は夏候淵よりも張コウを警戒してたみたいだな
>>626 ウ禁のは10数日にわたって大雨が降ってて何の対策もしなかったのはどうかとおもうけどな
兵力数万が一瞬で消えたのは曹操にしてみるとショックだったろ
漢中戦では今まで勝ってた劉備にパーフェクトゲームやられて案外気弱になってたのかもしれんし
>>631 その重鎮は国元においてきてるな
魯シュク死後を引き継いだ呂蒙に対しても、徐州攻めたらどうだろうかと孫権が諮問してるように
連れて行こうと思えばいけただろ
>>603 呂蒙伝を見る限りでは関羽が動く前から呉は荊州侵攻を国策にしてるぞ
>>571 イリョウの後で劉備が交渉するのは呉が魏と戦ってこれを退けた後だぞ
魏が名目上臣従している呉を攻め立てたのは変わらない
これで裏切りじゃないといってもな
>>633 んなわけねーだろ
兵だけ国境に残して武将だけ「コマンド:移動」とかする気かよ
>>636 だからその魯シュクの後を継いだ呂蒙にも
孫権は徐州を攻略する事を諮問してるんだよ
だから?
それが決行されたら呂蒙が陸口軍を率いて徐州まで攻め込んだとでも?
>>638 そうでないならわざわざ呼ばないだろ
曹操と戦うときは周愉呼び出して諮問してるんだから
呂蒙に従って荊州攻めた将もガッピ攻めるときには参加してるからな
いや
>>638訂正
呂蒙が荊州優先策を進言したのは魯粛が存命して劉備との協調論があった時代。
呂蒙は廬江郡尋陽周辺に拠点を起き合肥攻撃などに従軍していた。
>>640 だからそれ以後も魯シュクが死んだあとに孫権から諮問されて答えてる
>>641 死んだ後とは書いてないね
それから、孫権の中軍に直属して征伐に従軍する将と
前線の太守や陸口や濡須などの督として要所に駐屯する将の区別を付けたほうがいい
>>642 魯シュクが死んでその兵を受け継いだ後に呂蒙への諮問が出てくるから
どう見ても死んでる
いいとか言っても周愉みたいに実際担当する将が呼ばれて諮問やってるんだから仕方ないな
それこそ適当な事言う前に正史読んだら?
魯シュク死んだあとと書いてないとか何をもとにしたんだ?
>>643 「初め、魯粛等は曹公がなお存するを以って」から「蒙が粛に代わるに及び」までが
過去に遡って呂蒙の対荊州侵攻の意図を説明している部分。
>>644 「呂蒙は魯シュク死後、その兵馬を受け継ぎ(以下いろいろ受け継いだ事を略)
関羽と隣接していたが、関羽は野心を持ち(中略)両国の友好も長くは続くまいと思われた」
この次にそちらのいう「初め、魯シュク等は〜」と続く。
つまり前代の外交方針を述べ、新たに受け継いだ呂蒙の方針転換を説明している場面だろ。
でないと孫権が呂蒙の荊州攻めるべしという献策をもっともだと思ったにも関わらず徐州攻めてるという
変則的な状況になる
孫権って徐州攻めてんの?
>>646 ガッピは徐州だろ
ガッピを突破して北上すればそのまま徐州に入る
合肥は揚州。北上すると豫州に入る。
孫権が徐州を攻めるなら広陵を突破することになる。
この孫権の徐州侵攻計画は他の伝にも記述があったと思うが、
合肥のような拠点攻めではなく、
平野部へ長距離大規模な侵攻を行い面を制圧して魏の主力と対峙するというもの。
ちくま訳の書き方だと呂蒙が既に荊州にいるように書かれているな。
いずれにしてもここは呂蒙が荊州戦略を「密陳計策」するというもので、
呂蒙の所在地が尋陽でも陸口でも、孫権が自分の手元に呼び寄せたのではない。
>>648 どこの伝だかは知らないが
ガッピを突破された場合の抑えとして夏候26軍がいたんだろ
ヨ州いくなら斜めに攻めのぼる事になる
>>649 孫権がわざわざ呂蒙の所にいったと?
それのがありえなさそうだぞ
>>650 手紙という存在を知らないのか
夏侯惇が駐留した居巣は合肥のかなり南西で、舒や皖と連なる最前線。
斜めってどういう意味か判らない。北を上としたときの斜めってこと?
建業と許都の直線上にあり淮水江水間の水路が張り巡らされている
要地が廬江郡や九江郡だけど。
>>651 孫権の様子を見るととても手紙のやり取りに見えないから言ってる
荊州侵攻策を聞いた後、すぐさま徐州侵攻を諮問して
それを呂蒙は即答してるだろ
又聊復與論取徐州意,蒙對曰
から、なんですぐさまとか対面とかわかるんだろう
書面とかいうほうがもっとわからない
手紙送りましたとか全然ないのに
おいおい。
一軍の将が主に呼び出されて任地を離れるなんておおごとの方が
遥かに史書に特記があるべき事項だろ。
しかもそれじゃ全然「密陳計策」になってないし。
>>655 手紙だったら上訴って形で残ってていいだろ
関羽侵攻戦の時の仮病策はそれで残ってるんだから
密かに移動してたなら不思議ないぞ
頻繁に手紙往来させてたらそれこそ密陳計策にならん
仮病策でのやり取りは孫権側から書状が出され
その後で呂蒙が召し返され密かに計画を練った、になるんだっけ
書面でやり取りがあったならこういった記述があっていいかもね
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/17(日) 15:35:22
関羽が怖ろしいと思わていたと思える戦略的理由
これが全く、考慮されていないなら、魏、呉はバカとしかいいようがない
魏・・積極的な迎撃を考えていないなら、曹仁、ホウ徳だけで十分と思えるのに、
予備兵力を全て、派遣。しかも、それが数日で全滅。新兵まで向かわせる。
関羽が怖ろしくないなら、続出する反乱鎮圧もしくは蜀の本隊に備えるべき兵力である。
そちらの方が重要拠点を奪われるリスクがあるはず。つまり、関羽は充分に怖ろしかった。
呉・・関羽討伐に失敗した時のリスク。および、成功しても蜀が魏と同調する動きを見せるリスク
実際はこれをくぐり抜けたが、致命的な打撃をうけた蜀が魏に降伏する可能性がまた、別にある
そうなった場合、呉も終了
これを全く魏・呉が考えていないわけがない
関羽が魏呉の一名将と同等の強さなら、これは完全に戦略ミス
仮病策は公式の後送であって今回の話とは全然違う。
秦漢は文書行政と官僚体制が非常に発達しており、
高官の奏文から兵卒の一私事に付いてのものまで公文書が飛び交っていた。
呂蒙のような軍将も当然定期の報告書を建業に送っていたと考えられる。
方任の地位にあれば何年も朝廷に参台しないとか君主に会えないという時代だった。
手紙を密かに行き来させるのに危険があるのは当然だが、
主将自身が極秘に前線を離れる危険とは比べ物にならないくらい小さいね。
>>659 だからそれだったら書面をやり取りした記述があってしかるべきだろ
仮病策では呂蒙側からも孫権側からも手紙が行き来した事が書かれてるんだから
荊州侵攻策と徐州侵攻策のやり取りを手紙でやったなら、合わせて三回程の手紙のやり取りがあったはずだが
そういった手紙をうかがわせる記述はない
>>660 だからそれだったら呂蒙が建業まで赴いた記述があってしかるべきだろ
こういう言い方はしたくないが…
感性がマジでゲームレベルなんだよ。
責任の大きな人間が動くとか数十日も不在になるという状況をなんだと思ってるんだ。
>>661 そっちのがゲームレベルだろ
書面やり取りの記述がしっかりある例があって
それがない方を強引に書面だと言って不利になったら上から目線でおしまいにしようとして
納得できると思ってるのか。
策略の為に密会とか密かに移動する事は普通に行われているぞ。
尋陽まででも片道軽く3、400キロを「普通に」?
すると関羽が益州で馬超にあってるってのもあながち間違いではなさそうだな
>>663 実際に周愉とかはそのやり方で諮問してるからな
呂蒙も同じく最高司令官と国主がこれからの国策を決める重大事態なんだから
これをどうするかで文字通り戦略が正反対に変わる
>関羽が益州で馬超にあってる
こんなこと誰が言ってるの?
>策略の為に密会とか密かに移動する事は普通に行われているぞ
>時周瑜受使至ハ陽,肅勸追召瑜還.
例示として不適切
>>665 馬超が劉備を字で呼んだという、裴松之が「関羽は荊州から離れたことはないので与太」
だと切り捨ててる逸話
>>666 不適切じゃないだろ
夜に密かに周愉は拝謁を求めて孫権と会談したりしてるしな
第一そっちのは手紙の記述まるでないのに手紙だと言ってるのは
まるで根拠ないのに何言ってんだよ
後の仮病策で手紙の事例がしっかりあるのに
張昭・周瑜・魯粛らの高官列席での群議が周瑜にとって不調に終わった後、
周瑜は夜に個別に孫権に面会に行った。
「呂蒙が任地から離れた記述がない以上、別の手段で孫権と連絡を取った」。
逆よりは遥かに自然な推測。
>>666 書面でやり取りした逸話もあるから例示として不適切になりそうだね
>>669 密会で策を献策するのは自然だって事だろ
「書面でやり取りした例が存在してる、なのにそれがない記述でも書面である」
こんなのをどうやって納得しろと
周愉の時と同じく国策を決める重大議題だっただけの話で、密かに策を献じただけの事だろう
>>671だけどこれから出かけるので、この議題はまたの機会にでも
>>670 意味がわからん。
赤壁前の「最高司令官と国主がこれからの国策を決める重大事態」と、
呂蒙が「密かに」孫権に進言したことを同列に語るのがおかしいと言ってるんだが。
ついでながらこの当時の呉に孫権以外の最高司令官なんかいないからね。
魯粛や呂蒙は荊州方面の比較的序列一位の将にすぎない。
戦役ごとに個別に大都督等の戦役司令官を任命していた。
やり合うならコテをつけろ。
ここはID出ないんだぞ。
名前:アンジェ ◆YI1yrpC6Lo :2010/01/17(日) 17:02:49
美しさのかけらもないな
まあ、このアンジェの目からみればどの外部掲示板も
そのように見えるのは仕方ないことだ
私の外部掲示板ほど見た目に美しい板はないだろう
呂蒙よりも議論の的は魯粛が合肥になぜ参加しなかったか?だろ。
第一は魯粛伝に関羽が度々国境を侵したと書かれてんだから動ける訳がないだろ。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/18(月) 21:35:14
>>676 魯粛は漢昌太守だったからね。
呉の合肥侵攻前には、荊州南部でゴタゴタも起こっている。
このゴタゴタが本格的な戦闘に発展しなかったので、軍が無傷のままで
合肥へ向けられたんだろう。
この時は、孫権も呂蒙も荊州方面に軍を率いて出張ってたはずだな。
>>673 周ユも夜に密かに献策してる
孫権は国主
最高司令官というのが嫌ならそれでもいいが
周ユもそうなるから問題はない
流石に周瑜と呂蒙を同列に語るのは無知としか言いようが無い。
時代が違うし軍権は呂蒙が上だしな
呉が荊州を取りに行くのはおかしくない気がするんだが
関羽を斬ったのはどうかと思う
それをやったら蜀主が変わらない限り和解の道は完全に断たれる
組んで魏に対抗するか、完全に蜀まで入って天下二分するしかない状況で
選択肢をせばめて誰得?という
スレチだからどうでもいいが
しかし劉備は生前に呉と講和している
>>682 孫権は途中までは
>完全に蜀まで入って天下二分する
つもりだったよな
周泰を漢中太守にしたり
>>683 でも劉備は生きてる間、白帝に軍とともに居て常に狙ってる
赤壁の時も後詰で孫権が出てた。孫権は大体出張ってきてるよ
建康実録では「周瑜軍三万」ではなく「前衛周瑜二万、後詰孫権一万」と記述されている。
>>688 結局、孫権は後詰で出すはずの2万を合肥方面に出してるから出張って来なかったけど。
赤壁が決着してからのことね
どちらにせよ
対曹操曹仁の時は周瑜程普で左右の督を分けた。
決定権は周瑜にあったものの、程普も「督」の権限を持っていたために
両者が睦まず、国事が敗れるところだった、とする。
そのため対関羽では呂蒙大督(大都督)、孫皎が「後継」となった。
ということを言ってるんだろう、680は
>>691 周瑜は孫策の後を張昭と共に、全ての事務を取り仕切ったとある。
実際の後見人だな。
呂蒙は虎威将軍で孫皎は征虜将軍かつ黄蓋と孫瑜合わせた二万弱くらいの部曲。
呂蒙は孫権の後ろ盾があって初めて軍が動かせるんだよ。
>>692 そうだよ。
赤壁前の平時の軍部統監者は中護軍周瑜。
対関羽前の平時の荊州方面軍部責任者は都護孫皎。
呂蒙は諸将軍中の比較上位者。
呉でよく用いられた大督・左右督というのは「戦時任命司令官」
であって、日常の運営系統とは別に構築されている。
あ、とはいえ、
>呂蒙は孫権の後ろ盾があって初めて軍が動かせるんだよ。
じゃあ周瑜は孫権の許可無しに軍が動かせたのかよというとノー。だろうけど。
>>694 後ろ盾がなければ孫皎ら上位に命令できないんですが。
孫皎は上位じゃない。
都護も中護軍も軍令権を示すものじゃない。
孫権は後ろ盾じゃない。呉の最高司令官。
呉は、牧などが置かれない限り、各地に駐屯する諸将が並立し、
一極の統率者が置かれない状態が多かった(その権限があるのは孫権だけ)
しかしそれでは軍閥状態と変わりないので、
軍法によって各軍を外から監察統御する職が置かれた。それが護軍や都護。
この職は直接独断で諸将軍への指揮命令権を持たない。
多数の軍が行動する大戦が起きる場合、それでは諸軍が行動出来ないので、
孫権自らが現場で指揮を取るか、代行の大都督や左右督のような「戦時司令官」が置かれた。
赤壁の時は周瑜が中護軍で権力の高い地位だったが、程普を同格に任じて
周瑜を補佐、または抑制する体制が取られた。
関羽の時は、都護孫皎と諸将軍代表者呂蒙が左右督に任じられるところだったが、
呂蒙の直訴によって一極の命令系統に纏められた。
平時と戦時で別のもの。同じ「軍権」でくくってはいけない。
虎威将軍と征虜将軍の違いを給料だけと思っているのか?
それならなんで将軍職なんてものがあると思う。
ここで問題なのが魯粛は荊州方面の第一人者だが
呂蒙は魯粛の後を継いだが荊州方面の第一人者ではなかったってことだな。
そりゃ魯粛と呂蒙の間で引き継がれたのは「陸口督」の職だもの。
しかし呂蒙は既に左護軍の地位をもってもいるし、
関羽戦で大督に任じられたことからも「諸将軍中の第一人者」だったとみていいだろう。
>>699 2位との差が離れてる1位と、ほぼ同列な2位、3位達がいる1位を一緒にするの?
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/20(水) 13:09:08
クソスレだと思って寄り付かなかったけど
真面目に議論してたんだなw
なので過去レスちゃんと読まずに一言。
>>663-
>>666 先日晋書を読んでたら、誰かは忘れたが東晋の武将で
船の航行が速くて(特技で)、朝に尋陽を出て晩に都(建康)に着いた、という奴がいた。
そんだけ。
>>700 698はそんな話はしてないみたいなので698に言っとくれ
666の
>馬超が劉備を字で呼んだという、裴松之が「関羽は荊州から離れたことはないので与太」
これって劉備が援軍で来た215年の荊州戦あたりならあり得るだよねえ。
益州での出来事にしようとした裴松之のミスリードだよな。
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/20(水) 13:21:57
>>701だが、いま調べてみたら王導の従弟の王ヨク(まだれに異)だった。
まぁ議論の本筋とは関係ないとも思うが、先日読んだばかりだったので。
>>703 でも字で呼ぶのは流石にないな
呼んでたら馬超のDQN伝説の株があがるw
>>705 まあ、正史にあるように劉備を同格と思ったのかも知れん。
ここのあたりを読むと何故か馬超って呂布と被る。
被るというか、呂布より馬超の方が悪質だと思うぞw
215年に戦ってたら
劉備、馬超、張飛、黄忠、魏延、関羽vs魯粛、甘寧、呂蒙、呂岱
なの?
ちょっと気になったんだが
もしかしてお前ら征虜と虎威の格が自明のものとして議論してないか?
三国職官表が根拠なのか?
だが、時代は違うが丁奉は偏→冠軍→滅冦→虎威→左将軍だぞ。
征虜とか虎威のような職掌を表わさない名号の役割を名前から判断するのは無理だよ。
後漢末だから全部二千石だろうし。将軍としての序列が呂蒙と孫皎のどっちが上だったかなんてわからん。
気にしないほうがいい。
>>693 孫コウが平時の荊州方面軍部責任者というのは疑問。
あくまで夏口の司令官として北方担当じゃないか?
呂蒙は魯粛の陸口督(だけ)を引き継いだというのは不自然で
実際には呂蒙は荊南奪取の立て役者であり
左護軍であり、魯粛の兵1万をそのまま預けられてる。
諸将の比較上位というレベルじゃないよ。
だから都護や護軍は司令官職じゃないって話だってば
じゃあ孫コウが平時の荊州方面軍部責任者という根拠はなに?
中国は古代から、トップダウンのいわゆる「ライン」を構成する「将」と、
その指揮系統を外部から監察し、命令執行の円滑化を図り暴走を防ぐ「監」の
二重の支配系統を重んじている。
軍事分野で有名なのが監軍で、政治では刺史。
監督する側が、される側より序列が高いとは限らない、というか低い方が多い。
本来、漢の将軍というのは節鉞を与えられ、一極の支配体制を持つことが理想とされたが、
乱世になって地方の軍権を一人に集中するのが問題になると、
一人で複数の軍を統率する「将」を置かず、「監」の職能のみを持つ者を中央から派遣して
諸将軍を束ねることがよく行われた。後漢末の護軍趙儼や薛梯が代表格。
孫権の場合、左右護軍と都護の職掌分化は確かに不明だが、
孫皎は程普の死後から都護として夏口に駐屯していること、
のちに荊州に駐留する陸遜・諸葛瑾が左右都護を分けていること、
呂蒙の左護軍が廬江から荊州に遷っても変更がなかったのならば
特定の領域を「護」す職ではなかっただろうことに加え、
左右護軍が中護軍の職掌分割かと考えれば、
都護はかつての西域都護のように現地にあって直接諸将軍を監護し、
左右護軍はより孫権に近い立場で論功訴訟弾劾などを掌ったのだろう。
>>709 偏から一気に冠軍がおかしいのであって、冠軍が表記ミスか同名の雑号なら問題ないが。
>>712と
>>714は別人?
左右護軍を中護軍と通じると見なすのなら、
なおさら呂蒙の格の高さの証明だろう。
本職が将軍の護軍なんだし。
都護については分からない点が多いが、それが領域管轄の仕事だったとしても
呂蒙までも管轄下においたかは疑問が多い。
後の時代だが文欽なんかも都護になってるし。
>>715 冠軍将軍が高位というのが三国職官表由来の思い込みだろって話。
晋代と違って三国時代は冠軍将軍に任命された人間は少ない。
文欽は魏時代に鷹揚将軍→冠軍将軍だが
呉はたぶん丁奉だけ。
しかもその昇進から考えるに、その時代の虎威将軍が高位の将軍なのは確実。
呂蒙が左護軍を授かったのは濡須の戦いの褒賞で魯粛の後任の為じゃない。
だから格の高さの話でもないんだってば
中護軍がそれだけで将軍より高位なのでもない。
将軍としての序列が呂蒙>孫皎だとしても、
孫皎の監督権限が呂蒙軍に及ぶことがあり得る。
及ばなくとも、孫皎が荊州諸軍を監督したのではないかという仮説は否定されない。
のちの陸遜らから引き出した弱い仮定ではあるけどね。
異なる統率手段によって重層的に支配してるんだよ。
>>719 まあ、そこまで断定してないが孫静伝で補完されてるな。
>>718 左護軍の話は、呂蒙が諸将の中の比較上位に過ぎないって意見への反論
>>724 それなら左護軍が荊州の諸軍を直接統率する職だったということを立論しなきゃ。
できなければ、
「平時の呂蒙にはその権限はなかった」→「荊州諸将軍の比較上位者。戦時任命によって統率権限を得た」
ということになる。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/20(水) 19:05:24
>>719 監督したのと荊州方面軍部責任者って話はつながらないだろ
>>692では孫コウは呂蒙と違って孫権の後ろ盾なしに軍を動かせるかのように書き
>>693はそれに同意した上で「荊州方面〜」と書いている。
>>722 征虜なんて古くからある雑号でも完全に上位で虎威よりも同列や下にするほうが
よっぽど理由がないと無理。
>>726 >
>>692では孫コウは呂蒙と違って孫権の後ろ盾なしに軍を動かせるかのように書き
いや、俺は692をそんな風には読まなかったし、今でもそう読めないが…
>>726 692だが孫皎は「委卿以大任,都??将於千里之外」と正史に記述がある。
ちなみに後ろ盾なしに軍を動かせるのはは、周瑜にかけたけど。
>>728 692では将軍位と引率兵数を引いて呂蒙との差を強調している。
呂蒙は自身の兵に魯粛の兵1万を加えているんだがね。
>>730 周瑜は独自に軍を動かせたが呂蒙は動かせなかった?
>>731 周泰伝あたりを読んでみろ。
名門で宗室でもない人間は下が反発するんだよ。
>>729 それは都護の意味と、対象範囲次第じゃないの?
>>725 俺が問題にしてるのは「じゃあ孫コウが統率権限があるのか」ってこと。
というか、突然「統率」と言われても。
平時と戦時を分けた話があり、それで孫コウが軍部責任者だとされたが
じゃあ平時における孫コウは戦時の大督のように諸将を「統率」する権限があったのか。
目付け(監督)に過ぎないんじゃないの?
>>693では周瑜と孫コウを特視してるよね。
>>734 だってあなたは「呂蒙が将軍の中の上位者」という評価では不満なんだろ?
じゃあ言い直すよ。
それなら左護軍が荊州の諸軍を直接監督する職だったということを立論しなきゃ。
>>733 それを孫権はどうやって説得したと思ってる?
呂蒙は目覚ましい武功を重ねていたので諸将が従わないはずがない。
というか、孫コウこそ甘寧に反発くらってるし
諸将が周泰に従ったのは孫権との紐帯の強さを知らしめたからだね
この辺の孫謙はマジ明君。
やべえ誤字ったw
>>736 なら周泰は武功がなかったのか?
甘寧の件は喧嘩別れでその後は普通に厚い交わりを重ねてる。
>諸将が従わないはずがない。
これの根拠は?
>>735 誤解を避けるために書いておくが「呂蒙のファンだから不満」という立場ではない。
左護軍というのは極めて上位であることの証拠として示したが
それと荊州諸軍の監督などという話は絡めていない。
比較上位というからには絶対上位がいるんだろ?
それが孫コウというのがそちらの主張なわけで。
俺は孫コウは絶対上位とは言えないというのが最初からの主張。
なので
>>734に答えて欲しいな。
>>739 武功はあったけど派手じゃない。
なので朱然や徐盛のような、孫策時代を知らない武将から舐められた。
呂蒙は荊南平定と関羽平定で実際に従わせている。
というか陸口督になってるし。
>>742 荊南平定で誰かを従わせた記述なんてあったか?
>>740 絶対上位なんてものは孫権以外にはいないって話を延々としている。
左護軍が極めて上位なんてどこに示されたのかわからないが、
>>734への答えは
>>696でほぼ果たしているだろう。
>>743 孫権から荊南奪取を命じられたのは呂蒙。
>>744 そりゃ本当の絶対上位は孫権だが、そうではないもっと雑な話だろ。かつて周瑜がいたような地位にいるのは誰か。
孫コウと呂蒙ではどちらが上だったのか。
>>696以後にも>>697-
>>699のようなレスがある。
というか
>>693=
>>696じゃないの?
左護軍が上位なのではなく、左護軍を兼ねた将軍の呂蒙の上位を示した。
荊州方面の第一人者というような話をするなら
>>696はその叩き台に過ぎないと思うよ。
平時と戦時はハード面では明確に分別出来るがソフト面ではそうはいかない。
呂蒙なんて戦時に司令官になること前提で送られてるだろう。
>>745 荊南戦は孫権が総大将で呂蒙と魯粛は別働隊。
748 :
747:2010/01/20(水) 21:03:45
それから、虎威と征虜ではどっちが地位が上かで議論が起きてるみたいだけど、
俺は「都護という職能にとっては階級序列は問題にならない」と主張している。
>>746 孫権は後方にいて節は握ってるが
鮮于丹ら諸将を率いて戦っているのは呂蒙だから
これは「従ってる例」で良いんじゃないの?
>>747 >>699もかよw
だとしたら孫コウを平時の責任者と言うのが俺には尚更不思議だ。
だけど「比較上位者」にしろ俺が拘った「責任者」にしろ、言葉の受け取り方の問題に過ぎないのかも知れない。
征虜将軍に関しては孫賁の持っていた「正式の漢の」印綬を継承したものかも知れない。
呂蒙が、孫皎を含む荊州諸将軍全員の序列一位、「第一人者」であったとしても、
荊州諸将への平時の監督権限を持っていなければ、
それは平時の「責任者」ではなく、「比較上位者」にすぎない。
呉の支配する荊州に於いて「平時の責任者」の可能性があるのは、
前後の任命者から見て「都護」職にある者だけ。
…まあ、その可能性が高いであろうという推測、なんだけど。
>>749 呉主伝に鮮于丹・徐忠・孫規らを呂蒙に付けたあるね。
で、この三人は将軍職を貰ってるの?
>>751 分からん
周泰に従わなかった頃の朱然や徐盛の位と同じ程度に分からん
>>752 いや、朱然や徐盛はそれぞれ本人の伝に書いてあるが。
>>753 それには周泰が何年に濡須督になったか認定せねばならない。
217年なら朱然は偏将軍で周泰より下。
徐盛は不明だが偏将軍以下なのはほぼ確実じゃない?
陸遜伝では鮮于丹は朱然や韓当や徐盛や孫桓らと並んで名前が挙がっている。
鮮于丹が特別に下位の将軍だとは思えない。
>>754 で、自分より下位の将軍を従わせられない例だな。
陸遜伝では222年のこと。215年と同列に扱う理由がわからない。
>>756 なんで下位の将軍職を従わせられないのに上位は従わせられるんだ?
>>757の文の意味が分からない。
そもそも、周泰同様、呂蒙では諸将は従わないという意見があったが
それに反論した上で例を挙げた。
そしたら鮮于丹らは将軍職かと訊かれた。
「下っ端なんだから従って当然だろう」というクレームかと思い、
周泰の場合でも従わなかったのは格下の将軍であることを示した。
「鮮于丹はさらにずっと格下だから従わざるを得なかったんだ」と言われるかと思い、222年の例を示した。
215年ならおそらく中郎将くらいだろう。
兵2万で攻めているんだから中郎将は何人かいただろうし、
呂蒙がこの時まだ偏将軍なら周泰と条件は同じになる。
>>758 >215年ならおそらく中郎将くらいだろう。
これの根拠がない。
格下の将軍ですらわからんだが。
実際の将軍職なんて周泰が最初だろ
孫権には任命するだけの役職がなかったんだから
周泰が中郎将になったとき黄蓋とかの宿将でも校尉だったからな
左将軍豫州牧になったことのある劉備は雑号将軍位与えまくりだが
徐盛は寒門みたいだけど朱然ってエリートだよなあ。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/20(水) 23:11:01
>>759 同格か格上を従わせられるなら当然格下も従うだろ
215年に2万の兵を率いてるんだから中郎将はいたと思うぞ。
同時期に長沙を攻めた呂岱は中郎将だ。
周泰配下に偏将軍はいるけど呂蒙配下に中郎将はいないと言う気なら
ためしに周泰が率いた兵の数を推測してみてくれ。
てすと
>>762 中郎将は「皇帝の使者」の性質がある特殊な高官。
秩石比二千でありながら太守など二千石の上官を統率することもありえた。
孫策が周瑜・張昭らに中郎将の官を与えたように、
陣営内でも特別の地位にある者が任じられることが多い。
まあ言わんとすることはわかるけど。
>>760 >周泰が中郎将になったとき黄蓋とかの宿将でも校尉だったからな
こんなのどこに書いてある?
>実際の将軍職なんて周泰が最初だろ
周泰が濡須督になったのが217年だろうからそれはない。
賀斉とか程普とかのが早い。
>>762 呂岱もそうだがこの時期の中郎将ならかなりの上位の人物。
さらに活動時期も長いのに伝すらなく、所々に名前があるだけ。
袁龍なんて奴もいたな
裏切り者の袁龍がどうした?
袁龍も中郎将だろ
あれは袁術系統なんだろうか
215年は孫皎も呂蒙に従ってるよ。
カク普を降した後、零陵の後事を孫皎に任せ益陽に向かったとあるし
>>769 中郎将だからなに?
安成・攸・永安・茶陵の長なのに名前すら残ってないのもいるんだが。
>安成・攸・永安・茶陵の長なのに名前すら残ってないのもいるんだが。
だからなに?
>>772 名前が残ってるだけで上位の人物だと解る。
>>770 215年の孫皎ならすでに程普に替わって夏口の総指揮を取って都護征虜将軍に
なっているな。なぜそれほどの人物が呉主伝には書かれてないんだろ。
>>774 それに関しては呉書見聞に詳しく書いてあるね。
>>774 それは編者の陳寿に聞いてくれw
そもそも呉主伝では、
呂蒙は人を使いカク普を誘い、カク普降伏し、
三郡を盡く得て将に守らせ、因って引いて軍を還す、
孫皎と潘璋を与かり、魯肅と兵を併せて並進し、関羽を益陽に於いて拒いだ。
とある。
呉主伝と呂蒙伝には齟齬があるが、孫皎が呂蒙に与えられたことには変わりないと思うが?
あと、孫皎の昇進と、荊州戦の時系列は確定していたっけ?
甘寧が「孫皎じゃなくて呂蒙の指揮下に入りたい…」と言ったからには
呂蒙も孫皎と並んで諸軍を指揮する立場にあったんじゃないの?
甘寧伝は記述がとっ散らかってるし昇進もくわしく書かれていないが
けっこうな位置にいたろ。
>>776 與は「あずかり」ではなく「ともに」
所属関係が曖昧な言葉だから、
(徐晃)與夏侯尚討劉備
みたいに明らかに都督の夏侯尚の下に付いてるけど明記しない場合にも使われたりする。
なので、この言葉だけからは統属関係は明らかではない。
この戦いで呂蒙が魯粛に続くナンバー2の役にあったのは恐らく確実だろうが、
「遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等兵二萬」の時のように孫皎らを督す権限までは
与えられていなかったということだろう。
>>778 そっちか〜失念してました。
うん、多分「ともに」と思う。そっちの方がしっくりする。
>>777 孫皎は三つの役職を持っている。
都護・征虜将軍・督夏口。
で、呂蒙はおそらく督濡須だったろうし、魯粛の後釜で督陸口だろう(役職名としての明記はないけれど)
甘寧は「呂蒙の督中に属すを求む」だから、夏口から濡須または陸口への配置転換を請願したという話だろうね。
>呂蒙はおそらく督濡須だったろうし、
こんなのあったっけ?
>>780 陸口督というのがただの拠点の守長ではなく
甘寧クラスの将軍まで指揮する役職だったってことだろ
しかもそれは平時における職能だ。
>>784 そりゃそうだよ。
呉は長江沿いの数個の拠点に長を於いて何個かの軍を統率させている。それが督。
都護・護軍の話とは別。
西陵、江陵、陸口、夏口、濡須・・・
他に何がある?
楽郷、虎林、京下、公安
あと武昌だ
>>785 この時期は夏口と陸口だけだろ
そして一族として夏口に据えられた若き孫皎は
名目として都護の位置にはいるが
荊州の責任者は上流にいる呂蒙だったのだろう。
夏口が上流
↑陸口の方が上流では?
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/26(火) 08:55:17
西陵 江陵 陸口 夏口 濡須
公安 武昌
楽郷、虎林、京下のポジションがよくわかんね
楽郷は西陵と江陵の間で、江陵に近い長江南岸の都市。
ちくま7巻の271ページに地図がある。
虎林は丹陽の西南端と言える長江南岸の都市で、対岸には廬江の皖城がある。
京下は孫韶が守った京城のことだと思う。建業の東、東方の要。
孫韶の死後はその子孫が引き継ぎ、京下督と呼ばれていた。
あと牛渚と柴桑があるな。
牛渚は濡須と建業の中間で、対岸には歴陽があり、全親子が担当した。
柴桑は江夏郡の最東部で、諸葛恪・陸抗・陸式が担当。
呉末には、益州との隣接地に丹「楊」督というのがあり、王濬の最初の餌食になっている。
長江を基準に上下流関係で並べ、他の都市も加えると
(建平)-西陵-楽郷-江陵-公安-陸口-夏口-武昌-柴桑-(彭沢)-虎林-濡須-牛渚-(建業)-京下
丹楊督じゃなくて丹楊監だった。
しかも検索してみたら、丹陽郡についても、丹楊郡と書くことは多いんだな。
というか丹楊の方が多い(正しい?)のか?
そもそも曹操が華北をまとめるのに何年かかったと思っているのか。
袁紹だって華北の大勢力となるのにも何年かかったと思っているのか。
一朝一夕で大勢力が成ったわけではない。
仮に関羽が孫権らに背後を教われずに荊州を抜いたところで、
その先の華北には、曹操の支配する要地がまだまだ数多くある。
そのうちの2,3の要地を占領したところで、その地の当地と防衛を次々に行わなければならない。
するとそのために、あてになる順に、限られた手持ちの戦力と人材を割いていかなければならない。
そして吸収した勢力もただちに自軍の戦力として使えるわけではないのは常識。
つまり戦えば戦うほど勝っても負けても戦力は目減りしていくわけで、
関羽の北上はいずれどこかで息切れして止まらざるを得ない。
何年も戦い続けられるだけの潤沢な戦力のバックアップがあれば、さらに先に進むことも可能だろうが、
なにしろ、上庸や漢中からも目前の敵への対処で手一杯で支援軍を出せなかったわけだから
バックアップは望むべくもない、というか現に無かった。それはムリだったからだ。
関羽の作戦目的がドコまでかにもよるが、境界争いの小競り合いでとどめめれたらGJだったんだが、それ以上の規模の軍事行動を起こすには明白に戦力不足。
目先の芋禁や曹仁を破ったところでまだ曹操のもとには動かせる戦力がいくらでもある。
戦ってのは腕力だけでできるものではないわけで、呉が背後を突くまでもなくいずれ関羽の北上作戦は破綻していた。
となれば孫権にとって「空気を読む」とはどういう行動だろうかってことだ
そんな心配しなくても関羽は樊城で止まるだろうよ。
漢中から襄樊を一直線に繋ぐ。
そうすれば、長安・洛陽・許都を脅かし、しかも防御に有利な地勢で力を蓄えることが出来る。
劉備の戦略が漢川一帯の保持であることは実はさりげなく漢中争奪戦時に明かされてるしな
それを実現するための外交努力が見受けられないけどな
関羽とその部下の負担が大きすぎた
根本はそこだろうね。まず劉備首脳部の戦争指導の失敗があり、
次に呉の計略に引っかかった関羽の性格と能力の不足がある。
となると、劉備、法正組の戦略能力の見直しがいるかもな
諸葛亮は成都だし、漢中にいたのこいつらだろ、確か
要は呉を舐めすぎたのが原因だな
>>801 見直しする必要はないな
外交能力の問題だから
>>796 まあ、魏王朝が一枚岩のがっしりした国ならばね。
形勢不利と感じたら、関羽戦の時のように蜀に靡く勢力や兵も
続出するんじゃないの?
それこそ、関羽が荊州制圧して劉備も漢中に居座るようなことにでもなってたら・・・
河北、徐州、荊州、西涼勢なんかは形勢次第で一気に蜀に付きそうな気もする。
曹操も頼みの綱は結局青州兵だしねえ
>するんじゃないの?
>するんじゃないの?
>するんじゃないの?
・・・
そんな不確定要因に賭けていたから失敗したんだとわかった。
随分とひとまかせな博打だな。
>頼みの綱は結局青州兵
涼州軍閥を制圧して(内部の不協和音がゼロではなかったろうが)数年でホウ徳らを戦力として動員できたということ
戦は力だけじゃできないってのは、
征服地をすばやく復興して戦力として動員できる体制を作り上げる経営力が重要というのも一つ。
それがそのまんま、勢力拡大の速度となる。
関羽の軍が群を抜いて強いということを認めたところで、仮に当時の中華最強であったとしても、
関羽の軍が強いだけではどうにもならないし、残念ながら関羽自身にはそういう経営力は無い。
戦場で「勝てる」けれどそこまでの「武将」、それだけの「武人」。
戦場で勝てても、それだけでは戦争では勝てない。
現にどうにもならなかったからこそ、劉備は人生の終盤まで安定した地盤をなかなか築けなかったわけで。
if話なのに断言ってカッコ悪くね?
なんか自分の世界に入り込んじゃってる感じがする。
うまく行くという結論ありきってカッコ悪くね?
なんか信仰の世界に入り込んじゃってる感じがする。
平日の午前中に現われるって人間的にカッコ悪くね?
なんか無職の世界に入り込んじゃってる感じがする。
煽りあいしてるやつらって人間的にカッコ悪くね?
なんかムキになってる感じがする。
このおうむ返しっぷり・・・
そして同調圧力w
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/04(木) 16:01:42
どっちの意見にも見るべき部分はあると俺は思う。
だが関羽に経営力がないというのは違うのではないか?
敵の反乱分子を抱きこむのに関してはかなり上手いし
兵隊や民衆には人望があった。まあデメリットが大きいだけに中途半端とも言えるが
漏れはカンヌに経営力(←具体的に何を指すかよくわからないが)はないと思う
コーエー的には統率、知力、政治、魅力のバランスだろう
統率に欠けると仲間割れが起きる
武力に欠けると戦死するか病死する
政治に欠けると国土が荒れる
魅力に欠けると裏切られる
でも、正史評でも関羽の軍才はべた褒め一辺倒で
確かに孫権の邪魔立てがなかったらどこまで行ってたかと
期待できるほどでもあったと思う。
性格の欠点をどこまで反映していいものやら。
万人敵だからな
漏れの中ではカンヌは土建屋のカリスマ親方ってところ。
ある意味人望はある。
職人肌ってのは分かるな
その世界に生きるルールには物凄く忠実で
何をおいても大事にしそうだけど、何事にもその世界の
ルールを適応させようとして意見の合わない同じ位の歳、ポジションにある
異なる価値観を持つ人間には本当に侮蔑しそうな感じ
彼の子分達なら相当可愛がってもらえそう。
>>804 まず確実に大部分の離反を誘発できるかはわからんと言う事。あくまで「かも知れない」に過ぎない
二つ目に、魏から離れたとしてそいつらが全員蜀に付く可能性は物凄く低いと言う事。その程度で離反するようならゲリラになったり独立したりする率の方が多いだろう
最後に、味方に付けた奴らをそのまま維持できるかはわからんと言う事。経済面・補給面でもそうだが「魏から簡単に剥がれた連中」というのをお忘れなく
それら全部頭に入れた上で「成功する可能性はあった」と主張するなら、まあ良いんじゃねえの?
博打と言うにも大雑把だけどな。第一荊州戦線の時点で「補給持たねえ」とか言ってるのに
>>821 ま、捕虜3万も受け入れればそりゃ兵糧足りなくもなるわな
どうも荊州戦線に投入された兵士は宛周辺から徴兵されたようで
下手すると関羽とそれなりに交流あった可能性すらあるし、ただの「捕虜」ではないっぽいし
まあ極めてご都合主義的なifを連想すると、蜀が勝つ可能性もあった、と言う事かもな
つか、むしろ空気を読めてたからこそ呉は関羽を攻めたんだと思うけど
わざわざ無防備になってくれてるんだし
>>823 無防備ではないよ、大分脆い状態にはなってたけど
呂蒙の電撃戦が上手く行ったことをもっとほめなきゃ
孫権の判断と呂蒙の手腕、この二点が揃って初めて成功した作戦なのだし
細かいこと言うと陸遜の手紙作戦とか他にも色々あるけど
江陵、公安はかなり堅かったらしいから
太守がまともなら攻めても落ちなかったかもね
3万も捕虜取ってりゃ誰が太守でも結構危険じゃね?
空き巣狙いで領地をかすめ取りながらどこまでも拡大できるつもりだったのなら良い選択だったのだろうが
スレ主のいう空気が曹魏を最終的に打倒するということであれば的外れな作戦だったと言わざるを得ないだろ
都督というのは作戦能力だけ発揮してりゃ良いものなのか?
>>824 素朴な疑問なんだが
大分脆い状態と無防備というのとで、関羽の体裁や体面以外で、実質的にどう違うのだろう?
どちらも備えがおろそかで不十分だったということだが
>>828 曹魏を打倒さえすればいいというのが呉の目的か?
もともと呉は必ずしも反曹一辺倒じゃないぜ?
なにが悲しゅうて劉備軍団の手足になって反曹のお先棒を担がなきゃいけないんだ?
孫権が反曹一辺倒で無い以上、そして荊州への進出を望んでいる以上、
むしろ、
>スレ主のいう空気が曹魏を最終的に打倒するということ
が的外れなことであって、わざわざ好機を見逃して関羽に協力することは都督の仕事に反することだ
>>828 その前提自体が間違っている。
劉備も孫権もあくまで自身の保身が第一だよ。
そもそも魏の打倒が何より優先するのなら、天下十三州の内、残り4州しかないのに、
それを二分する必要があるか?
長江流域が一つであってもまだ魏より国力が劣るというのにだ。
魏を打倒するよりも天下を統一するよりも
自勢力が、まがりなりにも国家としての体をなすことが先だっただけ、
打倒魏のためなら献身的になれる…なんて美しい関係じゃない。
あくまでも独立独歩したいんだよ。出し抜きたいんであって出し抜かれたいんじゃないのよ。
保身のために組むことは出来ても、利益を平等に分配するために組むことは難しい。
ましてや成功する保証が、如何ほどあるのか分からないことならね。
>>829-830 危機が迫っているなら保身第一は当然なのだが
背撃で一時的な利を得てそれで将来何を目的とするのかが意味不明なのだが
いずれ曹魏を打倒するか完全に臣従して独立を失うかの二択のところで
完全に臣従しないのなら蜀漢との関係が完全に切れるやり方に利はない
地を得たいだけなら魯粛のようにグダグダ交渉しながら拡大するやり方が先例としてある
関羽が北進するのを適当に後押しするふりをしながら後背地だけ浸蝕して
背信者に責任を押し付け関係は保つなど絶縁しない方向を目指すならまだしも
(実際妻子も保護してるし実効支配の既成事実化が強いのはいつの時代も同じ)
もっとも呂蒙の描いていた筋書きと違う結末になったような気もしないでもないし
すぐ死んでるから戦略の引き継ぎが上手く行っていないという気もしないでもないが
呉や孫権自身にとって狙い通りの筋書きというなら明日の無い選択をしたというずいぶんお粗末な話で
それを支持する信者の気が知れないわw
それ以外の方向性として、そのままいずれ入蜀して国力を蓄え時期を待ち曹魏と対峙する方向で考えていたという可能性
ただその兆候を示すような事例が見受けられない
孫権自身はいきあたりばったり空き巣狙いで領地をかすめ取りながらどこまでも拡大できるつもりだったのかも知れない
周囲に影響を受けやすく感情高い傾向は生涯通じて各所に見受けられるしな
所詮世襲領主であるからその程度でも仕方ないのかも知れない
>>831 魏を倒さなければ明日がないというのなら、何故、一つの勢力として魏と戦わないの?
何でわざわざ少ない資源を二分するの?
魏を打倒することより独立することが優先されるからでしょ。
劉備もしくは孫権の風下に立つことを良しと出来ないからでしょ。
いずれ倒されるかもしれないが、当分倒されないことが可能に出来るのなら、
お山の大将でいたいというのが劉備や孫権の意志でしょう。
貴方の言い分である魏の打倒を最優先にするってのも
実際は、俺が攻めるからお前は俺の都合に従えってのが本音で、
負担を平等に出来ないし、利益を平等に配分できない。
もし劉備や孫権が相手に、尻馬に乗るに足る勝算を示せたのなら話は別だが…ね。
大義名分で魏打倒を掲げても、現実的に可能と思える方策は、
諸葛亮にしろ周瑜、魯粛、呂蒙にしろ打ち出せていない。
周瑜以外は、取れる所から奪い、取り敢えず生き残り、
相手に変事があればっていうレベル。まあ呉蜀の国力からすれば至極当然な方策。
魏を倒さなければ明日がない。ならお互い無私で協力しましょう。
実現可能な延命措置より、出来るか分からないけど魏打倒に邁進しましょう。
って、人物に見えるの劉備と孫権が?
結局、直前に危機が迫りでもしない限り、心を一つになんて出来ない人物達だよ。
何書いてあるのかを読めない奴にレスする気まるでないんだが
現実と想像と意見と情報と区別つかないガキが何でここにいるんだか
ROMからすれば簡潔じゃないと読みづらいし
感情剥き出しの文章を読んでも不愉快になるだけだから読むキシナイぜ
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 15:51:34
魏がボロ雑巾になるまで空気読むべきだった
荊州をゲット出来るから空気読まないべきだった
のどっちかなんだろうが史実の成功もかなり綱渡りだね
呂蒙、陸遜、朱然あたりはすごいなー
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 15:54:25
まず、孫権の目的、劉備の目的、どうだったんだろうね。
単に、マニフェストというか大義名分を鵜呑みにするんじゃなく、実際にやっていたことをみて言おうじゃないか。
別に漢王朝の復興さえなればいいというんだったら、さっさと曹操に降って献帝をもりたてるという手もあった。
実際、赤壁前夜の孫権陣営ではまさにその選択肢も検討されていた。
曹操さえ打倒すればいいというんだったら、一方がもう一方の臣下になってしまっても良かった。
たとえば赤壁前後はまさにそのチャンスで、劉備軍団が孫権の臣下になってしまって対中原の戦力を一本化するという選択肢もあった。
うん、曹操に対抗するということだけならば、そうすればよかった。
その後長年にわたって荊州で三つ巴の膠着で戦力を消耗するということなく、曹操と対抗しやすかっただろう。
でも、それはちがうだろ?ありえないだろ?実際にも違っただろ?
なんでちがうのか?
つまりは、劉備は劉備で、自分の国が欲しかったんだ。
そして、それは孫権も、同じことだったわけだ。
自分が王朝を牛耳ること、あるいはそこまで大それたことでなくて、自分の思うままにできる国が欲しかった、ということだ。
だから、孫権も劉備も、互いに相手の風下につくわけにはいかなかったし、曹操に降るという選択肢を取らなかった。
自分の国を持ちたい、そして自分の国を持つ以上は、荊州も自分の国にしてしまいたいし、その必要がある。
それは劉備にとってもそうだし、孫権にとってもそう、そして、曹操も曹だ。
だからこそ、劉備や孫権はどちらも荊州については一時的な休戦を成立させはしたが、休戦の条件でなければ、お互いの要求は譲らなかった。
それに劉備亡き後の呉と蜀の間の対魏同盟が成立した後も、
荊州の呉が接収した元劉備陣営の地盤を返還するというようなことは、
条件にも上っていないか、上ったとしても無視されたし、
そもそもそんな話を蒸し返すと軍事同盟なんかまとまらないし、
実際、賢明にもそういう要求は無かった。
あまつさえ孫権の帝位僭称も容認した。
大義名分はあくまで建前で、本音のところ、目的は自分の為の国をこねくりあげることだ。
大体、お互い様という言葉がある。
孫権や呂蒙が劉備や関羽の都合で動くという発想は、
劉備あるいは関羽が孫権の都合で動くという妄想と同じくらい、ありえないことだ。
相手にも相手の欲望があり望みがある、ということを想像できれば、そんな発想はできない。
>素朴な疑問なんだが
>大分脆い状態と無防備というのとで、関羽の体裁や体面以外で、実質的にどう違うのだろう?
>どちらも備えがおろそかで不十分だったということだが
関羽が戻ってくるまでの時間を稼げる見込みがあるかないかは大きな違いだろう。
荊州失陥で何よりも致命的なのはビ芳、士仁の離反
あれで人質を取られてまともに戦うことも出来ずに配下が離散してしまった
関羽が嫌いで保身のためだったとしても
売国する前に劉備に保護を訴えるべきだし駄目なら亡命するべき
敵に内通など家来として論外、とは思ったが
自分の意志を軽んじる関羽やビ竺を殺したいほど憎悪していたから売国したんだろうか。
・・・で、実際のところ時間稼ぎにもなってないだろ
無防備という言葉の響きがイヤだからひとりで言葉遊びしてる、ただそれだけのことじゃねーか
おまえの相手と俺は別人。
時間稼ぎにならなかったのはソフト面の問題だろ。
結果論で語るな。論点をずらすな。
イヤとかそういう問題じゃなくその表現では不適当
無知でないなら贔屓で印象操作を行い史実を自論に都合よく捻じ曲げているだけ。
自分の汚点は棚上げして相手を言葉遊びとかほざくのが
最近の流行りならば改めるべき
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 17:28:29
402 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/05(金) 23:37:31
>そして負け=戦下手ではないと何度も言ったが?
それなら最早「負け」などという価値判断が多分に含まれる言葉で表現する意味すらないな。
言葉遊びにしか思えないな。
戦略目的なんて重層的だし、そのすべてを一度に達成せねばならぬわけでもない。
たとえば領地獲得のために出兵して、領地は獲得出来ぬ代りに
相手方の将を討つとか軍を疲弊させるとか政情や民心を不安定にさせることが出来て
その効果が出兵コストを上回ったなら十分な収穫だろ。
「侵略したけど領地獲得できずに撤退したら人はそれを『負け』と呼びまーす」
というのなら「お前ルールではそれでおk」としか反応出来んわな。
議論することではないだろ。定義なんだから。
410 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/06(土) 01:45:20
>撤退を負けと呼ぶ定義でこの時代を見てるんだからそう呼ぶしかなかろう
だからそれが「俺ルール」だろww
>それが俺が私情によって物事を語らないための安全弁だ。捨てる訳にはいかない
だからさ
>勝敗は兵家の常。勝ったり負けたりは当たり前だ。
>負けたから孔明は魏の連中より下とか言う連中には断固抗議して来た。
>だが一々表現に気を使うまでの神聖性を感じない。
これ全部私情でしょ。
撤退を敗北に言い換えなきゃ、というのが私情。
勝敗は兵家の常なんだから敗北すなわち格下ではないというのは完全に同意だが、私情。
なぜなら「敗北すなわち格下」という定義を受け入れることも選択肢だから。
それは受け入れずに「撤退を負けと呼ぶ定義」を受け入れるのも私情だね。
840はこいつと同一人物だろうな。
非コミュ認定されてるから相手しない方がいいよ
1 呉が関羽攻めても曹魏を倒せた
2 呉が関羽攻めなければ曹魏を倒せた
3 呉が関羽攻めなくても曹魏は倒せない
4 呉が関羽攻めれば曹魏は倒せない
>>402や
>>410と
>>840の言ってることがが結びつくかね?
すくなくとも、
>>842は前に
>>402や
>>410を強く意識してしまうような目にあったということは良くわかった。
・・・と、書こうと思って、前レスを見直したら、全然日付も時間も違う。
ああ、やっと理解した。
>>842は、ご苦労なことだが、わざわざぜんぜん違うスレで全然違うことを言っているレスを結び付けたいらしい、と。
どこのスレから持ってきたのか分からんけど、よっぽど、意識しているんだな。
一見して文体も論法もスレも全然違う両者をどうやって同一人物と認定できたのか、その努力はいじましいまでのもので慄然とするが、
推測すれば「ボクちゃんをいじめるヤツなんて、一人か二人しかいないに違いない!いちゃいけないんだー!」という発想の賜物だろう。
その深い自己愛は驚嘆するに値する。
ちらっと触れている香具師もいるが、
呉はケイシュウ取った後のことをどういうふうに考えていたのだろう?
個人的には何も考えてなさそうな感じを受ける。
取ってから考えたらいいんじゃね、的な印象があるw
取る事に戦略的意義があるんだから
乱暴に言えばそれでもいいだろう。
現実には孫権は漢朝廷に降服しているわけだから
軍事的には時間稼ぎが期待できるし、それは成功した。
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 18:21:33
>>839 ビ芳は虞翻に降伏をネタに虐められる度に反論せず恥じ入ってたらしいから、
そんな強固な信念で寝返った訳ではないだろうな
関羽への反感と苦境が適度にミックスされて思わずやっちゃっただけで、
案外本人は「やっちまったorz兄貴メンゴ」って感じだったのかも知れん
確かに、そんな一面もあった気がしてこなくもないかもしれないw
けれどもそればかりではなくて、やはり普通に軍事上、特に防衛上の必要性を意識してのことではあったと思う。
現にその後を見ても、呉の末期、陸氏一門の動きを見ても、防衛の要は荊州方面であり、
呉を降した決定打は荊州方面から進軍してきた一軍だったわけで。
長江の防衛ラインは呉の末期まで有効であったけれど、
それが機能し続けられたのは、荊州という、いわば瓶の栓がしっかり閉じていればこそ。
益荊が華北の勢力の手に渡ると「破竹の勢い」を許すしかないわけで、
その危険を認識していた上で、呉は荊州への進出にこだわっていたところもあるだろう。
ついでにいえば、「天下二分策」に基づいた、赤壁後の益州攻略計画(未実施)も。
呉にしてみれば、国力のある華北の曹操が荊州を完全に制圧してしまえばオワタで、
それよりは、劉備が荊州や益州を経営するほうが脅威にならない。
とはいえ、益荊が一つの勢力としてまとまって力をつければやはり脅威なワケで、
やはり荊州のうち、最低限でも長江南岸と渡河点、できれば全域は、自分たちが直接抑えないと枕を高くしてられない。
呉は呉で、荊州を獲る必然性があるということだ。
もちろん、諸葛亮の天下三分計が劉備による益荊確保を大前提としている以上、劉備には劉備の事情があるわけで、
だからどちらも譲れないわけで、それはどちらがどちらを降しても、仕方が無いことだろうよ。
>>844 ・くどい
・ダブスタ
・相手への非難が自己紹介
・史料よりも自己イメージ優先
という点で高い類似性がある
揚州方面で北から南に乗り込んだのは孫策だけかな?
あとは大概西から東に移動してそう
西→東 晋の征呉、隋の征陳
北→南 孫策
>>846 呉の北伐が失敗してるところを見ると
軽率すぎたんじゃねえの?
関羽の破壊力を敢えて盾にして自分らは張遼をも関羽戦線に引っ張っていった
隙に合肥方面からの進出を考えてもよかったような気もする。
他力本願と自力救済のバランスの問題は難しいが
呉は最初から最後まで天下二分からの北伐を企図していたのは間違いないだろう。
むしろ蜀も勝ちたいならばそうするべきだった。劉備一代では無理だろうけど
呉にとっては孔明の再建や羅憲の奮戦は予想外
1月1日
1月25日 王渾が尋陽・頼郷の諸城を攻略
2月1日 王濬・唐彬が丹陽城を攻略
2月3日 王濬らが西陵城を攻略。留憲らを殺す
2月5日 王濬らが夷道・楽郷を攻略。陸晏、陸景を殺す
2月17日 杜預が江陵を攻略。伍延を斬る
2月18日 今後の作戦方針に関する詔が出される
2月下旬 王渾が張悌を破る
3月上旬 陶濬が帰還し、王濬の迎撃を行おうとするも、兵が離散する。
3月15日 王濬石頭城に至り、孫皓降伏 する
4ヶ月で呉が滅んだのはやる気がなかったから?
関羽が呉に背後突かれなければ、良いにらみ合いになってたと思うけどな。
曹操はその直後に逝ってしまうし、間をおかず夏侯惇や張遼も次々と亡くなる。
合肥から進出なんて呉の水軍依存体質からして不可能だろう
合肥を取って荊州を奪うか、荊州を取って合肥を奪うかのどっちか
蜀の諸々の不備と不注意か重なった結果とはいえ呉の荊州進出は必然
蜀が天下を取るには荊州方面は専守防衛が基本だろうし
攻めるなら後詰を益州から送るのは当たり前
実際、結果として、関羽は敗れ、包囲され、討ち取られた。
その事実、その結果を無視して、史料にのっとった会話や解釈、というものはありえない。
また、そのような事態に陥った理由は何か、そこを掘り下げずして、史料にのっとった会話や解釈といえるのか。
関羽が徐晃に破れ、そして関羽軍の妻子らがあっけなく呂蒙の手に落ちたことで、
樊城攻略の時に付き従っていた兵士たちは、四散した。
と、これが史料の記述だ。
史料に基づいた話とやらをするうえで、史料に書いてあることは無視できるはずはないだろう?
関羽軍は、そのように、負けて、四散し、関羽は追い詰められたわけだ。
それは、関羽ファンには痛恨極まりないことだが、史料に基づく限りでは、事実だ。
(ついでに言えば、その事実に触れないようにするのと、その事実について語るのと、「史料を無視して自己イメージ優先」とはどちらを指すべき言葉だろうか?)
また、史料というならば、正史関羽伝の記述を読まねばなるまい。
例えば、孫権の息子の嫁とりはしっかりと記されているが、
「関羽が孫権の使者を罵倒して断わったために、孫権を激怒させた」と明記されている。
孫権を怒らせたのは誰で、それは、誰の責任だろうか?
関羽は、本来この孫権の提案に応じるべき立場ではなかったろうか?
もし断わることが正しかったと仮定したとしても、断わるなら断わるで、罵倒などせずに、孫権を刺激しないように丁重に断われなかったものだろうか。
また、正史関羽伝では、于禁の樊への援軍とその降伏は建安24年の秋のこととされている。
この年が、関羽の没年でもある。
つまり、秋に于禁を下してから、呂蒙に背後をつかれ、徐晃に敗れ、江陵・公安を失い、軍が四散し、包囲され、囚われ、斬首される、
これだけの多くのことが、全てその年内に起こったことだ。
つまり、長く見積もっても、秋から年末にかけてのほんの数ヶ月で、荊州の拠点を呂蒙に奪われ、関羽軍は瓦解したわけだ。
これらのこと(これだけではないが)をハッキリと言って、それが史料無視の自己イメージ優先になるなら、史料はどこにいった?
正史の関羽伝はここでも参照できる
ttp://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=shu6-1;lang=JpCh
あのタイミングで自発的に空気読んだら江陵、公安は
交渉でも実力行使でも絶対取れない
蜀がするべきだったのは交渉で解決出来るように匂わせる外交努力で
孫権に優柔不断な態度を取らせることだった
>>856 関羽が魏呉名将数人分に値する将器を持ってたのも事実だけどな
だからこそ関羽を集中して討ち取る計画を練ったってのも正史の通り
そんなことをしてしまったおかげですっかり呉は
卑怯者だの姑息だのと罵られるハメに
いや、取ることに意義があったとしてもイリョウの引き金になっているから戦略としては不味すぎると思われ。
取ることももちろん、取り方、取った後のシミュレーションを十分にしておくべきだった希ガス。
だけど、ひょっとしたら、カンヌを捕まえちゃうとは夢にも考えてなかったのかもしらんなw
全くのアクシデントだったりしてw
>>860 孫権「うちの子を犬呼ばわりしやがって!」
こんな孫権の私憤から結果として関羽を討ち、荊州を手に入れてしまった。
孫権「その後?うーん、どうしようかな・・・」
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 19:42:48
>>859 まあ関羽を討ち取ったことで呉が後世で色々割食う羽目になったのは否めんな
井波律子も「羅貫中の関羽を討ち取った呉への怨念ぱねぇ」と言ってるし
犬呼ばわりは演義だけれどな
でも関羽はなにがそんなに気に入らなかったんだろ?
>>862 戦略的には弱点を突くのは卑怯でもなんでもないからな
寧ろ、討ち方に形振りなんぞ構ってられないほど
関羽が荊州に居座られる事は魏呉にとっては脅威だったのかも
一介の読者としては普通に「呉は汚ねェなあw」とはなるけどね
関羽のプライドが傷ついたからだろ
>取ることももちろん、取り方、取った後のシミュレーションを十分にしておくべきだった希ガス。
じつはそれを全てシミュレートして起こったのが夷陵の戦い
すべては陸遜の計算通りだった
んなわけない
>>862 そこで関羽が死ななかったらそもそも神になれなかった可能性が大きいぞ
英雄には悲劇はつきものだからな
生首になって曹操の元へ届けられたから後世で崇め奉られた
清王朝「関羽様アザース^^」
>>856 呉の楽勝というのは否定していないだろ。
「羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽」と予想し
「羽果信之,稍撤兵以赴樊」あるように防御の戦力の一部分を北に投じたのも事実
だが楽勝で戦力を移動させたから「関羽は無防備だった」なんて断言する性急さが
自己イメージ優先だとは言った。関羽伝以外読んでないのかい?
后蒙舉軍西上,南郡太守麋芳開城出降。
蒙未据郡城而作樂沙上。
翻渭蒙曰:“今區區一心者麋將軍也,城中之人豈可盡信,何不急入城持其管答乎?”蒙即從之。
時城中有伏計,ョ翻謀不行。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/09(火) 20:04:26
>>868 それと祟り神的な側面だな
呂蒙曹操孫キョウと、偶然にしてもこれだけ相次いで死ねば関連を疑いたくなるのが人情
最初は菅原道真みたいに怨みを鎮める為に廟を作ったんじゃないかね
>>872 関羽が死んだ直後に疫病が発生して荊州全土を免税したんだっけ
>>872 唐代くらいまでは関羽も怨霊神だったそうだが
霊験があり、御霊となって転化してからは現在知られるとおりな
状態の偉い神様になっていったそうな
>>866 仮に夷陵までも陸遜の計算通りだったとしたら、
最期はもう少しまともな最期にできたろうにな・・・
で、いまぼけーっと魏に対する方策を考えていたけど
正直思いつかんw
あの219年前後の呉・蜀が魏に対抗するには
時が経って状況に変化が生ずるのを待つしかないように思われ。
七軍の水没で魏の国内が動揺しまくってたけどな
蜀もスカスカだが魏も言われるほど磐石ではない
それだけに呉への外交が重要なわけで蜀の首脳陣は何してたの、という・・・
>>876 そもそも関羽がなにをしているのか把握できていたのかね
外交もなにやっていたんだという感じだけれど軍も十分に動かしていない
蒼天の意図的放置は上手く逃げたな〜と思ったw
一応、孟達や劉封に命じて関羽を支援させようとしたが失敗してるな
漢中の方は囮として曹操軍をひきつける役回りもあるし、簡単には動かせなかったのだろうが
それでも関羽軍の孤立ぶりが目立つ
後世の視点から見れば、首脳陣の戦略が甘いとしか言いようがないね
仲間割れと裏切りは普通予想外
>>829 無防備→備え無し
脆かった→備えていたが欠陥があった
手落ちがあったとしても守る意思が見える分前者よりも後者の方がマシ
>>875 呂蒙が関羽を討つ間に、陸遜は夷陵を締めて援軍も荊州からの退却も許さない形を取ってるし
益州方面からの攻め手を防ぐポイントはきっちり抑えているから、ある程度は計算してたんだろうけどな
関羽が勝手に動いたのか命令で動いたのかよくわからない
上庸への援軍指示だがあるいは最初から意図して応援させるつもりだったのかもしれないし
あるいは意図に反して関羽が動いてしまったので救援させようとしたのかもしれない
いずれにしても孟達は指示を受けた上で援軍が無理だと判断して劉封を止めたが
ちゃんと練りこんだ戦略ならば上庸からの援軍準備を関羽を動かす事前に整えさせているべきで
そうしていれば孟達が四の五の言う余地はなかった
そもそも荊州の戦局を動かすんなら上庸への援軍指示だけでは明らかに手数が不十分で
江陵ルートで更なる援軍を動かせる体制を整えてから関羽に指示を出すべきだし
関羽が攻勢の間の呉との外交交渉は成都が責任を持ってしっかりしてなきゃいけないところだった
そうした記録がないというのは軍事面外交面でのバックアップ体制が整う前に命令だけ出した首脳陣の不手際か
命令以前に戦闘が起こってしまって首脳部の対処が間に合わなかったのか
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
〜松浦静山(肥前平戸藩主)
>>881 無防備→攻められれば即死
脆かった→ほっとけば負けるが時間稼ぎは出来る
こうかな。
即死だったが無防備だったようには読めない。負けたのは内訌。
虞翻の説得で戦わずして降服せざるを得なかったほど貧弱な防備しかなかった状態を、
無防備か脆かったか、なんて言葉遊びじゃないの?
内訌が無ければ士仁が戦って討ち死にしたか、敗走しても関羽に斬られずにすんだかもしれないって差しかない。
少なくとも当事者はそう思ったってこと。
>>883 命令があったと思うよ
関羽が北上して曹仁と絡む時期は漢中戦直後だが
数万規模の軍が動くからにはその数ヶ月、早ければ1年前から準備しなけりゃならんし
移動にも相応の時間が掛かる
劉備がヒィヒィ言ってる漢中戦の真っ最中に動いてるわけで
これが独断だとしたら、漢中取った後仮節与えるどころの騒ぎじゃねぇと思うよ
>>886 漢文の解釈はおまえが嫌う「言葉遊び」そのものだろ。
いやなら何でここにいるのか?
虞翻の説得で降伏したのは補給、索敵に失敗して保身が危ういことによる戦意の問題の方が大きい
戦わずに降伏したから無防備だったなんてのは表現、論理展開の両方おかしい
上司が降伏したのに部下が反撃を計画するということは余力があったということだ。
江陵、公安から襄陽、樊城の距離が約200km。大体半月あれば帰れる。
後に朱然が使える兵が5千程度で数万相手に半年持ちこたえたのを考えれば
防衛の見込みがない、というのは性急な結論。
大体において速攻を受けて動揺するのは状況が把握出来ないからだ。
死ぬ覚悟を関羽の下では保てない、士仁が降った動機はそれだけ。
偽装作戦や内通に成功するのは姑息でもなんでもなく頭がいいだけ
そのことで呉が非難されるのは不適当
また、それに引っかかるのを短絡的に馬鹿にするのもおかしい。
曹操や張コウだって引っ掛かる時は引っ掛かる
だから戦術的作戦的に呉がどうこう言う奴はいないんだって
そのあとどうすんのかまで考えて荊州ぱくったの?関羽斬ったの?ってお話
>>891 そんな史書に明確には書かれてないことを問われてもねぇ〜
まぁ益州に対して野心はあったみたいだけど、呂蒙も長江流域を視野に入れているが、
一朝一夕にどうなる物でもないしね。
大体相手のいることだし、
希望的観測だけを、つらつら並べても仕方ないだろうしね。
荊州を取る。既成事実をでっち上げる。文句言うなら返り討ちにしてやる。でも出来るなら講和したい
ということだろうか。
関羽を斬るのは外交的にはNGだろうが
劉備が攻めて来た時のリスクを考えると斬るメリットは大きい
三国どこも場当たりで基本戦略とかどうなったの?みたいな部分、判断はあるしな
戦略が上手くいくのなんてほぼ皆無
>>1 呉が自分の都合で関羽の北上を傍観することはあっても
蜀の為に空気を読む必要はない。
仮に空気読んでも魏を倒せたかまでは断言出来ることではない
呉の戦略は魏に臣従している間に、荊益に対する影響力を得るというものだろう
長江防衛線構築には、結局荊益州を何らかの手で奪わなければならないわけだし
結果論とはいえ荊州を奪った事は+ではある
南蛮の叛乱を煽る戦略は諸葛亮らの奮闘で頓挫したが
蜀が呉と結びついた事+対魏路線を明確に打ち出した事で
益州方面をさほど気にしなくてよくなったしね
夷陵の戦いは覚悟の上だろうが、呂蒙を失ったことや、劉備の攻勢の激しさで
狙い通りに事は運ばなかったようだが
呂蒙が生きてたら夷陵はどうなってたかな
えんやくいりょー
219年の状況は我慢出来ないほど絶好機だったので攻め込んだ
据え膳
最近の流行なのか類似スレを釣りスレタイのまま脊髄反射で立てるのはやめようぜ
曹操が追わずに江陵を占領してたらどうなってたかな?
追わずにってのはどういうことかよくわからんが
赤壁前なら劉備は江陵と襄陽の間にいたから、江陵を占領するなら劉備が主目的じゃないにしても追う必要はあると思うぞ
分かりづらいようですまん。訂正しとく
曹操が劉備を追わずに劉備が江陵を無傷で占領してたらどうなってたかな?
>>896 引き篭もりしか能が無い弱小は黙って見とけよ、コラ。
という後世からの猛烈なバッシング。
>>904 普通に赤壁後の展開が赤壁抜きで始まる
どうせ曹操は攻勢限界だったしどっかで一度引かなけりゃならんかった
荊州貸与があーだこーだとかいうのがなくなるのか。
江夏も劉備に帰属するだろうからそこで防ぐことになるのだろうか
しかし、いつの時代でもif話は鉄板の盛り上がりを見せるのう
関羽を捕えるところまで好戦果なのだから、そのまま関羽を客分扱いとか保護とか名目つけて
呉国内のどこかに囲っておくというのはどうだったのだろう
留めている間は蜀漢は絶対に攻めて来られないだろうし
荊州領有を認めさせる交渉の材料に使うこともできそうだ
もしくは適当に条件を付けて魏との戦闘に使う手だってある
魏と戦う名分自体は死んでないわけだから
または蜀主にやられたのと同じように、北地を奪ったのち荊州を「返す」約束をするというのもある
実際に返すかどうかはまた別としてな
いずれにしても斬る必要はなかったというか斬ることの利がさほどないように思うのだがどうか
人質にしとけばいいだけで殺すと角がつくよな
角が立つか
>>871 ・守備兵すら投入して前方の敵に当たる
・結果的に後方のビ芳達はろくな抵抗も見せないまま降伏した
これを無防備と表そうが脆いと表そうが、意味には対して差が無いと思うが
それこそ、言葉遊びの範囲だろうよ
単に同じような事象を表す表現の相違であって、漢文の解釈の差、とは全く意味合いが違う。
「殆ど」と「ほぼ」の差を論じているようなもの
>>912 解釈の違いじゃない
「脆い」は質的な欠陥であって、量的な欠陥じゃないし
「無防備」というのは質量ともに欠陥してるという意味になる
言葉の意味がまるで違うよ
>>912 意味に対して差がないならそもそも突っ込まれないんだよね。
事実を正確に捉えようという気持ちは同感だが
それでも遺漏があれば突っ込まれるし
結論が飛躍してても突っ込まれるものだ。
特に状況証拠だけでよく分からないことまで断定すれば必ず突っ込みが入る。
むぼうび —ばうび 【無防備】
災害や危難に対する準備のない・こと(さま)。
もろい 【▼脆い】
外からの圧力や影響に対して抵抗する力が乏しい。
ほとんど 【▼殆ど】
(1)すべてといっていいくらい。だいたい。おおよそ。あらかた。
ほぼ 【▽略/▽粗】
だいたい。あらかた。
>>915 全く意味が違うじゃん
そもそも「ほとんど」と「ほぼ」の差と違って「0」を表す無防備と「0より大きいが必要量に満たない」脆いの差とは全く違う
例えからして全然当てはまってないよ
結果的に降伏したから無防備同然
無防備そのものかどうかは史料からは判別不可能
>>904 荊州→益州→漢中→関中、中原→…→天下統一
というのは大して変わらないんじゃね
貸与関係なく守備が薄くなれば孫権は同盟を結んでいても勝手に攻めて来るだろう
>>918 同然ではないな
無防備だったら呉が蜀の守将たちを「降伏」させる必要もないじゃないか
無防備そのものかどうかは史料からは判別不可能
うむ。ここだけで十分
>>922 降伏する連中がいるってことはそいつらが「備え」でしょ
役立ったかどうかは置いといて
降伏しなければ守りきれたかどうかは史料からは判別不可能
じゃあこれで。
吉本、耿紀、韋晃
侯音、衛開
魏諷、陳禕、張泉
馬超、韓遂、張魯、孫権
あたりの動向が全部蜀に都合よく動けば統一可能
>>925 まだ全員の反乱位置と地理的な関係をちゃんと調べつくしてはいないのだが
少なくとも侯音に限って言えば都合よく動いてると言えるんじゃないかな
じゃあ「備え不足」で手打ちにしとけ
めんどくせーから
めんどくせーなら
>>1の言に文句なしでいいんじゃね?
戦略、人事、諜報の失敗で手打ちにしてやるよ
言葉遊び君の失敗もこれ以上突っ込まないであげる
>>929 手打ちも何もそう判断するしかないじゃない
>>930 だからその判断で手打ちだということだ
個々人がどう表現するかは論じない
というかまだやってたのかと感心した
俺おととい辺りの言葉遊び君だけど
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 14:52:37
>>926 曹仁が洪水で包囲されてる状況で
南陽が蜀に降ったらとかそういう次元のご都合主義
>>934 無防備ではなく防備は有ったが「戦略、人事、諜報の失敗」が積み重なって
結局あっさり抜かれたのだから元々それが正しい
じゃあ相互理解は果たした、これで手打ち、ということで
>>935 戦略、人事、諜報の失敗は共通の理解として
無防備でなかったか無防備だったかが論点。
降伏した人間がいるならそれが防備ということ。役に立ったかどうかは別で
>>934 「最初からそう」だから、「それが結論」ということで手打ち。
手打ちの意味は辞書で引いてくれ
>>939 手打ちという言葉は不適当
一方的に間違ってた奴がいてそいつが訂正するだけだ
それは手打ちでも何でもない
>一方的に間違ってた奴がいてそいつが訂正するだけだ
これには全く同意だが、不適当?何で?
自分の間違いを省みずに忠告を一方的に言葉遊び扱いしてた彼は
自分の発言を訂正する以外にも当然言うべきことがあるが
今までの経過を見ても言わないだろうし、
それをさせようとも思わないから、これで手打ちだと言っているのだよ。
関羽北上スレの関羽マンセー寄りなスレで
関羽不利な状況で手打ちって言われても引っ込みつかんよな
要するに
手打ちなんて相手の面子が立つような幕引きでは納得できない、と?
>>941 手打ちじゃなくて一方的に間違った奴が訂正するだけだからだよ
それは和解とかとかが必要な争いごとでもなんでもなく単純に間違いを指摘された奴がそうするだけのこと
手打ちだの何だのとまるで争ってるかのような主張をされても困る
バカに教えてやっただけのことだ
>>944 彼に対する感覚が俺と全然違うな。
あくまで俺にとっては論争だったし、不適当というのは断じて違う。
誤解してるが俺は手打ちにするというだけで
君の意思まで代表したつもりはこれっぽちもない。
これ以上続けたいなら止めはしないさ。
火口淵が戦死した後の曹操
カンヌが戦死した後の劉備
なんかね。
どうでもいいが金玉に俺と同意見を出されたのが痛恨だったなこのスレ
>>946 ちょっと違うが
孫登が病死した後の孫権
って書き込んだら居やがったorz
もう寝る
寝る前に喪前さんが漏れと同意見したレス番教えて
劉備は曹操が追ってくるなら交州までエクソダスするつもりだったのかな
無防備かどうかの議論してたのか・・・
そんなのどうなのかしらんが、
無防備と言われてもおかしくないようなビフォー達のお粗末さだな。
で、いつの世も部下の失態は上司の責任。
・・・最近は違うかもしらんなw
189〜 幽州⇒冀州⇒青州⇒徐州⇒予州⇒徐州⇒冀州⇒予州
200〜 荊州⇒揚州⇒荊州
211〜223 益州⇒荊州⇒益州⇒荊州⇒益州
行ってないのは涼州、交州あたりかな
実は946で言いたかったのは、まだ曹操のほうが劉備よりまともじゃねーのってこと。
劉備はカンヌの死すら利用して打倒曹操の姿勢を見せてほしかった
フサに対してのコウセンのようにな
ところで次スレいるのか?
いらねーよ
曹操>夏侯惇、曹仁、夏侯淵
劉備>関羽、魏延、劉封&孟達
孫権>呂蒙
舌禍で死ぬのは自業自得だが
孫権を滅ぼすぞゴルァするのは気が狂っているとしか言えない
関羽は正気だったのだろうか
防備がまともに機能しないならそれは無防備としても構わん気がするが
それは違うと頑なに言うなら止めはしないが
機能はしてたが呂蒙の手腕が優れてた
そんなに意固地に無防備だったと主張したいなら許して遣わす
意固地(いこじ) 意地を張って、詰まらないことに頑固であること。また、そういう性質。
どっちだろうと大して変わらんよ
>>959 おまえのいい加減な日本語と関羽儲認定に反論するのが頑ななら
間違いを認めず、根拠なくレッテル貼りをするのは馬鹿としか表現しようがない。
自分に甘い上に他人に優しくされなかったら
泣き言をほざくとかワガママにもほどがある
>>963 無防備だと関羽やその幕僚たちは軍事の基本も知らないバカって事になるし
防備はあったが欠陥があった、だと何故気付けないのかという事を考える必要がある
そこは大きく違うよ
前者だとそんなん相手に何年も荊州奪えなかった連中も雑魚って話だし
後者だと見抜いて攻撃し掛けた奴SUGEEEEEとなる
呂蒙sugeeeee
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 15:16:40
無防備か脆かったかなんてどうでもいいよ
ヒゲが不様に負け斬首されたのは事実だからなwwwww
蜀オタはこの大前提を崩すことは出来ないwwwwww
>>968 無様に、ってわけでもないだろう
斬首ってことは降伏しなかったってことだしな
むしろ最期まで威厳ある態度だったと思うよ
そいつはどうみても患者だからスルーで
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 15:27:56
>>969 いやいや
命乞いをして斬首された可能性もあるだろwwwww
負けた時点で威厳なんて皆無wwwww
可能性とかイミフ
史料から根拠を出してください
>>966 実際関羽は外交の基本も知らない馬鹿だったと思われる
ただのチンピラが大勢の部下に囲まれて偶然戦果を上げたから調子に乗ってしまったのだろう
戦果をあげる時点でただのチンピラじゃないだろ
いい加減にしろ
部下がたくさんいる時点でもただのチンピラじゃないな
外交の基本も知らない馬鹿というのには反論不可能かw
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 15:52:51
負けたという事実から目をそらしてやがるwww
孫権は曹操に何を送ったんだろうな?
>>969 〜ってこと
〜だと思う
全部根拠ない推論
負ける時点でただのチンピラ
関羽=チンピラ
そのチンピラに負けたウ禁らはチンピラ以下?
ってわけでもないだろう とかイミフ
史料から根拠を出してください
だいたい降伏しても斬首になった実例も多いしな
チンピラに上も下もねーよ
>>978 降伏するからこれ以上攻めないでねという手紙
カンヌは暴力を使う目的、方向、機会、期間のすべてがイマイチ
口約束で部下や第三勢力を安心させるのも疎かだし董督としては落第
それによって天下無双の豪傑であるという事実は揺らがないがね
だからヒゲはただのチンピラだっつーの
荊州の防備も結果的にみて無防備で何の問題もない
966はヒゲオタだからヤケクソになってるんだろうがね
関羽=チンピラ
関羽=戦下手のチンピラ
関羽=常敗将軍の戦下手のチンピラ
関羽=猪突猛進で常敗将軍の戦下手のチンピラ
関羽=猪突猛進で常敗将軍の戦下手のチンピラだったが捕虜になって生首
関羽=無防備な状況で猪突猛進した常敗将軍の戦下手のチンピラ捕虜生首
関羽=顔良を騙まし討ちしたカスで無防備な状況で猪突猛進した常敗将軍の戦下手のチンピラ捕虜生首
関羽は大卒扱いだったようだがFラン程度の教養しかないよ
春秋サシデンの無駄
1000ならヒゲオタ憤死
1000なら無防備で問題なし
1000
1001 :
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い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
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