1 :
無名武将@お腹せっぷく:
ただいま曹操は敗戦の憂き目を見たばかりで、
自分の身辺から変事が起こるのではないかと心配いたしており、
とても孫権さまと兵を動員して戦いを挑み合うといった余裕はございません。
どうか孫瑜さまとともに軍を進めて蜀を奪取することをお認めくださいますように。
蜀を手中にしましたあと、張魯を併呑し、そのうえで孫瑜さまにその地に留まって守りを固めていただけば、馬超との同盟関係もうまく結べます。
私は、蜀よりもどり、孫権さまとともに穰陽を根拠地として曹操を追いつめてゆけば、北方制覇も夢ではないのでございます。
周瑜が生きていたとして、この戦略について考察するスレです
問題点
・蜀攻めが上手くいくのか
・曹操軍の動向
・劉備軍の扱い
こんなところでしょうか
上手く行けば馬超の存在から、実際の天下三分よりは天下穫りには有利でしょう
けいしゅうがこわい
周瑜を暗殺したのは劉備だからな。
この策に危険を感じてたって事だろ。
>>2 馬超らの野心がいか程かにもよるんだが、
基本的に涼州から来る方が南方よりも遥かに都にアクセスが容易なんで、
曹操はそっちに神経を使わざるを得ないと思う。
我々はその後の歴史を知ってるから呉や劉備を重視するのを自然に感じるが、
当時10万人規模で軍を動かすなんて全盛期の袁紹勢力に匹敵する脅威で、
赤壁に合わせて五万程度の孫・劉連合よりよっぽど恐ろしい。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/14(月) 17:24:47
>>5 だからこそ周瑜が蜀を素早く落とせたらかなり対曹操で有利にはなるんじゃないか?
馬超との同盟が上手く行けば長安奪取も余裕、さらに荊州からの進軍で曹操もヤバいだろう
馬超、曹操、臧覇
周瑜、劉備、孫権
で曹操をあぼーんする
馬超、曹操、臧覇
孫瑜、周瑜、孫権
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/14(月) 17:34:39
魯粛の方が、天下二分の計を考案してた件について
劉備も孫権も上に立ちたい人間だから駄目だよ。
涼州連合みたいに内部分裂してあぼーんが関の山
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/14(月) 20:39:47
劉備との関係は難しいところだわな
ただ蜀を抑えた時に劉備が何か出来るかってーと疑問
曹操押し込むまでは孫権と合流せざるを得ないんじゃないか
そういや曹操、劉備、孫権それぞれの暗殺説があるんだよな
凄い状況だw
劉備が暗殺したのは周瑜とほう統だっけか
他にもいそうだけど
>>6 5は
>>2のいう「曹操軍の動向」に対応していて、
「馬超らへの対応がより重要なんで南部に手は出せないだろう」が俺の結論。
勿論攻略が早まる程有利だろうし、最悪滅んでいても南部をほぼ一元的に統治できれば史実よりは展望がある。
蜀攻めが上手くいくかどうかは、張魯の動向が鍵かな。
家族を劉璋に殺されてるんで、こいつが本格侵攻を開始すると劉璋の首がマジでヤバイ。
あっさり呉に靡く可能性すらアリ。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/15(火) 09:02:12
史実の周瑜死亡から馬超滅亡、劉備蜀奪取、曹操の漢中併呑までの年表ってどんな感じだっけ?
210 周瑜死亡。劉備の南郡進出
211 ドウ関の戦い
213 入蜀
214 成都包囲。馬超帰順。劉ショウ降伏
215 魯粛の侵攻。劉備が布陣。張魯降伏。荊州分割
>>17 サンクス
じゃあかなりの短期間で張魯併呑まで持って行かないと馬超が危ないな
いけるのか?
最近の三戦にしては珍しくマトモに三国志を語るスレ
水軍中心の呉軍が山岳地帯の蜀を1〜2年ですんなりと攻略できるかどうかが疑問
劉備は騙し討ちから戦を始めた訳だし
>>19 意外に忘れられガチなのが四川や三峡がモロに長江流域だということ。
むしろ優れた船舶装備は武器の一つと考えて良い。
そして揚州も中心部から離れた南部は山脈が多い。
例えば賀斉の伝を見ると険阻な山奥での戦闘の様子が窺える。
辺境で山越討伐に従事してるような人間は、山岳討伐の経験も少なくないんじゃないかな。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/15(火) 11:25:56
劉備と孫権が折り合いをつける
馬超が持久戦してくれる
入蜀が成功する
それまで周瑜が生きてる
四重の奇跡だな
劉備がごねれば終わり
>>21 一番下から逆算して考えると、
周瑜がもし長生きした場合、侵攻は210年スタートする。
周瑜伝にある通り、この時張魯が侵攻を開始していることが契機なので、
防備は北方に重点的に割り振られていると思われる。
ここで考えられるのが2ケース
・劉璋が呉側の進軍にビビッて急遽張魯と講和する→侵攻が困難になる。
・二方面からの圧迫に益州内が更に混乱する →内応者の手引きも期待できる。
上にも書いたが、張魯にとっては肉親の仇なんで上の見込みは低いと思うが、
時は乱世なんでないとは言えない。下だと話は早い。
そもそも劉璋の国内での求心力の低下が、実際に劉備に国を取られた一番の要因。
益州を根拠地とする(だろう)劉備と比べると、内応する旨みにやや欠ける気もするが、
劉備の方も制圧後荊州派を基盤としてたりするんで、器の問題なんだろう。
馬超の動向だが、史実通りに進んでも戦争の終結は211年の12月、
都に戻ったのは明けて212年のことなので、仮に2年かけても侵攻自体に影響は与えない。
勿論、丸々二年かけて涼州勢力が滅んでしまうと、その後の南北決戦の勝率は下がる。
というわけで、作戦自体の成功の目はかなり高いと個人的には思うが、
劉備との折り合いが、多分一番難しい。
単純に考えると、勢力の大きい孫権側がゴリ押しできそうにも思えるが、
妥協の余地が大きいのも余力のある孫権側なんで、瀬戸際外交を迫ってこないとも言えず、
マジで
>>22の一言でそのまま終わっちゃうことも十分考えられる。
そこで劉備擁立説ですね
周瑜が関張使って北上となると曹操もチビる
皇帝:劉備
皇太子:孫夫人の子
太師:孫権
太尉:周瑜
司徒:張昭
司空:諸葛亮
大将軍:孫権
驃騎将軍:馬超
車騎将軍:韓遂
衛将軍:孫瑜
前将軍:関羽
後将軍:呂範
左将軍:張飛
右将軍:呂蒙
甘寧も天下二分を唱えたのに無視されてる件
>>25-26 元々君主としての支配権が微妙で、張昭・周瑜がバックに立つことによって一応の確立をみたぐらいなのに、
形式上でも劉備の前の臣下として相対化されたら、孫権(孫家)の立場は崩壊するんでないかと。
劉備の漢を豪族連合にシフトしての吸収合併なんだから当然だろう
孫権がCEOから重役の一人になるだけの話
>>28 その当然の帰結からして、孫権の取るべき選択肢としてはありえないのではないだろうか。
君主権の放棄を迫れるような局面とも思えない。
だって周瑜の自己実現が第一の計画だし
>>30 周瑜の自己実現って具体的になにさ?
それが読み取れる部分と併せて教えて欲しいわ。
ただいま曹操は敗戦の憂き目を見たばかりで、
自分の身辺から変事が起こるのではないかと心配いたしており、
とても孫権さまと兵を動員して戦いを挑み合うといった余裕はございません。
どうか孫瑜さまとともに軍を進めて蜀を奪取することをお認めくださいますように。
蜀を手中にしましたあと、張魯を併呑し、そのうえで孫瑜さまにその地に留まって守りを固めていただけば、馬超との同盟関係もうまく結べます。
私は、蜀よりもどり、孫権さまとともに穰陽を根拠地として曹操を追いつめてゆけば、北方制覇も夢ではないのでございます。
hore
所謂トラタヌ
>>32 そこに劉備の擁立(孫権の君主権の放棄)をよしとするような部分は見受けられないが。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/15(火) 19:35:25
>>29 要は劉協に対する曹操、劉備に対する孫権になるっ話なら選択肢としてもアリじゃないの?
>>34 病死寸前の男だぞ
今の鳩山みたいな状態だったんだろう
肝心の部分に言及してないのは当然
ふーん
キチガイドリーマー状態ということか
宮殿を作り美女をやって劉備を呉に置いとくって提案じゃないの
名だけ与えて実を取る作戦
>>35 元々曹操は本人の代で建てた勢力だし、後漢組織の中でもエリート出身で、
しかも親族で中核軍を固めてた。
一方の孫権は勢力を兄から引き継いだ存在で、元もとの地位も部下たちと同格で、
軍権は広く拡散してる。
諸将に対する優位性が全然違う。
……ここまで書いて思いついたが、曹丕に引き継ぐ時はこの問題を解決するため、
曹操の生前に魏王国を建設して、曹氏の諸将に対する優位性をあらかじめ誇示していた。
これに倣って漢王朝・呉王国体制でもとればまぁなくはない、のかな?
>>36 その「肝心の部分」とやらを示唆する根拠もなく、
「だって周瑜の自己実現が第一の計画だし」と当然のように断定されても困るぜ。
>>41 自分という存在を最大限に好意的に解釈した結果の戦略だからな
俺がいればこうなる!という自負心ばかりで砂上の楼閣に等しい
魯粛の方が柔軟性があるんじゃないの
柔軟性に関して魯粛は諸葛亮よりも上だろうな
>>25 なにこの「ぼくがかんがえたさいきょうのていこく」
>>44 へへへ、どーだすごいだろー
徹夜で寝ないで考えたんだぜ
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/15(火) 22:05:54
四征将軍や四鎮将軍がないぞ
>>42 どうにも会話が成立していない気がするんだが……
>>30のような主張の根拠を聞いてるんだよ?
その「自分という存在を〜」って、俺の勘違いじゃなきゃ周瑜のこと?
もしそうなら話がズレてる。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/16(水) 04:51:06
とりあえず周瑜に関しては天下統一が最大事業だったんだろう
その点に関しては魯粛、諸葛亮よりかは突出してたであろう
後の歴史が示す通り、天下三分では乱世の収束は難しい
延命策を取るか乾坤一擲の賭けにでるか、で言うと周瑜の策は本当に最後の策のように感じる
荊州、益州の利権争奪戦
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/16(水) 16:17:02
天下統一
天下二分(南北or東西)
天下三分
天下四分(河北、山東、関中、四川、江南)
群雄割拠
>>48 おいおい魯粛、諸葛亮の天下三分も最終的には統一が目標だったんだぜ
まあ曹操の死を待って魏に攻め込もうという弱腰な策ではあったが
曹操は凄いから仕方ない
現実的に曹操が死んだら漢王朝が破綻するという読みだったんじゃないかな?
そこで一気に攻め込んで光武帝のようになれれば完璧という戦略
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/17(木) 01:54:38
ちょっと思ったんだけど、天下二分の計とかよく言われてるけど、孫権、曹操、馬超の天下三分の計じゃないか
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/17(木) 07:39:12
昔同じようなスレ立った時には呉ヲタのオナニースレと化してたな
ちょっとでも否定的なレスをする奴が来ると「成功すると結論が出てる」と閉め出してた。
劉備と愉快な仲間達を皆殺しにして、兵だけいただいた方がまだ上手くいきそうだな。
劉備と組むのはメリットよりもデメリットの方がでかいだろう。
>>57 やっかいな問題として、劉備が地域で一定の信望を集めてる点。
難癖付けて殺害した場合、孫権の信用に傷が付くし、
今後ある程度の勢力を抱えた有力者の帰順は難しくなる可能性が高そう。
蜀奪取成功した後に劉備が南、交州に向かったりはしないかなぁ
すんげぇグダグダになりそうだけど
いつの間に劉備は全国区の名声をゲットしたんだろうか
十数万の民衆がわざわざついて来るくらいだから、人望はあるんじゃね?
曹操や公孫サンの例を見る限り、人心を集めている人物を殺すのは良策とは言えない
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/17(木) 23:17:20
しかも皇室に連なる人物で何もなしに殺害とかすりゃ対曹操での大義名分も何もなくなるしな
劉備の扱いは本当に厄介
大人しく領土と兵を提供すればいいよ
豪族連合以上の何でもないんだから天下取るにはそれくらいの無茶しなきゃな
元を取るのは王朝築いてからで十分
この時代劉姓以外の天下を目指す者にとっては漢の存在が非常に厄介だよ
五胡南北朝の頃ならもっと好き勝手出来るのに
>>62 劉虞を殺したことで幽州での人望を失った、という事例もあるぐらいだしね。
まぁこれは本人の名声に拠る所も大きいと思うので、
「皇室に連なる人物」だったことだけが理由とは言い切れないが、
劉備の名声も高いので、殺すと都合が悪いには違いない。
更に言うと反曹云々より、荊州での影響力が大きいような気がする。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 02:56:31
生かしても殺しても厄介
やっぱこの策劉備への対応がガン無視されてるのが問題だわなぁ
それとも本当に直前の劉備を呉に留めさせるっていうのが対応なのかね?
そうなりゃ劉備擁立論も確かに考えられる
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 09:44:37
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 12:28:04
擁立なのかな?
>>66 >>23では瀬戸際外交の可能性を指摘したが、実際の歴史がそうだったように、
一度スタートしちゃえば(お互いに必要としてるので)止めるにとめられない部分も確かにある。
なんで抑留=擁立は早計だと思う。
結局は周瑜の策通り、骨抜きにして操るのが一番無難ぽいな
上手くいくかどうかは別にして
>>70 その「上手くいくかどうか」が不安だから孫権やらなかったんじゃないの?
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 13:46:14
じゃあ劉備視点から見てどう対抗するべきなんでしょう?
ガン無視されたままだと立場も糞もなくなるし、確か周瑜生存時は独立もしてなかったですよね?
その上でどのような瀬戸際外交が出来るのか、ちょっとあまり思い浮かばないんですが
擁立となると両者旨味はあるんだろうけど
荊州の豪族はほとんど劉備支持じゃなかったっけ
いやでもこの時期の劉備孫権の関係がすっごい微妙じゃね?
共同体みたいな…
そこで劉備がこの策の中で何も出来なかったら靡くんじゃ
赤壁、南郡、荊南四郡の侵攻が形振り構わない共同作戦だったしね
周瑜のような家格も能力も主君以上な奴が四川のような拠るべき土地を持っておとなしくしているかね
韓信コースだろ
つ孫瑜
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/21(月) 07:05:08
周瑜が独立するって可能性はないっしょ
孫策の死直後の孫権への対応とか蒋乾に見せた忠、忠誠心溢れる遺書とか
でももし統一したとして韓信みたいな末路にはなりそうだなぁ…
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/21(月) 12:28:23
周瑜は統一したら引退して毎日音楽を楽しんでそうなイメージがある
劉備脳神経 軍師
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/22(火) 20:29:07
>>70 50余歳にして子供ン十人も拵える劉備も魅力的
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/26(土) 15:29:22
結論としては劉備の扱いさえ上手くいけば余裕のよっちゃんって感じ?
蜀攻略は上手くいきそうだけど、漢中はどうなんだろ?
漢中も南陽も南の勢力が影響力を持つ盆地らしい
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 18:34:04
漢中は呂岱が漢水遡って窺ってみたが
張魯に漢中への道を閉ざされて断念したような
周瑜なら呂岱よりもうまくいくのでは
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 19:04:04
益州の連中が劉備を引き入れたのは本拠地にしてくれるからであって
孫権の一地方扱いじゃ協力してくれないだろ
法正とかが敵として立ちはだかるわけで簡単にはいかない
法正は基本的に出世できそうな君主なら誰でもいいって立場だろ
蜀滅亡の混乱期に攻めかかったけど永安ひとつぬけなかった
土着豪族が協力的ならともかく、本気で抵抗したら周瑜がいようといまいと
簡単にはいかないだろ
呂岱は未開の山猿相手にしか威張れない小人物
周瑜より上とかありえない
>>86-88 内応に傾いた「益州の連中」が、本拠地としてくれなければ内応はしないのだろうか?
張松と法正の会談からすると、「劉備に雄略あり」というのがその理由となってる。
確かに張松は曹操に冷遇されたのを恨み、法正も劉璋に用いられなかった。
この2人の不満点は第一に「劉璋の器量の無さ」と明記されていて、
第二に出世が思うようにいかないことは読み取れる。
しかしこれが孫権だと満たされないかというと、そうでもないように思える。
功労者として(劉璋政権よりは)尊重されるだろうことは疑いないし。
もし呉が天下二分に成功していたら、孫権は南郡あたりに引っ越して来たんだろうな。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 22:00:19
厳しいだろうな。
劉備は対張魯のための援軍だと騙して益州内部に入り込んだから上手くいったけど、
周瑜は正攻法で攻め込むわけだから永安あたりで阻まれてる間に、
曹操南下の報を受けて撤退といったところだろう。
>>92 上にもあるが、張魯が北方からガンガン圧力かけてる時期なんで、
東方の永安方面にそんな大規模な備えは恐らく無いと思われる。
実際に援軍として東からきた張飛らはあっさり突破してるし。
とりあえずまだ短いんで、一通りスレを読んでみてくれると嬉しい。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 22:22:08
長江流域を抑えてるから防備に専念さえすれば曹操が南下してもそう簡単には落ちないんじゃないの?
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/27(日) 22:57:09
446 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:45:53
相変わらず蛆虫の巣窟だな、きもい
447 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:47:00
>>445 もりわかを弁護するお前も同罪
448 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:47:09
>>446 もりわか乙
449 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:47:57
>>445 盛岡県人乙
450 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:48:45
汚沢帝国キモイ
451 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:49:42
おれがもりわか?
まさしく脳味噌に蛆が沸いた奴の発想だな
452 名前: ◆0cm5bEPo3u.2 :2009/12/27(日) 22:50:10
小沢帝国なんてねーよボケ
あるのは希望王国いわてとかいうもっと恥ずかしい存在だ
453 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:51:12
汚沢帝国もりわか(笑)
454 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/12/27(日) 22:51:30
>>451 もりわか帰れ
蜀滅亡時もろくに備えが無かった永安を突破出来なかったし難しいだろうな
>>94 というか、曹操からみた敵対勢力としての孫劉勢力総体は、
史実上も仮定上も大差ないハズなので、いきなり危機に陥ることは考え難い。
史実ではない、大規模な南方遠征軍でも起こしそうなら別だけど。
>>96 諸葛亮死後の話で、
呉側が巴丘の守兵を増員した際、即座に永安も増兵してこれに対抗するなど、
蜀の時代における東方意識・防衛態勢は、劉璋時代より遥かに高いと思われる。
>漢中は呂岱が漢水遡って窺ってみたが
>張魯に漢中への道を閉ざされて断念したような
この辺のことが俺はよく分からない。
そもそも上庸のあたりは当時誰が領有していたのか?
張魯+申兄弟なのか?
呂岱が引き返したのは上庸の手前なんだろうか?
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/28(月) 01:59:44
呂岱も結構目立ってんな
>>99 呂岱伝引呉書だと漢興まで行ったとある
後漢書郡国志引魏略だと漢興郡は「関中を分割して設置された」とあるけど
三国志集解の書き方だと荊州西部の魏興郡の可能性もある
(実際漢水の流れは魏興〜漢中だし)
記載が本当なら上庸よりも先まで行ったことになる
でも漢水は襄陽を通っているからこの話自体捏造の可能性もある
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/30(水) 14:11:20
襄陽を通り過ぎるだけならできそうな気がする
呉でも後年に合肥を素通りして寿春まで行ってたような
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/09(土) 19:41:04
>そもそも上庸のあたりは当時誰が領有していたのか?
俺も気になる。
申耽かな
諸葛亮の義兄で房陵太守のカイ棋もいたけど
カイ棋は魏の任命した太守だろうから、張魯降伏後じゃないの?
後漢書の郡国志によれば、漢中郡は後の西城・上庸・房陵なども含む領域。
その後、張魯は朝廷から領漢寧太守に任命されていて、
いずれかの時期に漢中から漢寧に改名された模様。
(宋書では「曹操が張魯を平定すると漢寧郡を漢中郡に戻した」とあり、
その注に「この前に漢中郡を漢寧郡に改名したはず」とある)
だから、この時までに漢中郡が分割されていないなら、
西城・上庸・房陵までもが張魯の勢力圏内だったはず。
張魯が降伏した215年、分割されて西城郡・上庸郡が置かれたらしい。
219年に孟達が戦ったのは房陵太守の蒯祺だから、房陵郡も同時期に置かれたのかも知れない。
晋書の地理志によると曹丕は漢中遺黎(=遺民)をもって魏興、新城二郡を置き、
曹叡が新城郡を分割して上庸郡を置いたという。
以上と、劉封伝注の申兄弟の記事から考えるに、
・張魯は漢寧太守として西城・上庸・房陵までを支配していた。
・申兄弟はその部下、または仕官しないまでも、在地豪族としてその領内にいた。
・呂岱は赴いたのは漢寧郡であり、漢興郡は間違い。
ということではないか?
当初は、孟達が房陵を攻撃した時のように、宜都から北上したのかとも思ったが
210年に荊州は劉備に貸与されてるからそれはなさそうだ。
漢水経路だと厳しいから、江陵から西北に、荊山を突っ切る形で行ったのだろうか。
つか俺アホだな。
210年には江陵も劉備の領土なんだから
211年に漢中行くなら、江夏から漢水に乗っていくか
劉備領を通してもらうしかないか。
だから211年という記述が間違いでなければ、
呂岱が漢中に行ったということ自体が捏造なのかも知れない。
永安と江州までは陸と水軍を駆使して攻めとるけどその先から泥沼かしそう
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/13(水) 19:45:54
211年頃だと楽進が裏陽に居る頃?
それだと漢水を遡るのみのルートは厳しいかも。
211年なら、まだ劉備と孫権の関係も悪くはないはず。
楽進は、いなかったかも知れない。
南郡攻防で曹仁は撤退しているので、楽進にも動きがあったとは思う。
それが209年〜210年なので、楽進が襄陽にいなかった可能性もあるはず。
そうなると、呂岱の話も多少現実味を帯びて来る気がする。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/22(金) 00:03:34
楽進は孫権討伐まで裏陽に居そうな気もする
呂岱の話をみんなが信じてやると、楽進が襄陽にいた可能性は低くなるだろうな。
このスレの奴らは呂岱が好きだから、多分楽進は襄陽にいなかったと考えるべき。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/23(土) 02:37:41
とすると、関羽や蘇非が楽進にボコボコにされてたのは、周瑜と曹仁が戦ってた頃?
>>113 時期的には、その頃だろうな。
ウンポコさんよ。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/23(土) 10:23:56
ウンポコさんて誰?
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/23(土) 11:03:29
何かこの板は感じ悪いな。
/ , _,. -‐ァ ,、 \
/ / / // ヽ \
/ /-'― _/ ´―- 、ヽ ',
,′ i′ ヽ| l
l l __ __ | l
| | ィ●}' { ●l\ | |
| ,|/弋ン ,. 弋_ソ l |. |
|:.:.{ノ }⌒{ } -|.:.:. . .:. . l
|:.:.ト---‐′ ヽ、_____,ノ |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.l
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. |:.l:.\ \| |:.:.:.:.:.:.:.:.:.:./
l∧,ハ/\ ┃ _,.|:.;.:.:.:.:.;.:.:./
′ `T ┃ ─ _|Vj/∨∨ル′
} _ _,}
L_,,=-''''i
| |
| |
| |
隠し切れない移り香が いつしかあなたに染み付いた
周瑜が江陵城で足止め食ったのは、かなり痛かったな・・・・・
矢傷で寿命縮んだのかも知れんし。
孫権のクズは、合肥を攻めて、しかも落とせずに帰るという大チョンボ。
こんなのを君主に担いで戦っていた周瑜が可哀想だ。
孫権が合肥を圧迫したので曹操は以後一二年東方に掛かりきりになった
>>121 周瑜と共に江陵に軍を集結させた方が、迅速に南郡一帯を制圧出来た気が。
仮に周瑜の寿命が一年弱として、半年で攻略すれば益州侵攻出来た可能性も高い。
で、淮南丸ごと取られるのね
>>120 江陵は堅城で相手が曹仁と徐晃だから仕方ない
合肥を獲れる確率が一番高かったのになこの時期w
蒋済の流言に引っかかる孫権w
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/28(木) 01:31:31
あの時に合肥落とせてたらどうなったんだろ?
それよりも周瑜に援軍送っときゃ劉備をのさばらす事もなかったのかな
劉備の扱いを上手くやればOKって意見があったが逆に史実通りの天下三分からでも
相手と上手くやれれば魏に勝てる可能性は十分あった気がする(呉蜀ともに)
合肥取っても維持出来ないだろJK
合肥は維持できないこともないだろう
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/30(土) 13:31:28
>>110 確か先主伝で、212年(建安17年)劉備が劉璋に使者を送って
関羽と楽進が青泥で睨み合っているのを理由に増援要請をしている。
もしこれが事実なら、楽進が少なくとも212年頃までは荊州に居た可能性が高い。
楽進がいるかいないかって重要なの?
淮南三叛の時に孫峻、孫チンというのが運の尽き
>>130 張遼がいなければどこでもエースを張れる男
ディフェンスに定評のある親族の夏侯惇
アモーは?
徐晃や呂蒙も天敵だよな
この二人にも2回してやられてるし
関羽は天敵大すぎw
虚勢を張るのに定評のある髭だからな
>>128 そうかなあ…
長江補正が使えない時点でかなりキツいと思うが。
淮水に押し上げればいいんだよ
後の時代はともかく赤壁の頃なら
淮南には袁術残党がごろごろしてて曹操派の軍備が整っていない
>>137 合肥旧城なら長江と水運で繋がっているので
濡須口みたいに塢を築いて維持できる気もするが…
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/06(土) 08:21:38
でも合肥は長江からちょっと遠いので
濡須口より維持は厳しい難易度
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/10(水) 02:21:42
まぁこの策で言えば合肥方面からじゃなくて襄陽からの北上だし、こうブワーッて突き上げていけばグワーッて合肥も落ちるでしょ
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 20:39:28
んで劉備側からしたらどう立ち回れるの?
漁夫の利狙うしかなさそうな
援軍とかいって強引に兵を出し、赤壁後のように周瑜が敵の拠点を
攻めてる間に周辺都市を実効支配って感じになるような気がする。
劉備が呉を挑発すれば、窮地に陥るのはむしろ劉備側だし
周瑜の侵攻を妨げるようなことはできないんじゃないかな
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 23:23:22
でも実際は周瑜や孫瑜が蜀遠征しようとして劉備が邪魔した形跡があるので
>>143の展開でも劉備がKYで余計な動きをする可能性はある。
>>144 そもそも周瑜も劉備を無力化することを提案しているわけで、
二分の計の前提条件が、
「劉備が黙って傍観していることor無力化すること」
だろう。
この頃の劉備の立場じゃ表だって邪魔することはできないしね
曹操がいるから裏切ることもできないから
>>143の展開で少しでも多く領土を奪って統治を複雑化するんじゃない?
>>143の展開だと劉備は京城で軟禁で酒池肉林
関張以下は周瑜の手下扱いなので
少しでも多く領土を奪うなど無理
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/03(水) 23:34:09
そもそも孫権が劉備軟禁案却下したのってよくわからん
蜀侵攻は認めてるのに劉備どうする気だったんだろ
劉備軟禁案って実権を孫権が握って劉備を御輿にしろって案なので
名実ともに欲しかった孫権が嫌がったってところだろ
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 00:24:52
劉備が孫権に二度と会いたくないと言うのには吹いたw
「お前が言うな!!」
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 12:06:01
>>149 いや、劉備無力化がその軟禁案だったとして、それ却下して蜀攻め認めるのって劉備どうすんのよって話
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 12:09:09
ゴミ捨て場のようなスレ
蜀・漢中に攻め込むまでいくと呉の主力がそちらにいくだろうがその間に張遼等が南下してきたらどのくらい耐えられるんだろうか
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/05(金) 14:04:36
交通の便が不便だからこそホテルを造るべきなんだよ。
みんなだって野球観戦のあとはゆっくりしたいだろ?
風呂につかり酒をかっくらいながら疲れをとりたいだろ?
俺は決して無理難題を言ってるつもりはない。
むしろ良心的だと思ってるくらいだ。
南下して生きたときの守りは呂蒙じゃないか。
呂蒙なら、孫権が出張りさえしなければ十分に防衛が可能だと思う、
陸路繋ぎならアウトだけど長江があるからね
周訪は周瑜の一族?
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 00:42:47
アランが神
あっ誤爆スマソ
ぶっちゃけた話、蜀滅亡時の混乱期に、たった2千人の永安を
歩協の軍勢+陸抗3万で抜けなかった呉が正攻法で蜀を落とせるって前提に無理があるんじゃないの
永安付近は現在でも長江の左右まで山が迫る難所。二千で守れる
しかも40年かけて要塞化されたと考えられる場所
逆に後漢末当時の荊益国境は張飛趙雲諸葛亮がさしたる戦いの記録も無く突破している
というか50年の年代差と戦力・状況が全然違うのを比べて「呉が」「蜀が」とか意味ない
戦力・状況って、成都陥落の混乱期に守備兵を二千残して引き抜かれた永安、より有利って
どんな想定してんの?
しかも当時の呉って、敗残兵の籠る江陵の攻略に一年かかったり合肥で醜態さらしたり
御世辞にも軍の状態がいいとはいえないじゃない
それに、劉備の入蜀は同性のよしみを利用した『援軍』としての強襲だったわけで
孫権が同じ事をするのは無理だろ
永安でボコられてる間に曹操が南下してきて逃げ帰ることになるんじゃね
・蜀滅亡に伴い混乱中
・本来の守将は蜀の危機に伴い召還されており、副将が守っている状態
・それに伴い兵も殆どが召還され2千しか残っていない
・元の国が滅んでいて孤立中、補給もない援軍もない物資もない
・呉側の将軍は、当時の呉においてナンバーワンだったと思われる陸抗
・兵力差は20倍とも30倍とも
・少なくとも半年から1年は攻撃を続けられた
てか、この条件で抜けずに当時の戦力・状況なら抜けるっていうのが
劉備が成都の北で行き詰ってて益州の東部南部が手付かずだった時期に張飛らが抜いてるね
そもそも正面から永安攻めるのかよw
まず陸抗と比べる時点で・・・
>>162-163 それこそ劉備を呼び込んでどうにかしないといけないと思わせるほど、
張魯の脅威が著しいような状況だったし、度々紛争が起る呉・蜀間と違って、
劉璋が長江下流勢力に脅かされるような心配はそれまでまるで無かった。
滅亡時とは言え、それまでに劉備・諸葛亮ら賢主の時代を長く経た分、
劉璋政権時よりは遥かに堅固な東方防衛体制があっても不思議はないし
それはなくとも、多分守りきれたことの方が特殊な出来事だった。
別の事例でいうと、朱然が江陵を5000で魏の攻勢から1年以上死守したのに対し、
同じ江陵で糜芳は瞬く間にあっさりと降伏したが、
多分守った例の方が特異なものだと思われるのと一緒。
勿論羅憲や朱然の時のようなスーパープレイが再現されん保障はないが、
張飛らの例を見るに、その確率は低いとみていいんじゃないかな。
>>167 江陵は簡単に落ちる方が稀
っていうか3万の捕虜を受け入れてる状態が稀
そんな奇特な例を凡例の如く扱うのはどうなの?
>>164 当時の状況で張飛・孔明があっさり通過していることを
どう説明するんだ?劉備はすでに敵対の意思をしめしてるから
>>163の言う様な援軍のふりなんてできねーぞ?
>>167 麋芳の江陵は東から攻められている。荊州は東西からの攻撃に弱い。
朱然ら歴代呉将が守った江陵が堅城だったのは北からの攻撃を防いだから。
長江を盾にしているので江陵城自体は戦闘中放棄していると考えられるが。
なのでこの場合の比較としては適切ではないね。
まあ周瑜の益州攻めと陸抗の益州攻めを比較するのとどっちが適切でないかは微妙だけど。
張飛の入蜀時での「劉備という内憂」などが存在しない分、周瑜はより正攻法に傾くのは間違いない。
しかし、当時の劉璋は張魯に北部を侵犯され、ホウ義が巴西郡で半独立状態だった。
成都と巴東郡の連絡路は容易く分断できる形勢にある。
その他劉璋の統治は弛緩していたわけなので、
周瑜がなんの工夫もなく突っ込んで益州諸勢力を再連合させたりせず、それなりの手管を使うならば、
益州攻めはそんなに非現実的な計画ではなかっただろう。
内通者はどうだろう?
蜀から襲粛が投降してるから可能性はあるんじゃない?
江陵なんて糜芳の時みたいな特殊なケースでもなければ
元々簡単に落ちる場所じゃない
当の周瑜でさえ、命すり減らしながら丸一年かかってるんだが
てか糜芳はあっさり降伏したし
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/12(金) 13:16:18
女が金出してまでセクロスお願いしたいのって
好きな男か、超絶イケメンか
No.1ホスト級に女を楽しませる術を持ってる男か
何百人と経験があって一回のセックスで
確実に女を満足させられる超テク持ちくらいだよ
童貞じゃ無理
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/15(木) 23:27:37
江陵って伍子胥も陥したんだっけ?
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/02(日) 02:18:41
当時は象も居た江陵
蜀側から劉備にだけ内通を持ちかけていると考えるよりは
劉備と孫権の両方に話だけ通して、現実味がありそうな劉備を選んだ
って方がしっくりはくるけど
特に法正は元々土地の人間でもないから誰でもよさそう
ただもう一つさ、史実では周瑜の死後に曹操は馬超との戦いに乗り出しているんだけど
周瑜が生きていた場合は呉の動きを危険視して西は守るだけに留まらせる可能性もあるよね
さすがに潼関まで抑えられたのを放置ってことはないだろうが
211年の馬超の大反乱の時点で南に劉備と周瑜が残っていれば
曹操はかなりのピンチだっただろうな
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/05(土) 15:13:42
でもやっぱ鍵は劉備なんだよな
どう動くのかわからん
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 10:59:55
劉備は寄生虫なので周瑜の邪魔しそう
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:05:31
周瑜じゃラク城を陥とせないから無理だな
兵糧尽きて退却したところに追い討ちかけられて戦死濃厚
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 11:08:53
そこで呂蒙甘寧ですよ
赤壁から連戦の兵を率いて曹仁の守る江陵を落とした周瑜が
ラク城ごとき陥とせないとでも?
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 17:10:31
そもそも、劉備と周瑜じゃ侵入ルートが違うからラク城は関係ない。
逆にいえば、周瑜ならば劉備のようなルートは使えないので苦戦は必至。
まあ劉備みたいに援軍のふりをして入り込むんじゃなくて普通に攻め込むわけだしな
永安も抜けずに敗退といったところだろう
周瑜がどれぐらい懐柔工作を進めていたかが鍵だな
下手なやり方だと曹操と益州勢力を結びつかせる結果になりかねん
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 12:45:27
212年には曹操は鄴に帰還してるわけだし
永安落したか落せないかというタイミングで曹操襲来の報>撤退になるだけだろう
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 17:16:43
馬超の存在もあるし曹操が動くかもわからん
来たとしても守りに専念すればそう簡単に荊州は落ちないだろう
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 17:30:08
荊州が落ちることはないだろうけど益州攻略は無理だろうよ
伯符が生きていても可能かもしれないというレベルだよ
永安は何とか抜けるかもしれんがいずれにしても撤退になると思う
大事をとって動かない男かなあ曹操は
益州は北の張魯から圧迫を受けてる時期なんだがスルーしていいのか?
大勢力の孫権勢が益州に入ったら張魯も困るから余裕でスルー
スルーするよりドサクサに紛れて自分の領土増やすのがフツー
蜀滅亡時の呉みたいにな
呉は攻め込んで勝つイメージが無い
防衛戦は地の利を生かせるし滅法強いが…
蜀滅亡時ですらあの様だし
>>192 呉の場合、長江上流域を大勢力に抑えられるという危惧が一番大きな動機じゃないのか
張魯が領土増やすって言っても、長江流域ほぼ全土を支配してる勢力と対峙しつつ
漢中から益州盆地内のいくばくかの領地を守れると思えんが
手をだすださないはともかく、呉の入蜀は張魯にとっても歓迎できる事態じゃないだろう
張魯勢力にそんな長期的な見通しができると思ってるのか?過大評価もいいとこだろ
乱世の小勢力なんて自転車操業もいいとこだろ
実際張魯は場当たり的な行動ばかりしてるじゃないか
張魯にそんな長期的な見通しができる能力も無いし
それを可能にする人材もほとんどいない
閻圃があてはまるかどうかといったところ
ホウ統の征蜀計画は周瑜の部下だった頃に考えたらしい
劉備は中策用いて1年以上かかったが
周瑜なら上策用いて電撃戦しそう
そもそも周瑜が上策用いることが無理だろ
昼夜問わず進み成都奇襲なんて劉備の置かれてる状況での献策
周瑜の立場で上策なんてできるわけがない
別に上策が最上の策ではないからなぁ
ハイリスクハイリターンな策という意味だし
何度も言われてるがまず益州に無傷で入ること自体無理だからな
周瑜の場合
無傷で入る気はないだろうしな
周瑜の場合甘寧李異がいるのは心強い
自分を追い出した連中と戦うことになるから、甘寧にとってはテンション上がるだろうなあ
いいことか悪いことかはともかく
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/28(月) 07:10:14
てか曹操に惨敗して逃げてきた馬超にビビッて降伏するヘタレなんだから
どう考えてもその時点で軍事的名声の高い周瑜が来たら速攻で降伏するんじゃね?
周瑜が自力で成都を囲む段階までいけばそうなるかもね
この計画の無謀さからして周ユの知略の限界を感じる。
無謀さでいうと赤壁の方が無謀だろ
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/29(火) 08:48:17
郭嘉が生きていたら曹操が天下統一していた。
徐庶がマザコンでなかったら劉備が・・・
周瑜が生きていたら孫権が天下を・・・
以上、三国志の3大タラレバでした。
>>208 赤壁の無謀勝利で味を占めて、成都攻略は調子こいたんだろ
無謀に見えて緻密な情報分析から荊州奪取まで展開させたんだから周瑜にとっちゃ無謀でも何でもなかったわけで
益州攻略を無謀なままで進めるような人物じゃないだろう
遺言で魯粛を後任に推したのもまさに慧眼だったし
実は調子乗ってたけどよくよく考えたら無謀過ぎました、サーセンwww、はないだろ
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/29(火) 21:48:15
>>208 最近の研究によると赤壁の戦いの兵力は、
北軍10万(曹操軍8万+蔡瑁ら旧劉表軍2万) vs 南軍8万(孫権軍5万+劉備軍3万)。
北軍が大河を越えて攻め込まなくてはならない事を考えると、
特に無謀な戦いとは言えない。
むしろ北軍のほうが無謀とさえ言える条件であり、
事実、曹操も兵力を誇大に宣伝して降伏を促しただけで、積極的に攻めてはいない。
>>212 当時の曹操は幽・冀・青・徐・兗・豫・荊・司(一部)の8州は領有化してたと思う
のですが、それで10万だと、1州あたり1万ちょっとしか拠出してない計算になり
ます。一方で孫権は揚州だけなのに5万、劉備は3万(劉埼軍含む)ですか?
また、劉備が3万なら、元々の荊州の軍の構成をどう考えるかも難しい。
蔡瑁ら旧劉表2万
劉備+劉埼3万・・・こっちのほうが1.5倍もあるの?
>>212 諸葛亮伝にある孫権への発言ですら合計2万余りしかないのに,
(諸葛亮=劉備は孫権と連合できないと困る立場なのだから,
実際より水増しすることはあっても減らすことはないだろう。)
何で劉備軍が3万もいたことになってるの?
雷緒が合流すればそれぐらいになるだろうが
雷緒が合流したのは赤壁後
>>212 積極的に攻められなかったのは周瑜が先んじて対岸に陣取りしたせい
それで曹操側は腰を据えて戦うコトができなかったし、劣悪環境で病が蔓延した
>>213 青州、徐州、司隷は動員できるような状況だったのかどうか検討の余地があると思うよ
まあ、冀州、豫州だけで考えても少なく感じるのは事実だけど
勢力圏の外の一戦場に10万も集結できる国力があったのなら当時としては破格だよ。多すぎるくらいだ。
国内が殆ど空っぽになってしまう。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/30(水) 22:11:05
>>212>>216 赤壁の戦いは長江を挟んだ渡河戦じゃないと思うんだが。
曹操は荊南も抑えてるよ。
あれは上流対下流。
無謀とは思わないが、曹操側が圧倒的に有利なのは事実だろう。
周瑜は水軍は得意だけど陸戦は苦手なんだよな
>>218 当時、荊州全土を無傷で取得出来てる時点で曹操勢力はかなりのものだと思います。
それと、劉備+劉埼3万なら、蔡瑁ら旧劉表軍は2万というのもおかしいです。
劉備+劉埼を上回る兵力、最低でも5万は居たと思います。(周瑜曰く7〜8
万)
荊州(劉備+劉埼+旧劉表軍)が8万程度居たとすると、曹操軍はそれ以上の
兵力なのではないでしょうか。
劉表の全兵力が十万余あったとして、襄陽に集結できるのは普通に考えて
半分以下だから曹操の攻撃軍もそんなにいらない。
同じように赤壁に集結できる兵力も限度がある。
>>212 >むしろ北軍のほうが無謀とさえ言える条件であり
曹操って、無謀というより、考えが足りないと思う
でも退却だけはうまいね
赤壁の各軍配置
曹操20数万・・・烏林
周瑜3万・・・赤壁
孫権2万・・・柴桑
劉備1万・・・樊口
関羽1万・・・夏口
趙雲張飛4千・・・ろ山
実質戦ったのは曹操20数万vs周瑜3万ですね。その他は皆、赤壁から離れた場所に。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/01(木) 20:54:08
ろ山て何処?
そんな怪しいのは無視していいと思うが
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/01(木) 21:30:48
兵力については大体
>>212で合ってるよ
曹操軍はもう少し多くて12〜3万くらいといったところかな
ちゃんと引用元を明示しない「最近の研究」は信用すると害になる
研究って言っても歴史群像とかそっち系じゃないの
最近の研究ほどアテにならんからな
兎に角奇抜な事言わないと注目されないんでヘンテコな学説流す奴が沢山いるし
読みもしないで
>>225 「慮山」みたいな漢字(変換できませんでした)。夏口の直ぐ西にあります。
>>228 引用元は「三国志戦略クロニクル」(立間祥介著)です。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/02(金) 19:47:32
官渡の戦いにおける曹操軍の兵力は万に満たず。
袁紹の勢力を併呑したが、その全兵力を動員するのは無理だろうから、
荊州攻めの兵力を8万とするのは妥当な見方と思われる。
荊州攻めの兵力8-10万くらいだとすると、
赤壁に立ち会うことが出来た兵力は3、4万くらいか。
官渡の戦いにおける曹操軍の兵数の記述を信じてるの?
>>233,
>>234 そこまで曹操軍が少なかったら,
孫権側の大半が降伏論を唱えることもなかっただろうし,
劉備と連合する必要もなくなってしまうのでは?
(3、4万なら互角になってしまう。)
やはり孫権側が「びびる」だけの兵力はあったのだと思う。
>>236 曹操の荊州攻め自体は、かなりの大軍が動員された計画だっただろう。
それに参加したという記述がある将はかなり多く、
夏侯惇・淵ら一部を除いた当時のオールスターの観さえある。
将来の見通しを含めてとはいえ、孫権側が「びびる」に足る兵力だっただろう。
だが、赤壁の会戦に参戦したという記述がある将は皆無に近い。
荊州内部まで入り込まれて遭遇戦というタイミングを見ても、
曹操にとっては望まざる戦闘という見方が良いと思う。
周瑜・劉備の急進によって戦力の再集結が間に合わなかった、というような。
>>236>>237 確かに荊州攻めには大軍を動員したと思います。荊州は相当な兵力があったと思われるのに、
あっさり曹操に降伏してます。
ただ、赤壁に戦力を集結するのが間に合わなかったかどうかは疑問です。
私のつたない知識では、確か曹操軍は烏林に大規模な水軍基地を建設したはず。それだけの
期間があれば、何をおいても全軍を集結させれるのではないかと思います。天下を取る最終
決戦でもあるし。
曹操が慢心して酷い目にあった、っていう点は変わらないから戦力の多寡は大した問題じゃないよ
というか曹操軍十数万はまだいいいとしても
孫劉の8万はないでしょ
>>240 史書にある数拾っても7万にしかならないもんな
>>238 赤壁という場所に全軍を集結させる理由がないんよ
>>242 江陵からしばらく南下した後、艦艇1000艘で洞庭湖付近から長江を下流へ。
劉備を追ってのことか、孫権攻めのためか、あるいは二兎を追ってのことか。。。
本来、陸口を目指していたような話もどこかで見たけど、とにかく赤壁で周瑜軍
に撃破され、北岸の烏林へ。そこに水軍基地を建設という流れだったような。
>そこに水軍基地を建設という流れだったような。
その話は知らない。
黄蓋が「敵は多数で長引けば不利」という進言もあるように、
周瑜は烏林で対峙する形勢になってから速やかに火計で勝負をつける道を選んだと思うけど。
孫権・朱桓の2万は柴桑での後詰で動かず。なので実動は周瑜3万
劉備軍では関羽が夏口付近に水軍1万を率いていたらしいが、赤壁に参加したのか
不明。そもそも関羽が水軍を操れるのだろうか・・・
>>244 「水軍基地」ではなく、艦艇を並べただけのものだったかもしれませんね。
どうも怪しいなんたらクロニクルを元にして会話している奴がいるな
>>247 慶應義塾大学名誉教授立間祥介著だぞ!頭が高い!
中国文学者であって史学者じゃないけどね
つまり創作の架空戦記なわけだ
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/03(土) 11:57:12
元からの劉備の兵+劉埼の兵+荊州の反曹操勢力+関羽水軍1万
劉備軍総勢3万という推測も極めて妥当なところ。
>>252 3万もいるなら諸葛亮は3万と言うだろ
でも関羽の1万と劉キの1万しか言ってないんだから、それ以外は誤差の範囲くらいしかいなかったんだろう
孫権を安心させるためにハッタリで多く言っている可能性も否定できないし
諸葛亮は律儀な男だから、劉埼の兵はあくまで友軍として、劉備の軍とは別として数えていたんだろう。
いずれにせよ劉備は漁夫の利狙いで、赤壁には参戦してないでしょ
曹操敗走後の追撃がてら荊州制圧を狙って動いた感じ
曹操軍も徐州から広範囲に渡って陣を敷いているし、
そういう小さい括りで言うなら、赤璧で対峙した曹操軍もせいぜい5万といったところだろう。
劉備軍が赤壁に参戦してないってのは江表伝ソースだけだろ?
周瑜伝、呉主伝、先主伝を見ると最初の遭遇戦でも参加してるような書き方だけど
>>256 たった5万で攻め込むほど曹操はアホじゃないと思う
>>252 劉埼の兵=荊州の反曹操勢力だろ
劉埼だけで一定の兵力を保持できていたら後継者争いに負けないよ
諸葛亮伝に関羽の兵と長坂から生還した兵を合わせて1万、劉キ持つ江夏の兵が1万を下らない、という赤壁直前、孫権に対する諸葛亮の言が書かれている
劉備たちの赤壁に参加しうる兵力はこれをベースに考えるべきだ
ほかに根拠のある数字は無いはず
孫権が味方してくれるよう説得しているんだから、この計2万だって精一杯多めに数えた数字だろう
これ以外に兵力として期待できるものがあるなら、隠す必要は無い(というかそんな余裕の有る場面ではないだろう)
3万とか言ってる奴は1万がどこから出てきたのか、ちゃんと史書にのっとって説明してほしいものだ
「関羽の水軍」というのは、どこから沸いたのでしょうか。
あったとして、水軍の訓練っていつどこでしてたのか。。。
そもそも劉備に水軍などあるのか。。。赤壁に参加とあるが、どう戦ったのか。
俺が知らないだけかもしれないので、知ってる人、教えてください。
兵士を船に乗せたら水軍の出来上がり・・・とかw
>>261 そんなに色々知りたいなら正史読んだ方がてっとり早い
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 06:32:03
こうして見ると
曹操軍9万(曹操7万+蔡瑁ら2万)VS劉孫軍7万(劉備関羽1万+劉埼1万+孫権5万)
といったところが妥当な線か
曹操軍は荊州に抑えの兵を残してるだろうし全軍を赤壁に投入するのは無理だろう
それいったら孫権も全軍投入してないわけだが
孫権軍は周瑜が率いた2万だろう
>>264 >蔡瑁ら2万
これが少なすぎるのは前の書き込みでもあきらか
>曹操7万
これも
>孫権5万
>>265の通り
>荊州に抑えの兵を
何のために?
曹操って、そんな冒険のような戦をする人では無いと思います。
必要に迫られれば少ない兵でも戦うけど、自ら攻め入る場合、もっと兵力差がないと
攻め入らないと思います。兵力差が少なければ荊州に留まったでしょう。それをしな
いのは、十分な兵力差があったからだと思います。
孫権・周瑜と戦をするつもりでなかったのなら別に冒険でもない
外交的目算が狂っただけ。
>荊州に留まったでしょう。
赤壁は荊州内にあるんだよ
そーそー15万
りゅーび2万
そんけん3万
が妥当
四万くらい
周瑜伝の注の江表伝に数はちゃんと書いてある
曹操が率いてきたのが15、6万
荊州の兵で曹操に降伏したのが7、8万
ということは合計すると20万超
周瑜は孫権に対して兵5万を要求したが孫権は3万しかすぐには集められないと答えたので、周瑜は3万を率いて出陣した
劉備たちの兵は前にも出たとおり劉備・関羽の兵1万と劉キの江夏兵1万の計2万だと諸葛亮が発言している
そろそろ天下二分の計を考察したらどう?
>>274 そのうちのどれくらいが赤壁に間に合ったかって話じゃ?
「かなりの博打打ち」の曹操が、後続を待たずに陸口目指して先頭に立ってた
可能性はあるかもね。そして周瑜軍に遭遇。。。
ただ、一応前哨戦あったみたいだし、曹操は途中、道に迷ったりしているようだから、
結構な軍勢が集結する時間はあったかもしれない。
>>276 周瑜と孫権は最初から荊州に攻め込んで曹操の軍を追い出すことを考えてるから、赤壁の兵だけで考えてないんだよな
曹操軍がまばらに集まってきたのを周瑜が各個撃破とかならわかるが、そういう事実なし
また、多数の軍勢が集結できなかったのであれば、赤壁敗戦後、江稜あたりで軍の集結を
待って反撃という手もあったろうけど、それもなし
曹操が赤壁から撤退したのは戦で負けたから。
江陵から撤退したのは疫病が蔓延したから。
荊州各地に展開していた諸将軍で、
赤壁に立ち会ったという者の記述はほぼ無し(許チョや賈クなど側近格は別として)。
前進前にしろ、撤退直前にしろ、その後にしろ、江陵など長江沿岸まで行ったという者も少数。
将帥はほとんど曹操一人という陣容で、十数万という荊州展開軍の何割を指揮できたのか。
諸将を連れていない状況で赤壁に負けた
↓
江陵まで戻ったものの、疫病蔓延のため大軍の集結を諦め、
曹仁・徐晃を守備に、満寵・楽進らを襄陽などの後詰に残して、本隊を引き上げた
↓
曹操本隊と于禁・張遼ら荊北予備兵力を危険水位の増した淮南方面に投入
↓
以後二年に渡り二方面で領土確定戦闘が行われた
で良いじゃないか。
>>280 >将帥はほとんど曹操一人という陣容で、十数万という荊州展開軍の何割を指揮できたのか。
将帥がほとんど居なかったなら赤壁参加は数万程度と計算しているのでしょうか。
だとすると、むしろ残り10万で反撃すればいいと思うが、それもなし
淮南を気にする必要などない。天下分け目なのだから。孫権を討てばおしまい
逆に言えば10万残ってたなら孫権もそれを無視して淮南になど進めない
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/07(水) 14:57:26
結局周瑜が曹操軍を赤壁でその後荊州に碌な援軍が送れない程のダメージを与えて(もちろん疫病が大半だろうが)追い返し、
そのまま周瑜軍と劉備軍で荊州を落としたのは事実だろ
赤壁前の状態から荊州落とすのと、張魯に攻められている益州を落とすの、どっちが難しいのよって話じゃないのか?
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/07(水) 18:41:21
劉備に荊州南部を押さえられた時点で、天下二分は難しい。
やはり、劉備の勢力をどうするかが天下二分の大きな課題だったと思う。
馬超との同盟に関しては、周瑜がどこまで勝算を持っていたのか・・・・・・
遼東の公孫氏との連携ってのは、無かったんだろうか。
>だとすると、むしろ残り10万で反撃すればいいと思うが、それもなし
江陵まで戻ったものの、疫病蔓延のため大軍の集結を諦め、
・曹操が赤壁から撤退したのは戦で負けたから。
・江陵から撤退したのは疫病が蔓延したから。
これが、三国の史書全てに共通する記述のはずであり、
>>280はそこから導き出された解釈。
大軍で周瑜に逆撃するための兵力が「赤壁の会戦で」失われた、と解釈できるような箇所は無いと思うよ。
陸軍主体の曹操軍諸将を揃えて水軍で戦うってのか?
「水軍」「陸軍」って分けることが間違いの元のような気がする
間違いでは無いと思うが、曹操軍も周瑜(劉備)軍も、前進時は水陸両進じゃないか?
設営や停泊地の確保を考えればそうあるべきで、
水軍だけで急進とかは奇襲的にしか使われないだろう。
曹操がもし大軍を揃えて揚州に攻め込む段階だったら、
当然有力諸将の何割かは集めて両岸を固めて並進したと思う。
長江周辺は泥沢が多く、陸軍を進めるのは大変だったと思う。もし陸軍と水軍を
並進させようとすると、むしろ水軍はノロノロの陸軍に歩調をあわせるのが大変
だと思う。
赤壁での敗北後、曹操は泥沢を草で埋め立てながら退却したらしいので、おそら
く普通に歩くのよりも遅かったでしょう。
最後まで生き残った奴が伝を立てられる
そんな訳で蜀呉の末期はいかにも人材難に見える
>>283 荊州南部を押さえたといっても、あの時点で劉備が呉に対して
明確に敵対したら、劉備のほうがヤバイだろ。
劉備にできることといったら、不穏な動きを見せることで警戒心を抱かせ、
外交で有利な条件を引き出すことくらいな気がする。
周瑜は劉備をかなり危険視してたし、劉備が足場を固め力を蓄える前に
領土を得て圧力を強めておきたい狙いもあったんだろう。
蜀はあきらかに人材難だな
一州治める程度の人材はいただろ
魏 vs 蜀の内実は
魏の生粋武将 vs 蜀へ降った魏の将
ですよね
姜維と夏侯覇しか浮かばん>蜀に下った魏の将
姜維は疎まれて更迭寸前だし、夏侯覇は何してたか殆ど不明
王平「俺って影うすいのかな……」
ここで大鴻臚となった梁緒が通りますよ
馬超、馬岱「俺達も影うすいな・・・」
>>298 202年頃から曹操のために働いてました、はい。そもそも親父(馬騰っていうんですけど)が
曹操に色々とお世話になったので、それ以来、親父共々お世話になってました。
親父は曹操の言いなりでしたが、俺は嫌気がさして謀反しました、はい。
知っての通り、謀反は失敗し、その結果、俺と馬岱以外、親父も弟達もみんな処罰されました、はい。
曹操は後漢だろ
曹操は魏だよ。
魏公・王だから。
馬超らは後漢→蜀漢だけど。
半同盟勢力まで曹操幕下になるなら
遼東公孫氏や益州劉氏も曹操幕下だねw
303 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 21:51:25
ようがいは呉になるのか
馬騰は完全に曹操配下だな
士燮は呉ですか?
一応呉で良いだろう
織田信長と宇喜多直家ぐらいの関係>孫権と士燮
天下二分は難しいだろうなあと思う
そもそもあの断片的な情報だけで可否を決めるのが無理っぽいが
実行されなかった、記述は概要くらいな計画だもんだ
すでに言われたように周瑜がどれだけ内応策考えてたのかがカギだな
それが全部上手くいくことを前提にしてようやく現実的な話になるってレベルだと思う
まあ内応策が正史に記述が無いので完全に妄想の域ですが
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 09:14:55
天下二分策では蜀の統治は孫瑜、裏陽の統治は周瑜自身の予定だけど、
漢中は誰に任せるのだろうか?
周泰、凌統あたりだろうな
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/18(日) 09:39:44
>>310 そんな難易度高いか?
赤壁からの強行軍で曹仁等が守る荊州落とすのと
張魯の圧力がかかっている益州落とすの
どっちが難易度高いよ?
>>311 孫瑜の統治って制圧後の一時的なものじゃなく、長いスパンで考えていたのだろうか?
>>313 曹仁も荊州攻めからこのかた強行軍の連続で、しかも赤壁での敗残兵と疫病を抱えてる
難易度はどっちもどっちというところじゃないの?
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/18(日) 10:55:13
>>313 蜀が滅亡しかかってるのに羅憲すら抜けなかったことをお忘れか?
>>315 曹仁は江陵の押さえで無傷
周瑜は赤壁から連戦
>>317 いや、それでも引き揚げられなかった負傷兵の残りや
追加で留められた敗残兵がいた可能性はあるだろう
曹仁が江陵の守備を任されたのも赤壁の直後だし
やたら曹仁の兵は無傷って強調されることが多いけど
というか「曹仁の兵が無傷」って何か根拠あることなのか?
まあ仮に無傷だとしても勝ちに乗じて攻めてくる周瑜ら数万(曹仁伝)に、劉表の後継者を奉じて南部を切り取る劉備にと荊州が荒らされまくっててもろくに手出しできない曹仁はほとんど孤立無援という感じだけど
曹仁に任せて後方で待機してる曹操のノンビリ感は異常
銅雀台建設で頭が一杯だったとかw
いやそれくらい赤壁での損失が大きかったんでしょ
すぐには援軍送るわけにもいかないくらい
銅雀台は兵士動員する必要はないから別問題だ
もちろん道義的、経済的な問題はあるけどな
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/18(日) 13:51:48
>>316 時代も状況も違いすぎるだろ
比べるなら張飛の進軍が一番近いっしょ
>>323 確かに状況が違うな。
羅憲が有利なのは、旧蜀ばかりでなく魏の後詰めが期待できたところ。
周瑜や劉備が蜀に攻め込む状況は、公孫述や李勢が割拠していた頃のケースに近いな。
まず劉備と周瑜の状況が違いすぎるわけだが
>>313 正直問題は山積みだし不確定要素多すぎだと思う
・劉備の扱い、動向
周瑜が益州侵攻の準備を始めた段階で、すでに劉備軟禁の進言が却下されていることに注意が必要
つまりこの時点で劉備が江南に勢力をもつことはほぼ確定
益州を攻め入るなら劉備をどうするのか、従軍させるのか放置するのか
従軍させるとしたらお互いの支配域、権限をめぐって不和が起こるかもしれない
周瑜の進言では孫瑜に益州をまかせ、自身は襄陽とあり劉備の扱いはまるで触れられてないので。
放置するなら常に劉備の動きに気を配らないといけない
少しでも怪しい動きを見せればすぐ退却するかどうかの判断を迫られる
・益州まで遠征するための兵糧輸送
劉備は益州に入り込み、なおかついくつか拠点を手にしてのスタートだったので現地調達で済んだが
呉は同じ手を使えない。荊州北部からどれだけ兵糧を調達できるか
劉備から兵糧の提供は期待できるのか
本拠地から運ぶには遠すぎるので永安陥落までのタイムリミットが非常にきつい
連戦の後でどれだけ兵糧に余裕があったのかも分からない
敵の援軍もあるのでとても曹仁戦のように一拠点に1年もかけてられないのではないか
・益州侵攻のための人材
赤壁では黄蓋、曹仁戦の勝利は劉備の兵力と呂蒙の戦略と甘寧、凌統、関羽の活躍があってのこと
なおかつ程普、周泰、張飛も従軍して活躍したらしいが
荊州北部を独力で維持しつつ本拠地から主力軍を益州まで遠征させるとなると
どれだけ呉の抑えと江陵の維持に人材を割かれるか分からない
先述のように劉備の戦力をそのまま使える保証はない
・敵の抵抗力
劉備は益州内部に入り込み、名将としての評判があった楊懐、高沛を騙し討ちし
李厳や呉イら重臣の投降があいついだが周瑜はこれら全てと真っ向勝負しなくてはならない可能性がある
劉備の時と同じように投降する保証がないし、内応策もどれほどあったか不明で成功の保証もない
曹仁に勝てたから益州ラクショーとはいかないだろうな
>>319 別に背中の襄陽を切断されている訳じゃないからなぁ
江陵が押さえてあるってことは荊州南部への重し
かつ呉へ東進する拠点となる夏口は長江の下流の方にあるので喉元に匕首を付けている状態にある
襄陽が残ってるってことは漢水上流も押さえているってことになるので
この重要拠点二点をほっぽいて敵を迎撃する意味はないし
逆にその脅威が分かってるから周瑜は真っ先にここを落とそうとしたんだぜ?
張魯と劉璋の結託も不確定要素に追加だな
これが起これば周瑜の計画は前提から覆る
>>326 >周瑜が益州侵攻の準備を始めた段階で、すでに劉備軟禁の進言が却下されている
これ、時系列はっきりしてないんじゃないの?
孫権だって劉備を放置したままの益州攻めは難しいことくらいわかるだろうし
その上で益州進攻案を呑んでんだから矛盾というか戦略的におかしすぎるだろ
周瑜死後に却下されたって方が自然な気がする
夏口は劉キがいるんじゃないんだっけ?
>>329 周瑜伝の書き方を見る限り、周瑜生前という風にしか見れない。
大体軟禁するタイミングを考えると京城での会見前後の進言だと考えるのが自然だと思うが?
京城での会見前後に却下された、と言う方が正しいかったな
どっちみち孫権は「劉備にそんなことしても無駄」と考えたんだから
却下のタイミングはあまり重要じゃない気がする。
結局劉備問題は周瑜生前には宙ぶらりんのままだったってことだろ
まあ正史に書かれてないだけで何か考えがあったのかも知れんが
書いてないことは議論しようがない
>>327 切断はされてないけど、肝心な曹操からの援軍なり反攻なりが来なかったんだから結局孤立無援だったことには違いは無いよ
江陵が落ちるまでの1年で実際に曹操が荊州に軍を動かした形跡ないでしょ
だからって難なく落とせるってものでもないだろうけど
孤立×
無援○
>>326 でも劉備が益州侵攻する前の時点だって問題山積みだった気がする
>>336 いや、気がするから何なんだ
周瑜はどうやってクリアすんのって話だろう
頭大丈夫か?
人事を尽くして解決できることと
不安要素はまた別だろう?
張魯と劉璋の結託とか解決手段のない不安要素として追加してどうするの?
劉備が益州侵攻開始したときだって孫権と曹操が結託する不安要素を常に持っていたよね?
侵攻の為の人材難とかもムリヤリすぎだね
そんなこといったら劉備の方がよっぽど人材がいなかったと思うけど?
>>338 まず解決手段のない不安要素を追加することが何が悪いのか分からんが
内応策によって張魯と劉璋を離間できる可能性もゼロじゃないだろう
>孫権と曹操が結託する不安要素を常に持っていたよね?
実際結託してないが?
周瑜が不安要素があっても実行するかどうかの議論だったっけ?
>>339 それは「曹仁に勝てた周瑜なら益州もラクショー」みたいな意見に対する反論だよ
大体周瑜と劉備の立場が違いすぎるのは
>>326で書いてるだろう
劉備も人材難だったが黄忠、魏延といった荊州人材が思いのほか優秀でまかなえた
周瑜は赤壁の勝利で新しい人材とか手に入れたっけ?
劉備の入蜀に付き従った荊州の人材は無茶苦茶たくさんいるよ。
蜀の平定に役立ったかどうかは別にして。
でも、多数いるのは事実。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/19(月) 04:35:52
う〜ん、でもホウトウみたいに土地を治める勢力に付くって場合もあるんじゃないか?
とにかく周瑜存命時には劉備勢力と孫権勢力がごっちゃになっててわかりづらい
そして劉備推戴論ならそれらの問題点って全て解決しね?
やっぱ劉備軟禁策がポイントだと思う
だから劉備軟禁策は「不可能」と孫権に却下されてるし
荊州の牧になって公安を都にした時点である程度お互いの勢力ははっきりしてるだろう
劉備を軟禁出来たとしたら赤壁前の短い間だけだろうな
赤壁の後でももう遅いのに、ましてや自分の領土を確立した後なんて
劉備が納得するはずない
赤壁前の殺気立った状況で軟禁なんて出来るはずない。
それに仮に軟禁できたとしても、大人しく軟禁なんかさせてられないと思う。
劉備だからってことじゃなく。
あと、皇帝でもない劉備を軟禁したところで旨味は少ない。
劉備は劉備として一軍を率いて貰った方が一番効果が出ると思う。
いや、軟禁策をそのままとるんじゃなくて、推戴論だったらってこと
そして孫権の却下と益州攻略受諾が、同時に行われてたら戦略的に不自然
周瑜が死んで魯粛案に乗っての却下だったんじゃないかな、と
繰り返す♪このポリリズム♪
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/19(月) 21:05:40
>>330 益州侵攻計画の頃には死んでる頃
夏口は既に明け渡されて呉の物になっている
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/20(火) 13:52:49
周瑜って劉備を皇帝にしようとしてたんだよね?
一方で魯粛は孫権自体を皇帝したかったから
二人に意見の齟齬が生じたって聞いてる
魯粛にくらべて周瑜の策は非現実的だけど
周瑜の最大の武器は情報収集能力だから
おそらく彼自身には益州攻略の確かな根拠があったのだと思う
死期が迫っていて焦っていたとも捉えられるけど…
>>353 夏口に匕首つきつけているなら曹操勢力じゃねーだろ
夏口を抑えてるなら「喉元に匕首つきつけている」だとは思うが
>魯粛にくらべて周瑜の策は非現実的だけど
いや、魯粛の方が非現実的だろう。少なくとも後漢末の価値観でいえば。
劉備を美人刑で虜にして、同姓の劉章と同盟を結ぶことは可能だったと思う。
現に曹操は狩りをしたいといいながら攻めてきたわけでしょう。
攻めあがる=滅ぼすではない。
魯粛の策って一言に言っても時期によって違うからなあ
正史で否定されてる美人計が可能とかいうのは完全にただの希望的観測だろう
>現に曹操は狩りをしたいといいながら攻めてきたわけでしょう。
これ話に関係あるのか?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/23(金) 09:56:48
てか魯粛の計と周瑜の計って結局は同じだったんじゃないの?
曹操の動向を見つつ、長江流域を支配して孫権皇帝へって感じでしょ?
劉備をワンクッション置いてるだけで、隙あらば劉備も呑み込むって感じ
周瑜存命時に孫権軍じゃ益州、漢中を支配できるか否かっていう意見の対立じゃないの?
それか本当に孫権が皇帝になるかどうかだったのか?
そこんとこよくわかんないんだけど、どっちの策も現実的で、積極的か慎重的かの違いだけだと思うんだが
>周瑜存命時に孫権軍じゃ益州、漢中を支配できるか否かっていう意見の対立じゃないの?
だからここが非現実って話じゃないの?
周瑜の計と魯粛の計は全然違うだろ
魯粛の計は最終的にどこまで目標にしてたのかもよく分らんし
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/25(日) 23:34:36
そんなに非現実的じゃないんじゃないの?
ってなるんだが、またループっちまうな
劉備が悪いな、もうこれは
というか非現実かどうかも分からないと言った方が正しいだろう
色々考えてたのかも知れんが記述が無いからな
南船北馬
数年かかって結局劉表から夏口もとれなかったのに益州・漢中とか無理じゃね。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/26(月) 19:47:51
でも黄祖消して1年で南郡夷陵まで取った
劉表・黄祖>>曹操・曹仁
>>365 一年もかけて一郡しかとれてねえじゃん。益州一州なら何年かかるのか。
一念
初っ端の会戦で大敗したりどっか落とせばあっさり降伏するんじゃないの?
相手が相手だけに
>>367 雪だるまは最初作るの大変だけど
ある程度大きくなると転がすだけでみるみる大きくなる
そんな僥倖頼みの戦略立てられたら
孫権が尻込みするのも仕方ないな
>>370を僥倖っていうなら劉邦も曹操もみんな僥倖だってわかってる?
最初は元手が少ないから1州で1州を平定するのも大変
でも1州を平定してしまえば今度は自分が2州をもって1州を平定できる
これが雪だるまの論理。OK?
信長も尾張平定>美濃平定>畿内平定の順番で時間がかかってるだろ
自分の展開できる兵力が少ないからそうなるんだ
>>372 そのまま雪だるまが大きくなり続ければな
途中で溶けたりするかもしれないしそもそも雪ダルマが完成しないかも知れない
さらに雪ダルマを作ってる最中に邪魔をされるかもしれない
その邪魔などに当たる外的要因の可能性について議論してるのに
外的要因を考慮してない雪ダルマの論理の話したって糞の役にも立たんってことだ
最終的に
>>371が言いたいのはそういうこと
大体劉備や曹操も確かに僥倖だが結果が存在してるだろう
この議論は呉が益州を支配できたという結果が出てないから可能性について話あってる
既に起きた結果と起きてもいない事象を同列に扱うのはどうかと思うぞ
先に江南の軍事力で夏口一年という計算のまま
益州で何年になる?のと言ってるのは
>>367だぞ?
うん だからどっちも検討違い
まあ絶対無理とする確実な根拠も無いからなんとも言えないけど
>>326 の言ってることに集約されてると思う
結果を見ても呉が侵攻して勝った戦いがどれだけあったかというと…
まして攻める場所が奥地だから周瑜とはいえどこまで予見できるか…
さらに呉は特に豪族の力が強くて盟主の力が脆弱だからなあ
個人的な考えでは侵攻して永安が仮に抜けても維持できないと思う
関羽が荊州北部に侵攻してる時も徐州を制圧する意見がでたけど却下されてたし
補給線の問題もあると思う まあ仮に劉備勢力を併合できれば力押しで益州平定できるかもしれんが…
どうなんだろうな
>さらに呉は特に豪族の力が強くて盟主の力が脆弱だからなあ
これは赤壁でだいぶ覆ったのでは?
それに劉備勢力も当時ではまだ孫権とのほぼ共同体状態だっただろ
この状態では兵力の提供は拒否できるかもだけど、兵站の確保くらいはやらざるを得ないんじゃないか?
>>373 雪だるまの理論は普通に成功の可能性の一つの要因にしたっていいと思う
動員できる兵数が上がっていることは確かな+要因であって
動員すえう兵数が多ければ攻略に要する時間も減るというのは実際に例のあること
周瑜が益州落とせるか?という仮定の命題を立てるのに
現実に起こったことを判断材料にしなければ妄想で妄想を組み立てることになる
>>377 ケ艾も呉の豪族の力が強くて独立できるほどだと言っていたが全く覆ってない
二宮の変も豪族の勢力争いの側面があるしね
そもそも前漢から後漢になったときは既に豪族の力が強くなってるし呉だけ豪族の争いを
してるわけじゃなくて魏も蜀も派閥争いはしてるんだけどね 呉は中央から離れてるから特に豪族の力が強い
まあ兵站の確保は表向きはやるかもしれないね ただ劉備も益州狙ってるわけだから裏で何を考えてるかわからんけど
>>378 『外的要因を考慮してない雪ダルマの論理の話』と限定したつもりだったんだが
文章って難しいな ともかく誤解させたみたいでゴメン
おっしゃるとおり 外的要因を考慮してるなら雪だるまの理論は成功の可能性の一つの要因になるのは間違いない
>>379 いや、そんな未来の話じゃなく、赤壁直後で盟主としての孫権の力は飛躍的にアップしたってこと
魯粛だって赤壁のおかげで大躍進するわけだし
だから盟主の脆弱性はこの時期においてマイナス要因にはならないんじゃないかと
>>380 確かにこの時期に孫権の発言力がアップしたのは間違いないだろうね
うん言っていることは分かる 赤壁という結果を示した以上孫権の株が上がり計画を実行するのに豪族達の私兵も動員できる
ただ兵力は動員できるが長期的にできないってことが言いたい
やはり君主に強権がないと思うように行動できない それが長期的な作戦であればあるほど如実に現れてくる
益州攻略の実現性が火を見るより明らかな場合とか電撃戦をして8割以上の勝算があるとかならある程度可能かもしれんけど
見る限り絶対できるといった感じには見えないし… 故に君主権の脆弱性はちょっと問題かな
だから呉は最後まで躍進できなかったと思ってる 南船北馬というのもあるけど
とにかく不安材料が多すぎる 伯符が存命中でもどうだろう
劉璋は荊州半分に居座ったばかりの劉備が1年で落とせる程度
問題となるのはその荊州に劉備がいることで、根拠地である揚州と益州の間には荊州があって
荊州の領地が曹操と劉備に挟まれてるんだからポッキリ折られるとどーしょーもない罠
益州を攻める前に劉備を攻め滅ぼしたいところ。曹操が居なければ、だけど
益州より荊州全部が欲しいってのは孫権政権全体の悲願だし
だから劉備を形だけの王にして劉備勢力を併合というか合流させるという形になる
そうすれば滅ぼすわけではないから曹操への牽制は残り続ける
あとは劉備次第ということになって振り出しに戻る… というわけだ
劉備が1年で落とせるって手引きがあったからできたわけで劉備と孫権を同列に扱うのはどうかと思う
地理を知ってるというのは相当大きいぞ しかも兵力が集まる戦略上の拠点がどこにあるかも分かる
まして法正も手引きしてるならその手の情報も完璧に近いはずだし
周瑜存命時の劉備・孫権の関係が非常にあやふやだろ?
この時期の劉備なら孫権側にとってはむしろプラス要因にならんか?
益州攻略で周瑜の邪魔をしようもんならお終いだし、出兵拒否しても対曹操の防備には対応せざるを得ない
とすると、益州の攻略だけど、甘寧なんかは地理もわかってるし、張魯の侵攻もあって東側の防備は、
後の張飛らの快進撃から見るに、かなり手薄だったはず
内応者も期待できるので、案外簡単に落とせる気もする
呉側にとっても劉備と戦うメリットはないんだよ 寧ろデメリットが大きい
少なくとも強大な曹操相手に孫権も劉備も協力するのは不可欠 対外的には協力してると思わせないといけない
故に孫権側も劉備側にある程度は要求できても強く出れない
出兵拒否できても防備には対応せざるを得ないという点はモットモではあるが
そもそも曹操が両者は協力しておらず寧ろ敵対してると分かれば攻めてきた時点で構想は破綻する
今度も赤壁のようにいくか分からんしね
甘寧の出身地は巴郡臨江県で江州より少し手前 だから地理はある程度知ってるとは思うが流石に戦略上の拠点を全部は知らんだろ
手薄と言ったって既に劉備が入っていった後で劉璋側の目が劉備に集中しているからこそとも思える
まあ内応者が出てくれれば可能になると思うが問題はその前に内応者が出るほど
短期間で孫権側が益州を侵略できるかにかかってる それに劉備側も独自に動くだろうし
うん、だから対曹操の防備という面で劉備の存在はプラス要因っしょ
表立って敵対出来る状況にもないし曹操にとっても厄介
劉璋側の目はまず張魯に集中してたんだから、それが劉備に変わっただけで、手薄なのは変わらない筈
あとそういう状況下で劉備側の独自の動きって、具体的にどんなことができる?
かなり限られてくると思うんだけど
劉璋側の目はまず張魯に集中してたんだから、それが劉備に変わっただけで、手薄なのは変わらない筈>ん?ここの意味が分からないんだが
劉備が孫権に変わっただけという意味で言ってるのかな
そうだとして答えると劉璋が張魯に集中できたのは劉備を当初援軍だと思っていたから領内に抵抗なく入れた
仮にもし周瑜なら最初から侵略戦で始まるので抵抗があるのは間違いない
ということは手薄になるわけがないということ
それに呂岱伝の漢中攻めにもあるように張魯も孫権を警戒していたと見れるし
張魯は傍観して劉璋と呉の全面戦争になる可能性もあるし下手すると張魯に領土の割譲を条件に呉と共同で戦うというシナリオまで出かねない
だから一番良いのは内応者が出ることか攻め込む前から劉璋側から内応者が出ることなんだけど無理だろうね 後からの内応者にしたって戦線が膠着したら内応者なんて期待できないし
それぐらい不安要素があるなら劉備と共同出兵して益州取らせる代わりに荊州を返還させることを狙った方が現実的
とにかく不確定要素が多すぎる 具体的な方法だと兵糧を遅らせることが第一に頭に浮かんだなあ
>張魯に領土の割譲を条件に呉と共同で戦うというシナリオ
これは対劉備戦でも劉璋は採らなかったからかなり薄いかと
>>389 多分ね 劉備の場合同族だからという理由と劉備なら殺されないかもと思って張魯と組まず降伏した
呉の場合は同族でないから殺されるかもと思い領土割譲を条件に
張魯に協力させ徹底抗戦をするという可能性も考えたがちょっと想像の域に生き過ぎかもね
劉璋と張魯の共同戦線は張魯側から見れば両者が戦い疲弊したあとで漁夫の利を狙っても良いし
戦力に自信が無ければ劉璋側の申し出は渡りに船として共同戦線をとり安全に領土を入手できるという見方もできるし
不確定要素が大きいか
>劉備の場合同族だからという理由と劉備なら殺されないかも
更始帝は劉盆子に殺されてるじゃないですかー
>内応者にしたって戦線が膠着したら内応者なんて期待できない
許攸「いや全くその通り」
孫子を学んだ人間からすれば
戦線が膠着したら内応者なんて期待できない
ただし黄蓋は除く
BY曹操
お 面白い反応が返ってきた 許攸かw そう来たか
まあとにかく言いたいのは不確定要素が大きいということかな
何か自分がグダグダと語ってるしそろそろ表舞台から去るか
他の方の意見聞きたいし
てか張魯ってそんな領土欲で侵攻してるわけじゃないよね
劉璋への怨恨じゃなかったっけ?
それなら張魯と組むよりは孫権に降伏するだろ
劉璋は張魯の母親と弟を殺している
母と子を殺されたのは張魯に早くから完全独立の意思があった結果だろ
怨恨もあったかもしれんが領土欲もあったと思うぞ
その割りにはアッサリと曹操に降伏したというか
その後の蜀における五斗米道なんかをみても
黄巾のような独歩力は感じない
成漢も他に無いから自立したようなものだし
勝ち目がないと分かってたからだろ
あの時の曹操に正気だったら喧嘩売らんぞ
いや、だから張魯が居なくなってからも漢中一帯には五斗米道が残って
これが天師道になってその中で李特・李雄を押し上げて成漢をつくる訳じゃない
李雄は范長生を首領に押し上げようとしてた訳だし
でも天師道は別に完全独立の意志が合ったわけじゃなくて、中原が混乱してたからそうせざるをえなかったわけで
李特が率いたのも流民だしね
だから五斗米道の中に領土欲とか独立の意志みたいなものは感じられないんだよ
黄巾みたいに政教一体の雰囲気を持ってない
馬超がどうしたってんだよ
>>401 んーでも
>>398の言ってるように全く領土欲が無かったというのは無いと思うぞ
劉璋が張魯の母と子を殺したのだって従うものと見ていた張魯が従わなかったからだし
五斗米道に領土欲が無いっていうのは否定もしないし肯定もしないけど
張魯個人に領土欲があるかないかの問題であって五斗米道全体の行動理念の話をしてるわけじゃないし
全く五斗米道が関係がないわけじゃないけど一番重要なのは張魯個人の考えやスタンスだろ
>>403 張魯が落ちのびてきた馬超に兵を与えて
何度も涼州に攻め入らせたことをお忘れか?
>>401 >いや、だから張魯が居なくなってからも漢中一帯には五斗米道が残って
>これが天師道になってその中で李特・李雄を押し上げて成漢をつくる訳じゃない
成漢は漢中より南が本拠地でしょ。
成漢の主流は巴夷の他には雍州の豪族。
>李雄は范長生を首領に押し上げようとしてた訳だし
あれはポーズまたは政治的作為であって、信仰心とかじゃないでしょ。
>>404 いや、だから張魯個人の考えやスタンスで五斗米道全体が動くかどうかの方が問題だろ?
張魯だって代々の漢中の人じゃないしな
そもそも劉璋の張魯の母親殺しも流民集団である東州兵と劉焉側近組との戦いの間隙におきた出来事だし
>>405 涼州攻めは馬超側の要請で張魯が指示した訳じゃなかろ
馬超の扱いなんて張魯勢力の場当たり的な行動の最たる者で
明確なプランがあって馬超を保護したんじゃなくて、なんとなく役に立ちそうだから手元に置いておいたんだろ
だから当人もホイホイ劉備についていくわけだし
>>406 漢中は巴と雍州の間な訳だが
漢中からの道教勢力が無視できない程民衆に広がってなきゃ
そんな政治ポーズを取る必要がない訳で
本人に宗教的信仰心があるなしよりそっちの方が大事だろ
>>407 土地も兵も家族も失ってほとんど身一つで投降した馬超が
張魯に一方的な要請なんて出来るわけ無かろう
明らかに張魯側の意思も働いてると思うが
さらに降った後だけじゃなく馬超が韋康と戦っている時も
張魯は馬超に援軍を送って助けさせてる
ずっと馬超との同盟と涼州方面の安全確立を狙って動いてることになる
>>407 五斗米道の性向については俺は余り意見する気はないんだが
>漢中は巴と雍州の間な訳だが
なんか成漢についての基本認識が間違っている気がするが…。
成漢政権の幹部は雍州流民。流民だが貧民ではなく、豪族(雍州時代は仕官していた)が多い。
彼らは雍州に移民していた巴夷と結びつき、290年代末の関中の異民族反乱を避けて共に漢中に入り、後にさらに南下。
で、当初(301年頃)は、綿竹が本拠地で、益州刺史の羅尚と戦い、南下していく。
漢中(梁州)は晋の梁州刺史の支配がしばらく続く。。
307年に一時的に漢中を襲って民をさらったりしてるが、これは范長生を担ごうとした時よりずっと後だし、
版図に組み込むのは314年とかだと思う。
>漢中からの道教勢力が無視できない程民衆に広がってなきゃ
>そんな政治ポーズを取る必要がない訳で
范長生は漢中の人じゃないし、漢中源流の道教勢力の人かどうかも分からん。
それに范長生が率いていたのはわずかに千余家。
だが、李流軍がピンチの時に軍糧を提供したという恩義があった。
ここまで益州人と血みどろの抗争をして来ているので、
范長生を担ぐというのは益州人との和解の意味合いが大きい。
>いや、だから張魯が居なくなってからも漢中一帯には五斗米道が残って
>これが天師道になってその中で李特・李雄を押し上げて成漢をつくる訳じゃない
やはりこれ(の2行目)には納得できないな。
けっきょく張魯はは正気で曹操に喧嘩売ってるのか売ってないのか
張魯は劉璋と和解する気があるのかないのか
天下二分の計や天下三分の計と同じ趣旨の計略は甘寧がまず言い出したのだと
思います
魯粛の方が早いかも知れんがよく分らん
ただ周瑜の方針が甘寧の進言に沿ってるのは確か
魯粛は時世によって柔軟に変えてる感じ
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/03(火) 10:29:28
甘寧よりも魯粛の方が先だな
甘寧の場合は、自分を追い出した連中に復讐したいと言っただけの気がする
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/03(火) 18:47:54
>>414 追い出した連中って誰??
黄祖じゃないよね?
>>415 そもそも甘寧って、劉璋の世襲に反対して益州にいられなくなったんじゃなかったっけ
我 が 疾 風 の 攻 め を 見 よ !
甘寧の曾孫の甘卓は晋書に列伝がある。
優柔不断のダメ武将だけど。
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/06(金) 10:10:32
孫策挙兵時に張絋が長江流域を押さえろって言ってんだし、そこからの情勢の変化に合わせていくと
自然と天下三分・二分の計になるんじゃね?
誰が言い出したとかじゃなく、結構一般論としてあったんじゃね?
まあ魯粛の孫権は皇帝になれ発言はぶっ飛んでるけど
確かにただ荊州、その次は益州押さえろっていうのは
あの状況だとそれほど凄い進言では無かったかも知れん
どうやって攻めるかっていう内容が重要であって
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/06(金) 12:09:22
黙祷
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/01(水) 14:26:37
>>419 「最終的に二分になる」とかじゃなくて(そりゃあ圧倒的大国が残り一国を残
す状況になれば二分と言えなくもないさ)、「今無理してでも荊州と益州を獲
れば北の大国と拮抗する勢力が作れる」という意味だから重要なんじゃないか。
安全確実、地道に拡大しても大国がもっと早く拡大するからいずれ屈服するし
かない、危険で困難でも先に荊益を確保しておけば大国とやりあう戦略の幅が
広がる。
あげ
初めて見た裏ビデオがこれだったな
そのせいでパイパンフェチになった
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 12:32:48
甘卓は鎮南大將軍
甘寧も草葉の陰で喜んでいるだろう
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 12:53:11
制作手伝った知り合いがいるけど
彼の話だと女優は素人さんでギャラは¥100000だったそうだ
でバイブでのオナニーシーンでは本気でイッタとも
監督は映画系のそこそこ名の知れた監督だったとも
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 16:28:13
:/ _,. - 、\: _:
:/ / G ヽ_,. -‐''¨ ̄ ¨\:
:/ | _, -'´ _,. -―― |:
:/ >‐´ _,-'´ _ ノ:
:| / ∠ -‐''''彡≡ヽ /:
:| / r≡ミヽ リ _,,..,,_ヽ'´:
:| / |リ ̄_,,...,,_ ',シヒ9ン、l__:
:| / / リ:'ィテヘ9ンミ ^''==彡'" \:
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:\ ∵:∵:∵:∵| `'''''''/.:/: ウヒヒ
:\___,-、_ :∵:∵:∵ヾ'zェェッ∵:/:
:`''――'''''-、_∪∵:∵/:
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 00:52:30
張魯に明らかな領土欲は見られないし(漢中での独立の意志は読み取れるが)、孫呉軍が益州に攻めても傍観だろう
蜀征伐さえスムーズにいえば二分はちょろいはず
呉が蜀を取れば独立も危ない
結託して邪魔しにくると思うけど
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 03:09:41
そんなら曹操の馬超攻めに対して邪魔しにこないとおかしい
だから馬超に協力して兵も出してるって
呉に対しても劉璋と一時結託して対抗する可能性はある
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 04:01:09
協力とは言っても大した兵力の投入はない
独立性も曹操にあっけなく投降している経緯をみるとさほど重要視していない
劉璋との関係からみると結託よりは別の強者への投降の可能性の方が高い
連帯感の根拠がなさすぎるからな
良くて北洋軍閥○○派みたいな感じですぐ割拠ってとこだろう
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 04:12:01
1.周瑜、荊州獲得策として劉備を擁立。
劉備を祭り上げて無力化し、その軍団で一気に益州を制圧、北上を目論む。
2.魯粛が孫権にチクる。
3.豪族を率いる立場の孫家としては、劉備がトップに立つと豪族の一人に格下げ。
しかも、そうなると孫権唯一の美点である適材適所も十分に発揮されなくなる。
劉備を無力化するにしても、孫家の立場が危うくなる事に変わりは無い。
孫権は、周瑜暗殺に踏み切る。
4.魯粛が後任となって出世する。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 07:57:41
高校2年の時、2歳年上の姉の友だちにデートに誘われた。「私の家に来ない」と言われて、神戸の山のほうにある大きな家に連れて行かれた。家族は外出中らしく二人っきり。彼女の部屋で迫られて、関係を持った。
終了後うっとりしていると、彼女に「これからもずっと付き合ってくれる」と言われた。
それからたびたびデートするようになった。家族のいない日をねらって、彼女はぼくを家に連れ込んだ。大阪湾を一望にする広い浴室があり、いつも二人で入ってHなことをしまくった。
夜景を見ながらしてもらうフェラは最高だった。
彼女も同じ気持ちだったようで「ここでHなことするの夢だったんだ」と言っていた。
もっとすごいこともあったが、気が向けばまた書いてやる
>>432 あっさり投降しようとしたのは
単独で曹操と直接敵対できるほどの自信が無かったからだろう
呉にも同じ態度をとるかは分からん
それほど積極的な協力ではないにしろ一時休戦と兵の援助くらいは十分ありうる
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 08:33:56
俺が童貞を捨てたという実感が得られたのは4度目の体験。
それまでは無我夢中であまり気持ちよくなかったけど
4度目になってもぎこちなく腰を動かしていた俺は
疲れて動きを止めたときに初めて彼女のマンコの温もりに気がついて
とっても安心した気分になった。
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 13:20:25
曹操も怖いが、呉も信用出来ないだろうな
益州としては劉備に呑まれて良かったのかも知れない・・・・
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/12(火) 14:04:35
>>436 確かに呉に同じ態度とるかはわからんが、馬超が崩れても曹操への防衛手段を殆ど打たずに
劉璋攻めてんだぜ?
結託の可能性はほぼ無いだろ
張魯と劉璋の関係は怨恨が入ってるからね。
劉璋より孫権の方が手強い相手だろうけど、
張魯は劉璋を目の仇にしてるので協力の可能性は低いと見るのが自然。
第一史実通り孫権と結ぶ劉備が入ったら孫権勢力が入ってくるよりおっかなかっただろうに、
特に劉璋と結んだりはしてなかったような。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/15(金) 14:46:28
>>438 愚将に連れ出されて夷陵で虐殺されただろ
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/15(金) 14:55:16
ああ蛆虫よあああああああああああ
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/17(日) 13:55:20
涼州と益州って連携できれば有利なんだよな。片方が攻められたらもう片方が
敵を包囲できる。
結節点を制圧されたら簡単に分断されるのが難点。涼州単独でも戦う実力がな
いと、蜀の北伐みたいに取っては放棄を繰り返すことになる。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 02:17:14
・張魯と劉璋の関係は最悪レベル
・巴西に軍は集中、東への防備はあまり考えられていない様子
・孫呉と馬超の連携は張魯の消極的防衛策よりかは発展するものであり、馬超側からしても有利
・劉璋側からすると張魯、周瑜の二面攻勢になる可能性が高い
・劉璋側からの離反者も見込める
・曹操の行動として、長江を抑えられている揚州よりは荊州の方が攻めやすいが、劉備の存在があり、落とすのは容易ではない
・馬超が保てば荊州からの進軍は容易
・張魯は劉璋以外には降伏する可能性もあり、防衛能力も高くなく、漢中併呑は容易
よってこの計略の成功率は高いかと
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 16:06:56
>>444 劉備は荊州の守将として落ち着くのか?あり得んだろ
呉が蜀に侵攻したら、劉璋の援軍要請を大義に呉の後ろを狙う可能性すらある
>>445 周瑜はおまえと違って顔も頭もいいからそれくらい想定して対処する。
対処できなければ出兵しない。
>>444 >長江を抑えられている揚州よりは荊州の方が攻めやすいが
荊州でも長江を抑えてからに決まってるだろ。荊州で長江抑えずにどこから
益州に入るんだよ。
身も蓋もないこといえば、ガチガチにシステマチックな近代戦じゃないんだから
よっぽどの不利条件じゃないかぎり、多少の不利を個人の才能が補ってしまうということは往々にしてある
益州に進軍してからの緒戦の部分で周瑜が手際よく敵を片づけたら、劉璋政権が劉備ほど持たずに瓦解する可能性だってある
だが周瑜は二人居ない
劉備が不穏な行動を起こした場合、対処するのは本国の孫権であって益州攻めてる周瑜じゃない
というか益州攻めている段階で劉備がなにかしたって取って返す訳にはいかん。下手したら挟み撃ち、良くても次の益州攻略は困難になる
孫権がなんとかしなければならんのだ
赤壁の後に周瑜に援軍を送らずに合肥に繰り出す孫権が・・・
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 22:19:37
>>446 書き方が悪かったな
南方への進軍なら揚州ルートより荊州ルートの方が容易ってこと
逆もまた然り
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 22:34:31
>>448 いずれにせよ、長江沿いを守るのは劉備じゃないと思うのですよ
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 23:00:40
>>446 最大の問題は、劉備の扱いじゃないのか?
結局、劉備がいる限り天下二分の計は周瑜の妄想って事か。
>>447 周瑜に次ぐ人物と言えば呂蒙だが、彼が大成するまで待ってられんし・・・・・
魯粛は戦略家だし、孫権には任せられん。
程普?黄蓋?やはり、周瑜と同格くらいの能力が必要だろうなぁ。
電撃的に、劉備がアクションをおこすより早く、益州を飲み込むしかないと思うわ、マジで
史実の周瑜も色々劉備対策を考えてるっぽいけどさ
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/19(火) 01:23:34
周瑜存命時の孫・劉の関係ってすっごい曖昧じゃん
明確に劉備が独立したのは周瑜死後だし
その状況で劉備が不穏な動きなんてしたら一番喜ぶのは曹操
もし曹操が荊州侵攻すりゃ劉備も呉軍と協力して荊州守るしか道はないと思うんだけど
ヤフーの三国志の人気投票
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/ \ /\ ネットではみんなが曹操を天才・詩人・超人とほめてる
/ し (>) (<)\ もう蜀なんて入れる奴居ないだろ…
| ∪ (__人__) J | ________
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ノ \ | | |
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/ \ ─\ チラッ
/ し (>) (●)\
| ∪ (__人__) J | ________
\ u `⌒´ / | | |
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/::::::─三三─\ >曹操患者が鬱陶しいので蜀に入れるわ
/:::::::: ( ○)三(○)\ >曹操患者が発狂するのが楽しいから とりあえず蜀に入れることにしておくわ
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _______ >曹操患者発狂目的で蜀しかありえない
\::::::::: |r┬-| / | | | >曹操患者がファビョルの見たいから蜀かな。
ノ:::::::::::: `ー'´ \ | | | >蜀一択だろ。ばかじゃねー
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/19(火) 13:14:42
>>450 もう一度劉備を孫権の手元に呼び寄せるかな。二度も招く理由作れるかわから
んが、人質をとって済めば軍を張り付けておくよりいい。
>>451 それは無理www
やっぱ、劉備を名目上だけでも皇帝に仕立て上げて、統一後にでも禅譲させればいいんじゃね?
劉備と孫権の年齢差も相当なもんなんだしさ。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/19(火) 20:20:54
>>455 流石に劉備は劉協と違って無力化するのは難しいだろ
もし統一したとして、また内乱になるんじゃね?
ジツリキで揚州も統一出来ないで二分の計も糞もないわ
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/19(火) 22:50:58
カップラーメンは二分じゃできない。三分必要なんだよ。
ま、そういうことだ
この前コンビニで一分でできるカップめん売ってたぞ
まあ一分でできるやつは昔からあったけど。
>>457 揚州は勢力圏じゃなくて行政区分。守りやすさで決めた線じゃない。
>>459 一分でできるのは伸びるのも早いから、それを考慮するとやっぱり3分がちょうど
いいらしい。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/20(水) 16:06:23
長江流域を抑えれば益州、揚州の防衛は容易だし荊州から一点突破できる
関羽の北上より凄いことになる
馬超もいるしね
天下統一余裕ですた
>>461 魏呉で拮抗したら後世「実は涼っていう国もあったんだぜ」って言われるのか
やはり、劉備次第だな
領土二分でも人物が三人(曹劉孫)という矛盾を解消するには、人物を減らすか
領土を三分するしかないだろう
劉備を滅ぼすか、劉備の動きを監視・抑制する必要がある
劉備擁立となると、豪族連合の呉にとって孫権の立場に影響する可能性は高い
荊州を任せて同盟維持する手もあるが、同盟を破らない保証無し
裏切られると、益州侵攻軍は最悪壊滅する可能性もある
じゃあまあ大人しめな劉巴でも擁立するかw
劉氏なら誰を擁立してもいいというものではないよ
荊州で人脈を育て、多くの戦歴や実績があった劉備だからこそ意味がある
育て、は嘘だろう
最後の三国に劉備が入ってたからって劉備を過大評価しすぎ。
周瑜存命中は劉璋とたいして変わらない存在。
>領土二分でも人物が三人(曹劉孫)という矛盾を解消するには、人物を減らすか
皇帝になるべき人物ってかwwwなにその運命論www
劉備が荊南にいるままじゃ二分って言いきるのもしっくりこないし、構造的
にも呉が不安定だよな。
やっぱり消すか完全に取り込んでおかないと。揚州南部あたりに移封できれ
ばいいがw
孫権が来る以前から荊州では劉備待望論があり、曹操から逃げる人々は劉備についていった
孫権は荊州で勢力を拡大しようと思ったら劉備を邪慳にもできないし好きにさせるわけにもいかない
すぐ殺したりできるなら周瑜も祭り上げようだなんて言わず殺せと言ってるさ
>すぐ殺したりできるなら周瑜も祭り上げようだなんて言わず殺せと言ってるさ
不幸な事故で死ねばいいんだろ?
反曹操と劉備待望論は別に結びつきやしない出来事なんだが
荊州、益州共に、独立志向の人間にとって偶々劉備がそこに居た(劉j・劉璋は×、劉gは死んだ)だけであって
孫権は長年戦ってきた相手だからちょっとヤダなー程度だろ
実際に孫権が荊州を手に入れてみたら、荊州が同様して魏に下った、なんてことはなかったし
>>471 劉璋だって十分割拠派を結集できてただろう。劉備の入蜀に結構抵抗できた
じゃない。劉jと同格扱いはちょっとひどくないかい?
>>469は少々結果論が過ぎるのでは。劉備が最終的に皇帝になれたのは事実だ
けど、他の段階他の地域でもなれたとは限らない。
赤壁以前は、孫権なんか中原から見たらカスみたいなもんだったろ・・・・・
危険なのは、劉備と周瑜。
ところで、益州で劉備に組した連中は、周瑜存命なら周瑜を招き入れたのかな。
>>473 赤壁を機に孫権の評価を変えるのも微妙だけどな。
蜀の親劉備派が反曹操が主なら周瑜でも構わないことになるが……
周瑜は自分がトップになってやろうとか思わなかったのかな。
孫策に義理立てして、そういうのは考えもしなかった?
ほとんど半独立状態になりかけてたのを(赤壁の時の会議も最初は参加してなかった)、
都督に任命されて孫権軍一丸で戦ったことでうやむやになったとかそんな感じじゃなかったか
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/22(金) 01:59:41
元からなかったろう
蜀の統治も孫瑜を推してるわけだし
___
_,, -ー ,, / ⌒ ⌒ 丶 あれれ、日本・中国で曹操の人気は高いんじゃなかったんだっけ?
/ " `..,:. <●> <●> 丶 日中両国で魏にまったく人気がないのが発覚してもいまだに曹操患者やってて楽しい?
:/ 曹操患者 :::::i:. | (__人__) | いつも一人寂しく劉備へのネガキャンはってるの?
:i :::::!,, ハッ \ |∪| 、____
ヽ.....::::::::: :::::i ハッ / ヽノ ___/
r " .r ノ~. ハッ 〉 /\ 丶 孔明をひたすら口汚く罵るしか楽しみ無いの?
:|::| ::::| :::i. ゜。  ̄ \/⌒_) ねぇどうなの?どうなの?
:|::| ::::| :::|: } ヘ /
:`.| ::::| :::|_: J´ (( トントン
____
/ / \\
. / (;;..゜);lll(;;..゜)\ このガキャあああああああ
/ ⌒(__人__)⌒ \ ナメてんのかああああfさdkjh;flsだhf
| ノ( |r┬- | u | ________
\ ⌒ |r l | / .| | |
ノ u `ー' \ | | | 情弱の蜀ファンごときが調子こいてんじゃねええええ!
/´ .| | Sotec | そのうち蜀に投票したことを後悔する日が来るぞ!
| l プルプル u | | |
ヽ u -一ー_~、⌒)^),-、 | |________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ-___| | |____
AA張るのもいいがせめてずれを直せよw
>>476 柴桑の会議に遅れたのは、たまたま周瑜がハ陽に出向いていた時に緊急の事態が起こっただけだろ
張昭らと違って孫権にべったりくっついていなかったのは確かだがハブられてたわけじゃない
逆に他の軍部の人らは程普ですら会議に呼ばれたかどうかすら定かじゃないんだから
周瑜の立場はかなり良い方だろう
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/23(土) 15:38:46
>>475 本当になんでだろう。閨閥に差があったのかな。
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/23(土) 17:43:40
>>480 ヒント:軍部はハ陽湖で軍事訓練中で柴桑会議に遅れて参加説
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/23(土) 17:49:04
孫策死亡後の孫権への対応
蒋乾への対応
遺言
これだけ見ても忠義心の塊やないですか
>孫策死亡後の孫権への対応
これは創作とどっかで読んだような……
あえて孫氏優位の証拠を挙げるなら、
孫権が立ったとき揚州の太守は孫氏とその近親者によって占められていたということかな。
会稽 孫策→孫権
呉郡 朱治
丹陽 呉景
豫章 孫賁
盧陵 孫輔
彼らはみな、揚州・江東の「地元名士」連中でもある。
ことの始まりは、袁術が揚州に勢力を広げるために孫堅の縁者を多く起用し、彼らもそれによく応えたこと。
長子孫策は若年ながらも旗手として祭り上げるのに格好の存在であり、そのまま孫氏独立へ至った。
彼ら太守達が揚州の経済的軍事的基盤を確保してくれていたからこそ、
張昭・周瑜を補佐筆頭とする策・権中央政権が成立したのだろう。
486 :
480:2010/10/24(日) 10:55:25
>>482 いや知ってるし自分もそう思ってるけど
周瑜以外の軍部は会議に参加したともどう発言したとも記録が残ってないだろ
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/24(日) 17:35:14
当時の軍部は発言力低かったのかね
孫策(権)が揚州各地に駐屯する軍部を掌握していた(その実務を取ったのが中護軍周瑜と考えられる)
からこそ、一族中の「当主」であれたのだし、
一族の太守達が戸籍によって揚州の経済力と人的供給源を掌握して
当主を支えたからこそ、孫策(権)が他姓軍人や名士達を抑えることが出来たのだとも言える。
二重支配の両軸となる存在。
で、張昭を筆頭とする知識人集団が統治・外交方針のビジョンと、雑多な勢力を束ねる調整能力を提供した。
まあ必然的に、当主のそばにいて常に意見を言う参謀団の発言力が大きくなる。
というか発言するのが仕事だから。
>>482 遅れて会議に参加したのは瑜だけで、ほかは来なかったんじゃないの
>>485 呉では孫家の反乱が多いけど、「孫家ならだれでもよかった」って雰囲気が
あったのかもわからんね。周瑜ではだめだった。
周瑜だと角が立っちゃうんじゃね
孫家ぐらいの家格と実力がちょうどよかったとか
>>490 孫権死後の話なら、皇族たちには「俺らが皇家を支えてきたんだ」って
意識が結構あったのかもね。
荊州の一部しか持たない時期の劉備が孫権を裏切って急襲した場合、
まず孫権勢力という有力な同盟国を確実に失う。
劉備が断固抵抗し、向こうも目の上のタンコブだと思ってる曹操という巨大組織と戦う前に、
一番有力な(友好性や信頼性ではなく実力が)味方を敵にしなければならない。
次に第一ターゲットとなるであろう江陵を落とせる可能性はあまり高くはない。
曹仁・朱然らの例をみるに、徹底抗戦すれば寡兵で長期に渡って粘れる堅城の一つだろうし、
揚州の孫権本隊や遠征軍が集まれば数的にも明らかに不利になってしまう。
孫権と劉備が敵対し、しかも荊州で長期戦ともなれば曹操が再び南下を目指す可能性も高い。
そうなれば、益州遠征は両陣営とも不可能。というか一歩間違えればそのまま曹操に滅ぼされる。
愚行の域に属する暴挙だと俺は思うけど、
劉備にはそういう凡人の一般論を超えた「まさか」をやってのける恐さみたいなのがあるから、
完全には否定できないんだよなぁ……
>>491 プロテロリストと並んでそっちで有名だったんじゃなかったっけ?
なんかで読んだ気が…
色々ごっちゃになってるかなw
495 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/26(火) 13:53:56
>>493 さすがにそれはないだろ
というかこの策で劉備陣営がとれる対処法って殆どないような気がする
やっぱり呉との共同歩調は必要で、できるとすれば益州攻めに協力しての発言権、領土、軍事力の強化くらいじゃないか?
でも益州攻めの協力には反対してたんだよなあ
周瑜生きてりゃほんとどうするつもりだったんだろ
>>495 曹操を睨んだ微妙な外交情勢を盾に呉が蜀に入るのを阻止しつつ、
劉璋との友好関係を装って、対張魯・曹操戦線を名分に入蜀、
その後に矛をさかしまにして奪取。
史実と同じシナリオでいいだろう。
孫権にとっても、劉備を敵に回せないのは同じ。
やろうと思えば、劉備が成都攻撃中に荊州を襲撃してその根を枯らすことは
史実でも簡単に出来た。
それをしなかったのは、荊州で劉備軍とドンパチするわけにはいかないこと、
益州が軍事的に強力な親孫権勢力で固まること自体は有益だということに拠るだろう。
周瑜が生きていたとしてもこの事情はそんなに変わらない。
もし、周瑜が強攻策に出て荊州を急襲し、根拠地を失った劉備が益州で滅びたとしても、
その後を埋めるのが漢中から雪崩れ込んだ曹操軍であっては本末転倒なのだから。
>>496 周瑜生前と死後じゃ劉備と孫権の関係も荊州の情勢も全然違うんだぜ?
>>497 『周瑜の生前・死後に関わらず、孫権勢力の方が劉備より圧倒的優位に居たが、
それでも史実上衝突策を取らなかったように、両陣営にとって協調はメリットが大きい&敵対はデメリット大きい。
だから劉備側にしたら「敵対のデメリット」をチラつかせることで、
相手側を「協調のメリット」に向かわせる史実通りの外交アプローチが一番良い』
>>496の主張は多分こういうことだと思うぞ。
実際これで折れてくれれば最善策だし、史実上は折れた。
もちろん劉備側にとっての最善策が必ず上手くいく保障はないし、(五分より悪いだろう)
結局周瑜が出し抜いて先行してしまった場合は
>>495みたいな次善策に変更も必要だろうけど、
劉備側に立てば第一手としては俺も496案(というか史実劉備案)は有力だと思う。
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/26(火) 23:53:58
周瑜生前は荊州って劉備、周瑜で分け合う形だったでしょ?
それに劉備陣営と孫権陣営も曖昧な関係で、ある意味共同体みたいなもんだった
そこで劉備が孫権と敵対するってブラフちらつかせても殆ど意味ないんじゃないか?
周瑜死後魯粛案で荊州での一勢力になった劉備がブラフちらつかせるのとはわけが違うと思うけどなぁ
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/26(火) 23:55:59
魯粛は、劉備との友好関係を維持したかったみたいだからな
曹操が赤壁で疲弊したと言っても、劉備と孫権が揉めれば付け入るに決まってる
周瑜存命だったとしても、敵を増やして味方を減らす様な戦略は否定したと思う
いくら周瑜の軍才が高くても、電光石火で劉備を始末して蜀攻略するのは厳しいだろう
まちがった
>>499 共同体から外れてやる、ってちらつかせるのもブラフの一種じゃない?
劉備が敵対的になれば、荊州全部が敵にはならなくても呉側の荊州支配が困難になる
かといって本気で劉備と争うのは曹操の介入を招くだけで呉にとって(もちろん劉備にとってもだが)メリットがない
いやさ、ブラフの有効性が周瑜生前と死後で違うんじゃないかと
周瑜存命時に例えば益州攻めるなら敵対しますよってちらつかせたって、それならそれで呉側にも打つ手はあるだろうし、一番困るのは劉備自身なわけで
益州攻めるなら敵対しますよなんて史実の劉備もここのレスでも言ってない。
あ、俺496
>曹操を睨んだ微妙な外交情勢を盾に呉が蜀に入るのを阻止し
これ周瑜存命時にどうしたら達成できるの?
蜀と呉で協力して魏を狙うのが互いに一番良かったんだよ
>>506 蜀攻めに反対するだけで高い効果がある。
荊州における孫呉の領域は江夏と南郡の一部、長江沿いの狭いラインしかない。
劉備が協力しない状況で四川盆地に入るなら、周瑜の補給は著しく困難になる。
劉備はそれを見越した上で、
「劉璋と協力して張魯(さらにその先に控える曹操)に対抗する」
という「現実的な」プランを提示するだけでいい。
孫呉軍と共に援軍に向かえば、劉備は孫呉軍より大きな影響力を益州に振るうことが出来る。
史実のように短期間で劉璋と破綻する必要はまったくないわけだから、
孫呉が勝手に劉璋の首を挿げ替えるような真似だけ阻止して人心を収攬しつつ機会を伺えばよい。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 12:51:31
周瑜の益州攻めは孫権の支持も得た国家戦略なわけだから、
邪魔するようなら容赦しないだろ。
元々周瑜は劉備をかなり警戒してて、益州攻めも曹操が
体制を整える前に差を詰めておきたいって思惑とともに、
劉備が力を蓄える前に国力差を広げることで抑え込むって
狙いもあったんだろうし。
劉備が露骨に邪魔するようなら、早めに潰しにかかると思う。
逆に自分が死ぬ事で、そういった体制がとれなくなると
悟ってたから、後継者に劉備に協調的な魯粛を押したんだろう
周瑜死後まで劉備の力はそんなに大きくなかったんじゃないだろうか。
周瑜の許可か黙認なく益州に行くルートもないし、史実の入蜀より荊州では
劉備が弱く孫権(周瑜)が強い。周瑜を無視して荊南を手薄にするのも危険。
長江を握られてる以上、蜀で史実通り手こずったら劉璋が周瑜を呼び込む可
能性すらある。ってことで少なくとも劉備独力での入蜀はない。
周瑜と提携する形での入蜀はあるだろうか。もちろん周瑜としても劉備に反
対された状態での入蜀は困難だと思う。周瑜としては入蜀以前に劉備を抑え
込んで荊州を安定させるか、劉備軍を少数にするなどして蜀での可動性を低
く抑えるしかない。
>>508 >長江沿いの狭いラインしかない
長江沿いの狭いラインと最低限の拠点があれば補給はなんとかなるのでは?
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 13:26:23
蜀攻めに反対するだけで高い効果がある。
荊州における孫呉の領域は江夏と南郡の一部、長江沿いの狭いラインしかない。
劉備が協力しない状況で四川盆地に入るなら、周瑜の補給は著しく困難になる。
劉備はそれを見越した上で、
「劉璋と協力して張魯(さらにその先に控える曹操)に対抗する」
という「現実的な」プランを提示するだけでいい。
孫呉軍と共に援軍に向かえば、劉備は孫呉軍より大きな影響力を益州に振るうことが出来る。
史実のように短期間で劉璋と破綻する必要はまったくないわけだから、
孫呉が勝手に劉璋の首を挿げ替えるような真似だけ阻止して人心を収攬しつつ機会を伺えばよい。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 14:43:49
>>509 魯粛を推薦したのは、単に人物が優れていたからだろう
同時期で魯粛以上に優れた人物なんて、ほとんどいない
魯粛も天下二分を唱えていたし、最終的な目標は周魯共に近いものを
描いていたと思う
>>510 >周瑜としても劉備に反対された状態での入蜀は困難
劉備に呉で贅沢させてる間に、その軍団を編入して蜀攻略って絵図もあったかと
何にせよ、呉軍だけで蜀攻略するのは結構厳しかったはず
劉備の問題にしても、軍事面の問題にしても
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 16:05:06
劉備問題は置いといて、呉軍での蜀攻略は張魯の存在もあり、結構容易いって結論になってなかったっけ?
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 16:51:45
>>511 現実的か?
益州を攻める為に兵を進めていた周瑜に、劉璋と協力して張魯に対抗しよう
って言っても相手にもされないと思うし、劉璋にしてもそんな相手怖くて
受け入れることできないと思うぞ。
つか劉備は周瑜に益州入って欲しくないんで邪魔するが、
呉側は曹操のことがあるんで劉備を攻めちゃダメって、
そんなん通らないだろ。
むしろ邪魔するような危険な相手は、曹操が来る前に
早めに片付けとこうってなる
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 17:15:39
劉備を好きな人が、劉備に主導的な立場でいてほしいと考えるのは
当然だとは思うけど、基本的に同盟や協調体制をとっていても
力が劣る側は力を持った相手に対して従属的にならざるをえないと
思うんだよね。
個人的な想像では、最終的に劉備は共同軍という形で益州攻略に参加し、
張魯、周瑜、劉備に攻められた劉璋はパニック状態になる。
そこで劉備が劉璋に対し禅譲を迫り益州得て、呉側には荊南を差し出すことで
矛を収めさせるって展開になるんじゃないかと思う。
「ほしい」じゃなくて、これは劉備にとっての現状打開策なんだから
劉備が得をするプランなのは当たり前。
利益が反する相手がこれを妨害しようと考えるのも当たり前。
誰かが得をする仮定を出したからその誰かを個人的な感情で応援してるんだとか受け取っちゃうのはやめようよ。
で、
>長江沿いの狭いラインと最低限の拠点があれば補給はなんとかなるのでは?
>劉備問題は置いといて、呉軍での蜀攻略は張魯の存在もあり、結構容易いって結論になってなかったっけ?
これは荊州が後方基地として十分に使えるという暗黙の前提があるわけだろう。
それでもたやすいとは俺は思わないが、周瑜が外交的手管を十分に使えれば落とせないわけでもないとも思う。
しかし、遠征に必要な物資が、前線から近い距離で生産備蓄されているのでなければ、話はまったく違ってくる。
長期に渡るだろう遠征を支えるために、揚州からゆうに500キロ、輜重隊を延々往復させるのは
三国初期には行われていない規模の大動員になるだろう。
しかも孫権は、正面戦線ではない地域に対してこの計画を実行せねばならない。
劉備はこれを、妨害する必要はない。
人心不安定だとか曹操に備えるためだとか、理由を付けてただ見てるだけで良い。
当然、孫権、特に周瑜はこれを苦々しく思う。しかし武力で南部四州を制圧する決断が下せるかというと
別の問題になる。元々の周瑜の劉備対抗策も、劉備を軟禁してその軍閥を吸収するという策だった。
それさえ却下されたのは、劉備が曹操に対抗できる有力な軍閥の長であり、
荊州の人心が劉氏(当時は劉g含む)に向き、孫氏に厳しいから。
両者の間が険悪になったといっても、守る気満々の劉備軍主力に対して正面から武力制圧する決断が
出来るかどうか。
本腰入れてやれば、勝てるだろうけどね。その後、荊州を保持できるかというと、210年頃の段階では難しいだろう。
>劉璋にしてもそんな相手怖くて受け入れることできないと思うぞ。
別に周瑜が蜀に入る必要ないじゃん。他の穏当な将でいい。
劉璋が渋るほど、入蜀する孫呉軍の比率は低くなるので劉備に都合が良い。
劉備が好き云々関係なく、黙って「どうぞどうぞ」と従う前に、
打てる手は打っとくだろうと俺は思う。
勿論なるべく「劉璋は同族だから〜」みたいな名目論をたてに、
決定的な対立になるのは避けながらになるけど。
例えば
>>511がいうような手を打って、
孫権(周瑜)が最終的にどう判断するかはそりゃ断言はできないよね。
劉備のプランに乗らず、当然自らをたのんで単独でも強引に攻略を目指すかもしれない。
でも、もしそうなったら改めて共同攻略を申し出ればいい。
補給をはじめ荊州南部を押さえた劉備側の助力は大きいのだから、
後からでもあえて断るような可能性は低い。
悪化しかけた関係の改善・強化にも繋がるという考えも働くだろう。
むしろここでも断るようなら最初から申し出ても断るんじゃなかろうか。
力ってのは軍事力はもちろん重要だけど、荊州での支持とか、地縁といったものも無関係じゃないだろ
軍事力で劣る劉備とはいえ、孫権もまた劉備がいないと荊州に勢力を伸ばす上では困る
劉備は当然そこに付け込むだろうし、周瑜が取り込もうとしたのもそこを重視したから
しかし周瑜の策をはじめから取らなかった以上、孫権は荊州においては劉備に主導権を握られたも同然なんだよ
>>518 江夏→江陵とスムーズに占領していく上ではかなり重要だったろうね。
まぁ当初から荊州の領土配分の決定権は孫権側が握ってたらしいから、
「主導権を握られたも同然」は言い過ぎの感もあるが、
それに文句つけて直接交渉で譲歩を引き出せるくらいの『力』が間違いなくあった。
軍事力では圧倒的上位にある孫権に譲歩させるんだから、518のいう「力」は決して小さくない。
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 22:20:00
じゃあ関羽攻略後の呉による荊州支配がうまくいったのはなぜ?
この時代、家柄や名声よりも実力がものをいったからじゃないのかな
>>520 状況がいろいろと違うから一緒にして考えてはいけないと思うぞ
赤壁〜周瑜脂肪までは呉も無理をしている状態で軍事的にもそもそも単独ではどれほどのものだったか
劉表死亡からもさほど経っておらず、まだ敵だった孫権よりは劉備を取るって人間も少なくなかっただろう
関羽攻略は赤壁から10年以上経っている
呉の軍事力という観点だけで見てもまるで違うし、肝心な劉備はいないし関羽は自滅したしで、10年前よりは好条件が揃っていた
時代は違うが、殷礼の策の方がまだ可能性があった気がする
孫登が生きてれば…
>>520 呉による荊州支配1年目は疫病を理由に
荊州全般の租税免除していたような
>>522 水路から離れた徐青州の平野部深くに侵攻して魏の物量と正面からやりあうとか無謀だろう。
少なくとも蜀呉が同時に国家の存亡をかける大作戦に練り上げないと無理。
>>520 家柄はともかく、名声信望というのは「実力」なんだよ。
それがあれば数と金と人材が集めることができる。
>>515 ゲームじゃないんだから荊州と益州交換ねって交換できるかよ
劉備は荊州豪族によって支えられてもいるんだぞ
そいつらの力を借りて益州とって、そいつらの拠点を呉に差し上げる?
有り得んだろ
>>526 領土割譲ってのはその豪族との関係を譲るってことだろう。
荊州東部は実際に割譲されたんじゃなかったっけ?
豪族側はこの頭に手を貸す代わりに自分は甘い蜜を吸えるから付いていくんだよね
益州攻略に荊州兵を使う。豪族側は消耗する
その代わり制圧した益州でいい思いを……「お前達今日から呉ね」……おいゴルァ劉備ィ!
だから劉璋の財産ばらまいたんじゃないの
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/28(木) 14:52:48
周瑜と劉備が割拠している時の荊州って劉備に対してそこまで好意的だったのかな?
曹操来襲でさっさと逃げた後に呉軍の後ろ盾を得て荊南を掠めとるようなやり方で結構評価下がってそうなんだけどな
周瑜は劉備陣営から関羽らを取り込むという切り崩し策は提案してるけど、
荊州の地元勢力に対して手を打った様子はないから劉備はある程度の支持を得ていたんだろう。
赤壁後の劉備の勢力伸長は単なるタナボタとは考えにくい部分だな。
劉磐ってどうなったんだろうな。
>>531 荊州の地元豪族(というか荊州で活動する名士)の龐統は周瑜に仕えてた。
逐一名前が残ってたわけじゃないが、
支配地域の豪族達に手をつけてないとも言えないんでは。
うほっ
>>533 確かに、龐統忘れてたわ。
荊州の知識層における龐統の影響力は間違いなくあるだろうね。
龐統から見て劉備に乗り換えていい情勢だったんだろうか?
周瑜が死んだら荊州の孫家勢力は維持できない事情があったのか、孫権の
戦略に無用だったのか。
つまり荊州の劉備を積極的に支持する豪族・名士達は赤壁前に劉備についていってて
赤壁後の残っていた豪族・名士層はその時々の支配者に従うってスタンスだったんじゃないかな
ホウ;統にしても周瑜死後荊州を支配した劉備に自然と従うような感じだったし
そう見たら赤壁後の劉備の荊州における優位性って孫権、曹操となんら変わらなかったんじゃないのかな
・江表伝
周瑜が南郡太守となると、南岸の地を分与して備に給した。
備は別に油江口に立営し、公安と改名した。
劉表の吏士は北軍に従っていたが、多く叛して備に来降した。
備は、瑜の給した土地が少なく、民を安んじるのに不足であるので、
また權に従って荊州數郡を借り受けた。
これが呉側の史料が伝える、劉備が南部四郡を領有することになった由来。
赤壁以降、周瑜死去以前。
荊州での劉備の影響力を追認する形で土地を割いたわけだ。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/28(木) 22:28:08
中原から流れて荊州に留まっていた期間から考えれば、荊州豪族を取り込む猶予は
あっただろうし、劉備を慕う者が集まるだけの時間もあったはずだからな
長坂で付き従った民衆然り、劉備の人気は荊州で絶大だったと言えるだろう
孔明をゲットした事での有象無象の財産が大きかったのもあるだろうな
水鏡先生自慢の愛弟子で龐徳公に絶賛され黄承彦の女婿で蔡瑁の親戚、
ニート扱いされるが実際は荊州名士サロン期待の俊英だから、
彼が仕えるようならと劉備に肩入れした荊州名士も多かっただろう
劉備の当時の影響力を過大に見るのもどうかとは思うが、大した影響力がないと思うのはさすがに違うと思う
孫権、周瑜としても慎重に対策を立てるか劉備自身を立てるかしないと荊州での成果が無に帰する程度には重要だったと思うんだ
>>539 長坂で付き従ったのは民衆じゃなくて士人だけどね
原文では「民」ではなく「人」
漢文において「人」と「民」は明確に区別される
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 02:59:10
劉備軍って益州を奪い取る前は、自力じゃ何も出来てないし大して警戒されてなかったんじゃないか?
>>543 数万の「軍」を保持してる時点で何もできないわけがないだろ
過小評価し過ぎ
諸葛亮を得たのが大きいならホウ統を得たのも大きいんじゃないのか?
周瑜側の荊州のパイプはどんなもんだったんだろう?
546 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 04:39:17
>>544 いや、無能とは言わんが軍を持っているだけで兵の使い方は小戦的なことしか出来ない群れぐらいなもんだろ
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 04:44:15
軍だぞ、群れじゃなくて
組織化された軍を持ってるってことは組織化された戦闘が出来るってことだ
>>540 有象無象の財産じゃ価値はないぞ。有形無形な。
>>545 影響力的には龐統も負けてなかっただろうが、周瑜は呉所属というのがマイナス点だったんじゃないかね
どちらも有力名士が居るという条件は同じでも、
劉表に信任されてた劉備と荊州と仇敵に近い呉じゃ劉備の方に付こうという考えの方が自然だし
なにより龐統自身が劉備に鞍替えしてるし、赤壁直後は強力な曹操か荊州と所縁の深い劉備かが主流の考えだったのでは
荊州と呉の堅以来の因縁は結構大きなポイントだろうな
>>550 荊州の人士は呉から突然仲間だと言われても迂闊に信用できないクリリンのポジションか。
210年前後じゃ孫堅が死んだ戦に参戦した豪族とかもまだ大勢居ただろうしな
呉に付いて窓際とか最悪復讐で粛清とかを恐れて呉に付くのを躊躇した可能性は有りそうだ
>>540 諸葛亮は別に司馬徽の弟子じゃないし、その関係は司馬徽側の史料である襄陽記に出てるだけ。
黄承彦の女婿になった時期も不明。
黄氏の影響力が健在ならのちの劉備軍に頭角を現す者がいてもいいのに、赤壁後どうなったかも不明。
ホウ徳公の縁戚でもあるように、諸葛亮はれっきとした知識階級に所属する者であって
ニートのように言うのは勿論間違いだが、「名士」が影響力を発揮するのは縁故ではなく、
個人の評判による。
で、諸葛亮は襄陽滞在時、輿論に広く評価される人間ではなかったと複数の記述がある。
さすがに540は過大評価しすぎだろう。
司馬徽というのは、諸葛亮との関わりのために大きく取り上げられた面のある人物であって、
当時、本人が「襄陽サロン」でそれほど圧倒的な影響力を持っていたかというとちょっとわからない。
伝を立てられているホウ徳公の方が、それだけ多くの史料が残っていたということだろうから
大人物っぽい。
そもそも襄陽サロンなるものの主催者兼筆頭名士は劉表その人であって、司馬徽はそれと対立していた立場。
一方、ホウ徳公には劉表が是が非でも招聘しようとしたというような逸話がある。
ホウ徳公はそれを忌避してついに山間に逃れた。
彼を尊敬して邸宅に通っていたように、諸葛亮もまた襄陽主流派の広い交際関係から
一歩引いた生活をに足を突っ込んでいたのだろう。
叔父が袁術軍にいたので劉表は諸葛家を冷遇してたみたいな話は?
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 19:55:19
襄陽サロン→曹操
反主流→劉備
ってことかね
>>549 龐統のは鞍替えとは呼べないだろう
>>537の言うように、土地の支配者が変わったときに
自動的に劉備配下に移行したような様子だ
そう考えると、劉備配下になるまでの龐統に
それほどの影響力があったかどうかも疑問
まあ、荊州人士を纏める主力になるような影響力ではないにしろ、
劉表時代に南郡(襄陽郡はまだないので劉表領荊州の中心地)の功曹に迎えられて
周瑜・劉備と継続して使われるくらいの存在ではあったんだろうね。
「期待の俊英」ってのはホウ統の方に当てはまる。
ただ人望の中核になるには若すぎるが。
ホウ統にしろ諸葛亮にしろ、劉備の人望と軍事力の下で若くして重用されることで
加速度的に力を伸ばしていったという感じかな。
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 20:56:22
>>547 劉備は今でいう北朝鮮ぐらいの戦力じゃね?
孫権が韓国ぐらいなら、勝てはしないが脅威にはなる。
しかもこの北朝鮮の将軍様は、隣国の統治弛緩した大陸に乗り込んで
手練手管で制圧するくらいの能力がある。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/29(金) 21:17:06
ってことは襄陽サロンなるものは結局は劉表系として曹操に吸収されたと
なら反劉表系に孫呉を忌み嫌う理由ってないよな
ホウ統がすんなり周瑜に仕えたのもあるし、別に劉備だろうが孫権だろうが良かったんじゃね?
そりゃ多少荊州に於いて名声を得ている劉備の方が若干好意的にはなるだろうが、劉備でなければ駄目って程の差はなかったって考えていいのかな?
>>554 劉表の主催する襄陽サロンとは別口で、
頴川出身の司馬徽や徐州出身の諸葛亮は劉表と距離を置く名士龐徳公を中心に据えて、
他国出身者や龐徳公を慕ってたり司馬徽の人物評に一目置く名士を集めて、
自分達のサロンを形成したって感じじゃないかな
>>561 主流に属してなくても劉表と敵対してた訳じゃないし多くは荊州出身の豪族名士、
孫呉に含むところがあっておかしくないんじゃね
>>563 そういうことだろうな
場合によっては孫堅親子に縁者が殺されてたりしてるかもしれないわけで
どちらかを選べと言われれば劉備を選ぶ者の方がずっと多かったんだろう
「劉備でなければ駄目」ではなくても、「劉備と孫権なら劉備」が大多数なら孫権としては劉備を軽視はできない
赤壁後に孫権軍が平穏に荊州に駐屯できるためには劉備を通しておく必要があったということ
>>561-562 赤壁後の劉備陣営の数的膨張を支えたのは劉表派の吏士だよ(
>>538)。
いわゆる「襄陽サロン」は、中原の戦乱を逃れてきた知識人と地元の知識人とが合流したコミュニティとされる。
そして知られる限り、徐庶、石韜、孟建など、曹操に就いて北へ去ったのは元々の北方出身者が多い。
中原の安定を見て故郷に帰るというのは至極常識的な判断だろう(諸葛亮が最大の例外だが)。
一方、のちの劉備陣営を支えた知識人や官僚には荊州人が多く、南郡どころか南陽の出身者まで多数存在する。
司馬徽は反主流・反劉表として襄陽サロン内に小サロンを形成していたのは間違いないだろうが、
いずれにせよ曹操の到来によって、この主流反主流の枠組みは意義を失い、
大まかには、北人は北に去り、荊州人は劉備に就いた、と言うべきだろう。
そういや司馬徽も曹操に召し抱えられたんだよな。すぐ死んだけど
諸葛亮の場合は徐州出身というのが全てを物語る
年齢的にも大虐殺を直接見てておかしくない
諸葛亮は琅邪人だから虐殺現場にはいないよ。その前のタン県で止まって、
その帰りに下ヒ周辺で屠城したのがいわゆる徐州虐殺。
二度目の遠征の際に琅邪と東海の諸県は一旦略定されたとはあるけどね。
実際見たかは兎も角、
その恨みが諸葛亮のモチベーションを支えてた可能性は普通にありそうだな
徐州で虐殺した曹操だけは許せんって感じで
陳が指摘しゴンタが利用した視点すか
そんな規模だった割には、徐州避難組の多い呉の史料やら、
反曹氏の声明(出師の表とか)で、この一件の影が薄すぎるんだよな。
曹瞞伝なんかの格好の材料だってのに。
漠然とした反感の一つと想像するくらいはいいだろうけど、
モチベーションの主な理由とするにはちょっとね。
>>570 徐州で曹操が虐殺したって大書してるのは呉書と曹瞞伝だよね
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/30(土) 00:50:07
>孫堅親子に縁者が殺されてたりしてるかもしれないわけで
区星、周朝、郭石、王叡、張咨、etc..の事かな?
荊州にも新孫家派がいたのだが…桓階とか張羨とか曹寅とか。
部下の蘇代とかもいたな。彼らの縁者は当時何処へ???
>>574 そこは知ってるが、陳寿の「所過多所殘戮」という意外にも厳しい語調と
さほど変わらない程度の「大書き」なんだよ。
この殺戮が事件だったのは当然分かる。
(考えてみれば曹瞞伝は曹操の事跡を書いたものだからこれだけの記述で十分だが)
だが、同時代の者達、特に徐州人達の行動や心理に直接的な影響を及ぼしたのか?
というと、その記述があるのは当時直接陶謙の元にいた人物やサク融くらい。
呉の列伝にも袁紹の檄文や後出師の表にも載ってない。
だれか一人くらいの注に「曹操の侵攻に追われて江東へ避難した」って話があってもいいのにね。
たとえば、孫策に追われた許靖、劉備を避けた劉巴のような。
>>572 孫堅シンパがいるとすれば長沙を中心とした荊州南部で、これは恩恵少なくないだろう。
荊州北部だと禍根の方が多いイメージ。
劉表も南方諸郡を手なずけるのに結構手を焼いてたから、
北・中部と南部じゃ勢力圏?が違ったのかも。
荊州南部といっても長沙だけかもしれないし、むすびつきの強さもわからんよ。
孫堅が長沙にいたのってどれくらいだろうね。
中平5年に朱治が司馬となった後、という記述順が正しいのなら、長くて二年未満かな。
ありがと。
でも「区星討伐のために長沙太守」なら、区星存命中からということになるのでは?
そこは勿論確定できないが。
既に朱治は孫堅と共に行動して久しい人物。
孫堅が長沙太守になって長沙賊の區星討伐が完了してから
朱治が司馬に昇進し(或いは派遣されて)、その後に周朝、蘇馬らの討伐が行われた。
とするよりは、
孫堅の太守昇進に伴って司馬のポストを与えられて同道し、「長沙、零、桂等三郡賊」を討った。
特に朱治の功績として周朝、蘇馬の討伐が上げられる。
とした方がいいだろう。
區星討伐は旬月(10日)の間に完了したとされるし、周朝はその區星に呼応した者とされるから、
二人の敗北時期が一年以上空くとも判断しにくいし。
荊州も長江南岸は蛮族の多い土地だから、劉表が梃子摺った一因はそれもあるのかな。
孫権も関羽討伐の後に梃子摺っているわけだから、
特に親孫氏の空気があったのでもないだろう。
孫堅は郡を跨いで賊徒討伐を行い零陵・桂陽まで乗り出し、
武陵太守の曹寅と組んで荊州刺史を襲ったりと、長沙以外で影響力があったとしても不思議はない。
もっと大きくみて親袁術派とみるべきところかもしれんが。
その頃周瑜は15歳前か……
周瑜が孫堅旗下で人脈を築いたと考えるには無理があるな。
周瑜は孫堅の遺徳を利用できるが孫権には利用できない、というのは苦しい
しなぁ。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/01(月) 15:12:06
やっぱそのあたり、親孫家派は劉表にやられたって感じかな?
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/02(火) 08:10:10
この時代南から北に北進は出来ないから、蜀を取って東進しないとどうしようもない
>>583 「15歳なら人脈を築くのは難しい」ってことはないハズ。
有力な親を持つ子弟は公務につく前の若年時から広く交流をもって人脈を作るものだし。
実際この時期の孫策や周瑜は才気煥発と評判で広く親交を持っていたと伝えられてるし、
張悌が諸葛亮に引き立てられたのも幼い頃、
極端な例だと、鐘会なんかは5歳で人物鑑定をしてもらってる。
もっとも、この時期の周瑜は舒で暮らしてたハズだから
「孫堅旗下で」とか「荊州で」とかいう人脈の構築はしてないとみて良いと思う。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/02(火) 13:01:40
鐘会は自分で鑑定してもらいに行ったわけじゃないよな……
母親が現代でいう教育ママ
じいちゃんじゃなかったっけ
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/02(火) 13:48:19
周家本流の人脈とかは活かせなかったんだろうか?
まぁ荊州辺りとの繋がりはないか
最初に袁家とくっ付いてたのが「周家本流の人脈」の良い事例なんでねーのかな。
我々は後年の落ちぶれっぷりを知ってるからアレだけど、凄いコネだぞ。
若輩の周瑜が即戦力待遇で扱われるのは、祖先から続く袁・周の結びつきの賜物だろう。
名士との繋がりは強力だけど、土着豪族との繋がりはあんまりって感じか
無知でもうしわけないんだが、周瑜の父は190年ごろには死んでたの?
>>592 周瑜は廬江の「土着豪族」であり、孫策時代に廬江の支配を固めるのに大きな貢献をした。
魯粛に米借りたエピソードに代表されるように、孫策創業時の物資調達には一役買ってるはずだから、
土着豪族と繋がり薄いなんてこともないかなと。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/03(水) 04:30:11
じゃあさ、家柄の格が全く違うんだから孫策より周瑜が旗手として立ち上がればもっとスムーズにことが運んだんじゃないの?
孫策が麾下に加われば旧孫堅グループも取り込めるし
そうしなかったのはなんでだろ?
孫策個人のカリスマ、かな
あまり個人の器量とかに帰したくはないのだけど
孫策はそうとしかいいようのないことが多い
袁術軍閥内での力。
孫策が江水を渡る前から、袁術は揚州支配拡大の主力の一部として孫堅の縁者を使っていた。
孫策だって廬江攻めをしているし、呉景や孫賁は都尉や太守クラスを歴任して転戦している。
孫堅が二年間の対董卓戦の間に集めた部曲が相当な数になっていたことを示すだろう。
孫策は、袁術にとっても孫氏一族にとっても、一族の旗手として纏め上げるのに格好の存在だった。
そのために孫静ら江東に留まっていた者も集結し、現地の豪族達の協力も得られて短期間に一大勢力となった。
一方、当時の周氏の力はそれより落ちる。
袁術に味方して太守を出しているけど、周瑜はその甥でしかない。
袁術に願い出て県長になったというのが妥当なところなのだろう。
普通に考えれば20代前半で県長ってとんでもないことだけどね。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/03(水) 14:09:02
20代前半で県長の周瑜よりも
20代前半で既に偏将軍の徐コンの方が出世しとるような
そもそも意味のない比較だと思うが、
徐コンは孫堅に従った時点で20代じゃおかしいだろ。
周氏の力が落ちたのは大尉の周なんとかさんが下手打ったからなのかなぁ
おかしな言い方だが、「普通の名族」はそんなもんだろう。
董卓台頭の時に政権中枢にいてその後の流れも上手く利用した袁氏がいち早く大きな軍事力を擁しただけ。
動乱の入りばなに高官にいるなどし、かつ上手く立ち回った人間が群雄割拠初期の代表的な軍閥になった。
周氏は当時、そういう人間を輩出していなかった。
呉県陸氏の陸康なんかはかなりいい位置にいたが、袁術に派遣された孫策に駆逐された。
下ヒ陳氏はこれより少し遅れて袁術などの支援で江水下流域で複数の太守を出すなど、
孫氏に似た勢力を持ったが、これを統合するような人物に恵まれず、
各個に撃破されたり吸収されたりして終わった。
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/05(金) 13:58:06
>>601 ・徐コンの母は孫堅の妹
・孫策は孫堅の二十歳前の子
・孫策と周瑜は同い年
どうみても周瑜と徐コンは同世代だと思われ。比較に意味があると思う。
徐コンはどうみても十代で軍を率いて、偏将軍も貰っているような。
日本でも畠山重忠や北畠顕家の例もあるから、
徐コンみたいに十代で軍を率いるのも豪族の中ではありえると思うが。
孫堅の親族達は袁術閥の中で大きな部曲を持っていた。
それに比べて周家の立場は弱かった。
という話をしてるのに、
「孫堅の甥の方が周瑜より出世している」と言い出しても意味なかろう。
自然なことだから。
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/07(日) 09:55:40
周忠が上手く立ち回れば一端の群雄にはなれたんだなぁ
周忠は袁術よりっぽいから最終的には曹操にアボーンだったろうな
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/12(金) 06:48:10
周忠と袁術の個人的な繋がりってあったっけ?
周家と袁家の繋がりはわかるけど
それより周忠と朱儁、朱儁と孫堅の繋がりが何か面白いな
周家と孫家の繋がりってこっからきてたりすんのかな?
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/12(金) 15:45:54
DON! ひるおび いいとも ワイスク
11/01月 *6.1% *3.9% *8.0% *5.8%
11/02火 *4.5% *3.7% *7.8% *4.0%
11/03水 *5.2% *4.3% *9.5% *4.3%
11/04木 *3.6% *4.3% *8.5% *3.8%
11/05金 *4.6% *3.7% *6.6% *4.9%
11/08月 *4.8% *4.1% *7.2% *4.4%
11/09火 *5.5% *4.0% *7.2% *5.2%
11/10水 *5.7% *4.8% *5.4% *4.3%
11/11木 *5.1% *3.3% *7.0% *6.5%
周・孫連合で陶謙降ろしをやって返り討ち
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/24(水) 07:43:12
そもそも意味のない比較だと思うが、
徐コンは孫堅に従った時点で20代じゃおかしいだろ。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 09:31:06
結局この策は成功する可能性はどれくらいあったん?
東晋が失地回復するのと同じくらい
楊・荊・益の三州にそれぞれ軍事行政を任せられる人材が必要だろうし
膠着状態になって長丁場になると色々無理が出てきそうな気がする。
涼・雍の帰趨が手付かずで荊州の帰趨が定まっていない赤壁直後に最も有効な計では?
魯粛の親劉備外交も天下二分の有効期限が過ぎたという判断みたいな。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/05(日) 11:57:25
益州…孫瑜
荊州…孫権
楊州…張昭、魯粛あたり?
うん、いけそうじゃん
益州は内乱続きでそう簡単に治まらないだろうし
楊州は揚州で孫権が腰を据えてても結構モメてるのに毛色の違う三州を一から経営できるもんかな。
劉表の下でわりと安定した統治をうけてた荊州が一番統治はしやすいかも。
ヘゝ__\_Y \\,.-、 | 曹操の名誉を汚している連中を消して欲しい?
彡\、/ニ二ニゝレヘ\__ |
巛巛ヽ彡三三く\メXy,=ミ:、 < そんなねがいで本当に良いのだな?
巛巛ヾヽミ三三ゝゝゝ ゞ-'゙ヽ |
ニ‐ニ彡ヾ三三く>/⌒ヾミゝゝゝ`ー--、 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-_,.彡ヘヘ三=ヾf;:,, \ ,-=〒'__ヾ}
_ -'´~77∧ゝミ-_ゝ ...._〃'^^
/Xレ公ゞー三=三彡ヘー--、_ソ コクッ コクッ
/ヘ//へへヘヘィ'了`7ー-< (( 曹操 ミ (( /患_者\
/ヘ//ヘヘヘ/'"レ_ノ_ノ ノ ゙ヾ:、 dlニHニl-b |/-O-O-ヽ|
/ソ//ヘヘヘ//レ´  ̄`ー、-''´ _,.ノヾ':, ヽヽ'e'// | . : )'e'( : . |9
//ヘヘヘ/|/ ヾ''´ __,,.ノヘ / ー' ヽ /`‐-=-‐ 'ヽ
ヘヘヘヘヘ/Y `}´ ||
ヘゝ__\_Y \\,.-、 |
彡\、/ニ二ニゝレヘ\__ |
巛巛ヽ彡三三く\メXy,=ミ:、 < 願いはかなえてやったぞ。
巛巛ヾヽミ三三ゝゝゝ ゞ-'゙ヽ |
ニ‐ニ彡ヾ三三く>/⌒ヾミゝゝゝ`ー--、 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-_,.彡ヘヘ三=ヾf;:,, \ ,-=〒'__ヾ}
_ -'´~77∧ゝミ-_ゝ ...._〃'^^
/Xレ公ゞー三=三彡ヘー--、_ソ
/ヘ//へへヘヘィ'了`7ー-<
/ヘ//ヘヘヘ/'"レ_ノ_ノ ノ ゙ヾ:、
/ソ//ヘヘヘ//レ´  ̄`ー、-''´ _,.ノヾ':,
//ヘヘヘ/|/ ヾ''´ __,,.ノヘ
ヘヘヘヘヘ/Y `}´ ||
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/30(日) 09:41:56
統治なぞどうとでもなるだろう
劉璋は対張魯のため巴西に軍を集結、東の防備は甘かったと思われる
その間隙を突いての速やかな進軍は容易いだろう
馬超とも連携を組めるので張魯としてはどうしようもなく、降伏すらあり得る
西から馬超、南から周瑜が攻めてきたとしたら曹操とて危機に陥る
劉備は中国産なので勝手に爆発するのは目に見えている
こうして天下は統一されるのである
統治なぞどうとでもなるとは思えんし、
劉璋は荊州にちょっかいを出した時期もあるので東が全く無防備とも思えん。
逆に張魯とは降伏どころか連携を狙っていたらしい形跡もあるし、
馬超をうまく動かせれば長安奪取までいけるかも、という面白い策ではある。
ただしかなりタイトなスケジュールで事を運ばないといけない。
>>619 張飛・諸葛亮・趙雲らの侵攻を防ぎとめることが全くできていないので、
東方在地の兵力や防衛の備えはかなり薄かったとみて良いと思う。
三者の電撃戦を許すくらいには。
ただし北からの緊急の圧力がなく益州中央の兵力がただちに救援に来れる見込みがあったなら、
東部でももっと粘る拠点が増えたであろうから、「同じくらい容易く抜ける」と見るのも間違いだろうけど。
結局はゲリラ止まりじゃないかねえ。
今確立してる勢力を打破することはできても
それにとってかわる勢力として安定・維持することはどうせできなかっただろうと思うよ。
根拠くれ
戦線を作って前進する戦闘方式をゲリラとは言わない。
拠点作っても切り崩されやすいんでないの?
固有名詞がないからそれぞれ誰のどんな行動を指してるのかさっぱりだぜ。
「ゲリラ」って誰で「今確立してる勢力」ってどこよ?
最初益州攻めの話かと思ってたけど、天下二分後の南北戦線の話にも読める。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/01(火) 21:32:20
>>620 北からの緊急の圧力
これが張魯なわけで、張魯軍に合わせて劉璋軍も巴西に軍を集めてたんじゃないのか?
劉備は取りあえず骨抜きでも担ぎでもなんでもいいからやっとけ孫権
俺は益州ぶんどってくる
天下二分になったら劉備ぶっ殺して孫権に擦り付けるぜ
さっそうと現れ孫権ぶっ殺す俺にみんな納得
周瑜さまの王朝築くぜ!
周瑜さまが納得しないよ
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/12(土) 00:08:39
っていうか、劉備勢力を孫権が自勢力下に治められれば一番良かったんだが。
三国志の時代は揚子江流域の沼地の多い南方は黄河流域の北方よりも人口が
少なく気質も稲作中心の南部よりも畑作中心の北方遊牧民と融合した北部の
方が気性が荒い。北方遊牧民の侵入を通じて戦闘能力も騎馬戦術主体の北部
勢力が上回っている。
三国時代より500年くらい前の楚や呉・越は言葉も古タイ語に近く中原北部
とは話す言葉も違っていたようです。
当時の中国は気質的にも南(揚子江)から北(黄河)へ攻め上がり支配する
意識に欠けていると思うよ。
中国王朝は北西域の少数の遊牧民が大河流域の先住農民を支配し定住融合す
る事で始まったんだ。
この時代は中原北部を支配したほうが圧倒的に勝ち。
三国時代というのは経済や文化的に南が優位を得る曙の時代なのだが。
南方の人口増加によって生産力が逆転したのはまさにこの時代だし、
軍事力では北方優勢と言っても、本当に優勢な軍事力を持つ遊牧民族の支配に
華夏人が屈する前夜の時代に当たる。
北方の「圧倒的に勝ち」が崩れた時代背景の上にこそ、三国は鼎立したわけだよ。
マジで生産力逆転したの?
三国時代はまだ逆転前だが、逆転する下地ができた時代なのは間違いないな
てかもしかして六朝を知らんのか?
かっさらったのは晋だよな
といっても東晋は体制そのものが二重構造をはらんでいたから
実際に南が生産力を持ち始めるのは劉宋から
この時代から恩倖と呼ばれる商人や新興豪族が皇帝に接近して個人的に結びつき始める
これらが台頭するだけの経済力、生産力が南朝にできはじめたということ
>気質的にも南(揚子江)から北(黄河)へ攻め上がり支配する意識に欠けていると思うよ。
楚の荘王に謝れ
ていうか南方の生産力向上って三国鼎立後の話でしょ
赤壁直後のこの策とどう関係するの?
630が脱線したからそれに乗っただけ。
ただ、後漢代を通しての荊州・揚州の開発と人口増加がなければ、
劉表や孫権の割拠もm曹操への対抗もありえなかったが。
後漢末の戦乱を経た赤壁の頃には、
荊揚の生産力に一州で対抗できるのは北方では冀州だけになっていた。
つまり、揚荊益の三州を獲れば「天下を二分」して華北九州に対抗できる、とする
天下二分の計もまた、後漢末以降にしか生まれない時代の産物ということになる。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/21(月) 22:45:25.69
天下二分の計・・・漢と楚の時代は無視ですか・・・
揚は越族問題が結構大変なんです。
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/24(木) 08:38:01.56
馬超との同盟ってうまくいくのかな?
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/24(木) 08:40:00.35
馬超のことだから気分を損ねたら発狂して噛み付いてくるだろうな
>>639 魯粛の構想に比べれば全然二分じゃない。
義帝による封王分立状態をあるいは併呑し、あるいはシンパを送って同盟勢力に変えて
華北+関中・巴蜀による楚包囲網を築いた劉邦が勝った。
>>642 馬超の場合中央政権への反乱だろ、呉と敵対するわきゃない
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/28(月) 09:01:26.15
呉は劉備が蜀取る前に張魯と連携して入蜀作戦しようとして、張魯の信頼
得られなくてすごすご帰ったんだよな。だっせ
>>645 どうも呂岱は劉備と一緒に入蜀した臭いぞ。剣閣のあたりに駐屯して張魯に降伏勧告してる。
その後、帰国する際に劉備と「白帝」で会ったとするが、時期的に矛盾があり、おそらく「白水」の誤りなんじゃないかと思う。
おそらく曹操の濡須侵攻を受け、呂岱は帰国せざるを得なかったのだろう。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/28(月) 14:43:15.59
>>646 >呂岱は劉備と一緒に入蜀した臭い
>張魯に降伏勧告
どんな根拠あって言ってんの?
普通に考えたら張魯を支援することで劉備を妨害しようとした、ってことじゃないの
で、張魯との提携に失敗してしかも孫権から帰還命令うけて帰った
ついでに言えばあくまでも妨害するために劉備に「同盟してんだから援軍くれよな」って言いに立ち寄った
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/28(月) 23:41:01.84
>>646 呂岱は「劉備部衆」を見かけたわけだから、劉備本人じゃなくて荊州から
の増援軍が白帝を攻めてるところを通りかかったんじゃないか?
「劉備部衆」が劉備率いる部隊、じゃなくて劉備配下の部隊、という解釈
で良いなら。
あるいは劉備軍の逃亡兵とも読めるかもしれん。
白水でも白帝でも劉備軍苦戦の記述はないが、城将を誘殺した白水は
簡単に落ちたっぽいし、天然要害の白帝は防備さえしてれば普通に難
攻だったと思う。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/01(火) 23:30:30.09
白帝で荊州軍が苦戦したとしたら、誰が守ってたんだろうね。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/02(水) 08:01:37.87
653 :
ジャイアニズム:2011/03/02(水) 08:54:35.23
こんな糞スレはさっさと終わらせてあぼーんしてしまうに限る
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/07(月) 19:27:54.27
呂岱て長生きしただけあって
意外なエピソードが多くて面白い
96年も生きれば、いろいろあるよな。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/09(水) 14:06:08.41
長生きは関係ねぇよ
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/09(水) 14:49:02.32
虻旦那はどうも売名臭がして仕方ないんだけどなあ。
虻と結婚したらマスコミへの露出は虻を通してどんどんやれるし(今日も話題に出してた)、
何かこう自分が売れるためのきっかけに虻と結婚したとしか思えん。
虻が時々話す旦那とのエピソード聞いても、全然虻の事を好きっていう感じしないし。
周瑜は袁術が孫策を使い江東に攻めてきから孫家に仕えた
早い話が自分の自領を守るために使えたのね
赤壁も最北に自領があり曹魏領に晒されていたから主戦論を展開した
当初、孫権ですら降伏論に傾いてた
この降伏論者は地元の名士達で、呉という国は名士の名声権威と経済力によって成り立っていた
つまり、名士達の意見が一致すれば孫権は言いなりになるしかない
そこに、現れたのが周瑜で、降伏論で決まりかけていたものを、彼の発言ひとつで覆した
これから分かるように周瑜の名声地位が孫権や地元名士達より上だったのが分かる
周瑜の家系は後漢朝において尚書令になったのを始めに、従祖父従父が三公の1つである太尉を務めた名家である
だから江南辺りの田舎者名士達は周瑜に一目置いおり無視できなかった
主君孫権の意見は聞かないが周瑜の発言は絶対であった、所詮は孫家は他国の豪族出身の外者で侵略者
このような関係で成りたっていた呉は、絶対的な指揮官周瑜の死後、家督争いの二宮の変の政治闘争が起き
国力を低下させ滅亡を向かえる
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/09(水) 23:42:13.43
>>659 袁術が孫策を使い江東に攻める前から
孫策と周瑜は断金の交わりと呼ばれる強い絆があったのは無視?
>>659 そもそも中原に出征する孫堅が、一族を周瑜の実家に預ける程、
もともと孫家と周家が親密だった事も、
赤壁で降伏を説いたと明記されているのが、徐州出身の張昭・秦松だけであり、
揚州出身者の動向が不明なのも無視?
そもそも呉郡出身の孫家を「他国の豪族出身」とするのはどういう事?
あと周瑜の死から二宮の変まで何年、間があると思ってるの?
呂蒙みたいな叩き上げの忠臣は、孫権にとって貴重な人材だっただろうな
だが、同時に周瑜の存在も呉の孫政権には重要だったと思う
三国では、呉が一番豪族連合の気質が強かったみたいだな
蜀は劉備や諸葛亮というカリスマがいたし、魏は中原統一したのが曹家
実績という点で見劣りする孫権が呉をまとめられたのは、周瑜の様な名族が
忠義を尽くしたからじゃなかろうか
>>659 >周瑜の死後、家督争いの二宮の変の政治闘争が起き
この表現が許されるのは5年以内だろ
>>663 周瑜の息の掛かった魯粛呂蒙まで名士を抑えることが出来たけど
陸遜を重用したのがまずかったな
陸家なんて孫策時代は最大の敵だったわけで
結局、二宮の変も対地元名士と孫権の王族と移住名士の政治闘争
呉の四姓と孫権との対立はあからさま
開戦派の周瑜・魯粛、降伏派の張昭・秦松は皆長江以北の出身者で、
北来名士vs地元豪族的なラインには乗らないんだよな。この頃は北来派全盛期。
二宮の変は一見それっぽいけど、全jが居るしなぁ
>>664 魯粛は大豪族兼名士なわけだけど。
二宮の変は、太子の道理(孫和)を取るか、皇帝の寵愛(孫覇)を取るかという、言わば思想的対立が一つ。
両皇子の後見である後宮勢力がそれぞれの人脈を伸ばして国家規模に政争を拡大したことが一つ。
そのため国が真っ二つに割れた。
呉の四姓なんて言っても、所詮呉県内の有力豪族四家ってだけで呉王朝の有力豪族四家なのではない(陸氏と顧氏はそれに近いが)
667 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/18(金) 12:45:01.72
魯粛は大豪族兼名士とかないわ〜
地元に財産持ってるって意味では豪族だし、名望があって交友範囲広いって意味では名士でもある。
多分名声を得たのは魯粛の代からで、代々官僚を輩出するような名門じゃなかったのは確かなので、
大豪族というよりは新興豪族だろうね。名士としてはそれなり。
郷紳みたいなもんか。
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/19(土) 21:49:55.96
魯粛の子供は父親の顔を見ずに育った
>>669 そうだね。
後漢の豪族、つまり豪強とか大姓という階層は、県や郡に定期的に官吏を送り出した。
中央朝廷の高官を輩出したわけではないが
郡の政治を牛耳った大豪族というのは地方にいくらでもいて、その多くは史書には名前は残らない。
残るとしたら伝の残る太守のような高官との関わりにおいて。
(だから彼らの動向は出土資料の方向から研究が進められている)
魯家がその「大姓」に該当するという直接の記述はないが、
若い頃の事跡や周瑜の挨拶から判断すれば、その可能性は高いと言えるだろう。
>>671 魯粛本人が呉の重鎮としてまさに「伝に残るような高官」になっているので、
もし一族に郡の政治を牛耳るような高官でもうれば、呉書はその旨を記すだろうし、
漏れても注釈で拾われそうな気もするが。
趙咨曰く「魯粛は凡品」とのことだから、やはり家格は高くはないんだろう。
若い頃の事跡も、商人の魯粛がやってるから親戚に「頭がおかしい」みたいな言われ方をしちゃう。
元から士大夫層なら騎射や兵書に親しんだり、私兵を組織してもそれ程奇異な行動には映らなかったと思う。
>>672 代々郡吏程度では、政治史中心の列伝にはほとんど記録に残らない。
劉備とか孫堅の家くらい。
しかし、この代々郡吏の座を専有した豪族階級が
郡功曹や督郵になって太守と地方政治に強い影響を及ぼしていたことが
史書や出土資料から分かっている。
以上、豪族問題
魯粛は、そういう可能性の高い富裕な豪族の子弟でありながら、田畑を売り払ったり奇抜な行動をしていた。
教養レベルで武芸に通じるならまだしも、戦乱に追われたわけでもないのに
自分で私党を編成するというのは奇矯の類。
「名士」と呼ばれて人物評価の対象となる人物にもさまざまな評価基準があった。
深沈大度の学者肌として評価される者もあれば、財貨を傾けて貧民を救う侠や
世俗に阿らず受けた侮辱に必ず報いる烈士のような者もいた。
魯粛というのは、非の打ち所のない典型的な「高士」型の人物ではない、癖のある人物なので、
一時期の曹操や太史慈のように思想や派閥によって賛否両論が分かれたことだろう。
地元の郷論に認められたという話と、そうではないという話があり、
袁術、劉曄、周瑜には高く評価されたが、張昭には用いるべきではないと言われた。
いずれにしても、彼らと交際して相評価される「名士」層に属した人間であることに違いない。
以上が名士問題。
魯粛が受けた中途半端な扱いを見ると、
名士の一角ではあるが一流どころでもないだろう
一族郎党を引き連れて周瑜を頼ったり鄭宝に頼ろうとしたりと非常に不安定だし
孫権に仕えてからも初期はもてなされてはいても発言力があるかどうか怪しい
「大姓」に該当する可能性が高い、まで言うと言いすぎというか、
魯粛の立場とつり合わないと思う
豪族、大姓というのは、家が持つ財産(銭・土地)の大小とそれによる郡県への影響力の問題
名士というのは、個人が持つ郷論や他の名士からの評価の問題。
一緒くたに語っては駄目。
>>673 ざらっと呉書を斜め読みしたところ、
太守以下で紹介されてるのは賀斉の父(県長)と鍾離牧の叔父(都尉)・兄(上計吏)ぐらいだったわ。
いずれも郡県単位だと高官なので、確かに「郡吏程度では残らない可能性高い」は正しい。
ただ「田畑を売って『困窮した人々に施す』」のは(もし以前から士大夫層だとしたら)奇抜でもなんでもなく、
ストレートでスタンダートな徳行でしょ?実際そこは「人々に喜ばれました」チャンチャンとなってる。
>>672でいった「若い頃郷里で不興を買った魯粛の行い」っていうのは、
「天下が正に乱れんとしていた」ので武芸を学び私兵を組織したこと。
武芸を学ぶことは教養の域を出ず、曹丕だって学んでる。
魯粛が12の頃には黄巾の乱が起きようかという不安定な政情にあって、
豪族層があらかじめ私兵を組織したことが「奇矯」とされるのはどういった例を引いての話?
むしろ戦乱が近くなると士大夫層はこぞって私兵を組織するものでは?
魯粛の家が生まれついての士大夫層なら、上記二点は全くの許容範囲だったと思われるのに、
「頭がおかしい」とまで言われるのは、元来彼の家に求められてきたような振る舞いじゃないからだ、
つまり元々は士大夫層じゃなかったんじゃないの?っていうのが俺の意見。
趙咨の発言もその根拠の一つ。
劉曄や周瑜に評価された云々こそ、正に「名士問題」であって家格と関連しないよね。
自分でおっしゃるように、それまで士大夫層に居なかった人の息子でも、本人の教養や徳があれば評価されうる。
そして魯粛は本人が「先人の生き方に反して行った」大規模な施しという徳ある行いがあるから、
受け入れる名士たちが出て来てもなんら不思議はない。
>>676 魯粛が名士層の一端に連なる存在だったことは意見の一致を見たようなので
当時の豪族というのは、困窮した小農を小作農として取り込むと同時に、
灌漑や祭祀の資金を出してやることで、支配力と人気の両方を高めていた。
また、彼ら豪族は同じ豪族間で連帯することで自分らの地位を保持していた。
『困窮した人々に施す』というのは、品行ある「名士」としても土地の「名士」という意味でも、
確かに徳行に属する。
しかし、自分の財力基盤である田畑を売り払ってまでそれを行うというのは、
豪族共同体の存在を脅かす行為であり、当然同族や同郷豪族の反発を呼んだと推定できる。
貧民には慕われただろうし、利害関係のないよその名士には評価されただろうけども。
ましてや魯粛は父を失って家長の地位にあっただろうに、「不治家事」してまで没頭したわけだ。
混乱の時代が近づいて、貧民を吸収して田客とした豪族は多くいただろう。
しかし「不治家事」の魯粛は、自分の財産を「招聚少年,給其衣食,往來南山中射獵」に使って、
困難な時代に田地経営を安定させるようなこともしなかった。
だから父老(これも後漢後期には豪族に占有される地位となっていた)達に、
「魯氏世衰,乃生此狂兒!」と嘆かれた。これは「魯氏」が世々、郷の父老による評価の射程に
入る身分だったことを示している。
魯粛はこれまでの魯氏の地位にそぐわない若者だと看做されてしまったわけだ。
まあ、この手の言説の字句をそのまま信じてよいのかという問題はあるけど。
趙咨の「凡品」だが、「品」の字に家格という意味はちょっと聞いたことがない。漢魏までは。
人品、品行、九品官人というように、「品」は個人を評価するものだろう。
つまり「孫権は凡俗の群れの中から(卓抜した)魯粛を見出した」くらいの意味になる。
ついでながら、県長や都尉は郡吏じゃないよ。
>>677 財貨を叩き、さらに田地を売り払ってまで行った施しによって、
貧民や他所の名士だけではなく「郷邑の歡心を得た」と本文に明記されてるわけで、
社会的には豪農、地域の顔役、長者として相応しいことで疑いないでしょう。
これで魯家が代々官吏を送り込んでる(けど位が低くて記録に残ってないだけ)なら、
一家の収支は官職によっても支えられるわけで、施しの見返りで高まる名望により、
一層高い官位への推薦を取り付けることで取り戻せる、功利的に考えても自然な行為なんだが、
「それを嘆く父老が出るのは何故か?」って考えると、どっかで前提が間違ってることになる。
(社会的にも正しく、個人的にみてもメリットがあるなら非難されるいわれも無い)
まず後で官吏になっても将来にわたって取り返しようも無いほど散財した可能性だけど、
周瑜が訪ねて来たときも相変わらず豪奢な生活してるので可能性は低い。
そもそも非難されたとされる注釈は本文と違って「家業も営まず、田地を売って」とまでは書かれてないし、
経済的に問題ない範囲なら「若い衆を囲い込んで私兵を組織する」のは豪族としてはありうる。
後で官吏になれば撃剣・騎射・兵学なんかは教養のひとつ。
じゃあ官吏の道を保障された家ではなく、代々役人を務めるような出自じゃなかった、と考えるのが自然じゃないの?
もしそうなら教養なんか必要ないし、乱の兆しがあっても率先して事にあたることまでは求められてない。
「品」は品位=格だから、家格のみを指すかといえば間違いだろうけど、家格であってもおかしくないよね?
後ろの呂蒙と合わせて「家格の低い中から魯粛を納め、兵士の中から呂蒙を抜擢した」という、
現代日本に流通する日本語訳に従ったのだけど。
この2つを出自じゃなくて抜擢前の状況と読めば、
「(名士として)評価の低い人間の中から魯粛を、(武官として)地位の低い中から呂蒙を」でも通るよ、
こういうことかな。「品」が格・階層のことなんだから家格に使われませんなんてことはないでしょ。
郡吏じゃないってのは郡に属さないってこと?県長って郡の長である太守任命って聞いた気がしたが。
都尉は俸禄みたら太守より高かったのね。これは失礼。
>社会的には豪農、地域の顔役、長者として相応しいことで疑いないでしょう。
この時点で、当時の豪族観に埋めがたい隔たりがあるので議論は終わりにしよう。
ただ、二つだけ。
>一家の収支は官職によっても支えられるわけで、施しの見返りで高まる名望により、
>一層高い官位への推薦を取り付けることで取り戻せる、功利的に考えても自然な行為なんだが、
百石の俸給など文字通り小役人レベルなので、以下のあなたの論は意味をなさないだろう。
督郵や功曹を代表とする高級郡吏というのは、律法上必ず余所者である後漢太守の施政に対して、
現地人代表として直接口を出せるというのが大きなメリットだったわけだから。
だから後漢中期以降、一握りの大豪族が占有するところとなった。
州刺史に対しての従事も同じ。
>家格の低い中から魯粛を納め、兵士の中から呂蒙を抜擢した
(赤壁前の状況で)凡庸の中から魯粛の意見を納め、隊伍の中から呂蒙を抜擢した、でいいだろう。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 09:46:56.20
面白いage
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/29(金) 17:14:33.50
続き希望age
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/07(土) 15:12:16.61
age
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/15(日) 21:00:11.96
age
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/24(火) 16:03:06.51
周瑜が長生きしていれば
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/31(火) 22:38:37.40
還暦過ぎた美周郎もみたいぞ
>>673 戦乱に追われたわけでもないのに私党作ってた人はいる
袁紹なんて秘密結社のドンだし董卓は異民族の首領との人脈築いてる
あと任侠と関わりあったりしたっぽい曹操、袁術などもいて
私党を編成するってのは当時の金と暇のある奴の行動としてはそれ程珍しくないだろ
逆に田畑売るってのは相当珍しいな
三国志本文で田を売った記述が残ってるのは散財した魯粛と、
清貧が趣味の和洽くらいなもんだし
魯粛の特異性を語るならこっちか
>>686 それは政治及び社交的徒党。メンバーは士大夫層やその客人となりえる者。
劉備や管寧のように荒っぽい侠の親交をする者は多くいたし、
それは社会に一定程度容認されていただろうが、
魯粛はさらに進んで私兵と呼べるものを組織して自衛の用意をしていた。
魯粛伝では後漢末の乱の後に私兵を集めたとなってるし、
田畑を売り払ったと本文にあるのもその頃なので私兵を飼う費用に充てたのだろうな。
この乱が黄巾なのか関東諸侯の蜂起なのかで少々時期が変わるとしても、
黄巾以降、私兵を集めてる連中は珍しくもなんともない。
一応、註釈には将乱とあるから、後者の乱が魯粛の募兵のきっかけと見ていいだろう。
魯粛だけの特異点が私兵集めたとか言うのはちょっと特別視し過ぎだ。
「農村経営に基盤を置く豪族社会の有力者としては」、特異な点。ね。
時期はともかく、情勢が混乱を深めていくと豪族は私兵を集めて武装した。
しかしその目的は、朝廷の保護を受けられなくなった地域社会で
自分の経済・権力基盤である農地を維持・拡大するためのものだった。
ゆえに集められた者達は田客と呼ばれた。
魯粛はまったく逆に、田地を売り払って人を集めた。
これは侠客に通じた青年劉備の素行に近いがより過激で、無頼の管寧にも似ている。
だから農村社会の代表者である「父老」から誹られたわけだ。
貧農や、施しを重視する儒教的名士からは賞賛されただろうが。
>>689 「農村経営に基盤を置く豪族社会の有力者」という前提が既に間違ってるんじゃないか?
魯粛の家は「家富於財」であり、財とは金銭的な資産の事だし富も基本的には金銭的な裕福さを表す言葉
字の通りに読めば魯粛は金銭的に恵まれた家の出身ということになるが、
「金銭の面では恵まれた家」なんて表現の胡散臭さが拭えない
既にこの時点で「農村経営に基盤を置く豪族社会」で生きてる一族なのか怪しくなる
穿った読み方すると、商売人の家だが気前がよかったので好かれて居たという紹介文に見える
無論当時の産業から考えれば少なからぬ農地は当然保有していただろうけど(少なくとも売る分は持ってたわけだ)
それに、家財を傾けて私兵を募るというのも豪族としては解せない
というのも豪族には普通、小作や親族、食客など含めた一族郎党がおり
募らずともそこから抽出した私兵を組織することが可能で、
実際、三国志の中でも何人かの豪族が一族郎党から私兵を抽出しているらしき記述が見受けられる
例えば李典の家は食客を抱えており、そこから兵を抽出して一族の人間が率いてると書かれているわけだ
豪族はこの様に、元々人的資源を抱え込んでいるわけだから、
態々自らの資金源を売ってまで当座の私兵を集める必要がないことがわかる
この辺、魯粛の私兵募集は家財を切り売りして行っている点が
同じく農業的な基盤を記録に見せない初期の曹操が家財を投げ打って募兵している状況に似ているわけで
表記上、それから募兵過程両面から考えても魯粛は「農村経営に基盤を置く豪族社会の有力者」とは見えない
出身地が淮河水系の入組んだところだったりするから、案外水運で財を為したのかもしれないのだが
軽視してるのか記録がなかったのか不明だが陳寿は流通や経済についてかなり適当に書いてる気がする
>袁紹なんて秘密結社のドンだし
とは?
>>691 服喪中に奔走の友とか作ってるところとかを表現した
でもよく考えたら宮中ですら袁紹の「賓客」が話題になってるわけで
全然秘密でもなんでもなくてただの結社、私党の類でしかなかったわ
どんだけ話題になってるかというと死士と呼ばれるようなシンパまで表れて
「あいつぜってーなんかやらかす」(不知此兒終欲何作)とか言われてるレベル
>>690 商人は官吏になれない。普通士人とも認められない。父老の論評にも値しない。おそらく田地も持てない。
戸籍が厳密に区別されていたから、これは明確にわかる。
豪農が商売に手を出して蓄財するのは社会問題ではあった。
魯粛の家がそうやって蓄財していた可能性は当然あるが、いずれにしても土地とそこで使う人が財務基盤であることには変わりない。
曹操は若くして官僚となり、その地位と父祖からのコネが財産の中心だっただろう。もちろん多少の土地もあっただろうが。
魯粛は「肅不治家事,大散財貨,ヒョウ(手偏に票)賣田地,」した経歴の持ち主で、
本来「家事」つまり士人の本業たる農業に携わって家を経営すべき身分で、かつ大きな財貨と田地を所有していた人物だった。
>>693 後漢の制度で商人を明確に区別してたという根拠がないだろ
もし実在するなら無知な上に居丈高で悪いんだが、
そういう法律の存在する証拠を出してくれ
塩鉄などの専売品を扱う御用商人のような連中は登録制だろうけど
一般の商人は特に区別されてない筈だ
実際に商人の家系っぽい糜竺もいるわけで商人は蔑まれこそすれ
社会的な権利の制約が特にあったという記述は見た事がない
それに後漢初期、明帝の代に兼業禁止令を解除してるし
商人にはそれ程きつく当たったとは思えないのだが
豪農の蓄財が問題になるのは質のいい銭を市場から吸い上げて倉に入れてしまうので
市場に質の悪い銭しか残らなくなるせいだと記憶してるし
追記
「魯粛が記録に残らない官位を代々継いでいたような家だった」というのは
あくまでも推論に過ぎず、本当に官職の無い家だったかもしれないので
それを前提に話を進めるのは間違ってる
漢書貢禹伝に、文帝時に商人を禁錮として官吏になることを禁じたこと、
同時に、租税を払わないのだから良民ではないといする上言がある。
また武帝紀には
天下の七つの科タク(言遍に適。七種の咎めのある者)を一般の徴兵とは別に徴発したことが記されており、
その注に七科とは、
1.官吏の罪ある者、2.亡命者、3.入り婿、4.賈人(商人)、5.市籍がある者、6.父母が市籍を有するもの、7.大父母(祖父母?)が市籍を有する者。
とある。つまり、罪を贖う元官吏、正常の戸籍を持たない者、および商人が徴発された。
彼らは一般の庶民(つまり農民)としての義務を持たない者、すなわち権利も持たない者だったわけだ。
大農・豪族は、それらの市籍を持つ商人とは別に、違法・合法に商業活動をしてきたよ。事実上の特権階級だった。
>>695 「かもしれない」ね。
でも、魯粛の行状と周囲の反応と史書の記述のされ方を見れば、
少なくとも、大きな土地と人を抱える豪族階級の坊ちゃんだったことは、高い蓋然性で言える。
「地域農村社会に責任と影響力を備える豪族階級の坊ちゃん」と追加しておく
魯粛伝に「家富於財」という記述があって、これは不動産ではなく動産が豊かだという感じがするから
魯粛は豪族ではなかった、という話みたいだが、
後漢書鄭泰伝にそっくりそのままの記述がある。
鄭太字公業,河南開封人,司農衆之曾孫也。少有才略。靈帝末,知天下將亂,陰交結豪桀。家富於財,有田四百頃,而食常不足,名聞山東。
鄭泰は、前漢の司農を祖先に持ち、400頃の土地を有してながら豪桀と交わり(おそらく彼らを支援して)財を傾けた、名家・豪族・名士だった。
>>696 武帝は「商人」ではなく「商業によって利益を得る人」全てを対象に
結構高額の税金を「算?」として掛けてたし、市籍所有者が税金チョロまかしたことがバレると
「沒入田僮」された(なんか参照するものによって田貨だったり田僮だったりよくわからんが)
つまり市籍所有者から田畑と人か金を奪うという法律
算?銭が商人の田畑所有を前提に作られてるのに、
>>693の田地も持てないは違うと思うよ
それとお詫びだが、俺の
>>694は田地を持てないということに対する
「商人はそこまで区別されたか」という意図と「商人という社会層を戸籍で区別したか」という意図が混在してたけど
おっしゃる通り確かに戸籍ではなく市籍で「商人」は区別されてたな
ただ、市籍は戸籍じゃなくて商売免許ではないか?
>>699 それが俺の説を逆に補強してくれてるわけだな
「土地持ち」と「家富於財」は併記される事象で別個であるということだから
これが家は金持ち、その資産の内訳は土地がいくらで金がどんなもんっていう書き方ならともかく
金持ちで土地持ちですっていうだけならむしろ金持ちと土地持ちはやはり別個の概念ということになる
屁理屈が過ぎる。
史書の記述の欠落を悪用して根拠の無い持論を勝手に埋め込んでるだけだ。
豪族と思しき人物の全てに豪強・大姓などと
実際の振る舞いや豪族社会の実像から推論すれば、劉備や孫堅の家が少なくとも中小豪族の家だったことはわかる。
いくら影響力がある記述があっても大姓と明記されていなければ大姓でないと言い張ってよいことになる。
収穫した穀物を現金に換えれば財になることもわからないだろうか。
文が抜けた
史書は豪族と思しき人物の全てに豪強・大姓などと明記しているわけではない。
>>701 劉備や孫堅の話なんかどうでもいいんだよ
劉備なんてそれこそ書かれるような官吏を輩出する家柄な上に
魏側の史料じゃ後漢の臨邑侯の子孫扱いなんだから、
ちゃんと読めば中小の豪族どころか、名門の傍流じゃねーか
孫堅だって豪族の娘をくれって言うテーブルに付けるだけの男
断る理由が身分じゃなくて本人の性格ってことなんだから
そもそも貴賎結婚としていた人に根拠を尋ねたいくらいだしな
史書は豪族と思しき人物に必ずそう書くわけではないけど
豪族ではない人物にもそう書くわけではないわけで
君のように一方的に決め付けるのは無理
あえてまぜっかえすけどいくら金持ってる記述があっても
豪族ではないと明記されてなければ豪族だと言っていいのか?
現金を手に入れる手段なんて他にもあるのに穀物収入でなければ納得できないのだろうか
売るだけの田地を持ち、「家事」を治めぬことが史書にあえて記述され、
農村社会の枠組みから外れる奇抜な行動を取って「魯家」の枠組みで父老の不評を買い、
一方では貧民を救ったことで賞賛を受ける人物。
これに相当するのは豪族やその子弟以外に有り得ない、と繰り返し言ってるのだが。
他にどんな階層の人間ならこういう評価を得られるのか想像も付かないくらいだ。
別に農村経営を主たる業務とする豪族じゃなければいくらでもいるでしょ
今問題にになってる「魯粛は豪族か」というテーマは省略されてるけど
「魯粛は農村経営する豪族か」の是非
金の出所は水運業者でもいいし商業専心する豪商で俺は一向に問題ない
ただ農村経営を主たる生業としてる豪族とあまりにも断定的に言われるから
その前提は間違ってるということを指摘してるだけで
それと男女300人前後という魯粛と行動を共にする人の数が少な過ぎる
ここには魯粛の祖母のような老人も含まれて居るわけだから老齢者を抜くと精々8割9割
成年男子はその中の1/2〜1/3程度
しかも倉に入ってる3000斛程度の穀物はその300人が食うには足りなさ過ぎる
周瑜にくれてやった分を含めたって全く足りない
農村経営する豪族という割りには少な過ぎる人とその少人数も1年食えない穀物の備蓄
これで農村経営とか出来るのか?という状態
>>706 三千萬斛が十萬の兵士を五年養う分量というのがケ艾伝に載ってる
三千斛なら十人を五年養う分量ってことだね
つまり3000斛の倉って兵士50人の1年分ってこと
多分ケ艾の計算は魏の制度での兵士への俸給も込みだろうから、実際に食う分量を越えている可能性が大きいにしても
倍養えるとしても100人、兵士の1/6で暮らしてやっと300人
6万人を1年養おうとしたら魏だと年間360万斛が必要ってことになる
3000斛で養える期間は1日にも満たないというか一食分
このサイトの6万人分って一回の炊き出しの話でもしてるんじゃないか?
それなら納得できる数だ
強行軍での奇襲用に切り詰めた装備でも5000人の兵士を10日維持するのに必要な量が5000斛
という記述が魏延伝註釈の魏略に出ており、こちらで計算すると1人が食うだけで一日0.1斛
360日で36斛、300人で年10800斛
ただしこちらは強行軍用の穀物だから、倉で保存されてる物と違って脱穀が為されてるということになる
穀物は脱穀すると足が速く、長期保存するには2倍程にかさばる籾付きにするしかない
ケ艾伝の1人1年60斛と比較すると魏延伝の1人1年36斛は確かに少ないが
前者は脱穀前、後者は脱穀後という差があるのかもしれないということを考慮に入れる必要がある
倉庫で保存されてる魯粛の穀物を考える時、比較対照はケ艾伝の数字がより適切だろう
個人のスケールで見れば確かに3000斛は50〜80年食える量だけども
300人の胃袋を1年間満たす分量では全くない
周瑜と交流を持った時期の穀物の少なさをもって、農村経営とか出来るのか?って言えるわけ無いよ。
それは魯粛が土地を捨てていた時期なんだから。
漢書の計算によると、純粋な一人分の食い扶持は、平均して一月1.5石(斛)。
300人なら一月450斛。3000斛あれば6ヶ月ちょっと。倉二つで1年持つわけだから、避難民の蓄えとしては上々。
しかし、この穀物の元手が商売だろうが農業だろうが、一定の蓄えを持とうとするのは当然のことだから
倉の逸話から魯粛の経営基盤を想像するのは意味が無いだろう。
あっとごめん。なんかつられた。
倉に三千石はまだ魯粛が地元にいることで、
若者100人は避難した時のことじゃないか。
魯粛一人の家に300人を一年養えるだけの穀物があったってのはとんでもないことだが。
豪族の耕作しているのは多く小作人だから、それぞれ別の家と家計を持っていた。
それとは別に、百人単位の家人や客人を魯粛一人の財力で養えたわけだ。
まあ、だからと言ってこの穀物が魯粛の田地から収穫されたものだとは限らないと言うんだろうけど。
300人が満足に食うには2ヶ月分しかないような量で農村経営が出来てるなんて思うんだ?
当時の穀物は1斛50万銭という狂った相場の元で取引されてるから
兌換価値としては他の物に交換するよりも穀物そのものを持ち運んだ方が具合がいいくらいだし
旱魃その他で穀物価格以前に供給そのものが怪しい状態だから手放す動機が見えないわけで
移動に備えて処分したという理由付けは難しいよ
>300人が満足に食うには2ヶ月分しかないような量で農村経営が出来てるなんて思うんだ?
その計算が間違ってるんだって。
当時の食い扶持計算の基本は漢書食貨志だろ。
それは一人一日約1リットル穀物を食うと計算している。脱穀すれば妥当な量になるだろう。
>純粋な一人分の食い扶持は、平均して一月1.5石(斛)。 300人なら一月450斛。3000斛あれば6ヶ月ちょっと。
だ。
食貨志の逸話は魏文侯の時代のものだから、これが周と同じなら後漢とほぼ同じ一石20リットル弱。
「一人一日約1リットル」はそれで計算しているよ。
魯粛の家が独立した家計を持たない奴婢数百人も抱えていたなら3000石でも不安な量かもしれないが、
そんな無駄遣いをする必要も無いし、根拠も無いしね。
>>714 そいつらの財布が独立してたら魯粛は農村経営してないわけだけど大丈夫か?
移動した何割かは魯粛の雇ったゴロツキも込みだから
かなり高い割合で財布の根元は魯粛だろ
>>715 あなたの豪族観が原因だと言うことがわかった。
漢の豪族ってのは、
困難な状況に突き当たった小農が困窮し自力で再生産できなくなり、一部または全部を手放した田地を
買い取って、この小農を仮作人として雇い入れ、高率の小作料を取ることで経済力を増し、
その経済力によって郷里の祭祀や灌漑費用を多く供出するなどして、
郷里の社交界や行政方針に大きな影響力を振るうことになった人々のことだよ。
一方で小農や仮作人は変わらず一家を構えていたし、郷里の石碑建立のような公共事業には大小さまざまな経済力の
家がそれぞれの出資額で参加していた記録もある。
おそらくあなたが「農村経営」と言いだしたのは所有される農奴や荘園経営のようなものをイメージしてのことだろうが、
そういうものが現れるのは後漢末三国の混乱による豪族の武装化を経たあとのこと。
魯粛はまさにその端緒の時代にいたわけだが、今問題にしているのはその少し前、東城魯氏の財政基盤のはずだ。
>>716 農村経営という言い方したのは俺じゃなくて他の人だよ
具体的な単語だと
>>689の人
魯粛と田地の経営を絡めてるのは
>>677の人
農奴や荘園経営をするものが表れるのは後漢末期じゃなくて前漢末期
そして後漢はそれを弱めようと色々やっちゃいたがそれが成功したかどうかは
下僕1万人とか言う糜氏の例からもわかるように成果が万全だったとは全く言えない
今問題にしてるのは魯粛がそういった荘園経営を主たる業務としてるかどうかという点で
魯粛の時代から伺える痕跡ではそういうのは残って無いってことだ
「農村経営に基盤を置く豪族社会」だよ。
豪族社会が農村を
>>677や
>>716のような形で経営していたのであって、
豪族の一家が農村を一つ経営していたのではない。
豪族の伸張は前漢から始まるが、
独立した経済力の無い奴婢の類は、漢では法的に権利を剥奪された官奴婢からの払い下げであって、
せいぜい金持ちの身辺の世話程度。農奴経営は生まれていない。後漢朝廷が機能を失うまでは。
「生まれてない」は言い過ぎか。主力ではないと言いなおす。
数百人の奴婢を抱えた稀な例では、耕作なり商売なりをさせただろうし、
魯粛の家でも何十人か百人くらいの奴婢がいた可能性はある。
>>718 新漢革命時に原動力になった南陽豪族なんかは荘園に人を囲い込んでるよ
それを使っての反乱を起こしてる
それは後漢末と同じ。朝廷機能が失われて流民を吸収したから。
結論として、魯粛は、「特に根拠は無いが商売に経営基盤の大きな比重を置いたかもしれない豪族だった」ってことでいいのかな。
豪族の農業と商売の利益比率なんて確かに出せないし。
まあ「魯粛は商人なので士大夫のような真似をして父老の批判を買った」とか「凡品とは価格が低いこと」とかいうのが
間違いだってことがわかってもらえれば最低限かまわないよ。
>>721 全て違う
豪族は後漢を通して荘園と私有民を減衰させながらも維持してたし
朝廷機能が失われてなくてもちょっとした事で戸籍から逃れる人は続出するし
そもそも当時は人身売買が一般的だったから金出せばある程度買えちゃうんだよ
結論としては魯粛は
「特に根拠もないので農業に経営基盤があったかわからないし、商業やってたかどうかもよくわからない」
ただし、「不治」になると現金(財貨)が失われて、田畑を投売りせねばならない「家事」があり
魯氏はそれを本業としていたということが考えられ
商人なので〜、凡品とは〜は俺の言じゃない
無関係なのでわかるもわからないもハナから関係無い
凡品云々は俺だな。
「もう認識が合わないので議論を終わりにしよう」と言われたので678以降レスしてないぞ。
たださらっと斜め読みした感じだともう誰が何を主張してるのか判んなくなってくるのも頷けるw
匿名掲示板の難点だ。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/23(木) 14:40:54.81
魯粛は飽きたので周瑜の天下二分の計について考察すれ
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/10(日) 11:09:07.78
周瑜の天下二分の計=浪漫
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/10(日) 12:54:19.04
ちんぽこ饅頭!!
>>724 このスレ、既に1年半も存在し続けている。
これ以上の考察が無いのでは?
記述内容が少なすぎて判断出来ん、ていうのが結論かな?
結論は後知恵で作られた嘘説だからどうでもいい
龐統は周瑜に仕え、周瑜の遺体を呉に届けた人物。
その龐統が劉備の入蜀に付き従ったのは興味深い。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/24(日) 03:15:11.50
龐統は呉の連中と仲いいんだな^^
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/31(日) 19:43:45.05
龐統は呉の劉備監視役説
なにっ
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/06(土) 16:11:57.98
落鳳坡は劉備が呉の監視役龐統の始末説
わお!
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/08(月) 23:37:42.67
劉備が騙し討ちしても手こずった蜀攻めを劉備の火事場泥棒になすがままだった周瑜如きが遂行出来るわきゃないだろ
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/10(水) 07:06:26.39
>劉備の火事場泥棒
kwsk
荊州
>>738 火事場泥棒じゃなくて普通に孫権にok貰ってるよ
むしろもともといたわけでもなく荊州の刺史や牧になっているわけでもないのに江陵を征服している方が火事場泥棒じゃね
>>740 劉備が主戦線外の荊南でやったことが火事場泥棒かはともかく,
正面から江陵に乗り込んで曹仁を追い出したのを火事場泥棒とは言わないだろう。
>>741 そのあとも占領し続けて勝手に太守になってたのは火事場泥棒だろ
火事場泥棒より詐欺師の方がしっくりくるな
>>744 いやその孫権が火事場泥棒だって言ってるんだ
おk出す何の権限も正当性もないだろ
自分を攻めてきた曹操を倒すまではいいが、そこで終わらずに隣の州攻め込んでずっと居座るのは火事場泥棒じゃん
劉備は荊州刺史の劉キを擁しているしな。
何にせよ荊州争奪戦で劉備の立ち回りは光ってた
碌に対処出来ない周瑜含む呉は雑魚
江陵取られたのに立ち回りは光っていた(キリッはねーだろ
いくら荊南を手に入れたところで、北上の蓋をされ、常に喉元に刀突き付けられてる状態で
>>745 火事場泥棒なんて言ってないけどなぁ
あ、演義の話しですかサーセン
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/29(月) 03:48:47.66
演義の話よりも正史での考察が聞きたい今日この頃・・・
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/29(月) 07:38:44.30
アレもそーですね
初期ミスチルは君がいた夏とかReplayとか夏っぽい歌が多いですよん
なんか中期以降は季節とか関係なく仕事するのもお客さんも嫌いだってのが
前面に押し出された歌に変わっていくんですけどね(苦笑)
ってか「いつでも微笑を」はライブで聴いたことないんですよねorz
スタジアムツアーも北海道公演なさそうだし…
>SENSE
好きですねw
Iとか大好きですw
多分ワンダ以降入ってきた中高生のファンには不評だと思いますけど
でも、やっぱアレがミスチルなんでないかと個人的には思いますねーw
チャリティとか人類愛とか歌う桜井はなんか胡散臭くて好きじゃないです
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/09/04(日) 14:29:48.88
荊南以上に暴れたらそれこそアウトじゃないの
孫呉との関係が終わる
劉備が屑すぎるから呉では対処しきれないだろw
754 :
家計簿つけたくなくなったよ:2011/09/17(土) 10:55:32.09
一番カケイガうまい周油は
家計簿つけさせないようにと
醤油を飲ませ
火山がうまくいかないからって
核に頼り
否なきところ
最高峰
長生きできて当たり前。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/09/17(土) 18:03:40.78
周喩の天下二分なんてヘボ計画より劉備の荊州完全奪取を考察するほうが
有意義だと思うが。
756 :
モグたん ◆RgagDOoVgM :2011/09/17(土) 18:22:15.27
_ _
/::::::;ゝ-──- 、._/::::::ヽ
ヾ-"´ \::::::|
/ ヾノ
/ _ _ ヽ
| /:::::ヽ /::::::ヽ |
l (:::::::・ノ ▼ ヽ・:::::) lモグモグ
` 、 (_人_) /
`ー、 /::::::〉ェ・)`ヽ/
./::::.::/─ |:::::〉'
〉 .:/ (・ェ・)(・ェ・)
./ _ | (・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)
.| ´:::::ヽ._ ´:::::::ヽ (・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)
ヽ、::::::_/´`ヽ:::::::::::/ (・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)(・ェ・)
劉備の荊州完全奪取ってなに?
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/14(金) 07:24:25.15
天下二分よりも非現実な妄想
陳宮とか天下三十分の計くらいの感じでやってたよね
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/18(火) 18:21:44.58
猫にフラッシュ焚いたら失明すんの?そんな簡単に?ソースは?実例は?
猫に牛乳ダメってのも聞くようになったの最近だし、ソースを見たことが無い
ネットが普及し始めてからあれはダメこれはダメ聞くようになったものばかり
ずっと牛乳も与えてたしフラッシュも焚いてたのに何十年も実例を聞いたことないのはなんで?
とりあえず実例とソース出してもらえる?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/18(火) 20:40:05.88
,',i><iヽ
/((ノノリノ)))))
O、《 )))´▽`))O
ノ, )(・) ・)ノ ヽ
ん、/ (:i:) ヽ_、_,ゝ
(_ノ ヽ_)
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/25(火) 20:29:23.50
徐州の広陵郡は魏の領土?それとも呉の領土?
サイトによって説明が違うので詳細よろしく
両方。
分割統治されてどちらも広陵太守を置いている
なるほど ありがとうございます
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/27(木) 12:26:05.33
江夏と同じか
両方が太守を任命してるとしても
実効支配してるのは片方で、失陥した側が奪還を図ってるので席だけはあるっていうこともあるんじゃないだろうか?
このケースがどうという話ではなく、様々な同時期に両陣営で太守を派遣してるケースの中にそういうのがあり得るという意味で
劉備の所じゃ一度も襄陽領有できてないのに関羽を襄陽太守に任じてたね。
>>766 まあ、この場合は旧広陵の何割を実行していたか云々よりも、
江水北岸から数十キロを呉が領有していたということの方が大事。
>>767 都市としての襄陽は確かに領有していないけど,
「借荊州」や再分割の後だったら,
襄陽郡(とされる地域の)一部は領有してたのではないか。
関羽だけ遥任とは考えにくいのだけど。
でも孫峻は広陵に城を築いているから実効支配はある程度あったんじゃないの?
関羽の場合は攻撃命令込みだろ
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/12(土) 17:03:52.18
呉は一時期襄陽を領有していたらしいけど
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/18(金) 05:39:42.06
そのまま襄陽を領有しておけばよかったものを
おい!
ゆとり野郎!
ウニは絵の具の味がするとか言っておきながら
絵の具食った事あるか?と聞くと食った事ないだと?
なら、何故ウニは絵の具の味になるのだ?
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 11:15:29.53
陳邵じゃなくて陸遜朱然級の武将を置けば良かったものを
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 11:50:44.38
9 名前:ジャイアニズム :2011/11/20(日) 21:43:53.49
蛆虫が糞スレ立てんな!
10 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/11/21(月) 10:56:52.66
クソレスとクソコテはすごく多いぞ
もう三戦板は死んでる
11 名前:ジャイアニズム :2011/11/21(月) 11:50:04.39
三戦板の死骸に湧いた蛆虫ども
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/27(日) 13:32:46.04
諸葛瑾は一城防衛向けの武将じゃなくて都督型の人間だからな。
陸遜は両方出来るけど。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 12:03:17.64
>>777 朱桓なら曹仁と相性いいから裏陽守れたのでは
襄陽なんてそんなに価値ないだろ
陳邵とかいう呉書に全然出てこないわけのわからん奴置くくらいだし
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 19:32:34.12
>>782 当時から戦略的に重要な拠点だろ裏陽は
元と南宋の攻防も裏陽がキーポイントだった
中国史で襄陽が無価値だった事ってあったっけ?ってぐらいだよな
>>784 実はありました
周代までは南方、春秋戦国時代で言うところの楚が「中国」の領域外だったもので
襄陽を北に抜けると南陽にでる
南陽は肥沃かつ経済活動が盛んな土地で、洛陽が目と鼻の先、長江伝いに長安にも出られる要の土地
っていうか呉って不思議な国
長江伝いの要衝を敵にとられているのに、あんだけ長生きしたんだから
普通、襄陽無し、淮南無しで国なんて維持できんぜ
中国史全体から見ると、「北朝」相当の魏が襄樊を維持し続けられたことの方が珍しいんじゃないか。
江陵の方が重要じゃないの
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 11:14:47.47
江陵は楚の旧都だから価値はあるが
北からの攻撃は漢水を前に守れる襄陽の方が守り易そう
孫呉は攻められると北岸を放棄して長江を盾に防御したんだよね。
まあ、荊州での北からの守りが江水では、本来は後背地が狭すぎる。
一方、漢水なら南郡の生産力を十分に使える。
魏の首都洛陽から距離が近い、その割の華北勢力の弱体化、
漢江双方の上流を蜀漢が抑えていること、などがかみ合って、
漢水と江水の間でバランスが取られることになったんだろう。
久々に本題に戻して、二分の計が成立して呉が漢中まで前進すれば、
漢中-襄陽-江夏のラインに無理なく防御戦が引けただろうし、
そうすると魏はうかうかと洛陽を首都にするのは難しかったんでないかな。
>>788 逆説的であるが、呉と蜀漢にそこまでの力がなかったとも。
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/16(月) 15:38:46.11
>>782 曹仁の方も呂常とかわけわからん部将を裏陽に置いて
関羽の攻撃を凌いでいたりする
うじむしゅの巣窟さんせん
襄陽って攻めの拠点としてはいいけど守りの拠点としては当時のラインではいらん子じゃねぇの
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/18(水) 08:29:08.19
孫呉は攻められると北岸を放棄して長江を盾に防御したんだよね。
まあ、荊州での北からの守りが江水では、本来は後背地が狭すぎる。
一方、漢水なら南郡の生産力を十分に使える。
魏の首都洛陽から距離が近い、その割の華北勢力の弱体化、
漢江双方の上流を蜀漢が抑えていること、などがかみ合って、
漢水と江水の間でバランスが取られることになったんだろう。
久々に本題に戻して、二分の計が成立して呉が漢中まで前進すれば、
漢中-襄陽-江夏のラインに無理なく防御戦が引けただろうし、
そうすると魏はうかうかと洛陽を首都にするのは難しかったんでないかな。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/18(水) 08:31:02.29
大きなおっぱいが大好き
です。垂れてても乳輪が
大きくても。
(そちらのほうが好き)
年齢、体重、身長、既婚
未婚といません。
自身がない方、マグロにな
ってしまう方でもいいです。
栃木ですが都内でも大丈
夫です。
ぬるぬるにローション塗っ
て、おっぱいをはじめ体中
を愛撫しまくりたいですね。
まずはメールでお話しま
しょう。
栃木県南部 38歳×1男子
結局のところ、赤壁で魏の遠征軍を叩いた直後
荊州は因縁の地などと言って、客軍といがみ合いながら
横に伸びようとした時点で、間違ってたと思うんだよね。
「オラにも拠点をおくれ!」
と劉備軍が荊州で暴れてる内に、主力をとっとと北上させて
徐州・豫州の攻略にこそ、全力を傾けるべきだったかと。
あの時期にまず魏を徹底的に叩かない時点で
天下を争う主導権は、半ば放棄したようなものだと思う。
天下二分というなら、南半分ではなくまず東半分に
勢力を確立するという発想はできなかったのだろうか?
長江を防衛ラインとして機能させたいんだから横に伸びないとお話にならんぞ
( ゚дメ)800
東半分を取るんなら函谷関以東をほとんど支配せんとな
天下二分を達成するためには天下の7割を制圧すればよくね、って言ってるのと同じ
7割が笑い事じゃ、5割も無理じゃね?
魏の状態に拠らず、とにかく長江の防衛線が頼りで
そこから北に進めないなら、結局いつまでも守ることしかできないよ。
そんな国が、西に向かうとなれば長駆益州を攻略できるだけの
強力な遠征軍を送り込めるとも思えない。
だから南北二分も馬超が勢力を維持してて劉備が裏切らない保障があって
領内が混乱してる劉璋勢力を短期間で乗っ取るという限られたタイミングで可能な計なんだよ
冒険でも当時の呉の国力で成功する見込みとうまみのある方針を目一杯考えたわけだ
ところが東西二分をやるなら劉備ないし劉表にわき腹を見せつつ
弱みがあるわけでもない曹操と直接対決に踏み切る上に自ら地の利を捨てることになる
短期決戦で鮮やかに勝たなければ窮地に陥るだろうな
ゲームみたいに毎月戦争して半年で統一するわけには行かんぞ
いやそこまで都合良く、呉だけの力で一気に勝てるとは思ってないよ。
東半分を得ればというのも、着実に勢力を伸ばしての話だし。
そうやって条件を並べてみても、益州攻略がまず博打だし
そもそも最大勢力の力を削がずに、盛り返してくるのを放置して
益州辺りで冒険する意義が、本当にあるのかと。
奇跡的に短期攻略が成功したところで、国力や人員が魏に追いつくでもなく
長大な防衛線を抱えて、劉備が飼い殺されたまま乃至処分されてるとなれば
馬超が滅び次第、呉一国で巨大な魏に立ち向かうことになるよ。
北に伸びる分には、それこそ劉備さえ裏切らなければ戦線は拡大しないし
荊州の権益で争うまでも無く、互いに中原攻略の橋頭堡を築けたと思う。
そこから冒険に出るなら、馬超が攻勢に出るのに呼応して、呉の主導の下
荊州の劉備軍と二方面から一斉に、許昌攻略を図ることさえできたかもしれない。
蜀攻略に手間取っている間に魏が南下したら呉自体が滅ぶしな
まあ無謀な計画だよ
江越えて北に進むのが博打じゃなくてなんだってんだ
劉備に横っ腹を殴られる危険は一緒
益州狙いは魏にも殴られる可能性があるが、進軍は長江沿いに行え、
確保した場合に守るのもまた長江の防衛戦が使える
北に進むにはヒーコラいいながら長江越えて、確保しても本国と長江に分断されるデメリットがある
>>804 俺としても周瑜がどこまで上手くやれたか疑問だが北を攻める方がさらに難しい
曹操は赤壁後にただでさえ抜けなかった合肥の守りを固めてしまっているし
当時の呉は山越鎮圧や反乱が頻発していて長期の外征ができる状態にない
献策内容から想像するに周瑜は孫瑜を立てて益州の混乱に乗じて
孫策が最小限の元手で揚州五郡を切り取ったのを再現しようとしていたように思う
言うまでもないがこの戦略は韓信や北畠顕家などの近い例がある
周瑜は江陵ですでに魏軍の矢面に立っていたので本気で益州攻めを企図するならこれしかない
要するに正面衝突ではなく僅かな余剰を有効に投資しようとしていたと俺は考えてる
余剰が小さいからこそ長江を楯にしつつ勢力伸長できる策を考えていたし
呉の内情では当時これ以上の好手がなかった
呉は214年まで外征はしていない
ま、何のこたぁないな。
長江だけが頼みの綱で、赤壁直後でも
ガチな陸地侵攻=死亡フラグマジ勘弁ってんなら、魏には打つ手なしってだけだ。
実現できなかった夢が、劉備に代わって劉璋にハイエナ勝ちじゃしゃあないか。
さぁ、ハイエナといっても南北の人口比がほぼ拮抗する歴史的ハイエナ行為だけどね
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/28(土) 16:24:05.71
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/01(水) 09:08:40.21
周瑜の赤壁の戦いが凄いと言っても所詮は防衛戦争だからな。
その後の南郡戦では寡兵の曹仁軍相手に大苦戦をしてるし。
僅か三千の兵を率いて奥羽に下向して、東北の北条勢力をことごとく平らげた北畠顕家のような真似が出来るかな?
曹仁軍が寡兵だったというソースは?
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/09(木) 22:13:36.75
曹仁は後詰めが居ないから撤退したのかなあ
裏陽には楽進が居たのだしもうちょっと頑張っていれば
江陵キープできて戦略的にも大きかったと思う
814 :
名無し:2012/02/09(木) 23:20:20.88
815 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/21(火) 12:21:35.52
北畠顕家は周瑜の半分しか生きていないのか・・・
816 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/16(金) 09:06:46.57
ジャンヌダルクも周瑜の約半分しか生きていないぞ
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/04/29(日) 10:07:20.59
>>813 もっと後詰めの期待できない江南は即陥落
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/12(土) 01:45:55.30
>>813 ハドリアヌス帝が肥沃なメソポタミアを放棄したのと同じ。
>>818 え?
進出先の一方面軍司令官が、魏は現状安定統治の見込める中原以北だけで
内治を充実させ発展すべしと判断して、放棄しちゃったの?
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/14(月) 19:56:38.17
ハドリアヌス帝と曹操、意外にも共通点あってワロタ
>>813 文選に収められている曹操が孫権へ送った書簡では
「先年に江陵より撤退したのは城中の物資が乏しくなった為、やむを得ず放棄をしたのであり、けして敗北による撤退ではない」
と述べているね。
関羽が江陵と襄陽の連絡を断とうとしてるし(李通が阻止したが)、後方からの補給が思うようにできず放棄に至ったという可能性はありそう。
>城中の物資が乏しくなった為、やむを得ず放棄
普通そういうのを敗北というのだが
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/02(土) 11:02:54.96
裏陽は維持できたんだから
江陵までぐらいも頑張って維持しろ とか思ったりする
襄陽は南陽から支えられるが江陵を支えるには襄陽だけでなく江夏も抑えないと連携しにくい
襄陽も江夏も抑えてたんじゃないの?
文聘がずっと江夏太守だったような
んなこと言ったって赤壁で大敗した被害とショックの影響が抜けてなかったんだから仕方ない
>>825 江夏太守には任じられてるけど江夏そのものが前年の黄祖の大敗で大きく失われてるし
劉備と孫権が手を組んだ際には夏口の辺りまで孫権の軍が出てきて取られてる
文聘がいる場所は曹丕の時代になるまでよくわからんけど
曹丕の時には夏口を攻めたりしているし石陽で守ったりと結構押し込まれてるのは確かで
江夏太守とは名ばかりか西の端っこちょっと持ってる程度としか考え難い
新野侯になってるから襄陽か南陽に近いところにいたのかもしれんな
828 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/23(土) 20:53:16.16
文聘と楽進が関羽の侵攻を防いだから、襄陽を維持できたと思う。
その頑張りを、江陵防衛に生かしていれば。。。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/23(土) 21:28:02.23
カップラーメンですら三分必要だというのに周瑜ときたら・・・
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/13(日) 17:36:38.81
クリスティアーノ・ロナウドは現代の周瑜
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/17(木) 03:18:37.45
クリスティアーノ・ロナウド「天は私を生みながら、なぜメッシまで生んだのか」
今週クリロナがハットトリックしたかと思えば
滅私が4得点
マジで演義周瑜の生まれかわりだw
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/11(月) 18:59:30.59
>>828 逆に後にどさくさに紛れて襄陽占領した呉の陳邵が襄陽を維持していれば・・・
地形的には江陵で守るよりも襄陽で守る方が守り易いぞ
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/12(金) 22:18:38.43
そろそろ保守
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/12(金) 22:21:21.87
>>9 > 魯粛の方が、天下二分の計を考案してた件について
↑
スルーされているが、誰か答えれ
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/12(金) 22:31:21.05
野手ばかり集めても勝てない事はベイが証明済み
そして投手が良かった中日は今まで好成績でライバル
さすがはゲーム脳のゴキブリアンチ
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/21(日) 02:29:58.57
>>838 魯粛の天下二分の計の方が有名になったら
諸葛亮が二番煎じ以下でカッコ悪くなるからね
でも魯粛の天下二分の計って具体性に欠けてないか?
周瑜のように実行案まで出来てたとは思えない
魯粛は戦略家であって戦術家じゃないから
周瑜とか呂蒙とか甘寧とか戦略を補填する人材がいれば問題ない
>>841 周瑜と違って魯粛は無理って意見に対して、他の人物はともかく
周瑜が補填すれば問題ない っておかしいだろw
よく知らんけど
「役どころが具体性担当じゃないから別にいいじゃん」
みたいなことを言いたいのでは
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/23(火) 22:07:32.11
>>840 政治的才能は
魯粛 >>> 周喩
だと思う。
同じ二分の計でも中身がちょっと違いそうだな
周瑜のは軍人としてのものであくまで対魏(曹操)のための準備
魯粛は言わば外交的視点からの南北朝をつくるための策
ってイメージ
周瑜が生きてた時点では孫権を皇帝にするかしないかで2人の意見が分かれそう
殷礼の策なら天下は取れた?
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/28(日) 06:30:27.12
>>845 > 周瑜が生きてた時点では孫権を皇帝にするかしないかで2人の意見が分かれそう
その場合、内政とか外交に関しては魯粛の意見のほうが採用されたと思う。
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/28(日) 06:32:43.67
>>846 この案には陸遜が賛成していないんだよね。
ということはやっぱり無理筋だったのではないか。
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/01(水) 22:11:44.14
陸遜は張昭死後は何でも反対爺のポジションを受け継いだ希ガス
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/02(木) 06:18:17.03
>>849 晩年の孫権は、頭が劉禅化していたように思われる。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/02(木) 06:19:39.90
>>846 > 殷礼の策なら天下は取れた?
この策は「ホームランか三振か」みたいな策。
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/05(日) 09:44:11.33
赤坂R
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/22(水) 19:20:41.27
劉禅ならまだ無害なんだが
どちらかというと勾践化している気が
それにしても孫権に限らず曹操劉備辺りは還暦前後でも子供作っているのか
とてもお盛んな事で
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/22(水) 19:35:48.49
虞翻大先生も流刑先で還暦過ぎても子作りしてますし。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/22(水) 21:16:27.79
そもそも三遊亭小遊三は、昔から自分の本名をよく出している。
笑点の演芸で呼ばれた時も本名を言っている。
落語の本題入る前の余談で「お前、天野じゃないか?」とか「俺だよ俺、天野だよ」
とか入れることが多い。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/01/12(日) 14:17:38.47
虞翻は次男
70過ぎてから妾に入れあげて子供まで作った書の達人もいたなぁ
しかもそのせいで離縁した妻との復縁を命じられて山椒自殺という他に類を見ないエクストリーム自殺をかまそうとしたりとファンキー過ぎる
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/03/21(金) 22:37:59.36
山椒は漢方薬だから自殺できずむしろ健康促進しそうなもんだが
意外だがビタミンAは致死量があり過剰摂取で簡単に死ねるので試すべし
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/03/21(金) 22:40:12.07
neeted woman
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/05/28(水) 13:51:29.51
日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛ライス低原価テレビ問題分
日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛ライス低原価テレビ問題分
日テレ北京ダウニューヨーク塩素スープ ニュース沖縄牛パスタ低原価テレビ問題
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/09/21(日) 13:52:37.78
山椒に鰻食べて死ねば本望
山椒のイッキ飲みは下手なドラッグよりもトリプれるらしいが
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/26(日) 19:49:06.98
咳止めシロップとかしょぼいドラッグよりは山椒
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/12/28(日) 22:47:34.87
>>855 虞翻大先生は僻地に飛ばされて
学問と子作りしか楽しみなかったからな
僻地に飛ばされる前よりも飛ばされた後の方が子供出来てるのは
ある意味現代の岩手に左遷させられるのと同じ現象
866 :
無名武将@お腹せっぷく:
小沢一郎 「ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」