か2?
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/15(木) 23:55:59
今三國志やっててちょうど孫権処刑したとこで気分最高
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/16(金) 07:55:36
まぁゲームの世界ですから
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/16(金) 08:15:48
呉スレの5ゲット
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/16(金) 12:32:32
3なんだが俺は孫策、孫堅は好きだ
しかし何故か孫権は大嫌い
ゲームでも必ず処刑する
>>3 終いには息子に担ぎ出されてまうぞ。
で、主君から「皆アンタを敬うからどっちが主君かワカランやん><」と泣かれるぞ。
>>3の幼稚さは孫権とも通じるものがあるな
ある意味で同族嫌悪
>>3は飲み会で馬鹿やりすぎて部下に呆れられちゃうタイプ
酒の席のいざこざで首切ろうとする上司も上司だけどな
それは単にきっかけってだけで上司も日頃から首斬りたくてウズウズしてたんだろうね
ところが酒飲みノーカンと天然宣言をする孫権
>>18 あれって酒飲んでる時に言ったんだよね
覚めてから後悔しただろうな
虞翻は孫策とは特に問題なくやれていたのに…張昭にも言えることだが。
その流れで言うなら孫策が魯粛を使いこなすのは不可能なわけで
どうだろうな。魯粛が喪に服していた時期の関係でそれはわからない。
ただ、魯粛の天下二分(のちに三分)を唱えた時期と孫策在世時では
袁家の存在など情勢が大きく異なっているから、その中で魯粛がどういう
判断をするかじゃないか。
情勢関係なく張昭と滅茶揉めしてるから
虞翻の口もふさがっているとは思えん
張昭が保守的になったのは孫策の遺言の影響が大きい。
それまではかなりのイケイケおじさんw
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 06:59:54
孫策がロシュク使えなくても周瑜とニ張使えるから問題ない訳で
魯性って三国みても魯粛以外にいたっけ?
珍しいよな。
>>20 孫策は虞翻を重用してたからだろうね
虞翻からすれば孫権と孫策を比べたら孫権は鈍臭く感じたかも知れないし
馬が合わなかったんだろう
一方の孫権は諸葛瑾と仲良し
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 10:57:11
君主たるもの威厳を保つにはやはり実績が必要
孫堅、孫策は共に最強の武官として軍を支えてきた
しかし孫権は弱い、唯一の才能は内政、犬の諸葛瑾はいいとして実績をあげるにはやはり張昭、グホンは邪魔だったてなだけだろ
> 実績をあげるにはやはり張昭、グホンは邪魔だったてなだけだろ
の意味がわからん
孫権は戦えば負ける、唯一の才能は人を見る目
内政は慎み深い顧雍が自分の功績を誇らなかったから孫権の実績に見えるだけ
しかも羽目を外す嫌いがあるから兄や母親から後見を依託された張昭の諫言も必要
孫権が比較的大人しかった初期の頃は、
張昭が長史として輔弼してるし、
孫権と張昭が出来レースのような喧嘩してるをうちは、
派閥闘争も大事とはなってなかったし、虞翻と同列には語れんと思う。
孫策だったら魯粛とかぶっ頃しそうだな
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 12:30:00
皇帝と丞相が喧嘩なんてしたら大問題だから、張昭を丞相から外したのは正解だな。
張昭は赤壁の時に降伏を唱えたからな
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 12:44:51
孫権の時代には張紘の影が薄い
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 14:29:52
張昭「降伏?仕方ないだろ孫権弱いから」
孫権を語る際に偏った私情抜きで話せない奴は実に分かりやすいな
曹操の手紙の内容って本当なんかね
江表伝うさんくさいし
嘘だよ
全部うそ
そもそも呉とか存在しないし
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/17(土) 21:57:44
建業忘れんなよ
張紘が孫権に送った遺言書は泣ける
首都移転させろってヤツ?
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 00:07:25
張昭が降伏を主張したのは仕方ない
士官が戦いを主張しようが実際戦うのは兵士
兵士も死にたきゃないからな
実績ある孫策ならまだしも実績無しの惰弱な孫権なら逃げるを選択する
張承がその理屈を言うなら納得も出来ようが
ろくに軍務に就いてもいない親父じゃなあ
あの状況だと流れ的に降伏のほうが自然だとは思うけどね
曹操も始めは本気で抵抗されるとは思ってなかっただろうし
結果オーライだったけど当時の呉の人達は曹操と戦う事に相当不安だったはず
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 04:06:26
大義名分でも頭数でも上だしな
過去から教訓を得ようにも楚、項羽、呉楚七国の失敗を見れば気が引ける
それでもやったのは勇気ある決断だった
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 04:13:45
孫権の長所として挙げられる人材登用能力は、孫堅・孫策の遺した人材が大きい。
内政は寄り合い所帯ながら見事にまとまってたが、それも豊富な人材のおかげか。
建業遷都は実質的に何かいい事あったのだろうか?
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 04:30:52
呉、東晋、劉宋、南斉、梁、陳、南唐、明、太平天国の首都
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 05:44:42
>>50 北に進出するのを見越してってことじゃない?
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 12:51:50
>>52 だとすると、無惨なもんだなw
結局、蜀と同士討ちして荊州確保したが、長江に依存するだけで北上不能。
おまけに、蜀の衰退にも繋がった為、魏への多方面攻撃の可能性が一気に
低くなってしまった。
孫権に北上、天下統一なんて野心は無く、ただ今の地位で国を維持するのが
目的だった様に思えるんだが。
現実的とも言えるが、呉の土台を命懸けで築いた孫策は哀れだ。
孫権は、孫策にそれほどの敬意を払っていなかった気もする。
遷都は敵に備えて地の利がある所がいいだろうという事です
孫策を無意味に英雄視しすぎだな
孫皓の
「長沙桓王の如く」
って物凄い皮肉だよな
まあ、ぶっちゃけ孫策も暴君でしたってことだわな
晋代の呉出身者は大声では言わないまでも内心では孫一族のこと嫌ってる人多いみたいだし
残った評判があまり良くないのも仕方がないのかもしれないが
孫権の長所は外交センスだと思う。
2面攻撃を受けないように立ち回りながら
ちゃっかり官位を稼いで皇帝まで行っちゃう手腕は
孫策孫堅には無理。っていうか3国最強かもしれん。
つ公孫淵
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 21:56:09
孫権は英雄の器じゃないから素直に劉備の下僕として魏をせめてりゃ良かったんだよ
レッドクリフの孫権役の人はよかったね。
外見もなんかイメージしやすかった。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/18(日) 23:29:10
そこのチミ!
レッドクリフみたいな駄作を見ちゃバカになるよ
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/19(月) 03:00:20
>>60 確かに「英雄」と呼べる人じゃあないかな・・・・・
立ち回りの上手さは認めるが、それだけだろ。
そもそも、父兄から受け継いだ人と領土が最初からあるわけで。
おまけに、長江という地の利もあった。
戦上手だが立ち回りは下手な呂布
戦下手だが立ち回りは上手な孫権
曹操からすればどっちがキツかったのかな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/19(月) 10:28:57
そりゃ呂布だろ
トウタク討伐でもカユウを関羽が討ち取ったことで巻き返した訳やし、総大将の武勇は重要
葉雄を討ち取ったのは孫堅軍
葉雄w
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/19(月) 13:30:48
は?夏侯淳だし
関羽が討ち取ったのは創作上の人物・華雄で間違いないんだろうが
孫堅軍が討ち取ったのは華雄と誤記された葉雄だな。
夏侯淳は知らん。
葉雄はあくまで説の一つであり、誤記と断言してしまうには弱いと思う
夏侯惇は蒼天だな
夏侯淳は知らん
>>63 んにゃ、孫策が固めたのは丹陽・呉・会稽、豫章と廬江南部くらい。
そのうち豫章は長沙と接して安定しない継争地帯だったし、
丹陽・呉・会稽も山がちな部分は越の跋扈を許していた。
それらを平定し広陵南部と荊州南部・交州へ侵攻して勢力圏を二倍に広げたのが
孫権の軍事的功績。
そのうち自ら陣頭指揮を取ったのは殆どなく、武人的英雄とは言えないがだろうが、
上手い立ち回りで領土を守った(だけ)なんて人間ではないよ。
大概のまともな人間は分かってるんだろうけどな
一部のアンチはケチつけてけなす対象としてしかみれないんだろうけど
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/19(月) 21:20:37
あんたらよくもまあ1800年前の事柄を断定できるよな
史料に矛盾のない範囲において、という条件下で論証しているだけだよ。
断定できるかどうかなんて言ったら、人間は結審した殺人事件の成否さえ断定することは出来はしないよ。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/20(火) 00:51:07
>>73-74 こいつらの問答が、数千年後のwikiとかに掲載されたらいいな。
人類が1000年後も生存しているなんて
考えただけで寒気がする
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/20(火) 07:20:23
結局孫尚香て劉備の元を去ってからどうなったの?
一説には卑怯な兄に嫌気がさして自殺したとかあったけど
まあ三國志の中で同盟中の国に攻めこんだ卑劣で卑怯な恥知らずは孫権1人だけどな
尚香ね…
こいつ単なる無双厨だったのな
アホなわけだ
>>71 >んにゃ、孫策が固めたのは丹陽・呉・会稽、豫章と廬江南部くらい。
いやいや、「くらい」というレベルじゃないだろう。
やはり創業者と、地盤を受け継いだ者は大きく違う。
山越の平定は孫策時代からの継続事業だし、孫権の時代は賀斉にまかせっきり。
荊・交の平定も含めて孫権は指揮しておらず、孫権の軍事的功績とするのには抵抗がある。
だけど
>>63の言っていることも間違いで、孫権は間違いなく英雄。
曹丕が「川の向こうには人物がおる」と言ったのは正しい。
孫権は軍事も下手だし、内政の手腕もないけど
部下に死力を尽くさせることの出来た人物。
それだけ?と思う人がいるかも知れないが、君主には一番必要なことであるし
たったそれだけのことを出来る君主は一つの時代に何人もいない。
人事>軍事>外交>内政
くらいのプライオリティだろうな
創業者は大概自分が一番頼れるカードだけど
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/20(火) 12:25:05
>>80 部下の家に放火するような鬼畜孫権に人を動かすちからなんて無い
みんな孫策の遺言にしたがっただけでしょ
孫権がクズ野郎なのは間違いない
アンチ乙w
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/20(火) 12:34:11
孫権時代からの人材なら、彼の為に動いたとも言えるが・・・・・
堅からの部下は孫家自体に思い入れがあるだろうし、策からの部下も
同じで、中原侵攻への思いも強いはず。
権の場合、そういう精神的な遺産も孫家の名と共に継承している。
クズ野郎とは言わんが、希代の英雄とも言い難いなぁ。
孫権アンチって、孫権の功績は孫堅、孫策や優秀な家臣のお陰!孫権本人は無能!の一点張りだよな
演義だけ読んでてもそんな結論にはならんだろうに
どちらも英雄だよ。
ただタイプが全く違うから、あとは好みの問題になる。
肉が好きか野菜が好きかみたいなものだ。
>>86 あの、肉と野菜は全く別物なんですが・・・
孫権は晩年の老害っぷりがなんやかんや言われる一番の原因だと思うがな
孫権のダメな部分が多く残ってるのは、孫権の老害で被害被ったけど晋代になっても
大きな影響力を持ってたもともとからの呉での有力豪族から嫌われまくったからだろうし
孫権は凄い逆境でもあれこれうまくやりくりしまくってたイメージしかないけどな
兄が偉くなって死ぬまでは、それまでは好き勝手生きてたけど
急にお鉢が回ってきて信頼できる奴もいない中でモンモンと苦しんでただろう
家臣たちは自分をないがしろにして好き勝手やりまくってるけど
ちゃんとフォローするべきはフォローしてる
時としてハメ外しすぎる部分もあるけどな
まあ孫権は民衆にとっては良い君主とは言えなかったろうな
呉は戦乱が長引いたせいで酷いインフレ続きだった様だし
なに、貨幣経済が崩壊してた魏よりは良いさ
というか、もともと孫家自体が地元では人気なかったんだろ
まあ孫堅は寒門の出身だからな
名士層や豪族連中からすれば納得いかない部分は当然あるだろう
一応孫武の子孫という売りがあるが、どうせ後付けだろうし
当時の呉の民衆は統治されるっていうことに対して従順じゃなかっただろうな
好き勝手生きたい奴が住むトコだったろうし
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/20(火) 22:23:05
孫堅が寒門かどうかも分からんし(合浦太守の王晟とは親しい仲)、
何より孫堅自身が功を為し名を遂げた人物なわけで。
名士や豪族が家の格式みたいなもので不満をいだけるレベルじゃない気がする。
だったら単純に名士豪族や民衆を惹きつけるような人望がなかっただけじゃないの
孫堅や孫権個人というより孫家一族が
え。
孫呉政権の陣容を見てそんなこといってるのか…
いやだって悪い評判が多く残ってるし
孫策の負け戦の記録も確か呉側のものだったみたいだし
表立ってはないにしろ、恨みかってたのかなと思ってる、特に老害以降や晋代の南人からはね
蜀には恨みがあっても記録が残らない
晋が魏を貶めるのはやばい
よって呉だけ正直者に
「老害以降や晋代の南人からは」だろう?
孫家の出自絡みの話をしてるはずなのに時代が50年も違う
弁亡論は無視ですか?
弁亡論は史書ではなく文芸作品だと思うw
ずいぶん前に読んでもうあんまり覚えてないけど、普通に読んで面白かったな
しかし陸機が呉書を完成させていたら歴史というか現代に残った印象も変わったのかもしれんな
>>99 > いやだって悪い評判が多く残ってるし
曹操なんて悪い評判だけで一冊できあがってるよ。
> 孫策の負け戦の記録も確か呉側のものだったみたいだし
江表伝のことなら孫策の勝ち戦や美点のほうがより多く記されている。
というか祖朗戦は呉側以外で記録に残るとは思えないけど。
> 表立ってはないにしろ、恨みかってたのかなと思ってる、特に老害以降や晋代の南人からはね
ほかの人も書いてるけど弁亡論からはそんな印象は皆無だね。
ただ呉夫人娶るときの嫌われようをみると孫堅が寒門出身なのは確かだと思う。
王晟は魯粛みたいなタイプで交流好きなだけじゃないかと。
晋に仕えた呉臣の裔からすると、自分の祖父が仕えた国がダメダメだったとは言えないわけだからね。
孫家が軽んじられる要素があるとすれば、それは武門の出世だということだろう。
この時代、人物評に元々の出自の貴賎が占める要素は意外に小さい(農地を持つ良民の出であれば、だけど)。
何が人物評を決めるかというと、教養と品行だった。
孫家は代々郡吏の家であり、最低限の教養は皆持っていただろうけど、
例えば孫策は度量の持ち主で、張昭に万事を任せて疑わない一方で
名士に逢うためにわざわざ経典を予習していたのに、その名士を(人に嵌められて)殺してしまう
という逸話を持つなど、顕した頭角に相応しいと言えるほどの「名士」ではない面があった。
孫権も孫策と違うタイプの度量を持っていて、特にそれは武人達をよく惹き付けるものだったけど、
やはり教養品行を修めるという柄ではない。この辺り、孫堅の子供達は皆とてもよく似ている。
そのような江東の中下級士人らしい蛮風の結果が、孫策が揚州名士を多く殺したと伝えられる行状だったり、
孫権の「お前達は宮廷では俺に拝礼しているが外では張子布に拝礼している」という名士連との隙間だったり
するのだろう。
孫策が殺した中で確実に名士と言えるクラスはそいつ一人。
許貢は微妙なところ。前スレでも出ていたが。
孫家の兄弟がいわゆる名士の言行からは外れていたのには同意。
最初は寄り合い政権でも、集権が成功したから呉王や皇帝を名乗れたわけで…
人気が本当に無かったらそんなことできるわけないだろう
皇帝になってから人気なくなったもんな、それまではそれなりに支持されてたんだろう
それに若い頃はよかったのに、先代はよかったのに、だなんてことは誰だって言われることさ
孫家の連中はそもそも人の上に立つような器では無かった。
魯粛にそそのかされて皇帝になってしまったのが一番の失敗。
>>105 老害以降や晋代の南人から恨みかってたってのは何が根拠なんだ…
孫堅と同時代に教養と品行で成り上がった人物ってそんないないような?
孫策が多く殺したと書かれてるのはのは英豪であってイコール名士ではない
孫権の発言は名士連との隙間というよりは張昭を特別扱いしているという意味でしょ
その裏には名士に対するコンプレックスのようなものがあるかもしれないけど
許貢に具体的な事跡は残っていないが、
許靖・王朗・陳イ・孔チュウの人脈に連なる者。宮廷時代の交流と考えるのが自然か。
教養階級的な名士ではないが、孫策も一度は賓客として迎えざるを得なかった于吉、
また、陸康の死とその一党の難に深く関与している。
当時庶人だった許靖があわくって一族率いて逃げ出すなど、孫策の勢力拡大は
恐れられたものでもあったようだ。そのようなイメージが後代に残ったのだろう。
一つには、この時期の群雄の多くは元の宮廷人であって、知人同士で戦うことも多かった。
孫策はそのような交流から外れた人物だったこともあるかもしれない。
>>110 英豪だったっけか。それは御免。
軍閥として重要なのは勿論第一に軍事力。でも政治力を担保するためには
人的な求心力が必要で、特に当時高官層を為した「名士」達と対等に話すためには
話をあわせるだけの教養や礼法が必要とされた。
この時代勢力を築いた群雄は、8割方が後漢朝廷の高官。
大規模なもので例外は劉備と孫策、李カクくらいだが、劉備は盧植の弟子で
鄭玄や陳紀に政治を学んだという逸話を持つ人物だったりする。
>老害以降や晋代の南人から恨みかってたってのは何が根拠なんだ…
これは俺の主張じゃないので判らない
劉備のようなもともと人脈があった人物でも成り上がった原動力は武力なわけで
それすらなかった孫氏は純粋に武力で出世するしか仕方がないと思う
孫堅・策・権それぞれ粗暴さを発揮してるわけだけど
味方に付けた名士も多いわけで求心力は文句ないと思うよ
> >老害以降や晋代の南人から恨みかってたってのは何が根拠なんだ…
> これは俺の主張じゃないので判らない
スマンこっちの勘違いだ
でも弁亡論で孫策や孫権をべた褒めする義務はないだろうからやはり尊敬の念はあったと思うよ
でもなぜか悪評は多く残ったという
誰からも支持された完全無欠の聖人君主って言いたいわけじゃないんだろ
呉書が編纂された時期には欠点を多く言い残されてしまうくらいになってたんだろうし
まあ、結論は
>>100なのかもな
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 08:04:14
孫策は囲碁が出来たので教養は有ったと勝手に妄想
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 08:30:23
というか陸機は孫策の曾孫だっけ?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 08:30:32
オセロが出来る俺は?
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 09:15:29
教授
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 10:26:06
孫策暗殺の黒幕って孫権やろ?
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 11:22:08
間違いない
おや誰か玄関にきたようだチョットいってくる
まあ郭嘉よりは可能性あるな
あそこのトンデモ説を信じる奴がいたとはw
ないな
孫権は跡継ぎたいって意志がなかったし
野心むき出しでもタイミングくらい考えるだろうしな
怨んだり暗殺しようとは思ってなかっただろうが、
あまり良くは思ってなかったのは確実っぽい
孫権の性格からしても
兄のお陰で県長・行校尉の地位に付けられて、
制約を受けるわけでもなく任地に派遣されて結構好き勝手にやってた10代の弟が
どうやって兄貴を悪く思えるんだw
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/21(水) 23:37:58
野心がなかったという根拠は、野心があったという根拠と同様に、ない。
ただ事実として、次の2点は外せない。
その一、
孫権が帝位についた後、孫策の諡号は“長沙桓王”であり“帝”ではない。
父孫堅が“武烈皇帝”という諡号であるにもかかわらず、である。
その二、
孫策の子である孫紹が孫権からどのような処遇を受けたかは、明記するに値する。
帝位についた孫権から爵位を受けたのは確か。
しかし、王には封じられなかったということでもある。
この2点は、陳寿の評でも取り上げられていて、
孫策にたいして孫権の敬意が少なかったのからではないかという評となっている。
まぁさすがに孫権による孫策の暗殺とやらは何の根拠もなく肯定しようがないが、
この陳寿の評をもとに空想を膨らませれば、小説のネタ位にはなりうるだろうとは思う。
なお、孫紹の子で孫策の孫の孫奉は
呉の最後の皇帝孫皓が引きこもって死亡説が流れた際、
次代の皇帝候補として名が挙がってしまったばかりに、孫皓に誅殺されてしまった。
まぁ、期待はされて(されてしまって)はいたくらいだから、全く不遇というわけでもなかったんだろう。
>>128 当たり前である。
孫権の父は孫堅であって、孫策ではないのだから。兄を経由して廟を立てるのは可笑しい。
司馬晋が特殊例に属する。孫権は策に長沙桓王を追号し、最大級の敬意を払っている。
陳寿が批判しているのは、長沙王位を策の子に継がせず、侯に留めたことのみ。
それに対しては裴松之が孫盛の論を引用する形で反論している。
その論の是非はともかく、つまりは数十年後の孫家内部の権力構造に纏わることであって、
当時の孫呉帝権と権威に絡めて論じるのならまだ意味があるが、
建安当時の兄弟関係に当てはめるのは完全に的外れ。
孫権は孫策死後、崇めたりするような事も無く放置してたからな。
すごい兄貴とは思ったかも知れないが、その程度だった気がするよ。
それは帝位を孫権が自分の系統に固定したいがためで、
孫策暗殺なんてことには繋がらない。
孫策に帝位を追贈すれば、後継者に孫紹も加わってくる
可能性も無きにしも非ずだった程度には孫策の血というものに
影響力があったということにはなるかも知れないが。
孫策在世時の孫権は、こう言っちゃなんだが
ドラ息子を地で行くようなのが好感持てる。
呂範に小遣いをせびり、周泰にあわやのところを救われ。
呉主伝だと策を出しては孫策の舌を巻かせていたように
書かれているが、どうも上のような言動と結び付かんw
孫権が孫策を凄く尊敬していた、みたいなエピソードって無いよな
喪に服していたとき、凄く落ち込んでたっての位か
まぁ陳寿の評は参考意見くらいにはなるだろうかね
王朝の創業者が初代の当主に帝位を追贈する場合、
よほどの確執なり政治的配慮がなければ、
初代と当代の間の当主にも帝の号をを追贈する方が自然な感覚だよね
そうでないと、断絶とまでは言わずとも空位の時期が生じてしまうから
後世の王朝は呉よりは晋の方式に倣っているみたいだね
兄貴を尊敬して創業の手柄を賞賛する感情と
現実の相続問題をややこしくする不利益は一致しない
だから後者を取っただけだろう。
司馬師の場合、後継ぎがいなかった。
司馬昭的には家督を継ぐのはどっちも自分の息子だからどうでもよかった
困るのは弟の司馬攸が司馬昭が尊敬する司馬師の跡目を継いで、
立場が微妙になった司馬炎だけ
何が言いたいのかよく分からないから修正する
兄貴を尊敬して創業の手柄を賞賛する感情と
相続問題をシンプルにする利益とは両立しない
孫権の性格的に後者を優先させただけだろう。
程普だけど質問ある?
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/22(木) 08:15:00
>>134 魏も、曹騰に皇帝号は送ったけど曹嵩には送らなかったぞ
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/22(木) 12:27:56
まあ家臣の中でも孫権は不出来な弟てな感じだったからな、妹より弱いから仕方ない
そもそも孫策を暗殺するにはかなり孫策に近い人物の協力がいる訳で
やはり一番怪しいのは孫権だな
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/22(木) 12:58:42
呉書が編纂される経緯。陳寿は呉が滅びてから呉書を入手した。
三国志が編纂されたのは283年頃という要素を鑑みると、
編纂に時間をかけられた(おそらく20年くらい)魏書や蜀書に比べて、
呉書の完成度は恐ろしく低いのではないかと思う。
陳寿も呉なんてどうでもいいと思ってたんだろうな
蜀は正統に評価したいし、魏は適当にやると立場的にやばい、何の思い入れも無い呉は丸写しでいいや、ってなる
そもそも、信用性の高い(と陳寿の感じた)史料が少なかったんじゃないか?
魏蜀→呉の順で編纂したとすれば、その過程で呉書の内容の輪郭も見えて来て、
結果として仕事が早くなったのかも知れんし。
呉はどうでもいいというより、陳寿は呉に関する見識に乏しかった気も。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/22(木) 16:28:17
当たり前だ
三國志で呉は脇役
三國志とは魏と蜀の物語
孫権が天下とる野心が無いとの話はよく聞くが根拠はなんだろう?
魏との戦争の回数なら蜀より呉の方が多いらしいし。
天下取る野心がないから、魏か晋に臣従して夷陵の時みたいに呉への影響を極力排除する形にすればいいだけじゃないのか?
陸機の呉書が完成しなかったのが残念だな
陸雲は陳寿が編纂した呉書をみて「こんなのダメだ!兄さんが呉書を書き上げないと!」という
凄まじい使命感に溢れる手紙を残してるらしいし
それは本当に残念だった。
ただ、弁亡論を見る限り孫権の晩年や二宮関連には敢えて触れない可能性もあるな。
草稿の断片だけでも残っていればよかったのだが。
最近、陸機についてちょっと触れることがあったけど、この人、凄い文人だったんだな
陸遜、陸抗、陸機と陸家ってすごいな、陸機だけ凄さの分類が違うけど
祖父や父のような将才があれば呉書を完成させることもできたかもしれないのに
>>146 確か台湾とか越南とか、外に興味を持ってそっちに無駄に兵を出したからじゃなかったっけ
>>138 贈ってるよ。
曹騰は高皇帝、曹嵩は太皇帝。
>>148 あの人、とにかく呉が馬鹿にされると返歌で猛反発してるから
呉の印象が悪くなるようなことは避けたかもね
たまに孫権の晩年のダメっぷりを認めたくない人いるけど
あの老害具合を含めて孫権は面白い人物だと思うけどな
老害ってレベルじゃねーけどな
誰も止められる奴がいなくなって完全に歯止めが利かなくなってる
易中天は陸遜は粛清されたという説だな。
陸家の出と孫策の娘を妻にしていること、その声望が老年の孫権に危険視されたと。
うろ覚えだが、孫権が意見を求めても朱然ですら「そういうことは陸遜とか潘濬に振ってくれ」と
孫権をスルーするようになったんだっけ
>>155 陸遜は自滅みたいなもんだよ
年長の子が継ぐべきであっても、あの時期に丞相が強く主張するのは極めて危険な行為だ
かなりKY
陸遜は憂国の思いが強すぎたな
確かに正論なんだが、その正論を聞き入れるのが一番難しいわけで
40代のころはあの二人の信頼関係も呉の情勢も最高だったというのに、老いって怖い
もし本当ならだが陸胤のせい
>>159 本当だとすればだが、陸胤は孫和は守ったが陸遜は陥れる結果になってるよな
案外陸家内部でもドロドロがあったのかもな…
孫権が謙遜してた
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/22(木) 21:59:30
孫堅「江東の虎」
孫策「小覇王」
孫尚香「弓腰姫」
孫権「老害」
>>161 陸凱・陸胤の血筋って陸遜の血筋とどうつながってるのかはわかってはいないが
とりあえず親戚なんだっけ、その判明してない血のつながり関係でなにかあったら面白いかもな
名士豪族と呼ばれるお家の内部はどこもかしこもドロッドロやで
弁亡論では全ソウは完全スルーなんだよなw
私情入ってるだろ絶対w
ハハハ、何をおっしゃる
弁亡論は史料ではなく文学作品だ、感情を乗せてこそなのだよ
陸機はもうちょっと上手く立ち回るか軍才があれば…
母系(多分諸葛か張)の血が強く出てしまったのだろうか…
劉備と同年齢で孫権崩御の時にまだ存命してた呂岱さん
孫権と違って年老いてもますます盛んですね
晋における呉の出身者って本当に肩身狭いしあれこれモノを言える立場にないから
言いなりになってないといけないし、うまく立ち回るにしてもって感じるけどな
陸機は文才がありすぎて嫉妬の的であると同時に抱えておきたい人材だからもう大変
呉出身はまだマシな方でしょ
巴蜀出身の連中なんて、異民族みたいな扱いだった様だし
>>156 そら朱然や諸葛瑾たちが軍事以外は専門外なので陸遜や潘濬に意見をお求め下さいと
逃げを打たれたので孫権が反省して
改めて有益な意見を求める要請をしたって逸話だろ
>>171 諸葛瑾たちが軍事以外は専門外
むしろ、瑾は内政以外が専門外なイメージがあるんだけど軍事のほうが優れてたの?
諸葛瑾は士大夫で側近で地味なだけでバリバリの軍人系
>諸葛瑾たちが軍事以外は専門外
と、言うより(将軍として)軍務についているので、政務はその担当者にお聞きくださいってこと
何伝の話?
呉主伝じゃないの
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/24(土) 13:34:59
諸葛瑾の息子達はまともなのが居ない気がする
なんであんな人の良さそうな親父から問題ある息子が
弟の諸葛亮も息子が残念だったし
諸葛さんちってそんなもんなんだよ
誕の息子は節度があってまあまあかな
諸葛恪は制御出来る人間がいればかなり有能な家臣だろう
孫亮が幼かった上に陸遜や朱拠が死んだからあんな事になってしまったが
同感
有為の人物ながらいかんせん切れすぎて独断が過ぎた
孫弘殺害も、直ちに諸葛恪に危害を加えようとしたとされる孫弘以外の大物には累が及んでいないことから、
政敵を葬ったという事実には違いないのだが、
必要以上の粛清は行っていないことから、主には目前の危機からの自衛のためだったのだろう
決して悪意や私欲が行動原理ではなかったのだが
自身の正しさしか見ていなかった
孫登の早世が本当に惜しまれる
諸葛タン♪
孫登の四友は陳表以外悲惨すぎる
魏とあまりにも対照的
俺はうまく言えないが孫登ってなんか胡散臭く感じるんだよな
期待されていながら真価を示すことなく世を去った人物一般に対する胡散臭さ、かな
太子って留守番が仕事だから
本拠地近くで叛乱でもない限り功績などは残らない
その場合、能力・人格は周囲の評判などから判断するしかない
評価する者や記録を残す側の偏向は考慮するのは当然として
てことは、魏諷の乱みたいな奴が呉でも起これば…
孫登が実際優秀だったかどうかよりも、孫権の嫡男だった、という事実の方が重要
たとえ無能でも生きてれば、騒乱は起こらなかった可能性が高い
権威と権力の両立が上手くいけばいい
呉の朝廷はごっこ遊びっぽいんだよね
漢を模して自立出来ればそれでいいというか
漢も割とそんなもん
呉の権臣粛清荒れ模様は三国の中で一番後漢に近い
後漢の場合は時々幼帝が成長したりして権力奪回に成功したりしたけど、
呉にはその時間が与えられなかった
それにしても、一般に朝廷・官僚体制が不備と言われる呉で
孫晧末期のあの皇帝権の強さというのは何を源にするものなのかなあ
変にはむかって処刑されるのも嫌だから
諌めることもせずにさっさと晋に逃げていったんじゃないか?
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/26(月) 20:11:04
>>192 呉は幼帝は一人しかいないしなぁ。
あと孫権も十分好き勝手やってるし、よく言われる「呉は皇帝権力が弱い」説は再検討が必要かなとも思う。
「変にはむかうと処刑される」という状況が皇帝の強さを示すんだ
弱い皇帝にはそもそもそんなことできないから
>>192 幼帝ではないが孫休は権力奪回に成功してるんじゃない?
その後で自分から放棄したけど
>>194 孫権「いままで遠慮してたけど、やってみたら意外と簡単でした!粛清って」
みたいな感じだったかも知れん。
>>194 軍隊の指揮権か人事権があれば権力は掌握出来るから
呉のウィークポイントはかき集めた権力じゃなくて権威の方だと思うんだよね
伝統的な皇帝たちと肩を並べるだけの正統性の根拠が何もないというか
でも中原と禅譲を根拠に威張れるはずの魏の方も
漢中と劉姓を根拠にする蜀漢の存在で相対化されてしまっているので
差別化が上手くいってないのもあったようだ
故に三国無統と呼ばれる
皇帝は別に強くない
孫皓が強かっただけ
人間なんてそんなもんだ
孫皓は降伏後は侯なのに何で劉禅は上位の公なんだ
何か差があったの?
劉協=山陽公
曹奐=陳留王
劉禅=安楽公
孫皓=帰命侯
>>202 呉が降伏したとき劉禅は既に世を去ってますよ
ある意味では先着順というのは正しいね
ただでさえ広いってだけでほとんどが荒野の呉が
内乱でボロボロ
もうほとんど天下は決してるのに、いまさら降伏してもってトコだろうな
「きめぇ侯」としか言いようがない
降伏者の厚遇って晋呉の間じゃあ普通に行われてるしなあ。
当然、統一されれば降伏者は冷遇されてるけど。
孫皓もどうせならもうちょっと長生きすれば良かったのに
あれ以上長生きしてたら、八王の乱に巻き込まれて無惨な最期を迎えてた可能性が高いぞ
死ぬタイミングとしてはこれ以上ないくらいベストタイミング
死ぬタイミングとしてはこれ以上ないくらい孫皓は殺されたような感じがする
八王の乱は酷すぎたな
ほぼ隠居生活に近い当時の孫皓を殺して得する奴なんているのか?
太康五年の天災への生贄説
恨みならタイミングは関係ない
死んだ人間は全員恨みで殺されたことになる
またずいぶん極端な
孫皓と司馬炎との女を巡る怨念
孫皓が死んでも呉出身の人物が誰も哀悼の意を表していない件について
孫皓は逸話とかを見る限り諸葛恪と同じような性格だと思われるので
晋に降った後も相当嫌われてたんだろう
頭の良すぎる奴は周りが馬鹿にしか見えなくなるんだろうな
でも吾彦は庇ってる
後漢皇帝の大半は体に問題があった
孫皓は心に問題があったのか、病気にならざるを得ないほど呉が酷かったのか
呉が酷いのは確かにあるだろうが、
孫皓には皇帝にならない、という選択肢もあったので(なるはずじゃなかった)、
それは言い訳にならない
皇帝になって、本性が出ただけだろ。
やって来た所業からは、トチ狂ったクソにしか思えん。
劉禅以下だろ。
二陸は孫皓と付き合いないのか?
二陸は呉出身者のリーダーとしてハローワークみたいなことやってたみたいだな
ちょっと調べても二陸関連から孫皓と接触があったとは出てこないから
陸家と孫家の間は孫皓・陸機の代では冷え切ってたんじゃないか
孫策と陸康
孫権と陸遜
孫休さんがもう少し長生きしてたら謎漢字の面白皇帝が誕生していたのに…無念じゃ
陸家は孫家に陸康、陸績、陸遜と中心人物を悲惨な目に遭わされてるにも関わらず献身的に孫家に尽くしすぎ
堯舜以上の聖人だろこいつら
陸抗に愛想尽かされなかったのが不思議でならないw
陸凱はクーデター考えたこともあったみたいだが、あの皇帝がトップで今までにもいろいろあって
陸抗も少しはそう感じなかったんだろうか
いや、国を思う陸抗の上奏文は好きなんだけどさ
ダメンズ・陸氏
所詮地方豪族に過ぎない陸家の連中には、孫家から禅譲を受けて皇帝になり、魏と戦うなんて考えは有り得なかったんだろ
陸凱も実行に移すつもりは無かったろうしな
陸家からすれば、孫権が皇帝になった事だって考えられない事だったんじゃないの
>>198ってことなんだろうか
恨みつらみがあっても孫家をどうこうしたって意味がないというか
真面目揃いの陸氏からしたら自分たちの感情よりも国のために殉じるほうが大切だったんだろうな
土地のためだろう。
陸氏は呉の「大族」であって、呉県にこそ利益と存立基盤を持つ。
個々人としては色々好みや含みもあっただろうが、孫呉が続く以上は
従わなくては生きていけない。従っているという条件下でのみ、
大族としての影響力を皇帝や国内に及ぼすことができる。
陸凱のクーデター未遂も、孫休の子を立てようとしたものだったし。
陸績は二十四孝の一人に数えられる程の聖人だし、
他の連中も孫家に忠義を尽くして貢献している
そんな陸家の連中の功績を忘れて暴走した孫権は最低のクズ
まあ、老いて残念なことになったのは孫権だけじゃないし
40代の頃はすごい人物だったと思うよ
父や兄では成し得なかったと思う
そうだな
仮に孫権が諸葛亮と同時期に死んでいたとしたら名君の評価に落ち着いてただろう
孫策や曹丕も長生きしてたらぼろが出てた可能性もある
曹丕より短命なのにボロが出始めてた曹叡ってある意味凄いな
曹叡は典型的な「有能な暴君」タイプだからな
始皇帝に匹敵、ってのは結構的を射ていると思う
まあ後付け臭いが
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/29(木) 00:49:31
生きてる間はずっと天子様だから本人的にはOKなんだろうけどな。
曹叡も孫皓もそうだけど、早くから太子にしてスパルタ教育して
清らかな学友つけて善導させなきゃ駄目だな。
陸瑁「これだけ盛り上がっても俺だけスルーされる悲しさ…」
孫皓って自分を擁立してくれた濮陽興、張布、万イクらも皆殺しにしてるんだな‥‥
中国史上最悪の君主と言っても過言じゃない気がする
高緯たんほどじゃないから安心せい
蕭斉東昏侯や劉宋後廃帝は在位期間が短すぎて微妙
>>245 中国史は三国時代しか知らないと暴露しているようなものだよ
有名所を見ても朱元璋とかいるのに
比較対象が朱元璋ってのもどうかと思うが
>>242 40年も在位期間があるのに民に負担を強いたり臣下を気まぐれに処刑したりしてない辺り劉禅は曹叡や孫皓よりまともなのではないかと最近思うね
>>251 治世なら十分なレベルだろうね
ちなみに史上最悪というなら万暦帝が抜きん出てる気がする
明は暗君が多いんだよね
清の並みは明なら中興クラスになるだろうね
万暦帝は劉禅の上位互換に見える
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/30(金) 10:59:17
>>249 思うんだけどさ、三国時代の呉を語るのに、明を引き合いに出しちゃあいけないと思うんだ。
彼らにとってみれば明なんて1000年未来の話なんだから。
俺たちにとっては中華人民共和国までが中国だけど、彼らにとっては関係のない話なんだしさ。
そもそも三国時代の中国人と現代中国人が同じかどうかもわからんし。
例えば500年後に日本が朝鮮人に征服されたとして、1000年後に日本を征服した別の民族が、
1000年前の日本について語ったとしよう。
「日本史は昭和平成時代しか知らないと暴露しているようなものだよ。 」
とか言われたら、「あいつら日本人じゃねーし」って墓場の下で俺たちが言うかもしれんだろ。
南朝の昏君と名高い連中は皆数年で崩壊してるのに、孫皓は晋に滅ぼされるまで16年も帝位を維持出来てるってのが謎なんだよね
後の南朝の連中と比べるとそれ程の暴君じゃ無かったのか、それとも呉の連中がヘタレ過ぎたのか…
晋がボンクラ王朝だからに決まってら
>>255 中国史上と
>>245は言っているのに明と比べるのはおかしいってどういうことだ。
違う民族でも中国史に載ってる以上仕方ないし、
明に至っては呉と同じ漢民族の国で本拠地まで似通ってるのに何言ってんだか
249のえらそうな口の利き方にムカついただけだろ
メタ否定する時はそんなもん
訂正だけして煽るなっつーことだね
劉禅はそこそこ教養もあるし寛容な印象
乱世には向かないけど
明が呉と同じ漢民族、と言われるとそれには疑問
東晋以降の王朝の開祖は漢化した異民族が多く(隋、唐は確実に異民族)、それ以降の宋、明も晋以前の漢民族と同じかと言われるとかなり怪しい
まあ呉や越も中原から見れば異民族だという説もあるし、
証拠なんて有る訳無いからこんな事言ってもあんまり意味ないんだけど
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 10:46:29
孫策の趣味は囲碁で孫権は狩猟?
孫策の趣味…名士虐待
それ論拠有るの?
ネタだろ
まあ実際虐待してたっぽい形跡はあるがな
家柄で舐めてかかる敵対者には見せしめが必要
孫策は戦は強いが気性が激しく攻撃的
仮に殺されず、あのまま快進撃を続けていたとしたら北斉の文宣帝みたいになってたと予想
于吉や許貢のエピから見ても暴君の素質は充分
祖郎とか太史慈のエピソードを見るに
英雄の素質もあるのでよくわからん
呉会稽の士民や将までも崇拝した道士琅邪の于吉を孫策が殺したという話は
江表伝から引用されている
于吉が孫策を呪い殺したという部分は「捜神記」。
ちゃんと三国志注に引用されている話。
といっても、于吉を慕った民衆が作った民間伝承だろうけど。
于吉って実際は名士や学者の類だったんじゃないかと思う。
孫策が自分より人望を集める于吉に嫉妬して処刑した、とかいかにもありそうな話だし。
たまたまその直後に孫策が死んだから于吉の呪い説が生まれたんじゃないかね。
曹操も似たようなものだけどね。
孫策が殺したと言われるのは「呉会の英豪」。つまり支配下に置いた土地で、
従順ではない豪族や知名人を殺したということだろう。
曹操も陳留出身で天下の名士と言える辺譲を殺したことからエン州の乱を招いたと
される。劉焉も東州兵を使って地元豪族を排除している。
公孫サン・陶謙・袁譚は名士を排除して小人を採用したとされる。
軍事力を背景に権力を自分に集中させる上では似たような道を歩むということなのだろう。
甘寧も現地で祀られて
神になってるんだよね
地母神 カンネイ
アギ
突撃
暴れまくり
雄叫び
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/07(土) 18:25:40
甘寧が死んだ年齢はどうみても中年以上
甘寧は劉備と同年代だという説を聞いた事があるが、その辺の根拠はどこにあるの?
甘寧伝に書いてあることをそのまんま計算すれば劉表に身を寄せた時点でもう若者ではないから。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E5%AF%A7 若く見積もって200年に四十歳とすると、劉備と同い年になる。
ただ、可能性の幅はかなり大きい。
甘寧は劉表支配下の南陽郡に身を寄せたとされているが、
宛が曹操の手に落ちたのが197年だとしても(それもはっきりとは判らないが)、
新野から樊城の間まで南陽郡に属するわけだから、
甘寧が荊州に来たのは200-207年の間の可能性も残る。
上は7、8歳、下は5歳くらいは上下幅があるだろう。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/07(土) 19:56:54
甘寧は益州の巴郡の人で、役人やったり若者を集めてその集団のボスになったりで
20年以上好き勝手にやっていた。
その後、劉焉から劉璋に代替わりした時に挙兵して負け、荊州に逃れる(195年頃)。
逆算すれば、170年代前半には成人していたことになる計算。
ただ俺は漢文は大学入試レベルの知識しかないのであれだが、いま原文見たらよく分からん。
好き勝手やっていた「二十餘年」というのは、ちくま訳では年数のことだが
二十餘「歳」まで好き勝手やっていて、その後「止不攻劫,頗讀諸子(乱暴はやめて勉強した)」とも読めるかなぁと。
170年代前半に成人してたなら曹操(生年155)と同世代だが
195年に30歳程度ならは劉備(生年161)よりは少し若い。
甘寧字興霸,巴郡臨江人也.[一]少有氣力,好游俠,招合輕薄少年,為之渠帥;聚相隨,挾持弓弩,負毦帶鈴,民聞鈴聲,即知是寧.[二]
人與相逢,及屬城長吏,接待隆厚者乃與交歡;不爾,即放所將奪其資貨,於長吏界中有所賊害,作其發負,至二十餘年.
止不攻劫,頗讀諸子,乃往依劉表,因居南陽,不見進用,後轉托黃祖,祖又以凡人畜之.[三]
なるほど。サンクス
甘寧は朱治や韓当などの孫堅時代からの臣下と同世代だと思う
無双厨は若いと思ってる奴が多いがそれは間違い
無双だと呂蒙をおっさん呼ばわりしてるからなw
間違いって言い方は間違いだろうけどね
光栄はSLGの方で昔から甘寧をかなり年長に設定しているが、
無双はそういう年齢差を短縮・無視・上下関係で再編成してるゲームだから
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/07(土) 20:24:16
呂蒙は孫策より若いのになw
甘寧は当初のキャラづけが間違いで、
40過ぎてまだ暴走族やってるタイプだろw
あるいは中年の渋めのチンピラで良かったのに。
>>279 甘寧は黄祖の下で203年の夏口の戦いに参戦していて、その前に三年間礼遇されなかったから、
足掛け三年としても202-207年の可能性は無いんじゃないか
>>280 二十餘「歳」までってのは不自然じゃないかな
また、ちくまの解釈は、乱暴なこと(益州での反乱を含む)を二十余年続けた、ってことだから
反乱の前に二十余年とは限らない。反乱をはさんで二十余年の可能性もある
(まぁ反乱に失敗して故郷を離れた時に心を入れ替えたと考えたほうがイメージしやすいが)
その場合劉備(生年161)と同年代になる
随分年下になる呂蒙や凌統と喧嘩していたのか
凌操より年上だったかもしれないな
江賊設定はどこから来たんだ?
周泰も巻き添えくってるが
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/11(水) 13:26:21
丁奉の子は丁温というのか?
基地外や駄目人間が度々現れる孫家や諸葛家と違い、どの世代でもコンスタントに優秀な人材を輩出する陸家は素晴らしい
50前後の歳で城壁よじ登ったり特攻隊長したりしてたのか
元気というか、肉体労働乙というか
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/02(水) 01:46:55
呉は現役長い人が多いのかな
気候が良いのかい
寿命短い人が多いと思うが…
風土病かね
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/02(水) 06:59:50
南京は上海と隣接し大都会
成都は孤立したド田舎
陸機にまで「田舎臭えwwwww」と言われるレベルだからな蜀は
陸機なんて蜀にいったことないだろ。
秦宓と討論したらフルボッコにされるレベル。
>>291 諸葛家ってダメ人間と言われるほどの人材は出てない気がする
反乱起こした諸葛誕でさえ反乱軍内での人望は高かったようだから、
やっぱ優秀な一族だろここも
諸葛家は能力は優秀だが基地外が多いな
恪融誕と
どっちにしろ孫家ほどじゃないよな…
権:いわずと知れた酒乱。あまりに酒乱なので自ら「酒の席でワシが言った事は無効」などという触れを出す
翊:権の弟。着任間もなく、孫権に主君を殺され敵とつけ狙う人物を、わざわざ副官とする。
その上で勝手気ままに振舞ったため、副官に殺害されてしまう。
和:権の三男。とりまきとともに覇の一派を謗る
覇:権の四男。とりまきとともに和の一派を謗る
休:権の子。亮の兄。妻は姪。
皇帝にもかかわらず隠者同然の生活を送る。自身の立場を危ぶんだか、廃帝となった亮を殺害する。
子供の名前に使う漢字を発明し、裴松之に失笑される。
奮:権の子。亮の兄。素行不良で早くから目をつけられていた。
野心旺盛で、自らの名や実力を省みることなく果敢に何度か皇位を狙い、庶民に落とされる。
皓の代にも皇位に色目を見せたため、ついに逮捕される。
「これから私と家族は親子でまぐわって子を成していきますので、周囲には迷惑はかけません」
と本人としては謙ったつもりの言玄をもって助命を嘆願するが、孫皓を激怒させる結果となり処刑。
陳寿は「馬鹿な親を持った子供達は不幸である」と孫奮の子供に同情している
魯班:権の娘。孫和が皇太子となり、その母親が皇太后となるだろうことに不満を持ち、亮に加担する。
妹の魯育の夫朱拠が孫和に加担した事を恨み、夫婦を死に追いやる。同族の峻と密通していた。
皓:和の子。いわずと知れた暴君。幸か不幸か馬鹿ではなかったために滅亡を予感し、凶行をくりかえす。
峻:孫静の曾孫。諸葛一族を皆殺しにするなど政敵を粛清する。同族の魯班と密通した。
チン:峻の弟。兄以上に政を欲しい侭とした事で自ら敵を生み、その度に政敵を殺害する。
ある戦で魏国との開戦後、交戦直前に自軍の重鎮である朱異を、私情から殺害する。
弘:続柄は不明。張休曰く、陰険な性格。その言葉通りに張休を謗って自害に追い込み、諸葛恪から恨まれる。
諸葛恪とともに孫亮を託されるが、何を思ったか諸葛恪を殺そうとする。
しかし、先手を打たれ死亡。
孫家は代を追うごとに豪壮やでぇ…
最期は国を挙げて合葬になっていくな
まともなのは孫河の一族くらいだな
孫策も若干狂ってるし
周瑜は曹操陣営に例えると郭嘉っぽい
呉はやっぱりスゲーや
国際空港・リニアモーターカー・サーキット
に加えディズニーランドを建設を容認し
今年はアジア最大級のモーターショーを開催してる
上海はニューヨークには及ばないけどメガシティを確立してるのがわかる
四川は大地震ぐらいか
うむ、山中だから支援物資の輸送は難しいね
そういや、万博も開催したし、南京〜上海までの新幹線もあるし
でも、香港もなかなか侮れないな
すべて孫権さまのおかげじゃ
ありがたやありがたや
ここは孫権様により平和的なスレを保っております。
今の江南を見たら孫権さまもお嘆きになるだろうな…
孫権が平和を守るとか笑えんだろw
※孫権様に酒を与えるのはお止め下さい
※虎に酒を与えないでください
呉はいい国じゃ
主君に狂の気が多い奴が多いのが玉にキズ
でも狂気の劉備を撃退してるから、呉は凄い。
南朝の礎を作ったのは孫権だから今の南京、上海の発達も孫権の功でも問題ないけどな。
>>301 基地外ばかりじゃアレなんで、孫家の人格者も挙げてみる
河:堅の一族(続柄不明)。
孫堅の死後、残った一族で唯一孫策の元に残った忠義の士。
孫家三代に仕え、度々功を上げ孫権からも大いに信頼された。
桓:河の子。
容姿端麗で武勇にも優れ、孫権からは「宗室顔淵」と大きな信頼を受ける。
夷陵では劉備軍の攻撃から夷道を守りきり、劉備に「かつては小僧に過ぎなかった孫桓に、ここまで追い詰められるとは」と言わせた。
韶:河の甥。
武勇に優れた大丈夫。
また、呉の歩兵の強化にも貢献したとされる。
静:堅の弟。
慎み深く欲の無い性格で、功を上げても官位を望む事は無かったという。
登:権の長男。皇太子。
聡明な人物で、孫権からも大いに将来を期待される。
後に病に倒れるが、呉の内部分裂を防ぐ為、弟の孫和を皇太子にするよう孫権に進言し、死の際においても呉の将来を憂いたとされる。
少ないな…
孫静を出したのなら息子達も出せば良いのに。
孫静は子孫がアレすぎるから…
孫権さま、酒より烏龍茶を召し上がれ
朱然「権、碁しようぜ」
峻とチンは慎み深い孫静の血族とは思えないぜ
魯王派に組していたから、恪に復讐されるのが怖かったんじゃないかね。
特に峻には偏執狂を思わせる逸話がいくつもある。
魯粛の息子って何かしたっけ?
孫峻は呉版董卓に見える
三国志で一番の鉄壁を誇った大国
流石です、孫権サマ
ハンショウって強そうなイメージだな。
徐盛も。
シュータイはバタイより強そうだ
いや、献帝・孫亮との関係みたいな面で似てると思ったんだけどね
孫峻には董卓を彷彿とさせるような逸話もあるし
蜀オタかなんかか知らないけど、呉が引きこもりと馬鹿にしてんのな
中国国内では他所から無視されても、上海は第一級世界都市+でパリ・シンガポール・シドニー・東京・北京・香港
と同級なんだぜ
南京は成都と同級だけど、上海と隣接してるし
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/14(月) 20:37:48
引きこもりにしては、遠く遼東や倭や東南アジアと関わりを持つ国、呉。
上海っていつから繁栄したん?
歴史がほかのに比べてすげー浅い気がする
今の南京の礎を作った孫権。
今でもひきこもりの四川を作った劉備。
三国志の時代には上海は海の底なんでw
たった1800年とは言え地形も気候も大きく変動してるからな。
さんはい!
四川は成都より重慶だからな
三峡ダムもあるし、でも可哀相に白帝城はそのダムで水没
ヨウスコウカワイルカまで絶滅させちゃったからね
ダムは百害あって一理無し
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/15(火) 19:41:59
ヨウスコウカワイルカは毒垂れ流しで絶滅しそうなイメージがある現代のシナには
今の中国を三国志地図にして軍事力でたたかう天下三分の計
三国魏 現在の呉地域
三国呉 現在の魏地域
三国蜀 現在の蜀地域
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/16(水) 23:48:53
晋には負けたが呉が最強だな
北京閥、上海閥、東トルキスタン、チベット
結局、陸抗と劉淵って交戦してるの?
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/18(金) 01:03:45
特別行政区の香港・マカオ
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 09:37:57
>>348 陸抗は黄河を超えた事が無いと思われるので、
劉淵が魏や晋の手先となって呉に攻め込んでいない限り、交戦は不可能。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 12:41:54
大河なら無理やり対戦させるだろうな
劉淵は人質だったんじゃないの?
何で戦場に出て来るんだ?
自称三国志オタで呉が好きとかいう奴と話してて山越の話題を出したら
何それと言われてしまったぜ…どういうことなんだ
>>353 呉のロックな海賊風味が好きなだけだろ
let's反権力!
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 20:41:28
>>353 そりゃ三国志オタで呉が好きとかいう奴は
北海道の一田舎の郡には興味ないから
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/19(土) 21:08:11
呉が好きなら山越は嫌いだろw
ただ、山越討伐は功名を立てる絶好の機会だったろうし、
孫権が黄祖攻略よりも山越討伐を優先した事は、その手腕を
語る上で結構使えるとは思うが・・・・
>>353の知人は単に演義の呉ファンだっただけじゃね?
もしくはゲーム中心のライトな人とか
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/21(月) 01:05:32
荊州は呉の領地により守られております
荊州領民を盾にするのは卑怯すぎるw
江陵以外は鶏肋
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/22(火) 20:36:37
そうだな襄陽とかカス
攻めは不得意だけど、三国の中では最高峰の鉄壁を誇る。
シュウユや孫策、孫権を美形キャラにして喜んでるのが大多数の呉ファンの実態
孫権が美形な三国志の創作についてkwsk
なんか髪と目の色が違うってだけで白人みたいなルックスにされてる孫権は見たことある。
レッドクリフの孫権かっこよかったよ
役回りは虎と戦わされるとか変だったが
三国志でベストカップルは周瑜と小橋で決定
甘寧と凌統
>>367 それ思った。
かっこよかった。
凄く似合ってたな孫権。
黄蓋はオサーンだけどイケメン
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/28(月) 10:47:12
甘寧と凌統をホモカップルにした光栄は万死に値する
CCTVの孫権もイケメンだったな
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/29(火) 23:06:54
無双に程普とか韓当を出してほしい
↑検討しておく。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 05:18:06
一応出てるけど・・・
あ、そう
寂れてるな
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/06(水) 03:12:40
盛り上げろよ
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/07(木) 01:40:39
うむ
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/09(土) 19:19:20
呉書見聞
長江がなければ、こいつらが幅を利かせる事もなかったんだろうな・・・・
そんな仮定は無意味。
たられば言い出したら誰だってキリがない
長江って鰐いたかな?
鰐狩りはしなかったんだろうか
385 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/16(土) 18:14:59
日本にも鰐がいる
動物園とかに
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/16(土) 22:12:09
長江下流域には、昔からヨウスコウワニが生息してるだろ。
このワニは小型なので、特に人を襲ったりはしないが。
頭をもたげる動作から、龍のモデルになったという説もある。
ヨウスコウワニは大人しくて人畜無害とされてるらしいんで狩りの対象にはならなかったんだろう。
日本にはイタイワニーがいる
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/18(月) 21:51:15
呉って、孫権までは権力のバトンが上手く渡ってる気がする。
孫策は、息子よりも弟の孫権に。
以後の繁栄を考えれば、この選択は間違いでは無かったと思う。
周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜という一連の推挙劇も見事。
陸遜の後も前線の防衛の引き継ぎは異常なほど上手くいってるだろ
顧雍の後の丞相がダメ
呂蒙の後は朱然じゃなかったっけ
呂蒙は南郡太守だったから。朱然はその後任として「鎮江陵」している(太守になったかはわからない)
しかし陸遜がほぼ同時期に右護軍鎮西将軍に昇進しているから、荊州方面軍部の首座に就いたのは陸遜と考えられる。
劉備の攻撃に対して大都督に任じられたのも陸遜。
>>391 呂蒙は、荊州攻略の準備段階で陸遜を推挙しており、
作戦の一環とはいえ呂蒙の後任として、陸口に赴任している。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/19(火) 02:13:01
魯粛→呂蒙→陸遜という流れは、軍事的才能から見ても妥当だったかも知れないが、
周瑜→魯粛ってのが微妙だな。
魯粛は戦下手では無いが、他にも戦に強い将はいたと思うんだが。
結果的に魯粛で良かったが、周瑜の天下二分は一気に頓挫した。
魯粛がいなければ関羽、劉備と全面戦争になってたかもよ?
そこで勝っても益州が魏に落ちたら意味ない
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/19(火) 02:43:43
周瑜としては、一気に益州も攻略して天下二分に持ち込みたかったはず。
反対に、魯粛は劉備と組んで天下三分に持ち込んだ。
両者の戦略は、相反するものだったと考えていいと思う。
では、周瑜は何故魯粛を推挙したのか?
長い付き合いで人柄や才能を知っていただろうが、少なくとも周瑜の描く
戦略に沿って動く人物ではない。
周瑜としては、自分がいないと益州攻略も難しいと踏んだ気がする。
つまり、自分の戦略よりも呉の行く末を客観的に考えた推挙だったかと。
そう考えると、周瑜の潔さと先見性はスゴイ。
何も知らないんだな
呂蒙死後は、北方の対魏戦線が朱然。西方の対蜀戦線が陸遜。
蜀との和解し、229年に孫権が東方に移る際に
歩シツが西方担当、陸遜が武昌担当に移るから
陸遜が死んだからって前線に混乱は起きない。
むしろ朱然死後を朱績と諸葛融でうまく乗り切ったなという感じ。
>>394 周瑜の天下二分なんて絵空事だろ。
劉備がどう動くのか分からないのに。
江夏北岸をなぜ切り取ろうとしなかったんだろうか
>>399 江夏郡北岸は、黄祖から奪った夏口だけだが、
地図を見るに長江を使って連絡が出来る夏口以外には、
点での防衛に向いた場所はないっぽい。
仮に奪えたとしても襄樊を押さえなければ、
汝南や襄陽から包囲されて維持できんと思う。
>>398 少なくとも、周瑜も劉備も益州確保には目を向けていたんだよな。
劉備の動きをどうこうする以前に周瑜が死んだ訳だが、実際に益州を攻めるとしたら、
どうなっていたのかは興味深い。
劉備としては、益州に逃げ込んで劉章と結託して呉を迎撃するか・・・・・
或いは、荊州に留まって呉の動きを掻き回すか?
何にせよ、天下二分は周瑜の軍事能力を拠り所にしている部分はある。
諸葛亮の天下三分に比べれて、絵空事とは言えるかも。
周瑜ならホウ統の上策を用いて電撃的侵攻かな
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/23(土) 07:44:45
どうやって巴東を突破するんだよw
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/23(土) 10:21:35
水軍で巴まで行けそうな気もするが。
あとは益州の地の利に詳しい人材(甘寧、李異、等)の活躍と、
益州の内部の潜在的離反者(張松、法正)の協力に期待したい。
後ろで劉備が暴れだすぞ
406 :
周郎:2010/01/23(土) 19:46:06
劉備には美女と美酒でも与えて骨抜きにしておけ。
関羽や張飛はまた借りるぞ。
赤壁の後の呉だと、劉備の処遇が一番の課題だな・・・・・
そういう意味では、一時的な鼎立勢力として荊州を任せて、後で奪うという
魯粛の戦略は成功だった。
曹操が筆を落したというアレですな
>>407 大成功では無いのは確か。
結局長江上流は一度も呉が押さえる事はできなかった。。。
周瑜が死んでしまったので止むを得ず、というところだろう。
周瑜が早死にするとわかっていたら、魯粛も劉備に荊州南部を貸して勢力を温存させる
という手を進言したかは怪しい。
ただその場合、周瑜も劉備もなくて曹操から荊州を守り切れるかどうかは危なくなるけど。
劉備が暴れるとか言ってるの何なの?
そんなことしたら頃合いを見て曹操が一挙に押し寄せ漁夫の利で両者アボン
そんな馬鹿なこと劉備達がするわけがない
これだから呉厨は・・・
周瑜には劉備のことは眼中に無かったんではないでしょうか。
周瑜だけでなく、誰も劉備は頭に無かったと思います。
だからこそ劉備の電撃的な侵攻が成功したのだと思います。
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/04(木) 23:43:12
周の若殿は優秀な子供を残せなかったのが残念
>>413 長男の周循は周瑜の気宇を継ぐみたいなこと言われてた
寿命の短さも継いでしまったがw
周瑜の子供だと、周循は爵位不明、周胤は229年に都郷侯。
これって結構低いと思うんだけど、功臣の唯一の後継ぎってことは考慮されなかったのかなぁ?
都郷侯より○○(具体名)郷侯の方が上だよね?
諸葛瑾たちが待遇については進言してる
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/17(水) 19:34:50
周胤は織田家でいえば信雄
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/18(木) 17:34:31
孫権としては、周瑜は頼りになる反面、目の上のコブだったんじゃないか?
孫家が呉を統治する以上、周を含む有力な名前は極力遠ざけたかったのかと。
何より、周瑜の血筋というだけで後々大きな発言力を持つ可能性もあった訳で。
そういう意味で、呂蒙みたいな才能>家柄の臣は頼りになったのだと思う。
孫権が周瑜を遠ざけていたという論拠は?
孫権は好悪の情を明確に表現する人物像で捉えていたから
周瑜を疎んじていたなら そう取る事の出来る記述が有ると思う
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 20:23:17
>>419 そもそも、遠ざけられなかったと考えてみる。
周瑜の存在は呉の軍事的柱石であり、当時の呉にとって最重要人物の一人。
彼自身は孫権に対して素行などに諫言する事は少なかったと思うので、孫権との
対立図式は明確には成立しにくかったと思う。
孫権が周瑜以上の存在感を群臣に示していなかったとすれば、周瑜は孫権以上に
頼りにされていた可能性はあるのでは。
それが、孫権にとって潜在的なストレスになっていたとも考えられる。
論拠は無いが、周瑜の子息を重用しなかった辺りに、何かしらの確執を感じるのは
気のせいだろうかね。
孫権、周瑜、張昭
劉協、曹操、荀ケ
と見てみる
>>420 周瑜には孫権と対立する時間は与えられなかった。
それと同じ理由で、周瑜の子孫が孫権にとって深刻な障害になるような理由は見当たらない。
周家は後漢代の名家ではあるが、それだけでは東南三州に跨ることになる独立軍閥である
孫呉内で大きな影響力を振るうには足りない。
なぜなら、割拠・動乱の時代は、秩序だった時代の人脈の系譜を攪拌して、新たな人脈や恩顧関係を
構築するから。旧時代の血筋「だけ」では新たな時代の君主の障害にはなりえない。
あとは周瑜個人が残した影響力が問題となるが、何分若死過ぎた。
周瑜個人の実力と影響力は申し分なくとも、孫呉には、周瑜の故吏だったり、取り立てられて
頭角を顕したような、周瑜と強い恩顧関係を持つ人間が殆どいない。
つまり、子孫に遺しうる人脈・派閥が形成される前に周瑜は死んだことになる。
子供たちも幼年であっただろうから、多少の派閥があっても成人する前に解散してしまったとも考えられる。
これらのことから、周家の子孫が孫呉で目立たなかったのは、単純に彼ら自身の実力と派閥の不足と推定できる。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 21:15:14
高木といえば亀井坂本連れてモナ行きつけのオカマバーで
女子アナ宮瀬との合コンをセッティングしたんだよなwwwwwwwww
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/20(土) 09:57:35
魯粛は周瑜と強い恩顧関係がありそうだが
確かに派閥という感じではないな
ホウ統も周瑜の故吏だったが
活躍したのは劉備の下に就いてから
>>424 魯粛と周瑜は友人であって恩顧はないっしょ
むしろ周瑜の方が恩を受けてるし、魯粛は周瑜に頼までもなく
孫策どころか袁術まで聞こえる名声を既に有していた
周瑜は孫権に魯粛を推挙したし
赤壁の戦いの頃は魯粛は周瑜の参謀的役職に就いている
周瑜没後に周瑜の兵を引き継いだのも魯粛
倉の話だけだと周瑜の方が恩を受けてるように思えるが
魯粛が周瑜に属していたと考える方が自然ではと思った
参謀(賛軍校尉)というのは督の吏ではないので恩義は発生しないし
倉の一件は周瑜は一介の居巣県長であり、しかも袁術の支配下から遠ざかり
手勢を率いて孫策の元へ逃れようとしている道程。そこで魯粛が恩を売ったもの。
後に魯粛が周瑜を頼ったように、力関係としては周瑜>魯粛だが、
魯粛は推挙を受けたあと孫権との信頼関係をより強く結んでいるわけで、
門生故吏のような所属関係とはいえない。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/06(土) 08:16:46
蛆虫
呉は良くも悪くも、三国最強国家
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 15:07:12
呉って、中華よりも南や外海に積極的に手を広げていた印象がある。
日本にも来たらしいし。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 15:08:52
モナ下半身開きまくりだべ
432 :
蛆虫:2010/03/07(日) 16:29:44
クマッタの傀儡と化したロコモティブに代わる自分たちの傀儡として、
三郎と常陸四郎は御しやすい康三郎を当主に据える。
そしてその直後の自治新党党首選挙ではロコ家総力を挙げて康三郎を党首に当選させた。
そこまではよかった。
しかしその後三郎の興味は新たなポストである三戦板覇者へ向かい、
常陸四郎も幹事長というポストを与えられたことで満足してしまい、
原爆ラップに傾倒していく暗君・康三郎を誰も補佐しようとしなかった。
結局乱起こし易しと判断したクマッタ一派の奇襲に康三郎は対抗できず、
党首という地位にある者には相応しくない醜態と哀願を衆目に晒しながら退位させられた。
だが、康三郎にばかり過失があるわけではない。
この間康三郎はロコ家重鎮である三郎や常陸四郎に再三救援を求めたが全て無視された。
これはクマッタとの対決を三郎らが忌避した結果である。
三郎と常陸四郎は自分たちではクマッタには勝てないと判断したのである。
結局、久々のロコ家政権は、康三郎の無能ぶりと、三郎と常陸四郎の弱腰が原因で崩壊したのであった。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/07(日) 19:55:07
kyoufdea
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/16(火) 19:54:32
>>430 衛温と諸葛直には日本へ来てほしかったのだが
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/29(月) 20:18:22
高志って越の子孫?
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/10(土) 21:02:24
中華では呉は残ってないが、広島で受け継いでまっせ
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/12(月) 20:50:33
それはくれ
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/26(月) 21:05:20
陸遜の子孫が生きていれば…
陸遜の子孫が生きていれば…
今頃は既に死んでただろうに
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/01(土) 08:51:27
孫権は若い頃、周谷に金をせびっていたが
君主になってから周谷を冷遇するなんて理不尽。
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/03(月) 13:47:58
周谷なんて孫権のパシリ
なんか魏の人の話で呂範を破ったって書かれている人が多かった
手柄話は景気良く書かれるもの
ところで、甘寧と呂岱って交友関係有ったのかな?
呂岱が蜀(劉璋)を攻めようとした際に、甘寧からなんらかのアドバイスを受けていたと妄想する
なんで甘寧と呂岱? あまり接点無い気がするけどな
同じ戦に参加したのは荊州三郡(長沙・零陵・桂陽)を攻めたときだけっぽいし
出身地も性格も昇進の仕方も似てない。年齢は近いかもしれない
西を攻めるべきって意見が甘寧独自のものなら分かるけど、周瑜もいるしなあ
いやさ、呂岱が蜀付近にいって攻めようとしたけど劉璋に道をふさがれて断念したって話があったじゃん。
呉の中では、甘寧が蜀地方の地理に明るいし、それで何かあったのかなぁ〜ってことです。
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/25(火) 17:57:09
それ相手は劉璋でなく張魯では?
だね
それに漢中の地理にまで明るいとは限らないんじゃないか?
甘寧は巴郡出身で蜀郡の吏になった経歴があり夷陵を攻めるべきと意見したことがあるから
成都以西の地理なら知ってるだろうけど
450 :
449:2010/05/26(水) 01:03:02
×以西 → ○以東 だった
451 :
447:2010/05/26(水) 01:22:11
張魯だったか・・・orz
うろ覚えで書くもんじゃないな。勉強しなおしてきます。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 13:00:48
>>443 呂範は周瑜や程普に匹敵する呉の大物だからなあ
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/26(水) 14:04:56
呂範は孫策配下の最古参で最終的に大司馬にまで昇りつめた人物なのに何故か影が薄いよな
孫堅:程普、黄蓋、韓当
孫策:呂範、孫河、周瑜
孫権:呂蒙、朱然
455 :
国志:2010/05/27(木) 18:27:31
韓当って誰?
呂範といい甘寧といい賀斉といいなんで呉には派手好きが多いんだ。
>>456 病気とか流行ってた暗黒地帯だったみたいだし
短い人生たのしんでやらぁああああああ みたいな開き直りとかじゃ。
その3人は短命ではなかったけどね
常に死の危険にさらされてるとか暗黒地帯過ぎるだろ・・・どんだけ悲しい人生だよ
まあ、マジレスすると遼東とか荊州とかと一緒で呉は避難地域だからそこまでひどい環境じゃなかったかと
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 21:54:41
>>455 韓当知らん香具師は100万年ROMってろ
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 22:04:14
隠蕃や張紘(?)は埋伏の毒として活躍した数少ない人たちでしたけど
ほかにそれっぽい活躍した人っていましたっけ?
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 22:07:58
華キンェ…
奴は・・・
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 22:27:37
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/28(金) 09:14:59
諸葛誕の息子とか
孫策が死ななかったらどうなっただろうか?
豪族との取り合いが悪くなって空中分解するのだろうか?
好きだった女の子が呂蒙だっったので軽いショックを受けた
バカだったって事?
宿将
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/05(土) 03:21:13
>>469 武官の最古参の一人で、同期の黄蓋、韓当よりも出世している。
呉の基盤を固める地味な仕事に奔走した印象があるけど、この人の働きは大きい。
程普は傲岸な性格だったのかな?
周瑜への不信はもちろん
生きたままの人間を焼き殺したなんて逸話も伝わってるが
戦場に限って言えば韓当の方が一線で活躍してはいたんじゃない?
イリョウにまで出てるし
韓国は参加してるだけで活躍はしていない
官位の上がらなさを見てりゃ分かる
孫策死後から赤壁くらいまでは周瑜より功績は多いよな、確か
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/05(土) 21:30:06
孫策死後数年の喪中周瑜よりも功績少ない方が難しい
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 13:43:06
五里霧中
呉に夢中
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 18:35:08
韓当は息子がまともならば・・・
韓綜のことかぁ!!
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/08(火) 21:47:28
韓綜の生首は孫権の墓の供え物
息子が残念なかんじの人多いよな
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 10:49:28
賈逵とかも違う意味で残念だ
呉自体が残念すぎる
>>472 程普、賀斉、呂範みたいな初期の孫権に信任された人物には
なぜかネガティブな評価も同時に残されてるんだよな
どこかの誰かのひがみのようなものも感じる
実際人間性に問題ありそうな連中ばっかじゃん
>>485 その根拠を言ってみろよ
軽はずみなこと言うんじゃねえぞ
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/13(日) 12:51:15
評価というのはポジネガ含めたのが公平的
呉には孝行息子ナンバーワンの孟宗ちゃんがおるではないか
程普は周瑜との逸話からも性格悪そう、って感じはするな
プライドが高そうではあるが、「誰とも仲良くできなかった」って書かれてるわけじゃないし
たった一つの逸話から性格悪そうとまでは言えないと思う
性格悪かったら程公なんていわれないだろう
人間性つーか、仲が悪かった同士は何人かいるだけだよな。
人間性に問題があるのって援軍を要請したのに無視されて
国を失ったぐらいじゃないと。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 18:44:15
程普に関しては、残虐性は高い印象がある。
呉の人物は、赤壁前後で明暗が分かれている気がする。
孫堅配下の古参では、程普でさえ周瑜や甘寧に見劣りする様な扱い。
黄蓋は苦肉の計があるけど、韓当に至っては・・・・・・
賀斉や呂範など孫策時代の人物に関しても、太史慈の方がメジャーだろう。
メジャーって意味はよくわからないが、
赤壁から周瑜の死にかけての時代に、軍部では孫権と結びつきの強い武官の勢力伸張が起きた。
これはすなわち、「君主」としての孫権の伸張であるだろう。
孫堅・孫策時代の旧臣で、その流れに抗して中枢に残ったのは、張昭・呂範など政治的な力を持った人間。
孫氏の臣下達の台頭は、
・孫堅が自らの血縁と部将を用いて武功を挙げた地代
・孫策が孫堅の遺産たる人材を使いながら独自の人脈をその間に滑り込ませて江東に勢力を広げる地代
・孫策によって任用された張昭・周瑜を中核として江東を維持する孫権初期時代
・孫権に任用された文武官達が地方の督や枢機に影響力を拡大する孫権中期時代
・孫権が中央集権を固め、その意に反抗する群臣を排除していく孫権後期時代
:
と、君主交替と微妙に時代をずらしながら推移していく。
>>493 現に地方に割拠していた劉繇や士燮と並んで立伝されているのだから
孫策(孫権)政権内部での太史慈は別格扱いだったのでは
役人だからな
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/19(土) 09:26:56
太史慈は曹操から直にスカウト来るぐらいだから
しかし薬草送るぐらいなら平南将軍ぐらい送れよと曹操に言いたい
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 12:01:23
さすがに平南将軍は孫輔のものなので
>>493 程普は赤壁後、裨将軍・江夏太守。
偏将軍・南郡太守の周瑜、裨将軍、彭沢太守呂範とほぼ同格。
周瑜死後は南郡太守。後に横江将軍の魯粛と同格と言ってよい盪寇将軍に昇進。
家臣団のトップクラスとして厚遇されてるように思うんだが。
黄蓋と韓当は古参だけどもともとそんなに地位高くない。
>>495 太史慈は折衝中郎将・建昌都尉。劉表との国境守備の指揮官の一人に過ぎないよ。
別格どころか、周瑜・程普・呂範よりワンランク下だよ。
あの時期の孫権軍では重臣クラスであることは間違いないけどね。
>>497 軍を率いての実績が劉表相手の国境守備しかなく、
政治的な功績は旧劉繇軍の帰順工作のみ。
名声こそ高いものの、実績と孫権政権内での重みには欠ける。
そんな人物に平南将軍なんて高すぎる。太守か偏将軍程度で十分。
>>499 あなたがどう思っているかはともかくとして,
現に陳寿は劉繇や士燮と同じ巻に入れたのだから,
少なくとも陳寿が彼等と同列に扱うべきと思う何かがあったのは確かだろう。
(劉繇や士燮が周瑜等より下だと言われればそれまでだけど。)
太史慈は臧覇と似てるね。
揚州社会に自分の影響力を持つ名士・軍閥であり、だからこそ孫策は厚遇した。
だからこそ陳寿は「孫呉に抵抗または帰順した群雄」として劉ヨウ・士燮と同じ扱いとしたわけだろう。
中郎将は程普・呂範と互角の軍部最高幹部(権限から言えば張昭・周瑜よりは格下だろう)であり、
建昌都尉は当時の主戦線の一つの方面司令になる。
>>499 程普が神将軍になったのって赤壁後だったっけ?
うろ覚え。
>>502 神じゃないw
程普伝だと裨将軍になったのは曹仁を破った後だけど。
神将軍ワロタ
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/26(土) 09:33:25
>あの時期の孫権軍では重臣クラスであることは間違いないけどね。
外様で仕えた日も浅いのに重臣クラスというのも凄い
太史慈は天下に名の通った名士で、
なおかつ旧劉繇軍を取りまとめたからね。
旧劉繇系名士の代表的存在ということで降伏してすぐに、
重用されたのだろう。
歴史上の淫乱女を挙げていこう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1276771564/ 108 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/06/26(土) 22:41:52 0
中国歴史上五大荒淫公主のうちあと三人はだれだ。
館陶公主
山陽公主
あと3人か、論壇の簡体字訳せる猛者求む。
109 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2010/06/27(日) 17:05:19 0
>>108 訂正も込みで時代順にまとめて見た。
文姜(春秋時代 斉の襄公の妹、魯の桓公夫人)
館陶公主(前漢 漢の武帝の伯母、武帝の最初の皇后陳氏の母)
孫魯班(三国呉 大帝孫権の長女)
山陰公主(南朝宋 前廃帝劉子業の姉)
太平公主(唐 唐の高宗の娘、母は則天武后)
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/30(水) 19:39:51
孫魯班は周瑜の息子と死別して虎の本性が出たか
賈南風が入らないのはおかしい
公主じゃないから
ぼくも賈南風ちゃんに逆レイプされたいお^^
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/03(土) 08:04:27
なんで歩夫人から魯班みたいな淫乱が
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 12:22:25
孫魯班と孫悟飯の区別がつきませぬ
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 12:27:22
魯育はいい子なのに
516 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/05(月) 05:43:28
魯班は別に淫乱じゃなかろう。
孫峻との密通疑惑も真偽不明だし、それに密通してたとしたって夫の死後だし。
淫乱以前に妹を死に追いやるクズ女だけどなー
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/05(月) 05:50:37
>>499 >太史慈は折衝中郎将・建昌都尉。劉表との国境守備の指揮官の一人に過ぎないよ。
>別格どころか、周瑜・程普・呂範よりワンランク下だよ。
当時は周瑜・程普・呂範も中郎将だよ。だから同ランク。
第一、孫策・孫権が雑号将軍なんだから。
その頃に将軍号を貰ってたのは親族と朱治だけ。
部下に偏裨将軍が出てくるのは赤壁後、確か孫権が劉備の推薦によって車騎将軍を自称してから。
518 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 12:29:08
董襲が偏将軍になったのは赤壁前ともとれるのだが
>>518 董襲伝とか甘寧伝は時系列がグッチャグチャだよ。
董襲伝だと、
揚武都尉→孫権が兄を継ぐ→彭虎討伐→威越校尉→偏將軍→黄祖を倒す→濡須の戦い
これはどう見ても不自然。
俺が推察するに
揚武都尉→孫権が兄を継ぐ→威越校尉→黄祖を倒す・赤壁→中郎将→彭虎討伐(210頃)→偏將軍→濡須の戦い
こんなもんだと思う。
鄱陽賊彭虎の討伐時期に関してだが、討伐を担当したのは他に淩統、步騭、蔣欽。
步騭は孫権の幕府の人事担当であったのが、210年に鄱陽が郡となり始めての太守になっているので
彭虎反乱により豫章から鄱陽を分割、新太守として步騭が従軍、ということだと思う。
彭虎討伐は建康実録では206年となってるよ
>>520 そうなの?
その頃は蔣欽は討越中郎将として会稽南部に駐屯していると思うので、それは違う気がするんだがなぁ
呉書はその辺の脱落や誤写を埋めるのが楽しいな
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/14(水) 06:05:07
>部下に偏裨将軍が出てくるのは赤壁後、確か孫権が劉備の推薦によって車騎将軍を自称してから。
南郡制覇後、周瑜程普と同時期に格下の呂蒙も偏将軍になっているのが不思議
>>523 呂蒙は偏将軍・尋陽県令。太守と将軍を兼任する周瑜・程普・呂範より一段下だよ。
あと、韓当も偏将軍だね。太守も兼任してるけど、明らかに名ばかりの永昌太守だから、
孫権領内の周瑜達よりは格下かね。
当時の孫権軍の軍部の序列は周瑜≧程普≧呂範>韓当≧呂蒙>その他中郎将だと思う。
>>524 あの時期に益州の永昌太守の遥任というのは不自然なので
臨時に設置された郡の太守の可能性がある。
呂範は彭澤太守になっている。
韓当が偏将軍になった時期については219年説もある。
あと賀斉も同時期に偏将軍兼太守になっている。
益州攻略を計画していた時期だから不自然でもないんでない?
永昌は遠すぎるよ
韓当が偏将軍になったのは、呂蒙が南郡を攻略した時だから、219年の方が可能性が高いな。
その時期なら、周泰も遥任で漢中太守になっているので、韓当が遥任で太守になっても別に不自然ではない。
注にわざわざ出世が遅かったような事が書かれているんだから、韓当が219年頃にやっと偏将軍になっていてもおかしくないな。
そもそも、赤壁後にようやく武鋒中郎将になった黄蓋の半分も功績を上げていない韓当が、黄蓋よりも先に偏将軍になるのは不自然。
>>528 出世が遅かったのは孫堅の時代の話だよ。
吳書曰:當勤苦有功,以軍旅陪隸,分於英豪,故爵位不加.終於堅世,為別部司馬.
『呉書』に言う。韓当は苦労を重ねて武功を立てていたが、軍旅にあっては寄騎に過ぎず、英雄豪傑たちに(功績を)切り取られたため、爵位を与えられることはなく、孫堅の世代を通じて別部司馬となる(に留まった)。
韓当が爵位を得たのは、晩年の夷陵の戦いの後、都亭侯に封ぜられたのが初めてのようなので、
韓当が出世が遅かったのは、孫堅の時代に限定したものではないのでは?
韓当が孫堅の時代に別部司馬にしかなれなかったのは、出世が遅かったその一例というだけであって。
数多くの戦いに参戦している韓当だけどやたら低いよね。
寂しい。
韓当は程普と並ぶ呉最古参の1人だが
悲しいかな周瑜呂蒙陸遜と若輩者の下働きばかり
そんな冴えない出世の遅い親父を見て育ったので
韓綜は捻くれた性格になり悪事を重ね呉に刃を向けたと妄想
>>530 同意しかけたが、調べてみると呉で爵位を与えられるようになったのがその時期ということにも思える。
蔣欽なんか爵位を貰わずに死んでる。
爵位の件は
>>530の勘違いだろうけど
韓当が古参の割に出世が遅かったのは間違いないだろうね
劉宋文帝が裴松之に注を書かせるぐらいの
しかしなぜ遅かった?
一緒に幽州から孫堅軍に参加した程普は出世が早くて、
軍のトップの一人だったのにねえ。
数多くの戦いに参戦していてもただ単に功績を挙げていないからでは?
韓当よりもまだ下っ端の徐盛の方が功績を挙げているように感じる
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 09:11:36
当時の孫権軍の軍部の序列は周瑜≧程普≧呂範>呂蒙>その他中郎将だと思う。
でも若くてあまり身分の高くない家の出身の呂蒙の出世ぶりには驚く。
黄祖討伐、南郡征服にて抜群の功績を上げたとしても。
大した出身じゃないからこそ、派閥みたいなのがなくて
孫権にしたら使いやすかったんじゃないの
>>537 いや、実はあまり多くの戦いに参戦すらしていない。
孫策時代に劉勲討伐に従軍して、帰りに賊徒を撃破してから、
孫権時代に赤壁で戦うまで、参戦した記述なし。
それから呂蒙が南郡を奪うのに従軍するまで、
孫権は多くの戦争を行ってきたはずなのに、韓当がそれまで参戦した記録なし。
なぜか知らんが、古参の将のわりにあまり起用されていない。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 19:44:56
当時の孫権軍の軍部の序列は周瑜≧程普≧呂範≧賀斉>呂蒙>その他中郎将だと思う。
>>542 ていうか、ドサ回りで君主と特別な関係も無い賀斉がなんでそんな格高いん?
>>540 丁奉みたいに参戦した多くの戦いの記述が省略されてる気も
>>544 丁奉は部隊長だった頃の戦いの記述が省略されてるだけで、
将軍になってからはちゃんと書かれてるでしょ?
韓当は戦いに主力として参加してるはずの地位にあるのに、
記述が無いんだよ。参加したら絶対書かれるであろうポジションなのに。
軍旅にあっては寄騎に過ぎない立場ですから
ドサ回り→別軍を任される
とも言い換えられるかも知れない。
周瑜 偏将軍・南郡太守
程普 裨将軍・江夏太守
呂範 裨将軍・彭澤太守
賀斉 偏将軍・新都太守
(郡と県の越えられない壁←ホントか?)
呂蒙 偏将軍・尋陽県令
一応、裨将軍より偏将軍の方が偉いはずなんだけど
裨将軍から偏将軍への昇進が記述されてるのは三国志では魏の五将だけだったはず。
当時の呉で差があったのかどうかは不明。
あったのなら、呂蒙>程普、呂範ということになるのか。
あるいは、記述されなかっただけで呂範もすぐに偏将軍になったのか。
>>547 いや、太守と県令の壁は大きい。
この時期、どの勢力でも将軍と太守を兼ねてる奴の格は高い。
だから、程普、呂範>呂蒙ではないか。
黄蓋は武陵太守で武鋒中郎将だね
韓当は陳蘭の援軍に出てくるぐらいかな
周瑜程普よりも、呉郡太守扶義将軍の朱治の方が上の気もしてきた。
孫賁、孫瑜などの宗室はどのポジションなのだろうか?
孫賁は曹操、孫瑜は周瑜と癒着しているな
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/18(日) 08:32:47
>>549 当時の孫権軍の軍部の序列は周瑜≧程普≧呂範≧賀斉>呂蒙>黄蓋>その他中郎将だと思う。(朱治や宗室は除く)
>>551 呉郡太守・扶義将軍朱治と丹楊太守・綏遠将軍孫瑜と豫章太守・征虜将軍孫賁の三人は別格だろう。
呉景 揚武将軍/丹陽太守(198-203、曹操/後漢朝廷による正式な任命)
徐琨 丹陽太守(197-198頃)。平虜将軍(李術討伐時。201年頃?)
孫賁 豫章太守(199-)。征虜将軍を加官(208年、曹操による分断工作)
孫輔 廬陵太守(199-)。平南将軍、仮節、交州刺史(赤壁以前)
芮祉 呉郡太守(196?-202?)
朱治 呉郡都尉(196-)。呉郡太守/扶義将軍(202-)
孫河 廬江太守/威寇中郎将(201-204)
孫翊 丹陽太守(203-204)
孫瑜 丹陽太守(204-)。綏遠将軍を加官。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/18(日) 13:31:40
孫翊は偏将軍では
>>555 まあ、このあたりの連中は位階が高い代わりに、
郡の統治以外には関与しない、軍部の人間とは別枠だろうね。
>>521 遅レスだけど206年なら葛陽尉だった可能性もあるんじゃない?
蒋欽が討伐した賊の中に彭虎も含まれるのかも。
>>558 なるほど、調べてみると葛陽って鄱陽に近いね。
ただ、それだと蒋欽のその後のキャリアが忙しすぎる。
・孫策の下で豫章平定
・豫章郡葛陽県の県尉に就任(←206年?)
・三つの県長を歴任
・西部都尉に就任。東冶の賊を平定
・討越中郎将に就任
・賀斉の丹陽南部平定を助ける(208年)
賀斉って孫権の皇帝即位まで生きてれば、
衛将軍や車騎将軍ぐらいにはなれたんだろうか?
222年頃
朱治(安国)陸遜(輔国)呂範(前)賀斉(後)諸葛瑾(左)步騭(右)
朱然(征北)徐盛(安東)呂岱(安南)潘璋(平北)孫韶(揚威)孫桓(建武)韓当(昭武)朱桓(奮武)全j(綏南)
229年頃
陸遜(上大)諸葛瑾(大)步騭(驃騎)朱然(車騎)全j(衛)
朱桓(前)朱拠(左)潘璋(右)呂岱(鎮北)孫韶(鎮北)張承(奮威)孫奐(揚威)
>>560 なってたと思う。
>>559 県長歴任がすっぽり抜けてました…
豫章郡内の県長だったとは思うので彭虎討伐はこの頃ですかね。
>>561 韓当は古参なのに新参に抜かれまくりだな
上が相次いで死んで心太状に上がってきた感がある
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/23(金) 09:04:49
謎の武将 韓当
もっと掘り下げてみたい。
韓当は古参で孫権の覚えもめでたくて、武勇にも優れてるのに、
なぜか戦いに参加させてもらえず、後進にどんどん抜かされていく男。
年いってたから孫権時代はあまり戦いに出なかったとか
孫堅や朱治の生年から見て夷陵の時は70近い可能性もある
>>567 でもさ、程普がバリバリ戦ってた頃も、韓当が戦いに出た記録は少ないんだよ。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/24(土) 06:33:38
軍旅にあっては寄騎に過ぎない立場ですから
韓当はよぅ、手柄は若いやつに譲って、後方で縁の下やってるタイプの人なんだよ
人生の価値をどれだけ派手に戦ったかとか、出世したとかで測られちゃ迷惑だぜ。きっと
>>570 呉は後方も戦場だからなあ。山越討伐と言う戦争が待ち受けている。
しかし、前線で他の群雄とも戦わず、後方で山越討伐にもほとんど従事してないというのはどういうことだ?
呉には有能な武将を遊ばせとく余裕は無いぞ。
>>571 しかし兵卒からの叩き上げで将軍まで昇り正史に残っている事跡を見ても無能な武将には見えないな
>>572 弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛された
遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、
心を一つにして固守し、目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた
この辺が韓当が功績少ないわりに将軍にまでなれた鍵とみている。
ようするに上に好かれて引き立てられたと。
夷陵の戦いの後の、魏との三方面の戦いでも
朱然の部将として江陵に籠城しているから、最後まで寄騎の人生だな韓当。
張雲系統ってこと?
いやそこまでいかないとと思う。
魏では朱霊
蜀では陳到
みたいな系統では?少し違うが。
>>576 朱霊は使持節・後将軍で他の将軍より上位の指揮権を行使できる立場。
陳到は国境の重要拠点の守備を任されている。
一部将の韓当とは比べ物にならない。
じゃー許?とか?
あれ 上はキョチョね。
韓当は君主護衛隊タイプではないと思う
よくいる掃除のおじさんみたいなタイプか
嫌なタイプだなw
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/31(土) 19:35:44
韓当よりも呂岱の方が長生きで大活躍
三国時代で呂岱より長生きの人物なんて来敏しかいないだろ
大活躍の部分は同意だけど
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/03(火) 10:32:03
呂岱はあと20年遅く生まれても良かったぐらいの
前半生の地味さと後半生の出世ぶり
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/07(土) 23:06:45
呂岱は長生きで有名な孫権よりも張昭よりも長生き
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/19(木) 15:21:45
水軍とか船団とか誰が指揮してたの?
将軍。呉は水陸両用の将軍が多い。
588 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/19(木) 21:59:52
ズゴックみたいな奴らだな
ガンダムについて語りたきゃ他スレで
やっぱ韓当・程普・黄蓋の古参将好きだわ
朱桓・徐盛・全j・丁奉の若手四天王が好きです
董襲・陳武・凌統が好きです
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/21(土) 06:44:56
そういや董襲の最期は水没死だったな
本当に将軍が乗り込んで指揮するんだな
馬鹿じゃ出来ないね
寒門出身者の信用が無くて
学問が無いといかんぞと孫権が子飼いの人材に
釘を差したのもそのためかな
594 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/26(木) 18:28:46
三国志演義の教育のせいで呉はあんまり好きじゃなかった
今は大好き
595 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/26(木) 18:53:25
>>585 張昭って呉の老害とか言われてるけどギリギリ曹操より若い
張昭が孫策から後事を託されたのは44歳の時だから実は爺って印象は間違いか?
38歳まで職なしってのもすごいが。
下手な奴の部下にならないでいるっていうのは当時の名士にとってはある種のステータスだからな
598 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/26(木) 21:16:38
しかし優秀だけど頼りない
599 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/27(金) 19:57:24
周瑜提督万歳!
600 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/28(土) 16:41:46
600げっとなう
官職はなくても自営業はしてたんじゃねえの。
農場経営とか。
602 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/29(日) 17:23:06
諸葛亮みたいなもん?
周泰や陸遜に諸将が従わなかった、みたいな記述を見ると思うけど、呉の連中ってやっぱちょっとおかしいよなあ
田舎者の癖にプライドだけはやたら高いっていう
孫権がストレスで狂うのも分かる気がするわ
孫権の親族に従わない甘寧とかもいるしな
我が強いというか、今風の言葉で言うとフリーダムというか、ちょっとガキっぽいイメージだ
孫権も似たようなもんだけどw
呉越は俺達のもんだぜって気持ちがそうさせてるんじゃないかな
古参にとっては、自分達が孫策と共に切り取った土地だけど孫権は汗流さなかったじゃん、って感じなんだろう
後半になると孫権のおかげで飯が食えるって人間が増えてくるから、そういう反抗的な話は聞こえてこなくなるよね
でも自分は中盤までのトンデモ感が好きだったりするw
酒飲んで孫権も臣下も冗談言ってどつき合って、翌日揃って二日酔いで張昭に怒られたりしてそうなところがたまらん
だが、張昭や呂蒙のように、全面支持を受けてる奴もいるし
自分の命を預ける相手を自分の判断で選んでるだけじゃない
国としては、問題ある価値観だが
呉の連中は我が強くて好きだ。
魏や蜀の連中は大人し過ぎる。
甘寧とか朱桓とか酷すぎるだろ
魏ならとっくに処刑されてる
甘寧にキレて、殺すために勝手に兵士を大勢動員した呂蒙の方がヤバいと思う
呂蒙ってお人よしみたいに言われてるけど、言われてみるとそんな気もするなw
いやいやそれまで甘寧にしてやった世話と権限考えりゃ
それくらいするだろw
それなら、何人か腕利きを連れて甘寧を殺しに行けばいいだけの事。
呂蒙だって腕に覚えのある武人なんだから。
主君の許可なしで兵を動かして、私的な理由で同僚の武将を殺しに行くと言うのは、
処刑されても文句が言えない行為。
そう考えると孫権て仲介役ばっかやってるな
気苦労が絶えない感じ
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/08(水) 13:13:32
>>611 そういや呂蒙の軍歴の最初はガキなのに軍に紛れて従軍だし
役人を殺したりしてるし
血の気の多いのは呂蒙も、なんだろうな
しかし晩年は病を得ていて甘寧を取り押さえる自信はなかったんじゃないか
この事件は孫皎も生きてる頃だから
蜀との関係も行き詰まる直前かな
甘寧は弓矢の名手だとしたら包囲が必要になりそう
凌操を射殺したという手柄から名手だと思っているが
本人が達人の太史慈とは違うかな
でもこの事件で子供を弓矢で殺してるが
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/08(水) 13:16:28
新宿OS,80年代前半は3人上げが定番だったから、体位変えなどな
く、ほとんどが正常位だった。
「ふつう、バック、斜め?」と聞かれて一瞬なんのことかと思ったが
「バック」と答えた。背面騎乗から90度回転してご対面。これじゃー
正常位に移行じゃないかと思ったら、また花びら回転して背面騎乗か
らつながったままバック。あまりにも上手くいったから、、もう一度
と、後日上がったら、何も聞かずに、無言のまま対面騎乗から正常位。
そのころ新宿OSでバックは、このほかに倭人1人、南米3人(1人
はフィニッシュ正常位)。フィリピンはゼロ。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/08(水) 13:17:43
まさにふぁびょるくん
甘寧は呂蒙より年上なのに言う事聞く訳ねーだろ
でも、甘寧は呂蒙の指揮下。
>>617 そりゃ知ってるよ
プライドの高い甘寧が呂蒙みたいな若造に従う訳無いって事よ
寧涕泣歔欷曰:「負卿.」
という様子からするとそういう雰囲気じゃなさそうだが
甘寧って孫権を怒らせた事は無いのか?
>>620 無いよ。孫権は甘寧や潘璋や朱桓のようなDQNには甘いからね
犯罪者藩璋や自ら基地外宣言の朱桓が軍の中枢にいるのが呉の恐ろしさだな
流石田舎、大都会の魏とは一味違うぜ
>>620 甘寧麁暴好殺,既常失蒙意,又時違権令,権怒之,蒙輒陳請:「天下未定,闘将如寧難得,宜容忍之.」権遂厚寧,卒得其用.
624 :
620:2010/09/10(金) 12:05:07
>>623 そこは知ってるんですが
何で孫権が怒ったのかな〜と疑問がね
言われてるように孫権は子飼いの人物には
大抵のワガママを許してるのに
子供を射殺した件が関係してるのかな
>>623 あ、暴れて殺すのが好きで
オマケに命令違反が多いなら
いつ頃にやったのかな?という意味です
いちいち記録しておかないほどに度々やってたのか
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/10(金) 12:28:59
厨房の時に買った諏訪野しおり「君はキラリ」
自分と同じくらいの女の子の無修正ヌードに興奮して毎日三回は抜いた
しおりのワレメの部分をペロペロ舐めたり口づけしながらチンポを夢中でしごいたな
>>624 普通に考えて厨下児を殺したときは孫権が絡む前に解決してるから別の件だろう
1度や2度のことじゃないようだから、いちいち書くほどのことじゃないことを度々してたんじゃないか
この呂蒙と孫権の会話がいつ頃かっていうと、甘寧が得難い闘将であると孫権が認める頃で手厚くされる前だから
甘寧が1度以上大きな活躍をした後〜西陵太守や折衝将軍になる前くらいかと思うが、
甘寧が粗暴なのは特定の時期だけじゃない(晩年にも孫皎と揉めてる)から、時期にこだわる必要がない気がする
単なる想像だけど、身分の高い者を殺したりすれば大事になるはずだから、殺したとすれば甘寧の部下や兵
若い頃と同じように、違反や悪さをした者を勝手に自分で制裁するとかじゃないかな
彼の話だと女優は素人さんでギャラは¥100000だったそうだ
でバイブでのオナニーシーンでは本気でイッタとも
監督は映画系のそこそこ名の知れた監督だったとも
>>621 そういや韓綜なんかもなんらかの素行不良があったけど
「オヤジさん活躍したからいいよ」って許してたな、孫権
結局魏に走っちゃったけど
甘寧のように本人に役立つ面がある奴を大目に見るのはアリでも
親の功績で大目に見るのはナシだよなあ
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/13(月) 17:29:06
25 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/09/13(月) 16:44:46
>>21-22>>24 うぜえんだよはよ死ね
26 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/09/13(月) 16:48:53
完全にクズニートだな
>>21-22>>24 この書き込み時間からして
27 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/09/13(月) 17:21:59
>>26 屑二ート乙
28 名前:無名武将@お腹せっぷく :2010/09/13(月) 17:24:01
>>27 名無し潜伏乙www
荒らすなゲロセンチ
荒くれ者どもも
色事に関しての悪名は殆ど無いな
孫皎の、部下がさらってきた女を
身だしなみを整えさせ帰らせた話とか好きだ
ていうか、三国時代全体を見回しても、色事がらみの不祥事がある奴自体ほとんどいないだろ。
ショウヨウさんが呉スレへの出張のためアップを始めたようです
レイプやかどわかして妾や奴隷にするのは日常的にあったと思うが、
あまりに当たり前過ぎて記録に残らなかったんだろう。
杜畿伝に出てくるような有り様
そんな呉を作ったのは張昭と
張昭だ
そういや同年代の友人である諸葛瑾の
その娘と結婚したのは張承で
張承は張昭の子だったな
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 12:36:54
張昭の孫で家が潰れたのは残念
孫権と玄関塞いで土盛り合って遊んだあの家が
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 12:55:01
空気読まんで申しわけないんだけど、「中居正弘の家族会議を開こう」で、すごい映像なかった?
援助交際してる女子高生が、「縛るだけだから」って騙されて、パンツ(確か黒のレースのヒップハング)一丁で後ろ手に縛られて目隠し猿轡されて服とか全部奪われてラブホに放置されるやつ
縛られた女子高生が映るシーン、ななめ後ろから撮ってるから乳首は映らなかったけど、猿轡を噛みしめて「うっ、うっ」て呻きながら体をよじるたびにおっぱいがブルンブルン揺れてた
いきなり縛られた女子高生が出てきたからかなりビビった 録画してなかったけど、今でもおかずにしてるわw 誰か画像持ってませんかね?
張昭には曾孫もいるけどね
どういうつながりなんだか
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/25(土) 21:14:49
陳武が戦死した時は
妻が殉死をさせられたんだよね
特筆されるという事は
そこまで有り触れた事例ではなかったのかな
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/26(日) 07:59:13
ーー杜若たちは社会党城内へと突入した。
城外の軍勢とは対照的に、杜若たちを迎え撃つ敵の兵数はせいぜい十数人程度だった。
追い詰められた者の悲壮さを顔に漂わせつつ、指揮官らしきクマッタ軍の騎士が吠えた。
クマッタ派雑魚丸「むむ…、雪碧様の居られぬときに、このようなことになろうとは…。
皆のもの、よく聞けいッ。相手はあのw名無しを倒した者どもだ。
あなどると手痛い目にあうぞッ。この社会党城をゲリラの手に渡してはならん。いまこそ、クマッタ軍の誇りを見せるのだッ!」
配下の名無したちを鼓舞する雑魚丸。しかし、名無したちも敗北を覚悟しているのか、士気は一向に上がらない。
焦燥感を募らせる雑魚丸は、侵入者たちの中に奇異な一団の姿を認め、吠えかかった。
クマッタ派雑魚丸
「ーー他板の騎士よ。どこの者か?
何故、この板の争いに関わるのだ。これは我々クマッタ軍と泡沫どもの父祖の代より続く争いだ。縁なき者の来る地ではない。
それとも、貴殿らもなりきり厨のように、この三戦を望むのか?答えられよッ!!」
八戸のぶなが「麿呂たちは国を棄てた者どもでおじゃる。故に自身の信条でこの貸すらの手助けをしているおるのじゃ」
ひょーりみ「オレたちは傭兵の仕事を探しているのサ。あんたが雇ってくれるのかい?」
648 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/26(日) 09:09:37
自治の総本山としての三戦板を今一度蘇らせるため
自治大集会を企画してよ
糞元老さん
荒らすな蛆虫
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/11(月) 06:16:03
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/18(月) 21:49:06
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/23(土) 20:35:39
張闓か・・・
どうも陶謙の部下の追いはぎの方を思い出してしまう。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/27(水) 23:47:02
張闓kwsk
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/03(水) 14:20:24
子供に張闓って名前つけた親の顔が見たい
荒らすな蛆虫
朱桓と朱拠ってどういう関係なの?
親族なのは確定なんだっけか
>>657 同族だけど、そんなに近い関係では無いみたい。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/07(日) 02:01:59
朱治とは同族?
朱桓・朱拠一族は呉郡の出身。朱治は丹陽郡の出身。別の一族。
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/11(土) 14:17:09
>661
廃帝……
>>661 すげーな
しかし本来皇帝にはなれなかったしなぁ
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/23(木) 23:20:48
陳武の子供が人徳者で
周魴の子供が荒くれ者
呉はわけわかめ
それを言うなら、甘寧の子孫なんてもっと凄いぞ。
息子が呉の尚書、孫が呉の太子太傅、曾孫が東晋の建国の功臣で、人格者として名高い文武両道の名将。
華麗なるエリート一族。
へー そうなんだ。
甘寧は子供の教育に熱心だったんだね。
いや、どこの家庭でもそうだろうけど
ちゃんと成功してるところがスゴイ。
甘寧自身もちょっとは書物とかで学んだって話だし
甘寧は孫権に仕える前に巴郡の丞や県長をやったことがあるエリート
エリートなんだ!
それなら家柄もよかったのかな。
でも若い頃はブイブイいわせてたんだよね?
これじゃイカンと奮起したのかなあ。
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/25(土) 03:45:07
郡丞は六百石で県令や尚書と同じくらいの給料
そこそこ偉い
県長に推挙されたのは間違いじゃないが、蘇飛が甘寧を孫権のもとに逃がすためにした措置だから
実際に県長の仕事をしてまともに給料をもらったとは限らないだろう
まともなエリートなら若い頃に学問を修め推挙されてそこから出世していくが
甘寧の場合は(ところどころ正確な順序が不明だが)
悪さする→官につく→官を棄てる→悪さをやめ多少本を読む→反乱するも失敗→劉表を頼るが用いられず
→黄祖に留め置かれるが長年食客扱い→蘇飛が県長に推挙してくれたためようやく孫権に仕える
秦の丞相甘茂の子孫らしいから家柄がいいのは確かだが
家柄と丞や県長だけをピックアップして甘寧をエリートと呼ぶのは違う気がするぞ
>>665 ただしその記述は晋書の甘卓伝にのみ載っており、陳寿は三国志で一切触れていない。
太子太傅クラスの名臣なら、甘寧伝の最後に付け加えるのが陳寿のスタンスなのに、だ。
ついでに甘卓の出身地も揚州丹楊郡となっており、益州出身の甘寧と矛盾が生じる。
言っちゃなんだが嘘臭いのよね。
横レスだが
甘寧伝と董襲伝はぶつ切りで甘寧伝は順序も滅茶苦茶、
現在まで正しく伝わらなかったのか、最初から未完成だったのかは分からないが、
スタンス云々と言えない事情がある
甘寧は陳寿の本文では巴郡臨江の人となっているが
呉書には元は南陽の人で祖先が巴郡に移り住んだとある
甘卓の場合も生まれ育ったのが丹楊のため丹楊の人と書かれていて
本籍が南陽なのだとすれば矛盾は無い
>>672 他の江南名士と並んで「臨江の甘卓」って書いてる本がある。
何だかんだ言って三国では最強国家だったな
晋>>>呉>>魏>>>>>>蜀
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/31(金) 21:16:40
何故か倭に呉の銅鏡があるのは謎
普通に海渡って貿易してただけだろ?
何が不思議なんだ?
>>677 呉は公孫淵と交流あったし
公孫淵経由で倭にも届いていても不思議じゃあないな
呉→燕→魏→倭
も考えられる
>>680 誰かにもらったいらない歳暮を暑中見舞いでよそに贈るみたいなノリか
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/01(土) 09:46:58
>>679 年号は公孫淵が滅亡した後のものなのが不思議
>>682 呉は遼東に軍を送り込める海軍力持ってたからな
青州あたりまでいけばなんとかなるんだろう
>>683 うむ、その海軍力が三國志最強の国家であることを象徴してるよね
ただし、晋に抜かされるまでは・・・
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 17:37:55
呉は遼東に軍を送り込める海軍力を持っている=倭に呉の銅鏡がある
どうしてこう繋がるのかがよくわからん
遼東に万単位の兵を送り込める呉の航海技術なら、倭と交易するぐらい余裕って事だろう。
質問がいい加減だから解答もネタ風味
>>686 沖縄ルート余裕でした
沖縄ルートで兵一万壊滅する呉の航海技術???
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/15(土) 11:08:01
>>682 呉の年号を有する紀年銘鏡
赤烏元年(西暦238年)銘 平縁神獣鏡が1面(鳥居原狐塚古墳)。
赤烏七年(西暦245年)銘 平縁神獣鏡が1面(安倉高塚古墳)。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/06(日) 18:44:01
呉は遼東に万単位の兵を送ったことあるのか・・・?
何で二陸のカーチャンは誰だか分からないんだろうな?
トーチャンの陸抗があれほどの人物だったんだから、何らかの記述があってもいい気がする。
そう言えば、抗の最初の妻は諸葛恪の姪だったはずだけど、
恪のアレで離縁されたか或いは処断されてしまったんだろうか?
有名な二世三世でも、母親が何者か分からん場合の方が多いよ?
諸葛恪や朱績や呂拠や朱異の母親の記録なんてどこにもないだろ?
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/13(日) 13:39:43
呉の人って、寿命短いね
>>693 孫権、張昭、陸遜、韓当とかは長生きじゃね?
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 22:41:53
諸葛瑾、厳oは還暦過ぎてたし、二人と歳の近い親友だった歩隲も60は超えていただおる。
顧雍、胡綜、薜綜、張承、朱然、朱桓、張絋なんかも60前後まで生きてる。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/14(月) 23:09:43
呉最高齢は石偉かね?
>>693 孫策・周瑜・呂蒙・凌統の有名どころが早死したイメージが強いからな。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/15(火) 19:00:09
>>698 83歳で死去じゃ96歳まで生きた呂岱の足元にも及ばん
明らかに傷が原因の孫策はともかく、
周瑜享年36、魯粛46歳、呂蒙42歳、凌統にいたっては29歳で病死だもんな
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/15(火) 23:22:11
孫堅も(ry
なんか、劉備厨が呉を叩いてるようで・・・
え?
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/22(火) 19:29:23.79
孫桓も早死に
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/22(火) 23:34:00.86
美人の橋姉妹はどのくらい生きたのかな?
三国志美女統計
呉 70%(大橋32%小橋38%)
魏 30%(甄氏30%)
蜀 0%
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/03(木) 22:48:21.42
ちょうせんは?
じゃ貂蝉込みで考え直す
漢:25%(貂蝉:25%)
呉:50%(大橋:24%小橋:26%)
魏:25%(甄氏:25%)
蜀:0%
貂蝉ありなら祝融夫人も
祝融って美人設定だっけ
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/11(金) 06:47:25.69
アマゾネス設定
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/15(火) 20:12:09.38
呂岱以外で長生きした人いないのかな?
三国志・戦国板のSDガンダム三国伝スレの怪
ttp://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1299234645/ 人口減少中の過疎板のスレのパートが現在76に
・平日昼間にスレがサクサクと進んでいく。
当然ながら他のスレでは決しておきない。
・以前、平日昼間にレスが100以上をこえることもあった。
・「こんな過疎板のスレがなぜ76も?」 との問いに
「各地の板の連中が集結したからで、何も不思議はない」
・たった一人で平日、朝から晩まで自作自演してスレに張り付く。
当然、スレでのレスの文体はすべて同じ。その結果がスレのパート76。
・他の板でスレが76までいったことを自画自賛。
なんというマッチポンプ。
VIPに自演を批判されて火病に加速がかかる。
VIPを規制しようと『荒らし報告』をしたが、あっさりと却下され失意のどん底。
やりたい放題に自作自演できたのが懐かしく未練タラタラw
今はこの状況に追いやったVIPに批判の矛先を向ける。
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/16(水) 22:51:25.93
孫権時代は住みたい国ナンバーワン
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/17(木) 22:54:55.00
いや・・・下戸にはキツいっすよ
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/21(月) 17:53:19.96
孫堅文台:
海賊退治で名を馳せ、江東の虎と称された。
孫策と孫権の実父で、反董卓連合の中でも洛陽復興に尽力。
袁術と袁紹が対立すると、袁術派として劉表を攻め、返り討ちに遭って没した。
孫策伯符:
孫堅の長子で、袁術配下として江南一帯の平定に奔走。
その後、父親の軍を取り戻すと、袁術が皇帝僭称した時期に決別する。
項羽になぞらえ、小覇王と呼ばれるほどの強さだったが、毒矢で暗殺される。
孫権仲謀:
呉の初代皇帝。
兄である孫策の築いた土台を元に、呉を建国。
何度も合肥を攻めたが、長江以北へ領土を拡大する事は出来ず、後継者問題で
呉の将来に暗い影を落とし、晩年は有能な人士も処断した。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/21(月) 18:40:58.97
うじむしの巣窟なんですか
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/21(月) 20:52:54.04
孫策って毒矢で暗殺されたのか
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/03/23(水) 17:46:37.03
甘寧興覇:
劉表、黄祖と移り、蘇飛の助けで孫権の元に寄る。
若い頃は羽飾りを付け、鈴の様な声で鳴いた事から鈴の甘寧と呼ばれた。
孫権の下で荊州と益州の攻略を進言し、黄祖討伐に従軍。
濡須の戦いでは、100人の決死隊で曹操軍を大いに混乱させた。
財産よりも人物を重んじ、戦術・戦略にも通じていたが、自分の料理人を木に縛り、
射殺する様な気性の持ち主でもあった。
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/10(日) 09:45:14.79
ジョークがうまいと出世できる国、呉
いや、現実もそうでしょ
上司の酒を断らない
呉の4姓周辺は仲間同士での密談が好きだよなぁ
>>725 田舎だからな。
妙な連帯感と閉塞感がある
地方の漁村みたいな
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/16(土) 16:56:50.22
顧氏って嫡流が一度断絶して、孫休の時代に再興してるけど、いつ頃断絶したんだろう。
顧譚と顧承が流刑地で病死→跡継ぎ無し&孫権が養子縁組を許さず断絶って感じか?
>>728 顧譚と顧承が死んだ時でいいんじゃね?
前漢や後漢の功臣の家系だって、不祥事が無い家でも何度も断絶しては再興されてるから、
普通に後継ぎがいなかったんだろ。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/17(日) 04:53:52.00
黙れクズ
>>728>>730 顧氏の三男が爵位を継いで、三男が死んで跡継ぎなしで断絶
顧譚らは別に爵位を持っていた可能性もあるかな
実は二男がずっと生きてたけど障害持ちだったから跡を継げなかった、ということになっている
結局、その二男に爵位が戻る
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/24(日) 04:17:33.58
顧悌は変人
ようたん
呉は何だかんだ三国最強ナリー
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/29(金) 16:40:10.99
諸葛恪がした事で唯一良かった事は孫弘を消したところ
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/07(土) 15:11:22.84
顧穆の不治の病の内容が気になる
不治の病とはいえ子供作れるんだから
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/15(日) 15:22:27.58
孫魯班が生まれてなければ呉がどう変ってたか気になる
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/23(月) 23:22:09.43
孫魯育が大虎になるだけだよ
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/03(金) 01:32:04.36
孫魯班ていつ死んだかも不明
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/22(水) 17:46:50.16
予章に流されたんだったっけ?
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/22(水) 21:26:33.62
孫家の恩を仇で返した糞劉備は天罰が下り死を賜った・・・
ざまぁwww
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/24(金) 08:04:03.84
天罰というよりも当時の寿命っぽいけどなあ
まあ劉備は呉を軽んじた罰が当たった感はある
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/06/24(金) 16:51:28.24
蛆虫の巣窟
蛆虫=蜀
張飛の死に方のが哀れ
蜀なんざ、呉に勝てることならず
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/09(土) 18:52:51.21
>>737 ハンセン病とかリュウマチとか膠原病とか
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/24(日) 03:19:43.65
太守勤められるぐらいの不治の病
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/07/31(日) 21:24:08.03
恋の病だな
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/12(金) 23:08:11.11
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/20(土) 18:54:48.98
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/09/21(水) 07:18:01.13
公孫恭より致命的な病気ある?
公孫恭
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/19(水) 06:39:31.47
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/25(火) 20:29:04.03
徐州の広陵郡は魏の領土?それとも呉の領土?
サイトによって説明が違うので詳細よろしく
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/25(火) 20:54:56.76
647 名前:暁 ◆BLq9lYhEOg :2011/10/25(火) 20:45:38.17
あー昨日といっとる事違うやろが
イライラして頭にすぐ血がのぼる
648 名前:暁 ◆BLq9lYhEOg :2011/10/25(火) 20:49:41.81
はやく四月になって家でていきたい
649 名前:暁 ◆BLq9lYhEOg :2011/10/25(火) 20:50:32.32
毎日前と矛盾したこと押しつけられてどうにかなりそうや
650 名前:他力本願寺 忍法帖【Lv=7,xxxP】 ◆VNOuA7nMsI :2011/10/25(火) 20:51:20.52
その前にこのスレから出ていってください
651 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/10/25(火) 20:51:49.32
新党でやれ
652 名前:暁 ◆BLq9lYhEOg :2011/10/25(火) 20:52:39.34
せやなその通りや
>>756 陳登が頑張って死守して以降、ずっと曹魏の勢力圏じゃまいか
広陵最南部の長江沿岸は呉の領土じゃないか?
魏の征東将軍やら鎮東将軍は所在地がカヒなので、
広陵は廬江みたいに半分空白地化してたとか
魏と呉の両方が広陵太守を設置しており、広陵は二分割されていた
広陵に城を築いた呉穣が有名
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/01(火) 20:07:00.97
今年の鉄道事故の二件がなければ上海は中国一の大都市だと思ったが…
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/01(火) 20:14:23.00
だいたい自分が死んでからすぐに引き継ぐとごたごたするからとかさっきから言っているが
それだと曹操は自分がいつ死ぬかわかっていたと言うのが前提なんだが
いつから曹操は超能力者になったんだよ
アホかとしか言いようがない
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/01(火) 20:30:07.29
汚いおかまじじいピーコ
大阪をとことん見下しとんな
品が無い人種の大阪、スマートな建物設計は大阪には合わない。などと暴言
銭を稼がせてもらってる大阪様に失礼なじじいやで
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/02(水) 22:08:08.98
217 名前:クマッタ ◆.pDAHD/fcA :2011/11/02(水) 21:13:48.27
中英板に腐女子が特攻してんのか
なんか面白そうだな
そういやK-POPは大嫌いだがあの臍ダンスとかいうのはなんかいいな
エロい
218 名前:他力本願寺 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 【3.2m】 ◆VNOuA7nMsI :2011/11/02(水) 21:32:05.63
俺のチンコの長さ
219 名前:無名武将@お腹せっぷく :2011/11/02(水) 21:32:48.14
朝鮮系風俗店にでも行ってろクマッタ蛆虫
220 名前: ◆W0wczkw01o :2011/11/02(水) 21:38:30.35
Yahooートップに信長平氏説がくつがえされたとか出てたな
なにをいまさらって感じだが親実は興味深い
221 名前:他力本願寺 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 ◆VNOuA7nMsI :2011/11/02(水) 21:40:40.72
我第六TENGA王なり
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/03(木) 01:20:25.38
孫悟空は誰の子供?
文台?
福建省っぽい
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/12(土) 16:50:24.91
>>760 何気に呉穣が広陵に城を築いた時代は
呉は合肥や寿春方面では孫権時代よりもけっこう優位にあったのかな
合肥は手に入れていないのに寿春に到達したりしている
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/11/21(月) 13:23:32.41
呉穣って呉景の一族?
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/11(日) 19:35:51.52
よくわからない
呂岱って生年書き間違えっぽいよね。
さすがに当時の90代で武官として現役なのは違和感がある。
延熹4(161)年生まれらしいけど、建寧4(171)年や熹平4(175)年あたりと書き間違えたんじゃないか。
彼が出てくるのは孫権時代(200〜)からなので、それでも特に矛盾がない。
とはいっても80代で現役ってことになってあんまり変わらないか。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/12(月) 11:16:28.94
龍造寺家兼の例もあるから90代で武官も十分ありうる
調べなおしたら、239年ごろに80歳だったってことと太平元(256)年に96歳で卒したってことだけが書かれてて、そもそも前提からして間違えてた。
二か所に年齢を裏付ける記述があるからやっぱり間違いではなさそうだな。
調べなおしたら、239年ごろに80歳だったってことと太平元(256)年に96歳で卒したってことだけが書かれてて、そもそも前提からして間違えてた。
二か所に年齢を裏付ける記述があるからやっぱり間違いではなさそうだな。
調べなおしたら、239年ごろに80歳だったってことと太平元(256)年に96歳で卒したってことだけが書かれてて、そもそも前提からして間違えてた。
二か所に年齢を裏付ける記述があるからやっぱり間違いではなさそうだな。
調べなおしたら、239年ごろに80歳だったってことと太平元(256)年に96歳で卒したってことだけが書かれてて、そもそも前提からして間違えてた。
二か所に年齢を裏付ける記述があるからやっぱり間違いではなさそうだな。
うわあごめん大変なことになってた。
( ゚Дメ)777
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/16(金) 14:58:51.37
呂岱も交州に行ってから寿命が延びた感がある
士燮も長命だったしな
趙佗の頃からあの土地には長命の秘訣があったかもしれん
でも、むかし馬援が徴姉妹をしばきに交州いったら
将兵共々散々病死しまくったといういわくつきの土地だしなー
董奉あたりが健康法でも広めてたら別だけども
呉からすれば劉備は糞雑魚であった
劉備ヘタレすぎワロス
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/24(土) 10:18:38.72
>>779 それって最後は裸健康法で徴姉妹に勝ったような
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/28(水) 16:19:21.06
>>781 裸戦法は248年の趙嫗の乱の時に陸胤が用いた
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/11(水) 00:29:41.33
女性の反乱者って多いよなベトナムは
もっと美人が多ければ最高なのだが
反乱者でもそうでなくても
美女ワッショイ
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/18(水) 23:55:07.02
西施を生んだ土地柄にしては
美女伝説が乏しいこの時代
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/22(日) 13:23:22.59
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/02(木) 14:03:47.83
この時代の呉の美人って誰が有名?
劉基
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/03(金) 00:21:20.95
♂の美人だなw
♂だと?
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/03(金) 23:17:18.08
♂の美人=佐藤かよかよ
なんか呉って3つの中で目立たない感じなんだけど、どうなん?
南にあって経済的に有利な気がするんだけど、どういうわけか中国の歴代政権はだいたい北のほうに首都を設置するよな。
長江以南が経済的に発展するのはもっと後の時代だろ
三国志オタ以外には六朝のトップとして知名度は蜀以上だし、
呉服とか呉音とか、一部の日本語のルーツにも使われている
個々の人物についても、二十四孝に出てくる陸績とか孟宗とかは呉の人物
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/09(木) 22:01:50.24
朱然の墓の副葬品は、現在日本で使っている日用品と同じものが多数出てきたらしい。
これが本当ならば、日本文化の起源の多くは呉から伝わったものになる。
短絡的だな
それはともかく朱然は好きだ
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/21(火) 12:23:34.58
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/05(月) 21:45:38.98
陸績とか孟宗とか…、
二十四孝は食い意地のはった話ばかりなのである。
( ゚Дメ)800
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/07(水) 06:20:33.20
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/12(月) 22:35:56.13
陸績サイコー
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/13(火) 08:47:11.95
陸績って子供の頃の逸話だよね
鱸と蓴菜って誰の逸話だったっけ
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/23(金) 00:59:55.75
張翰
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/27(火) 20:13:08.06
周瑜サイコー
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/04/28(土) 19:16:16.15
飛頭蛮の話は面白いのに誰もしない
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/07(月) 21:53:58.79
あれは朱桓の夜這いがタブーな話題なので
徐盛ってなんで三国無双とかでもプレイヤーキャラにならないんだろ
孫権を叱り飛ばすエピソードとかすげーかっこいいのに
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/23(水) 01:17:39.14
孫権って寛大だよな、馬鹿劉備が戦争を仕掛けて追っ払っても
まだ蜀と友好を保とうとしたからな
名前が男らしくないから
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/25(金) 06:25:29.89
>>809 真三国無双10ぐらいまでにはプレイヤーキャラになるかも
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/25(金) 13:53:40.67
,.-,ヘ_
/ / i`ヽ、 |ニ|
,.、 i__/ | i |___|
( | / 「 ̄ /i
| | / | / ノ
// / | | 「
酒デモ飲ンデ | | / `ヽ. | |
落チ付コウデハナイカ ヽ 、,./○-===─-○____', | | ツマミハナイガナ
,へ____ヽノ"" ""⌒ヽ_ノ /__ノ⌒\_
`' ---- 'ノ ,,/ ノ 人 ⌒ヽ、 、_ヽ、 へ-''' \,,)
⊂' 'へ" ,,-''"く"\,⊃ヽ-、__つ
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/03(日) 10:02:36.52
孫権は大帝
光栄のゲームの呂岱なぜあんな魅力低いのか
結構名将だと思うんだけど
>>815 名将だから合計値が高くなり過ぎるから魅力で削っているんじゃないかな
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/06/23(土) 20:49:16.93
呂岱て呂布や劉岱がいたのに
なかなか登場しなかった
は?なにそれどこが面白いの?
健康実録
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/07(土) 21:37:20.32
丁奉とかも謀殺に加担して出世してるのにな
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/14(土) 11:42:07.36
呂岱も息子ぐらいの年の孫権から後事を託されて困っただろうな
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/15(日) 21:34:10.88
wikipediaのDQNネームの頁読んだら、
孫休が最古なんだとよw
いや〜、まだまだ新発見あるもんだな
恐るべし後漢三国時代
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/16(月) 13:20:22.59
>>824 ワロタw
裴松之の注釈もDQNすぎてメシウマw
株と雅に
裴松之はんの人間味にはホンマ凄いもんがあるで
この人もしっかり時代を超えてるw
陳寿より裴松之が詳しいかも
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/21(土) 16:19:11.08
裴松之は歴史上に残る三国志オタクだからなあ
現代に残っていない三国志資料も嘗め回して読んでいるから
三戦板の住民程度では太刀打ちできんw
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/26(木) 22:56:10.26
長沙太守の張機(張仲景)と張羨って親戚なんかね?
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/09/03(月) 00:27:22.53
わかりませんが別人
人は誰もが思い込みの中で生きている、とそうは思わないか?
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/09/30(日) 05:00:45.17
長沙太守といえば
孫堅
韓玄
廖立
とか
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/10/21(日) 19:31:17.88
長沙も反日運動での破壊活動酷かったな
孫権や張昭や呂岱など寿命が長い人が他の二国より多いイメージがある。
陸遜だって憤死しなければもっと長生きしてそう。
やっぱり食べ物とか過ごしやすい気候が影響してるのかな?
孫策
周瑜
呂蒙
孫策の死因はほとんど暗殺だから除外
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/10/30(火) 00:26:08.47
>>835 まぁ呉は海があるし、奥まった蜀より環境いいし
河と海で食い物は良さそうだけど病気も多そうだ
病死の早死にが多いイメージ
周瑜36、呂蒙42、凌統29
一般人の寿命はもっと短かったんだろうな
孫権と張昭は「老害ほど長生きすんだよなw」
って影で言われてそう
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/01(木) 00:24:32.78
呉はチームワークがいい
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/01(木) 17:06:16.63
当時は成人前に死ぬ確率が高いだけで成人の平均寿命は今とそんなに変わらないんじゃね?
>>843 全員の平均享年出してみろとまでは言わないが
ほんの十人か二十人ほど無作為に選んで眺めるだけで平均寿命が低いのは分かるだろ
試しに正史に伝があって、死亡時の年齢がほぼ正確で、戦死や横死や憤死を除いた人物で計算してみた。
丁奉とか確実に70歳越えてそうな人物でも一応今回は除外。
呉に仕えたわけではない劉繇(42)も除外。
間違いがあったら申し訳ない。
孫権(71)孫休(30)孫皓(42)
太史慈(41)士燮(90)
孫韶(54)張昭(81)張承(67)張休(41)顧雍(76)諸葛瑾(68)
張紘(60)厳o(78)
周瑜(36)魯粛(46)呂蒙(42)
凌統(29)朱治(69)朱然(68)朱桓(62)
陸績(33)張温(38)駱統(36)陸抗(49)
孫登(33)孫慮(20)
全j(52?)呂岱(96) 陸凱(72)
是儀(81)胡綜(59) 孫峻(38)
平均寿命=54.9375歳。
他の二国は後日やってみる。
呂岱も老害と言われるけど、孫霸派ってのが眉唾というか
通語ってどこまで信頼できるのかね
甘寧ほどの将の没年が完全に不明なのが不思議でならない。
周泰や徐盛も没年不明だけど『○○年間に亡くなった』とは記されている。
何か隠しておきたい理由でもあったのかと勘繰りたくなってしまう。
まさか凌統に討たれたとか……ないな。
凌統の方が先に死んでないか?
1, 韋昭が書き忘れた
2. 呂蒙が死んで庇ってくれる人がいなくなったため誅殺された
3. 甘寧は永遠に不滅です
書きかけ、未整理、または一度書かれたあとバラバラになったような感じだが
4.甘寧の子孫が力を持っていなかったため適当にされた
5.甘寧の子孫が口出ししまくってややこしいことになった
6.凌統の子孫が妨害した
どっかで見たことだが、董襲も子供の名前すらわからないらしい
やっぱ書きかけが放置されたんじゃ
書きかけにしては
書かなくて良さそうな内容まで書かれてるよな、甘寧伝
魏の楽進、蜀の黄忠、呉の甘寧
意外と短いんだよね〜
甘寧が死んだのは建康実録だと215年冬になってるらしい
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/13(火) 18:16:22.64
>>855 でもそれだと甘寧が孫皎と喧嘩した時期との整合性が取れないんだよなあ
甘寧が喧嘩したのは呂蒙が陸口司令官に赴任した217年より後っぽいので
結局甘寧が凌統に討たれることはありえないし
凌統の息子も年齢的に無理だな
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/19(土) 16:39:07.48
中国三大都市の上海
その基である呉は偉大である
860 :
今川たん ◆DZe/Ai1ULE :2013/01/19(土) 17:04:37.15
_,,..i'"':, @ @ @
|\`、: i'、 @ @
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861 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/10(日) 14:19:03.02
>>852 孫堅の父親の名前が正式にわからないのでそれぐらいは想定内
>>279-280あたりで
甘寧が劉備あたりと同い年じゃないか?みたいなレスあるけど
黄巾の乱の時とか何していたのだろ?
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/12(火) 19:31:15.23
>>862 それは呂岱が黄巾の乱の時とか何していたのだろ?
というのと同じくらいの不毛な検証かも
>>862,
>>863 甘寧が劉表に帰属(荊州に逃亡)したのが,劉焉から劉璋に代替わりした194年頃だから,
地元(巴郡臨江県)でヤクザやっていたのではないかと。
光栄のゲームに支謙が出てくるのはいつなんだろ
>>851 晋書の甘卓(甘寧の曾孫)伝によれば甘寧の子の甘述は呉の尚書、孫の甘昌は呉の太子太傅なので
4は違うと思われる
>>865 それは光栄のゲームに張機を出すのと同じくらい望み薄
光栄社員にそこまで空気読める歴史ヲタはいない
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/16(土) 12:23:00.10
光栄ももっと空気読んで武将を3000人ぐらい登場させてくれんかねえ
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/30(土) 12:27:33.72
>>868 ない
もしやったら次回作出しても売れなくなる
そもそも次回作なんて出るのか?
無双はオワコン
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/31(日) 22:28:47.11
肥信者の盲目っぷりパネエ
本スレ見事にゴミクズしかいない
甘寧が孫権に仕官したのが何年かってのは定かではないんでしたっけ?
>>873 仕官してすぐに孫権が「今年の征討は卿へ委ねることに決めている」と言って
その後の戦いが208年の夏口だから、おそらく208年初頭、または207年末頃
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/01(水) 22:14:06.79
甘寧と太史慈は一緒に呉で働いていないのか・・・orz
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/05(日) 17:45:36.29
駱統の母ちゃんは何で華キンの側室になったん?駱統も引き取れば良かったのに…
演義と違って正史の華キンは清廉だと思ってたがやっぱり嫌いだ
駱統の母ちゃんは最初から側室だった
でも駱統は長男(姉は居た)で家を継がなくてはならなかったからな
呉で中国史レベルの偉人って張紘(南京繁栄の祖)と周瑜(三国時代の元凶)以外に誰かいないのかな
陸遜は単独の巻があるから諸葛亮と同レベル
異論を言う奴は諸葛亮信者の馬鹿
>>880 単独の巻だから同レベルだと曹操、曹丕、曹叡、劉備、劉禅、孫権、諸葛亮、陸遜みんな同レベルだねwww
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/11(土) 12:57:05.53
魯粛・・・
呉は結局荊州取って何がしたかったんだ大した行動も起こさず
蜀の邪魔ばかりしやがって
周瑜の天下二分の計を起こしたところでその後の南朝の動きを見る限り
長江の守りに安住するだけ、ならいっそ荊州は取らせて緊張感を保ち
戦闘意欲を高めとくのが一番の良策だろ
外交に長けた呉に便乗しなきゃやってけなかった蜀が何か言ってる
荊州と益州は文化的にも似てるんだがな
湖北省と湖南省は四川料理の管轄下だし
>>885 相当酷い認識だな
中国八大料理系統も知らんのか
雲南料理や貴州料理が四川料理の系統に入れられるならまだ分かるが
湖北料理や湖南料理まで四川料理の括りにしてしまうとは相当の味音痴か白痴
大阪のたこ焼きや奈良の鹿せんべいまで京都料理に入れるぐらい基地外もんだろw
そもそも益州の中ですら昔は古蜀国と巴山国とで文化的にも分かれていたのだが
四大料理系統ってのもあってな
華北の北京料理、江東の上海料理、両広の広東料理
そして湖広地域も含めた四川料理ってのもあるんだよ
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/22(水) 15:00:59.05
そういえばホンマでっかTVの収録って基本はどの曜日なんだろう?
さんまマツコで27時間だったら収録のついでに発表会見があることだろう
>>887 大雑把すぎて管轄下とかドヤ顔で言える面の厚さが羨ましい
日本で言えば「関西以西は全部薄味だから中国四国九州も同じ京都料理の管轄下ね」
と言うぐらいの厚かましさだろw
西日本というくくりで十分一括していいだろ
四川湖広も一緒
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/23(木) 13:56:08.10
原田伸郎ともなると、最近の若い奴は知らないよ。
法律事務所のCMで見るぐらいでしょ。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/23(木) 14:05:34.75
∧_∧ ∧_∧
ミ,,・┏┓・ミ ミ,・ω・ ミ 明日から通常モードに戻るために、ちょっと普通に
.c(,_uuノ し〜U〜過ごしておった。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/24(金) 00:42:11.43
>>890 で?文化的に一括なら同じ国である根拠になるの?
ドイツとオーストリアとか、ベルギーとか知らんのか?
>>893 ドイツとオーストリアは厳密には文化違うよ
ベルギーも
あの辺、本当に厳密に分けると神聖ローマ時代の諸侯単位で文化が異なるし
大諸侯だと領内でも異なる文化圏だったりした
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/25(土) 01:41:53.25
神聖ローマの基準でいくと
四川湖広は全く異なる文化圏になるね
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/25(土) 14:59:02.17
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/25(土) 14:59:47.48
四大料理系統は本当だから、それとは別の先史時代の文化圏でも荊益は一体だった
あともともと益州も荊州も劉氏の土地なんだから
同族の劉備がもらうのは当然
馬鹿発見!
>四大料理系統は本当だから、それとは別の先史時代の文化圏でも荊益は一体だった
料理って変わるもんだろ
昔の日本人がパンやカレーやラーメン食ってたと思うか?
四川の住民なんて三国時代の後に何度もほぼ絶滅してるだろうが
料理が同じ系統だとしても後天的な可能性の方が高いので
先史時代の文化圏でも荊益は一体だったという理由にはならない
>あともともと益州も荊州も劉氏の土地なんだから
>同族の劉備がもらうのは当然
関羽の部下も言っているだろうが
「土地は徳のある人に所属する。なぜ同じ人が領有し続けていいものか!」
と
益州取ったら荊州返すだの涼州取ったら荊州返すだの嘘をつき続けたり
兵糧足りないから同盟国の兵糧を勝手に奪うとかの国に徳なんてあるのですか?
呂蒙が荊州取ったら住民は徳政に感動して家族(関羽の兵)に
喜びの手紙送るぐらいだから普通に考えて呉の方が徳あるだろ
もうそうやって劉備をひねくれた形で悪玉にしようとするのやめてくれないかな
善悪で分けようとすることこそ演義史観に毒されてるんだよ
正史を精読してごらんよ、あれに善悪の区分があると思うかい?
<丶`∀´> 劉備の徳が一番ニダー
>>903 世話になった同族を攻め滅ぼすことは当時でも悪そのものだろ
孫権も劉備一党は信用ならずって言っているんだし
>>905 あ、なんかしっくりした
そうか、劉備や関羽って朝鮮人的思考の持ち主なんだ
荊州問題に関しては蜀に一切理が無いんだからもう諦めろよ
スレ往復すんのも疲れるだろ
>>910 俺は劉ショウが愚者でも悪人とも思っていないが
仮にも恩人である劉ショウを一度も諌めずに騙し打ちをする行動に
論語や孟子が許しているんだ?
荊州奪われて以後蜀は呉の邪魔してないよ
呉の何もやってなさっぷりのほうが問題だよ
劉備の蜀取りが少数で行えてたらなあ
>>912 具体的に魏呉の戦争履歴を出して呉が何もやっていないって証明して
できないならただの言掛かりだと思うから、もうスレには来ないほうがいい
>>911 論語には色々あるので是非読んで欲しいのだが
すっごい端的に言うと先に約束守ってないの劉璋だから悪いの劉璋
>先に約束守ってないの劉璋だから悪いの劉璋
援助が乏しいから先に約束守ってないの劉璋というのなら病院逝った方がいい
張魯と対峙するだけで期待値の仕事を何もしてない以上援助求めてもそれは乞食に近い
孫堅みたいに結果出してから袁術に援助求めるならまだしも
呉勢がなければ劉備は曹操にフルボッコで蜀は存在しなかったな
>>916 孫権の援軍に行くからって言ってるのに門閉めたらあかん
>>918 それまで1年近くサボタージュしてたんだから信用されなくて当然
>>912 呉の邪魔しなかった、じゃなく夷陵で叩き潰されて呉に対するトラウマを植え付けられ、二度と逆らう気すら起きなかった、が正解。
>>919 サボタージュって言うけどいきなり見も知らぬ3万人預けられて
「じゃあ殺し合いして来て」って通じると思う?
サボタージュじゃなくて書いてある通り人心収斂でしょ
信じられない相手と戦場行くのなんて無理
孫権から兵借りていきなり荊南攻略とかしてるけど
あれは時間が勝負だからしょうがない
張魯討伐って時間が勝負じゃないからな
>>921 あほか、荊州が危ないからってさらにその見知らぬ兵隊を借りているんだよ
>サボタージュって言うけどいきなり見も知らぬ3万人預けられて
>「じゃあ殺し合いして来て」って通じると思う?
それが仕事なんだろう?いつやるの?今でしょ!
孫権から兵借りていきなり荊南攻略とかできるなら
今回もやれよグダグダ言わず今すぐやれよ というのが雇い主
まあ歓迎会でいきなり劉璋拉致って蜀分捕りましょとかいう
行き過ぎた部下も居たぐらいだから
蜀に行った時点で傍からみても張魯討伐ヤル気ナッシングで
影で邪な企み満点な雰囲気プンプンだったんだろうな
>>922 そうだね
でもそれをどう使うか書いてないだろ
兵を借りてそれを北の備えに残して自分は気心の知れた人と動くと考えた方がまだ妥当
>>924 気心の知れた霍峻を北の備えに残してる時点でその妥当とか言う意見は破綻している
>>925 破綻しない
何人かは信用できる奴置かないとダメだろ
>>924 北の備えってww
どこで追加の兵を借りたか分かってないなwwwww
>>928 葭萌で追加の兵くれって使者出してるけどな
そうだね
でも夜中3時過ぎにカキコしてないでそろそろ早起きして働け
>>929
他人に対する罵倒はその人が常日頃自分が劣等感に感じている事である可能性が高いという・・・
早起きして働けって馬騰なのかw
>>914 呉って魏の領土からわずかでも奪ったっけw
>>915 倫理道徳に関しては現代哲学では語りえぬものになっているので
劉備の行為も悪ではない
>>933 >劉備の行為も悪ではない
劉璋や呉が悪ではないの間違いだろ
悪ではないかも知れんが人としてどうかって思うよね
937 :
俺越閲覧中(´・ω・`):2013/06/02(日) 22:22:02.40
俺越閲覧中(´・ω・`)
山瀬まみの前で高齢出産の話はかわいそうだなと思ったけど、
山瀬も年齢同じぐらいだし、まだ大丈夫だから頑張れよ。
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/06/02(日) 22:50:19.79
おっす、オラ悟空!
認めたくないものだな、若さゆえの過ちと言うものを。
論破された蜀中毒が暴れ始めたかw
941 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/06/03(月) 05:12:16.97
ほな君、あれか? 呉か。あれ買ってくれミスターオクレ
オクレ兄さーん!呼んでるよー!
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/06/03(月) 05:15:03.38
まぐれで悪かったなw
今度正史三国志が手に入りそうなんだ
そのときに徹底的に論破してやるから覚悟しとけwwww
>>943 三国志のみならず正史全部ただで読めるから
今度と言わず今論破すりゃいいじゃん
孫堅の廟号は武烈帝、二字だな
>>945 それは諡号。孫堅の廟号は「始祖」(孫堅伝注呉録)
だが二字だつまりその後の南北朝時代などでの諡号の起源でもあるわけだな
二字諡号の元祖は前漢の孝恵皇帝でしょう。
秦の統一以前まで遡れば武霊王とか、荘襄王とかわんさかいるけどね。
秦は諡は廃止して単純な呼び方にするようにしてたから例としては正しくないのだけど
文字数だけで言う始皇帝以降は二世皇帝、三世皇帝と数字で○世皇帝と永遠に続く予定だったので
二世から十世までは2文字だったりするw
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN
孫堅と孫策の伝は一緒(46巻)なんだよな
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/10/27(日) 12:08:22.79
>>943 論破マダー?(・∀・ )っ/凵 ⌒☆チンチン
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/10/28(月) 23:34:13.48
釣りだろう
捜神記読んでたら会稽の賀瑀(彦琚)って人が出てきたけど賀斉の一族だろうか
というか捜神記って呉の辺りの話が多い気がする
東晋の首都が建康だからかねぇ
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/05/05(月) 00:52:32.62
>>953 広州督の虞授が虞翻の一族だろうかという件と同じくらいありうりそうな話
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/05/05(月) 07:27:28.69
自治ってのがなー。僕の肌に合わないんだよね。
要は自分達で治めるって意味なんだけども、僕としては自ずと治まる、が理想だと考えている。
烏合の衆がいくら寄り集まったってダメなんだよ。
所詮人間なんてモンキー。ボス猿の質さえ確保してれば、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てて議論(笑)やルールなど細かく決めずとも自ずと、治まる。
>>955 言い出しておいてアレだけどどうせ資料が他になさそうだから検証のしようもないんだよねw
虞授と違って、いた時代も役職もわからんし
本当に実在したのかも確認とれない
>>957 賀循も字に「彦」が入ってるから、賀瑀と賀循が同世代の親戚同士って可能性はありそう。
>>958 ああ、なるほど!それは気づかなかったわ
見たところ年代が記されてない話は晋の時代の話が多いようだし
その線は結構ありうるかも。
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/08/10(日) 22:21:49.14
>>958 顧栄も字に「彦」が入ってる
つーか顧栄と賀循の字が同じてどーよ
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/10(金) 22:39:02.35
徐晃と管輅
宋江
池田大作
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/11/03(月) 14:54:00.32
>>953 著者が元々呉の人だから
呉の話が多くなるのは必然
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/12/01(月) 00:36:34.23
捜神記の著者の干宝の祖父は
呉の奮武将軍・都亭侯だから明らかに呉の貴族
966 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/12/20(土) 19:04:32.60
干統か
そろそろゲームに出してほしいところだ
あと陶侃の親父の陶丹も
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2015/01/23(金) 00:19:11.18
干統や陶丹は太康の役の時は何してたのかね?
968 :
無名武将@お腹せっぷく:
鬼籍