またアンジェか
嫌いじゃない
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/01(月) 01:11:41
白文で読める奴は頭おかしい
二十五史を三戦の総力をあげて翻訳しようぜ!
その為に文法を理解しようぜ!
というスレ
漢文なんてチンプンカンブン
>>1のサイトの藝文類聚を訓読しようと思ったらNot Foundになっていた。
晋書 巻五十 列伝第二十 曹志
曹志、字允恭、?国?の人、魏の陳思王植の?子なり。
少くして学を好み、才行を以て称せられ、夷簡にして大度有り、善く騎射を兼す。
植曰く「此れ保家の主なり」と。以為らく嗣に立てる。後に封を済北王に改む。
続けるかも
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/01(月) 23:27:10
アホジェ
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/02(火) 22:05:57
>>8 晋書 巻五十 列伝第二十 曹志
曹志、字允恭、?国?の人、魏の陳思王植の?子なり。
少くして学を好み、才行を以て称せられ、夷簡にして大度有り、善く騎射を兼す。
植曰く「此れ保家の主なり」と。以為らく嗣に立てる。後に封を済北王に改む。
?になってる字は何?
意味としては、
武帝(司馬炎)が撫軍将軍(撫軍大将軍)となり、陳留王曹奐を次期皇帝として鄴に迎えたとき、
曹志と夜に謁見し、暮より旦(明け方)に達するまで語り、その才能が抜きん出ていると評した。
帝が禅譲を受け、西晋が成立したとき、鄄城縣公に降された(曹氏は宗室ではなくなるため)。
というようになるようだ。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/02(火) 22:35:25
哀しいな
こんなに頑張ってるのにお前と対等に語れる奴は、
この板にはもういないんだ・・・
大丈夫!三戦は大丈夫!ドゥーチェは信じてる!
武帝為撫軍將軍,迎陳留王於鄴,志夜謁見,帝與語,自暮達旦,甚奇之。
「武帝為撫軍將軍,迎陳留王於鄴,」を
「武帝 撫軍将軍と為り、陳留王を鄴に迎へしとき、」と訓読するまではいい。
問題は後半部分の主・述語の対応関係だ。
「甚だ之を奇とす」の主体は帝だから、「志夜謁見」は「志と夜に謁見し、」なのかと思えば、
その後の「帝と語す」が曹志の行為だから、変になってしまう。
そうかといって、「志 夜に謁見し、」と文の後半以降の主体を曹志に変えて訳そうとすると、
「甚奇之」が受動表現になっていないために変になってしまう。
あるいは、「帝與語,」は「帝 語を与ふ」なんだろうか。
だとすると、会談したというニュアンスからは遠ざかってしまうし、
「武帝 撫軍將軍と為り、陳留王を鄴に迎へしとき、志と夜に謁見し、帝 語を与ふ、暮自り旦に達し、甚だ之を奇とす」
一文の中で主語が重複していて、不自然さを感じる。
ばかやろう…
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:24:53
82 :クマッタ@三戦板天皇 ◆q9g5LbNNPY :09/06/02 00:34 ID:B0SnYrSY
今日はサッカーも野球もないのです^^
なので、日本代表の話題をちらほらと
岡崎と本田はもっと使って欲しい
今必要なのってテクでも運動量でもなく、縦への意識とシュートを狙う姿勢だと思うし
そういうの、どうにかならんのかと…
83 :クマッタ@三戦板天皇 ◆q9g5LbNNPY :09/06/02 01:52 ID:B0SnYrSY
そういやふと今日トラビアンにinして思った
三戦同盟どうしちゃったんだろ
なんか悲惨な状態に…
84 :Classical名無しさん :09/06/02 15:45 ID:cWK007Rg
前会った時はキスしたけど挿入なし。
次会った時にとうとうしてしまったけどキスしてくれなかった。
別にこのまま体の関係込みでの友達でいてもいいけど、
どうせするならキスもしてほしいなぁ。
それともセフレって普通キスはしないものなのかな。
85 :Classical名無しさん :09/06/03 11:47 ID:zkWwsn5I
また腐れクマッタか
86 :クマッタ ◆q9g5LbNNPY :09/06/03 23:41 ID:1l2Os5gU
煽りも単発で退屈だな
コピペするやつはいるみたいだ
その次は、「帝 禅を受くるに及び、降じて鄄城県公と為る」かな。
ちなみに、鄄城には曹植が黄初二年に封ぜられている。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:43:02
国土交通省の基準では、インター名も当該都市内の所在地が条件だから、
吹田IC・JCTを大阪ICと名乗るのが常識的なんだけど、こういう例外的なことは東京ではやっても大阪には当てはめない。
というのが、東名東京料金所の所在地は多摩川の手前、川崎市だったと思うので。
で、大規模なJCTではなく、簡単なランプのみをつくって「大阪IC」とするのもいいね。
だいたい名神の大阪アクセスが「豊中IC」で阪高池田線経由というのがおかしい。東から来て、西へ神戸方面に行き過ぎてるじゃん。
つまり、新御堂筋の交差部の東側に入口・降り口のランプをつくって「大阪IC」としたらどうかな。
それか新御堂筋と名神をここで直接つなげるのがベスト。どっちにしても政府の嫌がらせがきついから、大阪府の担当者は負けない交渉力が必要だと思う。
ここも大阪市内じゃないから、「吹田西」になるかもしれんが、特例で「大阪IC」としたい。
アンジェさん、いや愛田さん、ありがとう参考になりました。
おっしゃる通りですが、しっくりは名神下りの方向表示は「京都」はおかしいから「↓大阪」とすべきと言ったのです。
基準地見ましたけど、一般国道の標識基準みたいでしたね。
東名も東京の手前に横浜がありますけど、横浜の標識ないですけど、横浜は基準地にならないのですか。
どう言ってみても、政府の東京マンセー、大阪嫌がらせにはかないませんけどね。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:47:40
>>1は現在24歳なのに今まで論文のひとつも書いたことが無いとか可哀想です
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:49:01
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:50:14
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:52:35
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:55:32
>>24 立て逃げした上に板趣旨に沿った流れを荒らすとかバカか
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:56:24
愛田先生、お疲れさまです
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 19:57:24
>>27 僕は立ててないんだよ、スレタイにつられてきただけ。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 20:03:52
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 20:07:24
a:アー ai:アイ an:アン ang:アーン ao:アオ
ba:バー bai:バイ ban:バン bang:バーン bao:バオ bei:ベイ ben:ベン beng:ブオン
bi:ビー bian:ビエン biao:ビヤオ bie:ビエ bin:ビン bing:ビーン bo:ボー bu:ブゥ
ca:ツァー cai:ツァイ cang:ツァン cao:ツァーン ce:ツァオ cen:ツォーァ ceng:ツェン
cha:チャア chai:チャイ chan:チャン chang:チャーン chao:チャオ che:チョーァ chen:チェン
cheng:チュヨン chi:チー chong:チョーン chou:チョウ chu:チュウ chua:チュワ chuai:チュワイ
chuan:チュワン chuang:チュワーン chui:チュウイ chun:チュン chuo:チュオ ci:ツー
cong:ッオーン cou:ツォウ cu:ツゥ cuan:ツワン cui:ツゥイ cun:ツゥン cuo:ツゥオ
da:ダー dai:ダイ dang:ダーン dao:ダオ de:ドーァ dei:デイ den:デン deng:ドゥオン
di:ディー dian:ディエン diao:ディヤオ die:ディエ ding:ディーン diu:ディウ
dong:ドーン dou:ドウ du:ドゥ duan:ドワン dui:ドゥイ dun:ドゥン duo:ドゥオ
e:オーァ ei:エイ en:エン eng:ウオン er:アル
fa:ファー fan:ファン fang:ファーン fei:フェイ fen:フェン feng:フオン fo:フォー fou:フォウ fu:フゥ
ga:ガー gai:ガイ gan:ガン gang:ガーン gao:ガオ ge:ゲイ gei:ゲイ gen:ゲン geng:グオン gong:ゴーン
gou:ゴウ gu:グゥ gua:グワ guai:グワイ guan:グワン guang:グワーン gui:グイ gun:グン guo:グオ
ha:ハー hai:ハイ han:ハン hang:ハーン hao:ハオ he:ホーァ hei:ヘイ hen:ヘン heng:ホゥオン hng:フン
hong:ホーン hou:ホウ hu:ホゥ hua:ホワ huai:ホワイ huan:ホワン huang:ホワーン hui:ホゥイ hun:ホゥン huo:ホオ
ji:ジー jia:ジア jian:ジエン jiang:ジアーン jiao:ジアオ jie:ジエ jin:ジン jing:ジーン
jiong:ジオーン jiu:ジウ ju:ジュイ juan:ジュエン jue:ジュエ jun:ジュイン
ka:カー kai:カイ kan:カン kang:カーン kao:カオ ke:コーァ kei:ケイ ken:ケン keng:クオン kong:コーン
kou:コウ ku:クゥ kua:クワ kuai:クワイ kuan:クワン kuang:クワーン kui:クイ kun:クン kuo:クオ
la:ラー lai:ライ lan:ラン lang:ラーン lao:ラオ le:ローァ lei:レイ leng:ルオン li:リー
lia:リヤ lian:リエン liang:リヤーン liao:リヤオ lie:リエ lin:リン ling:リーン liu:リウ
long:ローン lou:ロウ lu:ルゥ l:u:リュイ l:ue:リュエ luan:ルワン lun:ルン luo:ルオ
ma:マー mai:マイ man:マン mang:マーン mao:マオ me:モーァ meng:ムオン mi:ミー
mian:ミエン miao:ミヤオ mie:ミエ min:ミン ming:ミーン miu:ミウ mo:モー mou:モウ mu:ムゥ
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 20:08:13
na:ナー nai:ナイ nan:ナン nang:ナーン nao:ナオ ne:ノーァ nei:ネイ
nen:ネン neng:ヌオン ng:ン ni:ニー nian:ニエン niang:ニヤーン niao:ニヤオ nie:ニエ
nin:ニン ning:ニーン niu:ニウ nong:ノーン nou:ノウ nu:ヌゥ n:ue:ニュイ nuan:ヌワン nuo:ヌオ
o:オー ou:オウ pa:パー pai:パイ pan:パン pang:パーン pao:パオ pei:ペイ pen:ペン peng:プオン
pi:ピー pian:ピエン piao:ピヤオ pie:ピエ pin:ピン ping:ピーン po:ポー pou:ポウ pu:プゥ
qi:チイ qia:チア qian:チエン qiang:チアーン qiao:チヤオ qie:チエ qin:チン qing:チーン
qiong:チオーン qiu:チウ qu:チュイ quan:チュエン que:チュエ qun:チュイン
ran:ゥラン rang:ゥラーン rao:ゥラオ re:ゥローァ ren:ゥレン reng:ゥルオン ri:ゥリー rong:ゥローン
rou:ゥロウ ru:ゥルゥ rua:ゥルワ ruan:ゥルワン rui:ゥルイ run:ゥルン ruo:ゥルオ
sa:サー sai:サイ san:サン sang:サーン sao:サオ se:ソーァ sen:セン seng:スオン
sha:シャア shai:シャイ shan:シャン shang:シャーン shao:シャオ she:ショーァ shei:シェイ
shen:シェン sheng:シュヨン shi:シー shou:ショウ shu:シュウ shua:シュワ shuai:シュワイ
shuan:シュワン shuang:シュワーン shui:シュウイ shun:シュン shuo:シュオ
si:スー song:ソーン sou:ソウ su:スゥ suan:スワン sui:スゥイ sun:スゥン suo:スゥオ
ta:ター tai:タイ tan:タン tang:ターン tao:タオ te:トーァ teng:トゥオン ti:ティー tian:ティエン tiao:ティヤオ
tie:ティエ ting:ティーン tong:トーン tou:トウ tu:トゥ tuan:トワン tui:トゥイ tun:トゥン tuo:トゥオ
wa:ワー wai:ワイ wan:ワン wang:ワーン wei:ウエイ wen:ウエン weng:ウォーン wo:ウオ wu:ウー
xi:シイ xia:シア xian:シエン xiang:シアーン xiao:シヤオ xie:シエ xin:シン xing:シーン
xiong:シオーン xiu:シウ xu:シュイ xuan:シュエン xue:シュエ xun:シュイン
ya:ヤー yan:イエン yang:ヤーン yao:ヤオ ye:イエ yi:イー yin:イン ying:イーン
yo:ヨ yong:ヨーン you:ヨウ yu:ユイ yuan:ユエン yue:ユエ yun:ユイン
za:ザー zai:ザイ zan:ザン zang:ザーン zao:ザオ ze:ゾーァ zei:ゼイ zen:ゼン zeng:ズオン zha:ジャア zhai:ジャイ
zhan:ジャン zhang:ジャーン zhao:ジャオ zhe:ジョーァ zhei:ジェイ zhen:ジェン zheng:ジュヨン zhi:ジー zhong:ジョーン
zhou:ジョウ zhu:ジュウ zhua:ジュワ zhuai:ジュワイ zhuan:ジュワン zhuang:ジュワーン zhui:ジュウイ zhun:ジュン
zhuo:ジュオ zi:ズー zong:ゾーン zou:ゾウ zu:ズゥ zuan:ズワン zui:ズゥイ zun:ズゥン zuo:ズゥオ
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 20:09:43
曹操、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐
夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、曹休、曹真、夏侯尚、荀ケ、荀攸、賈詡
袁渙、張範、張承、涼茂、国淵、田疇、王修、邴原、管寧
崔琰、毛玠、徐奕、何夔、邢顒、鮑、司馬芝、鍾繇、華歆、王朗、程c、郭嘉、董昭、劉曄、蒋済
劉放、劉馥、司馬朗、梁習、張既、温恢、賈逵、任峻、蘇則、杜畿、鄭渾、倉慈
張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、李典、李通、臧覇、孫観、文聘、呂虔、許褚、典韋、龐悳、龐淯、閻温
曹彰、曹植、曹熊、曹昂、曹鑠、曹沖、曹據、曹宇
曹林、曹袞、曹玹、曹峻、曹矩、曹幹、曹上、曹彪、曹勤、曹乗、曹整、曹京、曹均、曹棘、曹徽、曹茂、曹協、曹蕤、曹鑑、曹霖、曹礼、曹邕、曹貢、曹儼
王粲、衛覬、劉イ、劉劭、傅嘏、桓階、陳群、陳矯、徐宣、衛臻、盧毓、和洽、常林、楊俊、杜襲、趙儼、裴潜
韓曁、崔林、高柔、孫礼、王観、辛ピ、楊阜、高堂隆、満寵、田豫、牽招、郭淮、徐邈、胡質、王昶、王基
王凌、毋丘倹、諸葛誕、唐咨、ケ艾、鍾会
劉備、劉禅、諸葛亮、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲、龐統、法正
許靖、麋竺、孫乾、簡雍、伊籍、秦宓、董和、劉巴、馬良、陳震、董允、呂乂、劉封、彭ヨウ、廖立、李厳、劉琰、魏延、楊儀
霍峻、王連、向朗、張裔、楊洪、費詩、杜微、周羣、杜瓊、許慈、孟光、来敏、尹黙、李譔、譙周、郤正
黄権、李恢、呂凱、馬忠、王平、張嶷、蒋琬、費禕、姜維、ケ芝、張翼、宗預、楊戯
孫堅、孫策、孫権、孫亮、孫休、孫皓、孫静、孫賁、孫輔、孫翊、孫匡、孫韶、孫桓
張昭、顧雍、諸葛瑾、歩騭、張紘、厳峻、程秉、闞沢、薛綜
周瑜、魯粛、呂蒙、程普、黄蓋、韓当、蒋欽、周泰、陳武、黄襲、甘寧、凌統、徐盛、潘璋、丁奉
朱治、朱然、呂範、朱桓、虞翻、陸績、張温、駱統、陸瑁、吾粲、朱拠、陸遜、孫登、孫慮、孫和、孫覇、孫奮
賀斉、全j、呂岱、周魴、鍾離牧、潘濬、陸凱、是儀、胡綜、呉範、劉惇、趙達、諸葛恪、滕胤、孫峻、孫綝、濮陽興、王蕃、楼玄、賀邵、韋昭、華覈
董卓、李カク、郭、袁紹、袁術、劉表、呂布、臧洪、公孫瓚、陶謙、張楊、公孫度、張燕、張繍、張魯、劉繇、太史慈、士燮、劉焉、劉璋
華佗、杜夔、朱建平、周宣、管輅
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 20:14:45
荒らして良しか。
でもスレタイに沿った荒らし方を考えようぜ。
>>32は漢文の初心者向けじゃないだろ
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 14:18:58
個人的に宋史を訳そうとか考えてるんだが、そういうのは無しかい?
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 14:22:10
あり。
最終的には、ここの住人を調教して
二十五史がすべて日本語で読めるようになるまでにして
三戦復興を果たすのが目標
素晴らしい三戦復興構想だな
論語の漢文と和訳をここに書き写していってもいい?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 14:32:39
>>36 おkおk。
マンネリ感の打破には新規の情報源は多いほどいい
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 15:22:24
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 15:37:11
史記
漢書
後漢書
三国志
晋書
宋書
南斉書
梁書
陳書
魏書
北斉書
周書
隋書
南史
北史
旧唐書
新唐書
旧五代史
新五代史
宋史
遼史
金史
元史
明史
清史稿
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 07:53:24
漢文なんて習った事ないな
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 09:57:27
十八史略
資治通鑑
もよろ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 10:20:14
自然死
病死
事故死
戦死
獄死
刑死
>>39は全部で3749巻
1巻/1日 10年3ヶ月
1巻/2日 20年6ヶ月
1巻/3日 30年9ヶ月
1巻/4日 41年1ヶ月
1巻/5日 51年5ヶ月
1巻/6日 61年8ヶ月
1巻/7日 71年11ヶ月
1年でコンプリートするには10.271巻/1日の仕事が必要
10年でコンプリートするには1.027巻/1日の仕事が必要
つまり、モチベーション、キャパシティのある有志が四、五十人は必要。
無謀極まりない計画だな。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 10:32:09
age
安
@いづクンゾ(どうして〜しようか。反語)
Aいづくニカ、いづコ
Bここニ(そこで、すると)
已
@すでニ(完了の副詞)
Aすでニシテ(そうしておいてから)
Bのみ(のだ、だけだ。限定や断定)
C『以』と同じ
已甚
@はなはダシイ
以
@もっテ
a:〜で。手段。
b:〜を。内容。
c:これをば。
d:〜によって。〜のために。
e:〜を〜とする
f:〜として。根拠。
g:『於』と同じ
h:『使』と同じ
i:『而』と同じ
Aもっテス
Bと、ともニ(『与』と同じ)
Cひきヰテ
Dはなはダ
Eすでニ(『已』と同じ)
以為
@おもヘラク(〜と思う。『為』を省略する場合もある)
矣
@訓読不可。完了、既定、断定の句末詞。
為
@たリ(である)
Aなル
a:〜となる
b:受身。
Bなス
a:〜とする
b:〜ということになる
Cまねス(のようなふりをする)
Dまさに〜せんとス、まさに〜ほっス(『将』『欲』に同じ)
Eもシ(〜となさば)
F倒置法に用いる
G反語の句末詞
Hためニ
a:人の為に
b:理由、原因を示す
c:〜に対して
Iと(『与』と同じ)
Jたすク(〜を助ける)
K『於』と同じ
何以〜為
@なんゾもっテ〜ヲなサン(〜は問題ではない。〜は不必要だ)
唯
@たダ
a:ただ〜だけ
b:ひたすらに願わくば
c:ただ〜にまかせる
Aいへドモ(『雖』に同じ)
惟
@おもフ Aこレ(文頭、句の中間に置いて口調を整える)
Bたダ(『唯』に同じ) Cいへドモ(『雖』に同じ)
意
@そもそも(『抑』に同じ) Aああ
維
@こレ(『惟』のAと同じ)
謂
@いフ
a:話かける
b:評論する
c:名付ける
Aためニ(『為』と同じ)
何謂
@なんすレゾ
謂〜何
@〜ヲいかんセン
一
@いつニ
a:みな。すべて
b:まったく。なんとまあ
c:もっぱら。まったく
Aひとタビ
a:一度
b:もし一度
因
@よリテ
a:頼って
b:基づいて
c:それがため、その機会に
于
@『於』に同じ
烏
@いづクンゾ(反語)
亦
@まタ
a:〜もまた
b:それでもなお
不亦〜乎
@まタ〜ずや(本当に〜ではないか)
焉
@いづクンゾ(『安』と同じ。反語)
Aいづクニ Bなに Cこれニ、これヲ、ここニ(『於此』と同じ。句末詞)
於
@おいテ、よリ A受身 B比較
悪
@いづクニ、いづクニカ(どこに、どういう点に)
Aいづクンゾ(反語) Bああ
悪許
@いづく
嗚呼、嗚乎、烏乎、於乎、于嗟、悪、嘻、譆、ニ、煕、誒、都
@ああ
応
@まさニ〜ベシ(『当』に同じ) Aただチニ
可
@べし(〜してもよい。〜するがよい。〜できる。許可。可能)
Aかナリ(『可也』と同じ) Bばかリ
可也
@かなり(まあよろしい)
何
@なに、いづレ Aなんノ、いづレノ
Bなんゾ
a:何であるか?
b:何故
c:どうして。疑問。反語。
d:なんと〜なことよ
Cなんトナレバ(何故かと言うと) Dいつ
何以、何用
@なにヲもっテ
a:どうして。何故
b:何で。何によって
何為
@なんすレゾ(どうして、いったい、何の為に)
何許、何所、何処
@いづク、いづコ、いづレノところ
何如、何若
@いかん(どうか、どう思うか。程度、状態についての質問)
Aいかナル Bいかんナレバ
何与、何如
@いづレ、いづレゾ(〜は〜と比べてどうか)
果
@はたシテ
a:案の定
b:もし
会
@たまたま(おりしも、丁度その時) Aまさニ〜ベシ、かならズ
会当、会須
@まさニ〜ベシ、かならズ
蓋
@けだシ
a:多分、思うに。
b:そもそも、いったい。言い出しの言葉。
Aなんゾ〜ザル(『盍』と同じ) Bなんゾ(『何』と同じ)
曷
@なに、なんノ、いづレノ、なんゾ(『何』と同じ)
Aなんゾ〜ザル(『盍』と同じ)
曷為
@『何為』と同じ
敢
@あへテ(禁忌、困難を押し切って行う)
不敢
@あへテ〜ズ(進んで〜しない)
敢不
@あへテ〜ラン(反語)
還
@かへッテ(反対に)
Aまタ(また、再び、繰り返し)
Bやがテ(やがて、ついで、まもなく)
既
@すでニ
a:完了の副詞
b:既定を表す。〜した以上は
c:〜した上にまた
Aすでニシテ(そうこうして、そういうことがあって)
Bことごとク
既而、既又、既乃
@すでニシテ(そうこうして、そういうことがあって)
既已
@すでニ Aすでニをハル
豈
@あに
a:反語。『巨』と同じ
b:なんと〜か。推測
豈渠、豈鉅、豈遽
@あに(『豈』と同じ)
豈独
@『独』と同じ
豈特
@『特』と同じ
豈徒
@『徒』と同じ
豈適
@『適』と同じ
幾
@いくバク(数や時間についての質問)
A『豈』のa、bと同じ
Bほとんド
Cちかシ
Dこいねがフ、こいねがハクハ
幾何、幾所、幾許
@いくバク
庶幾
@ちかシ
宜
@よろシク〜ベシ
a:〜のがよい
b:〜はずである。〜であるべきである
Aほとんド(どうも〜のようだ)
及
@およンデ
a:間に合うように。
b:〜の時になって
Aと、およビ
巨、距、詎、鉅、渠、豈渠、豈鉅、奚距、寧渠、庸、庸安、庸何、庸詎
@なんゾ、あに、いづクンゾ
挙
@あゲテ(〜の全体) Aみな
許
@〜ばかりの意味
Aいづコ、いづク(『何』『悪』と同じ)
遽
@にはカニ(慌てて、急いで)
Aなんゾ、あに(反語)
況
@いわンヤ〜ヲヤ(まして〜は尚更だ)
況於
@いわンヤ〜オイテヲヤ(まして〜の場合は尚更だ)
況〜豈〜
@いわンヤ〜あに〜(まして〜はどうして〜であろうか)
教
@しム(させる。使役)
A『交』『叫』と同じ
竟
@ついニ
a:その果てに。結局
b:しかし結局は
Aおフルマデ(〜のはてまで)
竟不
@最後までやらない
郷
@むかフ(近づく)
Aむカッテ
Bさきニ
a:さきほど。以前に
b:モし。仮定
業
@すでニ(〜したものだから。完了の副詞。『已』と同じ)
亟
@すみやカニ Aしばしば
今
@いま
a:現在
b:仮定
Aいまニ(すぐに)
僅
@わづカニ(やっと) Aほとンド(〜に近い)
具
@つぶサニ(もれなく詳しく)
倶
@ともニ(どちらもそろって)
兮
@訓読では読まない。句中、句末に置いて口調を整える
径
@ただチニ(すぐに)
奚
@なに、なんノ、いづク、いづコ、なんゾ。『何』と同じ
奚如、奚若
@いかん、いかナル。『何如』『何若』と同じ
見
@らル(受身)
Aわれ(〜してくださる。行為がこちらに向かって行われる表現)
Bげん(『現』と同じ)
遣
@しム(させる。使役) Aつかわしてせしム(させる。使役)
乎
@『於』と同じ Aか、や、かな(疑問、詠嘆、反語)
固
@かたク Aもとヨリ(元来、本来的に。言うまでもなく)
Bしばらク(まあちょっと)
故
@ゆゑ、ゆゑニ
Aことさラニ(わざと、わざわざ)
Bもと(以前に)
Cもとノ(以前の)
Dもとヨリ
胡
@なに、なんゾ(『何』と同じ)
顧
@かへッテ(反対に) Aたダ
向
@むカフ、なんなんトス、ちかシ
Aさきニ
a:さきほど。以前に
b:仮定。『向者』と同じ
更
@こもごも(代わる代わる)
Aあらたメテ
Bさらニ
a:その上、再び
b:ますます
c:『更不』『更無』は否定の強調
肯
@がへんズ、あへテ(承知する。する意志を持つ)
苟
@いやしクモ
a:もし、仮にも
b:まあまあ。なんとかまあ
Aかりそめニモ(いい加減な態度で)
盍、闔
@なんゾ〜ザル(どうしてしないのか。したらどうか。『何不』と同じ)
Aなんゾ(『何』と同じ)
合
@まさニ〜ベシ(『当』と同じ)
渾
@すべテ(ひっくるめて、すっかり、まるで)
乍
@たちまチ
a:不意に
b:〜したかと思うと〜する
差
@やや(比較的。少し)
嗟
@ああ(感嘆詞)
哉
@かな、や、か(詠嘆、反語、疑問)
載
@すなはチ(口調を整える。意味はない)
纔、裁、財、才
@わづカニ
a:やっと
b:少し
数
@しばしば
暫、蹔
@にはカニ、たちまチ Aしばらク
之
@の
Aこれ
Bこれガ(それの、彼の)
Cここ
Dこノ
Eこレ(倒置法に使う。意味はない)
F『於』と同じ
此
@こレ(この人、この物、この事)
Aここ(この場所、場合)
Bこノ
Cここニ(『斯』『則』と同じ)
使
@しム(使役)
Aしメバ(『向使』『郷使』『借使』『籍使』と同じ)
始
@はじメテ
a:この時始めて
b:かくて始めて。かくてこそ
c:最初
祇、秖、衹
@まさニ、たダ(まさしく〜だけである)
啻、翅
@ただ
a:『不啻』(ただ〜だけではない)
b:『奚翅』(反語)
c:〜もただならず。aの倒置
斯
@これ、ここ、この Aここに、すなはち
如斯
@かくのごとし
而
@しかウシテ、しかモ、しかルニ、しかルヲ
Aすなはチ
a:『乃』と同じ
b:『則』と同じ
Bなんぢ
Cよク(『能』と同じ)
Dと(『与』と同じ)
Eもシ(『如』と同じ)
Fごとシ(『如』と同じ)
G而来、而後は以来、以後と同じ
H句末で口調を整える。訓読しない
耳
@のみ(〜にすぎない。『而已』と同じ。限定や断定)
自
@みづかラ、おのづかラ(訓読では大概おのづから)
a:自力で、自分で
b:自分で自分を、自分で自分に
c:それ自体。それはそれとして
d:それぞれに
Aよリ
Bいへども(『雖』と同じ)
自非
@あらザルよリハ(〜でない限りは)
茲
@これ、この、ここ、ここに(『此』と同じ)
Aますます(『滋』と同じ)
爾
@なんぢ
Aしかリ、かくのごとシ
Bこノ
Cのみ(『耳』と同じ)
者
@もの
a:行為や状態の主体を表す
b:理由
C:状態
Aトイフもの、ナルもの(それ自体)
Bこと
不者
@しからずンバ(そうでない時には)
何者
@なんトナレバ
借
@かリニ(仮定)
若
@もシ、もシクハ、ごとシ(『如』と同じ)
Aなんぢ
Bその
Cかくのごとク
Dかの〜ごとキハ。もシそれ(〜ということになると)
E接尾語
不若
@しかず
豈若
@あにしカンヤ(反語。『不若』と同じ意味)
莫若
@しクハなシ(〜について言えば〜に及ぶものはない)
若何
@いかんせん(『如何』と同じ)
何若
@いかん。いかなる
若為
@いかんゾ。いかニ、いかん(『如何』と同じ)
若干
@これこれの数
若而人
@かくのごときひと
須
@まツ、もチフ(必要とする)
Aすべからく〜べし(〜することが必要)
不須
@もちヒず(必要としない)
驟
@しばしば Aにはカニ
従
@よリ
Aしたがッテ
a:このことによって
b:あとからすぐ
孰
@いづレ Aたれ
孰与、孰若
@いづレゾ(〜は〜と比べてどうか)
且
@かツ
a:その上に。重複を表す
b:〜しながら〜する
c:〜でさえもなお。『且猶』と同じ
Aかつハ(あるいは、それとも)
Bそもそも(いったい)
Cちかシ
Dまさニ〜せんとす(『将』と同じ)
初
@はじメテ
a:『始』と同じ。
b:最初に
c:やっと〜したばかり
Aはじメ
a:さて話は戻って
b:事件の初期に
c:はじめは
初不、初無
@はじメヨリ〜なシ(最初から一度もない)
所
@ところ
a:行為の対象、内容を指す
b:受身
c:もし〜の場合は
Aばかり(訓読出来ない時は音読)
所以
@ゆゑん(〜を以って〜する所の意味。理由、原因、根拠、立場、手段、目的を表す)
庶
@こいねがハクハ、ちかシ(どうか〜したいものである、〜の見込みがある、〜に近い)
諸
@もろもろノ(色々多くの)
Aこれヲ〜に(『之於』と同じ)
Bこれヲ〜カ、これヲ〜ヤ(『之乎』と同じ)
Bこれ
D『於』『乎』と同じ
E口調を整える。意味はない
如
@もシ(仮定)
Aもシクハ(または、あるいは)
Bごとシ(〜のようだ)
Cしカンヤ(反語。『不如』と同じ意味)
Dまさに〜せんとス、まさに〜せんとほッス(〜しようと思う)
E『而』と同じ
F接尾語
不如
@しカず(〜は〜に及ばない)
如何
@いかん、いかんゾ(どうして〜しようか。反語)
Aいかんセン(〜をどうしようか)
尚
@なホ
a:今もなお
b:さらに、その上に
c:それでもなお。『尚猶』『猶尚』と同じ
Aこひねがハクハ
Bもシ
C『尚友』『尚論』は『上』の意味。遡って。
将
@まさニ〜せんとす(〜しようと思う。〜するつもりだ。〜しそうだ。〜するであろう)
Aひきヰテ(『以』と同じ)
Bもっテ(『以』と同じ)
Cはタ、そもそも
a:それとも。あるいは
b:もしかすると
稍
@やや(少し、次第に)
嘗
@かつテ
a:過去の経験を表す。〜したことがあった
b:『未嘗』今までに〜したことがない
c:『未嘗不』今までに〜しなかったことがない
d:『何嘗不』『曷嘗不』反語。『未嘗不』と同じ
Aこころミニ
縦
@たとヒ
仍
@よル(そのままに従う。『因』と同じ)
Aよッテ(それがため、したがって)
Bしきリニ(重ね重ね)
剰、賸
@あまつさヘ(この上はただ〜するだけだ)
Aなホ(余計に)
浸、寖
@やうやク(次第に)
新
@あらタニ(ごく最近。〜したばかり)
審
@まことニ
a:ほんとうに
b:ほんとうにもし。仮定
尽
@ことごとク
甚
@はなはダ Aなんノ
尋
@つイデ(やがて、その後間もなく)
垂
@なんなんトス、ちかシ
遂
@つひニ
a:その結果。『於此』『乃』と続ける場合もある。
b:結局
誰、誰人
@たれ
誰昔
@むかし
雖
@いへドモ(〜であっても。〜であるけれども)
随
@したがッテ(あとからすぐに)
正、政
@まさニ
a:まさしく、丁度ぴったり
b:丁度その時、おりしも
Aたとヒ
誠
@まことニ
a:本当に
b:本当にもし。仮定
籍
@かリニ、もシ、たとヒ(仮定。『籍使』『籍第令』と同じ)
窃
@ひそカニ
a:こっそりと、内緒で
b:心ひそかに、はばかりながら、恐れながら
旃
@これヲ(『之焉』の音の詰まったもの)
旋
@ついデ、やがテ(それから間もなく)
薦、荐
@しきリニ
善
@よシ、よクス(上手だ。副詞としてよクとも読む)
Aよク
a:好んで〜する
b:上手く、気をつけて
然
@しかリ(その通りだ。正しい)
Aしかレバ、しかクシテ(『乃』『然』『後』と同じ)
Bしかレドモ、しかクシテ(そうではあるが)
Cしかレバ(そうだとすると)
Dしかク(このように)
Eこれニ、ここニ(『焉』と同じ)
F接尾語
然後
@しかルのち(かくして、そこで初めて)
然而
@しかリしかウシテ、しかルニ、しかレドモ
若〜然
@ごとク〜しかリ
漸
@ようやク(次第に。じりじりと)
素
@もト(まえまえから。平素)
A実質の伴わないという意味
争
@いかでか(反語)
争奈、争那
@いかんセン
相
@あひ
a:たがいに
b:相手を
曽
@かつテ(『嘗』と同じ)
Aすなはチ(かえって。なんとまあ。『乃』の@-cと同じ)
則
@すなはチ
a:〜レバ則。その時には
b:区別して述べる
c:かくて。そこで。それに。『乃』の@-aと同じ
Aたとヒ、もシ(『即』と同じ)
即
@すなはチ
a:つまり、取りも直さず
b:『レバ則』と同じ
c:すぐに
e:即時、すぐその時
Aもシ、たとヒ
趣
@すみヤカニ
属
@たまたま。まさニ(『適』と同じ。丁度いま、おりしも、たった今、今したばかり。『属適』と同じ)
卒
@にはカニ(不意に) Aつひニ
率
@おほむね(『大率』とも)
多
@おほシ
Aたトス(立派だ)
Bおほク
a:沢山
b:大部分。多くは
Cまさニ。たダ(まさしく〜だけである。『祇』と同じ)
太、泰
@はなはダ(〜にすぎる。しすぎる)
殆
@ほとんド Aちかシ
乃、迺
@すなはチ
a:かくて。それで。そこではじめて
b:それに。かえって
c:意外にも。何とまあ
d:やっと。わずかに
e:これは。これぞ
f:〜ということになると
g:口調を整える。意味はない
Aなんぢノ
Bそノ
奈何、柰何
@いかんセン(『如何』『若何』と同じ)
第
@たダ(ただ〜せよ)
第令
@たとヒ(仮定)
但、亶
@たダ
a:ただ〜だけ
b:むなしく。いたずらに。何もしないで。何の効果もなく
c:例外的条件を述べる。ただし
端
@まさニ(確かに、丁度)
無端
@はしなクモ(言われもなく、何故か分からぬままに)
輙
@すなはチ
a:その度にいつも
b:すぐに、容易く
c:気軽に、みだりに、容易く
直
@たダ Aただチニ
非直
@たダニ〜ノミニあらズ
豈直、幾直
@あにたダ〜ノミナランヤ
鼎
@まさニ(丁度、今や)
適
@たまたま、まさニ
a:丁度、まさしく、丁度その時
b:〜するやいなや
Aたダ、たダニ(ただ〜だけ。『啻』と同じ)
転
@うたタ(次第に。次から次に)
徒
@たダ。たダニ
a:ただ〜だけ
b:かえって
Aいたづラニ(むなしく。何の効果もなく)
非徒
@たダニ〜ノミニあらズ(ただ〜だけでない)
豈徒
@あにたダ〜ノミナランヤ(反語)
都
@すべテ Aああ
当
@まさニ〜ベシ(〜すべきである。〜のはずである)
Aあタリテ
a:丁度〜の時に
b:〜の通り道に塞がって
c:もシ。『儻』と同じ
儻、党
@あるイハ(もしかすると、時には〜もある) Aもシ
動
@ややモスレバ、つねニ(その度にいつも)
道、導
@よリ(起点を示す。『由』『従』と同じ)
Aよッテ、へテ(『由』と同じ。媒介、手段、原因などを示す)
特
@たダ(ただ〜だけ)
Aとくニ(特別に)
非特
@ただニ〜ノミニあらズ(ただ〜だけではない)
豈特
@あにただニ〜ノミナラン(反語)
得
@う(出来る。機会に恵まれて出来る)
独
@ひとリ
a:ひとりだけ
b:ただ〜だけ。『唯独』『独唯』と同じ。
c:『豈独』と同じ。反語
e:ただ〜だけではない。『非独』と同じ。
Aなんゾ
寧
@むしロ(どちらかといえば〜の方が望ましい)
Aすなはチ(『乃』の@-bと同じ)
Bいづクンゾ、あに
a:反語
b:なんとまあ〜か。推測
無寧
@むしロ〜なカラン(反語。『寧』と同じ意味)
能
@よク(可能)
A『而』と同じ
Bすなはチ(それに。かえって。『乃』の@-bと同じ)
不能
@あたハず(不可能)
頗
@すこぶル(かなり。やや多い程度)
莫
@なシ Aなカレ
比
@しきリニ(引き続いて)
A比年は連年、毎年の意味
Bちかゴロ Cおよンデ、ころホイ Dためニ
非
@あらズ
a:でない。なのでない
b:あらズンバ、なしでは
c:あらザルヨリハ(『自非』と同じ)
俾
@しム(『使』と同じ)
被
@らル(受身)
微
@あらズ Aなカリセバ、なクトモ、なクンバ Bひそカニ
靡
@なシ Aなカレ
彌、弥
@いよいよ
畢
@ことごとク Aをはル
不
@ず(〜しない、〜でない。行為や状態の否定)
Aいなヤ(疑問)
不必、不常、不倶
@かならズシモ〜ず(副詞が『不』の下にあれば部分否定)
不亦
@『亦』と同じ
不者
@『者』と同じ
夫
@かれ(『彼』と同じ)
Aかの(その。この)
Bかのひと(夫人)
Cそれ(いったい。言い出しの言葉)
Dかな(詠嘆)
亡
@なシ
a:『無』と同じ
b:〜にない。『不在』と同じ
毋
@なシ Aなカレ
無
@なシ Aなカレ Bトなク(〜の区別なく)
復
@まタ(さらに。ふたたび)
不復
@二度とは〜しない
非復、無復
@二度とは〜ではない。〜がない
弗
@『不』と同じ
勿
@なシ Aなカレ
蔑
@なシ
便
@すなハチ
a:するとすぐに
b:そのままで。『即』の@-aに同じ
甫
@はじメテ(やっとし始めたばかり)
方
@まさニ(いまや。おりしも)
Aまさニセントス(しようとする)
Bあたリ(丁度〜の時に)
Cならビ(ならんで。ともどもに。『並』と同じ)
Dあまねク(『旁』と同じ)
罔
@なシ
Aなカレ
暴
@にはカニ(不意に)
凡
@およソ
a:全般的に、総括的に
b:全部で
毎
@ごとニ Aつねニ Bいへドモ
末
@なシ
未
@いまだ〜ズ(まだ〜していない。『不』よりも婉曲な否定)
Aいまだシ
也
@なり(である。なのである)
Aや
a:は。のは。時には。指示、提示
b:一字人名に対して添えて口調を整える
c:疑問
d:〜なことよ
e:反語
Bか(疑問)
邪、耶
@か、や(疑問、詠嘆、反語)
由
@よリ、よっテ、よル(起点、理由、由来などを示す)
Aなホ(『猶』と同じ)
Bなホ〜ゴトシ(『猶』の@と同じ)
愈、逾、愈益
@いよいよ
又
@また(そのうえに、さらに)
尤
@もっとモ(とくに)
有
@あリ Aあるイハ(『或』と同じ) Bたリ(『為』と同じ)
Cまた
a:『又』と同じ
b:表現の調整
D一字の名詞の前に接頭語として付与。意味はない
猶
@なホ〜ゴトシ(似ている)
Aなホ
a:まだやはり、それでもなお
b:〜でさえなお
Bよリ(『由』と同じ) Cひとシク
繇
@よリ、よル(『由』と同じ)
与
@と Aともニ Bためニ Cおいテ Dか、や、かナ(疑問、詠嘆、反語) Eみな(みな、ことごとく)
与、与其〜不若、不如、豈若、寧
@よリハ(〜するよりは〜する方がいい)
用
@もっテ(『以』と同じ)
何用、奚用、焉用
@なにヲもっテ(『何以』と同じ)
是用、茲用
@ここヲもっテ(こういう訳で。『是以』と同じ)
用是、用此
@これヲもっテ(これで、これが為に。『以此』と同じ)
容
@べし(〜でありうる。〜かもしれない)
庸
@いづクンゾ、なんゾ、あに(反語)
抑
@そもそも
a:あるいは。それとも
b:いったい。さて
c:それにしても、
欲
@ほっス
a:したいと思う。しようとする
b:しそうである
c:望ましい
良
@まことニ Aやや(かなり)
聊
@いささカ(ちょっと、仮初めに)
令
@しム
a:させる。使役
b:〜としたら。仮定
Aもシ(〜としたら。仮定)
劣
@わづカニ(やっと、それだけ)
猥
@みだリニ(まげて、仮初めに) Aにはカニ
或
@あるイハ
a:時には〜もある
b:ひょっとすると。『或者』と同じ
Aあるヒト(ある人) Bあリ
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚) ・・・
ちょうど夕方まで角川新字源と睨めっこしていたのだが、
これはよく頑張ったなw
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宋書
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清史稿
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**本紀
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**志
[[律暦志一>後漢書志第一]]、[[二>後漢書志第二]]、[[三>後漢書志第三]]
[[礼儀志一>後漢書志第四]]、[[二>後漢書志第五]]、[[三>後漢書志第六]]
[[祭祀志一>後漢書志第七]]、[[二>後漢書志第八]]、[[三>後漢書志第九]]
[[天文志一>後漢書志第十]]、[[二>後漢書志第十一]]、[[三>後漢書志第十二]]
[[五行志一>後漢書志第十三]]、[[二>後漢書志第十四]]、[[三>後漢書志第十五]]、[[四>後漢書志第十六]]、[[五>後漢書志第十七]]、[[六>後漢書志第十八]]
[[郡国志一>後漢書志第十九]]、[[二>後漢書志第二十]]、[[三>後漢書志第二十一]]、[[四>後漢書志第二十二]]、[[五>後漢書志第二十三]]
[[百官志一>後漢書志第二十四]]、[[二>後漢書志第二十五]]、[[三>後漢書志第二十六]]、[[四>後漢書志第二十七]]、[[五>後漢書志第二十八]]
[[輿服志一>後漢書志第二十九]]、[[二>後漢書志第三十]]
**列伝
[[劉玄劉盆子列伝]]、[[王劉張李彭盧列伝]]、[[隗囂公孫述列伝]]、[[宗室四王三侯列伝]]、[[李王ケ来列伝]]
[[ケ寇列伝]]、[[馮岑賈列伝]]、[[呉蓋陳臧列伝]]、[[耿弇列伝]]、[[銚期王覇祭遵列伝]]、[[任李万邳劉耿列伝]]、[[朱景王杜馬劉傅堅馬列伝]]、[[竇融列伝]]、[[馬援列伝]]
[[卓魯魏劉列伝]]、[[伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝]]、[[宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝]]、[[桓譚列伝]]、[[馮衍伝]]
[[申屠剛鮑永郅ツ列伝]]、[[蘇竟楊厚列伝]]、[[郎襄楷列伝]]、[[郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列伝]]、[[樊宏陰識列伝]]、[[朱馮虞鄭周列伝]]
[[梁統列伝]]、[[張曹鄭列伝]]、[[鄭范陳賈張列伝]]、[[桓栄丁鴻列伝]]、[[張法滕馮度楊列伝]]、[[劉趙淳于江劉周趙列伝]]、[[班彪列伝]]、[[第五鍾離宋寒列伝]]
[[光武十王列伝]]、[[朱楽何列伝]]、[[ケ張徐張胡列伝]]、[[袁張韓周列伝]]、[[郭陳列伝]]、[[班梁列伝]]、[[楊李翟應霍爰徐列伝]]、[[王充王符仲長統列伝]]
[[明八王列伝]]、[[李陳龐陳橋列伝]]、[[崔駰列伝]]、[[周黄徐姜申屠列伝]]、[[楊震列伝]]、[[章帝八王伝]]、[[張王种陳列伝]]
[[杜欒劉李劉謝列伝]]、[[虞傅蓋臧列伝]]、[[張衡列伝]]、[[馬融列伝]]、[[蔡邕列伝]]、[[左周黄列伝]]、[[荀韓鍾陳列伝]]
[[李杜列伝]]、[[呉延史盧趙列伝]]、[[皇甫張段列伝]]、[[陳王列伝]]、[[党錮列伝]]、[[郭符許列伝]]、[[竇何列伝]]、[[鄭孔荀列伝]]
[[皇甫嵩朱儁列伝]]、[[董卓列伝]]、[[劉虞公孫瓚陶謙列伝]]、[[袁紹劉表列伝]]、[[袁紹劉表列伝]]、[[劉焉袁術呂布列伝]]
[[循吏列伝]]、[[酷吏列伝]]、[[宦者列伝]]、[[儒林列伝]]、[[文苑列伝]]、[[独行列伝]]、[[方術列伝]]、[[逸民列伝]]、[[列女伝]]
[[東夷列伝]]、[[南蛮西南夷列伝]]、[[西羌伝]]、[[西域伝]]、[[南匈奴列伝]]、[[烏桓鮮卑列伝]]
**魏書本紀
[[武帝紀>三国志魏書一]][[文帝紀>三国志魏書二]][[明帝紀>三国志魏書三]][[三少帝紀>三国志魏書四]]
**魏書列伝
[[后妃伝>三国志魏書五]][[董二袁劉伝>三国志魏書六]][[呂布臧洪伝>三国志魏書七]][[二公孫陶四張伝>三国志魏書八]]
[[諸夏侯曹伝>三国志魏書九]][[荀ケ荀攸賈詡伝>三国志魏書十]][[袁張涼国田王邴管伝>三国志魏書十一]]
[[崔毛徐何邢鮑司馬伝>三国志魏書十二]][[鍾繇華歆王朗伝>三国志魏書十三]][[程郭董劉蒋劉伝>三国志魏書十四]]
[[劉司馬梁張温賈伝>三国志魏書十五]][[任蘇杜鄭倉伝>三国志魏書十六]][[張楽于張徐伝>三国志魏書十七]]
[[二李臧文呂許典二龐閻伝>三国志魏書十八]][[任城陳蕭王伝>三国志魏書十九]][[武文世王公伝>三国志魏書二十]]
[[王衛二劉傅伝>三国志魏書二十一]][[桓二陳徐衛盧伝>三国志魏書二十二]][[和常楊杜趙裴伝>三国志魏書二十三]]
[[韓崔高孫王伝>三国志魏書二十四]][[辛毗楊阜高堂隆伝>三国志魏書二十五]][[満田牽郭伝>三国志魏書二十六]]
[[徐胡二王伝>三国志魏書二十七]][[王毋丘諸葛ケ鍾伝>三国志魏書二十八]][[方技伝>三国志魏書二十九]][[烏丸鮮卑東夷伝>三国志魏書三十]]
**蜀書列伝
[[劉二牧伝>三国志蜀書一]][[先主伝>三国志蜀書二]][[後主伝>三国志蜀書三]][[二主妃子伝>三国志蜀書四]][[諸葛亮伝>三国志蜀書五]]
[[関張馬黄趙伝>三国志蜀書六]][[龐統法正伝>三国志蜀書七]][[許麋孫簡伊秦伝>三国志蜀書八]][[董劉馬陳董呂伝>三国志蜀書九]]
[[劉彭廖李劉魏楊伝>三国志蜀書十]][[霍王向張楊費伝>三国志蜀書十一]][[杜周杜許孟来尹李譙郤伝>三国志蜀書十二]]
[[黄李呂馬王張伝>三国志蜀書十三]][[蒋琬費禕姜維伝>三国志蜀書十四]][[ケ張宗楊伝>三国志蜀書十五]]
**呉書
[[孫破虜討逆伝>三国志呉書一]][[呉主伝>三国志呉書二]][[三嗣主伝>三国志呉書三]][[劉繇太史慈士燮伝>三国志呉書四]][[妃嬪伝>三国志呉書五]]
[[宗室伝>三国志呉書六]][[張顧諸葛歩伝>三国志呉書七]][[張厳程闞薛伝>三国志呉書八]][[周瑜魯肅呂蒙伝>三国志呉書九]]
[[程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝>三国志呉書十]][[朱治朱然呂範朱桓伝>三国志呉書十一]][[虞陸張駱陸吾朱伝>三国志呉書十二]]
[[陸遜伝>三国志呉書十三]][[呉主五子伝>三国志呉書十四]][[賀全呂周鍾離伝>三国志呉書十五]][[潘濬陸凱伝>三国志呉書十六]]
[[是儀胡綜伝>三国志呉書十七]][[呉範劉惇趙達伝>三国志呉書十八]][[諸葛滕二孫濮陽伝>三国志呉書十九]][[王楼賀韋華伝>三国志呉書二十]]
**帝紀
[[宣帝紀>晋書帝紀第一]]、[[景帝文帝紀>晋書帝紀第二]]、[[武帝紀>晋書帝紀第三]]、[[恵帝紀>晋書帝紀第四]]、[[懐帝愍帝紀>晋書帝紀第五]]
[[元帝明帝紀>晋書帝紀第六]]、[[成帝康帝紀>晋書帝紀第七]]、[[穆帝哀帝廃帝海西公紀>晋書帝紀第八]]、[[簡文帝孝武帝紀>晋書帝紀第九]]、[[安帝恭帝紀>晋書帝紀第十]]
**志
[[天文志一>晋書志第一]]、[[二>晋書志第二]]、[[三>晋書志第三]]
[[地理志一>晋書志第四]]、[[二>晋書志第五]]
[[律暦志一>晋書志第六]]、[[二>晋書志第七]]、[[三>晋書志第八]]
[[礼志一>晋書志第九]]、[[二>晋書志第十]]、[[三>晋書志第十一]]
[[楽志一>晋書志第十二]]、[[二>晋書志第十三]]
[[職官志>晋書志第十四]]
[[輿服志>晋書志第十五]]
[[食貨志>晋書志第十六]]
[[五行志一>晋書志第十七]]、[[二>晋書志第十八]]、[[三>晋書志第十九]]
[[刑法志>晋書志第二十]]
**列伝
[[后妃列伝一>晋書列伝第一]]、[[二>晋書列伝第二]]
[[王祥、鄭沖、何曽、石苞列伝>晋書列伝第三]]
[[羊祜、杜預列伝>晋書列伝第四]]
[[陳騫、裴秀列伝>晋書列伝第五]]
[[衛瓘、張華列伝>晋書列伝第六]]
[[宗室列伝>晋書列伝第七]]
[[宣五王、文六王列伝>晋書列伝第八]]
[[王沈、荀、荀勖、馮紞列伝>晋書列伝第九]]
[[賈充、楊駿列伝>晋書列伝第十]]
[[魏舒、李憙、劉寔、高光列伝>晋書列伝第十一]]
[[王渾、王濬、唐彬列伝>晋書列伝第十二]]
[[山濤、王戎、楽広列伝>晋書列伝第十三]]
[[鄭袤、李胤、盧欽、華表、石鑒、温羨列伝>晋書列伝第十四]]
[[劉毅、和嶠、武陔、任ト、崔洪、郭奕、侯史光、何攀列伝>晋書列伝第十五]]
[[劉頌、李重列伝>晋書列伝第十六]]
[[傅玄列伝>晋書列伝第十七]]
[[向雄、段灼、閻纘列伝>晋書列伝第十八]]
[[阮籍、嵇康、向秀、劉伶、謝鯤、胡毋輔之、畢卓、王尼、羊曼、光逸列伝>晋書列伝第十九]]
[[曹志、庾峻、郭象、庾純、秦秀列伝>晋書列伝第二十]]
[[皇甫謐、摯虞、束皙、王接列伝>晋書列伝第二十一]]
[[郤詵、阮种、華譚列伝>晋書列伝第二十二]]
[[愍懐太子列伝>晋書列伝第二十三]]
[[陸機、陸雲列伝>晋書列伝第二十四]]
[[夏侯湛、潘岳、張載列伝>晋書列伝第二十五]]
[[江統、孫楚列伝>晋書列伝第二十六]]
[[羅憲、滕修、馬隆、胡奮、陶璜、吾彦、張光、趙誘列伝>晋書列伝第二十七]]
[[周処、周訪列伝>晋書列伝第二十八]]
[[汝南王亮、楚王瑋、趙王倫、斉王冏、長沙王乂、成都王潁、河間王顒、東海王越列伝>晋書列伝第二十九]]
[[解系、孫旂、孟観、牽秀、繆播、皇甫重、張輔、李含、張方、閻鼎、索靖、賈疋列伝>晋書列伝第三十]]
[[周浚、成公簡、苟晞、華軼、劉喬列伝>晋書列伝第三十一]]
[[劉琨、祖逖列伝>晋書列伝第三十二]]
[[邵續、李矩、段匹磾、魏浚、郭黙列伝>晋書列伝第三十三]]
[[武十三王、元四王、簡文三子列伝>晋書列伝第三十四]]
[[王導列伝>晋書列伝第三十五]]
[[劉弘、陶侃列伝>晋書列伝第三十六]]
[[温嶠、郗鑒列伝>晋書列伝第三十七]]
[[顧栄、紀瞻、賀循、薛兼列伝>晋書列伝第三十八]]
[[劉隗、刁協、戴若思、周列伝>晋書列伝第三十九]]
[[応・、甘卓、卞壼、劉超、鍾雅列伝>晋書列伝第四十]]
[[孫恵、熊遠、王鑒、陳頵、高ッ列伝>晋書列伝第四十一]]
[[郭璞、葛洪列伝>晋書列伝第四十二]]
[[庾亮列伝>晋書列伝第四十三]]
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[[王湛、荀ッ、范汪、劉惔、張憑、韓伯列伝>晋書列伝第四十五]]
[[王舒、王廙、虞潭、顧衆、張闓列伝>晋書列伝第四十六]]
[[陸曄、何充、褚翜、蔡謨、諸葛恢、殷浩列伝>晋書列伝第四十七]]
[[孔愉、丁潭、陶回列伝>晋書列伝第四十八]]
[[謝尚、謝安列伝>晋書列伝第四十九]]
[[王義之列伝>晋書列伝第五十]]
[[王遜、蔡豹、羊鑒、劉胤、桓宣、朱伺、毛宝、劉遐、ケ嶽、朱序列伝>晋書列伝第五十一]]
[[陳寿、王長文、虞溥、司馬彪、王隠、虞預、孫盛、干宝、ケ粲、謝沈、習鑿歯、徐広列伝>晋書列伝第五十二]]
[[顧和、袁瑰、江逌、車胤、殷、王雅列伝>晋書列伝第五十三]]
[[王恭、庾楷、劉牢之、殷仲堪、楊佺期列伝>晋書列伝第五十四]]
[[劉毅、諸葛長民、何無忌、檀憑之、魏詠之列伝>晋書列伝第五十五]]
[[張軌列伝>晋書列伝第五十六]]
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[[孝友列伝>晋書列伝第五十八]]
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[[良吏列伝>晋書列伝第六十]]
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[[芸術列伝>晋書列伝第六十五]]
[[列女列伝>晋書列伝第六十六]]
[[四夷列伝>晋書列伝第六十七]]
[[王敦、桓温、桓熙、桓済、桓歆、桓褘、桓偉列伝>晋書列伝第六十八]]
[[桓玄、卞範之、殷仲文列伝>晋書列伝第六十九]]
[[王弥、張昌、陳敏、王如、杜曽、杜弢、王機、祖約、蘇峻、孫恩、盧循、譙縦列伝>晋書列伝第七十]]
**戴記
[[劉元海戴記>晋書戴記第一]]
[[劉聡戴記>晋書戴記第二]]
[[劉曜戴記>晋書戴記第三]]
[[石勒戴記一>晋書戴記第四]]、[[二>晋書戴記第五]]
[[石季龍戴記一>晋書戴記第六]]、[[二>晋書戴記第七]]
[[慕容廆戴記>晋書戴記第八]]
[[慕容皝戴記>晋書戴記第九]]
[[慕容儁戴記>晋書戴記第十]]
[[慕容暐戴記>晋書戴記第十一]]
[[苻洪、苻健、苻生戴記>晋書戴記第十二]]
[[苻堅戴記一>晋書戴記第十三]]、[[二>晋書戴記第十四]]
[[苻丕、苻登戴記>晋書戴記第十五]]
[[姚弋仲、姚襄、姚萇戴記>晋書戴記第十六]]
[[姚興戴記一>晋書戴記第十七]]、[[二>晋書戴記第十八]]
[[姚泓戴記>晋書戴記第十九]]
[[李特、李流戴記>晋書戴記第二十]]
[[李雄、李班、李期、李寿、李勢戴記>晋書戴記第二十一]]
[[呂光、呂纂、呂隆戴記>晋書戴記第二十二]]
[[慕容垂戴記>晋書戴記第二十三]]
[[慕容宝、慕容盛、慕容熙、慕容雲戴記>晋書戴記第二十四]]
[[乞伏国仁、乞伏乾帰、乞伏熾磐、馮跋戴記>晋書戴記第二十五]]
[[禿髪烏孤、禿髪利鹿孤、禿髪■檀戴記>晋書戴記第二十六]]
[[慕容徳戴記>晋書戴記第二十七]]
[[慕容超戴記>晋書戴記第二十八]]
[[沮渠蒙遜戴記>晋書戴記第二十九]]
[[赫連勃勃戴記>晋書戴記第三十]]
**本紀
[[武帝本紀一>宋書本紀第一]]、[[二>宋書本紀第二]]、[[三>宋書本紀第三]]
[[少帝紀>宋書本紀第四]]、[[文帝紀>宋書本紀第五]]、[[孝武帝紀>宋書本紀第六]]、[[前廃帝紀>宋書本紀第七]]、[[明帝紀>宋書本紀第八]]、[[後廃帝紀>宋書本紀第九]]、[[順帝紀>宋書本紀第十]]
**志
[[志序、律暦志一>宋書志第一]]、[[二>宋書志第二]]、[[三>宋書志第三]]
[[礼志一>宋書志第四]]、[[二>宋書志第五]]、[[三>宋書志第六]]、[[四>宋書志第七]]、[[五>宋書志第八]]
[[楽志一>宋書志第九]]、[[二>宋書志第十]]、[[三>宋書志第十一]]、[[四>宋書志第十二]]
[[天文志一>宋書志第十三]]、[[二>宋書志第十四]]、[[三>宋書志第十五]]、[[四>宋書志第十六]]
[[符瑞志一>宋書志第十七]]、[[二>宋書志第十八]]、[[三>宋書志第十九]]
[[五行志一>宋書志第二十]]、[[二>宋書志第二十一]]、[[三>宋書志第二十二]]、[[四>宋書志第二十三]]、[[五>宋書志第二十四]]
[[州郡志一>宋書志第二十五]]、[[二>宋書志第二十六]]、[[三>宋書志第二十七]]、[[四>宋書志第二十八]]
[[百官志一>宋書志第二十九]]、[[二>宋書志第三十]]
**列伝
[[后妃列伝>宋書列伝第一]]
[[劉穆之、王弘列伝>宋書列伝第二]]
[[徐羨之、傅亮、檀道済列伝>宋書列伝第三]]
[[謝晦列伝>宋書列伝第四]]
[[王鎮悪、檀韶、向靖、劉懐慎、劉粹列伝>宋書列伝第五]]
[[趙倫之、王懿、張邵列伝>宋書列伝第六]]
[[劉懐肅、孟懐玉、劉敬宣、檀祗列伝>宋書列伝第七]]
[[朱齢石、毛修之、傅弘之列伝>宋書列伝第八]]
[[孫処、蒯恩、劉鍾、虞丘進列伝>宋書列伝第九]]
[[胡藩、劉康祖、垣護之、張興世列伝>宋書列伝第十]]
[[宗室列伝>宋書列伝第十一]]
[[庾悦、王誕、謝景仁、袁湛、褚叔度列伝>宋書列伝第十二]]
[[張茂度、庾登之、謝方明、江夷列伝>宋書列伝第十三]]
[[孔季恭、羊玄保、沈曇慶列伝>宋書列伝第十四]]
[[臧Z、徐広、傅隆列伝>宋書列伝第十五]]
[[謝瞻、孔琳之列伝>宋書列伝第十六]]
[[蔡廓列伝>宋書列伝第十七]]
[[王恵、謝弘微、王球列伝>宋書列伝第十八]]
[[殷淳、張暢、何偃、江智淵列伝>宋書列伝第十九]]
[[范泰、王准之、王韶之、荀伯子列伝>宋書列伝第二十]]
[[武三王列伝>宋書列伝第二十一]]
[[羊欣、張敷、王微列伝>宋書列伝第二十二]]
[[王華、王曇首、殷景仁、沈演之列伝>宋書列伝第二十三]]
[[鄭鮮之、裴松之、何承天列伝>宋書列伝第二十四]]
[[吉翰、劉道産、杜驥、申恬列伝>宋書列伝第二十五]]
[[王敬弘、何尚之列伝>宋書列伝第二十六]]
[[謝霊運列伝>宋書列伝第二十七]]
[[文二王列伝>宋書列伝第二十八]]
[[劉湛、范曄列伝>宋書列伝第二十九]]
[[袁淑列伝>宋書列伝第三十]]
[[徐湛之、江湛、王僧綽列伝>宋書列伝第三十一]]
[[文九王列伝>宋書列伝第三十二]]
[[顔延之列伝>宋書列伝第三十三]]
[[臧質、魯爽、沈攸之列伝>宋書列伝第三十四]]
[[王僧達、顔竣列伝>宋書列伝第三十五]]
[[朱修之、宗慤、王玄謨列伝>宋書列伝第三十六]]
[[柳元景、顔師伯、沈慶之列伝>宋書列伝第三十七]]
[[蕭思話、劉延孫列伝>宋書列伝第三十八]]
[[文五王列伝>宋書列伝第三十九]]
[[孝武十四王列伝>宋書列伝第四十]]
[[劉秀之、顧琛、顧覬之列伝>宋書列伝第四十一]]
[[周朗、沈懐文列伝>宋書列伝第四十二]]
[[宗越、呉喜、黄回列伝>宋書列伝第四十三]]
[[ケ琬、袁、孔覬列伝>宋書列伝第四十四]]
[[謝荘、王景文列伝>宋書列伝第四十五]]
[[殷孝祖、劉勔列伝>宋書列伝第四十六]]
[[蕭恵開、殷琰列伝>宋書列伝第四十七]]
[[薛安都、沈文秀、崔道固列伝>宋書列伝第四十八]]
[[袁粲列伝>宋書列伝第四十九]]
[[明四王列伝>宋書列伝第五十]]
[[孝義列伝>宋書列伝第五十一]]
[[良吏列伝>宋書列伝第五十二]]
[[隠逸列伝>宋書列伝第五十三]]
[[恩倖列伝>宋書列伝第五十四]]
[[索虜列伝>宋書列伝第五十五]]
[[鮮卑吐谷渾列伝>宋書列伝第五十六]]
[[夷蛮列伝>宋書列伝第五十七]]
[[氐胡列伝>宋書列伝第五十八]]
[[二凶列伝>宋書列伝第五十九]]
[[自序>宋書列伝第六十]]
**本紀
[[高帝本紀一>南斉書本紀第一]]、[[二>南斉書本紀第二]]
[[武帝本紀>南斉書本紀第三]]、[[鬱林王本紀>南斉書本紀第四]]、[[海陵王本紀>南斉書本紀第五]]、[[明帝本紀>南斉書本紀第六]]、[[東昏侯本紀>南斉書本紀第七]]、[[和帝本紀>南斉書本紀第八]]
**志
[[礼志一>南斉書志第一]]、[[二>南斉書志第二]]
[[楽志>南斉書志第三]]
[[天文志一>南斉書志第四]]、[[二>南斉書志第五]]
[[州郡志一>南斉書志第六]]、[[二>南斉書志第七]]
[[百官志>南斉書志第八]]
[[輿服志>南斉書志第九]]
[[祥瑞志>南斉書志第十]]
[[五行志>南斉書志第十一]]
**列伝
[[皇后列伝>南斉書列伝第一]]
[[文恵太子列伝>南斉書列伝第二]]
[[予章文献王列伝>南斉書列伝第三]]
[[褚淵、王倹列伝>南斉書列伝第四]]
[[柳世隆、張瓌列伝>南斉書列伝第五]]
[[垣崇祖、張敬児列伝>南斉書列伝第六]]
[[王敬則、陳顕達列伝>南斉書列伝第七]]
[[劉懐珍、李安民、王玄載列伝>南斉書列伝第八]]
[[崔祖思、劉善明、蘇侃、垣栄祖列伝>南斉書列伝第九]]
[[呂安国、周山図、周盤龍、王広之列伝>南斉書列伝第十]]
[[薛淵、戴僧静、桓康、焦度、曹虎列伝>南斉書列伝第十一]]
[[江謐、荀伯玉列伝>南斉書列伝第十二]]
[[王琨、張岱、褚R、何戢、王延之、阮韜列伝>南斉書列伝第十三]]
[[王僧虔、張緒列伝>南斉書列伝第十四]]
[[虞玩之、劉休、沈沖、庾杲之、王ェ列伝>南斉書列伝第十五]]
[[高祖十二王列伝>南斉書列伝第十六]]
[[謝超宗、劉祥列伝>南斉書列伝第十七]]
[[到ヒ、劉悛、虞悰、胡諧之列伝>南斉書列伝第十八]]
[[蕭景先、蕭赤斧列伝>南斉書列伝第十九]]
[[劉瓛、陸澄列伝>南斉書列伝第二十]]
[[武十七王列伝>南斉書列伝第二十一]]
[[張融、周顒列伝>南斉書列伝第二十二]]
[[王晏、蕭ェ、蕭坦之、江祏列伝>南斉書列伝第二十三]]
[[江■、何昌■、謝■、王思遠列伝>南斉書列伝第二十四]]
[[徐孝嗣、沈文季列伝>南斉書列伝第二十五]]
[[宗室列伝>南斉書列伝第二十六]]
[[王秀之、王慈、蔡約、陸慧曉、蕭恵基列伝>南斉書列伝第二十七]]
[[王融、謝朓列伝>南斉書列伝第二十八]]
[[袁彖、孔稚珪、劉絵列伝>南斉書列伝第二十九]]
[[王奐、張沖列伝>南斉書列伝第三十]]
[[文二王、明七王列伝>南斉書列伝第三十一]]
[[裴叔業、崔慧景、張欣泰列伝>南斉書列伝第三十二]]
[[文学列伝>南斉書列伝第三十三]]
[[良政列伝>南斉書列伝第三十四]]
[[高逸列伝>南斉書列伝第三十五]]
[[孝義列伝>南斉書列伝第三十六]]
[[倖臣列伝>南斉書列伝第三十七]]
[[魏虜列伝>南斉書列伝第三十八]]
[[蛮列伝>南斉書列伝第三十九]]
[[芮芮虜、河南氏、氐楊氏、宕昌列伝>南斉書列伝第四十]]
**本紀
[[武帝本紀一>梁書本紀第一]]、[[二>梁書本紀第二]] 、[[三>梁書本紀第三]]
[[簡文帝本紀>梁書本紀第四]]
[[元帝本紀>梁書本紀第五]]
[[敬帝本紀>梁書本紀第六]]
**列伝
[[皇后列伝>梁書列伝第一]]
[[昭明太子、哀太子、愍懐太子列伝>梁書列伝第二]]
[[王茂、曹景宗、柳慶遠列伝>梁書列伝第三]]
[[蕭穎達、夏侯詳、蔡道恭、楊公則、ケ元起列伝>梁書列伝第四]]
[[張弘策、鄭紹叔、呂僧珍列伝>梁書列伝第五]]
[[柳惔、席闡文、韋叡列伝>梁書列伝第六]]
[[范雲、沈約、沈旋列伝>梁書列伝第七]]
[[江淹、任ム列伝>梁書列伝第八]]
[[謝朏列伝>梁書列伝第九]]
[[王亮、張稷、王瑩列伝>梁書列伝第十]]
[[王珍国、馬仙■、張斉列伝>梁書列伝第十一]]
[[張恵紹、馮道根、康絢、昌義之列伝>梁書列伝第十二]]
[[宗夬、劉坦、楽藹列伝>梁書列伝第十三]]
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[[陸倕、到洽、明山賓、殷鈞、陸襄列伝>梁書列伝第二十一]]
[[斐邃、夏侯亶、韋放列伝>梁書列伝第二十二]]
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[[司馬褧、到溉、劉顕、劉之遴、許懋列伝>梁書列伝第三十四]]
[[王規、王承、褚翔、蕭介、褚球、劉孺、劉潛、殷芸、蕭幾列伝>梁書列伝第三十五]]
[[臧盾、傅岐列伝>梁書列伝第三十六]]
[[韋粲、江子一、張嵊、沈浚、柳敬礼列伝>梁書列伝第三十七]]
[[太宗十一王、世祖二子列伝>梁書列伝第三十八]]
[[王僧弁列伝>梁書列伝第三十九]]
[[胡僧祐、徐文盛、杜崱、陰子春列伝>梁書列伝第四十]]
[[孝行列伝>梁書列伝第四十一]]
[[儒林列伝>梁書列伝第四十二]]
[[文学列伝一>梁書列伝第四十三]]、[[二>梁書列伝第四十四]]
[[処士列伝>梁書列伝第四十五]]
[[止足列伝>梁書列伝第四十六]]
[[良吏列伝>梁書列伝第四十七]]
[[諸夷列伝>梁書列伝第四十八]]
[[予章王綜、武陵王紀、臨賀王正徳、河東王誉列伝>梁書列伝第四十九]]
[[侯景、王偉列伝>梁書列伝第五十]]
**本紀
[[高祖本紀一>陳書本紀第一]]、[[二>陳書本紀第二]]
[[世祖本紀>陳書本紀第三]]、[[廃帝本紀>陳書本紀第四]]、[[宣帝本紀>陳書本紀第五]]、[[後主本紀>陳書本紀第六]]
**列伝
[[皇后列伝>陳書列伝第一]]
[[杜僧明、周文育、侯安都列伝>陳書列伝第二]]
[[侯瑱、欧陽頠、呉明徹列伝>陳書列伝第三]]
[[周鉄虎、程霊洗列伝>陳書列伝第四]]
[[黄法■、淳于量、章昭達列伝>陳書列伝第五]]
[[胡穎、胡鑠、徐度、杜稜、沈恪列伝>陳書列伝第六]]
[[徐世譜、徐世休、魯悉達、周敷、荀朗、荀法尚、周Q列伝>陳書列伝第七]]
[[衡陽献王昌、南康愍王曇朗列伝>陳書列伝第八]]
[[宗室列伝>陳書列伝第九]]
[[趙知礼、蔡景歴、劉師知、謝岐列伝>陳書列伝第十]]
[[王沖、王通、袁敬列伝>陳書列伝第十一]]
[[沈衆、袁泌、劉仲威、劉広徳、陸山才、王質、韋載列伝>陳書列伝第十二]]
[[沈炯、虞荔、馬枢列伝>陳書列伝第十三]]
[[到仲挙、韓子高、華皎列伝>陳書列伝第十四]]
[[謝哲、蕭乾、謝嘏、張種、張稜、張稚才、王固、孔奐、蕭允列伝>陳書列伝第十五]]
[[陸子隆、陸之武、陸子才、銭道戢、駱牙列伝>陳書列伝第十六]]
[[沈君理、沈邁、沈君高、王瑒、王瑜、陸繕、陸見賢列伝>陳書列伝第十七]]
[[周弘正、袁憲列伝>陳書列伝第十八]]
[[裴忌、孫瑒列伝>陳書列伝第十九]]
[[徐陵列伝>陳書列伝第二十]]
[[江総、姚察列伝>陳書列伝第二十一]]
[[世祖九王、高宗二十九王、後主諸子列伝>陳書列伝第二十二]]
[[宗元饒、司馬申、毛喜、蔡徴列伝>陳書列伝第二十三]]
[[蕭済、陸瓊、顧野王、傅縡列伝>陳書列伝第二十四]]
[[蕭摩訶、任忠、樊毅、魯広達列伝>陳書列伝第二十五]]
[[孝行列伝>陳書列伝第二十六]]
[[儒林列伝>陳書列伝第二十七]]
[[文学列伝>陳書列伝第二十八]]
[[熊曇朗、周迪、留異、陳宝応列伝>陳書列伝第二十九]]
[[始興王叔陵、新安王伯固列伝>陳書列伝第三十]]
**帝紀
[[序紀>魏書帝紀第一]]
[[道武帝紀>魏書帝紀第二]]
[[明元帝紀>魏書帝紀第三]]
[[太武帝紀一>魏書帝紀第四上]]、[[二、景穆帝紀>魏書帝紀第四下]]
[[文成帝紀>魏書帝紀第五]]
[[献文帝紀>魏書帝紀第六]]
[[孝文帝紀一>魏書帝紀第七上]]、[[二>魏書帝紀第七下]]
[[宣武帝紀>魏書帝紀第八]]
[[孝明帝紀>魏書帝紀第九]]
[[孝荘帝紀>魏書帝紀第十]]
[[前廃帝、後廃帝、出帝紀>魏書帝紀第十一]]
[[孝静帝紀>魏書帝紀第十二]]
**列伝
[[皇后列伝>魏書列伝第一]]
[[神元平文諸帝子孫列伝>魏書列伝第二]]
[[昭成子孫列伝>魏書列伝第三]]
[[道武七王列伝>魏書列伝第四]]
[[明元六王列伝>魏書列伝第五]]
[[太武五王列伝>魏書列伝第六]]
[[景穆十二王列伝一>魏書列伝第七上]]、[[二>魏書列伝第七中]]、[[三>魏書列伝第七下]]
[[文成五王列伝>魏書列伝第八]]
[[献文六王列伝一>魏書列伝第九上]]、[[二>魏書列伝第九下]]
[[孝文五王列伝>魏書列伝第十]]
[[衛操、莫含、劉庫仁列伝>魏書列伝第十一]]
[[燕鳳、許謙、張袞、崔玄伯、ケ淵列伝>魏書列伝第十二]]
[[長孫嵩、長孫道生列伝>魏書列伝第十三]]
[[長孫肥、尉古真列伝>魏書列伝第十四]]
[[穆崇列伝>魏書列伝第十五]]
[[和跋、奚牧、莫題、庾業延、賀狄干、李栗、劉潔、古弼、張黎列伝>魏書列伝第十六]]
[[奚斤、叔孫建列伝>魏書列伝第十七]]
[[王建、安同、樓伏連、丘堆、娥清、劉尼、奚眷、車伊洛、宿石、来大千、周幾、豆代田、周観、閭大肥、尉撥、陸真、呂洛抜列伝>魏書列伝第十八]]
[[于栗磾列伝>魏書列伝第十九]]
[[高湖、崔逞、封懿列伝>魏書列伝第二十]]
[[宋隠、王憲、屈遵、張蒲、谷渾、公孫表、張済、李先、賈彝、薛提列伝>魏書列伝第二十一]]
[[王洛児、車路頭、盧魯元、陳建、万安国列伝>魏書列伝第二十二]]
[[崔浩列伝>魏書列伝第二十三]]
[[李順列伝>魏書列伝第二十四]]
[[司馬休之、司馬楚之、司馬景之、司馬叔璠、司馬天助列伝>魏書列伝第二十五]]
[[刁雍、王慧龍、韓延之、袁式列伝>魏書列伝第二十六]]
[[李宝列伝>魏書列伝第二十七]]
[[陸俟列伝>魏書列伝第二十八]]
[[源賀列伝>魏書列伝第二十九]]
[[薛弁、寇讃、酈範、韓秀、堯暄列伝>魏書列伝第三十]]
[[嚴稜、毛修之、唐和、劉休賓、房法寿列伝>魏書列伝第三十一]]
[[羅結、伊馛、乙瓌、和其奴、苟頽、薛野■、宇文福、費于、孟威列伝>魏書列伝第三十二]]
[[韋閬、杜銓、裴駿、辛紹先、柳崇列伝>魏書列伝第三十三]]
[[竇瑾、許彦、李訢列伝>魏書列伝第三十四]]
[[盧玄列伝>魏書列伝第三十五]]
[[高允列伝>魏書列伝第三十六]]
[[李霊、崔鑒列伝>魏書列伝第三十七]]
[[尉元、慕容白曜列伝>魏書列伝第三十八]]
[[韓茂、皮豹子、封敕文、呂羅漢、孔伯恭列伝>魏書列伝第三十九]]
[[趙逸、胡方回、胡叟、宋繇、張湛、宋欽、段承根、闞駰、劉モ、趙柔、索敞、陰仲達列伝>魏書列伝第四十]]
[[李孝伯、李沖列伝>魏書列伝第四十一]]
[[游雅、高閭列伝>魏書列伝第四十二]]
[[游明根、劉芳列伝>魏書列伝第四十三]]
[[鄭羲、崔弁列伝>魏書列伝第四十四]]
[[高祐、崔挺列伝>魏書列伝第四十五]]
[[楊播列伝>魏書列伝第四十六]]
[[劉昶、蕭宝寅、蕭正表列伝>魏書列伝第四十七]]
[[韓麒麟、程駿列伝>魏書列伝第四十八]]
[[薛安都、畢衆敬、沈文秀、張讜、田益宗、孟表列伝>魏書列伝第四十九]]
[[李彪、高道悦列伝>魏書列伝第五十]]
[[王粛、宋弁列伝>魏書列伝第五十一]]
[[郭祚、張彝列伝>魏書列伝第五十二]]
[[邢巒、李平列伝>魏書列伝第五十三]]
[[李崇、崔亮列伝>魏書列伝第五十四]]
[[崔光列伝>魏書列伝第五十五]]
[[甄琛、高聡列伝>魏書列伝第五十六]]
[[崔休、裴延儁・袁翻列伝>魏書列伝第五十七]]
[[劉藻、傅永、傅豎眼、李神列伝>魏書列伝第五十八]]
[[裴叔業、夏侯道遷、李元護、席法友、王世弼、江悦之、淳于誕、李苗列伝>魏書列伝第五十九]]
[[陽尼、賈思伯、李叔虎、路恃慶、房亮、曹世表、潘永基、朱元旭列伝>魏書列伝第六十]]
[[奚康生、楊大眼、崔延伯列伝>魏書列伝第六十一]]
[[爾朱栄列伝>魏書列伝第六十二]]
[[爾朱兆、爾朱彦伯、爾朱度律、爾朱天光列伝>魏書列伝第六十三]]
[[盧同、張烈列伝>魏書列伝第六十四]]
[[宋翻、辛雄、羊深、楊機、高崇列伝>魏書列伝第六十五]]
[[孫紹、張普恵列伝>魏書列伝第六十六]]
[[成淹、范紹、劉桃符、劉道斌、董紹、馮元興、鹿悆、張熠列伝>魏書列伝第六十七]]
[[朱瑞、叱列延慶、斛斯椿、賈顕度、樊子鵠、賀抜勝、侯莫陳悦、侯淵列伝>魏書列伝第六十八]]
[[綦儁、山偉、劉仁之、宇文忠之列伝>魏書列伝第六十九]]
[[李琰之、祖瑩、常景列伝>魏書列伝第七十]]
[[外戚列伝一>魏書列伝第七十一上]]、[[二>魏書列伝第七十一下]]
[[儒林列伝>魏書列伝第七十二]]
[[文苑列伝>魏書列伝第七十三]]
[[孝感列伝>魏書列伝第七十四]]
[[節義列伝>魏書列伝第七十五]]
[[良吏列伝>魏書列伝第七十六]]
[[酷吏列伝>魏書列伝第七十七]]
[[逸士列伝>魏書列伝第七十八]]
[[術芸列伝>魏書列伝第七十九]]
[[列女列伝>魏書列伝第八十]]
[[恩倖列伝>魏書列伝第八十一]]
[[閹官列伝>魏書列伝第八十二]]
[[匈奴劉聡、羯胡石勒、鉄弗劉虎、徒何慕容廆、臨渭氐苻健、羌姚萇、略陽氐呂光列伝>魏書列伝第八十三]]
[[僭晋司馬叡、賨李雄列伝>魏書列伝第八十四]]
[[島夷桓玄、海夷馮跋、島夷劉裕列伝>魏書列伝第八十五]]
[[島夷蕭道成、島夷蕭衍列伝>魏書列伝第八十六]]
[[私署涼州牧張寔、鮮卑乞伏国仁、鮮卑禿髪烏孤、私署涼王李ロ、盧水胡沮渠蒙遜列伝>魏書列伝第八十七]]
[[高句麗、百済、勿吉、失韋、豆莫婁、地豆于、庫莫奚、契丹、烏洛侯列伝>魏書列伝第八十八]]
[[氐、吐谷渾、宕昌羌、高昌、ケ至、蛮、獠列伝>魏書列伝第八十九]]
[[西域列伝>魏書列伝第九十]]
[[蠕蠕、匈奴宇文莫槐、徒何段就六眷、高車列伝>魏書列伝第九十一]]
[[自序>魏書列伝第九十二]]
**志
[[天象志一>魏書志第一]]、[[二>魏書志第二]]、[[三>魏書志第三]]、[[四>魏書志第四]]
[[地形志一>魏書志第五]]、[[二>魏書志第六]]、[[三>魏書志第七]]
[[律暦志一>魏書志第八]]、[[二>魏書志第九]]
[[礼志一>魏書志第十]]、[[二>魏書志第十一]]、[[三>魏書志第十二]]、[[四>魏書志第十三]]
[[楽志>魏書志第十四]]
[[食貨志>魏書志第十五]]
[[刑罰志>魏書志第十六]]
[[霊徴志一>魏書志第十七]]、[[二>魏書志第十八]]
[[官氏志>魏書志第十九]]
[[釈老志>魏書志第二十]]
**帝紀
[[神武帝紀一>北斉書帝紀第一]]、[[二>北斉書帝紀第二]]
[[文襄帝紀>北斉書帝紀第三]]、[[文宣帝>北斉書帝紀第四]]、[[廃帝>北斉書帝紀第五]]、[[孝昭帝>北斉書帝紀第六]]、[[武成帝>北斉書帝紀第七]]、[[後主、幼主>北斉書帝紀第八]]
**列伝
[[后妃列伝>北斉書列伝第一]]
[[高祖十一王列伝>北斉書列伝第二]]
[[文襄六王列伝>北斉書列伝第三]]
[[文宣四王、孝昭六王、武成十二王、後主五男列伝>北斉書列伝第四]]
[[趙郡王琛、清河王岳列伝>北斉書列伝第五]]
[[広平公盛、陽州公永楽、襄楽王顕国、上洛王思宗、平秦王帰彦、武興王普、長楽太守霊山列伝>北斉書列伝第六]]
[[竇泰、尉景、婁昭、厙狄干、韓軌、潘楽列伝>北斉書列伝第七]]
[[段栄列伝>北斉書列伝第八]]
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[[賀抜允、蔡儁、韓賢、尉長命、王懐、劉貴、任延敬、莫多婁貸文、高市貴、厙狄迴洛、厙狄盛、薛孤延、張保洛、侯莫陳相列伝>北斉書列伝第十一]]
[[張瓊、斛律羌挙、堯雄、宋顕、王則、慕容紹宗、薛修義、叱列平、歩大汗薩、慕容儼列伝>北斉書列伝第十二]]
[[高乾、封隆之列伝>北斉書列伝第十三]]
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[[魏蘭根、崔■列伝>北斉書列伝第十五]]
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[[張纂、張亮、張耀、趙起、徐遠、王峻、王紘列伝>北斉書列伝第十七]]
[[薛琡、敬顕儁、平鑑列伝>北斉書列伝第十八]]
[[万俟普、可朱渾元、劉豊、破六韓常、金祚、韋子粲列伝>北斉書列伝第十九]]
[[元坦、元斌、元孝友、元暉業、元弼、元韶列伝>北斉書列伝第二十]]
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[[王マ列伝>北斉書列伝第二十三]]
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[[楊愔列伝>北斉書列伝第二十六]]
[[裴讓之、皇甫和、李構、張宴之、陸卬、王松年、劉禕列伝>北斉書列伝第二十七]]
[[邢圏伝>北斉書列伝第二十八]]
[[魏収列伝>北斉書列伝第二十九]]
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[[崔季舒、祖珽列伝>北斉書列伝第三十一]]
[[尉瑾、馮子j、赫連子悦、唐邕、白建列伝>北斉書列伝第三十二]]
[[暴顕、皮景和、鮮于世栄、綦連猛、元景安、独孤永業、傅伏、高保寧列伝>北斉書列伝第三十三]]
[[陽斐、盧潜、崔劼、盧叔武、陽休之、袁聿修列伝>北斉書列伝第三十四]]
[[李稚廉、封述、許夏惇、羊烈、源彪列伝>北斉書列伝第三十五]]
[[儒林列伝>北斉書列伝第三十六]]
[[文苑列伝>北斉書列伝第三十七]]
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[[酷吏列伝>北斉書列伝第三十九]]
[[外戚列伝>北斉書列伝第四十]]
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[[恩倖列伝>北斉書列伝第四十二]]
**帝紀
[[文帝紀一>周書帝紀第一]]、[[二>周書帝紀第二]]
[[孝閔帝紀>周書帝紀第三]]
[[明帝紀>周書帝紀第四]]
[[武帝紀一>周書帝紀第五]]、[[二>周書帝紀第六]]
[[宣帝紀>周書帝紀第七]]
[[静帝紀>周書帝紀第八]]
**列伝
[[皇后列伝>周書列伝第一]]
[[邵恵公顕、簡公連、莒荘公洛生、虞国公仲>周書列伝第二]]
[[晋蕩公護>周書列伝第三]]
[[斉煬王憲>周書列伝第四]]
[[文閔明武宣諸子>周書列伝第五]]
[[賀抜勝、賀抜允、賀抜岳、侯莫陳悦、念賢列伝>周書列伝第六]]
[[寇洛、李弼、李輝、李耀、于謹列伝>周書列伝第七]]
[[趙貴、独孤信、侯莫陳崇列伝>周書列伝第八]]
[[梁禦、若干恵、怡峯、劉亮、王徳列伝>周書列伝第九]]
[[王羆、王慶遠、王述、王思政列伝>周書列伝第十]]
[[達奚武、侯莫陳順、豆盧寧、豆盧永恩、宇文貴、楊忠、王雄列伝>周書列伝第十一]]
[[王盟、王励、王懋、賀蘭祥、尉遅綱、叱列伏亀、閻慶列伝>周書列伝第十二]]
[[尉遅迥、王謙、司馬消難列伝>周書列伝第十三]]
[[周恵達、楊寛、楊鈞、柳慶、柳機、柳弘列伝>周書列伝第十四]]
[[蘇綽列伝>周書列伝第十五]]
[[盧弁列伝>周書列伝第十六]]
[[李賢列伝>周書列伝第十七]]
[[長孫倹、長孫紹遠、斛斯徴列伝>周書列伝第十八]]
[[赫連達、韓果、蔡祐、常善、辛威、厙狄昌、田弘、梁椿、梁台、宇文測列伝>周書列伝第十九]]
[[史寧、陸騰、賀若敦、権景宣列伝>周書列伝第二十]]
[[王傑、王勇、宇文虬、宇文盛、耿豪、高琳、李和、伊婁穆、楊紹、王雅、達奚寔、劉雄、侯植列伝>周書列伝第二十一]]
[[竇熾、竇善、于翼列伝>周書列伝第二十二]]
[[韋孝寛、韋敻、梁士彦列伝>周書列伝第二十三]]
[[申徽、陸通、柳敏、盧柔、唐瑾列伝>周書列伝第二十四]]
[[厙狄峙、楊荐、趙剛、王慶、趙昶、王悦、趙文表列伝>周書列伝第二十五]]
[[趙善、元定、楊■、裴寛、楊敷列伝>周書列伝第二十六]]
[[鄭孝穆、崔謙、崔猷、裴侠、薛端、薛善列伝>周書列伝第二十七]]
[[鄭偉、楊纂、段永、王士良、崔彦穆、令狐整、司馬裔、裴果列伝>周書列伝第二十八]]
[[寇儁、韓褒、趙粛、徐招、張軌、李彦、郭彦、裴文挙列伝>周書列伝第二十九]]
[[蘇亮、柳虯、呂思礼、薛憕、薛真、李昶、元偉列伝>周書列伝第三十]]
[[韋瑱、梁マ、皇甫璠、辛慶之、王子直、杜杲列伝>周書列伝第三十一]]
[[尉遅運、王軌、宇文神挙、宇文孝伯、顔之儀列伝>周書列伝第三十二]]
[[王褒、庾信列伝>周書列伝第三十三]]
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[[泉企、李遷哲、楊乾運、扶猛、陽雄、席固、任果列伝>周書列伝第三十六]]
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**帝紀
[[文帝紀一>隋書帝紀第一]]、[[二>隋書帝紀第二]]
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[[礼儀志一>隋書志第一]]、[[二>隋書志第二]]、[[三>隋書志第三]]、[[四>隋書志第四]]、[[五>隋書志第五]]、[[六>隋書志第六]]、[[七>隋書志第七]]
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**列伝
[[后妃列伝>隋書列伝第一]]
[[李穆、梁睿列伝>隋書列伝第二]]
[[劉ム、鄭訳、柳裘、皇甫績、盧賁列伝>隋書列伝第三]]
[[于義、陰寿、陰世師、竇栄定、元景山、源雄、豆盧勣、豆盧毓、賀若誼列伝>隋書列伝第四]]
[[梁士彦、宇文忻、王誼、元諧、王世積、虞慶則、元冑列伝>隋書列伝第五]]
[[高熲、蘇威列伝>隋書列伝第六]]
[[李徳林、李百薬列伝>隋書列伝第七]]
[[河間王弘、楊処綱、楊子崇、観徳王雄列伝>隋書列伝第八]]
[[滕穆王瓚、道悼王静、衛昭王爽、蔡王智積列伝>隋書列伝第九]]
[[文四子列伝>隋書列伝第十]]
[[趙煚、趙芬、楊尚希、長孫平、元暉、韋師、楊异、蘇孝慈、李雄、張煚列伝>隋書列伝第十一]]
[[韋世康、柳機列伝>隋書列伝第十二]]
[[楊素列伝>隋書列伝第十三]]
[[牛弘列伝>隋書列伝第十四]]
[[宇文慶、李礼成、元孝矩、郭栄、龐晃、李安列伝>隋書列伝第十五]]
[[長孫覧列伝>隋書列伝第十六]]
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[[達奚長儒、賀婁子幹、史万歳、劉方列伝>隋書列伝第十八]]
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[[李諤、鮑宏、裴政、柳荘、源師、郎茂、高構、張虔威、栄毗、陸知命、房彦謙列伝>隋書列伝第三十一]]
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[[誠節列伝>隋書列伝第三十六]]
[[孝義列伝>隋書列伝第三十七]]
[[循吏列伝>隋書列伝第三十八]]
[[酷吏列伝>隋書列伝第三十九]]
[[儒林列伝>隋書列伝第四十]]
[[文学列伝>隋書列伝第四十一]]
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[[西域列伝>隋書列伝第四十八]]
[[北狄列伝>隋書列伝第四十九]]
[[宇文化及、宇文智及、司馬徳戡、裴虔通、王充、段達列伝>隋書列伝第五十]]
**本紀
[[武帝、少帝本紀>南史宋本紀上第一]]
[[文帝、孝武帝、前廃帝本紀>南史宋本紀中第二]]
[[明帝、後廃帝、順帝本紀>南史宋本紀下第三]]
[[高帝、武帝本紀>南史斉本紀上第四]]
[[鬱林王、海陵王、明帝、東昏侯、和帝本紀>南史斉本紀下第五]]
[[武帝本紀一>南史梁本紀上第六]]、[[二>南史梁本紀中第七]]
[[簡文帝、元帝、敬帝本紀>南史梁本紀下第八]]
[[武帝、文帝、廃帝本紀>南史陳本紀上第九]]
[[宣帝、後主本紀>南史陳本紀下第十]]
**列伝
[[后妃列伝一>南史列伝第一]]、[[二>南史列伝第二]]
[[宋宗室及諸王列伝一>南史列伝第三]]、[[二>南史列伝第四]]
[[劉穆之、徐羨之、傅亮、檀道済列伝>南史列伝第五]]
[[王鎮悪、朱齢石、毛修之、傅弘之、朱修之、王玄謨列伝>南史列伝第六]]
[[劉敬宣、劉懐粛、劉粋、孫処、蒯恩、向靖、劉鍾、虞丘進、孟懐玉、胡藩、劉康祖列伝>南史列伝第七]]
[[趙倫之、蕭思話、臧Z列伝>南史列伝第八]]
[[謝晦、謝裕、謝方明、謝霊運列伝>南史列伝第九]]
[[謝弘微列伝>南史列伝第十]]
[[王弘列伝>南史列伝第十一]]
[[王曇首列伝>南史列伝第十二]]
[[王誕、王華、王惠、王ケ列伝>南史列伝第十三]]
[[王裕之、王鎮之、王韶之、王悦之、王准之列伝>南史列伝第十四]]
[[王懿、到彦之、垣護之、張興世列伝>南史列伝第十五]]
[[袁湛列伝>南史列伝第十六]]
[[孔靖、孔琳之、殷景仁列伝>南史列伝第十七]]
[[褚裕之列伝>南史列伝第十八]]
[[蔡廓列伝>南史列伝第十九]]
[[何尚之列伝>南史列伝第二十]]
[[張裕列伝>南史列伝第二十一]]
[[張邵列伝>南史列伝第二十二]]
[[范泰、荀伯子、徐広、鄭鮮之、裴松之、何承天列伝>南史列伝第二十三]]
[[顔延之、沈懐文、周朗列伝>南史列伝第二十四]]
[[劉湛、庾悦、顧琛、顧覬之列伝>南史列伝第二十五]]
[[羊欣、羊玄保、沈演之、江夷、江秉之列伝>南史列伝第二十六]]
[[沈慶之、宗慤列伝>南史列伝第二十七]]
[[柳元景列伝>南史列伝第二十八]]
[[殷孝祖、劉勔列伝>南史列伝第二十九]]
[[魯爽、薛安都、ケ琬、宗越、呉喜、黄回列伝>南史列伝第三十]]
[[斉宗室列伝>南史列伝第三十一]]
[[斉高帝諸子列伝一>南史列伝第三十二]]、[[二>南史列伝第三十三]]
[[斉武帝諸子、文恵諸子、明帝諸子列伝>南史列伝第三十四]]
[[王敬則、陳顕達、張敬児、崔慧景列伝>南史列伝第三十五]]
[[李安人、戴僧静、桓康、焦度、曹武、呂安国、周山圖、周盤龍、王広之列伝>南史列伝第三十六]]
[[荀伯玉、崔祖思、蘇侃、虞悰、胡諧之、虞玩之、劉休、江祏列伝>南史列伝第三十七]]
[[陸澄、陸慧曉、陸杲列伝>南史列伝第三十八]]
[[庾杲之、王ェ、孔珪、劉懐珍列伝>南史列伝第三十九]]
[[劉瓛、明僧紹、庾易、劉■列伝>南史列伝第四十]]
[[梁宗室列伝一>南史列伝第四十一]]、[[二>南史列伝第四十二]]
[[梁武帝諸子列伝>南史列伝第四十三]]
[[梁簡文帝諸子、元帝諸子列伝>南史列伝第四十四]]
[[王茂、曹景宗、曹義宗、席闡文、夏侯詳、吉士瞻、蔡道恭、楊公則、ケ元起、張恵紹、張澄、馮道根、康絢、昌義之列伝>南史列伝第四十五]]
[[張弘策、庾域、鄭紹叔、呂僧珍、楽藹列伝>南史列伝第四十六]]
[[沈約、范雲列伝>南史列伝第四十七]]
[[韋叡、裴邃列伝>南史列伝第四十八]]
[[江淹、任ム、王僧孺列伝>南史列伝第四十九]]
[[范岫、傅昭、孔休源、江革、徐勉、許懋、殷鈞列伝>南史列伝第五十]]
[[陳伯之、陳慶之、蘭欽列伝>南史列伝第五十一]]
[[賀瑒、司馬褧、朱异、顧協、徐摛、鮑泉列伝>南史列伝第五十二]]
[[王神念、羊侃、羊鴉仁列伝>南史列伝第五十三]]
[[江子一、胡僧祐、徐文盛、陰子春、杜崱、王琳、張彪列伝>南史列伝第五十四]]
[[陳宗室諸王列伝>南史列伝第五十五]]
[[杜僧明、周文育、侯瑱、侯安都、欧陽頠、黄法■、淳于量、章昭達、呉明徹列伝>南史列伝第五十六]]
[[胡穎、徐度、杜稜、周鉄武、程霊洗、沈恪、陸子隆、銭道戢、駱文牙、孫瑒、徐世譜、周敷、荀朗、周Q、魯悉達、蕭摩訶、任忠、樊毅列伝>南史列伝第五十七]]
[[趙知礼、蔡景歴、宗元饒、韓子高、華皎、劉師知、謝岐、毛喜、沈君理、陸山才列伝>南史列伝第五十八]]
[[沈炯、虞荔、傅縡、顧野王、姚察列伝>南史列伝第五十九]]
[[循吏列伝>南史列伝第六十]]
[[儒林列伝>南史列伝第六十一]]
[[文学列伝>南史列伝第六十二]]
[[孝義列伝一>南史列伝第六十三]]、[[二>南史列伝第六十四]]
[[隠逸列伝一>南史列伝第六十五]]、[[二>南史列伝第六十六]]
[[恩倖列伝>南史列伝第六十七]]
[[夷貊列伝一>南史列伝第六十八]]、[[二>南史列伝第六十九]]
[[賊臣列伝>南史列伝第七十]]
**本紀
[[道武帝、明元帝本紀>北史魏本紀第一]]
[[北魏太武帝、景穆帝、文成帝、献文帝本紀>北史魏本紀第二]]
[[北魏孝文帝本紀>北史魏本紀第三]]
[[北魏宣武帝、孝明帝本紀>北史魏本紀第四]]
[[北魏孝荘帝、節閔帝、廃帝、孝武帝、西魏文帝、廃帝、恭帝、東魏孝静帝本紀>北史魏本紀第五]]
[[北斉神武帝、世宗文襄帝本紀>北史斉本紀第六]]
[[北斉文宣帝、廃帝、孝昭帝本紀>北史斉本紀第七]]
[[北斉武成帝、後主、幼主本紀>北史斉本紀第八]]
[[北周文帝、孝閔帝、明帝本紀>北史周本紀第九]]
[[北周武帝、宣帝、静帝本紀>北史周本紀第十]]
[[隋文帝本紀>北史隋本紀第十一]]
[[隋煬帝、恭帝本紀>北史隋本紀第十二]]
**列伝
[[后妃列伝一>北史列伝第一]]、[[二>北史列伝第二]]
[[魏諸宗室列伝>北史列伝第三]]
[[道武七王、明元六王、太武五王列伝>北史列伝第四]]
[[景穆十二王列伝一>北史列伝第五]]、[[二>北史列伝第六]]
[[文成五王、献文六王、孝文六王列伝>北史列伝第七]]
[[衛操、莫含、劉庫仁、尉古真、穆崇、奚斤、叔孫建、安同、庾業延、王建、羅結、楼伏連、閭大肥、奚牧、和跋、莫題、賀狄干、李栗、奚眷列伝>北史列伝第八]]
[[燕鳳、許謙、崔宏、張袞、ケ彦海列伝>北史列伝第九]]
[[長孫嵩、長孫道生、長孫肥列伝>北史列伝第十]]
[[于栗磾列伝>北史列伝第十一]]
[[崔逞、王憲、封懿列伝>北史列伝第十二]]
[[古弼、張黎、劉潔、丘堆、娥清、伊馛、乙瓌、周幾、豆代田、車伊洛、王洛児、車路頭、盧魯元、陳建、来大干、宿石、万安国、周観、尉撥、陸真、呂洛抜、薛彪子、尉元、慕容白曜、和其奴、苟頽、宇文福列伝>北史列伝第十三]]
[[宋隠、許彦、刁雍、辛紹先、韋閬、杜銓列伝>北史列伝第十四]]
[[屈遵、張蒲、谷渾、公孫表、張済、李先、賈彝、竇瑾、李訢、韓延之、袁式、毛修之、唐和、寇讃、酈範、韓秀、堯暄、柳崇列伝>北史列伝第十五]]
[[陸俟、源賀、劉尼、薛提列伝>北史列伝第十六]]
[[司馬休之、司馬楚之、劉昶、蕭宝寅、蕭正表、蕭祗、蕭退、蕭泰、蕭ヒ、蕭円粛、蕭大圜列伝>北史列伝第十七]]
[[盧玄、盧柔、盧観、盧同、盧誕列伝>北史列伝第十八]]
[[高允、高祐、盧曹列伝>北史列伝第十九]]
[[崔鑑、崔弁、崔挺列伝>北史列伝第二十]]
[[李霊、李順、李孝伯、李裔、李義深列伝>北史列伝第二十一]]
[[游雅、高閭、趙逸、胡叟、胡方回、張湛、段承根、闞駰、劉延明、趙柔、索敞、宋繇、江式列伝>北史列伝第二十二]]
[[王慧龍、鄭羲列伝>北史列伝第二十三]]
[[薛辯、薛ゥ、薛憕列伝>北史列伝第二十四]]
[[韓茂、皮豹子、封敕文、呂羅漢、孔伯恭、田益宗、孟表、奚康生、楊大眼、崔延伯、李叔仁列伝>北史列伝第二十五]]
[[裴駿、裴延儁、裴佗、裴果、裴寛、裴侠、裴文挙、裴仁基列伝>北史列伝第二十六]]
[[薛安都、劉休賓、房法寿、畢衆敬、羊祉列伝>北史列伝第二十七]]
[[韓麒麟、程駿、李彪、高道悦、甄琛、張纂、高聡列伝>北史列伝第二十八]]
[[楊播、楊敷列伝>北史列伝第二十九]]
[[王粛、劉芳、常爽列伝>北史列伝第三十]]
[[郭祚、張彝、邢巒、李崇列伝>北史列伝第三十一]]
[[崔光、崔亮列伝>北史列伝第三十二]]
[[裴叔業、夏侯道遷、李元護、席法友、王世弼、江悦之、淳于誕、沈文秀、張讜、李苗、劉藻、
傅永、傅竪眼、張烈、李叔彪、路恃慶、房亮、曹世表、潘永基、朱元旭列伝>北史列伝第三十三]]
[[孫紹、張普恵、成淹、范紹、劉桃符、鹿悆、張燿、劉道斌、董紹、馮元興列伝>北史列伝第三十四]]
[[袁翻、陽尼、賈思伯、祖瑩列伝>北史列伝第三十五]]
[[爾朱栄列伝>北史列伝第三十六]]
[[朱瑞、叱列延慶、斛斯椿、賈顕度、樊子鵠、侯深、賀抜允、侯莫陳悦、念賢、梁覧、雷紹、毛遐、乙弗朗列伝>北史列伝第三十七]]
[[辛雄、楊機、高道穆、綦儁、山偉、宇文忠之、費穆、孟威列伝>北史列伝第三十八]]
[[斉宗室諸王列伝一>北史列伝第三十九]]、[[二>北史列伝第四十]]
[[万俟普、可朱渾元、劉豊、破六韓常、金祚、劉貴、蔡儁、韓賢、尉長命、王懐、任祥、莫多婁貸文、厙狄迴洛、厙狄盛、張保洛、
侯莫陳相、薛孤延、斛律羌挙、張瓊、宋顕、王則、慕容紹宗、叱列平、歩大汗薩、薛修義、慕容儼、潘楽、彭楽、暴顕、皮景和、綦連猛、元景安、独孤永業、鮮于世栄、傅伏列伝>北史列伝第四十一]]
[[孫騰、高隆之、司馬子如、竇泰、尉景、婁昭、厙狄干、韓軌、段栄、斛律金列伝>北史列伝第四十二]]
[[孫搴、陳元康、杜弼、房謨、張纂、張亮、張曜、王峻、王紘、敬顕儁、平鑑、唐邕、白建、元文遙、趙彦深、赫連子悦、馮子j、郎基列伝>北史列伝第四十三]]
[[魏収、魏長賢、魏季景、魏蘭根列伝>北史列伝第四十四]]
[[周宗室列伝>北史列伝第四十五]]
[[周室諸王列伝>北史列伝第四十六]]
[[寇洛、趙貴、李賢、梁禦列伝>北史列伝第四十七]]
[[李弼、宇文貴、侯莫陳崇、王雄列伝>北史列伝第四十八]]
[[王盟、独孤信、竇熾、賀蘭祥、叱列伏亀、閻慶、史寧、権景宣列伝>北史列伝第四十九]]
[[王羆、王思政、尉遅迥、王軌列伝>北史列伝第五十]]
[[周恵達、馮景、蘇綽列伝>北史列伝第五十一]]
[[韋孝寛、韋瑱、柳虯列伝>北史列伝第五十二]]
[[達奚武、若干恵、怡峰、劉亮、王徳、赫連達、韓果、蔡祐、常善、辛威、厙狄昌、梁椿、梁台、田弘列伝>北史列伝第五十三]]
[[王傑、王勇、宇文虯、耿豪、高琳、李和、伊婁穆、達奚寔、劉雄、侯植、李延孫、韋祐、陳欣、魏玄、泉仚、李遷哲、楊乾運、扶猛、陽雄、席固、任果列伝>北史列伝第五十四]]
[[崔彦穆、楊纂、段永、令狐整、唐永、柳敏、王士良列伝>北史列伝第五十五]]
[[豆盧寧、楊紹、王雅、韓雄、賀若敦列伝>北史列伝第五十六]]
[[申徽、陸通、厙狄峙、楊荐、王慶、趙剛、趙昶、王悦、趙文表、元定、楊■列伝>北史列伝第五十七]]
[[韓褒、趙肅、張軌、李彦、郭彦、梁マ、皇甫璠、辛慶之、王子直、杜杲、呂思礼、徐招、檀翥、孟信、宗懍、劉璠、柳遐列伝>北史列伝第五十八]]
[[隋宗室諸王列伝>北史列伝第五十九]]
[[高熲、牛弘、李徳林列伝>北史列伝第六十]]
[[梁士彦、元諧、虞慶則、元冑、達奚長儒、賀婁子幹、史万歳、劉方、杜彦、周搖、独孤楷、乞伏慧、張威、和洪、陰寿、楊義臣列伝>北史列伝第六十一]]
[[劉ム、柳裘、皇甫績、郭衍、張衡、楊汪、裴蘊、袁充、李雄列伝>北史列伝第六十二]]
[[趙煚、趙芬、王韶、元巌、宇文■、伊婁謙、李円通、郭栄、龐晃、李安、楊尚希、張煚、蘇孝慈、元寿列伝>北史列伝第六十三]]
[[段文振、来護児、樊子蓋、周羅■、周法尚、衛玄、劉権、李景、薛世雄列伝>北史列伝第六十四]]
[[裴政、李諤、鮑宏、高構、栄毗、陸知命、梁毗、柳ケ、趙綽、杜整列伝>北史列伝第六十五]]
[[張定和、張奫、麦鉄杖、権武、王仁恭、吐万緒、董純、魚倶羅、王弁、陳稜、趙才列伝>北史列伝第六十六]]
[[宇文述、王世充列伝>北史列伝第六十七]]
[[外戚列伝>北史列伝第六十八]]
[[儒林列伝一>北史列伝第六十九]]、[[二>北史列伝第七十]]
[[文苑列伝>北史列伝第七十一]]
[[孝行列伝>北史列伝第七十二]]
[[節義列伝>北史列伝第七十三]]
[[循吏列伝>北史列伝第七十四]]
[[酷吏列伝>北史列伝第七十五]]
[[隠逸列伝>北史列伝第七十六]]
[[芸術列伝一>北史列伝第七十七]]、[[二>北史列伝第七十八]]
[[列女列伝>北史列伝第七十九]]
[[恩幸列伝>北史列伝第八十]]
[[僭偽附庸列伝>北史列伝第八十一]]
[[高麗、百済、新羅、勿吉、奚、契丹、室韋、豆莫婁、地豆干、烏洛侯、流求、倭列伝>北史列伝第八十二]]
[[蛮、獠、林邑、赤土、真臘、婆利列伝>北史列伝第八十三]]
[[氐、吐谷渾、宕昌、ケ至、党項、附国、稽胡列伝>北史列伝第八十四]]
[[西域列伝>北史列伝第八十五]]
[[蠕蠕、匈奴宇文莫槐、徒何段就六眷、高車列伝>北史列伝第八十六]]
[[突厥、鉄勒列伝>北史列伝第八十七]]
[[序伝>北史列伝第八十八]]
**本紀
[[高祖本紀>旧唐書本紀第一]]
[[太宗本紀一>旧唐書本紀第二]]、[[二>旧唐書本紀第三]]
[[高宗本紀一>旧唐書本紀第四]]、[[二>旧唐書本紀第五]]
[[則天武后本紀>旧唐書本紀第六]]
[[中宗 睿宗本紀>旧唐書本紀第七]]
[[玄宗本紀一>旧唐書本紀第八]]、[[二>旧唐書本紀第九]]
[[粛宗本紀>旧唐書本紀第十]]
[[代宗本紀>旧唐書本紀第十一]]
[[徳宗本紀一>旧唐書本紀第十二]]、[[二>旧唐書本紀第十三]]
[[順宗本紀 憲宗本紀一>旧唐書本紀第十四]]、[[二>旧唐書本紀第十五]]
[[穆宗本紀>旧唐書本紀第十六]]
[[敬宗本紀 文宗本紀一>旧唐書本紀第十七上]]、[[二>旧唐書本紀第十七下]]
[[武宗本紀>旧唐書本紀第十八上]]
[[宣宗本紀>旧唐書本紀第十八下]]
[[懿宗本紀>旧唐書本紀第十九上]]
[[僖宗本紀>旧唐書本紀第十九下]]
[[昭宗本紀>旧唐書本紀第二十上]]
[[哀帝本紀>旧唐書本紀第二十下]]
**志
[[礼儀志一>旧唐書志第一]]、[[二>旧唐書志第二]]、[[三>旧唐書志第三]]、[[四>旧唐書志第四]]、[[五>旧唐書志第五]]、[[六>旧唐書志第六]]、[[七>旧唐書志第七]]
[[音楽志一>旧唐書志第八]]、[[二>旧唐書志第九]]、[[三>旧唐書志第十]]、[[四>旧唐書志第十一]]
[[暦志一>旧唐書志第十二]]、[[二>旧唐書志第十三]]、[[三>旧唐書志第十四]]
[[天文志一>旧唐書志第十五]]、[[二>旧唐書志第十六]]
[[五行志>旧唐書志第十七]]
[[地理志一>旧唐書志第十八]]、[[二>旧唐書志第十九]]、[[三>旧唐書志第二十]]、[[四>旧唐書志第二十一]]
[[職官志一>旧唐書志第二十二]]、[[二>旧唐書志第二十三]]、[[三>旧唐書志第二十四]]
[[輿服志>旧唐書志第二十五]]
[[経籍志一>旧唐書志第二十六]]、[[二>旧唐書志第二十七]]
[[食貨志一>旧唐書志第二十八]]、[[二>旧唐書志第二十九]]
[[刑法志>旧唐書志第三十]]
**列伝
[[后妃列伝一>旧唐書列伝第一]]、[[二>旧唐書列伝第二]]
[[李密列伝>旧唐書列伝第三]]
[[王世充、竇建徳列伝>旧唐書列伝第四]]
[[薛挙、李軌、劉武周列伝>旧唐書列伝第五]]
[[蕭銑、杜伏威、輔公祏、沈法興列伝>旧唐書列伝第六]]
[[裴寂、劉文静列伝>旧唐書列伝第七]]
[[唐倹、長孫順徳、劉弘基、殷嶠、劉政会、柴紹、武士彠列伝>旧唐書列伝第八]]
[[屈突通、任瓌、丘和、許紹、李襲志、姜謩列伝>旧唐書列伝第九]]
[[宗室列伝>旧唐書列伝第十]]
[[温大雅、陳叔達、竇威、竇ツ列伝>旧唐書列伝第十一]]
[[李綱、鄭善果、楊恭仁、皇甫無逸、李大亮列伝>旧唐書列伝第十二]]
[[封倫、蕭瑀、裴矩、宇文士及列伝>旧唐書列伝第十三]]
[[高祖二十二子列伝>旧唐書列伝第十四]]
[[高士廉、長孫無忌列伝>旧唐書列伝第十五]]
[[房玄齢、杜如晦列伝>旧唐書列伝第十六]]
[[李靖、李勣列伝>旧唐書列伝第十七]]
[[尉遅敬徳、秦叔宝、程知節、段志玄、張公謹列伝>旧唐書列伝第十八]]
[[侯君集、張亮、薛万徹、薛万均列伝>旧唐書列伝第十九]]
[[王珪、戴冑、岑文本、杜正倫列伝>旧唐書列伝第二十]]
[[魏徴列伝>旧唐書列伝第二十一]]
[[虞世南、李百薬、褚亮列伝>旧唐書列伝第二十二]]
[[薛收、桃思廉、顔師古、令狐徳棻、孔穎達列伝>旧唐書列伝第二十三]]
[[劉洎、馬周、崔仁師列伝>旧唐書列伝第二十四]]
[[蘇世長、韋雲起、孫伏伽、張玄素列伝>旧唐書列伝第二十五]]
[[太宗諸子列伝>旧唐書列伝第二十六]]
[[韋挺、楊纂、劉徳威、閻立徳、柳亨、崔義玄列伝>旧唐書列伝第二十七]]
[[于志寧、高季輔、張行成列伝>旧唐書列伝第二十八]]
[[祖孝孫、傅仁均、傅奕、李淳風、呂才列伝>旧唐書列伝第二十九]]
[[褚遂良、韓瑗、来済、上官儀列伝>旧唐書列伝第三十]]
[[崔敦礼、盧承慶、劉祥道、李敬玄、李義琰、孫処約、楽彦瑋、趙仁本列伝>旧唐書列伝第三十一]]
[[許敬宗、李義府列伝>旧唐書列伝第三十二]]
[[郭孝恪、張倹、蘇定方、薛仁貴、程務挺、張士貴、趙道興列伝>旧唐書列伝第三十三]]
[[劉仁軌、郝処俊、裴行倹列伝>旧唐書列伝第三十四]]
[[唐臨、張文瓘、徐有功列伝>旧唐書列伝第三十五]]
[[高宗中宗諸子列伝>旧唐書列伝第三十六]]
[[裴炎、劉禕之、魏玄同、李昭徳列伝>旧唐書列伝第三十七]]
[[韋思謙、陸元方、蘇瓌列伝>旧唐書列伝第三十八]]
[[狄仁傑、王方慶、姚璹列伝>旧唐書列伝第三十九]]
[[王及善、杜景倹、朱敬則、楊再思、李懐遠、豆盧欽望列伝>旧唐書列伝第四十]]
[[桓彦範、敬暉、崔玄暐、張柬之、袁恕己列伝>旧唐書列伝第四十一]]
[[魏元忠、韋安石、蕭至忠列伝>旧唐書列伝第四十二]]
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[[蘇味道、李嶠、崔融、盧蔵用、徐彦伯列伝>旧唐書列伝第四十四]]
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[[尹思貞、李傑、解琬、畢構、蘇珦、鄭惟忠、王志愔、盧従愿、李朝隠、裴漼、王丘列伝>旧唐書列伝第五十]]
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[[馬懐素、劉子玄、徐堅、元行沖、呉兢、韋述列伝>旧唐書列伝第五十二]]
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[[玄宗諸子列伝>旧唐書列伝第五十七]]
[[韋見素、崔円、崔渙、杜鴻漸列伝>旧唐書列伝第五十八]]
[[馮盎、阿史那社爾、契苾何力、黒歯常之、李多祚、李嗣業、白孝徳列伝>旧唐書列伝第五十九]]
**本紀
[[高祖本紀>新唐書本紀第一]]、[[太宗本紀>新唐書本紀第二]]、[[高宗本紀>新唐書本紀第三]]
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**志
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**表
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**列伝
[[后妃列伝一>新唐書列伝第一]]、[[二>新唐書列伝第二]]
[[宗室列伝>新唐書列伝第三]]
[[高祖諸子列伝>新唐書列伝第四]]
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[[劉■、張、張可復、于徳辰、王延、申文炳、扈載、劉■、賈緯、趙延義、沈遘、李知損、孫晟列伝>旧五代史周書二十二]]
**列伝
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**列伝
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**表
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[[張倹、邢抱朴、馬得臣、蕭朴、耶律八哥列伝>遼史列伝第十]]
[[耶律室魯、王継忠、蕭孝忠、陳昭袞、蕭合卓列伝>遼史列伝第十一]]
[[耶律隆運、耶律勃古哲、蕭陽阿、武白、蕭常哥、耶律虎古列伝>遼史列伝第十二]]
[[耶律休哥、耶律斜軫、耶律奚低、耶律学古列伝>遼史列伝第十三]]
[[耶律沙、耶律抹只、蕭幹、耶律善補、耶律海里列伝>遼史列伝第十四]]
[[蕭撻凜、蕭観音奴、耶律題子、耶律諧理、耶律奴瓜、蕭柳、高勳、奚和朔奴、蕭塔列葛、耶律撒合列伝>遼史列伝第十五]]
[[耶律合住、劉景、劉六符、耶律褭履、牛温舒、杜防、蕭和尚、耶律合里只、耶律頗的列伝>遼史列伝第十六]]
[[蕭孝穆、蕭蒲奴、耶律蒲古、夏行美列伝>遼史列伝第十七]]
[[蕭敵烈、耶律盆奴、蕭排押、耶律資忠、耶律瑤質、耶律弘古、高正、耶律的琭、大康乂列伝>遼史列伝第十八]]
[[耶律庶成、楊■、耶律韓留、楊佶、耶律和尚列伝>遼史列伝第十九]]
[[蕭阿剌、耶律義先、蕭陶隗、蕭塔剌葛、耶律敵禄列伝>遼史列伝第二十]]
[[耶律韓八、耶律唐古、蕭朮哲、耶律玦、耶律僕里篤列伝>遼史列伝第二十一]]
[[蕭奪剌、蕭普達、耶律侯哂、耶律古c、耶律独■、蕭韓家、蕭烏野列伝>遼史列伝第二十二]]
[[蕭恵、蕭迂魯、蕭図玉、耶律鐸軫列伝>遼史列伝第二十三]]
[[耶律化哥、耶律斡臘、耶律速撒、蕭阿魯帯、耶律那也、耶律何魯掃古、耶律世良列伝>遼史列伝第二十四]]
[[耶律弘古、耶律馬六、蕭滴冽、耶律適禄、耶律陳家奴、耶律特麼、耶律仙童、蕭素颯、耶律大悲奴列伝>遼史列伝第二十五]]
[[耶律仁先、耶律良、蕭韓家奴、蕭徳、蕭惟信、蕭楽音奴、耶律敵烈、姚景行、耶律阿思列伝>遼史列伝第二十六]]
[[耶律斡特剌、孩里、竇景庸、耶律引吉、楊績、趙徽、王観、耶律喜孫列伝>遼史列伝第二十七]]
[[蕭兀納、耶律儼、耶律仲禧、劉伸、耶律胡呂列伝>遼史列伝第二十八]]
[[蕭巖寿、耶律撒剌、蕭速撒、耶律撻不也、蕭撻不也、蕭忽古、耶律石柳列伝>遼史列伝第二十九]]
[[耶律棠古、蕭得里底、蕭酬斡、耶律章奴、耶律朮者列伝>遼史列伝第三十]]
[[蕭陶蘇斡、耶律阿息保、蕭乙薛、蕭胡篤列伝>遼史列伝第三十一]]
[[蕭奉先、蕭嗣先、李処温、張琳、耶律余覩、蕭乾列伝>遼史列伝第三十二]]
[[文学列伝一>遼史列伝第三十三]]、[[二>遼史列伝第三十四]]
[[能吏列伝>遼史列伝第三十五]]
[[卓行列伝>遼史列伝第三十六]]
[[列女列伝>遼史列伝第三十七]]
[[方技列伝>遼史列伝第三十八]]
[[伶官、宦官列伝>遼史列伝第三十九]]
[[姦臣列伝一>遼史列伝第四十]]、[[二>遼史列伝第四十一]]
[[逆臣列伝一>遼史列伝第四十二]]、[[二>遼史列伝第四十三]]、[[三>遼史列伝第四十四]]
[[二国外記>遼史列伝第四十五]]
**本紀
[[チンギスハン本紀>元史本紀第一]]
[[オゴデイ、グユク本紀>元史本紀第二]]
[[モンケ本紀>元史本紀第三]]
[[クビライ本紀一>元史本紀第四]]、[[二>元史本紀第五]]、[[三>元史本紀第六]]、[[四>元史本紀第七]]、
[[五>元史本紀第八]]、[[六>元史本紀第九]]、[[七>元史本紀第十]]、[[八>元史本紀第十一]]、[[九>元史本紀第十二]]、
[[十>元史本紀第十三]]、[[十一>元史本紀第十四]]、[[十二>元史本紀第十五]]、[[十三>元史本紀第十六]]、[[十四>元史本紀第十七]]
[[テムル本紀一>元史本紀第十八]]、[[二>元史本紀第十九]]、[[三>元史本紀第二十]]、[[四>元史本紀第二十一]]
[[カイシャン本紀一>元史本紀第二十二]]、[[二>元史本紀第二十三]]
[[アユルバルワダ本紀一>元史本紀第二十四]]、[[二>元史本紀第二十五]]、[[三>元史本紀第二十六]]
[[シデバラ本紀一>元史本紀第二十七]]、[[二>元史本紀第二十八]]
[[イェスン・テムル本紀一>元史本紀第二十九]]、[[二>元史本紀第三十]]
[[コシラ本紀>元史本紀第三十一]]
[[トク・テムル本紀一>元史本紀第三十二]]、[[二>元史本紀第三十三]]、[[三>元史本紀第三十四]]、[[四>元史本紀第三十五]]、[[五>元史本紀第三十六]]
[[イリンジバル本紀>元史本紀第三十七]]
[[トゴン・テムル本紀一>元史本紀第三十八]]、[[二>元史本紀第三十九]]、[[三>元史本紀第四十]]、
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[[八>元史本紀第四十五]]、[[九>元史本紀第四十六]]、[[十>元史本紀第四十七]]
**志
[[天文志一>元史志第一]]、[[二>元史志第二]]
[[五行志一>元史志第三上]]、[[二>元史志第三下]]
[[暦志一>元史志第四]]、[[二>元史志第五]]、[[三>元史志第]]、[[四>元史志第七]]、[[五>元史志第八]]、[[六>元史志第九]]
[[地理志一>元史志第十]]、[[二>元史志第十一]]、[[三>元史志第十二]]、[[四>元史志第十三]]、[[五>元史志第十四]]、[[六>元史志第十五]]
[[河渠志一>元史志第十六]]、[[二>元史志第十七上]]、[[三>元史志第十七下]]
[[礼楽志一>元史志第十八]]、[[二>元史志第十九]]、[[三>元史志第二十]]、[[四>元史志第二十一]]、[[五>元史志第二十二]]
[[祭祀志一>元史志第二十三]]、[[二>元史志第二十四]]、[[三>元史志第二十五]]、
[[四>元史志第二十六]]、[[五>元史志第二十七上]]、[[六>元史志第二十七下]]
[[輿服志一>元史志第二十八]]、[[二>元史志第二十九]]、[[三>元史志第三十]]
[[選挙志一>元史志第三十一]]、[[二>元史志第三十二]]、[[三>元史志第三十三]]、[[四>元史志第三十四]]
[[百官志一>元史志第三十五]]、[[二>元史志第三十六]]、[[三>元史志第三十七]]、
[[四>元史志第三十八]]、[[五>元史志第三十九]]、[[六>元史志第四十]]、[[七>元史志第四十一上]]、[[八>元史志第四十一下]]
[[食貨志一>元史志第四十二]]、[[二>元史志第四十三]]、[[三>元史志第四十四]]、[[四>元史志第四十五上]]、[[五>元史志第四十五下]]
[[兵志一>元史志第四十六]]、[[二>元史志第四十七]]、[[三>元史志第四十八]]、[[四>元史志第四十九]]
[[刑法志一>元史志第五十]]、[[二>元史志第五十一]]、[[三>元史志第五十二]]、[[四>元史志第五十三]]
**列伝
[[后妃列伝一>元史列伝第一]]
[[トゥルイ、チンキム、カマラ、ダルマパラ列伝>元史列伝第二]]
[[后妃列伝二>元史列伝第三]]
[[別里古台、朮赤、禿剌、牙忽都、寛徹普化、帖木児不花列伝>元史列伝第四]]
[[特薛禅、孛禿、阿剌兀思剔吉忽里列伝>元史列伝第五]]
[[木華黎、博魯朮、博爾忽列伝>元史列伝第六]]
[[察罕、札八児火者、朮赤台、鎮海、肖乃台、吾也而、曷思麥里列伝>元史列伝第七]]
[[速不台、按竺邇、畏答児、博羅歓、抄思列伝>元史列伝第八]]
[[巴而朮阿而忒的斤、鉄邁赤、按扎児忙漢、雪不台、唵木海、昔里ツ部、槊直腯魯華、昔児吉思、哈散納列伝>元史列伝第九]]
[[布智児、召烈台抄兀児、闊闊不花、拝延八都魯、阿朮魯、紹古児子忽都虎、阿剌瓦而思、抄児阿必察、
也蒲甘卜昂阿禿、趙阿哥潘、純只海、苫徹抜都児、怯怯里子相兀速、塔不已児脱察剌、直脱児子忽剌出、
月里麻思、捏古剌阿塔赤、阿児思蘭、哈八児禿子察罕、艾貌列伝>元史列伝第十]]
[[塔本、哈剌亦哈赤北魯、塔塔統阿、岳璘帖穆爾、李驕A速哥、忙哥撒児、孟速思列伝>元史列伝第十一]]
[[賽典赤贍思丁、布魯海牙、高智耀、鉄哥列伝>元史列伝第十二]]
[[安童、廉希憲列伝>元史列伝第十三]]
[[伯顔列伝>元史列伝第十四]]
[[阿朮、阿里海牙、相威、土土哈列伝>元史列伝第十五]]
[[来阿八赤、紐璘、阿剌罕、阿塔海、唆都、李恒列伝>元史列伝第十六]]
[[徹里、不忽木、完沢、阿魯渾薩理列伝>元史列伝第十七]]
[[速哥、囊加歹、忙兀台、奥魯赤祖朔魯■、完者都、伯帖木児、懐都、亦黒迷失、拝降列伝>元史列伝第十八]]
[[杭忽思、歩魯合答、玉哇失、麥里、探馬赤、抜都児、昂吉児、哈剌■、沙全、帖木児不花列伝>元史列伝第十九]]
[[塔出、拝延、也罕的斤、葉仙鼐、脱力世官、忽剌出、重喜、旦只児、脱歓、失里伯、孛蘭奚、怯烈、暗伯、也速■児、昔都児列伝>元史列伝第二十]]
[[撒吉思、昔班、鉄連、愛薛、闊闊、禿忽魯、唐仁祖、朶児赤、和尚、劉容、迦魯納答思、
闊里吉思、小雲石脱忽憐、斡羅思、朶羅台、也先不花列伝>元史列伝第二十一]]
[[鉄哥朮、塔出、塔里赤、塔海帖木児、口児吉、忽都、孛児速、月挙連赤海牙、阿答赤、明安、忽林失、
失剌抜都児、徹里、曷剌、乞台、脱因納、和尚列伝>元史列伝第二十二]]
[[哈剌哈孫、阿沙不花、拝住列伝>元史列伝第二十三]]
[[察罕、曲枢、阿礼海牙、奕赫抵雅爾丁、脱烈海牙列伝>元史列伝第二十四]]
[[康里脱脱、燕鉄木児、伯顔、馬札児台、脱脱列伝>元史列伝第二十五]]
[[乃蛮台、朶児只、朶爾直班、阿魯図、紐的該列伝>元史列伝第二十六]]
[[別児怯不花、太平、鉄木児塔識、達識帖睦邇列伝>元史列伝第二十七]]
[[太不花、察罕帖木児、拡廓帖木児列伝>元史列伝第二十八]]
[[答失八都魯、慶童、也速、徹里帖木児、納麟列伝>元史列伝第二十九]]
[[馬祖常、自当、阿栄、小雲石海涯、泰不華、余闕列伝>元史列伝第三十]]
[[答里麻、月魯帖木児、卜顔鉄木児、星吉、福寿、道童列伝>元史列伝第三十一]]
[[亦憐真班、廉恵山海牙、月魯不花、達礼麻識理列伝>元史列伝第三十二]]
[[耶律楚材、粘合重山、楊惟中列伝>元史列伝第三十三]]
[[張柔、史天倪、史天祥列伝>元史列伝第三十四]]
[[董俊、厳実列伝>元史列伝第三十五]]
[[耶律留哥、劉伯林、郭宝玉、石天応、耶律禿花、王c列伝>元史列伝第三十六]]
[[石抹也先、何伯祥、李守賢、耶律阿海、何実、郝和尚抜都、趙瑨、石抹明安、張栄、劉亨安列伝>元史列伝第三十七]]
[[薛塔剌海、高閙児、王義、王玉、趙迪、邸順、王善、杜豊、石抹孛迭児、賈塔剌渾、奥敦世英、田雄、張抜都、張栄、趙天錫列伝>元史列伝第三十八]]
[[張晋亨、王珍、楊傑只哥、劉通、岳存、張子良、唐慶、斉栄顕、石天禄、石抹阿辛、劉斌、趙柔列伝>元史列伝第三十九]]
[[劉敏、王■、王守道、高宣、王玉汝、焦徳裕、石天麟、李邦瑞、楊奐、賈居貞列伝>元史列伝第四十]]
[[洪福源、鄭鼎、李進、石抹按只、謁只里、鄭温列伝>元史列伝第四十一]]
[[汪世顕、史天沢列伝>元史列伝第四十二]]
[[董文炳、張弘範列伝>元史列伝第四十三]]
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[[宋子貞、商挺、趙良弼、趙璧列伝>元史列伝第四十六]]
[[王磐、王鶚、高鳴、李冶、李昶、劉粛、王思廉、李謙、徐世隆、孟祺、閻復列伝>元史列伝第四十七]]
[[楊大淵、劉整列伝>元史列伝第四十八]]
[[李忽蘭吉、李庭、史弼、高興、劉国傑列伝>元史列伝第四十九]]
[[李徳輝、張雄飛、張徳輝、馬亨、程思廉、烏古孫沢、趙炳列伝>元史列伝第五十]]
[[楊恭懿、王恂、郭守敬、楊桓、楊果、王構、魏初、焦養直、孟攀麟、尚野、李之紹列伝>元史列伝第五十一]]
[[張禧、賈文備、解誠、管如徳、趙匣剌、周全、孔元、朱国宝、張立、斉秉節、
張万家奴、郭昂、綦公直、楊賽因不花、鮮卑仲吉、完顔石柱列伝>元史列伝第五十二]]
[[王綧、隋世昌、羅璧、劉恩、石高山、鞏彦暉、蔡珍、張泰亨、賀祉、孟徳、鄭義、張栄実、
石抹狗狗、楚鼎、樊楫、張均、信苴日、段興智、信苴福、王昔剌、趙宏偉列伝>元史列伝第五十三]]
[[張立道、張庭珍、張恵、劉好礼、王国昌、姜ケ、張礎、譚資栄、王ツ列伝>元史列伝第五十四]]
[[陳祐、劉宣、何栄祖、陳思済、秦長卿、姚天福、許国禎列伝>元史列伝第五十五]]
[[賀仁傑、賈昔剌、劉哈剌八都魯、石抹明里、謝仲温、高觿、張九思、王伯勝列伝>元史列伝第五十六]]
[[尚文、申屠致遠、雷膺、胡祗遹、王利用、暢師文、張炤、袁裕、張ム、郝彬、高源、楊G、呉鼎、梁徳珪列伝>元史列伝第五十七]]
[[劉因、呉澄列伝>元史列伝第五十八]]
[[程鉅夫、趙孟頫、ケ文原、袁桷、曹元用、斉履謙列伝>元史列伝第五十九]]
[[崔斌、崔ケ、葉李、燕公楠、馬紹列伝>元史列伝第六十]]
[[姚燧、郭貫、夾谷之奇、劉賡、耶律有尚、郝天挺、張孔孫列伝>元史列伝第六十一]]
[[張珪、李孟、張養浩、敬儼列伝>元史列伝第六十二]]
[[曹伯啓、李元礼、王寿、王倚、劉正、謝譲、韓若愚、趙師魯、劉徳温、尉遅徳誠、秦起宗列伝>元史列伝第六十三]]
[[張思明、呉元珪、張昇、臧夢解、陳顕列伝>元史列伝第六十四]]
[[梁曽、劉敏中、王約、王結、張伯淳列伝>元史列伝第六十五]]
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[[元明善、虞集、掲傒斯、黄溍列伝>元史列伝第六十八]]
[[張起巌、欧陽玄、許有壬、宋本、謝端列伝>元史列伝第六十九]]
[[王守誠、王思誠、李好文、孛朮魯翀、李泂、蘇天爵列伝>元史列伝第七十]]
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[[張驕A帰暘、陳祖仁、成遵、曹鑑、張翥列伝>元史列伝第七十三]]
[[烏古孫良驕A賈魯、逯魯曽、貢師泰、周伯g、呉当列伝>元史列伝第七十四]]
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[[儒学列伝一>元史列伝第七十六]]、[[二>元史列伝第七十七]]
[[良吏列伝一>元史列伝第七十八]]、[[二>元史列伝第七十九]]
[[忠義列伝一>元史列伝第八十]]、[[二>元史列伝第八十一]]、[[三>元史列伝第八十二]]、[[四>元史列伝第八十三]]
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[[姦臣列伝>元史列伝第九十二]]
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[[逆臣列伝>元史列伝第九十四]]
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**本紀
[[洪武帝本紀一>明史本紀第一]]、[[二>明史本紀第二]]、[[三>明史本紀第三]]
[[建文帝本紀>明史本紀第四]]
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**志
[[天文志一>明史志一]]、[[二>明史志二]]、[[三>明史志三]]
[[五行志一>明史志四]]、[[二>明史志五]]、[[三>明史志六]]
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[[選挙志一>明史志四十五]]、[[二>明史志四十六]]、[[三>明史志四十七]]
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**列伝
[[后妃列伝一>明史列伝第一]]、[[二>明史列伝第二]]、[[三>明史列伝第三]]
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**付録
[[張廷玉上明史表]]
**本紀
[[ヌルハチ本紀>清史稿本紀第一]]
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[[雍正帝本紀>清史稿本紀第九]]
[[乾隆帝本紀一>清史稿本紀第十]]、[[二>清史稿本紀第十一]]、[[三>清史稿本紀第十二]]、
[[四>清史稿本紀第十三]]、[[五>清史稿本紀第十四]]、[[六>清史稿本紀第十五]]
[[嘉慶帝本紀>清史稿本紀第十六]]
[[道光帝本紀一>清史稿本紀第十七]]、[[二>清史稿本紀第十八]]、[[三>清史稿本紀第十九]]
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[[同治帝本紀一>清史稿本紀第二十一]]、[[二>清史稿本紀第二十二]]
[[光緒帝本紀一>清史稿本紀第二十三]]、[[二>清史稿本紀第二十四]]
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**志
[[天文志一>清史稿志一]]、[[二>清史稿志二]]、[[三>清史稿志三]]、[[四>清史稿志四]]、
[[十一>清史稿志十一]]、[[十二>清史稿志十二]]、[[十三>清史稿志十三]]、[[十四>清史稿志十四]]
[[災異志一>清史稿志十五]]、[[二>清史稿志十六]]、[[三>清史稿志十七]]、[[四>清史稿志十八]]、[[五>清史稿志十九]]
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地理志
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**表
[[皇子世表>清史稿表一]]
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[[諸臣封爵世表>清史稿表八]]
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[[疆臣年表>清史稿表三十七]]
[[藩部世表>清史稿表四十九]]
[[交聘年表>清史稿表五十二]]
**列伝
[[后妃列伝>清史稿列伝一]]
[[諸王列伝一>清史稿列伝二]]、[[二>清史稿列伝三]]、[[三>清史稿列伝四]]、[[四>清史稿列伝五]]、
[[五>清史稿列伝六]]、[[六>清史稿列伝七]]、[[七>清史稿列伝八]]
[[阿哈出子釋加奴猛哥不花釋加奴子李滿住李滿住孫完者禿猛哥不花子、撒滿哈失裏猛哥帖木兒猛哥帖木兒弟凡察子董山董山子脫羅脫羅子脫、原保凡察子不花禿、王杲王兀堂列伝>清史稿列伝九]]
[[萬子扈爾幹孟格布祿扈爾幹子岱善孟格布祿子吳爾古代、楊吉砮兄清佳砮楊吉砮子納林布祿金台石清佳砮子布寨布寨子布揚古、
布占泰拜音達裏列伝>清史稿列伝十]]
[[張煌言、張名振、王翊、鄭成功、鄭錦、鄭克塽、李定国列伝>清史稿列伝十一]]
[[額亦都費英東子索海孫倭K何和禮子多積禮和碩圖都類、安費揚古扈爾漢列伝>清史稿列伝十二]]
[[揚古利勞薩子程尼圖魯什子巴什泰覺羅拜山子顧納岱顧納岱子莫洛渾、西喇布子馬喇希阿蘭珠阿蘭珠弟布林堪納爾察納爾察子瑚沙、
達音布朗格朗格子和讬從弟雍舜瑪爾當圖瑪爾當圖子烏庫理、喀喇喀喇孫舒裏渾洛多歡崆古圖巴篤理穆克譚穆克譚子愛音塔穆、
達珠瑚達珠瑚子翁阿岱列伝>清史稿列伝十三]]
[[常書弟揚書 常書子察哈喇 孫葉璽 曾孫辰布祿 察哈喇子富喇克塔揚書子達爾漢 達爾漢子鄂羅塞臣 康果禮弟喀克都哩
哈哈納 哈哈納弟綽和諾 綽和諾從子富喀禪 葉克書 葉克書子道喇 博爾晉子特錦 孫瑪沁 曾孫康喀喇
雅希禪子恭袞 訥爾特 拉篤渾舒賽 舒賽子西蘭 西蘭子席特庫 景固勒岱 景固勒岱從弟崇阿 揚善弟伊遜
訥都祜 從弟武ョ冷格裏子穆成格 冷格裏弟納穆泰 從弟譚布 薩穆什喀弟雅ョ洪尼雅喀子武拉禪 洪尼雅喀弟薩蘇喀 阿山列伝>清史稿列伝十四]]
[[額爾コ尼噶蓋噶蓋子武善布善布善子誇紮達海尼堪、庫爾纏弟庫拜英俄爾岱滿達爾漢弟馬福塔明安達禮列伝>清史稿列伝十五]]
[[明安子昂洪多爾濟恩格類恩格類從子布當布顏代恩格コ爾、子額爾克戴青古爾布希鄂齊爾桑布林喀圖弼喇什色爾格克、
阿濟拜恩格圖鄂本兌和濟格爾和濟格爾子拜音達裏阿ョ、布延阿爾沙瑚阿爾沙瑚兄子果爾沁額琳奇岱青コ參濟旺、
多爾濟達爾罕奇塔特徹爾貝洛哩弟沙哩岱奇塔特偉徵、奇塔特偉徵弟額爾格勒珠爾喀蘭圖紮克托會楚克圖英琿津、沙爾布列伝>清史稿列伝十六]]
[[武理堪子吳拜蘇拜蘇拜子和讬 武納格子コ穆圖齊墨克圖、阿什達爾漢蘇納固三泰固三泰子明阿圖明阿圖子賽弼翰瑚什布、
瑚什布子穆徹納鄂莫克圖喀山喀山子納海安達立綽拜布丹、孫達哩吉思哈弟吉普喀達吳巴海康喀勒從兄子和托瑪拉、兄孫通嘉薩璧翰列伝>清史稿列伝十七]]
[[列伝>清史稿列伝]]
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 17:33:09
宋史、明史、清史の列伝が目次作るだけでもキツイお
佟養性、孫国瑶、李永芳、石廷柱、馬光遠、弟光輝、李思忠、子廕祖、廕祖子鈵、金玉和、子維城、王一屏、一屏子国光、国光子永誉、孫得功、張士彦、士彦子朝璘、金砺
希福、子帥顔保曽孫嵩寿、范文程、子承勲、承斌、孫時繹、時捷、時綬、時紀、曽孫宜恒、四世孫建中、寧完我、鮑承先
図爾格、兄徹爾格、伊爾登、弟超哈爾、超哈爾、子額赫里、巴奇蘭、岱松阿、岱松阿子阿納海、巴漢、斉爾格申、巴都里、巴都里従弟子海都托克雅、
叶臣、子車爾布、蘇魯邁、蘇魯邁子蘇爾済、鄂洛順、翁鄂洛、珠瑪喇、瓦爾喀珠瑪喇、瓦爾喀珠瑪喇弟伊瑪喇
21
孔有徳、全節、耿仲明、子継茂、継茂子昭忠、聚忠、尚可喜子之孝、沈志祥、兄子永忠、永忠子瑞、祖大寿、子沢潤、沢溥、沢洪、沢洪子良璧
大寿養、子可法、従子沢遠
22
図頼、准塔、伊爾徳、努山、阿済格尼堪、佟図頼
23
陳泰、阿爾津李国翰子海爾図桑額卓布泰弟巴哈
卓羅四世孫永慶、愛星阿、子富善、遜塔子馬錫泰、従弟都爾徳
陳泰、阿爾津、李国翰、子海爾図、桑額、卓布泰、弟巴哈、卓羅、四世孫永慶、愛星阿、子富善、遜塔、子馬錫泰、従弟都爾徳
24
洪承疇、夏成徳、孟喬芳、張文衡、張存仁
25
蒋赫徳、額色赫、車克、覚羅巴哈納、宋権、傅以漸、呂宮
成克巩、金之俊、謝升、胡世安、王永吉、党崇雅、馬周祚、高爾儼、張端
26
沈文奎、李栖鳳、馬鳴佩、馬国柱、羅繍錦、繍錦弟絵錦、雷興、王来用、丁文盛、子思孔、祝世昌
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 19:52:31
ここって二十五史翻訳という壮大なプロジェクト専用のスレ?
それとも漢文関係なら使っていい?
>>175 人もいないし、まだ目次さえ完成してないから
勝手にどうぞ。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:25:45
>>176 ありがとう
三国志 諸葛亮伝注「袁子」一部
曰:亮率數萬之眾,其所興造,若數十萬之功,是其奇者也。
所至營壘、井竈、圊溷、籓籬、障塞皆應繩墨,一月之行,去之如始至,勞費而徒為飾好,何也?
袁子曰:蜀人輕脱,亮故堅用之。
曰:何以知其然也?
袁子曰:亮治實而不治名,志大而所欲遠,非求近速者也。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:26:53
訳
或る人曰く「亮は数万の兵を率いたが、その興造する所は、数十万の功のようだ。これは諸葛亮が
滅多に居ない優れた者であるということだ。
諸葛亮が至った営塁・集落・郷・砦は皆、支配に応じたが、ひと月の軍事行動も、撤退したときには
何事もなかったかのようになった が、労費していたずらに意味のないことをしたのは、何だ?」
袁子曰く「蜀人(ここでは武都人のこと)は軽脱だから、諸葛亮は手堅く治めた。」
或る人曰く「何を以てそれがわかるのか?」
袁子曰く「諸葛亮は実を治めて名を治めず、志が大きく先のことを見ている
今だけのことを求める人間ではないのだ。」
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:28:28
井竈(かまど)、圊溷(かわや)は「生活」ということで集落、
藩籬(まがき)は郷を想起させる
このくだりのキーは「繩墨」で
これを墨繩(墨糸)と訳すか、軌範・規則と訳すかで全く訳が異なるが
俺は墨繩→線引き=縄張り/版図=支配と解釈する
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああ
あう
会う=ある所に集まって会う
遇う=途中で偶然会う
合う=ぴったりと合う
値う=『あたる』と同じ
逢う=その時節に合う、出会う
あおい(あをし)
青い=藍、紺、緑などの青色。未熟なこと
蒼い=草色、深い青色。かげりを帯びた感じ。ごま塩の髪。
碧い=青い綺麗な石。青緑色
あかい(あかし)
紅い=うすあか。桃色。年少者、女子に関する形容
絳い=絹の染色。黒っぽい赤色。真紅
赭い=赤土色
朱い=深い赤色
赤い=赤色。からっぽで何もないこと
丹い=丹砂の色。浅い赤色。白っぽい朱色
緋い=絹の赤色。あざやかな赤色
あきらか
皎らか=白く綺麗な明らか
炯らか=キラキラと明らか
耿らか=ほんのりと明らか
灼らか=燃えるように明らか。花の真っ盛り
昭らか=『明』と同じ
晶らか=美しく澄んで明らか
明らか=輝く明らか。隠す所がない
あきる(あく)
厭きる=いやになる
飽きる=お腹一杯になるまで食べる
あげる(あぐ)、あがる
挙げる=持ち上げる。引き上げる。引き起こして上げる。例をあげる。全部ひっくるめる。
矯げる=頭や翼をもたげる
扛げる=抱えて、重いモノを持ち上げる
抗げる=敢然とあげる。モノを持ち上げる意味はない
昂げる=高く上がる。あおむく。モノを持ち上げる意味はない
称げる=ほめる。手で持ち上げる
上げる=『のぼる』と同じ
揚げる=飛び上がる。有名になる
あざむく
欺く=騙す
誑く=担ぐ
詐く=それらしく装って騙す
詒く、紿く=ウソをついて騙す
誕く=大ボラを吹く
瞞く=判断を狂わせて騙す
あたたかい(あたたかし)
燠かい=『煖かい』と同じ
温かい=丁度いい温度。性格が穏やか
煦かい、昫かい=気候が温かい。人に恩恵を施す
暖かい、煖かい=あたたかい。あたためる。広く用いる
あたる(あたたむ)
中る=的に命中する
直る=まっすぐ当たる
値る=出会う。行き当たる
丁る=丁度そこ
抵る=匹敵する
当る=両方がぶつかる。丁度その時
方る=丁度その時
あつい(あつし)
渥い=潤う。十分に浸す
厚い=幅や奥行きが十分に厚い
淳い、惇い=人情風俗が飾り気がなく清らか
醇い=混じり気がない。凝り固まっている
暑い=気温が高い
篤い=しっかりして純一
敦い、惇い=しっとりと念入りに濃厚
熱い=温度が高い。心が念入りで手厚い
あつまる、あつめる(あつむ)
会まる=一所に寄り合う
糾まる=結合する
鳩まる=固まり集まる
纂まる=言葉などを集める
攢まる=群がり集まる
集まる=散らばっているのを寄せ集める
聚まる=一族が寄り集まる。一箇所に寄り集まる
輯まる=あれこれ集めて一つにする
鍾まる=抽象的なモノを固まり集める
萃まる=集まる
輳まる、湊まる=四方から一箇所に寄り集まる
屯まる=屯して集まる
あな
坎=へこんだ穴
竅=気体の出入りする穴
穴=底のある穴
孔=通り抜けになっている穴
坑、阬=洞穴のように大きな穴
竇=大きい穴
あなどる
易る=見下す
欺る=馬鹿にする
侮る=相手を見くびる
慢る、謾る=気ままで自堕落で人を人と思わない
あばく
訐く=人の秘密を暴き立てる
摘く、擿く=人の犯罪を暴く
発く=隠れているものをさらけ出す
あまねし
洽し=偏りなく行き渡り、しっくり染み渡る
周し=全体に行き渡り、一つずつ全てに手が行き届き、全てを尽くす
普し=広く全体に行き渡る
徧し、遍し=通り一遍
歴し=一つずつ漏れなく尽くす
あまる、あます
嬴る=仕事の利益
衍る=水の溢れること
剰る、賸る=十分すぎる
羨る=有り過ぎる
余る=たっぷりしていて、はみ出る
あやうい(あやふし)
危うい=冷や冷やする状態。ひっくり返そうになっている
殆うい=危なそうで安心出来ず、探り足
あやしい(あやし)
異しい=同じでない。風変わり
怪しい=ヘンテコなこと。ありえない不思議
奇しい=滅多に見られない珍しさ。思いもしない
妖しい=まともでなく、人を惑わす
あやまる、あやまつ
過まる=気付かずにミスする
諍まる、訛まる=いつわる。出鱈目を言いふらす
愆まる=不調法
誤まる=やり損なう
錯まる=食い違って合わない
失まる=しくじる
謬まる、繆まる=証拠のない、滅多なことを言う
あらい(あらし)
粗い、麤い=雑なこと。荒々しい
暴い=酷くて荒々しい
略い=あらまし
あらう(あらふ)
浣う、澣う=服や身体のヨゴレを落とす
洒う=すすぎ落とす
洗う=水でヨゴレを落とす。湯水で落とす
澡う=擦り落とす
濯う=すすぎ洗う
滌う=すすぎ落として掃除する
沐う=髪を洗う
浴う=身体を洗う
あらためる(あらたむ)
改める=徐々に改める
革める=さらりと変わる
更める=基本を取り替える
悛める=心を改める
あらわれる(あらはる)、あらわす(あらはす)
顕れる=光り輝くように現れる
現われる、見れる=隠れているモノが現れる
章れる=筋目を立てて表す
彰れる=文章の飾り
旌れる=表彰する
著れる=その特徴を示す
暴れる=人目に曝す
表れる=区別して違いを表す
露れる=剥き出しにする
あれる(ある)
荒れる=田畑が荒れる
蕪れる=草が生い茂る
あわれむ(あはれむ)
哀れむ=いたみ悲しむ
矜れむ=気の毒に思う
恤れむ、卹れむ=いたわる。恵む。憂える
閔れむ、憫れむ=気遣う
愍れむ=憂い悼む
憐れむ=いとしく思う。愛でる
いう(いふ)
謂う=評価して言う。意味を言う。相手に直接話す
云う=他人の言葉の引用
曰う=次に言った言葉を表す
言う=言葉で言い表す
道う=言葉で言う。言葉という名詞にはならない
いえる(いゆ)、いやす
已える=病気が進んで終わりを告げる
医る=病気を治す。治るように処置する
差える、瘥える=一日ずつ次第に治る
痊える=病気が完全に治る
瘳える=根治する
癒える、瘉える=見違えるほど治る
いかる
恚る=恨み怒る。悶え怒る
慍る=腹立ちを心中に鬱積すること
瞋る=目をかっと見開く
怒る=表情に出して怒る
忿る=癇癪を起こす
憤る=鬱積して心が一杯になる
いこう(いこふ)
休う=休む
憩う=暫く足を止めて休む
息う=一息入れる
いそがしい(いそがし)
急がしい=差し迫っている。せわしない。せっかち
悤しい、怱しい=慌しい
忙しい=ヒマがない
いだく
懐く=懐に入れる
抱く=抱えて持つ
擁く=両手を回す。ひしひしと取り巻く
いたす
輪す=船や車で運ぶ
効す、致す=そこへ持っていく。持ってくる。招く。委ねる。ささげる
いたむ
隠む=心の底から深く染み渡って哀れむ
惨む=酷い目に合ってげっそりする
傷む=精神的に痛い
悽む=心の底から悼む
戚む=悼み悲しむ
愴む=心の底から悼み思う
悵む=期待に沿わず残念に思う
痛む=肉体的に激しく痛い
悼む=心の中で可哀想に思う
いたる
格る=行ける所まで行って先に行かないこと。神様が来る
詣る=伺候する
至る=達する
臻る=行く先に手が届く
造る=押しかける。段々と進む
到る=場所に歩み及ぶ
いつわる(いつはる)
詭る=色々派手に人目を狂わせる
偽る=本物に似せる
矯る=上司の命令だと偽る
譎る=詐欺にかけて騙す
詐る=ウソをついて騙す
謬る=狂人の戯言
佯る、詳る、陽る=上辺だけ
いのる
祈る=幸運を祈る
禳る=お払いする
祷る、禱る=祈って加護を求める
いましめる(いましむ)
戒める=未然に警戒する。特定のことを言いつける
誡める=用心する
警める=注意させる
いむ
忌む=憎悪する
諱む=忌むが失礼なので言わない
いやしい(いやし)
下しい=自分より下っ端
賎しい=身分が下。値段が安い
卑しい=年齢や上下関係が下
鄙しい=野暮ったい。軽んじる
陋しい=行き詰まり。狭くて汚い
いれる(いる)
納れる=入れて納める
入れる=入っていく
容れる=受け入れる
うえる(うう)
餓える=『飢える』の上位互換
飢える=ひもじい
饑える=不作。ひもじい
餒える=ひもじい
うえる(うう)
芸える、藝える=苗を植える
栽える=若木を植える
種える=草木の種を蒔く
樹える=成長した木をしっかり植え立てる
植える=植え立てる。若木を植えて成長させる
うかがう(うかがふ)
窺う、闚う=こっそり覗く
候う=待って様子を見る
伺う、覗う、時う=挙動を偵察する
偵う=スパイや斥候で偵察する
覘う=動向を調べる
うかぶ、うかべる(うかぶ)
泛かぶ、汎かぶ=水に浮かんで漂う
浮かぶ=水面に浮かぶ。固定してない
うける(うく)
享ける=神様に供える。神様に貰う
饗ける=饗応する
受ける=受け取る。受け入れる
承ける=上から何かを受ける
稟ける=神様から本性を受ける
うごく、うごかす
撼く=ゆさゆさと揺す振る
蕩く、盪く=段々とゆるんでいく。往復運動
動く=じっとしてない
揺く=揺れる
うしなう(うしなふ)
失う=取り逃がす。し損なう。過失
喪う=はぐれて失う
亡う=跡形もなくなる
うすい(うすし)
澆い=人情が薄い
淡い=あっさりしている
薄い=モノの厚さが薄い。性格が軽はずみ
菲い=手軽で粗末
漓い、醨い=酒が薄い。人情、風俗が薄い
うたう(うたふ)
謳う=声を揃えて歌う
歌う=声を出して歌う
唱う、倡う=合唱する
嘯う=口笛を吹く
謡う=伴奏なしに歌う
うたがう(うたがふ)
意う=勝手に推し量る
疑う=信じられない
猜う=邪推する
うち
中=真ん中
内=仕切りの内側
裏=モノの裏側
うつ
殴つ=殴る
撃つ=かなり激しく打つ
捶つ=棒で叩いて懲らしめる
征つ=戦争で懲らしめる
打つ=振り上げて打つ
撻つ=ムチや棒で懲らしめて打つ
討つ=過失を挙げて戦争で退治する
擣つ、搗つ=臼でつく。椎でつく
拍つ=手の平やモノを打ち合わせる
搏つ=腕っ節に力を入れて打つ
伐つ=部隊を率いて討伐する。モノを打つ
拊つ=ペシペシと叩く
撲つ=はたと当てて打つ。香気が鼻を押し付ける
うつくしい(うつくし)
艶しい=人の目や心を奪う美しさ
娟しい=しなやかで美しい
妍しい=容色、態度が美しい
美しい=綺麗。見事。立派
麗しい=もっぱら形や色について言う
うつす、うつる
移す=モノを移し変える
徙す=立ち退かせる
遷す=場所を移動する
うつす
写す=コピーする
摸す=形を似せる
うったえる(うったふ)
訟える=裁判で争う
訴える=訴人として訴える
愬える=『訴える』と同じ。讒言する
うらむ
怨む、懟む=人を怨む
憾む=残り惜しく思う
慊む=心に忘れない怨み
恨む=激しい怨み
望む=思うようにならないので不満を持つ
うる
沽る=小売をする
賈る=商売をする
糶る=米を出して売る
売る=モノを売る
うるわす(うるほす)、うるおう(うるほふ)
湿わす=ジメジメしている
濡わす=びっしょり、雫の垂れるように濡れる
潤わす=しっとり潤う
沢わす=『潤う』の上位互換。ツヤがある
沾わす=しっぽり全体が潤う
挹わす=しっとりと濡れる
うれえる(うれふ)
患える=酷い目に遭って心配する
愁える=物寂しい
恤える、卹える=気にかける
戚える=悼む
閔える、憫える、愍える=気に病む
憂える=気遣う。心配する
えがく(ゑがく)
描く、画く=絵に描く
絵く、繢く=刺繍する。彩色する
図く=様子をそのまま写す
えらぶ
揀ぶ=より出す
簡ぶ=いいモノを区別する
撰ぶ=言葉をつづり、記録する
選ぶ=選り抜く
択ぶ=区別する
おう(おふ)
荷う=両方にモノを置いて担ぐ
担う=担ぐ
負う=背負う
おう(おふ)
逐う=追い払う。追いかける
趁う=追いかける
追う=追いつく
おおい(おほし)
夥い=『多い』と『盛ん』の複合
衆い=人数が多い
庶い=すべて
饒い=モノが沢山
多数=モノの数が多い
おほう(おほふ)
掩う、揜う=手で隠す
蓋う=蓋をするように隠す
庇う=覆い庇う
覆う=すっぽり上から被せて覆い包む
蔽う=遮り隠す
おかす(をかす)
干す=押しかけて人に求める
侵す=忍び入って国を侵す
犯す=理不尽に人の縄張りに入る
冒す=滅法突き進む。人の名前を勝手に使う
おぎなう(おぎなふ)
裨う=助ける
補う=不足を満たす
おくる
貽る、詒る=やり渡す。残しておく
遺る=モノを人に残す。また与える
帰る=送りつける
餼る=生き物を生贄に贈る
饋る、餽る=生贄を贈る
餞る、贐る=餞別をやる
送る=人を送り迎えする
贈る=人にモノをやる
おこたる
怠る=きちんとせずだらける
懈る=精を出さない
惰る=野放図と自堕落
おこる、おこす
起こる=始まる
興る=雌伏して雄飛する
作る=新たに起こす
発る=中から外へ出る。勢いを伴った現象、行為
おごる
倨る=行儀作法に外れて威張る
驕る=横柄な性格
傲る、敖る、慠る=見下す。高慢ちき
侈る=ゆったり贅沢する
奢る=物理的に限度を越えて贅沢する
おさめる(をさむ)、おさまる(をさまる)
収める=入れる所があって、その中に入れる。取り込む
蔵める=隠してしまい込む
修める=正し整えて立派にする
治める=適材適所に上手く処理する
納める=納れる
理める=筋を立てる
斂める=一所に集めて取り入れる
おしえる(をしふ)
誨える=当面の指図
教える=納得させる
訓える=道理を説く
おしむ(をしむ)
愛しむ=大切にして手放しにくい
嗇しむ=節約する
惜しむ=心に惜しく思う
吝しむ、悋しむ=ケチ
おす
圧す=上から押し付け圧し掛かる
按す=手でしっかり押さえつける
押す=押し付ける
推す=押して向こうに進む
擠す=押し落とす
捺す=手で押さえつける
排す=押しのける
抑す=揚がらないようにする
おそれる(おそる)
畏れる=憚る
恐れる=心配する
懼れる、惧れる=俄かに恐れる
惶れる=うろたえる
悚れる、竦れる=身を竦ませる
慴れる=動転して縮み上がる
懾れる=臆病で失神する
惴れる=憂い恐れる
怕れる=嫌がる
怖れる=びっくりする。脅す
慄れる=恐れ震える
おちる(おつ)、おとす
隕ちる=高い所をすとんと落ちる
堕ちる=くずれ落ちる。下にべったりする
墜ちる=事故などが起こって落ちる
落ちる=上から下に落ちる
零ちる=振り落ちる
おどる(をどる)
跳る=跳ねて飛び上がる
躍る=飛び上がる。飛び越える
踊る=小躍りする
おもう(おもふ)
意う=推量する
以う、為う、以為=こうだと思う
惟う=色々と検討する
謂う=そうだと判断して思う
憶う=心の中に入って忘れない
懐う=人や場所を思う
顧う=振り返って反省する
思う=思案する。懐かしむ
想う=思いやる
念う=心の中でずっと思う
おもむく
趣く=ある点を目指して走って行く
趨く=小走りに行く
赴く=一所に向かって駆けつける
およぶ
曁ぶ=あずかり及ぶ
及ぶ=追いつく。そこまで届く
逮ぶ=追いつく
おろか
騃か=とろい
愚か=分別がない
痴か=機転が利かない
魯か=頭脳が鈍い
おわる(をはる)、おえる(をふ)
已わる=してしまうこと
訖わる=おしまい
竟わる=とことんまで行く
終わる=果てる
卒わる=お仕舞いになる
畢わる=すっかり尽きて済む
了わる=さっぱり決着が付いて済む
かえりみる(かへりみる)
眷みる=親しむ。振り向く
睠みる=見返る
顧みる=振り向く。気にとめる。目に掛ける
省みる=吟味する
盼みる=振り返って見る。注視する
眄みる=流し目に見る
かえる(かへる)、かえす(かへす)
回える=巡り回る。出たモノが戻ってくる
還る=行き先から帰る
帰る=元の場所に戻る
旋る=くるりとする
反る、返る=ひっくり返す。戻る
復る=出発地点に戻ってくる
かかげる(かかぐ)
掲げる=高く引き上げる。また着物の裾をからげる
褰げる=垂れたモノを掲げ上げる
挑げる=引っ掛けてはね起こす。引っ掛けてあげる。相手を引き起こすこと
かかる、かける(かく)
嬰かる=まわり付く
挂ける、掛ける=カギに引っ掛ける
繋る、係る=結わえ付けておく。関係する
罥る=引っ掛かって束縛される
懸かる、県かる=縄などで吊るす。繋いでおく
罹る=網に罹る。病気に罹る
かくれる(かくる)、かくす
隠れる=隠れて見えない
竄れる=逃げて隠れる
潜れる=水底にいるように、静かに潜む
蔵れる=隠して現さない。しまって置く
匿れる=名前を隠す。逃げ隠れする
かける(かく)
虧ける=目減りしたり、損なわれる
欠ける、缺ける=割れたり、裂けたりして欠陥が出来る。不足している
闕ける=空席
欠ける=足りない
少ける=比べると足りない
かさねる(かさね)、かさなる
襲ねる=衣を重ねる。そのように重ねる
申ねる=言葉を繰り返す
重ねる=ある上に重なる
畳ねる=畳み掛ける
累ねる=丸いモノを重ねる
かざる
飾る=外部を飾る
文る=色々混ぜて模様をこしらえて立派に見せる
かたい(かたし)
頑い=頑な
鞏い=革で巻いて固める
堅い=中まで詰まって堅い
固い=破るのが難しい
硬い=手触りが硬い
剛い=撓まない
難い=やりづらい
牢い=丈夫で動かない
かつ
嬴つ=お釣り。ゲームの勝ち
戡つ=戦ってやっつける
克つ、剋つ=力を入れてやりづらいことをやる。攻め落とす
捷つ=戦いに勝つ
勝つ=勝つ
かなう(かなふ)
諧う=しっくり調和する
協う、叶う=大勢の人間が協力する
愜う=満足して気持ちにしっくり合う
称う=釣り合う
適う=丁度合う
かなしむ
哀しむ=不憫に思う
惨しむ=惨くて辛く思う
悽しむ=心中に物悲しく思う
悲しむ=『哀しむ』の上位互換。涙はないが声を出す
かむ
齧む=歯を噛み合せて、がじがじ噛む
咬む、齩む=骨をかじる。噛み付く
咋む=口に入れて噛む
嚼む=くちゃくちゃ音をさせて、噛み砕く
咀む=口に含んで噛んで味わう
噬む=噛み付き噛む
かれる(かる)
涸れる=水が渇き尽きる
枯れる=立ち枯れる
槁れる=長く乾燥して『朽ちる』寸前
かわく
渇く=咽喉が渇く
乾く=水気が取れて乾く
晞く=霧などが、次第に乾いていく
燥く=潤いが取れて乾き切る
かわる(かはる)、かえる(かふ)
易わる=取り替える
換わる=先に相手にモノを渡して、引き換えを貰う
更わる=し直す
代わる=代理にやらせる
替わる=一方が廃れて、代理が行う
変わる=さっと変わる
貿える=モノをやり取りする
渝わる=色が褪めて変わる
かんがえる(かんがふ)
勘える=突合せ、調べる
稽える=引き比べる
考える、攷える=考え正す
きく
聞く=耳に入る
聴く、聆く=聞こうとして聞く
きよい(きよし)、きよめる(きよむ)
潔い=けがれなく清らか
浄い=ヨゴレをなくして、綺麗にさっぱりする
清い=水が澄む。濁りがない
冽い、洌い=冷たい。ひんやり
きる
裁る=布を裁断する。断ち切る
鑚る=錐で揉み込む
斬る=切り殺す
斫る=切って落とす
切る=切り刻む
截る=切り分ける。区切って切る
剪る、翦る=ハサミで切って揃える
断る=離れさす
伐る=斧などで切る
きわめる(きはむ)、きわまる(きはまる)
究まる=奥底を見極める
窮まる=行き詰まる
極まる=最早、その先のない意味
谷まる=どちらにも行き当たりになって行けない
くじく
挫く=押す潰す。ぺしゃんこにする
折く=モノを折る
くずれる(くづる)
壊れる=壁などが崩れ壊れる。次第に壊れる
頽れる、隤れる=段々下に下がってべったりする
崩れる=山の崩れることで、一時にガラガラと崩れる
くだく
砕く=粉々にする
摧く=へし潰す
くつがえる(くつがへる)、くつがえす(くつがへす)
顛る=ひっくり返る
覆る=仰向いているモノが俯けにひっくり返る
くむ
掬む=両手で掬い取る。気持ちを汲み取る
汲む=井戸の水を汲み上げる
酌む=酒を酌む。口のあるモノの場合は『注ぐ』。酌み量る
斟む=酒を酌み足す
挹む=酌んでざっと空ける
くらい(くらし)
暗い、闇い=暗くてはっきりしない
晦い=真っ暗。隠れて分からない
昏い=日没後の薄暗さ。筋道の見えないこと
昧い=夜明け。日暮れ。ぼんやりしている
冥い=暗くてよく分からない
瞑い=暗がり。道理や精神的なことには使わない
罔い=精神的に暗いこと
幽い=未知の場所の暗さ
杳い=跡形が見えないこと
くらう(くらふ)、くう(くふ)
喫う、吃う=飲食すること。身に受ける
茹う=野菜を食べる
食う=モノを食べる
咀う=噛む
啗う噉う、啖う=噛んで呑み込む。利益で人を釣るのを「啗以利」という
飯う=メシを食べる
くろい(くろし)
黔い=黄黒色
玄い=明かりの及ばない所の色。真っ黒ではない
黒い=黒い
緇い=黒い絹
黝い=青黒い
くわしい(くはし)
委しい=水流の曲がったこと。詳しい
詳しい=細かく明らかなこと
審しい=これ以上ないほど正確に調べる
精しい=粒より。念入りに吟味したモノ
けがれる(けがる)、けがす
汙す、汚す=濁った水。行動が汚い
褻す=なれなれしい
涜す、瀆す、黷す=気安くて失礼。不要なことを幾度もして汚す
穢す=草だらけになって荒れる。むさくて汚い
けずる(けづる)
刮る=こそぎ取る
削る=削り取る
刪る=一部分にそこそこに手を入れて切り取る
けわしい(けはし)
嶮しい、険しい=足を踏み外しそうな地形。人を陥れるような性格
峻しい=切り立った地形
岨しい、阻しい=交通が難しい地形
峭しい=山が切り立ったような地形。人を寄せ付けないような性格
こう(こふ)
丐う=あわよくば貰おうとする
乞う=貰おうと求める
請う=どうぞと願い求める
こえる(こゆ)
越える=向こうに行く
超える=おどり上がって飛び越える
逾える=向こうへ越える
踰える=またいで越える
こころみる(こころむ)
験みる=証拠立てる
試みる=用いてみて、試す
嘗みる=口で味見する
こたえる(こたふ)
応える=相手の要求に心から応じる
対える=目上の人間の質問に返事をする
答える=相手の質問の返事をする
ことなる
異なる=モノがこれとあれでは違うこと
殊なる=切られて離れる。転じてモノが別個に切り離れる
このむ
好む=愛してやまないこと
嗜む=好みの甚だしいこと
ころす
殺す=刀で切り離す。草をなぎ払う。生き物を殺す
死す=あの世に送る
弑す=目下の人間が目上の人間を殺す
誅す=犯罪を責めて殺す
戮す=犯罪者を殺す
さいわい(さいはひ)
祜い=加護の厚いこと
幸い=幸運
倖い=マグレあたりの幸運
祥い=めでたい印
福い=『幸せ』の上位互換。果報。供物のお下がり
さえぎる(さへぎる)
遮る=相手の来るのを防ぎとめる
闌る、欄る=仕切りをして、外に出さないようにする
さからう(さからふ)
逆らう=真正面から逆らう
忤う、迕う=考えが違う
さかん
殷ん=『多い』『盛ん』の複合
熾ん=炎が燃え上がるような勢い
昌ん=次第に明るくなる
盛ん=真っ盛り
壮ん=気力が充実してる
隆ん=張りあがる
さく、さける(さく)
割く=刃物で裂く。切り分ける
析く=木を割ること
圻く、拆く=土が旱魃で割れる
擘く=手で割る
劈く=刃物で割る
剖く=真ん中から裂き割る
裂く=引き裂く
さぐる、さがす
捜る=見えなくなったモノを捜す
探る=知らないモノを探す
模る=手で撫で探り回す
さけぶ
喚ぶ=大声で呼ぶ
喊ぶ=ときの声をあげる
叫ぶ=声を張り上げて遠くまで届くように叫ぶ
号ぶ=大声で叫び呼ぶ
ささげる(ささぐ)
フげる=高く差し上げて持つ
献げる=目上に差し上げる
奉げる=目上に奉げ渡す
捧げる=両手を高く差し上げて、受け取る
さしはさむ
夾む=持ち抱える
挟む=モノを両方から挟む。脇の下に抱え込む
挿む=モノの間に差し込む
さとい(さとし)
睿い、叡い=分からないことがない
潁い=並より飛びぬけて頭脳が冴える
慧い=女子供の勘がいい
聡い=耳聡い。物分りがいい
智い=分別がある
哲い=先の成り行きを見抜く
敏い=行動が素早い
さとる
解る=塊が解きほぐれるように理解する
覚る=知らないことが分かる
暁る=気づく
悟る=迷いが開ける
喩る、諭る=納得させるように諭す
了る=埒が開く。はっきり分かる
さめる(さむ)
覚める=目が覚める
寤める=熟睡から覚める
醒める=酔いが醒める
さわぐ、さわがしい(さわがし)
擾ぐ=秩序を乱して騒ぐ
噪ぐ、譟ぐ=喚き騒ぐ。群がって煩く鳴く
騒ぐ=騒動する。ドタバタ乱れる
躁ぐ=落ち着かず、じっとしていない
しく
籍く=下敷きに敷く
席く=敷き物を敷く
布く、敷く=地面にモノを敷く。広く延べる
舗く=隙間なく並べる
しげる、しげし
滋る=増え広がる
繁る=模様や色彩が過度に多い
蕃る=草が茂る
茂る=草木が盛んに茂る
しずか(しづか)
間か=ヒマ。のどか。せわしなくない
徐か=ゆっくりとした動作
靖か=地位に安んじる
静か=騒がずに静まる
寂か=物音一つしない
しずむ(しづむ)、しずめる(しづむ)
沈む=沈む。沈める
没む=中に隠れて見えなくなる
淪む=水没する
したがう(したがふ)
率う=引き連れる。筋目に従う
循う=次第次第に従っていく
遵う=筋目を守る
順う=その通りにする
従う=相手の通りに従う
随う=相手に任せて従う
しぼむ
萎む=草木が枯れる。元気がなくなる
凋む=木の葉が黄ばむ
しみる(しむ)
沁みる=水が染みる。心に染み込む
浸みる、滲みる=隙間から漏れて染みる
染みる=次第にその色に染みる
泌みる=液体が小さな隙間から押されて漏れる
しりぞく、しりぞける(しりぞく)
卻く、却く=断って引き返す
斥く=厳しく押しのける
退く=後ずさりする
黜く=左遷する
擯く=除け者にする
屏く=その場を立ち退かせる。人払いする
しる
識る=合点して見知る
知る=理解して区別する
しるす
紀す=順序立てて記す
記す=覚えにするため記す
志す、誌す=目印にする
識す=心に覚える
録す=記録する
しろい(しろし)
皓い=白くキラキラ光る
素い=白い生地
白い=白い
すくう(すくふ)
救う=安全にする
拯う=落ち込んだのを引き上げる
振う、賑う=奮い起こす
済う=人をそれで助けること
すくない(すくなし)
寡い=たっぷりとない
少ない=ちょっとしかない
鮮ない=ほとんどない
すすむ、すすめる(すすむ)
勧む=精を出す。精を出させる
羞む=ご馳走する
奨む=助けて奨める
進む=段々向こうに行く
薦む=神様に供える
前む=前へ出る
漸む=じりじりと増してくる
すてる(すつ)
委てる=相手任せにして構わない
遺てる=残して棄てる
捐てる=他へやる
棄てる、弃てる=ポイと打ち棄てる
捨てる、舎てる=打ち捨て使わない
釈てる=手放して下に置く
すむ
住む=そこを居所にする
棲む、梄む=留まり休む
するどい(するどし)
鋭い=細くて尖っている
利い=切れ味がいい。すらすらいく
せまい(せまし)
隘い=モノが入らないほど間が狭い
狭い=狭い
窄い=中が狭くて受け入れない
せまる
迫る=追い詰める
薄る=ピッタリと迫り寄ること
逼る=ぴっしりとくっ付く
せめる(せむ)
譴める=言葉で厳しく責める
攻める=城や敵を攻撃する。病気を治す。過失を責める
譲める=理由を問い質す
責める=非道を責める。正義を行えと求める
そう(そふ)、そえる(そふ)
沿う=流れに沿う
添う=付け加える
副う=補佐
傍う、旁う=そばに寄り添う
そこなう(そこなふ)
害う=凡そ妨げになる
残う=役に立たないように滅茶苦茶にする
傷う=傷つけ損なう
賊う=人を殺す。駄目にする
損なう=減らす。不完全にする
そしる
毀る=他人を非難する
譏る=ちゃんと見てきっちり責める
刺る=相手の心に堪えるように非難する
訾る=過失、欠点を見出して非難する
誚る=他人を叱る
訕る=上司を非難する
短る=他人の欠点、過失を指摘する
詆る=他人を叱って困らせる
非る=是とせず見下す
誹る=是非を評判して非難する
謗る=他人を非難する
そそぐ
漑ぐ=溝をつけて水を引いて田畑や池に注ぐ
灌ぐ=水を注ぐ。注いで流す
澆ぐ=草木に水を掛ける。ムラなく薄く掛ける
酒ぐ、灑ぐ=庭に水を散布する
瀉ぐ=急に流れて下る
注ぐ=川がゆるゆると流れ注ぐ
濺ぐ=水などをはねて、掛ける
沃ぐ=杓でじゃぶじゃぶ汲んで掛ける。十分潤す
そなえる(そなふ)、そなわる(そなはる)
供える=供え物にする。役に立てる
具える=欠けることなく揃う
備える=用心の為に支度する
そむく
違く=思うように行かず、筋違いになる
乖く=意地悪く拗ねて、逆らう
背く、倍く=背を向ける。裏腹になる
反く=天子に危害を加える
叛く、畔く=反乱する。敵に降伏する。言うことを聞かない
負く=恩義を忘れる
たいら(たひら)
夷ら=平地
坦ら=道が平坦
平ら=偏りがない
たえる(たふ)
堪える=必死に堪える
勝える=十分に実力がある
任える=負担を引き受けてそれに耐える
耐える=我慢する
たおれる(たふる)、たおす(たふす)
僵す=のけぞり返る
顛す、顚す=落ちるように倒れる
倒す=ひっくり返る。ひっくり返す
仆す=べったりと横に伸びて伏す
斃す=死んで倒れる。殺して倒す
踣す=つまづいて倒れる
たかい(たかし)、たかくする(たかくす)
喬い=木々が高く延び立って、上で曲がる
亢い=高いのを窮める
高い=見上げるように高い
崇い=山や岩が険しくて高い。積み上げる
峻い=山などが険しく高い
卓い=抜きん出て高い
隆い=山形に高い
たくわえる(たくはふ)
蓄える、畜える=少しずつ寄せ集めて置く
貯える=しまい込んで、じっと貯える
儲える=予備に貯える
たけし
悍し=性質が激しくて荒い
武し=力で他人を屈服させる
猛し=酷くて当りにくい
たけなわ(たけなは)
闌=終わり近く
酣=酒宴の最中
たすける(たすく)
援ける=助けて救う。引き上げる
佐ける、左ける=二番手として補佐する
資ける=元手を出す。不可欠なモノを補う
助ける=手伝う
相ける=目下が助けて導く
裨ける=助けて補う
弼ける、弻ける=ゆがみを直す。過失を矯めて直す
扶ける=助ける。添え木で転ばないようにする。倒れないようにする
輔ける=控えになって助ける
佑ける、右ける、祐ける=神様が助ける
翼ける=翼で身を支えるように力を添える
たずねる(たづぬ)
繹ねる=糸口を引き出す
原ねる=根元を尋ね究める
尋ねる=後から以前の道筋を聞く
討ねる=探り尋ねる
たたかう(たたかふ)
戦う=大勢が斬り合う
闘う=『戦う』の下位互換。相手に向かって切り合ったり掴み合う
たたく
款く=門を叩いて通行を求める
叩く、扣く=こつこつ叩く
敲く=『叩く』の上位互換
ただしい(ただし)、ただす
格す=法度に合わす
規す=一寸も狂わない。そのように矯正する
糾す、糺す=過失や犯罪を暴いてはっきりする
匡す=真っ直ぐ。『ただしい』とは読まない
矯す=矯正する
正しい=真っ直ぐ
貞しい=動揺することなく、惑わない
釐す=もつれているのを筋を立てて正す
たつ、たえる(たゆ)
裁つ=布を裁つ。理にかなうようにする
截つ=切って断つ
絶つ=後がない
断つ=二つに切り離す
たつ、たてる(たつ)
起つ、興つ、作つ=立ち上がる
建つ=『立つ』と同じ。始める。『立ち上がる』の意味はない
豎つ、竪つ=水平の方向のモノを垂直にする
樹つ=木を植え立てる
植つ=木を植えて育てる
立つ=しっかり立つ。出来上がる
たっとぶ、とうとい(たふとし)
貴ぶ=身分、値段が高い
崇ぶ=仰ぎ大切にする
尚ぶ、上ぶ=上に置く
尊ぶ=目上を大切にする
たてまつる
献る=目上に差し上げる
上る=上奏する
奉る=両手を高く差し上げる
たとえる(たとふ)
況える、况える=比べる
譬える=説明する。例え話をする
喩える、諭える=まだ分からない人に告げて分からせる
たのしむ
怡しむ=喜ぶ
嬉しむ=遊んで戯れる
娯しむ=慰みにして楽しむ
予しむ=ゆったり楽しむ
楽しむ=面白く感じる
たのむ
怙む=非常に頼りにする
恃む=心の頼りにする
憑む=向こうへもたれ掛かる
負む=後ろ盾にする
頼む=味方として頼りにする
たりる(たる)
贍りる=たっぷりと足りる
足りる=不足なくある
たれる(たる)
垂れる=ぶら下がって低く垂れる。名前が後世にまで伝わる
低れる=頭を項垂れる
ちかい(ちかし)
幾い=理屈が近い
近い=距離が近い
ちかう(ちかふ)
誓う=約束を守る
盟う=生贄を殺して神様に誓い、違反すればその加護を失うと定める
つかれる(つかる)
憊れる=踏ん張る力もなくなるほど疲れる
疲れる、罷れる=肉体的精神的に疲れる
羸れる=痩せ疲れる
つきる(つく)、つくす
既きる=限りの終わりまで至る
竭きる=崩れ尽きてしまう
悉きる=一つ残らず全部出す
尽きる=キレイさっぱりなくなる
殫きる=皆殺しにする
つく
摏く、舂く=モノの先で衝く。矛なら一突き。臼なら何度も
衝く=突き当たる
撞く=棒の先端で突き当てる
突く=思いがけず出てくる
つく
就く=寄り添って付く
即く=その立場に立つ。それと一つになるようにつく
着く、著く=ピッタリと付く
付く=付け渡す
附く=付き従う
つぐ
継ぐ=あとを継ぐ
次ぐ=それに次ぐ順序
嗣ぐ=後継者となる
襲ぐ=引き継いで重ね接ぐ
接ぐ=人付き合い。別々のモノを繋がり続ける
続ぐ=切れた部分を接ぐ。連なり続く
つくる
為る=人工的に作る
作る=初めて作る。仕事を興す。作る
製る=色々手を入れて作る
造る=手間をかけて作る
つげる(つぐ)
語げる=言葉で話かける
告げる=告げ知らせる
つつしむ
恭しむ=慇懃である
謹しむ=念を入れる
敬しむ=大事にする
虔しむ=緊張する
祗む=敬意を伝える
粛む=厳しく慎む
慎む=用心する
つとめる(つとむ)
勖める=他人に勧めて努めさせる
勤める=苦労して精を出す
努める=頑張る
勉める=力の及ばないのを無理に勉める
務める=精力を全部使う
力める=本気になる
つね
雅=平素から。かねがね
恒=常時素晴らしい
常=毎度
毎=ことあるごとに
庸=普段の状態
つらぬく
貫く=串刺しにする。命中する
穿く=ほじくって開ける。穴を開ける
つらねる(つらぬ)、つらなる
陳ねる=多くのモノを揃え並べる
列ねる=並び連ねる
連ねる=一つずつ続く
聯ねる=続いて途切れない
とう(とふ)
詰う=詰問する
咨う、諮う=相談する
詢う=一族で相談する
訊う=上司が部下に質問する。訪問する
訪う=相談する。訪問する
問う=問う
とおる(とほる)、とおす(とほす)
享る=思うようにすらすら行く
徹る=突き抜けて通る
通る=滞りなく、すらすら行き交う
透る=染み透る
とがめる(とがむ)
咎める=ルール違反を責める
尤める=過失を責める
とじる(とづ)、とざす
関じる=かんぬきをする。門を閉じる
闔じる=門の両開きの扉。扉を閉める
鎖じる、鏁じる=錠をかける。中にしめ込む
杜じる=閉じて、絶ち塞ぐ
閉じる=入れないようにする。じっと収まる
ととのう(ととのふ)、ととのえる(ととのふ)
斉える=一様に揃える
整える=きちんとする
調える=調和する
とめる(とむ)、とます
遏める=向こうから来るのを押し止める
止める=じっと止まる。引き据える
往める=そこを居所にする
駐める=集団が留まる。速く動くモノを引き止める
停める=動きを一時停止する
留める=ゆるりと滞在する
とらえる(とらふ)
禽える=捕虜にする
拘える=引き止める。拘束する
囚える=牢屋に押し込める
執える=捕まえて離さない
捕える=追いかけて捕まえる
とる
搴る=抜き取る
采る、採る=拾い取る
撮る=指で掴み取る
取る=自分の方に取る。自分のモノにする
執る=モノを取る。人間を捕らえる。心を守る
操る=手に持つ。正しく守る
把る=一握り掴み取る。手に持つ
秉る=取り守る
ながい(ながし)
永い=何時までも果てしない
修い=丈がすらっと長い
長い=相対的に長い
なかば
央ば=真ん中
中ば=真ん中
半ば=半分のこと
なく
泣く=涙を流して泣く
哭く=大声で泣く
啼く=声を出して泣く
鳴く=声を出す。世間に名前が知れる
なげく
嗟く、咨く=声を発して嘆く
歎く、嘆く=嘆く
なす、なる
為す=する。行う。〜となる
作す=しおこす。〜となる
就す=出来上がる。作り上げる
成す=完成する。やり遂げる。出来上がる
ならう(ならふ)
閑う、嫺う=熟達する
効う、俲う、放う、仿う、倣う=真似る
習う=練習する
ならぶ
排ぶ=順序通りに並べる
比ぶ=くっついて並ぶ
並ぶ=横にずらっと揃う
駢ぶ=頭を揃えて並ぶ
なれる(なる)
慣れる、貫れる=手慣れる
狎れる=馴染みなれる。気安く近づく
馴れる=動物が次第に従順になる
褻れる=普段着、肌着。馴染み気安く近づく
におう(にほふ)
香う=いい臭いがする
臭う=臭いがする
にくむ
悪む=非常に嫌がる
疾む、嫉む=鋭く憎む
憎む=心の底から恨んで嫌う
にげる(にぐ)
竄げる=ピンチを避けて逃げ隠れる
逃げる=逃げる
遁げる、遯げる=逃げ隠れる。隠遁する
逋げる=犯罪をして逃げる
亡げる=避けて逃げる。国外に逃亡する
北げる=敵に背中を見せる。負けて逃げる
にごる
渾る=モノが一緒になって混じる
濁る=澄んでないこと
にる
煮る=調味せずに沸かす
煎る=汁物を煮詰める
烹る=調味して煮る。釜茹でにする
にる
似る=丁度そのようである
肖る=顔や面影がそっくり
類る=同じようである
にわか(にはか)
俄か=間もなく
遽か=切迫する
驟か=モノが急に来ること
卒か、猝か=不意に、出し抜けに
頓か=順序無視で一時に片付く
暴か=ふとしたことに
ぬく
擢く=大勢の中から立派な人間を引き立てる
抽く=引き出す。抜き出す。抜き出る
挺く=抜き出す。抜け出る。抜き取る意味はない
抜く=抜き出す
ぬすむ
攘む=自然に手に入ったものを隠しておく
窃む=人目を盗んで取る。人目を盗んで何かする
偸む=ヒマを盗む。こっそりやる
盗む=他人のモノを盗む
ぬる
杇る=コテで壁や塀を塗る
塗る=塗る。彩色する
ねぎらう(ねぐらふ)
犒う=集団にご馳走を振舞って労う
労う=苦労を労る
ねる(いぬ)
寝る=寝床に入る
睡る=眠る。居眠りする
寐る=寝入る
眠る=眠る
のこる、のこす
貽す、詒す=後に人に残す
遺す=取りもらす。あとに残る
残す=終わりに近づいて残る。損なう
余す、剰す=余る
のぞむ
覬む、覦む=分不相応なことを望む
眺む=遠くを眺める
望む=遠くや高い所を眺める。待ち望む
臨む=下を見下ろす。上司が部下の所に行く
@む、莅む=役目につく
のべる(のぶ)
延べる=長く延びる
衍べる=文章の意味を説明する為に言葉を補う
述べる=昔の発言や行動を継承して発言し、行動する。編集する
舒べる=モノを展開する。思いを広げる。ゆったり。のびやか
申べる、伸べる、信ぶ=曲がっているのを伸ばす
宣べる=全体に宣言する
暢べる、鬯べる=のびやかでゆったりして、問題なく全体に行き届く
陳べる=敷き述べて連ねる
展べる=展開する
布べる=そこら中に広く施す
のぼる、のぼせる(のぼす)
上る=下から上に真っ直ぐに上る
升る=月日が上がり、雲気が立ち上る
昇る=日が上がること
陞る=地位を上げる
隮る=雲気が立ち上る
躋る=精出して上がる。引き上げ、引き上がる
陟る=足を運んで上がる。地位が上がる
登る=段々と上がる
騰る=躍り上がる
のむ
飲む=水を飲む
咽む、嚥む=咽喉に通す
呑む=丸呑みする
はかる
画る=具体的な計画を立てる
揆る=型に合うかどうかをはかり考える
議る=寄り合って議論して計画を定める
計る=計算する。見積もる
権る=差し引きを見計らう。臨機応変に対応する
称る=計画的にはからう
揣る=手で撫でて察する。転じて推し量る
測る=深さを測る
忖る=自分ならばこう思うと相手の気持ちを考える
度る=あれこれと考える
図る=漠然と目論む
謀る=思案し、相談する
料る=どれくらいか、どんなであるかと思案する
量る=程度を量る
はく
嘔く=えずく。興奮して血を吐く
欧く=えずく。病気で血を吐く
噀く=絶えず水を噴出す
吐く=口から吐き出す
噴く=水が詰まって激しく噴出す
はげしい(はげし)
激しい=堰を切った洪水のような勢い
烈しい=業火のように荒々しい
獅オい=厳しい
はじめ、はじめる(はじむ)
始め=始めに。始める
首め=皮切りに
初め=初め
創め=仕事を新たに始める
肇め=始め興す
甫め=始めたばかり
はしる
趨る=小走り。そっと通る
走る=駆けて行く。逃げる
奔る=どんどん勢いよく駆け走る。国を立ち退くのにも用いる
はじる(はづ)、はずかしめる(はづかしむ)
愧じる、媿じる=自分の見苦しさを恥ずかしく思う
怍じる=自分の過失に顔色を変える。『恥じる』の下位互換
慙じる、慚じる=面目を失う
忸じる=赤面して恥じる
恧じる=恥ずかしく、おそれている
羞じる=面映い
辱じる=辱める、辱められる
恥じる=自分の不利を認めて恥じる
はせる(はす)
駆せる=駆り立てて速める
驟せる=静かに馬を走らせる
馳せる=馬を走らせる
騁せる=ひた向きに走り出す。止まらず行く所まで行く
騖せる=あちらこちらと駆け走る。馳せ回る
はやい(はやし)
疾い=速度が速い。程度が激しい
夙い、宿い=前々から
迅い=宙を飛ぶように速い
早い、蚤い=時刻が早い
速い=時間的に短い
はらう(はらふ)
禊う=禊ぎ。水を浴びる
除う=除く
攘う=押しのける
禳う=祈って払う
掃う=一気にさらりと払う
払う=モノを叩く
祓う=厄払い
ひく
引く=引き延ばす。引き下げる。引きずる
曳く、拽く=モノを引きずる
延く=客などを案内して引き入れる
援く=例を引く。また引っ掛けて手前に引き寄せる
牽く=牛馬に綱を付けて引っ張る
惹く=付き纏う
弾く=はじく。弦楽器を演奏する
抽く=ぬく
挽く=力を出して引っ張る
摟く=引き寄せ抱え込む
彎く=弓矢を番えて引き絞る
ひくい(ひくし)
低い=相対的に低い
卑い=絶対的に低い
ひざまずく(ひざまづく)
跪く=地面に膝をつけて畏まる
跽く=『跪く』の下位互換
ひそかに
陰かに=日陰で
間かに=隙間を見計らい
私かに=個人的に。内緒に
窃かに=人目を盗んで
微かに=お忍び
密かに=秘密で
ひたす
淹たす=長く水中に浸す
漚す=やわらかくなるまで漬ける
涵す=ざぶりと入れる
漬す=水に漬けて置く
浸す=水に漬ける
漸す=何時となく、浸す
ひとしい(ひとし)
均しい、鈞しい=公正でムラがない
斉しい=一様に揃う
等しい=格が一緒
rしい=同じような
ひらく
開く=門が開く。閉じたモノを開く。始める
啓く=未知の分野を教える
闡く=分かりかねることを明白にする
択く=次第に押しのけて、広める
折く圻く=裂け開く
排く=手で押し開ける
発く=ぱっと開く
披く=両方へ掻き分ける。
辟く、闢く=門を開ける。脇に寄せ、払いのけて開く
ひるがえる(ひるがへる)、ひるがえす(ひるがへす)
翻る、飜る=ひらりと裏返る
飄る=風にひらひら漂う
ひろい(ひろし)
闊い、濶い=限りがあり、幅が広い
寛い=のびのびとしている
広い=モノが広い
弘い=形而上大きい
宏い=大きい
嚝い=あてどなく、先が見えないほど無駄に広い
博い=幅が広い。手広い
汎い、泛い=漠然と広い
ふくむ
嗛む=動物が口内に食べ物を含む意味
銜む=口に銜える
含む=口にモノを含む
ふす、ふせる(ふす)
偃す=仰向けに寝る。倒す
臥す=寝る
仆す=倒れる
俯く=俯く
付す=地面にべったりと伏せる
ふせぐ
扞ぐ、捍ぐ=自衛する
拒ぐ、距ぐ=防いで寄せ付けない
御ぐ=その時に当面して防ぐ
防ぐ=先立って用心する
ふむ
躡む=跡を追う
践む=しっかり踏みつける。踏み躙る
踏む、蹋む=足を地に付ける。踏む
蹈む=足を動かして踏んで行く
履む=踏んで歩く
ふるい(ふるし)
旧い=年月を経たモノ
古い=昔の様子を呈している
故い=以前から馴染みがある
陳い=古くなり、色が変わる
ふるう(ふるふ)
揮う=手や手のモノを持って振る
振るう=『震う』の下位互換。振るい立てる
震う=厳しく震え動かす
顫う=寒さで四肢がガタガタ震える
奮う=身震いすること。勢いが凄い
へだたる、へだてる(へだつ)
隔てる=モノが中にあって隔てる
間てる=『隔てる』と同じ。間を置く
阻てる=自然に移動を阻まれる
へつらう(へつらふ)
阿う=迎合する
諂う=人の気に入るように合わせる
佞う=口八丁で取り入る
へる(ふ)
経る=真っ直ぐ通り過ぎる
更る=『歴る』と同じ。全てのことを経験する
歴る=一つずつ次々と通り過ぎる
へる、へらす
減る=数が減る
耗る=生長が衰える
ほこる
誇る、夸る=大げさに言う
矜る=自分のいい部分を自慢する
伐る=手柄を自慢する
ほしいまま、ほしいままにする(ほしいままにす)
横に=理不尽で無理押し
恣に、肆に=気ままに
擅に=独り占めする
放に、縦に=しまりがなく、勝手し放題
ほめる(ほむ)
称める=ほめ上げ言い知らす
頌める=言葉で形容してほめる
賞める=ほめてモノをあげる
美める=よいモノをほめて立派だとほめる
褒める=よいモノをほめる
誉める=よく言う
ほろびる(ほろぶ)、ほろぼす
喪びる=あったモノをなくす
泯びる=尽きて消えてなくなる
亡びる=あるモノがなくなる。どっかへ行く
滅びる=跡形もなくなる
まがる、まげる(まぐ)
迂る=真っ直ぐでなく、回り遠い
枉がる=真っ直ぐなモノが曲がる。またわざわざ曲げる
回がる、迴がる=ぐるぐると曲がる
曲がる=折れ曲がる
屈る=曲げ屈む。折れ曲がる
まことに
允に、良に、洵に、信に=本当に。発言と行動が同じ
固に=いかにも。言うまでもなく
実に=充実している
真に=モノが本物
誠に=人の心が偽りなく自然
忠に=真面目
諒に=『信に』と同じ
まさる
賢る=比較して上
勝る=比較して上
愈る=これの方がマシ
優る=豊かでゆったりしている
まじわる(まじはる)、まじえる(まじふ)、まじる
間じわる、厠じる=まじる。沢山の中に紛れ込む
交わる=あちこちから入り込む
淆じる、殽じる=ごちゃごちゃに混ざる
混じわる、渾じわる=それぞれ別のモノが混ざって一つになる
錯わる=モノが入れ違って混じる
雑じる=色々なモノが混ざる
参じわる=仲間入りする
接じわる=くっ付く。触れ合う。付き合う。交際する
まつ
候つ=うかがう。うかがって待つ
俟つ、竢つ=自然と来るまで待つ。そうなるまで待つ
須つ=不可欠な条件を必要とする
待つ=来るのを待つ
まったし
完し=一つの種類で欠けた部分がない
全し=モノの種類が全部揃っている
まつる
祭る=生贄を供え神様と人間が交わる
祀る=定まった祭り
祠る=願い事のお礼に祭る。その建物
まどう(まどふ)、まよう(まよふ)
惑う=是非を取り違える
迷う=道に迷う。途方に暮れる
まるい(まろし)
円い=平面の円形
丸い=丸くて転がるモノ
団い=円く集める意味
まれ
罕=ごくたまに
希、稀=まばらで、ちらほらある
少=多くない
みがく
研く=摩り下ろす、思案する
磋く=ヤスリなどで骨、ツノをこする
琢く=玉を磨く
摩く=手で擦る
磨く=砥石で擦る
礪く、獅ュ=砥石で磨く
礱く=石臼で脱穀する。転じて擦り磨く
みだり
漫り=キリがない。やたらに
妄り=出鱈目
濫り=行き過ぎ
猥り=入り混じる意味で、そうする理由もないのにそうする
みだれる(みだる)、みだす
撹れる=かき回し乱す
擾れる=『乱れる』と『煩い』の複合
紛れる=多くのものが乱れる
紊れる=糸が裂けて乱れる。筋道がない
乱れる=秩序が乱れる
みちる(みつ)、みたす
盈ちる=次第に満ちる
実ちる=しっかりと一杯に満たす
充ちる=押し込めて満たす
崇ちる=積み重ねて満たす
塡ちる、闐ちる=空いた部分を埋める
満ちる=モノが一杯になる
みる
看る=手をかざして見る。臨んで見る。見守る
瞰る=見下ろす。俯いて見る
観る=モノを眺める。傍から見物する
見る=見える。認める
覯る=ふと目に掛かる
察る=念を入れて見る。調べる
視る=見ようとして見る。見なす
矚る=心に留める。目に付ける
瞻る=仰ぎ見る。首を伸ばして見る
相る=人相などを見る
覿る=お目見えする
覩る、睹る=確かに目に見つける。『見る』の上位互換。『見る』の意味はない
瞥る=ちらっと見る
覧る=一通り目を通す
むくいる(むくゆ)
酬いる=元は返杯の意味。転じてお返し
讎いる=受けた言葉に応じて返答する
報いる=仕返し、お返し
むすぶ
結ぶ=縄やヒモを結わえる。二つのモノを結びつける
締ぶ=解けないようにぎゅっと結ぶ。結び締める
むちうつ
策つ=馬のムチで打つ。発破を掛ける
箠つ、捶つ、棰つ=ムチで打つ
撻つ=棒やムチで打つ
笞つ=竹のムチで打つ
鞭つ=皮のムチで打つ
むなしい(むなし)
虚しい=中身が空っぽ
空しい=捕らえるモノが何もない
曠しい=当て所ない。何もしないで時間を浪費する
むらがる
群がる=同類が群れ集まる
簇がる、蔟がる=寄り集まる
叢がる、藂がる=一箇所に寄り集まる
めぐる、めぐらす
運る=絶え間なく動き回る
回る、廻る、迴る=元来、水がうずまく。ぐるぐる回って方向を変える
環る=輪になって取り巻く
周る=ぐるりと一回りする
巡る=視察して回る
循る=『循う』と同じ
繞る、遶る=蔓が巻きつくようになる意味
旋る=何度もくるくると回転する
転る=自分でくるくると回る。転がす。移り変わる
繚る=纏わりめぐる
めす
召す=上司が部下を呼んで来させる
徴す=召し出す。人を接待に招く
辟す=在野の人間を取り立てる
もてあそぶ
玩ぶ=もてあそび、慰みにする
翫ぶ=幾度もなれもてあそんで、嬲り倒す
弄ぶ=嬲り者にする。自由気ままに取り扱う
もとめる(もとむ)
干める=押しかけて無理に求める
求める=ないモノをあるようにして、請い求める
索める=探し求める
需める、須める=必要不可欠として求める
覓める、覔める=『索める』の下位互換
要める=待ち構える。招き寄せる
邀める、徼める=待ち受けて狙う
もどる
很る=拗ねて、いさかいを起こす
悖る、誖る=自己中心的で頑固
払る=背き逆らう
戻る=モノが捩れる。素直でない
やすらか、やすい(やすし)
安い=心配や危険がない
易い=やりやすい。道が平坦。心が素直
佚い、逸い=骨を折らずに楽しむ
康い=楽しくて安らか
妥い=じっと安らかに落ち着き留まる
泰い=広くゆったりと、安らか
寧い=『安い』の上位互換。安定している
やせる(やす)
毀せる=喪中で痩せる
痩せる=痩せる
瘠せる=病気で痩せる。『痩せる』の上位互換
羸せる=疲れて痩せる
やぶれる(やぶる)
壊れる=モノを壊す
毀れる=欠けて壊れる
破れる=急に敗れる。モノが打ち壊れる
敗れる=何時の間にか敗れる
敝れる、弊れる=くたびれて傷む。古びて傷む
やむ
疾む=病気になる。
病む=病気になる。『疾む』の上位互換になる場合もある
やむ、やめる(やむ)
已む=もうそれっきりに終わる。『とどまる』の意味はない
休む=おしまいにする
歇む=つきてなくなってやむ。『やめる』の意味はない
止む=中止する
寝む=やめて用いなくなる
息む=止まりやむ。またやめ絶つ
輟む=中止する
罷む=中止する。宴会などが終わる。仕事をクビになる
やわらぐ(やはらぐ)、やわらか(やはらか)
柔らか=手ざわり、感じがやわらか
軟らか=やわらかくひ弱なこと
和らぐ=気持ちがしっくり合う。おだやか
ゆく
往く=こっちからあっちへ行く。月日が過ぎる
行く=歩く。
之く=今いる場所から行き先に向かって行く。補語を伴う
如く=出かけて行く
征く=多く旅をする
逝く=ずっと行き去って帰らない
適く=行き先に向かって一直線に行く
徂く=『往く』『逝く』と同じ
邁く=遠くに行く
ゆたか
寛か=広くてゆったり。のびやか
饒か=モノが沢山ある
胖か=ぼってりと大きい
豊か=大盛り。大きくてゆったりと満ちている
裕か=気分や身体がゆったり。のびやか
優か=せこせこせずゆったりして余力がある
ゆるす
允す=成る程と承知する
許す=了解ということ。ご自由に
原す=事情を調べて処分をゆるくする
赦す=過失の処分を完全に免除する
釈す=捕虜を解放する
恕す=思いやって許す
貰す=『宥す』『赦す』と同じ
聴す=相手の望みを聞き届ける
免す=免れさせる
宥す=処分に手心を加える
容す=受け入れる
ゆるやか、ゆるい(ゆるし)
緩い=ゆるまる。たるむ。のろい
綽い=大きくゆったり
紓い、舒い=のびやかな事柄
徐い=『疾い』の反対。発言と行動がそろそろとゆるやか
よい(よし)
嘉い=『美い』『善い』『楽しい』の複合
佳い=『美い』『好い』の複合
吉い=めでたくよい
好い=見目麗しい。しっくり似合っている
克く=『能く』と同じ
善い=立派。見事
能い=出来る
美い=モノや景色が綺麗ではなやか
良い=すぐれている。大人しい
令い=ツヤがあるように美しい
よぶ
喚ぶ=『呼ぶ』の上位互換。人を呼び起こし、引き立てる
呼ぶ=吐く息。人に声をかける
よる
依る=べったりと寄り付く。また離れずに寄り従う
倚る=もたれる。『依る』の上位互換
因る=手がかり、機会に基づく。それに因む
隠る=机に寄りかかる
縁る=より従う。頼る。基づく。纏い付く。よじ登る
寄る=頼って付く。
寄せる=任せる。また人に頼んでモノを送り付ける
拠る、据る=場所を根拠とする。理屈を根拠とする
靠れる=モノや理屈に寄り付く
藉る=頼って協力してもらう
仍る=そのままに従う
仗る、杖る=モノや理屈に頼る
凭る=机、脇息などにもたれる
憑る、馮る=モノにもたれかかる。また寄り添いつく
頼る=頼みにして寄りかかる
よろこぶ
怡ぶ=にこやかで、顔色が楽しそうに見える
懌ぶ=心が解けてしっとりと喜ぶ。また人を喜ばせる
説ぶ、悦ぶ=気に入って喜ぶ。満足してうれしく思う
賀ぶ=相手のめでたいことを喜ぶ
歓ぶ、讙ぶ、驩ぶ、懽ぶ=うれしがって、おどり上がる。やかましい
喜ぶ=笑って喜ぶ
欣ぶ、=笑って喜ぶ
慶ぶ=めでたいと喜ぶ
わける(わく)、わかれる(わかる)
訣ける=死別する
判ける=道理の判断
班ける=モノをみんなに分ける。また別れること
頒ける=上司から部下にモノを分ける
分ける=モノを分ける。分けて人にやる
別ける=混雑しないこと。転じて送別のこと
弁ける=モノの理屈がわかる
わざわいする(わざはひす)
殃いする=神様のとがめ
禍いする=思い通りに行かずデメリットになる
災いする、菑いする=自然災害
わずらわしい(わづらはし)、わずらわす(わづらはす)
煩わしい=元来は熱くて頭の痛いこと。煩くてやりきれない
累わしい=足手まとい。面倒
わたる、わたす
亙る=モノがこっちから向こうまで行き届く
渉る=膝くらいまでの水辺を徒歩で渡る
済る=川を渡る。すくい渡す
渡る、度る=水辺をずっと通って先に行く
彌る、瀰る=どこまでも行き届く
わらう(わらふ)
噱う=大笑いする
嗤う=あざけり笑う
笑う、咲う=顔がほどけて笑う。花が開く
哂う=微笑む。歯を出して笑う
西漢
前140〜前135 建元
前134〜前129 元光
前128〜前123 元朔
前122〜前117 元狩
前116〜前111 元鼎
前110〜前105 元封
前104〜前101 太初
前100〜前97 天漢
前96〜前93 太始
前92〜前89 征和
前88〜前87 後元
前86〜前81 始元
前80〜前75 元鳳
前74 元平
前73〜70 本始
前69〜前66 地節
前65〜前62 元康
前61〜前58 神爵
前57〜前54 五鳳
前53〜前50 甘露
前49 黄龍
前48〜前44 初元
前43〜前39 永光
前38〜前34 建昭
前33 竟寧
前32〜前29 建始
前28〜前25 河平
前24〜前21 陽朔
前20〜前17 鴻嘉
前16〜前13 永始
前12〜前9 元延
前8〜前7 綏和
前6〜前3 建平
前2〜前1 元寿
1〜5 元始
6〜8 居摂
8 初始
23〜25 更始
新
9〜13 始建国
14〜19 天鳳
20〜23 地皇
東漢
25〜56 建武
56〜57 建武中元
58〜75 永平
76〜84 建初
84〜87 元和
87〜88 章和
89〜105 永元
105 元興
106 延平
107〜113 永初
114〜120 元初
120〜121 永寧
121〜122 建光
122〜125 延光
126〜132 永建
132〜135 陽嘉
136〜141 永和
142〜144 漢安
144 建康
145 永嘉
146 本初
147〜149 建和
150 和平
151〜152 元嘉
153〜154 永興
155〜158 永寿
158〜167 延熹
167 永康
168〜172 建寧
172〜178 熹平
178〜184 光和
184〜189 中平
189 光熹、昭寧、永漢
190〜193 初平
194〜195 興平
196〜220 建安
220 延康
魏
220〜226 黄初
227〜233 太和
233〜237 青竜
237〜239 景初
240〜249 正始
249〜254 嘉平
254〜256 正元
256〜260 甘露
260〜264 景元
264〜265 咸熙
蜀漢
221〜223 章武
223〜237 建興
238〜257 延熙
258〜263 景耀
263 炎興
呉
222〜229 黄武
229〜231 黄龍
232〜238 嘉禾
238〜251 赤烏
251〜252 太元
252 神鳳
252〜253 建興
254〜256 五鳳
256〜258 太平
258〜264 永安
264〜265 元興
265〜266 甘露
266〜269 宝鼎
269〜271 建衡
272〜274 鳳凰
275〜276 天冊
276 天璽
277〜280 天紀
西晋
265〜274 泰始
275〜280 咸寧
280〜289 太康
290 太熙、永熙
291 永平
291〜299 元康
300〜301 永康
301〜302 永寧
302〜303 太安
304 永安、建武
304〜306 永興
306 光熙
307〜313 永嘉
313〜317 建興
東晋
317 建武
318〜321 太興
322〜323 永昌
323〜326 太寧
326〜334 咸和
335〜342 咸康
343〜344 建元
345〜356 永和
357〜361 升平
362〜363 隆和
363〜365 興寧
366〜371 太和
371〜372 咸安
373〜375 寧康
376〜396 太元
397〜401 隆安
402〜404 元興
405〜418 義熙
419〜420 元熙
劉宋
420〜422 永初
423〜424 景平
424〜453 元嘉
454〜456 孝建
457〜464 大明
465 永光、景和
465〜471 泰始
472 泰予
473〜477 元徽
477〜479 昇明
南斉
479〜482 建元
483〜493 永明
494 隆昌、延興
494〜497 建武
498 永泰
499〜501 永元
501〜502 中興
梁
502〜519 天監
520〜527 普通
527〜529 大通
529〜534 中大通
535〜545 大同
546〜547 中大同
547〜549 太清
550 大宝
551〜552 天正
552〜555 承聖
555 天成
555〜556 紹泰
556〜557 太平
558〜560 天啓
後梁
555〜562 大定
562〜585 天保
586〜587 広運
陳
557〜559 永定
560〜566 天嘉
566 天康
567〜568 光大
569〜582 太建
583〜587 至徳
587〜588 禎明
前趙
304〜307 元熙
308 永鳳
309 河瑞
310 光興
311〜314 嘉平
315 建元
316〜317 麟嘉
318〜329 光初
後趙
328〜329 太和
330〜332 建平
333〜334 延熙
335〜348 建武
349 太寧
350 青竜
350〜351 永寧
冉魏
350〜352 永興
夏
407〜412 竜昇
413〜417 鳳翔
418 昌武
419〜424 真興
425〜427 承光
428〜431 勝光
前涼
313〜319 建興
320〜323 永元
324〜345 太元
346〜353 永楽
354 和平
355〜356 太始
357〜361 建元
362 升平
363〜376 太清
後涼
386〜388 太安
389〜394 麟嘉
395〜397 竜飛
398〜399 咸寧
400〜403 神鼎
南涼
397〜399 太初
400〜401 建和
402〜407 弘昌
408〜414 嘉平
西涼
405〜416 建初
417〜419 嘉興
420〜421 永建
北涼
397〜398 神璽
399〜400 天璽
401〜411 永安
412〜427 玄始
428〜430 承玄
431〜432 義和
433〜439 永和
成漢
302〜303 建初
304〜305 建興
306〜310 晏平
311〜334 玉衡
335〜337 玉恒
338〜343 漢興
344〜345 太和
346〜347 嘉寧
前秦
351〜354 皇始
355〜356 寿光
357〜358 永興
359〜364 甘露
365〜384 建元
385 太安
386〜393 太初
394 延初
後秦
384〜385 白雀
386〜393 建初
394〜398 皇初
399〜415 弘始
416〜417 永和
西秦
385〜387 建義
388〜406 太初
407〜408 義熙
409〜411 更始
412〜419 永康
420〜427 建弘
428〜431 永弘
前燕
349〜351 燕元
352〜356 元璽
357〜359 光寿
360〜370 建熙
後燕
384〜385 燕元
386〜395 建興
396〜397 永康
398 建平
399〜400 長楽
401〜406 光始
407 建始
西燕
384 燕興
385 更始
386〜394 中興
南燕
398〜399 燕平
400〜404 建平
405〜410 太上
北燕
407〜409 正始
409〜430 太平
431〜436 太興
北魏
386〜395 登国
396〜397 皇始
398〜403 天興
404〜408 天賜
409〜413 永興
414〜415 神瑞
416〜423 泰常
424〜427 始光
428〜431 神麚
432〜434 延和
435〜439 太延
440〜451 太平真君
451〜452 正平
452 承平
452〜453 興安
454 興光
455〜459 太安
460〜465 和平
466〜467 天安
467〜471 皇興
471〜476 延興
476 承明
477〜499 太和
500〜503 景明
504〜508 正始
508〜512 永平
512〜515 延昌
516〜518 熙平
518〜520 神亀
520〜525 正光
525〜527 孝昌
528 武泰、建義
528〜530 永安
530〜531 建明
531 普泰
531〜532 中興
532 太昌、永興
532〜534 永熙
代
338〜376 建国
東魏
534〜537 天平
538〜539 元象
539〜542 興和
543〜550 武定
北斉
499〜501 永元
550〜559 天保
560 乾明
560〜561 皇建
561 太寧
562〜565 河清
565〜569 天統
570〜576 武平
576 隆化、徳昌
577 承光
西魏
535〜551 大統
北周
559〜560 武成
561〜565 保定
566〜572 天和
572〜578 建徳
578 宣政
579 大成
579〜580 大象
581 大定
隋
581〜600 開皇
601〜604 仁寿
605〜617 大業
617〜618 義寧
唐
618〜626 武徳
627〜649 貞観
650〜656 永徽
656〜661 顕慶
661〜663 竜朔
664〜666 麟徳
666〜668 乾封
668〜670 総章
670〜673 咸亨
674〜676 上元
676〜679 儀鳳
679〜680 調露
680〜681 永隆
681〜682 開耀
682〜683 永淳
683〜684 弘道
684 嗣聖、文明、光宅
685〜688 垂拱
689〜690 永昌
690 載初
武周
690〜692 天授
692 如意
692〜694 長寿
694 延載
695 証聖、天冊万歳
696 万歳登封
696〜697 万歳通天
697 神功
698〜700 聖暦
700 久視
701 大足
701〜705 長安
唐
705〜707 神竜
707〜710 景竜
710 唐隆
710〜711 景雲
712 太極、延和
712〜713 先天
713〜741 開元
742〜756 天宝
756〜758 至徳
758〜760 乾元
760〜762 上元
762〜763 宝応
763〜764 広徳
765〜766 永泰
766〜779 大暦
780〜783 建中
784 興元
785〜805 貞元
805 永貞
806〜820 元和
821〜824 長慶
825〜827 宝暦
827〜835 太和
836〜840 開成
841〜846 会昌
847〜860 大中
860〜874 咸通
874〜878 乾符
880〜881 広明
881〜885 中和
885〜888 光啓
888 文徳
889 竜紀
890〜891 大順
892〜893 景福
894〜898 乾寧
898〜901 光化
901〜904 天復
904〜907 天祐
後梁
907〜911 開平
911〜915 乾化
915〜921 貞明
921〜923 竜徳
後唐
923〜926 同光
926〜930 天成
930〜933 長興
934 応順
934〜936 清泰
後晋
936〜944 天福
944〜946 開運
後漢
947 天福
948〜950 乾祐
後周
951〜954 広順
954〜959 顕徳
北宋
960〜963 建隆
963〜968 乾徳
968〜976 開宝
976〜984 太平興国
984〜987 雍熙
988〜989 端拱
990〜994 淳化
995〜998 至道
998〜1003 咸平
1004〜1007 景徳
1008〜1016 大中祥符
1017〜1021 天禧
1022 乾興
1023〜1032 天聖
1032〜1033 明道
1034〜1038 景祐
1038〜1040 宝元
1040〜1041 康定
1041〜1048 慶暦
1049〜1054 皇祐
1054〜1056 至和
1056〜1063 嘉祐
1064〜1067 治平
1068〜1077 熙寧
1078〜1085 元豊
1086〜1094 元祐
1094〜1098 紹聖
1098〜1100 元符
1101 建中靖国
1102〜1106 崇寧
1107〜1110 大観
1111〜1118 政和
1118〜1119 重和
1119〜1125 宣和
1126〜1127 靖康
南宋
1127〜1130 建炎
1131〜1162 紹興
1163〜1164 隆興
1165〜1173 乾道
1174〜1189 淳熙
1190〜1194 紹熙
1195〜1200 慶元
1201〜1204 嘉泰
1205〜1207 開禧
1208〜1224 嘉定
1225〜1227 宝慶
1228〜1233 紹定
1234〜1236 端平
1237〜1240 嘉熙
1241〜1252 淳祐
1253〜1258 宝祐
1259 開慶
1260〜1264 景定
1265〜1274 咸淳
1275〜1276 徳祐
1276〜1278 景炎
1278〜1279 祥興
遼
916〜921 神冊
922〜926 天賛
926〜938 天顕
938〜947 会同
947 大同
947〜951 天禄
951〜969 応暦
969〜979 保寧
979〜982 乾亨
983〜1012 統和
1012〜1021 開泰
1021〜1031 太平
1031 景福
1032〜1055 重熙
1055〜1063 清寧
1065〜1074 咸雍
1075〜1084 太康
1085〜1094 太安
1095〜1100 寿昌
1101〜1110 乾統
1111〜1120 天慶
1121〜1125 保大
西夏
1032〜1033 顕道
1034 開運
1034〜1035 広運
1036〜1037 大慶
1038〜1048 天授礼法延祚
1049 延嗣寧国
1050〜1052 天祐垂聖
1053〜1056 福聖承道
1057〜1062 奲都
1063〜1068 拱化
1069〜1070 乾道
1071〜1075 天賜礼盛国慶
1076〜1085 大安
1086 天安礼定
1086〜1089 天儀治平
1090〜1098 天祐民安
1099〜1101 永安
1102〜1114 貞観
1115〜1119 雍寧
1120〜1126 元徳
1127〜1134 正徳
1135〜1138 大徳
1139〜1143 大慶
1144〜1148 人慶
1149〜1170 天盛
1171〜1193 乾祐
1194〜1206 天慶
1206〜1209 応天
1210 皇建
1211〜1222 光定
1223〜1225 乾定
1226〜1227 宝義
金
1115〜1116 収国
1117〜1122 天輔
1123〜1137 天会
1138〜1140 天眷
1141〜1149 皇統
1149〜1153 天徳
1153〜1155 貞元
1156〜1161 正隆
1161〜1189 大定
1190〜1196 明昌
1196〜1200 承安
1201〜1208 泰和
1209〜1211 大安
1212 崇慶
1213 至寧
1213〜1217 貞祐
1217〜1222 興定
1222〜1223 元光
1224〜1231 正大
1232 開興
1232〜1234 天興
元
1260〜1263 中統
1264〜1294 至元
1295〜1297 元貞
1297〜1307 大徳
1308〜1311 至大
1312〜1313 皇慶
1314〜1320 延祐
1321〜1323 至治
1324〜1328 泰定
1328 致和、天順
1328〜1330 天暦
1330〜1333 至順
1333〜1334 元統
1335〜1340 至元
1341〜1367 至正
北元
1368〜1370 至正
1371〜1378 宣光
1378〜1388 天元
明
1368〜1398 洪武
1399〜1402 建文
1403〜1424 永楽
1425 洪熙
1426〜1435 宣徳
1436〜1449 正統
1450〜1457 景泰
1457〜1464 天順
1465〜1487 成化
1488〜1505 弘治
1506〜1521 正徳
1522〜1566 嘉靖
1567〜1572 隆慶
1573〜1620 万暦
1620 泰昌
1621〜1627 天啓
1628〜1644 崇禎
南明
1645 弘光
1645〜1646 隆武
1646 紹武
1647〜1661 永暦
後金
1616〜1626 天命
1627〜1636 天聡
1636〜1643 崇徳
清
1644〜1661 順治
1662〜1722 康熙
1723〜1735 雍正
1736〜1795 乾隆
1796〜1820 嘉慶
1821〜1850 道光
1851〜1861 咸豊
1862〜1874 同治
1875〜1908 光緒
1909〜1911 宣統
[[后妃列伝一>宋史列伝第一]]、[[二>宋史列伝第二]]
[[宗室列伝一>宋史列伝第三]]、[[二>宋史列伝第四]]、[[三>宋史列伝第五]]、[[四>宋史列伝第六]]
[[公主列伝>宋史列伝第七]]
[[范質、王溥、魏仁浦列伝>宋史列伝第八]]
[[石守信、王審g、高懐徳、韓重贇、張令鐸、羅彦瓌、王彦昇列伝>宋史列伝第九]]
[[韓令坤、慕容延サ、符彦卿列伝>宋史列伝第十]]
[[王景、王晏、郭従義、李洪信、武行徳、楊承信、侯章列伝>宋史列伝第十一]]
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[[陳執中、劉、馮拯、賈昌朝、梁適列伝>宋史列伝第四十四]]
[[魯宗道、薛奎、王曙、蔡斉列伝>宋史列伝第四十五]]
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[[彭乗、嵆穎、梅摯、司馬池、李及、燕粛、蒋堂、劉夔、馬亮、陳希亮列伝>宋史列伝第五十七]]
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[[楊偕、王沿、杜杞、楊畋、周湛、徐的、姚仲孫、陳太素、馬尋、杜曽、李虚己、張傅、俞献卿、陳従易、楊大雅列伝>宋史列伝第五十九]]
[[辺粛、梅詢、馬元方、薛田、寇瑊、楊日厳、李行簡、章頻、陳琰、李宥、張秉、張択行、鄭向、郭稹、趙賀、高覿、袁抗、徐起、張旨、斉廓、鄭驤列伝>宋史列伝第六十]]
[[王臻、魚周詢、賈黯、李京、呉鼎臣、呂景初、馬遵、呉及、范師道、李絢、何中立、沈邈列伝>宋史列伝第六十一]]
[[張昷之、魏瓘、滕宗諒、李防、趙湘、唐粛、張述、黄震、胡順之、陳貫、范祥、田京列伝>宋史列伝第六十二]]
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[[喬維岳、王陟、張雍、董儼、魏廷式、盧琰、宋摶、凌策、楊覃、陳世卿、李若拙、陳知微列伝>宋史列伝第六十六]]
[[上官正、盧斌、周審玉、裴済、李継宣、張旦、張煦、張佶列伝>宋史列伝第六十七]]
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[[晏殊、龐籍、龐恭孫、王随、章得象、呂夷簡、呂公綽、呂公弼、呂公孺、張士遜列伝>宋史列伝第七十]]
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[[蔚昭敏、高化、周美、閻守恭、孟元、劉謙、趙振、張忠、范恪、馬懐徳、安俊、向宝列伝>宋史列伝第八十二]]
[[石普、張孜、許懐徳、李允則、張亢、劉文質、趙滋列伝>宋史列伝第八十三]]
[[劉平、任福、王珪、武英、桑懌、耿傅、王仲宝列伝>宋史列伝第八十四]]
[[景泰、王信、蒋偕、張忠、郭恩、張岊、張君平、史方、盧鑑、李渭、王果、郭諮、田敏、侍其曙、康徳輿、張昭遠列伝>宋史列伝第八十五]]
[[王安石、王雱、唐坰、王安礼、王安国列伝>宋史列伝第八十六]]
[[李清臣、安Z、張璪、蒲宗孟、黄履、蔡挺、王韶、薛向、章楶列伝>宋史列伝第八十七]]
[[常秩、ケ綰、李定、舒亶、蹇周輔、徐鐸、王広淵、王陶、王子韶、何正臣、陳繹列伝>宋史列伝第八十八]]
[[任顓、李参、郭申錫、傅求、張景憲、竇卞、張瓌、孫瑜、許遵、盧士宗、銭象先、韓璹、杜純、杜常、謝麟、王宗望、王吉甫列伝>宋史列伝第八十九]]
[[孫長卿、周、李中師、羅拯、馬仲甫、王居卿、孫構、張詵、蘇審、馬従先、沈遘、李大臨、呂夏卿、祖無択、程師孟、張問、陳舜俞、楽京、劉蒙、苗時中、韓贄、楚建中、張頡、盧革列伝>宋史列伝第九十]]
[[滕元発、李師中、陸詵、趙禼、孫路、游師雄、穆衍列伝>宋史列伝第九十一]]
[[楊佐、李兌、沈立、張掞、張Z、俞充、劉瑾、閻詢、葛宮、張田、栄諲、李載、姚渙、朱景、李j、朱寿隆、盧士宏、単煦、楊仲元、余良肱、潘夙列伝>宋史列伝第九十二]]
[[徐禧、李稷、高永能、沈起、劉彝、熊本、蕭注、陶弼、林広列伝>宋史列伝第九十三]]
[[种世衡、种古、种諤、种誼、种樸、种師道、种師中列伝>宋史列伝第九十四]]
[[司馬光、司馬康、呂公著、呂希哲、呂希純列伝>宋史列伝第九十五]]
[[范鎮、范百禄、范祖禹列伝>宋史列伝第九十六]]
[[蘇軾、蘇過列伝>宋史列伝第九十七]]
[[蘇轍、蘇元老列伝>宋史列伝第九十八]]
[[呂大防、呂大忠、呂大鈞、呂大臨、呂劉摯、蘇頌列伝>宋史列伝第九十九]]
[[王存、孫固、趙瞻、傅堯兪列伝>宋史列伝第百]]
[[梁Z、王巌叟、鄭雍、孫永列伝>宋史列伝第百一]]
[[元絳、許将、ケ潤甫、林希、蒋之奇、陸佃、呉居厚、温益列伝>宋史列伝第百二]]
[[孫覚、李常、孔文仲、李周、鮮于侁、顧臨、李之純、王覿、馬黙列伝>宋史列伝第百三]]
[[劉安世、鄒浩、田昼、王回、曽誕、陳瓘、任伯雨列伝>宋史列伝第百四]]
[[陳次升、陳師錫、彭汝礪、彭汝霖、彭汝方、呂陶、張庭堅、龔■、龔諤、陳軒、江公望、陳祐、常安民列伝>宋史列伝第百五]]
[[孫鼛、呉時、李昭玘、呉師礼、王漢之、黄廉、朱服、張舜民、盛陶、章衡、顔復、孫升、韓川、龔鼎臣、鄭穆、席旦、喬執中列伝>宋史列伝第百六]]
[[傅楫、沈畸、蕭服、徐勣、張汝明、黄葆光、石公弼、張克公、毛注、洪彦昇、鍾傳、陶節夫、毛漸、王祖道、張荘、趙遹列伝>宋史列伝第百七]]
[[郝質、賈逵、竇舜卿、劉昌祚、盧政、燕達、姚兕、姚麟、姚雄、姚古、楊燧、劉舜卿、宋守約、宋球列伝>宋史列伝第百八]]
[[苗授、王君万、張守約、王文郁、周永清、劉紹能、王光祖、李浩、和斌、劉仲武、曲珍、劉闃、郭成、賈巌、張整、張蘊、王恩、楊応詢、趙隆列伝>宋史列伝第百九]]
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[[何■、何傅、陳過庭、張叔夜、聶昌、張閣、張近、鄭僅、宇文昌齡、宇文常、許幾、程之邵、龔原、崔公度、蒲卣列伝>宋史列伝第百十二]]
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[[宗沢、趙鼎列伝>宋史列伝第百十九]]
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[[王徳、王彦、魏勝、張憲、楊再興、牛皋、胡閎休列伝>宋史列伝第百二十七]]
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[[李宗勉、袁甫、劉黻、王居安列伝>宋史列伝第百六十四]]
[[崔与之、洪咨夔、許奕、陳居仁、劉漢弼列伝>宋史列伝第百六十五]]
[[杜範、楊簡、銭時、張虙、呂午列伝>宋史列伝第百六十六]]
[[呉昌裔、汪綱、陳宓、王霆列伝>宋史列伝第百六十七]]
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[[婁機、沈煥、舒璘、曹彦約、范応鈴、徐経孫列伝>宋史列伝第百六十九]]
[[湯璹、蒋重珍、牟子才、朱貔孫、欧陽守道列伝>宋史列伝第百七十]]
[[孟珙、杜杲、王登、楊掞、張惟孝、陳咸列伝>宋史列伝第百七十一]]
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[[楊鎬、袁応泰、熊廷弼、袁崇煥、趙光抃列伝>明史列伝第百四十七]]
[[楊鶴、陳奇瑜、熊文燦、練国事、丁啓睿、鄭崇倹、邵捷春、余応桂、高斗枢、張任学列伝>明史列伝第百四十八]]
[[盧象昇、劉之綸、丘民仰列伝>明史列伝第百四十九]]
[[傅宗龍、汪喬年、楊文岳、孫伝庭列伝>明史列伝第百五十]]
[[宋一鶴、馮師孔、林日瑞、蔡懋徳、衛景瑗、朱之馮、陳士奇、龍文光、劉佳引、劉之勃列伝>明史列伝第百五十一]]
[[賀逢聖、南居益、周士樸、呂維祺、王家禎、焦源溥、李夢辰、宋師襄、麻僖、王道純、田時震列伝>明史列伝第百五十二]]
[[范景文、倪元璐、李邦華、王家彦、孟兆祥、施邦曜、凌義渠列伝>明史列伝第百五十三]]
[[馬世奇、呉麟徴、周鳳翔、劉理順、汪偉、呉甘来、王章、陳良謨、陳純徳、申佳胤、成徳、許直、金鉉列伝>明史列伝第百五十四]]
[[馬従聘、張伯鯨、宋玫、范淑泰、高名衡、徐汧、鹿善継列伝>明史列伝第百五十五]]
[[曹文詔、周遇吉、黄得功列伝>明史列伝第百五十六]]
[[艾万年、李卑、湯九州、陳于王、侯良柱、張令、猛如虎、虎大威、孫応元、姜名武、尤世威、侯世禄、劉国能列伝>明史列伝第百五十七]]
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[[朱大典、張国維、張肯堂、曽桜、朱継祚、余煌、王瑞栴、路振飛、何楷、熊汝霖、銭粛楽、沈宸荃列伝>明史列伝第百六十四]]
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[[阿哈出、子釈加奴、猛哥不花、釈加奴子李満住、李満住孫完者禿、猛哥不花子撒満哈失裏、猛哥帖木児、猛哥帖木児弟凡察、子董山、董山子脱羅、脱羅子脱原保、凡察子不花禿、王杲、王兀堂列伝>清史稿列伝九]]
[[万、子扈爾干、孟格布禄、扈爾干子岱善、孟格布禄子呉爾古代、楊吉砮、兄清佳砮、楊吉砮子納林、布禄、金台石、清佳砮子布寨、布寨子布揚古、布占泰、拝音達裏列伝>清史稿列伝十]]
[[張煌言、張名振、王翊、鄭成功、鄭錦、鄭克塽、李定国列伝>清史稿列伝十一]]
[[額亦都、費英東、子索海、孫倭黒、何和礼、子多積礼、和碩図、都類、安費揚古、扈爾漢列伝>清史稿列伝十二]]
[[揚古利、労薩、子程尼、図魯什、子巴什泰、覚羅拝山、子顧納岱、顧納岱子莫洛渾、西喇布、子馬喇希、阿蘭珠、阿蘭珠弟布林堪、納爾察、納爾察子瑚沙、達音布、
朗格、朗格子和托、従弟雍舜、瑪爾当図、瑪爾当図子烏庫理、喀喇、喀喇孫舒裏渾、洛多歓、崆古図、巴篤理、穆克譚、穆克譚子愛音塔穆、達珠瑚、達珠瑚子翁阿岱列伝>清史稿列伝十三]]
[[常書、弟揚書、常書子察哈喇、孫葉璽、曽孫辰布禄、察哈喇子富喇克塔、揚書子達爾漢、達爾漢子鄂羅塞臣、康果礼、弟喀克都哩、哈哈納、哈哈納弟綽和諾、綽和諾従子富喀禅、
葉克書、葉克書子道喇、博爾晋、子特錦、孫瑪沁、曽孫康喀喇、雅希禅、子恭袞、訥爾特、拉篤渾、舒賽、舒賽子西蘭、西蘭子席特庫、景固勒岱、景固勒岱従弟崇阿、
揚善、弟伊遜、訥都祜、従弟武頼、冷格裏、子穆成格、冷格裏弟納穆泰、従弟譚布、薩穆什喀、弟雅頼、洪尼雅喀、子武拉禅、洪尼雅喀、弟薩蘇喀、阿山列伝>清史稿列伝十四]]
[[額爾徳尼、噶蓋、噶蓋子武善、布善、布善子誇紮、達海、尼堪、庫爾纏、弟庫拝、英俄爾岱、満達爾漢、弟馬福塔、明安達礼列伝>清史稿列伝十五]]
[[明安、子昂洪、多爾済、恩格類、恩格類従子布当、布顔代、恩格徳爾、子額爾克戴青、古爾布什、鄂斉爾桑、布林喀図、弼喇什、色爾格克、阿済拝、恩格図、鄂本兌、
和済格爾、和済格爾子拝音達裏、阿頼、布延、阿爾沙瑚、阿爾沙瑚兄子果爾沁、額琳奇岱青、徳参済旺、多爾済達爾罕、奇塔特徹爾貝、
洛哩、弟沙哩岱、奇塔特偉徵、奇塔特偉徵弟額爾格勒珠爾、喀蘭図、紮克托会、■楚克図英、琿津、沙爾布列伝>清史稿列伝十六]]
[[武理堪、子呉拝、蘇拝、蘇拝子和託、武納格、子徳穆図、斉墨克図、阿什達爾漢、蘇納、固三泰、固三泰子明阿図、明阿図子賽弼翰、
瑚什布、瑚什布子穆徹納、鄂莫克図、喀山、喀山子納海、安達立、綽拝、布丹、孫達哩、吉思哈、弟吉普喀達、
呉巴海、康喀勒、従兄子和托、瑪拉、兄孫通嘉、薩璧翰列伝>清史稿列伝十七]]
[[佟養性、孫国瑶、李永芳、石廷柱、馬光遠、弟光輝、李思忠、子廕祖、廕祖子鈵、金玉和、子維城、王一屏、一屏子国光、国光子永誉、孫得功、張士彦、士彦子朝璘、金砺列伝>清史稿列伝十八]]
[[希福、子帥顔保、曽孫嵩寿、范文程、子承勲、承斌、孫時繹、時捷、時綬、時紀、曽孫宜恒、四世孫建中、寧完我、鮑承先列伝>清史稿列伝十九]]
[[図爾格、兄徹爾格、伊爾登、弟超哈爾、超哈爾子額赫里、巴奇蘭、岱松阿、岱松阿子阿納海、巴漢、斉爾格申、巴都里、巴都里従弟子海都、托克雅、
葉臣、子車爾布、蘇魯邁、蘇魯邁子蘇爾済、鄂洛順、翁鄂洛、珠瑪喇、瓦爾喀珠瑪喇、瓦爾喀珠瑪喇弟伊瑪喇列伝>清史稿列伝二十]]
[[孔有徳、全節、耿仲明、子継茂、継茂子昭忠、聚忠、尚可喜子之孝、沈志祥、兄子永忠、永忠子瑞、祖大寿、子沢潤、沢溥、沢洪、沢洪子良璧、大寿養子可法、従子沢遠列伝>清史稿列伝二十一]]
[[図頼、准塔、伊爾徳、努山、阿済格尼堪、佟図頼列伝>清史稿列伝二十二]]
[[陳泰、阿爾津、李国翰、子海爾図、桑額、卓布泰、弟巴哈、卓羅、四世孫永慶、愛星阿、子富善、遜塔、子馬錫泰、従弟都爾徳列伝>清史稿列伝二十三]]
[[洪承疇、夏成徳、孟喬芳、張文衡、張存仁列伝>清史稿列伝二十四]]
[[蒋赫徳、額色赫、車克、覚羅巴哈納、宋権、傅以漸、呂宮、成克巩、金之俊、謝升、胡世安、王永吉、党崇雅、馬周祚、高爾儼、張端列伝>清史稿列伝二十五]]
[[沈文奎、李栖鳳、馬鳴佩、馬国柱、羅繍錦、繍錦弟絵錦、雷興、王来用、丁文盛、子思孔、祝世昌列伝>清史稿列伝二十六]]
[[李国英、劉武元、庫礼、胡全才、申朝紀、馬之先、劉弘遇、于時躍、蘇弘祖、呉景道、李日芃、劉清泰、佟岱、秦世禎、陳錦列伝>清史稿列伝二十七]]
[[科爾昆、覚善、甘都、譚拝、法譚、席特庫、藍拝、鄂碩、伊拝、弟庫爾闡、阿哈尼堪、星訥、褚庫列伝>清史稿列伝二十八]]
[[覚羅果科、覚羅阿克善、敦拝、哈寧阿、碩・、碩・孫達色、済席哈、弟費雅思哈、噶達渾、費揚武、愛松古、興鼐、興鼐兄孫哈爾奇、達素、喀爾塔喇、喀爾塔喇子赫特赫列伝>清史稿列伝二十九]]
[[沙爾虎達、子巴海、安珠瑚、劉之源、呉守進、巴山、張大猷、喀喀木、梁化鳳、子鼐、劉芳名、胡有升、楊名高、劉光弼、劉仲錦列伝>清史稿列伝三十]]
[[趙開心、楊義、林起竜、朱克簡、成性、王命岳、李森先、李呈祥、魏琯、李裀、季開生、弟振宜、張煊列伝>清史稿列伝三十一]]
[[剛林、祁充格、馮銓、孫之獬、李若琳、陳名夏、陳之遴、劉正宗、張縉彦列伝>清史稿列伝三十二]]
[[譚泰、何洛会、錫図庫、博爾輝、冷僧機列伝>清史稿列伝三十三]]
[[彭而述、陸振芬、姚延著、畢振姫、方国棟、于朋挙、王天鑑、趙廷標列伝>清史稿列伝三十四]]
[[許定国、劉良佐、左夢庚、郝効忠、徐勇、盧光祖、田雄、馬得功、張天禄、弟天福、趙之竜、孫可望、白文選列伝>清史稿列伝三十五]]
[[索尼、蘇克薩哈、蘇納海、朱昌祚、王登聯、白爾赫図、遏必隆、子尹徳、鼇拝、弟穆里瑪、班布爾善列伝>清史稿列伝三十六]]
[[李霨、孫廷銓、杜立徳、馮溥、王熙、弟燕、呉正治、黄機、宋徳宜、子駿業、伊桑阿、子伊都立阿蘭泰、子富寧安、徐元文、弟秉義列伝>清史稿列伝三十七]]
[[図海、李之芳列伝>清史稿列伝三十八]]
[[甘文焜、子国璧、范承謨、子時崇、馬雄鎮、傅弘烈列伝>清史稿列伝三十九]]
[[莫洛、陳福、王之鼎、費雅達、李興元、陳啓泰、呉万福、陳丹赤、馬閟、葉映榴列伝>清史稿列伝四十]]
[[賚塔、穆占、莽依図、覚羅舒恕、勒貝、仏尼埒、坤、鄂泰、呉丹、畢力克図、噶爾漢、阿密達、鄂克済哈、覚羅吉哈里、拉哈達、察哈泰、根特、華善、席卜臣、希爾根列伝>清史稿列伝四十一]]
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[[蔡毓栄、哈占、杭愛、鄂善、華善、董衛国、佟国正、周有徳、張徳地、伊辟、王継文列伝>清史稿列伝四十三]]
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[[希福、珠満、瑪奇、額赫訥、洪世禄、彰庫、鄂克遜、莽奕禄、沙納哈、偏図、瑚里布、達理善、額楚、穆成額、額斯泰、布舒庫、塔勒岱、瓦岱、桑格、伊巴罕、沃申、武穆篤、瑚図、瑪哈達、杰殷、弟杰都、瓦爾喀列伝>清史稿列伝四十五]]
[[宜里布、哈克三、阿爾護、路什、雅賚、拡爾坤、王承業、王忠孝列伝>清史稿列伝四十六]]
[[姚啓聖、子儀、呉興祚、施琅、朱天貴列伝>清史稿列伝四十七]]
[[楊捷、石調声、万正色、呉英、藍理、黄梧、子芳度、従子芳世、芳泰、穆赫林、段応挙列伝>清史稿列伝四十八]]
[[魏裔介、熊賜履、李光地列伝>清史稿列伝四十九]]
[[王弘祚、姚文然、魏象枢、朱之弼、趙申喬列伝>清史稿列伝五十]]
[[郝維訥、任克溥、劉鴻儒、劉楗、朱裴、張廷枢列伝>清史稿列伝五十一]]
[[湯斌、孫之旭、陸隴其、張伯行、子師載列伝>清史稿列伝五十二]]
[[葉方藹、沈荃、励杜訥、子廷儀、孫宗万、徐元珙、許三礼、王士禎、韓菼、湯右曽列伝>清史稿列伝五十三]]
[[張玉書、李天馥、呉琠、張英、子廷瓚、廷璐、廷■彖、陳廷敬、温達、穆和倫、蕭永藻、嵩祝、王頊齢列伝>清史稿列伝五十四]]
[[米思翰、子李栄保、顧八代、瑪爾漢、田六善、杜臻、薩穆哈列伝>清史稿列伝五十五]]
[[索額図、明珠、余国柱、仏倫列伝>清史稿列伝五十六]]
[[郝浴、子林、楊素薀、郭e列伝>清史稿列伝五十七]]
[[徐乾学、翁叔元、王鴻緒、高士奇列伝>清史稿列伝五十八]]
[[湯若望、楊光先、南懐仁列伝>清史稿列伝五十九]]
[[李率泰、趙廷臣、袁懋功、徐旭齢、郎廷佐、弟廷相、郎永清、永清子廷極、佟鳳彩、麻勒吉、阿席熙、瑪祜、施維翰列伝>清史稿列伝六十]]
[[楊雍建、姚締虞、朱弘祚、子綱、王騭、宋犖、陳詵列伝>清史稿列伝六十一]]
[[格爾古徳、金世徳、趙士麟、郭世隆、傅臘塔、馬如竜列伝>清史稿列伝六十二]]
[[石琳、兄子文晟、徐潮、子杞、貝和諾、子馬喇、陶岱、傅霽、覚羅華顕、蒋陳錫、子漣泂、劉廕枢、音泰、鄂海、衛既斉列伝>清史稿列伝六十三]]
[[于成竜、孫準、彭鵬、陳瑸、陳鵬年、施世綸列伝>清史稿列伝六十四]]
[[慕天額、阿山、噶礼列伝>清史稿列伝六十五]]
[[楊方興、朱之錫、崔維雅、靳輔、陳潢、宋文運、董訥、熊一瀟、于成竜、孫在豊、開音布、張鵬翮列伝>清史稿列伝六十六]]
[[郎坦、朋春、薩布素、瑪拉列伝>清史稿列伝六十七]]
[[費揚古、満丕、碩岱、素丹、馬斯喀、佟国綱、邁図、格斯泰、阿南達、子阿喇納、吉勒塔布、殷化行、潘育竜、孫紹周、従孫之善、額倫特、康泰、泰弟海列伝>清史稿列伝六十八]]
[[姜希轍、余縉、徳格勒、陳紫芝、笪重光、任弘嘉、高層雲、沈ト曽、龔翔麟、高遐昌列伝>清史稿列伝六十九]]
[[覚羅武黙訥、舒蘭、拉錫、拉錫子旺札爾、孫博霊阿、図理琛、何国宗列伝>清史稿列伝七十]]
[[覚羅満保、陳策、施世驃、藍廷珍、従弟鼎元、林亮、何勉、陳倫炯、欧陽凱、羅万倉、游崇功列伝>清史稿列伝七十一]]
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許世亨、子文謨、尚維升、張朝竜、李化竜、邢敦行、台斐英阿、阿満泰、花連布、明安図列伝>清史稿列伝百二十一]]
[[富僧阿、伊勒図、胡貴、兪金鼇、尹徳禧、剛塔列伝>清史稿列伝百二十二]]
[[葉士寛、陳夢説、介錫周、方浩、金溶、張維寅、顧光旭、沈善富、方昂、唐侍陛、張沖之列伝>清史稿列伝百二十三]]
[[盧焯、図爾炳阿、阿思哈、宮兆麟、楊景素、閔鶚元列伝>清史稿列伝百二十四]]
[[塞楞額、周学健、鄂昌、鄂楽舜、彭家屏、李因培、常安、福ッ列伝>清史稿列伝百二十五]]
[[恒文、郭一裕、蒋洲、楊灝、高恒、子高樸、王亶望、勒爾謹、陳輝祖、鄭源鸘、国泰、郝碩、良卿、方世俊、銭度、覚羅伍拉納、浦霖列伝>清史稿列伝百二十六]]
[[王杰、董誥、朱珪列伝>清史稿列伝百二十七]]
[[慶桂、劉権之、戴衢亨、戴均元、托津、章煦、盧廕溥列伝>清史稿列伝百二十八]]
[[保寧、松筠、子熙昌、富俊、竇心伝、博啓図列伝>清史稿列伝百二十九]]
[[書麟、弟広厚、覚羅吉慶、覚羅長麟、費淳、百齢、伯麟列伝>清史稿列伝百三十]]
[[勒保、額勒登保、胡時顕、徳楞泰列伝>清史稿列伝百三十一]]
[[永保、恵齢、宜綿、子瑚素通阿、英善、福寧、景安、秦承恩列伝>清史稿列伝百三十二]]
[[恒瑞、慶成、七十五、富志那、亮禄列伝>清史稿列伝百三十三]]
[[楊遇春、子国驕A呉廷剛、祝廷彪、游棟雲、羅思挙、桂涵、包相卿列伝>清史稿列伝百三十四]]
[[賽沖阿、温春、色爾滾、蘇爾慎、阿哈保、綸布春、格布舎、札克塔爾、桑吉斯塔爾、馬瑜、蒲尚佐、薛大烈、羅声皋、薛升列伝>清史稿列伝百三十五]]
[[王文雄、朱射斗、子樹、穆克登布、富成、穆維、施縉、李紹祖、宋延清、袁国璜、何元卿、諸神保、達三泰、
徳齢、保興、凝徳、多爾済扎布、王凱、王懋賞、恵倫、安禄、仏住、西津泰、豊伸布、阿爾薩朗、烏什哈達、和興額列伝>清史稿列伝百三十六]]
[[李長庚、子廷ト、胡振声、王得禄、邱良功、陳歩雲、許松年、黄標、林国良、許廷桂列伝>清史稿列伝百三十七]]
[[沈初、金士松、鄒炳泰、戴聯奎、王懿修、子宗誠、黄鉞列伝>清史稿列伝百三十八]]
[[姜晟、金光悌、祖之望、韓崶列伝>清史稿列伝百三十九]]
[[達椿、子薩彬図、鉄保、弟玉保、和瑛、覚羅桂芳列伝>清史稿列伝百四十]]
[[万承風、周系英、銭樾、秦瀛、李宗瀚、韓鼎晋、朱方増列伝>清史稿列伝百四十一]]
[[魁倫、広興、初彭齢列伝>清史稿列伝百四十二]]
[[洪亮吉、管世銘、谷際岐、李仲昭、石承藻列伝>清史稿列伝百四十三]]
[[呉熊光、汪志伊、陳大文、熊枚、裘行簡、方維甸、董教増列伝>清史稿列伝百四十四]]
[[馮光熊、陸有仁、覚羅瑯玕、烏大経、清安泰、常明、温承惠、顔検列伝>清史稿列伝百四十五]]
[[岳起、荊道乾、謝啓昆、李殿図、張師誠、王紹蘭、李奕畴、銭楷、和舜武列伝>清史稿列伝百四十六]]
[[司馬騊、王秉韜、嵆承志、康基田、呉璥、徐端、陳鳳翔、黎世序列伝>清史稿列伝百四十七]]
[[劉清、傅鼐、厳如熤、子正基列伝>清史稿列伝百四十八]]
[[方積、朱爾漢、楊頀、廖寅、陳昌斉、朱爾賡額、査崇華列伝>清史稿列伝百四十九]]
[[曹振縺A文孚、英和、王鼎、穆彰阿、潘世恩列伝>清史稿列伝百五十]]
[[阮元、汪廷珍、湯金サ列伝>清史稿列伝百五十一]]
[[覚羅宝興、宗室敬徴、宗室禧恩、陳官俊、卓秉恬列伝>清史稿列伝百五十二]]
[[孫玉庭、蒋攸銛、李鴻賓列伝>清史稿列伝百五十三]]
[[長齢、那彦成、子容安、容照、玉麟、特依順保列伝>清史稿列伝百五十四]]
[[楊芳、胡超、斉慎、郭継昌、段永福、武隆阿、哈哴阿、巴哈布、長清、達凌阿、
哈豊阿、慶祥、舒爾哈善、烏凌阿、穆克登布、多隆武、壁昌、恒敬列伝>清史稿列伝百五十五]]
[[林則徐、ケ廷驕A達洪阿列伝>清史稿列伝百五十六]]
[[g善、伊里布、宗室耆英列伝>清史稿列伝百五十七]]
[[顔伯Z、怡良、祁■、黄恩彤、劉韻珂、牛鑑列伝>清史稿列伝百五十八]]
[[裕謙、謝朝恩、重祥、関天培、陳連升、祥福、江継芸、陳化、成海齢、葛雲飛、王錫朋、鄭国鴻、朱貴列伝>清史稿列伝百五十九]]
[[宗室奕山、隆文、宗室奕経、文蔚、特依順、余歩雲列伝>清史稿列伝百六十]]
[[姚文田、戴敦元、朱士彦、何凌漢、李振祜、宗室恩桂列伝>清史稿列伝百六十一]]
[[白鎔、孫桓、史致儼、那清安、升寅、李宗ム、姚元之、何汝霖、季芝昌列伝>清史稿列伝百六十二]]
[[辛従益、張鱗、顧皋、沈維鐈、朱為弼、程恩沢、呉杰列伝>清史稿列伝百六十三]]
[[鮑桂星、顧蓴、呉孝銘、陳鴻、鄂木順額、徐法績列伝>清史稿列伝百六十四]]
[[黄爵滋、金応麟、陳慶縺A蘇廷魁、朱g列伝>清史稿列伝百六十五]]
[[趙慎畛、盧坤、曽勝、陶澍列伝>清史稿列伝百六十六]]
[[陳若霖、戴三錫、孫爾準、程祖洛、馬済勝、裕泰、賀長齢列伝>清史稿列伝百六十七]]
[[帥承瀛、孫遠燡、弟承瀚、左輔、姚祖同、程含章、康紹縺A朱桂驕A陳鑾、呉其濬、張澧中、張日晸列伝>清史稿列伝百六十八]]
[[瑚松額、布彦泰、薩迎阿列伝>清史稿列伝百六十九]]
[[張文浩、厳烺、張井、呉邦慶、栗毓美、麟慶、潘錫恩、子駿文列伝>清史稿列伝百七十]]
[[林培厚、李象鵾、李宗伝、王鳳生、黄冕、兪徳淵、姚瑩列伝>清史稿列伝百七十一]]
[[杜受田、子翰、祁俊藻、子世長、翁心存、彭薀章列伝>清史稿列伝百七十二]]
[[文慶、文祥、宝鋆列伝>清史稿列伝百七十三]]
[[宗室粛順、穆廕、匡源、焦祐瀛、陳孚恩列伝>清史稿列伝百七十四]]
[[桂良、瑞麟、子懐塔布、官文、文U列伝>清史稿列伝百七十五]]
[[柏葰、麟魁、瑞常、全慶列伝>清史稿列伝百七十六]]
[[賈驕A周祖培、朱鳳標、単懋謙列伝>清史稿列伝百七十七]]
[[倭仁、李棠階、呉廷棟列伝>清史稿列伝百七十八]]
[[賽尚阿、訥爾経額列伝>清史稿列伝百七十九]]
[[李星沅、周天爵、労崇光列伝>清史稿列伝百八十]]
[[徐広縉、葉名琛、黄宗漢列伝>清史稿列伝百八十一]]
[[常大淳、双福、王錦繍、常禄、王寿同、蒋文慶、陶恩培、多山、吉爾杭阿、劉存厚、繃闊、
周兆熊、羅遵殿、王友端、繆梓、徐有壬、王有齢列伝>清史稿列伝百八十二]]
[[呉文鎔、潘鈬、ケ爾恒列伝>清史稿列伝百八十三]]
[[陸建瀛、楊文定、青麟、崇綸、何桂清列伝>清史稿列伝百八十四]]
[[宗室祥厚、霍隆武、福珠洪阿、恩長、陳勝元、祁宿藻、陳克譲、劉同纓、瑞昌、杰純、錫齢阿列伝>清史稿列伝百八十五]]
[[呂賢基、鄒鳴鶴、戴熙、湯貽汾、張芾、黄j、陶廷杰、馮培元、孫銘恩、沈炳垣、張錫庚列伝>清史稿列伝百八十六]]
[[何桂珍、徐豊玉、張汝瀛、金雲門、唐樹義、岳興阿、易容之、温紹原、金光箸、李孟群、趙景賢列伝>清史稿列伝百八十七]]
[[向栄、和春、張国梁列伝>清史稿列伝百八十八]]
[[烏蘭泰、長瑞、長寿、董光甲、邵鶴齢、ケ紹良、石玉竜、周天受、弟天培、天孚、
饒廷選、文瑞、彭斯挙、張玉良、魯占鼇、劉季三、双来、瞿騰竜、王国才、虎坤元、戴文英列伝>清史稿列伝百八十九]]
[[勝保、托明阿、陳金綬、徳興阿列伝>清史稿列伝百九十]]
[[僧格林沁、舒通額、恒齢、蘇克金、何建鼇、全順 史栄椿、楽善列伝>清史稿列伝百九十一]]
[[曽国藩列伝>清史稿列伝百九十二]]
[[駱秉章、胡林翼列伝>清史稿列伝百九十三]]
[[江忠源、弟忠済、族弟忠信、羅沢南列伝>清史稿列伝百九十四]]
[[李続賓、丁鋭義、曽国華、李続宜、王珍、弟開化、劉騰鴻、弟騰鶴、蒋益澧列伝>清史稿列伝百九十五]]
[[塔斉布、畢金科、多隆阿、孫寿長、鮑超、宋国永、婁雲慶、譚勝達、唐仁廉、劉松山列伝>清史稿列伝百九十六]]
[[彭玉麟、楊岳斌、王明山、孫昌凱、楊明海、謝濬畬列伝>清史稿列伝百九十七]]
[[李鴻章列伝>清史稿列伝百九十八]]
[[左宗棠列伝>清史稿列伝百九十九]]
[[曽国荃、弟貞幹、沈葆驕A劉坤一列伝>清史稿列伝二百]]
[[李臣典、蕭孚泗、朱洪章、劉連捷、彭毓橘、張詩日、伍維寿、朱南桂、羅逢元、李祥和、蕭慶衍、呉宗国列伝>清史稿列伝二百一]]
[[黄翼升、丁義方、王吉、呉家榜、李成謀、李朝斌、江福山、劉培元列伝>清史稿列伝二百二]]
[[程学啓、何安泰、鄭国魁、劉銘伝、張樹珊、弟樹屏、周盛波列伝>清史稿列伝二百三]]
[[都興阿、弟西凌阿、福興、富明阿、舒保、伊興額、滕家勝、関保列伝>清史稿列伝二百四]]
[[袁甲三、子保恒、毛昶熙列伝>清史稿列伝二百五]]
[[劉長佑、劉岳昭、岑毓英、弟毓宝列伝>清史稿列伝二百六]]
[[韓超、田興恕、曽璧光、席宝田列伝>清史稿列伝二百七]]
[[沈兆霖、曹毓瑛、許乃普、子彭寿、趙光、朱嶟、李菡、張祥河、羅惇衍、鄭敦謹、龐鍾璐列伝>清史稿列伝二百八]]
[[王茂廕、宋晋、袁希祖、文瑞、毓禄、徐継畬、王発桂、廉兆綸、雷以諴、陶樑、呉存義、殷兆纓伝>清史稿列伝二百九]]
[[宗稷辰、尹耕雲、王拯、穆緝香阿、游百川、沈淮列伝>清史稿列伝二百十]]
[[呉振棫、張亮基、毛鴻賓、張凱嵩列伝>清史稿列伝二百十一]]
[[李僡、呉棠、英翰、劉蓉、喬松年、銭鼎銘、呉元炳列伝>清史稿列伝二百十二]]
[[王慶雲、譚廷襄、馬新貽、李宗羲、徐宗幹、王凱泰、郭柏廕列伝>清史稿列伝二百十三]]
[[王懿徳、曽望顔、覚羅耆齢、福済、翁同書、厳樹森列伝>清史稿列伝二百十四]]
[[秦定三、郝光甲、鄭魁士、傅振邦、邱聯恩、黄開榜、陳国瑞、郭宝昌列伝>清史稿列伝二百十五]]
[[江忠義、周寛世、石清吉、余際昌、林文察、趙徳光、張文徳列伝>清史稿列伝二百十六]]
[[雷正綰、陶茂林、曹克忠、胡中和、何勝必、蕭慶高、楊復東、周達武、李輝武、唐友耕列伝>清史稿列伝二百十七]]
[[郭松林、李長楽、楊鼎勲、唐殿魁、唐定奎、滕嗣武、駱国忠列伝>清史稿列伝二百十八]]
[[蕭啓江、張運蘭、唐訓方、蒋凝学、陳G、李元度列伝>清史稿列伝二百十九]]
[[金国琛、黄淳熙、呉坤修、康国器、李鶴章、弟昭慶、呉毓蘭列伝>清史稿列伝二百二十]]
[[沈棣輝、ケ仁堃、余炳Z、栗燿、朱孫貽、史致諤、劉郇膏、朱善張、子之榛、黄輔辰、子彭年列伝>清史稿列伝二百二十一]]
[[華爾、勒伯勒東、法爾第福、戈登、日意格、徳克碑、赫徳、帛黎列伝>清史稿列伝二百二十二]]
[[沈桂芬、李鴻藻、翁同和、孫毓汶列伝>清史稿列伝二百二十三]]
[[栄禄、王文韶、張之洞、瞿鴻禨列伝>清史稿列伝二百二十四]]
[[閻敬銘、張之万、鹿伝霖、林紹年列伝>清史稿列伝二百二十五]]
[[景廉、額勒和布、許庚身、銭応溥、廖寿恒、栄慶、那桐、戴鴻慈列伝>清史稿列伝二百二十六]]
[[英桂、宗室載齢、恩承、宗室福錕、崇礼、裕徳列伝>清史稿列伝二百二十七]]
[[潘祖廕、李文田、孫詒経、夏同善、張家驤、張英麟、張仁黼、張亨嘉列伝>清史稿列伝二百二十八]]
[[徐樹銘、薛允升、宗室延煦、子会章、汪鳴鑾、長麟、周家楣、周徳潤、胡燏棻、張廕桓列伝>清史稿列伝二百二十九]]
[[孫家鼐、張百熙、唐景崇、于式枚、沈家本列伝>清史稿列伝二百三十]]
[[黄体芳、子紹箕、宗室宝廷、宗室盛c、張佩綸、何如璋、ケ承修、徐致祥列伝>清史稿列伝二百三十一]]
[[呉可読、潘敦儼、朱一新、屠仁守、呉兆泰、何金寿、安維峻、文悌、江春霖列伝>清史稿列伝二百三十二]]
[[郭嵩Z、弟昆Z、崇厚、曽紀沢、薛福成、黎庶昌、馬建忠、李鳳苞、洪鈞、劉瑞芬、徐寿朋、楊儒列伝>清史稿列伝二百三十三]]
[[丁宝驕A李瀚章、楊昌濬、張樹声、弟樹屏、衛栄光、劉秉璋、陳士杰、陶模、李興鋭、史念祖列伝>清史稿列伝二百三十四]]
[[丁日昌、卞宝第、塗宗瀛、黎培敬、ッ駿、ッ蕃、辺宝泉、于廕霖、饒応祺ツ祖翼列伝>清史稿列伝二百三十五]]
[[錫良、周馥、陸元鼎、張曽易攵、楊士驤、馮煦列伝>清史稿列伝二百三十六]]
[[李鶴年、文彬、任道鎔、許振禕、呉大澄列伝>清史稿列伝二百三十七]]
[[李朝儀、段起、丁寿昌、曽紀鳳、儲裕立、鉄珊、桂中行、劉含芳、陳黌挙、游智開、李用清、李希蓮、李金縺A金福曽、熊其英、謝家福、童兆蓉列伝>清史稿列伝二百三十八]]
[[洪汝奎、楊宗濂、史樸、史克寛、沈保靖、朱其昂、弟其詔、宗源瀚、徐慶璋、徐珍、蒯光典、陳遹声、潘民表、厳作霖、唐錫晋、婁春蕃列伝>清史稿列伝二百三十九]]
[[栄全、喜昌、升泰、善慶、柏梁、恩沢、銘安、恭鏜、慶裕、
長庚、文海、鳳全、増祺、貽穀、信勤列伝>清史稿列伝二百四十]]
[[劉錦棠、張曜、劉典、弟倬雲、金順、弟連順、ケ増、
托雲布、果権、劉宏発、曹正興、穆図善、杜嘎爾、額爾慶額、豊紳、文麟、明春、富勒銘額、徐学功列伝>清史稿列伝二百四十一]]
[[董福祥、張俊、夏辛酉、金運昌、黄万鵬、余虎恩、桂錫驕A方友升列伝>清史稿列伝二百四十二]]
[[馬如竜、和耀曽、楊玉科、李惟述、蔡標、段瑞梅、夏毓秀、何秀林、楊国発、張保和列伝>清史稿列伝二百四十三]]
[[蒋東才、劉廷、李承先、李南華、兄子得勝、董履高、董全勝、牛師韓、曹徳慶、馬復震、程文炳、方耀、鄭紹忠、ケ安邦列伝>清史稿列伝二百四十四]]
[[徐延旭、唐炯、何m、張兆棟列伝>清史稿列伝二百四十五]]
[[馮子材、王孝祺、陳嘉、蒋宗漢、蘇元春、馬盛治、王徳榜、張春発、蕭得竜、馬維騏、覃修綱、呉永安、孫開華、朱煥明、蘇得勝、章高元、欧陽利見列伝>清史稿列伝二百四十六]]
[[左宝貴、弟宝賢等、永山、ケ世昌、劉歩蟾、林泰曽等、戴宗騫列伝>清史稿列伝二百四十七]]
[[宋慶、呂本元、徐邦道、馬玉昆、依克唐阿、栄和、長順列伝>清史稿列伝二百四十八]]
[[丁汝昌、衛汝貴、弟汝成、葉志超列伝>清史稿列伝二百四十九]]
[[唐景ッ、劉永福列伝>清史稿列伝二百五十]]
[[李端棻、徐致靖、子仁鋳、陳宝箴、黄遵憲、曽鉌、楊深秀、楊鋭、劉光第、譚嗣衕、唐才常、林旭、康広仁列伝>清史稿列伝二百五十一]]
[[徐桐、予師、子承U、剛毅、趙舒翹、啓秀、英年、裕禄、廷雍、毓賢、李廷簫列伝>清史稿列伝二百五十二]]
[[徐用儀、許景澄、袁昶、立山、聯元列伝>清史稿列伝二百五十三]]
[[李秉衡、王廷相、聂士成、羅栄光、寿山、族孫瑞昌、鳳翔、崇玉等列伝>清史稿列伝二百五十四]]
[[崇綺、子葆初等、志鈞、延茂、弟延芝、色普徴額、王懿栄、熙元、宗室宝豊、宗室寿富、弟寿蕃等、宋承庠、王鉄珊列伝>清史稿列伝二百五十五]]
[[恩銘、孚g、鳳山、端方、弟端錦、劉燧、赫成額、松寿、趙爾豊、馮汝騤、陸鍾g、子光熙等列伝>清史稿列伝二百五十六]]
[[志鋭、劉従徳、春勲、良弼、宗室載穆、万選、徳霈、同源、文瑞、承燕、克蒙額、恒齢、徳霈等、朴寿、謝宝勝、姚靄雲、黄忠浩、楊譲梨等列伝>清史稿列伝二百五十七]]
[[盛宣懐、瑞澄列伝>清史稿列伝二百五十八]]
[[陸潤庠、世続、伊克坦、梁鼎芬、徐坊、労乃宣、沈曽植列伝>清史稿列伝二百五十九]]
[[張勲、康有為列伝>清史稿列伝二百六十]]
[[呉三桂、耿精忠、尚之信、孫延齢列伝>清史稿列伝二百六十一]]
[[洪秀全列伝>清史稿列伝二百六十二]]
[[循吏列伝一>清史稿列伝二百六十三]]、[[二>清史稿列伝二百六十四]]、[[三>清史稿列伝二百六十五]]、[[四>清史稿列伝二百六十六]]
[[儒林列伝一>清史稿列伝二百六十七]]、[[二>清史稿列伝二百六十八]]、[[三>清史稿列伝二百六十九]]、[[四>清史稿列伝二百七十]]
[[文苑列伝一>清史稿列伝二百七十一]]、[[二>清史稿列伝二百七十二]]、[[三>清史稿列伝二百七十三]]
[[忠義列伝一>清史稿列伝二百七十四]]、[[二>清史稿列伝二百七十五]]、[[三>清史稿列伝二百七十六]]、[[四>清史稿列伝二百七十七]]、[[五>清史稿列伝二百七十八]]、
[[六>清史稿列伝二百七十九]]、[[七>清史稿列伝二百八十]]、[[八>清史稿列伝二百八十一]]、[[九>清史稿列伝二百八十二]]、[[十>清史稿列伝二百八十三]]
[[孝義列伝一>清史稿列伝二百八十四]]、[[二>清史稿列伝二百八十五]]、[[三>清史稿列伝二百八十六]]
[[遺逸列伝一>清史稿列伝二百八十七]]、[[二>清史稿列伝二百八十八]]
[[芸術列伝一>清史稿列伝二百八十九]]、[[二>清史稿列伝二百九十]]、[[三>清史稿列伝二百九十一]]、[[四>清史稿列伝二百九十二]]
[[疇人列伝一>清史稿列伝二百九十三]]、[[二>清史稿列伝二百九十四]]
[[列女列伝一>清史稿列伝二百九十五]]、[[二>清史稿列伝二百九十六]]、[[三>清史稿列伝二百九十七]]、[[四>清史稿列伝二百九十八]]
[[土司列伝一>清史稿列伝二百九十九]]、[[二>清史稿列伝三百]]、[[三>清史稿列伝三百一]]、[[四>清史稿列伝三百二]]、[[五>清史稿列伝三百三]]、[[六>清史稿列伝三百四]]
[[藩部列伝一>清史稿列伝三百五]]、[[二>清史稿列伝三百六]]、[[三>清史稿列伝三百七]]、[[四>清史稿列伝三百八]]、
[[五>清史稿列伝三百九]]、[[六>清史稿列伝三百十]]、[[七>清史稿列伝三百十一]]、[[八>清史稿列伝三百十二]]
[[属国列伝一>清史稿列伝三百十三]]、[[二>清史稿列伝三百十四]]、[[三>清史稿列伝三百十五]]、[[四>清史稿列伝三百十六]]
目次終了
この後どうするんだ?
新五代史前蜀世家の王健の是歳正月から始まる段落の訓読の仕方を誰か教えて下さい><
大学の演習か何かなら自力でやりましょうよ
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/14(日) 15:34:34
良スレ。
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/21(日) 08:07:12
300
3 :ヽ┃・∀・|ノ :2010/02/11(木) 19:32:56
世祖武皇帝上之上 泰始元年(乙酉,西暦265年)
春,三月,呉主が光祿大夫の紀陟、五官中郎將の洪璆と<与>徐紹、孫ケを使わし
偕來させてきたため報いて聘した。徐紹が行って濡須に至ったところで,徐紹は中國の
美を誉めたと言う者が有ったことから,呉主は怒り,還るのを追いかけて,之を殺した。
夏,四月,呉は甘露と改元した。
五月,魏帝は文王に殊禮を加え,王妃を進めて曰く后とさせ,世子は曰く太子とさせた。
癸未,大赦した。
秋,七月,呉主は景皇后を逼り殺し,景帝の四子を呉に遷した;尋くして又た其の長じ
ていた者二人を殺した。
八月,辛卯,文王が卒し,太子が嗣いで相國、晉王と為った。
九月,乙未,大赦した。
戊子,魏の司徒である何曾を以って晉の丞相と為した;癸亥,驃騎將軍の司馬望を
以って司徒と為した。
乙亥,文王を崇陽陵に於いて葬った。
冬,呉の西陵督である歩闡が上表して呉主に都を武昌に徙すよう請うた;呉主は之に
從おうとし,御史大夫の丁固、右將軍の諸葛靚を使て建業を守らせた。歩闡は,歩騭の
子である。
4 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 19:42:10
十二月,壬戌,魏帝が晉に位を禪譲した;甲子,出て金墉城に捨した。太傅の司馬孚は辭を
拝すと,帝の手を執り,堪え切れなくなって涕を流して歔欷して,曰く:「臣が死ぬ日は,固より
大魏之純臣としてでございます也。」丙寅,王(司馬炎)は皇帝位に即き,大赦し,改元した。
丁卯,魏帝を奉じて陳留王と為し,宮を鄴に即けた;優崇之禮(もと魏の皇帝に対する晋の礼
遇)については,皆仿ち魏の初めの故事とした。魏氏の諸王は皆降って候と為った。
宣王(司馬懿)を追尊して宣皇帝と為し,景王(司馬師)を景皇帝と為し,文王(司馬昭)を文
皇帝と為した。王太后を尊んで曰く皇太后とした。皇叔祖父の司馬孚を封じて安平王と為し,
叔父の司馬干を平原王と為し、亮を扶風王と為し、胄を東莞王と為し、駿を汝陰王と為し、
肜を梁王と為し、倫を琅邪王と為し,弟の攸を齊王と為し、鑒を樂安王と為し、機を燕王と為し,
又た群從司徒望等十七人を封じて皆王と為した。石苞を以って大司馬と為し,鄭沖を太傅と為
し,王祥を太保と為し,何曾を太尉と為し,賈充を車騎將軍と為し,王沈を驃騎將軍と為した。
其の残りの文武は位を増し爵を進めたが差が有った。乙亥,安平王の司馬孚を以って太宰
と為し,都督中外諸軍事とした。未だ幾らもなくして,又た車騎將軍の陳騫を以って大將軍と
為し,司徒である義陽の人である王望、司空の荀ら,凡そ八公がともに,時を同じくして並
び置かれることとなった。帝は魏氏が孤立之敝におちいったことを懲戒としたため,故に大い
に宗室を封じ,授けるに職任を以てすると,又た諸王を招いて皆自ら國中の長吏を選ぶこと
を得られるものとした;衛將軍である齊王の攸は獨りだけ敢えて(自分で国中の長吏を選ぶ
ことを)せず,皆上げて(皇帝に上表して人事についての返事を)請うようにした。
詔がくだされて魏の宗室の禁錮が除かれ,部曲將及び長吏が質任を納れるのを罷めること
となった。
5 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 19:52:10
帝は魏氏がおこなった刻薄奢侈之後を承ったため,矯めて以って仁儉をいたそうと
欲していた,太常丞の許奇は,許允之子であった,帝將有事於太廟,朝議は許奇の
父が誅を受けていたことを以って,左右に接近させるは宜しからず,出して外官と為
すべきであると請うた;帝はすなわち追って許允の夙望を述べ,許奇の才を称えると,
擢んで祠部郎と為した。有司が牛を御す青絲が紖斷されたと言ってきたため,詔が
くだされて青麻を以て之に代えることとなった。
初めて諫官を置くと,散騎常侍の傅玄、皇甫陶を以って之を為した。傅玄は,傅干
の子である也。傅玄は魏の末に士風が頽敝(頽廃)していたことを以って,上疏して
曰く:「臣が聞きますに先王が天下を御すや,上では教化が隆ぶり,下では清議が行
われるようになったとか。近くは魏武(曹操)が法術を好むと而して天下は刑名を貴び,
魏文(曹丕)が通達を慕うや而して天下は守節を賤しみ,其後に綱維が攝されず,放
誕が朝に盈ちゆき,遂に天下を使て清議を復すこと無くならせてしまったのです。陛下
は龍興なさって受禪され,堯、舜のような王化を弘めんとしておられます,惟だ未だ
清遠有禮の臣を推挙して風節を敦くすることせず,未だ虚鄙之士を退けて以って不恪
なるを懲らしめようとせずにいるだけなのです,臣に是れぞ以って猶も敢えて言うこと
の有るしだいなのです。」上は嘉して其の言を納れ,傅玄を使て草詔させて之を進め
ようとしたが,然るに亦た革めること能わなかった也。
初め,漢の征西將軍であった司馬鈞が豫章太守となった司馬量を生み,司馬量が
穎川太守となった司馬俊を生み,俊が京兆尹となった司馬防を生み,防が宣帝を生
んだのである。
6 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:03:00
世祖武皇帝 上之上 泰始二年(丙戌,西暦266年)
春,正月,丁亥,即ち用って魏の廟に祭られていた征西府君以下より景帝まで凡そ
七室を並べることとなった。
辛丑,景帝の夫人である羊氏を尊び曰く景皇后とし,弘訓宮を居とした。
丙午,皇后として弘農の(人である)楊氏を立てた;后は,魏の通事郎であった文宗の
むすめである也。
群臣が奏(上)した:「五帝が天帝に即くや也,王氣は時で異なったものです,故に
名號には五つが有るのです。今より明堂、南郊は宜しく五帝の座を除すべきです。」
そこで之に従った。帝は,王肅の外孫であった,故に郊祀之禮にあっては,有司の
多くが王肅の議に従ったのである。
二月,漢の宗室の禁錮を除いた。三月,戊戌,呉が大鴻臚の張儼、五官中郎將の
丁忠を遣わしてきて弔祭に来た。
呉の散騎常侍である廬江の王蕃は,その體氣高亮であり,承顔しても順指すこと能
わなかったため,呉主は悦ばなかった,そこで散騎常侍の萬ケ、中書丞の陳聲はこれ
に従って而して之を譖(そし)った。丁忠が使いから還ると,呉主は群臣と大會し,王
蕃は沉醉(泥酔)して頓伏して(へべれけに寝て)しまった。呉主は其の詐りを疑い,
王蕃を輿にのせて外に出した。頃之,召還した。王蕃は威儀を治めることを好んでい
たことから,行止(行動)が自若としたものであった。呉主は大いに怒り,左右を呵っ
て殿下に於いて之を斬りすて,出て,山に登り來たると,親近を使て王蕃の首を擲た
せ,虎跳狼爭を作して(山に斬捨てた首を捨ておき山野の野獣に齧らせる儀式刑)
之を咋嚙せしめたため,首(かしら)は皆碎壞されてしまった。
丁忠は呉主に説いて曰く:「北方には守戰之備えが無くなっておりますから,弋陽は
襲えば而して取ることができましょう。」呉主は以って群臣に問うたところ,鎮西大將
軍の陸凱が曰く:「北方は新たに巴、蜀を並べ(平定し)たばかりで,使いを遣わして
和を求めてきておりますが,それは我らに援けを求めているのではありません,力を
蓄えて以って時を俟たんと欲しているだけです。敵の勢いは方(まさ)に強まらんとし
ておるのです,それなのに而して幸いを徼えとって(幸運を期待して)勝ちを求めん
と欲すなど,未だ其の利を見ないものです。」呉主は出兵せずと雖も,然るに遂に晉
と関係を絶った。陸凱は,陸遜之族子である也。
7 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:20:43
夏,五月,壬子,博陵元公の王沈が卒した。
六月,丙午晦,日食が有った。
文帝之喪,臣民は皆が權制に従い,三日して服を除した。既にして葬られると,
帝も亦た之を除いたが,然るに猶も素冠疏食し,哀毀すること喪に居している者の
如くであった。秋,八月,帝が將に崇陽陵に拝謁しようとしたおり,群臣は奏言し,
秋が暑く未だ平がないでいるのは,恐らく帝が悲しみ感じっているため(気候が)
摧き傷なわれているのだとした。帝曰く:「朕が瞻山陵を奉ずること得られれば,體
氣は自ら佳よくなることであろう。」
又た詔に曰く:「漢の文帝は天下をして哀しみを盡くさせなかったが,それも亦た帝
王の至謙の志ではなかろうか。當に山陵に見えるべきに,何心無服!其議以衰
絰從行。群臣は自ら舊制に依るように。」尚書令の裴秀は奏じて曰く:「陛下は既
にして(服喪の礼を)除いておりますのに而して復た服されようとしておりますが,
それは義の依る所を無くすものです;若し君が服しているのに而して臣が服さない
なら,それも亦た未だ之れ敢えて安んぜざるものでしょう也。」詔に曰く:
「患情不能跂及耳,衣服何在!諸君勤勤之至,豈苟相違。」遂に止めた。
中軍將軍の羊祜は傅玄に謂って曰く:「三年の喪は,服喪を遂げるのを貴ぶの
が,禮であると雖も,而して漢の文帝が之を除いたのは,禮を毀(こわ)し義を傷つ
けるものだった。今主上は至孝であらせられる,其の服を奪うと雖も,その實は喪
禮を行ったものといえよう。若し此れに因って先王の法を復すも,亦た善ろしいこと
ではないか!」傅玄曰く:「日を以って月に易えること,已にして數百年となっている,
一旦にして復古しようとしても,行うに難しろう也。」羊祜曰く:「天下をして禮に如く
こと能わしまず,且つ主上をして服を遂げさせしまざるは,不猶愈乎!」玄曰く:
「主上が除かずにいるのに而して天下が之を除いてしまう,此れは但だたんに父子
に有らざるというだけでない,君臣も復た無くなるのだ也。」乃ち止めた。
8 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:34:48
戊辰,群臣は奏上して服を易えて膳を復することを請うた,詔に曰く:「幽冥を
念じ感ず毎に,而して苴絰の禮を終えること得られなかったため,以って沉痛と
為っているのだ。況んや當に稻を食らい錦を衣とすをや!適足激切其心,非所
以相解也。朕は本もと諸生の家であって,禮を傳えられて來たること久しいのだ,
何ぞ一旦に至って便じて此の情を天とする所に於いて易えられようか!
相從已多,可試省孔子答宰我之言,無事紛紜也!」遂に疏素を以って三年を終
えたのである。
臣光曰く:三年之喪は,天子より庶人に於けるまで達していた,此れは先王の
禮經であり,百世不易のものなのだ。漢の文帝は心を師にして學ぼうとせずに,
古を変えて禮を壊し,父子の恩を絶ち,君臣之義を虧してしまった;そのため後
世の帝王が哀戚の情を篤くすこと能わざることになったのだが,而して群臣は
諂諛して(阿諛して),釐正を肯うもの莫かった。晋の武帝に於けるに至って獨
りだけ以って天性矯めてでも而して之を行ったのは,不世之賢君と謂う可きで
あった;而るに裴、傅之徒は,固陋の庸臣で,習常玩故(常法を習いながら故事
を玩び),其の美に將順すること能わなかった,惜しいかな!
呉は改元して寶鼎とした。
9 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 20:49:01
呉主は陸凱を以って左丞相と為し,萬ケを右丞相と為した。呉主は人が己を
視るのを悪(にく)むことから,群臣は侍見しても,敢えて目を挙げるもの莫った。
陸凱曰く:「君臣には相識らざるという道など無いものです,若し猝となり不虞(不
慮)のことが有りましても,赴く所を知らないこととなりましょう。」呉主は乃ち陸凱
が自らを視ることを聴きとどけたが,而して他人は故(もと)の如くであった。
呉主は武昌を居としていたため,揚州の民は流れを溯って(食糧や税,労務を)
供給することになっており,甚だ之に苦しんでいた,又た奢侈も限度が無かった
ために,公私ともに窮匱した。陸凱は上疏して曰く:「今四邊(四方)は無事ですか
ら,當に民を養い財を豐かにすることに務めるべきです,而るに更めて奢を窮め
欲を極めようなど,災いが無いのに而して民の命が盡きており,為すこと無くして
而して國の財が空になっております,臣は竊って之を痛むしだいです。昔漢室が
衰えること既にして,三家が鼎立しました;今曹、劉は失道し,皆晉が有すところと
為りました,此は目前の明らかな驗めです。臣は愚しくも,但だ陛下の為に國家を
惜しむのみです。武昌の土地は危險□脊確であって,王者の都に非ず。且つ童
謠は云っております:『寧ろ建業の水を飲もうと,武昌の魚は食わず;寧ろ建業に
還って死のうとも,武昌に止まり居らず。』此を以てして之を觀るに,民心の天意
に与していること明らかに足るものです矣。今國には一年の蓄えとて無く,民に
は離散之怨みが有り,國には露根之漸が有ります,而して官吏は務めて苛急を
為し,之に或いは恤すもの莫いことです。大帝(孫権)の時には,後宮の列女及び
諸織絡は数えても百に満たずにおりました,景帝以來,乃ち千數を有すこととなり
ました,此れは耗財之甚しきことであります。又た左右の臣が,其の人に非ざるを
率い,群黨が相扶(たす)けあい,忠臣を害し賢人を隠れさせております,此れは
皆政を蠹(むしば)み民を病ませることです也。臣願わくば陛下には省みられて百
役を息つかせ,苛擾を罷め去り,宮女を料り出し,百官を清選されますよう,なれ
ば則ち天はスび民は附き,國家は永きにわたり安んずることでしょう。」呉主は悦
ばなかったと雖も,其の宿望を以てして,特に之を優容したのである。
九月,詔がくだった:「今より詔で欲す所有って,已にして奏じて可を得るに及ぶ
と雖も,而して事に於いて便ぜざるなら,皆情を隠す可からず。」
戊戌,有司が奏上した:「大晉が魏から受禪されましたたからには,宜しく一えに
前代の正朔、服色を用い,虞が唐を遵んだ故事の如くなさるべきでございます。」
そこで之に從った
10 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:00:03
冬,十月,丙午朔,日食が有った。
永安の山賊である施但は,民の勞怨に因って,衆數千人を聚め,呉主の庶弟
であった永安侯の謙を劫して乱を作すと,北のかた建業に至ろうとした,衆は萬
餘人,未だ至らざること三十里住,吉日を擇んで入城した。使いを遣わし孫謙の
命を以て丁固、諸葛靚を召そうとしたが,丁固、諸葛靚は其の使いを斬りすて,
兵を徴発して牛屯で逆にうって戦った。施但の兵は皆甲冑が無かったため,即座
に敗れ散りぢりになった。孫謙が獨りだけで車中に坐していたため,之を生け獲り
にした。丁固は殺すこと敢えてせず,状況説明を以って呉主に報告したところ,
呉主は其の母及び弟の俊らを並べ皆之を殺した。初め,望氣者は云った:「荊州
に王氣有り,當に揚州を破るべし。」故に呉主は都を武昌に徙したのである。施
但が反すに及び,自ら以為らく計(はかりごと)を得たとし,數百人を遣わして鼓噪
させて建業に入らせ,施但の妻子を殺させて,云わせた「天子が荊州の兵を使て
揚州の賊を来たり破らせた。」
十一月,初めて南北の郊に於いて圜丘、方丘之祀を並べてした。
山陽公國の督軍を罷め,其の禁制を除いた。
十二月,呉主は還って建業を都とすると,后の父である衛將軍にして、録尚書事
の滕牧を使て武昌を收め留め鎮めさせた。朝士は滕牧が尊戚であることを以って,
頗る令を推して諫め爭ったため,滕皇后の寵が是れに由って漸いに衰え,更めて
滕牧を遣わして蒼梧に居らせることとなった,爵位は奪われざると雖も,其の實は
左遷であったため,道中で以って憂死した。何太后が常に滕皇后を保ち佑けてやり,
太史も又た中宮は易える可からずと言った。呉主は巫覡を信じていたため,故に
廢されざるを得たのだが,常に昇平宮にて供養しており,進み見えること復たなく,
諸姫で皇后の璽紱を佩いた者は甚だ衆く,滕皇后は朝賀を受けて表疏するだけ
であった。呉主は黄門を使て遍く州郡に行かせ,將吏の家のむすめたちや,其の
二千石の大臣の子女たちを料り取らせ,皆歳歳で名を言わせ,年十五、六なれば
一たびは簡閲されることとなった,簡閲して中らなければ,乃ち出て嫁ぐを得ら
れた。
後宮は千を以てして數えることとなったが,而して采擇は已むこと無かった。
11 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:15:43
世祖武皇帝上之上泰始三年(丁亥,西暦267年)
春,正月,丁卯,子の衷を立てて皇太子と為した。詔すにあたり以って「近世
では太子を立てる毎に必ず赦が有ったものだ,今は世運は將に平らかである
から,當に之を示すに好惡を以てすべきであろう,百姓を使て多幸の望みを絶
たしむべきである。曲げて小人に恵むなど,朕は取ること焉れ無いものだ!」
遂に赦さなかった。
司隸校尉である上黨の李喜は故の立進令であった劉友、前の尚書であった
山濤、中山王の司馬睦、尚書僕射の武陔らを劾奏すると各おの官の稻田を佔
じているから,山濤、司馬睦等の官を免ずよう請い,武陔については已に亡くな
っていたため,其の謚を貶めるよう請うた。詔に曰く:「劉友は百姓を侵し剝ぎと
り以って朝士を謬まらせ惑わした,其の考は竟として以って邪佞を懲らしむるも
のとす。山濤等は其の過ちを貳びせぬのだから,皆問う所を有すこと勿れ。李
喜は志を亢らせて公に在った,官に當って而して行ったことは,邦(くに)の司直
と謂う可きである。光武が云ったことが有る:『貴戚且斂手以避二鮑。』其れ群寮
に申しわたし敕すものとす,各おの所詞を慎むよう,ェ宥之恩は,何度も遭遇で
きるものではないぞ!」司馬睦は,宣帝の弟の子である也。
臣光曰く:政の大本は,刑賞に於けるに在るもので,刑賞が明らかでないなら,
政は何をか以って成るものであろうか!晉の武帝は山濤を赦して而して李喜を
褒めたが,其れ刑、賞に於いて両つながら之を失ったものであった。李喜の言い
し所を使て是と為さしむなら,則ち山濤は赦す可からず;言う所を非と為すなら,
則ち喜は褒めるに足らず。褒之使言,言っても而して用いられざるなら,怨みが
下に於いて結ばれようし,威(権柄)が上に於いて玩ばれよう,將に安んぞ之を
用いようか!且つ四臣は同罪なのだから,劉友が誅に伏したのに而して山濤等
が不問とされ,(罰すのにあたり)貴を避けて賤に施すなど,政と謂う可きか!
創業之初めなのに,而して政の本が立たざるなら,將に以って後世を垂統せん
としても,亦た難しいことではなかろうか!
帝は李喜を以って太子太傅と為し,犍為(出身)の李密を徽して(徴して?)
(太子)洗馬と為した。李密は祖母が老いていたことを以って,固辭したため,
之を許した。李密は人と交わり,公で其の得失を議す毎に而して之を切責し,
常に言うことに:「吾は(党与となる仲間がいず)獨りだけで世に立つこととなり,
影を顧みても儔(ともがら)など無かった;然りながら而して(外の党人から陥れ
られて罪を得ることを)懼れずにいられたのは,どの人に於いても彼我など無く
していたことを以っての故であろう。」
12 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:39:22
呉は大赦すると,右丞相の萬ケを以って巴丘を鎮めさせた。
夏,六月,呉主が昭明宮を作すこととなると,二千石以下は,皆自ら山に入って
木の伐採を監督した。大いに苑囿を開き,土山、樓觀を起てて,伎巧を窮め極め
たため,その功役の費は億萬を以って計上されることとなった。陸凱が諫めたもの
の,聽きいれられなかった。中書丞の華覈が上疏して曰く:「漢文之世には,九州
が晏然としていたのに,賈誼は獨りだけ以為らく積んだ薪之下に於いて火厝を抱き
ながら而して其の上に寝ているが如くであるのだとしました。今大敵が九州の地に
拠って,太半の衆を有し,國家に与えんとして相吞之計を為そうと欲しております,
漢之淮南、濟北だけを徒としているに非ざることでして,賈誼のころの世と比べて,
孰くが緩急を為しておりましょうか?今倉庫は空しく匱しく,編戸は失業しておりま
すが;而して北方は穀を積みあげて民を養っており,心を専らにして東に向かおう
としているのです。又た,交趾が淪沒し,嶺表も動搖しており,胸背に嫌を有して,
首尾ともに難を多くしておりますこと,乃ち國朝之厄會といえましょう。若し此れを
捨てて務めを急ぎ,功作に力を尽くしてしまえば,卒然として風塵おこり不虞之變
(不慮の変)が有れば,當に版築を委ねて而して烽燧に応じようとすべきですが,
怨みつのる民を驅せさせて而して白刃に赴かせるわけで,此れは乃ち大敵に
以って資と為させてしまう所以のものとなりましょう。」時に呉の風俗は奢侈にかた
むいていた,華覈は又た上疏して曰く:「今事が多いのに而して役は繁く,民が貧
しいのに而して風俗が豪奢となっております,百工は無用之器を作り,婦人は綺
靡之飾りを為し,轉じて相倣傚しあっておりまして,恥獨無有。兵民の家は,猶も
復た俗を逐うもの,内には甔石之儲が無くして而して出るに綾綺之服を有そうと
しております,このように上に尊卑等級之差が無くして,下に耗財費力之損が有
るのですから,其の富給を求めても,庸として得らる可きでしょうか?」呉主は皆
聽きいれなかった。
秋,七月,王祥が睢陵公を以って罷めることとなった。
九月,甲申,詔がくだり吏の俸禄を増すこととなった。
何曾を以って太保と為し,義陽王の司馬望が太尉と為り,荀が司徒と為った。
星氣、讖緯之學を禁じた。
呉主は孟仁を以って守丞相とすると,奉法駕東迎其父文帝神於明陵,中使相
繼,奉問起居。巫覡が文帝が服を被り顔色は平生の如くでいるのが見えると言
った。呉主は悲喜して,東門之外で迎え拝した。既にして入廟すると,比すこと
七日三たび祭った,諸倡伎を設けて,晝となく夜となく娯樂にふけった。是歳,鮮
卑の拓跋沙漠汗を遣わして其の國に帰らせた。
13 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 21:56:56
世祖武皇帝上之上 泰始四年(戊子,西暦268年)
春,正月,丙戌,賈充等が刊行した所の修律令を上梓した。帝は親しく自ら講に
臨むと,尚書郎の裴楷を使て執讀させた。裴楷は,裴秀の從弟である。侍中の
盧珽、中書侍郎の范陽、張華らが新律の死罪の條目を抄要して,之を亭傳に懸け
て以って民に示すようにと請うたため,之に從った。又た詔をくだし河南尹の杜預に
黜陟之課を為させることとした,杜預が奏上した:「古には黜陟は,心に於いて議論
を擬らし,法には拘泥しませんでした;しかし末世は遠き過去を紀(規範)とすること
能わず而して密微を求めることを専らにし,心を疑い而して耳目を信じ,耳目を疑え
ば而して簡書を信じております。簡書は愈ます繁雑になり,官が方に愈すます偽る
こととなっております。魏氏の考課は,即ち京房の遺した意でして,其の文は至密と
謂う可きですが,然りながら苛細に於いて失して以って本體に違えております,故に
代を歴してゆくと通ずこと能わざることとなったのです。豈に唐堯之舊制を申しのべ
るが若く,大を取りて小を捨てさり,密を去って簡に就く,俾之易從也!夫曲盡物理,
神而明之,存乎其人;去人而任法,則以文傷理。莫若委任達官,各考所統,歳第
其人,言其優劣。如此六載,主者總集,采案其言,六優者超擢,六劣者廢免,優
多劣少者平敘,劣多優少者左遷。其間所對不鈞,品有難易,主者固當准量輕重,
微加降殺,不足曲以法盡也。其有優劣徇情,不葉公論者,當委監司隨而彈之。
若令上下公相容過,此為清議大頽,雖有考課之法,亦無益也。」事は竟(つい)に
行われなかった。
丁亥,帝は洛水之北に於いて籍田を耕した。
戊子,大赦した。
二月,呉主は左御史大夫の丁固を以って司徒と為し,右御史大夫の孟仁を司空と為した。
三月,戊子,皇太后の王氏が殂した。帝が喪之制に居ること,一えに古禮を遵ぶこととした。
夏,四月,戊戌,睢陵元公の王祥が卒したが,一門には雜吊之賓とて無かった。
そのため其の族孫の戎が歎じて曰く:「太保が正始之世に當たっては,不在能言之
流;及間與之言,理致清遠,豈非以コ掩其言乎!」
已亥,文明皇后を葬った。有司が又た奏した:「既にして虞されましたからには,
衰服を除かれますように。」詔に曰く:「終身之愛を受けてきたのに而して數年之報
さえ無いなど,情として忍びざる所である也。」有司が固く請うたため,詔に曰く:
「わが患うは篤孝の能わざることに在るのだ,毀傷を以って憂を為さしむこと勿れ。
前代の禮典でも,質文は同じからざるに,何ぞ必ず近い制を以って限ろうとし,達
喪を使て闕然とせしもうとするのか!」群臣が已めないよう請うたため,乃ち之を
許したが。然りながら猶も素冠疏食をおこない以って三年を終えたこと,文帝の喪
の如くであった。
14 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:03:05
秋,七月,衆星が西へ流れること雨ふるが如くであり而して隕ちた。
己卯,帝は崇陽陵に拝謁した。
九月,青、徐、兗、豫四州に大水があった。
大司馬の石苞は久しく淮南に在って,その威惠が甚だ著された。淮北監軍
の王琛は之を惡(にく)み,密かに石苞は呉人と交わり通じていると上表した。
呉人が將に入寇しようとするに會し,石苞が壘を築いて水を遏えて以って自ら
を固めたため,帝は之を疑った。羊祜は深く帝の為に石苞の然らざること(石
苞が叛意を持ったわけでないこと)必ずであると言ってやったが,帝は信じず,
乃ち詔を下して以って石苞は賊勢を料らず,壘を築き水を遏し,百姓を勞して
擾えさせているとして,策をくだし其の官を免じた。そうして義陽王望を遣わして
大軍を帥させて以って之を征させるものとした。石苞は河内(出身)の孫鑠を辟
して掾と為していた,孫鑠は先に汝陰の王駿と善くしており,王駿が時に許昌を
鎮めていたため,孫鑠は過ぎたおり之に見えた。王駿は台(三公、朝廷)が已に
軍を遣わして石苞を襲うことになったのを知っていたため,私(ひそ)かに之に
告げて曰く:「禍いに与すこと無かれ!」孫鑠は出ること既にすると,馳せて壽春
に詣でて,石苞に兵を放ち(解散し),歩いて都亭に出て罪を待つよう勧め,石
苞は之に從った。帝は之を聞き,意(きもち)が解けた。石苞は闕に詣でると,
樂陵公を以って第に還ることとなった。
呉主は東關に出ると,冬,十月,其の將の施績を使て江夏に入らせ,萬ケに
は襄陽を寇させた。そこで詔をくだし義陽王の司馬望に中軍の歩騎二萬を統め
させて龍陂に駐屯させ,二方の為に聲援となした。荊州刺史の胡烈が施績を拒
んで,之を破るに会したため,司馬望は兵を引きつれて還った。
呉の交州刺史の劉俊、大都督の脩則、將軍の顧容らが前後して三たび交趾を
攻めたが,交趾太守の楊稷は皆拒んで之を破ったため,鬱林、九真が皆楊稷に
附くことになった。楊稷は將軍の毛Q、董元を遣わして合浦を攻めさせ,古城で
戦うと,大いに呉兵を破り,劉俊、脩則を殺した,餘りの兵は散りぢりになり合浦
に還った。楊稷は表して毛Qを鬱林太守と為し,董元を九真太守と為した。
十一月,呉の丁奉、諸葛靚が芍陂に出て,合肥を攻めたため,安東將軍であ
る汝陰王の司馬駿が之を拒み卻した。
義陽王の司馬望を以って大司馬と為し,荀を太尉と為し,石苞を司徒と為した。
15 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:12:05
世祖武皇帝上之上 泰始五年(己丑,西暦269年)
春,正月,呉主は子の瑾を立てて皇太子と為した。
二月,雍、涼、梁州を分けて秦州を置き,胡烈を以って刺史と為した。是より
先に,ケ艾は鮮卑の降ってきた者數萬を納れると,雍、涼之間に於けるに置き,
民と雜居させていた,朝廷は其の久しくなり而して患いを為すことになるのを恐
れ,胡烈が素より西方に名を著していたため,故に使わして之を鎮撫させること
にしたのである。
青、徐、兗三州が大水となった。
帝は呉を滅ぼそうという志を有すようになった,壬寅,尚書左僕射の羊祜を以
って荊州諸軍事を都督させ,襄陽を鎮めさせた;征東大將軍の衛瑾を都督青州
諸軍事とし,臨菑を鎮めさせた;鎮東大將軍である東莞王の司馬伷を都督徐州
諸軍事とし,下邳を鎮めさせた。
羊祜は遠近を綏ね懷けんとし,甚だ江、漢之心を得ることになった。呉人との
間に大いに信を開き布き,降ってきた者が去ろうと欲すと,皆之を聽きいれた。
戍邏の兵卒を減らし,以って八百餘頃を墾田した。其の始めに至ったころには,
軍には百日の糧とて無かったが,其の季年に及ぶや,乃ち十年之積を有すこと
になった。羊祜は軍に在っても,常に輕裘緩帶で(軽装を保ち),身は甲を被らず,
鈴閣(執務室のある建物)之下にある侍衛は十數人を過ぎなかった。
濟陰太守である巴西(出身)の文立が上言した:「故(もと)の蜀の名臣の子孫で
中國に流され徙された者がおります,宜しく才を量り敘用なさって,以って巴、蜀の
人心を慰め,呉人の輿望を我らに傾けるべきです。」帝は之に從った。己未,詔を
くだして曰く:「諸葛亮は蜀に在って,其の心力を盡くし,其の子の瞻は難に臨んで
而して義に死んだ,其の孫である諸葛京は宜しく才に隨って署吏とすべし。」又た
詔に曰く:「蜀將の傅僉父子は其の主に於けるに死した。天下之善は一つである,
豈に彼此に由って以って異を為そうか哉!傅僉の子息である著、募は奚官に沒
入されているが,宜しく免じて庶人と為すべし。」
帝は以って文立を散騎常侍と為した。漢の故の尚書で犍為(出身)の程瓊は,雅
にしてコ業を有し,文立と深く交わっていた。帝は其の名を聞きつけたため,以って
文立に問うた,對して曰く:「臣は至って其の人を知っておりますが,但し年は八十に
垂れんとしておりまして,その稟性から謙譲して引退しておりますから,當時之望を
復すことも無かろうと,故に以って上聞いたさなかっただけでございます。」程瓊は
之を聞いて,曰く:「廣休(文立のこと)は不黨と謂う可き矣,此れぞ吾が善夫の人
とした所以である。」
16 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/11(木) 22:24:39
秋,九月,流れ星が紫宮の分野に落ちた。
冬,十月,呉が大赦し,改元して建衡とした。
皇子景度を封じて城陽王と為した。
初め,汝南の何定は嘗て呉の大帝の給使と為っていたが,呉主が即位するに
及び,自ら表して先帝の舊人であるからと,内侍に還ることを求めた。呉主が以
って樓下都尉と為すと,酤糴の事を典じ知り,遂に威福を為すことを専らにするこ
ととなった;呉主は之を信任し,以って衆事を委ねた。左丞相の陸凱は何定を面
責して曰く:「卿は前後に見えて主に事(つか)えて不忠であるうえ,國政を傾け亂
しているが,寧んぞ壽(いのちながき)を以って終わりを得られる者など有るだろ
うか!何をか以って奸邪を為すこと専らにして,天聽を塵穢させるのか(天子の
お耳を塵芥で穢すのか)!宜しく自らを改め獅ワすべきだ,然らざれば,方(まさ)
に卿は不測之禍が有るのを見ることとなろう。」何定は大いに之を恨んだ。陸凱
は心を公家に竭くし,忠懇内發,表や疏は皆指事して飾らなかった。病を疾むに
及び,呉主は中書令の董朝を遣わして問所欲言(言いたい所を問わせた),陸凱
は陳べた「何定は信用す可からず,宜しく以って外の任を授けるべきです。奚熙
は小吏でしかなく,建起浦裡田(隠れて土地を開墾して懐にしています?),亦た
聽きいれる可からず。姚信、樓玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕修及びわが族弟
の喜、抗は,或いは清白にして忠勤であり,或いは資才が卓茂しております,皆
社稷之良輔というもの,願わくば陛下には神思を重ねて留められ,時務を以て訪
い,各おの其の忠を盡くさ使め,萬一を拾遺せしめますように。」賀邵は,賀齊の
孫であり;薛瑩は,薛綜の子である;樓玄は,沛の人である;滕修は,南陽の人で
ある。陸凱は尋くして卒した。呉主は素より其の切直なるを銜んでおり,且つ日ご
と何定之譖りを聞くこととなって,之を久しくしたため,竟に陸凱の家族を建安に
徙(うつ)してしまった。
呉主は監軍の虞、威南將軍の薛珝、蒼梧太守である丹楊の陶璜を荊州道
より遣わし,監軍の李勖、督軍の徐存を建安海道よりつかわし,皆合浦で会さ
せると,以って交趾を撃たしむこととした。
十二月,有司が奏し東宮は二傅に敬いを施すにあたり,其の儀が同じでなか
ったとした。帝曰く:「夫れ師傅を崇敬するは,道を尊び教えを重んずる所以で
ある。何ぞ臣を臣ならずと言おうか!其れ太子に令し拜禮を申しつける。」
20 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 18:59:36
それでは270年から始めるのだ。
世祖武皇帝上之上 泰始六年(庚寅,西暦270年)
春,正月,呉の丁奉が渦口に入ってきたため,揚州刺史の牽弘が之を撃ち走らせた。
呉の萬ケが巴丘より<自>建業に還った。
夏,四月,呉の左大司馬の施績が卒した。鎮軍大將軍の陸抗を以って信陵、西陵、
夷道、樂郷、公安の諸軍事を都督させ,樂郷を治めさせた。陸抗は以って呉主の政
事は闕けること多かったため,上疏して曰く:「臣が聞きますにコ均(ひと)しければ則
ち衆き者が寡なきに勝ち,力r(ひと)しければ則ち安んずる者が危うきを制すとか,
此れは六國が秦を並べのんだ所以でありまして、西楚が漢に屈した所以であります。
今敵が據る所は,關右の地や、鴻溝以西だけを特とするに非ざるというのに,而して
國家は外では連衡の授けが無く,内では西楚の強きに非ず,庶政は陵遲しており,
黎民は未だ乂されずにおります。議者の恃む所は,徒らに長き江、峻しき山が帶び
なし限る地域を封ずるを以てするばかりとしております;此れ乃ち守國之末事であり
まして,智者之先んず所に非ざるものです。臣は念じて此れに及ぶ毎に,中夜(夜中
となっては)枕を撫で,餐に臨んでは食を忘れております。夫れ事君之義(主君に事
える義)は,犯そうとも而して欺くこと勿るものです,謹しんで時宜を十七條にして陳
べ以って聞かせもうしあげるものです。」呉主は納れなかった。
李勖は以って建安道は利ろしからずとし,導(道案内の)將の馮斐を殺して,軍を
引きあげて還った。初め,何定は嘗て子の為に李勖に於いて求婚したが,李勖は許
さなかった,そこで乃ち李勖は枉げて馮斐を殺し,擅じて軍を撤退させて還ったと白
したため,(呉主は)李勖及び徐存,並びに其の家屬を誅すと,仍ち李勖の屍を焚
いた。何定は又た諸將を使て各おの御犬を上らせ,一匹の犬が至っては縑數十匹
分に値し,纓紲は錢一萬に値し,捕兔を以って廚に供されることとなった。呉人は
皆が罪を何定に帰していたが,而して呉主は以って忠勤であると為して,賜爵して
列侯とした。陸抗は上疏して曰く:「小人は道を理めるに不明なもの,所見が既にし
て浅薄なようでは,情を竭くし節を盡くさ使むと雖も,猶も任すに足りぬものです,
況んや其の奸心が素より篤いとあっては而るに憎愛の移ろうこと易きことですぞ!」
呉主は從わなかった。
21 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:05:43
六月,戊午,胡烈は鮮卑の禿髮樹機能を萬斛堆に於いて討ったが,兵は
敗れ殺されるを被った。都督雍、涼州諸軍事であった扶風王の司馬亮が將
軍劉旂を遣わして之を救わせたが,劉旂は觀望したまま進まなかった。
司馬亮は貶しめに坐して平西將軍と為り,劉旂は當に斬られるべきとなった。
司馬亮は上言した:「節度之咎めは,この亮に由って而して出されたものです,
乞いねがわくば劉旂の死を丐ぜられんことを。」詔に曰く:「若し罪が劉旂に在
るのでないなら,當有所在(そなたに在るべきことになるぞ)。」乃ち亮の官を
免じた。尚書であった樂陵の石鑒を遣わして行安西將軍とし,都督秦州諸軍事
とすると,樹機能を討たせた。樹機能の兵は盛んであったため,石鑒は秦州刺
史の杜預を使て出兵させて之を撃たせた。杜預は以って虜が勝ちに乘じて馬
肥えているのに,而して官軍は縣け乏しいからと,宜しく力を並べて大いに芻糧
を運び,春を須って進み討つべきだとした。石鑒は奏上して杜預は軍興を稽る
こと乏しいため,檻車にて征し廷尉に詣でさせ,以って論を贖わせよとした。
既にして而して石鑒は樹機能を討ったが,卒として克つこと能わなかった。
秋,七月,乙巳,城陽王の司馬景度が卒した。
丁未,汝陰王の司馬駿を以って鎮西大將軍と為し,都督雍、涼等州諸軍事と
し,關中を鎮めさせた。
冬,十一月,皇子東を立てて汝南王と為した。
呉主の從弟で前將軍の孫秀は夏口督と為っていたが,呉主が之を惡んだた
め,民の間で皆が孫秀は當に圖られるに見えようと言いあったのである。呉主
が何定を遣わし兵五千人を将いさせて夏口に獵させた,孫秀は驚き,夜になる
と妻子、親兵數百人を将いて來奔した。十二月,孫秀を拝して驃騎將軍とし、
開府儀同三司とし,會稽公に封じた。
是歳,呉は大赦した。
初め,魏の人は南匈奴五部を并州諸郡に於けるに居らせると,中國の民と雜
居することになった;自ら謂うに其の先(祖)が漢氏の外孫であったのだとし,因
って改姓して劉氏となったのである。
22 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:12:19
世祖武皇帝上之上 泰始七年(辛卯,西暦271年)
春,正月,匈奴の右賢王劉猛が叛いて塞を出た。
豫州刺史の石鑒は呉軍を撃ったおりの首級を虚張(誇張)したことに坐した,
詔に曰く:「石鑒は大臣を備え,吾が信を取る所となっていながら,而して乃ち
下に同調して詐りを為した,義得爾乎!今遣わして田裡に帰し,終身にわたり
復た用いること得られないようにする。」
呉人の刁玄が詐って讖文を増して云った:「黄旗と紫蓋が,東南に於いて見
える,終に天下を有すは,荊、揚之君なり。」呉主は之を信じた。是月の晦,大
いに兵を舉げて華裡に出て,太后、皇后及び後宮の數千人を載せて,牛渚より
西へ上った。東觀令の華譖等が固く諫めたが,聽きいれなかった。行は大雪に
遇い,道塗が陷壞した,兵士は甲(よろい)を被り仗を持ち,百人が共になって
一つの車を引いた,寒さで凍りつき殆んど死にかけた,皆曰く:「若し敵に遇わ
ば,便じて當に戈を倒そう。(a)」呉主は之を聞き,乃ち還ることとなった。帝は
義陽王の司馬望を遣わして中軍二萬、騎三千を統めさせて壽春に駐屯させ以
って之に備えさせようとしたが,呉の師が退いたと聞いて,乃ち罷めた。
(a)周の武王が殷の紂王と戦った牧野の戦いにあった故事
三月,丙戌,巨鹿元公の裴秀が卒した。
夏,四月,呉の交州刺史である陶璜が九真太守の董元を襲い,之を殺した;
楊稷は其の將の王素を以って之に代えた。
北地胡が金城を寇したため,涼州刺史の牽弘が之を討った。衆胡は皆内から
叛き,樹機能と共に牽弘を青山に圍んだため,牽弘の軍は敗れて而して死んだ。
初め,大司馬の陳騫は帝に於いて言って曰く:「胡烈、牽弘は皆勇あれど而し
て謀が無く,強於自用,綏邊之材(辺境を安寧させる人材)に非ざるものです,
將に國の恥と為りましょう。」時に牽弘は揚州刺史と為ると,多くが陳騫の命を
承り順うことしなかったため,帝は以為らく陳騫と牽弘とは協けあわず而して之
を毀しているのであろうとし,是に於いて牽弘を征し,既にして至ると,尋くして
復た以って涼州刺史と為したのである。陳騫は竊って歎息し,以って必ずや敗
れようと為した。二人は果たして羌戎之和を失い,兵は敗れ身は沒し,征討は
年を連ね,僅かに而して定まること能うこととなったため(辺境が安定しなくなっ
たため),帝は乃ち之を悔いることとなった。
23 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:23:34
五月,皇子憲を立てて城陽王と為した。
辛丑,義陽成王の司馬望が卒した。
侍中、尚書令にして、車騎將軍の賈充は,文帝の時より寵任されて用って事
(つか)えていた。帝の太子と為るや,賈充には頗る力(つと)め有ったため,故
に益すます帝から寵を有すことになった。賈充の為人は諂りを巧みとしたもの
で,太尉にして、行太子太傅の荀、侍中にして、中書監の荀勖、越騎校尉で
ある安平の馮紞と相黨友と為りあったため,朝野は之を惡んだのである。帝は
侍中の裴楷に方今の得失を問うた,對して曰く:「陛下は命を受けて,四海は風
を承りましたが,未だコが堯、舜と比さざる所以は,但だ賈充之徒が尚も朝に
在ることを以ってしているだけなのです。宜しく天下の賢人を引きあげて,これと
ともに政道を弘められるべきでありまして,人に示すに私を以てなど宜しくすべ
きでありません。侍中である樂安の任ト、河南尹である穎川の庾純は皆賈充と
協けあわなかったため,賈充は其の近職を解こうと欲し,乃ち任トを忠貞であ
ると薦めて,宜しく東宮に在らすべきとした;そこで帝は任トを以って太子少傅と
為し,而して侍中であること故の如くとした。樹機能が秦、雍を乱すに会うと,帝
は以って憂いを為した,任ト曰く:「宜しく威望のある重臣で智略を有す者を得
て以って之を鎮撫せしむべきです。」帝曰く:「誰ぞ可き者であろうか?」任トは
因って賈充を薦め,庾純も亦た之を稱えた。秋,七月,癸酉,賈充を以って都
督秦、涼二州諸軍事と為し,侍中、車騎將軍であることは故の如しとした;賈充
は之に患わされた。
呉の大都督である薛珝と陶璜等の兵十萬が,共に交趾を攻め,城中の糧は
盡きて援けは絶たれ,呉に陷される所と為り,楊稷、毛Q等が虜となった。陶
璜は毛Qの勇健なるを愛でており,之を活かそうと欲したが,毛Qが陶璜を殺
そうと謀ったため,陶璜は乃ち之を殺したのである。脩則の子の允は,其の腹
を生きたまま剖き,其の肝を割いて,曰く:「復た賊を作すこと能うや不や?」
毛Qは猶も罵って曰く:「恨むらくは汝と孫皓を殺せなかったこと,汝父何死狗
也!」王素は南中に逃げ帰ろうと欲したものの,呉人が之を獲たため,九真、
日南は皆呉に降ることとなった。呉は大赦し,陶璜を以って交州牧と為した。
陶璜は夷獠を討ち降し,州境は皆平げられた。
八月,丙申,城陽王の憲が卒した。
益州の南中四郡を分けて寧州を置いた。
九月,呉の司空である孟仁が卒した。
冬,十月,丁丑朔,日食が有った。
24 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:29:53
十一月,劉猛が并州を寇したため,并州刺史の劉欽等が之を撃破した。
賈充が將に之れに鎮じようとし,公卿は夕陽亭に於いて餞別した。賈充は
私(ひそか)に荀勖に計を問うた,荀勖曰く:「公は宰相と為っていながら,乃
ち一夫に制される所と為るも,亦た鄙びざるかな!然りとて是れ行くこととし
ましたからには,之を辭さんとも實に難しいものです,ただ、獨り太子と婚を
結ぶこと有るのみ,そうすれば辭さずとも而して自ら留まる可きこととなりま
しょう。」賈充曰く:「然りながら孰くにか寄懷す可きであろうか?」荀勖曰く:
「この勖が之を言を請うてきましょう。」因って馮紞に謂って曰く:「賈公が遠く
へ出かけたなら,吾等は勢いを失いましょう。太子の婚は尚も未だ定まって
おりません,何ぞ帝に賈公の女(むすめ)を納れるよう勧めないのですか!」
馮紞は亦た之を然りとした。初め,帝は將に衛瓘の女を納れて太子妃と為そ
うとした,賈充の妻の郭槐は楊後(楊后)の左右に賂して,後(后)を使て帝に
説かせ,其の女(むすめ)を納れることを求めた。帝曰く:「衛公の女には五
つの可が有り,賈公の女には五つの不可が有る:衛氏の種は賢く而して子が
多く,美しく而して長ずれば、白い;賈氏の種は妒して而して子が少なく,丑とし
て而して短く、Kい。」後(皇后)が固く以って請うことを為したうえ,荀、荀勖、
馮瓘らが皆賈充の女(むすめ)は絶美(絶世の美女)だと称え,且つ才コを有
しているとしたため,帝は遂に之に從ったのである。そこで賈充を留めて復た
舊任に居らせることとした。
十二月,光祿大夫の鄭袤を以って司空と為そうとしたが,袤は固辭して受
けなかった。
是歳,安樂思公の劉禪が卒した。
呉は武昌都督で廣陵の范慎を以って太尉と為した。右將軍司馬の丁奉が
卒した。
呉は明くる年の元号を改めて曰く鳳凰とした。
25 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:34:23
世祖武皇帝上之上 泰始八年(壬辰,西暦272年)
春,正月,監軍の何驍ェ劉猛を討って,屢(たびた)び之を破ると,潛かに利を
以て其の左部帥である李恪を誘ったため,李恪は劉猛を殺して以って降った。
二月,辛卯,皇太子は賈妃を納れた。妃の年は十五,長ずること太子より二歳,
□石忌多權詐,太子は嬖して而して之を畏れた。
壬辰,安平獻王の司馬孚が卒した,年は九十三であった。司馬孚の性は忠慎
であり,宣帝が執政すると,司馬孚は常に自ら退き損じた。後に廢立之際に逢う
と,未だ嘗て謀に預らなかった。景、文二帝は以って司馬孚が屬尊であったため,
亦た逼ること敢えてしなかった。帝が即位するに及び,恩と禮は尤も重かった。
元會,詔がくだされ司馬孚は輿に乗って上殿し,帝は阼階に於いて迎えて拜した。
既にして坐すと,親しく觴を奉じて壽<いわい>を上らせること,家人の禮の如く
であった。帝は拜す毎に,司馬孚は跪いて而して之を止めた。司馬孚は尊寵され
るに見えたと雖も,以って榮えと為さず,常に憂色が有った。臨終にあたり,令を
遺して曰く:「魏に貞士有り河内の司馬孚字は叔達,不伊不周,不夷不惠,身を立
てて道を行い,終わりと始めは一つの若くであった。衣に當たっては時服を以って
するように,斂めるに素棺を以てするように。」詔がくだされて東園の温明秘器が
賜られ,諸所の施行は,皆漢の東平獻王の故事に依った。其の家は司馬孚の遺
旨を遵び,給せられし所の器物は,一つとして施用しなかった。
帝が右將國の皇甫陶と事を論じたおり,陶は帝と言を争ったため,散騎常侍の
鄭徽が表して之を罪とするよう請うた,帝曰く:「忠讜之言は,唯だ聞かざるに患う
のみ。鄭徽は職を越えて妄りに奏上してきた,豈に朕之意であろうか!」遂に鄭徽
の官を免じた。
26 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:41:35
夏,汶山の白馬胡が諸種を侵掠したため,益州刺史の皇甫晏が之を討とうと
欲した。典學從事であった蜀郡の何旅等は諫めて曰く:「胡夷は相殘しあっており
ますが,それは固より其の常の性でありまして,未だ大いなる患いを為しておりま
せん。今盛夏で出軍すれば,水潦は將に降りなんとしておりますから,必ずや疾疫
の有ることでしょう,宜しく秋となるを須ち、冬となって之を圖るべきです。」皇甫晏
は聽きいれなかった。胡人の康木子燒香が軍出れば必ず敗れると言ったため,
皇甫晏は以為らく衆を沮すものだとし,之を斬りすてた。軍が觀阪に至ると,牙門
の張弘等は以って汶山の道は險しいとし,且つ胡衆を畏れ,因って夜に亂を作し,
皇甫晏を殺したため,軍中は驚き擾した,兵曹從事である犍為の楊倉は兵を勒し
て力戰して而して死んだ。張弘は遂に皇甫晏を誣し,云うに「己を率いて共に反そ
う」としたため,故に之を殺したとして,首を京師に傳えてきた。皇甫晏の主簿であ
った蜀郡の何攀は,方(まさ)に母の喪に居しており,之を聞くと,洛に詣でて皇甫
晏の反せざること證(明)した,張弘等は兵を縱にして抄掠した。廣漢主簿の李毅
は太守である弘農の王濬に於いて言って曰く:「皇甫侯は諸生より起ったとか,何
ぞ求めて而して反らんか!且つ廣漢と成都は密邇しております,而して梁州を統め
者に,朝廷が以って益州之衿領を制させようと欲するのは,正しく今日之變を防が
せようとしてのことです。今益州に亂が有るは,乃ち此郡の憂いです。張弘は小豎,
衆の与せざる所ですから,宜しく即時に赴き討つべきです,(機会を)失う可きであ
りません。」王濬は先ず上請を欲したが,李毅曰く:「主を殺した賊は,惡を為すこと
尤も大きいもの,當に常制に拘らざるべきです,何ぞ之を請うこと有りましょうや!」
そこで王濬は乃ち兵を徴発して張弘を討った。詔がくだり王濬を以って益州刺史と
為すこととなった。王濬は張弘を撃つと,之を斬りすて,夷三族とした。そこで王濬
を封じて關内侯とした。
初め,王濬は羊祜の參軍と為ると,羊祜は之を深く知った。羊祜の兄の子の暨は
王濬のことを白して「その為人は志大きいものの奢侈であります,專任す可きであ
りません,宜しく以って之を裁くこと有るべきです。」羊祜曰く:「王濬には大才が有
る,將に以って其の欲す所を決濟させれば,必ずや用う可きこととなろう。」更めて
轉じて車騎從事中郎と為った。王濬が益州に在ると,威信を明らかにして立てたた
め,蠻夷の多くが之に歸附した;俄にして大司農に遷った。時に帝は羊祜と陰なが
ら呉を伐すことを謀っていた,羊祜は以為らく呉を伐すには宜しく上流之勢いに藉る
べきだとし,密かに表して王濬を留めて復た益州刺史と為し,水軍を治めせ使むよ
うにとした。尋くして龍驤將軍を加えられ,監益、梁諸軍事となった。
27 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:48:37
詔が王濬にくだり屯田の兵を罷めて,大いに舟艦を作すこととなった。別駕の
何攀は以為らく「屯田兵は五六百人に過ぎず,船を作さんとしても猝辦すこと能
わず,後者が未だ成らざるうちに,前者は已にして腐れましょう。宜しく諸郡兵を
召して合わせて萬餘人とし之を造らせれば,歳の終わりには成る可きことでしょ
う。」王濬は先ず上表して返報を須とうと欲した,何攀曰く:「朝廷が萬の兵を召す
と猝聞すれば,必ずや聽きいれられますまい;輒召するに如かず,設當見卻,功
夫已にして成れば,勢いは止むを得ないこととなりましょう。」王濬は之に從い,
何攀を令して舟艦や器仗を造るを典じさせた。是に於いて大艦を作した,その長
さ百二十歩,二千餘人を受けるもので(収容するもので),木を以って城を為し,
樓櫓を起て,四つの出門を開き,其の上は皆馬を馳せさせて往來するを得られ
るようにした。時に船を作した木柿が,江を蔽って而して下へながれた,呉の建
平太守であった呉郡(出身)の吾彦は流れてきた柿を取って以って呉主に建白し
て曰く:「晉には必ずや攻呉之計が有りましょう,宜しく建平の兵を増して以って
其の衝要を塞がしむべきです。」呉主は從わなかった。吾彦は乃ち鉄鎖を為して
江路をに斷った。
王濬は雖受中制募兵(兵を募るよう中制を受けたと雖も),而して虎符が無か
った;廣漢太守であった敦煌(出身)の張學が從事を収めて列上した。帝が張學
を召したため還ったところ,責めて曰く:「何ぞ密かに啓さずに而して從事を収める
を便じたのか?」學曰く:「蜀、漢は絶遠にあり,劉備が嘗て之を用いたのです。輒
ち收めたとしても,臣は猶も以為らく輕いとするものです。」帝は之を善しとした。
壬辰,大赦した。
秋,七月,賈充を以って司空と為し,侍中と、尚書令であることと、兵を領すこと
は故の如くとした。賈充と侍中の任トは皆帝に寵任される所と為っていたが,賈
充は名勢を専らにせんと欲し,而うして任トを忌むようになった,是に於いて朝士
は各おの附く所を有すこととなり,朋黨が紛然としてしまった。帝は之を知ると,
賈充、任トを召して式乾殿に於いて宴をすると而して之に謂って曰く:「朝廷は
宜しく一つであるべきで,大臣は當に和すべきだぞ。」充、トは各おの拜謝した。
既にして而して充、トは以って帝が已に知っていながら而して責めなかったため
に,愈すます憚る所が無くなり,外では相崇重しあったものの,内では怨みが益す
ます深くなった。賈充は乃ち任トを薦めて吏部尚書と為したため,任トは(それ
まで頻繁に帝の傍で)侍覲していたのが轉じて希になった,賈充は因って荀勖、
馮紞と間を承って共に之を譖ったため,任トは是れに由って罪を得て,廢されて
家に於けることとなった。
28 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:56:16
八月,呉主は昭武將軍にして、西陵督の歩闡を征すことにした。歩闡は世に
わたり西陵に在ったため,猝として徽を被ると,自ら以って職を失ったとし,且
つ讒りが有ったのを懼れ,九月,城に拠って(晋に)來たり降ると,兄の子の璣、
璿を遣わして洛陽に詣でさせて任(人質)と為した。詔がくだり歩闡を以って
都督西陵諸軍事、衛將軍、開府儀同三司、侍中と為すと,領交州牧とし,宜都
公に封じた。
冬,十月,辛未朔,日食が有った。
敦煌太守の尹璩が卒した。涼州刺史の楊欣が表して敦煌令の梁澄を領太守
とさせた。そうしたところ功曹の宋質が輒ち梁澄を廃してしまい,表して議郎の
令狐豐を太守と為すようにとしてきた。楊欣は之に兵を遣わし計ったが,宋質
の為に敗れる所となった。
呉の陸抗は歩闡が叛いたと聞くと,亟<すみや>かに將軍の左弈、吾彦等
を遣わして之を討つこととした。帝は荊州刺史の楊肇を遣わして歩闡を西陵に
迎えさせ,車騎將軍の羊祜には歩兵の軍を帥して江陵に出し,巴東監軍の徐
胤には水軍を帥して建平を撃たせ,以って歩闡を救おうとした。陸抗は西陵の
諸軍に敕して嚴圍を築かせ,それは赤谿より故市に於けるにまで至った,内は
以って歩闡を圍み,外は以って晉兵を御そうとのことで,晝となく夜となく催切さ
せ(包囲を築くことを強硬に行わせ),それはまるで敵が已に至ったが如くであっ
たため,衆は甚だ之に苦しんだ。諸將は諫めて曰く:「今は宜しく三軍之鋭を及
ぼすべきです,急ぎ歩闡を攻めたてれば,晉の救いが至るまでには,必ずや
拔く可きことでしょう,何ぞ圍むことを仕事として,以って士民之力を敝(疲弊)
させてしまうのですか!」陸抗曰く:「此の城の處勢は既にして固く,糧谷も又た
足りておる,且つ凡そそれらの備御之具については,皆この抗が宿規してき
た所である,今反って之を攻めても,猝拔す可からざるのだ。そうして北の兵が
至ってしまって而して備えが無いなら,表裡から難を受けることになるが,何を
か以って之を御しえよう!」諸將は皆歩闡を攻めようと欲し,陸抗も衆心をを服
させようと欲したため,一たび攻め令むことを聴きいれたが,果たして利が無か
った。圍みの備えが始めて合わさったところで,而して羊祜の兵五萬が江陵に
至った。諸將は鹹(みな)以って陸抗は上がるを宜しくすべきでないとした,陸
抗曰く:「江陵城は固より兵が足りている,憂う可きことなど無い。假に敵を令て
江陵を得させしもうとも,必ずや守ること能わざるであろうから,損なう所は小さ
くすむ。若し晉が西陵に拠ったなら,則ち南山の群夷は皆當に擾動すべきこと
となろう,其の患いは量る可からざることとなるのだ也!」乃ち自ら衆を帥して
西陵に赴いた。
29 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 19:59:48
初め,陸抗は以って江陵之北は,道路が平易であるため,江陵督の張鹹に
敕して大いに堰を作して水を遏させ,平土を漸漬させて以って寇叛を絶たせる
こととした。羊祜は遏水した所に因って船を以って糧を運ぼうと欲し,聲を揚げ
て將に堰を破って以って歩(兵の)軍を通すこととしているとした。陸抗は之を
聞くと,鹹を使て之を亟破させた。諸將は皆惑い,屢(かさ)ねて諫めたが,聽
きいれなかった。羊祜は當陽に至ったところで,堰が敗られたと聞き,乃ち船
を改めて車を以って糧を運ぶこととなり,功力を大いに費すことになった。
十一月,楊肇が西陵に至った。陸抗は公安の督であった孫遵に令して南岸
を循にして羊祜を御させ,水軍督の留慮には徐胤を拒ませ,陸抗自らは大軍
を将いて圍みに憑いて楊肇に対した。將軍の硃喬の營都督であった俞贊が亡
(はし)って楊肇に詣でた。陸抗曰く:「贊は軍中の舊吏であり,吾が虚實を知っ
ている。吾は常に慮ってきたのは夷兵が素より簡練でないことであった,若し
敵が圍みを攻めてきたなら,必ずや此れの處を先にしような。」即ち夜になって
夷兵を易えると,皆精兵を以って之を守らせた。明くる日,楊肇は果たして故(も
と)夷兵の處したところを攻めてきた。陸抗は之を撃つよう命じ,矢石が雨ふり
下り,楊肇の衆は傷つき、死んだ者は相屬しあうこととなった。十二月,楊肇は
屈すと計って,夜になり遁れた。陸抗は之を追おうと欲したものの,而して歩闡
が力を畜えて間を伺っているうえ,兵が分かつに足らざることを慮ると,是に於
いて但た鼓を鳴らして衆を戒めるのみとして,將に追わんとするかの若くとした
のである。楊肇の衆は兇じて懼れ,悉く甲を解いて挺走した。陸抗は輕兵を使
て之を躡せしめたため,楊肇の兵は大いに敗れ,羊祜等は皆軍を引いて還る
ことになった。陸抗は遂に西陵を抜き,歩闡及び謀を同じくした將吏數十人を誅
し,皆夷三族とし,自餘所請赦者數萬口。東して樂郷に還ったが,貌には矜る色
とて無く,謙沖すること常の如くであった。呉主は陸抗に都護を加えた。羊祜は
貶しめに坐して平南將軍となり,楊肇は免じられて庶人と為った。
呉主が既にして西陵に克つや,自ら謂わく天助を得たのだとし,志は益すます
張りつめ大きくなり,使術士尚廣筮取天下,對して曰く:「吉なり。庚子の歳に,
青蓋が當に洛陽に入るべきこととなりましょう。」呉主は喜ぶと,コ政を修めず,
兼併之計を為すのを専らにするようになった。
30 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:03:48
賈充は朝士と宴をし飲んだ,河南尹の庾純は醉っぱらうと,賈充と爭い言い
あった。賈充曰く:「父が老いたのに,供養にも帰らない,卿は天地を無くすよ
うなことを為しているのだ!」純曰:「なら高貴郷公は何ぞ在らんか?」賈充は
慚じて怒り,上表して職を解かせようとした;純も亦た上表して自らを弾劾した。
詔がくだされて純の官を免じ,仍ち五府に下して其の臧否を正した。石苞は
以為らく純は榮官すると親を忘れたから,當に除名すべしとし,齊王攸等は
以為らく純は禮律に於いては未だ違えることは有さなかったとした。詔がくだ
され攸の議に従うこととなり,復た純を以って國子祭酒と為すこととなった。
呉主之華裡に遊ぶや,右丞相の萬ケと右大司馬の丁奉、左將軍の留平
は密かに謀って曰く:「若し華裡に至って歸らざるなら,社稷の事は重い,
不得不自還。」呉主は頗る之を聞いたものの,以ってケ等が舊臣であったこ
とから,隱忍して(処分,怒りを)發しなかった。是歳,呉主は會に因って,以
って毒酒を万ケに飲ませようとしたが,酒を傳えた人が私(ひそか)に之を減
らした。又た留平にも飲ませたが,留平は之を覺り,他藥を服して以って解い
たため,死なざるを得た。万ケは自殺し;留平は憂い懣ちて,月餘りして亦た
死んだ。万ケの子弟を廬陵に於けるに徙した。
31 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:10:05
初め,万ケは忠清之士を選んで以って近職を補わせるのを請うた,呉主は
大司農の樓玄を以って宮の為に鎮に下し,殿中の事を主(つかさど)らせた。
樓玄は身を正して衆を帥し,法を奉って而して行い,對に応じては切直であっ
たため,呉主は浸されてスばなかった。中書令にして領太子太傅の賀邵は
上疏して諫めて曰く:「自頃年以來(近頃の年より以来),朝の序列は紛らわし
く錯じりあい,真偽は相貿まりあって,忠良は排され墜とされ,信(まこと)の
臣は害を被っております。以って正士が地方で摧かれているのに而して庸臣
は苟媚するを是とするなら,意に先んじて指図を承り,各おの時の趣くことを
希うこととなりましょう。人は反理之評を執り,士は詭道之論を吐き,遂に清流
を使て濁りに変じさせ,忠臣に舌を結ばせてしまうことでしょう。陛下は九天之
上に処し,百里之室に隠れ,言は風靡に出て,令は景從に行われております。
寵媚之臣に親しみ洽わせておりまして,日ごと聞くは順意之辭,ですが將に謂
わく此の輩が實に賢なれば而して天下は已にして平げられておりましょう。
臣が聞きますには興國之君は其の過ちを聞くを楽しみとし,荒亂之主は其の
譽めるを聞くを楽しむものです;其の過ちを聞けば過ちは日ごと消えてゆき而
して福が臻(いた)るもので,其の譽を聞けば譽が日ごと損なわれて而して禍
ちが至ることになるのです。陛下は刑法を厳しくして以って直辭を禁じ,善士を
黜退させて以って諫めの口に逆らい,酒を杯について次つぎに造しております,
その死生が保たれざるため,仕えている者は退くを以ってして幸いと為し,居
る者は出るを以ってして福と為しております,これは誠に洪緒を保ち光らせ,
天道王化を熙隆させる所以に非ざることでございます。何定は本もと僕隸の
小人でして,身は行いも能(力)も無かるのに,而して陛下は其の佞媚(佞りや
媚び)を愛でられ,以って威福を假しあたえられました。夫れ小人は求められ
入れば,必ずや奸利を進めるものです。定間者忘興事役,江邊より戍兵を徴
発して以って麋鹿を驅せさせ,老弱は饑え凍え,大も小も怨み歎いております。
《傳》に曰く:『國之興らんとするや也,民を視ること赤子の如く;其の亡びなんと
するや,民を以って草芥と為さしむ。』今法禁は苛(むご)きに轉じ,賦調は益す
ます繁く,中官、近臣の所在では事を興こし,而して長吏は罪を畏れ,苦民は辦
を求めています。是れ人の力を以ってしては堪えられず,家戸は離散し,呼嗟之
聲は,和気を感傷しています。今や國には一年之儲さえ無く,家には經月之蓄え
さえ無いというのに,而るに後宮之中で食に坐す者は萬有餘人となっております。
又た,北の敵が注目しており,わが國の盛衰を伺っております,長江之限りは,
久しく恃む可からざるもの,苟しくも我らが守ること能わざるなら,一葦も杭とす
可きです也。願わくば陛下には基(もとい)を豊かにし本(もと)を強められ,情を
割かちて道に従われますよう,なれば則ち成、康之治も興こり,聖祖之祚も隆
ぶることでしょう!」呉主は深く之を恨んだ。
32 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:16:10
是に於いて左右は共に樓玄、賀邵を誣して相逢っているとし,駐まっては共に
耳語大笑し,政事を謗り訕しているから,俱に詰責を被らせるべきであるとした。
玄を送って廣州に付け,邵は原して復職させた。既にして而して復た玄を交趾に
徙すこととし,竟に之を殺した。之を久しくして,何定の奸穢なることが發覚し
て聞こえることとなり,亦た誅に伏したのである。
羊祜は江陵より帰ると,コ信を修めることに務めて以って呉人を懷けようとし
た。兵を交わす毎に,日を刻んで戰を方じ,掩襲之計を為さなかった。將帥で譎
計を進めることを欲す者が有ると,輒ち醇酒を以て飲ませ,言うこと得られない
ように使た。羊祜は出軍して呉の境に行くと,谷(穀物)を刈りとって糧と為し,
皆侵した所を計って,絹を送って之を償った。衆を江、沔に会めて遊獵する毎に,
常に晉地に止まった,若し禽獸が先ず呉人に傷つけられる所と為っていて而して
晉兵が得し所と為った者は,皆之を送り還した。是に於いて呉の邊境の人は皆ス
び服すことになった。羊祜は陸抗と境を対していたが,命を使て常に通じさせて
いた。陸抗が羊祜に酒を遣わしたが,羊祜は之を飲んで疑わなかった;陸抗が疾
んで,羊祜に薬を求めてきたところ,羊祜は以って藥を成して之に與え,陸抗は
即ち之を服した。人は多くが陸抗を諌めたが,陸抗曰く:「豈に人に鴆を盛る羊
叔子で有ろうか!」陸抗は其の邊戍(辺境の兵たち)に告げて曰く:「彼らはコ
を為すことを専らにし,我らは暴を為すことを専らにしている,是れでは戰わず
して而して自ら服してしまうことになる。各おの界を保ち分かつのみとし,細利
を求めること無いように。」呉主は二境が交わり和していると聞き,以って陸抗
に詰めよった,陸抗曰く:「一邑一郷とて以って信義を無くす可からざるもので
す,況んや大國においてをや!臣が此れに如かざるなら,正しくに是れ其の徳を
彰らかにしてしまい,羊祜を傷なうところなど無くなりましょう。」
33 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/12(金) 20:24:02
呉主は諸將之謀を用い,數(たびた)び晉の邊境を侵し盜んだ。陸抗は上疏して
曰く:「昔夏に多罪有れば而して殷湯は師を用い,紂が淫虐を作せば而して周武
が鉞を授けました。苟くも其の時無かりせば,大聖を復すと雖も,亦た宜しく威を養
い自らを保つべきなのでございます,輕がるしく動く可きでありません。今農に力め
て國を富ますことにも,官を審らかにして能に任せることにも,黜陟を明らかにして,
刑賞を慎むことにも,諸司に訓示するにコを以ってし,百姓を慰撫するに仁を以っ
てすることにも務めず,而して諸將の徇名を聴きいれて,兵を窮させ武を黷し,動し
た費が萬計ともなって,士卒が調瘁し,寇が衰えを為さざることとなっているのに而
して我らは已にして大いに病んでおります。今帝王之資を争わんとしているのに而
して十百之利に蒙昧であるなど,此れ人臣之奸便というもので,國家之良策に非ざ
ることですぞ!昔齊、魯は三たび戰い,魯人は克つこと再びしたものの,而して踵を
旋さぬうちに亡びました。何にか則ってでしょうか?大小之勢いが異なっていたから
です。況んや今師の克ち獲た所は,不補所喪(喪いし所を補っているといえましょう
か)哉?」呉主は從わなかった。
羊祜は中朝の權貴に結び附こうとしなかったため,荀勖、馮紞之徒は皆之を惡ん
だ。從甥の王衍は嘗て羊祜に詣でて陳事し,その辭は甚だ清辯であった;しかし羊
祜は之を然らずとしたため,王衍は衣を拂って去った。羊祜は賓客を顧みて謂って
曰く:「王夷甫は方(まさ)に當たるに盛名を以ってして大位に処すべきかたであろう,
然りながら衆俗を敗れしめ王化を傷つけるのは,必ずや此の人であろう。」江陵を
攻めるに及び,羊祜は軍法を以って將に王戎を斬りすてようとした。王衍は,王戎
の從弟であったため,故に二人は皆之を憾(うら)み,言論の多くが羊祜を毀し,
時の人は之が為に語って曰く:「二王は當に國たるべきであるのに,(つまらぬこと
をいう)羊公はコが無い。」
36 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:34:59
>>35 残念ながらそこまでのモチベーションは無いのです。
それでは晉紀2をはじめるのだ。
世祖武皇帝上之下 泰始九年(癸巳,西暦273年)
春,正月,辛酉,密陵元侯の鄭袤が卒した。
二月,癸巳,樂陵武公の石苞が卒した。
三月,皇子祗を立てて東海王と為した。
呉は陸抗を以って大司馬、荊州牧と為した。
夏,四月,戊辰朔,日有食之(日食が有った)。
初め,ケ艾の死せるに,人は皆之を冤罪であるとしたが,而して朝廷では之が為
に辨ず者など無かった。帝が即位するに及び,議郎であった敦煌(出身)の段灼が
上疏して曰く:「ケ艾の心は至忠を懐いておりました,而るに反逆之名を荷わせられ,
巴、蜀を平定しながら而うして三族之誅を受けました。艾の性は剛急でありまして,
功を矜(ほこ)って善を伐し,朋類と協同すること能わなかったものですから,故に之
を肯理すもの莫かったのです。臣が竊いますに以為らく艾は本もとは屯田掌犢の人
でありました,寵位(寵遇と位階は)已にして極まり,功名已にして成されたからには,
七十の老公は,復た何をか求む所あったでしょうか!正しく以って劉禪が降りし初め
には,遠くの郡は未だ附かずにおりました,そのため令を矯め承製し,權力で社稷を
安んぜんとしたのです。鍾會は悖逆之心を有しておりまして。ケ艾の威名を畏れた
ため,其の疑似に因って,其の事を構成したまでなのです。艾は詔書を被るや,即ち
強兵を遣わし,身を束ねて縛に就き,顧りみ望むこと敢えてしませんでした,誠に自
ら知ることに先帝に奉り見えたなら,必ずや當に死すべき之理など無くなろうとみて
いたのです。會が誅を受けて之後,艾の官屬將吏は,愚かしくも戇して相聚まり,自
ら共になって艾を追いかけ,檻車を破壊して,其の囚執を解きました。艾は困地に
在って,狼狽して據るものを失ったとはいえ,未だ嘗て腹心之人と平素より之謀など
有したことなどなかったわけですが,獨り腹背之誅を受けてしまいました,豈に哀し
からざることでしょうか!陛下が龍興せられ,その大度を闡弘せらるからには,謂わ
ば艾を舊墓に歸葬し,其の田宅を還し,平蜀之功を以って其の後に封を継がしめ,
艾の闔棺を使て謚を定めしむことをお聴きいれる可きことかとぞんじます,そうなさ
るなら死しても恨む所とて無くなりましょうし,則ち天下の徇名之士も,立功之臣を思
いかえし,必ずや湯火に(身を)投げだし,陛下の為に死すことを楽しみとすることで
ございましょう!」帝は其の言を善しとしたが而して未だ從うこと能わなかった。帝は
給事中であった樊建に以って諸葛亮之蜀を治めたことを問うに会うと,曰く:「吾獨り
だけは諸葛亮の如かる者を得て而して之を臣とできないのか?」樊建は首を稽げて
曰く:「陛下はケ艾之冤罪を知りながら而して直すこと能いませなんだからには,諸
葛亮を得ると雖も,得らるのは馮唐之言に如くものさえ無いのでは!」帝は笑って
曰く:「卿の言は我が意を起たせたわ。」乃ちケ艾の孫の朗を以って郎中と為した。
37 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:44:22
呉人で祥瑞を言う者が多かったため,呉主は以って侍中の韋昭に問うたところ,
韋昭は曰く:「此れ家人が筐篋中物なるのみ(耳)!」韋昭は左國史を領していた,
呉主は其の父の為に紀を作らせようと欲したが,昭は曰く:「文皇は帝位に登りま
せんでしたからには,當に傳と為すべきでありまして,當に紀を為すべきでありま
せん。」呉主はスばず,漸いに責怒に見えることになった。韋昭は憂懼し,自ら衰
え老いたと陳べて,侍、史二官を去ることを求めたが,聽きいれられなかった。時
に疾病を有したため,醫藥と監護があり,之を持つこと益すます急となった。呉主
は群臣と酒を飲むにあたって,能否を問わず(飲める飲めないに関わらず),率す
るに七升を以って限りと為した。しかし韋昭に至ると,獨りだけ茶を以って之に代
えていたが,(機嫌を損ねてから)後には更めて逼り強いるに見えることとなった。
又た酒の後には常に侍臣を使て公卿を嘲弄せしめると,私(ひそ)かに短(過失)
を摘発し以って歡びと為した;そのうえで時に愆失が有れば,輒ち收縛に見え,
至っては誅戮に於けるほどであった。韋昭は以って為すに外では相毀傷しあい,
内では尤恨を長じさせ,群臣を使て睦まじめず,佳事を為さしめざるため,故に
但だたんに經義を難問す而已となった。呉主のほうでも以為らく詔命を奉じず,
意は忠盡くさざるに,前後の嫌忿を積もらせ,遂に韋昭を収めて獄に付けた。
韋昭は獄吏に因って上辭し,著書せし所を献じて,此を以って(赦)免を求めるこ
とを冀った。而しながら呉主は其の書の垢故を怪しみ,更めて詰責を被らせ,遂
に韋昭を誅すと,其の家を零陵に於けるに徙した。
五月,何曾を以って司徒を領させた。
六月,乙未,東海王の司馬祗が卒した。
秋,七月,丁酉朔,日食が有った。
詔がくだされて公卿以下の女(むすめ)を選んで六宮に備えることとし,蔽い匿し
たる者が有れば以って不敬であるとして論じさせた。采擇が未だ畢わらぬうちに,
權力で天下に嫁娶を禁じた。帝は楊後を使て之を擇ばしめたところ,後は惟だ潔
白長大なるもののみを取りて而して其の美しき者を捨てた。帝は卞氏の女(むすめ)
を愛でると,之を留めんと欲した。後(皇后)曰く:「卞氏は三世にわたる後族(皇后
となった一族)です,卑位を以って屈させる可きでありません。」帝は怒ると,乃ち自
ら之を擇び,選に中たった者は絳紗を以って臂を系(繋)がれ,公卿之女(むすめ)
は三夫人、九嬪となり二千石、將、校の女(むすめ)は良人以下を補うこととなった。
九月,呉主は悉く其の子弟を封じて十一王と為し,王は三千の兵を給された。大赦した。
是歳,鄭沖は壽光公を以って罷めさせられた。
呉主の愛姫が遣わした人が市に至って民の物を奪ったため,司市中郎將の陳聲
は素より呉主からの寵を有していたため,之を繩につけるに法を以ってした。姫が
呉主に訴えると,呉主は怒り,他事に假りだてて燒いた鋸で陳聲の頭を斷ちおとし,
其の身を四望之下に於いて投げすてた。
38 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:49:30
世祖武皇帝上之下泰始十年(甲午,西暦274年)
春,正月,乙未,日有食之(日食が有った)。
閏月,癸酉,壽光成公の鄭沖が卒した。
丁亥,詔に曰く:「近世以來,内寵に由って以って后妃に登ったものの多くが,尊
卑之序を乱してきた;そこで今より(自)は妾媵を以って正嫡と為すこと得られな
いものとす。」幽州を分けて平州を置いた。
三月,癸亥,日食が有った。
詔がくだされ又たも良家及び小將吏の女五千餘人を取りいれ宮に入れて之を選
ぶこととしたため,母子の號哭が宮中に於いて,聲が外に於けるに聞こえた。
夏,四月,己未,臨淮康公の荀が卒した。
呉の左夫人である王氏が卒した。呉主は哀念し,數月のあいだ出ず,葬送は甚
だ盛んであった。時に何氏が以って太后であった故,宗族は驕であった。呉主の
舅子の何都の貌(かお)が呉主に類していたため,民の間に訛言があった:「呉主
は已に死んでおり,立っている者は何都である也。」會稽でも又た訛言があった
:「章安侯の孫奮こそ當に天子と為るべきである。」孫奮の母の仲姫の墓は豫章に
在った,豫章太守の張俊は之が為に掃除された。臨海太守の奚熙は會稽太守の郭誕
に書を与え,非議國政;郭誕は但だたんに奚熙に書を白しただけで,妖言を白すこ
としなかった。しかし呉主は怒り,郭誕を収めて獄に系(留)したため,郭誕は懼
れた。功曹の邵疇曰く:「この疇が在ります,明府は何をか憂えんか?」遂に吏に
詣でて自ら列曰し:「この疇は本郡に廁身し,位は朝右を極めております,以って
□沓之語に噂されていることは,本より事實に非ざるもの,其の醜聲を疾み,聞き
見るに忍びません,欲含垢藏疾,不彰之翰墨,喧噪を鎮め平静に帰させ,之を使て
自ら息つかせたのです。故に誕は其の是とする所に屈し,默って以って從うに見え
たのです(それを黙認したのです)。此之愆を為したこと,實はこの疇に於けるに
由ったものなのです。死から逃れることなど敢えていたしますまい,罪を有司に帰
すしだいです。」因って自殺した。呉主は乃ち郭誕を死から免じ,建安に送付して
船を作らせた。其の舅で三郡督の何植を遣わして奚熙を収めさせた。熙は兵を発し
て自らを守らんとしたが,其の部曲は熙を殺して,首を建業に送った。又た張俊を
車裂きし,皆夷三族とした。並んで章安侯の孫奮及び其の五子を誅した。
秋,七月,丙寅,皇后楊氏が殂した。初め,帝は以って太子が不慧であったため,
嗣を為すことに堪えないことを畏れ,常に密かに以って後を訪った。後曰く:「子
を立てるは長を以ってし賢を以ってせざるもの,豈に動く可きことでしょう!」
鎮軍大將軍の胡奮の女(むすめ)が貴嬪と為っていて,帝に於いて寵を有していた,
後(皇后)の疾が篤くなると,帝が貴嬪を立てて後(后)と為し,太子に安んぜざ
ることを致すであろうと恐れ,帝の膝を枕にして泣いて曰く:「叔父である楊駿の
女(むすめ)の芷にはコ色が有ります,願わくば陛下には以って六宮を備えられます
よう。」帝は涕を流して之を許した。
39 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:52:30
以前太常の山濤は吏部尚書と為っていた。濤は典選すること十餘年,一官が
缺ける毎に,輒ち才資ありて為す可き者を擇んで數人を啓擬し,詔旨を得て向
う所が有ることとなってから,然る後に之を顯奏した。帝之用う所で,或いは
舉首に非ざるため,衆情は察せず,以濤輕重任意,言之於帝,帝は益すます之を
親愛した。濤が人物を甄拔するにあたり,各おの題目を為して而して之を奏上し
たため,時は稱えて「山公啓発事」とした。
山濤は嵇紹を帝に於いて薦め,請うに秘書郎と為すを以ってすることとし,
帝は詔を発して之に征かせた。嵇紹は以って父の康が罪を得ていたことから,私
門を屏居しており,辭して就かないことを欲した。濤は之に謂って曰く:「君が
為に之を思うこと久し矣,天地の四時というものには,猶ち消息が有る,況んや
人に於いてをや!」紹は乃ち命に應じ,帝は以って秘書丞と為した。
初め,東關之敗れるや,文帝は僚屬に問うて曰く:「近日之事,誰にか其の
咎を任ぜんか?」安東司馬の王儀は,王修之子であったが也,對して曰く:「責
は元帥に在るものです。」文帝は怒って曰く:「司馬は罪を孤(われ)に委ねよ
うと欲するのか邪!」引き出して之を斬りすてた。王儀の子の王裒は父の非命を
痛み,隱居して教授した,三たびの征も七たびの辟も,皆就かなかった。未だ嘗
て西へ向かって而して坐らず,廬は墓側に於けるとし,旦夕柏に攀して悲しみ號
し,涕涙が樹に著わされて,樹は之が為に枯れてしまった。《詩》を讀んで「哀
し哀しや父よ母よ,我を生みて劬勞す」に至ると,未だ嘗て流涕(なみだ)を流
すこと三たび復さざることなかったため,門人は之が為に《蓼莪》を廃した。
家は貧しかったが,口を計って而して田し,身を度って而して蠶した;人が或い
は之に饋そうとしても,受けず;之を助けようとしても,聽きいれなかった。諸
生は密かに麥を刈るを為し,裒輒ち之を棄てた。遂に仕えぬまま而して終わった。
臣光曰く:昔舜は鯀を誅したが而して禹は舜に事え,至公を廃すこと敢えて
しなかった也。嵇康、王儀は,その死皆其の罪を以ってせざるものであった,そ
のため二子は晉室に仕えなかったが可というものである也。嵇紹は苟くも蕩陰之
忠を無くしたのだから,殆んど君子之譏りを免れまい!
40 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:01:04
呉の大司馬の陸抗は病に疾み,上疏して曰く:「西陵、建平は,國之蕃
表であります,即ち上流に処して,二つの境に敵を受けております。若し
敵が舟を泛して流れに順い,星奔るがごとく電邁るがごとくすれば,他の
部曲に援けを恃んで以って倒れ縣かったものを救う可きに非ざることとな
りましょう。此れ乃ち社稷安危之機でありまして,非徒封疆侵陵小害也。
臣の父である陸遜は,昔西垂に在って上言いたしました:『西陵は,國之
西門であります,雲って守るに易かるも,亦た復し失うに易いものです。
若し守れざること有れば,但だ一郡を失うのみに非ずして,荊州は呉の有
すに非ざることとなりましょう也。其の虞を有すが若かれば,當に國を傾
けてでも之を爭うべきです。』臣は前より精兵三萬を屯すことを乞うてき
ました,而しながら主る者は循常しておりまして,未だ差し赴けること肯
われておりません。歩闡のことあって自り以後,益更損耗。今や臣が統め
し所は千里ともなり,外は強對を御し,内は百蠻を懐にしておりますうえ,
而して上(流)も下(流)も兵に見えておりますのに,財は數萬有るのみ,
羸敝も日ごと久しく,以って變を待つにも難しいありさまです。臣は愚か
しくも,以為らく諸王は幼沖でありまして,兵馬を用いること無くなった
ため以って要務を妨げ;又た,黄門宦官が占募を開き立てたため,兵も民
も役務を避けて,逋逃して占に入っております。乞いねがいますに特に簡
閲の詔をくださいまして,一切料出し,以って疆場受敵の常處を補わせ,
臣の所部するところを使て八萬を満たすに足らしめ,省みて衆務を息つか
せ,力を並べて御りに備えさせられますように,庶幾(こいねが)わくば
を無くしてくださいますように。若し其れ然らざるなら,深く憂う可きこ
ととなりましょう也!臣の死せる之後には,乞いねがわくば以って西方は
屬と為さしますように。」卒すに及び,呉主は其の子の晏、景、玄、機、
雲らを使て其の兵を分け將いさせた。陸機、陸雲は皆屬文を善くしたため,
名は世に於いて重んじられた。
初め,周魴之子の周處は,その膂力絶人であり,細行を修めず,郷里は
之に患った。周處は嘗て父老に問うて曰く:「今時は和し歳ごとに豐かに
なっているのに而して人は樂しまずにいる,何ぞや?」父老は歎じて曰く
:「三害が除かれずにいるのに,何ぞ之を樂しむこと有ろうか!」周處曰
く:「何をか謂わんとしているのだ也?」父老曰く:「南山の白額虎,長
橋の蛟,並びに子(きみ)がその三つを為しているからだ矣。」周處曰く:
「患う所に若いて此れを止めよというなら,吾は能く之を除いてみせよ
う。」乃ち入山して虎を求め,之を射殺すると,因って(川の)水に投げ
いれ,(餌に誘きだされた)蛟を搏殺した。遂に陸機、雲に従い學問を受
け,志を篤くして讀書し,節を砥ぎすまし行いを礪き,比して期年に及び,
州府が交わり辟した。
41 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:04:59
八月,戊申,元皇后を峻陽陵に於いて葬った。帝及び群臣は除喪即吉,
博士の陳逵が議して,以為らく:「今の時の所行は,漢の帝が權制したも
の;太子は國事を有すこと無いなら,自ら宜しく終服すべきであります。」
尚書の杜預が以為らく:「古には(者)天子、諸侯は三年之喪,始同齊、
斬,既にして葬られれば服を除き,諒闇にて以って居し,心喪にて制を終
えたものです。故に周公は言わず高宗は服喪すこと三年して而して諒闇に
雲ってしましたのは,此れ心喪に服したと之文なのでございます也;叔向
は景王が喪を除したのを譏らず而して其の宴で樂しんだこと已にして早か
ったと譏ったのであります,既にして葬られたのだから應じて除した(の
は問題ない)が,而して諒闇之節を違えたこと明らかであったからです也。
君子之禮に於けるや,諸内に存す而已(のみ)。禮は玉帛之謂いに非ざる
ものでありますからには,喪も豈に衰麻之謂いでありましょうや乎!太子
とは出れば則ち軍を撫すもの,守らば則ち國を監るもの,事えるのを無く
すこと為せぬものです,宜しく哭を卒し衰麻を除き,而して諒闇を以って
三年を終えるべきであります。」帝は之に從った。
臣光曰く:規矩は方圓に於けるを主るものである,然るゆえ庸工が規矩
を無くせば,則ち方圓は得ることも而して制すことも可からざることとな
る;おなじく衰麻は哀戚に於けるを主るものである,然るゆえ庸人は衰麻
を無くせば,則ち哀戚もまた得ることも而して勉めることも可からざるこ
ととなるのである也。《素冠》之詩,正為是矣。杜預が《經》、《傳》を
巧みに飾りたてて以って人情に(阿り)附いたのは,辯則辯(詭弁の弁と
いうものであろう)矣,臣は陳逵之言の質略にして而して敦實なるに若か
ずと謂っておく。
九月,癸亥,大將軍の陳騫を以って太尉と為した。
杜預は以って孟津の渡しばが險難であるため,富平津に於いて河橋を建
設することを請うた。議者は以為らく:「殷、周の都とせし所であって,
聖賢を歴しても而して作さざること,必ずや立つる可からざる故がありま
しょう。」預は固く請うて之を為すこととした。橋が成るに及び,帝は百
寮を従えて会に臨んだ,觴を舉げて杜預に屬させて曰:「君に非ざれば,
此の橋は立たなかったな。」對して曰く:「陛下之明に非ざるなら,臣も
亦た其の巧を施す所とて無かったことでしょう。」
42 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:07:32
是歲(274年),邵陵詞の曹芳が卒した。初め,曹芳之金墉に廢
遷せらるや,太宰中郎であった陳留の范粲は素服にて拜送し,哀しみは左
右を動かした。遂に疾と称して出ず,陽狂して言わなくなり,寢所は乘車
とし,足は地を履まなかった。子孫に婚宦の大事が有ろうとも,輒ち密か
に焉れを諮り,合えば則ち顔色は變わらず,合わざれば則ち眠寢しても安
んぜず,妻子は此れを以ってして其の旨を知ったのである。子の喬等三人
もまた,並んで學業を棄てて,人事を絶ち,侍疾家庭,足は邑裡を出なか
った。帝が即位するに及び,詔がくだされて二千石の祿を以って病を養っ
ているものに,帛百匹を加え賜るものとしたが,喬は父の疾が篤いことを
以って,辭して受けること敢えてしなかった。粲は言わざること凡そ三十
六年,年八十四,所寢之車に於いて終えた。
呉は比三年の大疫があった。
世祖武皇帝上之下咸寧元年(乙未,西暦275年)
春,正月,戊午朔,大赦し,改元した。
呉で地を掘ったところ銀尺を得た,上に刻文が有った。呉主は大赦し,
天冊と改元した。
呉の中書令賀邵は,中風となり言うこと能わざることとなった,職を去
ること數月して,呉主は其の詐りを疑い,酒藏に收め付けると,掠考する
こと千たび數えたが,卒するまで一言も無かったため,乃ち燒いた鋸で其
の頭を断ちきり,其の家屬を臨海に於けるに徙した。又た樓玄の子と孫を
誅した。
夏,六月,鮮卑の拓跋力微が復た其の子沙漠汗を遣わし入貢してきた,
將に還ろうとするにあたり,幽州刺史の衛瓘が表して之を留めんことを請
い,又た密かに金を以って其の諸部大人に賂して之を離間させた。
秋,七月,甲申晦,日食が有った。
冬,十二月,丁亥,宣帝の廟を追尊して曰く高祖とし,景帝を曰く世宗
とし,文帝を曰く太祖とした。
大疫があった,洛陽の死者は萬を以って數えることとなった。
43 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:18:19
世祖武皇帝上之下咸寧二年(丙申,西暦276年)
春,令狐豐が卒して,弟の宏が繼立したため,楊欣が之を討ち斬った。
帝は疾を得ること,甚だ劇しかったため,愈えるに及び,群臣が上壽
してきた。詔に曰く:「每念疫氣死亡者(気が疫んで死ぬ者のことを念ず
毎に),之が為に愴然とする。豈に一身之休息を以って,百姓之艱難を
忘れようか!」諸もろの禮を上げた者は,皆之を絶った。
初め,齊王攸は文帝に於いて寵を有していた,(文帝は)司馬攸に見
える毎に,輒ち床を撫でて其の小字を呼んで曰く:「此れは桃符の座なの
だぞ!」幾らもなく太子と為そうとすること數(たびた)びであった矣。
臨終のさいに,帝の為に漢の淮南王、魏の陳思王の事を敘して而して泣き
だすと,司馬攸の手を執って以って帝に授けさせた。太后も臨終にあたり,
亦た涕を流して帝に謂って曰く:「桃符の性は急であるのに,而して汝は
兄が為に慈しまぬ,我が若し起てなくなれば,必ずや恐らくは汝は相容れ
ること能わぬこととなろう,だから是を以って汝に屬させるのだ,我が
言を忘れること勿れ!」帝は疾が甚しくなるに及び,朝野は皆が意を司馬
攸に於けるに属させた。司馬攸の妃が,賈充之長女であったため也,河南
尹の夏侯和は賈充に謂って曰く:「卿の二婿は,親疏等しきのみ耳。人
(の上)に立たんとするなら當に徳を立てるべきであろう。」充は答えな
かった。司馬攸は素より荀勖及び左衛將軍の馮紞を悪み傾諂していた,荀
勖は乃ち馮紞を使て帝に説かせて曰く:「陛下は前に日ごと疾み苦しんで
愈えずにいたおり,齊王は公卿百姓が歸す所と為っておりました,太子が
高讓を欲すと雖も,其れ免れるを得られんか乎!宜しく遣わして還藩させ,
以って社稷を安んじさせるべきです。」帝は陰ながら之を納れると,乃ち
夏侯和を徙して光祿勳と為すと,賈充から兵權を奪ったものの,而して位
と待遇は替えること無かった。
呉の施但之亂があると,或るものが京下督の孫楷について呉主に於いて
譖って曰く:「孫楷は討伐に赴くのに時宜をえず,兩端を懐いております。」
呉主は數(たびた)び之を詰讓し,征為宮下鎮、驃騎將軍。孫楷は自ら疑
い懼れ,夏,六月,妻子を將いて來奔した;そこで車騎將軍を拝し,丹楊
侯に封ぜられた。
44 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:21:10
秋,七月,呉人の或るものが呉主に言って曰く:「臨平湖は漢末より薉塞し
ておりました,長老が言っております:『此の湖が塞がれば,天下は亂れ;
此の湖が開ければ,天下は平らかになる。』と近くでは無故が忽として更めて
開通したとのこと,此れは天下が當に太平となり,青蓋が洛中に入るだろうと
の祥瑞でございましょう。」呉主は以って奉禁都尉である歴陽の陳訓に問うた
ところ,對して曰く:「臣はもはや望氣を能くすことを止めておりまして,湖
之開塞について(天命を知るところまで)達すことわぬのです。」退いて而し
て其の友に告げて曰く:「青蓋が入洛するというのは,將に銜璧之事が有ろう
ということで,吉祥に非ざることだ。」
或るひとが小石で「皇帝」の字が刻まれているものを献上すると,雲って湖
の岸辺で得たとした。呉主は大赦して,改元し天璽とした。
湘東太守の張詠が算緡(税の一種)を出さなかったため,呉主は在所に就い
て之を斬りすて,首を諸郡に徇らした。會稽太守の車浚は公清であって政績を
有したが,郡が旱にあい(飢)饑となるに値して,表して振貸せんことを求め
た。呉主は以為らく私恩を収めようとしているのだとし,使いを遣わして梟首
した。尚書の熊睦は微かに諫める所有っただけで,呉主は刀鐶を以って之を撞
殺し,身は完肌するところ無かった。
八月,已亥,何曾を以って太傅と為し,陳騫を大司馬と為し,賈充を太尉
と為し,齊王の司馬攸を司空と為した。
呉の歴陽山に七穿駢羅が有って,穿たれた中は黄赤であった,俗に之を石
印と謂った,云わく:「石印の封が發かれれば,天下は當に太平となるべし。」
歴陽の長が石印が發かれたと上言すると,呉主は使者を遣わして太牢を以って
之を祠った。使者は高梯を作して其の上に登ると,硃を以って石に書して曰く:
「楚は九州の渚であり,呉は九州の都である。揚州の士は,天子と作して,四
世にわたり治めてきたから,太平が始まったのである。」還って以って聞かせ
た。呉主は大いに喜び,其の山の神を封じて王と為し,大赦し,明くる年に改
元して曰く天紀とした。
冬,十月,汝陰王の司馬駿を以って征西大將軍と為し,羊祜を征南大將軍
と為し,皆開府し辟召すものとし,儀同三司とした。
45 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:28:19
羊祜は上疏して伐呉を請うと,曰く:「先帝は西へむかい巴、蜀を平らげ,南
して呉、會を和しました,庶幾くば海内は以って休息せんことを得たいとして
おります。而しながら呉は復たも背信し,邊事を使て更めて興こしております。
夫れ期運とは天の授くる所と雖も,而して功業は必ずや人に因って而して成さ
れるもの,一大舉げて掃滅するのでなくば,則ち兵役無時得息也。蜀が平げら
れし之時には,天下は皆が呉も當に並びて亡ぶべしと謂ったものですが,是よ
り以來,十有三年がすぎております矣。夫れ之を謀ること多かると雖も,之を
決すには獨りとなるを欲すものです。凡そ險阻を以ってして全うを得んとする
者は,其の勢い均しく力敵うを謂うだけなのです耳。若し輕重が齊しからず,
強弱が勢いを異なえたなら,險阻を有すと雖も,保つ可からざることでござい
ます。蜀之國を為すや,險ならざるに非ざるものでしたが,皆雲って一夫が戟
を荷うと,千人でも當たるもの莫かったのです。進兵之日に及び,曾無籓籬之
限,勝ちに乗じて席捲し,成都に逕至したのですが,漢中の諸城は,皆鳥棲と
したまま而して出ること敢えてしませんでした,これは戰う心が無くなったに
非ず,誠に力が以って相抗するに足らざるゆえでありました也。劉禪が降服を
請うに及ぶと,諸營堡(陣営や堡塁)は索然としたまま俱に解散したのです。
今や江、淮之險しきは劍閣に如かず,孫皓之暴は劉禪に於けるより過ぎており,
呉人之困窮せしこと巴、蜀に於けるより甚だしく,而して大晉の兵力は往時に
於けるより盛んなのであります。此際に於いて四海を平壹せずに,而して更め
て兵で阻みあい相守りあったなら,天下を使て征戍に於いて困じせしめること
となりましょう,經歴盛衰(勢いは盛んなときから衰えたときへと経歴してし
まうものです),長く久しくす可からざることです也。今若し梁、益之兵を引
きつれて水陸俱に下りおり,荊、楚之衆が江陵に進み臨みて,平南、豫州が直
ちに夏口を指し,徐、揚、青、兗が並んで秣陵に会すなら,一隅之呉を以って
して天下之衆に當たることとなりましょうから,勢いは分かたれ形は散りぢり
となり,備える所は皆急ぐものとなりましょう。巴、漢が奇兵もて其の空虚に
出て,一たび傾壞に處してしまえば則ち上下は震盪してしまいましょうから,
智者が有ろうと雖も呉の為に謀ること能わないことでしょう矣。呉は長江に縁
って國を為しておりまして,その東西は數千里となっております,敵す所とな
る者が大ならば,寧息を有すこと無くなるのです。孫皓は情(動)を恣にして
意(きもち)に任せ,與下の多くが忌んでおります,將は朝に於いてを疑い,
士は野に於いて困りはて,保世之計も,一定之心も有すこと無くなっているの
です;平常之日には,猶も去就を懐こうとも,兵臨之際には,必ずや應ず者が
有りましょうから,終には力を齊しくして致死すこと能わざること已にして知
る可きなのでございます也。其の俗は急速なれば持久すこと能わず,弓弩や戟
46 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:32:18
楯は中國に如かず,唯だ水戰だけが是れ其の便ず所有るのみでありまして,一
たび其の境に入ってしまえば,則ち長江は復た保つ所に非ず,還って城池に趣
くなら,長所をすて去って短所に入ることとなり,吾らが敵に非ざることにな
りましょう也。官軍が縣ねて進み,人が致死之志を有すなら,呉人は内で顧み
て,各おの離散之心を有すことでしょう,此の如くなれば,軍が時に逾えずし
て,克つこと必ず可きこととなりましょう矣。」帝は之を深く納れた。而して
朝議は方に以って秦、涼を憂いと為していた,羊祜は復た表して曰く:「呉が
平げられれば則ち胡は自ら定まりましょう,但だ當に速やかに大功を濟すのみ
であるのです。」議者の多くが同じくせざること有った,賈充、荀勖、馮紞が
尤も以って呉を伐すは不可と為すとしていた。羊祜は歎いて曰く:「天下の意
に如かざること十に事えて常に居ること七、八ともなるが。天の與えしものを
取らざれば,豈に更めて事えんとす者が後の時に於いて恨むこと非ざるといえ
ようか!」唯だ度支尚書の杜預、中書令の張華だけは帝と意を合わせ,其の計
に贊成したのである。
丁卯,皇后楊氏を立てて,大赦した。後(皇后)は,元皇后之從妹で,美し
く而して婦徳を有した。帝は初め後(皇后)を聘すると,後(皇后)の叔父で
ある楊珧が上表して曰く:「古より一門に二後(二人の皇后)あったもので,
未だ其の宗を全うすこと能わった者は有らず,乞いねがわくば此の表を宗廟
に於いて藏しおき,異日(他日)臣之言の如くなったおりには,以って禍を
免れること得られるようにしてくださいませ。」帝は之を許した。
十二月,後(皇后)の父である鎮軍將軍の楊駿を以って車騎將軍と為し,
臨晉侯に封じた。尚書の褚略、郭弈は皆楊駿は小器であるから,社稷之重き
を任す可からずと表したが,帝は從わなかった。楊駿が驕傲自得となったた
め,胡奮は楊駿に謂って曰く:「卿は女(むすめ)を恃みとして更めて益す
ます豪となった邪!前世を歴観するに,天家(皇帝の家)と結婚したもので,
未だ門を滅ぼさざる者が有ったためしなし,但だ早いか晚いかという事だけ
あるのみだ。」楊駿曰く:「それで卿の女(むすめ)は天子の家に在らずと
でも?」奮曰く:「我が女(むすめ)は卿の女(むすめ)とちがい婢(はし
ため)と作っているのみ,何ぞ能く損益を為そうぞ!」
49 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:00:04
>>48 残念ながらモチベーションが沸かない。三国志が絡まないと無理す。
それでは晉紀2の続きを始めるのだ(恋姫無双の鈴々のナレで)
世祖武皇帝上之下咸寧三年(丁酉,西暦二七七年)
春,正月,丙子朔,日食が有った。
皇子裕を立てて始平王と為したが;庚寅,裕は卒した。
三月,平虜護軍の文鴦が涼、秦、雍州の諸軍を督して樹機能を討ち,之を破った
ため,諸胡二十萬口が來たりて降った。
夏,五月,呉の將である邵、夏祥は眾七千餘人を帥して來降した。
秋,七月,中山王の睦が逋亡を招誘したことに坐して,貶されて丹水縣侯と為った。
流れ星が紫宮の分野に没した。
衛將軍の楊珧等が建議して,以って為すに:「古には諸侯を封建するとは,王室を
籓衛せんとの所以がありました;今諸王公は皆京師に在りますが,扞城之義に非ざ
ることです。又た,異姓の諸將が邊に居りますが,宜しく親戚を以って参じさせるべ
きです。」帝は乃ち詔をくだして諸王は各おの戸邑の多少を以って三等を為すことと
し,大國には三軍五千人を置き,次國は二軍三千人,小國は一軍一千一百人とした;
諸王で都督と為っていた者は,各おの其の國を徙して相近づけ使むこととした。八月,
癸亥,扶風王亮を徙して汝南王と為し,出して鎮南大將軍と為し,都督豫州諸軍事と
した;琅邪王倫を趙王と為し,督鄴城守事とした;勃海王輔を太原王と為し,監并州
諸軍事とした;東莞王人由を以って徐州に在らしめ,徙封して琅邪王とした;汝陰王
駿が關中に在ったため,徙封して扶風王とした;又た太原王顒を徙して河間王と為し
た,汝南王柬を南陽王と為した。司馬輔は,司馬孚之子である;司馬顒は,司馬孚
之孫である。其の無官の者は,皆遣わして就國させた。諸王公で京師に戀こがれる
ものは,皆涕泣して而して去っていった。又た皇子瑋を封じて始平王と為し,允を濮
陽王と為し,該を新都王と為し,遐を清河王と為した。
其れ異姓之臣で大功有る者は,皆郡公、郡侯に封じることとなった。賈充を封じて
魯郡公と為し,王沈を追封して博陵郡公と為した。巨平侯の羊祜を徙封して南城郡
侯と為したが,羊祜は固辭して受けなかった。羊祜は官爵を拝す毎に,常に避讓す
ること多く,その至心は素より著わされていたため,故に特に分列之外に申しのべら
れたのである。羊祜は二世に歴事し,職は樞要を典じてきたが,凡そ損益を謀議す
ると,皆其の草稿を焚きすてたため,世は聞くを得るもの莫かったし,進達する所の
人も皆由る所を知らなかった。常に曰く:「官を公朝より拝受しながら,私門に恩を謝
すなどということは,吾の敢えてせざる所である。」
兗、豫、徐、青、荊、益、梁の七州で大水があった。
50 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:05:26
冬,十二月,呉の夏口督であった孫慎が江夏、汝南に入ると,千餘家を略して
而して去った。詔がくだり侍臣を遣わして羊祜について追討せざる意を問い詰め
るとともに,並んで荊州に移そうと欲した。羊祜曰く:「江夏は襄陽を去ること八百
里でございます,比して賊の訪問を知ったころには,賊は已にして去ること日を經
ております,歩兵の軍が安んぞ能く之を追いえましょうか!師を労すことで以って
免責されんとするのは,臣の志に非ざることです。昔魏武帝が置きし都督の類は
皆州と相接近しあっておりました,それは以って兵勢が合わさるに好ましく離れるが
悪まれた故であったのです。疆場之間は,一彼一此というもの,慎んで守るのみで
あります。若し輒ち州を徙さば,賊の出ずること常など無くなりましょうし,亦た未だ
州の宜しく據るべき所を知らざることとなりましょう。」
是の歳,大司馬の陳騫が揚州より入朝し,高平公を以って罷めた。
呉主は會稽の張俶が譖白する所多かったことを以って,甚だ寵任に見え,累遷し
て司直中郎將とし,侯に封じた。其の父は山陰縣の兵卒と為っており,俶の良から
ざるを知っていたため,上表して曰く:「若し俶を用いて司直と為されるなら,(俶に)
罪が有ろうとも,坐に従わざるよう乞いねがいます。」呉主は之を許した。張俶は表
して彈曲二十人を置かせ,不法を糾司することを専らにしたため,是れに於いて吏
民は各おの愛憎を以って互いに相告訐しあうこととなって,獄犴は盈ち溢れ,上下
は囂然とすることとなった。張俶は大いに奸利を為し,驕奢となり暴となった,事が
發覚し,父も子も皆車裂きとなった。
衛瓘は拓跋沙漠汗を遣わして歸國させた。沙漠汗より人質が入れられ,力微可汗
の諸子で側に在った者の多くが寵を有すこととなった。沙漠汗が歸るに及び,諸部
の大人が共に譖じて而して之を殺した。既にして而して力微の疾は篤く,烏桓王の庫
賢が親近して用事しており,衛瓘より賂を受けて,諸部を擾動しようと欲し,乃ち庭に
於いて礪斧すると,諸大人に謂って曰く:「可汗は汝曹が太子を讒殺したことを恨んで
おり,汝曹の長子を盡く收めて之を殺さんと欲している。」諸大人は懼れて,皆散りぢ
りに走った。力微は憂を以って卒した,時に年は一百四。子の悉祿が立ったが,其の
國は遂に衰えた。
初め,幽、並二州は皆鮮卑と<与>接しており,東には務桓が有り,西には力微が
有って,邊患を為すこと多かった。衛瓘は密かに計りごとを以って之を(離)間させ,
務桓は降り而して力微は死すこととなった。朝廷は衛瓘の功を嘉して,其の弟を封じ
て亭侯と為した。
51 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:11:03
世祖武皇帝上之下咸寧四年(戊戌,西暦278年)
春,正月,庚午朔,日食が有った。
司馬督であった東平の馬隆が上言した:「涼州刺史の楊欣は羌戎の和を失い
ました,必ずや敗れましょう。」夏,六月,楊欣は樹機能之黨である若羅拔能等
と武威に於いて戦い,敗死した。
弘訓皇后の羊氏が殂した。
羊祜は病を以ってして入朝を求め,既にして至ると,帝は乘輦して入殿するよ
う命ずると,拜さずに而して坐した。羊祜は面とむかい伐呉之計を陳べ,帝は
之を善しとした。以って羊祜が病んでいたため,數(たびた)び入ること宜しか
らざるべしとし,更めて張華を遣わして就きて問わせ策を籌(はかりめぐ)らせた。
羊祜曰く:「孫皓の暴虐なること已にして甚し,今に於いては戰わずして而して克
つ可きこととなっています。若し孫皓が不幸にして而して沒してしまい,呉人が更
めて令主を立ててしまえば,百萬之衆を有すと雖も,長江は未だ窺う可からざる
ことになりましょう也,將に後患を為すことになります矣!」張華は深く之を然りと
した。羊祜曰く:「吾が志を成しとげる者は,子なり也。」帝は羊祜を使て諸將を臥
護せしめんと欲した,羊祜曰く:「呉を取るに臣が行くこと必ずしもせず,但し既に
して之を平げました後には,當に聖慮を勞すべきのみです耳。功名之際に,臣が
居ることは敢えてないでありましょう。若し事が了しましたならば,當に付授す所有
すべきなら,願わくば審らかに其の人を擇ばれますように也。」
秋,七月,己丑,景獻皇后を峻平陵に於いて葬った。
司、冀、兗、豫、荊、揚州に大水があり,螟が稼を傷つけた。詔がくだり主ってい
た者が問われた:「何をか以って百姓を佐(たす)けんか?」度支尚書の杜預が上
疏して,以為らく:「今たびの水災は,東南が尤も劇しいものです,宜しく敕して兗、
豫等諸州には漢代の舊陂に留まり,繕って以って水を外に蓄えさせ,餘りは皆決
瀝させます,饑えた者を令て魚菜螺蚌之饒を盡く得させるのです,此れは目下の
日給之益というものです。水が去りて之後には,之を填淤して田となせば,畝あた
り數鐘を収穫できましょうから,此も又た明くる年之益となります。典牧している種
牛は四萬五千餘頭が有りますが,耕駕に供しておらず,老いて穿鼻せざる者が
有るに至っております,分けて以って民に給わられ,春の耕(作)に使わしむ可き
です;谷(穀物)が登りし(納められた/熟した)之後には,其の租稅に責す(上積
みして回収する),此れも又た數年すれば以って後之益となりましょう。」帝は之に
從い,民は其の利をョりとした。杜預が尚書に在ること七年,庶政を損益すこと,
不可勝數(数えきれないほどとなっていたため),時の人は之を謂うに「杜武庫」と
したが,其の有せざる所無くなったことを言ったのである。
九月,何曾を以って太宰と為した;辛巳,侍中、尚書令の李胤を以って司徒と為した。
52 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:21:05
呉主は己に勝る者を忌みきらっていた,侍中、中書令の張尚は,張紘の孫で,
為人は辯捷つものであったため,談論が其の表に出る毎に,呉主は以って恨み
を致さんとするを積もらせていた。後に問うた:「孤(わたし)が酒を飲むさまは以っ
て誰にか方ず可きか?」張尚曰く:「陛下は百觚之量を有すでしょう。」呉主曰く:
「尚は孔丘の王ならざるを知っていて,而して孤を以ってして之に方じたのだ。」
因って怒りを發すると,尚を収めた。公卿已下百餘人が,宮に詣でて叩頭し,張
尚の罪を請うて,死を減じて,建安で船を作ること得られるようにとしたが,尋くし
て之を就殺した。
冬,十月,征征北大將軍の衛瓘を尚書令と為した。是時,朝野は咸(みな)が
太子の昏愚を知っており,嗣と為すこと堪えずにいた,衛瓘はこと毎に陳べ啓発
しようと欲していたが而して未だ敢えて發せずにいた。陵雲台での宴に侍るに會
すると,衛瓘は陽醉してから,帝の床の前に跪いて曰く:「臣には欲すに啓発いた
したき所が有ります。」帝曰:「公が言わんとする所とは何であるか?」衛瓘は言わ
んと欲しながら而して止めること三たび,因って手を以って床を撫でて曰く:「此の
座は惜しむ可きです!」帝は意悟ると,謬ちに因って曰く:「公は真に大いに醉っ
ているのか?」衛瓘は此れに於いて言うこと有るを復たしなかった。帝は悉く東宮
の官屬を召すと,為に宴會を設け,而して尚書に疑事を密封させて,太子を令て
之を決させた。賈妃は大いに懼れると,外の人に倩して對を代わらせたが,(その
対は)多くが古義を引用したものであった。給使の張泓曰く:「太子の學ばざること,
陛下も知る所ですのに,而して詔に答えたものは古義を引くことが多いようす,必
ずや草稿を作った主が責められ,更めて譴負を益されましょう,意を以って對した
ものに直すに如かず。」妃は大いに喜ぶと,張泓に謂って曰く:「我が為に好ましい
答を便じてくれたなら,富貴は汝と之を共にしようぞ。」張泓は即ち具草すると太子
を令て自寫(自筆)させた。帝は之を省みて,甚だスび,先ず以って衛瓘に示した,
衛瓘は大いに踧□したため,衆人は乃ち衛瓘に嘗て言が有ったことを知った也。
賈充は密かに人を遣わして語らせたところ妃は云った:「衛□瓘の老奴め,幾らも
なく汝の家を破ってくれよう!」
呉人は皖城を大いに佃し,入寇を謀ろうと欲した。都督揚州諸軍事の王渾が揚
州刺史の應綽を遣わして之を攻破させ,斬首すること五千級,其の積みあげた穀
百八十餘萬斛を焚きすて,稻田四千餘頃を踐し,船六百餘艘を毀させた。
十一月,辛巳,太醫司馬の程據が雉頭裘を献じてきたため,帝は之を殿前で焚
きすてた。甲申。内外に敕して敢えて奇技異服を献ず者が有れば,之を罪とするこ
ととした。
53 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:27:33
羊祜は疾篤くなると,杜預を自らの代わりに挙げた。辛卯,杜預を以って鎮南大
將軍、都督荊州諸軍事と為した。羊祜が卒すると,帝は之を哭すこと甚だ哀しんだ。
是日,大寒となり,涕(なが)れた涙が沾(ぬ)らした鬚鬢は皆冰と為った。羊祜は遺
令で南城侯の印を以って柩に入れることを得ないようにとしていた。帝曰く:「羊祜が
固く謙讓すること歴年となっていた,身は沒してもその謙讓は存している,今聽きい
れて本の封に復し,以って高邁な美徳を彰らかとしよう。」南州の民は羊祜が卒した
と聞き,之が為に市を罷め,巷で哭す聲が相接しあった。呉の邊を守っている將士
も亦た之が為に泣いた。羊祜は峴山に游ぶを好んでいた,襄陽の人は其の地に碑
を建て廟を立て,歳時には祭祀をし,其の碑を望む者は流涕せざること無かったこ
とから,因って之を墮涙碑と謂ったのである。
杜預は鎮に至ると,精銳を簡抜し,呉の西陵督である張政を襲うと,之を大いに
破った。張政は,呉之名將であったため也,備え無かりしを以って敗北を取ったこ
とを恥じいり,實を以って呉主に告げるを以ってしなかった。杜預は之を離間させん
と欲し,乃ち其の獲た所を還すよう上表した。そのため呉主は果たして張政を召し
て還すと,武昌監の留憲を遣わして之に代えさせた。
十二月,丁未,朗陵公の何曾が卒した。何曾は自らを厚くして奉養すること,人
主に於けるより過ぎていた。司隸校尉である東萊(出身)の劉毅は數(たびた)び何
曾は侈汰であること度が無いと劾奏(弾劾の奏上)をしていたが,帝は其の重臣で
あることを以って,不問としていた。卒すに及び,博士であった新興(出身)の秦秀
が議して曰く:「何曾の驕奢さが度を過ぎていたこと,その悪名は九域を被っており
ました。宰相や大臣というものは,人之表儀であります,若(けだ)し生きているあい
だは其の情を極め,死しても又た貶すこと無くしておくものです,王公貴人も復た何
をか畏れんか!謹しんで《謚法》を按じますれば,『名と實が爽なるは曰く繆とす,
怙亂にして肆行なるは曰く丑とす』とあります,宜しく繆丑公と謚すべきです。」帝は
策して謚して曰く孝とした。
前の司隸校尉であった傅玄が卒した。玄の性は峻急であり,奏劾の有る毎に,
或いは日が暮れるに値すころから,白簡を捧げもち,簪帶を整え,竦踴したまま寐
ず(床に付かず),坐したまま而して旦(よあけ)まで待った。是に由って貴游(貴族
で遊びあるいているもの)は震懾し,台閣には(清廉な気)風が生じた。玄は尚書左
丞であった博陵(出身)の崔洪と善くしていた,崔洪も亦た清獅ノして骨鯁であって,
好んで面前で人の過ちを折責したが,而して退けば後言すること無かったため,人
は是を以ってして之を重んじたのである。
鮮卑の樹機能が久しく邊患を為していたため,僕射の李喜が兵を徴発して之を討
つことを請うたものの,朝議は皆が以為らく出兵は重事であるし,虜は憂うに足りず
とした。
54 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:36:27
世祖武皇帝上之下咸寧五年(己亥,西暦279年)
春,正月,樹機能が涼州を攻め陷とした。帝は甚だ之を悔むと,朝廷に臨んで
而して歎じて曰く:「誰か能く我が為に此の虜を討つ者あろうか?」司馬督の馬隆
が進みいでて曰く:「陛下が臣に任すこと能うれば,臣は之を平げること能うもの
です。」帝曰く:「必ずや能く賊を平げうるというなら,何ぞ任じまいと為そうか,方
略の何如を顧るのみだ!」隆曰く:「臣願わくば勇士三千人を募りとうございます,
從り來たる所を問うところ無くし,之を帥して以って西へむかいますなら,虜不足
平也。」帝は之を許した。乙丑,馬隆を以って討虜護軍、武威太守と為した。公卿
は皆曰く:「見えている兵は已にして多いわけですから,ざまに賞募を設けるは
宜しくすべきではありません,馬隆は小將であって妄言しております,信ずに足り
ません。」帝は聽きいれなかった。馬隆は能く弓四鈞を引くもの、弩九石を挽く者
を募って之を取りたてることとし,標を立てて簡試することとした。そうして旦(よあ
け)より日中に至るまでで,三千五百人を得た。馬隆曰く:「足れり。」又た請うて自
ら武庫に至って仗を選びたいとし,武庫令が馬隆と忿り爭ったため,御史中丞が
馬隆を劾奏した。馬隆曰く:「臣は當に命を戰場に畢えんとすべくしているのに,
武庫令は乃ち給すにあたり魏の時の朽ちた仗を以ってしようとしました,これは陛
下が臣を使わした之意の所以に非ざることです。」帝は命じて惟だ馬隆が取る所
とせよとし,仍ち三年の軍資を給して而して之を遣わした。
初め,南單于の呼廚泉は兄である於扶羅の子の豹を以って左賢王と為してい
たが,魏武帝が匈奴を分けて五部と為すに及び,豹を以って左部帥と為した。豹
の子の淵は,幼くして而して俊異であって,上黨の崔游に師事して,博く經史を習
った。嘗つて同じ門生であった上黨の硃紀、雁門の范隆に謂って曰く:「吾は常に
隨、陸に武が無く,絳、灌に文が無かったことを恥じてきた。隨、陸は高帝に遇っ
たものの而して封侯之業を建てること能わず,降、灌は文帝に遇いながら而して
庠序之教を興すこと能わなかった,豈に惜しまざらんか哉!」是に於いて學と武の
事を兼ねようとするようになった。長ずるに及び,その猿臂は射を善くし,膂力は
人に過ぎ,姿貌は魁偉であった。任子と為って洛陽に在ると,王渾及び子の濟は
皆之を重んじ,屢ねて帝に於いて薦めたため,帝は召しよせてこれと語りあい,
之にスんだ。王濟曰く:「劉淵は文武に長才を有しております,陛下が東南之事を
以って任せたなら,呉は平げるにも足らざることでしょう。」孔恂、楊珧曰く:「我ら
が族類に非ざるのですから,其の心は必ずや異なりましょう。劉淵の才器は誠に
比すべきあいてが少ないものですが,然りながら重任す可きでありません。」涼州
が覆り沒すに及び,帝は問將於李喜,對して曰く:「陛下が誠に能く匈奴の五部の
衆を徴発せられて,劉淵に一將軍之號を假しあたえ,之を將とし使わして而して
西へむかわせたなら,樹機能之首は指した日のうちに而して梟せらる可きことでし
ょう。」孔恂曰く:「劉淵が樹機能を梟すこと果たしますなら,則ち涼州之患いは方
(まさ)に更に深まるのみとなりましょう。」帝は乃ち止めた。
55 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:42:51
東萊(出身の)王彌の家は世に二千石たりてきており,彌は學術勇略を有し,
騎射を善くしたため,青州の人は之を謂うに「飛豹」とした。然して任俠を喜ん
でいたため,處士であった陳留の(人)董養が見えて而して之に謂って曰く:
「君は亂を好み禍ちを楽しんでおりますが,若し天下に事が有れば,士大夫に
作れないことでしょう。」劉淵は王彌と友となり善くしていたため,謂って稱えて
曰く:「王、李とは郷曲を以って見え知っている,こと毎に相稱え薦めあってきた,
適足為吾患耳。」因って歔欷して涕を流した。齊王の司馬攸は之を聞くと,帝に
於いて言って曰く:「陛下には劉淵を除かずにおりますが,臣は并州が久しく安
んずることを得ないと恐れます。」王渾曰く:「大晉は方(まさ)に信を以ってして
殊俗を懐けてきたものだ,奈何(いか)でか無形之疑いを以って人の侍子を殺
すというのか?それで何で徳度を弘められようか!」帝曰:「渾の言や是なり。」
劉豹が卒すに会い,淵を以って代わりとし左部帥と為した。
夏,四月,大赦した。
部曲督以下の質任を除くこととした。
呉の桂林太守である修允が卒し,其の部曲は應じて分けられ諸將に給され
ることになった。督將の郭馬、何典、王族等は舊軍で世を累ねてきており,離
別することを楽しまず,呉主が廣州の戸口の實を料ろうとしてきたことに会って,
郭馬等は民心が不安になったのに因って,衆を聚めて廣州督の虞授を攻殺し,
郭馬は自らを都督交、廣二州諸軍事と號すと,何典を使て蒼梧を攻めさせ,
王族をして始興を攻めさせた。秋,八月,呉は軍師の張悌を以って丞相と為し,
牛渚都督の何植を司徒と為し,執金吾の滕修を司空と為した。未だ拜さぬうち
に,更めて滕修を以って廣州牧と為して,萬人を帥して東道に従い郭馬を討た
せることとした。郭馬は南海太守の劉略を殺し,廣州刺史の徐旗を逐いだした。
呉主は又た徐陵督の陶浚を遣わして七千人を將いさせると,西道に従い交州
牧の陶璜と共に郭馬を撃たせることとした。
呉には鬼目菜が有り,工人である黄耇の家に生じた;買菜というものが有り,
工人である呉平の家に生じた。東觀では圖書を案じて,鬼目と名づけられてい
るのは曰く芝草のことで,買菜とは曰く平慮草のことである。呉主は黄耇を以っ
て侍芝郎と為し,呉平を平慮郎と為し,皆銀印青緩とした。
呉主は群臣を宴にまねく毎に,鹹(みな)沉醉せ令めた。又た黄門郎十人を
置いて司過と為し,宴の罷わりし之後に,各おの其の闕失を奏上させ,迕視や
謬言など,罔有不舉(余すところなく挙げさせた)。大なるは即ち刑戮を加え,小
なるは記録して罪と為し,或いは人面を剝がし,或いは人の眼を鑿った。是に由
って上下は心を離し,為に力を盡くそうとするもの莫くなったのである。
56 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:54:18
益州刺史の王濬が上疏して曰く:「孫皓は荒淫凶逆でありますから,宜しく速やか
に征伐すべきです,若し一旦あって孫皓が死んでしまい,更めて賢主が立ってしま
えば,則ち敵を強めることになります也;臣は船を作すこと七年,日ごと朽ち敗れて
いるもの(舟)が有ります;臣は年七十となり,死に亡ぶまで日が無くなっております。
(せっかく揃っている)三つの者(条件)が一たび乖れ離れになってしまえば,則ち圖
ること難しくなりましょう。誠に願わくば陛下には事機を失われること無きように。」
帝は是に於いて呉を伐せんと決意した。安東將軍の王渾が表して孫皓が北上せん
と欲しているため,邊戍は皆戒嚴しましょうとの表をするに会い,朝廷は乃ち更めて
議して明くる年出師することとした。王濬の參軍であった何攀は使いを奉じて洛中に
在った,上疏して稱うるに:「孫皓は必ずや敢えて出ないことでしょうが,宜しく戒嚴に
因って,其の易きを掩い取るべきです。
杜預は上表して曰く:「閏月より以來,賊は但だたんに下に嚴しくするよう敕令す
のみでして,兵の上ること無くなっております。理勢を以ってして之を推しはかります
なら,賊之窮計は,力が兩つを完うせざるため,必ずや夏口以東を保って以って視
息を延べんとすることでしょう,多くの兵に縁って西上し,其の國都を空しくすること
など無いでありましょう。而して陛下には(多数の意見を)聽くこと過ぎております,便
じて用って(他者の意見に意を)委ねて大計を棄てられてしまえば,敵を縱にして患い
が生ずことになります,誠に惜しむ可きです。向使舉而有敗,勿舉可也。今事為之
制,務從完牢,若し或いは成ること有れば,則ち太平之基を開くこととなりましょうし,
成らずとも日月之間(時間)を費やし損なうに過ぎぬのですから,何をか惜しんで而
して一つも之を試みようとしないのですか!當に後年を須つべき若かれば,天の時
にしろ人の事にしろ,常に如かることを得ざるものです,臣が恐れますのは其れが
更まって難しくなってしまうことです。今や萬安之舉を有し,傾敗之慮りも無いからに
は,臣の心は實に了としておりまして,暖昧之見を以ってして自ら後累を取ることな
ど敢えてせざることです,惟だただ陛下には之を察せられんことを。」旬月しても未
だ報ぜられなかったため,杜預は復たも上表して曰く:「羊祜は朝臣に於いて博く謀
ることを先ずせず,而して密かに陛下と共に此の計を施してきました,それ故に益
すます朝臣を令て異同之議を多くせしめているのです。しかしながら凡そ事というも
のは當に利害を以って相校ずべきもの,今此の舉之利は十に八、九を有すのに,
而して其の害は一、二であります,止めれば功を無くすに於くだけとなりましょう。
必ずや朝臣を使て破敗之形ありと言わせましょうが,それも亦た得る可からざるこ
とです(それらの意見を採用してはならないのです),直ちに計を是としても(その計
謀は)己から出たものでなく,功あろうとも(その功績は)その身に在らざるものであ
るゆえ,各おの其の前言之失を恥じ而して之を固守せんとして(破敗之形ありと言
わせて)いるわけです。自頃(ちかごろ)は朝廷の事は大も小も無く,異意が鋒起し
ております,人心は同じからざるものと雖も,亦た由って恩を恃みにし後の患いを慮
らず,故に輕がるしく相同異しあっているのでございます。秋より已來,討賊之形は
57 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:00:03
頗る露わとなりましたから,今若し中止すれば,孫皓は或いは怖れて而して生きなん
ことを計りましょう,都を武昌へ徙し,更めて江南の諸城を完璧に修繕させ,其の居
民を遠ざけてしまいましょう,そうなれば城は攻むる可からざることとなって,野には
掠める所とて無くなりますから,則ち明年之計も或いは及ぼす所とて無くなりますぞ。」
帝は方(まさ)に張華と棋を圍んでいた,杜預の表が至るに適うと,張華は推枰斂手
して曰く:「陛下は聖武であらせられ,國は富みて兵は強壮であります,呉主は淫虐
にして,賢能を誅殺しております。當に今之を討つべくば,勞せずして而して定む可
きことでしょう,願わくば以って疑いを為すこと勿らんことを!」帝は乃ち之を許した。
そこで張華を以って度支尚書と為すと,運漕について量計させた。賈充、荀勖、馮
紞が之を爭ってきたため,帝は大いに怒った,そこで賈充は冠を免いで謝罪した。
僕射であった山濤は退くと而して人に告げて曰く:「自ら聖人に非ざれば,外寧んず
れば必ずや内憂が有ろう,今呉を釋してやって外懼と為しておくことが,豈に算に
非ざることといえようか!」
冬,十一月,大舉して呉を伐すると,鎮軍將軍である琅邪王の司馬[人由]を遣わし
て塗中に出させ,安東將軍の王渾には江西に出させ,建威將軍の王戎には武昌に
出させ,平南將軍の胡奮には夏口に出させ,鎮南大將軍の杜預には江陵に出させ,
龍驤將軍の王濬、巴東監軍である魯國の唐彬には巴、蜀から下らせた,東西凡そ
二十餘萬。賈充に命じて使持節、假黄鉞、大都督と為し,冠軍將軍の楊濟を以って
之に副とさせた。賈充は固より伐呉の不利を陳べ,且つ自ら衰え老いたため,元帥
之任に堪えないと言ってきた。詔に曰く:「君が若し行かないなら,吾が便じて自ら出
よう。」そこで賈充は已むを得ず,乃ち節鉞を受けると,中軍を将いて南して襄陽に
駐屯し,諸軍に節度を為すことになった。
馬隆は西へむかい温水を渡ると,樹機能等は衆數萬を以って険阻に據って之を
拒んだ。隆は山路が狹隘であることを以って,乃ち扁箱車を作り,木屋を為すと,
車上に於いて施し,轉戰して而して前へすすみ,行くこと千餘里,殺傷したもの甚だ
衆ねかった。馬隆が西へむかってから,音問が斷絶したため,朝廷は之を憂い,
或るものは謂わく已に沒したとした。後に馬隆の使いが夜に到ると,帝は掌を撫で
て歡笑し,朝廷を問詰め,群臣を召して謂って曰く:「若し諸卿の言に従っていたら,
涼州を無くしていたわい。」乃ち詔をくだして馬隆に節を假すと,拜して宣威將軍とし
た。馬隆が武威に至ると,鮮卑の大人である猝跋韓且萬能等が萬餘落を帥して來
たり降った。十二月,馬隆は樹機能と大いに戰い,之を斬りすて,涼州は遂に平げ
られた。
58 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:11:13
詔がくだされて朝臣に以って政の損益を問うたところ,司徒の左長史である傅鹹
が上書して,以為らく:「公も私も不足しているのは,設けられた官が太いに多かる
に由ります。舊の都督は四つが有りましたが,今や監軍を並べてみると乃ち十より
盈れております;禹の分けたりし九州は,今の刺史幾向一倍;戸口は漢に比べて十
分之一となっていますのに,而して置かれた郡縣は更めて多くなっております;虚し
く軍府を立てては,動くこと百たび數えること有るというのに,而して宿衛を益すこ
となど無く;五等の諸侯は,坐したまま(働きもしないのに)官屬を置いております
;諸所の廩給は,皆百姓より出されたものです。此れぞ其の困乏となる所以なのです。
當今の急務とは,官を並べて労役を息つかせ,上下とも農に務める而已に在るのです。」
傅鹹は,傅玄之子である。時に又た州、郡、縣の吏を半ばに省き以って農功に赴かせ
ることが議論され,中書監の荀勖は以って為すに:「吏を省くは官を省くに如かず,
官を省くは事を省みるに如かず,その省事は心を清めるに如かざるものです。昔蕭、
曹が漢朝の宰相たると,其の清靜を戴いたため,民が以って壹に寧んじたことが,
所謂清心というものなのです。浮ついた説を抑え,文案を簡素にし,細苛(細かな苛
め)を略し,小さな過失を宥(ゆる)し,常(法)を變えることを好んで以って利益
を徼えとろうとする者が有れば,必ず其の誅を行うこととするのが,所謂省事という
ものです。以って九寺は尚書に並べおき,蘭台は三府に付けるが,所謂省官というも
のです。若し直ちに大例を作して,凡そ天下之吏は皆其の半ばを減じますならば,
恐らく文武の衆官,郡國の職業は,その劇しさ易しさは同じからざることとなりまし
ょうから,以って一概に之を施す可きでありません。若し曠闕が有れば,皆更め復す
を須つこととし,或いは激務であって而して滋繁(次第に繁雑な務め)となるのであ
れば,亦た不可不重也(重ねざる可きでないといたしましょう)。」
60 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:20:07
それでは 世祖武皇帝中太康元年(庚子,西暦280年)
春,正月,呉は大赦した。
杜預は江陵に向かい,王渾は横江に出て,呉の鎮、戍を攻めたたところ,向う所
で皆克った。二月,戊午,王濬、唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した。呉人は江磧に
於いて要害となる処には,並んで鉄鎖を以って之を截していた;又た鐵錐を作し
た,長さは丈餘で,江中に暗置し(隠れるように配置し),以って舟艦を逆い拒も
うとしたのである。王濬は大筏數十を作した,方百餘歩,草を縛って人と為し,
甲を被せて仗を持たせると,水を善くす者を令て以って筏を先行させた,鐵錐に
遇うと,錐は輒ち筏に著わされて而して除去された。又た大炬を作った,長さ十
餘丈,大なるものは數十圍ともなり,麻油を以ってそれに灌がせると,船の前に
在させた,鎖に遇うと,然るに炬が之を燒き,須臾にして,融液となって斷絶さ
れた,是に於いて船は礙す所無くなった。庚申,王濬は西陵に克ち,呉の都督で
ある留憲等を殺した。壬戌,荊門、夷道の二城に克つと,夷道監の陸晏を殺した。
杜預は牙門の周旨等を遣わして奇兵八百を帥させて泛舟させ夜に渡江させ,樂郷
を襲った,旗幟を多く張りたて,火を巴山に起てた。呉の都督であった孫歆は懼
れて,江陵督の伍延に書を与えて曰く:「北より來たる諸軍は,乃ち江を飛び渡
ってきた。」周旨等は樂郷の城外に伏兵していた,孫歆は軍を遣わして王濬を出
て拒もうとし,大敗して而して還った。周旨等はそこで伏兵を発して孫歆の軍に
隨って而して入ったが,孫歆は覺らなかったため,直ちに帳下に至り,孫歆を虜
にして而して還った。乙丑,王濬は呉の水軍都督の陸景を撃ち殺した。杜預は江
陵に進み攻め,甲戌,之に克つと,伍延を斬りすてた。是に於いて沅(水)、湘
(水)以南から,交(州)、廣(州)に於けるに接するまで,州郡は皆が風を望
み印綬を送りつけてきたのである。杜預は節を杖にして詔を稱え而して之を緩撫
した。凡そ斬獲する所となった呉の都督、監軍は十四,牙門、郡守は百二十餘人と
なった。胡奮は江安に克った。
乙亥,詔がくだった:「王濬、唐彬は既にして巴丘を定めたなら,胡奮、王戎と
共になり夏口、武昌を平らげ,流れに順いて長騖し,直ちに秣陵を造せ。杜預は
當に零、桂を鎮め靜め,衡陽を懷輯すべし。大兵の既にして過ぎたれば,荊州の
南の境は固められようから當に檄を傳えて而して定むべし。杜預等は各おの兵を
分けて以って王濬、唐彬に益してやり,太尉の賈充は屯を項へ移すように。」
王戎は參軍であった襄陽の羅尚、南陽の劉喬を遣わし兵を將いさせて王濬と合
わさって武昌を攻めたところ,呉の江夏太守の劉朗、督武昌諸軍の虞昺は皆降っ
た。虞昺は,虞翻之子である。
61 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:46:40
杜預は衆軍と会議した,或るもの曰く:「百年之寇なれば,未だ盡く克つ可か
らざるものです,方(まさ)に春水が生ぜんとしておりますから,久しく駐まる
ことは難しいでしょう,宜しく來たる冬を俟ち,更めて大舉を為すべきです。」
杜預曰く:「昔樂毅は藉濟して西へむかい一戰して以って強齊に並びたった,今
や兵威は已にして振るわれている,譬えるなら破竹の如し,數節之後には,皆刃
を迎えれば而して解けてしまい,復た手を著す處など無くなろう。」遂に群帥に
方略を指し授け,建業へ逕造することとなった。
呉主は王渾が南下したと聞くと,丞相の張悌、督丹楊太守の沈瑩、護軍の孫震、
副軍師の諸葛靚を使て衆三萬を帥させて渡江して逆戰させようとした。牛渚に至
ると,沈瑩は曰く:「晉が水軍を蜀に於いて治めること久しい,上流の諸軍は,
素より戒備など無く,名將は皆死んでしまい,幼少が任に當っている,恐らくは
御ること能うまい。晉之水軍は必ずや此に於けるに至ろう,宜しく衆の力を畜(
たくわ)えて以って其の來たるを待つべきだ,之と一戰し,若し幸にも而して之に
勝てば,江西は自ずから清められよう。今渡江して晉の大軍と戰い,不幸にして而
して敗れたなら,則ち大事は去ってしまおう!」張悌曰く:「呉の將に亡びなんと
するは,賢愚の知る所であり,今日のことに非ず(昨日今のことではない)。吾が
恐れるは蜀兵が此れに至らば,衆心が駭れ懼れてしまい,復た整える可からざるこ
とになることだ。今渡江するに及べば,猶も戰いを決す可きものとなる。若し其れ
敗れ喪われても,同じくして社稷に死すのだから,復た恨む所とて無くなろう。
若し其れ克ち捷てば,北の敵は奔り走(のが)れよう,(彼我の)兵の勢いは萬倍
となる,便じて當に勝ちに乗じて南へ上るべし,之に逆らい道に中るにさいし,破
らざるを憂いず。若し子の計の如くすれば,恐らくは士衆は散り盡きてしまい,坐
したまま敵の到るを待つこととなろう,君臣倶に降り,復た一人とて難に死す者が
無いなど,亦た辱しからざらんか!」
62 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:56:39
三月,張悌等は江を濟り,王渾の部將で城陽都尉の張喬を楊荷に於いて圍んだ。
張喬の衆は才七千ほどで,柵を閉ざして降ることを請うてきた。諸葛靚は之を屠っ
てしまおうと欲したが,張悌曰く:「強敵が前に在るからには,宜しく先ず其の小
を事えるべからず,且つ降りしを殺すは不祥である。」諸葛靚曰く:「此屬めらは
以って救いの兵が未だ至らず,少なき力ゆえ敵せざるため,故に且つは偽って降っ
てみて以って我らを緩ませんとしているもので,真に降伏したに非ず。若し之を
捨ておいて而して前へすすめば,必ずや後の患いと為りましょうぞ。」張悌は從
わず,之を撫して而して進んだ。張悌は揚州刺史である汝南の周浚と,陳(陣)を
結んで相對した,沈瑩が丹楊の鋭卒、刀楯五千を帥していたため,三沖の晉兵は,
動けなかった。沈瑩が引き退くと,其の眾が亂れた;將軍の薛勝、蔣班は其の乱
れに因って而して之に乘じたため,呉兵は以って次つぎに奔り潰え,將帥は止め
ること能わなくなった,張喬が後ろより之を撃って,呉兵を版橋に於いて大敗さ
せた。諸葛靚は數百人を帥して遁れ去り,張悌を過ぎ迎え使まんとしたが,張悌
は去ることを肯わなかったため,諸葛靚は自ら往きて之を牽き曰く:「存亡とい
うものは自ら大數の有るもの,卿一人が支える所に非ず,奈何故(何故に)自ら
死を取らんとするのか!」張悌は涕を垂らし曰く:「仲思よ,今日是れこそ我が
死す日なのだ!且つ我は兒童と為りし時に,便じて卿の家の丞相に識られ拔擢さ
れる所と為って,常に其の死を得ざるを恐れてきた,賢者の知顧をえたものだと
の名声を背負うことになったからだ。今や身を以って社稷に徇じられるのだ,復
た何ぞ道ならんか!」諸葛靚は再三にわたり之を牽きつれようとしたが,動かな
かったため,乃ち涙を流して放りだし去った,行くこと百餘歩して,之を顧みる
と,已にして晉兵に殺される所と為っていた,並んで孫震、沈瑩等七千八百級が
斬られたため,呉人は大いに震えることとなった。
63 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:59:38
初め,詔書では王濬を使て建平に下りきたれば,杜預から節度を受け,建業に
至れば,王渾から節度を受けることとなっていた。杜預は江陵に至ると,諸將に
謂って曰く:「若し王濬が建平を得たなら,則ち流れに順い長驅させよ,威名は
已にして著われているのだ,宜しく我に於ける制約を受け令むるべからず;若し
克つこと能わざるなら,則無縁得施節度(則ち節度を施すことを得るような縁る
べなどもとより無くなろう)。」王濬が西陵に至ると,杜預は之に書を與えて曰
く:「足下は既にして其の西籓を摧(くじ)かれたからには,便じて當に建業を
逕取すべきです,累世之逋寇を討ちほろぼし,呉人を塗炭に於けるより釋(すく)
いだし,軍旅を振るわせて都に還るも,亦た曠世の一事ではないですか!」王濬
は大いにスび,杜預の書を表呈した。張悌が敗死するに及び,揚州別駕の何ツは
周浚に謂って曰く:「(呉の丞相たる)張悌が全ての呉の精兵を舉げておきなが
ら此れに於いて殄滅してしまったため,呉之朝野には震懾せざるものなど莫くな
っております。今王龍驤(※龍驤将軍である王濬のこと)は既にして武昌を破り,
勝ちに乘じて東下してきており,向う所輒ち克ち,土崩之勢いが見えております。
謂わんとするのは宜しく速やかに兵を引きつれて渡江し,直ちに建業を指すべき
ということです,大軍が猝至すれば,其の膽氣を奪うことでしょうから,戰わず
して禽える可きこととなりましょう!」周浚は其の謀を善しとし,使いして王渾
に白させることとした。何ツ曰く:「王渾どのは事機に暗く,而して欲すのは己
を慎み咎を免れんとすことですから,必ずや我に從わざることでしょう。」周浚
は固く使いをやって之を白させたが,王渾は果たして曰く:「受けし詔命は但だ
たんに江北に駐屯し以って呉軍に抗すようにとの令であって,輕がるしく進ま使
まざるものであった。貴州は武なりと雖も,豈に能く獨りで江東を平らげえよう
か!今は命を違えて,勝ったとしても多いとするに足りまいが,若し其の勝たざ
るなら,罪を為すこと已にして重くなろう。且つ詔には龍驤を令て我が節度を受
けさせよとある,但だたんに當に君に舟楫を具えさせ,一時にして俱に濟らんと
すのみとしよう。」何ツ曰く:「龍驤どのは萬里之寇に克ち,既成之功を以って
して來たりて節度を受けるのですが,そのようなことは未だ之れ聞かざることで
す。且つ明公は上將と為っております,見えれば可として而して進みましょう,
豈に一一(いちいち)詔令を須つこと得るべきでしょうか!今此れに乘じて渡江
すれば,十全にして必ず克つものです,何をか疑い何をか慮って而して淹留した
まま進まざるのですか!此れ鄙州の上下が恨恨とする所以ですぞ。」しかし王渾
は聽きいれなかった。
64 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:06:01
王濬が武昌より流れに順って建業へ徑趣した,呉主は游撃將軍の張象を遣わし
舟師萬人を帥させて之を御がせんとした,張像の衆は旗を望むと而して降ってし
まった。王濬の兵甲は長江を滿たし,その旌旗は天を燭らし,その威勢は甚だ盛
んとなって,呉人は大いに懼れることとなった。呉主之嬖臣であった岑昏は,傾
險諛佞を以ってして,位を九列に致し,功役を興すことを好んだため,衆が患い
苦しむところと為っていた。晉兵の將に至らんとするに及び,殿中の親近數百人
が叩頭して呉主に於いて請うて曰く:「北軍は日ごと近づいておるのに而して兵
は刃を舉げずにおります,陛下には將た之を如何せんか?」呉主曰く:「何故か
?」對して曰く:「正しく岑昏を坐すのみです。」呉主は獨り言った:「爾が若
かば,當に奴隷を以ってして百姓に謝すべきだというのか!」衆は因って曰く:
「唯!(それだけです)」遂に並び起って岑昏を収めた。呉主は駱驛して追い止
めんとしたが,已に之を屠ってしまったあとであった。
陶浚は將に郭馬を討とうとして,武昌に至ったところで,晉兵大いに入るを
聞いたため,兵を引きつれて東へ還った。建業に至ると,呉主は引見し,水軍の
消息を問うた,對して曰く:「蜀の船は皆小さいものです,今二萬の兵を得て,
大船に乗って以って戰ったなら,自ら之を破るに足ることでしょう。」是に於い
て衆を合わせ,陶浚に節鉞を授けた。明くる日當に出發すべきとなると,其の夜,
衆の悉くが逃れ潰えてしまった。
時に王渾、王濬及び琅邪王の司馬[人由]は皆が近境に臨んでいた,呉の司徒の
何植、建威將軍の孫晏は悉く印節を送り詣でて王渾に降ろうとした。呉主は光祿
勳の薛瑩、中書令の胡沖等の計を用い,使者を分け遣わして書を渾、濬、伷に於
いて奉じさせ以って降らんことを請うた。又た其の群臣に書を遣わして,深く自
らに責を咎めて,且つ曰く:「今大晉が四海を平らげ治めんとしている,是れぞ
英俊が展節之秋であろう,勿以移朝改朔,用損厥志。」使者が先ず璽綬を琅邪王
[人由]に於いて送った。壬寅,王濬の舟師が三山を過ぎると,王渾は信書を遣わ
して王濬を要して(軍事行動を拘束して)暫く事を論じて過ごそうとしてきた;
王濬は帆を挙げ直ちに建業を指すと,返報して曰く:「風が利ろしいゆえ,泊ま
るを得ませんな。」是日,王濬の戎卒は八萬となっており,方舟は百里になんな
んとし,鼓噪して石頭に於いて入っていった,呉主の孫皓は面縛して輿櫬し,軍
門に詣でて降ってきた。王濬は縛めを解き櫬(かせ)を焚きすて,延請相見。
其の圖籍を収めてみると,克ちとった州は四つ,郡は四十三,戸は五十二萬三千,
兵二十三萬であった。
65 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:12:08
朝廷は呉が已に平げられたと聞くと,群臣は皆が慶賀し壽(ことほぎ)を上ら
せてきた。帝は爵を執って涕を流して曰く:「此れは羊太傅の功である。」驃騎
將軍の孫秀は慶賀せず,南を向いて流涕して曰く:「昔討逆(将軍孫策)さまが
弱冠にして一校尉を以って創業せられたものを,今や後の主が江南を挙げて而し
て之を棄てさってしまう,宗廟も山陵も,此れに於いて廃墟と為ってしまおう。
悠悠たるかな蒼天よ,此れ何をか人たらんか!」
呉の未だ下らざるや,大臣は皆が以為らく未だ輕がるしく進む可からずとした
が,獨り張華のみは堅く執って以為らく必ずや克ちましょうとした。賈充は上表
して稱えた:「呉の地は未だ悉く定む可からず,方に夏になれば,江、淮の下流
地域は濕くなるため,疾疫が必ずや起こりましょう,宜しく諸軍を召して還らせ,
以って後圖と為さしむべきです。張華めを腰斬すると雖も以って天下に謝すに足
らざることですぞ。」帝曰く:「此れは是れ吾が意であって,華は但だたんに吾
と(意見を)同じにしているだけだ。」荀勖が復た奏上し,宜しく賈充の表の如
くすべしとしてが,帝は從わなかった。杜預は賈充が罷兵を乞う奏上をしたと聞
きつけ,馳せて表し固く爭わんとした,使いが轘轅に至ったところで而して呉が
已に降った。賈充は(見通しが外れたことを)慚じ懼れ,闕に詣でて罪を請うた
が,帝は慰撫して而して不問とした。
夏,四月,甲申,詔あって孫皓に爵を賜り歸命侯とした。
乙西,大赦し,改元した。大いに酺すこと五日。使者を遣わし分けて荊、揚に
詣でさせ撫慰させた,呉の牧、守已下は皆更め易えることせず,其の苛政を除く
こととし,悉く簡易に従うようにとしたため,呉人は大いにスんだ。
滕修は郭馬を討って未だ克てずにいたおり,晉が呉を伐さんとしていると聞き,
衆を帥して難に赴かんとした,巴丘に至ると,呉亡ぶと聞き,(衣服を)縞素に
して流涕し,還ると,廣州刺史の閭豐、蒼梧太守の王毅と各おの印綬を(晋へ)
送って降らんことを請うた。孫皓は陶璜之子の融を遣わして手づからの書を持た
せて陶璜を諭すと,陶璜は涕を流すこと數日,亦た印綬を送って降った;帝は皆
其の本の職に復させた。
王濬之東下するや,呉の城の戍は皆が風を望んで款附してきたが,獨り建平太
守の吾彦だけは城を嬰して下らず,呉が亡んだと聞いてから,乃ち降った。帝は
吾彦を以って金城太守と為した。
66 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:17:48
初め,朝廷では孫秀、孫楷を尊寵していた,以って呉人を招來せんと欲しての
ことであった。呉が亡ぶに及んだ,孫秀(の位階)を降して伏波將軍と為し,
孫楷を渡遼將軍と為した。
琅邪王の司馬[人由]は使いを遣わして孫皓及び其の宗族を送りだし洛陽に詣で
させた。五月,丁亥朔,孫皓が至ると,其の太子である瑾等と泥頭面縛し,東陽
門に詣でた。詔があって謁者を遣わして其の縛めを解かせ,衣服、車乘、田三十
頃を賜り,歳ごとに錢谷、綿絹を給わること甚だ厚かった。孫瑾を拝して中郎と
為し,諸子で王と為っていた者は皆郎中と為し,呉之舊望は,才に隨って擢敘し
た。孫氏の將吏で渡江してきた者は十年を復し,百姓は二十年を復すこととした。
庚寅,帝は軒に臨み,文武で位に有るもの及び四方の使者をあつめ大會したが,
國子學生は皆預ること焉れなったのである。歸命侯の孫皓及び呉の降人を引見す
ることとなった,孫皓は登殿すると稽顙した。帝は孫皓に謂って曰く:「朕は此
れに座を設けて以って卿を待つこと久しかったぞ。」皓曰く:「臣も南方で,亦
た此れに座を設けて以って陛下を待っておりました。」賈充が孫皓に謂って曰く
:「聞けば君は南方に在りしおり人の目を鑿ち,人の面皮を剥いだというが,此
れは何の刑に等しいかな?」皓曰く:「人臣で其の君を弑し奸回不忠に及ぶ者が
有れば,則ち此の刑を加えるのみですな。」賈充は默然として甚だ愧じいったが,
而して孫皓の顔色は怍すところ無いものであった。
帝は從容として散騎常侍の薛瑩に孫皓が亡びし所以を問うた,對して曰く:
「皓は小人を暱近し,刑罰は放濫であったため,大臣も諸將も,人は自らを保て
ませんでした,此れが其れ亡びし所以であります。」它日,又た吾彦に問うたと
ころ,對して曰く:「呉主は英俊で,宰輔は賢明でありました。」帝は笑って曰
く:「是れに若かば,何故に亡んだのだ?」吾彦曰く:「天は永らえるさまと終
わりのさまを祿しておるもので,歴數には屬すものが有るものです,故に陛下の
為に禽われとなっただけです。」帝は之を善しとした。
67 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:25:28
王濬之建業に入るや,其の明くる日,王渾が乃ち長江を濟ってき,以って王濬
が己を待たずに至り,先んじて孫皓の降伏を受け入れていたため,意は甚だ愧じ
忿って,將に王濬を攻めようとした。何攀が王濬に孫皓を送りだして王渾に与え
るよう勧めたため,是に由って事は解けるを得た。何ツは以って王渾が王濬と功
績を爭ったために,周浚に箋を与えて曰く:「《書》にあり、貴ばれるは克讓で
あると,《易》にあり、大いに謙れば光かがやけりと。前に張悌を破ったおり,
呉人は氣を失い,龍驤どのは之に因って,其の區宇を陷しいれた。其の前後を論
ずるに,我らのほうは實(まこと)は師を緩ませてしまい,既に機會を失ったこ
と,事に於いて及ぶものではない,而るに今方に其の功を競っている;彼が既に
して聲を吞まずにいるのだから,將に雍穆之弘を虧し,矜爭之鄙を興すこととな
ろう,斯かる愚情なりし所は(吾の)取らざることだ。」周浚は箋を得ると,即
ち王渾を諫め止めた。しかし王渾は納れず,表して王濬は詔に違えて節度を受け
なかったとして,その状を罪とするを以って誣した。王渾の子の王濟は,常山公
主を尚んでおり,宗黨が強く盛んであった。(その為そのことを慮って)有司が
これを奏して檻車を請うて王濬を征すようにとしたが,帝は弗(けっ)して許さ
ず,但だたんに詔書を以って王渾の命に従わず,制を違えて利に昧であったこと
を以って王濬に(功績を?)謙譲するよう責めただけであった。それについて王
濬は上書して自らを理めて曰く:「前に詔書を被りましたおりには,臣を令て直
ちに秣陵へ造さしむものとし,又た令があり太尉である賈充さまの節度を受ける
ようにとのことでした。臣は十五日を以って三山に至りまして,王渾の軍が北岸
に在るのに見えたため,書を遣わして臣を邀えさせました;臣は水軍でありまし
たから風が発して勢いに乘っておりましたうえ,賊の城が逕造しておりましたか
ら,船を回す縁るべが無く軍を過ごすこととなりました。そうして臣は日中を以
って秣陵に至ったわけですが,暮には乃ち王渾が下せし所の當に節度を受けるべ
し,臣を令て明くる十六日には領せし所を悉く將いて還って石頭(城)を圍むよ
うに欲しているとの符を被りました,それには又た索きつれてきた蜀兵及び鎮南
諸軍らの人名を定め見ておくようにともありました。臣以為らく孫皓の已にして
來り降ったからには,空しく石頭を圍む由縁など無いものでしょう;又た,兵と
人を定め見ておくこと(※名簿を作成して作戦に参加した人員を確定する作業)
など,倉猝として就くを得る可からざるもので,皆當今之急に非ざることです,
とても承り用いる可きでないもの(命令)であって,敢えて明制を棄てること忽
れというに非ざることでございましょう。孫皓と衆が親しきより叛き離れてしま
ったことは,匹夫が獨りだけで坐にあって,雀鼠が生を貪って,苟くも一活を乞
いねがうのみといったありさまでありました,而るに江北の諸軍はそうした虚実
というものを知らずに,(呉を攻略して)縛り取ること早くせず,自ら小さな誤
りを為していたのです。臣が至って便じて(呉の降伏という成果を)得てしまっ
てから,更めて怨み恚りを見るようなことをしています,並べて云いますが:
68 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:35:46
『賊を守って百日たち,而して他の人を令て之を得させしむ。』というものです。
臣は愚かしくも以為らく君に事(つか)える道とは,苟しくも社稷に利ろしくあ
るもので,死生は之を以ってするもの。若し其の嫌疑を顧みて以って咎責を避け
んとするのなら,此れぞ是れ人臣にあるまじき不忠之利というものであり,實(
まこと)に明主からうけられる社稷之福に非ざるものであるでしょう。」
王渾は又た周浚に書を騰げて云った:「王濬の軍は呉の寶物を得た。」又た
云った「王濬の牙門將である李高が放火して孫皓の偽宮を燒いてしまった。」
王濬は復た表して曰く:「臣は孤り根でありまして獨りだけで立っております
から,強宗から恨みを結ばれております。夫れ上を犯し主を干す,其の罪は救
わる可し;貴臣から乖れ忤らえば,禍ちは測らざること在る、といいます。偽
の郎將である孔攄が説明しました:去る二月に武昌が守りを失い(失陥し),
水軍が行き至ることとなって,孫皓は石頭に行くことを案じて還ってきました,
そうしたところ左右の人は皆が刀を跳ねあげて大呼して云ったといいます:
『要して當に陛下の為に一えに死戰して之を決すべし。』孫皓の意は大いに喜
び,意うに必ずや然ること能うるものとし,便じて金寶を盡く出して以って之
に賜り與えました。小人は状など無いもの,得るや便じて持ちだし逃走してし
まったのです。そこで孫皓は懼れ,乃ち降首を圖ることとなったとのことです。
そうして降使が去るに適うや,左右のものが財物を劫奪し,(孫皓の宮殿にい
た)妻妾を略取し,火を放って宮殿を燒きました。孫皓は身を逃れること竄首
のごとくし,脱けだせず死すことを恐れたのです。そこに臣が至って,參軍の
主だった者を遣わして救うこととし其の火を断っただけでございます。周浚が
先んじて孫皓の宮殿に入り,王渾も又た先んじて孫皓の舟に登りました,臣が
入り觀たことは,皆其の後に在ったものです。孫皓の宮之中は,乃ち坐す可き
席とて無くなっておりました,若し遺された寶が有ったのだとしても,それは
則ち周浚と王渾が先に之を得たはずでございます。等雲臣屯聚蜀人,不時送皓,
欲有反状。又た呉人を動かしてしまうことを恐れてか,臣に皆當に誅殺すべき
であるとか,其の妻子を(人質に)取るべきであるとか言ってきましたが,其
れ亂を作して,私忿を騁すを得んと冀うものでありました。謀反は大逆である
ものですが,尚も以って(大赦を/詳しい取り調べが)加えられるに見えるも
のです,其の餘りの謗りなど□沓というものです,故(もと)より其れ宜しく
すべきのみでございましょう。今年は呉を平(定)なさいましたからには,誠
に大慶を為したことでございます;臣之身に於けることについては,(慶年で
はない翌年にでも)更めて咎累を受けたくぞんじます。」
69 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:43:06
王濬が京師に至ると,有司が奏上して王濬は詔に違えて,大いに不敬である,
請いねがわくば廷尉に付けて罪を科りたいとしてきた;しかし詔がくだって許
されなかった。又た奏上があり王濬は赦免後に賊船百三十五艘を燒きすてたか
ら,輒ち敕令をくだして廷尉に付けて禁推するようにとしてきた;しかし詔が
あって推すこと勿れとなった。
王渾、王濬が功を爭って已まなかったため,帝は守廷尉であった廣陵(出身)
の劉頌に命じて其の事を校ずようにとしたところ,王渾を以って上功と為し,
王濬を中功と為してきた。(その歪んだ校じかたに)帝は以って劉頌は法を折
り理を失ったとして,京兆太守に左遷した。
庚辰,賈充の邑を増して八千戸とし,王濬を以って輔國大將軍と為し,襄陽
縣侯に封じた;杜預は當陽縣侯と為った;王戎は安豐縣侯と為った;琅邪王の
司馬[人由]の二子を封じて亭侯と為した;京陵侯である王渾の邑を揩オて八千
戸とし,爵を進めて公と為した;尚書であった關内侯の張華は封を廣武縣侯に
進められ,増邑して萬戸となった;荀勖は以って典詔命功を専らにしたとして,
一子を封じて亭侯と為した;其の餘りの諸將及び公卿以下は,賞賜に各おの差
が有った。帝は以って呉を平げたため,策をくだして羊祜の廟に告げさせると,
乃ち其の夫人である夏侯氏を封じて萬歳郷君とした,食邑は五千戸である。
王濬は自らを功大なるを以ってしながら,而して王渾父子及び黨與の為に挫
抑される所となったことから,進見する毎に,其の攻伐之勞及び枉げられるに
見えた之状況を陳べ,或るときには忿憤に勝てず,逕出するにあたって辭すこ
となかったほどであったが;帝はこと毎に之を容恕したのである。益州護軍の
范通は王濬に謂って曰く:「卿の功は則ち美しいが,然りながら恨む所以は美
しきに居る者として未だ善を盡くしておりませんな。卿は旋旃せる日には,角
巾私第し,口不言平呉之事(呉平定の事について自分では言わないが宜しい),
そして若し問う者が有れば,輒ち曰く:『聖人之コがあって,また群帥之力めに
よるもの,老夫が何をか之に力めたこと有ったろうか!』とするのです。此れぞ
藺生が廉頗に屈した所以,王渾も愧じること無くすこと能うでしょうな!」王濬
曰く:「吾は始めケ艾之事で懲らしめられたおり,禍ちが身に及ぶことを懼れて,
無言でいることを得なかった;其終不能遣諸胸中,是れが吾が褊である。」時の
人は鹹(みな)以って王濬の功が重いのに報われたことが輕かったため,之が為
に憤邑したのである。博士の秦秀等が並んで上表して王濬之屈辱を訟えたため,
帝は乃ち王濬を遷して鎮軍大將軍とした。王渾が嘗て王濬に詣でたおり,王濬は嚴
しく護衛を設け備えてから,然る後に之に見えた。
70 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:51:58
杜預は襄陽に還ると,以為らく天下は安んじたと雖も,戰を忘れれば必ずや
危うしとして,乃ち講武に勤め,戍守を厳しくしておくよう申しわたした。又
た滍、淯から水を引きこみ以って田を浸すこと萬餘頃,揚口を開いて零、桂之
漕に通じさせたため,公私は之をョりにした。杜預は身づからは馬に跨れず,
射撃は札を穿ざるものであったが,而して兵を用いて勝ちを制すことにかけて
は,諸將で及ぶもの莫かった。杜預が鎮に在ったおり,數(たびた)び洛中の
貴要へ餉遺をおこなっていた;或るひとが其の故を問うと,杜預曰く:「吾但
だ害されることに為るを恐れるのみ,益を求めず。」
王渾は征東大將軍に遷り,復た壽陽を鎮めた。
(呉が平定されてしまってから)諸葛靚は逃竄したまま出なかった。帝は諸
葛靚と旧縁が有り,諸葛靚の姊が琅邪王妃と為っていたことから,帝は諸葛靚
が姊の間に在ると知り,因って就きて見えること焉れならんとした。諸葛靚は
廁に逃れたが,帝も又た之に逼り見え,謂って曰く:「不謂今日復得相見!
(今日復た相見えることを得たと丕いに謂うところだな)」諸葛靚は涕を流し
て曰く:「臣は漆身皮面すること能わず,復た聖顔を睹すことになり,誠に為
に慚じ恨みいるしだい!」詔がくだされて以って侍中と為そうとしたが;固辭し
て拜さず,郷里に於けるに歸ると,終身朝廷を向かずに而して坐したという。
六月,復た丹水侯睦を封じて高陽王と為した。
秋,八月,己未,皇弟延祚を封じて樂平王と為したが,尋くして薨じた。
九月,庚寅,賈充等が天下一統なったことを以って,屢ねて封禪を請うてき
たが;帝は許さなかった。
冬,十月,前將軍で青州刺史である淮南(出身)の胡威が卒した。威は尚書
と為ると,嘗て時政之ェを諫めたことがあった。帝曰く:「尚書郎以下,吾の
假借する所など無いのだが。」胡威曰く:「臣が陳べし所は,豈に丞、郎、令
史に在るものでしょうぞ,正しく臣等の如き輩に謂うもので,始めるに王化を
肅し法を明らかにするを以ってす可きだけですぞ!」
是の歳,司隸が統めし所の郡を以って司州を置くこととなった,凡そ州は十
九,郡國は一百七十三,戸(数)は二百四十五萬九千八百四十である。
71 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:57:33
詔に曰く:「昔漢の末より,四海は分かたれ崩れおちてから,刺史は内では
民事に親しみ,外では兵馬を領すこととなってきた。今天下は一つと為ったの
だから,當に干戈を韜戢すべきである,刺史は職を分かつこと,皆漢氏の故事
の如くとす;悉く州郡より兵をとり去り,大郡には武吏百人を,小郡には五十
人を置くものとす。」交州牧の陶璜が上言した:「交、廣州は西すこと千里を
數えるものでして,賓屬せざる者は六萬餘戸もあるというのに,官役に服し従
うに於けるに至るものは,才五千餘家でございます。二州は脣齒でありまして,
唯だ兵だけが是れ鎮めおけるものです。又た,寧州の諸夷が,上流で接し據っ
ておりまして,水陸並び通じておりますから,州兵は未だ宜しく約損したりし
て,以って單虚を示させるべからざることです。」僕射の山濤も亦た言った
「宜しく州郡より武備をとり去るべからず」。しかし帝は聽きいれなかった。
永寧以後に及んで,盜賊が群れ起つと,州郡には備えが無かったため,禽制す
こと能わず,天下は遂に大いに亂れることとなったこと,山濤が言いし所の如
くとなった。然るに其後に刺史は復た兵民之政を兼ねることとなって,州鎮は
愈すます重くなったのである。
漢、魏以來,羌、胡、鮮卑で降った者は,多くが之を塞内の諸郡に處すこと
となっていた。其の後になり數(たびた)び忿りや恨みに因って,長吏を殺害
し,漸いに民の患いと為ってきた。侍御史であった西河(出身)の郭欽が上疏
して曰く:「戎狄が強_でありますこと,古を歴してより患いを為しております。
魏の初めには民が少なかったことから,西北の諸郡は,皆戎居と為りまして,内
及び京兆、魏郡、弘農は,往往にして之が有るわけです。今は服從していると雖
も,若し百年之後に風塵之警が有れば,胡騎は平陽、上黨より三日もせずに而し
て孟津に至ることでしょう,北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡は盡くが狄の
庭と為りはてましょう。宜しく平呉の威と,謀臣や猛將の方略を及ぼすべきであ
ります,漸いに内郡の雜胡を邊地に於けるに徙(うつ)して,四夷から出入之防
を峻別(峻拒)し,そうして先の王たちがおこなった荒服之制を明らかとなさい
ますように,此れぞ萬世の長策というものです。」帝は聽きいれなかった。
張賓字孟孫,趙郡中丘人也.父瑤,中山太守.賓少好學,博涉經史,不為章句,闊達有大節,
常謂昆弟曰:「吾自言智算鑒識不後子房,但不遇高祖耳.」為中丘王帳下都督,非其好也,病免.
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しく、文章は作らず、闊達でおおいに節度があった。
いつも弟にいうには「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」と。
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
及永嘉大亂,石勒為劉元海輔漢將軍,與諸將下山東,賓謂所親曰:「吾歷觀諸將多矣,
獨胡將軍可與共成大事.」乃提劍軍門,大呼請見,勒亦未之奇也.
後漸進規謨,乃異之,引為謀主.機不虛發,算無遺策,成勒之基業,皆賓之勳也.
及為右長史、大執法,封濮陽侯,任遇優顯,寵冠當時,而謙虛敬慎,開襟下士,
士無賢愚,造之者莫不得盡其情焉.
肅清百僚,屏絕私昵,入則格言,出則歸美.
勒甚重之,每朝,常為之正容貌,簡辭令,呼曰「右侯」而不名之,勒朝莫與為比也.
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、寵愛は当時で一位であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、士大夫は賢愚となく
百官を静め、コネを絶ち、幕下に入ってからは名言を放ち、
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒は
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。
石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、簡略に「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。
若くして学を好み、 経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、
また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。
「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡将軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、
朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、入朝するたびに、常に身だしなみを整え、
言葉遣いを選んで「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流し、側近に語った。
「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。
石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。祖父の名を耶奕于といい、
父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、
いつも自分の代理として石勒に(部族を)統括、監督させた。
部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武郷の北側の台地にある山の草木はみな鉄騎のような形をしており、
家の庭に生えた人参は花葉がとても生い茂り、全て人間のような形をしていた。
石勒とあった長老たちは皆、こういった。
「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ駆だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」
太安中,并州飢亂,勒與諸小胡亡散,乃自雁門還依ィ驅.北澤都尉劉監欲縛賣之,驅匿之,獲免.
勒於是潛詣納降都尉李川,路逢郭敬,泣拜言飢寒.敬對之流涕,以帶貨鬻食之,并給以衣服.勒謂敬曰:
「今者大餓,不可守窮.諸胡飢甚,宜誘將冀州就穀,因執賣之,可以兩濟.」
敬深然之.會建威將軍閻粹説并州刺史、東嬴公騰執諸胡於山東賣充軍實,
騰使將軍郭陽、張隆虜群胡將詣冀州,兩胡一枷.
勒時年二十餘,亦在其中,數為隆所敺辱.敬先以勒屬郭陽及兄子時,陽,敬族兄也,
是以陽、時毎為解請,道路飢病,ョ陽、時而濟.
既而賣與仕(草かんむりつき)平人師懽為奴.有一老父謂勒曰:
「君魚龍髮際上四道已成,當貴為人主.甲戌之歲,王彭祖可圖.」
勒曰:「若如公言,弗敢忘コ.」忽然不見.毎耕作於野,常聞鼓角之聲.
勒以告諸奴,諸奴亦聞之,因曰:「吾幼來在家恒聞如是.」諸奴歸以告懽,懽亦奇其状貌而免之.
太安年間(302〜303年)。并州で飢饉が起き、石勒は若い胡人とともに遠くに散っていった。
のちに雁門郡から帰り、ィ駆を頼っていった。北沢都尉の劉監が石勒を捕らえ売ろうとしたところ
(ィ驅が)を匿ってくれ、とらえらえずに済んだのである。
石勒は事態がここに至ったので、ひそかに、都尉の李川のところに行き自首した。
路上で郭敬に会い、拝み泣いて寒さと飢えを訴えた。
郭敬も石勒に向かって涙を流し、持っていた金と食料と衣服を与えた。石勒は郭敬に言った。
「今は大飢饉です。困窮するのを待つばかりではいけません。多くの胡人たちはとても飢えています。
冀州に食料があるといって誘導し、捕らえて売ってしまうべきです。
それで、あなたと胡人ともに助かるでしょう」。
郭敬は石勒の言葉に大いに同意した。并州刺史、東嬴公の司馬騰が建威將軍・閻粹に、
胡人たちを捕らえ、山東に売り、軍資金にあてるように説かれ、(派遣された)
将軍の郭陽と張隆が胡人たちを捕らえ二人一枷にして冀州に赴いているのに会った。
石勒はその時、二十数歳であり、その中にいれられて、何度も張隆に殴られ、辱められた。
それ以前に郭敬は、郭陽が自分の兄筋の親戚だったので、
石勒を郭陽と兄の子、郭時に所属させるようにさせていた。
それで郭敬、郭時はいつも(張隆に石勒をいたぶるのを)やめるように頼んでいた。
途上で、飢え、病にかかったが、郭陽を頼り、なんとか助かった。
仕(草かんむりつき)平の人、師懽に売られ、その奴隷となった。ある老人が石勒に言った。
「あなたは、人の主となる貴い相をしている。甲戌の歳、王彭祖、図るべし」。
石勒は答えた。「もし、その言葉どおりならば、あなたの徳を忘れることはないだろう」。
(老人は)ふいに姿を消した。野を耕作する度に、太鼓と角笛の音が聞こえた。
石勒は他の奴隷たちに(そのことを)告げると、奴隷たちにも聞こえていた。それで石勒は言った。
「私は幼いとき、家にいる時からこれが聞こえていた」。
奴隷たちは帰ってから師懽に(そのことを)告げた。
師懽も(石勒の)姿形からただ者ではないと思い、耕作させるのを免除させた。
及成都王穎敗乘輿于蕩陰,逼帝如鄴宮,王浚以穎陵辱天子,使鮮卑擊之,穎懼,挾惠帝南奔洛陽.
帝復為張方所逼,遷于長安.關東所在兵起,皆以誅穎為名.河間王顒懼東師之盛,欲輯懷東夏,乃奏議廢穎.
是歳,劉元海稱漢王于黎亭,穎故將陽平人公師藩等自稱將軍,起兵趙魏,眾至數萬.
勒與汲桑帥牧人乘苑馬數百騎以赴之.桑始命勒以石為姓,勒為名焉.藩拜勒為前隊督,從攻平昌公模於鄴.
模使將軍馮嵩逆戰,敗之.藩濟自白馬而南,濮陽太守苟晞討藩斬之.
勒與桑亡潛苑中,桑以勒為伏夜牙門,帥牧人劫掠郡縣繫囚,又招山澤亡命,多附勒,勒率以應之.
桑乃自號大將軍,稱為成都王穎誅東海王越、東嬴公騰為名.桑以勒為前驅,屢有戰功,署為掃虜將軍、忠明亭侯.
桑進軍攻鄴,以勒為前鋒都督,大敗騰將馮嵩,因長驅入鄴,遂害騰,殺萬餘人,掠婦女珍寶而去.
濟自延津,南擊兗州,越大懼,使苟晞、王讚等討之.
成都王・司馬穎が恵帝をつれて蕩陰において敗北し、恵帝は鄴にある宮廷に押し込められ、
王浚が司馬穎が天子を陵辱しているとして、鮮卑をつかわして、司馬穎を攻撃させた。
司馬穎は怖れて、恵帝を連れ、南・洛陽に逃げ、恵帝は今度は張方に押し込められ、長安に移された。
関東で兵を起こすものは、皆、司馬穎を殺すことを名目とした。
河間王・司馬顒は東の軍の勢いが盛んなのを怖れて、東のいる晋人をなだめようと、司馬穎を廃することを奏上し議題にあげた。
この年に、劉淵が黎亭において漢王を名乗り、司馬穎の武将であった公師藩が将軍を自称し、
趙魏地方において、挙兵し、数万の衆となっていた。
石勒は牧人の総帥である汲桑とともに牧場の馬に乗り、数百騎で公師藩の軍に赴いた。
汲桑はこの時、初めて石勒に石姓を与え、勒を名とさせた。
公師藩は石勒を前隊の督に任命し、鄴において平昌公・司馬模を攻めた。
司馬模は将軍の馮嵩に迎え撃たせ、公師藩を破った。
公師藩は白馬の南から(黄河を)渡ろうとしたが、濮陽太守・苟晞が公師藩を討ち、斬った。
石勒は汲桑と牧場に逃れて潜み、汲桑は石勒を伏夜牙門に任命した。
牧人たちを率い、郡県の囚人を攻め取り、山にいる亡命者を招き寄せ、多数が石勒についた。
汲桑は大将軍を自称し、成都王・司馬穎のために東海王・司馬越、東嬴公・司馬騰を誅することを名目とした。
汲桑は石勒を先鋒とし、しばしば功績をあげたので、掃虜將軍・忠明亭侯に任命した。
汲桑は進軍して鄴を攻め、石勒を前鋒都督にし、司馬騰の武将・馮嵩を大いに破り、長駆して、鄴に入り、
遂に司馬騰を殺し、一万余人も殺して、婦女子や珍宝を掠めとって去っていった。
延津から(黄河を)渡り、南に行き、兗州を攻撃し、司馬越は大いに怖れ、苟晞と王讚に命じて、汲桑を討たせた。
桑、勒攻幽州刺史石尟於樂陵,尟死之.乞活田禋帥眾五萬救尟,勒逆戰,敗禋,與晞等相持于平原、陽平間數月,
大小三十餘戰,互有勝負.越懼,次於官渡,為晞聲援.桑、勒為晞所敗,死者萬餘人,乃收餘眾,將奔劉元海.
冀州刺史丁紹要之于赤橋,又大敗之.桑奔馬牧,勒奔樂平.王師斬桑于平原.
汲桑と石勒は幽州刺史・石尟を楽陵に攻め、石尟は戦死した。
乞活の田禋が五万の衆を率いて石尟を救いにきて、石勒は迎え撃ち、田禋を破り、
苟晞と平原、陽平の間で数ヶ月、相対した。
大小あわせて三十数回戦い、互いに勝ち負けがあった。
司馬越は怖れて、官渡に軍を宿営させ、苟晞のために(汲桑を)牽制させた。
汲桑と石勒は苟晞に敗れ、死者一万余人を出し、残った衆を集め、率いて劉淵のもとに逃げていった。
冀州刺史・丁紹が赤橋においてこれを阻み、大いに破った。汲桑は馬牧に逃げ、石勒は楽平に逃げた。
晋軍が汲桑を平原において斬った。
浚、字は彭祖。母は趙氏の婦人(未亡人?)で、良家の生まれであったが、生活に困窮し
王沈の屋敷に小間仕えで出入りしているうちに、まもなく浚を出産した。
王沈ははじめ、浚を嫡出子とは認めなかった。
浚が十五歳のときに王沈は薨じたものの、嫡子に恵まれず、親戚達は相談して王浚を嗣子とし、
当主に擁立した。このとき【馬付】馬都尉の官職に蔭補された(拝領した)。
太康年間の初め(280年)、諸王侯に付き従って任地の郡国に赴任した。
太康三年(282年)、朝廷に召し出されると、新たに員外散騎侍郎の職に任ぜられた。
元康年間の初年(291年)には、員外常侍に転任し、さらには越騎校尉、右軍将軍へと位を進めた。
転出して河内太守に補任されたが、司馬氏の郡公が知行を得ていたので、地方長官として
政務を執り行う機会は得られなかった。(ここの意訳は自信がない)そこで、東中郎将に転任し、
許昌に出鎮することになった。
愍懷太子が許昌に幽閉されるに及んで(元康十年・300年)、王浚は賈后の意を受けて
?門の孫慮とともに太子を殺害した。
(この功によって)寧北将軍、青州刺史へと昇任した。
ついで間もなく、寧朔將軍、持節、都督幽州諸軍事にまで昇進を重ねた。
時に、朝廷は(八王の乱によって)混乱を極め、巷間には盗賊が跋扈して、平寧を得る様子が
なかったので、王浚は自らの保身を案じて、夷狄と交際を親密にして友好関係を築き、同盟を
結ぶことを計画した。そこで一女を鮮卑の段務勿塵に、一女を蘇恕延に嫁がせることとなった。
趙王倫が簒奪するに及んで、三王(斉王、成都王、河間王)は義兵を挙げ檄を飛ばしたが、
王浚は配下を使って国境封鎖を厳にして檄書をさえぎり、領内の士大夫から庶民に至るまで
三王の挙兵には参加しないように措置を講じた。 (永康二年・301年)
成都王穎はこのことを根に持って、いつか王浚を討伐してやろうと意気込んだものの、なかなか
その機会を得ることができなかった。趙王倫が誅伐されるに及んで、王浚は安北将軍を号するに
至った。河間王?、成都王穎は共謀して兵を洛陽に差し向け、長沙王乂を詐略に嵌めて討ち
滅ぼしたが、このことで王浚は成都王穎に対し不満を抱くようになった。(太安三年・304年)
成都王穎は上表して、幽州刺史石?を右司馬に、右司馬の和演を石?に代えて幽州刺史
に任じるような人事異動を要求したが、その実、密かに演に命じて王浚を攻め滅ぼさせ、幽州の
衆人を己の勢力に併呑しようと目論んでいたのだった。
和演は烏丸単于の審登と暗殺計画を共謀し、王浚と薊城の南清泉で遊覧する約束を交わ
して、そこで彼を亡き者にしようと図った。薊城には西に通ずるにふたつの幹線道路があって、
浚と演はそれぞれの一道を通ってやって来た。
演は浚と合い鹵簿することを望み(干戈を交えるの意か、それとも行列を並べてともに遊覧に
行こうと誘っているのか?ちょっと自信なし)、よってすなわち計画をここで実行することにした。
ところが、天候はたまたま暴風雨にあたり、準備しておいた兵卒・装備は雨に濡らし、何の成果
も得られないまま還るはめになってしまった。
単于はこの出来事で考えるところがあったので、烏丸の衆人たちを集めて相談することにした。
「和演の野郎は、王浚を暗殺しようと図ったが、もう少しで事が成るってときに、大雨が降ってきて
まんまと取り逃がしちまった。こりゃあ、天が王浚を助けようと思ったからに違いねえ。」
「ツキに見放されちまった和演の野郎なんかと一緒に行動するなんて真平御免だな。」
こうして、烏丸の部衆は暗殺計画があったことを王浚に密告した。王浚は密かに軍に戒厳令を
布き、兵旅を準備させ、烏丸単于と共に和演を包囲した。演は白旗を揚げて王浚に投降した。
王浚は和演を斬首して、成都王への叛旗を翻し、ついに自ら幽州を領有する意図を明らかにした。
兵器を大々的に製造し、娘婿の段務勿塵を招聘して胡漢合わせて20,000の兵を率いさせ、
成都王穎討伐の軍旅を進める次第となった。主簿の祁弘を尖鋭部隊として進軍し、平棘に
おいて成都王の部将石超の軍と遭遇した折には、これを散散に撃ち破った。
王浚は勝ちに乗じて遂には【業β】城を攻め落としたが、この際兵卒に略奪を許可して、
多くの城民がその災禍に巻き込まれ命を落とした。さらに鮮卑は婦女子を略奪すること甚だしく、
見かねた王浚が「敢えて略奪した婦女子を隠匿する者がいたら斬る!」と発令すると、あわてて
易水に沈められてしまった婦女たちは八千にも達したといわれる。
黔庶荼毒、自此始也。(人民の害悪、これより始まる)
王浚が薊城に帰還すると、その声実は否が応でも高まった。東海王越はまさに天子(恵帝)を
迎えんとしたので、浚は祁弘に烏丸突騎を率いて派遣させ、先駆の任務を申し付けた。(永興二年・305年)
恵帝が洛陽に凱旋すると、浚は驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史に任じられ、
燕国から博陵の封地をもって加増を受けた。(永興三年・306年8月)
懐帝は即位すると、浚を司空及び領烏丸校尉に任じ、段務勿塵に大単于の位を授けた。
王浚はまた、務勿塵に遼西郡公の封位を授け、烏丸の大飄滑及びその弟羯朱らをして親晋王
と為すように上表した。
永嘉年間(307年〜312年)、石勒が冀州に寇略してきたため、王浚は鮮卑の段文鴦を
派遣して石勒を討伐させた。この敗戦によって石勒は南陽(黎陽の誤文?)方面へ敗走した。
(永嘉三年・309年「飛龍山の戦い」)
明くる年(310年)、石勒はまたもや冀州に侵攻し、刺史の王斌を殺害した。このため、王浚は
ふたたび冀州に軍を差し向けることとなった。王浚を大司馬、加侍中、大都督、督幽冀諸軍事
に昇進させる詔勅が発せられた。
しかし、その詔勅を届ける使者が出立しないうちに、洛陽は匈奴に攻め落とされてしまったので、
王浚は大司馬の威令をもって、自ら征討の軍を起こし、督護の王昌、中山太守の阮豹たちをして
諸軍及び段務勿塵の世子疾陸眷、並びに弟の文鴦、従弟の末?ら鮮卑兵を率いさせ、石勒
を襄国に攻略した。勒はその部衆を率いて長躯来寇したが、王昌は逆撃してこれを敗走させた。
段末?がこれを追撃して、襄国の塁壁に侵入したあたりで石勒の捕虜となってしまった。勒は
末?を人質として水面下で和平交渉を始めたので、段疾陸眷はついに鎧馬二百五十匹及び
金銀各一?をもって末?と交換することにし、停戦の盟約を結んで、その軍を撤収させたのである。
時胡部大張※督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因説※督曰:
「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能.」勒曰:
「如其不能者,兵馬當有所屬.今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計.」
※督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海.元海署※督為親漢王,莫突為都督部大,
以勒為輔漢將軍、平晉王以統之.勒於是命※督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也.
時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、
幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。その計画が実行されるのももうすぐだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた。
その後(
>>210 襄国包囲の後)、王浚は天下に布告し、(内々で)詔を受け制を承ったのだと称して、
司空の荀藩を太尉に光禄大夫の荀組を司隷校尉に、大司農華薈を太常に、中書令李?を河南尹に
任命した。
王浚は一方で、祁弘を石勒討伐のため廣宗まで派遣した。ところが、途中凄まじい濃霧に見舞われて
迷ってしまった行軍を立て直すために、祁弘が道を探して兵を誘導していたところ、不運にも石勒の軍と
鉢合わせてしまう。祁弘は捕らえられ、石勒の斬殺するところとなった。
(王浚の軍事力の要とも言うべき祁弘が亡くなったことを受けて)劉コン(以後字の越石で通します。)は、
王浚と冀州の覇権を争う意図を顕わにした。劉越石は一族の劉希を中山へ帰還させて、拓跋部の勢力
と中山の現地兵力を合流させたので、代、上谷、廣寧の三郡の人々は(その威勢を恐れて)
みな劉越石の下へこぞって帰順した。
浚はこのことを大変煩わしく思い、準備していた石勒討伐の出陣を取りやめ、劉越石との国交を断絶し
て、先に并州の憂いを取り除こうとした。浚は燕国の相胡矩に兵を授けて、段疾陸眷と共同で劉希を
攻撃させこれを撃ち破った。代、上谷、廣寧の三郡の士女は大いに略奪を受け幽州まで連行されたため、
劉越石はそれ以上王浚と戦争を継続することが出来なくなった。
建興元年(313年)、王浚は薊城へ帰還すると再び石勒征討を企て、棗嵩に総司令官として諸軍を
率いて易水に駐屯させると、段疾陸眷に共同で襄国を攻略する作戦計画を持ちかけた。
この時期になると、王浚の政治は苛暴となり、またその官吏たちは貪欲で残酷、誰も彼も国有地である
山沢を荘園として広大に占有横領し、勝手に公共の堤防から己の荘園の農地に水を引き入れ、
墓荒しが横行し、租税の徴発が度重なったため、庶民は堪えきれずに多くが造反して鮮卑(拓跋部、
段部及び慕容部)部落へと亡命して行った。
從事侍郎であった韓鹹はこのことを強く諫言したが、浚は激怒して彼を処刑した。
疾陸眷はこの事件のせいで、盟約を違えたときに王浚に誅殺されるのではないかと恐れるようになった。
石勒もまた賄賂を段部にたびたび贈答して誼を通じて来ていたので、疾陸眷たちは王浚の招聘に次第に
応じなくなっていった。王浚は大いに怒り、拓跋単于の猗盧に厚く賄賂を贈って、右賢王の日律孫を
派兵してもらい疾陸眷を攻撃させたところ、逆に撃破される有様であった。
烏丸張伏利度亦有眾二千,壁于樂平,元海屢招而不能致.勒偽獲罪于元海,因奔伏利度.
伏利度大ス,結為兄弟,使勒率諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服.
勒知眾心之附己也,乃因會執伏利度,告諸胡曰:「今起大事,我與伏利度孰堪為主?」諸胡咸以推勒.
勒於是釋伏利度,率其部眾歸元海.元海加勒督山東征討諸軍事,以伏利度眾配之.
烏丸の張伏利度が衆二千をもっており、楽平に籠もっていた。劉淵は何度も招安しようとしたが、
来させられなかった。石勒は偽って、劉淵から罪を得た形にして、張伏利度のところに逃げた。
張伏利度は大いに喜び、結んで兄弟となり、石勒に胡人たちを率いさせて、攻めさせた。
向かうところ敵無く、胡人たちは畏れ、心服した。
石勒はみなの心が自分についたのを確認すると、張伏利度を捕らえ、胡人たちに言った。
「今、大事を起こす時に、私と張伏利度、どちらが主となるに堪えようか?」。
胡人たちは石勒を推し、石勒は張伏利度を解放した。その部族を率い、劉淵のもとに帰順した。
劉淵は石勒の職に、督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の衆を配下にした。
劉聡による劉越石への圧迫が目に見えてに増大してくると、中原の乱から避難していた多くの人士たちが
王浚のもとへ帰順するようになった。王浚の勢力は日増しに強盛となる。その権勢は、祭壇を造営して
天に犠牲を捧げる儀を執り行い、皇太子を建立し、百官を設置するまでに増長した。
浚は自ら尚書令を拝領し、棗嵩、裴憲を尚書に、その子は王宮に近侍させ、持節、護匈奴中郎将に
任命した。また妻舅であった崔を東夷校尉に、棗嵩をして監司冀並びに?諸軍事及び行安北将軍に、
田徽をエン州刺史に、李ツを青州刺史にそれぞれ任命した。しかしながら李ツは石勒に敗れ、殺害されて
しまったので、後任に薄盛をもって代わらせたのであった。
※ 記事的には永嘉五年(311年)7月の王浚による仮の立太子の儀の内容だと思われるのだが……
浚の父王沈は字を「處道」と名のっていた。そこで王浚は、古の予言書に顕れるという「当塗高」とはまさに自分のことであるとして、帝号僭称の謀議を諸将らに打ち明かした。(建興元年・313年 11月)
胡矩は王浚を必死に諫止し、薄盛は「そりゃ無理です。」と申し上げた。浚はこれに不満を覚えて、胡矩
を魏郡の太守に左遷した。
つづいて、前の渤海太守劉亮、従子の北海太守劉搏、司空掾の高柔らが雁首揃えて諫言しにやって
来ると、王浚の怒りは頂点に達し、彼らをことごとく誅殺してしまった。
浚は平素から長史である燕の王悌と不仲であったので、いろいろと理由をこじつけて彼を処刑した。
当時、こんな童謡が謡われたと言われる。「十嚢、五嚢、棗郎へ入る。」
棗嵩は王浚の娘婿である。王浚はこの童謡のことを聞くと、棗嵩を叱責するにはしたが、ついに刑罰を
加えることはできなかった。また、こんな童謡も流行った。「幽州(薊城)の都城は倉庫にそっくりだ。
中に横たわっているのは王浚の屍だ。」
この頃、狐が府門にうずくまったままだったり、尾長雉が庁舎に進入するといった変事があった。
時に燕の霍原は、北方の諸州においてその賢才が広く知れ渡っており、王浚は帝位の僭称の件に
ついて彼の意見を聞いてみることにした。霍原は王浚が望むような返答をしなかったので、浚はこれもまた
一思いに抹殺した。この事件によってついに幽州の士人は憤激し、王浚に愛想をつかして離散するものが
続出した。
しかしながら王浚の驕慢は日に日に甚だしくなり、政治に倦んで政務を顧みなくなっていった。こうして
政治は悪辣な酷吏の手に委ねられることになった。折悪く、幽州は旱魃・蝗害に毎年のように見舞われて
いたことも、士官兵卒の衰弱に追い討ちをかけたのである。
王浚が百官の制を定めた際に、譜代の参謀・幕僚はみな高官に叙任されたのだが、司馬の遊統だけが
この行賞人事の蚊帳の外であった。統はこのことを怨みに思い、密かに石勒と内通しようと企んだ。
石勒は王浚軍閥内の不協和音を感じとった。そこで王浚に偽りの降伏を申し出、主君として奉じる
策略を実行に移すことにした。(建興二年・314年)
折も折、幽州では民衆の造反が已むことなく、段部の叛乱・侵略はひっきりなしに続いていた。
王浚は石勒が自分に寝返ったことを大変喜んだ。石勒はこれによりますます言葉使い丁寧に、礼儀態度
は必要以上に謙るようにして王浚に仕えるようになった。珍宝を贈答する際には、駅を途切れることなく
乗り継がせて献上させた。
王浚は石勒に二心が無いことを確認し、襄国に対する備えを全く顧みなくなった。やがて石勒は使者を
遣わして、王浚に尊号を称するように上奏させると、浚はこれを快諾した。
建興二年(314年)3月、石勒が易水まで進出して兵を駐屯させると、督護の孫緯はその行動に何か
裏があるのではないかと訝しがり、早馬を出して王浚に「石勒に軍を引き上げさせ、その隙に逆撃を喰ら
わせる」ように申し出た。王浚はこれを無視し、勒に真直ぐ参内するように使者を出した。
諸官はみな口を揃えて言った。「胡人というやつはそもそも貪欲にして、信義というものを知らず、
その言葉には必ず詐術が紛れると言います。こんな連中、即刻攻撃してしまいましょう。」
王浚はその建議に激怒し、石勒を誹謗中傷するような連中は斬罪に処するとまで言い切ったため、
ついぞ、その後命がけで諌める者はいなくなった。また、勒を饗応する宴席の場の準備を張り切って
設営させた。
石勒は薊城に到着すると、兵卒の思うがままに略奪を許容した。(かつて王浚が冀州で同じことをやって
いたわけだから、このときの趙魏の兵士たちの略奪には多分に復讐の意味合いが強かったと思われる。)
王浚の側近たちはなお勒を討ち取るように哀願したが、この期に及んで浚はそれを許さなかった。
石勒が庁舎に進入するに及んで、王浚はあわてて堂皇?に逃げ込んだものの、石勒の将兵の捕えるところ
となり石勒の面前へと連れて来られた。さらに、浚の妻もとっ捕まえられて夫婦並べて引き出されてしまった。
王浚は石勒を思いっきり罵って言った。「この胡奴(適切な訳語が見つからないが、毛むくじゃらで彫深の
奴隷人種野郎くらいの意味にしておく)め!貴様いったい何様のつもりで俺にこんな悪逆非道な真似を
するというのだ!」
石勒は王浚の晋に対する不忠の数々を列挙し、さらに庶民の飢饉窮乏を知りながら粟穀五十万斛を、
倉庫にただ山のように積み重ねておくだけで、何の窮余策も講じなかったことを並び立てて非難し、その
罪を弾劾した。
石勒はおよそ五百騎ほどに王浚を護衛させて襄国に先遣させる一方で、王浚麾下の精兵万人を収容
して、後顧の憂いを除くべく、これらを悉く皆殺しにした。二日間ほど薊城にとどまって戦後処理をしていたが
その帰路、孫緯が径路を遮断して襲撃を仕掛けたが、石勒は僅差でこれを免れることができた。
石勒は襄国に到着すると王浚を斬刑に処したが、王浚は最期まで石勒に屈するところなく、大いに罵倒
して死に臨んだ。嫡子はいなかった。(太元二年・377年のお家復興の記載は割愛)
王彌(字は不明)は東莱出身であった。その家門は代々太守を輩出する家柄で、祖父は魏の
玄菟太守を経て、武帝司馬炎の時代には汝南太守にまで昇任している。
王彌は知恵と能力に恵まれ、特に文書記述において幅広い見識を持ち合わせていた。しかしながら
若い頃は京都(洛陽)で遊侠の徒に交わるような一面もあったりした。隠者の董仲道がそんな王彌を
見かけて思わず話しかけた。
「君は、豺のような声と豹の眼を合わせ持っているようだが、そりゃあ兵乱を好んで災禍を楽しむ
人物の相に他ならない。もしも、天下が騒擾するような乱世がやってきたら、君が士大夫として
身を興すようなことは到底考えられないね。」
恵帝司馬衷の時代に、妖賊(宗教叛乱)劉柏根が東莱で兵を挙げると、王彌は実家の従僕たちを
率いてこの叛乱軍に身を投じた。(光煕元年/306年 3月)
劉柏根に長史に任じられていた王彌は、柏根が戦死して、海岸部に逃れた敗残兵たちが苟純に討伐
されるに及んで、長廣山に入って群賊となり一時の雌伏を図った。
王彌は権謀知略に優れ、掠略するところあれば必ず事前にその成否を検討し、抜かりない作戦を
計画することしばしばであった。弓術馬術は迅速にして敏捷、膂力は常人の敵うものではなく、青州の
人士は彼を畏敬をこめて「飛豹」と呼ぶようになった。
後に兵を引き連れ、青州・徐州へと暴れこんだものの、刺史苟晞の逆襲に遭い大敗を喫してしまう。
(永嘉元年/307年 2月)
王彌は残余を集めて撤退、あちこちへと散らばって身を潜めていたが、再びその勢力を盛り返すように
なると、もはや苟晞の手に負える相手ではなくなっていた(晞之と連戦し、克能わず)。
王彌は兵を進めて泰山、魯国、梁、陳、汝南、潁川、襄城諸郡を寇掠し、許昌に入るとその府庫を
開放して武器装備品を奪取した。城邑が陥落すると、多くの太守、県令が殺害の憂目に遭った。
その衆は数万を擁し、朝廷はもう青州の王彌の勢力を如何こうすることも出来なかった。
(永嘉二年/308年 4月)
※ ちなみに劉柏根の軍は、劉暾(司隷校尉などを歴任した高官)による討伐軍を退けたものの、
王浚の派遣した軍により討ち取られたとある。また、最後の段の王彌の軍事行動については、
京師にまで攻め込んでいる凄まじい寄せっぷりである。
天下大乱の時勢に乗じ、王彌は洛陽へと逼迫した。洛陽ではその脅威に震え上がり、宮城の
門は堅く封鎖された。司徒の王衍たちは断固死守すべく、百官を率いて防御態勢をとると、王彌は
これに対して七裏澗へと布陣した。朝廷軍は進撃して、王彌の軍を大破した。(永嘉二年/308年 5月)
王彌は仲間の劉霊と相談して言った。
「晋軍はまだ手強い、俺たち単独ではこの先やっていけまい。
実はな劉霊、匈奴の劉淵とは昔、やつが質子として洛陽に留め置かれていた頃、いろいろ世話を
焼いてやったこともあってな、兄弟の契りまで結んだ仲なんだ。
あいつは今漢王を称して、正に日の出の勢いだ。
ちょっとばっかし、あいつのところで世話になろうと思うんだが、お前はどう思う?」
劉霊がその考えに同意を示したので、王彌は黄河を渡り劉淵のもとへと帰順した。
劉淵は王彌が帰順したことを聞くと大いに喜び、侍中兼御史大夫であった呼延翼を出迎えの
使者として送り出すと、平陽の城外で王彌を郊迎させ、文書を彼宛てにしたためて言った。
「将軍には不世の功、超時の徳が備わっていることは誰の目にも明らかです。だからこうして歓迎
させてもらいました。将軍が来るのを今か今かと待ち望んでいましたが、私が今から直接将軍の
お館にお邪魔させていただき、すぐにでも酒席を準備してグラスを洗い、将軍に一杯注がせて
頂いて、真心をこめて歓待したいものです。」(※ 超意訳、相当脚色してます)
王彌は劉淵と接見するや、皇帝を称することを勧める。劉淵は王彌に答えて言った。
「私は昔、将軍を竇融に比されてしかるべき人物だ(竇融程度の人物でしかない)と思っていたが、
今はまさに、私にとっての諸葛亮、ケ禹であったと思い知らされた。
(ただただ、己の不見識を責めるばかりである。)
昭烈帝には青雲の志があったが、烈祖が言った水魚の交わりとは、正しく私と将軍との関係の
ことを言うのだな。」
ここにおいて劉淵は王彌を司隸校尉に任命する。侍中、特進の位も与えようとしたところ、王彌は
これを固辞した。王彌は漢軍に合流するや、劉曜とともに河内攻略に参加したり、あるいは石勒と
共同で【業β】を攻めるなど、その軍事行動を再び活発にした。
以前、劉曜は王彌をもって洛陽先遣の任に当たらせていたが、王彌が自分を待たずに勝手に
入城したことを怨んでいた。ここに至ってついに、両者の嫌隙は決定的なものとなった。
(晋の司隸校尉で降将の)劉暾は王彌に、青州に還り割拠するように主張した。
王彌はそれに同意すると、すぐに左長史の曹嶷を鎮東将軍に任命し、兵五千を与えるとともに、
多額の宝物を贈与した上で郷里の青州に派遣させ、それで戸籍を失った流民達を招誘し、
その一党に迎え入れようと企んだ。
王彌の将であった徐貌、高梁は間もなくその部曲数千人を率いて、曹嶷に従って王彌の陣営
から離れていったが、これにより王彌の勢威はますます衰弱してしまった。
以前から石勒は王彌の驍勇を忌々しく思っていたが、衝突を避けるために平素は親密に
振舞うようにしていた。
洛陽を陥落させた時期、王彌は数多の美女寶貨を石勒に贈答することで、彼と義兄弟の
契りを結ぶことにした。
時に、石勒は苟晞を降伏させると、彼を左司馬に登用した。王彌は石勒に申し出た。
彌「公が、苟晞を獲たばかりかこれを登用するとは、余人には思いもよらぬことでしょう。
苟晞を公の左司馬として用いられるのであれば、私を右司馬として用いられるべきです。
そうすれば、天下を定めることなど何の造作も無いことでしょう。」
石勒は(この話を聞くと、たいへん胡散臭く思ったのか)、ますます王彌を憎むようになり、
裏で王彌暗殺の陰謀を張り巡らし始めた。
劉暾は、ふたたび王彌に献策し、曹嶷を支配下に再度収めて、その兵力を併せて石勒を
誅戮するように勧めた。
こうして王彌は劉暾を青州へと、曹嶷に兵を引き連れて己が勢力に合流するように、
その上で騙し討ちで石勒を要撃して、しかる後に青州に共に下向するように説き伏せるべく
派遣させた。
ところが、暾は東阿に差し掛かったあたりで石勒の遊騎に捕獲されてしまった。
石勒は王彌と曹嶷による謀議の密書を発見すると、大いに怒り、そのまま劉暾を殺害する。
王彌は己の策が漏洩したことを知らずにいたため、逆に石勒の伏撃に襲われて殺害されてしまう。石勒は王彌の勢力を併呑した。
これより先、東海王・司馬越は洛陽の衆二十万余を率い、石勒を討とうとしたが、軍中で司馬越は死に、
衆は太尉・王衍を主に推した。衆を率い、東に下り、石勒は軽騎兵でこれを追い、追いついた。
王衍は将軍の銭端を遣わして石勒と戦わせたが、石勒に敗れ、銭端は戦死し、王衍の軍は壊滅して、
石勒を騎兵を分け囲んで射撃し、山のように倒れ、一人も逃れられるものはいなかった。
ついに王衍と襄陽王・司馬範、任城王・司馬済、西河王・司馬喜、梁王・司馬禧、斉王・司馬超、
吏部尚書・劉望、予州刺史・劉喬、太傅長史・庾ガイ(山:左上、豆:左下、攵:右)らを捕らえ、
幕下に座らせ、晋がここに至った原因を問うた。
王衍や司馬済は死ぬことを怖れ、自分から色々話したが、ただ、司馬範だけ顔色一つ変えず、
意気を落ち着けながら、二人を顧みて言った。
「本日のこと、いまさら何をいおうや!」。
石勒は(司馬範を)とても傑出した人物とみなした。
石勒はもろもろの王公卿士を引き出して殺し、死者はとても多かった。
石勒は王衍が清談がたつのを重んじ、司馬範の神のような気力をすばらしいとし、刃を下すことができず、
夜、人を使わし、壁をおさせ、(二人を)つぶし殺した。
(司馬越の)左腕・何倫、右腕李ツは司馬越が死んだと聞き、
司馬越の妃・裴氏と司馬越の世子・司馬ヒ(田:左、比:右)を奉じて洛陽を出て、石勒は洧倉において、迎え撃った。
晋軍はまた壊滅し、司馬ヒ(田:左、比:右)ともろもろの王公卿士は皆、殺され、死者はとても多かった。
精鋭の騎兵三万を率いて、成皋関に入り、劉曜、王弥と合流し、洛陽を攻めて、洛陽を陥れた。
石勒は王弥の功績にし、劉曜は轘轅から出て、許昌に駐屯した。
劉聡は石勒を征東大將軍に任命したが、石勒は固く辞退し、受けなかった。