【基地害長尾厨】奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM【狂伊達アンチ】

このエントリーをはてなブックマークに追加
101無名武将@お腹せっぷく
sdhs
102無名武将@お腹せっぷく:2009/11/08(日) 09:25:16
浮上
103無名武将@お腹せっぷく:2009/11/08(日) 12:32:52
ぷらっとは長尾家のファンなのか
明智光秀ファンだとばかり思ってた
104無名武将@お腹せっぷく:2009/11/30(月) 22:46:16
ドキッ☆奇矯だらけの春画大戦
105無名武将@お腹せっぷく:2009/11/30(月) 23:15:06
長尾厨きめぇ
106無名武将@お腹せっぷく
631 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/12/01(火) 07:59:16
再度おさらいしておこうか。松川スレの以下の重要な5つの要点について。

@「松川合戦」なるものが上杉の軍記作者の妄想垂れ流しによる捏造だったこと。
A実は慶長5年10月に伊達軍に大敗鎧袖一触され、福島城下まで攻め込まれて、
本庄が討ち死にする危機に置かれていたこと。
B徳川家康は上杉景勝を滅ぼすつもりだったこと。
C伊達政宗は仙台城に居を構えて、福島を差配する計画でいたこと
(その方が、福島県民及び一部山形県民にとっては有り難かったかもw)
D伊達軍に虚を突かれて攻め込まれた福島県に少なからぬトラウマを
残して「松川合戦の古老咄」が伝承されたこと。

最上に手酷い敗北を喫して米沢に逃げ帰った上杉の隙をついて、伊達軍が信夫郡を蹂躙。
上杉軍を宮代で打ち破り(実に300余名、騎馬武者100騎を討ち取り、信夫山で首級実検
まで行っている)、本庄繁長を自決寸前まで追い込む。これが慶長5年10月6日の戦い。
伊達にとっては掃討戦の一環にすぎなかったわけだねw 本庄はすんでの所で討ち死にを逃れている。

この伊達の「掃討戦」を根にもった国枝清軒のルサンチマンの敗者の文学。それが『会津陣物語』の哀しい本質だね。

国枝は慶長6年4月下旬に伊達が松川に攻めてきてそれを打ち破ったとする与太話を幕末まで流布させたが、それは真っ赤な嘘
だったことは、『日本戦史』から完全に黙殺されていることでも明らかだろう。 w


632 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/12/01(火) 11:03:39
>>631を受け入れられない奴は無条件で基地害長尾厨確定なwwwwwwwwwwwwwwwwww
おい基地害長尾厨狂伊達アンチのぷらっと!!このスレ毎日顔真っ赤にしながらROMってんだろ!?
さっさと伊達への中傷の前非と自分自身の歴史的無知を悔いて謝罪しな!
そしてもう二度と伊達政宗に対する捏造アンチ活動と僭称上杉長尾マンセーをしないと誓え!
それができないならお前は実証的な歴史考察もできない、感情でしか物事を判断できないただのチョン確定だ!!