『楚辞』諸篇
初期:九歌、招魂
中期:離騒、天問
後期:九章、遠遊、九辮、大招、卜居、漁夫
このうち、今回特に取り上げたいのが「九歌」である。
九歌
【概説】
九歌者,屈原之所作也。昔楚國南郢之邑,?湘之間,其俗信鬼而好祠。
其祠,必作歌樂鼓舞以樂諸神。屈原放逐,竄伏其域,懐憂苦毒,愁思沸鬱。
出見俗人祭祀之禮,歌舞の樂,其詞鄙陋。因為作九歌之曲,上陳事神之敬,
下見己之冤結,託之以風諌。故其文意不同,章句雑錯,而廣意義焉。
九歌は、屈原が作ったものである。
昔、楚国の郢都の南方、?水と湘水の間にある邑は、その風俗として霊魂を信じて祠を建てるのを好んでいた。
その祠は、必ず歌楽と鼓舞を伴い、それをもって諸々の神を楽しませていた。
屈原が放逐された時、この地域に逃れて隠れ、
憂いを抱いて気の毒に苦しみ、悲しい物思いはいつまでも沸き起こっていた。
ようやく外に出て周りを見れば、民衆の祭祀の体裁、歌舞の音楽、祝詞は野蛮である。
そのために九歌の曲を作り、上は神に仕えて敬う旨を陳べ、下は自己の無実の恨みを含み、
これを風説に託して諫言とした。そのために九歌の文はごちゃごちゃしていて、章句はさまざまで、
さまざまな解釈の余地があるのである。
後漢・王逸『楚辞章句』
読み取れること:
もともと原型となる祭祀の歌があり、何らかの手が加えられて成立した
『楚辞賞句』でも、また一般的にも九歌の作者は屈原とされているが、
実はそれを証明する根拠はなく、伝説の域を越えない。
屈原は古い楚の文化の象徴であり、シャーマニズムによって信仰されていた諸「水神」を代表する形で、
九歌等の楚辞に収められた歌謡の作者として個人名が当てはめられたのではないか。
→水神と屈原が結び付けられた過程については後述する