三戦の覇者、学徒出陣氏すの情報を得たロコふるーちぇはだたちに
煩悩寺へ向かった。
【ロコふるーちぇ】
一介の詩人から戦国の覇者にまで上り詰めた英傑。
「ロコ」は詩人時代の芸名であり、「ふるーちぇ」が本名と言われているが
異説もある。
■書生時代■
生まれは中流豪族で論語、孟子などを学んでいたが、彼の感性とは相容れず
やがて洋書を読みふけるようになる。
ほう
【ロコふるーちぇ】
一介の詩人から戦国の覇者にまで上り詰めた英傑。
「ロコ」は詩人時代の芸名であり、「ふるーちぇ」が本名と言われているが
異説もある。
■書生時代■
生まれは中流豪族で論語、孟子などを学んでいたが、彼の感性とは相容れず
やがて独学でラテン語を習得し洋書を読みふけるようになる。 この時期、
ロコふるはロマン主義的な文学に傾倒していた。やがてその影響を受けて
詩人を志すようになる。
■学徒への仕官■
当時、新時代の英傑として頭角を現しつつあった学徒出陣の前で詩を披露した
ことがきっかけとなり両者の交流が始まった。
学徒はロコふるの教養に心酔し臣下に迎えようとしたが、ロコふるに出世への
野心は乏しくこれを断り続けた。
しかし学徒出陣みずから6回も陳留にいたロコふるを訪ね、この情熱に心を打たれた
ロコふるは学徒へ仕えることとなった。
これが世に言う「6個ふる陳の礼(ろこふるちんのれい)」である。
【六顧ふる陳の礼(ろこふるちんのれい)】
すでに名声を得ていた学徒ほどの英傑が、一介の詩人であったロコふるーちぇ
に自ら6度も訪ね仕官を頼んだことから目上の人が優れた人物を得るために
最大限の礼節をつくすことに用いられる故事成語。
もっとも、大詩人・氷雪(芸名・朝倉過中)の例からもわかるように当時、
詩人は大変尊い存在とされておりこれを臣下に迎えることは群雄の格式を
高めることにもなったという。
なお、この故事がいわゆる性器露出の「ふるちん」の語源になったことは
言うまでもない。
【斯波民部少輔詮議】
戦国時代の名将の一人。主君を7度も変えたという伝説の転職マニア。
なお、学徒時代、ひょーりみ時代、クマッタ時代の彼女・・・?の動向は
歴史マニアの間ではよく知られている。なお、性別不明武将の一人。
期待
【名無し教授(ななしきょうじゅ)】
東大の教授。歴史学者。コテハーンの動乱時代が専門。
【ひょーりみ】
新党の重鎮の一人でロコふるーちぇに継ぐ派閥の長。
学徒出陣亡き後、反ロコ家の軍団員から新党の盟主に祭り上げられ、
ロコふるーちぇと戦う羽目になってしまった。
小牧・長久手の戦いで大敗し、長江以南の大国・金家に亡命する。
【ロコふるーちぇ(三戦暦006年〜?)】☆乱世の覇者☆
一介の詩人から戦国の覇者にまで上り詰めた英傑。
「ロコ」は詩人時代の芸名であり、「ふるーちぇ」が本名と言われているが
異説もある。
■書生時代■
生まれは中流豪族で論語、孟子などを学んでいたが、彼の感性とは相容れず
やがて独学でラテン語を習得し洋書を読みふけるようになる。 この時期、
ロコふるはロマン主義的な文学に傾倒していた。やがてその影響を受けて
詩人を志すようになる。
■学徒への仕官■
当時、新時代の英傑として頭角を現しつつあった学徒出陣の前で詩を披露した
ことがきっかけとなり両者の交流が始まった。
学徒はロコふるの教養に心酔し臣下に迎えようとしたが、ロコふるに出世への
野心は乏しくこれを断り続けた。
しかし学徒出陣みずから6回も陳留にいたロコふるを訪ね、この情熱に心を打たれた
ロコふるは学徒へ仕えることとなった。
これが世に言う「6個ふる陳の礼(ろこふるちんのれい)」である。
■最大派閥・ロコ家の結成■
現在詳細不明
■ロコふるーちぇ大返し■
@天王山の戦いで謀反人、クマッタを討ち取り新党の主導権を得る。
A小牧・長久手の戦いで、ひょーりみを盟主にしていた(実質的指導者は斯波民部)
反ロコ家勢力を一掃。
B新党・ロコ朝が創設される。
■赤壁の戦い■
江南の金家に遠征するがまさかの大敗。本国に逃げ帰る。
【ひょーりみ】
■帝国官僚時代■
名門貴族出身で若くして可児大帝に仕える。若年ながら(若年だからか?)大帝に
可愛がられ「日和見」の名を与えられる。
大帝が崩御すると体制維持のために奔走するが、歴史の流れには逆らえず時代は
群雄割拠へと移行する。
彼は帝政復古と秩序の回復を目指し仕えるべき英雄を探しに旅立った。
■自治新党時代■
現在、情報収集中です。(名無し氏曰く)
■小牧・長久手の戦い■
学徒出陣亡き後、反ロコ家の軍団員から新党の盟主に祭り上げられ、
ロコふるーちぇと戦う羽目になってしまった。
小牧・長久手の戦いで大敗し、長江以南の大国・金家に亡命する。
■夢のまた夢■
現在、情報収集中(名無し氏曰く)
【魔法剣士(まほうけんし)】
通称、マホケン。伝説の忍者。
忍ぶの名人であり、「隣にいても気がつかない」と言われる。
「発言しても気がつかない」、「ひょーりみ以外には見えない」とすら
言われるほどである。
本当に歴史を左右するような働きがあったのかは賛否両論であるが、ひょーりみ
が帝国の忠臣であると言っているのでそうなのであろう。
ほほう
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 16:54:03
面白い
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 17:54:42
頑張って続けてくれ
面白いです
わかりました。もう少し書いてみます。
【可児】
通称、大帝。可児王朝の建国者にしてラストエンペラーという人物。
ラーメンマンの言うとおり、3000年の歴史を持つ厨国であるが、元々は
七つの国の連合体にすぎなかった。
しかし覇歪族(はわいぞく)や蒙古族(もうこぞく)の襲来という危機に際して、
「国技を守れ」という島国根性的な高揚が厨国全土で沸き起こり、すでに
異民族との戦いで勇名をはせていた可児を盟主に魔玉を副明主とした大厨国連合軍が
結成された。
連合軍は文永・弘安の役において異民族軍を討ち破ぶり可児と魔玉の名声は絶頂に
達した。彼らは異民族討伐軍を解体せずそのまま、戦国の七雄を制圧し帝政を敷く。
まさに厨国始まって以来の快挙であったがその武断的な体制は大変脆いものであった。
やがて可児がいなくなると厨国は野心家あふれる大乱世となった。
【ロコ常陸四郎】
乱世に生きた孤高の将。現在詳細。
【魔玉(まだま)】
非常に貧しい境遇から身を起し厨国にその名を轟かせた軍人、政治家。
大厨国連合軍の副盟主として文永・弘安の役において異民族軍を討ち破った。
連合軍を解散せず、可児と共に戦国の七雄を制圧。帝政を敷く。
しかし各地で反発が強かったため、魔玉は国家保安委員会(刑爺微尉)を創設
し反対派を弾圧した。
だが不満を持つ者も多かったとはいえ、可児、魔玉はやはりカリスマ性を持つ
英雄であり、二人がいた間は反乱も人民の賛同が得られず小規模なものに
とどまっていたようだ。
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 19:51:23
糞 ス レ 認 定
23 :
最上義光 ◆.oOoOOOOO. :2008/12/31(水) 19:52:47
私といい、ロコふるといい。
文学が奨励されるのは平和な証拠。
どんどん続けなさいな。
【ロコふるーちぇ(三戦暦006年〜?)】☆乱世の覇者☆
一介の詩人から戦国の覇者にまで上り詰めた英傑。
「ロコ」は詩人時代の芸名であり、「ふるーちぇ」が本名と言われているが
異説もある。
■書生時代■
生まれは中流豪族で論語、孟子などを学んでいたが、彼の感性とは相容れず
やがて独学でラテン語を習得し洋書を読みふけるようになる。 この時期、
ロコふるはロマン主義的な文学に傾倒していた。やがてその影響を受けて
詩人を志すようになる。
■学徒への仕官■
当時、新時代の英傑として頭角を現しつつあった学徒出陣の前で詩を披露した
ことがきっかけとなり両者の交流が始まった。
学徒はロコふるの教養に心酔し臣下に迎えようとしたが、ロコふるに出世への
野心は乏しくこれを断り続けた。
しかし学徒出陣みずから6回も陳留にいたロコふるを訪ね、この情熱に心を打たれた
ロコふるは学徒へ仕えることとなった。
これが世に言う「6個ふる陳の礼(ろこふるちんのれい)」である。
■最大派閥・ロコ家の結成■
学徒の新党軍では自らの派閥の形成は大変重要であった。何故なら、派閥の勢力こそが
発言力に直結するからである。ロコふるは政務や軍務と共に自らの派閥、ロコ家の育成
に全力を注いだ。
詩人としての名声と任務を確実に達成する誠実さで確実にロコふるーちぇは
同志を増やしていった。ついには新党軍筆頭派閥となる。しかしこのことが
第二派閥のクマッタの嫉みを買ってしまったのである。
■ロコふるーちぇの厨国大返し■
@ロコふる関西遠征中に学徒出陣は重臣クマッタによって討たれた。
調子に乗って三戦皇帝を名乗ったクマッタに対しロコふるは電撃的に兵を
引き返し天王山の戦いで謀反人、クマッタを討ち取り新党の主導権を得る。
A小牧・長久手の戦いで、ひょーりみを盟主にしていた(実質的指導者は斯波民部)
反ロコ家勢力を一掃。
Bロコ家のメンバーを中心とした新党・ロコ朝が創設される。
■赤壁の戦い■
江南の金家に遠征するがまさかの大敗。本国に逃げ帰る。
■第2次関西遠征■
函谷関を突破し関西に侵入、中心都市の大阪、長安、京都を制圧。
■北方平定■
独眼龍・馬鹿トンとの死闘。
■秋風星落五丈原■
宿敵、南朝・金家を討つべく宿将達を率いて再び長江へ向かったロコふるで
あったが、日々の激務によってロコふるの体力は消耗していた・・・。
■ロコふるーちぇの厨国大返し■
@ロコふる関西遠征中に学徒出陣は重臣クマッタによって討たれた。
調子に乗って三戦皇帝を名乗ったクマッタに対しロコふるは電撃的に兵を
引き返し天王山の戦いで謀反人、クマッタを討ち取り新党の主導権を得る。
A小牧・長久手の戦いで、ひょーりみを盟主にしていた(実質的指導者は斯波民部)
反ロコ家勢力を一掃。
Bロコ家のメンバーを中心とした新党・ロコ朝が創設される。
■赤壁の戦い■
江南の金家に遠征するがまさかの大敗。本国に逃げ帰る。
■第2次関西遠征■
函谷関を突破し関西に侵入、中心都市の大阪、長安、京都を制圧。
■北方平定■
独眼龍・馬鹿トンとの死闘。
■秋風星落五丈原■
宿敵、南朝・金家を討つべく宿将達を率いて再び長江へ向かったロコふるで
あったが、日々の激務によってロコふるの体力は消耗していた・・・。
ってなんで仲がいいわけでもないロコふるの話を書いてんだ俺は・・・。
↑こいつ陳Qかクマッタ
↑
この手のスレは大体が佐倉広夢さんだ。覚えておけ、たわけ。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 14:28:29
なんというくだらんスレだ
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 14:31:16
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 16:20:11
佐倉とは作風や文体が違う気がする
クマッタはそもそもこういうことをやるのか?
だから佐倉スレだ