なんで曹操は天下をとれなかったの?

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1無名武将@お腹せっぷく
これだけ自分自身も優秀で、跡継ぎも優秀、優秀な部下や国力の基盤にも恵まれ
存命中や息子の世代でなぜ天下をとれなかったのか
そもそも三国志であることがおかしい
2周瑜:2008/11/24(月) 08:39:23
…マジ御免ね…
3無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 08:53:52
クーデター
4無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 09:00:30
性格の悪さ。
5無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 09:40:33
司馬イのクーデターによる、曹家の傀儡化。そして魏が滅び、晋となる。
おおざっぱな流れは周知のことだが、その流れを裏で操ったのが卑弥呼である事は、あまり知られていない。
卑弥呼が魏に招かれた際、司馬イと何らかの密談を交わした可能性は捨てられない。
かつての皇帝(誰かは失念)は、極東の島国を想いつつ、茶を飲むのが好きだったという。
極東の島国に、中華民族を凌ぐ「帝」がいることに、支配層は気付き始めていた。
卑弥呼の渡航から2年後、曹叡死去。そこからは、司馬イのクーデターで曹爽は敗れ、曹家は傀儡化。
広大な国土と軍事力。呉や蜀との小競り合いで負けることはあったものの、中国平定は目の前であった。
三国志という物語自体がすでに、日本のシナリオであるとの飛躍した考え方も浮かんでしまう。
6無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 10:10:02
えーっと…曹操
7無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 10:25:04
なんで曹操って血縁の夏侯氏や曹家の士をたくさん用いて身内固めしてるのに
兄弟は一人も名前が出てないんだろうな
一人っ子だったのか?
8無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 11:06:47
曹徳とかいう弟がいて、曹操の親父が陶謙の兵に殺された時に一緒に死んでる。
9無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 15:40:48
一応マジレスすると
やっぱ中国全体の人口減少でしょうね
10無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 18:00:28
残念ながら遅い
11無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 19:17:09
蜀、呉と鼎立状態になった時点で積み
12無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 11:07:10
やはり赤壁だな、柄にもなく呉を威嚇して墓穴掘った 

なにもしないで1年ほっとけば良かったんだよな… 

涼州→漢中→益州をとってからなら、自然に呉の方から降ってくるだろ 

それをさせなかったのが孔明の策(劉備軍の逃走方向)なわけだが
13無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 14:16:03
>>1のせい
14無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 14:53:50
曹丕も蜀より呉攻略を目標にしたおかげで蜀は地盤固めが出来た
15無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 17:53:40
>>9
後漢後期くらいの国力があれば赤壁の敗戦くらいいくらでも巻き返しがきいたろうにな
16董卓:2008/11/26(水) 08:29:30
生まれてくる時代が悪かった。
17無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 10:19:09
無能な孔明も捻り潰せないのにw
18無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 11:19:55
諸葛亮とは世代が違うね
19無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 11:35:54
孔明は曹操死後の人物です。
20無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 12:00:22
孔明は曹操の生まれ変わりかも知れないね 
21無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 09:09:17
ねーよwww 横山三国志10回読んでから鯉
22無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 23:56:57
フフ遅い遅い
23無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 06:24:09
>>21あきらかにギャグだろw

曹丕以降がきれいに曹操の政治受け継いでれば、チャイナも今頃良国
24無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 11:28:11
曹操を除いて、“才優先主義”+“法至上主義”は近世ヨーロッパまで出てこない感じだな。 
時代的に無理だったんだ。 

秦は不完全(君主だけは法より上)、ただ孝公(商鞅を抜擢)の死後も続いたのはすごい事。 
曹操は更にすごく(自身が誤って法を破ってしまい死のうと宣言している→部下達が止めた)。 
が、流石に誰も継承できない。 

おそらく曹操・夏侯惇クラスでないと無理・・・

理由は簡単、【世襲による身内利権主義がもの凄く美味しすぎたから】。 
わざわざ身内を下位に落としてまで、赤の他人を才能だけで上位にする【主義者】はいなかった。 
一人の名参謀が先に居ると、それ以上の才人が来ても押し退けるのは難しいのが…古代〜近世。 
25無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 12:08:17
曹操よりも曹丕の方が進歩的だよ
曹丕の法の厳正さ、才能優先度合いは文帝紀読めば散々出てくる

問題は治世6年だった事、後を継いだ曹叡も短命だった事くらい
この二代夭逝が曹魏の致命的だった
26無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 15:21:47
二代目、三代目に豪族の粛正を済ませるだけの時間があればね。
27無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 15:32:35
後漢も短命だけどね
28無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:13:57
曹叡は曹操の次男(曹昴と曹丕の間の人)の孫だったかを王に封じたりして
父親が潰した藩屏の再構築を目指していたようでもあるけどどうなんだろう?
29無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:38:47
帝に「なってしまった」のが悪かったんでないか?曹操みたいに、うまく手の平で転がすくらいが良かった
30無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:39:25
(   <●> ┏┓ <●>)
31無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:45:13
帝になること自体は悪くないが
そもそも曹氏そのものが当時幅を利かせた名士や門閥と違ってきな臭い血筋だったのが原因
だから曹操存命時から士大夫との摩擦は絶えなかったし司馬氏のクーデターの時もすぐに手のひらを返した
32無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:54:03
>>29
ならなきゃ豪族の支持を失う
曹操軍閥は後漢を担ぐ形で周囲の協力を取り付けてたのに
後漢復興が曹操の代で不能になる
王になる事で現状の権力だけは次代に繋ぐ事ができたが反乱続出
ただ相変わらず後漢を担いでるので統一しないと何時権力から転げ落ちるかわからない
これを黙らせるのが曹丕の禅譲即位
皇帝にならなきゃ曹操時代と同じく反乱に揺れる弱い政権にしかならんかっただろうよ
33無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 16:56:38
>>24
実務については、確か北宋で科挙制度の改革の一案として一度建議されてる。
採用されなかったけど。
あと後漢順帝期以降実施された察挙の課試法が儒家と法家の二本立てだったという説がある。

才優先ではなく、才至上(唯才)の採用制度が初というべきだとおもう。
それまでの採用制度も基本思想としては身分を問わず、能力を求めてというものだしね。
ただし、儒家的倫理基準に沿うことはある程度必須だったというだけで。
しかも不正のできる法の穴があったせいで、後漢中期〜末には豪族が独占してしまうけど。
後者の矛盾点を解消しようとしたのが九品官人法で。

法至上はまさしくその通りだとおもう。
ただ、臣下レベルだと匹敵するレベルはたまにでてくる。
王族、皇族、自分、自分の家族を斬ることにまるでためらいのない法家官吏とかはたまにいる。
それで死んだ官吏もいたようだから、君主でなければ越えてると言いうる人もいるかもね。
君主、群雄としてやって完遂したのは彼くらいだけど。
34無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:07:33
>>33
鶏鳴狗盗でお馴染みの孟嘗君も知らんのかね

あれこそ真の唯才だよ
35無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:17:43
曹操って法至上かな?
孔融処刑なんかに見られるように
建前と実際の差がけっこうある。
孔融の場合、曹操への悪口が「大逆不道」と
された訳だけど、法至上を標榜しながら
個人の感情を優先したわけで
そういうのを見せつけられたら
やっぱり士大夫層の心は離れちゃうよね。

36無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:21:52
史書にも本質は「忌」って言われちゃうくらい個人的な感情で他人を左右する奴だしな
37無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:25:22
>>35
大した仕事もせんのに(詩は上手いが)さんざん社長にたてついてたらクビ切られてもしゃーない
そういうの野放しにすると他も調子に乗るから弊害が出るし
38無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:30:36
>>37
ポイントはそこじゃないんだ。
「大逆不道」ってのは超一級の罪なのね。
孔融が曹操へ不遜な言葉を連ねた事に対して
それを無理やり適用したのが問題なわけ。
法至上のはずの曹操が率先して
法を曲げたわけで、それを目の当たりにした
士大夫層からすれば
「結局、そういう事なのね」と曹魏に対して
冷ややかになるのも無理はないと。
39董卓:2008/11/28(金) 17:48:36
というより結局曹操も人間なのだ。個人的にも孔融とは仲あまり良くなかったわけだし、
そーいう事から私情が入ったんだろう。それと儒者の弾圧。孔融を殺すことで、まわりの儒者共
を黙らせる。
40無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 17:53:39
(   <●> ┏┓ <●>)ふ
41無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 19:31:30
権力者は結局、自分に得になること優先だからな。
儒も老荘も権力者が語ると急に欺瞞臭くなる。
無論、曹操が語ってもそうなる。
42無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 19:47:47
>>38
法治国家の今でさえそういう法的に見れば不当解雇(後漢末は「クビ」だけじゃすまないが)にあたるケースはいくらでもある
そして実際に訴えたとして、原告が勝つのはほんの一部の場合のみ。

そういう意味で孔融の場合は誰が見ても「殺されても文句言えない」形だったからある意味仕方がない
それでなくと曹操閥でない名士達の首魁的存在であるのに
43無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 23:40:23
>>42
大逆不道は「不当解雇」程度じゃ済まない問題
いわば国家反逆罪
これを「殺されても文句言えない」程度の官僚に当てるのは、法の恣意的運用の最たるものだろう

少なくとも、張釈之的な法の公正な運用とは対極に当たる

現代で言えば、汚職官僚や失言大臣だからって国家反逆罪に当てて殺すようなもので、明らかに不当

孔融が自分が皇帝に云々と言ったことが罪になるなら、なぜ曹操を皇帝になぞらえた荀ケや曹操を聖人と言った董昭は大逆罪にならないのか、ということ
44無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 23:44:38
どうでもいいが恐すぎてコンパクトにしてみたが、やはりコエえ
(●>┏┓<●)
45無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 00:16:01
っていうか曹操が法家であるっていうのは
文化大革命時のてきとーな分類によるもんだよね。
普通に史書読んでいくと、行動や感情にムラがありすぎて
曹操は法家とは言えないと思う。

46無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 00:32:00
>>43
いや、大逆不道に照らし合わせてまで孔融を排除したのには法の恣意的な運用があったことはわかる。
ただそれは彼の場合前述したように影響力の大きい人物で、曹操に表立ってたてついた数少ない人物だから。
そういう人間がああいう態度をとっていたのだから、それにかこつけて排除されても仕方ないということ。私情があろうが無かろうが殺されただろう。

それを抜きにしても個人的な感想だが女がらみの悶着で曹操を批判するようなところは、揚げ足取りとしか思えん。何かやたらと屁理屈をこねてムダに立場を悪くしていたようにも思える。明らかに「やり過ぎた」人物だろう。
47無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 01:29:55
>>46
それならなんかの誰かの罪の連座で自殺命ずるレベルで十分だろ。
48無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 10:53:56
>>45
いや三国志でもちゃんと法家の術を上手く使ってたって評価されとるよ
ある程度恣意的な運用はしてるが、一応は法家扱いでいいだろう
49無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 10:56:31
分類に何か意味があるの?
50無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 10:57:46
50クポ
51無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 11:36:55
>>49
分類したという意味がある
52無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 16:21:04
>>47
だからそこに法の恣意的な運用があったことが見られる
見せしめのための意味もあったろう
士大夫に完全に支持されているとは言い難い曹操にしてみれば不穏分子は叩いておきたいので
53無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 18:52:56
「曹操は偉大である」っていう絶対基準ありきだから
曹操の失策を語る時、公平に見れなくなってる傾向はあると思う。
で、「〜だからしょうがない。曹操は悪くない」みたいな
理由が出されるんだけど、それがちょっと苦しくて
そのせいでさらに曹操が矮小化されてしまう悪循環になると。

我ながら苦しいぜとわかっていながら
超理論使ってでも殺してしまった曹操は
1800年後から見てもダサいもん。
でもそのダサさがいいんだよ。
54無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 19:58:35
>>46
>女がらみの悶着で曹操を批判するようなところは、揚げ足取りとしか思えん。
我々現代日本人はそう感じないでもないが、当時の知識人の間ではまた違ったんじゃないかな
敵とはいえ上流の既婚女性を捕虜として奪う行為は、少なくとも折り目正しい士大夫のあり方ではない
それを思い起こさせるというのは、揚げ足取り程度の話ではなく、曹操政権の根幹にも関わるような問題
つまり曹操は董卓のようなものだ、と孔融は言ってたようなもの
曹操としては殺すしかなかっただろうが、殺したことでよりいっそう曹操が董卓と同等なのだと士大夫連中に思わせるという悪循環
55無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 20:21:53
>>54
いや、その理屈はわかる。その裁断がどういう影響を及ぼすかも。

ただ孔融の場合は、あえて言わなくてもいいようなことまで言っていたような節がある気がしてならない。
董卓というが、敵の妻を娶るなんてのは大昔からみんなやってるんだよ。他にも批判するべき所はあるはずで、わざわざそんな所につっこむ必要はない
なにか孔融は無理やり粗を探そうとしていたようにも思える。今の大統領選で相手候補を吊るしあげるようなCM作るじゃん。平たく言うとあんな感じ
士大夫連中にもそこらへんの空気は読めるだろうから、反曹操派はそれを挙げて批判するか、孔融の二の舞になりたくなくて鳴りをひそめるかどっちかだろう。

そしてそういう意味でなら、それ以外の士大夫がどっちにつくかはともかくそういう表面だけを見て鵜呑みにするのは一部なんじゃないか、とも思ったりもする。
56無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 20:38:33
絶頂期のホリエモンに対する
世論の反応に近かったんではと思ったりする。
成果や実績は挙げてるのでそれを批判はできない。
ただ、そのやり方や本人の人となりに問題があるので
そこは徹底的に責められる。
ホリエモンはポシャッタからうまく完結したけど
曹操は人生を全うしたからな。
何とも言えないやり切れなさが当時の
士大夫層にはあったと思う。
57無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 20:50:46
武力で抵抗できる勢力が劉備孫権以外無くなったからな。
曹操に対抗しうる武力があって中立や協力関係で互いに
牽制しながら漢王朝を支える勢力があればまた展開は違った
だろうけどね。
58無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:08:26
>>55
「大昔からみんなやってるんだよ」ではないじゃん
孔融が「そういうことを大昔の偉い人もやってましたな」ってわざと皮肉を言ったんだから
59無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:08:53
ただ孔融は孔子の子孫だからって事で当時からマンセーされてたと思う
実際孔融が北海時代出した法令はほとんど守られないで、治安が悪かったらしい
禁酒令の時に結婚を引き合いに出したのも、当てつけとしか思えない。そんなもんが通らないのはわかりきってるはずなのに
60無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:12:57
>>58
でも命からがら逃げて妻子を守れなかった経験のある孔融がそういう行動を批判してたって考えると面白いよな
61無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:18:22
孔融の言ってることって確かに正論だけど、机上の空論だったり、入れなくてもいい茶々だったりするんだよな
青州の時はダメダメだったし。まあ性格はたぶん悪い
62無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:27:13
>>59
孔子の子孫であることが注目される一因だったかもしれないが、彼の評判や影響力はあまり孔子の子孫とは関係ないような気もするけどな

名士連中のコミュニティ内で若くして知られた俊英だったことのほうが大きいと思う
63無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:42:49
>>62
実際若いころから天才の呼び声高かったっていうからね
ただ曹操に意見する割に自分は州刺史として失敗しているから、やはりその言葉も軽く聞こえてしまう

余談だけど曹操に曹丕が敵の妻を奪ったときの皮肉を言った時の言葉って、ウソだよね。妲己は殺されてるんだから。
曹操もそう思って確認したら、「オメーを見てたらそう思っただけだよw」って言われたわけだから、無礼千万と言われても仕方がない
64無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:51:04
若い頃と曹操幕下の頃じゃ孔融の評価があまりにも違い過ぎるんだよね
馬脚を表したと見るべきか、曹操による孔融を貶める工作があったと見るべきか
65無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 21:52:09
>>63
曹操は別に皇帝じゃないっていうか朝廷の臣下という意味で曹操の同僚
無礼千万とか面白いこというな
66無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 22:07:59
>>65
官爵は上じゃね?司空だっけか、うろ覚えだが
まだ丞相ではないよな?
67無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 22:14:21
>>64
城が落ちる寸前だってのに談笑してたってエピソードもあるしな
剛胆だって意味なんだろうがそのあと自分だけ逃げちゃってるからなあ
なんだかなあ、って思うところはある
68無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 22:35:55
>>63
失礼ではあるけれど、その場ではわからずに後から確認してるってのが曹操の面目丸潰れ
「周王の時代にそんなことやってるわけねーだろバカ。史記100回音読してこい」みたいな感じだからな
戦場でよくあることだったとしても、朝廷の最高権力者の座に就き、いずれは天下を統一し皇帝の座さえ見えようという人物の言動はそうではいけないってことなんだよ
曹操は天下人にあるまじき行動と知識の浅さ、両方を露呈してしまったことになる
言いがかりな部分もあったにしろ、曹操に天下人の資格なし、と声高に主張する人物が朝廷にいたことは、曹操と名士の関係を考える上で大変興味深い
69無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 22:48:37
>>68
それジュンイクあたりが言うならわかるけど、賊軍にコテンパンにされて劉備に助けを求め、 袁譚にやられて命からがら逃げてきた孔融だからなあ。
いまの政治家も日本史知らんヤツいるし、むしろ孔融の場合何もできないのに批判ばっかりする知識人どもに似た匂いを感じる。
だからこそ実がないと
70無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 22:53:07
俺達2ちゃんねらにも似てるなwwwwwwww
71無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 23:09:11
>>69
青州黄巾賊なんて孔融じゃなくたってどうしようもないよ
なんとかしたからこそ曹操の凄さがわかるわけで
72無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 23:42:50
>>71
戦に弱いだけならまだしも当時混乱してた青州の統治もうまくやれなかったてのがな。
学があって人気があるのはわかるけどやはり口八丁の感は否めない
なまじ並みの名士じゃないだけにプライドもあったんだろうけどね
73無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 23:53:41
>>72
まあ乱世向けの人材ではなかったということだろうな
74無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:12:10
>>72
他の青州統治関係者は一切無視して孔融のせいにするのが曹操クオリティ
75無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:14:30
曹操は青州を統治するの半ば諦めてるからな
76無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:16:08
孔融には今の民主党臭を感じる
とりあえず揚げ足とるよ、とりあえず反対するよ
でも俺はなにもしないからねー だって権力者じゃないし 的な
77無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:18:12
>>74
じゃあ相だった孔融には一切責任がないと?
78無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:22:53
相は北海の相の頃のことね、念のため
州刺史にも劉備に推挙されたけど
どっちにしろ責任者だったことは確か。確かに統治の難しいところではあるが
79無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:23:59
>>77
一切責任がないとは言ってない
失敗は確かだ

「じゃあ誰が青州の統治に成功したの?」という話をしてる
80無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:28:33
(  ゚Дメ) 80
81無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:29:55
名前が劉操だったら魏漢王朝が完成してまた200年漢の時代が続いていたでしょう・・・・
82無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:33:29
>>77
おちつけ
誰も一切責任が無いとは言ってないと思うぞ
83無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 00:55:16
でもそれだと「曹操の女がらみの不品行だって昔からたくさんの人がやってきたじゃないか」っていうのと似たような理屈になる
84無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 01:00:23
孔融はどっちかというと、労働力不足に対応したくて非日本人に国籍与えようとしたら反対するとか、
外国の外圧に耐えかねてA級戦犯分祀しようとしたら猛反対するようなタイプ
85無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 01:12:45
>>83
誰一人成功してないものを成功したら凄いが
誰一人成功してないものを失敗したからって凄くダメなわけじゃないだろ?
86無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 22:03:09
孔融が曹操批判を展開したのには、やはり漢王朝滅亡への危機感があったのかな?
領地没収や粛正をおそれるならば批判するのは逆効果だし。
87無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 22:28:52
>>86
漢王朝が滅ぶに際し、自分を含む現在の漢王朝の廷臣が居場所を失い曹操の直臣が上に行くのは間違いない
居場所を失うことへの恐怖こそが前漢以来の名門官僚家にとっては切実な問題
地方の豪族じゃないので高級官僚への道が閉ざされると生きていけなくなる
その意味で、漢魏交代が恐怖だったんだと思う
88無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 02:08:51
>>87
まあ、そううがった見方せんでも、当の曹操直臣にも反乱者出ているのをみると、
本気で忠誠誓っていた連中もいたと思われ。
孔融の場合はその両方かな?とは思うが。

いくらこの当時まだそういった忠誠概念がそこまで発達していないとはいえ、
後漢の儒学の普及は凄いものがあるし、考え方の個人差もあるしな。


あと、
>>一部の人間
孔融の名を借りた現実の思想抗争はよそでやれ。
89無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 02:10:43
所詮野蛮なシナ人の権力争い
90無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 04:08:48
>>86-88
孔融は儒学者の長的立場で儒学に捉われずに、言い方を変えれば儒学をないがしろにした曹操の人材登用に、
当時の儒学者間での各役職での推薦による登用といった制度が崩れ、自身の影響力が無くなりつつあった為に、
脅威におもい、不平を言ってたんだろ?
まあ、漢臣が後輩の曹操にごぼう抜きにされるのにムカついたってのもあるだろうが・・・。
91無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 08:38:05
>>90
違うよ
孔融は旧来の儒学を批判するんだけど
曹操は旧来の儒学を大事にする人なんだよ
92無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 11:38:05
そりゃ机上の空論ばっかで現実的にそぐわない事言われてたら誰だってウザがる
93無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 13:03:40
孔融は求心力あったと思うよ。
曹操死んだ時は誰も悲しまなかったけど
孔融の時は色んな人がその死を惜しんでいるからね。

自分は孔融を上手くあしらえなかった所に
曹操の限界が見えると思う。
94無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 13:35:46
>>93
そりゃ旧来の門閥出身の中でも曹操派じゃない人間だけだろ
土着豪族でもない孔融は生え抜きの象徴みたいなもんだし
孔融がもっともらしいこといえば口だけでも皆信用するし
曹操があちこち駆け回って戦ったり政府を整えたりしても野心やら私欲やらと取られて認められない
曹操や孔融がどうだというより、価値観としてえてしてそういうもんだ

そういう意味では入朝したばかりの董卓も似たような状況だった。彼もトチ狂う前までは好人物。
中央の士大夫たちとの摩擦が彼の場合もあったんだろう。なり上がりってのは波風強いもんだ
95無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 20:51:50
孔融の事がウザかったのは分かるが、何も処刑までしなくても・・・とは思う
96無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 21:53:12
曹操は謀略や情報戦略が得意な方ではない。
しかも事実悪事はいっぱいしてきた。
孔融をそのまま生かしておけば徐々に不利になっていっただろう。
曹操の個人特性も考えれば孔融を殺した方がてっとり早いと思う。
97無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 00:18:45
おじいちゃんの曹騰もそうやって邪魔者を追いおとして成り上がってきたやり手だからね
魏書だと美化され過ぎだが
曹操にしてみれば孔融は実務では使えないくせに影響力があってしかも自分に反対してるんだから害悪でしかない
そして孔融も調子こいて恨み買うようなことばっかしてたんだから当たり前といえば当たり前の結末
98無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 00:34:35
>>93
泣きすぎて血吐いた許チョと
三ヶ月後に死んだ夏侯惇と
詩書いて泣いた曹丕を

忘れないでね!
99無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 00:38:00
>>98
つまり始終一緒にいたボディーガードと親族だけだと?
100無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 01:01:41
礼法で泣き叫ぶような奴が何人もいるよりはそっちのほうがずっと慕われてると思うが
101無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 01:03:19
というかその考えなら漢の重臣が死んだわけだから多分大勢泣いたんじゃね?
102無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 08:39:17
孔融も自分一人の保身を考えれば曹操にたてつくなんて
危険な事をする必要は無かった。
孔融自身、それが分からないほど暗愚では無いだろう。

曹操はよほど、皇帝や従来の官僚に対する脅威と見られていた
ということだと思う。
103無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 19:09:19
孔融は自尊心が人一倍強かったのが身の破滅に繋がったんだと思う
104無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 21:17:54
>>102
董卓に対し、命の危険も顧みず多くの臣が公然と立ち向かい、またある者は裏で暗殺計画を立てた
孔融たちにとって曹操は董卓と同じだったということ
105無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 21:53:58
そりゃ自分の利権のためなら命も張るわ
せっかく先祖代々安泰としてた地位が馬の骨もわからんやつらのせいで脅かされてるんだもの

自分たちのつくはずだった地位にそいつらの子飼いがつくせいで日の目を見ない
それどころか政界に居場所がなくなって干されるかも知れん。
だからどうせ破滅するなら前のめりに倒れよう精神で頑張ったわけだ。

そもそも本気で国を良くしようと思ってる清廉潔白なやつばかりが集まるなら
自分たちの内輪だけで権力をたらいまわしにしたりしないし政策をほったらかした内輪もめで国を壊したりしない。
106無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:12:13
107無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:19:11
孔融がとりたてて正義の士だったという事はないだろうね
済南かどっかの相をやっていたのだって、結局手におえなくなっておしまいになってるし、
少なくとも実務能力より名分を重んじて情勢に対応で傷に自滅したって感じ。

血統と、「悪役」曹操に処断されたということで、過剰なフィクション修正がかかっているだけじゃね?
108無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:25:21
>>107
血統といったって孔子の直系でない傍系傍系そのまた傍系みたいな
孔姓だけが付いてるだけの孔子の子孫だけどな
109無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:31:17
っと間違った。
すまん。

>>105
概ね同意ではあるんだが、
>そもそも本気で国を良くしようと思ってる清廉潔白なやつばかりが集まるなら〜
の下りは違うな。
「国を良くしようと思ってる」と「清廉潔白」が=じゃない。
というか国を良くしようと思うなら権力基盤手放すかって言ったらそれは違うから。
まさしく国を良くしようと思うが故に権力を握り続けた例なんて古今東西どこにでもある。

それに国を良くすることの出来る人間は適度に腐敗しているという幻想もどこにでもある。
110106,109:2008/12/03(水) 01:34:46
たびたびごめん。
>>106で間違って送信した上、間に誰かレスが入るとは思わなかったから>>109で前置きなしで謝罪した。
111無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:58:53
まぁ曹操と孔融の争いを見ても
こいつ等に統一王朝なんて無理だよなってのは感じる。
112無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 02:15:28
>>107
別に誰も孔融を義士だとかそんな意見はでてなくね?
てかなんで皆孔融の人間性を云々するん?
法の話とは関係無くね?

単純に量刑の不公正の指摘の材料としてだしているわけで、
ぶっちゃけ不公正な裁きの例として的確ならば、
究極には、非道の限りを尽くした無名の賊、張さん(仮名)でもいいけど
端的に史書に法を私した刑を行った例があるからみな話していたのではないかと。
113無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 16:50:37
>>111
曹操が統一出来なかったのは孔融とかそういう次元の問題じゃない
150年位に5500万程度だった人口が晋が統一した時に1500万前後
曹操の死亡前後で700万前後、単純に考えて人いなさすぎ。
これじゃあ山あり河ありで東西南北で地域性が大きく変わる中国では大規模な遠征や戦線を支えるだけの生産力を確保するのは難しい。
曹操や劉備の活動してた30年前後で統一を見ようなんてのはとてもじゃないが無謀だろう。
五胡から隋が統一するまで300年くらいかかってるんだから。
114無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 19:44:49
>>113
それ戸籍の人数だから実際はもっと居る
戸籍外の人間を戸籍で管理して人力、税金を確保するのは当時の常套手段だった程に
戸籍から漏れてふらついてる奴がいる
115無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 23:13:16
>>114
戸籍に入ってなきゃ安定した税収は得られないんだぜ?そういう戸籍外の人間から集めるのは兵とか労働だから戸籍にある人間の生産が基本となる
だから流民あつめて民屯やってたわけで

どっちにしろ晋になって戸籍が確認できるようになってでも4分の1くらいまで減ってるから絶対数も減ってる
116無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 23:17:28
>>114
いずれにしろ流民が多く出たということはそれだけ食いっぱくれた人間が出たということだ
戸籍人口が減るというのは深刻な問題だよ。戸籍からあぶれてるってことは国民として把握できないんだもの。
117無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 23:26:37
>>115
ただ、晋は六朝貴族の時代だということを忘れちゃならない
そういう貴族の富は戸籍から外れた隷民と荘園から発生してたのだから

後漢末の乱世は確かに未曾有の動乱の時代で、遠征の困難などの状況があったとは思うが、
それでも早期に統一するチャンスはあったと思う
それが官渡敗戦までの袁紹であり、赤壁前の曹操だったと思う
しかしどっちもコケた
118無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 23:41:27
>>115
絶対数が減ってないとは言わない
戦乱期に人口減らないなんて珍しいからな
ただ、人口が1/8とかに落ちてるのは単純に死人が出たからではないだろう
119無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 23:58:31
人口の算出をどのようにおこなうかだな

人別帖のカウントだけなら流民は確実に洩れるわけで
120無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 01:22:14
>>117
素朴な意見だが、二連敗した袁紹はともかく曹操の場合せめて光武帝の時くらい人口がいれば巻き返しは十分可能だったと思う
晋が呉を倒したときには多方面作戦を展開したが、2000万程の人口があれば曹操の版図なら同じことはできたハズ。遠征の負担もグッと軽くなっただろう。立ち直りも早かったハズだ。
121無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 01:30:04
>>120
劉邦が陳平に領国をやるくだりを見ると、楚漢の戦争時も結構戸籍人口は減ってたんだよね
そのときの比率でいうと1/6まで
でも数年で天下統一

曹操は徐州では民を多数殺し、袁紹の投降兵を殺し、降伏した荊州の民が逃げだし、赤壁で多くの兵を失っている
兵力、生産力確保が難しかった時代に自分から貴重な人口を減らすようなことをしてきたのが曹操だからなあ
122無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 04:56:32
>>120
光武帝期の2000万は治世最末期で統一後20年近く、しかも検地を酷吏の多用で徹底しての数値だぞ。
分裂期の統計はない。
123無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 05:21:08
(  ゚Дメ) 123
124無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 08:36:16
>>121
秦末に中国は狭くなってるから当然
125無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 23:24:00
>>122
でもさー
前漢末に6000万だったのが2100万になっておよそ3分の1
後漢末に5600万だったのが晋で1600万になって約3分の1
つーことは絶対量が少ない分後漢末のが少なかったんじゃね?
即位したのが西暦25年、上記の数え方で行くならこの時期を全体の半分として曹操死亡時、文帝の中興と相対的に同じくらいの時期だと仮定できるから
6000万から8分の1減ったとして1100万、ただあくまで仮定だけど。200年から80年で900万程回復。30年程度で同程度の割合で回復するとは考えにくい。
どっちにしろ1000万を切ることはないと思う。戸籍把握の増加を考えると絶対に読み切れはしないだろうが、年数の割合的におよそ2分の1と半分だから人口は約400万程の増加幅、逆算して1700万くらいか?
まあ75年に1000万くらい増えてるから、戸籍の把握力の問題かなとも思う。
いずれにしろ時間に比しての人口増加の割合が速いことを考えると、前漢末から後漢初期の方が人口減少は緩やかだったのかな、という気はする。

57年から105年あたりまでに5300万でピーク、その後は156年まで比較的安定。
そして200年で700万に激減、同じ50年だけど後漢末期の減り方のほうはすさまじい。
前漢崩壊の時の場合新が建って間もなく赤眉の乱、新崩壊、再統一戦争と乱れまくったものの30年程で統一、件の光武帝末期の時に2100万。ここまで前漢崩壊から50年。
また105年の時から125年安帝の時に戸数は増えているのに人口は減ってる。
136年にもう一回5300万の時代があるけど、その後桓帝の時代まで微減している。
後漢時代にも豪族による土地併合があって人口把握が難しくなっていたことが関係しているんだろうけど、それほど減ってはいない。
後漢末期の場合戦乱による戸籍の問題を考慮しても普通じゃない。やっぱりかなり大幅な人口変動があったんじゃないかと。新末後漢初期に比べて分裂の年数も長いしな。
奴民の類でもそれなりの数がいたのならこんなにダラダラ長くならないと思う。

余談だが後漢半ばからすでに天災や軍隊に取られるなどして人口が減ってたのも関係してると思う。この時もう後々につながる社会不安の芽はあったんじゃなかろうか。
後漢末の中原も飢饉で荒れたらしいしな。それが減少に拍車をかけたかと。

まああくまで推察に過ぎないけれど。
126125:2008/12/04(木) 23:35:11
あー失敬
>>余談だが後漢半ばからすでに天災や軍隊に取られるなどして人口が減ってたのも関係してると思う。
は人口が減る時期に起こったであろう推測の話ね
127無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 00:10:08
>>後漢末の中原も飢饉で荒れたらしいしな。それが減少に拍車をかけたかと。
つうかむしろこっちがメインかと
飢饉によって米が暴騰したりイナゴによってさらに農地が打撃を受けたともいうし、天災による生産力の低下が人口の激減につながったんでは
128無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 00:18:12
>>127

天災や飢饉、戦乱で流民化した人間を豪族が吸収していった
膨れ上がった豪族は更に勢力を拡大し、政治の世界や軍事の世界でも主導的な立場になり、その権力が更なる富といっそうの勢力拡大を生んだ
こうしてのちの貴族が形成されていった

天災や戦争による自然減ももちろん少なくなかったはずだが、死んでいないが戸籍人口が減った方が割合的には上のはず
実際、そうでないと三国時代と晋の人口差が説明できない
(流民や豪族の隷民は統一王朝の平和な時代になればある程度は戸籍に登載されて一般の民に戻っていくから、一気に増える)
129無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 00:40:15
>>128
だから生産力の低下が流民を増やしたんだろ
つまりそれだけまともな生活ができなくなった人間がいたはず
上でも言われてるが流民になった=国力に問題がない、ではないのだから。
国民の生活が安定しないということは国力の低下を意味する
130無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 00:52:37
売官せなあかん状態で財政もへったくれもないからね
>>128
人口差、といっても全体から見ればごっそり減っちゃってるからな
隋でも4600万だから。いくら実人口と差異があるといっても、3世紀の人口崩壊はかなり極端
131無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:22:25
道教・仏教の勃興もこの時期だから
そっち方面に吸収された人間も多いはず。
基本的に国家が頼りないからあらゆる層が
流民の受け皿になると。
132無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:29:22
蔡文姫の例もあるし、恐らく異民族に掻っ攫われて減少した分もあるだろうな
133無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:41:00
異民族はいつの時代でもないか?
まあ後漢末の場合董卓や曹操が引っ張ってきてるからな。
134無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:43:05
曹操が烏丸やっつけたのはやっぱ人狩りか?孫権と一緒で
135無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:55:09
>>133
董卓死後とか長安近辺はかなり略奪暴行が働かれてるから
人口減少に一役買ってると思う
136無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 03:10:21
>>125
この場合どちらがより減っていたかはあまり関係がないかと。
似たような人口でも統一しえた例の話なわけで。
137無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 13:28:47
実力と運を兼ね備えていなかったから。
138無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 16:21:12
>>136
あるだろ
規模の差があるんだから
>>134
ていうか別に人狩りの意識がなくても袁紹と組んでた烏丸は倒す価値がある
そもそも中国との対立が伝統みたいなもんだし
139無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 16:41:03
>>138
規模に差があったと断定しうる根拠が希薄。
差がなかったと断定しうる根拠もないが。
差があったとしても、農法や農具の発達、輸送路の整備度合いを鑑み、
さらに後漢書記述における新末期の飢餓、兵糧不足表現の
陣営民族を問わぬ異常な多さを考慮に入れればそれ程大きな違いがあったとは考えがたい。
また、主観だが曹操は光武帝より人口対策に不熱心に思われる。

そもそも東漢初との比較は>>120が曹操が歴代統一者より悲惨な状況下にあったとの比較において、
何故か戦乱期の状況の確定のできない光武帝の時期を、戦乱期との比較で持ちだしたのが発端。
そもそも超時代的な比較は難しいのに、これだと我々素人では主観論にしかならない。
取り下げれば確定し難い無益な論議に終止符を打てると思うのだが。
140無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 17:52:57
>>125
晋の統計までの年数を全て人口回復とするのは早計じゃね?
141無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 17:53:45
>>139
楚漢戦争で数年、新滅亡後には数十年、三国時代で100年、その後隋まで300年。
統一戦争にかかった年月は時代を追うごとに長くなっている。これは中国としての国力が低下していったことの証拠だろう。
晋の人口1600万というのは、ひとまず三国として落ち着いてから数十年経っていることを考えれば戸籍把握力的にそこそこ信頼できる数値ではあると思う。
そして記録の上では時代を追うごとに人口は減少している。単純に考えて劉秀の時代より後の曹操の頃のほうが著しいことは容易に想像できる。五胡はもっと厳しかったかも。
時代の流れとして中国は荒廃していったんだろう。その一つの特徴が人口の減少だったんじゃないかな。
新末に見せた人口の大幅低下含む国力の退行が尾を引いて、後漢末に雪だるま式に加速していったんじゃないかな。
後漢時代には結局6000万にまで戻すことは出来なかったしね。それに人口の値崩れの度合が変わらないとすれば、前漢より後漢の方が少ないんだから必然的に三国時代のほうが人口少ないと思うんだけど?
だから八王の乱でボロボロになったら異民族が下りてくることができた。新末、後漢末の内乱では中原を取られて南に追いやられるなんてことなかったのに。
人口対策というなら曹操は異民族の取り込みや強制移住、民屯での拾い上げなど対策には腐心している。曹操というか、この時代の群雄には人手不足解消は必須課題だったんだろうね。

最初の比較というか人口云々の話は、三国時代の国力低下を考えて、曹操や劉備の存命中では統一が難しかっただろうという意見。
そういう意味でせめて劉秀の時代の国力があれば曹操の支配版図なら巻き返しが効いたのでは?という意見。事実劉秀の末期のほうが晋より多いんだし、曹操の支配域というのは劉秀でいう統一真近、もうほとんど前線に立つ必要のなくなった頃だ。
後の五胡の混乱を考えても国力の低下がいかほどかというのは三国時代の時代性を知る上では、無益な論議だとは俺は思わない。そもそも統一云々の問題なんて劉秀だ曹操だという一個人の問題でどうこうなるもんじゃないんだから。
142無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 18:16:52
>>141
おおよそ納得したが、マクロな時代の流れをバックボーンとして提示したいなら、
今のように全体を例示して頂けると有り難かったり。
単純に劉秀時代を出されると劉秀信者の俺のように個人比較のように感じる人間も居るゆえに。
143無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 18:45:47
>>142
>>113ですでに全体の流れとして後退期にあったことは述べられているじゃないか
そもそも劉秀を例に出したのは俺じゃないんだからそんなところまで責任持てない。
>>125>>138の意見が例示として納得できたから同調して反論したまで。
それが気分を害したのなら謝るけど。
144無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:00:06
曹操が劉秀に勝っている部分って何かある?
145無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:02:00
>>144
碁の強さ、太鼓の上手さ、詩歌の才能
146無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:33:04
>>145
毒への耐性も追加で
147無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 00:40:20
>>146
あれって本当なのかなw
148無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 01:16:47
>>144
烏丸をほぼ完全に取り込んだところ?
149無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 22:03:27
>>147実は阿片とか頭痛回避に常用してたりして…
150董卓:2008/12/09(火) 18:58:39
この当時中国に阿片なんかない。
151董卓:2008/12/09(火) 18:59:49
実際曹操って碁強かったん?
152無名武将@お腹せっぷく:2008/12/09(火) 19:05:00
つ何晏
153無名武将@お腹せっぷく:2008/12/09(火) 23:30:32
>>144
現代一般人の知名度
154無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 17:12:50
どうでも良い話だが三国志で一番の悪逆君主ってトウケンじゃないか?

曹操に進行して撃退された逆恨みに父親殺したりしたんだろ?
155無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 19:41:43
曹操って父親と仲悪かったの?
156無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 20:00:15
まあ仲良かったとは思えないな
保護しようとしたら嫌がって徐州逃げちゃったし
157無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 20:52:35
>>154
正史と演義でキャラが真逆だもんな。
個人的には悪逆かつ老獪な陶謙が好きだがね。
158無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:28:02
ていうか本文と注で全然描かれ方がちがうのよね>陶謙
159無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:30:27
>>158
魏側としては、曹操が折り合いの悪い父曹嵩を見殺しにしたんじゃなくて悪人陶謙が殺したことにしたいから、そういう曲筆が入ったんだろう
160董卓:2008/12/11(木) 22:33:51
陶謙はケッセンとかいう奴とつるんでたらしいよ。
161無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:54:44
でも呉書をみると陶謙の監督不行き届きなんだよな
どっちにしろ陶謙のせいで曹操の親父が死んだのは確からしい
162無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 22:14:43
すっごい初歩的な質問なんだろうが・・・
誰か教えてくれると助かります。

禁酒法が出ている時に、除バクが飲酒して、「聖人とあたった」って発言して、それに対して曹操が怒って。
そこで「酒飲みは、酒の清んだものを聖人とよび、にごったものを賢人と呼ぶ。よっぱらいの言葉にすぎない」
っていう弁護で曹操が許したって・・・

そもそもなんで曹操は怒った?禁酒したことに怒ったわけでもなさそうだし。
サイトによっては「聖人にぶつかった」とか。曹操が誹謗されたと思った。とこ

どうもスッキリしないんだよね。
163無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 22:42:51
>>162
時科禁酒,而バク私飲至於沈醉.
校事趙達問以曹事,バク曰「中聖人.」
達白之太祖,太祖甚怒.
度遼將軍鮮于輔進曰「平日醉客謂酒清者為聖人,濁者為賢人,バク性脩慎,偶醉言耳.」
竟坐得免刑.

禁酒法の時代でも徐バクさんはお酒を飲んで飲まれて酔いつぶれたりしておりました
校事の趙達さんがお仕事について彼に質問すると「聖人に毒されちゃった、グヘヘヘ」といって
ベロンベロンに酔いどれて答えられません
徐バクさんがサボってると趙達さん曹操さんにチクります
曹操さんは大激怒!
「仕事しろ!ぶち殺すぞ!
あと聖人の言葉だから仕事しないってことは俺を批判してんの?死ぬの?」
度遼将軍の鮮于輔さんがこれを聞いて止めに入ります
「殿、殿、酒飲み業界用語で聖人ってのは清酒で賢人ってのは濁酒です
徐バクは普段は慎み深いし別に殿を批判してるわけじゃないんです
たまたま酔っ払った時に酒飲み業界用語を趙達が勘違いしたんです」
「じゃあ禁酒法違反で罰金な、処刑はなし」
164無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:00:29
>>163
あー「聖人にあたった」ってのは、「毒にあたった」とかの「あたった」か!!
んで「聖人に毒された、影響を受けた」ってことね。
それで、仕事しないのは「曹操を批判してる」って勘違いしたってことか。

めちゃくちゃサンクス!!!
とてもわかりやすくて、すごくスッキリした、本当に感謝!!
ありがとう!

165無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:26:51
>>164
この「中」ってのは受験漢文の頻出ワードでね
「中〜」で「〜に中る」(中毒→毒に中る)
とかの用法で受験生を惑わす引っ掛け問題なのさ
といっても頻出なもんで今では彼も有名人
166無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:29:40
実は徐バクは左伝襄公22年から引用してる
167無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:36:15
>>165
やっぱ、原文も見ないといかんな。
訳文だけだと何が言いたいかわからん。

自分も上で漢文だしてもらって、やっと意味がわかった。
中国語勉強してるんだが、中国語でも毒にあたるは「中了」だからさ。
168無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:41:35
徐バクは左伝を引用して「俺は酒飲んでるんだ!仕事の話するな無粋な奴め!」と言った
曹操は「聖人を中傷?ていうかそれは董昭に聖人と呼ばれた俺への誹謗だな。殺す!」
鮮ウホは「いや酒を聖人と呼んだだけですってば」と弁護

つまり曹操とウホは徐バクの左伝を交えたシャレを理解できなかったのです
169無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 23:48:01
>>168
恐らく趙達が徐バクの洒落を理解出来なかったんだろう
だから「聖人云々と申して仕事をしないんでござる」って曹操にチクっちゃった
曹操が鮮于輔の話聞くまでわからなかった、と
170無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 12:36:56
>>163の訳が神すぐるWWW
171無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 16:07:06

172無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 19:51:18
中を「アタル」と読むのはキン肉マンで覚えた。
173無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 12:22:08
曹操って国賊ですか?
174無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 12:27:03
>>168
関係無い話だが、鮮于輔の氏は「鮮于」で諱が「輔」じゃないか?
175無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 14:54:34
つとに人望は劉備のほうが高かったからだろーな。
普通に考えたら高級官僚の血筋の曹操、どこの馬の骨とも分からない劉備
人材を集めて勢力を拡大した曹操、賊を率いて逃げ回る劉備

どう見ても曹操が負ける要素がないが、反曹操がみんな劉備に集まって行ったんだよな。
それだけ曹操は人々から恨まれていたという証拠でもあるわけだが。
176無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 18:34:46
劉操vs曹備だったらここまで面白くなってないかな。
177無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 20:07:19
曹操は三公の息子だが、家柄的にはどう考えてもいいとは言えない

漢の功臣の末孫だなどと自称するどこの馬の骨ともしれない一族の、薄汚い宦官にまで成り下がって出世した豚野郎の子になった汚れた血の胤

そう思ってた士太夫には嫌われた
陳琳の檄文は大袈裟だが、的外れなわけではない
178無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 21:44:23
父の仇に統治されているというだけで徐州の民が殺されたのと同じようなもので、
これまで父祖の代から宦官に酷い目にあわされて来た清流派にとっては、宦官の孫というだけで拒否反応を示す者も多かっただろう
179無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 22:50:45
>>177
でも、もし本当ならば、考えてみれば、夏侯嬰の末裔が曹参の末裔に養子入りしたって、袁家どころの名門じゃないよなぁ。
両方とも、西漢の三傑に次ぐ功臣な上に、歴史上二人しか居ない相国の一人でしょ?

ハンパ無いぜ・・・そんな名家が宦官とそのお友達になったこと自体、唾棄すべき事なのかもしれんが。
180無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:05:47
>>179
たとえ功臣の血を引いていても、曹騰の時代にはかなり没落して庶民かそれに毛の生えた程度の家であった
これは名門とは言わない
181無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:10:57
織田スケートは今は名門じゃないだろ
感覚でいうとそんな感じ
182無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:26:22
>>180
・・・それ言っちゃったら、西漢が王莽に簒奪された時には、劉氏の皇族は、公的には庶民に落とされてなかったか?
183無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:31:39
>>182
それがどうかした?後漢に復帰してるでしょ
184無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 10:17:18
まぁ、後漢で名門って呼ばれてるのは大抵後漢中期頃から高官に登るようになった家だから、
後漢初期あたりまでは割と階級の流動性があるし、前漢代出身を「名門」というのは適切ではないかもね。
楊氏も袁氏も後漢初期や前漢では市井の学者や小役人だったわけで。
「血筋が高級官僚」なんてのは周代くらいに古くて、魏晋南北朝くらいに新しい概念じゃなかろうか。

だが>>177の言い草は流石にどうかなぁと思うわ。
まぁ、同時に>>175の劉備を「どこの馬の骨とも知れない」といいながら
曹操を「高級官僚の血筋」と言うのもフェアじゃないが。
185無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 11:49:43
>>184
まあ親が三公だから高級官僚の血筋ってのは間違いではないけどな
186177:2009/04/28(火) 23:30:59
>>184
まあ俺は別に宦官制度が悪いとは思ってないし、宦官が害悪だとも思ってないからね。
当時の官僚にも曹騰派の人間はかなり広範囲にいたし、宦官でも国に重きを為してる人っていっぱいいる。

ただそういう価値観は少なからずあることは否めないだろう。そういう価値観が全くなけりゃ贅閻の遺醜って言葉は存在しない。

それに家柄が悪かったのは出世した曹騰が宦官だったこと、夏侯氏が養子に出した事からもわかる

当時他家に姓を改めることは一種のタブー、よっぽどのことがなきゃ養子には出さない、しかもよりによって宦官に。
曹氏も普通に出世出来る名家なら曹騰はわざわざ宦官にならない。
イメージ的な差別もさながら、苦痛を伴う手術を行って生殖機能を失いのは一人の人間として非常にリスクが高い、障害者、四肢欠損者が差別意識を持たれる当時ならなおさらそうだろう、しかも宦官になったからって必ず出世出来るとは限らねぇ。

曹騰が宦官になったことが曹氏がおちぶれていたことの一つの指針だよ。
187無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:57:37
>>186
×贅閻
○贅閹
だと思う。
閹人=宦官なんで。

改姓はタブーだったっけ?
項伯の例もあるし、後漢政治史の本では養子がわりとある様な書かれ方してたような。
その流れで当時の養子のしきたりについて書かれてたんだが…
明日引っ張りだして読みなおしてみる。
188無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 00:05:52
家同士が懇意な場合は無くも無いが、基本的に姓を改める事はよろしくないとされる
189無名武将@お腹せっぷく
改姓の話なら、同時代の人をあたってみるのはどうだろうか。

朱然はもともと施という姓の生まれだったけど、改姓っていうか朱治の養子になってたよね。
それで息子の朱績は後で姓を戻して施績を名乗ってる。
あと曹操に育てられた秦朗という人は、曹操のいとこクラスの位置にいるけど養子にもならず改姓もしてない。

他には簡雍やら張遼やら鍾ヨウやら棗祗やら、先祖や自分で改姓した例って案外多いね。
軽く探してこれだけ見つかったんだから、もっと探せばゴロゴロ出てくると思う。