1 :
無名武将@お腹せっぷく:
あの7年間でもっといろんな事が出来たと思うんだけど
なんで南下されるまでのうのうとしてたのか
豪族の折衝役を務めたり山越の対処で手一杯でした
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 23:33:45
曹操が袁家と戦ってる間、のうのうとしてて え〜んけ?
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 23:42:57
袁家と曹操の戦い含めて
官度から赤壁までの間ってほとんど扱われないよね
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 23:44:00
この辺りは欠落してるなあ
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 23:45:49
孫権どころか官渡の後の袁家vs曹操すら大体の小説じゃ数行で飛ばされるなこの辺
劉表と小競り合ってた
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 00:24:44
詳しい人期待
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 00:29:20
いや、普通に黄祖と戦ってたんじゃなかったっけ?
孫権:劉表と争ってた&山越平定
劉表:孫権と争ってた&長沙反乱鎮圧
劉璋:反乱鎮圧
馬超:関中で戦ってた
どの勢力も、曹操たちの戦いに介入する暇がなかったとも言えるが、曹操や袁氏の邪魔を受けずに足場を固めるチャンスだったとも言える
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 00:30:46
黄楚に梃子摺ってたのか
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 00:31:32
やっぱ劉表ってそれなりにやる人物だったのかな
孫策の平定の早さがもの凄いから、どうもその後はスローペースに見える
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 00:34:16
劉表ってか黄祖がそれなりだったんじゃないの?
最初は甘寧も黄祖軍にいて凌操が殺られてるわけだし
劉表は孫呉にとって最悪のタイミングで死んだんだな
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 06:06:07
陳登攻めは実は孫権時代でしょ?
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 10:56:51
曹家と孫家は縁戚で友好関係だったから
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 15:35:08
曹操が袁氏を滅ぼすのにあんなに時間があったのに誰も後ろを突こうと
しなかったのは不自然ですらあるね。呂布なら即攻撃したろうに。
孫権、寝てたのかよ… by 某備
本来なら炎症は、劉虞を擁立して大義名分を立てた上で、
炎術と共に曹操を二方面から攻めるつもりだったんだろう。
ところが劉虞は勝手に割拠したあげく公孫さんに殺されるし
炎術は皇帝を名乗りだして協力したくてもできない状況に
なったあげく自滅。
中原に進出しようにも大義名分もなく、炎術の代わりに劉表を
使おうにもあまり乗り気じゃない。
炎症にとってはずいぶんやりにくい状況だったと思う。
そこで孫大人の出番です
あれ!?
袁術はもとから別グループを作っていたわけだし袁術とは協力しないと思う
劉虞も勝手の割拠してのでなく幽州牧として異民族の処理とかいろいろやってたわけだし
で本題として孫家は何をやっていたかというと人材をあつめながら黄祖を攻撃し
ケイシュウ進出を狙っていた。あそこを制せば豊かになってきていた揚州と合わせ、
さらに蜀をとって韓遂らとくめば超大勢力になったわけだし。
まあ実際に黄祖を殺せたのは赤壁の直前だったわけだけど
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 01:00:50
>>18が袁家滅ぼすの遅いって言ってるけど
孫権が黄祖殺すのにかかった時間に比べりゃ遥かにはやいな
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 01:02:14
荊州の勢力ってよくわからん
黄祖と劉表って臣下関係だったの?
黄祖はもっと評価されてもよいと思う
三国志世界で不遇なヤツのTOP5に入るね
黄祖は劉表の臣下というか劉表派の群雄じゃないの?
訣別する前の孫策と袁術の関係、みたいな
訣別する前の曹操と袁紹の関係でもあるな
>>23 エン家の配置は劉秀が天下を取った時と同じだ。
それを意識せずに河北と汝南という配置をしたとは思えないな。
董卓の元に身内を置いて自分達を太守に任命させるような
手の込んだ真似をする奴だし。
劉虞がなにを考えてたかはよく分からないけど、あの辺りで
公孫王賛にもエン紹にも依らないというのは無謀過ぎると思う。
任務達成して都に帰ってくればどうにかなるような局面じゃ
無いしな。
ラリホー
>>27 劉表勢力は基本的にそうなんでしょうね。
地元豪族の力が強かったですから。
>>29 どっちにしろ袁術が格下の曹操に負けちゃった時点でダメよ
袁術は公孫とかと組んで袁紹グループと対立してたわけだし、
袁術系の孫堅が洛陽とったときも袁紹は妨害してるわけだし
2つはもともと別グループだった思うよ。
若い頃の人脈ずくりも袁術は袁紹についていた形跡ないし。
遠紹:「くそっ呉はまだ動かんのか?」
田豊:「気にする必要はございません」
狙授:「気にする必要はございません」
逢起:「気にする必要はございません」
審配:「気にする必要はございません」
郭図:「気にする必要はございません」
某備:「少しは気に汁!!」
仮の家康:「ええいっ金吾めはまだ動かんのか!?」
仮の酒井:「伝令を送り続けておりますが…」
仮の本多:「かくなる上は攻撃を!」
仮の井伊:「いや、陣を寄せてトキの声を挙げてみるべき」
仮の榊原:「とりあえず鉄砲で威嚇射撃をしてみては…」
仮の某備:「お前ら、ちょっと遠紹の陣営に来い!!」
>>33 宦官一掃や反董卓と、割拠するまでは協調路線なんだけどな。
少なくともその間は、敵対と言うより同一勢力内の派閥争い
と言った方が正しいと思う。共同戦線を張りつつ妨害工作を
するっていうのは完全にそのパターンだし。
二袁のどちらかに天下が転がり込むのが確実だから、どっちが
上かを決める為に争いを激化させたのが、泥沼の戦乱になった
根本原因かも・・・
「孫権、いいから許昌を突け」 by 劉某
いいから俺の尻を突け
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 03:50:57
>>29 >劉虞
あれは若干おかしなナルシズムの傾向があるとしか…
異民族懐柔で自信もったのかもだが孤立してたのはどうみても信じられないレベルの自己過信。
劉秀時の劉楊になるのを恐れたのかもわからんが、彼の交渉力・声望等と、
袁紹が土着でないことを考えると、彼が上に立つだけで基本的な指揮ラインは劉虞に一本化されると思うんだが。
袁紹って史実でも諸豪族派閥間の調整で上に立ってて、
決して彼個人の臣たちではなかったから、野心を見せてもついてくる奴がおらず、
離反はできないだろうと思うんだがなぁ。
「孫権は徐州へ!!」
「劉表は司州へ!!」
「討曹へ結束せよ!!」
by 某皇叔
某備:「我もし遠紹軍を率いれば、曹操に百戦百勝したであろう」
某備さんなら分からないけど、劉備じゃ100%無理w
公孫さんに惨敗して逃げ去るのがオチ。
43 :
某備玄徳:2008/11/12(水) 17:22:16
まさか…
「劉備≫某備」は定説のはず…
リメンバー官渡ハーバー
by 某
陳寿:「さて今度は“劉備”を優勢にした三国志を書くか…」
某備:「ちゃんと書いて下さいよォ」
某権:「ちゃんと三つ書くまでやって下さいよォ」
陳寿:「分かっておる、分かっておる・・」 パタッ…
備・権:「先生ェー!!」
46 :
某備:2008/11/13(木) 09:18:22
良いこと思いついた。
大漢皇帝・・劉備
大漢宰相・・曹操
揚州刺史・・孫権
冀州刺史・・遠紹
4人が納得
↓
すべて丸くおさまる
もう黄祖も予州へ攻め上がれ、
張魯は涼州へ行け、
劉障は雍州な、
まったく!曹操の脅威に気づいているのは劉備だけかよ! by
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 08:29:10
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 10:29:32
【漢の劉某より檄文】
我、対曹戦の指揮を取る、各ザコ君主どもは我にしたがえ!
1、遠紹は黄河の対岸で曹操をひきつけろ
2、のこりの君主どもは各方面から曹の領地を侵食せよ
3、曹の外交にだまされるな、曹は劣勢工作して遠紹に勝てないふりをしている
4、曹の香具師は各方面に1万兵をおいているように見せているが実は2千兵程度だ
5、官渡の曹軍1万兵は香具師の劣勢工作、実は各地から掻きあつめて3万はいるから、遠紹は油断すな
6、逆に遠紹は10万と号しているが8万兵ほどだ、ザコ大名ども油断すな
7、すべては漢王朝のために!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
某備:「ハイ勝ちました、遠紹とザコ大名がしっかり動きさえすれば・・」 ムププ
51 :
某備:2008/11/14(金) 11:53:22
>>49同志よ、龍顔ふくみみ四肢のびやか餅肌と言ってくれ
くそう三国志時代にノブナガさえ居てくれたら…
ノブナガは劉備に加わるよな
おそらく属性的に見て、S極(曹操)とS極(ノブ)は反発するから、自然とM極(劉備)陣営に加わるはずだ
袁紹、なに兵糧焼かれてんだよ…
by 阿備
華陀よ 麻沸散を使って曹操を操るつもりだったのか いや、曹操へは許そう
b
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 21:58:45
最近「某備」とか付けるつまらないレス見るんだが、心当たりのある奴はとりあえず半年ROMれ
某備カワイソス… (´・ω・`)
俺も宦官の時とかは協力してたと思うよ。でも人脈ずくりのときとか袁紹と袁術は
別の人脈をつくっていたはず。
袁紹と袁術はそれぞれ野心があったというこにじゃないのかな?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 00:24:55
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 00:57:05
あ
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 01:23:43
>>1 家康がお前の右手を握りしめてた間、お前の左手はなにしてたの?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 08:09:12
アッー!
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 08:36:05
夏休みの宿題
孫権を責める暇があったら曹操に協力し袁家に止めを刺す一撃を加えた馬超を責めろよ・・。
そういう方針を決めた親父の方が悪いんだろうけど。
バトゥの判断は、西涼を守るためには妥当だったと思う。
疑心暗鬼を募らせて勝手に攻め込んだバチョ〜ンはただのバカ。
それだけ疑心暗鬼が湧くほど曹操の悪名が高かったんだろうけど。
つうか親父や一族が入朝したっつうのに反乱起こした馬超は大バカ者だろw
死んでくださいって言ってるようなもんやw曹操にしてみたら公然の裏切りだもの
>>58 袁一族の名望で人を集めるときに、
袁術より袁紹に多くの人士が訪れたこと、
中には袁術の元をハナから訪れる気がなく、袁紹のところにしか顔を出さないものまでいたことから、
袁術は袁紹に敵意を持ったとか
まあ、同じ一族とはいえ、「天に太陽は二つはない」ので遅かれ早かれ対立はしただろうし
別の天下を狙っていたなんて話は、漢王朝を潰すのが前提になる。
本気で漢王朝の存続なんて考えてた連中はほとんどいないだろ。
大義名分として利用しようと思ったのは幾らかはいるが、
端から無視してる方が圧倒的に多い。
( ゚Дメ) 70
>>69 周王朝や日本の室町時代のように後ろ盾をとっかえひっかえ
しながら、王朝が存続するというパターンもあるわけで、誰もが
漢王朝はつぶれると考えるほどの状況では無かったと思うよ。
それに、漢王朝を潰して誰かが皇帝になるという前提なら、
反董卓連合軍はありえなかったと思う。曹操か二袁が皇帝に
なるための行軍に協力するほど、諸侯の勢力は小さくない。
袁術に限定して言うなら、かなり早いうちから漢王朝は
つぶれたと考えてたかもしれないけど、袁術の即位は袁術派の
諸侯からも反対されている。当時すでに漢王朝滅亡が前提なら、
反対する理由などないはずなのに。
劉表や劉焉が割拠して様子見というのもありえない。
漢王朝が滅亡するぐらいなら自分が漢の皇帝になるだろうに。
曹操と袁紹に関しては、官位の調整でギリギリまで
漢王朝下で並存する道を探っていたようにも見える。
袁術が禅譲で皇帝になるのはありえるでしょ。ただ勢力が弱すぎて失敗したけど。
曹操にしろ袁紹にしろ本人か息子の代で禅譲を受けると思うよ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 03:53:28
袁紹本人は案外無いんじゃなかろうか。
河北行って劉虞推戴し、光武の中興なぞろうとしたこともそうだが、
なんか政治的行動に、曹操以上にロマンチシズムで行動してるきらいがあると思う。
>>73 ハァ?
そんなきらいはねーよ
運命論的なものを強く信じるメンタリティは当時の中国人全般的に見られる傾向だ
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 07:16:59
>>69 劉備は漢王朝の存続を本気で考えた。
ただ、献帝を追い出して、自分が漢王朝の皇帝になるって考えだけれどな。
蜀の正式名称は漢だし。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 13:01:48
後付だと思うよ
(・ω・ )
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 01:57:46
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 23:17:11
過疎ホ
( ゚Дメ) 80
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 12:51:02
日光浴
82 :
天貴星ノーミス ◆mirAHHPIaE :2008/12/16(火) 14:35:51
一夜ぐらい絶対オナニーしてたよな>>孫権
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 18:55:09
三國無双2でダメージ受けた時の声が「アッー!アッー!アッー!アッー!」
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 19:33:48
(・ω・ ) ( ゚Дメ)
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 01:32:34
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 18:09:41
過疎保
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/06(火) 19:14:50
袁紹の末裔を絶滅させた曹操
袁術の末裔を存続させた孫権
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/06(火) 20:20:30
>>88 え?曹操は袁紹の孫を自分の孫として育てて皇帝にしてやったじゃない
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/06(火) 20:26:19
でもその後は養子が継いでいるな
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/06(火) 20:29:56
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 06:30:24
曹叡は陳寿の暦法計算ミスで袁紹の孫に思える年齢っぽいように一見見えるけど
実際はギョウ陥落から生まれるまでに2年くらい間があるはずだよ
,-ー─‐‐-、
,! || |
!‐-------‐
.|:::i ./ ̄ ̄ヽi
,|:::i | (,,゚Д゚)|| 俺がソースだ
|::::(ノ 中濃 ||)
|::::i |..ソ ー ス||
\i `-----'/
 ̄U"U ̄
たしかにソースだ
>>94 既に「36歳で239年に死んだ」ってのが間違い
この時点で陳寿の曹叡の年齢に関する記述の正当性は疑われるよ
204年生まれじゃもう既に「曹丕の子」じゃないからね
普通に「袁煕の子」って書かれるよ
そもそも曹丕魏王即位時に1年3元号、曹叡の皇帝即位時には1年2元号
間にも頻繁な改元があって相当に注意して計算しないと2年くらい簡単に狂う
>>97 そもそも曹丕魏王即位時に1年3元号、曹叡の皇帝即位時には1年2元号
間にも頻繁な改元があって相当に注意して計算しないと2年くらい簡単に狂う
じゃあAD189年なんか3年も4年も狂っちまうよ
その程度の改元で簡単に計算狂わせないだろ
>>98 陳寿が三国の暦法を完全に把握してるって前提ならな
陳寿からしてみれば曹丕の魏王即位年は建安25年のままなんだよね
一番狂い易いのがここ
陳寿は「建安25年」を一年生きてるんだよ
陳寿本人の感覚そのままだと延康元年を1年としてうっかり暦法計算ミスる可能性がある
(本文に改元は書いてあるけど)
それから文帝紀には「15歳の曹叡を武徳侯にした」という記述があるけどこっちだと220年5月の出来事
逆算すると205年6月〜206年5月の生まれで、ギョウ陥落が204年8月
205年6月誕生なら204年8月ギリギリに妊娠してたとしてやっと袁氏説は成立するわけだ
この場合、袁煕がエスパーか何かでもないと流石にそれは難しいんじゃない?
陳寿は先行史書からのコピペで三国志を書いてるから
うっかりミスによる記述の内容食い違いがないとは言い難い
特に気合入れて計算してないと、他と関係の薄い1年2年はすぐに間違えそうだ
実際、曹叡も本文の記述が整合性取れてないし
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 09:16:45
寝てた
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:56:37
取りあえず、袁熙は幽州に行ってて嫁は義母に仕えるために冀州に残ってる。
だから、甄姫が曹操軍の手に落ちた時に妊娠初期で
それが袁熙の子というのは有り得ない。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 22:07:08
孫策が生きてればカントの漁夫の利で中央進出してたのにな。
>>101 いつから冀州に行ったかなんて分からなくない?
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 22:42:38
>>103 魏 略 曰 : 熙 出 在 幽 州 , 后 留 侍 姑 . 及 鄴 城 破 , 紹 妻 及 后 共 坐 皇 堂 上
俺は漢文はダメだが、甄姫は冀州から動いていないんじゃないか?
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 23:42:39
分からん。
けど、結構な期間離れてた可能性もある。
当時は単身赴任も多いし。
ただ、少なくとも鄴陥落の2か月前に袁熙が立ち寄っていて子を宿した、なんてことは考えにくい。
そしてもしもっと以前に妊娠してるならお腹が目立つわけで、
それならそれで曹操がやったように連れ子として育てるだろう。
もし俺が袁熙なら
?陥落の2か月前でも軍議だの理由付けて
こっそり帰って美人妻と赤玉出るまでやりまくるけどね
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 14:46:18
>>107 おそらく幽州で新たに側室を設けたんじゃないか?
孫堅の第2夫人(孫朗の母)も単身赴任時に抱えた側室とも推測されている。
夏侯[木予木]は長安時代にそれやって妻の清河公主に殺されかけたな
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 18:46:59
ぼうさんは魏延や兄弟にも侮られて大変だぁ
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 09:41:43
清河長公主は誰と結婚したら幸せだったのだろうか?
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/29(木) 10:27:37
曹操が袁家と戦ってる間、孫権はなにしてたかって?
決まってるじゃん。
亡兄の未亡人を口説くことに専念してたのさ。
@台湾に進出に夢中で北に目が向かなかった。
A親父と兄貴の法要で動けなかった。
B政権を安定させるために動けなかった。
C南方の異民族平定の為に動けなかった。
D妹にイジメられて引きこもっていた。
E劉表と小競り合いが続いて動けなかった。
ほかにもいろいろ可能性はあるだろうが、Dで間違いないな!
「山越さえいなけりゃ中原も狙えたのに」と愚痴ったとか何とか
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 17:47:58
2CHしてた。
保守
過疎
カソス…
カオス(混沌)
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 22:01:27
孫策の喪
尚香が呉に帰ったのはいつ頃だろう
うーむ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/27(金) 19:11:10
劉備が蜀を平定してからでは?
124 :
曹操:2009/02/28(土) 06:35:24
曹丕め・・・
美しい人妻を寝取るなんて… ウラマヤシイ…
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/07(火) 03:13:27
この時代って貞操観念とかってないんかな?
どんなに美人な人でも他人のお古は嫁にしたくないんだけど
なに蒼いことを(ry
過疎
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/22(金) 01:37:03
保守
美女ならば良し
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/28(木) 19:58:15
当時の世間一般的な認識としては略奪婚とかって全然おkなの?
>>132 息子がそれをやったら孔融に揶揄されたでござるの巻
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/28(木) 23:52:42
このスレタイ見るたびに思うのが、まるで孫権がこの時オナニーしてたかのような言い方だよな・・・と。
>>132 重犯罪者の妻子は奴婢として官に没収された。
解放策として下げ渡しや売り出しが行われたりしたので、
敗将や逃亡した叛徒の係累を妻として迎えたのは上品ではないがむしろ厚遇だと思われる。
甄氏は名家だったので、時世が曹氏に移る中で
二家の繋がりを両者が望んだ結果と見た方がいいだろう。
敵の妻を奪うのは普通なの?
選択権は勝者にある。
衣食を給付して名声を高めるのに使ってもいいし、
奴婢にして売り飛ばしても構わない。
139 :
中○英雄:2009/06/28(日) 16:33:35
他人のお古の美女ほどおいしいものはないぜ!
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/29(月) 14:50:03
処女よりはずっといいな
関羽と曹操も呂布の子分の奥さん巡って揉めてたよな
関羽って色欲薄そうな感じなのに意外…