1 :
無名武将@お腹せっぷく:
最強の国力を持ち豊富な人材を持っていた
そして、他二国も大したことないのに結局滅びてしまった
元々、統一は無理だったのか
西晋は制度からしても魏を踏襲、或いは劣化させた国家だから
司馬炎が禅譲劇を起こさなければ魏は中華を統一することが可能だった
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 19:49:37
無理だろ
結局、蜀も呉も相応の勢力だった
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 19:52:26
制度に問題があったから乗っ取とられた俺は考えている
司馬家が権力を掌握しなくても他の者に専横されて
内部から瓦解していくのでは
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 19:58:49
そもそも司馬イはいつ野心に目覚めたんだ?
曹操や曹丕の時代からそんなことを考えていたとは思えんのだが
曹爽が司馬イを追い落とそうとなんかしなければ司馬家の乗っ取りなど起こらず
魏のまま統一に向かったんじゃないか?
司馬に権勢が集まってしまうのが悪いなら
戦犯は文帝だな
>>4 制度というより、曹芳以降の皇帝に権力がなさすぎた
しかし皇族の権力を強化すると西晋のように乱が起きる
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:02:45
皇帝がすぐにお飾りになってしまった国に未来は有るのか
統一事業を徹底に貫徹すべきだったな。
結局、一枚岩の大国でなければ内部から崩壊していく。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:04:50
仮に魏が統一したら異民族を退けられたのだろうか
曹叡があまりにも単命なのと、正当な世継ぎが出来なかった奥向きが手薄だったこと。
これでFA
曹丕の治世には見るべき業績があった。
董卓が乱発した悪貨を完全に駆逐できたのは曹丕の代だし、
長らく断絶していた西域との通商が再開されたのもこの時。
統一事業の基礎になるような統治はしてるんだけど、
重臣に権力が行くような方向に進んじゃったからなあ
天下を統一したわけでもないのに巨大な門閥が出来たのも
致命的だったな。
魏はやはり内部崩壊する運命だったと思う。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:11:02
曹爽が司馬家を完璧に追い落としても
その後の貴族社会が早まるだけじゃないか?
で統一する前に皇族から権力は遠ざかり外征は権威付けに利用される
統一する前に皇帝が変わるな
曹丕もまさか自分があんな早く死ぬとは思ってなかったし
まさか息子がさらに早く死ぬとは思いも寄らなかったんだろうな
どちらかがせめて曹操くらい生きれば
あるいは統一に向かったんじゃないか?
>>14 曹爽は皇族だし、夏侯家の中にも親しかった者は多いから
魏という外郭は変わらない気がする
或いは曹芳から曹爽の家に帝位が移ったかもしれないが
>>15 無理だよ。
あの時点で曹操は66。
しかも、寿命か病没ならあそこが限界ということ。
>>17 じゃなくて、曹丕か曹叡が夭折せずに曹操ぐらい生きればってことでしょ?
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:20:20
>>18 それでも無理だろう。
曹丕、曹叡がそこまで特別な存在には見えないしな。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:20:43
>>16 たしかに曹爽は皇族だが名声を重んじて名士ばっか集めてたろ
その後の展開をみても曹爽から実権が離れて貴族した奴らが
実権を握ると思うんだが
そうなれば別に曹家が皇帝じゃなくても言い訳で
>>21 曹爽が握ってた実権の強大さを忘れてる
自分は軍政の統帥権を握り、弟達に中領軍・中護軍として禁軍を総督させてるんだぞ
この権力はそうそう離れない
青州黄巾兵は曹丕、曹叡時代も居たのかな?
曹操軍の精兵であった彼らなしでは天下を狙えるか分からんかも。
>>23 青州黄巾兵は去ってたけど、
魏軍の精兵といえば匈奴や烏丸から連行してきた騎兵だよ
25 :
涼宮さん:2008/10/06(月) 20:27:44
西東両漢なら 歴代に政権の替りのは宦官 或いは外戚の争い
からとって 潰滅の運命を繰り替えしてる
司馬なら政権を把握しなければ 曹爽から皇帝の座を奪うなんです
>>24 既に異民族に政権持ってかれるのも運命だったのかもな
どんなに異民族に征服されても「中華」の概念がなくならないんだからあの国はすごい
ことの発端は曹操が文徳郭皇后を曹丕の側室のために連れてきたきたことか・・・
>>27 異民族も中華の文明を大事にしてくれたからな。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 20:35:25
曹叡がちゃんと後継を引き継けばなあ
>>20 別に特別じゃなくても統一出来るんじゃね?
二人とも平凡ではないわけだし圧倒的国力で二国の急所をじりじり攻めればいいんだし
晩年の曹叡みたくならないで長生きすればいいんでね
>>26 匈奴とかもともとかなり中国側に入り込んではいたけど、こんな大々的かつ積極的に使ったのは曹操からだからな
で、異民族は小作とか奴隷とか兵士とかの安い労働力として使われ、不満が溜まって爆発した
>>31 しかし、あからさまな力押しに出ると蜀呉はここぞとばかりに同盟。
堅牢な地形を盾にふんばって、最悪の場合になると魏は兵を大量に失うだけ
という結果にも繋がりかねないぞ。
34 :
涼宮さん:2008/10/07(火) 00:36:23
実は 僕も疑てる
正統の血統の漢民族が一体に存在してるの
古代から 絶えず外民族侵入の中国は原種人に何の数でいる
>>31 そもそも、圧倒的というほどの差ではないよ、彼らの時代では
曹丕は呉に攻め入ったものの惨敗を喫した。
曹叡は呉蜀からの進撃を防ぎ守備オンリー。
曹叡が的確な攻めに転じたら曹丕のようには行くまい。
>>33 でも曹丕が呉を攻めた時は江陵を陥落ギリギリまでに寄ったりして呉の防衛ラインも徐々に下がってるから
ジリジリと南下すれば多分高い確率であのまま長江を渡ることができただろう。
よく拮抗してるとか言われるが人口比と開発の進み具合で行ったらやっぱりかなりの差があるから遠征難を考えても時間さえかければ十分可能だった。
やっぱり文帝の早死にが問題。明帝も40いかないで死んじゃってるし…他の兄弟も早死にだし曹操が66まで生きたのが不思議なくらいだ。
まあ三国時代がそもそも確認しうる人口が他の時代に比べてかなり少ないから、大軍を動員して一気に決めるのは難しかっただろうね。
戸籍が激減してるってことは流民が激増してるってことで、それだけ安定してない時代ってことだから。
>>37 でも、曹丕が呉を攻めた時って蜀呉戦争後で蜀が黙ってて呉も戦後という、魏からすればかなり条件のいい状況だったはず
それでも攻めきれなかったというのはあの段階での魏の限界だったんじゃない?
時間をかければというが、その時間は数十年という単位だったということだよ
やはり、赤壁で失ったものは大きかった
>>38 おいおい、赤壁は魏の大敗というよりは戦術的撤退だろ。
水上戦が不得手な魏の主力部隊が戦闘不能になっただけ。
魏の統一が不可能だったという結論を出すのならやはり着目すべきなのは門閥だと思う。
豪族が門閥や貴族階級を形成すると絶対的な皇帝権を確立して政権を掌握する事は難しくなる。
魏は元々が袁氏のような巨大な門閥ではなく、曹操・曹丕という個人のカリスマ性に依存した統治機構。
だから皇帝権の源泉が個人の資質に依存していたため、資質的に疑問の残る幼帝が即位すると
王朝の崩壊が起こるんだろう。同様の統治機構を取った晋が早期に崩壊してしまった事を見ても、
個人のカリスマに依存した統治機構だと、初代(+十分な実績を持つ2代目)が死んだ時点で
統一事業が完成していなければ、皇帝死亡時点での最大版図がその王朝の最大版図になりかねない。
その後は有力門閥が派閥を作って皇位継承争いが起こるか、皇帝権を蚕食しながら有力者が簒奪の機会をうかがう。
こうなりゃ王朝は実質崩壊したのも同じ。
だから、偶然のイタズラで孫権と劉備が堅牢な地で割拠してしまい、
歴代皇帝が二正面作戦を取らざるを得なくなった上2代目の寿命が短かったのは魏にとって決定的なダメージを与えたと思う。
>>39 俺は赤壁の戦は大敗で兵の損耗だけでも大問題だったと思うが、むしろその後江陵まで失ったことの方が大きいと思っている
戦術的撤退だけなら江陵で孤立する曹仁を助け切れず、また劉孫が荊州をめぐって対立を始めた時でさえ荊州にノータッチというのはちょっと考えにくい
長期的な計画での統一を考えていたなら、赤壁前の段階でカクの消極策を取り上げなかったのは辻褄が合わない
それまでは一気呵成に統一へ向かおうとしていたが、赤壁で頓挫するとその後はトラウマでもあるかのごとく荊州には兵を進めず、孫権と劉備による割拠を許してしまった
赤壁での敗戦がさほどのダメージでなかったんだとしたら、荊州放置は統一を目指す上で致命的な戦略ミスだ
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 08:03:44
>>39 土地を放棄するのは戦術的撤退とは言わない。
撤退の判断自体は船が焼かれ進撃出来ないし、疫病で士気の維持が不可能だから妥当。
どの程度周ユ、劉備に殺されたかは分からないが、
統一目前から江陵が維持できないレベルまで落ちるというのは、かなり不味い敗戦だったということだろう。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 09:46:49
>>38 呉より蜀を攻めた方がよかったんじゃね?
夷陵後だとどうしようもないぜ。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 12:09:07
漢中を失ったのが地味に利いてる
それなりに体制整ってたら漢中を落とすのはなかなか困難
ひょっとして魏マンセー厨ってあたまわるいの?
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 13:01:07
マンセーもアンチも解釈の幅が偏狭で、
それでいて自分の主張に強烈な拘りを持つ連中。
>>1 呉蜀より国力も人材も相対的には上だったが、
統一という目標を達成するほど絶対的なものではなかったということでFA
中立だったりするだけでも演義厨扱いされるからやれやれだわ。
ほんとネット右翼そっくり。
>マンセーもアンチも解釈の幅が偏狭で、
>それでいて自分の主張に強烈な拘りを持つ連中。
対話より自己主張を、共存より排除を選択するタイプだな。
意見が違う相手には必ずレッテル張りするのが、そいつらの十八番。
攻める攻めるとあるが
兵糧がさすがに持たないだろ。戦というのは金がかかるもんだぞ
じゃあ呉を散発的に攻めるのも駄目じゃん。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 14:16:50
>>47 そもそもこいつは議論をする気もまったくないのに
なんでこんなスレに来たりするんだろうな?
俺が正しい、皆俺の意見に従え、ってやりたいのか?
というか赤壁の被害云々言うがいかんせん記述が少なくてようわからん。
ただ魏にとってそれほど致命的ならもっと詳しく被害状況がのってるであろうことは確かだ。
つーか江陵がスグに陥落って言っても一年以上粘ってるし
逆に言うなら救援がなかったってのは確かに不自然だがな。
ただそれほどの大敗ならそれこそ一気に中原に進出できた気もするが。
どれだけのものだったのかは判断は下せないと思う。
魏が攻め切れなかったのは曹丕の早死にだとか疫病や河の凍結とか色々理由があるだろうが
それより何より人口が少なすぎる。三国合わせても戸籍人口700万とかアホかと。
だいたい前漢の一番多い時期で6000万、後漢の始めでも2000万いるからどれだけ食いっぱくれや死人が出たんだよって話。
こんなんで大国を維持しながら大河や山岳を越えて戦争やりましょうってのがムリな話だ。
後々になって統治体系がグチャグチャになってからやっと統一を見たのもコレならうなずける。
だから諸葛亮や曹丕がやろうとしてたのは相当にタフな事業だ。孫権のほうが当時的には遥かに現実的だったかもしれない。
孫権もなんで?って思うくらい合肥に拘ってるけどな。アレは蜀との連携とかだったんだろうかね。
>>51 その通り。
曹操死後司馬が呉を滅ぼすまで60年。
そのくらい国力を回復する作業に時間が必要だったこと。
とにかく生産人口が少なすぎて、民屯政策で労働人口増やしながらの軍事行動は大変だったと思う。
曹操が内政全部お任せで、戦争屋に徹したら一代で統一できたかもなー
つまり中国そのものが疲弊しきっててどうしようもなかったという事か。
>>52 無理じゃないか?
曹操はそこまでの戦争屋じゃない上にあまり戦も上手くない。
>>46 正史の意味合いを少し疑うだけでもすぐに演義厨扱いしてくる奴も居るしな。
正史は同じ事象でも、武帝本紀と呉志の赤壁では書かれてることが違うので
整合性を求めるのなら、極めて自分目線で語る事もしばしばだしなあ。
>>51 >孫権もなんで?って思うくらい合肥に拘ってるけどな。アレは蜀との連携とかだったんだろうかね。
単純に安全保障と戦略上の問題。
漢中≒寿春
剣閣≒合肥
綿竹≒濡須
成都≒建業
と見れば合肥を占拠されたままなのが如何にヤバイか分かるかと思う。
それより上流の勢力に夷陵〜江陵を占拠される方がヤバイというのも分かるが。
>>54 誰と比較して戦上手とか戦下手とか決めんの?
まずそこからだ。
>>56 曹操の窮地を救ってきたのは数々の名臣達の的確な助言だろ?
ブレーンなしでは曹操は戦えないよ。
ブレーンの指示を合理的に判断して実行に移せるわけですね、わかります。
それともあなたの中の戦上手って参謀に意見を求めないようなヤツなんですか?
>>57 それって戦略のアドバイスの段階の話だしな…
戦の指揮をしてたのは基本曹操
曹操は漢中で劉備に敗れ
赤壁、濡須でも呉に惨敗
アウェーには弱いんじゃねえの?
>>57 別にブレーンありでもいいだろ。
結果出すのが戦上手。
過程がかなりヤバイのは同意するがそんなもんだ。
ってことは対蜀、対呉戦はキツそうだな。
過去に結果で負けている上、強引にニ方面の南征ってのもな。
>>60 それは戦上手じゃなく軍神のレベルだ。
ついでに呉起と白起も入るだろうが。
つうかブレーンの意見取り入れたらダメなんていう電波はさすがに釣りだと思いたい
いくらなんでもそこまで三戦板のレベルがそこまで低いとは…
>>60 曹操はただの軍人ではなく政治家でもあるしなにより勢力の代表だから
やっぱ幕僚の進言を聞かないなんてのはスタンスからいっても考えにくい。
>>61 曹操の場合侵攻戦が多いからそれはない。
アウェーというと広義だから遠征とか地理条件が悪いと弱いとかいう方が正しい。
でも烏丸や関中征伐では勝ってるな…
山や湿地みたいなぐずつくような長期戦がヘタ?
でも官渡は粘って勝ったからな。
単純に歳食ったらボケたんじゃねえかw?
>>65 アウェーに弱いどころか曹操は窮地に強いタイプ
ただ自軍の方が優位にあると気を抜いちゃうんじゃないか?
しかし、北と南は環境もかなり違うからな
北国出身の魏軍は健康面での苦労もハンパじゃないと思う
その上、決断力のある参謀も多い蜀や呉を官渡と一戦と同じようには見れないだろう
官渡は袁紹がアホすぎて負けたようなもんだ。
あれは普通に参謀の意見を聞いてたら
袁紹軍圧勝の戦だったね。
>>65 粘るのは得意でも粘られるのは苦手かも
>>67 公孫賛を破ったり烏丸突騎を組み入れたりしてた袁紹軍を過小評価してるよ。
華北勢力は袁紹存命中は曹操も警戒して手を出さなかったくらい強いしな。
孫策が生きてたら官渡はヤバイ。
ただ長江を越え不慣れな中原に出てきて曹操不在とはいえ勝てるかという不安もあるが
本拠地にどれくらい兵がいたかによるけどな
>>68 ある所では参謀の意見聞かなきゃ駄目だというヤツもいれば、聞いたら無能だというヤツもいる。
どっちを基準に考えればいいんだろう?
田豊の意見無視して勝った界橋もあるしな。
>>71 んなこといったら赤壁で疫病が流行らなかったら…水上での遭遇戦がなかったら…なんていうことも言える
そのテの論議はどうどうめぐりだ
>>73 昨日今日荊州を落としたばっかで既に攻勢限界に達してる赤壁と
兵力の少ない方が途中まで補給切れしそうだった官渡を一緒にすんのはどうかと。
>>74 そりゃまた別の要因だろう
疫病やら遭遇戦やらは不確定要素というしかない。
それにそれだったら結局袁紹が許ユウだけ特別待遇にしてりゃよかったとかって話になっちゃうし。
上は間違えた
>>51 >ただそれほどの大敗ならそれこそ一気に中原に進出できた気もするが。
いや、呉は赤壁の年にやっと江夏の黄祖を倒したという段階だったのが、江陵まで進出した
それだけでもかなりの進展だ
敗残兵だったはずの劉備は言うまでも無い
一気に中原はいくらなんでも孫権・劉備を過大評価で曹操を過小評価だよ
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 21:19:11
>官渡は袁紹がアホすぎて負けたようなもんだ。
戦略以前にお話しにならないなw
赤壁に関しては「与将軍会猟於呉」とか
事前に余裕かましてるし
単純に曹操の失態でいいと思うけど。
それは余裕云々じゃなくて降伏勧告のためのカマかけだろw
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 23:45:33
赤壁前の段階って天下統一の最大のチャンスだったと思うよ、曹操から曹叡までの期間の中では
だからこそ、カクが述べたように荊州で一旦腰を下ろしておくべきだったんだろう
急がば回れ、だ
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 23:47:45
つまり曹丕でも明帝でもなく
カクカがもう少し生きてれば良かったのか
>>79 いわゆる降伏勧告は偽書説があり、その可能性は高いと思う
南征の目的は劉備で、劉備を深追いし過ぎて孫権の水軍と出くわしたのが赤壁
余裕はなかったと思われ
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 06:43:08
唇歯輔車というかあそこまで劉備を追い詰めると次は孫権以外ありえない。
当陽の戦いはgjだが劉備を取り逃がしたことは痛かったな。
劉備劉備言っても、荊州における影響力をほとんど奪った以上は単なるゲリラ勢力に過ぎないわけで、そこまで討伐にこだわっていた理由がよく解らない。
結局アルカイダとの関係を名分にアフガン・イラクを攻めたみたいなものだろ。
南征の目的は元から荊・揚の覇権にあり、実質的な統一の確立にある。
>>85 演義厨が、劉備の存在なしに赤壁を語ってもらいたくない戯言だろ。
そもそも劉備なんて曹操がいるから生まれたような存在で。
曹操の掌の上で動かされて一生終えたようなもんだから。
史実の中ではいようといまいとまったく関係ない。
三国志の物語としては一色添えてるけどね。
>>85 >荊州における影響力をほとんど奪った以上は単なるゲリラ勢力に過ぎない
・荊州豪傑帰先主者日益多、表疑其心、陰御之。
・j左右及荊州人多帰先主。
・先主斜趨漢津、適与羽船会、得済沔、遇表長子江夏太守g衆万余人、与到夏口。
・劉表吏士見従北軍、多反来投備。(江表伝)
>そこまで討伐にこだわっていた理由がよく解らない。
・公将自東征備、諸将皆曰、「与公争天下者、袁紹也。今紹方来而棄之東、紹乗人後、若何?」
公曰「夫劉備、人傑也、今不撃、必為後患、将生憂寡人」
・曹公以江陵有軍実、恐先主拠之、釈乃輜重、軽軍到襄陽。
・公曰「劉備、吾儔也。但得計少晩。向使早放火、吾徒無類矣」(山陽公戴記)
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 14:37:04
>>85-86 魏マンセーにしろ蜀アンチにしろ
劉備を不当に軽んじるのは、曹操の判断と対応を軽んじるのと一緒な訳だが
そこらへん分かってるのだろうか?
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 15:04:24
山陽公戴記なんぞ捏造書を引き出す馬鹿がいるんだ
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 15:18:22
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 15:53:41
はいはい、ワロス、ワロス
>>88 べつに曹操だろうと劉備だろうとどっちでもいい
が、状況を考えれば考えるほど曹操が劉備に拘った理由がわからないから何でかなあ?って皆言ってるんだ
いい加減単なる好き嫌いで語るのは卒業した方がいいよ。
しかし傍観者として言わせてもらえば
>>85はともかく
>>86は目茶苦茶だろう
劉備がいようといまいとまったく関係ないなんてさ
>>92 単なるゲリラ勢力なら戦後に南半分に割拠するなんてことは出来ないだろ。
そもそも劉ソウの降伏を期待してなかっただろうし、
揚州の覇権まで曹操が視野に入れてたとは思えん。
>いい加減単なる好き嫌いで語るのは卒業した方がいいよ。
同意はするが、言う相手を間違っている。
なんだかんだ劉備厨は魏スレを荒らしたい模様。
>>94 だってマンセーだのアンチだの言ってたのは
>>88氏だからね。
まあ
>>86氏の言い分も乱暴なものだが
でもあの時は劉備個人にというよりは荊州の支配が目的。
その荊州が簡単に手に入ったんだから、次に目を向けるのは当然呉だろう。
そのためには荊州の支配を安定させる事が第一で、劉備は二の次という判断になる。普通ならそうじゃないか?
この時の劉備は文字通りほうほうの体だからね。とっておきの騎兵まで繰り出して猛追する必要が感じられない。
劉備追撃やその他諸々に深い理由はなくて
毎度おなじみ曹操の行き当たりばったりなだけな気もするけど…。
たしかに
>>96の言い分はまったく正しい
しかし曹操には俺たちには見えていなかったものが見えていた可能性もある(たとえそれが妄想でも)
曹操は直接劉備を知っていたし、何より関羽を知っていた。
後年関羽が攻め上がって来た時に遷都を考えるくらい関羽を買っていた曹操は
その関羽を従える劉備の可能性を恐れていたんじゃないか
あるいは関羽にフラれたことを根に持っていたか。
何しろ人材を愛でることで知られた劉備だからさ。
それに実に結果論だけで言えば、あの時劉備を始末しておけば
後年漢中で夏候淵を失うことはなかったわけだし、
曹操の判断がまったく間違ってたわけでは……ってのは穿ちすぎかw
>>96 アンチだのマンセーだのと言われるのが不当だと言うなら謝るよ。
>>85の分析が荊州名士の動向を無視して「影響力を奪ったゲリラ」
としてるから何らかのバイアスがかかってるように見えた。
汝南あたりなら正にその通りだろうが。
また、あのまま放置してたら江陵以南を奪われる可能性がある以上、
曹操の追撃の判断も間違ってはいない。事実結果は圧勝だしな。
赤壁前後でも曹操の年齢は50オーバーだし、じっくり構える余裕がないのも事実。
その年代の人間が後10年は生きれるなんて前提で行動はしない、
と考えても別も不自然ではないかと思う。
>>96 正史を見れば曹操が必要以上に劉備の才能を買ってるのは判るだろう。
劉表は曹操に対して大した戦意は無かったが、劉備は曹操の背後を突くようしつこく主張してるし
曹操もたびたび兵を送って劉備と交戦してる。
武帝紀の赤壁のくだりも劉備によって敗退したことが書かれてる以上、この時の目的は劉備であったことは明白。
劉備を深追いしたのは江夏にある銅山目的という説もある。
荊州を安定させるなら目的は達成してるし、
呉と会戦するつもりならあんな強行軍普通はしない。
劉備が目的なわけないだろ
荊州が降伏といっても、それは劉ソウのことであり、州全体が降伏してはいない
まして、劉表が荊州全域を完全に掌握したといえるのは最近のことで、突然の支配者交代を皆が受け入れるとは限らない
名士も軍人も豪族も民も、曹操に完全に心服もしていないし心を折られたわけでもない奴の方が多かったと思われる
それが諸葛亮の襄陽攻め建策であり、劉備への流民結集であり、王威の奇襲発言ということだ
そこに、劉表の時代にすでに存在感を発揮していた劉備が残っているというのは占領する曹操にしてみれば重大問題だ
焦り気味なまでに劉備を追うのも無理は無い
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 22:48:31
NHK歴史は動いた。
の赤壁で劉備は完全スルーだな。ざまぁwwww
そりゃ曹操と孫権の戦争なのだから無理もない。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 22:50:04
赤壁で劉備うんぬん言い出したらちょっとNHKを疑うわ
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 22:50:23
自分自身とさ
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 23:00:41
劉備厨涙目必死www
_, ._
( ・ω・) とりあえず刈っておくか
○={=}〇,
|:::::::::\, ', ´
.wwし w`(.@)wwww
最近はすぐ○○厨とか言い出すのが流行りなの?
劉備勢も十分なボリュームだったじゃないの。
>>88 世の中に蔓延するうっすらとした"善意"に対する反発と言うか。
ましてや今ネットの力でこれまで良いとされて来た事の嘘とかが暴かれてるわけで、
リテラシの低い子はどうしてもそれに結びつけちゃうんじゃないのかね。
だからその嘘に対して現実的な力で圧倒した曹操や自分たちに近い存在の劉禅に親近感もってんでしょ。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 10:39:39
>>113 どっちから入るにしろ、
演義と正史の両方の厨要素を兼ねて話題に応じて使い分ける方が、
演義の話が出てきた時点で条件反射で過剰に否定するより、
よほど三国志ファンとしてふさわしい振る舞いだと思う。
でもまあ魏は天下統一に実際に失敗してるしなあ。
それだけの実力があったかと言えばあっただろうね。
荊州持ち&イリョウの戦いまでの蜀にもあったかと言うとちょっと未知数だろうな。
呉に関してはどうなんだろう。
個人的には中国統一よりも、交易による既得権益を守る為に独立政権建てましたみたいな感じの気がする。
>>115 地方豪族が孫家を神輿にして集まってるのが呉だから
ほとんどの連中は最後の行の通り自分達の権益が一番大事だろうな
>>65 >三戦板のレベルがそこまで低いとは…
三戦板を舐めないで頂きたい
光栄三国志能力スレより
・袁術の部下が善政を敷いた
・それを袁術が褒め称えた
・だから袁術の政治力は高い
これが今の三戦板だ!
118 :
1:2008/10/10(金) 21:53:31
う〜ん。なんかイマイチ魏の実態が掴めないな。
俺は慢性的に教えてクレクレみたいなスレ立てるんだけど 今回は前ほど伸びてない。
前はエサバラ撒いたらお前ら勝手に議論してスレは1000まで行ったんだよな。
お前らもっと気合入れてケツふれよ
中途半端な国が三つ揃ったのが三国時代で、そのそれぞれに釣りスレ建てられまくってるわけで。
そりゃ語る事も無くなるしあたらしい意見もでなくなる。
(ー‘; ) ←佐倉
⊂ ヽ
ィ^
>>1(;ヽ _)_) )) カポカポ
(__人__,つ ∪J
誰だよ 勝手に1名乗ってる奴は
>>105 NHKは時代の風潮に流されるからなぁ
むしろ劉備に触れない方がおかしいのに
船を焼いたのは孫権の配下達と曹操自身だが撤退する曹操を劉備が追撃したのは史実だし
赤壁から江陵陥落までの一連の流れの中で劉備が果たした役割ってとてつもなくでかいよ
赤壁前後で劉備のやったこと
・曹操に騎兵を使わせる(騎兵は全力で駆けるとしばらく行動不能に陥る)
・最初江陵に向かったので曹操は江夏の劉キを放置、結果無傷の兵1万が保持されこれが後々大きな意味を持つことに
・撤退する曹操を追撃
・江陵攻めを周瑜とともに行う傍らで荊州南部四州を確保(後漢時代から三国時代にかけてこの辺は人口爆発地帯)
・江陵を周瑜とともに落とす
>>116 その史観はもう古いと思う
何でかっつうと呉だけでなく魏も蜀も豪族に担がれた神輿だから
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/26(日) 00:33:17
i
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/26(日) 13:11:39
晋朝が統一を為した以上
国力的には問題はない
蜀の地は魏の頃に抑えていたわけで
呉の河川による防衛ラインは阪神付随
魏から晋への禅譲がなければ、
魏による統一であったろう
司馬一族と反シバ派の抗争がないぶん
むしろ早まったかもしれない
>>125 いや問題あるだろ
曹操死んでから数十年かかってんだぞ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/26(日) 16:11:50
何かの釣りだと思ったから即レスはしなかった
>>126 そこは文帝の早死にが大きく関係してるかな
あと上で言われてるように人口が絶対的に少ないこと
呉との戦にたいした水軍もいないのに曹操自身が出ていって決戦せずに
じわじわと陸上決戦してれば良かった。
数にモノ言わせる戦はしたことないはずなのに
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 18:36:53
魏では統一不可だというほうがわからん
そりゃあ曹操の代では余命的に難しかっただろうが
魏ではムリだが晋だから可能だ
などと言っているのだろうか
演義の諸葛亮より頭がいい曹叡が長生きしていたら統一は余裕。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 01:33:57
可能! 終い!
不可能だったのでなんとも言えませんなあ。
曹丕は内政面では親族を遠ざけて曹爽や司馬氏の専横の遠因を作り
軍事面では二年に一回ほどのペースで呉を攻めて得るところなく
長生きされても困るように思うが
>>134 皇帝権の確立を終了させる前に崩御してるから
曹丕は長生きしないと困る
シバイ>>曹叡
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 15:25:49
ナイナイ
可能だったと思うなぁ。
曹操が挙兵後、前半でモタモタしなかったら、という但し書きがつくが。
短期で徐州制圧や宛制圧を成し遂げ、劉備を信任せず余計な離反を招かなければ、
史実より遥かにマシな状況で袁紹と対峙できる。
このあと赤壁のミスがなく、荊州の統治固めに時間を費やせば。
そこら辺のミスに至る経緯が曹操の魅力を深いものにしているのも事実。
人口論はちょっと擁護過剰かと。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 18:07:33
>>135 皇帝権確立させても、皇帝が愚かだったら統一無理じゃね?
それに曹叡の遺言を無視したように、中書が暴走する危険もある。
>>134 曹操没年のどさくさで奪われた荊北を見事に取り返してるじゃん
>>138 それは「ピッチャーがノーヒットノーランに抑えてれば試合に勝てた」みたいなハードルの高さだぞ
>>141 それを言うなら、完全試合とな。
呉は対応したが、曹丕が詰めが甘かったせいか呉に敗北したが、劉備が呉へ攻めると同時に魏も本格的に攻め入ったら可能性はある。
>>142 たぶんそれはやろうにも出来なかったんだと思う
曹操死後の体制固めから即位で忙しかったのと、魏が入ってきたとたんに呉蜀が再度同盟する危険性を考慮したのと、一時的とはいえ襄陽まで占拠されるほど荊州方面が疲弊していたのとで
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/15(日) 15:33:00
十分可能だったと思うんだが
でもま、人口で言えば、晋時代は明らかに三国時代、三国合計から一気に
人が増えている。これって民屯とかの私人が公民になったからと考えられ、
その内の大半が魏の人だったと考えると、三国時代の人口以上に三国の差
は大きかったと思えますね。
三国時代は魏が400万ちょっと、呉が230万、蜀が100万弱だったと
思うけど、晋の時は1400万ぐらい?ほぼ倍。
650万ぐらい増えてるウチの大半が魏の民屯からだとすると、魏、呉、蜀
の国力差は10:3:1ぐらいになっちゃうんじゃないかな。まぁ、魏の場合
北方やらの国境付近にもかなりの兵を置かないといけないだろうから単純な
比較って訳にはいかんだろうけどね。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 15:15:04
曹叡が袁熙の子供だったとしたら、袁紹が魏を乗っ取ったということか。
曹叡があと20年長生きしてれば普通に魏が天下統一してた。
司馬一族も曹叡存命時には政策に口出しできなかったし、
あと20年生きてれば皇太子も30歳近くになってるからお家分裂の可能性も低い。
勝手に国力消耗した蜀と、陸抗以外骨のある武将がいない呉なら余裕で蹴散らせるだろ。
近頃曹丕は名君で曹叡は暗君って風潮が強いが、曹丕が長生きしてたら魏が滅んでただろwww
あそこまで戦下手な人物はいない。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 15:48:49
>>147 ん?
曹操時代に防衛し切れなくなって放棄する事になった襄樊を取り返したのは曹丕の時代なんだが…
6年という間で出来ることはちゃんとやってるよ
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 17:03:21
曹操と司馬炎の頭脳戦が見たかったなあ・・・
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 17:23:31
疫病がなければ江陵は取り戻せたと思う。
曹ヒってそんな戦下手か?
ただ性格がサイアクなだけじゃん
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 17:36:13
>>150 極端な性格ではあるが悪い奴じゃないよ
その極端さも皇帝という地位によって強調されてるだけで
最悪と形容していい程破綻した人格ではない
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 17:42:30
>>151 そりゃ南北朝のキティとか朱G8みたいに二番底三番底には達してないけどなあ
お友達に甘く、気に入らないやつにはどこまでも冷酷という印象しかない
>>151 「史上最悪」でないだけで、三国時代でならダントツトップクラスだろ、性格の悪さは
地位によって増幅されたりしてる面はあるだろうが
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 19:21:03
曹丕は性格が悪いのは当然。
曹植一派を制裁
曹洪への復讐
甄氏を自殺させた
そして
曹叡を太子になかなかしなかった
性格悪くてもやることちゃんとやってくれればいいよ。
別に友人にする訳じゃないしw
でも曹丕が正室の甄氏を自殺させ、息子の叡を太子に立てない。
これは王室を弱体化させる原因じゃないかな?
司馬懿はこの王室なら勝てる。と思ったのは、曹丕の不祥事を見てからなのだろうな。
曹丕と曹叡さえ早死になれば息子または孫の代で魏を乗っ取れる、とね。
可能性の観点でいえば当然あった。
曹叡も駄目親父の真似して毛皇后を殺してしまう。そして車工の女奴の郭氏を皇后に…
まぁ曹叡の毛皇后や郭皇后は身分卑しいから仕方ない。
ただ曹丕は甄氏を差し置いて、身分卑しい諸侯の女奴である郭氏を皇后に…
これは決定的だな。曹丕は手堅い政策したとは言いにくい。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 22:48:22
>>154 曹植一派を制裁
→内部分裂の可能性があったから当然
むしろやらんと政情不安になる
曹洪への復讐
→復讐じゃなくてちゃんと違法で死罪になるところを法を曲げて助けてる
甄氏を自殺させた
曹叡を太子になかなかしなかった
→自害した女の生んだ子なんて太子になんかしねーよ
ってか曹叡は後で皇帝になってるから嫡男のように見えるがこいつは妾の子
妾の子を嫡男にするのは当時一般的ではなかった
>>158 出自の卑しい女を后に立てるのは曹操以来の曹家の伝統だな。
曹丕「曹洪、金貸して。」
曹洪「やだ。」
曹丕(心)「あの野郎!!」
曹丕が皇帝に
曹丕「曹洪は金貸してくれなかったから殺そう。」
卞氏「バーカ、曹洪がいたから今のお前がいるんだよ。」
曹丕「わかったよ、かーちゃん。」
私情で曹洪を冤罪へと・・・曹洪カワイソス。そして卞氏GJ
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:02:30
>>161 張バクに負けて三族皆殺しになってりゃ平和に
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:14:08
>>152 錦衣衛があなたのレスに興味を持ったようです
>>156 というか、曹叡に
『曹氏の一族を宮廷で重用してはならぬ』みたいな遺言までしていなかったか?
一族が中央で幅を利かせれば、それは同族同士の昼メロドロドロ愛憎劇になるし、
かといって香り引き建つ要職に配すれば、今度は仲達の子孫の二の舞に。
バランスなんだよね、つまりは。
>>159 >むしろやらんと政情不安になる
殺さず、左遷させればいいだけでしょ。
>自害した女の生んだ子なんて太子になんかしねーよ
勝手に自害させ、太子に立てないのは、まー都合のいい話だな。
左遷したところで一応は皇族だから脅威だろ
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:08:18
>>158 >甄氏
たしかに閨閥は大事だからなぁ。嫁の出自で勢力図も変わる。
>>159 >ってか曹叡は後で皇帝になってるから嫡男のように見えるがこいつは妾の子
甄氏は曹丕の正妻だったのだから、曹叡は嫡子だよ。
後に曹丕の皇后になった郭氏は、甄氏が死を賜って初めて皇后に
という話が出てくるのだから、それまでは甄氏が正妻。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:10:39
>>169 >甄氏は曹丕の正妻だったのだから
正妻になった記録がない
その後もギリギリまで曹叡は妾の子として遇されてる
寵愛を受けたってだけだよ、それも晩年は薄れたしな
逆に郭は「登后位」ときっちり書かれてる
曹叡について誤解しやすいこと
曹叡は曹丕が魏王になってすぐに武徳侯になっているんだが、もし正妻の長子ならここで王太子にすべきところ
つまり曹叡はこの時点で後継者とは認定されていない
その後も斉公、平原王と諸侯のままで一向に皇太子になっていない
皇太子になるのは曹丕が重態になってからで、つまり他にロクな候補がいなかったから消去法で選ばれた
>>170 文帝記に「夫人甄氏卒」とある、郭氏が皇后になる前だ。
これは、夫人の地位は郭氏(当時・貴嬪だと思われる)より上である。
夫人の地位は一人であり二人は設けないので甄氏は正妻である。
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:45:58
>>172 甄氏の伝に「夫人」という位を貰ったことが書いてないから
それは位の夫人じゃなくて一般名詞の夫人だな
ついでに言うと曹丕が王位に就いた時、夫人の位を貰ってるのは郭皇后
こっちはちゃんと本人の伝に「太子即王位,后為夫人」と書いてある
こちらは予め東宮に入って既に一般名詞の夫人になっているのだから
ここでの「為夫人」は位の名前になるな
↑ひねくれ者め。
>>170 >逆に郭は「登后位」ときっちり書かれてる
皇后になった時期を問題にしているんだが。
甄氏の生前に郭が皇后になっていたのなら、郭が正妻であり甄氏は
正妻ではない、と言い切れるけどね。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 02:14:41
>>175 甄氏の生前、曹丕の王即位の時点で郭后は夫人という位を貰ってる
甄氏が位を貰った記録はない、ただ寵愛を受けたというだけ
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 02:50:59
容姿、性格のスペックが大して変わらんなら
中古より処女だろ処女
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 04:25:43
結局、中古のフェラーリを廃車にして新品のカローラを乗り回す。これが曹丕。
曹丕って馬鹿だな。
だから、ベンツを乗り回す司馬家に負けるんだよ。
素朴な疑問。
高官の家の出身であり長男も生んでいる甄を差し置いて、没落した家の
出身であり子どもを生んでない郭を、甄の生前に正妻に据えるなんて
あり得るのか?
それに、甄の生前から郭が正妻だったというなら、皇后に立てようとした
時に反対される謂れは無いのでは?
>>177-178 郭氏は曹丕より3歳年上で、皇后になった時は37歳位だよ。
甄氏とあまり年が変わらなかったかも。
>>180 郭氏は甄氏より2歳年下だな。
スペック的にはたいして変わらない気がする。
元人妻と処女では達成感が違う
>>182 女中まで身を落としてたんだから処女かどうかなんてわからんだろ
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 07:21:27
>>181 だが、明帝時にスペックの違いがハッキリする。
明帝時に郭氏は名目だけの皇太后で存在感ゼロ。甄氏が生きてて皇太后だったら存在感があったに違いない。
まー実母と継母の違いと家格の違い。
つまり、郭氏は甄氏に負けっぱなし。
>>179 郭氏が正妻(夫人)になったのは、甄氏が亡くなってからのこと。それまで貴嬪や貴人クラス。
甄氏がずっと正妻(夫人)なのだよ。
ただ甄氏の汚点として、宿敵袁家に嫁いていたこと。
>>179 庶子だけど長男の曹昴を生んだ劉氏は曹操の正妻だったかね?
三男の曹丕を生んだ卞氏は曹操の正妻だったかね?
丁氏という正妻がいる間、どちらも正妻にはなれなかった
丁氏に三行半を突きつけられて離縁した後、ようやく卞氏は正妻になれた
正妻かどうかは別の要因に左右される事が大きい
郭氏立皇后時のゴタゴタは正妻が卑賤出身である事がよくないとされたからであって
甄氏の存在はあまり関係ない
>>188 だから、
文帝紀に「夫人甄氏卒」と記してあるじゃん。
斉王紀にも「皇后甄氏崩」と記してある。
この違いは何だ?
そもそも、正妻じゃなかったら「甄氏卒」と記すでしょ。
>>189 三国志には「夫人」が正妻以外にも使われるケースがある
というか女性の位の夫人と一般名詞の夫人が混在してる
郭氏が曹丕の王即位と一緒に「夫人」の位に登ってるのだから甄氏が位としての「夫人」ではないのは明白
郭氏が皇后になったのは甄氏死後で甄氏が生前に「夫人」になる機会はない
さらに甄氏の伝には生前その種の女性に与えられる称号を受けたという記述がない
正妻であるならばそういうものをくれるはずだ
妾でなければ王即位時に真っ先に何かあるはずなんだがね、世間体や立場、政治的な意味もあるからな
魏王太子の時点で正妻なら「王太子妃」
魏王の時点で正妻なら「王后」
魏皇帝の時点で正妻なら「皇后」
甄氏がこれらになった記録は無い
というか魏王、魏皇帝の妻妾は称号があり、郭氏は王后の次の地位である魏王夫人になったと書かれているが、甄氏は何かに立てられたという記録もない
注の「魏書」によれば皇后に立てようとしたが死んだ、ということになってるが、これは逆に言えばそれまでは正妻の地位に就いていないこということ
もちろん、郭皇后伝などと比べてみれば分かるように「魏略」の記事は極めて胡散臭く、文帝が甄氏を皇后にしようとしたかはとても怪しいが
明帝も本当に長男だったかどうか不明な上、長男だったとしても文帝が魏王になった時点で武徳侯にされており、王太子に立てられていない
つまり嫡子扱いされていないのだ
>>191 >明帝も本当に長男だったかどうか
生物学的には曹叡の前に子供ができててもおかしくはないと思うが、
仮にも皇帝になった人物の子供なら、夭折だろうが記録には残りそうだけどな。
↑もっと正直になりなよ。この臍曲り。
>>192 斉王芳が誰の子か判らないとかあるし(曹氏である事は間違いないようだが)
特に何かしなけりゃ子供の記録なんてロクに残らない時代だ
貴嬪である郭氏が皇后になるのに夫人である甄氏を死に追いやるしか道はない。
甄氏が夫人でなければ郭氏は甄氏を死に追いやる画策をする必要はない。
あと、家格も低く嫡子がいない郭氏が皇后するのは魏の衰退を意味している。
>>195 地位は皇后>超えられない正妻の壁>貴嬪>夫人だよ
だから郭氏の方が元々上なので、甄氏が夫人であることは蹴落とす理由にならない
郭氏が甄氏を蹴落とす必要があったのは、甄氏が既に子を産んでいるから
「母は子をもって尊くす」という理念があるので、曹叡が皇太子になったりすれば甄氏が皇后になるかもしれない
あと郭氏のような家の者を皇后にするのは、外戚の禍を避けるような意図があったのかもしれないな
必ずしもそのことを魏の衰退と結び付けられるとは限らないかな
>>195 おい、甄氏が「夫人」という位になったソース寄越せ
>>197 俺195じゃないが、文帝紀黄初2年の「夫人甄氏卒」だろう
だとしても貴嬪の方が夫人(称号)より上だから195は成り立たないけど
>>198 以夫人卞氏為王后
この時は別に卞氏は夫人じゃない
何度も言ってるが三国志本文において「夫人」は一般の名詞と位と混在してる
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 14:59:55
皇后
貴嬪・夫人
淑妃
淑エン
昭儀
昭華
・
・
・
仮に称号の「夫人」であったとしても郭氏の方が上なので、甄氏が正妻ではなかったことだけは間違いない
>>200 実は「夫人」が淑妃の上になったのは後の時代のこと
黄初の頃はもっと下だったみたいだよ
「有寵」というだけで身分に関することは皆無だな。
普通に考えるなら正妻ポジションゲットだけど
曹丕は勿体ないよな、本当に。
F-22Aを捨ててA-4を愛機にするんだからな。
どっちもスペック自体は大して変わらないと思うけどなあ
甄氏の焼餅ってのはどれくらいの激しさだったのかな
溜め込んでドバーって感じなのかな
根拠は?と言われれば困るが、晉書のどこかに。宣と昭(卞氏と甄氏)は懿徳に優れた立派だった。
とあるよ。
つまり郭氏は後世に語り継がれることなく皇后になっただけ。
そういや、甄氏の血統は強く。遼史?なんかにも甄邯の後裔が登場し輩出している。
郭氏とは比べもにならない血筋である。
>>206 曹叡の代で郭氏は散々叩かれて母親の名誉回復してるから後代でそうなるのは当然
>>203 でも、曹操が郭氏を見いだして曹丕の高級に入れるまで
曹丕に正室はいなかったのか?という疑問が出てくるが、その辺はどう?
>>208 正妻は相手の家格とかもあって結構遅くまで決まらない事も
妾なら20代ならいて不思議じゃないんだが
>>209 そういうことだろうな
あれだけの立場だと本人の好悪、親の意向、周囲の意見、いろんなものが出てきてしまうから、正妻がなかなか立たなくても不思議は無い
甄氏が一応正妻に近いポジションだった感じもあるが、遅くとも曹操が死ぬ頃には郭氏に逆転されてるのは確実
なるほど。
卞氏にやたら甲斐甲斐しかったのは
正妻ポジションをゲットするためのアピールだったのかな
>>211 そういう計算が無かったとは思えないな
どうも案外早い段階から曹丕の気持ちが離れてるっぽいから、母親の方へ取り入って地位を得ようとしたんだろう
>>211 それもあるかもしれないが
卞氏のパーソナリティが誰にでも優しいようなので
一応知識階級出身で教育もちゃんと受けてるし優しくして貰ったら優しく返せるだろう
嫁姑問題って双方で歩み寄れば中々起こらないものだ
>>213 しかし名家出身の女性が姑とはいえ歌妓出身の女性に膝を曲げるってのは
なかなかできないな。
計算があったとはいえ嫁の立場をわきまえてて偉いとは思う。
曹叡の神童っぷりに曹操が、「我が三代目はそなたおいていまい」て絶賛していたから、まだ太子に立たれてない曹丕からすれば思わしくなかっただろうな。
曹操=ユスティニアヌス+ベリサリウス
卞氏=テオドラ
うーん強引すぎるか
軍用機なら
曹操:B-2
卞氏:VC-25A
曹丕:AWACS
甄氏:F-22A
郭氏:A-4
曹叡:F-35
だろうな、郭氏だけ小物さが目立つ。
どういう例えかサッパリだw
ガンダムで言ってくれ
ガンダムは知らない
曹操は高価なステルス爆撃機
卞氏はエアフォースワン
曹丕は早期空中警戒機
甄氏は最強ステルス機
郭氏は激安攻撃機
曹叡は最新ステルス機
スレが伸びててびっくり。
>>187 話がずれてる上にトンチンカンだな。
正妻のスペックとして、家柄(実家の後見)と男の子を生んだかが
重要なのでは?と言ってる。
前者だけでも正妻にはなれるけど、後者がないと立場が弱くなりがち
だから、丁氏は曹昴を育てることで後者を底上げしてたんだろ。
曹昴も正妻の丁氏に育てられたことで嫡子扱いされるから、お互いに
メリットがある。指示したのは曹操だろうけど。
>>220 要素としてはあるがそれが全てじゃない
と言ってる
トンチンカンなのはお前だ
ホント、あれだよな。
夫人として卞氏と甄氏は美徳があった。
両者とも弱者を救う(卞氏は曹洪・甄氏は飢餓に苦しんだ庶民)功績がある。
一方、郭氏は自分の目先で一杯で卞氏にペコペコし魏という国を考えず皇后になったのだ。
郭氏さえいなければ魏は安泰だったに違いない。
流石に皇后が誰かっていう只その一点のみで魏の存亡を語るのは暴論かと…
曹丕が長生きしない限り、結局滅ぶと思う
曹丕、曹叡で最低でも40年くらいは統治しないと魏が乗っ取りの危機を回避するのは難しいな
曹丕があと14年、曹叡の没年に当たるところまではもってくれないとね
曹叡は自身の没年から20年分
司馬イが台頭したのって北伐が原因だよな
曹真の南征が成功して蜀が滅んでたらどうだったろうか
原因は北伐じゃない
じゃあ正始の変?
対蜀戦と遼東公孫氏での戦功が土台じゃないのか
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 17:45:00
曹丕のような近親嫌悪の性格破綻者が皇帝に就いた時点で
他人に簒奪されるのは必定だった。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 17:51:34
諸葛亮さいいなけば
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 18:39:29
曹叡を可愛がる曹操――――
そのとき天から不思議な声が・・・
袁紹「孟徳、それはお前の孫ではない。わしの孫じゃよ。わっはっは」
>>231 曹爽の専横の方がさらに加速させたよな。
>>232 準皇族である曹爽が専横できたのも曹叡が夭折して幼帝の補佐という立場だったからだし
親子二代夭折ってのは本当に悔やまれる
>>233 曹操の息子って何気に早死にが多いよな。
>>234 当時は寒冷期だし曹操の息子は丁度幼少期を曹操軍の黎明期で食うや食わずを経験してる
幼少期に栄養の摂取が不完全だと免疫機能などの発達が阻害されて病弱になり易い
戦後世代とかは戦前世代よりも骨粗鬆症になり易かったりするわけで
欠食による虚弱体質なんじゃないかな
それとやたら疫病も流行してるし、そっちも関係してるのかも
>>235 曹氏以外の同世代の者たちにも同じ傾向が見られない限り、同意はできないな
>>230 曹操「親友の孫ならそれもまたよし!!」
>>237 ま、きっちり曹叡の子は全員闇に葬って曹操の血統に戻るように仕組んでたし、それも有りだよね
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 20:54:05
>>236 だな。司馬一門は曹一門より長生きだし。
司馬一門は金持ちじゃん
そういう発想でいくと不自由ない幼少時代を送った曹操自身は確かに長生きだ
>>236 三国時代二世以降に子が無く家が絶えるってのがやたら多いよ
>>240 卞氏も長生きなんだよな。
しかしその二人の間の息子はみんな早死に。
>>240 司馬氏は金持ちで全く食うに困らなかったという証拠が無い限り何とも言えない
そもそもこういうのを1例をもって想定するのは、秀吉だけを見て「戦国時代の男子は子供が生まれにくい傾向にあった」と言うようなもの
曹操は幼児にまるで食わせなかったと明記されてるならまだしも
>>243 蝗害があったり旱魃があったりして軍すら飢えかけてる状況で自分だけメシウマできるような環境にあるとでも?
>>245 それだと司馬氏や筍氏や他の一族だって同じジャン
揃って同世代に近い傾向があるの?
>>246 荀攸の子も死んだ
呂蒙、魯粛なんかの180年代に幼少期〜成長期を生きた連中も220年前後にバタバタ倒れるし
無論疫病の関係も忘れちゃいないが寒冷期に食糧事情が悪くて健康に悪影響が出るのは当然じゃないかな
拠
宇
幹
茂
の4人は魏が滅びるまで生存していたと思われる
昂
彪
彰
は他殺および自殺であり、寿命がどうであったかはなんともいえない
それなりに長寿であった者が4名、不明だが病死などはしていなかった者3名、更に文帝、曹植も40歳以上は生きている
25人のうち9人までは短命と言えないと考えると、これが他の時代と比べて特に短命傾向であったと言えるのかは慎重な検討が必要だ
>>249 曹彰って本当に世説新語にあるように毒殺されたんだろうか。
>>247 気候関係無く、古代だからってのも大きいんじゃない?
新末の光武帝の家も、当人以外の近い血縁はほぼみな早死にだし。
光武帝と、子の一人の劉蒼だけはかなり長く生きているが、それ以外の子はみんな早死にしている。
というか、光武帝の父からして光武帝が9歳の頃に死んでいるし。
一説によると30代で病死だそうな。
祖父も死んでるから結局叔父が引き取ったようだ。
こう考えると漢の明帝劉荘も40代と中々長生きだ。
献帝劉協なんてもの凄い長命だな。
まぁ、過労死の孔明と同じ年なあたり、劉協も早死にの範疇かもしれんが。
実は功臣の家系も結構数代のうちに子供がなくて国が除かれている。
従軍中に病死した28将も何人かいる。
祭遵が一番有名だが。
まあぶっちゃけ古代だから当然っちゃ当然なんだけどね。
だから一夫多妻制でバシバシ子供作らせるわけで。
>>251 んじゃあ医学がまだまだダメダメだったって事だな
傷寒論とかあったけど医者の成り手は少ない時代だしな
>>252 そそ。
医学の未発達もあるし、今ほど色んな病気に免疫がなかったんだと思われ。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 10:33:30
そもそも40代は当時的にも早逝じゃないか?
夭折の部類だね
なんだかんだで成人すると50か60くらいまでは生きられる事が多いみたいだし
魏を乗っ取っる土台を築いた司馬懿は魏にとって必要な人材。
魏に必要ない人材、文帝の郭氏・孫資・劉放・曹爽の四人。
この四人さえいなければ司馬懿に乗っ取られなくてすんだ筈。
>>256 曹丕、曹叡が二代続けて夭逝した時点で幼帝を奉戴して誰かしらの専横は起こるので
結局乗っ取りを免れる術はないよ
>>257 まぁ後の三人はねぇ。
甄氏が順当・順路通り皇后へと・・・これが先決でしょう。
新古カローラと中古フェラーリの差だな。それに曹丕は22歳(賞味ギリギリ)の甄氏と知り合い、一方、郭氏は三十路近くの言わば賞味期限切れのババア。
甄氏だったら奥向きの強化に精進したかもや知れん。
>>258 どっちが皇后になろうが魏の末路には関係ない気がするけどな。
もともと皇太后や皇后が政務に関与するのは制限されてるわけだし。
204 221
曹丕 17歳 33歳
甄氏 23歳 40歳
郭氏 20歳 37歳
くらい?
>>247 呉については、どうも同時期に何人もバタバタ逝くのは、南方からの疫病でも貰ってきてるんじゃね?と思うことも有るんだが。
郭氏&陰氏:郭況、陰識
馬氏:
竇氏:竇固
ケ氏:ケ隲
閻氏:閻顕
梁氏:梁商、梁冀
竇氏:竇武
何氏:何進
伏氏、董氏、曹氏:伏完、董承、曹操
>>259 でも、破天荒に卑しい奴を皇后に立てるのはいかがなものかと・・・賞味期限切れで子も作れない。
政治的にも後ろ盾のある甄氏と後ろ盾のない郭氏。あと、皇太后になっても世継ぎを繁栄させたに違いないだろうけど。
まぁ政治的に全く関与できなくなるのは大皇太后だけどね。
>>260 嫌いじゃないけどね。
ただ、相手が悪いだけ。
>>257 曹操が文王たらんとしたのに、子供が武王や周公旦足りえなかったわけね。
・・・・曹丕がもうちょっと早く死んでいたら、曹植は周公旦に成りえた・・・とも思えないけどね。
>>265 いや、曹丕は武王足りえたよ
即位6年なんて武王にそっくりじゃないか
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 22:59:30
曹丕が指揮した戦争で勝ったためしがない。こいつは無能。
早死にしてよかったな。
もし長生きしてたら孔明の北伐が成功してたかも知れんしな。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 23:12:15
>>267 いや、孔明どころだけじゃないぞ。
呉・鮮卑・鳥丸による四方八方からフルボッコにされたら魏(曹丕)は降伏だろうな。
曹叡はものの見事に防ぎきった。
諸葛亮?(゚д゚) ポカーン
孫権?(゚д゚) ポカーン
鮮卑?(゚д゚) ポカーン
鳥丸?(゚д゚) ポカーン
燕?( ´,_ゝ`) プッ
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/02(土) 09:14:29
曹操が死んだ時点(220年)で曹叡が跡を引き継げば良かったかも
曹丕では呉、蜀、鮮卑の猛攻を防ぎ切れないだろうからね
>>270 ん?
曹操時代に民政無視したツケで反乱続発して困った事態になったのを
たった6年で曹丕が立て直して、なおかつ一度放棄した北荊州を取り戻したのに
何でそうなるの
別に曹操があらしたわけじゃないけどな
平治なら平治に際しての政策をとってたろ、たいして考えもせんで適当な事言うな
まあ別に文帝は戦争が下手な訳でも(まあ本人が現場にいたわけじゃないが)特に無能なわけでもない
ただ性格が悪いだけだ
別に曹操があらしたわけじゃないけどな
平治なら平治に際しての政策をとってたろ、たいして考えもせんで適当な事言うな
まあ確かに文帝は戦争が下手な訳でも(本人が現場で実働してたわけじゃないが)特に無能なわけでもない
ただ性格が悪いだけだ
>>272 荒らしたんだよ
侯音の反乱にはちゃんと「税金重すぎて皆嫌がってたので」とある
魏王国内部はともかく外側の外縁部は重い賦役と租税で苦しんでた
>>270 いや、未成年の少年が皇帝に?ありえないな。
>>272 曹丕は諸葛亮の北伐より効果ないから戦ヘタレでしょう。性格悪いのは同意だが
>>275 戦下手ではなくアレは単純に曹操の構築した魏の戦闘教義の限界
>>274 それ曹仁の所為じゃないのか?
租税は割と統治者任せだし、戦略拠点だからしょうがない面もある
>>276 そうかね?
明帝の代は合肥の新城で呉を何度も退けたのは曹操の代から進化しなのかな?
>>278 曹叡は侵攻してないからな
攻めに回る時は大概失敗してる
というより三国ともに防御して反撃するだけなら相当固くて切れる
いきなり過疎ったな…
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/11(月) 10:54:38
曹操は馬鹿雑魚なので無理無理w
>>229 と、いう事は、徐庶の母親召喚したのが統一出来なかった原因か。
なかなか斬新な意見かも。
普通に考えて、魏以外の呉・蜀には統一するだけの国力は無いけどな。
後漢末の群雄で言うなら統一が可能な勢力は、曹操・袁紹・初期の袁術くらいですかね?
もしかしてどこでも無理?
袁紹は、まず無理
何進、王允がトップで収拾ついてればまだ延命は出来ただろうし
劉虞でも展開次第で統一はありえた
上記の三人以外で鹿を逐うならば本命は袁術、公孫サン、袁紹だろうか
かませ臭い二人だが初期の実力はすごい
曹操がトップに踊り出て劉備、孫権が対抗というのが予想外な事態
三人ともにダークホース
袁紹と袁術が曹操に負けるなんて誰も思わなかったろうに
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/12(火) 23:43:30
>>287 劉虞は無理だろう。
敵将だけ狙えとか正気の沙汰じゃない。
国力的には魏もかなりツライ。人口との比率で言うと蜀は94万に
対して兵数が10万、とかなり比率が高い。
魏は恐らく30〜40万、呉は15〜20万ってとこか。
これであちこちに押さえとして軍を配置していると局面によっては一時的
に兵力が不利になるようなところもでてきてしまう。
まあ魏の場合は屯田民とかは戸籍には入ってなかったろうから、それらも
含めるともっと動員できたかもしれんけどね。
ただ圧倒的兵力と言う訳でもないから守るのは良くても攻めるのは大変だ
ろうね、やっぱ。
曹丕の長生きは必要不可欠だが、曹叡はそのままでいいと思う
中書があれだけのさばったのは曹叡が吃音っていう身体的問題もあっただろうし
魏が統一なんて無理だろ。
東北部や西方の異民族とかどうやって抑えるんだ。
蜀はともかく、呉をきっちりやっつけてたならまだしも。
魏には人材が豊富にいたんだぞ!ムキー!って言う子もいるけど、
中国史全体から見たら小粒だしな。
いや、魏時代はちゃんと異民族押さえていたし
そもそも五胡の乱入は八王の私兵の中に異民族の軍隊を入れてそれが軍閥化したところに問題があるわけで
厳密にいうと西方からの侵略ではなく、軍内部の跋扈に近いだろう
>>294 晋の統一前から鮮卑の攻勢が一層進んでる
またこれも乱の以前、社会構造として異民族が奴隷や小作として使役され不満が高まっているという指摘がされている
確かに魏の時代は異民族による目に見える害は出ていないが、そもそも魏時代が短いので、魏が長続きしていれば魏もモロかぶりしてた問題だよ
まるで現代の派遣労働だ…
社会構造として異民族や奴隷が小作化していくというのは
晋時代に形成され始めた貴族社会の形成との連動であって
同時に貴族社会の形成こそが司馬氏をして魏王朝を乗っ取らせた原動力であり
反対に貴族社会にある程度のストップと危機感を持っていたのが魏王朝なんだけど
結論:無理だし実際無理だった
後漢って割と異民族相手には名将が多かった時期なんだけどな
段ケイやら馬賢やら。あんまり国力や内政状況に依存しないんだよな対外的な強さって
新とかですら勝ってるし。(むしろ中央の政変に巻き込まれないぶん、伸び伸びやれんのか?
異民族に負ける時は中華側が弱い時じゃなくて異民族側が強い時なんだよ
いや国が弱いからとか人材が居ないからとかって所から異民族に弱いっていう飛躍を否定するために
別に衰退期でも人材不足でも異民族に対抗しえた例をあげたんだが?
明帝の頃の魏が最強。
とは言え、我が日本における憲法9条みたいに、侵略することないし。
ただまぁ奪われた燕を取り返すのに司馬懿を送り出したがな。
>>303 俺はあの頃の魏は、始皇帝の時代の秦のような感じを受けるけどな
強いことは強いが、仮に明帝が長生きしていても魏は長くなかったように思う
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 04:45:31
燕は曹操の代から半独立
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 20:58:35
蜀に長安落とされてたら魏は相当ヤバかっただろうな。
そうかな?
蜀は維持できないような気が……
諸葛亮が禅譲する雰囲気は作れたんじゃね?
後の桓温や劉裕みたく
韓信までとは言わんがトウガイみたいな優秀な司令官がいたらな
中原を制しながらも
于禁も淵も明らかに能力不足で
領土の切り取りに失敗しとる
優秀で勇敢な将ではあるが司令官としては能力不足
結論:無理でした
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/19(火) 15:44:10
やっぱ劉表死後〜赤壁が最大のチャンスだったな
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/19(火) 17:43:58
劉禅&黄皓、孫皓なら晋じゃなくても楽勝
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/01(月) 21:45:58
諸葛亮→姜維じゃな〜
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/01(月) 22:28:51
諸葛亮の後継者は黄皓だろ。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/03(水) 06:05:19
1年前のことです、ドレミ鑑賞中の私に
久弥が「もう勃たない」と深刻な顔で言ってきました。
20代も半ばで「もう勃たない」と言って来たので、驚き「何か病気か?」と言うと。
「病気じゃない」と言い、次に「3次元も試した」と言いました。
驚いてPCを起動すると半年前に80GあったHDDが投稿レイプもので埋められ
空容量が数Mしか無かったのです。
「どうしたんだ?何で凌辱なんだ?シスプリはどうした?」と問い詰めても
黙りこくって、俯いたまま。
一時間ほど問い詰めると「どうしても言えない、ごめんなさい」と
ついに泣き始める有様。
久弥が泣いたのは初めて見たので、私も動揺してしまいまして
「怒らないから言ってくれ、頼む」
というと、「SNOWは凌辱だから」と言いました。
「SNOWが凌辱?何を言ってるんだ?」と思いましたが
滅茶苦茶に犯されてる○学生を見るとそれが最も頷ける答えでした。
80GのHDDを埋め尽くして、生々しい3次元にまで耐えて
何をしているんだと、怒らないつもりが激昂してしまい。
久弥にはもうSNOWを書かせないということに決めました。
その後本当に久弥が桜花たんの凌辱を書いたのか調べるため
配属されていたメビウスへ向かい話を聞くと全然進んでないとのことでした。
あの出来事から1年が経ったのですが、久弥はほとんど
精神崩壊状態です。全く喋らなくなりました。
ボケッーとフィギュアを撫でており、オナニーもしません。
あれから色々と考え、今はSNOWだけがこうなった原因だとは思っては居ませんし
自分の至らなさを認めては居ますが、本当に切ない気持ちで一杯です。
さらに悪くなる前に精神科にも通わせないけば行けないと思っています。
それが一要因であっても、久弥をここまでにしてしまった
SNOWは今すぐ発売して欲しいと心から思っています。
蜀も呉も内部腐敗が大きく
あっさりと滅びてるからな
魏は無理だろな
ほしゅ
補修
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/03(木) 22:53:34
徐庶も黄権も能力はあると思うがお蔵入り人物だからなぁ。
基本的に降将はどこの国でも良くは思われないよ。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/05(土) 09:46:43
つ 文和
324 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/05(土) 10:04:18
カクなんて、滅びることと引き換えに建国した魏に見切りをつけて身を引いてるだろうが。
文帝が長生きしてれば長江のラインから撤退しなくていいし、司馬による簒奪が起こる可能性もかなり低くなるから統一出来てたかもね。
ただその場合は胡の流入が早まり、西晋よりもっと早く滅亡する可能性もあるけど。
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/09(水) 03:54:22
>>325 胡の流入は早まるが、曹丕は皇位継承権の順位の高い皇族に名実ともに何も与えないから
八王の乱みたいなのは起こらんな
となるとあとは中国と胡たちのガチバトルになるし、内地の胡が魏に付くこともあるから早々滅亡するとは思えない
曹丕は無能なんだか有能なんだかよく分からん
二正面作戦の対処を曹叡ほど上手くやれんのかな
でも文帝の攻め方だと、呉とは間違いなく長期戦になる。
長生きしたとしても文帝の代では統一は多分無理だろうね。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/09(水) 16:34:20
企業などと同じで、創設期はある程度熱意とそれに共感した相手とで
うまく歯車が回っていくけれど、時が経って組織が大きくなると、
組織内の配置も変化して、志向する事柄も変化するものじゃないかな。
関羽死後の情勢の変化の乏しさを、魏の動きから推察するに、
軍事力うんぬんもあっただろうけど、組織を取り仕切っていた貴族たちが、
これ以上の変化を求めなかったことが原因なのではと思う。
つまり、魏が統一できるかってことについては、
統一志向が強かった曹操が亡くなった以後は、官僚・貴族が保身志向に
徹したために、統一を果たすことは時を追うごとに難しかったのではないかと、
妄想してみる。
曹操は統一の為には結構無茶もしてたが、
曹丕、曹叡は違った。
そういう話じゃないかな。
もちろん魏の上層部が保守路線に切り替えた、ってのもあると思うけどね。
曹叡以降はそいつらが全権を握り、あの内ゲバが生まれたと。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/09(水) 17:53:29
>>328 まず荊州を北部を再占領してから余勢で東から南下して失敗してるけど
別にそれだけなら長期戦になるとは思いにくいがな
>>330 曹操が漢中落としたあたりから、既に保守路線だったよ
しかも部下が統一志向、速戦志向だったのに慎重路線
だから長期路線は文帝明帝に始まったことじゃないし、曹操が既にそういうレール敷いていた
文帝が呉を落とせなかったのは不運だけの問題ではないんだよ
慎重路線でも時間さえかければ落とせてた
物量的にはそれくらいの差があるんだし
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/09(水) 22:31:26
>>332 馬超戦が実質最後だよな。
漢中戦の頃にはもう身体がおかしい感じだ
曹操は長く戦い過ぎた
>>333 文帝の対呉を想定してるんなら、そこまでの差だとは思えないけどなあ
むしろ呉が蜀と食いあってくれた絶好機だったけど時間をかけることも一気呵成に決めることもできなかった
運も作用したがまだ実力的にも準備が整ってなかったんだよ
曹操って「ムリしない、ムリしない、ムリしない……辛抱できるかダァ!」って最後に基本戦略のちゃぶ台ひっくり返して来たタイプだろ
ひっくり返して勝ったのが官渡で勝てなかったのが赤壁
南征は
「ムリしない、ムリ…え?劉表が死んだ?降伏する?劉備が逃げた?ダァ!ダァ!ダダダダダァーーーァ!―――うぇっへっへ。厨房くん俺と狩しないか?……ちっ、疫病かよ。え?なんでこんなに早く呉が来てんのちょ(ry」
赤壁って世間だと孫権劉備連合が圧倒的不利を覆して大勝利!って事になってるけど
実際はそうでもないよな
戦略的には曹操のが圧倒的不利
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/10(木) 13:21:25
>>338 いや実際も連合軍の圧倒的不利だが?
「実情」として曹操は苦しかったかもしれないが
当時の状況としては劉備達は非常に不利な状況だった
赤壁で負けたのは曹操が調子に乗りすぎてたのと
長江補正が凶悪すぎた
魏が圧倒的不利って話はあまり聞かない説だな。
実際は疫病蔓延しなければ連合側は詰んでた可能性もあるけどな
曹操は兵法としての禁を色々犯して攻めて来てるが(周瑜も指摘してる)、
それでも数のアドバンテージはでかい
まあ長江は偉大
赤壁の時については曹操が不利だったっていうんじゃなく、曹操はわざわざ危険な局面に自分から踏み込んだって言うべき
不利というよりは曹操の戦略ミス。まさか戦いを選ぶとは思わなかったんだろう
結局のところ曹操が悪いんだよな。最初から孫権を舐めてかかってるし、戦争になったらなったでお粗末過ぎる。
魏が統一出来なかったのもそもそも曹操に天下を取るだけの力が無かった。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/10(木) 23:31:11
スタート時の序列はこんなもんじゃね。
何進>董卓>劉虞>劉焉>公孫瓚>孫堅>袁術>陶謙>袁紹>曹操>劉表
>>346 劉表と曹操は逆。そして孫堅はもっと下。
というか曹操と孫堅はそいつらと並べられない。
>>344 といっても荊州に大軍いつまでも入れとけないし
来ちゃったもんはやるしかない。
実際はすぐ開戦したわけじゃなく何か月も睨み合っていたわけで、攻めの機を窺う曹操と周喩の高次元の駆け引きがあった。
とても
>>345がいうようなお粗末な戦ではないよ。
曹操は疫病の他にも補給の問題や兵の士気に正面の周喩、本拠の孫権とかなり高難度の読みを強いられたろう。大軍である以上、機敏には動けないしな。
そして周喩はそれら曹操軍が処理できなかった隙を見事に読み切った。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 00:04:53
>>1 だから、三国時代は面白い。
これに尽きるだろ。
>>347 劉表が州牧になったのは王叡が死んでからだぞ
>>349 劉表のスタートは州牧になってからと考えるべきじゃね?
そうじゃないと曹操は三公の息子だから生まれた時はメチャ高い。
でも地方の独立した軍事力が力を持つようになってからガクンと下がることになる
それだとややこしいやん。何進は肉屋からスタートって事になるし。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 01:10:29
人によってスタート時が違う方がややこしくね?
>>351 まーそれも確かにそうなんだが
それだと何進は肉屋スタートになっちゃうし
>>350 出自や地位じゃなくて霊帝崩御直後の
兵隊と縄張りなどのハードパワーの評価
戦略や幕僚、名士からの求心力とかはソフトパワーとして含めていない
>>342 周瑜が先んじて陣獲った対岸に曹操が陣を張る事ができたら疫病だってそう蔓延はしなかったんだろうが
袁招が黄河を渡って攻めてきたのを曹操が撃破した状況と似てるな
ただ曹操が官渡で待ち構えで決戦したのと違い
地上戦のガチンコでやれるまでの兵力が孫軍になかったから水上戦に全兵力を賭けたのか
まあ、赤壁当時の曹操本軍とまともに地上でぶつかったら殲滅される罠
疫病>>孫権軍>>>>>>曹操軍>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>何の役にも立たなかった玄徳軍(笑)
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 15:08:31
>>12 董卓が乱発した悪貨を完全に駆逐できたのは曹丕の代だし
調べたが晋が滅んだ後も大量に流通している
曹丕が魏五銖銭を作ったのは確かだが流通量としては僅かで高額な取引については「布帛」
それ以外は「穀物」や五銖銭が使われる形態は晋まで引き継がれた
魏で見つかった五銖銭はほぼ全て漢代のもので96%が董卓五銖が大部分である悪貨(これらは100枚で五銖銭数枚の価値)
割と見つかるのが蜀直百五銖銭(董卓五銖100枚の価値)
12が堂々と書いてるから文献漁ってみたがないな。
可能
青州兵30万、実数かどうかは置いといて
200年前後の曹操勢力でこの数字は
豪族の兵力的協力を必要としないほどの大兵力だった
だから曹操の勢力には豪族から兵を出させるシステムが育たなかった
大兵力を一人で保有する曹操は、
本来芽が出ないはずの軍事に非凡な才能をもつが寒門出身の武将に
自前の兵を割いて与け、第一線に立たせることが出来た
そのおかげで魏(便宜上そう呼ぶとする)は戦争に多く勝利することが出来た
魏に有能な武将が多く名を揃えるのは、曹操に屯田兵がいたおかげと言える部分が多くある
曹操という人物の資質もさることながら、魏が天下の半分を取れたのは
青州黄巾党が舞い込んで来て、政府(とは言わないかもしれないが)が大兵力をもてたこと
更にそれにより身分を問わない人材活用が可能となり、
有能な人物を使って効率的に戦争に勝利できたこと
これらが理由だろう
魏は効率的勝利によって大きな領土を切り取ることが出来たが、
その反面、国家の集兵システムは成長しなかった
これが青州兵の功罪で、それが魏という国といえる
勢力争いをしていた小国期には30万の兵力は充分すぎる程であったが
天下の半分という広大な領土を維持するのに屯田兵だけでは不足する
魏の急成長と伸び悩みは表裏一体だった
個人企業の限界に当たったわけだ
結論を言えば、対抗勢力が力を付けた以降は不可能だった
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/03/03(水) 20:52:19
不可能
曹丕・曹叡が長生きしてたら余裕
短命だったからボロが出なかったような気もするけどな
曹昂が生きていたらできたかも
曹丕が自分を正当化するために兄じゃ限界があったとか言ってるがだったら荀ケら群臣に期待されねーよ
>>366 あれは曹沖ヤバスって言うための話なんじゃないかとおもふ
呉は難しいけど、蜀は陥落は容易
余裕余裕
人相見が当たって曹丕が80歳まで生きていたなら余裕だったかも知れない
うむ
赤壁でボロ負けしなければ…
曹叡ときの魏は蜀を多いに苦しめたからな
/ ̄ ̄\
/ _ノ \
| ( ●)(●) キリッ ____
. | (__人__) /\ /\
| ` ⌒´ノ ・・・・・・・・ /(ー) (ー) \
. | . } ____ / ⌒(__人__)⌒ \
. ヽ } / / | |r┬-| | →諸葛亮(字・孔明)
ヽ ノ / / \__`ー'´___/
/ く / / /:::∨<;;;>∨::::::::::::::::\
| \ / / ∧:::::::ヽ/;ヾ/::::::::::::::::::::::ヘ
| |ヽ、二⌒)___/ /::::ヽ:::::::ヽl/:::::::::::::::::::::/::::ヽ
┌──┬─┬───────────────────┐
| 年 U月| 学歴・履歴 |
├──┼―┼───────────────────┤
| U | 学歴 |
├──┼―┼───────────────────┤
| U |水鏡先生門下出身 |
├──┼―┼───────────────────┤
| U | 志望動機 |
├──┼―┼───────────────────┤
| U |劉備将軍の方針に共感を覚えたため |
├──┼―┼───────────────────┤
| U | 以上 |
てす
テス
t
え
う
ぬ
あいやー
うn
383 :
ジャイアニズム:2011/05/03(火) 20:25:50.79
反米の闘士たるオサマ・ビンラディン氏が鬼畜米兵に討ち取られたそうです。
ここに哀悼の意を示し、その功績を讃えようではありませんか!
おうう
ええい
>>1 領土、武将、軍師申し分ない軍だったから可能だと思う(^-^)
ほ
へ
うん
l
うへえ
ふん
うええ
はあ
ほええ
ホルズ
いいい
ひや
ういい
う
すいとんされたか?
ふむう
ぴゅ
んひゃ
ぴゃあ
はいー
え・
ひいい
いい
ひゃ
なるほどですね
可能です
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/12/30(金) 06:32:25.11
結局魏の限界だったのでしょう
本来なら荊州を押さえた時点で地盤を固めるべきだったんだろ
そして涼州を完全に固めて劉璋の蜀を落とせば良かった
ここが曹操の限界だったのでしょう
次代に大がかりな統一事業と禅譲を残してしまった
どちらか一方でも片付いていたら次代も早死にすることなかったのかも
魏魏魏魏魏魏…
司馬さん押さえ込めば可能
幼帝をつくらなければ、まだまだイケた
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/02/12(水) 22:15:12.97
>大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな
>島本町って町は、暴力といじめの町なんだな
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ
司馬さんが禅譲を断念するくらいにやさしかったら統一できた
司馬昭司馬炎が忠臣なら統一できた
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/09/19(金) 06:29:44.75
ラッシュアワーデズネーオウフェイスブックマナーLG春文ラーメン
ラッシュアワーデズネーオウフェイスブックマナーLG春文ラーメン
ラッシュアワーデズネーオウフェイスブックマナーLG春文ラーメン
横浜駐車近代家賃国会端末問題中国売国請負人切桐ラーメン
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/15(水) 03:21:53.35
本気を出せば統一できたよ
曹叡以降に名君がいればよかった。
それか文帝、明帝が没年以上に生きて異民族対策と徴兵システムをうまいことやればいけるかも
素人の考えだから穴があるだろうけどこんなとこじゃない?
そもそも統一する必要性なくね