1 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀について語り合おうぜ
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 21:23:29
このスレタイにしてこの
>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 21:30:48
やはり蜀と言えば
関羽、張飛、馬超、魏延、趙雲、劉備、諸葛亮、姜維
このへんだなww
劉焉から
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 22:23:04
呉
三国時代の蜀漢だけだよね、やっぱ。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 11:26:36
張翼なめんなw
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 15:42:51
263年、魏が蜀に攻め入ってくると、これに強く抵抗したが、かなわずに降伏する。
翌年、姜維と鍾会がケ艾を罪に落としてクーデターを起こそうとした時、混乱に巻き込まれて殺害された。
魏延を一発変換できる俺のノーパソ頭いい
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 22:30:30
俺は最後、諸葛亮が死んでなければ
蜀がかったとおもうなw
11 :
中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2008/07/30(水) 23:46:20
なんで魏を倒せなかったんだろう?
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/31(木) 19:25:56
廖化って何歳で死んだと思う?すっげえ長生きってのはわかるが・・・
正史なら80歳くらい。
80才なら劉備と会うタイミングと場所がずれる
>>14 そもそも荊州の豪族出身で劉備の荊州時代以降の人間だから
廖化の寿命ネタって未だに疑問に挙がるのな
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 10:33:45
てか劉禅に変わった時点でオワタwwww
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 11:08:52
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 22:00:05
夏休みだからだぜw
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 23:46:59
あげ
このスレ支援
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 23:47:39
蜀のスレなんぞいらん、男なら呉
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 13:48:54
呉は腐女子だろwww
魏も呉も蜀もみんなフジョシさんです
蜀はウホッ!
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 22:42:45
男なら蜀だぜwww
蜀は処女ダゼ
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 17:35:42
こないだ一方的にコクられたガキ娘を受け入れてやったら、何か武装したお手伝いさんが
薙刀持って大量についてきやがった
他人の臥所に並ぶなっつーの お前らごと犯すぞ
ちょうど出張の仕事入った機会に里帰りさせてやった
前妻との間に出来た息子を連れて帰っていたようで、兄弟が息子だけ連れ戻してきたんだ
とさ
魚くんはデカシタ連発してたらしいが、別におれはこの愚息は前からイラネ宣言してたわけで
のしつけて差し上げててもかまわなかったんだぜ
2代皇帝が劉永だったら違う歴史になっていただろうね…
マッタリせずに滅亡が早まっていたかもしれないけど。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/16(土) 08:35:33
蜀でショック死
それ李厳の百人一首に使えるな。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/16(土) 09:43:23
蜀で職質
蜀の食パン
蜀の職安
何故か永井帝国に書き込めないのでここに臨時スレを樹立する。
永井帝国は終わらぬ。
頑張れ蜀
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 12:24:02
負けるな蜀
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 15:13:17
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 11:16:34
当たり前の事言わないの
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 20:16:05
せめて、劉禅と曹叡が逆であればなぁ。
諸葛亮の来襲になすすべのない白糸皇帝と、狭い蜀で大土木工事を始める始皇・漢武のともがらか
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 10:46:37
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 23:44:01
劉備は、益州を手に入れた事で三国鼎立の土台作りに成功したが、
同時に内部勢力を一気に複雑化してしまった気がする。
人材的には、法正や張著などの逸材を獲得出来たが・・・・・・
又、荊州の関羽との連携が、明らかに拙かったのも痛手だった。
蜀滅亡の鍵は、鳳統・法正の早世と関羽北上現象。
張著♪張著♪ナノハニトマレ♪
張著が実在したならたぶん荊州
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 02:10:20
鳳統・法正が存命なら、荊州戦線での関羽の動向は変わっただろうか?
この二人の場合、鳳統が関羽と荊州に置かれると思うんだが。
関羽の補佐役+荊州の士大夫層に顔が利く人間として。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 02:27:57
龐統は諸葛亮よりオベッカも上手いのでたぶん大丈夫
ホウ統は諸葛亮より軍事が上手い分もしかしたら北上が上手くいったかも?
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 00:39:56
>>47 そもそも、単独北上なんてさせない気もするが・・・・
決行するとしたら、呉との関係が重要になるのは確かだろう。
ホウ統の呉に対するコネは、どの程度だったのか。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 00:49:16
ホウ統は諸葛亮より軍事が上手いなんて全くの無根拠
そんなこと言ってたら厨と思われるよ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 11:53:54
上手かったのは諌言の方かもな
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 13:23:21
伏竜鳳雛のどちらかでも手に入れれば、天下が取れるんじゃなかったの?
>>51 皇帝になってるから取ってる といえないことはない
酔狂先生の言うことだからw
諸葛亮が内政得意な大政治家なら
ホウ統が軍事得意な名軍師だったら調度良かったな。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 02:23:20
諸葛亮は、有能な政治家であると同時に戦略家としても優秀だったと思うよ。
直接的な軍事レベルの戦略になると、微妙かも知れんが。
ホウ統は、ただ運が悪かったのか、評判ほどの才能じゃなかったのか・・・・・・
とにかく、死ぬのが早すぎた。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 00:02:35
微妙なやつがシ号を送られることは蜀の事情から考えてありえん気がする
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 00:25:24
鳳雛と呼ばれた経緯が知りたいわ
水鏡先生は、諸葛亮の人物を劉備に説明したときに既に
二人が天下を統一できなかった理由を予言してるんだぜ
>>55 それには陳祗が微妙でないという証明から始めるべきでは?
これまで法正と諸葛亮以下3代の宰相しか送られていなかったのに
親族扱いで夏侯覇、格落ちだが寵愛していた陳祗に送られている
陳祗の龐統の息子に対する出世妨害ネタも正史に残っているので
上記2名の追諡に対する反発を抑える意味合いも
龐統および後の五虎将に対する追諡にはあるのではないかと
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 09:26:26
そいつらに追諡するのに龐統他五人に追諡しないのはおかしい
という程度には優秀だったのだろう。
黄権も残れてたら追諡されたろうな
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 09:29:00
58 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 08:45:47
>>55 それには陳祗が微妙でないという証明から始めるべきでは?
これまで法正と諸葛亮以下3代の宰相しか送られていなかったのに
親族扱いで夏侯覇、格落ちだが寵愛していた陳祗に送られている
陳祗の龐統の息子に対する出世妨害ネタも正史に残っているので
上記2名の追諡に対する反発を抑える意味合いも
龐統および後の五虎将に対する追諡にはあるのではないかと
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 09:39:57
59 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 09:26:26
そいつらに追諡するのに龐統他五人に追諡しないのはおかしい
という程度には優秀だったのだろう。
黄権も残れてたら追諡されたろうな
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 10:25:47
60 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 09:29:00
58 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 08:45:47
>>55 それには陳祗が微妙でないという証明から始めるべきでは?
これまで法正と諸葛亮以下3代の宰相しか送られていなかったのに
親族扱いで夏侯覇、格落ちだが寵愛していた陳祗に送られている
陳祗の龐統の息子に対する出世妨害ネタも正史に残っているので
上記2名の追諡に対する反発を抑える意味合いも
龐統および後の五虎将に対する追諡にはあるのではないかと
61 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 09:39:57
59 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/08(土) 09:26:26
そいつらに追諡するのに龐統他五人に追諡しないのはおかしい
という程度には優秀だったのだろう。
黄権も残れてたら追諡されたろうな
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 10:37:40
クマッタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 10:38:17
>>54 ホウ統は陳平みたいな謀略家であって、天才政治家でも天才戦術家でもないと思う
ただ、ホウ統は呉の有力者の友人・知人が多いから、外交官としては活躍が期待できるだろう
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 11:01:29
総大将:
別働隊長:
親衛隊長:
特攻隊長:
部隊長:
腹心:
後見人:
顧問:
側近:
事務:
使者:
技術者:
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 11:09:11
ポケモンのポスターでオナニーした糞コテなら三戦にいる
新参だがこのコピペ連投の理由がわからん
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 12:51:41
最近増えたな
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 03:50:25
物語にするなら、蜀というか劉備が一番ドラマチックだろうな。
曹操も小勢力から成り上がったが、劉備の方が身分的にも民衆に近いし。
孫権も三代の苦労なんかがあるだろうけど、曹操と劉備に比べてしまうと
地味なんだよな・・・・・。
蜀は固い地盤があるんだから、北伐自重してれば・・・・・って気持ちがある。
北伐は、馬謖みたいな人材や兵力を失っただけだし。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:57:54
引きこもりは忘れられる
四川だけで固まってても中原が固まればあぼーん
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 18:31:49
漫画サンデーで始まった漫画で田豫が出てた
田豫はほぼ完全に魏将か?
龐統は周瑜のスパイ
北伐自重していても蜀が滅びるのが早まってただけだと思う
結局侵略されて滅びたわけだし
晋のほうが滅びるのが早い件
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 05:43:02
伸びない
最近、低レベルの蜀信者が暴れてるようで
たとえば?
蜀信者必死w
いつもの奴かwww 外に出ずあのスレにでも突貫してろwww
そうですよ、蜀オタはあのスレに閉じこもってたほうがよろし
あ〜あ、この板は蜀信者により崩壊してしまったな、残念なこった
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/02(金) 00:31:47
劉備、関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超、諸葛亮、ホウ統、法正、魏延、関興、張包、美維、徐庶
雷銅、呉蘭、厳顔、関平、周倉、馬良、馬しょく、孫乾、び竺、関索
猛将、知将の多い蜀の武将達デス☆^^
美維・・・
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/02(金) 01:49:16
北伐時のルートがすさまじいな。
シンレイ山脈超えで、補給部隊も山登りって、そりゃ兵糧不足にもなるよ><
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/16(日) 16:55:47
呉に勝つには・・・火攻めを先に仕掛けておけば・・・!?
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 13:15:20
上庸さえ、上庸さえあれば、荊州方面からの補給の楽なルートで進撃できたはず!
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/21(金) 13:49:25
蜀は華北進出を考えずに防戦していればよかった
統一側には回れなくても延命は容易だったはず
公孫述みたいになるのがオチ
>>89 つまり暗殺でしね
・・・というか漢中取る時点で隗囂役がいないから公孫述に届かない
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/24(月) 22:31:12
名士って連中の事を意識するとずいぶんと世界観が変わるもんですね。
ゲームから入ると家臣なのに、名士からすると対等な地位を・・・って
93 :
忍たま乱太郎と三国志:2010/05/27(木) 18:25:42
蜀の天下見たかった。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/27(木) 20:21:14
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/02(水) 17:31:27
南征前の蜀って、上半分くらいの領土だったんだね><
そんなんで魏に対抗しようなんて。・゚・(ノД`)・゚・。
領土国家と都市国家の端境期みたいな時期だから
単純な面積で考える方が野暮ってもんよ
>領土国家と都市国家の端境期
そ、そうなの?
比較は国土面積じゃないのは分かるけど
>>97 領土は面でなく点、点と点を結んだ線
この程度しかロクに掌握できてない
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 20:38:50
関羽の荊州失陥が結果的に上庸の損失にまで繋がり、兵力面では張飛の死に続き、
夷陵の大敗で戦死者も計り知れず。
主君の劉備も死亡。
蜀興亡のターニングポイントとなった関羽の北上ってのは、何だったんだろう。
蜀の大戦略である両面攻撃に備えての拠点確保だったのか?
手柄を焦った関羽の独断専行?
全て呂蒙の術中だった?
いや見事な作戦だし
独断専行なわけもない
劉備は荊州にどうして有力な将軍を残していかなかったのだろうか?
関羽の副将になれそうな。趙雲クラスの将軍がいれば、
だいぶ戦局変わったような気がするのだが。
負けたから名前残らなかっただけだろ
元黄巾のふたりじゃダメ?
>>102 そうかね?雑号将軍クラスの副将がいたら、
名前だけでも残りそうなものだが、
関羽の軍中に有力な将軍がいた形跡はないな。
あと、負け戦側の有力な将軍って、
勝った側の記録に○○を破った、○○を斬った、○○を捕えた、○○を降伏させたって感じで、
案外名前残るもんよ。
>>105 麋芳・士仁・孟達だね。
三人とも江水沿いの要所を守ってる。
趙雲と比べて…と言うかもしれないが、そう見えるのは趙雲が失敗せず忠勤を続けて出世して生涯を終えたから。
入蜀当時では役割として関羽・張飛が突出してるだけで、他の将は大差ない。
>>106 いや、後方じゃなくて、関羽の樊城包囲の軍中にだよ。
関羽がいるのに将軍クラスの高官が同道する必要ないんじゃない?
荊州に五人も十人も将軍がいたならともかく、
数人しかいないなら、後方拠点(麋芳)や別働隊(孟達)の指揮官に当てるのが
優先する。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:50:01
・宛で候音が反乱、曹仁が鎮圧
・劉備、漢中制圧
・劉封、上庸制圧
・劉備、漢中王即位
・関羽、水陸から北上開始
・関羽、樊城を攻める
・于禁率いる七軍到着、水没→投降
・ホウ徳を斬る
・樊城、完全包囲
・さらに、襄陽包囲へ
・魏諷の反乱
・呂蒙&陸遜、荊州攻略開始
・関羽軍本拠陥落
・徐晃、関羽撃退
・樊城解放
・襄陽解放、関羽撤退
・関羽、麦城篭城
・関羽&関平捕縛→斬首
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 23:57:13
>>105 遊撃部隊を率いてて夏侯惇に負けた呂布が誤字扱いされてほとんど省みられなかったりするし
やはり負けた+関羽の名前がでかすぎたってところだろ
>>108 いや、仮にも前将軍が数万の大軍を率いているのだから、
逆に軍中に数千の兵を率いるレベルの将軍が何人かいないと不自然。
まさか、前将軍の関羽が中間管理職の将軍すっ飛ばして校尉や司馬を直接指揮するの?
>>111 当時の劉備の野戦指揮官にそんな多数の将軍自体存在しないよ。
それから、関羽の前将軍は「三品」じゃないからね?
劉備の漢中王即位に伴って王廷に移動したものであって、
漢朝廷の諸将軍と比べて階級が高くなったわけではない。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 01:54:55
階級といえば、軍師将軍の諸葛亮は法正よりも下位だったな。
隆中対だと、関羽北上に合わせて関中にも進軍する戦略になっている訳で、
それが無かったのは諸葛亮戦略自体が見直されたからなのか?
それとも、最初から隆中対なんて無かったのか・・・・・・・
蜀側としても何もしてないわけではなく孟達とか使って関羽のサポートはしてる
孟達は無茶な要求に答えられなかったせいで何か戦犯扱いだけども
関羽北上、孟達北上で見事に関羽との同時侵攻で魏に対処させてない
>>113 諸葛亮の方が上位だよ
諸葛亮は九卿級や関羽らよりも上
>>115 軍師将軍はそんなに高い官位じゃないんじゃないかな?
劉備が蜀平定後にバラまいた雑号将軍と同列。
六朝時代も最下級の将軍号だったし。
むしろ、署左将軍府事の方が重要だろう。
これで官位にとらわれない劉備の片腕としてのポジションを確立した。
漢中王即位後も劉備の漢中王府を取り仕切っていたのだろう。
諸葛亮は将軍に太守を兼任した法正や関羽や張飛と官位の上では同格だが、
実権では劉備の片腕として幕府を取り仕切る諸葛亮が上。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 13:55:05
>>116 実権は諸葛亮が上だというのは、何か根拠が?
確かに蜀の内政立て直しは主導的役割だったかも知れないが、軍事戦略面では
どうだったんだろう・・・・・
関羽と孟達の同時侵攻作戦にしても、事前に段取りとか無かったみたいだね。
示し合わせていたのなら、孟達が急に拒むはずもないし。
>>117 内政での実権ね。劉備が外征している間、成都を守って政務をとり、兵站を担当したのは諸葛亮。
一郡の太守であり参謀である法正や、太守と将軍を兼ね、外征に従ったり拠点を守ったりする張飛より、
政治面では重要だよ。これに次ぐのが荊州を取り仕切る関羽か。
劉備存命時の諸葛亮は曹操にとっての荀ケのようなもの。
軍事戦略面は法正がトップだったと思うけど、戦略のトップと政治のトップでは、政治のトップの方が上。
軍事戦略面は法正がトップだったという根拠は?
謀臣ならほかにもいたが…漢中戦では元々は黄権の立てた計画にそって作戦を立てていたそうだけど。
あと法正は内政でも活躍してるみたいだが。
諸葛亮が内政トップという根拠も教えてほしい
>>119 法正は益州平定戦でホウ統とともに益州奪取の謀臣を務め、
その功で新参ながら諸葛亮・関羽・張飛と同等の恩賞を受けている。
漢中攻略を進言し、参謀として劉備に随行。夏侯淵を討つ計略を立てる。
劉備東征時の諸葛亮の嘆きを見るに、劉備陣営の戦略において、
法正は諸葛亮以上の発言力があった模様。
蜀には他にも謀臣がいたが、その中で法正の劉備に対する影響力と地位は群を抜いている。
漢中攻略の計画には多くの謀臣が参与したけど、黄権は官位と劉備に対する影響力から考えて、
その中の一人であって、トップでは無いでしょう。
法正の内政面での役割は蜀郡太守や尚書令を歴任した事と、蜀科制定に加わった事だが、
これは君主の留守の間、君主に代わって政務を取り兵站を担当するというナンバー2クラスで無いと
任せられない仕事には及ばない。これはきちんとした王朝なら、宰相が担当する仕事。
また、劉備が首都にいる間も署左将軍府事だから、
劉備の政治面での片腕としての職務を任せられてる事が分かる。
なるほど、でも
>劉備東征時の諸葛亮の嘆きを見るに、劉備陣営の戦略において、
>法正は諸葛亮以上の発言力があった模様。
これは『法正は趙雲・黄権以上の発言力があった』ならわかるけど
なんでこれが諸葛亮の発言力の無さの話になるんだ?
というかこれそもそも劉備の発言じゃないけどね
>>121 諸葛亮は夷陵の敗北後、諸葛亮は「法正がおれば、主上の東征を止められただろう。
もし東征を行ったとしても、今回のような大敗は必ずや避け得ただろう」と言っている。
これは諸葛亮も東征を止めたかったけど、丞相であるにも関わらず止められなかった事、
しかし、法正の軍事戦略に関する発言力なら止められただろうし、
東征があっても法正が軍事戦略に関与していれば
必ず大敗を止めることができただろうという諸葛亮の見解を示している。
>>122 >これは諸葛亮も東征を止めたかったけど
そりゃ根拠のない推測じゃん、諸葛亮が東征を止めたのは演義の話でで正史には書かれていない
元々諸葛亮が描いていた戦略は荊州と益州で魏に対抗するというもの
東征が失敗に終わって詰んじゃったけど
まだ官位が法正の方が上だからって言われた方が分かる
>>123 「法正がいれば止められたのに」って言ってる人が、
孫権攻めに賛成だったとは思えないが。
内心反対だったけど自分には無理だから止めなかったってとこじゃね?
官位で言えば、諸葛亮は丞相・録尚書事。死亡時の法正は護軍将軍・尚書令。
どう見ても諸葛亮の方が上だね。
でも、官位が上の諸葛亮は「法正がいれば止められた=自分には止められない」って言ってた。
軍事での発言権は法正の方が上だったんでしょ?護軍将軍という高位の将軍号帯びてるし。
孔明が丞相になったのって、劉備死後では?
>>124 「法正がいれば止められたのに」じゃなくて「法正がいれば止めたであろう、たとえ東征しても惨事には至らなかっただろう」
じゃないの?読み手の主観で文章の意味を変えてないか?文章の中に諸葛亮の意志は入ってないと思うが。
これからは諸葛亮は法正を無茶苦茶高く評価していたって事がわかるだけ。
なるべく主観は排除するべきだと思うんだ。読み手によって異なるものだから。自分と当の本人との感覚が同じとは限らない。
法正は参謀筆頭だったとは思うんだけど諸葛亮の発言は根拠とはなりえないな。
大体、発言する人が上とか下とかじゃなくて発言内容で良い案なら採用する、悪けりゃ却下…って考えるのが優れたトップなんだろうにねえ。
諸葛亮が丞相になったのは法正の死後だろう。法正生存時の同時期で比べないと。
>>125 劉備生存中のはず。劉備が皇帝になったから、諸葛亮が丞相に、ってことで。
法正の死後だね。生きていても諸葛亮が丞相になっただろうとは思うけど
法孝直若在、則能制主上、令不東行、就復東行、必不傾危矣。
原文ね
法正がもし居たら、劉備を上手く取り成して、東征の命令を出させなかっただろうし、
また東征したとしても、必ず危機は回避した筈だ
軍事上の不利を見切ってる法正だから、居ればよかったなぁ程度じゃねーの、これ
曹操の郭嘉への評価と一緒でつまり後の祭りって奴だ
>軍師将軍はそんなに高い官位じゃないんじゃないかな?
>諸葛亮は将軍に太守を兼任した法正や関羽や張飛と官位の上では同格だが、
113が「法正の方が上」と言ったから反対して「諸葛亮の方が上だよ」と答えたんだけど。
この当時の劉備の部下は確かに皆二千石将軍だろう。
しかし漢中王推挙と皇帝推戴の時の上表の序列から諸葛亮の序列の高さがわかる。
簡雍伝らと比べると、許靖・麋竺・簡雍ら「賓友」グループに次ぎ、実権集団のトップ。
関張やのちに九卿になるョ恭らの上。
法正は、漢中王即位後に尚書令・護軍将軍として王廷に入る。
王臣として直属し、劉備に出入りする文書を掌り、劉備のために諸軍を監察し、
謀議に参与するという側近第一の役を担う。
一方の諸葛亮は外に留まり、「不臣」の地位を保つ。「相」と呼ばれ、
劉備不在の軍権を代行し、呉との外交使者を選任する権限もあった(馬良伝)。
漢の丞相がそうだったように、行政を総括する職掌となる。
ただし、同じ「署左将軍(大司馬)府事」の董和がいるので、全権委任とは行かなかっただろうが。
こうして内と外のバランスを取った組織化を行い、強力な「君主」である劉備が二者の上に立つという
システムをとったと見られる。
これは武帝から発達させて来た漢官制をかなり踏襲している。
>>128 諸葛亮の序列の高さは、軍師将軍じゃなくて、
署左将軍府事と言う地位のおかげじゃないの?
軍師将軍自体は単なる将軍で、
軍師将軍という官位単体では、
九卿や他の将軍より抜きんでた地位にはなれないと思う。
府事は職掌を示すものであって、官位ではないと考えられる。序列の高低に影響しないだろう。
「階級」と「序列」は違うからね。
同じ秩石内にも宮廷序列がある。
漢中王の前後左右将軍や九卿が、漢朝廷のものより一段低い二千石だとするならば
二千石将軍と同級で、その中で序列の高低がある。
先主伝以外にも、簡雍伝などから、許靖>麋竺>簡雍>諸葛亮ということなどがわかる。
>>128 113は「軍師将軍」諸葛亮と「尚書令」法正を比較しているのでは?
(関羽北上の時の話をしているから特に問題はないのでは?)
諸葛亮と同じ署左将軍府事だった董和は掌軍中郎将止まりだから,
その董和がトップにいる軍府の権限はそれほど高くなかったのでは?
(季漢輔臣賛でも「掌軍」と呼ばれているからこれが最高位だろう。)
あと馬良は諸葛亮に対して「国命を受けたので云々」と言っているから,
諸葛亮に命令された訳ではないのでは?
>>131 董和は諸葛亮と同格ではなく、諸葛亮の補佐だったことが蜀書から見て取れる。
あと、劉備の左将軍府は後漢の高官で大名士の許靖が長史を務め、
他にも多くの有力者が属官に名を連ねている。
左将軍府は絶大な権限を持っており、
その職務を統括する諸葛亮の権限もまた絶大だったと思われる。
>>131 尚書令はもっと低いよ。漢でも千石。
董和の件は
>>132に同意。
署左将軍府事は官位でもなく序列も示さない(正確には「加官」という)なら、
董和が中郎将のままだとしても軍師将軍諸葛亮の序列には何も影響はない。
外交方針を決定して発令するのは、当然劉備。
諸葛亮は、その「国命」を受けて、左將軍掾(この時期は大司馬府掾になっていただろうけど)の馬良と相談し、
外交使者に馬良を立てることを決定することができた。
つまり君主の命を受けて外交実務を執行する権限を持っていたということ。その執行に府の掾属を使うことができた。
これが諸葛亮に分署された「府事」の一つということになる。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 23:48:10
階級の比較もあるけど、結局の所、軍事戦略面では法正の方が諸葛亮よりも
発言力があったのかどうかが
>>113の焦点だろう。
諸葛亮が内政、法正が軍事戦略の中心人物だったという認識でいいのかな。
東征云々の記述は、諸葛亮が法正の名を最初に出している点から、軍事面で
高い評価をしている事が窺える。
さらに言えば、諸葛亮自身が自分よりも法正の戦略眼を上に見ていた?
この辺りは、単に成都で釘付けの自分以外に誰かいるとしたら〜って感じ
だったかも知れないが・・・・・・・・・
そこで、隆中対の話に戻る。
2方面からの同時侵攻作戦だが、関羽北上に合わせた侵攻作戦は無かった。
上庸の動きが無かった点から、そもそも関羽の単独北上だったと思われる。
これは、隆中対から逸脱しており、関羽の独断行動では?という話。
独断で無かったとすれば、隆中対については以下の可能性が考えられる。
・後年の創作
・戦略の路線変更
後者だとすれば、法正が関与していた可能性は大きいと思う。
そして、関羽北上が法正の戦略だったとすれば、彼は何を考えていたのか。
関羽の樊城包囲は陸中対に示される中原奪還作戦に基づくものではない。でおk。
これは漢中と襄樊を漢水で連結し、国境線を敷き直す作戦であって、
曹操打倒のための北上ではない。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 01:01:00
>>135 では、この作戦自体はどこから来たのか・・・・・・というのが気になる。
確かに襄樊を確保すれば、中原への道が大きく開けるだろう。
それだけに、魏の抵抗も予想出来る。
又、呉との外交関係は破綻している様なものなので、こちらの備えも重要。
これら全てを、ほぼ関羽の荊州だけに任せた上での作戦だったのか?
隆中対に至る重要作戦であると共に、かなり危険な軍事行動だった気が
するんだが。
>>136 呉との外交関係が破綻していたとは思っていなかったのでは。
関羽本人は陸遜が出てくるまで警戒していたけど,
劉備や諸葛亮らが呉を警戒していた形跡ってあったっけ?
>>136 陸中対に載ってるよ。ベン・漢の険に拠って体勢を整え、天下の変事を待てと
>>137 呉を警戒しているどころか、関係悪化していることを理解していた節もない。
劉備も諸葛亮も益州に行ってからは、荊州の事など忘れてしまったかのように、
関羽を矢面に立ててほとんど荊州を顧みていない。
>>137>>139 劉備なんざ漢中戦前に数万率いて荊州に戻ったことあるわけで
関係悪化を理解してないどころか、自分でぶん殴る気満々だが
関羽もぎりぎりまで呂蒙を警戒していた。
于禁水没という「幸運」によって攻撃の長期化と関羽の気の逸りに加え、
呂蒙・陸遜の計略が重ならなければ、
勝てなかったとしてもそう大敗する要因のない戦だった。
呂蒙らが上手だったってことだね。
潘濬ほどの政治家をむざむざ呉に渡してしまったのも大きなマイナス
>>140 それは215年に呂蒙に荊南を奪われた時の話であって,
その時に荊州を再分割してからは文字通り何もしていないのだから,
その後は油断していたということではないのか?
>>143 一度敵対行動を火事場泥棒的なタイミングでやられた劉備がそうそう警戒を解くわけがない
少なくとも孫権は横合いから平気で殴りつけて来る奴だと認識してるわけで
一度同盟組んだらもう全面的に信用、なんて程あまっちょろい経歴の持ち主ではないだろ
その後、孫権は曹操(漢)に臣従しているわけだからね。
だから関羽も呉に対してほとんど敵対的な行動を取ってきた。
その状況が変わったのは、陸遜が、
「于禁を捕虜にするという大功を挙げたあなた様の活躍に私どもも感服しました。
自分は青二才ですがいずれあなた様と共に戦う日も来るでしょう。へっへっへ」
という手紙を関羽に送ったから。明白に対荊州強硬派だった呂蒙が抗争されて、
荊州の軍事に関わっていない陸遜が後任にやってきてこう述べたのだから、
孫権の正式な外交方針変換の前触れと関羽には見える。
それを信じた関羽は警戒を解いて南郡の守備を輸送に回した。あとは奇襲で瞬殺。
時間的に成都が関知する余地は殆ど無いね。
×抗争 ○後送 (笑)
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:07:42
やはり、呂蒙&陸遜が一枚上手だったという事か・・・・・・
王甫みたいに、それでも呉の動きに警戒していた人物もいたと思うが、
関羽は陸遜を完全に侮っていたみたいだな。
「ホウ統がいれば〜」って意見も多いが、彼は陸遜知っていたのか?
知っていたとすれば、関羽の行動も又違っていただろうか。
以前、関羽スレでも議論されたが、于禁七軍の敗北は偶然だったのか。
状況的には幸運が重なってるが、関羽の対応も見事だったと思う。
>法孝直若在、則能制主上、令不東行、就復東行、必不傾危矣。
法正がもし生きていたら、劉備を制して(制することが出来て)、東征させなかったろうし、
たとえ東征したとしても、必ず傾危しなかった筈だ…。
令は「させる」
就は「もし」「たとえ〜でも」
復は「実行」「同じくり返し」
傾危は 今の蜀の状態。つまり「必不傾危矣」は「絶対ここまで悲惨な事にならなかった筈だ…」
"能"がポイント
『法孝直若在、則能〜 〜 』
「止めたであろう」ではなく「止められたのに」が正しい
諸葛亮は東征が成功すると思っていなかったようだ
しかし止めなかった
それは、止めても無駄、劉備は止められないと分かっていたからで
それでも法正なら止められると考えた
これは出征の是非が、理屈ではなく劉備の性格に因っているということ
法正が「反対」と一言いさえすれば、劉備が出征を取りやめたかというとそうは思えない
法正が「こうこうこうだから止めるべきです」と理屈を説けば、劉備は取りやめた と思える
理屈は他の人間でも説ける 諸葛亮にも当然出来ただろう
また夷陵で黄権が忠告したが劉備は従わなかった
これも黄権でなく法正だったら劉備は従ったかもしれない
つまり言説ではなく法正であることが大事ということ
「劉備は法正の言うことなら耳を傾ける」と諸葛亮は考えている
勿論、その法正は、"護軍将軍"ではなく、劉備が軍事面でも信頼する"法正という人間"だよ
だから官位の上下は関係ない
ちなみに諸葛亮の組織での本当の順位は NO.1'
もちろんNO.1が劉備なのは言うまでもないが
諸葛亮は軍師将軍という1将軍ではなく「軍師」
軍師は王のアドバイザーで、王の体の一部と言える
軍師は王に代って、王としての優れた知恵を出す
王の脳みそだから実権はない
純粋な「軍師」は文字通り、王の臣下ではなく、王の「先生」
主従関係にない
それが「軍師」というもの
本来そうだが現実として軍師も王に従う
諸葛亮が官に初めて就いたのは軍師中郎将としてだった
つぎが軍師将軍
軍師もある程度兵権がないと何かと不都合だろう
だから中郎将・将軍として兵権を与えるのだろう
諸葛亮のは本当の中郎将・将軍ではなく、兵権を持たせる名目的な加官と考えられる
軍師中郎将を作ったのは劉備という話だしね
ちなみに龐統も諸葛亮と同時期に軍師中郎将だった
普通の○○中郎将は何人もいない
だから諸葛亮を「軍師将軍」という1将軍として見ることは意味がない
益州牧・漢中王時代の諸葛亮が相であったのは間違いないがその官位・職名は不明
署左将軍府事ってのは職名じゃないし
漢中王時代そこは「署漢中王府事」 それすら書かれてない
しかし諸葛亮がかなり偉かったのは
関羽への手紙のエピソードや簡雍伝からも分かる
まとめると
・法正は劉備に対し諸葛亮より軍事面での発言力があった
・それは職位・官位からではなく、劉備の性格に因る
・諸葛亮は張良+蕭何、法正は陳平
・諸葛亮は劉備が外へ出るとしたら自分は留守番、一緒に行くのは法正と思っていた
>関羽北上
これはおそらく劉備たちが立てた作戦だった
漢中攻めの前の段階で関羽の北上も計画されたんじゃないかな
遠い漢中に曹操を誘き出して疲れさせ
勝っても負けてもその後襄樊に攻め込めば
曹操軍は疲労の為にすぐに大規模な援軍を送る事ができず、有利に戦いを進められる
漢中で勝てば尚よし、勝てなくても襄樊を有利に戦える
という2段仕込みの作戦だった
誤算は呉が腐りきった奴だったこと
価値観の違う人間のやることは予想できない
漢朝復興・魏打倒に燃える劉備たちにとって
江陵のような寸土を呉がそこまで欲しがるとは思ってなかったのだろう
一緒に魏を倒せば領土なんて江陵の何倍も切り取れる
逆に今呉が蜀の足を挫けば2国に未来はなくなる
聖戦に臨んでまさか目先の領土欲しさに裏切るなんて考えてもみなかっただろうね
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
ならぬ
鴻鵠いずくんぞ燕雀の志を知らんや
すまんけど張良と陳平の違いってなに?
それはウィキで調べてね
>>147 偶然じゃなくて必然的な勝利だよ
関羽一人の功績じゃあないけどもね
>>151 張良は大局的な方針を示したり、戦略に関する助言をする戦略家。
陳平は個別の問題を処理する助言を行ったり、謀略をめぐらしたりする謀臣。
あと張良は広報も兼ねてる感じだな
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:24:45
>>150 呉としては、益州を先んじて(相談もせずに)奪い取った劉備を全面的に
信用出来るわけもないし、聖戦だなんて思ってなかっただろうな。
荊州は中原に至る道であると同時に、三国における重要な交地。
ここを梟雄の劉備に制圧されているというのは、非常に危険だった。
蜀が呉に警戒しなかったのは、天狗になってたか甘く見ていたんだろう。
戦国の世で致命的な判断ミス。
>>151 張良=調整役
陳平=策謀家
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:32:44
于禁七軍は北方騎馬兵中心なので、泳ぎが不得手だったと思われる。
又、荊州の土地勘も無かった。
対して、関羽は水陸両軍で北上していた為、船団を有していた。
さらに、荊州で長年駐留していた事から、関羽に土地勘があった可能性は高い。
大雨→川の氾濫を予想出来るだけの経験と知識はあっただろう。
于禁の方は、樊城周辺の平地に陣取っている所からも、川の氾濫に対して警戒が
薄かった気もする。
出身地によっては、やはり大雨で川が氾濫するという流れに疎かったかも。
>>149 あいにくだが、「軍師」という官職の者が王や皇帝の師の地位に就いたことはない。
「師」「傅」などという職はあるが、少なくとも王や皇帝に対して先生・守役という
優位な立場は漢代のうちに消えてしまった。
どこまでも名目的なもの。
>>150は小説書いてろとしか言いようがない。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:36:48
張良=ジュンイク
陳平=カク
って感じかね?
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:39:38
例えば、范増や張良みたいな軍師は「王の師」だったかもな・・・・・
三国時代には、より官位化されて別の意味合いになっていたかと
>>160 荀ケは張良+簫何。
賈詡は陳平まんまだな。
>>161 しかし、張良は公式な官職には就いていなかった。
晩年に太子少傅になるが、ほとんど仕事してない。
論によると、張良は漢の官位を受けないことで劉邦の吏隷となることを避け、
君主から自立した「師」の待遇を受けることを維持した最後の人間という。
あとは秦制を強く受け継いだ漢によって臣は官僚化して行く。
諸葛亮の場合、劉備から師としての礼を受けていたとは考えられないが、
漢中王となっても王廷に吸収されずに漢臣の地位を保ちつつ
劉備軍閥を経営する権限を得ていたのは
劉備からの敬意の表れと解釈することはできるだろう。
漢中王になるよう嘆願したのに昇進なしとはなんだか不思議
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:56:05
荀ケが曹操に仕えるんじゃなく漢王朝に使えていたのと同じじゃない?
>>164 漢中王就任時に昇進しなかった他の雑号将軍も、
漢臣として王廷に吸収されなかったのかい?
諸葛亮より席次が上の安漢将軍縻竺とかも。
>>149 >漢中王時代そこは「署漢中王府事」
違うよ
そのころ劉備は大司馬だから、「署大司馬府事」ということになるよ
漢中王にはあるのは府じゃなくて廷だ
全然違う
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 00:59:48
府と廷の違いは?
>>165 漢中王になっても、増えるのは漢中王の官僚ポストだけじゃないか
漢の将軍号を得ている人物にとって、ほとんどの漢中王の官は昇進や加増にはならないんだよ
かといってこれ以上の昇進は漢の宰相とか九卿といった、名乗ってはまだ皇帝が許にいるのにおかしなことになる官しかない
だから昇進しようがない
皇帝になったときとごっちゃに考えてはいけない
>>169 府は丞相とか三公とか将軍とかの独自のオフィス
廷はつまり朝廷の廷
王や皇帝の政務の場
>>159 他の人が答えてくれているが「軍師」は官職ではない
「軍師」というものが王や皇帝の師なのに
その地位に就いた事がないとは訳の分からんことを言う
>>168 王は正式に独立自治権が認められているから、
統治面では大司馬より王の方が優先されるんじゃないかな
>漢中王にはあるのは府じゃなくて廷だ
漢代から明初までの中国で、各地に王として封じられた皇族が軍事と行政の拠点として開いた政庁。
王府といった。(wiki 「府」)
王府じゃないの?
>>164 >諸葛亮の場合、劉備から師としての礼を受けていたとは考えられないが
関羽・張飛が「変」と思った『水魚の交わり』なんかはそれに近いんじゃないかな
>>172 いや、軍師という官職は後漢の時代から存在するのですが。
幕僚としてですが。
「軍師」はながらく群雄や将軍の幕僚であって、王や皇帝の側近になったことはないね。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 03:04:09
軍師自体、時代によって意味や立場が違うからややこしいな。
言葉としては、官職というより勢力内での立場みたいなニュアンスで
捉えられる事が多いかも知れない。
一般的には、王の師というよりも戦略家、戦術家の片腕という感じで。
「名軍師」とかいう場合は、大体こんな意味だと思う。
諸葛亮って、内政では優秀だったけど、軍事はどうなんだろう。
長安行けなかったのは、半分くらい馬謖のせいかも知れんが・・・・・・・
>>177 強い軍隊を作ること、有利な状況を見切ること、攻勢限界点を見極めること、会戦における無類の強さは超一流だろ
ただ強引に相手を引きずり出すような搦め手からの攻めは得手ではないようだし
戦術級での奇策を用いたって話もあんまり聞かない
規模の大きな戦闘だからかもしれないが
まず内政が本当に優秀だったのか
そこから証明しないと
軍事に劣るが内政は優秀だ、とよく言われているが
内政上手というのを証明してるのは見たことない
「陳寿が褒めてたから」ばっかで
諸葛亮伝より、諸葛亮の内政手腕に関わる記述
・零陵・桂陽・長沙三郡を治めさせ、その租税を徴発することで軍資に充てさせた。
・先主が外征するたびに、亮は常に留守居として成都を守って内政に務めたので、兵糧・兵員に事欠くことがなかった。
・国内では南越を平定し、法律を制定し制度を施行し、軍隊を整理した。
・偏私なき刑罰と簡明なる政策方針とをもって人民を教導した。
・決定した賞罰は必ず信頼され、悪をなして罪を免れるものはなく、善を行って評価されないものはなかった。
・役人が不正を行わず、人々が自ずと勉励の志を抱き、路上の遺失物を拾うものもなく、強者が弱者を凌ぐことがないほど倫理観が高かった。
・教化が敷き及び人民が慎んで実践した。
・蜀の人民はかれを追慕し、かれのことを昔語りにしている。
・今日なお梁州・益州の民で亮を述懐するものの話を聞くと、ついこのあいだ亮の言葉を聞いたばかりかのように語っている。
・人民を安んじて条理に適った規範を示し、官職を整理して戦時に見合った制度を建て、
誠実な胸襟を開陳して公平の道を布き及ぼした。
・忠誠を尽くして時世に益となるものは例え仇敵であっても必ず賞し、法律を犯して職務に怠慢なるものは例え親戚であっても必ず罰し、
いったん罪に服して心を入れ替えたものは例え重篤であっても必ず釈放し、
浮辞巧言を弄んで人を惑わすものは例え軽微であっても必ず断罪した。
・善行があればどんなにわずかなものでも賞しないことはなく、悪行をなせばどんなに小さなものでも処罰しないことはなかった。
・諸事に精通していて、物事に対してはそれぞれ根本を追及し、評価に見合った内実があるかを見極めて、虚偽ある場合は歯牙にもかけなかった。
・このようであったので領内では誰もがいくぶんの畏怖を覚えつつもその人となりを愛し、その政治と刑罰とは峻厳な一面があったとはいえ怨嗟が上がらなかったのは、
つねに公平無私を心がけて勧善懲悪の裁定がはっきりしていたからである。
まあ、具体的な政策ではなく国政全般を見る宰相としては相当なもんでしょう。
具体的な政策については、王連伝のようにその政策を担当した官僚の伝記に載ってるんだろうが、
それを全部拾うのはさすがに辛い。
法家のバケモノって印象だな
反面、政策通ではないんだな…
王連が亡くなって以降、制度やらなんやらの話自体消えるもんな…
>>181 政策通でもある
蜀科の制定は諸葛亮主導で行われてるよ
>>173 >王は正式に独立自治権が認められているから、
>統治面では大司馬より王の方が優先されるんじゃないかな
それは漢中王の国の中だけだ
でも劉備の勢力圏には荊州もあるし、そもそも敵方の支配圏もある
こういう地域では漢中王は地位はあっても何の権限もないことになる
諸葛亮の政策
占領当時の益州は、前支配者劉璋の暗愚で惰弱な支配によって官僚組織はまともに機能を果たされず、
民衆の貧しさは目を覆うばかりの状況に在った。更に、官僚と結び付いた地主が肥え太る。
弱い者は益々悲惨になるという状況下に在った。
圧倒的な武力を以て益州を占領し、圧倒的な権力を持った政治支配で国を建て直そうとした孔明でさえ、
構造改革には苦労する。富裕豪族である抵抗勢力を根絶やしにする事は難しかったのである。
三年もの時間が必要であった。
孔明は先ず、一時的に国境を閉ざして鎖国状態にする。外圧を除いてから国内の生産力を回復させ、
経済を復興させて物価の安定を計る。国民に活気を取り戻させ、生活を安定させた。其の上で行政改革を
行う。思い切った人材の登用、権力者や悪徳官吏の黜除、行政組織の簡素化等の施策を次々と打って、
行政改革を徹底的に断行したのである。
当時は農本社会であった。農業が国の基本産業である。農業生産を上げて先ず、食い物を確保せねば
ならない。劉備と孔明が進出した前後の益州は、虐げられた農民は貧しく、生産意欲も上がらず、
国家は疲弊し切った状態であった。
農業生産を上げて民衆の富を増やし、彼等に活力を付ける事が急務である。
多少強引でも悪徳官吏を追放して地方豪族から既得権益を採り上げねばならない。
"構造改革断行。”と孔明は考えた。 "務農殖谷,閉関息民”{農耕に務め穀物を増産し、国境を閉じ
民を休ませる。}を第一政策に採用して国力回復に乗り出した。鎖国をして外からの圧力を排除し、
国内に平和を取り戻すということで、戦争が起こる懼れを無くして民に安心感を与えて
農業生産を上げる事に専念させたのである。
農業生産を上げる事は簡単である。つまり耕地面積を増やす。労働力を増やす。灌漑を整備する。
此の三点を確立すれば、生産力は上がる筈である。春秋時代の秦国が巴蜀を征服統治した時代、
太守として赴任した水利の専門家李泳親子が都江堰という堰を築いて蜀を「沃野千里」と呼ばれる
豊穣な地に変えた。しかし孔明の当時、堰はかなり荒れ果てていた。孔明は此の都江堰の整備を行う。
担当官吏を任命し、その下に千二百人の堰管理員を置いて補修管理を徹底して更に延長工事を行った。
此の治水事業を進める一方、低地の洪水地帯を農地に変える干拓事業、灌漑整備を行って農業生産を
上げる政策を推し進めた。成都の西北の柏河に孔明が築いたと謂われる "諸葛堤”、或いは"金堤”と
呼ばれる長堤が今も残っている。
封建時代は兵士は農民から徴兵された。此は中国でも日本でも変わらない。兵士として徴用されると
人手不足の農地の生産力は落ちる。此を解決するのが屯田兵制度である。兵士は平時には田畑を耕す。
一朝事が起こると武器を持って戦闘に参加する。更に、屯田兵に荒れ地を開拓させて農地を増やした。
戦争の起こる可能性が遠のいた時期だけに兵士を農耕作業に活用出来る "休士勧農 分兵屯田”を
スローガンに、"兵農合一”政策を押し進めて労働力の確保を計る。農繁期には兵士が農業に従事する、
或いは農作業に人的な補助を行って生産量を増やす。農閑期には農民が兵士として訓練を受けて
兵力増強を計る。一石二鳥の効果が実現したのである。屯田兵制度の推進は、他方で富裕な地主や
地方の豪族達の力を弱める効果をもたらした。農民も生産物の何割かを国家へ税納するだけで好く、
自分の取り分が増える。豪族の下で小作をするよりも収入が増え、働く意欲が増加する。当然、生産量が
上がる。という図式になったのである。
孔明はこの様に、兵農合一政策と水利灌漑事業を展開して一挙に農業生産を向上させ、地方豪族の既得権益
を取り上げ、賦税の軽減を計る等、農民の負担を軽くして彼等の生活を安定させた。当然、国庫の収入にも
安定を来たす結果をもたらした。
塩と鉄は益州の重要産品であった。経済発展には欠かす事が出来ない資源である。中国の奥地には塩分を
含む地層が多い。蜀地方の精塩業は西漢王朝(前漢)の時には既に、発達していて各地に塩井が掘られて
いたという。製塩技術もかなり熟練していてある地方では已に、火井{天然ガス}を燃料に使用していた
という。蜀地方の塩は"井塩”とも"煮塩”とも呼ばれ、井戸を堀って上部に滑車を備えた塔架を置き、
塩水を汲みだして塩鍋に移して塩水を煮て水分を蒸発させて塩を採取した。
中国には各地に鉄鉱石の鉱山があって、露天掘りが今も行われている。此は孔明の時代も変わらない。
蜀の周辺にも鉄鉱石が埋蔵されている山が彼方此方に在って兵器や農機具を鋳造していた事が多くの史書に
記載されている。孔明は鋳鉄官に鋳鉄技術に精通した者を選んで兵器や農機具の品質改良を目指した。
鋳鉄官の郭達は一夜に三千本の箭を打ち、"神手”と称されて将軍に封じられたという。鋭利な兵器の改良
は軍の強化に貢献し、製鉄技術の発達は農機具に改良が加えられて農業生産の増強に大いに役立つ事に
なる。今も昔も軍事技術の発達が一般の生活機器の改善に繋がる事に変わりがなかった。
鉄に限らず金、銀、錫等の鉱山も開発されて蜀漢王朝の重要輸出産品と為り、国庫を潤した。
錫は今でも四川省に多く産出している。朱堤に産出する銀は純度が高く、
他地方で産出する銀に比べて1.8倍の高値で買い取られたという。孔明は精塩工業や製鉄工業に対して
国家管理機構を設立して「司塩校尉」、「司金中郎将」の職を設けて
これらの資源を国家の独占事業とした。
蜀錦の名で有名な蜀のシルク工業は早くから、此の地方に発達していた。東漢時代(後漢)の墳墓から
桑苑の図や織機の石刻が発見され、漢の時代には一般的にシルク工業が普及していた事が判る。
彼は蜀錦の重要性に着目をし、特別に「錦官」という官庁を設置して専門にシルク工業を管理させた。
成都の別名「錦官城」は此処から来る。「臨終の表」には、彼の家には八百株の桑の木が植えられている
と彼自身が述べている。
「後漢書」には曹操が “人を派遣して蜀錦を買い求め、宮中の礼服に用いた。”という記載がある。
当時、蜀錦は全国に知られた特産品で、蜀の経済立て直しの切り札となった。
又、貨幣の鋳造も手がけ、"官市”という市場を設立して専任官吏を派遣し、徹底した市場価格への介入を
行って諸物価の安定を計った。湖北省や雲南省で孔明の発行した"直百銭”の銭弊が見付かっている。
この様に農業生産の向上、塩、鉄,錦等の資源、特産品の発達は蜀の経済発展に大きな寄与をした。
“政は民を安んずるを以て本と為す。”という孔明の基本思想が諸政策に反映された結果、
構造改革は三年で成功裏に終わって、蜀漢国は "食足りて兵足る。”という安定さと富裕さを
得るのである。
>>183 それを言うなら大司馬に統治権は全く認められてないだろ
それらの地は多分、漢中王預かりの代官地扱いとなると思う
漢中王府が統治するのが筋だと思うよ
>>192 いや、直接の統治は荊州牧でいいだろ
それも劉備だけど
大司馬は民政には直接は触れないかもしれないけど、軍事面では大将軍と同等以上の存在だから全軍の総司令官
漢中王国以外ではそれが優先するのは同じ事
「漢中王預かり」なんて存在しない制度作らないでくれよん
>>193 その場合劉備は漢中王、大司馬、益州牧、荊州牧を兼ねてたということだよね。
実際劉備が兼ねていたのだからそれ自体は問題ないけど,
大司馬府事を署するだけの諸葛亮が他の権限をも握っていたとする根拠はどこにあるの?
確かに六朝時代の軍府の起源を後漢末に持ってくることで,
劉備の軍府の権力が民政にまで及んでいたとする説はあるけど,
正に六朝時代に生きた裴松之がそれを否定しているのだが。
(諸葛亮が入蜀後丞相就任以前に民政を担当していた記録なんて,
郭沖一事以外にあったっけ?)
>>180 公平であった、とか賞罰をはっきりさせた、とか指針の記述ばかりで
具体的な功績の記述は少ないんだな
>>194 劉曄伝に出てくるよ
劉曄曰「(前略)。若小緩之,諸葛亮明於治而為相,關羽、張飛勇冠三軍而為將,蜀民既定,
據險守要,則不可犯矣。今不取,必為後憂。」太祖不從。
>>195 陳平が宰相の仕事について「陛下を補佐し、外敵に目を光らせ、万民を手懐け、役人に職務を全うさせることです」と言ってる。
個々の政策を担当するのは下の官僚。指針を示し、大局的な国政の判断と決裁をするのが宰相の仕事。
だから、これでいいんだよ。
>>197 宰相の仕事はわかったが、
だったら君主は何やるの?
>>198 人それぞれ。自分でも政治に励む人もいれば、
自ら軍を率いて戦争だけしてる人もいれば、
自分では何もしないで有能な人材に任せきりな人もいる。
どれが理想の君主と言うことはない。
得意分野で業績を上げられるのが良い君主。
それを補佐するのが宰相の仕事
>>196 ありがと。
でも具体的な内容はないんだなぁ。
「相」は大臣、補佐役の意味だから権限までは分からないし。
裴松之が郭沖一事を否定したのも無理はないか。
>>195 法律を制定して簡単な刑に至るまで自分で裁いて判例を作ってるってだけでやった作業量が異常ってことはわかるがね
業績ってどんなことを言ってるの?
法令を制作し法治中心の制度に国家を形成・運営するというのは
非常にでかい規模の業績だけど
>>201 駄目じゃん
その点宰相としてのマイナスだね
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 23:39:02
北伐に見る諸葛亮の戦法は、有利な地に引き込んで叩くのが基本だった。
姜維の戦法は、機動力と射程を活かした奇襲(段谷以後は守りに入ったが)。
どちらも長安攻略は出来なかったが、やはりどちらも人材の差が勝敗に大きく
響いた気はする・・・・・・・・。
>>203 過労死したからねぇ
過労死しないなら功績として燦然と輝くのだが
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/25(金) 03:23:45
政治面での人材は、割りと豊富だったと思う。
惜しいのは、早世する人が多かった点か・・・・・・・・・ヒィなんかは、
ハプニングにもほどがある死に方だったけど。
軍事面でも結構人材豊富だぞ。
漢中と江州や永安や南中の都督のような方面軍司令官級は代々有能なのが続いたし、
その下の実戦指揮官も伝記や記録が少ないだけで結構有能の評価がある人材は揃ってる。
>>193 法正が劉備漢中王即位に伴い尚書令になってるよね
これは漢朝の官ではなく漢中国の官
すると法正は尚書令としては漢中にしか影響力を持たなかったのかな?
魏では荀攸が魏国の尚書令を務めた
荀攸の権限も広大な曹操領の中のちっぽけな魏国の統治に留まったと思う?
ちなみに曹操配下の将達は全員魏国の官で各地に赴任している
一つの勢力に統治機関が二つもあり
それぞれに、権限をもった同役職の人間がいれば混乱を来すのでは?
法正の尚書令から漢中王府が存在した事は確定
あとはその権限がどこまで及ぶものだったかだけど
関羽ら前後左右将軍も多分漢中国の将軍位
断定まではできないが魏を見ればそうではないかと思える
そうなら勢力圏全土が漢中王の勢力下であったことになるよね
一方、劉備に大司馬府が存在した証拠って何かあるっけ?
まぁ元が
>>149の
>漢中王時代そこは「署漢中王府事」 それすら書かれてない
だから
要は諸葛亮の役職が不明ってことで、別に大司馬府だったとしても大差はないんだけどね
>>208 飯が食えなくなって死んでるし過労死の可能性大
>>209 広大な曹操領=魏国だよ
曹操の魏国は物凄く広大
ただし皇帝のいる許とかは含まれない
漢中王も事実上益州はほとんど覆い尽くしてる
ただし荊州は含まれていない
「大司馬属殷純」みたいに大司馬府勤務の役人は間違いなく居たよ、漢中王時代
>>210 癌でも食べられなくなる
ていうか、重病なら食べられないのが普通
過労死じゃ絶対無いよ
過労死は発症から24時間以内に死ぬ
諸葛亮はそんなんじゃないしね
54って当時にしてみたら別段若死にでもないしね
>>211 司隸 河東、河內
冀州 魏郡 钜鹿 常山 中山 安平 趙國 甘陵(清河の一部) (×河閨@清河 勃海)
青州 平原
魏国は10郡だよ
>「大司馬属殷純」
それって逆に、大司馬府は小さいって事じゃない?
どんな病気であれ過労は原因になりうる
オーバーワークだったのは史書にも書かれてる事なんだから
残された時間が少ないから、寝る間も惜しんで働いた
と思うんだけどね
普段そこまでなかったと思うよ
司馬懿の『亮は将に死せんとす』というのは、そういう事じゃないかな
諸葛亮が異常なほどに勤勉なら、その話は魏にも伝わるはず
今更仕事ぶりを訊くまでもない
司馬懿は諸葛亮に変化を見たからこそ、
寿命が今にも尽きそうだと分かったんじゃないかなと思う
>>216 帳簿の検査までやろうとした諸葛亮を諌めた楊顒は,
228年に死んだ張裔よりも先に死んでいるから,
もともと部下の仕事にまで手を出す性格だったのだろう。
(6年以上も前から死期を覚っていたということはないだろう。)
それが魏に伝わっていたかどうかは分からないけど。
何でも自分でやっちゃう人物は良くないって
兵法書とかにも書いてるよね
>>218 そりゃあ自分で全部やってしまうということは,
他人を活かすことが出来ないということだからね。
本来トップに立つ器ではなかったということになる。
(でも権力は集めてしまったんだよなぁ。
劉備死後なら仕方ない面もあるだろうけど。)
つまりトップに立つ器は
劉禅>>>諸葛亮
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/30(水) 22:32:41
>>212 いやそれはあくまでも「発症」だろ
過労死のメカニズムは疲労による自律神経不全だから
過労が積み重なって飯が食えなくなってるなら過労死の可能性が高い
血を吐いただのなんだのっていうのはないし
諸葛亮死後
魏に追撃を許さず整然と立ち去ったのを見て司馬懿「亮は天下の奇才」と言ったそうだが
その後で2派に分かれて殺しあったと聞いたときには蜀プギャーって感じだったろうな
>>217 諸葛亮が楊顒に諫められたのは、おそらく劉備が死んだ223年に国政の全てを任されてすぐのことで、
根から調べ上げて改革しようと気合い入れてたんじゃないかな
そしたら下に反対されて理が通っていたので取りやめたと
国を纏めるには和も大事だからね
蜀に内政官がよく育っているのは仕事を任せてきた証拠だよ
>>221 諸葛亮は突然死ではないから違う
陳寿が書いた「益部耆旧雑記」に
諸葛亮が病に伏して成都は李福を勅命で見舞いに寄越した
そのときに丞相職の後任に蔣琬を推薦した
とある
>>224 過労死は過程で過労から他の病気になったものも含まれる
突然死だけが過労死じゃない
過労死は突然死だよ
会話のキャッチボールが出来ていないなw
突然死のみ過労死だ
法廷用語と日常語をごっちゃにするからこうなる
過労死が突然死だと言ってる子は法曹の住人でもなければwikiソースだな
>>218 自分で全部やってしまうと、周囲の人間を精神的にも経済的にも豊かにできない
周囲のやる気も組織の一体感も損なってしまう
他人を信じきれない性格ということになるし
にも関わらずあまり悪く書かれていないということは
余程能力が高く、無欲な人物だったんだろう
>>230 しかし、一国の宰相としては致命的な欠点。
いくら自分でやった方がうまくいくからと言っても、そこは担当の部下に任せて、
自分はそれをフォローして、大きな方針を定めて、最高決定を下して、
百官をまとめあげるのが、宰相として正しい姿。
まるで手術室のBJ、厨房の味沢匠のようだ
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/01(木) 17:11:46
234 :
230:2010/07/01(木) 19:02:59
>>231 うん。別に致命的な欠点であることを否定していないし
能力の高さと無欲さがその欠点を補って余りあるとも言ってないよ
ただ、それほど明らかな欠点があるにも関わらず宰相として無能だとも性格が悪いとも言い切れず、
当時も後世も立派な人物と評されることが多いことは、例外的だろうと思う
無能はともかく性格悪いって話じゃないしw
三戦の価値観と一般市民の価値観は違うんだよ
三戦住人は能力ばっか見て有能か無能かそれが全てだけど
一般ピポーはドラマ性とか精神性を重視するんだ
だから能力的には欠陥品だけど立派な人物、というのはありえる
三国志オタはマジここが理解できてないからすぐ贔屓だの虚名だの言い出すんだよな
諸葛亮が楊顒に諫められたのは、おそらく劉備が死んだ223年に国政の全てを任されてすぐのことで、
根から調べ上げて改革しようと気合い入れてたんじゃないかな
そしたら下に反対されて理が通っていたので取りやめたと
国を纏めるには和も大事だからね
蜀に内政官がよく育っているのは仕事を任せてきた証拠だよ
>>229 ソースは昔見た医者のHPだよ
ところで、
過労が原因で病気になったとどうやって証明する?
病気になるときは病気になるものだ
諸葛亮が過労死だったという説は、日本で過労死が新聞を賑わした頃に
誰かが諸葛亮もそうだったんじゃないかと思った事から生まれただけのこと 多分ね
過労が原因で病気になって、それで死んだら病死なの?
食事を減らしたのと、働きすぎを部下から言われたのって最後の北伐の時のみ?
>>235 人を上手く使えない、って言い方をすると能力の話になるけど
自分で全部やっちゃうのは良くないことを知らないはずはないのにやっちゃうことや
他人を信頼できないことは性格の話でもあるんじゃないか
>>237 相変わらず想像でレスつける子だな
ま、疫病で病死ってのが何の病気だったかなんてのも、症状が克明に記されてなきゃ分からない
ってぇのはその通りだが
それにしても……な
そもそもそんなHPが本当にあったかどうかも、見てみないとわかんない
諸葛亮が過労死か否かを語り合うスレ
蜀書 諸葛亮伝より
其の年八月、亮、病疾り、軍に卒す、時に年五十四
「病疾り」は急性で悪性の病気なのだそうです(立間祥介)
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/02(金) 16:45:56
過労で免疫力が落ちていたところへ、感染症→シボンヌ
って感じか
>>240 >それにしても……な
オイオイ、勝手に過労死にする奴の言う事かよw
>>244 其年八月,亮疾病,卒于軍,時年五十四。
「疾病」やまいヘイなり。 ―― 病気が重態である。 漢和辞典
>>241-242 ぐぐれば過労死の記事は幾らでも見つかるはずだよ
過労死が突然死であることに納得行くまで見て回って
オイオイとかぐぐればとか言われてもなw
そりゃ自分の都合の良い記事をさらえばいくらでも見つかるだろうさ
もういい加減ごめんなさいして諦めちゃいなよ
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/03(土) 07:29:51
>>248 >>247によると、「疾病」やまいヘイなり。 ―― 病気が重態である
ってことはくも膜下出血のような突然死ではない。
>>245が正解じゃないか
しかしまぁ
最高幹部が陣没しちゃうこと自体アレだよね
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/03(土) 19:22:19
清の雍正帝も働き過ぎで寿命が短かった印象がある。前後の康煕帝や乾隆帝が長寿だっただけに。
>>249 ハァ?
君が調べもせずに過労死だったとか適当吹かしてんだろ
妄言垂れ流して何言ってんだ
>>253 君はコテハンを名乗った方がいいと思うんだよね
主張が一貫してるというか、特徴的というか、何度も書き込んでるから
うん、絶対にコテハン名乗った方がいいって!
このスレに限らず三国志スレは全部
やだよw
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 15:52:14
>>254 サイエンスの世界では、無いこと(だけ)を証明するのは、非常に難しいってことをわかってんのか?
バカか
何の根拠もなく「真相は○○○だった」とか言えると思うのか
それで指摘されたら
「サイエンスの世界では、無いこと(だけ)を証明するのは、非常に難しいってことをわかってんのか?」
と返すんだな? ありえんw
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 21:54:00
それより君は日本語を勉強した方が良い。
特に2〜3行目。
べつに? (非を)が3行目に省略されているだけ
>>258 いやお前のソースを聞いてるんだが
ソースの提示なしに「証拠はオレの記憶!」じゃ話にならないから
それは医学上の過労死であって一般の過労死とは違うぞ
法律上では「過労によって病気が進行した」と考えられるものは全部過労死認定な
諸葛亮の過労死は後者
ごめんなさいが出来ない上に黙ることも出来ない子は、可哀想だよね
本筋から外れても持論の補強に躍起となって、なお住人から嫌われる
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/06(火) 00:48:45
>>262 人に自分のいいたいことを伝える気、あんのかいな
個人的に、こういう流れは要らないって思う
どうして相手を煽らずに要られないんだろう
過労死の定義云々で拘ってる話は、もうスルーしちゃって良いんじゃないかな
諸葛去病 ショカツキョヘイ
>>267 そりゃ蜀豊(の中の人と思われる人)が喚き続けている以上仕方ないのでは?
過労死云々以前の話題といえば,漢中王府と大司馬府との関係?
実際に付いてくる権力は別として,
当事者としての価値は漢中王>大司馬と言って間違いないだろう。
(後に曹丕から呉王と大将軍を与えられた孫権にとって,
どっちが有益だったかを考えれば明らかだろう。)
>>269 価値だけで言えばそれでいいんじゃない
でも、大司馬とか州牧といった官職は名義だけだとしても一応権限が付随するから、漢中王とはまた別の意味で価値がある
だから総合的には一概に決められない
>>269 なんて失礼な奴だw
喚き続けているだと?
それは無茶苦茶なことを言って過労死にしたがっているやつの事だろう
バカも休み休み言え スルーしてやってるのに
>当事者としての価値は漢中王>大司馬と言って間違いないだろう。
ちなみに漢中王府と言っているのは俺だよ
俺だとか自己主張したいならコテつければ?
>>271 ん?失礼なのはあなたでしょ。
現時点では諸葛亮が過労死というのは一仮説に過ぎないのは確かだけど,
(五丈原で「罰二十以上を親裁していた」ことを信じるかどうかによるけど。)
過労死「じゃない」と言い張っているのはあなたぐらいのものだ。
そもそも自説の根拠を「ぐぐれ」とかいって直接出せない時点で,
まともな人間として扱われないのは仕方ないと思うが。
孔明が過労死か否かって、そんなに重要ですか?
君の過労死の定義が一般で通用しないのに何言ってんの?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 18:58:17
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 21:57:41
水滸伝の孔明も病死だな
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/07/17(土) 22:48:54
孫盛も魚豢もすっ飛ばして読んでいい。読むに値しない。
水滸伝の孔明孔亮の名前て明らかに諸葛亮の影響うけてるよな
水滸伝は同人みたいなもんだから
無双とかBASARAみたいな
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/21(木) 03:09:21
入蜀から漢中戦までは上昇気流だったんだが・・・・・
荊州奪われた以上に、夷陵の大敗で失った人材と兵が痛かった気がする
劉備も関羽も、陸遜の値踏みが甘かった点で同じだったみたいだな
呉は呉で、上手い具合に失った人材を埋める人物が出て来るもんだが
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/10/21(木) 23:57:29
>>281 孫権の人事能力の高さもあるが、前任者が死ぬ前に後任を推挙したりしてたし。
ただ、その後任が前任の能力をカバー出来るだけの人物だった点が呉の強みか。
劉備は黄権一人使いこなしてないし、諸葛亮も馬謖の運用をミス、関羽や張飛は
言うでも無く寝首をかかれる人間関係。
漢中戦のベストメンバーが半分くらいしかいないのに、他国に喧嘩売った時点で
終了フラグ立ってたんじゃね・・・
張飛も法正もいないし、黄権の献策はスルー 戦略・戦術面での欠員が致命的だな
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/30(木) 13:28:23
正史の読み方によっては魏延は豪族出身。
義陽の出身(新野の近く)+部曲(豪族の私兵)をひきいて益州入り
↓
義陽の豪族で、劉備に従って荊南に移り、益州入りに従軍
まぁ「部曲をひきい」ってただの部隊長とかそういう意味だろうけどね。
大して大きくない部曲を率いて将軍の誰かの指揮下に入ってた可能性もある。
益州平定後に魏延は牙門将軍に昇進してるから、
それ以前は校尉あたりだったろうね。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/12/31(金) 03:57:36
蜀の命運を握っていた人物
劉備:中原の戦乱を生き残り、幽州から益州へ流浪の末に蜀漢を建国。
関羽:劉備の宿将。三国の要衝である荊州方面を任され、失った末に斬首された。
諸葛亮:蜀漢の丞相。政治と軍事に辣腕を奮うが、志半ばで五丈原に没した。
劉禅:蜀漢の二代皇帝。宦官に踊らされ、放蕩生活に興じた末に国を売った。
姜維:漢中方面の軍事を担った魏の降将。北伐を繰り返し、国力を衰退させた。
劉備達は
古蜀国については伝聞で聞いていたのかな
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/03(月) 11:49:16
>>284 劉表やら韓玄やらに仕えてたとかって根拠ないんだっけ?
>>286 劉禅より劉禅を躍らせた宦官が命運握ってたんじゃね?
個人的には孟達の動向も影響大きかったと思う。
>>288 そういう記録はまったくない。
出身地的に劉表の部下やってた可能性はあるかも知れないけど、
伝記のある蜀将の中で、劉表の部下やってた奴は、
みんな劉表の下で何やってたかさらっと触れられてるから、
本伝にも注にも記録ないって事は、たぶん仕えてなかったんだろう。
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 03:04:12
.
(・ω・`)
(・ω・) (====)
___(===) ( ⌒) )
/\ `J  ̄`J ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄ .
| |
/ \
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 23:57:40
諸葛の南征の時、孫権が任命した太守を攻撃したことは問題にならなかったの?
孫権なんてどうにでもなっただろ
同盟結んだし、劉備は返り討ちだったけど大打撃与えたし・・・・・
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/10(月) 19:54:27
>>291 もともと、あれは蜀をかきまわすために太守の称号やっただけだから、
呉と蜀の関係が回復して、蜀と戦う必要が無くなったら孫権はどうでもいい。
必要無くなった捨て駒なんてどうなっても、気にする奴いないだろうし。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/03(日) 00:07:48.50
蜀漢の人材の少なさに涙。
リゲン、モウタツ、チョウショウ、ホウセイが早く消えたのが誤算でしょうか?
馬良黄権フウシュウ張南と人材失いすぎだろjk
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/08(金) 20:25:22.89
モウタツが寝返ったせいで上庸が魏の勢力圏に入っちゃったけど、
ここがあれば北伐のルートの選択肢が大分変わったかな?
諸葛量は涼州しか見てないよね?
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/08(金) 22:57:39.59
蜀は人材不足ではなく頭数が足りない
というか人口比率から言って確実に益州人>>>>>>荊州人なのに、
蜀滅亡まで高位高官がほとんど荊州出身者で占めてるんだから、そりゃ人材の層も薄くなるわな。
益州人に優秀な者が全くいないはずも無く
諸葛亮がそれら人材を悉く見落としたとも思えない
しかし、劉備を失った後の諸葛亮は、国家の分裂を防ぐために挙国一致に勤めねばならず
自らに権力を集中させるため自ずと自分のシンパである荊州人や姜維、王平のような降将で
周りを固めるほか無かったのであろう
ただ、魏と比べるととなるとそもそもの人口が違いすぎるから
比べ物にならないのは仕方の無いこと
姜維も王平も荊州じゃないじゃん
どこが荊州ばっかなんだか
ゆとりと言われても仕方ない読解力
優秀な者を見つけているのにその者を使わないなら
国家にとっては見落としたのと変わらんな
使わないのではなく、使いたくとも使えない
この差は大きい
メインが益州なのに益州派閥がないのが異常だよな
中心は益州出身者こそなるべきだった
理由はどうあれ、人材がいるはずなのに層が薄いのは国家にとっては同じ損失だってことだよ
諸葛亮のせいというよりは、本来カリスマでもって集権すべき国のトップが頼りないのが一番の原因だが、
だからといってナンバー2が集権することで結果的に層が薄くなることが
国家にとっての最善とはいいきれない
諸葛亮にとっては最善だったかもしれないが
しかし、だからといって小国の蜀内で派閥争いしているようでは
魏を討伐どころか、対抗することもままならなくなるから
唯一無二とは言わないが、最善策のひとつと考えても良いように思う
>>304 誰が中心になって蜀漢を運営しているかにもよるんじゃないかな?
荊州閥がメインだし、益州閥を取り込むのが遅かったんだと思う
遅かったというより、取り込む時間を与えられなかったとする方が正解では?
蜀取りが214年、建国が221年、そして223年に崩御で足掛けたった9年
取り込み相手の筆頭であった李厳もいろいろあって追放だったし
張疑とか馬忠とかは?
張嶷は結局、一郡の太守に過ぎず、それ程重要とは言えないだろう。
それよりも尚書を務め、華陽国志では諸葛亮死後の国政に参与したとされる張翼の存在の方が重要だと思う。
あと益州出身で最も権力を握った馬忠、何であそこまで重用されたんだろう。
なんか強力な指導者だった諸葛亮の死後、一時的に益州出身者を政権中枢に取り込む動きがあったように思える。
馬忠は劉備に評価されて、諸葛亮に重用された人物。
南中での功績は絶大だし、権力の中枢にいるのは丞相府時代の同僚たち。
人柄も良くて、人望も厚い。
これだけ揃ってたら、出世しない方がおかしい。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/20(水) 08:58:33.91
陰平、武都を攻略して以後、特に影響は無かったようですが
キザンの方へ出るのなら武都からの方が近かったんじゃ・・・
蜀に別働隊を駐屯させる余裕は無かったのかな?
武都 長安
\ /
漢中
/
剣閣
だいたいこんな位置関係なので漢中を手薄にはできない
武都は人口2万戸くらいだったようだけど楊阜が半分連れて行ったから
大軍を維持するだけの生産体制もなかなか作れない気がする
晋の頃には3千戸になってるからむしろ貧しくなってる
せっかく攻略したのに有効利用できない場所だったなんて・・・
なんということでしょう
武都・陰平は金銀や錫を産出し、また馬の産地でもあったと華陽国志は伝えるから、
まったく旨味のない場所でも無かったかも。
武都・陰平が根拠地化できない貧しい土地だったから、蜀は朧西を抑える必要があり、
だから蒋エン・費イ・姜維は隴西攻略を戦略目標にしたんだろうね。
下弁あたりには異民族がけっこう住んでたみたいで実際に暮らしてた人口はよく分からないけど
夏侯淵が相当辣腕を振るったみたいなのでほぼ戸籍に入れられてるかも知れない
楊阜が粘ってたのかどうか法正の時代から手を出して奪取に10年以上かかってる
もしかして曹叡が中央に呼んだから武都を取られたんか?
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/01(日) 14:30:20.37
蜀は面白いなぁー
何だろうこの魅力。
引き付けられて止まない。
なんと言っても、天府の国だもんな
北伐では下弁から攻めて欲しかった。
どーせ毎回漢中の守備はしっかりやってるんだろーし。
ってか、向こうの山とか大地って移動大変そうね。
趙雲が斜谷道でオトリやってる間に散関から背後に出るってこと?
陳倉でいきなり総力戦目的ならそれでいいような気もする
それをしないということは諸葛亮が単純に会戦で即決を考えてなかったのかも
第二次だとそのルートで攻めてるから年内に武都の状況が変わった?
曹操の頃から武都は維持困難という考えが出て来てるんだし
北伐する頃には魏の支配力が相当落ちてたとは思う
でも最後に五丈原に出た時は斜谷であっさり渭南に出てるから
流馬が良かったのかも知れんけど斜谷が無条件でダメってこともない
劉備か蜀が天下を取れば面白かったのに。
蜀は雑魚
だがそこが良い
民も人材も土地も少ないけど
中国大陸を統一しようと、沢山の人が集ったのに間違いはない!
保守
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/08/11(木) 21:49:38.23
呉書読んでて、数回蜀から馬もらったって記述があったけど
蜀って馬の名産地なの?
蛆虫のS窟三戦
黄権さんの男前っぷりは異常
蜀の城ってどの辺りにあったの?
そりゃ蜀に決まっとるがな
マジか・・・
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/01/14(土) 20:27:49.85
四川省ですよ。
暴政とも不毛な宮廷闘争とも無縁なのが、蜀のいいところだな。
小国が何倍もの国力を持つ大国の打倒を国是とする異様な状況の下で
最末期にチョロっと、劉禅がダラけて、黄皓が跳梁したくらいで
要人のほとんどが、その人なりに社稷に殉じようとしたのが清々しい。
そう思っていられるうちが幸せだな
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/04/15(日) 02:35:00.28
諸葛亮って、進行先にキザンを選んでいるのが何回かあるけど
ぶっちゃけ、山だよね?
どこか城とか落として基地にしようとか発想は無かったのかな?天水とかジョウケイとかさ
迎撃にきた魏軍と戦うのに有利な場所の確保が目的の一つにあるのかな?
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/05/19(土) 10:33:53.51
( 〇 ヘメ)333get!
荊州失陥してなかったら、そこからの人材ももっと登用できたかな?
220年以降に呉に仕えた人物で荊州出身っている?
暴政とも不毛な宮廷闘争とも無縁なのが、蜀のいいところだな。
小国が何倍もの国力を持つ大国の打倒を国是とする異様な状況の下で
最末期にチョロっと、劉禅がダラけて、黄皓が跳梁したくらいで
要人のほとんどが、その人なりに社稷に殉じようとしたのが清々しい。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/08/10(金) 14:38:05.79
728 名前:無名武将@お腹せっぷく :2012/07/31(火) 01:18:32.51
168 :無名武将@お腹せっぷく:2012/07/30(月) 23:45:58.23
支持者がゼロセンチぐらいしかいないのに未だ自演マンセーしている八戸は、やはり就職した方がいいのだろうかと手始めに簡単な気持ちでバイトを始めるが
通信高校でさえ続かない忍耐力と中卒脳の自分では手には負えないものだとわかり、今日も一日中煮糸をしていたのであった
729 名前:無名武将@お腹せっぷく :2012/07/31(火) 08:41:19.71
中卒脳という言い方をしてる奴はまず高卒^^^
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/08/14(火) 14:33:38.68
関羽が呉軍にやられた時って、江陵以南の都市も落とされたの?
それとも、夷陵の戦いの後で呉に取られたの?
234年8月25日当時落星五丈原時の勢力(推定)
魏(曹叡)兵数120万人 都市数30、推定予想兵糧1500万石、人口3000万人、2000万戸
呉(孫権)兵数60万〜70万人、都市数16、推定予想兵糧950万石、人口1600万人、1200万戸
蜀(劉禅)兵数30万〜45万人、都市数9、推定予想兵糧600万石、人口700万人、470万戸
>>338 あからさまに怪しい推定だな、それ
呉滅亡時(280年)
人口230万人、兵士23万人、官吏3万2千人
蜀滅亡時(263年)
戸数28万、人口94万、将兵10万2千、官吏4万。
衰退していたとは云え、50年で1/8、30年で1/7に減少するか?
益州南部の南蛮の皆さんも数に入っているのかな?
>>337 陸遜が西部の宜都を落としているから,荊州全部奪われたと見ていい。
というより,劉備の東征では入口の巫で戦っているけど。
>>341 サンクス
蜀から夷陵への道って、狭すぎワラタ
桟道って・・・酷すぎる><
借りてた道に蓋されて出れなくなったと
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/11/15(木) 22:29:03.60
西蜀五十四州とか言うけど、何をどう数えたの?
州を54個かぞえた
唐代の州ならそのくらいあったかもしれない。
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/12/22(日) 09:58:27.80
姜維「成都陥落で蜀滅亡。ショック! ><
三国の要、劉備軍はおおよそ70万。しかしそれは荊州から
徴兵した軍隊だからだろう。君主が変わったからといって
劉璋時代から急に強くなる訳ない。
出師の表を読んで泣かない男はいない
_ _
/::::::;ゝ-──- 、._/::::::ヽ
ヾ-"´ \::::::|
/ ヾノ
,,.r/ _ノ ヽ_ ヽ
,'::;'| /:::::ヽ /::::::ヽ |
l:::l l (:::>ノ ▼ ヽ<:::) l
|::ヽ` 、 U (_人_) /
}:::::::ヽ!`ー 、_ /
{:::::::::::::::::::::::::::.ー―――''"´
'三三ミト、::::::::::::::i^i三三/
`ー--' ヽ:::::::::::l l;;;;::::ノ
`ー-"
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/07/31(木) 15:02:27.40
蒋エンは、漢水を利用して東進し魏興や上庸を攻撃する計画を立て
た。しかし、持病により実行できずにいたことと、撤退の困難さを挙げ
て計画の反対を唱える人が大勢いたことから、劉禅の指示により、計
画は実行されず中止された。 (ウィキペディアより)
↑
これを実行していたら、勝ち目はあったの?
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/09/17(水) 10:09:02.37
王国クランベリーラーメン
王国クランべリーラーメン
王国クランべリーラーメン
駐車近代リカエらーめん
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/04(土) 15:16:17.63
ゲームじゃ、黄権はそこそこ政治軍事に仕える程度のキャラでしかないけど、
正史による事実補正をかけると、立場としては法正の後を継ぎ、
・魏における対呉戦の指揮官・満寵や対蜀戦の指揮官・司馬懿、
・呉における対魏戦の指揮官・諸葛瑾
に相当する、文系戦線指揮官を担う人物だったことがわかる。
黄権が劉備の呉征伐で退路を失って魏に降ることが無ければ、
諸葛亮の軍事における右腕として、左腕の李厳とともに重きを成し、
黄権の下に魏延・王平・姜維・楊儀・費イ・張翼・馬謖らが入る形になって、
その後の北伐は大きく違ったものになっただろうなあ
>>353 蜀書43巻「黄権・李恢・呂凱・馬忠・王平・張嶷」は、政治家だけど文武両道で
主に武官として軍務に活躍し、地方・異民族の平定・行政に当たった人たちの書
魏書では王朝前期の26巻「満寵・田豫・牽招・郭淮」、
後期の27巻「徐ばく・胡質・王昶・王基」
呉書では王朝前期の57巻「虞翻・陸績・張温・駱統・陸瑁・吾粲・朱拠」、
後期の60巻「賀斉・全j・呂岱・周魴・鍾離牧」
に相当する
もし、蜀に残っていれば、
44巻「蒋エン・費イ・姜維」
45巻「ケ芝・張翼・宗預・楊戯」
のどちらかに名前を並べることになっただろうね
惜しいことだ
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/05(日) 05:59:25.28
水軍の運用ができたのは大きかった。
>>351 実行しなかったのか出来なかったのか
(計画の)原文を知らないが実行しなかったと原文にあるなら、やっても成功出来ないから止めただけだし
出来なかったとあるなら、実行出来るなら成功出来たって意味。
三国志での評価のみを真に受けるなら
その通り実行出来たなら成功するが
その通り実行出来るくらいなら、そんな手の込んだこと無しに中華が統一出来るってレベル
>>351 地形的に遥かに攻めやすかった孫呉が,陸遜まで出して何もできなかったのに,
蒋琬で何かできると考えるほうがおかしい。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:
賀正