1 :
無名武将@お腹せっぷく:
英雄
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 09:43:11
村田英雄
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 11:51:15
野茂英雄
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 17:26:29
柳び
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 15:49:47
孔明に国を託したのは事実だったんだろうか
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 03:31:04
あげ
実は孔明と摩り替わった劉備
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 04:36:25
劉備かっこいいよ
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 23:15:59
よ、劉の字!
医療の戦いさえ勝ってればもちっと長生きしてたよな 可哀相に
リューベイ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/16(土) 22:08:44
いつだかどこだかわからないけどたぶんユーラシア大陸の東側に劉備玄徳という若者がいた。
スタート地点が北京辺りだったから不運だった 荊州からなら学士とかとも早く知り合えて劉表から国譲られてたな
>>11 半分勝ったようなもんだから、それだけでも上々だ
そうか?
↑呉の数々の武将を討ち取ってる
序盤押してたけど一発逆転で総崩れってまんま官渡の袁紹ジャマイカ
↑石兵八陣で追い返してるから逆転って訳でもない
>>19 追い返したんじゃなくて魏にあまり無防備になりすぎるのは危険という陸遜の判断で退却したんじゃなかったか?
石兵八陣で迷って危うく水没ってのは恐らく演義かと
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/22(金) 09:16:37
↑意味不明
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/05(金) 15:25:12
あげ
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/05(金) 23:41:41
>>20 どう見ても諸葛亮が仕掛けた石兵八陣の策にハマって退却してるじゃん。
左将軍頑張って献帝を擁護して下さい
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/05(金) 23:51:08
a
>>14 あの辺りだから不運だったのはむしろ競争相手が多すぎることかと。
しかも挙兵する頃にはみな有力。
田豫には知り合えてるしね。
まあ田豫当人としちゃ「高名な公孫サンに仕える」劉備に仕えてるつもりだったくさいが。
鄭玄や孔融など、擦り寄ってない事もない。
劉備の境遇で考えられる最大限のコネクションではある。
やはり地勢がいかん。
>>23 だからそれ演義とか横山ののオリジナルだって。創作。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/07(日) 09:28:14
>>28 ちゃんと石兵八陣で追い返してるじゃんか
どこが創作なの?
その「石兵八陣」はフィクションの話でしょ?って言ってるんだけど。
実際に策にハマってたじゃん
おい、噛み合ってないぞ。
実際も何も石兵八陣などというものは史実ではない。
この意味が分からないならどうしようもないが。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/07(日) 19:08:37
石兵八陣で呉はひいたのに
なんで魏が出て来るの?
夷綾に魏は関係ないじゃん
>>32 演義も史実もそして平話さえも時には混ぜてかたる
それが中華テイスト
>>32 キミは相手にしてはいけない輩を相手にしているんだ。
キミが言ってることを全く理解できていないようだから
絡めば絡むほど時間の無駄ってことだと思うぞ。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/07(日) 19:26:35
必殺の泣き落とし
33は釣り師にはなれない
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/09(火) 22:50:23
正直ヘタレ
あのね、石兵八陣なんて蜀書に載ってません(諸葛亮伝にもね)。
もひとつ、呉書の陸遜伝にも載ってません。
陸遜が退却したのは魏軍が南下してきたからと書いてあるので
これで納得してもらえるかな?
くわしくは三国志正史をよんでね。
※ちくま学芸文庫「正史三国志」より \1500-
正史から漏れているから無いって断言するのもどうかと思うぞ。
まあ、無かったんだろうけど。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 15:28:10
>>40 三国志正史てか蜀書とかじゃなくて、
ちゃんと三国志に石兵八陣の事が載ってあるじゃんか
だから君わかってて言ってるでしょ。
もういい加減いいって
>>42 おまーのいう三国志はどこから得た知識だ?
ん?答えてみろ
>>40 まあ、当時の正史も史記のように紀伝体によるものだからな。
接収し損ねた話や作者自身による事実隠蔽なんてのもありえることだ。
絶対の真実でもなければ、信用に値するものでもない。
正史好きがそうなんだと、信じるためのもの。
演技に書いてあって、正史に書いてない事柄って真実味はあるのかな?
・・・ないよね?
冷静に考えてみればあんな魔法というか妖術というか、
あんなもんが現実的に起こりえないという発想がないんだろうか。
>>42のいうところの「三国志」が小説を指すのならもう話は終わってる。
三国志の場合は歴史と物語の差異は極めて薄いけどな
大漁ですなー
本気だとしたら、そもそも演義と正史、二種類あるってしらないんじゃないか?
良くも悪くも無双の所為で、にわか三国志ファン増えてるから。
いや、それは別に悪い事じゃないだろうし
無双のせいってのも早計だろう。
何故かトリ入れたままになってた…orz
うん、悪いこととは思わないんだ。ファンが増える事自体は喜ばしいし。
所為、って言い方が悪かったな。スマン。
ただ、どうにも、正史と演義、双方ごちゃ混ぜで三国志を理解した気になってるのが多くてなぁ。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 21:28:33
さぁ気をつけろ、劉備が泣くぞ!
正史は人物伝だからね。しかも伝承部分もあるだろうし。
書いてない歴史的事象も省かれているのかもしれない。
今、兵庫県の関西国際文化センターで「大三国志展」って展覧会が
やってて行って来たけど、異様におばちゃんが多かった。
>>52 まあ歴史に興味ない人は家で仲間内で三国無双やって盛り上がるだけで三国志の意義って十分だからね。
>>54 でもそれで諸葛亮のトンデモ妖術が存在した事になるのか?
まあ渦中の
>>42は確信犯だろーけど
劉備の魅力が気になる昨今。仁徳だけで、こんなにも人が付いてくるのか?
57 :
董卓:2008/11/20(木) 14:26:17
ついてくる。武将や民衆は情や徳がある奴についてくる。
>>57 でもそれだけじゃ関羽と張飛はついてこなさそうだよね。
教祖様系のカリスマ性か、軍師並みの頭の良さを持ってなきゃ無理なんじゃ?
劉備は新興宗教立ち上げられるレベル
遅いんじゃね
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/22(土) 13:42:48
早いよ
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 13:08:42
野茂英雄
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/30(日) 01:14:04
劉備ってこんなヤツ
劉元起 「一門の人間の中で並みの子供ではないからだ」(先主伝)
陶謙 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)
袁紹 「劉備は度量が広く立派な信義のある人物だ。劉備が徐州を治めることは私の希望に沿ったものでもある」(先主伝注)
呂布配下諸将 「劉備はしばしば態度を変えるしてなづけるのは不可能。始末するべき」(先主伝注)
程c・郭嘉 「ずば抜けた才能を持ち人心もつかんでる。最後まで人の下にいる人物ではない。始末するにしくはない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
呂布 「この男が一番信用できんぞ」(呂布伝)
曹操 「今、天下に英雄と言えるのは君と余だ。袁紹などは問題にならん」(先主伝)
程c・郭嘉 「劉備を自由にしてはいけない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
董昭 「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち関張がその羽翼となっているので信頼してはいけない」(董昭伝)
曹操・郭嘉 「劉備は人傑であり今攻撃しないと後の災いとなろう。袁紹は機を見るに敏でなく行動を起こさないだろう」(武帝紀、郭嘉伝注)
張遼他 「北方討伐の隙を突き劉表に説いて許を襲撃するに違いない」(武帝紀、張遼伝注)
傅巽 「劉備では曹操に対抗できない。仮に対抗できるとしたらいつまでも劉jの下位にはいないだろう」(劉表伝)
程c 「劉備は英名があり関張の武は万人に相当する。孫権は彼らと協力し我らに抵抗するだろう。それはやがて分裂するだろうが、その時にはもう劉備を殺すことは出来ないであろう」(程c伝)
曹操 「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」(武帝期注)
劉巴 「劉備は英雄で受け入れれば必ず害をなすので断るべき」(劉巴伝)
黄権 「劉備は勇名を馳せており、部下として遇することは出来ず、賓客として扱えば二君を認める形になる。国境を閉鎖して入国させてはならない」(黄権伝)
劉巴 「劉備に張魯を討たせることは虎を野に放つのと同じことだ」(劉巴伝)
趙戩 「用兵は稚拙で逃走にあけくれてる。一方、蜀は小国と言えど堅固な地である。併合は不可能だろう」(先主伝注)
傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。また政治・戦略に優れた諸葛亮が大臣となり、勇敢で万人を相手に出来る関張が将軍となっている。成功しないことがあろうか?」(先主伝注)
張魯 「曹操の奴隷となっても劉備の上客にはならん」(文帝紀注)
劉曄 「劉備は人傑で度量もあるが行動は遅い。今蜀を手に入れたばかりでまだ治まってないので今これに付けこんで押しつぶすべき。さもないと政の諸葛亮、武の関張らを用い要害を利用して防備し再び犯すことは不可能となろう」(劉曄伝)
曹操 「玄徳がこのような策を考えつくわけがない。誰かの入れ知恵に違いない」(法正伝)
龐徳 「劉備は小物に過ぎない。わしは国家の鬼となっても、賊の将にはならん」(龐徳伝)
賈詡 「劉備は優れた才略を有し群臣にこれに匹敵するものがいない」(賈ク伝)
劉曄 「劉備と関羽の関係は道義では君臣だが恩愛では父子。小国といえども必ず報復の軍を起こすだろう」(劉曄伝)
曹丕 「劉備は戦争を理解していない」(文帝紀)
陳登 「傑出した雄姿を持ち王覇の才略を備えている点で劉玄徳を尊敬している」(陳矯伝)
裴潜 「中原にいれば乱を齎すことは出来るが太平を招くことは出来ない。しかし要害の地を占めれば一方面のあるじとなるだけの器量はある」(裴潜伝)
彭羕 「劉備は老いぼれて話にならん」(彭羕伝)
>曹丕 「劉備は戦争を理解していない」(文帝紀)
お前が言うなよw
「君と余だ!」ってとこ、大好きだ。
曹操に認められた劉備が羨ましい、劉備にそう言える曹操も羨ましい。
お前らが羨ましい!
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 12:31:35
曹操は劉備も大好きなんだ
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 16:38:51
「劉備は俺と同等だ」って言いながら
「劉備にこんな策が思い付くわけがない」って言っちゃう曹操
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 17:41:27
あれは完全に負け惜しみだな
孫盛も変な奴なんだよな
基本的に魏晋寄りの記述が目立つのに
なぜか曹操と劉備を絡ませたがるんだよな
>>67 たぶん曹操自身も思いつかないような策だったんだよ
何だかんだと劉備って憎めないヤツなのかも
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 11:36:46
実は性格は悪いだろ
悪いんじゃないですかね。
部下がついて来るような性格の悪さってことでしょうね曹操も。
どうすれば曹操とか劉備みたいなカリスマになれるんだろう。
どんな三国志を見ても読んでも、
それがどんな劉備だろうと結局応援してしまってるな〜
何だかんだ言って自分は劉備が一番好きなんだなと感じる
それが劉備のカリスマ性なんでしょうw
劉備、恐ろしい子・・
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 06:41:40
〈`∀´〉 77ニダ
劉備はチンピラだよ。その繋がりで張飛らとつるんだんだよ。
横山の三国志読んでるんだが劉備の嫁って1巻に出てきた鴻家の芙蓉姫?
劉備の嫁はたくさん居る
事情あって死別生別してるから常に女漁りしてた訳じゃないけど
そう言えば芙蓉の花って「美しいが実がない」というような隠れた意味があるとか
いつのまに嫁がいたからびっくりしたんよ
横山版は吉川版が元になってるが、
吉川版では芙蓉姫が前妻、孫仁が後妻ということになってる
吉川氏は途中まで演義と平話だけで書いてるようだが、劉備の所帯構成を
「一夫多妻の習慣からすると嫁と老母しかいない、ささやかなものだった」
と書いてるから、途中まで吉川版だけで書いてる横山版も同様と思われる
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 00:56:32
やっぱ徳だけじゃ鼻で笑われて終わりだとオモ。
任侠的な要素があったんだよな?
芙蓉姫って麋夫人と甘皇后が一緒になってるのかな
曹操:エリート
劉備:稀な人格者
孫権:ボンボンの息子
北方謙三の三国志は熱い
劉備好き。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/20(金) 08:35:34
曹操がやけに劉備を買ってるな
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/20(金) 14:41:52
>>88 あの劉備像は納得感があったね、
従来は、自称の血筋と泣き落としの達人とう詐欺師イメージだったよ
ほんとに仁君なのか
ほんとに人格者なのか
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/20(金) 19:47:33
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/20(金) 20:15:22
只の農民は国王になれないよな〜
劉備のどこまでが創作なのかわからないけど偉人中の偉人だと思う
劉備が農民ってのは蒼天の読みすぎ。祖父も親も役人の地方豪族の出
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/20(金) 20:29:39
そうなのか
ムシロ織りだの悪口言われてたから農家って思ったが違うんだな
どうも平民って印象があるが
偉い人が家系図を調べて劉備が親戚と言うか一応血族と
言うことがわかって喜んだ、なんて話あるんだもんな
大概の三国志作品で劉備は農民扱いだろ
蒼天の読みすぎってピンポイントすぎ
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/24(火) 20:11:05
劉備=民盾
これ鉄則
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/25(水) 03:14:27
劉備が子供のころ貧乏だったのは確からしいな
それでも一族が学費を出してくれたりしたけど
若いうちに旦那に死なれて、奥さんが子供を育ててるなら貧乏は仕方ないさ
でも本当に完全な平民ではないんでしょ?やっぱ
>>101 「貧乏」っていうのは「官僚になれるくらいの学問身に着けたり、そういう知識人として恥ずかしくない体面を保つには資金が無い」という意味だからな、この場合
劉姓はある程度の職業斡旋があったらしいね
劉備の容姿を聞くとグレイ(宇宙人)を想像してしまうw
グレイだったらチビで有名な某君主の方だろwww
劉備が自分自身を漢室の後裔だと知らず、行商の帰りに茶を買って帰ったら
母に雌雄一対を貰って初めて知らされる、という話は、確か横山版にあったと思うけど、
吉川版(それともその種本の湖南訳版)がオリジナルなのかな。
演義の毛本にはないようだ。その辺が日本での劉備農民イメージの始まりだと思う。
>>102 叔父が金持ちで、その手引きで盧植に学べるわけだから、
大豪族ではないと思うがそれなりの一族に連なる人間だね。
劉備は馬融の孫弟子に当たり、諸葛亮の弁によれば陳紀や盧植の兄弟弟子の鄭玄という
赫々たる面々に政経の教えを受けたこともあるというから、かなりのものだよ。
おそらく豫州刺史の頃だろうけど。
劉備に人を見る目があったとよく聞くんだが
どんな事例があるのかな
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/01(水) 04:10:42
>>58 関羽や張飛は劉備の護衛というか、家来みたいなもんなんじゃないの?もともと
111
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 00:10:04
age
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 15:53:06
age
リューベイ
当時劉姓って割りと希少だったらしいな
今の中国に劉さんがやたら多いのは漢王室に憧れて庶民が大勢
名乗ったからなのか
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 02:49:25
>>115 希少だったのは劉邦台頭前、ね
三国時代はかなりの人数がいた
劉備が部下にもわらじを編んでやっていたって本当?
あくまで演義でのことなのかな。
もし正史でもそうならそんな上司には一生ついて行きたくなるわな。
息子カスでも
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 03:18:45
>>117 正史だとどうも商売をやってた、程度で貧乏ですらなかった罠
でも商売って儒教じゃあんまり良く思われてなかったんでしょ?
それとも自分で草鞋とかムシロを作って売る分には問題なかったのかな?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 19:12:43
>>119 いや自分で作ってたかすら怪しいレベル
少なくとも貧乏筵売りは大馬商人とお知り合いになれない
爺さんが役人だったんで生活に困るほどではなかったらしい
「貧乏」というのは高官に付けるほどの金はないという次元での話だとか
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 19:55:03
>>121 爺さんどころか早世したはずの父親もエリートコースっぽいがな
貧乏どころか金持ちと言っていいと思うが
落ちぶれても地方豪族の一員だからな
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 23:03:23
まあ、学費出してもらったのも「有名大学に行って将来の官僚・政治家の卵やセレブと交流を持つ」ための金であって、自分の家だけではそれを出せなかったというだけ
あたかも生活にも困っていたかのような印象は間違いだろう
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 23:09:26
劉備の同時代の人物からの高評価は異常
後一歩まで伸びきれなかったのは、周りが過剰に徹底して潰しに来てたからかもしれんな
往年の巨人戦に、各チームが自軍最高の投手ぶつけて来てたのに似てる
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 00:03:53
>>124 いや、母親が自腹で遊学費用出そうとしてたって書いてあるよ
かーちゃんもセレブ超金持ち
超金持ちは言い過ぎだろ
せいぜい地方の成金レベル
成金なら官職が買えてる。売官してたんだから
豪族としては貧しかったってとこだろ
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 19:41:45
曹操の養祖父は宦官の成金
曹操は身内に金持ちが多い
>>133 曹騰のおこぼれだね
曹騰の父の代は豚一匹でも大事なレベル
中山国(群)も金持ちがいるね
劉備に資金提供した張世平と蘇双とか
甄逸とか
>>132 むしろ金は曹嵩またはその実家から流れ込んでる可能性が高いように思う。
曹騰は皇太子付きになったりしてるので宦官になる前はほぼ確実に士大夫身分だったようだが。
そう考えると曹嵩って偉大だな
曹操が受けた恩恵は計り知れないものがある
>>136 曹洪の財産といい、普通に考えたら宦官生活の賄賂や恩賞とその引き立てで出世した曹一族の財だろ
むしろ陳リンからは乞食とまで言われた曹嵩から流れてると推測する理由を教えてくれ
曹仁らの優秀な人材も血族ゆえの財産と言える
夏侯一族って金持ちだったのか?
>>140 そういう話は全く無いと思う
夏侯淵とその親族は飢え死にしかけてるし、少なくとも金持ちというほどではないと思う
惇が学問やってたのは曹嵩・曹操からの援助かもしれんし
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 05:07:07
知らなかった
いい加減スレ違い
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:46:04
通報しました
劉備の字「玄徳」は道教の「玄徳五霊真君」「玄徳妙生真君」のいずれかから来ており
玄徳五霊真君は仏教の五官王(普賢菩薩(ふげんぼさつ)の化身)
玄徳妙生真君は仏教の太山王(泰山王、太山府君とも同義)薬師如来(やくしにょらい)の化身
道教から字を取っているのに当時の儒教学者から支持されてたのが面白いと思う
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 11:57:34
あげ
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/11(金) 12:15:38
当時の名前は易の卦名や本文から取られたと思われるのが多いからな。
字は易経の漢文テキスト読んでないと分かりにくいけど名だったら乾とか泰とかすぐ分かる。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/12(土) 22:05:41
劉備の墓行ってきたよ
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/16(水) 10:27:11
昔は劉備がすきだったけど
今は曹操がすきですね
劉備ってあんだけあっちこっちをフラフラしててどうやってあんなに人望を得てたのか未だに分からん
戦いだって特別強いわけでもないのに
曹操暗殺計画発覚直後にタイミング良く逃亡とかもしてるし、普通は信用出来ない奴だと思われそうだが
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/16(水) 20:38:02
そして陸ソンも特別強かった。無名だっただけ
負けまくり、逃げまくりなんだが
戦力差が圧倒的なのに滅んでないのは強いから。他に群雄が招き入れる理由が無い。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/16(水) 20:51:19
>>154 まくり、ってどんだけ負けたと?
劉備の負けって記録上はそんな多くないぞ
ただ、印象に残るすげぇ逃げっぷりのせいでやたら強く刷り込まれてるが
強さと人望は別じゃね?
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/16(水) 20:59:12
戦争が強く人望がない=呂布、袁術
袁術は自分自身は弱い、というか自分で出た戦なんて殆ど無いよ。陳留付近で曹操とやりあった時くらい。
勢力を拡張する場合は武臣を選んで派遣した典型的政治畑の人間
孫権は自分で戦争したら必ず負けるが弱いってあまり言われないな
>>151 そもそも曹操暗殺計画は劉備が反乱してから発覚してるだろ
「タイミング良く逃亡」はしてない
糜竺とか何であそこまで劉備を妄信してたんだろうな
なんか記述あったっけ
荀ケみたいに最後は主君に裏切られるよりましなんじゃね
妄信したとかいう記述は確かに無いな
糜竺は自分と同じ方向性の劉備に仕え、荀ケは違う志の者に使え最後は自害した。
張世平「馬の代金いつもらえるんだろう」
演義の話はいらん
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/29(火) 03:26:49
中山王劉勝は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約300年後の当時には中山王の末裔
は中山国を初め、?郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく
劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 逆に言えば、劉備が中山王の末裔だった可能性
も充分にあると言える。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/29(火) 03:32:29
劉備って派手好きだったんだろ。
今でいうチャラ男か。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/29(火) 20:29:43
オシャレさん
学歴も家柄も人柄も良くておしゃれさんとはすげぇな
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/02(金) 01:19:33
折れにも劉備くらいの人望と徳があればなぁ
徳…………?
うーん、徳……?
求心力は欲しい
徳とかカリスマとか求心力とかの人間的魅力が有りすぎてる人物
劉備・劉虞にしても劉姓には面白い人物が出るね
陳王寵のこと、忘れないであげてください
魏の劉ヨウとかも品格を評価されてるよね
劉備が漢王朝の皇族の末裔なのが詐称だとか言ってる奴は
相当頭悪いと思う。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 00:05:21
>>178 劉勝の子孫ってのは詐称じゃねーかな
むしろ魏略の話しを俺は信用したい
>>179 光武帝も景帝の子孫だから、同じ景帝の子孫(大本をたどれば光武帝の血統と同格)ということにしたかったのかもしれない
魏略に載ってる臨邑侯というのは劉伯升の子の北海王興の系譜で、
110年頃に校書郎も輩出している。前漢の陸城亭侯の裔なんぞとは比較にならんほどの名家だよ。
まあ、劉雄が孝廉に推挙されて県令まで昇った理由としては納得がいくものだが…。
ついでに、どちらを採っても景帝の子孫というのは面白いところだけど。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 01:45:16
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 02:43:45
重要なのは劉備の姓が劉姓であったことなんじゃない?つまりブランドっていうことだよね
一目会っただけの曹操は英雄とまで言っている
袁術は劉備なんて聞いたこともないと言っている
当時劉備という名前に関しては賛否両論あったと思う
当の劉備は英雄と聞かれれば袁公路と口癖のように賛美してたみたいだが‥
陶謙はそのブランド+劉備の器量にかけたのかもしれない誰か味方についてくれるだろうとか
当時の史料で劉備が詐称!と言ってるものは皆無なんだから
当時の人から見ればそれなりの信憑性があったって事じゃないのかね
魏略自体内容に関してはかなりうさんくさい所があるしな…
諸葛亮の三顧の礼否定説も魏略じゃなかったっけ
>>186 ただし家系や任官に関する文書は中央にある程度は残ってるだろうから
魏略のほうに豊富な資料の裏付けがあった可能性もある。
もちろん資料が多過ぎて無関係な人物を劉備の先祖に比定した可能性もあるが。
魏略って現存してないんだっけ?
注釈しか見れないのは惜しいな。
新メンが早くコーラスしてくれますように!!
劉備の凄い所は演義にあるような聖人君子っぽい所じゃなくて
必要なもの不要なものを冷静を通り越して冷酷なまでに判断し
不要とみたものをためらいなく切り捨てられる事だとおもふ
歴戦の傭兵隊長みたいな現実主義でシビアな状況判断してる
実際にやってる事はえげつない事が多いのに
そうはおもわせない所もたいしたもんさ
経営者には、よく曹操が人気あるけど
>>191を読むと
劉備の方が適任だね
ただ劉備には初期構想が停滞した時や膠着状態に陥った時の打開策とかを
定めたりするのが遅いところがあった
まあ将帥ともなれば決定に迷ったり慎重になるのも不思議じゃないんだけどな
孔明とかもそうだったように常識的な将帥は得てして膠着状態になりやすい
策というのはどれだけ理を詰めても最後は賭けみたいな所があるからな
そこでそういった状況に対して変に応じ、理を詰めながらも賭けに出られる参謀が必要だった
劉備にとってそれが法正だったんだろう
劉備にとって法正がどれくらいの存在だったかはわからないよな
孔明の言葉からも軍略に長けていた存在だった事は確かだが
漢中での作戦は裴松之は法正だけでなく劉備も考えついていただろうとしてる
劉備は敵側の夏候淵と張コウを分析し張コウのほうを警戒すべき対象と言っているし
実際の作戦も張コウをまず火攻めにして崩し、夏候淵が救援に出た所を倒す、というものだった事からも
漢中での戦いは劉備の考えが結構入ってる可能性はあるな
劉備は元々、参謀や監軍に全部すっぱりまかせて座ってるというタイプではない。
自分で決断し、自分で軍を指揮する人間。
法正はその第一参謀であり、決断の材料を供する立場だったということだろう。
尚書令・護軍将軍(護軍中尉となった陳平を思わせる)ということは、
政事軍事の両面で漢中王に直属し、劉備の決裁を助け諸将を監護する、やはり
第一側近の地位にあったと考えることができる。
>>195 仮に劉備にとっての法正が決断材料提供者だとしたら
孔明が劉備が陸孫に敗れた事を聞いた時、
「法正がいきていれば負けなかったのに…」と嘆いていて
決断材料提供者だとしたら少し存在が大きすぎるような?
>>196 主によく信任された「決断材料提供者」つまり参謀は、戦の勝敗を左右するじゃないか
張良、陳平、この時代なら郭嘉や荀攸の例だね(彼らや法正の任が参謀役だけだったわけではないが)
>>197 ええっと、あなたのいう決断材料提供者、っていうのは
>>195とあわせて考えると
主君の側にあって情勢分析、それに基づいた状況の打開策などを提供し、
劉備配下の武将達にその策に基づいた人材配置や全軍の動きなどにも指示を出し
劉備はそれをもとに決断と全軍の総指揮を取る、という感じの存在でいいのかな?
そうだよ。一般に言われる「参謀」の仕事
あ、違う
>劉備配下の武将達にその策に基づいた人材配置や全軍の動きなどにも指示を出し
普通そんな命令権は「参謀」にはない。司令官の仕事。
ただ、陳平の例やそれに続く中護軍の職務を適用してよいのなら、
護軍将軍法正には、諸将の不法検挙や人事考課の権限があったと見て良いかもしれない。
>>199 >>200 なるほどなー。
となると曹操が劉備について言った
「劉備はわしと同じような奴だが策を思いつくのが遅い」
「(漢中の戦いの作戦について聞いた時)劉備にこんな事ができるはずがない、
誰かに教えられたに違いないと思ってたが、法正だったとは知らなかった。」
っていう発言はどうだろうか?
裴松之の言うとおり曹操の負け惜しみや劉備に対する過小評価なのかな。
大軍で攻めて持久戦に持ち込まれ火攻めで敗退する、っていうのは
劉備だけでなく曹操も赤壁でやられてるよね。
負けた後に劉備は法正が、曹操は郭嘉が、それぞれ生きていればと嘆かれたの共通。
一般的に曹操は戦上手、劉備は戦下手とか(ただ戦下手といわれたのは後世で、当時は武名が高かったけど)
言われてるけどこの二人の軍事的才能は実は近しいのかな?
かなり違うだろう
劉備は「策を思いつくのが遅い」「決断が遅い」などと評されているが、
曹操は対極で、即断即決、戦術的な果断さで勝ち残ったタイプ
ついでながら郭嘉は戦術家ではなく、やはり法正とかなり異なるタイプ
>>202 なるほどね。
しかしそうなると郭嘉が赤壁の時に生きていたら負けなかった…と嘆かれたのはなぜだろう?
法正は戦術家タイプでもあるので嘆かれたのはわかるし、
生きていたら劉備の敗戦を防げた可能性もあるけど、戦術家タイプではない郭嘉では
生きていても影響は薄いのでは?
>>203 郭嘉がいればそもそも死地赤壁へ行く事が無かった、ということだろう
カクの自重汁という進言は信じられなかった曹操だが、郭嘉が進言してれば信じたんだよ
>>204 なるほど。
となると郭嘉が生きていれば…というのは敗戦を防ぐ事は出来たかもしれないけど
呉に勝つ事が出来たかは微妙になるのかな。
法正はもともと諸葛亮よりよほど政治畑の人間で、
自分で指揮統率はしないが、政治から軍略・戦術まで幅広く劉備の補佐をする地位にあった。
蜀郡という中枢部の太守もやっている。それだけ劉備の信任を得ていた。だから
「法正ならば止められただろうし、そうでなくても敗戦を防げただろう」に繋がるのだろう。
諸葛亮よりっていうのはどうだろうか。
諸葛亮は史実で見る限り劉備に仕える時は効率的な徴兵方法を売り込み、
仕えたら呉と同盟交渉をし、劉備のとった荊州南部の租税徴収監督をやり、
劉備の蜀侵攻では当初後方支援を担当し、蜀に入ってからは法律整備を行い、
漢中攻めでは後方支援を行い、って感じで劉備が死ぬまでは完全に政治畑の人間なような。
>>209 あれ、そうかな。
租税徴収監督とか法律整備とかもろに政治畑なような。
徴兵方法案も戸籍整備とセットだったし
漢中攻めでも法正が劉備のかたわらで軍略を担当してるのに
孔明は後方支援で政治タイプかなと思ったんだけど。
諸葛亮は丞相になるまで軍官しか経験していない。
軍師中郎将になる前は恐らく劉備の側近的に外交や助言に携わっていたのだろうが、
以後は、
・荊州のうち三郡を監督し軍備の整備
・張飛趙雲と共に東から蜀侵攻の一軍を指揮
・漢中戦などの劉備の留守を預かって軍事統括・兵站管理
と、軍事、しかも司令官の任を専門に行っている。
傍らで蜀科の整備に参加しているが、当事の面子を比べると
軍律方面を主に担うのが自然だと思える。
ただ、諸葛亮は後に丞相になっていることから考えると、
もっと広範に刑法などに関わっていても不思議ではないかもしれない。
他の有力者、例えば張飛や法正は太守として益州の要地の抑えになっている。
また、劉備は漢中王となると公卿を任じて宮廷機構を整えたが、
諸葛亮はそのような流れに関わらず軍事一本。
つまりは軍事的な統率力、実行手腕が第一に評価された人間だったのだろう。
その傾向は、丞相以後の統治方針からも伺える。
法治による軍政一致の体制であり、秦を思わせる。
諸葛亮は軍律だけではなく、刑法や民法にもかかわってたみたいよ。
諸葛亮が蜀に入ったときのエピソードで
諸葛亮が厳しい法律を制定しているのを見た法正が
「その昔、高祖は秦を倒した時に法律を緩やかにして人心を得ました。
あなたもそうすべきではないですか?」と言ったところ、諸葛亮が
「高祖が法律を緩やかにしたのは、秦の法律が厳しすぎて民が苦しんでいたからで、
そこで高祖は法律を緩やかにする事で人心を得たのです。
今この蜀の地は劉璋のいい加減な統治と緩い法律で悪人が得をして善人が苦しむ状態になっています。
だからここでは厳しい法律を定める事が民の為であり人心を得る道です。」
と答えて厳しい法律を定めていった、という話があるね。
このエピソードを見る限り諸葛亮は軍律の他にも統治の為の法を定めていたみたい。
諸葛亮の口ぶりからすると
法正は劉備配下達の中で唯一に近いほど劉備の意向を左右できる存在だったかのように思える。
となると法正はどんなタイプだったのだろうか。
劉備の気持ちをうまく取って自分の意見に納得させる人間だったのか、
それとも直言の士、という感じで厳しく劉備に意見を出すタイプだったのだろうか。
法正は劉備が蜀を取って功に報いられて蜀群大守に出世した後、
「それまで不遇時代に自分が受けてきた恨みには必ず報復し、何人かを殺害、
一方で自分が受けた恩にはわずかな恩でも必ず報いた」とあるので
かなり我の強そうな人物だと思われるな。
また、ある戦の時に劉備に後退をすすめるために自ら矢表に立ってみせた、という
エピソードもあるし、言いたい事をズケズケという直言タイプだったのではないかな。
>>213 それは刑法制定ではなく運用時の話だね。少なくとも文面からはそう見える。
だとすると、裴松之が指摘するように根拠が無くなる。
丞相になって以後の発言の脚色であり、死んでいるはずの法正が引き立て役にされてしまった、
と見るならある程度の説得力はあると思うけど。
それって蜀記の、諸葛亮が厳罰によって民を虐げて
君子から小人に至るまでみな諸葛亮を恨んでいたって話だよな?
むしろ諸葛亮を称えるエピソードだったはずだけど。
当時から死後まで諸葛亮の名声は厚かったはず。
>>217 うん。そんな話はデタラメだ、と蜀記が礼賛するためのエピソード
郭沖が礼賛として「諸葛亮が民を虐げた」と語って
裴松之が「は?( ゚Д゚) 褒め言葉で虐げたってイミフ」って批判した話じゃないのかい?
どちらにしろ
>>213の信憑性はあまり無いような
蜀記は中々面白い文献ですね
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/11/18(水) 16:30:04
良スレ
当時の蜀の治世がどういう物だったかは詳しく分からんが、
魏や呉のように貨幣価値が崩壊したり、酷いインフレに陥ったりしていないのだから、それなりに安定していたのだろう。
陸機は蜀漢の治世は田舎臭かったと言っているが。
田舎だし
>>223 あれだけ戦争してると物価が乱高下しそうな物だが特にそういう記述はないな。
長安がたぶん曹丕なりの成算があって貨幣経済推進して
なかなか軌道に乗らなかったのと較べると優秀な官僚とか以外の理由がありそうだけど。
魏で主に流通していたのは董卓がばら撒いた悪銭だった為、駆逐するのは大変だったと思われる。
曹操や曹丕の代では貨幣の流通を変える計画があった様だが、結局上手くいかなかった様だし。
貨幣の問題は晋代に入っても解決せず、銭貨の替わりに布などを使っていたらしい。
スーパーインフレの尻拭いをしないと長安を経済都市として再生できなかったわけか。
武将が褒美で職の絹とか貰って喜ぶ理由がちょっと分かったわ。
劉備って泥沼やジリ貧にはまる前に離脱するっていうのを徹底しているように思う
現実的な戦況分析や見切りにすぐれていたんだろうね
「逃げるが勝ち」ってやつだ。結局勝った者が賢いんだよ。
でも勢力拡大って点ではダメダメだなー
曹操は逆のタイプだな。対人や戦略的にミスって窮地に陥ることが多いが、
そこからの軍事的粘りが半端ない
もともとの兵力とか勢力基盤の地力が違うしな>曹操と劉備
粘って戦局を好転させるだけの余裕が無かったとも言えそうだ
基盤がないのは曹操も同じだよ
エン州牧当時と徐州牧当時なら条件はそんなに違わないし
そこから一度州の大半を失うはめになっても州内でふんばったのが曹操。
曹操は政治的な選択ミスでピンチが多い。劉備は戦略的なミスでピンチが多い
>>233 >エン州牧当時と徐州牧当時なら条件はそんなに違わないし
曹操には賊兵三十万があるからかなり違うと思う
>>230 もともと流浪の傭兵隊長みたいなもんだからね
でも意外に思われるかも知れないが長坂以降は最後に陸孫に負けるまで勝ち続けて敗北なし
兵力や環境が整って本領が発揮された感じがする
劉備は長坂以降は常勝不敗だったもんな
それが無名の陸孫に負けるなんてみんな意外だったろう
>>234 話十分の一にみておこう
百万人吸収していたら、その瞬間に200年頃の冀州と互角の動員力になるよ
この当時でぶっちぎりの大勢力のできあがりだ。
しかしエン州の戸籍人口は100年後でも40万人程度。
しかし、確かに曹操はそのように小まめな努力で兵力を直隷下に置き、組織化している。
小群雄から立って大敵を相手に勝ち残った大きな要因だろう。
そういう作業は若い頃の劉備にまったく欠けていたものだろう。
話十分の一っていったら十万だよな
これでも当時では相当な大勢力だと思ワレ
そうだね。当時曹操は袁紹の後援でエン州に乗り込み牧を名乗りはしたが、
諸郡はその袁紹と反目している太守張バクらが実権を握っていて、自由に動かせなかっただろう。
エン州の大半が寝返ったのはそのためと考える。
しかし、青州兵のうち精鋭を1、2万人ほど吸収していれば、
曹操は3-5万人くらいは自分の直率下においていて不思議ではない。
当時としてはかなりの大兵力になる。これが呂布に競り勝った基なのだろうね。
一方の劉備も、徐州牧になってから二年程の勢力固めの時間があったはずなのだが…。
この辺りが若い頃の劉備の経験不足だろうか。
「武勇と信望」は大なれど、それを生かしきれてない。
荊州保有以後の神がかり的な逆転は、この頃の反省を色々生かしたものなのだろうな。
まあものの本によると諸葛亮が劉備に対して一番最初に献策したのは
効率的な徴兵方法だっていうからな
諸葛亮が劉備のとった荊州南部の租税徴収監督をやったら物資が充実したともあるし
劉備が前半生はそこら辺に欠けていたのはあるだろうな
案外劉備は戦争職人みたいな男だったのかもな
>>240 案外というか、劉備は黄巾の乱から反董卓決起までの間に、残党討伐メインで県令になってる男なんだぜ
大宦官の孫でのちに太尉になる高官の息子で孝廉に推挙され30歳で騎都尉になる超エリートの曹操と同じくらいの出世速度
あちこちの名士や群雄から「武勇」を高く評価されているのは飾りじゃない。戦闘なら間違いなく強かったんだろう。
>>241 強かったって事は無論賛同なんだが
もうちょい突き詰めて言うと曹操みたいに文才や政治の才があるわけでもなく
孔明のエピソードとかを考えてみると
かなり戦闘に特化した男、戦争の技術を磨きあげた職人みたいな男だったんじゃないか、って事だわ
>>240をよく考えてみればもともと劉備は傭兵上がり
黄巾の乱以来、傭兵隊長として各地を転戦し小隊長としての戦から武将としての戦、
果ては自分が総大将としての戦までありとあらゆる戦場を経験
孔明に出会った頃には多分曹操を除けば最大の戦場経験保持者になってたはず
周囲の人間にしてみれば黄巾の乱以来あらゆる戦場を経験し、過去の数多の群雄達とかかわっていて
なおかつ今も生き残っているという事は非常な凄みだったろう
ホウヨウも劉備を「老兵」と呼んでるし陸孫も劉備を「千軍万馬の古強者」と評してる
かなり戦兵肌の男だったのかとも思えるな
無論それだけでなくしたたかさや世渡り能力、非常な大徳を持っていたからこそ
天下の大器と称されたんだろうけどな
>>242 戦争の技術って戦闘だけじゃ駄目なんじゃ…
というか初期の劉備ってどんな大志を持っていたのかよく分からん
何がしたいのか、何を望んでいるのか
なんだか行き当たりばったりに見える
>>244 無論戦闘だけじゃなくしたたかさや世渡り能力、非常な大徳をもっていたんだろう
言いたい事は大体
>>243に書かれてるとおりの事だわ
正史によれば劉備が曹操に徹底して敵対したのは、曹操の度量からして
最後には自分を生かしておくわけがないと悟ったからだそうだ
もともと劉備自身も前半生は大抵各地の群雄の誰かの客将やってたんだから
その誰かの為に自分の腕をふるっていたというのが実情だろう
つまり自分の勢力を持ってそれを増強していくとか他の勢力を潰してのしあがるとか
そういう志は無かったってことだよね。
そして曹操にはそれがあって、そのための努力をしてきたと。
ここでもう大差がつくんだよな。志を持った時にはもう巻き返せないレベル。
それでも滅びず生き残り最後には皇帝にまでなるんだから数奇なもんだね
>>246 そうではない。
少なくとも徐州牧を譲られて袁術を交戦した時には他の群雄と変わりなく行動している。
そこまで順調に名声を挙げているわけで、これで他の群雄と同程度の志がないとは言えない。
そこで躓いて以後10年以上伸び悩んだのは、割拠期が終わり掛けて安定し、
身を寄せた群雄が一将軍または客分としてしか待遇してくれなかったから。
一番厚遇したのが曹操というのが皮肉だが。
>>246 もともと傭兵上がりの叩きあげで戦功立てて県尉になりました、やったー出世だー!
という境遇の劉備と生まれた時から中央政界の頂点を争う家柄で
エリート街道まっしぐら、地位も名誉も持ってます、VIP連中はみんな顔見知りです、なんていう曹操とじゃ
なにもかも違って当然だろ。
劉備は勝ち戦が結構あるし当時でも武名が高い人物だったが
ライバルの曹操と違って具体的にどういう戦術を好んだのかが不明だな
わずかに夏候惇戦や呉相手に伏兵戦術を用いた事があるが
劉備の戦い方とはどんなもんだったんだろうな
劉備の戦いって記述が簡単なんだよね
「劉備は〜と戦いました。〜を討取りました。」って感じで
戦術がわかりにくい
>>249 騎兵指揮官だった、という面白い指摘があった。
確かに幽州の出身で、若い頃から馬を好み、公孫サンとよしみで「烏丸雜胡騎」を率い、
袁紹の下でも「騎將文醜」と共に行動している。
>>251 そんな指摘があったのか
意外だ
しかし公孫賛の所から陶謙救援に行った時は烏丸騎兵少数に千の歩兵、
袁紹の下で文醜とともに行動した時も、文醜が騎兵で機動戦を行い、劉備は後方で待機してる。
夏候惇を相手にした時は伏兵を用い、張コウを攻撃した時は一万の兵を10隊にわけて火攻めしてる
やっぱり歩兵が主体なのでは?
>烏丸騎兵少数
>劉備は後方で待機
そんな記述あったっけ?
まあ数でいうなら、北辺でもない限り主力は勿論歩兵だよ。
そうではなくて、当時の騎兵、特に異民族騎兵は稀な特殊スキルの持主。
それにも関わらず劉備が騎兵と共に行動する記述が複数見られることから、
劉備という人物は騎兵指揮を評価されて頭角を現した人材なのではないか。
という推量をどこかのスレで見てうなったことがある。
>>253 烏丸騎兵少数ってのはどっかの本でよんだような。
文醜に関しては文醜が先行して曹操軍とどんぱちをやらかし
そのまま討ち取られて退却してて劉備が戦闘に参加してた描写は特になかったように思えたんだよな。
当時の騎兵は稀だろうか。まあ絶対数でいえば多くはないだろうが。
さすがに主従側近の数十騎は騎兵で構成されてるのは自然じゃないかな。
劉備が徐州で曹操の布陣を見て逃げる時、側近数十騎とともに逃げてるが
これくらいの側近騎兵はどこの陣営でも普通なんじゃないだろうか。
どこの陣営でも数百から数千くらいの騎兵は持っているし。
漢人の騎兵隊なら郡もにいたが、「優秀な騎兵」となるとそうはいない。
特に騎射を巧みに行うことが精鋭の条件とされるが、農耕を主とする漢人からは
編成するほど人を得られず、羽林騎など、精鋭騎兵を募るために出身地域が限定されたりした。
漢の対匈奴遠征に用いられる騎兵は、帰化異民族やその習俗に染まった地元漢人から編成されていたし、
動乱期になると必ず異民族騎兵の争奪戦が起きる。
公孫サンの直轄から離れて青州に駐屯している時期に烏丸騎を有している(預けられたか、劉備が所有していたか)
というのは、なかなか稀なことだと思うよ。
まあ確かに、騎兵の扱いに熟練していたという直接の根拠には至らないけど。
でもおもしろいな
仮に劉備が騎兵の扱いにも長けていたとするなら
劉備はそれこそ伏兵のような待ち受け戦術から機動戦術までこなせるオールラウンダ―な戦術家だった事になる
しかし劉備の漫画とかでの描写はいまでも大抵
武勇も戦術も下手な義と大徳の人というのが多い
曹操がいるからそっちの方がキャラ立ちするんだろうなー
横山三国志のような歴史漫画においてももちろん
一騎当千から蒼天、恋姫無双といったパロディにいたるまで
そういった劉備のキャラ立ては一般的
つか中央に仁徳有れども無能の大将を据えるのは中国大衆文学のお約束
水滸伝の宋江然り、西遊記の三蔵法師然り
気にしない♪気にしない♪
>>258 覇ロードがあるよ、万能過ぎて面白くないけど
あれの劉備は確かに万能すぎて面白くない
なんか劉備を中心に天下が動いてるのもおかしいし
曹操のいうように曹操と同質の才能を持ちながらも策を考え付くのがやや遅いため
曹操に一歩及ばないながらも優れた軍事的才能を持つ劉備、という正史基準のはないんかね
覇ロードの劉備はそもそも劉備じゃないじゃん
本物は最初の方で死んでる
劉備は決めるまでがやや遅いけど決めたら素早く実行に移すイメージ
むしろじわじわとやるイメージ
蜀を取る時も蜀に入ったばかりで劉璋を捕えれば悪影響の方が強いと見て見過ごしてる
使いわけているんだろう
基本はじわじわじゃね?
劉表の子供を殺して荊州とれっていう孔明の策を否定したのも
演義にあるような義論じゃなくてそんな手で急にとってもまとまりが悪いとみたからだろうし
軍略も基本じわじわ行くイメージ
個人的には基本バランスがいいイメージかな
急がずかといって遅くなく
いやちょっと遅いだろ
あれは膠着状態に陥ったら打開策に出るのが遅いって事で
そうならないなら曹操みたいな機動戦法の使い手を除けばそう遅いものじゃないような
戦局の見極めは抜群に速いが膠着戦だとじっくりやるイメージ
劉備は劉邦の子孫のくせに、全然将に将たる人物じゃないんだな
どっちかと言うと韓信に近い
>>273 劉邦自身、秦を倒す戦いではのちの韓信みたいに小勢力で策を弄して侵略を繰り返して秦を落としている
劉邦は韓信にもなれるんだよ(あそこまでの奇跡的な勝ちはできないが)
劉備は劉邦のそこに似たんだろう
劉備は演義では優柔不断に見えるけど、正史ではかなり決断力に優れてる所があるな
膠着状態になった時に策を思いつくのがやや遅いという欠点があり
それを法正に補ってもらっていたが、それを採択してすぐさま行動に移れるという点で
劉備の判断力・決断力も相当なもんだ
後世から見れば正解だとわかる事でも当事者たちにしてみれば不確定な賭けの一つだったんだから
ナポレオンにしろ東郷にしろ古今の名将といわれる人は賭けに出るのがうまいよね
どんな可能性高そうな策も結局結果が出るまでは蓋然性の高い賭けでしかないからなあ
>>274 劉邦は韓信になれるが、韓信は劉邦にはなれないんだよ
劉備もまた叱り
ほう統に無難な策を指示した辺り、劉邦との器の差が分かる
劉備と韓信がにてるとかちょっと史実をしってれば
小学生でもポカーンとする間抜けな物言いなんだが…
なんかとにかくくさしたいのはわかったから
もう少し勉強しなおしておいで
自分で勢力をつくって旗揚げし軍功を積み上げて出世し
世渡り上手で行くとこ行くとこで厚遇されまくり
曹操が自分を最後は害するに違いないといち早く見切って敵にまわった劉備と
自分で勢力を作れず劉邦に見出されるまで閑職めぐりで
変に欲をだして劉邦に警戒され
劉邦が最後は自分を害する事がわからず追い詰められて謀反して殺された韓信では
まったく別質の人間だろう。
かろうじてあってそうなのが軍事的才能があるってところだけ。
>ほう統に無難な策を指示した辺り、劉邦との器の差が分かる
これは逆に劉備の器を示してるだろう
劉邦だって無謀な策を採用してきたわけじゃなし
劉備は自分の掌から事態が外れないようにする力に長けている感じがする
漢中戦とか赤壁以降の動きとか見ると自分の流れをガッチリとキープして
外れないように動いてる
囲碁とかでいうとヨセがうまそうなタイプ
おやすまん274からしか見てなかった
>>281 正史における漢中戦で主攻軸を切り替えて定軍山に陣営を築き
誘い出された夏候淵軍を高い所から黄忠に命じて攻撃させ大破する所とか
その後の「曹操が来ても何もできまい。漢中は我がものになろう。」という所とか
劉備のしてやったりという感じが伝わって来て好きな場面だ。
>>286 漢中戦の劉備はさえてるよな
大軍をアクティブに動かして夏候淵達を撃破して勝勢をつくり
勝勢を作った後はそれをがっちりキープして曹操本隊に勝利
大軍をうまく動かしてる
名将なのは分かったけど
政治家としてはどうなんだ?
劉備って政治家として語られる事がほとんどない気がする
直百五銖とかいうあまり質の良くない貨幣を発行して
経済が混乱した事らしいって事しか知らない
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/12/18(金) 17:37:14
訂正
×経済が混乱した事らしい
○経済が混乱したらしい
>>289 それ経済が混乱したって話じゃないよ
軍資金の不足に悩んだ劉備に対して部下が
「銭を鋳造し物価を安定させ、官営の市を作って官吏に商売をさせれば資金が充実しますよ」
と薦めたのを採用した所「数ヶ月で府庫は充実した」とあるもの
劉備陣営で大抵政治をやってるのは諸葛亮をはじめとする文官達だね
ちくま正史確認したらたしかに零陵先賢伝に
>>291が載ってた。
>>289はWikipediaの五銖銭の項目を見て書いたんだが、これは一体なんの記述なんだろうな?
>あまり質の良くない貨幣を発行して
>経済が混乱した
これって劉備じゃなくて董卓の事績だった希ガス
曹操の行軍速度は異常
それに反応出来る劉備も異常
身一つで軍の体裁を為さないままの状態もあったが
>>293 それはまた別
↓Wikipediaのコピペ
>一方、蜀漢を建国した劉備は、劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値を持つ「直百五銖」と呼ばれる貨幣を発行している。
>だが、実際の大きさは五銖銭2-3枚分に過ぎなかった。
>そのため、長期的には経済の混乱を引き起こし、
>時期は不明であるものの蜀漢後期には「直一」・「直百」と呼ばれる五銖銭よりも小型で粗悪な通貨を発行せざるを得なくなった。
蜀漢後期っていうと滅亡前くらいの時期かな?
その時期には劉備も孔明も死んでて
キョウイの段谷の大敗に象徴される度重なる北伐失敗で
漢中の防衛構想も破綻してたくらいだから
単純に銭だけの問題じゃない希ガス
蜀滅亡時には戸籍28万、人口94万、官吏4万、兵士10万、で
2戸に一人の割合で兵士か官吏を輩出してた計算になるそうだから
単純に蜀滅亡直前には国自体が疲弊してただけの希ガス
曹操は劉備を評して自分と似たような奴だが策を思いつくのが少し遅いと言ってる
しかし劉備は曹操みたいな機動戦術の使い手を除けば
その判断や行動は決して遅いものではない
漢中戦とか見てもわかるように体制が整えばしっかり
曹操にも対応してる
劉備はおそらくあの時代において曹操に対抗できた数少ない軍事的才能の持ち主のうちの一人だろう
戦では劉備も強いがそのあとを継いだ諸葛亮も強かった
諸葛亮の強さの秘訣は袁子もいうように明確な令と
信賞必罰な法運用だったわけだが
儒教的な大徳を用いる劉備と法家としての諸葛亮の相反する組み合わせは
それが「水魚の交わり」とされるほどに親密だった事とあわさって面白いな
ただ法家にも酷吏のようなタイプと、人をうまく導くために法を運用するタイプがある
法家の根源はいわゆる性悪説で「人の本性は悪で怠惰、だから本能に任せれば悪いことにしかならない」
というところからはじまり
「だから法令を用いて人を良いほうに導かねばならない」というものと
「だから法令を用いて人を縛らねばならない」という二つに分岐する
諸葛亮はその逸話や資料からみるに前者に属していたんだろうな
だから劉備ともうまがあったと
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/01/28(木) 18:17:38
劉備のイメージは
将に将たる上に自身も統率力、戦術に関してなかなかのものを持っている
でも戦略と内政(軍政)外交はそれほど…
なのでそれを補う臣下がいれば飛躍できる
結局トップに必要なのって人材を集め、それを的確に用いる事が出来る力だよな
開始たった3ページ目で男について語り始める北方劉備
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/25(木) 00:48:26
>>296 俺もそんな気がする、戸数や人口の割りに兵や官吏が多すぎる。
劉備が西川入りしてからは徴兵→外征→死亡→徴兵の繰返しだし、
家臣も徐州系、新野系、荊州系、蜀占領民、南蛮採用と色々と顔を立ててやるべき者が多くて
役職の大盤振る舞いもしてそう
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/04/16(金) 16:27:36
玄米
303 :
清一色:2010/04/16(金) 20:51:49
>>297 自分で物事を動かす側に回れば、劉備はこれだけやれますよ!!
って言うのを示したのが、漢中だよな・・・法正を得て、事態を動かす側に回ったら。
逆に言えば、曹操は劉備を知っていたからこそ、常に事態に動かされる側に劉備を追い込んでいたようにも見える。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/05/05(水) 22:01:14
漢中と徐州
孔明の才は曹丕の十倍とかいってしまう見識眼
まぁ、リップサービスなんだろうが
だって曹丕に戦下手って言われたから
その仕返し
耳長大明神
ヘゝ__\_Y \\,.-、 | 曹操の名誉を汚している連中を消して欲しい?
彡\、/ニ二ニゝレヘ\__ |
巛巛ヽ彡三三く\メXy,=ミ:、 < そんなねがいで本当に良いのだな?
巛巛ヾヽミ三三ゝゝゝ ゞ-'゙ヽ |
ニ‐ニ彡ヾ三三く>/⌒ヾミゝゝゝ`ー--、 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-_,.彡ヘヘ三=ヾf;:,, \ ,-=〒'__ヾ}
_ -'´~77∧ゝミ-_ゝ ...._〃'^^
/Xレ公ゞー三=三彡ヘー--、_ソ コクッ コクッ
/ヘ//へへヘヘィ'了`7ー-< (( 曹操 ミ (( /患_者\
/ヘ//ヘヘヘ/'"レ_ノ_ノ ノ ゙ヾ:、 dlニHニl-b |/-O-O-ヽ|
/ソ//ヘヘヘ//レ´  ̄`ー、-''´ _,.ノヾ':, ヽヽ'e'// | . : )'e'( : . |9
//ヘヘヘ/|/ ヾ''´ __,,.ノヘ / ー' ヽ /`‐-=-‐ 'ヽ
ヘヘヘヘヘ/Y `}´ ||
ヘゝ__\_Y \\,.-、 |
彡\、/ニ二ニゝレヘ\__ |
巛巛ヽ彡三三く\メXy,=ミ:、 < 願いはかなえてやったぞ。
巛巛ヾヽミ三三ゝゝゝ ゞ-'゙ヽ |
ニ‐ニ彡ヾ三三く>/⌒ヾミゝゝゝ`ー--、 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-_,.彡ヘヘ三=ヾf;:,, \ ,-=〒'__ヾ}
_ -'´~77∧ゝミ-_ゝ ...._〃'^^
/Xレ公ゞー三=三彡ヘー--、_ソ
/ヘ//へへヘヘィ'了`7ー-<
/ヘ//ヘヘヘ/'"レ_ノ_ノ ノ ゙ヾ:、
/ソ//ヘヘヘ//レ´  ̄`ー、-''´ _,.ノヾ':,
//ヘヘヘ/|/ ヾ''´ __,,.ノヘ
ヘヘヘヘヘ/Y `}´ ||
| ̄``''- 、
| `゙''ー- 、 ________
| ,. -‐ ''´ ̄ ̄`ヽ、_ /
|, - '´ ̄ `ヽ、 /
/ `ヽ、ヽ /
_/ ヽヽ/
/ / / / / / ヽハ
く / /! | 〃 _/__ l| | | | | | | ||ヽ
\l// / | /|'´ ∧ || | |ー、|| | | l | ヽ
/ハ/ | | ヽ/ ヽ | ヽ | || /|ヽ/! |/ | ヽ
/ | ||ヽ { ,r===、 \| _!V |// // .! |
| || |l |ヽ!'´ ̄`゙ , ==ミ、 /イ川 |─┘
| ハ|| || | """ ┌---┐ ` / // |
V !ヽ ト! ヽ、 | ! / //| /
ヽ! \ハ` 、 ヽ、__ノ ,.イ/ // | /
┌/)/)/)/)/)/)/)/)/)/)lー/ ` ー‐┬ '´ レ//l/ |/
|(/(/(/(/(/(/(/(/(/(/│|| |\ 〃
r'´ ̄ヽ. | | ト / \
/  ̄`ア | | | ⌒/ 入
〉  ̄二) 曹操患者 | | | / // ヽ
〈! ,. -' | | ヽ∠-----', '´ ',
| \| | .お前の横暴に | |<二Z二 ̄ / ',
| | | _r'---| [ ``ヽ、 ',
| | | 吐き気がする >-、__ [ ヽ !
\.| l. ヽ、 [ ヽ |
ヽ| \ r' ヽ、 |
,r─r'´V  ̄ YTヽ
rく ヽ }_..⊥∠.⊥L_ Yヽ , ´ ̄ ̄ ヽ
ィ .._ヾ/:::::::::::::::::::::::::::\人 | 曹 |
,:´::} =/::::::::::::::::、:::::::::::::::::::\} | 操 |
/::::::::∨::::::ハ:::l::::l:::ハ::::i:l:l:::jl::l:::i::ヽ /´ ̄ ヽ | 患 |
,..::::::::::::l:::::::ィ卅ァメ八リ从7ナナメ::::ハ | ゴ | l : !者
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313 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/09(土) 21:44:40.75
落ちそう
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/14(木) 14:16:16.80
「私と曹操は水と火の関係だ。
曹操が厳格にやれば、私は寛大にやる。
曹操が暴力に頼れば、私は仁徳に頼る。
曹操が謀略を行えば、私は誠実を行う。
いつも曹操と反対の行動をとって事ははじめて成就されるのだ」
九州春秋の劉備のセリフ格好いい
劉備って曹操アンチなの?
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/14(木) 19:02:28.56
演義ではただのいい人だけど
戦いはうまい、人望は人外、大人しく人の下につかない
って超危険人物だなw
>>316 何気に劉備のスペックって劉邦を越えているな。
劉備ってなんで曹操に反乱したんだ?
自分が王になりたかったから
↑これ以上の理由なんてあるか?
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/15(金) 19:56:51.83
漢王朝を復興させたかったからだよ!!!
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/15(金) 21:38:45.66
俺は…超劉邦だ!!
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/15(金) 23:39:08.51
文鴦
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/04/16(土) 00:08:26.54
泣 子 張
き 供 飛
じ の は
ゃ よ
く う
っ に
た
>>319 以上だの以下だのは分からんが
そう考えると
長期間劉表の下に収まって暮らしてた事に疑問がわくんだよ
曹操は仇敵、袁紹は没落、他に庇護してくれそうな有力勢力は現状無し、どうこう言って荊州は平穏に治められてる
あの時期に劉表裏切った際のリスクとリターンを考えれば別に不思議ではないかと
その辺の自制心というか現状を分析できるか否かが呂布との違いだろう
無理に乗っ取りとか狙うより名士豪族の支持集めて、
劉表死後に長男の後見人になって実権奪う方が安全だし美味しいわな
紆余曲折を経てその通りになってるし
いや劉備劉表に荊州譲られたときに断ってるし
演義?
裴松之が否定していたような
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/08(日) 21:15:10.27
溜備便徳
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/09(月) 00:48:23.46
劉備はお釜
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/05/09(月) 01:12:44.20
趙雲も
張飛「がおー」
恩返しに尻を差し出す張飛さんマジぱねぇっす
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/10/15(土) 10:32:43.47
ダッチワイフ
曹操が劉備を自身と同格と言った時点では、お互いに州を支配できるかどうか位の規模の勢力同士だったから
その時点の劉備を評して、軍事的な才能について同格と言ったんじゃね?
準戦術では同等だけど、曹操には政治や戦略の知見もありその方面の人材も抱えてたが
劉備は勇将は配下にしてたが十分な軍政家やそれ以上の戦略家や政治家を抱えてなかった
勇将や精兵が大将として慕う人望やその戦力を抱えたいと思せる名望は持っていたが
自身が支配者・統治者として動かすビジョンや実践力が足りなかった感じ
荊州以降はそれを補う人材を確保できたみたいだが徐州時代は客将として上に建てられた感じで
統治機構は自分のものにできてなかったんじゃないかな?
そうして考えると、スタート地点の差とそれによる周囲の人材の差があるけど
それら全部捨てた状態で個人の人間力とか軍事的な才覚で比較して曹操と劉備が2トップだったとか言う感じじゃないかな?
>>338 自分と同格発言は赤壁後
そんな小勢力の頃の発言じゃなくて曹操の覇権確立とその蹉跌を見た後の話
曹操も官渡戦中や関羽北上の時みたいに逃げ腰な所があるんだよな
その都度、荀ケや司馬懿ら尻叩いてストップかけられる人がいたけど
史実の曹操をマジ蒼天航路みたいな完璧超人だとでも思ってたのかい
そりゃ逃げ腰になる時もあらあな
司馬懿が止めたっていう遷都の話は
既定路線の計画が関羽北上と合わせて誇大に
伝わってしまっただけのような気がするなあ。
曹操死んですぐに曹丕が遷都しちゃったじゃん
>>342 君が知らないだけで関羽討ったその余勢を駆って今度は呉が北伐してる
その時に襄陽までサックリと落とされてて、遷都以外の選択肢がない
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/15(木) 22:40:09.54
まあ老いた劉備も結局は
関羽の仇討ちに躍起になっていたけど
仇討ちもあるんだろうがやっぱりそれを口実に荊州落としたかったってのもあると思うよ
諸葛亮の三分の計にしても荊州抑えておく事が必然
後世諸葛亮が北伐を敢行した時期には、既に蜀は三分の一と言えるほどの勢力ではなかった
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/03/16(金) 18:47:53.83
だーれかさんのだーれかさんのだーれかさんのせいで♪
覇ロードの劉備は、いつかは北斗神拳を体得して
しまいそうだ。
あれは倭人だろ!!
あっさりと首斬られた本物だったら、史実通りの外道ぷり発揮してたはず!
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/07/14(土) 23:14:55.28
ひとよんで「幽州の北斗七星」だからな
北斗神拳なんぞ、軽く習得しているよ
北斗七星に何の意味がある
じつは死んでませんでしたノリで曹丕や趙雲が生きていたから、倭人でない劉備もそのうち復活するんではないかと思うんだ
劉備は荊州にたどりつくまでの領地なぞについて無く
それまでの戦歴は役にたったのか?孔明を部下にしてから
のみ。
日本語で頼む
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/07(木) 07:29:57.69
孫権が最初劉備を西に派遣した際にどういう腹づもりだったか
部下として征西させたのか、最初から巴蜀で独立させる計画だったのか
後に呉の視点からしても呂蒙が荊州攻めたのがおかしいんだよな
荊州を呉のみで守りきれるという目論見があったならば楽観的過ぎる
劉備がまさか関羽の弔い戦と称して、荊州奪還に出る、というのは計算違いだったとしても
仮に魏が荊州へ南下を始めた際、当然蜀は呉に味方するわけはなく、冷ややかに静観したはず
と、なると呉の荊州攻めは最終的な荊州の呉領化よりも
裏切った部下への懲罰的意味合いが大きいと解釈すべきでは?
計算違いなわけがない
そのために陸遜が夷陵を関羽討伐の時点で確保してるつーの
劉備は、孫権の部下扱いだっけ?
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/14(木) 10:20:44.54
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/16(土) 21:44:42.95
最近、劉備は経済政策によって蜀を富国強兵した名君みたいな評価を見たんだがどうなんだろ?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/17(日) 00:51:56.98
劉備がとった政策といえば、劉巴に言われて貨幣を鋳造したり、司塩校尉を創設して収入を増やしたりと経済絡みが多い
農業の曹操、経済の劉備みたいな感じでキャラ付けしても面白いかも
>>358 実際、蜀に入って真っ先にやったことは経済政策、取り分け効率的な増税政策だからね
塩府を設置して司塩校尉に塩と鉄の専売を一元的に行わせて農産品以外の税収を確保したし
劉巴の進言で貨幣を鋳造して発行差益で大盤振る舞いしちゃった褒美の分を取り返したりしてる
増税に耐えうる担税力が益州にあったということでもあるけど
前任者はその担税力に応じた課税が出来なかったってことだから
実行した劉備とそのブレーンは優秀だったと言えるだろうね
>>360なるほど
それじゃあゲームでの劉備の政治力はもう少し上げるべきだな
「とこうえん」と「錦」の事も忘れないであげてください><
太平御覧などによれば劉備は蒲元を召しだして冶金技術の研究にも力を入れたり
たった10年未満の短い統治期間に相当色々やってんだよね
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/24(日) 03:13:14.32
何故だかわからないが勝率2割とかいう嘘の情報が広まってる劉備
正史を扱ってるサイトとかでも勝率2割とか言ってるアホがいるしな
そんなもんだろ
逃走は敗戦の一つだし
負け多いからね、劉備
>>365 いや逃走含めても5割は勝ってるよ
印象の強い負け方するから負けのイメージあるけど
勝つところではまとめて勝ち続けてる
天下まで程遠い勝など価値がない
>>368 物事の積み重ねって重要だと思うが?
劉備って、曹操相手に負けるけど、それ以外には勝ってるんだっけか?
あと曹仁に負け、呂布に負け、陸遜に負けたりはしてる
細かい勝ちより大きい負け
逃げ延び続け、再起するんだからすごいな
陸遜が一番ダメージを与えたか?
呂布によって徐州を失陥し、曹操(曹仁、楽進)によって中原から駆逐され、陸遜によって死に追い込まれた
でも、勝つべき戦いで勝てなかったのは夷陵だけだと思う
あの時の劉備は劉備とは思えないほど戦争が稚拙
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/26(火) 12:04:50.81
関張失ってるからじゃね
戦術的視点からフォロー出来る奴がいなくなってたんだろ
夷陵でも一年近く優勢に戦ってたからな
まあ隙を見せて一気に決められてしまったのは確かだが
後先考えてないというか…
黄権を手元に置いたりもせず、わざわざ分割したり、自分は前線に出たり…
補給線問題もあるしなぁ
曹ヒに鼻で笑われたとこを見ると、大局的戦術眼はなかったんだろうな劉備自身は。
良くて、局地戦での中規模〜小規模なゲリラ戦ぽいのが得意だったのかな?
関羽と張飛を勝手放題飼い躾けない劉備
劉備のせいで関羽が呂蒙に負け
劉備のせいで張飛が部下に暗殺され
逆ギレで呉に戦争を仕掛ける
子供じゃん
>>378 優秀な指揮官を万が一魏が南下して来た時の抑えに回してる
というかこの頃、魏と呉は荊州北部を巡ってドンパチやった直後なので
魏に対する備えを北に置かない理由がない
その劉備の処置を責めるのは単に何も調べてませんって白状してるようなもんだぞ
自分は前線出たり、ってのもおかしいだろ
劉備は常に前線で自分が指揮する超現場型の君主じゃないか
そしてだからこそ名声が高かった
後知恵が過ぎるよ
補給線問題とか言うのもおかしい
むしろ数万の大軍で長期間の遠征して一切補給に問題起こしてない劉備がヤバイ
曹操は長期戦やると少なくない頻度で補給切れ起こしてるが劉備はそういうことないんだぞ
>>379 いや大局的戦術眼こそ劉備の本領発揮だから
1万ほどの兵を手に入れた後はほとんど無双状態で益州まで奪い取った上に
赤壁で一回ミソ付けたとは言っても当時最強の曹操に漢中で勝利してる
劉備は戦術はかなり得意だよ
戦略が苦手だから領地を保てずに中原から追い出されたけど
あと、関羽が呂蒙に負けて荊州失陥したのはどう考えても関羽の盛大な自爆であって劉備のせいではないからな
劉備が人物眼を唯一誤った時とも言えるから関羽を抜擢した劉備の過ちと言えなくもないが
まさか関羽が同盟国相手に高圧的な外交したり兵糧を荒らしたりした挙句に後方に配置していた仲間の殆どに見捨てられるようなどうしようもないやつだとは流石の劉備も思ってなかった
劉備は関羽なんかを重用せざるを得なかったのが最大の不運
>>382 戦略苦手ってのは本当に思い込みでしかないからね
官渡って曹操が袁紹が動けないところに攻め込んだ戦いなのに劉備が行動一つで全部ひっくり返してるし
徐州の継承の時も挨拶一つで中原の戦略事情盛大にひっくり返してるからね?
戦略は苦手じゃない
ただ袁術の切り崩し工作が巧妙だったり、曹操の戦闘力がキチガイレベルだっただけ
あと関羽が呂蒙に負けて荊州失陥したのはどう考えても劉備の外交のミスな
ただ、それでも劉備は最後の最後まで手を打ってるし、あの負け方は呂蒙と孫権の判断がキレ過ぎてた
関羽が自滅したのは完全に劉備のせい
あれって劉備のミスなの?
荊州は関羽に任せてたと思ってた
>>385 まず関羽が督荊州事になって荊州の権限持ったのって于禁と戦った後だよ
それ以前の関羽は軍は預かってるけど節ないから独断できない
関羽自身はただの一郡太守に過ぎないから一郡では支えきれない数万の軍を動かすには
各地の太守から物資の供給受けないと動けない
一番重要な南郡太守やってんのが仲悪い糜芳
これでどうやって独断通して貰えると思う?
劉備は統率低いんだよ
>>386 劉備が漢中王となった際に関羽は前将軍となり節鉞が假せられたんだよな
これが于禁戦の後なの?
>>388 樊城で曹仁包囲中に仮節渡したと華陽国志にある
曹仁が樊城で関羽に包囲されるのは武帝紀だと建安八月、于禁が敗れてから
あと勘違いしてたが「督荊州事」じゃなくて「董督荊州事」だった
後漢の督○○州事とごっちゃになってたな
それとこれの拝領タイミングは益州平定時でしかも武官のための官位だな
これと一緒に内政関係の官位がないとやっぱり内政関係には手が出ない模様
劉備の戦績ってどうなるんよ
曹操の67戦58勝は有名だけど、その曹操の貴重な黒星を付けた一人が劉備なんだよな
しかも曹操が中原を制圧して勢力が安定した後に負かしてるってのが凄い
>>390 赤壁には劉備も参加してるので曹操に二度黒星付けてる
赤壁はあくまで司令官は周瑜って気がするけどな…
追撃は関羽が参加したけど楽進や徐晃に蹴散らされたし
劉備は荊州南部攻略したけど
>>392 どっちも時期不詳だろ
あえて時期を推測するとなればどちらも赤壁前だよ
楽進は荊州平定戦に参加した時に襄陽に駐屯して関羽を攻撃したとある
関羽が荊州平定戦で襄陽近辺で戦えるのって長坂前以外だと相当不思議な事態だぞ
徐晃のも同じ
徐晃は樊に駐屯して漢津の関羽を攻撃してるけど
漢津は江陵の北側でここで戦うってことは赤壁前か江陵陥落以降でないと異常
でも徐晃は満寵と共に関羽を漢津に討伐した記述の直後に、曹仁と共に江陵で周瑜と戦ったとあるんだよね…
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/27(水) 22:37:54.73
赤壁は劉備が全く関わらなかったorがっつり関わったなど諸説多くてよくわからん
赤壁の戦い自体諸説が多くてよくわからんしな
ったく、劉備あまり関係ないな、赤壁
でも呉側の情報て信じられるものなの?捏造が多そう。
呉側が劉備に荊州貸したとか嘘ついてるし。
>>394 曹仁と周瑜が江陵で戦ってる時は関羽も江陵包囲に参加してるよ
>>396 周瑜と一緒に赤壁まで行って一緒に戦ってるって先主伝にちゃんと書いてあるよ
>>397 蜀漢が大活躍したなら蜀書にもっと書いとけよって話だよな
というか劉備の話題から関羽や赤壁にズレてきてね?
>>401 武帝紀では劉備に負けたと書いてあるがな
曹操の敵は一貫して劉備だからね
実際にどっちと戦ったかは関係ない
孫権は脇役ですしおすし
疫病で撤退=劉備に負けた
はいはいっ
五割は勝ってるの根拠が知りたい
いや劉備が戦争の天才であることは否定しないけどさ
戦績を数えて教えてくれよ
>>405 んなもん先主伝読めばいいだろ
劉備の隠された負けなんてまずないから
蒼天航路の台詞だったかな?
生き残ったのは、曹操(俺)と劉備(お前)のただ二人だけ!
というの読んでグッとしてしまった、黄巾の大乱から三十年経ち、本当に二人しか残ってないと。
史実そんなに詳しくないけど、曹操も劉備を英傑と認めてたのかな?
まあ勝率五割は嘘だよねw
>>408 「どんなに低く見積もっても5割は勝ってる」ってだけ
多分カウントするともっと勝ってる
というよりも負けそのものが相当少ない
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/02/28(木) 23:10:31.62
負けそのものが少ないってのは嘘
劉備は負けが多い
が、意外と勝ちも多いから勝率5割になってる
勝ちが多いのに呉より領地少ないのが不思議
>>410 嘘、というのであれば劉備の負けを列挙してみるといい
実はそんなに負けてない
勝ち
・黄巾賊討伐で戦功があった
・下ヒで賊と出会って戦功があった
・楊奉、韓暹を斬った
・呂布に勝った
・車冑を殺した
・劉岱と王忠に勝った
・夏侯惇、于禁に勝った
・赤壁で曹操に勝った
・江陵で曹仁に勝った
・荊州南部を切り取った
・フで
負け
・高唐令の時、賊に負けた
・袁術に負けた
・呂布に負けた
・高順に負けた
・曹操に負けた
・曹仁に負けた
・長坂で曹操に負けた
あ 途中で書き込んじゃった
やり直して再度張るわ
勝ち
・黄巾賊討伐で戦功があった
・下ヒで賊と出会って戦功があった
・楊奉、韓暹を斬った
・呂布に勝った
・車冑を殺した
・劉岱と王忠に勝った
・夏侯惇、于禁に勝った
・赤壁で曹操に勝った
・江陵で曹仁に勝った
・荊州南部を切り取った
・フで劉カイ、冷苞、張任、ケ賢に勝った
・ラクで劉循に勝った
・成都で劉璋に勝った
・漢中の戦いで夏侯淵、曹操に勝った
負け
・高唐令の時、賊に負けた
・袁術に負けた
・呂布に負けた
・高順に負けた
・曹操に負けた
・曹仁に負けた
・長坂で曹操に負けた
・夷陵で陸遜に負けた
すっごい大雑把に言うとこんな感じ
基準は劉備本人の参加した戦闘、戦争
ただし「一戦闘」と「一戦役」を分けてないのでロクな一覧ではない
これまともに討議すると長いのでとりあえずね
江陵は劉備参加してないだろ
後、細かいとこがちょくちょく抜けてるな
エン術と戦って引き分けと呂布に徐州を取られた後のエン術に負けてるのが無い
蔡陽に勝ったのが無い
劉備は曹仁とは戦ってねぇよな
どんだけ劉備を赤壁前後で活躍させたいんだ
そんなゴリ押ししなくても劉備が凄いのは分かってるから
劉備陣営で江陵の曹仁と戦ったのは関羽と張飛だけじゃね?
>>416>>418>>419 正史三国志魏書李通伝より
「劉備與周瑜圍曹仁於江陵」
劉備と周瑜は曹仁を江陵において包囲していた
>>417 そこは全部まとめて「袁術に負けた」にした
蔡陽は書き落とした
劉備が負ける時って、相手と状況が悪すぎ…
曹操と劉備はマジで二大英雄だな
勢力が整うまでは曹操から逃げまくってる
勝てない相手と見たら即座に逃げる眼力と判断力は凄いんだけど、それは一応劉備の敗北でしょ
江陵攻略と荊州南部攻略を劉備自身が同時に行うってのは流石に無理じゃね?
どっちかは配下の者がしていたというのが自然な気がするわ
>>423 江陵包囲戦は1年くらいやってるので南部攻略の後に参加したと考えれば辻褄はあう
周瑜に対して張飛と1000人を貸すから2000人貸してくれってのは
多分南部占領の時の事だろうな
占領には人手がいるから
南部攻略が大して時間がかからなかったのならありえるといえばありえるか
周瑜や劉備を相手に一年以上耐えた曹仁が逆に凄いわ
曹魏の最終防衛ライン担当だけあって凄いよね
沈みかけてた樊城で関羽を相手に持ち堪えた曹仁だから…
あれ相手が曹仁じゃなかったら関羽が樊城落として曹操は本当に遷都に追い込まれてたかもしれん
援軍に来た于禁も沈むしで精神的にキツい戦いばっかやってるなコイツ
>>428 曹仁も投げ掛けてたし踏みとどまらせた満寵は本当に偉いと思うよ
劉備の野望を阻止したのはこの満寵の一言だったと言っても過言じゃないレベル
満寵も楽進や文聘と並ぶ鉄壁だからな
魏は人材揃ってて羨ましい
劉備配下は武官が貧弱なんだよなぁ
満寵は6将軍くらいに入れてやってもいいな
曹仁が苦手とした呉軍にも常勝だし
6将軍というか…
前後左右将軍だからね
あの人材豊富な魏で、中央軍司令官を任されるんだから、そりゃ名将だよ
前将軍:張遼、満寵
左将軍:于禁、張郃
右将軍:楽進、徐晃
後将軍:朱霊、文聘
早死してるくせに右将軍になってる楽進が地味に凄い
曹氏夏侯氏と臧覇は方面軍司令官だからもっと格上だけど
朱霊は正史での扱いがちょっと残念
蜀漢は、関羽、馬超、張飛、黄忠が、前、左、右、後だな。
新参な上に全く活躍しなかった馬超が張飛より格上扱いなのは、まあ羌族恭順の為の戦略兵器だからだろうな。
反曹操の美旗にもなるし。
満寵が実権持ったのは曹丕曹叡の代だから目立てなかったんだろうな
三国志の物語の中では
正史の巻の置き方でも満チョウは第二世代に分類されてるしね
「劉備は公孫瓚に拾われたのに公孫瓚をみかぎり、
陶謙の厚意に浴したのにその遺児と徐州を保てず、
呂布に迫害されたため曹操のもとへ逃げこみ、礼遇されながら、そこから逃げだし、
うけいれてくれた袁紹の衰運をみるや荊州へ移り、
劉表のためにほとんど動かなかった」
そして最終的には益州を乗っ取る
死神?疫病神?
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/03(日) 08:17:43.55
裏切りまくりなのに劉備の名声は傷つかない
いったいどういう立ち回りをしたのやら
そこが劉備の凄いところ
悪のカリスマですね
明確に裏切られたのは曹操と劉璋だけだしね
公孫瓚を派遣先で見限ったのはまあ裏切りかもしれんが
陶謙や劉表は全く裏切られてない
陶謙や劉表が遺した領地や子供の為に尽くそうとはしなかっただけ
そして袁紹が遺した領地や子供の為に尽くす義務は劉備には無い
孫権は同盟関係だから裏切るも糞もない
中原を中心に見ると袁術と公孫瓚と袁紹の争いだったのが、最終的に生き残ったのは袁紹と曹操と劉備ってのが凄い
劉備の生存戦略は賈詡に匹敵する
>>441 曹操も裏切ってない
曹操「が」裏切り者だよ
>>444 曹操は袁紹の部下だったのに裏切って袁紹を攻撃したのが官渡の戦いってこと
そして劉備は元々の主筋である袁紹に義理立てして曹操と戦ったと
>>445 曹操が袁紹の部将だったのは最初だけだろ…
そのあとはただの同盟関係じゃねぇか
どんだけ曹操に偏見持ってんだ
そしていつ劉備が袁紹に仕えたんだ
曹操を裏切って逃げてから仕えたんであって、それ以前は曹操の庇護下だ
>>448 いや曹操と袁紹の上下関係が崩れるのは曹操が呂布を倒した辺りからだぞ
そこから徐々に曹操が袁紹を裏切る動きを見せていく
劉備が袁紹の下に付くのは徐州を得た時からな
「徐州を治めてもいいですか?」と袁紹に許可を求めてる
だから、呂布によって徐州を追われても曹操の元に逃げ込めるわけ
同じ上司である袁紹の下で働く味方同士だからな
>>449 献帝擁立した時点で曹操の独立は明確だった気がするが…
いやまあ、解釈はそれぞれだし、そっちの考え方も成る程とは思ったけど
>>451 どこが明確だと思った?
献帝擁立しますって言ったらまず城はこっちにしろって文句言われ
慌てて取り繕って許にすることだけは許して貰ったり
官位で曹操が調子に乗って袁紹の上に立とうとすると
「じゃあそんな官位いらねー」って言われてワビを入れる形で慌てて大将軍にしてみたり
まだ相変わらず曹操は風下で袁紹の言うこと聞かされる部下だぞ
皇帝を擁した頃から徐々に叛意は見せ始めるけど
まだ曹操は袁紹の部下だろ
>>449 袁紹の上表で東郡太守となり、東武陽を統治したが
その統治に袁紹の指図があったとの記述はなく、独立した行動ばかり
兗州牧になったのは、鮑信・万潜らに迎えられてのこと
この時点ですでに独立した勢力。
その後、協同して事に当たることはある程度
曹操と袁紹に主従の関係はなく、例えるなら信長と家康の関係に近い
ここが話題の基地害劉備スレか
>>453 公孫サンや袁術による袁紹包囲網の対処でも散々引っ張りまわされてるように曹操は部下だよ
内政に関与しないからって当たり前だろ
封建とは言わないまでも太守とか任命したらその内政にまで一々ちょっかい出すわけがない
しかし軍事行動で曹操は動員されて各地に派遣されてる
エン州牧になったので独立勢力ってのも間違い
曹操はそれでもなお袁紹に動員されている
>>455 >しかし軍事行動で曹操は動員されて各地に派遣されてる
協同して事に当たっただけ
単経は平原に屯し、陶謙は発干に屯して袁紹を圧迫した。
太祖は袁紹と会同し、それらを全て撃ち破った。
「エン州牧」にしてくれたのも袁紹
鮑信・万潜らはお出迎え役なだけ
これでどうやって曹操は独立していると言えるのか
元の東郡太守も袁紹、エン州牧も袁紹、今度は袁紹の都合で北部へ軍事動員
曹操は反董卓連合以前に家財を投げ打って独自に兵を募って挙兵している
反董卓連合でも袁紹を盟主と仰ぐも、独自に行動を起こしている
その後も独自に寡兵を行う
東郡太守の一件も袁紹の上表以前に曹操が独自に軍勢を率いて東郡に入り、賊を破っている。
>>458 自前の兵持ってたら部下にならんてアホかいな
この時代、豪族は皆自前の軍持って、自分の選んだ指導者の下で
その軍や家財を使って働いてるいうのに
曹操も同じで私兵持って袁紹の手下やってただけ
手柄を上げたから大きな権限も貰えたんだわ
世語曰く
州牧の一件は陳宮の説得に鮑信らが応じたもの
袁紹は事後、認めただけで袁紹が上表したわけではない
ゲームの三國志11でもシナリオで
公孫サン、袁紹、袁術勢力に配下に、
劉備 曹操 孫堅
なってたのがあったが、結構正しいのか。
兗州牧にしてくれたのが袁紹?
笑わせんな
そんなに曹操を袁紹の手下ってことにしたいのは何故?
劉備を裏切り者にしたくないから?
劉備ファンとしては曹操をできるだけ貶めたいから?
>>464 後漢書読みましょ
曹操が献帝確保後に袁紹が上書して「私が曹操をエン州牧にしました」って書いてあるから
劉備厨って関羽厨や呂布厨と同じ臭いがするな
臭いな
自分の解釈を一つの解釈としてではなく絶対的真理として扱い、他人にその解釈を強要する辺りが
同一人物なんじゃない?
解釈じゃなくて事実として曹操はずっと袁紹に官位貰ってるわけでね
解釈云々言う前にこの事実は認めようか?
もう相手にすんなよw
なんでこのスレで曹操議論始めたの?
それ自体がもう無理がある
劉備大好きさんの中では曹操は袁紹にずっと官位貰ってる手下
もうそれでいいじゃん
>>465 >曹操が献帝確保後
曹操が献帝を庇護する以前にエン州を統治していたんだぞ
袁紹の上書なんて名目だけの話し
しかも、曹操が献帝を庇護している状況なら州牧程度に袁紹の上書なんて不要
同盟ってのが対等じゃないと成り立たないと思ってるらしいからね劉備厨は
>>471 統治してるね
つまり曹操と袁紹の間では「曹操が袁紹によってエン州牧として認定されていた」という認識なわけ
解釈じゃないよ?袁紹が曹操の擁立する皇帝に対して「俺が州牧にした」と言ってるんだからな?
とりあえずお前らみんな落ち着け
クールダウンクールダウン
>>473 「俺が州牧にした」と言ってるだけだろ?
それのどこに曹操が袁紹の配下だって論証になるんだ?
ゆの「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」
>>475 普通は上の人間が下の人間の官位を認めるもんだが
曹操ってのは袁紹によって官位を認められることで支配地を得てる人間だよな
それなのに単に袁紹は上司でもなんでもなく単に土地くれた?
気前いいな
なんで曹操が袁紹に官位を認めてもらうことで支配権を得てるってことになってんの?
なんで袁紹が曹操に領地上げてるみたいに言ってるの?
劉備厨ってマジで頭湧いてんだな
なんか根本からおかしいもん
曹操からすると劉備は胸の内を明かし信用して
軍まで預けたのに徐州丸ごと袁紹の側に着いた裏切り者のように見える
しかし曹操は一時期袁紹の下にいて劉備も袁紹の下にいた
曹操は袁紹を裏切り、劉備は裏切らなかった
裏切り者からすれば裏切らない者は裏切り者に見えるわな
はいはいスルースルー
キチガイはスルー
まあ劉備は曹操の庇護下にあったんだから袁紹もクソも無いんだけどね
なんで同盟の盟主が袁紹っていう簡単な構図すら思い浮かばないのか?
劉備厨のキチガイ理論だと、劉表や劉繇も袁紹の手下らしい。
んなわけあるかカス(^q^)
もうお前の中で曹操が劉備の手下なのは分かったから黙っとけよ、な?
劉備の手下ってなんや…。
袁紹の手下な。
>>478 官位認めて貰えなかったら領地得てないからね
官位抜きに領土が得られるならその前に土地切り取ってろよ
黒山賊討伐前の曹操って私兵持ったままあちこちふらついてるだけだし
>>482 他の人とは経緯違うから
劉表は自分の領土を袁紹に認めてもらう必要はなかったけど
曹操は袁紹に認めて貰わなければ東郡太守もエン州牧もやってらんなかった
自分で土地切り取ってるし、袁紹に認めてもらってるのも同盟関係維持の為だと思うけどね
もういいよそれで
本当に話通じないのな劉備厨って
もうなんか凄い
本当に凄い
東郡太守までだろ
なんでそれ以降も袁紹の許可前提ってことになるのか
名目だろただの
物凄いレス付いてると思ったら、蜀信者が暴論で暴れてただけ
…よくあることだな
多分、劉備様に命を救われたんだよ
もしくは曹操に親を殺されたか
>>486 そりゃ原資与えられて仕事しなかったらクビになるから周辺の攻略もするでしょ
本当に話が通じないっていうけど君、後漢書すら読んでないでしょ
人格攻撃する前に史料読もうよ
>>487 東郡太守だけでなくエン州牧も袁紹がやったものだと後漢書袁紹伝で
献帝に対して表明してるからな
名目という根拠は何かね?
資料が食い違った時、都合の悪い資料の存在を無かったことにして自分の主張をゴリ押す…
蜀信者の得意技である
>>491 食い違い?どこが?
曹操が誰かに推薦されたとしよう
でもそれを「認める」というのは袁紹がやってたってことだぞ
曹操の権力というのは袁紹が認めるから発揮されてたってことだね
名目じゃないという根拠は何かね
関係が対等でなければ上司と部下以外に有り得ないとか、どんな社会を生きてきたんだよ
まさか糞ニートか?
劉備厨が反論できてないレスが沢山あるだろ?
要するにそういうことだ
>>493 それ以前に曹操が東郡を統治してた事実がない
州牧以前にはエン州全土に統治が及んでた事実もない
>>494 関係が対等でないだけでない
曹操の支配地は袁紹によって統治を認められ、与えられたものだからだよ
こういう関係って日本史だとお馴染の御恩と奉公だろ
もうそろそろ分かったやろ相手を納得させるのは無理やって
傍から見てるとどっちもどっちや
劉備信者さんもそれに罵詈雑言吐く皆さんもどっちもどっち
真実が決まってるなら議論発生の余地すらないんやからな
劉備に比べたら曹操とかゴミだし
>>499 それはない
劉備は戦略規模では曹操を罠に嵌める事も多いが戦術規模だと普通に負けてるし
曹仁、呂布や高順などに蹴散らされてることもあるように
戦術規模の部隊指揮は一流だけど超一流には一歩及ばないという程度の実力だろ
いや曹操と劉備って三国志の名将代表二人みたいなもんじゃん・・・
>>502 釣りでもいいんじゃね?
それが元で話題広がるかもしれんし
五年前からあったのかこのスレ…
進度遅すぎやろ
スレタイもテキトー感MAXだしな
配下を見捨ててでも即逃走することで生き延びるのは傭兵としては良いんだが、国主となってからもそのスタンスだったせいで、夷陵の戦いで武官系の人材をゴッソリ失った
夷陵で劉備が負けたのは
赤壁で曹操がまけたより国家的に痛手だろうな
>>507 国家的の基準がわからんけど統一が無くなる負けと一緒にしてはいかんでしょ
曹操ってあんまり全土統一にやる気なさそうだよな
中原抑えたし劉備と孫権は手強いしもういいじゃん、みたいな
損害無視でゴリ押せば勝てる時でもそれをやらないのが曹操…
荀ケが生きていたうちは仕方なく統一目指してたみたいだけどねぇ
赤壁で主要な魏将が誰も死んでないのが凄い
というか意味不明
マトモに戦ったのかよ
夷陵で人材喪ったのは痛すぎ。
関羽が荊州失陥したのと並ぶ損害。
そんなの何度も言われた事
後漢書に書いてあることを無視するてのも凄いな。
俺はある程度納得できたけど。ゲームでも曹操が袁紹の下に付いてたのは違和感を感じたけど
なるへそと、ある結構納得できたわ。
Yahoo知恵袋のrammda64ってやつが間違いなく呂布厨&劉備厨で気色悪い
>>510 まともに戦ったわけじゃなくて周瑜の騙し討ち大当たりだった
会戦と違って指揮官が部隊と一緒に戦ってるわけじゃないから
奇襲に驚いて身分の高い人とかはすぐに逃げられたけど
逃げ遅れた一般兵とかは多数死んだ
周瑜の騙し討ちの具体的な内容と損害の状況は呉書参照でよろしく
呂布は天才!
曹操は漢の逆臣!
劉備以外の皇族は無能!
うわぁぁぁ(発狂)
きらめく群像が面白すぎてヤバい
曹操は袁紹の配下だが
劉備は公孫サンの配下じゃない
曹操に助けを求め、助けられたのになぜか袁紹を主筋と言い張る
公孫サンの元、矛を交えた事のある袁紹を
これぞ蜀中毒クォリティ
>>518 公孫サンの部下だろ
徐州に行く段階でもう裏切り始めて徐州を引き継いだ時に明確に裏切ったわけだし
神砂嵐の方が強くね?
ちくわ大明神
>>509 そのせいで曹丕が部下へ与えるものを
土地の代わりに官位にせざるを得ず、皇帝になる羽目になったと思うけどな
彼だってあんな無理にこじつけてまで繰り上がりたくなかっただろうよ
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/04(月) 04:38:42.80
何故裏切り続きの劉備の名声が落ちなかったか考えてみた
・徐州を引き受けた時に公孫サンを見捨て袁紹に鞍替え
公孫サンが名声の高かった劉虞を殺害した事で輿望を失い、駄目な君主を見限るのは道理に適ってると思われた
・曹操から独立した時
献帝から曹操暗殺の勅使を貰ってるから(正直胡散臭いが)大義があると見なされた
・袁紹から劉表に移った時
袁紹と劉表は同盟関係であり、劉表と連合するために荊州へ移動した(劉備の本心は袁紹から離れたかっただけだろうが)
こうして見ると、言い訳の効かない裏切り行為は劉璋の時が初めてで、だからこそ劉備は蜀攻めの時ホウ統の進言に耳を貸さず慎重に動こうとしたのかがよくわかるな
いや劉璋の時も色々口実は作ってたけどな
人徳で戦わずして異民族を下すスーパー人格者の劉虞さん
その劉虞さんを惨殺して名声が地に堕ちるキチガイ公孫瓚
劉備の心境「は?劉氏舐めてんの?は?」
劉備の戦績だけど、たしか楽進にも負けてたはず
袁術に負けてたっけ?
袁術って戦いに勝ったことあったのか
>>527 呂布に徐州奪われた後、兵がその情報で恐慌状態に陥ったのを強引に纏め上げて決戦挑んで負け
勝ってたら取って返して徐州奪還の決戦を呂布に挑んでたかもな
>>528 曹操に負けただけで基本的には勝ってるぞ?
俺袁術陛下大好きなんだけど、陛下が一番輝いてたのは曹操から七連続フルボッコを喰らった193年
あれで生き延びる袁術陛下凄すぎ
後漢末の群雄として傑出してたのは、袁紹、袁術 公孫サン、董卓でいいのかな?
で、劉備とか曹操とか孫堅みたいな連中は、そのどれかに属してた?
>>531 劉表、劉焉・璋親子辺りも群雄としては傑出してたとしていいと思うな
公孫サンは劉虞と争って立場を逆転させるまでに結構時間あるから
群雄として傑出してたというのはまたちょっと違うかもしれん
この場合、董卓と並び立つ群雄としての公孫サンという意味ね
董卓の死後だと北部では一大勢力を築いた群雄ってことは間違いないと思う
董卓は群雄とは言わんのじゃないか
董卓以後の中原でバトルロワイヤルしてた連中が群雄
当初の南北二大群雄が袁術と公孫瓚で、実は界橋で公孫瓚に勝つまでの袁紹はこの二つより小さいんだよな
まあ袁紹と曹操のタッグが有り得ないくらい強くて、結局は南北を曹操と袁紹が抑えて、最終的に勝った曹操が中原平定って流れ
劉表はけっこう強いんだが、荊州だから本格的に中原の動乱に関わったというほどでもない
同じく孫策も、袁術が中原の豫州から追い出されて揚州に行ってからの活躍だから、群雄って感じじゃない
>>534 そもそも「群雄」の定義がロクにないのでそこは気にしたら負けだ
劉焉劉璋親子なんて益州という超絶ド田舎の要害で引きこもってただけなのに、どこが群雄として傑出してるんだ
袁術(孫家)・公孫瓚(劉備)・陶謙(劉備)の同盟
袁紹(劉備)・曹操(劉備)・劉表(劉備)の同盟
ってことだけ覚えとけばいいよ
劉備の梟雄っぷりヤバすぎ
って言ったらまた昨日の劉備信者が暴れ出すのかねw
あぁ?
劉備は裏切ってねーし
曹操とかいうカスが袁紹裏切っただけだし
それだけが真実だし
…ってかんじか
アイツもう出てこないでほしい
鬱陶しいから
お前ら呂布さんを忘れてるだろ
まあ、劉備同様、袁紹派か袁術派か分かりにくいタイプだが
>>537 曹操を裏切ったというのは間違いってのは強調するけどさ
公孫サン見捨てたのはまさに梟雄って感じだけど
劉表への鞍替えしたと言われる官渡・倉亭以降も別に袁氏裏切ったわけではなく
袁氏を曹操が攻撃してる時に背後から曹操に襲い掛かってるけど
結局袁氏が仲間割れして滅んでるからどうしようもないよな
劉備が先に裏切ったケースって公孫サンと劉璋くらいかな
あと孫権も裏切りと言えば裏切りか
>>536 劉表と戦争しとるが?
あんまメジャーじゃないけど益荊の劉氏は骨肉の争いずっとやってたよ
益荊とか完全に中原の蚊帳の外やんw
劉備マンセーの為には劉璋マンセーも欠かせないから劉璋も凄い群雄ってことにしといてくださいよ
>>542 中原以外のところで争ってるけど引き篭もりじゃないだろ?
劉備厨の思考回路ってわかりやすい・・・
>>543 凄いかどうかは知らないけどそれなりの人物だと思うよ
趙イの乱は最後は自滅の形だけど劉璋もちゃんと抵抗して勝てるだけの形には持ってってる
劉璋惰弱認定って陳寿もグルになってやってるから非常に根深いんだよなぁ
優秀とまでは言わないまでもやはり一角の群雄と言えるでしょ
領土的には益州抑えてて190年代辺りの群雄としては非常に傑出してるしな
むしろ張魯とか趙韙とか身内すら治めきれずに内乱してるイメージ
546には同意
傑出した群雄とは言わないけど、一角の存在だとは思う
中原中心に考えると、そっちに殆ど手を伸ばしてないから存在感薄いのは仕方ないけど
>>547 劉二牧も劉表も手勢無し、地盤無しで乗り込んで行って数年で群雄となって行くわけで
そこで内乱起こさずに上手くやってる劉表は掛け値なしに英傑と言えるし
内乱起こされても何とかしてる劉璋だって捨てたもんじゃない
劉表は普通に凄い群雄だよ
政治と軍事の両面で
まあ官渡で手を出さなかったのはいただけないけど
>>550 手を出さなかったんじゃなくて出そうとしてたけど間に合わなかった
張繍が曹操に投降したせいで南陽が丸ごと一つ失陥した上に南部では反乱が起きてた
反乱を鎮圧して、張繍が裏切って失われた荊州北部を取り戻してる間に官渡終わってた
官渡の時、劉表は何してたかというと官渡が終わってすぐの頃、
宛の北側に攻め込んで何とか落としてるから南陽周辺の攻略してたんだと思うよ
賈クが曹操に投降しよう、という恐ろしい智謀を発揮してなかったら
曹操は張繍と劉表からの攻撃で終わってただろうな
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/05(火) 02:31:22.42
劉璋が優秀だとはとても思えないんだけど
張魯を離反させてしまい、ホウ義が半独立状態になってたり、東州兵の統制が効かなかったりとまさに惰弱そのものだけど
父親の遺産のおかげで群雄やってるだけの男だと思う
東州兵の統制が効かなかったんじゃなくて「統制するつもりがなかった」だろ
法律すら定めてないんだから
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/05(火) 19:53:55.55
兵が民衆に乱暴を働く、群臣の離反を招くという点では劉禅より酷いな劉璋
元々土着の兵じゃなくて亡命者を集めて軍に仕立て上げてるから
曹操にとっての青州兵と同じで制御が難しいのが東州兵
他の時代でもそのタイプ兵で天下取る群雄多かったよな?多分。
まあ、劉禅ちゃんって総合的にはそんなに悪くもないし・・・
でも親が優秀でも息子が優秀とは限らないのは確かだよね
逆にそういう人たちは凄い
呉とかけっこう家族代々ってのがいる
数日前にこのスレに居座ってたらしい劉備信者(曹操アンチ?)さんに聞きたいんだけど、
曹操が袁紹の部下に過ぎないから劉備が裏切ったんじゃなくて曹操が裏切ったんだと言うなら、
濮陽の戦いで呂布に敗北した曹操へ袁紹から俺の部下になれよ的な使者が来て、曹操が受け入れかけたが程cの叱咤で思い留まったって流れはどう解釈するの?
蜀信者ってなんでも呉か魏が悪いことにするから嫌い
死んでほしい
蜀信者の悪いところ…
顔良破った関羽スゲーとドヤ顔し曹操を無視してる割に。
夏侯淵を破った黄忠スゲーとせず劉備の手柄とドヤ顔で言う。
あと、張コウ破った張飛スゲーとも言う。
黄忠に対しては冷遇。
矛盾してるんだよね、一貫性がない。
>>562 お前が黄忠信者ってことしか分からんよそれじゃw
>>560 まず最初に劉備信者ではないし曹操アンチでもない
正史本文では「連和」、つまり連合を組もうとしてるということになってて
曹操と袁紹が別々にやってたかのように書いてあるがこれ自体相当信憑性がない
曹操と袁紹は既に曹操が袁紹の戦いに振り回される形で散々「連和」して戦って来たし、
呂布との戦い以前にこの両者が決裂したという記述はなし
決裂を裏付けるような記事もない
使者の事実を全部無かったと主張する気はないが
「人質出せ、部下になれ」と言う袁紹に対して曹操が突っぱねた逸話である、とはとても言えない
記事の内容が他の内容と食い違ってるからな
軍事行動とその結果が史実と違うものを記してるとする事も可能だがそれはそれで検証が必要と思う
そして基本秘密裏に行われる交渉の中身が軍事行動と違う結果を出してるとするなら
その交渉と交渉における会話なんて中々信用できんな
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/06(水) 19:09:30.11
そりゃあ夏侯淵斬ったのは劉備、法正、黄忠の共同作業だろ
顔良を斬った関羽の場合、特別に凄い言われるのは直接斬ったから
部下が斬ったとかそんなじゃなくガチで関羽が顔良を斬ってしまったからな
まあ、曹操・荀攸の功績も大きいけど
自分にとって嫌な意見は「信憑性が無い」
それと反対の論拠は「信憑性が有る」
ってことにしとけば自分の意見を押し通せるからな
白馬の戦いは
曹操の指揮
荀攸の計略
関羽(と張遼と徐晃)の武力
定軍山の戦いは
劉備の指揮
法正(と黄権)の計略
黄忠(と劉備)の武力
って感じだっけ?
>>566 いいとか嫌とかじゃなくて、他の記事と比較した時に
「袁紹は連合しようとして使者を送った」とい動機がおかしい使者は何なのかということ
これが、説明されないとこの記事の信憑性は常に疑問が付くんだよ
公孫サンや陶謙と戦ったのは何だったのか?
曹操は連合もしてない相手のために戦っていたというのか?
連合して戦ってたけど使者を送る時点で決裂していたというのか?
「自分の意見を押し通す」と俺の人格批判する前に
まず論理的整合性でもって叩き潰してくれ
>>567 黄忠と関羽の最大の差は夏侯淵が自分から前線に出てるところで切られたか
顔良のように戦場でちょっと混戦気味とは言え普通に指揮してる最中に切られたか
というちょっとした違いがあるね
>>568 横レスで悪いが
今まで同盟関係だったのを、曹操が臣従する形にしようぜっていう使者じゃないの?
貴方の主張だと、それ以前から曹操は臣従してるってことなんでしょ?
それだとおかしいよね確かに
>>571 いや原文では
太祖與呂布戦于濮陽、数不利。蝗虫起、乃各引去。
於是袁紹使人説太祖連和、欲使太祖遷家居ギョウ。
とあってまるでこれまで別々に動いてたかのように書いてある
連和はこれまで別個だったものが連合するという意味だけど
もう既にそれ以前の戦いで連合してるでしょ?
何で今新たに連合するのかね?というのが問題
>>572 別個の勢力としてではなく、一つの勢力になりましょう
曹操が袁紹の下で
ってお誘いってことなんじゃ?
>>573 もう既にそうなってるでしょ
公孫サンや陶謙と戦う袁紹のために駆けずり回ってるし
>>574 なんでそこで
「袁紹曹操劉表連合と袁術公孫瓚陶謙連合が戦っている」ではなくて
「公孫サンや陶謙と戦う袁紹のために曹操が駆けずり回ってる」
っていきなり飛ぶの?
なんかもういいや
昨日の様子を見てると貴方と議論するのは意味がなさそうなので
というか袁紹に任命されて東郡太守になるよね?
ここから曹操はどの段階で袁紹の配下から独立者になれたの?
エン州牧になった時だ、と主張する人もいたけど
今話題になってる呂布とのエン州を巡る闘争中はまだエン州牧ではない
つまりそもそも独立した存在になった、と言う人がいるエン州牧以前の時期の出来事である
袁紹の申し出が曹操の独立性の証明である、とする事自体不可能なのでは?
もし曹操が太守任命の後、呂布との抗争以前に袁紹から独立状態にあった
ということを主張するのであるならその根拠は何?
>>575 袁紹は曹操の為に戦ってないから
もし曹操のために袁紹が戦ったっていいと思うんだが
両者の関係は基本的に曹操が一方的に袁紹を利する行動をするだけ
これが壊れるのは献帝を確保して、曹操がその置き場所を完全に自分の手元にしてから
劉備ってなんで曹操や孫権みたいに親族がいないの?
凄い家系なんでしょ?
知らんけど
女にもてないから
妻子をよく捨てるから
く、食っちまったよ・・・
曹操には卞氏
孫堅には呉氏
立派な夫人がいるのに劉備は何やってんだろ
いくらスーパーベビーシッターの趙雲でも、劉備が家畜のように飼ってた数多の女達を全て救出できるわけではない
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/07(木) 01:17:04.42
捨てられてもずっとついていくのを止めない甘夫人の健気さは凄いな
>>576 上表であって任命ではない
そもそも袁紹の支配領土でもない
>>577 陶謙との戦いは袁紹だけが一方的に利する戦いではない
秀吉みたいに種無しに近いんじゃねえの
>>586 袁紹の支配領土ではない、というけど反乱軍が統治してただろ
盟主である袁紹が東郡を前任者の死亡と黒山賊に対処した事で曹操に宛がってる
袁紹が皇帝と和解するまで袁紹や曹操は漢帝国そのものに叛旗を翻した黄巾賊同様の反乱軍であって
「上表した」と言ったら実質袁紹が任命しましたってのと同じようなもんなんだけど
そういう所は無視なんだな
>>576 赤壁後に孫権は劉備の上表によって行車騎将軍領徐州牧となってるが、これをもって孫権が劉備の配下になってるという人はいないだろ。
袁紹に上表してもらったからといって曹操がその配下になったと解釈するのは無理がある。
そもそも曹操が東郡太守に任命された経緯も曹操が黒山の賊白繞を討って東郡を抑えたからであり、それを袁紹が追認しただけ。
この時の曹操の兵は袁紹からの借り物ではないし、その直前の劉虞擁立計画に曹操は賛同してない。
むしろ、これでどうして曹操が袁紹の配下であったと言えるんだ?
蜀厨のオレが聞きたいわ。
>>589 状況が違うだろ
孫権は地盤があった、その上で正統性を担保するために劉備の上表を求めた
曹操が地盤がなかった、兵はあった、そして袁紹によって地位と地盤を与えられた
君は「上表」という共通点があるだけで同類項だ!と主張するけど他の事象無視し過ぎてて論理的に成立してない
>東郡を抑えたからであり、それを袁紹が追認しただけ
違うよ
曹操が切り取った土地なら何で臧洪が袁紹に東郡太守に任命されて同じ東武陽に入るんだ?
君の主張ではここは曹操が確保したから袁紹が追認した、ということになるが何故曹操は明け渡したんだ?
曹操は自分で自前の兵で血を流して勝ち取った土地を袁紹に奪われたということになるんだが
そんなことしたらいくら曹操でも歯向かうか、何かしらの代償求めるだろ
しかしそんなことは無かった
何故なら曹操は任命されたのであり、後任が臧洪だったというだけの事だから
袁紹の部下で袁紹の政治判断に口を出す奴なんていくらでもいるだろ
献帝擁立に反対した奴もいた
劉虞擁立に反対した人間の一人で名前が残ってるのが曹操だったというだけのこと
もう一つ
「兵は借り物ではなかった」という主張に対して
当たり前
この時代、自前の手勢を持って君主に仕える人間は珍しくない
魏延もそうやって劉備配下になった
曹操配下だと李典、許チョもそう
曹操も袁紹に対してそうやって仕えたが青州兵などを吸収して
最終的には袁紹が制御できないほどに膨れ上がり反逆した
>>590 > 他の事象無視し過ぎてて論理的に成立してない
他の事象を無視してるのはそちらでしょ?
上表したことを以って配下になったとはいえない例が他にあるんだから、配下であることの根拠に上表されたことを上げる事はできない。
> 曹操が切り取った土地なら何で臧洪が袁紹に東郡太守に任命されて同じ東武陽に入るんだ?
時間的なズレがあるから状況が変化しただけだろ。
時々刻々状況は変化するのに一つの物差しで全てを説明しようとするから無理が出る。
>>591 > 曹操も袁紹に対してそうやって仕えた
その仕えたという根拠が薄弱なんだって話なんだが。
>>592 俺が他の事象を無視しているというのであればそれを指摘して「無視している」と言ってくれ
俺はちゃんと曹操が東武陽を袁紹が任命した後任に明け渡した事を以って
曹操の東郡太守というものに対する状況を説明した
>時間的なズレがあるから状況が変化しただけだろ。
ではその変化したとう状況は何で、どのような変化によって曹操は東武陽を明け渡したのか
それを説明もせず「状況が変わった」では何も話しにならない
>>593 俺は既に根拠を示した
否定するなら史料を明示しつつ否定してくれ
何か勘違いしてるな
関連してない事言われてもハァ?ってなるだけ
全く無関係な他所の出来事を言っても根拠にも何にもならねえよ
くだらんマジレスしてる暇あればギャグでも言っておけ
>>595 曹操の立場がわかると、曹操と劉備の関係性も明確になるから
全く無関係というのは間違い
ああ、すまんすまん
曹操の話題出すなって意味に取っちゃったけど
そうでなくて「東武陽」に関する話題が他所の話題とか思ったのかな?
「東武陽」は曹操が東郡を統治した時の郡治の有った場所だよ
つまり曹操はそこで政治をしてたってことだ
臧洪が東郡太守になった時も同じ場所で政務してるわけだね
関係ない他所の出来事ではないよね
>>594 その頃の状況は錯綜していて明確に断言はできないけど、臧洪が東郡太守に任じられたのは呂布と曹操が争ってた時のことだろ?
袁紹が曹操を追い出して臧洪を東郡大守に任じたわけではない。
曹操が袁紹の配下でなかった証拠は程cの言以上のものはない。
大小優劣はあっても互いに独立した勢力であった。
状況的なものもあるので時には協力したり時には要請に従ったりしたことはあったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
それだけのこと。
>>598 その程cの逸話がまずおかしい記述から始まってるので信用できないという話をしただろ
袁紹と曹操は既に連合して戦っていたという事実に反して
袁紹が曹操に連合を申し込んでいるので他に裏付けがない限り
程cの逸話は根拠にならない
では曹操の持ち物だと過程して袁術に招かれた臧洪が東郡の統治を任じられ
曹操が東郡太守していた時にも滞在していた東武陽に入ったのは何故か?
曹操が何時袁紹に自分の土地を明け渡し、何故明け渡し、どのような対価を受けたのか
君はそれを一切無視しているので全く話にならない
一箇所袁紹が袁術になってるので適当に直して読んでくれ
どう見ても曹操が袁紹の部下だって方が無理があると思うんだけど、なんでその説に拘るの?劉備厨は
そんなに曹操を袁紹の部下ってことにしときたいの?
何を提示しても「それは根拠が無い。根拠にならない。おかしい」
自分の説は「これが根拠。正しい」
曹操アンチの性格と頭の捻じ曲がり具合は見ててイライラする
程イク伝が何の為にあるのか・・・
捏造とも言いたいのかな?
┐(´〜`)┌ ヤレヤレ
>>601 無理はないよ
曹操は最初から独立勢力だったとする史観を無批判に受け入れて
これまでまともに考えてないから無理があると思うだけ
曹操と袁紹の地位のやり取りや、土地のやり取りを見れば自然とわかるでしょ
というかわかるように俺はちゃんと根拠も地名も出してる
無理がある、というのであればその無理があると思う部分を史料から拾って提示するといい
>>602 無根拠にイライラするなよ
ちゃんと根拠出して議論しようぜ
俺は正しくないと思えば反論するが、そっちの正しければ賛同もするさ
相手に論拠があれば受け入れるかのような言説を述べておいて
其の実、自身の論理を譲る気は毛頭無いことが透けて見える
そういう人っているよね
ここのスレ民に、議論が永遠に平行線を辿った時用のありがたい言葉を教えてあげよう。
お 前 が そ う 思 う な ら そ う な ん だ ろ う 。 お 前 ん 中 で は な 。
>>603 全てが捏造とは言わない、と上でも言っただろ
しかし、程c伝の該当箇所には明らかに武帝紀他の記述と食い違う状況になっている
これでは程c伝の逸話を丸ごと信用するのは無理だ
他の記述で裏取りしない限り、この逸話が正しいという前提で論理を組み立てることは出来ない
>>605 だって論拠無いのだもの
あるなら読むし意見や見解に相違があるなら批判もするよ
そして正しいと思えば賛同もするし、上手く説得されればコロっと転向するかもね
でも少なくともちゃんと議論する人誰もいないじゃない
思い込みでそんなことはない、という人や
ちゃんと史料批判しないでこれが証拠と言い張るだけじゃん
献帝を得てから曹操は、袁紹から独立したでいいのかな?
>>609 得てすぐは独立できてないと思う
官位のやり取り、献帝の置き場巡ってのやり取りがあるから
袁紹と同盟関係にある劉表の影響圏に手を突っ込み出した辺りから
徐々に独立色を強めたと言っていいんじゃないかな
劉表から支援受けてた頃もあったのにえげつないわ
えげつないわwww
お前がマンセーする劉備の方がえげつないんですがそれは
群雄にとってのえげつないは一種の褒め言葉だと思うけどなw
>>599 > その程cの逸話がまずおかしい記述から始まってるので信用できないという話をしただろ
曹操は袁紹の配下として行動していたという前提にたった時にだけ、その記述はおかしいという話になる。
つまりあなたの思考の因果関係が逆転してるだけ。
>>613 違うよ
「曹操と袁紹が連合してない」という前提に立った時以外おかしくなるんだよ
臣従してなくても既に彼らは連合して戦ってるのでね
>>614 > 臣従してなくても既に彼らは連合して戦ってるのでね
曹操は袁紹に臣従していないと理解してくれたんですね?
>>615 違うよ?
臣従の有無が今論点になってるけど臣従の有無とは無関係に
既に他の記述から曹操と袁紹が連合して戦っていた、ということだよ
そういう日本語読めてない反論にもならない反論はいらないので真正面からちゃんと史料使って議論しましょ
程c伝の逸話は最初から他の記事との相違があるから
これが信用できる証拠である、とするのは裏付けが必要だよ
>>616 連和、辞書的な意味では仲直りすること。
袁紹が実際に求めたもの、臣従。
かつて曹操と袁紹が連合して戦っていたことと、窮地に陥った曹操に対して袁紹が改めて「連和」を求めたこと。
別に矛盾しない。
>>617 辞書的な意味、ってお前どこの会社のなんて辞書引いたんだ?
連和を仲直りなんて意味にとるバカはいねぇよ
>>618 「新明解 漢和辞典」第二版第八刷。
「連合して仲なおりする」とある。
「和」ってのは「平和」とか「和睦」って単語でよく使うから
「仲直り」とか思い込んだのかもしれないけど漢文では普通「和」といったら
「一つになる」の意味だからなぁ
連和では連合のような意味になるし
これで一つの単語であるとするような漢和辞典もある
excite辞書でも「仲直り」とは書いてないな
>>619 それじゃ「辞書的な意味では仲直り」ではないだろ
辞書的には連合、連合を敵対勢力とする場合「仲直り」となるだけじゃん
で、曹操と袁紹が仲直りと主張するからには両者が喧嘩してるという根拠があるんだよね?
それは何?
>>620 いや、だから
>>619 文例として史記孟嘗君伝より「與呉連和復親薛公」が挙げられてる。
ちゃんと載ってるんだからオレに言われても困る。
ま、復の字があるから「仲なおり」と解してるのかもしれんがな。
>>622 それじゃ結局「仲直り」が辞書的な意味ではないだろ
あくまでも連合することが辞書的な意味で仲直りは副次的に起こる事
それにもし連和が仲直りだとすると曹操と袁紹でもう既に戦争状態に入ってるということになるけど
その戦争状態はどこで裏付けできるのかね?
>>621 > 曹操と袁紹が仲直りと主張するからには両者が喧嘩してるという根拠があるんだよね?
その質問がおかしい。
ある時共同でことに当たったからといってその後も半永久的に共同で動いている証拠にならない。
要するに曹操と袁紹は一時、共同で事に当たったがその時だけのこと。
それだけの事であって、曹操が窮地に陥ったのでこの機会に取り込もうとして「連和」の使者を送った。
何の不思議もない。
ちなみに袁紹がこの時に「連和」を欲し使者を送ったことは武帝紀にもある。
>>624 武帝紀も連和としてなってるのな
すっかり見落としてたわ
つまり魏としてはこの時の使者が袁紹からの臣従要請であって
曹操はそれでも独立を貫いたというのが国家の公式見解だと言えるね
ある時共同で事に当たっただけで共同してないという事は
曹操は東郡を自分のものとしてるということになるわけだけど
これを袁紹に譲ったのか説明できてないから、結局それでは曹操の独立性は証明できないけどね
>>623 論点を整理するよ?
もともとの発端は「曹操が袁紹を裏切った」というのは妥当かどうか?ということでしょ?
あなた、曹操は常に袁紹に臣従し動いていた。いずれかの時に曹操は袁紹を裏切った。
→袁紹が「連和」の使者を送ったことが矛盾に感じられる。
オレ(途中参加だけど)、曹操と袁紹は一時共同して事に当たったこともあるが、基本互いに独立した勢力で同盟を組んで常に行動を一にしていたわけではない。
→あなたが上げた疑問点を矛盾なく説明できる
あなたが上げるべきは曹操が袁紹に臣従していたきちんと根拠を挙げること。そしてそのことによって他の事柄を矛盾なく説明できなくてはいけない。
東郡太守が曹操独力のものでありこれを袁紹が追認したのである、とするのであれば
袁紹が招いた臧洪が同じく東郡太守となり同じく東武陽に入った時点で
曹操は独力で得たものを袁紹に譲り渡していた事になる
最初の根拠地の割譲をスルーしてる武帝紀とは一体ウゴゴゴってなるが
これが曹操がただの部下で東郡太守が任命されただけならば別に何の不思議もない
戦争で動員されまくるのも自然
>>625 > これを袁紹に譲ったのか説明できてないから、結局それでは曹操の独立性は証明できないけどね
その袁紹に譲ったというのが間違い。
そもそも臧洪は袁紹の配下ではないんだから。
上表して任じること≠配下。
>>629 では曹操は臧洪に譲った、ということになるわけだが
曹操は何故別勢力の袁紹が招きよせた臧洪に自分の根拠地を明け渡すんだ?
勝手に曹操の統治してる場所を弄くるのかい?
上表=配下ではないというのは確かに事実
しかし曹操が根拠地を得たのは上表のお陰
曹操と袁紹のケースではこれが上下関係の担保だろ
>>630 臧洪が東郡大守になったのは曹操はエン州牧になってるしょ?
>>631 相手の歓心を得るために上表をすることもあるだろ。
当時、まだ漢朝に揺れながらも権威は存在していたんだから、官位も土地も私物化できるわけでは、一応はであるが、ない。
>>632 エン州牧だからって袁紹が曹操の最初の根拠地だった東郡に太守任命してる事には変わりないでしょ
結局曹操と袁紹が別勢力だったら曹操のテリトリーに袁紹が手を突っ込んで好き勝手してることになる
相手の歓心を得るための上表というケースがあることは否定しない
しかし曹操と袁紹の関係ではそれは違う
曹操は上表によって土地を得てる
それ以前の曹操は根拠地すらなかった
曹操が袁紹の部下だということより、劉備が曹操の部下だということの方がよっぽど確実であり、
曹操が袁紹を裏切ったということより、劉備が曹操を裏切ったということの方がよっぽど確実なのに、
劉備狂信者は、曹操は袁紹の部下だけど劉備は曹操の部下じゃなくて、曹操は袁紹を裏切ったけど劉備は曹操を裏切ってないという、キチガイ理論をドヤ顔で展開する
>>634 曹操が袁紹の部下だけどね
袁紹は大将軍だから、それ以下の将軍は皆袁紹の言う事を聞かなければ本当はいけない
劉備は左将軍、曹操は車騎将軍だからどちらも袁紹の部下
劉備は序列に従い、袁紹の部下として戦ったし
曹操は序列を無視して群雄割拠の頃からの上位者袁紹を倒した
序列とかいう建前オヴ建前
曹操の庇護下にあったのにね
立場は献帝を擁立する曹操が一番上ですがなwwwww
劉備厨ってマジで頭ヤベーwwwww
袁紹さんは後漢体制の破壊神やぞwwwww
>>638 は???
いつの時点での話をしてんだ
曹操が献帝迎えた時は董卓死んでますがな
ここ会話が会話になってなくておもr−w
この頃の袁家の名望は凄まじいだろうしな。
曹操をそれに乗っかって時流を泳いだ感じだな。
漢末の傑出した群雄は袁紹が筆頭になるのか。
>>636 その建前が威力を発揮するから、献帝確保が大事な事だったって事忘れてない?
曹操の庇護下にあっても、大将軍という最高の将軍位は袁紹の物にさせられてしまった
というのが当時の両者の力関係が如実に表われてるね
>>637 献帝を擁していても尚覆せない立場の差が袁紹と曹操にはあったんだ
だからこそ、曹操は一度大将軍の地位に就こうとして
袁紹の遺憾の意で即座に袁紹に譲った
袁紹は後漢の破壊者、というのは一面ではあってるが一面ではあってない
袁紹が初期に取った政治的な立場は「董卓によって擁立された献帝は正統ではない」というもので
劉虞を皇帝に立てそれを最上位とするなど「後漢の皇帝」という存在は一貫して尊重している形式を取ってる
単なる破壊者ではなく既存権威を上手く転がして自分に有利になるように常に立ち回ってるんだよ
そもそも劉備が仕えてたのは袁紹じゃなくて曹操でしょ?
だから裏切りじゃん
>>644 そもそも劉備が仕えてたのは曹操ではないよ
徐州の時も袁紹に挨拶してるし徐州が奪われた後曹操の元に逃げ込むのは
同じ陣営で近いところに逃げただけだよ
袁紹大好きで曹操と並ぶ二大英雄と思ってる俺としては、曹操を貶めて劉備をムリヤリ正当化するようなバカの論説で袁紹の凄さを表現されるのが非常に不快
>>646 貶めてるとかそんな意思はないんだけどね
曹操が群雄として一人立ち出来るようになるのは
親殺しのような形で袁紹を打ち破ってからという事なんだ
>>633 > エン州牧だからって袁紹が曹操の最初の根拠地だった東郡に太守任命してる事には変わりないでしょ
まだ名目上は漢朝の権威は生きている。
袁紹閥、曹操閥もあるが、普通にどちらにも属さない漢臣もいるわけで、そうした中で高名な人物である臧洪を引き立てることは無意味ではない。
そこは政治なわけでゲームのようなテリトリーの切り取りあいじゃないんだよ。
肝心なことは袁紹が「連和」の名目を掲げて曹操を自分の地元に引き寄せて臣従させることを目論み、曹操はそれを断ったこと。
袁紹の上表を受けたのは確かに私的には恩を受けたであろうが、それはあくまで私の事。
これを持って袁紹が上位で曹操がその配下になったとは言えないし、誰も思わない。
精々、良好な関係を持っているという程度。
漢朝という名目はまだ十分に生きていたことを無視してはいけない。
>>648 漢の権威は生きているのは事実
だが曹操の影響圏に袁紹が手を突っ込むってのは
ゲーム的なテリトリーの切り取り合いでないとしても異常
というか上表によって曹操が根拠地を得た事を無視して
「上表されたのは配下になったとは言えない」ってのはないわ
以降も曹操の官位はしばらく袁紹が保証するのにそれを無視するのは異常
後漢ではそういう私的な恩で配下として動く人一杯いましたね
今みたいに公権力が一元的に国家を統治してないから
私的な恩義という横の連帯って大事な要素だよ
>>649,650
だからそういった私的な恩は曹操と袁紹の場合、精々良好な関係。
例の武帝紀や程c伝からそう解釈するしか無い。
>>651 そう解釈するのが間違ってるだろ
何で根拠地奪われて良好な関係になると思うんだよ
呂布の乱の前に曹操は夏侯惇を東郡太守としていたわけだが
ここで袁紹が勝手に東郡太守を任命出来ると言うのは
袁紹の権力が曹操を上回っていないと出来ないことだな
独立した一つの勢力で自分がちょっと前に任じた太守に対して
袁紹がミソ付けといて良好な関係ってどうやると保てると思ってんだ?
これ認めると勢力内部での任命権とかグラグラになって曹操の組織危うくなりそうなもんだが
>>653 張バクと陳宮が呂布を引き入れて曹操に反旗を翻した時の東郡大守は陳宮。
呂布と曹操が争ってる時に臧洪は旧恩ある張超(張バクの弟で曹操の包囲を受けていた)を救うため袁紹に救援を求めた。
しかし、袁紹は断ったため、臧洪は絶交、そして袁紹に攻められることになる。
以上のことから、臧洪が青州刺史から東郡大守に転任したのは曹操が東郡を失陥した後であり、その状況がめまぐるしく変わっていく中のこと。
>>654 太守は夏侯惇だよ
夏侯惇伝に東郡太守と書いてある
東郡太守夏侯惇が任を解かれたわけじゃないから
結局袁紹が曹操の邪魔してる事は依然変わりなし
>>655 夏侯惇はその後まもなく濮陽に転じてる。
が、陳宮の場合、当時「太祖初使宮將兵、留屯東郡」とはあるが、大守という表現はないな。
そこは訂正させてもらうわ。
>>656 何故太守がそれまでの郡治だった東武陽から濮陽に移動してるかはわからないが
太守から解任されたとかいう事はないしな
この人って本当に曹操が嫌いなんだろうなぁ…
もしくは劉備が好きで好きでたまらないのかなぁ…
曹操が嫌いでたまらない人間はむしろ袁紹と曹操の関係性についてなんて調べないけどな
好きだから調べるんだよ
その結果としてどんな答えが出たとしても、受け入れる
それも好きな証拠
この人が曹操のどんなところが好きなのか非常に気になるわ
劉備の踏み台になったからとかだろうけど
公孫サンなんかよく袁紹に敵対できたな。
幽州とか北方の辺境では、権威や名士の虚名なんかより実力主義だからかな?
むしろ袁紹が公孫サンによく敵対出来たなって話
公孫サンって後漢末期だと最強の騎兵軍団を抱えて
北方民族とガチで遣り合って勝って来た奴だし
ここで暴れてる人は劉備信者でも曹操アンチでもなくただの袁紹信者にしか見えない
〜信者とか〜アンチとかそういうレッテル張りは意味ないよ
意味があるのは史書に書いてあることだけ
その公孫瓚と戦ってほぼ全戦全勝なのが袁紹
麴義の存在も大きいけど
>>666 ところどころでは負けそうになったり死にそうになったりもしてるけど何とか踏みとどまってるね
公孫瓚は政治面ではゴミクズだし、得意な軍事面でも袁紹に負けまくりだしでダメダメだわ
界橋で負けるまでは公孫瓚の方が優勢で数多かったのにねぇ
公孫サンは重商主義の画期的な武将だという説あったな。
「まず隗より始めよ」の原則すら守れず人材が枯渇した公孫瓚
挙句の果てに劉虞惨殺で大チョンボ
劉虞はしょうがねーだろ。圧倒的な数で公孫サン攻めて負けたんだから。
助かるわけないんじゃねーの?
異民族や領民から好かれていた劉虞を、異民族や領民から嫌われていた公孫瓚が殺した、ってのが問題
劉虞が助かるわけないと言うなら、公孫瓚はもう詰んでたってことになるな
袁紹は曹操の為に戦ってないから同盟関係じゃなくて上司と部下だとか劉備厨は言うけど、
「初平4年(193年)または興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討伐した際に、袁紹は朱霊に3つの営を率いさせて曹操の救援に派遣し、朱霊は戦功を立てた。その後、他の部将たちは袁紹の下に帰還したが、朱霊は曹操の器量に惚れ込み、その家臣となった」とある。
曹操は曹操本人が救援に出たのに袁紹は本人が助けに来てくれないんだな
従属的同盟関係だった信長と家康だって信長本人が救援に来てくれるのにな
やっぱ袁紹は曹操のために戦ってないわ
劉備は徐州で曹操に恨み有る奴らに祭り上げられて
引くに引けないって感じ
その線はあるかもしれんね
>>675 それは信長と袁紹の性格の違いじゃね?w
というか公孫瓚がいるのに袁紹自身が南征できるわけがないだろ
バカなの?
曹操の徐州侵攻って曹操のためでなくハナから袁紹のためやろ
何でまだエン州南部が不安定な時期に東の徐州に飛ばされてんのやろな
>>679 どんだけ穿った味方をしてんだこいつ気持ち悪い・・・
>>679 頭おかしいの?
もはやなんでも有りだな
今までの議論ってどちらの言い分もそれなりに納得できたから見てて面白かったのに、想像以上のキチガイだったようだ
袁紹と劉備を使って曹操を矮小化するスレがこちらになります。
曹操アンチの皆さんは是非お立ち寄りください!
どうも少し前から見てると、自説を論理立てて展開して議論してる人と、それに追従したり持ち上げたりして頭悪い発言してるバカがいる
袁紹 公孫サン 袁術
曹操 劉備 孫堅
勢力、公孫サンだけが名門じゃないのに凄いな。
>>684 名門かそうでないかと言えば公孫サンも名門の出だが
代々二千石の家というのは後漢のトップエリートではないものの
一州の中でも数える程の名門だぞ
>>680-681 真面目な話で徐州侵攻は袁術との戦いの直後
まだエン州南部を全く曹操が制圧できてない時期の事なんだよ
袁術を南陽から追い出して袁術の影響下にあったエン州南部と荊州北部を
誰が確保するかというスピード勝負の時に放置して反対の東にある徐州まで出征
東郡を中心とした勢力である曹操が最も手近で喉元にある土地を無視して
徐州に進出して行くというのはいかにも不自然だよ
そもそも名門じゃないからなんだというのか
董卓の名門狩りに巻き込まれなかったどころか、董卓の支援で袁紹を滅亡寸前まで追い込んだくせに、純軍事的に敗北して主導権を奪われたというだけ
>>686 父親が殺されたのは何も関係ないということか
なんでそう断言できるのか不思議でならないよ
曹操アンチの色眼鏡とレッテル貼りは凄いよね
「お話にならない」とはああいう人種のこと
>>688 最初の遠征には関係ないことだね
曹嵩の死を理由にした遠征って二度目の徐州遠征の時
前年の徐州遠征の時はそういう家族的な理由ではない
拠烽フ戦いの時はまだ曹操は袁紹の部将みたいな立ち位置だと思う
でもだんだん自立していってると思うけどね
少なくとも劉備が裏切った時なんて完全に別勢力
>>684 腐っても劉備は漢の末裔でも名門ではないだろう
初平3年
春、匡亭にて袁術を打ち破る。袁術は九江に逃走
秋、陶謙が任城で略奪を働いたことに対して討伐軍を編成して遠征
>>679 九江まで逃走した袁術を気にして略奪を働く陶謙を放置する方が自然と?
ここは劉備のスレ…
劉備は恩知らず
以上
劉備マンセーの為には曹操を貶めないといけない辺りが劉備と劉備信者と三国志演義のショボさを物語っている
単独では劉備を持ち上げられないと言い表しているようなもの
>>693 袁術その物が問題じゃなくて袁術の影響が無くなってしまった場所が問題と上でも書いてるだろ
エン州南部は袁術が淮南の方へ移動して大勢力が無いから刈り取り放題、でも放置
本当は曹操も袁術討った後、帰ってエン州南部の定陶まで行ってるから
美味しい所占領したかっただろうにね
>>696 久々に来たら、粘着蜀アンチ完全復活している!
本当にゴキブリみたいな連中だな
というわけで、これを貼り付け
【妄操の定義】
1 三国志魏書武帝紀、三国演義の曹操を元ネタにした蒼天航路を元ネタにした妄想完璧超人
2 曹操患者に崇拝される偶像であり史的曹操から乖離した存在
【曹操患者七つの症例】
1 ネット右翼。妄操に自己同一化しているので、非常に高圧的、攻撃的
2 厨二病。漫画、小説と現実の区別がつかない。馬鹿すぎて単語を捏造
3 蜀アンチ。現状の曹操の再評価に不満。蜀の人気者に嫉妬している
4 非コミュ。テンションが異常で、すぐキレる。
5 ニート。平日の昼間、深夜に自作自演。常時揚げ足を取ろうと監視している
6 ホモ。敵の肛門に執着する
7 上記の症例より多分ピザ
【曹操患者の行動ガイドライン】
1 ダブルスタンダードな議論を行う。絶対に謝らない
2 ギブアンドテイクの概念がない。一方的にソース提出、証明、解説を要求して負荷をかける
3 自分の贔屓で基準を都合よく捻じ曲げる
4 中身のない妄想と言い訳で内容を水増しする。決め台詞、捨て台詞で煽る
5 相手のミスを必要以上に詰る
6 自分のミスを相手の理解力、読解力の問題に摩り替える
7 自分が叩かれると中立の第三者を偽装して自己弁護する
8 反論出来なくなったらメタ否定、相対化、可能性の強調、コピペで鸚鵡返し、対人論証、テーマの摩り替えをして反論したつもりになる
9 自分の敵に無期限に無制限に執拗に粘着する
10 自作自演で多数派工作する。単発IDを乱発する
11 板の総意を詐称して公然と反対者を誹謗中傷する
12 住人に偽装して分断工作する
13 自治に偽装してこのスレを廃止、移転、分割しようと企む
14 一般住人に偽装してこのスレを隔離しようと企む
ここにもマルチポストしてるキチガイが
>>697 その前年に袁紹と協力して陶謙や劉備らを打ち破ったものの彼らはまだすぐ隣りにいるわけで、一気に南下するわけには行かなかったんだろうな。
案の定、定陶まで戻ってきたのに陶謙らはエン州東部に侵入してきたわけだし。
>>700 そうだろうね
袁紹の戦いに参加しといて今度陶謙が弱そうなところから狙い撃ちして来たせいで
折角袁術追い出して美味しくいただくはずのエン州南部と南陽の攻略にほとんど取り掛かれず
南陽は完全に劉表に占領されてしまったし
>>701 あと潁川や汝南には袁術に通じていた黄巾の残党がいたしね。
袁術が九江まで下がっても空白地になったわけではない。
陶謙は袁術の下に居た?それとも連携してたんですか?
陶謙のとこには臧覇や陳親子のような逸材がいたのに全く使いこなせてない
それどころか笮融のようなどうしようもないやつを国相にする始末
まあ陳親子は袁術と敵対しまくってたから袁術派閥の陶謙としては使うわけにもいかなかったのかもしれんが…
劉備はとっとと陶謙から徐州を乗っ取って支配を安定させるべきだった
>>703 公孫賛と結んで袁紹と対立、袁術が袁紹が対立、劉表と袁術が対立、袁術が公孫賛と結ぶ、袁紹が劉表と結ぶ…
こんな感じで敵の敵は味方のドミノ倒しで状況が変わっていった。
で、一見二項対立で説明付けができそうだが、そうも行かない。
袁紹・曹操側の張バクが呂布を引き入れす曹操に反旗を翻す。
曹操と勝ち負けを繰り返すがやがて敗走を余儀なくされた呂布が劉備の庇護下に入る。
劉備は袁術と争う。
呂布は劉備の留守中に乗っ取り、曹操と対立していた劉備は曹操の庇護下に入る。
呂布は袁術と結んだり縁を切ったり、また結ぼうとしたり。
もうわやくちゃ。
劉備と呂布は梟雄だから分かりにくいが、
袁紹-劉表-曹操のライン、
袁術(孫策)-公孫瓚-陶謙のライン、
は分かりやすい
曹操が献帝を擁立すると曹操が陣営を移動して、
袁紹-劉表(張繍)と、
曹操-公孫瓚の状態に
公孫瓚は袁紹に滅ぼされるが、劉表が中原に送り込んだ張繍が賈詡のぶっ飛んだ知謀に従い曹操に下ったおかげで、袁紹と曹操が雌雄を決する状態に
曹操の背後は荀ケだけでなく臧覇や陳登が護っていて、孫策はおそらく陳登に殺されている
>>702 もちろん完全な空白地なんて存在しないからね
だからこそ曹操は素早く攻略して支配確定させないといけないのに
徐州まで袁紹の尻拭いに行かないと行けないって状況は相当嫌だったろうね
略奪を受けた任城の救援が袁紹の尻拭いか?
>>708 その略奪を受けること自体が袁紹からのとばっちり
袁紹に動員されて陶謙と戦争始めたら曹操の方に攻め込んできたからな
そして任城と泰山は元々曹操の統治する東郡から遠くて統治もまともに出来てない場所
折角袁術を追い出して近場に微妙な空隙が生まれてるのにわざわざ遠くに行く羽目に陥ってる
この時期での劉備と曹操はそれほど差がない気がする。
あるとしたら、曹操には荀イクが居て
劉備にはそれに代わるものが無かった位かな?
あ、あと任城の救援はしてないよ
「任城とかが略奪を受けた」ということを理由に「徐州」へ攻め込んでる
具体的にどこ攻めたかというのはわからない
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/10(日) 19:28:23.51
結局劉備は諸葛亮のような軍師を手に入れるのが遅かった事が飛躍の遅さの原因だと思う
諸葛亮を得たことが劉備飛躍の要因ではあっても
諸葛亮のような軍師は要因ではないと思うよ
諸葛亮って人は荊州の土豪の若手でもあるから
豪族の支持をちゃんと取り付けられて長坂のように
民衆がちゃんと劉備に付いて来てくれるようになった事がでかい
はいはい袁紹の尻拭い袁紹の尻拭い
袁紹マンセー!
劉備マンセー!
曹操は死ね!ってか
分かりやすいねぇ
>>714 何でそうなるの?
そういう下積みを経て大逆転で大勝利する曹操凄いじゃん
どうとでも解釈できることを断言調でさも自分の言説が真理のように語るのは蜀厨に共通した特徴です
どうとでも解釈できるのであれば君の解釈を出して
俺を批判すりゃいいじゃない
無駄なレッテル張りなんてやめようぜ
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/10(日) 23:24:04.65
劉備についてのおもしろい本教えてください。
諸葛孔明や曹操の本はたくさんあるのに、劉備をまるごと一冊扱った本って意外と少ないです。
三国志演義でさんざんマンセーされた劉備や諸葛亮を、今更現代で書いたってつまらん
劉備の面白さでいうと正史三国志が一番
次点が演義
他は大抵どちらかのデッドコピー
どのみち、曹操が袁紹の配下ってのは無理がある
袁紹の配下だった朱霊の曹操の器量に惚れ込み、その家臣となった件もそうだが、
荀ケや郭嘉が大業を成す事の出来ない人物だと袁紹を判断して、曹操の下に仕官している
曹操が袁紹の配下だとしたら、これほどおかしな行動はない
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/11(月) 04:41:25.11
曹操が袁紹の配下ってのは無理があるってのは同意だけど
>袁紹の配下だった朱霊の曹操の器量に惚れ込み、その家臣となった件もそうだが、
荀ケや郭嘉が大業を成す事の出来ない人物だと袁紹を判断して、曹操の下に仕官している
これらのエピソードは袁紹を貶めて曹操を持ち上げるために後から作られたエピソードっぽい気がするんだよなあ
俺も曹操が袁紹の配下ってのは無理があるってのは同意だけど
袁紹を貶めて曹操を持ち上げるために後から作られたエピソードがあるってのも同意
っていうか、荀ケが曹操に仕官したのは、袁紹陣営は人材豊富過ぎて出世出来ないからじゃないのかねぇ
諸葛亮が曹操に仕官せず劉備に仕えたのと同じだろ
まあ選択肢が無かった諸葛亮はともかく、数多ある選択肢から曹操を選んだ荀ケは流石だとは思うが
郭嘉は知らん
素行不良でフラフラしてたところを荀ケが引き込んだ可能性大
端的に言うと荀イクは邪悪というか野心家
牛後になるなら鶏口になろうとする奴
そして当時の袁紹周辺には鶏口がなかった
無ければ作ればいいと曹操を煽り立ててついには袁紹を倒してしまった
曹操が弱気になって妥協しようとする中、荀ケが叱咤激励したエピソードには事欠かないからね
曹操が袁紹に仕えたら荀ケは一度辞表を叩きつけたとこに舞い戻らないといけなくなる
それは嫌すぎる
既に郭図や荀ェら同郷の先輩が袁紹の側近におさまってる所へ荀ケや郭嘉がいっても、曹操から受けたような厚遇は望めなかったんだろうね。
曹操が親族と自分の財産で集めた兵士が数千人
個人的にこれだけ集められる人間は滅多にいないし
黒山賊を打ち破った実績もあるから太守にはしたが鈴を付けたい存在
というのが袁紹から見た初期の曹操だな
腹心である荀ェの弟の荀イクを送り込めば制御もし易いと思って送り込んでみれば
真っ先に裏切ってむしろ曹操を焚き付けて煽り反乱起こすまでに至るとは
袁紹も思いもしなかっただろう
袁紹としては自分は北で公孫瓚抑えないといけないから、曹操には南で袁術叩いて欲しいって思ってたんだろうけど
如何せん、曹操と荀ケは遠くに置いておくには能力が高すぎた
手元に置いておけば曹操は袁紹にとっての韓信になっただろうが
荀ケなんて張良と蕭何の双方を担ったような怪物だし
袁紹は劉邦みたいなボンクラじゃないからドリームパーティだっただろう
劉邦は劉邦であの時代の化け物だよ
項羽をまともに相手して持久戦できる程度には強いし
張良て軍師てよりも人材面の推挙の方と大まか政略の図面を立てた人物だしな。
しかも名門。
荀ケ、諸葛亮も豪族の名士だし。
誰か名士無しで天下統一してくれよ!!
曹操は上表して劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じたから劉備は曹操の家臣だ
っと同レベルで曹操が袁紹の配下と云うのはむちゃくちゃな話だw
>>731 それとは事情が違う
劉備はそれによって根拠地を得たり、実力を付けたわけではない
曹操は袁紹に上表されることによって根拠地を得て、実力を付けてった
>>732 曹操が豫州の牧にしてくれて呂布を倒してくれました。
曹操の命を受けて徐州へ赴いたが裏切って自立しました。
(この時に曹操を裏切った理由は曹操討伐の密勅に与っていたからということもできる)
一連の動きをみる限り劉備が独力で獲得したとはとても言えない状況。
ただし、不思議なほど名声を持ってはいるね。劉備は。
その名声が曹操に上表させる、または地元の支持を受ける原動力であった面は否めない。
一方、曹操は東郡の賊を討った後に袁紹の上表を持って大守になりました。
また、東方から侵攻してきた黄巾賊を討ってエン州の牧になりました。
どちらも袁紹の追認にすぎない。
全く、逆だな。
追認じゃないがな
曹操が独立してるなら支配地域だった東郡太守を袁紹が挿げ替えるなんてできないから
でも袁紹はそれをやった
つまり独立状態ではなかった
劉備スレなんだからもっとマシな議論しろよ…
じゃあお前がネタを振れよ
殺伐とさせるような言い方を好んでするのはどうなのか
>>734 臧洪が東郡大守時期になった時期が明確でない。
曹操がエン州刺史になった後の可能性が高いが断言はしない。
そして臧洪自身にも袁紹の部下であるという認識が薄い。
また臧洪からみても曹操が袁紹の配下でないことは、張超が曹操に囲まれた時に袁紹に救援を求めたことで明らか。
曹操が袁紹の配下ならば救援を求めるのではなく曹操の行動を止めるようようせいするはずだから。
要するに土地も官位も袁紹の私物ではないから。
彼の上表を受けてもそこに君臣関係は生まれない。
精々、関係が良化する程度。
>>738 関係ないよ
エン州牧曹操の領域に手を突っ込んでるんだから
曹操が袁紹に東郡渡したっていう明確な事実がない限り
曹操は袁紹に自分の占領してる土地を勝手に奪われてる
でも奪われたわけでもないから袁紹が曹操の主君だったってだけのこと
土地も官位も私物じゃないというのは間違い
仰ぐべき皇帝もなく、自らが皇帝でもないのに
勝手に太守を上表したりしてる奴が私物化してないとでも主張するのか?
ありえんわ
援軍を請うけど相手にされなかったって書いてあるだろ
そりゃそうだ、曹操は部下なんだから援軍依頼なんて相手にせんわ
これで袁紹が援軍出して曹操と衝突してれば部下でないと言えるけど
そうではないからな
まだ張バクや張超は反董卓連合旗揚げの頃の緩い横の連帯だと勘違いしてたんだろ
勘違いしてたw
なんじゃそりゃ
もう言説の前提をお前が覆さない限り、何を言っても無駄なんだな
>>739 どう見てもお前が公平な見方を出来てないってことを分かってるか?
キチガイ野郎
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/13(水) 00:23:08.80
曹操が袁紹の部下かどうかなんてぶっちゃけどうでもいいわ、別のスレでやれ
>>740 とりあえず俺の主張の核は東郡太守の任命に関する曹操の動きだな
袁紹が勝手に東郡太守任命しているのに対して何もしてないし
曹操も東郡太守にして貰った
追認だというのであれば曹操はこの東郡太守の任命に対して何らかの反応しないといけない
エン州牧になった後でも前でも曹操が独立して自身の支配域を袁紹に追認させてるのだから
袁紹の勝手な上表が通るわけもない
しかし袁紹の任命は実行され臧洪は東武陽で着任した
これが曹操の任命よりも袁紹の任命が上位にあるということの証明であり
これを崩さない限り曹操が袁紹の部下であることは変わらない
>>741 じゃあとりあえず東郡太守の任命に関する両者の動きに対して
俺の主張を論破してからにしようね
袁紹は反董卓連合結成の頃は味方に人質差し入れたり非常に立場弱い
これを知ってる人間は袁紹が圧倒的権力を数年で手に入れた事に気付かない
曹操は近くにいたからわかった
張バクや張超は理解してないから袁紹と喧嘩した
そして結局曹操と袁紹の関係を勘違いしたまま反乱を起こして
勘違いしたまま篭城して死んだ
違うスレでやれば
劉備とほとんど関係無い話になってんじゃん
>>739 >勝手に太守を上表したりしてる奴が私物化してないとでも主張するのか?
ありえんわ
なるほど、上表の意味も知らんのね
有用な士を推挙することは臣にとっても義務でもある。
推挙する方にも推挙される方にも通常どちらにもメリットがある。
エン州牧の曹操にとってもその下に有用な士がつくことは忌むべきことではなく対外的にもメリットが有る。
そういった視点が全く欠けてるな。
初歩的な質問で悪いが、そもそも州牧って、州内の太守の任免権持ってたの?
州牧=その州の支配者って荊州や益州はわかるが、中原でも確立してたんだろか?
袁紹や曹操は州牧よりも、将軍位を権威付けに使ってたイメージ。
スレタイを読み直せ
>>750 下の横山が光武帝スレと同じく、キチガイが荒らしてるから仕方がない
>>749 一応、世の乱れに対応するためこの時期、刺史から牧に改めてるわけだから、その州の監督や軍権も握っていたものと思われる。
ただ渤海太守袁紹は冀州牧韓馥を圧迫し追い出してる。
またエン州刺史劉岱は仲の悪い東郡太守橋瑁を殺し王肱を東郡太守につけてる。
また青州の黄巾賊の侵入を防ごうとして劉岱が戦死したあと、鮑信は曹操にエン州の「牧」を引き受けさせこれを防いだ。
ちなみにこの後、張バクらに引きこまれた呂布がエン州牧となり、呂布らを追い出した後、再び曹操がエン州の牧に任命されてる。
建前上は任命権は皇帝にあるが、実力も物を言っているんでなんともかんとも。
で、臧洪の件だが、東郡太守に転任した時期は陳宮らが呂布を引き入れて曹操に反旗を翻して以降の話だね。
臧洪は曹操とも仲が良いし、エン州支配を立て直すという意味では袁紹と対立してまで断る意味が無かった。
状況によって優勢劣勢はあっても、明確な上下関係があったと見なすのは飛躍がありすぎる。
おっと曹操と仲が良かったのは臧洪じゃなく張バクの方だったわ。失礼。
荀イク伝によると呂布の乱の時の東郡太守はまだ夏侯惇だったようだ。
>>747 当時の袁紹って献帝が不当な皇帝であるとしていて
劉虞擁立しようとしたりしてて上表する先がどこかすら不明だぞ?
曹操をエン州牧にした事すら、曹操が献帝擁立してから上表して事後承諾という有様だ
>>748 曹操がそれを受け入れてればそれでもいいんだが
東郡太守となった臧洪は太守として軍を発して曹操攻撃に出掛けようとした
この時許可せず止めたのは袁紹
曹操は受け入れどころか袁紹に頭越しに太守を任命され
その太守はエン州牧だと思われる曹操に反抗しようとしてる
上下関係が袁紹との間に存在してて曹操は東郡に何ら宗主権等支配力を及ぼせてない
これでもまだ東郡が曹操の支配地域を袁紹が追認したとでも言うのかな?
東郡は完全に袁紹支配下
>>749 んなもんはない
だが曹操も袁紹も皇帝と董卓に叛旗を翻して以降、好き放題やってて
勝手放題に任命してる
>>752 じゃあ曹操はただでさえ反乱で領地失ってさらに割譲したんだ
しかも実力で勝ち取った筈の根拠地を
ありえんな
>>755 曹操が勝手に任命してるのだよな
これで曹操の任命を差し置いて頭越しに袁紹が上表と言う名の任命で臧洪を太守にしてるのだから
曹操立場ないね
>>756 > 上下関係が袁紹との間に存在してて曹操は東郡に何ら宗主権等支配力を及ぼせてない
> これでもまだ東郡が曹操の支配地域を袁紹が追認したとでも言うのかな?
言うよ。
だって臧洪が東郡太守になったのは曹操がエン州の殆どを失い袁紹の庇護下に入ろうかどうか迷った時期じゃん。
相手の弱みにつけこんだだけ。
> じゃあ曹操はただでさえ反乱で領地失ってさらに割譲したんだ
> しかも実力で勝ち取った筈の根拠地を
> 曹操が勝手に任命してるのだよな
> これで曹操の任命を差し置いて頭越しに袁紹が上表と言う名の任命で臧洪を太守にしてるのだから
> 曹操立場ないね
まさに立場のない時期だったからね。
袁紹の申し出を断ってるんだからヘタしたら袁紹まで敵に回しかねない状況を回避できるならやむを得ないだろ?
あなたの意見は0か100かばかりだね。
>>757 結局跳ね除けたって逸話なのに東郡だけ割譲したとでも?
バカだろ
>>756 んで、あんたは良心的な日本人じゃないだろ
議論に熱くなり周りが見えなくなってる…
流石に白けるわ
ただでさえ支配領域を大きく失ったってのに
その逆転のための元手になる東群譲り渡してどうするんだ?
しかもそれで曹操が袁紹から何か得た記録もなし
というか譲ったという記録自体ないんだから当然だが
>>759 結局根拠なく曹操は東郡を袁紹に譲り渡したって言ってるだけだしなぁ
君の方が良心的でないよね
>>761 劉備スレっすけどww
曹操を熱心に語る馬鹿ww
>>757 袁紹まで敵に回るわけないだろ
曹操は袁紹が認めた東郡太守とかエン州牧だぞ
テコ入れやギョウに戻って幕僚になれって話はあるかもしれないが
敵にしたらそもそも曹操をこれまで任命してきた袁紹が任命責任問われちゃうよ?
独立勢力じゃないからそもそも東郡が曹操に帰属してないんだよ
普通、太守ってのは州牧や州刺史と上下関係ではなく査察を受ける立場だから
州牧曹操のエン州に袁紹が太守を指名するってのは
「袁紹を任命権者として曹操が査察・監督者」という関係で成り立つ状況
だから太守は袁紹の指示で動くんだし
>>762 じゃあ劉備ネタ振ってよ
この話題も劉備ネタからの発展なんだ
劉備が常に裏切り者とか言う人いて、そんなことはないというのが発端だしね
曹操と袁紹の争いの時に曹操を裏切ったとか言う人がいるけど
そもそも裏切り者は曹操で、劉備は元からの節義に従って袁紹に付いただけ
ということを説明するんだけど曹操が袁紹に臣従してたって事を理解できない人多くてね
だから5年も眠ってるスレなんだから眠らせておけばいいじゃん
曹操袁紹の話したくればそれ相応のスレでやれってこった
頭固い奴らだ
曹操と袁紹の関係の正しい認識が広まれば
劉備の理解ももっと深まるのだからむしろ劉備スレでやるべきことじゃね?
>>767 そこ袁紹スレであって袁紹と曹操の関係から
劉備の当時の立場を語るスレじゃないでしょ
今は袁紹と曹操の関係に重点置かれてるけど
最終的には劉備に行き着く話題だから劉備スレでいいんだよ
よくねーよ
良くないと思うのは君の自由
俺は合ってると思うので問題なし
過剰な誘導する自治厨みたいな真似はやめときな
>>763 > 敵にしたらそもそも曹操をこれまで任命してきた袁紹が任命責任問われちゃうよ?
任命した臧洪を攻めて生け捕りにして殺害してますが?
> 独立勢力じゃないからそもそも東郡が曹操に帰属してないんだよ
だから東郡を失った時期だって言ってんの。
ちなみにエン州の牧(自称かもしれんがw)は呂布です。
むしろ問題にするなら再びエン州の牧になり張超を破った後に臧洪を攻めたことの方だな。
>>764 > 曹操が袁紹に臣従してた
深い関係にはあったが臣従していなかったことは武帝紀や程c伝から明らか。
袁紹も曹操も公孫サンも劉表も袁術も陶謙も呂布も劉備も、それぞれ自分の都合で動いていた。
>>771 臧洪が命令違反どころか反逆したんだから断罪するだろ
それが組織ってもんだし
曹操は命令違反してないから敵にも出来ない
エン州牧は呂布側が自称してるが張超が囲まれてる頃にはもう曹操は州牧名乗ってる
袁紹は袁術との戦いでも顕著だが相手の影響下にある太守や刺史に
同じ地位の人間をぶつける事をよくやってる
同時に同じ地位を名乗る人間が存在してる
深い関係どころか上下関係があったんだよ
自分の都合じゃ手近なエン州南部捨てて徐州まで攻め込めないよ
公孫サンや陶謙相手に袁紹と一緒に戦うのが自分の都合とでも思うのか?
南陽で袁術が虎視眈々とエン州狙ってるのに青州や徐州まで出て?
ありえないわ
>>770 自分勝手はスレチの話題を永遠と続ける馬鹿どもなんだけどな
>>771の中には城を占拠して反乱する奴を敵としない世界があるらしいけど
現実世界はそんなに甘くない
まさかのネタスレ化w
>>772 > 公孫サンや陶謙相手に袁紹と一緒に戦うのが自分の都合とでも思うのか?
> 南陽で袁術が虎視眈々とエン州狙ってるのに青州や徐州まで出て?
徐州を攻めたのはいずれも袁術がはるか九江まで下がった後ですが?
一回目、エン州東部に陶謙らが侵攻。
二回目、東方をそのままにして南方を確保するより南方の脅威が無くなったのでまずは東方の脅威をなくす方を優先させただけだろ?
どちらにも一長一短の利がある。
>>777 公孫サンと陶謙の連合軍叩いた時に
高唐、平原、發干と動いてるのは確かに徐州までは行ってなかったね
これは言い過ぎだった
ただ袁術が南に控えてるのに北に大遠征するのが自己都合かい?
それから南方の脅威が無くなったので東方優先は嘘だね
曹操は一回定陶まで戻ってる
定陶はエン州南部で袁術の影響下にあった地域
それで陶謙が動き出したから舞い戻ってる
折角袁術排除したのに東へ行くハメに陥ってる
泰山郡とか自己都合どころか当時の曹操ならほっときたい土地だわな
エン州の東の端の泰山はエン州から見れば遠いんだが冀州から見ると非常に近い
冀州の安全保障的には泰山は守りたい土地だから
泰山の略奪に反応して曹操が動くってのは袁紹の便益を図ってる面が大きいよ
任城の方はそうでもないけどな
>>764 理解できない人が多くてね(キリッ
気持ち悪いいいいいいいいいいいいいい
自説を一つの捉え方じゃなくて唯一絶対の真理と思ってる劉備厨気持ち悪いいいいいいいいいいいいいい
自分の正義は世界の正義と思ってる自分勝手な女みたいなやつだよな
このスレに居座ってる「曹操は官渡まで袁紹の部将」主張者
>>781 俺はそこまで主張してないけど?
上でも献帝を手に入れてから徐々に離反してるって書いただろ
なあ、そろそろ「袁紹と曹操の上下関係」の話やめないか?
是非はともかく、どちらの意見も面白かったからさ。
まだ続けるなら別スレ立てたら?
んで、劉備ネタだが、徐州牧や豫州牧時代、配下を州内の郡太守に任命したりもしてたんだろか?
荊州時代以前で、劉備に任命された太守ってあんまり聞いたことないよね。
陳登とかがそうなのかな?
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/14(木) 02:29:35.51
劉備が徐州で、勢力を拡大するにはどうすれば良かったか
>>784 袁術と戦って勝つ。呂布を匿わず捕らえて曹操と結ぶ。
こんな感じではないかと。
>>785 曹操とはもう結んでるだろ
袁紹に許可貰ってるんだぞ
徐州で拡大するための第一は呂布でも袁術でもなく
陳一族をちゃんと味方に付けることだ
ついにあきれられて相手してくれる人がいなくなったなw
劉備は陶謙よりは臧覇や陳登の支持を得ていたと思うんだが、まあ呂布が一枚上手だったのかねぇ
その呂布は陳登と曹操に滅ぼされるけど
陳登は劉備好きだったけど一族の元締めである陳珪は大分見解が違うだろう
>>787 袁紹だの曹操だのスレチの話題だったしね
いやスレチではないよ
単に無根拠に違うって人が黙ったから話終わっただけで
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/16(土) 22:04:49.33
劉備が徐州で独立した時、曹操が来なかったらどうなっていたろうか
>>792 曹操が来なかったら袁紹と曹操で睨み合ってる間に徐州から青州、豫州へと劉備が攻めてって
最終的には曹操が潰されてただろうね
あの状況で曹操が楽になるには二方向からの圧力の内
どっちかを何とかするしかないってのは考えるまでもない話なわけで
官渡に臨むにあたって袁紹はかなりあちこちから手を廻していて、曹操はそれにキチンと対応している
曹操が劉備を独立勢力のまま放置するというのは現実味が無さすぎる
伸びてると思ったらやっぱり基地外が沸いてたのか
まあ三戦らしくていいけど
>いや、スレチじゃないよ
こんなのドヤ顔で言われたら一般常識の人がドン引きするわw
劉備ではなく、田楷が徐州の後継者になる可能性は無かったのでしょうか?
田楷の経歴知らんので可能性の有無はよくわからん
ただし劉備は若い頃から色々な経歴があって人脈もある
同じくらいかそれ以上でないと田楷の可能性は相当低くなるんではないかと思う
大体、劉備が陶謙の後を襲って徐州を支配するようになると、ついこの間まで戦っていた曹操が上表して鎮東将軍・宜城亭侯につけてるくらいだからな。
ちなみに曹操が1,2年後に鎮東将軍・費亭侯になってるんだよなw
劉備がいなけりゃ実力的にも名声的にも陳親子だろう、徐州は
>>797 ない。
そもそも田楷は(劉備もだが)公孫サンの家臣
陶謙の援軍として徐州に向かっただけで
陶謙が窮地を脱すると当然、公孫サンのもとに引き返す
恩知らずの劉備と違ってね
この公孫サン切りが劉備が劉備たる所以だよなぁ
梟雄の面目躍如というか
そういうこと言うとまた信者がやって来て劉備は裏切ってない云々言うからやめよう(提案)
いやここは裏切ってるでしょ
こここそ、最大の裏切りポイントじゃん
>>798 >>801 お答え、ありがとうございました。
もう一つ、陶謙は息子がいましたよね?
彼は劉備に対して異を唱えたりしなかったのでしょうか?
陶謙の子ども達に野心が無かったのは幸運だった
低脳な働き者が最もタチが悪い
>>805 そもそも刺史という官位を親子で相続できないだろ
それを無理通すまでの実力あるなら劉備にまで頼まんだろし
>>805 陶謙自身が土着って訳で無し、士大夫や地元の有力者の支持を得られなければ、
異を唱えてもどうにもならない
ただ、陶謙の息子たちが劉備の家臣になった記述はない事から
なにがあったのか推察するしかないな
託された息子たちをちゃんと守ったのか?劉備は
>>809 自分の地位も領土も守れなかった劉備が
陶謙の息子たちをどうやったら守れよう?
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/19(火) 01:31:55.60
これまで袁術派だった徐州が劉備が受け継ぐと袁紹派に鞍替えしたあたり
クーデターでもあったんじゃないかと勘繰りたくなる
>>811 袁術は陳氏敵に回してるだろ
普通に徐州の大姓と喧嘩おっぱじめたら神輿役もその方針に乗るっちゅーねん
下ヒ陳氏が陶謙に従ってなかったことがよく分かるな
臧覇もそうだが、殆ど独立勢力
徐州全土を陶謙が治めてた、は間違い
南はほぼ陳親子支配下
劉備は陶謙のようなバカではないので、陳氏とも臧覇とも友好を保った
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/03/20(水) 23:39:30.60
劉備の古参臣下って、関羽,張飛,簡雍,孫乾,糜竺の五人だけ?
他に徐州までの臣下っていないの?
>>812 敵に回しているとまでいえるか?
もともと交遊があり、配下になるように親書が贈られてきたが、圭が断っただけ。
袁術が大軍を持って徐州に侵攻してきたのは、呂布統治時代であとの話し
袁術は豫州を支配下に置いていたが、曹操に敗れたことでその影響力が衰え
その隙を狙って陶謙が豫州に劉備を送り込んで支配を企んだ
劉備が継ぐとき、袁術と仲違い状態になっていても当たり前の話し
恩を忘れて見限った公孫サン、当面の敵だった曹操、先任のせいで敵対することになった袁術
と、周囲は敵対勢力ばかりの状況
消去法で袁紹にすがるしかないな
いや、袁術は何回も徐州に侵攻してきてます
孫策も孫権もだけど
そして毎回、陳親子が撃退してる
>>815 陳珪の従弟を散々攻撃しといて敵に回してない、はないだろ
いつの話をしてんだか
陶謙が豫州に劉備を送り込む前に何回も侵攻してるってのか?
>>818 袁術が揚州に行った時に抵抗したのが陳珪の従弟、陳ウ
袁術はこの陳ウを散々攻撃して、陳ウの弟を逮捕してる
結局、陳ウは陳珪の元に亡命することになった
これが陶謙生前の出来事で劉備を豫州に送り込む前年
>>819 袁術の命で揚州刺史に登用された
にも関わらず袁術が曹操に破れて揚州すると
他の多くは袁術に呼応したのにこれを拒み
袁術が兵を集めて寿春城に迫ると、弟を使者として和を請う
弟が捕縛されると恐れて逃亡した
これで敵に回るってなら完全な逆恨みでしかねーな
何が言いたいんだか
要するに袁術と陳氏は明確に敵対してんだよ
してないと思ってるのはお前だけだ
>>820 ここで言うべきは恨みの原因が妥当かどうか、なんて話じゃない
そういう摩り替えを行うべきでない
論点は彼らが敵対してるかどうかだろ?
敵対はしてるよね
>>813 臧覇は陶謙の元配下だし,「泰山諸将」として自立した時期も分からない。
そもそも陶謙生存時から自立していたのなら,どうやって劉備が徐州を救援できたのかと。
今まで、徐州内部での勢力分布て考えたことなかったです。
どなたか、わかり易くご説明頂ければありがたいです。
陶謙、劉備 トップ
陳氏 有力豪族
臧覇 泰山山賊?
ケッセン 山賊?
>>824 沛→國相陳珪(一応陶謙に服属?)
琅邪→臧霸ら泰山諸将が開陽を居城に支配(一応陶謙に服属?)
東海→徐州牧陶謙が郯を居城に支配(國相は蕭建?)
下邳→國相笮融(陶謙配下)
彭城→國相薛礼(陶謙配下?)
広陵→太守趙c(陶謙故吏)
※笮融は下邳・彭城・広陵の監督権も与えられてる。
闕宣(下邳の豪族?当初は陶謙と結ぶも天子を自称した為に討たれた)
この六郡国が陶謙の支配地域。ただ琅邪はかなり怪しいし、
南部三郡も宗教家の笮融が大きな権限を握っているので、
陶謙がしっかりと掌握してたのは東海のみだろう。
陶謙が虎の子の丹楊兵を劉備に与えて沛に置いたのは、
動向の怪しい陳珪を抑え込んで東海に加え沛國もがっちり掌握しようとしたのかも。
臧覇は陶謙の元で黄巾征伐したけど、陶謙が逆賊と組んで臧覇の故郷泰山で略奪行為とかやったことで愛想尽かしたんだろうな
南部は陳氏の支配下なんだけど、陳氏を統率できない陶謙が代案として笮融などというどうしようもないやつを派遣したという形
>>825 すいません、遅くなりましたが御丁寧な解説ありがとうございました!
凄いわかり易かったです。
そして流浪の呂布が割り込んで劉備から徐州を奪うんですよね?
所詮、流浪の基盤のない呂布が奪えるのちょっと信じられないです。
曹操だって荀ケと夏侯惇と程cと李一族の神懸かり的な対応力と奮戦がなかったら呂布にあっさり本拠地奪われてたよ
そんだけ呂布には名声と実力があった
陳宮は戦が上手いわけではないが、謀略手腕はあるし
>>829 呂布、徐州軍部の重鎮である曹豹の娘を妾に迎えてるから
軍部を掌握しきれていないのに侵攻してくる袁術の迎撃のため
豫州に出向いた劉備の失策
>>529 じゃあ劉備に基盤あったか、というと徐州全土が劉備の基盤だったのではないってこともわかるじゃん?
ということは劉備の基盤部分落として、他に劉備の代わりのリーダーと認めて貰えば
もうそれだけで徐州制圧完了ってことになるわけ
>>830 呂布に対して過大評価だぞ
兗州の対曹操との攻防は兗州の有力者である張邈の協力があってこそ
呂布単独じゃそこまでできやせん
やっと本来通り過疎スレになった
劉備に推挙されて官職についた人間で、実質臣下といえる最初って誰だろ?
やっぱ荊州時代以降?
糜 竺じゃない?
いや正直テキトーだが
>>836 陶謙に招かれ、別駕従事の職についている。
孫乾かな
劉備が徐州刺史となったとき、招聘を受けて従事になってる。
簡雍ら旗揚げから組はいつから官職に就いたかわからん。
>>837 孫乾は鄭玄コネクションで招かれたのかな?
簡雍は伝で荊州時代に従事になったってあるね。
それまでの官職は不明だけど。
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/04/07(日) 23:50:38.19
糜竺は部下というよりパトロン
糜竺とか軍を率いられない人物はほとんどメディアにとりあげられないけど
魅力的な人物だったんだろうね
曹操には厚遇され、劉備には別格扱いされた
劉備の場合は糜夫人の影響もあったのだろうか
そんな糜竺も結構高位の将軍になってる。
蜀の将軍位って、高級武官というより身分を表してる感じがあるよね。
保守
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/11(土) 00:10:08.02
羅憲ばりの保守
カク昭ばりの保守
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/11(土) 21:35:10.83
劉備ほど三国時代の英雄と会っている人物って居ないんじゃないの
ある意味顔の広さにおいては最強
英雄っていうか、勢力の領袖達とはかなり(一時的でも)交流があるね。
公孫サン、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表、孫権、劉璋、馬超…
交流ないのは敵対してた袁術や、関係ない董卓、馬騰、韓遂ぐらいか?
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/13(月) 02:09:25.06
劉備ってアニメ界で言えば色んな大物と交流持った庵野秀明みたいなもんだな
当時の中国領内のほぼ全域を人生かけて渡り歩いてるからなあ
それだけでも後世の人間からすれば興味深い人物だ
交州には行ったことないけど行こうとしてたよね
廬粛に引き留められなければ交州に逃げるつもりだったんだっけ
誰だそれwww
名前が色々混じってるぞ
呉巨とはどこで知り合ったんだろね?
理系的に見れば曹操、孫建より劉備のほうがより理系的
劉備は直感的なイメージがあるな
情報の整理や現場での判断は優れてるから、損得勘定や戦争は強いけど
情報をゼロから掘り出してきたり、長期的な計画は苦手なイメージ
>>854 しかし劉備が本領発揮してる戦いは入蜀、漢中と長期戦だな
夷陵でも陸遜が途中匙投げかけるレベルで押してる
長期的っていうのはあれだよ
天下三分の計レベルの生涯掛けてのビジョンというか戦略というか
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/21(火) 15:25:35.84
劉備は服装にはこだわってて、いつもシャレた格好をしていたらしいな
逆に曹操は全く服装にこだわらないタイプ。いつも軽装で小物を腰にぶら下げる品の無さだったらしい
しゃれたヘアバンをルンルン気分で結んでたら
諸葛亮にたしなめられたんだっけか
>>855 >夷陵でも陸遜が途中匙投げかけるレベルで押してる
ん〜?これマジ?
>>859 陸遜は持久戦しようとしてたんだけど諸将の突き上げで攻め込まざるを得なくなってる
遜曰「備是猾虜,更嘗事多,其軍始集,思慮精專,未可干也。
今住已久,不得我便,兵疲意沮,計不復生,[牛奇]角此寇,正在今日。」
持久戦を諸将に主張してる時に「まだ策なんてないのに攻め込めない!」
って半分泣き言みたいなこと言ってるのに
結局押し切られてしょうがなしに劉備の陣に攻め込むって言ってるわけ
もうどうにでもなーれ状態
んで強引に攻め込んで、やっぱり防がれてしまった
この時に攻撃を主張した諸将は兵を犬死させたと嘆くのだけど
逆に攻撃に反対してた陸遜は劉備の陣の欠点に気付いて焼き討ちを思い付き大勝
ってのが陸遜伝の大まかな流れ
その「計復た生ぜず」云々は劉備の事を言ってるんじゃないの。
>>860 あ〜、その流れでしたか。
劉備軍は、イリョウ、ロウテイに布陣するまでは連勝してたんですよね
>「まだ策なんてないのに攻め込めない!」
これって、持久戦に持ち込んで疲れて隙ができたら焼き討ち・・・って策があったんじゃなかったのか
>>863 その「まだ策なんてないのに攻め込めない!」 てのは劉備の話よ。
陸遜は
「劉備は狡猾にして経験豊富であり、侵攻してきた当初はあたるべからざる勢いがあった。
だが対陣する事長きに至っても、我が軍に付け入る隙を見いだせず、兵は疲れ意気は緩み、
打開策もまた立てられずにいる。この賊を挟撃にかける時はまさに今である」と言ってる。
手詰まりだったのは寧ろ劉備と言えるんじゃないかな。
ふむふむ。
相手に守られると、攻める手段がなくなるのが劉備なのか。
逆に火攻めしちゃえばよかったのにな
>>865 劉備は同時期に黄権を使って北に向かわせたりしてるし
手詰まりとかってわけではない
>>866 守られると攻め手が色々苦しむのは戦争の基本
劉備個人の問題じゃなくてこの時代の科学技術的な要因で起こること
公孫述も夷陵で手詰まりになって舟焼かれて撤退してたなぁ。
夷陵に蓋されると身動きできなくなる地形なんだろう。
シキからオウテイへの道って、岩山に穴掘って桟道にしてる所があるのな。
行き来するのでさえ難しい・・・
>>867 > 劉備は同時期に黄権を使って北に向かわせたりしてるし
> 手詰まりとかってわけではない
黄権を北に向かわせたのは、諫言が疎ましかったからの左遷で
次の展望があったとする材料にはならない
そもそも、黄権を北に追いやった名目は魏への押さえ
>>870 疎ましかったって黄権が劉備と作戦立ててる段階で
「俺が先鋒やるから後からゆっくり来てよ」って言うと諫言になるとでも?
>>871 長江の流れに乗って攻める時は良いですが、退却するときが難しくなります。
しかし黄権は惜しいよな。
法正亡き後の軍事面の補佐はかなり期待できたのに。
横光漫画だと、前歯を折った人としか印象がないけど、実際は凄い優秀なのね。
シバイが諸葛亮に宛てた手紙で賞賛してたとか・・・?
>>875 定軍山で夏侯淵を破った策の言いだしっぺは黄権とされているからね
蜀陣営で戦術・戦略に通じた貴重な人物だったと思う
「3巴攻略から夏侯淵撃破までは黄権の謀を基にした」とは書いてあるけど、
どうなのかなとは思う。
だって劉備の漢中戦は最初陽平関やその周辺を攻略する策戦でいって膠着する、という第1段階
諸葛亮から援軍をもらって大幅に主攻軸を切り替え、夏侯淵を釣り出して撃破した第2段階、の2段階で進んでおり、
黄権が前もって漢中攻略の策を進言していたなら、それは第一段階の事であって
第2段階の事ではないはず。実際に第2段階における策戦の進言で登場するのは法正だし、
曹操だって法正をはばかっている。「基にした」とあるようにあくまでも下地になった、という感じなんじゃないの。
>>877 黄権の漢中獲るべしは張魯が曹操に降る前の話じゃなかったっけ?
黄権が援軍として向かう途中で張魯が曹操に降っちゃってポシャる。
ただ、方針として漢中を確保しようと挙げたのは黄権が最初期の一人だったということなのではないかな?
黄権もだがフウ習(漢字出ない)も痛いね。
夷陵は色々と致命的過ぎる。
馮習って有能だったのかどうかわからないんじゃない?
まあ、あの状況で選ばれるんだから、それなりの人物だったとは思うが。
あらためて劉備にはもうちょい長生きしてほしかったと思った
このスレ読んでると特にね
蜀獲りに諸葛亮を呼ばないで関羽を呼んでいたらどうなっていただろうね
荊州がもっと早く落ちてた
それはないだろ
諸葛亮が留守番だから・・・ケイシュウが獲られる条件のハンジョウ攻めが無くね?
隙を見せなければ大丈夫なんじゃないかな?
諸葛亮は政治屋だって意見が多い昨今だけど、
なんだかんだと戦争も下手ではないと思う
関羽ほどもろくはなかったと思う
少なくとも裏切りの連鎖はなかっただろう
>>885 政治屋だって言ってる連中は基本アホだから意見は多いだけで価値はないけどな
劉備が戦争下手の裏切り者っていうのと同じくらい間違った見識
>>885 実際は政治屋じゃないよ。
史書だと政の諸葛亮、みたいな書かれ方してるけど、丞相以前の経歴を見ればわかるように完全に軍事寄りの人間。
>>884 樊城攻めは劉備の漢中奪取と連動してるから、たとえ諸葛亮が荊州守ってても何らか軍事行動はあったはず。
その際、孫呉と友好が保ててたとしても、諸葛亮が曹仁、于禁、徐晃達相手にどこまでやれるか微妙。
荊州を守りきれるのは、やっぱ劉備か彼と同等の能力を持つ人間じゃないと無理だったじゃないか。
>>888 >樊城攻めは劉備の漢中奪取と連動してるから
してるっけ?史実で見るなら関羽は劉備が漢中王即位して前将軍になり、節を授けられた事で
独自の軍事行動に打って出た感じに見えるけど。
>>889 華陽国志を読むと関羽が仮節鉞と前将軍の印綬を貰うのは「曹仁包囲中」という記事が載ってるから
軍事行動は完全に劉備の命令、連動
>>890 いや、少なくとも劉備が漢中王に即位した後に関羽が動いてるのは明らかだし、
そもそも正史でいうなら劉備からの使いが荊州で
前将軍の位を授ける事を関羽に説得してるけど。
>>891 明らかじゃない事を明らかと言ってどうする
どこに何時なんて書いてあるんだ?
>>891 関羽伝、費詩伝いずれにも関羽がどこで印綬を受けたかの記述は厳密には無い。
>>892 関羽伝では「24年、劉備が漢中王に即位した。劉備は関羽を前将軍、仮節とした。
この年、関羽は軍を率いて曹仁を樊において攻めた。于禁が救援に派遣された。
秋に大雨が降って漢水が氾濫した。」とあり、
明らかに漢中王即位の後に見えるけど。
この動きを劉備の伝と照らし合わせてみるならば
「秋に劉備が漢中王になった」とあり、さらに曹仁の伝と照らすと
「関羽に樊を攻められた。時に漢水が暴れて于禁の7軍が水没した。」とあって
関羽の攻撃と漢水の氾濫まではそれ程間が無いように見える。
これらを見れば関羽の樊攻撃は劉備の漢中王即位の後、
少なくとも漢中攻めと同時並行したものではなかったと思われるが?
華陽国志からの引用文をコピペっておこう
關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。
又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。其餘各進官號。
軍師諸葛亮曰:「黄忠名望,本非關張馬超之倫也。
今張馬在近,親見其功,猶可諭*指。
關遙聞之,恐必不ス。」先主曰:「吾自解之。」
時關羽自江陵圍曹仁於樊城。
※諭*は口に兪
(劉備は漢中王に即位すると)関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍として皆に仮節鉞を授けた。
また、黄忠は後将軍、趙雲は翊軍将軍とした。他にも皆昇進した。
軍師(将軍)諸葛亮は「黄忠は名望があるものの、関羽、張飛、馬超とは同類には出来ない。
今、張飛と馬超は近くにいて、その功績を良く見ているから説得もできる。
しかし関羽は遠くにいてこの事を聞けば必ず不満を持つでしょう」と進言した。
劉備は「俺が説得するよ」と言った。
これは関羽が江陵から出撃し、曹仁を樊城において包囲していた時の事である
(三国志武帝紀によれば曹仁が包囲されるのは建安24年7月以降)
関羽に攻撃命令を出してる様には見えませんね。
独自の判断で行動したと見るしか?
>>897 軍事行動は、上層部の命令があって行われるのが当たり前でしょ?
そして薄記の時代では、当たり前の事は記述を省くのが普通
上層部に意向を伺わず独断で勝手に行動したとすればかなり特殊な事例
命令無しなら無しと、記述がありそうなものだけど?
記述がないから命令はなかったと考えるより、
記述がない事は記述する必要がない普通の事と考える方が正解なんじゃないかな?
>>898 なら漢中王即位した後で前将軍任命とかの使者を派遣してる事でもあるし、
その時に命令してもよかったんじゃないの。
それ以前に動いてるとしたら、劉備側の動きと妙なズレがあるというか。
>>899 曹操が長安にいると簡単に曹仁救援できるけど
曹操が劉備に引き付けられて漢中に向かって帰ってくる間に曹仁を包囲してしまえば
今度は曹操が劉備に追撃のリスク背負いながら救援送るしかない
むしろ劉備側と妙なズレと君が表現するように多少のズレがないといけない
>>900 派遣された7軍は別に劉備との漢中戦役に同行していた連中じゃないと思うけど。
関羽との戦闘を開始するのがやたらと早いし。
時期的に見ても曹操が漢中遠征から帰還する途中で援軍送った、ってわけでもないから、
曹操が追撃のリスクを背負いながら救援送ったわけでもないのでは?
>>902 いや、7軍の話をしないと、
>今度は曹操が劉備に追撃のリスク背負いながら救援送るしかない
という話とつながらないじゃん。どうすんんだよ、これ。
>>903 于禁じゃなくて徐晃とかいるだろ
于禁のようにどこに居た奴かなんてわからん奴について語ってないよ
どうせそこで詰まってもめるんだし
>>904 徐晃だって別に漢中から荊州に直行したわけじゃないと思うけど。
徐晃伝を見る限り一旦帰還してから、曹操の命令を受けて宛に駐屯したと見るべきじゃないの。
>>905 漢中から直行するわけないだろ
曹操は長安戻ってから于禁に指令出してるし
自分で長安から荊州に向かいながら徐晃を先行させてる
>>906 >>906 それじゃあ、結局のところ、
>今度は曹操が劉備に追撃のリスク背負いながら救援送るしかない
って事になってないじゃん。全然整合性取れてないだろw
つーか、俺は平日休みだけど、お前ってやっぱり365日24時間ネットにいるのなw
>>907 俺は平日休みだけどお前ってやっぱり365日24時間ネットにいるのな
>>908 いうに事欠いて鸚鵡返しとかww
本当に図星だったみたいだなwww
悪かったな、ネット廃人さんw
>>909 そんなに草生やして本当に図星だったみたいだなwww
>>910 必死になって鸚鵡返しするあたり、もはや完全に図星で手札がないようだなww
所詮は馬鹿丸出しのネット廃人は
24時間365日ネットに張り付いているのが確定のようで笑える事この上ないなww
>>911 相手に対する罵倒で真っ先に出る言葉は普段自分がコンプレックスにしていることらしいな
他所でやれ
>>912 それはただ単にお前の妄想と願望w
俺はただ単に普通にお前が365日24時間張り付いて発狂してるネット廃人だから
その「事実」を「指摘」してるんであって、「罵倒」してるわけじゃないんだけどw
しかしまあ、本当にお前って言われてむかついた事を発狂して鸚鵡返しするのって
そういう妄想願望に基づくものだったのかよwwマジで笑えるwwさすがはネット廃人だなww
馬鹿丸出しの妄言をはく前に、「罵倒」と「事実の指摘」の明確な違いを知る事だなw
そうすりゃ、お前に対してネット廃人だという人間の言葉が、
お前のレス振りから類推される単なる事実を指摘してるだけだと理解できるだろうよww