1 :
無名武将@お腹せっぷく:
呉について語り尽くそう
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 02:25:37
呉班
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 08:13:46
呉懿
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 09:57:18
呉蘭
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 10:04:01
呉景
呉て天下取れるチャンスあったのは周湯が生きてた時くらいか
あと陸遜を何処かに追いやったのはダメだったね
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 15:03:28
陸遜大好き
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/26(土) 15:15:22
広島のスレだろ
呉壱
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 01:38:33
呉が天下を取れなかった理由を教えろ
孫策時代なら天下取れる可能性はあった
孫権から領土を広めず力を蓄えるようになった
それは誤解
江夏の黄祖討ったのも荊州政策に乗り出したのも孫権の代からだし
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 11:35:19
それは誤解
江夏の黄祖討ったのは孫策の代から
荊州政策に乗り出したのは孫堅の代から
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 12:42:02
それは誤解
江夏の黄祖討ったのは孫策の代から
荊州政策に乗り出したのは孫堅の代から
朱然の代からだよ
とりあえず呉は勇猛な将が少なかったんじゃないか
孫策が早死にしてのは痛かったのでは
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/29(火) 22:36:29
あげ
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 18:01:31
呉は天下を取れた
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 01:29:36
呉て地味だよね
どこでどうしたら天下取れたんだ
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 22:46:06
呉は赤壁の後、合否落としてれば、
天下二分系が成功していれば天下を取れた。
ガッヒてやっぱ重要拠点なん?
そう言えば呉はケイシュウ手に入れたにしてはその後の動きがしょぼいよなw
仮に蜀がケイシュウ持ってたら、ケイシュウと蜀から同時攻撃とかしてそうだけどな
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 01:26:59
>>22 中原が手に入るのは大きいだろ。
そこから中原制覇なりしていけば天下取れたよ。
合肥が重要かどうか。これは重要と言えば重要だろうね。
合肥までは河川と湖によって水路が通じているので、
南方から物資や兵員を輸送するのに便利、と言うか、
軍隊が作戦行動をする際に物資を輸送しようと思ったら、
水路を使わない限りは非常な困難に直面する事になる。
ただし、後年の作戦行動を見れば分かるけど、
合肥は必ずしも陥落させなければならない拠点ではなく、
場合によっては(恐らく)小規模な監視を置くのみで寿春まで前進できる。
じゃどうすれば呉は天下取れたんだ?
孫堅 死んだのは痛い? そん策が長生きしてれば良かった?
孫権は戦争しなさすぎだった??
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 02:53:18
早死にが多すぎ
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 03:32:57
当時の江南は後進地域だから、独力で戦争しても勝ち目は薄い。
結局、諸侯分立の時期ならばともかく、曹魏が中原を押さえてしまった
時点でほとんど勝ち目無いだろ。
孫堅〜孫策の代で荊州を押さえてないとどう考えても無理。
少なくとも、袁紹存命中までにある程度の領土を切り取り、
徐州か荊州(可能であれば両方)を押さえておかなければ天下統一なんて不可能。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 04:10:21
民俗学的に早死が多い理由を分析できますか?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 10:04:31
風土病なのかねえ、やはり。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 12:19:06
やっぱり腹の中に乳酸菌飼わないと長生きは難しい
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/03(土) 11:54:54
残念ですね
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/03(土) 12:11:02
>28 曹氏も司馬氏も一部を除いて早死にじゃないか。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/03(土) 13:06:27
先日観光で呉や江田島に来た人が言ってた。。
フェリーでパンツが見える格好のズボン姿の
中学生、無愛想で味も素っ気もない呉の人間
ってどこか疑う。。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/03(土) 13:35:39
殺人、ケンカ、窃盗・・犯罪検挙率極めて高い。
気性荒い、血の気が多い、粗雑、乱暴、やくざもの
被差別部落、異常に気高い妙な子供、女、産業廃棄物
海賊の子孫、犯罪者の隠れ家、殺人事件迷宮入り地区
交通事故多発地帯、ひき逃げ、当て逃げ日常茶飯事
極道くずれ、漁師、解体工、前科者、チンピラの吹き溜まり
博打、賭博、暴力団関係者の根城、変質者、ごろつき
そこらじゅうタバコ、ごみの散らかし、のん兵衛、
トラック、ダンプカー、タクシー、ハイヤーの運転手
の集まり、違法派遣、請負労働の横行、置き引き、万引き
窃盗犯の憩いの場、見てみぬ振り、知らぬ存ぜぬの警察、
我先にと競いあう公共の場、無秩序、底辺社会。。。
日本国憲法とは独立した醜部、恥部な町、国の恥部落。
外道の巣喰う前世紀以前の異物、異端住民。
半世紀連続絶対住みたくない場所ベスト10。
呉がよかったのは終戦直後までの話。。。。。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/05(月) 16:26:03
呉って強いよね
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/05(月) 19:13:04
赤壁とか
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/05(月) 19:35:26
防衛戦に強いのはどこも同じだな
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/06(火) 16:34:44
だったら、劉備も曹操に攻められたらかってるはずだよね?ほとんど負けてるけど。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/06(火) 23:34:48
その代わり漢中とかは勝ってるよ。
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/07(水) 21:55:55
火計大好き〜!
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/10(土) 11:57:20
呉は孫武と伍子胥の頃が最強
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/12(月) 12:28:59
夫差になってから落ちぶれた呉
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/12(月) 14:40:32
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/13(火) 00:25:09
日本の戦国時代の甲斐武田家も
信玄が全盛期で次の代の勝頼で滅んでいるよ
呉の最盛期は伍子胥がいた夫差の時
落ちぶれたのは伍子胥がいなくなった夫差の時
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/13(火) 23:40:36
つまり伍子胥最強でFA
伍子胥て
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/16(金) 00:39:34
つまり孫武最強でFA
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/17(土) 17:38:45
その当時の呉よりも
三国時代の呉の方が強いよ
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/17(土) 18:02:02
その当時の呉は覇者になりかけたんだから当時の呉の方強いだろ
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/18(日) 18:31:34
春秋時代の呉は楚を併合できなかった
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 22:03:58
覇者になれなかった呉
三州を制覇し皇帝になった呉
どちらが強いか
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 23:07:26
なんでここまでゆとりが沸くのだろうか
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 04:08:27
皇帝は自称だからなあ。
それなら、5代軍閥なんて魏や呉と同等の強さになる。
そして、覇者になるということは他人に認められるわけでしょ。
そして、楚を併合しかけたのは事実だ。
無双厨か肥信者か
いずれにせよ中国史知らん奴だろ
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 08:13:37
結局は覇者にもなれず楚を併合できず夫差の代で滅んだ戦国時代呉。
日本でいえば甲斐武田家みたいな強さか。
結局統一もできずいたずらに乱世を長引かせ晋に滅ぼされた三国時代呉。
日本でいえば奥州大崎家みたいな強さか。
どっちでもいいよ、しょせん呉なんて辺境地方政権なんだし
華南から興った中華帝国が明だけな時点で華北>華南は確定事項
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 09:23:32
三国呉の方が強いとは思うけど相対的な強さは 春秋呉>>>>>>>>>>>>>>>>三国呉
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 12:28:11
>>58 例えるなら平安時代末期の奥州藤原氏の方がいい。
源氏、平氏、藤原氏の三國志。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/21(水) 20:26:27
日本にも戦国時代や三国時代があるのに
春秋時代がないのか…orz
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/21(水) 23:32:29
周瑜「おい魯粛メロンパン買ってこい」
孔明「あ、俺コーヒー牛乳」
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/22(木) 00:36:53
古い
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/23(金) 17:37:25
寒い
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/23(金) 23:57:21
面白くない
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 14:23:59
魯粛のイメージも最近変わったな
昔は
>>63が当たり前だったのだが
再評価で随分と違うイメージ
「魯粛は演義を見る限りでは頼りない存在のように思えるが、正史では非常に先見性のある
優秀な人物で」みたいなのを、あらゆる所で耳にするな。
最近では呉に対する見直しがどんどん推し進められている感がある (゚ω゚三゚ω゚)
そういうの10年くらい前から聞くんだけどちっとも浸透してないよね
いまだに演義の影響が根強く残ってるんだな・・・
しかし三マガの魯粛漫画や赤壁漫画を読むと再評価されてるなあと思う
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 12:26:09
三マガって何?
ごめん、三国志マガジンのこと
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 20:31:36
>>69演義厨が魯粛の真の姿を受け付けないだけの話
他は少し変わってきた
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 23:59:27
呉唯一の後将軍の丁封。
演義では無視でつな。
76 :
75:2008/05/27(火) 00:00:17
誤爆スマソ。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/27(火) 20:08:47
まあ曹操の扱いも百年前に比べたら良くなったよ
百年前はヒトラーに勝るとも劣らない悪魔扱い
関係ない話だけど
司馬遼太郎の回顧記事読んでたら
柳美里が秀吉は朝鮮で虐殺をしたとか発言してて驚いた。
連中は何百年前の話を持ち出して死者をくさすのか?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/28(水) 12:24:52
朝鮮で虐殺したのは秀吉ではなく秀秋
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/28(水) 20:21:22
>71 正史かじった奴とかは魯粛好きが多いように思う。
三国志マガジンでは佐々木泉の他にも
曹操孟徳正伝の作者も魯粛好きで 単行本未掲載の話では目立っていた。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/28(水) 20:24:01
>>71 アレ国の魯粛だってちゃんと正しい姿で描かれてたよな
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 08:07:04
アレ国って何?
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/01(日) 11:59:40
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 12:52:56
魯粛大人気
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 17:32:30
そりゃ魯迅も魯粛に憧れてペンネームにした本名周樹人
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/05(木) 21:30:01
魯粛大人気ない
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/07(土) 18:51:07
大人気(だいにんき)?大人気(おとなげ)?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/08(日) 08:45:17
魯粛の子供の魯淑は父親の顔を知らない
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/11(水) 00:36:56
魯班
魯育
ニコ・ロビンも魯粛の一族らしい…
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/14(土) 00:16:52
いやいや、モンキー・D・ルフィこそが魯粛の末裔ですよ。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/14(土) 12:11:15
ニコ・ロビン = ?可?羅賓
ルフィ = 魯夫
>>91が正解
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/16(月) 00:27:42
魯粛「ゴムゴムの〜〜〜天下二分の計!!!」
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/16(月) 18:56:07
引っ張るネタか
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/16(月) 19:19:10
魯粛は二分を最初に進言したが曹操が強すぎて三分に変わった
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/16(月) 21:25:38
魯粛「ゴムゴムの〜〜〜荊州貸します!!!」
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/18(水) 22:02:27
朱桓の召使もゴム人間?
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/20(金) 00:06:50
それもそうなり
飛頭蛮w
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/21(土) 21:58:37
ゴムゴムの轆轤首
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/26(木) 00:23:47
あげ
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/01(火) 18:48:27
魯粛「ゴムゴムの〜〜〜孫権さん勝手に皇帝名乗っちゃいましょ!!!」
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/08(火) 20:39:42
ロロノア・大史慈
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 22:00:41
魯敏
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 10:56:37
山路
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 10:57:10
那壬
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 11:13:41
嘘夫
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 11:14:30
張破
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 11:44:06
腐乱木
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/13(日) 11:44:49
無留紅
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/18(金) 23:28:51
ワンピーススレになってるぞw
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/18(金) 23:40:36
潜伏新党に削除依頼されるぞ
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/20(日) 22:18:20
呉の朱然の墓って大史慈の墓より豪華なのが何とも
大史慈は孫権の時代にはほとんど活躍しないまま病死してるしな
>>114 ゲームの数値で格付けしてるんじゃないの?
太史慈といえばさ、孫策のところにきてから折衝中郎将→建昌都尉って
遷ってるんだが、これって官位ものすごく下がってないか?
なぜ正史には張昭との痴話喧嘩の内容や虞翻のキチガイっぷりが書かれてるんだろう
呉書はよく読むと非常に笑えるんですけど
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 21:42:46
>>118 袁術の元から呉に移ってきた人物の官位の下がりっぷりとどっこいどっこい。
>>120 いやさ、帰順した時に官位が下がるなら分かるんだけど、
孫策のところに来て折衝中郎将になって、そのあと下がってるんだけどそういうもん?
それ、必ずしも下がったとは言えないよ
漢の官秩でいえば中郎将も都尉も比二千石で同じ
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 21:11:47
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 21:16:04
119じゃないけど、普通本人の悪いことは極力書かないものなのに
甘寧伝には書く必要が感じられない料理番殺害事件が載ってたり、
呉書はなんか時々不可解だ
甘寧は孫権にしばしば刃向かったからだろうか?
孫権は「個人伝書くときはこのエピソード入れてーな」っていうメモでも残したのか?
すごろく論を表して、貴族の惰弱さを切って捨てたり、
宰相の孫ショウを「品行だけで取り立てられ、中身が伴ってない」と痛烈に批判したり、
あの孫皓にすごまれても、「孫和は即位していないから史書には帝だとは記さない」とはねつけたり、
韋曜という人物が硬骨漢だったからじゃねぇかな。
孫ショウのことは、呉書自体が未完だったこともあって、以下のどちらなのか分からん。
・己の属した派閥と敵対した立伝するつもりがなかった
・嫌いな人物だったので後回しにした
皇太子派関係はそれでも激甘な列伝ばっかだからな
甘寧に限らず、単なる武人の扱いなんてそんなもんだ
韋曜は硬骨だったとしてもそれ以上に武人を脳筋野郎と軽蔑する士大夫層だってこと
太子派がどうって言うよりは魯王派がとことん腹に一物ある連中ばっかりだったってだけだと思うがなぁ。
軍人を軽蔑してるなら、陳寿と同じくそもそも「そんな物に割く紙面は無い」とオミットしちゃうはずだし。
腹の一物は太子派もどっこいどっこいだよ
皇帝に対しスパイ行為働き、嘘をついて政敵に冤罪なすりつけ、大臣同士が不当な情報交換をし、兵士を勝手に動員して皇帝に対して脅しをかける
あと陳寿は軍人にも紙面を割いてるじゃないか
もしかすると、甘寧なんかは子孫が韋昭のころの呉で発言力ないために醜聞を隠蔽できなかったのかもしれないな
>>126-129 勉強になります
爵位を調べてたら甘寧と董襲だけ子が爵位をもらってなくて
甘寧は次男のこと書いてなくて時系列滅茶苦茶、董襲は子の名前すらないんだけど
これは未完だったせいかな。このへんだけ散逸とかあるんだろうか
凌統とか朱然も絶賛に見えるんだけどやっぱり子が太子派とか関係あるのかな?
二宮じゃ、顧家と陸家は相当やらかしてるな。
>>130 もちろん何かの理由で記録が残っていないのかもしれないけど、単にいなかったのかもよ
その手の人物が一つの巻に全員押し込められていることから分かるように、当時の価値観ではこういった武人はまともな記録が残ってればいいほうなんだよ
凌統は十代から兵を率いただけでなく、名士とも交流したなどの記録があるし、若くして中郎将、太守クラスの官に就き、更には孫権を命がけで守った功績まであるから、
呉において最初から単なる武人とは一線を画する存在だったのかもしれない
朱然はそもそも孫権の学友で朱治の後継ぎだから、確実に単なる武人ではなく、名士側の人物
それなりに学問や礼儀をわきまえ、家柄もしっかりした人物=名士であって初めてまともな人物として扱われる、というのが当時の常識
二宮事件関係では、別にことさら太子派が悪いとは思わないけれど、単純に太子派=善、魯王派=悪というのは完全に呉書(=孫皓)の隠蔽に引っかかっていると言わざるを得ない
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/27(日) 23:48:52
孫皓にすれば 魯王派=悪 はガチだからなあ…
孫皓にとってだけではなく、儒者にとっても魯王派=悪はガチだからな。
陳寿が「他にどのような功があったとしても、賞賛するに値しない」と書いてしまうのもやんぬるかな
例え太子派の面々が自己保身しか考えていなかったとしても
孫和が太子であった以上、太子派=善、魯王派=悪はしようがない
はっきりせずに魯王派に期待を持たせた孫権が悪いともいえるが
せめて孫覇に有徳を示す逸話でもあれば少しは変わってくるんだけどね
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 06:16:20
魯王派に期待をするよりも先に
孫和にお亡くなりになってもらうのが先だった
>>135 しかし廃嫡なんてそれ以前にも漢の景帝、光武帝がやってるし、実際そんなに珍しいことでも常に失敗してることでもない
呉書の評価が太子派=善、魯王派=悪なのは当然としても、おれたちはそれに引きずられる必要は全く無いんだから、
なぜ廃嫡騒動が起こったのか、なぜああいう結果になったのか、を分析するほうが面白い
三国時代って、ちゃんと事前に皇太子を定めて実際に皇位継承できたのってすごく少ない
魏は実は一例もない(文帝は皇帝になる前。文帝から明帝、明帝から斉王は臨終の時に初めて立太子)
呉は孫権から孫亮だけだが、孫権は皇太子を都合三人立てている
蜀の劉備から劉禅くらいだ、すったもんだせずに皇位継承できたのは(劉備は諸葛亮に譲ろうとしているが)
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 20:34:29
いや、対立が太子派対魯王派だから違和感があるんだと思う。
これを太子派対魯班派にすれば女性ゆえ表舞台には出れなかったが
孫家最大の謀略の持ち主が暗躍し続けた結果かと。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 21:02:13
魯班が男だったらなあ
良く分かる二宮が変
孫権「皇太子変えよっかな」
楊竺「魯王すごいッスよ」
孫権「んじゃ魯王を皇太子にするわ」
下っ端役人「孫和さん、あんた皇太子首になんよ。さっき陛下の密談聞いちゃった」
孫和「ヤッベ。マジヤッベ。陸胤どうしよ」
陸胤「陸遜に諫言させまひょ」
陸胤から聞いた陸遜「マジ?じゃあ馬鹿陛下を止めるわ」
陸遜→孫権「年長の孫和廃嫡するって馬鹿なの?死ぬの?オマエ聞き入れないなら都に乗り込んじゃうよ俺」
孫権「ちょっと待て。俺が皇太子変えるって密談したけどどっから聞いた?」
陸遜「陸胤から聞きましたが何か?」
陸胤「楊竺から聞きましたが何か?」
楊竺「ちょwww濡れ衣ktkr」
孫権「楊竺、よくも騙してくれたね?ゲロッちゃわないと死ぬよ?」
楊竺「ごめんなさい私がやりました」
孫権「騙した罪は重い。市ね」
役人「呉燦の奴と陸遜がなんか文通してやがりました。孫和と癒着してますな」
孫権「じゃあ呉燦は市ね。陸遜、君もよくもやってくれたね?ネチネチいじめちゃうよ」
陸遜「こんな屈辱初めて・・・」
孫権「あ、死んだ。やりすぎたかな。陸抗ゴメンネ」
夏か
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 21:52:40
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/06(水) 19:20:03
良く分かる魯班も
呂壱は孫権が権力強化を目論んだ挙句
失敗した責任を押し付けられた奴
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 00:23:30
motto omosiroku
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 22:07:48
良く分かる孫策伯符も
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/15(金) 22:03:18
良く分かる孫堅文台も
小覇王、小覇王!小日本、小日本!
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/25(月) 00:23:51
孫権が子供に呂蒙の字をつけていて大史慈の字をつけていない件について。
孫権の時代は大史慈はいまいち功績なかったから馴染みなかったんじゃね?
呂蒙は名声も高かっただろうし彼の策で荊州を奪還できたんだし
亮-明だから呂蒙の字というよりは諸葛亮っぽいけどな
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/26(火) 22:06:43
孫権が子供に呂蒙の字をつけていて魯粛の字をつけていない件について。
>>140 > 陸遜「こんな屈辱初めて・・・」
陸遜「でも・・・感じちゃう!・・・」
ですねよく分かります。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/29(金) 00:29:52
いきなりでスマンが顧栄は顧邵の子なら100歳以上生きたのでは?
100歳以上生きるなんて現代でも稀だからね
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/29(金) 23:42:32
顧邵の没年…215〜219年
顧栄の没年…316年以降
100歳超えの可能性あり
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/30(土) 10:01:12
顧栄は顧穆の子では?
当時の甥の範疇は広かったからな
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/01(月) 19:38:51
顧栄312年没説
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/08(月) 23:09:30
顧栄 恐ええ
水関の戦いの孫策はあんなにダサくていざ死んだときは惨めな感じだったな
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 03:28:50
そもそも孫策は水関に一度も行ったことがないと思われ
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 14:35:09
同意
「水関の孫堅」の間違いだとしても
何を以ってダサいのかが分からない
>>165 すばらしい。和むようなテンションあがるような
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/13(土) 08:15:47
虞翻が交州に流罪になったのは、虞翻が張昭の悪口を言ったのが直接の原因というのが笑えるw
仙人の話のこと?
だいたい虞翻は普段からなにかにつけて孫権を苛立たせるような振るまいをしてたから
あれはきっかけに過ぎないんでは?
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 02:18:03
嫌いな奴に護衛された事もある孫権に同情するよ。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 18:54:11
周泰が嫌いなの?
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/17(水) 02:23:37
虞翻の事
たぶん
>>169は孫策時代の虞翻の事を言ってるんだろうな
虞翻いわく槍の名手だったらしいしw
いくらでも遠距離まで徒歩で行けると孫策相手に豪語したらしい
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/17(水) 19:37:51
虞翻は知勇兼備で名家で子沢山で子供の出来もいいし
なんて幸せ者なんだ
高名な学者さんだったしね
けどそれをいい事にちょっとキティガイぶりを発揮しすぎて左遷された
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/18(木) 15:33:31
そんな虞翻も名家の次男坊
なのに同じく次男坊の孫権と合わなかったのが何とも…
許昌(曹操)の孔融
建業(孫権)の虞翻
権力者に嫌味を言う学者(名士)の両巨頭ですからw
二人はペンパルだし。
けど孔融は孔子の子孫であるということと文才があった以外でなんか秀でたものがあったか?
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/18(木) 19:04:31
清流派の大巨頭の李庸とお友達
たしかに破天荒な言動ばかりが目立つけど、
現実的な政治家としての能力が乏しかっただけじゃない?
ちゃんと虞翻の易経注釈を高く評価しているし。
うん
孔融は無能ですよ 間違いなく
文才があれば当時ではかなり評価された節もあるけど
だいたいがお上の批難とごく限られたキチガイ友達と文通してただけだし
なんか政務で残ってる事とかある?
北海で学校を作ったりした
上手くいかなかったみたいだけど
劉備に目を付けたのは
評価しても良いのかね
太史慈って彼とどういう関係だっけ
太史慈のかーちゃんが孔融に世話になってただけだよ
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/18(木) 20:06:40
つーことは、太史慈は孔融の愛人の息子か。
親なんぞ助けなくてもいいなどと先祖の孔子が聞いたら卒倒しそうなことを言っちゃうお茶目さん
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/21(日) 00:23:21
現代に孔子の子孫が生きてるのに孔融は三族滅殺。
どういうことだ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/21(日) 00:26:14
孔融って孔融だけが処断されたんじゃないの?
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/21(日) 11:05:43
>>190 少なくとも息子たちは一緒に処断されている
そういや子供も殺されたな
お父さんに別れの言葉を言わなかったからって
子供相手にムキになって処刑するなよ
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 22:38:40
ああ言えば孔融
それ秋田
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/24(水) 22:06:48
みんなはどっち派?
呉に変換するとき『ご』もしくは『くれ』
みんなはどっち派?
姜維に変換する時『しょうが』もしくは『しょう』
おれは『しょうが』より『みょうが』が好きです
っていうか辞書登録しようぜ
おれ辞書登録してて 姜維 諸葛亮 太上老君
とスムーズに出るのがキモイwww
辞書登録してるせいで
「てんぽないそうひ」と入力したら「店舗ない曹丕」と
フツーに出るのが俺オワタwwww
韓当地方、江夏がある、李典がある、尹賞が悪い、呉懿が貧弱、絵を賈詡、曹操そういえば、
あたりはしょっちゅうだよな
携帯だと甘い丁寧とか生姜繊維とかだが
生姜繊維は誰もが通る道だよな
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 09:07:35
孫権は普通に出てくるぞ
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/30(火) 19:53:57
嘲笑 と出てしまう 張昭…orz
呉の猛将系って格的には
甘寧>凌統>蒋欽>潘璋>陳武>董襲>周泰って感じ?
個人武勇はどうだったのかは知らんがそんなトコじゃね?
孫翔とかもかなりキてたらしいぞ
太史慈のことも思い出してあげてください
蒋欽?
彼はそんなに凄かったの?
甘寧は皖城攻略(214年)の後に折衝将軍に昇進したっていうけど怪しいと思う
皖城攻略は呂蒙が一番、甘寧がその次の功績だったって書いてるのに
甘寧が呂蒙の偏将軍を飛び超えてしまうんだ
皖城以降昇進してないのもおかしいし、呉書を読む限り甘寧が動かしている兵士も少ないし、
甘寧の折衝将軍は死去時(219年以降)のものじゃないだろうか
というわけで、甘寧より蒋欽が上だと思う。217年濡須口で呂蒙と共に総指揮に当たってるしね
もし彼らが全員生きてた213年の時点で比較すれば、董襲>陳武>蒋欽>凌統…辺りになるだろうね
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 23:51:27
徐コン
徐盛は?
陳武より陳表のが評価高くなかったか
>>210 特進というか甘寧伝は韋昭らの編纂が終わっていないまま陳寿が丸写ししたか、
そうでなきゃ後世に紛失したんじゃないかと思う
時系列もめちゃめちゃだし色々おかしい。官位もまともに書かれてるのは折衝将軍だけだし
ついでに董襲伝も少し怪しい
>>211,212
>>204は単にあのメンツの中での順序が知りたいんじゃないか?
程普、呂範、賀斉も入ってないし
>>213 あー、演義的には賀斉ってめちゃくちゃ地味だよねww
てか出てたっけ、賀斉
賀斉出てないんじゃないかな
合肥で孫権助けた後にお小言を食らわせるのが名無しになってたのは覚えてるよ
山越とか地方メインで活躍した人は演義では不利だね。周泰はかなりラッキーだ
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 20:49:38
陸議もラッキィ
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/15(水) 22:55:05
賀斉は正史が注目されなければ、今でも地下に埋もれてたかも。
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/18(土) 23:28:09
呉は文化的にも希少な人材が居たのにな
八絶とか
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/19(日) 00:46:54
あーやたら占い師が多い奴らな
確かに占い師の類いは多いな
そういうのに興味があった孫権の意向なのかな
呉範先生に比すれば郭嘉とて見劣りする
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/19(日) 20:14:51
皇象や厳武や曹不興はどうみても占い師ではない
占い師は当時でも胡散臭いイメージはあったようだが
曹丕が死の間際に占い師をフォローしたり
劉備が占い師を茂才に推挙してるところを見ても
一定の評価はあったんだろうね
現代から見ると
>>222の面子のほうが賞賛しやすいが
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 19:57:28
王表
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 19:37:07
八絶と三絶は別物?
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 19:42:01
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 19:51:39
呉宮の三絶ね
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 13:51:13
呉宮の三絶、趙夫人のの他の2人は?
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 20:55:18
わかりません
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 16:00:03
絶技 趙夫人
絶交 潘夫人
絶倫 孫権
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 23:09:14
なんじゃそりゃ?
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 09:17:37
朱桓の召使が面白い
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 01:57:19
轆轤首ね
( ゚Дメ) 234
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 02:00:51
顧栄
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 23:17:54
孫権タケコプター
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 21:26:08
↑何スか?
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 19:53:07
ドラえもん=張昭?
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 04:28:19
虞翻と禰衡は出会っていたら気が合ったかな
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 22:18:59
どうだろう?
虞翻はあれでも子煩悩で教育熱心。
キティー同士意気投合したんじゃないの?
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 22:36:41
虞翻と孫策が意気投合したのも?
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 17:54:57
↑孫策がキチィ?
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 21:04:51
程普ってわりと評価されてんの?
俺は程普って黄蓋、韓当とのトリオでのイメージしかないんだが・・・
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 21:19:01
程普は孫堅配下生え抜き筆頭
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 03:01:01
年長者だから
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 08:14:51
程普は孫権配下でもかなりに高位。評価はされてるがまだ低い。
黄蓋は古参の将軍。赤壁のせいで評価高い。
韓当は3人の中で一番長く仕えてるのに、階級は低い。驚くほど低い。
経歴とか見ると、トリオじゃなくて程普がダントツ、韓当がビリケツ。
韓当ってやたら長生きした将軍でしょ?
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 22:01:39
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 07:20:31
そいつらより呂範や呂岱の方が印象強いな
韓当の功績はかなりのもんだがなぜ階級が低いのか。
程普並みの扱いでもいいだろうと思うが。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/04(日) 14:12:41
程普は別格だけど、韓当も相当なもんじゃなかろか
没年は分かるけど出生がさだかじゃないってのは
身分が低い階級だったんだろうと想像してもいいんでしょうか?
赤壁直後の階級みると
程普=裨将軍・江夏太守
黄蓋=武鋒中郎将・武陵太守
韓当=偏将軍
実は黄蓋が一番下だな。
韓当は呉の特殊部隊?(精鋭?)率いてるというしそこら辺で差がでるのかな?
呂蒙はこの赤壁直後で偏将軍。
呉の若い武将たちに追いつかれ始めてる黄蓋と韓当みると程普との差は明らかだ。
逆に程普ってそこまで凄い功績がある人物だったっけ?
>>256 孫堅でも孫策でも程普は武功1番と書かれてるが、書かれてるだけの武将は多いしな。
目立った武功と言えばやはり、祖郎との戦で少数の孫策軍が数千の祖郎軍に囲まれた時に、
他の兵は孫策の護衛につけてたった1人で突撃して退路を作り出した事だな。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 19:06:38
程公も張公も性格は悪そう
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 19:39:20
孫堅の劉表攻め。
演義だと長沙から攻め込んでることになってるけど、史実だと北方から攻めてるんだよね?
演義でも孫堅は帰路に樊城を落として襄陽を囲んでいるから北からだったと思う。
孫堅の帰路は劉表に邪魔されて軍は半壊
その後、江東で兵を集めて樊城攻めだな
原文だと長沙に帰ったのかは分からない?が北からというのはない
史実では豫州刺史になってるし北からだね
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 18:26:11
黄祖はどこで守ってたん?
樊・ケ城で黄祖を破って襄陽包囲は正史と同じだね。
江東から長江を上ってきた孫堅を
江夏の兵を率いた黄祖が樊城で迎え撃つというのはおかしい気もするが…
>>263 演義だと「黄祖を先陣として、主(劉表)は荊襄の兵を率いて援護しろ」(カイ良)
って台詞とか、黄祖が長江沿いに防御線を引いてるらしいことから見ると
黄祖は長江沿いで孫堅を迎撃してるんじゃないかな。
黄祖軍を破った孫堅軍は漢水を遡ってるようだし。
江東発の孫堅軍を江夏の黄祖で防ごうとしたけど防ぎきれず襄陽包囲って流れだから不自然では無いと思う。
自分は江邊での戦いが終わった後は孫堅が上陸して
黄祖と野戦、黄祖は樊城を捨てるというという流れに見えるんだよね。
江邊を長江沿いとすると長江から陸路で樊城まで行ってるように読める。
というかそんなに長距離を移動しているように思えないから
江邊は大河(漢水・漢江、樊城の近く)沿いではないかと思ったんだけど…
でも樊・ケ城で黄祖を破った後に漢水に到ると書いてあるんだよなあ。
何がなんだか分からなくなってきた。。。
うーん演義だからと馬鹿にする気はないけど
あまり真面目に考えるような話でもないのかな…
>>262氏に回答するなら江夏から樊城の間(広すぎる)というところでしょうか?
全訳持ってる人がいたら第七回がどう訳されているか教えてほしいなあ。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 11:07:42
正史だと長沙に残った部下の蘇代と連携しているんだっけ?
呉といえば呉栄や呉景は呉起の子孫か?
同じ呉性なら長沙王呉ゼイの子孫のほうが有り得そうだが。
諸葛誕の一味の呉綱がそうだったはず。
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 00:30:39
呉綱は魏の人だったけど
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 22:33:09
呉の四姓については、俺は「呉書見聞」で考察されているように「呉県の四姓」だとも思うんだが、
ちょっと気になることが。
ちくまの朱治伝に「呉の四姓」という語が出てくる。
原文を探してみると、
「自 令 督 軍 御 史 典 屬 城 文 書 , 治 領 四 縣 租 稅 而 已 . 然 公 族 子 弟 及 吳 四 姓 多 出 仕 郡 , 郡 吏 常 以 千 數 」
朱治は呉郡太守だけれども孫権が特別な待遇を与えて(仕事量を軽減させて?)、4県の租税のみ取り扱わせることにした、
だが公族の子弟(?/ちくまでは皇族の子弟と訳されている)や呉の四姓が出仕して、朱治の役所が大所帯だった、とある。
ここでいう呉の四姓というのはなんなのだろう?
朱治が管理していた4県の中に呉県があり、呉「県」の四姓の縁者が多数出仕していたということなのか。
それとも朱治管理の4県に呉県が入っていたかどうかはあまり関係なく、呉郡全体で呉県の四姓が有力だった、
つまり「呉県の四姓」=「呉郡の最有力の四姓」だった(全氏などにも優越していた)のだろうか。
それとも、「四姓」というのは一般的な用語で、「有力者」といった程度の意味で、
呉郡/呉県の有力者の縁者が朱治の元に多数出仕していた、というほどの意味なんだろうか。
個人的には最後の見解のように思うんだが。
273 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 22:39:20
百姓(=士大夫層)って言葉もあるしね。
「四姓」ってのは後漢の光武帝・明帝以来の外戚樊氏?郭氏?陰氏?馬氏の四姓に明帝が特権を与えたのがその由来のようだ。
もちろん「呉四姓」はその四姓ではないが、おそらく漢の四姓に倣って郡や地方ごとに勢力家を「四姓」と呼ぶように自然発生的に決まっていったんだろう。
他の例では天水では姜氏?閻氏?任氏?趙氏だったそうで、これもちゃんと四家選ばれているから、「有力者」とまで一般化はされてなくて、「勢力のある家四氏」でいいと思う。
「呉四姓」が呉郡か呉県かはちと微妙な問題だが。
四天王みたいなものか。
>>275 サンクス。
四姓でググったら源平藤橘ばっかり出て来て、自分で調べるのを諦めてしまったw
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 06:15:10
会稽四姓も忘れずに
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 07:01:47
会稽四姓って誰?
というか何が基準なんだろう?
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 13:05:35
孔・魏・虞・謝
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 18:04:16
漢の時代とかでの四姓?
孫呉の時代に孔氏で名を残した人っているっけ?
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 18:13:10
>>280 会稽の孔とか魏は有名な人物がいないね
賀の方が栄えている
董襲はどうなんだろう?
孫策が死んだ後に呉夫人に諮問されたりしてたよね?
単なる軍人とちょっと違う立ち位置とも思わせる。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 19:15:49
焦征羌も会稽だっけ?
顧雍って孫策に出仕していたと考えていいの?
仲謀ではなかったか
顧雍
168 誕生
188?20歳そこそこで合肥県長
その後、婁・曲阿(いずれも呉郡)・上虞(会稽)で政治を執り、治績を上げる
200?孫権が会稽太守に任命されると会稽丞に就いて太守代行
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 00:59:22
どうなんだろうね。
蔡ヨウに師事した後に県長を歴任している間は
孫氏と関わりがあるようには読み取りにくいからねぇ。
曲阿(劉繇)平定・・・195年?
上虞(王朗)平定・・・196年?
婁平定は、朱治の呉郡討伐時にされたなら196年くらいだろうか?
孫策自らの指揮による呉郡の賊(銭銅、鄒他、王晟)討伐は会稽平定の後だが、
朱治による討伐時に県の役所は全て抑えただろう。
県長の任期がどれくらいか分からないが、孫策の平定の前に4県の仕事を終えて自宅に引っ込んでいたとも思われない。
孫策の平定によって職を辞したか。
孫策の平定を経ても特に取り立てられることもなく職を続けたか。
あるいは孫策の取り立てで、他の県長に横滑りしたが、出世ではないために孫策との繋がりを書かれなかったか?
曲阿は孫策が親父を葬り、呉夫人ら家族を残してきたとこ
時期的に被っているかは分からないけど関わりがあってもおかしくはないね
職を辞したという記述はないし孫策の下で県長を続けていたのでは?
孫策時代に呂範が陳ウを海西に攻めた、とあるけど
海西の位置を調べると、下ヒのま東。淮河の北。
広陵郡所属ではあるが。
孫策時代にはここまで勢力下に置いたということなのか?
>>283 断定はできないけど会稽に魏氏は魏朗、その孫魏騰がいるよ
魏朗は李膺と共に八俊に数えられてる人物だから、かなりの名士
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 11:36:37
近代のように「戦線」って概念が無いだろうからな。
しかしだいぶ距離ないか?
あと攻めたあとは引っ込んだのかね?
貿易関連の拠点の確保だったのかもしれんしな。
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 02:25:39
李異は蜀から呉へ移った?
>>298 確証はないが、法正の手紙に呉将として李異の名が挙がっているのは
元劉璋配下だから、と考えたほうが自然だと思う
法正の手紙
>今荊州道通,?數十倍,加孫車騎遣弟及李異、甘寧等為其後繼。
この文面だけだと、呉将李異と劉璋配下の李異を同一人物と判断はできないんじゃない?
>>300 文面を単なる事実だと考えるなら、確かに同一人物と判断する理由にはならない
が、法正は劉璋を説得するために「呉のあんな奴やこんな奴が攻めてくる」と強調したい状況にあった
そんな中でなぜ李異なんていう呉軍の主要人物とも言いがたい名を挙げたのか?
劉璋が李異を知っているからではないか。…と、そういう論法
甘寧も蜀出身だし、蜀の地理に詳しい人物の名を挙げたのかも知れない
この時点で呉において李異よりは活躍していると思われる甘寧よりも李異の名が先に挙げてあるのは、
蜀の人々にとって甘寧より李異のほうが存在感が大きいからではないか。とかね
もちろん断定はできないが、別人と考えるべき理由(時期のずれ等)は無いしね
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/17(火) 21:00:34
李異て蜀では何してたん?
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/18(水) 19:35:38
張松が劉ショウに「ホウ羲や李異ら諸将がつけあがってる。
そのうち外国勢力を呼び込んで反乱するかも」と助言して(騙して?)劉備との連携を勧めてる。
もともと劉焉自体が外から来た人間で、益州の豪族と激しく争ってる。
また、荊州から流れてきた東州兵という存在もあって、劉ショウ軍団の権力関係は複雑。
李異はおそらく豪族との戦いの中で出世した将軍で、
外に出て兵を預かり、劉ショウのコントロールの効かない危険な存在になっていたんだと思う。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/18(水) 19:41:59
ところで李術って何者なんだろう?
汝南出身ということだが…
孫策の江南平定に貢献した武将とも思えない。
だが、、孫策に近しい存在でないとしたら、なんでわざわざそんな人間を
折角切り取った長江北岸の地である盧江太守に据えたのか?
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/18(水) 22:38:53
呉書見聞では劉勲の留守居役説
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/19(木) 00:46:43
降伏すれば身分保障みたいな感じで盧江太守か…
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/19(木) 00:56:43
劉勲の元部下なら陛下の遺臣か。
でもそれだと名前が問題にならんかね?
まぁ陛下の没後に名を戻したのかも知れないけど。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/21(土) 17:54:40
一時は呉に降伏したが結局曹操の支援を期待して叛乱し支援無く孤立して虐殺された李術
無事に曹操の元へ逃れられたが曹操の寵愛を笠に着て法を破り誅殺された劉勲
どちらが幸福な人生だったのだろうか?
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/25(水) 20:57:53
>>307 劉勲の元部下でも劉曄は陛下の遺臣ではないな
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/25(水) 21:05:59
孫策は王朗を取り込めなかったのか?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/25(水) 22:18:12
孫策の江南江東平定が強行過ぎて
中央の文官とのルートが、途切れてる。王朗の会稽を攻めずに
劉表が正解だったかも
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/27(金) 19:06:46
会稽を攻めないと袁術からの独立は厳しかったと思うよ
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/01(日) 03:48:57
袁術配下の名士の文官が魏にそっくり流れたのが痛かったかも
曹操から引き抜けなかったのか?
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/01(日) 11:44:20
孫策が献帝を迎えていない限り曹操配下の江北の人材を引き抜くのは甚だ厳しい
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 21:50:45
王朗の曹魏での出世の仕方はちょっとスゴス
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 21:59:38
火金も
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 22:16:06
どうなんだろう?
同世代の官僚が立て続けに死んでいったこともあるんじゃなかろうか。
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/03(火) 00:48:23
でも袁術配下の名士ってメジャーだと揚修しか知らん
王朗ってゲームだと虞翻より劣るイメージがあるけど
史実だとスゴイエライ
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/03(火) 02:33:22
楊修は違うだろ。
袁術絡みで名のあるところだと袁渙、張範・張承兄弟、何キといったあたりだが、
袁渙は呂布に下り、他は半ば袁術の勢力圏にはいるが仕えるまでにはいってない感じ。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/04(水) 04:45:44
>316
誰かと思ったが華キンか?
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/04(水) 18:10:39
華キンは、借パクされたよね。
馬超に焼かれて食われた華子魚
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/04(水) 22:35:11
ど素人なんで教えてほしいんだけど
魏は一応直接献帝から帝位を禅譲された
蜀は一応劉家の子孫なので、光武帝と同じ形で根拠あり
だからそれなにの即位の根拠はあるんだろうけど
呉はどういう根拠があって即位したの?
当時は地方大名の孫権が帝位につくことに抵抗感はなかったの?
まだ当時は誰でも秦と劉氏以外一部の例外を除いて帝位についていなかったわけだし
地方大名ってなんだよw正式に呉王に封じられてるだろうが
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/04(水) 22:45:26
呉王といえども
禅譲もされていない、劉一族の末裔でもない人間が皇帝になっても
問題視されないの?
まあ大した問題はなかったと記憶してる
蜀は本来なら認めちゃ駄目なんだけど孔明が群臣たちを説得しちゃったしね
結局は実力がモノをいうわけです
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/05(木) 01:36:10
劉邦も誰からも禅譲されてないし天子の血筋でもなかったよ
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/05(木) 01:59:05
当時の常識では劉邦がそもそも天子そのものだから
禅譲も糞もないんじゃないの?
それに比べて孫権はもともとただの漢の臣下でどう考えても工程を名乗るのは無理がある
それとも劉邦といえどもただの人間で、武力で皇帝になっただけにすぎないって認識?
そういう意味で当時の皇帝である献帝も一般人からすれば別に特別な人間ではない?
もっと時代を下るとただの人間が皇帝を名乗っても抵抗感がなくなるけど
当時は皇帝といえば劉氏と始皇帝だけだし。自称皇帝はいたが
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/05(木) 04:28:00
そんなことより劉纂の話しようぜ。
孫権の娘を娶り、後には魯育を娶った(朱拠死後?)車騎将軍。
もしかしたら劉基の息子じゃね?
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/05(木) 19:14:47
劉基には息子はいないような気がしたが。
劉璋の子孫が呉に仕えているから、そちらとか。
劉纂は皇象と並び称される呉の書家
これ豆知識な
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/06(金) 06:40:29
へぇ〜〜
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/06(金) 20:38:43
孫権は呉王を自称したらもっと積極的になれば・・・
劉基に息子がいたという記述はなく、二人の弟の名が記されている。
だが誰が後を嗣いだという記述もなく妙なカンジ。
呉末の交州刺史に劉俊てのもいるが、あれも誰なんだか。
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 09:08:53
劉姓なんて山賊まがいや異民族にも居たからとりわけ珍しいものでもない
江南江東に住んでいた無名の皇族の子孫で有能な人物が出世しただけかも
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 11:52:43
孫権って好人物だったのかな?
孫策は誰にも好かれたって言われてるけど敵対勢力には容赦しないから何か怖い
策は敵だって降伏したら寛大じゃん
ぬっ殺されただろ
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:37:00
ぬっ殺されたケースと寛大なケースの差が大きい
>>323 後漢時代の歴史をちっとかじっただけのニワカだが、皇帝を名乗った奴なんて
後漢時代にはそれなりにいるよ。「漢」の皇帝を名乗れないだけ
むしろ漢を名乗った劉備こそとんでもないような気がする
献帝が禅譲したんだから仕方ない。
それをもって呉も蜀のことを「漢」と呼んでるし。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/10(火) 11:21:56
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/10(火) 16:28:41
>献帝が禅譲したんだから仕方ない。
献帝が曹丕に禅譲したことと、呉が蜀を漢と呼ぶのにどういった関連が?
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/10(火) 18:42:40
異民族でも漢を名乗ってるのもいるぞ
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/10(火) 19:06:34
成漢とかか。あれは李姓だけどな。
>>343 江表傳曰:權云:「近得玄コ書,已深引咎,求復舊好.前所以名西為蜀者,以漢帝尚存故耳,今漢已廢,自可名為漢中王也」
孫権は「漢が滅んでなくなったんだから、劉備を漢中王と認めてやってよい」としてる。
>>340 漢の王朝が途絶え、宗廟が断絶してしまった以上、皇族の中の有為者が跡目を継いで皇帝を名乗り、祭祀を継承するのは「とんでもないこと」ではない。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/10(火) 19:45:34
漢王朝は途絶えてねーよ
魏が引き継いでる。禅譲をなんだと思ってるんだw
習鑿齒に言えよ。
主沒國喪,二祖之廟,絕而不祀,苟非親賢,孰能紹此
禅譲って、天命を禅譲しただけじゃないの?
それとも曹丕が劉邦や劉秀の廟も祭ってたのか?
>>346 漢中王と認めることと漢王朝を名乗るのを認めるのは全く別の話じゃないの?
ただ漢という王朝がなくなったのだから、新たな漢を建てるのは確かにとんでもないことではないな
劉氏の漢中王ね・・・
孫堅と孫策ならどちらが知的だったのか
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/21(土) 12:59:56
どちらも知的なエピソードはある
孫家の歴代当主って司馬衷みたいなバカは居ないような
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/21(土) 18:34:43
孫堅は早い時期から董卓を奸物視し、孫策は江東制圧と袁術からの独立の手順が見事。
ところで歩隲と陸遜って、外にいたまま丞相になったの?
陸遜は詔で州牧、都護、領武昌は元の通りとされているし
二宮の際に都に赴こうとして許されなかったとあるのでずっと武昌でしょう。
歩隲は丞相就任後に在西陵二十年とあり死後に歩協が所領を継ぎ
歩闡まで累世に渡って西陵に在ったのでこちらもずっと西陵でしょう。
陸遜ってずっと陸口にいたイメージがあったのだが・・・違ったようでスマソ
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 20:14:15
>>356 レスサンクス。
この辺りのことを分析してる人いないのかな?
俺は「孫権は別に丞相なんていらんと思っていた」
「功ある臣から順に任命してやっただけ」ということのようにも思う。
というか、陸遜以前の丞相に果たしてどれほどの力があったのかという話にもなるけど。
諸葛謹が長生きしてたら丞相になったか、誰の次か、なんてことも想像するとおもしろい。
最初は張昭を牽制する意図があったのではないかな。
孫邵はよく分からないけど
控えめな性格で有能な顧雍は孫権には打って付けの人物だったと思う。
張昭の死後には「功ある臣から順に任命」という考えもあったかもね。
陸遜と歩隲がすぐに死去した為に孫権の意図が分かり難い。
呂壱の見立てでは顧雍の次は潘濬。これは妥当だろうね。
諸葛瑾が生きていれば陸遜の前後か。
顧雍と張昭については、確かに牽制の面もあると思う。孫権は二人の意見を聞き比べて
政策を決定したいたらしき逸話がある。
陸遜は、丞相になった直後(?)に後継者問題で対立することにはなるけど、
荊州牧という特別の地位に長く着いて、顧雍の死後確かに第一位の大臣だった。
孫権もこの時はまだ長年の寵愛を抱いていたということだろうか。
陸遜のあとの歩隲については、かなり明確。
歩隲はニ宮対立で孫覇に組し、しかも徐州出身で貧苦から身を起こした人物で、豪族のような後ろ盾がない。
陸氏宗主の陸遜からの推移は、孫権の政策方針の決定的な転換を示していたように見える。
ただし、その孫覇路線も数年して破棄されるわけだけど。
陸遜・歩隲と丞相が外に駐留し続けたわけだから、顧雍死後の孫呉宮廷の権力構造というのは
複雑で面白そうだな。これがニ宮の変などの混乱の一因でもあったのだろう。
歩隲の丞相任命はそれほど特別だろうか。
丞相前は驃騎将軍で軍のトップだから順番的には当然じゃない?
あ、確かに。
後任の驃騎将軍は孫和派でのちに自殺を命じられる朱拠で、
この時点ではまだ孫覇路線が決定したとは言えないのかも。
呉主伝にある昇進五人のうち歩隲、全j、呂岱の三人が孫覇派と
優勢だが、特に言動の記録もないけれど孫和派とされる諸葛恪が
五人目に引っかかっている。
単純な派閥的色分けってのはなかなかできないものだな。
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/01(水) 02:14:42
凌統伝なんだけどさ、駱統伝と合わせて見ると、どうも生没年に疑義が生じるんだけど、
考えてみたことある人いますか?
凌統の享年が大幅に間違ってると思うんだが。
いま原文を調べられないが、ちくまでは49歳となってた。
考えようとしたらwikipdiaに載ってたw
推定享年29歳か。李典・郭嘉・陳登らより遙かに若いな
>>363 ネットとか何も見ずに自分で矛盾に気付いたのか。すごいな
享年29歳。推定っていうか確定と言っていい
ちくまの誤植ではなく原文からして間違って伝わってる
征伐戦の途中で親を悪く言った奴をぶち殺したのって上手くやったと思う。
つーか親を悪く言うのって最大級の侮辱じゃないの?
363だが、ウィキに載ってたんですね。
>>366 しかし作戦行動中に要職にあるものを殺したわけで、
親への孝が君主への不忠になってしまう。
かなり際どい事案だったと思う。
殺した後の屯への攻撃が成功していなかったら死罪になってたかな?
凌統伝の書き方では、酒の席で自分と父を罵られたときは我慢していたが、
帰り道に相手が更に道を外れて我慢できなくなった、だな
穿った見方をすれば、親父の侮辱が直接の原因とは限らないかもしれない
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/03(金) 00:33:35
山越の麻屯・保屯攻略って孫権自ら指揮してるんだな すげー
たぶんそこで凌統を気に入ったんだろう
孫権は保屯を破って先に帰ってるから
肝心の麻屯攻略の際の凌統の奮戦は見てないけどな
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/08(水) 20:24:22
凌家は晋の時代まで存続したのだろうか?
甘家は晋の時代にも残ったようだが。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/12(日) 21:27:39
潘濬
士仁
糜芳
?普
ほかに蜀から呉へ移った人いる?
374 :
373:2009/04/12(日) 21:29:37
?普はカク普
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/13(月) 11:32:16
探せばけっこういるもんだ
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/13(月) 17:09:12
張悌は違うんじゃね?
そもそも諸葛亮に抜擢されたのいうのがウソだべ。
234年に20歳だとしても、280年には76歳。
襄陽記とかには委細が書いてあるんかね?
379 :
378:2009/04/13(月) 17:39:47
やべー俺、算数できねえw
215年に二十歳だったとしたら、280年に八十五歳だからありえないとは言い切れないかな
>>378 張悌は「児童」の時に諸葛亮に抜擢されたと言ってるのに、なんで20歳と仮定するんだ?
張悌が幼少の頃に諸葛亮に抜擢だから、劉備が孫桓に会ったぐらいの年齢だったとしたらありえるな。
征呉の戦いで最も活躍した王濬も280年当時74、5歳だったし。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/14(火) 00:09:22
諸葛カクか諸葛瑾と間違えただけだと思うな。
襄陽記の作者が、諸葛カクが丞相になったと思い込んでたんじゃないか?
それと、丞相(諸葛亮)に抜擢されたとあるが、
蜀漢に仕えた後に呉に来たという記述はない。
>>384 間違えたというのが想像でしかない上、「〜という記述は無い」というのも「〜ではない」とはイコールじゃないから全く論の体を為してないよ
「諸葛カクか諸葛瑾と間違えた」ように、「間違えて蜀漢に仕えた後に呉に来たという記述を入れ忘れた」だけかもしれないでしょ
諸葛家に丞相は実際に居たし、張悌が荊州に居たなら蜀から呉に仕える先が変わって当然なので書くまでも無い
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/14(火) 00:42:34
諸葛亮が最後に荊州にいたのって212年くらいだろ?
まあ有り得ないな。
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/14(火) 01:07:16
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/14(火) 08:18:25
210〜212年に7〜8歳で諸葛亮に抜擢されたと考えてみた。
小姓?児童偏向愛?アッーーー!!
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/15(水) 22:09:07
・張悌は「児童」の時に諸葛亮に抜擢された
・諸葛亮が最後に荊州にいたのは212年頃
張悌が嘘をついていなければ、上記を照合させると
>>388が1番事実に近いのかw
でも児童で抜擢されて就く仕事ってあるのか?
まあ、官についたわけではなく時の名士に見出されて厚遇されたという意味かもしれないね
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 10:57:30
孫ショウ孫堅親子みたいに親父が地位の低い小役人でも子供が優秀なら
名士の目に止まっての破格の抜擢は有り得る
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 11:17:46
孫堅が名士の目に止まったのは海賊退治した17歳の時だけどね。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 16:01:11
そんな早熟で、諸葛亮から抜擢されて名声を得たであろう人間が
孫休の時代でやっと五校尉、それ以前の官職不明というのがな。
その時もう60近いだろうに。
諸葛亮に見出されたなら当然荊州降伏組。
呉にとっては新参なので
麋芳や潘濬のような当初からの高官でなければ普通出世は難しい
呉録の記事では「若くして名を知られた」とある。
出世も早かったんじゃない?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 18:19:57
>>393 諸葛亮に抜擢されました的ブランドは
泣いて馬謖を切る事件で崩壊
以後長年の不遇
とか妄想w
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 19:50:52
>>394 当初からの高官でも士仁は出世しなかったね
>>397 それは判らないよ
記すべき事跡がなければ史書に残らないだけで、
出世したかしなかったかまではわからない
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/16(木) 23:46:08
事跡が残らない程の閑職=出世していない とみられてしまうこのご時世
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/17(金) 08:04:43
>>395 名前が知られているから必ず出世が速いとは限らないから。
逆もまた然り。孫チンなんて宗室一族とはいえ何であんなに出世したか未だに分からない。
リョウ統が何歳で死んだのか教えて下さい。
49歳で死んだにしては…
・2人の子が若い(49歳で死んで、孫権が預かった時点でほんの数歳というのは?)
遅くにできた子供なのかも知れませんが
・合肥以降の記述がない
合肥での活躍以降に功績がなかったのはなぜでしょうか?
49歳で死ぬまで20年も何してたんでしょうか?
荊州攻略や夷陵の戦いに参加していないのでしょうか?
やはり29歳で死んだというのが正しいのでしょうか
二三七年は二一七年の書き間違いなのでしょうか?
呉ファンのどなたか詳しく教えて下さい。
>>401 wikipediaにも載ってるが、凌統の兵を継いだ駱統が228年に死んでいるから
凌統の享年は29歳で間違いない
ちなみに、正確には合肥以降の記述はある
217年に山越を討伐し、成果をあげて帰還する前に病死した
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/18(土) 12:16:10
魯粛病死の前後か…
217年死亡の人間は多いな
呉より魏の方が顕著だけど
>>402-403 ありがとうございます。
おそらくは29歳で死んだのでしょうね
駱統の記述はリョウ統の「死後兵を継いだ」という事ですかね…?
異動によるものではないのでしょうか
いろいろ調べてみます。
呉書が一番面白いですよね、俗に言う五虎将軍、魏の五将軍の伝と同じような
伝は12人も入っているうえに甘寧伝散逸疑惑も興味津々
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/18(土) 15:01:56
甘寧伝散逸疑惑て何?
>>405 異動で兵を継ぐなんて例が無いだろう
建康実録等の資料からも、凌統は217年没として矛盾は無い
>>406 ・甘寧伝の出来事の順序がおかしい
・甘寧の子が罪を犯した後誰が継いだかが書かれていない(甘述のはず)(ちなみに董襲伝も同様)
・甘寧と董襲だけ子が爵位を与えられていない
・そういえば官位の記録も少ない
どこかでバラバラになってツギハギしたとか、もしくは元々未完だったとか、
何かあるんじゃないかっていう疑惑
意外にレス早いときは早いなwこのスレ
>>407 そうか、29歳は早いよな。あまりに惜しい人材。
217年の記述ミスは陳寿だろうか?范群だろうか?
知るよしもないが
呉書の不自然というか例外性は個人的には気になる点が多い。
諱書きまくりの歴代皇帝とか、崩ず(ほうず)薨ず(こうず)[夕旦]す(そす)の
死に関わる記述とか甘皇后、甄皇后、呉夫人とか
陳寿の蜀に対する気持ちと晋に対する体裁と入り交じったところに挟まれる呉。
呉は面白い
>>408 『太平御覧』(宋代に編纂)や『建康実録』(唐代に編纂)は217年になっているから、
陳寿の頃は正しく二十九歳と書いていて、唐以降正史を書き写す時に誰かがミスったんだろう
>>407 原型の「呉書」自体が不完全な状態だったのかもしれないな
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/19(日) 17:57:47
鐘離斐と黎斐って同一人物?
孫翊の母親って呉夫人と呉国太とどっち?
曹叡の父親って誰?
>413
曹丕
袁家の血の可能性はやっぱガセなのか
曹叡が享年三十六歳だとしたら204年生まれ。するとギョウの陥落時甄氏は少なくとも妊娠五ヶ月。
誰が見ても明らかに曹丕の種ではない子供を魏王家の一員として他の兄弟と同列に
公や王に封じるというのはちょっと考えられないだろうな。
ただ、曹叡はおそらく曹丕の長男ではなく、甄氏も皇后になったことはなく、
皇帝になる可能性の高くない存在だったのは間違いないのだろう。
曹丕の死の直前にどんな心境の変化があったのかはもはや知る由も無いが。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/20(月) 17:35:16
ギョウ陥落時に妊娠5ヶ月なら幽州に単身赴任してた袁熙の子ですらないな。
余所でやれ
>>412 孫策、孫権、孫翊は呉夫人なんでは?
あとの兄弟は呉国太だと思う
>>416 結構際どいよな、曹叡の出生に関しては
継承順位が低かったから(仮定)そんなに大きな問題にならなかったのか
>>417 そうなると甄氏はかなりのヤリ手となるのか…?
結構身持ちが堅いまじめな印象を受けていたが…
>>418 確かに
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/20(月) 18:03:20
孫匡も呉夫人だろ
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 01:13:01
孫権の奥さんは美人だった?
美女もいたんでねえの。歩夫人とかそうなんだろうな。
歩隲と諸葛瑾と張承あたりは美形のようにも取れるからその家族も美男美女だろう。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 19:41:27
驢馬顔で美形の諸葛瑾
想像できん
要潤みたいな
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/21(火) 20:11:42
マジかよ!
面長ってだけなら長身だとなりがちだからなぁ。
しかし、目立つレベルで長身ならむしろそっちが記録に残るだろうし。
>>405 亀レスだが、後に子の凌烈に兵を返還していることからも、異動によるものではない
凌統は呂蒙や甘寧らと違ってほとんど兵・金・土地を与えられていない
(例外として合肥で失った分は倍にして与えられている)
凌統は元々豪族であり、兵は私兵の要素が強いから、異動で他の人物に回せるようなものではない
>>410 原型の「呉書」が未完成だったとしたら、陳寿がいかに丸写しかって話になるな
甘寧の子孫くらい同時代人の陳寿ならちょっと調査すればわかるはずだが…
甘卓が晋で活躍しているから記述を避けた可能性もなくはないが、
董襲の子孫って晋書にいただろうか?
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 17:52:04
何故かこのスレが一番流れがあるな
他の勢力に較べても
>>429 それはひとえに呉書の面白さにつきるな
読み物としては一番おもしろい
ツンデレ張昭とか
笑えるという意味では確かに一番面白い
虞翻とかとんでもなさすぎるし
狂ったので帰宅します、という言い訳がまかり通る国
そら狂われたら帰すしか無いわな
呉は家臣が好き勝手しすぎだよな
孫権の苦悩ぶりがよく分かる
まあ孫権もかなり狂ってたけどな
この時代の士人は家を営むことがいわば本職だからね
加えて呉という国には、伝統・制度に支えられた蜀漢や魏のような求心力がなかったのはどうやら事実。
だから孫権個人の求心力で支えなければならなかった。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/23(木) 03:07:04
孫権の好き勝手さが臣下に悪い影響を与えている気がするけどなw
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/23(木) 12:15:52
家では何を稼業にしてるのかとか書いといてくれるともっと面白かったのにな
虞翻は面白い箇条書きに特徴並べただけでまるで妄想ネタに見えるから
・健脚自慢。呉軍で一番歩きます。誰にも負けません。
・馬?乗れません
・でも城門を出る時に我が君と降慮が鞚を並べるとかありえません。怒鳴りますよ。
・船は乗れます。でも降虜の船は避けません。そっちが避けて下さい。怒鳴りますよ。
・不意にノーアポで城を訪ねますが城門は開けて下さい。怒鳴りますよ。
・門下生は数百人います。
・主君に煙たがられてる?私は正しいですから。
虞翻は会稽の四性での唯一の生き残り
(後は陸家よろしく孫策につぶされた)
っていう話を小耳に挟んだんだけど、
どこで聞いたか忘れて資料も見つからない・・・
でもこれがほんとだったら
そりゃこのキレ具合も仕方ないよ。と思うようになりました
煙たがられてるどころか殺されかけたしな
曹操だったら殺してただろうか
>>439 孔潜が会稽へ避難して家を成したのが漢末だから虞翻に仲間意識はないのでは…
孫策から迫害を受けていたら家を成すどころではないでしょう。
孫権が謝夫人を娶ったのは孫策の代と考えるのが自然。
魏滕は孫策と孫権に殺されそうになったけどね。
朱桓の部下に夜になると頭が抜けて耳で空を飛んだのがいたという話が捜神記に載ってるらしいけど
これは正史の注釈にある?
ある。
飛頭蛮ね
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/25(土) 04:38:34
捜神記って何か有名な書物?なんですかね
鄭問が描いた『深く美しきアジア』という漫画でも重要なガジェットとしてその名前の付いた書物が出て来るんですが
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/25(土) 14:10:29
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/25(土) 14:29:07
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/25(土) 14:30:42
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 07:51:54
けっこういるもんだ
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 19:35:47
でも高官まで昇りつめたのは約1名を除いて皆無。
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 23:48:18
誰?はんしゅん?
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/11(月) 23:00:37
荊州は天荒の土地だからな。
唐の時代でも荊州からは数十年間も科挙で合格者が出なかった。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/14(木) 18:32:38
荊州は使えない香具師ばかりだなw
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/14(木) 21:07:24
優秀なのは魏と蜀に取られちまったからな
演義のイメージで肥沃な大地ってイメージがあるけど人口が多かったのは北方の辺りだけだったのかな
呉の辺りもそうだろうけど
南陽あたりには富が集まってたんだろ
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 09:52:05
凌統の死んだ年について疑問があるのですが…
「凌統伝」から計算すると…
父の凌操が死んだ203年で15歳、49歳で没するから237年。
一方、「馬各統伝」(らくとうでん)の記述の
「凌統が死んだ後、その兵士を任された」から計算すると
215〜222年の間なんだけど
馬各統は、凌統より早い228年で死んでいるので、計算が合いません。
誰か教えて!!
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 10:03:23
凌統は217年に29歳で没でFA
凌統伝の記述が間違い
29歳没が正解
wikiにもあるけど、没年齢の転写ミスなのかもね。
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 12:18:32
>>457-459さん。わざわざ丁寧にありがとう!!
探してみたら前スレやwikiにありました。
他の武将も、没年の推定範囲を狭めてみましたので…
何かあれば宜敷お願いします。
甘寧→219〜221年
周泰→222年以前
徐盛→225〜229年
張糸広(ちょうこう)→211年
韓当→223〜226年
蒋欽→219年
黄蓋→215年
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 12:26:15
黄蓋、武陵の異民族討伐をいつ行ったか気になる。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 12:33:28
>>461さんへ。
やっぱり劉備と孫権が対立した
214〜215年と見るべきかなぁ?
>>460 こうしてみても、つくづくあと10年くらい長く生きてくれたらな…と思う
江南の温暖で湿潤な風土も影響してるんかな
史書って死んだ理由は書いてあっても
長生きの理由に関しては表記が無いな
張昭や呂岱なんてしぶと過ぎだろ
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 16:32:11
>>463さん
勇将ばかり早死にするみたい。張糸広(ちょうこう)は過労死?
>>464 重ねて礼を言います
>>465 孫権。朱然。朱桓。その他色々も長生き。
孫権と張昭の君臣関係は、かなり面白いね。
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 16:40:28
>>462 その時期だと、呉軍は荊南四郡のうち武陵以外の三郡に侵攻しているから、
黄蓋が、荊南四郡のうち呉から一番遠く劉備の統治下深くにある武陵まで踏み込めたかが気になる。
劉備も主力を引き連れて公安まで戻っているし。
呂蒙が荊州を制圧した後で武陵の異民族討伐なら、何も悩む事が無いのだが。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 16:51:55
>>467さんへ。
「宗室 孫皎伝」(そんこうでん)によると
「黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、その配下の軍もあわせて孫皎が指揮をすることとなった。」
とあります。
孫瑜が死んだのは215年なので、黄蓋は215年に没したんじゃない?
469 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 18:46:29
それが正解っぽいな。兵の引き継ぎとかがあると、没年が絞りやすくて楽だ。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 20:19:12
>>465 長生きの理由は華佗関係で少しあったな。
適度な運動がどうたら。
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 01:38:51
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 04:37:02
>>467 215年の時点では黄蓋が武陵太守にはなり得なかったと思う。
関羽と魯粛が対峙したのは長沙の益陽だし、
呂蒙は零陵落とすのに時間との勝負をやってるし、
黄蓋が武陵太守になった上にのんびり(自春訖夏、とある)異民族掃討やってるヒマはない。
しかもその後、黄蓋は益陽まで出向いて山越退治してる。
215年の益陽は呉の最前線なのだから、黄蓋が出向く必要はないはず。
別ので可能性としては、
関羽掃討時(219年)に武陵太守になり異民族退治し、益陽の山越撃退し死去
→孫皎が兵を引き継ぐも、同年死去…?
しかしこれも厳しい。
関羽が于禁を捕らえたのが8月、関羽が呉に捕まったのが11月。「自春訖夏」と矛盾するし…。
程普の兵って誰が引き継いだっけ?
孫皎は夏口の督を程普から引き継いでるから、
孫皎伝の黄蓋が程普の間違いとかじゃないのかなぁ?
あるいは黄蓋がなったのが零陵太守とか。
(巴、醴、由、誕という地名がヒントになっていて、なんとなく武陵で正しい気もするが)
集解には何か書いてないのかな?
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 07:24:57
>孫皎伝の黄蓋が程普の間違いとかじゃないのかなぁ?
今のところこれが一番確率高そう。黄蓋の没年を考察するだけでとても面白い展開。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 07:33:47
程普は確か215年頃に没しているから
>>472さんの考察が正しいに一票
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 07:46:20
>>472 後漢末期にもっと南方で同姓同名の黄蓋がいたような
日南太守を追い出された後…流浪の末に孫権に属して…いやまさかね
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 11:06:31
>>472 黄蓋が武陵太守になったのは、劉備が荊南四郡を制圧した209年頃かな。
その頃、周瑜が江陵を攻略するのに劉備から関羽や張飛を租借しており、
代わりに、劉備が荊南を攻略するのに黄蓋が随行する、というスワッピングが行われても別に不自然ではない。
確か、諸葛亮伝に諸葛亮が軍師中郎将になって、零陵、長沙、桂陽の三郡を治めたとあるが、
何故か武陵は治めていない。これは、黄蓋が武陵太守として存在していたからだと思う。
で、周瑜が死去して、魯粛が江陵を劉備に貸与する頃には、黄蓋は既に死去していたのではないだろうか?
周瑜も黄蓋も死亡時は偏将軍。南郡太守の周瑜、江夏太守の程普と比べても、武陵太守の黄蓋は同格に近い。
赤壁の戦いの大活躍で、黄蓋は周瑜や程普に肩を並べる扱いを受けたのかも。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 11:27:07
江夏ってどうなったんだろうな
黄蓋210年没でFA?
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 15:50:56
スワッピング説も考えられなくはないが、
黄蓋は自ら武陵(金旋)を攻略したのではなく、異民族の反乱に合わせて孫権に太守任命されてる。
また、孫権は後に「零陵、長沙、桂陽」を返せ、とも言っているし、
諸葛亮が3郡を統治した時期にまで黄蓋が武陵に駐屯していたとは思いにくいかなぁ。
もともと武陵は異民族の問題を抱えている土地なので、
諸葛亮とは別に担当者がいたと考えるのもそれほど変ではないかな。
(晋の時代に荊南交北中心に湘州設置した時も武陵だけ除外)
3郡は軍糧調達地になったわけで、武陵だけは異民族対策から、税的に優遇されたのとか?
もしかしたら後に武陵蛮が煽動する馬良あたりが関わっていたかも(当時の職は荊州従事だが)。
あと、武陵の僻地の族長たちは蜀に忠誠を誓っていたのを改めたとあるから・・・
と書こうとして原文見たら
諸幽邃巴、醴、由、誕邑侯君長,皆改操易節,奉禮請見,郡境遂清。
蜀と断定できる文言はないね。
ただ郡境遂清などと見ると、蜀との間の綱引きがあったとも思ってしまうが
これは先入観なのかなー。
官位に関しては、
後長沙益陽縣為山賊所攻,蓋又平討。加偏將軍,病卒于官。
加官されてるので武陵太守の時に益陽の山賊を平討したのだろう。
210年に長沙を分割して漢昌郡が設置されて、太守となった魯粛が東北部の陸口に駐屯する。
となると、残りの長沙(益陽を含む)は劉備が統治していたんだろう。
スワッピング期とは言えわざわざ黄蓋が鎮圧に来るだろうか?
荊南しか持っていない劉備が、その大拠点の益陽をガラ空きにするとも思えない。
劉備の山賊討伐に力を貸したのかも知れないが
そうした助太刀的なレベルの仕事で偏将軍を加官されるのかちょっと疑問。
ただ、もし黄蓋が武陵太守になったのが220年ごろだとすると、
赤壁からの空白期間が長すぎるのようにも思う。
(記述されないだけで様々な戦に従事したり、地方の抑えとなっていたのかも知れないが)
他の武将の出世具合を確認して、偏将軍になった時期を絞るともっとハッキリしてくるかも。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/30(土) 09:54:31
呉書見聞待ち
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/30(土) 22:01:00
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/11(木) 08:03:24
程普長生き説の件は?
孫策が許都を攻め落としたとしてその後の方策はあったんだろうか?
結局は曹操と同じように献帝を傀儡として漢の実権をにぎり、
禅譲をせまることになったのだろうか?
なんかそれだと反曹の大義に矛盾するよね?
孫策の戦略ってあまり分かってないと思う。
参考になるのは張紘が提言した「漢を外から守る」くらいでは?
禅譲は一般的な手段ではなかったからそこまでは考えてなかったと思うけど
献帝を尊重するかは謎じゃないかな。
まあ大義なんてのは建前だから
事を成した後を考えても無意味だと思うよ。
献帝を保護したらしたで、漢の命脈は尽きてうんぬん言いだす奴が出てきて
曹操と同じ道をたどるよ
どっちにしろあの時点で許都攻め落とすのは不可能だけどね
仮に許都を落とせたとしても皇帝はさすがに違う場所に移されてるだろうし
守り通せるとはとてもじゃないが思えないしね
そう考えると、呉が一番天下に近づいたのは、
やっぱり孫堅の頃だったんだろうか?
もしくは、孫策が天下を担うには、長江流域を手中に収め、
韓遂・馬超と手を組み天下を二分するしかなかったのだろうか。
いずれ起こる曹操側と献帝側の混乱に乗じるというのはどうだろう?
>>487 上2行
それはないだろ。孫堅の頃は地盤が脆弱すぎる
>>488 うむ。
ただ、孫堅が玉璽を有して天子を奉戴した場合
面と向かって異を唱えることが可能だろうか?
有形無形の抵抗はあるだろうが、そこを乗り切れば・・・。
というより、孫策に天下を狙うことが不可能であったとするならば、
当然、孫権の時代には更に可能性は下がるわけで、
相対的に天下の趨勢が固まる前の孫堅時代の方がチャンスは
あったかと思っただけです。
やっぱ、孫呉には天下の目はなかったつーことかなぁ。
>>489 仮に孫堅が董卓を撃って献帝を保護した場合、正史での呂布の運命が孫堅にすり替わる可能性がある
>>489,490
孫堅初平二年死亡説を採っても「孫堅が董卓を撃って献帝を保護」なんてIFはあり得ないと思う。
孫堅が襄陽落としたとしても荊州統治はすんなり行かないだろうし
江東に地盤を持ち官渡につけこんで北に食い込めた可能性のある孫策のほうが天下に近いと思う。
というか、
>孫堅が玉璽を有して天子を奉戴した場合
というのはあり得るんだろうか。
玉璽の使い道なんか、返して終了か、自分が天子を名乗るための名分として
使えるの二択しかないんじゃね?
玉璽を持っているから天子を奉戴できるとはとても思えないんだが。
それ以前に玉璽は確か演義設定だよね?
裴松之注では複数の書で孫堅が玉璽を手に入れた記述がある。
信憑性についてはなんともいえない。
>>494 いずれも呉の資料
呉の人は玉璽を手にしたことを国の誉れにしようとしてるが
それが却って孫堅の美徳を損ねてるとこっ酷く叩かれてるな
しかし当時、玉璽持ってたからってどれほどの価値があったろうな
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/17(水) 18:14:01
袁紹も偽の玉璽を持ってたわけだし、
真贋よりも、誰が使うかの問題だな。
いくら本物の玉璽であっても、使う人間によってはそれこそ逆賊扱いされてしまう。
詳しくは知らないが玉璽って用途別に何種類か(9つ?)あったとか聞いたけど
皇帝の所有物を手に入れたんだから縁起がいいという程度の効果じゃないかなぁ。
演義だと「伝国の玉璽」って事にされてるけど
始皇帝や劉邦が使ってたのを代々使い回してるんじゃなくて
新しい皇帝になったら新調したりしてただろうしな
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/17(水) 21:00:18
陸胤が二宮の変の時にスパイみたいな真似した件、孫和の失点として語る人もいるけど
あの呉録の記事の信憑性ってどうなんだろう?
情報源も気になるが、一番は時系列の問題。
事件は陸遜存命時(〜244)で、陸遜は陸胤から聞いたと言い、
陸胤は楊竺の名を上げ、これにより楊竺は処刑された。
拷問に何年も掛かるとは思わないし、
また陸胤のその後のキャリアを見る限り248年以前であると推測される。
だが、孫覇伝では楊竺は孫覇と同時期(250年)に処刑されたように読める。
あと、楊竺の陸遜告発状を陸抗が問い質された件がある(244〜245頃?)。
これをどう捉えるかが難しいが。
>>500 孫覇伝をよくよく読むと、楊竺と孫覇についてはどっちが先に死んだか確定できる要素が無いと思う。
孫覇が死を賜ったとの文の後に楊竺が死体を長江に流されたとの文があるので単純に孫覇→楊竺と考えたくなるが、
楊竺が孫覇と同時期に死んだとはどこにも無いし、全奇らだけがはっきり孫覇の後と書いているので、そこから外れている楊竺の死は少なくとも全奇よりは前だが、孫覇との順番は不明としか言えない
唯一、楊竺の死亡時期を推測できるのが呉録ということだ
>>499 いやいや、正史の孫堅伝の注の呉書、山陽公載記でも伝国璽だよ
あれは演義の創作じゃない
>>502 たぶん破損や紛失でオリジナルの「伝国璽」じゃなくレプリカなんじゃないかって言ってると思うよ
山陽記って信憑性はどうなんですかね
後漢書袁術伝では孫堅が伝国璽を得たことも袁術が強奪したことも採用されてる
ちなみにその璽は徐キュウが保護して献帝に返した
>>503 偽者だったと言ってるのは江表伝だけど
志林では伝国璽と六璽は別物と反論してるね。
>>504 裴松之は否定的。
>>505 山陽公載記と同じ内容だよね。
袁術が孫堅夫人を拘束して奪った。
玉璽にまつわる真偽はともかくとして
のちに孫権が帝位を僭称する上で、
大義名分・天命が下った証しは必要だったろう
すると玉璽を手に入れたという話を喧伝しなかったわけはないだろうね
当然、そうした意向を反映した史書もあっただろう
仮に虚構だったとした場合、
連合軍が敗れた一方で孫堅軍が洛陽に到達したということを
何らかの形で周囲に示す効果を狙ったのではないかと愚考。
他の諸侯に対し、優位性を示す意味は大きいのでは?
まぁその後の行動を起こす前にお亡くなりになったので、
どういった意図をもってそんな噂を流したのかはなんともいえないかな。
>>488 >>491 孫堅の地盤って、荊州に関しては特に脆弱でも無くない?
長らく務めた長沙太守って取っ掛かりも持ってるし。
太守らを殺してるから怨みを買ってる可能性は有りますよ
>>509 荊州で地盤が固まってるなら孫堅の死後孫策が長沙を継ぐだろ
孫策が土地も兵も無い状態からスタートしたのが地盤が固まってない証拠だよ
孫策は長沙にいなかったし何の力もなかったから継ぐのは無理でしょう。
孫堅残党にしても劉表の勢力圏内を突破して長沙に戻るのは難しい。
長沙の蘇代は恐らく孫堅に後を任された人物だと思うし、
武陵の曹寅は王叡の件で貸しがあるから協力するかもしれない。
ただ荊北は取っ掛かりもないし隣に袁術だから地盤を固めるには時間が掛かるだろうね。
>>510-512 実際問題、劉表はなんの取っ掛かりも無かった上に地元豪族を大量に殺害したが勢力を安定させてるわけで。
河を挟んだ南北の内、少なくとも南には結構な影響力の見られる孫堅がそれ程不利な条件とも思えないけど。
>>513 劉表は大物豪族味方につけてる訳で、
大物名士ぶっ殺した孫氏が荊州で地盤を築くのは困難かと
孫策が江東で名士虐殺しても周喩と張昭がいたからなんとかなったのと同じ
>>513 劉表と孫堅の一番の違いは出自。
カイ越や蔡瑁らが大人しく従うか未知数。
と思ったけど孫堅が襄陽落とすとしたら劉表が55人殺害した後だから
どうにでもできそうな気がしてきた…
>>512 江夏太守の劉祥も孫堅の盟友。
ただこいつらは孫堅の襄陽攻めまで無事だったのかな?
あと桓階も頼りになりそう。
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/28(日) 06:23:54
>>514 孫策は名士虐殺って言われるほどのことしてないべ
>>514 この時代、刺史や太守は余所者。王叡は琅邪人で張咨は潁川人。
現地豪族を撫で斬りにするより遙かにましだろう。
勿論、統治下にも滅茶苦茶信望の高い大物名士だったなら別だろうけど。
王叡の甥は晋の王詳で、琅邪王氏はかなりの名家になるけど
漢末のこの時点ではそれほど飛びぬけた存在ではないだろう。
孫堅伝を信じるなら長沙太守の功績で侯にまでなっているわけで、
生きてさえいれば有効な地盤になったと思える。
といって、孫堅が死んだあとに孫堅が地盤を継ぐのは無理だろう。若すぎる。
ただ、孫堅天下取りコースを想定すると、長安まで長駆して董卓を破るなんて真似は
殆ど不可能な上に、最大の障害として袁術の絶大な政治的影響力がある。
この二人の間、荒廃した河南では自立は無理なので、相当アクロバットなやりかたを
しないといけないだろうね。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 11:41:15
軍師スレが終了しました
新スレをたてよう
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 16:42:03
新スレなぞいらん。
陸遜厨が幅を効かせてるからな。
呂蒙厨乙w
なんだと!?
それを言うということはここにも陸遜厨が…!!?
…陸遜厨なんていたっけ?
ただ馬鹿が一人で喚いてる様にしか見えなかったが…
952 :無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 17:05:56
>>948 山越討伐は呉の多くの武官が成功として記録されてる事柄だから
そこまで言うこととは思えない
953 :無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 17:36:24
精卒数万を得るってのは多くの山越討伐の中でも際立ってるよ
↑
陸遜が精卒数万を得たのは山越討伐とは少し違うと思う。
あと、この時の部隊編制は凌統も共同して当たっていたのではないか。
陸遜は無双で腐が大量に増えたのが残念過ぎる。
あのキャラデザどうにかしてくれ。
石亭虐殺は黒歴史?
カクと並んでハイショウシに一番嫌われた人物だよな
それは関係無いと思う、ハイショウシは特に劉備信者というわけではない
裴松之は好き嫌いが激しすぎるw
>>525 丹楊の費棧が曹操から印綬を受けて山越を扇動。
陸遜は費棧を破り東の三郡で精卒数万を得る。
費棧が山越かは分からない、というか山越の定義が定まってないとは思うが
はっきりと山越が絡んでる事は書かれてるから山越討伐でいいと思う。
淩統は董襲らと共に彭虎を討ってるし、山中人から精兵万余を得てるけど
陸遜と共同してという記述は見当たらなかった。
>>527 虐殺は石亭じゃなくて石陽ね。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 04:50:36
>>532 費棧は山越だろうけど、山越討伐と精卒数万は別じゃないか?
費棧を討伐し、費棧に属していた山越の民を軍に組み込んだら数万になった、という話ではない。
朱桓も呉・会稽で部隊編制をした記述があるけど、それと同じ。
>>532 凌統が董襲らとともに彭虎を討ったのは建康実録によると206年秋
凌統は死の直前にもう一度山越討伐をしているが死の直前なら217年で
タイミング(216〜217年)と孫権への意見の内容が陸遜と一致しているため
賀斉・陸遜と共同だった可能性は高い(別行動かもしれないが)
>>532 元々陸遜は逃散して隠れ潜んでいる者たちの中から兵を募りたいと願い出て動いてるのだから
そこで得て編成した兵は山越とするのが自然
というか、山越以外にそんな所に数万も精鋭はいないだろう
>>534 こちらの書き方が悪かったかも知れないが、
「討伐」と「部隊編制」は別、ということを言いたかった。
離散した民を糾合して兵に当てるのは功績だと思うが、
それは所謂「山越討伐」とはちょっと違う。
東方・南方平定の功績は何と言っても賀斉が第一で、
彼の「征服戦争」の過程で出た流浪民が多くいたのではないだろうか。
それを清算したのが陸遜であり朱桓と思える。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 09:38:05
呂蒙厨の蒙昧ぶりは鬱陶しかった
陸遜>呂蒙は歴史的事実
なに嫉妬してんだ
一応俺も陸遜の弁護はしてたけどな
自演に見えたようだ
死にざまは明らかに呂蒙>>>>>>>>>>陸遜
人望も呂蒙のほうが上だよね
家柄では
陸遜>>>>>>>>>>呉下之阿蒙
だけどな。
ついでに丞相経験者だ。江陵侯だ。
孫権に最高に惜しまれながら死んだ呂蒙>>>>>>>>>>>>>>>>>孫権に疎まれ無様に憤死した陸遜
憤死とか本気で信じてる奴がいるのか…
阿蒙厨って最近の流行なの?
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 12:36:03
普通に考えて呂蒙厨がいるのではなく陸遜厨が嫌われてる流れじゃないか?
阿蒙!阿蒙!
何この頭悪そうな流れ
コテまで沸いて来たし…
>>539 家柄が良かったから目をかけられた、とも言えるな
>>535 精卒数万の後に
「古くからの悪は一掃され通った場所は清められた」
とあるから離散した民を糾合しただけということはないと思う。
山越討伐の功績は賀斉が第一というのは同感。
それは事実だろw
おまえらもうやめろや飽きた
呂蒙も陸遜も信者の痛さは同レベル
軍事的な功績は呂蒙のほうが上だろうな。
陸遜のほうが軍事政治に優れた「名臣」ではあるけど
陸遜183年 - 245年
孫権182年 - 252年
呂蒙178年 - 219年
諸葛亮181年 - 234年
司馬懿179年 - 251年
陸遜って若いイメージなんだがそんな事ないな。
219年の荊州侵攻時で36歳。
呂蒙は人柄というか人徳の高さも凄すぎる
孫権や諸葛亮より若いんだから若いと言えば若いだろ
ただ演義や無双でのギャップと夷陵の時初めて目立ったからそう感じるだけで
呂蒙は郝普を騙して釣り出したあと
ネタばらしして嘲笑した時の態度とかはあんま好きじゃない。
あれが無かったらな〜
まあ民衆の虐殺よりは1000倍マシですがね。
呂蒙は会戦せずに二度の攻撃で荊州を完全奪取したってのが凄いよな
智将という点ではこの時代一、二を争う人物だろう
あのあたりは孫策に似ていると思った
DQN臭いのは呉の宿命なのか
江南の野蛮人だから仕方がないよ
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/22(水) 02:00:31
曹操の虐殺は感情的なものだからまだ理解は出来る。
陸遜の虐殺は計画的なものだから最低。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/22(水) 02:04:03
陸遜アンチの活動にワロス
理屈度外視で感情だけで叩いてる感じ
>>535 賀斉が征服戦争で、陸遜のそれは違うかのような言い方はどうか
陸遜の編成に至る過程がそんな平和的なものでないことは
山越討伐の前の陸遜の意見を読み返せば分かるはずだ
費棧の軍をそのまま組み入れたわけじゃないといってもそんなのはどの山越討伐も同じ
蜂起する者を討伐し、降伏した付近一帯から使える者を(孫権の許可を得た上で)軍に編入する
賀斉も陸遜もやってることは同じで、ただ陸遜伝の表現が詳細なだけ
流浪民の発生が賀斉らの討伐のためというのも偏った見方だ。山越の中心は越の名残
漢人の支配する土地で後から反旗を翻したのではなく、漢人の支配が未だ及ばない土地
それを賀斉らが討伐し、散り散りに山奥に逃げられ、また討伐し…
呉の多くの時間を費やして、切り開かれた漢人の土地にしていった
山越の問題の解決は賀斉ら呉の人々皆の繰り返しの努力によるもので、陸遜・朱桓に限ったものではない
賀斉伝を読んでもらえれば分かるが、
彼が行った山越討伐というのは彼以後の行ったものとは少し違う。
反乱者の討伐というより、孫家の未踏の地域への侵攻という面がある。
結果、賀斉は周瑜や程普と同じスピードで出世している。
陸遜の件に関しては「遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶,得精卒數萬人」
「部伍(軍隊)を東三郡に遂(すす)めると」とあり、
費棧とはまったく別の行動だと思うんだけどな。
そして「表現が詳細な」陸遜伝であるのに、精卒数万を得た東三郡で戦いがあったとは書かれていない。
もちろん徴兵の過程で小規模な衝突はあってもおかしくないが、それはいわゆる山越討伐とは別物だろう。
朱桓伝には「使部伍吳、會二郡,鳩合遺散,期年之間,得萬餘人」と似たような記述があり、
こちらを見れば「征服戦」によって流民的なものが発生していたことは分かる。
あと山越の認識が随分とはっきりしているけど、それでいいのだろうか。
非漢人とも言いきれないと思うが。
陸遜は山越討伐で周りから批判をあまり受けないほどの人望があったよ。
だから丞相にまでなれた。
たぶん孫権なんかよりも愛されてた。
人望はあってもカリスマはあんま無かったようではある
呉の軍人は軒並み山越討伐に従軍してて、それぞれ数万の兵を得たとか記述されてるけど
それ合計したらどれだけの兵役人口得たことになるのだろう?
実際は海の向こうに人狩りしなきゃならないほどの人口過疎地域
山越討伐の成果も割り引いて考えた方がいいんじゃない?
当然誇張もあるだろ
>>568 陸遜伝では
>>548も指摘するとおり、東三郡は
孫権への意見→費棧→東三郡→宿惡蕩除,所過肅清,還屯蕪湖
という一連の流れの中にあり兵を動かしている。これを武力制圧でないと決め付けるのは不自然だ
(首謀者であった費棧を討ったことで周辺地域も服従、なら有り得るが)
山越が非漢人とは言っていない。中心は越の名残と書いた
曹操の印綬を受けた費棧等の首謀者はまず漢人だろうし、逃亡した一般の漢人も混じっているだろう
と、ここまで来て自分と
>>535の流民を中心に言葉の使い方が違うんじゃないかと気づいた
>>535は賀斉の征服戦で流民が発生し陸遜・朱桓が清算したと表現しているが、
これは賀斉の行動にデメリットが多く、その穴を陸遜らが補ったかのような言い方で
これでは賀斉によって人口が減り、陸遜・朱桓が元の人口に戻したかのように読めてしまう
自分はそこがひっかかっている
実際には賀斉らが討伐する前から山越はそこに存在し一部の漢人も逃亡していたわけで、
彼らは戸籍に入っておらず税を納めていない、人口に数えられていない人々だったはずだ
賀斉らが山越討伐をして山越が別の山奥に逃げても人口は減らず、捕らえた分だけ人口は増えたはず
それらの実情と「流民が発生」「清算」という表現はそぐわない
山越討伐の目的の一つは人狩りであって、そういう意味では東三郡のそれも山越討伐の一種だろう
山越=孫権様に逆らう馬鹿共
くらいの認識でいいんじゃないか
山越って賊なのか山越族って民族がいたのかいまいち不明
南部の山岳地帯辺りに住む不服住民の総称だったのかも知れないね
賀斉って蜀で言えば関張クラスの将なのにマイナーなのが悲しいな
演義でも無視されてるし
対魏でも対蜀でも出てこないからな
賀斉クラスを内側に使わなきゃならんフロンティアっぽさが呉の致命的な欠陥だが
そういう連中に主役扱いの魏や蜀が負けるのが面白い
>>573 精卒数万も得たのに、東三郡で戦いがあったことが明示されていない。
であるのに、武力討伐だったとする方が不自然だと思うけどなぁ。
例えば張承の例ならば「討平山寇,得精兵萬五千人」と書かれるわけだし。
繰り返しになってクドくてすまないが、陸遜と朱桓の例を比べると
「遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶,得精卒數萬人」
「使部伍吳、會二郡,鳩合遺散,期年之間,得萬餘人」
あと、淳于式の上奏もある。
陸遜が無理強いして民を兵に取り立てるので、各地に愁擾がある、というもの。
それと費棧は曹操から印綬を受けて乱を起こしたのだから、
陸遜の孫権への意見からの流れを一連のものとは言えないと思う。
孫権への献策、曹操に呼応した費棧の討伐、東三郡での部隊編制と、それぞれの功績があって
それら全体を称して「宿惡蕩除,所過肅清」と纏めただけではないか。
この語をもって東三郡での徴兵が武力討伐だったとは言えないんじゃないかなぁ。
流民という語に関しては自分も曖昧なまま使っているのが申し訳ないが
これは朱桓の例にもあるように「遺散」した民・兵ということ。
陸遜伝にも「時吳、會稽、丹楊多有伏匿,遜陳便宜,乞與幕焉」とある。
賀斉も討伐の度に相手を取り込んでいるが、それにも限界があるわけで、
別にそれをしてデメリットだとは思わないな。
メリットが上回っていれば良いわけだし、敵対集団が瓦解していれば十分。
これまでの山越討伐の際に吸収しきれなかった「遺散」を鳩合したのが陸遜の東三郡の例だろう。
>山越討伐の目的の一つは人狩りであって、そういう意味では東三郡のそれも山越討伐の一種だろう
もちろん、人狩りは目的の一つだけど、内容が違ったらやはりそれは別物だ。
陸遜に関しては、伝の序盤に山越関連の記述が詳細に記載されていることもあって
彼をもってして山越関連のスペシャリスト扱いする意見も時折見かけるけど
それに異を唱えるというのがそもそもの(
>>525)主眼だった。
潘臨はよく読むと小規模の勢力に思えるし、
尤突に関しては実は賀斉(奮武将軍、陸遜は校尉)と共同しているが、そのことは陸遜伝には書かれていない。
確かに読み直してみると、
諸郡都尉になり軍官として山越などの討伐を主任務とした賀斉などと比べて、
若い頃の陸遜は屯田都尉を経験しているように亡命の流民を孫権の支配下の
民戸/兵戸に編成する作業を、しかも郡を跨いだかなり広範囲で行うのを主任務と
していたようだね。
このおそらくはかなり強い権力の下で、功績を挙げつつ自分の部曲を強化していったのだろう。
陸遜は最初に孫権の将軍幕府に仕えた人物だから、彼もまた孫権が大事にした
「孫権生え抜き」の一人だったんだな。
>>579 > 陸遜の孫権への意見からの流れを一連のものとは言えない
という一方で
> 孫権への献策、曹操に呼応した費棧の討伐、東三郡での部隊編制と、それぞれの功績があって
> それら全体を称して「宿惡蕩除,所過肅清」と纏めた
こちらでは「宿惡蕩除,所過肅清」が全体に掛かってるというのは無理があるんじゃないかな。
全体に掛かっているとしても東三郡が部隊編制だけならここに掛かるのはおかしな感じがする。
> 東三郡で戦いがあったことが明示されていない
というのであれば「鳩合遺散」「召合遺散」という言葉が孫輔伝・潘璋伝・陸胤伝にも出てくるが
陸遜伝に明示されていないのは何故かという疑問がある。
陸遜は活躍が多岐にわたるので賀斉と比べれば山越関連のスペシャリストとはいえないと思うが
尤突や費棧の反乱は曹操からの印綬があるので他の山越討伐に比べて大規模だった可能性は高い。
対尤突に参加したのは賀斉と陸遜、対費棧では陸遜のみだから実績としては十分だと思う。
>>579 陸遜が山越のスペシャリスト……そう思ってる人ってのはおおかた陸遜の仕事内容云々ではなく、
単に山越討伐がいつの出来事か分かってなくて
陸遜が呂蒙の指名によって表舞台に出てくるまでの間ずーっと山越を討伐してたと勘違いしてるだけだろう
(無双でもそんな表現だったw)
203年に仕官し曹令史(事務長)となり、後に地方に出て、潘臨・尤突の討伐が216年、費棧が217年なのにな
>>525がそういう主旨だとは思いもしなかったよ
>>535後半は賀斉を貶めて陸遜を変に持ち上げようとしている表現にしか見えなかったから
>>579 言い忘れ。流民というのは確かに居所を失った民のことだが、
「民」は社会を構成する人々、支配下にある人々という意味の文字だ
山越は孫権の支配下にはないから自分は民という言葉は使わず、
山越が住処を失っても「散り散りに山奥に逃げ」等の表現を使うようにしている(漢人寄りの視点ともいえる)
そんな自分には
>>535は賀斉らによって戸籍に入って税を納めている人々が遺散したと言っているように
受け取られ、
>>567のレスに至った
>>580 呉の場合、名家相手に生え抜きという表現は正しいとは言えない。
特に陸家の場合は。
ご存じの通り孫策の一件がまず前提になるからね。
しかし、陸家家長陸遜の嫁に陸家を潰しにかかった男の娘を嫁がせるってのは
扱い的に血縁のための婚姻ってだけの意味じゃないよね?
性的報復も込み?
あと、孫策の諡が王なのは孫策の子供に皇位継承の話が持ち上がるのを避けるためなのか、
陸家の一件がからんでるのかも気になる。
他にもいろいろ理由あって王なんだろうけど。
>陸家を潰しにかかった男
これは言いすぎだろう。
>陸家家長陸遜
これもどうか。
個人的には二つの疑問がある。
陸遜は本当に陸家家長だったのか、また、その時の陸家とはどの程度の幅か。
原文は、遜年長於康子績數歲,為之綱紀門戶
陸康が孫策に攻められて陸遜ら親族を呉県に帰した時、陸遜はまだ12歳程度だ。
陸績より数歳年長とは言え、一族全ての取りまとめ役をするには幼すぎる。
また、陸遜より年長と思われる陸氏の人物も数人いる。
後漢書には陸績の兄の陸儁の名が出てくる。
陸康が病死した時、朝廷は陸儁を郎中に任命している。
陸康が70歳だったことからして、成人していた可能性大だろう。
他に、陸康との血縁関係がどの程度近かったかは分からないが、陸凱(198年生)・陸胤兄弟の父がいる。
さらに、孫権の徐夫人の前夫は呉郡の陸尚だし、孫策に仕えた会稽丞の陸昭というのもいる(陸尚と同一人物?)。
ならば、陸遜が一族全体のまとめ役たる宗師になったということはないのではなかろうか。
「陸績より数歳年長だったので」という前段からしても
「綱紀門戶」というのは「一族を取り仕切った」ではなく、
「陸康の家族を取り仕切らせた」というのが実際のところではないだろうか。
陸儁は都にいたか、あるいは他の理由があって、家族を取り仕切らせることは出来なかったんだろう。
陸康と共に廬江に残ったのかも知れない。
だとすると、帰郷の旅路の(名目上の)リーダーとして選んだのかも知れない。
(陸遜より年長の婦人や下男もいただろうから、陸遜が指揮命令をしたというのでもないだろう)
陸家は孫家のせいで散々な目に遭ってるのに陸遜はよく孫権に従う気になったな
陸績なんて孫権にイジメ殺されてるのに
呉郡の陸尚は陸遜よりは年下かも。
徐夫人は徐コンの娘。徐コンは孫策孫権の従兄弟。
>>586 孫策が王なのと陸遜は全く無関係だと思う
俺もないと思う
孫権の晩年の人柄を考えると特に
孫権も尻拭いさせられて内心では孫策Uzeeeeeeee!!、と思ってたんだろうな
遺言で「お前は俺より下!」とか言っちゃう人だし
孫策がいた頃は自分にお鉢が回ってくるなんて思っていなかっただろうし、
孫権自身はドラ息子だったっぽいし、
孫堅死後の孫策は結構よくやっていたわけだし、UZEEEとは思っていなかったんじゃね?
どっちかって言うと自分の地位が磐石なものになってから、
孫策の影を消そうとしたって感じじゃん
というかUzeeeeeeeeって、もう少しまともな言い方はないのかよ…
2ちゃんで言葉遣いを期待するなよ
孫堅の諡が武烈皇帝で、孫策が長沙桓王だっけ?
陸家に気を遣ったってのは孫権の性格からしてありえない気がするし、やっぱ自分の息子を確実に皇帝にする為に孫策をワンランク下げたってのはあるような
今更孫策の息子が孫権の息子を差し置いて皇帝になるってのはまず有り得ない事だと思うが
晩年のうたぐり深い孫権ならそれくらいやりそうな気がする
孫権が孫策の尻拭いなんてなんかあったっけ??
孫権が呉王になったのは二十年以上の統治の末のこと。
その基盤を築いたとはいえ、兄でしかない孫策に呉王・帝号を追遜すべき理由ってなんだ?
222年の段階では孫策の遺風なんてもはや殆ど無力なものだったと思うが。
張昭が?
>>601 確かに伯升は劉秀が皇帝になる三年位前に死んで、漢王も漢皇帝も追贈されてない
斎武王だけど(長沙桓王策と同じポジション)
劉秀は兄の存命時から独立的に軍を動かして基盤を造ってるわけだから、
孫権と同列に置くのはちょっと苦しいかと
>>598 孫奉が即位するのではと噂が流れるぐらいだから、そうとは言い切れないのかもよ
>>598 基地外皇帝孫皓が皇帝になったのは、孫皓に孫策の威風があったからという話は?
孫策の人柄が呉人に称揚される典型になっていた可能性と、
孫策の血族が孫権を脅かす危惧があった可能性は別じゃ
孫皓が基地外になったのは即位してからだろ
陸凱のプレッシャーに耐えられなかったのかな
もともとキチガイだったんだろ。
万ケが見抜けなかったか、都合の良いウソをついてただけで。
孫氏はみんな大なり小なりキチガイの要素あったけどな
孫皓は生い立ちがアレで皇帝になってブレーキ外れたんだろ
>>608 だよね
孫権も晩年はかなりキレまくってたよな
老害てきな意味合いで
若い頃も部下から金せびったりしてるし
かなりアレな奴だぞ
孫策〜孫権晩年以外の押せ押せな時はちょっとアレな部分もまぁ許せるけど、
皇帝として地に脚をつけて国を動かすには性格が激しすぎるんだろうな 孫家は
孫権は喜怒哀楽が激しすぎるからな
呉書を鵜呑みにするのもあれだが、やたらと激怒したり涙したりしてる
権力が弱い分、臣下との距離は魏蜀より近かったのかも
つか臣下も好き勝手やりまくってるからなぁ
そこが楽しいところでもある
孫権と愉快な仲間達
張昭とかは「仲間」扱いされたら露骨に嫌な顔したんだろうな
張昭の仲間扱いされて喜ぶのも名士層だけだと思うな。
呂蒙は例外的に喜びそうだが。
>>616 張昭は劉巴が張飛を冷たくあしらったのを批判したくらいだぜ?
んで酒席で仙人論争に白熱。
それを鼻で笑ったのが虞翻。
でも張昭も虞翻も孫策LOVEという現実。
孫策はどっちも重用したからなぁ
孫権の代になると途端に口うるさくなるけど
孫策とくらべたら孫権は鈍臭く感じたのかねぇ
孫権は張昭を無視して若輩者の言う事ばかり聞くし
虞翻なんて孫権に殺されかけてるんだから
そりゃいい印象は持たないだろうよ
>>620 虞翻は殺されかけたから喧嘩ふっかけるようになったんじゃなくて
元々君主をないがしろにするような発言があったから斬られそうになったんだろ?
張昭に関しては孫権よりも人々の尊敬を集めてたしあまりにも口うるさいから閉口したってトコだろうがね
虞翻は孫権を舐めすぎ
曹操の下に居たら孔融みたいな末路を迎えてそう
孫権がもし黄祖だったら張昭も虞翻も撫で斬り
>>620 孫権は初めこそ周瑜・張昭・張紘らに頼らざるを得なかったが、
張昭の名声が大きすぎるし、他にも父兄の代からの熟練の将や名士が多い陣営だからこそ、
孫権は自力で自分の派閥を作る必要があったんだろうな。
代表格が魯粛であり、武人では呂蒙、周泰、蒋欽、甘寧など。
孫邵は不明だが、宰相格になった陸遜、歩隲、諸葛恪らは孫権の代になってから取り立てられた人間だし、
顧雍も孫策との関わりは薄いと言う面子。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 00:23:50
その中で呂蒙と周泰、蒋欽はもともと孫策が側仕えとして採用した人材。
寒門の出として括るならともかく、孫策色が薄いということはないだろう。
>>625 そうだった。
その辺りは、寒門出で孫権が引き立てなければ高官にはなれなかっただろう人物、だな
呂蒙は特に孫権なしには出世できなかっただろうね
もし孫権の派閥から主たる武人3名を挙げるなら、呂蒙・凌統・朱然じゃないかと思う
呂蒙は、孫策に見いだされ、張昭の推挙を受け、
孫権に勉学を諭され、周瑜の配慮を受け、
魯粛と友誼を結び、甘寧を従え、陸遜と朱然を推挙し、
『虞翻を手懐けた』
張昭と周瑜は、その存在感によって派閥を超越した存在であるが、
呂蒙は人徳をもって各方面から好感を持たれる希有な存在だから、
孫権からしたら本当に貴重な存在だったんだろうな
最終的に武人の枠を出、股肱腹心となったのも頷ける。
呂蒙は死ぬ間際のエピからも孫権に相当気に入られてた様だし
でも呂蒙の方が年上なんだよな…
>>628 寒門出身の呂蒙、孫権の学友の朱然は分かるとして、凌統は豪族のようなのに孫権寄りなんだよな
凌統の遺児も孫権が育ててるし、凌統も孫権の子飼いというか、
豪族らしい後ろ盾に乏しい環境だったんだろうか
凌統は僅か15で凌操の跡を継いでいるからって言うのもあるかもね
何故孫権様の溢れる魅力に惚れたとは考えないんだ
そういうヤツいないと思うけど・・
そういうカリスマ性はゼロだよな
適材適所っていうのは凄くうまかったとは思うけどさ
バッサリw
いや、孫権様の溢れる魅力に惚れたんじゃないにしても、
上に上げられてる孫権派の人達は感謝はしてると思う
孫権がとち狂ってから死んだ人は別として
孫権は中間管理職なら、かなり抜群だったのに嫌な役を押し付けられるように
取締役に抜擢されて苦しんでるオッサンにしか思えないwwwww
近年の内閣総理大臣を思って頂ければよろしいかと
孫策そこで死ぬなよってことですね、分かります
>>637 その話題だけは張昭と虞翻が心から分かり合って語れそうだなw
>637
それはwww
当時みんな思っただろうなあ
確かに
だから虞翻は張昭が孫権などと仲良く仙人などの話をしてたのが気に食わなかったのかもねwww
ぐほんってそこまで有能なのかね。
無双から入った知識に乏しい俺にはようわからんのじゃい
しかし虞翻はこの二人の悪口を言ったのが決定打になって左遷されてるんだよな…
ちょっと可哀相でもあるw
虞翻は名声が高い学者さんで毒舌家としても当代一と言われておりました
しかも馬に乗った人間についていけるほどの脚力もあったそうで
化け物級の脚力だな
飛脚かよ
あと槍の名手だっけw
文官とは思えないな
・言われたくない事(ただし正論)をその人の心を一番えぐる言葉で伝える
・馬並の脚力(馬には乗れないが馬と同列に走れる・本人談)
・医術にも精通している(呂蒙が左遷から帰ってこられるように病床で孫権に頼んでる)
自分が知ってるエピソードだけでもすげー人だ。
しかも子供も多かったし優秀なのもいた
虞翻が君主になればよかったのにwwwww
だから切れてたんか
槍じゃなくて矛だよ。
孫策からは功曹として「わが蕭何となって〜」と言われたほどに
信頼され、重用されていた。
けど虞翻って政治的なものや戦略面に長けてたとは思えないけどなんで孫策は重用したんだろうね
一番は学者。
儒者は法政家であり政治のブレーンでもある。
虞氏は呉の四姓に匹敵する会稽の大族。
虞翻の会稽郡での影響力は相当大きかったとみていい。
孫策が名士とは対立するばかりだったという説を見直すべき。
「ばかり」というか、敵対して倒した者に寛容ではなかったんだろう。
服従すれば厚遇する。
孫家みたいなあんまりいい家柄の出じゃないと、
ちょっとばかし嫌でも厚遇しておこうと思う相手もいるんじゃないか
それにしても馬並みの脚力があるなら、練習すればすぐ馬に乗れるようになる気がするんだぜ
つまり虞翻はそれまで重用されてたのに代が替わってそれまでの待遇じゃなかった不満を
あからさまに孫権ぶつけてたって事になるね
>ちょっとばかし嫌でも厚遇しておこうと思う相手
同じく会稽の大族で功曹をさせていたがぶっ殺そうとして
呉夫人に止められた魏騰みたいな奴のことだなw
>>653 ちょっと思ったんだが、糜芳をむち打とうとしたときは下から騎乗してる糜芳を打とうとしたのかなw
孫権は後ろ盾もないし、本来なら自分らの言うことをホイホイ聞く筈なのに、
実際立ててみたら結構我が強くて性格も苛烈だし、
虞翻……って言うか張昭にしてもそうだがハッキリ物を言うエリートとは絶対気が合わなかっただろうな
しかし王朗に着いて行って曹操に仕えてもロクなことにはならなかっただろう
>>656 なんか可愛いな それ
この当時乗馬は軍事スキルで、士人に軽視されるものだったから
特に南方では馬に乗れない者がいても不思議じゃないんだろうけど、
虞翻が馬に乗れないってのはどこにあるんだろう
>>646 馬には(味方と離れて孫策と二人、逃げなきゃいかんが馬は一頭なんで虞翻は)乗れないけど、
俺の脚は馬並みだからいざとなっても心配無用、というような話しじゃなかった?
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 03:33:56
虞翻は馬に乗れるだろ。
草深いのを考慮して徒歩で移動してたら孫策と会ったので
孫策を下馬させて誘導。
開けた場所に来たところで孫策を騎乗させるが
孫策は自分一人が馬の乗ることを躊躇。
虞翻の「私は健脚」というのは、孫策を気遣わせないハッタリだろ。
>>652 孫策は何度も敵対した挙句に捕虜になった太史慈も祖郎も厚遇してる。
王朗は殺していない。
つまり有能かどうかというのも大きな基準。
名士と言える存在で孫策に殺されたのは高岱だけじゃないか。
許貢は名士かどうか微妙なところ。
一方孫権は、孫策の後を継いで早々に盛憲と沈友を殺してる。
そういや陸康は殺してないんだったな
>>661 記録に残ってるのはそうだけど
孫策時代はロクに家臣の治績が残ってないから
単に記録に残らなかっただけかもしれない
呉録、会稽典録、魏書の各所に孫策が名士を冷遇、殺害してた記述がある以上
それを覆すのは難しいかと
>孫策時代はロクに家臣の治績が残ってないから
時間的な短さのために量的に少ない部分はあるが、二張や周瑜、虞翻をはじめ
出仕してた面々の功績については押さえられてると思うが。
殺した連中に高岱以外名士と言えるランクの者がいたかが問題。
郭嘉にしても「英雄豪傑」という言い方で、これだと名士かどうかは微妙。
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 10:05:07
>>663 具体的にどの辺の記事のことを言っているんだろう?
曹操なんかは名士を「礼」遇しつつも辺譲なんかを殺してるんだよね。
孫策の件だと、孝廉〜尚書郎右丞〜揚州別駕従事〜会稽東部都尉の全柔が
積極的に孫策の下に馳せ参じ、要職についてることは触れられることが少ないように思う。
孫権の長史は、おそらく張昭〜全柔…諸葛瑾という流れなので
見過ごされがちな、かなりの重要人物だと思う>全柔。
死期が不明だが。
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 19:17:45
全柔の桂陽太守が遥任でなければ、215年以降。
>>662 実際には殺したようなもんだろ
城を陥落させた直後に死んでるんだから
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 00:09:07
それは明確に違うだろ
有名な例でいうと、陸遜に敗れた劉備が逃れた先の城で死亡というのが、
陸遜のせいといえるのかといえばかなり微妙だ。そういう見方もできなくはない、ぐらいか。
演義だと思っきし陸遜が引導を渡したみたいな感じになってるけどね
陸康は陥落一ヶ月後?まあ歳が歳だし
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 20:52:55
演義での呉の扱いが、今日に繋がっている点は大きいと思う。
周瑜は孔明の引き立て役だったし、魯粛は呉蜀の仲介役程度。
呂蒙は関羽を殺した悪党で、孫権は劉備を妬む小物。
陸遜と諸葛菌は、割りとまともな扱いだったと思うが・・・・・・
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 21:18:07
先々週、久しぶりに白人セフレと会う機会があって、やったよ
相変わらず最初入れるときは痛くて....
大出血はしなかったけど、シーツは汚してしまった
選挙でやると言った事を
>>264のように敢えて配らなかったなどとぬかす輩を俺は信用しない
果たせなかった公約を自分の都合のいいように言っているだけではないか
>>671 出番が無い奴よりマシ
例えば賀斉とか賀斉とか賀斉とか
通りすがりのニワカだけど、ここ(三戦板)凄いね。
ここまで三国志のことを研究?して語り合ってる国って
本場中国と日本以外で他にあるのかなあ?
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/03(月) 12:39:27
呉のやつらは足が臭い
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/03(月) 13:26:27
647 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/10(金) 07:01:16
ばばげり
648 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/22(水) 02:28:43
ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ・・・・
プハーッ!苦いっ!
649 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/22(水) 12:32:27
ばばげり
650 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/24(金) 00:12:30
あのスレに比べればここは平和だ
651 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/29(水) 06:03:02
朝だな・・・・尚香たんの激苦の下痢便をごきゅっと飲み干すか
652 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/07/29(水) 22:11:13
なんという下劣なスレ
653 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/02(日) 17:12:28
韓国の人糞酒「トンスル」
654 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/03(月) 13:11:14
尚香タンの下痢便を肛門から直飲みする行為に掛けては
さすがのトンスルもかなわないだろう
>>676 足を洗ってから船に乗ってるからそうでもない
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 06:45:19
最近、呉書見聞のBBSを読むのが面白い。
>>671 演義よりも醤油が死んで天下二分が消滅したのが呉の運の尽き
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 23:11:53
>>680 呉だけじゃないが、ここぞと言う時に重要人物が死んでるよね・・・・
周瑜の死によって、魯粛の能力を活かせる人材が一時的に欠けて、積極的な
戦略が頓挫した感は強い。
さらに言えば、周瑜と一年近く渡り合った曹仁の功績は大きいな。
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 23:18:53
曹仁は知力97に相当するよな
曹仁は胆力もあるよ
曹仁は武力97に相当するよな
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 07:06:01
その曹仁に完勝の朱桓は統率98だな
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 07:41:05
薫陶を受けた朱然の知力は99か。
人間にはピークてのがあるからなあ。
◯に勝ったから×はこうだな!
ってのは軽率じゃなかろうか
ピークもなにも、状況や兵力にも左右されるのに一概に決められるわねーだろ。
まったく同条件で一騎打ちしてわるわけでもないのに。
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 02:20:47
ところで、呉って他国からの人材流入・流出ってどうだったんだろう。
特に代表的な人物になると、ほとんど江南出身者や豪族って印象が強い。
徒歩でヌルヌル移動出来たのは、中原よりも荊州方面だろうか。
程普「……。」
張昭「……。」
曹操の徐州大虐殺の時に大量に難民を受け入れてなかったっけ?
諸葛謹なんかその代表だと思うんだが。
張昭は張紘のおまけで入って来たくせに調子に乗りすぎ。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 02:03:01
孫策と呉夫人から後を託されてるじゃないか
そういや理不尽な能力スレはどこいったんだ?
こういった話題はそっちが引き受けてたはずだろ。
流入して流失したのは歩とか韓
韓当にしろ
歩隲にしろ
周瑜にしろ
呉の連中は跡継ぎが壊滅的に駄目でお家断絶するパターンが多い
親父を超えたのは陸抗くらいじゃないかな
>>696 子供が優秀という意味なら分かるが、陸抗が親父超えというのは言いすぎ。
それに張昭・張承親子や、養子だが朱治・朱然親子たちを外す理由がわからん。
第一、跡継ぎがダメでお家断絶するのは当時なら当たり前じゃん。
三国の皇帝なんか全員そうだし。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 12:29:07
諸葛謹もだな
落差という点ではこいつが一番酷い
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 12:55:35
697 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/10(月) 00:08:57
>>696 子供が優秀という意味なら分かるが、陸抗が親父超えというのは言いすぎ。
それに張昭・張承親子や、養子だが朱治・朱然親子たちを外す理由がわからん。
第一、跡継ぎがダメでお家断絶するのは当時なら当たり前じゃん。
三国の皇帝なんか全員そうだし。
>>698 諸葛カクは諸葛謹の後継ぎじゃないのではないか?
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 17:40:12
「後継ぎ」「断絶」なんかの語が曖昧すぎる。
この頃はまだ貴族政治じゃないから、家督や爵位は世襲出来ても
官位や職責までは世襲出来ないのが普通だろう。
そんななかで呉は、地方の督の地位を世襲する例も多く、
後継ぎが駄目でお家断絶ばかりというイメージはない。
むしろ、孫権死後の権力闘争で高官がたびたび殺された、
その高官はかつての功臣の子息であることが多かった、てことだろう。
ぷらっとは基本的に自分の発言は三日で忘れ去るタイプだからな
そのくせ恥をかかされるといつまでも根に持つ典型的朝鮮人気質のゴミ
張承や朱然は優秀な部類だろ
朱然は非常に優秀だが、施姓に戻りたがってたから跡継ぎとしては微妙なのでは
施姓に戻りたがってようがどうだろうが、実質朱姓で跡を継いでるから問題ないと思う。
「跡継ぎが壊滅的に駄目でお家断絶するパターンが多い」の跡継ぎが血縁者限定なら、
一連の話からは除外されるだろうけど。
結局朱然の子の代で施姓に戻っちゃったわけだし、
立派な人物に跡を継がせてお家を栄えさせようという朱治の希望は叶わなかったわけだから
そういう意味では跡継ぎとして不十分
「跡継ぎが壊滅的に駄目でお家断絶するパターンが多い」のパターンに当てはまるとは言ってない
ただ、朱然の人物が優秀だからって「呉の跡継ぎ」のプラスには数えにくいと思う
凌操を一代目とすれば凌統は親父を超えてるだろう
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 08:31:00
賀輔を一代目とすれば賀斉は親父を超えてるだろう
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 09:52:54
>>706 朱治の爵位を継いだのは実子の朱才だぞ。
朱才の息子の朱ワンは鎮西将軍まで登った。
朱然を養子にしたのはその時朱治に実子がいなかったからだ。
丹陽平定戦で朱治の家族が皆殺しにされたとニセクロさんが推測してたけど
可能性はあると思う。
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 09:54:16
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712 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 15:41:30
爵位と公安督という地位を継いだのは弟の諸葛融
諸葛YOUとか初めて知った
恪は親父健在のときから地位が高かったんで別格とか?
でダメな弟が父ちゃんの七光り
以上、想像です
>>713 ダメ弟じゃないよ。
格以上に評価されてたはず。
格の方が頭はキレるけど、品行の良さもあわせもつ融の方が将来を期待できる的な記述があったはずだよ!
うろ覚えであれなんだけどね、申し訳ない。
>>714 適当にいってスマナイ
公安って要所なんだから適当なやつじゃ ね…
>>713 親父健在の時から活躍した息子は、別に爵位を貰って
親父の後は継がないことが多い。
張昭の息子の張承もそうだったような。
諸葛融はゲームに出て来ないから馴染みが薄いかも知れないけど、
公安督は対魏戦の要職。それを241年〜253年まで務めてるから重要人物。
>>714 格以上には評価されてはいないんじゃないか。
部下の面倒見が良かったった点はくわしく書かれているが、
一方で父や兄と違って贅沢を尽くしたとも書かれており、声望はなさそう。
能力についても未知数なところがあって、
特に対魏戦で朱績と共同して取るはずだった作戦行動を反故にして、孫権の怒りを買ってたことがある。
>>716 訂正ありがとう。
今確認したんだが、喬と混同してたわ。
>>715 すまない、見落としてた。
こちらこそ適当は事言って申し訳ない。
諸葛恪は親父に嫌われてたから仕方ない
役職と爵位を継いだからといって、祭祀を継ぎ、諸葛瑾の葬儀を行い、
諸葛瑾の妻妾の面倒を見たのが諸葛融とは限らないし、
単純に諸葛瑾の跡を継いだとはならないと思われ
自分は、諸葛融は職と爵位を継いだだけで、
諸葛瑾系の諸葛家を継いだのは、やはり諸葛恪だったと思う。
そりゃそうだ
でも元々が、子孫がだらしなくてお家断絶云々の話なんだから
祭祀を継承したのが誰か、なんて話ではないんだろう。
諸葛瑾に関して言うと、兄弟が殺されたあとは、
蜀にいる諸葛攀(喬の息子)が諸葛亮の家から離れて(?)後を継いだみたいだし。
いや、まぁでも誰が跡を継いだって話で、祭祀等のことが出なかったから…ね。
ついでだから、祭祀について一つ
朱然が施姓に復したかった理由も、そこだと自分は愚考してる。
朱治の祭祀は朱才が継いだため、朱然は施家の祭祀を継ぎたかったんじゃないのか?と
ところで諸葛謹っていつから軍才を発揮したん?
死ぬまで軍才なんて無かったろ?
晩年にやるヤツがいないって理由で押し付けられただけじゃん
>>724 それでいいの?
むかーし吉川の読んだ
「諸葛瑾が軍を率いて…」
あれ呉は武将が死にすぎて文官まで駆り出してら…呉オワタ
なんて思ったよ
諸葛瑾は側近が大将になったようなもんで
最初から大臣系統の人間じゃないな
夏侯惇さんと似たようなタイプだけど
皇族でも外戚でもないのに大将軍にまでなった人間に軍才が無いとかねーよ
逸話とかは無くとも相当優秀だったのは確実
多分司馬懿クラス
勝った事ないけどな
>>722 当時は時代が乱れてて、本来許されなかったはずの異姓養子なんかも生じていたが
朱然はそういった点では保守的(?)だったんだろうか。
養子に行ったのも13歳だし、そもそも朱氏に入ることに違和感があったのかも。
>>724 諸葛瑾は将軍府の長史など、当初は孫権の側近だったが
219年に平戎将軍・南郡太守となって以降はずっと将軍・拠点司令官だぞ。
222年には公安督・左将軍だ。
この時の前後左右将軍は呂範・賀斉というビッグ2に諸葛瑾と步騭という、一見文官と見なされてる二人。
步騭も諸葛瑾と同じく、実は将軍・拠点司令官という任務を負い続けた人。
ちなみに朱治は安国将軍、陸遜は輔国将軍。
>>729 丁奉みたいに敵とポコポコどつきあいながら出世したのとだいぶちゃうね
二人とも大将軍
そりゃ丁奉は寒門あがりの叩き上げ
上記の面子とは較べるまでもない
それを考えたら、同じ寒門上がりでも呂蒙は大出世したんだよなぁ。
呂蒙は張昭の推挙があった上に、孫権のお気に入りだったから
もちろん単に優秀だったからってのもあるが
孫策は小覇王とか言われるけど孫策と劉焉って何が違うんだ?
むしろ孫策と劉焉の何が同じと考えてるのかが分からん
劉虞と間違えてるとか?
といっても劉虞も共通点ないけど。
一瞬、劉焉も小覇王って呼ばれてたと言いたいのかと考えた
周通さんの間違いでは
ゲームで気付いたことでわりいが
なんで呉は首都が前線にちかいんだ
あぶねぇよ
中央に憧れてたんだよ きっと
1.北方に動きがあったとき情報が早く入りやすい
2.北寄りのほうが開発が進んでいて山越の襲撃も少ない
3.見晴らしが良い場所で防衛に優れている
4.流通の利便性が高い
5.南は暑い
適当に思いつくものを書いてみた
防衛線だから大軍を駐屯させとくには兵糧の運搬の都合からも首都のように大都市が都合がいいっていうのがあるだろうね
こまめに移転させたりしてるけどさ
南は蛮族の温床だからな
別に奥地が駄目ってことはない。
山越が反乱する場所なんて限られてるから
たとえば呉郡の呉県とか会稽とかを首都にするのもありだろう。
そもそも呉は前線が東西に長いわけで、
敵が攻めて来た場所に首都の軍が救援に駆け付けられるか、というのが最大のテーマ。
それで武昌と建業を行ったり来たりしてる。
>>744 >>敵が攻めて来た場所に首都の軍が救援に駆け付けられるか、というのが最大のテーマ。
その辺りは都合はいいけどそれ超えられるともう止めようがないって感じだね
まあ魏もその辺り同じだけど呉よりは多少は引っ込んでるし
むしろ蜀だけが奥地
止めようもなにも、建業、南郡を取られた時点で呉は戦線を維持できず
滅びることは普通に色んな伝に書かれてるし。
だから必死になって合肥を確保したかったんだから。
呉は基本的には長江のラインが全てなんだよ
越えられたら終了
だから沿岸に首都を置くのは利に適ってる
蜀や山越は魏に比べれば大した脅威ではない
結構、画期的な国なんだな
画期的?
三国以降の南北に分かれる時期だと普通のことなんだが。
長江の南北に分かれるのが三国以降だが、最前線に首都を置く事が画期的?
呉はイケイケばっかだから前線に主力を置きたかったんだろうと思う
財力や兵数からして分散した所で大して抵抗できないからね
長江だけに水際で対処したかったんだろうよ
>>751 最前線に首都を置く事は珍しいことではなかったの?
じゅ須が優秀だったってことでええんかな
建業はだから都であり得た
優秀どころか魏呉にとっての最重要拠点だからなー
ここを押さえられるかどうかで長江付近での勢力の優劣が逆転するくらいの意味がある
だから両者は何十年も合肥で戦ってた訳だし
仮に呉が押さえられてれば、魏呉の争いは史実とは全然違ったものになってただろうな
そりゃ重要度が、必死の土地>首都だからな。
濡須が重要ってのはよく聞いて知ってるが、何故そこまで重要なのかが分からない…
どの本あるいはサイトを読めば分かりますか?
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 09:08:02
魏の合肥から水路(湖と川)を下って長江へ至ると、
その合流地点が濡須。
>>758 合肥と濡須を挟んで魏と呉に分かれているから。
だから呉は魏を攻めるためには合肥を維持でも取りたかったし、
魏は呉を攻めるためには濡須を抜けないといけない。
どっちもそれぞれの国の防衛ラインであり要所。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:51:00
ただ、呉が合肥を獲っても維持出来たかどうかは疑問。
逆に、魏が濡須を獲ってしまえば、ダムが決壊する様に呉本土へ雪崩れ込める。
呉にとっては、「攻撃こそ最大の防御」を地で行く戦略だったのかも。
首都を最前線に置くというのも、そういう思想に沿って考えると理解し易い。
呉の目的は合肥というより寿春までいって揚州統一じゃね
>>呉にとっては、「攻撃こそ最大の防御」を地で行く戦略だったのかも。
というかほんとは
>>762が言うように寿春あたりまで取りたかったんだが(本土防衛のために
そんだけ兵力が避けないのでこういう形をとっただけのような気がしてならないが
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 22:08:38
寿春よりも襄陽取った方がいいんでないのかねえ
襄陽なら取った事あるだろ。
まあ、すぐに取り返されたけど。
見当違いな質問してる奴って蜀厨なんじゃないか疑うよな。
蜀で言えば荊州と益州があれば漢中なんていらないって言っているようなもんなのに。
蜀が好きな奴なんていないだろ
蜀も嫌いやないでぇ
なにしろ糜芳将軍の古巣やさかい
そのほかはえ〜と…
蜀好きからすればむしろ糜芳は許せない存在だろw
正史だと結構長生きしてるし。
潘濬は
蜀好き=関羽好きじゃないんだし、被害者でもある糜芳が必ずしも嫌いなわけじゃないだろ。
于禁はオレの中ではミリオンダラー・ベイビーの主人公並に可哀想
これほど酷い仕打ちを受けなければならないとは一体、彼らがなにをしたというのだろうか
于禁は大人しく呉の家臣になりゃ良かったんだ
ノコノコ帰るからろくなことなし
>>773 虞翻はまだ面と向かってやってる分魏の文帝よりはマシだけど、変な連中に絡まれちゃったよな、于禁
>>774 捕虜が勝手に家臣になるとか無理だろ
当時は魏と呉はいい関係にあったんだから尚更
だから孫権は大事に扱ったんだろうし
既に落ち目な上、ビビって降伏する様な奴はいらんだろ
降将は珍しくない
文帝がああまで辱めるほどのひどい降りっぷりだったろうか?
>>778 文帝は基本酷い人だからねえ
実母に呪いの言葉をかけられる皇帝ってなかなかいないよ
昔の人肉食の揶揄で鞍に人骨ぶらさげられるとか呉将なら問答無用でぶっ殺してるレベル
何度見ても
>>165は素晴らしい
呉の人々って明るかったんだろうなと思う
曹丕は于禁に奮起してもらいたくて壁に絵を描いたんだよ
でも意に反してあっさり憤死しちゃったから失望して変な諡を付けただけ
基本いい人
亮曰く曹丕は松岡修造たった
張悌の血縁ってどこかソースある?
俺的には張昭と血が繋がってたりすると萌えるんだけどな、あの頑固さ•••
ないか‼
>>786 張悌は荊州の人なので張昭の子孫はありえないことは間違いないよ
ありがと!
しかし好きだな。張悌も張昭も
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 20:41:55
張昭の子孫は絶滅したんだっけ?
息子も孫も呉後期のゴタゴタに巻き込まれて全滅
息子たちの末路の酷さを見ると張昭が呉に仕えたのは間違いだった、という気すらしてくる
張昭の長子、承の子、震の子、[門豈](ガイ)字は敬緒の伝が晋書にあるよ。
つまり断絶してないよ。
張昭には張承、張休の他にもう一人息子が居た様ですが(次男?)
名前が残ってないって事は天折?
長男の伯嗣が居た模様。夭折かな。
天折www
張休は孫登が長生きしてれば魏での司馬懿や陳羣みたいなポジションに就けた可能性もある。
しかし呉の四友は魏と比べて悲惨だな。
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 13:28:17
あれだけ魏蜀の攻防に便乗して横槍入れてた割りに、クソみたいな政治闘争で
勝手に消耗して自滅した国だよな
結局、三国鼎立も蜀側の戦略な訳で、呉は何がしたかったんだ・・・・
国鼎立が蜀側の戦略?
的を射ていないと釣りにもならないだろう
>>796 釣りか演義厨だろうが、
実際攻防は魏と呉の方が遥かに激しく、横槍入れてたのはむしろ蜀。
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 19:42:21
関東 東漢⇒魏⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒漢⇒⇒石趙⇒⇒⇒⇒冉魏⇒前燕⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
関中 東漢⇒魏⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒⇒漢⇒前趙⇒石趙⇒⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒姚秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
四川 東漢⇒蜀⇒魏⇒西晋⇒⇒⇒⇒成漢⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒東晋⇒⇒⇒⇒苻秦⇒⇒譙蜀⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
江南 東漢⇒呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒梁⇒陳⇒隋
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 19:43:54
関東 東漢⇒魏⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒漢⇒⇒石趙⇒⇒⇒⇒冉魏⇒前燕⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
関中 東漢⇒魏⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒⇒漢⇒前趙⇒石趙⇒⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒姚秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
四川 東漢⇒蜀⇒魏⇒西晋⇒⇒⇒⇒成漢⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒東晋⇒⇒⇒⇒苻秦⇒⇒譙蜀⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
江南 東漢⇒呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒隋
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 19:47:02
関東 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒漢⇒⇒石趙⇒⇒⇒⇒冉魏⇒前燕⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
関中 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒⇒漢⇒前趙⇒石趙⇒⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒姚秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
四川 東漢⇒蜀漢⇒曹魏⇒西晋⇒⇒⇒⇒成漢⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒東晋⇒⇒⇒⇒苻秦⇒⇒譙蜀⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
江南 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒隋
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 19:54:30
関東 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒漢⇒⇒石趙⇒⇒⇒⇒冉魏⇒前燕⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒元魏⇒高斉⇒⇒⇒宇文周⇒隋⇒⇒⇒
関中 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒⇒漢⇒前趙⇒石趙⇒⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒姚秦⇒⇒⇒⇒⇒元魏⇒宇文周⇒隋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
四川 東漢⇒蜀漢⇒曹魏⇒西晋⇒⇒⇒⇒成漢⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒東晋⇒⇒⇒⇒苻秦⇒⇒譙蜀⇒東晋⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒宇文周⇒隋⇒⇒
江南 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒⇒⇒⇒⇒隋
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 19:58:29
河北 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒⇒⇒⇒⇒隋
山東 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒⇒⇒⇒⇒隋
河南 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒漢⇒⇒石趙⇒⇒⇒⇒冉魏⇒前燕⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒元魏⇒高斉⇒⇒⇒宇文周⇒隋⇒⇒⇒
関中 東漢⇒曹魏⇒⇒⇒⇒西晋⇒⇒⇒⇒⇒漢⇒前趙⇒石趙⇒⇒苻秦⇒⇒⇒⇒⇒⇒姚秦⇒⇒⇒⇒⇒元魏⇒宇文周⇒隋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒
四川 東漢⇒蜀漢⇒曹魏⇒西晋⇒⇒⇒⇒成漢⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒東晋⇒⇒⇒⇒苻秦⇒⇒譙蜀⇒東晋⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒宇文周⇒隋⇒⇒
江南 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒⇒⇒⇒⇒隋
河西 東漢⇒孫呉⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒西晋⇒東晋⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒劉宋⇒蕭斉⇒蕭梁⇒陳⇒⇒⇒⇒⇒隋
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 20:06:16
後燕、南燕、西燕、北燕
大夏
張涼、拓跋涼、呂涼、沮渠涼、李涼
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 20:10:28
>>796 あれだけ魏呉の攻防に便乗して火事場泥棒やってたけど、
自分がやり返されたらマジギレして仕返しに行ったのに無惨に返り討ち
そのあとは駄目ゲーマーみたいに北伐ばっかやって勝手に消耗して自滅した国だよな
結局、隆中対は呉の中立あっての戦略な訳で、蜀は統一出来なくて残念だったね
>>806 こいつも演義厨か?
北伐は少なくとも諸葛亮の代では国力消耗はしてない。
魏との国力差を埋めるための北伐なんだから、しなきゃもっと早くに蜀は滅亡していたと思われる。
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/31(月) 21:50:56
>少なくとも諸葛亮の代では
それ以後についてもkwsk
諸葛亮って孫権様が兄弟共々呉へとお誘い下さったのに断った馬鹿だろ?
惨めに死んで当然のクズだな
釣りばっかだな
>>808 >自分がやり返されたらマジギレして仕返しに行ったのに無惨に返り討ち
>そのあとは駄目ゲーマーみたいに北伐ばっかやって勝手に消耗して自滅した国だよな
二行目のそのあとってのは、諸葛亮の代じゃん。後付乙。
>>809 もちろん、姜維の北伐は国力消耗したよ。
最近は劉禅の評価が上がってきてるけど、結局は下の者をコントロールできなかった部分や
人材育成や適所への配置が出来てない時点で北伐だけが問題じゃない。
北伐自体はやらなきゃならんもんだったからな。
その文脈ならば夷陵から征蜀まで通して見てもらいたいね。
諸葛亮の代に限るのは穿った読み方で俺を演義厨扱いしたい君の都合だけ
綿竹で負けてあっさり降伏するほど首脳部に厭戦気分が蔓延してた原因は
見込みの薄いことを神聖化してやり続けるタカ派との付き合いにうんざりしてた、から
ゆとりなんだろ
孫皓はかなり有能な方?
呉は蜀取りに失敗した時点で詰んでそう
交州も離反してるし
暴君に無能な奴はまずいない
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/01(火) 21:09:28
エロいだけのやつって暴君なの昏君なのかな
司馬炎か
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/01(火) 22:27:59
曹芳か
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/07(月) 22:35:04
劉禅か
呉は聖なる土地。
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/19(土) 18:21:15
YES
CLOSE TO THE EDGE
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/21(月) 05:37:32
何か寂れたな
呉は不人気だからな…
黄龍や白虎に会えるのは呉だけだというのに
じゃあ呉書見聞で出てた黄蓋の没年について
意見があるならあっちのBBSに書けば良いと思うがw
没年が残ってないって事は所詮その程度の人物だったってこった
黄蓋は孫堅に従う前に孝廉で三公府に招聘されてるというのがポイント
本当の意味で没年が明記されてる人物なんてほとんどいないだろ
出来事をヒントに没年や享年が分かる人物がほとんど
黄蓋って赤壁で功を立てたのに、山越側に左遷されてショック死したんだよねたしか
んなこたな〜い
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/23(水) 02:58:57
年なら閑職の方が楽じゃない?
長年孫家に仕えた黄蓋韓当に低い官位しか与えなかった孫権は糞
功労者って言葉知らねーのかこいつは
程普は呉の軍事の最高クラス、黄蓋もそれに次ぐ官位もらえてなかったか?
韓当は確かに低かったと思うが夷陵の時期ですら韓当は呉の最精鋭を率いる立場。
呉の武将の官位が低いのは孫権自身の官位が低いのが原因のはず。
程普は文武両道
黄蓋韓当は脳筋
これがこのまま官位の差になってると思われる
黄蓋が脳筋ってアホかとw
どっちかというと程普の方が現場一筋頑固親父といった印象だがなぁ……
教養なんて糞食らえ的な。
程普は文官試験にも合格している知性派なんだが
実は意外と頭の良い呉の宿老。
>>837 呉書の列伝を読んでみろ
黄蓋は文武両道だぞ
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/27(日) 22:40:00
演義での韓当なんか孫堅の旗揚げ当時からの宿将なんていうイメージ皆無だからなあ
夷陵の辺りなんか特に
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/27(日) 23:24:20
主だった将をまとめてみた。
追加ヨロ
孫堅からの将:程普、黄蓋、韓信、朱治、周瑜
孫策からの将:太史慈、魯粛、張昭、呂蒙、周泰、朱然、虞翻、蒋欽、董襲
孫権からの将:陸遜、甘寧、凌統、諸葛瑾、徐盛、潘璋
周瑜は屋敷を提供する以外の孫家の臣下としての活動は孫策からだろう。
孫策とは孫堅在世時からの親友ではあったが。
孫策からの将に賀斎、孫権からの将に歩シツと丁奉追加。
潘濬や留賛も入れときたいな
>>844 韓信→韓当
孫策:張紘、呂範、陳武、凌操
孫権:駱統、劉基、呂岱
賀斉
将と文官は違う
区別はあいまいだよ。張昭だって軍を率いている。
つーか張昭は伝に軍師と表記がある公認軍師
あいうえお順に並べると便利で良いな
S 周瑜 陸遜
A 程普 呂蒙 陸抗 丁奉
B 魯粛 賀斉 諸葛瑾 呂範 朱然 諸葛恪
C 甘寧 朱治 朱桓 潘璋 蒋欽 徐盛 全ソウ 留賛
D 黄蓋 韓当 太史慈 凌統 周泰 呂岱 董襲 陳武
E 宋謙 祖芳 凌操 駱統 張承 朱拠
とりあえず有名どころだけ
孫家の身内や文官系は除外した
何のランク付けかまるで分らん
官位ならこんなもん
官位なら周瑜はずっと下。偏将軍どまり。
それに呂蒙と丁奉が同ランクっていったい何のことだww
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/01(木) 12:54:59
周瑜が偏将軍どまりとか言ったら魯粛・呂蒙も雑号将軍どまりとなってしまう。
孫権の官位との兼ね合いで考えるべきだろう。
あと丁奉は大司馬まで登ってるからな。
でもまぁ朱然より上ってことはない。
ろもうとりょしゅくに 再評価の光を!
士大夫の理想は文武両道。
しかし完全に武力に特化してるモンスターは
乱世では有効だから使った方がいいというだけ
丁奉は寒門の出身にも関わらず、己の武勇と知謀だけを武器に軍のトップまで上り詰めた実力派。
もっとも大司馬になったときには、既に結構なじいさんだった様だが。
しかし丁奉には周瑜〜陸遜に匹敵する対外実績がない。
同列には自分としては評価できない。
対外的な戦跡って防衛? 侵攻?
基本的には防衛では
呉って合肥以外では自分から攻める事は少ない印象
呉最強の名将といえばやはり長江だなw
特に防衛では強すぎる。
呉もさすがに長江を超えて統治するほど兵は避けないのを理解してたからね
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 18:42:14
>>867 その割りに、合肥をしつこく攻めては叩き出されてるが
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 18:51:52
けいしゅう攻略に失敗してたら面白かったろうな
北は張遼、西は関羽
関羽が魏じゃなくて呉を標的にしてたらどうなってたかな
フリーザの目の前でクリリンが悟飯を殴り始めるようなもんだな
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 19:29:20
フリーザの目の前でセルが魔王ダーブラに攻撃するようなもんだな
呉の荊州攻略が失敗したら、魏が関羽を蹴散らしてそのまま荊州攻略して魏が統一して終わり。
魏が攻略しなくてもその後は蜀対魏と呉になってやっぱ終わり。
関羽が呉に侵攻したら、魏が従属国の呉を救う為という理由で荊州侵攻して終わり。
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 19:51:06
一度は荊州放棄して遁走した魏を買いかぶってるなw
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 20:14:59
仮にビ芳、士仁が粘っても魏が追撃してたら大敗してたろうな
だが、呉には江陵まで取る余力はあったが
魏は反乱を押さえるので精一杯という気がする。薄くなると押さえ込めない
荊州は攻めやすく守りにくい土地
>>868 合肥は防衛線としては押さえておきたいし
別に守るべき物はなにもないようなトコで常に兵を駐屯させとくようなトコでもないしな
そうじゃなくて荊州北部や徐州の事ね
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 23:42:48
徐州侵攻なんて・・・・・俺も呉は好きだが、そんな大それた計画考えられないw
長江流域で何となくジワジワ戦ってる呉が好き。
何度か攻めてるけどね
多分、孫策の時代だと思うけど
まあ呉としては揚州の首都である寿春は欲しかったんじゃないかと
淮河がある分、荊州・徐州より守りやすいし
長江より北に出ると急激に弱くなるのは
どういう了見だ
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/04(日) 01:14:11
>>881 元々、そんなに強くないからだろ・・・・・
長江補正があるだけで。
水軍があってなんぼだよ、呉軍は。
項羽は北でも無敵だったのにな
>>883 項羽の頃の楚はそもそも長江の北の方が中心
呉中とか会稽の出じゃなかったっけ?
項羽はスタートは会稽からだが、本格的に活動し始めたのは長江渡ってから
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/04(日) 13:26:44
8000の子弟がどうのこうのとか言ってたから基幹戦力はそいつらだろ
>>880 殷礼の策を用いてれば寿春は取れただろうね
陸遜と朱桓を同時に使うという豪華なものだし
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/04(日) 20:22:47
荊州ではほぼ対魏戦で理想に近い所までいったのに
夷陵の対策で整理せざるを得なかったのが痛いね。
関羽を殺さずに見逃せばよかったのだろうか
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 14:05:06
夷陵が関羽個人の死がもたらした結果とするには、少し疑問も残るがね。
荊州が重要な中原への足掛かりである以上、蜀としても奪い返すしかない。
劉備としては、存命中に天下を統一する為に、絶対押さえておきたい土地。
遅かれ早かれ、劉備の生きている以上は攻めたと思うよ。
関羽を見逃していれば、確実に従軍して呉の脅威になっていたはずなので、
殺すしかなかったのかも知れん。
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 14:57:27
呉なぞさっさと滅べばよかったのだよ
三國志は魏と蜀の話で呉は脇役なんだから
>>891 まあ荊州が要衝というのは分かるけど
劉備ってそんな戦略的な男かな?というのもあるし
年齢を考えると呉と争い、魏を滅ぼすなんてのは不可能な話だろう。
涼州を取ったら返すとか言ってたし、義兄弟を殺さなければ理性の抑えが効くんじゃないかと
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 15:35:27
そもそも尚香が劉備の嫁だから義兄の義兄弟を殺した孫権はまさに鬼畜
生きる価値なし
尚香(笑)
過去ログ開いたかと思ったわ
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 16:50:41
孫策が生きてたらどうなってたかな?
広島スレ延びるな
孫策生きてたら官渡の時に何らかの行動はとってたろな
さすがに許都急襲はないだろうし
孫策なら合肥は落ちてるだろうけど
孫権だからまとめられた、というのもあるんじゃないの
そもそも義兄弟じゃないし涼州を取ったら返すだって信用できる言葉じゃない
ようやく曹操が死んでこれからという時に
呉と蜀が争うメリットはどこにもないし
存命中に統一するなら呉との同盟こそ必須だと思うのだが
両方を相手にするのは無理
小覇王(笑)
断金の交わり(笑)
許都襲撃プラン(笑)
蜀から見たら夷陵の時は呉は魏に従属中だし呉と再同盟は無理に見えないか?
実際には夷陵後のように再同盟でき、したら呉も従属破棄するとは思うが。
以後の歴史では蜀は完全に脇にやられて魏と呉の争いになった。演技では蜀主役だが。
荊州を獲得している国が魏との戦う主導権を得られるのなら劉備からしたら譲れないだろう。
歴史的に見て四川、関中を制して
機会を見て中原の魏と江南の呉にちょっかいを出すというのが勝つパターンなんじゃないのか
四川と荊州に跨るのは上手くいかないっぽい
歴史的に見て四川に篭もった勢力が天下を制したためしなどない
漢の高祖と唐の玄宗は数少ない例外に見えるかもしれないが…
すぐ主力は出て行ってます
四川+荊州で天下を取った例は皆無じゃん
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 23:23:00
南北決戦だと膠着状態になるが
東西決戦だと何故か西が勝つケースが多いね。
秦vs六国、劉邦vs項羽、周亜父vs呉楚七国、北周&隋vs北斉vs陳
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 23:24:16
南から天下を取ったのは洪武帝
北から天下を取ったのは永楽帝
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 23:27:41
>>893 別スレでも話題になってたが、当時の蜀内部での派閥の軋轢もあって、
荊州確保しないと不味い状況だったんじゃないかという話があった。
対魏戦略という面もあるが、蜀の国体維持という側面もあったのでは・・・・・
>>910 まずいも何も、大半の高官は荊州出身かゆかりの人間なんだから
仮に日本が南半分を他国に占領されたら、真っ先に取り戻しにいくだろ
家来の故郷、戦略上の重要拠点、義兄弟の敵討ちと不信感MAXの同盟関係維持
を秤に掛けると前者になるんじゃないの。
元々呉の荊州支配の正当性なんか皆無だし
戦わないで諦めるより、負けて諦める方がマシ
だから義兄弟じゃねーってw
一応正史では私憤と書かれてるが、実際は違うと思う
劉関不仲説もあるし
え?ホモだちじゃないの?
張飛⇒関羽⇒劉備
夏侯淵の姪⇒張飛⇒関羽⇒劉備⇒孔明⇒馬謖⇒街亭の南山
意味が分からない
>>913 劉備と関羽の関係は道義では君臣だが恩愛では父子, 小国といえども必ず報復の軍を起こすだろう (劉曄伝)
親を看取った記述がなく
家族や義兄弟でも逃げる時には配慮せず
親族が来ても冷遇します
そんな薄情者に「情で戦争」なんて何の冗談
あてはまる奴が多そうだな
>919
結論というか固定観念ありきで書いてるな
劉曄の発言はどこから来たものか考察してみろよ
>>918 実際はどうだったかって話だよ
いくら劉備でも敵討ちなんてくだらない理由で大軍動かすほど馬鹿じゃないだろ
ただ単に荊州は絶対に必要だったから奪い返しに行っただけ
それにしては突出しすぎだけどな
あの時点では本当に仇討ち馬鹿になってた可能性が否定出来ない
荊州が無いと、魏攻略はほぼ不可能になるからな
無茶してでも取り戻す必要はあった
漢中と上庸で我慢しとけ
926 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/08(木) 23:19:05
上庸ww
戦略的にもそうだろうけど
蜀に居る多くの荊州出身者に
劉備が荊州を取り返すって
意思なり行動を早く示さなければ
内応や寝返り等
懸念材料もあったんじゃない?
諸葛も荊州閥の1人だし
劉備の私戦というより
荊州閥の総意により、戦争は回避出来なかったんじゃないかな
にわかが出しゃばりスレ汚しすいません
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/09(金) 17:15:06
私怨だけで軍隊動かせるわけないからね
突出したのは誘い出されたようなもんだろ
そりゃ私怨だけとはいっとらんがな
だが、最初は慎重にやってたみたいだが
冷静さが段段と抜けていってる
人の献策も聞かないみたいだし劉備らしくない感じ
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/09(金) 17:29:50
いやあむしろそれが劉備らしい
もともとそういう人だったんじゃね?
曹操に比べればその手の失敗が多いのが劉備なんだろうか
徐州での陳群、夷陵での黄権
劉備は度量広く人の話をよく聞くと正史で評されてる。関羽の件は実と情が一致してやらざるをおえないと思うが
__
_
ム厶
土乂
実際習鑿歯の言ってる事も案外正しいんじゃないかって気がしてくるな
落ちぶれ豪族から皇帝にまでなれたのにはやっぱりそれなりの理由がある
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/09(金) 22:02:59
そもそも、軍を動かした最大の目的が荊州奪回だとした場合、
夷陵まで侵攻しても別に不自然ではない。
そこで止まる理由も無い。
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/10(土) 11:21:45
苻堅曰く「習鑿歯は陸機や陸雲の半分の価値」
>>936 あれはびっこ引いてたから半分って言ったんだよな
符堅は容姿が劉備に似ているのが笑える
孫権も似てるって言われてたな
手が長いとか眉が白いとか瞳が四つあるとかいうのは
ずば抜けて実力があるとかいう意味なのかな
孔子が頭が山のような形をしてたり劉邦に黒子が72あったりするように、偉人は常人にはありえ無いような特殊な外見をしているというのが中華クオリティ
ちなみに曹操はそういうのが無い
>>942 どこに書いてある?
世説新語にみずぼらしい外見とはあったが、チビとはっきり分かるような書かれ方じゃなかったぞ
足が短いというのと外国の使者に自分と偽って体格がいい男と面会させたって事からチビだと推測されております
ありえないくらいチビかどうかは分からんが
容姿についてあれこれ書かれてないので貧相なオッサンだったのかも
チビというのは確か魏氏春秋にあったはず
内容覚えてないけど
どっちにしろ偉人っぽい外見じゃなかったらしい
魏氏春秋に姿貌短小と書かれてたはずだが
>>948 孫権は足が短いんじゃなくて胴が長いって表現じゃなかった?
ま、結局足も短いだろう事にはなるけど
足も長いが胴も凄まじく長い場合
ゴツトツコツかよ
>950
諸葛瑾
諸葛瑾は要潤似のイケメン
目と鼻の先の間が凄まじく長い場合
ロバみたいに可愛い顔だったらしい
もう諸葛瑾が涙目になってるから
勘弁してやれ
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/11(日) 14:15:49
カエサルもイケメンには程遠いハゲでもモテモテだったから
容姿の貧相さぐらい内面でカバーできる
でも女性は綺麗な方が断然宜しい
それは内面じゃなくて経済力とか地位だろ
諸葛瑾の息子は顔真っ赤だな
多少は構わないが、蒼天みたいな容姿は完全にアウトだな
あれ最初見た時はワロタ
ロバそのものだったよな
あれじゃ顔にロバだって書かれても何も言えないだろうな
蒼天読んでみたくなってきたw
蒼天航路と言えども
呉の連中の出番は全体的に見て少な目だ
魯粛が主人公の漫画の江南行はもう少し描いていれば
二巻を出して完結させられるだろうに……
江南行は雰囲気はすごく好きだが魯粛が善良すぎて何か違うと思ったなぁ。特にネットにあがってる続編
かなりリアルな正史の世界の中に演義の登場人物が一人だけ混ざっちゃってる感じ
作者が三国志のことは冷静に見ているのに魯粛だけ冷静に見れていない気がして…
魯粛も少し突き放すか、他の人物も等しく思い入れるか、どっちかだったら最高だった
>>963 完全な出オチだけどな>>諸葛瑾
確か一コマしか出て来ないし
魯粛が善人って事だけはないな
>>966 ずいぶん後の方になって、呉の使者として出てきた気がする。
魯粛が主人公の漫画って誰得
周瑜や孫権もメインだよ
魯粛は重要な人物だが物語の主人公にはあんま向いてなさそう
活躍期間も短いし
だから魯粛を軸に
周瑜や孫権の行動や思惑も描いているんだよ
諸葛瑾や凌統 董襲などが目立つ回も有る
うしろ3人は目立ったと言えるほど目立ってないと思うが
諸葛瑾なんか特に「出てたっけ?」レベルだろw
魯粛ってなんかコアな人気があるよな。
なぜだ。
>>974 演義と正史のギャップじゃ?
無能扱いされてたヤツが実は優秀とかけっこー惹かれるんだと思う。
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/14(水) 14:56:15
どの作家も好き嫌いや展開の都合で人物の性格なんて幾らでもいじくっていると思うが
性格悪い奴が善人になってても嫌なものか?
魯粛が趙雲に刺し殺されたりしてない限りは大抵は許容範囲だよ
江南行の場合は魯粛以外がかなり正史寄りで、正史寄りを売りにしている風なのに
肝心の主人公が正史の人物像とかけ離れているから違和感が大きいんだよ
ネット上の評判等でも正史だとかリアルだとか言われてるから余計に違和感が大きくなる
作品自体は嫌いじゃないが、正史風を売りにするなら
>>975の言うように
演義とギャップのある魯粛像を出して欲しかった
魯粛の魅力は行動力とキチガイっぷりなんだけどな
人が良いだけの魯粛はいりまへん
諸葛瑾は孫権即位の辺りから軍部に重きをなしていたみたいだけど
軍事的に優れていたの?
>>979 彼の晩年に他に誰も指揮官できる人がいなくて押し付けられた挙げ句に負けました
諸葛謹はあの天才軍師諸葛亮孔明の実兄だぜ?
軍事の才がない訳がない
…と演義厨みたいな事を言ってみる
実際は何でもそくなくこなしそうなイメージ
負けたのは相手が悪すぎた
信頼出来て実力がある
信頼出来て実力があるかもしれない
信頼出来る
なんか孔明が有名すぎて諸葛勤って全然一般的には知られてないよな。
兄がいるってことは三国志かじってる人じゃないとわからないんだろうなあ。
赤壁の時は諸葛勤って従軍してたっけ?
諸葛勤っていう人は俺も初耳です
被害少なく時間かけすぎ
諸葛亮と似た傾向にはある
諸葛瑾は文官というイメージがこびりついてる
大将軍として軍を指揮しているところなんか想像つかん
今の感覚で言えば内閣総理大臣が指揮して北朝鮮に攻め寄せるようなモンだからね
山縣有朋かよ
驢馬は現場系の経歴の方が長そう
次スレッドは?
無理だったorz
993 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/15(木) 23:20:31
君の考える攻撃的オナニーってどんなだい?僕に教えてくれないか?
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/16(金) 03:08:18
魯粛の正史における人物像とはどういうものだ?
996 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/10/16(金) 03:09:09
金持ちヤクザ
次スレにGO!
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
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