三戦でも城跡巡り

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1茄子与一 ◆qbzWkHaCqM
以前トーナメントスレで城跡の話題が出たので、建ててみた
早速自分の城跡写真を晒してみる
ttp://e.pic.to/mgypy
2無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 22:34:03
小魔玉しか書き込まないだろ
3無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 22:42:02
>>2君は小魔玉なのかな?
4無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 22:43:12
はあ?
5無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 22:59:08
喧嘩はやめれ
松山城
ttp://e.pic.to/snoj6
6茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/14(月) 23:00:27
コテ付け忘れ
7茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/14(月) 23:16:24
戦国板や日本史板のように、和気あいあいとスレを楽しめるように出来たら幸いです
三国時代の史跡についても話せる人は話してください
8無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 23:51:58
先週二条城に行ったけどほとんど写真撮らなかったな。
もちろん中は撮影禁止だし。
名古屋城ならいつでも行けるんだけど
9茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 00:10:51
>>8
それはなかなかの名城ですね
こちらは北関東なので近くの城は渋い山城ばかりですがなかなか堅固そうな城ばかりです

これは国峰城
ttp://i.pic.to/oxz7r
10リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/15(火) 10:10:10
お邪魔します。

昨年行った、名古屋城と加藤清正公の銅像です。
http://p.pita.st/?m=0wtuvxbc
11茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 11:30:38
こんにちはリー殿
名古屋城に加藤清正公ですか、天下の城に天下の武将ですね、私は東国人ですからあまり縁のない城と武将です
こちらは新田氏の居館らしい江田館という城を晒します
ttp://i.pic.to/pdoxj
12無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 12:02:18
ここで城巡りのエキスパートである小魔玉党首が参加すればきっと良スレになる。
13無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 12:26:56
麻雀スレでもすごいからなー
誘導しとく?
14無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 13:10:54
北関東(上毛野)なら、箕輪城、平井城、金山城、岩櫃城、松井田城、沼田城、和田城、厩橋城、etc...
15無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 13:18:30
茄子=リー
16無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 13:28:21
媚び売り魔の茄子与一は氏ぬべき
17無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 13:30:28
名古屋城は外観はいいけど中はエレベーターとか売店とかあって趣ないんだこれが
18無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 14:40:28
>>11
今日北浦和と加トスレで名無しでアダルト叩いたの茄子だろ?
書き込む時間と晒すていう言葉で茄子だとわかるんだよ。
茄子も弱りきったアダルト叩いて酷いことするな。
19北浦和住人:2008/04/15(火) 14:58:59
>>18
わたしもそう考えてる

>>5>>6の不自然さは潜伏していることを物語っている
20無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:04:07
自分よりアダルトが目立ってるのが気に入らないんだろうな
21無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:06:16
ひでえ奴だな
22無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:08:29
732 :無名武将@お腹せっぷく:2008/04/14(月) 20:05:25
>>729
名無し潜伏してるんがバレバレなんだよ
とっとと消えろ目障りなんだよ


昨日のこれも茄子だろ
23ジャイアン ◆7.z.DC.PKE :2008/04/15(火) 15:10:48
おい、おまえら決め付けるのは良くないぜ!
24無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:32:18
潜伏名無しの工作はかっこええ!!
25無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:35:12
茄子出てきてアダルトに謝れ!
26無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:55:56
>>1新党荒らすな ボケ
27無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:59:16
このスレも茄子が小魔玉と馴れ合いたいが為に立てたスレだろ
28無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 15:59:46
いいえ
29無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 16:03:54
茄子乙
30無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 16:06:52
このスレは三戦に関係のあるスレですので。
妄想でコテ叩きしたいなら最悪板でも行きなさいスレ荒らし馬鹿名無しよ。藁
31無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 16:06:56
その通りだ
32茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 17:15:32
人の噂も死地銃誤日、ああいうのはすぐ来なくなるので無視しましょう
これは赤堀の毒島城です
ttp://e.pic.to/pexm7
33リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/15(火) 18:16:46
お初です。茄子殿。

いやぁ、城跡なのに、城を晒してすいません。
( ^∀^)ゲラゲラ


九州の血を引く、大阪生まれ大阪育ちでありながら、大阪城へ行った、ためしが無い。

彦根城に一度行ったんですが、撮影道具が無かったんでありませぬ。
( ^∀^)ゲラゲラ

今度、チャリで奈良県の郡山城跡にでも、行ってみようかと検討中です。
('◇')ゞ
34無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 18:42:02
>>32
はやく氏ねよ茄子
35無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 18:45:06
粘着名無しはこまめだからかっこええ!!
36無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 18:48:24
もう茄子の失地回復は無理だな。全部自演に見える。
37無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 18:50:59
それは君の頭がおかしいから。
一度名前を忘れただけで別のスレの荒らしと同一人物に見えるとは、明らかにおかしい。
38無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 19:11:29
どちらにしろ名前を忘れるようなコテはいらねえ
39無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 19:17:10
意味が分からない。
不要だと思うのにこのスレに居着くのは迷惑以外の何者でも無い。
40茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 19:17:47
>>33
おお、リー殿、良く来られました
多少騒がしいですが気になさらないでくだされ
ほう、彦根城ですか、リー殿が行った頃にはひこにゃんは居たのでしょうか?
それに郡山城に行くのを検討中ですか、実は私も今度、群馬県太田市の金山城に行く予定です
そしてこれは金山城で行われた一昨年くらい前のイベントです
ttp://g.pic.to/v1wp8
凄まじい鉄砲射撃でした、喜んでくれると幸いです
41無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 19:43:34
40 :茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 19:17:47
>>33
おお、リー殿、良く来られました
多少騒がしいですが気になさらないでくだされ
ほう、彦根城ですか、リー殿が行った頃にはひこにゃんは居たのでしょうか?
それに郡山城に行くのを検討中ですか、実は私も今度、群馬県太田市の金山城に行く予定です
そしてこれは金山城で行われた一昨年くらい前のイベントです
ttp://g.pic.to/v1wp8
凄まじい鉄砲射撃でした、喜んでくれると幸いです
42無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 21:10:24
妙印尼
43無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 21:58:56
小魔玉やひょーりみは信者がいるからちょっとぐらい変なことしてもなんとかなる。
八戸や学徒はクソコテとしてキャラが定着してるから今さら奇行に走ってもさして問題ない。

茄子は難しい立場だな。女も増えた今の三戦で茄子は自分のアイデンティティを見いだせるのか。
44無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:03:00
茄子でオナニーしてる奴はいなさそうだな
45無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:04:47
可愛げがないしな
46無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:05:38
別に売名のためにコテやる必要無いんですよ。藁
こういう三戦的なスレを立てるのは地味だけど偉いですよ。
47無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:29:53
茄子って30代じゃないの
48無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:36:52
加トスレでまたアダルト叩くな、糞茄子与一
49無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 22:52:21
妄想でコテ叩くなキチガイ
50茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/15(火) 23:00:40
>>42
まさにかかあ天下的女傑ですね
そしてこちらはもう一人の女傑、甲斐姫の城、忍城です
ttp://m.pic.to/pp3d3
>>43
三戦の中の鉄中錚錚を目指すつもりです
>>46
ありがとうございます、ただ私は最初はネタでコテになったので、これからもネタ路線は続けようと思います
51戦国板にあった:2008/04/15(火) 23:13:28
52茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/16(水) 00:07:49
ありがとうございます、早速調べてみましたら明智城には遠山の金さんの祖先が居たみたいですね、明智光秀も居たという話もあり二度驚きです
それと城の写真はあまり使い過ぎると出すのがなくなってしまうので、代わりに忍城近くのさきたま古墳を出します
ttp://i.pic.to/wi3go
53リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/16(水) 00:10:23
>>40
いやぁ、彦根城に行ったのは、5、6年前なんでいませんね。

ちなみに、昨年、琵琶湖一周をしたんですが、史跡がちらほら。
別件で遊びに行っていたので、看板を見るだけでした。

機会があれば、トライしたいと思います。
いつになるかは、判りませんが。
( ^∀^)ゲラゲラ



おぉ!!
良いですね〜。
甲冑姿で、銃を構えて打つさま。

ギャラリーがいなければ、タイムスリップでもしたかの様相ですね。
( ^∀^)ゲラゲラ


茄子殿は、良く、巡られるんですかね?
54茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/16(水) 00:23:00
>>53
はい、良く行きます
城ついでに近くの史跡や名所も見に行きます、それと城に桜や梅が咲いてたら一石二鳥でその時期も狙ってますよ
リー殿は城と綺麗な花を見られる所は行った事ありますか?
将来行けるようになったら是非行きたいです
55リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/17(木) 02:09:14
>>54
残念ながら、無いですね。
城巡りと行っても、まだ二か所ですからね。


ちょっと話がそれますが、今年に限って、大和川の堤防沿いを、チャリで走るなんて事をして、桜木を満喫しましたがね。
( ^∀^)ゲラゲラ
56茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/17(木) 06:38:26
>>55
おお、桜並木ですか、いいですな
私も桜は良く見に行きますが、桜よりは紅葉の方が好きですね
そしてこれは大変登るのがきつい城でした、紅葉と山も綺麗です
ttp://e.pic.to/vu418
57無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 06:48:02
大和川堤防もいいよね

探偵ナイトで「大和川で通勤」の話、しってる?
58茄子与一 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/17(木) 07:25:21
調べて見た所関西のテレビですな
しかし私は関東人なので、どういう内容かさっぱり判りませぬ
教えていただけたら幸いです
59無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 08:10:34
茄子与一とリー兄弟のキモイ馴れ合いはいつまで続くんだ?
60無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 10:33:06
スレに沿った話題も書けない板迷惑の荒らし潜伏厨。藁
ちょっとは三戦に貢献しなさい。藁
61 ◆W0wczkw01o :2008/04/17(木) 17:40:01
良スレage^^
62無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 19:04:29
お前はいい奴なんだな
63 ◆qbzWkHaCqM :2008/04/17(木) 19:27:00
茄子お前今のうちにトリップ変えろ^^
64茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/17(木) 20:06:10
新しい鶏、また変えるかも
65 ◆W0wczkw01o :2008/04/17(木) 20:07:48
マジレスすると漢字4文字とか単語のみとかだったらすぐまた割られるぞ
66無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 20:36:46
>>65
ウザイからくんな^^
67 ◆W0wczkw01o :2008/04/17(木) 20:40:48
おい人が親切に教えてやったのに

まあ今度どこかの城を見に行ったらまた来るよ^^
68無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 21:00:13
正直、◆W0wczkw01o君は潜伏粘着厨やコテニー厨と同類、もしくは同一人物の荒らしと思っていましたが、意外と優しくて驚きました。
そして糞溜めの自治新党で荒らしてもまともなこちらのスレを荒らさないのも偉いですね。
見直しました。
69無名武将@お腹せっぷく:2008/04/17(木) 21:13:41
>>67
◆W0wczkw01o=クマッタ

おまえ案外、良い奴なんだなww
70茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/17(木) 23:59:31
城以外の写真で申し訳ありません、しかし最後にある福神様は是非見ていただきたいです
妙義山
ttp://h.pic.to/p59jl
71無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 17:49:55
誰も見ないな
72無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 18:10:54
>>71
お前は荒らしたいだけの馬鹿だろ?
三戦に関係のあるスレにまで粘着してくるなよ、自治新党でも荒らしてろスレ荒らし馬鹿穢多よ。藁
73無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 18:13:10
>>72
茄子の自演はわかりやすいぞ!
74無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 18:14:55
また妄想か?
糞スレ代表こと自治新党でやってね。
75無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 18:20:12
糞茄子はやく出て故意や
76無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 18:28:51
荒ら砂
77茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/19(土) 00:03:01
写真ばかりじゃあれなので、トリビアでも出しましょう
茶臼山と言われる所のほとんどは、城があった場所なんだそうです、例外もあるみたいですけど
78無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 02:17:18
理由は?
79茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/19(土) 02:44:20
茶臼ですから
引きては落ちず、押しては落ちず、敵を粉にする、からだそうです
縁起を担いだみたいですね
80茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/19(土) 02:52:11
訂正
引きでは落ちず、押して落す、敵を粉にする
でした、すみません
81無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 03:08:25
ありがとう
82茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/19(土) 03:14:35
いえいえ
それともう一つ訂正です、「落す」ではなく「落とす」でした
注意力が散漫なようなので、もう寝ます
83無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 03:35:49
なにこの見え透いた自演のやりとり・・・
つかググったらすぐわかるようなことだろうが ボケ
84無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 05:00:14
粘着厨はかっこええ!!
85無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 07:24:50
ググレばわかることも伝えられない馬鹿がいるな
86無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 10:59:22
歴史系板の住人なら雑学の一つや二つあっていいだろ
87無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 11:02:34
でなかったら叩くと
88無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 12:44:06
相変わらずかっこええ!!
89無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 14:46:27
茄子嫌い
90無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 14:50:22
岡山城だけじゃなく松本城も烏城って言うのな
91無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 14:55:27
烏丸
92無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 14:57:35
熊本城は銀杏城及び烏城
93無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:00:52
松江城は千鳥城
94無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:32:37
なぜ茄子与一は嫌われるんだ?
95無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:34:10
茄子のクセに喋ってるから
96無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:36:45
茄子の潜伏叩き
自演擁護
媚び
全てがウザイ
97無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:37:10
茄子がパソコンに向かっている姿を想像した
98無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:38:00
茄子はうまい
99無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:41:27
>>97
キモイな
100無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 15:43:51
茄子は食われるべき
101無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 16:26:22
名古屋城も熊本城も鶴ヶ城も先の大戦がなければな
102無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 16:37:41
粘着厨は意味不明だからかっこええな!!
103無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 20:42:06
先週、勝瑞城跡に行ったんだが…
まぁ、徳島に行くことがあれば、一度行ってみるといいよ。一般人には勧められないけど。
104無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 00:55:56
茄子与一#茄子七騎
105無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 00:57:31
茄子与一のアダルト叩きは異常だった
106 ◆4v5JfLpxto :2008/04/20(日) 01:22:57
新党荒らすな糞茄子
107 ◆djVAbnh0OI :2008/04/20(日) 01:37:52
いいえ
108 ◆eb4VLn3tEc :2008/04/20(日) 01:38:17
うぜえ
109 ◆V1kkFdjsTw :2008/04/20(日) 01:38:49
いいえ
110無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 06:32:49
潜伏厨は茄子=アダルト叩きをなんとか定着させようと毎日がんばるからかっこええ!!
111無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 09:38:06
かっこええ!!の人はどうしてそんなに頑張って擁護するん?
112無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 09:44:01
妄想厨は馬鹿にするほど暴れるからな!!
113茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/20(日) 12:06:51
>>103
勝端城ですか、以前は守護の居城と思われた程立派だったようですね、私も徳島に行けたら行ってみたいと思います
そしてこれは天下の名城唐沢山城
ttp://k.pic.to/piyqc
114無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:08:39
>>113
なぜコテ付け忘れたかこたえろよ ボケ
115無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:10:30
酉割れしたのか?
コテに叩きは付き物だしあまり相手にするなよ
116無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:13:50
>>114
コテ忘れたしか言えないの?馬鹿荒らし?
117無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:14:43
アダルトは同情されるのに、茄子与一は同情されないのはなんで?
118無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:16:22
病気の有無じゃね?
日本人は弱者に同情するのが大好きだからな
119無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:22:34
アダルトもあんまり同情されてない、というか嫌われてる
他のコテから
120無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:23:14
茄子の自演擁護が酷すぎる
121無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 13:41:07
>>120
擁護してるのはAaAだよ
根拠の無い妄想はやめたら?w
馬鹿みたいだよ?w
122無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 14:32:29
小魔玉歓迎
123無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 14:34:23
小魔玉には
ちょっと怖い熱狂的ファンがいるぞ
たぶん女で
124無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 15:33:29
今日はどこに行ってんだろう
125無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 18:05:44
関ヶ原だとよ
126無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 18:32:48
               _
              /  \―。
            (    /  \_
             /       /  ヽ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ...―/          _)  < コテニー シュッ!シュッ!シュッ!
        ノ:::へ_ __    /      \_____
        |/-=o=-     \/_
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          しw/ノ___-イ
           ∪
127無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 18:52:32
小魔玉はこのスレスルーかw
128無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 18:58:02
茄子叩いてるのが小魔玉だからな
城跡巡りは自分のテリトリーだから邪魔なんだろ
129無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 19:15:08
>>126
ただの荒らしと変わらないよ、君。
130無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 19:25:05
コテニーはあのスレだけだからいいが
荒らしまわるコテニー厨は死ぬべき
131無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 19:25:49
小魔玉はやっぱり麻雀スレに貼ったか
132無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 19:54:43
こんな糞スレにこないのが正解
133無名武将@お腹せっぷく:2008/04/20(日) 19:58:31
粘着はかっこええなあ!!
134無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 15:38:58
小魔玉が来なくて茄子涙目wwww
135無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 16:53:45
潜伏厨はなぜか小魔玉を連呼するからよけいにかっこええ!!
136無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 16:55:46
と、潜伏厨が申しておりまする
137無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 17:04:55
連投好きの潜伏厨ってかっこええなあ〜
138茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/21(月) 19:17:09
今日の写真は小山氏の祇園城、以前発掘調査らしいのがおこなわれてたようです
祇園城
ttp://t.pic.to/pskfm
139無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:22:26
小魔玉はやっぱり麻雀スレに貼ったか
140無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:28:52
>>139
しつこい
どこに貼ろうがそのコテの勝手
141無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:30:25
茄子以外にも貼れよ
142無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:32:35
>>139
ここを知らないだけかもしれないから教えてみた

【麻雀】三戦板 卓ゲーム総合スレ【将棋】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1204211306/601
143無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:34:06
城跡ってそうそう行けるもんじゃない
他にも対象を広げるといい
144無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:35:03
行くが写真撮らない
145無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:35:59
撮ればいいのに
もったいない
146無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:36:28
城跡の寺を撮った。微妙にスレ違いだ
147無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:39:59
ここに書き込んでも荒れるだけだから書きまないんだろ
148無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:41:06
麻雀スレが微妙に過疎だからじゃね?
149無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:41:53
茄子が立てたスレに書いたら小魔玉の格が下がる
150無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:42:39
三戦のコテは書き込んでないしな
151無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:44:10
格とかって他人が気にするもんじゃないと思うが
ただ単にスレの存在を知らないという可能性もあり得る
152無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:44:39
茄子本格的に嫌われてんだな
今まで茄子叩いてるのはただのアンチの仕業だと思ってた
これは有名コテ潜伏説を検討する余地があるな
153無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:46:52
>>152
単にトナメの単語が入ったスレだから
他板の工作が入ったとも考えられる
嫌うほど有名ではないと思うが
154無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:49:01
>>153
三戦のコテが示し合わせたかのように
写真晒すどころか誰も書き込んでいない現状があるからな
>>142で麻雀スレの面子も初めて知ることになったわけだしまだわからんか
155無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:49:03
不自然な流れだな 茄子の潜伏
156無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:51:27
>>154
三戦なのだから三國志オンリーで戦国は苦手なコテもいるわけで
それを言い直すなら
戦国好きのコテに相手にされないと言うべき
157無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:53:18
>>156
三国志属性のコテも写真うpはなくても小魔玉の写真には反応してなかった?
158無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:55:49
>>157
それは麻雀好きな三國志属性で麻雀スレ見たらあったから
義理で書いただけじゃないか?
失礼だがここは戦国に興味がある人間しか開かないと思う
159無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:56:02
そこが小魔玉の魅力なんだろう
160無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:58:12
いや、小魔玉が潜伏とか無いだろww
てかお前が潜伏っぽいがw
そもそも小魔玉は最近出現率激減で麻雀と新党くらいしか書き込んで無いし
コテどもも普通のスレにはあんま書き込まんからなあ
161無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 19:58:46
そもそも茄子が悪いんじゃないか?アダルト叩いたのが?
162無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:00:20
>>161
まったく根拠の無いことと何回も言われてるよ
163無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:02:15
一つだけ言えるのは小魔玉ファンには怖いのがいる

そういうファンの暴走ならあり得るかもしれない

怖いファンは小魔玉のためとか思ってるのかもしれないけど
164無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:03:12
すぐ擁護にまわる162こと茄子与一。荒らし馬鹿穢多よ。藁
165無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:04:10
根拠なく自演とか書く人って馬鹿なの?痴呆なの?
166中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2008/04/21(月) 20:05:05
つかさ・・・

最近コテスレうぜえよ・・・

ヴぉけ
167(・×・)AaA ◆o7FdVtCNP. :2008/04/21(月) 20:06:44
>>164
まともなスレを荒らすなよ。
荒らすなら新党とかあるよな。
168無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:07:28
166って馬鹿なの?痴呆なの?
169中野区市民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2008/04/21(月) 20:10:57
AaAはうぜえよ・・・

板違いコテはよ・・・
170無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:12:23
マジレス

茄子叩きしてる奴に質問

なんでそこまで粘着してるの?
正直「名前忘れただけでアダルト叩き」とか、「コテの書き込みが少ないのは嫌われてるから」とか明らかにいちゃもんだよ。
なんかして叩きたいのは理解できたんだけど、そこまで叩く必要がわからない。
茄子ってそこまで叩くほどのコテでも無いと思うんだけど。
空気っぽい。てかいてもいなくてもそんなに変わらん。必死に叩く必要が感じられんよ。
171無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:13:10
中野区も早く酉変えれば良いのにな
めんどうなことこの上無い
172無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:13:58
そりゃ叩いてるのがアダルトだからだろ
173無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:15:01
中野区は酉割れして変えたからAaAは、偽中野区の戯言を気にするなよ
174無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:16:01
>>170
アダルト日出夫の復讐。

つか茄子みたいなカスコテはアダルト以外に誰も構わないし無視している。
175無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:16:18
>>172
その発想はナス叩きしてる奴と変わらんな
176無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:19:03
マジレスすると
茄子叩きは小魔玉の熱狂的なファンの仕業だと思う

小魔玉の関連スレとか見ると明らかに異常なファンがいる
小魔玉が他のコテと話すだけで嫉妬したり
ここでも最初の方に小魔玉狙いみたいな書き込みがあったと思う
関わると怖いしスルーが安全だよ
177無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:21:33
なんで小魔玉ファンが茄子を付け狙うんだ?
二人って仲良かった?
178無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:23:20
無理にこじつけようとする馬鹿がいるな・・・
179無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:23:59
アダルトは無い気がするけどなあ
あいつらの確執を見たことが無い
小魔玉ファンもそこまで異常か?
そういやアダルトが見当違いのととのえ叩きしててワロタ
180無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:24:30
>>177
矛先を変えたいだけだろ?
181八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/21(月) 20:26:27
車がないと、城跡巡りは大変そう
182無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:26:32
>>177
関連スレ見ればわかる
今は氷雪とかが狙われてる
やけに小魔玉が好きなんだろとか気があるんだろとか誘導尋問したがってたり
真面目な話小銀叩きも同様の理由と思われる
茄子は小魔玉好みのスレを立てたというだけで、小魔玉狙いと見なされたんだろ
ああいう怖いのの思考には常識とかじゃ対応できないから
俺も怖いからもうスルーすることにする
183 ◆ORWyV99u2Y :2008/04/21(月) 20:26:50
マジレスすると中野区は最初からトリバレしてる
184無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:27:50
まずあの名無しは小魔玉が好きなコテだと言っていただけだろ
185無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:28:11
>>183
3年くらい前だよな
186無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:30:04
茄子は小銀とかとは違って書き込みで他人に不快感を与えるコテだと誰かが言ってた
そいつの仕業じゃねえの
187無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:31:15
小銀玉も不快やけどな
188無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:31:52
小魔玉信者怖いな
189無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:32:05
小銀の書き込み自体はそれほど不快でもないな
190無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:32:21
そういや小銀玉も小魔玉信者だったな
191無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:32:30
茄子は嫌われ者なだけだろ?
192無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:33:20
しかしコテどもが誰も茄子擁護しないとはな
裏でそういう協定が結ばれてるのか
193無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:33:37
>>191
俺もそう思う
小魔玉信者の潜伏とか深読みしすぎかと
194無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:34:44
>>192
つまりコテからも嫌われてるんだろうな
絡んでるのも見ないし
195無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:34:50
>>191
嫌われる理由が知りたい
不快も何もない空気だと思うんだけど
196無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:35:54
初代コテニースレの最後のほうと
ごみ箱と初恋スレと顔ピタスレあたり見てみれば一連の動きがわかる

でも嫉妬されていないコテもいるのも確か
ただ言えるのは変なファンがついちまった小魔玉が一番の被害者
197無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:36:02
なんか一人茄子叩きが混じってる気がする
198無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:37:04
北浦和の住人だがアダルトを叩いたのは茄子だと確信している
199無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:37:10
>>196
信者はコテの言動の表れだから一概に被害者とは言えない
200無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:37:23
茄子は空気だろ
失礼な言い方だが
201無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:38:05
なんかととのえの口調まねして「わたしも怪しいと思う」とか書いてあるのを見た時はちょっと笑ったw
202無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:38:40
空気のはずなのにやたら空気空気と誇張するのも引っかかるな
203無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:38:43
マジレスすると茄子は空気ではない
今の三戦でトップ10には入るコテ
204無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:39:27
最悪板行け
205無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:39:54
>>202
さっきから空気空気言ってるの俺かも
>>203
そもそも十数人しかいない
206無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:41:24
むかしむかしのスレでも
どう考えてもコテを
忘れるわけないタイミングで
氷雪がコテ付け忘れしたし、
別にコテ忘れたからって
潜伏の証拠にはならんと思うが。

茄子の卑屈キャラは
もう少しで確立できただろうになあ
>>181
関西の奴ら多そうだし城撮るにしても場所が結構かぶりそうだよな

>>169
基本俺様はコテ叩きしねえからよ
208無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:41:53
小魔玉
ぷらっと
中野区
宇喜多
ひょーりみ
八戸
氷雪
果物キラー
中山
魔法剣士
偽クマ
ととのえ

ここらの下だからトップ10には入らないな
209無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:43:37
>>208
魔法剣士とはいい勝負かな
少なくともここ数日の話題性は茄子のが上だw
210無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:43:41
>>208
今の三戦で宇喜多と果物キラーこそ空気じゃね?
211無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:48:42
両名に失礼だ
212無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:49:15
最悪板行け
213 ◆W0wczkw01o :2008/04/21(月) 20:50:08
お前ら良スレを荒らすなおい^^
214無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:50:16
果物キラーはほとんど書き込んでないからな
215無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:50:30
宇喜多は戦国発祥のコテ
果物キラーはパチンコ板発祥のコテ
まめちしきな
216無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:51:32
中山も戦国板発祥
217某コテ:2008/04/21(月) 20:52:32
やはりここは城跡の写真を貼り語るスレなのでコテ叩きの話題はスレ違いの荒らしになってしまいます。
下のスレはコテ叩きのスレです。
http://tmp7.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1208593071/
218無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:52:42
>>213
トップ10に上がらないからって拗ねるなよ
お前はお前で頑張ったよ
219無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:54:30
>>217
いつも思うのだけどその誘導自体はスレ違いじゃないのかい?
自治のためならスレ違いも許されるけど他人のスレ違いは許せないって?
220無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:57:08
何言ってんだ?
221無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:57:19
>>213は三戦の数少ない良コテだって俺は知ってる
222無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:57:57
良コテの定義も色々あるからな^^
223無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 20:58:15
こんなふうに荒れるから小魔玉が書き込まないんだろ
お前ら名無しが原因だ
224無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:00:48
自分の名前欄を棚に上げてよく言う
225無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:01:35
とにかくこの話題を終わらせよう。
226無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:02:22
だが>>213はあれだけ新党荒らしておいて、荒らすなはないよな
227無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:02:33
新しい流れでも作るんだな
228無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:03:19
>>226
彼には荒らしていいスレと荒らしてはならないスレがあるらしい
彼のルールを他人が尊重する謂われはないけどな^^
229無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:06:37
>>228
ふーん。
なんか新党でリンリンにスレ立ての解説してた名無しと主張が似てるな
230無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:07:14
新党は何やっても良いスレだからな
231無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:07:25
>>229
文体じゃね?
232無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:15:01
しかし麻雀スレに貼った途端荒れたな
233無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:18:10
流れが途絶えた
荒らしてたのはやっぱり1人か
234無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:18:49
1人ならさるさんに引っかからないか?
235 ◆W0wczkw01o :2008/04/21(月) 21:20:59
ここまで俺の自演なので途絶えたのは必然^^
236無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:22:22
>>235
お前はそのキャラで何を狙ってるんだ?
237無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:23:19
なな板に帰れ^^
238無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:25:15
Wなんとかへの質問は新党か最悪板で
239無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:26:30
新党や最悪板を汚すには忍びないからここでいい
240無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:50:56
誰か写真貼ってやれよ
241無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 21:57:37
まあゆっくり行こうや
242小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/21(月) 22:08:16
誘導されたので来たッス!!

って、あぼ〜んが多いのが気になりますが、
落ち着いたら何か貼らしてもらいます( ^∀^)ゲラゲラ
243無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 22:21:03
小魔玉のあぼ〜んは茄子と日出夫と見た
244無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 22:28:00
AaAと中野区とWなんとかもだな
245小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/21(月) 22:31:30
さぁ〜どうでしょうかw

と、畿内であればリクエストに答えて写真撮ってきますよ( ^∀^)ゲラゲラ
あと、畿内の城跡を言ってもらえれば、行っているかもしれないので貼ります!!
246無名武将@お腹せっぷく:2008/04/21(月) 23:00:30
ついにこのスレもクソスレから脱する日が来たのか
247リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/21(月) 23:12:24
>>245
いらっしゃい〜

では

千早赤坂村の赤坂城跡とか。
248小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/22(火) 00:09:39
昨日行ってきた関ヶ原の陣跡と竹中氏関連の史跡を貼ろうと思いますが、
不評なら撤退しますね( ^∀^)ゲラゲラ

と、チョット多いので2回に分けて貼らしてもらいますw
まずは西軍…

○笹尾山・石田三成陣跡
http://p.pita.st/?m=re6qwuif

○島左近&蒲生郷舎陣跡
http://p.pita.st/?m=f4epir1f

○宇喜多秀家陣跡
http://p.pita.st/?m=dtkietuz

○島津義弘陣跡
http://p.pita.st/?m=p1x8mkpq

○松尾山・小早川秀秋陣跡
http://p.pita.st/?m=olokqsmx

○小西行長陣跡&開戦の地
http://p.pita.st/?m=maclwx39

○脇坂安治陣跡
http://p.pita.st/?m=6tq6d6v1

○大谷吉継の墓&平塚為広陣跡
http://p.pita.st/?m=o02zmb41
249茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/22(火) 00:11:12
ちょうどこのスレにあってるニュースです
ttp://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiiapr0804481/
津久井城跡 城山で「本城曲輪群」発掘作業
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1208778954/
250小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/22(火) 00:26:55
そして東軍…
○桃配山・徳川家康本陣跡
http://p.pita.st/?m=dxirm285

○徳川家康戦後の陣跡
http://p.pita.st/?m=i2dnjyz0

○本多忠勝陣跡
http://p.pita.st/?m=imkdekgh

○福島正則陣跡
http://p.pita.st/?m=dausvsqa

○松平忠吉&井伊直政&田中吉政陣跡
http://p.pita.st/?m=mmpdetp4

○奥平貞治の墓
http://p.pita.st/?m=gbhwcl6q

あと、竹中氏関連の史跡跡ですw
○竹中氏陣屋跡
http://p.pita.st/?m=wzwstu0f

○菩提山城跡
http://p.pita.st/?m=kva41bze

○垂井城跡
http://p.pita.st/?m=egd16hrj

1日の行軍はこれが限界ですw
てなわけで、機会があればリー兄貴の言われた千早城跡に行って、幕府軍を
フルボッコにしてきます( ^∀^)ゲラゲラ
251リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/22(火) 00:41:02
>>250
う〜む、素晴らしい
(T_T)


脇坂氏の写真が見れないが(私だけか)
( ^∀^)ゲラゲラ


いやぁ、当時の方も、こうして語られるとは、思ってもないでしょうね、今更ですが。


国道309号線から、府道705号線を行けば、見つかると思いますよ。
252無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 00:45:34
これは見事
253無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:03:23
垂井城で小魔玉の姿が写ってるw
254無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:08:25
大谷吉継の墓か…
テレ東でやってた大谷吉継=秀吉の隠し子説は、妙な説得力があって面白かったなあ…
255無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:10:55
宇喜多と浮田、どちらが正しいの?
256無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:13:48
>>253
影だけじゃねーか
257無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:17:21
金吾・・・
258無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 01:23:09
>>251
こっちは普通にみれるよー
259リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/04/22(火) 01:28:39
>>258
そうなんですか?
う〜む、私は携帯からなんですが、そこだけ見れないです。
><
260茄子与一 ◆8Gq.v.YOkE :2008/04/22(火) 03:24:14
小魔玉殿が来てくれたおかげでこのスレは安泰でしょう、私はそろそろ邪魔になってきたようなのでこのスレからも、三戦からも去ります
遠くから見守ってこのスレの良スレ化と三戦板の良板化を願っています
そして最後に応援してくだされた方、本当にありがとう、そしてさようなら
261無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:35:43
262無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:39:24
263無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:40:05
264無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:40:38
265無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:41:21
266無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:41:48
267無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:41:57
>>260
なんか最近悲しい書き込みが多いなあ…
そんな寂しいこと言わないで、名無しでいいから書き込めよ、な?
268無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:45:07
いいえ
269無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 03:46:16
叩きを楽しめるレベルにならないと
270無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 07:24:37
粘着厨はディスプレイの前で「一日6時間張り付いてたかいがあったぜ」と喜んだからかっこええ!!
271無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 07:57:24
>>255
宇喜多も浮田も宇喜田でもあってる。
272八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 11:51:15
松江城残りは夜
273八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 11:51:41
274無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 12:33:59
大谷刑部が秀吉の隠し子ってどこの情報
275無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 13:17:28
たしか半年〜一年くらい前にテレ東でやってた真説日本史なんちゃらって番組

色々根拠を上げてたけどわかりやすいものでは、
吉継→秀吉を継ぐ者
秀吉が東西南北の称号を与えた女のうち、吉継の母だけが秀吉の妾ではない、など他多数

まあ珍説だけど、面白かったよ
276八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 16:09:57
277無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 16:23:23
なんで平日に旅行できるんだ
278無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 16:23:49
八戸は良い旅行をしているようだ
279魔法剣士 ◆NESS/xpF6Y :2008/04/22(火) 19:16:04
日本も
 
昔は戦地

だったんだ
          まほけん
280八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 19:53:47
右翼は歴史を全肯定するから嫌い。愛国は全肯定する事ではあるまい。
281無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 20:13:59
よくわからないんだが、それは古事紀や日本書紀のことを言ってるのか?
282八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 20:32:57
神武天皇以来うんたらかんたらの欠史八代もあるし、
大東亜戦争とやらの事もある。
283魔法剣士 ◆NESS/xpF6Y :2008/04/22(火) 20:44:41
右だ、左だ、というけど、鳥は両方の翼がないと飛べない





って窪塚さんが言ってた☆
284無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 21:35:03
松江城もいいが、出雲国に来たなら月山富田城跡に行くのが“通”ってもんだろ?
285八戸 ◆M911CbdudQ :2008/04/22(火) 21:45:18
行きたいが、山登りが辛い。車があればな
286無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 20:59:16
確かに、安来駅から結構距離あるから、車がないと面倒だね。バスも“ないわけではない”レベルだからなぁ。レンタカーという手もあるけど

山登りは…まぁガンガレ。富田城を制覇したら、大体の山城はいけるんじゃね?
287無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 00:30:49
風雲
288ととのえ老臣 ◆uIyBD4ByOA :2008/04/24(木) 08:06:35
>>283
右も左もすべてを受け入れよと窪塚は言いたかったのだろう
289小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 21:03:58
オイラの携帯を見たら画像データが1000を越え、全体的にバッテリーの減りも
激しいので、全件削除をしようと思っているのですが、この画像データの
ほとんどが史跡巡りのデータで、簡単に捨てるのは勿体ないので、ここで
貼らしてもらいたいと思うのですが、あまりにも膨大な為、10レス以上
消費すると思いますが、貼ってもイイでしょうか?

と、良ければバンバン貼らしてもらいますが( ^∀^)ゲラゲラ
290無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 21:56:28
歓迎
291無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 21:58:45
カムヒアダイターン
292無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 22:05:28
どんなのがくるか興味津々
293小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:28:12
ありがとうですw
と、さっそく貼らさしてもらいますが、かなり多くなると思いますので
貼り終わるまで気長に待っていてください( ^∀^)ゲラゲラ
(一部デジカメ画像が混じっているのはご愛敬ということでw)

○摂津・芥川山城跡
http://p.pita.st/?m=pe6hva6y http://p.pita.st/?m=ueb306tz

○摂津・芥川城跡
http://p.pita.st/?m=m7itpmqw

○摂津・越水城跡
http://p.pita.st/?m=hxulmxv4

○摂津・尼崎城跡
http://p.pita.st/?m=wtvigcis

○摂津・滝山城跡
http://p.pita.st/?m=hnlmmotc

○摂津・野田城跡
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00086.jpg

○摂津・大坂城跡
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00087.jpg
294小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:30:28
○摂津・三田城跡
http://p.pita.st/?m=m685okuv

○摂津・富松城跡
http://p.pita.st/?m=9ureflmn

○摂津・瓦林城跡
http://p.pita.st/?m=esdjz5c5

○摂津・麻田藩陣屋跡
http://p.pita.st/?m=i5gqlsxh

○摂津・池田城跡
http://p.pita.st/?m=w8ntpzik

○摂津・花隈城跡
http://p.pita.st/?m=vmpiro28

○摂津・兵庫城跡
http://p.pita.st/?m=sule7417

○摂津・有岡(伊丹)城跡
http://p.pita.st/?m=vm52u5av

○摂津・高槻城跡
http://p.pita.st/?m=aldojqr0

○摂津・茨木城跡
http://p.pita.st/?m=qogd90xu
295小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:37:41
296小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:39:22
○播磨・明石城跡
http://p.pita.st/?m=8f3esxhi

○播磨・龍野城跡
http://p.pita.st/?m=7f7epkze

○播磨・三木城跡
http://p.pita.st/?m=ouwokir1

○播磨・淡河城跡
http://p.pita.st/?m=jnkikuki

○播磨・平福陣屋跡
http://p.pita.st/?m=gtm1kc9x

○播磨・利神城跡
http://p.pita.st/?m=0pie7iis

○播磨・佐用(福原)城跡
http://p.pita.st/?m=1wcw2ib8

○播磨・三日月陣屋
http://p.pita.st/?m=szs7zij3
297小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:46:46
○山城・勝龍寺城
http://p.pita.st/?m=ujkhr0pu http://p.pita.st/?m=4pmnjkz9

○山城・槇島城跡
http://p.pita.st/?m=2wtlhejp

○山城・山口城跡
http://p.pita.st/?m=gwyirs2g

○山城・淀城跡
http://p.pita.st/?m=cztova5k

○河内・若江城跡
http://p.pita.st/?m=54jpilsp

○河内・飯盛山城跡
http://p.pita.st/?m=ha74fovi

○大和・信貴山城跡
http://p.pita.st/?m=57wpl2wc

○和泉・積善寺城跡
http://p.pita.st/?m=pvmqigvf

○和泉・千石堀城跡
http://p.pita.st/?m=nlrjtuz5

○和泉・高井城跡
http://p.pita.st/?m=t9fpqwbg

○和泉・岸和田城跡
http://p.pita.st/?m=vspniptv
298小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 22:57:26
○近江・観音寺城跡
http://p.pita.st/?m=ynfcenjy http://p.pita.st/?m=qjb4n2pv

○近江・安土城跡
http://p.pita.st/?m=y7rprsqs

○近江・鎌刃城跡
http://p.pita.st/?m=v9kvrx6u

○近江・佐和山城跡
http://p.pita.st/?m=ymf7dijt

○近江・彦根城跡
http://p.pita.st/?m=oif2zdsi

○近江・膳所城跡
http://p.pita.st/?m=zg8isc8e

○近江・佐々木城跡
http://p.pita.st/?m=igcdefgi

○近江・大津城跡
http://p.pita.st/?m=pskil1gi

○近江・坂本城跡
http://p.pita.st/?m=hoplabgv

○近江・八幡城跡
http://p.pita.st/?m=rxuhwsud
299無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 23:02:20

SUGEEEEEEEEE!!!
300小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 23:06:38
○美濃・岐阜城跡
http://p.pita.st/?m=vspr6bvn

○美濃・鷲山城跡
http://p.pita.st/?m=ovmkp4ex

○美濃・加納城跡
http://p.pita.st/?m=8w74rsye

○美濃・川手城跡
http://p.pita.st/?m=mcouvfha

○美濃・菩提山城跡
http://p.pita.st/?m=kva41bze

○美濃・垂井城跡
http://p.pita.st/?m=egd16hrj

○備前・天神山城跡
http://p.pita.st/?m=5llefpmt

○備前・三石城跡
http://p.pita.st/?m=b8nbuvwb

○備前・富田松山城跡
http://p.pita.st/?m=vdjgmvw6

○備前・富田茶臼山城跡
http://p.pita.st/?m=lb3ek7mm

○備前・周匝茶臼山城跡
http://p.pita.st/?m=6ro3m9x8
301小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 23:11:15
○丹波・黒井(保月)城跡
http://p.pita.st/?m=ilcafkpq

○丹波・籾井城跡
http://p.pita.st/?m=swcn2do8

○丹波・篠山城跡
http://p.pita.st/?m=3bzjg0st

○丹波・澤田城跡
http://p.pita.st/?m=v4xvqjb4

○丹波・仁木城跡
http://p.pita.st/?m=wplefgmw

○丹波・八上城跡
http://p.pita.st/?m=muvwxvij

○丹波・法光寺城跡
http://p.pita.st/?m=ng4sxu9s

○丹波・鹿集城跡
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00078.jpg

○丹波・柏原陣屋跡
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00079.jpg
302小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 23:14:58
303小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 23:20:31
○因幡・鳥取城跡
http://p.pita.st/?m=k4jyzvff

○因幡・鹿野城跡
http://p.pita.st/?m=df74flgv

○伯耆・羽衣石城跡
http://p.pita.st/?m=dtieouzi

○伯耆・打吹城跡
http://p.pita.st/?m=52i5jvde

○伯耆・米子城跡
http://p.pita.st/?m=fl1yi1ky

○出雲・松江城跡
http://p.pita.st/?m=qsphixyu

○出雲・月山富田城跡
http://p.pita.st/?m=bzrjkirw http://p.pita.st/?m=e5cwvsg0 http://p.pita.st/?m=e7vekgvw

○出雲・鳶ヶ巣城跡
http://p.pita.st/?m=0xulsoia http://p.pita.st/?m=pv5yifdt
304小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/04/24(木) 23:24:04
○美作・三星城跡
http://p.pita.st/?m=ama6gva6

○美作・高田城跡
http://p.pita.st/?m=aliablhw

○美作・林野城跡
http://p.pita.st/?m=rol8jyi0

○美作・波作利城跡
http://p.pita.st/?m=ssspqw

○美作・津山城跡
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00085.jpg

この作州がラストです!!
と、長々と貼らしてもらい感謝ですw

てなわけで〜今から携帯の画像データを豪快に全件削除します( ^∀^)ゲラゲラ
305無名武将@お腹せっぷく:2008/04/25(金) 00:30:06
おおー
306奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/04/25(金) 00:53:40
おk
岐阜はキープ完了だ。
307無名武将@お腹せっぷく:2008/04/25(金) 01:07:11
それにしても恐るべき行動力
308無名武将@お腹せっぷく:2008/04/25(金) 22:41:05
国ごとに分類してくれてるので見やすいし、大変参考になります。
309無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 14:20:44
【麻雀】三戦板 卓ゲーム総合スレ【将棋】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1204211306/655

すっかりこのスレ忘れられてるな
310無名武将@お腹せっぷく:2008/05/04(日) 23:01:57
過疎だな
311孔明 ◆PUHYAmOsA6 :2008/05/17(土) 00:10:58
清洲城はぷらっとの昼寝場所
312焼肉+ ◆JUU/.JUU/. :2008/05/17(土) 00:29:05
久しぶりだねおい。
313小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/06/29(日) 01:12:22
>>247
めちゃんこ遅くなりましたが、リー兄貴が勧めてくれた楠木正成公の居城・千早城跡と
支城の役割を果たしたとされる上赤坂&下赤坂城跡、それに楠木正成公生誕の地と
大坂の陣で激しい戦死を遂げた薄田兼相公の墓に行ってきました!!

と、河内長野市の千早赤坂村は最高のドライビングスポットだったので、
機会が出来ればリー兄貴とドライブ(『頭文字D』のようなドリフト全開の
走り愛でもイイですがw)をしてみたいものです( ^∀^)ゲラゲラ
(って、AT車でドリフトは無理でしょうが…)

○河内・千早城跡
http://p.pita.st/?m=mtkist3m
(幕府軍をフルボッコにした城跡だけに攻城は困難を極めました)

○河内・上赤坂城跡
http://p.pita.st/?m=iplhoyyd

○河内・下赤坂城跡
http://p.pita.st/?m=vacvv2g0
(楠木軍が糞尿を撒き散らしたとされる“糞谷”にも逝ってきましたが…
 数百年経った今でも激臭でしたw)

○楠公生誕の地
http://p.pita.st/?m=shelhrac

○薄田兼相公の墓
http://p.pita.st/?m=shv1cljt
(この墓の石碑は侯爵・浅野氏が立てていましたが、縁があるのかな?)
314無名武将@お腹せっぷく:2008/06/29(日) 01:15:16
上げとけ
315小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/07/03(木) 22:28:51
兵庫県の加古川市にある城跡を巡ったのを貼り忘れていたのでポチッと紹介!!

まず、賤ヶ岳の合戦では七本槍の一人・糟屋武則公の居城だった加古川城跡!!
今でこそ案内板しか残っていませんが、昔は播磨守護所が置かれたとありますので
播磨国内でも重要な城だったと推測できます!!
○播磨・加古川城跡
http://p.pita.st/?m=2rjpirmx

次に三木城の別所長治に同調したため織田氏の播磨征討を受けた神吉城跡!!
奮戦虚しく織田信忠公・明智光秀公・荒木村重公にに討ち取られた
神吉民部大輔頼定公の墓参りが出来たのが嬉しかったですw
○播磨・神吉城跡
http://p.pita.st/?m=vnfc0ab3

○貴重な神吉城攻防合戦之図
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00108.jpg

そして南北朝時代に赤松則祐公によって築かれた中道子山城跡!!
本丸跡から望む神戸・明石・加古川・姫路の景色は抜群に最高でしたw
○播磨・中道子山城跡
http://p.pita.st/?m=4ym0f8re

山名宗全に攻め滅ぼされた説明板だけが残っているだけの石弾城跡!!
○播磨・石弾城跡
http://p.pita.st/?m=ldav4wk8
316無名武将@お腹せっぷく:2008/07/05(土) 00:39:03
山城の特集が報道番組やってる
317里見義弘 ◆85cxk6VQEo :2008/07/05(土) 00:41:21
本当じゃ…マニアックな!
318無名武将@お腹せっぷく:2008/07/08(火) 10:58:39
加古川城って料理屋があるけどなぜか高砂のあたりに
319無名武将@お腹せっぷく:2008/08/26(火) 18:18:04
盆に津和野の三本松城攻略してきた

リフトはあったが、
山城攻略の縛り的には
乗るわけにはいかない。
本丸あとに達した時点で水の手がキレた
撤収が地獄だった。
よ〜う不敗を誇る徐晃がお出ましだ!

誘導されてきました

昨日高松城徳島城高知城和歌山城と見て帰ってきましたけど
去年は躑躅が崎館跡(武田神社)要害山城砥石城上田城春日山城真田氏館海津城高島城上田原合戦場跡川中島合戦場跡彦根城と見てきたんでリクエストがあったら言ってね

あと本命は神社なんで関東以西の神社の写真が見たい人は言ってくれれば大きいところならわりと写真出せると思うんで
一番しんどかったのは砥石城ね
もうその辺の山よりよっぽどしんどい。道がなくなったりするし。
ここ真正面から攻めるとかハルちゃんバカでしょと思った
真田幸隆先生はその辺よく分かってる。正しい。

ああそう言えば佐和山城址も見たんだった。
高遠城址も行ったことあるけどあれは花見に行ったんで遺構の写真とかはないです。
探せば昔行った岩村城址の写真もあるかな
あ、広島城も行ったのだった
323無名武将@お腹せっぷく:2008/08/30(土) 15:58:18
海津城をくあしく
324奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/08/30(土) 18:47:08
いつだったか、味噌国の実況やってたよな。
325タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 19:45:55
海津城へは川中島バスで。
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00397.jpg

これが全体図。これは細かいと読めないと思うから原寸で。重いよ。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00398.jpg.html

わしらはここは海津城だと思って疑わないが松代市は松代城として売りたいようだね。
併設されている資料館も真田信幸とかの話ばっかり。
あ、どうでもいいけどここへ来る途中小山田さんちとか真田さんちとかあった。

326タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 19:52:40
327タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 19:56:05
太鼓橋を渡って太鼓門をくぐるとその先はこうなってる。虎口ってやつ?
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00404.jpg.html
敵がまっすぐ突入できないようにしている仕掛けだね。

太鼓門の奥の方。本丸への入り口。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00405.jpg.html

天守は勿論、他の建物もすべてなくなっているので中はさっぱりしたもんです。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00407.jpg.html
328タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 19:58:34
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00408.jpg.html
いやわしらにとっては海津城なのでそんな碑を立てられても困る。

北不明門。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00409.jpg.html
329タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 20:07:42

http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00418.jpg.html
北西のやぐらがあったと思われる部分の石垣には登れます


石垣の上から土塁を眺める
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00410.jpg

石垣の上から不明門を眺める
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00411.jpg

外へ出て石垣とか土塁とか堀を見る
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00412.jpg
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00413.jpg
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00414.jpg

帰りに近くの建物の敷地で偶然発見。堀の一部らしい。
http://www6.uploader.jp/r/user/tukau/images/tukau_uljp00417.jpg
江戸時代の縄張りはこうだったそうで。
http://www.city.nagano.nagano.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=5754
今は堀はほとんど埋め立てられて住宅地とかになってる。残ってるのは内堀と外堀の一部。
海津城は出来た時期にしてはめずらしめの平城だから守るためには堀が重要だったと思われる。
千曲川も堀の一部として利用してたんではないかと。
行った時に雨さえ降ってなければ最高だったんだけど。香坂昌信好きとしてはなかなか楽しかった。
330タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/08/31(日) 20:09:22
大体こんな感じ。どうすか?>>323
331氷雪 ◆jKdJ051mHQ :2008/08/31(日) 20:14:52
>>330
323さんではありませんが、画像ありがとうございます。
神社も興味があるので、お時間のあるときに、宜しければお願いします。
ありがとうございます。
332タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/09/07(日) 13:06:06
忍城と鉢形城行ってきた。
忍城はほとんど遺構残ってないね。想像通りだったけど。
鉢形城はすごい! どういう構造だったかしっかり分かるレベルで盛り土が残ってる。
関東に住んでいるなら一度行くべきだと思った。
333タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/09/07(日) 14:24:58
>>331
何神社に興味あるの?
334タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/09/07(日) 14:26:02
ああ分かりづらい書き方だな

興味がある神社はどの神社?

ちなみに関東を覗く長野以東はかなり手薄だから多分写真ないよ
335タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/09/14(日) 19:09:36
川越城行ってきた。
覚悟してたけどやっぱり街中の平城は遺構的には絶望的だね。
面白かったけど。
336無名武将@お腹せっぷく:2008/09/14(日) 21:56:47
最近は城に凝ってるんっすか?
337無名武将@お腹せっぷく:2008/09/14(日) 22:20:31
ちょっと前は味噌レポやってたよね
338無名武将@お腹せっぷく:2008/09/16(火) 16:10:58
太田金山にも行くべきだ
339リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/04(土) 04:46:14
>>313
おお!!
小魔玉さん!!
遠路はるばる、いらっしゃってましたか。
('◇')ゞ


こちとら、mixiに、ドップリだったので、こっちは久方振りですわ。


雪降る季節なら、ATでも『手に汗握るドリフトモドキ』が出来ますよ。
ミスれば
♪真っ逆様に〜落ちて〜
( ^∀^)ゲラゲラ
340無名武将@お腹せっぷく:2008/10/04(土) 14:52:05
最近彦根城と岐阜城金華山行って来た。
金華山はロープウェーじゃなく登山道登るのオススメだな。
ひこにゃんは相変わらず自由すぎる可愛さで大人気だったよ。
341小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/05(日) 20:00:10
久しぶりに参陣!!
って、岐阜城跡の話を聞くと“あの”急な山道をもう一度制覇してみたいッスw
(岐阜城跡の山頂から見る長良川の素晴らしさはまさに絶景!!
 あの景色を見れば、山頂までの道程の辛さが吹っ飛んでしまいます)

と、タケノコさんの城跡レポに触発されたので、オイラも今まで巡った城跡を
↓に貼っていきます!!

○播磨・船上城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00006.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00007.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00008.jpg
(@オイラが尊敬する高山重友公の居城でもあり、播磨と淡路を結ぶ重要諸点でもあった
 船上城跡A船上城跡の説明板B船上城跡から見た淡路島と明石大橋)

>>339
ぬぉ〜っ、檄・久しぶりです、リー兄貴!!
と、雪降る道で自然ドリフト…死ぬと言うことですね、よくわかります( ^∀^)ゲラゲラ

てな冗談はさて置き、お元気そうで何よりですw
(オイラのほうは、肉体的にも精神的にもボロボロですが…orz)
リー兄貴が勧めてくれた千早城跡は登り応えのある山城でしたし、千早城跡に向かうまでの
道程は、運転していて楽しいドライビングコースでしたので、いつかはリー兄貴のジータ号と
オイラの愛車・サニ夫(320iなのでw)で激しく走り合いたいモノです!!

そうそうです、話は359度変わりますが〜リー兄貴のミクシィではありませんが、今更ながら
ツンデレっ子に夢中のオイラ…ちなみに『きまぐれオレンジ☆ロード』の鮎川まどかタソこそ
史上最強のツンデレキャラだと思っているオイラですw
342無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 23:45:05
稲葉山城?
>>336
去年風林火山ツアーってことで山城あちこち入ったら結構面白くなってきちゃって
今年もいくつか城見たけど近所でいけるところあるかなあと調べたらいてもタってもいられなくなったのですよ

>>337
味噌ですか? なんだろ。記憶にないな。
344タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/10/06(月) 02:21:18
というわけで、どういうわけか分かりませんが
土曜は武蔵国松山城と鉢形城に行ってきました。

松山城は空堀がすごい。あれはおかしい。普通あんなに深く掘らない。
落っこちたら普通に骨折りそうってくらい深い。
普通曲輪と曲輪の間って土橋で繋がってたりするけど全然そんなのはなくて。
普段は板橋を架けてたんだろうけど、今はそんなのはないから
曲輪を移動するには降りて登って降りて登ってで結構大変だった。
ああいう城は珍しいんじゃないかなあ。城マニアにはおすすめ。

写真は撮ってきたけど、あの空堀のすごさはちょっと表現しきれない感じ。
興味を持った人は自分の目で見ることをおすすめします。
近くに百穴っていう遺跡もあるんで行って損はないと思う。

でも雨の次の日とかはやめといたほうがいいと思う。
普通に登るんでも足元が悪くて厳しいところがいくつもあるから。
345タケノコ@/ ゚w゚ヽ萌え ◆KL7bg/mFCE :2008/10/06(月) 02:25:51
特徴的なのは、普通の城ならある、
曲輪のふちの土塁がまったくないこと。

これは私の推測だけど、これだけ深く堀を掘ったのだから、
わざわざ土塁を積むより攻撃重視でなにもなしにしたのではと。

土塁がない方が斜線通りやすいですからね。
というか、これだけ深いと長槍とかだけでもかなり守れそうな気もする。

写真は整理できたらいくらか貼ります。
346奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2008/10/06(月) 23:30:36
岐阜城ならここにいる誰よりも登った経験はあるだろうけどな。
347無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 21:13:28
゚m゚) mada?
348リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/11(土) 02:44:21
>>341
久方振りですね〜。

ソウルイーターのマカが可愛い、と思う今日この頃。


雪が降らない季節だと、国道310号線か309号線を延々と行くと、また楽しめるやも。

夜間は、走り屋も居ますしね。

( ^∀^)ゲラゲラ


マイカーでなく、マイチャリで、バトルしましょうかね?
( ^∀^)ゲラゲラ


鮎川まどかも良いですが、恭介の妹(眼鏡の方、くるみ?まなみ?)も捨てがたいwww




ってか、阪神…orz

リリーフ依存症&打撃不振が原因と、私は診断。


CSがあるさ〜。
349小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/12(日) 20:25:40
今回は秋の播州城跡巡りをポチッと紹介!!

播磨国は海と山の両方楽しめるので地方なので、前回の海の船上城跡とは違い
山の播磨を散策…で、今回向かった先は、羽柴秀吉公の播磨制圧戦で激しい
抵抗を見せた赤松氏の一族・宇野氏の居城であった長水城跡と支城の役割を
果たした篠ノ丸城跡&聖山城跡、それに長嘯子・木下“ペテロ”勝俊公が
築城し江戸時代には池田氏や本多氏が在藩した山崎藩の山崎城跡!!

○播磨・長水城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00012.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00013.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00014.jpg
Chttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00015.jpg
Dhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00016.jpg
(@長水城跡への登城口A長水城跡への案内板B秀吉公に徹底抗戦を貫いた
 長水城主・宇野下総守政頼公の慰霊碑C立派な石垣群D長水城跡から見た
 素晴らしい眺め)

○播磨・聖山城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00017.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00018.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00019.jpg
(@秀吉公が長水城を攻略する際の本陣とした聖山城跡の案内板A説明板
 B聖山城跡から見た長水山(長水城跡)…ここから秀吉公も指示を出したと
 思うと、なんとも嬉しい気持ちになってきますw)
350小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/12(日) 21:00:03
○播磨・山崎城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00020.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00021.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00022.jpg
(@本多氏の家紋と城跡碑A山崎城跡の説明板B山崎城跡の見事な石垣群)

○播磨・篠ノ丸城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00023.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00024.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00025.jpg
Chttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00026.jpg
(@篠ノ丸城跡碑A篠ノ丸城一族の鎮魂碑B案内板C篠ノ丸城跡からの眺め)

>>348
いやいや〜、リー兄貴が元気ならオイラは嬉しかぎりですよw
って、どさくさに紛れて恭介兄貴の妹・メガネっ娘の春日まなみタソを
リー兄貴に取られたので(こういった場合は取られた事になるのかなw)、
オイラはもう一人の妹・くるみタソを頂いておきましょうか( ^∀^)ゲラゲラ
(今更ながら『ハルヒ』と『らき☆すた』の動画を見ているダメ人間なオイラですが)

てな冗談はさて置き、自転車で勝負するのでしたらオイラが特別に改造した
スーパーママチャリ“サトム号”でガチンコ勝負してもイイですよ!!
(ちなみに勝負場所は黄泉の世界へ逝く覚悟も必要な夜の裏六甲でwww)

あと、我が阪神タイガースの話題はタブーと言うことで…orz
(今回の阪神の事を思うとホンマに涙が出てきますので つ∀T)
351リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/13(月) 02:24:44
城跡巡り、感服いたします。
m(_ _)m


いやいや、未だに『未来少年コナン』『ナウシカ』『ラピュタ』を見ては、涙ぐむ私よりは、良いのでは?
( ^∀^)ゲラゲラ


ママチャリなんですか?
ってか、チャリで『裏六甲』バトルってwww

で、大人の城巡りをしますか?
( ^∀^)ゲラゲラ


tabooですか…(^^;)

オリックスとの対戦を、望んでいたんですが、あっさり負けるとは…。
352小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/14(火) 21:09:30
オイラの場合、観光客の多い有名な城跡よりも誰も知らない“どマイナー”な城跡や
陣屋跡に浪漫を感じるので、↓の城跡はあまり知られていないかも知れませんが、
山崎の合戦で明智光秀公に組みした能勢氏の居城・地黄城跡(地黄陣屋)と
一向宗(本願寺)による摂津の最重要拠点・塚口城跡(塚口御坊)!!

○摂津・地黄城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00009.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00010.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00011.jpg
(@地黄城跡の案内板A地黄城跡の説明板B地黄城跡の見事な石垣群)

○摂津・塚口城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00027.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00028.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00029.jpg
(@塚口城跡の説明板A塚口城跡の案内板B古墳に囲まれた塚口城跡の見取図)

>>351
『千と千尋の神隠しで』涙が出てしまうオイラは、意外にロマンチストなんでしょうか?
(って、『エスパー魔美』を見て泣いているオイラのほうが数倍異常ですよw)

それはそうと、裏六甲でガチンコ下り勝負を繰り広げるならやはりブレーキ無しで…
てのは冗談ですが、一緒に大人の城巡りをするんでしたら、神戸の新開地or福原、
それか大坂のミナミで大人しか入れないシンデレラ城(竜宮城と言えるかなw)に
逝きましょうよ!!きっと忘れられない体験が出来そうですし( ^∀^)ゲラゲラ

話は元に戻りますが、リー兄貴のオススメの城跡がありましたら(前回の千早城跡のように)、
是非教えてください!!畿内で日帰りで行けるところなら行って来ますので!!
(大坂城や姫路城は何回も行っていますので却下って事でヨロシクですw)
353リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/14(火) 23:49:43
>>352
男は、ロマンチックでなければ。

(『歴史が好き』って時点で、ロマンチックなんでしょうかね?)


大人の城巡りは、金も要りますが、体力が無ければ巡れませんな。
( ^∀^)ゲラゲラ


堺市内に、小西行長屋敷跡、堺奉行所跡(碑だけですが)などがありますよ。
って、城跡では無いですね(汗)

堺市
・小谷城跡
・浅香山城跡
・家原(えばら)城跡
・豊田城跡
・栂山城跡
・野田城跡
・陶器城跡
・東村砦跡

と、かつて住んでた堺に、これだけ有るとは、思いませんでした。
( ^∀^)ゲラゲラ
354小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/16(木) 22:11:56
漫画『センゴク』を読んで行って来た宇佐山城跡!!
この城跡は比叡山攻めに当たって織田信長公の本拠地でもあったとされる城跡で
後に織田家の隠れた名将・森三左衛門可成公の居城になったとあります。
↓の画像はその宇佐山城跡と森可隆公・長可公・蘭丸公・坊丸公・力丸公・忠政公の
名武将達を生んだ森可成公と織田秀信公の母君・鈴姫の墓がある来迎寺!!

○近江・宇佐山城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00030.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00031.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00032.jpg
Chttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00033.jpg
(@宇佐山城跡の案内板A宇佐八幡宮B宇佐山城跡から見た比叡山脈C見事な石垣群)

○近江・来迎寺
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00034.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00035.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00036.jpg
Chttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00037.jpg
(@なかなか立派なお寺A説明板B名将・森三左衛門可成公のお墓…(-人-)ナムナム
 C織田信長公の孫である秀信公の母君・鈴姫のお墓…(-人-)ナムナム)

>>353
ロマンチックと言えば『ドラゴンボール』の“檄”名ED曲「ロマンチックをあげる」!!
これのブルマタソの可愛さは異常じゃないですよねw

と、リー兄貴!!一緒に大人の(男の?)城巡りに行くんでしたら、やはり不夜城・東京の
歌舞伎町か新宿2丁目に逝きましょうよ!!やっぱりオイラ達は関西だけで満足出来る器じゃ
ないッスよ!!これからは日本の中心・関東制覇を目指しましょうよ!!( ^∀^)ゲラゲラ
(お金はオイラが出しますので心配無用ッスw)

てな東京進出は冗談ですが、リー兄貴が紹介してくれた城跡&屋敷跡(たしか千利休の
屋敷跡もあったはずだったかな?)には近いうちに訪れますね!!
(レポをご期待下されw)

それはそうと、車のナンバープレートで堺ナンバーが出来ていたんですね?
ちなみにオイラは、昔まで和泉ナンバーが好きだったりするんですがw
355リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/17(金) 01:18:21
>>354
橋本潮さんですね。
ガキの頃は、あの歌に違和感を感じてましたが、後に、ブルマ(女の子)視点の歌なんだ、と思ったわけで。

確かに、可愛いかったですね。

そういえば、初期のDBって、エッチでしたね。
( ^∀^)ゲラゲラ



東京ww
仮に行くとしたら、秋葉とか秋葉とか秋葉とかw
関西弁を、喋りまくってやりましょう。
( ^∀^)ゲラゲラ



堺市に、千利休屋敷跡が有る様です。
(他にもまだ、ありますよ。リストアップしてます)
ちなみに、堺市は広いですよ。


堺ナンバー。
かつての『泉』ナンバーを思い出しますww
スカスカやんww

和泉ナンバー、良いですか?w

ちなみに『泉』が有るころ、『和泉』を『わいずみ』と読んでいました。
( ^∀^)ゲラゲラ
写真の整理してたらブレブレで泣けた
何やってんだ私は
357小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/19(日) 19:45:25
今日は天気も良く絶好の城跡巡り日和だったので、>>353でリー兄貴が勧めてくれた
小谷城跡と陶器城跡、それに千利休とオイラが二番目に尊敬するクリスチャン武将・
小西“アウグスティヌス”行長公の屋敷跡を激しく散策!!

と、小谷城跡は織田信長公の根来征伐の舞台とあり(位置的には根来征伐の最前戦に
なっていたとも思います)、陶器城跡は鎌倉時代に建てられた城で、後に小出氏が
幕末まで治めたとあります!!
両城跡とも市街地に埋もれた感じがしますが、なかなか見所のある城跡でしたw

○和泉・小谷城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00038.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00039.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00040.jpg
(@小谷城跡碑A小谷城跡の説明板B小谷城郷土館と立派な門構え)

○和泉・陶器城跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00041.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00042.jpg
(@陶器城跡の説明板A小出秀政公の三男・三尹公も関わったとされる陶器城跡の土壕)

○和泉・千利休屋敷跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00043.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00044.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00045.jpg
(@究極のわびさび世界・千利休屋敷跡A千利休屋敷跡の説明板B千利休屋敷跡の案内板)

○和泉・小西行長公屋敷跡
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00046.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00047.jpg
(@海の大将・小西“アウグスティヌス”行長公の屋敷跡碑A小西行長公の屋敷跡説明板)

あと↓はおまけになりますが、堺名物のチ●チン電車(路面電車)です( ^∀^)ゲラゲラ
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00048.jpg
http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00049.jpg
358小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/19(日) 20:12:44
>>355
上記でも書きましたがリー兄貴がピックアップしてくれた堺市の城跡と屋敷跡に
ドライブを兼ねて激しく散策してきました!!
と、リー兄貴は携帯からだと思うので城跡の画像は見れないかも知れませんが、
城跡好きにはたまらない場所でしたよw(またオススメの城跡があれば是非!!)

って、初期のドラゴンボールがエロかったのは、やはりエロ仙人…ではなくて、
亀頭仙人様が頑張っていたのが原因だと思います( ^∀^)ゲラゲラ
(なんせ“パフパフ”や“ギャルのパンチィー”てなセリフを連発していましたし、
 ブルマタソのノーパン姿を間近で見ていたりしていましたからねw)
とまぁ〜『ドラゴンボール』よりも『アラレちゃん』が好きだったオイラですが…

そうそうです、聖地・秋葉原に行くのでしたら是非とも“虎之穴城”を攻めに行きましょう!!
あそこに行けば、新旧の亜似目や漫画を攻略できると思いますので!!
(って、トラの穴であれば秋葉原に行かずとも大坂の日本橋にもあるのですがww)

あと、東京行くのであれば『こち亀』や『寅さん』の舞台・柴又帝釈天がある葛飾区に
行ってみたいオイラです!!(花の都東京で関西弁、めっさエエやんw)

最後に和泉=わいずみ…ネタですよね?いやっ、絶対にネタっすよね?(;´∀`)
359リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/20(月) 23:56:15
>>358
ご心配なく。
携帯からでも観れますよ。
(o^-')b

喜んでいただき、ありがとうでござる。
(´∀`)


>>357の電車は、阪堺線(はんかいせん)ですね。
未だに乗った事、無いですがww


DB>
『パンパン』もありましたねww

『ボケ』と『突っ込み』の会話をしながらの、散策もオツですなぁ。


ネタでなく、無知だったガキの頃は
『わいずみ』
と読んでましたよ。
( ^∀^)ゲラゲラ

その後は『泉』と区別する為に言ってます。
まぁ、最近は、ほとんど見掛けませんがねw
360小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/26(日) 21:05:48
>>356
デジカメでブレが起こる場合も想定して携帯にも画像を保存するのも良いかもしれませんねw

てなわけでずっと前に行った城跡で、オイラが三番目に尊敬するクリスチャン武将・内藤如安公の
居城であった八木城跡と陶器城跡と同じく小出氏が大きく関わった園部城跡、そして山崎の合戦の
舞台になった天王山と筒井順慶公の日和見で有名な洞ヶ峠の画像がpitaに残っていたので、
↓ポチッと紹介!!

○丹波・八木城跡
http://p.pita.st/?m=r6l0fkze

○丹波・園部城跡
http://p.pita.st/?m=zsuhwsyd

○天王山
http://p.pita.st/?m=azwop4al

○洞ヶ峠
http://p.pita.st/?m=mtprmov4

>>359
リー兄貴が紹介してくれた残りの城跡を今日にでも行きたかったのですが、生憎の雨模様だったので
行けませんでしたが、また晴れたら堺方面にドライブしに行ってきますねw

って、“パンパン”…こりゃ〜一歩間違えると“パイ●ン”になっちゃいますね( ^∀^)ゲラゲラ
(『ドラゴンボール』はフリーザ編までがネ申だったんで毎週見ていたんですが、それ以降は
 あまり記憶にないです)

そうそうです、リー兄貴にお誘いしたいんですが、ほの板に三戦大使館が新しく立っていたので
もし良かったら遊びに来てくれませんか?
ほの板であれば懐かしの漫画やアニメ、そして車関係の話が心おきなく出来ますので(もちエロ話もw)
是非とも来てもらいたいモノです!!(スレ検索してもらえればスグに分かると思いますw)

とまぁ〜オイラ自身、あまり参加出来ないかもしれませんが…orz
361無名武将@お腹せっぷく:2008/10/26(日) 21:49:03
ほのぼのの三戦大使館3.141592653589793238号
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/honobono/1223381576/
362リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/28(火) 23:51:36
>>360
晴れると良いですね。
(^-^)
ガソリンが安くなって来たので、ドライブも躊躇しなくなってきたりとかww


パ●パンってww

DBは、ジャンプでは、最後まで読みましたよ。
で、単行本も全巻、譲り受けましたが、処分しましたww

大使館が、復帰ですか。
お誘いとあらば、参りますよ〜。
熱く絡み・・語り合いましょう。
( ^∀^)ゲラゲラ


>>361
ありがとうございます!('◇')ゞ
363小魔玉  ◆..FLAT..J. :2008/10/29(水) 22:57:51
城跡巡りも楽しいですが、歴史に関係する場所や神社仏閣を巡るのも面白いので
今回は京都・亀岡市にある明智光秀公の首塚がある谷性寺と亀岡藩の藩主であった
形原松平氏の歴代藩主達の墓がある光忠寺の画像を↓に貼ります!!

○丹波・谷性寺
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00051.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00052.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00053.jpg
Chttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00054.jpg
(@明智光秀公ゆかりの里A谷性寺の門構えB谷性寺の説明板Cさぞや御無念で
 あったと推測される我らが明智光秀公の首塚…(-人-)ナムナム)

○丹波・光忠寺
@http://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00055.jpg
Ahttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00056.jpg
Bhttp://www9.uploader.jp/user/komadama/images/komadama_uljp00057.jpg
(@浄土宗・光忠寺の立派な門構えA光忠寺の説明板B亀岡藩の藩主であった
 形原松平氏の御廟所で中には入れなかったので外から合掌…(-人-)ナムナム)

>>362
数ヶ月前までハイオクが1g=195円までいっていましたが、現在は1g=155円くらい
まで下がってくれたので、確かにドライブしやすくなりましたw

と、よくよく思い出してみると昔の少年ジャンプって“かなり”エロい作品が
多かったですよね?たとえば『ぬ〜べ〜』とか『変態仮面』とか( ^∀^)ゲラゲラ

あと、リー兄貴のさっそくの参加に激しく感謝します!!
364リー兄弟 ◆3RR8Z3iWAE :2008/10/31(金) 07:14:27
>>363
ちなみに、金土日で、もっと安くなるセルフで入れてますよ。
(o^-')b


桂氏、北条氏、巻来氏、徳永氏の作品等もお忘れなく。
(あと、弓月氏、みやす氏、遠山氏、なかにし氏の作品もw)


いつ何時でも、馳せ参じる所存でござる。
( ^∀^)ゲラゲラ
365無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 16:30:14
月山富田城はいいわ
今度逆井城行ってきます
367無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 12:29:45
松山城
368無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:23:05
俺、湯築城目当てでついでに松山城行ったゎ。今年の春だけど。
369無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 15:51:10
首里城
370無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 01:53:36
兵庫県相生 感状山 城跡
建武年間に赤松氏の居城であったが、朝鮮僧 恵便・恵聡が隠れ住んだともいう。
と言っても恵便・恵聡の隠れ家は空海の修行場みたいにあちこちにあるので正直あてにならない。
麓は現在公園が整備され、晩秋は紅葉とかかし祭りで賑わう。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00444.jpg.html

山頂まで550mと運動不足な人でも膝が笑う前に十分下山できる。
最近は熊が出るらしいがなぜか少し登ったあたりに注意書きがあるのがちょっと意地悪だ。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00445.jpg.html

400mほどで大手門跡に到着する。
登城者に水を振舞うために作られたのか大井戸跡がある。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00446.jpg.html

山頂より。
朝日の方向に面しているので熊さえ出なければ早朝に登るのもいい。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00447.jpg.html
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00448.jpg.html

規模は小さいものの曲輪を繋ぐ道が荒れて判然としないので、たまに迷った気になる。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00449.jpg.html
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00450.jpg.htm

実は麓にある恵便・恵聡関連の方が絵になるという。
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00451.jpg.html
http://www6.uploader.jp/dl/tukau/tukau_uljp00452.jpg.html
371無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 02:08:54
ぬぅ、直リンにすべきだった。
あと、下から3番目がミスった。正しくはこれ
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00450.jpg
372無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 18:38:22
■たつの市新宮町 城山城跡

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00453.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00454.jpg
馬並み〜なのね〜♪と思わず口ずさむ城山(きのやま)城 馬立(またて)登山口。
嘉吉の乱で落城するまで赤松氏の城であり、その後戦国期に尼子氏がしばらく駐屯した。
出城などもある結構大きな城だが、出城はどちらかと言うと防衛上の施設というより、
川を使って搦手からの荷物のやり取りに使われていたように思う。
城門も搦手側寄りに設置されている。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00455.jpg
麓には古墳群があり、それを眺めながら登っていく。
赤松氏の城跡の麓には古墳が多い気がする。
城自体の歴史も奈良時代に始まっており、
古代から中世まで人の活動に向いた土地はあまり変わらなかったという事か。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00456.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00457.jpg
標高470mの山頂までの約2.2kmの道には、人の目を楽しませる物は少ない。
蛙岩・亀岩といった大岩があるくらいだ。
確かに伸び上がるガンタンクに見えなくも無い。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00458.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00461.jpg
城跡にある戦死者の墓がちょうど傾き始めた陽を浴びていた。
その場に立てば城の規模は感じ取れるが、被写体にはなりにくい。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00459.jpg
後で分かったことだが、城跡へは兵糧道ルートの方が近くて道も景色もよい。
山頂で電池を切らしたため滝や眺望が撮れなかったのが残念だ。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00462.jpg
車に戻り電池を交換して兵糧道入り口を撮ったが、
三時を過ぎていたため登り直すのは自重した。
また改めて来ることになるだろう。
373無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 20:26:03
■加古川市 赤松円心居館跡

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http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00464.jpg
地図では城山(じょやま)愛宕神社となっている。
小さな山なので山頂まで車で登ることが可能だ。
赤松円心は高田氏が鎌倉幕府に内通したため西条山城に拠って戦った、
というのがこの館に当たると思われる。
その後持ち主が変わり戦国期に落城している。
城になったり寺になったり神社になったり、経緯はよく分からない。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00465.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00466.jpg
建武年間に寺になったと言うが現在では味気ないコンクリート造りの神殿があるだけだ。
脇に置かれた鬼瓦もわりと新しく、往時を偲ぶような物は残っていない。

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山頂からは加古川が見下ろせる。
この川は景行天皇の后 稲日太郎媛の葬礼中、氾濫して遺体を飲み込んだという。
そう言えば姫路藩が治水を行ったものの不十分で度々氾濫した、と祖母が言っていたのを思い出した。

この方角の川向こうに常楽寺という寺があるのだが、加古川周辺には常楽寺が三つもあるなぁ、と
思っているうちに、文観大僧正の出身地がすぐ近くの日岡(氷丘)だという事に気付いた。
若き日に文観が学んだ寺なのだが、どの常楽寺も文観について黙殺しており今まで完全に失念していた。
一歳違いの赤松円心と文観は、ともに楠木正成と親しいというが、加古川つながりでもある。
建武年間が加古川の文化・経済の興隆期であったと思われる。

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麓には杣埼神社という社もあり、元々この山の神に木を伐る許しを請う神社だったようだ。
近くには今も林業者の倉庫がある。
374無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 20:33:10
三つの常楽寺

■加古川町 日岡御陵
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景行天皇の后、稲日太郎姫の墓とされ古墳時代前期からある。
ふもとの日岡神社は恐らく日本で最も由緒正しい安産の神社であろう。
常楽寺自体の由来などを記した立て札などはなかったが、少なくとも応仁の乱以前からあったようだ。
稲日太郎姫の遺体を飲み込んだ加古川の地は理趣経的な力を宿しているのだろうか?

■東神吉町 神吉城跡
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神吉(かんき)氏は赤松氏の子孫で一万石というから大名である。
神吉城は平城ながら広壮なものであったらしく、今の常楽寺は天守閣にあたる部分である。
戦国期の城主神吉頼定は千ないし二千の手勢で羽柴秀吉を圧倒するが、織田勢が三万に膨れ上がると裏切り者が出て落城した。
神吉氏の墓は墓地の一番奥の中央に立っている。

■高砂市 生石神社
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シーボルトも興味を持ってスケッチしたという石の宝殿という巨石を祀っている。
おうしこ神社と読むが、謂れほど歴史の浅い神社でもないらしく、大避の変化ではないかと思ったりもする。
羽柴秀吉は神吉頼定の弟が宮司を務めるこの神社を陣所にしようとして断られ、焼き討ちしたという。
神吉城攻めと結びつけて語られる事が多いが、地形的に見てこの事件は高砂攻めに関する出来事だと思われる。

関係ないが、生石神社を撮影中に宮司に駐車場の柵を閉ざされ、
遠くから拡声器で「神社に用の無い者は車を停めるな」と一方的に言い掛かりを付けられた事がある。
こういう時に焼き討ちしたくなるのだろうか。

■上荘町 常楽寺
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牛頭天王を日本に連れてきたという謎のインド人 法道仙人が開基という歴史の古い寺である。
ここも播州平定時に羽柴秀吉の焼き討ちにあっている。
秀吉から見て加古川上流(三木寄り)にあるこの寺は目障りだったのかも知れない。
375無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 00:09:22
寝ボケて間違いがあるので訂正する。

■高砂市 生石神社

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石の宝殿という巨石を祀っている神社。
江戸時代には全国的に有名でシーボルトの観光コースにも入っていた。
おうしこ神社と読むが、延喜式に記載されておらず播磨風土記の記述は矛盾があるなど謎が多い神社である。
おおしこのを=大己貴命だとも言うが、単に大避の変化ではないかと思ったりもする。
羽柴秀吉は神吉頼定の弟が宮司を務めるこの神社を陣所にしようとして断られ、焼き討ちした。

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雨天のためシーイングが悪いが、生石神社はやや西に寄るため神吉城は遠すぎてよく見えない。
高砂方面は海側にあるため当然視界は良好で加古川も見下ろせるため、
加古川経由で三木城に物資を送っていた梶原氏を監視するには都合が良いと思う。
神吉城攻めと結びつけて語られる事が多いが、この事件は高砂攻めの際に起きたとも考えられる。
梶原景行(正しくは景秀らしい)と織田信忠の動きを見る限り
神吉合戦の時点で加古川西岸は全く手付かずで、秀吉がここに陣取るのはやや危険に感じる。

■竜山 観濤處

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波を見る場所と書いて、かんとうしょ、と読む。
生石神社は由緒書によると崇神天皇の頃からあるそうなのだが、
崇神天皇は記紀にあるような紀元前の天皇ではないにせよ4世紀頃に実在したのではないかと言われたりする。
生石神社のやや東にある竜山古墳は4世紀ごろの古墳らしいので崇神天皇系列の豪族が埋葬されたのかも知れない。
生石神社の祭神 大己貴命と崇神天皇は古くから関わりがあるとされてきた。

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竜山は生石神社より東にあって標高があるぶん、物見に良さそうである。
山頂には詳細は不明だが搗き固められた館跡のような広場がある。
こうして見ると生石神社は低いが、山容はほぼ半球形で綺麗だ。

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ここに来る度に気になるのがこれ。どう解釈していいものか。
376無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 00:10:46
■觜崎 屏風岩

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觜崎のハシは橋の変化で、屏風岩を含む鶴觜山(御橋山)は大己貴命が作ったと言う。
屏風岩の上にある古宮天満宮の祭神もどうやら大己貴命のようだ。
大己貴命は多才な神だが石宝殿もそうであるように、石の加工技術にも関わりがあるらしい。
ただ、この方は「重荷を背負っての旅と大便我慢の旅、どっちがつらい?」かを競ったりする理解不能な一面もある。

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http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00503.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00504.jpg
橋はこの場合「はしご」を表すらしいが、確かに天にも繋がるようなイメージの場所がいくつかある。

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屏風岩には足利尊氏の時代に彫られた麿崖仏が残っている。
揖保川にちなんでイボ治しに験があるという。
関係ないがすぐ近くに素麺神社という楽しげな神社もあるが個人的には三輪素麺の方が好きだ。
もちろん三輪山も大己貴命に縁深い土地である。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00507.jpg
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ところでこの屏風岩と揖保川に挟まれた森、石垣はあるわ堀はあるわ、どう見ても館跡なのだが手掛かりがない。
誰か詳しい人が居ないだろうか?
堀は石垣が組まれており周囲は搗き固められている。
船着き場にしていたのだろうか。
所々に人の手で均された曲輪のような場所があり、館か作業場があったような感じがする。
現在は霊場巡り風に祠が林立しているが手入れされておらず、足場も悪い。
ただなんとなく懐かしいような気分になる空間で気に入っている。
377無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 00:12:26
■佐用郡 上月城

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西播十六万石を領した赤松政範の居城。
佐用はいくつもの川が交差する地で、上古から播磨と備前 美作を繋ぐ交通の要衝だったようだ。
たとえば、大己貴命の説話を並べると佐用から始まって時間とともに東に移動しているという。
西から新技術を持った何者かが佐用経由で近畿に入ってきたのでは?と言われている。

戦国期に入っても要地である事に変わりなく、先代 赤松政元は度重なる毛利の播州侵攻を退けてきた。
その後詳細は不明ながら毛利と和睦したが、秀吉の播州入りに際して迷った末に毛利に付き討伐を受けた。
この時点では東播の雄 別所氏が積極的に織田を支持しており秀吉の播州平定は順調に見えた。
史料によっては赤松政範の手勢は総数一万とも言うが、
実際には黒田官兵衛の先鋒三千に自由な作戦行動を許しているのでやや信じがたい。

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地図を見る限り、川と掘切を利用して防戦していたが秀吉の夜間渡河作戦が成功し水手を切られ、
南西から来た宇喜多勢の援軍を凌がれた時点で勝ち目は無くなったと思われる。
織田勢と宇喜多勢の激戦地には「戦」という地名が付いている。

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赤松政範は最後の賭けに搦め手から本陣を夜襲し火攻したが秀吉は朝まで持ち堪え、
失敗を悟ると赤松一族は全て自決した。
秀吉は降伏の使者を拒絶して攻め続け、
落城すると場内の兵を皆殺し、女子供を全て串刺し磔にして毛利国境に晒した。

その後、山中鹿介が上月守備に入ったが宇喜多直家と争奪を繰り返す内に
三木別所対策の方が切実な問題になったため秀吉に見捨てられた。
退却中の秀吉は熊見川で毛利に攻められ大敗したが、
このとき荒木村重は毛利の動きを傍観し敗因を作ったと言う。


上月城の支城はかなり多いので、他は気長にまとめるつもりでいる。
378無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 00:41:21
いつもありがとう
379無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 08:36:15
ゆっくり行ってみたいよな。
380無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 23:10:36
■本町 加古川城跡

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糟屋氏は1184年にここに加古川城を築いて以来の播磨の名家である。
城の敷地はほとんどが民家になっており、今の称名寺が本丸跡にあたる。
寺の敷地がかつての本丸そのものだとするなら、神吉城ほどの規模ではなかった事になる。

秀吉は佐用攻めの後、ここで播州国人衆を集め毛利攻めのための評定を開いたが、
毛利攻めの先鋒に決まっていた別所氏が突如離反し、赤松氏系の土着勢力が雪崩を打って毛利に付いた。
加古川城主の糟屋武則にしても織田勢一万余に城を借していなければどうだったか分からない。
この頃 糟屋武則の兄は別所氏に仕え、そのまま三木城入りしている。
別所の離反は加古川評定で機嫌を損ねたため、というのは俗説で、
実際には水面下で毛利の抱き込み工作が進んでいたともいう。
志方城の櫛橋氏と糟屋氏は相模以来の付き合いだったが敵味方に別れ、加古川城は織田の前線基地となる。

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墓地が敷地の大半を占め境内はさほど広くないが雰囲気がいい。
ここは銀杏のシーズンが一番映えるのだが今年は来るのが遅すぎた。

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南北朝時代、塩治高貞を高師直の追っ手から逃がすために討ち死にした配下七騎の塚がある。
厳密には加古川を渡って西の米田で一人一人時間を稼ぎつつ死んだという。
七騎塚は他にも県内数箇所にある。
381無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 20:05:25
■木村 石弾城跡

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加古川城からまっすぐ南下すると泊神社、石弾城跡である。
いしだん城と読むらしいが元々は石曳きだったような気もする。

1339年大井三樹宰という人が地頭になりこの城を築いた。
大井城が落ちた4年後の事で、信濃の大井氏と関わりがあるかも知れないが不明。
本願寺蓮如の母はこの家の出身らしい。

その子(養子?)雁南勇は赤松則尚に従って檀徳山城で敗れ鹿喰島まで同行して切腹、
その子の雁南長も長禄元年に山名宗全に攻められて討ち死にした。
長禄元年(1457)と言えば衰退していた赤松氏が再起の緒につく年で、非常に惜しかったといえる。
付近にやや幅のある泊川が流れる他は要害もない平城で、まとまった数相手に守りきれるとは到底思えない。
姻戚関係にある英賀三木氏や、ほど近くの加古川城主 糟屋氏は存続しているが、孤立無援だったのだろうか?

重箱の隅だが、雁南勇が当主になったのが1375年、長男の雁南長が当主になったのが1454年で、
1455年に勇が戦死と言うのは老黄忠どころの騒ぎではない。
加古川下流の雁南(がんなん、河南の意)庄にちなんで雁南氏を名乗ったのだが、
子の雁南長は付近の村名をとって木村源五郎と名乗ったのは山名宗全に地頭職を罷免されたのだろうか?
名が一文字で川の利権を握っているとなると渡辺綱の子孫などど妄想するが、
ぷらっと氏が見ていたら知恵を借して欲しい所だ。

ただ木村源五郎でググるとホモ漫画がヒットするのはいただけない。

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00517.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00518.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00519.jpg
ここは宮本伊織の出身地でもあり、小倉藩家老時代に荒れ果てているのを見かねて
多額の寄進をし、ほぼ全てを再建したという。
七五三などの参拝客をよく見かけるので現在は繁盛しているようだ。

伊織どころか武蔵本人が高砂市米田出身だと最近言われている。
しかも父の新免無二斎はそこそこリッチで長生きしており、黒田官兵衛に従って九州に渡った、
とか今更言われても正直途方に暮れる。
382無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 09:16:44
■太子町 壇特山城跡

太子町は名の通り聖徳太子の所領で、法隆寺に寄進されて以来仏教との繋がりが深い。
播磨鑑によるとここも宮本武蔵の生地らしいがそれは措く。

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壇特山(だんとくさん)の名はガンダーラの仏教説話に登場する山の名にちなんでいる。
大昔は雨乞いの儀式の地でもあり、城跡というより素朴な信仰の場という感じだ。
案内板には聖徳太子が馬を連れて登った、徳道上人が古狐を退治したなどのエピソードが紹介されていた。

山城を築いたのは嘉吉の乱以降 播磨奪還を狙って度々挙兵した赤松則尚らしい。
但馬から南下した山名宗全が坂本城に入ると先制攻撃したが、赤松勢はあっけなく崩れ兵が逃げたという。
この時、英賀の三木通武は留守城を預かっていたが敗戦後は山名氏に従い、後に山名氏も衰退したので結果的にこの付近を獲得した。
恋の浜(白浜)城主だった三木通武を英賀に移らせたのは山名宗全であるらしく、この辺ちょっと怪しい。

その後は戦国期に1532-1570年と三度に渡る斑鳩寺と大日寺の所領争いに壇特山の名が出てくる。
どの戦いも赤松・山名・尼子あたりが関与しており、この頃になると神も仏も無いといった感じになる。

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壇特山は四方から通じる登山道のどれを選ぶかで随分雰囲気が違う。
標高165mで道も良いため小高い公園のような扱いになっており、よく子供の遊び場になっている。
一応山の北西にある「東南」という字から東向きに登るのが追手口のようだが、
私はよく登山道をうっかり逆打ちするので今回も逆走している。

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寄り道しても30分足らずで山頂に着いてしまう。
遊歩道が整備されているからとは言え、守るぶんには平城と変わらない心許無さ。
頂上には南面して居館跡があるが石垣などもなく本来は構居なのだろう。
赤松則尚は無理して守らず備前まで落ち延びたが鹿喰島で力尽き自決している。

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帰り道で、ここよりはるかに堅牢な楯岩城を遠望できたが城主の赤松貞村とは嘉吉の乱以来の仇敵で入城できなかったのだろう。
ここまで城跡らしき構造が一切確認できず少々不安だったが、最後に追手門跡らしい立派な石垣があって安心する。
ただし赤松則尚の頃ではなく戦国期に組まれたように思う。
別のルートから登れば他にも何か発見があったかも知れない。
383無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 00:28:24
■太子町 太田城跡と楯岩城跡

建武年間に赤松則弘が太田城とそれに付帯して楯岩城を築城した、と思われるが良く分からない。
山頂とその西に遺構があり、どちらも「楯岩城」と呼ばれているが本来はどちらかが太田城だと思われる。
その後しばらく持ち主がなかったが、将軍 足利義教に男色によって重用された赤松貞村に与えられた。
嘉吉の乱で落ちたとも言うが、五代続いた後に織田勢によって落ちたとも言い、これも不明。
赤松満祐が嘉吉の乱を起こすに至った一因に播磨守護職を赤松貞村と交代させるという風説があり、真っ先に狙われた可能性はある。
赤松貞村自身は足利義教を見殺しにして逃げた上、報復戦でも見るべき働きが無かったと嘲笑を受けている。

1542年に長水城の宇野氏が赤松晴政側について攻めた広岡城がここに当たる、というのが正しいなら
尼子詮久の全盛期、龍野を制圧した時期に落ちたか寝返ったかしたのだろう。

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登山口から北にほぼ一直線の城なのだが、登山口の南にも遺構があり本来は南北に非常に長い城だったようだ。
大軍でも囲いきれない大きな山を選ぶのは赤松氏の築城の基本のようだが、
この山は傾斜が緩やかな分、堀切で敵の動きを制限しつつ中腹に壁を二重三重に作って防御力を高めていたようだ。

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そして出丸跡までくると何故か石棺墓がある。
赤松城と愛宕神社と古墳は大抵セットなのだが本丸手前にも再び石棺墓があり、城主は考古学マニアとしか思えない。
本丸手前は大石がゴロゴロしており登り口が分かりにくいが、これはどうやら崩壊した石垣らしい。
往時は恐らく高さ5m以上の石の壁が行く手を塞いでいるように見えただろう。

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平たい巨大な岩盤が露出しているところが本丸跡で、これだけでも立派だと思ったが、敷地は奥にも続いており予想外に広かった。
鉢形に加工された石があったが上にお堂でも乗っていたのだろうか?
この辺りには大山構と固有の名前が付いており、何か謂れがあるのかも知れない。

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さらに西の外れにもう一つの大きな城跡がある。
僅かな野面積みと土塁しか残っていないが、こちらも立派な作りだったと思われる。
今はカラスの憩いの場になっているようだが、ハトと違ってカラスは住処を糞まみれにしないのか綺麗なものだった。
草が枯れている内にもう一度武蔵松山城に行こうと思って…
前行った時は大手が分からないくらい色々生えてたから…
385無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 11:36:10
枯れ草に埋もれた城址ばかりなのも寂寥感でいっぱいになりますが、
夏は蚊に食われるのがイヤですな。
ガソリン代は現在底を打った感じで今後やや戻すと思うので、
車で出掛けるなら今がいいと思いますよ。
386無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 11:37:55
■書写 坂本城跡

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赤松円心以来の南播磨の経営拠点だった坂本城は足利尊氏や山名宗全などが入城した歴史的な古戦場でもある。
のだがあんまりな保存状態のため早々に退散。
平成14年にようやく史跡に指定されたと言うが、こんなに僅かな土塁の一部を残す意味が分からない。
山と川に挟まれた平城という意味では前出の神吉城に近い立地条件だが、規模は四倍という巨城だった。
いまやその偉容を偲ぶべくもない。

■書写 天神山城跡

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この付近にもう一つ、天神山城という城がある。
坂本城と入れ替わるように築城されたので、軍事拠点は移っても行政拠点として構居が欲しかったのだろう。
天文年間に赤松氏の傍流 大河内実泰が築城した、という話なのだが本当にこの山で合っているのかどうか。
一応手持ちの遺跡を記した地図では「天神山城跡」となっているが、それ以外全く情報が無い。
登り始めるとまず鉄塔に突き当たり、僅かに踏み跡が残る藪をたどると古墳がある。
表面にはつぶてほどの石が点在しており、古墳の上に構居が建っていたかも知れない。
さらに進むと歩きやすい尾根道になるが雑木林で眺望も悪いまま標高164mの頂上に達する。
頂上は人為的に均されていて、居館があったのは間違いないが案内板などはなかった。

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北側の麓にも人の手が入った痕跡があるが、いつの時代の物かは分からない。
登山道を示す目印の紐に沿って降りたのだが、周囲をフェンスで囲まれどこから帰っていいのか分からない状態。
遊歩道を作って眺望を良くするための軽い伐採をするだけで良い公園になりそうな気がするが、
この地域の自治体は書写山以外の史跡も大事にして欲しいと思ってしまった。

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天神山付近に見付けた身替地蔵。
最近こういう信仰対象にかわいさを持ち込むデザインを見かけるようになった。
どうか俺の身代わりに働いてください。
387無名武将@お腹せっぷく:2009/01/26(月) 00:53:25
■志方町 中道子山城

中道子(ちゅうどす)山城の歴史は、赤松円心の子の中で唯一南朝に属した氏範が麓に居館を構えた事に始まる。
赤松氏範は1383年に敗死して兄 則祐の家系が城に入り、これが孝橋氏の始まりなのだが、
その孝橋則繁も嘉吉の乱で将軍暗殺の首謀者の一人になり逃亡を重ねた末に自害した。
傍流の大河内満直が継承して赤松氏の南の備えとして浦上・尼子・三好などと戦ったが、
1555年の三好侵攻時には後ろ盾の細川・赤松氏が没落しており支えきれず、孝橋氏は佐用 浅瀬山城に落ち延びた。

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赤松円心の白旗山城と同じ設計思想と言ってもよく、
大軍でも囲みきれない山を選び、自軍は近隣から自由に補給を受けつつ敵の後方を遊撃する戦術を想定している。
篭城中の兵が生きた鯛を敵に見せ付けて、包囲しても無駄である事を誇示したという言い伝えがある。

羽柴秀吉の志方攻めの際に櫛橋勢が入ったという説もあるが、
三つの城に兵を分散させるだけの兵力と戦略があったか少々疑問。
この城にまつわる言い伝えと同じ内容の話が他の城にも残っており、伝聞が錯綜しているかも知れない。
また再建されているなら志方城よりはるかに篭城向きなこちらに籠もるべきだとも思う。

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現在は途中まで管理用の車道があるが、旧道はこの毘沙門天から九十九折りを登っていく。
この道に笹の葉を敷き詰めて寄せ手を滑らせようとして逆に火攻めを受けたと言うが、
真冬だったのでそんな事をしなくても落ち葉で十分歩きにくかった。
毘沙門天の上に突き出た岩が天然の見張り台のようになっていて、
南西に志方城方面を見下ろせるのだが城自体は山に隠れて見えない。
西には天神山城と、晴れていれば秀吉が陣を置いた高御位山がひときわ高く見える。

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今は城門跡に大師堂が建ち、三の丸跡は霊場巡りになっている。
また追手門跡はパラグライダー場になっているなど、雰囲気を損ねないように上手く公園化していると思う。
家が一軒建ちそうな広い米倉と今も枯れない井戸があり、兵員が足りていれば難攻不落だったと思われる。

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本丸から見下ろせば周囲は権現池など大小の池に囲まれ水利はかなり良く、その点でも白旗山城によく似ている。
権現と言えば愛宕権現(勝軍地蔵)で、恐らく赤松氏に由来する命名なのだろう。
388無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 07:43:48
■志方町 志方城跡

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赤松氏の忠臣、櫛橋氏の居城で現在は本丸跡に観音寺がある。
観音寺山城と記述されることもあるのは築山の上に本丸があったという意味だろうか。
櫛橋氏は古くは糟屋氏を名乗る事もあり、加古川城の糟屋氏と相当古くからの縁続きである。

志方地方は要害に乏しいためか、織田信雄の兵が来襲すると序盤からに積極的に野戦を挑んだが連敗した。
期待していた別所氏の援軍が来ず、神吉城が落ちると孤立する形になり城主 櫛橋伊定は城内の者の助命を条件に切腹、
黒田官兵衛の妻が櫛橋伊定の娘という縁により櫛橋氏は黒田家中で存続する。

■志方町 天神山城(赤羽城)跡

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志方城の北1kmにある標高わずか127mの愛宕山にある小城だが織田勢に取られるのを嫌ったのだろう、
過去に落城して放置されていたものを修復し戦いに臨み、おそらく志方城と同時に開城した。
山裾には神社が四つもあり、追手口にあたる天満宮は構居だったような雰囲気がある。
一番立派な志方八幡神社は1492年に櫛橋氏が志方城に移ると同時に余所から移築されているので、
かつては山の南側にも広がっていたであろう城の跡地が利用されたと思われる。

神社と城の境界には今でも形の崩れていない空掘や堀切が見られるが、水が出ないために長期戦には向かない。
登り道の途中に初代城主 赤松氏範の供養塔が建っていて、ここから急に道が悪くなる。
登山道の所々に大石が転がっているのは楯岩城のような石塁があった名残りだろうか?

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山が低いため普請し易かったのか山頂の城跡は相当広いが、雑木林になってしまっており正確な広さは実感しにくい。
ここに愛宕神社が建っていたとも言われる。
南寄りにある窪みにだけ雑草が密集していて、池の跡だとしたら井戸が湧かないこの城の生命線だったのだろう。
しかし夏になると水が悪かったのか疫病が蔓延し、櫛橋伊定は降伏を決意した。
秀吉が干殺しを思いついたのは志方攻めの時だったような気がする。
389無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 03:15:02
■ 上郡町 白旗山城

上郡町赤松は赤松円心の生地であり、新田勢六万を僅か二千で釘付けにして足利尊氏の勝利に貢献したことで知られる。
ただし感状山城にも全く同じ話が伝わっており、正誤や関連はよく分からない。
赤松円心の頃は防御施設としてあまり整備されていなかったとされ、普段は苔縄城で起居していたようだ。

白旗城はその後赤松氏の衰退と共に度々失陥しているが、1499年には宿老 浦上氏の家督争いの舞台になっている。
その後、主家を凌ぐ勢いの浦上氏を討伐しようとした赤松義村が逆襲を受け、赤松宗家は永久にこの城を追われた。
赤松氏は歴世 重要な戦に敗れ続けており、白旗城の勝利は円心個人の力量による所が大きいと思われる。

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麓の神社跡に供養塔が集められており、さらに奥には千手観音堂(恐らく廃寺跡)がある。
先には何も無いので順路に引き返して山の奥まで入り、搦手口らしい崩れた石段の前に出る。
ここまでは平坦な道だが、この先結構な坂道を約1.6km登ることになる。
石段は長く直線的で、登山者を上から見下ろせば格好の的に見えるだろう。

白旗城は平野部から遠いうえ起伏が複雑なため大軍でも包囲は難しく、
四方はほぼ川に囲まれているため、守る側にはどの方向から下山しても川を使って回り込める利点がある。
実際、新田勢が囲んだ時は川を利用した後方撹乱に悩まされたようだ。

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櫛橋丸跡と言っても兵士が雑魚寝する長屋が建つかという程度の広さだが、この下は急斜面で最後の防ぎ所になる。
ここまで登った実感としては櫛橋丸が抜かれると防御力は一気に落ちると思う。
1499年の戦いで落城寸前に追い込まれたというのはここに取り付かれたのかも、などと想像した。
その時は浦上軍の中核的存在だった宇喜多能家が味方を鼓舞して乗り切っている。
追手口である野桑方面から登れば本丸の横に出る事は可能だが、側面に伸びた付け曲輪の餌食にされそうだ。

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馬場丸という細長い区画は、馬場があったのか馬場則家が詰めていたのかよく分からない。
二の丸付近は地図で見るより広いのだが本丸自体はそれほどでもなく赤松宗家の本城だからと期待すると少々拍子抜けする。

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もう少し詳しく見たかったが道を間違えたせいでゆっくりも出来ない。
デジタルカメラの液晶を懐中電灯代わりにして下りるはめになった。
390無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 03:15:59
■苔縄城跡と五社八幡神社

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苔縄城は嘉吉の乱まで赤松氏の精神的な本拠地で、他にも付近に別邸を持っていた。
赤松円心の頃すでに坂本城が播州経営の拠点になっているため城下町としてさほど発展はせず、
城下ののどかな風景は案外今も昔もあまり変わらないかも知れない。
足利義満が幼少の頃に一時的に京が南朝に奪還され、避難のため一時ここに預けられたのだが、
それにあやかったのかどうか今は敷地の一部が幼稚園になっている。

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広場から西に小径を行くと五社八幡神社があり、二引両と左三つ巴があしらってある所に足利・赤松の繋がりの深さを感じる。
赤松氏と言えば愛宕神社なのだが、八幡神社を名乗っているのは義満を匿った故事があるからだと思われる。
と言っても城域に複数の神社がある例は別に珍しくはない。
八幡様以外の社は質素だが古めかしくてこちらも良い雰囲気だ。

■武祖神社

赤松氏はここから始まったと言ってもいい。
大塔宮の令旨に応じた赤松円心は、家祖 源季房が建てた武祖神社で戦勝を祈願し、苦戦しつつ六波羅探題軍を破った。
しかし派閥争いの巻き添えを食って播磨国守護職を奪われるなど、むしろ冷遇されたため京都を去った。
その後は尊氏に従い、軍事面に留まらず様々な助言を与える存在になるのだが、
離反した足利直冬追討のため兵を編成中に急死し、尊氏は観応の擾乱で窮地に立つ。

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元々は白旗城のふもとにあったものを移築したというが、今の境内も神域と言うに相応しい厳かな雰囲気がある。
こちらに二引両紋がないのは赤松氏の私的な祭祀の場だからだろう。

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円心といえば任侠の徒のようなイメージがあったのだが案外いい人っぽいではないか。
横のエイトちゃんのほうは、最近も抗ガン剤研究の基礎技術になる手柄を立てるなどなかなか活躍している。
391無名武将@お腹せっぷく:2009/03/29(日) 10:58:37
マンホール可愛いなw
392無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 07:03:56
■播磨の川と赤松の盛衰

播磨は瀬戸内海に面して東は摂津、西は備前に隣接しているが、
この二国と比べ大きな川が格段に多いという地理的特色がある。
この川によって内陸部であっても経済活動に支障が少なく、
赤松氏という播磨の外れの田舎者が大勢力にのし上がるからくりの一つになっている。
あまり話題にならないが円心の弟 円光に楠木正成の姉が嫁いでおり、
河内の水上交易を握っていたらしい楠木正成と同様の事を千種川流域でやっていた可能性は高いと思う。

播磨の主な川は西から順に、

千種川:北上すれば上月城を経て備前・美作内陸部へ、南下すれば赤穂へ。赤松氏の故地 白旗城などがある。
揖保川:南から龍野城、城山城、長水城がある。この川周辺までは赤松氏末期まで比較的影響力を保っていた。
夢前川:南から英賀城、坂本城、置塩城がある。嘉吉以後この川の掌握が困難になる。
市 川 :姫路城と、上流に山名領 生野銀山がある。1542年に開山して以後、市川の重要性が高まる。
   (銀山湖:http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00674.jpg
加古川:織田勢と対立した三木城とそれに呼応した多くの城がある。遡れば丹波まで行ける。
   (水分れ公園:http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00675.jpg
明石川:平野部に明石城と、上流に神戸ワイン城(えっ?)がある。江戸期以降に発展する。
   (神戸ワイン城:http://www.geocities.jp/mayu3gogo/wine.htm

川の位置関係が分かっていないと山陰の山名・尼子が播州平野に突如進出したり、
山間部の長水城 宇野氏が龍野赤松氏に加勢する感覚が掴みにくいかと思い、蛇足ながら説明を加えてみた。
播磨は川によって南北の交通の方が東西より数段迅速になるため、川一本ごとに防衛戦略を持つ必要があった。
播磨一国が統一されている間はこの欠点は目立たなかったが、嘉吉の乱後 播州国衆の統制が緩み、
再び掌握できないまま下克上の世を迎えると川一本ごとに複雑な利害関係が生じて
京・山陰・備前など周辺勢力の介入を許す形になり、夢前川以東に赤松宗家の威令が届かなくなっていった。

東播磨は赤松政則の再興以来 別所氏が押さえていたが、三好侵攻に屈した事で赤松氏の凋落は決定的になり、
逆に別所氏は赤松氏からやや離れ三好三人衆から戦国大名化のノウハウを盗んだ事で戦国末に急速に力をつけていく。
結局、播州国衆は別所氏の影響力が強い加古川流域では結束して織田勢を二年近く足止めしたものの、
それ以外の地域では城主が逃亡したり一ヶ月前後で落城したりと東西の連携がないまま各個撃破されていった。

江戸時代に入ると幕府は川に橋を架けるのを嫌ったため必然的に街道沿いは宿場として繁盛し、
源平から戦国にかけて逸話の多い播磨は江戸時代に定番だった観光名所が多い。


http://www.city.kakogawa.hyogo.jp/reiki/reiki_honbun/ak31200101.html
本文とほとんど関係ないが、加古川市章はこんなデザインである。
かっこの中に|||、かっこの中に川、かっこかわ、かっこがわ、かこがわ!バンザーイ!と言えなくもない。
393無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 07:05:13
過去に城跡と推測した屏風岩の情報を得たので報告。

■新宮町 觜崎(はつさき)城 (>>376)

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室町初期の築城で、屏風岩の上にあったようだ。
揖保川を挟んで城山城に近接しており、おそらく支城として機能していた。
觜崎則重の代に嘉吉の乱で城山城と共に山名氏に攻め落とされている。
山の西側は川沿いの断崖絶壁で屏風に例えられるが、他の三方から登れば普通の山城なのだ。
応仁の乱後、龍野赤松氏に従う上田興重が城主となった。

城山城はその後、龍野を制圧した尼子氏が駐屯するまで放置されているので、
長水城が不安定になるまでは龍野北辺の防衛戦力を縮小しても問題なかったのかも知れない。
川を利用して物資を運び込む構造は城山城も採用しており、
くだんの川沿いの館跡は集積所か侍屋敷だったように思う。

屏風岩は南西から見ると寝釈迦(寝仏)に見えるらしく、江戸期の駆け落ちの名所になっていた。
ここで親不孝を寝釈迦に詫びてから川を渡り新生活を始めたようだが、
そういった夫婦はおそらく租税が安い天領に逃げ込んだのだろう。
龍野藩は脇坂氏が入封するまで藩主が次々に代わって民治が安定せず、
特に京極氏は26万石から6万石に減封されて龍野に来ているので領民の負担は大きかったかも知れない。
京極氏は後に素麺処の龍野からうどん処の讃岐丸亀に転封されている。
その後に脇坂氏が入り様々な富国策で度々老中を出すほどの経済力をつけるに至り、庶民に慕われた。

■新宮町 柴摺構(弥二郎城)

http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00678.jpg
http://www6.uploader.jp/user/tukau/images/tukau_uljp00679.jpg
1218年(源頼家の頃)、赤松季則の孫 清則が越部庄地頭となり五代に渡って居城したという。
嘉吉の頃の觜崎則重の先祖にあたるのだろうか。
栗栖川に面した平城で、流れが現在と異なっていて正確な位置は分からないが佐野の辺りかと想像する。
揖保川と栗栖川の合流点にあって、ここを中継して城山城や觜崎城に物資を運び込んでいたように思う。

佐野は日本武尊の子孫、別君氏の所領だったとも言われる。
大己貴命説話の残る觜崎に崇神天皇系の氏族が所領を得たのは当時は何か意味があったかも知れない。
日本武尊の母は加古川 日岡御陵(>>374)で触れた播磨稲日大郎姫、
父の景行天皇は80人の子を作ったという女好きなのだが実在が疑問視されており、
ギリシャ神話のゼウスのように、傘下に入った諸豪族を皇族と関連付けるブリッジにされた気もする。
だが、そんなことより地図左上のロボットが気になって仕方ない。
394無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 07:06:53
過去に城跡と推測した観濤處の情報を得たので報告。

■竜山 魚崎(いほざき)構 (>>375)

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嘉吉の乱時の城主は和木田綱忠、
赤松政則の再興後は位田(いんでん。依田)長兵衛が入って志方城に属していたが、
秀吉の志方攻め前後に廃城されたようだ。
廃城時期は、ほど近い生石神社焼き討ちの頃が一番可能性が高いか。
当時の加古川は梶原氏、糟屋氏、神吉氏、別所氏の勢力圏が交錯しており、
魚崎構は加古川周辺勢力の見張り台として戦略的価値があったはずだ。

こういう嘉吉前後で旧勢力と入れ替わった土豪勢力は結構多いが、
応仁以降、彼らを上手く取り込んだ別所氏や三木氏が特に勢力を伸ばしたように思う。
395無名武将@お腹せっぷく:2009/05/01(金) 07:09:08
致命的なミスを放置していたので訂正。

■神野 西条山城 (>>373)

うっかり上郡の高田城(西条山城)と混同してしまっていた。
なぜ間違ったかと言うと付近に高田構があるからで、地図が頭に入っていない証拠です。
摂津 有馬氏と関わりがあるとも言われるが三好と組んだ東播侵攻時に獲得したのだろうか。

円心居館跡と言ってもそれらしい逸話などは残っていないのだが、
1336年に紫鳳山 法雲禅寺が建ったというのは興味深い。
赤松氏の菩提寺、上郡の金華山 法雲禅寺も同時期の1337年に建立されており、
建武以後、赤松一門が東播にも根を下ろす意図が見受けられる。
この付近には別所氏を始め、円心の出家した弟 円光を祖とする家がいくつか見られ、
もしかしたら円光にまつわる寺だったかも知れない。
今残っている愛宕神社は、嘉吉以降に別所氏が家祖ゆかりの地に建立したものかと思う。
円光については史料が乏しいため円心と同一人物という説もある。

山名氏の菩提寺も法雲寺だが報恩寺という禅寺を改称改宗したもので恐らく別系統だろう。

■神野 高田構

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別所氏に属したという以外ほとんど情報がない高田構。
現在は私有地で、構居跡らしき小高い所に農家が三軒暮らしているが三軒とも木下姓で、
話を聞けば木下家定と繋がりがあるような雰囲気だったが、何よりご主人が興味無さそうだった。
ご主人は高田構を「たかだ」と発音していたが、正しくは「こうでん」かも知れず、
だとすると上郡の高田氏とは全くの無関係かも知れない。
今あるお堂は城跡とは関係無く、江戸期の村の記念物を史跡であるここにまとめたものだそうだ。

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用水路の周りはかつて堀と石垣だった名残のようなものが漂っているが良く分からない。
ご主人、「掘ると何か出てくるかも知れません」と言っていたが、思いっきり耕してますがな。
396無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 07:10:09
保守
397無名武将@お腹せっぷく:2009/08/06(木) 15:46:00
ageんか馬鹿者
398無名武将@お腹せっぷく:2009/09/23(水) 17:14:18
>>395

最後の一文に泣いた
399無名武将@お腹せっぷく:2009/10/01(木) 23:24:22
■上郡 高田城(抜石山城・西条山城)

>>373で神野の西条山と混同してしまったが正しくはこちらが円心緒戦の舞台。
と言っても播磨・備前間の船坂峠で中国勢を下した戦いと高田城の戦いのどちらが先か判然としない。
白旗城の南東ほど近い抜石山(280m)の高田頼重は円心挙兵の際に幕府方に通じて討伐された。
円心は中国勢 迎撃のため南下して山野里(やまのさと)に兵を集結させたが、すぐ後背が高田城で、
おそらく円心が中国勢と交戦している隙を衝こうとしたが円心があっさり勝利したため孤立した。

高田城は鎌倉後期に高田祐長が築いた城で、彼は宇野氏に娘を嫁していたが、
宇野氏は円心の討幕軍の中核をなしており、高田頼重の勇み足に終わったようだ。
対して宇野氏はこれ以降200年近く赤松氏と浮沈を共にしていく事になる。
この戦いの後、高田には円心の長男 範資の孫が地頭として入り高田姓を名乗った。
高田頼重の娘婿は事情があって出家したといい、阿波に渡って子孫を残している。

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城の裏鬼門に位置する八幡神社からは登り口が見当たらず、林道を迂回して抜石山頂を目指す。
戦上手と言われる円心の三男 則祐は虚勢を使って高田勢を平野部に陽動し、
手薄になった城を北の鞍居(くらい)から山越えで衝く作戦を提案、短期決戦に導いた。
付近には小野豆・新山寺といった高地集落があるが、鞍居からはこれらを通過せずに高田城に辿り着ける。
山城でありながら奇襲を察知できないという致命的な弱点がある立地だったのだ。

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http://www.imagegateway.net/ph/OPA/aig/pCLDYZRFJ47sCNBM3603ks3kskXL010100933kskXLxCoLEr1c.jpg
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ブルドーザーが伐り開いた道の終点に辿り着いた時は削平地なのか開発の痕なのか判らなかったが、
散策してみると、どうやら既に本丸跡に立っていたらしい。
北東から南西へ緩やかに下っている山頂を使い切るよう階段状に曲輪が連なり、
最後に三石城のような大きな空堀で分断された出丸がある。
堀だとする資料もあるが片側にしか土橋がないので一応、空堀または庭と判断した。
すぐ近くに池があるので堀を作る必要性はそれほどないと思われる。

山の形そのままという傾向がある播磨の城には珍しい人工的な一城別郭構造で、
巨大な空堀で尾根を二つ以上の区画に分断する手法は備前や美作に比較的多い。
高田姓は旧吉備国に多く見られ、幕府方についた中国の緒将と血縁があったかも知れない。
400無名武将@お腹せっぷく:2009/10/02(金) 05:29:36
■上郡 新山寺村跡

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高田城周辺にはかつて10以上の高地集落があって、新山寺は城から西にやや外れた所にある。
百済の王子 温羅が住んでいたという備中 鬼ノ城(きのじょう)の南西にも新山寺という山岳寺院があり、
これも弱いながら高田氏が旧吉備国と繋がりがあったと考える材料のひとつなのだが、
恐らく、まず山岳寺院として開けていき、高田城の盛時には城下のようになったと考えている。

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新山寺池のほとりの大木にもたれている石仏は寺があった名残だろうか。
廃村は戦後の事らしく、まだ形が残っている畑の畝にはビニールが被せてあった。
かつてゴルフ場になる予定があったようで、却って迷うほど林道が四方に伸びていて散策には良いが、
もはやどこまでが村だったのか分からなくなってしまっている。

■上郡 ジャンジャン穴

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「げえっ、関羽!」とも言うべきジャンジャン穴は高田城の東、小野豆(おのず)集落にある。
城ではないが最後の砦と言うべきか。
小野豆の伝承では壇ノ浦に敗れた平経盛(敦盛の父)は落ち延びてこの穴に潜伏したという。
不用心にも残飯を川に流したり鶏の鳴き声を聞かれたりしたため経盛は追手に発見され自害した。
落ち武者が鶏を抱えて逃げ回るはずもなく、恐らく近村から得たものだろうが、
鶏は落城伝説にしばしば登場する小道具でもあり、何事かの隠喩かも知れない。
播磨は元々平氏の所領だった上に古戦場でもあり、落ち武者伝説に事欠かない。

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現在のジャンジャン穴は復元された物だが、恐らく横穴式墳墓だったと言われている。
横穴式墳墓は蓋の開閉が可能で、中には数世代に渡って先祖の亡骸を安置できる広さがある。
雪のかまくらのようなものをイメージすると分りやすい。
こういった山中の塚は落ち武者にとっては手頃な隠れ家になるだろう。

小野豆は赤松のすぐ南という位置関係から見て、
経盛を捕らえたのは赤松氏の祖 宇野則景である可能性が高い。
これを縁に梶原景時に接近し、播磨に重きをなす名族に成長する素地を作ったように思う。
反面、敗者である平氏に縁深い高田城付近には潜在的な反赤松感情が長く残った気がしている。
麓の平野部には則祐の城攻めを手伝った話が残っているが、高田城に近付くと何の逸話も残っていない。
401無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 05:37:56
■高野 尼子山(雨乞山)城

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永禄年間(1558-70)尼子将監義久?が入ったが1563年に毛利氏に攻められ落城、
その後は赤松氏年寄衆の一族と思われる富田采女が入ったが、秀吉の播州平定の際に再び落城した。
富田氏は安室川から千種川下流にかけて城をいくつか持っており、おそらく佐用氏に属していた。
他に那波山城で敗れた平経盛がここで義経に追い着かれ自害したという伝承が残っている。
さらに落ち延びて小野豆に逃れたとも言い、小野豆へは千種川を遡ればよいので地理的にはありそうな話だ。

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麓の戦前の屋敷跡のような所を過ぎると山の斜面に礫ほどの石が大量に転がっている。
周囲に土塁を廻らし礫石を積み上げていたと記す資料もあるが、登山道整備時に増量された気配もある。
九十九折りや見張り台のような岩場があって、どこか中道子山城に似ている、ここにも竹の皮逸話が残っている。
こちらは滑る敵兵に礫石を投げて戦果を拡大した上、火攻めの度に竜神が雨が降らせるなど優勢だったが、
攻めあぐねた毛利の陣に謎の老婆が現れ、佐方(さがた)川沿いの裏道を教えた事で落城に至ったという。
老婆が教えた道は平経盛が那波山城から落ち延びて来た道だろうか。

尼子氏は播州の一向宗門徒の継続的な支持を得ていたが、では佐方毛利党と高野尼子党という話だろうか?
この時期 毛利・尼子の攻防は山陰が主戦場で、浦上氏勢力を再び一本化した宗景は1563年に毛利と手を切り、
さらに龍野赤松氏が赤穂・相生に勢力伸張していた全盛期で、こんな所で毛利と尼子が争う時勢なのかどうか。

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伝承では、刎ねられた義久の首は「尼子将軍首塚」がある浜市(はまいち、千種川を挟んで2km南)まで飛んで行った。
その後は日照りになると尼子山の竜神に雨乞いするようになったが、佐方と高野は嫁のやり取りもしなくなった、と言う。
どうも八浜(はちはま)で戦死したのに相方(さがた)城の外れに首塚がある乙子城主 宇喜多基家の話が混じっていそうだ。
雨乞いに霊験あらたかな竜神が棲む山という素朴な話に次々尾鰭が付いていったのでは?

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麓の尼子神社の近くに尼子将監墓があるのだが墓碑には大永元(1521)とあり、義久は当然生まれてもいない。
さらに言えば尼子義久の職名は右衛門督だし、毛利輝元に捨扶持を貰って1610年まで生きている。
後に尼子元知が将監を名乗り、子孫が代々継承していくが関係あるのかどうか。
尼子神社はこの時 改築中だったが、秋祭に間に合わせるという話だったので今頃は完工しているだろう。

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釈然としない事ばかりの尼子城だが、山頂のお堂では予想だにしない二姓が並んでいた。
何がなんだかさっぱり分らないが、ここまで翻弄されると逆に気持ちが良い。
402無名武将@お腹せっぷく:2009/10/03(土) 10:38:16
このアップローダーは直リンできるけどURLが毎日変わるようです。
興味がある人はこっちから見て下さい。

PCでの閲覧はこちら
http://www.imagegateway.net/p?p=FWniDfMh8MW

携帯での閲覧はこちら(PCからでも閲覧可)
http://www.imagegateway.net/m?m=FWniDfMh8MW

正直アルバムサイトとしては重くて不便なので
PCでも携帯版で見た方がストレスにならないようです。
403無名武将@お腹せっぷく:2009/10/04(日) 00:09:03
■相生 那波(なわ)山城 (上ノ山城)

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1173年、平経盛が築いた平城でなだらかな丘の上にあって山城という程でもない。
現在は閑静な住宅地に囲まれた公園になっている。
現在の相生は干拓などで海岸線が南下しているが、当時はもう少し海が近かっただろう。
一ノ谷の戦いの戦い(1184)後に、源義経に攻め落とされたと伝わる。
経盛は壇ノ浦で入水したという他に、一度上陸して出家した後に入水というやや不自然な最期が伝わるが、
相生周辺の逸話を組合わせると那波、雨乞、更に逃れて小野豆で自害、と妙に敏捷な敗走ぶりを見せる。
佐方川に沿って西に行けば那波から雨乞山に出られるが、それには相生湾保持が絶対条件なので、
当地の伝承を信じるなら彼の死は一の谷直後の播磨掃討戦の際の出来事だったようだ。

守るに心許無い那波城を早々に放棄して光明山城と雨乞山城に分かれて防戦したと言う伝承もあるが、
源平合戦の時代にしては戦略規模が大きすぎて信憑性に乏しい。
加えて当時の雨乞山と光明山に城と言えるほどの物があったかどうかすら怪しく思う。
どうも建武の頃に那波山城と光明山城を支配した海老名氏の伝承が混入しているようだ。

攻めあぐねた義経の陣に謎の老婆が現れ、雨乞城に至る裏道を教えたために経盛は敗れたという。
また、許婚だった尼子城の侍女 真澄と光明山城の某がこの戦で夫婦になれず終いとなった、ともあり、
尼子城落城伝承の元ネタのひとつらしい事が分かる。
侍女だけ名前が残っているというのも、いかにも民間伝承らしい。

那波は建武年間に宇野氏に与えられてたが、その時期は和田氏を破った後の事と思われる。
和田範長は児島高徳の父で赤穂から相生にかけて地縁があったような気配がある。
その後の那波周辺は嘉吉前後を通して概ね宇野氏系の勢力圏にあった。
404無名武将@お腹せっぷく:2009/10/04(日) 00:25:47
今度のアップローダーは混雑するとシャットアウトする傾向があるようですが、
画像が約2ヶ月残るのでしばらくここを使う事にします。
しつこくクリックするか平日に落としてください。
405無名武将@お腹せっぷく:2009/10/06(火) 00:08:42
■相生市 大島城(那波城、浜御殿)

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現在は平野に突出した山城となっている大島城だが、
江戸中期に付近が干拓されて1710年に陸地と繋がるまでは那波浦に浮かぶ島だった。
1186年に海老名季能がこの地を実力支配して以降、太閤検地を嫌って尼崎に退去するまでの間、
海老名氏はほぼ一貫して那波を支配したためこの一帯を蝦江ともいう。
山頂の善光寺は海老名氏の菩提寺として今まで続いている古刹だ。

海老名氏は矢野荘と呼ばれるこの一帯の下司や地頭などを歴任しており、
円心に従った海老名景知は白旗篭城戦に加わったが、留守中に新田方の和田範長がこの城を焼き落とした。
すでに尊氏の大軍が播磨灘に迫っており、退却中の新田勢の後背にある港を潰すのが目的だろうか。
相生湾周辺はリアス式海岸で大軍が円滑に上陸できる場所は意外に少ないように思われる。
篭城戦で白旗城の支城となった感状山城は矢野荘の中にあって、
海老名氏はこちらに入ったと思われるが、だとしたら炎上する我が城を遠巻きに見る破目になったはずだ。

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児島高徳の父である事に遠慮してか古い説明文には「新田に与する者に焼かれ」と書かれていたが、
最近のものには「和田範長ニ火ヲ放タレ」とはっきり書いてあるのが面白い。
それはともかく、ここに消防殉職者の慰霊碑があるのは悪い冗談のような気もする。

その後、新田勢に合流しようとした和田範長を討ち取った宇野重氏が城主となった。
海老名氏は赤松氏の下で有力土豪として代を重ねていく事になる。
和田範長主従の最期は、項羽を思わせる壮絶な戦いとして太平記に描かれている。

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この城も嘉吉の乱で一旦落城したが、赤松政則の重臣 宇野政秀の子 則貞が城主に返り咲いた。
後に則貞は原因は不明ながら孫の村秀と関係が悪化して自害に追い込まれた。
那波浦は上から見ると「Ω」形をしていて、波穏やかで十分な水深のある良港なのだが、
坂越を支配した村秀に入り江を塞がれ交易を妨害された上に攻め込まれている。

村秀とは一般に龍野城主 赤松村秀を指すが、やや解釈に苦しい点があるため同名の別人説もある。
どちらにせよ那波は宇野氏の流れを汲む龍野赤松氏の支配下となり、子の政秀の代には赤穂にまで進出したが、
赤松宗家の先代 晴政の死を境に影響力が低下、浦上宗景が家中を再統一すると次第に劣勢になっていった。
406無名武将@お腹せっぷく:2009/10/07(水) 19:05:41
■三石城

三石城は1333年に伊東宣祐が築いたというが同年に円心の六波羅攻め序盤にあっさり抜かれ、
中国勢は却って円心に心服してしまい、六波羅攻めは後顧の憂いがなくなった。
その後、尊氏のために三石城を死守していた石橋和義を宮方の脇屋義助が攻めた。
脇屋義助は大軍が白旗城に足止めを食らっている事に痺れを切らし、兵を分ける事を提案。
備中と美作ではこれが奏功したものの肝心の播磨と備前を抜けなかった。
尊氏が上洛を早めた事もあって、新田勢は防衛線を構築できないまま摂津まで撤退する。

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守護代浦上氏の城として難攻不落を誇り、山名や尼子、時に主家の赤松氏まで退けた。
白旗城(>>389)に続き、ここでも宇喜多能家は優れた指導力を発揮して守城に貢献している。
1532年に兄弟の不和から浦上氏が分裂すると次第に使われなくなり廃城時期も不明。
この頃、龍野の赤松政秀が長駆 三石を攻めるようになり、拠点を下げたものと思われる。

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南から急な坂を登って見張台を経由するのが追手口なのだが、近年整備された遊歩道から登った。
三石は備前でも播磨との境に位置するが、湿度と下生えのせいで播磨の山城とは随分雰囲気が違う。
遊歩道を行くと三石特産品のろう石を露天掘りしている台山が見えてくる。
削平地と法面、犬走りで構成されるという構造自体は、山城もろう鉱山も大して変わらない。

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このルートでは三石城へは出丸の鶯丸から入る事になる。
三石の城山は山頂が広くなだらかなので、この出丸は敵軍の集結に適した足掛かりを潰す意味がある。
当時の石組みが残る追手門が目立つが、面白いのは門から直進すると城の脇を素通りしてしまう事だ。
この道は石塁と切り通しに囲まれた空堀の底のようになっていて、最後は崖に突き当たる。
逃げ場もなく左右から矢が降り注ぐのを想像すると西洋の刑殺具アイアンメイデンの中に居るような気分。
通路でもあり空堀でもあり、本城と鶯丸を分ける一城別郭構造でもある巧い設計だ。

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馬場が広いのも特徴で、長く張り出した三の丸と共に追手門を援護する付け曲輪を兼ねているようだ。
三の丸、二の丸、本丸と几帳面に段差が設けられていて、本丸には居館や門の基礎が今も形を残している。
播磨の諸城より遙かに豪華で手が込んでおり、城の構造からも赤松被官からの脱却が窺える。
407無名武将@お腹せっぷく:2009/10/11(日) 20:55:15
■坂越 茶臼山城と妙見寺

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千種川と播磨灘に挟まれた茶臼山は西播磨の監視に好適だったと思われる。
嘉吉の乱後、山名宗全はここに山城を築いてしばらく駐屯していた。
この前後に宗全は徹底した残党狩りを断行して播磨の完全掌握を目指すが、
国衆が離れたのか、応仁の乱に乗じた宇野政秀が播磨に入るとあっさり奪還されてしまう。
山名氏の播磨支配は26年続いたが、その痕跡は奇妙なほど今日に残っていない。

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1485年に僧衆一揆によって焼かれたと言うのは山城国一揆の余波が届いたのだろうか。
妙見寺の説明板には「近世社寺に珍しい懸け造り構造」とあるが、
要は中世の山城にはよくある構造で、放棄された曲輪を寺が再利用したようにも思える。
茶臼山城は今や妙見寺の霊場巡りになっていて、あまり城跡という感じはない。

太平記によると、児島高徳は「大避」神社と「妙見」寺があるここに匿われたと言う。
彼が秦氏系という説と考え合わせると何やら意味ありげで面白い。
戦闘中に落馬して気絶したため、ここ妙見寺に運び込まれ傷を癒したというのだが、
彼は後醍醐帝を間違った道で待ち伏せするなど、常にやる気が空回りしている印象がある。

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児島高徳は架空人物説の他に上野国に墓もあるが、
妙見寺では転戦の後、ここで一生を終えたという説を採っている。
和田範長はじめ児島党の墓は、早くから供養が絶えていたのか戦後になって発見された。
一応、系図を信じれば宇喜多氏を始め、備前に児島党の末裔は少なからず居たはずだが。
元々誰が建てたのか分からない児島高徳墓が現在のように立派なのは戦前の事情による。

よく吠える番犬が本堂に居たはずだが年々増える観光客に配慮してか今年は姿を見なかった。
彼はここに来た時は捨て犬で片目を失明していたが、縁を感じたご住職が拾ってやった。
尋ねはしなかったが縁と言うのは恐らく、負傷した児島高徳がここに来る前に父 範長が、
「古の平景政は片目を射抜かれてなお戦ったのにお前は何たる様だ」と窘めた逸話に思い到ったらしい。
父子が別れてほどなく児島党は阿弥陀ヶ宿で全滅し、これが今生の別れとなった。
408無名武将@お腹せっぷく:2009/10/12(月) 01:26:04
■坂越 坂越浦城と大避神社

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山名宗全は壇特山の戦い(1455年)の少し前に茶臼山城に隣接して坂越浦城を築いた。
おそらく茶臼山城に播磨-備前間の中継港としての価値を付加する狙いだったと思われる。
山名氏は播磨経営の拠点を海沿いの室津に置き、坂越浦城は言わば海を介した支城だった。
後に龍野の赤松村秀が那波港に対抗する商港として再整備を施した。
今は大避神社前の船岡公園に姿を変え、よく老人会や児童の遊び場になっている。

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大避神社は坂越に逃れて来た秦河勝の霊を祀るために里人が朝廷に依願して建立されたと言う。
河勝は死後、神仙になったとも様々な祟りを起したとも言い伝えられていて、祟り神と化したようだ。
神社に面した沿岸にある生島(いきしま)には河勝の墓があって、今も禁足地になっている。
九州遠征の頃に細川幽斎が面白がってこの島を見物したが、
その後なぜか歴代熊本藩主が参勤交代時に必ず参拝するようになった。

平氏没落後に坂越荘の地頭になった寺田氏は秦氏を称し大避神社の神主を兼ねた。
後に寺田法念が矢野荘で東寺と利権をかけて抗争し「悪党」として名を馳せるに到る。
その頃には坂越の地頭職は一門の飽間(あくま)泰継の一族に譲られていたが、
同時に彼が神職も相続したとすれば、あるいは彼こそ初代「あくましんk

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赤穂に数多い大避神社だが、司馬遼太郎のあの短編の舞台はここらしい。
そのせいでもないだろうが年々観光客が増えていて古い客には複雑な気分だ。
ここの宮司さん一家は昔から、客の撮影中は静かにフレームの外で待っていてくれる。

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境内は物見台のような場所があったり本殿裏に利用されていない盛土が続いていたりと、
どことなく元から神社では無かったような雰囲気がある。
もしかすると船岡公園は元々下の丸で、神社は余所から本丸跡に遷座して来たかも知れない。
妙見寺に通じる小道は空堀らしき溝を橋で渡るようになっている事も考慮して、
かつては茶臼山城と一体化した、城市と言うべき規模の城だったのではと想像している。
409無名武将@お腹せっぷく:2009/10/12(月) 01:27:08
ろだ変えました。
410無名武将@お腹せっぷく:2009/10/28(水) 20:12:54
■下土井 白石城

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矢野荘と坂越荘は、古くから矢野川を介して一つの経済ブロックだったようだ。
本姓秦氏を称した寺田氏は古くから矢野荘を開発してきた土豪で、
寺田法念の頃には坂越荘と矢野川流域を支配して、矢野荘内で海老名氏と抗争していた。
朝廷から寄進を受けて東寺勢力が矢野荘に入って来ると、これと敵対するようになり、
同じ境遇の海老名、飽間、浦上などの土豪勢力がこれに呼応した。
法念が当時、周辺土豪の盟主にのし上がっていた事が分かる。

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発端は土豪たちの既得権益を東寺が次々剥ぎ取っていった事への報復なのだが、
彼ら「悪党」の狼藉ぶりは実際に酷かったらしく、次第に民心を失っていった。
東寺僧衆が大避神社の裏に砦を築くと、付近の豪農の多くがこれに加わっている。
1319年、法念は秦氏を象徴する大避神社の眼前で東寺に敗れ去った。

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白石城は恐らく、この時の砦を拡張したもので現在の須賀神社に当たるようだ。
その後、寺田氏だけでなく東寺の横暴に対しても一揆衆がここに拠って抗っている。
西播磨各地を開発した秦氏はその所領に大避神社を建立し、氏祖 河勝を祀っていた。
それがいつしか里人の鎮守のようになっていたが、ついに寺田氏の手を離れたと言える。

法念との続柄は不明ながら寺田範長という男が、後に失地回復のため挙兵している。
尊氏が朝廷から離反した1335年の事で、新田勢に呼応した可能性が高い。
尊氏が短期間で再起を果たしたために、この戦いも不首尾に終わり、
その後範長は有名無実となった矢野荘の利権を放棄して記録から姿を消す。

その後、坂越の飽間光泰が叔父の範長から利権を譲渡されたと主張して
矢野荘に乗り込み、赤松氏を後ろ盾にのらりくらりと20年ほど居座り続けた。
不思議な事に、太平記では飽間光泰が赤松方として登場しているのに、
同時代に「都鄙名誉の悪党」として遙かに名を馳せた寺田氏は一切登場しない。
新田勢が白旗城を攻めあぐね児島党が落ち武者狩りに遭う間、彼らは何をしていたのか。

実は和田範長の従兄弟、和田範家こそ寺田法念(俗名 範家)ではないか、
と思わないでもないが、そこそこ筋が通るとは言え今のところ思いつきの域を出ない。
411無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 16:40:46
■那波南本町 丘ノ台城(那波浦城)

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大島城(>>05)の付城で宇野重氏の頃からあったかどうかは分からない。
本城が島にある以上、こういう付城は必要なので居館程度の物は古くからあっただろう。

両朝合体(1392年)後に赤松義則の女婿 田中館(たなかだて、後に越智)通則に与えられた。
田中館氏の詳細は不明だが、伊予の越智氏と繋がりがあったと見ていいだろう。
1579年に秀吉の攻撃を受けて落城、時の城主 越智為親は自決した。
この時すでに龍野の赤松広秀は降服、宇喜多直家も秀吉に内通しており解せない所だ。
当時、室津まで進出していた英賀三木氏と通じていたのだろうか。

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今は小高い公園になっていて、曲輪があったであろう辺りに図書館や歴史民俗資料館がある。
丘の頂には本丸らしき三つの削平地が連なっており、図書館の敷地も含めると案外広かったようだ。
削平地を囲む馬蹄形の盛土は土塁があった痕跡だろうか。
公園の南には大避神社があって、この辺りは昔「杓子(しゃくし)ノ鼻」と呼ばれる岬だった。
ここは年貢の集積所であったため、商港として巨万の富を生んだ。

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「明宿集」によると秦河勝が逃れてきたのは坂越ではなく尺師(しゃくし)ノ浦であるという。
境内には、河勝が能楽の祖である事にちなんで、観阿弥の言葉を刻んだ石碑が建っている。
赤松氏は早くから能楽に親しんでおり、足利義満を白旗城に迎えて「赤松囃子」を催して以来、
将軍家には毎年能興行を京都赤松邸で鑑賞するのが恒例になっていた。
観阿弥は楠木正成と、ついでに赤松氏とも類縁ではないかという説があり、
この辺りの事は吉川英治が小説に取り入れているが、系図の信憑性が問題視されている。

実は那波中学校の体育館こそ丘ノ台城跡だとも言うが、
カメラ持ってうろついていると通報されそうなので行っていない。
412無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 23:20:00
■那波南本町 あいおい白龍(ペーロン)城

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道の駅と海の駅を兼ねた休憩・購買施設。
丘ノ台城の南、昔から船着場であったであろう辺りにある。
各地の道の駅は地域振興を兼ねているため名称やデザインに個性が出るが、
白龍城の建物は相生ペーロン祭りをモチーフにしている。
相生ペーロン祭りの源流は大正に長崎出身者から伝わった、意外と歴史あるものだ。

 縄(那波)の浦に 塩焼く煙 夕されば 行き過ぎかねて 山に棚引く

江戸期から続いた干拓事業により、今は特に窮屈とも思わないが、
かつての那波浦の里人は山と海に囲まれた谷底に暮らしていた。
これは塩業の煙が山を越えられずに空を漂っている様子を詠んだもの。
陸路が不便なため人々は舟に親しみ、かえって瀬戸内海全域に足を伸ばしている。

 縄の浦ゆ 背向(そがい)に見ゆる 沖つ島 漕ぎ廻(み)る舟は 釣しすらしも

聖武天皇(701-756)の頃の歌人 山部赤人は伊予の道後温泉までの旅の途中、
那波浦に入り、はるか沖に出て漁をしている船を歌にしている。
この後自分も船で島伝いに瀬戸内海を横切ると思うと感慨深かったのだろう。

中世の播磨は意外と伊予との繋がりが深いようだ。
那波浦は万葉の頃からすでに海の駅だったように思う。
413無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 23:21:36
■落地 野磨駅家(源氏屋敷)

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発掘調査を終えて今は看板しかない野磨駅家(やまのうまや)。
大化2(646)年から続く駅家整備事業によって8世紀に山陽道沿いに作られた。
ちょうど看板の下の畦道の辺りを古代山陽道が通っていた。
8世紀と言えば元は独立国家だった吉備国が朝廷に取り込まれていく時期で、
落地(おろち)は当時の大和朝廷と吉備国の国境地帯と言える。
そのせいか、駅家設置当初は役人や荷駄が襲われるなど極端に治安が悪かった。

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野磨駅家は設置後わずか二、三十年で平地から山沿いに移転されており、
防壁が強化されている事から、吉備人の大規模な襲撃を受けた可能性がある。
駅家制度は8世紀末頃に軌道に乗り始め、11世紀まで機能していたようだ。

その後、野磨駅家は放棄されたようなのだが、地元では源氏の屋敷があったと言い伝えている。
「峰相記」には、備前境を支配していた安達太郎入道が1285年11月17日、山野里舘に火を放ち、
備前の八塔寺に逃れたが、河会郷の渋谷氏に捕らえられ処刑されたという記述がある。
1285年11月17日とは霜月騒動があった日で、安達宗景が本姓藤原氏でありながら
源氏を名乗った事で北条貞時に警戒され、この日を境に各地で一族が討たれるのだが、
「峰相記」をある程度信じれば、野磨駅家は当時 安達氏に下げ渡されていたようでもある。
山野里舘の候補地には、他に大坪遺跡、土井の内遺跡が考えられるが、
当地の伝承を取り入れて源氏屋敷=山野里(やまのさと)舘と仮定してみた。

八塔寺とは弓削道鏡開山の山岳寺院で、荒廃していたものを梶原景時が再興した。
その辺りに足立太郎入道が八塔寺を頼って行った理由があるかも知れない。

古くは播磨は吉備の属国のような扱いだったが、
落地周辺は特に影響が強かったようで大蛇にまつわる伝承がやけに多い。
素盞嗚命が退治した八岐大蛇の霊が円融天皇の頃に暴れ出し、
ほど近い高嶺神社に封じられているほか、秦河勝、空海、赤松満祐など
錚々たるメンバーによる大蛇退治が嘉吉の頃まで続いた。
有名なのは野磨駅家に泊まった僧を食おうとした大蛇が、法華経を聞いて僧に転生する話だが、
同時代に枕草子に「 野磨駅家でまた興味深い出来事があった」という意味の文があり、
平安の頃、落地は数奇な出来事が起こりやすい地であったらしい。
414無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 23:22:49
■山野里 天王山城

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天王山城は新田義貞の播磨攻めの際、赤松勢が防戦のために使用したという。
現在、城跡には高嶺神社があるが、これは川向こうにあった牛頭天王が遷座して来たもの。
八岐大蛇を封じた有明山から、そんなに簡単に遷っていいのだろうか。

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尊氏は九州落ちの最中に牛頭天王に捲土重来を祈願し、後に社殿と社領を寄進しており、
おそらく兵火を受けるなどして社殿を失い、天王山城に遷ってきたのだろう。
播磨の祇園社は将軍家や赤松氏に属して武士化するが、その素地はこの頃からある。

嘉吉の乱後、社寺に対する搾取が過酷と言われる山名氏が播磨守護となると、
播磨の社寺は当然懐かず、陰で赤松遺臣の再起を支援するようになる。
赤松再興の功臣 宇野政秀も彼らの庇護の下、主に播磨・備前に潜伏していた。

1455年、赤松則尚の壇特山挙兵に呼応して宇野政秀も山野里で蜂起した。
この頃、則尚が茶臼山城を襲撃したとする文献があるが、おそらく政秀の事だろう。
しかし則尚の本隊が一週間足らずで鎮圧されたため、政秀も備前に遁走して乱は終わる。
備前国境付近で行動していた政秀は無事に落ち延び、再び潜伏するが、
室津で山名勢の主力を相手にした則尚は敵の追及を振り切れず自害している。

赤松氏の播磨奪還はそれから更に12年を経ねばならなかったが、
守護職に返り咲いた赤松政則は社寺の所領を手厚く保護して彼らに報いた。

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天王山は古代山陽道と千種川が交わる交通の要衝にある。
新田勢が白旗城を攻めるにも三石城を攻めるにも、この城は放置できない。
中腹に高嶺神があり、山頂には駐車場と電波塔があって遺構は残っていない。
神社に到る古い参道には帯曲輪としか思えない広い削平地が見られる。
これらの事から高嶺神社は城の二の丸が再利用された事、
本丸はその後も物見台などに使われ、後に空地になった事が想像できる。
地理的にも歴史的にも、宇野政秀が挙兵したのは多分ここだと考えている。
415無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 23:24:46
■上郡 柏原城

千種川流域に点在する城跡の多くは、新田勢を阻む簡易防御陣地だったと言われている。
それらの多くは赤松氏の本拠地が揖保川流域に移った事で役目を終えた。
柏原城の詳細は不明だが、宇野支流に柏原氏がいて、彼らの持ち城を柏原城と呼ぶ例がある。
柏原氏は嘉吉の乱で山名氏に滅ぼされたので、その頃に廃城されたのかも知れない。

宇野氏から分かれた小寺為永が柏原姓を名乗ったと言うのだが、
柏原為永と言えば鎌倉初期の近江 柏原城主で宇野氏と同じ村上源氏。
1200年に討伐を受け、逃れた為永は山賊に身を落とした末に佐々木信綱に討たれた。
播磨の記録に柏原為永が現れるのが建保年間(1213-19)で、宇野氏が庇護した可能性がある。
宇野赤松氏の系図の混乱はこういった外様をいちいち支流に加えてきた事も一因なのだろう。
その子孫が再び佐々木源氏に滅ぼされたとすれば、これはもう逆縁と言うほかない。

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麓の墓地に犬走りのような跡を見付けたので、そこから登って行く。
意外と急斜面だったが標高わずか55mなのですぐに城跡に着く。
ここが二の丸だと思うが、等高線を引いたような細かい段差が設けられていて、
段曲輪という程の高低もなく、何のための加工なのか分からない。
戦中に監視所が設置されていたらしいので陸軍の仕業かとも思ったが、
山全体がこうなので、それだけとも思えない。

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本丸と思われる山頂側には長い削平地と追手道らしき溝がある。
さらに山頂に向かって段曲輪のような石組みが等間隔にあって、
空堀らしき窪みまであるので立派な本丸を期待したのだが何も無かった。
山頂に何かあるかも知れないが、日没が近いので車に戻る。

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帰りに使った追手道には石段があったようだが、
後世に山の水はけを良くする溝に利用されていたようで崩れてしまっている。
元の墓地に戻って来たが、墓地と城の石組みの年代が近そうな事や、
この山を経納山と呼ぶ事を考え併せると、山頂付近は城跡ではなく廃寺かも知れない。
何にせよ段差だらけの妙な山だった。
416無名武将@お腹せっぷく:2009/10/31(土) 23:26:41
■室津 室山城

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室津が戦史に現れるのは平氏討伐に向かった源行家が返り討ちに遭ったのが最初だろう。
その後、室四郎が築いた砦が室山城の前身だが、室朝兼の代に赤松円心に平定された。
新田義貞の播磨攻めの序盤に円心の長男 範資がここで迎え撃ったが、すぐに退却している。

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嘉吉の乱後は山名氏の播磨経営の拠点になり、宗全の孫 政豊が室津に入った。
山名氏は室津を重要視していたようで、播磨支配の後期になるが加茂神社に寄進している。
シーボルトが絶賛した加茂神社の景観は、山名氏を財源とするものかも知れない。
壇特山で挙兵した赤松則尚は真っ先にここを攻撃し、山名政豊は対処できずに篭城した。
赤松則尚の挙兵は将軍の了承を得たもので、事前に分かっていたはずなのだが。
いつの話かは分らないが、西にある赤松ヶ鼻という岬から赤松勢が室津を攻めたという伝承があり、
則尚は鳩ヶ峰-屋津坂という山越えルートを使って迂回奇襲した可能性がある。

壇特山を預かっていた三木通武は但馬より来着した宗全・教豊父子を相手によく守ったが、
山名父子が壇特山を放置して室津に向かうと、不利を悟った則尚は逃走、三木通武も自領に退却した。
>>382で書いた話と随分違うが、あれはどうやら「応仁記」にある坂元という地名を、
坂本城と誤解した事から出てきた軍記物作者の辻褄合わせらしい。

応仁の乱後、浦上則宗が城主となり、浦上氏の経済を支える一大商港となった。
浦上政宗の代に弟 宗景との不和から浦上宗家は分裂、政宗は国衆の心服を得られず衰退してゆき、
嫡子と黒田職隆の娘の婚礼の日に龍野の赤松政秀の襲撃を受け政宗父子は殺害された。
後に次男も暗殺されて政宗の家系は絶え、室津は三木氏の支配下に入っている。
ヤクザ映画を彷彿とさせる婚礼襲撃は龍野赤松氏の得意技のようで、他にも犠牲者がいる。

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本丸跡の立て札は、昔は「私有地だから無断で入ったら通報する」という内容だったような気がするが、
取り敢えず入っても良さそうなので、初めてここまで上がってきた。
二の丸公園と本丸の間の道路は切り通しになっていて、間道がそのまま利用されているようだ。
城の周囲を長い堀が囲んでいたというが、これも今は道路になっているような気がする。
417無名武将@お腹せっぷく:2009/11/06(金) 23:11:21
確かに体育館はまずいよなw
418無名武将@お腹せっぷく:2009/11/14(土) 22:31:34
今まで訪ねた城址の位置関係が分かるかと思い、今回は地図を使ったお話です。
二枚とも縮尺はほぼ同じで、1枚目の左に2枚目が南北に少しずれて繋がります。
誤字が一ヶ所ありますが俺の不注意はいつもの事なので大目に見て下さい。


■白旗城 攻防戦

尊氏は九州落ちの際、室津に入って円心と今後の戦略を練っている。
九州での再起を信じて中国の諸城が追手を食い止めるという雲を掴むような話だが、
播磨で敵を迎撃する円心は、当然その作戦を矢面に立って実行する事になる。

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1336年3月4日に播磨入りした新田先遣隊の江田行義と大館氏明(うじあきら)は
入国早々、加古川上流で今川頼貞とそれに従う広嶺貞長の抵抗を受け、
今川勢は後に但馬へ去るものの、広峰貞長は自らが大別当を務める広峯神社に篭城した。
太平記ではこの頃に江田・大舘が室津で赤松勢を破っているが、どうもそんな余裕は無い。
3月16日になって鵤荘楽々山で赤松勢を破っているので、この時期に義貞本体が合流したのだろう。
実際に室津を攻めたとすれば、時期はこれ以後が妥当なように思う。

楽々山とは立岡山(石蜘蛛城)とも2km北の笹山だとも言うが、一応 立岡山としておく。
立岡山がある揖東郡は平野ながら、その周囲を外郭のような山に囲まれ、
東から来る兵力差の小さい外敵を足止めするには丁度良い地勢のように思う。
坂本城から立岡山までは南に迂回しても13kmほどだが、実際 江田・大館勢は自重したようだ。
しかし一見対峙しているかに見える赤松勢は、実は折を見て逃げる腹積もりだった。

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赤松勢は緒戦に敗れたとは言え、石蜘蛛城の島津忠兼は健在なまま白旗城入りしており、
追った新田勢が侵攻経路を外れて瓜生城を攻めている辺り、どうやら陽動に引っ掛かった。
あるいは、最期まで大島城が放置されるなど、港の戦略価値を軽視していたようにも見える。
大島城さえ取れば兵站線は千種川沿いになるはずで、瓜生城攻撃は必須ではない。
陸路は急造された城が十面埋伏と言うべき状況にあり、伸びた兵站に打撃を与え続けた。
この戦いで義貞は白旗城から約25kmも後方の斑鳩(いかるが)寺付近に本陣を置いており、
後方に不安を抱えていた事や、戦意の低下が想像できる。

3月30日、ようやく白旗城攻撃が始まるが、戦闘は4月1、2、4、11、17日と間延びしていく。
白旗城が落ちないと見て備前・備中・美作に兵を分遣したしわ寄せもあるだろう。
円心には降服する素振りを見せて休戦に持ち込み、時間を稼いだという逸話があるが、
尊氏は既に4月の時点で九州を発っており、義貞が焦りに付け込まれるという事は十分ありそうだ。
結局、新田義貞は得る物無く5月18日に総退却するが、円心はそのまま上洛軍に加わっている。
3月下旬の時点で尊氏に援軍を催促した割には余力を残した勝利だったようだ。
419無名武将@お腹せっぷく:2009/11/14(土) 22:32:37
■太子町立岡 石蜘蛛城

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越前島津氏から忠行が下揖保荘と布施郷の地頭として播磨入りした時に築かれた。
系図には下揖保荘を母から相続したとあり、播磨とは以前から繋がりがあったようだ。

1315年頃には孫の忠藤が寺田法念に従って悪党働きをしていたが、
忠藤の子 忠兼が円心の六波羅攻めに加って以来、赤松氏に従うようになる。
西播磨の同時代人でありながら円心と法念が関わった形跡はないが、
寺田党から飽間・海老名などが円心に乗り換えており、敵対していたか乗っ取りに成功したようだ。
浦上氏だけは自立できる実力があったのか、1339年に入っても円心とは距離を置いている。

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新田義貞が播磨攻めの際に陣を置いたのがここらしい。
播磨の中央やや西のここが係争地になったという事から見て、
当時、播磨のほぼ西半分が円心傘下にあったと考えられる。
とは言え、斑鳩寺の坊主は新田義貞のために勝軍会を催すなどして迎合し、
義貞も大喜びで「褒美を出してやってくれ」と朝廷に上奏している。
この寺は後に秀吉相手にも同じ事をやった形跡がある。

立岡山は太子町によくある、平地から「ぽこっ」と突き出したような小山だ。
応神天皇がこの山に登って国見をしたため、古名を御立の阜とも言う。
この方は恐らく日本で最初の登山家で、あちこちの山を登頂している。
しかも鈴や蚊帳(熊除けとテント?)を持ち歩くなど装備にも抜かりがない。
白旗城や長水城をサンダル履きで登頂する俺などとはレベルが違う。

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標高わずか104mながら見晴らしがよく、麓の天満宮も含め雰囲気が良かった。
東に見える壇特山は北西が欠けたようになっていて、そこから山頂まで約20分だった記憶がある。
こうして見ると意外に立派な山容だが、傾斜が緩やかで攻め口には困らない印象だ。
三千以上の兵を動員できたであろう山名宗全が攻めあぐねるほどの山だろうか。
420無名武将@お腹せっぷく:2009/11/15(日) 08:32:11
■誉田町内山 内山城

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文治年間(1185-90)、東国から地頭として赴任して来た塩津義経が築城。
赤松則祐の信任が厚かったようで、1355年に足利直冬・山名時氏に京を追われた足利義詮が、
一時 塩津氏の領内にある阿宗神社を陣所にしていた。
内山城は>>418で名が出た笹山に囲まれていて、新田義貞の陣所はここだった可能性もある。
嘉吉の頃の城主 塩津義秀は和坂合戦で戦死、孫の義元の時に再興されたが、
旧領に戻っても城の再建はせずに大隅構に移ったようだ。

ここが内山城だと思うのだが、600年近い昔に放棄された城なので自信はない。
山頂付近まで続く段曲輪状の削平地や、池らしき窪みなどもあるのだが、
古民家か社寺の跡地に迷い込んでいるだけの可能性もある。

■誉田町広山 大隅構(阿宗神社)

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阿宗神社は元々岡ノ峯八幡と言い、欽明天皇の代(539-571)から立岡山頂に在ったらしい。
何か事情があって麓に下りていたが、1189年に塩津義経が領内に遷した。
立岡山の神事に関わるという事は島津氏の地頭代のような立場かも知れない。
延徳年間(1489-92)、塩津家再興を果たした義元はしばらく大隅構に居たが、
その後200m北西の塩津屋敷に移り、跡地に広山霊神社が建立されたという。
これらを総合すると阿宗神社の由緒からは抜け落ちているが、
1189年の遷座は内山城周辺へ遷ったのであり、ここに来たのは塩津氏再興後のようだ。

■誉田町広山 塩津屋敷

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元の敷地の一部だけが残って天満宮になっている。
塩津氏のその後は把握出来ないが、天正後期の宇喜多家臣に塩津氏が現れる。
龍野の赤松広秀は宇喜多直家の娘を妻にしており、その伝手を頼ったのかも知れない。
他にも龍野藩主 京極高豊の側室に塩津氏があり、子が多度津藩祖になっている。
その縁によって、他にも江戸期の京極領内に塩津姓の人物が散見される。
421無名武将@お腹せっぷく:2009/11/15(日) 08:33:58
■揖保上 岸ノ構

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現在は堤防があるが、当時は名の通り揖保川の岸辺にあっただろう。
石蜘蛛城は1534年に浦上政宗(?)の攻撃を受けて落城、一族は岸ノ構に逃れたという。
浦上政宗が龍野の赤松村秀と赤松範実(?)との不和に乗じたらしいのだが、
「播陽古城記」という、人名が他史料とほとんど一致しないテキストが出処なので詳細は不明。
赤松村秀の弟 中務が広岡家を嗣いだ直後に浦上氏に寝返っているが、彼が範実の正体だろうか。
ここで島津氏は一旦断絶したが、20年後に恐らく養子の新九郎が家督を継ぐ事が認められた。

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当時、龍野の赤松政秀は播磨で孤立しつつあり、赤松宗家が浦上・小寺と組んで攻勢をかけていた。
対抗して織田の援軍を播磨に引き入れて臨んだ青山合戦では黒田官兵衛の奇襲に遭って敗北、
この時、従軍していた島津新九郎も戦死し、遺児 義弘は帰農した。
彼の子孫は薩摩島津氏から礼遇されたと言うが、越前島津氏再興の折には黙殺されている。

■龍野町 四箇城(岸ノ構)

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四箇(よっか)城は永禄年間(1558-70)に円尾 佐衛門尉 祐武の居城だった。
円尾氏は円山氏の親族で、共に龍野赤松氏に属していた。
島津氏の岸ノ構から2kmと離れておらず紛らわしいが関連などは不明。
多度津にも四箇という地名があり、龍野の遺臣は少なからず讃岐に移った可能性がある。

■誉田町上沖 沖ノ構

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自分であれこれ書き込んでいる地図には上沖地区の外れに「?」と書かれている。
何のつもりで書き込んだか全く記憶にないが、恐らく沖ノ構の比定地と思われ…
この一帯は構居跡の上を地区境界線が走っている事が多く、区分けの目安にされたようだ。

永禄年間(1558-70)、円尾 右衛門太郎が居城、名前から見て円尾祐武の兄弟か。
1587年に円尾屋 孫右衛門 長村が武士を廃業して醤油醸造業を始め、
後にうすくち醤油が龍野の特産品となるが、彼は右衛門太郎の子かも知れない。
422無名武将@お腹せっぷく:2009/11/15(日) 08:34:59
■市場 梶山城

播磨は1392年に東西守護代による分割統治体制に入り、大規模な配置転換が行われた。
梶山城はこの年に赤松範資の家系 七条流教弘が築いた城の一つで、
嘉吉前後を通して教弘の家臣 肥塚頼房の一族が城主だったが、
1556年 祐忠の代に室津の浦上政宗に招かれて城を留守にした隙に
楯岩城の広岡五郎が襲撃し、広岡勢はさらに道中の祐忠を襲って自害に追い込んだ。

どうも肥塚祐忠は龍野と浦上政宗に両属のような立場だったようだ。
その後の梶山城には龍野赤松家臣 円山(まるやま)秀喜が入った事から見て、
この事件は龍野赤松氏の上意討ちの可能性が高い。
龍野の赤松広秀が秀吉に降服した後に廃城となった。

肥塚氏は熊谷直実の数代前に分かれて鎌倉期に播磨に入ってきた。
天文年間(1532-55)に書写山の摩尼殿上棟の際に檀那になったという記録が残っている。
但馬 岩崎にも肥塚氏が居たが、彼らは岩崎を「いわさい」、肥塚も「こいづか(小井塚)」と発音する。
梶山城の肥塚氏は早くに東国訛りを忘れたのか「こえづか」さんだったようだ。

広岡氏も赤松範資の後裔だが、山名氏に与して赤松分裂の原因を作ったひと癖ある家柄。
後に男子が絶えて龍野から赤松村秀の弟 中務が養子に入ったが、
その直後に浦上氏に付いて赤松宗家を蹴落とすのに一役買っている。
他に尼子詮久 侵攻時に尼子氏に付いた形跡があるのは>>383でも述べたが、
浦上政宗の衰退を見た広岡氏がまたもや寝返ったという事だろうか。

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梶山城は主郭に幾つかの帯曲輪が付いた単純かつ小規模な城で、戦える城ではない。
山頂には古墳がそののまま残っているなど、大規模な城郭などは元々無かったようだ。
南側に懸け造りの建物があったらしい跡があるが、多分これは猿田彦神社の物だろう。

■山王 下村構(山王山城)

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広岡氏は更に南へ勢力を伸ばし、天正(1573〜92)初期に下村構に家臣の姿清行を送り込んだが、
すでに秀吉の播磨平定事業の渦中にあり、楯岩城に家臣を集めて抗戦を選び、滅亡した。
結局、広岡氏は最後まで龍野と歩調を合わせなかった。
423無名武将@お腹せっぷく:2009/11/15(日) 08:36:56
■誉田町片吹 葛木山城

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揖保川下流域は龍野の赤松政秀と室津の浦上政宗が争奪を繰り返しており、
龍野に従う井上成陰の葛木城は永禄年間(1558-70)も浦上政宗に攻め落された。

のだが、文明年間(1469-87)の摂津 滝山城主も井上成陰で、少々長生きし過ぎている。
それはともかく、赤松氏は龍野周辺の土豪を摂津・美作遠征軍の主力にしており、
同じ頃に美作で塔尾城を預かった井上元辰も同族かも知れない。

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神社の本殿は恐らく二の丸にあたり、山頂に本丸があったようだ。
ここには何度か来ているが、前々から城址のような気がしていた。

■揖保町栄 栄ノ構

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永禄年間に浦上政宗の家老 花房靭負(ゆきえ)が居城していたと言う。
葛木城から1.5kmほどしか離れておらず、攻撃の指揮を執ったのは恐らく彼だろう。
花房氏と言えば宇喜多直家の宿将だが、元は赤松被官といい、花房靭負はその一派だろうか。
後に名士と付き合うようになった花房正幸は、意外にも教養人として通用してしまうが、
この頃すでに一族から家老を出すほどの家柄だったようだ。

浦上荘の栄ノ構付近は浦上氏の本貫地であったと言う。
彼らは地頭でこそ無かったが世に言う「悪党」として付近を実力支配していた。
浦上荘は建武年間に大徳寺と浦上為景が折半する事になったが、
為景は年貢の全額を横領しており、大徳寺住持の妙超が朝廷に泣き付いたのか、
朝廷の勧告を受けた挙句、1335年には長井貞頼と地頭職を交替させられている。
妙超は1337年に危篤となり翌年亡くなっているので、この件は有耶無耶になっただろう。

妙超は浦上氏出身とも円心の甥とも言われるが、どちらも確証はなく、
商売坊主としても遣り手の妙超を泣き寝入りさせている以上、縁は薄いように思える。
赤松円心は1319年に妙超に接近しているが、仮に妙超が浦上氏だとした場合、
寺田党の氏切り崩しか抱き込みの意図があったかも知れない。
424無名武将@お腹せっぷく:2009/11/16(月) 20:37:27
■揖保町 中陣(中臣)城

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現在は遺構と分かるものは残されていないようだ。
初期の城主は紀姓で、遅くとも14世紀前半には浦上氏の持ち城になっていた。
姓が紀にせよ浦上にせよ「掃部助」が続々と浦上荘から出ており、両者の関連が想像される。
応仁の頃には赤松「掃部助」則勝が入っていたが、あるいは彼も浦上氏の系類だろうか。
天文年間(1532-54)、英賀三木氏が攻め落しているが、
1514年以後、三木氏が揖保川下流の警護を担当していたという記録があり、
尼子侵攻か浦上政宗との抗争に関連する出来事だと思われる。

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戦史(?)を語るなら中陣(なかじん)城の歴史は神代まで遡る。
新羅の天日槍命が揖保川河口に現れ、大己貴命(ここでは葦原醜男)に土地を求めて拒否された。
天日槍命は剣で海水を掻き回し始め、警戒した大己貴命は粒丘(いひぼおか)に退き守りを固めた。
しかしこの方は基本ボケなので先回りしたにも関わらずあっさり内陸部に侵入されてしまい、
地形が変わるほどの戦闘の末、どちらが播磨に残るか占いで決め、天日槍命が但馬出石に去った。

剣が錆びないか心配だが、いつの間にか土地の割譲から放逐に話がすり替わっている。
彼はDVが原因で逃げた嫁を追って日本に来たのだが、垂仁天皇になぜ来たかと問われると、
「聖王がおられると聞き弟に国を譲って参りました」と言い出し、他の女に手を出して土着してしまう。
アドリブだけで世の中渡って行けると思うなよ。

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一応、中臣山が粒丘だとされるが標高30mの山の防御効果など微々たるもので、
大己貴命は呪術的な理由から揖保川と林田川の合流点にあるこの山を選んだはずだ。
中臣山には古墳が集中しており、古代は祭祀の場であったようだ。
中臣印達神社は中臣氏が射楯神を祀っていた神社で、印達とは射楯(五十猛命)の変化。
大己貴命も五十猛命も素戔嗚尊の子とされる事があり、両者は同一人物かも知れない。
紀氏には素戔嗚尊や大己貴命の末裔とする系図があり、新羅遠征に携わった事も考え併せると、
中陣城は紀氏の事績に相応しい説話を持った城と言えそうだ。

中臣氏と五十猛命は、どうも熊襲征伐あたりで繋がりそうだ。
鎌足以降の中臣氏は帰化した豪族の雑多な土地神を習合させる事で融和を図ったように見える。
西播磨の古代を考える上では中臣氏の一派に大辟氏がいるのも気になる。
425無名武将@お腹せっぷく:2009/11/17(火) 18:13:14
■袋尻 伝城(伝台山城)

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伝(つたい)城は鎌倉初期からあるようだが、
正慶年間(1332-34)には浦上氏の持ち城だった。
その後、観応の擾乱の最中に城主が西脇内匠頭に入れ替わっている。
1392年に七条教弘が入り、子(養子?)の教久は嘉吉の乱で討ち死に、
応仁以後に孫の政資が再興し、後に宗家を継ぐ義村が生まれている。

七条教弘は系図伝説上の人物と言われてしまうほど記録が少ない。
嘉吉の乱当時、美作に居たのかどうか滅亡から免れ、
摂津に現れて兵庫関で春日大社の社領を荒らして訴えられている。
宗家滅亡後の赤松遺臣は京や摂津・備前などに逃れたが、教弘も同様らしい。

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奉納額が建材にリサイクルされている加茂神社の裏から城に登る。
二の丸ではなさそうだが、中腹に本殿がある。

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伝城の碑文では教弘に攻め落とされたとするが、出処は恐らく自家系図。
その年の教弘は、遥か北の宍粟郡に岡城、美作には佐良山(さらやま)城を築いており、
おそらく明徳の乱の戦後処理に関わって多忙を極めていたはずだ。
加えて応永年間(1394ー1427)に、後の梶山城主 円山秀喜の先祖と思われる円山祐利が、
龍野の東に笠松城(別名 西脇城)を築いており、単なる領地替えにも見える。
ただし領地替えを拒んで教弘の実力行使を招いた可能性はあるだろう。

光源氏のモデルである宮廷人の具平親王が城主と言うのも分からない。
宇野赤松氏の祖とされる具平親王の子孫は美男美女が多く、
加えて高い教養も備えていたので、皇室や藤原摂関家から相当可愛がられていた。
彼の曾孫 源季房が佐用庄に土着したのが宇野赤松氏の始まりと言われるが、
季房にまつわる文献は何故か加古川流域に多く、西には伝承の域を出る物はない。
何らかの根拠が有るのなら城碑を建てた人に詳しく聞きたいくらいだ。
426無名武将@お腹せっぷく:2009/11/18(水) 19:45:21
■宍粟市一宮町 伊和神社

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創建144年とも564年とも伝わる古い神社で、大己貴命を祀っている。
七条教弘が明徳の乱の翌年に各地で城を築いている事はすでに述べたが、
同年に宍粟一宮(いちのみや)伊和神社が再建されており、教弘が関わったと思われる。
新田義貞が美作に派兵した際(1336年4月)、ここで尊氏 追討祈願を行い、
甲冑を奉納しているが、この時の兵火のためか焼損している。
新田勢が、なぜ美作への道を逸れて因幡街道を北上していたのかは謎。
江田行義が攻略した大別当城、菩提寺城へ向かう道から完全に外れている。

1558年頃の宍粟郡は政情不安だったようだが、長水城の宇野村頼が
1562年から足かけ6年かけて新社殿の造営を行っている所を見ると安定を見たようだ。

■御津町碇岩 伊和神社

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伊和神社という社号は播磨沿岸部には他には無さそうで、
伝城に移ってきた七条教弘が分社を建立したものと考えている。
神社の前に船着場を備えた池があり、現在は農道に二分されているが、
元々は一つの大きな池の中央に小島が浮いているような風情だったのだろう。
一宮でも池を作って市杵嶋姫(弁財天)を祀っており、本来はここも祭祀の場だと思われる。
赤穂の伊和比売神社も、元は八丁岩という島の上にあった物で、
伊和神社には本来、水上に祀られる姫神が必須であった形跡がある。
今はイスが持ち込まれて農家の休憩場所のようになっていた。

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正面に割り拝殿があったようだが、隅に木が生えるほど長い間再建されていない。
一宮でも社殿は小高い丘の上にあるが、こちらは結構険しい山肌に本殿がある。
この点は一宮を意識しておらず、本来は別の神が祀られていたか、或いはここも城址だろうか。
付近に「雛山付近の砦」という位置不明の砦があったはずだ。
山頂にまだ何かあるような気配もあるが、予定が詰まっていたので保留。
427無名武将@お腹せっぷく:2009/11/19(木) 19:23:13
■岡城(宮山城・深山城)

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伊和神社が祭祀している「三つの山」が描く三角形の中央に「一つの山」宮山がある。
宮山自身もほぼ三角錐の山容を持っており、伊和神社の御神体とされていた。
神々のトライフォース状態というか何というか、古い山岳信仰の名残なのだろう。

1392年、ここに七条教弘が城を築いたのが岡城(おかじろ)の始めと言うが、
何か城以外の物を作っていたような気がしないでもない。

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岡城より古くから在るという産霊神社から宮山に入る。
結構息切れする登山道の途中に石塁があって到着したかと錯覚するが先は長い。

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天文年間(1532-54)以後、岡 豊前守 吉政一族の居城だった。
秀吉は長水城攻撃にあたり支城を一つ残らず攻め潰しており、岡氏は城と運命を共にしたようだ。
赤穂にも代々「光」を通字とする岡豊前守家があり、岡吉政は傍流と考えられるが、
それにしては豊前守を名乗っていて、本家を主張しているようでもある。
本家は岡光顕の代に宇喜多直家に降ったとされ、宇喜多家臣にも岡豊前守がいるが、
実名に「光」を使っておらず、彼らはこちらの分家筋かも知れない。
本家は天正初期に浦上宗景に押され続けた上、小河秀春に交替しており、
この頃に断絶した可能性がある。


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岡城は主郭に少なくとも二つの曲輪群を組み合わせた物で、楯岩城に似た雰囲気がある。
だったら石塁の列があるだろうと藪に入ったら道に戻れなくなり、かなり東に出てきた。
まあ石塁らしきものは発見したが、ついでにちょっと不気味な横穴式墳墓まで見つけてきた。
428無名武将@お腹せっぷく:2009/11/20(金) 19:46:50
■揖保郡 香山構(備後屋敷)

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長水城の南12kmほどある香山(こうやま)氏の構居跡は、今は大歳神社になっている。
代々が備後守と飛騨守を交互に名乗った事にちなんで備後屋敷と呼ばれた。
職名を世襲する習慣自体は珍しくないが、交互に名乗っていくのは珍しい。
山頂に本城があったとされるが現時点で遺構は一切発見されていない。

香山氏自身は但馬の八木氏が源平の頃に香山庄を拝領したとしているが、
他に楠木正儀の子が還俗して山名氏に仕え、応仁の乱前後に香山を拝領した説、
和田正武の子が加賀に流れ、子孫が加賀半国守護 赤松政則と共に播磨入りした説が考えられる。
香山氏に関する各系図はそれぞれ全く噛み合わず、別々の家について記されているのかと思う程だ。
個人的には和田正武末裔説が最も矛盾が少ないように思うが、
香山氏には分家も多く、美作の江見氏のような複数氏族の集合体かも知れない。

一応、嘉吉の乱の和坂合戦において当主 秀光は戦死、1471年に子の秀氏が城を再建した。
当時は赤松宗家と龍野赤松氏の関係が良好で香山氏は当然これに従っていたが、
1538年に尼子詮久が龍野を制圧し、宗家の赤松晴政を淡路に走らせた。
この時期に宇野氏は宗家を捨てて尼子詮久に与したが、
龍野と宇野氏に挟まれた香山城も現実的な判断で宇野氏に従ったようだ。

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「夢幻物語」に官兵衛が生まれる前の1543年に父 職隆が香山重道を討つという話がある。
この本は考証が滅茶苦茶で、この記事も虚構だとされるが一考の余地があるように思う。
当時、復帰した赤松晴政が有力家臣を動員して尼子残党をしきりに討伐しているが、
宇野氏も一時的に帰参して晴政に助勢するなど大きな揺り返しがあったようだ。
この時に数ある香山分家の一つが尼子残党として討たれたものかも知れない。

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1580年4月、織田勢の先鋒 黒田官兵衛が長水城までの通過点にあたる香山構を攻め、
長水城からは宇野政祐が来援するも支えきれず、香山秀明は城に火を放って逃げた。
秀明はそのまま長水城にて戦死、子は香山庄で帰農して庄屋として明治まで続いた。
429無名武将@お腹せっぷく:2009/12/02(水) 19:42:27
■新宮町千本 鞍背城と千本構

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鞍背城は建武年間(1334-37)に小寺頼季が築いたとされる。
「姫路城史」では小寺氏は代々姫路城主となっているが、実は特に根拠がなく、
嘉吉以前の姫路周辺に小寺氏が勢力基盤を持っていたとも思えない。
個人的には小寺氏初期の居城は鞍背城ではないかと考えている。
嘉吉の乱で廃城となるが、後に麓に千本構が築かれ兼本左内が住んだという。
現在の須貴大神社がそれではないかと思う。

船曳氏文書に宇野氏と組んで千本表に派兵した能見祐清なる人物の記述がある。
能見とは、米田城(別名 熊見城)か篠ノ丸(別名 能見城)のどちらかを指していると思われ、
祐清とは最後の長水城主 宇野祐清の事だと考えられる。
千本表は米田城と香山城の中間にあり、この辺りが宇野氏 勢力圏の南限らしい。
ここに楠木正成の末裔という木南氏が移り住んだとも言い、香山氏との繋がりが想像できる。

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鞍背城がある城山の尾根に並走して車道があり、山頂付近まで直行できる。
最後の比高70m程は自分の足で登る事になるが登りやすい尾根道があった。
城域に入るとかつては石積だったと思われる石があちこちに転がっている。
井戸跡と思われる窪みの辺りに石が立てられていたが、これは供養塔かも知れない。
南北に長い主郭の東西に帯曲輪を配した構造のようだが藪でよく分らなかった。
こういう時はGPSがあったらと思う。

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行きは全く気付かなかったが尾根道が途中で分岐しており、帰り道で迷い込んだ。
日没が近いわ猟銃の発砲音が聞こえて来るわでイヤな汗をかいた。
時間が惜しいが山中で迷うよりはと思い、結局反対側の麓まで下りてきた。
こういう時はGPSがあったらと思う。
430無名武将@お腹せっぷく:2009/12/03(木) 20:02:25
         ++
■新宮町上助原 天神山城

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近年発見された城で文献情報は一切無く、名称はかつて山頂に天満宮があった事による。
  ++
上助原(かみあざわら)は龍野と宇野氏の勢力境界線辺りにあるが、
この地域の動向が分かるような史料は見当たらない。
全く無いわけではないが時期が不明な上、多分この城とは関係ないが、
                                     ++
能見祐清は千本表からの帰途に、春名甚左衛門 率いる助原衆に襲われたが撃退したという。
春名姓は美作発祥と言われ、西播磨にも少なからず流れ込んでいたようだ。
宇野氏は赤松宗家と美作の支配権をめぐって争っており、この出来事もその一環かも知れない。

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民家の裏から道なのか堅堀の底なのか良く分らない所を登っていく。
狭い尾根の上にある細長い城で、天満宮跡らしき祠の奥に主郭がある。
門と館があったであろう辺りだけがやや広く削平され、その間を土を均らした階段が繋いでいる。
もしかしたらこれが旧天満宮かも知れないがよく分らない。
さらに奥にある深さ1m程の堀切が唯一城址らしい遺構だが、それも無いよりマシという代物で、
この城が忘れ去られたのは高所にある、という以上の防御効果が得られないためだろう。
堀切の向こうも散策してみたが遺構は見当たらなかった。



巻き込まれ規制中のためUnicode文字が使えません。
あざわらの「あざ」は「草かんむりに助」です。
431無名武将@お腹せっぷく:2009/12/04(金) 23:30:59
■佐用郡南光町 米田城(熊見城、雲濃城)

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宇野為助が12世紀末頃に築き、宇野氏伸張の先駆けとなった。
それ以前の宇野氏は佐用荘の片隅に屈居してたが、以後は南に伸張していく。
為助の弟 則景は赤松氏の祖に当たるが、則景の五人の子は誰も宇野姓を継がず、
彼自身も山田姓を名乗ったとされ、どうも本来は為助の家系が嫡流のようだ。

長らく宇野氏の城として使用されたが、嘉吉以後は山名氏と争奪を繰り返した。
後に宇野氏は長水城に拠点を移し、1474年から代わって得平氏が入った。
徳平氏も古い家系で、分家も多いせいか尼子侵攻を契機に家督争いが持ち上がり、
赤松晴政の調整で1555年にようやく安定を得た。

天文から永禄にかけて得平祐清が城主だったようで、
宇野氏最後の当主 宇野祐清と同一人物とされるが確信は持てない。
一応、得平氏を尼子方に引き抜くため宇野氏が養子を送り込んだ可能性はある。
祐清は尼子衰退を見て1567年に逃亡したと言うが、記事の背景がよく分らず、
1566年9月の赤松政秀による佐用遠征の途上に蹴散らされたのが実情かも知れない。

米田城は秀吉の上月城攻略戦にも関係するが
城主は和田義昭であり、すでに得平氏の所有では無かったようだ。

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千種川と志文川に挟まれた小山だが北側は絶壁で、攻め口は南からになる。
山肌と千種川の間にある通路は犬走りのように見える。

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南側の斜面はなだらかで、全域が曲輪になっている事を考慮しても守りづらい。
無理に防ぐより近隣の城に逃げ込む方が話が早かったと思われる。
山頂は現在、法人所有となっているので撮影はせず、
南側斜面も大半が民家に飲み込まれていて、写真に困る城だった。
昔は寺だったらしい麓の神社の方が往時の面影を残していそうだ。
432無名武将@お腹せっぷく:2009/12/05(土) 03:05:57
■宍粟市山崎町 篠ノ丸(能見城)

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元弘(1331-34)の頃に釜内範春によって築かれ、
貞和年間(1345-50)宍粟郡神戸庄を拝領した赤松貞範が整備を施したと思われる。
宇野氏の西播磨守護代 就任とともに持ち城となり、山陰への備えを担った。
秀吉の播磨入り前は上月城の佐用氏が西播磨守護代だったが、
伝統的に宇野氏の世襲職であり、尼子氏に従った頃に剥奪されたのだろう。

天正始めには長水城主 宇野政頼の長男 満景がここを守っていたが、
彼は1574年に父の命で長水城に呼び出され謀殺されてしまう。
理由は閨閥の争いとも、家中の織田派・毛利派の対立の末とも言われるが不明。
この前年に宇野氏は安国寺恵瓊の暗躍によって織田とも毛利とも手切れになっており、
当初の計画では宇喜多直家が宇野氏を攻撃する事になっていたが、
直家は間もなく浦上宗景と戦端を開いたため実現しなかった。
宇野氏を足止めするため宇喜多直家が謀略を仕掛けた可能性がある。
後に長水城は内通者の手引きで落城するが、通敵したのは満景派の面々と言う。

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登山道がある八幡神社は千百七十五年と記された絵図面そのままを保っている。
本丸に続く九十九折りの途中には僅かながら石積みが残っていた。

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山頂は千畳敷・百畳敷と呼ばれる広い削平地が主郭をなし、
周囲に様々な形式の曲輪が張り出して小ぶりながら緻密な構造だ。
山奥に在り過ぎる長水城より重要な拠点だったのか、よく手入れされている。
1584年に黒田官兵衛が宍粟郡に所領を得たが、各地の遠征で留守にする事が多く、
現在の山崎の町並みは主に1587年に入封してきた木下勝俊によって整えられた。
433無名武将@お腹せっぷく:2009/12/06(日) 09:41:11
■宍粟市山崎町 長水山城 (広瀬城)

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文和年間(1352-56)に赤松則祐が築き、七条範資の子 広瀬師頼一族が拠った。
嘉吉に一旦落城したものの、長水城は但馬・因幡・美作に対する守りの要であるため、
長禄の変で活躍した宇野氏が再建して現在の規模に拡張していった。

宇野氏は長らく赤松氏を支えてきたが、尼子侵攻後は割拠を志向するようになる。
美作に定着さた尼子氏を後ろ楯に赤松宗家の置塩城を数次に渡って攻撃、
また美作 新免氏に養子を入れて美作から宗家の影響力を排除しようとした。
ここまでやっておきながら尼子義久 降服の翌年(1567年)には帰参している。

上月城陥落を静観した宇野氏だが、毛利輝元が上月城を奪取するとこれに与し、
秀吉に降っていた宗家の赤松則房に対し、再び討伐の兵を挙げる。
しかし同時期に水面下で宇喜多直家の寝返りが進行しており、
慎重になった輝元は宇野氏を見捨てる言動を繰り返し援軍を送らなかった。
三木開城によって体勢が整った秀吉は1580年4月から宇野氏討伐に乗り出し、
全ての支城を攻め潰して長水城を包囲、内通者が火を放ったために5月10日落城した。
宇野主従は北に向って落ち延びたが、千種川の畔で追い着かれ全員斬り死にしたという。

「黒田三藩分限帳」に宇野祐清の子 山崎基久なる名が記されている。
信用すれば宍粟郡を預かった黒田官兵衛が保護して取り立てたという事だろうか。

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信長公記には「宇野民部 六月五日 夜中退散」とあるが、
秀吉が5月中に鳥取城攻略に着手していたらしい記録もあり誤伝と思われる。
この記述から落城後もひと月近く山中を転戦したという伝説が生まれたが、
長水山に入れば、そう書きたくなる軍記作家の気持ちも少し分かる。
麓から1.5kmほど車で登り続けたが、これでようやく中腹辺りだ。

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山頂は現在お寺で、「人が生活している」が、どうやって生活しているかは謎。
まさか曲輪跡にある畑で自給自足ではないと思うが。
434無名武将@お腹せっぷく:2009/12/06(日) 09:42:29
 第二部 完


そしておまけ。
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435無名武将@お腹せっぷく:2010/01/03(日) 21:06:17
■新宮町善定 中山城

応仁の乱で浦上氏を中興した則宗は、晩年に自ら内訌の火種を撒いたような形になった。
則宗は赤松政則の死後に赤松義村を擁して専権を振るい、播磨の諸将の不興を買ったが、
1499年には庶流の浦上村国までが反則宗に回ったため家中の内訌に発展、
村国と合戦に及んだ則宗は備前境での野戦に敗れて白旗城に逃げ込んだ。
宇喜多能家の活躍(>>389)で篭城戦を乗り切ったが、則宗の代で事態を収拾できず、
両浦上の抗争は播磨国衆を巻き込んで長く尾を引く事になる。

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宇野政秀はこの時、一応は大義名分のある則宗を支持したようで、
則宗の要請により長水城の宇野越前守と共に中山城を攻め落としている。
この頃には政秀は播磨奪還の功績により赤松姓を許されているが、
嘉吉以前から宇野氏は有力な二つの系統が並立していたと思われる。
政秀は浦上氏に唯一対抗できる人物と目され、ともすれば宗家より人望があった。
この時期に則宗の与党が政秀に親しい赤松遠江守の所領を荒らす事件が起きているが、
苦情を持ち込まれた則宗は関係が悪化しないよう速やかに処置を取っている。

宇野氏はその後も浦上氏に従ったようだが、1531年の大物崩れ(両細川の乱)の際、
まず高国方の浦上村宗と共に出兵して別所氏を叩いた後、赤松晴政に呼応して晴元方に寝返り、
村宗を討ち死にに追い込むという離れ業を披露している。

浦上村国は不明な点が多いが、一説に中山城主だったという。
浦上庶流に則国、行国、国宗といった「国」を通字とする一族があり、村国もその一員かも知れない。
細川高国(1484-1531)からの偏諱だけとは思えず、高国 出生前にも死後にも「国」が居る。
後に国秀が幼少の浦上政宗を後見しているが、村宗の死後 村国派が巻き返したと想像している。

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中山城の詳細はほとんど分からず、案内板も「中山城跡の可能性もある」と頼りない。
戦前はここに中山寺があったといい、文明九(1477)年と刻まれた宝塔も残っている。
すぐ横を流れる川の名は札楽(ふだらく?)川で、たぶん廃寺だろうなぁという気分にさせてくれる。
一応、公民館を含めた三段曲輪に見えるが、少なくともこれが本城とは思えない。
436無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 02:08:38
■新宮町大屋 土塁跡

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中山城の東に長い土塁跡が残っている。
この辺りは他の三方を山に囲まれており、この土塁が蓋をする形になる。
赤松の城らしからぬ手の込みようで、やはり浦上氏の所領だったと実感できる。
と言っても、現在は土塁の上に畑や民家が並び、横から見ると堤防にしか見えない。
当時の高さ推定4mは良いとしても、全長600mの土塁など村人総出で守っても手薄になりそうだ。
実態は栗栖川の氾濫に備えた輪中集落だったような気がしないでもない。

■新宮町善定 松尾神社

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中山城から奥に行くと松尾神社があって、
見取り図でも分かるようにこちらの方がはるかに城址っぽい。
もしかすると中山寺と松尾神社をつなぐ山上に本城跡があるかも知れないが、
日没が近いので山には入らなかった。

松尾神社という社号は備前邑久郡に多く見られ、播磨とは別系統の秦氏の氏神だった。
ちょうど西播磨における大避神社の役割を担っていたと言える。
松尾神社は播磨には珍しく、邑久郡と何か繋がりがあったとも考えられる。

邑久郡には古くから浦上氏の所領があり、浦上宗景の末子 成宗が匿われた地でもある。
しかし邑久郡には宇喜多家臣 馬場氏の所領も点在している事を考えると、
それでもなお子を預けるに足る強固な繋がりがあったように思える。

私見では馬場氏の源流は浦上庶流か譜代の臣だと思う。
播磨にほとんど無い「馬場」という村名が浦上荘周辺に二ヶ所もある。
また浦上村国は因幡守を称したが、馬場姓にも因幡守を名乗る者がおり、
仮に、村国が赤松政則時代の奉行であった馬場 因幡守 則家の親族だとすれば、
播磨国衆寄りで、庶流ながら家を二分する権勢を持つ彼の立ち位置を説明できそうだ。
浦上氏は意外なほど史料不足で、まぁ言ったもん勝ち。
437無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 21:53:39
■龍野赤松氏のなりたち

宇野氏は早い時期から「長水系」と「那波系」に緩やかに分離していったと想像している。
仮に、重氏(>>405参照)の子とも言われる頼行以降を那波系と考えると、
山野里周辺から那波浦、揖保川河口まで交通の要衝を押さえた一大勢力が浮かび上がってくる。
宇野政秀の通称「石見殿」は恐らく、石見に在った塩屋城主の家系である事を示し、
彼が山野里で挙兵したのは地縁を活かしたもので、後に塩屋城を拝領した事は旧領の還付に見える。

頼行(源太郎 1329-83 父は宗頼、または重氏?)
   ↓
秀盛(小八郎 1355-1405)
   ↓
則盛(四郎/勘解由 応永(1394-1428)頃 塩屋城主) ≒ 下野(石見殿/播磨守護代? 則盛?)
   ↓    ↓                         ↓?
景則(上総) 景盛(下野)                 政秀(下野/石見殿/播磨守護代 1421?-1502)
   ↓    ↓?                          ↓?
景国(下野) 景氏                      則貞(中務 明応-文亀(1492-1504)頃 那波城主)
   ↓    ↓?                          ↓
景泰(丹波 「乱菊物語」 丹波守景恭?)                ↓?
   ↓                                村秀(二郎/下野 1480?-1540 龍野城主)
景純(下野/日向)                         ↓
   ↓?                           政秀(二郎/弥三郎/下野 1510?-70)
祐清(下野/下総 長水城主 宇野祐清?)             ↓            ↓
                                広秀(孫二郎 1562-1600) 貞秀(弥三郎)

この系図は那波系の血統を表しているが、ほとんどの人物が名前以上の事は分からない。
こうして見ると祐清は長水系ではなく、那波系から得平氏に養子として入った可能性がある。
嘉吉頃に宇野氏から則近が得平氏に養子入りしており、両者はごく親しい間柄にあった。
ちなみに長水系宇野氏も、実在の人物が系図に居場所が無いなど不明な点は多い。

宇野政秀が赤松姓を名乗る事を許された事で宇野氏は明確に二家に分かれ、
後に村秀が龍野城に入って以後は「龍野赤松氏」と呼ばれるようになる。
村秀は赤松政則の庶子とも言われ恐らくそれは正しいが、政則には男子がおらず、
「鬼瓦」と呼ばれた醜女の後妻 洞松院の妬みを恐れて政秀に託されたと言う。
こういった事情により、龍野赤松氏は赤松の藩屏を自認しながらも、
宗家と折り合いが悪いというジレンマを抱え続ける事になる。

美作奪還を担った宇野 中務 家貞は播磨 鷹巣城主であったと言い、
鷹巣城の比定地は高野須城、鳶ノ巣城、高田城(>>399)が挙げられるが、
高田城であれば応仁前後に宇野政秀の一族が拠っており、則貞との関係が想像される。
438無名武将@お腹せっぷく:2010/01/04(月) 21:54:59
■揖保郡太子町 矢田部構

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かつての矢田部構は今や宅地になってしまい、もはや撮るべき物は見当たらない。
嘉吉の頃に上田経常の居館だったと思われ、1455年に赤松則実が再建した。
位置的にも時期的にも壇特山の戦いに備えた築城だろう。
どうも彼が>>421で分からなかった「赤松範実」らしい。
矢田部構は本来、壇特山城(矢田部城?)の出城だったとも考えられ、
壇特山西端の尾根にある三宝皇神社、及び付近の墓地がその原型かも知れない。

生前の則実は美作 弓削庄を本貫とし、宇野・浦上から一目置かれる一方、
矢田部村の領有を巡ってか、龍野の赤松村秀とは反目していたようだ。
恐らく1534年頃までには子孫と思われる村虎の代になっていたが、
この年、浦上氏が両家の問題に介入して石蜘蛛城を包囲する事態に発展した。
龍野から石蜘蛛城の島津忠長に援軍が送られたが間に合わず、
忠長は渇きに耐えかね南の勝城に逃がれようとしたが、
朝日山の麓で追い着かれたのか戦闘になり、討ち死にしたという。

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実は龍野から石蜘蛛城までは平野で約5kmしか離れておらず、渇きで敗れたとは思えない。
また村虎の家臣 白国与次郎が戦後に赤松晴政から褒美を与えられるなど、
誰と誰の戦いなのかを含め、敵味方の色分けも良く分らない。
1532年に村秀に代わって子の政秀が龍野城に入ったという記録もあり、
村秀・則実双方が同時期に代替わりして龍野周辺は不安定な時期を迎えていたようだ。
養子で宗家を継いだ家系の晴政が、赤松政則の庶子とも言われる村秀を制肘した、
(浦上氏主導で晴政追認という形にしても)とも考えられる材料が幾つかあるが、
詳細を把握できる決定的な史料は多分存在しないのだろう。
この朝日山合戦には近在の将が多数関わっており、大戦だった気配がある。

「播陽古城記」では浦上勢の将を浦上景宗とするが、
政宗の子 景宗は時代が合わず、兄弟の不仲が表面化する前の宗景の事かも知れない。
当時 政宗は元服も済ませておらず、弟とされる宗景もそうであるはずだが、
二人は共に生年不明な上、政宗は弥四郎、宗景は弥二郎と名乗っている。
嫡子が四郎を名乗る習慣は珍しくないが、兄弟順や嫡庶に一考の余地が残る。
439無名武将@お腹せっぷく:2010/01/12(火) 21:31:36
■勝原区朝日谷 大日寺

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勝原(かつはら)という地名は、韓人 呉勝(くれのすぐり)が移住してきた名残りらしい。
この辺りには石見、石海など安曇族にまつわる地名も残っていて、
大和朝廷はこの辺りを海の民の移住先に充てていたようだ。
彼らと播磨に進出してきた出雲族との摩擦が天日槍命説話の真相という気もする。

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島津忠長が落ち延びようとした勝(すぐり)城は今の大日寺だという話もあるが、恐らく違う。
確かに参道を歩けば大小の削平地が並んでいるが、これは僧坊の跡だろう。
大日寺は法道仙人の開基という古刹で、盛時には三十坊を数える大寺院だった。
かつて法然(1133-1212)の弟子 信寂(?-1244)がここに居たとも言われ、
播磨にはこの頃に浄土宗に改めた寺もあるが、大日寺は社号が社号だけに今も真言宗だ。

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1532年には大日寺と斑鳩寺が福井庄と斑鳩荘の境にある壇特山で衝突しており、
双方合わせて百三十人の死者が出たという事は、千人近い兵が動員されていそうだ。
矢田部の農業用水は斑鳩荘が握っており、水利を巡る争議に僧衆一揆が結びついて
この騒動になったかとも考えるが、島津忠長や赤松則実が関与した可能性も十分に有り得る。
赤松政秀は城主になって早々これだったせいか、生涯あちこちの寺と浅く広く付き合っている。
朝日山は度々兵火に焼かれており、再建には政秀の支援があったと思われるが、
不公平感を与えない配慮なのかどうか、並行して斑鳩寺の再建も行っている。

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朝日山の東端に愛宕神社があり、どちらかと言えばこちらの方が城址らしい雰囲気がある。
公民館とグラウンド、社殿が曲輪のように配置されている他、社殿の裏にも削平地が続いている。
城とは限らないが、かつてはもっと大きな建物があったのだろう。
440無名武将@お腹せっぷく:2010/01/13(水) 18:44:29
■網干区宮内 魚吹津構(勝城)

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魚吹八幡神社の東隣にあった魚吹津(うすきつ)構、別名を勝城と言う。
朝日山から魚吹津構までは長らく吉川氏が支配した福井庄に含まれ、
古くは大日寺住職が魚吹八幡の神主を兼ねるなど繋がりが深かった。

嘉吉の乱ではこの辺りまで侵入してきた山名勢を高砂の杉岡烈滋が破っている。
間もなく烈滋が属する小松原氏が降伏したため、これ以上の戦闘は無かったが、
小松原氏は戦後に領地替えがあった程度で、特に咎めもなく存続する。
山名勢を率いた太田垣某は恐らく、後の播磨守護代 太田垣氏の者だろう。
嘉吉の乱において山名氏は海路 室津からも兵を進めており、
杉岡烈滋が破ったのは、この海から播磨入りした別働隊と思われる。

天文頃の城主 福井時家は島津忠長と共に朝日山で戦死したらしい。
忠長が赤松二郎(晴政)共々朝日山で討ち死にしたと書いた本もあるが、
赤松晴政は当然1565年まで存命なので、福井 二郎 時家と混同しているのだろう。
晴政は晩年に息子と反目するので「影武者 赤松晴政」でも構わないが、面白く無さそうだ。

福井氏の家紋は島津氏と同じ轡紋で、家紋の成立時期に疑問はあるが
両者が主従という説もあり、確かに島津没落に合わせ福井氏も衰退している。
後に福井庄に所領を得た黒田官兵衛の知遇を得たのか、福井氏は黒田家に従い福岡入りした。
同じような境遇の新免氏も轡紋を使った形跡があり、その出所が気になる所だ。

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最後の城主 合田助九郎は1580年、三木氏に従って織田勢に抗い、
魚吹八幡を含む周囲は焼き打ちに遭って門前町もろとも遺構も失われた。
戦とは言え、八人しか手下を連れていない助九郎を相手に少々大人気無い。
現在はかつての敷地の中央辺りにお堂が建っている。
441無名武将@お腹せっぷく:2010/01/14(木) 20:09:42
■美作市下町 竹山城

美作をめぐる山名・赤松の覇権争いは太平記の頃から続いており、
1470年代の東作は山名領国の切り崩しを狙う赤松氏の牙城になっていた。
赤松政則は伯耆守護 山名氏の家督争いに介入し、1481年には叩き出されているが、
その余波のような形で1480年に新免長重が山名方の粟井景盛に討たれ、
妻は子を連れ実父の宇野家貞を頼り、子の貞重は1493年に竹山城を築いて再起を果たす。

疑えばきりが無いが、新免家記の内容は近隣氏族の軍記を下敷きにした形跡があり、
たとえば落城→妻子が脱出→実家で成人した子が再興という話は三浦氏に同じ話がある。
他にも登場人物の名前を入れ替えれば赤松氏のそれと酷似した新免氏発祥説話や、
長水軍記にある宇野氏のそれとほぼ同じ最大版図など、気になる点は多い。

山名氏は応仁を境に急激に衰退するが1532年以降、代わって尼子氏が美作を席捲した。
新免宗貞は長水城には同調せずに抵抗するが、1554年には播磨へ追い落とされ、
赤松氏を頼っての奪還作戦も成果を挙げず、尼子氏の衰退によってようやく美作に帰還した。

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竹山城は吉野川沿いの平野部を見下ろし、讃甘(さのも)庄支配には絶好の立地だろう。
長水城風の山容自体が防御になっている城だが、車道を使えば苦もなく登頂できる。
やや離れた二つの頂に本丸・二の丸があり、その間を尾根曲輪で繋いで主郭を成している。
馬場と説明される尾根曲輪は現在、駐車場になるほどの幅があるが、
中央にあるはずの付け曲輪が均らされているなど、往時の姿そのままではなさそうだ。
他にも麓の墓地など曲輪跡だったらいいな、という場所が点在するが確信が持てない。

新免氏は宇喜多家臣として文禄・慶長を迎えたが宇喜多騒動で黒田長政に拾われたようだ。
手柄もなしに二千石を宛て行われた事から、新免氏キリシタン説もある。
すぐ隣の宍粟郡に有難迷惑な宣教師 官兵衛が居たので、そこそこ有りそうな話だ。
長政は親爺の後始末に追われる苦労人という一面を持っている。


※肝心の主郭が絵にならず、うっかり写真を捨ててしまったため、不本意ながら他人様のサイトを参照
  http://www17.big.or.jp/~father/shiro/sanin/sanin1.html
  http://www.fumikomasaru853.com/takeyama.html
442無名武将@お腹せっぷく:2010/01/17(日) 07:55:50
■美作市古町 小原山王山城

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英多郡 大原保は古くは小原と呼ばれていて紛らわしいが、
太平記には1361年7月、小原信明が拠る小原城が山名時氏に攻略されたとある。
明徳の乱に勝ちを収めて以後は赤松氏が美作から山名方を駆逐していくが、
嘉吉の乱で赤松氏は没落、戦後の行賞で大原保は北畠教具に与えられた。
赤松氏も滞納・横領を常習していたが、山名方の名主はさらに酷かったようで、
大原保に荘園を持つ金剛三昧院は「迷惑極まり無し」と、再三訴えている。

それが呼び水になったのか、壇特山の戦いの翌(1456)年に宇野家貞が大原保に乗り込み、
1460年には備前 新田庄に宇野上野入道が入部するなど赤松氏の巻き返しが始まった。
家貞は赤松政則が播磨奪還を全うした長亨2(1488)年から3年後に後嗣なく死んでいるが、
娘は無事に子を儲けているので、相次ぐ兵乱で男子が絶えたのかも知れない。
その結果、外孫 新免貞重が家貞の後継者として、美作の小赤松といった存在に成長していく。
小原城は貞重の有となったが二年後には竹山城を築いて拠点を移しており、
山名方の再攻勢に耐え切れず防衛線を下げた可能性がある。

1558年には赤松方の主力 豊福宗右衛門に大原保の半分が兵糧料として与えられ、
恐らく小原城は尼子方の草苅氏を防ぎ止める最前線になっていた。
豊福氏は他に粟井庄・大野荘にも縁があったようで、江戸期は粟井中村の庄屋に納まっているが、
どうも豊福氏は宇野家貞亡き後、美作における抑えの切り札として激戦地に投入され続けたようだ。

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麓の墓地が曲輪に見えるのを抜きにしても山の周囲を堀で囲んだ堅固な城だったらしい。
山王神社の裏から「ゝ」字形をした尾根に沿って曲輪群が形成されており、
折れ目の辺り、二の丸と本丸をつなぐ尾根には二重の大きな堀切が設けられていた。
島になった部分も丁寧に削平されており、恐らく廓を築いて防ぎ所にしていたように思う。
山頂の本丸は広壮な五段曲輪になっていて、今もほとんど崩れていない。
竹山城と同じく、ここでも尾根が広く削平されているが、小原城の場合は高田城にも構造が似ている。
一段ごとに十分な高さと傾斜があり、堀切を抜かれてもかなりの間持ち堪えるだろう。
「吉野郡第一城」と呼ばれる竹山城よりも登ってみて面白い城だった。
443無名武将@お腹せっぷく:2010/01/18(月) 19:54:32
■美作市川東 梅ヶ枝構付近を彷徨う

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小原城の尾根道が「ゝ」字形をしている事は分かっていたつもりだが、
帯曲輪を確認しながら下りるうち、まっすぐ反対側の麓まで下りて来た(またです)。
なんか、時間が止まったような光景が…

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この付近の梅ヶ枝に竹内(たけのうち)氏の館がある、と思っていたら一族の墓を発見した。
何の準備もしていなかったので構跡は発見できなかったが、次回の課題としたい。
問題は梅ヶ枝(梅ヶ坂?)という地名が手持ちのどの地図にも載っていない事だ。
土建屋が付近の山腹を掘削しているので最悪、梅ヶ枝構は消滅している可能性もある。

美作は産鉄地として有名で、梅ヶ枝(埋め替え?)という地名も製鉄に由来するものらしく、
小原城下には刀工 長船勝光も暮らしていたりと、意外なほど備前刀に縁深いようだ。
1489年頃、大原保に布陣していた赤松政則が、勝光と共に陣中打ちした刀を側近に与えている。
備前刀は赤松氏の特産品として当時 国内に留まらず中国にまで流通していた。

天正頃に梅ヶ枝構に住んだと言う竹内中務は竹内久盛の事だとも言うが、
古い時代の別人とも考えられ、新免宗貞(1507-58)が竹内半兵衛の姉を娶っているなど、
新免氏の勢力範囲が讃甘庄周辺に留まっていた頃から竹内氏がここに居た形跡がある。
であれば小原城主 宇野中務 家貞は、実は小原在住 竹内中務の転訛のような気もしてくる。
家貞は別本には宇野弾正とも書かれていて、弾正は古くから新免氏が使った職名。
どうも「小原城に昔、親戚筋が居た」程度の伝承から細部が装飾されていったようにも見えるのだ。

嘉吉の乱で山名方に付いた小原(小房?)城主 新免長重も弾正を名乗った。
彼は依藤豊房の首を手土産にしたのだが、依藤氏の所領があった宍粟では相当嫌われており、
尊大に振舞う長重が豊房の霊に足蹴にされるという伝説まで生まれた。
新免氏を語る時は大抵、彼が討ち死にして妻子が宇野家貞を頼る所から始まるので、
普通は赤松氏に殉じた忠臣のように錯覚しがちだ。

竹内久盛は久米郡垪和(はが)庄を中心に美作中部に根を張った土豪だが、
京で元服を迎えた公家だとか三木篭城に加わったとか、俄かに信じがたい経歴を持つ。
1579年に宇喜多勢に敗れており、竹内氏は新免家預かりになって梅ヶ枝に居たのかも知れない。
古武道 竹内流の元祖として一部に有名だが、元は剣術に凝っていたと言う。
久盛は恐らく子の久勝と事績が混同されており、竹内流の事実上の元祖は久勝だと考えるが、
少年期を小原城下に暮らせば、刀槍の術に興味を持つのもごく自然な事に思える。
444無名武将@お腹せっぷく:2010/01/19(火) 20:08:56
■美作市古町 山王神社

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小原城の麓にある山王神社は追手道を塞いでいるので、本来ここは門か構だったと考えられる。
南に竹山城を遠望できるが、その間の谷窪に吉野川と後山川が合流していて連絡はやや悪い。
西粟倉庄の支配には押さえておきたいが単体では負担になる、鶏肋的な城のように思う。
そのため大原保は30年に渡って後藤氏と赤松氏、草刈氏と新免氏の係争地であり続けた。
慢性的に小原城以北の備えが疎かなため、後に草苅氏の西粟倉庄 接収を許してしまうが、
東西両面から成る草苅氏の猛攻を凌ぎ切った事で、西粟倉庄は新免領として確定する。

赤松氏が大兵力を駐屯させていた頃の小原城下(古町)は殷賑な町だったようだが、
後に新免貞重が竹山城を築いた際に住民を移住させ竹山城下(下町)を形成した。
その後も江戸期に陣屋が置かれた事から見て、市街として一定の価値を保っていたようだ。

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特に変わった所のない神社だが、境内には平賀元義の歌碑が建っている。
平賀元義は岡山藩士だったが若くして隠居、さらに脱藩し国学と和歌に耽溺した。
脱藩が流行する一世代ほど前の話で、これだけでも相当に奇異な人物なのだが、
姓名号を次々と変え、酒と女と放浪に明け暮れ、黒住教という新興宗教に凝った。
1847年頃には大原村の知人の家に転がり込んでいたようで、そこでこの歌を詠んだ。

  美作や 大原山の 山つ芋 こきたくくひて 吾は肥にけり

大原で(「小汚なく」と屁を「こく」をかけている?)山ほど芋を喰ったので肥った…
何でわざわざこんな歌を石に刻むの?

1865年に学殖が認められて帰参することになったが卒中で路傍に倒れた。
この前年に徳川家茂が上洛するなど1865年は尊王攘夷運動のピークの年であり、
福岡藩の月形洗蔵などがそうであるように、西日本の大名は慌てて尊王論者を登用していた。
彼は生涯無名で、死後に正岡子規から「万葉以来唯一の歌人」と絶賛されて名が残ったが、
無頼という主題を生涯かけて全うした平賀元義にとっては死後の名声こそ蛇足だろう。

歌人・史家として数百の著作があり、播磨における平野庸脩に近いポジションにあるとも言えるが、
平野庸脩が理系的な人物であるのに対し、平賀元義はバリバリの文系という点が大きく異なる。
445無名武将@お腹せっぷく:2010/01/20(水) 19:22:12
■英田郡景石 景清神社(影石谷)

壇ノ浦で活躍した悪七兵衛景清は秀郷流だが俗に平姓で呼ばれる。
景清が頼朝の首を狙って潜伏していたという伝説は各地にあって、
彼の失明にまつわる話が多いが、各地で原型を留めないほど多様に派生しており、
景清を探して旅する娘が、暗がりから飛び出してきた黒猫の目を咄嗟に突き刺すが、
その正体は妙多羅天女で、祟りで失明して出家するという、良く分らない話まである。
猫の方は分からないが、娘の出現は中将姫伝説が混入した結果かも知れない。
中将姫は藤原南家 豊成の娘で、隠遁した父を訪ねて旅した後に出家するのだが、
伯耆に景清と中将姫を祀る大伝寺があり、この辺りで伝説が変形したと想像している。

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源平合戦に詳しい人でも初耳だろうが、景清神社は景清の出生地らしい。
と言っても伊勢から京にかけて活躍した藤原忠清の子が実際に美作生まれとは考えにくい。
実は西北條郡古川にも「景清屋敷」があり、因幡からきた「藤原景清」が住んでいたと言う。
どうも足利義詮と同年に死んだ彼と平景清が混同されて美作独自の伝説を形成していったらしい。
美作には百年程度の誤差は気にしない大らかさがあって伝説の生まれやすい土壌と言える。
付近に「豊成」という地名もあり、藤原豊成までここに隠遁しかねない雰囲気が美作にはある。
また出雲の話だが月山 富田城を縄張りしたと言う平景清の正体も藤原景清かも知れない。

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境内には鎧岩や腰掛岩といった景清伝説が宿る巨岩・奇石があって中々良い雰囲気。
景清が産湯を使ったという産水池の水は眼病に験があるという。
付近に景清城(塔尾城?)があったとも言うが、北の用瀬(もちがせ)景石城の間違いかも知れない。

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応仁以降、奇しくも同じく秀郷流の草刈氏がやはり因幡から美作に進出し、
美作中部の台地に根付いて新免氏どころか秀吉・宇喜多の美作平定を阻む難敵になるが、
彼らは故地 淀山城を振り出しに、景清伝説を追うように勢力を拡げているのが興味深い。
むしろ草刈氏の影響下で景清伝説が習合・伝播していったようにも見える。
草苅氏は戦国末期に最盛期を迎えたため毛利・宇喜多の和睦に従わざるを得ず、
余力を残して美作を退転する破目になった事が悔やまれる。


平景清は歌舞伎「関羽」に登場する他、落語からエロゲまで様々に語られて現在に至る。
史書よりサブカルによって語られてきたという意味でも三戦的な人物なので取り上げてみた。
446無名武将@お腹せっぷく:2010/02/27(土) 23:20:44
■八頭郡智頭町坂原 淀山城(富貴谷城・蕗谷城)

草苅氏は元々上野国の豪族のようで13世紀半ばに斯波郡草刈郷の地頭になったらしい。
これは陸奥入りした足利家氏から賜ったとも、家氏を陥れた側の藤原頼経からだとも言うが、
恐らくその時々の事情に合わせ、都合よく言い換えていたのだろう。
上野出身という地縁からか石橋和義に従って三石城で脇屋勢を退け(>>406)、
その功により1338年、因幡国智頭郡を拝領して居館を築いたのが淀山城の始まりという。
淀山城は智頭街道と備前街道の交点にあって因幡-美作を繋ぐ要衝を占めていた。

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淀山城と富貴谷(ふきだに、蕗谷?)城とは同じ城を指すのではないかとも言われるが、
所在未詳の城を素人の俺が特定できるはずもなく、
地図を頼りに山に入っては見たが堀切と出城「にも見える」ただの藪だった。
見事な城、と断言しているサイトもあるので歩き方が悪かったのだろう。
また行かねばならないが、山歩きに倦んでいるので一体いつになる事やら。

その後も足利将軍家に属し美作に多くの所領を得たようなのだが、
草苅氏が拝領したという郡郷は、どれも社寺領や佐々木道誉らの所領になっている。
そのひとつ北美和荘では嘉吉の乱の最中に山名教清が同荘を一時的に預かった際、
在地の土豪が代官を追放する事件が起きていて、草苅氏もこれに一枚噛んでいたかも知れない。
美作には足利領が数多く、草苅氏が建武以降何らかの繋がりを持った可能性は十分ある。
その後の応仁の乱には山名方として参陣したほか、山名氏と重代の姻戚関係があり、
嘉吉以後の草苅氏は概ね山名家臣と見ていいと思う。

草苅衡継は尼子晴久の美作侵攻があった1532年に青柳荘に矢筈城を築いている。
これ以前の1488年に後藤則季(理季?)が青柳荘の所務を独断で行うなど、
矢筈城は後藤氏の勢力圏内にあり、草苅氏は16世紀初頭には後藤氏傘下だったと思われる。
衡継が尼子勢にどう対処したのか不明だが、恐らく1544年に後藤氏と共に降ったのだろう。
当然、1554年からの尼子勢による吉野郡攻略時も後藤勝基の下で参陣していた公算が大きい。
後に離反したのか、それとも北美和・青柳 ニ荘を預かる重臣になっていたのか、
天正頃には後藤・草苅勢が新免領に東西から揺さぶりをかけた尼子氏の戦略を踏襲している。
447無名武将@お腹せっぷく:2010/02/28(日) 00:54:56
■八頭郡智頭町坂原 金刀比羅神社

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淀山城について何かヒントはないかと川向こうの金刀比羅神社に詣でてみた。
境内にあった由緒書には「落合城主 沖土佐守の氏宮として尊崇厚く」、
「弘治年間(1555-58)秋 大洪水あり」、「後 城主は滅亡 金毘羅大権現 永らく放置さるる」とある。
いきなり余談になるが、もしかすると豊福・新免勢が吉野郡を奪還できたのは、
尼子勢が洪水によって満足に援軍を送れない好機を捉えたためかも知れない。

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沖土佐守は荒木村重 配下だった隠岐土佐守とする説があるが碑文によるとどうも違う。
これに派生して淀山城が一旦織田勢の手に落ちたとも言うが、それも少々怪しい。
1581年頃の落合城には木下家定ら織田勢が詰めていたが草苅氏にあっさり奪われ、
そのまま1584年の美作退去まで黒岩土佐守らが守り続けた。
黒岩氏は草苅庶流で、混同があるのか後に沖姓に改めたのか定かではないが、
当地には江戸期を通じて沖姓の末裔が代々暮らしていたようだ。

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黒岩土佐守には凶暴としか形容しようのない荒五郎という息子がおり、
乱暴狼藉を繰り返したため勘当され、山賊の親玉になった挙句、
鬼に出会っても恐れず切り掛かったため呪い殺されたという怪談が伝わっている。
神社仏閣におし入っては子分に相撲などををさせて居座ったと言うので、
もしかするとこの付近の社寺は軒並み被害に遭っているかも知れない。

1578年以降、智頭郡は木下重堅が預かっていたようなのだが、
こんな状態のまま1582年の備中攻めに加わっており、内心気が気でなかっただろう。
ところで、彼が荒木姓から木下姓に改めた事は秀吉とは関係が無いかも知れない。
智頭で木下と言えば、因幡守護代 田公(たきみ)氏や草苅氏に仕えた顕氏で、
信長が多用した敵地の名門の姓を家臣に名乗らせる策を踏襲したようにも思う。
彼は地元 用瀬の磯部兵部の妹を娶るなど知行地に溶け込む気満々だった。
448無名武将@お腹せっぷく:2010/03/02(火) 22:41:30
■八頭郡智頭町岩神 岩神城

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案内板にある以上の事は分からないが、尼子勢は1544年に南から因幡を衝いている。
同年に尼子勢が攻略した因幡の城は多く、落城時期は恐らく1544年が正しい。
林玄朴と草苅衡継の旗幟を分けたのは、美作で対尼子の実戦経験があるかどうかだろう。
草苅氏は尼子晴久の美作侵攻当初、抵抗する姿勢を見せていたと言われている。
尼子晴久から見れば草苅氏が降った事で因幡侵攻の道が一挙に開けたと言ってもいい。

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篭山の尾根にある小ぶりな城で、構造的にも戦国中期に手入れが止まっている。
岩神神社や鳥居の辺りは恐らく門と登城口で、この周辺だけ林道がやや広い。
尾根にあるので、より高所から攻められる事を警戒して大きな堀切が穿ってあるが、
壁面に雑草が生えておらず、どう見ても登山道整備時に遺構が損なわれている。
城内は完全に藪だが狭いので迷う心配はなかった。
良く見ると俺が写り込んでいるが、頼むからキニスンナ。

林氏の元々の在所だったという上市場は岩神城から直線距離で1.2kmしか離れておらず、
移って来たとも解釈できるが、恐らく赤松勢に属して勢力拡大を果たしたのだろう。
赤松政則は1483年には但馬 真弓峠で山名氏に大敗して家臣団も愛想を尽かしているが、
因幡方面では国衆の山名宗家への反感に乗じてか一時はここまで進出していたようだ。
明応(1492-1501)頃、三田に赤松庶流と思われる萩原氏が城を築いており、
三田に隣接する木原には、これも赤松方らしい木原氏の唐櫃城がある。
対する山名方 草苅衡継の動向は不明だが木原氏に一時従ったようでもあり、
長い物には巻かれる事で危機を回避したのかも知れない。

ただし1546年には草苅家臣 山本出雲守が木原氏の居城 唐櫃城に入ったようで、
尼子氏を後楯にしたとしか思えない時期に反逆が始まり、後に木原氏を追い落とすに至る。
なお、萩原氏は尼子勢にも織田勢にも恭順して憂き目を見る事なく帰農した。
長水城攻略後、因幡に雪崩れ込んだ織田勢を前に近隣の氏族はあっさり降っており、
草苅氏が例外的に強いだけで萩原氏が特に腰抜けという程でもない。
449無名武将@お腹せっぷく:2010/03/03(水) 20:20:54
■美作市沢田 比丘尼城

二、三年置きに地図を買い替えているが、年々史跡の記載が増えている。
比丘尼城はそれで知ったのだが現時点ほとんど情報がない。
尼子勢が使った城を「尼城」などと呼び、比丘尼城はその変形と考えられるが、
但馬・因幡など山名領には比丘尼城が多いので単に山陰の命名習慣かも知れない。
数ある比丘尼城の多くが詳細不明で、その傾向などは良く分らない。

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http://up.mugitya.com/red/Lv.1_up113678.htm
http://up.mugitya.com/red/Lv.1_up113679.htm
http://up.mugitya.com/red/Lv.1_up113680.htm
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地図にある比丘尼城の座標は間違っていたが多分ここだろうという辺りで藪に入った。
いつ頃こんな特殊能力が身に付いたのか覚えてないが、無事 比丘尼城を発見。
林道に面した入口付近は帯曲輪が入り組んでいて面白いが、
主郭は尾根に沿って削平され中ほどから一段高くなっているという単純な造りだ。
半円形をした主郭の内側にも人の手が入っているのか底が平坦で、
比丘尼城に抱かれるようにして隠し田でもあったのかも知れない。

ここに川副久盛が、そして付近の壬生構には川副甚七郎が拠っていたという。
川副姓は恐らく近江発祥で、尼子氏の出雲守護代就任時に同行した一派と想像され、
後裔の久盛は美作に派遣された尼子氏の宿将、らしいのだが気になる点が多い。

・美作では管家党 江見氏の勢力圏内にしか足跡が残っていない事、
・同じ時期、同じ地域で活躍した江見久盛との混同が見られる事、
・なぜか新免氏の侍帳に家臣として記載され、姓が「川福」となっている事、

以上の事から、吉野郡周辺で活動した「久盛」が何物なのか結論が出せないでいる。
なお新免氏侍帳は年代の錯誤や有名人の取り込みが有り得るのであまり信用していない。

吉野川の対岸、川戸(かわと)には比丘尼城攻めの際に陣所が築かれたという。
この辺りは城址が集中しており戦略的に重要な地域だったようだ。
川戸地区は現在、大半がゴルフ場になっており城址の位置や異名同城を確認し切れないが、
城主の内訳は川副姓2、江見姓1、長水城残党1、比丘尼城攻めの陣1となっており、
吉野郡における尼子方の策源地だったのではと思えるほど尼子色が強い。
そのうち福原構は川副美作守の居館で、美作守久盛が自分自身を攻めるはずがないので、
比丘尼城は元々赤松方の城だったが川戸の尼子勢に攻略され久盛の持ち城となった、
という解釈が成り立ちそうだが、もちろん何の裏付けもない。
450無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:02:08
■新免氏の実力はどの程度か

新免氏をある程度知る必要があると思い、一応の目星が付く程度には調べたが、
このサイト(http://www7b.biglobe.ne.jp/~musashi-shinmen/shinmensei-22.html)を見つけてしまい、
ぼちぼち書き進めていた草稿は無期凍結処分という事になった。
苦労して揃えた史料が概ね網羅されており、俺が推論以外丸々パクったみたいな事になっている。

新免初代 則重は足利義詮から吉野郡 粟井・広山・吉野の三庄を賜った事になっているが
書状などの裏付けは無く、新免氏とは直接関係ない寄進状や譲り状だけが残っている。
その一つは粟井「新免村」が1393年に赤松義則から伊和神社に寄進された際の物で、
新免姓が粟井発祥と見てほぼ間違いないが、実態は土豪上がりかも知れない。
また、粟井庄には粟井氏が拠る淡相(あわい)城、有元氏の小房城など管家の城が多く、
しかも戦国末に至るまで度々離反しており、新免代々の所領という雰囲気ではない。
三代 貞重(1471-1523)の頃までは新免氏などより粟井氏の方がむしろ強勢だったと思われる。

初代 則重は徳大寺実孝と有元佐の娘との間に生まれた事になっており、
則重自身は美作守護 赤松貞範の娘を娶り、その子 長重は宇野家貞の婿であるなど、
新免氏は常に美作の有力者の娘を娶っているが、どこまで信用していいのか非常に迷う。
管家党に押し潰されまいと、阿ったり他に後楯を求めたりしてきた苦心の跡にも見えるが、
春日部旧領の讃甘庄は後に新免氏の本拠地となり、案外本当に春日部流の姻族かも知れない。
宇野家貞は那波系 宇野氏という可能性を以前述べたが、春日部流とする説が一般的で、
家貞の養孫が讃甘庄を相続するのは、さほど突飛な事でもない。

赤松色が強い長重は孤立していたのか1480年6月に小房城で管家党の前に敗死した。
長重は小房城主とも小原城主ともされるが、どちらも宇野家貞の持ち城とも言われる。
弟の助隆も同年9月に亀甲館でやはり管家党に討たれているが、
亀甲館は淡相城から小房城を攻める途中にある平城で、単独で持ち堪えられるとは思えず、
恐らく新免氏には別の場所に本拠があって、助隆は奪還作戦に失敗して亀甲館で死んだ。
そう考えると新免氏は宇野家貞の城代として小房城に詰めていたようにも思える。
この時期、赤松勢の主力は山名領 伯耆の動向に気を取られていたはずで、
吉野郡の押さえは新免兄弟では荷が重かったという事かも知れない。

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その後も新免氏の受難は続くが、戦国末の動員力は300〜450人で、
数字を信じて良ければ吉野郡2万石の過半を傘下に収めていた計算になるが、
侍帳では新免氏は5千石と称していて、郡内の盟主に過ぎず直轄領はその程度かも知れない。
姻戚を含め、やたら内紛が頻発するお家事情もこういう立場の弱さによるものだろうか。

※以前に新免氏と長水城 宇野氏の所領がほぼ同じ(>>441)と書きましたが、
佐用郡と宍粟郡を勘違いしていました。正しくは八東郡のみ重複しています。
451無名武将@お腹せっぷく:2010/03/04(木) 19:13:03
■美作市赤田 塀高城

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現在は江見氏の末裔が暮らしているようで、麓には一族の墓まである。
山上に本城があったと思われるが、あまりに民家過ぎて登るのを遠慮してしまった。
江見氏は赤松氏の傍流とも管家筋とも言われ、系図が噛み合わない数系統があるが、
管家党 最大勢力として東作に絶大な影響力を持っていた。

塀高城は美作に幾つかある美作守護 赤松(春日部流)貞範の居城で、
1361年に山名時氏に攻略されたものを孫か曾孫にあたる井口(いのくち)貞顕が再興したという。
春日部流は嫡流の継嗣が幼少のため貞顕の父 頼則が家督を継いでいた時期があり、
恐らく明徳の乱後、赤松氏が美作守護に返り咲いた頃に頼則らも美作入りしたのだろう。
興味深いのは新免氏より遙かに門地の高い井口氏が吉野に古くから土着していたという事で、
やはり嘉吉以降の動乱があってこその新免氏の台頭だったと思う。

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戦国期の井口氏は新免氏の姻族になるなど新免家中に取り込まれていたが、
1580年、井口貞詮は新免宗貫への怨恨から新免総兵衛と共に草苅方に鞍替えし、
対する宗貫は叔父であり井口貞詮の舅である新免貞弘を討伐に向かわせた。
養子の分際でこういう事をやるから家臣に嫌われるのだと思うが、
宗貫はその後も懲りずに従兄弟で家老の本位田外記を上意討ちさせたりしている。
この2年前にも付近の広井砦に住まう本位田義継が宇喜多直家に討伐されており、
これも後藤・草苅絡みと想像しているが、新免家中は統制に重大な問題を抱えていたようだ。

川戸の長水城残党というのは山根構の井門(いど)家友の事で、
宗貫が開いた宴に参加している所を見ると宗貫の取り巻きに納まっていたらしい。
しかも宗貫の遊興に無言の批判をした者の名をいちいち伝えて上意討ちのきっかけを作っている。
彼には美談も伝わっているが吉野では長水系と古参の軋轢を煽る困った人だったようだ。

当時、浦上宗景との抗争が一段落した宇喜多直家は対後藤勝基に注力できたとは言え、
宗貫が草苅氏の猛攻を捌いた上に西粟倉を奪取出来たのは僥倖と言うほかない。
井口貞詮は敗死し、草苅氏との戦いに功のあった春名重勝が塀高城主となったが、
彼は新免氏の福岡入りには同行せず、宇喜多家臣となって吉野郡に残った。
452無名武将@お腹せっぷく:2010/03/10(水) 02:43:21
西日本は充実してるのに東日本はスカスカだな
453無名武将@お腹せっぷく:2010/06/03(木) 01:29:04
■宇野家貞とは何者か

宇野中務少輔 家貞は春日部持貞(1359-1427)の子、または養子とされるが、
新免家譜に拠れば家貞は1436年生まれなので養子にしても少々無理がある。
また彼はあくまでも宇野姓で、養孫の新免貞重も一時 宇野三郎を名乗っていた。
少なくとも新免氏側の記録からは春日部流という感じはしない。

気になるのが家貞を頼則の子とする系図の存在で、他にも満貞の事を満則と書いた系図もある。
これらは春日部頼則より1〜2世代後の人物、「宇野頼則」の情報が混入しているようだ。
一応、生没年から考えれば宇野家貞は宇野頼則の子と考えた方が納まりは良いとは思う。
なお春日部頼則は顕則と34歳違いの弟で、顕則の子とする場合もある。

 ◇春日部流
1貞範(1306-74)┬2顕則(中務1326-76)┬4満貞(1374-1431)-5貞村(1393-1447)-6教貞(刑部1416-57)
             └3頼則(1360-1413)  └持貞(越後/刑部1359-1427)…?家貞(中務1436-91)
                  -1409?  └?政顕(家貞の養子?)

 ◇宇野氏
1国頼(1290-1348)-2清頼-3祐頼┬4頼則(?-1441)
                           └5満則-6祐秀(応仁2船岡合戦)-7祐利-8村頼(政顕?)-9政頼

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家貞は鷹巣城主といい宍粟郡に所領があったとも言うが、これは千草郷鷹巣の別所城の事だろうか。
千草郷は宍粟郡から美作に派兵する場合の中継地点で当然 繋がりが深い。
別所城は別所氏の旧城とされ、則治の代に本家が三木に移った後も分家が利神城に残り、
その後も播磨-美作国境地帯(旧佐用荘)は別所氏の勢力下だったと想像している。
播磨奪還前夜に宇野家貞と別所則治が共同戦線を張っていたのではないだろうか。
他にも鷹巣城候補がいくつかある事は>>437で述べた通り。

私見では春日部家貞は系図の混乱によって出現した架空の人物のように思うが、
宮本系図では父 田原(春日部)持貞が醜聞によって自害した後、雁南庄米田に逼塞したと言う。
この田原家から宮本伊織が現れるのだが、田原家貞と宇野家貞に同一人物の可能性は全く無い。
宇野家貞は1456年に小原城に入って赤松再興を見届けたが嗣子がないため外孫を迎えた人物。
その晩年には小原城下に赤松政則を迎え入れていたのだから逼塞する暇も無い。
もし田原家貞が実在したとしても宇野家貞とは別人だろう。

余談ながら21歳で小原城主というと若く感じるが、赤松氏は嘉吉の乱で壮年の将領が死に絶え、
子の世代が旧領を奪還するという、リアル聖戦の系譜状態だったのでまぁこんなものだろう。
別所氏を再興した別所則治も宇野家貞よりわずか一歳の年長でしかない。
454無名武将@お腹せっぷく:2010/06/03(木) 01:30:16
■米田町平津 平津砦

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平津荘は現在、加古川市と高砂市に分かれていて、境界線上に平津砦がある。
今は町並みに隠れるようにして祠があるばかりだが、志方城に属した石原成澄の居城だった。
やや西にある魚崎構(>>394)と共に櫛橋氏の勢力圏の南を固めていたのだろう。
付近に残る「島」「岸」といった地名は、かつて加古川が複雑に分岐していた頃の名残りで、
河畔から1kmも離れた今の姿からは実感できないが平津砦は元々船着場だったかも知れない。
加古川は暴れ川なので平津砦の正確な立地や役割は想像しにくい。

加古川をずっと北に丹波境まで遡行すると石原姓の一族が拠った城があり、
石原成澄と関わりが有るかも知れないが彼の経歴などは掴めていない。

日本城郭大系が言う宇野左衛門太郎 宗清の居城、米田城とはここを指すようだ。
宇野宗清とは円心に従った宇野兄弟の長兄で、彼自身は佐用に残ったのか影が薄く、
六波羅攻めでは弟の頼季・国頼が赤松勢の中核になって活躍した。
ところが宇野兄弟は1339年に大朴玄素を招いて佐用に円応寺、満願寺を開いており、
玄素が佐用にしばらく滞在している以上、宇野氏の本貫は依然 佐用だったという事になる。
加えて当時 宗清は若く見積もっても五十を過ぎ、隠居してもおかしくはない年齢で、
子の宗頼が「頼」の字を頼季・国頼と共有している点からも、すでに家督を譲っていたように思う。
無理ではないにせよ宗清が佐用からわざわざ加古川下流まで移ってくるとは考えにくい。

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他に高砂市 観光課までもが「米田構居には宇野左衛門 祐清がいた」としており、
どちらが先か知らないが、恐らく両者揃って佐用の米田城(>>431)と勘違いしている。
高砂市は米田を宮本伊織の、と言うより宮本武蔵の出身地として売り出したいようなのだが、
それが昂じるあまり、新免氏に叛いて討伐された赤田城(塀高城)は米田城の誤記だとか、
宮本伊織の実家(田原家)は平津に城を構えて付近を支配していたとか言う、
武蔵 高砂出身説の副産物である胡乱な説に踊らされている気配がある。
田原氏の菩提寺は三木にあり、三木開城の折に米田に落ち延びて来た可能性すらある。
近い将来、やっちゃった感だけが残りそうな事に金を使い過ぎているが、大丈夫か高砂市。
455無名武将@お腹せっぷく:2010/06/03(木) 23:51:42
■美作市宮本 宮本構

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慶長頃まで宮本武蔵とその父が暮らしていたが後に住む者が居なくなり、
武蔵の末孫という宮元与右衛門が移住してきた、とは言うものの恐らく事実ではない。
宮本構の裏山に武蔵の父 無二の墓があったという言い伝えもあるが、
元々地神(実近)山頂にあった讃甘神社の礎石か何かから生まれた伝説かも知れない。
1589年に平田無二が上意によって本位田外記を討つが、家中に彼を恨む者が多く、
世を離れて篭居するようになったと言い、その場所がここ宮本構という事らしい。

武蔵の父という宮本無二は新免家中で活躍した平田無二と同一視される事が多いが、
彼は半ば伝説上の人物で、1491年の粟井氏との抗争から1592年の文禄の役まで戦場に在り続けた。
「無二」を五代ほど世襲した号とする説もあるが、後世の辻褄合わせの域を出ない。
大野庄川上にある平田武仁墓が無二の墓だとも言われるが、同定はまず無理だろう。
彼の戦歴の中には1580年の塀高城の反乱鎮圧の際に単騎雑兵を蹴散らした武勲や、
それに続いて筏津に草苅重久を奇襲して討ち取った軍功も含まれている。

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武蔵の出身地は今も確定していないが、ここはそういう詮索はせず楽しむべきだろう。
武蔵一色に染め上げられて城址という感じはしないが、周囲に堀を巡らしたまともな城館だ。
やや南の山上には小山城があり、播磨との往来に使われた釜坂峠を見下ろしている。
もしかすると宮本構は小山城主の別館として使われていたかも知れない。

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小山城・宮本構ともに新免氏側から見た記述がほとんど無いので、
この辺りは釜坂峠の南側、五千石を支配したという末包氏の所領だったかも知れない。
末包氏の系譜は一応、藤原鎌足の末子が豊福に生まれたのを祖としているが、
位置的に考えても別所分家と無縁には思えず、恐らく利神城陥落と共に没落した。
宮元与右衛門の先祖 平尾頼景は佐用から乗り込んで竹山城 乗っ取りを企んだという人物で、
武蔵 云々は知らないが、与右衛門は末包氏と関わりがあったような気がしている。
456無名武将@お腹せっぷく:2010/06/04(金) 21:40:17
■佐用郡平福 利神城

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利神城の創建ははっきりしないが、1349年頃には別所敦範の居城だった。
嘉吉の乱で山名氏の有となったが1466年に別所治定が奪還し、以後 別所分家の本拠となった。
文正の政変で京に居場所が無くなって、故地に戻って居直ったのかも知れない。
別所分家の系図は少々疑問点があるが系図漁りが正直しんどいので不問とした。

天正頃の城主 別所定道は佐用政範に属していたが、いち早く秀吉に降った。
代わって弟の林治が当主になると再び秀吉に叛き、尼子勢に敗れて落ち延びたという。
これは兄弟の旗幟の違いというより本家に振り回されたと考えても良いだろう。

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武蔵の生涯最初の仕合はこの利神城下で行われたというが、これは大正頃に突然現れた説で、
別所林治の娘が武蔵の母または義母だったという伝承があるものの、特に裏付けは無い。
ここは元々罪人を斬る刑場だったので、不浄の場から決闘を連想したのだろう。

宇喜多領だった間、配下の服部勘助が城主を務めたと言うが彼の事は良く分らない。
近い所では浦上家臣の中に宇喜多直家に徹底抗戦した服部氏がいて、彼らの別流かも知れない。
都知事 石原氏の先祖も服部勘助と言い、武田残党というのが安芸 武田氏の事だとすれば、
服部勘助は毛利輝元、というか恵瓊が送り込んだ与力の可能性もあるような無いような。

利神城の改修は宇喜多氏の所有だった天正頃から進められていたようだが、
これを大成したのが池田由之で、町割りを含め現在の規模に城を仕上げた。
彼は天下普請に度々呼ばれるほどの築城の名手で、同時に池田家を支える柱石でもあった。
利神城の偉容に幕府の不興を恐れた叔父 輝政が破却を命じ左遷したと言うのは、
輝政・由之 双方の性格や立場から考えて事実とは思えない。

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尾根に登山道が付いていて、切岸が滑りやすい所もあるが短時間で登頂できる。
真冬の天守跡付近はちょっとモンゴル高原に来たような気分になれる。
残された石垣の雰囲気が良く、雲突城と呼ばれた姿を偲ぶに十分な風情があった。
この石垣のせいで近世城郭の構造を持っていそうに感じるが、
縄張自体は赤松氏の山城に多く見られる素直なものになっており、
池田由之の改修は一般に言われるほど大規模な物ではないかも知れない。
457無名武将@お腹せっぷく:2010/06/05(土) 02:33:38
■明石市新明町 林ノ城と船上城

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嘉吉頃に赤松氏が防御陣地を築いたのが林ノ城の始まりのようで、
明石川河口を押さえる良港で1558年には別所長治の叔父 吉親(賀相?)が所有していた。
吉親は一般に長治に離反を促した人物として知られるが真相は良く分らない。
三木合戦前夜に、播磨に顔が利く淡路の安宅氏も毛利に内通していた形跡があり、
その筋からも別所氏に鞍替えの誘いが来ていたかも知れない。

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三木篭城の重要な補給線だったが1578年中頃に蜂須賀正勝の客分 稲田植元が攻め落とし、
以後は魚住城や摂津 有岡城から山や沼沢地を越えて三木城に兵糧を運び込むようになる。
播磨平定後は、これも蜂須賀家と親しい生駒親正がしばらく預かっていたが、
1585年、高山右近が明石郡に入部した際に、恐らく林ノ城を拡張した新城を築き、
明石川西岸の東西700mに及ぶ海沿いを堀で囲んだ城下町を形成した。
この城は当時 明石城と呼ばれたが、区別のため船上城と呼ばれる。

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城下の僧はキリシタン大名の到来に恐れをなし、秀吉に保護を求めたが相手にされず、
彼らが追放された後に残された寺院には宣教師が入り聖堂に転用された。
町割りの一環かも知れないが高山右近は摂津 高槻城下で社寺を打ち壊した事が知られ、
明石の僧たちは海伝いの風聞に危機感を募らせていたのだろう。
高山右近が明石を支配した二年間に改宗した者は二千とも三千とも言われる。

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その後の船上城は豊臣家 直轄領を経て池田家、小笠原家の居城となったが、
1619年正月の火事で船上城が焼け、翌年に小笠原忠真が明石城に移った事で廃城となった。
利用可能な建材は明石城に持ち込まれ、巽櫓や長屋門は船上城から移築された物と言う。
今や本丸付近と伝わる丘しか残っておらず、それすら田を拡げる際に削られているようだ。
もしかすると利神城と同じく池田由之が手を加えたかも知れないが確認しようもない。
458無名武将@お腹せっぷく:2010/06/07(月) 22:43:17
■明石市林 浄蓮寺

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船上城の堀だった高浜川の向こうに浄蓮寺があり、ここの観音像の正体は別所吉親らしい。
かつての城主が城外に追いやられているようで少々不憫な気もするが、
一説には林ノ城と船上城は同じものではないとも言われる。
そういう目で見ると浄蓮寺裏の墓地は城館を構えるに手頃な小高い丘になっていて、
北には和坂の台地を背にして蟹ヶ坂構との連携にも適している。
要害の面で考えても戦国中期まではこの辺りに城がある方が自然とも思える。
浄蓮寺の丘は船上城の出丸にもちょうど良い位置に在るが、
仮に城址だとしても丘の土質が船上城とは違うので年代や工法は多分違う。

■明石市宮の上 林神社

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三木城を降した秀吉は浄蓮寺の北にある林神社を訪れ、明石を見物したと言う。
確かに明石には源氏平家にまつわる史跡が多いが、秀吉が史跡巡りとは不似合いな。
この辺りは和坂台地の南端で、織田勢が焼きたくなりそうな要害の上にあるが、
特にそういう話はなさそうで、むしろ織田勢の陣所に充てられていたのかも知れない。

■明石市魚住町 西岡構(備前屋敷)

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薬師院と天王神社の辺りが西岡構址だが、ほとんど何も分からない。
別所重棟の阿閇城と毛利水軍の拠点 魚住城の間にあるが、特に伝承も無い。
恐らく丘を利用した二段曲輪のわりと立派な構居だったように見えるが、
寺の裏にあるのは土塁なのか墓地を拡げるために構の盛土を削ったのか判断がつかない。

興味深い事に、この寺には生駒甚介にまつわるという五輪塔がある。
確かに生駒甚介 親正は三木開城後も端谷城攻めに加わるなど、しばらく播磨に滞在した。
しかし生駒氏には甚介を名乗る人物が他にもおり、この甚介が親正を指すとは限らない。
播磨は一時期、明石藩に小笠原氏、姫路藩に本多氏など、生駒氏の縁者で固められていた。
と言っても五徳より松平信康の血統が珍重された結果だろううけど。
459無名武将@お腹せっぷく:2010/06/08(火) 23:04:48
■玉津町出合 下津橋城

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明石氏は明石の郡司を務めた明石国造家の末裔といい、
文献にも古くから明石姓が度々現れているが、応仁以前の来歴は良く分っていない。
嘉吉の乱での動向も分からず、応仁頃から赤松家臣としての記録が見られるようになるので、
それまでは東播磨三郡を領した赤松満政の系統に属していたのかも知れない。

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下津橋城は現在の宗賢神社と西光寺を囲む溝を堀とした城館だったと考えられ、
枝吉城に移る以前の明石氏の城ではないかとも言われているが、
1539年頃の当主 明石長行が住んでいたともいい、枝吉城主の別館でもあったようだ。
だからと言ってこの像が明石長行を象っているという話はどうかと思うが。

■神戸市西区 枝吉城(吉田砦)

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1429年頃に明石尚行によって築かれたと考えられている。
尚行は応仁の乱で軍功があり、子の祐実の頃には赤松政則の年寄衆に加わっていた。
明石氏は赤松氏の浮沈には必ずしも付き合わず、尼子・三好・別所など諸勢力を渡り歩き、
半独立勢力として戦国期を生き延び、則実の代に三木合戦が起こった。

別所傘下にあった則実だが織田陣営に留まり、野口城攻めから積極的に秀吉に従った。
摂津-播磨間の連絡のためにも三木城の糧道を断つためにも枝吉城の帰趨は重要だっただろう。
明石氏は秀吉に気に入られ、但馬国内で二万二千石にまで昇進している。
三好氏との縁が切れていなかったのか明石元知(則実?)は豊臣秀次に連座して腹を切るが、
系図を見る限り元知と則実は同族の別人のような気もする。

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城山の斜面にある神本(こうのもと)神社が居館跡とされ、山頂に本丸があったはずだが、
写真の破線より上は宅地造成で削られ、大櫓の辺りはフェンスで閉ざされていた。
縄張図を見る限り堅城だったと思うが、記録に残る二度の攻城戦はどちらもほどほどで和睦している。
明石氏と入れ替わりに高山右近が明石に入ると船上城建設のために建材は剥ぎ取られ廃城となった。
460無名武将@お腹せっぷく:2010/06/09(水) 22:44:53
■野口町野口 野口城

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諸本異同は多いが一応、秀吉は3月29日に三木城にひと当てして守りが堅いと知ると、
黒田官兵衛の進言を容れ長期戦を見据えた支城攻略に転向、まず兵三千で野口城を攻めた。
一方、城主の長井政重の下に付近の僧や百姓まで加わり三百弱の兵が集まったが、
4月3・4・5日の戦闘で勝ち目が無いと悟り降伏した。

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別所長治記に「播州一の名城」と形容される野口城は、
印南野(いなみの)の湿池帯を背に山陽道を扼し加古川城と阿閇城の連絡を遮断していた。
4月1日、毛利方の阿閇城攻撃に合せて長井政重も梶原景秀らと共に秀吉本陣を夜襲したという。
開戦当初、別所長治には毛利勢と連携して逆攻勢をかける計画があったかも知れない。
野口城の攻防に援軍を送っていない事から見て、夜襲で三木城の包囲を破るには至らなかったが、
官兵衛の阿閇城急行が無ければ秀吉は序盤から窮地に立っていた可能性もある。

野口城は室町頃に長井国秀が築いて以来、代々長井氏に継承されてきたようだ。
播磨の長井氏と言うと1335年頃、一時 浦上荘の地頭だった長井貞頼が思い付くが、
彼ら備後守護 長井氏と野口城主の相関までは調べきれなかった。
梶原・櫛橋・神吉ら秀吉夜襲組の面々は、どれも南北朝頃に赤松傘下に入ったようであり、
長井氏もそうした外からの入播組だと想像している。

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教信寺と野口神社の間にある小高い丘の辺りが城域だと推測されている。
当時は周囲に沼があり、織田勢はまずこれを埋め立てる所から攻城を始めねばならなかった。
元来が湿地なので江戸時代初期には開墾が進み、遺構は損なわれていたようだ。

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東にある野口神社の裏に今は使われていない盛土があり、
これを野口城址と疑う向きもあるが、現在のところ廃寺址と考えられている。
社域が方形で周囲を盛土が囲んでいるため、確かに構居のようにも見える。
461無名武将@お腹せっぷく:2010/06/10(木) 22:51:23
■野口町野口 教信寺

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興福寺の天台僧 教信が836年に庵を結んで里人の救済にあたったのが始まりという。
彼は「荷送り上人」とも呼ばれ、道を整備したり旅人の荷物持ちをして里人に敬愛されていた。
蟹ヶ坂から阿弥陀ヶ宿まで約25kmを活動範囲にしていたと言い、単なる親切とは思えない。
また教信が里人のために掘ったという駅ヶ池は播磨鑑に拠れば正安初期(1300年前後)竣工とされ、
教信本人の仕事でこそないが、教信寺が近村の開発に関わっていたらしい事が知れる。
野口城の戦いでは海長ら教信寺僧衆が野口城に与したため焼き打ちに遭っているが、
彼らは生き延びて寺の再建に尽力し、元和年間(1615-23)に本堂の再建を果たした。

■野口町古大内 賀古駅家(古大内城)

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別府川は加古川の本流だった頃もあるようで、野口は陸路と川路が交わる衢だった。
646年、ここに賀古駅家が設置されて以来、付近は急速に開けていった。
私見では教信は駅家の雑務を引き受けて財を成したように思う。

賀古駅家はかつて廃寺跡と思われていたが発掘調査により駅家と判明した。
現在は具平親王神社となっているが、その由緒が興味深い。
「具平親王八世孫 従三位 右近衛少将 季房卿(略)天永二年(1111年)古大内の地に移り鎮まった」
また古文書には季房が古大内に来た時、洪水による飢饉があったのでここに城を構えたともあり、
季房はまるで民草を救うためにこの地に鎮座した神のように扱われている。
赤松氏の遠祖 源季房は西播磨では流人扱いだが、この二面性は興味深い。
その後、古大内(ふろうち)の城がどうなったのか定かではない。

■野口町坂元 具平塚(朱見塚)

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実は円墳ではないかとも言われているが、源季房はここに具平親王の陵を営んだという。
心霊スポットとして有名で、地主も祟りを恐れてたまに供養に来る以外は関わらないらしい。
具平塚の祟り話が一人歩きして、何か無念があったに違いないという事になり、
そこから陵墓を築いた季房の配流伝説が生まれたような気もする。
462無名武将@お腹せっぷく:2010/06/11(金) 23:00:18

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毛利勢は水軍八千を淡路 岩屋に集め、別所重棟の守る阿閇城を襲撃しようとしたが、
これを察知した黒田官兵衛が駆けつけ、僅か四、五百という人数でこれを撃退したと言う。
阿閇城は阿閇庄内にいくつかある構址のどれかなのだろうが、確定はしていない。

■播磨町野添 鹿ノ川構

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室町時代から代々三郎を名乗る阿閇(あえ)氏の居館と考えられている。
今は堀跡と考えられる方形の溝と、門前であろう辺りに宝塔が見えるだけだ。
阿閇氏は別所氏に仕えて加古川上流の滝野城主となっていた形跡があり、
恐らくその縁で三木合戦の前後に阿閇庄から滝野に逃れた者が多いが、
戦乱が収まると滝・阿江氏らが水運で身を立て、阿閇ノ津は再び殷賑を取り戻した。

■播磨町古田 古向城

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福勝寺は慶長(1596-1615)頃までに、古向村の古城跡に建立されたという。
分かっているのはこれだけだが、恐らく天正頃まで構居として使用されていたと思われる。
今の境内は味も素っ気もないが、寺の付近が一段高くなっており、城址であろう事は分かる。
城巡りも溝や段差を調べるようになったら重症だと思う。

■播磨町本庄 本庄構

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嘉吉年間、菅原十三郎、古川次郎左衛門らの構居だったという。
本庄は阿閇庄の中心部なのだが、文献が少なく領主や歴史は良く分らない。
阿閇神社が構址だとも、やや西の地蔵堂だとも言うが、どちらにせよ遺構は残っていない。

阿閇神社の由緒では源季房は「播磨守護職兼征西将軍」という大層な肩書きを頂戴している。
季房は1085年、滞納を常習した兄 顕仲に代わり元服そこそこで丹波守に就任し、
債務に追われていたのか加賀守に転任後も旧領を横領して違乱を訴えられている。
播磨に下向してきた時、国司だったのか流人だったのか微妙な所だが、
摂関家との関係が良好だった事を考えるとそう簡単に流罪にはならないとも思う。
463無名武将@お腹せっぷく:2010/06/14(月) 22:04:04
■別府町西脇 別府城

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現在の宝蔵寺から戎神社の辺りが別府城ではないかと言われる。
ここも阿閇城 候補地だが別府城については多少記録が残っており、ここではないと思う。
嘉吉以降に小松原城を追われた加古(小松原)氏代々の居城で、彼らは別所方に属した。
一説に梶原平三郎(景秀?)がこの城に拠っていたとも言うが真偽は良く分らない。

野口城攻略後まもなく上月城に毛利勢が攻め寄せたため秀吉は東播を離れるが、
5月7日には代わって織田信忠が万余の軍勢を率いて加古川城に入っている。
そして翌月には後詰を得た別所重棟が梶原景秀を攻撃している。

恐らくこの時期に乃美宗勝の「高砂辺符之町(べふのまち?)」放火があって、
別府城付近は4〜6月にかけて織田・毛利の係争地になっていたと思われる。
この時の勝敗は明らかではないが、神吉勢の中に加古源次郎という名が見られ、
加古氏は分家がいくつかあるようなので彼が別府城主系という確信は持てないが、
神吉合戦が始まった6月27日までに加古氏は別府城を捨てたとも考えられる。

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別府川の向こうにある住吉神社には何かの遺跡かと思うほど立派な記念碑がある。
「肥料王」多木久米次郎の顕彰碑だが、彼は加古氏の支族 滝氏と関係があるのだろうか。
加古氏は嘉吉前後の時期に滝氏から養子を迎えて両家は一族同然になっており、
滝家は三木篭城に加わって敗れた後、別府に戻って廻船業を始めて成功した。
一方で多木家は元々干鰯(ほしか)売りを生業にしており、まず無関係とは思えない。

まだ近代史にまで手が回らないが、俺の城巡りは身元調査の様相を見せ始めている。
464無名武将@お腹せっぷく:2010/06/15(火) 23:42:59
■平岡町一色 一色構

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現在の安養寺周辺が一色構址とされるが遺構というほどの物は見当たらない。
周辺の路地の繋がりから方形の構居だった事が想像できる程度だ。
小松原(加古)氏の館であったという以外に記録もほとんど無く、
すぐ南に別府城があるため戦国期には重視されなかったように思う。

一色構には一色右馬頭 時則が住んでいたと伝わる。
光栄に「タンゴ踊れば若さ一色」と謳われた丹後・若狭守護 一色家とは多分無関係だが、
加古といい一色といい、小松原流はなぜ足利支流の名字を名乗るのか良く分からない。

播磨鑑には城主 一色時則は小松原時忠の三代の孫とあるが、
これが小松原盛忠の誤りだとすると一色時則は嘉吉頃の人物(永春?)という事になる。
一方、系図上で確認できる一色時則は円心と同じか少し古い時代の人物で、
これを採れば一色構は相当古くから小松原氏の持ち城だった事になる。
どちらにせよ嘉吉の乱後、小松原氏が別府城に移ったのは領地替えだと思っていたが、
小松原城を奪われて旧領の一部のみが安堵されたと考え直すべきか(>>440参照)。
465無名武将@お腹せっぷく:2010/06/17(木) 00:23:28
■高砂市荒井町 小松原城

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400m四方を堀で囲んだ、当時としては相当大きな城だったらしい。
同時代に守護所が置かれた加古川城が90m四方、坂本城でも170m四方でしかない。
一応、城址碑は三社大神の境内にあるが、ここは城北の一角でしかない。
城域の中央辺りに御所殿神社があって、社号からして本丸付近のような気もするが詳細不明。

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案内板の系図を見た瞬間イヤな予感がしたのだが、
初代 赤松盛忠に該当しそうな人物は太平記の時代を生きた上月盛忠しか見当たらない。
上月氏の系図も混乱が目立つため生没年の矛盾などは多少無視して考えるしかないが、
三代 景満までは上月氏系図に準じており、同氏を意識しているのは間違いない。

赤松盛忠は1261年、謀反を企てた三浦良賢の逮捕に功あって小松原を与えられたという。
良賢の謀反は未遂の段階で鎮圧されたので地方から兵を募るような状況では無かった。
と言う事は赤松盛忠は早期からの幕府御家人で鎌倉大番役だった…のか?

四代 永春(一色時則?)はどうも志水氏から入った人物のようだ。
しかし当時は景満の次男という杉岡烈滋が健在で、この辺りの事情も良く分らない。
嘉吉の乱において永春は大蔵谷城の守備に当ったようだが、こちらの帰趨も不明。
坂本城到着の中に小松原二郎の名が見えるので当主は城山城で戦死したのかも知れない。

小松原氏は嘉吉の乱後も抵抗を続けたようだが後に降り、
城を明け渡して別府に移ってからは加古氏を名乗るようになった。
その後の小松原城がどうなったかは記録に無いが、
秀吉は播磨平定後、梶原氏に高砂城と「梶原古城」の棄却を命じており、
これが小松原城の事だとすれば、応仁以降、梶原氏が使っていたという事になる。
嘉吉前の梶原氏は、いつ頃からか小松原氏の家老のような身分に収まっていた。
466無名武将@お腹せっぷく:2010/06/18(金) 02:11:58
■明石市大蔵本町 大蔵谷城

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この辺りは大蔵谷ノ宿と呼ばれ、城の前を旧山陽道が通っていた。
谷と言っても台地の麓という程度の意味で、今より海が近かったとは言え要害という程でもない。
寺の縁起を見ても疑問点が多過ぎて城跡に大蔵院が建てられた時期は良く分らない。
1578年6月に高山右近が同名の城を攻め落としており、この頃までは城だった可能性もある。
確証は無いものの、恐らく川向こうの林ノ城攻略に関連した出来事だろう。
現在、大蔵院内には赤松祐尚夫妻の墓がある。

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英賀城主 赤松祐尚は嘉吉の乱の折りに、大蔵谷に布陣した。
とは言っても、彼は将軍弑殺事件の前に亡くなっており、子の則尚の間違いだろう。
赤松則尚は将軍弑殺の際は在京しており、家督相続もそこそこに乱に到ったと思われ、
そのためか乱の当時、大蔵谷城は家臣の小松原永春が詰めていたとも言う。
赤松勢は摂津境防衛のため沿岸部に約3km間隔に陣を置いたようだが、
淡路から攻められ一気に蟹ヶ坂まで後退した際に大蔵谷城も放棄されたはずだ。

当時17歳だった彦五郎則尚は明石方面で積極的に戦闘を重ねているのだが、
何故か宍粟の山奥である戸倉を守っていた事になっている事が多い。
則尚が「戸倉」を守っていたという説の出所は、恐らく孝橋彦五郎 則繁との混同によるもので、
彼は坂本城で山名勢を迎え撃ったあと戸倉経由で脱出、朝鮮に渡って海賊をしていた。
後に則尚を補佐するために日本に戻った所、追手がかかって逃げ切れなくなり腹を切っている。
則尚が幕府の心証を良くするために討ち取ったとも言うが、これは少々話が出来過ぎか。
467無名武将@お腹せっぷく:2010/06/18(金) 23:29:40
■垂水区東舞子町 烏崎城

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城域は五色塚の辺りまで広がっていたとも言うが、流石にそれは巨大過ぎる気もする。
五色塚は明石国造家の陵墓という説があるが、烏崎城は明石氏と関わりがあるのだろうか。
今は見ての通り、城跡の上にビルが建っていて遺構は消滅している。

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いつ頃からあるのか良く分らないが、嘉吉の乱では赤松勢が守っていた。
前に出過ぎではないかと思うが赤松勢は開戦当初、摂津まで進出していたようだが、
8月19日、淡路守護 細川持親が塩屋に上陸したため烏崎(からさき)付近で戦闘になり、
戦況は優勢だったようだが、より守りに適した蟹ヶ坂まで後退した。
ただ、烏崎の浜から淡路島を間近に見る事ができ、摂津まで出るのは無謀に思える。
赤松満祐には淡路・四国からの派兵は無いという見通しでもあったのだろうか。

烏崎城の守将は赤松義継だとされるが、これは恐らく義雅の誤りだろう。
赤松満祐の弟 義雅は1440年3月に没収されるまで摂津に所領を持っており、
また垂水四郎と名乗った形跡があるなど、明石方面の将に相応しい人材だった。

嘉吉の乱における義雅の配置は、個人的に気になる謎の一つで、
苦戦を重ねる龍門寺真操らの守る但馬方面に30日になって突如義雅が現れる。
蟹ヶ坂から龍門寺勢がいた粟賀までおよそ60km、約2日の行程になるが、
恐らく急報を受けて明石方面を放棄して援軍に向かったように思う。
同じ頃に加古川上流に居た宇野国祐(頼則?)も龍門寺勢に合流しているようなので、
個人的に豪雨や加古川氾濫の話はあまり信用していない。
また別方面にいたはずの義雅と則尚が一緒に降っているのも奇妙で、
義雅と則尚は共に明石方面にいたのではないかと考えている。

応仁以降に再整備が行われたようだが1578年に織田勢の焼き打ちに遭って廃城。
この時の被害は米軍の空襲を上回る垂水史上最大の惨事だと言う。
垂水区の郷土史では秀吉の仕業にされているが、荒木村重謀叛の報復として
信長が丹羽長秀・滝川一益らに須磨方面の根切りを命じており、冤罪かも知れない。
468無名武将@お腹せっぷく:2010/06/21(月) 22:46:03
■明石市岬町 伊弉冊神社

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大蔵谷と船上の間にある伊弉冊(いざなみ)神社も三木城合戦の頃に焼き討ちに遭っている。
他にも1539年、赤松晴政が播磨に帰還した際にも細川衆と思われる町野入道に焼かれている。
当時、明石を守っていた尼子方は明石長行だが、この明石町焼き討ちに恐れをなしたのか、
赤松晴政に易々と上陸を許し、枝吉城に篭ってしまった。
晴政は人丸塚まで進出して陣を布き、ほどなく明石長行を降伏させている。

■明石市大観町 善楽寺

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千年以上の歴史を持つ、明石最古の寺院だと言われる。
播磨守 平清盛が手厚く庇護したため明石川東岸一帯に十七坊を持つ大寺院に発展した。
清盛の没年には彼の甥 忠快が善楽寺に居たと言い、境内には平清盛の供養塔がある。
1539年には尼子方だったのかどうか、赤松晴政に一宇残らず焼かれているが、
現在の境内が半世紀も過ぎた1593年の再建を原型にしているという事は、
由緒には載っていないが1580年にも織田勢に焼かれていそうな気がする。
この界隈は船上城下として、慶長(1596-1615)頃にはある程度の復興を遂げた。
その後も明石藩主 小笠原忠真の厚遇を得ており、当寺の枯山水は宮本武蔵の作庭という。



※伊和神社は播磨沿岸部には他に見当たらない(>>426)と書きましたが、
 かつて明石には伊和比売神社があったが延喜式以降、記録が途絶えてしまい、
 伊弉冊神社など、明石の古い神社はそれそれが比定地であると主張しています。

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 また最近、野口城の少し北にも伊和神社がある事が分りました。
 どう見てもお稲荷さんですが鳥居には「伊和大明神」とあります。
 何故ここに、という解けそうにない疑問が残ります。
469無名武将@お腹せっぷく:2010/06/22(火) 21:57:02
■明石城(喜春城)

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明石台地の離れ小島である赤松山を一山丸ごと城郭化したもので、
搦め手から攻めれば高さの有利は多少減殺できるが、そちらは沼沢が広がり進軍困難。
さらに堀と池に囲まれて限定された攻め口には必ず虎口と櫓が組み合わされている。
一見弱点のように見える本丸と二ノ丸の連結部分が特に殺傷効果が高い。

廃城になった三木城や船上城の部材が流用されたと考えられ、
中でも坤櫓は遠く伏見城からの移築と伝わっている。
築城に当たって幕府からこういった便宜を受けた他、助成金も出ている。
元和令の後に築かれたため天守は無いが、それでも予算不足から来る手抜きが見られ、
広い天守台は用意されているものの、明石藩が天守を築くのは財政的にも無理だろう。

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城内に取り込まれている人丸塚は古墳だと考えられていたが、
1978年の発掘調査の結果、単なる築山らしい事が分かった。
赤松山にあった楊柳寺の和尚 覚証は和歌好きが昂じて人麻呂を夢に見るようになり、
塚の上に祠堂を建てたと言われ、元々それほど由緒正しい物ではなかった。
人丸塚は嘉吉の乱において主戦場になった他、その後の戦史にも名が現れている。
文明(1469-87)頃には神沢民部の城館があったと伝わるが、詳しい事は分らない。

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三の丸にある庭園は小笠原忠真の客分だった宮本武蔵の手に成ると言う。
また武蔵は城下の町割りにも関わったらしく、ついでに寺の作庭もいくつか引き受けたらしい。
武蔵の養子たちは姫路・明石 両藩に出仕しており、武蔵自身も出入りしていた。
470無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 23:03:00
■明石市人丸町 人丸山

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人丸山と呼ばれるようになるのは江戸期以降で、元の山名は分からなかった。
歩いてみると城址のような印象を受けるが、そういう記録は特に無さそうだ。
明石築城の際に月照寺(楊柳寺)は赤松山上から人丸山に移された。
ここの山門は伏見城に在ったものが明石城に移され、明治になって払い下げられた物。

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月照寺内にあった人丸神社の参拝者は主に武家の家族だったと想像しているが、
「人丸」という山号から「火止まる」「人生まる」という解釈が生まれ、
婦女や家を守る神として親しまれ、今も明石の初詣の定番になっている。
人丸山の麓には明石藩主の菩提寺 長寿院があり、その先には武家屋敷が並んでいた。
今は長寿院に隣接して天文科学館が建っており、一見何屋さんなのか良く分らない。

■明石市上ノ丸 明石神社

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明治4年に一般の参拝を受け入れるまでは明石藩主 松平氏の私的な祭祀の場だった。
元からここに在る訳ではなく、大正7年に遷座してきた上に震災によって全面改築されたため、
今や往時を偲ばせる物は、かつて明石城の備品だった太鼓くらいしかない。
471無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 22:26:19
■明石市大蔵本町 稲爪神社

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高山右近が大蔵谷城を攻めた際に稲爪(いなづめ)神社も焼かれたと言われ、
半世紀が過ぎた1635年に明石藩主 松平光重によって元の位置に再建された。
光重は先年家督を継いだばかりで、ご祝儀のようなものだったのだろうか。

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この神社は越智氏と関わりが深く、小千益躬(おちのますみ)が新羅を撃退した伝承が残っている。
恐らく二中歴にある583年の記事「新羅人来 従筑紫至播磨焼之」の事と思われ、
稲爪神社の伝承では不死身の「鉄人」率いる八千が九州に来寇して播磨まで攻め上ったが、
益躬は大山祇命(おおやまつみ)の神助あって明石の辺りで鉄人を討ち取ったと言う。
「一代要記」他はこれを600年の事とするが、同書を読んだであろう塙保己一は採用していない。

社紋は大山祇を祀る神社に共通して見られる「折敷に三文字」で、
越智・河野氏発祥の氏族が多少意匠に手を加えて家紋にしている事が多い。
大山祇は百済からの渡り神とも言われ、日本に来たのは任那失陥の頃だろうか。
益躬が伊予に入った6世紀末には、まだ伊予に大山祇命を祀る神社が無かったとも言う。

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稲爪神社の南が旧街道筋で、今も何となく当時の雰囲気が残っている。
472無名武将@お腹せっぷく:2010/06/24(木) 22:27:00
■明石市東人丸町 熊野皇大神社

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北山(権現山)の斜面に建つ熊野皇神は街道を見下ろすような立地にある。
嘉吉の乱では幕府軍が北山に布陣したようなのだが、
幕府軍は順調に人丸塚まで進出しており、あまり重要ではなかった気がする。
もしかすると人丸塚から権現山にかけてを漠然と北山と呼んでいたのかも知れない。
ここに陣を布く必要があったとしたら、大蔵谷で記録には無い攻防があったのだろうか。
幕府軍は8月19日に塩屋に上陸してから蟹ヶ坂攻撃までに5日もかけており、
大蔵谷通過に意外と時間がかかった可能性はありえる。

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稲爪神社が焼け落ちた1578年から、この北山に仮殿が営まれていたが、
1635年の還座にともない熊野皇大神社が替わって勧請された。
境内は小ぶりな砦といった雰囲気で、旧参道は切岸に作られた通路のようにも見える。
嘉吉の頃の陣跡がその後も何らかの形で使われていたのかも知れない。

■明石市大蔵八幡町 越智神社(穂蓼八幡)

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小千益躬の子 武男が稲爪神社の辰巳(東南)に父を祀る祠を建てたのが始まりと言う。
元々現在の西林寺辺りにあったと想像しているが、後に現在の位置に遷された。
江戸期に入って、九州の大名が越智神社を避けて明石に立ち寄らないため、
1705年に明石藩主 松平直常が街道から遠ざけたと言うのだが、事実はどうだろう。
こうした参勤交代にまつわる真偽不明の逸話は結構あるし、遷った先も結局 街道沿いだ。
気になるのが「辰巳」で、稲爪神社の遷座に併せて越智神社も辰巳に遷る必要があったのでは。

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勝手に越智神社の旧社域と考えている西林寺は1664年に開山しており、
越智神社の記録とは食い違ってしまうが、かと言って他に候補地もない。
永井荷風も滞在した西林寺だが、現在 裏にラブホが建設され良く分らない景色になっている。
473無名武将@お腹せっぷく:2010/06/25(金) 20:35:04
■明石市和坂 蟹ヶ坂構

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円心の長男、七条範資が延元年間(1336-40)に築いたと言う。
太平記では範資はこの頃、播磨に侵攻した新田先遣隊と最初に戦い敗れているが、
東播磨の守りを受け持っていたために新田勢と早期に当ったとも考えられる。
ただし蟹ヶ坂は1338年の東播磨に残る南朝勢力平定戦の戦場にもなっており、
範資が構を築かれたのはこの頃と考えた方が無難かも知れない。
ここは邑美駅家(おおみのうまや:仮称)だった事がほぼ確実で、範資は駅家址を利用したのだろう。
嘉吉の乱では蟹ヶ坂に赤松勢が布陣し人丸塚から寄せてくる幕府軍を迎え撃った。

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現在の和坂はこうなってるわけだが、この看板…ただのオリキャラに見えて案外奥が深い。
蟹ヶ坂は山陽道の和坂台地への入口にあたり、ここだけ傾斜がやや緩やかになっている。
山陽道が整備される前から自然とここに旅人の足が向くような地形になっていたが、
駅家制度 発足前の469年、すでに明石周辺は物流が盛んだったらしく、
文石小麿(あやしのおまろ)という者が陸海の商客を襲って朝廷の討伐を受けている。
つまりこのオリキャラの正体は本朝最初の海賊 文石小麿のはず…多分。

「蟹」とは一説に山賊の類を意味する言葉ともいう。
蟹ヶ坂には元々蟹の面を被った狐が出たとか、化け蟹が出たとかいう話があり、
これが後世になると、蟹ヶ坂に賊将 赤浦鉄人の館があり、客分の文石小麿が
蟹殻や獣皮を身に付けて旅人を襲った、という当地の伝承を全て盛り込んだような話になる。
赤浦鉄人も「明石の浦を襲った鉄人」が蟹ヶ坂の物語に取り込まれて生まれた人物だろう。

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構址と考えられる坂上寺は蟹を退治した空海の開基という事になっているが、
1632年に小笠原忠真の妻(亀姫?)が大師堂などを寄進した以前の事が良く分からない。
807年頃には駅家制度縮小のため邑美駅家は廃止されたと考えられており、
一応、空海の帰国後ほどなく国の管理から離れた事になる。
474無名武将@お腹せっぷく:2010/06/25(金) 20:38:11
■嘉吉の乱をば書き募らん

嘉吉物語(http://dora-met.sakura.ne.jp/pro/akamatsu.rtf)の平易な記述を読む限りは、
兵数が多過ぎるとか赤松勢が幕府大手軍を降伏させてしまう、といった明らかな誇張を除いて、
それほど疑問に感じる事はないが、他史料で細部を補なっていくと色々気になる点が見えてくる。

まず、嘉吉物語の筆者はサブストーリーを同時進行させる事を避けているようで、
浦上・中村勢の夜襲失敗や但馬口の劣勢、さらに孝橋則繁の退却などは、
読みやすくするために時間軸を多少無視して語られているように思う。
また則尚と則繁に比較的多くの見せ場が与えられている点も注意が必要かも知れない。
恐らく則繁の死から壇特山の戦いまでの、かなり早い時期の成立と想像され、
他の軍記などにある詳細な記述の中には嘉吉物語を敷衍した物も少なくないはずだ。

美作は早々と山名に靡き、備前も松田氏らの造反により撤退を余儀なくされる。
赤松満祐もこれは予想していたようで、兵の配置を始めから播磨本国のみに絞っている。
反面、摂津にはかなり深入りしていて兵庫の庫御所に至った幕府軍を夜襲している。
この時、赤松庶流 有馬持家が幕府軍に加わっていたという話もあるが、裏付けに乏しく、
坂本城着到に有馬出羽守(則友?)の名があるなど、有馬家の動向ははっきりしない。

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嘉吉物語には8月12日に幕府軍が一ノ谷に到って以降は日付が無く、他本の記述で補うと、
幕府軍は庫御所夜襲(7/25)から塩屋上陸(8/19)まで、播磨入りにひと月弱もかけている。
また赤松勢が烏崎を放棄して後、幕府軍が蟹ヶ坂を攻撃(8/24-26)するまでに5日、
山名勢の南下を受けて坂本城攻撃(9/1-5)に参加するにも5日前後かかっている。
宗全が動くまでは積極的に戦うつもりが無かったと考えられる。

但馬から山名勢南下の報を受けた蟹ヶ坂の赤松教康らは、
豪雨で氾濫した加古川をおして渡ろうとして甚大な被害を出したと言うが、
龍門寺勢の中に「宇野」とあり、三草口の宇野国祐は問題なく渡河できている可能性が高い。
嘉吉物語中、最も荒唐無稽な「幕府軍を降伏させておきながら放置して山名勢に敗北」の部分を、
納得しやすい敗因として自然災害に置き換えたように思える。
実際、蟹ヶ坂の赤松勢の退却を見ながら細川持常が何をしていたのかは良く分らない部分だ。

なお当時の播磨の人口を仮に30万程度と考えても、赤松勢の後詰2万7千は多過ぎるし、
幕府軍の大手8万余、搦手3万も、当時の京が反幕勢力に囲まれていたにしては多い。
兵力については、後の赤松政則が山名勢3万の大軍に6千で対処しているので、
嘉吉の乱時点でも、これより大幅に多いという事はないと思う。
475無名武将@お腹せっぷく:2010/06/27(日) 07:20:51
■西区平野町 福中城(向井城)

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赤松氏は1338年頃には摂津にまで進出していたが、
間島氏は摂津守護 七条範資一族に仕えて主に摂津・東播で活躍した。
他にも赤松領国の守護代を歴任するなど、家臣団の重鎮だったと思われる。
長禄の変を主導したのも間島彦太郎(雅元?)で、赤松再興後に加賀半国守護代に任じられている。
家督争いに揺れる加賀守護を細川勝元系が占めた事で、山名宗全系の富樫成春は駆逐された。

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赤松氏が播磨を奪還すると間島氏は福中城を築いて居城とした。
縄張りをした飾磨郡の住人 土師道海の一族は蘆屋道満の血を引くといい、
赤松宗家に抱えられていたようで1469年には置塩城の縄張りにも関わっている。
もしかすると陰陽道の限りを尽くした縄張りだったかも知れないが、
現在は道路に分断されて何となく曲輪跡が確認できる程度になっている。

別所氏が台頭するとその傘下に入っていたが、隣接する衣笠氏とは折り合いが悪く、
そのためかどうか、三木合戦では秀吉側に付いて三木攻城組に加わったと見られるが、
地元には間島彦太郎(氏常?)が織田勢の攻撃を受けて落城したという伝承がある一方、
子と思われる間島彦太郎(氏勝?)が秀吉の旗本として立身した事が史料から読み取れる。
また福中城のすぐ脇を卜部安知の補給部隊がすり抜けているのも解釈が難しい所だ。

福中城は三木開城後、播磨の城の多くがそうであるように棄却の対象となった。
間島氏は秀吉旗本となったが、関ヶ原の前後に没落していたと見られるが良く分からない。
程近い明石氏との混同が見受けられる事も間島氏の実像を分かり難くしている。



※明石氏は但馬で2万2千石にまで取り立てられた事になっていますが、
 龍野の赤松広秀も同じく但馬で2万2千石となっていて、実際は広秀家臣だったかも知れません。
 秀吉側に付いた播磨者は恐らく、秀吉の旗本か赤松広秀などの麾下に組み込まれ、
 関ヶ原後に揃って没落したため、明石・間島両氏に似た記述が見られるのでは、と考えます。
476無名武将@お腹せっぷく:2010/07/04(日) 22:52:58
■尾上町長田 尾上構

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長田寺の周囲は一段高くなっていて、更に外周りを水路が巡っているなど、
城館だった名残りとも思えるが、水田に囲まれた居住区ならごく普通の構造かも知れない。
嘉吉の乱以降、山名家臣 上村兵左衛門の持ち城だったと言い、
対岸の小松原系氏族の監視に当たっていたのだろうか。

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小松原氏が加古姓に改めて後、いつ頃からか加古幸宗が尾上構に入ったらしい。
幸宗は1542年に死去し、甥の子にあたる盈斉が城主の時に三木合戦があった。
播諸城交代連綿記では加古盈斉を赤松氏範の末裔としており、
やはり小松原氏は永春 以降、事実上の志水支流になっているようだ。
櫛橋氏との繋がりを思うと、加古氏が別所方に付くのはごく自然な事なのだろう。

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播磨鑑は別所幕下 尾上丹波守の城と記すが、丹波守とは嘉吉頃の人物で、
彼の子孫が職名を世襲している訳でもなさそうなので、誰を指しているのか分からない。
連綿記では「尾上丹波守 三木落亡武功あり」と、攻めた側と取れる記述で、
こちらは黒田職隆・孝高二代に仕えて三千石という尾上可親に比定しているようだ。

尾上氏は所領を何者かに攻め奪られ、小寺氏の食客になったと言う。
確かに小寺家臣に尾上氏がおり、いつ頃かに尾上構を退転したのは事実のようだ。
赤松晴政の堺遁走の際には尾上氏が晴政のお供をしているので、
1538年頃までは小寺氏に属していなかったと思われる。
一応、福岡の尾上家譜には代々尾上の地頭だったと記されるものの、
尾上とは長田庄 長田村内の枝村に過ぎず、わざわざ地頭など置くのだろうか。
他にも可親以来、実質三千石の尾上家が孫の代には二百石に暴落しているなど、
福岡に落ち着くまでの尾上氏の家格については良く分らない。

加古氏と尾上氏は間島景長(1301-50)という人物を中継して繋がっていそうだが、
彼はあちこちの家譜に顔を出して系図を混乱させている謎の人物なので良く分らない。
一応、間島氏は野口保の地頭だった時期があり、この付近に縁者が残った可能性はある。
477無名武将@お腹せっぷく:2010/07/05(月) 21:59:01
■尾上町口里 賀古ノ松原

尾上とは「尾ノ江」とも書き、上古は南毘都麻(なびつま)島が浮かぶ入江だった。
当時の海岸線の想像図を見ると、尾上周辺は東西に細長い島になっている。
南毘都麻島に隠れた稲日大郎姫を探す景行天皇は阿閇ノ津より島に渡り求婚したと言う。

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後に入江は加古川が運ぶ土砂によって埋め立てられ、賀古ノ松原と呼ばれる松林になった。
本来は浜の宮天神の社叢のようで、今は公園としてやや旧態を留めている。

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秀吉が上月城で手を拱いていた6月、別所重棟が梶原景秀を攻撃している。
また、梶原氏側の記録には「松原」に織田勢が攻め寄せ、戦闘があったともある。
私見ではこれは賀古ノ松原の事で、織田信忠と別所重棟の圧迫を受け、
景秀は松原一帯を放棄せざるを得なくなったと考えている。
本願寺顕如はこの苦境を受けてか7月、高砂に援軍を送るよう紀州惣門徒に要請している。

三木合戦当時の松原は別府から高砂にまたがる広大なものだったが、
毛利・雑賀衆が尾上付近の浜に駐屯していたので、恐らくこの付近が戦場になっていると思う。

■尾上町長田 尾上神社

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尾上構のすぐ南に尾上神社がある。
由緒を見ると高砂神社と共通点が多く、元は尾上神社が本社だったようだ。
謡曲「高砂」や相生ノ松といった名物は尾上神社を発祥とし、後に母屋を取られる格好になった。
現在の尾上ノ松は五代目で、初代はこの付近に陣を置いた毛利勢が薪にしてしまったと言う。

尾上とは「尾根の上」だという説もあり、この辺りは元々岬だったかも知れない。
ここを訪れる前から予感はあったが、やはり市杵嶋姫が祀られていた。
南毘都麻島 一島丸ごとと稲日大郎姫の組み合わせが、
伊和比売信仰(>>426)の様式を備えていたのではと想像すると面白い。
478無名武将@お腹せっぷく:2010/07/06(火) 22:01:11
■尾上町安田 安田構

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十五社大神社は元々貧相だったが社殿が古かった頃はまだしも絵になった。
ここは浜ノ宮天神に対応して「上ノ宮」と呼ばれ、元はこちらが本社だったらしい。
嘉吉の乱の兵火によるものか、1444年に浜ノ宮に遷座した事で本末が逆転したようだ。
現在は浜ノ宮が本社で十五社大神は境外摂社に成り下がっているが、
これは復興期に遷座先の浜の宮付近の方が栄えてしまったからかも知れない。

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ここにはかつて安田構があり、永禄頃に魚住左近太夫の城館だったと伝わる。
同じく永禄(1558-70)頃の当主 魚住治吉が居たという天神山城はここを指すのではないかと思う。
堀を備えた周囲よりやや高い丘城だったようなのだが、今となってはまるで実感が湧かない。
神吉合戦の城方に魚住直忠の名が見られ、系図上の位置付けは不明だが、
ここから神吉城までは5kmと離れていないので、彼は恐らく安田構主の系統だろう。

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十五社とは十五柱の神を併せ祀っているという意味だが、
本来は浜ノ宮と同じく天神信仰を中心とした形態だったはずだ。
織田勢は三木合戦で多くの社寺を焼いた上に、礎石や墓石まで築城のため徴収してしまい、
里人が冠婚葬祭にも事欠いたため、こうした略式の神社がいくつか建てられたらしい。

野口-松原間における一連の戦闘で加古川城以南の敵をほぼ無力化する事に成功し、
織田信忠は秀吉の合流を待って神吉城攻めに着手する。
479無名武将@お腹せっぷく:2010/07/06(火) 22:03:29
× 同じく永禄(1558-70)頃の当主 魚住治吉
 ↓
○ 同じく永禄(1558-70)頃の魚住治吉
480無名武将@お腹せっぷく:2010/07/08(木) 20:58:27
■魚住町中尾 魚住古城

但馬の八木泰家の子 高豊は魚住を名乗り、孫の綱高は円心に仕えたという。
後に八木氏本家は山名氏に仕えたが、この時点では山名・赤松に確執はまだ無い。
この八木氏系統の魚住氏は南北朝初期に系図が途切れてしまう。
1355年、摂津 神南(こうない)合戦では魚角太夫房が山名勢の猛攻を防いで討ち死にしている。
足利義詮はこの戦いに臨み斑鳩庄で軍勢を招集しており(>>420)、播磨国衆も多数加わっていた。

これと同じ時期に、小寺頼季の子という魚住長範が魚住城を築いたという。
長範は一般的に、神南合戦で死んだ魚角太夫房と同一人物と見られているが、
共に死んだ面々は播磨には見慣れない名字ばかりで、太夫房は赤松一門ではないのかも知れない。
また長範の後を二代不明とする系図もあり、小寺氏系統の魚住氏の出自は明確とは言い難い。
二系統の魚住氏に何かつながりがあるのかどうかも分らない。

戦国後期の当主 魚住吉長は小寺政職の娘を娶って本当に小寺氏の姻族になっていたが、
天正頃の城主 魚住頼長は頼治とも書かれ別所長治の偏諱を受けたとも考えられ、
仲が良いとは言えない別所・小寺の間を上手く渡り歩いていたようだ。

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魚住古城とは西嶋城と区別するための呼び名で、語感ほど古くはない。
瑞雲寺付近に居屋敷という字が残る事からこの辺りに構居あったと思われるが確認されていない。
西に見える住吉神社は東西に堀跡が見られる丘の上にあって城址に見えて仕方ないが、
神功皇后以来という由緒は実証不能としても、境内には文和4(1355)年と刻まれた石燈籠があるので、
魚住城と同じくらい古くからここに鎮座していると思った方が無難だろうか。

魚住荘は元々住吉神社領で、魚住氏は代官としてこの地に根付いたと考えられるが、
その来歴などは手持ち史料が少ないため、ほとんど分らない。
481名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:28:23
関東の城にもお越しください。m(_ _)m
482無名武将@お腹せっぷく:2010/07/21(水) 11:20:57
馬鈴薯
483無名武将@お腹せっぷく:2010/07/22(木) 10:10:18
>>1
風雲たけし城のうpまだぁ〜?
484無名武将@お腹せっぷく:2010/08/01(日) 13:39:40
毒島城のレポートお願いします!!
485無名武将@お腹せっぷく:2010/08/01(日) 13:43:26
糞スレ
486無名武将@お腹せっぷく:2010/08/01(日) 13:55:11
487けんとく神:2010/08/23(月) 02:00:02
おらいらな、
488無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 22:14:01
>>481
>>484
この後、関東に話題が若干かするのでそれで勘弁してください。
ほとんどの城を二度以上訪れて何やらうすぼんやりと考え事をしているので、
こんな事を関東でやるなら引越しか貯金から始める必要がありそうです。
489無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 22:15:51
■大久保町西島 西嶋城(魚住城)

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三木篭城の支援のために魚住頼治は西嶋の丘に陣所を増築した。
周囲に堀と柵を巡らせただけの急拵えで、城というほどの造りではなかったが、
それでも三木城支援のため毛利・雑賀の兵船が多数駐屯していたと言う。
古来より開けた魚住ノ泊は赤根川の対岸と想像され、築城前から河口は港だっただろう。

三木城の補給線は高砂・有岡の両城が陥ちた事で魚住城だけになってしまい、
魚住城から沼沢地を縫って15kmもの距離を織田勢の目を盗んで物資を搬送するようになる。
後に秀吉もこの経路に気付き、1580年1月8日に秀吉は魚住城に夜襲を仕掛けた。
間を置かず魚住氏の没落、毛利・雑賀衆の撤退、三木開城といった出来事が続くので、
恐らく魚住城はこの一戦で無力化され、三木篭城は必敗の形勢になったのだろう。
物資搬送の任に当った卜部安知の一族は戦後、秀吉に処刑されたと言われる。

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卜部氏は赤松氏の在京家臣だったが嘉吉の乱で赤幕下から離れて地侍になったらしい。
将軍家は以前から赤松宗家と分家、また国衆との離間を図っていたと考えられているが、
嘉吉の政変は国衆に大きな動揺を与え、幕府軍を迎える前から離反者が少なからず出た。
やがて卜部氏は無官のまま滅亡に至ったが、安知の子 安尚が生き延びて後に西嶋に戻っている。
彼の子孫は金貸しと酒造業を営んで巨利を博し、酒造業は今も続いている。

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かつては城跡一帯が酒造工場だったが今は半ば分譲地になって縄張りも良く分らない。
堀が発見されているので、どうせならそっちに図入りの立て札でも差して欲しいと思う。
明石市は無名の史跡の保存や顕彰には、あまり積極的ではない印象がある。
490無名武将@お腹せっぷく:2010/09/13(月) 19:30:45
■高砂構と高砂城

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高砂神社は元々ここに在ったが、池田家臣 中村正勝が新城を築く際に農人町に遷され、
跡地に築かれた高砂城下は近代的な港湾都市として整備され、近在の商人職人を集中させた。
一般に、それ以前の高砂はあまり開発が進んでいなかったと考えられている。
元和令で高砂城が棄却されると高砂神社は本丸跡に戻され、今の立派な境内を獲得した。
梶原氏の高砂構と池田輝政の高砂城は、恐らく位置も規模も全くの別物と思われるが、
高砂構の位置が不明なため、消極的に両城の連続性を主張する向きもある。

高砂構の沿革は不明だが、嘉吉頃には杉岡烈滋の居城で、後に娘婿の梶原某に預けられたと言う。
この梶原某が何者かは分からないが、淡路 沼島に拠る梶原氏だろうとは想像できる。
沼島の梶原氏は1340年頃まで南朝に属していたが、脇屋義助が病没した頃に離反しており、
もしかすると赤松氏との関わりは、この頃まで遡れるかも知れない。
系図には梶原景澄の頃に別所氏に仕えたとあるが播磨との縁はもっと古いはずだ。

梶原氏は1200年に淡路に入って以来の水軍で、赤松氏の船手を務めた。
ただし、その最大の見せ場は外敵に敗れた赤松家臣団が国外逃亡する際の手引きなのだが、
最後の頼みの綱だけに宗家からの信任は篤かった、とは一応考えられるだろう。

別所傘下にあった梶原景秀は加古川流域の城方を代表する存在だったが、
黒田官兵衛の取り成しがあって10月頃に降り、所領は安堵されたようだが後に改易された。
梶原氏のその後は、淡路に移った、備前で隠居したなど諸説あって良く分からない。
491無名武将@お腹せっぷく:2010/09/14(火) 22:06:48
■高砂町横町 十輪寺

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梶原氏の菩提寺で元は真言宗だったが、法然が配流前に立ち寄った折に浄土宗に改めた。
十輪寺は庭も建物も良い雰囲気だが、特に印象的なのは敷地の大半を占める広大な墓地。
自然石に名を彫っただけの物から最近の味気ない物までが境内一杯に林立している。

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この中に梶原氏の墓だけでなく、何故か北条早雲に敗れて来たと言う三浦氏の墓まである。
説明文の内容に多少の疑問はあるのだが、高砂はどうも関東と無縁ではないらしい。
三浦氏なら美作まで足を伸ばせば同族が居るのに何故高砂なのかは不明。

他にもこの界隈には月西寺という太田道灌の末裔が築いた寺まである。
これも経緯は分からないが、当時 関東から高砂に落ちるルートが存在したとしか思えない。
梶原氏は全国に点在していて、八犬伝には犬塚信乃に討たれる梶原景澄という人物が登場するが、
同時代の播磨にも初めて別所氏に仕えるようになったという高砂城主 梶原景澄がいる。
文明頃まで播磨の梶原氏は関東と何か繋がりが有ったのだろうか。

■高砂町農人町 高砂稲荷

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十輪寺は高砂神社が一時 遷されていた農人町のすぐ南に位置しており、
梶原氏の菩提寺のすぐ傍に神社を遷せるような広い空地があったのならば、
そこが棄却された高砂構の跡地だったのではとも思うが、何も記録は残っていない。
この一帯は寺が集中しており、この辺りが旧高砂の中心地だったような気はする。
高砂神社還座後の農人町には稲荷明神が勧請されて今に至る。
案内板によると祭礼の様式などが淡路の風習と関連付けられているようだ。
492無名武将@お腹せっぷく:2010/09/15(水) 22:56:04
■加古川町中津 中津砦

梶原冬庵は神吉合戦において、六尺余の巨躯に三尺余の長刀を振るっては、
福島正則・木村某(定光か?)・加藤清正を次々に蹴散らすという、
まるで三国志から抜け出して来たような猛将に描かれるが無論、史実とは思えない。
一般に福島正則の初陣は三木合戦、加藤清正は鳥取城攻めと言われる。

冬庵は鎌倉景政の後裔と言うから梶原氏というより香川氏などではないかとも思うが、
梶原一族の出自を語るのになぜ鎌倉景政まで遡る必要があるのかが少々気になる。
>>491で触れた通り、高砂には太田道灌の末裔まで流れ着いている事から想像を飛躍させると、
もしかすると佐竹氏に仕えた「梶原政景」の同族だと言いたいのかも知れない。

何にせよ冬庵は梶原景秀の親族で、別所長治の要請あって神吉城入りしたと言う。
攻防二十日、織田勢が城内に雪崩れ込んでもなお城方が抵抗するという凄惨な戦いで、
ひとしきり暴れ回った冬庵は守っていた西の丸に火を放って自害した。

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中津砦は北条郷中津にあって、冬庵が寓居する以前の事は分かっていない。
1537年に梶原満千代という者が常楽寺の僧 知慶から中津村の土地を譲り受けており、
神吉合戦の頃には老将だったという冬庵の幼名である可能性が高いが、
冬庵は1569年にも再び中津村の土地を買い取っており、一旦手放したとも考えられる。
常楽寺の僧 高理が遺言で冬庵の借金を帳消しにしてやっている所を見ると、
もしかすると買い戻しの金も常楽寺が出してやっているかも知れない。
冬庵は多重債務に追われていたらしく、死後 妻の所に証文の更新を求めて貸し主が訪れている。

常楽寺(>>374)は播磨国内十八ヶ寺を傘下に収めた名刹だったが、
別所方と親しいため神吉合戦の前後に織田勢が一寺も残さず焼き打ちにしたという。
冬庵の神吉城入りは長治云々よりも常楽寺に対する報恩の気持ちが強かったのでは、とも思う。
彼の墓は当然 常楽寺内にあり、終焉の地 神吉城跡には後に常楽寺が再建された。
493無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 00:04:48
■加古川町稲屋 稲屋構

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一説に稲屋という地名は、景行天皇と稲日大郎姫の新居があった事にちなむと言う。
稲屋構は「稲屋殿」という人物の構址である、という以外には口碑すら残ってなさそうだが、
梶原氏と関わりの深い鶴林寺の目録等に「イナヤ刑部太夫」が寄進した記録があり、
彼は恐らく稲屋殿本人かその父祖にあたる人物だろう。
同じく梶原氏と親しい常楽寺に対しても別所家臣「稲屋殿」が安堵状を発給し、
梶原冬庵がその管理を任されており、梶原氏とはごく親しい間柄であったと想像できる。

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加古川を挟んで小松原城の東にある福田寺が構址で、ごく一般的な構居だったようだ。
加古川は時代によって度々流路を変えているので、本来は小松原城の支城だったかも知れない。
雰囲気の良いお寺で、もう少し遅く来れば桜がより映えた写真を撮れただろう。

弘安(1278-87)頃の飾磨郡の神職だった小松原刑部という者の名も残されており、
稲屋殿は小松原氏のうち刑部を名乗った家系という可能性を考えているが、思い付き程度の物だ。

太平記には住吉の戦い(1347年)に播磨の住人、小松原刑部左衛門なる者が登場し、
彼は山名時氏の弟 兼義の臣だったが、主が楠木正行に討たれた事を知って殉死している。
この戦いには山名時氏の友軍として春日部貞範も播磨・摂津の兵を率いて加わっており、
播磨の住人である小松原刑部が本当に山名兼義の臣なのかは微妙な所だが、
太平記が成立した頃には小松原氏は「まだ赤松庶流ではなかった」のかも知れない。
既にいくつか触れているが、播磨には古くから但馬系の氏族が少なからず流れ込んでいた。

加古川流域(五箇荘)は播磨守護となった円心の直轄領となり、死後は彼の子らが分割相続したが、
春日部貞範の相続分は稲屋とは少しずれていて稲屋殿との関係は見出せなかった。
494無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 06:15:28
■野口町良野 細田砦

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わずかな盛土が残る山尾大明神という額が掛った祠の辺りに案内板があるが、
ここは城域の北辺に過ぎず、お堂や神社が集中している付近一帯を城址と考えるべきだろう。

赤松政則が播磨に帰還した後の1473年に細田忠房(忠広?)が築いた。
加古支族に細田氏があるので恐らく細田砦も元は加古氏系の城だと思われる。
その後の細田氏の消息は分からないが、美嚢郡東部にある長谷城の城主も細田氏で、
永禄(1558-70)頃の別所氏の勢力拡大に貢献して所領を移しているかも知れない。

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天正頃の城主 船橋五郎左衛門は別所方だったが秀吉に敗れて帰農したと言う。
野口城から1kmほどしか離れていないので、恐らく野口城に味方していたのだろう。
浦上政宗の書状中に梶原・越生氏と共に船橋四郎二郎の名があり、
船橋氏は彼らと名を並べる加古川流域の有力土豪のひとつだったようだ。
城域の中心部らしき八幡神社の玉垣には「船橋」「杉岡」といった気になる名字が刻まれ、
どうやら船橋氏の家系は今もこの地に存続しているようだ。

■野口町長砂 長砂構

越生(おごせ)有弘は武蔵 児玉党の一派の頭領で、頼朝に従って武功あった人物だが、
子の有高に宛てた1208年付けの譲り状によると、彼には賀古庄 長砂(ながすな)に所領があった。
武蔵 越生郷の本家は観応の擾乱では上杉憲顕に従ったようで、
その頃に所領を失い一旦没落したが、長砂の越生氏はその分家筋と考えられる。

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天正頃には越生市右衛門尉が長砂八幡の辺りに居館を構えていた。
手元の遺跡地図を見ると、南にある田畑も散布調査の対象になっているようだ。
三木合戦の際、越生氏は梶原氏に属して秀吉に滅ぼされたようだが、
その子孫と思われる小越市兵衛という者が置塩城の赤松則房に仕えており、
則房が1585年に阿波 板野郡内一万石に転封となった際も、これに従った。
加古川流域に広がる五箇荘は元々守護直轄領であったせいか、
戦国末期まで赤松宗家と土豪たちの主従意識が比較的強かった。
495無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 06:17:17
>>493はリンク間違い。



■加古川町稲屋 稲屋構

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一説に稲屋という地名は、景行天皇と稲日大郎姫の新居があった事にちなむと言う。
稲屋構は「稲屋殿」という人物の構址である、という以外には口碑すら残ってなさそうだが、
梶原氏と関わりの深い鶴林寺の目録等に「イナヤ刑部太夫」が寄進した記録があり、
彼は恐らく稲屋殿本人かその父祖にあたる人物だろう。
同じく梶原氏と親しい常楽寺に対しても別所家臣「稲屋殿」が安堵状を発給し、
梶原冬庵がその管理を任されており、梶原氏とはごく親しい間柄であったと想像できる。

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加古川を挟んで小松原城の東にある福田寺が構址で、ごく一般的な構居だったようだ。
加古川は時代によって度々流路を変えているので、本来は小松原城の支城だったかも知れない。
雰囲気の良いお寺で、もう少し遅く来れば桜がより映えた写真を撮れただろう。

弘安(1278-87)頃の飾磨郡の神職だった小松原刑部という者の名も残されており、
稲屋殿は小松原氏のうち刑部を名乗った家系という可能性を考えているが、思い付き程度の物だ。

太平記には住吉の戦い(1347年)に播磨の住人、小松原刑部左衛門なる者が登場し、
彼は山名時氏の弟 兼義の臣だったが、主が楠木正行に討たれた事を知って殉死している。
この戦いには山名時氏の友軍として春日部貞範も播磨・摂津の兵を率いて加わっており、
播磨の住人である小松原刑部が本当に山名兼義の臣なのかは微妙な所だが、
太平記が成立した頃には小松原氏は「まだ赤松庶流ではなかった」のかも知れない。
既にいくつか触れているが、播磨には古くから但馬系の氏族が少なからず流れ込んでいた。

加古川流域(五箇荘)は播磨守護となった円心の直轄領となり、死後は彼の子らが分割相続したが、
春日部貞範の相続分は稲屋とは少しずれていて稲屋殿との関係は見出せなかった。

496無名武将@お腹せっぷく:2010/09/18(土) 13:44:26
ぜひ関東にも来て下され〜
497無名武将@お腹せっぷく:2010/09/19(日) 13:00:43
京都に、東寺劇場があったから、「大阪ストリップ」ではなく「関西ストリップ」
と呼称されたのだろう(実際は「関西ヌード」と言い、今でも温泉場や廃屋となった
小屋の看板には、そう書かれている)。
 本番マナ板の先行形の天狗マナ板(天板)の人気ものだった滝セレナのグラビア写
真が『NU・IN』43号のトップ頁から特集で掲載されている。ハッキリ言ってビヤ
樽腹の中年オバン(実年齢は30前後かもしれん。女の年はわかり難い)。俎板の鯉に
なりながら、口は相当達者なようだ。相方や観客とも会話しているように見える。つ
まり客いじりの上手い芸人の風が感じられる。
 多分、第11回金銀銅杯の本番マナ板嬢もこの類だったのだろう。コンテスト出場の
「雲母静香」は『NU・IN』のグラビア誌『PUSSY』6号載)で、本板嫌いの
社主(中谷陽)がカラー口と10頁の特集を掲載せざるを得ないほどに若くて、美形、
グラマーな本板嬢の登場は衝撃的なものだったと推察できる。
498無名武将@お腹せっぷく:2010/09/19(日) 13:01:43
>>497
板違いは帰れ
499無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 23:17:13
■荒井町御旅 荒井城

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現在の八幡神社周辺が城域だったようだが遺構は見当たらない。
付近に数多い祠堂が城下の名残りだとすれば意外と大きな城だったようでもある。
荒井城は小松原城の西に高砂構主 杉岡烈滋(祐利)が嘉吉年間(1441-43)に築いた。
由来が似通っているので、荒井城は一説に高砂構の別名とも考えられる。

杉岡烈滋は4代 永春の兄弟らしいのだが、嘉吉頃の小松原氏を差配しているように見える。
嘉吉の乱において、烈滋は雁南・蔭山両氏と語らって山名方の太田垣某を敗走させた。
山名勢は城山城攻略後、略奪のために揖保川沿いの平野部に雪崩れ込んだらしく、
過去に室津からの山名勢ではないかと推論したが、もう少し後の事だったかも知れない。

http://up.mugitya.com/img/Lv.1_up126035.jpg
位置関係を整理してみると、揖保川と加古川に挟まれた沿岸部は嘉吉頃には
小松原・三木氏との関わりを想像できる氏族によって占められているのが分かる。
烈滋が随分離れた魚吹津(>>440)付近まで太田垣某を迎え撃っているのは、
揖保郡福井庄 周辺まで影響力が及んでいたからとしか考えられない。

烈滋の同時代人に、東播氏族の系図にやたら登場する赤松(別所とも)祐利なる人物がおり、
彼は円山氏や赤松上野介家の祖でもあるようだが、烈滋は祐利の別称である可能性が高い。
もしくは当時の著名人であろう赤松祐利が杉岡氏の系図にも取り込まれているのだろうか。

ほどなく烈滋ら小松原一族は山名氏に降り、ある程度の所領を保ったが、
1455年の壇特山の戦い(>>416)では赤松則尚や雁南氏が山名氏に滅ぼされたにも関わらず、
則尚を補佐した三木通武や、雁南氏の盟友だった小松原氏に対する処分の甘さがどうも解せない。
三木氏の6代 通規は雁南氏からの養子だが、一族滅亡が堪えたのか浄土宗に凝ったと言う。

祐利は戦後に飾磨郡の山奥に飛ばされたようだが、この地にも杉岡氏が残ったようで、
慶長(1596-1615)頃の当主に杉岡惣太夫の名が残っている。
500無名武将@お腹せっぷく:2010/09/23(木) 00:01:40
■姫路市白浜町松原 恋ノ浜城(松原構)

三木氏は河野通堯の子 通近を祖とすると言うが河野氏側には記録が無い。
伊予守護だった河野氏は没落と再興を経て1379年に幕府の後押しで守護職に復帰しており、
1383年に通近は讃岐三木(美貴)郡を分割相続した事になっている。
時代が下って長禄(1457-60)頃の三木郡地頭として三木高長の名が見えるが、
四国の三木氏は数系統あるようで、彼が通近の子孫なのかどうか分らなかった。

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恋ノ浜城は文和(1352-55)頃に松原掃部介によって築かれたと言う。
揖保川沿いに松原掃部を城主とする城がいくつかあるので、後にそちらに移ったようだ。
典型的な方形の構居だと思われるが付近を水路が縦横に走っていて位置は余り自信が無い。

通近は播磨にあった河野通昌の所領を相続して1430年に恋ノ浜城に移って来たと言う。
伊予の西園寺氏に従っていた通昌は1389年に細川頼元に討たれ、残余は北朝に降った。
また恐らく同じ時期に通近は頼元の女婿 宇都宮基綱の姉妹を娶っている。
通近の播磨入りはこの頃とも考えられるが、いづれにせよ1430年までの足取りは良く分からない。
彼は浮穴(うけな)姓を名乗った時期があり、讃岐ではなく伊予浮穴郡を本拠にしていたのだろうか。

系図を見る限り三木氏は子に不自由はしていない様なのだが、
三代通重は別所則重(則実?詳細不明)からの養子とされ、
その後も河野氏(通元?)や雁南氏からの養子が相次ぎ、三木氏は父系母系共に繋がっていない。
しかも嘉吉頃に初代から四代までが全員健在であるなど、三木氏の相続継承は謎に包まれている。
嘉吉元年には五代目となる通安を伊予から養子に迎え入れ、さらに訳が分からなくなる。

三木氏は嘉吉の乱の戦後処理が続いていたであろう11月に、
英賀に芝之館という居館を築き、そのまま戦国末まで英賀に根付いてしまう。
遡って9月18日には英賀に天満宮を勧請しており、実は終戦直後から英賀に手を伸ばしている。
何故か宗全はこれを追認し、三木氏は嘉吉以降の播磨で最も不可解な勢力伸張を遂げる。
三木氏は本家筋の河野教通が幕府軍に加わっていて微妙な立場にあったし、
嘉吉の乱からの5年間に初代から3代までが続けざまに死んでいるなど、
4代通武が跡を継ぐ際に何かあったのかと疑いたくなるのは俺だけでは無いはずだ。
501無名武将@お腹せっぷく:2010/09/23(木) 13:30:28
ある日のこと、その日の練習は乱取りだった。
最初は男子同士、女子同士でやってたんだけど、先生がいなくなって少しすると
男子対女子でやりはじめた。
それは男子が言い出したのではなく、ジャイ子みたいな感じの女子が言い出したことだった。
男子は「女子の体に触れる」と思ってOKした。
ところが、いざ乱取りがはじまると、女子は意外に強かった。

そして投げられた男子が畳の上に寝ころがってると、女子はその男子のズボンを脱がせてしまった。
一人の女子がそうしたら、他の女子も次々に男子を投げ飛ばしてズボンを脱がせていった。
オレも含めて男子全員、フリチンにさせられてしまった。
しかも女子はその状態で乱取りを続けようとした。
オレは頭にきて、女子をなんとか倒して女子のズボンを引き下ろした。
すると女子はパンティをはいていたので、それも剥ぎ取ってやった。
それを見てた他の男子も柔道のルールを無視して女子のズボンとパンティを脱がせていった。
気がつくと男子も女子も全員真っ裸になってた・・・・
502無名武将@お腹せっぷく:2010/09/23(木) 20:33:43
■広畑区則直 七ッ岩城

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地名から生まれた口碑だとは思うが、赤松則尚の城であったと言われる。
則尚は前の英賀城主の嫡子なのだから英賀周辺に潜伏していてもおかしくは無いし、
現に三木通武は壇特山では危ない橋を渡って則尚を支援してもいる。

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七ッ岩は方位や暦を知るための遺物のようで、城の遺構ではなさそうなのだが、
尾根を堅堀でわざと狭めたように見えなくもない場所もあって、何かあるような気もする。
姫路に来たついでに足を向けてみた。

■姫路市白浜町 松原八幡神社

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恋の浜城周辺は何も無いという感じで、本当に領主の在所なのかと不安になるが、
松原神社の南筋には酒米を商う店や寺が集中しており、どうもこの辺りが街道筋らしい。

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三木合戦の折、近在の国衆が松原八幡に集まり、織田と別所、どちらに投じるか相談していた所、
煮え切らないその態度に業を煮やした別所長治は神社に火を放ったという。
この辺りは元は別所傘下 妻鹿氏の所領だが、妻鹿氏は1548年に小寺則職の軍門に降った。
1573年からは黒田職隆がここを守っており、別所長治が加勢を期待できる状況では無さそうだが、
この話に多少事実が含まれるなら、小寺領内にも別所贔屓が少なからずいたという事か。

ただし松原八幡は応仁の乱の際も社家が赤松方に付いたため山名勢に焼かれていて、
この頃の話が三木合戦の話に置き換えられて伝わっている可能性もありそうだ。
また、この辺りは松原と呼ばれるようになる前は西脇という地名で、
織田勢が攻略した英賀方の城の中に「西脇構」があり、これとの関連も想像できる。

何にせよ天正頃に境内を焼失したのは事実で、秀吉が姫路城下に遷座させようとした所、
黒田官兵衛が諫めたため、当地から遷さずに再建される事になったと言う。
官兵衛にとってここは父の所領であるだけでなく祖母が妻鹿氏の出でもあるので、
三代に渡って慣れ親しんだ領民のために便宜を図ったという事だろう。
ならば松原八幡を焼いたのが織田勢だとしても官兵衛に遠慮して筆を曲げそうな気もする。
503無名武将@お腹せっぷく:2010/09/24(金) 19:30:09
■飾磨区付城 付城構

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「関門西堀之跡」とあって、この辺りに水堀をからめた関所があったようだ。
三木氏は姫路城の織田勢を警戒して1578年、ここに英賀城に出城を増築したようだが、
一方で1580年3月に秀吉が英賀城攻撃の足掛かりに付城を築いたという記録もある。
まず三木氏が出城を築き、織田勢が接収した後に改修を施したとも考えられる。

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3月末頃に黒田官兵衛らが手柄山から山崎山にかけての諸構居を攻め落としたが、
驚くべき事に英賀勢は一度は反撃に転じ、一部の構居を奪回している。
この時点で織田勢は一旦、英賀城の咽元にあたる山崎構にまで肉薄しており、
付城構を拠点にするのは少し退き下がる形になるが、英賀城の士気が意外に高いため、
秀吉が長水城攻略のために留守にしていた間、十分安全な距離を置いたのだろうか。

この時すでに本願寺も信長に降っており、真宗最後の反織田勢力である三木氏が、
なぜこうまで意気軒昂なのか理屈では分りにくい。

■姫路市井ノ口 法輪寺(茶くれん寺)

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京都にも茶くれん寺があるが、それぞれ宗派が違うし関係はあるのかどうか。
茶はそれなりに贅沢品なので、吝い寺に対し秀吉が多用した渾身のネタなのかも知れない。
寺の裏山が見晴らしの良い小高い丘になっていて、恐らく元々は僧坊などもあっただろう。
姫路城の秀吉が物見ついでにぶらりとやって来そうな雰囲気は確かにある。
504無名武将@お腹せっぷく:2010/09/27(月) 23:26:57
×英賀城の咽元にあたる山崎構にまで肉薄しており、
                 ↓
○英賀城の咽元にあたる清水構にまで肉薄しており、


英賀支城の攻略は黒田官兵衛、宮部善祥らが担当し、秀吉は山崎城を本陣に定めました。
最前線にあたる清水構には宮部善祥が配置されていたようで、
織田勢が築いたという付城は清水構を修築したものだったという可能性もありそうです。

また同じ頃、網干郷(>>440魚吹津一帯)で付城建造のための人夫を挑発しており、
すでに英賀城の東西ともに本城を除いて制圧されていたと考えられます。
英賀城周辺地図を編集した時点では知らなかったのですが、
岸、西土井の構居も織田勢によって落城したという記録があるようです。
505無名武将@お腹せっぷく:2010/09/27(月) 23:30:04
■姫路市葛磨区 英賀城(岩繋城)

1440年に播磨国衆が兵役を拒むという事件が起きており、赤松満祐は不平分子を追放したが、
それでもなお政情不安だったようで、三木通重が西播磨沿岸部の警護に当ったという。
この時、三木氏は40隻もの軍船を率いていたといい、すでに相当な実力を備えていたか、
あるいは臨戦態勢のまま嘉吉に至って赤松水軍をそのまま掌握したかと思われる。

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嘉吉以前の英賀城は鎌倉期からあった物を赤松祐尚が永享(1429-41)頃に整備したものだが、
これが三木氏ゆかりの英賀城と連続性がある物かどうかは分からない。
後世の英賀城は度々洪水に見舞われているので、もし同じかごく近い場所に在ったとしたら、
赤松祐尚の再整備は1419年や1427年にあったらしい洪水の被害からの再建かも知れない。
嘉吉の乱終息直後に建てられた「芝之館」は1444年には堀を設けるなどの拡張がなされ、
英賀城本丸付近に「芝」という地名が残る事から、この館が本丸の原型になったとも想像できる。

三木氏は壇特山の戦いの前(1454)年に山名勢の侵攻に備えて城の防御を強化しており、
赤松則尚が室津で敗走するまでに山名宗全と交戦してもいるのだが、ほどなく赦されている。
応仁の乱 勃発当初は山名方だったが赤松政則に寝返り、その後は山名勢の標的にされているが、
これだけ反覆常無き三木氏を、宗全ともあろう者がなぜ放置していたのか全く分からない。
結局、英賀・坂本城での攻防を繰り返すうち、山名氏は次第に劣勢になってゆく。

15世紀末頃は浄土真宗の興隆期にあたり、6代道規が信心深かった事もあって、
三木氏は本願寺との繋がりを深めていき、石山合戦では兵を送るほど熱心に本願寺を支持した。
恐らくその流れのまま反織田に終始し、秀吉の降伏勧告も蹴って約一ヶ月の戦闘ののち落城した。
三木通秋ら主だった者は船で脱出し、2年後に赦されて英賀に戻って来たという。

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英賀城は囲いが広く、市街のあちこちに城址碑があるが往時の姿を想像するのは難しい。
遺構は土塁跡が三木氏累代の墓地にほんの僅かと、英賀神社の玉垣沿いに残されているのみ。
本丸はすでに消滅しており、城址碑もやや西にずれた位置にある。
506無名武将@お腹せっぷく:2010/09/29(水) 20:02:18
■飾磨区的形町 福泊構

的形砦の主 長尾重朝の叔父という長尾通朝の居城。
私見ながら彼は三木通近の子、江井通友の誤りのように思う。
江井通友は讃岐に生まれ、父と共に播磨入りして嘉吉の乱で戦死している。
甥の重朝も事績や相続関係が詳らかではなく、長尾氏の事はこれ以上分からない。

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北条御内人 安東蓮聖は1302年に福泊島という人工島を築き、福泊(ふくのとまり)を整備した。
この島は後に海岸線が後退して陸に繋がり、1390年には「古築地」と呼ばれる平地になっていた。
遠浅になった海は港としての価値を落とし、風待ちに使われる程度だったらしい。

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古築地は現在の八家地蔵あたりだろうと考えているが、
西に聳える燈籠山には港に関連した燈台が在ったようで、これが福泊構の前身だろう。
それより昔、上古の八家(やか、棲神)は神の住まう聖地であると考えられていた。
燈籠山に連なる姫御前構山(ごんじゃま、と略す)には神功皇后の館があったとも言う。

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文明以降(1469〜)の城主、山下重氏・職重は小寺氏の偏緯を受けていそうだが、
何らかの戦闘が天文(15332-55)頃に起きて福泊構は落城したと言う。
天文年間は別所・小寺の争いが頻発したほか、尼子晴久の播磨制圧にも当たっていて、
どういう経緯で落城したのか幅広い解釈の余地がある。

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播磨国衆は小寺氏を含む多くが尼子晴久に通じ1538年、赤松晴政は播磨から逃げ出してしまう。
1540年に赤松晴政と小寺氏の間に和解が成って播磨は一応、赤松氏の掌中に戻った。
この頃、尼子方に寝返った宇野氏が置塩城を半包囲するような形勢だったため、
小寺氏との和解は重要で、不和のままの置塩城帰還は自殺行為に近かった。

とはいえ、晴政は別に小寺氏に平身低頭して和睦を乞うた訳でも無さそうな気配もある。
「木庭記」には御着城にほど近い華厳寺が「中古 赤松氏に焼かれ」とあり、
細川氏の支援を受けた晴政が置塩に帰還する際には、明石でもそうしたように、
福泊構や華厳寺を派手に蹴散らしつつ御着を屈服させたようにも想像できる。
507無名武将@お腹せっぷく:2010/09/30(木) 19:49:02
■的形町福泊 的形砦と赤坂城

的形砦の沿革は不明で、城主の長尾重朝の事も良く分らない。
長尾通朝の甥だとしても「通」の通字が取れているので本家からやや離れた支族であろう事や、
「重」の字から福泊構主 山下重氏・職重らの祖に当たるのでは、などと想像できる程度だ。

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今は円光寺になっていて敷地の中央を切り通しが走り、かえって砦らしい雰囲気だ。
また地図で見ると海沿いの福泊構と街道沿いの的形砦の間に赤坂城があり、
赤坂城を詰めの城とした両頭の蛇のような位置関係にも見える。

寺号から想像するに、当寺は英賀六坊の一つ円光寺の末寺だろうか。
三木氏が本願寺に送った援軍の中に円光寺の住職 多田祐恵の名が残っている。
円光寺は英賀落城後に秀吉の戦後経営により龍野城下に強制移住させられた。

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曲輪群に見えて仕方ない墓地を抜けて赤坂山に登ると広い削平地があり、
戦前の屋敷らしき残骸が多少残っているが、さらに進むと福泊を見下ろす畑に出てくる。
農作業中の方が数人いて、小泉元首相に似た渋い声のご主人に、
「歴史を調べるのは構わないにしても事前に一言あるべきだろう」と怒られてしまった。
誠にごもっともながら、まさか赤坂城の一角が畑になってるとは想像してなかったんです。

この一帯には江戸期に盛んだった新田開発の頃に四国からの移住者が多く流れ込んでいる。
かなり時代が下ってもこの辺りは河野・三木系氏族の影響が残っていたのかも知れない。
ご主人の話によると、2百年前からご先祖がここにお住まいと言う事なので、
主を失った赤坂城はその頃まで再利用もされず荒れるに任されていたのだろう。
508無名武将@お腹せっぷく:2010/10/01(金) 21:52:41
■飾磨区的形町 木庭神社

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木庭山・姫御前構山・燈籠山は東西に連なっているので、木庭神社は福泊構の隣のようなもの。
1639年に別所長治の遺腹という三木宗栄が木庭山に松原八幡の摂社を創建した。
これは父親が松原八幡を焼いた(らしい)罪滅ぼしなのだろうか。

必ずしも別所寄りとは言えない松原八幡と長治の遺児が結び付くも妙な話で、
彼は名字の通り、英賀三木氏の生き残りと考えた方が自然な気もする。
ただし、この辺りは後藤又兵衛が大阪城入りの前に一時身を寄せていたという話もあり、
急激に過疎化した英賀周辺が当時、行き場のない浪人の溜まり場になっていた可能性もある。

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宗栄は寛永(1624〜)頃から盛んになっていた福泊の塩田開発で財を成したと言う。
秀吉による平定後の播磨は新城建設が相次ぎ、新城下に社寺や富家を移住させたため、
旧城下の荒廃と再編が同時に起こり、新興の有徳人が寄進や社殿の再建をした例は多い。

■飾磨区的形町 小赤壁

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日本外史 脱稿の前年に頼山陽は木庭山を訪れ、ここを小赤壁と命名した。
船を浮かべて観光したと言うから、詩人でもある彼は自らを蘇軾になぞらえたのだろう。
山陽自身は病弱のため、中国には密航した可能性すらないはずだが、
書画に造詣深い彼は恐らく絵画によって赤壁の風景を知っていたに違いない。

名前が悪いのか打ち上げ花火が原因の火事が頻発しているが、
別に便所に老人が監禁されたりはしないらしい。

 参照:http://www.cuc.ac.jp/~zhao/chibi.htm
   http://www.npm.gov.tw/exh98/redcliff/page_jp_03.html
 http://izucul.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/05/15/593_2.jpg
509無名武将@お腹せっぷく:2010/10/01(金) 21:55:23
当初、レッドクリフPart2封切り頃に小赤壁を通過という大まかな予定があったのですが、
興味の湧くままにあちこちに寄り道をして、今頃になって順路に戻ってきました。
遅ればせながら当初の目標に達したので、俺の城巡りはここで終了です。
城巡りをしていると写真がだんだん下手になるようで正直恐いんです。

「センゴク」で三木合戦を取り上げると聞いて東播の城を多く取り上げましたが、
まさか狙ったように休載に入っていたとは思ってませんでした(読んでない)。
思えば城巡り中、こういう蹉跌が多かった。
510はいだらー ◆HAIDARAN.U :2010/10/04(月) 23:21:32
ヒストリーチャンネルで「栄華を極めた名城」ってシリーズを今週一週間やってる
なかなか面白い
511無名武将@お腹せっぷく:2011/01/11(火) 10:34:15
ho
512無名武将@お腹せっぷく:2011/03/28(月) 10:01:12.70
age
513かぼす武者 ◆/.t9KABOSU :2011/04/14(木) 22:14:48.33
桜を観損ねた写真でも
514かぼす武者 ◆/.t9KABOSU :2011/04/14(木) 22:45:16.38
515かぼす武者 ◆/.t9KABOSU :2011/04/14(木) 22:51:54.81
Janeからは見れんのかな
おぉ〜このスレが生きていたとは知りませんでした!!
と、かぼすさんがageてくれたおかげですね( ^∀^)ゲラゲラ

せっかくなので何か貼ろうと思うのですが、それにしても2008年から
善くぞ続いたといいますか、オイラもあれだけ城跡巡りをしてたと思うと
どこにそんなエネルギーがあったのかメチャメチャ気になるところですがw

さて本題、漫画『センゴク』で織田家対六角家の場面で出てくる箕作城跡を
↓で紹介してみます!!

○近江・箕作城跡
@http://dl5.getuploader.com/g/9%7Ckomadama/12/%E7%94%BB%E5%83%8F023+061.jpg
Ahttp://dl5.getuploader.com/g/9%7Ckomadama/13/%E7%94%BB%E5%83%8F023+080.jpg
Bhttp://dl5.getuploader.com/g/9%7Ckomadama/14/%E7%94%BB%E5%83%8F023+078.jpg
Chttp://dl5.getuploader.com/g/9%7Ckomadama/15/%E7%94%BB%E5%83%8F023+075.jpg
(@箕作城跡の石碑A『センゴク』でも描かれていた石つぶて作戦が物語るように、
 あちこちに石が散乱B箕作城跡から見た観音寺城跡で、六角氏は織田氏に対して
 両面から挟み撃ちにする作戦を採用したようですが、織田氏の圧倒的な軍勢による
 各個撃破策によって敗北を喫したようですが、普通なら難攻不落の山城二つw
 C箕作城跡から東を見た画像ですが、凄く開けていて敵軍の発見は早かったと推測)

てなわけで、久しぶりに城跡巡りの血が騒いできたので、またどこかに出陣だぁ!!
(しかし携帯のピタ@のほうが使いやすいったらありゃしませんw)
517かぼす武者 ◆/.t9KABOSU :2011/04/15(金) 02:16:56.35
>>514
マイナーすぎるので説明を…
備後・亀山城

備北東部、奴可郡(現在の庄原市)小奴可の比高30m程の独立丘陵に築かれている。
小規模ながら郭や堀切、土塁等の防御施設、北西の麓には居館跡が残る。
築城年代は分かっていないが、平安末期、源氏方で挙兵した伊予の河野通清を討った。
奴可(額、貫賀)入道西寂の居城であったと伝わる。

戦国時代には備後北部のうち、東北部を支配した久代宮氏の庶流、小奴可宮氏の居城であった。
小奴可氏の当主、隆盛は1553年、大内氏の命により毛利氏に与力して、
前年尼子旗下に転じた備後・旗返城の江田隆連討伐に加わり泉合戦にて討死。
大内氏は、跡を継いだ盛常がまだ若年であるというとして
小奴可氏本領のうち久代の地を大内氏預かりにされてしまう。

当時盛常は17で元服も済ませており、度々返還を求めたが所領を回復することはできず、
毛利氏に支配が移った後も、山内氏が尼子から帰順した際に、その条件として久代の所領を与え、
結局小奴可氏の手に戻ることは無かった。

最後2つの写真は小奴可の要害桜と呼ばれる、
県天然記念物のエドヒガンで県内第二位の巨大桜。
樹齢は520を超えており、小奴可氏在城当時から花を咲かせていたと思われる。
桜の辺りは亀山城主の居館の遺構が残っている。

とりあえず、西城町誌、東城町史、萩藩諸家系譜を参考に…
奴可入道西寂が討った河野通清って、河野氏で最初に「通」の字を使った人なんですね!
それと小奴可隆盛の討死した旗返城の領有問題が、毛利氏と大内(陶)氏の対立の発端だとか
518備州屋 ◆ZIwc.BISYU :2011/04/15(金) 02:25:04.79
>>517
>築城年代は分かっていないが、平安末期、源氏方で挙兵した伊予の河野通清を討った。
>奴可(額、貫賀)入道西寂の居城であったと伝わる。

築城年代は分かっていないが、平安末期、源氏方で挙兵した伊予の河野通清を討った、
奴可(額、貫賀)入道西寂の居城であったと伝わる。

が正しいです

>>516
小魔玉さんの写真も楽しみです^^
小魔玉さんほどじゃないですが、僕もまた城巡りをしたらうpしますね!
519無名武将@お腹せっぷく:2011/06/01(水) 12:30:14.34
竹田城跡ってすごく良い
雲のかかってる写真とか空中庭園みたい。
520無名武将@お腹せっぷく:2011/06/04(土) 20:43:28.70
ぜひうちの近所の「ぶすじま城」にお越しくだされ
521無名武将@お腹せっぷく:2012/01/20(金) 23:09:09.11
2012
522無名武将@お腹せっぷく:2012/01/23(月) 02:31:43.67
523無名武将@お腹せっぷく:2012/02/09(木) 22:15:31.39
ちょwww
524無名武将@お腹せっぷく:2012/02/09(木) 22:56:05.10
こwww
525無名武将@お腹せっぷく:2012/03/04(日) 17:20:40.47
随分マイナーな中世城郭(家臣の城)の復元模型だ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
526無名武将@お腹せっぷく:2012/05/13(日) 14:57:06.41
ぱっと見だと弥生時代の村っぽいね
527無名武将@お腹せっぷく:2012/06/03(日) 08:40:37.26
528無名武将@お腹せっぷく:2012/08/04(土) 06:59:25.11
http://homepage3.nifty.com/yogokun/kamogawa.htm

鴨川の友達から城跡の薀蓄が・・・orz
今年に入ってから城跡巡りを本格的に復活中なので
この城跡スレを再び根城として使わせてもらおうかなw

さて、日曜日の天気は微妙なとこですが、西から天気が
回復しそうな気配がするので、もし晴れるようなら岡山方面へ
進軍予定ですが〜どの城を攻略しようかな?

って、久しぶりにスレを読み返して気になったんですが、
>>363の書き込みでハイオクが1g=195円って…2008年は
そんなにガソリン代が高かったんかいな( ^∀^)ゲラゲラ
(その時も自民党の安部政権の時期だったかな?)
530無名武将@お腹せっぷく:2013/04/20(土) 22:46:07.58
レポよろage
531無名武将@お腹せっぷく:2013/04/20(土) 23:45:01.25
武田神社
532無名武将@お腹せっぷく:2013/05/26(日) 00:44:40.84
>>529
まだガソリンが1g=150円台だから
今年がチャーンス(,,゚Д゚) ガンガレ!
533無名武将@お腹せっぷく:2013/05/26(日) 14:43:01.76
小田原城で動物と戯れるお
>>532
もうチョイでハイオクが140円台に突入してくれると思うので
そうなればガンガン城攻め出来そうですが、ガソリン代が
下がるのもアベノミクスの影響なのかな( ^∀^)ゲラゲラ

ちなみに今日も丹波・八上城を城跡巡りしてきましたが、
以前ならpitaで画像を貼っていましたが、今はほとんど
ツイッターでリアルタイム発信していますので、そちらを
紹介したほうが早い感じがしますねw

https://twitter.com/satomu2005

さて、いつか三戦板住人の皆さんと城跡巡りオフ会を
したいと思っているオイラですが、実現できるかな?
今日も日曜恒例の城跡巡りに逝って来ますがまだ行き先は未定…
東進するか西進するか、それとも北上or南下も捨てがたいけど、
とりあえず気の向いたほうへ逝って来ますね( ^∀^)ゲラゲラ

ちな、詳しい事はツイッターでw
536無名武将@お腹せっぷく:2013/12/21(土) 04:31:06.73
つ言ったーkwsk
537無名武将@お腹せっぷく:2014/03/22(土) 10:50:03.11
【高根城(静岡県浜松市)】
http://mirai660.net/castle/takanejyoh_model.html
538無名武将@お腹せっぷく:2014/03/23(日) 10:45:37.88
小田原城
539無名武将@お腹せっぷく:2014/03/29(土) 21:53:19.36
大岡城の城ラマ来てるね。
http://mirai660.net/castle/ookajyoh_model.html
540無名武将@お腹せっぷく:2014/03/30(日) 03:06:38.77
松本城は美しかったなあ
541無名武将@お腹せっぷく:2014/05/09(金) 22:21:53.04
お城好き声優さんの「竹田城」ガチトーク
画像も多くておもしろい

遠近孝一PRESENTS「戦国ネットすきらじ」
http://www.suki-radi.com/
542無名武将@お腹せっぷく:2014/07/17(木) 00:28:12.41
OH!天空の城!!
543無名武将@お腹せっぷく:2014/09/05(金) 14:01:13.81
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544無名武将@お腹せっぷく:2014/10/13(月) 14:51:58.62
>>535
期待しておりますぞ閣下
545無名武将@お腹せっぷく:2014/12/07(日) 14:09:28.65
小田原城いいとこ いちどはおいで
546無名武将@お腹せっぷく
ガソリン安くなってきましたぞ閣下