1 :
陸遜伯言:
長江の海は俺の海 俺の果てしない憧れさ
孫呉の歌は俺の歌 俺の捨てきれぬ ふるさとさ
殿よ、明日のない策と知っても 殿は荊州を欲しがっていた
俺も孫呉を守って戦うのだ 命を捨てて俺は生きる 命を捨てて俺は生きる
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/25(月) 08:00:19
呉に軍師などというものはいない
何故そんな嘘をつくんだ?
ただの無知な人?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/26(火) 00:39:40
周瑜→露出→りょもう→陸遜とうまく続いたよな
早死にも続いてしまった
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/26(火) 04:43:28
それでも呉は死ななかった
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/26(火) 21:07:43
呉の軍師=都督というイメージしかないが
4人の最終の官職教えて
ノ・ムヒョンさらば
>>9 周瑜 偏将軍・南郡太守・中護軍
魯粛 横江将軍・漢昌太守
呂蒙 虎威将軍・南郡太守・左護軍
陸遜 丞相
最終官職ならこうじゃないかな。
中護軍・左護軍あたりは微妙だが…
周瑜暗殺説ってどこからきたんだっけ
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /: : : : : : : : : :l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: : : : :r=ミ ;_,_: : : : : : : : : : : :ヽ:::ノ
. !: : :  ̄ ー-'" : : : : : : : :.!
|: : : ,_-‐ 、 __,,.. - 、 : : : : : <iiii| このさっき!画像でおじゃるな…。
______∧,、_|: : : `之ヽ、, i l´ _,ィ辷ァ-、、 : : : : : : : :.|_ ______
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄'`'` ̄ |: : :  ̄フ/l l::. ヽこ~ : : : : : : : : :i ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/: : : : ´ :l .l:::. : : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" / :. :r-、 : : : : : : : :.<iii/
. /!.: `ヽ:__,ィ='´ : : : : :-─/─
ヽ _: :_ ヽ : : :ヽ/
\ `'ー===ー-- ' : :/\
`''‐、、__ __,,,,、-‐"
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/27(水) 20:33:42
しかし、呂蒙っていうほど評価する気になれない。
確かに領土返還しなかった蜀はむかつくかもしれんが、優先順位は魏を倒す
のは最優先だったわけで。結局魏を倒せる機会を潰しただけ。
そういう意味では魯粛路線でいった方が良かったんじゃないかな、と。
まあ、魏を倒せる保証があるんなら尤もな言い分だがね。
つーか対案が成功すると仮定するならば、どんな方策も評価に値するわけないわな。
互いに成功すると強弁し続ければいいんだからな。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/27(水) 22:22:27
>>14 呉に魏を倒す機会なぞ無かった
無かったもんを前提に話されてもね
>>14 魯粛路線って鼎立しつつ隙を見て劉備飲み込んで北と対抗するっていう長期的なやつでしょ?
呂蒙どころか呉自体その方針で動いてたんじゃないの?
周泰さん以外、呉の軍師とは認めない。
周泰はゴミ
呉のトップアイドルだな、周泰はw
┗┓ ┏┛_
ノ⌒^⌒(^<\
(´ε ` 。 )◎<\ ←――周泰アゲハの幼虫
(( Σ))~Σ)(◎。(● <)
⊂))~~⊂(。(◎ ~゜...<}
⊂))~~⊂(。(・◎。<ノ
⊂))~⊂(◎⌒<(
⊂))~⊂(◎⌒}\从从从从从从从
⊂))~⊂(◎^⌒VVVVVVVVVVV`ヽ
⊂))~⊂(◎。)。)。)。)。)。)。)。))
⊂))~⊂( ◎⌒◎⌒◎⌒◎⌒ノノ
∪~~∪~∪~∪~∪~∪~∪~\)
>>21 きめええええwwwwww
鳥に食われちまえwwwww
脱皮する前に早く踏みつぶせ
>>22 / ̄ ̄ ヽ,
/ ',
.l {0} /¨`ヽ}0},
.l ヽ._.ノ ', 「周泰なんか誰が食うもんか」
リし `ー'′ ',),
/しし ::::i ))
ししん ::::|ん)
し/i 、 ::::/U/
\_ _) ::/
ヽニノ'´
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/28(木) 23:55:32
例えば、現代の日本に最も必要な人物は誰かといえば、
呂蒙でも陸遜でもなく、周瑜や諸葛亮のような人物なのでしょう。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/29(金) 00:35:01
その心は?
必要なのは周泰さんだろ
だな
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/01(土) 01:09:16
現代では、よく
「中国には数年後・数十年後を見据えた国としての国家戦略があるが、
日本にはそれが無い」
なーんて話をよく聞くよね。
自国が、将来こうあるべきだという大局的なビジョンをもって、
それに沿って戦略を立てていく事のできる人物。
正に周瑜や諸葛亮ですよ。
それなら周瑜より魯粛じゃね?
でも周泰さん
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/01(土) 17:33:21
周泰さんは、この4人をあらゆる面で凌駕しているので
別スレ立ててそこで語ったほうがいいんじゃないかな?
呉人でバトルロワイヤルしようや
∧_∧
( ´・ω・`) ∧_∧
/ \ ( ) 何言ってんだこいつ
.__| | .| |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽキモイな \| ( ´_ゝ`) 誰か警察呼べよ
| ヽ \/ ヽ.
| |ヽ、二⌒) / .| | |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
周泰が勝ち残るだろうな。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/02(日) 20:21:01
ま、確かに周泰は肌が彫刻のようになるまで戦い抜いた精鋭らしいが。
37 :
俺こそ真の建国無双:2008/03/02(日) 21:06:55
とりあえず孔明は負け組
________
<○√
‖
くく
しまった!
ここは呉スレだ!
オレが止めているうちに
他スレへ逃げろ!
早く!早く!
オレに構わず逃げろ!
呉とは5
40 :
999:2008/03/03(月) 23:30:26
jjjjjjjjjjjjっじょ
周泰すげえ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/08(土) 13:03:24
周泰と周瑜は親族?
みたいだね
二代三公の名門周家の一員が寒門扱いされるわけないじゃん。
脳みそついてんの?
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/10(月) 01:20:05
さすがに呂蒙と呂布が親族と思う奴はいない
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/12(水) 14:26:00
呂岱は?
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/13(木) 18:54:23
呉には呂姓も朱姓も孫姓も大勢いるんだから
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/15(土) 13:17:13
呉の四姓と四軍師との関係は良好だったんだろうか?
周瑜と呉の四姓はあんましいい関係じゃなさそうな気がする
四姓はやたらと注目されるが、
あれは広い呉領の中で揚州の『呉郡(あるいはさらにその下の呉県)』の名家四つ。
必ずしも呉国全体のトップ4ではないし、最も栄えたのも三国時代に入ってから。
周瑜の頃なら政権を担っていたのはむしろ揚州北部や徐州など江淮地帯の人間達で、
それが時代を経るに従い中心が南方の呉に移ってきたのが呉の歴史なのだろう。
考えて見ると後に周瑜の息子を庇う上表を出したのは諸葛瑾・歩シツ、朱然、全jで、
何れも既に大豪族・且つ所謂四姓ではない。
まぁ派閥論が好きな人ならここから色々妄想してみるのも楽しいんじゃない?
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/15(土) 21:25:24
最も栄えたのも三国時代に入ってからということは
陸遜の影響によるところかな?
陸遜ってすげぇよな
>>50 陸遜の前となると、陸康が区星の乱に完全にお手上げで孫堅に救援要請してたくらいか。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/16(日) 15:15:19
陸康って孫堅に援助でもしてたの?
>>50 というか、後漢の世において呉郡なんて田舎の一豪族にスポットライトが当たる機会がなかっただけのような…
戦乱が続いて北方から人口が流入→江南開発の促進に加えて、
孫呉という地方政権が1国家として長期に渡って割拠するという特殊な事情あってこそだったのだろう。
その中で陸氏が台頭したことと、陸遜の活躍は大いに関係があっただろうけど。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/22(土) 11:19:31
呂蒙の一族も他の3人のような名族か資産家だったの?
伝を読めば一目瞭然だろうに
>>1 >長江の海は俺の海
長江の海って何処ですか
周瑜は
美人・病弱・幼なじみ・音楽を好む・殿に献身的
これだけそろって何故女じゃないのか悔やまれる
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/24(月) 20:13:33
そういう見方もあるのか
俺は、諸葛亮が自分の嫁よりダントツに綺麗な嫁を持っている
周瑜に嫉妬してたんじゃないかなぁと思った。
諸葛亮と周瑜の事は劉備が二人は頭が良過ぎて私には理解できんって言うぐらいだしな
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 03:52:25
周瑜の方は劉備を絶対に嫌っているかバカにしていると思う。
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 07:47:59
だろうなー打算的とはいえ魯粛はいい人
主君脅す奴がいい人か?
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 12:25:22
張昭よりはいい人
張昭は言ったら嫌われそうなことを面と向かって言ってくれるんだから、
考えようによっては凄いいい奴だけどな。
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/27(木) 05:11:09
張昭の子たちが軍務につくのを嫌がったり諸葛瑾の娘と再婚を勧めるエピソードは好きだ
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/29(土) 17:46:31
孫堅には軍師はいなかったの?
ソモがいるだろ
祖茂の事か?
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/30(日) 08:50:04
赤い頭巾の人か
そもさん
せっぱ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/01(火) 19:57:07
孫休さん
一休さん
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/02(水) 20:19:42
赤壁航るべからず
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/04(金) 15:12:18
程普が軍師?
古参の部下の中でも年長者らしいしな。
そしてなぜかコアな人気が高い程普
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 22:59:25
程普、祖茂、黄蓋、張昭で
呉虎老将だな
張昭じゃなくて韓当だろ
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/06(日) 11:04:56
じゃ韓当も入れて
五呉老将
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/06(日) 11:39:07
張昭は孫策が口説き落とした張紘に続いて参入した人物だが
祖茂と張昭をはぶいて、韓当と朱治を入れて決まりだな
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜の全員が司令官なので軍師じゃない
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/06(日) 14:19:30
周瑜は丹陽攻略時は軍師
魯粛は赤壁戦時は軍師
呂蒙は江陵攻略時は軍師
陸遜は真三國無双では軍師
諸葛瑾と歩隲はどうでしょうか
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 20:53:47
諸葛瑾と歩隲はどちらかというと政治・経済に精通した
張昭に近い位置にいる人たちでは?
諸葛瑾も張昭も武将だよ?
将軍になって兵を率いてるじゃない
それを言ったら諸葛亮だって武将だよ
>>90 そうだよ
諸葛亮は中郎将→将軍→丞相→将軍→丞相
丞相も兵を率いる職だから、一貫して武将の道を歩んでいるよ
歩隲だってゲームや演義で官僚のイメージがあるが、実際には軍事も
しっかりこなしてるわな
じゃあ諸葛瑾が参謀・指揮官として何かの戦いで活躍したか?と言われればしてない。
むしろ軍人としての能力は低かったと明言されてる。
歩隲の活躍も潘濬らと変わらない。国対国の戦場で活躍したわけじゃなく国内の山越討伐の鎮圧。
当然同じ山越討伐を比べたら専門家の賀斉などの方が何倍も活躍してる。
周瑜・呂蒙・陸遜らの延長線上で語るとしたら、2人共圏外だ。
魯粛路線で見ても、二人になにか特筆すべき軍事的作戦案があったのかと言われれば皆無だからねぇ…
まだ虞翻とかの方が相応しいだろう。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 15:24:55
諸葛瑾と歩隲は子供の代に絶滅してるな。
その点でも賀斉や虞翻の方が優秀。
諸葛瑾と歩隲は朱然や呂岱と並んで軍務の担当者だと主張していたな。
朱然や呂岱は軍人として文句なしだし子孫も活躍してる
朱桓と朱然って血縁関係ないよね?
施績(朱績)のことだろう
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 18:17:00
ないよ
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 18:34:37
そもそも朱治と朱桓が赤の他人
朱治の養子は朱然だろ?
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 23:41:25
朱治には出来の良い実子も居たのにな
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 00:30:50
呉には朱姓多すぎ
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 02:15:22
土地柄です
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 16:12:15
呉の四家って陸・歩・顧・孫だっけ?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 18:13:43
孫は違う
朱だな
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 22:18:20
呉の四家は顧・陸・朱・張
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 23:19:18
周泰さんそろそろ復活
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 08:00:17
周泰はどうみても軍師ではないな
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/12(土) 22:32:28
張布とか軍師になるの?
周泰さんまだ?
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 11:01:56
軍師と参謀はどう違う?
軍師は君主の先生、参謀は君主の部下。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/15(火) 21:18:37
という事は、呉で軍師は張昭や周瑜か。
間違っても呂蒙はないな。
軍師と言ったら太公望、范増、張良、劉基あたりだね。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/16(水) 19:26:14
孫権は魯粛をケ禹に比して評価したが
ケ禹は軍師かね?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/16(水) 21:35:47
ケ禹は軍師とは言えないな
三国志で例えると劉備における簡雍、曹操における夏侯惇的ポジション
光武帝陣営は光武帝自身が最強の軍師にして将軍だからなw
そして部下をやる気にさせるのが上手い
ねえ 周泰と武安国 どっちがつおい?
どうみても武安国
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/18(金) 08:11:59
周泰は部下に舐められるタイプ
きめえんだよ腐
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/19(土) 18:18:42
周泰が周瑜の親戚ならこんなに苦労はなかった筈。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/22(火) 07:36:36
周泰は周魴の親戚?
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/23(水) 07:57:58
関係ないと思われ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 12:09:58
周瑜と周魴は親戚?
陸凱は陸抗の親戚?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/24(木) 22:30:53
それは親戚
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/25(金) 17:38:04
張布は軍師に入る?
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 11:37:46
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/27(日) 14:14:54
張布も哀れよのう
自身は孫皓に殺され
娘達は孫皓の慰み者にされた
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/28(月) 22:16:03
孫皓を嫌いな人って多い? もしかして
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/29(火) 10:28:39
普通は好きな香具師はいない
いるとすれば侫臣ぐらい
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/29(火) 19:17:38
吾彦とかはどうなるんだ?
ロシュクって軍師的な役割はなかったの?
周瑜>陸遜>>魯粛>>呂蒙
純粋な頭のよさだとこんな感じ?
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/29(火) 21:18:51
>>137 思いっきり俺と逆の評価だな、周瑜は黄蓋の知力吸いすぎ
周瑜と陸遜はトントンだな…
どっちが上とは言えないな…
また、呂蒙と魯粛も然り…だから
周瑜=陸遜(陸抗)>呂蒙=魯粛
…が無難だと思う
魯粛≧周瑜>陸遜≧呂蒙
だろ
魯粛≧呂蒙>陸遜≧周瑜 これが一番かと
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 12:59:13
周瑜や魯粛は呂蒙から献策を受けているので呂蒙が上
その呂蒙は孫権から訓示を受けた
ので孫権が一番上説
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 14:25:45
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 14:27:15
呂蒙って周喩(孫策)より若かったんだな…
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/30(水) 17:08:25
陸抗や同時代の人物の伝には
劉淵に関する記述は無いの?
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 00:02:06
>>146 地方が違うので呉書には無いのでは?
ちなみに成漢の実質建国者の李流も地方が違うので呉書には無いような。
劉淵も李流も陸抗が生きていた三国時代に生まれていたな。
周泰 完璧すぎる
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/01(木) 17:53:20
劉淵 251年生まれ
李流 248年生まれ
孫亮と年があまり変わらんぞ
五胡十六国の息吹が間近にあった
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 12:22:14
孫権存命時に五胡十六国の皇帝が生まれていたとは…
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/02(金) 23:19:13
司馬炎も孫皓も大して生まれが変わらんな孫亮と
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/03(土) 13:34:08
何か軍師の話とそれてるな・・・
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/04(日) 10:46:51
軍師というのは、外敵を倒し、政敵を葬り去る役割と言うイメージがあるが
周瑜、魯粛、呂蒙は政敵を粛清しているイメージがないな。
実際は知らんけど
陸遜は、政争に巻き込まれて哀れだな
軍師には広義の意味と狭義の意味がある。
狭義の意味なら前・後・中軍師という官職に就いた三名のことを言うが、
広義の意味ならこのスレの四人のように知謀に優れた将軍も含まれる。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/04(日) 17:09:38
呉では軍師のことを都督と呼ぶものだと思っていた
都督は周泰みたいな軍師とはいえない人がなってたり魯粛がなってなかったりする
都督なんて言っちゃったら曹休とか夏侯楙も都督じゃ無かったっけ?
まあスレチだしどうでもいいか
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/05(月) 09:29:39
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/10(土) 11:53:34
呉とかけて都督都督
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/10(土) 19:18:03
してその心は?
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/11(日) 09:45:02
あーいとぅいまてーん!
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/12(月) 12:30:24
軍師将軍と補呉将軍はどちらが上?
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/12(月) 15:35:16
張昭は軍師じゃないの?
一番孫権の近くにいて、外交戦略を献策したりと
魏で言えばジュンユウぽいポジションのような気がするけど
項羽にとっての范増みたいなもの。
なぜその手のポジションとみれば軍師と言い出すのかわからない
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/13(火) 12:13:33
>>166 ではあなたの考える軍師はどんな人なの?
どう考えても張昭は軍師です
軍師軍師言う奴いるけど
それって「子房子房」って言ってるのと大差ないレベルだってことに気付こうな
我が軍師(俺にとっての軍師将軍=諸葛亮等or軍師祭酒=郭嘉等)とかって意味だよ?
謀議をする相手なら、謀臣や参謀とかだろ
張昭が軍師って何の冗談?w
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/13(火) 23:44:57
項羽にとっての項伯
>>172 軍師将軍は漢末晋初にかけて流行った将軍号の1つ
軍師祭酒とかもあるけど
>>173 昭為軍師
官職にこだわる奴って碌に史料も読んでないのか?
あと軍師は官職以外の意味もあるから辞書で引いてみな
>>174 「とかもあるけど」
小学校の国語の教科書でも読んでろ
「軍師祭酒とかもあるけど」と君が言ってるのは軍師という官職にも色々あるってことだろ?
俺が言いたいのは軍師は謀臣や参謀といった意味も含まれるから辞書引いてみろってことだ。
>>176 官職以外の意味なんてのは姜姫と一緒
誤解でしかない
姜姫って何?
国語辞書検索で該当する情報は見つかりませんでした。
* キーワード候補で再検索
姜詩 , 姜黄 , 姫 , 媛 , 姫牆 , 姫貝
漢和辞典を使うと幸せになれるよ
漢和辞典にもなかったんで教えてもらえる?
ああ、姫姜だったわ
悪いな、これじゃいくら探してもないわな
姫姜でもないな。
太公望関係?
いや全然違う
歴史書とかで春秋時代の女性は〜姫、〜姜とか付いてる事が多くて
(姫姓の国は多かったし大国の晋、周王室もそうなんだから、姜姓は言わずと知れた斉)
次第に姫姜が高貴な女性という意味になって行った
お姫様という言葉があるように本来姓でしかなかった「姫」や「姜」がそれ単体(もしくは組み合せ)で高貴な女性というように勘違いされていったように
元々官位でしかなかった軍師が、三国時代に流行った後に何時の間にか謀臣、参謀というものそのものと混同されていっただけ
>>185 トン
太公望絡みは斉だけか…
いや知らなかったんで勉強になったよ。
まあ軍師の意味が変質していったというのは分かるが
現代で姫や軍師という言葉が市民権を得ているのだから
三国時代を語る上でも軍師=官職にこだわる必要はないのではと思う。
いい話も聞けたのでこれで消えるよ。
>>186 「三国志だから」拘らないといけないのさ
つか「今日において"軍師"が指す意味」なんて
てみんな知っててやってんだからw
というわけで、
呉最強の軍師、軍師じゃないけど軍師は諸葛恪w
諸葛恪は馬謖と同列に語る奴がいるけど
増長しなければかなり才能を持ってた人物なんだよな。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/16(金) 00:39:00
陸抗が諸葛恪と同世代だったら・・・
張休、顧譚が残ってれば…
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/17(土) 17:02:48
虞翻が素直な良い奴だったなら・・・
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/17(土) 17:34:21
でも虞翻の息子達は良い奴が多い
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/18(日) 15:19:44
>>192 素直だろ
思ったら素直にやりたい事やってんじゃん
嫌がらせしたいと思ったら嫌がらせするなんて実に自分に素直
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 12:23:06
魯粛の孫呉への出仕時期って正確にはいつ頃?
どうも正史本伝の記述が疑わしくて。
本伝だと、江東に避難?していた魯粛が、友人の劉曄から手紙をもらって
淮南の鄭宝の元に身を寄せようとする。
それを知った周瑜が「孫策は死んでしまったが、その弟も仲々」とか言って
結果、魯粛は孫権に仕えることになる。
だが、本伝の注にある「呉書」によると、魯粛が最初に江東にやって来た時に孫策に目通りしたそうな。
目通りしただけで出仕してはいないのか?
しかしそもそも劉曄伝によると、劉曄は当初鄭宝と合流したが、仲違いして鄭宝を殺害。
その後に劉勲を頼ってる。
そしてその劉勲を淮南から追い払うのは孫策で、
劉曄は孫策のワナに気付いて劉勲に諫言してる。だから、魯粛が鄭宝と合流しようとした時に孫策はもう死んでいたというのは変だ。
以上の点から考えるに、魯粛伝は事実誤認(または事実隠蔽)があるのではないか?
そこから推測出来る別の真実を考えてみる。
@正史本伝の出仕相手の孫権は間違い、孫策が真実。
魯粛が出世したのは孫権の時代なので、書き手が間違えた、
または、より劇的にしようと脚色した(孫権の人物眼もUP)。
A魯粛は孫策死後、一度孫呉を見捨てようとしてた。
だが、孫権を知る周瑜の説得で思い直した。鄭宝を頼ろうとしたのは孫策に仕える前。
B劉曄から手紙をもらったのは確かだが、時系列が間違い。
孫策に目通りはしたものの出仕はせず、劉曄の誘いは断っていた。
孫策死後、江東の不安定化を予期して、他国に移住しようとしたところに周瑜の引き止め。
どうだろう?
そこら辺の考察は呉書見聞で取り上げてるね。
個人的には”孫策に目通りはしたものの出仕はせず、劉曄の誘いにも賛成していた”だと思う。
劉曄を取り巻く情勢が不安定だったことから決断に迷いが生じただけではないかな。
返事を出したときと葬儀が終わったときではかなり状況が変わっている可能性がある。
劉曄が曹操に召し出された頃に出発しようとしたが周瑜が引き止めた。
呉書見聞てのがあるの?
家に帰ったら調べてみます。
しかし疑問なのは孫策に目通りしながらも出仕しなかった理由。
あと、劉曄の誘いがどの時点なのか。
もし本当に鄭宝との合流を誘われたんだとしたら、それを引き止めた周瑜が薦めた仕官先は権じゃなくて策のはず、とか。
鄭宝ってそんな魅力的だったの、とか。
鄭宝の抱える兵士(民兵?)が魅力的で、劉曄と共に乗っ取る気だったのか、とか。
もし周瑜が引き止めなかったらそのまま曹操に仕えてたのかなぁ?
なんか似合わない。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 21:53:26
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 08:16:32
呉書見聞では魯粛は孫策時代は祖母の喪中説だね。
>>199 誘導ありがとうございます!
時間をかけてじっくり読んでみたいと思います。
>>200 確かに喪中ということを考えれば、しっくり行きますね。
当時として常識であるから、あえて理由として書かなかったようにも思えてきます。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/21(水) 20:25:04
呉書見聞は呂蒙伝や陸遜伝が未着手なのが残念
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/22(木) 00:39:43
二張伝もまだ無いね
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/22(木) 17:55:31
大史慈伝は有るけど甘寧伝はまだ無し
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/23(金) 17:35:34
虞翻伝は?
あそこは孫一族を優先的にやっているからな
207 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/23(金) 23:56:24
そのおかげで孫一族に愛着が涌く呉書見聞
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 14:01:16
孫一族で愛着がわくのは
孫堅、孫権(皇帝になるまで)、孫策の順かな
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 14:20:46
魯粛の天下二分構想は
諸葛亮の天下三分構想よりも秀逸
画餅としてかね?
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 14:28:59
魯粛の天下二分構想は、後の六朝や南宋とかに引き継がれているな。
ロシュクの悪い話って聞いたことないな
演義では「こいつ、周瑜と仲が良くなかったら都督になれなかったん
じゃね?」と疑問を持つほど、どんくさいキャラだが (゚ω゚三゚ω゚)
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 16:51:37
魯粛の強かさが劉備に似ているようなきがする
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 18:19:29
■■■■■
■■■■■■■
■■■■■■■■
■■■■■■■■ ________
■■ ■ ■■ ■ ■■ /
■■■■■ ■■■■ < アフリカではよくあること
■■■■■ ■■■■ \
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■■■■■■■■
■■■ ■■
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■■■■■
>>209 確かに。
巴蜀に依った政権は長くても約40年ぐらいしか持たないのは、
後の五胡十六国の成蜀や、五代十国の前蜀や後蜀で証明されている。
あと、荊州と益州は地理的に大きな障害があるので、
江東の併合なくして荊益二州のみでの割拠は現実的ではない。
要するに、諸葛亮の天下三分の計は、魯粛の天下二分の計よりも、
戦略的に遙かに劣ると言って差支えなかろう。
>>212 呂蒙伝に阿蒙を軽蔑していた記述があって、
演義のような人の良さではないことが垣間見えるけどね
>>216 元々諸葛亮の天下三分は魯粛含む呉の天下二分とはスタート地点からして違うぞ
呉の戦略は持てる者の戦略、蜀のは持たざる者の戦略
蜀のは「魏呉は強くて土地取れないから弱い蜀の地取って、それで誰と結べば生きられるか」って戦略
最終的には統一目指しててもな
呉のは江南、江東持ってるから次どこ目指すかなっていう戦略
孔明のはスイス的発想だよな。
バランサーとして生き残る道を選び、その後三竦みの状態にもって行く方向。
結果としてそれによって二分策が潰されたことをお忘れなさるな。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 12:23:24
二分策が実行されるのは東晋の桓温の時代まで待たねばならん
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 20:27:35
>>219 スイスはバランサーではない。永世中立国。
発想自体蜀とは大幅に違うから、第二次世界大戦時でも
ドイツ他枢軸国に囲まれても中立を維持できた。
あとスイスは国民皆兵制であり、劉禅みたいな降伏の仕方なんかありえん。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/26(月) 21:01:22
バランスオブパワーってイギリスの政策だったと思う
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/27(火) 01:18:35
魯粛子敬>>アンリ・ギザン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>諸葛亮孔明
>>221 すまん勘違いした。
スイスはここを取れば有利になるってむしろ荊州的な位置付けだったね。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/27(火) 19:43:24
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 01:09:29
バランサー=ガンダム種のオーブ
あれは絵に描いたようなバランスブレイカーじゃねえか
バランスブレイカーというか、バランスを考えない我が儘国家というか
とりあえず、一部豪族の独裁軍事政権国家は勘弁して欲しい
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/01(日) 00:24:29
オーブの腹黒軍師、ラクス・クライン。
良く判らんが、魯粛は異端派だな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/02(月) 19:21:48
良い意味での異端
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/02(月) 20:44:54
人当たりはよさそうだから
彼に同情的な人が多く
都合よく記録されているのかも
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/03(火) 20:23:32
魯粛が人当たりいいなんてとてもお徳なイメージ
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/03(火) 20:51:11
同情するから金をくれ
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/03(火) 23:21:58
魯粛は金をばらまきコネを作り
若い奴らを集めて軍事教練したりと
物騒極まりない人物だったとも思うがな
史書に残るエピソードからはスレタイの4人の中で一番人当たりの良くないようにしか思えないのが魯粛
味方に人が良く、敵に辛いのは陸遜かな。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 23:33:18
山越には厳しい陸遜
もっと厳しい賀斉
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 23:44:17
うわ、こんなスレあんだね。
しかも見てきたかのような感じの発言。
暇なら働け。
能書きはええから農地耕せ。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/05(木) 21:23:40
と孫峻が申しております
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/07(土) 18:50:03
同情するから倉をくれ
周瑜乙
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/08(日) 08:43:31
同情するから酒をくれ
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/08(日) 20:01:10
仲謀か
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/08(日) 21:38:25
同情するから王をくれ
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/08(日) 21:39:01
仲謀か
同情するから荊州をくれ
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/09(月) 00:42:26
劉備乙
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/09(月) 12:34:39
当時の闘艦等の艦船の大きさ、兵員搭載数とか
わかってんのかな?
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/11(水) 00:37:41
そんなのは軍師に聞くべし
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/11(水) 22:01:42
同情するから虎をくれ
孫権乙
同情するから関羽をくれ
曹操乙
>>249 三国時代の詳細な構造等は残されていないと思うが、『楼船』『走舸』など船の名前は伝えられてるので、
唐代あたりの同名の船を参考に「大体こんな感じだろう」と類推した図説なんかは見たことある。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/14(土) 01:46:51
呉の軍師といえば 孫 武
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/14(土) 10:45:46
その子孫が孫堅?
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/15(日) 00:35:06
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/16(月) 00:29:50
同情するから蜜をくれ
袁術乙
同情するから蔡エンをくれ
同情するから妻の肉をくれ
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/18(水) 19:29:59
軍師を語るはずなのに
どこからこんな流れになったんだ?
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/18(水) 22:01:30
魯粛の遠謀、恐るべし。。。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/20(金) 00:06:20
それはそうなり
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/21(土) 09:10:42
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/27(金) 20:43:38
陸遜の子孫たちの名は聞くけど
他の3人子孫たちは、あまり
功蹟残してないの?
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/27(金) 22:31:42
>>267 陸遜の子孫たちほど功蹟残していない。以上。
むしろ陸遜ところは優秀過ぎるぐらいだ
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/28(土) 11:47:14
でも絶滅
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/28(土) 15:39:25
スレタイ見て演義厨のすくつだと予想したけどどうでしょうか?
どうでしょうね?
273 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/29(日) 01:42:34
演義厨の蜀マンセー派だが、諸葛亮がきらいだ
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/29(日) 02:38:49
呉に軍師なんていたか?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/29(日) 02:39:50
周瑜は軍師ではなく大都督
>>277 周瑜は「前部大督」もあるかな。
後全jは大都督は無かった、と思う。
>>278 前部大督は左督に比べて落ちるから省略したがフォローありがとう
全jは顧譚伝の”全j時為大都督”という記述から
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/01(火) 00:20:03
為末大 都督
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/01(火) 16:29:56
やっぱり厨スレだったのね
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/01(火) 18:51:56
>>277 横山光輝では大都督・周瑜じゃなかったっけ?
明らかに正史基準で話してるのになぜ横山を持ち出す・・・
左督→周喩
右督→程普
>>282 277だが横山は読んでないけど演義では大都督だったはず
呉のスレは正史の話題が多いので脊髄反射でレスしてしまったが猛省します
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/02(水) 00:09:27
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/02(水) 06:22:11
277は謝る必要はない
正史基準ならそういうレスも有効
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/06(日) 13:55:51
羅憲が実際に交戦して撃退したのは歩協だよね。
援軍の陸抗率いる大軍が押し寄せると、戦力差がありすぎたから羅憲はひたすら亀になって睨み合い。
しばらくして、魏軍が西陵に来襲したために、陸抗は永安を諦めてそちらの救援に向かっただけ。
ま、大局的に考えれば撃退と言えなくもないかもしれないけど。
周喩と程普
張昭と魯粛
ってすごく仲悪かったよな
どういう意図の配置なんだ?
どちらも一方が嫌ってただけ。
後に和解しているとは思うが、詫びは入れてないな。
照れ隠しみたいな言動はしているが
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/07(月) 21:34:49
年寄りが「近頃の若いもんは…」と愚痴って嫌ってただけだろ両方とも。
呉はある意味若人が元気な国だから、年寄りがついて行けていないだけだ。
291 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/07(月) 22:32:59
>>288 周瑜と程普は、父・孫堅の時は自分が殿の側近だったのに、孫策が継いでからは殿の側近が周瑜になりチヤホヤされたからじゃない?
張昭と魯粛は身の保守なかりを優先する張昭に対して、魯粛は負け覚悟で開戦してでも闘おうとする忠誠派。
その二人が相容れるわけが無い。
292 :
teisei:2008/07/07(月) 22:34:07
>>288 周瑜と程普は、程普からすれば父・孫堅の時は自分が殿の側近だったのに、孫策が継いでからは殿の側近が周瑜になりチヤホヤされたからじゃない?
張昭と魯粛は身の保守ばかりを優先する張昭に対して、魯粛は負け覚悟で開戦してでも闘おうとする忠誠派。
その二人が相容れるわけが無い。
何故二回言う!
何故二回言う!
程普はそんな小さな男じゃないでしょ。
程公とまで呼ばれている男が。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/08(火) 02:12:04
張昭も張公だったな
カテジナさんだってカテ公と呼ばれてるんだぜ
あれはカテ吉と呼んだ方があってそうだけどな
犬もハチ公と
程普=ハチ公
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/08(火) 16:06:34
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/08(火) 16:37:47
この場合の公は〜じいさんと同じようなニュアンスだろ。
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 00:02:09
2年B組の先公ウゼー
右督の程公うぜー
右翼の抵抗にみえた
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 15:58:59
でも後に認めてたよな
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 17:22:01
>>291 張昭がそんなに保身家なら、旗揚げしたばかりの孫策に身を託さずに、
陳キョウみたいに中原に帰ったと思う。
赤壁時は周瑜と魯粛以外は降伏意見ばかりだったというし(虞翻あたりがどう考えてたか気になる)
中華統一の可能性を感じての降伏論を擁護する意見もある。
あと、孫翊に関する意見からしても、張昭は孫権の能力を疑問視してたんじゃないだろうか。
周喩とロシュクに並ぶ若くて地位もある人物ってその時いたのかな?
頑固老人たちが主に降伏派だったようだが。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 17:32:39
スレ違いかもしれないけど、もう一つ張昭の話を。
いま出先なので正確な話は出来ないけど、張昭伝の注に、劉備が孫策宛に書いた手紙を禰衡に見てもらったという話がある。
禰衡は「そんな文章を孫策のとこの若武者に読ませるの?張昭に読ませるの?」と言い、劉備は恥じた。
で、この話の作者は「このように張昭は禰衡には才能は認められなかった。だがそれでもやはり立派な知識人だった」とか結んでいる。
裴松之のコメントはなし。
これって「そんなに頑張って手紙書いても江南のガキどもには理解出来ないし、
かといって張昭に読ませるにはレベル低過ぎ」って解釈のが自然な気がするんだが、どうだろう。
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 18:03:35
>>308 そもそも張昭ってそんなジイさんじゃないと思う。
あと魯粛はまだ高い地位じゃないんじゃないか?
地方に出てる将軍はともかく、政策決定に関与する群臣や孫権のお膝元にいる軍人の中で開戦を唱えたのが魯粛で、
その魯粛が「周瑜の意見を聞くべき」と言ったんだよね?
陸遜なんかはどこにいて何を思ったのかな?
陸積がかなり若い時期に、群臣の居並ぶ席で末座から発言したことがあるのを考えれば、
首脳クラスしか発言出来ないなんてことはないと思うんだけど。
発言は出来るんじゃないかな
採用はされるかどうか知らんが
呉で有能な人物や武将でそのころ発言が採用されそうというと・・・誰だ?
甘寧や呂蒙とか名だたる武将もその当時は怪しいものだし
そもそも彼らは軍事関係だよな。グホンは左遷されるくらい孫権に疎まれてるし・・・
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 20:17:21
大史慈…は死んでるか。
孫瑜。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 20:58:17
太史慈の有名な最後の言葉
太史慈「お、俺が天下を取るはずだったのにいーーーー!!!・・・・ぐふっ。」
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 21:17:05
しかし太史慈が南に来た経緯って分からないよな。
やっぱり劉備的な曲者だった気がする。
文才あったのは二張でも
張紘の方だしな
外交文書とかも彼の作成でしょ
読むなら紘がやるだろうに
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/09(水) 21:59:55
紘は操の元へ出張中
赤壁の頃の主だった人物の官職を正史からピックアップしようと思ってたらこんなものを発見
ttp://www.h2.dion.ne.jp/~soutenko/sekihekizu.jpg 歴史群像「真・三国志」より、らしい
※凌統は承烈校尉の間違いだと思う
陸遜の竟威校尉って陸遜伝には載ってないけどソースは何だろう?ググっても全然出てこない。
陸遜はずっと山越に当ってたんだと思ってたんだが…
あと、甘寧の当口令ってのが浮いてる気がする
甘寧伝に官位があまり出てないせいだけど。まだ全然下っ端だったってことかな?
>>319 それ全く信用ならんだろ
例えば、厳シュンが横江将軍になるのは魯粛の後を継いでのこと
赤壁のころは騎都尉・従事中郎
逆に、ジュンイクなど数人にだけ「漢」と付けたりしていて、当時の制度について理解が足りていない
陸遜はこのころ定威校尉じゃないかと思われるので、これは誤字かもしれない
>>320 レスd!やっぱり間違いいっぱいなんだね
陸遜は定威校尉もしくはまだ屯田都尉じゃ?って思ってたけど単なる誤字か…なるほど
じゃあ陸遜が陸軍本隊ってのはどこから来たんだろう?
演義じゃあるまいな…
>>316 宮城谷三国志だと、同郷の劉ヨウの元を頼ろうとした、みたいな事が書いてあったな。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/14(月) 21:54:18
当て字の国だからどれが本当かなんてわかんないぞ
韓当最強
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/15(火) 11:47:53
>>322 北の学者のタマゴ連中が戦乱避けて荊州や揚州に移住するのは分かるんだけどね…
上奏文を破った件で北じゃ出世が見込めないかと思いきや、
名士の孔融を助けて感謝されてるから完全なつまはじき者でもないし、
むしろ揚州に来て許劭に斥けられるし、
逆に中原には曹操みたいな実力主義者もいるわけだし。
327 :
322:2008/07/15(火) 19:58:54
>>326 余り詳しくは覚えてないけれど……。
孔融の事は『仕えるに値しない』と見限った描写だった。それで、自分が仕えるに相応しい君主を探して、
とりあえず同郷の劉ヨウの元へ挨拶に寄った、と。当時の劉ヨウは正式な揚州刺史であり、袁術の向こうを
はって勢力を地味に拡大していた。その人となりを見極めるために仕官して、最初の任務が孫策軍の偵察。
許劭の評価ばかり気にする劉ヨウには、そのとき軽く失望したみたいね。んでまあ、その最初の任務で孫策
本人と出くわす、と。
劉ヨウ亡き後独立勢力を築いたことといい、今際の言葉といい、混沌とした江南で群雄になりたかったのかも
しれないね。
スレ違い失礼しました……。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/15(火) 21:26:03
曹操から薬草を送られた大史慈
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/15(火) 22:15:47
>>324 【呉】も正式には【碁】だからね。
魏碁蜀
【蜀】は正式には【觸】
魏は正式には儀
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/16(水) 02:53:35
え!【魏】は【疑】でしょ?
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/16(水) 21:19:51
苦肉の計で黄蓋はムチ打ちされながら勃起してたのが意外だったな。
程普「ワシが鞭打ちの辱めに耐えて火をつけてきてやろう!!」
韓当「いや、その役目、ワシにこそ相応しいわ!!」
黄蓋「いやいや、やはりここはワシがいくぞ!!!」
程・韓「「どうぞどうぞ」」
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/16(水) 21:28:42
周瑜「いかに黄蓋殿とてその意見聞き捨てならん!ムチ打ちの計に処する!!」
黄蓋「その執行人、もちろん可愛いオナゴだろうな!」
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/16(水) 21:51:09
にしおか〜すみこだよ!!
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/17(木) 00:06:25
黄蓋「ぎぃやぁぁああぁああ!!!」
黄蓋にムチ打って喜んでるのは〜どこのどいつだい?
陸遜の次に朱然と陸抗入れよーぜ。
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/18(金) 01:17:24
このブタ野郎!!
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/18(金) 01:25:10
黄蓋「ぎ、ぎぃんもぢいいぃぃいぃい!!!」
施然って何で影薄いの?
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/19(土) 18:47:37
髪も薄いから
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/20(日) 16:18:55
朱然のことだったのか
とういえば呂布はなぜ董卓の養子になったとき
董布にならなかったんだろ?
豆腐みたいだからだろ
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/20(日) 20:18:57
すげえ柔らかそうだな
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/21(月) 00:01:13
丁布にもなってないし
程普はいたからな
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/21(月) 15:43:45
程普の同僚が朱治で、朱治の姉(朱氏?)の子が施然
になるので、養子の改姓がすんなりいったのか?
つーか、親子の縁と跡継ぎは全然ちげーよ。
前者はヤクザ的なもの。後者は先祖を奉る為、先祖を無縁にするのが
古代中国人だと最大の罪とさえ言われてんだから。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 01:40:49
丁原の養子ってのは創作じゃなかったか?
それと、一時期は董布になっていたはずという説もある。
いずれにせよ、本来は同族同姓のみ養子が許されてたらしく、三国時代の養子は倫理的に問題があったらしい。
根っこには宦官に跡継ぎを認めたことがある。
曹操の親父は夏侯氏だし。
で、陳矯はもとは劉氏から来た養子で、嫁も劉氏で糾弾されたが
それを曹操が不問にふしたこともある。
朱然が養子になったのは、朱治の家族が皆殺しにされたための応急策と推察したのは
ニセクロ氏のサイトだったかな?
352 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 03:51:10
呉で施然、愈河
魏で秦真
蜀で弧篤
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 04:10:04
あと劉封(寇封)と王平(何平)も。
秦真ってのは曹真か。
俺がチラ見した本では、何晏についての言及もあったかな。
確かに、もしかしたら曹晏になってた可能性もあるんだね。
そういや、曹操は丁義に嫁をやるのを取りやめて
夏侯尚に娘をやったと思うが、
それってかなりギリギリな行為だ。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 12:24:07
夏侯尚ではなく、もっと出来の悪い夏侯では?
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 13:35:11
楙だったね、スマン。
さらに丁義じゃなくて丁儀だった…
出来の悪い夏侯で真っ先に連想される楙…
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 21:39:37
夏侯一族は優秀なのが多いからな
その中で極めて出来の悪い楙…
夏侯一族は魏と蜀の皇室の縁戚であったが
呉と夏侯一族との関係は?
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/22(火) 21:45:09
曹家と孫家は婚姻関係にあるから、曹家=夏侯家と見なせば有るのかな。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 02:05:47
このデクの楙が!!
張飛も夏候家と縁があるから、曹家とつながりがあり内縁関係だ
張飛は皇室なのか?
皇室とはいわない
劉禅の外戚という
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 08:48:25
張飛と夏侯氏の妻との間の娘が劉禅に嫁。
皇后になってる。
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 08:51:12
張飛と夏侯氏の妻との間の娘が劉禅の嫁。
皇后になってる。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 13:43:51
劉ェは皇室!
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 13:45:52
劉ェは曹家と同属!
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 20:56:47
三国志は壮大な痴話喧嘩なんだよ!
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/23(水) 21:15:29
犬猫の交尾に等しい
こんなに高品質は軍師を保てた呉は卑怯
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 21:10:44
卑怯…何故???
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/25(金) 19:29:22
呉は基本的には名家からしか軍師として用いない。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/25(金) 23:21:35
呂蒙は例外?
呂蒙は将軍。
参謀、軍師だと十八巻が面白い。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/26(土) 02:49:21
>>316 太史慈が劉ヨウに仕えたのは許邵の評価が高かった事や血筋もよくて名門だったからではないの?
孔融>劉ヨウの転職ルートが他にもいることから太史慈もそのとき
一緒に転職してるのかも
劉ヨウの配下の青州人はトウ胤一族といい孫ショウといい後の孫呉で活躍してる人が多い
(この人達がどのタイミングで劉ヨウから孫家に仕えたのか気になる)
劉ヨウの死後じゃないかな
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/27(日) 23:47:22
太史慈が迎えに行った時?
太史慈ってなんか地味な気がする。
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/28(月) 19:16:14
太史慈が迎えに行ったのは、やはり兵士じゃないか?
劉ヨウ軍敗走後、太史慈は丹陽にとどまり
劉ヨウは豫章に向かい、しばらくして病死。
その後、息子の劉基が孫策に帰服するわけだが、その時に一緒だったのかな?
それとも最初に孫策に負けた時に降伏したんだろうか。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/28(月) 21:19:10
>その後、息子の劉基が孫策に帰服するわけだが
それは赤壁戦後では(214年頃)?それまでは劉基は隠居していた。
ごめん、調べずに書いてしまった。
劉基が帰服したのって策だっけ?権だっけと思いながら
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/29(火) 21:00:39
太史慈が劉ヨウ配下を接収した時から粗方は呉に仕えてそうだ。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 01:54:23
醤油顔の周瑜。
ソース顔の曹操
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 12:45:54
ソース顔ってどんなんやねん!
あっ!ブルドック?
塩顔の関羽
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/31(木) 02:02:09
しょっぱい
呉の軍師は張昭か魯粛だろうと思うぞ
あと張昭は曹操にひよった常識的な平和主義者って言うよりも
戦争しても損だからぐだぐだに話を進めて、面従腹背しとけって言ってるだけ
的外れな失策じゃないぞ
赤壁後の呉の基本路線がまさにそれじゃん
つか、張昭の助言を見て行けば、驚異的な的中率
凄い才知の人なんなんだぜ
>>389 それ無理。
南郡の重要性が理解できてないね。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 21:53:02
呉の軍師は張紘
彼がいなければ南都1800年の歴史は無かった
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 21:58:47
なんで?
>>389 張昭の(言ったとされている)降伏論はきっぱりと「もはや曹操を迎え入れる他は無い」とまで言っているのだから、
国境線は断固保持し続けた後の面従腹背とは明らかに違う。
(実際にあれが張昭の言葉なのか、には疑問の余地はあるけど)
そもそも実際に呉王に封じられた時など、正に面従腹背・身を低くして歓待した孫権と違い、
張昭は義憤から使者に公然と食って掛かるなど、やはり本質的に謀略とは程遠い気骨の士だよ。
どっちかといえば多分「九州伯を自称しよう」って言った側だと思う。
別に張昭が平和主義者とも思わないし、『凄い才知の人』にも同意はするけど。
>>390-391 多分劉表が降伏したまま手を打たないということは、
南郡一帯を始め荊州全体を曹操が握ることになるので、
もはや防衛ラインを維持できんだろうということかと。
そうなると形だけ降伏どころか呉領全域の支配権も間違いなく奪われる。
>>392-393 多分「張紘が孫策に示した南方割拠論が、その後の六朝文化を生んだ」的な主張だと思うが、
まぁ大げさだよねぇ
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 19:15:34
魯粛の「俺は中原でも出世できるだろうけど、殿は…」って発言、けっこうウソ入ってね?w
結果として赤壁に勝利し、以後70年間割拠出来たんだから選択は間違ってないんだろうけど、
あの時点で降伏してもよい身分でいられたと思う。
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 19:24:15
張昭は孫権への信頼がないんだよ。
孫策が生きてたら降伏論なんてブたなかったと思う。
>>395 孫権一代に、劉j程度には期待できただろうけどね。食うや食わずやみたいなことはまずない。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 20:24:01
降伏したら、孫権たち一族は偉い役職付けられて
烏丸討伐とか辺境に飛ばされそうな気がする。
張昭・張紘とかの文官は荊州や呉を統治するのに
必要だろうな
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 20:25:38
涙曹操
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 20:28:03
)、._人_人__,.イ.、._人_人_人
<´ 関羽じゃ、関羽の祟りじゃ! >
⌒ v'⌒ヽr -、_ ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: < _,ノ`' 、ヽ、_ ノ ;;;ヽ //
///// /:::: (y○')`ヽ) ( ´(y○') ;;| /
// //,|::: ( ( / ヽ) )+ ;| /
/ // |::: + ) )|~ ̄ ̄~.|( ( ;;;|// ////
/// :|:: ( (||||! i: |||! !| |) ) ;;;|// ///
////|:::: + U | |||| !! !!||| :U ;;; ;;;| ///
////|::::: | |!!||l ll|| !! !!| | ;;;;;;| ////
// / ヽ::::: | ! || | ||!!| ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: : | `ー----−' |__////
>>398 そうかな?中央から遠く監視が届き難い辺境で、
異民族討伐なんて軍閥化の絶好の名分を与えるなんて、
俺が曹操なら一番やらせたくない仕事に思えるけど。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 21:00:47
確かに董卓、馬騰、韓遂、遼東の公孫一族の例があるね
やっぱし中原の目の届くところで監視しつつ、飼い殺し
しかないのかな?妹は曹丕か曹植あたりの嫁か
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 21:28:34
>>393 張紘が秣陵(現:南京)への遷都を提言したからでは?
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 22:30:36
張昭は後見人なのに降伏をすすめたから偉くなれなかったの?
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/02(土) 22:39:13
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 00:28:09
りんごしょうぐん
>>395 統一前だから無理に殺されたりはしないだろうが、統一後は冷や飯喰らいか
殺されるだろうね。
なにせ孫権自身が今まで豪族問題で頭を悩ませてんだから、いざ自分が
そうなったらの予想ぐらい簡単だろ。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 03:30:27
冷や飯食らう、殺される可能性もあるにはあるが、
張魯、張燕、劉ソウなどなど、良い身分で迎えられ、殺されずに済んでるぞ。
あと孫権が豪族に頭を悩ませていたなんて話あるのか?
>>408 よく読め。引き合いに出す人物が違うだろ。
とりあえず、正史読め。
孫権は中央だとコネ有るんだろうか。
先に送り込まれていた張紘が曹操に気に入られてたみたいだし
彼が上手くやってくれたのかな?
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 05:30:38
>>409 もし孫権が降伏していたら、江南からは切り離されて貴族化してたろう。
それなら兵権を握るわけでもなし、殺される可能性はさほど高くもないと思うが。
豪族の部分は答えは無し?
本拠地が江南で、否応無しに地元豪族に気を使う必要のあった孫権と
北方〜中原に位置してる曹操だと、江南豪族に対しての接し方は
結構変わるんでないかい?
>>413 だから地元豪族は必死に曹操から呉を守ったわけで
呉の四姓でさえ、中原政権から見れば一段下に見られるから、鶏口牛後の喩えのごとく呉の貴族でいられる方を選んだわけだ
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 17:07:42
呉の四姓ってのは、陸機が、自分の故郷である呉郡の呉県から人材を輩出した四家を称えた言い方であって
「孫呉で権勢を誇った四大豪族」なんてものじゃないはず。
それと豪族であること中央での出世は別の問題。
>>415 現実に陸、朱、顧、張は呉で権勢を誇ったからなあ
しかし統一王朝晋では鼻にもかけられない扱いで、五胡の乱の時には「夢よもう一度」という声さえ出た
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 17:54:02
>>416 でもそれはあくまでも「家臣」のレベルであって、
王権に食い込むようなレベルじゃない。
>>414 それなら赤壁時に降伏論なんて出ないんじゃないか?
>>414 降伏論は地元含め文官側で
徹底抗戦は平民出身が多い武官側じゃね?
魯粛って策を施したりはしなかったのに何がそんなに凄かったの?
呉を勝利に導くような計略があったわけでもないし・・・
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/03(日) 23:20:20
>>420 「もともと豪族→私兵を養える→武官」じゃないだろ。
「軍功をあげる→兵を預けられる→それに見合った戸/邑を与えられる」だろ。
そうした武官が、曹操に降伏したからって没落するわけがない。
在地豪族にとっちゃ誰が支配者だろうと一緒。
もし統一で割を食う奴がいるとすれば、それは高級官僚や宰相目指す奴等。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 00:45:12
>>421 魯粛は呉を割拠する為の覇業論(孫呉に乱世を生き延びさせ、国として成立させるための策)
を孫権に具体的に描き示しただ一人の人物
周瑜呂蒙陸遜も魯粛の覇業論の範疇で戦略を立てて行動している
魯粛だって私兵囲ってるよな。本人も武芸に長けてるし
甘寧みたく、何人か食客を連れて推参したとか
武功や軍功があったんじゃないかなと考えている。根拠は無いんだけどね
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 07:17:13
魯粛は呉の蕭何みたいなもんか
魯粛はなんか呉の中ではキャラが薄いけど
漫画とかだと必ず出てくるんだよな
赤壁後の疲弊した時代を担っていたわけで
戦をことごとく回避し被害を最小に抑えたのは十分に評価に値するよ
>>427 魯粛の時代の戦を確認してみるといいよ。
呉が戦をことごとく回避なんてしてないことが分かるよ。
魯粛が関羽との小競り合いを押さえてたのは事実だけどね。
429 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 20:38:43
魯蕭
蕭何役は張昭じゃねえの。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/06(水) 19:18:04
いや東部
孫策時代には虞翻もいわれてなかった?
434 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 00:11:34
張昭はその頑固なところが酈食其に近いものがあるかな。
酈食其は項羽か煮られたが
張昭は孫権から家ごと焼かれそうになったところとか
張昭は杜如晦
周瑜は李靖
魯粛は魏徴
呂蒙は李勣
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/08(金) 21:35:15
そういや陸遜も非戦闘民に焼き討ちしたって本当?
嘘
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 00:22:53
石陽は城門閉じた兵士が悪い
曹仁や張遼とおなじことを陸遜がやれなかった、
ということかな。
441 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 12:28:56
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 22:27:14
すまんうろ覚えだった
項羽が煮て田広が食ったと思ってた
項羽が煮ようとしたのは劉邦の親父
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/12(火) 23:29:53
魏の五将軍
蜀の五虎大将軍
呉は周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜に陸抗加えた五呉大都督
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/15(金) 19:15:35
張昭は将軍に任命されているけど
実際に戦場で指揮しているの?
予備役のイメージがあるけど
赤壁の時、孫権合肥の別働隊になっていたと記憶しているがどうだったかな。
あと将軍位って輔呉将軍のことだったら、あれは名誉職のようなもの。
官位と返上した張昭に対して三公につぐポストを創出して遇した、
ということだとおもう。
徐州攻めてたはず
孫策時代は張昭張紘をローテで従軍させてたっていうから
軍事的に暗いということでもないのだろう、と思う。
そんな事より魯粛の予見力が凄過ぎる
独断で劉備を迎えた事か?
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/16(土) 00:14:32
魯粛よりも二張のが重要だろ
劉備を迎えたのはあれだろ?荊州の民は孫権より劉備に懐いてるから劉備に治めさせたんじゃないか?
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/17(日) 02:18:21
魯粛はそこを利用して荊州に多くの「草」みたいなもんを
たくさん送り込んで情報網張り巡らしていたりして
それが最終的に呂蒙、陸遜の荊州の奪還につながっていた
りしたら面白い。
魯粛の他に劉備派っていたの?
魯粛だけでしょ劉備派は
魏を対等に渡り合うには天下二分しかない
最終的に天下二分みたいな形になったから魯粛の予見力はかなりのもの
強いて言えば孫権?
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/17(日) 10:37:56
周瑜の言うとおり、劉備を酒池肉林の世界で骨抜きにしていれば…
『三国志 正史と小説の狭間』っていう本で、対劉備強硬派の呂蒙に対して
陸遜はもともとはそうでもなくてどっちかというと魯粛に近かったって書いてるけど、
特に根拠があがってなくてよくワカンネ
陸遜は劉備が攻めて来さえしなければ攻め倒す気はなかったみたいですよって意味かな
>>458 孫権は「どうせ劉備は何をしても逃げる」と思って採用しなかったんだよね
もっと強引に監禁するとかってわけにはいかなかったのかな
>>459 怒髪天をついた関羽と張飛を相手にすると申したか
魯粛は軍を率いた事はあるのか。
一将軍としての実績はないものか。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/18(月) 00:26:30
あるから横江将軍
魯粛最強説
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/19(火) 23:36:19
魯粛は孫堅の最強パートナーだよ。
二人が組んでれば天下を取れた。
再起興軍できるし。
>>再起興軍
何ですかそれ。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/20(水) 18:53:51
横鎮将軍とかも雑号将軍でありそうだ。
陸孫以外の3人はみんな早死にだよな。
周喩、呂蒙、魯粛、もっと長生き出来たなら歴史は変わったのかな・・・
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/20(水) 19:53:09
周喩、呂蒙、魯粛、短命だったけど呉の明るい未来を信じて
逝ったんである意味しあわせだったかも
陸遜は長生きしたけど呉の行く末に憂いながら逝ったから
不幸だな。
あの3人長生きしてたら、政争、後継者争いとか巻き込まれたり、
讒言で粛清されるような気がする。粛清第1号は周喩かな?
呉や蜀の初期はタイミング良く有力者が死んでるからあまり深刻な政争になってない面はあるな
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/21(木) 23:44:00
陸孫にも突っ込んでやれよ
周瑜を粛清って、孫権にできただろうか
むしろ周瑜が長生きしていたら、劉備らをもっと抑えられたかもしれないと思うのだがどうか
そんな根性あるなら
張昭は3回死んでるな
張昭は滅びぬ 何度でも甦るさ
周瑜・魯粛・呂蒙と政争ねぇ…
周瑜は地盤は磐石で人付き合いも良い上に主君との関係性も深いから、
強いて言えば張昭との主導権争いぐらいだろうが、
一番起きやすそうな主君(孫策)の死亡時に一切揉めてないし、
赤壁で意見が割れた後も、それっきりなんの動きもなかった。
この二人は呉夫人からそれぞれ直接孫権の後見を頼まれた関係上、
孫家とは単なる君臣の間柄を半ば超越した肉親関係に近いものがあるから、
彼らの存命中に政争の類は起き難いと思うぞ。
実際に孫呉で内部抗争が深刻化したのは張昭死後だし。
張昭と孫権ってどういう関係だったのかいまいち図りかねる。
所謂師弟関係だったのか、本気で孫権は張昭を疎ましく思っていたのか。
それとも、自分を補佐してくれるなくてはならない存在だがうっさいじいさん
という感覚なのか。
周瑜の息子が長生きしてたら、孫権の子供と揉めた気がする
つか、二宮の変がもっとgdgdになってたんじゃね?
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/22(金) 18:27:09
>476
孫権に祝辞を述べる事を許されなかった時点で判明してるんじゃないの
元々兄貴が招聘したのは張紘の方で
張昭を後見人に指名したのも死に際に勝手に言われた事だしな。
こう言っちゃなんだけど、「泣いている孫権に服を着せて衆目の前に引き出した」みたいな事があった時点で
孫権からは決定的に嫌われたんじゃないかとすら思える。
張昭の名声ってのは孫策・孫権よりもずっと高い。皇帝になってからもそれは変わらず
孫権自身宮廷から出ればみんなあなた(張昭)の方を尊敬してるって言うほど
孫策が急死したとき張昭が孫権支持を打ち出して国内の動揺も治まったってくらい
だから殺すことも追放することも出来ないし見限られて出て行かれても困る
孫権にとっては頭の上がらない口うるさい頑固爺、張昭ってのはそんな存在
でも、それでいて亡き呉太后を思い出して二人して号泣するという仲でもある。
公私に特別な存在で、まさに愛憎半ばする関係。
孫権の張昭に対する行動も、親に対するような甘えがあり、
張昭は自分を見限らないと分かってやっている部分があると思う。
実際、辱められても孫権から離れなかったから
男版昼ドラですな。
橋田先生なら一本書ける。
484 :
464:2008/08/23(土) 02:53:23
>>482 その他の一般的な士大夫層たちって、
言ってみれば「儒教の経典に忠孝について規定されてるから」忠義を尽くしてるような所があって、
儒学的な大義に則ってる内は忠実だけど、それから逸れたらその限りではない、みたいな部分があるじゃない?
だから主君としては孫呉に従うという大義より、別の大義を担いで離反する可能性を感じちゃうんじゃないのかな。
陸遜たちが『儒教に則って』身を顧みず忠義を尽くすのを見て、
逆に「お前俺より経典に書いてあることの方が大事なんじゃねーの?」と感じちゃう、みたいな。
その点確かに張昭は誰よりも経典に詳しくて五月蝿いけど、
やっぱり肉親に近い情の部分での繋がりがあるから。
張昭と孫策・孫権のエピソードって結構微笑ましい物も多くて好きだ
実際、こんな爺さんに傍にいられたら五月蝿くてかなわんだろうけど
昭和の香り漂う父子の雰囲気だなw
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/28(木) 19:40:26
あの当時、呉あたりは一歩街をでたら
ジャングルだったんだろうか?
>>488 街を一歩出たら豪族の荘園だらけだったと思う
マジで
490 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/01(月) 19:38:04
>>488 山越のジャングルだな
ターザンの山越族が五万と
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/06(土) 11:00:28
山越は、魏の青洲兵みたいに
飼いならせなかったのかな?
ヒント:漢民族
長い時をかけて同化したのを飼いならすと表現するなら
最終的には飼いならしたと言えるんじゃないの
なんかの本で「西部劇みたいなもの」って言ってたなぁ
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/06(土) 20:15:30
即戦力の兵には向かないな
言葉の壁もあるし
南北朝と三国志は社会基盤が全然違う
>>494 ・呉 山越 南海諸国 夷州 亶州
・魏 匈奴 鮮卑 烏丸 高句麗 倭
・蜀 南蛮 五渓蛮
言葉が通じたのか謎だ。
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/09(火) 19:14:49
あまり通じていないと思われ。通訳は必須。
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 04:45:00
諸葛格と陸抗が好き
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 09:06:42
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/13(土) 07:25:38
諸葛格…ズボラ
陸抗…マメ
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 02:02:28
大成したのは陸抗の方か。どちらも子孫が根絶したのが惜しいが。
諸葛恪より諸葛誕のがダメな奴だと思う
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 05:00:37
諸葛誕の子孫は滅びなかったので
諸葛恪よりマシだと思う。
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 18:55:31
諸葛亮や諸葛謹の子孫も滅んでないけどな
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/17(水) 19:46:31
張昭の子孫も絶滅したと思いきや
晋の時代までしぶとく残っているのが凄い
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/21(日) 00:24:11
張震テラカワイソス
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/22(月) 23:01:58
周家は残ったん?
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/22(月) 23:37:05
10年以上前
諸葛孔明の子孫と周ユの子孫のご対面のテレビ番組を見たことがある
孔明の子孫はともかく、周ユの子孫は美周郎の面影はなかった。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 22:50:47
周瑜の子孫:周星馳
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 09:08:49
>>509 美男子の子孫が必ずしも美形とは限らんからね
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/29(月) 01:42:42
周瑜の妻だって何人もいただろうしね
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/29(月) 17:51:08
周瑜の妻で知られているのは小橋のみなので
妾の子でも子孫って言う?
言うんじゃね?
曹丕は(初めは)側室の子だったけど、曹操の直系の子供として扱ってるし
本当の子孫なわけないじゃんw
>>494 確か陸抗だったかの逸話で、やはり配下の中の山越部隊が弱点だったという話があったような気がする。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/30(火) 19:52:08
1800年もたてばそこらじゅう子孫だらけだろ。
>>518 519も言ってるけど、西陵包囲の言葉の中に、
「私はつねづね、異民族の兵士たちが平素より十分な訓練を受けてないため心配している」というのがあり、
敵に寝返った武将からそのことが漏れると察した陸抗は事前に異民族部隊を配置換えして判らなくしたらしい。
でもさ、1800年っていっても100歳まで生きればたかだか18代なんだな。
でもそんなことはないだろうから25代くらいか?
あまり凄く思えない
> 100歳まで生きればたかだか18代
???
100歳で死ぬ瞬間に赤子を産み落とす
ってどこの妖虫だ?
25代でも平均出産年齢72か
1800年もの時が経ってるし周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜すべての血を
ほんのちょっとずつ受け継いだ人間がいる可能性もあるわけだ。
むしろどうでもいい人の血が大半を占めてるわけだけどね
庶民の血なら別にいいけど、董卓の血とかが混じってるのはイメージダウンだな
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 22:38:48
族滅させられたはずの関羽の子孫が残っているから
陸遜の子孫もいるかもしれない
いよいよ11.1上映開始
赤壁
観るよな?
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 23:47:41
レッドクリフ、観るけど…全く期待はしていない。
全く期待はしてないけど・・・観ちゃう。
悲しいサガだな・・・
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 03:43:00
ウー先生だからそれなりに面白いだろう
呉的にはどうなの?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 01:10:34
シュウユ以外Mobじゃないの?
そんな…(´・ω・`)
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/08(水) 12:39:35
甘寧は目立つのかね
映画の無料冊子でレッドクリフ特集があったから読んだけど
スピードワゴンの井戸田が「一緒に酒を飲むなら魯粛。他の武将は凄すぎて緊張するから無理(笑)」って言ってた
しかたないけどね・・
>>537 甘寧出ないんじゃね
なんだ、魯粛つまんないバージョンなのか
獅童はなんで甘寧じゃなく甘興っていう半フィクション武将にしたのかな。
中国語字幕ではまんま甘寧になってるとの話もどっかで見たけど・・・。
まあ黄蓋が活躍するのが見られればもう満足なんだけど。
・甘寧にしたかったけど獅童が甘寧っぽくなかった
・甘寧とは違う設定があったのにどうしても甘寧っぽかった
このどちらかかな?まぁ11月になれば分かるさ
>>539 がっかりだよなー
日本の最近の一部の漫画等では魯粛像は見直されてきてると思うけど、
中国では演義の魯粛のイメージのままなんだろうか?
魯粛面白いバージョンでも、それはそれで楽しい酒が飲めそうだと思うけどなw
やるなら呉はアクが強い演出のほうがいい
ただでさえ強大な魏と人気の蜀に押されて地味になりがちなんだから、
正史の甘寧みたいなむちゃくちゃでオモロー!な一面を見せてほしい
熱中夜話で今度三国志ナイトをやるらしい
曹操ナイトと劉備ナイトはやるのに孫権は無いとな・・
昨日のその時〜でも呉は10分だけだったなあ・・
でもその時〜では赤壁を孫権主人公として扱っていたし、
黄巾の乱、董卓、呂布、司馬炎なんかが名前も出なかったりスルーだったりしたのを考えれば扱いはいい方だった
熱中はだめぽ
545 :
おばさん:2008/10/09(木) 14:31:20
今回も演義系のお笑い担当…尚香に落馬させられて腰さすってるし。ただ役者さんは長身なので見掛けはマシ。昨日は『軍師』と呼ばれ名前もいってもらえなかったなぁ 赤壁の立役者なのに
董卓ですら名前が出なかったからな…魯粛もしょうがない
でも一言名前を「魯粛が〜」と出してくれても良いじゃない とは思ったな
547 :
おばさん:2008/10/09(木) 15:05:37
顔が出ただけよかったが、やはり淋しい。試写会行って字幕版見たから、前売り券のほうは吹替え版に使用するわ…魯粛さん 総参謀だそうだが、初めて聞いた。相変わらず演義系は扱いがどっちつかず。文官扱いなのに、都督になれるのかね。
中国人は正史で作ろうとはやはり思わないだろうからなぁ
面倒くさいだろうし、色々受け入れたくない部分もあるのだろうし
日本人が戦国時代を俗説で作るのも一緒だな
正史で作っても、誰もそれを三国志とは認めないのだろうしな
>>548 無双、アニメ三国志、「中国では」ではなく
世間のニーズとして演義が求められている
それは当然で演義は娯楽作品
娯楽作品として転用されるのは当然だな
例えば蒼天航路のアニメ化があったとする
正史に正確な描写をしましたと改変されて喜ぶ
蒼天航路のファンは少ない
蒼天航路は元々そんなに演義じゃないほう
どちらかと言えば正史寄り
553 :
おばさん:2008/10/10(金) 09:59:26
何か年を経た?せいか、やたら無意味にバタバタ殺されて血がでるシーンを流されても面白くないんだよね。ジョン・ウー版は多すぎると思った。
いや、掃天は正史寄りどうこうって話じゃないだろ
五伍呉
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 20:47:46
何か呉の軍師のスレではない流れ
ついさっきまで魯粛の話が出てたではないか
558 :
おばさん:2008/10/11(土) 00:35:55
part2には呂蒙や陸遜は出るのかな?1にはいたかも知れないけどよくわからんかった。呉は、いつも扱い淋しい。
呉の最強軍師は張昭
あとは、血気盛んなはな垂れの若造
魯粛がかろうじて軍師っぽいが
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 14:36:55
軍事嫌いで実際に軍を率いてはパッとしなかった
張昭のどこが最強なんだ
鉄壁の土壁で孫権をシャットアウトするあたり
>>561 フイタw
軍師としてはともかく、ある意味張昭が最強なのは同意w
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 20:14:34
頑固というか、石頭というか
頭突きなら三国一かもしれん
>>560 帷幄にあって謀をめぐらす軍師がなんで
ただの司令官の真似事が必要になるだろうか
劉邦の軍師と言えば張良だが、張良の軍事下手は有名
張昭の助言は的確で間違えが無く、何事をもっても相談を受け
三顧の礼で迎えられ、次代を託される
まさに呉において、第一の軍師と言える
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 00:26:10
↑
確かに。孫権の暴走も張昭が死んだ後かららしい。
陸遜でさえも晩年の孫権を止められなかった。
逆を言えば、こういう人物が居ないと孫権はダメだったということ。
>>564 まず張昭は「荊州を降した曹操には最早対抗できない」という助言が外れるなど、
「間違えが無い」わけではない。
「何事をもっても相談を受け」と言うが、赤壁以後はむしろ外征問題に関しては、
私的に相談を持ちかけられた形跡が殆ど無く、荊州問題について密かに事を謀った呂蒙らとは違う。
というか張昭は参謀としては明らかに孫権からの信頼が低く、
「張昭の計に従っていたら乞食同然になっていた」とからかわれるほど。
「三顧の礼で迎えられ」というのが主君自ら丁重な礼を持って招いたという意味の慣用句として捉えても、
孫策が自ら粘り強く説得にあたって陣営に迎えたのは、張昭では無く張紘。
こちらは孫策に説いた長江流域割拠論や地勢面からの首都遷都など、参謀としての働きも中々。
それとも張昭が一度家に引きこもった時のやり取りを指してかな?
そして張昭は残念ながら孫権よりも早く亡くなってしまったため、「次代を託されて」はいない。
以上の点から「呉において、第一の軍師」とは言い難いと思う。
結論
「外は周瑜、内は張昭」でよくね?
>>566 1)その後、孫権は曹操にくだった。必ずしも投機的軍事主義が正解ではない。
2)孫策には軍師として参謀として絶大な信頼を得ている。
孫権は助言を受け入れず、投機的戦略を採り手痛い失敗をしている。
このことにより孫権は孫策より器が小さいとの批判もある。
3)孫策は張昭の母親に挨拶に行くまでに礼を尽くしている。
4)孫策と呉夫人の絶大なる信頼による依嘱を受け、次代の若造である孫権を補佐した。
張昭が居なければ呉という国も無い。
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 01:12:47
>>565 孫権の暴走を止めてたのは実は虞翻
張昭が生きてても夷州亶州とか公孫淵とかで暴走してるだろ
全ては虞翻が交州に流されてから
孫権が星野仙一なら張昭は島野育夫。
張昭あっての孫権。
>>570 虞翻自らの暴走で、孫権の暴走癖を抑えていたのでは?
ちなみに、虞翻を流した事に関しては、孫権の暴走ではないな。
極めて妥当な処置。
>>568 張昭ははっきり「荊州が降ったため水軍の優位もなく、軍事的にも抵抗できないので降伏するしかない」と言ってる。
これが実際に退けてる時点で「水軍の優位もなく、軍事的にも抵抗できない」という前提が間違っていることはハッキリしてる。
しかも張昭は赤壁当時から「曹操は逆臣で間違いない」と断じてるように、
これ以後は一貫して対曹操強硬姿勢に転じている。彼の政治信条からしても赤壁の判断は過ちとしか言えない。
>>564の「張昭の助言は的確で間違えが無く」この時は的確でもなく、間違いだった。
まず張昭の信頼は孫策時代も張紘と同格。
そもそも孫権時代には信任を受けていなかったのに異論はないようなので、
>>564「何事をもっても相談を受け」は少なくとも孫権時代には当てはまらない。
張昭は雇った後の待遇の話しだからやはり三顧の礼の対比としては張紘の方が相応しいだろう。
ちょうど隆中対にも対応してるし。
孫策から孫権を指して「呉の次代」だとは思わなかったが、それなら納得。
まあ張昭は始め孫翊を推してて、死ぬ間際に孫策が半ば強引に孫権を就けたという経緯もあるけど。
とりあえずまだ「まさに呉において、第一の軍師と言える」と思ってる?
>>573 思ってる。間違いなく呉においての軍師第一人者。
劉邦における張良、李世民における房玄齡。
孫策の軍師と共に初期より謀を起こし国を作った。
言動も正義を旨とし、直言で的確。
水軍の優位もなく、軍事的にも圧倒的不利なのは間違いない事実
不利なんだから、名分を持つ曹操に面従腹背する。
これ以後も不利になれば曹操に官位を得、くだっているじゃないか。
同等ではあるが張紘は次席であったとそのまま書かれているじゃないか。
張昭も孫策以外の招きに応じず、投獄されている。
それと張紘は孫策の招きに応じず三顧してるエピソードあるの?
孫策が張紘を招く時に3〜5回出向いて招いたとの話があったはず
そもそも、孫策が張昭の母に挨拶したのも張昭を招くための手段の1つ
張昭の立場は孫権の後見人ってのが一番しっくりくると思うが
やはり、軍師はスレタイの4人の方が納得できる
>>575 張紘の三顧の礼が見つからない。詳しく。三府から誘われた事?
母の件は孫策が張昭を誘う為に誠意を尽くして登用した事を言いたいんだから
特に問題なくね?
孫策の軍師と言えば張昭、張紘。
特に張昭は二代において軍師として仕えた。
呉なんだから孫権限定しなくてもよくね?
周瑜ですら孫策時代は親友にして知将ではあるが軍師ではない。
特に呂蒙は軍師って感じしないし。
魯粛は軍師の器がある。もう少し長生きしてほしかった
陸遜は師ってよりは部下って感じ。
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 10:35:58
>周瑜ですら孫策時代は親友にして知将ではあるが軍師ではない。
いやいや、対劉ヨウ戦では親友にして知将にして軍師の大活躍。
578 :
おばさん:2008/10/12(日) 11:18:08
張昭・周瑜が主君として孫権を拝したから、皆が従ったのは有名だし、張昭は長生きした分、よく仕えたんだろうけど、孫権本人は嫌ってたよね?どうしても丞相にしなかったけし。能力と好悪は別だから難しい。
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 11:43:40
孫権、張昭は項羽、ハンゾウみたいな関係?
ハンゾウは途中で見限ったけど
>>578 丞相にしなかったのは張昭の権勢が強すぎたせいではないか?
孫権に権力集めないといけない時期に、主君と喧嘩し文官が主君より敬う丞相ってのはまずいだろ。
劉ヨウ戦で知将や軍師っぽい働きなんかあったっけ?
>>574 まず「水軍の優位があった」ことは緒戦に大勝してこう着状態に持ち込んだことで証明済み。
そしてなにより後の降伏の時は儒須の戦いで一歩も退かず、国境線を一切跨がせてないからこそ、
形式上の降伏と事実上の独立ということが可能だった。
対して張昭らの降伏論は、「戦力的に曹操を退けるのは不可能だから、曹操を迎えれるしかない」とまで言ってる。
どうして曹操の軍隊を自国に迎え入れた後も、面従腹背で〜なんてことが可能だなんて思えるんだ?
どう考えても孫権軍は解体されて二度と抵抗はできないし、
張昭本人だってそんなこと判りきってるから「面従腹背で〜」なんで言質は全く滲ませてない。
「同等ではあるが張紘は次席であったとそのまま書かれている」箇所は、孫策伝、張昭伝、張紘伝を見ても、
何れも「同様に参謀格に招いた」程度の記述しかありません。
>>576もそうだが孫策伝の注を読めば、
孫策江都に居たころ、しばしば張紘の家を訪れ、非常に熱心に説得する姿は容易に発見できるはず。
それこそ「そのまま書かれてる」からね。
張昭の処遇で母を訪ねることをよっぽど高く評価してるみたいだが、
そのまま張昭伝に「同年代の旧友のごとく」とあるように、母親に挨拶するのは友達づき合いの一貫。
他にも呂蒙と甘寧、魯粛や周瑜と孫策など、私的な付き合いとしてあの地方では割合一般的な行為。
「師」としての敬意とは言い難い。
二代において仕えたのは張昭だけじゃないし、
そもそも張昭に軍師としてどれだけの功績があると言うのか、具体的に挙げてみてくれ。
絶対にそれ以上のモノを出せる人間が他に居るから。
583 :
おばさん:2008/10/12(日) 12:42:02
それもあるが、煙たかったんだろう。若い頃と違って根に持つ悪い癖が、出て来た時期らしいし。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 14:21:05
甘寧は張昭は蕭何のような役割だと認識してたらしいな
孫策時代は周瑜は荀イクみたいに留守番やっていた印象が強い
もちろん、一番信頼できるし実力も申し分ないからだろうが
>>579 項梁に「甥を頼む」と遺言された范増みたいなものだね。
兄と母がつけた後見役だから孫権は張昭を切れないし、
兄と母にの死の間際に頼まれたから張昭は范増みたいに孫権を見捨てることはできなかった。
まあ、一回ストライキを起こしたけど。
>>582 面従腹背はその後の呉の行動指針にあるから察する
自分の考えにすぎないのでこれは訂正する。
評に、張紘は張昭の次に礼遇されていたと書かれている。
軍師としては、行動を起こす時に必ず相談したとあるし
軍を起こす時は張昭か張紘を連れ立ったとある。
また師友の礼に遇している。
信頼はともかく、階級が張昭>張紘だったんだから、次席でも間違ってなくないような
どの時点の事を言ってるのか分からんけど
女性大好き
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 17:38:42
そういやこの面子って司馬懿と交戦した奴いる?
陸遜ってよ周瑜呂蒙に比べて軍事面の評価高すぎないか?
みんなどんな評価してる?
>>590 可能性があるのは陸遜だけだが、部下同士が小競り合いぐらいまだしも、まともにはやりあっていないはず
>>591 俺は軍の総帥としては周瑜には及ばないと考える
593 :
592:2008/10/14(火) 18:29:22
言葉が足りてないので補足
部下同士が小競り合いぐらいまだしも、×
部下同士が小競り合いぐらいならまだしも、○
594 :
おばさん:2008/10/14(火) 18:32:21
諸葛瑾が司馬懿と対陣しなかった?
>>594 石亭の戦いの前ぐらいに司馬懿が張コウ伴って荊州方面に攻めてきた時だよね?
あの時は小競り合い程度だったと思う
596 :
おばさん:2008/10/14(火) 23:29:33
諸葛兄弟は、兄弟揃って実戦苦手だから…特に兄は手堅すぎる人なのに、あの司馬懿と対陣するなんて。記憶が曖昧だったのでありがとう。
百戦錬磨の朱然や孫権自らが出張っても
司馬懿相手には捗捗しい戦果は挙げられなかったし
随分前に見かけたレスであったが、
国 英 数 社 理
96 78 97 99 94
って並べると、何故か英語が苦手に見えると言う奴だな
嫌な記憶を思い出させるなよ……
601 :
おばさん:2008/10/15(水) 14:57:48
卓越した行政手腕に比して…まぁ司馬懿が凄すぎなので。私は魯粛が三国志の中で一番好きだけど、残念ながら実戦は経験不足だから、諸葛兄弟と同じで他の華々しい功績よりは、淋しいょ多分。
だったら「苦手」ではなくて「他に比べると経験が少ない」でいいだろうが
まぁまぁ・・。
アレだろ、五虎なんかが正史と演義のギャップで物凄くイマイチに見えてしまう様なものだろ?
兄弟揃って軍のトップになったってのが優秀な証拠じゃないかな。
弟は、周瑜と同じで軍師というよりは軍の総帥として優秀なイメージがある。
魯粛は個人的な戦闘力では高いだろ
ちょうど糜竺みたいに
ただ彼の場合は小規模な軍勢を率いるのは常に訓練していたそうだな。
当時の金持ちは自衛手段として武芸や部曲を率いる能力は不可欠だったんじゃないの
605 :
おばさん:2008/10/15(水) 20:57:40
確かに撃剣・弓術を好んでいたし、狩りと称して若者集めて軍事訓練はしてたから、文弱の徒ではない。体格も人並み優れて立派だった。でも、本格的野戦は…。
>当時の金持ちは自衛手段として武芸や部曲を率いる能力は不可欠だったんじゃないの
の、割には村の長老から狂児扱いだけど。
それは惜しげもなく金をばらまいた事への評価だろ
608 :
おばさん:2008/10/16(木) 09:22:49
自分自身は質素に暮していたが、田畑切り売りしてまで、交友を大切にしてた。現代でも、「あそこの息子大丈夫?あの財産家もおしまいだな。」って言われそう。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 13:04:22
軍師つーかヘッドコーチみたいだよな、呉の軍師。
全権掌握みたいな。
そんだけ孫権が実は頼りなかったんだろうか。
実際リクソン亡き後は無茶苦茶だしなこの人。
>>609 全権掌握ってのは確かに。ただ、全権もてたのって魯粛と呂蒙だけじゃないかな。
周瑜と陸遜は孫権に足引っ張られてるように見えるが。
孫権の行動が有害レベルに達するのは張昭と諸葛瑾の死後だ。
残念ながら陸遜では諌められなかった。と、言っても陸遜って荊州にいたからな。
孫権って荊州奪取の時も指揮系統の決定で呂蒙にぶちきられてから、
そばにいて誰かがコントロールしないと元々ダメだったんじゃないか。
>>610 基本優秀だけど粗が多いよね
孫策の遺言もそういう視点で見ると
「人の言うことは聞けよ?」って風に思える不思議
呉は地元有力豪族の連合体の上に孫氏がのっかってるとよく言われるけど、
孫権と陸遜との間の意思の疎通がうまくいかなくなったのも、
孫氏と豪族との間における主導権争いが影響してたのかな。
もともと孫氏と陸氏の間には孫策と陸康の絡みがあったんだし、
ふとしたことでギクシャクするのは仕方ないことだったのかも。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 15:24:45
>>612 その辺の事情がよくわかってない、悪くいえば三代目のボンボンみたいな勘違い視点で見てたってこと?
みんな無条件で俺の手下、みたいな。
もしくはアスペルガーみたいな、ちょっとした偏向癖があったのかも。
豪族の力が強大すぎるのを実感していたからこそ、
孫氏一門に主導権をある程度確保しておきたかったんじゃないかな。
何をやるにしても臣下(豪族)の顔色を窺うのでは、
経験の乏しい帝が立つと何もできない状況に陥るだろうし。
ただ、こういう大義名分的な見解だけでなく、
孫権の場合は彼自身の性格にも起因しているだろうことが否定できないけどw
でも俺孫権好きだよ
軍師ってのがスレタイの4人のことだったら全権掌握ではないと思うがなぁ
荊州方面を取り仕切ってたから、演義に語られるような目立つ部分は掌握してたんだろうけど
孫権の姿勢を最初から最後まで一概に語ることはできないと思う
最初の頃は結束が緩いのを自覚していて、部将、特に非豪族に心を砕いて手厚くしていた
そのへんが「豪族の連合体」と言われる所以でもあるだろう。後半はそうでもない
呉王、皇帝と、力をつけてくると徐々に自分に権力を集中させ晩年のアレに至った
若い頃周囲に気兼ねし苦労した分反動が出たのかもしれない
もちろん、周囲の人物が死んだことも大きいと思うが
>>612 上3行、陸遜は呉県の四姓にすぎず、主導権争いというのはないだろう
豪族でも朱然とか凌統とか、孫権が仲良くした人もいる
研究者の中には陸遜を豪族の代表か何かのように考える人もいるようだが、考えすぎだと思う
下2行はあると思う。ただ、朱然伝に「陸遜が死去すると功臣名将で生きているのが朱然だけとなり、
礼遇は他に並ぶ者が無かった」と書かれていることからすると、
陸遜も才能を愛されて大事にされていたのではないかと思う
>>613 それはあまりにも悪く言いすぎ
でも、人の好き嫌いは激しそうな気はする
>>616 ただ、陸遜が死亡する前頃でいえば、陸遜が確かに豪族、名士たちの一方のリーダー格だったのも事実でしょう
それは孫氏とも名士(張氏)とも他の豪族(顧氏)とも姻戚で、軍事的功績もあり政治的地位もある、という「豪族の代表」どころじゃない影響力だけど
>617
> 研究者の中には陸遜を豪族の代表か何かのように考える人もいるようだが、考えすぎだと思う
は、「203年に陸遜が仕官したことは孫家と豪族の和解を意味する」とまで言ってる研究者のこと
陸氏と豪族を結びつけて考えすぎる意見には自分は同意できないよ、と言っているだけで、
そりゃ後半は陸遜はリーダー格だよ
地元豪族のリーダーと捉えるか、臣下のリーダーと捉えるかの違いか?
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/18(土) 20:56:56
>陸遜が死去すると功臣名将で生きているのが朱然だけとなり、
呂岱とか全jとか歩隲とかは功臣名将ではないのか…orz
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/18(土) 22:21:51
朱然に較べると軍事では全ソウと歩隲は見劣りするな
丞相と大司馬だけど
呂岱はやたら長生きしてる割に何か地味な気がする
何歳頃まで現役だったんだろ?
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/18(土) 23:34:07
呂岱は161年生256年没で
孫亮の時代も現役だから
96歳で死ぬ直前まで現役バリバリの
黄忠もビックリのおじいちゃん
>>620 「こいつらは一緒に戦場で苦労した仲間だぜ!」的な意識があったのかなー
と思ったり思わなかったり
呂岱は交州が主戦場だから地味な印象なのかな?
朱然が殿軍につくと魏が追撃やめたってほどだしな。
やはり、当時から知名度の差が
そういや、このスレの4軍師は他国からはどんな評価だったのだろう。
関羽を捕らえる一員で夷陵でも劉備を追撃してるしな
考えたら呂蒙と陸遜それぞれの死後も軍事を取り仕切ったし
>>625 ・周瑜
曹操「周瑜に負けたのだから恥とは思わない」
王朗「江淮を代表する傑物」
劉備「天下智謀の士」
「文武を備えた万人に優る英雄」
その他にも中原に周瑜の名声が聞こえる様は散見できるので、
その手の話題ならやはり周瑜が事欠かないかな。
次いで陸遜、呉の大黒柱として内外に知られてた。
魯粛・呂蒙はちょっと思い当たらないが、まぁ全く知られてないなんてこともないでしょう。
周瑜タンハアハア
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/20(月) 22:40:09
黄蓋って名前売れてなかったのかな?
何で投降が受け入れられたんだろ。
現代の常識的には内通を疑うものじゃないのか?
>>629 許ユウと張コウの投降で勝利した曹操にとっては自分に投降してくるのが常識なんだよ
思い上がりともいうが
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/20(月) 22:50:37
>>629 周瑜と程普の仲の悪さは遠くにも聞こえていたので。
程普側の黄蓋が周瑜と仲違いしても別におかしくない。
程普はあまり評価されてないような気がするんだよなあ
程普、黄蓋、韓当の3人は孫堅が董卓と戦った時に中原で知られてた可能性はあると思う。
呂蒙は魏に侵攻してるし侵攻も防いでいるので知られてるとは思うが孫権の手柄になってるかもしれないな。
関羽は呂蒙警戒してたとあるし蜀側には知られてそうだ。
魯粛が一番哀れっぽいな。外交は魯粛の手のひらの上で軍事も関羽との睨み合いで押さえ込んだのに。
まだ無名の陸遜が関平を殺すしな
黄蓋も韓当も孫堅時代には別部司馬どまり、多少の手柄は上司や孫堅の手柄になってるんじゃないか?
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/21(火) 14:40:40
廖化なんかは生き残ってるんだし
関平が殺されたとも限らんよ
637 :
おばさん:2008/10/21(火) 17:44:12
長年の疑問です。魯粛って文官?レッドクリフでも文官の服着てたし、鎧姿見たことない。まぁ文官でも何とか将軍の位、皆持ってるけど。演義じゃまるっきり文官が都督兼務。他の三人は武官が主で、オマケで内政見るって感じだけど、彼は文官が主のよう…
>>637 三国志において文官と武官を分ける事はできません。所詮、イメージで分けてるだけです。
張昭も軍を率いて魏に侵攻した事があります。
魯粛が文官のイメージなのは、軍事的功績が呂蒙に喰われてるせいでしょう。
というか、レッドクリフって赤壁前後の話しでしょ?
それならそもそも魯粛は正式に官位を貰って雇われてるわけでもない、
食客待遇だった時期だからじゃないの。
客分として遊説に走り回ってる時期を見れば、そりゃ文官に見えて当然。
その後は赤壁を契機に奮武校尉→偏将軍→横江将軍と軍事畑を歩んでると言っていい。
その手腕の程はあまり芳しくなかったようだが。
638の人は『軍事的功績が呂蒙に食われてる』と評したけど、
むしろ呂蒙らのサポート抜きでは職務にたえられないだろう。
甘興ってそもそも誰よ
641 :
おばさん:2008/10/21(火) 20:01:26
そういう位置ですか…ありがとうございます。レッドクリフじゃ、左右督と賛軍校尉に任じられる時、周・程が武官の衣装で魯が文官の着てたもので。中国の正史にそった本には周・魯・陸を『儒将』という名で一括りにしてありました。
何でもやらないといけなかったのですね
諸葛亮や司馬懿なんかいい例だけどね。
もっとも、奴らや周瑜なら一国のボスさえつとまりそうだが。
>>639 何で?
サポート抜きでは職務に耐えられないとか以前の問題だろ
呂蒙も魯粛も地盤のない孫権の子飼いなんだから
魯粛単独でそもそも何もできねーよ
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/21(火) 23:33:54
甘興は多分、甘寧がモデルの架空の将軍。賊出身の設定だし。獅堂頑張ってたょ 何でわざわざ架空の名にしたかは諸説あり
レッドクリフに出てくる魯粛がかっこよすぎてもう…
関興の間違いじゃねw
647 :
おばさん:2008/10/22(水) 15:00:27
魯粛役の人が背高いし、今までで、一番姿がいいような(実写・アニメ・マンガ込みで)実年齢に近いせいでしょうか。でも、あの落馬するシーンは…腰さすってるし。お笑い担当?part2は、例の10万本の矢あるみたいですね。
>>643 「軍事的功績が呂蒙に食われてる」に対して、「その手腕の程はあまり芳しくなかった」ために、
「むしろ呂蒙らのサポート抜きでは職務にたえられない」だろうという話しの、
何処の部分を疑問に思って『何で?』と言っているのかイマイチ判らないので、
冗長になるが改めて639を頭から詳しく解説すると、
@『その手腕』の『その』は「軍事的功績」を受けての『軍事的(手腕)』のこと。
A「あまり芳しくなかったようだ」の根拠としては、
例えば同じ時期の魯粛と呂岱がそれぞれに二箇所の反乱軍を攻めた際、
難なく敵軍を降し昇進した呂岱に対し、魯粛は包囲するも逃げられ昇進した様子も無い、
といったような逸話はあるのに、魯粛の具体的な軍功については本人の伝にも書かれていない。
これらを考えれば、他の同僚・部下に比べ魯粛には軍事的功績を立てるための軍事的手腕に欠けていたと推測できる。
B「むしろ呂蒙らのサポート抜きでは職務にたえられないだろう」というのは、
Aを受けて、呂蒙に功績を食われたどころか、呂蒙ら優秀な軍人の支えが無ければ、
軍事的手腕に欠ける魯粛は、都督としての重責を担いきれなかっただろう、と結論付けた。
多分これで
>>639で言ってること自体は理解してもらえると思う(納得できるかは別として)。
子飼い云々などを見ても、そもそも我々はお互いに話しが繋がっていない気がする。
>>648 いやだからサポート抜きって前提で考える事自体が不可能つってんだが
1001が董卓だとするとコージと田淵は李儒あたりか
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 07:54:20
星野の監督就任は嫌だが、どうしてここで?
星野はWBC監督を固辞するって記事載ってたから、お前らが署名しなくても
監督就任は無い
( ゚Дメ) 654
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/25(土) 20:25:13
野球は呉よりもマイナーなんだから他所池
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 23:39:24
上海は中国国内で最も人口密度が高い都市だな。
三国志の時代の呉はどうだったのか?
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 01:46:58
ジャングル?
唐の時に上海の前身となる村が出来たと書いてるしほんとになんもなかったんでは。
そもそも、この領域の重要度が増すのは春秋戦国時代の時ではなく三国志の呉からだし。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 07:20:49
呉の弱点のひとつは、人が足りないこと。人材というより人口が…
>>657 ジャングルって言葉のイメージに合うほど暑くないと思うけどね。普通に米がとれる気候だし
>>658 上海は三国時代は海底だから1行目は根拠にならないよ
土地が余って人が足りなかったのは間違いない
山越を鎮圧してもまた山に隠れられてることからすると、最初は未開の山林が多そう
人狩り(山越)してきて開墾させてたわけだから、呉の末期は大分開発が進んでたんじゃないかな
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 19:56:14
>>658 春秋戦国時代は、江南は異民族の領域に近かったからな。
重要度が無かったのもあるが、純粋な中華の領域ではなかったと言った方が近いかも。
>>661 ンなこと言ったら純粋な中華なんて中原だけだぞ
西周の本拠地自体が純粋な中華じゃないし。
「赤壁ストライブ」読んだ。
エキセントリックな周瑜もアリかと思った。
エキセントリック エキセントリック エキセントリック 壮年 周瑜
今日も赤壁が真っ赤なのは
エキセントリック 壮年 周瑜 がいるからさ
早いぜ 早すぎるぜ 周瑜の寿命
配下も充実 うれしいな
仕置きの時間さ
(黄蓋 降伏!)
呼べば答える腐れ縁
しなびた味方だ
人畜無害の張昭
>人畜無害の張昭
ウソだ!
赤壁ストライブは魯粛のキャラデザが秀逸だと思った
凌統も性格が正史っぽくて良かった
呂蒙の髪型は無いわー…
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 18:05:36
最近は周瑜が好戦的に描かれる話も多いな。
ストライブは陸遜が嫌いだ
まあ龍狼伝の呉に較べればどちらも許せるがね
陸遜と周瑜はイマイチだったなぁ、ストライブ
陸遜はああいう役目でもないと赤壁に登場する理由が無いから仕方ないかもしれないが、
周瑜は美酒を飲んだようには思えない感じで残念だ
でもこの作者にはすごく期待している
主人公替えても替えなくてもいいから呉の続き描いてくれないかなー
元々呉好きってわけじゃないみたいだから無理か
アンソロジーでも呉の漫画描いてたぜ。
三国志マガジンじゃ孫権と陸遜の漫画を描いてた。
どうでも良いが陸抗と吾彦と孫皓の繋がりが好きだ。
671 :
大司馬司馬氏:2008/11/01(土) 01:38:27
同格の周氏が、孫氏の軍門に下った洗濯
敵格の陸氏が、孫氏の軍門に入った宣託
ともに偉大であり
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 06:42:39
>陸抗と吾彦と孫皓の繋がり
kwsk
ごひこって誰?
われひこだよ、あれ
吾彦はごげんと読まれ
卑賤の身から陸抗に見出されて
主君のために体を張るか家臣の前で試し証明させた。
晋の侵攻を察知して上表し防衛するも
陥落したために降伏する
司馬炎にも孫皓を庇う意見をしている
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 20:30:32
吾彦て長生きしたんだね
だからごひこって誰さ
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 22:33:22
施績って朱然の後を継いだの?
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 20:23:41
継いでから元の姓に戻ったのでは?
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 23:02:30
朱然が生前に施の姓に戻せと遺言があったのかな?
他に朱の姓を継ぐ人いたのかな?
>>681 朱然が施姓に戻りたかったのに孫権に許されなかった経緯を知っていれば
遺言がなくても戻りたがるだろう
施績の代になってやっと許されたというのは、もしかしたら朱然の代では
適当な朱姓の後継者がいなくて(若すぎるとか)、施績の時には環境が整ったのかもしれない
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 03:05:57
>>682 後継者もなにも朱治伝に書いてあるんだが。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 00:35:07
朱治の長子が継いでた
次子は孫策の娘を娶ってるんで
さすが呉の四姓だなと思った。
呉の四姓の朱家は朱桓の方の一族だべ
朱治は丹楊郡の人だから呉県の四姓のわけがないんだぜ
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 00:49:52
有名な人物で呉の四姓っぽいけど
違う人は他にもいそうだ
つーか呉の四姓に夢見すぎ
陸忠は本物だと思うけどな。生き様が激烈すぎる。
顧厚も妥当じゃね?
張文と朱武は前の二者と比べると…
つ 顧譚
こいつさえ居なけりゃ、二宮の乱ももう少し着地点があっただろう物を。
>>692 それを言うなら直接の主に対しては忠だけどかなりの不義不忠者の陸胤を
>>693 結局どいつもこいつも看板に偽りあり…か。
二宮は大虎がいるからどの道無理かと
陸遜、抗は言うに及ばず。
胤の場合は忠=正直では無いわけで
全て孫呉の為の行動とは言わないが不忠ではないでしょう。
本文だけ見れば不義ということもない。
凱も孫皓廃帝疑惑があるけどよく忠義を尽くしたといえる。
う〜ん顧譚に厚は似合わないな・・・
讒言が増えるの言は正しかったけど。
顧雍、邵、悌がいるから看板に偽りありとまで言わなくても・・・
活躍したのが張温一人の張氏がどうしようもなく浮いてる
数合わせでコイツ入れとくかって感じだったんだろうな
呉の朱氏の先祖は朱買臣であろうことはほとんど言われないなあ
あと、厳白虎って姓が「厳白」なんじゃないのかねえ
名は「虎」だったみたいだからな
699 :
大司馬司馬氏:2008/11/13(木) 01:41:28
まじ?
なら厳顔はどうしる?
司 馬昭
諸 葛亮
刑 道栄
は
>>696 孟子流の「社稷の臣」なら民のために暴君を除くのは肯定されるんじゃね。
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 23:08:43
顧栄で顧厚
AMO's STYLEって言う服屋を見て思わずにやけた
服というか女の子の下着だ
刮目せよ!
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 09:03:17
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 16:39:08
陸遜ちゃん 〜ラブリー軍師の秘密〜
歩隲や厳o
すみません、コーエー三国志における周瑜の能力値が知りたいのですが、教えていただけないでしょうか?
それかどこか載っているHPなどありましたらよろしくお願いします。
あと1からの顔グラフィックもありましたらお願いします!
ググレカス
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 01:59:51
周瑜は能力値では語り尽くせない程の魅力的な人物だよ
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 02:04:21
周瑜がいなければ今頃は三国志は存在しなかったとおも
ちなみに諸葛亮がいなくても劉備の蜀入りはできたとおも
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 10:30:29
戦争がなかったら
周瑜 美周郎 音楽やって女にもてる。魯粛はパトロン
呂蒙 呉下の阿蒙覚醒せず 魯粛のところに押しかけ用心棒 警備料請求
陸遜 呉の四姓の希望 中央を志す 政治活動資金は魯粛から捻出
魯粛 資産家 3人から多額の金せびられる。
周瑜はものすごい普通に出仕して
洛陽の県令とか勤める気がする
で、
ライス国務長官みたいに、たまに隠し芸大会なんかで
なにか弾いたりする。
魯粛は・・・どうするんだろう。
世が平和だったら、意外と地元の顔役として平凡にすごすのかも。
あーでも揉め事に巻き込まれに行ってなんやかんや小競り合いはあるかな
阿蒙覚醒しない
陸遜は陸議
呂蒙が覚醒しないってのもどうだろうか?
呉下の阿蒙 のエピソードは赤壁以後のものらしいから少なくとも将としての才覚はその点では十分だろう。
呂蒙が身に付けたのは名家に認められる教養ではないのか?
呂蒙の足りない部分を諭してくれる上司の下につけば覚醒する可能性は十分あるだろう。
見出される以前のもともとの上司がアレな人だから、張昭が北から流れてこなきゃ埋もれたままだったろうさ。
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 04:11:58
袁術や呂布が人材に声かけてるが
誰か付き従うのかな
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 06:38:30
名士はあまり
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/23(火) 08:25:07
>袁術や呂布が人材に声かけてるが
誰か付き従うのかな
いや誰も従わない(反語)
周瑜は親戚に大司農かなんかが居たんじゃなかったっけ?
普通に中央に出仕して、家柄や才覚で順調に出世出来そうだ
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 20:30:05
周異
周家は大司農に限らぬ三公九卿の常連。
エン家と比べても遜色ないくらいの名家だと思うんだけど、何で独立しなかったんだろう
孫家との繋がりがなくてもエン術配下に収まってそうなのは何で?
孫策が独立した当時の袁術はかなりの勢力なのに周瑜は孫策についていったし、
孫策が死んで孫権があとを継いだ時も独立の噂があったのに進んで従ったしな。
つか、曹操の下に行くだけで間違いなく出世できただろう。
周瑜が従うだけのものが孫家にはあったということか?
4人の中で魯粛以外は曹操の下でも出世しそうだがな。
魯粛だけは劉備の下がよさそうだ、逆境に追いつめれば追いつけめるほど狂人ぶりが輝きそう。
名士だけど、揚州の周家は分家だからじゃまいか
>周瑜が従うだけのものが孫家にはあったということか?
これ今年1年くらい考えていたけどわからん
孫策との個人的友情だろ
孫堅は周瑜を見込んで近所付き合いしたのが上手くいったな
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 21:57:01
確か孫家と周家とは孫堅の代以前から遠戚説
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/31(水) 22:55:13
断金の交わりという名の禁断の交わりだったんだろうな
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/04(日) 00:26:34
呂蒙の母親が意外に活躍している
魯粛や甘寧とのエピにも登場
そういえば助言する役は大抵が母で
親父は何してるんだ?って事が多いな
父親が居る間は父親のほうが主役だからだろう。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 10:38:20
呉は女の方が強い
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 19:14:13
徐氏とか
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 10:02:49
徐氏って徐コンの親戚?
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/25(日) 09:32:52
どうなんだろ?
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 09:20:45
どうなんだろ?
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 10:26:00
レッドクリフに、呂蒙も陸遜も、全く出ないね…周瑜は孔明と友達で至近距離でやたら見つめ逢うし、魯粛はシリアスなお話の息抜きにやたらコミカルだし。せっかく、呉の軍師達が世間に認められるチャンスだと想っていたが…
あれだけキャラ端折っても三国志知らない人にはまだ多すぎて覚えられないらしい
というかその他大勢キャラとどこまで区別していいか分からんのだろう
>>738 赤壁の話なら呂蒙も陸遜も大して出なくて当然じゃないかw
演義の赤壁で呂蒙は数人の猛将の中の一人って位置づけだし陸遜は名前だけだし、
正史にいたっては呂蒙が名前だけで陸遜は参戦すらしていないんだから
まぁ三国志ファンとしては、呉陣営の中に名前は出なくても見た目と発言から
呂蒙っぽい奴とか凌統っぽい奴とかがいたら嬉しかったとは思う
見た目と発言とから分かるものなのか…
呂蒙って戦や個人の武の面でもかなり優秀だったりするの?
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 17:09:33
15で勝手に戦に付いてってから、叩上げで都督までなったんだから、強いのでは? 他の都督達が何不自由ない育ちだったのと違う生まれだし
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 17:31:55
周揄『オレさぁ周ゆだけどぉ〜そう操マジむかつく!!
アイツさぁ〜オレの嫁さん捕ろうとしてんだぜぇ!?まじウザくねぇ!?アイツ!
だからさぁ〜そん健のダンナにさぁ頼んでぇ〜早々をマジぶっ殺したいんだけど?
』
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 17:45:58
尊けん『だけどさぁ兵の数も違うしぃー先輩も反対するしぃーマジめんどくさい!
コーメイ先輩の顔に泥を塗りたくないしー……やるか?まじ殺すよ曹操。だから、バイクは50台と特攻腹持ってこいや!』
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 20:51:04
>742
もともと呂蒙は陣営きっての腕っ節の強さと前線指揮の能力が
孫策の目にとまって、出世してきたわけで
実のところ軍師というよりイメージとしては徐晃や張儁乂、
または榊原康政みたいな「滅茶苦茶頭の切れる前線指揮官」
みたいなもんだったと思う
今更だけど・・・
・カク普を騙す
・士仁・麋芳を寝返らせる
など、呂蒙は外交的な策略をかけ成功させている辺り、ただの前線指揮官とも言えない気がする。
なんて呼ぶべきかわからないけど。
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/31(土) 22:43:42
一種の超人だね
欠点と言えば名門の出で無い事と、弁がさほど立たないことかな?
策略謀略を使い始めたのは呉下の阿蒙のエピソード後じゃないかな?
有能な人間がしっかり勉強すると手がつけれないって事だろう。
呂蒙が名門でないのは確かだな。もっとも、豪族に姉を嫁を出せる程度の力はあった可能性はあるが。
弁に関しては、孫権や魯粛を関心させてるしたつんじゃない。花は無い様だが。
周瑜も呂蒙も都督という事がしっくり来る
軍師というのであれば孫策の張昭、孫権の魯粛だろうね
>>749 魯粛が呉下の阿蒙にあらずって言って驚いたのは210年だろう
その前にも呂蒙は南郡で馬を奪ったり、赤揃えにしたりしてる。地味だが
元々武一辺倒のパーソナリティではない
陳就を斬った頃は武一辺倒だった可能性かも
>>750 呂蒙は、魏への侵攻や防衛など献策してるし十分軍師らしい思う。
>>752 赤備えは陳就を切る前だ。
荊州取る時に、合肥とっても維持できないと言っていたが呂蒙は合肥を取る事は出来ると考えていたのかな。
暗に取れない孫権の指揮が下手だと言ってる気もするが。
そういえば、呂蒙が都督の時って孫権は総大将だけど指揮権が無い様に見える。濡須の時も、荊州の時も。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 08:58:03
>751
たぶん、孫策時代から今で言うような頭のよさ、したたかさは発揮してたと思うよ。
ただ当時はそういう頭の良さじゃなくって、春秋左氏伝だの書経だの主だった
経典をほぼ丸暗記してて、やっとこさ人として社会から認められるって感じだった。
実際普段の会話でも文書でも、各種経典の内容を引用しまくるのが「正式な」
ものだったから、ちゃんと勉強してないと仕事にならなかった。
素晴らしいアイデアも、アウトプット(企画に)できなければ意味が無いように
長島語(感性の言葉)を理解し、変わりに企画書を書いてくれる周瑜の存在がいなくても
勉強の結果、自ら企画書を作成できるようになったんだと思う
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 10:59:19
てゆうか徐晃や張コウって頭良かったんだ
なんで悪いと思ってたの?
無双だとすごい頭悪そう
無双wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 13:35:46
呂蒙が孫権に書物嫁と言われたのは正確には何年の話なんだろ?
孫策死後の話なのは分かるが。
ゲームじゃ頭悪いことになってる呂布や張飛も、
ごく単純な頭のよさならココ見に来てるやつの殆どより
たぶん上だよ
762 :
751:2009/02/01(日) 18:45:58
>>754 元々同意見だよw
呂蒙は元々広い意味で頭は良かったが、教養が無く魯粛らには軽視されていた
魯粛は呂蒙が教養を身に付けたことで驚いたのであって、
頭が良くなったから驚いたのではないと思う
210年以前に規模の大きい策略謀略が見当たらないのは地位が高くないから当然で、
策略謀略が見当たらないからと言って頭が悪かったとは言えない
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 00:51:43
わかりやすく言うと
周瑜:千早
魯粛:律子
呂蒙:美希
だな。
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 03:08:21
?
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 04:55:02
周瑜に認められて、魯粛が名士の仲間入りできたように、魯粛が智略優れていたから、「あの人が褒めるなんてすごい」というので呂蒙の価値が上がったんだよね?
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 07:32:48
>「あの人が褒めるなんてすごい」というので呂蒙の価値が上がった
というのはあるけど
>周瑜に認められて、魯粛が名士の仲間入りできたように、魯粛が智略優れていたから、
周瑜云々関係なく孫家へ肩入れする前から魯粛は名士として通ってたよ
皇室宗家の劉曄とも幼馴染だったぐらい格式は高い。
劉曄は皇室宗家じゃないだろ
魯粛は結果呉で大成したから周瑜との人脈が重視され、エピソードも残っているが、
若い頃の「私財バラ撒き作戦」の対象は当然周瑜だけじゃなかったわけで、
劉曄さんもその流れでの人脈なんじゃないかねぇ…
張昭の覚えめでたくないというのは、呉の名士的には政治生命の危機なので、
そういう意味では孫権・周瑜の後援があったのかもしれない。
ちなみに呂蒙の方も、魯粛との会談前から「評判は日増しに高まっている」状態で、
だから会った方が良いよと強く勧められて嫌々会ったという話し。
こちらも下地は既にあって、でも魯粛のエピソードは呉の歴史的には重要という位置づけなんではなかろうか。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 16:42:57
赤壁前に魯粛が「私はあなたより家柄がいいけど…」と孫権を強力に説得した話をもって魯家のほうが孫家より上としてた本もあったけど、官には就いてないみたいだし、父の名も不明だから魯家はそれほどではない……
>>769 劉表も劉焉も劉曄も父親不明だから家柄が悪い
劉備は父どころか祖父の名前まで判ってるのにとても家柄がいい
こうなるんだけど、自分の主張がどれだけ的外れだか理解できる?
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 18:03:05
財産家ではあるが、官途には就いてない家柄でしょ 周瑜や陸遜とことは、毛色が違うという意味だけど
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/04(水) 03:16:15
どういう商売で財を成したんだろう?
塩?魚?海運業?
徐州だから水運、塩辺りが有力だろうね
あとは豪族のオーソドックスである開墾もかな
倉に糧秣詰まってたって話見る限りでは普通に開墾してたんかもしれんが
開墾で蓄財する豪農はそう簡単に土地から離れられないにも関わらず魯粛はあちこち移動してるし
まあ投機か商業の可能性の方が高そうだ
護身術(しかも撃剣じゃなくて格闘技)習ってたり、若者を武装させて私兵にしたり、
紅巾時の荘園領主みたいな事をやってる割にゃ、フットワークが軽いよな。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 00:40:50
撃剣が当時の剣術を表現する字だったんだろう
格闘技の場合、どう表現されてんだろ
魯粛伝に撃剣と騎射とおもいっきりかいてあるな。
黄髭の伝を見る限り、格闘技は格とかかのぅ
白打
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 11:34:58
馬に乗れない人もよく書いてあるな
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 23:47:51
孫瑜は馬の上でも勉強してたんだろ
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 04:18:25
何かその逸話はポナパルトみたいだw
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/21(土) 18:33:52
せっそう
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/24(火) 22:19:14
スレ立ってもう1年たつのか
783 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 17:16:05
一瞬、今年のかと思った。二宮の事件って、あらためて調べてめちゃめちゃ暗い話…に嫌気が…。 魯粛さんとか生きてたら止めてくれたかな?やっぱり粛清されてるかも…
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 18:38:49
顧雍が生きてたら少しは何とかなったかも。
241年5月・・・孫登死去
241年6月・・・諸葛瑾死去
242年正月・・・孫和立太子
243年11月・・・顧雍死去
244年1月・・・陸遜が丞相に
245年2月・・・陸遜憤死
二宮の対立が表面化するのって顧雍死後、丞相が都にいない(陸遜は武昌)ことにも因るんじゃないか?
まぁ顧雍の時代にも呂壱の事件があったから、顧雍がいたら何でもどうにかなるわけじゃなかろうが。
張昭ほど年寄りではないが顧雍も168年生だから年寄り
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 21:34:15
顧雍が没した年齢は75歳か…孫権よりも長寿。
孫権を諌められるのなんて魯粛どころか周瑜ぐらいだったかもわからんね
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/27(金) 04:20:26
つ張昭
つ虞翻
つ劉基
孫権はそういうタイプ大嫌いだよね
留賛とかも
張昭とかは言いたいことは言うけど、肝心の孫権があんまり聞く気ないからなぁ
周瑜が生きていた頃はまだしおらしかっただろうけど
孫権が聞く耳を持つという意味では、周瑜と劉基辺りが最有力かな
呂蒙。荊州攻めるとき、孫権は呂蒙と孫皎を左右の大将にしようとして呂蒙に怒られてくつがえした。
でも、やはり張昭と諸葛瑾が最有力だと思う。
呉夫人なら確実
兄さんも確実
兄さんいたらそもそも二宮の変が起こらないという
そもそも孫登そこで死ぬなよってタイミングだよな
孫登のKYさは呉でも指折り
呉って肝心な時に肝心な人が死んでばっかりなんだよな
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/28(土) 12:29:16
でも呂岱みたいにKYで全く死なないのも
KY選手権in呉
ぶっちぎりで虞翻
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/28(土) 13:29:15
麒麟も老いては駑馬にも劣る―――を実践してくれた孫権。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/28(土) 14:32:10
麒麟の字が違うだろう。
樹木希林
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/01(日) 10:19:26
241の戦いって魏・呉と蜀にとって非常に重要な戦いだったのにスルーされがちだよな。
魏 荊州失陥の危機→司馬懿が防ぐ→さらに名声UP
呉 対戦中に太子死亡→大将軍も死亡(病気?戦死?)
蜀 ショウエン失脚
807 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/09(月) 21:02:49
>>804 スルーというよりも、無知が多いのでは?
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/09(月) 21:45:31
界橋とか官渡とか赤壁とか夷陵とか北伐みたいに名前がある訳じゃないからじゃね
ブランドネームがないとな
ブランドネームw でもそうだな
周瑜が長生きしたら、孫権と確執がおきそうだよね
君主よりも目立ちすぎて
そう考えると、目の上のたんこぶ程度の力関係の張昭は
バランス的に本当に重要だったんだと思った
周瑜が生きていても名声は張昭が一番じゃないのかな
二番手であればそんなに確執は起きない気がする
張昭が早死して周瑜が長生きだったら確執起きるかもだけどw
孫権の立ち回り方からして自分より上の世代との確執はあんまり起きないだろ。
立場は違うけど
曹操と荀[或〃]みたいに
漢室と孫家のありかたあたりで揉めそうだと思う
曹操と荀イク、孫権と周瑜の関係はあんまり似ていないと思う
あと孫権の性格的に周瑜が長生きしたら「邪魔だ」と思う時もあるけど
張昭のように大喧嘩をすることもないんじゃないか
陸遜のようになる可能性はあるけど、果たして周瑜相手にそこまでブチ切れられるかな
周瑜の存在にモヤモヤイライラして、ストレス溜まって孫権の寿命が縮んだりしてなw
荀ケと曹操、周瑜と孫権・・・一致はしないな
孫権・張昭・周瑜という三者の政治的バランス感覚が秀逸なので、
よっぽどの変化が無い限り関係は安定してそう。
孫権の君主権を率先して強化してきた、家族ぐるみの付き合いで後見人的存在の二人なので、
結局死ぬまで頭は上がらなかったろうな。
>>816 二人が死んだら反動が史実以上にでかそうだ
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/21(土) 13:02:10
周瑜があと10年長生きしていれば・・・三国時代じゃなくて南北朝時代になっていたかな。
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/21(土) 19:09:31
無理
>>820 折角だから根拠を述べよ
久々に話膨らまそうぜ
周瑜が10年長く生きて呉蜀で争う場合は、魏の一人勝ちになるだけじゃないか?
魏呉で劉備を叩く可能性は、周瑜が生きている場合にも有り得るのかな
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 04:45:20
周瑜から曹操への評価や発言ってあります?
南北朝にするには
劉備の勢力を速やかに呉が吸収して魏に対抗するしかないだろう
劉備を奉戴すればいい。
呉にはない大義名分を得られる。
関張を使いたい放題。
周瑜は劉備を担ぎ上げるつもりだったって呉を扱うサイトで見たな
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 14:39:53
劉備が御輿になるタマかという気もする
いままで神輿で生きてきたのに?
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 15:02:06
誰にも担がれてないだろ。
戦争なんかも常に自分が出陣だし。
何でもやりたがり。
人に任せることをしない。
関張に担がれ義勇部隊隊長
麋竺に担がれ徐州牧
法正に担がれ益州牧
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 16:07:02
周瑜ってさ大抵ひげ生えてない画だよね
実際はボーボーだったんだろうか
郎郎言われてるせいで
周瑜とか孫策はあんまりもっさり生えてるイメージがない
まあ生えてただろうけど
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 17:36:52
>>830 担ぐってのは、担がれる奴が「名」で、担ぐ奴が「実」ってことだろ?
関張も麋竺も法正も全然違うと思うが。
若いといっても、少年じゃあるまいし生えていたとは思うけども<ヒゲ
>>833 具体的には?
劉表のもとで何年髀肉を囲ってた?
食客でいる事ができるのに奉戴される事ができないとは思えない。
もちろん担がれてからの政治権力争いも存在すると思うが
以上、雑談でした。 完
〜以下、呉の軍師を語るスレです〜
>>836 流れが読めないのか?
劉備が担げる人間かどうかが、周瑜の狙いが当たっていたかどうかに関わるんだから
スレ違いではない
周瑜が劉備を担ぎ上げるつもりだったのは確かなのか?
周瑜存命時の劉備と孫権の立場を考えると、あんまり俺はそうは思えないんだけど…
劉備を献帝のように奉戴しようとしたのかもしれない
あれの一連は、関羽と張飛とかの猛将ゲットだぜ、としいう意味だと思っていた
劉備を祭り上げるか・・・他の劉姓でもいい気がするけど
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/24(火) 23:15:15
周瑜志望時に劉備は荊南抑えて家臣団もどっさり抱えてる。
献帝みたいな軽い御輿にはならんだろう。
>>840 劉氏なら誰でもいいってものではないよ。
皇帝の皇子でもなければ、劉虞がそうだったように、それなりに名望があったり実力があったりしないと周りが認めない。
その意味で、あの時点なら劉備には皇帝に祭り上げてもいいくらいの名声はあった。
>>837 それを言うなら「周瑜の狙いが当たっていたか」という仮定を前提に話す前に、
「周瑜の狙いは何だったか」を話すべきだろう…
>>841 赤壁直後までが劉備奉戴のチャンスだったんだよ
支配地が確立されてないからさ
荊州南部を支配した時点で御輿の可能性は限りなく0だと思う
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/25(水) 15:46:04
孫権、周瑜、張昭の連合政権が
劉備、孫権、周瑜、張昭、関羽、張飛、諸葛亮の連合政権に変わるだけじゃないかな
孫権は竇融の待遇で扱われたんじゃないか
実力はともかく家柄の不利はどうしようもない
>>844 だとしたら「周瑜が長生きしたら劉備を奉戴したかも」というのは有り得ないな
あと赤壁直後も、劉キがいるので難しそうだ
>>846 劉キは関係ないよ
劉備は将軍位でいえば劉表より上だったんだから
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/25(水) 20:52:48
>>846 荊南を押さえたとはいえ、劉備も京城へ赴いて孫権と会見しているから
思う程呉への立場は強くない。周瑜が構想通り益州や襄陽を制覇すれば御輿に乗る可能性はある。
袁紹に担がれかけた劉虞は光武帝の子孫だけど、
彼は赤壁直後の劉備(左将軍?)より上の位だったんでしょうか?
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/26(木) 12:13:36
191 劉虞 幽州牧大司馬
209 劉備 予州牧左将軍
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/26(木) 18:54:20
大司馬はかなり凄いな
周瑜の進言を深読みしすぎだと思う。
梟雄を名目上とはいえトップに据えるリスクは少しの土地を与えるよりハイリスクだし
劉備に贅沢させて関張を分けて使うという記述に不自然なところはないでしょ。
うまいこと吸収してやろう、と
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/03(金) 05:41:01
陸姓っていつごろから現れたの?
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/03(金) 06:24:02
劉邦のパシリの陸カくらいからかな。
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/03(金) 22:27:27
陸氏は唐姓だっけか
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/08(水) 20:21:26
陸氏は居ても海氏は居ない謎
空氏...
いやなんでもない
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/12(日) 21:31:16
悪魔
空魔
海魔
子供に「あくま」と名前付けたDQN親を思い出したw
悪来
マメ知識
光栄の三国志Uの武将ファイルの武将名索引で
周瑜のふりがなが「しょうゆ」になってる
小学生の頃健康ランドで横光三国志をふと読んだことで三国志にハマッて
貸し出ししてくれるのをいいことに友達の家とかに持っていったら
周囲で三国志ブームになったあの頃が懐かしい
本気で「実はしょうゆって読むんじゃないか?」と友達一同で悩んだんだぜ
そんなだから夏侯惇の呼び名も「かこうじゅん」でした
しかし魯粛はともかく陸遜の見た目は今の時代じゃ受け入れられないんだろうな
かこうじゅんはいいんじゃないの?
初代の三国志では、「かこうとん」だった。
周瑜も読みに合わせると「じょうゆ」なんだよね。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/18(土) 12:24:23
軍師
Zhou Yu
レッドクリフ見たけどクレジット名に張遼や関平がさりげなくいた、赤壁戦時には呂蒙や陸遜も出陣してたはずだからこの時は大した戦果を上げてなくても出して欲しかったなー
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 17:54:06
朱治や諸葛瑾も見たかった
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 20:29:09
赤壁の時は陸遜参戦していたの?
俺の中では山越に備えて留守番のイメージなのだが…
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 21:12:17
陸遜はそもそもは軍人じゃなかったし
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/22(水) 21:31:39
レッドクリフU(字幕)観たんだが
夏侯惇を曹操が「かこうじゅん」って呼んでるように聞こえた。
正確な発音は知らんが。
孫邵について語れる人はいない?
>>869 山越どころか、赤壁の頃はおそらくまだ東西の令史(事務長みたいな感じ)だろう
山越討伐は216〜217年、ずっとやってたわけじゃない
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/23(木) 10:02:27
ドラマの三国志じゃ
丁奉とかもいたな
ここまで秦松、是儀、胡綜の話題なし
こいつらがホントの軍師なのに
ホントの軍師は張昭とか張悌だろ
自称軍師呉範の話題もないが
話題に出来にくい人物故な
呂範のが重要人物だろ
>>871 ピンインがXiahou Dunだから、「シァホゥ・トゥエン」。どっちかというとトンのほうが近いといえば近い。
周瑜は子孫の話題が薄いな。花火の如し
息子も早死にだからなあ。
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 08:01:00
違う息子はドラ息子だからなあ
演義だと陸遜参戦してることになってるな。
曹操が赤壁で敗走して合肥方面に逃げようとしたが、
突如太史慈と陸遜の大軍が現れたので夷陵方面に逃げたとある。
演義か
仮に孫堅夫人が呉起の子孫だとすると相当な家だな。
孫策・孫権には孫武・孫?・呉起の血が流れているわけか。
可能性は薄いだろうが
妻の方が名家なのは事実だよな
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 19:34:32
呉起は子孫いるの?
>>871 惇に似たオリキャラはいたけど惇は出てなくない?
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 21:07:19
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 22:31:12
魯班に憂殺されたのではと思う周循
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/09(土) 23:32:44
周旨ってなにしたやつ
>>892 杜預と一緒に呉攻めに参加した晋の将軍だったと思うが。
周旨くらい大戦厨でも知ってるぜ
>>891 周循生きていたほうが孫魯班的にはおいしいポジションかと思っていたけどそうでもないのか
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/14(木) 18:34:45
魯班は淫乱だから
周瑜は娘だけ生き残ったんだっけ
魯班って父親が死んだとたん「遺産遺産」って言うオバハンみたいなタイプ
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/24(日) 09:25:05
>>899 たまには不良息子の周胤も思い出してください。
いやでも周胤も結局早めに死んでる
罪を得てヒップに降格→諸葛瑾とかが涙ながらにおとりなしを懇願(239年)→許されそう→そのころ病死
おとうさんはあんなに華々しかったのに
お父さんが早死にだったしなぁ
でもまぁ夏侯楙みたいな人もいるわけでお父さんが早死にとかは関係ないか
周瑜の末裔って人は娘の子孫ってこと?
非常に高い確率で偶然苗字が周なだけだよ
孫登の子=周瑜娘の子 でいい?
でもここも謀反の疑いで殺されてる・・・
まあ、息子と娘が全部で何人いたかの記述もないから、他にもいたんじゃない?
妻も複数いただろうし。
むしろ喬氏は妾と考えるほうが自然
正妻にしては晩婚すぎる
馬鹿w周瑜は三国志で唯一愛人を作らなかった愛妻家で有名だろうがw
もうちょっと勉強しろwww
37才でどれぐらい子供いるんだろ
孫堅の場合は男子5人女子1人だから、周瑜もせいぜいそんなもんだろうか
残念だが、俺はセックスをしたことがないから子供がいない
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/06(土) 09:30:39
確認できるだけで3人は入る。
周循・周胤と孫登の妻
史書にははっきり二男一女とあるから、成人した子は3人でいいんじゃなかろうか。
他に夭折した子がいた可能性はあるけど。
策と行動を共にしていたせいで
地元の名士層から総スカン+袁術系からも娶れない から
周瑜に釣り合うだけの娘がなかなかいなかったんじゃないかと思ってる<周瑜晩婚
まだ情勢がどうなるかわからない時期でもあったし、
うっかり正式な婚姻を結ぶと、相手の家のせいで
余計な争いに巻き込まれるかもしれない・・・
という危惧もあったんじゃないかと
あるいはそれまで孫策と周瑜が袁術系の娘を正妻にしてたのを、
袁術との手切れ&ユの名士の娘の二橋を得たことで、孫権が
謝夫人から徐夫人にチェンジしたように正妻チェンジしたのかもな。
江東守成の孫権と違って明らかに北方進出に向いてた孫策と周瑜にとって
ユの名士との縁組は願ってもないものだっただろうし。
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/08(月) 19:35:11
袁術系の娘なら北方窺うのに問題なくね?
というか一つの姻戚関係でそこまでの効果あるかねえ?
まして正妻か側室かの違いの話だし。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/08(月) 19:41:52
橋公って袁術系では?(橋ズイの一族説有り)
孫権も袁術の娘を貰っているし、何ら問題あるまいに。
孫策と行動を共にする前に結婚するチャンスは幾らでもあっただろうし名士でも孫策に好意的な人物はいた。
橋公と呼ばれてるくらいだからある程度の名声はあったと思うがそれで正妻にするかというと…
謝氏と徐氏は格でいえば謝氏の方が上だしその後をみても孫権のは好みによるチェンジでしょう。
しかし情報が少なすぎるから好きなように考えるのが一番かもね。
晩婚て言っても26、7だったんだよね?
当時の婚期がいくつが普通か知らないけど
女は20まで、男は30までに結婚すべしらしいから晩婚ってほどでもないな
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/14(日) 13:02:50
もし 大喬に妹がいて三姉妹だったら、大喬、中喬、小喬になって魯粛が中喬を娶ってたかもしれない
大→孫策 中→周瑜 小→孫権
になってたんじゃない?
魯粛だとしても
>>925の小が魯粛になる感じじゃないかな
そもそも大喬小喬の大小は大きさのことじゃねー
おっぱいのことだろ?
STOP劉備くんにそういうネタがあったな
大喬 小喬 中喬 普通喬 商業喬 仙台育英喬とかなんかそういうの
ワロタw
大戦か
>>925 そう言えば孫権には大虎と小虎の間に劉サンに嫁いだ娘がいたみたいだけど、
それこそ字はなんだったのか気になるな
「中」の使い方はよく分からないけど大虎と小虎の間という意味ではないような…
歩夫人の娘は大虎と小虎だけだから別の字になるのかな
ああ、そうか 母親違うんだっけ
中の娘って言うからなんとなくまとめて三姉妹たいに思ってしまっていた
大小→先後
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/29(月) 23:42:48
女性の軍師はいるの?
魏 王異
呉 大虎
蜀 黄月英
それぞれの勢力に一人いるね
呉の禍々しさったらないな
習氏が賢妻だった気がする
呉夫人は呉って言うかなぁ
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 01:53:56
もう語り尽くして、子孫→妻に話題がシフトしてるな・・・・
魏蜀の軍師と比べて、スレタイの四人は遜色ないだろうか?
一番評価高いのは、周瑜の様な気がするんだが。
次いで、呂蒙か陸遜・・・・・魯粛は、一番過小評価だろうなぁ。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 02:04:40
周瑜は歴史を動かす可能性があった分、可能性を考えるからね
実際に動かしたのは呂蒙だけど
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 02:31:47
周喩、軍事
魯粛、外交
陸遜、内攻
呂蒙、?
呂蒙も軍事
思ったんだけど、この四人並べるなら朱然も入れたほうがいいんじゃないの?
実績なら陸遜がNo.1じゃないか?
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 13:27:21
陸遜は軍事と政治の両面で能力高いね。
山越討伐、荊州制圧、夷陵防衛、埋伏の毒・・・・
比較に見合うとしたら、周瑜くらいか?
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 14:31:23
ひこきもり
荊州問題が解決した、
ように見えるほど夷陵の大勝は大きい
単純に蜀に奪い返すだけの戦力が喪失しただけ
以後は美味い土地荊州を放棄して
情勢不穏な南中や涼州にちょっかいを出す程度になってしまった
しかしそういう基盤は周瑜が開いたようなものだな
魯粛、呂蒙はその二人の前ではつなぎに見える
A級:劉表、曹操、劉備
B級:黄祖、関羽
くらいの格だろ
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 14:59:42
ポニョ
>>948 山越討伐は呉の多くの武官が成功として記録されてる事柄だから
そこまで言うこととは思えない
精卒数万を得るってのは多くの山越討伐の中でも際立ってるよ
孫堅を射殺し、孫家を9年間も食い止めた黄祖はもっと評価されていい
魏の「軍師」達の多くが補佐役として実績を残しているのに対して、
呉のスレタイ達は大将だからちょっと比べるのはちょっとね。
「軍師」の語義的には周瑜・陸遜や諸葛亮、司馬懿らを軍師と言った方が正しいんだろうけど。
軍師は大昔の占い師の発展形とかじゃなかったか
だから虞翻、呉範とかが該当する
周瑜、魯粛、陸遜、諸葛亮、司馬懿みたいな政治も戦争もやるのは、
単純に士大夫とか大臣。
五将軍、五虎将軍は戦争に偏りすぎているから部将になる。
将軍号がインフレしてる三国時代は大司馬、大将軍クラスでようやく大将と呼べる。
軍師スレみたいのがあったが、そこでは軍師って称号も時代によって
地位が大きく違うみたいな事言ってたな。
張良の時代の軍師は、文字通り戦略面で師の様な立場だったらしい。
三国時代に入ると、軍師も役職的なものに発展していた気が。
スレタイ共が軍師かどうかは置いといて、呉屈指の戦略家や名将だろう。
呉のベスト4みたいなもんだよ。
上下関係の部下じゃなくて
対等関係の食客、同盟者みたいな感じだよな
その意味で張昭、周瑜、太史慈、劉基あたりは他と違う感じだ
曹操とその臣下ほどの上下の差は無いっていうなら同意できるが
対等ってのは全く違うだろう
じゃあ親分子分、兄貴分弟分ということで
孫権「行くぜ、野郎ども!」
張昭「へぇ、親分!」
>>960 呂蒙、淩統、朱然がそんな感じだね。
劉関張みたいな関係。
張昭、周瑜は孫策や呉夫人の影響もあってお目付け役の様な存在では?
呂壱や二宮を見てると張昭は別格だったのかなと思う。
だね
>>951 そろそろ1000だが、総選挙前に終わるかな。
けど実際張昭ってかなり厄介な存在だよなあ
名目上のトップは孫権だが、周囲の眼は明らかに張昭>孫権
しかも部下が居る前でやり込められたりする事もあった様だし。
孫権としては遠ざけたいが、呉夫人との約束&実際優秀で名声もあるので下手な事は出来ない。
孫権がぶち切れて刀抜いたってエピソードも分からんでもない気がするわ
外に曹操、内に張昭
という感じだったろうね
劉卓、劉焉、劉紹、劉表、劉操、劉権、劉超、劉備の三国志だったら面白かったな
誰も悩まなくてすむ
>>965 しかし居てくれないと「なんで俺らが孫権さんの言う事聞かにゃあかんのん?」状態になってしまうという。
儒学の大家・張昭の説得力があってこその政権の正当性という部分がある程度保障されてる。
後漢の名家・周家と読み替えても可。
969
孫策も孫権も官位低いからね。
それに、張昭いないと呂蒙は武将としてのスタートラインにすら立てなかった可能性もある。
張昭ほど孫家に尽くした奴も居ないと思うけどな。
張昭くらいの名声があれば曹操のところに行ったってそれなりの地位には就けたはずなのに、
頼まれたってだけで死ぬまで何十年も弱小勢力に仕えるなんて事は普通出来ないよ。
見限るなら赤壁のときに曹操のもとに行けばいいんだし。
>>971 大まかに見れば張昭は孫家に尽くしているが
誰かが指摘する通り、張昭ひきこもり事件あたりはもう臣下のすることじゃない
よって1行目は同意しかねる
託孤を受けた後見人への気遣いに欠けるのが孫権ということで
孫権が最初はいい子だったのが、段々偉そうになって
言うことをきかなくなっていったのが気に食わなかったんだろうな
>>971 地方政権のトップと中央政権のそれなりならどっちを選んでも不自然じゃなくね?
鶏口牛後という言葉もあるわけだし
張昭自身、曹操の事をどう思っていたのか?
周瑜や魯粛なんかは明らかに嫌ってたようだが。
孫策の軍師は張昭
周瑜は遺言でわざわざ曹公と書いているのが気になる
一応、献帝擁立してるからじゃないの
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 14:07:09
しかし、名だたる将が討伐してるにも関わらず、呉は最後まで山越と争ってたんだな・・・・
揚州の何%かは知らないが、常に軍備の一部は山越に割いていたのだろうか。
呉が山越討伐を力を入れなければ、江南の発展はもっと遅れてただろう。
東晋辺りから見れば大助かりだろうな。
仮に呉が山越を放置してたら、その後の歴史が結構変わってた可能性もあるんだよな
例えば東晋はもっと衰退するのが早くて、前秦に滅ぼされてたかも
そうゆう意味では、孫権の存在は曹操や劉備よりでかい様な気もする
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 22:39:31
陸遜て政治の能力高いイメージないけど高かったのか?
軍略の功績ばかり伝わってるけど内政でなんか貢献してたの?
>>983 その高いイメージのある軍略もはたして周瑜や呂蒙を上回るものかな?
政治も魯粛を上回るものかな?
諸葛謹兄さんは、このスレでは軍師扱いじゃないの?
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 23:33:29
>>948 これ誰かkwsk。
何か陸遜だいぶ評価高くて疑ってきた。
魯粛、呂蒙好きとしてはイラッときた。
>>986 そいつとは別人だが
宜都、房陵、南郷攻略
夷陵の戦い
石亭の戦い
を考えるとやっぱ化け物だろ。実働期間も長いし。
魯粛、呂蒙は周瑜や陸遜に匹敵するほどの総合的な影響力はない。
いい意味で孫権の使いやすい駒どまり。もちろん最上級だけど
やっぱそれって軍略だけじゃね?
海昌県の神君
呂蒙死亡後の荊州の占領
対蜀外交
とかもあるじゃん
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 02:26:01
陳寿の評価は陸遜>周瑜、魯粛、呂蒙
山越討伐は
>>953 荊州制圧は房陵や南郷の所属、時期が曖昧。戦果はやはり数万と上々。
石亭の戦果も1万以上だけど埋伏の毒は陸遜と関係なかったはず。
政治は地方で善政、山越の徴発を進言、荊州牧として荊南統治、蜀外交を委任
公子にも容赦しない、虐殺して豪族帰順など。徳治主義寄りなところがある。
荊州にいたから仕方ない部分もあるが
公孫淵、夷州遠征、呂壱、二宮と孫権の暴走を止められない。
活躍期間が長いからオールマイティに活躍してるけど
戦闘であれば呂蒙のほうが優れてる部分もあると思うし
戦略的なことでは周瑜、魯粛に及ばないと思う。
魯粛、呂蒙より陸遜は明らかに上だよな。
つか呂蒙こそ陸遜と比較出来るような実績ってあったのかって感じだよ。
呂蒙は朱然とかと同格だろ。
戦略にしても時代が違うから比較は難しいからなあ。
諸葛亮や周瑜の天下三分天下二分計っていうのは要するに曹操の力が
及ばない場所の力を糾合しようって話なわけで、それ自体は優れた戦略だけど
三国が完全に成立した後は諸葛亮も陸遜もやったことに大差は無いし。
994 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 07:21:29
上司にゴマをすり
同僚の足を引っ張りつつ
部下に目をかけて徒党を組み
外敵には一致団結する
という感じ
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 07:37:04
次スレは?
不要
997 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 07:43:12
同意っす
どうでもいい
999 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 07:46:28
999
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 07:48:30
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
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