★☆★西海道将星録★☆★

このエントリーをはてなブックマークに追加
1無名武将@お腹せっぷく
戦国時代、九州を舞台に戦いを繰り広げ、覇を競い合った武将たちについて語ろう。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
 九州の武家は平家方だったため鎌倉幕府を開いた源頼朝からの信頼感は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では
無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏、大友氏、島津氏を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、筑前・
肥前・豊前は少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後は大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏と九州の統括体制がなされ、その
下に地頭として平安時代以来の松浦氏、秋月氏、蒲池氏、菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。
 戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが
展開していった。
 しかし、少弐氏の勢力が南朝に味方したために衰えており、宗像氏や麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内
氏の影響を受けた。少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた
龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。
>>2へ続く。
2無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 13:50:46
この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした毛利氏友
族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭
とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏や相良氏の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを
支援し、豊前・筑前をも得た。また大友義鎮は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。
 しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。
 それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時
期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂
が替わった。
 島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。その後、
島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全
なものにし、九州統一戦を開始した。残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。
3無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 15:31:07
島津 vs 大友 vs 龍造寺

まさに九州三国志
4宇喜多直家信者:2007/06/29(金) 18:13:40
少弐氏が弱すぎる
5無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 23:36:41
大友義鎮って、勢力は大きくすることができたけど、おおむね家臣のおかげだよね。
本人はあんまり努力した感じでもないし。

島津氏が台頭してからはもうぼろぼろになったし。

6天機老人:2007/06/29(金) 23:40:49
龍造寺隆信を討伐した今山の戦いで、
大友宗麟はなにゆえ遠い筑後にいたのじゃ?
耳川の戦いでも戦場におらなんだし・・・・・・

7無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 06:58:55
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。

耳川の戦い  ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。

沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。

戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
8無名武将@お腹せっぷく
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。

露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。

関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。