厳島の戦い

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1無名武将@お腹せっぷく
毛利氏が中国地方に覇を称える端緒ともなった、乾坤の一戦。
毛利元就が知謀の限りを尽くして、見事に大軍を撃滅した戦いの真相に迫る。

厳島の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
2無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 01:17:36
ぶっちゃけ戦国三大奇襲戦の中でも最高の戦いだろ。

桶狭間の戦いは、どうも偶然勝ってしまったっぽいし、
川越の戦いは、実在性に疑問が持たれている。
3宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 03:27:59
元就の謀略により成功
4無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 14:34:01
毛利元就は謀略を駆使して、陶晴賢の大軍を、己にとって理想の戦場である厳島に誘き寄せた。
そして理想とも言える形で奇襲を敢行し、勝利を手にした。

これに並ぶ戦国時代の合戦って多分ないだろう。
5宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 21:02:21
大内義隆父子を討滅した陶晴賢は敵対する敵を次々と討ち取り、
防長豊筑四カ国に勢威を振るうようになった。
そして名目上の主君として大内義長(宗麟の弟)を擁立した。
これを見た毛利元就は支配領域の拡大を図る一方、重臣井上一党を滅ぼし
毛利氏の支配力強化に努めた。かつての中国の雄尼子氏は
元就の計略もあり、弱体化していた。こうなると中国の覇権争いは
陶対毛利に絞られてくる。また陶方だった石見の吉見正頼が
陶から離反し毛利氏に援軍派遣を求めてきた。
この気を見逃さなかった元就、陶からの支配を抜け出し、
安芸一帯の完全制覇に乗り出す。
6宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 21:20:04
まず居城吉田郡山城から南下。佐藤銀山城、草津城、桜尾城などを落とし
ついに厳島を占拠する。そして前哨戦となる折敷畑合戦で大勝。
ついに決戦を迎える事となる。

まず元就は厳島の西北部にある有ノ浦の岬に城を築いた。
この場所に城を築いたのは、陶晴賢の大軍をおびき寄せるためである。
この囮城が完成すると、元就はこの城に中村二郎左衛門を置き
籠城の準備を始めさせた。
7無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 21:29:38
厳島の奇跡

ブリタニアの日本侵攻のとき、藤堂率いる日本軍が唯一ブリタニアに黒星をつけた戦い
8宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 21:32:47
弘治元年9月21日、ついに陶晴賢率いる2万余の軍勢を乗せた
500艘余の大軍勢が周防国室木を出発。晴賢がこの出兵を決意したのは
元就が厳島に城を築いたのを悔やんでいる、という情報が入った
ためである。陶軍の船団はその日のうちに厳島へ着陣したとされる。
9宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 21:53:07
厳島に着陣した陶軍は直ちに宮尾城を囲む。
さらに晴賢は二重三重に警備を進め、まさに宮尾城は孤立無縁の
状態となった。
陶軍着陣、の報を聞いた元就は配下の川ノ内水軍に厳島渡航への
準備をさせた。この時元就は吉田郡山城の留守居を宍戸隆家に命じている。
毛利軍は毛利、吉川、小早川、熊谷、平賀、天野、阿曽沼の軍勢、
合わせて4000であった。
9月26日、宮尾城危うしの報を聞いた元就は、
熊谷信直の軍勢を救援に向かわせている。
10宇喜多直家信者:2007/06/27(水) 22:12:29
元就の対陶戦略は、宮尾城を囮に陶軍を厳島へおびき寄せ、
厳島に渡海して陶軍へ奇襲攻撃をかけ、さらに厳島海域を封鎖して
陶軍を壊滅させることであった。それには水軍が必要であったため、
村上水軍を味方につけることでこの戦いは勝てたも同然であった。
しかしその頼みの綱の村上水軍の姿が一向に見えない。
9月27日には元就が隆景に、「もはや村上は待てない。すぐ川ノ内水軍と共に
厳島へ来い」と言っているほどである。
しかし9月28日なんと、厳島沖に村上水軍の船団300が姿を表した。
ここで毛利軍の勝利はほぼ確定した…と、俺は思う…。
11無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 00:04:47
元就って戦国武将の中で一番神に近い男だろう。
12宇喜多直家信者:2007/06/28(木) 00:06:13
>>11 いや宇喜多直家や尼子経久や大内義隆や三村家親らもいる
13無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 12:36:35
遺した結果の大きさを見れば、宇喜多、三村らは正直劣るだろう。
14天機老人:2007/06/28(木) 15:48:48
一般に陶晴賢の軍勢は二万、
対する毛利元就は四〜五千人とされているようじゃが、
安芸、備後の大半を制した毛利元就の動員兵力が、
陶晴賢に対してそれほどの開きが出るとも思えん。
実際は一万人ぐらいはいたんじゃなかろうか?
15宇喜多直家信者:2007/06/28(木) 15:53:06
>>14 そもそも、陶軍2万説が疑われている。
曰く、大内陶連合軍ではなく、陶単軍なのではなかったか。
最近の説では陶軍は8000程度だったともされる。
毛利軍は尼子に対する抑えを置いたから少ない。
16天機老人:2007/06/29(金) 00:19:55
まあ、桶狭間、川越の捏造ぶりに比べれば、
よっぽどましじゃわいな。

少なくとも劣勢を跳ね返して勝ったわけじゃし。
17無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 15:42:54
毛利元就は勢力を広げたけど、もっと毛利氏に権力を集中させた、
体制に変革しようとは思っていたのかな?

さすがにそこまで手を出す余裕はなかったか。
18ひょーりみ ◆7rAzqBFcf. :2007/06/29(金) 19:35:11
陶晴賢がやられるなんて世もすえ
19無名武将@お腹せっぷく
陶晴賢は謀反起こして大内義隆を殺し、後釜を大友家から迎えたわけだけど、
いずれ取って代わるつもりだった?

もしそうしようとしたら、大友家が黙っていないと思うが。