1 :
無名武将@お腹せっぷく:
演義にだまされすぎ
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/20(日) 11:18:44
なにこの楽勝2ゲット
3 :
無双ファン ◆.IjycOFqtg :2007/05/20(日) 11:19:16
またウヨサヨ論か
うんこだろ。
劉禅(字は公嗣)207〜271
蜀の後主。当時劉表に身を寄せていた劉備と甘夫人との間に生まれる。
甘夫人は、最終的に貴人にまで上るが、劉禅を生んだ当時は、
非常に身分が低く、劉備の寵愛もすぐに薄れたという。
また北斗七星(死)の子として幼名を『阿斗』と名付けられ、
劉備から望まれてなかったエピソードは事欠かない。
特に有名なのが、曹操の荊州侵攻で、当陽にて母子とも趙雲に救われた際、
『お前たちのせいで、大事な将を失うところだったぞ!』となじられ、
劉禅は、特に何度も何度も地に叩きつけられた。
その光景に、配下の者で目を背けぬものはいなかったという。
これは当時寵愛する夫人と娘二人を助けず、甘夫人と劉禅を助けた
趙雲に対する当てこすりであったとも言われている。
趙雲は、当然『男子を優先』と考えたのだが、裏目に出たらしい。
このような経緯はあったものの、劉禅は幼い頃から神童の誉れ高く、
また孝行な子供として、当時の蜀の民衆から絶大な期待があったという。
孫権の妹(孫夫人)が劉備の入蜀に際して、進退窮まったとき、
劉禅は『今から言うことは、母上のことを案じて言うのです。』と
はらはらと涙を流し、このまま劉備についていくことによる
孫夫人自身の立場の危険性を説き、呉に戻ることを勧め、
孫夫人も劉禅の誠意と正しさに感じ入り、それに従った。
諸葛亮は、劉備に宛てた手紙の中で、
『彼の才は、韓信(のような軍才)は言うに及ばず、
すでに蘇秦・張儀の類の(情勢を見渡す)鬼謀がある。
7歳にしてこれなのだから、長ずればどうなるのかわかりません。』
と大絶賛している。ただしこれは『早熟である』とも読める。
入蜀後も劉禅に剣術を教えていた趙雲は、劉禅の腕前を
『かの項羽は、万人と戦うすべを知りたいと言って剣術を捨てたが、
(劉禅は)これだけですでに万人と戦える。』と誉めている。
劉禅の超人的な活躍は、尾ひれがついて『疫病をたちどころに鎮めた』や
『天の神と対話をし、甘露を降らせた』など眉唾なものも多い。
しかし蜀では、劉禅が半ば神格化されており、劉備が皇帝になれたのも、
また対抗意識を燃やして無理な荊州奪還の兵を動かしたのも、
劉禅と無関係ではないだろう。
劉備は、関羽の仇討ち、荊州を取り戻すために兵を起こすのだが、
正史には次のように書かれている。
『劉備が兵を動かすと全軍に伝えると、趙雲は「漢朝の敵は魏であり、
呉ではありません」と反駁した。(劉備は)「お前の考えか?」
と聞くと趙雲は「劉禅様です」と答えた。劉備は喜ばなかった。』(先主伝)
果たして劉備は、夷陵の戦いで大敗し、永安にて群臣に後事を託すのだが、
なぜ成都に帰らなかったのだろうか。また劉禅は成都から呼ばれていない。
これもなぜなのだろうか。この時の劉備の考えに記述はないが、
成都における劉禅の影響力を恐れたと見て、間違いないだろう。
『このまま成都に帰れば、自分は皇帝の位から引きずり下ろされ、
劉禅に取って代わられてしまう。』と疑心暗鬼になったと思われる。
後事を託す際、諸葛亮に対し『才あれば補佐せよ。なければ謀反しろ』
と言って謀反を促したのは、死後劉禅が自分をどう扱うかを
恐れたからである。諸葛亮は劉禅の才能が卓越しすぎているので、
素直に劉備の言葉に従って、補佐することに決めたが、
これが後に諸葛亮自身を苦しめることになる。
まず劉禅は、対外関係の改善のため、呉に同盟の使者を送る。
諸葛亮は廖立を勧めたが、劉禅は無名のケ芝を推した。
諸葛亮は『ケ芝は無名で、また剛直で、とても話はつかないでしょう。』
と言ったが、劉禅は『今回、我々は非常に弱い立場だ。
彼がちょうどいいのである。まあ、見ていろ。』と劉禅は、
自信たっぷりだったという。
果たしてケ芝は、見事にその任を果たしてきたのである。
これによって、諸葛亮は非常にやりにくさを覚えたという。
劉備は、諸葛亮にへりくだることを厭わなかったが、
諸葛亮は、劉禅に心底へりくだることは出来なかった。
これは、当時の士大夫と特権と無関係ではないと見られている。
劉禅は皇帝でも、身分の低い出で、自分たちは名家の出だという自負が
諸葛亮にはあった。知識人で位人臣を極めた自分が、主君の子とはいえ、
卑賤から成り上がった子供に負けたとあっては、示しがつかない。
別注にはこのことで、諸葛亮は病気を理由に家に引きこもったとある。
劉禅は使者を出したが、諸葛亮は出てこず、行幸してようやく戻ったという。
この際、劉禅は、諸葛亮の意を汲み、諸葛亮に政治を任せ、
口出しをしないと約束した、とまで言われている。
劉禅が、諸葛亮の才能を愛していた証拠であろう。
諸葛亮が実権を握ったことで、魏は高官がこぞって降伏勧告を出したが、
後に『正議』をもって彼らを批判した。そして北伐を準備するのだが、
その頃の益州は、各地で反乱が勃発していてそれどころではなかった。
この平定戦で劉禅は、諸葛亮の機嫌を損ねないように平定していたのが、
当時の残っている命令書などを見てもよくわかる。
何かにつけて諸葛亮の意見を聞き、あたかも諸葛亮が決定したかのように、
印象づける努力がそこかしこに見える。
また放置されていた南中平定も、諸葛亮直々に親征させたのが劉禅だった。
これは来るべき北伐に向けての世間へのアピールだった。
丞相であり、荊州名士のトップである諸葛亮と、
益州の支配者である自分が反目するようなことがあっては、
多くの荊州名士を抱える蜀漢にとって、マイナスしかないという
劉禅の判断があったと思われる。
これから察するに、決して蜀は人材不足などではなく、
各出身者が国内政治を二分している事情があり、
安易に取り立てることで不満が噴出しないようにしていたのだ。
後のことであるが、諸葛亮もこの事情をよくわかっていた。
それゆえに益州名士も積極的に取り立てるようにしていた。
しかし、諸葛亮が没すると、荊州名士は地位を独占してしまうから、
李厳などは『自分はもう取り立てられない』と自殺してしまうのである。
また諸葛亮が清貧に徹し、公平を心がけたのも、これに由来すると思われる。
北伐を開始するに当たって、問題とされるのは趙雲や魏延であろう。
彼らは身分の卑しい出であり、劉備と同じ義侠グループである。
劉備は、この義侠を愛した。名士に反発するのが義侠であり、
諸葛亮は彼らより遥かに年少であったため、耐えることができた。
諸葛亮以前に知識人が劉備陣営にいないのは、当然なのである。
諸葛亮を皮切りに、劉備も名士を受け入れることにしたのだ。
ところが北伐の頃ともなると、義侠たちの数も減ってくる。
彼らは家柄ではなく、個人の実力なので、残らないのだ。
劉備が関羽や張飛、魏延を太守として抜擢したのも、
第一には彼らの家門の格付けであり、劉禅が張飛の娘を皇后にしたのも、
全く同じ理由である。それほど当時の家柄の差別はすごかった。
趙雲は近衛兵として取り立てられており、本人も欲がなかったが、
魏延は、実戦指揮官として非常に優秀であり、向上心も高かった。
その彼が、名士などに作戦を任せておくなど出来るはずもなかった。
諸葛亮としても、彼の実力もさることながら、
義侠グループの出世頭である魏延を使わないわけにはいかなかった。
反目は時間の問題であった。事実、魏延はすぐに諸葛亮と対立する。
正史に他の義侠グループの名がないのに気がついただろうか。
実は、魏延のあの最後のあと、最終的に粛清されたのだ。
諸葛亮死後、劉禅は、魏延・楊儀両名からお互いの謀反の知らせを受ける。
劉禅は、楊儀が諸葛亮の後継者と勝手に思い込み、
軍を壟断したとすぐに気付いたが、あえて群臣に意見を求めた。
群臣はこぞって『魏延が謀反を起こしたと思う。』と言った。
劉禅は、諸葛亮を失い、また忠臣を失うのかと涙が止まらなかったが、
群臣が命令を促したので、魏延追討をついに命令したという。
有名な『出師表』がある。これは諸葛亮が、劉備の恩顧に応えるため、
というイメージ付けがされている。
これは、現在では劉禅の知恵であることが確認されている。
というのも、当時は益州反乱が平定された直後であった。
国内の疲れは、かなりのものがあった。
しかし蜀の国力では、今すぐにでも魏に滅ぼされてもおかしくない状態。
その危機感を非常に強く持っていたのは、劉禅と諸葛亮のみであった。
しかし大義名分を作り出すのは難しい。
そこで劉禅は、諸葛亮に『出師表』を出させることで、
国内で情に訴える大プロパガンダを打ったというわけだ。
しかも周到に、上庸の孟達の寝返りも約束させ、
呉の魏への侵攻も取り付けた。目標は長安の陥落であった。
ところが諸葛亮は、出師表を提出してから約一年も、
漢中にとどまり、軍事訓練に明け暮れた。
諸葛亮の安定志向がここで顔を出すのだが、それだけではなかった。
漢中に進軍しても、各名士たちが北伐について意見が割れたのだ。
劉禅は何度も諸葛亮に、早期侵攻を促す手紙を送っているが、
魏に内情が漏れることを恐れた諸葛亮が、その手紙を握りつぶし、
『現在、作戦は予定通りです』と手紙を送っている。
そのうち呉は遠征を取りやめ、孟達は司馬懿に討たれてしまう。
天の時を逸した蜀軍に勝ち目はなかった。
北伐は失敗に終わり、諸葛亮が死ぬと、劉禅は
『天が我を滅ぼしたもうた』と棺にすがり付いて涙した。
当時の蜀には前述の通り二大派閥があり、
それぞれが己の利権に執着することが目に見えていたのである。
その中でも楊儀を廃し、蒋琬、費禕、董允を重用して、
彼らの実力を十二分に発揮させたのも劉禅だった。
しかし姜維は、第一次北伐の際に諸葛亮が連れ帰ってから、
蜀内でも行き場がなく、彼を不憫に思って、
対魏の最先鋒として重用していたのが裏目に出た。
宦官の黄皓は、姜維が兵を率いて、好き勝手をし、
国内を疲弊させていると強く進言していたが、
劉禅はここにいたって、北禍を防ぐ人物が姜維の他にいないことを知る。
除こうとしても、姜維が、成都に戻らないという事態になった。
必死に名士たちを束ねようとしていたため、外が疎かになっていたのだ。
そして263年、ケ艾と鍾会が侵攻してくるのだった。
当然姜維は、必死の防戦だが、ケ艾に勝ったためしがない。
この戦でも裏をかかれて、剣閣を迂回するという策に気が回らなかった。
諸葛瞻が綿竹関で討たれたと聞いた劉禅は、この戦の趨勢がわかった。
『剣閣で姜維が奮闘しているのに、こちらに魏兵が来たということは、
姜維が愚かにも迂回路を見逃したということだが、魏兵も小勢のはずだ。
しかし綿竹関ほどの要害があっさり落ちてしまうほど、
我が方の軍勢は厭戦気分が高まっている。なんという情けないことだ。
いや、これも益州内すらまとめ切れなかった私の責任だ。』
そう思った劉禅は、劉備の廟まで出向き、決戦の誓いをした。
『父上、私の力が及ばないばかりにこのような体たらくで、
誠に申し訳ありません。かくなる上は魏軍と一戦し、
劉家の名を辱めぬよう、私の命果てるまで戦い所存であります。
そちらに参りましたら、不甲斐ない息子をまた叱って下さいませ。』
近習の者たちで、涙を流さぬものはいなかったという。
そして群臣の前に出た劉禅は、決戦に際し、問うてみた。
彼らは口々に降伏と叫んだ。彼ら名士は、降伏しても高い地位につけるのだ。
劉禅は、忠臣が一人でも、自分と運命を共にしてくれるのでは。
かの孫権も、赤壁の合戦前には、周瑜と魯粛が開戦を主張したのだ。
私は、孫権に及ばないまでも、一人くらい忠臣はいないのか?
『陛下!一戦もせず何が降伏ですか!戦いましょう!!』
そう叫んだのは、他でもない劉禅の息子、劉ェであった。
『成都には対抗する兵がまだいます。剣閣は、きっとこちらの状況を
把握できておらぬだけです。知らせれば、すぐに挟撃できます。』
劉禅は、ほとばしる涙を抑えることが出来なかった。
『私が、名士たちの間で汲々としていたのに、
ェには、忠義の心が知らぬ間にきちんと宿っておったか。』
と心の中で叫び、歯を食いしばった。嗚咽が漏れる。
劉ェは、父の顔を見て、ともに泣いた。
しかし劉禅が言った言葉は、劉ェの思ったものとは全く反対であった。
『汝一人が血気に逸り、城内を血の海にしようというのはまかりならん。』
重臣たちは安堵の表情を浮かべる。劉ェは驚き、頭を地に叩きつけて叫んだ。
『万一敗れましても、私は、城を枕に討死覚悟でございます。
戦わずに、どうしてあの世で先帝にお会いできましょうか。
どうかどうか、先帝、関羽、張飛、孔明の苦労を思い出していただいて、
劉家の名を、漢の名を辱めぬように、最後まで戦いましょう!』
何度も何度も額を地に叩きつけ、劉ェは叫んだ。
しかし劉禅の答えはこうだった。
『青二才に天の時がわかるか。』
劉禅の心は、劉ェと同じであった。
しかし劉ェの態度が、劉禅の気持ちを変えた。
『このような忠義の心を持つ若者をむざむざ殺して、先帝が喜ぶわけがない。
父上、不忠と言われましても、私は劉家を守ります。』
そしてすさまじい寂しさもあった。
『私は即位した日から、名士たちを必死に調整してきたつもりだった。
それから40年。ただの一人も劉家のために死のうというものがいないとは。
このまま戦っても、内部から崩壊するのは時間の問題だ。
・・・結局私は、父上の関羽、張飛、孔明を得ることはできなかった。
やはり私は父上に勝てなかったのだ。』
>劉備は劉禅の後ろから己の逸物を
まで読んだ
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 03:59:27
漢は降伏し、剣閣の姜維には寝耳に水であった。
劉禅が守ろうとした劉ェは、劉禅が決戦の誓いをした廟で、
妻子共々自害した。劉禅は、魏軍の前では少しも泣かなかった。
しかし劉禅の近習は、夜中に寝台で嗚咽を漏らす劉禅を見ている。
また宦官の黄皓は、たった一人だけ魏に降らず、首を切られた。
最後に『宦官のために後漢は、滅びました。
季漢のために死ぬ宦官が、いてもいいでしょう。』
と言い残したと言われる。皮肉な話である。
劉禅のために死ぬ名士はなかったが、ただ一人宦官がいたのだ。
安楽公に封じられた劉禅は、司馬昭に気に入られて、
たびたび宴席に呼ばれた。ある時、郷土の音楽や舞を見せられて、
司馬昭が意地悪く『蜀が恋しいでしょう』と尋ねた。
劉禅は、周りの蜀臣がさめざめ泣くのに対し、
杯を飲み干し『ここは楽しい。蜀など思い出しません。』と答えた。
しばらくして厠に立つ劉禅を、郤正が追った。
先ほどの劉禅の答えをたしなめるためだったが、
行ってみて、劉禅がうずくまっているので、すわ病気かと驚いた。
駆けつけると劉禅はにわかに立ち上がり、平静を装った。
『郤正か。何の用か?』『は、はい、先ほどの答えはいかがなものかと。』
『司馬昭殿がそう言ったのか?』『いえ、私の判断です。』
『そうか。』そう言って、宴席へと戻っていった。
蜀の舞はまだ続いている。司馬昭はまた同じことを聞いた。
『蜀は恋しくないですか?』それに対し劉禅は、
『私は幼少から蜀で暮らし、全てのものが懐かしく思います。
また父の墓は、あちらにあり、祖廟も参れぬ始末。
私の心は張り裂けんばかりです。』と答えた。顔は笑っていない。
『郤正がそう言ってませんでしたか?』と問われると、
『やぁ、正にその通りです。』ぱっと明るい顔に戻った。
『下らぬことを聞いて、すまなかった。』と司馬昭は、言った。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 04:00:37
司馬昭は、この時のことをこう語っている。
『この場の蜀臣たちは、魏に一戦も対抗しようとは思わなかった。
懐かしがることしか出来ぬ役立たずばかりだ。
そのくせ劉禅には「懐かしがれ」と愚痴をこぼす。
彼が私に「懐かしくない」と言ったのは、疑念を抱かせないためだろう。
そのようなこともわからず、いざという時には役に立たない。
自らの保身しか考えぬ輩しか回りにいないのだから、
蜀臣であっても信用できず、態度もあのようになる。
たとえあの諸葛亮がいても、蜀の滅亡は免れなかっただろう。』
そして劉禅は、65歳の一生を安楽公のまま、終えるのだった。
これは、呉の孫皓の待遇に較べると、破格の待遇であった。
しかし心許せる人が最後までいなかったことを較べると、
劉禅は、不幸であったといえるだろう。 < 完 >
(民明書房刊『劉禅かわいいよ劉禅』より)
ageちゃったよ・・・。
>>15 そこ書いてて、おれも泣けてきた。
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 04:39:20
ジャーン!ジャーン!ジャーン!
ふえぇ!かんうだぁ!!
・・・こうやったらスレが伸びると聞いたんですがダメですか?
感動した。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 11:18:23
劉禅一番乗り!
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 12:20:16
劉備が当時の名士から受け入れられる名士層の人間だっていうことはよく無視されるよね
劉禅は道家の視点から言えば最良の選択をした。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 14:32:08
それはどうかな
柔弱謙下
三国時代のレベルの高さは曹操が証明している。
曹操は騎馬民族に勝利し、ほとんどを服属させた。
夏侯淵も戦果を挙げた
晋以降は立場が逆転した。
つまり
三国時代>>>>>>>>>>>他の時代
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 16:30:16
諸葛の失敗もすべて劉禅のせいにされてるのは確かですね
司馬炎ほどひどいわけないじゃないか(?_?)平凡な人だと思うよ劉禅。
>>28が仮に本当だとしたら
劉禅=乾隆帝がなりたつかもしれないということか
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 20:31:22
劉禅「あんな倒れかけの国の皇帝を、17歳からやってんだぞ?
それだけでもすごすぎるだろ、常識的に考えて・・・。」
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 20:41:32
戦時中の日本で言えば、本土上陸前に降伏したってところ?
劉禅、エロい・・・偉いじゃん!
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 20:42:18
全中華が泣いた
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 20:45:29
>>31 関東まで攻め込まれて皇居も松代も攻められそうになってから降伏したような感じだて思うが
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 21:25:36
劉禅「おれに言ってるんじゃないと思うが、答えておくと、
日本人みたいに、自分の国の民を全て危険にさらしてまで、
勝ちたいと思ったことはないぞ?
>>34。
もともと国力の差はいかんともしがたく、
出来る限り最小の被害での降伏だったわけだ。
お前ら蛮族の指導者のように、国民を食いものになどせんよ。」
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 21:45:12
>>35 いやだから、その時に蜀の中でもまだ戦火を被ってなかったのは成都くらいじゃないか?
手遅れだから降伏しただけですやん
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 22:03:47
>>36 劉禅「漢中から剣閣への通り道だ。あと陰平の間道と綿竹。
兵器の差が圧倒的にあるからなんとも言えんが、
まぁおれなら、マリアナ諸島が陥落した時点で降伏だな。
おれは手遅れだから降伏したが、お前らのじいさんたちは、
手遅れでも降伏しなかったんだ。天の時を知らぬ蛮族め。」
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 22:06:07
陛下、必死すぎww
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 22:07:36
>>37 つまり自分がいる成都が攻撃されそうだから降伏しますたでFA?
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 22:17:17
>>39 劉禅「・・・FA。」
孔明「・・・・・・・・・・・・残念!!」
劉禅「げぇっ!孔明っ!!」
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 03:38:29
____
/∴∵∴∵\
/∴∵∴∵∴∵ヽ
|∴(・)(・),∴∴∵ヽ
,-' ̄.| .|/ ○ \∵∵|
/ | ._ | 三 | 三 ヽ∵| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
..! l./| | | __|__ | ∵| < うるせー馬鹿!
.| . | | \ ヘ_/ |/ \_____
..! lヽ| | \____/\_
\ | | | _,―イ>`'´‐< / \_
`-、_| | |_/ _/ /`―「_!―'./ / `―::、
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42 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 04:49:51
劉禅を主役の漫画まだー
いや、なかなかいい話だった
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 11:54:40
成都降伏の決断は聡明だという証拠
かなり当時はみんなに尊敬されていたはずで所詮は史演戯の悪役だったというだけのこと
曹操だって稀にみる名君で賢君だったのは間違いないし。
>>14 >ただの一人も劉家のために死のうというものがいないとは
諸葛瞻父子が討ち死にした後も退却することが可能だったはずなのに、
健気にも綿竹に立て籠もって玉砕した黄崇・李球・張遵らは、
劉家のために死んだ頭数にも名士の中にも入れてもらえませんか、そうですか。
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 19:28:49
>>45 いつの世もこうやって、歴史に都合の悪い人物は、
常に消されたり改変される運命である。
諸葛亮、劉禅もその一例である。
・・・すみません!知りませんでしたww
黄崇→黄権の子 張遵→張苞の子
それぞれ諸葛瞻に献策したが、容れられず・・・
までは調べられたのですが、李球とはいかなる人物でしょうか?
もしよろしければ、教えてください。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 20:04:20
>>42 演義も真っ青の捏造とこじつけだらけの劉禅主役マンガ、
かなり見てみたいww
『姜維、何を手こずっておる。』
『陛下!どうしてここへっ!?』
『ふっ、危急存亡の秋に、お前だけに任せてはおれまい。』
『陛下・・・。』
『ケ艾の狙いは読めたぞ。陰平を抜ける胆だ。』
『まさか・・・。ならば早速、兵をそちらに出しましょう。』
『お前は兵法に疎いな。そうとわかれば、虜にするのは簡単だぞ。』
『そ・・・それはどのような・・・。』
(ごにょごにょ)
『・・・な、なんと!それではケ艾が虜になるのも時間の問題。』
『ニヤリ・・・。さぁ、出陣だ!!』
『ケ艾を捕らえたか!陛下の作戦通りだ!!・・・して、陛下はいずこに。』
『申し上げます!陛下御自ら七千の兵で、鍾会の首を挙げました!!』
『な・・・なんだとっ!?陛下の真の狙いは、これであったか!!』
・・・見てぇww
超反三国志か
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 21:26:53
>>48 そう言われたら、見る気が失せた。面白くする努力をしてみる。
ケ艾、鍾会と二将を討たれた司馬昭は、意外な結果に驚き、増援を送る。
しかしこれも劉禅を中心とした蜀臣の活躍で、見事に撃退される。
『その気になれば、いつでも落とせる』と思っていた司馬昭。
晋王の位を得るための功績として、蜀征伐を行っていたのに、
これでは自分の地位が危うくなってくる。
逆に蜀は、劉禅に信望が集まり、より強く結束していた。
そしてついに劉禅の北伐が開始された。
司馬昭は親征を行うことを決めたが、道すがら病死。
跡を継いだ司馬炎が、弟司馬攸に出兵させる。
司馬攸の謀反を疑い、兵力を割けない司馬炎。
むしろ負けて失脚させようとすら考える。
しかし蜀軍がついに長安に迫ると、司馬炎自身が増援に出る。
ここで魏では、劉禅の後方撹乱の成果で、司馬氏排斥の動きが起こる。
司馬炎は進退窮まり、長安陥落と同時に自害する。
そこで劉禅は『洛陽が、呉軍により占領』という事実を知る。
孫皓は、虎視眈々と情勢を伺い、出兵の準備をしていたのだった。
そして電撃的な進軍で、洛陽を落としたのだった。
『ここまであっさりと洛陽が落ちたのは、色々根回しがあったに違いない。
朕の前に立ちふさがるのは、孫皓であったか・・・。』
予想は見事に的中し、劉禅は、この後も孫皓に苦しめられることになる。
そして劉禅の寿命はまもなく尽き果てようとしていた。
果たして、呉を打ち破ることが出来るのか!?
イマイチ?
50 :
曹操:2007/05/22(火) 22:30:59
ジャーン!ジャーン!
曹操『げぇっ!劉禅!』
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 22:50:39
在位40年なめんな
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 23:01:37
武帝に負けるな
おもろそうやないけ
佐藤藍子「即位したときから、賢君だとおもってました」
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 09:30:15
>>50 みんな、趙雲が阿斗を守って、曹軍から逃げ延びたなんて信じてないよね?
あれは阿斗が奮戦したから、趙雲は無事に生き残れたんだよ。
そのときのことが正史にも書かれていて、曹操は奮闘する阿斗を見て、
「我が軍の只中で我がもの顔の、あの赤子は誰だ?」
「赤子のくせに、鬼神も逃げ出す強さだ。」
と言ったと書かれている。
曹操が、赤壁の大敗で逃走の際に「劉備は、計略を思いつくのが遅いな。
わしならここに兵を伏せていた。」と言ったら、ドラの音が響き渡り、
「父を侮辱するのは許さんぞ!曹賊!覚悟せよ!!」と
劉禅が五百の兵とともに踊り出てきて、恥も外聞も捨てて必死に逃げている。
「二千いれば、曹賊の首をとれたものを・・・。」と劉禅がこぼしているけど、
五百しか兵を渡さなかった孔明って、ほんとわかってないよね。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 10:00:22
>>55 一歳の赤ん坊に兵五百も預けた孔明の判断が神。
>>46 「なにがむむむだ!」の人の親戚だったはず
>>46 蜀の名士として名高く、南征でも活躍した建寧太守・李恢の甥です。
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 13:35:22
>>57 >>58 ありがとうございます!
『何がむむむだ!』は、本当に笑った。馬超カタなし。
60 :
捏造作家:2007/05/23(水) 20:03:43
滅亡エンドなら、諸葛瞻を悪者にするのは、かなりいいな。
実力皆無の七光りキャラで、最後は実は、魏に投降するためだったとか。
だから綿竹関まで出ながら、黄崇、張遵の献策もすべて却下した・・・。
で、投降を三人に持ちかけて、三人は、いったん同意するが、
成都に家族のいることなど考えて(いかにもな話し合いの場面も作る)、
こっそりやめてしまい、いざケ艾と対陣した時に諸葛瞻を裏切ってしまう。
投降の内応を聞いていたケ艾は、彼らの反覆常ない行動に怒り、
その後、綿竹に徹底的な攻撃を仕掛ける。
・・・劉禅の悲劇性が増して、いい感じだな・・・。
三人も『国家のため』に死なれては『こんないい人もいたのに・・・』と
劉禅への同情が薄れてしまう・・・。
いや、単なるひとりごとです。
あ、その本は、僕が書いた『笑って馬謖を切る』って本で、
多くのサラリーマンに結構受けました。
『責任の押し付けられっぷりが、他人とは思えない。』
『諸葛亮が、うちの専務に見える。』などなど。良かったら買ってください。
ま、結果的に諸葛瞻は実力不足の七光りキャラだったわけだし。
てか、貴族化したボンボンが国政のトップを務めざるをえない状況がねえ。
蜀の人間悪く言うなよ、大変だったんだからよぅ('A`)
63 :
捏造作家:2007/05/25(金) 02:33:09
マジレスすると、実は蜀が一番好きだったりする。
諸葛瞻は実際閻宇とくんで姜維を引き摺り下ろそうとしたり有能とは思えない
結構長い間宮中で権力持ってたはずなのに内政面での事跡もないし
国に殉じたことでかろうじて父の名を汚さずにすんだようなものだろ
諸葛瞻って諸葛亮が死んだときにはまだ10歳にもなってないのだが。
で、魏との戦争で戦死した時にはようやく36歳。
はっきり言って若すぎ。いまいち活躍してないのもしょうがないと思う。
>閻宇とくんで姜維を引き摺り下ろそうとしたり
これに関しては正しいとは言わんが間違ってるとも言えない様な
この一件は、閻宇とのパイプが太かった黄皓が関わっていたにもかかわらず、
諸葛瞻のみならず、黄皓とは距離を置いていた董厥などでさえもが
「大将軍(姜維)は仕掛ける割りに戦果が乏しすぎ」として交替させようとしたんだし。
これは常日頃から姜維が蜀宮廷内で浮いていたために起こった事象だろう。
68 :
捏造作家:2007/05/29(火) 09:29:20
私の姜維のイメージは、魏延に近いものがあります。
彼の一番よくなかったところは、北伐にしか自分の存在価値を、
見出せなかったところではないでしょうか?
もともと天水出身で、蚊帳の外であった彼には、非常に酷なのですが、
所謂根回しができなかったのでしょう(本人のせいか、環境のせいか?)。
政治というものは、根回しが非常に大事なのだな、
清廉潔白で、一途に君命を全うしようとしても、
人間とは仲間がいなくては、どうにもならないのだな、と思います。
人生を成功させる秘訣は『結果』と『仲間』だと、
姜維は、教えてくれているのではないでしょうか?
69 :
捏造作家:2007/05/29(火) 10:00:04
>>65 諸葛瞻の年齢は、当時としては決して若くはないと思います。
いや、現代でも突出した人物は、若くから才能を発揮しています。
彼がいわゆる凡人であったことの証左であると思います。
周囲の懐古主義と、本人の無自覚からトップになってしまったのでしょうね。
彼が陳寿がいうように、本当に忠孝の心を宿していて、
たとえば魯粛、もしくは甘寧のような人物を登用するような、
いい意味でワガママな人なら、歴史はまた変わっていたのかな、
とも思ったりします。
諸葛亮の後継指名を受けた二人がこの世を去った後、
陳祗・諸葛瞻らが押し出されたようにトップに立たざるを得ず、
それに代わるだけの才能、そして何よりそれだけの意気を持った人材がいなかった。
この人材難は、ある意味四川の一角に割拠した小国の限界でしょうな。
71 :
捏造作家:2007/05/29(火) 12:52:01
>>70 あるいは、そういった人材が優遇されなかったと思いません?
現在のわが国で『日本のため』などと言えば、普通の人はドン引きです
(『日本のため』と言う工作員が多数いることも問題ですが)。
中国が全体的に厭戦ムードだったのかも(人口も半分以下になってますし)。
世間のムードが『戦争もういい』だったのではないでしょうか?
しかしこのスレでは、あくまで劉禅マンセーなので、
周りが全て無能、保身ばかりで、足引っ張るダメ配下ばっかりだった
・・・ということで。劉禅タンかわいそう。
72 :
捏造作家:2007/05/29(火) 13:17:48
演義もなんで劉備の次の主人公を、劉禅にしなかったんだろう。
事務方の諸葛亮をあれだけ超人化させてしまうんだから、
劉禅の方を超人化させても、良心の呵責も何もなかろうに。
それに最後の降伏だって、今のイカれた平和主義の中じゃ、
結構受けると思うんだけどなぁ。
>>71 そうでしょうな。
厭戦感が蔓延していたんでしょうな、やはり。
大きな一因として、劉禅の長期在位による閉塞感もあったとは思いますが…。
>>72 部下を超人化して、その主君まで超人化したら収拾がつかなくなるからでは?w
74 :
捏造作家:2007/05/29(火) 14:23:24
>>73 諸葛亮をなぜ超人化したのかなんですよね。
@ 曹操が大敗した赤壁の戦いで、劉備陣営の活躍が乏しすぎる。
A 諸葛亮は、北伐の総司令官だった。そして陣没した。
う〜ん、この二点だけしかないのに・・・。
しかし劉備の後を、颯爽と17歳の少年君主が後継し立て直すのは、
カッコいいと思うんだけどなぁ〜。要捏造だけどww
いや、無能な政治家たちの派閥争いが激しかった故の閉塞感・・・
ということにしましょうwww
・・・それにしても
>>1っているの?スレ立てただけでほったらかし?
孔明にとっては最高の主君だったと思うよ
独裁政権を許す劉禅の度量の広さがあったからこそ孔明も自分の才能をフルに発揮出来た
主君が暗君だと家臣の才能に嫉妬してそれを殺してしまうものだろうし
また孔明も先君の遺言通りクーデターを起こしていたかもしれない
劉禅も治世の世なら名君に成り得たし、孔明も人材と国力に恵まれていたなら過労で死ななかっただろうし
ま、それを言ったら黄皓だって蔡倫や鄭和になりえたかもしれないし、
陳祗や諸葛瞻だって名宰相になりえたかもしれないし…。
>>69 それ言ったら劉備とか曹操とかどうなるのよ。
78 :
親の劉備はキチガイだった!:2007/06/04(月) 02:04:14
曹操に追われている時に逃げ込んだ家で、劉備をもてなす食料がなかった主人の劉安は、妻を殺害しその肉を差し出した。それに感動した劉備は、劉安を後年に高官にした(もしくはその家の主人の息子を養子(劉封)にした)と描かれている。
劉禅は父親ほど悪人ではなかったようですよ
諸葛の失敗の捌け口にされたようですよ
80 :
捏造作家:2007/06/04(月) 08:05:39
>>77 むむむ・・・?劉備と曹操がどうだということ?
『若いとき大したことない』ってこと?
お人好しで人を疑う事の無い御仁なので
名臣にとっても逆臣にとっても都合の良い主君
正史では白絹のような人と評されているのが面白い
劉禅も器は大きかったが孔明没後は器の中身に恵まれていなかっただけ
その器が大きすぎたのかもね。
だから、諸葛亮の代わりの者ではその隙間を埋められなかった…と。
>>80 劉備や曹操の30代なんて全然大したことないじゃん。
劉禅の器のでかさは劉備とは比べ物にならない
その上で大規模な反乱もなかったし
王平や夏侯覇、姜維といった元魏将を重用し、
大将軍に姜維を任命するあたり、器のでかさは半端ではない
魏や呉、晋ではまずありえないことだろう
もし有能な人材を育成する、あるいは登用するシステムがあれば名君と呼ばれただろうに
・・・そんなシステムがあれば教えてほしいけど
ごめん、書き方失敗した
>その上で大規模な反乱もなかったし
「その上で」はいらないね
>>84 姜維絡みでたまには次の人たちも取り上げてあげて下さい。
尹賞…のちに蜀の執金吾
梁緒…のちに蜀の大鴻臚
梁虔…のちに蜀の大長秋
こう見てみると、現実問題として益州だけでは人材不足だったんでしょうかね。
87 :
捏造作家:2007/06/04(月) 15:26:52
>>83 ・・・あなたが今『会社興すから、みんなついて来い!』って言って、
何人が命がけでついて来てくれますか?会社じゃなくてもいいけど。
そのことをよく考えて欲しい。
>>86 諸葛亮が政府中枢に荊州派ばかりを用いたせいで益州の人材が上に行くのが難しかったのかもね
益州に人材がいないとは思えない、人材を登用できないということはあっても
漢中府つくって成都から半ば分離させて暴走の原因作ったり、情報統制したり、政敵蹴落としたり
諸葛亮って意外とろくなことしてないよな
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/04(月) 16:20:49
諸葛孔明以後は人物像が過小評価されるように工夫されてきてますから劉禅なんかも被害者
蜀が包囲されて降伏は評価してもいいと思うけどな
あそこは進入されたら終わりだとわかってるから・・呉もそうだけど・・・
劉禅をダメ君主と評されているのも大物である証であろう
彼より遥かに愚かな君主なら他に居る。李牧の才能に嫉妬して濡れ衣を着せて抹殺した趙王・遷
太田道灌の才能に嫉妬して暗殺を命じた上杉定正、伍子胥の才能に嫉妬して自害させた呉王・夫差
逆にこの手の君主は小物すぎて名が残らないという事であろうか
今川氏真公もダメ殿で有名ではあるが、内政の才と公家文化の教養に非常に優れていた
その才ゆえ朝廷との太いコネクションを恐れた織田方、徳川方が必死になって宣伝工作を行い
今のようなダメ殿像が出来上がったのかも知れない
劉禅公のダメ君主像も彼の人柄と名君の素質を恐れた晋国によって宣伝工作されて出来上がった
ものであるとも考えられる
幕末の毛利敬親も似たタイプ
長坂の戦いでは、曹軍100万に肝を冷した孔明が
もしもの襲撃、玄徳軍壊滅の危険を恐れ、夏口に落ち延びたと言われる
新野城を退いてからの孔明は、難民軍馬一体となった流軍を見るにしのびず
『こう遅遅としていては、私の生命もここまでかもしれぬ』と言いはなち
いつこの流軍を離れるのかがいいかタイミングを計っていた
関羽を使者にだしたのは、新米の私が1人軍を離れるのを怪しく思うと読む機智があると見られたからである
まず、機智機略に富んだ関羽を流軍から離れさせ、
そこであえて劉備に更なる援軍要請の案をだす。
孔明の言うこともあり、劉備は孔明を追加使者として軍を離れることを許可する
孔明はひとたび、軍を離れるもののこのまま落ち延びては後にも先にも不忠の名が残ると思い
間者を放ち、逐一流軍の状況を手に入れることにした
そして、流軍が壊滅なら援軍は不要、流軍と劉備が生存していれば救援という策を練った
先に劉埼のもとに援軍要請にいった関羽は、先に援軍に向かった
これ幸いと思い、孔明は夏口の兵も連れて行くといい、後陣となって援軍に向うことになる
先陣として救援に向えば、下手をすると曹軍に壊滅させられる可能性があったからだ
しかし、状況は孔明の読みと違い、劉備は生存、関羽は流軍の後ろに回り曹軍を追い返す功をたてる
あせった孔明はすぐに夏口より出陣し、劉備軍の救援に向かったが、すでに劉埼軍が流軍を舟に乗せて
救った後だったというものである。
これは孔明が長坂の戦いでなんの戦功もたてず記述もないことに合致しており
有力な正史として見られている
これを見てもわかるが、孔明は奇策に富んではいるが、義侠心というものは持ち合わせず
常に冷静に策を弄して自分の保身を考える人間であったとわかる
以前から煙たいと思っていた義侠グループの筆頭頭である関羽を
後々荊州に残らせ曹魏と孫呉の最前線に立たされたのも
関羽の義侠心と機智機略、軍才をうまく利用した劉備と関羽の離間の策であり
それでもって孔明は劉備の軍師として事実上、軍の最高指導者となるのであった
劉禅「父上は朕に才が無ければ孔明、そなたが国を奪い取れと申しておったそうじゃな」
孔明「はい、確かに…」
劉禅「うむ、そなたになら全てを奪われても後悔はせぬ。いやそなただからこそ全てを差し出せる」
孔明「なんともったいなきお言葉。臣は一生陛下の為に身を尽くしまする。陛下を裏切るなぞとんでもない」
劉禅「そなたにならこうやって頭を下げる事も出来ようぞ」
孔明「おやめ下さい陛下。何を四つん這いになっているのですか!」
あれ?
孔明が劉禅のアナルを犯してる図が…きっと疲れてるんだな
小器が大器を測る事など出来よう筈も無い。
劉禅が貶められているのは彼以上の大器が歴史上未だ現れていない事の証左でもある。
>>92 ネタにツッこむのは心苦しいが・・・。
自分の保身を考えたのなら、そもそもなぜ劉備軍などに・・・。
単に“白”っていうだけだろ。
善にも悪にも染まり易い。
積極的に何かしたという記録は無いな。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/24(日) 03:51:43
はっきり言って三国志で一番の暗君は劉禅ではなく
呉の孫晧だろう。
自分の欲望のために多くの人間を粛清し(処刑方法が
また残酷だったらしい)民を苦しめた
それに比べれば劉禅は民もそんなに苦しんでいないし
処刑された者もあまりいなかった
そりゃ暴君だ
孫皓と比べて勝っててもなんの自慢にもならないだろ
まあ、頭は良かったみたいだけどな>孫皓
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 18:27:54
内政の才はそこそこあったんだろうなと思う
人を使う所も父譲りの才を受け継いだ片鱗見せてたんだが
権力の再編がうまくいかずに発狂しただけ
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/30(月) 23:29:36
長坂の時、劉備が阿斗をちゃんと地面に叩きつけておけば、もっとまともな人間になれた。
「酒色に耽って政治を混乱させた」と書かれている人間なのに、
何で善政とか内政の才があったとか言う奴がいるんだろう。
酒色に耽ったが政治は混乱しなかった、じゃないんだよ?
勝った側の書いた代物だろうが
そもそも数十年維持したことに対する評価はなしか?
評価の良し悪しは何と比較するかに拠るよ
「弱小勢力の指導者」としては及第点以上かも知れないが
「劉玄徳の後継者」としては目も当てられないから誹謗も大きくなる
>>107 同じく蜀の地に籠って数十年勢力を維持し、
かつ指導力を発揮したとは言い難い劉璋も、
世間一般ではさほど評価されてないべさ。
>>109 だが一般的に愚かな統治者とはされてないだろ?
まぁある意味愚かっつーかまぁバカなんだけどさ
劉禅の評価が低すぎるって言ってるだけだ
>>110 うーん、劉璋より劉禅の方が注目されることが多い分、
酷い扱いをされることも多いって感じかな。
演義の威力は絶大ってところかな。
「諸葛亮が先帝の遺志を継いで奮闘しているのに後方でヘラヘラ」
「諸葛亮の遺志を継いで奮闘する姜維の足を引っ張る黄皓を重用」
「必死で抵抗する部下を尻目にあっさり降伏」
こういう風に偏った視点で語られてしまうことが多いからねえ。
劉備の死後の蜀を描く際に、諸葛亮・姜維を柱とする展開にするものが多いから、
彼らの良さを際立たせるために必要以上に貶められている感じはするよねえ。
孔明はともかく生姜はねえ……
>>106の言うことはもっとも。
でも小説のヘタレイメージが先行してるよね。
権力者に友達はいないから確信ないけど、17歳から皇帝やってて、
横山の漫画のような性格なわけがないと思う今日この頃。
某将軍様よりは、よっぽど威厳があったんじゃないかと思う。
つーか本当にアホだったら孔明を
街亭の戦いの後で処刑してるだろ
賢君だから実質の権限そのままに立場上降格、
て配慮したんだろ
大体コウ安や李厳の怠慢による退陣も
孔明の融通の利かなさから来る厳罰や
人間関係から来てるわけだし
劉禅アンチはドロを劉禅にかぶせすぎ
董允が生きているうちはマトモだったらしいな
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/09(木) 14:57:52
皇帝になってから私情で呉を攻めた劉備、
孔明死後に宮殿作りに力を注ぎすぎた曹叡、
年をとってから人を信じられなくなり末子に位を譲った孫権、
名君といわれた三人の末年の姿に比べれば劉禅はましに思えるのは俺だけ?
劉禅がそこまで駄目とは思わんがその3人と比べてマシというのは言いすぎ
結局はキョウイ抑えられなかったのが、
今日の汚名の原因のような。
キョウイは必要な人材だったんだろうけど、
ヒイみたいにちゃんと抑える奴がいなかったのが。
原則的理想論振りかざされたら、
それを否定するのも国是否定するようなもんだからなぁ。
黄晧達が、生姜の北伐を必死に防ぎ、また、蜀の崩壊を防ぐ為、身を粉にしてた訳ですよ
その黄晧を重要してた安楽公が暗愚な訳がない!!
まっ、結局は、蜀を滅ぼしたのは、成都と漢中府を別けた諸葛孔明な訳ですよ
劉禅や黄晧じゃなくて
責任を問うなら、劉禅ではなく、諸葛孔明でOK
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/15(水) 00:39:12
重用
こいつがあと20年早く死んでくれてたら
歴史が変わってるはずなんだよな。
魏を討伐して蜀が600年の治世を続けられる可能性がタカスクリニック
自分の子供に戦いましょうと諌められるってどんだけーwwwww
姜維「ここを落されたら蜀は負ける!守り抜くn
伝令「速攻で降伏したみたいっす」
姜維「アイツさえ死んでくれていれば!(岩を代わりに斬る
よし、先帝のためにも鐘会を謀って成都を奪還するぞ!」
なんていい話や(´;ω;`)
なんという釣り
主君殺しのどこがいい話だ
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/25(土) 11:33:49
うおあげ
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/25(土) 11:56:43
まあ、勝てば官軍的な見方で劉禅を語ってもな・・
おまけにみんな横山マンガの影響が強すぎるし・・
劉禅は劉備が蜀に入り込んで以後、きっと素晴らしい
英才教育を得て、孔明・シバイでさえ舌を巻く博学白眉な
好青年に育っていたと思う。
そして、蜀の農民等々を一人でも多く助ける為に魏に人質と成った。
まあ、俺としてはシバイを裏で操っていたのは劉禅だと思ってるがね。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 15:01:29
バカじゃねーのw
暗君と言われるほどではない
劉禅が名君なら、曹操に命じて地方反乱を次々と平定していった劉協は漢の歴代皇帝の中でも上位になるよね。
そうね
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 17:16:03
別に君主は直接政治指導するだけが能じゃないからな
むしろ絶対権力者が政治に関与すると弊害が起きる可能性もある、優秀な部下に権限を与え任せるのも名君のやり方
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 20:29:14
危険でそ
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 20:51:33
単に悪かった部分だけが強調されてただけで、実は空白部分ではしっかり君主をやっていたのかもしれない
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/27(月) 02:03:14
劉禅を名君として見ようとしている人は一度、ショクの滅亡時の大混乱について調べてみてはどうか。
劉禅の判断は決して国民や家臣のためになったとは言えない。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/27(月) 07:29:50
暗君と言うよりは、山崎法政クラスの屁君だろぅ
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/06(木) 09:30:44
ってか基本的に名君とは言わないが暗愚というほどではないだろうってのが結構な人数なんじゃね?
正直あの勢力で数十年持たせた部分は評価すべきだし
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/07(金) 00:03:42
有能な部下に全てを任せられるあの度量
まさに英雄の器だよな
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/07(金) 14:15:10
有能でない部下にも全てを任せてしまったからねえ…
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/07(金) 15:33:30
暗君を辞書で調べてみると
判断力の乏しい君主 とあるから
暗君でいいんじゃね? 凡庸な暗君ってかんじ
八戸のぶながを受け入れなさい
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144 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/13(木) 20:11:59
やはり劉禅は天才だろ
なぜなら劉ショウの時の蜀は張ジンや厳顔や他の優秀な家臣がいながら
荊州勢だけから構成され、劉備軍に簡単に落とされたのに
劉禅は魏を相手にろくに人材もいないのにあれだけ粘った
145 :
董允:2007/09/14(金) 10:12:04
>>144 マジレスするのもアレかもしれんが…
味方だと思わせておいて既に益州内部に侵入した時点で牙をむいた劉備に対する劉璋と、
巴東方面は呉と同盟を結んだ上で、閻宇・羅憲としっかりした将軍を配しており、
なおかつ漢中を確保して防衛線を張っていた状態の後期蜀を同列にされてもなあ。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/22(土) 21:24:20
蜀ファンの香具師の中には
「劉禅は長坂で劉備に地面に叩きつけられたからああなったんだっ!」
なんてほざいてるヴァかどもがいるよな。
147 :
146:2007/09/22(土) 21:25:31
ヴァか→ヴァカ
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/22(土) 23:31:47
いいなおす意味はあるのか?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/22(土) 23:33:27
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/09/25(火) 23:49:13
いいなおす意味はあるのか?
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/07(水) 23:34:59
____ ) ニコニコで『初音ミクたん』の歌声聞きながら勉強しよっと、
/⌒ ⌒\ )
/( ●) (●) \ )/⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y丶
/ ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
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\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ カ
| l l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l カ タ
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. タ
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
┌┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐
,. - ''"| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ρ ̄`l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ ̄ ̄
____
/::::::─三三─\ ニコニコ動画を見る事が違法になりそうです。
/:::::::: ( ○)三(○)\ 初音ミクの画像検索の問題の影でダウンロード違法化が・・・
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _____
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1343746 \::::::::: |r┬-| ,/ .| |
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/08(木) 15:35:50
乙
154 :
漢の献帝:2007/11/10(土) 09:15:49
魏に降伏した後、司馬昭の宴会に出席して、馬鹿のふりをしたのは保身のためだろう。
満更アホでもない。
_-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\
_-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
>ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ
"7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )
'| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)
+ i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵ノ
` ー--- /|` + \ ⌒ ノ
ヽ  ̄ / |__ \_____/
`i、-- '´ |ソ:
多くの資料の中から事実をきちんと見極め 自治新党の数々の捏造に簡単に騙され
説得力のある意見で他者を論破する 反論できないとコピペ荒らしと自演を繰り返す
八戸のぶながファン 学徒出陣厨
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/11(日) 21:35:53
賢君であれ昏君であれ敗北者には変わりない。
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/12(月) 00:08:06
孔明が絶賛してたはず
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/14(水) 22:06:54
劉禅は皇帝としては人が良すぎというのが印象かな?
あれほど好き勝手に権限を乱用する諸葛亮を黙認しているのというのは、中国という国が功臣の粛清の嵐に吹き荒れていると考えればかなり素晴らしい
また魏延が政治がらみで抹殺された時も冷静に彼が裏切ったわけではないと対処しているし、皇帝ながら部下には穏便な態度で接する人柄だったようだ。
諸葛亮の遠征には無駄に民を殺すだけでは? と苦言(演義信者には諸葛亮は蜀のためにやっとるのに何を言うとるかと批判されるが)を言っているし、最後は民衆を戦争に巻き込まないために降伏している。そもそも孫皓のように悪政を行ったわけではない
ただ部下を制御できずキョウイらの独断を止められず結果的に民を苦しめ、また判断に迷い末期の混乱を招いたのは事実。
天下を取った2代目としては優秀ではあるが、乱世に君主として立つには有能であったとはいい難い
159 :
無名武将@お腹せっぷく:
そもそも劉禅が仮に賢君だったとしても
それで魏に滅ぼされなかったかというと・・・?
国力・人材全ての面から見ても劉禅一人でどうにかなるものでも
劉禅が諸葛亮を凌ぐぐらいの鬼才だったら分からんが・・・
分岐点はやはり荊州を落とされたあたりでは
荊州を取られ夷陵で大敗北した「つけ」を劉禅一人に課すのは酷