三国時代の文学スレッド3

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1無名武将@お腹せっぷく
後漢末期の建安年間とその前後には、唐代以前の詩聖・曹植や
曹操・曹丕・曹叡など曹家の偉大な詩人たち、建安の七子などが
たくさんの優れた文学作品を残し、中国文学を著しく発展させました。
三国志の戦いや武将、社会情勢などが、
それらの漢文の重要な題材や背景となっています。
また、後世の中国・日本の文芸の題材にも、
三国志の英雄たちは多く取りあげられています。
文学的な側面からも、歴史・人物的な側面からも、
真面目に語るも気ままにだべるも良し。マターリ楽しみましょう。
三曹でも西晋でも蘇東坡でも土井晩翠でもなんでもおkかとミ ・∀・ ミ

纏めサイトさん・過去ログ
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
避難所
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2059/1169284438/

関連スレ
ねえ、曹操の詩って良いよね(古文・漢文板)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/965622879/
曹操の詩(中国英雄板)
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1168791856/
21(ry:2007/03/05(月) 14:57:32
前スレ
三国時代の文学スレッド2
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1169569789/
三国時代の文学スレッド
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前スレの過去ログ
三国時代の文学スレッド2
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/logs/2.html
三国時代の文学スレッド
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/logs/1.html
3無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 15:18:41

前スレ夜埋めるならもうこっちでいいかな。

于禁も丁儀も良く取れば取れる物だな。
4無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 16:44:15
>>1
乙です。
5無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 16:59:46
おつーる
61(ry:2007/03/05(月) 17:11:16
乙であります(`;ω;´)ゝ
        _,,..,,,,_   _,,..,,,,_
     _,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_  前スレの>>983-から相談したとおり、
    ./ ・ω_,,..,,,,_  l _,,..,,,,_/ω・ ヽ  ひとりの文学者に視点を固定しすぎると
   |   /   ・ヽ /・   ヽ    l  その文学者にとっての利害が一般化してしまって
    `'ー--l      ll      l---‐´ よりいろんな角度からの鑑賞がむずかしくなってしまうですね。
       `'ー---‐´`'ー---‐´  せっかく三世紀の中国の人にたいして中立的な立場にあるしw、
                    唯一の解がないのが文学のいいところだとおもうので、
                   いろんな角度からマターリ鑑賞できるように気をつけていきたいですー。
7無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:14:51
>>6
乙です。
そんなに気にしなくてもいいんじゃないか?
文学スレなんだし、文学作品の鑑賞に留めておけば
角が立つようなこともないでしょう。
そこに政治や軍事を絡めるからややこしくなる。
8無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:16:18
ひよこw
楊修の先祖の雀話が不思議だった
4代しか続かないって予言されてたってことだよね
9無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:17:36
ま、作品と人格は必ずしも一致するとは限らないからね。
10無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:21:30
前スレの「不良が子犬を拾う〜」ワラタ

賈クあたりも、もし彼の文章が残っていたら
「実はかわいい親父じゃないか」ってことがあるのかもな
11無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:30:30
>>6
楽しくやってきましょー
三国時代以外でもこのスレのおかげで
王敦とか陸機兄弟など興味持った人いっぱいで幸せだよ('∀')
12無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:35:27
>>6
ひよこ饅頭カワイイw

しかし、思っていたよりも前スレが早く埋まってしまったけど
菊慈童うp気長にお待ちしてますー
131(ry:2007/03/05(月) 17:36:41
>>7,>>9
時代背景と文学作品の鑑賞は絶ちがたいですが、背景の考察は(とくに為政は)
文学側から追うのはむずかしいときも多いですからねー。
せっかく為政系の考察スレがまわりにいっぱいあるので、突っこんで考えたいときには
内容に適したスレがいいかもですね。逆に文化史を為政系のスレで考えるのはむずかしそうですーw。

>>10
賈クは奏請治王立周忠罪というのがあるみたいですが、これはビジネスライクですw。

>>8
後漢書の記述なので、自分もふしぎですー。楊修はちょうど五代目なのが(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

しかし、前スレ>>922さんに教えていただいたとおり、後漢書のあそこのとこを読んでから
野田黄雀行をよむと、曹植たんのもっていたものがどれほど大きなかなわない願望だったのかと思うですー。
その悲しみをあざやかに表現する気骨の太さをもった人が、それをどれだけ悔しく思っていたのかと。・゚・(ノД`)・゚・。

>>11
ずっと思っていたのですが、陸雲たんがただの爆笑ツマヨウジパクラーあつかいなのは
もうしわけないので、陸雲たんの詩をうpしてみるですー(`・ω・´)ゝ

>>12
バランスよくうpしてみるです(`・ω・´)ゝ
14無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:42:30
>>10
そういえば賈クも腹黒い軍師というイメージがあるけど
私生活面では娘の相手に役人の家柄を選ばなかったりと
良いお父さんだったらしいですねー
15無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 17:45:36
>>14
官界での権力闘争の怖さを知っているからこそ交友を広げないのは賢いよね
自分は一代限りでプレイヤーから降りますよって宣言すればあとは有り余る資産で悠悠自適だしさ
161(ry:2007/03/05(月) 18:37:28
>>14-15
陸遜・陸抗・二陸兄弟もプレイヤーからおりてくれれば。・゚・(ノД`)・゚・。

陸雲たんの詩をうpしてみるです。

『答兄機』  陸士龍
悠遠塗可極  別促怨会長
銜思恋行邁  興言在臨觴
南津有絶済  北渚無可梁
神往同逝感  形留悲参商
衡軌若殊跡  牽牛非服箱

(適当書き下しorz)
「塗(みち)は悠遠なるも極(きわ)む可(べ)く、別れは促(すみ)やかに会うは長きを怨む
思いを銜(ふく)みて行邁(こうまい)を恋い、興(た)ちて言(ここ)に觴(さかずき)に臨む在り
南の津(きし)に絶済(ぜっせい)の有るも、北の渚には可梁の無きを
神(しん)は往きて逝く感を同じくし、形は留りて参商(さんしょう)を悲しむ
衡軌(こうき)の跡(あと)を殊(た)つが若(ごと)く、牽牛の箱(くるま)に服(つ)くに非ざる」

(適当訳orz)
「みちのりははるかに遠くても終わりがありますが、お別れはすぐなのに、
お会いできるのははるかに先なのをうらめしく思います。
思いを内に含み、遠くへゆかれることをこいしたいながら、たちあがってこのさかずきにのぞみます。
南の川岸には切りたった舟の渡し場がありますが、北の砂でできた渚にはかけられる橋がありません。
私の精神はいっしょについていって、最期のときも同じことを感じます。
しかし肉体はここに留まり、参星(オリオン座)と商星(金星)のように
常に二人が離れていることを悲しみます。
馬車の横木とそのわだちから、そのわだちの跡がたたれたようなものです。
車をひく牛が、車につながれなくなってしまったようなものなのです」
171(ry:2007/03/05(月) 19:02:00
>>16
これは、陸雲たんが兄の陸機とわかれることを悲しんで詠んだ作なのです。・゚・(ノД`)・゚・。
前スレ>>852-853さんの黄耳の話のとおり(違うときかも)、陸機はひとりで北(洛陽)に
いかなくてはいけなくて、陸雲たんは兄とわかれて南(呉)に残ることをうらんで詠んだのですね。
なので、さかずきというのはお別れのさかずきだと思うですー。

南部をながれる長江は赤壁があるぐらいなので、切り立った断崖のような川岸で、
その下に宋代の絵にでてくるような船着場のようなものがあるのだと思うのですが、
北部にある黄河は砂漠のなかを流れてくるので、砂洲があって遠浅で、
舟をわたしにくいし橋もかけづらいのではないのかと思ったです(違うかもorz)。

参商というのはオリオン座(深夜に南中)と明けの明星(午後一番に南中)のことで、
いちどに同じときに夜空にのぼることがないので、会えない人をたとえることだそうです。
さいごの句の牽牛は、ヒコボシのことではなくて牛車をひく牛のことだとおもうのですが、
二つ前の句でだした星座によびかたをかけて表現しているのですおね。
衡軌……のくだりは、上海古籍出版の文選の注がなんかよくわからなかったのでorz、
てけとーに訳してしまいますたorz。

とてもロマンチックなわかれの悲しみの詩だと思うですー。
郷土(呉)への憂国と愛情のおもいが薫り、しかしそれ以上に兄について行きたいという別れの悲しみと、
その別れる距離のとおさが、くりかえされる路に関した描写でどれほどのものかと想像させると思うですー。
馬車のあとについてできるわだちの跡が馬車からひきはなされる、
車をひく牛がもう車につながれていないという喪失感の表現は、いままで弟が兄についていき、
ときに助けていたんだなーと思わせ、それが失われるかなしさと淋しさを感じさせるように思いますた。
兄ちゃんと仲よしだったんだろうな。・゚・(ノД`)・゚・。
もし黄耳のときによんだ作ならば、このあと洛しばらくして陽で陸兄弟は合流できるわけで、よかったですー。
18無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 19:23:50
>>17を見るまで恋人と別れる詩かと思ったw
19無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 19:35:19
>>17
時系列的には、
曹操の爪楊枝パクって兄弟でキャッキャッと楽しい日々を過ごすのは
この後になるのかな?
20無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 20:26:34
>>18
俺も俺もノシ
兄貴と何歳違うんだ?どんだけ仲良かったんだ・゚・(ノД`)・゚・
21無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 20:35:17
>>19 兄弟でキャッキャッと楽しい日々
ならいいんだけどね。
手紙をやりとりしてたくらいなので、一緒に暮らした時期は短かったんじゃないかな?
しかも陸機は晋の人士達との間に強烈な軋轢を起こしてるから。

早く呉に帰って、兄弟仲良く東晋で高位に就いてくれていたら…と思うよ
でも、こんなに心惹かれることも無かったかもしれん

>>20
年子。ひとつ違い。お互いに作品を添削しあってたみたいだね
陸雲は兄以外の人に送った手紙も残ってるんだが、やっぱよそよそしいものが。

『平復帖』がさっぱりよくわからんのです
わかるとこまでうpしますが、どなたか助けていただけますか?
22無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 21:09:30
>>21
俺は漢文全く駄目なんで無理だが、誰かが手伝ってくれると思う…
陸雲は兄思いの良いヤシだ。・゚・(ノД`)・゚・。
23無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 21:36:07
>>16-17
兄貴を心底慕っているのがよく伝わってくるね
この兄弟、死ぬ時は一緒なんだよな
24無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 21:41:47
本当に陸一族は真っ直ぐな心を持っているよな…泣ける。
25無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 22:07:15
>>16-17
>衡軌……のくだりは、上海古籍出版の文選の注がなんかよくわからなかったのでorz、
>てけとーに訳してしまいますたorz。

明治書院「新釈漢文大系14文選」では
「衡軌若し跡を殊にせば、牽牛の箱(くるま)に服(つ)くに非ざるごとし」
と訓じ、軌を軛(くびき・轅の端の部分)の誤りとして、
「車の轅(ながえ)の端の横木と車軸とは共に在るべきなのに
迹を殊にするようなことがあっては、牽牛という名の星ばかりで、
車につけられないのと同じである(兄弟も衡軛のごとく一緒にいてこそよいのである)」
と作っているよ。
しかしこれは意味が通り難いので>>16の解釈の方がいいと思う
26無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 02:26:27
新スレage
27無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 10:36:57
某日、歴ゲー板に「無双シリーズ史上最悪の失敗点」というスレが立つ。
しかし良スレだったスレは三国無双2信者によって中盤から荒らされ大変なことに・・

しかし荒らし達はカズ子なるコテが犯人だということにしようとしたものの
明らかに自分達がスレの混乱を招いた張本人であることがバレバレw
好評な無双シリーズの他作品に対するすさまじい嫉妬から、いつもの如く
気持ちよくスレを荒らしてたゴキブリ共であったが
スレ住人らに自分達の厨行為を正当化するのが無理であることを思い知らされ突如豹変。

自分達のスレでコソコソ陰口叩きつつも恥ずかしいログを流すべく、
怒涛の連投で失敗点スレを埋めていくのであったw
この日を境にものすごい勢いで2信者は暴れ出し今も無双関連スレを荒らしてるが、
失敗点スレで論破されたという恥ずかしい過去は消えるのだろうか・・・

    彡川三三三ミ
   川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
  川川::::::::ー◎-◎-)   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ..川(6|::::::::  ( 。。)) <  2こそ最高w
 川川;;;::∴ ノ  3  ノ   \__________
   ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ゲプッ
  ( *  ヽー--'ヽ )
  (∵ ;)  ゚ ノヽ  ゚ ):)     ○三国無双2信者
  (: ・ )--―'⌒ー--`,_).    ○36歳
  (___)ーニ三三ニ-)     ○歴ゲー板の荒らし(そろそろ2年目に突入)       
  (∴ ー' ̄⌒ヽω  ).     ○無職
   `l ・  . /メ /       ○中卒(議論で瞬殺される凄まじい低能ぶり)
    ヽ ∵  /~- /       ○童貞
    (__)))))_)))))     ○好きな行為『2を誉めてくれないスレへの荒らし』
.                   ○嫌いなコテ『カズ子』
28無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 11:22:53
>>25の意味が解らないのでkwsk
29無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 14:52:17
>>18
遅れ馳せながらノシ
こんなに仲のいい兄弟が゚・(ノД`)・゚
30まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/06(火) 16:08:57
31無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 20:01:25
>>30
いつも乙です。
32無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 21:42:52
>>28
轅(ながえ):馬車・牛車(ぎっしゃ)などの前方に長く突き出ている2本の棒。
先端に軛(くびき)をつけて牛や馬に引かせる。

>>16の軌を軛の誤りとして、轅と軛は共にあるべきであると解しているらしい。
しかし軌を原文通り馬車の軌(わだち)と解釈するほうが「若殊跡」が自然に解釈出来るし、
牽牛は>>17氏の如く表現を掛けているだけで実際は荷引き牛と解釈したほうが自然であると思う
331(ry:2007/03/07(水) 01:11:52
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ

>>18-
#答兄機(陸雲)
これがいつごろの作なのか、上海古籍出版の文選と文津出版社の陸清河集には
かいてないようなので、自分はよくわかりませんですたorz

「南津有絶済、北渚無可梁」というのは、あきらかに長江流域を去って
黄河のほうへいく兄をさしていると思うので、陸機が洛陽にいって
陸雲は呉にとどまる(そいで陸機が黄耳に手紙をたのむ?)という場面だとおもうのですが……orz
もしそうなのだとしたら、陸雲も晋につかえ、ツマヨウジの手紙をかいたりするのはこのあとですおね。
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/riku_sesetsu_yoshi.html
↑前スレにうpしたところなのですが、世説新語なので本当かどうかよくしらないのですが、
洛陽ではいそがしくて離れて文通していることも多かったのでせうが、
こうして一緒の寮にすんでいたりできたこともあったみたいで、よかったです(*´Д`)
司馬穎のときに兄弟で呉にかえっていれば……うあーんばかばか。・゚・(ノД`)・゚・。

陸雲はこの作で「南津有絶済、北渚無可梁」として、亡国への愛情をうたっていますが、
しかしあるいは呉をすててでも兄についていきたい、という心情をうかがわせるところが、
陸雲らしいなーと(自分は)思うのですー。すごく兄ちゃんが好きだったんだろうな。・゚・(ノД`)・゚・。

>>25,>>28,>>32
http://p.pita.st/?m=8f7zjkz0 ←わかりづらくてすまんですが、牛車とかはたぶん
こういうふうになっていると思うのですー。自分も「軌は軛のあやまり」「牽牛=ヒコボシ」とするよりも、
「軌」も「牽牛」ももじどおり「わだち」「車をひく牛」として(牽牛は参商と表現だけをかけことばにして)、
「車(陸機)とわだちの跡(陸雲)がべつべつにされる」「車をひく牛が車につながれていない」としたほうが、
とおりがいいかと思ったのですが、よくわからんです……orz。

>>21
平復帖か、ふっ、まかせたまえ。といえればいいのですが、むりぽですorzw
でもぜし読みたいのでうpきぼんですー(0゜・∀・)wktk
34無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 01:19:35
絵の横に伸びている棒がナガエ?
351(ry:2007/03/07(水) 01:38:00
>>34
そうなのですー。封筒の裏でみづらくて済みませんorz
ながえの先にくびき(牛の背中をまたいでいる黒いやつ)をつけて、そのくびきを牛にくっつけて(?)
車をひかせるのだと思うですー。中国の三世紀の牛車はちがうかもなのですが……orz orz orz

そいで、牛車(馬車でも)のけつのところを見ていただければ一目瞭然だと思うのですが、
車のわだちは、いつも車のうしろにでっぱったながえの先っぽをおいかけて離れず
ついてできるのですおね。それを、いままで車(兄)をおっていたわだち(弟)にたとえて、
車からわだちをひきはなすなんて、そんな無理な表現をすることで、
兄ちゃんとの別離のかなしさを詠んだのかなーと思ったのですー。
そうすると、つぎの牽牛……にも詩景がむりなくつながるし、全体をとおしてくりかえし
描写される、兄がゆく路のながさを想起させる表現にも合致するかなーと思ったのですが……。

軌(わだち)を軛(くびき)のあやまりとしてしまうと、>>32さんのように、「跡を殊つ」というのが
意味不明になってしまい、しかも次の句でヒコボシを出してくると、もうわけがわからないので
>>16のように解釈してみたです……でも文選も長いあいだ学者のみなさんが研究されている
ことなので、自分がまちがっている可能性はおおきいのであまり信用しないでくだされorz orz
36無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 08:49:14
牛カワイイw
37無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 15:30:16
いい兄弟だな。陸抗もいい父ちゃんだったんだろうな・・・
38無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 15:54:29
おじいちゃんの陸遜も…ゲームじゃ少年のイメージが強いけど
39無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 15:59:20
陸抗・陸機陸雲はゲームじゃどんなイメージになってるの?
40無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 16:28:17
>>39
どっちも未登場。三国志大戦では陸抗が最近になって
出たけど女の子みたいになっていた…
41無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 16:37:56
無双陸遜
ttp://www.gamecity.ne.jp/smusou4/chara_img/chara_popup_45.jpg
大戦陸抗
ttp://www.geocities.jp/kesareta/img4/rikukou.jpg
陸機陸雲は西晋扱いになるから三国志ゲーには出ないのかもな。
42無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 17:52:27
このままじゃ不憫なので大戦の渋い陸遜も貼っておく。
ttp://www.geocities.jp/kesareta/img4/SRrikuson.jpg
43無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 18:39:55
歴史の表舞台に顔出した時は40代だしな
そして古代人は食生活の関係で現代日本人に比べると10年ほど年上の内臓年齢の法則
もう既に現代人の50代であるからして大戦陸遜でさえもちょっと若すぎると思うぜ
44無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 18:58:28
じゃあ二陸も可憐な詩人兄弟を想像しとったが、オヤジ同士の文通だった訳か…
…オヤジ兄弟ハァハァw
45無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 19:05:25
>>42
イカ!?

陸兄弟は、いいオッサンが笑い病だったり、追っかけしたりしてるのを想像するのが楽しい
46無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 19:30:30
>>45
それは曹一族などにも当てはまりますなw
このスレはいいオッサンの可愛さに萌えるのが多いしなww
471(ry:2007/03/08(木) 02:32:50
>>36-
うひー、陸遜も陸抗もなぜかジャニーズ風にw>>42はしぶいww
陸遜はいつ名を議から遜にかえたのかしらないのですが、あざなは伯言さんなので、
陸議と呼応しているあざなですから、大人になってあざなをもってしばらくしてから
名を遜にあらためたのでしょうかー。陸康の家を陸績にかわってとりまとめるように
なったときとか……? 孫権が将軍になって21歳で出仕したらしいので、このへんの
どっかで訳あって、へりくだった名にあらためたのかな……
でも呉軍師スレに陸遜のカエルの民話(陸遜がカエルをいっぱいつかまえてきて、頭に
墨ぬって放したので、いまでも長江流域には頭に墨ぬった模様のカエルがいる)をかいたら、
「それは関羽の使者を油断させるためにやったんだよー」と教えていただいたのですが、
>>43さんのとおりならば、みため50代のオッサンがカエルに色ぬりを……(*´Д`)
関羽への一連の手紙といい、なんか陸遜は苦労の人だ(ノД`)

#後期スレで嵆康の話をみかけたので、平復帖をまっているあいだに
嵆康さんの詩をうpしてみます。

『雑詩』  嵆叔夜
微風清扇  雲気四除
皎皎亮月  麗于高隅
興命公子  携手同車
龍驥翼翼  揚鑣踟蹰
粛粛宵征  造我友廬
光燈吐輝  華幔長舒
鸞觴酌醴  神鼎烹魚
絃超子野  歎過綿駒
流詠太素  俯讃玄虚
孰克英賢  与爾剖符
481(ry:2007/03/08(木) 02:36:53
(適当書き下しorz)
「微風は清く扇(あお)ぎ、雲気は四(よも)に除(はら)う
皎皎(けいけい)たる亮月(りょうげつ)、高隅にて麗(うるわ)し
公子の命(おお)せに興(た)ちて、手を携え車を同じくす
龍驥(りょうき)は翼翼として、鑣(くつわ)を揚げれば踟蹰(ちろう)す
粛粛として宵(よい)に征き、我が友の廬(いおり)に造(いた)る
燈(あかり)は光りて輝きを吐き、華幔(かまん)は長く舒(の)ぶ
鸞觴(らんしょう)に醴(あまざけ)を酌(く)み、神鼎(しんてい)に魚(うお)を烹(に)る
絃は子野(しや)を超え、歎(たん)は綿駒(めんく)を過ぐ
太素(たいそ)を流詠し、俯して玄虚(げんきょ)を讃(たた)う
孰(いずれ)ぞ克(よ)き英賢なるは、爾(なんじ)に符(ふ)を剖(さ)きて与わん」

(適当訳orz)
「かすかな風がきよらかにそよぎ、雲は四方にふきはらわれました。
こうこうと白くあかるい月は、夜空のすみに美しく光っています。
公子さまのおおせに立ちあがり、手をとって同じ車にのりました。
訓練されたりっぱな駿馬はすばらしく走り、たずなをひけばゆっくりと進みます。
しずかにおごそかに夕ぐれの道をすすみ、我々の友人のいおりにつきました。
あかりは光ってかがやきがこぼれ、きれいなとばりは長くすそをひいています。
鳳凰のようなさかずきにあまざけをくみ、すばらしい鍋で魚を煮ます。
琴のしらべは春秋時代の晋で盲目の琴の名手としられた師曠をもしのぎ、
うたごえは戦国時代の斉で名歌手としられた綿駒よりもすばらしいものです。
列子にかかれたものごとのはじまりについてをのうたをたわむれに詠み、
下をむいては奥深く覗いしれない老荘の原理をたたえます。
もしどこかに賢くすぐれた人がいるのならば、あなたにもこの楽しみの割り符の半分をあげますよ」
491(ry:2007/03/08(木) 02:39:33
嵆康は黄初四年(223)-景元二年(262)、正始年間の文人で、曹叡たんが病没して
曹芳が即位した239年にはまだ16歳で、司馬師が曹芳を廃位したのは254年で31歳、
39歳で呂安に連座して処刑されているですー。それで、彼は竹林の七賢のひとりで、
奥さんも曹家の人で、思いっきり曹家シンパだったので、この詩にでてくる公子というのは
曹家の皇帝ではないだれかだと思うのですー。誰だろう?w とにかく、曹家のみなさんは、
太祖曹操・高祖曹丕・烈祖曹叡と詩文をよくしたからなのか知らないのですが、
とても文人を大切にする政策をとってくれたのですおね。だから、嵆康みたいな
ヘンクツの隠者めいた人とも、公子みずから遊びにいったりして仲よくしてくれたのですねw。
彼は地位は高かったのですが、清談ばっかしてる人で、哲学を論ずるかたわらで、
謎のくすりをつくってのんだり、鍛冶屋さんのまねごとをしたり、琴をひいたりお酒をのんだりと、
なんつうかリベラル派というかヒッピーというか、J=J.ルソーみたいな人ですおね。
なんか18世期のフランスのごとく、そういう一周したデカダンスがおされとしてはやっていたらしいw。

そういうわけで、この作はクーデター前によまれたもので、友人というのは同じヒッピー仲間の
竹林の七賢の誰かじゃないかな……とか思うのですが、建安から黄初のころの詩文とくらべると、
なんとゴージャスでセレブなおされ文化人の薫りがプンプンではないでせうかw。
孔融の文章を「体気高妙、有過人者。然不能持論、理不勝詞、以至乎雑以嘲戯」と評した曹丕が
これをみたら、ひっくり返るんじゃまいかと思うぐらいですw。
二十世紀前半に苦境のなかでブルースをうたったミュージシャンの人が、
それをルーツとしたロックンロールでくるくる踊る70年代のヒッピーのみなさんをみたら、
おどろいてひっくり返るであろうようなものでせうか……w
「興命公子、携手同車」のところは、おもいっきし曹植たんの↓妾薄命二首其一になぞらえていますね。
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_chi/syohakumei_1.html
自分はどうしても、嵆康さんとか阮籍さんとかの詩はおされセレブ文化人風にみえますw。
50無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 07:17:27
やっぱり呉軍師スレにもいたのかww

陸議→陸遜への改名時期は色々読んでみたり
調べたりしたけどどうもわからんね
ttp://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=410
51無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 11:09:48
>>47-49
まじセレブだw
すばらしい鍋って何だwww
52無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 15:06:29
>>48-49
ケイ康って隠者で、本だと「先生」「なんじゃ?」という風に書かれているから
老人のイメージがあったけど、意外と若かったんだね。
>>この作はクーデター前によまれたもので
もしそうなら二十代の詩だwwwww
53無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 20:21:58
恵帝をかばって死んだのがケイ康の息子だっけ?
54無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 22:48:28
鍋までもすばらしいとは流石セレブ
魚も旨いんだろうな
551(ry:2007/03/09(金) 01:48:54
>>50
Thxです! なるほど、いつ陸遜が名をあらためたのかは謎なのですね。
孫権の弟の孫翊、あざなは叔弼のふるい名は孫儼、魏元帝曹奐のあざなは景明、
ふるい名は曹璜で、どちらのあざなも新しい名と呼応しているのですおねー。
陸遜のあざなは伯言で、ふるい名の議と呼応しているので、ちょっとふしぎですー。

>>51-
「神鼎」というのはなんだかよくわからなかったので、「すばらしい鍋」とてけとーに……(ry
鼎というのは金属製のなべかまのことで、曹丕が薄葬詔で「無蔵金銀銅鉄、一以瓦器
(金銀銅鉄を墓に埋蔵せず、すべてかわらけにしなさい)」といったように、
いくら当時の中国にりっぱな金属をつくる技術があったとしても、金属製品はやっぱ貴重品で、
市井のみなさんはおもに土器をつかっていたのでは……と思うのですー。
そんななかで、>>48に列挙されているものは、りっぱな鼎にりっぱな(おそらく金属の)さかずき、
よく訓練されて緩急も自在なすばらしい馬、洛陽の近郊を音もなく夜道をすすむ馬車、
こうこうと光るともしび、美しいとばり布、伝説的な名人をもしのぐすばらしい音楽と、
これまさに文明の華ぞといった、絢爛たる詩景なのですおね(じっさい、ローマか中国かという
三世紀なのですから、これは当時の文明の頂点をきわめた光景でせう)。
そこで嵆康たちは酒に酔いながら、老荘の思想をたわむれにうたっているのです。
その文明の華たる洛陽で、学問をたっとび、みずからも共に詩文に興じる気さくな公子の姿が
えがかれているのは、皇帝の一族が手厚い文化政策をおこなっていることを象徴した風景ですおね。
嵆康は奥さんが曹家の人というのもあるのですが、それをとてもよいものだと考えているで
あろうことが、公子や友人と仲よく酒宴に興じている詩景からもよくわかると(自分は)思うのですー。
561(ry:2007/03/09(金) 01:52:17
そいで、>>48の雑詩ですが、なぜこんなに鼻につくほどwそういったぜいたくな酒宴の光景が
えがかれているのかなのですが、自分は嵆康はわざとそうしたのではないかと思うのですー。
魏書王衛二劉傳伝第二十一の王粲伝付嵆康伝にかかれていますが、嵆康は隠者ですが
処世もたくみで、なんというか道楽隠者(?)のような人なのですおね。清談をする人は皆そうですが、
かれらは自身が本当にたっとぶべきだと考えている学問を、生臭い世間に利用されてボロボロにされるのが
いやで、書をもって竹林にひっこんでしまったようなのが清談ムーブメントだと思うのですー。
その竹林で、世俗のものは何もなく、皇族から手厚い保護をうけて、美しい純粋な学問の世界にあそぶ
文明をよろこび、文化政策を施す皇族をよろこび、自分たちのエリート的境遇を満喫し、
学問をたたえたのが、>>47-48の雑詩の詩景のように自分には見えるです。

そいで、最後の「孰克英賢、与爾剖符」は、すべての人の上に平等であるという学問の本質にのっとった句、
酒宴のたのしさをあらわす戯れ言であるとともに、ここまでの全体に世俗をすてた、
ある意味では非生産的で退廃的なうたげの描写に、ふっと水をさす表現であると思うですー。
「このたのしみの割り符をわけてあげる」という表現は、この状況が皇族のお墨付的な保護のもとに
存在しているものであることを暗示しています。しかし、魏書にかかれているように処世にたくみで
聡明な嵆康は、この詩をよんだのが254年以前であっても、司馬氏の不隠さに気づいていたと思われますー。
皇族のうしろだてのもとにこの楽しみがあることをよく知っていた彼は、このような宴がいつまでも
続くものではない可能性もよくわかっており、だからこそこのような刹那的な享楽をよんだのでは……
と、自分には思えたですー。そのへんをストレートに表現せずに、自分たちの未来をも皮肉った諧謔で
ひねってみるあたりが、インテリのあそびだなーと思うのですがw。

>>53
#嵆紹
そうなのですー。しかしウドンがなんとかというのは何なのでせう?(・ω・)
57無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 03:21:50
鍋一つからこういう考察が出来るこのスレが好きだ。
58無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 14:26:35
鍋からという訳でもなかろうw
公子は誰なんかね。曹耄?
59無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 14:31:27
曹髦は年が合わなくね?公子沢山いるからこれだけから特定はむりぽ
60無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 16:34:16
曹家は文学好きな家風なんだな
61無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 17:19:46
>>60
曹彰のような体育系もいるけどなw
62無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 18:33:28
文武両道なのだ
63無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 21:07:14
>>55
陸遜の字か。やはり名前変えたら字も変えるものなのだろうか
64無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 22:07:54
そういえば
甘寧のあざなって、なんかちぐはぐだよね
65無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 23:12:29
よくわからんけど「遜」って良い意味ではないみたいだね
甘寧の字はさすが元ゴロツキという感じが・・・w
66無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 00:36:10
名前が「寧(しずか・おだやか)」なのに、あざなが威勢のいい「興覇」
どこから出てきたんだろう
67無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 01:03:50
>>55-56
相変わらずスレを見ていて良かったと思わせる解説乙です。
曹家の文化政策と言うのは、かなり強力な物だったのかな
68無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 01:04:01
そういや、周瑜も名と字、両方に「美しい球」という意味が入っているらしいね。
さすが美周郎。
69無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 01:10:31
周瑜の名と字、と聞いてつい諸葛瑾が脳裏を過ったのは秘密だ
701(ry:2007/03/10(土) 02:46:27
#あざな
 孫権の弟、孫翊のふるい名は儼なのですが、これは孫権が王さまになったので
それを補佐するんだよーという意味の翊にあらためたのでは……と思うですー。
あざなの叔弼さんも、翊に呼応した字(たすけるよ!)ですおね。
 魏元帝、曹奐のふるい名は璜で、なぜあらためたのかは自分は知らないのですが、
あざなは景明さんで、こちらも新しい名の奐(ひろくあきらかだよ!)と呼応しているのですおねー。
 蜀の韋曜・あざなは公嗣のふるい名は昭ですが、これは新旧どちらの名も似たような意味だし、
そもそもあざなと名があんまり関係ないような……(関係あるのかもですが)。
 陸遜のあざなの伯言さんだけ、ふるい名の議と呼応しているので、やっぱりふしぎですー。
遜はへりくだった意味なので、陸康さんちを陸績にかわって治めるようになったときに、
年齢が上だから家を采配してるだけで家長じゃないよ! とあらためたとか、孫権につかえてから
もう各方面にへりくだってへりくだっての連続だったので。・゚・(ノД`)・゚・。、なんかそのへんで
名もあらためたのかなーとか思ったのですが……でもあざなは変えてないってことは、
生きているあいだはずっと議に呼応した伯言というあざなを使ってたのでせうから、
没後に名を変えたのかも……? なんかやっぱりふしぎですー。

甘寧の寧は、浙江省の海岸にある水上交易都市の寧波と関係あるようなないような……とか思ったですw。
あざなの興覇さんは、「水賊のおやぶんだよ!」みたいでおもしろいですが、何か典故があるのかなw。
呂蒙なんかは、あざなは子明さん(あかるいよ!)なので、蒙(くらいよ!)と正反対の意味なのですねー。

>>69さんのとおり、周瑜・あざなは公瑾さんも、諸葛瑾・あざなは子瑜さんも、
典故は同じ春秋左伝宣公十五年の↓瑾瑜なのですおねw。
どんな美しい宝石にもキズはあるんだよーという話なので、周瑜様といえど虫歯や水虫ぐらいあったかも
しれませんし、諸葛瑾のようにすばらしい才能をもった人でも、顔がちょっとロバうわ何をあqwせdrfg
711(ry:2007/03/10(土) 02:47:38
(白文)
「十五年春、公孫帰父会楚子于宋。宋人使楽嬰斉告急于晋。晋侯欲救之。
伯宗曰、不可。古人有言曰、雖鞭之長、不及馬腹。天方授楚、未可与争。
雖晋之彊、能違天乎。諺曰、高下在心。川沢納汚、山藪蔵疾、瑾瑜匿瑕、
国君含垢、天之道也。君其待之、乃止。」

(適当書き下しorz)
「十五年春、公孫帰父は楚子と宋にて会す。宋人は楽嬰斉をして晋に急を告げさしめる。
晋侯は之(これ)を救わんと欲す。伯宗は曰く、不可なりと。古人の言に有りて曰く、
鞭の長きと雖も、馬の腹に及ばず。天は方(まさ)に楚に授くに、未だ与(とも)に争う可からず。
晋の彊(つよ)きと雖も、能く天に違わん乎。諺に曰く、高下は心に在りと。
川沢は汚(けが)れを納(い)れ、山藪は疾(きず)を蔵(かく)し、瑾瑜は瑕(きず)を匿(かく)し、
国君は垢(はじ)を含むは、天の道也(なり)。君は其れ之を待てとし、乃ち止む。」

(適当訳orz)
「宣公十五年の春に、魯の公孫帰父は楚の荘王と宋で会いました。宋側は楽嬰斉をつかわして
宋の急をつげさせました。晋の景公はこれをたすけてあげようとしました。部下の伯宗は、
「いけません」といいました。「昔の人は、どんなにムチが長くても、馬の腹までは
とどきませんといっています。天がまさに楚の味方をされているときに、いっしょになって
戦争をしてはいけません。晋がいくら強くても、天にはさからえないのです。ことわざでも、
たかいひくいは心が決めること、といいます。川や沢にはきたない泥水もまざっており、
山や藪はおそろしいわざわいを内包しており、すばらしい宝玉も小さなキズを隠しており、
国の王さまもときには恥をのむことは、天にきめられたありかたなのです」。
(伯宗がこう言ったので、晋の景公は)救援をだすのを中止しました。」

>>67
曹魏は高祖が皇帝の名で、「蓋文章経国之大業、不朽之盛事」と明言してますしねーw。
政策はあまり文学スレむきではないらしいので、公的な面の文化保護はほかのスレむきかもですが、
私的な面では>>60さんのとおり、皇族みずから詩文を愛してたしなむ人が多かったのですから、
皇族手ずからの保護があたえられたという点では、当時としても非常に影響力があったのではないでせうか?
72無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 03:41:07
>周瑜様といえど虫歯や水虫ぐらいあったかもしれませんし
ちょww
73無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 04:03:29
>>66
どっちも国系だよね。
74無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 04:05:38
>>70-71
本当に字は漢字の意味を調べれば調べるほど面白いですね。
まとめサイトにある曹一族の字の話題も貼っておこう。
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/explanations/names_pronunciation.html


周瑜や諸葛瑾の元ネタは初めて知りました。
そのような意味があったとは…確かに周瑜も完全無欠だったとはいえ、
人間ですからねー欠伸や屁をこくことぐらいしてたでしょうな。
(幻滅するようなこと書いてスミマセン…)


そういえば、曹丕の孫にあたる曹髦も文学サロンを開いたりしていたと聞きますし、
文学好きは遺伝し続けていたんでしょうね。
曹丕が長生きしていたら孫と仲良く詩を作ったりしたのかな…と
妄想して泣けてきます。
75無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 04:08:27
おまいら欠伸や屁や虫歯程度なら良いが、水虫はヤメレw
76無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 04:15:23
じゃあ間を取ってワキガで
77無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 04:16:38
おまえら周瑜様のファンに殺されるぞw
78無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 05:27:07
偏頭痛とか腰痛とかだよ、多分!
79無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 08:06:39
周瑜オタですが飛んできますたw
水虫だけは簡便な!

>>68
両方とも美しい珠という意味でも、美しさは瑜>瑾
名前が瑜で字が瑾な周瑜なら謙遜になるがが、
名前が瑾で字が瑜な諸葛瑾は自信家だったんだろうかw

甘寧の字については趙雲とかと同じく何となくカッコイイからでつけてそうだw
80無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 10:05:30
1氏も周瑜オタじゃ無かったか?…w

瑾>亮>均と地道になってる気がする…
811(ry:2007/03/10(土) 10:54:44
周瑜様オタノシ
曹植たんもシラミがいるし、水虫ぐらいよゆうであります(`・ω・´)

>>79
趙雲さんのあざな子龍は、雲と龍が呼応していますおね。
じつは陸雲たんもあざなが士龍で、おなじパターンだw。
82無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 12:22:58
まあ三国時代の靴じゃ水虫にはとてもなりそうもないけどなw
83無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 13:32:35
どんな靴だったの?
84無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 17:22:14
>>70
ものすごくどうでもいいけど自分の名前が孫匡の字とちょっと似てて意味もなく親近感。
彼も「助ける」って意味合いの名前と字使ってますよね。
みんなでお兄ちゃんを助けるぞ!と思ってたのかな…。
孫朗は孫権の弟としてはひとりだけ異質な感じ。助けるぞー系じゃない。
なんでだろ?
85無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 17:29:26
>>70
公嗣も伯言も単に身分や兄弟順を示してるだけで名との呼応は特に考えられてないんじゃないかな?
86無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 17:44:24
>>85
伯・叔・公は兄弟字だけど、翊と弼、議と言、奐と景明、は呼応しているね。
曜(昭)と嗣は知らんが。

>>81
雲竜型ってあるしなあ。
87無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 17:49:40
>>86
嗣は後継ぎという意味だから公嗣で身分というか立場を表わしてる。
8886:2007/03/10(土) 17:51:20
スマン言葉が足りなかった。曜(昭)と嗣は呼応していないよね。
89無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 17:56:15
呼応はしてないね。
ただ「後継ぎが後を継いで君主となれば下々を照らす存在となるから名と呼応してる」と言えるかもしれない。
ムリありすぎだがw
901(ry:2007/03/10(土) 23:35:46
>>86
雲と龍は、司馬遷さんのうけうりですが、史記巻第六十一の伯夷列伝第一に、
(白文)
君子疾没世而名不称焉。賈子曰、貪夫徇財、烈士徇名、夸者死権、衆庶馮生。
同明相照、同類相求。雲従龍、風従虎、聖人作而万物睹。伯夷叔斉雖賢、得夫子而名益彰。
顔淵雖篤学、附驥尾而行益顕。厳穴之士、趣舍有時若此、類名堙滅而不称、悲夫。
閭巷之人、欲砥行立名者、非附青雲之士、悪能施於後世哉。

(適当書き下しorz)
「君子は世を疾没せども焉(いずく)んぞ名を称えざるかな。賈子に曰く、
貪夫(たんぷ)は財に徇(したが)い、烈士は名に徇(したが)い、夸者(こしゃ)は権に死し、衆庶は生に馮(よ)る。
明を同じくして相(あい)照らし、同類は相求む。雲は龍に従い、風は虎に従い、聖人は作(な)して万物を睹る。
伯夷と叔斉の賢きと雖も、夫子(ふし)にして彰し益(ますます)名を得る。
顔淵の学に篤きと雖も、驥尾に附して益(ますます)行いを顕ず。厳穴の士の、
趣舍(しゅしゃ)有らば此の時の若くし、類いて名を堙滅(いんめつ)させて称えざる。
悲しい夫(かな)。閭巷の人に、砥ぎ行きて名を立てんと欲す者の、青雲の士に附かざるは、
悪(いずく)んぞ能く後世にて施(あらわ)さん哉。」
911(ry:2007/03/10(土) 23:36:57
>>90適当訳orz)
「君子は亡くなって世を去っても、その名を称えるべきなのです。賈子は、
「よくばりな男は財産に殉じ、気性がつよく節義をまもる男は名に殉じ、
おごりたかぶった者は権力のために死に、そこらへんの人は命を惜しがる」といっています。
同じ明かりのもとにいる者はたがいに照らしあい、同類はたがいを求めます。
雲は龍につきしたがい、風は虎につきしたがい、りっぱな人はあらわれて万物をごらんになるのです。
伯夷と叔斉はかしこい兄弟でしたが、(業績を書かれて)あきらかにされたので、
ますますその名を称えられたのです。顔淵はりっぱな学問をした人でしたが、
孔子の弟子だったのでますますそのおこないが知れ渡ったのです。
仙人のようなきびしい暮らしをしているりっぱな人は、(書物に記すのを)取るか捨てるかによって、
このように業績が世に知られもし、あるいは名がうずもれて消えてしまって称えられなくなるのです。
悲しいことです。ちまたの人で、研鑚をつんで名をたてようと思った人は、身分があって
名声の高い人のところに弟子入りしないと後世に業績をのこせないのでしょうか?
(いえ、そんなことのないように、私はこれからこの王侯名族以外の人々についての列伝をかきます)。」

とかいてあるです。趙雲さんと陸雲たんの意外な接点ですねーw。
921(ry:2007/03/10(土) 23:37:51
#ちなみに陸機たんのあざな士衡は、
後漢書巻二十九の申屠剛鮑永郅ツ列伝第十九の郅ツ伝に、

「西至長安、乃上書王莽曰、臣聞天地重其人、惜其物、故運機衡、垂日月、含元包一、甄陶品類、
顕表紀世、図録予設。」

「西して長安に至り、乃ち王莽に上書して曰く、臣の聞くに天地は其の人を重んじ、其の物を惜しみ、
故に機衡を運じ、日月(じつげつ)を垂れ、元を含み一を包みて、品類を甄陶(けんとう)し、
紀世を顕表して、図録に予(あた)え設(しつらえ)る。」

「西にいって長安について、王莽に上書して、「私の聞くところによれば、天はそれが人であることを重んじ、
それが物であることを惜しむので、機衡をうごかし、月日をめぐらせ、ものごとを分類し、
そうして分けたものを導いて、世のめぐりをあきらかにあらわし、本に書いておくのです。」

とかいてあって、注に「機衡、北斗也。」とでているので、機衡は北斗七星のことらしい。
さらに、鮮于璜碑にも機衡がどうのと書いてあるらしいです。 by 和漢書法大全さん
陸兄弟は、なんとなく空系というか宇宙系というかSF系(?)の名とあざなをもった兄弟なのですねーw。

曹操・孟徳さんと司馬徽・徳操先生の「徳操」は、荀子の勧学に典故がでているらしいです。by 新字源さん
931(ry:2007/03/10(土) 23:43:39
そいで、あざなの話ばかりして何がいいたいのかというと、>>86さんのように、
三国時代に名をあらためている人で、名とあざなが呼応している人は、
みんなふるい名でなく新しい名に見合ったあざなを使っているようなのですー。
なのに、陸遜さんだけふるい名(議)に呼応したあざな(伯言)なのがふしぎじゃね?
と、>>47にも>>55にも>>70にもかいたのですが、ひつこくきになって(ry
941(ry:2007/03/11(日) 00:08:18
>>82-83
ところで三世紀の中国の人は、どんな靴をはいていたのでせうかw
曹操は従者に「履不二采(一色以上のはきものをはかせない)」としたらしいですが、
二色以上のくつってなんだろう……周瑜さんは南部の水軍提督なので、なんか足がむれてそうだと勝手に(ry
95無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 00:20:18
麻と絹を織って作った靴とかがあったようだね。
漢字の銘文が織り込んであったり、何色もの糸を使って模様を織り込んだりとかしたようだ。

木靴やら下駄やらもあったらしいけど。
竹林の七賢とかは、基本的には裸足だと思うけどね。
96無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 00:20:29
陸機の名と字のつながりは初めて知った。北斗七星カッコヨス

周魴が偽投降する際に使用した書簡には陸議と書かれているから
そのときはまだ改名してなかったのかも?
呉志では陸遜で統一されているけど魏蜀の方では陸議表記がちらほら見られるね
971(ry:2007/03/11(日) 00:34:59
>>96
Thxです!! じゃあ、陸遜はずいぶん遅くに名をあらためたのですねー。ほんとに没後かも?

>>95
Thxです!! 通気性のよさそうなくつですねー。そういうのならムレない(ry
もようとか色糸とか、三世紀にもうそんなぜいたくなくつもあったのですね。

前スレからうpしたくて仕方ない魯迅先生の『魏晋風度及文章与薬及酒之関系』では、
何晏ちゃんとか清談をして五石散をのむ人は、皮膚がよわくなってたびやくつがはけないので
下駄やはだしの生活をはじめて、それが風流ということになったと書いてあるですー。
なので、ふだんはいてたタビやくつはよほどゴツゴツした皮かなにかでできたものと思っていますたが、
男性用にも布のやわらかいぜいたくなくつがあったのですねー。
韓非子には、南部(越)の人は冠をかぶらず、いれずみをしてはだしでいると書いてあるので、
三国時代も呉の人はまた文化がちがったのでせうね。提督がはだしってこともないのでせうがw。
98無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 00:37:19
>>92
感無量です!北斗七星(´;_ゝ;)泣ケタゼ

>>94
『世説新語』雅量編に、阮孚が屐を集めていた
王徽之、王献之兄弟が火事で逃げる時屐を取る暇も無く〜
とある。屐(げき)は下駄の事で、晋の時代に大流行したそうです

晋以前では>>95さんの説明のものか、皮で作った靴とか
紐で調節したらしいです
991(ry:2007/03/11(日) 00:50:01
>>92びみょうに訂正orz
×……本に書いておくのです。」 →◎……本に書いておくのです」といいました。」

#北斗七星
「衡」ははかりなのですが、むかしは北斗七星で時間とか方角(?)をはかったので、
それと「機」のはたらきめぐらせるというのがくっついて、機衡で「北斗七星(が巡る)」らしいです。by 新字源さん改

>>98
Thxです!! 晋の貴族文化は、曹魏の清談がベースになっているぶぶんが
すごくおおきいので、げたも何晏ちゃんとかがはやらせたのが残ったのでせうかね(0゜・∀・)

皮のくつでは、何晏ちゃんのかよわげな足wはすりむけそうですw。
100無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 01:01:49
>>99
糸で作った靴は、「絲履」と呼ばれてる。
>>98氏の補足以外では、残ってるのは草鞋くらいかな?

少し時代が下るが、南北朝時代の顔氏家訓には、当時の貴族が高下駄をよく履いていた事が書かれているらしい。
101無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 01:11:36
>>97
>韓非子には、南部(越)の人は冠をかぶらず、いれずみをしてはだしでいると書いてあるので

冠売りと靴売り夫婦だっけ?
102無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 01:25:06
靴の話題が出たので中国社会風俗史を引っ張り出して見たら
曹真が履をはいて昇殿することを許されていたり、
曹操が北征の帰途に客が来ると知ると驚喜して
早速履を揃えて出迎えたとか書かれていますね。
103無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 01:46:37
>>22さん >>33 1さん お言葉に甘えてうPさせて頂きます

《平復帖》平原内史呉郡陸機士衡書

彦先羸瘵、恐難平復。往屬初病、慮不止此、此巳爲慶。
承使唯男、幸乃復失前憂耳。呉子楊往初來至、吾不能尽。
臨西復来、威儀詳跱、擧動成觀、自軀體之美也。
思識☐愛之邁前、勢所恆有。宜☐稱之。
夏伯榮寇辭之際、聞問不悉。

彦先羸瘵(るいさい)し、平復し難きを恐る。
往(さき)に初め病に属(およ)ぶや、
此に止まらざるを慮(うれ)ふも、此に巳て慶と為す。
唯男を使して、幸ひに爲に復(また)前憂を失ふ耳。
呉子楊往(さき)に初めて來至(いた)るや、吾尽くす能わず。
西より復来るに臨めば、威儀詳(つまび)らかに跱(そな)はり、
挙動観を成し、自ら軀体の美なり。
思識☐愛の邁前なるは、勢の恒に有る所なり。宜しく之を☐称すべし。
夏伯栄寇乱(こうらん)の際なれば、聞問悉(つく)されず。

☐は不明な文字。故宮博物院の解説を参考としました。
104無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 01:47:46
彦先は病で衰弱し、回復が難しいのではないかと恐れておりました。
最初の発病で、このままではすまないだろうと心配しておりましたので
元気になられて本当に嬉しいです。
唯男を使いに出し、幸いな事に前のような心配は無くなりました。
呉子楊は先日初めてやって来たのですが、私は世話が出来ませんでした。
西よりまたやって来たので会ってみれば、威儀が十分備わり、
立ち居振る舞いも目を見張るほどで、体全体に美しさが現れております。
☐愛の前向きな考え方などは、勢いのある者が常に持っているものです。
彼を引き立ててやって下さい、お願いいたします。
夏伯栄は寇乱の時であるので、連絡が満足に出来ません。

彦先さんは古来、顧栄か賀循が諸説あります。二人とも陸機より長生きです。
もう一人の彦先さんは与陸典書を見ると若くして亡くなってます。
そもそもこの書自体署名が無く、陸機のものか陸雲のものか
よくわからないらしいですね
故宮博物院のサイトで見れますよ
 http://www.dpm.org.cn/
105まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/11(日) 04:11:35
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
深夜ですがここまでUP
106無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 05:07:45
>>96-97
228年に陸議と名乗っていたのならば
何故既に高い地位にあった陸遜がその後改名した事に誰も触れていないんだろうね。

>>70氏も言っているが存命中は議に呼応した字を使っていた訳だし、改名は没後でも可笑しくないな。
107無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 12:44:45
>>103-104
乙です。すごい。平復帖の訳文を見たの初めてだ。
これが陸機のものだとしたら、こんな風に友人の健康を気遣う一面が見られて感無量です。
顧栄と賀循、親交のある二人が同じ字でどうやって呼び合っていたんだろう。
ところで、ぶっちゃけ平復帖の字はうまいの?へt(ryなの?
暗愚なもんで真価がわからず見るたびに陸機は字がへt(ryだなと思ってしまうんだけど、
こういうのに詳しい方から見たらうまかったり味があったりするんだろうか

>>106
陸遜の場合はああいう最期なだけに没後に改名されたとしても不思議ではないかも。
おくりなされたのが孫休の時代になってからというのも気になる。
108無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:20:23
このスレは初めて見る訳が沢山あって楽しいよね
住人諸氏いつも乙です
109無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 16:08:14
一々葡萄のうまさや酒の作り方について訳しても
面白いが儲からないからなw
110無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 16:38:59
このスレが書籍化したら…
というか、こういう内容の本があったら実に面白いとは思うけどな
ニッチかな…w
111無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 16:44:29
まとめさんがあるじゃないか
112無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 17:23:01
>>105
深夜に更新乙です。

>>110
文庫本にコンパクトにまとめたのを寝転がりながら曹丕の詔勅とかを読みたいw
113無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 20:24:32
また靴の話題で悪いんだけど、
官渡で許攸が投降してきたとき、曹操が靴も履かずに飛び出して迎えたってのは作り話だっけ?

やっぱ紳士?は靴はいてないと駄目だったのかなと
そんで何晏らが裸足生活カッコヨスになったのは相当突拍子もないオサレだったのかなとか
おもいますた
114無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 23:16:06
>>113
それは曹操の詩にもある周公の逸話と同じようなもんじゃないのかな。
とるものもとりあえず飛び出す、それほど嬉しかったっていう。

まあ普段からラフなカッコでフラフラしてるネ申のことだからインパクト薄めになっちゃう
のは否めないわけだがw
115無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 23:21:09
この板ってこのスレ以外糞そのものだね
116無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 23:52:00
手洗いにも消臭剤はあるものさ。
117無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:00:12
後期スレなり袁術スレなり、機能してるスレも探せば幾つかあると思うがな。
118無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:03:57
華麗にスルーきぼん
119無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:23:49
>>113
ネ申は本当にやりそうだからわからないぞw

ところでデカダンス共なんだけど
下駄はともかく裸足だと逆に痛い気がするけどなあ…そうでもないのか?
それともアレが体質に合ってるか分量を守ってた人は炎症がおきなかったのかな
120無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:37:54
>>119
ヤバいお薬とは無縁だけど皮膚が摩擦に弱い身としては、裸足ってのはわかる気がする。
足の裏ってかかととか指の股とか足の甲とかよりやっぱ強いんだよな。
そりゃまあ裸足で歩けばそれなりに足の裏痛くはなるんだけど、家の中の土間および
付近を軽く散策程度の場合なら、裸足の方が確実に樂だろう。ガラスとか落ちてないし。
硬い革とか布の鼻緒やベルト使ったサンダルだと、ゴミ捨て場と家の往復だけですでに
水ぶくれとかできる。今の靴下と違って昔の靴下は縫い代とか硬くて太かったろうし、それ
なら靴下履けないってのも頷ける。服のタグとらないと炎症起してすごいことになるし。
121無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:40:48
『太平御覽』巻九一○
陸機与弟雲書曰、監徒武庫建始殿諸房中、見有両足猴。真怪物也。

 監徒・武庫・建始殿の諸房中に、両足の猴有るを見る。真に怪物なり。

監徒・武庫・建始殿等の部屋の中で、両足で立って歩く猿が居るのを見た。
本当に怪物である。

陸機から陸雲への書簡は残念ながら現存しませんが、断片がこんな形で残ってますよ
二本足の猿に出くわしてびっくり仰天な陸機。それを弟への手紙にしたためる陸機。
受け取った陸雲の運命やいかに!
122無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 00:44:07
>>119
五石散の成分は諸説あるらしいが、一説には、
アメジスト、赤石脂、鍾乳石、白石英、硫黄の五種とある。

これらを服用するとどうなるかは、飲んだ事ないから分からないけど、
きつい服だと皮膚が擦り切れるほど炎症を起こすらしいから、靴は当然履けないだろうね。
裸足と下駄だと分からんが、>>120氏によれば裸足の方が楽そうだ。
123120:2007/03/12(月) 00:56:17
>>122
皮膚が柔らかくなるかどうかはわからんのだけど、想像するに発汗が激しくなるのでは
ないか?と思う。
自分自身かなり汗かきな方なのでその影響はかなりあると思う。
それでどうなるかっていうと、足の場合が顕著なので書くけど、靴(靴下)の中で蒸れて、
まず肌が柔らかくなる。風呂に入ったら手足の皮膚がモロに柔らかくなるだろ?指先とか
しわ寄ったり。あれの若干マシバージョンと思って欲しい。でもその状態で四六時中すごす
ことになる。しかも風呂と違って衣服は身につけてるわけだ。

すると、湿気た皮や布が肌にべったり張り付いて、しかもこすれる。
こすれる肌はふやけてて柔らかくなってる。しかも塩分もある。
するとどうなるか…。

ウールとか繊維硬い布を首とか柔らかい部位に巻いて(マフラーとか最適かと)汗ばむぐらい
運動して、その状態で布を外さずに首を数分こすってみるとどんな感じになるか追体験できる
だろうと思う。
端的に言えば汗疹を掻き壊すのと一緒。
124無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:12:28
>>121
ワロスw弟はどう返信したんだろw
125無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:19:05
>>123
五石散は、発熱と発汗が激しくなるそうだから、
あなたの言うように、やはり摩擦が良くないんだろうね。
体が熱くなって、冷たいものを食べなきゃならないから、
別名寒食散とも呼ばれるぐらいだし。

死に到る事もあるし、あまり良い事も無いような気がするが、
それでも流行ったって事は、かなり中毒性が高いんだろうね。
1261(ry:2007/03/12(月) 01:20:27
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ

>>103-104
#平復帖
乙であります!! Sugeeeeee!!!! 陸機たん(陸雲かも?)はいいやつだ。・゚・(ノД`)・゚・。
講談社の中国書蹟大観第一巻『故宮博物院 上』(故宮博物院編)という本では、
「呉子楊往初來至」を「呉子楊往初來主」とつくっていますが、陸機たんは読めるように字をかk(ry
ヒラヒラかろやかでたのしげな草書は、みているだけでなごみますが、自分のようなしろうとには読めn(ry

#そういえば、>>92の陸機たんの名とあざなが北斗七星らしいというのを
(きのう後漢書をななめよみしていて)発見したので思ったのですが、>>16の陸雲たんの答兄機に
星のかけことばを多用しているのは、兄ちゃんの名にも掛けてるのかな……とも思いますた。
もっともこれは推測の域をでないですが……orz orz orz

>>121
#二足歩行猿
Thxです!! バロスwwww陸雲たんは笑いこけて川におちないといいですw
しかしそんなことを手紙でやりとりしているとは、あらためて仲よし兄弟だったんだな……。・゚・(ノД`)・゚・。

>>106-107
#陸遜の改名&あざな
死後になまえをかえられた人というと、孫チンさんとかがいますが、あれは不名誉なことなんですおね……
127無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:21:00
五石散はヒ素が入ってたっぽいのがいかんのではないかい
1281(ry:2007/03/12(月) 01:24:20
>>101
#越の人ははだし
そうなのですー。韓非子の説林上第二十二に、↓こう出ているのですー。
(白文)
「魯人身善織屨、妻善織縞、而欲徙於越。或謂之曰、子必窮矣。魯人曰、何也。
曰、屨為履之也、而越人跣行、縞為冠之也、而越人被髪、以子之所長、游於不用之国、
欲使無窮、其可得乎。」

(適当書き下しorz)
「魯人に身(み)善く屨(くつ)を織り、妻は善く縞を織るに、越に徙(うつ)らんと欲す。
或るひとは之(これ)に謂いて曰く、子(し)は必ず窮(きゅう)せんと。魯人曰く、何ぞ也(や)。
曰く、屨は之を履く為なれど、越人は跣(はだし)で行き、縞は之を冠(かむ)る為なれど、
越人は髪を被(こうむ)るに、以って子の長ずる所の、用いざるの国に游ぶならば、
窮することを無からしめんと欲するも、其れ得る可く乎(かな)。」

(適当訳orz)
「魯の人でくつを織るのがうまく、奥さんは絹を織るのはうまい人がいて、
越の国にひっこそうと思いました。あるひとがこれに「あなたはかならず窮乏するでしょう」と
注意していいました。魯の人は「なぜですか?」といいました。あるひとは、
「くつはこれをはくためにありますが、越の人ははだしで歩いています。絹織物はこれを
冠にするためにありますが、越の人はあたまを髪でおおっているので(冠をかぶっていないので)、
あなたがたの特技が必要のない国へいらっしゃるならば、窮乏しないでいようと思っても、
そうはできないのですよ」といいました。」

これはおおむかしの話なので、三世紀には周瑜さんもはだしではなかったのでしょうがw。
1291(ry 魯迅先生1:2007/03/12(月) 01:27:08
>>113-
#くつと五石散
Thxです!! うひー、そいでは五石散とはきもの関連で、ながいのを投下してみますorz。
自分は現代中文がさっぱりダメなので、訳は常にもましていいかげんですが……orz orz orz

『魏晋風度及文章与薬及酒之関系(九月間在広州夏期学術演講会)』  魯迅
(中文)
「……這様下去一直到明帝的時候、文章上起了個重大的変化、因為出了一個何晏。
 何晏的名声很大、位置也很高、他喜歓研究老子和易經。至于他是怎様的一個人呢?
那真相現在可很難知道、很難調査。因為他是曹氏一派的人、司馬氏很討厭他、所以他們的記載
対何晏大不満。因此産生許多伝説、有人説何晏的瞼上是搽粉的,又有人説他本来生得白、
不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢? 我也不知道。
 但何晏有両件事我們是知道的。第一、他喜歓空談、是空談的祖師。第二、他喜歓吃薬、是吃薬的祖師。
此外、他也喜歓談名理。他身子不好、因此不能不服薬。
 他吃的不是尋常的薬、是一種名叫「五石散」的薬。「五石散」是一種毒薬、是何晏吃開頭的。
漢時、大家還不敢吃、何晏或者将薬方略加改変、便吃開頭了。五石散的基本、大概是五様薬、
石鐘乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。另外怕還配點別様的薬。
但現在也不必細細研究它、我想各位都是不想吃它的。
 従書上看起来、這種薬是很好的、人吃了能転弱為強。因此之故、何晏有銭、他吃起来了、
大家也跟吃。那時五石散的流毒就同清末的鴉片的流毒差不多、看吃薬与否以分闊気与否的。
現在由隋巣元方作的「諸病源候論」的里面可以看到一些。拠此書、可知吃這薬是非常麻煩的、
窮人不能吃、仮使吃了之後、一不小心、就会毒死。先吃下去的時候,倒不怎様的、後来薬的効験既顕、
名曰「散発」。倘若没有「散発」、就有弊而無利。
1301(ry 魯迅先生2:2007/03/12(月) 01:27:59
因此吃了之後不能休息、非走路不可、因走路才能「散発」、所以走路名曰「行散」。
比方我們看六朝人的詩、有雲「至城東行散」、就是此意。後来作詩的人不知其故、以為「行散」
即歩行之意、所以不服薬也以「行散」二字入詩、這是很笑話的。
 走了之後、全身発焼、発焼之後又発冷。普通発冷宜多穿衣、吃熱的東西。但吃薬後的発冷剛相反、
衣少、冷食、以冷水澆身。倘穿衣多而食熱物、那就非死不可。因此五石散一名寒食散。
只有一様不必冷吃的、就是酒。
 吃了散之後、衣服要脱掉、用冷水澆身、吃冷東西、飲熱酒。這様看起来、五石散吃的人多、
穿厚衣的人就少、比方在広東提倡、一年以後、穿西装的人就没有了。因為皮肉発焼之故、不能穿窄衣。
為予防皮膚被衣服擦傷、就非穿ェ大的衣服不可。現在有許多人以為晋人軽裘緩帯、ェ衣、
在当時是人們高逸的表現、其実不知他們是吃薬的縁故。一班名人都吃薬、穿的衣都ェ大、
于是不吃薬的也跟名人、把衣服ェ大起来了。
 還有、吃薬之後、因皮膚易于磨破、穿鞋也不方便、故不穿鞋襪而穿屐。所以我們看晋人的
画像或那時的文章、見他衣服ェ大、不鞋而屐、以為他一定是很舒服、很飄逸的了、其実他心里都是很苦的。
 更因皮膚易破、不能穿新的而宜于穿旧的、衣服便不能常洗。因不洗、便多虱。所以在文章上、虱子的地位很高、
「捫虱而談」、当時竟伝為美事。比方我今天在這里演講的時候、捫起虱来,那是不大好的。
但在那時不要緊,因為習慣不同之故。這正如清朝是提倡抽大煙的、我們看見両肩高聳的人、不覚得奇怪。
現在就不行了、倘若多数学生、他的肩成為一字様、我們就覚得很奇怪了。
 此外可見服散的情形及其他種的書、還有葛洪的「抱朴子」。到東晋以後、作假的人就很多、在街旁睡倒、
説是「散発」以示闊気。就像清時尊読書、就有人以墨涂唇、表示他是剛才写了許多字的様子。
故我想、衣大、穿屐,散软等等、後来効之、不吃也学起来、与理論的提倡実在是無関的。」
1311(ry 魯迅先生3:2007/03/12(月) 01:29:15
>>129-130の適当日本語訳orz)
「……このようなことがいろいろあって曹叡の時代になると、
何晏という人があらわれたために、文章のうえに重大な変化がおこりました。
 何晏は名声がはなはだ大きく、地位もはなはだ高く、また老子と易経の研究がすきでした。
では彼個人はどのような人だったのでしょうか? 現在となってはその様子をしるのははなはだ難しく、
調べがたいことです。彼は曹氏の一派の人だったので、司馬氏は彼をはなはだきらって討ったので、
次代(晋)の記録では何晏についてろくなことが書いていないのです。このために伝説が多くうまれ、
ある人は何晏は瞼におしろいをはたいていたといい、またある人は彼はうまれつき色白だったので、
おしろいはしていなかったと言います。では何晏はおしろいをしていたのか、いなかったのか?
私には知るすべはございません。
 しかし、何晏について二つのことを我々は知ることができます。第一に、彼は空談(清談)が
好きだったので、空談の祖師といわれます。第二に、彼はまた薬をのむことが好きだったので、
薬をのむことの祖師といわれます。このほか、彼はまた論理的な会話が好きでした。
また、身体が丈夫ではなかったので、薬を服用せずにはいられなかったのです。
 彼がのんだ薬はふつうの薬ではなく、「五石散」の名で有名な薬でした。
 この五石散というものは一種の毒薬で、これは何晏がはじめてやりはじめたものです。
漢の時代には、人々はそれをのもうとはせず、何晏はあるいは薬方にすこし改変を加えたのかもしれませんが、
とにかく彼がやりはじめました。五石散の基本は、だいたい石鐘乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂の
五つの薬で、ほかにまたべつな種類の薬も入っています。ただ、現在はこまかいことを研究する必要は
ありませんし、私はみなさんもこの薬を飲みたくないとお考えであると思います。
1321(ry 魯迅先生4:2007/03/12(月) 01:30:52
 書いてあるものを見ますと、こういった薬ははなはだよいもので、人はこれをのめば弱かった者が強く
なれるといいます。こういったわけで、何晏はお金があったので、彼はのみはじめたのです。
人々もあとに続いてのみはじめました。当時の五石散の毒性は清朝末期のアヘンの毒性と同じで大差は
なかったのですが、薬をのんでいるか否かでお金持ちか否かを分けていました。現在は隋の巣元方があらわした
「諸病源候論」において、このことのいくばくかを見ることができます。この本によれば、この薬をのむのは
非常にやっかいなことで、まずしい人はのめませんし、仮にのんだ後も、ちょっとぼやっとしていると、
すぐに毒死してしまいます。のんですぐのときには、そんなことはないのですが、後になってからききめが
あきらかになってくるので、これを「散発」といいます。もしこの「散発」がなければ、害はあれども
利はありません。なので、これをのんだらば休息してはだめで、歩かなければなりません、歩かなくては
「散発」しないので、ここから歩くことを「行散(散歩)」と呼ぶようになりました。たとえばわれわれの
六朝時代の人の詩をみますと、(鮑昭に)「至城東行散」などとあります。
後世の詩人はこの由来を知らないので、「行散」を歩くという意味にして、薬を服用していないのに
「行散」の二文字を詩にいれますが、これはとても笑ってしまう話です。
 歩いた後は、全身から発熱し、発熱の後は寒気がします。ふつうは寒気がすれば衣類をかさねて着て、
熱いものを食べます。ただしこの薬をのんだ後は、寒気がするといっても、薄着をして冷たいものを食べ、
冷水で身をすすぎます。もし重ね着をして熱いものを食べたら、死ぬことは避けられません。
これにちなんで五石散は一名を寒食散といいます。ただ、ゆいいつお酒だけは冷たい必要はありません。
1331(ry 魯迅先生5:2007/03/12(月) 01:31:52
 五石散をのみおわった後は、衣服は脱ぐ必要があり、冷水で身をすすぎ、冷たいものを食べ、
熱いお酒をのみます。こういったわけで、五石散をのむ人が多いと、厚着をする人が少なくなり、
もしこの広東でこれを提唱したらば、一年の後には、洋装をしている人はいなくなってしまうでしょう。
こういうふうに全身が発熱するので、ぴったりした服はだめです。皮膚が衣服によって擦傷をうけるのを
予防するために、ぴったりとしていないゆったりした衣服でないといけないのです。現在では多くの人が
晋の人のラフな皮ごろもとゆるやかな帯、くつろいだ衣服を、当時の人たちの高尚なかっこいよさを
表現したものだと思っていますが、そのじつは彼らがのんだ薬によるものだということを知らないのです。
ひとにぎりの名のある人が薬をのんで、くつろいだ衣服をきるようになったので、
薬をのんでいない者においても名のある人に続いて、ラフな衣服を着るようになったのです。
 また、薬をのんだあとは、皮膚がすりむけやすくなってしまい、くつをはくのは不便なので、
くつではなくて下駄をはくようになりました。我々がみる晋の人の絵や当時の文章では、
くつろいだ衣服で、くつではなく下駄をはいているのが見られるので、彼らはとても心地がいいだろう、
なんと飄々としていることかと思いますが、そのじつ彼らの心中はとても苦しんでいるのです。
 さらにこうして皮膚が破損しやすく、新しい衣服をきられなくてふるいものを着ているので、
衣服はあまりいつも洗えません。洗えないので、虱が多くなります。こうしたわけで文章の上で、
虱の地位がはなはだ高くなり、「虱をつぶしながら話す」というが、当時は意外にもすばらしいこと
だったので伝わりました。たとえば私が今日ここで講演をするときに、虱をつぶしはじめたら、
それはきっとよくないことでしょう。しかし往時は気にする必要のないことで、習慣が昔はちがっていたのです。
これはまさに清朝ではアヘンをすうことが提唱され、我々が肩をいからせて歩く人をみても、
へんだと思わなかったようなものです。今はもうそういうことは行われていませんが、もし多数の学生さんが
みなで肩を「一」の字のようにしていたら、我々はきっとはなはだ奇怪であると思うことでしょう。
1341(ry 魯迅先生5:2007/03/12(月) 01:35:05
 このほか、五石散を服用したようすやほかの種々のことを書いたものに、また葛洪の「抱朴子」があります。
 東晋になって以降は、ふりをする人がはなはだ多くなり、街の路傍でいきなり寝て「散発」であるといい、
お金持ちのふりをするのです。清朝のときに読書をたっとぶがゆえに、くちびるに墨をぬって、
さっきまで読書をして字をたくさん書いていたのだと見せたようなものです。ゆえに私は、ぶかぶかの衣服をきて、
下駄をはき、おかしな行動をとるなどなどは、後から来る効果であって、薬をのんでもいないのに
そんなことをするのは、理論の提唱とはじつは関係がなかったと思っています。」


#ながくて済みませんorz。魯迅先生(*´Д`)ハァハァ
これは、魯迅先生が講演ではなしたことをおこしたものなのですー。
前スレでも一部をちょっとうpしたのですが、すごくおもしろいです(*´Д`)
魯迅は文人であると同時に医師なので、この五石散のはなしはわかりやすいと思うですー。
135無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:35:58
>>128
つっても中原の人でもまだ北方騎馬民族の風習が入ってなかった漢代だと家の中
とかくつろぐと裸足なんだよね。

「席」ってのはおひな様のお内裏様夫妻が座ってるようなやつで、あれに座るなら
当然靴履いたままは不自然。
劉備が売ってた「むしろ」もそれの簡易バージョンと思われる。

周瑜はもちろん曹操たち中原の民だって、家の中じゃ裸足だろう。
宮中は裸足がデフォだし。
つーわけで遠征中以外はあんまり水虫の心配はなさそう。
136120:2007/03/12(月) 01:38:20
どうでもいいけどシラミは経験ないからわからんけど犬についたノミが大繁殖して
酷い目にあった記憶から言えば、シラミにたかられるぐらいなら洗いざらしの衣服で
皮膚がスレた方がマシだと思う…。

当時の人の感覚はわからんけど。
1371(ry:2007/03/12(月) 01:45:04
>>134の名前欄は×5→◎6ですたorz

>>102さんの中国社会風俗史というのは、尚乗和著、秋田成明訳の平凡社刊行のやつでせうか?
きょう見かけたので買ってみますたが、テラオモシロスwwwww。すげー。

>>135
Thxです!! なるほどー、いまの日本の「夏ざぶとん」みたいなものでせうか?
それか、平安時代のひとがつかってる、たたみの元になったようなやつ
(部屋じゅうにしかないで、床のうえに一畳だけとかおくやつ)でせうか……
中国社会風俗史にいろいろでているので、読んでみるですー。周瑜様が水虫でなくてよかったようなw

>>120
フランスも19世紀ぐらいまでノミ・シラミがセクシーかつエレガント(?)ないきもので、
「あこがれのあの人からうつったシラミの、なんとかわいらしいことでしょう!」
「ああ、ぼくは彼女のベッドのノミになりたい」とか書いているので、慣れというものはほそろしいですおねw。

なんか、自分はどうしても清談=ヒッピーだろーと思えてしまいますw。
138無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:48:07
>>131-134
うひー魯迅先生の文が出てくるとは思わなかった。
何晏についてが詳しく書かれていて面白いですね。
薬を飲むと肌が荒れやすいからそれを隠すために
おしろいをしていたのかな?

>>136
そういえば、現在はシラミをあまり見かけませんね〜
自分も高校生の時、学校の流し台にシラミが
大量発生したのを見たっきりだ…。
139無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:48:54
>>137
まさにその「平安時代のひとがつかってる、たたみの元になったようなやつ」であると
何かで読んだことがあるです。

ちなみに戦国〜江戸時代の時代劇とかを中国人が見ると、なんか髪型とかは別に
して漢代の時代劇っぽく見えたりするそうな。
日本は騎馬民族の影響を受けずに南方系習俗と中華の折衷様式でずっと来てるんで。
140無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 01:53:50
>>137
あ、宮中じゃ裸足がデフォってのは「爆笑三国志」シリーズwのどれかで読んだです。
あと他の本(忘れたけど)でも読んだんでまず間違いないのかなと。

だもんで曹操が「裸足で飛び出した」のも「お魚くわえたドラネコおっかけて」みたいな
感じで「咄嗟にとるものもとりあえず飛び出した」みたいな状況だろうなと思います。

ノミは地獄ですよー…。かゆさが汗疹の5倍ぐらいひどい。
寝てても起きるぐらいかゆい。
んで皮膚が弱いとか関係あるのか知らないけどかゆくて掻いた3年経っても傷痕が
残ってるぐらいひどい。
141無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:03:56
>>138
誰かがすいとん食わせて大汗かかせても
真っ白だったとかいう話を思い出した
142無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:05:19
>>141
たぶんそれだけ皮膚が弱いから、直射日光にも弱かったんじゃないかな。
肌自体が大丈夫でも、目がちかちかして耐えられないとか。
んで夜行性っぽくなってて日焼けしなかったとかさ。
143無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:09:03
>>136
曹植は読書しながら自分に付いたシラミを食べたって言うから貴賤に関わらずそういう衛生環境だったんだろう

極めて関係ないが夏目漱石は読書しながら鼻毛を抜いて本の綴じに挟む癖があった
しおりの代わりになって便利だったらしい
144無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:09:52
>>129-134
gj!!このスレで出た疑問の答えが全部解る名文だね。
PCの画面上で読むのは大変だが皆良く読もうぜw
145無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:18:17
>>143
記念すべき1スレの冒頭。

10 :総合スレの135:2006/09/04(月) 01:00:10
蓮の花が咲く夏の夜、贅を凝らした銅雀台の庭で
>>3-6の詩を応返する仲が良い若い公子の兄弟という図は、
想像するだに優雅というか、絵になります。

13 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/04(月) 13:34:39
>>10
>>絵になります
同意。まあ実際の曹植は虱を食う男だった訳だがw

17 :総合スレの135:2006/09/05(火) 17:37:00
>>13
……夏目漱石の鼻毛みたいなもので、それも愛嬌w



シラミ・ミズムシ・鼻毛に挫けるようでは此のスレには住めないらしいw
146無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:22:40
デカダンス着物洗わないって・・・orz
まめに洗って、洗いたてを柔らかくなるまで嫁と妾に着てもらって
(寝転がってもらえば結構早い気がする)
着古しをローテーションで着りゃいいのにな

>131-134
俺の知ってるオッサン臭い訳と違って読みやすいw
147無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:27:23
>>143
衛生環境っていうか、靴擦れのかゆみよりシラミのかゆみの方がひどそうだけどな…。
シラミに耐えられたら靴擦れぐらい平気、靴擦れに耐えられなかったらシラミなんか
耐えられるかヴォケー!と…。

ノミは強烈だけどシラミは案外「痛くないし、痒いだけ」なのかね。蚊でものたうち回るのに。
靴擦れで水ぶくれ潰しながら5km歩くのとノミにさされて1時間掻いちゃダメって言われる
のなkら水ぶくれに耐えますマジに。

汚いとか以前の問題で、痒いのは耐え難い。
掻き壊すと痛くなるし。
148無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:33:05
>>145
2スレ目から参加した者だけどそんなやり取りがあったとは…w
このスレのお陰でもう何にも挫けなくなりましたよw
149無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:38:27
>>129-134
乙。流石医師兼文人の文章だけあって素晴らしい。
差し出喧しいようだが訂正箇所発見。

>不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢?
これは
>不是搽粉的。但究竟何晏搽粉不搽粉呢?
こうだなw
150無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 02:39:54
魯迅は医者だけあって詳しいな
151無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 03:00:53
>>135
>遠征中以外はあんまり水虫の心配はなさそう。
周瑜は遠征ばかりしていたんだぞw
152無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 03:10:38
シラミは当時の人なら誰でも多かれ少なかれついてたろうし、今更水虫など!!
ネ申が水虫でも驚かな……というかあのおっさんの場合納得するな、最初から。
153無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 03:13:43
ここまで話題が続くと華陀も水虫の治療とかしてたんだろうか…と
ふと思ってしまった。
154無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 03:19:08
表面は水虫で引っ張っているが、よく読むと清談の本質と広まりについての議論だぞ
このスレは非常に柔らかいレスの応酬に見えて、実は硬派な内容の議論をしているから困る。w
155無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 04:22:21
そうか・・・てっきり周瑜が水虫持ちか否かを追求しているのかと(ry
156無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 05:05:44
>>121
笑死(憤死の逆)
157無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 07:12:35
ブーツとか革靴みたいな密閉している靴なら分かるんだが
当時の靴で水虫になれるのかが疑問だw
158無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 07:49:30
ネ申は虱飼ってなかったと信じたいお・・・

華佗が出てきたからアレだけど、
ネ申の偏頭痛って息子には遺伝しなかったのかね
偏頭痛って遺伝するもんじゃないのか
159無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 08:20:53
>>158
言われて見れば…病弱だったという曹熊や曹沖には偏頭痛が
あったという様子は無かったそうですし曹操だけが悩まされたのかな…。
早死にしたイメージが強い曹丕や曹植や曹彰が病気に苦しんだ
記録とかはあるのでしょうか?
曹丕には郭皇后が甄夫人が夫に呪いを掛けている為、病気が
治りにくくなっているという讒言をしたという話はありますが…
160無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 12:28:53
ヒッピーといったらクスリだけどもw
植物系のものじゃなく(一番手軽そう)、鉱物ってのが不思議だね。
161無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 12:48:05
魯迅の文脈だと、昔から五石散のレシピはあったが
誰もやらなくて、改良して流行らせたのが何晏て感じだね
162無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 14:57:28
話は戻るけど、陸遜の字。
梁代に『何遜(字・仲言)』という人がいるんだけど、
『遜』と『言』は実は呼応しているってことは?
陸家の人ってあんまり捻った字にしないしさ。
163無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 17:12:33
Σ(゚Д゚)
164無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 18:38:59
ネ申の偏頭痛遺伝云々は原因にもよるよな
脳腫瘍か糖尿か老眼か…はたまたストレス、冷え性、貧血のような
ちょっと乙女ちっくな原因かもしれないしw

>>162
出仕当時18歳で字は貰ってただろうから言は本名の議に合わせてるんじゃないかな
遜は字に合わせるというより謙る(遜る)意味を含めてつけたっぽい
ただやたら上手い文字選びなので文人肌の孫権はこれだけでも気に入りそうだ
165無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 19:38:12
>>164
>乙女ちっくな原因
関羽への恋心!?
166無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 20:14:02
吉川の曹操の関羽フェチは凄いよな。
まあ前スレで崔エンや太史慈のヒゲフェチだったしなw
167無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 22:41:59

美しい港町 青森市  人口30万人
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0006873.jpg

チベット高原 盛岡市  人口29万人
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0006988.jpg

海と山が両立する中核市 秋田市  人口34万人
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0006025.jpg

仙台市の隣で期待と夢がふくらむ山形市  人口25万人
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0006617.jpg

県庁のある大都市 福島市  人口29万人 
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0004175.jpg

東北2位の郡山市 2位の大都会  人口34万人 
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0004190.jpg

東北で一番住みやすい いわき市  人口35万人 
http://www.syasinkikaku.co.jp/Images/nw0005750.jpg

1681(ry:2007/03/12(月) 22:50:15
>>162
#陸遜のあざな
Thxです!! うひー、ほんとだ。いま後漢書をみていたら、
後漢書巻四十四の鄧張徐張胡列伝第三十四の胡広伝に、

「時年已八十、而心力克壮。継母在堂、朝夕瞻省、傍無几杖、言不称老。
及母卒、居喪盡哀、率禮無愆。性温柔謹素、常遜言恭色。」

「時に年已に八十にして、心力は克壮とす。継母が堂に在るに、朝夕に瞻省し、傍には几杖の無く、言うに老と称さず。
母の卒するに及び、喪に居て哀を尽くし、率礼に愆(あやま)り無き。性は温柔にして謹素、常に遜言恭色す。」

「八十歳になってもなお、心身ともに力強く元気でした。父親の再婚相手である母親と同居していましたが、
朝夕にあいさつをかかさず、つえも必要とせず、言うことも年よりめいてはいませんでした。
母親が亡くなるにあたっては、喪中にとても悲しみ、葬礼を完璧にとりしきりました。
温厚でつつしみぶかく質素な性質で、いつも謙遜したうやうやしい人でした。」

とかいてありますたorz orz orz。言は議にも遜にも呼応したあざなだったのかー。カッコヨス。
この後漢の胡広さんは、明の文人の胡広さんとは同姓同名の別人ですおね……まさか幽r(ry
169無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 23:03:22
便利な字だw
170無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 23:38:13
少しズレるが以前読んだ論文では韋曜の呉書と陳寿の呉書を比較して、
前者には元の名が議であることが書かれていないと指摘されていたな。
韋曜の呉書といっても引用元は世説新語の注だが。
171無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 23:50:57
実は陸議と陸遜て別にいたんじゃない?
172無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 00:04:55
それは難しくないか?ww
173無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:11:23
字の元ネタは
曹操&司馬徽=荀子
陸雲&趙雲=史記
周瑜&諸葛瑾=春秋左氏伝
陸機&陸遜=後漢書か。
この辺が当時の知識人の愛読書だったのかな。
174無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:20:58
陸遜の時代に後漢書は無い罠
175無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:32:20
何晏ちゃんの字は養父の曹操が付けたと思うんだけど

何(かろうじて可)
晏(何事もなく穏やか、静か、安らか)
平(たいらか、穏やか)
叔(控えめ、静か、拾ったお豆)

もしかしてわざと叔を付けて養子って意味を含んでるのだろうか・・・
でもネ申がそんな意地悪するなんてやだ(´・ω・`)

「叔」については
同義の「粛」で(正しい)「淑」は通常女子に使用する文字なので避けたと考えて
「淑」の意味を含むのなら(善良、美しくて優しい、しとやか、控えめ)

ネ申的には穏やかで控えめな何晏ちゃんキボンヌって感じなのかな
176無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:35:27
>>175
いずれにせよ名に対応した字であることは間違いないのだろうけど
そういえばその「叔」の所以が気にはなっていた
177無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:41:30
>>175
へえ、何晏ちゃんの名づけ親は曹操だったのか。
でも、曹操は叔という字を意地悪したつもりで付けたのでは無かったとしても
曹丕に「貰い子」と呼ばれて嫌われる辺りは皮肉ですね…
178無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 01:45:20
姓を変え家督も継がせるくらいでないと貰い子とは認めない
それが曹丕ルール
1791(ry:2007/03/13(火) 01:52:53
ネ申ポン酒のみますた(゚∀。)

>>139
なつほどー、日本じゃ和服をあつかうのはいまだに呉服商ですもんねー。
韓非子の越の人のようすも、魏志倭人伝の日本の人のようすにそっくりだし、
宋代にはいると政権ごと南下してくるので、皇帝のたべものや衣服まで外国とはおもえない親近感w。

>>174
げっorz orz orz
そういえば陸機の時代にだって後漢書はない罠。orz orz orz
まあなんかもっと前にも出典があったのだろうとしんじたい……orz orz orz

陸抗、あざな幼節さんの抗節は漢書賈誼伝だからおkですおね(゚∀。)

>>175-176
何晏ちゃんのあざな平叔はだれが与えたのかしらないのですが、由来は論語の
「子曰、晏平仲善与人交、久而人敬之。」
「子曰く、晏平仲は善く人と交わり、久しくして人之(これ)を敬う。」
「孔子先生は、晏嬰は人とまじわるのがうまいので、人は彼をうまやうようになりますた。」
かと思っていますた(゚∀。)よくかんがえたら違うか……orz

でも晏と平でやすらか、で呼応はしていますおね。叔は伯仲叔季の兄弟順かと……

ちなみに斉の宰相として諸葛丞相も梁甫吟でうたった晏嬰さんは、
すごくりっぱな人ですが身長は六尺に満たなかったので、いや別になにも曹sうわあqwせdrfgt
180無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:16:06
>>137
曹植がレノンで孔融がマッカートニーで五石散がマリファナなら、何晏は誰だw
181無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:26:56
ジムモリソン
182無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:29:45
叔は成り立ちが良ろしくない文字なのに何で兄弟順に使われてるのかわからん
何晏平叔は音も文字も綺麗だけど何かおさまりが悪い気がしてムズムズする
中国では問題無いのかなあ
183無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:30:32
気まずい雰囲気になるのは悪いと思うのですが、眠る前に勇気を持って言います。
1さんはこのスレになってから曹丕の話題に徹底的に触れないようにしている印象を受けます。
前スレで注意を受けたからと、そんなにピリピリと意識しなくても良いと思うのですが…。
三国時代の文学を語るのに外せない人物の一人ですし、
1さんが語る曹丕の話題が好きだった者の一人としては寂しく思っています。

……思い違いでしたら本当に申し訳ないです。
1841(ry:2007/03/13(火) 02:38:22
>>180
ジェリー・ガルシアあたりでせうか?w
ジムモリソンは潘岳でw

いやしかしマジなはなし、曹魏の清談が東晋にいたった>>131-134のながれは、
ヒッピー→ヤッピー→ジェネレーションX→ネオ・ヒッピーのながれに似ていると(自分は)思うのです(゚∀。)

>>183
そんなことはないですたが、そういえばさいきんは西晋よりですた。すみませんですたorz
けっこう曹丕曹丕といっているような気がしていたのですが……orz w

三世紀の中国の文人のみなさんはいっぱいいて、いろいろとおもしろいので、
いろんな人の文章が鑑賞できたらたのしいと自分は思うです……(゚∀。)
そういえばまだ建安七子もでそろっていないのですおね。
185無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:41:52
前スレでワーワー言って楽しんだから
今はサカナを別に移して楽しんでるだけさ
186無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:52:27
>>179
所以が気になった、ってのは、
要するに家族に関してあまり詳しい話を聞いたためしがないので、
実は上に二人いたのか、親の兄弟とかがいたのか、
それともまったく例外で深い意味はないのかとか、
いや意味はあるのだろうけど

それにしても有名な爺さんは兎も角、親父なんか名前すら
マトモに出てこないとか……
1871(ry:2007/03/13(火) 03:06:03
そいでは曹丕のブログをちょっとだけうpしてみます。
全三国文巻六魏六の文帝三より
「江東為葛、寧可比羅紈綺穀。」(御覧八百十八)
「江東の葛(くず)為(た)るや、寧(いず)くんぞ羅紈綺穀と比ぶる可(べ)きか。」
「江東の葛といったら、すばらしいうすぎぬ、しらぎぬ、あやぎぬ、あやおりものと比べるべきなほどです。」

葛といっても、葉や茎をガシガシとかじったのではなく、葛湯みたいにするでんぷんの葛粉のことですおねw。
葛粉が白くきめこまかいことか、それでつくった葛切りとか葛湯かなにかが滑らかなことを、
絹織物にたとえたのでせう。江東はあたたかくて湿気がおおいので、
いまでも日本と同じく葛がばんばん生えていますが、三世紀にもきっとそうだったのかと思います。
曹丕は南部にいたころに食べたのか、それともいつもの孫権の使者がくれたのでせうかw。
逆にいえば、洛陽なんかは葛がそんなに生えないほどにさむくて乾燥しているのですおねー。

曹丕は蜀錦についてもいろいろ熱くかたっているので、布についても一家言があったらしいですw。
1881(ry:2007/03/13(火) 03:13:40
>>186
たしかに、何晏ちゃんに実家で兄弟がいたのかとか、曹氏の外戚ってことで
兄弟の順番が叔だったのかとか、このへんは魯迅先生もわからんといっているぐらいなので、
自分のようなしろうとにはぜんぜんわからないですー。
何進さん関係で、どこかになにかでてないのでせうかね。
189無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 03:27:04
>>179
字を与えたのが曹操だとしたら、養子に晏嬰の名を付けるかねえ
まあ論語から引いただけかも知らんけど。

>>187
グルメは相変わらずだなw
190無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 03:30:23
えっそうなの?気づかなかったわw
ここでいつ誰が誰(の作品)を語ろうと自由だと思うし
また1さんが1さんの名前で曹丕話したくなったら、書き込んでくれりゃいいと思うけどな
いや名無しでも無問題なんだけど

なに分析してるのか知らんがリクエストとかエールだけじゃ駄目なの?
勝手に他人の気持ち想像して決めつけたり
自己の判断でしてることに口出しするのは野暮なんじゃね
191190:2007/03/13(火) 03:32:22
ごめん
>>183に遅レス
192無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 03:38:02
まあマターリしようぜ(´∀`)
音楽に国境は無いが言葉には国境が有るこの世界で
中国語が解らなくても漢文が読めれば
美しい原文を楽しめる日本語圏に生まれたことに感謝!
そして「くずきり」旨そう!
193無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 03:44:20
くずきり(゚Д゚) ジュルリ
相変わらずぴぃ様のブログは素晴らしいな
何かもう食べ物が美味しそうで美味しそうで
流石ブログの帝王だ
194無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 03:56:09
>>121
遅レスだけど猿ワロスwwwww

>>187
くずきり(゚Д゚)ンマソダナー・・・・

>それともいつもの孫権の使者がくれたのでせうかw。
ツボに嵌ったwwww孫権の使者って色んなもん持って来るよなwwwww
195無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 06:23:53
孫権のミカンは酸っぱくてぴぃ様のお気に召さなかったんだよなw
196無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 07:26:33
現代日本の品種改良されてめちゃめちゃ甘くなった果物類をぴぃ様に食わせたら
どんなブログができるのか気になってきた。
永久にその疑問が解決されることはないけど。
197無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 07:45:41
しかし何「晏」に「平」叔という字を付ける時に
晏平仲のことが思い浮かばなかった知識人はいるまいよ
198197:2007/03/13(火) 07:47:41
スマソ>>179>>189あてね
199無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 07:58:39
>>179
宮城谷昌光三国志で、
ネ申が貧弱で「あんな大将じゃだめだ」とガカーリした兵士が文句言ってるところに
我らが鮑信様が
「晏子だってちっちゃかったんだぞ! 人間背丈じゃない!」
みたいなこと言うシーンがあったことを思い出したわけで・・・
200無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 11:09:43
何晏は論語集解やってるしね、孔子に縁があるのかも。
201無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 11:12:05
くずきり!(゚∀゚)
ちょー食いてぇw
202無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 11:18:33
葛湯とか葛餅かも知れんぞ(゚∀゚)
203まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/13(火) 12:51:46
204無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 18:16:06
うはー、葛を絹に例える曹丕はオサレだw
205無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 18:30:35
分かる!葛粉て龍角散みたく細かくてキラキラしてるもんね。
206無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 18:43:57
>>187
葛は洛陽にはないの?あんなの何処にでも生えてんのかとオモタw
207無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 22:56:44
>>205
何で龍角散www
ゴホンときてるのか?
208無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 23:18:19
葛粉は粒がきめ細かいからじゃねw
2091(ry:2007/03/14(水) 01:10:16
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ

#江東の葛
自分もはじめは、デンプンのこな(⊇葛粉≒片栗粉≒コーンスターチ)そのものの
龍角散のようなw粒子の白さとキラキラしたきめこまかい輝きを上等の絹織物にたとえたのかと思って、
「すげーうまい修辞だ!」とおもったですー。でもよく考えたら、三世紀の中国で、
身分のたかい成年男子が自分で台所にはいって、加工されるまえの葛粉いじったりはしないかも……
とおもって、葛湯かくずきりかあんかけか分かりませんが、料理されたあとの葛粉の滑らかな舌ざわりと
つややかな光沢を絹にたとえたのかなーと思って、いちおう両方かいておきますたorz。

でも、孫権からの献上品wならばその場で検分したり、あとは弓術とかのすべりどめ(?)とかに
片栗粉みたいなのを使ったりするのならば、曹丕が自身で葛粉をいじくったりするのかもですおねw。
洛陽は葛がよく育つには、さむくて乾燥しすぎだと思うですー。
だからいつもの孫権の使者wは、温暖な南部の海山の幸をいつも献上してくるのですねw。
大国である魏のトップが気むずかしいと、献上品も気をつかうので孫権も大変ですおね。
曹操なんて、干しアワビ(トコブシ?)でおおよろこびしてたのになーw。

#何晏ちゃんのあざな
たしかに、>>189さんのように晏嬰の名を外戚の何晏ちゃんにつけるかなーというと不思議ですおね。
でも>>197さんのように、曹丕も「余是以少誦詩論」と論語を暗唱しているといっているし、
「子曰晏平仲善与人交……」を失念している人は、曹操をふくめいなさそうですおね。
>>200さんのように何晏ちゃんは論語集解の編纂までやっているので、あざなをもらう以前の若いころから
論語についての評判が高くて、それじゃあっつうんで名の晏にひっかけて、論語にちなんだ文字を
あざなにもらったんだよー、とかかもしれないですおね。
叔はほんとに何なんでせうね……実家の何氏では三男だったのかな。
210無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 01:22:56
とこぶしで喜ぶネ申カワユスww
211無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 01:35:02
>弓術とかのすべりどめ
野球のロージンは松脂だっけ?
212無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 02:01:40
>>211
松脂だね。

>>199
へえ読んでみよう。
213無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 03:33:07
くそう葛とかとこぶしとか
美味そうな話題の大攻勢じゃないか(゚∀゚)じゅる
214無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 03:35:47
ふと気になったのですが、呉から魏への献上品が海山の幸だったのなら
逆の魏から呉への献上品は何が多かったのでしょうか?
215無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 03:43:36
献上っていうか下賜ってことになるんだろうけど、やっぱ文化的なものじゃないかな?
布とか、それこそ鏡とか、珍しい書物とか、最先端のファッションに身を包んだ美女とか。
あー都で今こんなのが流行してんだ!すげ!って感じの。
216無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 03:47:30
あ、曹丕なら自分の典論を献上品に加えていそうだなw
217無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 07:52:37
孫権が像をネ申に送ってたけど
お返しに北の謎の動物を送り返したりしたんだろうか。
北方産の名馬とか
218無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 08:09:35
そういやその象の体重を量る話が小学6年の時の算数の教科書に載ってたな…
あのころはまさかネ申がらみとは思わなかった…。
219無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 08:31:06
>>218
自分も読んだ。当時は、昔は面白いこと考えるおっさんがいたんだなあ、って廷臣の誰かが考えたんだとばかり思ってた。
まさか八歳(だったかな)の、しかもネ申の子供が考えてたなんて……
220無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 09:49:23
>>216
つか、実際に典論は下賜してるw

呉主伝注の『呉歴』に
「文帝報使、致鼲子裘、明光鎧、騑馬、又以素書所作典論及詩賦与権」

つまり、高級ファッションと馬、
そして曹丕ご自慢の『典論』に詩賦まで付けてプレゼント
221無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:19:25
孫権的には典論よりネ申の「おいしいお酒のつくりかた」が
欲しかったに違いない
222無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:32:31
呉にはうまい酒は無かったのだろうか
223無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:34:10
他人の迷惑かえりみず、自作の同人誌をあちこちに配り回る曹丕たん
が思い浮かんだ
224無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:46:22
ぴぃ様ブロガー通り越してついに同人男にされたwww
…うん、ぶっちゃけそうかも。ネ申もある意味孫子の二次創作かも…。
あの親子コミケとか好きそうだよな。
225無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:47:35
自費出版の本を配る親戚のおやじいるよな・・・

ま、「経国の大業にして、不朽の盛事」だからいいけど
226無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:48:57
225だけど
いきなり「同人誌」「コミケ」に考えが行く
お前らに付いていけねえw
227無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 10:53:54
文芸サークルは根強いぞ。
228無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 11:17:59
ブログ書籍化か
結構いいんじゃないの

「姉ちゃんの詩集」とか読んだら驚くかな…ww
229無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 12:40:16
話に乗り遅れたが
葛は布の原料になるらしい。
辞書には葛布・葛衣・葛巾等の熟語が載っている
葛で作った服は夏服として公羊伝・荘子等の中国古典に出てくるよ
文脈から言って、これは食べ物としての葛じゃなくて
葛で作られた布のことじゃないかな

>>168
>#陸遜のあざな

論語の憲問篇に
「邦無道、危行言孫」
(邦に道無くんば、行を危(たか)くし言は孫(ゆず)る)
とあり、テキストによって孫の字は遜になっているものがあるらしいんで
論語あたりからきたのかもね
2301(ry:2007/03/14(水) 14:37:00
>>229
>葛布
Σ(゚∀。)
231無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 15:02:44
>>229
いやはや、曹丕だからと食い物に繋げて申し訳なかったw
232無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 15:38:21
なるほど!
食い物の方かと思った
植物って無限の可能性があるな
233無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 16:47:02
>222
韋曜が孫皓に茶を酒の代わりとして許してもらっていたっていうから
少なくとも呉の宴席で飲む酒は同じ系統の色の
紹興酒っぽいのを想像してもらえればいいかと。
実際は現代なら酒母に使うような薄いやつだとは思うけど
234無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 19:59:50
>>229
葛布か、成程な
>>209はロージンの可能性まで考えたのに惜しかったなw
235無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 21:46:06
<與王朗書>
孫權重遣使稱臣、奉貢明珠百筐、黄金千鎰、馴象二頭、或牝或牡、
擾禽鸚鵡、其他珍玩、盈舟溢航、千類萬品。
                    『太平御覽』六百二十六

孫権からの貢物。真珠百箱、黄金千鎰(3kg)人に慣れたつがいの象とオウム
その他沢山の珍しい品々を船いっぱい!

 <與孫権書>
今因趙咨致文馬一匹、白鼲子裘一領、石蜜五斛、鰒魚千枚。
              『太平御覽』八百五十七 九百三十八

趙咨さんに下賜品を言伝。 飾りを付けた馬一匹、白いおじぎ鼠の皮衣一揃い、
氷砂糖五斛、とこぶし千枚。  
236無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 22:12:46
>>235
>とこぶし千枚

237無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 22:13:12
sugeeeeeeeeeeeeee!!!!!!!!!!!
おじぎ鼠って何だwwww
238無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 22:28:29
>>235
おじき鼠???kwsk!
2391(ry:2007/03/15(木) 00:50:07
>>229
#葛布
葛ときいた瞬間にクズキリであたまがいっぱいになった自分を反省するですw。ぴぃ様スマンカッタorz orz orz
そいでは>>187をびみょうに訂正しますorz
△「江東の葛といったら…… →◎「江東の葛(からつくった布)といったら……

>>235
#與王朗書&孫権書
Sugeeeeee!!!!! Thxです!! 献上品すげー。象に黄金に真珠百箱かー、ゴージャス(*´Д`)

「与孫権書」は、孫権が魏から下賜をうけたしなものの目録でせうか?
おさとうとかトコブシとか、南部の名産っぽいものもたくさんあるのですねー。ふしぎです。

236さんじゃないですが、大字典さんによれば鼲鼠つーのは絨鼠という中国の毛皮用の齧歯類で、
絨鼠というのはどうやらチンチラのこと……かもしれないです(自信なし)。
いま日本のウィキペディアをみてみたら、チンチラは南米原産らしいので、近似種でせうか??
中文のウィキペディアの解説によれば、↓
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%A8%E9%BC%A0%E5%B1%AC
>絨鼠属(中国絨鼠),哺乳綱、囓歯目、鼠科的一属
絨鼠属(中国絨鼠)は哺乳綱ネズミ目ネズミ科の属の一種らしいです(よくわからず)。
2401(ry:2007/03/15(木) 00:52:59
>>216
#典論を孫権に下賜
>>220さんThxです! たぶんそのつづき(?)なのですが、魏書文帝紀第二の注には↓とあるですーw。
「胡沖呉暦曰、帝以素書所著典論及詩賦餉孫権、又以紙写一通与張昭。」
「胡沖の呉暦に曰く、帝は素(しらぎぬ)に書くるを以って著したる典論及び詩賦を孫権に餉(おく)り、
 又紙に写す一通を以って張昭に与う。」
「胡沖の呉暦によれば、曹丕は自身の著作である典論と詩賦をしらぎぬにかいて孫権に下賜し、
 また紙にうつした一通を張昭にあげました。」

このへんは前スレの典論・典論自叙関係でgdgdかいたような気がするので省略するですがw、
曹丕も孫権以外にわざわざ名のしられた文学者であった張昭にも「読んでね!」と写しを送ったのでせうねー。
しかし孫権と曹丕はそんなに年かわんないからともかく、張昭はちょうど曹操と一歳ちがいのりっぱな学者なので、
魏の皇帝とはいえ自分の息子のような年の人からそんなもんが送られてきたら、さぞかしびっくりしたことでせうw。

>>229
#陸遜のあざな
なるほどー、孫でもいいのですね。いま三国志の魏書をみていたら、魏書十六の杜恕伝の本文に
「立朝不忘於容身、牛s遜言以処朝廷者……」というのがあったので、
陳寿さんの時代にも遜言という用例があったよー陸遜クリア! ヒャッホウ! とよろこんで(ry

あと、鮮于璜碑にも「……上輔機衡、遂登漢室……」という文章があって、
台北故宮博物院刊の六朝全書法目録によれば鮮于璜碑は延熹8(165)年の立碑らしいので、
陸機たんも生まれるまえに機衡の用例クリア。で、>>173-174さんの後漢書の罠はとけたぞーやったー(゚∀。)
241無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 01:08:42
>>240
今に伝わっていないという事は、張昭はそれを捨ててしまったんだろうかw?
2421(ry:2007/03/15(木) 01:18:58
>>241
どうなのでせう?w 紙だから、ふるくなって伝わらなかったのかもですねー。
張昭さんちも孫権のうちも晋に移行するあたりでgdgdしたので、子孫がちゃんと守りきれなかったのかも……
243無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 03:10:32
>>240
父と変わらない歳をした張昭にも贈り物をしている辺りを見ると
曹丕はやっぱり年上フェチだったんだなーと思った。
244無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 05:08:29
>>240
>陸遜&陸機の字
乙カレー!罠が解けて良かったねw
245無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 05:30:14
>>233
薄い酒だからがぶ飲み出来たのかな
246無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 05:52:39
>>
247246:2007/03/15(木) 05:55:03
スマン誤爆したorz
ついでなんで>>229>>240に俺からも乙カレー
陸遜好きななんで、字の由来が気になってた
248無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 07:11:57
>>222
むしろ水と米がが豊富だった呉の方が美味い酒はたくさんある
249無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 08:03:51
だから仲謀はアル中に(ry
250無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 08:49:37
>>239
いくつか、辞書などを引いたところ
漢語大詞典やweb上の辞書では灰鼠というリスの仲間らしい
ttp://dic.open-lit.com/v.php?id=NjUyMDI=
ttp://140.111.1.40/yitib/b_std/b06290.htm
灰鼠
ttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E9%BC%A0%E5%B1%AC

ただし、中国博物別名大辞典という書物には黄鼠として
根拠として本草綱目を引用する
黄鼠
ttp://icgr.caas.net.cn/disease/15-%E5%86%9C%E7%94%B0%E9%BC%A0%E5%AE%B3/0712(%E5%B7%A6)%20%E9%BB%84%E9%BC%A0.htm

灰鼠は今でも毛皮が取引されているのに対し、
黄鼠は、南宋の文献に夷狄が美味として愛好したみたいな記述が多く
この場合は、上の灰鼠っぽい
251無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 09:03:07
「夷狄が美味として愛好」とか、ひょっとしてそれタルバガンかな…
252無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 09:14:35
>>248
美味い酒を米から作るにはある程度寒くないと難しい
253無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 13:53:07
>>241
陸幾だったか陸雲だかの文章に典論の影響を指摘している人がいる。
外祖父(だったっけ)の家で見たのか、陸家の方に伝わったのかだと思う。
254無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 15:12:20
>>253
陸家が目にした典論は孫権が頂いた側かも知れないというのはない?
255無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 15:48:17
そこら中にうpされてたんだよ>典論
256無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 16:33:20
当時は本一冊作るにも全部手書きだし誰かが写本してなきゃ曹丕から孫権に贈られた物でいいんじゃね?
2571(ry:2007/03/15(木) 16:39:22
>>253-254
文心雕龍に、陸雲たんが典論についてなんかいってるのがでていたような……

てっきり陸機たんと同じく、洛陽とかで見たのかと思っていますたーorz
2581(ry:2007/03/15(木) 16:53:43
あれ、与兄平原書だったかも?orz<陸雲たん
259無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 17:06:49
陸機が曹操の遺令を読んで弔魏武帝文を書いた様に
陸雲も晋に仕官してから読んだという可能性は十分に考えられるね
260無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 18:43:01
とりあえず、曹丕に典論を押し付けられた孫権が捨てなかったことは確かだなw
261無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 18:43:23
小説の話で悪いんだけど、
陳瞬臣の本に「当時は娯楽が少ないから詩だの文章だのは口コミや文書で
すぐに広まって楽しまれてた」みたいなことが書いてあったよ。
で、その小説の中では孔明が曹植の詩を読んで感情移入していた。
262無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 19:42:38
>>260
張昭は貰って嬉しかったとは思うが(高名な文人として認められた証だ)孫権はどう思ったかね…
曹丕にすればやはり自信作なんだね。
263無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 19:59:06
その辺は、前スレの文学によるレコンキスタ説が気に入っている
ああいう考え方も出来るのだなと思った
264無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:02:56
息抜きにやって来て足跡残してゆきますよ

「公讌」王粲
昊天降豐澤,百卉挺葳蕤。涼風撤蒸暑,清雲卻炎暉。
高會君子堂,並坐蔭華榱。嘉肴充圓方,旨酒盈金罍。
管絃發徽音,曲度清且悲。合坐同所樂,但愬杯行遲。
常聞詩人語,不醉且無歸。今日不極歡,含情欲待誰。
見眷良不翅,守分豈能違。古人有遺言,君子福所綏。
願我賢主人,與天享巍巍。克符周公業,奕世不可追。

<書き下し風味>
昊天、豐澤を降し,百卉は葳蕤に挺<み>つ。
涼風、蒸暑を撤し,清雲、炎暉を卻<しりぞ>ける。
君子の堂に高會なって,坐を並べたるは華榱の蔭<もと>。
嘉き肴が圓方を充たし,旨酒<うまさけ>は金罍を盈たす。
管絃は徽<うる>わしき音いろを發し,曲度るに清く且つ悲し。
坐を合わせて樂しむ所を同じくし,但だ愬杯して行遲するのみ。
常に聞くは詩人の語,醉わずして且つ歸ること無からん。
今日歡しみを極めずに,含情、誰に待そうと欲するのか。
眷良を見るに翅ばず,分を守れり豈に能く違わん。
古人に遺言有り,君子は綏<やす>んずる所を福とするものと。
願わくば我が賢主人よ,天とともに巍巍たるを享けよ。
周公の業を克符し,世を奕<かさ>ねて追う可からず。
265無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:03:43
<口語風味>
素晴らしき天が豊かな恵みを降し,あらゆる草木が庭園(大地)に満ち溢れている
涼風が蒸し暑さを爽やかに払い,気持ちよさげな雲が灼熱の日差しを退けた
君子たちが会宴に大勢つどい,大きな垂木の下に坐を並べる
嘉き肴が様々な器を充たして,旨酒<うまさけ>が金罍を盈たしている。
管絃は徽<うる>わしき音いろで,奏でられた曲は心清らかにし感動させてくれる。
一同は一緒に楽しみ,楽しいために杯をいつまでも重ねている。
詩人が語るよくある言葉,酔いつぶれるまでは帰らない、これを地でいっているのだ。
今日歓楽を極めずに,(含情以下の句が上手く訳せません><)
今日つどった良き仲間達を見ると誰も羽目を外しすぎては居ない,分を守っているのだ、どうして羽目を外して坐を壊すことができよう
古人はこういう言葉を遺している,君子というのは程よい楽しさを福とするものなのだ
願わくば我が賢き主人(曹操)よ,天と共に巍巍たる(天命)を享けられよ
周公の業績は符に刻み記すにとどめ,累ねられ変わってしまった今のこの世にまでそれを追うべきではないでしょう

口語訳してみると改めて自分の理解がこれでいいのか疑問が沸いてきますな
表面的には「聖人の理想を追いかけるのは(難しいので)その位にして、
天が与えてくれた大いなる命を受けて今を楽しんでもいいんじゃないすか?
ご主人さま?」なんだろうけど
飽くまでも戯れなのだろうが裏では「You、もう好い加減天下獲っちゃいなYO!」
という気持ちも酔い任せで入ってるのかも知れないと思ったり。
266無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:07:07
王サンキター!
267無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:07:39
>嘉き肴が圓方を充たし,旨酒<うまさけ>は金罍を盈たす。

王粲の作ったこのフレーズは、名フレーズだったようで、結構後世で
この改変コピペというかパクリというかそんなんがチラホラ見られます
このスレでは目立たないけど普通に建安七子だけありますね
268無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:26:04
>>262
孫権も文人肌だから喜んだんじゃね?
269無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 23:05:53
>>262
孫権は曹丕が嫌いな蜜柑を押し付け、曹丕は自作の文を読め!と押し付ける…
と書くと子供の喧嘩のように見えるなw
270無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 23:10:00
孫権「俺んちで捕れた自慢の蜜柑だ、ぜひ食え!」
曹丕「俺が書いた自慢の文学論だ、ぜひ読め!」
と、お互い善意だったのさw
271無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 00:00:59
>>265
なんか酔っぱらいちっくですげー楽しい詩だね
2721(ry:2007/03/16(金) 01:35:50
>>250
#おじぎねずみ
Thxです!! すげー。灰鼠とか黄鼠とか、いろんなのがいるんですねー。
講談社の戦前の大字典だと、たぶん中国博物別名大辞典というのと同じ本草をひいて、
「鼲鼠即黄鼠、時煖則出坐穴口、見人則交前両足於頚拱立如揖乃燄入穴、
淮南子謂聖人師拱鼠制礼是也、一名礼鼠、一名拱鼠、一名?鼠」(?は印刷が潰れて判読できずorz)として、
黄鼠というのだとしているみたいですー。なんかかわいいのっぽい(*´Д`)ハァハァ

そいでなんと、魏書任城陳蕭王伝第十九の曹植伝に、曹植たんの曹叡への上疏文に
「陛下体天真之淑聖、登神機以継統……至使蚌蛤浮翔於淮、泗、鼲鼬讙譁於林木。」
という用例があるですー(辞書のうけうり)。
この鼲鼬は大字典では「おじぎねずみといたち」としてるみたいです。
そいで、三省堂の新明解漢和では、鼲は絨鼠として、毛皮用の囓歯類としているですー。

灰鼠、黄鼠、絨鼠、オジギネズミ、チンチラ、タルバガンというのが候補でせうか……(*´Д`)カワイイ

#呉のおさけ
「酒は則ち九醞の甘醴、十旬の兼清」と南都賦にうたわれ、曹操がおさけのつくりかたを
郭芝という人におそわって献帝に奏上したうるわしの南陽(宛)は、いまでいう河南省南部なので、
あれぐらいはさむくないとおいしいお酒はできないのでせうか……(゚∀。)ジュル
2731(ry:2007/03/16(金) 01:39:40
>>264
#王粲の公讌詩
Thxです!! 公讌シリーズキタ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!
このスレの1スレ目のはじまりも曹植たんの公讌だったのですが、夏の華やかな夜に、粋と贅をこらした
ギョウの宮庭で、みんななかよく酒宴に興じる公讌シリーズが、自分はとてもたいへんに超大好きですw。
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/oh_san/shichiai.html ←七哀詩其一でも似たようなことを
かいたような気がするのですがorz、王粲さんは動詞のつかいかたがかっこいいですおね(゚∀゚)。
前半12句の、躍動感あふれる動詞をひとつの句ごとに軸にして、そこに豊かで華やかな詩景がまとわる構成は、
よむひとをワクワクさせて期待感をもりあげてゆき、いやおうなしにギョウの宮殿や景色のすばらしさ、
むせかえるような夏の夜の空気、そのなかのビアガーデン的なw酒宴のたのしさを感じさせますおね。
そしてその暑く濃密な酒宴の詩景のなかで、「常聞詩人語……」にはじまる後半12句の、
王粲が寛大で典雅な主人たる曹氏にささげる朗々たる誦詠が、なんときわだって映えることでせうか!
(王粲さんは、顔はまず(ryにしてもw)

この酒宴は銅雀台でもよおされ、銅雀台ができたのは210年なので、この詩がよまれたのは
210年以降になりますおね。そうすると、曹操が208年の赤壁の戦いをまえにして詠んだとされる
「対酒当歌……周公吐哺、天下帰心」の短歌行はもう詠まれたあとなので、
王粲はさいごの「克符周公業,奕世不可追」は、もちろんそれをふまえて詠んだのですおね。
そして、このさいごのところを「奕世(えきせい)追う可(べ)からざらんことを」とよんで、
そして国号の魏を巍に暗喩させると、かなりイケイケな詩になりますおねーww。
つまり、>>265さんのように、曹操が周公のように天を補佐し、魏が天下治めちゃいなYO! とよめるですw。
>>265さんのとおり、あくまで酒宴の主催者ヨイショなのでせうがw、しかし赤壁の大敗から
数年もたたないのに……とおもうと、往時の曹操の勢いとはいったいどれほどのものであったかと思うですー。

>>267
この句は、曹植たんの『正会詩』の「珍膳雑沓、充溢圓方」とどっちが早いのでせうね。
いずれにしても、たいへんにうまそうでとてもよろこばしーい表現でありますおね(*´Д`)ハァハァ
2741(ry:2007/03/16(金) 01:59:37
>>272訂正ですたorz
×見人則交前両足於頚拱立如揖乃燄入穴 →◎見人則交前両足於頚拱立如揖乃竄入穴
275無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 02:18:19
そういえば、古くは魏と巍は通用していて区別が無かったというか、
説文には魏の字が無くて巍の字で収録されていたんだっけ
2761(ry:2007/03/16(金) 02:30:00
>>275
ですおね! なので、公讌で王粲がわざわざここにもってきた「與天享巍巍」というのは意味深ですね?w
この最後の四句のつながりは、魏とせずにわざと巍とした洒脱な技巧による謙譲をわすれずに、
しかし酒興の解放感にかけて粋に曹操の天下を願った、王粲(と詩人たちが感じていたであろう)
文学を愛し保護する曹氏に感謝したたえた表現であり、
ついでに宴席の礼にかなったかっこいいヨイショだと自分には思えますw。
277無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 02:43:32
増々楽しそうな詩だw
2781(ry:2007/03/16(金) 02:50:44
酔ったいきおいにまかせて、自分たちにしかわからない暗喩をつかって、
「ねえ、TNK(天下)とっちゃいましょうよ!」「よし、TNKとるかー!」とかさわぐのはたのしいと思うますw。
もうよのなか、俺ら天下無敵だぜえー! みたいなよっぱらい同士のノリかw。
279無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 02:52:13
>>275
2ちゃんでも時々携帯からのカキコで魏を巍と打つのを見かけるなw
280無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 02:54:06
TNKがTDNに見えて驚いたアッー!www
281無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 03:51:14
王粲gj!!
このスレは格調高い解説なのか、おバカなのか解らないのがいいw

>>261
陸兄弟も曹操の亀の歌歌ったのかな。
282無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 07:51:49
>>278
ネラーの集まりに思えてきたwwww

ところで、おじぎねずみは
孟嘗君が秦から逃げるときに使った狐白裘のようなものかなーと
思ったのですが、あれは狐か。
283無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 13:31:42
関係ないけどネ申オタの陸機たんも『短歌行』作ってんだね
白文だけ置いていく

『短歌行』陸機

置酒高堂 悲歌臨觴
人寿幾何 逝如朝霜
時無重至 華不再陽
蘋以春暉 蘭以秋芳
来日苦短 去日苦長
今我不楽 蟋蟀在房
楽以会興 悲以別章
豈曰無感 憂為子忘
我酒既旨 我肴既臧
短歌有詠 長夜無荒
284無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 16:19:25
王サンは顔が悪かったんだっけw
285無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 16:40:38
陳琳さんが好きです
でも王粲のほうがも〜っと好きです!
286無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 21:51:53
>>273
公讌好きノシ
赤壁からたった2年後なのか…曹操は本当に挫けない男だなww
287無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 21:55:42
>>283
陸機 の<短歌行>と聞いてやって来ました。
僭越ながら書き下し風味をば。

高堂に置酒し 悲歌して觴(さかづき)に臨む
人の寿命幾何(いくばく)ぞ 逝くこと朝霜のごとし
時は重ねて至ること無く 華は再び陽(ひら)かず
蘋(ひん)は春を以て暉き 蘭は秋を以て芳(かんば)し
来る日の短きに苦しみ 去る日の長きに苦しむ
今 我 楽しまずんば 蟋蟀(しつしゅつ)房に在らん
楽しきは会うを以て興り 悲しきは別れを以て章(あら)はる
豈に感無しと曰はんや 憂ひは子が為に忘らるる
我が酒既に旨く 我が肴既に臧(よ)し
短歌を詠ずること有らん 長夜にして荒(すさ)むこと無けん

陸機たん…。゚(゚´Д`゚)゚
288無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 21:57:21
gj!!漢文出来ない当方に訳もキボン…
289無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 21:58:37
>>287
乙カレー
訳と解説もお願いします!
290無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 22:00:50
289だけどかぶった…
291無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 23:14:36
陸機のネ申オタは本物だなw
292無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 00:16:47
>>288 >>289
詩や賦は難しくて泣きそうだー 本当にムズいよー
でも<歎逝賦><呉趨行><文賦 >とか大好きだからうpしたい野望が。
へ(ryな解釈なので、脳内で陸機になって読んでくれーー

[ 口語風味 ]
立派な座敷で酒宴を開き、悲しげに歌いつつ酒を飲む
人の命は儚く、朝霜のように消えてしまう
時は二度とは戻らず、花は二度と開くことはない
田字草は春が来て輝き、蘭は秋になって香る
未来の短さに苦しみ、過去の多さに苦しむ
今自分が楽しまなければ、あっという間に年は暮れてしまう
楽しみは会う事で起こり、悲しみは別れる事で明らかになる
感情が無いとは言わないが、憂いは君の為に忘れられる
我が酒も旨いし、我が肴もよい
短歌でも歌おうではないか 
徹夜などして度を越すようなことはやめておく

「今我不楽 蟋蟀在房 」「短歌有詠 長夜無荒」の典故は『毛詩』唐風・蟋蟀による。
「蟋蟀有堂 歳聿其莫。今我不樂 日月其除」
蟋蟀(こおろぎ きりぎりす)堂に有り、歳 聿(ここ)に莫(く)れん。
今 我 楽しまずんば、日月其れ除(さ)らん。
「好樂無荒 良士瞿瞿」
楽しみを好むも荒(すさ)むことなかれ、良士は瞿瞿(くく)。
293無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 01:05:45
>徹夜などして度を越すようなことはやめておく
陸機は二日酔いで進軍出来ないとか無さそうだw
294無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 02:05:56
>>282
おじぎねずみが齧歯類なのは確実ぽいからねえ・・・
295無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 04:34:55
タルバガンを食うとペストになるらしいぞ
296無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 09:01:06
>>292
乙です

同じ短歌行でも曹操と曹丕の詩の色合いは全然違うのに、
陸機のは、人寿幾何(陸機)・人生幾何(曹操)という表現にしても、
酒が云々だとか短歌行を歌おうだとか、
かなり曹操の短歌行を意識してるね。さすがネ申オタ

ただ内容的には
曹操は(短いのだから)人材来い!天下を収めてやるぜ!に対して
陸機は(短いのだから)とにかく今を楽しもう…と、刹那的
297無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 09:53:02
陸機のネ申ヲタっぷりに乾杯
2981(ry 改行変だったら済みませんorz:2007/03/17(土) 09:54:40
電車から携帯なんで忘れないうちにこれだけレスするですー
まえに陸機たんの黄耳塚の記述をさがしてた人、
いま芸文類聚巻94に、述異記をひいて出ていますたお! 辞書なしなので変だったらすまんですorz

「……後犬死、殯之、遣送還葬機村、去機家二百歩、聚土為墳、村人呼為黄耳冢。」
「……後に犬の死するに、之(これ)を殯(もがり)し、送還せしめて機の村に葬り、機の家を去ること二百歩に、
土を聚(あつ)めて墳と為し、村人は黄耳冢と呼び為す。」
「……のちに犬がしんだら、これをかりもがりして、送り還してやって陸機の故郷の村に葬り、
陸機の家から200歩離れたところに土を盛ってお墓にして、村の人はこれを黄耳冢(塚)と呼びました。」

機の村ってのは華亭でせうか。この話じゃなかったらすまんです……(´・ω・`)
299無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 10:14:41
携帯乙w
300無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 13:23:56
>>126
<平復帖>すいませんタイプミスです。ご指摘感謝です。
 ○ 「呉子楊往初來主」
 × 「呉子楊往初來至」

 ○ 呉子楊往(さき)に初めて來たり主(した)しむも
 × 呉子楊往(さき)に初めて來至(いた)るや

陸機が呉の優秀な人材を呼び寄せたのではないかと思います。
「主」をどう扱ってよいのやら、自信ないです。
「唯男」「寇乱」のあたりもよくわからんのです

>>298
うおー携帯から!sugeeeeeeee!!!!!そうです、コレです、ありがとうございます!
黄耳くんは名物犬だったのでしょうね。
陸機がいかに犬を可愛がっていたかがよくわかります。
301無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 14:19:50
すごい犬だな
華亭と洛陽はどれぐらいの距離なんだうろかね
302無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 15:48:58
華亭は現在の上海市松江区らしい。
唐代の地理書の元和郡県志によれば洛陽から蘇州府(呉郡)まで2170里
蘇州府から華亭県まで東に270里
そして華亭県の西35里に華亭谷というのがあって、そこに陸遜・陸抗宅があったらしい

古代の距離の測定の精度なんか怪しい物だし、犬がちゃんと街道を通ってきたとは
限らないと思うが、おおざっぱに2500里で、唐代の1里=540mとして1350km
手持ちの現代の地図帳の里程表では上海と洛陽の距離は1175km
犬が山川をものともせずに直線距離を突っ走らない限り
1000km以上は余裕であったとみていいんじゃね
303無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 18:09:07
犬って一日にどんだけ走れるんだw
餌はどうしてたのかとか疑問は尽きぬw
304無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 19:33:03
>>303
餌を与える人でもいたんだろうか。
305無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 20:28:43
小型犬でもあるまいし、普通に野鼠とか兎とか狩って食ってたんじゃないかなあ。
どのルート通るかなんか予測不能だし1回目とかは勝手に飛び出したわけだから
まさか首輪とかに「陸機の飼い犬です。おなかをすかせていたらごはんをあげて
ください」とか書き付けつけとくとかも無理だろうし。
306無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 22:37:25
むしろよく途中でとって食われなかっ(ry
307無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 01:25:10
当時の中国の犬は柴犬みたいなのかな
308無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 03:05:07
三国時代ではペットを飼う文化はあったんでしょうか?
309無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 03:16:55
そういや前スレの野田黄雀行、今まで雀捕まえて飼うんだと思っていたが…マサカ((((;゚Д゚))))
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_chi/sparrow.html
310無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 12:54:22
>>307
もっとでかいだろ。

ペットっていうか狩りのお供とかにイヌ飼ってた話は李斯の死ぬ前の話とかで
確認できるし、まあ愛玩用かどうかは別にしてイヌは普通に飼ってたでしょう。

んでもってスズメは日本でもわりと普通に焼き鳥で食う文化があったわけだし、
まあまさかっていうか間違いなくそうでしょう。
311無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 13:41:34
食用以外の可能性を考えなかったw

ケイ康も王サンも曹氏が好きなんだな
ネ申は詩人のアイドルだったのかなw
312無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 17:53:04
陸兄弟といい王敦といい・・確かにネ申ヲタ多いな
演義で悪役にされるまでは結構人気あったんじゃないか?
313無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 17:54:49
やっぱり三国を統一させた晋の元が魏だからその影響か?
314無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 18:40:47
ていうか冷静に考えたらあの時代的には李白や杜甫ぐらいのインパクトだろ、
しかもまだ没後何百年も経ってるわけじゃないからフィーバーも冷めてないどこ
ろかほどよく伝説っぽくなり始めてるぐらいのころじゃないか?
315無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 21:19:48
文武の両道を兼ね備えたパーフェクト超人だろ?
さらには雑事にも気が利き子供も英才揃い
後継者問題においても誤らず
生前の統一こそしくじってリビングレジェンドにはなれなかったけど
死んじまって冷静に業績が評価されれば伝説も当然じゃないか?
316無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 21:59:56
>>315
さすがに後継者問題は揉めた感があるが…
外見は竹中直人だけど死後だから容姿の事はイメージするしかなかっただろうしw
317無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 22:21:33
当然そんだけの偉業を成し遂げた聖人は容姿も中華的イケメンに決まってる!

という固定観念があっただろうしな
318無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 22:42:08
あー、じゃ陸機の脳内の魏武は真田広之だったのかなw
319無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 22:58:56
中華的イケメンというのは筑摩学芸文庫の正史訳本の表紙になっている画のような風貌?
320無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 23:02:39
むしろ威厳のないちっちゃいおっさんなのに文武両道でスゲーってところでイマイチ
ぱっとしない文化系男子の間でアイドル化した可能性を期待したい。無理か?
321無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 23:12:40
そういや、曹操や曹彰や曹叡とかは容姿についてが伝わっているのに
曹一族の中でも知名度が高いな曹丕や曹植の容姿ついては記されてない?
322無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 23:13:45
誤字したので修正orz

そういや、曹操や曹彰や曹叡とかは容姿についてが伝わっているのに
曹一族の中でも知名度が高い曹丕や曹植の容姿ついては記されてない?
323無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 23:28:46
>>321
こんなに凄い文章を書く人以下略
324無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 23:54:28
>>320
(・∀・)ソレダ!!!!
325無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 00:05:27
>>322
特筆すべきことのない普通の容姿だったんじゃないか
特別チビでもなく、特別イケメンでもなく、耳が長くも短足でも黄髭でもなく
326無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 00:07:59
>>319
平安より前の日本の美女の表現で
指が美しい、髪が豊か、目はまるくてパッチリなどとあったので
あの類の絵は単にへry

中国でも絵と人形だと顔の造作すら違うし
官職に就いてる男は朝っぱらから顔合わすから
あんなでかい顔ではやってられねえ気がする
まあ最低でも目鼻が平行に配置されてるのは条件だろうな
327無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 00:40:32
このスレだっけ
兵馬俑の人形とかは超リアルなのに
絵画はどうしてああなんだ…という話が展開されてたことがあったな
328無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 00:43:01
>>326
目は丸くてぱっちりが昔の美女の条件だったのか!
てっきり近代以降なんだとばかり…。

よく考えたら猫でも犬でも人間でも、目が丸くてぱっちりしてる方が子供っぽい印象に
なって単純に「可愛い」と思うよな…。
329無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 00:54:22
>>327
絵画はデフォルメ必須なのにデフォルメ下手で皺とか描けるだけ描いちゃうから
330無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:14:57
春秋戦国時代の斉国の田氏は体形が雄偉な子孫を作るために
後宮に入れる女性を160cm以上の者と限定したらしいけど、
女でも体格はイイ方が好まれたのかね

でも確かちっちゃくて痩せてて華奢な女性がもてはやされた時期もあったよね。
いつだったっけ。手の上で踊れる美女とかいた・・度忘れした。
331無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:15:53
>>325
なるほど。容姿は普通だったけど中身は凄かったということか。
332無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:36:16
>>322
よほど秀でているか、よほど妙じゃないと史書に容姿は記載されないぽ

>>327
兵馬俑人形は民族の違いもちゃんと表現できてるし、それ以前に人間だよなw
それに比べて三国志関係の廟の人形って…

>>329
なるほどデフォルメかー
そういや覇王別妃で虞妃が自害する絵がデッサン壊滅的、呪いかけられそうで怖かったよ
明か清の絵だと思うけどあれだけの隈取でやっと目を大きく描く
それが中国絵画クオリティなんだな
333無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:37:20
>>332
つまりネ申はよほどミニマム…
334無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:42:57
若い頃は岡村…

ジャーンジャーン
335無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:48:55
>>330
うーん、自分はてん足くらいしか思い出せない
足の小さい女がヨタヨタ歩いてるのが好しとかいう
でも背はある程度高かっただろうから違うなあ
336無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 01:54:25
>>330
趙飛燕じゃね?
337330:2007/03/19(月) 11:21:07
>>336
それだ!
thx!! すっきりした〜〜

教えてもらったついでに
趙飛燕:前漢11代目成帝に寵愛され、妹の趙合徳と共に
成帝が他の女性に産ませた皇子を殺害したおっそろしい人。
手のひらの上で舞いが舞えるほど華奢だった。

後漢の梁冀の妻孫寿が
愁眉(への字眉)・啼粧(泣いた後のような変な化粧)
堕馬髻(馬から落ちたような変な髪型)・折腰歩(腰悪そうな変な歩き方)
を流行らせたとか
ネ申が一文字眉を流行らせたとか(流行ったのかしらないけどw)
女性の好みや風俗も文化的に面白いよね。
338無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 13:36:03
>>332
てことは逆に記述があるひとは
余程のものだったってことか
339まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/19(月) 15:28:30
http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/
ここまでUP

http://jbbs.livedoor.jp/study/8436/
避難所消えそうだったので
僭越ながら新しくしてみました
340無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 15:39:54
>>310-311
雀喰うなら冬。寒雀は脂乗ってて旨いよ
と言ってた高校の数学のセンセを思い出した
大学の時、焼き鳥で雀を喰った。頭から
341無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 16:53:45
>>339
何時も乙です。
ただ、曹丕の与孫権書の訳が別のものになっています。
早く修正したほうがいいと思います。
342まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/19(月) 17:04:26
>>341
指摘ありがとうございます。
訂正しました。
343無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:46:11
>>330
以前どこかのスレでも容姿については話題が出たような気が。
顧[小豈]之(字が出なかった…)の絵や趙飛燕の故事からだとやはり痩せ型
かつ女性らしいラインの持ち主が美人基準らしい。
ただ顔立ちの好みとかメイクが時代によって変化はするかも。

『洛神賦』でも抽象的表現ではあるけど美女イメージは現代と大差ない希ガス。
344無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:39:25
いつの時代でも
眉目のバランスがいいのは美人
ってことなのかなぁ
345無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:49:43
それにしても、眉毛つながりメイクは謎
346無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 00:38:18
>>343
三国志時代において絶世の美女だったと言い伝えられている甄氏も
そのような容姿だったのでしょうな。
……曹丕は妻達に眉毛つながりメイクをさせていたとは思いたくない。
347 ◆PeonY/.Dfk :2007/03/20(火) 00:40:14
まとめさんいつも乙であります(`・ω・´)ゝ避難所把握しますた。

>>283-
#短歌行(陸機)
Sugeeeee!!!!!!!! Thxです!! 陸機たん(*´Д`)ハァハァw
この短歌行のおもしろいところは、曹操の対酒当歌の短歌行のはじめの二句と
この作の二句の四声が、ぴったりきれいにそろっているのですー(去上平平、平平平平)。
ちなみに曹丕の短歌行は、そんなことはないぽですw。
>>261さんみたいに、陸機たんは曹操の短歌行を鼻歌でうたったりしてたんだろうなー……

>>296さんのように刹那的な酒宴をうたったはずの作なのですが、くえりかえされるセンチメンタルな表現は、
ワーっとたのしいお酒の席だよ! というよりは、まとわりついて離れない憂いをつよく感じさせると思うですー。
そいで七句めの蘋(タモジグサ)なのですが、これは田んぼとか水辺にはえる水草なのです。
五代十国の和成績さんという人が漁父という詩で「蘋風軽翦浪花時……」とよんでいるのですが、
彼は山東省の人で、これは水辺にしげるウキクサのうえをわたる風のことなのです。
そいで何がいいたいのかと言うと、寒く乾燥した洛陽には、「以春暉」というほどタモジグサが生えるのかなーと(ry
自分はこの作がいつ詠まれたのか知らないのですが、もし陸機たんが洛陽にいってから詠んだ作だったら、
陸機たんの頭のなかには、風にふかれる懐かしい南部の田んぼがあったのかなー……と妄想してみるテスト(ry

しかしゴージャスな四言詩ですおね(*´Д`)
曹植たんとかもそうですが、悲しいとか思うまえにきらきらしい才に圧倒されて(゚Д゚*)ポカーンてなるますw。


#曹操が文人のアイドルw
>>55-56あたりでも書いたのですがorz、曹操の業績や文才はもちろんですが、
曹氏が文学を愛し文人を保護したことを、文人のみなさんは讃えたんじゃまいかと思うのですー。
なにしろ後漢末期の乱世では、太学の内部にまで戦乱がおよび、文学とかいう場合じゃないよ! という
状態だったのですから、そこに戦場においても馬上で賦をよみ、蓋文章経国之大業不朽之盛事といい、
公主を文人に嫁がせ、サロンをひらいた気さくな学徒である曹氏を、詩人はこぞって讃えたのではないでせうか。
3481(ry:2007/03/20(火) 00:42:35
↑名前欄また誤爆しますたorz 済みませんorz orz orz

>>300-
#黄耳
うおーよかったです! 芸文類聚巻九十四から全文うpしてみますー。
(白文)
「述異記曰、陸機少時、頗好猟。在呉、豪客献快犬、名曰黄耳。機後仕洛、常将自隨。
此犬黠慧、能解人語、又嘗借人三百里外、犬識路自還、一日至家。
機羈旅京師、久無家問、因戯語犬曰、我家絶無書信、汝能賚書馳取消息不。犬喜、揺尾作声応之。
機試為書、盛以竹筒、繫之犬頚。犬出駅路、走向呉、飢則入草、噬肉取飽、毎経大水、
輒依渡者、弭毛掉尾向之。其人憐愛、因呼上船、裁近岸、犬即騰上速去。先到機家、口銜筒作声示之、
機家開筒取書、看畢、犬又伺人作声、如有所求。其家作答書、内筒、復繫犬頚。
犬既得答、仍馳還洛、計人行程五旬、犬往還裁半月。
後犬死、殯之、遣送還葬機村、去機家二百歩、聚土為墳、村人呼為黄耳冢。」
3491(ry:2007/03/20(火) 00:43:32
>>348適当書き下しorz)
「述異記に曰く、陸機は少(わか)き時、頗(すこぶ)る猟を好む。呉に在りて、豪客が快犬を献じ、名して黄耳と曰う。
機の後に洛に仕うるに、常に将(も)って自ら隨う。此の犬は黠慧(かっけい)にして、能く人語を解し、
又(また)嘗(かつ)て三百里の外の人に貸すに、犬は自ら還る路を識りて、一日にして家に至る。
機は京師に羈旅(きりょ)し、久しく家問(かもん)の無きに、因りて戯れに犬に語りて曰く、
我が家より絶えて書信の無きに、汝は能く馳せ書を賚(たま)い消息を取らずや。犬は喜びて、
尾を揺らし声を作(な)して之(これ)に応ず。機は試みて書を為(な)し、竹筒を以って盛り、之を犬の頚に繫(か)ける。
犬は駅路に出(い)で、呉に向けて走り、飢えれば則ち草に入り、肉を噬(くら)い飽を取り、
大水を経ると毎(いえど)も、輒ち渡る者に依りて、毛を弭(び)し尾を掉(ふ)りて之に向かう。
其の人は憐んで愛し、因りて船の上に呼ぶに、裁(わず)かに岸に近づけば、犬は即ち騰上して速かに去る。
先ず機の家に到り、口に筒を銜(くわ)え声を作(な)して之を示し、機の家が筒を開け書を取り、看(み)畢(おわ)れば、
犬は又(また)人に伺い声を作し、求むる所の有る如し。其(すなわ)ち家は答書を作り、筒に内(い)れ、
復(ま)た犬の頚に繫(か)ける。犬は既に答えを得ると、仍りて馳せ洛に還り、人の行程を計るに五旬を、
犬が往還するに裁(わず)かに半月なり。後に犬の死するに、之(これ)を殯(もがり)し、送還せしめて機の村に葬り、
機の家を去ること二百歩に、土を聚(あつ)めて墳と為し、村人は黄耳冢と呼び為す。」
3501(ry:2007/03/20(火) 00:52:53
>>348適当訳orz)
「述異記にいわく、陸機はわかいころ、とても猟が好きでした。呉にいたときに、お金持ちからすばらしい犬を
献上されたので、黄耳と名づけました。陸機がのちに洛陽につかえるようになったら、犬もみずからついてきました。
この犬はかしこい犬で、人のことばがよくわかり、また以前に130.24kmも遠くの人に貸したことがありましたが、
犬は自身で帰る道のりがわかって、一日で家に戻ってきました。陸機は洛陽の先生のところに身をよせていて、
ずっと家からのたよりがなかったので、冗談で犬に「私の家からずっとたよりがないが、きみが走って手紙を
もらってきて消息を得られないものかなぁ」と言いました。犬は喜んで、しっぽを振って鳴いてこれに応じました。
陸機はためしに手紙をかいて、竹筒にいれ、これを犬のくびにかけてやりました。犬は街道にでて、
呉に向かって走り、おなかがすいたら草むらに入って、肉をたべて満腹し、水が深いところにくるたびに、
そこを渡ろうとしている人のところにいき、服従のポーズをしてしっぽをふりながらその人を見つめました。
その人は犬が気の毒だし可愛いと思って、船の上に呼んでやりましたが、船が対岸に少しでも近づいたらば、
犬はすぐに上陸してすぐに行ってしまいました。いちばんに陸機の家に行って、口に竹筒をくわえて鳴いて
これを示すので、陸機の家の人が筒をあけて手紙をとって、読みおわると犬はまた家の人を見て鳴き、
なにかが欲しいような様子でした。それなので家の人は返事を書き、竹筒にいれて、また犬のくびにかけてやりました。
犬は返事をもらうと、洛陽に走って帰り、人が50日はかかる行程を、犬はわずかに半月で往復するのでした。
のちに犬がしんだら、これをかりもがりして、送り還してやって陸機の故郷の村に葬り、
陸機の家から200歩離れたところに土を盛ってお墓にして、村の人はこれを黄耳冢(塚)と呼びました。」
3511(ry:2007/03/20(火) 00:55:00
↑黄耳君は、こういうわけらしいのですー。かしこいワン公だ(*´Д`)ハァハァ 餌は自給自足で(ry
東海道中膝栗毛で、やじきたは江戸から伊勢までの500kmぐらいを15日で歩くわけですから、
人の脚で50日かかるっつーと、三世紀の街道の状態とかをひいてもすごい距離ですおねー。
>>302さんのように、1000km以上はあったのでせうね。片道500kmとして、黄耳君は一日70km以上は
走らないといけないですね。長距離マラソンが42.195kmなのですから、りっぱな犬だー(´;ω;`)ブワッ

>>309-
#雀
自分も食用以外の可能性を考えていませんですたww羅家の人は、もしやすずめを飼う気だったのか(゚∀。)
台湾や中国でも雀の排骨がうっててテラウマスですが、あれはどうやら養殖した十姉妹らしいです。
3521(ry:2007/03/20(火) 00:56:20
容姿の話がでているので、陸雲たんが美しい幽霊にあった話をうpしてみますw。

晋書巻五十四の列伝第二十四の陸雲伝より

「初、雲嘗行、逗宿故人家、夜暗迷路、莫知所従。忽望草中有火光、於是趣之。
至一家、便寄宿、見一年少、美風姿、共談老子、辞致深遠。向暁辞去、行十許里、
至故人家云、此数十里中無人居。雲意始悟、却尋昨宿処、乃王弼塚。雲本無玄学、自此談老殊進。」

「初め、雲が嘗(かつ)て行き、故人の家に逗宿するに、夜の暗きに路に迷い、知る所の従う莫き。
忽(にわ)かに草中に火の光るの有るを望み、是れ之(これ)に趣(おもむ)く。
一家に至りて、宿に寄るを便ずるに、一(ひとり)の年(とし)少(わか)く、美しき風姿たるに見(まみ)え、
共に老子を談じ、辞は深遠に致る。暁に向かいて辞去し、十里(じゅうり)許(ばかり)を行くに、
故人の家に至りて云うには、此の数十里の中に人の居る無き。雲は始めて意を悟り、
却(しりぞ)きて昨宿の処を尋ねるに、乃ち王弼の塚なり。雲は本は玄学の無きも、此の談に自(よ)りて老を殊に進む。」

「あるとき、陸雲は出かけてむかしなじみの人の家に泊まりに行きましたが、夜が暗くて道に迷い、
どこにいるのかさっぱり分からなくなってしまいました。すると草がしげる中に火が光っているのがみえたので、
これに向かって行きました。一軒の家について、そこに泊まることにしましたが、ひとりの美しい容姿風体の
若者に会って、いっしょに老子についてをおしゃべりし、教えの奥深くまでを語りあいました。
明けがたになって別れのあいさつをしてそこを去り、4.3kmほどを歩いて友人の家につくと、
この数十里には人は住んでいないよと言われました。陸雲ははじめて事情を理解し、もどってきのうの宿が
あったところに行ってみると、そこはなんと王弼のお墓でした。
陸雲はもともとは老荘を学んでいなかったのですが、このおしゃべりをしてから老子にくわしくなりました。」
3531(ry 連投すみませんorz:2007/03/20(火) 01:01:23
↑男かよ! という十三億人民の声がきこえてきそうですが、自分もそう思いますたw。
中国文学おそるべしですーw。王弼さんが没したのは22歳なので、たしかに美青年の幽霊ですねw。
しかし陸雲たんは爆笑して船からおっこちて溺れてあぼーんしかけたり、道にまよったり、
いったいこれで大丈夫なんだろうか……と心配になるです(゚∀。)
なんか別の資料では、道に迷って王弼の幽霊にあったのが陸機たんになってるのもあるらしいですが……
八陣図は三国志演義の話ですが、陸家の人は迷子になりがちなのかー? とかいらんことを(ry

#眉つながりメイク
自分もくあしく知りたいですーw。フリーダ・カーロみたいな感じだろうか……(゚∀。)
354無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 01:43:14
やはり眉を全剃りした上で一筆描きっぽくつながり眉が描かれてるのだろうか・・・
355無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 02:00:14
>>347
>>四声が、ぴったりきれいにそろっているのですー
sugeeeeeeeeeeeeeeee
ネ申オタのネ申だなwwwww

>>353
>>陸家の人は迷子になりがちなのかー? とかいらんことを(ry
wwwwwwwwwwwwwwww
356無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 02:06:26
眉毛を一本にする風習があるのを周ユが知っていたとすると
演義で曹操が二喬を欲しかったと聞いて激怒したのも頷ける!?
357無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 02:16:49
ほんっっとに幽霊好きだなwww
3581(ry:2007/03/20(火) 02:28:34
#眉
ttp://cgfa.sunsite.dk/kahlo/p-kahlo1.htm こんな感じでせうか……?

>>355
二句めの「幾」と「觴」が平声の上と下の違いはあるのですが、それでも陸機たんSugeeeeeee(*´Д`)
陸機たんの望郷の念はどれだけだったろうかと思うですー。司馬穎のときに呉にかえっていれば……。・゚・(ノД`)・゚・。

>>357
だってこの幽霊の話とか、晋書に真顔で出ているのですおw。晋書Sugeeeeeeeeeeeee!!!! wwwwww
359無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 02:35:40
>>353
怖いんだかほのぼのなんだかわからん話だ。でも面白い。
幽霊になってまでも老子にこだわる王弼。もっと論じたかったんだろう。

しかし王弼も美形だったのか。何晏と夏侯玄は有名だけど、王弼もか…。
荀粲も美形の可能性高いし、イケメンメンバーだな。
360無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 02:42:52
中国にもオカルト話は結構あるんだな〜
現代にもひょっこりと出てきそうだ。
是非とも甘党皇帝の幽霊に会いたいよw
361無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 03:33:44
>>358
映画「フリーダ」
ttp://www.frida.jp/index.html

映画も眉毛が気になってしょうがなかったよ
生やしててこれじゃ筆で描いてあるのを正視できる自信はないw
362無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 03:35:03
>>361
Σ(゚∀゚)
きっとこんな感じだったに違いない!ww
363無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 03:43:51
>>358
こういう話が真顔で出ているから晋書は眉唾だと言われるんだw
でも面白いからいいw
364無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 08:12:00
ネ申も笑い上戸っぽいから
一文字眉だらけにしてうはははははははwwwwwwwww
と笑いたかったのかもしれない  お
365無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 14:44:10
>>364
ヒドスww
一本眉にしたのは曹操だけ?
366無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 14:49:54
>>348-351
黄耳はペットじゃなくて猟犬なんだね。
陸機が猟が好きとは意外。
367無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 14:59:35
>>347
すげえ!曹操は幽霊になって、陸機のとこに出てやれば良かったのになw
韻を揃えるぐらいオタなんだから大喜びするであろう。
368無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 15:30:54
>>367
きっと、あの世で一緒に酒を飲みあったりしているさw
369無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 15:44:43
操゚∀゚)<もしもし、一晩宿を貸してはもらえませんか
機・∀・)<どうぞどうぞ

 ペチャクチャ    ワイワイ
操゚∀゚)  (・∀・機 

操^∀^)アーッヒャッヒャッヒャ(^∀^機

〜翌朝〜

機^ー^) 。oO昨日の小さいお客人は楽しかったなぁ…
機・A・) 。oOしかし何で、あんなにネ申に詳しかったんだろう…
機・∀・) 。oO中華一のネ申オタを自負していたのに、士龍、我々はまだまだだね…
370無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:05:24
>>369
すごい和む(´∀`)カワユス
371無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:08:59
>>369

気づけよ!w
372無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:13:25
弼 ‘д‘) <私の幽霊では不満か!w
373無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:14:48
>>369
そのちっさいお客人のそばにぼーっとしたツラの大男はいなかっただろうか…
374無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:16:01
>>369
幽霊話なのにほのぼのw
375無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:18:10
>>372
美形でも男じゃなァw
376無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:25:27
飛゚∀゚彡<俺は義理固い男なんだぜ
377無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:34:19
おまいら幽霊大好き過ぎだwww
378無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:37:36
酒・甘物・幽霊は文学の友w
379無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:39:57
>>369
この後ネ申がお礼にやってきて・・・
と妄想してたら早速>>376が来てたww
380無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 18:45:49
>>369
操^∀^)アーッヒャッヒャッヒャ(^∀^機

↑これ、器に頭つっこむわ、川に落ちるわで
まるで吉本新喜劇のような場面なんだろうな
381無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 18:54:03
雲´∀`)<川に落ちるのは僕だよwwwwwwwwww
382無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 19:09:28
>>369-381
和んだwww
383無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 21:08:03
>>369-381
うん うん 和むわぁ〜
そして、なんだか…ηακετα..._〆(;ωq`)
384無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 00:07:54
ところでこの時代の人々にとって
幽霊ってどんなイメージだったのかな

畏怖すべきもの? 生者を護るもの?
嘘臭いのか、それともいて当たり前なのか……
385無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 02:06:13
呉の軍師スレからのコピペだけど幽霊のイメージの参考になるかなあ

魯粛が死亡してから100年近くがたった頃、王伯陽という人の家が京口にあった。
その東には塚があり、魯粛子敬の墓だと伝えられていた。
伯陽は妻がなくなった時、なんとその塚を壊して妻の墓とした。
数日して伯陽が役所にいると一人の貴人が輿に乗っているのを目にした。
従者が数百人も従い、人と馬とが連なっている。
貴人は伯陽に近づくと「私は魯粛子敬です。君はなにゆえ私の塚をこわしたのか?」と言い、
左右のものに目配せすると刀の柄で数百回も伯陽を打ち据えさせて帰っていった。
伯陽は気絶していたが、暫くすると、また息を吹き返したが、
なんと魯粛に打たれたところがすべて潰瘍になり、数日後に伯陽は息を引き取った。
一説に、伯陽が死亡し、その子が墓を作ろうとして、漆の棺桶をふたつ掘り出し、
南の岡に移しておいたところ、夜に魯粛子敬が怒って現れ、こういった。
「おまえの父親をころしてやる」と言った夢をみた。
続いてまた父、伯陽の夢をみた。
伯陽は「魯粛とわたしで墓争いをしていて私は日夜恐ろしくてたまらない」と訴えるのだった。
その後、数日して伯陽霊位の敷物の上におびただしい血でぬれていた。
魯粛子敬が原因ではないかと思われる。

出典は『捜神後記』らしい
386無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 02:17:16
呂蒙や曹操など関羽の死に関係した者がすぐ死んでしまったことで
関羽の霊が彷徨っているんだ・・・!! って怖くなって
関羽の怒りを静めるために関帝廟が出来たんだよね。
ってことは幽霊の概念ははっきりとあったってことだよね
387無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 02:47:12
肉体が消滅しても魂魄は存在し続けているので
現世で噂されたりすると九泉の下から帰ってくる・・・
ので、今日も論語をよく読んで日々の行いを正してから寝ようね!
ってところかな
388無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 02:56:03
陸機の幽霊が…って話なかった?
389無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 03:38:35
対酒当歌オフには、ゼヒ出席して欲しい陸機の幽霊
390無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 04:01:05
>>389
ネ甲と甘党ブログ皇帝とジョン・レノンの三曹にも是非出席してもらいたいw
391無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 04:14:36
>>347
話題が戻るんだけど、
田字草(デンジソウ/たもじ草)について調べてみた。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD
>洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきりわかれ、
>冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は、
>非常に暑く雨が集中して多い。秋には、晴れて日照時間が長い。

らしいんで、湿地・田沼に生えるデンジソウが春に多いのは呉であると思う
だから短歌行の
>もし陸機たんが洛陽にいってから詠んだ作だったら、
>陸機たんの頭のなかには、風にふかれる懐かしい南部の田んぼがあったのかなー

これはいい所に注目した解釈だね
そう思って読むと胸に迫る物がある。
392まとめサイト@残業 ◆XoQX5vgfQU :2007/03/21(水) 05:38:29
393無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 08:37:56
残業乙w
>>391
陸機!!!!・゚・(ノД`)・゚・
この詩ずっと大好きだったのに、そんな解釈もあるとは今知ったよ…
洛陽では、米じゃなくて小麦なんだっけ。
394無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 11:29:02
魯粛の霊コワス!!
3951(ry:2007/03/21(水) 11:33:24
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )   (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 楨 ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./.. ◆<  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )

∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     ..ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ  /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=


まとめさん乙であります( ゚∀゚)o彡゜

なんの脈絡もないですが、三曹&建安七子&おまけで二陸はってみるw
396無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 11:36:52
おおスゲ!でもズレてるよw
3971(ry:2007/03/21(水) 11:39:59
| 機
|*Д`)ハァハァ
雲 ノ )
゚ー゚)   ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧   ∧ ∧    ∧ ∧
( ヘヘ (´ω` )   (´ー` )  (゚∀゚ *)  (´<_,` )  (´∀` )  (・∀・ )  (‘∀‘ )
 ̄  //王\ / 徐 \ / 劉 \/ 孔 .\/ 応 \/ 陳 \/ 阮 \
   .\) .粲ノ/\) 幹 ノ/\) 楨 ノ \)融 )/\) 瑒ノ/\)琳 ノ/\)瑀 .ノ/
   ./ ◆<  ./.. ◆<  ./..◆< ./ ◆<  /..◆<  ../..◆<   ./ ◆<  
  /  '´ ヽ).../  '´ ヽ...)../  '´ .ヽ. .((操)))/  '´ヽ..) ./  '´ヽ..)/  '´ヽ )
∠/   ノノ∠/ ∧ ∧/   .  ノノ  (・∀・)っ   ∧ ∧    .ノノ     ..ノノ
           (; ゚Д゚)  。・゚・⌒)  (つ  /.  .  (゚∀゚,, )
            / 丕 o━ヽニニフ )) |  (⌒)  〔~植∪ ̄〕=
           しー-J    彡   _ し⌒^    ◎――◎=




俳rz 避難所でテストしてきたのに……バチがあたったのかw orz orz orz
398無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 11:49:01
OK(´∀`)二日連続で和むw
399無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 12:11:22
曹丕チャーハン作ってるwww
400無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 12:14:08
ノー天気そうなネ申カワユスvv
401無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 12:21:00
本日は春分、旧暦ではまさに春のど真ん中
というわけで、陸機の春詠を置いていきますね

春詠
節運同可悲、莫若春気甚、和風未及燠、遺涼清且凜
4021(ry:2007/03/21(水) 13:09:41
>>401
Thxです!! 春詠ってはじめてよみますた(´∀`)いい詩ダナー
ばちあたりAAorzを反省しつつ、へた訳してみるますー。

>>401適当書き下しorz)
「節は同じく運(めぐ)りて悲(あわ)れむ可(べ)く、春気の甚(はなは)だしきに莫若(しくはなし)
 和風は未だ燠(あつ)きに及ばず、涼清にして且(まさ)に凜(さむ)きを遺(わす)れんとす」

>>401適当訳orz)
「めでるべき季節がまた同じくめぐってきました。この春の空気のすばらしさには、いったいなにが及びましょうか?
のどかな春風はまだ暑すぎるということはなく、涼しくて清らかで、まさに寒さがなくなろうとしています!」

#すごいすごいいい詩ですねー! なごみまくりますた(´∀`)
↓前スレでちょっとこう思ったのですが、こんなきれいな春の詩もあるのですねー。
これは洛陽の春なのか、それとも呉の春なのでせうかね。三世紀も春はおなじくいいもんだったんだな。

>916 :1(ry:2007/03/03(土) 15:48:38
>唐代にはいると、漢詩といえばまずはあふれるような春のよろこびを
>うたったもの、という気がするのですが、建安の作ではなんとなくそういったものが
>少ないような気がして、不思議なのですー。なぜだろう?(気のせい??)
>
>のんきに春をめでている時代ではなかったとか、詠物詩が発展してなかったとか
>いろいろ思うのですが、やっぱり三世紀は文学の拠点がかなり北部だからかなー? と
>なんとなく思ったのですー。南部のようなあざやかな春は、北部にはこないのかなーと……。
403無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 13:36:20
春はいつでもいいもんさw
404無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 13:56:50
>>397のメンツの幽霊と花見したいねぇw
405無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 14:02:06
>>401
陸機の<春詠>と聞いてry…アルェ
『鮑參軍集』にもほとんどが同じ<春詠>が載ってるぞー

節運同可悲 莫若春光甚 和風未及燠 遺涼清且凜
406無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 14:14:03
>>401-402
>>405
ワロスwwwww何事が起こった?www
407無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 14:37:53
>>397
久々に力作AAキター!
春だねぇw
408無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 14:46:35
>>406
鮑參軍のほうが後の人だねえ。
4091(ry:2007/03/21(水) 17:04:07
>>405
ありーほんとだ! 自分は鮑照さんの本もってないのでわからないですが、
陸機たんの春詠は、上海古籍出版の芸文類聚の巻三の春の詩のとこにでてるのですねー。

1)>>401が陸機たんの作で、>>405は陸機たんリスペクトな鮑照さんの本歌どりだよ。
2)>>401は鮑照さんの作なんだけど、隋唐とかになって拾遺するときに、
 なんかまちがえて陸機たんのとこにも入れちゃったよ。しかも一文字書きまちがえた。

こんなところでせうか?w
410無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 18:12:13
>>409
もいっこ<咏老>も鮑照とかぶってますvv
“鮑參軍集卷之二”でググったらありました!

<代陸平原君子有所思行>なんてのもあるので
リスペクトもありかもですね
411無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 18:16:29
鮑照は陸機オタだったんだなw
412無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 18:37:19
王敦の亀みたいに
「大好きでいつも彼が口ずさんだいた詩v」
みたいな意味合いなんでね?
413無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 23:03:06
>>310で李斯の話が出たのでコレを。
>>1 蘇軾OK? じゃあ李白もだいじょぶですね

李白<行路難>三首其三
有耳莫洗潁川水 有口莫食首陽蕨
含光混世貴無名 何用孤高比雲月
吾観自古賢達人 功成不退皆損身
子胥既棄呉江上 屈原終投湘水浜
陸機雄才豈自保 李斯税駕苦不早
華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道
君不見 呉中張翰称達生 秋風忽憶江東行
且楽生前一杯酒 何須身後千載名

[書き下し風味]
耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨
光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを
吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損(おと)す
子胥は既に棄てらる呉江の上(ほとり) 屈原は終に投ず湘水の浜
陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ
華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道(いう)に足らむ
君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く
且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須(もちひ)るや

潁川の水で耳を洗った許由の話は、ここでは玄晏先生(皇甫謐)の『高士傳』が
元ネタらしいです。

『史記』本傳に「蒼鷹」の文字はなく、『太平御覽』には入ってました
414無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 23:49:00
>>386
しかし中には鍾ヨウのような男もいるからなあ。ネタ多すぎだろ鍾ヨウ。
>>369
裴松之の所に荀ケが現れたら大変なことになりそうだw
415無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 12:33:53
>>409-410
だが少しリスペクト過ぎないか?w
パク(ry
416無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 13:01:45
まぁ、更には陳琳の遊覧詩の「節運時気舒、秋風涼且清」の
リスペクトなんですけどね^^^^^^;
417無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 13:03:54
「本歌取り」と言う言葉は、現代では死にました
418無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 13:08:56
>>409が本歌取りと言っているが…
まあ陳琳は兎も角、鮑照レベルの本歌取りを
現代で行なったら不味いだろうねw
419無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 13:45:23
>>393
北は麦、南は米って言うよね。
420無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 05:46:44
>>353
亀レスだけど、それの陸機バージョンの詳細キボン
421無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 11:17:25
>>420

『異苑』

晋清河陸機初入洛、次河南之偃師。
時人結陰、望道左若有民居、因往投宿、
見一年少、神姿端遠、置易投壺、与機言論、妙得玄微。
機心服其能、無以酹抗。
乃提緯古今、総験名実、此年少不甚欣解。
既暁便去、税驂逆旅、問逆旅嫗、
嫗曰「此東数十里無村落、止有山陽王家塚爾。」
機乃怪悵、還睇昨路、空野霾雲、拱木蔽日、
方知昨所遇者、信王弼也。
一説陸雲獨行、逗宿故人家。
夜暗迷路、莫知所従。
忽望草中有火光、雲時飢乏、因而詣前。
至一家牆院甚整、便寄宿、
見一年少可二十餘、豊姿甚嘉、論叙平生、不異于人。
尋共説老子、極有辞致。
雲出、臨別語云「我是山陽王輔嗣。」
雲出門廻望向処、止是一塚。
雲始謂俄頃已経三日、乃大怪悵。
422無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 12:18:22
gj!訳もおながいしますorz
4231(ry:2007/03/23(金) 23:55:49
>>413
李白先生thxです!! すげーもりだくさんの詩ですねー(*´Д`)
唐宋の詩人のみなさんは、呉で周瑜や陸機を詩によむ人がたくさんいますおね。
行政上、南部にくる機会が多かったのでせうが……中世の人の古代ロマンだー。

>>421
Thxです!! Sugeeeeeeeeeee!! 六朝志怪(*´Д`)ハァハァハァハァハァハァ/ \ァ/ \ァ
陸機たんver.は異苑だったのですねー。異苑むずかしいから読んでな(ry orz orz orz
いちおうへた訳もうpしてみますが、むずかしくてたぶん盛大に間違ってる悪寒orz orz orz

>>421適当書き下しorz すみ括弧のなかを本気でフォローおねがいしますですorz orz orz)
晋の清河の陸機は初め入洛し、次に河南の偃師(えんし)に之(ゆ)く。
【時人の陰結するに、道の左に民居の若くの有るを望み、因りて往き投宿ずるに、
 一の年少の、神姿端遠するに見(まみ)えるに、投壺(とうこ)に易置し、機に言論を与うるに、
 妙を得て玄に微す。機は其の能に心服し、以って酹し抗う無き。
 乃ち古今の緯を提し、総じて名実を験し、此の年少の甚だ欣(よろこ)ぶを解さず。
 既に暁にして便(すなわ)ち去し、驂(そえうま)を税(と)きて逆に旅し、逆に旅して嫗に問うに、】
嫗は曰く、「此の東数十里に村落は無く、止(た)だ山陽に王家の塚の有る爾(のみ)。」
機は乃ち怪悵し、昨路を還りて睇(なが)めるに、空野に霾雲(ばいうん)し、
拱木(きょうぼく)が日を蔽い、方(まさ)に昨(きのう)知り遇う所の者は、王弼と信ずる也。
 一説には陸雲が獨り行き、故人の家に逗宿す。 夜の暗きに路に迷い、知り従う所莫(な)き。
忽(にわか)に草中に火の光るを望み、雲は時に飢乏し、因りて前に詣(いた)る。
一家の牆院の甚だ整うに至りて、寄宿を便ずるに、一(ひとり)の年少の二十餘可(ばかり)で、
豊姿の甚だ嘉く、論叙は平生とするも、人と異ならざるに見(まみ)える。
尋(つ)いで共に老子を説し、辞は極みに致り有る。
雲は出(い)で、別れに臨みて云い語らうに、「我は是の山陽の王輔嗣なり。」
雲は出でて門を廻りて向く処を望むと、止(た)だ是れ一塚なり。
雲は始めて俄頃(がけい)し已に三日が経ちぬと謂いて、乃ち大いに怪悵す。」
4241(ry:2007/03/23(金) 23:58:23
>>421適当訳orz すみ括弧のなかはさっぱりわかりませんですたorz orz orz)
「晋の清河の陸機ははじめ洛陽に入り、ついで洛陽の東にある偃師に行きました。
【当時はとても暗かったので(?)、横道に人の家のようなものがあるのが見えたので、
 そこに行って泊まることにすると、ひとりのとても美しくきわだった姿の若者に会いました。、
 矢をつぼに投げいれて勝ったものが負けたものに酒をのませる遊びをして勝ったので(?)
 若者は陸機に思想を語りましたが、たいへんすばらしいものでした(?)。
 陸機はその才能に心服して、地をお酒できよめて聞き入りました(?)。
 その話は古今の緯書をしめし(?)、すべてが若者の名実をしめしているので(?)、
 この若者がなぜそんなによろこぶのか解りませんでした(?)。
 明け方になったのでそこを去り、馬車の馬を放って逆に道をたどり(?)、逆にたどっておばあさんに聞くと、】
おばあさんは、「この東の数十里には村落はなく、ただ山陽に王さんの家のお墓があるだけですよ」と言いました。
陸機はこれをふしぎで気の毒であると思い、きのうの道を戻りながらちらっと見てみると、
空と野原はまきあげられた砂でつちぐもり、ひとかかえもある木が日をおおったので、
きのう知りあった人はほんとうに王弼だったのだなぁとと信じました。
4251(ry:2007/03/23(金) 23:59:24
 一説には、陸雲が一人ででかけて、むかしなじみの家に泊まりに行きました。
夜が暗くて道に迷い、どこにいるのかさっぱり分からなくなりました。
すると草がしげる中に火が光るのが見えたので、陸雲はお腹もすいていたので、
そっちへ行ってみました。一軒のかきねも建物もきれいな家についたので、
泊まっていくことにすると、ひとりの二十歳あまりで、容姿がとてもきれいで、
論説は古いものでしたが、人とちがっては見えない若者に会いました。
そしていっしょに老子について論じあい、教えの奥深くを極めるまで語りあいました。
陸雲が出発するときに、彼がお別れをして言うには、「私はこの山陽の王弼です」と言いました。
陸雲がそとに出て門からでてふりかえって見てみると、そこはただ一つのお墓でした。
陸雲ははっと気がつくとまたたくまに三日が経っていたと言い、大いにふしぎがって気の毒がりました。」

うあーんむずかしいorz orz orz orz orz(´;ω;`)
4261(ry:2007/03/24(土) 00:00:13
これだけではなんなので、>>385さんのバイオレンス文官魯粛たんも捜神後記巻六からうpしておきますorz
>>385はほかのサイトさんからの引用らしいので、いちおうあらためてへた訳もしてみますorz。
(白文)
「王伯陽家在京口、宅東有大冢、相伝云是魯粛墓。伯陽婦、郗鑑兄女也、喪亡、王平其冢以葬。
後数年、伯陽白日在庁事、忽見一貴人、乗平肩輿、与侍従数百人、馬皆浴鉄、径来坐、謂伯陽曰、
我是魯子敬、安冢在此二百許年、君何故毀坏吾家。因顧左右、何不挙手、左右牽伯陽下床、
乃以刀環撃之数百而去。登時絶死、良久復蘇、被撃処皆発疽潰、尋便死。
一説王伯陽亡、其子営墓、得一漆棺、移至南岡、夜夢粛怒云、当殺汝父。尋復夢見伯陽云、
魯肅与吾争墓、若不如我不復得還。後於霊座褥上見血数升、疑魯粛之故也。墓今在長広橋東一里。」

(適当書き下しorz)
「京口(けいこう)に王伯陽の家在りて、宅の東に大きな冢が在り、相(あい)伝いて云く是れ魯粛の墓なりと。
伯陽の婦(つま)は、郗鑑(ちかん)の兄の女(むすめ)也(な)れど、喪亡(そうぼう)するに、
王は其の冢を平(たいら)げ以って葬る。数年の後、伯陽の白日に庁事(ちょうじ)に在るに、
忽(にわか)に一(ひとり)の貴人の、平肩輿(へいけんよ)に乗り、侍従の数百人を与(くみ)し、
馬は皆鉄を浴び、径(みち)を来て坐すに見(まみ)える。伯陽に謂いて曰く、我は是れ魯子敬なり、
此の二百年許(ばか)りを冢に安んじ在るに、君は何故に吾が家を毀坏(きはい)するか。
因りて左右を顧み、何ぞ手を挙げざると。左右は伯陽を下床に牽(ひ)き下ろし、
乃ち以って刀環で之を数百撃ちて去る。時に絶死と登(な)り、良久(ややひさし)くして復(ま)た蘇るも、
撃たれし処が皆疽潰を発し、尋(つ)いで便(すなわ)ち死す。
一説には王伯陽が亡くなり、其の子が墓を営むに、一つの漆棺を得て、南の岡に移し至るに、
夜に夢で粛が怒りて云うに、当(まさ)に汝の父を殺すべしと。尋いで復た伯陽の夢に見(まみ)え云うに、
魯肅と吾は墓を争い、我は復た得て還らざるを不如(しかず)が若(ごと)し。
後に霊座の褥の上に数升の血を見るに、魯粛の故と疑う也。墓は今は長広橋より東に一里に在す。」
4271(ry:2007/03/24(土) 00:01:29
>>426適当訳orz)
「江蘇省鎮江県の京口に王伯陽の家があって、屋敷の東に大きな塚があり、
魯粛のお墓だと言い伝えられていました。伯陽の奥さんは、東晋の大物である郗鑑の兄の娘でしたが、
彼女がなくなったので、王さんはその塚をくずして平らにしてそこに彼女を葬りました。
数年後、伯陽が真昼間に役所で仕事をしていると、とつぜんひとりの貴人が、肩でかつぐ輿に乗り、
馬はみな鉄の蹄鉄をはめ(?)、道をこっちに来て対峙するのに会いました。
彼は伯陽に、「私は魯粛です。この二百年ほど塚で安らかにしていたのに、君はなぜ私の家を壊したのですか……」
と言いました。そして左右にひかえる者達にふりかえると「殺(や)っちまいな!」と言いました。
左右の者が伯陽を床にひきずりおろし、刀のつかの後ろにある丸いところで
数百発彼をボコボコにしてから去りました。そのとき彼は気絶してしまい、しばらくしてまた気がつきましたが、
撃たれたところがみなぐずぐずのはれものになり、まもなくして死んでしまいました。
一説には、王伯陽が亡くなったので、その子供がお墓をつくる際に、一基のうるしぬりの棺おけが出てきたので、
南の岡に移したところ、夜になって夢のなかで魯粛が怒って「君の父を殺してくれるわ……」と言い、
ついでまた伯陽が夢にでてきて、「魯粛と私はお墓を争っており、私は魯粛に勝てないのでどうやら墓に戻れぬ」
と言いました。後に王伯陽の霊をまつってあるところのしき布に数リットルの血が見つかり、
魯粛がやったと考えられました。お墓は今では長広橋から東に434.16mのところにあります。」

こえぇぇぇぇぇぇ!! オカルト&バイオレンスな狂児かこいいよ狂児ww
しかし不運な王さんとやらには、まことにご愁傷さまでありますorz。
郗鑑さんの娘さんが王羲之の奥さんなので、郗鑑さんのお兄さんの娘さんが亡くなるこの話は、
おそらく四世紀おわりごろの話ですおねー。魯粛さんは217年に没しているので、
たしかに魯粛さんが墓にはいってから、大体200年ぐらいたったころですねw。
なんか正史の魯粛さんは、こういうことを素でやりそうなふいんき(ryが行間からあふれているように思えますw。
なんかこの魯粛のお墓は、いまでも江蘇省にあるらしい……行ってみたいような怖ろしいようなwww
428無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 00:26:24
>>427
乙っス!

しかし流石は狂児ww
まぁ、そこにしびれる憧れるワケだがww
429無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 00:51:29
呉軍師スレで、周瑜より魯粛の墓の方が
人気があるなんて不思議だと言われていたが、
このエピソードがあるから大切にされてるんじゃねw
430無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 01:20:54
晋の「清河」の陸機?陸雲の間違い??
4311(ry:2007/03/24(土) 01:33:36
>>428-429
あるあるwwwww

>>430
自分も平原じゃなくて清河かー? やっぱ王弼の幽霊にあったのは陸雲たん? と
おもったのですが、>>423-425が自分にはむずかしすぎて意味がよくわかんなすぎなので、
疑問点はぜんぶ放置しますたorz……文意がわかってからかんがえるですーorz orz orz。
4321(ry:2007/03/24(土) 02:01:39
30分考えたけどやっぱ>>421ワカンネorz orz

ついでに>>427訂正ですーorz
「肩でかつぐ輿に乗り」と「馬はみな鉄の蹄鉄をはめ(?)」のあいだに「数百人の従者をしたがえ」ですorz。

しかし、王伯陽さんも奥さんが郗鑑の兄の娘さんだし、決して身分の低いひとではなかったのでせうに、
その王さんが貴人というのですから、魯粛って身分があったというか、お金持ちだったんだなーw。いいなあ(ry
433無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 03:26:55
>>421
>税驂逆旅、問逆旅嫗
俺もお手上げ・・・○| ̄|_ナンダコリャ・・・
434無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 05:10:22
冒頭の「晋清河陸機初入洛」なんだが、
晋書の陸機伝に「至太康末、与弟雲倶入洛」とあるので
本来の原文は「晋の陸雲と陸機の二人が初めて入洛した」という意味だったんじゃないか
それが何らかの原因で混乱して「晋清河陸機」になったんじゃないかと思う
そうすると後半の一説の冒頭が「一説陸雲獨行」となって
わざわざ陸雲が「獨行」したと強調しているのもすっきりする

つまり最初のエピソード
 陸機と陸雲の二人とも王弼の幽霊に遭った(でも主役は陸機)
2番目のエピソード
 王弼の幽霊と遭ったのは陸雲だけ
ということじゃないかと推測する
435無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 05:35:57
次河南之偃師
も「次」には「いたる」の意味があるので
「河南の偃師に次(いた)る」で
河南郡の偃師県にいたるということだと思う
ただし、太平広記巻318にこの話が省略引用されていて、そこでは
「次河南、行偃師」となっているので、それを踏まえると
「河南に次り、偃師に之く」
(洛陽のある)河南郡に至り、(更に洛陽の一歩手前の)偃師県に行く
と読むのかもしれん(ちょっと表現としてくどい気もするが)

いずれにしても洛陽に着いてから偃師に向かったのではなく
洛陽に向かう途中、というか洛陽につく少し前の出来事だと思う
436無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 10:09:08
>>427
正史の魯粛ならやりそうだwww

>>434-435
GJ!!!!続きキボンヌ…
437無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 14:32:45
時に久しく結陰し、道の左を望むに民居有るが若し、因って往きて投宿するに、

時人は自分の持っているテキストでは「時久」に作っている
「結陰」は、ググルと樹木が影を作るの用例が多く出るが
謝霊運の悲哉行に「檐上雲結陰」とあり、
また張衡の南都賦に「玄雲合而重陰」という例もあるので、
恐らく空が分厚い雲に覆われて道を進むのに支障をきたすほど
暗くなったというこじゃないか
ちなみに太平広記では「結陰」を「陰晦」に作っている

難しく考えずに単に日が暮れて暗くなったというだけかもしれんが
438無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 14:38:25
お疲れです!連載みたいで続きが楽しみw
439無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 15:58:38
置易投壺の置易がさっぱりわからん

調べているうちに、太平広記巻318の他に芸文類聚巻79神と太平御覧巻884鬼下と
水経注巻16穀水にこの文章が引用されていることがわかった

>>434で王弼に会ったのは陸機と陸雲の二人じゃないかと言ったが
現行本異苑以外は陸機のエピソードとして清河の文字も陸雲もでてこないので、
現行本異苑の「晋清河陸機」の清河は単なる誤字で陸雲は関係ないかも試練

>>437の結陰についての考察も、芸文類聚と太平御覧は「時夕」としているので
難しいことは考えずに、日が暮れて暗くなったということでよさげ
440無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 16:33:49
ワクテカして待ってます!
俺は漢文が読めないからそもそも理解できないのだが
>>421はそんなに難しい文章なのか。
>>423氏も>>439氏も乙。
441無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 23:16:28
訳の続きを期待しつつ、同時進行で…

>>427
ttp://kankouha.cool.ne.jp/wu-zhiyuan/wu-mu/mu-lanking.htm
>1.魯粛墓遺祉 (鎮江)     ランクC、到達
>2.鎮江魯粛墓 (鎮江北固山)ランクC、到達
>3.岳陽魯粛墓 (岳陽)    ランクB、到達
>4.亀山魯粛墓 (武漢)    ランクC、到達

江蘇省鎮江県の墓ってこの1か2じゃね?
魯粛墓は愛されてるというより恐れられて大事にされてそうだなwwww
442無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 01:05:02
演義のお人好しな魯粛像はどっから出てきたんかねえw
443無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 01:26:06
>>442
孔明の地位を相対的に高めるためじゃね?
あと、魯粛の戦略は劉備にある程度の力を持たせて曹操に対抗させるってことだから、
蜀びいきの人間からしたら、「劉備や孔明のために何故か頑張ってくれるお人好し」に見えちゃうのかもな。
まぁ何はともあれ、狂児かこいいよ狂児という結論は動かんワケだが。
444無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 01:33:47
>>441
狂児の墓4つもあんのかwwwwwww
445無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 01:38:59
一年少を見る、神姿端遠たり、置易投壺(?)、機と言論するに、玄微を妙得す。
置易投壺はわからん。現行本異苑と太平広記以外のテキストには「置易投壺」の語が
無いので、無視してもとりあえずは問題なさげ
「与機言論、妙得玄微」は、類聚と御覧は「與機言玄門妙物」に作り、水経注は
「與機言玄」とする
どのテキストも「玄」の字を共通して使っているが、王弼は周知の通り老子の注釈を
作る等、玄学すなわち老荘思想に通暁していたわけで、「妙得玄微」は「深遠な道理
(=老荘思想)を会得していた」ということじゃなかろうか

機は其の能に心服し、以って酹抗する無し。
酹抗は、現行本異苑以外は「酬(詶)抗」に作る(水経注は酬折)
酹抗にするのは恐らく現行本異苑の誤字で、酬抗と解釈して
「陸機は彼の才能に心服し、異議をさしはさめなかった」ということだと思う

「無以酹抗」の後に、水経注には「前致一辯」(前(すす)みて一辯を致す?)という
一文があるが、これもどういう意味かちょっとわからん
446無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 01:43:20
訳の続きキター(AA略
乙です!!

>>440
難しいのもあるが、異苑に誤字が多いんだと思う…
447無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 12:15:21
>>441
文革でも狂児の墓は壊さなかったのかw
448無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 18:49:06
「置易投壺」は易(書物)と投壺(ゲームの道具)を置いていたってことじゃないかな。
王弼は易と老子の注を作ってるし、三国志の注には投壺が上手だったとあるので。
王弼といえば易と投壺っていうイメージだったのかも。
449無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 20:30:54
凄い、段々解読されて来たじゃまいか

>矢をつぼに投げいれて勝ったものが負けたものに酒をのませる遊び
投壷はこれで良いのかな。
450無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 20:55:43
投壷は>>449の通り矢を壷に投げ入れる遊び。
古代中国版ダーツみたいなもの
南陽両漢画像石にその様子が描かれてる。
中公文庫版「易の世界」加地伸行編の表示を見るといいよ
王弼は義理易を創始した夭逝の天才で当時何晏などから
「鬼才現る」「あなたがネ申か」と言われた人物だから
ネ申が好きな陸兄弟が今度もまたまた別のネ申に出会ったとさ
というような話と桃割れる
451無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 21:12:06
『礼記』に投壺篇があって、投壺の礼について解説してる。
内容はおおまかには>>449なんだけど、
『礼記』で解説するくらいだから由緒正しいゲームだったんじゃまいか。
魏の時代に、どんな感じでやってたのかわからないけど。
452無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 21:17:01
>>424のそのゲームと本が置いてあったってことかね
453無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 23:19:13
>>450
鬼退治でもしてくれそうだなww >桃割れる
454無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 00:07:40
乃ち古今を提緯し、名実を総験するに、
まず、水経注・類聚・御覧は「乃」の字が「機」になっており、「提緯古今、総験名実」
は陸機の行動。
さらに「提緯古今」と「総験名実」は対になっている表現なので、「提緯古今」は
「古今を提緯す」と読みたい。「緯」の字には順序だてて系統化するという意味もあり、
「提緯古今、総験名実」は
陸機は古今の事について秩序だって指摘し、世間での評価とその実際について広く検証した
という意味で解釈してみたが、自分でもちょっと強引な解釈だと思う
もし、「緯」を緯書ととれば「緯を古今に提し、名実を総験す」と読み
緯書の神秘的な予言を古今の史実に即して提示し、その緯書の内容と史実を検証した
と解釈できる…のだろうか

此の年少は甚だしくは欣解せず。
まず欣解の正確な意味がわからんが、欣の字が入っているので、何か喜んだ様子を
指すものとすると、「不甚欣解」で、それ程喜ばなかったの意味になる。
ただし、芸文類聚は「不堪欣解(欣解に堪えず)」に作り、それだと大喜びしたの
意味になるが、他に「堪」とするテキストは無いようなので、「不甚欣解」で
いいと思う。

ここで、なぜ王弼があまり喜ばなかったかが疑問になるが、
陸機の話の内容は、「提緯古今、総験名実」で、提緯の意味がよくわからんにせよ、
古今の事件なり人物なりについて検証した内容と思われるので、
観念論・抽象論的な玄学を得意とした王弼の肌に合わなかった
ということじゃないだろうか
455無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:15:53
既に暁にして便ち去り、驂を逆旅(げきりょ)に税く。逆旅の嫗に問う。
逆旅は宿屋。
明け方になって立ち去り、馬車を宿屋に止め、宿屋の老婆に問い尋ねた。

嫗曰「[君何宿而来、]此東数十里無村落、止有山陽王家塚爾。」
水経注には[ ]の文句が付いている。
君 何(いずこ)に宿りて来るか
あなたはどちらで宿をとってきたのか
の意味

機は乃ち怪しみ悵(うら)み、昨路を還睇するに、空野霾雲、拱木日を蔽う。
方(はじ)めて知る 昨(きのう)遇う所の者は、信(まこと)に王弼なりと。

「怪悵」という熟語は辞書に載っていないが、類聚と御覧は「機乃怪、悵然、還睇昨路」
として、「陸機は驚き怪しみ、がっかりして昨日きた道を振り返って眺めると」と読める
還睇は振り返って見るの意味で辞書に載っている。
「空野霾雲、拱木蔽日」は水経注には「空野昏霾、雲攢蔽日」として、
水経注の考証を行った楊守敬によれば(楊守敬『水経注疏』)、水経注の方が
正しいらしい。
空野は「空と野原」と「何も無い野原」の両方の解釈が可能だが、後の句に「雲攢蔽日」
と空の様子を描写する表現がでてくるので、「何も無い野原」と解釈すると
空野昏霾(こんばい)たりて、雲攢(あつ)まりて日を蔽う
暗く何も無い野原が広がるなかりで、雲が集まって太陽を隠している
という意味だと思う。
方(はじめて)は現代中国語の「方始」「方才」の意味で、
「そこでようやく」「そこではじめて」のニュアンスだと思う。
456無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:20:45
>>433
逆旅(げきりょ)は宿屋だよ。
宿屋に泊まって、そこのばあちゃんに聞いたら、
「こっから東数十里に村なんてねーよー。山の南に王さんちの墓があるだけだー。」と答えた。
おかしいなと思って、もどって昨日来た道を眺めてみたら、何にも無くて土ぼこりが舞っていて、
ただお墓の木が木陰をつくっていた。
それではじめて、昨日遇った人は本当に王弼だったんだということがわかった。
ということですね。
457無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:24:26
リロードせずに書き込んだら、かぶってしまいました。すみません。
しかし、こんな時間に、こんなことを書いてる人間が二人いるなんてw
458無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:46:56
>>455
×暗く何も無い野原が広がるなかりで
○暗く何も無い野原が広がるばかりで

最後に後半の陸雲のエピソードの部分で
平生を論叙するに、人に異ならず、尋で共に老子を説くに、極めて辞致有り。
というのは、(若者が)日常について会話するときは(世間話みたいなもの?)
普通の人とかわりないが、老子について語り始めるとものすごい
って言う事じゃないかと思う

>>448-452
Thx
「置易与投壺」と書かれていればまだわかりやすかったのだが
この文章全体にも言えることだが、大元の原本は多分もっと詳しく丁寧に書かれていた
気がする
書写する人や引用する人が全部書き写すのが面倒だったのか、転写を重ねるうちに
省略や要約をされまくり、「置易投壺」みたいな語句がポツンと残って、
解釈を困難にしている気がする
459無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:47:29
>>455
×暗く何も無い野原が広がるなかりで
○暗く何も無い野原が広がるばかりで

最後に後半の陸雲のエピソードの部分で
平生を論叙するに、人に異ならず、尋で共に老子を説くに、極めて辞致有り。
というのは、(若者が)日常について会話するときは(世間話みたいなもの?)
普通の人とかわりないが、老子について語り始めるとものすごい
って言う事じゃないかと思う

>>448-452
Thx
「置易与投壺」と書かれていればまだわかりやすかったのだが
この文章全体にも言えることだが、大元の原本は多分もっと詳しく丁寧に書かれていた
気がする
書写する人や引用する人が全部書き写すのが面倒だったのか、転写を重ねるうちに
省略や要約をされまくり、「置易投壺」みたいな語句がポツンと残って、
解釈を困難にしている気がする
460無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 02:49:47
うはw連投ごめん
もう寝る
461456:2007/03/26(月) 03:22:52
ゴメン。山陽は山の南ではなくて、地名だた。
山陽の王家の塚
462無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 04:18:53
陸機片付いたじゃまいか
皆乙!!!!!
463無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 10:51:38
漢書・匡衡伝に「解人頤」というのがあって、
解頤(おとがいをとく)というのはアゴを開くだから大笑することだそうです。
だから、「欣解」は喜んで笑うだろうと思います。
>>454>>458を考え合わせると、「乃提緯古今、総験名実、此年少不甚欣解。」と
「論叙平生、不異于人。」が同じことを言っていて、
「乃提緯古今、総験名実」=「論叙平生」と考えられるんじゃまいか。
易や老子ではない現実的な話題には、あまり興味を示さなかったということかな。

そろそろ桜も咲くので、かなり戻って>>401の春詠です。
韻とか解んないけど、こんな読みでどうでしょう。

節運同可悲、莫若春気甚、和風未及燠、遺涼清且凜
節の運(めぐ)りは同じく悲しむ可くも、春気の甚(はなは)だしきに若くは莫し。
和風は未だ燠(あつ)きに及ばず、涼を遺(のこ)して清且(か)つ凛。

季節の移り変わりはみな感慨深いけれど、春がやっぱり一番だ。
おだやかな春風はまだ暑くなく、涼しさを遺して清らか且つ凛としている。
464無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 12:08:32
どっちも(・∀・)イイ!
皆乙カレー!!
465無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 13:02:13
お疲れ様です
普段このスレに上がる様な文章が、
いかに計算された良い文章なんが分かるなァ
466無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 14:06:11
>>451
左伝なんかにも投壺の描写があった気がする。
467無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 14:42:59
>>466
横紙すまん。左伝て何か読みにくい。読みやすい注釈書ってある?
468まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/03/26(月) 14:46:26
469無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 15:18:12
>>465
いい文章は読みやすいよねw
470無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 16:05:46
>>466
昭公の伝十二年にあったよ。
「これが入ったら諸侯の旗頭になる。」と言って矢を投げて、
入ったら喜ぶってのは、宴会芸じゃなくてお呪いみたいな感じだな。
魏の時代には、もっと宴会芸っぽくなってたのかな。

>>467
オレも平凡社の中国古典文学全集の訳本しか持ってない。
なんか良いのないかな。
471無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 18:42:36
>>467>>470
明治書院版が特にいいとは思うけど、訳文のみだけどほぼ全訳の
平凡社版でもいいと思う。
いちおう両方買った人間の意見。
472無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 19:16:17
>>471
ありがとう。

文選巻二十六に陸機の赴洛道中作二首というのがありました。
王弼の幽霊に遇った旅の途中で作ったんかな。
二首のうち一首をうp。

?轡登長路嗚咽辭密親
借問子何之世網嬰我身
永歎遵北渚遺思結南津
行行遂已遠野途曠無人
山澤紛紆餘林薄杳阡眠
虎嘯深谷底鷄鳴樹巓
哀風中夜流孤獸更我前
悲情觸物感沈思鬱纒緜
佇立望故郷顧影悽自憐
473無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 19:18:23
最初の化けてる文字は、手偏に怱で、ソウ/す・べるです。
4741(ry:2007/03/27(火) 01:22:27
まとめさん乙であります(`・ω・´)ゝ

>>434-463
#王弼(異苑)
Sugeeeeeeeeeeeee-----------!!!!!! Thxであります!!!!
自分は理系のシロートなので、ひとりではぜったいわかりませんですた(`;ω;´)ブワッ
礼記の投壷というのは、なんか専用の「矢羽のついていない矢」と「胴に持ち手のある壷」をつかって、
http://p.pita.st/?m=hcvtioif ←こんなふうに矢をつぼにいれて、
勝った人はまけた人にお酒をのませるらしい……と、新字源に出ていますたorz。

王弼たんのの幽霊とあったのが陸雲たんバージョンはけっこう話がもりあがっていますが、
陸機たんバージョンはあんまりウケなかったのですねw。
どっちが王弼たんの幽霊に会ったんだろう。もしや、二人ともそれぞれ別に会ったのでせうかw。

>>463
#春詠
フォローthxであります!! この春詠ってつづきはなくて、これで完結しているのでせうか……(・∀・)?

#春秋左伝
自分も台湾學生書局のやつしかもってないので、図書館に行かないと読めないのですが、
明治書院の新釈漢文大系シリーズはべんりだと思うですー。
4751(ry:2007/03/27(火) 01:27:33
>>472
#陸機の赴洛道中作二首
Thxです!! 自分の上海古書出版の文選では、
二首めもセットになってつづいていたので、いちおううpしてみるですー。

赴洛道中作二首 其二
(白文)
遠遊越山川  山川脩且廣
振策陟崇丘  案轡遵平莽
夕息抱影寝  朝徂銜思往
頓轡倚嵩巖  側聴悲風響
清露墜素輝  明月一何朗
撫枕不能寐  振衣獨長想

(其一、適当書き下しorz)
「轡(たづな)を揔(す)べて長路を登り、嗚咽し密親に辭す
子は何ぞ之(ゆ)くかと借問するに、世の網の我が身に嬰(かか)りしやと
永歎して北の渚に遵(したが)うも、思いは遺りて南の津(きし)に結ぶ
行き行きて遂に已に遠く、野の途(みち)は曠(むな)しく人は無し
山澤は紛として紆餘し、林薄は杳として阡眠たり
虎は深谷の底に嘯(うそぶ)き、鷄(とり)は樹の巓(いただき)に鳴く
哀風が夜の中を流れ、孤獸は我が前を更(へ)る
物に觸れて悲情を感じ、沈思は鬱として纒緜とす
佇立して故郷を望み、顧影して自憐し悽(いた)む 」

(其二、適当書き下しorz)
「遠く遊びて山川を越ゆるに、山川は脩く且つ廣し
策(むち)を振るいて崇丘に陟(のぼ)り、轡を案(おさ)えて平莽に遵う
夕に息(やす)みては影を抱(いだ)いて寝(い)ね、朝に徂きては思いを銜(ふく)みて往く
轡を頓(とど)めては嵩巖に倚(もた)れ、悲風の響くを側聴す
清露は墜ちて素(しろ)く輝き、明月は一(いつ)に何ぞ朗らかなる
枕を撫して寐(い)ぬるに能わず、衣を振るいて獨り長く想う」
4761(ry:2007/03/27(火) 01:29:45
(其一、適当訳orz)
「たづなをとって長い道のりを出発し、むせび泣いて親しい者たちに別れを言います。
あなたはなぜいらっしゃるのですかと聞かれたので、世の中の網にかかってしまったのですと答えました。
ふかいため息をついて北の砂でできた渚にそっていきますが、
思いはあとにのこって南の岸の舟の渡しにとどまっています。
行って行ってこんなにも遠くまできてしまい、野の道はひろくてまったく何もなくて誰もいません。
山や沢がいり乱れて曲がりくねり、林と草むらは深く暗く生い茂っています。
虎が深い谷底でひくくうなり、鳥は高い木のてっぺんで鳴いています。
ものがなしい風が夜のなかを流れてゆき、はぐれた獣が私の前を通りすぎていきます。
こうした風物にふれては悲しみの情を感じ、深い物思いはうれいをもって心にまとわりついて離れません。
たちどまって立ってみては故郷をはるかにへだててながめ、
影をふりかえっては自分の身の上をあわれんで悲しみます。」

(其二、適当訳orz)
「遠く他国へ仕官するのに山川を越えて来てみれば、山川は長くしかも広いのです。
ムチをふるっては高い丘にのぼり、たづなをおさえては草原をすすみます。
夕べにやすむときは自分の影を抱いて寝て、朝に出発するときには思いを内にふくみながら行きます。
たづなをとめては大きな岩にもたれ、風が悲しくひびくのをじっと聞いています。
透明な露がおちて白くかがやき、明るい月のまったく何とくもりなくあきらかなことでしょう。
枕にもたれても眠ることはできず、(ねがえりをうって)衣の袖をふるってはひとり長く思いにふけります。」
477無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 02:18:14
(´;ω;`)ブワッ・・・
そこまで行きたくないのなら断れないものなのか・・・
478無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 21:39:30
断ったらどうなったんだろね
479無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 01:15:11
司馬懿みたいに「さっさと来ないとヌッ殺ス」と脅されるw

弁亡論を著したのが上洛前か後か気になる。
あんなの堂々と書いて大丈夫なんだろうか。
480無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 02:50:42
>>474
赴洛道中作二首をうpしたものです。訳つけなきゃと思いつつ、ほったらかしでした。乙です。
ボクはつい最近ここに来るようになったので、1さんはその筋の学科の学生さんだと思ってました。
理系のシロートなのに、こんだけ読むのは逆にSugeeeeeeeeeeeee-----------!!!!!! であります!!!!

春詠はこれで全部のようです。秋詠というのもありました。

肅肅素秋節、湛湛濃露凝、太陽夙夜降、少陰忽已升
肅肅(しゅくしゅく)たる素秋の節、湛湛(たんたん)たる濃露凝(こ)る。
太陽は夙夜降り、少陰は忽(こつ)として已に升る。

静かな秋、清らかな濃い露が凝結する。
盛んだった陽気が朝夕に衰えていき、
ふと気付くと、小陰の気が已にあらわれている。

素秋は、五行で金気は色は白、季節は秋で、素は白だから素秋というそうです。
北原白秋の名前とおなじですね。
ちなみに青春は五行で木気は色は青、季節は春だから青春だそうです。
481無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 03:11:26
田中芳樹の「創竜伝」で知った厨房時代の思い出>青春
482無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 03:38:02
>その筋
甘寧のことかー!!w
483無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 03:49:19
このスレは他学部出の人が多いんじゃなかった?
逆に、専門に勉強した人では思い付かない発想をするから面白いよ
勿論、専門的なフォローがあってこそ話が進むんだが
484無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 10:48:26
多いもなにも
板の性格上、ちょっと文系よりかもしれないが
リアル社会とあまり変わらないんじゃないか・・・
485無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 11:50:16
>>479
晋書の陸機伝では、いつ作られたかは明言していないが
上洛前の部分に弁亡論を長々と引用しているから
上洛前の作品なんかな?

今まで何度か陸機伝を読もうとしたことがあるが、
そのたびに最初のほうに出てくる弁亡論でいきなり挫折しているw
486無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 03:49:03
太平広記巻317
魯粛

孫権病。巫啓云。「有鬼著絹巾、似是故将相。呵叱初不顧、径進入宮。」
其夜、権見魯粛来、衣巾悉如其言。(出幽明録)
( )内は原注

孫権病む。巫 啓(もう)して云わく、「鬼の絹巾を著(つ)くる有り、
是れ故将相に似たり。呵叱(かしつ)すれども初めより顧みず、径(ただ)ちに進みて
宮に入る」と。其の夜、権 魯粛の来るを見る、衣巾 悉く其の言の如し。
(幽明録に出づ)

孫権が病気になったおり、祈祷師が申し上げました。「絹の頭巾をした幽霊がおり、
亡くなった大臣のようであります。声をあげて咎めましたが鼻にも引っ掛けずに、
そのまま進んで宮殿に入っていきました。」その夜、孫権は魯粛が来るのを目にしたが、
その服装は祈祷師の言葉どおりだった。

魯粛 何しに来たん(´・ω・`)
487無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 05:37:09
>>486
つまり、祈祷師が見かけた幽霊が魯粛だったってこと?
488無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 07:55:53
魯粛は「おまえ長生きしすぎじゃね?」って言いにきたんだよ
489無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 23:37:39
なんか凄いな魯粛w
490無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 03:31:22
魯粛出すぎだろwww
呉は祈祷師とか巫女とか好きでよく使ってるけど
言ってることはトリック満載の出鱈目に違いねえから

1 孫権は魯粛に後ろ暗いところがある(スピリチュアルアタック)
2 もうだめぽ・・・お迎えが近いですよ(孫策か周瑜でもいいけど魯粛)
3 魯粛好きすぎの孫権にサービス(お見舞いに来てたよ、よかったね)

この三択だなw
しかし怖い話だ
491無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 10:58:21
>>490
三択に甜茶吹いたw
(只今花粉症)

何で幽霊エピ多いの魯粛は
492無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 13:00:18
幽霊になりやすい体質だったとか?(何だそりゃ)
493無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 14:27:20
死んでるんだから、体質はないだろー。霊質とか魂質とかかなw
霊体っていうから、やっぱり体質かな?
494無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 15:51:44
「狂児ならそんな訳のわからんことやりそう」と思われてたんじゃ?w
495無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 15:54:45
生前の魯粛の性格や逸話からだと、化けて出るようなタイプにゃ思えないけどね。

幽霊で登場して欲しい程、呉の民に愛されてたととるべきか?でも、怖い話もあるしなあ・・・
496無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 16:03:04
日本的に考えると、恨みがましいタイプが化けて出るって感じだけど
中国だと、豪快な奴が化けて出やすいんだろうか?

張飛とか
497無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 16:43:31
張飛は義理固いだけで(ry
498無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 19:09:10
>>495
会ってみたいという当時の人々の願望が現れたのかも知れないね。
499無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 19:10:42
関羽のこと考えるとやっぱり
日本と同じく
恨み残して死んだ奴が出たと考えられてるんじゃまいか
500無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 19:24:13
中国の幽霊はパワフルだな
501無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 21:30:32
よく成仏できなかった人が現世で幽霊になるとか言うから
きっと生前に未練を残してしまったんじゃなかろうか
とか思ってみたり
502無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 20:19:12
ミ・д・ミ

でもこういう話があるってことは
幽霊って物が信じられてたってことだよな……
503無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 22:54:27
お、落ちてない

みんなどうしたんだろ……
504無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 23:16:05
応援上げ
505 【豚】 :2007/04/01(日) 23:45:43
立って半年たってないから落ちない、でおkかな よく知らんけど

過疎板とはいえ、本当にみんなどこいっちゃったんだと不安になるな
506無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 00:01:37
仁寿殿前 有大方銅鏡。高五尺餘 広三尺二寸、立着庭中。
向之便写人 形體了了 亦怪也。
          『太平御覽』巻七一七

仁寿殿の前に 大方の銅鏡有り。高さ五尺餘 広さ三尺二寸
立てて庭中に着く。之に向かひて便(すなわ)ち人を写せば、
形體了了として、亦た怪なるなり。

仁寿殿の前に、大きな四角の銅鏡がある。高さは五尺あまり、幅は三尺二寸で
庭の中に立ててある。これに向かって人を写すと全身がはっきり見えるので
不思議なことである。

御覽巻七一七、服用部十九「鏡」に<陸機与弟雲書曰>として載っていました。
自分の姿を鏡に映して不思議がる陸機。
その事を弟に手紙で伝える陸機。
厳しい顔でポーズとかとってたら陸雲でなくても笑いがこみ上げてきます。ププッ
507無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 00:23:55
うんこスレの中に埋もれてこのスレがあるのを見ると、何と言うか……
508無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 13:50:19
>>506
仁寿殿て皇帝が執務したり臣下に謁見する場でいいのかな?
皇帝に謁見する前に臣下たちがそれ見て身だしなみチェックとかしてたら
確かに笑えるw
509無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 18:13:28
この時期はみんな忙しいんだろうな…
オイラは今日から暫く毎日が日曜日だけどな'`,、'`,、('∀`)'`,、'`,、

前スレにも惇が銅鏡ブン投げたの出てたけど、
昔はデカイ鏡が無かったのか。
510無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 18:23:02
>>509
まずもって、でかい銅板を作らなきゃいけない。
ここで第一関門。
んで、そのでかい銅板をひたすら磨かなきゃいけない。
ここで第二関門。

かなり国力と技術力がないときっついかと。
511無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 18:37:36
博物館やなんかで見られる銅鏡って
大体顔くらいの大きさ(2〜30センチ)の丸いのだよね。
投げるにもお手頃

台所のステンレスくらいには映ったんだろうか
512無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 19:56:51
>>511
昔ミュージアムショップで買った銅鏡だとこんぐらい映る。
ttp://www.uploda.org/uporg759253.jpg
ちょっと黄色っぽいけど顔見るには支障ない。
513無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 21:02:41
>>511
NHKの歴史番組にも銅鏡が出てたな。重たくて飛べないと思うけど
投げたくなる形だったw
514無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 18:32:56
>>512
結構よく映るもんだな!
しかしこれをぶん投げたら

ごわゎわゎわゎん

と鳴りそうだ
515無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 14:14:43
へぇー…
銅鏡って結構きれいに映るんだ
516無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 16:27:00
画像流れちゃってた…
再うpきぼんぬ
517無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 21:21:55
518無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 21:43:04
最近このスレを発見してまとめサイトを見るに
陸機の「二本足の猿」を見てびっくりな陸雲宛の手紙の断片があるくだり
「二本足の猿」というのは人間のように「二足歩行」してる猿を発見してびっくり
って事が言いたかったんでしょうか?
それとも前脚を欠いた猿。。とか?って別にびっくりしないか
猿も常には四本足で歩行するんだけど
当たり前に二本足でも歩行できるから別段びっくりするような事ではないと思うんだけど。。
519無名武将@お腹せっぷく:2007/04/05(木) 02:24:53
>>517
ぐっじょぶ
520無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 00:15:34
>>517
(*゚▽゚)b グッジョブ! にぶ〜く映るのかと思ってた。見てびっくり。

<燕歌行>二首 其二   
別日何易会日難 別るる日は何ぞ易く会う日は難し
山川悠遠路漫漫 山川悠か遠く路は漫漫たり
鬱陶思君未敢言 鬱陶(むねふさ)がり君を思いて未だ敢えて言わず
寄声浮雲往不歎 声を寄せるも浮雲往きて還らず
涕零雨面毀容顔 涕(なみだ)零(こぼ)れ面に雨(なが)れ容顔を毀つ
誰能懐憂独不歎 誰が能(よ)く憂を懐(いだ)き独(ひと)り歎かざる
展詩清歌聊自寛 詩を展べ清歌し聊(いささ)か自ら寛(ゆる)うす
楽往哀来摧肺肝 楽しみ往き哀しみ来りて肺肝を摧(くだ)く
耿耿伏枕不能眠 耿耿(こうこう)と枕に伏し眠ること能わず
披衣出戸歩東西 衣を披(かず)き戸を出でて東西に歩む
仰看星月観雲間 星月を仰ぎ看(み)て雲間を観(み)る
飛?晨鳴声可憐 飛?(ひそう)晨(あした)に鳴く声憐む可し
留連顧懐不能存 留連して顧み懐(おも)いて存ること能わず

『玉臺新詠』九  『初學記』十五
521無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 00:16:06
[ 口語風味 ]
  
別れる時は極めて簡単だが、会うことは難しい。
山川は遥か遠く、路は果てしなく広い。
君を思い出せば胸塞がる想いだが、口に出しては言えない。
この気持ちを浮雲に託そうと思うが、雲は往ったまま帰ってはこない。
哀しくて涙こぼれ、零れ落ちる涙は表情を変えていく。
この憂いを抱いて誰がよく歎かずにいられよう。
詩を作り歌を唄って気を紛らそうとしても、
楽しみは過ぎ去り哀しみがやって来て、痛いくらい切ない思いがする。
横になっても眠る事が出来ず、衣を羽織って外に出て東西へ歩き回る。
星や月を頂く雲間を見上げると、飛び立つ?(まなづる)の夜明けに
啼く声が悲しく聞こえる。こんな切ない想いを抱える身には、
生き永らえても意味が無いとさえ思う。
522無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 00:51:22
なんかカナシス(´・ω・`)
523無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 01:22:17
>>517
これだけきれいに映るとなるとごまかしきかないなw
曹操の容姿コンプレックスの理由がわかった気がするよ
思ってたよりみんな美意識高そう
524無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 01:27:52
>>523
美意識というより、儒教が蔓延している時代だからな。
惇のような隻眼(というか体の一部がかけている人)は差別されてた時代。
525無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 02:59:12
身体髪膚 これを父母に受く 
敢えて毀傷せざるは考の始めなり

孝経 曾子
526無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 03:17:33
しかし、孔子の高弟である子路(曾子にとっては兄弟子)は、
内乱の中で勇武のものにふさわしい死をとげ、その身を切り刻まれたわけで、
「毀傷せざる」どころの話ではない。
孔子自身も、志士仁人たるものは一身を捨ててでも仁を成し遂げることがある、と説いた。
後の経学儒教では、どうも曾子の言葉だけが重視されたらしいね。
527無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 07:27:25
曹操もブサイクとかじゃなくて
背がちんまいのに悩んでたんだよ!
528無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 07:47:22
普段の軽い言動もあいまって、いわゆる貫禄がなかったんだろうね。
529無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 10:34:05
スレ違い大変失礼しますが、ダメもとでお聞きしたい。

どなたか「扶風県郷士史」についてご存知の方はいらっしゃるまいか?
530無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 10:36:49
間違えた 郷土史 ですたorz
531無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 13:37:08
後漢三国掲示板とかいう所で話題になっているやつか

ググって見たらhttp://www.wanfangdata.com.cn/qikan/periodical.Articles/ahsx/ahsx2006/0606/060609.htm

[5]谭绍裘纂:(光绪)《扶风县乡土志》
と出てくるので、清朝末期の地方志っぽいな
京大とかの漢籍を集中して集めている大学の図書館あたりじゃないと
所蔵しとらんと思う
532無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 20:52:27
はあー…やっぱ一般人には閲覧不可能そうですね。
本文を読んでみたかったのだが、ぐぐっても出てこなかったもんで…

レスdですた。
533無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 21:13:21
>>532
NACSIS Webcat
http://webcat.nii.ac.jp/
で検索したら、陝西省扶風縣郷土志 / (清)譚紹裘撰 というのが出てきました。
所蔵機関のリストもでるよ。

http://kensaku.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/exec_cgi/nbibdet.cgi?CGILANG=japanese&U_CHARSET=utf-8&ID=BA37576888&DBNAME=BOOK
534無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 23:03:38
皇 南 礼 義 人 天 扶 雪
天 八 重 高 間 下 植 中
上 男 方 便 何 久 綱 松
帝 児 知 覚 独 無 常 柏
眼 終 死 生 伯 龔 在 愈
分 不 甚 堪 夷 勝 此 青
明 屈 軽 捨 清 潔 行 青
535無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 23:15:35
謝枋得っすね。
536無名武将@お腹せっぷく:2007/04/07(土) 12:12:36
>>520
其の二とあったんで、其の一は?と思ったが
まとめサイトを見ると曹丕の燕歌行其の一はすでにあったんだな
去年の九月の書き込みだから、まだ初代スレの頃の話題だな

ついでに僭越ながら誤字と?になっている部分を訂正させてもらうと
寄声浮雲往不歎→寄声浮雲往不還
飛?晨鳴声可憐→飛鶬晨鳴声可憐
537無名武将@お腹せっぷく:2007/04/07(土) 14:34:27
                               __ 
                             ,,ィ `   '``' 、
                           ,. _     ,ィ''         :ヽ
                        ,i,.:' i    .:'           .::`
                     /  !゙ _、/ _;;-=ェ;、        .::i!
                   , '′,/ ,r;;.,i  `tiゝ.::   ,,    .:::::i
                , '":` ,/  ,iY'i    '" .' ::/゙ '''ミ::,  .:::::|
               r′.:  ;'-ーヽi′,'.   i ',," ::/ 'kヮ、 ゜::::::::i
               i  ::. /  :'゙ヽィ    ゙ `ヾi   `'  .:::::::/ もはや自治新党転覆しかない
               |    ゙  ノ i  ''-=ミヽ.       .:/
               l      // 、  ヽミ`、ゞ   :::::::::ソ-
                j      i;;;|  ヽ_   ″   .::::::/ノタl゙
            ,,,,,,、ノ     .ノ;;;i   ヽ,,_ ,゙、::::::::::ノ.イ"
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      .,i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\  ノ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
538無名武将@お腹せっぷく:2007/04/08(日) 22:04:03
ほっしゅ
539無名武将@お腹せっぷく:2007/04/08(日) 22:27:46
>>533
遅れましたが重ねてdです
5401(ry:2007/04/09(月) 01:14:52
うお、年度がかわったらびみょうに忙しくなったorz
とりあえず保守しますー(`;ω;´)ゝ

>扶風県郷士史
馬岱スレででてた、馬岱のあざなが伯瞻とかいてあるという本でせうかー。いいなー。
北京の東岳廟に岱瞻門ってあるし、うはwwwww夢がひろがりんぐwwwwwwな説ですw
541無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 01:27:08
>>540
個人的にそっちを採用!と思うんだよなー<伯瞻
542無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 03:28:44
地方志だとそれ以前に作られた地方志を下敷きに増補を重ねていくという
編纂のされかたをすることが多いはずなので、
地方志を所蔵する図書館を利用できる人がいれば
それ以前に作られた扶風県や西安府の地方志を遡って
探して確認してみるのもいいかもね
543無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 10:25:53
馬岱スレ落ちたよ
544無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 21:57:34
世知辛いですなぁ…
545無名武将@お腹せっぷく:2007/04/11(水) 21:43:06
保守
546無名武将@お腹せっぷく:2007/04/12(木) 04:54:48
張勃 呉録地理志
浙江経富陽県前過、江中有沙漲。呉武烈帝為郡吏赴府、郷人餞之、会於沙上。
父老曰、「此沙狭而長、君其為長沙太守乎」
後果如父老之言、因於長沙起兵、為呉始祖、遂名此沙為孫洲。

浙江 富陽県を経て前み過ぎたるに、江中に沙漲有り。呉武烈帝 郡吏と為り
府に赴かんとし、郷人これを餞せんとして、沙上に会す。
父老曰く、「此の沙 狭くして長し、君 其れ長沙太守と為らんか」
後に果して父老の言の如し、因って長沙において起兵し、呉の始祖と為り、
遂に此の沙を名づけて孫洲と為す。

浙江が富陽県を通過して更に流れていくと、川の中に砂が水面よりも堆積している
場所がある。呉の武烈帝(孫堅)が郡の役人となって郡府に赴くことになり、
孫堅の同郷の人々が餞別を行おうと、この中洲に集まった折、父老が言うには
「この(中洲の)砂地は狭くて長い、君はおそらく長沙太守になるだろう」と。
その後、果たして父老の言うとおりになり、そこで(孫堅は)長沙で起兵し、
呉の始祖となり、それによってこの中洲を『孫洲』と呼ぶようになったのである。
547546:2007/04/12(木) 04:57:19
特にこれを投下した意図は無いけど
保守代わりの小ネタということで
548無名武将@お腹せっぷく:2007/04/12(木) 11:01:17
乙!この時期は忙しいねえ・・・
549546:2007/04/13(金) 04:16:58
文学とは全然関係ない保守ネタ
明一統志 巻六十二 荊州府 祠廟
魏武帝廟
在宜都県西南三十里清江南岸。昔有漁人、見朽木逆流、頗類人形、上有曹字、因立廟。

魏武帝廟
宜都県の西南三十里 清江の南岸に在り。昔 漁人有りて、朽木の逆流するを見るに、
頗る人形に類し、上に曹の字有り、因って廟を立つ。

宜都県(湖北省宜都市)の西南三十里、清江(長江の支流)の南岸に在る。
昔、ある漁師が腐った木が(清江を)逆流しているのを目にしたが、
あたかも人間のような形をしており、上に「曹」という文字があった。
そこで(魏武帝)廟を建てた。

こんな所に魏武帝廟とは何のゆかりが、と思ったら
建てられた理由バカスw
明代の地理書の話なので今もあるかどうかはシラネ
550無名武将@お腹せっぷく:2007/04/13(金) 23:23:47
武帝に限る意味もないよなw
文帝とか明帝じゃダメだったんだろうか。
やっぱネ申だからか?
551無名武将@お腹せっぷく:2007/04/14(土) 04:27:06
>>550
きっと木の高さがネ申と同じだっ(ry

関係ないけどTVで「喰いタン2」を目にすると何故か
グルメ皇帝を思い出してしまうので困る。
552無名武将@お腹せっぷく:2007/04/14(土) 10:11:48
なるほど
ちっさい木だったんだね(・∀・)w
553無名武将@お腹せっぷく:2007/04/14(土) 22:48:47
雑談・質問スレから誘導されてきました
曹丕が悪友から麻薬をもらってきたら、司馬懿にそれを捨てられた
という逸話があると聞いたのですが
ご存知の方はいらっしゃいませんか?
554無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 01:09:15
>>553
その逸話は初耳だ…俺も気になるな。
555無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 01:42:10
俺も聞いたことないな
麻薬を憎んでいた司馬懿…そりゃ何晏も殺されるわw
556無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 03:20:26
とりあえず、太平広記の人名索引で曹丕と司馬懿が登場するエピソードを
それぞれ検索してみたが
太平広記にはそういう話は収録されてないっぽい

見落としがあったらスマソ
557無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 06:28:15
一応age!

当時も麻薬ってご法度じゃなかったんだろうか?
その頃の麻薬ってどんなものだったんだろう
558無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 07:13:05
>>557
何晏ちゃんが堂々と流行らせていたから定着していたんじゃないかな。
それに曹丕に麻薬をあげた悪友も誰なのか気になる…
真っ先に呉質が浮かんだけど違うような気がする。
559無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 07:19:25
>>557
ちなみに当時の麻薬のことは文学スレのまとめサイトにあるよ。
ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/others/gishin_rojin.html
560無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 07:40:58
>>558
自分は夏侯楙が真っ先に浮かんだ。
………根拠はないけど。
561無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 08:20:42
小説か何かのネタな気がするんだけど
562無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 12:44:17
>>553
どこで知ったのか、もう少し細かい内容が分かればいいのだが…
563無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 13:53:51
数字板で出てた質問だね。
最初にその話した奴、同人の小説とか鵜呑みにしたんじゃないのかと思った。
564無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 16:35:36
そんな話をこっちに持ってこないで欲しいズラ
565無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 19:18:37
うーん…結局、逸話でなく作り話だったということなのか?
566無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 19:55:15
だと思うよ。
てかどこかの同人小説で見た気がするわけで・・
567無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 20:05:35
曹否は現実主義者なんでそんなモン興味も示さないし
仲達に取り上げらせるという行動をとるはずもなし
568無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 20:10:36
174 名前: 風と木の名無しさん [sage] 投稿日: 2007/04/10(火) 23:44:03 ID:NvGV3xSR0
>>172
悪友から麻薬を勧められて持って帰ってきたら速攻で司馬懿に捨てられた逸話をどこかで見た


元はこれだな・・・・・
この174の勘違いだったのか、それとも捏造なのか。


勘違いor捏造といや、wikiの張春華の項目、
自殺未遂のきっかけになった司馬懿の暴言
(「老太婆面目可憎,怎麼還勞駕?出來?!」)の意味が、従来に聞いてた内容とかなり違ってたな。
なんなんだ「召使を殺した女が云々」って。

訂正されたみたいだが、ああいうのはホント勘弁してほしい。
569無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 20:25:07
wikiの三国関連の記事はとんでもネタが多いな
演義と正史ごっちゃになってたり個人サイトの考察をぱくったり
しかもそれを信じてる人がいてビビる
570無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 20:39:22
数字板の話持ってくるのはやめてくれ
虫唾が走る
571無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 20:41:16
>>568
なにそれどこのスレ?
572無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 21:02:14
何で数学板で曹丕の話が出るんよw
573無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 21:07:49
腐女子に曹丕好きが多いからだろ
574無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 21:08:32
>>572
数学じゃなくて数字だよ
575無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 22:13:28
見たことの無い曹丕のエピソードにwktkしたのに作り話だったのか…ガッカリ
576無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 22:48:16
俺も数学だと思ってたw

文学はご覧の通り大変盛んだったが
この時代の中国に所謂数学者ってのはいたのだろうか。
577無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 23:15:07
ttp://www23.tok2.com/home/rainy/sangokushi-zatsugaku-q&a2.htm
こんなのとか。
天体の運行を計算するのに数学が発展してたんだろうな。
578無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 23:50:47
>>577
そういや、当時の中国では天文観測で毎年のカレンダーを作っていたらしいな。
579無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 00:03:13
星を見るのって指揮官としては嗜み程度のことだよな
曹洪はかなり算術得意そうw
580無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 05:32:36
>>579
単位に「銭」とか「金」とかがつかないと計算能力が発揮されない予感
581無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 06:40:38
>>580
確かにwwww
曹洪は金が絡むと発揮するタイプだなw
582無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 16:16:54
前スレで『詩品』(鐘エ)の曹丕評があったので他の人のも。
ちなみに、曹植は上品、曹丕は中品、曹操は下品に分類してある。

●魏陳思王植(上品)
其源出於国風。
骨気奇高、詞采華茂、情兼雅怨、体被文質、粲溢今古、卓爾不群。
嗟乎、陳思之於文章也、譬人倫之有周、孔、鱗羽之有龍鳳、音楽之有琴笙、女工之有黼黻。
俾爾懷鉛吮墨者、抱篇章而景慕、映余暉以自燭。故孔氏之門如用詩、則公幹升堂、思王入室、景陽、潘、陸、自可坐於廊廡之間矣。

●魏武帝魏明帝(下品)
曹公古直、甚有悲涼之句。叡不如丕、亦称三祖。
583無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 16:18:06
『詩品』続き。建安七子編+α。

●魏文学劉驕i上品)
其源出於古詩。
仗気愛奇、動多振絶。真骨凌霜、高風跨俗。但気過其文、雕潤恨少。
然自陳思已下、髀フ独歩。

●魏侍中王粲(上品)
其源出於李陵。
発愀愴之詞、文秀而質羸。在曹、劉間、別構一体。方陳思不足、比魏文有余。

●魏白馬王彪魏文学徐幹(下品)
白馬与陳思答贈、偉長与公幹往復、雖曰「以莛叩鐘」、亦能閑雅矣。

※白馬王彪=曹彪(曹丕・曹植の異母弟)

他に何晏や二陸なんかも載ってるけどとりあえず。
584無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 16:44:50
確かに曹操は下品だな 別の意味でw
585無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 20:38:17
曹丕と弟たちだけでサッカーの試合ができるもんな…。
586無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 20:47:24
下品じゃないよ上品な小さいおじさんだよ
587無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 21:09:44
>>585
想像して吹いたww合計25人だしなw
588無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 21:16:30
『詩品』だと、下品は「かひん」て読むのかな。やっぱり「げひん」なんかな。仏教だと「げぼん」と読むけど。
589無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 21:58:08
ぎゃぼー と読みます
590無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 23:04:51
>>589
むきゃーっ ほんとですかー。
591無名武将@お腹せっぷく:2007/04/17(火) 02:18:38
いまいち自分には詩の評価とか格調とか難しいことはわからんが、
詩品の評価を総合すると

曹植>(王粲?)>劉驕п陸機>(上品と中品の壁)>曹丕>(中品と下品の壁)>
曹操・曹叡・曹彪・徐幹

こんな感じか
意外に劉驍ェ高評価なんだな
592無名武将@お腹せっぷく:2007/04/17(火) 06:18:47
>>585
余った曹昴は審判ですか。

>>591
やっぱり曹植が一位なのね。
593無名武将@お腹せっぷく:2007/04/17(火) 18:58:11
唐の時代に陸遜の子孫で、詩人の「陸チョウ」という人物がいるらしいですが
誰かご存知の方いらしたら詳細教えてくださいませんか?
594無名武将@お腹せっぷく:2007/04/18(水) 05:44:43
スレとは直接関係ないんだけど
今2ちゃんで流行ってるTシャツメーカー
ttp://maker.usoko.net/t/

試しに文学スレおなじみの曹操、曹丕、曹植、何晏、ニ陸を入れてみたんだけどかなりウケたw
郭嘉、魯粛、荀ケやらの主だった連中も入れてみたんだが絶妙なシャツができたよwww
595無名武将@お腹せっぷく:2007/04/18(水) 06:07:19
>>594
曹操のガリバートンネルひでぇwww
596無名武将@お腹せっぷく:2007/04/19(木) 02:14:12
ガリバートンネルwww
魯粛の悪玉菌とか徐庶の不倫相手との思い出
極めつけは曹丕のI am GAY、しかもエンジェルw
597無名武将@お腹せっぷく:2007/04/19(木) 03:52:47
>>594
曹丕のただならぬ想いってのが気になるぅぅぅwww
何気に曹彰や曹叡もスゴイことになっているww
598まとめサイト ◆XoQX5vgfQU :2007/04/19(木) 17:00:21
599無名武将@お腹せっぷく:2007/04/19(木) 18:09:29
>>598
いつもご苦労様です。
最近うpされた燕歌行 其二が曹丕の詩だと今知りました…orz
600無名武将@お腹せっぷく:2007/04/20(金) 11:47:01
詩聖:曹植⇒杜甫
書聖:鍾繇⇒王義之

文化的にも政治的にも見るべき点の無い時代と言われる割に、
後代の発展の雛型は漢末魏初に存在したように思う。
601無名武将@お腹せっぷく:2007/04/22(日) 00:48:07
>>594
今更ながらワロスwwww
602無名武将@お腹せっぷく:2007/04/22(日) 01:47:00
異苑巻三
晋中朝武庫内、封閉甚密、忽有雉雊。時人咸謂為怪。
張司空云、「此必蛇之所化耳」
即使捜庫中、雉側果得蛇蛻。

晋の中朝の武庫内、封閉すること甚だ密なり、忽ち雉の雊(な)く有り。
時人咸(みな)謂いて怪と為す。
張司空云わく、「此必ず蛇の化する所なるのみ」
即(ただ)ちに庫中を捜さしむるに、雉の側に果して蛇の蛻(ぬけがら)を得たり。

晋の朝廷内の武器庫は、非常に厳格に閉ざされていたのだが、
にわかに雉の鳴き声がして、当時の人々は皆、怪異だと思った。
(博学で有名な)司空の張華が言うには、「これは必ず蛇が変わった物に違いない」
すぐさま武器庫の中を捜索させると、雉の側には果たして蛇の抜け殻があった。
603無名武将@お腹せっぷく:2007/04/22(日) 01:48:32
この話を読んで真っ先に思い浮かんだのが
>>121の猿の話
監徒というのがよくわからんが(もしかしたら監獄のようなもの?)
建始殿というからには洛陽の宮中の話だろうと思う

>>518のように二足歩行の猿のどこが怪物?よいう意見もあるが
それなりに厳重な警備が敷かれているはずの首都洛陽の宮中の建始殿や武器庫等を
自由に闊歩する猿(一匹か複数かわからんが)がいたら
「怪物」と呼んでも不思議じゃないんじゃね、とオモタ
むしろ晋の首都の警備が(ry
604無名武将@お腹せっぷく:2007/04/22(日) 14:28:29
(((( ;゚Д゚)))


どうでもいいが張華が一瞬でも張春華に見えたorz
605無名武将@お腹せっぷく:2007/04/23(月) 21:55:14
猿ってのは野性では4足歩行で、よく訓練しないと立って歩かないらしいね。
洛陽じゃ猿の見世物でもあったのか、何で宮中(しかも諸房中にってw)にいたんだとか、
色々とツッコミが入る話だなwww
606無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 02:33:23
武器庫絡みでもう一つ

異苑巻二
晋恵帝元康五年、武庫火、焼漢高祖斬白蛇剣・孔子履・王莽頭等三物。
中書監張茂先懼難作、列兵陳衛、咸見此剣穿屋飛去、莫知所向。

晋 恵帝の元康五年、武庫火(や)き、漢の高祖の白蛇を斬りし剣・
孔子の履(くつ)・王莽頭の等の三物を焼く。
中書監張茂先 難の作(おこ)るを懼れ、兵を列ねて陳衛したるに、
咸(みな)此の剣の屋を穿ちて飛去するを見、向う所を知る莫し。

晋の恵帝の元康五年(295年)に、武器庫が火事になり、
漢の高祖が白蛇を斬った剣・孔子の履いた靴・王莽の首等の三つの財宝を焼失した。
中書監の張茂先(張華)は、(この機に乗じて)反乱が起こるのを懼れて、
軍隊を展開して陣を敷いて警備にあたったが、みな漢の高祖の剣が屋根を貫通して
いずことも無く飛び去っていったのを目撃した。
607無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 02:34:37
武器庫の火災でこの3つの財宝が失われたことは、晋書の五行志にも見える。
晋書自体、志怪小説のような怪しげな記事を載せることもあるので
史実かどうかは確定しがたいが、恵帝紀にも元康五年(閏)十月に武器庫の火災が有り
12月に武器庫を新たに作ったとの記事があるので、武器庫の火災自体は
史実と見てよさそう。

もし3つの財宝も史実なら、歴代の魏の皇帝は王莽の首と対面したことがあるに
違いないなwww
陸機が猿と出会った武器庫は焼失前と再建後と、どっちの可能性も有りそう

なんにせよ晋の都の武器庫は、蛇が雉になったり、猿が出没したり、剣が飛び去ったり
王莽の首があったり、いろいろといわくつきの場所だなw
608無名武将@お腹せっぷく:2007/04/25(水) 12:48:48
火災かぁ…



この時代って白兵戦しかやりようないんだっけ
609無名武将@お腹せっぷく:2007/04/25(水) 17:22:56
王莽頭ってなんだよw ちょん切った首をミイラみたいに干したんかな。
どっかの原住民に、干し首ってのがあったような記憶があるが。
610無名武将@お腹せっぷく:2007/04/25(水) 19:45:07
確か王莽のしゃれこうべが残ってたんだっけ?
611無名武将@お腹せっぷく:2007/04/27(金) 02:12:08
とりあえず保守
612無名武将@お腹せっぷく:2007/04/27(金) 11:11:56
なんかホラーな話に
((((゜д゜;))))
613無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 06:57:24
王莽の首って財宝だったんだ……
614無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 20:23:26
>>536
大変遅ればせながらご指摘ありがとうございます
>>599
作者名入れ忘れです…orz 粗忽者なもので申し訳なく


 <呉趨行>   陸士衡

楚妃且勿歎 齊娥且莫謳  楚妃且(しばら)く嘆ずる勿れ 齊娥且く謳(うた)ふ莫れ
四座竝清聽 聽我歌呉趨  四座よ竝びに清聽し 我が呉趨を歌ふを聽け
呉趨自有始 請従昌門起  呉趨自ら始め有れば 請ふ昌門従り起(はじ)めん
昌門何蛾蛾 飛閣跨通波  昌門何ぞ蛾蛾たる 飛閣通波を跨(わた)る
重欒游承極 回軒啓曲阿  重欒(ちょうらん)游(うか)べる極(はり)を承(う)け 回軒曲がれる阿(のきば)に啓(ひら)く
藹藹慶雲被 冷冷祥風過  藹藹(あいあい)として慶雲は被(おほ)ひ 冷冷として祥風は過ぐ
山澤多蔵育 土風清且嘉  山澤には蔵育多く 土風清らかにして且つ嘉し
泰伯導仁風 仲雍揚其波  泰伯は仁風を導き 仲雍其の波を揚ぐ
穆穆延陵子 灼灼光諸華  穆穆たり延陵子 灼灼として諸華に光(かがや)く
王迹?陽九 帝功興四遐  王迹は陽九に?(やぶ)れ 帝功は四遐(しか)に興る
大皇自富春 矯手頓世羅  大皇富春自(よ)りし 手を矯(あ)げて世羅を頓(ととの)ふ
邦彦應運興 粲若春林葩  邦彦運に應じて興り 粲として春林の葩(はな)の若し
屬城咸有士 呉邑最爲多  屬城には咸(みな)士有るも 呉邑最も多しと爲す
八族未足侈 四姓實名家  八族未だ侈(おご)るに足らず 四姓實に名家たり
文徳熙淳懿 武功r山河  文徳は淳懿を熙(ひろ)め 武功は山河にr(ひと)し
禮讓何濟濟 流化自滂沱  禮讓何ぞ濟濟(せいせい)たる 流化自ら滂沱たり
淑美難窮紀 商?爲此歌  淑美紀(しる)すに窮(つく)し難く 商?(しょうかく)して此の歌を爲(つく)る

※昌→門+昌  冷→?+令
615無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 20:58:09
修正しました…orz orz

<呉趨行>   陸士衡

楚妃且勿歎 齊娥且莫謳  楚妃且(しばら)く嘆ずる勿れ 齊娥且く謳(うた)ふ莫れ
四座竝清聽 聽我歌呉趨  四座よ竝びに清聽し 我が呉趨を歌ふを聽け
呉趨自有始 請従閶門起  呉趨自ら始め有れば 請ふ閶門従り起(はじ)めん
閶門何蛾蛾 飛閣跨通波  閶門何ぞ蛾蛾たる 飛閣通波を跨(わた)る
重欒游承極 回軒啓曲阿  重欒(ちょうらん)游(うか)べる極(はり)を承(う)け 回軒曲がれる阿(のきば)に啓(ひら)く
藹藹慶雲被 泠泠祥風過  藹藹(あいあい)として慶雲は被(おほ)ひ 泠泠として祥風は過ぐ
山澤多蔵育 土風清且嘉  山澤には蔵育多く 土風清らかにして且つ嘉し
泰伯導仁風 仲雍揚其波  泰伯は仁風を導き 仲雍其の波を揚ぐ
穆穆延陵子 灼灼光諸華  穆穆たり延陵子 灼灼として諸華に光(かがや)く
王迹隤陽九 帝功興四遐  王迹は陽九に隤(やぶ)れ 帝功は四遐(しか)に興る
大皇自富春 矯手頓世羅  大皇富春自(よ)りし 手を矯(あ)げて世羅を頓(ととの)ふ
邦彦應運興 粲若春林葩  邦彦運に應じて興り 粲として春林の葩(はな)の若し
屬城咸有士 呉邑最爲多  屬城には咸(みな)士有るも 呉邑最も多しと爲す
八族未足侈 四姓實名家  八族未だ侈(おご)るに足らず 四姓實に名家たり
文徳熙淳懿 武功r山河  文徳は淳懿を熙(ひろ)め 武功は山河にr(ひと)し
禮讓何濟濟 流化自滂沱  禮讓何ぞ濟濟(せいせい)たる 流化自ら滂沱たり
淑美難窮紀 商搉爲此歌  淑美紀(しる)すに窮(つく)し難く 商搉(しょうかく)して此の歌を爲(つく)る
616無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 21:19:44
乙です
訳きぼん
617無名武将@お腹せっぷく:2007/04/29(日) 14:42:13
<呉趨行> 書き下しっぽいもの
  
楚の樊妃を讃えた<楚妃歎>はしばらく歌わないでほしい
齊の后を吟ずる<齊娥謳>はしばらく歌わないでほしい  
みなさんどうかしっかりと我が歌う<呉趨行>をお聴き下さい  
呉趨には最初に歌うべきものがある まずは閶門から始めよう  
呉王闔閭の建てた門は何と高くそびえ立っているのだろう
高殿は海に通う波の上を渡っているかのようだ
柱の上の曲木は浮かぶ梁を支え 長窓は家屋の角に開いている  
雲はめでたくたなびき天を被い 風もめでたく涼しげに吹きぬけていく
山や澤には芽生え育って行くものが多く
土地の風習は清らかで善いものである
泰伯は仁徳の風化を導き 仲雍はその志を受け継いだ  
威儀多い延陵の季札は 国中にその名を光り輝かせた
漢が陽九の厄災に潰えると 帝王の大業は四方に興る    
賢士は時運に応じて立ち上がった 春の林に粲然と輝く花のように  
縣城にはみな有士がいたが 呉邑が最も多いと思う  
八族未だ奢るに足らず 四姓は実に名家である  
文徳は広く行き渡り 武功は山河の如く永遠である  
礼儀によって遜ることが盛んになり
水が溢れ流れるように徳が行き渡る
呉の優れているところを全て言い尽くすのは至難の業なので
大略を計りこの歌を作った次第である
618無名武将@お腹せっぷく:2007/04/29(日) 16:23:02
三国志で過大過小評価されている武将 七人目
http://game11.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1175223650/
619無名武将@お腹せっぷく:2007/05/01(火) 09:34:54
むぅ…
620無名武将@お腹せっぷく:2007/05/01(火) 21:14:41
ttp://hk.chiculture.net/php/frame.php?id=/cnsweb/html/0405
後漢から魏にかけての文学に関するサイト(中国語)
621無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 03:54:41
この手のスレはなるべく残っていて欲しいけど
話題のない時はとことんない場合もなきにしもあらず
やっぱり落ち条件の緩い方がいいよな……
622無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 06:29:41
きっと皆、連休で遊んでいるんだよ…たぶん。
623無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 00:43:54
そうか、連休だから




文化史跡を巡ったり
美味しい物を食べたり
バカンスで出かけた先でアヤシイクスリを掴まされたり
してるんだな
624無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 16:39:27
中国の偽ネズミーランドに行ってる奴はおらんか
625無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 00:46:36
西安時代村みたいのできたら面白いんだけどね。
時代村で君も関羽と握手!みたいな。
殷周革命ゾーン、春秋戦国ゾーン、楚漢戦争ゾーン、三国志ゾーン…みたいな感じで
各ゾーンも三国志だったら赤壁ライドから始まりシ水関とか官渡とかだんだん増設され
ていくとか。
やらんかなあ、やらんだろうなあ…。
626無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 01:07:18
三国志城に作ってもらえよ

つか今日のローカルニュースで三国志城のコスプレ大会のこと流しててワロタw
627無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 23:41:09
楽しそうだなぁ
628無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 00:54:21
>>625
是非とも行ってみたいw
普段は頭の中で想像するしかない時代背景を肉眼で見て見たいものだ。
629無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 02:46:06
それは三国志城より燕趙園の方がたぶん実現に近いな…。
630無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 13:17:31
↓これ書いたのここの住人だなw

60 :無名武将@お腹せっぷく :2007/05/05(土) 00:17:22
去年、仕事で許都に行った時、宮殿で紹介されたボスが甘党だった。
彼は何でもうんざりするくらい詔勅を出すのよ、とか。
だから、田舎から持ってきた果物をプレゼントした。  
子桓(実名)、田舎の果物だ。あげるよ。  
うまそうな匂いだな。ありがとう。←皮を剥く。シャクッ  梨だな。シャクッ モグモグ ふーん。
それで、聞きたいことがあるんだが、この蜀錦の衣服素材の、

ふ  ふ、  フォ━━(━(━(-( ( (゚ロ゚;) ) )-)━)━) ━━ !!!!!
えー何コレ?マジうまくね?いやすげーわ!!シャクッシャクッシャクッ
どこで採れるの?真定?イエローリバーマーケット?
ない?知らない?シャクッシャクッシャクッ  うっわーいいわこれ!シャクッシャクッシャクッ
おおぉぉ!甘い!甘い!シャクッシャクッシャクッ
あーダメ!あーダメ!父上!信じられない!シャクッシャクッシャクッ  
(ここらへんで宮殿の人間が異常を察して集まってくる)
不可!不可!絶対あげないよ(誰もくれと言ってない)シャクッシャクッシャクッ…アハァーーー!  
すばらしい。君の部屋にある梨を全部売ってくれないか?
それは真定から持ってきたんだから、もうないよ。

( ゜д゜ ) ←本当にこんな顔した
田舎に帰ってからも早馬で梨頼まれた。箱単位で。
631無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 14:14:42
真定梨ボスこと子桓(実名)に箱詰めでブツを送った。許都の役所に申請出すのめんどくさかった。
彼から感謝の書簡が来たのでかいつまんで訳す。

 君から真定梨を送ったという知らせを受け取ってから、
 私は宮殿の玄関に座り、道ゆく人々を眺めながら、
 毎日、まるで少年のように早馬が来るのを待った。
 (寒すぎたので翌日から部屋の中へ移動したけど。)
 やがてついに運命の日、一人の男が大きな荷物を抱えてやってきた。
 私は聖餐を受け取るにふさわしい態度で、彼を丁寧に迎えて、握手をし、
 暖めた酒の杯をサービスした。
 そして「ありがとう!良い一日を!」と挨拶を交わして別れた。
 私は記念すべき瞬間に備えて葡萄酒を用意した。
 準備を整えて、わくわくしながら、うやうやしく箱を開けてみれば、
 それは妻が注文した蜀錦生地のセットだった。
 両腕を振り回して窓から飛び降りないようにするのに大変な努力を要した。
 君の荷物はその次の日に届いた。

許都にも神木と言われる梨の木があると聞いたよ。という質問に対して:

 そう、その梨の木は知ってるよ。だがあれを食べるくらいならサトウキビでもかじっていた方が経済的だ。

許都でも冀州系商店で真定梨を売ってるらしい、という情報について:

 すばらしい知らせをありがとう!
 もううるさい役人が君の手を煩わせることのないようにしたい。
 しかし、私が探索行に出かけるには、
 妻から馬車を使う許しが下りるかどうかが問題だ。
 何しろ、今から、彼女が寝所に来たら夫が榻で錦にくるまって
 飲んだくれて眠っていた件について説明しなければならないので。

何やってんだよアンタ…(汗)
632無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 14:28:24
> 両腕を振り回して窓から飛び降りないようにするのに大変な努力を要した。


バロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
633無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 17:40:14
>>630->>631
ワロタwwwwww殆どこのスレで出てた話題じゃないかwwww
曹丕のことを語っているの誰なんだろう…w
634無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 17:59:43
まさにアメリカンブログおやじ
6351(ry:2007/05/07(月) 13:52:28
>>630-631
テラバロスwwwwwwww

蘇軾先生が周瑜ファンが嵩じて赤壁の周瑜の洞窟というのに探検に行ったと東坡志林にでているんですが、
先月、それが工事で半分埋まってしまったらしいとその近所に住んでいる友人から連絡がorz
636無名武将@お腹せっぷく:2007/05/07(月) 22:09:36
おい中国人!
史跡をもうちょっと大事にしてやってくれよう…
637無名武将@お腹せっぷく:2007/05/08(火) 02:06:24
>>630は俺だ。パクリすまんかった
だが反省はしていない
638無名武将@お腹せっぷく:2007/05/08(火) 02:18:06
>>637
いやいや、GJだよww
どのスレにカキコしたのか気になるがw
639無名武将@お腹せっぷく:2007/05/08(火) 22:16:35
>>638

http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1171986166/l50

漢王朝末期の様相を呈しているよ
640無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 01:14:58
>>637
GJ。あれ絶対このスレの住人だと思ってたけど。

雑談ついでに、先日流行のお取り寄せってやつで手搾りの葡萄100%のジュースと
(味が濃いのに甘すぎなくてサッパリしてる)
トルファン産の干し葡萄(マスカット色なのだ)を使ったレーズンサンドを食べた。
ちょっと高いけどものすごく美味かった。プチプチ皇帝気分。

鍾会と荀勗に葡萄賦があるから王朝末期には葡萄はたわわに実ってたのかね。
641無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 02:05:13
うまいものを入手すると、「曹丕に食わしてやりてーwwww」と思ってしまうな
今なら初鰹
642無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 05:35:49
>>641
分かる分かるwww
現在、流行っているフルーツを食わせたらどんな反応をするのか知りたいw


曹丕といえば、最近買った中国歴史関係の本の中にある当時の調理方法を
紹介する本文の中に「三世長者にして被服を知り、五世長者にして飲食を知る」
という詔勅を残していることが書かれていたけど訳文のみだったので
百文を知りたいけどうp出来る人がいたらお願いします…
643無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 09:48:38
>>642
その詔勅はもしかすると、
『通俗編』に載っているものでしょうか。
「魏武令曰、三世長者知被服。五世長者知飲食。實此語所由來。」
(『通俗編』巻之二十七 飲食)
白文は多分これで合っているかと。
毎日のように覗かせて貰ってますが、書き込みは初めてです。
住人の皆様、いつも乙であります。
644無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 17:31:38
漢魏六朝百三家集にもあったよ〜ん。書というわりには短いけど、百三家集ではこれで全文だた。

與羣臣論被服書
三世長者知被服五世長者知飲食此言被服飲食難曉也夫珍玩必中國夏則?總??其白如雪冬則羅綺?衣疊鮮文未聞衣布服葛也

何となく訓読
羣臣と被服を論ずる書
三世の長者は被服を知り、五世の長者は飲食を知る。此れ被服飲食の曉(さと)り難きを言うなり。
夫れ珍玩必中國。夏は則ち?總??。其の白きこと雪の如し。
冬は則ち羅綺?衣。鮮文を疊(かさ)ぬ。未だ布を衣(き)葛を服すを聞かざるなり。

何となく訳
三世の長者は被服を知っており、五世の長者は飲食を知っている(と言う)。
此れは、被服飲食に通暁することの難しさを行っているのだ。夫れ珍玩必中國。(わかりません)
夏には?總??(色々な絹布)を用いる。その白さは雪のようである。冬には羅綺?衣を用いる。
鮮やかな模様を重ねる。布葛のような粗末な生地を着用するとは聞いたことがない。

博雅の君臣の批正をマツ
645無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 17:33:22
>>644
×博雅の君臣
○博雅の君子
スンマセンw
646無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 17:41:07
連投すいません。白文の文字化け修正、 ()内が一字です。

與羣臣論被服書
三世長者知被服五世長者知飲食此言被服飲食難曉也夫珍玩必中國夏則(糸兼)總(糸肖)(糸惠)其白如雪冬則羅綺(穀の禾の部分が系)衣疊鮮文未聞衣布服葛也
647642:2007/05/10(木) 00:35:22
>>643-644
おおー、dです!
調理方法の紹介ページに書かれていたので食べ物絡みとは曹丕らしいなーwと思っていたのですが
当時の衣服についても分かりやすく語っていますね。
最後の「粗末な生地を着用するとは聞いたことがない。」というのが
ブランド品しか腕を通さない曹丕ならばでの詔勅になってますね。
648無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 00:40:18
こんにちは。
荀ケを語るスレの者です。
スレ内で曹操の詩の話題が出まして、
こちらの住人の方々ならご存じかと考えて伺いました。


> 仕合せの少なかったわが過去よ
> 生まれてこのかた、微線で頼るものもなく
> 優しい母のいつくしみも、厳しい父の教えもなかった

> 孤立無援、どん底のわが脳裡に、消えては浮かぶ父の姿
> 一郡の太守になりたいというちっぽけな望みすら、いつかなえられる ことか

> 貧窮と困難にあまんじつつも、いやせぬ傷心は涙の雨となる
> 泣き叫び、悲嘆すれば、活路が見出せるとでも言うのか
> 天よ、父が死んだ瑯邪の山を打ち崩せ


善哉行 という詩の前半部分らしいのですが、
実際にこのような詩はあるのでしょうか。
もしご存じでしたらお教えいただけますと幸いです。
649無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 00:59:48
>>648
善哉行、というと三首ありますが
前半部分とのことなので、これかな? と思います。

善哉行 其二

自惜身薄祜 夙贱罹孤苦
既无三徙教 不闻过庭语
其穷如抽裂 自以思所怙
虽怀一介志 是时其能与
守穷者贫贱 惋叹泪如雨
泣涕于悲夫 乞活安能睹
我愿于天穷 琅邪倾侧左
虽欲竭忠诚 欣公归其楚

快人由为叹 抱情不得叙
显行天教人 谁知莫不绪

我愿何时随 此叹亦难处
今我将何照于光曜 释衔不如雨

いかんせん訳が出来ないので、
合っているのかどうかがよく解りません。
詳しい方お願いします…
650無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 01:07:27
連続投稿すみません。
レイアウトが妙でした……訂正を。

善哉行 其二

自惜身薄祜 夙贱罹孤苦
既无三徙教 不闻过庭语
其穷如抽裂 自以思所怙
虽怀一介志 是时其能与
守穷者贫贱 惋叹泪如雨
泣涕于悲夫 乞活安能睹
我愿于天穷 琅邪倾侧左
虽欲竭忠诚 欣公归其楚
快人由为叹 抱情不得叙
显行天教人 谁知莫不绪
我愿何时随 此叹亦难处
今我将何照于光曜 释衔不如雨


ちなみにこの『善哉行』、
同じ題で曹丕も詩を詠んでいたような…
また後で探してみます。
651無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 11:32:25
横から失礼。文字化けしてるので、リンク貼ります。
http://www.epochtimes.com/b5/1/10/14/c6624.htm
三徙教というのは孟母三遷で、過庭語というのは孔子が庭に立っているとき
息子の伯魚が通りかかって、詩と礼を学べといった論語の話を踏まえてます。
だから、「優しい母のいつくしみも、厳しい父の教えもなかった」と訳したんでしょうね。
652無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 20:34:24
ということはこれは曹操の実体験ではなくて、
架空のことなのかな?
653無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 21:41:51
貧窮と困難…ってトコとか、曹操個人の体験としてはピンとこないしな。
でも曹操軍閥のことであればばっちりハマる。

ある程度実体験を下敷きにしつつ詩的に誇張してる感じではないかと思う。

本当に親の愛情を受けて育たなかったというより、愛情を与えてくれる両親を失った
絶望感とか寂しさとか、孝行をしたいときには親はなしみたいな感覚とかの誇張とか。
654無名武将@お腹せっぷく:2007/05/12(土) 03:34:00
保守あげ
655無名武将@お腹せっぷく:2007/05/14(月) 14:55:42
いろいろ興味深いな
656無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 01:05:31
外出先だけど保守
657無名武将@お腹せっぷく:2007/05/18(金) 15:32:51
最近は落ちる判定が甘くなったのかな
一応ほっしゅ
658無名武将@お腹せっぷく:2007/05/18(金) 22:05:09
人形劇三国志見てたら、曹丕の服の柄に葡萄があって笑ったw
659無名武将@お腹せっぷく:2007/05/18(金) 22:33:47
やっぱりあれ、葡萄かね?
だとしたら芸が細かいなー
660無名武将@お腹せっぷく:2007/05/19(土) 08:32:06
>>658
製作者の川本喜八郎氏が曹丕の手紙を見ていたぐらいだから
それぞれの人物の特徴を調べて葡萄好きと知ったのかな。
是非見たい……というか当時の服の柄に葡萄柄ってあったのかなw
661無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 02:37:11
保守!
662無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 17:27:53
葡萄柄…あったんじゃないかなぁ??
『葡萄』=蔓を伸ばして繁茂し、房に多くの実と種をつけることから
【子孫繁栄】【多子】を象徴する吉祥…とされてたみたいだから
縁起いいし!ρ(>∀<)

663無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 20:13:22
へえ〜葡萄にはそういう意味があったのか
664無名武将@お腹せっぷく:2007/05/21(月) 23:27:04
人形劇のは、葡萄柄ってほどでもない。全体的に見れば花柄(牡丹系?)で、
肩のところに葡萄が一房あるっぽい、だったと思う
もう死んじゃったから確かめられんけど

写真集には出てるんかな?
665無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 02:26:06
保守がてらに小ネタ。
「初志貫徹」の初志の語は曹植の文章が出典。 
666無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 08:20:21
そうなの!?
好きなイディオムだけになんかうれすぃwww
667無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 08:36:59
芸文類聚の巻五十四に原文があったよ。

又黄初六年令曰.身輕於鴻毛.而謗重於泰山.ョ蒙帝主天地之仁.違百寮之典議.赦三千之首戻.反我舊居.襲我初服.
雲雨之施.焉有量哉.孤以何功.而納斯?.富而不吝.寵至不驕者.則周公其人也.
孤小人爾.深更以榮為戚.何者.將恐簡易之尤.出於細微.脱爾之愆.一朝復露也.
故欲修吾往業.守吾【初志】.欲使皇帝恩在摩天.使孤心常存入地.將以全陛下厚コ.究孤犬馬之年.此難能也.
然固欲行?之難.詩曰.コ?如毛.鮮克舉之.此之謂.
668無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 18:46:05
>>665
初志貫徹をググったらこんなのが出たw
ttp://www3.airnet.ne.jp/maniac/neko/diary/2005/0605.html
669無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 22:12:28
>>668
wwwたまらんにゃwww( ´∀`)
670無名武将@お腹せっぷく:2007/05/24(木) 00:28:48
>>624
物凄く小さな遊園地だよ。場所もかなりあれだし、
今度のマスコミの宣伝がなければ地元の人さえ行かないところ。
まあ、だから禁じ手を使ったか。
671無名武将@お腹せっぷく:2007/05/24(木) 08:26:29
>>667
原文Thxです!!(・∀・)**
お心づかいに感謝・感激・雨・霰゚・*:.。.!!
672無名武将@お腹せっぷく:2007/05/25(金) 01:21:33
李白の「蜀道難」既出でなければどなたかお願いできますまいか
自分うpしようと思ったけど力尽きました…

673無名武将@お腹せっぷく:2007/05/26(土) 10:56:11
李白 蜀道難《唐詩参百首七十九》

噫吁戲、危乎高哉!
蜀道之難難於上青天、
蠶叢及魚鳧、開國何茫然!
爾來四萬八千歳、不與秦塞通人煙。
西當太白有鳥道、可以絶峨嵋嶺。
地崩山摧壯士死、然後天梯石棧方鉤連。
上有六龍回日之高標、下有衝波逆折之迴川。
黄鶴之飛尚不得過、猿猱欲度愁攀援。
青泥何盤盤、百歩九折縈巖巒。
捫參歴井仰脅息、以手撫膺坐長歎。
問君西遊何時還?、畏途巉巖不可攀。
但見悲鳥號古木、雄飛雌從繞林間。
又聞子規啼、夜月愁空山。
蜀道之難難於上青天、使人聽此凋朱顏。
連峰去天不盈尺、枯松倒掛倚絶壁。
飛湍瀑流爭喧豗、(石+氷)崖轉石萬壑雷。
其險也如此!
嗟爾遠道之人、胡為呼來哉?。
劍閣崢(山+榮)而崔嵬、
一夫當關、萬夫莫開。
所守或匪親、化為狼與豺。
朝避猛虎、夕避長蛇、
磨牙吮血、殺人如麻。
錦城雖云樂、不如早還家。
蜀道之難難於上青天、側身西望長咨嗟!

>>乙!!訳は誰か詳しいお方!まかせたぞo(*・∀・)つ☆
674無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 20:29:24
流れぶっ滾りで失礼しますお。

関公、千里馬を飛ばし、家来の周倉、刀を握って千里を飛ばす。
関公は不憫に思って千里馬を与えようとしたが、見つからない。
日に九百里進む馬を高く買い求め、これを周倉に与えた。

お供の周倉、日に百里、二日で二百里遅れてしまった。
公を見失っては大変、しかし授かった馬を捨てるにも忍びない。
そこで周倉は馬の四つ足を括り、刀の柄に引っ掛け肩に担ぎ、
飛ぶように走って行った。
                (平凡社 歴代笑話選より『笑府』の一部)
675無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 20:43:17
>>674
面白い。落語のネタになりそう。
676無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 20:47:04
しかし周倉は足裏から毛を抜かれると
関羽に追いつけなくなってしまう
677無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 20:58:41
前スレで出てきた張飛(と楊貴妃)の話と同じ出典。
笑府は明代に書かれたもので、演義の流行ぶりが窺えます。
関羽まわりの逸話は探したらもっと見つかるのかもw
678無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 23:56:27
すいません
中国の方で「曹操」という曲を歌っている方がいるのですが、
自分では和文にできませんでした。
知恵をお貸しください。


曹操
作詞:林秋離 作曲:林俊傑

不是英雄 不讀三國
若是英雄 怎麼能不懂寂寞
獨自走下長板坡 月光太溫柔
曹操不囉唆 一心要拿荊州
用陰謀陽謀 明說暗奪淡薄
東漢末年分三國 烽火連天不休
兒女情長 被亂世左右 誰來煮酒
爾虞我詐是三國 說不清對與錯
紛紛擾擾 千百年以後 一切又從頭
679無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 00:02:13
3行目  月光太[嗢のさんずい]柔
5行目  明[ごんべんに上が「八」下に「兄」]暗奪淡薄
8行目  [ごんべんに上が「八」下に「兄」]不清對與錯

です。申し訳ありません。
680無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 06:23:05
>>678

『曹操』、前に自分で訳したことがあるので載せてみます。
中国語全くダメで、英訳してあるサイトを見て訳したので
間違ってるかもしれませんが……


『曹操』

三国志を読まずして、どうして英雄になれようか?
英雄であるならば、どうして孤独を分からずにいられようか?

ひとりで長板坂を駆け降りる 月の光は暖かすぎる
曹操は冗長なことは言っていられず 一心に荊州を欲しがる
陰謀・計略を使って 暗奪を明言し 淡々と向かう

後漢末、中国は三つの国に分かれる
戦火が空に向かい終わりもなく燃え上がる
愛を離さないでいる術もなく 
誰が温かい酒を持ってきてくれようか?
お互いにだまし合う、それが三国志
善し悪しを言うことはできない
乱れきった乱世の千年後 すべてはまた新たにはじまる

681無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 11:58:12
>>673
大変遅ればせながらうpdです!
682無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 21:32:58
678です。

>>680さん、訳ありがとうございました!
カラオケでみかけてずっと気になっていたのでモヤモヤが晴れました。
本当に感謝です!
683無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 21:39:21
>>682
『681』殿は李白の件をいってるんじゃないの??
ちがってたらスマソ。。。
684無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 21:50:29
683です…。勘違いヤロウはこの私めでした…(。A 。 )
>>682様、大変なご無礼を・・申し訳ありませんでした。
酔っ払いはもうねます。。。orzorzorz
ほんとにごめんなさい
685無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 23:14:15
歯磨けよ
686無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 00:52:03
兎に角保守。

今月のお買い物。明治書院の新書漢文大系『文選 文章編』
全集からの抜粋版なので書き下しと訳と簡単な解説しかないけど新書サイズ
なので携帯に便利なので購入。

このスレ的には「出師表」「在元城与魏太子牋」(呉質)「与呉質書」(曹丕)
「与呉季重書」(曹植)「為袁紹檄予州」(陳琳)等が入ってます。

花田清輝の『随筆三国志』講談社文芸文庫で復刊。曹丕論と左思論が秀逸。
以前から持っているのがかなりヨロヨロなので購入しました。
687無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 01:12:01
へー
花田清輝、そんな評論書いてたのか
花田好きなので是非買ってみる。楽しみ
688無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 02:46:40
>>686
おおー、情報トンです!本屋へ行ってみます!
689無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 05:08:20
NHKの漢詩紀行、今日は陳琳の『馬に飲かう長城の窟(飲馬長城窟行)』でした。
この番組は曹植とか劉邦とかやってくれるから見逃せないんだよな〜
690無名武将@お腹せっぷく:2007/06/03(日) 23:47:55
ミニ情報
PR誌(出版社が無料で作っている情報雑誌)創文社の『創文』5月号に
曹植論「仮構の力─曹植の文学への問い」(大上正美)掲載。


691無名武将@お腹せっぷく:2007/06/06(水) 05:13:50
まだ読んでないけど随筆三国志買ったよー!ついでに保守あげ
6921(ry:2007/06/08(金) 16:42:42
あとちょっとしばらく書き込めないので保守ー
693無名武将@お腹せっぷく:2007/06/09(土) 14:28:55
おお、1さんお久しぶりです。生きていたんですね…
694無名武将@お腹せっぷく:2007/06/09(土) 23:17:36
>>693
パンダ交流史でググると1さんry(カミングアウト済)
三国時代では無いが興味深い…
695無名武将@お腹せっぷく:2007/06/10(日) 01:16:51
そういえば中国古典にでてくる獏(貘)は
パンダのことだという説があったっけ
696無名武将@お腹せっぷく:2007/06/12(火) 21:11:54
苦寒行パンダ説わろす…w
697無名武将@お腹せっぷく:2007/06/12(火) 22:34:02
他の歴史板での愚痴を漏らすスレ
http://etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1172045056/
698無名武将@お腹せっぷく:2007/06/12(火) 22:58:59
>>696
羆=パンダという解釈はパチ臭いな(w
699無名武将@お腹せっぷく:2007/06/13(水) 02:20:29
保守がてら、パンダ談義でも

《爾雅》釋獣
獏、白豹。
《郭璞注》
似熊小頭痺脚、黒白駁、能舐食銅鐵及竹骨、骨節強直、中實少髄、皮辟濕。
或曰、豹白色者。別名貘。
《邢モ疏》
《字林》云、似熊而白黄、出蜀郡。一曰、白豹。

《説文解字》
貘、似熊而黄黒色。出蜀中。
《段玉栽注》
即諸書所謂食鐵之獣也。見《爾雅》《上林賦・蜀都賦注》《後漢書》。
《爾雅》謂之白豹、《山海經》謂之猛豹。
今四川川東有此獣。薪采攜鐵飯甑入山、毎爲所噛。其歯則奸民用爲偽佛齒。

科学的・生物学的な動物の観察分類など無かった時代の文献なので、
複数の動物のイメージが混ざり合ったり、想像が想像を呼んでたりしそうだが、
少なくとも、獏のモデルとなった動物の一つがパンダであった可能性は高そう。

笹を食う→竹の幹なんかもバリバリ食う→硬い金属や骨も(ry
見たいな感じに勘違いされていったのじゃないだろうか
700無名武将@お腹せっぷく:2007/06/13(水) 04:14:52
>>699
トンです。
やっぱり当時でもあの白黒柄は珍しかったんだろうか。
今のように可愛さにハァハァするような考えじゃなかったのかなw
701無名武将@お腹せっぷく:2007/06/13(水) 07:43:45
曹操なら「あの大きなどうぶつはかわいいのう」とか言い出しそうだけどなw
702無名武将@お腹せっぷく:2007/06/13(水) 07:50:02
漢中にパンダを連れてきたのが劉備の勝因。
703無名武将@お腹せっぷく:2007/06/13(水) 11:03:15
>>701
生け捕りにするのだ!決して殺したり傷つけたりしてはならん!
とか言い出してみんなをパニックのどん底に突き落とすわけですね。
704無名武将@お腹せっぷく:2007/06/14(木) 12:53:35
パンダ保護センターって四川省の臥龍市にあるしな
705無名武将@お腹せっぷく:2007/06/14(木) 15:39:19
>>694
パンダ何処だか見つからない・・・
避難所に貼ってほしす・・。
706無名武将@お腹せっぷく:2007/06/14(木) 18:27:37
昨日の朝の漢詩紀行曹操キタ(゚∀゚)
7071(ry:2007/06/15(金) 00:58:13
>>699
すげえwパンダ鉄たべることになってたのかー……
なんかに呉でタケノコを馳走になった漢の人が国に帰って、
自分でもあれを食おうと竹をかじってみて苦労する話があったから、
竹を常食する動物なんて怪獣みたいに思えたんだろうか……

>>705
自分のでよければ、一応避難所に貼ってみます。orz
708無名武将@お腹せっぷく:2007/06/15(金) 03:24:14
前スレ>>1000
なんという兄妹喧嘩…
709708:2007/06/15(金) 03:25:32
あああああ!!!!
誤爆った!!!すみません…忘れてくださいorz
710無名武将@お腹せっぷく:2007/06/17(日) 02:49:20
保守
711無名武将@お腹せっぷく:2007/06/17(日) 06:13:32
>>709
誤爆を見ると、どんなスレに書き込みたかったのか、ちょっと気になるw

『三国志曼荼羅』(井波律子著 岩波現代文庫)という本を買ってみた。
面白いかな?どうかな?ちょっと期待。
712無名武将@お腹せっぷく:2007/06/19(火) 00:45:45
>>711
もしかしてその人って世説新語か何かの本
書いてなかったかなとかうろ覚えで言ってみる
713無名武将@お腹せっぷく:2007/06/19(火) 01:22:29
井波さんは「物語三国志」を読んで
あまりの孫策大好きさに驚いたことがある。

というか、当時そういう脇役(?)プッシュの本が少なく
呉が好きだったから、驚いだし嬉しかったし、変な気持ちになった
714708:2007/06/19(火) 19:33:48
>>711
今頃なんですが…某カードゲームスレで兄妹喧嘩をしているのは
曹丕と曹節です……
715無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 08:45:10
今朝の漢詩紀行、曹丕だったそうです・・・
見逃しちまったぁぁぁ!!!!ヽ(`Д´)ノウワァァァン
716無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 11:35:34
うっそーん
おれ曹丕ファンなのに、悔しいっ
717無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 13:16:34
建安七子の誰かなら絶対見たい
718無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 15:01:00
漢詩紀行はすでに放送されたものを繰り返し放送しているようだ
残念ながら建安七子はないね

漢詩 三国志の時代(日本語朗読:中村吉右衛門)

  酒に対して まさに歌うべし(曹操) / 蘇子客と舟を浮かべ赤壁の下に遊ぶ(蘇東坡・杜牧) /
  客子は常に人を畏る(曹丕) / 高樹に悲風多く海水はその波を揚ぐ(曹植) /
  流転して 常のところなし(曹植) / 武帝の宮中人去り尽くす(劉庭・岑參) /
  波は空城を打って 寂寞としてかえる(劉禹錫) / 日暮いささか為す 梁甫吟(杜甫) /
  丞相の祠堂 何れの処にか尋ねん(杜甫) /白帝城高くして 暮砧急なり(杜甫)
719無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 15:03:12
ちなみに明日は曹植だって
忘れないように録画しとかないと・・・
720無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 16:20:02
なぬぅ!?明日は曹ちんとな!?今度こそは見逃さんっっ!!

>719 情報d!!
721無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 21:26:00
曹丕が兄弟で車に乗って旅に出た、みたいな詩もやっていたはず>漢詩紀行
722無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 21:33:00
>>721
うぅわぁ〜それすんげぇ見たい。。。(*´д`*)
723無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 21:33:26
>>711
>『三国志曼荼羅』
俺も読んだ

曹操は女より(優秀な)男が好きだった

の結論に激しくワロタww
724無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 22:10:05
>>718
ググってみたがDVDにもなっているんだね。
値段が高いが…むむむ……
725無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 23:24:10
玄武陂の詩のマターリ度は異常
726無名武将@お腹せっぷく:2007/06/22(金) 04:24:36
>>721
それって確か、「於玄武陂作」とかいう詩…だったかな?
727無名武将@お腹せっぷく:2007/06/22(金) 04:35:55
文学スレッドのログには無いようなので白文をうpしてみます。
訳は誰かお願いします……


「於玄武陂作」 曹子桓

兄弟共行遊
驅車出西城
野田廣開闢
川渠互相經
黍稷何鬱鬱
流波激悲聲
菱茨覆緑水
芙蓉發丹榮
柳垂重蔭緑
向我池邊生
乘渚望長州
羣鳥讙譁鳴
萍藻泛濫浮
澹澹隨風傾
忘憂共容與
暢此千秋情


しかし、一緒に旅をしたという兄弟って一体誰でしょうね?
曹植だったら浪漫があっていいですね。
728無名武将@お腹せっぷく:2007/06/22(金) 04:43:22
>726-727 正にそれでした。
漢詩紀行は、表題作と一緒にもう一作も朗読されるのです。
今日明日の曹植もまず確実にそうでしょうね
729無名武将@お腹せっぷく:2007/06/23(土) 11:53:07
高樹に悲風多く海水はその波を揚ぐ(曹植),は「七歩詩」と放送されてる。
この番組は、中国の風景が見られるので楽しみにしている。
7301(ry:2007/06/27(水) 01:20:19
>>727を訳してみるテスト(ry
(てけと書き下し)
兄弟(けいてい)共に行遊し、車を驅りて西城に出ず
野田は廣く開闢し、川渠(せんきょ)は互いに相い經る
黍稷(しょしょく)何ぞ鬱鬱たる、流波激して悲聲あり
菱茨(りょうき)は緑水を覆い、芙蓉丹榮を發す
柳は垂れて重蔭を緑にし、我に向ひて池邊を生ず
渚に乘じ長州を望めば、羣鳥讙譁(かんか)して鳴く
萍藻泛濫して浮かび、澹澹として風に隨き傾く
憂いを忘れ共に容與し、此の千秋の情を暢ぶ

(てけと訳)
「兄弟でいっしょに遊びにでて、車を走らせて城の西に来ました。
野や田はひろびろと開けはじまり、川やほりわりが絡みあって流れています。
モチキビとウルシキビがこんもりと茂り、流れは激しく波だって悲しい声をあげます。
ヒシとカヤがあおあおとした水辺に覆いかかり、ハスの花は赤くあざやかに咲いています。
柳がしだれて豊かな深い陰をつくり、池の岸辺で私をさしまねきます。
(砂の)渚に立って長い中州をながめれば、鳥の群れがかまびすしく鳴いています。
浮き草があふれるほど多く浮かびただよい、ゆったりと風にゆられて動きます。
憂いを忘れて、この千年もはるかにのびのびした風情にいっしょにゆったりしましょう」

 玄武陂というのは、曹操が対呉戦線の準備のために、208年にギョウに作った
水軍の水練訓練用の人工湖なので、この詩は少なくともそれ以降の作ですよね。
せっかく湖まで作ったのに、赤壁(ry
 しかし、曹丕と一緒に池にいった兄弟は誰でしょうねー。仲良しで良いことれすね。
ギョウの西というのは、典論自叙にも
「与族兄子丹猟于鄴西、終日手獲麞鹿九、雉兎三十
(親戚の子丹兄ちゃんとギョウの西まで猟に行って、一日で自分達でノロジカ九頭と兎と雉三十羽をとったよ)」
と書いてあるので、なんか土地が豊かないい眺めのところだったんでしょうねー。
弁当と、おやつにブドウでも持っていって食いたいです。
731無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 01:39:17
>>1氏復活おめ

菱茨(リョウシ)の茨はテキストによっては芡(ケン)の字になっていて
スイレン科の水草だそうです

そういえば同じく曹丕の「芙蓉池作」の詩の芙蓉池も
ギョウの西にあったんだっけ
732無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 07:00:27
>>730
おお〜1さん、訳乙です!
本当にまたーりとした詩ですね〜曹丕は兄弟と仲が悪い印象が強いから
旅を共にした相手が余計に気になってしょうがないですw
733無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 19:04:24
幼い弟達の保護者として遠足に付き合ったんじゃないかと思ったが
子供達の世話に追われる状態で作るような詩じゃないなw
7341(ry:2007/06/28(木) 02:44:11
>>731
Thxです、済みませんorz >>730は×菱茨(りょうき)→◎菱茨(りょうし) です。
ほんとだー、中華書局の三曹詩選だと、
「菱芡(qian):菱茭和”鶏;頭”。芡:睡蓮科水草、俗称鶏頭、或鶏頭米」
となっていて、鶏頭米というのは「オニバス(大きな蓮の仲間)の実」みたいですねー。
ぐぐってみたら、蘇州名産で甘いスープに入れて白玉みたいにして食べるらしいです。うまそう。

邯鄲市政府のサイトにギョウの古跡の説明とかがありますた。
ttp://www.hd.gov.cn/zjhd/wwgj/t20070607_95559.shtml
いまの臨漳県の西南20kmのところにあるらしい。
写真で見るかぎりでは、わりと乾燥したところみたいですね。
 
邯鄲市の地理と気候
ttp://www.hd.gov.cn/zjhd/hdgk/zrzy/

そいで、邯鄲市臨ショウ県の地図と航空写真↓ですが、
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E4%B8%B4%E6%BC%B3%E5%8E%BF&ie=UTF8&ll=36.298525,114.581909&spn=0.496947,0.933838&t=h&z=10&iwloc=addr&om=1
この左下にあるのがギョウの古跡でせうねー。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E4%B8%B4%E6%BC%B3%E5%8E%BF&ie=UTF8&ll=36.199958,114.445953&spn=0.248788,0.466919&t=h&z=11&iwloc=addr&om=1
ちょっとずらしてみると、市政府の説明どおりに河のほとりに街があるので、このどれかが古跡なのかな?
西側の山から東にむかって流れてきた河によってできた、扇状地のような地形のところみたいですね。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E4%B8%B4%E6%BC%B3%E5%8E%BF&ie=UTF8&t=h&om=1&ll=36.159499,114.266739&spn=0.248917,0.466919&z=11&iwloc=addr
拡大してみると、お城とかがあるひらけた東側(昔は草原?)に対して、
河をさかのぼって山のほうにいく西側には池や水場みたいなものも多く見えますし、
山のふもとなので、動物とかもいっぱいいたんでしょうねー。
距離も数kmから20km程度でふもとまで行けそうなので、馬ならばすぐですね。
上にあるでかいダムみたいなのはまさか違うでしょうが、小さい池のどれかが玄武陂なんだろうかw。
7351(ry:2007/06/28(木) 03:01:10
臨ショウ県政府のサイトにそのものの写真と説明があったww
「野田廣開闢 、川渠互相經、黍稷何鬱鬱」というのは
↓こういう風景らしいです。バロスww
ttp://www.lz.hd.gov.cn/lz_gaikuang/4_ny.htm

漳河と麦畑は↓こんな感じらしいです。こっちのほうが近いんじゃ……。
ttp://www.lz.hd.gov.cn/lz_gaikuang/2_qwjzrhj.htm
ギョウ城遺址↓はこんな感じ。ウェブって便利だー。
ttp://www.lz.hd.gov.cn/shehuishiye/yecyz.htm
736無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 17:29:03
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182528365/4
三戦板復興プラン

3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。


理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。

中国英雄板
http://hobby9.2ch.net/chinahero/
737無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 22:13:42
>>734
>>735
本当にwebって便利ですねー。ちょっと旅をした気分になるw
やっぱりドライブ感覚で行ってきたってとこでしょうか。
当時はもっと綺麗で狩りだけでなく魚釣りも楽しめたんでしょうね。
738無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 05:04:56
杜甫って本当に三国志、っていうか諸葛亮が好きだったんだなー
739無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 10:11:01
>>738
今日の漢詩紀行の感想だとみた
740無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 13:30:40
孔明をうたった詩って杜甫の蜀相のほかにもあるのかな・・?
日本では土井晩翠のあれが有名ですけど
741無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 23:19:41
>>738
誤爆かと思ったw
742無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 01:00:13
産め
743無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 01:06:59
>>742
誤診だと願ったw
744無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 02:37:08
蜀相

丞(蜀)相祠堂何處尋、錦官城外柏森森
映堦碧草自春色、隔葉黄鸝空(多)好音
三顧頻繁(煩)天下計、兩朝開濟老臣心
出師未捷(用)身先死、長使英雄涙滿襟

とりあえずググってみた
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/rs07.htm
745無名武将@お腹せっぷく:2007/07/02(月) 12:31:43
良スレ
746無名武将@お腹せっぷく:2007/07/04(水) 23:24:44
747無名武将@お腹せっぷく:2007/07/05(木) 02:31:31
曹丕たんがお兄ちゃんのカタキって張繍を虐め殺したとすると
賈クを重用してる理由がわからんな
748無名武将@お腹せっぷく:2007/07/05(木) 04:42:07
曹沖死んだとばっちりで殺された不疑たんカワイソス
749無名武将@お腹せっぷく:2007/07/05(木) 23:51:17
>>747
カタキもなにもないと思う。結果曹操の後継者になれたわけだし。
単に気に入る・入らないの問題じゃねーの?
750無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 00:38:28
>>747
世渡り上手な賈クが曹丕を上手く手助けしたからでは?
751無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 08:05:08
>>747
賈クは部下のつとめとして張繍を補佐しただけと考えて、才に免じて放置したのかと思ってた。


ついでに張繍は曹丕に虐められて死んだんじゃなくて、病死だと思ってた。
勘違いしてたよ……orz
752無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 16:42:46
>>751
おいおい、煽りっぽい文章を真に受けていいのか?
753無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 18:34:42
張繍が自死した云々については正史に挿話があるな。
しかしどれぐらい信憑性があるものなんだろうか?
曹丕は他にも人との不和が記されてるから、そういう奴なんだろうなと思ってる人多そうだけど。
754無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 23:36:06
張繍伝見ると「烏丸討伐の途中で逝去」ってなっていて死因はのってないけど、
注釈の方には

張繍が降伏後にしょっちゅう頼みごとをしてくるのに曹丕がムカついて
「兄ちゃん殺したくせに、なんで平気な顔して俺んとこ来れるんだよ!」って言ったら
ビビッタ張繍が自殺した。

ってな話がのってました。
賈クは単に曹丕がムカつくような事をしなかったってだけじゃないかな?
755無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 23:58:08
賈詡は曹丕が曹操の太子になるのに力を貸したから。
7561/4:2007/07/07(土) 05:30:46
>>746
なんの意図があるのかわからんが、原文うpしとこう

テキストは六臣註文選。
( )内は李善注文選との文字の異同
{ }内は五臣注文選との文字の異同
(×)はその前の文字が李善注文選では存在しないことを示す

爲曹洪與魏文帝書
陳孔璋*

十一月五日、洪白。前初破賊、情侈()意奢、説事頗過其實。得九月二十日書、
讀之喜笑、把玩無猒、亦欲令陳琳作報。琳頃多事、不能得爲。念欲遠以爲歡(懽)、
故自竭老夫之思。辭多不可一二(一)、粗舉大綱、以當談笑。

*…善曰、陳琳集曰、琳爲曹洪與魏文帝牋。
     文帝集序曰、上平定漢中、族父都護還書與余、盛稱彼方土地形勢、
            觀其辭如陳琳所敘爲也。
7572/4:2007/07/07(土) 05:41:20
漢中地形、實有險固、四嶽三塗、皆不及也。彼有精甲數萬、臨高守要、一夫(人)揮戟、
萬人(夫)不得進。而我軍過之、若駭鯨之決細網、奔兕之觸魯縞、未足以喩其易。
雖云王者之師、有征無戰、不義而彊(強)、古人{今}常有。故唐虞之世、蠻夷猾夏、
周宣之盛、亦讎大邦、詩書歎載、言其難也。斯皆憑阻恃遠、故使其然。是以察茲地勢、
謂爲中才處之、殆難倉卒。來命陳彼妖惑之罪、序(叙)王師曠蕩之コ、豈不信然。*
是夏殷所以喪,苗扈所以斃、我之所以克、彼之所以敗也。不然、商周何以不敵哉。
昔鬼方聾昧、崇虎{虐}讒凶、殷辛暴虐、三者皆下科也。然高宗有三年之征、
文王有退修(脩)之軍、盟津有再駕之役、然後殪戎勝殷、有此武功焉(×)。
未(焉)有星流景集、飈奮(奪)霆擊、長驅山河、朝至暮捷、若今者也{焉}。
由此觀之、彼固不逮下愚、則中才之守、不然明矣。

*…善曰、文帝答洪書曰、今魯抱凶邪之心、肆蠱蜮之政、天兵神拊、師徒無暴、
      樵牧不臨。
(蠱蜮の蜮の字は、正確には「惑」の心を虫に変えた字。意味も発音も
「蜮」の字と同じ。胡克家の文選考異は「惑」の誤字とする)
7583/4:2007/07/07(土) 05:48:09
在中才則謂不然、而來示乃以爲彼之惡稔、雖有孫田墨氂、猶無所救、竊又疑焉。*
何者、古之用兵、敵國雖亂、尚有賢人、則不伐也。是故三仁未去、武王還師、
宮奇在虞、晉不加戎、季梁{良}猶在、彊(強)楚挫謀、曁至衆賢奔絀、三國爲墟。
明其無道有人、猶可救也。
且夫墨子之守、縈帶爲垣、高不可登、折箸爲械、堅不可入。
若乃距陽平、據石門、攄八陣之列、騁奔牛之權、焉肯土崩魚爛哉。
設令守無巧拙、皆可攀附、則公輸已陵宋城、樂毅已拔即墨矣。
墨翟之術何稱、田單之智何貴、老夫不敏、未之前聞。

*…善曰、文帝答曹洪書曰、今魯罪兼苗桀、惡稔惹ヘ、縦使宋翟妙機械之巧、
     田單騁奔牛之誑、孫呉勒八陣之變、猶無益也。
7594/4:2007/07/07(土) 05:53:53
蓋聞過高唐者、效(効)王豹之謳、游(遊)睢渙者、學藻繢之綵。間自入益部、
仰司馬楊王之(×)遺風、有子勝斐然之志。故頗奮文辭、異於他日。怪乃輕其家丘、
謂爲倩人、是何言歟。夫埼垂耳於坰(林)牧(埛)、鴻雀戢翼於汙池、
褻之者固以爲園囿之凡鳥、外廏之下乘也。及其(×)整蘭筋、揮勁翮、陵諮エ浮、
顧眄(盼)千里、豈可謂其借翰於晨風、假足於六駮哉。恐猶未信丘言、必大噱也。
洪白。*

*…善曰、此雖假孔子名而實以空爲戯也。或無丘言二字。
760無名武将@お腹せっぷく:2007/07/07(土) 06:13:24
>756
ちょっと補足。
引用の李善注の「如陳琳所敘爲也。」の「如」の字は、「知」の字誤りだと
胡克家の文選考異にある。

中国語サイトからコピペして修正しただけで、読み込んで無いが
漢中を支配する張魯を破った喜びのなかで書かれた手紙らしく、
作品名に文帝の名があるが、まだ曹丕が帝位につく前の作品。

件のサイトでは、本文中にしつこく代筆では無く、
曹洪本人の自作であると主張していることをネタにしているが、
なんとなく、陳琳も曹洪も曹丕もわかったうえでのお遊びという感じがしないでもない
根拠は無いけど

個人的には、この手紙と李善注に引用された曹丕から曹洪への手紙から伺える
曹丕の「張魯m9(^Д^)プギャー」のし具合が笑えた
761無名武将@お腹せっぷく:2007/07/08(日) 00:04:58
手紙と言えば、孫権が焼くよう指示した陸遜への手紙にはどんな罵りが記されていたのか知りたいなあ。
惜しいな孫権、文才を後世に知らしめる機会だったのに
762無名武将@お腹せっぷく:2007/07/10(火) 02:32:56
たまには日文の話もしてみよう。

『太平記』巻第20「義貞夢想事 附・諸葛孔明事」は、
新田義貞が大蛇に変身して斯波高経を撃退する夢を見る物語。
大蛇と化して地に伏せた義貞を「臥竜」になぞらえ、
陣没した諸葛亮の非運に重ね合わせて凶夢であるとしている。
この物語は蜀漢びいきの立場で劉備の仁・諸葛亮の智を賞賛しているが、
曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど
史実とも『平話』『演義』などとも相違する点がある。

江戸時代の洒落本・夢中楽介の『通人三国師』は、
劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、
さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立て。
すでに三国志のパロディ化が行われていた事が判る。

三国志プロパーではないが、万葉集に載った山上億良の「沈痾自哀文」に
華陀が出てくるし、枕草子や徒然草は文選を称賛している。
三国志に取材した川柳・狂歌の類も探せば結構あるはず。
763無名武将@お腹せっぷく:2007/07/10(火) 02:37:43
おもしれーなー
ここみたいに三国オタというか、ネタにして楽しむ層が
そんなに昔からいるんだな。
世界一三国志が好きなのは、ひょっとすると日本人かもしれないな…w
764無名武将@お腹せっぷく:2007/07/10(火) 13:44:50
>>760
その曹丕から曹洪への手紙も気になるw
7651(ry:2007/07/10(火) 22:37:52
そういえば、「知らざあ言って聞かせやしょう」の弁天小僧とかの
歌舞伎の義賊白浪五人男は、韓暹楊奉の白波賊から来てるらしいですw。
766無名武将@お腹せっぷく:2007/07/11(水) 20:33:50
楊奉は美青年だったのかw
767無名武将@お腹せっぷく:2007/07/12(木) 02:15:02
>>760
>わかった上でのお遊び。
そんな感じするね。あれだけ何か浮いているというか雰囲気が違う感じ。

兎に角曹洪のネタの多さは一族中突出していることだけは確かだ。
768無名武将@お腹せっぷく:2007/07/13(金) 02:50:57
>>760
曹洪と曹丕は金のトラブルを起こしているので仲悪いイメージがあったけど
そういうお遊びもする余裕があったのね
769無名武将@お腹せっぷく:2007/07/17(火) 23:33:34
保守がてらに

出版社のPR誌『創文』(創文社)に
「陶淵明と曹操」(林田慎之介)「『三國志演義』の世界」(井波律子)掲載。

陶淵明…は酒の詩に関する文章で面白かった。
770無名武将@お腹せっぷく:2007/07/17(火) 23:57:06
陶淵明と曹操になんの関係が・・・?

単にどっちも酒好きってだけかな
771無名武将@お腹せっぷく:2007/07/22(日) 00:16:09
保守〜
772無名武将@お腹せっぷく:2007/07/23(月) 13:00:39
どの辺が曹操と関係あるのか分からんけど投下〜。

飲酒 其七   陶淵明

秋菊有佳色    秋菊 佳色有り
裛露掇其英    露に裛(ぬ)れし其の英を掇る
汎此忘憂物    此れ忘憂の物に汎かべ
遠我遺世情    我が遺世の情を遠くす
一觴雖独進    一觴独り進むと雖も
杯盡壺自傾    杯盡(つ)きて壺自ら傾く
日入羣動息    日入りて羣動息み
歸鳥趨林鳴    歸鳥 林に趨き鳴く
嘯傲東軒下    嘯傲す 東軒の下
聊復得此生    聊(いささ)か復た此生を得んと
773無名武将@お腹せっぷく:2007/07/24(火) 00:50:05
陶淵明はいいっすね〜
最近まで淵明が字だということ知らなかった。
774無名武将@お腹せっぷく:2007/07/24(火) 01:30:14
いや、それが実はそうでもない

一般的には、潜が名で、淵明が字だと説明されている場合が多いけれど、
史料によっては名が淵明で字は元亮だとするものもある

晋代は淵明という名だったが、劉裕が簒奪して宋を建ててから
潜と名を改めて隠遁したというもっともらしい説もあるけれど、
それが真実かどうかは誰にも分からない
775無名武将@お腹せっぷく:2007/07/24(火) 21:58:11
彼の作った詩の日付けには宋の年号は使われず、十干十二支で書かれていると
『「タオ=道」の思想』で林田氏がおっさられています。

劉裕に対してなんか含むところがあるな。
776無名武将@お腹せっぷく:2007/07/24(火) 22:06:23
簒奪者劉裕に仕えていたことが陶淵明人生最大の汚点らしいからな
777772:2007/07/27(金) 01:51:27
自分のへっぽこ訳なんかないほうがマシかもです。
菊酒っていうと重陽の節句→今の暦で10月半ばごろか?

秋の菊が見事に花開き、朝露を払ってその花房を採る。
これを憂いを忘れるもの(=酒)に浮かべると、私は俗世を離れたことに思いを馳せた。
ひとり手酌で飲んでいたが、杯に注ぐ酒はなくなり、壺も自然と傾いてしまった。
夕陽が沈んでもろもろの動きは止み、ねぐらへ帰る鳥は林に赴いて鳴いている。
東の軒下で悠々と口笛を吹く。とりあえずまた今年も生きていられたと。
778無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 03:27:26
>>772
>>777


この飲酒の詩は、全部で20首あるそうですが、
(20首全部に対する)陶淵明本人の序文があって
なかなか風情が有るのでうpしとくよ

余間(閑)居寡歡、   余 間居して歡び寡なく、
兼秋夜已長、       兼ねて秋夜 已に長し、
偶有名酒、        偶ま名酒 有り、
無夕不飲、        夕べとして飲まざる無く、
顧影獨盡、        影を顧りみて獨り盡し、
忽焉復醉、        忽焉として復た醉いたり、
既醉之後、        既に醉いたるの後、
輙題數句自娯、     輙ち數句を題して自らを娯します、
紙墨遂多、        紙墨 遂に多く、
辭無詮次、        辭に詮次 無し
聊命故人書之、     聊か故人に命じて之を書せしめ、
以爲歡笑爾。       以って歡笑と爲すのみ。
779無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 03:29:36
私は人里離れ隠棲しており娯楽も少なく
そのうえ秋の夜長のおり、
たまたま名酒がありまして
毎夕飲まない時は無く
自分の影を相手に独り(杯の酒を)尽し、
たちまちのうちにまた酔いがまわり、
酔いがまわったら、
そのたびに数句を書き付けて楽しんでおりました、
書き付けが多くなりまして、
詩の内容もまとまりが無いものだが、
ちょっと友人に書かせてみましたので、
笑って楽しんでください。

俺下戸だけど、こういうのを読むと酒が飲みたくなるのう
780無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 03:38:41
イイネイイネ。

鑑賞する人間まで酒をちびちびやりたくなってくるなw
781無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 03:56:33
漢詩には飲酒をテーマとした詩が多いけれど、
茶を歌った詩なんかもあるんだろうか

茶道はもともと中国のものだよな?
782無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 04:12:37
「茶道」は国字だったんか…orz
しかし唐代に「茶経」てのが編まれていて、茶道の原型になっているとか。
詳しいことはよく分からんので↓なんかどう?

ttp://www.uloncha.com/kouza.htm
783無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 04:17:57
追加
ttp://www.tea-jp.com/tea/

やっぱり唐代以降しかないのかな…(´・ω・`)
784無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 14:07:17
>>781
茶は元々茶(ちゃ)じゃなくて荼(と)といって嗜好品というよりは調味料の一種
荼が茶になるまでは世間的な地位はあんまり高くないし「茶」で探しても古い記録は見つからないんじゃないかな
785無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 15:04:12
少なくとも三国時代には茶は一般に飲まれてなかったようだね
唐代ぐらいから茶がひろまったらしい

吉川三国志には劉備が母のために高価な茶を買い求めるシーンがあるけどね
786無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 21:14:48
>>784
ゲームではおなじみ、董荼那の「と」か!
787無名武将@お腹せっぷく:2007/07/27(金) 22:02:47
( ゚д゚) …。

( ゚д゚ )
788無名武将@お腹せっぷく:2007/07/28(土) 00:11:36
>>283
>人寿幾何 逝如朝霜
ワロタwww
7891(ry:2007/07/30(月) 18:07:38
お酒といえば、酉陽雑俎に「魏の正始」のお酒の話がでているのですが、
三国の曹魏の正始か南北朝の北魏の正始かがいまいちわからなかったので、
とりあえず別のところに書いてみました↓。
http://d.hatena.ne.jp/syulan/20070730/p1

大平廣記の記述がよくわからんのです……orz
790無名武将@お腹せっぷく:2007/07/31(火) 01:26:41
自分も前に調べてみたことがあるが、
三国時代の魏だと確信できる典拠を見つけられなかんかった。

webで検索しても三国時代の魏ということになっているし、
大漢和で鄭愨を引くと、三国・魏の人とするが、
根拠となる史料が引かれているわけでも無いので、
自分には断定できん。

たしか酉陽雑俎の訳が
平凡社の東洋文庫から出ていたと思うんだが
調べられる人はおらんかな

あと>>789はどこから引っ張ってきたのかしらんが、
上の段が太平広記の原文で、下の段が現代中国語訳
ついでに原文中の「腥」は「勝」の誤字
だから、下段の「魏斉王正始年間」は訳者の補足説明だな
7911(ry:2007/07/31(火) 01:53:29
>>790
Thxです! 下の段は商務印書館のやつなんですが、
現代訳版なんですねー。補足しておきます。本のページに穴と落丁が(ry

自分はよくわからないんですが、里文出版の硯の文化史という本に
三国時代の硯はすり鉢みたいなもので、東西晋のころに足のついた硯ができ、
硯箱にはいった四角い硯ができたのは南北朝ぐらいと書いてあったので、
なんとなく、南北朝の北魏の話かな……という気もします。
792無名武将@お腹せっぷく:2007/07/31(火) 02:16:26
東洋文庫確認。
酉陽雜俎の訳は>>789でほぼ正解だね。
使君林が地名となっているが。
三国魏・北魏は不明、一応北魏となっている。

>>790、ンマソダナー。
793無名武将@お腹せっぷく:2007/08/06(月) 00:33:09
保守
794無名武将@お腹せっぷく:2007/08/07(火) 01:42:19
なんという過疎っぷり

雜詩       曹植

悠悠遠行客    悠悠と遠行する客
去家千餘里    家を去ること千餘里
出亦無所之    出るとも亦 之く所無く
入亦無所止    入るとも亦 止まる所無し
浮雲翳日光    浮雲は日光を翳らしめ
悲風動地起    悲風は地を動かして起つ

故郷をはるか遠く離れた旅人
家を離れること千里あまり
故郷を出たものの行宛があるでもなく
帰郷しても居場所は無い
浮雲が日光をさえぎり
もの寂しい音をたてる風が地面にも響いて吹き始めた
795無名武将@お腹せっぷく:2007/08/07(火) 01:53:28
>>794
この詩つづきないの?
796無名武将@お腹せっぷく:2007/08/11(土) 12:26:48
なんという過s(ry
ちょっと小ネタ

南史 巻72 文学伝
有呉邁遠者、好為篇章。宋明帝聞而召之、及見、曰、「此人連絶之外、無所復有。」
邁遠好自誇、而蚩鄙他人、毎作詩、得称意語、輙擲地呼、曰、
「曹子建、何足数哉。」

呉邁遠(ご まいえん)なる者有り、好んで篇章を為(つく)る。宋の明帝
聞きて之を召し、見るに及んで、曰く、
「此の人連絶の外、復た有る所無し。」
邁遠好んで自らを誇り、而うして他人を蚩鄙す、毎に詩を作りて、称意の語を得たれば、
輙ち地に擲(なげう)ちて呼して、曰く、
「曹子建、何ぞ数うるに足らんや。」

呉邁遠という人がいて、文章を作るのを好んでいた。
宋の明帝はそのことを聞き及んで彼を召し出して、実際に会ったところ、
「この人物は作文の才能以外、何も無い」と言った。
呉邁遠は好んで自分を鼻にかけ、他人を嘲笑しており、いつも詩を作って、
会心の語が思い浮かぶと、その度に(作成した詩文を?)
地面に投げ打ってこう叫ぶのだ。
「曹子建なんぞものの数では無いは」と。

呉邁遠とかいう人物の奇行はともかくw
曹植が引き合いに出されるあたり、
南朝宋の時代においても曹植の文名の高かったことが伺えるなw
797無名武将@お腹せっぷく:2007/08/11(土) 14:16:18
興味深い話だね
杜甫以前に詩聖と呼ばれたのは
曹植ただひとりだというけれど、
いつごろからその最高の文名を得たのか

梁の「詩品」ではすでに絶対的な地位を確立しているけど、
劉宋の時代にはもうかなり評価の高い詩人だったんだな・・・
798無名武将@お腹せっぷく:2007/08/11(土) 14:30:34
なんか、大学の文学部辺りにいそうな奴だなぁw>呉邁遠
799無名武将@お腹せっぷく:2007/08/12(日) 22:27:50
>>797
曹魏から晋に移り変わる頃には既に最高の詩人扱いだったな
800無名武将@お腹せっぷく:2007/08/17(金) 21:31:42
宋・無名氏『釋常談』
謝靈運嘗曰「天下才有一石、曹子建獨占八斗、我得一斗、天下共分一斗。」

謝霊運 嘗て曰く、「天下の才 一石有れば、曹子建は八斗を独占し、我は一斗を得、天下一斗を共分す。」

謝霊運はかつて言った、「天下の才が一石有るとすれば、曹子建はそのうち八斗を独占し、私が一斗で、天下の人々は残りの一斗を分け合っている。」
801無名武将@お腹せっぷく:2007/08/17(金) 22:07:27
じょうだんがお好きなんですね
802無名武将@お腹せっぷく:2007/08/18(土) 20:47:37
さりげなく自分を褒め称えているあたり可愛いですな。
803無名武将@お腹せっぷく:2007/08/19(日) 02:05:31
文章家はうぬぼれ屋が多いって曹丕がなげいてたな
804無名武将@お腹せっぷく:2007/08/19(日) 02:07:47
その話、予備校にいたときに
先生黒板に円グラフかいて説明してた。
円グラフかよwって一人で吹いてた。

ちなみに蒙求だった
805無名武将@お腹せっぷく:2007/08/19(日) 02:32:54
蒙求をちらちらみてたんだが、甘寧奢侈って言葉があるんだけど、
甘寧がぜいたくしてたって正史にのってるっけ?
806無名武将@お腹せっぷく:2007/08/20(月) 01:58:28
甘寧伝注に引用する呉書に

其出入、歩則陳車騎、水則連輕舟、侍從被文繍、所如光道路、住止常以暑ム維舟、去或割棄、以示奢也。

とあるから、このことじゃね?
807無名武将@お腹せっぷく:2007/08/20(月) 21:56:06
甘寧はちょい悪おやじだからな・・・
イヤちょいどころの話じゃないだろうが
808無名武将@お腹せっぷく:2007/08/21(火) 18:04:30
関係ないけど志水版甘寧を思い出した
809無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 14:26:17
>>806
これはどういう意味?
呉書持ってるけどちくまのだから該当個所が分からんです
810無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 14:31:33
>>809
甘寧伝の注の2
811無名武将@お腹せっぷく:2007/08/26(日) 16:55:25
>>810
ありがと
「陸路であれば馬車や騎馬をつらね、水路であれば軽快な船をつらねた〜〜」
のあるくだりの所だね
812無名武将@お腹せっぷく
hosyu