1 :
無名武将@お腹せっぷく:
孔明の後継者は蒋エン
姜維なんて相手にされてないw
( ´゚ω゚` )
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/02(金) 23:41:37
2
2
否定しないけど、いまさら何を騒ぐ?
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/02(金) 23:59:42
横山三国志じゃ暗殺されてた気がするけど実際どうなの?
ショーエン
>>1 それは俺もつねづね思ってた。
あと暗殺されたのは費イだろ
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 02:47:24
向上心のないショウエンに未来は無かった。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 06:31:00
内政の後継者だろ。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 07:41:10
全権握ってた後継者
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 09:00:59
政戦両略のある人だろ。
単なる政治の後継者じゃなくて、作戦立案の面でも諸葛亮の後継者たりえる。
姜維は第一線あるいは北面の司令官というあたりで、蒋エンは総司令官。
後世でいうところの枢密使を兼ねているような地位と能力じゃなかったか?
その点諸葛亮も一緒。
姜維は、空気読まずに北伐やりすぎて国を疲弊させ潰しちゃったからな。
諸葛亮は北伐1勝3敗1引き分けだよね?
キョウイは?
>1
いまさらそんな当たり前のことを言われても…
蒋エンって後継者になってから、何か功績残したか?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 13:03:37
>>15 「前任者に劣る」と言われていると進言してきた人間に対して、
「それ事実だからw」と高笑い。
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 13:48:08
>>1 姜維が諸葛亮の後継者だという発想はどこから出たんだ?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 16:01:04
つ三国演義
「李衛公問対」で有名な李靖も、李世民との対話の中で諸葛亮を高く評価しているね。
キョウイは魏を裏切り蜀について数年戦って
勝てぬと見るやまた魏に降りまた蜀にもどろうと企んだ。
やってることは猛達と全く一緒の裏切り者。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/03(土) 19:45:21
山中鹿之助と見るべきだと思うが。
演技では孔明を手玉に取った姜維も
蜀につくと知略を働かせることなく終わった
活躍させれよ
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 22:55:18
姜維って演技がなかったら、
ここまで評価されることは無かっただろうな。
ヘタしたら、蜀を滅亡に導いた無能な将軍として、
黄酷並にボロクソに言われてた可能性もあるだろう。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 23:03:07
>>22 演技がキモイのは大徳と嘘泣きの諸葛亮ですから。
もう散々いわれてるけど、ほんと何をいまさらだよ。
勘違いしてるみたいだけど、姜維は武官だからね?
魏延みたいなもん。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 01:38:50
当時代中国最強の武将といえる魏延と一緒にすんなよ
姜維なんて郭Yに一度も勝てない雑魚だぞ
一応大勝利も挙げてるんだけどなぁ
その後スグに大敗北を喫してるが
しかし文天祥でも評価される世の中だし
そこまでボロクソには叩かれないだろ、演義が無くても
妻維と除庶はマザコン
少なくとも孔明の後継者というのは、捏造もいいとこだ。
正史では、これと言った実績もないし。
ただ、人づての評価は正史でもやたら高いんだわな。
ヒトカドの人物ではあったことは確かなようだ。
>>24 魏延は、漢中の太守まで勤めた超が付くほど有能な武将だよ。
比較にならんだろ。
また極論をぬかす奴ばかりか
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 05:11:52
王平>>>>姜維
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 08:52:46
姜維が大勝した魏将って照会だっけ?
王経だろ
OK
姜維きゅんの悪口をいうな
姜維の能力値
統率78
武力84
知力80
政治35
魅力76
ひいき目に見積もってもこれくらいが妥当。
37 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/03/13(火) 00:22:57
諸葛亮>法正=馬良>蔣琬>>>姜維=馬謖
>>36 魅力76は何処から出てきたんだ?下げる要素ばかりでとてもそんな高数値にはならないと思うけど。
鍾会とかには、かなり気に入られていた。だから反乱を計ることが出来たとか。
人物的な魅力はそれなりにあった模様。
わりとここのみんなには嫌われてるんだな…
最後まで頑張った奴だなと思ってたんだが
頑張って他の皆さんに多大な迷惑をかけました
叩き上げが嫌われるのは世の常だろ
ヒイが死んだ後は好きにしてって感じだったんじゃない?
引き篭もってても滅ぼされただろ。
孔明と違って国が疲弊するような無茶な攻めばかりしやがって
って前までおもってたんだけど、
呉がボロボロになっていく中、
とにかく攻めなきゃいけなかったんだなっておもったら
無茶な攻めも仕方ないとおもった。
バスケとかで最後に遠投するのと同じかなと。
危機感から一人張り切ったその結果、よけいに点をとられて、他のメンバーに白い目で見られるようなったっという感じかね?
いやいや、ぼろ負けが善戦になったのに
負けたのはエースのせいだっていわれてるようなものだろ
疲弊とか以前に蜀と呉はどうあがいてもそのままじゃ
いずれ魏に攻められて滅亡するのは目に見えてるからな。
あの土地でいくら国力付けようが攻められたら終わり。
蜀の場合、長安を落としてやっと魏とまともに戦えるってとこだろ。
そう考えれば孔明とキョウイはよくやったんじゃねーの?
とにかく魏が大きすぎた。曹操が袁召倒した時点でもう大勢は決まってただろ。
劉邦のように人材をもっと増やし重用していれば状況は変わったのでは?
>47
善戦になったのに
善戦になったのに
善戦になったのに
どの辺が?
孔明死後30年間国を保った
費?の死後、10年しか保てなかったという見方もできる
魏は蜀の地に興味がなかったとも言える。
別にそのままでも良かったがとりあえずウザイから滅ぼしとくか、程度の国だった。
八王の乱あたりまで引き篭もるという手はあるな。
そのころには蜀漢は成漢になってるな
蜀は遅かれ早かれ滅びただろうが姜維がいなかったら、もう5年くらい寿命が延びていたかも。
代わりの奴にもよるが守りに徹していればそれ以上もってたと思う
北伐は形式的にちょっとやるだけにして
ヒイの死後、彼が兼任していた軍事と内政のトップが別々に分かれたのが大きかったかな。
姜維が大将軍の位を引き継いで軍事面のトップとなった以上、
内政面のトップを継いだ陳祗や諸葛瞻が彼を抑えられなかったのも仕方ないと思う。
姜維自身は素晴らしい人物だったようだが、派閥の関係もあってか、
内政畑の支持を得られない遠征の繰り返しになってしまったのはねえ。
生え抜きの閻宇なら、連携も取れて違う形になっていただろうけどね。
もちろん、その結果がどちらに転ぶかはわからないけどさ。
優秀であっても、一国のトップに立てる器ではなかったのだろう。
陳祗は抑えるも抑えないも姜維とは近い立場の人じゃなかった?
孔明が死んだとこまでしか知りません。
成都の連中も明確に反対しだしたのは段谷で大敗を喫してからで、
それまでは朝議の席でも反対者は張翼くらいだったはず。
遠征自体に支持が得られないのではなくて、負けたから反対されたってところだろう。
姜維の問題は、大敗を喫して反対者が続出しても遠征を続けた事なんだけど、
それでも、257年は諸葛誕の反乱で関中ががら空きになったので絶好のチャンスだったし、
262年は何かしら戦功を挙げなきゃ成都にも帰れない状況だったので、
その辺りを考えれば同情の余地はあると思う。
閻宇なら無理な事はしなさそうだけど、姜維ほど軍事に長けてはいないだろうから、
大勝する事もないだろうね。
完全にパフォーマンスとしての北伐になると思う。
あと、閻宇との交代が画策されたのは258年以降なので、交代したところで、
それほど滅亡を遅らせる事ができるかは疑問だな。
段谷の大敗で意気は阻喪しているし、魏からは姜維のみが蜀の頼みの綱であると思われていたので、
かえって魏の侵攻を早める可能性もあると思う。
諸葛格のように誅されなかっただけでもいいよな
いやそうしようと思われていたのかしれんが
>>63 蒋エン・費イという傑物でさえ北伐に消極的だった時代を経た成都の連中が、
当初は姜維の軍事行動に賛同していた…とは考えにくいのだが。
「明確な反対がなかった」のは「表立って反対できなかった」と解釈している。
ただ、結果として北伐の失敗続きで左遷寸前まで行っておきながら、
彼個人への批判はほとんどないことからしても、素晴らしい人物だったんだろうね。
己の信ずる道に真っ直ぐすぎた…というのが、個人的な印象かな。
暑苦しい奴だったんだろうな。
先帝−諸葛ラインの遺志を〜とか熱弁振るって
誰も反対出来ない雰囲気みたいな。
その傍らで、諸葛亮の実子であり、現実として蜀漢政権の中枢の一翼を担い、
(実力は別にして)庶民の人気はあった諸葛瞻は微妙な表情だっただろうね。
父の遺志は尊重したいという気持ちは抱いているんだけれども、
自身が2代目のお坊ちゃまだけに、姜維のように突っ走るだけの気概もないし、
現実として自分を含めてそれをなし得る人材は見当たらず、国力の差も大きい。
また、「諸葛丞相の遺志を〜」と声高に唱える姜維に対して、
実子としての微妙な感情も働いてしまうだろうし。
>>65 蒋琬は東征に反対されて、やむなく北伐に切り替えたし、
費禕も大規模なものには反対だったが、姜維に幾度か出兵させているし、
北伐自体を止めようという空気ではなかったように思える。
無理のない形にしようと言う空気はあったと思うけど。
北伐しろって言う詔勅も出てたしね。
ただ、益州土着の奴らとか、外から来て根付いちゃった二代目以降の奴らとかは、
「天険を恃みにしてりゃ大丈夫だから、北伐なんてやる必要ない」と思ってたかもしれない。
蒋琬や費禕にいくらかやる気はあっても、下の奴らがどうだったかって記述はないし。
あと、姜維の場合、劉備や諸葛亮の遺志を継ごうというよりは、
単純に国家の繁栄と存続、あとは自身の功名を願ってやってたように思える。
郤正の論文から見える姜維は、淡々とした感じで、
先代の遺志がどうのって事にこだわらなそうだ。
北伐を続ける方便として、その辺りの事を語ってたかもしれんけど。
母親から帰郷を促される手紙に対して、
出世の糸口をつかんだみたいな旨で断ったあたり、
功名心は強かったみたいね
>>68 蒋琬は劉禅の詔勅の件もそうだし、例の漢水東進策の立案など、外征にある程度積極的な立場だったと思う。
それに比べると、費禕はあくまでも迎撃主体で、姜維の出兵も軍部のガス抜きに近かったように感じる。
姜維の立案に危うさを感じて大軍を預けなかった逸話があるから余計にそう感じるのかも。
蒋琬と費禕は、それぞれのやり方で大過なく国を維持させた素晴らしい指導者だったと思う。
その後の魏・呉の状況の変化という外的要因ももちろんあるだろうけど、
姜維は生粋の軍人だったから、ああいう結果を招いてしまったということなのかな、やはり。
貴殿の文章に比べると自分の知識の薄さを痛感してしまうので、
以上は私の個人的な印象ということで一つご勘弁のほどを…。
>>70 別に責めているわけではないので、そんなに恐縮されると困ってしまうな。
費禕は248年から251年まで諸軍を率いて漢中に駐屯していて、
これは恐らく、249年の麹山・牛頭山への出兵に合わせたもので、
この249年の戦役から、翌年の(恐らく)白水・洮城近傍での戦いが終結するまでの間という事になる。
こういう事から、費禕も、小規模な軍で行わせた姜維による支作戦が成功し次第、
何らかの行動に出るつもりだったとも見れるので、消極的賛成の立場だと思っている。
大軍は預けられないけど、1万程度の規模で行う支作戦の成功に合わせた作戦は立て、
それに沿ったものは行うよ、という程度のスタンスじゃないかな?
個人的には、漢晋春秋の姜維を諌める記述は、この一連の出兵が失敗した後の事じゃないかと思っている。
「失敗して句安ら有望な将も失ってしまった。やはり丞相には及ばない」という感じで。
まぁ、結局は全部推測だし、費禕を消極派だと見る意見の方が世の主流なので、
俺の意見に賛同する必要もないし、一つの意見として見てくれれば良いよ。
いやはや、自分とは立場を異にする意見なのに素直に引き込まれてしまいますわ。
既存の概念にとらわれず資料を紐解くことは、私にとってまさに「言うは易し、行なうは難し」。
これを契機に私も少し視野を広げて考えられるようになれるとよいのですが…。
ありがとうございました。
255年に張翼が反対した時は、小国であり民が疲弊している事を理由としてたけど、
この時は、姜維が軍権を手にしてから3回目の北伐で、
毎年やっていたとは言え、そこまで批判するほどではない。
253年は益なく帰ったが、254年は狄道県長の降伏に乗じて出兵し、
襄武の攻略には失敗したものの、解囲に赴いた魏軍を撃破して指揮官を殺し、
隴西の3県を攻略した上、現地の羌族を手なずけて物資を集積し、翌年以降の備えとしている。
諸葛亮が最初二度に渡って益なく撤退した事に比べれば、上々の滑り出しと言える。
にもかかわらず、諸葛亮時代には出なかった民の疲弊を心配する声が挙がったという事は、
諸葛亮の内政手腕の素晴らしさと、数万の軍勢を送り出す事の経済的負担の大きさを示しているんじゃないだろうか?
蒋琬や費禕は、連年数万を動かした上で、国家経済を疲弊させないだけの自信と手腕がなくとも、
それを弁えていたからこそ、賞賛されるのだろう。
姜維の限界はその辺りの見極めにあるのだろうね。
将帥としての能力は、当時の蜀にあって群を抜いていたが、
それ故に、政治的な配慮を疎かにしてしまったと。
呂乂伝をみると諸葛亮の歿した後、蜀の内部で兵士の亡命があったようだけど
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 10:49:35
>>74 ほうほう
そんな事があったのですか
興味があります
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 19:41:42
ショウエンとヒイの比較ののほうが良かったんじゃない?
>>74 呉でも時代が下がるにつれて脱走する兵士が増えたらしいよ。
姜維の肝は鶏の卵ほどだったとあったけど
これってでかいってこと?
鶏卵は演義で、もとになった記述では一升と書かれている。
ここで言う胆は胆嚢の事だと思うから、一升(約200cc)ならでかいとおもうよ。
鶏卵だとさほどでも無いように思える。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/21(土) 14:14:37
趙雲、諸葛亮と立て続けに初黒星をくれてやった姜維にもっと愛の手を…
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/23(月) 04:55:33
蒋エン…終盤の守備固め
姜維…消化試合の鬼
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:41:43
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/11(金) 02:43:40
蜀衰退の中、孤軍奮闘
まさにハードボイルド
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/11(金) 03:58:47
曹爽軍から漢中を守った王平のほうが偉いっちゅうねん
政治家たる諸葛亮が政治の一環(延長線上?)として行っていた北伐を、
軍人たる姜維が真似て行うことにそもそも無理があったのではないかと思う。
一番好きな姜維を語るスレとして機能している…うれしいスレだ。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/12(土) 03:16:16
もし姜維が諸葛亮にスカウトされなかったら蜀はど〜なってた?
諸葛亮が『欲しい…』って思わなかったら…
「英雄、生きるべきか死すべきか」
だったっけ?
姜維が主人公の三国志
内容は知らないんだけどまさに姜維の一生を言い当てた題名だと思ったよ
英雄は居所を間違うと凄まじい被害を周囲に及ぼすというけど…
>>81 趙雲・諸葛亮共々戦ってないような
戦わずに降伏
>>19 諸葛亮のねーちゃんはカイ祺の嫁さん
カイ祺やっちゃったのは孟達
事情が違う
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 17:55:19
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 23:53:30
>>86 郭ワイが来てたらどうだったか。
カコウ玄も戦初心者だったし。
三国志マガジンであったなー。あの王平カッコヨス。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/30(土) 23:58:40
姜維と真田幸村による黄金タッグ・・・・・・・・・・・・無双大蛇ですよ?
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/01(日) 00:17:06
姜維ってどういう性格だったのか、どういう意図があったかよく分からない
行跡ばっかり取り沙汰されているが、そういった部分を読み取れないだろうか?
淡々とした性格だったなら、功名心が強かったとは考えにくいんだがな。
>97 俺はあの漫画を読んで「魏延がいてくれたら郭淮だって・・・!」と思ってしまった。
>>99 姜維の性格についてだったら、郤正の論文があるじゃない。
学問を楽しんで倦む事無く、質素な生活だったが、無理にやってたわけでもなく、
ただそれで十分だと思っていた、と。
栄華に興味なく、ただ国家の繁栄と、自分の名が歴史に残る事を願ってたんだと思うよ。
世俗の楽しみをも追求した費禕とは全く違うね。
尊敬の対象とはなっても、友人として親しく付き合うには面白みに欠けていたのかもしれない。
楊戯が姜維を軽く見てたのも、案外その辺が影響してるのかもね。
>>100 給料は全部使い切る江戸っ子、とか言ってなかったっけ?
質素だったかな
「衣服取供、輿馬取備、飲食節制、不奢不約、官給費用、随手消尽」という記述や、
「如姜維之楽学不倦、清素節約、自一時之儀表也」という記述もある。
俸給を使い切りはしてたけど、生活自体は質素だったと思うよ。
家は粗末、妾もおらず、歌舞音曲に興ずることも無く、
衣服や車馬はお上からの支給品、食事も節制してた。
それでも俸禄は右から左に使い尽くしていた、と言うのはどういう事なんだろうね?
施しをしてた、とかは書かれてないけど、自分が生活して余った分は、
部下の将兵に与えたりしてたんだろうか?
皇帝が降伏しても尚、部下の将兵が高い戦意を持っていた事を考えると、
将兵の姜維に対する心服の度合いは凄まじいものがあるしね。
戦費の足しにでもしてたのか、私兵を多く抱えてたりしたのかな。
そういう姜維だからこそ、周りの反応が微妙だったのかもね。
人間的には非難するようなところがない傑物だがとっつきにくく、
北伐の積極論者であり、直属の部下からの信望の厚さが尋常ではない。
そして魏からの降将であるという過去。
全ての要因が姜維が孤立する方向へ向かってているようだわ。
益州土着の豪族である王嗣、劉備流浪時代から付き従った趙雲の子である趙広、
荊州出身で劉璋の所で学者をしてた来敏の子である来忠、
荊州出身で劉表に仕えていた向朗の一族である向充など、
姜維を支持する人物も、結構幅広かったりするんだよね。
北伐否定論者も、姜維を嫌ってたとかは書かれてないので、
ある種のカリスマ性みたいなものを持ってたのかもしれない。
楊戯とか張翼とか、仲の良くない人物もいたみたいだけどね。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/12(木) 00:58:50
ショウエンって大きな軍事行動の実績ってあるの?
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/12(木) 02:19:17
上庸から侵攻しようという計画を立てたが多くの反対に合い断念。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/12(木) 02:19:53
姜維は政治家としての能力はなく蜀の国力も知らず、本職の軍人としても魏延に到底及ばない
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/12(木) 02:40:33
なぜこの時期に降ったのか?
魏延オタって、なんでわざわざ敵を増やすような発言をすんの?
>>102-104 政府にしてみれば信望を集める人は皇帝の威光を薄らせる存在でしかないからな。
>>111 おつむが弱いから以外のなにものでもないような
姜維オタって、なんでわざわざ敵を増やすような発言をすんの?
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/14(土) 04:10:47
魏延って王平には負けてるんだろ? 何で王平信者って少ないの?
ショウエンって酔っ払って劉備にクビにされかかってんだな。
どういう状況で、んな痴態を顕わにしたんだろう?
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/14(土) 04:28:08
そもそも何で孔明は姜維ほしがってたんだか
涼州方面に詳しく影響力がある人材は貴重だろう
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/14(土) 13:44:50
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/14(土) 19:42:03
>>116 才能ある将の一人ぐらいにしか思ってないでしょ
演技じゃ後継者あつかいだが
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/18(水) 00:06:15
諸葛亮死亡まではショウエンや費イより楊儀や魏延のが立場は上だったの?
いや、歴然と將・費が上
大将軍を留守番代わりに外征する丞相てのもよくよく考えると妙な話だ
蒋琬が大将軍になったのは諸葛亮死後のことだろーが。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/18(水) 13:36:27
楊儀の方が格上だった
ショウエンは楊儀を飛び越えた出世をしてる
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/18(水) 16:58:52
>>120 ショウエンと魏延は立場が違うので微妙だけど,楊儀と費イは完全に格下。
ショウエン≧魏延>>>楊儀≧費イくらいな感じ。
126 :
125:2007/07/18(水) 17:04:50
但,北伐時。
>>123の書いたのは正解で,時期によっては地位が違う。
また,魏延は成都にほとんどいなかったので,権勢という意味では最下位だと思われる。
>>125 司馬(費イ)と長史(楊儀)なら長史の方が上だろうけど、
留府長史(蒋エン)と、丞相に随行する長史の間にそんなに違いがあるか?
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/18(水) 23:18:52
蒋[王苑]って丞相府の長史だったか?
楊儀は丞相長史だが。
>>128 諸葛亮が丞相なんだから、大将軍とかの長史ではないでしょ。
蒋琬は張裔に代わって長史となったんだし、
後主伝にも、「丞相留府長史の蒋琬を以って尚書令となす」とある。
130 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 10:32:54
ショウエンが将軍位に就いているって事は
史書に無い戦績や戦果を挙げていたんだろうかな
将軍という官職に必ずしも軍功は必要はない。
政治的な側面も考察しないと。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/07(火) 09:36:43
>>24 魏延程の武将と姜維なんかとを一緒にするな。
姜維なんて結局名ばかりでチョウウン程度の武将でしかないだろ。
ジョミニアンが切れそうな放言w
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/07(火) 09:39:28
>>45 どっかの国のお偉いさんが今同じことをしようとしているよね。
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/07(火) 16:53:50
結論として
太郎=孔明
イワキ=魏延
里中=劉備
殿馬=ショウエン
山岡=姜維
でOK?
>>135 姜維は渚
あと実際には何もしていないに等しいショウエンを殿馬とはおこがましいんじゃね?
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/08(水) 08:21:12
でもショウエンはピアノが上手いんだろ。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/08(水) 08:50:14
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/08(水) 09:31:00
じゃあ空席の劉備は法正でいい?
修正版
太郎=孔明
イワキ=魏延
里中=法正
徳川=劉備
殿馬=ショウエン
山岡=ひい
渚=姜維
犬神=ヨウギ
北先輩=劉禅、も忘れないで下さい
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/13(月) 13:08:41
age
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/25(土) 11:16:30
ショウエンが死んだのは酒の呑み過ぎのせい?
心臓に持病があったらしいよ。