1 :
無名武将@お腹せっぷく:
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いが繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。
それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。
とりあえず三戦板のスレの半分を戦国スレにする。
それをこの板の復興の足がかりとしたい。
3 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2007/02/22(木) 00:25:53
とりあえず三戦板のスレの半分を戦国スレにする。
それをこの板の復興の足がかりとしたい。
4 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2007/02/19(月) 21:40:09
戦国板は戦国板、三戦板は三戦板だ。
三国志だけじゃ糞スレばかりなので、戦国スレを頑張る。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 23:41:02
互いに謀略を駆使しまくった感じだな。
毛利が、北九州の豪族を次々と大友から離反させたかと思えば、
大友は大内の残党に反乱を起こさせたりして。
謀略・外交戦は大友の勝ちだな。
浦上・山名・三好・能島と組んで毛利包囲網を形成するなんて
スケールでかいよ。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/24(土) 20:50:24
ひゃつひゃつ
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/27(火) 13:45:16
あの毛利元就相手に謀略戦で互角以上の大友はなかなか
毛利水軍は俺でも倒せる
毛利対大友って
毛利が攻め込んで、合戦で勝つか押し込む
→大友が外交戦で毛利の後背地をつく
→毛利撤退
の繰り返しに思える。
大友って外交はうまいけど合戦に弱いんじゃない?
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/02(金) 00:00:47
大友は国力ある
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:05:52
総石高なら大友の方が上かな。
自演でスレ伸ばして楽しいっすか?www
14 :
無名武将@お腹せっぷく :2007/03/05(月) 10:21:25
宗隣唯一の漏れ場
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 00:18:22
大友の最盛期国力って何万石だったんだ?
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 00:29:53
200万石ぐらい?
SUGEEEEEEな
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう [戦国時代]
さあ、取敢えず何でこのスレを立てたのか理由から聞こうか
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 16:14:22
三戦板だから板違いではない。
しかし需要は無いかもしれん。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 09:42:18
志賀一族が居なければ・・・・
田原親賢って優秀だったの?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 21:23:36
親賢はダメな子
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 09:39:53
田原親賢は外交以外何もしたない
立花と高橋の養子関係ってどうなってんの?
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 22:36:05
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 01:33:54
志ジ広良は絶倫
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 10:58:35
はっはっはっ、お元気ですのう
( ^ω^) ぶちころ
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 09:23:58
立花山城って、毛利の手に渡ったことあるの?
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 12:00:30
( ^ω^) 30get!
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 00:40:48
大友の裏切り者って次男?三男?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 11:02:53
次男
あて?三男じゃなかたっけ?
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 15:52:51
え?大友の国高って、200万もあったの?
秀吉の時代になると発展してきて、わかる気もするけど、そんなにいってないと思うよ。
だってこの時代、四国一国統一しても総国高が50万もいかないくらいだもの。
織田がピークで900万くらい、北条がピークで150万、毛利130万だもの、
後年島津がピークでやっと毛利に並んだくらいだった気がする。
九州でのピークは、竜造寺が90万国くらいだった気がするが。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 19:54:04
面積と国土の開墾具合を見ると
大友の最盛期の領土は150万石くらい。
竜造寺の最盛期は100万超えてるYO
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 10:17:02
広さで見ればたしかに吸収は意外とデカイ
>>10 俺の毛利と大友のイメージからすると逆な感じなんだけどな。
九州ってやっぱり強そうに思えても中央から離れてるから弱いのかな。
当時は三好軍が最強ってことになるのか。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 18:16:47
家中が分裂する前の三好家は強かった・・・・
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 09:31:14
40get!
三好義賢が戦死したのが凋落のキッカケでわ?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 15:37:08
末期の長慶と末期の彫塑壁元親って似てるな
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 09:23:49
ちょうそかべって変換できないのなww
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/05(木) 09:18:38
マイナーだから
「ちょうそがべ」なら変換できるだろ
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/05(木) 21:09:36
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 21:11:34
三好の石高のほうが不確定
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/07(土) 11:04:48
ありそうでなさそうだな
>>38 何でそうなる。
合戦の強さは個人の身体能力より、
大名家の家中統制の強さと総大将の采配
が強く影響したと考えればいいだけ。
家中統制・総大将級の人材の二点で
毛利が大友に勝っていただけの話だろ。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/07(土) 17:55:17
大友の前線武将は毛利より勇猛。
しかし足手まといも多数居た。これが敗因。
毛利には足手まといになるような武将はほとんど居なかった。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/07(土) 23:07:21
耳川もそうだったな
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/08(日) 02:07:54
┌─────┬─────┬─────┬─────┬─────┐
| 友人宅 | 公共施設 | 公園 | 学校 職場|家族の部屋|
├─────┼─────┼─────┼─────┼─────┤
| 風呂 | 飲食店 | 神社 寺 | 本屋 | 電車 |
├─────┼─────┼─────┼─────┼─────┤
|先輩上司宅| 路地裏 |自分の部屋| 茂み | 運動施設 |
├─────┼─────┼─────┼─────┼─────┤
| 駅 | ゲーセン | 後輩宅 | 病院 | トイレ |
├─────┼─────┼─────┼─────┼─────┤
|飛行機 船 | 居酒屋 | 漫画喫茶 | 宿泊施設 | コンビニ .|
└─────┴─────┴─────┴─────┴─────┘
オナニービンゴ
>>50 それでは毛利のほうが平均は低いが
ばらつきが少なかったってことでいいんでしょうか。
そういう軍団のほうがむしろ計算しやすくてお強いですか。
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 20:21:46
>>50では平均の高低については言及されていないな
すいません。では訂正します。
単にばらつきが少ないほうがお強いということでよろしいでしょうか。
一部に英雄がいてもそれに全体でついていけなければだめということですか。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/10(火) 09:17:04
同説が「居ても 志賀親守とかがねぇ・・・・
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/10(火) 17:32:46
大友の雷と雲はどうだったんすか
立花一家は超優秀だろ?
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/10(火) 21:22:33
なぜか優秀な一門だったな。宗茂はもとは高橋姓だけど
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/11(水) 20:47:04
毛利で優秀な軍師といえば小早川隆景ぐらいだろうしな
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/12(木) 09:23:50
志賀親次も最後にポカしてしまったのが悔やまれる
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/14(土) 00:03:35
義統がかわいそう
>54-62
毛利と大友の差は個々の武将の能力の問題ではなくて、
指揮統制の問題でしょ?
立花・高橋といった優秀な武将がいても有機的に連携できず
ばらばらに戦ったんじゃ勝てるわけ無いじゃん。
特に耳川なんて最悪。
総大将ははるか後方で神社の焼き討ちにうつつをぬかし、
前線では一人抜け駆け、つられて全軍あぼーんだし
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 10:59:41
指揮統制能力のある武将が総大将を努めれば
そうならずに済んだだろうな。
まぁ大名には大名毎の軍事的慣習もあるだろうが
総大将を努められるのって、
大名本人か兄弟・息子か
太源雪斎のように飛びぬけて
権威のある重臣くらいでしょ?
そのクラスで比較すると、
毛利には両川が居るけど
大友は、宗麟本人に指揮能力は無さそうだし
弟は捨て殺し、息子はヘタレ
負けるしかないわな、大友は
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 09:23:47
宗麟本人の指揮能力はそこそこあった。
しかし耳川の時代まで来ると、宗麟自身が堕落していた
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/17(火) 09:31:59
家臣の嫁を奪ったってマジか
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/17(火) 19:53:31
どぉだろ
元の嫁さんとは超仲悪くて別れたってのは知ってるが
一説ではその話題そらしの為の耳川遠征だったとか
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/18(水) 09:28:42
もし話題そらしだったら
そりゃ負けるわwwwってかmんじ
一万田親実を殺してその美しい妻を奪い、親実の弟の高橋鑑載が離反するってやつな
それで離反するなら一万田鑑実が先だろって
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/18(水) 21:43:45
耳川行きながら寺潰して回ってたしな。
そら負けるわ。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/19(木) 09:14:33
一番の敗因は志賀親守に重要な役を任せたこと
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/20(金) 09:33:34
道雪がお怒りのようです
>>68 一方、一万田氏惣領の親実も宗麟に仕えて重臣に列していたが、宗隣が親実の妻に懸想して、
妻を奪われたうえに死に追いやられた。兄の横死を知った鑑種は宗麟の非道を恨んで、
ついには叛意を抱くようになったという。
親実の嫡男鑑実は(親実と鑑実は混同されることが多い)、
叔父鑑種の謀叛に与せず大友方として討伐軍に加わった。
このことから、鑑種の謀叛の原因として兄親実の事件があったとしても、
それ以上に毛利氏と通じて大友氏から自立しようとしたものであったとみた方が自然なようだ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/21(土) 00:03:08
くわしいですね
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/22(日) 21:03:38
77get!
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/25(水) 09:26:15
門司あたりで、決戦してほしかった
大内家って評価低すぎ
そりゃ義隆があんなにヘタレじゃあねー。
義興があんなに頑張ったのにね。
っていうか、スレ違い。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/25(水) 22:13:32
義隆は元々はヘタレじゃないよ
十分功績残してるよ
義隆がダメになったのは息子が死んでから
>>81 肥前まで影響与えて九州ではがんばってたよね
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/26(木) 09:27:54
少弐の旧領ほとんど奪ったしね
毛利としては当然大内の旧領欲しかったんだろうね
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/27(金) 09:10:35
ぶっちゃけ大内家自身の最盛期は義隆の時だよね。
そこら辺がえらい人(光栄の中の人)には解らんとです
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/27(金) 09:18:37
マジで光栄のせいでしばらく勘違いされてたよな
>>85 義隆の最盛期って義興時代の遺産に乗っかっただけじゃね?
勘合貿易の独占、尼子を押し返して安芸・石見に勢力を拡大、
豊前・筑前から小弐を追い出して竜造寺に頼るだけの存在に陥らせた、
全部義興時代のことじゃね?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 01:11:43
先祖の遺産に乗っからない大名なんて珍しいだろ
だいたい、遣明船派遣再開は義隆の時代だし、少弐や
安芸武田氏を滅ぼしたのも義隆の時代
跡取りが死ぬまでは、平均以上の君主だと思うが
89 :
87:2007/04/28(土) 02:16:39
遺産に乗ったって言い方が悪かったな。
義興の業績の成果が出たのが義隆が跡を継いだ後だったのであって、
義隆の功績じゃあないんじゃないかと言いたかっただけ。
勘合貿易の再開は義隆時代であっても、
独占できたのは義興が細川との争いに勝って勘合附を握っていたから。
小弐が滅んだのは、
義興時代豊前筑前から追い出される→竜造寺を頼る→
竜造寺と対立→行くあてが無くなり義隆に降伏→だまし討ちにされ滅亡
って流れだから義興時代に実質的に滅亡していたようなもの。
安芸武田氏は、義興時代に武田氏は大内側だったのが
尼子に寝返ったから攻め滅ぼさざるを得なくなった訳で、
大内が安芸で勢力を拡大したって言う訳ではない。
月山戸田の後の人生投げ捨てた姿だけで義隆を評価すべきじゃあないというのは分かるが、
大内の最盛期は義興によるもので、義隆の功績じゃあないと思うが?
おれ自身は、全部義隆の功績とは言っていない。
ただ、義隆時代に結果として残った事実を言っただけ
義興の努力が大きいのは認める。
ただ、もし義隆がちゃんと引き継いでいるあたりは
君主としてそこそこの人物であったんだろうなとは思う
イメージだけで語られるから辛いよな
存亡の流れは武田勝頼を大きくしたようなもんなんだが
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 12:41:13
だよね。勝頼の治世は10年持たなかったし実質2年目の長篠の戦いから破綻が見え
始めてる。もっと言えば、信玄の死後は家中を統制できないまま終わってる。
それに比べて義隆は20年間は家中を上手く統制してるし、対外的にも領内経営的
にも大内家の全盛期は義隆の治世の時代で間違いない。
家督相続から滅亡まで23年間だが、23年という歳月は消して短いものではない。
寧ろ戦国時代にあっては非常に安定した長期政権だった。(名将と言われる者達
も家督相続から30年程度で殆んどが死亡。又、20年も相続すれば息子に相続させ
て隠居する場合が多い。)
93 :
92:2007/04/28(土) 13:03:27
勝頼を例に出されてたが、イメージ的には信長の方が合ってると思うわ。
対外的にも義隆の時代で大内家が縮小した事は無く、外的要因ではなく
国内要因で滅亡しただけ。
なので今川や武田、北条とかと一緒にするのは間違っている。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/28(土) 22:30:55
武田家が滅亡したのは勝頼の生まれの悪さや
武田家家臣団の旧世代的な臣従関係にもあるでしょう
結局信玄が失敗したんだよなあ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/30(月) 00:17:27
二代に渡るツケだな
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/01(火) 09:26:06
信玄が生きていても武田の落日は眼に見えていた
つーか義信殺したのが間違いだろ
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 11:19:38
信玄はけっこう残忍だな
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 15:49:41
毛利広矩ってなんて読むの?
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 21:50:49
100get!
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 13:35:18
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 15:10:02
wiki見ればいいのに
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/06(日) 20:45:52
大友親家萌え
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/08(火) 09:36:24
萌えwwwww
>>92 信玄の代で、「戦国大名的な主従統制」を全く築けなかったのが
滅亡の原因
元就にしても一揆の盟主から戦国大名化の途中で息絶えてんやん。
その段階において口羽通良や福原貞俊らが評価されないのがカワイソス
108 :
87:2007/05/09(水) 20:38:28
大友宗麟にしても室町大名家からの脱却を図れず、
国人階級の反乱に悩まされている。
毛利・大友に比べれば武田は「戦国大名的主従統制」に成功している。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/10(木) 09:43:07
武田はそんなに進んでなかっただろ・・・・
武田は有名な二十四将のうち半数近くが他国から流れて来た浪人やその子供や百姓出身
有力家臣の子弟を信玄の近習として集め、
その中から見所のある者を取り立てているから意外と能力主義的な人材登用をしている。
毛利は、基本的に従属した豪族の上に両川を乗っけている形。
大友の重臣達は皆譜代の重臣。有力国人からの登用さえない。
島津に至っては、総領権さえ確立されて居らず、
文禄の役の時に義久と義弘の間で
「家臣が出征してくれないんだよ。お前からも何とか言ってやってくれよ」
なんて手紙が交わされる始末。
武田の家中統率が「戦国大名的」とまで言えるのかどうかは兎も角、
武田>毛利>大友>島津
だろう。
まあ、その島津に耳川でこてんぱんにやられた大友はw
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/11(金) 10:16:05
>毛利は、基本的に従属した豪族の上に両川を乗っけている形
両川だけ?他の重臣は乗せないの?
>>111 耳川敗戦の原因は大名形態・家臣団編成の
問題ではないでしょ
戦場で指揮官の命令に従わずに抜け駆けをする武将が出てくるかどうかは
大名家の家臣統制の仕方に関わりがあるのではと
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/13(日) 00:45:26
それもあるが、耳川敗戦のとき宗麟自身が前線指揮をせず
大将の田原親賢、軍監の志賀親守がほとんど動かなかったから負けたのです
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/13(日) 20:13:26
あげ
有馬鎮信
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/19(土) 00:58:33
誰だよ
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/20(日) 10:52:06
「鎮」でしげって読ませる根性に感服
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/23(水) 09:14:54
120get!
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/26(土) 10:51:16
しかし、大友も竜造寺も、島津に都合よくポカしてくれたなぁ
運も実力
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 21:52:23
>>111 でも、武田家は滅びたよね。
能力主義で他国民や平民から抜擢するのは
一見よさそうだが、落とし穴が存在する。
それは、君主への忠誠心はあっても、家への
忠誠心が薄いことだ。そのため当主が死ぬと
跡継ぎとの関係が上手くいかない。
武田、織田、豊臣を見ればよく分かる
>>123 そういう意味ではゴリゴリの譜代の中に
本田、榊原、酒井、土井、鳥居等有能な家臣を抱えていた徳川が
最良のような気がするが、
徳川は家康が長生きしたからそういった点では評価し辛いんだよね
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/30(水) 07:38:08
>>124 でも、家康の祖父、父が2代にわたって暗殺されたのに
滅亡しなかった点は家臣団のおかげといってもいいかも。
ただ、両方とも家臣に暗殺されたのはどうかと思うが
つまり、徳川家臣団は家への忠誠心が強いが君主への忠誠心はそれ程でもない、
武田とは正反対だったと
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 23:44:58
勝頼は生母の問題があったからなぁ
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/03(日) 05:00:38
震源も家康も長男頃してるな
立花山城が重要
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 11:01:16
北九州は秋月
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/10(日) 01:21:18
秋月種長が豊前35万石の藩主になっていたかもしれない
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/12(火) 09:30:04
結局立花山はほとんど大友の手だったな
門司城攻防戦あたり、大合戦みたいで好き。
結局、豊前は門司とその周辺を除いて大友が押さえたんだっけ?
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/14(木) 09:27:53
時期によって変わるんじゃない?
おれは詳しくシランが
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/16(土) 23:12:45
後の杉良太郎である。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/18(月) 10:21:12
ないっすw
大友のほうが強そうだが
結局近世大名になれたのは毛利だった・・・・
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 22:30:21
よくある話だ
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/24(日) 00:00:39
毛利厨乙
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/26(火) 10:41:06
おっと・・・・
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 01:34:19
大河ドラマではこの部分の描き方が不十分だった。
対尼子氏戦より白熱したのに。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/27(水) 14:44:19
対朝鮮、対明貿易の拠点である博多は、当時では京都に次ぐ、
日本で2番目の人口を持つ商業都市であり、莫大な利権が絡んでいた。
つまりは毛利、大友双方共に、博多を取れぬことには意味がなかった。
>>111 その他国出身の浪人や身分の低い階層からの取立ては、実は信虎がやっているんですよね。
>>125 徳川、というか岡崎松平家が滅びなかったのは、家臣団ではなく今川義元のおかげですよ。
広忠は一族家臣団に城を追われ、今川の介入で岡崎城主に返り咲いた。広忠の死後、通常は
松平家の財産は一族家臣に横領されるはずだったが、今川が軍を岡崎に進駐させて松平家の
財産を保護してくれたおかげで、後に家康は岡崎松平総領として城を相続できた。
今川義元は岡崎松平家にとっては大恩人だが、三河というか岡崎衆にとっては余計なことを
してくれた存在。だから後の記録で悪し様に描かれた。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 14:07:47
身分にとらわれない人材登用ってのは、
戦国ではそれほど珍しくはない。
信長だけが特別だったわけではなかったのだ。
147 :
天機老人:2007/06/29(金) 00:18:56
毛利vs大友、当時の事実上の西国の覇者決定戦じゃわな。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/29(金) 15:48:09
毛利氏台頭前の、大内氏と大友氏の抗争も重要。
>>148 途中から大友は大内側へ回ってなかった?
150 :
天機老人:2007/06/30(土) 20:16:47
陶晴賢が謀反を起こして大内義隆を討った後、大友家から養子を迎え入れて、
大内家の当主に擁立しておる。
結果、九州にあった大内家の領土は、大友家にも両属という形になったのじゃ。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/03(火) 09:37:00
少弐って結局一族みな死んだの?
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/05(木) 10:01:43
いや
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/06(金) 23:46:50
鍋島氏も、少弐の血が入ってたはず
>>152 少弐政興と千葉胤頼(政興の兄)の系統は生き残った。
政興の子、少弐資宗、関新左衛門、中牟田七郎兵衛、
中牟田新兵衛は皆少弐滅亡後は竜造寺に仕えるも、1584年沖田畷の
戦いで兄弟全員討ち死にしたという。
結局、残ってるのは千葉胤頼と横岳氏の系統だけだな。今でも少弐という
苗字はあるんだが。
少弐氏を語ると止まらなくなるので、ここらでやめておく。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/08(日) 21:47:39
千葉胤頼と横岳氏の末裔が江戸時代あるいは維新後に復姓した
かもしれないね
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/11(水) 09:25:18
少弐も哀れな末路だったな・・・・
大内のせいだな
大内と少弐は仇敵
少弐と千葉って実は関係あるのかぁ
鍋島直茂は少弐の男系子孫
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/22(日) 20:56:35
マジで?
田原親賢は名将
佐伯惟定はなかなか
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/28(土) 23:37:04
隠れた名将満載だな
166 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 19:21:29
大友のほうが家臣団統制は取れていたのかな?
でもキリスト教の押し付けすぎで瓶解したとか?
もうりこごろう
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/01(水) 09:39:44
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/03(金) 22:42:06
一万田鎮実とか、良いよね
毛利家臣では吉川経安がいぶし銀
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/09(木) 09:17:04
大友と尼子で毛利を挟撃!
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/12(日) 09:13:32
でも大名として残ったのは毛利だけ・・・・
大友は志賀一族のせいで散々だ
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/15(水) 10:36:31
大友にしろ竜造寺にしろ、重臣の家に乗っ取られたのは一流のギャグ
大友は乗っ取られたといえるのか?
取りあえず少弐氏が可哀想なのはガチ
そう思ってもらえると有難い。