か2?
>>3 そだね。とりあえずネタ出ししておく。
三国時代、とりわけ後期に入ると魏では軍制の整備も明確なものなっていき、
それまで有事に際して臨時に任命され戦後には解任されていた督軍に代わって
より固定的な職官である都督があらわれ、都督制が長久化していったけど
蜀軍の軍制を見ると、地方の軍権を握る職官はいまだ督にも関わらず
都督も存在するという雑然としたものになっている。
姜維も督中外軍事に任じられていて戦争が終わっても軍権を持っていたし、
江州都督督軍の李豊は当地にあって対呉方面・食料輸送の運営を任されていたことから
蜀においては督が魏でいう都督を指していたことは分かるけど、
蜀における都督とは何か督とは違った権限を持っていたんだろうか?
個人的な推測を述べると、蜀が魏のように督軍制から都督制への転換をしなかった理由は
蜀は内治に集中できるほどに外界からの脅威が薄れていなかったということもあるだろうが、
当面の体制で決定的な不自由が無かったために完全な移行へと至れず伸び伸びになっていたのではと思う。
魏は三国の中でも広い版図を誇るぶん外敵の侵入を効果的に防ぐ手立てを必要としていたため、
有事に任命→戦後に解任という非効率的な督軍制を変革して都督を置く(常設化する)と同時に
地方で軍権を持つ都督に刺史を兼任させて軍政併せて集権化し、速やかな決断と行動を可能にしたが、
蜀では常設化された督、都督ともに刺史を兼ねることなく、刺史・太守の下で軍事を司る役職でしかなかった。
この差はやはり蜀は版図が小さく、地方分権的な政策を取る必要が無かったというところにあると思う。
当初、督を常設化すると同時に国境沿いに都督を配備したことから
その時点では魏のように軍制を転換させようと目論んだと考えることが出来るが、
暫く経って現実的にその必要がない、と判断されたから放置されたのではないかな。
そうでなければ無駄な二制度の並立という異常な事態が滅亡まで放置された理由の説明が出来ないと思うが、
何か別の意見があったら教えて欲しい。
なにぶん上に書いたことも推測をもとに書いているので。
新スレおめ
この手の良スレばかり落ちた
今回の措置はワケワカラン…
結局この板で継続する事にしたのかい?
さっきも落ちてたみたいだし、この鯖では少々先行き不安ではあるな。
>>4-5 都督制に関する本などは読んだ事が無いので、あまり大した事は言えんが、
個人的には、魏が都督州諸軍事と刺史を兼任させた、と言うのはあまり例が無いように思える。
曹休が都督揚州諸軍事と揚州刺史を、カン丘倹が都督豫州諸軍事と豫州刺史を、
王基が同様に都督豫州諸軍事と豫州刺史を兼任した事くらいしか見受けられない。
西晋にまで時代が下ると、そういうのも結構見られるんだけどね。
対蜀戦線では、刺史と諸軍事を兼任した人物は確か一人もいなかったはずだし。
ただ、郭淮や王基や陳泰らの例を見ると、刺史が政治専門と言うわけではなく、
有事の際は都督諸軍事の麾下として、ある程度の戦力を率いて敵に当たる、
というのが一般的だったようだけど。
往々にしてという点では乱暴な書き方だったが、
魏において都督中外諸軍事はもともとが宗室の親戚や腹心の功臣から派遣されて戦後に赦免されず
経歴と名望によって節を持ち、一般に数万、多い場合で10万人に達する兵を擁していたことから、
それでも地方の軍政の大権を掌握していたように思う。
ケ艾はわからないが、郭淮・陳泰に関しては征西将軍・都督雍涼諸軍事で
二州を統べる都督だったから両州の刺史を束ねていたのも不思議じゃないな
また落ちてたな。
>>8 「往々にして」という文言は
>>4-5には見られないぞ。
あと、全軍の総司令官である中外諸軍事と、方面軍司令たる諸州の諸軍事では、一概に比較はできない。
有事に州刺史が、その州を統括する諸軍事の指揮下に入ってた事は確かなので、
少なくとも一定の指揮権を、諸軍事が州刺史に対して持っていた事も確かだろう。
そもそも、場所によっては州刺史と諸軍事は赴任する場所が違う可能性もある。
陳泰は王経に、「東西の軍勢が合流してから進むべきである」と語っており、
諸葛誕は楽綝を殺す際、自身の城とは違う場所で彼を殺したかのような記述がある。
戦争の絶えない地域では、刺史が或る規模の軍を指揮して、
諸軍事とは別の場所で有事に備えていたのかもしれない。
とにかくも、魏では本来州の行政を担当すべき州刺史が、軍事にもかなり関わっていた。
ひょっとすると、都督諸軍事が常設化した魏の時代においては、
刺史は軍事政治の別を問わず、諸軍事の補佐が任務だった可能性もある。
でもまぁ、基本的には州の行政は州刺史の領分だろうね。
なぁに、毎日ほっしゅほっしゅミ・д・ミ
大戦で後期人物も大量カード化されたし
こっそりと後期が今注目を浴びてます
話がそれたが、もともと蜀の都督や督軍に関する話だったな。
蜀の都督が刺史を兼任しないのは、蜀では益州刺史がそのまま蜀全体の刺史を意味するから、
それを兼任できるとしたら軍事や政治のトップしかあり得ないからだと思う。
蜀の都督や督〜というのは行政に対する命令権を持たず、あくまで軍事に対する指揮権のみを有していたんじゃないかな、と。
李厳がわざわざ、「巴州を置いて、そこの刺史にしてくれ」と要請したのも、
刺史という称号が欲しかったからじゃなく、巴の軍事だけでなく、政治をも掌握したかったからだろう。
あと、蜀で都督は江州都督と関中都督くらいだな。
先主伝では「魏延を都督とし、漢中を鎮させた」とあるが、
これは魏延伝他では、漢中都督ではなく督漢中と呼ばれているし、
基本的に蜀では、「督〜」で「〜の軍事を統括する職」という意味なんじゃないかな?
曹丕の禅譲の際の上奏では、曹仁や曹真や曹休や夏侯尚が、都督督軍として名を連ねてるそうだし、
江州都督督軍に関しては、単に魏の呼称を真似ただけで、「督〜」と大きな違いは無いんじゃないか、と思う。
漢中に次ぐ重要拠点なので、重みを持たせる為に大仰な呼称にした、とか。
うーん。でもよく分からんね。
不確かな知識であれこれ言うのもなんだし、今度都督制に関する本でも探して読んでみるわ。
魏では督というか諸軍事という方がしっくり来る
>>諸兄
「六朝都督制研究」小尾孟夫(渓水社 ISBN4 87440-620-3 C3022)の
序章から第二章まで読んで見てから考察するといいかも知れんね
>>12 いろいろと失礼。
蜀の都督にはあと李恢→張翼→馬忠→閻宇と代替わりした庲降都督があるね。
彼らの諸業績を見ると蛮族の叛乱の鎮圧、南中諸軍の平定が見られるから
江州・関中と併せて蜀の都督とは国境線に置かれるものなのだと思う。
書き忘れた、失礼。
閻宇が羅憲を副将として置かれた巴東都督というのもあるが、
これは魏の侵攻を恐れた呉の要請で置かれたもので、
やはり国境線に駐屯するという性格は変わってないなぁ。
>>15 調べてみたらなかなか高い本だけど
読んでからのほうが考察に身が入るだろうな。
>>15 その本は読んでみたいと思ってたが、高い上に近場の図書館に無いんだよね。
どうしたもんか。
>>16-17 そういや、ライ降都督とその副官であるライ降副弐都督もあったな。
関中都督より有名なのに忘れてた。
巴東都督は分からんね。晋書や襄陽記では、「閻宇都督巴東」という記述があるが、
「巴東都督」そのものは出てきてない。
華陽国志に何かあったかもしれんが、今は読めない。
ただ、李厳を江州に異動する際、陳到が永安都督となっているので、
この永安都督の権限を大きくしたものが、そのまま巴東都督となったんだろう。
中都護李厳が江州にいた時には、その部下に永安都督陳到、江州都督費観がいたって事だな。
一番よく分からないのは関中都督かな。
単なる遥任なのか、或いは、例えば関城周辺などを都督する人物を関中都督と呼んだのか、
詳細がよく分からない。
劉備が皇帝に即位した頃には置かれており、滅亡の時には傅僉がその職に就いて関城を守備していた、
という事は分かるんだけどね。
国境に都督が置かれるのは当然と言えば当然かな。
敵の侵攻に際し、真っ先に対応しなければならないのは国境に駐屯している軍なので、
国境の諸地域に、周辺の戦力をある程度自由に動かせる職を置かないと、防衛が困難になる。
呉が滅んだ際、荊州が簡単に陥落したのは、それぞれの拠点がそれぞれの判断で動き、
一個の集団を為せなかった事も一因だしね。
漢中都督
魏延、呉懿、王平、胡斉
関中都督
呉懿、傅僉
江州都督
費観、李福、李厳(正確には違うと見るべきか?)、李豊(江州都督督軍)、ケ芝
永安都督
陳到、宗預、閻宇
庲降都督
ケ方、李恢、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋
督広武(陰平郡)
廖化
督武興
蔣舒
督建威
張翼
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 14:05:18
石井仁先生が研究しつくしてる予感
>>19 督建威の張翼に加え、王嗣が西安囲督になっているので、
建威囲や西安囲以外の姜維が設けた囲、すなわち、武街、臨遠、石門、武城、建昌などにも、
それぞれ督が置かれていたかもね。
費観に関しては、江州都督と巴郡太守を兼任してたので、
軍事と政治双方の権力を持っていたんだろう。
関羽の都督趙累や張飛が暗殺された時に劉備に知らせを届けた都督などの都督は意味が違うよね?
>>22 そっちの場合、参軍とかと同じような意味で使われてるような感じだが、はっきりとは言えない。
初代ライ降都督のケ方は、南昌に政庁を置き、朱提太守を兼任していた。
そして江州都督の費観は巴郡太守を、督漢中の魏延は漢中太守を兼任していた。
つまり、劉備の時代は、各地の都督に太守を兼任させ、
軍事と政治双方を統括させていたと考えられる。
この辺りはビジオタの言うように魏の制度の模倣があるのかもしれない。
ただ、後年の、李厳の巴州刺史叙任要求から分かるように、諸葛亮時代に入って、
都督と太守の兼任を避け、且つ、魏のように都督が刺史(太守)への命令権を持たず、
純粋に諸地域の軍事のみを指揮するようにしたと思われる。
これが諸葛亮の嗜好によるものなのか、何かの理由があるのかは分からない。
>>23 李厳の巴州刺史要望を却下したように権力の分散を望まなかったんじゃないのかなあ?
>>24 諸葛亮は細かい所まで自分で管理するような人間だったらしいし、
軍事が行政に大きく干渉するのを嫌がったのかもね。
中央集権化を推し進めたかったけど、軍事に関しては中央集権しすぎるとかえって弱体化するので、
都督職を政治から分離する事で妥協した、ってとこなのかな?
ちょっと話が変わるが、唐代に維州ってのがあって、その政庁が姜維故城に置かれていた。
で、その姜維故城について、「人民中国」とかいう雑誌の2006年12月号に記事が載ってて、
それによると、姜維故城は247年の姜維による羌族討伐の際に築かれたもので、
その前後に汶山の太守となった王嗣が、263年にその地で姜維の訃報を聞き、
大恩ある姜維の名を城につけたらしい。
王嗣は蜀が滅ぶ前に死んでいるので、この逸話の信憑性は怪しいものだが、
姜維が城を築いたというのも、少し信じがたい。
247年は羌族の反乱鎮圧の他、隴西での羌族の反乱への干渉も行っているので、
悠長に城を築いている余裕があるのか?と思う。
また、姜維故城は広柔県の近くにあり、姜維の討伐した平康県とは直線で100km近くも離れているし、
どうして広柔県城ではいけなかったのか、という疑問もある。
いずれにせよ、唐代には姜維城と呼ばれていたようなので、姜維が何らかの形で関わってはいたんだろう。
王嗣に関しても、こういう逸話が残ってる以上、姜維との個人的な繋がりがあったと思う。
その「人民中国」だと、王嗣を汶山太守に推挙したのは姜維らしいし、
この逸話を信じると、なんだか王嗣は姜維の子飼いのような感じがするな。
すまん、スレが消えてたんで支援
一応保守
司馬懿を擁護する意見で、
「腹黒くて野心をギラつかせてる息子たちのせいで、司馬懿自身も必要上に腹黒く見られる」
なんてものをたまに見るが、「息子たち」と一括りにするほど、師と昭は似てないと思う。
司馬師の方は、中護軍は賄賂が横行していたが、司馬師が就任した途端に賄賂が無くなったりとか、
陳泰や諸葛誕の失策を咎めず、自身が責任をとったりとかの逸話もあるし、
頭から信じる事はできないとは言え、晋書景帝紀を読む限りは腹黒くは見えない。
少なくとも、「司馬昭の心は道行く人でも知っている」と言われた弟ほどではないだろう。
夏侯玄一派の誅殺と、曹芳の廃位も、命を狙われた事を考えれば、仕方ない面もあるしね。
まぁ、歴史上の人物としてなら司馬昭の方が好きだけどね、自分は。
功績を立てても立てなくても排除されそうだから、司馬昭に仕えたくは無いけど。
30 :
ミ・д・ミ:2007/02/20(火) 02:08:16
司馬昭之心、路人皆知。
司馬昭が後の時代だからそう見えるのだ!
実際には司馬一族の心は道行くでも知っているのだ!
と、いいつつ保守。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 07:34:58
晋書はなぜか兄の師は持ち上げて弟の昭には冷たいんだよな
李世民が関わったとは思えん
育児イライラどう発散してる?育児板
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/baby/1041904343/ 141 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:03/03/10(月) 22:53 ID:DvGFLzmy
浮気でストレス発散・・・
192 名前:キツネ[] 投稿日:04/04/19(月) 20:50 ID:Yl8B2LzA
私も、部屋で、タバコプカプカ。子供、娘2歳の近くで。泣きやまない時は、ビンタ
。ストレスだらけ。1日、タバコ、2箱。
248 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:04/09/24(金) 03:04:39 ID:FYZZtlFm
たまりにたまった悪がきへの思い。ある時おもいっきり頭なぐってやった。もっと殴ってやりたい。
267 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:04/10/24(日) 01:04:10 ID:KwUUn3a/
発散法は赤子放置で2ちゃん。
282 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:05/02/05(土) 19:04:54 ID:4+gVqtlV
旦那のおでこをバシバシ叩く。とにかく叩く。
306 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:2005/03/23(水) 00:46:46 ID:Ab3/+gku
叱る声も何度か同じマンションの住人に虐待じゃないかと疑われるような叱り方
307 名前:名無しの心子知らず[] 投稿日:2005/04/02(土) 23:31:07 ID:WtKjdAOb
赤さんに苛々することはあまりないけど夫に苛々しっぱなしです。
そういう時は夫をこきつかって茶わん洗いやら買物やら散歩やら全てやってもらってます。
ミ・д・ミ
最近どうした?
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 05:44:42
age
昭が「跡目は自分の子じゃなくて兄の子に……」っていう発言もあるし、人徳みたいなもんがあったんだろう
李世民も政敵として、己の野望の為に兄を殺したけど
個人的にどう思ってたかは別で、そこら辺の屈折した感情が晋書に現れてるとか?
小説的な見方だけどね
陳先生の小説十八史略の李世民が李建成を殺すシーンは凄く好きだな
どうしても司馬一族関係の記述は疑ってしまう、といいつつ保守。
週末age
司馬師の方が人徳がありそうだが、Koeiの三国志だと、近作では司馬師より司馬昭の魅力の方が高いんだよな。
まぁ、人格的な魅力はともかく、王経が高貴卿公に「司馬一族が天下の人心を掴んでいる」として、
クーデターを諌めていたし、高貴卿公の側近であるはずの王業や王沈ですら、
真っ先に司馬昭に高貴卿公のクーデターについて報告しているし、
人心掌握の手管には長けていたのかもしれない。
裴松之に「あり得ない」と一蹴されていはいるが、司馬昭が泣きながら夏侯玄の助命を嘆願する逸話もあるしな。
司馬師の前妻、夏侯玄の妹、夏侯徽の記事についてはどう思われる?
自分は鴆毒うんぬんから疑っているのだが。
「后知帝非魏之純臣,而后既魏氏之甥,帝深忌之.青龍二年,遂以鴆崩」
司馬師が殺したかどうか、という事であれば、恐らくは彼が殺したとは思う。
司馬師は夏侯玄一派を容赦なく殺し、張皇后と斉王を廃位にしている事からも、
自分にとって害になる相手に対しては苛烈な処置を行う人物に思える。
また、注釈の魏氏春秋の記述ではあるが、夏侯玄は、司馬懿よりも、
彼が死んで司馬師や司馬昭が実権を握る事を恐れた、という記述もある。
夏侯皇后を殺したのが司馬師なら、夏侯玄が彼を警戒するのもうなずける。
司馬氏が権力を握ろうとするならば夏侯氏と対立するのは必然だよなあ。
ところで、曹爽が起こした征蜀て提言者が夏侯玄の部下の李勝だったり
郭淮伝で夏侯玄が総大将?と取れるような記述があったりするけど
この戦も実は夏侯氏と司馬氏の対立が原因だったのかな?
だとしたら、曹爽一派が一掃されたとき夏侯玄だけ見逃されてるのが
ちょっと不自然に感じるんだけど・・・
それだけ夏侯玄の名声が絶大で司馬懿も手を出せなかったんだろうか?
そもそも、何で司馬師が夏侯玄の妹を娶ったかだが、これに政治的な意味は無いと思う。
司馬師が夏侯徽を娶った時期は記されていないが、五女をもうけた事を考えれば、
太和の初めくらいだろう。
この時点で司馬懿は政治の中枢にあり、大軍を指揮する立場でもあり、皇帝の寵も篤い。
殊更夏侯氏とくっつく理由は無い。
司馬師自身は、夏侯玄、何晏らと個人的な付き合いがあったので、この辺の関係から娶る事になったんだろう。
五女をもうけ、また、事ある毎に夏侯徽に相談した、という記述があるくらいだし、当初の関係は良好だったはず。
でもこれは、恐らくは明帝によってひびが入ったんじゃないかな、と思う。
明帝は、名を弄んでいるとして夏侯玄、諸葛誕らを憎み、罷免した。
これも詳しい時期は分からないが、一時は官に就いているわけだし、太和の末か、青龍の初めだろう。
丁度、曹真の死とも前後する時期だと思う。
で、ここからは妄想みたいなもんだけど、曹真が死に、司馬懿が更に権勢を高めている中で、
兄の夏侯玄も不遇をかこっており、曹氏、夏侯氏の権勢が弱まっていくのを感じ取った夏侯徽が、
司馬師、司馬懿を通して、夏侯玄の再度の任用を懇願した、と。
曹・夏侯一族の権力が弱まる事にデメリットを感じず、下手に夏侯玄を擁護して明帝に嫌われ、
司馬一族の栄達を阻害されてはたまらない司馬師はこれを拒否し、両者の関係が急速に冷えてった。
夏侯玄が寵を失っている今はいいが、代替わり等で再度夏侯玄が返り咲いた時に、
夏侯徽の存在は邪魔になる、明帝の御世なら殺してしまっても強い咎めは受けまい、
と考えた司馬師、或いは司馬懿が、殺すことを決意した、と。
こんな感じじゃないかな、と思ってる。
強く咎めを受けない、は言い過ぎだな。まぁ、夏侯徽を除く絶好の時期だった、と。
>>43 夏侯玄は都に召還されて以降、身を慎んでいたらしいし、
誅するだけの大義名分が無かったんじゃないかな。
ヘエー成る程。話は振ってみるもんだ。
でも婚姻の決定権は司馬懿にあるんじゃないのか?
夏侯尚、呉質とも曹丕と仲が良かったが、共に汚点を残していてなんだかなあ。
230年、呉質は陳羣を弾劾して司馬懿を推している。
夏侯徽が死んで、呉質の娘が離縁され、後妻に来たのは羊氏の娘。
北伐にあたり中立(?)の立場で沈黙していた司馬家は勝ち組なんだろうか?
師昭兄弟と陳泰は交友があったワケだが、
その後陳泰がドサ回りと中央の官職を行ったり来たりしているのが
その分かれ目か。
婚姻の決定権云々は考えていなかったが、あれは単に、
「夏侯玄と司馬師の友誼がもとであって、政略的な結婚ではないのでは?」
と言っているだけだから、決定権が司馬懿にあろうとあまり変わらないかな。
結婚についてはよく分からんね。
周代や春秋の頃には、媒氏だとか掌媒だとかって官があって、それが婚姻を媒介してたようだが。
漢の恵帝の頃には、十五〜三十で結婚しない女に罰を科したとか。
中央の官僚が、地方の太守や刺史を経験して戻ってくるのはよくあるが、
確かに陳泰は少し頻度が高いかもな。
正始年間(240-248)に田豫の後任として并州刺史に、
その後、尚書として中央に戻り、嘉平初年(249)には雍州刺史になった後、
正元二年(255)か甘露元年(256)にはまた中央に転じて尚書右僕射に、
間を置かずに、一時的な処置とは言え、今度は淮北諸軍事に転じ、
最後は尚書左僕射になって終わる。
これは、軍事に関して司馬一族からの信頼が厚いが故の人事に思えるな。
どうでもいいが、雍州での任期が一番長いんだな。
決定権と言うとおかしかったな。息子の伴侶を選ぶ人、と言うのか…。
笄礼が15〜20歳だから、その間を結婚適齢期とみるのか。
夏侯徽の生年が211年なので、輿入れは夏侯尚の死後で227、8ごろ?
15〜30歳で税金を課すのはアレだが立派な人口政策だけど、
礼の観点から結婚について国が口出しするってことは見たことないからな。
荀ケ伝を見る限り、許嫁つうのもあったみたいだが、
何かいい資料がないものかな (´・ω・`)
俺は風俗やら何やらには疎いからなあ。利害で考える方が先に立ってしまう。
詩経の國風には、「取妻如之何非媒則不得」などというのもあるが、
三国時代にまで媒を介す風習があったかは知らんし。
曹丕なんかは、甄氏を見初めて、そのまま父に許しを乞い、結婚しているな。
文化や社会風俗に詳しい人に教えを乞う方が良いかもしれん。
文学スレで聞いてみるか?w
さすがに結婚の話は続けられないね。文学スレはあの流れが収まってからだw
>>47で挙がった陳泰の話でもしてみるか。
氏の補足になるが、陳泰の後に并州刺史となった孫礼の伝には
「匈奴や鮮卑が強盛を誇ったため孫礼を并州刺史とした」という文がある。
のちの三公を起用する辺り、よほど并州が混乱していたんだろうか。
こういった経緯があって尚書として召し返されたのに、
雍州刺史になったというのは不思議な希ガス。
雍・并2州の兵で蛮族を討伐するという計画は前からあったものかも、と言ってみるテスト。
文学スレは最近盛況だからなぁ。盛り上がってるところに水差すのも悪いしな。
>>53 当時、司馬懿が太傅に祭り上げられ、何晏が尚書となり、曹爽一派の壟断が著しかったから、
司馬一族にも近く、清廉な人柄だった陳泰を召し返して尚書とする事で、
彼らに対する牽制としたのかもしれない。
後に陳泰が雍州刺史に転じた時も、雍州では羌族の反乱が頻発し、
更に蜀の侵攻も同時に起こっていたから、彼の能力に不安を感じて召し返したのとは違うと思う。
ただ、雍州では郭淮の補佐として赴任したから、最初から州の指揮を任せるのに不安を感じ、
歴戦の将である郭淮のもとで実戦経験を積ませようとしたのかもしれない。
また、雍并二州で蛮族を討伐する計画は、252年の事だから、少なくとも4年の期間があり、
計画が以前からあったにしては、250年以降蜀も大人しかったのに、何の動きもなかったのも変かもしれん。
ケ艾の匈奴分離政策進言もあるし、并州の動揺自体は長く続いていたのかも。
召し返される時は常に尚書台だし、司馬兄弟と陳泰は親友だったし、
陳泰は司馬師、司馬昭の側近中の側近で、全幅の信頼が寄せられていた事は間違いない。
陳泰が侍中を加えられたのは、皇帝を監視させようという目論見からかね?
でも陳泰は「賈充を斬るべきです」なんて言ってたしなぁ。
>>53 陳泰伝によれば雍州刺史就任は嘉平の初め。
嘉平元年(AD249)秋に郭淮らと共に蜀軍を防いでいるから、
この時点で雍州刺史であったと分かる。
この年の正月に都では正始の変が勃発し、
司馬懿によって曹爽・何晏らが粛清された。
この時、尚書陳泰は侍中許允と共に曹爽に同道していて
曹爽に司馬懿の元へ出頭するよう進言している。
結局、陳泰達の意見に従い無条件降伏したことによって
曹爽は族滅の憂き目に遭ったわけだが・・・
司馬一族と陳泰の交友関係から推測すれば、この時の陳泰の行動の裏には
司馬懿の意向があったのかもしれない。
建前上は政権を壟断する佞臣を粛清したことになっているが、
皇族の一員である曹爽を処刑したり、台閣のトップの大半が殺害されるほどの
政変に深く関わっていたことにより、陳泰は都に居辛い立場になったのではないだろうか?
それで、ほとぼりが冷めるまで雍州に出向していたのではないかと思う。
>>55 >陳泰が侍中を加えられたのは、皇帝を監視させようという目論見からかね?
加官の侍中は員外だし、そこまで深い意味は無いんじゃないか?
尚書台系の官職にある名士はたいてい侍中が加官されている気がする。
>>56 まぁ、陳泰が皇帝の傍に仕えた形跡はないしね。
単なる重み付けと見ればいいか。
雍州赴任については、確かに大規模な政変に関わってはいたが、
親司馬懿の連中が後に代わる事になるので、それほど居辛いって事もない気がする。
許允は都に残ってたわけだし。
同時に夏侯玄を呼び戻しているので、雍州が騒がしいまま手薄になる事を恐れた事の方が、
理由としては大きいと思う。
夏侯玄が雍涼諸軍事、夏侯覇が征蜀護軍で、夏侯玄を呼び戻せば夏侯覇も動揺して何かする事は予期できたろうし。
陳泰が曹爽らを説得したことは、晋書宣帝紀と曹爽の伝で微妙に流れが違ったな。
「曹爽は許允・陳泰を遣わせ司馬懿の意向を探らせた」 「(曹爽らといた陳泰が)自ら罪に服すよう説得した」
まあどっちも司馬懿シンパの行動のようだけど。
夏侯玄の穴はともかく、夏侯覇が出奔してしまったのが痛手だな。
事変の重大さが蜀や呉に知れ渡り、魏内部の皇族からも心が離れてしまう。
夏侯家と絶縁しなかったのは羊コぐらいなんだろうか。
>>58 >「曹爽は許允・陳泰を遣わせ司馬懿の意向を探らせた」 「(曹爽らといた陳泰が)自ら罪に服すよう説得した」
どちらにしても何故曹爽が陳泰達の言うことを聞いたのか謎だ。
陳泰が司馬家シンパなのは分かっていただろうに、なぜ一切抵抗せず降伏する道を選んだんだろう。
「ここで司馬懿に屈したところで、皇族に連なる自分に手荒な真似はできまい」と処分を甘く見ていたんだろうか。
許允って、この曹爽誅殺の件を見ると、陳泰と共に司馬懿に与してたように見えるが、
後に夏侯玄の政変の時には、直接関わっていないとは言え、夏侯玄側の人間として見られ、
流罪になってるんだよな。
結局こいつはどっち側だったんだろうか?
マルチ誘導厨乙
ミ・д・ミ フサー
今の話題と直接関係はないが、洮西の戦いの後、司馬昭が荀に語った言葉として、
「将に落ちんとする城を救い、而して益兵を求めず」とあるが、
王経が敗れたこの戦役では、ケ艾や司馬孚が派遣され、
その前の徐質が敗死した戦役でも、司馬昭が許昌から呼び戻され増援として派遣されている。
しょっちゅう増援を受けているのに、「而して益兵を求めず」ってのは少し変に思える。
例え陳泰が要求しなくとも、実際に援軍が送られ、陳泰はそれを活用しているのに、
こういう褒め方をするものなんだろうか?
知らぬ間に姜維北伐スレが中英に立っとる
>>65 三戦の考察系を全て中英に誘導しようとするハメ技ですな
他板のこと、三戦でもできまっせ
>>66 突然立ってたからびっくりしただけなんだよね。
1年以上も前に終わったスレだし、その頃から過疎スレだったので、
今更この板で復活させる必要もないと思う。
このスレと話題もかぶるだろうしね。
呉の軍師スレの次スレが中英に立てられたってのを見たんで、
中英に行ってみたらこれだ。驚きもするぜ。
今頃あんなスレを引っ張り出しても伸びるとは思えん。
中英住人に伸ばす意思はあるんだろうか?
>>67 呉軍師スレは三戦で次スレを立てる流れになってるし
当時の姜維スレは語りつくして過疎った面もあったから蜀総合スレでやろうという話だったな
姜維スレ懐かしいなw
確かに懐かしいな。
厚顔無恥な発言かもしれんが、あのスレの三スレ目に関しては、
俺が支えていたんじゃないか、ってくらい俺のレスで溢れかえっているからなぁ。
姜維の北伐に俺くらい情熱を燃やしてる人がいりゃいいが、
いなかったらまともにレスつかないまま落ちるんじゃないかと心配だよ。
あの頃より知識も増えたし、姜維とその北伐の考察もだいぶ変化したので、
姜維北伐スレに書き込む事もできなくはないが、姜維関連は殆どブログにぶち込んであるので、
今更やるのもな、という思いだ。
>三戦の考察系を全て中英に誘導しようとするハメ技
中英には三戦の受け入れを拒否したい人達もいることを忘れちゃいかん
彼らを追い出したのは三戦板だし
>>70その手の話はこのスレとは関係のない個人の観念の話だ
やめよう
中英がどうのという話をいつまでも続けるのもどうかと思うし、
>>64の続きでも。
司馬昭の発言は、やはり255年の戦役を評してのものだろう。
この時は、8月初旬に王経が敗れ、8月末に陳泰が姜維と接触し、狄道が開放されたのが9月末。
司馬孚が派遣されたのはその前、8月中旬の事。
つまり、「将に落ちんとする城を救い」というのは、8月以降の事であり、
それ以降に派遣された援軍は司馬孚という事になる。
恐らく陳泰からの報告によって、王経の大敗を知ったが、陳泰が援軍を要求しなかったため、
司馬昭が独断で司馬孚を派遣、しかし陳泰はその到着を待たずに戦役を終息させた。
援軍を要求しない陳泰の判断を誤りと考え、戦いが長期化し、
一時的な隴西の放棄をも覚悟して大軍を派遣したが、
その予想を覆して姜維を退けた陳泰を褒め称えたんだろう。
陳泰の自信が過信ではなく、計算によって裏付けられたものである事を称え、都督の理想像としたのだろう。
軍隊は派遣するだけでも大きな経済的負担になるからね。
できる事なら増援なしで処理するのが望ましいのだし。
司馬懿が襄平を包囲した時、その攻撃準備が整うのに要した期間は1ヶ月ほど、
しかも長雨に邪魔されてだから、それが無かったらもっと早かっただろう。
姜維が王経を包囲した時、予め攻城を想定し、その準備を伴った遠征だったなら、
遅くとも陳泰が到着する頃には包囲の陣地は完成していたはず。
城内の食糧も少なかったし、もし援軍がケ艾らの言うように様子見に徹していたなら、
案外あっけなく落ちた可能性もある。
陳泰が援軍を要求しなかったのは、第一次の援軍と手持ちの戦力、
それに麾下の涼州の戦力のみで拒止し得るという自信もあっただろうけど、
今から中央から援軍をもらったところで、到着する頃には城は落ちている、という考えもあったんだろう。
援軍を当てにしているようじゃ城を救う事はできない、と敢えて自分を追い詰める事で、
自身の中の果断さとかを引き出そうとしたんじゃないかな、という気もする。
自分の中の慎重な陳泰像とはちょっとずれるけどね。
襄平と言えば、司馬懿スレは関係ない話題で盛り上がってた割りに、
公孫淵討伐の話にゃあまり乗ってこないようだな。少し残念だ。
軍事に関しては不勉強なのであくまで印象なんだけど、
陳泰は国境の刺史として、何を保持するべきか分きまえた将軍だなと思ったことがある。
蜀を「攻略」することがあったら他の評価もあるかもね。
しっかし、先の話を長い間考えてみたけどミリだった。
晋初の功臣は曹爽らによって取り立てられて中央にいた人物が意外に多いし
陳寿もうかつに書けなかったのかもしれない。
逆に何晏たちもいい人材を見つけてたんだよなと思ったくらいだ。
許允については夏侯玄のアレのときは中領軍、鎮北将軍の叙任のタイミングといい、
疑わしきは流しとけ、というように見える。
許允自殺のセンもあるけど、事実関係は分からなかったんだろうね。
企てが確認されたとしたら、子供は高官に上らないかと。
(さすがに魏氏春秋の話は採れない…)
>陳泰が援軍を要求しなかったため、司馬昭が独断で司馬孚を派遣、
>しかし陳泰はその到着を待たずに戦役を終息させた。
こういうのって、結果的には援軍が不要ってことで、送った側が自分の不明を
明らかにされたって感じで現地の司令官との間に摩擦が生じたりしそうなもん
だけど、さすがに司馬氏と陳氏の関係が良好ってことになるのかな
>>75 曹爽誅殺に司馬氏側として深く関わっていたのなら、
夏侯玄らとの関係修復はすごく難しいように思えるんだよね。
でも、夏侯玄らのクーデターに際して、許允は夏侯玄らと親しかったという記述もある。
許允は王基によって、傅嘏、袁侃らと共に「正士である」として推挙されているから、
あっちについたりこっちについたりするようないい加減な人物ではないと思うんだけどね。
>>76 司馬氏と陳氏の関係もあるだろうし、陳泰が司馬昭と親友ってのもあると思う。
ただ、司馬昭は諸葛誕の乱で独断専行した王基を褒めており、
その後に行おうとした呉への攻勢についても王基に意見を聞き、それに従っているから、
そもそも、そんな事で腹を立てるほど器の小さい人物ではなさそうだ。
こいつは後でブログにも図を入れて載せるが、毋丘倹の高句驪討伐について。
毋丘倹の高句驪討伐は、玄菟より出て諸街道を通り、梁口にて第一回会戦が催されている。
つまり、玄菟から南東方向に、広正面で前進し、沸流水上流域で合流した事になる。
会戦地集結であり、求心的な、外線作戦に近い機動を採っている。
その後、「馬をつなぎ、車をつるして丸都を登る」という記述がある。
この事から、常道とも言える沸流水に沿った追撃ではなく、
真っ直ぐに山を突き進み、丸都城に迫ったと考えられる。
丸都城は周囲7km、山を利用した堅固な城だから、それほど簡単には落とせないはずだけど、
毋丘倹があっさりと陥落させる事ができたのは、上記の奇策のお陰だろう。
恐らく、山を登ると同時に、囮として沸流水に沿った追撃もやってたと思う。
丸都城は南側が最重要な城門で、北側と東側が高地で近付きにくいから、
丸都まで撤退した位宮も、南側の防御に力を入れていたんだろう。
ところが備えの薄い北から毋丘倹が来てしまったので、簡単に落ちてしまった、と。
正直、この高句驪討伐だけ見ると、毋丘倹がかなりの名将に見えるんだよね。
反乱起こした時とは別人のようだ。
反乱起こした時は、麾下の将兵の動揺が激しく、しっかり掌握できてなかったらしいから、
仕方ないと言えば、仕方ないけど。
夏侯玄一派の誅殺と曹芳の廃位に怒り、司馬氏誅滅の為に立ったと言うのに。
司馬一族がどれだけ人心を掌握できていたか分かるというものだ。
余談だが、この高句驪討伐は無双ステージ考えやすそうだな。
今では殆ど需要無いだろうけどね。
司馬氏と魏朝廷の政争はよくこのスレで扱われるけど、
これに関連した事項なのにあまり扱われない竹林の七賢の阮籍とケイ康についてちょっと書いてみたい。
筆頭の阮籍は陳留阮氏(南家だが)ということもあって当時政治的影響力が強く、
司馬氏はこれを抱き込むために何度も招聘し、婚姻で取り込もうとしたこともあるが、
魏朝内の政争を見るにつけ官を辞して郷里へ引きこもるようになっていく。
これは李豊、夏侯玄誅殺に連座された者の縁者ということで監視の目が光っており、
事実鐘会などはたびたび罪に陥れるために時事を問いかけたりしていたからだろう。
阮籍の処世というのはこれと言って仕事もせず、仕官をしないケイ康らと付合い、
礼法の士は白眼視して政治の中枢から離れるというもので、
こうした態度は書状で詰問されているところでもある。
儒教の聖賢、名声、実、礼をよりどころにすべしと始まり、
実に外れたものの例を挙げ、阮籍の評判とその振る舞いの実像を書き、
阮籍の常の振る舞いへの警告、隠者全体の批判に及び、最後に阮籍へ国の務めを勧めている。
この当時の儒教の特徴である国の政治を動かすことを最上とする主張そのものだが、
阮籍は政治だけが全てではないと言い返し、国政に参画して利禄の道を進む当時の儒教を批判している。
ただし、阮籍は結局のところ司馬氏に仕えていて政治の場から離れることは出来なかったが、
それが現世の是非を忘れたおだやかな遊び、荘周の処世を慕いながら、
同じような処世をしていたケイ康が刑死し、阮籍が生き抜いた分かれ目だと思う。
ケイ康は阮籍と同じく礼俗から逸脱した行いをしていながら名声と影響力が強かったことから
「交友したものは誰も一度として喜怒の色を見たことがなかった。」との評判のままの慎重な処世を心掛けた人だが、
山涛への絶交の書で「毎に湯武を非り、周孔を薄んず」という言葉が司馬昭の逆鱗に触れて処刑されることになった。
阮籍とケイ康の思想の違いは、二人の作品からよく読み取ることが出来る。
阮籍は自分が神仙の類でないことが分かっているので憂いばかりが募る、と詠っているが
これは自分らしくふるまえば身を全うすることが難しい現実を理解し、
その上でそこからの逃避を願っていると読み取れる。
一方ケイ康は「養生論」で「導養し理を得て以て性命を盡くすに至れば、上は千餘歳を獲、下は數百年たるべし」
とさながら神仙のように生きることが出来る、と自分の著作に書いている。
阮籍と違って逃避をする余裕があり、それが政治権力を前にした迂闊な発言に繋がったのだと思う。
ケイ康と言うと、「声無哀楽論」とかだな。
「声音以って平和の体を為し、而して感ずる物常無し」
音楽自体に感情は無く、聴く者に生じるのだ、と。
老荘を好み、隠者を気取っていようと、権力者を批判し続ければ殺されるのも仕方ない。
隠者の類は好きではないので、俺自身が彼らについて考察する事はまずないな。
誰かの考察を拝借したりはするだろうけど。
ケイ康とかなら、文学スレでも扱ってくれそうだな。
>>83 文学そのものというより、名声を博していた文人の
政治の場における行動ということで文学スレよりここの方がふさわしいと思って出してみたんだよ。
ちなみに阮籍の場合も老荘を好み隠者を気取っていたのは事実だが、
ケイ康と違ってただそれだけの人物ではなく、
「当時の」儒教にこだわらなかっただけで、儒教そのものを否定していたわけではない。
実際に詠懐詩には、元来の理想に基づく儒者像が詠われているしね。
世説新語の任誕篇にあるが、王大が「阮籍は蹴中に壘塊あり、故に酒を須いて之を澆ぐ」と言っている通り、
本質を理解せず形式のみにこだわる風潮、儒教の正道がなされない政治に対する
胸のわだかまりを酒によってまぎらわせていたところが多く、
胸中の発露となる言動、思想が老荘と重なっていたというところなんだろう。
司馬昭が奔放な行動を取る阮籍を重用したのは地方の抵抗勢力にプレッシャーをかけてその排除を推し進めながら
在野の不平分子に寛容な態度を見せておくために、
少壮の人材の信望をつなぎうる良識派の人物を起用することを考えたというのが本当のところなんだろうが、
処罰されたケイ康とのそもそもの差を探るとなかなか細かいところにたどり着く、と思った。
両人の思想の差異を以って、処世の道を考えていくのも面白いかもしれんね。
だが、今の自分の知識では、竹林の七賢を云々するのについていくのは難しいな。
個人的には、司馬昭がケイ康を殺そうと考えたのは、ケイ康が毋丘倹を助けようと画した辺りだと思う。
このスレの次スレは世界史板でもいい
戦術理論などに詳しい住人が書いてくれるかもしれない
誘導厨、手法を変えたな
ブログの丸都城攻略の手段の二つの可能性について……
一つ目の可能性を採るとすると、毋丘倹はもとより少ない兵力でもって敗走する位宮を追撃したことになる。
それなら高句麗側も、山道を越えて備えの薄い西北に襲来してくる毋丘倹本隊の存在を
察知してもおかしくない、と考えてしまう……。
推測できなかったのか、はたまた推測していても防ぎ得なかったのかは分からないが
こちらの場合だと高句麗は相当読みが浅いと言わざるを得ない。
個人的にはなるべく奇襲を敵に知らせないようにするために
ギリギリまで軍を分けず、国内城・南門に集中攻撃をかけると見せかけるほうが慎重な手法に見える。
毋丘倹の戦い方が名将と呼ぶにふさわしいものなら、
俺は下の可能性を採ったと考える……。
梁口会戦での位宮が、どれだけの被害を被ったかによるだろう。
もしくは、毋丘倹率いる奇襲部隊の戦力の方が小さかったという事もある。
以前、三国志漂流というブログで三国史記の記述を引っ張っているのを読んだが、
そこでは、位宮は沸流水沿いの数次に亘る会戦において、
二次までは勝利し、数千の首級を挙げ、第三次会戦において大敗、2万弱の戦死を被ったとある。
ただ、三国史記は12世紀に編纂されたものだし、信憑性という点では三国志に並ぶべくも無いので、
この内容はあまり信じられないね。
三国志によれば、毋丘倹は1万、位宮は2万の戦力を率いていたから、
最初の会戦で数千の戦死を被ったとしたら、その後に毋丘倹が勝利できたのがおかしい。
まぁ、俺の考察が正しいとは言えないわけだし、自由に可能性を考えていけばいいと思う。
ちょっと追記を。
梁口から丸都までは直線で50km程度なので、実際の行程も精々100km程度だろう。
対して、梁口から沸流水に沿って進み、鴨緑江を遡るルートだと、
地図上の距離でも200km近くになる。
山道だとしても、真っ直ぐ進めば2週間はかからない距離で、沸流水沿いなら10日強と言った所。
従って、位宮の軍勢を数日行程足止めできれば、敵の達する前に丸都へ到る事ができる。
次いで高句驪の戸数を見ると、3万戸とあり、位宮の率いた戦力は高句驪の有する殆どだと言うのが分かる。
蜀ですら28万戸に対して10万強という戦力であり、3戸に1人程度。
土地の痩せた高句驪では、3万戸から2万を抽出するのは限界に近いだろう。
従って、もし毋丘倹が高句驪の戸数をおおよそでも把握していたなら、
丸都が空っぽである事が分かったはず。
それならば、丸都を奇襲する部隊は少数で良く、
追撃部隊に戦力を大きく割く事ができる。
で、丸都近傍まで全軍で追撃した場合、敵が丸都に入っていると思うんだけど、
丸都は山なので、丸都近傍から山の裏手に回り込もうとする動きは、
察知されてしまう可能性もある。
だから個人的には、毋丘倹は梁口で軍を分け、追撃部隊に多数を割きつつ、
自身は少数の部隊を率いて、空っぽの丸都を奇襲したんだと思う。
3万戸に対して2万というのは、多分限界を超えているだろうけど、
東沃沮の5千戸、穢狛の2万戸もあわせて考えれば、動員できなくない兵数。
もう一つ、毋丘倹は高句驪平定の後、カナートを掘って灌漑をしている。
灌漑を必要とするという事は、地下水位が低かったり、雨が少なかったりする土地。
土地の状態とその利用法については、管子第五十八、地員篇に載っているので、
当時、地質学についてもある程度理解が進んでいた事は分かる。
もし毋丘倹自身の観察によって高句驪の土地の状態と灌漑の必要性が分かり、
彼自らが灌漑工事の指揮を執ったとしたら、彼は内政、と言うか土木に関して、
結構な見識と才能を有していたと言えるだろう。
ゲームだと、統率と武力がそこそこ高いだけの、大して使えない能力だけどね。
92 :
1(ry:2007/03/09(金) 01:58:19
いつも乙であります(`・ω・´)ゝ
文学スレでちょっとだけ嵆康だしてみますた。では、お邪魔しますた……
1タンだー乙
ここと文学スレ両方見てる人多いだろうなあ・・たぶん
>>92 わざわざ挨拶乙です
こちらで話題にした途端、向こうでやってくれたんで、
もしかして見てるのかとも思いましたが。
もし後期スレで曹魏の文化政策を追ってくださるのならば、およばずながら参加するですが……。
でも、そのうち文学スレで雰囲気をみながらやったほうがいいかなという気もするです。
すみません、たいへんにお邪魔しますたorz。
ここは時代区分以外に話題を制限してないから、文化に関して語るのも当然良いと思う。
考慮すべきは、どっちで語った方が議論が進むのか、という一点じゃないかな?
文化政策を熱く語りたい人が何人いるのかが問題かとw
文学スレの方が人数がいる気はするが…時期を見て向こうでいいんじゃないかな。
一つのスレで完結させることもないんじゃないかな?
ところで、文化政策って具体的にどんな事を語るんだい?
経学と玄学の違いとか、清談の流行に伴う五石散の服用や飲酒とか、
当時の貴族が熱心に造営した園林の様子とか、そういうの?
うはー、まだ流れを横道にそらしまくってて済みませんorz。
>>95さんの背景だと、曹操・曹丕が詔にどう老荘思想をくいこませて施行したとか、
太学がどう保護されていたかとか、公主の文人への嫁ぎ先とか、九品中正法の影響とかでせうか?
ムムム、やっぱり文学スレ向きかなぁ……orz
どっちのスレが向いているかは分からんが、九品とかはもろにこのスレのストライクゾーンだと思うし、
>>99氏の言うように、どっちがだけでやる必要もないので、
話したい時に話したいところでやれば良いかと。
九品中正だと、晋代に発布された占戸制とか、譜牒を学ぶ事が重視されたりとか、
掘り下げれば色々ありそうだな。
ただまぁ、教科書に載るぐらいのものだし、本の受け売りとかも多くなりそうだけど。
Thxです!! なるほどー、九品中正法の文化への影響は、東晋以降になってくると
おもいっきりでてくると思うのですが、曹魏から西晋でというと、こまかくなってしまいますおね……
むしろ、曹氏の詔勅の内容とか、曹氏と司馬氏の公主の文人への嫁ぎ先とか、
わりと私的な動向の影響力がおおきいような気がするのですが……考えてみるです。
またROMりつつ、流れによっては参加してみるですー。お邪魔しますた(`・ω・´)ゝ
さすがに東晋はスレ違い、と言うか板違いだろうなぁ。
ただ、西晋時代の政策の影響を語る為に、補足的に話すなら問題ないように思える。
例えば司馬懿に関しても、対孟達とか対諸葛亮は範囲外だけど、
司馬懿自体は曹爽討ったり王凌討ったり、公孫淵討ったりしてるし、
さっきの九品中正にも関わっているから、このスレで語るべき人物の一人。
だから、司馬懿を語る為に対諸葛亮関連の話をしたところで、怒る奴はいないだろうし。
なるほどですー。自分は戦争とかぜんぜんわからないので、ムムムorz orz orz
とりあえず、本のうけうりにならない程度に
>>101-103あたりをこっそり考えてみるです。
では、流れをとめてしまって非常にお邪魔しますた……orz orz orz。
ex22移転前保守
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 01:14:29
ミ・д・ミ
ええー(´・ω・`)
また移転なの……
この鯖を出られるんだ、喜べ!
懲罰用の実験鯖から逃れた住人を待っていたのは、また地獄だった。
鯖を移ったところで、別にどうということも無いだろう。
どんな鯖だろうと、話す人がいりゃ続くし、いなけりゃ続かん。
話は変わるが、以前何処かで、姜維が漢中の指揮系統をはっきりさせておけば、
傅僉が蒋舒の造反を抑えられただろう、と姜維の人事を批判したが、
よく考えると、姜維ではどうにもならなかったのかもしれない。
いくら姜維が、蒋舒に傅僉の麾下に入るよう言ったところで、
傅僉は節を持っていないのだから、蒋舒の独断を防ぐ事はできなかっただろう。
馬謖が王平の独断を抑えられなかったのと同様にね。
節を与えるのは姜維ではなく劉禅だから、255年ごろならともかく、
段谷の敗戦の後の、姜維と成都の間の信頼が崩れて以降では、
姜維が要請したところで傅僉に節が与えられるとは思えない。
そう言えば、諸葛亮死後の蜀は仮節ばかりだな。
わずかに向朗、杜瓊の二人がそれぞれ持節と使持節を授けられただけだな。
それに多分二人とも、諸葛亮生前に授けられたんだろうし。
蒋琬と費禕と姜維の三人は、持節や使持節を授けられても良いように思えるが。
よく見たら、向朗に関しちゃ持節を授かったのは延熙元年だな。
行丞相事として働くための処置か。
>>112 行丞相事自体も皇后や皇太子人事の使者となるための飾りみたいなものだけどな。
飾りの官職でも、丞相の代行だから持節くらい持っとかないとって事かねぇ?
杜瓊は諸葛亮の薨去に際して、武郷侯を贈る際の使者に選ばれ、
その時に使持節左中郎将だったが、これも諸葛亮薨去による臨時のものかもしれんね。
劉永・劉理への使者となった司徒許靖は節を持たされた記述は無いなあ。
見落としかな?
あ、武郷侯の爵位自体は建興元年に贈られてて、杜瓊はその印綬と諡を贈る際の使者だね。
印綬や諡を贈る為だけに最上級の使持節を付与するのも変だが、
杜瓊は左中郎将とは言え学者に過ぎないし、普段から使持節を持ってたとも思えない。
劉禅がそれだけ諸葛亮を慕ってたって事なのか?
諸葛亮が死んだ時に力の持った潜在的な危険を持つ家臣が死んで良かったねと寿いだ李邈を劉禅は処刑してるからね。
絶大な信頼を寄せていたと思うよ。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 00:36:34
節ってのは本来皇帝の代理の象徴
節を持つ人が専断権を持つのではなく、節の元に出す命令は皇帝の命令に等しいから逆らえないということなんだよ
杜瓊の例は、本来なら皇帝が自ら印綬を授ける(墓に持って行く)べきところだが、漢中まで行くわけにもいかないので、臨時全権代理として杜瓊が行ったということだよ
>>118 皇帝の代理ってのは分かってるんだが、漢寿に葬られた費禕や、
涪に葬られた蒋琬に対してもこういう処置はしてないから、
諸葛亮だけってのは何でかなと思ってね。
丞相だからなのか、墓が遠いからなのか、諸葛亮を特別視していたのか、
とか、まぁ、何かしら理由があるのかな、と。
理由は墓が遠くて行けないからって事なのかい?
諸葛亮の時が初めてだったのは確かだろうけど、ショウエンやヒイの時に同じことをしなかったと言える理由はないんじゃないか?
記述されて無いだけで、実際は同様の処置をしてたかもしれないと。
まぁ、そうかもしれないね。
この件に関しては執着する気も必要もないと思うし、
とりあえず色んな事は置いといて、臨時の処置と見とけば良いと。
だねえ。
単に三国志に詔勅などが記載されなかっただけだろうね。
もともとの疑問は、諸葛亮死後に持節や使持節が消える事なんだよね。
っても、使持節なんて魏延と李恢くらいだし、魏でも使持節や持節を授けられるのは、
護匈奴中郎将とか護烏丸校尉とか護羌校尉とかで、都督なんかは仮節だし、
あまり気にしない方が良いのかもしれない。
あと、蜀のライ降都督や巴東都督なんかは、仮節なり何なりを持ってないと不便に思えるが、
李恢以外に節を授けられた人物が見受けられない。
こういうのも、実際は授けられてたけど、遺漏があって記述に無いだけと見た方が良いんだろうか?
よく読むと、劉備が即位した章武元年に穆皇后を立てる際、
印綬を授ける使者となった丞相諸葛亮が使持節を授かっている。
諸葛亮伝によれば、丞相就任時の諸葛亮は仮節なので、やはりこれも臨時の処置だろう。
単に記されてないだけで、こういう時の使者が使持節なのは普通なんだろうね。
諸葛亮の時代、なぜか魏軍は陳倉より渭水を遡って隴西に出る道を通らなかったが、
後の姜維の時代になって、陳泰は陳倉経由で隴西に出ている。
これは司馬懿による成国渠の開通のおかげなのだろうか?
しかしながら、成国渠は槐里と陳倉を結ぶ運河であって、
陳倉と隴西を結ぶ運河ではない。
また、諸葛亮の時代より前、馬超が祁山を包囲した時、
夏侯淵は張郃率いる歩騎5千を、陳倉を経て渭水を遡らせて祁山へ派遣している。
この時、張郃の通った道は隘路だと書かれているので、やはり険しい事は険しかったのだろう。
大軍を送るのに不便であったから使わなかったと言うのなら、
陳泰がその道を用いて大軍を派遣した事の道理が通らない。
司馬懿は、成国渠の開通に併せて、道の整備も行ったのだろうか?
陳倉から臨渭まで、険しい地形が100km以上続いているので、
何らかの処置をしなければ、ここに大軍を通すのは不便に思える。
かつて秦が遷都を行いながら東進を続けた時も、北の回中道を通って行ったしね。
彡 ´ー`)ホシュ
諸事情で1週間ほど来れなかったが、なんという過疎っぷり。
やはり諸葛亮が死んだ後ってのは、三国志の中でも人気のない時代なんだな。
どうでも良いが、師纂もかわいそうな奴だな。
蜀攻めに難色を示すケ艾を説得する為に彼の司馬に任命されただけで、
鍾会や衛瓘に同調しケ艾捕縛にも協力しているのに、
世語によればケ艾と共に殺されてるというのがなんとも。
性格が悪かったから嫌われてたんかね?
彡 ´ー`)ホシュ
どさくさまぎれに……<師纂orz
師纂は多分、緜竹会戦の事を怨みに思ってたんだろうね。
まぁ、破滅の道を歩むケ艾よりも、鍾会や胡烈らに付いた方が得だとも思ったろうけど。
勝ち馬に乗ろうとしてぶっ殺されてりゃ世話ないな。
ケ艾も、自分が怨まれているというのに、師纂を益州刺史にして得意気になってる辺り、
脇が甘いと言うか、能天気と言うか、随分無邪気な爺さんだな。
もうちょい色々と警戒しても良かったのに。
緜竹会戦については、姜維の洮西会戦や孔明の祁山会戦みたいに、
その内細かいところを考えてみたいが、ちょっと難しいかもな。
トウガイの脇の甘さは異常
まあ鍾会らによるでっちあげの可能性もあるだろうけど、蜀陥落後の言動を見ると無事に都に戻れても失脚粛清は免れそうにない
諸葛瞻の行動はよく分からないんだよね。
黄崇の伝では、黄崇の進言を容れられず逡巡している内に、ケ艾が迫ったので緜竹に退いたとあるが、
諸葛瞻の伝では、先鋒が敗れた為に涪を棄てて緜竹まで退いた、と書かれている。
諸葛瞻が先鋒として一部を北へ送っていたなら、とにかくも山地でケ艾を拒もうという意思があったとなるが、
ケ艾伝では諸葛瞻の先鋒を破った記述は無い。
かと言って、馬邈を先鋒とするには距離が離れすぎているし、彼はもともと江油にいた。
また、馬邈降伏の報が入った段階ならば、まだ間道の出口を押さえる時間はあるだろう。
要衝の涪をあっさりと棄て、緜竹に入ったものの、城には拠らずに野戦を挑んだり、
何がしたかったのか分からん。
涪城の近辺は丘陵が多いので、城と丘陵をうまく使えば、放棄する事もなかったろう。
山地の出口を押さえないにしても、みすみす交通の要衝を明け渡し、
城内の物資まで渡してしまうのではなくて、涪城で防御すりゃ良かったのに。
記述から窺い知る事ができないだけで、退かねばならない事情でもあったんだろうか?
もう少し述べる。
ケ艾の軍が道なき道を越えてきた、連絡線も何も無い軍だった事を考えると、
涪の放棄を、敵の連絡線に対する圧力を高める為の内地への撤退、と見る事もできない。
地図を見ると、涪と緜竹の間に、それなりに部隊を展開できそうな地形があるので、
江油涪城間の土地よりも、涪城緜竹間の土地の方が、兵力差を活かす事ができると考えたのかもしれない。
しかしケ艾の軍は補給も繋がらない孤立した部隊なので、行うべきなのは、
野戦で破る事よりも、そのまま敵を疲弊した状況に長く置いておく事のはず。
後の時代、慕容鎮も、諸葛瞻は束馬の険に拠らなかった為に負けた、と語っている。
若し諸葛瞻が、野戦で敵を破る為に退いたのだとしたら、状況判断を誤っており、
実戦経験の無さが露呈した結果だったと言える。
ただ、涪の物資を得たとは言え、ケ艾軍は敵地で孤立している事に変わりなく、
諸葛瞻軍を放置する事はできない為、実際にもそうだったように、
有利な地で敵に決戦を強いる事ができる状況だったのも確かだろう。
その結果が、ケ忠や師纂の攻撃失敗であり、会戦の初期段階での蜀軍の有利だろう。
実戦経験皆無の諸葛瞻ですらそうだったのだから、これが経験豊富な将軍だったなら、
逆に緜竹会戦でケ艾を破っていたかもしれない。
つまり、経験不足による判断ミスと、自身の能力の過信が引き起こした敗北と言える。
何気なく数えてみたら、このスレのレスの4割を俺のレスが占めていたので、
これ以上の連投は少し気が引けるが、少しだけ。
緜竹会戦の戦場の選定がどうもうまくいかないな。
涪の周囲も、地図を見る限り、標高精々数十mの丘が散在するだけなので、
この辺りでも会戦ができそうだ。
ただ、実際2000年前にどうだったかが分からないので何とも言えない。
鬱蒼とした森林が広がってでもいれば、当然大会戦には不向きだし、
土地の高低も、おおよそは合致していても、2000年でどれほど変化したかが分からない。
とにかく緜竹と涪の間で行ったと仮定するとして、どの辺が有利なのだろうか?
緜竹の東にも、小高い丘が存在しているので、これの東か西かだが、
これに関しては、恐らく東だと思う。わざわざ高地を敵に明け渡す必要がないからね。
そうなると、今の羅江辺りだと思うんだけど、決定打には欠ける。
高地を占拠して、敵の動向を把握しやすい状態にしつつ、
前面の平地に展開して、兵力差を活かして翼包囲って感じなのかな?
Henri9gNlM氏待ちほしゅ
ついでに陳祗が気になると言ってみる。
過去ログにあったりする?
>>134 先月末にブログも更新したし、いる事はいるんだが、話題が無くてね。
やろうと思ってた事は粗方やってあるから、頻繁に何かを考えたりができない。
新しい風を吹き込む為にも、次スレ立てるなら「初心者歓迎」みたいな文言を入れてもいいかもね。
ところで、陳祇が気になるって、陳祗の何が気になるんだ?
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 20:01:10
陳祗が権力を握った過程とかは気になるといや気になる
あとは陳祗の立ち位置とか。
上は皇帝から下は宦官の黄皓まで通じ、果ては北伐賛成派としてショウ周と論戦。
こいつ、何がしたかったのかな。
陳祗は許靖と共に益州入りした人物なので、地盤自体はそこまで磐石なものじゃないと思う。
ただ、名望のあった許靖の縁者だったし、自らも多芸で容貌も優れていたので、
出世はしやすかったかもしれない。
まぁ、費禕に気に入られたのが一番大きいと思う。
その後、益州に地盤を持つ人物ではない為、宦官の黄皓を取り込むと共に、
皇帝とも親しくする事で権力を固めると共に、
姜維と親しくして軍隊とも繋がる事で、権力を確固たるものにしていったのだろう。
陳祗、姜維共に、地盤を持たず、自らの才幹と、権力者に気に入られる事で出世した人物なので、
シンパシーのようなものを感じていたのかもしれない。
北伐を推進し、且つ成功させる事は、姜維のみならず陳祗の権力をも磐石にするものだったんだろう。
>>138 回答ありがとう。
まさに権力欲の権化って感じだ陳祗。
演義に出なかったのが不思議でしょうがない。
>>138 > その後、益州に地盤を持つ人物ではない為
これがいつも気になるんだけど、蜀の中枢は滅亡まで益州に地盤を持った人などいないと思うんだが?
例えば尚書令の系譜を見ても
法正→劉巴→李厳→陳震→蔣琬→費禕→董允→呂艾→陳祗→董厥→樊建
いずれも益州に地盤があるわけではない。
尚書令の上、録尚書事や平尚書事もそう。
逆に言えばこういった系譜に属していれば、蜀の朝廷内では十分に地盤があったといっていいんじゃないか?
確かに朝廷中枢、特に諸葛亮以後は、地縁と言うよりは、
諸葛亮に引き立てられたかどうかが影響していると思う。
ただ陳祇の場合、諸葛亮時代は選曹郎という、
恐らくは官吏の選抜や監察を司る官にあったが、
費禕が抜擢して侍中とした事から、それほど上級の官吏じゃなく、
諸葛亮時代にはさほど認められていなかったのだろう。
そうすると、諸葛亮系の人材からも羨望と嫉妬の的となり、
地縁も無いので陳祇の権力維持を後押しする勢力も少なく、
脆弱な権力基盤という事に変わりはないように思える。
陳祇の死後、姜維が董厥という諸葛亮系の人材を後任に据えたのも、
何らかの批判を受けての事かもしれない。
俺も、益州閥やら荊州閥やらが明確に存在していたとは思ってないし、
蜀の朝廷を左右していた各種の勢力を考えるのも良いかもしれないね。
劉焉・劉璋が連れてきた人材、劉焉・劉璋時代に流入した人材、
益州在地豪族、劉備子飼い、劉備と共に荊州から流入した人材、
劉備入蜀以降に流入した人材など、蜀の政権は土地が狭いながら寄せ集めみたいな感じだし、
色々と複雑そうだ。
費禕は、許叔龍や董允と名声を等しくし、その後に董允と共に葬儀に参列した所を見ると、
多分費禕も董允も、許靖の家と親しく付き合ってたのかもしれない。
となると、費禕はその頃から陳祇を気に入ってたかもね。
費禕も陳祗も孤児だしね。
許靖も董和も費伯仁も、恐らくはそう違わない時期に劉璋政権に入ったので、
自然と繋がりが深まったんだろうか?
陳祗は費禕や董允、許叔龍らの弟分みたいな感じだったのかもしれん。
尚書令或いは録尚書事を経験した人間は、数えてみたら14人ほどいたが、
その内、荊州出身が9人、雍州出身が2人、徐州出身が2人、豫州が1人で、
徐州は諸葛亮と諸葛瞻で、雍州は法正と姜維、豫州は陳祗だな。
諸葛瞻を徐州と言っていいかは分からないが、本籍はどうなってんだろ?
劉璋政権出身が7人、荊州で劉備陣営に入ったのが5人、それ以外が2人。
それ以外ってのは、姜維と諸葛瞻の事。
諸葛亮死後では、尚書令・録尚書事経験者は9人。
諸葛亮の属僚を経験したのが、明確なのは4人で、
他に諸葛亮関係では、諸葛亮の子が1人いる。
董允と呂乂は属僚になった形跡はないが、諸葛亮に高く評価された人物。
樊建は属僚になったかどうかは不明だが、若そうなのでなってないかもしれん。
陳祗も不明だな。選曹郎が何処に属す官なのかで変わる。
荊州出身は確かに多いが、少なくとも諸葛亮死後は、出身がどうのって言うより、
諸葛亮に引き立てられたかどうかが重要になっていると思う。
陳祗は費禕や董允との関係で、諸葛亮とも何らかの繋がりがあったかもしれんが、
少なくとも、諸葛亮に評価された記述は無いね。
諸葛亮系統の人材であったのかどうか。
保守
姜維がいつ出世コースに乗ったのかが気になるね。
231年の段階で、劉敏に次ぎ、胡済らを追い抜いているので、
出世のペースは速かったようだが、この時点では、
後にトップに立つ事が予見できるほどでもない。
それが諸葛亮が死ぬと、輔漢将軍となり諸軍を統率する立場となる。
輔漢将軍には、姜維以外では李厳、張裔、孟琰らが就任しているが、
姜維が鎮西将軍に移るに伴い、董允が虎賁中郎将から輔国将軍に移っている事から、
輔漢将軍と輔国将軍をほぼ同一と見、また、この輔漢(輔国)将軍は董允、董厥と、
国政の中心人物で、且つ、成都に常駐している人物が就いている事から、
諸葛亮の死の直後の姜維は、この輔漢将軍と言う、中軍を統率する立場にあったのだろう。
張裔も留府長史として成都にある人物だったので、やはり中軍の統率か。
姜維、董允、董厥の例を考えると、輔漢将軍に就任した時点で、
国政のトップに立つ道が開けたと考えても良いかもしれない。
李厳も尚書令になっているしね。
姜維の輔漢将軍就任は諸葛亮が死んだ直後、蒋琬の尚書令就任と同時なので、
恐らくこれも、諸葛亮が死ぬ前に定めた人事だろう。
諸葛亮から姜維を賞賛する内容の手紙を受け取っているとは言え、
漢中に出ずっぱりだった姜維と、成都にいた蒋琬では、直接的な繋がりがあまりない。
恐らく、軍が五丈原から撤退・帰還した後、蒋琬は国政を統括する立場となったので、
中軍を統率する立場となった姜維と、ここで初めて親しく交流するようになったのだろう。
手紙の影響もあり、姜維は蒋琬に気に入られ、更に出世の速度を速めていくと。
何にせよ、やはり諸葛亮に気に入られるってのは大きいね。
ショウエンの出世が蜀で一番番狂わせじゃない?
蒋琬は年齢とかは分からないが、抜擢とは言え、
それまで留府長史として成都の事務を取り仕切っていたのだから、
そこまで番狂わせでもないと思う。
自分こそが後継者と思い込んでいた楊儀と、官位の上でも同等だしね。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/10(火) 23:14:05
>>147 呉懿みたいな外戚の将もいたのにも関わらず、ショウエンや楊儀のようなのがいきなり全軍の将の地位に就くの自体が不思議じゃない?
まあ諸葛亮が実質皇帝だと考えたら、彼等は尚書令や三公みたいなもんだしな…
でも呉懿が選ばれない理由は考える価値があるんじゃね?
>>148は一度自分のレスを見直してみるといいよ。凄くアホそうだから。
李厳を弾劾する旨の上表の連名では、楊儀より席次が上なのが、
劉琰、魏延、袁綝、呉壱、高翔、呉班の6人だね。
劉琰、魏延は失脚して死んだので、残りは4人だが、
どれも軍事を専らとしているので、宰相と言う感じではないね。
呉壱は督漢中・車騎将軍となっているので、諸葛亮の死の直後では、
軍事面ではトップに立っているのだし、報われてないわけではない。
軍事に専念して欲しいって事じゃないのかね?
張裔が死んでいるので、吏僚と呼べそうな人間では楊儀と蒋琬が席次ではほぼ同等。
何人か飛ばしているのでやはり抜擢には違いないが、蒋琬が後継者となる事は、
やはり一番の番狂わせというほどではないと思う。
納得いかなかったのは楊儀だけみたいだったしね。
諸葛亮は軍と政治両方の権力を一人で握って漢中に駐屯してたんだし、例えば呉懿が後任になって軍政両方のトップになっても変じゃあないんじゃないか。
漢じゃあ外戚が軍政両方のトップになるのはよくある話だし、その方が朝廷や軍部の序列を乱さなかったんじゃないかと思うんだが。
ショウエン伝にも彼が諸葛亮の後継となるのは抜擢人事だったことが書いてあるし、彼は朝臣を納得させられたようだが、朝廷を動揺させた人事だったのは確かだ。
それでもなおこんな人事が行われた理由は諸葛亮の密書だけなのかねえ。
楊敏辺りは蒋琬の批判を行ったが、動揺と呼べるほどのものは、
楊儀の罷免ぐらいじゃないかと思う。
蒋琬の態度が人々を次第に心服させていった、と書かれてはいるが、
抜擢人事なら何かしら実績なり何なりがないと、完全な信頼が得られないのは当然かと思うしね。
呉壱が軍政両面のトップに立たなかった事に裏があるかどうかは分からないが、
個人的には、裏があったとはっきり主張できるほどのものはないと思う。
色々と史料に当たれば、何か見えてくるかもしれないけどね。
ただ、呉壱は劉焉と共に蜀に入ったほどの人物なので、
当時既に結構な年齢だろうし、諸葛亮の死後三年で死んでいるので、
あの時点で病か何かだったのかもしれない。
そうなると、何で督漢中なんてやってんだ?って疑問も出てくるけどね?
ほーっしゅ
どうやら人事の話も止まったようなので、また別の話を。
255年夏に姜維は撤退した後、鍾提まで退いて、そこに1年駐屯し続けた。
これは少し面白い事だろう。
鍾提は狄道南方数十kmの所で、国境どころか、完全に魏の領内。
にもかかわらず、魏の方は姜維に接近して対陣を続けるわけでもなく、
ケ艾以外の諸将は、「姜維を撃退した」と喜んでいる有様。
恐らく、この前年の戦役で姜維が洮水以西の住民を移住させた事から、
魏にとっての戦略的価値が低下した為、この時点での洮水以西は、
反抗的な羌族と蜀の軍勢が闊歩する地域と化していたのだろう。
つまり、羌族と協力して隴西を魏より分断するという姜維の目的は、
一部ではあるが成功していたという事となる。
姜維が一気に枹罕まで前進できたのも、この事のお陰だろう。
ところが262年の戦役では、洮水を北に渡ってすぐの場所で撃破されている。
従って、姜維がせっかく押し広げた国境線は、6年の間に元に戻っていたという事だ。
これは段谷で敗北を喫した事で羌族の信頼を失った事も影響しているだろう。
また、ケ艾がそのまま陳泰の後任とならず、朝廷が雍涼諸軍事として司馬望を置きながら、
なおもケ艾を隴右諸軍事に任命した事も、その理由だろう。
姜維が動けなかった数年の間、ケ艾は隴西に鎮して砦を築き、長城を修理し、
自ら鋤を取って農地を広げ、隴西を再び魏の手に取り戻したのだろう。
蜀討伐の折、隴西のみで6万もの軍勢を支えきれたのも、このケ艾の働きのお陰だろう。
やはり蜀攻略の立役者は、段谷で姜維が動けなくなった原因を作り、
隴西を発展させて攻略作戦の幅を広げ、自ら奇襲で以って成都を襲ったケ艾と言える。
ふむー……面白いなぁ
この考察はもうちょい暖めてからとも思ったが、筆が乗ったんで、
一気に書き上げてブログにも挙げてしまった。
これは推測の比率が大きいので、そんなに胸張って主張できる事でもないんだけど、
僅かな記述から、どんどん大きく膨らませていくのは、やはりやってて楽しいね。
個人的には、全てのとは言わないまでも、多くの記述と矛盾する事無く、
自然で、一貫した世界観のもとで三国志を記述できるなら、それで良いと思ってる。
考察した内容が事実がどうかなんて、もとより確かめようがないしね。
関中を奪回するだとか、中原を奪回するだとかまで考えると分からないが、
隴西を奪うという所までであれば、諸葛亮よりも姜維の採った方法の方が、
成功の公算は高かっただろうと、個人的には思う。
諸葛亮は、隴西或いは関中を奪う事を、
どういった道筋で行おうとしたのかが分かりにくい。
こうしてスレの進行が止まっているのは、やはり悲しむべき事なのだが、
自分自身、適当な話題が見つからないので如何ともしがたい。
話題というほどでもないのだが、華陽国志蜀志の緜竹の所にある、
「緜竹と雒は、各々稲の収穫が、一畝当り三十斛から五十斛である」
という記述に関して、少し計算してみた。
五十斛であった場合、10a当りの収量が約1.8tにもなり、三十斛でも約1.1tにも及ぶ。
農水省発表の日本の水田の収量が、大体10a当り500kgから600kgなので、
やはりこれは大きすぎるのではないかと思う。
後漢の単位でやってみたが、魏や晋のものでも大きくは変わらない。
旧本は十五斛としており、それが改められて五十になったらしいが、
自分の感覚だと十五の方が正しいんじゃないかという気がする。
本当のところは分からんけどね。
水田は、張られた水の中にカルシウムやカリウムやマグネシウムを含むし、
窒素固定もされ易い上、土中リン酸の供給能力も高まるので、
畑に比べれば収量が上がるのは分かるのだが、この量はどうなんだろうね?
一畝で五十斛も収穫される水田というものを、一度見てみたいもんだ。
参加したいのは山々なんだけどね
このスレ好きなんで、落ちないようにはしたい
個人的には、他愛の無い疑問や質問でも、書き込んでくれれば話が広がるかもしれないので、
どんな内容でもレスは奨励したいところだ。
俺も、姜維に関する事で、大した事じゃなかったり、
以前のレスとの内容重複を気にしなかったりすれば、
コンスタントに書き込めるとは思うんだけどね。
例えば、ちくまの訳本だと、文頭の「会」という字を以って、
王経麾下の諸軍が故関で姜維と交戦した事を「たまたま」と訳しているけど、
状況を考えるとそうでもなかったりするという事とか。
狄道はこの前年に一回降伏し、この時点でも1年経ってない。
すると、実際そうだったように、城内の物資もさほど集積されて無い状況。
洮西が蜀の手に落ちているとするならば、狄道の陥落はますます重大で、
陳泰の援軍がいつになるか分からない状態では、糧秣に不安のある王経が撃退を急ぐのも無理ない。
姜維としては、最初の虚報に魏軍が引っかからなくとも、狄道は固めようとするのは間違いないし、
狄道に接近すれば、そこに駐屯した将軍が焦って迎撃に出る事くらいは予見してたんじゃないかな?
例えば言い回しや文字の解釈も
一見ピンと来ないものも多々あるだろうし、
もしかしたらまだ誰も知らない解釈が……
あ
い
う
え
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:56:41
お
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:57:11
か
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:57:42
き
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:58:14
く
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:58:45
け
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:59:19
こ
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 18:59:50
さ
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 19:00:21
し
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 19:00:52
す
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 19:01:22
せ
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/24(火) 19:01:53
そ
>>162 字義一つ一つの解釈となると、武器が漢和辞典しかない身には厳しいけどね。
言い回しとかも、文書の起草等に詩経などの古典を用いていた事を考えると、
古典に精通して無いと考察しにくいだろうし。
俺ももっと知識を深めんといかんね。
日本語でも「青」といいながらそれは「緑」だったり「若」だったり
するもんな
そもそも、俺には原文を訳すだけの力量が無いので、
字義の解釈を云々する以前に、訳す事すらままならない。
深い考察はしたいが、そこまでの道のりは長く険しそうだ。
ところで、狄道の県長である李簡が、自ら降伏を申し入れ、
更に蜀の群臣の多くがその真偽に疑いを抱いた事を考えると、
蜀側からの調略の結果というわけでは無さそうだ。
じゃ、なんで降伏したのかと考えると、真っ先に思いつくのが夏侯玄の誅殺。
姜維の成都帰還が正月で、姜維の出陣が6月だから、
密書を寄越したのはその間なので、2月の夏侯玄誅殺とリンクした事に思える。
夏侯玄はその数年前まで征西将軍として雍州に赴任していたので、
李簡と何らかの関わりがあったのかしれん。
その辺りから、何とか李簡の素性に迫れないかと思ってるところだ。
北伐に関してもう少し話を続ける。
第二次北伐で洮西地域の実質的領有化を行ったとすると、当該戦役に関する、
晋書文帝紀の記述に関する見解も変化してくる。
この文帝紀で、姜維が向かわんと声を上げた場所が狄道であった事は少し不自然だが、
これに関しても、ある程度合理的な理由付けができるだろう。
この狄道への前進が虚報であると司馬昭が見抜いた時点で、姜維は襄武の包囲を解いていた可能性が高い。
姜維は既に襄武より兵を退き、羌族と協力して邸閣を設けると共に、
臨洮、河関両県の攻略を終える所だったのだろう。
陳泰からは、二県を降して洮西地域を制圧した上で、改めて狄道に入って東進の準備をするように見えた。
だから、姜維に先んじて狄道に入り、機先を制そうとしたのだろう。
この時はまだ、三県の住民を移送しようとしている事は陳泰に察知できていなかったのだろう。
だからこそ、狄道を押さえる事で姜維を退かせ、洮西も落ち着かせる事ができると考えた。
だが実際には、狄道の物資を頼みに出兵したという記述があるように、
冬になっている現状では、改めて東進するだけの用意が姜維には無く、
既に降っている狄道も含め、三県の住民を移送するだけに留めたのだろう。
だから司馬昭の言葉通り、姜維は狄道に入る意思を持たず、翌年以降の戦役に備えていただけだろう。
ただ、姜維としては住民の移送が済むまでは魏軍に来てもらっては困るので、
司馬昭の決定は実は姜維の目論見通りで、かえって姜維を助けた格好なのかもしれない。
姜維も魏軍が来た場合の対処は考えていただろうけどね。
狄道に入るという虚報によって、最も嫌な為翅経由の西進を牽制しているから。
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/29(日) 16:22:31
マルチ禁止
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 13:42:16
諸葛誕が斬られて三族皆殺しになった筈なのに晋の東安公(もしかしたら元帝の父も?)が諸葛誕の孫っておかしんない?
諸葛誕の娘は殺されなかったのか?
「三族皆殺し」って文字通りになってないケース多いよな
諸葛誕が誅殺される前に産んだんじゃないかとも思ったが、
司馬伷の長子の司馬覲でさえ、諸葛誕の乱の時に2,3歳なので、
その弟の司馬繇は当然諸葛誕が反乱した後の子だよな。
弟の嫁なんで見逃してやった、とかだろうね。
大した事じゃないんだけど、姜維に対する批判を見る度に、
王経も可哀想だな、と思ってしまう。
王経は陳泰の後任として255年に雍州刺史になったわけだが、
当時の雍州は既に蜀の北伐が再開されている為、刺史が兵の指揮を執らないわけがなく、
当然王経も軍事的な能力というものを期待されてたと思う。
前年は、長年雍州で戦い続けた討蜀護軍の徐質が敗死するような状態だったし、
雍州は予断を許さない状況だったからね。
また、郭淮や陳泰、王基などの例を見れば分かる通り、雍州刺史や荊州刺史など、
前線の州刺史職は、その後に地方の諸軍事に昇進する可能性を秘めたポスト。
特に雍州は、前任者が二人とも持ち上がりで征西将軍都督雍涼諸軍事になっているしね。
だから大過なく勤め上げられれば、王経も征西将軍になっていたかもしれない。
王経は二州の刺史を歴任したらしいので、雍州以前にも何処かの州刺史になっている。
その後に連年の侵攻が予測される雍州に回されたという事は、以前の刺史時に、
軍事的な能力を朝廷に認められた可能性は高いと思う。
しかしながら、残っている軍事的事跡が姜維に大敗した事だけなので、
ついつい軍事的に無能な人物と見られてしまう。特に姜維嫌いの人からはね。
でも実際は相手が悪かっただけで、酷評されるほどでもなく、
そこそこの軍事的才能を持った人物だと思うんだよね。
推測ばっかりで強い根拠は無いけど。
晋書武帝紀では、273年に魯淑が薛瑩を率いて豫州に出た事になっているが、
これは本当に273年の事なんだろうか?
薛瑩が武昌左部督になったのは271年の事で、薛瑩が広州に流されたのが何定が誅殺された後の事。
何定が誅殺されたのは272年の事で、何定の誅殺が薛瑩召還の契機ならば、
273年秋以降に召し返されると言う事は無く、当然それ以前の事だろう。
また、陸抗伝の、薛瑩が召し返されて獄に下された事を諌める上疏は、273年の記事より前に載っている。
更に、呉の魏晋に対する攻勢は、複数軍を多方面に派遣する方法を採るのが常なのに、
この魯淑による攻勢は夏口から豫州に出た一軍しか記述が無い。
戦役自体が無かった、と考えてしまえば楽だが、それでは味気無い。
もし矛盾を少なく解釈するならば、この戦役を272年の事とするのが良いと思う。
武帝紀の記述を、丁度1年ずらして考えるのが良いだろう。
272年であるならば、薛瑩も武昌左部督であるので戦役が行われてもおかしくないし、
西陵の役に対しても、また自然な解釈が出来ると思う。
そもそも西陵の役は、歩闡が反乱し、数万もの晋軍が南下したにもかかわらず、
これに対応したのが陸抗率いる荊州西部の軍だけというのが不自然だろう。
夏口督の魯淑が、少なくとも数万を率いて近くにいたのだから、
援軍として来てもおかしくない、と言うか、来ない方がおかしい。
この魯淑が来なかった事を、来れなかったと見れば良いんじゃないかと思う。
魯淑は272年7月に薛瑩を率いて北上したが、王渾の奇襲によって前衛が潰走した。
王渾の戦力はかなり少ないのだから、前衛が敗れたくらいで一気に退くのは不自然だろう。
ここで、魯淑はすぐに退いたのではなく、一旦態勢を立て直した後、
淮水の線で防御する王渾と対峙を再開したのではないだろうか?
そうこうしている内に、魯淑に合わせて北上を画策していた陸抗の元に、
歩闡が蜂起した報告が入り、陸抗はそちらへの対処が必要となり、北上を断念。
これによって、多方面作戦が不可能になったばかりでなく、
史実同様、非常事態にもかかわらず、荊州東部の軍がすぐには来れないという状況になった。
当然魯淑にもこの報告が入るので、彼も撤退を開始するが、
退路が山道な上、王渾が前に控えているので、撤退に時間が掛かったと。
で、ようやく戻って援軍を出せる状況になった頃には、陸抗が乱を鎮圧してしまった、
と、こういった流れなんじゃないかと思う。
薛瑩の失敗は、彼の率いた前衛が崩壊した事で豫州攻略が失敗した上、
それによって王渾に軍勢を集結させる時間を与えると共に、
撤退を困難にした為に陸抗を危機に追いやったという、大きなものになってしまった。
これが孫皓の不興を買った上、何定の誅殺で運河工事失敗の責も改めて問われる事となり、
召還の上に広州送りが決定してしまったと、そんな感じじゃないかと思う。
1週間以上の間、俺のレスしかない様子を見ると、
俺のレスがレスしづらい雰囲気を作ってるんじゃないかと心配になってくるな。
三戦で三国時代を語る人自体が少なくなっている中、
孔明死後を敢えて語ろうと言う人間がいないのも仕方ないのかもしれないが。
まぁいいや。また少し思った事を述べてみる。
丁奉伝を読むと、269年の所に、彼の最後の作戦行動である穀陽の襲撃について書かれているが、
晋書武帝紀でこれに該当する箇所を探すと、270年正月の所にある。
武帝紀には、丁奉が渦口に入って、それを揚州刺史牽弘が撃破した事になっている。
穀陽ってのは淮水の北方数十kmの所で、揚州の当塗県から50kmぐらいの所、州としては徐州になる。
渦口ってのは、義成の辺りにある。
この辺の記述を統合すると、丁奉は穀陽を襲撃しようとわざわざ徐州まで出たが、
事前に察知されていた為に何も得られず、撤退の途上揚州刺史の攻撃にあって撃破されたって事になる。
言っちゃ悪いが、丁奉は麾下の兵数千を率いている時は光るものがあったが、
キャンペーン全体を指導するような事は苦手だったように思えるね。
この辺の時代になってくると、戦略レベルで活躍できるのは陸抗と陶璜くらいなもんかもしれない。
>>191 丁奉はその前年も諸葛靚と共に合肥を攻めてるが、こちらも撃退されてる。
>>192 手紙で晋の内部に疑心暗鬼を生じさせ、石苞を更迭させたってやつだな。
孫皓自身も東興まで出張った時の。
東興の役で先行した判断も悪くないし、この手紙の話とか、
孫綝誅殺の時の進言とか見ても、知恵は働く人間だったと思うんだがねぇ。
どの土地が緊要な場所だとか、戦略を構成する個々の要素や局面の判断はできても、
それらを繋げて一個の作戦にする事が苦手だったりするのかね?
司令官としての戦歴がさほど無いから、すっぱりと結論を出す事は出来ないだろうけどね。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/15(火) 01:24:50
ジュンイクスレ消滅の悲しみを胸に暗闇からの浮上
近視眼的というか、大局観にやや欠けるタイプっぽいかも
呉の揚州方面は、合肥に出るか寿春に出るかしかしてないし、
たいていの場合、そこから何も出来ずに帰って来てるので、
司令官の戦略コンセプトみたいなものが読み取りづらい。
そういう意味で、丁奉の穀陽襲撃は、掘り下げていけば何か分かってくるかもしれないな。
話は変わるが、この前漢籍電子文献で「牽弘」を検索したら、
「一曰、昔歳及此年、薬蘭泥、白虎文秦涼殺刺史胡烈、牽弘、遣田璋討泥」
という記述が、宋書五行志にあった。
正確な訳は分からないが、薬蘭泥と白虎文が、秦州刺史胡烈、涼州刺史牽弘を殺したので、
田璋を派遣して薬蘭泥を討たせた、という事なのだろう。
この白虎文ってのは、かつて姜維が蜀に迎え入れたあの白虎文なのだろうか?
白虎文が晋書に載ってないのは、「虎」が唐王朝の諱だから避けたんだな
唐では「虎」は避諱するような字だったのか。
三国時代周辺しか詳しくないんで知らなかったな。
でも、そもそも、晋書などでは胡烈を敗死させたのは樹機能になっているんだよね。
薬蘭泥と白虎文が殺したってのは、この宋書五行志のみの話のようだし、
薬蘭泥という名は、ここにしか出てきていないようだ。
ただ、樹機能の反乱は諸族入り混じっての大規模なものだったから、
蛮族連合に涼州の胡王であった白虎文が名を連ねていてもおかしくは無い。
薬蘭泥、白虎文ともに、樹機能の麾下にあって、
万斛堆で胡烈を撃破するのに尽力したって事か?
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 00:33:54
>>198 宋書と晋書を矛盾なく解釈するならそんな感じだろね
樹機能が総大将で白虎文は実際に戦った相手、と
偉そうに言うのもアレだけど、唐室李氏の諱である虎、淵、世、民あたりの字は晋書では避諱されてるので注意だ
虎はよく武に置換されたりしてる
>>199 おお、ありがとう。気を付けるよ。
李淵の淵とか、李世民の世民とかは分かるが、虎は知らなかったもんで。
ちょっとググってみたが、李淵の祖父の李虎から来てるのかな?
白虎文が蜀に保護されたのが248年、蜀の滅亡が263年末、胡烈の戦死が270年、
牽弘の戦死が271年の事だな。
白虎文も蜀の滅亡までは蜀にいただろうから、鍾会の乱のドサクサで涼州に帰還、
その後数年で、涼州での勢力をある程度取り戻したって事か。
意外にやる奴だったのかもね。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 20:34:30
無双今度出すなら星彩は出さずに魏の武将をいっぱい出してほしい。
仲達の奥さんを出して欲しい。奥さんと一緒に戦うと仲達人の無双
無制限になるとか。(恐妻家だから)。
仲達人?
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/18(金) 22:05:09
>>202 打ち間違いです。ごめんなさい。
とにかく張春華を出して欲しいです。
星彩はいらない。
蜀贔屓で姜維好きだが傅僉もいいなと最近思い始めてる。
傅僉の実力も活躍もなかなかのものだったよな。
知識不足ですまん
演義はよく知らないが、確かに傅僉は良いね。
正史だと関城を守っていて、蜀が平定される時に魏軍と戦って戦死した事くらいしかないが、
それでもなんだがインパクトがある人物だ。
蒋舒が降伏してしまった事が、傅僉の忠義を引き立たせていると思う。
微妙に話しがそれるが、三国志大戦の後伝の評判は中々っぽいな。
「張悌&沈瑩カッケ〜」とか聞くとなんか新鮮で嬉しいw
そうなると、入り口が大戦の人の方が、こっちに興味持ってくれるかもしれんね。
諸葛亮が死んだ後も面白いってのが、一般的な認識になって欲しいもんだ。
まったく、後期三国志に英雄無しとか言ったやつは責任とれや。
個人的に200年以前とかよりかなり面白いぞ。
だから姜維、国力でムリなのもわかるがもう少し勝ってくれたら…
ま、諦めない姜維だから好きなんだが
姜維より陳泰の方が好きだわ。
諸葛亮以後は、情勢が大きく変わるという展開が見られない。
蜀滅亡後はもう勝負は決してる。
これらが弱点かなあ。
演義ですら、諸葛亮が死んでからの50年弱をたったの16回に纏めてるもんな。
三国志関連の本も、諸葛亮死後はなおざりだし、
色んな人が興味持ってくれるくらいのコンテンツが何か欲しいね。
このスレの発端になった無双後期伝も、このままじゃ出そうに無いし。
なにか作ろうかねえ
三国時代後半は、どこが好きとか誰が好きとかよりも、後漢末から三国鼎立に
かけての創業期よりも個人の力が及ぼす限界がそこここで如実にみえる部分が
面白いかな。
>>212 何か作るったって、素人だからねぇ。
ブログの更新は続けてくが、これの影響力なんて無いに等しいしなぁ。
人気が出て、語り合う人が増えてくれれば嬉しいが、
あんまり気を揉んでもしょうがないんで、好きな事を地道にやってりゃいいのかもしれん。
>>213 俺も最近は、人物の好悪やら何やらより、戦争自体の考察のが楽しいね。
ただ、劉備やら曹操やらの時代の戦争に食指が動かないところを考えると、
根底には姜維が好きって感情があるような気がする。
>>212 合戦よりも政治とかを中心にしたら
結構面白くなる気がした
>>214 俺は末期のぐだぐだな蜀が好き
何でか解らないけど
小説やらマンガやらの創作物にせよ、解説やら何やらにせよ、
政治を中心にすると執筆が難しくなりそうだな。
乱世が舞台ゆえに、創作物は大体戦争中心だし、政治を主眼にするのは斬新で良いかもしれん。
政治闘争とかがメインだと、主役に適任なのはどいつかねぇ?
武功とかじゃなく、内向きの仕事で成り上がった奴とかか?
劉放だな
劉放なら、いっそ孫資とペアで主役をはらせて、準主役を夏侯玄や傅カあたりに
するとか。
あぼーん
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/24(木) 12:45:46
曹操の子として生まれ、兄が皇帝になり、一瞬だけ大将軍になり、ギョウに軟禁され、息子が皇帝になり、魏の終焉を見届けた燕王宇なんてどうかな
やっぱり、悲哀が感じられる人物の方が雰囲気に合っているのかね?
話が変わって恐縮だが、ちょっと聞きたい事がある。
葭萌(漢寿)の位置ってのは何処なんだ?
実際に行った事が無いのでよく分からん。
中国歴史地図集とかだと、ロウ中の北、剣閣の南東、嘉陵江が蛇行している谷間になっているんだが、
各人の伝を読むと、姜維は剣閣に入る前に張翼らと合流しているように読めるので、
この位置だと少しおかしいように感じられる。
昭化古城についてネットで調べてみたが、広元南西36kmだとか、宝輪南東15kmだとか、
白龍江と嘉陵江が合流する地点の台地の上にあるだとか、どうも要領を得ない。
旧唐書なんかだと、綿谷を指して、「漢の葭萌県の地」と述べているが、
綿谷とは別に、やはり嘉陵江の蛇行している場所に葭萌もある。
葭萌関の位置は中国歴史地図集通りとしておき、張翼らが到達していた漢寿と言うのは、
漢寿県の県域という程度で、既に剣閣を越えて北に出ていた、とでも考えておけばいいのだろうか?
>>221 32° 7'46.61"N
105°43'1.44"E 辺りじゃなかったかな
>>222 ありがとう。そうすると、やはり歴史地図集に記載されているのと同じだね。
しかしこれだと、戦略的な整合性が取り難いな。
成都或いは四川盆地内の拠点から北に抜ける際は、葭萌を経由して西の剣閣を抜けねばならないのか、
葭萌からそのまま嘉陵江に沿って、剣閣を無視して北に抜ける事ができるのか、
そういった事も影響して来るんだが、鍾会が剣閣以外に南下する道を得られなかった事を考えると、
嘉陵江沿いのルートは軍隊の前進に向かず、剣閣を経由する以外に無かったんだろう。
俺の持っている、「魏攻蜀之戦一般地形状況図」とかいうものや、
「姜維脱離沓中及巧遇陰平橋頭作戦経過図」とかいうものだと、
漢寿が剣閣の北東、白水と嘉陵江の合流点に書いてあるんだよね。
もしかすると、かつての葭萌の他に、費禕が漢寿に移るに当たって、
治所となるべき施設を今の宝輪の辺りに築き、旧葭萌と合わせて漢寿としたとか、
そういった事も考えられるんだろうか?
この地点であれば、沓中を放棄し、白水に沿って南下してきた姜維らと、
関城を目指して北上していた張翼らが合流する地点として相応しいんだよね。
最近、何か参考にならないかと通典を読んでいるのだが、その州郡典一に、
「呉孫皓建衡三年、陸抗所築楽郷城、後朱然修之成焉」とある。
建衡三年に楽郷が築かれたならば、その後に朱然が楽郷を修理できるわけないし、
施績は朱然が死んだ後に楽郷督を継いでいるので、建衡三年の遥か以前に築かれているはず。
この通典の記述は、単なる誤記であると見てしまっていいだろうか?
どうも南北朝以降に作られた記録は信用できないのが多い気がする
大乱のせいだろうか
各氏の系譜とかも新唐書なんかを見てるとめちゃくちゃで、僞作するにもちゃんと史書を参照しろと言いたくなるよ
宋書の百官志も漢あたりの内容は明らかに間違ってたり怪しかったりするし
建衡三年というと歩闡が叛乱をおこす前年か。
>>225 やはり何百年も離れ、間に大規模な戦乱の時代を挟んでしまうと、
事実との乖離が大きくなってしまうだろうね。
>>226 陸抗が施績の統括していた範囲をも治めるようになった翌年でもあるね。
赤烏三年辺りに朱然が築いて、後にそれを陸抗が修繕した、
というような内容であれば、信じられるんだけどね。
施績の時代には荊州防衛の重要拠点になっていたのに、
建衡三年の時点で城が築かれて無かったとは考えにくい。
何気なく検索かけたら引っかかったので読んでみたが、
Wikipediaの李簡やら徐質やらの記述がとんでもない事になってるな。
夏侯佐とか入れた上にメチャクチャな内容にしたのはどこのどいつだ?
直してやった
>>229 自分の使ってるISPは投稿規制中らしく、直したくても直せんのよ。
李簡の投降が252年の事だとか、253年に徐質の背後を襲っただとか、
北伐の推移がわけのわからない状態になってるんだよね。
李簡が李広の後裔だなんて初めて聞いたし、出典は何なんだろうねぇ。
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 01:36:04
>>230 やたら○○は××の子孫って根拠もなくWikiに書きまくってる人がいるんだよね
李簡も根拠ないと思うよ
>>231 むじん氏も指摘してた人かな?
どうやら回線繋ぎ直したら編集できるようになったので、とりあえず李簡を修正した。
姓が同じならみんな子孫なんだろwww
>>232 乙
確認したわけじゃないが、新唐書宰相世系表あたりに書いてある可能性はある
ただ、仮にそうだとしても無批判に書いていい内容じゃあないな
劉放の項では、孫盛が劉放の子孫にされてて笑いも出なかった
せめて孫盛くらいは知ってから書けと
>>234 新唐書宰相世系表の、隴西李氏のところを見てみたが、それらしいものは無かったな。
見落としているのかも知れんけど。
漢籍電子文献で李簡で検索かけても出てこないしね。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 02:06:10
>>235 だったら完全に例の奴の妄想なんだろうね
>>236 多分、西涼の李ロが隴西狄道の人で李広の後裔だ、って事から推測したんだろうね。
>>237 張嶷伝(注釈の益部耆旧伝だけど)にそんな事は書いてないんだけどなぁ。
彼は一体何がしたいんだろうね?
張嶷の項もだいぶおかしいね。
李簡降伏の段階で費禕が生きてたり、姜維が張嶷の副将になってたり。
これも修正しなきゃな。
Wikipediaの張嶷の項で、蜀に帰順した苻健を、前秦の苻洪の先祖としているが、
これは例の人の妄想だよな?
ざっと調べたが、苻健と苻洪の血縁関係を示す記述は見つからない。
李カクは李広の子孫
姓が同じだから間違いなし
後期蜀テーマソング 漢は勝つ
心配ないからね 漢の威光が
天下に及ぶ 明日はきっとくる
どんなに弱小で 滅びそうでも
信じることさ 必ず最後に漢は勝つ
>>240 完全に否定することも出来ないが、だからといって肯定する根拠もない
普通は書かないだろうけどな、常識的に考えて…
だいたい、曹操が曹参や夏侯嬰の末裔というのだって、怪しいというのに…
司馬遷を楚漢期の殷王司馬ゴウの子孫とするのは完全に誤りだし…
>>243 そうね。間違ってるとは言い切れないが、書くべきじゃない。
苻健は武都のテイ族だけど、武都のテイ族は曹操が扶風や天水の一帯に移住させたから、
略陽臨渭県の出である苻洪とも、何らかの関連はあるかもしれないが、
直接の先祖と言うのは、まず有り得ないと思う。
苻健と同時期に弟の苻双が魏に奔ったが、こいつの子孫だったとしても、
苻洪はその精々二代か三代後だから、晋書の「世為西戎酋長」という記述と合致しないように思う。
苻健の一族が武都のテイ王だから、苻双もその一族として、
苻洪にも繋げて「代々西戎の酋長だった」とする事はできるかもしれないけど。
いずれにせよ、史書に記述が無く、推測によるものならばWikiに書くべきじゃないし、
書くとしても推測であると分かるように書くべきだと思う。
関係ないが、費禕スレ落ちてるね。
単なる保守レスばかりになってたから、仕方ないかもしれんけど。
>>244 スレ立てから180日しか存続できない
…仕方がない
費禕の話題を振ると、
自分としては、費禕が国家戦略として正しい見通しを持っていたのかというのが、
いまいち分からないんだよね。
「我々は諸葛丞相に及ばない。その丞相ですらできなかった事ができるわけがない。
だから、国を治めて守りを固め、能力のある者の出現を待つべきである」
と漢晋春秋にあるが、魏に併呑される前に益州に諸葛亮以上の傑物が現れる確率と言うのは、
著しく低いんじゃないかと思う。
北伐を僥倖を恃んだものと言ってはいるが、費禕の考えも十分僥倖を恃んだものじゃないかと。
それよりは、姜維のやったように、羌族と協力して隴西を奪い、
魏との間に緩衝地帯を作っておくやり方の方が、蜀の命数を伸ばす事ができたように思える。
ただ、姜維の場合は急いで多くを求めすぎた為に、
最終的には得たものより失ったものの方が大きくなり、
その行動が政権内部に軋轢を生み、結果的には寿命を短くしてしまったが。
結果を見れば姜維の考え方を褒める事はできないが、
費禕の考え方も、それほど評価できるものじゃないと思う。
費イが言っているのは建前という部分も大きいと思うけどね。
本心では、もう北伐に望みはないしあとは細く長く生き残りさえできれば、って
とこもあった気がするんだが。
それは執政者が口にしていけない言葉だけど、主戦派を抑止するためには
そういうことも言わなきゃならんわけで。
方便かぁ。確かにそう考えるのもありかもしれん。
だけど、問題を先送りにし、ただ一日でも長く社稷を保つという行為に、
一体どれだけの意味があるというのか、自分には分からない。
受身に生きるのではなく、自分自身の意志で、知恵で、道を切り開いてこそ、
国家の重責を担うに足る人物だと思うんだよね。
費禕という人物が、中原恢復の遺志を捨て、
僅かでも長く国家を生き延びさせようというだけの考えしか持ってなかったのなら、
例え失敗しても、足掻き続けた姜維の方が生き方としては素晴らしいと思う。
能力的にはどうあれ、人格的には評価したくないね、個人的には。
まぁ、自分が後世の人間だからそう言えるんであって、
民や土着の豪族にとっては、費禕の方が良かったんだろうけどね。
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/09(土) 23:03:35
ヒイって三国志の賛辞を額面通りに受け取ってはいけない人物の筆頭だと思う俺はひねくれ者
最近、「費禕は腹黒い」とかって言う人が増えたけど、
費禕が嫌いって意見は殆どないね。
いつも泰然としてて、仕事もきっちりやって遊びもするって姿が人気を誘うのかねぇ?
腹黒いかどうかはともかく、ショウエンが大司馬になりヒイが大将軍となったあたりの内情は結構キナ臭く感じる
蒋琬の大司馬就任は北伐再開に伴うもので、費禕の大将軍就任は、単に蒋琬の病状が悪化した為、
その後継を約束されていた費禕が仕事を代行できるようにしただけとも取れるけどね。
むじんさん辺りも、あれをクーデターだと言っているが、
数年後に死ぬほど酷い病だった人物を、わざわざ失脚に追い込んだりしないと思う。
その頃には息子の蒋斌も成人してたろうし、父である蒋琬に対する一方的な弾劾を目の当たりにしてたら、
彼が蜀にあれほどの忠義を尽くすとは思えないしね。
病気だから失脚させるなんて酷いことしないだろ、は甘いと思うなあ
と言うか、荊州側に出ようという戦略を、皇帝じきじきの命令で次席と軍部が説得に行って翻意させる、という事態は極めて異常だよ
ヒイはともかくショウエンは超抜すぎて軍部からも朝廷からも浮いていて、孤立して失脚したという印象がぬぐえないな
多分、241年に費禕が漢中に行ったのは、成都が蒋琬の計画に反対であるという事を伝え、
荊州への前進を議論する為のものだろう。
恐らく大司馬府内でも荊州への前進に対しては消極的で、240年の姜維の雍州への威力偵察が、
既にこの段階で涼州方面への作戦も検討してた事を示唆している。
で、最終的な協議の為、年末になって帰った費禕のもとへ、病気で動けぬ蒋琬の代理として姜維を派遣。
南方も安定してきた為、軍部の実力者の一人である馬忠を一時的に呼び戻し、
姜維、費禕、馬忠の三者で協議した結果、計画の中止が決定。
蒋琬にその事を伝えると共に、新計画に沿って軍隊の配置を変更。
輔漢将軍として中央軍を率いていた姜維が涪で蒋琬受け入れの体制を作り、
蒋琬の涪への後退に伴って、再度王平に漢中の指揮を委ねた。
とまぁ、個人的にはこんな感じだと思う。
費禕らで蒋琬の失脚を図った、とするのも、ありだとは思うけどね。
255 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/12(火) 22:37:08
「たまたま」ってのは同時期という意味だお。
スレが停滞してるねぇ。
大した話ではないんだが、モルトケによれば、
一人の司令官が指揮する事のできる兵力の上限は、おおよそ5万だそうだ。
例えば三国時代でも、呉の平定の際に動員された20万余の内、
5万を超える兵力は王濬だけで、王濬の軍には、それを補佐する為、
唐彬がかなりの権限を与えられた状態で付き従っていた。
26万余を動員した諸葛誕の乱でも、王基や陳騫、石苞などが、
かなりの権限を与えられていた。
恐らく三国時代でも、5万程度が上限という事に変化は無いと思う。
諸葛恪は10万以上を率いて合肥新城を包囲したが、
軍隊の動きは難渋し、進退窮まり壊滅的打撃を被っている。
時代が下るが、ヒ水の戦いなんかも、軍の規模の割に、
史書に明記される司令官の名前が少ないように思える。
結果はやはり、軍隊を掌握しきれず敗北している。
従って、大軍を指揮して戦争指導を行う場合、優れた司令官がいたとしても、
たった一人ではどうにもならないという事になる。
10万、15万という大軍は、優れた判断力を有する複数の司令官がいてこそ、
しっかりした運用が可能なのだろう。
曹操の限界も案外その辺りで、彼自身の大軍運用の質を問うよりも、
彼が司令官たる軍人を育て切れなかった事を問うべきなんじゃないかと思う。
あとは集権制か封建制の軍隊か、にもよる。
封建制は大規模な戦役には向かないからねぇ。
西洋なんかだと、国王が諸侯を招集できるのは、年間最大40日で一回きりだしね。
諸侯が各々の利害をもとに行動しているから、その統制も難しいし。
利害の異なる複数の軍を用いて戦争を勝利に導くのが難しいのは、
マキャベリもクラウゼヴィッツも述べているところだしね。
帝政以前の呉は後者の色合いが濃そう。
恐らく、呉は中央集権化の進みが最も遅かっただろうからねぇ。
ただ、近いとは言っても、封建制ほど豪族を統制できてなかったわけでもなさそうだけどね。
ちょっとした事だが、三国志の地図なんかだと、臨洮の西方に洮陽城があり、
陳留王紀とかにも、「姜維が洮陽を寇した」とあるけど、
洮陽県というものが立てられたのは、西晋の惠帝が新たに狄道郡を立てた時なんだよね。
惠帝の時分だから、魏の頃から都市のような様相は呈していたのかもしれないが、
それ以前では、洮陽に県城があったような記述は無い。
もしかすると、陳留王紀の「姜維が洮陽を寇した」という記述は、
単に、洮水の陽、すなわち洮水の北に侵攻した、という程度の意味なのかも知れない。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 17:30:45
過疎スレ故に、たまに付いたレスがこんなだと多少へこむな。
最近は、殆ど手をつけていない、と言うか手を付けられない侯和の戦いについて、
何か新しい事が分からないもんかな、と思っているんだよね。
手近な史料からじゃ、どうにも分からない。
そもそもこの時のケ艾は、何処にいたのか?
隴右諸軍事であるからには上邽にいそうだが、彼の隴西経営が、
荒廃著しかった洮水流域をメインにしていたならば、一時的に狄道に本営を置いていた可能性もある。
蜀を滅ぼす際にケ艾が策源としたのも、上邽ではなく狄道だしね。
まぁ、これは作戦上の配置という面も大きいと思うが。
ケ艾がどちらにいて、姜維がそれを知っていたのか否かなどは、
戦役を考える上で重要だから、なんとか特定したいところだ。
どうでもいいが、最近、このスレや俺がブログでやっている事とは趣を異にしているが、
諸葛亮死後の三国志を広めようという動きが一部で見える。
しかしながら、あれに参加するのはやはり躊躇われる。
戦争に限らず、政治や文化などを、果ては五胡の辺りまで包括的、且つ硬派に語れる場を、
何処かに求めたくはあるけどね。
諸葛亮死後の三国志というと、呉の滅亡まででしょうか?
どこで広めているのか気になる……w
東晋に隠れがちですが、
魏から西晋にかけての文化を語るところは欲しいですね。
そのへんの基礎をしっかりした上で東晋文化が解釈できると、
その後の文化の理解がまるっきり違ってきますよね。
姜維や陸抗など、人気のある人物の名前で検索すれば、それらしきものがHitしますよ。
それはさておき、やはり何処か語る場は欲しいですね。
三戦のこのスレだけでは、どうしても限界があります。
広く議論し、意見を聞く事こそ、自身の考察の深化に繋がると思っているので。
色んな所に首を突っ込んではいるんですが、どうにも期待した程の反応はありませんし。
まぁ、それに関しては、私の文章や態度にも問題があるのかもしれませんが。
いまのムーブメント自体がキャラ萌えなんだから仕方ないよ。
ある程度それが深化したらシチュ萌えも出てくるかもしれんが。
ムーブメントかぁ。
実際、自分もキャラ萌えである事には変わりないと思うんだよね。
そもそも、三国志の戦争について考え出したのも、
「姜維の評価を高めたい」と言うのが動機だし。
キャラ萌えであっても、その方向性によっては、自分みたいに戦争考察に突き進んでったり、
或いは、制度や文化の考察に進んでったりとか、好き好き言うだけから、
一歩進んだ所に行くような気もする。
三国志の人物を使った創作をするにしても、何処かで知識面の限界を感じる事になるだろうし、
そうなれば、自分で色んな事を勉強したり考察したりするようになりそうなもんだが。
そこのところで男女の反応の違いみたいなのはよく感じるな。
無双とか大戦とかはもろにキャラ萌え路線なんだが、こういうのから入っても
そのキャラのことをもっと知ろう、シチュを知ろうと史料読みに走るってのは
だいたい腐女子なんだよな。
>>264でいってるところとかさ。
男だと張遼つえー馬超かっけーとか言うけどそれで終わりみたいな。
腐女はほっといても勝手に食いついてくるけど
野郎を引きずりこまないといつまでたってもマイナーなままだろね。
キャラ萌えとか、こんなスレで目にしたくない言葉だな。
萌えってもんがよくはわからないけど。
良スレ
ネットやってるから、おぼろげに意味は知っていたが、
Wiki見ると鬱陶しいくらいに詳しく解説してあるな。
まぁ、「萌え」という言葉は、このスレの雰囲気には合わないかもね。
あまり堅苦しくやるのもどうかと思うけどね。
用語は置いておくとして、
>>269の言うように、男は史料読み漁ったり、
考察の為の色んな知識を付けるって事をあまりしないもんなのか?
少なくともネット上では、そういう事してるのは大抵男のように思えるが。
腐女子は別目的で史料を読むということらしいんで
ある程度の知識を得たら用がなくなるんだろうなあ
個人的には、知識はいくらあっても足りないように思えるけどねぇ。
2,3年前から、ひたすら軍事の知識を付けて来たが、ただ戦争を考察するだけでも、
やはりそれだけじゃ足りないと痛感してるし。
自分が何処で満足するか、で変わってくるんだろうか?
スレ違いの話ばかりだとあれなんで、少しスレに沿った話を。
少し前に、姜維の寇した洮陽は、洮水の北という事なんじゃないか、という話をしたが、
この事に関連して、洮陽城について少し考えてみた。
この洮陽、今の臨潭は、もしかしたらケ艾が設けたのかもしれない。
それまで史書に現れず、陳留王紀において初めて、
城の名前らしきものとして出てくる。
そして、その数十年後の晋の時代に、この地が洮陽県として正式に県となる。
ケ艾伝には、ケ艾が隴西各地に城砦を築いた事が書かれている。
また、高貴郷公紀などから、当時の隴西の荒廃ぶりが分かり、
隴右諸軍事であるケ艾が自ら鋤を取って田地を耕した事から、
彼が隴西の復興に尽力した事が分かる。
ケ艾の努力によって、数年の内にある程度の回復を見せた隴西では、
姜維や異民族への対策の為、破損したこれまでの城市だけでなく、
城砦を新たに築く必要が生じた、と。
そこで選ばれた土地の一つが、臨潭だったんじゃないかな、と思う。
この地は、姜維が枹罕などに向かう際には避けて通れず、
姜維と羌族の連携を阻む為の楔のような位置でもある。
ケ艾が設けた城砦の一つに、洮陽が含まれていた可能性は低くは無いと思う。
陳留王紀のトウ陽については大きく二説あって、
一つはトウ水の北を指すとする胡三省らの説。
もう一つは曾城ともいう古トウ城を指すとする説。
曾城は建初二年に羌族が立てこもったところなので結構古い。
方輿紀要に「臨潭城即古トウ陽城亦謂之曾城姜維伐魏侵トウ陽即此」とあるらし。
なんと、後漢の時代から臨潭の地に城があったのか。
方輿紀要って、集解にも引用されてるらしいね。
やっぱり持ってた方が良いんだろうな。
でも安くても数千円するしな。
地理に興味があるなら方輿紀要より水経注から考えたほうがいいかも。
三国時代だけなら三国志集解一冊あればいい。
方輿紀要も水経注も必要な部分は全部引用されてる。
地理に興味があると言うか、戦例を研究する上では地理の理解が必須なんだよね。
モルトケも、参謀旅行や測地、地図作成なんかを重視したしね。
だから欲を言えば、そういった地理に関する文献を読む他に、
地質学を学びつつ、実際に現地に行って測量し、地形の変化を考慮しながら、
当時の地理がどうなってたかを推測したりもしたい。
恐らくそんなところまでは到達できないだろうけどね。
集解かぁ。
前から欲しいとは思ってたけど、自分には高くてなかなか踏ん切りがつかない。
でもやっぱり必要なんだろうね。懐に余裕がある時を見計らって買ってみるかな。
>>280 その人の、「古代中国の開発と環境―『管子』地員篇研究」という本は読んだ事がある。
どういう単語がどういう土地を示し、その土地はどういう作物に適しているのか、
地下水位はどうか、とか色々書かれててためになった。
その人は流通経済大の先生なんだな。知らなかった。
地元と言えなくもないところだな、どうでもいいけど。
郤正伝を読んでて少し思ったけど、郤正が宮中の勤めのみを行っている事を非難してるのは誰なんだろう?
ちくまが文意を補ってるが、それによると、郤正を非難した人物は、
黄皓に諂う事を薦めている事になっている。
これが有力者とは限らないが、少なくとも黄皓の権力の大きさはある程度計れそうだね。
ちくまの郤正伝見てみたけど、黄皓がどうこうってこれ全然根拠ないよ。
発言者は黄皓を意識してたかもしれんが、少なくとも文面には表れてない。
そこに黄皓の存在を読みとってしまうのは行きすぎじゃないかな。
確かに黄皓の名前は出てこないんだよね。
自分には、結局、このやり取りが何を話しているのかよく分からない。
全般では、郤正を批判する人間は、内々の仕事だけでなく、外の仕事にも務めるべきだと言い、
郤正の方は、人の生き方はひとつではない、と述べている
ただ、一方で郤正は、へつらう事と策謀する事の愚かしさも述べているので、
郤正批判には、その裏に何らかの意図があった可能性もある。
まぁ、ちくまのは勇み足だったとは思うけどね。
結構文章長いんで全部は読めなかったんだけど、文句言ってる人は、
アンタは才能あるんだから、出し惜しみせず世のため人のため奉仕しなきゃ。
でないと不忠者だよ、アンタは。その気がないならさっさと引退しなよ、バーカ。
みたいな意味だと思う。
当時は才能があって栄達した人は、親戚や知人をおこぼれにあずからせる慣習があったから、
高官について自分を抜擢してほしいとか、財産を分けてほしいと郤正に要求してるんだよ。
要は、秘書令なんて小さな職にしがみつくより、宰相になれと郤正は言われてるわけね。
でも郤正は、それは滅びの道だと言って拒否したわけ。
>>284 そうなると、やっぱり黄皓はさほど関係ないのかね。
それとも、「郤正に権力者に諂って出世してもらいたい」って事なのか?
前項に黄皓との関係と、それによって彼の官位が600石に留まった事が書かれてるので、
この「釈機」の内容に黄皓が関係していると考えるのも、
そこまで非難されるものでもなさそうだけどね。
ただ、推測であると分かるようにはするべきだけど。
政界で目立った動きをすれば黄皓の影響は避けられないわけだから、
その意味でちくまの予感は当たってるんだけどね。
しかし、ちくまの予感は、郤正を批判した人の意見そのものではないね。
黄皓は華陽国志にもあまり記載がないし、政治力に比べると謎の人物だね。
そもそも本当に政治力があったのかすら怪しいけど。
黄皓を引き上げたのは陳祗だが、陳祇存命の間は、黄皓も権力は握ってないんだよね。
「馴れ合い政治をするようになった」と書かれているのも、諸葛瞻らの世代なので、
陳祇の頃は、そこまで酷くなかったんだと思う。
陳祇の年齢は恐らく費禕や姜維より下なので、258年に死んだのは、急な事だったんだろう。
華陽国志に拠れば、譙周が仇国論を著したのは陳祇の死んだ年なので、
死の少し前までは、譙周と議論できるぐらいの健康状態だったわけだし。
もうちょい陳祗が長生きしてくれりゃ、ちょっとは変わったかもしれんね。
いつの間にか、スレの寿命が残り1ヶ月を切ってるね。
やはり500の壁は厚いな。
ところで、呉の陶璜ってのは、マイナーながらも実力はあると思う。
個人的には陸抗よりその実力を買ってるんだよね。恐らく賛同は得られないだろうが。
芸術的な間接アプローチってのは、やっぱり凄く見えるもんだ。
この陶璜の指揮した戦役を含めた、交州でのゴタゴタについて、
漢晋春秋では霍弋が日南や九真を平定した事になっているが、
実際には、呂興の蜂起に乗じて部下を派遣しただけで、
自分は任地である味県から動いていない。
これは言ってみれば、司馬昭が蜀を、賈充が呉を平定したというようなもので、
間違ってはいないものの、この書き方では功績を大げさに見てしまう。
史書を読む場合、そういった点にも注意を払うべきなんだろうね。
そういや、あそこの交阯を包囲した時のくだり、
なんで陶璜は霍弋が死んでた事を知ってたんだろうか?
九真攻撃から交阯包囲までが電撃的だった為に、交州がどうなっているか知らない晋の役人が、
霍弋の死を楊稷らに伝える途上で捕らえられた、とかって感じなのかね?
生きてたら霍弋自ら救援に赴いただろうし、なかなか面白い事になったかもしれない。
陶コウが相当に有能な将軍であることは分かるけど、
陸抗よりも、というのがよく分からないので説明たのむ。
つか、おれは陸抗がなぜあれだけ支持されてるかも理解できないんだけどね。
陸抗は確かに素晴らしい、けれども、彼は冷静に彼我の状況を分析し、
戦略的判断に基づいて、妥当な行動を採っただけであった。
それは凄い事だし、勝利を掴んだ将帥にいちゃもんをつける気もないし、
彼が攻勢に出たわけではなく、国土の保持が目的であった事を考えれば、
彼以上の結果を出すのは、非常に困難な事だっただろう。
恐らく多くの部分で、陸抗は陶璜より優れた将帥だと思う。
だが、重要な点として、陶璜の勝利が、彼の九真への前進という、
優れた間接的アプローチによってもたらされた事がある。
こういった大胆で効果的な前進によって、自軍に勝利をもたらす事ができる将帥は、
例え種々の条件で劣っていても、格上の相手に対してであっても、
勝利を掴む事ができる、という期待を抱かせる。
陶璜みたいな将帥を個人的に買っている、というだけで、
その能力において陸抗を凌いでいる、と言っているわけではないんだよね。
自分が全軍の司令官だった場合に、部下として欲しいのは陸抗より陶璜だ、ってとこかな。
史書を見るかぎり陶コウが能動的、陸抗が受動的とは言えそうだね。
積極的に計略を仕掛けにいってる感じはある。
ただ、これは史書の罠みたいなもんで、削れるもんは削る三国志と
盛りこめるもんは盛りこむ晋書の差が、ここに出てきてるのかもしれん。
陶コウ伝はかなり分量が多いが、よく見ると対晋戦の割合は少なくて、
敵将の楊稷、毛ケイ、孟幹、李祚を称える文章がかなり混入している。
しかも本人の記述も、董元の伏兵を予測しつつ進撃したとか、戦闘の功績が多い。
戦略面では海路から敵地を急襲したことくらいしか記録されてないんだよな。
できれば九真への間接アプローチについて語ってくれないか。
最初、陶璜は陸路を交阯へと前進して楊稷に大敗を喫するが、
その後、海を渡って董元を破り、董元の籠もる城を攻囲・落城させている。
最初の敗北からかなり期間が経っている事、海を渡っている事、
九真太守の籠もる城を攻略した事などを考えると、
交阯ではなく、その大きく南方の九真へと出て攻略したのだと、自分は考えている。
交州経営は未だ安定してなかったから、董元自身、長く九真を離れているわけにはいかないしね。
それ以前の呉の攻勢では、合浦より陸路を西進して交阯へ向かうのが常套だった。
従って、九真への急進は、楊稷らにとって想定外の事態だったと思う。
董元は、敵が突然目前に現れた事でその精神的均衡は破壊されるし、
董元ほどではないにせよ、楊稷もそれは同様な上、
楊稷はそれまで東方に展開していた正面を、急遽南方に転換する必要が生じ、
大きな混乱が引き起こされる。
陶璜が、一度は完全に失敗したはずの交阯の包囲を、ああも簡単に行えたのは、
正面転換の混乱に乗ずる事ができたからだと思う。
敵の抵抗線を迂回して、その脆弱な部分を撃ち、敵司令部へ大きなショックを与えるこういった機動、
いわゆる間接アプローチが、この場合有効に機能している。
制海権は制していたのかもしれないが、敵地の奥深くへ前進するのは勇気がいるので、
この機動は陶璜の戦場における大胆さを示していると思う。
ああ、陶璜が九真を攻略したと直接的に書かれてるわけではないので、
当然、別な解釈の仕方もあるよ。
その場合、間接アプローチ云々は意味をなさなくなる。
あくまで、俺の見解って事で。
陶璜と陸抗の優劣は、個人的にはどうでもいい事だけど、
陶璜の知名度はもうちょい上がって欲しいとは思う。
自分自身、5月頃に交州の戦役を考察するまでは、
陶璜の価値をそれほど認めてなかったから、偉そうには言えんけど、
陸抗が死んだ後も南方には名将がいた、って認識は広まって欲しいね。
話は変わるが、木牛の積載量って随分アバウトだよね。
流馬の方は、米が2斛3斗*2で4斛6斗っていう具体的な量が書かれてるのに。
仮に兵士1人の1日に消費する米の量を6升(1.2リットル)とし、1年を360日とすると、
木牛の積載量は432リットル、すなわち0.432立米だから、立方体に直すと一辺が76cmになる。
質量は360kgになるけど、体積としては小さいよね。
もしかすると、米(穀物)だけじゃなく、炊事器具や最低限の水くらいは持って行けたのかもしれない。
まぁ、炊事器具は当然もってったろうけどね。
◆Henri9gNlM 氏の前期考察を読みたいのだが。
前期?
姜維スレでやってた事とかのログがどうのって話じゃないよね?
黄巾〜五丈原の三国志って事か?
>>297 はい、そうです。
◆Henri9gNlM氏の姜維や諸葛亮等への高評価は分かったのですが、
ならば前期の諸雄や各戦役はどのように位置付けされるのか知りたいのです。
現状でも、210年前後以降の戦役は幾つか考察してはあるけどね。
確かに、大勢が固まる前については殆ど手をつけてないね。
最終的な目標が、三国志の戦役をほぼ全て考察し、
更に前後の時代を幾つか考察して、三国時代の戦争を特徴付けるもの、
戦史の中での三国時代の位置付けを考える、ってものだから、
いずれはやるだろうけど、今の所は本格的に取り組む気はないなぁ。
まだまだ知識が足りてないし。
少なくとも、このスレじゃやらないよ。スレ違いだし。
了解いたしました。
スレチの話題を振って申し訳ありません。
今更こんな事を聞くのも、とも思ったが、このスレの話題の範囲について、
このスレの話題は諸葛亮薨去〜三国統一までとなってるけど、
前後にある程度の幅は持たせてるよね?
そうすると、田豫とか満寵辺りまでは許容範囲だよね?
田豫の周賀討伐は後の遼東征討に繋がるからおkじゃ?
(他に語れる場所がないからとも言う)
ふだんロムしかしない自分が言えることじゃないけど。
無双にもそろそろ満寵・郭淮あたりは出てほしいところだ。
生粋の姜維オタである自分にとっては、グラフィックやシステム面の進化は、
どうでもいいとは言わないが、そこまで重視するポイントでもないし、
新キャラに関しても、当然諸葛亮死後の人物を望んではいるが、
それが叶わなくともそこまで悲観はしない。
一番望んでいる事は、現行の、おまけで登場してる感の漂う、ぞんざいに扱われている姜維シナリオの改善。
たとえ他キャラと一切絡まなくとも、相手がモブだけであろうとも、
姜維の北伐と蜀の滅亡をきっちり描いてくれればそれで満足なんだよね。
>>303 田豫は好きなんだよね、かなり。
SLG三國志でも、アイテムを優先的に与えたりして贔屓するし。
一番贔屓するのは王基だけどね。
周賀の討伐はなかなか面白いね。
汝南太守の職のまま州の兵を指揮するという処置が異例だし。
田豫と直接関係はないが、馬隆が八陣図を参考にしたってのは、戦い方の部分じゃないのかもね。
「馬隆は八陣図によって偏箱車を作った」とはあるけど、それだけだし、
車陣を用いて戦うのは、田豫もやっていたように古くからある。
この偏箱車ってのが八陣図に載ってたんだろうけど、これは恐らく、
諸葛亮が元戎などによって強化された火力部隊を有効に運用する為に、
移動時は少量の物資を積む輸送車として、戦闘時には前面において遮蔽物として使えるような、
軽量な人力車の一種だったんじゃないだろうか?
元戎は大量の矢を消費するから、矢のストックを多くしておく必要があるしね。
そうすると、八陣図と言うのは、軍隊運用だけでなく、
各隊の装備面まで記述した詳細な内容だったのかもしれない。
大した話題ではないが、木牛について考えているついでにちょっと。
諸葛亮
・南鄭-祁山:300km
・南鄭-陳倉:300km
・南鄭-五丈原:200km
姜維
・南鄭-南安:400km
・南鄭-狄道:500km
・南鄭-枹罕:600km
・南鄭-長城:200km
・南鄭-侯和:450km
諸葛亮と姜維のおおよその前進距離(作戦開始当初の目標まで)を比較すると、
姜維の方が総じて長い距離を前進している事が分かる。
狄道の物資を期待できた254年と、羌族の物資を予め集積しておいた255年を除いても、
100km〜150kmは長く前進している。
羌族の協力が期待できなくなった262年においても、諸葛亮の頃より相当長い。
これはもしかすると、姜維の頃の兵站システムは諸葛亮の頃より優れていたかも分からんね。
大軍をより長距離進ませるという点では、姜維の方が諸葛亮より上かもしれんよ。
単純に長期戦を想定してない装備だと思うが
基本現地調達に切り替えただけでしょ
細く短いのが孔明、長く細々なのが生姜。
生姜の北伐は博打度が高すぎ。
後期の蜀は戦場で覇を競うよりも、民政の術を競うべきだったと思う。
>>307 諸葛亮と姜維で、撤退までの期間はそうは変わらないよ。
諸葛亮は、
・第一次:約1ヶ月
・第二次:約1ヶ月
・第三次:不明
・第四次:3〜4ヶ月
・第五次:3ヶ月強
姜維は、
・第一次:不明(4月から8月の間)
・第二次:3〜6ヶ月
・第三次〜第四次:約1年
・第五次:半年
・第六次:1〜3ヶ月(秋〜冬10月)
姜維が、この期間の物資の多くを敵地での徴発や略奪で賄えたのならば、
それはそれで凄い才能だと思う。
でも実際、数万の軍隊が一日に消費する物資は、穀物だけでゆうに数十tに達するので、
武都や隴西など、そこまで生産力の高くない地域では困難だと思う。
当然、隴西の反魏羌族らの協力は取り付け、彼らからの物資の供与はあったろうけど、
漢中からの輸送も、やはり大部分を占めたと思う。
どの道、隴西羌族の協力は、隴西に出るまでは得られないんだし。
それに、現地調達という不確定な要素を多分に盛り込んでは、ろくな作戦計画は作れないからね。
個人的には、白水を用いた沓中までの輸送ルートの整備と、
漢中から羌道、或いは沓中までの地域に軍需品倉庫を多数設置し、
平時からの物資の集積を行っていたんじゃないかと考えている。
馬隆は弩をひかせて兵士の選抜してるけど、その弩も蜀制だったりしてな
赤甲軍を継いだりとかだと、物語的にいいなぁ
陶璜伝に「呉人愛蜀側竹弩」とある。
「側」の部分をどう訳すかよく分からんが、大意としては蜀製の弩を好んだって事だろうから、
呉より蜀の弩の方が性能が良かったんだろうね。
馬隆が作らせたのは強弩だから、元戎とはちょっと違うけど、
蜀の技術が使われていた可能性はあると思う。
赤甲軍は涪陵の人々だし、さすがに馬隆が選抜した中にはいないと思うけど、
小説とかのネタとしては良いかもしれないね。
弩兵部隊の指南役に元赤甲軍の老兵とかね
彼から孔明の事聞いたり、小説的にはいけそうな気がしないでもない
生姜とか書いてる奴、いつも同じ奴なんだろうけど自分で痛いと思わんのかな
>>312 そうすると、いつ接点を、それも自然に持たせるかが重要だね。
馬隆は兗州の生まれだから、土地の繋がりはないし、
兗州武猛従事時代にも接点は持てないだろうから、
中央に推挙されて殿中司馬督となった時だろうね。
司馬炎が、諸葛亮、姜維と受け継がれた精鋭の弩士を気に入り、
宿衛兵に組み込んだ、とかって話にすれば、馬隆とも繋げられそうだ。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/07/20(金) 22:16:11
生姜を過大評価している輩の巣窟はここですか
無双の話だが、既存作品にチマチマ追加していくよりも、
舞台をまるっきり五丈原以降にして、全キャラ一新した方が、
シナリオも作りやすいし、完成度も高まると思う。
ただ、劉備や曹操、関羽や諸葛亮を削ると非難囂々だろうし、
諸葛亮死後の人物だけでも一定以上売れる見込みがないとそういうのは作らないだろうね。
新キャラを望む声も、顔良だの馬岱だの李典だのを望む声の方が、
ケ艾とかよりも大きい事を考えると、諸葛亮死後の人物を追加する見込みも無いしなぁ。
王基が出る事なんて、この先ずっと無いんだろうな。
<前期>
董卓、呂布、李稚然、張繍、張燕、馬超、韓遂
袁紹、曹操、袁術、孫堅、孫策、公孫サン、陶謙、劉備
とかこんな規模なら可能。関張も特殊護衛兵扱いで劉備に一まとめで。
<後期>
曹ヒ、曹真、曹爽、曹休、曹ボウ
仲達、司馬師、司馬昭、司馬炎、公孫淵、カン丘倹、諸葛誕、文淑
孫権、周ユ、呂蒙、陸遜、諸葛カク、陸抗、孫皓、士ショウ
諸葛亮、魏延、姜維、羅憲
でどうだろうか?
歩兵:□ 騎兵:△ 弓兵:○
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
├┼▼┼■■■■┼■■■■┼▼┼┤騎兵隊右翼 歩兵隊右翼 歩兵隊左翼 騎兵隊左翼
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
├┼┼┼┼┼┼●┼●┼┼┼┼┼┼┤弓兵隊
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
├┼┼┼┼┼┼○┼○┼┼┼┼┼┼┤弓兵隊
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
├┼△┼□□□□┼□□□□┼△┼┤騎兵隊左翼 歩兵隊左翼 歩兵隊右翼 騎兵隊右翼
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤
└┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
<歩兵の運用>
1:散兵として
2:連続または互い違いの展開線で
3:中心部を縦隊の形で
4:縦長の密集隊形で
5:小さな方陣で
<騎兵の運用>
1:歩兵、弓兵の支援無しに使うな
2:正面を拘束された敵軍の側面に放り込め
3:一度突撃させると制御不可能なので、慎重に使え
4:『絶好機』を逃すな
<弓兵の運用>
1:歩兵、騎兵の支援無しに使うな
2:半数は予備として控えよ
3:戦機を心得る参謀長クラスの指揮官に運用させよ
4:敵の強襲を受けても動揺させるな
5:如何なる精鋭部隊も側面背面から斉射されれば容易に壊滅する
6:至近の敵に警戒を怠るな
7:高所からの十字砲火がもっとも効力を発揮する
8:横隊の敵に、斜方から交叉して縦射せよ
9:時として射たれても射ち返すな
10:敵陣の急所に集中砲火を浴びせよ
>>320-321 誤爆か?
廖化が宕蕈を攻めた時の事が何か分からないかと思っているんだが、なかなか難しい。
守善羌侯という事からして、当時隴西に内徙されていた羌族なのは確かだと思うんだが。
対応しているのが南安太守と広魏太守という事からは、
戦場が広魏、天水、南安の辺りという事が分かるものの、細かい位置までは比定できない。
南安の赤亭に、後漢時代に徙民された羌族が居たから、建威辺りから南安に抜ける道、
すなわち石営、董亭、武城山辺りの山地の可能性はある。
天水郡太守が対応しなかったのは、天水郡の兵は、
当時雍州刺史として(恐らく)上邽にあった郭淮の麾下にあったからだろう。
だが、何故郭淮が、雍州刺史麾下の州兵と、天水郡所属の郡兵を投入しなかったのか、という疑問もある。
その廖化の軍事活動と同じ年に蔣琬が漢中(沔陽)に駐屯してるけど、蔣琬の北伐というくくりで考えていいのかな?
>>323 蒋琬が漢中に出た後、姜維を度々涼州に出撃させた、という事が書かれてる。
この事について魏側では240年の事しか書かれていないが、度々、とある以上、複数回は出ているはず。
つまり、蒋琬の大司馬府主導で行われたという線で考えるならば、
これに姜維が参加していた可能性は高いと思うし、少なくとも大司馬府の決定の上なので、
蒋琬の北伐と考えても良いとは思う。
とすれば、郭淮が自ら出ずに部下の郡太守だけ派遣したのは、
自身は上邽にて天水太守と共に、姜維に当たっていたから、と考えれば不自然はない。
238年と言うと、丁度司馬懿が遼東にいる時で、この時の顔ぶれが牛金や胡遵である事を考えると、
司馬懿は関中で自らが養っていた精鋭を引き連れていった可能性が高く、
当時の関中は、都督の交代と精鋭の移動で、攻めるに適した時期ではあった。
ただ、この戦いが大きな影響を及ぼさなかった事を考えると、
自発的にせよ、そうでないにせよ、結局蜀軍は撤退に到ったという事になる。
威力偵察程度の目的ではあったものの、当時から議論されていたであろう漢水下りを牽制する為、
一定の戦果を挙げた後に撤退、という運びだったのかもしれない。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/05(日) 01:32:14
宕蕈の所在比定は集解に引いてるよぉー。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/05(日) 13:07:19
そんなに簡単に言わんでくれ…。
集解が引いてるのは趙一清説だが、趙一清は水経注を根拠にしてる。
水経注から該当箇所を抜き書きすることを考えただけでも、ちょっと苦痛だぞ。
まあ実際の分量はそれほどでないかも知れないんで一応あとで見てみるが。
水経注については後で自分で見てみるから、とりあえず、
集解にどんな風に書かれてるかを教えて欲しい。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/08/05(日) 13:29:47
趙一清曰宕蕈胡號也宕即石宕水蕈即蕈塏川見水經河水二注洮水下魏書地形志洪和郡有蕈川縣此羌蓋即地名以立號
文字化けせんかな。
さっき、ちらっと水経注を見てきたが、河水二に載ってるのは蕈塏川の方だけだな。
石宕水は渭水二の方に載っていた。これのことかどうか分からんが。
空気読まずに
某所でも書いたが、魏の明帝はなんで青龍なんて元号を使ったんだろうね?
魏は土徳だよね?
>>329 おお、ありがとう。
つまり石宕水と蕈塏水という河川から採った、羌族の号であると。
焼当種の焼当とかお同じと考えていいのかな。
蕈塏水は、「洮水又北出門峡歴東歴川蕈塏水注之水出桑嵐西谿…」って所だな。
石宕水は、「瓦亭水又西南出顯親峽石宕水注之…」って所か。
蕈塏水は安故県の南、鍾提の辺りで洮水に注ぐ川で、
石宕水は冀県の北、略陽県の西南で瓦亭水に注ぐ川であると。
すなわち宕蕈は、隴西南部から天水西部一帯に勢力を張る羌族の頭目だったと。
うーん。これだけじゃ戦場までは比定できないなぁ。
ただ、蕈塏水周辺よりは石宕水周辺の方が可能性は高いと思う。
上邽にて姜維が郭淮と対峙、姜維は廖化を渭水まで北上させて、
蜀軍の西進を阻んでいた宕蕈を攻撃させる。
郭淮は広魏郡太守に東から、南安郡太守に西から廖化を攻撃させるが、各個撃破された。
祁山をスルーして、段谷から上邽の東に出る道を通ったような感じになるな。
どうでもいいが、南安太守游奕って、かつての南安太守游楚の関係者かな?
>>330 明帝紀にゃ、摩陂にて青龍が出現したからって事になってるけど、よく分からんね。
332 :
珍鋒:2007/08/05(日) 15:49:42
後期には馬にも乗れないクズがいるからゲム化はありえない
杜預に謝れ!
馬に乗れないという設定に忠実にしてしまうと、無双のキャラとして人気は出ないだろうね。
とにかくも馬必須なゲームバランスだし。
馬に乗れなきゃ周倉に負ぶさればいいじゃない!
無双はやったことはないが、孔明も馬乗ってるの?
>>335 基本的に馬には全員乗れる。
周倉は出てないし、周倉と杜預が一緒に戦うってのも興醒めのように思えるが。
色々ぶっ飛んでる無双にそんな事言ってもしょうがないけどね。