袁術とその配下を語りましょう

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1無名武将@お腹せっぷく
皇帝になった男
2無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 19:47:46
なんか袁術配下って袁術滅亡後に長江の辺りウロウロしてるよね
3無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 20:12:44
劉勲はもはや一大勢力だしな。
4無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 20:41:23
関連スレ(dat落ち)
【ハチミツ】 袁 術 航 路 【ボーイ】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1157201164/
5無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 23:40:44
袁術
君主 能無し
軍師 無し
主力 紀霊のみ
文官 皆無
総合 Eランク
6無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 13:01:02
>>5
張勲は近代でも頑張ってますな
7無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 16:34:26
>>5
袁術が能無しって……。
寿春・陰陵制圧での指揮能力や、
公孫讃・陶謙と結託して袁紹に対抗した外交能力はバカにできないぞ。
孫堅・孫策だって配下にいるし、劉勲だって結構有能だ。

しかも袁術は勤皇派の盟主だから、
朝廷や勤皇派諸侯からの信任が厚かったし……。
それらを考えたら袁術の影響力ってかなり大きい。
確かに敗者ではあるが、かなりレベルの高い君主だぞ。
8無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 14:28:06
袁術軍閥にいた人物

袁術 (偉大なる皇帝様)
袁燿 (袁術の息子)
袁胤 (袁術の甥)
張勲 (袁術即位後の大将軍)
橋ズイ (袁術軍主要四将)
楽就 (袁術軍主要四将)
梁綱 (袁術軍主要四将)
李豊 (袁術軍主要四将)
楊弘 (袁術の長史)
閻象 (袁術の主簿)
紀霊 (呂布との絡みで出てくる。演義で若干活躍)
楊奉 (元・李カクの部将。呂布に寝返る)
韓暹 (元・白波賊。呂布に寝返る)
劉勲 (袁術死後に勢力を維持。孫策に敗れて曹操の下に逃げる)
雷薄 (袁術没落後、袁術を見限る)
陳蘭 (袁術没落後、袁術を見限る)
孫堅 (呉の祖)
孫策 (小覇王)
呉景 (孫家の一族)
孫静 (孫家の一族)
孫賁 (孫家の一族)
劉曄 (後に曹操に使えて出世。正史に伝あり)
何キ (後に曹操に使えて出世。正史に伝あり)
鄭渾 (後に曹操に使えて出世。正史に伝あり)
袁渙 (後に曹操に使えて出世。正史に伝あり)
恵衢 (袁術によって指名された揚州刺史)
陳紀 (袁術によって指名された九江太守)
9無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 14:44:14
袁術はさ、反董卓連合結成時から帝を救うために頑張ってきたんだよ。
袁紹なんか「今の帝放置して劉虞立てようぜ!」なんてトンデモ発言しちゃうしさ。
そのとき袁術は袁紹に食って掛かって、帝の正当性を主張したんだよ。

大逆人袁紹とその子分の曹操相手に一生懸命戦って、
勤皇の志を持つ諸侯の盟主として周囲の期待に応えて。

でも曹操が帝を擁して、あろうことか袁術・公孫サン・楊奉らを逆賊として賞金首にしたんだ。
今まで帝のために戦ってきたのに、その帝から逆賊認定。
そのときの袁術のショックはどれほどのものだったろうな……。
10無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 15:01:23
11無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 01:43:48
あげ
12無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 03:01:35
>>9
そんなことあった日には皇帝にでもキリストにでもなるな、
やってられんな、
13無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 10:18:45
自分を信じて戦ってくれた部下たちも馬鹿にされたわけだからな……。

彼等の名誉を守るには自身が皇帝になるしかないと考えたのかもしれない。
或いは何もかもどうでも良くなって、全て自分でぶち壊したかったのかも。
14無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 22:22:41
全仲家が泣いた
15無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 22:27:00
この袁公路がこんなry
16無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 00:47:19
そりゃあ、死ぬ間際に天を呪いもするわ…・・・。
17無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 01:10:12
復活させとく
18無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 17:16:50
皇帝になる前にすべきことがたくさんあったけど…
皇帝になったあと民衆のこと考えず自分は贅沢三昧。
これでは民衆・配下武将の心が離れていくのも無理もない。
19無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 17:29:05
董卓軍系列を語るスレより転載。
李カクや袁術派諸侯の悪政について。

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29 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2007/02/17(土) 08:18:39
李カクは前任者の董卓のせいで混乱した経済の尻拭い
袁術が圧政で荒廃させた筈の地域は南陽、淮南だとされているが
その後数年後、どちらの地域も曹操が食い荒らしていて、どっちが圧政してたのかわからん
俺には魏晋の両帝国が袁術に全ての責任を被せているようにも見える
公孫サンは知らん
陶謙も知らん
--------------------------------------------------------------

離反したのは、
漢室重視だった楊奉・韓暹あたり(っていうかコイツらは配下じゃないな)や、
陳蘭・雷薄のようなどうしようもない連中だけじゃね?
張勲・橋ズイのような大将は最後まで袁術に忠義を尽くしていたし、
袁術の遺族はきちんと子飼いの将・劉勲が保護してる。
帝位僭称で人望を失ったのは事実っぽいが、大暴落って程ではない気がする。
20無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 18:47:53
>>20
楊奉・韓暹ともに最後は掠奪を繰り返し、劉備軍に殺されている。
こいつらもどうしようもない。
21無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 18:57:02
呂布はきちんと楊奉・韓暹に物資提供していた(できていた)のかな…?
22無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 19:02:40
劉備が楊奉・韓暹を殺した真意は軍勢を奪うためじゃないのか?
略奪なんて口実だろ。
23無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 19:40:23
>>9
本当に勤皇だったの?袁紹に対抗する為の口実じゃねぇの?
24無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 19:55:32
口実かもしらんが、
曹操に刺史の座を奪われた金尚や帝を奪われた楊奉・韓暹は袁術を頼り、
董承は袁術と協力して曹操を阻害している。

袁術が勝手に勤皇を名乗っているわけじゃなく、
朝臣や諸侯も袁術を勤皇派盟主として認めていたんじゃないか?
25無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 22:19:41
>>22
劉備はそのくらいやりそうだな。
26無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 02:17:13
age
27無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 06:22:38
表裏はあるだろうが勤皇派のようだな。
豫州刺史を無視して南陽を奪ったりしたけど。
28無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 17:39:06
なんだと
29無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 17:52:06
南陽太守・王叡を殺害したのは孫堅でしょ。
その前に荊州刺史・張咨も孫堅に殺害されてる。
その後、南陽を献上すると同時に袁術の傘下に入ったわけで。

豫州刺史・孔チュウの死後、
袁術は「董卓に囚われた皇帝の代理として」孫堅を後任に就けた。
で、袁紹は献帝無視を公言した上に劉虞は帝位に就くことを拒絶した……
つまり「今上皇帝を無視した上、新帝擁立にも失敗した逆臣」の分際でその後任を周昂に指定。

袁術、全然悪いことして無いよ。
30無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 01:31:03
節持った馬日[石單]が袁術に付いてるからね
この時点での袁術は刺史くらいの任命ならやっても全然違法じゃない
31無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 09:31:37
あれ、付いたって感じじゃないとは思うけど…
32無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:57:19
袁術が馬日テイから節を奪って馬日テイ憤死ってのと、
馬日テイが自分の意思で袁術につき、袁術の帝位僭称の時期に反対して殺された(出奔した?)ってのの
両方を見たことがあるな。

袁術の立ち位置考えると後者の可能性がたかそ。
33無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:06:28
皇帝即位時っていうと孔融から告訴されたのとほぼ同時期か?
34無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:17:03
あっゴメン超勘違いしてた。
馬日テイが死んだのは興平元年だから、孫策が袁術に兵を借りた時期だ。
どうみても李カクが派遣した直後です。本当にありがとうございました。
(即位がらみで袁術に殺されたのは金尚)

でも袁術に節を奪われて憤死したなら、
孔融が告訴するのもおかしいな話だよな。
以後も続いた李カクと袁術の外交関係を見ても、
やはり「袁術が節を奪った」って見かたは妥当ではない気がする。
35無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:21:49
度々すまんが、
やはり馬日テイが死んだのは金尚と同じ時期っぽいね。
華キンが建安元年に馬日テイの節で豫章太守になってる。
馬日テイが殺されて遺骸が送られたのは許都だ。で、孔融に告訴されてる。

袁術は帝位僭称まで、馬日テイを擁していた形になるかな。
36無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:37:47
あげ
37無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 07:50:24
孔融は奇人だからなあ・・
38無名武将@お腹せっぷく:2007/02/24(土) 18:00:34
話は大分変わるが、何故演義の孔融は部下が武安国しかいなかったのだろう。
孔子の子孫ともなる重要人物ならば史実の部下の2、3人つけてもいいんじゃないか。
39無名武将@お腹せっぷく:2007/02/24(土) 22:21:38
宗宝って孔融の部下じゃなかったっけ。賊将の方だっけ。
40無名武将@お腹せっぷく:2007/02/25(日) 00:06:49
>>29
南陽太守は張咨で刺史が王叡だろ
41無名武将@お腹せっぷく:2007/02/25(日) 00:13:25
>>40
ソーリー
42無名武将@お腹せっぷく:2007/02/25(日) 16:02:07
>>38
演義には北海の相としては反董卓連合でのエピソードしかないから
他に出しようがない。
そもそも孔融に部下が武安国しかいないとか何とか思うのは
光栄ゲームをやったことのある奴だけで、
普通の読者は孔融の北海相時代の配下のことなんか考えもしないって。
43無名武将@お腹せっぷく:2007/02/25(日) 16:59:50
>>38
天舞スピリッツあたりならもっといるんじゃないかな。
多分使えない奴らばっかりだが。
44無名武将@お腹せっぷく:2007/02/28(水) 02:59:14
演義の紀霊の話。
っていっても紀霊は正史じゃ語れるほどキャラが立ってないんだけど。

紀霊は山東の出身。
諸葛亮も同じ出身地で、そこは曹操の虐殺を受けた地でもある。
紀霊が袁術に最後まで付き従ったのは、
袁術に対する忠義の他に、曹操に対する激しい怨みがあったんじゃないだろうか。
45無名武将@お腹せっぷく:2007/02/28(水) 20:46:27
>>43
スピリッツの方はわからないけどメガCD版では配下に王脩が一人だけ
でも在野で崔琰・鄭玄・徐奕・徐幹・孫乾が控えてる
46無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 07:13:27
孫堅とか鄭泰とか
使えそうな奴がさっさと死んでいるのが致命傷
天に見放されてたんだね、きっと
>>8
汝南太守 孫香
も仲間に入れてあげて
>>24
萇奴派遣の件も
いったいどう収拾がついたのやらさっぱりわからない
47無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 10:42:43
死んではいないが、
朱儁もせっかく袁術の部下になったのに李カクに惨敗しちゃったしなあ。
48無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 13:39:21
孫堅で荊州押さえて
鄭泰で江東押さえて
後顧の憂いなくして兵站確保してあって
朱儁がうまいこと残ってれば
匡亭の戦いって
朱儁が指揮取って
於夫羅と黒山賊で囲んで
袁術の本隊と荊州・江東の援軍で
曹操殲滅できたかもね
49無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 13:53:27
董卓軍スレでもあったが、袁術と李カクは似ているよな。
外交を始めとした権謀術数が得意で、
絶体絶命の窮地から逆転することができて、
朝臣や名士からの信任が厚い。
かなり有能な君主のはずなのに運に見放されている。
50無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 14:04:01
権謀には長けているが、行政面で特筆するような能力が無さげだったのが痛いな
曹操や袁紹に劣るとしたらその面じゃないか?
51無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 19:10:46
だろうね。悪政という悪政は敷いてないだろうけど、
袁紹がずば抜けて善政だったらしいからね。
52無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 21:25:20
この板は近日中に取り潰されるようです。

続きは中国英雄板でやりましょう。
http://hobby9.2ch.net/chinahero/
53無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 21:28:24
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1171247776/53-54
マルチ&情報操作の誘導厨乙
54無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 21:41:29
いや勝者の記録に載ってないだけで、
袁術の統治がよかったか悪かったかは不明としか言いようがないと思う。
55無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 22:41:54
宛とか淮南とか
大して広くもない領地で大軍勢抱えてちゃ
どうしても収奪がひどくなる
56無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 22:59:37
>>54
悪かったという記録は残ってるからなあ
敗者のことゆえ誇張はあるにしろ、同じ敗者の袁紹はさほど悪く言われてないあたりから察すると、贔屓目に見ても特筆するほどではなかったとしか言えないな
57無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 23:14:56
>>56
その記録って武帝紀に引用されてる魏書のことでしょ。
あれはちと素直に読めない部分があって、袁紹・袁術が無計画で自滅して、
曹操は挙兵当初から農業政策に力を入れていたように読めるんだが、
実際には曹操の屯田政策は196年以降、それ以前は運任せだったんだよな。
武帝紀ですら呂布の戦いの最中、食糧不足のため戦闘を継続できなかったとあるくらいだし。
196年は大飢饉の年で、とくに関中を初めとして各地で相当餓死者が出たらしい。
曹操が屯田を始めたのも、その後のことみたいだ。
58無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:06:10
仲の宰相って誰?
59無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:19:40
>>56
だって袁紹は一時期曹操が所属していた派閥だもの。そりゃ悪し様に書けないって。
そんでもって袁紹は献帝に叛逆していた逆賊で、その子分だった曹操も逆賊。

曹魏が漢を引き継いだ正当な王朝だと主張するためには、
(曹操が所属していた)袁紹派閥と対立していた袁術派閥は、かなりの悪党じゃないといけない。
勿論、袁術が勤皇派であったという事実もごまかさなくてはいけない。

袁術を悪党・逆臣に仕立てなければ、曹操の正当性が失われてしまう。
逆に、袁紹が逆臣であるという事実を隠さなければ、これも曹操の正当性を失うことになる。
袁術は袁紹より貶められている部分が大きいと思うよ。
60無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:24:40
呂布が滅んだ時は結構元配下が召抱えられてるけれど
寿春陥落時には武将皆殺し
この差って何?
61無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:54:21
>>59
おおむね同意なんだが、勤皇ってのは割引いて考えるべきだろうと思う。
献帝を奉じていたのは事実だが、一方で宦官を殺し大乱の引金を引いたし、太守や刺史を殺しまくった孫堅を受け入れるなど、袁術は敗者修正を別にしても単純な勤皇派じゃあないだろう。
62無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 01:55:11
うーん、宦官誅殺は勤王うんぬんとは直接関係ないと思うけど。
王叡の方は知らんけど張咨は董卓が任命した太守。
63無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 16:33:03
>>60
袁術を倒したときには人を新しく召抱える余裕がなかった とか?
64無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 16:40:37
劉勲なんかは孫策に敗れた後曹操を頼ってるんだが……。
基本的に、袁術の残党は孫策勢力に引き継がれた気がする。
65無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 20:42:16
張勲・楊弘は使い物にならなかったのかな?
話は変わるけれど徐璆ってどうやって玉璽手に入れたんだろ?
演義だと入手できそうだけれど
実際には袁術軍って一応劉勲が吸収するまで数万は居たんだよね?
おいそれと持ち出せない気がするのだが
66無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 21:51:04
張勲を使いたくても使えない事情があったとかりして。
反逆者の大将軍だからね。使いづらいのでは?
67無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 21:58:08
張勲はそもそも曹操に捕まったわけじゃないけどな。
袁術死後、残党を率いて南下中に劉勲軍に吸収されちゃったから。
張勲と同様、孫策を高く評価していた橋ズイは寿春防衛に失敗して死んだが。
68無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 23:56:59
同じ閻氏でも
主君が王位に登るのに反対した閻圃は列侯になって
主君が帝位に登るのに反対した閻象は無視
本人が死んでても一族くらいは残ってるはずなのにこの待遇の違い
やっぱ袁術配下って冷遇されてるんじゃないの?
69無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 05:16:51
楊修も袁術の外甥だから殺されたって説があるな
70無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 17:56:04
age
71無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 15:48:52
>>68
全然違うと思うぞ。
閻圃の場合、
・王位に上るのに反対して、主君がそれに従った
・張魯に帰順を勧め、それによって勢力が降伏したことが曹操にとってプラスになった
という上での列侯入り。
閻象の場合はどちらも満たしてない。
72無名武将@お腹せっぷく:2007/03/07(水) 23:08:27
>>71
でも倫直は
公孫淵が王位に登ったのを
止めきれなかったけれど
子孫は列侯になったよ
73冷砲 ◆RX/MoGZ9xs :2007/03/07(水) 23:57:08
曹操も袁術討伐の頃は自分の一存とかで官職を与えたりできなかったんじゃないのかな?
74無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 00:12:57
>>71
細かいつっこみで悪いけど
閻圃はむしろ逆に
張魯が素直に降伏しようとしてたのに
一回戦ってから降伏すれば評価が上がる
とか言ってた人
>>73
このころ献帝無視して董貴妃殺してるくらいだし
関羽を寿亭侯にしてるし
列侯くらいすぐできるはず
75冷砲 ◆RX/MoGZ9xs :2007/03/08(木) 00:19:30
>>74
なるほど。そうだよね。
じゃあ、ここの住人の話からの推察になっちゃうけど
袁紹派閥にいた曹操が対立する袁術派閥の旧臣を召しかかえたり、官職を与えたりするのは難しかった。

とかはどうかな?至極当たり前な話なんだけどさ…
76無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 01:21:01
それは話がおかしい。
仮に
>>袁紹派閥にいた曹操が対立する袁術派閥の旧臣を召しかかえたり、官職を与えたりするのは難しかった
と仮定しても、
閻象は袁術の即位に反対した臣だぞ?
厚遇して何の問題もないし、袁紹派閥で袁術憎しだったら尚のこと。
倫直の件と矛盾する。
77無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 18:49:47
閻象が無能だったから
78無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 19:42:11
閻象の名前が出たのは袁術が帝位に付くのを諫めた時だけだろ。
決して無能と言うわけじゃないだろうけど、大した事無いんじゃない?
79無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 19:58:12
太守とか何らかの官職与えたら有能無能関係あるけれど
列侯にするのは名誉&禄だから過去の功績だけでもOKじゃない?
話しずれるけれど、閻象って「主簿」だから文官タイプっぽいけど
主簿は呂布もやってたから、武将の可能性もあるよね。
80無名武将@お腹せっぷく:2007/03/08(木) 20:09:38
袁術派閥と袁紹派閥が対立してて
袁紹派閥の下に曹操がいるって構図はいつまでなの?
袁譚が袁術出迎えようとしたとき
曹操が邪魔したあたりでは
完璧に終わってるとは思うのだが
81無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 10:52:50
劉協奉戴から亀裂が深まると思う
始まりは青州兵獲得だろうさ
82無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 13:03:36
>始まりは青州兵獲得だろうさ
これはやっちゃ駄目だっただろうな。
83無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 16:19:54
袁術の建てた国の国号が「成」なのは演義だけじゃなくて史実でも?
なんでまたその国号を選んだのかな。あそこらへんは成って地名だったの?
84無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 16:40:16
だから成じゃないと何度いえば
85無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 17:20:57
>>83
袁術の国は「仲」だ。
86無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 17:49:52
「仲」を選んだ根拠は?
87無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 18:17:14
>>86
不明。
88無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 18:32:33
あげ
89無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 19:42:35
なんか「仲」って中継ぎみたいで
後世の儒者がつけたインチキ国号っぽいのだがどうだろう
90無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 19:54:18
「沖」とする文献もあるみたいだがな。
ただ、やはり由来は不明。
紀霊の字がわからないように、仲家の由来もわからないのです。
91無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 22:27:06
演義にも成とは書いてない。
92無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 23:51:30
成になったのは吉川から?
93無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 23:58:46
元春は関係ない。
94無名武将@お腹せっぷく:2007/03/10(土) 15:54:29
ちなみに成って国を建国したのは公孫述(袁術より結構昔の人だ)。
首都は成都なので、成って国号になったのは理解可能。
95無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 11:17:01
このスレに袁術の帝位僣称を擁護できる人はいる?
道義的にでも良いし戦略的にでも良い。
96無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 13:48:19
正史には出てこんが、楊大将なんてどーやろ?
97無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 14:13:48
董卓の元に献帝があった時期は、献帝を董卓の元から取り戻すという大義名分があった。
李カクの元に献帝があった時期は、李カクの傘下に収まることで大義名分を得ていた。

曹操が楊奉を騙して献帝を奪うと、
曹操は袁術を逆賊として賞金首とした(他には公孫サン、楊奉、韓暹なども)。
これによって、袁術は「漢」を中心とした大義名分を得ることができなくなった。
袁術が曹操と戦う正当な理由を作るには、自らが皇帝になるしかなかったのではないかと思う。
98無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 14:46:03
>>97
結論としては袁術は勤皇でもなんでもなく戦う大義名分のために献帝を利用していただけでFA?
99無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 14:49:51
まあ、勤皇の志ってのは偽物だったろうね。
ただ、有力君主の中では一番の勤皇の志ではあった。
(楊奉は有力とは言えない)

嘘の忠誠心を持っていた袁術が、
有力君主の中では最も勤皇の士だった。
つまり、他の君主は「それ以下」だった。
100無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 14:54:51
袁術が最初に帝位につこうとしたのは、李傕が献帝を長安に連れ戻した時だからなあ……
101無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 14:55:59
>>100の続き
>>97
> 李カクの元に献帝があった時期は、李カクの傘下に収まることで大義名分を得ていた。

っていうのはどうなのかなあ?
102無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:01:41
心情なんて他人には分からないんだから志が本物か偽物かを論じても意味がない。
ただ当時の群雄の中で、袁術が勤王家らしい振るまいをしていたことだけは確か。
他の連中はあからさまに帝に楯突いたりしてたからね。
おそらく勤王家の大臣として逆賊を討伐し、
その功績をもって漢朝より受禅するというシナリオを描いてたんじゃなかろうか。
103無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:09:38
帝位に就く前と後の袁術がどうしても結びつかない。
104無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:12:24
結果として帝位僣称って袁術にとってメリットが有ったのかどうか。
逆賊認定されたからって帝位僣称はさすがにマズかったんじゃないか。
105無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:17:49
状況的に追い込まれつつあったんで、半ば自棄気味に、あるいは現実逃避気味に帝位に就いた。
106無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:20:34
そもそも袁術は勤皇なんてのは穿った見方であって、妥当なものではない。
107無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 15:49:45
>>106
袁紹の献帝否定に対して献帝を肯定する袁術でしかないからなあ
108無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 17:02:10
>>96
楊大将って確か楊弘の誤記だったはず
でも演義だといろいろ進言してて大活躍だね
>>97
李カクのところから来た馬日テイ抑留したからどうなんだろ?
>>95
董卓  洛陽灰塵に帰したり、捕虜の目を刳り抜いて湯で殺して楽しむ無法者
李カク 董卓の劣化コピー。巫女に大金つぎ込む狂信者
曹操  親父が殺されたからって徐州の生き物皆殺しにする鬼畜
献帝擁立してた奴はどいつもこいつも基地外揃い
もはや天命に見放されてるとしか思えん
じゃあ、長年国政に携わってる袁氏が・・
ってところじゃないの?
109無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 17:07:56
でもいきなり皇帝はどう考えても無い。
区星とかの賊と良い勝負じゃないか。
110無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 17:11:30
董卓と李カクはかなり違う。劣化コピーではないと思うが。

少なくとも、李カクは袁術派と協調路線を歩もうとしてるし、袁術もそれに応えている。
邪教に傾倒して迷惑かけたわけでもなし。
袁術が蜂蜜好きだった。 とおなじレベルのこぼれ話だろ>巫女萌え李カク
111無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 17:55:40
いきなり称帝ってのは後漢末期では割とよくあること。
桓・霊二帝以来、帝号を称した連中は数えきれないほどいる。
結果的に敗北したから賊と呼ばれているだけで、
三国だって勝てば官軍で、袁術や区星と同じことですよ。
皇甫嵩だって推戴されてたくらいなんだから。
112無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 18:17:23
三国の魏は漢王室から公→王と封じさせた後、禅譲の形だし、
蜀も自称ではあるが王→皇帝の流れ(新王朝ではなく漢王室を継いだと主張)
呉も一応魏から王位などを受け、その後新朝樹立だから、どれもいきなり帝を名乗ったわけではないのでは?
113無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 18:53:53
どうしてもあの状況で帝位を僣称しなくちゃいけない必要性が見えない。
114無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 19:06:02
それまで太守刺史すら自称しなかった袁術が、いきなり皇帝ってすごいな。
演義ばっかりで勉強不足だった自分は、袁術といえば無理無茶無策だと思いこんでたから
勝手にもっといろいろ名乗ってたような気がしてた。そうじゃなかったのね。

なにかやろうとするたびに裏切られる(陳ウだの陸績だの劉ヨウだの)し、献帝は曹操の手に落ちるし。
しかも袁術陣営は袁紹陣営相手の戦に負けっ放しだし。
軍事的に決定的な戦略ミスがあったように見えないのに削れていくのは不運だなあ。
これで質素倹約を旨としていた人物なら、悲劇の英雄にもなれそうなストーリーだ。
115無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 19:14:44
もちろん最初は称帝せず、いちど王号を称した連中もたくさんいたよ。
許生とか宋建とか劉備とか公孫淵とか。
116無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 19:22:30
自暴自棄のように見えるな、やっぱ>帝位僭称

皇帝になって浮かれてる姿より、
涙流しながら薄ら笑い浮かべてブツブツ独り言言ってる姿が浮かぶ。
117無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 19:27:27
「皇帝になったら箔がついて、オレ様、有利になるんじゃね?」
118無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 19:54:48
なんか悲しくなってきた
三国志で袁術に天下取らせてくる
119無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 20:17:26
>>118
俺はセカンドプレイはいつも袁術
120無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 20:27:18
決定的な戦略ミスは、南に位置したことじゃないだろうか。
121無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:15:40
超が付くほどの名門出身なのに、どこか求心力に欠けるのは何故なんだぜ?
122無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:26:24
別に求心力に欠けているようには見えないが?
公孫サン・陶謙・孫堅は袁術を盟主に選んだし、
張バクも楊奉も韓暹も金尚も曹操に敗れて袁術を頼ってる。
名門の嫡流と実力に相当した求心力があると思うが。
123無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:30:19
一門の名声に自分の実力をプラスした総合力では袁紹が上だとは思うがね
孫堅が早々死んだり、全体的に不運もあると思う
124無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:35:57
楊奉は献帝を曹操に奪われた後でよく袁術を頼る気になったというか、袁術もよく受け入れたね。
袁術は、「董承やこいつらが献帝を連れ出さなかったら逆賊にされなかったのに!」とか
思っててもおかしくないのに。
125無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:36:44
どこを読んだら公孫瓚や陶謙が袁術を盟主としたと取れるんだ?
126無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 21:50:57
>>122
孫堅はともかく、公孫サンや陶謙って袁術を「盟主に選んだ」のか?敵の敵は味方理論での協力関係かと思ってた。
メンツ見比べても、曹操とか劉備とか孫策とかの方が家柄の割りによっぽど求心力あったように見えるのは、
こいつらが勝ち残ったから協力者も有名になっただけ?
127無名武将@お腹せっぷく:2007/03/11(日) 22:25:34
公孫[王贊]は公孫越を袁術に派遣してる。人質の意味もあるんじゃないかと思うので、
袁術の下についているという読みは不思議じゃないかと。

でも陶謙は疑問があるな。公孫サンとのつながりから間接的に近かっただけで、
曹操とやりはじめたあとくらいから袁術とは距離を置いてる感じがするし。
128無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 21:34:16
袁紹と袁術って何進と仲良くって劉弁に期待してたのに
劉弁が董卓に殺されて代わりに劉協が皇帝になったから
劉協なんか仇のかたわれくらいにしか思ってなかったんじゃないの?
ところで劉虞の子の劉和ってどういう位置づけなんだろ
確か袁術に足止めされてる間に父を殺されて
仇の公孫サン滅ぼすときに従軍してて、その後記録なしだが
劉虞殺しって袁術の関与ありなのか
それとも単に公孫サンの都合だけで殺されたのか
129無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 21:52:53
>>128
袁術の関与はほとんどないと思うよ。
130無名武将@お腹せっぷく:2007/03/12(月) 22:06:37
てす
131無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 02:13:22
>>127
確かにトウケンは微妙だな。あまり良好な関係だったとは思えない。
132無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 10:01:53
少なくとも徐州豪族の一部は反袁術な気がする。劉備に徐州を任せようとした一派。
133無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 16:41:23
呂布は袁術派と見るべき?
134無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 16:41:46
>>114
太守を自称しないが任命する
→だって皇帝だもん
という理屈じゃないか?
135無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 16:42:28
袁術派袁紹派は幻想。
その場その場で都合のいい同盟を組んで共闘してたに過ぎない。
136無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 18:57:23
>>122
張バクって確か
袁術の元に落ち延びる途中で部下に殺された説と
袁術の下に来て即位を諌めたけれど聞き入れられなかった説があるんだよね
>>132
徐州豪族って戦は強いけど操りやすいって事で劉備を擁立したんだろうね
137無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 19:23:59
>>127
公孫瓚が袁術と同盟を結んだのは、袁術の意向を邪魔しようとして果たせず、後でそれがばれて恨まれるのを畏れたため。
だから袁術を上位に置いたと見ることも出来るが、袁術の下に送った公孫越に劉虞が送った兵を奪い取らせようとしたりしてる辺りをみると袁術を盟主としたとまでみるのは無理がないかなあ?
138無名武将@お腹せっぷく:2007/03/14(水) 16:07:05
>>124
保護欲をくすぐられたんじゃね?
139無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 00:04:55
保護欲か・・・確かに袁術は自分を頼ってきた者はみんな保護してるよね。
その家柄の善し悪し、身分の上下を問わないところに袁術の侠気が伺える。

でも保護しまくってんのに裏切られまくっててかわいそう・・・
頼りない人柄だったのかねぇ・・・やさしいけど頼りないみたいな。

こう考えるとまた違った袁術が見えてくるなw
140無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 00:57:29
受け入れ裏切られ…苻堅みたい。
苻堅の方が大物だな。
141無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 00:59:15
楊奉から見たら、
袁術が(期待を)裏切ったとも取れるがな。

李カクの樊稠殺害と同様、
袁術の帝位僭称は窮地を脱する苦肉の策であったが、
失うものが大きかったな。
142無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:48:54
盟主ではないが、公孫サンより袁術の方が力が(軍事力か影響力かは知らんが)上だった、くらいか。
確実に読みとれそうなのは。
143無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 20:53:57
別スレでちょっと話してたことと関連するんだが、なんで袁紹はあのタイミングで周昂もしくは周昕を派遣して袁術と戦端を開いたのかねえ?
144無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 22:04:20
演義だと袁紹が冀州乗っ取ったとき
袁術が食料寄越せって言ってたのに送らなくて仲違いって話だが
実際はどうなんだろ
145無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 22:15:05
南陽は結構豊かな土地だった気がする。
食糧不足ってセンは微妙。

当時の情勢を考えると、
「袁紹に袁術が対抗」ってよりは
「袁術に袁紹が対抗」って構図だったように思えるんだが。

血筋は袁術の方が上で、洛陽奪還の功があり、
袁家の地盤、汝南は袁術が継いでいた。

どうも袁術のほうが袁紹より優位に立っていたっぽいが。
146無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 23:56:33
袁紹が盟主だった時点で相当差は開けられていたけどな
147無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 00:11:34
その袁紹盟主なんだが、どうも嘘くせーと思うのは俺だけ?
なんで盟主だったら劉岱のところに家族を人質に出してるんだっていう。
148無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 01:04:34
>>143
あのタイミングって

袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じてその陣地を奪取させた。
袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃したが、勝利を得られず、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。

これのこと?
149無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 01:07:55
そもそも董卓を怒らせたのは袁紹。
そのくせ連合では兵を出さない袁紹。
さらに新帝擁立まで画策する袁紹。
そして袁術が活躍すると連合ぶちこわして袁術を攻撃する袁紹。
150無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 01:13:49
>>149
> さらに新帝擁立まで画策する袁紹。

あ、これかな。
袁術は献帝を迎え入れようとしてたし。
ただし、献帝の使者として劉虞の下へ向かおうとした劉和を足止めして、自分のために利用しようとしてたりしたがw
151無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 16:06:45
補修
152無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 23:34:43
周マと周昂の弟・周グウも
曹操が旗揚げしたとき招かれて2千の兵引き連れて一時軍師になってて
そのあと孫堅と予州争奪戦起こして負けてるけど
周氏三兄弟ってウザイよね
周グウが再起不能なまでに負けた後郷里に帰ったところで許貢に殺されてるけど
許貢って袁術派?
153無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 23:38:36
周昕はたしか陶謙の救援に来た劉備に兵を貸してなかった?
154無名武将@お腹せっぷく:2007/03/16(金) 23:41:55
>>152
> 許貢って袁術派?

全てをそれで色分けするのは意味無いと思うが、少なくとも否定する材料はないかな。
袁術と決別した孫策に殺されてるし。
155無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 01:24:28
>>152
たしかに袁術の視点でみると非常にウザイ存在。
この周三兄弟なんだがけっこうややこしいよな。

ちょっと整理させて欲しいんだが、呉録では「袁紹が会稽の周グを豫州刺史に任じた」とあるそうだ。
一方魏書公孫サン伝では「袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じて
その陣地を奪取させた」ってなってる。

おそらく孫堅の豫州刺史の座を奪いにかかったときのことだと思うが、豫州刺史は弟周グでその兄周昂がおまけ?
それとも逆なのか?少なくとも一緒にいたのは間違いないよな?

詳しいやつこの兄弟のややこしい部分を優しく説明してくれ。

>>153
曹操には貸してたらしいが、それは初めて聞いた。
どこに載ってる話?

156無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 01:32:24
流れとしてはこうだとおもう

袁術(孫堅)vs袁紹(周グ) ※袁紹がケンカを売った形。

袁術・袁紹ともに援軍を派遣。
袁術(孫堅+公孫越)vs袁紹(周グ+周昂) ※公孫越戦死。公孫サン激怒して袁紹を攻める。
157無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 09:41:54
>>155
曹操の旗揚げの時だったわ。勘違い。
ただ劉備が陶謙の救援に赴いた時に陶謙から丹楊の兵四千を借りているんだが、この時の丹楊太守って周昕っぽいんだよなあ……
158無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 13:58:01
いや、その丹楊兵ってのは陶謙が地元から連れてきた私兵だろう。
郡兵を勝手に動かしたわけじゃないと思うよ。
159無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 13:58:35
あ、それとも呉景に変わっていたかな?丹楊太守。
160無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 14:10:14
>>158
そうなんかな?
確かにその時期、陶謙の勢力範囲が丹楊まで含んでいたかは微妙だしね。
曹操に押されていた時に丹楊まで逃げ帰ろうとしたくらいだから、対立勢力に抑えられていたということはなさそうだけど。
161無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 14:12:34
>>159
呉景だったら
袁術も救援してくれたんだから
徐州牧を袁術に譲ろうとしない徐州豪族の意図が意味不明になる
162無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 14:21:10
>>161
> 徐州牧を袁術に譲ろうとしない徐州豪族の意図が意味不明になる


譲る理由がないからだろ?
陳珪の例のように若い時から交流のある人物にさえ支持されてないんだし。
そのことと曹操に対抗して袁術の息がかかった呉景が陶謙・劉備に手を貸すことは矛盾しないと思うけど?
仮に丹楊太守が呉景であり、陶謙の意向でその兵を劉備に貸したとしてね。
163無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 19:54:59
>>162
陳珪が
袁術よりも徐州虐殺野郎の曹操を選んだのって
単純に漢王室推戴してるから?
164無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 20:20:21
>>147
袁紹盟主で立ち上がった反董卓連合と袁術が後から立ち上げた反董卓連合は別物
それを董卓が一緒だと勘違い
165無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 20:40:25
>>163
陳珪的には一族虐殺野郎よりは徐州虐殺野郎の方がまだマシという消去法
166無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 20:48:34
>>163
曹操を選んだというより劉備を支持したのでは?
劉備を追った呂布には背面服従だったし。
167無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 21:01:23
>>164
190年の袁紹を盟主とした同盟はすぐ実質を失った。
けどその後に袁術を盟主とした同盟なんて組まれたか?
168無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 21:45:14
陳珪は徐州人じゃないよ。
169無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 21:55:51
>>168
どこの人?
「陳登は南方の人」と許汜が言ってたけど……
170155:2007/03/17(土) 22:31:21
>>156
なるほど、後から周昂が派遣されたってことか。
ところがどっこい後漢書に三人一緒を思わせる記述を発見したw

「術の従兄の紹、堅の卓を討ちて未だかえらざるに因り、其の将の会稽の周キンを
遣わして堅の豫州を奪わしむ。術怒り、キンを撃ちて之を走らす。」

これ見ると周キンまで一緒にいたことになるんだが、この時周キンは丹楊太守じゃないのか?
これは後漢書のミスか?それともほんとに周キンは豫州に派遣されて袁術と戦ったんだろうか。

丹楊太守周キンは袁紹の命で袁術(孫堅)と戦う。その後周キン(と周昂?)は元の領地に帰る?で周グ(と周昂?)
は豫州刺史として豫州に滞在?其の兄周昂は九江太守に任命され九江へ。その後九江は袁術の攻撃を受ける。
豫州の周グは救援に赴くも敗れる。

って流れになるのか?なんかおかしい気もするが・・・
171無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 22:39:24
>>170
そのことに関してはこっちでちょっとやった。

三国の人材比較スレ
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1164187052/438-

http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1164187052/449
にレスした通り、丹楊太守周昕が攻めたのは地理的に洛陽近くの陽城ではなく丹楊の隣の淮南や汝南あたりのことだと思う。
172155:2007/03/17(土) 22:46:25
>>171
おお即レス感謝!!

そんなスレがあったのかさっそく俺も世話になるぜ!!
173無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 23:03:37
>>169
ああ、すまん。カヒの出身なんで徐州人であってたわ。
174無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 02:14:39
>>167
曹操の行動が12月、袁紹が明けて1月、袁術が2月
ここで曹操と袁紹は行動を共にしてるわけで董卓は遅れた袁術も袁紹と共謀しているのだと勘違いしたんじゃないかなってこと
175無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 09:44:13
>>174
武帝紀には春正月の記事として一括で記述されてる。
しかも袁術は筆頭だった。
袁術が2月っていうのは何がソース?
176無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 19:43:25
>>170
それだけ揉めに揉めた豫州刺史
呂布が兗州奪ったとき
郭貢とかいうどの陣営かわからない人がその地位にいて
数万の兵の兵率いてたけど
あの人はいったい何なんだろ

あと
「このスレを見ている人はこんなスレも見ています。」
「【成皇帝】袁術様について語るスレ [中国英雄]」はわかるんだが
「コードギアスはジンも解読不能なご都合糞アニメ12 [アニメ]」はなんで?w
177無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 19:45:39
それあんまりアテにならないよ
開いただけでカウントされるし、一人が何度も見たのかもしれん
178無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 20:27:14
袁術が董卓討伐時に孫堅に食料を送らなかったってのはでっち上げっぽくない?
こう書いておけば孫堅は袁術に恩義を感じる必要がないから、息子が裏切っても何も道義的責任ないし
公孫サンの上表文で孫堅軍への食料の補給が止まったのは周昂が予州刺史の地位奪ったからだってあって、プロパガンダ的文書だからかなり怪しいがその可能性もあるよね
179無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 20:58:01
>>178
袁紹に豫州刺史に任じられ孫堅と争ったのは呉録によると「周グ」。
なんかこの辺り情報が非常に錯綜してるね。
孫策が袁術と縁を切ったのは袁術が帝号を唱えたからだから、そんなことしなくてもいいと思うがなあ。
公孫瓚は袁術と結んで炎症と戦ってたんだから、袁術の失態を袁紹へ責任転嫁するのも自然。
だから袁術がなにやら吹き込まれて孫堅への糧食の輸送を取りやめたことについて、特に疑う必要性は無いと考える。
180無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 21:38:19
>>179
公孫瓚も間違えてるんだから
当時からわけわかんなくなってたんだね
181無名武将@お腹せっぷく:2007/03/18(日) 21:41:37
>>180
史書の編纂、書写の問題だろ?
典略に収められた公孫瓚の上表文だって実物の丸写しとは限らないわけだし。
182無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 02:33:05
>>174
なぜ袁術の行動が2月だとわかるんだ?都から逃げたのが曹操より遅かったってのはわかるが。

>>176
>郭貢とかいうどの陣営かわからない人がその地位にいて

うおw発見したwwwなんだこいつはw豫州刺史カオス過ぎだろw
どの陣営かわからないが、隙あらば攻撃をかけようとしてるあたり曹操の陣営ではなさそう。

ちょっと整理してみるか、孔チュウが死んだ後?孫堅が豫州刺史となる。しかし孫堅はその翌年劉表と
戦い戦死する。で周グが豫州を勝ち取る※ そして孫フンが豫州刺史となるがすぐに丹楊都尉に任命
される。で、その謎の郭貢、陶謙が任命した劉備かな?

そうすると郭貢は袁術が任命した可能性が高いように思える。その当時まだ豫州は袁術の勢力圏だし、
汝南には孫香がいる。いきなり違う勢力から送り込まれたとは考えにくい。争った形跡もないしね。

あと呂布をエン州から駆逐したのち、曹操が豫州に侵攻したのも、この郭貢が張バク叛逆時に怪しい行動
をとっていたため警戒し、後顧の憂いをなくす為だったのではないだろうか?
まぁこのへんは史料がなくてただの妄想になるがな。


※俺が思うにこの時豫州刺史は周グ。なぜならこの後豫州刺史になるのは孫フンであり、彼が豫州刺史に
なるのは九江太守周昂を倒してから。つまり周昂の救援に向かった周グが死んでからだからだ。
周グは孫堅や袁術に追い払われたのでは?とも考えられるが、周グの後ろ盾には曹操(曹操が挙兵したときに
周キンは兵を貸しているが、このときの派遣軍が周グだと思われる)もいるから再起は十分可能だと思う。

>>178
俺も怪しいと思ってた。上表文以外では何者かが袁術と孫堅の仲を裂いた、とあるがほんとに誰だろうねw
案外その周兄弟の誰かだったりしてなw
183182:2007/03/19(月) 02:53:27
訂正

×曹操の陣営ではなさそう。
○曹操側の陣営ではなさそう。
184無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 03:05:18
>>182
>ほんとに誰だろうね
蒼天説をとって李カクとかw
185無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 08:00:35
>>182
袁術が上表した豫州刺史と袁紹が上表した豫州刺史がいるだけじゃない?
あと孫堅が豫州刺史になったのはもっと前で袁術と組んだ時だと思うよ。

> 時に董卓まさに廃立せんと欲し、袁術を以って後将軍となした。
> 袁術は董卓の禍を畏れ、南陽に出奔した。
> ときに長沙太守孫堅、南陽太守張咨を殺し、兵を引きつれて袁術に従った。
> 劉表は上表して袁術を南陽の太守と為し、袁術も又上表して孫堅を豫州刺史と為した。
> 荊州・豫州の兵を率いさせ、陽人において董卓を撃破させた。

これ後漢書の袁術伝ね。
186無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 14:41:16
陣営が陳宮に見えて困ってます。
187無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 19:09:08
陥陳宮
188無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 19:13:26
袁術はラピュタのムスカに似ている。一瞬だけ天下を取った男
189無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 19:26:17
確かに骨太で豪胆な悪役ってより、
線が細くて神経質そうな悪役だよな>袁術
190無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 19:28:52
>>189
確かに袁紹の方がふたまわりは骨太だろうな
191無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 20:07:54
袁術は北斗の拳のジャコウに似ている。
192無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 20:51:23
>>185
>袁術が上表した豫州刺史と袁紹が上表した豫州刺史がいるだけじゃない?

いやまぁそうなんだけど、もともと豫州刺史は二人いたが、孫堅が死んで最終的に
周グが豫州刺史のポストを得たんじゃないかってこと。

紛らわしい書き方をしてしまったスマン。。。

>あと孫堅が豫州刺史になったのはもっと前で袁術と組んだ時だと思うよ。

ちょっと待ってくれ、もっと前もなにも190年に諸侯が挙兵してすぐ孔チュウは死ぬ、もしくは
転任で豫州刺史の座から退いたんじゃないか?だから孫堅が豫州刺史に任命されたんだろ?

要するに俺とおまいが言ってることは同じなはずなんだが・・・


まぁどれもこれも俺の書き方が悪かったから起きた行き違いかな。

>>186
似すぎててワロタw

>>191
てことはファルコが孫堅ですね><

てかジャコウは董卓じゃないか?
天帝=献帝
ファルコ=コウホスウ
ジャコウに反乱起こした将軍=シュシュン
青の将軍・緑の将軍=リカクシ


193無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:12:25
>>185
> 劉表は上表して袁術を南陽の太守と為し、袁術も又上表して孫堅を豫州刺史と為した。

てことは劉表ははじめは袁術と組もうとしてたって事?

あと初歩的質問で悪いんだが
三国志は筑摩書房の「正史三国志」読めば大体のことはわかるのは知ってるんだが
後漢書は一番手軽なのは何?
194無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:15:03
筑摩は誤訳多いから、そのまま読むと危ないかもなー。
195無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:20:15
郭貢が袁術の部下だとしたら
紀霊といい
せっかく大軍率いてるのに簡単に丸め込まれて帰ってくるような将軍ばっかで
袁術軍ってやる気ないのかw
196無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:40:54
>>192
うんと、時系列で言うと。
孫堅が豫州刺史になったのは袁術の配下となった時で董卓とまだ実際に戦闘を交える前だから初平元年(190)前半。
孫堅が死んだのは初平3年(192)、英雄記には初平4年(193)正月七日とあるので初平3年の後半であろう。
少なくとも
> 孫堅が豫州刺史となる。しかし孫堅はその翌年劉表と戦い戦死する。
ということはあるまい。

また孔伷が死んだ年はというと。
許靖は豫州刺史孔伷が死ぬと揚州刺史陳禕を頼ったと許靖伝にある。
陳禕は初平3年(192)に死ぬのでそれ以前であることは間違いないであろう。
で、陳禕がいつから雍州刺史だったか?
曹操が徐栄に敗れた時の揚州刺史は陳温。ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。
だから陳禕が揚州刺史になったのは初平元年(190)中であるが中ごろ以降?
この辺はちょっと自信がないが、ぎりぎりだけど孫堅が豫州刺史に任命されたのは孔伷の存命中だと思う。
197無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:42:30
>>193
オレは↓を参照してる。
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

三国志もちくまので当たりをつけてから、↑で確認してる。
198無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:45:40
>>193
> てことは劉表ははじめは袁術と組もうとしてたって事?

この時点では単に特に対立してなかっただけじゃないかな?
董卓包囲網を敷いていた時だし。
199無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:53:27
おかしいな。
董卓軍系列スレでも語られてたが、劉表って董卓が派遣した刺史だろ?
200無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 21:59:08
袁術を後将軍に任命したのも、袁紹を勃海太守に任命したのも董卓。
その他の事例を見ても、董卓の子飼い以外は外に出て皆反旗を翻してる。
201無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:43:46
>>193
手軽なやつはないんじゃない?俺が知らないだけかもしれんが。
一応岩波書店ってとこから全10冊(+1冊)刊行されてるが一冊14,000円もする。
おれはブルジョワじゃないから、袁術の記述のある第八冊だけ持ってるw

>>196
>孫堅が死んだのは初平3年(192)、英雄記には初平4年(193)正月七日とあるので初平3年の後半であろう。

ああこれか、これは簡単にまとめるために孫堅の死亡年は初平2年の説を採用していたんだよ。

>曹操が徐栄に敗れた時の揚州刺史は陳温。ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。
>だから陳?が揚州刺史になったのは初平元年(190)中であるが中ごろ以降?

そうか、では孔チュウ在命中のことかもしれないなぁ。勉強になった。

>>199
俺も>200が言うようおかしくないと思うが?


そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?





202無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:54:10
>そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?
それこそ、董卓が劉表を派遣したからだと思うんだが。
当時荊州は袁術・孫堅に支配されていて、
その領地を切り取るために劉表が派遣されたんだと思ってたが。
203無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:57:55
>>201
> そういえば袁術が劉表と争いだしたのはなんでだ?

悪い人たちがやって来てみんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱い人がいたから〜♪

つまりそこに荊州があったから。

ってか孫堅は
「同舉義兵、將救社稷。逆賊垂破而各若此、吾當誰與戮力乎!」
(皆して義兵を挙げたのは、漢の社稷を救おうとしてであった。
 ところが逆賊が敗れかかると、もう各自がこんなことを始める。
 俺は誰と力をあわせてゆけばいいのか。以上ちくま訳)
とか嘆いておきながらこれだからな。
孫堅のどこが忠烈の士なんだ?
204無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:58:55
海賊をだまし討ちにするあたり
205無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 22:59:34
>>202
なら後漢書の記述はどうなるんだ?

最初は袁術を取り込もうとしたが、うまくいかなかったってこと?
206無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:03:19
>>202
兗州刺史劉岱と東郡太守橋瑁は共に周毖や伍瓊らの推挙を受け董卓に任命された。
しかし、両者共に曹操の檄文に呼応し対董卓同盟に参加した。が、同年中に劉岱は橋瑁を殺害して王肱を東郡太守につけた。
任命する者の思惑と任命された者の思惑は必ずしも一致していない。特に異とするに当たらない。
207無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:12:46
劉表が董卓に叛逆していたとなると、
その後李カクと良好な関係を築き、張繍を受け入れたことが矛盾するような。
208無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:14:47
>>192
>てかジャコウは董卓じゃないか?
>天帝=献帝
>ファルコ=コウホスウ
>ジャコウに反乱起こした将軍=シュシュン
>青の将軍・緑の将軍=リカクシ

おみごとwww
209無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:16:32
>>207
状況が変われば外交関係も変わるだろ?
結局、劉表は袁術と対立するようになるんだし、そうなったら董卓の後継と結ぶのも至極当然。
李傕だって前に敵対したからといって同盟を拒んでも不利になるだけ。
なんで関係を固定して考えるの?
210無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:21:46
李カク政権は袁術派とも同盟してたよな。
211無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:22:14
劉備なんかありとあらゆる陣営と結んでるしな
212無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:29:40
公孫瓚の傘下で袁紹・曹操軍と戦う。
曹操に攻められた陶謙の救援に向かい、陶謙の死後に徐州を領有することになるが、
何故か袁紹も劉備が徐州を治めることは自分の希望に沿ったものであると言ってる。
さらに曹操とは対戦中だったのが呂布の横入れで何故か共闘に転じ、呂布に敗れる度にバックアップしてもらってる。
うーん、魑魅魍魎のごとし。
213無名武将@お腹せっぷく:2007/03/19(月) 23:39:49
>>211
徐州で反乱するが何故か臧覇らとは友好的
袁紹の元では文醜と共に騎兵5000を率いる
のち豫州ゲリラに転じ、張繍の後釜として劉表の保護下に入る
荊州では劉キを推し立て、曹操に対抗するため孫権と同盟
荊州の主に収まると劉璋に迎えられるが反攻
関中から逃げてきた馬超を迎え益州を奪う
張魯が攻められた時は援軍を出そうとした

絡んでない群雄は遼東の公孫氏くらい?
214無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 01:23:30
あ・・・

曹真伝読んでたらこんなものを見つけてしまった・・・

「魏書」にいう。曹ショウ[召β]は忠誠で才略があり、太祖によって信任されていた。
初平年間、太祖が義兵を起こすと、曹[召β]は仲間を募り、太祖につき従って
活躍した。当時、豫州刺史の黄エン[王宛]が、太祖を殺害しようとした。
太祖は難を逃れたが、曹[召β]だけが殺害された。 

ま た 豫 州 刺 史 か !!

初平年間・・・これは・・・袁術勢力なのか?わけがわからん・・・
215無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 05:39:01
黄琬は中平5年(188)に豫州牧になった後、
翌年の永漢元年(189)9月に司徒、12月に太尉になってる。
翌年の初平元年(190)の2月には同官を免ぜらて、光祿大夫に。
その後、司隷校尉になるが同3年6月に長安に戻ってきた李カクに殺された。

太尉免官から司隷校尉になるまで1年半以上空いてるけど、
その間に豫州刺史にはなってないんじゃないかなぁ。

※黄琬の前任の司隷校尉と思われる趙謙が同官に就くのが
初平2年の7月以後。
216無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 13:44:36
>>196
訂正。
> ちなみに陳温はこの後、衛尉として洛陽に入って董卓に殺されたらしい。

ぼめん。これ陳温じゃなくて張温だった。
で、陳温の死期はちょっとわからない。
袁術伝によると、九江まで下がった時に揚州刺史陳温を殺したとある。
その注に引かれてる英雄記には陳温が病死すると袁紹は袁遺を送ったが袁遺は敗れ、袁術が陳瑀を揚州刺史に任命したとある。
呂範伝の注だと揚州刺史陳禕が死ぬと袁術は陳瑀を揚州の牧に任じたとある。

陳温が病死し、陳禕が継いだがやはりまもなく死んだので、袁紹が袁遺を送ったが敗れ、袁術が陳瑀を任命した。
という流れなのかな?袁遺が送られたのは陳禕の存命中かもしれないけど。

あと後漢書のとおり袁術を南陽太守につけたのが劉表だとすると、上表した時期は荊州刺史に任じられる前。
劉表は荊州刺史に任じられた時、袁術が魯陽で陣取っていたために兵を率いていけず単身で任地に向かったとある。
217無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:17:06
呉景が丹楊太守周昕を追ったのは陶謙存命中。孫策伝より。
218無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 16:27:37
徐州南部は笮融が陶謙についていたが好き勝手やっていた。
曹操が陶謙討伐に来ると広陵太守趙cの下に逃げ込み賓客として遇されたが頃合いを見て趙cを殺し略奪を行って広陵を去った。
これで徐州南部が空白になり、陶謙の後を継いだ劉備と曹操に圧迫されて東方に手を伸ばしてきた袁術とが激突するという流れなのかな?
219無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 19:13:58
>>197>>201
サンクス
>>194
漢文、大学入試レベルだからわからんが、そうなのか・・・
でも索引は便利だよね
>>178>>179>>182
疑心暗鬼ってのもありえるんじゃない?
袁術が事情があって食糧輸送できないんだけれど
孫堅軍末端の腹減らしてる兵士なんてそんなの知ったこっちゃなく
人間不満があると、仕方ない事情があるってより
誰かが悪いって不満のぶつけどころがある方を好むから
「ぜってー、本部の奴ら、俺らが手柄立ててんの妬んで嫌がらせしてるよな」
ってな話になって、孫堅も自分じゃなくてよそに不満が向いてりゃ安心だから
「そうなんだよ、実は上の奴らが・・・
ってな感じのやり取りが、そのまま史実として定着したとかw

つか、袁術軍は慢性的な兵糧不足でしょ
荊州中の兵集めて董卓征伐に行ったら
横から劉表が来て豪族懐柔して
もう一個別に荊州軍作っちゃったから
袁術の下にいる荊州軍はちゅうぶらりん状態
荊州中の兵を宛からの収入だけで養わなきゃいけないんだったら
そりゃ苛酷な取立てにもなるわな
220無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 21:01:51
> 陳温が病死し、陳禕が継いだがやはりまもなく死んだので、袁紹が袁遺を送ったが敗れ、袁術が陳瑀を任命した。

陳温と陳禕は同一人物じゃないかって言う説もあるよ。
郭シが郭多って呼ばれてたみたいに。
221無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 21:07:50
陳禕は許靖伝にしか載ってないからねえ。
その可能性もなくはないけど、それ以上ではない感じ。
222無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 21:08:45
あ、呂範伝にも載ってたわ。自分で書き込んどいてw
223無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 04:16:13
>>215
よくそんなに調べたなw尊敬するわw

>太尉免官から司隷校尉になるまで1年半以上空いてるけど、
>その間に豫州刺史にはなってないんじゃないかなぁ。

ふむ、確かに。その時期は孫堅と周グが豫州刺史を争ってるはずだもんね。
なら>>214のは何かの間違いと見るべきか?

>>216
>ぼめん。これ陳温じゃなくて張温だった。

うん、どうりでその話が見つからないわけだwてか「ぼめん」ワロタwそれはねーよw

>あと後漢書のとおり袁術を南陽太守につけたのが劉表だとすると、上表した時期は荊州刺史に任じられる前。

なるほど、確かに荊州刺史になってからじゃ腑に落ちない点が多いもんね。


今更だが、劉表が袁術を南陽太守に上表するまで袁術は洛陽にいたの?








224無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 10:14:53
>>223
> 今更だが、劉表が袁術を南陽太守に上表するまで袁術は洛陽にいたの?

んにゃ、南陽。孫堅と合流した時。
ちょうど董卓討伐の旗揚げをした時分。
だからなんでそこで洛陽にいる劉表が上表したのかは、良くわからない。
225無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 19:31:49
>>224
>んにゃ、南陽。孫堅と合流した時。
>ちょうど董卓討伐の旗揚げをした時分。

俺はこのあたりの時系列がいまいちよくわからないんだが、これは断定できる?



226無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 19:48:12
>>225
史書の記述が間違ってなければという条件付でね。

袁術、董卓から離れて南陽へ。
孫堅、荊州刺史王叡をぬっ殺し北上、さらに南陽太守張咨をぬっ殺し、袁術の配下に。
劉表、上表して袁術を南陽太守に、袁術、上表して孫堅を豫州刺史に。
袁術は魯陽に屯し、孫堅は陽城で董卓と対峙。
これが後漢書袁術伝の流れ。


荊州刺史王叡が孫堅に殺されたので、劉表が荊州刺史に任命される。
赴こうと思ったけど、袁術が魯陽に屯していて兵を率いていけねえ。
単身、宜城へ向かう。
これが後漢書劉表伝の流れ。

宜城は南郡、襄陽の南東ね。
このような経緯があるので、宜城に入ってから上表して袁術を南陽太守に推すことはちょっと考えられない。
227無名武将@お腹せっぷく:2007/03/21(水) 19:48:34
曹操が都から逃亡したときは都に居たんだよね
228無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 05:35:41
>>226
>史書の記述が間違ってなければという条件付でね。

意味深だなw間違ってる気もしないではないってかんじか?w

俺も俺なりに調べてみたんだが、ちょっと気になることが出てきた。
それは「三国志」において袁術が南陽太守とされてるのを見かけないことだ。

ちょっといいかげんに調べたから、もしかしたらあるのかもw

まず武帝紀によれば、初平元年春正月、「後将軍」袁術、その他大勢、が同時に挙兵とある。
この時点で袁術の肩書きがただの後将軍ってことは、袁術が南陽太守になるのは挙兵後だよな?
もし劉表が洛陽にいるときに上表したとするなら、反乱軍である袁術を南陽太守にできるのか?

それともう一つ公孫サンの袁紹の罪状を訴えた上表文にも後将軍袁術とある。(魏書公孫サン伝、典略の注)
何故か後漢書の公孫サン伝の上表文には袁術のくだりが載ってないw

これが上表されたとき(初平二年?)劉表はとっくに荊州刺史になってるよ?

俺は後漢書の記述は誤りではないか、と思うんだが。どうよ?










229無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 05:36:54
あ、あと>>215
>その後、司隷校尉になるが同3年6月に長安に戻ってきた李カクに殺された。

これってどこに載ってる?
230無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 19:41:35
>>229
後漢書の献帝紀
231無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 20:01:52
>>228
> もし劉表が洛陽にいるときに上表したとするなら、反乱軍である袁術を南陽太守にできるのか?

袁紹は旗揚げしてから沮授を取り立てるのに上奏文を送ったりしてる。
懐柔のためにそうすることもあるだろう。後漢書の一文は唐突な感じを受けるとはいえ、否定する根拠としては薄いと思う。
あと公孫瓚の上表文も根拠としてはどうかな?
孫堅に関して破虜将軍であることを書いてないわけだし、袁術に関しても官職の全てではなく最も重要な官職である後将軍だけを記述したとも考えられる。
232無名武将@お腹せっぷく:2007/03/22(木) 22:10:16
>>230
サンクス

>>231
ふーん・・・じゃあ劉表の上表の件は謎のままだな。






233無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 22:45:10
豫州刺史問題、証拠不十分でこれ以上話進まなそうだから別のネタ振るね

周瑜ってなんだかんだいっててもずっと袁術のところにいるよね
逃げたければ孫策の江東討伐のとき助勢したまま帰ってこなきゃいいのに帰ってきてるし
叔父が更迭されて袁胤と太守入れ替えになったときにも近くなんだから見切りつけて孫策の元に行っちゃえばいいのに行かないで寿春に戻ってるし
結局周瑜が孫策の元に来たのって袁術が曹操に再起不能なまでに惨敗してからだよね
あいつ袁術皇帝即位のときその場にいたんじゃないの?
234無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 23:35:16
>>233
袁術は建安二年に帝号を唱えた。
周瑜は周尚と共に寿春に戻るも袁術が失敗するだろうと見て取り居巣の長になることを願い出て、許されて居巣へ赴き呉に入った。
これが建安三年のこととある。
だから多分いたw


ところで周尚っていつ丹楊太守になったんだ?
周昕を呉景が追い、劉邕が来ると初めこれを迎えたが、劉邕は呉景が袁術に任命された丹楊太守であるので逆に追い出した。
このタイミングで周尚は袁術に任じられたでいいのかな?
235無名武将@お腹せっぷく:2007/03/23(金) 23:35:51
あう。劉邕じゃなくて劉繇ね。
236無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 12:37:49
結局袁術の勢力図としては荊州北部の南陽郡、豫州全域と揚州北部の淮南郡といったところなのかな?
して、西方は曹操に押されて徐々に根拠地を南東に移し、徐州南部を劉備と争うことになるといったところか。
237無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 14:01:26
張挙、闕宣よりマシ?
238無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 18:18:55
あ、豫州も係争の地となっていたから全域ではなく大部分というべきだったかな?
239無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 18:27:19
>>234
>>このタイミングで周尚は袁術に任じられたでいいのかな?

多分そうだと思われ。

この周尚なんだが、寿春に戻ったあとどうなったんだろう?
周瑜同様離反したのかな?

>>236
ゲームなんかだと弱小勢力として描かれてるけど、実際はとてつもなくスゴイよなw

>>237
だまらっしゃい!!陛下をそのような賊と比べるとはどういうつもりじゃ!!

にしても袁術は皇帝を名乗ったことによって、必要以上に悪く書かれてるよな。
「そのとき袁術は二心を抱いていたから・・・」とか「袁術は皇帝になろうと考えていたから・・・」とか
無理矢理過ぎwどう考えても長年温めていた構想とは思えねーよw
240無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 20:18:26
劉協より袁術が優れていたのは火を見るより明らか。
もし劉協が群雄として出てきていれば王朗のような弱小勢力で終わっていただろう。
241無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 20:21:54
袁術はどうやって豫州の影響下に置いたのかねえ?
その過程が良くわからん。汝南が地元だから?
242無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 21:57:20
>>239
あのあたりで一番の名門だから結構高い地位与えられてた可能性はあるな(さっさと死んでる可能性もあるが)
離反してたら史書に載ると思うよ。周家にとってそれは「誇るべきこと」だから
周尚と周瑜と袁渙は袁術即位のときにも抗議したって記述無いから
怒られないように皆と同調して万歳してたんじゃないの?
で、あとで皆で黒歴史化w

ゲームでさ、そろそろ汝南太守として孫香出してくれないかな?
孫策の一回りくらい小さめの能力で
実際彼は演義に出ないからマイナーだけどがんばってたほうだと思うよ

>>241
孔伷に譲られてとか地元民から頼まれてとかだったら
それも絶対魏の史官が黒歴史化するだろうねw
243無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 22:06:50
>>242
> 孔伷に譲られてとか地元民から頼まれてとかだったら

袁術が孫堅を豫州刺史につけたのは孔伷死去前っぽいんだけどね。
その後、袁紹が送り込んできた豫州刺史と争ってるし、それはどうなんだろうな?
地域の賊たちを保護し手懐けていたって感じな気がする。
244無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 22:22:13
何気に歴代光栄三国志シリーズの中では、初代の袁術の能力値が実像に近い気がしてきた

劉備がいなかったら、袁術ももう少し勢力を快復させることができたんだろうか?
それとも、劉備が徐州牧に就いた時点で、結構ジリ貧だったのか?
245無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 22:30:02
>>244
>>236で示したとおりジリ貧になる一歩前ってところだと思う。
劉備と徐州を争ってたらちゃっかり共闘してたはずの呂布が居座っちゃったし、その後は曹操が押さえちゃった。
一方、揚州は揚州で劉繇と争ったが、孫策がそのまま離反しちゃった。
246無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 23:35:53
孫策には少なからず目をかけていたのに……。
恩知らずもいいところだな(笑
247無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 23:42:58
李カク、公孫サン、汝南の勢力、孫策、陳宮あたりのどれかが思い通りに動いてればなあ。
248無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 23:47:29
>>247
李カクにしてみりゃ、「こっちの台詞だ」なんだろうけどなw
袁術・公孫サン・陶謙が揃って負けちゃったからな。
249無名武将@お腹せっぷく:2007/03/24(土) 23:56:50
ただ袁術が直轄支配を志向していたかというと微妙なんだよね。
間接支配でいいやみたいな。徐州とか揚州とか。
曹操にしても青州と徐州は臧霸に委託統治してたみたいだしな。
250無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 00:06:53
>>249
太守とか刺史を任命はしても自分に関しては南陽太守以外は後将軍一本で通そうとしてたみたいだからなあ。
軍事と任命権だけ握っていて後は他のヤツにやらせりゃいいやっていうつもりだったのかねえ?
251無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 12:20:19
豫州でも北部は劉備が豫州牧だったし、豫州でも鉄板は汝南くらいだったかもしんない。
南陽郡、汝南郡、淮南郡くらいで後はその近辺に影響力があった程度かも。
252無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 19:13:10
253無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 19:54:51
>>252
?
ずっとそのつもりで話してきたつもりだけど?
>>236参照ね。
254無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 20:44:03
>>249臧覇って本当に元山賊か?って思うほど出世してるなww
255無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 22:01:20
一応陳国も勢力範囲だよね
256無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 22:23:09
>>242
>離反してたら史書に載ると思うよ。周家にとってそれは「誇るべきこと」だから

なるほど。そういやそうだよなw

>怒られないように皆と同調して万歳してたんじゃないの?

ワロタwでも考えられなくもないからなぁw

>>254
あまりに凄いから、ほんとは地元の名士だったのでは?とも思えてくるから困るw
あーあと賊で言うと張燕も凄いよなwこいつも成り上がりすぎw


てかこのスレほんとに三戦板か?w活気ありすぎだろw
257無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 22:55:45
親父は一応県の役人だったし、数十人の食客を養えるだけの経済力もあったようだから、
卑しい身分ではなかったんだろう
258無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 23:15:30
>>257
臧覇のことなら、本文と注で全然違うからな。
「奴寇」なんて名は奴隷や下層と断言はできなくても、少なくとも知識人階級っぽくはない。
本文は美化(=捏造)されてる気もするんだが。
259無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 23:44:20
無双と蒼天しか三国志を知らない連中に、
曹操も袁術に負けて命からがらやっとこさ
逃げ帰った事があるって言っても
全然信じてもらえなかった。
260無名武将@お腹せっぷく:2007/03/25(日) 23:49:53
そんなやつら最初から聞く耳ないから相手にするな
俺も無双厨の友達に何言っても無駄だったから
261無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 00:14:08
三国無双3なんか、軍義の後で袁術と孫堅が会った時になぜか袁術の方が頭を下げていて、
何も知らなかった俺は袁術は孫堅の部下なのかー、と勘違いしたぞ。
262無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 00:21:26
>>261
あれは酷かった。
263無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 00:25:34
>>261
マジかよ・・・それは酷いな・・・
264 :2007/03/26(月) 13:39:10
正直言ってスレタイとずれた話出すぎ
265無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 15:04:53
>>261
孫堅への食料の配給カットイベントとかのせいじゃないのか?
266265:2007/03/26(月) 15:07:03
ああ、だから袁術が孫堅に詫びてる場面でも有ったんじゃないか?と。
267無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 15:08:08
実際詫びるかなあ?
268265:2007/03/26(月) 15:23:37
いや、演義じゃ詫びてるでしょ、たぶん。
吉川三国志だと袁術じゃなくて袁紹だけど。
269無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 20:10:32
張勲
袁術の将。
初平三年(193)春、陳留で曹操・袁紹連合軍に敗れた袁術が九江に移ると大将軍に任じられた。ただし、大将とかその程度の意で官職としてのものではあるまい。
建安二年(197)、袁術が帝位に就くことに呂布が反対したことから袁術と呂布の仲がこじれた。袁術は韓暹・楊奉らと組み呂布討伐軍を張勲に率いさせた。
しかし、呂布は陳珪の策を用い韓暹・楊奉は離反させたため、張勲は大敗を喫し軍を返した。
建安四年(199)冬、行き詰った袁術が袁譚を頼って青州へ向かう途中に死ぬと孫策の元に身を寄せようと考えたが、廬江太守劉勲の捕虜となった。
孫策が劉勲を破ると張勲は麾下数百人を引き連れて、何故か曹操の元に見寄せた。
その後は不明。
270無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 20:14:27
>>269
曹操の元に身を寄せたのは「劉勲」。「張勲」とするのは誤訳。
張勲は劉勲の捕虜になったところから不明。

ちなみに劉勲は曹操と旧知であり、曹操に帰順後は軍議にも参加していたが、
曹操と親しいことを笠に着て好き勝手やったために粛清されている。
271無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 20:27:54
>>270
なるほど。
一緒に降り、張勲より前に名前が出てる楊弘の消息がないのに、張勲だけ消息が載ってるって言うのも不自然だね。
劉勲は留守にしてる本拠地を孫策に攻め取られたんだから、そのまま曹操の元に降ったととる方が正解だね。
すると張勲は若輩ながら尊敬の念を抱いていた孫策麾下となれたのか、それともその前に劉勲に殺されたのか……
272無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 20:36:38
>>265
あべこべだよ。
その食糧支援カットイベントの前振りとして、に袁術が孫堅に頭下げながら
「田舎武者め、今に見てろよ」というシーン。
273無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 21:31:18
>>272
なんだかなあ……



橋蕤
袁術の将。
袁術と共に蘄陽を攻めたが、陥とせなかった。初平三年(193)春のこと?
建安二年(197)年、袁術は帝号を称えることに反対した呂布を張勲を派遣して討たせようとしたが敗れた。
その後、袁術は秋九月に陳に侵入したが、曹操が征伐に来ると橋蕤を李豊、梁綱、楽就と共に残し、自らは逃走した。
橋?は苦に屯したが、楽進や于禁に包囲され敗れて斬られた。

李豊、梁綱、楽就はこの一件しか名前が出てこない。
蘄陽攻めの件で何夔伝に「術與橋蕤?攻圍?陽」と連名で挙げられる辺り、もしかしたら当初は半ば独立した勢力的な存在だったのかもしれない。
274無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 21:50:36
横光三国志で袁紹が孫堅に詫びる為に斬った人誰?
275無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 22:24:16
周瑜もねえ
袁術が結局成功できないだろうと観測したので
っていったって
建安三年だったら仮に年の初めの事だって
すでに橋蕤たち有力武将が討たれて
袁術が本拠地から出撃できない状態になってるんだから
みんな薄々わかってたころじゃないの?
そのころまでついていったんだったら洞察力は人並みだと思うぞ
あと県の長って左遷ぽくない?

それと今日なにげに検索してこんな記事見つけたんだけど
http://www.weblio.jp/content/%E8%88%92%E4%BB%B2%E5%BF%9C
切羽詰ってるのにそんなのんきなこと言ってるから皆に舐められるんだよw
276無名武将@お腹せっぷく:2007/03/26(月) 22:47:18
>>275
> あと県の長って左遷ぽくない?

と言っても周瑜自身はそれまで無位無官だったから。
277無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 02:09:34
>>275
天然だな、袁術様は。
278無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 04:48:24
義侠を気取ったのはポーズだけじゃなくて
そういうのが好きな性分もあるのね
279無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 05:08:00
袁術って意外とそういったエピソードもってるよねw

袁術絡みの話を読んでて、「あぁ、こんなことしたら(言ったら)袁術怒るよ・・・」とか
「こいつ殺されるんじゃ・・・」って思うことがよくあるが、実はハッピーエンドなんだよなw
280無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 18:51:39
たとえひとりになっても正論が吐ける人間が好きなんだろうね
閻象のときもその場で取りやめにしてるし
281無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 20:17:58
そのあたりは懐深いよね
印象だけだけど袁紹とかより
282無名武将@お腹せっぷく:2007/03/27(火) 21:16:29
>>249
あらためて袁術関連をみてくと確かにそんな感じだね。
各地の賊と結んで親分気取り・盟主気取りはするけれどそれだけで満足して、その地を支配して強固な組織をつくるという方向性には向かわないという印象。
豫州・徐州近辺は後々まで賊勢力が残存してるあたり、豊かだけど難治の地で完全に支配下に置くということが難しかったという側面もあるのかもしれないけれど。
283無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 00:08:30
>>275
このころには沛国の相・陳珪は追い出されてたんだね
陳珪は大嫌いだからいいんだが
284無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 00:24:57
285無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 21:32:33
袁術ってさ、死ぬ前に蜜が飲みたいって言ってて
確かにそれはそれで贅沢なんだけどさ
その直後血を吐いて死んでるとこから察するに
病気が悪化しすぎて、固形物がのど通らなくて
滋養のある飲み物飲んで、やっとのことで生きてたんじゃないの?
286無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 21:35:41
死ぬ前に食いたいものを食いたいと言って何が悪い。
現代人の方が余程贅沢
287無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 23:05:33
>>286
一応袁術フォローしてるんだからそんなに怒らないでよ
自分が言いたかったのは袁術のは贅沢じゃなくて延命措置ってこと
贅沢ってのはどれだけ手間暇かかったかで決まるんで
現代人が同じことしてても機械化されてるんだから贅沢にはならないってことが多い
288286:2007/03/28(水) 23:32:31
>>287
いや、別におまいに言った訳じゃないけど
289無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 23:54:03
なんだと!
俺に言えよ…
290無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 21:20:29
>>288
過剰反応でスマン

でも袁術の「贅沢伝説」って見方の違いだと思うんだよね

以下かなり妄想入ってるけど
あの当時漢の宮廷を引き継いだ李カクは
地方からほとんど収入ないし商業網分断されてるから楽師や細工職を養うまでの余裕が無い
ほかの群雄もまだまだ地盤固めに夢中で面倒見てくれそうに無い
そんななか彼らは袁家の威光を頼って袁術のところに来た
で、袁術も名家の使命感として中華の伝統のともし火を消してはならないとか思って保護した
それが一般兵士から見たら、あんな無駄飯食いども置きやがってってなるんじゃないかな
で、保護してもらった楽師や職人は
混乱した世の中でここだけは文化が残ってる。天命はこの人に移った
とか思ってて、その空気で袁術即位したんだと思うんだがどうだろうか?
291無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 21:42:35
李カクが袁術を頼ったって見方はどうかな?
李カクの方が立場が上か、良くて同等って感じだと思うよ。

どうも李カクは朝臣たちとは良好な関係にあったように見えるんだよね。
李カクが政治を専断したというイメージが強いけど、
李カクが開府を許された時点では三公の権限も機能していた。
つまり袁術派との同盟は、李カクとそれを支持する朝臣の共同作業の可能性が高い。

李カクと朝臣が対立していたってのは、印象操作だと思う。
李カクを支持していた朝臣(鍾ヨウとか賈クとか)が後にみんな曹操に仕えたから。
292無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 22:28:59
>>291
献帝が長安脱出
董承らが奉戴
董承が袁術配下の萇奴と組んで曹操に対抗
曹操が献帝を許昌に迎え入れる。董承もこれに従う
という一連の動きはどんな感じに解釈してるの?
293無名武将@お腹せっぷく:2007/03/29(木) 22:46:39
>>292
献帝はそもそも脱出という形で長安を脱してはいないはず。
張済が李カク・郭を仲裁して帝を東へ移すことを提案。
李カク・郭はそれに同意している。
後に郭が変心して帝を襲撃し、
これが発端となって西涼軍閥vs楊奉・韓暹・董承という構図になったと見ている。

洛陽に帝が到着した時点で、曹操は上洛の意志を見せて曹洪を派遣している。
(その曹洪は、董承と萇奴が防いでいる)
しかしその後、韓暹と董承の間に権力争いが勃発。
劣勢な上に官位も無い董承は曹操を招きいれ、楊奉・韓暹を出し抜いた。

ちなみに、
董承が帝の姻戚になったのは許都に移動してから。
それ以前はただの「董卓の故将」。
李カクに従わずに帝を連れて逃げたり、同僚の楊奉・韓暹を欺いたり、
挙句の果てに曹操を暗殺しようとしたりとかなりの変節漢だな。
294293:2007/03/30(金) 17:11:05
洛陽にできた董承の政権は明らかに弱くて粗悪であったと思う。
それこそ、李カク政権のほうがよほど強大で朝臣達にも力があった。

「帝を擁した弱小勢力が袁術を頼る(つまり袁術>朝廷という構図)」が発生したのは、
董承のあたりからじゃないかなと俺は考えている。
李カク政権は先述のとおり有力で、李カクと袁術の立場は同等か李カク優位だったろう。
袁術・公孫サン・張燕・陶謙らによる袁紹・曹操一斉攻撃は李カクの差し金である可能性すらある。
(直前に、袁術・公孫讃・陶謙は李カクによって爵位を引き上げられている)
295無名武将@お腹せっぷく:2007/03/30(金) 20:45:06
>>259
>曹操も袁術に負けて命からがらやっとこさ
逃げ帰った事があるって言っても

この話どこに載ってるの?
296無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 00:17:03
>>293>>294
董承は確か董太后の甥だから昔からの外戚だったはず
>洛陽にできた董承の政権は明らかに弱くて粗悪であったと思う。
は同意だし、李カクが朝臣達にも力があったのは確かだと思うが
朝臣達は心の中では嫌ってたと思うよ
なにしろ彼らが大事にしてる儒教の祭礼より新興宗教に熱上げてるんだから
それにもともと自分たちよりずっと格下だったわけだし
武官より文官のほうが上だって意識あるし
そんな彼らの代表が董承で、ちょうどいい機会見計らって帝奪ったんじゃないかな
>「帝を擁した弱小勢力が袁術を頼る(つまり袁術>朝廷という構図)」が発生したのは、
このあたりも史書からは不明だよね。何か書きたくないことでもあるのかな?
曹操が萇奴を破ったって記述は無いでしょ
これって袁術が方向転換して萇奴を呼び戻したのかな?
297無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 00:19:13
>>296
軍事力の差だろうな。
李傕と董承。
298無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 00:36:49
董卓の族子である董承と、曹操暗殺に関わった董承は別人だってきいたけど本当?
299無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 00:52:24
俺に聞いてるの?
300無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 01:02:31
>>293
>昔からの外戚
違うよ。全然違うよ。
董承は董貴人の父。つまり献帝の舅だよ。
董貴人が劉協の妃となったのは許都に行ってからだから、
董承が劉協と婚姻関係になったのもそのあたりからだよ。
そもそも董承は始め董卓の将だったわけで、董太后の一族じゃないんだ。

>内心嫌っていた
感情的なものは知る由も無いが、
立場の問題で言えば朝臣は李カクを支持していたと思う。
そして、李カクの脚を引っ張ってやろうなどとはあまり考えていなかったように思える。
郭は李カクとの内乱の際、李カクへの対抗として公卿や朝臣を拉致しているね。
李カクと朝臣の間がギクシャクしていたなら、郭は朝臣を拉致ったところで何も得にならない。
むしろ、李カクが朝臣に邪魔されることなく政治を専断してしまって、郭の不利になるはずなんだ。
(ただ、郭は相当のアホなのでこれを計算していたかは怪しい)
そして、先述の理由で董承が朝臣の代表になったって可能性は低い。

最後に曹操の件。
これは単純に、曹操が洛陽を攻略しきれずにいたところ、
洛陽内で権力争いが発生し、「董承が曹操に寝返った」って問題。
曹操にヨイショした記述であれば「董承が曹操を引き入れてくれた」だけど、
帝や袁術にしてみれば「董承が権力争いに勝利するためだけに逆賊・曹操と内通しやがった」だからね。
袁紹死後の袁譚と同じくらい自分本位な奴だよ。

結局のところ、董承は勤皇の士でもなんでもないんだよ。
楊奉や韓暹を欺いて、曹操を引き入れた時点でね。
そして、挙句の果てにはまた権力の座に目がくらんで曹操暗殺を計画。
301300:2007/03/31(土) 01:12:27
補足。

洛陽政権も、「董承が代表」みたいなイメージがあるけどこれがそもそもおかしい。
そのとき董承は無官(か、雑号将軍)で、楊奉が車騎将軍、韓暹が大将軍、張楊が大司馬。
どうみてもこの三人が政権の中心人物です。本当にありがとうございました。

そんでもって、曹操を引き入れた董承はこの中心人物三人を蹴落としてるんだよね。
ここからも、洛陽内の権力争いは楊奉・韓暹・張楊vs董承って構図が見えてくる。
付け加えれば、董承は帝に信任されてるわけでもないし、呼び寄せたのは逆賊の曹操。
権力争いは、単に董承の野心から発生したものじゃないかと考えてる。

萇奴と一緒に曹洪を防いだのは、あくまで武将としての仕事だったんじゃない?
董承は楊奉・韓暹・張楊の指示を受け、萇奴は袁術の指示を受け、共に曹洪を防いでたんじゃないかな。
302無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 01:27:03
たしか安集将軍だったね
303無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 07:28:48
>どうみてもこの三人が政権の中心人物です。本当にありがとうございました。

この言い回し、まだ使ってる奴っているんだな。
304無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 09:51:23
結局、権力争いをする李傕と郭は朝臣に迷惑がられていたわけで。
真っ向から逆らえないという理由で消極的な支持はしてたであろうが。
董承も献帝のお傍近くにあったとはいえ、武力はなかったので曹操と通じたのであろう。
この辺の一連の動きに忠とかを持ち出してくると見誤るものが多くなるね。
305無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 10:33:16
>>304
あの内紛は、李カク+朝臣に郭+樊稠がケンカを売った構図なんじゃないかと。
三公の政治が無視されたのは、郭・樊稠が開府を許されてから。
そして、それ以前(例えば、馬騰戦のあたり)から郭や樊稠は李カクに敵意を持っている。
樊稠が殺されるまで、郭・樊稠は李カクや朝臣を圧迫していたように思えるよ。
李カクによる樊稠殺害も、自分や朝臣のアドバンテージを取り戻す上での有効な一打だった。
そもそも、宰相としても能力を発揮していた李カクと、
単なる猛将の域から脱せなかった郭を同列に扱うのは無理がある。
自分たちと共に政治を行なう李カクとそれに反発して暴れまわる郭を「両方迷惑」と思うはずがない。
郭は嫌われただろうけど、李カクと朝臣の関係は良好だったと思えるんだがなぁ。

そして、何度も言うけど董承は献帝のお傍近くになんて居なかったんだって。
韓暹との政争に負けて、献帝を放って洛陽から逃げちゃったりしてるくらいなんだから。
董承はあの時点では献帝の舅や叔父なんかではなく、ただの董卓の故将。
それも、李カク・郭らに遠く及ばない小粒の武将。

忠を持ち出して見誤ってるのはそちらではないかな?
「董承は忠臣」っていう印象が抜けきっていない気がする。
306無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 11:17:20
> そして、何度も言うけど董承は献帝のお傍近くになんて居なかったんだって。

ん?長安を出てからの話なんだが……と思ったら許に移ってからの話だったか。

> 忠を持ち出して見誤ってるのはそちらではないかな?
>「董承は忠臣」っていう印象が抜けきっていない気がする。

どちらにも「忠」なんて口だけ、自分の都合だけだったと思ってるけど?
307無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 11:24:58
>>306
董承が舅になったり衛将軍とか車騎将軍とかになったのは、許に移ってからだね。
最初から偉いイメージがあるのは演義の影響かもしれない。
そう考えると、董承の「韓暹が政治に口を挟むのが不満」って理由が怪しくなってくる。
大将軍の韓暹は政治に干渉して然るべき立場にいる(その政治が悪政か善政かは知らない)。
大司馬の張楊、車騎将軍の楊奉も同様。しかし、董承はそういう立場にいない。

>どちらにも「忠」なんて口だけ、自分の都合だけだったと思ってるけど?
そうだったか。勘違いだった、スマン。
308無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 13:13:00
紫紺に染まる〜は何度でもやってしまうな。
309無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 13:13:40
誤爆
310無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 16:33:23
菫卓の一族って、菫卓暗殺時に粛清されたんでなかったけ。
菫承は、菫卓と血のつながりはないのかなぁ。
と、三国志と言えば横山⇒吉川⇒蒼天しか読んでない俺がしゃしゃり出てみる。
311無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 16:54:40
>>310
董承は、董卓暗殺時には
李カクらと共に牛輔の軍にいたんだよ。
312無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 17:15:41
後漢書の伏皇后伝見てたらこんな文章見つけた。

曹陽で李傕らの軍に敗れて逃亡中のこと。
> 宮皆步行出營。后手持縑數匹、董承使符節令孫徽以刃脅奪之、殺傍侍者、血濺后衣。
皇后の持っている衣服を、使符節令の孫徽に命令してそれを奪い取らせる董承w
313無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 17:29:25
董承最低だなwww
314310:2007/03/31(土) 20:42:10
馬謄『国の礎とも仰ぐべきお方』って、横山&吉川三国志のセリフは一体なんだったのか…
その後、蒼天で単なる小心者のようにされてたのがすごく違和感あったわけだけど、
上の文章読むと、それよりひどい…
まるで横山が描く董卓か、蒼天に描かれる劉遙のようだw
315無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:01:36
ちょっと待って、混同が起こってるよ
ウィキペディアにも書かれてるけど董承はふたりいるんだよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E6%89%BF
三国志先主伝 裴松之注
「臣松之案 董承 漢靈帝母董太后之姪 於獻帝為丈人 蓋古無丈人之名 故謂之舅也」
というわけで曹操暗殺計画の董承は河間董氏で董太后の甥
もう一人の董承は隴西董氏で董卓の親族
この手の混同で一番多いのが劉岱だね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B2%B1_%28%E5%8A%89%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%81%AE%E5%85%84%29
同姓同名で字まで同じで同じ地域で活躍してたら、間違えるなって方が無理
316無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:13:52
> 先主未出時、獻帝舅車騎將軍董承辭受帝衣帶中密詔、當誅曹公。
か。
どの董承がどっちの董承なんだ?
317無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:14:15
自分で読んだわけじゃないからあれなんだけど
集解のほうには董太后の甥ってのは誤りとあるそうな
318無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:31:55
董承を董太后の一族と言ってるのは、三国志先主伝の「献帝舅」に対する裴注だけみたいだ
でもこの董承は牛輔の部曲にいた董承と同一人物

董卓は董太后の同族を称したから、董承が董卓の一族なら彼も董太后の同族を称したとしても不思議はないよね
319無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:44:35
>>315
wikiなんて全然資料にならないだろw
320無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:46:53
正史呂布の強さについて考察するスレ
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175339923/
321無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 22:47:20
wikiの三国志のとこって全くあてにならないだろ
322無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 23:16:09
最初に孫引きでスマンと断っておく(「正史三国志」を紛失してしまった)
>>317
「先主伝集解」には「霊帝(劉宏)の母董太后の甥で、献帝の叔父にあたるとするのは誤り」と書いてあるそうだ
http://mujin.parfait.ne.jp/mujins/sanguo/t.html
それと>>312
その衣服は李カクとの内通が疑われている段煨が贈った物だったんじゃないの?
323無名武将@お腹せっぷく:2007/03/31(土) 23:25:12
袁 術 ちゃんちゃんちゃん
324無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 09:10:49
>>323
そういえば最近袁術出ないねw
325無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 09:18:19
そういえば献帝一行が逃げてるときに、船が定員オーバーになっちゃって、
余分なやつ斬りまくったのも董承だったよなw

演義では李楽だか誰だかのせいにされていたが。

董承こえぇwww
326無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 11:27:49
>301
張楊は大司馬っていっても本拠地からたまに出てくるだけ
楊奉、韓暹は軍勢持ってるから高官に就けられてるけど
楊奉、韓暹配下はともかく朝臣は董承が中心じゃないの?
朝臣がにわか高官よりも地位のそれほどでもない漢の旧臣に期待を寄せるのって金禕とかの例もあるし
もと白波賊の頭目が貴族たちの信望を集められるとは思えないのだが
327無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 11:57:33
だからー。その董承も董卓の故将なんだって。
なんで朝臣の中心人物になれちゃうのさ。
董承は漢の旧臣でも、貴族から支持を受けた人物でもないんだよ。
出自の賤しさなら楊奉・韓暹とどっこいだ。

あと、朝廷が長安を出た時点で既に朝臣の力は衰えきって、
権力者が貴族や朝臣の信望を集める必要はなくなっていた。
曹操が献帝を擁した頃には既に、朝廷の力は限りなく0だったろう。
(そして、この漢朝の衰退こそが袁術の斜陽だったとも言える)
朝臣の力も弱まり、袁術のような勤皇の名族も、李カクのような名宰相もないなら、
軍勢を持っている楊奉・韓暹が洛陽政権の中心人物になるのは、当たり前のことじゃないか?
328無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 18:31:35
>>327
不思議に思うんだが、何故そこまで断言できるんだ?
329無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 20:25:20
「董承も董卓の故将」ってのはわかった
だけど
>(そして、この漢朝の衰退こそが袁術の斜陽だったとも言える)
ってのはなんで?
330無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 20:44:12
>>329
勤皇であることが何のアドバンテージにもならなくなったからだと思ったわけ。
「軍勢が強ければ良い。朝廷の意向なんて無視して構わない。
 もっと言ってしまえば、軍勢さえ強ければ朝臣の支持を得なくても良い」
李カク政権崩壊をきっかけにそんな世界に変わっちゃったんだと考えてる。

袁術はいままで、朝臣の支持を得ることで有利に戦ってきたけれど、
朝廷が力を失ったことで好き勝手やってきた袁紹・曹操に追い風が吹いてきたんじゃないかな。

無駄に断定口調になったのはすまなかった。あくまで俺の考え。
331無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 21:50:16
李カクにしたって地方支配を再建できたわけでもないし、朝廷をないがしろにしまくった袁紹や朝廷を強権支配して使えるとこだけしゃぶって捨てた曹操の方が正しかったということでしょ
332無名武将@お腹せっぷく:2007/04/02(月) 14:46:16
真の自治スレの下で、三戦板を復興させましょう。
三戦板の皆さん、どうか参加して下さい。

【住民のための】 三戦板自治スレッド 【自治を】
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1175488030/
333無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 03:50:51
このスレ見るとむかし袁術こそ真の英雄だと友達みんなをオルグしていたり
徐庶が義人かどうかで友達と殴り合いの喧嘩になったという人がいた
というレスがどっかにあったのを思い出した
そんだけ
334無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 16:52:03
>>333
ここにいるぞ
335無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 20:02:02
袁術関連はこのサイトが面白い
http://hosokawa18.exblog.jp/i7
336295:2007/04/03(火) 20:02:39
これだけ待ってレスがないってことはガセってことでおk?
337無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 20:45:20
ガセって何が?
338295:2007/04/03(火) 20:50:59
>>337
いや、>>259の話のソースが知りたいんだが教えてくれないか?
339無名武将@お腹せっぷく:2007/04/03(火) 23:13:54
あるんじゃないか?
340無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 00:49:33
>>335
そこを紹介するならパクり元の此処も紹介しとけや
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/gkbd.700.336.html
341無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 02:40:39
他人のサイト勝手に晒すなよ
それとも本人が宣伝してんの?
342無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 02:48:03
勉強になるサイトならがんがん紹介してもらった方がいいんだが。。。
341がなんで怒ってるのか理解できん。
343無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 03:09:31
>>342
荒らされるからじゃね?
344無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 07:11:40
今更、偽黒のサイトで宣伝もないだろうに……
345無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 07:16:18
ニセクロ氏のサイトを宣伝する意味がわからんな
ここは三戦で考察を語るなら必ず抑えておかなければいけないだろ
いつかは越えたい道標でもあるんだが
346無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 08:58:29
ニセクロで荒れてたの忘れたか
347無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 10:54:52
今さら感強し
348無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 11:40:06
>>346
kwsk
349無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 17:57:55
>>201
今更だけど
> ああこれか、これは簡単にまとめるために孫堅の死亡年は初平2年の説を採用していたんだよ。
孫堅死亡年=初平二年説ってなに?
350無名武将@お腹せっぷく:2007/04/04(水) 19:56:30
あげます
351無名武将@お腹せっぷく:2007/04/05(木) 00:23:15
>>349
確か初平二年の末って説と、初平三年の初めって説があったと思うんだが。
352無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 19:44:31
なんで袁術は
すでに皇帝に即位して劉氏の天下否定した後なのに
董卓のように劉氏の王国廃して郡を置くようなことしないで
沛国に舒仲応、陳国に袁嗣を相として送り込んでるんだろ
353無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 23:47:53
>>352
郡国制やるよ、ってアピール?
国を置く際に改めて誰か封じたかが気になるけど
354無名武将@お腹せっぷく:2007/04/11(水) 21:52:07
でもあんな前線都市で名目トップの王と実質トップの相って
指揮系統が不安定な地帯を置いて大丈夫なのかな?
あと頭数揃うのかな?
劉氏は何百年もかかってるから人数多いだろうけれど
袁燿は皇太子だろうし(他に子がいたかも知れんが)
袁氏でも遠縁だったら袁嗣みたいに王にしなさそうだし
あと王にできるのはは袁胤くらい?
355無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 00:07:28
一時期かなり回転早かったのに停滞してるね

それはさておき
袁術派から見ると「陳氏さえいなければ」と思うことが多々あるけれど
陳氏っていったい何を目指してたんだろ?
これ見ると力量も無いのに群雄になろうとしてるように見えるんだけど
http://www.weblio.jp/content/%E9%99%B3%E7%91%80
群雄になりたくて袁術の足引っ張ってたのかな?
356無名武将@お腹せっぷく:2007/04/15(日) 09:55:59
ニセクロ氏が考察してた
357無名武将@お腹せっぷく:2007/04/23(月) 23:24:30
韓浩が曹操に鞍替えした理由ってなんだろ?
358無名武将@お腹せっぷく:2007/04/27(金) 22:11:08
359無名武将@お腹せっぷく:2007/04/29(日) 16:20:57
三国志で過大過小評価されている武将 七人目
http://game11.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1175223650/
360無名武将@お腹せっぷく:2007/05/03(木) 14:51:16
あげ
劉巴の父劉祥と袁術の将劉詳って別人だよな?
361無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 00:51:07
多分、劉詳は匡亭の戦いで袁術と合流できないまま敵中で孤立しただろうから
討ち死にか降伏したんだと思う
降伏した後、郷里の零陵に帰るのを許されて
その途中で南陽で襲撃にあって殺されたっていうのならつじつまが合いそう
362無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 01:03:26
南陽の人に殺されたのは孫堅に協力した直後とは限らないよな、確かに
363無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 01:53:41
        人
       (__)    ウンコー
      (__)     (´⌒(´⌒
      (・∀・ )    (´⌒(´≡
       O┬O ノ`  ≡≡≡(´⌒;;;
      ◎┴し-◎ (´⌒(´⌒;;
364無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 12:32:20
     _、_、_、、、、、 _______ ___._______________________
    /○°          ヽ ヽ:|三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三 / / / 三|
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  | 〓〓〓    从人从人从..从:|三三三三三三三三三三三三三三三三三三./ / /.三三三三|
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 /      / ∵ 从人从人从从 |三三三三三三三三三三三三三三三 / / / 三三三三三三三|
 し_ゝ   |∴∵..∵从人从人人从.:|________________/ / 三三三三三三三三|
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  ι   |∴∵∴从人 !l_/ /⌒ヽ;;;;;;;//⌒ヽ;;;;i、-ヾ---o----,、ヾi;;;;;;i;;;;;;;;;;;;;;;;iヾ. /__//⌒ヽ.ヽ‐!;iー――'
    ! ̄= [二] = ̄~ !二二|」;i ($).i二tiii ($).i;;;;|三||三三三三三||三三三三三||三;;;;;;|ii ($).i;;;;|二二二l]
     ̄ ̄ ̄ゞ;三ノ ̄~ゞ;三ノ''ゞ_,ノ   'ゞ_,ノ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ゞゞ;三ノ ̄ ̄ ̄  ̄ゞゞ,_ノ
365無名武将@お腹せっぷく:2007/05/04(金) 15:43:25
だっこされて幸せだね
366無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 07:56:32
円円と言えば山系だからな。

叩いておかないとどうしようもないだろう。
367無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 11:59:06
>>361
可能性としてもうひとつ
匡亭の戦いで曹操が
総崩れになった袁術勢力をこの機会に殲滅しようとして
全軍率いて追撃していたら劉詳は逃げられると思う。於夫羅や黒山賊みたいに
で、劉詳は袁術に合流するにしても
途中で曹操とかち合うし袁術猛スピードで逃げてるから無理(どこに行くのか不明だし)
で、とりあえずは近場で袁術の元の本拠地の南陽に戻って体勢立て直そうと考えた。
江夏太守やってて南陽の実情知らないもんだから敗残の小勢で乗り込んできたら
思ったよりも住民に恨まれてて殺されたとか。
368無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 12:32:10
>>365
禿同
369無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 12:35:28
__________
    <○√
     ‖ 
     くく
しまった!ここは糞スレだ!
オレが止めているうちに他スレへ逃げろ!
早く!早く!オレに構わず逃げろ!
370無名武将@お腹せっぷく:2007/05/05(土) 17:24:29
袁術が南陽を失ったのは匡亭の時?
371無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 18:36:50
>>370
寿春に逃亡して影響力無くなったあと
婁圭が押さえたんじゃなかったけか?
372無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 22:01:35
     _、_、_、、、、、 _______ ___._______________________
    /○°          ヽ ヽ:|三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三三 / / / 三|
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  ι   |∴∵∴从人 !l_/ /⌒ヽ;;;;;;;//⌒ヽ;;;;i、-ヾ---o----,、ヾi;;;;;;i;;;;;;;;;;;;;;;;iヾ. /__//⌒ヽ.ヽ‐!;iー――'
    ! ̄= [二] = ̄~ !二二|」;i ($).i二tiii ($).i;;;;|三||三三三三三||三三三三三||三;;;;;;|ii ($).i;;;;|二二二l]
     ̄ ̄ ̄ゞ;三ノ ̄~ゞ;三ノ''ゞ_,ノ   'ゞ_,ノ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ゞゞ;三ノ ̄ ̄ ̄  ̄ゞゞ,_ノ
373無名武将@お腹せっぷく:2007/05/15(火) 21:28:59
南陽って劉表の後押しがあったにしても
婁圭単独で持ってたの?
374無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 01:33:12
婁圭が南陽をって話はどこに載ってるん?
375無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 11:36:37
婁圭はもともと南陽に盤踞した群雄だよ。
たしか崔エン伝の注にまとまった記事があったはず。
376無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 21:07:00
崔王炎伝ですか。ちくま買って読んでみようかな。
婁圭って、蒼天航路で、ヒガミとイジケの塊みたいに描かれてただけで、
その他の漫画小説等では名前すら出てこないから、むしろ興味がわく。
377無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 21:34:38
とりあえず事跡はここにあるので全部だと思う
http://www.weblio.jp/content/%E5%A9%81%E5%9C%AD
それにしても蒼天航路の人物像はどこから来たんだろ?
378無名武将@お腹せっぷく:2007/05/16(水) 21:48:32
>>375
サンキュウ
では
袁術敗北→袁術は東に逃げる
袁術の将劉祥=劉詳は本拠地南陽に逃げる→婁圭が蜂起→劉詳敗死
こうかな?
379無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 00:12:20
婁圭って亡命者助けたり
飢えた民を客人として迎えたりと
結構義侠心ある奴だよな
たぶん官職が無くてお尋ね者なのに
義兵が集まるんだから
かなり個人的魅力があるんだと思う
380無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 00:27:57
義侠心もあっただろうが、それより先立つものが豊富だったんだろうな

兄貴、戦は財力だよ
381無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 09:53:13
皇帝になってから、高税を課して宮殿を建て、贅沢三昧したって演義の脚色なんか?
382無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 09:55:51
正史にも書かれてる。
でも寿春方面はその後賊やら曹操軍やらに食い荒らされてるので、
その全責任を袁術に擦り付けた可能性もある。
383無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 09:56:38
とはいえ書かれてることは事実
384無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 10:01:39
48:無双ファン◆.IjycOFqtg :2007/04/24(火) 22:23:03 [sage]
>>26
>無双の袁術は凄い。
>無能で横暴なステレオタイプの悪役が多い中、袁術はイケメンで義理堅く描かれている
>「この袁術、天は掴めずとも地を舐めはせぬ!」という台詞すらある
>別に史実と照らし合わせて評価してる訳じゃないけど、
>低年齢層に分かりやすく作られる無双で、袁術がこういう描かれ方をしたのは意外だった


これ本当?
385無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 10:04:52
ホント。
孫策vs劉勲戦で袁術らが援軍として登場する。
その際に
「世話になった劉勲殿を見捨てて何が男か!この袁術、天は掴めずとも地を舐めはせぬ!」
と吠えて殿を務める。

……が、
劉勲が独立するのは袁術死後なのでそもそも袁術がいること自体に矛盾が。
386無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 10:09:56
ちなみに無双3
387無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 11:13:58
大体無双だと皇帝名乗らないし
388無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 12:45:15
少し話がそれるけど、袁術の子孫はどうなったのかな?
袁燿には男子がいたという記述を見た記憶がないし、
袁氏(孫権夫人)にも子がいなかったようだし、
袁燿の娘は孫奮(孫権の子)に嫁いだけど、そちらも不幸なことになってるし…。
389無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 14:21:37
>>388
甥は曹操に処刑されたしな
390無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 16:41:35
>>378
婁圭自身がもともと南陽の民なんで、袁術とか劉表とか関係なく
最初から南陽で武装勢力をまとめてたんだと思うよ。
で、袁術が来たら袁術の麾下に入り、劉表が来たら劉表の麾下に入り。
391無名武将@お腹せっぷく:2007/05/17(木) 20:47:34
無双3ってよく知らないけどまるっきり立場逆だな
世話になったのは太守にしてくれた袁術のほうだろうに
かっこよく描いてくれたのは感謝するけど
どうせならどんな状況でも子分を見捨てない親分みたいに描いてほしいよ
>>390
これだったら婁圭、賈翊のこと大嫌いだろうな
せっかく地元にいてある程度土地も財産もあっただろうに
賈翊たちが腹減らして乱入してきたおかげで全部失う羽目になったんだから
392無名武将@お腹せっぷく:2007/05/25(金) 22:37:20
ひょっとして婁圭って
表向きは失言により殺されたけど本当は
当時関羽の押さえとして駐留させてた曹仁への補給をスムーズに行うため
地元の大富豪の婁圭殺して私有地取り上げて
兵糧取り立てたり民衆徴用するのが目的だったんじゃないかな?
これとか見ると曹操って南陽の民衆から搾り取ってるけど
http://www.weblio.jp/content/%E4%BE%AF%E9%9F%B3
地元出身で、飢えた民を救うような婁圭が生きてたら絶対反対しそうだし
それで婁圭が関羽に寝返ったら
民衆を掌握してて知略もある奴だし
許昌にも近いから相当危ないはず
393無名武将@お腹せっぷく:2007/05/25(金) 23:10:48
>>392
漢中でも強制移住やってるし、当面さえどうにかなればいいという住民には過酷なやり方を南陽でもやってたのかもな、曹操
394無名武将@お腹せっぷく:2007/05/27(日) 22:06:07
だから前から俺が言ってるだろ
袁術に全部失政を押し付けてるけど実際南陽を荒れ果てさせたのは曹操だって
395無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 00:29:16
>>394
そうなのかもな
曹操は実際長期的展望に欠けた場当たり的な戦略・施策が多いし、南陽も後先考えないイナゴのような統治だったかもしれん
袁術は本拠地だからいくらなんでも多少は配慮してただろうし
荊州ゆかりの人物が多く参加したという魏諷の乱の遠因は、曹操の過酷な荊州統治だったりして
396無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 12:30:35
袁術の本拠地として疲弊してたとされる淮南だって完全にダメにしたのは曹操の徙民政策
397無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 12:38:29
そういや廬江のあたりの住民って移住させられてなかったっけ
398無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 12:43:05
>>397
してたね
曹操は維持できなさそうな土地は強制移住させて空っぽにするという短期戦略的には有利でも長期的にも人道的にもアレなことをやりまくってるよね
399無名武将@お腹せっぷく:2007/05/28(月) 21:35:23
蒋済が反対したんだったっけ
400無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 08:59:05
>>398
真似して三国どこでも同じ事してる
まあ中心部が生産力下がってるからそうしないと国力低過ぎてどうしようもないってのはあるんだがな
401無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 22:15:14
話は戻るけど
劉祥が江夏太守っていうけど
同じころ黄祖が江夏太守で出てくるよね
これって
すでに黄祖がいて力が強いので別の場所に郡の役所置いて並存してて
匡亭の戦いのときにそこから兵を率いてやってきたのか
それとも
袁術が任命した劉祥を赴任させるため
袁術からしたら江夏太守を僭称している黄祖を
孫堅が討伐に向かって敗走しちゃったから
とりあえず江夏太守は帯びたままで
南陽で盪寇将軍として別の軍務についてたのか
もしくは他の可能性ってある?
402無名武将@お腹せっぷく:2007/05/29(火) 22:17:49
劉祥が殺られてから黄祖が江夏太守になったんじゃない?
403無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 04:14:52
まだ報告されてないけど、三国志マガジンに袁術が主人公の漫画が載ったよ。
ページ数が少なめなんで食い足りないけど
404無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 08:31:20
既定のダメ袁術の描写じゃ燃えないんだよ
405無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 08:33:44
なんだダメ袁術なのか>秋刀魚が
406無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 23:10:28
>>402
劉祥と劉詳は別人で
劉祥は孫堅が死ぬ前に南陽人に殺された説?
407無名武将@お腹せっぷく:2007/05/31(木) 23:48:06
>>406
いいえ
黄祖が江夏太守になった時期って特定できる?
匡亭の戦い後かもしれないじゃない?
408無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 14:33:43
そういや袁術が上表して得た地位ってさ、どこに上表してんの?
董卓が健在なうちから結構勝手に任命してるみたいだけど。

皇帝を無視して袁術が勝手に任命した刺史だの太守だのが他の勢力に
認められるわきゃなかろうと思うんだ。
409無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 14:43:14
そんなもん実力で認めさせたに決まってるじゃん
410無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 15:09:27
>>409
そりゃそうなんだが、当然それって皇帝の権威を落とす行為だよな?
皇帝を偉いと思ってるのか鼻クソと思ってるのかわけわからん。

バカだからで済ませるのは簡単だけど、その辺に一貫性はないんかね。
411無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 15:21:21
>>410
勤皇の志なんてなかった、それだけのことだよ
412無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 16:54:12
袁術は董卓に対して義兵を挙げていた。
そして劉協を漢の正当な皇帝として認めていた。

だから袁術は「囚われの献帝の代理」として任命したんじゃないか?
413無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 17:13:04
>>412
代理権も無しに、な
414無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 17:18:09
上表だったら問題ないんじゃ?

李カク政権時代からは確実に任命権があったけどな。
馬日テイが袁術の元に留まっているし。
415無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 17:47:55
>>414
太傅に任官する権利があったなんて話は初耳だな。
416無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 17:52:05
「節を持った馬日テイが」って書かなかったら解らなかったかな?
417無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 17:52:37
>>414
公的に任免権があるのは「承制封拝」であって太傅も録尚書事も持節も任免権とは別だ
418無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 20:12:25
>>407
ごめん
黄祖は孫堅破ったときにすでに太守だったと思い込んでたけど
そんな記述無かったね
419無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 20:15:27
左将軍って幕府開けるの?
420無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 20:16:52
後将軍郭・右将軍樊稠は開府したが。
421無名武将@お腹せっぷく:2007/06/01(金) 20:30:47
422無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 08:07:14
>>418
孫堅死んだのと同時期に江夏太守だった劉巴の親父が殺されてるんで、その後任じゃないかね。
423無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 09:36:05
>>422
黄祖の前に蔡瑁だと思う
劉祥が南陽で殺されたのは
黄祖が樊城から逃亡したドサクサ紛れかな?
そのあとは袁術の南陽支配が堅いから無理そう
424無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 09:47:12
>>413
この当時の法律では基本的に空席が出来たら臨時の代役を上表する事で任命することが出来るようだよ
425無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 14:10:05
>>424
あれはみんな勝手にやってるだけだぞ
空位になったら下位の奴が正式な後任が来るまで代理(「行○事」)を務めるのが正しい
後任を内部で決めて事後承諾は正規の手続きじゃない
426無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 17:45:32
同じことを言ってるように見える。
427無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 18:15:37
正規に任命するのと臨時で代理をするのが同じに見えるってどんな病気だ?
428無名武将@お腹せっぷく:2007/06/02(土) 21:34:17
>>427
>>424>>425は言ってる事確かに違うけど、
どっちも「臨時の代行」って点では同じ事は確かに言ってる
お前ちょっと攻撃的過ぎ
病気じゃない?
429無名武将@お腹せっぷく:2007/06/05(火) 18:54:47
青州黄巾をうまく使いこなした曹操と比べ
袁術が汝南黄巾をうまく使いこなせなかったのが悔やまれる
430無名武将@お腹せっぷく:2007/06/05(火) 21:53:52
当時の常人にそんなキテレツな発想を求めるのは酷だろう。
曹操ならではの、人外の思考の産物ではなかろうか。
431無名武将@お腹せっぷく:2007/06/05(火) 23:32:25
>>385
それが本当なら袁紹と袁術を取り替えてやりたい。
432無名武将@お腹せっぷく:2007/06/05(火) 23:42:46
>>430
直接使えないにしても
曹操が汝南攻めたとき背後狙うとか
寿春攻めたとき許昌脅かすとか
連係プレイはやってほしい
433無名武将@お腹せっぷく:2007/06/06(水) 11:58:22
やってるよ。かるく一蹴されたけど。
何儀、何曼、黄邵、劉辟とかだよね。
官渡のときも劉辟と共都が後方攪乱してる。
434無名武将@お腹せっぷく:2007/06/06(水) 22:30:43
>>433
それは連携じゃないでしょ
やっぱ形だけでも服属してる奴の危機を救いにいかなきゃ人は付いてこないと思う
435無名武将@お腹せっぷく:2007/06/06(水) 22:41:01
袁術はやっぱボンボンだな
袁紹ほど逞しくもないし曹操ほど嘘つきにもなれない
436無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 07:38:43
だがそれがいい
437無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 16:00:43
黄巾は別に袁術に服属してるわけじゃないし…。
自分の利権を守りたいだけなんだから他人の危機にいちいち介入しないよ。
438無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 19:38:59
一応形だけは服属してる
http://www.weblio.jp/content/%E4%BD%95%E5%84%80
http://www.weblio.jp/content/%E9%BB%84%E9%82%B5
危機にある子分を助けに行かないで傍観していたら
他の子分も次回からは敵が攻めてきても戦ってくれなくなるのは
古今東西共通
439無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 21:15:15
黄巾は袁術の子分じゃないし、袁術も黄巾の子分じゃない。
服属もしてない。そのページの説明は事実じゃないよ。
袁術に応じ、孫堅に附したとは三国志に書いてるけど、袁術に服属したとは書いてない。
事実をもとに話した方がいいと思う。
440無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 22:40:56
Wikiくらい根拠にしてはいけないものはないよ、三國志関係では
441無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 23:45:14
じゃ直せよ。
442無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 23:46:21
記事1つや2つならそれでいいんだけどねえ
443無名武将@お腹せっぷく:2007/06/07(木) 23:47:18
wikiに依拠すんなって話。
444無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 09:20:14
>>441
wikipediaの理念が嫌いなので利用はしても協力はしない
445無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 10:07:10
理念が嫌いなら利用もすんなよw
446無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 18:33:46
447無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 20:11:44
>>445
使えるものは使う
448無名武将@お腹せっぷく:2007/06/08(金) 20:27:53
>>446
だから、黄巾が袁術に服属したなんて書いてないってば。
449無名武将@お腹せっぷく:2007/06/09(土) 12:13:29
>>295
ずいぶん前のネタだし、俺は259じゃなくて悪いんだが
元ネタは曹真伝のこれじゃないの?
魏 略 曰 : 真 本 姓 秦 , 養 曹 氏 . 或 云 其 父 伯 南 夙 與 太 祖 善 .
興 平 末 , 袁 術 部 黨 與 太 祖 攻 劫 , 太 祖 出 , 為 寇 所 追 , 走 入 秦 氏 , 伯 南 開 門 受 之 . 寇 問 太 祖 所 在 , 答 云 : 「 我 是 也 . 」 遂 害 之 . 由 此 太 祖 思 其 功 , 故 變 其 姓
195年ころ、曹操が袁術の党与に攻められて秦伯南の元に逃げ込んだとき、秦伯南が曹操の身代わりになって死んだって記事
でもその前後の事情が不明だよな
450無名武将@お腹せっぷく:2007/06/18(月) 22:34:16
秦伯南て曹真の実父だったけ?
袁術が最全盛の勢力の頃。実数として保有兵力てどんくらいなん?
生産力の高くない地盤てことだが。 相当人口の落ちてる時期だと思う
けど袁術の実数戦力はどの程度だったんかな?
451無名武将@お腹せっぷく:2007/06/19(火) 18:33:16
>>450
だから秦明だの秦朗だのいった秦姓の部下がいたのかな。実家つながりで
452無名武将@お腹せっぷく:2007/06/19(火) 19:24:20
秦朗は雲中なんで多分違うと思う。
453無名武将@お腹せっぷく:2007/06/20(水) 22:48:34
袁術の一族でほかに生き残ってる可能性があるのは、黄猗じゃないかな。
袁胤と劉勲を棺おけ担いで身を寄せた〜あとの事跡がない。
そして呉には黄姓が多いような気がする。関係はわからんがw
454無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 19:28:17
>>453
でも黄猗の場合女婿だから袁術と血のつながりないしねえ
それにもし黄猗の妻が
のちに孫権に奪われて袁夫人になってたとしたら
もうほとんど他人だと思う
455無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 23:09:40
そうなるともう袁燿以後不明でおしまいだな。名家といえど家が滅ぶ時は
脆いもんだなぁ。 袁術は、皇帝名乗って斬新というより旧態依然すぎた
のかな。
後漢王朝を理想として、献帝を政治利用前提でなくとりあえず尊重し後漢
中央政府の要職地汝南で割拠。 袁紹のように利権=自己理念というとこ
ろまでいかず。曹操のようなあざとさも無い。 
純粋な王朝に対する理念では、本来は曹操、袁紹、劉備、諸葛亮の誰よりも
純粋だったのかもしれない。 
まぁ僭称しちゃったので、完全に否定可能だけど。
456無名武将@お腹せっぷく:2007/06/21(木) 23:42:57
>>455
負ければ男系途絶は戦国の習いよ…
457無名武将@お腹せっぷく:2007/06/22(金) 00:15:17
袁燿の気分はどんな感じだったんだろうな。
毎日ガクブルだったんだろうか。姉妹は孫権に嫁いだけど殺されるし。
458無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 18:42:19
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182528365/4
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182929964/
三戦板復興プラン

3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。


理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。

中国英雄板
http://hobby9.2ch.net/chinahero/
459無名武将@お腹せっぷく:2007/06/28(木) 23:44:42
ガクブルする理由はないよ。
袁家はもともと名門で、孫氏もいろいろ世話になってるわけだから、
感謝されこそすれ、危害を加えられたりすることはありえない。
460無名武将@お腹せっぷく:2007/07/18(水) 22:54:46
良スレage
461無名武将@お腹せっぷく:2007/08/02(木) 23:44:59
袁胤。
462無名武将@お腹せっぷく
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